舘野泉(ピアニスト) ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界
現在88歳の舘野泉さんは、65歳の時リサイタル中に脳溢血で倒れ、右半身の自由を失いました。 その後2年ほどのリハビリ生活を経て、左手のピアニストとして活動を再開、今年演奏活動65周年を迎えました。 舘野さんは1936年東京生まれ、東京芸術大学を首席で卒業後、ピアニストとしてデビュー日本とヘルシンキを拠点に世界各地で演奏活動を行ってきました。 左手のピアニストとして活動を再開した舘野さんは、現在年間30回にのぼる演奏会を開き人々に深い感動を届けています。
*「赤とんぼ」 ピアノ演奏:舘野泉
左手で弾いているという感覚は全然ないです。 右手は全然使えないです。 弾くのは身体全身で、特別なことだと思った事は無いです。 右の方を弾く時には身体をよじらないといけないので身体の負担は非常に多いです。 右手が使えなくなって25年経ちますが、その時には左手で演奏する曲が少なくて、自分で演奏活動をしてゆくのにたりないので、いろんな作曲家に頼んで曲を作ってもらいました。 一番最初に書いていただいたのが間宮芳生さんです。 間宮さんとは40年以上のお付き合いです。 最初の作品は大変だったらしいです。 二か月後に弾きやすいように修正した作品を作って頂きましたが、やはりオリジナルの方がいいのでそれにしました。 今では世界の作曲家(10ケ国余り)から書いていただいています。 作曲家にとっては自由な発想だ書けるので、喜んで作曲してもらっています。
右手が利かなくなってから再び鍵盤に向かうまで2年掛かりました。 でもピアノを弾くことは何もしていませんでした。 1年を過ぎた頃、小山 実稚恵さんがアンコールで「左手のためのノックターン」を弾いてくれて、僕の方を観たんです。 (こういうのもありますよというサインだった。) でも僕は機が熟していなかった。(2年間) 左手で弾くいう事は、前と変わらない音楽をやって行けるという事に歓びを感じました。 落ち込んだ事は無いです。(瞬間的にはあったが。) 神様が「左手だけでよく頑張ったから、右手も返してあげる。」、と言っても「結構です、でも僕は左手だけで満足です。」と言います。
「赤とんぼ」は梶谷修さんが編曲したもので、1本の手で旋律が同時に3本重なっていて、両手のピアニストに弾けと言われても出来ないです。 一日にピアノに向かう時間は平均すると2時間ぐらいです。 新しい作品に向かう時には4時間ぐらいです。 ピアノを弾いている時にはおれは生きているんだという思いがあります。
ピアノを始めたのは5歳の時です。(太平洋戦争が始まった年) 父舘野弘はチェリスト。母舘野光(小野光)はピアニストでした。 母は本当は絵描きになりたかったそうです。 祖父がピアノを買ってくれてピアノをやるようになったようです。 私は実際には5歳よりも前からやっていたようです。 自由が丘に住んでいましたが、東京大空襲があって上野毛に疎開しましたが、また大空襲があって焼夷弾で家が焼けてしまってピアノも焼けてしまいました。 ピアノよりも宮沢賢治の「風の又三郎」、「西遊記」が焼けてしまった方が悔しかった。 戦災を避けて栃木県小山市間中に一家で疎開しました。 音楽なんてないとんでもない生活ですが、自然のなかにすっかり入ってしまいました。
最近の若い人のピアノを聞くと技術の進歩が凄いです。 ただいろんなことをやっているんだけれど、一つ型を破って出てくる、それが欲しいなあと思います。 小さくまとまっていて、隙が無い。 自分が好きなことをずーっと変わりなく持ち続けてやってきたことは、本当に幸せだと思っています。 引退なんてことはしないで、最後まで弾いて「さようなら」と言えたら幸せだと思います。