近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと
1995年1月17日早朝、大都市を襲った阪神・淡路大震災は震災関連死を含めると6434人が亡くなる大きな災害でした。 犠牲者の7割から8割が圧死、窒息死でした。 多くの人が住んでいる家が崩れて、その下敷きになって亡くなったのです。 近藤さんはいまは建築物の安全、街の安全を考える建築都市計画を専門に研究していますが、当時は神戸大学工学部建設学科の1年生でした。 建築を学んでいた近藤さんはあの時何を目撃したのか、その後どのように研究テーマを模索したのか、今回は神戸大学工学部の教室で後輩の学生たちを交えて公開収録を行いました。
建築の都市計画、建築の単体の性能を安全にすること、建築が集まったときにできる街をどのように安全にしてゆくか、というようなことをやっています。 入学した時には建築学科だったので普通の建築士になろうと思っていました。
当時私は滋賀県の実家にいたので震度4ぐらいでした。 母親が神戸が大変なことになっていると言いに来ました。 ニュースで自分が通っているところが激震地だと初めて判りました。 10日後ぐらいの神戸の街に戻りました。 電車の車窓から被害状況を見ましたが、今でも目に焼き付いています。 工学部の説明会が1月31日にありました。 学生の安否についての情報を掲示板に貼り出して、情報を集めました。 全学では39人の生徒が亡くなっていて、工学部は10人が亡くなっています。 建設学科では2人亡くなっています。 国際文化学部の体育館の武道場も避難所になりました。
被災地の住宅の調査を行いましたが、私は実家でそのことを聞いたんですが、参加はしていませんでした。(怖かった。 今では後悔があります。) 4月には学校も再開しました。 防災については関心がありませんでした。 都市計画に関心があり、その研究室に行こうと思いました。 建築を安全に作るという事は教えていたが、どういう風に壊れたか、壊れるかという事は教えてなかった、そういう事を勉強しないといけないとある先生が言っていました。 建築が人の命を奪ったわけですから、それは安全ではなかったという事です。 復興の街作りが必要と思いました。 住民は元に戻りたい、行政は安全な街つくりをしたいという事で意見の対立も起きました。 住民主体の街つくりを支援する建築士、都市プランナーが組織しているNPOがアメリカ、イギリスなどにあり、5年間ぐらい調査していました。
安全でよりよい環境にしようと思っているのが復興で、こういうことをしたら自分たちも安全になるし、説得している専門家のドキュメンタリーを見て、こういう事をしていたんだと思いました。 こういう方向に行きたいと思っていました。 1998年大学院の1年生の時に震災犠牲者聞きがたり調査に加わりました。 建築がどうやって人を殺したのか、どうやって壊れたのかと言った事です。 聞いて間取りの図面を起こしたりもしました。 30人ぐらいのご家族の遺族の方から聞きました。 倒壊に対する技術があっても、それが社会で使われるという事には大きな隔たりあって、そこをどうやって埋めていくのかという事が課題です。
2005年アメリカのハリケーン、かトリーナの時には現地に入って、災害からの復興という事で取り組みました。 現地に入ったのは、発生後半年後ぐらいでした。 津波が来たような破壊状況でした。 復興計画に市民の声をどういう風に反映させて、対話をして計画が作れるかどうかという事でした。 阪神と同じで、最初は対立の状況でした。 ニューオリンズの市長が出した復興計画を白紙に戻しました。 地域ごとに、地域づくり協議会を作って、皆で考えて行こうということで、下からやり直しました。
2011年東日本大震災の時も妊娠中でした。(カトリーナの時も同様) 地元の高校生を定点観測を行いました。 町の状況がどいう風に変わってゆくのかという事を調べて、復興のきっかけにしてほしかった。 若い人たちが復興の担い手になって欲しかった。 災害に対して市民、研究者、行政などがアクションしてゆく事が進んで行けば、防災という事はそんなにいらないのではないかと思います。