林家三平(落語家 二代目) ・〔わが心の人〕 初代 林家三平
初代 林家三平さんは1925年七代目林家正蔵さんの長男として東京に生まれました。 今年は初代林家三平さんの生誕100年にあたります。 三平さんは父親である正蔵さんに入門し、昭和33年真打の昇進します。 歌いながら全身で笑いを生み出す舞台は、昭和の爆笑王として高座だけでなくテレビ、ラジオでも大人気となりました。 昭和55年54歳の若さで亡くなりました。
12月で55歳になります。 父が享年54歳だったので、父を越えることになります。 私が生まれた時が父が45歳の時でした。 私が45歳の時にせがれが生まれています。 父は羽織袴と言うよりは紺色のスーツと言うイメージでした。 中が赤い裏地でした。 それは父と石原裕次郎さんだけでした。 もじゃもじゃ頭は天然パーマでした。 父が亡くなる前まで数時間一緒でした。 医師が「三平さん、三平さん貴方自分の名前を言ってください。」と言った時に「加山雄三です。」と言ったのは、本当の話なんです。 亡くなる寸前まで人を笑わそうという意識は強かったです。 「人間は笑われるんじゃない、笑わすことが僕たちの仕事だ。」と父はよく言っていました。 若いときには3時間ぐらいしか寝ないでネタを作っていたと言います。 いつも時代に合ったネタを作っていました。
父の高座の姿をそでから毎日のように観ていました。 父と手を繋いでいると、父の手が段々冷たくなってゆくのを感じましたが、それは今迄の高座よりもいいものをやろうとすると人間緊張するという事で、越路吹雪さんもそうだったと言います。 高座に出て来なさいとよく父から言われて小話をしたことがあります。 いくつか父から教えてもらいました。 父は笑いと言うものを植えるけてくれました。 笑って頂くためには何でもするという父でした。 舞台から降りてお客さんを追っかけたりするので、父の足袋はいつも裏が真っ黒でした。 「舞台は戦場なり」という座右の銘があります。 「芸に死に、芸に生きよ」とか、21歳の時に書いています。
父は特攻隊要員でしたが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員しました。 兵隊に行く前はおとなしいフランス文学の好きな父でした。 父を変えたのは、死と向き合った戦争だのかもしれません。 七代目林家正蔵の生きざまを観てこれが僕の道だと思ったと思います。 最初は普通のネタでやっていたが、二つ目になっていきなりネタが「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ」でした。 シャンソンの題で高座に上がっています。 ネタは何をやったのか判りません。 父はかなりの近眼で、お客さんの顔は見えていないと思うんですが、お客さんに向かって話かけているんです。
私は噺家になろうとは思っていませんでした。 大学の夏休みの時にヨーロッパにいって、自分の国のお国自慢をしろといわれて何も言えなかった。 帰って来て日本の文化を勉強しようと思ったのが、落語でした。 小噺のほかには「味噌豆」(5分程度)という話だけは父から教わりました。 兄は古典落語に真剣に取り組んでいます。 父の落語を追いかけるのが僕の使命ではないかと思っています。 アコーディオンを使って父の真似をしています。 浅草で生誕百年祭を11月にやることになっています。 (台東区のお祭りの一環)
「笑わせる腕になるまで泣く修業」 父が僕に残した色紙です。 (父が亡くなる半年前に書く。) 笑わせることの難しさをしみじみと感じています。 祖父の国策落語(戦争昂揚落語)を10年ぐらい前から始めています。 日本がどんどん勝っているという話なので、日本は負けたというイメージで聞くと、意味が全く分かりません。 勝っているというイメージでないと全くわからない。 お客様にそこのところを理解してもらって、そういった活動もしています。 農業もやっています。 母の疎開先が穴水という事で能登の方の応援もしています。