2025年4月11日金曜日

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌 

とよたさんが作る絵本は赤ちゃんや幼児に向けた小さい子供たちへの絵本です。  日本絵本賞を受賞した「どんどこももんちゃん」のシリーズや「わにのばるぼんさん」のシリーズなど子供たちに支持されロングセラーとなっている作品を数多く生み出してきました。  とよたさんは1947年宮城県仙台市生まれ。(77歳)  高校まで仙台で暮らし、大学は早稲田大学第一文学部に入学、卒業後はフリーのイラストレーターとして働きますが、長女の誕生をきっかけに絵本つくりをはじめます。  1983年36歳で絵本作家としてデビューしますが、その後思う様な絵本を作ることが出来ず、イラストレーターとしての収入を得ながら、絵本つくりに挑戦を続けます。  転機が訪れたのはデビューから14年後、50歳で発表した絵本「でんしゃにのって」だと言います。  小さな子供達への絵本つくりに込める思いを伺いました。

絵を描くという仕事は肉体労働なので、病と付き合いながらベストな状況でやらないと、表現するのに知らず知らず出てきちゃうので注意するという事で規則正しい生活が大事だなあと思います。  自分を鼓舞するという事は知らず知らずやっています。  今生きている子供は独特の反応をしてくれるので、知らず知らず自分の作品に反映されているんだなという事は考えたことはあります。  

「どんどこももんちゃん」 2001年出版  日本絵本賞を受賞

全身が桃色の桃のような頭の形をした小さな子供が主人公。

「どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。
橋をわたり、坂道をのぼり……ももんちゃんが、いそいでどこかへ向かっています。
山の上でくまさんにとうせんぼされても、どどどどどどどーんとたおし、どんどこ進んでいくももんちゃん。・・・・・どんどこ どんどこ。 ももんちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 どーん」

とうせんぼしたくまさんを投げ飛ばして、先を急ぎます。 ところがたいへん、さかでころんで頭をぶつけちゃった! それでもたちあがり、涙をこらえてかけていくももちゃんがどんと飛びついたのがエプロンをしたお母さんの両腕の中でした。

自立したあかちゃん。  中学2年生にこの本を読み聞かせたこともあるそうで、「走れロメス」と「どんどこももんちゃん」が走る姿を重ね合わせた非常に哲学的な解釈をした感想文が多くありました。 

28歳で結婚して32歳で長女が生まれました。  子供の頃は絵が好きでした。  機関車を書いたり溶鉱炉の断面図を書いたりしていました。  小学校4年生の時に宮城県庁を描く時間があり、そこに馬車も描いたらそれが宮城県の特選第一席になりました。  48色のクレパスも貰いました。  

大学卒業後或るプロダクションに入りました。 長女が生まれて、始めて絵本と向き合いました。   肩の力が抜けた絵がとっても多いんです。  こんな絵でいいのかと思いました。  でもその絵に子供は反応するんです。  1983年36歳の時に「ぼくはやっぱりとりなんだ」を出版。(デビュー作)   作品の力と言うものがあるということに気付きました。 デビューから14年目に「でんしゃにのって」を出版。(50歳)  これは祖母からの話が元ネタになっています。  動物が乗って来る淡々としていて、いい仕上がりではなかったと自分では思っていました。  出版社の方から面白いと言われました。  ここから作り方を変えていきました。  繰り返し読んで貰える絵本を作ろうと心がけています。  絵が好きだという事が基本的になります。  乳幼児向けの絵本を深堀りしていきたいです。 









 



2025年4月10日木曜日

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして 

まぜこぜの社会という理念のもと、障害の有無、国籍、年齢、性別と言った違いを越えて、誰もが共に生きられる社会の実現を目指し、様々な活動を続けています。  多様な活動の原動力、活動を通じて見えて来た社会の課題、まぜこぜの社会に込めた思いについて伺いました。

一般社団法人 Get in touch 代表という側面があります。  多様性社会を目指して、アート、音楽、映像、舞台などのエンターテーメントを通じて、私たちは多種多様な人たちと暮らしているんですよという事を、見える化、可視化、体現化する活動をしています。  舞台を作ったり、映像制作をしたり、アート展を開いたり、障害の有るアーティストの作品と企業さんを結び付けて商品開発をしたり、音楽を作っていろいろなアーティストに歌ってもらったり、沢山のコンテンツを展開しています。  報道番組からこの世界に入りました。  政治と報道は困った人のためにあるんだよと或る人から教えてもらいました。  白血病などの患者さんのための治療法である骨髄移植のための骨髄バンクを知ってもらうための活動からスタートしました。(33年前)    

白血病の18歳の少年のテレビ番組を見て、いろいろ考えてしまって自分は芸能界にいる意味があるのかなあとか考えました。  最初はポスターを作りました。  活動を続ける中で患者さんとそのご家族、ご遺族の方とつながりが出来て、全国各地でいろいろなことをする様になりました。  1999年からドイツ国際平和村と携わるようになりました。  ライフワークにしようと思って今も続いています。  戦争で傷ついた子供たちを救う団体と一緒に活動しています。   始めた当時は芸能人としてデメリットしかありませんでした。  

2011年から一般社団法人 Get in touchを立ち上げました。  東日本大震災があり被災地の避難所が日本の縮図でした。  普段から生きづらさを感じている人たちが不安に陥りました。  いざと言う時に支え合う社会作りだと思っていたが、こういう時に置いてきぼりになってしまう人がいるという事は寂しいなあと思いました。  社会的弱者が避難所に入ることを遠慮したり、躊躇したり、十分な救援物資が入手できなかったりしたんです。  企業、福祉団体、政治家等々とつながった方がいいんだなと思いました。  東日本以外の障害の有る人たちが自分たちも役に立ちたいと、彼らが描いた絵を東京で売って福祉施設にお金を送るとか、といったやり方を始めました。(今でも続いている。)  

企業とかほかの団体ともつなげてゆきました。   Get in touchは訳としては「報告する・」ですが、感覚的には「繋がりましょう・」と言う感じです。  今は企業さんとかとも繋がり易い時代になりました。  巻き込んでいきたい、自分事としてほしいということです。    多様性などと言うと遠いい感じがするので、「まぜこぜの社会」という表現にしています。   浅く広く緩く依存しあう方が自立できるので、皆で頼り合うという事です。  それをエンターテーメントで拡げて行っています。  笑いが重要です。  最後には見ている人がこれでいいのかなあともやもやして貰う。  

夫も難病になってしまいましたが、最初の2年間は病名が判りませんでした。  身体が思うように動かなくなってしまいました。   1年ちょっと寝たきりになりました。  病名(ジストニア)がわかりましたが、治療法はないと言われて、対処法で回復していきましょうと言われました。  今は車椅子で移動できます。  車の運転も出来ます。  仕事にも行けるようにもなりました。   人生順風満帆などないという事は活動のなかからは知っていました。  或る程度の覚悟があってよかったと思います。  人間は凄い回復力があるということは信じています。   冷静な覚悟と冷静な希望ですね。  私も出血性胃潰瘍になっています。  普段の生活の不摂生と直ぐに病院に行かなかったことです。(コロナ禍)  大きな仕事が入っていて、入院中に電話、オンライン会議して、家事もしなくていいので集中して仕事が出来ました。(東京オリンピックパラリンピック文化プログラム)  

東京オリンピックパラリンピック文化プログラムについて実際にやってみるとすごく大変でした。  ありとあらゆるマイノリティーと呼ばれる特性のあるプロのパフォーマー、アーティストの人たちです。  何か月間も会議をして、メチャクチャ勉強になりました。  説得したり譲歩もしたりしました。   彼らの活躍するチャンスが増えました。  「妖怪まぜこぜ大百科」と言う本を出しました。   妖怪を使って、いろいろな社会課題を述べさせています。 映画 「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり」と言う映画に私も出演しています。  人に役立つ社会を作ろうという風に思っています。





 





2025年4月9日水曜日

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い 

越尾さんは1948年東京生まれ。  茶道の稽古を通じて、やなせさんの妻暢(のぶ)さんと親しくなってやなせスタジオに入社、秘書としてやなせたかしさんを支え続けました。  現在はやなせスタジオの代表を務めています。 

やなせたかしさんご夫妻をモデルにした連続テレビ小説「アンパンマン」がいよいよ放送が始まりました。  暢(のぶ)さんは親しみやすいけれども、教えることはきっちり教える人です。   深く知ろうとはしませんでした。  会社を辞めたことを暢(のぶ)さんに話したら家に来ないかと誘われました。  やなせさんが亡くなった後も数えると30年近くになります。  暢さんはやなせさんに対しては、仕事のことは一切言いませんでした。  事務関係、経理のこと、通帳、印鑑などどんと渡されました。  「もし私が悪い人だったらどうするんですか。」と聞いたら、「私の見る目が無かったと諦める。」と言ったんです。  驚くだけでした。  

やなせさんはきちんとデスクの前に座らないと書けないという性格でした。  建物の中に自宅もあれば、仕事場もあるというところでした。  自宅には奥さんのお茶室もあります。   働き者でした。  「ハチキンお暢」と言われていました。  ハチキンとは「男勝りの女性」を指す土佐弁。 高知県の女性は、話し方や行動などがはっきりしており快活、気のいい性格で負けん気が強いが、一本調子でおだてに弱いといわれる。二人だけの時には暢さんのことをやなせさんは「おぶちゃん」と言っていました。         

やなせさんは、「作品は人生で書く。」と言っていました。  自分の人生が作品に反映される。   書いているうちにこの性格は奥さんに似ているとか、お母さんに似ているとか、と言った感じです。  最初からモデルにして書くという事ではないです。  奥さんはドキンちゃんに似ていると言われますが、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラみたいな性格で書こうと思って、書いているうちに奥さんに似て来たりする訳です。   敵役を作ろうという事で後から出来たのがばいきんまんなんです。  ばいきんまんは蝿がモチーフになっています。  羽根もちいさくなっていきました 。 

 *「私はどきんちゃん」 作詞:やなせたかし  作曲:いずみたく

最初アンパンマンは大人には不評だった。  顔を食べさせるのは残酷だとか、幼稚園の先生は良くないとか言っていました。  子供たちが大好きになって、そのうちに先生方も理解してくれるようになりました。  やなせ先生も子供たちがなんで好きになったのかわからないと言っていました。  やなせ先生が子供の頃はアンパンが主流だったので、その印象が強いからアンパンに使ったと言っています。   弟さんを亡くしていますが、歳を取って来るにつれて寂しさがより凄く強くなったと言っています。  弟さんは千尋さんと言って海軍に志願して行きましたが、戦死してしまいました。  

アンパンマンが注目されるようになったころ、暢さんは乳がんに罹られました。  アニメで放送されて3年目ぐらいから徐々に悪くなって亡くなってしまいます。  先生は仕事をしながら少しづつ元気を取り戻して行きました。  暢さんが亡くなられてから20年後、2013年10月に94歳で亡くなりました。  目も段々と見えなくなって太い線で描いているんですが、「絵を描く面白さがわかった。」と言っていました。  絵を描くことで別の楽しみを見つけた様です。  

「やなせたかし先生のしっぽ  やなせ夫妻のとっておき話」を出版しました。 

「神様、仏様 ありがとう。 ありがとう。  お父さん、お母さん ありがとう。 ありがとう。  おぶちゃん 千尋 ありがとう。 ありがとう。  越尾さん ありがとう。 ありがとう。  越尾さん 越尾さん ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。」 

先生は戦争を体験しているが、その後94歳まで生きて、「ありがとう」と言う言葉しかやなせ先生はなかったんだなと思いました。  生きる工夫をすべてして、生き切ったなと思っています。

 







2025年4月8日火曜日

カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

 カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

北海道釧路市出身。  映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞しました。  この映画は三島有紀子監督が47年間向かい続けたある事件をモチーフにした性暴力と心のきずがテーマだと言います。 ー20℃の北海道での撮影でとても過酷なロケだったと言います。  カルーセル麻紀さんは1942年生まれの82歳。  1972年にモロッコで性別適合手術を受け、2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  当時は差別が大きかったのですが、今はLGBTQ性的少数者への理解が広がりつつあります。 10年ほど前から足の痛みが脳梗塞、目に痛みに襲われましたが、いまは元気になっています。 

 映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞。   貰って初めて嬉しかったです。   鉄工所の一人息子が見合い結婚をして、子供が2人出来てから、どうしても自分は違うと気が付いたそうです。  どうしても女になりたくて奥さんに隠れて女装などしていたそうです。  今回の映画は手術をうけて女性になった父親演じました。  一人で5役をしなくてはいけなくて、難しかったです。  大変でした。  性暴力と心のきずがテーマになっています。  一回見ただけではなかなかわからない。 

カルーセルと言う意味はフランス語で、メリーゴーランドと言う意味です。  1972年にモロッコで性別適合手術を受けました。(53年前)  2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  日劇に出た時にマスコミが大騒ぎしました。  グラビアのヌードの仕事ばっかりでした。   9人兄弟で姉が4人いました。  名前が徹男でした。 女性の着物を着たくて姉の着物を着たりしていました。   自分のことは自分でしようと思って新聞配達をはじめました。  夏休みはアルバイトもして、親には面倒掛けないようにしました。  小学校6年までは銭湯で女湯に入っていて、中学になった時に父親から男湯に連れていかれました。(女になりたいとは思っていなかった。)  

姉が本をよく読む人で、三島由紀夫さんの「禁色」があり、それを読んでこういう世界があるんだとぼんやり思いました。  そのころに丸山明宏さんが出てきました。  週刊誌でゲイバーも出ていました。  高校は受からないと思っていたが、受かっちゃいました。  美容師になりたいと思っていましたが、高校に行くことにしました。  演劇部に入り、女役が似合いました。  15歳で東京目指して家出しました。  年齢を誤魔化して北海道札幌市ゲイバーに勤務しました。   親が探して、掴まってしまいました。 母は寝込んでしまいました。   兄からは出て行ってもいいから、もう二度とうちの敷居をまたぐなよと言われました。  店にまた戻りました。(16歳)  その後いろいろなところを流れ歩きました。   その後東京の銀座のバーに行きました。  「麻紀」と言う名前になりました。 

その店からも逃げて全国を転々としました。  名古屋の「カルーセル」と言う店で働きました。  それが芸名になりました。  酒もたばこもやります。 2011年に閉塞性動脈硬化症と言う病名になりました。  70歳で足が痛いと思い歩けなくなりました。  もうちょっと遅かったら足を切断するところだったと言われました。   足を9回手術をしました。  昨年末にも手術をしてロケがあるから返してくださいと言いました。  又5月にも手術があります。  タバコと酒がいけないそうです。  2020年には脳梗塞となってしまいました。  救急車で運ばれて脳梗塞の手術をしました。  3日間で退院しました。 後遺症は幸いなかったです。  右目もちょっと見えなくなっています。  血管が原因のようです。  2回手術をしましたが、全然治りませんでしたが、その後見えるようになりました。  目薬をつけると物凄く痛いです。   100歳まで生きたいと或る所で言ってました。  仕事のためにその衣装を着たく邪魔だったんです。  女になって結婚したいとは思わない。 それぞれの考え方は違っていていいと思います。   生きていれば楽しい事はいっぱいあります。  仕事はやって行きたい。 





2025年4月5日土曜日

2025年4月2日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

ペギー葉山さん 7年前に亡くなる。 1933年生まれ。 30代の半ばに直木賞を頂いた時にペギーさんがお祝いにかけつけてくれました。   CMソング、ミュージカルの時代からずーっと一緒に長い間仕事をしてきましたので同士的な感じがします。 (年齢がほぼおなじ)   亡くなった時にはガックリしました。   デビュー曲が「ドミノ」 ジャズの歌い手として出ました。 「南国土佐をあとにして」を貰った時には最初随分抵抗したそうです。  歌った結果大成功でした。  「「学生時代」もぴったりでした。  歌の幅が広い、実力派でした。    役者魂の有る人で体当たりで演じていました。(妊娠していたのにも関わらず坂道を一生懸命走ったり)   

 都はるみさん  一緒に京都中を歩いて一冊本を作ったことがあります。 (対談集)  自分が演歌を歌うようになったきっかけの話を伺いました。  帰りにジャズ喫茶に行った時にかかっていた曲があって本当はこんな曲を歌いたかったんだとぽつんといったのが、とても印象的でした。  八代亜紀さん デビュー前はジャズを歌っていました。  演歌を歌っている人たちは現代音楽みたいなものの洗礼を受けている人が多い。  都はるみさんの歌い方は譜面よりも微妙にちょっと上に有ります。  だから明るい感じになる。  ジャズを歌っても凄く上手く歌ったのではないかと思います。 

井上陽水さん 「青空二人旅」という本になっています。  対談なので二人旅としました。  彼は福岡で僕も福岡なのでどこかあいますね。  麻雀なんかも一緒にやりました。  対談では直ぐ答えるというのではなく、自分で質問をかみ砕いて答えを出してゆくという人でした。  理論的側面のある音楽家でした。  才能が有りました。  その時代の空気感を無意識のうちに歌の中には感じられるところがあり素晴らしいです。 

歌作りの現場に触れることが出来たという事は作家としては大きな収穫だったと思います。 

浅川マキさん  石川県の人です。  役場に勤めていたという事を聞いたことがあります。 東京に出てきて寺山修司と出会って、「かもめ」とか曲を提供してもらって、あの当時を代表する大スターでした。   「夜が明けたら」僕はあの歌が一番好きです。

山崎ハコさん 音楽生活50年と言っていました。  「織江の歌」 僕が作詞。 大分の方です。  

日本の歌い手は一色ではないという事が素晴らしいと思います。 一つの歌でも違う歌い手さんが歌うとガラッと違う感じになります。  

*「青年は荒野をめざす」 作詞:五木寛之 作曲:加藤和彦 ザ・フォーク・クルセダーズ                       週刊『平凡パンチ』に、1967年3月から10月まで連載した青春小説で人気がありました。 

1965年に一般人の海外渡航がOKになりました。  外国に行くという事は荒野をめざすという様な時代でした。  今はレジャーといった感じです。 

専属作詞家として働いた時期があります。  

 






2025年4月1日火曜日

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄さんは文化功労者でもあります。  大正5年現在の東京都千代田区神田駿河台生まれ。幼少のころから母にピアノを習い、 大学時代諸井三郎から作曲を学びました。  東京芸術大学を初め多くの大学で作曲や音楽理論を教え、後進を育成しました。  音楽評論家としてもNHKの番組でもおなじみです。  平成8年2月に亡くなられました。(79歳)

お話は仙道作三さんです。  柴田さんがラジオの音楽番組に出演したのは戦後まもなくです。 (昭和22年 31歳)   その後テレビ、放送大学の先生を担当。  先生とは1971年にお会いしました。  私は中卒で集団就職で東京に出てきました。  クラシックギターを習って町工場で働いていまた。  25歳でクラシックギターを教え始めましたが、理論を知りたいと26歳で柴田先生のところに飛び込みました。  柴田先生の家柄は学者の家柄で、森鴎外の「雁」に出てくる柴田承桂さんと言う人のセリフで「ドイツに渡航するのであれば柴田承桂君に聞き給え。」と書いてありますが、ドイツの薬学を持ってきて薬剤師の名前を付け、東京大学の医学部教授になられたのが柴田承桂さんです。  柴田先生の父親は柴田雄次さんでドイツから化学を持ってきて、東京大学の教授になられた方です。 柴田先生も東大を出られて、私も弟子にしてもらいました。  1週間に一回の稽古でした。  1年目は月謝を払いまいたが、2年目からはいらないよと言われました。 (7年間無料) 

ハーモニーの連結 4つの旋律の和声?がありますが、それをどのように連結すれば、美しいハーモニーが出来るかと言う、8小節、16小節の和声、連結の仕方です。 それをチェックして貰います。  2年目には万葉集にメロディーをつけて、ハーモニーを作るという宿題をあたえられました。   自分で考えた旋律を作る。  万葉集を100冊買いました。 (月賦)  古典文学を勉強して大変勉強になりました。  3年目に私の故郷に先生も同行することになりました。  先生とフィールドワークの調査、研究をしました。  録音してきたものをNHKのラジオから流れるわけです。   柴田先生は芸大の先生を辞めて民俗学に入り、日本の民俗学の研究をはじめました。(フィールドワーク)  静岡県の念仏踊りを取材しました。  越後瞽女、田沢湖の方とか様々なところに行きました。  貴重な記録です。  

先生がシアターピースと言う方法で作った漫才流しの2曲目は強く印象に残っています。   一般的に合唱団は左からソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという6種類の形態で並んで歌います。  シアターピースと言うのは、舞台でやってホールの方に階段で降りてきて演奏する訳でです。  劇場全体が歌う場。  今も私は継承しています。   漫才流し 三河漫才から始まって、秋田の方に移って発展して来ました。(秋田漫才、横手漫才)   漫才を新しい感覚で自身で合唱を作りました。(シアターピース方式)  

*合唱曲 「漫才流し」  柴田南雄作品

柴田先生の一番すごいところは、「人間について」と言う曲があって、宇宙について、人間と死、自然についてとかいろんな曲、未来につながる永遠のテーマを作っています。  柴田さんは東大で植物学、哲学を学ぶ。  先生は縄文土器、弥生土器も研究して、縄文土器の笛を使って音程を出したりしました。  私の知識と教養を柴田先生が育ててくださった。  とても好奇心の旺盛な方です。  

先生からは「民俗学を研究して新しい自分の様式を作り、研究する人間になりなさい。」と言われました。  私も自然と民族学の方に入って行きました。   宮沢賢治世界、いろんな日本の古典文学、樋口一葉、明治の歌人、文学者の人たちなどをテーマにオペラを作ったり音楽を作って来ました。   今111曲になりました。 

*「利根川322」 第一楽章冒頭の部分 (利根川は322km流れている。)

4月26日に「鳥獣戯画」を発表します。  9月には「清少納言」を発表する予定です。























2025年3月30日日曜日

中村結美(放送作家)        ・名わき役の最後を撮る

中村結美(放送作家)        ・名わき役の最後を撮る

中村さんのお父さん俳優の織本順吉さんの晩年にカメラを向けたドキュメンタリー映画「後ろから撮るな」が完成して先日封切されました。  織本さんはNHKの朝ドラや大河ドラマの出演のほか、およそ2000本の映画やドラマなどで名わき役として鳴らしました。 2017年に90歳で民放のドラマ「安らぎの里」が遺作となり、2019年3月に亡くなりました。 

「後ろから撮るな」の反応は、男性、特に年配の方は、自分自身に当てはまる様で身に詰まされるという反応が多いです。 女性は介護する立場から、同じようなことを思いましたと言う様な反応がありました。  父は90歳までドラマに出続けました。  父が認知症の症状が出始めてその証拠を撮ることで始めたと言った感じです。  撮っているうちのいろいろ面白いことが有ったりしました。  それが発展して映画となりました。 

織本さんは電気会社に勤務した後、1949年に新協劇団に入団。 朝ドラの澪つくし』をキャスティングしたことが全国に知られるようになった。  母の実家が神戸で、両親の介護が必要になり、父を東京に残して私が4歳妹が1歳の時に母と一緒に神戸に移り、父とは別居生活になりました。  父が来るのは年末年始と京都で撮影がある時ぐらいでした。  過剰に父親であろうとするワンマンなふるまいをしていました。  テレビは子供の頃から作り手として見るようなことを父から言われていました。  家族が家族になるための練習期間のようなものをせずに、また家族をやらなければならなくなりました。 しっくりこない状況はありました。   現実の父親役だけはうまく演じられませんでした。 

父は5歳で母親をなくして、15歳で父親を亡くして、その後継母と過ごしています。   晩年は癇癪を起すことが増えていきました。  筋が通らないことでも怒り出したりしました。   私は家の中の本当の父の姿を記録したいと思って撮影を始めました。  そこが意外と伝わらないのは残念です。  世間からはあんなに穏やかで優しそうで、その方がご主人でいいですねと、母はずっと言われていました。  母からは愚痴を言われる役を私はやっていました。  

私は1960年東京生まれです。  神戸育ちで、脚本家、放送作家、テレビディレクター。  高校卒業後銀行員になりました。  文章を書くことは好きで、高校では兵庫県の作文で1位になりました。  勤めの傍らシナリオを書いたりしていました。  「初めてのお使い」「ムツゴロウと愉快な仲間たち」「花よりだんご」、NHKの番組などいろいろ手掛けました。   東監督と会う機会があり、父の気持ちが判ったようなところもあって、銀行員と言う普通の生活ではなくて、ものを作る人になりたいと思い銀行を辞めました。  

「後ろから撮るな」  父は多分私がカメラを向けても、自分自身はどうにでも演じてやるわいと、どうにでもコントロール出来ると思っていたと思います。  しかし或る時に、自信が亡くなったのかなあと思いました。  それで自分の神経の行き届いてない後姿を撮るなという事だったのではなかったのかと思います。  どうしても後姿を撮りたかったです。  1月に病院に入って、3月頃には飲み込む力も弱っていました。  水も飲めなくて点滴だけで栄養を摂っていました。   撮った映像を父に見せましたが、その瞬間だけはしっかりしていました。  感想を言ってくれました。   

「どんなにうれしかったか、本人にしかわからない。  こんな幸せなドキュメントは考えられない。」 「こんな映画が出来たのはお前だから出来た。  こんな幸せな役者はいないよ。」と言っていました。  かっこいいドキュメントではないと判ってもらえると思います。    舞台の上で死ねたら本望とよく言いますが、死の間際まで中々撮ろうと思っても撮れるものではなくて、たまたま父と娘という事で、ぎりぎりまでカメラを向けられました。 それが役者として嬉しかったという思いを言ってくれたのかなと思います。  よっ 名演技!織本順吉と言いたくなるような顔でもあったなと思いました。  父も逃げずにいろいろな顔を見せてくれました。 




 














2025年3月28日金曜日

木村肇二郎(眼科クリニック院長)     ・いわきの浜で 患者とともに

木村肇二郎(眼科クリニック院長)     ・いわきの浜で 患者とともに 

木村さんは昭和15年生まれの85歳。 慶応大学の医学部を卒業した後、大学病院の勤務を経てふるさといわきに戻りました。 祖父の代から続く医師の家系で、患者の話を丁寧に聞く姿勢はちちから学んだと言います。 木村さんはかねてから治療が難しい視覚障害に人達の暮らしのサポートを続けてきましたが、さらなる活動の拠点として、4年前東日本大震災で大きな被害を受けたいわきの浜に「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。  ヨガ教室や音楽会、触る彫刻展など多彩な催しが行われ、今では障害の有無にかかわらず様々な人たちが訪れる交流の場となっています。 

屋上からは海が一望出来て、建物は木のぬくもりがあり正面は大きな窓になっていて、外の景色はほとんど見渡せます。  天井も高くて圧迫感はないです。  福島県から建築文化賞も頂きました。  一部2階建てのバリアーフリーになっています。 視覚障害の方への様々な工夫がしてあります。  ここは兎渡路という地名です。 地名の由来はよくわからないです。  一時入院した国立病院が道路を挟んで反対側にありました。 命を助けてもらったという事でここを選びました。  国立病院は震災で内陸に移ってしまいました。 いわき全体では450人ぐらいが亡くなり、ここは80名ぐらいが亡くなっています。  10mぐらいの堤防が出来て海が見えなくなり景色が変ってしまいました。    

昭和15年生1月1日生まれです。 父が大阪に勤務している時に大阪で生まれました。  実家に疎開していわきで終戦を迎えました。  小さいころはよくいたずらをしていました。  5人兄弟です。  喉に腫瘍が出来て息が出来なくなってきました。  父の知り合いの東京の病院で手術をして取り切れないので放射線治療をしました。 合併症が起きて顎の上の骨に穴が開いてしまいました。 鼻と口が繋がってしまって、今でも繋がっています。 歯も無くなり入れ顎を作ってはめ込んで今も生活をしています。(中学時代から)  毎食後入れ顎を外して綺麗に掃除をして又取り付けることをしています。 

中学生の時に白内障の手術をするから見にに来ないかと言われましたが、医師になれとか言われなかったです。 でも眼科がいいかなと思いました。  父は非常に優しくておとなしくてよく説明していました。  よく話を聞いて説明するという事は父親から受けついでいると思います。 慶応大学病院に務めたのは32年間です。 大学では学生セツルメント活動と馬術を選びました。  セツルメント活動は街の中に入って行って、定住して街の人と一緒にいろんなサポートをします。  慶応大学病院の反対側にある若葉町の街で、子供たちの勉強と診療所での診療(先生たちの手伝い)を毎週一回土曜日にやりました。 

その流れもあり「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。  サポートするためのシステムを作って、その一つとしてこの建物もあります。  目が見えなくなってしまった方へは福祉の制度の説明したり、目の見えない人用のパソコンを教えたりして情報を入るように指導します。  東京旅行するとか、美味しいものを食べに行ったり、映画を観る(説明付き)、音楽、そういったことも行っています。  診察室の枠を踏み出してサポートする、という事をやっています。(セツルメント活動の延長)  年に2回はバス旅行をし、楽しんでもらって、いろいろな話を聞くというのは、眼科医としても非常に役に立ちます。    85歳になっても元気でやってますが、妻が副院長で同士といた感じで感謝しています。 100歳を目指して同じ活動を継続していきたい。 



 


















2025年3月26日水曜日

佐々木吉和(NPO法人 理事長)       ・〔心に花を咲かせて〕 花と緑と人で地域は輝く

 佐々木吉和(NPO法人 理事長)     ・〔心に花を咲かせて〕 花と緑と人で地域は輝く

秋田県で活動するNPO法人「グリーンサムクラブ」はゴミだらけの海岸部の清掃から始まった活動なんだそうです。  いまでは花植えや子供キャンプなどなど様々な活動をされています。  その理事長の佐々木吉和さんは当時造園会社の社長で、そもそも社員と共に地域のために貢献するのは当然という考えから活動が始まって、いつの間にか活動が広がってきたという事です。 

会社が当然、困ったこととか大きなトラブルがあった時などには、進んで助けに行ったりとか当たり前にやっているんです。 造園業をやっていますが、造園とは関係ない事でも助けに行ってしまいます。 社員が全部やるわけです。  そういった会社ならば入ろうという事で社員になった人もいます。  社会貢献活動を始めたのは1995年7月です。 300人ほど集まってゴミの除去をしましたが、一日で終わると思ったら1週間かかりました。 日本海側の秋田港から約17kmぐらいで幅が500mぐらいです。 私は40歳ぐらいからゴミ拾いを駅までの400mぐらいをやっていました。  「ご苦労さん」と声を掛けてもらうと嬉しんです。  海岸に行ったら、会社の納品書が何か所からか発見されたんです。 これはまずいと思いました。 沢山の不法投棄がありました。  綺麗にしたら不法投棄がなくなりました。  

13年ぐらいやっていたら、秋田県農林事務所の林務課?の課長が私たちが主導的にやりたいと申し入れがありました。  「夕日の松原」と言う名前になり綺麗になりました。   声を掛けたら関連会社なども含めて300人ほどが集まりました。  今では800人ほどになりました。  今は活動は県の方でお金を出してくれるようになりました。  

「グリーンサムクラブ」を発足させました。  「グリーンサムガーデン」もあり、公園的なものを作りました。  企業の利益とは全く関係ない活動です。  「グリーンサムガーデン」で12月23日にシェフ&主婦のコラボレーションでお祭りみたいなことをやりました。  「グリーンサムガーデン」の隣接地の水田で田植えから収穫、餅つきまでやりました。  子供たちは喜んでいました。  幼稚園の子等もやるようになりました。 2002年には沿道緑化の活動が始まりました。  有償ボランティアで行いました。 お金は私どもの方で用意します。 何もかもボランティアでと言うのは難しいです。 

パークエンジェルスによる地域見守り隊。 小学生が学校に通うための安全を見守ります。 社員がやっています。  2012年にNPO法人の認可を受けました。  通常300~500人程度です。 私がご案内で来ているのは2000人ぐらいはいます。  文化交流もやるようになりました。  彫刻とか。  いろいろな活動が広がってきています。 秋田は土地が広いので、荒れた土地などは使ってほしいと言われたりもします。  活動してきてここだけは上手くいかなかったという様なことはなかったです。  無理してやらなくてもいい。 支援してくれる人たちも出てきます。  東京、福岡から来て、ワイン作りとか、こちらでやりたいことをしたいという事で定住しています。  決してあきらめないことで、自分が信じる道をやっていると、必ず助け船が出てきます。 友人、知人のお陰です。 海水浴場がありますが、今はすたれていますが、ここを何とか再生させたいです。 何年かかるかわかりませんが、来年から始めます。










2025年3月22日土曜日

山極壽一(霊長類学者 人類学者)     ・「過疎」を強みに地域力復活!

山極壽一(霊長類学者 人類学者)     ・「過疎」を強みに地域力復活!

山際さんは現在73歳。 ゴリラ研究の第一人者として知られ、アフリカでゴリラの暮らしを体験しながら、これまで40年余りに渡って家族の起源や人の社会の成り立ちを探って来ました。  2021年からは京都にある総合地球環境学研究所所長を務めてます。 今特に関心を寄せているのが、人口が減って活力が失った地方の復活です。 その手掛かりを探ろうと過疎地を巡りその土地の自然や文化を生かした教育プロジェクトを熱心に視察しています。   若者たちに土地の魅力を伝え知恵をつけるのは、地元に住む高齢者たちだと語る山際さんに活力ある地域社会を取り戻すためのヒントを伺いました。

4年かけて色々なところに行きました。 一番印象に残っているのが鹿児島市と霧島市との間に姶良(あいら)と言う場所があって、山奥に新留(にいどめ)小学校と言う廃校があり、改築して新たに小学校を立ち上げようというプロジェクトがあります。 川理沙さんとその娘さんの瑞樹さんという人と、秋田からきているさんの3人が発起人となってやっているところです。 全国から企業家とかデザイナーとか建築家とか集まって、どういう素敵な小学校にしようとするのか、どういう企画をしようか話し合っています。 会合に呼ばれて行きました。  「普通の小学校プロジェクト」と言います。 普通と言うのは土地土地によって違います。  薩摩の地鶏を2羽、羽根をむしったりして、さつま揚げの煮込みを作って、皆で食べるという事をしました。  大きなカツオをみんなでさばいて、カツオのたたきを作って、味噌つくりも一緒にしました。  自分たちで作った地元のものを美味しく食べましょうと言うのが狙いです。  知り合いで、皆が食材を集めてくれるわけです。 

買ってきて食べるというのでは、自然災害があった時など自力で生活が出来なくなってしまう。  古河さんは子供たちの食や安全や遊び、学びについてこれまで長い経験のある人です。  高校生の意見を反映させながら、普通とは何かと言う事を考えて、そのコンセプトは昭和の小学校に近いものです。  自然の中で自由に考え、好奇心を燃やして、一緒に食べ、学び、と言った日々を送らせたいというのが「普通の小学校プロジェクト」です。 結果的に子供たちが生きる力を育てることになる。  来年4月に開校予定です。 地元を対象にした小学校ではなくて、全国からやって来る小学生を対象としています。 地元のおじいちゃんおばあちゃんが子供たちと一緒に遊んだり学んだり、食事を作ったりしていこう言う話です。 親もやって来る。 宿舎もあり、人が集まればいろんな産業が勃興してゆくので、地域おこしにもなる。 

島根県の島に海士(あま)町ところがあります。 そこでベンチャーをやっている安部?さんと言う人がいます。  ここに高校を作りました。 ここに全国から高校生が集まってきて、自由な学びの場を楽しんでいます。  午後には海に飛び込んだり、畑仕事を手伝ったりしています。  おじいちゃん、おばちゃんたちが伝統的なお祭りのやり方を指導して、御輿を担いだりしています。  都会の若者たちが来て満足できるような素敵なホテルを海辺に作っています。  その高校は日本で有名になりました。 

「過疎は強みだ」と自覚したほうがいいです。 ゼロから始められる。 過疎だから自分のアイディアがそのまま生きる。  地域は自立しないといけない。  江戸時代は日本国内だけで自足していた。  都会に人口を集めてしまった結果、地域が疲弊してしまった。  江戸時代は藩ごとに自立していたが、明治維新以来地域のことに目を向けなくなった。  地域が自立できなくなった。  地方に仕事がないというが、僕は逆だと思う。 人が集まれば仕事が出来る。  教育は人を集める大きな糸口になる。 そうするとホテル、喫茶店などもできる。

岡山県に西粟倉村と言うところがあり、京都大学の農学部部出身の牧大介さんと言う人がベンチャーをやっています。 林業で栄えた村ですが廃れてしまった。  木材として利用するだけではなきうて、木っ端を肥料にしたり、ウナギの養殖に使ったりして、漁業と林業をリンクさせて総合的な村おこしを始めた。  森の学校も作った。  木工所が残っていて、指導者は80歳を越えたおじいさんで、労働者はほとんどが若い女性なんです。 木工品を売るのには若い女性のアイディアが生きてくる。 すでにある施設を使って新しいことをやる。  役場だけは新設で世界的に有名なデザイナーのもので、全国から見学にやって来る。   各地とネットワークでつながることによって、発展する。  地元の人が新しいことを受け入れないと起こらない。 慎重な議論が必要。 若い人のアイディアと高齢者の知恵が合わさって新しい発想が出来るようになったらしめたものです。  

一番重要なのは危機を察する心、感覚を持っているという事です。 今、大人も子供も知識ばっかり寄せ集めて生きてる。  そこに知恵を働かせて生きていない。  都会では年配と若者の出会う機会がなくなってしまっている。 試す自然が遠ざかってしまっている。   年配の人の知恵を生かせる機会がない。  自分のやれることを失わない事。 ものつくりを通して子供たちと触れ合う。  老いたことによって違った魅力や力が出てくる。    自分でやらずに他人にやってもらう。  自分が発想したことを自分でやらずに、あたかも他人が発想したかのようにして、やったかのような知恵が必要です。 それで若い人の手柄にしないといいけない。  知恵の部分は衰えないので、そこを上手く使う事は必要です。  










  









2025年3月15日土曜日

上村淳之(日本画家)           ・平成の四神 (シジン)を描く(初回:2010/4/10)

上村淳之(日本画家)       ・平成の四神 (シジン)を描く(初回:2010/4/10) 

去年の11月に91歳で亡くなった日本画家上村淳之さんの再放送です。 藤原京から奈良に都が移ったのが710年でそれからちょうど1300年の2010年4月都の中心平城宮跡に奈良時代に重要な儀式が行われた大極殿が復元されました。 出来るだけ当時の技法を使って建てられた嵩29mの大きな建物でその内側の壁に方角の守り神朱雀、玄武、青龍、白虎の四つの神、四神の絵が描かれました。  絵筆をとったのが奈良市在住の日本画家で花鳥画で有名な上村淳之さんでした。  上村淳之さんの祖母は女性で初めて文化勲章を受章したに日本画家で美人画で知られる上村松園、父は花鳥画で有名な上村 松篁(うえむら しょうこう)さんで、やはり文化勲章受章者でした。 四神と言うと奈良県明日香村のキトラ古墳の壁画で有名ですが、上村淳之さんは平成の四神にどんな思いを込めたのか伺いました。 上村淳之さん76歳の時の再放送。 

高さ29m、幅53m、奥行き29mの空間。 屋根の瓦が10万枚ぐらいある。 柱が朱で鮮やか。 下から6mのところが下場になります。 その上が上壁で寸法が1m30cmあります。  四神と周りに十二支と雲が描かれている。  ここは初めて日本の国の形が出来た、そこでの祭りごとをした場所と言うイメージを持ちましたので、神様がおおらかに優しく見つめておられるという風なイメージを持ちました。  キトラ古墳は渡来人の仕事であって日本人の仕事ではないと思っていました。  記録もないので私なりの流儀でやらせてもらいたいと文化庁にお願いしました。  最初は原画を私が描いて職人さんが描くという計画でしたが、自分で描きたいと言いました。  壁に描くことは初めてでした。 描く広さは畳1枚半ぐらいで四方にあります。  

文化庁から話があったのは3年前ぐらいです。  壁があまりつるつるに仕上がっていたので塗り替えてもらいました。 四神にイメージは自分なりに工夫をしました。  南の神朱雀は目と腹の部分が赤いです。 頭の部分が山吹色で黒い筋が入っています。 羽根は表は赤くて裏はグレーです。 尾は長くて気高い感じがします。 対に描いていてポーズが違います。 片方は羽根をあげていてもう一方は下げている。 東の神青龍ですが狼が遠吠えをしているような感じ。 口がワニのような感じ。 キトラ古墳の青龍とは全く違います。 キトラ古墳にはみんな羽根が付いていますがついていません。  キトラ古墳の四神は顔が険しい表情ですが、穏やかな表情に描きたいと思いました。  北の神玄武、黄土系の色です。  亀と蛇で、亀が振り向く様に見上げて、蛇と目を合わせている。 構図はキトラ古墳と同じですがユーモラスに優しい顔に描かれている。 西の神白虎、墨絵のよんな感じ。 キトラ古墳は爪を立てて襲い掛かって来るような感じですが、襲い掛かってくるような感じではないです。 四神すべてが穏やかな感じです。 

四神を描くことで3度目の壁に突き当たりました。 最初に突き当たったのが余白の部分です。(40年近く前)  ヨーロッパでは鳥とか花が主役を演じている絵はないんですね。 花鳥画の鳥や花は作家の化身であります。 化身が語り掛けて行かなければいけない。  西洋では生態画になってしまう。 観察的に見てしまう。  感性の違いだと思います。  絵と言うのは夢想した世界を具現化するものであるんだと,そのものを描くことではないんだと教えていただきました。  夢想した世界なのできちんと余白が入り込める、象徴化された空間として、大切な画面として登場してくるわけです。  余白については先生は一切言わないで自分で見つけろと言われました。  或る時に3羽の鳥を描いて、後ろは霞がかかっていてその状況を描きました。  それはひょっとしたらよかったのかなと思いました。  余白は日本画の特徴です。 

2番目の壁は絵が描けなくなることがありました。  或る人から仏御前の絵をみせてもらっていいなあと思って、この仏御前とシギ(鳥)を入れ替えたらいいのではと思いました。 「月に渡る」という題で一気に描くことが出来ました。 

3番目は四神の時ですが、余白の部分に一切手を加えないという事です。  四季花鳥図をと言うものを作りましたが、同じ画面で冬から始まり春、夏、秋になるというものです。 季節の移り変わりを余白の部分に手を加えないでやりました。  それでやれると思ったので、また一つ壁が取れたかなあと思いました。  父は壁は3度経験したら、絵描きになって良いと、ちらっといったことがあります。  花鳥画は神が宿っている世界でないといけないと思います。  




















2025年3月12日水曜日

倉科由加子(障害者支援施設 施設長)    ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く  千代子さんと私

 倉科由加子(障害者支援施設 施設長)  ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く  千代子さんと私

「千代子さんと私」は第59回NHK障害福祉賞 最優秀受賞作品。 NHK障害福祉賞は障害の有る人自身の体験記録ですとか、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるものです。 倉科さんは愛知県住在の61歳。  働き始めた入所施設で重度の障害がありストレッチャーで生活する千代子さんに出会って、その暮らしを最後まで支えました。  苦難を受け入れて多くの人に慕われた彼女のようになれたら、という思いを「千代子さんと私」と言うタイトルで綴りました。

書き出しし部分 出会い

「坊主頭のその人は満面のほほえみで私を迎えてくれた。 障害の有る方=車椅子に乗っている方で、という認識しかなかった私にとってその人との出会いは、当初衝撃的だった。   ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢からグイっと顔を持ち上げ汗だくの笑顔から自己紹介をしてくれるのだが、言語障害もあり語尾が聞き取れない。 よくよく周囲のやりとりを聞いているうち、その人はみんなから千代ちゃんと呼ばれていることがわかった。 それが千代子さんと私の出会いである。」 

ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢から、この人一体どうやってご飯を食べるんだろう、どうやっておトイレに行くんだろうと、いろんな疑問がぐるぐると湧いてきてしまいました。  ニコニコ笑っているという姿にも衝撃を受けました。 長いベッドのような車椅子にうつぶせの姿勢になって、顔は、話をする時には首を持ち上げてお話をするので大変力の要ることだったろうと思います。 出会った時は千代子さんは30代でした。(1985年) 

テレビで障害者施設の番組を見て、何となく障害の施設の役に立ちたいと思いました。  福祉大学に進んでこの施設を選んで千代子さんと出会いました。  当時は50人が暮らしていました。 重度の障害の有る方たちが沢山いました。  目が見えない、足が動かない、言葉が話せない、と言った人たちが元気に暮らしているところに飛び込みました。  「住人さん」という呼び方をしていました。

私が入る数年前から千代子さんは入所していました。 お母さんと一緒に名古屋で暮らしていたそうです。 脳性まひの障害をかかえて生まれた千代子さんを乳母車に乗せて、いろいろなところに連れていかれたと聞いています。  高齢になりお母さんが入院して、こちらの施設に入所したという事です。  千代子さんの短歌の中にお母さんのことが良く登場していました。 

「春色の母の形見の服を着るもったいないと母は着ぬまま」   千代子

「思い出す私の好きなイチジクを貧しい中にも買いくれし母」 千代子

愛情深く育てられて来たから、千代子さんの優しさが千代子さんの中に育ったのかなあと思います。 

千代子さんは石原裕次郎さん、里見浩太朗さんとかが好きだったので御園座に出掛けたり、細川たかしさんとか演歌のコンサートに一緒に行ったりしました。 大好きな寿司を食べに行ったり外出が好きな方でした。  親指にみたない鮒に餌をやって30cmぐらいまで水槽で育てて、愛ちゃんという名前を付けて愛情を注いで、なんにでも愛情を注いでしまうという方だったと思います。 誰かに対しても怒るという事のない方で、怒る時は中日ドラゴンズが負けた時ぐらいです。 

千代子さんは聖人君子の様に思えてしまうかもしれませんが、あわてんぼうで、お節介で、おっちょこちょいで、出たがりで、どこにでもいる明るい一人の女性だったと思っています。  古い写真を見ると何でも真剣に一生懸命思い切り楽しんでいる、そんな時間を共有させてもらって幸せだったなあと思います。 

「この年で恋をしている恥ずかしいでも恋しているよんじゅうごさい」   千代子         私が聞き取ってノートに書いて、短歌の会に参加することにしました。               ストレッチャー型のトイレで1時間ぐらい一人になった時に作っていたようです。            

「あの人はいきなに住む王子様私は恋の歌作る姫」       千代子                あの人と言うのはショートステイしていた方で、月に一回こちらに泊るという利用の仕方をしていました。  会えない時には電話をしてお付き合いしていました。 あの人と言う方は昨年末に亡くなられました。  

お風呂、トイレなどの手助けをすること自体は大変という事は思わなかったです。      

倉科さんの手記より心境の変化も見られる。

「走り出したばかりの私にとっては、大変が楽しいを上回るものだったが、春夏秋冬24時間365日終わりがない繰り返しの中で、数年が経った頃にはこの仕事への遣り甲斐に迷いが生じる様にもなっていた。」 

今思うと、身体的疲労が蓄積されていたのかなあと思います。  住人さんたちの暮らしを支えるのが私たちの仕事なので、私だからできる仕事もあると思ったことも、自分がここにいる意味みたいなものを見つけたことになると思います。 時々落ち込んだり、やったみたいなことがあったり、やってきて気が付いたら今です。  40年近くやってきましたが、若い頃には旅立ちに立ち会わせて頂いた時には、ただただお別れするの悲しかったですが、自分が歳を重ねてきて、人生みたいなことを考えてきた時に、人が生きてきて亡くなるところを住人さんが身をもって教えてくれる、その時頂く感動は忘れられない。  そういった事が私がここに居続けている一つの理由なのかもしれません。 

千代子さんが昨日までは元気に過ごしていましたが、その日の朝、声を掛けてもぼんやりした答えしかかえってこなかった。  車に乗せて病院に行きました。  入院することになりました。  呼吸機能の限界を迎えた様でした。 頑張って生きてきたのでいい最後だったのかなと思います。 

グループホームが出来ると言うと、千代子さんは手をあげました。(60歳)  グループホームと施設との往来の生活になりましたが、買い物をしたり、子供たちと仲良くなってクリスマスにプレゼントをあげたり、暮らしの幅を広げて元気に過ごしていました。  ホームと施設について点数を聞くと100点だと言ってくれました。  お母さんと暮らしていた大変な時期について点数を聞いてみたら、ちょっと間をおいてやはり100点と言いました。  千代子さんからはこの100点話は、人としてこうやって生きて行きなさいよと、教えてもらった一つだと思います。 

「新人職員だったころ、どうしても星が観たいと言われて、こっそり外につれ出した夜勤の思い出を語る人、外出先で約束したビールの本数なんか無視して思いきり飲んでいい気分だった千代子さんの思い出を語る人、皆が自分と千代子さんの温かい思い出やエピソードを持ていて、その場所が温かい笑いに包まれた。  生前の千代子さんを知らない葬儀会場の方も、「この方は凄い方ですねえ。 この方の財産は人なんですね。」と言われた。 私もこういう生き方をしたいと改めて思った。」

お別れの場面に駆けつけたくなる人だったという事をお知らせで聞くのではなく、その場所にお別れに来る人がいろいろなエピソードをもって、そこに駆けつけて下さることの凄さですね。  

「私は千代子さんが挑戦だと言って地域移行したのと同じ年齢になった。 障害がある人の役に立ちたいという最初の夢は千代子さんとの出会いによって、修正された。」

弱い人を助けたり、私が何かを与えたりする一方向の思い上がりに近い方だったことが、千代子さんやほかの住人さんたちとの出会いによって、早々に気付かされました。  自分が持てる力を最大限に活用して人生を謳歌する千代子さんたちは、全然弱くないと思います。  お互いの力が重なってこそ生み出されるものがあるという事も千代子さんたちから頂いたことです。 

















2025年3月8日土曜日

吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール 師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

 吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール  師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

2023年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された人形遣いの2代目の吉田玉男さん。 玉男さんは武将や町人などの男役、立ち役の第一人者として文楽を牽引する人形遣いです。   半世紀余りの間人形一筋に歩んできた玉男さんの芸の世界のお話を伺います。

入門してからはほとんど立ち役をやって来ましした。 「奥州安達原」で最初は公家のいでたちで後半は猛々しい侍の姿で迫力のある武将の役。  人形が大きい。 10kg近くあります。最後の15分ぐらいは動き詰めです。   複雑な人間模様でややこしいです。  「曽根崎心中」などでは弱弱しい町人もあり、優男の難しい所もあります。  文七のかしらを持ってきましたが、眉毛が上下に、目が左右に動くようになっていていろいろ表情が変わります。   3人使いでおこなっていて、入門当初は足遣いから始ります。(約10年間)  女方には足はないんです。(昔は女性は足を見せないように歩いた。)  真ん中にいるのが足遣い、右側(お客側から見て)が左遣い、3人で毎回やっています。 

中学校2年の時に人形遣いの吉田玉昇さんに勧誘され、手伝いをするようになって文楽に興味を持つようになる。  高校にはいかずに初代吉田玉男に弟子入りしました。(昭和43年)  昭和44年に初めての役に付きました。  『吉田玉女』(よしだ・たまめ)を名乗りました。  足遣いは10年ぐらいやりました。(左遣いなども覚えるが)  次に左遣いで左手を動かします。 右手でもって左手は空くので、小道具、扇子などを懐から出したりします。  足遣いの時にも子供の人形を使わせてもらって、主遣いもさせていただきました。  主遣いが一番楽しいです。  千秋楽の次の日から4日間は勉強会と言う形で主遣いをやらせてもらいました。   

役柄の心情,性根は台本をよく読まないと駄目ですね。  弟子は先代に似せないといけないですね。  先代とは35年ぐらい一緒にいました。  3人で扱うようになったから300年近くなります。  3人を合すというのは主遣いの呼吸で手も足も出るという事です。 主遣いからサインが出ます。  先代の感じを入れて僕の感じも入れる様には心がけています。  後継者のことが問題になっています。 足遣いも間が8年近く空いています。 自分の芸、後進の指導も行わなければいけないし、新しい人にも来ていただかなかればいけないと思っています。  





  

2025年3月6日木曜日

尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

 尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

尾畠春夫さんは85歳。 大分県出身で7人兄弟の4番目として育ち、小学校5年生の時に県内の農家に奉公にでて、中学まで厳しい環境で育ちました。  中学卒業後別府、山口、神戸の鮮魚店で修業を行い、東京でのとび職の経験を経て、28歳の時に故郷大分に戻り自分の鮮魚店を開業します。  65歳で切り盛りし引退、そこから尾畑さんの本格的なボランティア活動が始まります。 山口県の山中で2歳児を発見して全国的に注目され、東日本大震災の時は500日間を車中泊で過ごし写真や遺品などを捜して綺麗にして遺族に渡す「思い出探し隊」の隊長として活躍しました。  その後も熊本地震や九州北部豪雨などの際にいち早く災害現場に駆けつけました。  移動の際の車のガソリン代も自己負担し、対価を求めないのが真のボランティアであるとして、お礼は一切受けとらず被災者の支援にあたっています。 ボランティアを通して活動する喜びや遣り甲斐について伺いました。

去年は能登半島地震に行きました。  今は別府湾のペットボトルなど人工物の回収をしています。 海の魚が喜んでくれるのかなあと思ってやっています。 今でも4トン車に山盛り一杯になっています。  50歳から故郷の豊後富士でボランティアを始めています。  35年ぐらいになります。  登山道の整備、人命に関わることなど。  65歳からは一般の災害ボランティアを始めました。  東日本大震災の17日後に行き約500日ボランティアしました。  大変だなあと思ったことは一切ないです。 

昭和14年大分県国東半島で生まれる。 母親が41歳で亡くなる。  小学校5年生で農家に奉公に出される。(一番ご飯を食べるため)  朝昼晩茶碗に一杯のご飯と味噌汁一杯、沢庵2切だけだった。  お腹がすき過ぎて馬、牛の餌(麦、豆)を炊きだして食べました。 姉から魚屋になることを薦められて、中学卒業後、魚屋で3年間働くことにしました。 その後下関の魚屋で3年、神戸で4年。 その後とび職として東京で働きました。  とび職の仕事がその後のボランティア活動の役に立ちました。  ボランティアをしてあげるなんて思った事は無く、させてもらっていると思っています。  自分に正直にやっているだけです。 

東日本大震災の時は「思い出探し隊」の隊長として活動しました。  写真がメインでした。 お金に関してはたとえ1円でも二人以上で処理するようにしました。  写真を洗って乾燥して、展示して自由に持って帰れるようにしました。  涙を流しながら「ありがとう」と言われると身体が震えます。 二度と日本では起こって欲しくないと思いました。  車中泊は過酷なんてことは承知の上です。  川の水を汲んできてラーメン作ったり、飲んだりして、ご飯も携帯用のご飯に水をかけて紫蘇をかけて食べていました。  どうしても食べて欲しいと、差し入れを頂いて号泣しました。  

ペットボトルの回収は危険が伴います。  ボランティアは自己責任だと、基本中の基本だと思っています。  今まで受けた恩が山ほどあるので、止めようと思ったことは一回もないです。  この世に生まれ出たものにはなんでも命があります、針一本でも。

鹿児島から宗谷岬まで日本縦断しましたが、徒歩で330km歩きました。 92日間かかりました。 「掛けた情けは水に流せ、受けた恩は身に刻め」と言う言葉が有ります。 私は常にそれを心に刻んでいて、恩に着せることは絶対駄目だと思っています。  一つだけ貰いたいものがあると冗談で言うんです。 1+1はと聞くんです。 「にー」と答えが来ます。 「お礼の分を頂きました。」といいます。  「にー」と答えてくれた、この笑顔を貰いました。 

これからボランティアをやる人へは「自分の身は自分で守る。」という事です。(自己責任)  そして見返りは求めないことです。  今は右の耳が聞こえない、右の眼が見えない状況です。  来年は夜間中学に行って学びたいという思いがありますが、災害地に行くのが一番で勉強は二番ですね。  「生かすも言葉、殺すも言葉」です。 言葉には気を付けないといけない。  「夢は大きく借金は小さく」



























2025年3月5日水曜日

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を 

奥野修司さんは1948年大阪府生まれ。 立命館大学経済学部卒業、週刊誌の記者として活動後、1994年「小沢一郎覇者の履歴書」でノンフィクション作家としてデビュー、その翌年に「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で注目されます。 その後2005年「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で第37回大宅壮一ノンフィクション賞第27回講談社ノンフィクション、を受賞されました。  社会問題や医療をテーマにした著作を多数出しています。 認知症の取材に長年取り組み、去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。 

「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で12年、「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で25年、と長期間取材を行った作品が多い。 「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」の取材ではなかなか取材には応じてくれなかった。 毎年2回ぐらい沖縄にいって話を聞いて、その子供が成人して本土に出てくるまではずっと通っていました。  本にするつもりはなく記録していました。 80年代の末にC型肝炎だという事が判って、医者から後10年だねと言われました。 それで形にしておこうかなと思ったのが「ナツコ 沖縄密貿易の女王」でした。 当時終戦から2,3年の間は全く資料がありませんでした。 資料はアメリカでしかなかった。 ナツコと言う人がいて、当時のおじいちゃん、おばあちゃんはみんな知っていました。   でもしゃべってはくれなかった。  微妙なテーマだと思いました。  ナツコの家族を捜すように言われて、そこから紹介して貰いました。 

ノンフィクションを書こうとは思っていませんでした。  「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」は大宅賞の候補になりましたが、ノンフィクションじゃあないと言われました。  ナツコなどは取材すればするほど面白いですね。  全部知りたいという思いがあるんですね。  家族をノンフィクションで描くという事はなかった。  信頼して本当のことをしゃべってもらうことが重要になって来ます。  そのためには時間がかかります。  沖縄の男性は特にしゃべらない。  取材が勝負ですね。 

去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。  取材のきっかけになったのは兄が認知症になったことです。  2013年に亡くなる。  丹野さんの取材後、若年性認知症の人を15年ぐらいインタビューしました。  若年性認知症の人は全国に3万5000にぐらいしかいないです。  高齢者の認知症は数百万人です。 出雲市にあった「小山のおうち」というところを知って、そこから高齢者の認知症について話を聞きました。  要介護4,5ぐらいでした。  直ぐ忘れるので、話が2分ぐらいしか持ちませんでした。  敬子さんと言う人を手を繋いであちこちいって帰ってきて、おやつの時間になったときに敬子さんが「今日は楽しかったねえ」と言ったんです。  その人は1分ぐらいしか記憶の持たない人でしたが、3,4時間前のことをしゃべったんです。  感情は僕らと同じように覚えているんです。   嫌なことを言うと怒られたというんです。  嫌なことはそれが重なって記憶に残るんです。  何か魂胆があるのではないかと考えたりするんです。   

家族が認知症の人がどう思って売るのか、知ることが難しい。  介護士とか慣れている人に聞いて欲しいと頼んだ方がいいですね。  重度の認知症になって来ると、話を聞こうという事は無くなって来る。  認知症の心のうちは孤独と不安ですね。  孤独はもう話し掛けてもしょうがないという、社会的孤独ですね。   家族だけが接触する対象ですが、家族が話かけないと孤独感を味わう事になる。  記憶がどんどん衰えていくことは自分でわかっています。  記憶が消えてゆくと自分が消えてゆくような不安を感じる。 家族と認知症の人との関係性の問題です。 家族から変わるしかない。  ちゃんと聞いてあげる。  一人暮らしの方が元気な人が多いです。(元々一人なので人間関係がもつれることがない) 

料理を作ることは難しい。  どう作るか、計画を立てて、手順があって、同時に複数の作業をしないといけない。  女性は料理が出来なくなってショックを受ける人が多い。  認知症の人に言われましたが、「常にメモを持っていろ。」といわれました。 

毎日3,4km走ったり歩いたりしています。  歩けなくなるとまずいです。  健康を保つのには食事と運動だと言わわれ、実行しています。  今日本の農業は大転換しています。  今の米騒動もその一環なんです。 それを系統だてて説明していない。  人物を描きたいと思っています。 日劇のダンシングチームの一人を捉えて、戦前の生活を描きたいと思っています。 







 






2025年3月4日火曜日

米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

 米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

米田穣さんは現在55歳。 東京大学総合研究博物館 教授で人類学者ですが、科学的な手法を開拓し考古学の分野でも多くの業績を上げています。 米田さんは考古学者と共同で発掘調査にも加わり、同位体分析と言う科学的な手法を用い、人骨のほか縄文土器に付いたおこげからその年代を正確に測定し、食事内容やと調理法、更には暮らし方などもあきらかにしまた。   こうした業績が認められ2019年には著名な考古学者濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。 人類学や考古学のジャンルを越えて新たに考古科学の世界を切り開こうという米田さんに考古学者との共同作業から得たもの、今後の夢などを語ってもらいます。

私が中学生の時に理科を担当して下さった先生が、大学で霊長類の研究をしていました。  聞いて霊長類の研究は面白いと思いました。 霊長類の研究は京都大学が長い歴史を持っています。  東京大学では生物学科に人類学という専門分野が入っています。  人類学の中に霊長類学があります。  ネアンデルタール人の研究をしている先生がいて、発掘調査に参加してほしいとお願いしました。  

我々の祖先はアフリカで誕生しました。 およそ700万年前ぐらいにアフリカから人類の化石が見つかっています。  人類の生物学的定義は直立して二足歩行をするというのが大きな特徴となっています。  東アフリカでは山脈が形成されたことによって乾燥した草原が広がって行きました。 二足歩行の進化と言うのは、草原と言う新しい環境が現れたことと関係するのではないかと長らくかんがえられてきました。  2000年頃にエチオピアで発見されたアルディピテクスという非常に古い化石が報告されました。 二足歩行していたことが判っています。 面白いのは一緒に発掘された動物の化石はほとんど森に棲んでいる動物だったという事です。 草原ではなく森が多く残っている段階で祖先は二足歩行を始めたという事が新たに判りました。  

二足歩行を始めた時と消化器官などが進化したタイミングは、おそらく数百万年ずれていて、二足歩行とは直接関係ないという事が判っています。 でも新たなサバンナ環境になれるという事は大きな変化でした。  動物の死体を食べることは人類の祖先(猿人、原人)は始めたと考えられます。  草食ではあったが200万年ぐらいあとからサバンナという環境で動物の肉も食べるようになった。 魚などを食べるようになったのはもっと新しくて10万年前とか、数万年前のホモサピエンスになって、本格的に食べるようになったと考えられています。  環境に合わせていろんなものを食べることが出来たという特徴があります。 

私は生物としての人がどのような環境に適応するかと言うのを、主に縄文時代の骨を使った研究を行ってきました。  考古学者に誘われて一緒に研究を知るようになりました。   縄文土器は縄文時代の遺跡からは必ず出土すると言ってもいいくらい広く用いられてきた土器です。  土器のおこげも材料の特徴が、同位体という分析法を応用してみると、元の材料を或る程度推測することができる。  食べ物の傾向がおこげで知ることが出来ます。 人骨は賛成の土壌に埋められてしまうと溶けてしまうので見つかる先が限られてしまう。  おこげだと広い範囲で分析が可能となる。  

精製土器、粗製土器とに大きく分かれます。 精製土器はお祭りなどのために特別に作った土器と考えられてきました。 粗製土器は調理する目的によって精製土器とは使い分けてきたと思われる。  粗製土器は肉を調理する場合に用いられていたが、植物だけを加熱するという事にも用いられています。  精製土器は肉と植物を併せて調理するという目的に使われていた。  用途によって使い分けられていることを知ることができました。  ドングリのあく抜きなどにも粗製土器が使われていたことが確認できています。 

縄文時代にどんな調理法があったのかという事はほとんど研究されていない。 北海道と沖縄は魚類を沢山食べる。  本州周辺では陸の食べ物と海、湖の食べ物を組み合わせるといったことが特徴になっています。  意外と地域差はなかったです。(沿岸と内陸、東北と関東とか) 遺跡ごとに違う事が判りました。  遺跡周辺でとれるものを最大限に活用するのが縄文時代の特徴になります。  

縄文時代は植物を栽培する農法、動物を飼いならす牧畜はほとんどないという風に考えられています。 大きな豆などが見つかることがありますが、もしかすると縄文人が育てていたのではないかと考える研究者もいます。 弥生時代には畠の跡が見つかったり、専用の農工具が見つかったりしています。  縄文時代の後期には雑穀も見つかっています。  渡来人がもたらした雑穀を栽培していたのではないかと言う証拠を見つけることができました。 長野県の人骨から確認できました。(人骨に残されている炭素の同位体から、雑穀を食べていたことが判明) 雑穀を主食としてはしていなくて1割程度。  農耕へは連続的なものであったように思います。  

福井県三方湖の鳥浜貝塚は栗林が近くにあって、湖には沢山の魚介類がいる。  青森県の三内丸山遺跡は昔は海に近かったと言われている。  栗林は重要な資源だったと思います。  栗林が長く維持できるように管理していたものと思われます。 

濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。   考古学では分析的な手法を応用する手法が広がってきています。  遺物を次の世代に残す保存科学も重要ですが、分析によって得られた知識を、過去に暮らしていた人たちの生活、社会を理解するために利用する視点は、弱かったと思います。 考古学者の情報と分析して得られる情報の価値は同じだと思うので、両者を組み合わせてより過去のことを理解する科学的研究が出来るのではないかと思います。 科学的手法を考古学に生かす考古科学を展開できればなあと思っています。 自然と調和した暮らし方の考え方自体は、もしかすると争いが少なかった背景にあるのかもしれません。





































2025年3月1日土曜日

中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎さんの会社は山間にありながら高い技術力で世界に知られるとともに、古民家の再生など地元の街つくりにも深くかかわり、石見銀山の世界遺産登録に貢献しました。 病気やけがで身体の機能を失った人たちにどう向きあっているのか、そして故郷街つくりへの思いを伺いました。 

義肢と言うと義足義手のことになります。  装具は骨折,じん帯?損傷の為に用いられる装具になります。  サポーター、コルセットなどもそうです。  オーダーメイドで作るものと既製品と両方あります。  技師装具国家資格があります。  1年目に糖尿病で片足切断をした広島の方がいました。(80代)   納品の際に四苦八苦しました。  患者さんからも「自分も努力する。」という言葉をかけていただきました。 歩けるようになって頂けました。  

中村ブレイス(株)は島根県大田市大森町(人口約400人)石見銀山のふもとの山間にあります。  父であり現会長の中村敏郎?が生まれ育った町でスタートしました。  シリコンゴムを使って靴の中敷きを作って、膝の治療用とか偏平足の治療用で製品化して、徐々に認められていきました。  機能的な製品作りがメインでしたが、アメリカでは人工乳房を提供していて、日本でも提供できないかという事がスタートになりました。 芸術の概念を取り入れながら進化していきました。  女性の手などは材料を変えて爪の部分にはマニュキアが塗れるような工夫もしています。  

アスリートへの支援、元パラリンピック水泳一ノ瀬メイ選手、車椅子テニスの三木拓也選手などに協力しました。  三木拓也選手はパリパラリンピックのダブルスで銀メダルを獲得しました。  サポーター、靴の中敷きなどを提供してきました。 中敷きも1,2㎜の感覚の違いを指摘されました。 要望を受け入れて作り込んで行きました。  助けるというのではなく、支えるという気持ちをもって対応しています。 

65軒の古民家を再生してきました。  街は文化的な側面が大きいと思います。  2024年3月までの12年間に転入、転出の差し引いた数が47世帯になります。 出生数が50人になります。  年間出生数が4,2人という事になります。(人口約400人)  父の思いが実を結んだのが、2007年の石見銀山の世界遺産登録でした。 鉱山の跡だけではなくて街並みを含めてその価値が認められて世界遺産になりました。  大逆転の決定だったのでお祝いの為のくす玉とか提灯などはほとんど用意していませんでした。     

一時期オーバーツーリズムがありましたが、住民同士が決めた大森町住民憲章があります。 「この町には暮らしがあります。 私たちの暮らしがあるからこそ、世界に誇れる良い町なのです。」  今は落ちついてきました。  町内に住んでいる住民と新たに来る人たちとの価値観の共有、すり合わせをすることが重要になって来ると思います。  今後もいいものつくりをしていくことで新たな若い人たちに来てもらうための最低限必要なことだと思います。  魅力を発信していきたい。 







 




 

2025年2月28日金曜日

宇野和美(翻訳家)            ・〔ことばの贈りもの〕 私は、“わたし”を生きる

 宇野和美さんは大阪の出身、東京外国語大学でスペイン語を専攻、1995年に児童文学「アドリア海に奇跡」で翻訳家デビューして以来、児童書、絵本を中心におよそ60冊を翻訳しています。  現在JBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。  JBBYは子供の本を通して平和をと言う活動を行っている団体で、良質な子供の本の普及、読書活動の推進、子供の本を通した国際理解などを図っています。  宇野さんが翻訳者になる夢を確かなものにする礎となったのが38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学した経験でした。 夢を諦めない宇野さんの人生について伺いました。

昨年は6冊絵本を出版しました。  私の翻訳した7,8割ぐらいが自分で見出して提案した本になります。 日本で書かれていない本とか、こんな面白い本を日本で読んで欲しいとかそういう本を出そうとしています。  翻訳出版は言語によって大きな格差があります。 2024年に国際子供図書館に納められた児童書で英語から翻訳されたものは500点以上ありますが、スペイン語からの本は11点だけです。 

2023年からJBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。 去年が50周年になりました。  素晴らしい作家とお目にかかる機会もありました。  子供の本に関していろいろ話し合う事が出来たことは、とても大きな経験でした。  ボランティア活動をしていていい事は、いろいろな人と信頼関係で結ばれることが有難いことだと思います。  

小学校、中学校は転校が多くて、本を読んで違う世界があることが大きな救いになっていました。  外国の作品を読みたいという思いが強かった。  中学生の頃に翻訳家になりたいと思いました。  東京外国語大学でスペイン語を専攻しました。  出版社に務めました。  新婚旅行でスペインのマドリードに行った時に、児童文学を10冊ぐらい購入しました。   2017年に「太陽と月の大地」と言う歴史小説を翻訳しましたが、そのなかの一冊でした。  29歳で出産し、そこで会社を退職しました。  その後二人を出産しました。 長男が1歳の時に保育園に預けて、翻訳の勉強を始めました。(時間的には厳しい。)    

35歳の時に「アドリア海の奇跡」でデビューしました。  嬉しかったです。 翌年絵本を出版しました。  読み物とは全く別の世界だと思いました。  子供から学ぶことも大きかったです。  38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学しました。  1年のつもりでしたが、2年半になりました。 須賀敦子さんが森さんに「貴方みたいな人はヨーロッパに行くといい、3人連れて行けばいいい。」と言う本の中の言葉に接して、衝撃が走りました。  そこから決心し、計画を立てました。 

時間がない事と語学が厳しかったこともあり、苦しい時期ではありました。  子供がいたから頑張れたという一面もあります。  私は、「わたし」を生きるしかないんだなと、どっかで思っていたのかなあと思います。  仕事、日常で出会う人で素敵な人が沢山います。  そういう人と友達でいられるというのが、とてもありがたい気持ちがあります。  その人と一緒に話せる自分でありたいといったことの積み重ねが、自分を少しづつ上を向いて歩かせて来たといったものがあります。









 

2025年2月26日水曜日

菅野政夫(個人育種家)          ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道

菅野政夫(個人育種家)       ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道 

交配を繰り返してそれまでなかった花を作る育種の世界、菅野さんは最初からはなが好きだったわけではなく、衝撃的な出来事がきっかけで花の世界に入ったそうです。

オステオスペルマムの育種をしています。 オステオスペルマムは南アフリカの原産でキク科の植物です。  夕方、曇天、雨の日のは閉じる性質を持っています。 閉じない花を作るという事で日本で開発されました。 出来たのは平成4年ごろでした。  オステオスペルマムの花の色は白、ピンク、パープルの3色程度でした。  改良を重ねてきて、最近は色々な色があります。  私が作ったものでは色が3,4色に変ってゆくというものがあります。  狙ってできるものではありません。

最初から育種家になろうと思ったわけではありません。  別に花が好きだったわけはありません。  私が中学1年生の時に夏休み前に起きた集中豪雨のよる土砂崩れで一家全員が亡くなった災害がありました。  同じクラスの女の子で、弟も自分に良くなついでくれていた子でした。 彼女の一家の告別式がありましたが、家でふっと窓の外を見た時に、真っ赤なダリアが目に飛びこんできて、電気が身体を貫くような感覚を覚えました。  あの花を告別式に持って行ってやりたいと思い、祭壇に手向けました。   1年後、2年生になった時に先生がダリアの球根が余っているから欲しい人がいるかと言ったので、真っ先に手を挙げていただきました。  家に持ち帰って埋めておきました。 忘れていたが、8月下旬に真っ赤なダリアが咲き、思わずアッと声が出ました。  1年前に感動したダリアの花も今回咲いたダリアの花も、覚えているのが1日だけでした。  

中学卒業後就職しましたが、通信機関係の仕事で自分には向かないと思って辞めてしまいました。  突然赤いダリアのことを思い出しました。  花には人の心を感動させる力があると思った時に、そういう仕事がしてみたいと思いました。  自分が行きたかった夜間の普通高校に行くことを決意しました。  1年後に入学しました。  就職する段になりましたが、行き先が決まっていないなかかで、先生が声を掛けてくれました。  先生の実家が種苗店を営んでいて、その関係で先生が2社に手紙を送って下さいました。  1社は自分の知っている会社名だったので、そちらを受けることにしました。  農場の花の仕事を希望したが、いい返事がもらえなかった。  兎に角花の仕事がしたいという事を力説して、なんとか入社する事が出来ました。  

そこの会社の農場長との出会いが大きかったと思います。  案内されハウスにはオステオスペルマムの最盛期で花が咲いていました。  目を見張るような光景でした。  その日の夜は興奮して眠れませんでした。  ここでの最初の5年間は無我夢中で働いたのが、凄くよかったです。  不器用なほうですが、農場長、先輩からいろいろ教えていただきました。  誰でも最初からは何もできないんだからと励まされました。  農場長からは一株が持っている性質の幅を段々広げてゆく事を教わりました。 新しい花を作る、育種を将来はやりたいと思いました。  

本を読んで勉強もしましたが、本を読んだだけではわからない。  迷ったら現場に行って観察するしかない。  観察力を養う事は3っつ目の農場で出会った直属の上司から教わったことは計り知れないものがあります。  農場長からは「私は仕事を始めて50年以上になるが、50年以上たってようやく最近判りかけて来たんだよ。」と言われて、私にとって重い言葉でした。  今でもわからないことはいっぱいあるが、分かろうとする努力は必要だと思います。   家族には何時も花がある、そういったことを夢見てしまいます。   育種家になるのには相当資金が必要です。  自分ではコツコツ貯めてはいましたが、退職のお祝いの食事会をしてくれた時に、妻からのプレゼントがありました。  これから資金が必要でしょうからという事で目録として手渡されました。  嬉しかったです。 妻の後押しが無かったら、出来なかったことです。   妻が喜んでくれる、お客さんが喜んでくれるという事が理想な形です。  品種登録は妻と連名にして提出しています。 

オステオスペルマムは妻は嫌いだと言っていましたが、アッと妻が振り返るようなオステオスペルマムの花を作ってやろうと宣言しました。  昨年の春に花売り場を妻が眺めていて、「貴方の作るオステオスペルマムは色も形もずっと綺麗。」と言ってくれました。   夢は青い色のオステオスペルマムを作りたいと思っています。  香の付いた赤いカーネーションを作って、母親と妻の母親にも贈りたい。 (二人とも亡くなっている。) 母親を思い出すような、心が和むみたいな香りを作りたい。  感動を届けられる花の仕事をしたい、感動は自分にとって最大のキーワードになっています。 花は人に感動を与えてくれる力がある。













  

2025年2月25日火曜日

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」 

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に贈られるものです。  大西さんは長年に渡る体験実践記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 大西さんは東京都在住の91歳、かつて小学校の教員をしていました。  4人目のお子さん曜介さんに脳性まひがあります。 子育てに奮闘しながら駅のエレベーター設置やグループホーム設置運動に力を注ぎました。  今回の入選作では陽介さんとの56年の日々を、当時の筆記を抜粋しながら振り返っています。 

「障害のある息子と暮らしとぃます。 それは4人目の子供で上に兄二人、姉一人がいます。  夫と6人家族で暮らしていました。 今は夫が8年前に亡くなり長男も去年亡くなって障害のある息子と孫と3人で暮らしています。  息子は56歳、私は91歳になりました。」

曜介は1967年生まれ。 生まれた時には障害はなかったが9か月の時に突然高熱になって、入院しました。 病名は急性脳症と言う名前でした。 左半身麻痺になってしまいましたが、小さかったので障害というイメージがあまりありませんでした。  1歳過ぎても3,4か月の赤ちゃんと言う感じでした。 その後つかまって立つとか、段々と変化はありました。  

「2歳半でお座りが出来る状態でした。 ・・・ リハビリの先生が曜介と一緒に転がりの練習をしてくださいました。 ・・・曜介が自分で転がりの練習をしてるんです。 わざと倒れて右手を出して支えるという練習をやっているんです。 これを観た時に私は感激しました。・・・教えてやれば段々出来るんだと思いました。」  

都立障害者センターへリハビリのため週一回ぐらいで通いました。(2歳半ぐらいから)  5歳ぐらいで歩けるようになったのもリハビリのお陰だと思います。 教えるだけでは駄目で受け手の方でもそれを一緒にやろうという風に、両者が目的に向かってやろうという事が大事です。 小学校に入るまでは障害と言う意識は余り無かったです。 障害は直るという事はないので、その状態のままで生きて行かれるように、周りの環境を良くするために働こうとか思いました。

「息子を通じて参加した障害者運動が私の人生そのものでした。 ・・・晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」の言葉が私にとって最大の褒美でした。」

息子たちが養護学校に入った時(1974年)画期的な出来事がありました。 東京都が障害児の希望者全員入学という制度を打ち出しました。  遠足で電車に乗ることになりましたが、初めて電車に乗ったというのが半分以上でした。  いろいろ会を作ったり署名活動、請願したりして理解が進んで、鉄道の方も承諾して、市役所も実現しようという事で駅にエレベーターが設置されました。  運動を開始して5年ぐらいでエレベーターは設置されましたが、障害者専用とか、時間制限などがありました。  老人、妊婦とか全部制限が無くなるまでには16年掛かりました。 

晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」という言葉は嬉しかったです。  母親からは「上の子たちに我慢ばかりさせるのは良くない。」という事を言われました。  なるべく一緒にしようとは思っていましたが。 反省はしています。 兄弟が弟の面倒をよく見ていました。

長男の言について

「曜介が長靴を履く。 そんな当たり前なことが私たち親子にとっては大事な経験なのです。 ・・・「健康な子なら直ぐに出来ているのに。」と私が言ったた時、高1の長男が「それだからこそそうやって練習する、努力することが意義がある、価値がある。」と言ってくれたのです。 私はその言葉を聞いたときには本当にうれしかったし、励まされました。」 

次男の言について

「或る日次男の友達がやってきて、曜介を見て「なんだよこれ。」と言ったのです。 すると次男は「なんだよって、人間じゃないか。」と言い返しました。 ・・・世の中の冷たさを感じました。  弟を大切に思っている次男の強さに打たれました。」

長女の言について

「娘の言葉で忘れられないのは、「妊娠した時もしも障害があっても育てるから。」です。 思い悩みそして結論を出していたのでしょう。 私は曜介が急性脳症に罹り障害があると判るまで障害児を知りませんでした。 ところが兄弟たちは子供のころから障害の有る弟と暮らしています。  娘は子供を産むとき、そのように考えているのだと強く心を打たれました。」 

エレベーターが出来た後は、これからは住まいの問題だと思いました。  当時は自宅か施設の二つしかなかった。 グループホームがぼちぼち話題になるころでした。  小平でもグループホームを作りたいなあと言いう気持ちになりました。  グループホームを設立しました。(20数年前)  6泊ホームで泊っています。  日曜には戻ってきて音楽を聴いて手足を動かしたりしています。  

息子も50歳を過ぎて、最終的には命が亡くなると言う事になるので、幸せな死に方はどういうものだろうと思っています。  社会はどういった取り組みをしていったらいいのか、と言ったことを考えます。  長男はすい臓がんで亡くなり残念でした。  私がいなくなった時に曜介のことが心配です。 








  






2025年2月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫 

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ、今年生誕100年に当たります。

「鈍感な人たちは血が流れなければ狼狽しない。  が、血の流れた時は悲劇は終わってしまった後なのである。」   三島由紀夫(「金閣寺」の中の言葉)

代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などの戯曲があります。                     16歳の時に「花ざかりの森」と言う小説でデビューしている。(戦争中)  一作一作を遺作のつもりで書いていたと言っている。 三島由紀夫のところにも召集令状が届くが、入隊検査が昭和20年2月10日で、この日から中島飛行機小泉製作所(群馬県)が大空襲を受ける。 この工場にいたら命が無かったかも知れない。 入隊検査でも気管支炎になって熱が出ていたので、軍医から家に戻された。 三島由紀夫が入隊するはずだった部隊フィリピンに行ってほぼ全滅している。  助かったというような気持も書いているが、自伝的な小説のなかで「私が求めていたのは何か天然自然の自殺である。 それなら軍隊は理想的ではなかったのか。」とも書いています。  自分だけが生き残ったのは負い目みたいなものがあったのかもしれない。 20歳で時代遅れになった自分を発見する。  これには途方に暮れたと書いている。    

先の「金閣寺」の中の言葉ですが、「金閣寺」は31歳の時に書かれたものです。 後から考えると割腹自殺を想起させるような言葉です。 最近は更に鈍感になってしまっていないか、三島由紀夫のこの言葉を噛み締めたい。

「自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛して貰おうなどと考えるのは甘い考えで、人生をなめてかっかった考えです。  と言うのは、どんな人間でもその真実の姿などというのは不気味で、愛する事の決してできないものだからです。 これにはおそらくほとんど一つの例外もありません。」三島由紀夫(「不道徳教育講座」の中の告白するなかで、と言う文章から)

ありのままの自分を愛して貰おうなんてとんでもない、告白なんてするなと言っています。 三島由紀夫には「仮面の告白」と言う小説があります。  告白はするがありのままの自分ではなく仮面をかぶっているわけです。(23から24歳の時に書いた作品で作家として確立) 

「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどという事があるだろうか。」  三島由紀夫(「小説家の休暇」より) 

これは太宰治に言った言葉です。 三島由紀夫は生涯に渡って太宰治の悪口を言い続ける。 三島が大学生のころ太宰に会って、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです。」と言っているんです。  太宰に対して「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家も珍しい。 太宰が持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦や機械体操や規則枝的な生活で直されるはずだ。」と言っている。 三島由紀夫は元々身体が弱かったが、鍛えて身体を作り上げた。 だからこういう風に言いたかった。  太宰を嫌う理由は似ていたいたからではないか。  

高校生からのインタビューでこう答えている。 「いろんな似ているところもあるんですよ。  似ていたらしゃくに触るしょう。 太宰に対していつも危険に感じるのは、もし自分が太宰を好きで、太宰におぼれればあんな風になりゃあしなかったって、恐怖感がある。 だから自分は違うんだと立場を堅持しなければ危ないと思った。」 太宰と三島は両極端にあると同時に似ているところがある。 太宰は心中して、三島は割腹自決する。 

「音楽会に行っても私はほとんど音楽を享楽することが出来ない。  意味内容にない事の不安に耐えられないのだ。 音楽が始まると私の精神はあわただしい分裂状態に見まわれ、ヴェ―トーベンの最中に昨日の忘れ物を思いだしたりする。」  三島由紀夫

「あらゆる種類の仮面の中で素顔と言う仮面を僕は一番信用致しません。」  三島由紀夫(林房雄宛ての手紙の一節)  

「仮面の告白」の編集者は坂本一亀。(坂本龍一の父親)

「素顔で語る時、人は最も本音から遠ざかる。 仮面を与えれば真実を語る。」 オスカー・ワイルド(三島が好きだった人) 

「傷つきやすい人間ほど複雑な鎖かたびらを織るものだ。 そして往々鎖かたびらが自分の肌を傷つけてしまう。」   三島由紀夫(「小説家の休暇」のなかの言葉)

続きがあって「しかし、そんな傷を他人に見せてはならぬ。」と言っています。 

三島由紀夫は中々一つのイメージには纏まらない。 

「幸福って何も感じない事なのよ。 幸福ってもっと鈍感なものなのよ。」三島由紀夫(「夜の向日葵」と言う戯曲 から)

例えば胃が痛くなければ、胃のことなどは考えない。  感じないでいられる、鈍感でいられるという事が、幸福なんですね。  敏感で傷つきやすい人であるからこそ、幸福をこういう風に定義するわけです。  

「時間の一滴一滴が葡萄酒の様に尊く感じられ、空間的事物にはほとんど何の興味もなくなりました。  この夏は又一家そろって、下田にまいります。   美しい夏であればよいなと思います。」   三島由紀夫(川端康成宛ての手紙の一節 1970年7月6日)  三島が割腹自決した年。  川端康成とは親交があり、自殺した時にも現場に駆けつけた。

前年の手紙に「ここ4年ばかり人から笑われながら、小生はひたすら1970年に向かって少しづつ準備を整えてまいりました。」と書いている。  随分前から計画をしていた様です。  

「死んでみて初めてその人の一生の言動は運命の形をとるわけですから、我々は死の地点から逆に過去の方をすっかり展望して初めてその人を落ちこぼれなく批評することができるわけだ。」  

最後は「不道徳教育講座」の中の死後に悪口を言うべきと言う文章の一節です。

「我々は死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。 憎まれ嫌われていた死者のことほど早く忘れたいのです。  そのためには褒めるに限る。  ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。  死者に対する悪口はこれに反して、いかにも人間的です。  悪口は死者の思い出をいつまでも生きている人間の間に温めておくからです。 ですから私は死んだら私の敵が集まって飲んでいる席へ行って、皆の会話を聞きたいと思う。 全くいい気味だ、あのいけずうずうしい気障な奴がいなくなって、空気まで綺麗になった、本当だよあんな阿呆に良く長い事世間が騙されていたもんだ、あいつは馬鹿なうえに大嘘つきであいつと5分も話していると反吐がでそうだった、こんなことを言っている連中の頭を幽霊の私は易しく撫でてやるでしょう。  私はどうしてもぴんしゃん生きているうちに、私が言われていたのと同じ言葉を死後も聞いていたい。  それこそは人間の言葉だからです。」 三島由紀夫

































2025年2月22日土曜日

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける 

松浦さんは教会で難民支援にあたっている社会活動センター「シナピス」の副センター長を務めています。 松浦さんはカトリックの一家に生まれ、神戸市で育ちました。 大学で神学を学んだあと、教師となり中学校と高校で社会と宗教を教えていました。 そんな中、松浦さんは聖書学者の太田道子さんと出会います。 太田さんはパレスチナの女性らを支援するNGOを創設し、聖書の学問的研究にとどまらずその実践を進めていました。 松浦さんは太田さんの活動に共感し、太田さんが所属していた教会の組織に転職します。  その後松浦さんは助けて欲しいと教会にやってきたアフガニスタン人との出会いが難民支援に取り組むようになりました。 日本は難民認定されるケースが少ないと指摘される中、どのような思いで難民の支援に取り組んできたのか話を伺いました。

幼稚園の頃は積極的な正義感の強い子でした。  小学校ではいじめられておとなしい子になって行きました。  女の子がいじめられていて、先生が仲裁に入るのかと思ったら、松浦立ちなさいと私が立たされました。 「その時お前は何をしていたのか。」と言われました。 私はいじめられるの唯見ていただけでした。  いじめっ子を怒るのではなくて、傍観者だった私を怒ったんです。 それ以来クラスは強い子が弱い子をいじめようとしたら、周りからやめろ止めろと言って、変って行きました。 私自身は納得できませんでしたが、「冷ややかな傍観者になるな。」と言うメッセージは 、60年生きてきてもまだずっと奥のなかにあります。 小学校2年生の時にまじかに死をみました。  虚しさ、生きている意味は何なのか、死んだらどうなるのか、恐怖が膨れ上がりました。  

 そういった思いが救われたのが、ミッションスクールの授業でした。  「ただ他者のために生きることが人生の名に値する。」と言う言葉でした。  怖さ、虚しさがふっと消えていきました。 大学では神学科の道に進みました。(1982年)   1981年にに日本は難民条約に加盟しました。  ボートピープルが日本に入ってきて2,3年程度の人と出会いました。  関わっていけたらいいなあと思いました。  卒業後教師となり大阪のミッションスクールの中学、高校で社会と宗教を教えました。 語学研修でアメリカまで行きました。  ラオス、ベトナムとかの難民と知り合い難民の実情を知る様になりました。 

太田道子さんの講演会が私の背中を押しました。 アメリカ、イスラエル、ローマ、パレスチナで研究を重ねた聖書学者。 1980年帰国、1995年にはパレスチナの女性を支援するNGO「地に平和」を創設研究だけではなく実践にこだわった人物です。  講演の最初に、創世記の言葉「貴方はどこにいるのか」と言う言葉に衝撃を受けました。 どこに立って物事を考えているのか、誰のところに立っているのか、そういう風に聞こえました。

1991年にはじまった湾岸戦争で、避難者移送で自衛隊機派遣に反対し、民間機をチャーターを計画、寄付を募ると数億円が集まりました。 2機をチャーターし避難者の移送を実現する。  太田さんはこの主要メンバーとして大阪の教会で活動していました。 松浦さんは直接会いに行きました。 

教師を辞めてカトリックの「平和の手」という組織に転職しました。  戦争を未然に防ぐネットワーク活動をやろうという団体です。  外国人労働者が入ってきて、不当に解雇するなど日本で路頭に迷う外国人労働者がカトリック教会に駆け込むようになりました。 外国人労働者との窓口を作って支援するための事務局開設の仕事をすることになりました。 

アフガニスタン難民で、日本に来て会社員でしたが、アフガニスタンの人たちを助けるために走り回っている人でした。 イスラムシーア派の人でしたが、いい関係を作り上げました。  タリバンから迫害の標的にされている人たちが多くいましたが、皆家族などが殺されている人達でした。  チームを作って難民の対策をしました。  対応できた人は30名ぐらいです。  難民として認められたのは1割でした。  困難さをつくづく感じました。 口コミで難民救済のことが広がって行きました。 

難民認定申請中の外国人は原則的に入国管理局の施設に収容されます。 その期間は長い人で数年間にも及びます。 難民条約批准国の中でも難民選定されるケースが極端に少ない日本は国連など複数の国際機関から制度の改善を求める勧告が出されているのです。 仮放免には身元保証人が必要で、保証人にもなることがあります。 100人近いと思います。   

教会本部から少し離れた下町に難民の人たちに対するシェルター「シナピス」ホームがあります。 元々は韓国人シスターたちの修道院でしたが、シナプスが買いあげました。    中東、東南アジアの方が入っています。  難民の認定を待つまでこちらで保護します。      

2021年春、アメリカ軍はアフガニスタンからの撤退を決め、再びタリバンによる統治が始まるといったアフガニスタンの人たちは、国外に逃れようとアメリカ軍機にしがみつきました。 飛ぶ立つ飛行機から振り落とされて地獄かと思いました。  直接私に電話をかけてきて助けてくださいと言うんです。  兎に角一人でも助けたいという思いが湧きました。  或る家族をパキスタンから日本に退避することが出来ました。  ほとんど報いることが難しい中で強制送還される人から、「貴方に会えてよかった。」と言われて救われた気がしました。 








2025年2月21日金曜日

鈴木秀子(シスター)           ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる

鈴木秀子(シスター)         ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる 

鈴木さんは1932年静岡県生まれ、93歳。  聖心女子大学卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、文学博士。 フランスイタリアに留学後、その後国内外の大学(ハワイ大学スタンフォード大学)で長く教鞭をとる。 現在は聖心女子大学キリスト教文化研究所研究員を務める一方、生き方や仕舞に関する講演や執筆活動を精力的に行い、著書の数は170冊を越えています。 

樋口恵子さんとの対談集「何があってもまあいいか」と言うタイトルの本。 93歳の同い年です。 「高齢者は機嫌よくいましょう。」と二人で声をそろえて言っています。    30代の初め頃フランスに行きました。  こんな綺麗なところがあるんだと感じました。 修道院の院長さんが「フランスで大事にしていることはみんなが機嫌よくいる事ですよ。」と言いました。 「機嫌よく」と言う言葉がすとんと落ちました。 不機嫌はハラスメントだと思います。  機嫌がいいということは本当に大切なことだというのは歳をとるとともに強く感じるようになりました。  「まあいいか。」で切らないといつまでも恨みつらみがつながるように伸びてゆくんです。  落ち込まないための大きなきっかけになります。

90歳になってつくづく感じるのはどうやって生きたらいいかお手本がないわけです。 それに向かって鍛えておく必要があるのではないかと思います。 「老いの学校」を自分の中に作る。 先生も生徒も自分です。 特に感謝する習慣をつけるのが大事です。 歳をとると人の世話になることは当たり前ですから。  若いうちから心から感謝できるような自分を作り上げていることが必要だと思います。  90歳になって大きく変わったのは、先のことを考えなくなった。  過去のことも考えなくなった。 だからとても楽になりました。  子供は無我夢中になって今のことをしていますが、私の場合は長い蓄積と経験と英知とかが、今この瞬間に集中しながらも生きているなと言う、或る意味での喜びがあります。 花が綺麗だと思い気持も子供と深みが違います。 深く味わえるというのが歳をとってきたよさでしょう。  

私は40年ぐらい前に高いところから落ちて臨死体験をしました。  あの世は素晴らしくいいところで、人が死ぬことこんなところに来るんだということが判って、それ以来死ぬということに対する恐れは無くなりました。  5時間ぐらい意識はなかったです。 台に立っている自分をもう一人の自分が眺めているんです。  足の周りに、その時はたけのこの皮と思ったんですが、観音様の周りにそれが一つ一つ落ちてゆくんです。 一つ落ちてゆく毎に、人がなんていうことから煩わされなくなった、自分を責めることから煩わされなくなったと思って、最後の一枚が無くなって完全に綺麗になると思った時に、自分が上がって、自分を見ている自分と一体となって、高いところに行って気が付いたら綺麗な光に満ちた世界だったんです。 すべての宇宙、ありとあらゆるもの、エネルギーだとすると、大宇宙のエネルギーのおおもとの方がいて、私のすべてを許し愛し抜いてくれるというのを感じました。 人間は全部こういう愛で包まれて、皆結ばれているんだということを感じました。  あの世(自分がいた世界)に帰りたくないといったんですが、あの世に帰れば愛する事と知る事が大切ですと言って、はっと気が付いたら病院にいました。

臨死体験と言う様な言葉もない時代で、或る人が英語の本を持ってきて、それを読んだら同じことが書いてありました。  私たちは深いところで、創造主の愛によって繋がっているということを強く感じました。  どういう形で死が訪れるかわからない。 死は眠りに入るのと同じだと思います。  今こうして歩けること、話せること、出会えること、そういったことが中心になって来ます。  言い換えれば感謝だけです。  ゴミを拾って捨てる、それが出来る事が有難い事です。   私は亡くなる人に随分接してきましたが、亡くなる時に吸って吐くことが停まるんです。 普通に息を吸って吐くことがどんなに素晴らしく有難い事か身に沁みて感じます。 厭なことが起こったならば、今息を吸って吐いている、自分は生かされている、それが一番大事なことだというところに戻れば、厭なこともそんなに大きく感じないんじゃないかと思います。 

朝5時に起きて祈りから始まります。 次に御堂にいってみんなとい一緒にミサにあずかります。 食事をして自分のする仕事をして、夕食の後にみんなで集まって、災害にあった人、病気の人とかに対しての取次の祈りをします。  祈ることは死ぬまでできます。 他の人に祈ることは喜びにもなります。 祈りによって生かされているようなものです。 

私は小さい時から中学まで戦争期を過ごして、目の前で友達が機銃掃射で殺されたり、体験をしてきました。 戦争が終わって9月から学校に行ったら、教頭先生がそれまでは天皇陛下の御真影の前で必ずお辞儀をして教室に入りました。  或る生徒が終戦前と同じようにお辞儀をしたら、教頭先生は「あのバカはまだあの前でお辞儀をしている。」といったんです。  今迄一番大事だとしていたことを、否定したことに凄いショックを受けました。  生きてゆくうえで決して変わらない価値と言うものは、なんだろうと思いだしました。  

聖心女子大学に入って曽野綾子さんと同級生になりました。 話をする中で本当に変わらないものは神様だと判りました。 洗礼を受けて神様と共に過ごすことを決心して修道院に入りました。(大学3年生)  それまでの修道院では中世の風習があって、一切沈黙で敷地外には出られない習慣でした。 沈黙は当たり前のことでした。 8年間の修行を終えた時に、教会が中世の風習を改革するということになり、風習が可成り改められました。  それで外に出られる様になり、普通の人と同じように生活しながら、祈りを中心にと言う風に変わって来ました。  以前は言葉の沈黙のほかに頭の沈黙もありました。

親しかった仲間が亡くなるのは悲しいです。  悲しみを外に出して、辛いことも外に出して自分を空にして、切り替えてゆく。 愛するということはその人の心の奥に沿いながら、人は何のために生きているかと言うと、死ぬまで成長し続けて、成長するために生きているということを聞いたことがあります。  愛するというのはその人が人間として成長してゆくために、何が自分が一緒にいることで役に立つかと言う事を心掛ける、一緒にいて共に幸せ感を味わう時に人は成長してゆく。 愛するということは役に立つようなことができるのが一番です。  知るということは何を知ればいいのだろうと思いました。  今も良くは判らないが、知るということは人間として成長してゆくということはどういう事なのか、愛に生きるということはどういうことなのか、知恵を働かせて自分で考えて、自分で出来ることをしてゆく事ではないかと思っています。  小さい事で何かできることを心掛ける事とか。  これが愛なんだと言葉を交わさずとも判ることはある。 

〔わたし終いの極意〕とは愛と感謝です。 90歳を越えて、起こってくることを心を広くして「まあいいか」と言って受け入れてゆく事だと思います。 必要なことは必然と起こって来ますから。 





































2025年2月19日水曜日

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない 

小川良樹さんは下北沢成徳高等学校女子バレー部の監督を42年間務め、全日本バレーボール選手権(春高バレー)で3回、高校総体で3回、国体で6回、選抜大会では2回、併せて14回チームを全国優勝に導きました。 その間にロンドンオリンピックで日本女子を銅メダルに導いた木村沙織さん、荒木絵里香さん、メグカナと呼ばれバレー人気を復活させた大山加奈さん、東京オリンピックでの日本のエース黒後愛さん、パリオリンピックでも中心メンバとして活躍した石川真祐さん、岩崎こよみさんなど多くの選手が小川さんの指導の元から巣立っていきました。 2023年3月に下北沢成徳高等学校退任した後、現在は埼玉県の細田学園女子バレー部のコーチをしています。 

1955年名古屋生まれ。 父の仕事の関係で子供のころインドに行きました。 小学校3年の時からボンベイで暮らしました。  5年生から日本人学校が出来ました。 そこでバレーに触れました。  中学にあがる時に、父は残って私は日本に帰ってきました。 バレー部への誘いがあって入りました。 中学の顧問の先生がバレーの専門の方ではありませんでした。 高校の2,3年生のころはOBの大学生が私たちに自主性を持たせるような指導方法でした。 それが影響してきている思います。  名門校のバレーの先生がどんな指導をしているのか、知りたいと思いました。  高2の時には男子バレーがブームの時でミュンヘンで松平さんが優勝した時でした。  松平さんの解説が凄く心に残りました。  指導者の果たす役割は凄く魅力的だなあと思いました。  

早稲田大学法学部を卒業後、早稲田大学教育学部教育学科体育学を専修する。 大学時代も教えていて、教員資格を取ってから下北沢成徳高等学校に入りました。  厳しくすると上手くいかないことを経験しました。  シード権を持つベスト16が目標でした。 1988年関東大会初出場で3位に入りました。(関東大会出場するための東京大会では11位だった。)  本当に嬉しかった。 大山加奈さん、荒木絵里香さんらが3年の時に全国制覇しました。  自主性を重んじる練習法をしてきた関係から、厳しくやたっつもりでも周りからは甘いと言われていました。  より厳しい指導をしてみましたが、辞めて行ってしまいました。  「引退まであと何日」と言うのを見た時に、違うなあと思いました。  指導の改革を迫られました。  

練習の中で指導者が怒るとか、怒りを納めるとかを求められて、やってみたら初全国大会になってしまって、あれっという風に思いました。  バレーボールをどう好きにさせるか、どうやって練習が彼女たちにとって楽しみに変わるかというふうに、私の高校時代の原点に結び付けて、変えて行ったのが私が35歳前後でした。  選手たち寄りにものを考えるという事が定着して大山、荒木と言った大きな選手たちも納得して、バレーが嫌いにならないような形で指導できるんだという形が伝わって入ってきてくれた。

最初のころは指導者として勝ちたいという自分の欲求ばかりで、選手たちにとってどういう指導がいいのかと言うようなことは全く考えていませんでした。  高校3年間は通過点であり、そこで何を学んでその先のプレイヤーとして、それを生かしていけるか、それが指導者としての役割だなと変化していきました。  それぞれ人は違うので、どういう風にその人に関わったらよい指導と言う風に受け止めて貰えるのか、考えると上手くいかない方が多いですね。  一番やりたくないのは私の価値を押し付ける指導はしたくない。  一心不乱に選手たちが練習の中で没頭している時間を見るのが好きでした。 成長してゆくところを見ているので、積み重なっていくところを一番身近で見ているので、幸せだと思っています。














2025年2月16日日曜日

香川靖雄(女子栄養大学 副学長)      ・〔“美味しい”仕事人〕 延ばそう!健康寿命

香川靖雄(女子栄養大学 副学長)      ・〔“美味しい”仕事人〕 延ばそう!健康寿命 

香川さんは現在自治医科大学名誉教授、女子栄養大学副学長を務めています。 大学での講義を初め、研究活動、論文の執筆、学界での講演、副学長として大学運営にも携わっています。  1932年(昭和7年)東京都生まれ。 父はビタミンの研究者香川昇三さん、母は日本の栄養学の母と言われている香川綾さんです。  香川靖雄さんは東京大学を卒業後、聖路加国際病院、東京大学医学部助手、信州大学医学部教授、女子栄養大学大学院教授を経て、現在に至ります。 

92歳で現役で教壇に立っています。 朝は6時に起きてテレビ体操をします。  栃木県から埼玉県の坂戸市まで通勤しています。  自転車に乗って直進していたところに、左折してきた車と衝突して5mぐらい飛ばされましたが、血腫で済みました。 運転していた人が高齢者でブレーキの対応が出来ませんでした。  高齢者だったら骨折してしまいますが、私の場合は骨密度が高くて、筋肉も鍛えています。  筋肉を作るのには抵抗力運動が必要で、バーベルとかスクワットとかやらないと筋肉は増えないです。

昔は歳をとると神経細胞は増えないと言われていましたが、100歳になっても場所によりますが神経細胞は増えます。  記憶力に関する脳の細胞は、海馬と言うところがありますが、私の様に論文を書いたり授業をしていると増えていきます。 退職して家でじっとしているとどんどん細胞は減ってゆきます。 働くことは大事です。  厚労省が日本人の摂取基準を出していますが、非常に大きな欠点が二つあります。  日本だけが葉酸の摂取量を低くしています。  240μgあればいいと言われていますが、世界的には400μg取らないといけないと言われています。  日本人は魚を食べてきましたが、ここ10年で摂取量が半分に減ってしまいました。  DHAドコサヘキサエン酸)が不足してきます。  脳と言うのは一番多い脂肪酸がDHAなんです。  不足すると認知症になったり、危機的な問題なんです。 うつ病、認知症に影響します。 葉酸とDHAをちゃんと摂るようににすれば、元気に過ごすことが出来ます。 

葉酸の摂取量は年々減っていますが、葉酸米とかを作ることはです。  葉酸が不足すると障害児が生まれる。 それを防ごうというのが最初の目標でした。  葉酸は何故老化を防いでゆくかと言うと遺伝子が壊れて行ってもそれを直してくれるんです。  いろいろな病気を予防するのに大変役に立つ栄養素なんです。  坂戸市では病気になる人が非常に少なくて、医療費が少ないのと、コロナでの医療費が全国一位と減っているが、あまり知られていない。 健康寿命では埼玉県は3位です。 かつては埼玉県は40位ぐらいでした。 

日本は平均余命が長いと言っても、認知症は人口当たりでは一番多いし、寝たきりが多いというのも有名です。  女性の半分は90歳を越えますが、実際仕事をしている人は1,5%しかいない。  男性の1/4は90歳になります。  90歳で働ける人は5%しかいない。 健康寿命は心がしっかりしていて動けることです。  今の栄養学の大きな欠点は精神栄養学がないんです。  国が決めている栄養の基準は筋肉労働の時代につくったもので、頭をよくするところのことは何も書いていない。 朝食を摂ってる学生と摂らない学生では2割成績が違うんです。 これは広く認められています。  人間の心と体を活性化するのには朝食は役に立ちます。 高齢者は朝、昼、晩も同じ量ぐらいを摂って行くという事が新しい健康法です。 

父はビタミンの研究者でしたが、疎開先で過労死で早く亡くなってしまいました。 父の遺志を継いで、母は日本の栄養学の母と言われている香川綾です。  精神がしっかりしているということがとても大事です。  テロメアを長く保つような心と身体の健康が大事です。  私のテロメアの長さを測ると100歳までは生きられるだろうということが判るわけです。  












2025年2月15日土曜日

2025年2月14日金曜日

2025年2月11日火曜日

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)  ・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年 

「ミュージックフロム・ジャパン」はニューヨークで日本の音楽を紹介する団体であり、またその音楽祭の名称でもあります。  その代表が現在は福島市音楽文化総合アドバイザーを務める三浦尚之さんです。 三浦さんは福島市出身、現在83歳。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。  1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立し、芸術監督に就任、毎年ニューヨークで音楽祭を開催し今年50周年を迎えます。 その半世紀の歴史の中には世界的ピアニスト中村紘子さんのカーネギーホールでのデビューをプロデュースした経験もあります。

半世紀の間日本の音楽だけを紹介してきたというのは、自分でもよく出来たなと思います。 人間何かをやろうと思ったら、気力と体力と財源が必要ですが、時と共に気力と体力が衰えてきますが、信念というのはおとろえないでやってきた気がします。 

1941年福島市出身です。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。 日本では先生は自分では演奏はしない、駄目だ駄目だという。。 ジュリアードに行くとまず先生が弾いてくれる。 大変よく出来た、こうしたらいいのではないかと、前向きに教えてくれる。 育てようとする気持ちがありました。  コントラバスとしての演奏家でずっと続けることがいい事なのかなと思いました。  日本の作曲家が作った作品はほとんど公演、演奏されることがなかったので、日本の作曲家に少しでもお役に立てればと思ったのがきっかけです。 

1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立しました。 雅楽、太鼓、三味線、琴、尺八などの伝統音楽も紹介してきました。 伝統の楽器で現代音楽を演奏するというものです。  日本人作曲家216人による作品を50年間、およそ660曲を紹介してきました。 湯浅譲二さん、武満徹さん、三枝成彰さん、岩城宏之さん、三味線の二代目高橋竹山さんなど多岐に渡る方々と50年間やってきました。 

ニューヨークタイムスが毎年評価して掲載してくれました。(書かれること自体が凄いことです。)  第一回1975年湯浅譲二さん(当時45歳)の作品を紹介しました。 1982年カーネギーホールで中村紘子さんが凄い演奏して、私も感動しました。 矢代 秋雄さんの現代音楽のピアノコンチェルトです。 ニューヨークタイムスも評価して頂きました。 20周年記念の1995年 三島由紀夫原作 オペラ「金閣寺」黛 敏郎さん作曲を英語版にしてアメリカ初演を実現させた。 すべてがアメリカ人での公演で4回もできて感動的でした。 日本バッシング、テロが有ったり、いろいろあった50年でした。 資金面についてはアメリカの日本の企業を回って支援して頂きました。(最初の10年) 支援者側は華やかに終わって欲しいという事だったが、或る作曲家の方からはこの曲を最後に演奏して静かに終わって欲しいという要望があり、悩みました。 日本の文化の観点からいうと華やかに終わるというよりも、心に沁み渡る音楽を作りたいという気質があるのではないかと私は思いました。  静かに終わってもスタンディングオベーションがあり、アメリカも変わってきました。  

東日本大震災があり、その後2018年に北米音楽評論家協会からお金を出してもらって10名の方が福島に来ました。  福島がいかに安全安心なところになってきたという事を見ていただきたかった。  地元の肉、野菜での素朴な弁当が一番おいしかったと言っていました。 福島出身の作曲家古関 裕而は5000曲余りの作品を作りました。 音楽は知れ渡っているが、古関 裕而を作曲家として紹介したいと思いました。 誰にでも親しまれる音楽を作曲しています。 2020年連続テレビ小説「エール」で実現することが出来ました。 










2025年2月10日月曜日

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

去年の10月俳優の西田敏行さんが亡くなりました。  松崎しげるさんと西田敏行さんの二人が無二の親友だったという事は良く知られていますが、松崎さんにとって西田敏行さんは人生の師匠であったとも言います。 無二の親友であり人生の師匠であるという二人のドラマ、松崎さんにお話しを伺いました。

彼の喜怒哀楽というものに洋服を着たような男、彼は晩年よく表現者と言っていました。  あの人は僕のお手本であったことは確かです。 お互いのいいところを完全に理解してくれるいい相手でした。 お互いに尊敬する部分は物凄くありました。 最近5年間ぐらいでよく言っていた言葉で「老いを楽しもう。」という事、僕が70歳を迎えるころでした。 

西田敏行さんが生まれたのは1947年、福島県出身です。 中学を卒業後俳優を目指して上京、明治大学付属中野高校から明治大学農学部入学しますが大学を中退し、日本演技アカデミーで演技を学びました。 1970年劇団「青年座」に入団、翌年舞台「写楽考」で直ぐに主役を務めます。 1976年森繁久彌さん主演のテレビドラマ三男三女婿一匹』で注目を集めたあとは、映画、ドラマでも活躍し、テレビドラマの池中玄太80キロ』シリーズ、映画「釣りバカ日誌」シリーズ、NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」、「八代将軍吉宗」など数多くの作品で主演を務めました。 又歌手としても1981年にリリースした「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットします。 東日本大震災と原発事故で被災した故郷福島の復興に様々な形で関わって来ました。 突然の訃報が届いたのが去年の10月、西田敏行さん76歳でした。 

僕が柴俊夫さんの家に居候していました。 「坊ちゃん」の坊ちゃん役をやっていて、山嵐役の西田敏行がこの演技に魅了されて、そこから話が始まり会う事になり、そこから意気投合ですかね。 破天荒な役者さんという感じがしました。 即興の歌でお客さんを楽しませてくれました。 70年代前半は楽しい時代でした。  1977年紀伊国屋演劇賞、ゴールデンアロー賞を受賞。 私も愛のメモリー」がリリースされるや64万枚の大ヒット、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞に輝き、第28回NHK紅白歌合戦にも初出場まました。 テレビドラマのオファーが来るようになりました。  「可能性があることは何でもやるんだよ。」と耳にタコができるほど言われました。  

悲しい歌を歌う時に悲しい顔でうたったら、西田から「最初から何で悲しい顔をして歌うんだ。 何でもドラマというものがあって、段々悲しみが行くんじゃないのか。」 と言われました。 一つ一つの積みかさねがサビになってゆくんだと思いました。 1970年代後半に言われた言葉は、僕の歌い手人生の中で非常に的を得たアドバイスでした。 

刑事ドラマ噂の刑事トミーとマツ』に出演したころには、西田も池中玄太80キロ』シリーズが始まって超多忙な時代でした。 朝5時に起きて夜中の2時、3時迄撮影をやっていたのが当たり前の時代でした。 そんな忙しい仲でも二人で飲んでいました。 忙しいなか、二人でお金を貯め込んでブラジル、リオのカーニバルに行くことにしました。。 渡辺貞夫さんと出っくわして盛り上がりました。  イグアスの滝へはヘリコプターで行きました。

2022年にリリースされた「夢に隠れましょう」は 松崎、西田の始めてのデュエット曲です。  ツーテイク目の時に西田が、「おい 大部飲んだな。 でも弱くなったよな。 でも好きな相手と飲んでいる時が一番楽しいな。 じゃあ今夜もいきますか。」という話を間奏で言ったら、そのまんま使われてしまいました。 

訃報を聞いたときには立っていられなかったですね。  深呼吸をした後にとめどもなく涙があふれてきました。  本当に辛い一日でした。  見つめるしか術がなかった。 これで全て肉体が無くなってしまうんだと思った瞬間、奥さん、家族が耐えられなくなって号泣し、僕は「西田 日本一」と声を掛けずにはいられませんでした。 

ラインからのメッセージ

「長く曲がりくねった道をたくさん歩いて来たね。 西田、まださようならは言えない。 ・・・僕の胸の中でさようならの言葉が、こんなに重くてこんなに残酷な言葉だったんだね。 今知りました。 西やんの肉体に思わず叫んだ。 「西田、日本一」 ・・・  西田年行は喜怒哀楽が服を着たそんなような人間です。 半世紀僕は貴方と生きてきました。 思い出と共に生きていきます。  だからさようならという事はちょっと待ってください。」 











2025年2月8日土曜日

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む 

万葉集は現存する最古の歌集で、天皇から庶民まで幅広いい詠み人の歌のおよそ4500首が納められています。 佐々木さんは万葉集に納められた歌を現代の若者たちが使う言葉を使って訳し「愛するよりも愛されたい」 「太子の少年」というタイトルで出版、これが面白いと共感すると口コミでひろがり、発行部数20万部を超える異例のヒットになりました。

右のページに佐々木さんの訳の万葉集の現代版、左のページにオリジナルの歌が書いて注釈がある。 

大伴坂上郎女が恋人の官僚の藤原麿に宛てた歌。

「来(こ)むといふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じといふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じといふものを」

佐々木良 訳

「くんのかいこんのかいくんのこんのいやこんのかい」

プロポーズしてくれるのかくれないのかやきもきした歌ですが。頭で韻を振っているのでいかしたかった。 SNSなどで、令和の言葉は短い。 面白いと思った90首ぐらいを一冊に納めました。 

ますらおや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」 舎人皇子

佐々木良 訳

「イケメンの俺が 片思いなんかするかよ て言ってたけど したわwww」

「愛するよりも愛されたい」が17万部、「太子の少年」は6万部です。 

大阪出身の39歳、京都精華大学で油絵を専攻、卒業後は香川県の美術館で働く。 絵から文章に目覚めました。 手島の美術館設立プロジェクトに参加しました。 万葉集に行きつきました。

最初は500部作って、結婚式の引き出物として配っていましたが、面白いという事で20万部にもなって吃驚しています。  万葉集が出来た時代、当時は奈良弁が標準語だったので奈良弁にしました。 

白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは」 柿本人麻呂

佐々木良 訳

「無数の星で姿が見えなくなっても全集中で君のほうを見てるからね ほなね 織姫」

次は佐々木良 訳を最初に記載。

「いつでも心に愛はあんにゃけど今日は特に気合いはいってんで 仕事終わったら秒で合コンにゆく はっしゅたぐ(#)彼氏ほしい  #恋したい」

元歌

いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋はすべなし」  作者不明


「奈良市内はいろいろ行きやすいけど 市街はどっち行ったらええかわからへん だって地図だらけやもん #奈良 #地図記号卍しかない #マジ卍」

元歌

あをによし奈良の大路は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり」 中臣宅守

元歌

我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ」 大伴家持

佐々木良 訳

「待ちに待った雨が降ってきた 今年は絶対豊作になる 皆が幸せになる」


 











2025年2月7日金曜日

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年 

横浜市保土ヶ谷に英連邦墓地があります。 ここには戦時中シンガポールや香港などで日本軍の捕虜になって日本に送られ、命を落とした英連邦の捕虜など1800人余りが眠っています。 墓地では平和を願う日本人の呼びかけで戦後50年の1994から毎年英連邦捕虜追悼礼拝が行われています。 なぜ追悼礼拝が始まったのか、 追悼礼拝の背景にはどのような経緯があったのか、「平和と和解 横浜追悼礼拝の30年」という事で英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会代表の奥津隆雄さんに伺いました。 

今年31回目になります。  英連邦墓地は日本人に知らない負の遺産ではないかと思います。  日本に連れてこられた方は約3万6000人と言われています。 そのうちの約1割が日本で亡くなられたと言われています。  日本には捕虜収容所が約130か所あったと言われています。  英連邦墓地には約1800人が埋葬されています。 追悼礼拝の呼びかけ人は3名いました。 永瀬隆さん(元日本陸軍通訳)斎藤和明先生(国際基督教大学名誉教授)雨宮剛先生(青山学院大学名誉教授)が呼びかけ人となり始めました。 

永瀬隆さんはタイに通訳として送られましたが、泰緬鉄道建設現場でした。 捕虜とタイ人が使われて多くの方々が亡くなられました。 捕虜の虐待の場面に出くわしました。 戦後墓地探索に通訳として同行する経験がありました。 遺骨が沢山出てきて、日本軍はこんなことをしていたのかという思いから、日本に帰ってきてから慰霊をしなければいけないと思ったそうです。  捕虜の方は6万何千人と言われています。 そのうち1万3000人が亡くなったと言われています。 アジア人労務者は25万人以上の方々が動員され、数万人が亡くなられたと言われています。 その鉄道は「死の鉄道」と呼ばれ枕木一本一人亡くなったという事で、日本に対する嫌悪感を長く持っていた。 捕虜に対する扱いが、非人道的、人間としては見ていなかった。  熱帯病の蔓延する場所であったにも関わらず、薬もほとんどない、食料も乏しい、加えて重労働、虐待があった。 

1944年8月5日オーストラリアのカウラで日本人の捕虜の方たちが一斉蜂起して脱走を試みる。  捕虜になって生き延びるぐらいだったら死んでしまえ、というような軍の教育で、脱走を試みた カウラ事件です。 永瀬さんがカウラに訪問した時期があったようです。 戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、オーストラリアの帰還兵の方が中心になって新たに日本兵の立派な墓地をオーストラリア戦没者墓地の隣接地に作って、日本公園も設置、桜並木も作った。 カウラ市民1万人が一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。 それを知った永瀬さんは、保土ヶ谷には英連邦戦没者墓地があるので、追悼行事を始めようと戦後50年を機に始めたというのがきっかけになります。斎藤和明先生は2008年、永瀬隆さんは2011年、雨宮剛先生、関田先生も亡くなられています。 

1987年青山学院大学に入学した後、英語の先生が雨宮剛先生でした。 授業ではよくフィリピンの話をされて、貧困の問題、戦争の傷跡、国際協力などのことについて話していました。 先生の話に惹かれ、先生との交流が深まって行きました。  先生からアメリカに留学しないかという事と、フィリピンに行ってくれないかという事を言われました。 生の体験から学んでほしいという事でした。  アメリカではキリスト教の信仰を持つようになって、クリスチャンになり牧師の道を進みました。  フィリピンには1989年に行きました。 今日本人として生きているのはどういう意味があるのか、という事を深く考えさせられました。 雨宮先生から追悼礼拝のことを知ってかかわる様になりました。 アメリカではいろいろな人とのいい出会い、いい交流がありました。 

以前、エリザベス女王、ダイアナ妃、王族、首相も日本に来ると墓参に訪れます。  2007年7月、雨宮先生と追悼礼拝の下澪に来ていた時に、アルバート・ベイリーさんという方の墓碑(26歳で亡くなる)に刻まれた言葉にグッときました。 どんなに家族に会いたかったのだろうと思たら、涙がこみ上げてきました。  そこにアルバート・ベイリーさんの甥の方が見えて吃驚しました。 話をしてその年の追悼礼拝に来てくださいました。  

平和を継承するというのは地道な作業の積み重ねだと思います。 追悼礼拝の参加者は200名ぐらいですが、地元の高校生が先生と共に参加してもらっています。 去年は岩手県釜石市から中学の先生と高校生2名が参加して頂きました。 釜石では軍需産業があるという事で艦砲射撃を受けたという歴史があります。 連合軍捕虜収容所も攻撃を受けて32名の捕虜の方が亡くなっています。 

永瀬隆さんは「英連邦墓地はかけがえのない宝物だ。日本と各国の親善と平和を繋ぐ太いロープだ。」と書いています。  雨宮剛さんは「この墓地を訪れ瞑想してほしい。 これに勝る歴史の教科書はない。 日本人の良心の発信地として100年後も継続することを夢見る。」と書いています。 関田先生は「武力による平和ではなく、愛と共生の社会を作ることによる平和を作って欲しい。」と、斎藤先生は追悼礼拝の趣旨文を書いた先生で、書いた数日後に亡くなられているので、これは斎藤先生からの遺言になっています。 「平和を作り出すことは困難だが、困難だからこそ私たちの考えや行為が平和を作り出しことへ向けられるべきです。」とおっしゃっています。

継承は愛のある人間関係の広がりによって行われるんだと思います。