被爆二世の平野さんは小学校の教員を退職後、自費で平和活動支援センターを立ち上げるなど、常に弱者のために平和活動の先頭に立って活動を続けています
国内外で後遺症で苦しんでいる人たちの援助だけでなく、これからの平和活動を若い人に託すなど 平和の大切さを訴え続けている平野さんです
平和活動の過去、現在、未来などを話していただきます
被爆二世であることを知ったのは? 私は昭和21年生まれ
小学校、中学校の時代は周りがみんな被爆者の子供だったので、あまり意識していなかったが、 高校の時に同級生が白血病になって亡くなったという事件があって、その子とは随分親しかったものなので、その時に同じ境遇にあると言う事を知って大変なショックを受けた 次に被爆二世と意識したのは、妻との結婚でした
被爆二世同士の結婚と言う事で、次世代に影響があるのではないかと心配したが、元気に今は生活をしているが長崎で、教員になって戻ってくる
平和教育に取り組んだ 被爆40年1985年 被爆者の高齢化が問題になってきた 後を継ぐのは被爆二世ではないかと、大きな課題になった
被爆二世の教職員を集めた会を作った それが実際の始まり、500人ぐらいのメンバーがいた リーダーに選ばれた 最初被爆二世として、原点を知らなければいけないと思って、母親から詳しい被爆体験を聞くことから始めました
最初なかなか口を閉ざして、話してくれなかったが、ようやく口を開くようになった 私が生まれたときは食べ物が無くて、母乳が出なくて、私は母の乳首に、強くすったため痛い思いをさせた
原爆のすさまじい体験をした後、新しい命を育んできて、苦労しながら育てたが、被爆者に対する差別、偏見があるし、そういう苦しい時代を生きてきて、原爆、核兵器を使ってはいけないという結論に至るまで、苦しい戦後を送ってきたことを赤裸々に、聞いて、改めて二つのことを考えた
広島、長崎のこういったことを二度とく繰り返さないためには、被爆者の体験を私たちが引き継いでいかなければならない
私たちを産んで、育ててくれた、被爆者の親の感謝の気持ち 交差した気持ちが皆に生まれて、 我々は被爆二世として、どういう風に生きていくか、感じた時代だった
小学生にどう伝えるか、しっかり伝わるように、平和教育の運動は進められてきた
被爆者には被爆50年は無いと言われていて、そう私たちも感じていたので、更に次の時代に伝えようをいろんな活動をしてきた
子供たちは原爆を資料館で見たときに、悲惨な写真に対しても、怖いと言うんですね
平和教育があまり好きではないと言う、子供たちが増えた時代でした
悲惨な体験をただこんなことがあったんだと、伝え方の工夫を随分悩みながら考えた
平和教育や平和運動はとても暗いんだと、いいイメージではなかった
そうであっても必要なことなので、紙芝居を作ったり、絵画の制作をしたりしながら、子供たちにどうやって伝えるか(永遠の課題だが)、学校を離れて行動としてして、うつすと言うようなことをした
高校生になると受験勉強などをするので、平和に関する関心が少なくなる傾向になってしまう
若い人たちの姿が見えないという現実があって、多くの被爆者も嘆いていた
1970年代 教師の会が調査をしたら、長崎に原爆を落とされたことが、知らないと言う子がいたとのこと、非常にショッキングなことだった
知識でも知らない、感覚的にも知らない、家族にもそういった話を聞かないと言う事で、日本全体を考えれば、知らない子供たちが増えてくる、深刻だった
現在ではそういう子供達がいないと思う
高校生、大学生に対しても運動を広げようと思いました
小学校、中学校は長崎県下ではぼ100%、8/9の登校日が設定されているが、当時、高校では登校日にして平和教育をすることは、20%切っていたと思う
現在では、ほぼ100%になっている
高校生平和大使を考えた 1998年にインドとパキスタンが核実験を行って、核兵器の拡散が心配されて、核実験をやめさせようと、市民ぐるみで取り組んできたが、被爆者の高齢化が進み上手くいかなかった
国連に訴えに行こうと言う事でも、被爆者は大変なので、高校生に国連に行って核兵器の廃絶を訴えてもらおうと、1998年に最初の高校生の平和大使を送り出した
当時は若者には意識が低くて、どうかなあと思ったが、若い人が訴えることは、国連に非常に大きなインパクトを与えて、その後続くことになる
3回目からジュネーブに行く(軍縮会議がある場所)
核兵器廃絶の署名をすることを若い人たちが、独自に考えて、活動のきっかけになった
2001年から始める 高校生1万人署名活動
今年で100万筆を越える署名になる
被爆経験もない、戦争経験もない若者ではあるが 誰かが引き継いでくれなければならない
署名をもっていっても平和な世界が築けるわけではないが、子供たちで話し合いをして、「微力ではあるが、無力ではない」と、何もしないより、なにかきっかけがあるのではないかと、合言葉に頑張っている(継続は力)
ユース非核特使 今年、外務省で 制度ができた
第一号が高校生で日本の代表としても役割も担うようになった
未来は? やがて被爆者がいなくなったときに、どうやって長崎、広島の声を伝えてゆくか、
それを未来に託すと言うのが、我々の願い
更に若い世代、被爆三世、被爆四世になってゆく 私の孫は被爆四世
本気になって運動を引っ張ってゆく人たちが、長崎の市民、日本の国民として、定着してゆくという事を未来に描いている
平和を考えるときには、二つの考え方があって、大きな国の平和、戦争、国際社会の問題
とちいさな平和は、平和運動をやっている子供たちがどのように、育ってゆくのか、皆が皆、大きな平和、政治を求めるのではなくて、足元のちいさな平和、弱い人の立場になって物を考えることができるとか、障害を持たされた人たちにどう対応してゆくとか、そういう社会はどうあるべきかと言う事、そういう自分の生き方にどう反映させるか、と言う事がちいさな平和の作り方と思っている
人を思いやる心が育っていって、それが平和のベースになるのではないかと思う
在外被爆者の援護対策にも力を入れている
見捨てられ人たち、弱者の人たちを支援するのが原点にあるので、1987年に被爆教職員の会を作って、最初の仕事が被爆者の話を聞く、2番目の仕事が、韓国に被爆二世の訪韓団として一緒に行ったのが最初で、その時に韓国の被爆者がいた
戦争時に日本に来ていて、原爆に遭遇した
捕虜の外国人も被爆していることに気付かされて、同じ援護を受けていないと言う事で支援した
(おもに韓国、台湾、とか 他にオランダ、ブラジル、アメリカなど被曝されてその後移民した日本人)
裁判でも支援をしている
1995年に韓国で原爆展を開いたが、韓国国内で反発があった
日本の戦争によって、原爆がもたらされたが、原爆の前に反省することがあるのではないかと言う事で、困難だった
現在の原爆展は高校生が主催して韓国の高校生と一緒にやっている
歴史認識の乗り越え方も、若者にはできる、若者には未来があると思っている
未来の平和を求めるために、現実問題をかたづけて行かなくてはいけない
若者はこれをやっても無駄だと、マイナス面ばっかり考える傾向があるが、大きな理想は簡単には実現するわけではないので、こういった運動はきりが無いような、継続をしていかなければいけないという側面があるが、大きな目標の1/10000のちからでも、自分には何ができるのか、これを克服するためにはどうしたらいいのかと言う発想を持って未来を見ていかないと、悲観的な言葉ばっかりいい続けることになりかねない
自分に何ができるか、自分で考えて欲しい
自分に何ができるかを、生きる前向きなエネルギーとして、困難を解決出来てゆくのではないか