2025年1月4日土曜日

近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと

近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと

 1995年1月17日早朝、大都市を襲った阪神・淡路大震災は震災関連死を含めると6434人が亡くなる大きな災害でした。 犠牲者の7割から8割が圧死、窒息死でした。 多くの人が住んでいる家が崩れて、その下敷きになって亡くなったのです。 近藤さんはいまは建築物の安全、街の安全を考える建築都市計画を専門に研究していますが、当時は神戸大学工学部建設学科の1年生でした。 建築を学んでいた近藤さんはあの時何を目撃したのか、その後どのように研究テーマを模索したのか、今回は神戸大学工学部の教室で後輩の学生たちを交えて公開収録を行いました。 

建築の都市計画、建築の単体の性能を安全にすること、建築が集まったときにできる街をどのように安全にしてゆくか、というようなことをやっています。 入学した時には建築学科だったので普通の建築士になろうと思っていました。 

当時私は滋賀県の実家にいたので震度4ぐらいでした。 母親が神戸が大変なことになっていると言いに来ました。 ニュースで自分が通っているところが激震地だと初めて判りました。 10日後ぐらいの神戸の街に戻りました。  電車の車窓から被害状況を見ましたが、今でも目に焼き付いています。  工学部の説明会が1月31日にありました。 学生の安否についての情報を掲示板に貼り出して、情報を集めました。 全学では39人の生徒が亡くなっていて、工学部は10人が亡くなっています。  建設学科では2人亡くなっています。 国際文化学部の体育館の武道場も避難所になりました。 

被災地の住宅の調査を行いましたが、私は実家でそのことを聞いたんですが、参加はしていませんでした。(怖かった。 今では後悔があります。)  4月には学校も再開しました。  防災については関心がありませんでした。  都市計画に関心があり、その研究室に行こうと思いました。  建築を安全に作るという事は教えていたが、どういう風に壊れたか、壊れるかという事は教えてなかった、そういう事を勉強しないといけないとある先生が言っていました。  建築が人の命を奪ったわけですから、それは安全ではなかったという事です。 復興の街作りが必要と思いました。 住民は元に戻りたい、行政は安全な街つくりをしたいという事で意見の対立も起きました。  住民主体の街つくりを支援する建築士、都市プランナーが組織しているNPOがアメリカ、イギリスなどにあり、5年間ぐらい調査していました。 

安全でよりよい環境にしようと思っているのが復興で、こういうことをしたら自分たちも安全になるし、説得している専門家のドキュメンタリーを見て、こういう事をしていたんだと思いました。 こういう方向に行きたいと思っていました。 1998年大学院の1年生の時に震災犠牲者聞きがたり調査に加わりました。  建築がどうやって人を殺したのか、どうやって壊れたのかと言った事です。 聞いて間取りの図面を起こしたりもしました。  30人ぐらいのご家族の遺族の方から聞きました。  倒壊に対する技術があっても、それが社会で使われるという事には大きな隔たりあって、そこをどうやって埋めていくのかという事が課題です。 

2005年アメリカのハリケーン、かトリーナの時には現地に入って、災害からの復興という事で取り組みました。 現地に入ったのは、発生後半年後ぐらいでした。 津波が来たような破壊状況でした。 復興計画に市民の声をどういう風に反映させて、対話をして計画が作れるかどうかという事でした。 阪神と同じで、最初は対立の状況でした。 ニューオリンズの市長が出した復興計画を白紙に戻しました。  地域ごとに、地域づくり協議会を作って、皆で考えて行こうということで、下からやり直しました。 

2011年東日本大震災の時も妊娠中でした。(カトリーナの時も同様) 地元の高校生を定点観測を行いました。 町の状況がどいう風に変わってゆくのかという事を調べて、復興のきっかけにしてほしかった。  若い人たちが復興の担い手になって欲しかった。 災害に対して市民、研究者、行政などがアクションしてゆく事が進んで行けば、防災という事はそんなにいらないのではないかと思います。 






2025年1月1日水曜日

柳家さん喬(落語家)          ・私を会長とよぶな!

柳家さん喬(落語家)          ・私を会長とよぶな!

柳家さん喬さんは東京都墨田区出身、1948年生まれ76歳。 1967年に柳家小さん師匠に入門、前座は「小稲」、1972年二つ目に昇進して「さん喬」、1981年に真打に昇進ました。 さん喬さんは古典落語の名手として知られていて、古典落語の神髄を語る正統派落語の雄とか、上手くて面白い伝統派の代表選手、人情話も魅力的に出来る噺家などと言われています。 2012年度芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞、2014年に国際交流基金賞 受賞(落語家としては初受賞)、浅草芸能大賞奨励賞受賞など多くを受賞しています。去年6月に落語協会会長に就任した柳家さん喬さんに伺います。 

去年で落語協会創立100年になりました。 入門して50年以上になります。 会長職はまだ自分ではつかみ切っていないです。  一日5席は当たり前にこなしているような状況です。 6席というときもまれにあります。  若い頃にある落語を話していて、葛藤があるところで神経を入れ過ぎて酸欠になってしまったことがあります。  感情というものを入れるのはそういう事ではないんだ、お客様にどういう風に伝わるかであって、自分の感情を無理やり押し付けるという事は違うよねと思うようになりました。 或る落語会に有名な方たちが来たことがあり、そこで「高砂や」をやったんですが、笑わそうと一生懸命やったんですが、師匠のおかみさんから「くさく」やったんだろうと言われてしまいました。 過剰演技と「くささ」はちょっと違うかも知れませんが。 感情を伝えることが或る意味「くさい」という事になるのかもしれませんが。 先々代のつばめ師匠に「くさい」というのは良くないのか聞いたことがあるんですが、「若いうちにくさくなかったら、歳をとってからどうするの」と言われました。 若いうちにくさくやるから、歳をといってからは大げさな表現をしなくても角が取れて行って、真ん中の部分だけがお客様に伝わる。  若いうちにくさくやらないと角が取れない。 

うちの師匠はいいところはいいと、悪いところはこうだと言ってくれました。(普通、良いところを弟子には褒めないが) ネタはざっと300ぐらいあります。 直ぐにやれるのは50ぐらいですかね。  話は百篇しゃべって初めていろいろなものを見い出せるものじゃないかなと思います。  お蔵になっていたものを引っ張り出して、年齢でものの見方、考え方が違うので、違うような話になって行く気がします。  

2017年度に紫綬褒章受章しています。 師匠からは60代を頂点にするように言われました。 そうするとゆっくり下がって行く。 勉強を怠るとスパーンと落ちる。 人情話でも若いときと歳を取ってからでは随分と違ってくると思います。 すべて総合されたものが一人の噺家です。 先輩たちが残してくれたのは話の幹で、その幹から枝葉を付けてきたのがその時代その時代の噺家たちだと思います。 その花がその時代に有っているかどうかは演者の判断だと思います。 先々代彦六師匠がうちの師匠に私のことに対して、人情話をさせた方がいいと、言って下さったことがあるそうです。 ではやってみようと背中を押された思いはあります。 落とし話と人情話の両方ともちゃんとできる噺家になりたいとは思っています。 

高校卒業してすぐに願っていた小さん師匠に入門出来ました。 師匠はくどくど言わずい一言いうだけで、返ってそれが考えることになります。  或る時に師匠に内緒で旅に出てしまいました。 帰ってきたら凄く怒られました。 何で一言言わないんだ、誰それ師匠に頼まれましたと、その師匠に会った時にうちの弟子がお世話になりましたと礼が言えるだろう、それが言えないことで俺が恥を掻くことになる、という事でした。 首になるのは覚悟しましたが、他に弟子がいっぱいいるのに、この着物たたんでおいてくれと穏やかに言うんです。 どれだけ救われたかわかりません。 大切な教えだと思います。

柳家喬太郎を初め沢山の弟子を抱えるようになりました。 芸は一代限りだと思っています。 芸を継承する事は大事だと思っていますが、芸の継承は本質的な部分であって表現の仕方を師匠そっくりにやって見ても、本来の継承にはならないと思います。 幹をちゃんと伝えてゆく、枝葉は自分が作る、そこは一代限りの枝葉、花であって、花は赤い花であっても次が黄色い花でもいいと思います。  落語にどっぷり浸かって行って、落語が兎に角好きですね。