石倉泰三(パン店経営) 寅さんに助けられた神戸のベーカリー(2)(再放送)
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2014年2月28日金曜日
2014年2月27日木曜日
石倉泰三(パン店経営) ・寅さんに助けられた神戸のベーカリー(再放送)
石倉泰三(パン店経営) 寅さんに助けられた神戸のベーカリー(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/01/blog-post_16.htmlをご覧ください。
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2014年2月26日水曜日
2014年2月25日火曜日
森井大輝(チェアスキー日本代表) ・ソチ・パラリンピックを滑走する
森井大輝(チェアスキー日本代表) ソチ・パラリンピックを滑走する
ソチオリンピックで日本は金、銀、、銅会わせて、8つのメダルを獲得しました。
海外では冬季オリンピックでは最も多いメダル。
来週、3/7からはパラリンピックが始まり、日本は20人の選手が参加予定。
特に注目されているるのが、スキー、アルペン部門の選手たち。
脊椎損傷で下半身が、不自由な人、事故などで足を失った人などがチェアスキーと言う障害者用に開発されたスキーで行われる競技で、多くのメダル獲得が期待されています。
急斜面を滑リおりるスピードは時速100kmを越え、1/100を争う激しい競技です。
日本選手団のキャプテンも務める、森井さんに伺います。
仕上がりは、よく仕上がっていると思います.パラリンピックは4回目。
トリノ、銀メダル バンクーバーでは銀と銅なので取ってないのを目指したい。
アルペンでは5種目あるが全てに出場したい。 大回転、スーパー大回転が得意です。
他の世界大会などでは全て金メダルをとっているが、パラリンピックでは金を取った事がないので是非頑張りたい。
パラリンピックは最高峰の大会なので、そこでの金メダルは特別なものだと思っている。
出場種目がアルペン、ノルディック、バイアスロンなので小さな日本選手団になってしまったのは残念だが、強いチームなので沢山のメダルが取れるのではないかと思っている。
過去最強のチームだと思っている。
アルペンでも金を3つ取りたいと思っている。
チェアスキー バケットシート カーボン製で出来ている。 座りながら、スキーの板は1本。
クラッチと言う杖があり、その先に小さなスキー板を付けたものを両手に持って滑るのが一般的。
5歳からモーグルスキーをやっていた。 高校ではアルペンキーをやってきた。
異和感無く滑ることができた。
15年前チェアスキーを始めるが当時と比べると、重量は半分以下になり、強度は強くなっている。
サスペンションに関しても、動きを制御する事が、依り早く滑る為にはどうしたらいいかという事で進歩している。
テクニック、コースのレベルも上がっている。
障害者になったのは、16歳の時にバイクの事故で脊髄を損傷してしまった。
単独事故だった。 友人に声をかけてもらって意識を戻した。
病院に搬送されてその日のうちに手術をして、翌日意識が戻って、目が覚めた時に足がついている感覚がなかった。
麻酔のせいかと思ったが、布団をはがしてみたら、体中に管だらけだった。
パニックを起こしてしまった。
先生がレントゲンを持ってきて、脊髄損傷は今の医学では治せないと、言われる。
「判りました」と平常心で言ったつもりだったが、一人になった時は泣いてしまった。
肉体的な傷も、結構大きな傷がついてが、歩けなくなったという精神的なショックは本当に大きくて、受容するまでは大変だった。
入院中に長野パラリンピックをみた。
リハびリの先生とも喧嘩をしながらのリハビリをする状態だったが、映像を観た時に、ゴールをした選手が皆本当に笑っているんですね。
僕と同じ損傷を持っている人なので、僕もあのように笑えるるようになりたいとおもって、チェアスキーを始めようと思った。
見た翌日からはチェアスキーをやる為のリハビリと思ってやる様になった。
始めてチェアスキーをに乗った時に、初心者コースを滑ったが、これでもかと思うほど転んだ。
リフトから降りるときに転んでしまって、悔しくて仕方なくて、直滑降で滑ってみたら、自転車と同じようなイメージだった。
速度が速くなる事によって安定感が出て、ターンができるようになった。
その日のうちにスキー場のほとんどのコースを滑れるようになった。
パラリンピックに出たいというのがきっかけだったので、早くレースに出たいと思った。
ソルトレークに初めて出場する。
海外の選手の滑りを見た時に度肝を抜かれた。 井の中のかわずだと思った。
これではいけないと気付かされたレースだった。
2006年トリノパラリンピックに出場する。
醍醐味はスピード感。
チェアスキーをに乗っていると健常者と同じフィールドで楽しめる事が出来る。
一番の最高速度は130kmを速度ガンで記録したことがある。
目線が低いので、スピード感がより早く感じる。
日本選手に鈴木たけしさんがいるが、小学校の低学年の時にトラックにひかれて、両足を無くしてしまった。
彼は足は大腿からの切断で大腿は動くが、私は足がついていても動かない。
障害としては大きい。
脊髄損傷の腹筋が効かない 腹筋は動くが足が動かない つかまり立ちはできるが立っては歩けない この3ランクに分かれる。
個々にハンディがあり、実測値にそのハンディーをかけて、競い合っている。
障害の一番軽い選手と、一番重い選手では、条件にはよりますが5秒以上早く滑らないと、障害の重い選手には勝てないようハンディーです。
ハンディーの係数がかかった数値が表示されるので判るようになっている。
1/100秒差で優勝できたことがある。
最大の僕の武器はターンの質ですね。 雪面を切り裂く様なターンができる。
旗門から遠い位置でターンをしていたが、ここ2,3年頑張って滑り方を変えていい成績を取れるようになった。
2002年 体重は47kgぐらいで 今は62~3kgで筋肉を付けている。
チェアスキーに乗っている時の方が自由にスキー場を移動できるので楽しい。
チェアスキーをやることによって色々体験できた。
大手コンピュターメーカーに勤めていて、会社の理解もあり、競技に専念できる環境が与えられていて、成績も伸びて感謝している。
この様な環境でないと世界には通用しない。
障害者チームは日立ソリューションでノルディックチームがある以外は判らないです。
凄いことだと思います。
徐々に企業のアスリートも増えてきている。
障害者スポーツ スポーツをやることによって生き甲斐を感じる。
巧くなるためには、トレーニングをする。 筋力が増えて来る事に依って、普段の生活の動作が楽になってくる。
一番いいのは仲間が生まれる事。 人間として生き生きとした生活が送れるようになる。
障害を持つとか持たないにかかわらず、熱中できるもの、生き甲斐を見つけてほしいなと思う。
自分自身が枠をはめてしまう事があると思うが、スポーツをやることに依り、今の環境ができたので、スポーツをやることによって飛び越えてきたと思う、
障害者の取ってのバリア 海外にもバリアがあるが、階段だと思うと、ガタイの大きな人が来てくれて、持ちあげてくれて店に入ることができる。
東京の場合は、階段でどうしようと周りを見ると、見て見ぬふりをする。
気持ちの部分の問題も多いと思うので、そういった部分も徐々に変えていければいいと思う。
心のバリアフリー 率先して声を掛け合って行けるよう無社会になっていければいいと思っている。
日本にも、海外の様なところがあって、大阪では困っていると、あんたここに行きたいの、とおばさんが声をかけてくれて、近くの人に呼び掛けて手を貸してくれる。
スポーツとして見て頂いて、それをどう思っていただけるか、最高のパフォーマンスをソチパラリンピックで発揮できるように頑張りたいと思います。
ソチオリンピックで日本は金、銀、、銅会わせて、8つのメダルを獲得しました。
海外では冬季オリンピックでは最も多いメダル。
来週、3/7からはパラリンピックが始まり、日本は20人の選手が参加予定。
特に注目されているるのが、スキー、アルペン部門の選手たち。
脊椎損傷で下半身が、不自由な人、事故などで足を失った人などがチェアスキーと言う障害者用に開発されたスキーで行われる競技で、多くのメダル獲得が期待されています。
急斜面を滑リおりるスピードは時速100kmを越え、1/100を争う激しい競技です。
日本選手団のキャプテンも務める、森井さんに伺います。
仕上がりは、よく仕上がっていると思います.パラリンピックは4回目。
トリノ、銀メダル バンクーバーでは銀と銅なので取ってないのを目指したい。
アルペンでは5種目あるが全てに出場したい。 大回転、スーパー大回転が得意です。
他の世界大会などでは全て金メダルをとっているが、パラリンピックでは金を取った事がないので是非頑張りたい。
パラリンピックは最高峰の大会なので、そこでの金メダルは特別なものだと思っている。
出場種目がアルペン、ノルディック、バイアスロンなので小さな日本選手団になってしまったのは残念だが、強いチームなので沢山のメダルが取れるのではないかと思っている。
過去最強のチームだと思っている。
アルペンでも金を3つ取りたいと思っている。
チェアスキー バケットシート カーボン製で出来ている。 座りながら、スキーの板は1本。
クラッチと言う杖があり、その先に小さなスキー板を付けたものを両手に持って滑るのが一般的。
5歳からモーグルスキーをやっていた。 高校ではアルペンキーをやってきた。
異和感無く滑ることができた。
15年前チェアスキーを始めるが当時と比べると、重量は半分以下になり、強度は強くなっている。
サスペンションに関しても、動きを制御する事が、依り早く滑る為にはどうしたらいいかという事で進歩している。
テクニック、コースのレベルも上がっている。
障害者になったのは、16歳の時にバイクの事故で脊髄を損傷してしまった。
単独事故だった。 友人に声をかけてもらって意識を戻した。
病院に搬送されてその日のうちに手術をして、翌日意識が戻って、目が覚めた時に足がついている感覚がなかった。
麻酔のせいかと思ったが、布団をはがしてみたら、体中に管だらけだった。
パニックを起こしてしまった。
先生がレントゲンを持ってきて、脊髄損傷は今の医学では治せないと、言われる。
「判りました」と平常心で言ったつもりだったが、一人になった時は泣いてしまった。
肉体的な傷も、結構大きな傷がついてが、歩けなくなったという精神的なショックは本当に大きくて、受容するまでは大変だった。
入院中に長野パラリンピックをみた。
リハびリの先生とも喧嘩をしながらのリハビリをする状態だったが、映像を観た時に、ゴールをした選手が皆本当に笑っているんですね。
僕と同じ損傷を持っている人なので、僕もあのように笑えるるようになりたいとおもって、チェアスキーを始めようと思った。
見た翌日からはチェアスキーをやる為のリハビリと思ってやる様になった。
始めてチェアスキーをに乗った時に、初心者コースを滑ったが、これでもかと思うほど転んだ。
リフトから降りるときに転んでしまって、悔しくて仕方なくて、直滑降で滑ってみたら、自転車と同じようなイメージだった。
速度が速くなる事によって安定感が出て、ターンができるようになった。
その日のうちにスキー場のほとんどのコースを滑れるようになった。
パラリンピックに出たいというのがきっかけだったので、早くレースに出たいと思った。
ソルトレークに初めて出場する。
海外の選手の滑りを見た時に度肝を抜かれた。 井の中のかわずだと思った。
これではいけないと気付かされたレースだった。
2006年トリノパラリンピックに出場する。
醍醐味はスピード感。
チェアスキーをに乗っていると健常者と同じフィールドで楽しめる事が出来る。
一番の最高速度は130kmを速度ガンで記録したことがある。
目線が低いので、スピード感がより早く感じる。
日本選手に鈴木たけしさんがいるが、小学校の低学年の時にトラックにひかれて、両足を無くしてしまった。
彼は足は大腿からの切断で大腿は動くが、私は足がついていても動かない。
障害としては大きい。
脊髄損傷の腹筋が効かない 腹筋は動くが足が動かない つかまり立ちはできるが立っては歩けない この3ランクに分かれる。
個々にハンディがあり、実測値にそのハンディーをかけて、競い合っている。
障害の一番軽い選手と、一番重い選手では、条件にはよりますが5秒以上早く滑らないと、障害の重い選手には勝てないようハンディーです。
ハンディーの係数がかかった数値が表示されるので判るようになっている。
1/100秒差で優勝できたことがある。
最大の僕の武器はターンの質ですね。 雪面を切り裂く様なターンができる。
旗門から遠い位置でターンをしていたが、ここ2,3年頑張って滑り方を変えていい成績を取れるようになった。
2002年 体重は47kgぐらいで 今は62~3kgで筋肉を付けている。
チェアスキーに乗っている時の方が自由にスキー場を移動できるので楽しい。
チェアスキーをやることによって色々体験できた。
大手コンピュターメーカーに勤めていて、会社の理解もあり、競技に専念できる環境が与えられていて、成績も伸びて感謝している。
この様な環境でないと世界には通用しない。
障害者チームは日立ソリューションでノルディックチームがある以外は判らないです。
凄いことだと思います。
徐々に企業のアスリートも増えてきている。
障害者スポーツ スポーツをやることによって生き甲斐を感じる。
巧くなるためには、トレーニングをする。 筋力が増えて来る事に依って、普段の生活の動作が楽になってくる。
一番いいのは仲間が生まれる事。 人間として生き生きとした生活が送れるようになる。
障害を持つとか持たないにかかわらず、熱中できるもの、生き甲斐を見つけてほしいなと思う。
自分自身が枠をはめてしまう事があると思うが、スポーツをやることに依り、今の環境ができたので、スポーツをやることによって飛び越えてきたと思う、
障害者の取ってのバリア 海外にもバリアがあるが、階段だと思うと、ガタイの大きな人が来てくれて、持ちあげてくれて店に入ることができる。
東京の場合は、階段でどうしようと周りを見ると、見て見ぬふりをする。
気持ちの部分の問題も多いと思うので、そういった部分も徐々に変えていければいいと思う。
心のバリアフリー 率先して声を掛け合って行けるよう無社会になっていければいいと思っている。
日本にも、海外の様なところがあって、大阪では困っていると、あんたここに行きたいの、とおばさんが声をかけてくれて、近くの人に呼び掛けて手を貸してくれる。
スポーツとして見て頂いて、それをどう思っていただけるか、最高のパフォーマンスをソチパラリンピックで発揮できるように頑張りたいと思います。
2014年2月24日月曜日
天野祐吉 ・隠居大学(樹木希林 再放送)
天野祐吉 隠居大学(樹木希林 再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/03/blog-post_6617.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/03/blog-post_6617.htmlをご覧ください。
2014年2月23日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(福島県)
五木寛之 歌の旅人(福島県)
東日本大震災があり、その後原発事故でいまでも故郷に帰れない人たちがいる。
故郷を離れて、よそのお地に移られた方がいる。
1,2,3年と経つうちに、痛みが残ってくるな感じがする。
音楽関係の人がたくさん出ている。 面積は3番目に大きい県。
早乙女 貢さんとは40年来の付き合いだった。
歌手:伊藤久男、春日八郎、霧島昇
「あざみの歌」(伊藤久男) 「たれか故郷を思わざる」(霧島昇) 「別れの一本杉」(春日八郎)
門倉有希、つのだひろ、大友 良英、 大河ドラマの「八重の桜」
福島は 浜通り(温厚、人情味がある) 中通り(忍耐強く律儀) 会津(絆を大切にしてすじを通す) 3つにわかれている様だ。
詩人 草野心平 長田弘 和合 亮一
作家 中山義秀、横光利一、玄侑宗久
作詞作曲 丘灯至夫、野村俊夫「東京だよ、おっかさん」 「高校三年生」
中山義秀 辛口の選評委員で、直木賞受賞したときに、中山さんは褒めてくれつつも、才能には危ういところがあると、コメントを頂いた。
私は新しい本が出るたびにサインをして、中山さんに送っていた。
随分と日がたってから、亡くなる直前だと思うが、中山さんの葉書が届いて、「小生の直木賞選考の時の、選評は間違っていました。 健筆を祈ります。」と書いてあった。
その時はほんとう、ずーと見ていてくれたのだなあと、葉書を下さった、中山さんに感動した。
「フランチェスカの鐘」(古関裕而・二葉あき子) 「明日はおたちか」(佐々木 俊一・小唄勝太郎)
「空港」(猪俣 公章・テレサテン)
野口英世 田部井淳子、 円谷英二
スポーツ:円谷 幸吉
長嶺ヤス子(フラメンコ) 箭内 道彦
阿弥陀堂 境内の風景
大内宿 スパリゾートハワイアンズ
会津は酒蔵が多い、 民謡も多い 常磐炭坑節
「乱れ髪」(美空ひばり)
小林健一郎(指揮者)
東日本大震災があり、その後原発事故でいまでも故郷に帰れない人たちがいる。
故郷を離れて、よそのお地に移られた方がいる。
1,2,3年と経つうちに、痛みが残ってくるな感じがする。
音楽関係の人がたくさん出ている。 面積は3番目に大きい県。
早乙女 貢さんとは40年来の付き合いだった。
歌手:伊藤久男、春日八郎、霧島昇
「あざみの歌」(伊藤久男) 「たれか故郷を思わざる」(霧島昇) 「別れの一本杉」(春日八郎)
門倉有希、つのだひろ、大友 良英、 大河ドラマの「八重の桜」
福島は 浜通り(温厚、人情味がある) 中通り(忍耐強く律儀) 会津(絆を大切にしてすじを通す) 3つにわかれている様だ。
詩人 草野心平 長田弘 和合 亮一
作家 中山義秀、横光利一、玄侑宗久
作詞作曲 丘灯至夫、野村俊夫「東京だよ、おっかさん」 「高校三年生」
中山義秀 辛口の選評委員で、直木賞受賞したときに、中山さんは褒めてくれつつも、才能には危ういところがあると、コメントを頂いた。
私は新しい本が出るたびにサインをして、中山さんに送っていた。
随分と日がたってから、亡くなる直前だと思うが、中山さんの葉書が届いて、「小生の直木賞選考の時の、選評は間違っていました。 健筆を祈ります。」と書いてあった。
その時はほんとう、ずーと見ていてくれたのだなあと、葉書を下さった、中山さんに感動した。
「フランチェスカの鐘」(古関裕而・二葉あき子) 「明日はおたちか」(佐々木 俊一・小唄勝太郎)
「空港」(猪俣 公章・テレサテン)
野口英世 田部井淳子、 円谷英二
スポーツ:円谷 幸吉
長嶺ヤス子(フラメンコ) 箭内 道彦
阿弥陀堂 境内の風景
大内宿 スパリゾートハワイアンズ
会津は酒蔵が多い、 民謡も多い 常磐炭坑節
「乱れ髪」(美空ひばり)
小林健一郎(指揮者)
2014年2月22日土曜日
小笠原 望(医師・診療所院長) ・”いのちの仕舞い”を支えたい
小笠原 望(医師・診療所院長) ”いのちの仕舞い”を支えたい
高知県四万十市の医師 62歳
四万十川の河口に近いところに小笠原さんの診療所があります。
香川県の高松赤十字病院で20年間勤務医として働き、、17年前に四万十市の診療所にやってきました。 妻の父親の診療所を継ぐ為でした。
小笠原さんが力を入れているのは自宅で療養している人達を訪問して診療する在宅医療です。
流域に暮らす人たちは人生の最後を命の仕舞いと呼んでいて、痛まず、苦しまず、住み慣れた我が家で人生を終わることが良い仕舞いとされています。
かつて働いた赤十字病院での経験を踏まえ、四万十の豊かな自然の中で地域の人々の最後の時と向き合っている小笠原さん、命の仕舞いを支えたいt語る小笠原さんに伺いました。
始めてこの言葉を聞いたのは訪問診療していたときに、患者さんに明日又来るからと言ったら、夕食を食べていたら調子が悪いと言ってきて、前の日はご飯も食べて、苦しむこともなかったが、半日の経過で患者さんが亡くなった。
大往生 「良い仕舞い」と言うんでしょうね。
家族の方から良い仕舞いができましたと最初に聞いた。
命には終わりがある、その終わり方を皆さんがどう感じるか。
病院にない物が在宅にはある。 在宅で患者さんを見ると、点滴をなるべく少なめにして、患者さんとのやり取りをしながら、家族の力があったら、もっと患者さんがゆったりするし、患者さん自身も、気持ちの上でも楽な場面は作りだせると思います。
自然の中で命が最後が来るとしても、最後の来方が、家と言うのは、華族と言うのは物凄い大きな力かと思います。
高校3年生の夏に、父が病気になり、親戚が集められて、父が11月まで入院して、生きる死ぬの世界を潜り抜けた時に医者になろうと思った。
高松赤十字病院は医者がケア、介護的な部分の発想が全然なかった。
神経疾患難病などを見ていたので、治療が無いので、何年かしたら亡くなるので、看護師さんと一緒にやってゆくという事で、看護師さんたちにケアを教えて頂き、そこで鍛えられたのが凄く良かったと思う。
人間対人間が大好きだったので、終末期ケアを徹底的に看護師さんと一緒にやった。
2年ちょっと、筋委縮性側さ硬化症、難病患者と看護師さんと泥まみれになりながら、ケアするが、チューブを入れたり、抜いたり、半年間 土日も全部やっていたが、その方の2年何カ月ケアをか考えて、私が中国、四国内科学会で発表した。
座長の先生が、この発表に何の意味があるんですかと言われた。
私の言いたいのはケアの質、工夫をしてきてやってきて、こんなことです、と言いたい。
生きた長さを言いたいんではない。 大学の先生には伝わらない事が解った。
よし判った、私が医者をやっている間に神経疾患のケアを、大学の視点がそうならば、この分野でとことんやってやろうと思った。
看護師さんと一緒に最後を看取るときに、医者が一人で独善にならないで、看護師さん、家族も一緒にと言う事で、ホスピスと同じ様な空間を一般病棟の中に作ろうじゃないかと、思った。
看護師が子宮がんになって、違う病院で療養していたが、戻ってくるようにと依頼されたが、そこで1時間弱ずーっと座っていたらようやく振り向いてくれて、一緒に帰らないかなあと言ったら、主治医が小笠原なら、帰ると言ってくれた。
沈黙も会話だと若い看護師さんに言うのだが、40分、50分の沈黙 患者のギリギリの心は微妙だし、こちらがそれに合わすのに、沈黙でもコミュニケーション、会話だと、その時思ったと、若い看護師さんに話す。
病院の中の看取り、なるべく家族の中で、なるべくホスピスに似たような感じと言う流れの中で四万十に来た。
在宅に医療は病院に医療とは全然質が違う、視点が違う。
心臓がどうの、肺がどうのではなく、その人を家族を丸ごと受け取って、ケアしている。
在宅医療は科学を越えた文学だと思っている。
文学も中学3年から親しんでいる、川柳です。
つたわるものであり、ユーモア、せつなさ、悲しさがあり、1フレーズの短詩の世界、それを在宅医療と重ねて感じる部分がある。
それぞれの個性、それぞれの状態があり、一人一人のかかわりをしてゆくので、味わいのある面白いと思っているところがある。
最後はどこで迎えたいと思ってるかと言う時に圧倒的に家でという想いが一番。
命の最後を覚悟したら、我儘を言おうと言っている。
遠慮していると思うが、やれるところまでやってみて、駄目だったらいつでも修正もするし、病院にも入ってもいいし、命がかかっている場面なのでもうちょっと我儘でもいいと思う。
仕方なしに最後を病院で迎えるのはもったいないというか、さびしいというか、唯日々が過ぎてゆくよりは長さが少々短くなっても、家族の中で、自分が生活した場所で自然に接した方が、生きている質という点では全然違うのではないかと思う、我儘になっていいと思う。
最後を家でしたいから、小笠原に頼むといわれるのは、意気に感じる。
死ぬという事をタブーにしないで、話ができるのは病院とは違う。
病院では死ぬという事はタブーで有り、敗北でもあるので。
在宅はそんなに悲愴ではない、命の最後の近い時でも、話をよくするが、あまり暗くならない話をする。
命が最後を迎える事も自然の流れなので、その流れを壊さない事、流れに乗ってゆく事、本人が辛くならないように、時間を持ちながら最後はくる。
病院のケアとは違う何か柔らかさ、悲壮感の無さ。
最後を家で迎えた時には、意外と皆さん亡くなることの前提があるので、静かな感じの最後が多い。
在宅死は自然の流れだと思います。
死をできるだけ自然に辛くない様に、痛くない様に、家族の中で自然の中で、と言う様になってきている。
資料を一杯持って診察室に入ってきて、資料を渡されて、肝臓がんで、科学療法をしたがもう効きません、あとはもう最後を家で迎えます、先生お願いしますと本人がいう。
在宅医療をしてほしいとの事だったので、できる事はしようと思った。
調子が悪くなって、日曜日に診察にったら、息子さんには有った方がいいと言っていたら、別の日にのぞきにいったら、意識はもうろうとしていて、呼吸が段々遅くなり、息子には会ったとの事で、呼吸も止まって、最後に奥さんがいったのは、この人らしい自分で段どりして、私を困らせないようにとの段取りだった、との事だった。
家族も疲れ、訪問看護も疲れ、私も疲れ、これ以上続いたらどうかと思っていると、患者さんは意外と亡くなる。 偶然ではない様な気がする。 人間の関係の不思議なことの良いうに思う。
信仰は無いが、僕の神様と言う文章を書いた事がある。
僕の中には神様がいる。 僕の神様に祈っている場面は珍しくない。
科学的な部分もあるが、人対人 仕事の中で祈るという気持ちが自然じゃないかと言う気がする。
いろいろ起こりませんように、診察したときに患者さんが帰る時にも思う、在宅の方が今晩いろんなことがが起こりませんように、一日うまくいきます様に、辛くない様に、患者さんが最後を迎えるまでいろんなことが起こりません様に、祈りだと思います。
医療は決して科学だけではない、科学を越える者がある。
人が生きるという事は科学的なものではない。
科学は限界があって、人を全部コントロールする事が出来ない、その先は祈りの世界かなと言う気がする。
四万十に来て、祈る事が多くなって、心の変化としては大きい物がある。
今は毎日の診療も疲れるが、患者さんを家で見て帰ってくる、90歳を越えた患者さんと話をして、元気を貰うし、四万十の風景を見て、自然があるという事は自然を見ている時の気持ちと言うのは祈りに似ている感じがする。
自分の中では、科学的な事にはここまでの限界があって、それ以上は祈り何だという事が自然の中で、かなりきっちりして来たような感じがする。
ここへ来て、目から鱗だったのは、堤防に沿って走る、堤防に沿って診療所に戻ってくるときに夕日が丁度上流に夕日が沈むが、本当に涙が出るんですね。
患者さんも、医療者も自然を感じる、医療者も自然を感じたら、もっと違う感性で患者さんに接することができるかもしれない。
病院の中だけが医療ではないので、感性が固くならないように自分を自然の中に置いてほしい。
風に吹かれて、外の空気を吸ったら、四万十の風の中で私は目からうろこですと言う話をするんです。
高松の病医では人を切り取っていた、人の心の一部分を切り取っていたのではないか
夕焼けに涙する亭主になるとは思わなかったと妻から言われた。
自然の力はすごいと思う。
癌で有ろうと、認知症で有ろうと、不自由になろうと、自然の中で地域の中でと言う事が成り立てばいいなあと最近強く思っている。
高齢者の方の四万十川のそばにある家のベットは川向きにあり、起きると堤防が見えるようになっている。
足が痛い腰が痛いという人が、川とかかわりながらという、生活の中に川があるというのは強く感じる。
長く寝付いている方の脇に一輪草が飾ってあったのを見たりり、四季折々の花に目が向いてきたというのは、人の命もゆったり見れるようになってきたのも自分の変化なのかなあと言う気持ちになってきた。
花の好きな患者さんにうちの庭のサザンカの花を持っていって渡したが、昔だったら絶対にそういった感覚は無かった。
自分自信嬉しかった。 患者さんも喜んでくれた。
命の最後に向けて日々を過ごしている方とかかわるという事は私の今は、無理なくやれているという気がします。
自分自身の気持ちの不安とかいろんなものを少なくするために、患者さんと接している部分とか、教えてもらう部分があると思うが、命を大事にして、最後が来るとしたら良い仕舞いだと、ご本人がそう思われるように、命にちかくで寄り添いながら、自分で出来る事を死ぬまで一緒に寄り添ってゆきたいと思っている。
高知県四万十市の医師 62歳
四万十川の河口に近いところに小笠原さんの診療所があります。
香川県の高松赤十字病院で20年間勤務医として働き、、17年前に四万十市の診療所にやってきました。 妻の父親の診療所を継ぐ為でした。
小笠原さんが力を入れているのは自宅で療養している人達を訪問して診療する在宅医療です。
流域に暮らす人たちは人生の最後を命の仕舞いと呼んでいて、痛まず、苦しまず、住み慣れた我が家で人生を終わることが良い仕舞いとされています。
かつて働いた赤十字病院での経験を踏まえ、四万十の豊かな自然の中で地域の人々の最後の時と向き合っている小笠原さん、命の仕舞いを支えたいt語る小笠原さんに伺いました。
始めてこの言葉を聞いたのは訪問診療していたときに、患者さんに明日又来るからと言ったら、夕食を食べていたら調子が悪いと言ってきて、前の日はご飯も食べて、苦しむこともなかったが、半日の経過で患者さんが亡くなった。
大往生 「良い仕舞い」と言うんでしょうね。
家族の方から良い仕舞いができましたと最初に聞いた。
命には終わりがある、その終わり方を皆さんがどう感じるか。
病院にない物が在宅にはある。 在宅で患者さんを見ると、点滴をなるべく少なめにして、患者さんとのやり取りをしながら、家族の力があったら、もっと患者さんがゆったりするし、患者さん自身も、気持ちの上でも楽な場面は作りだせると思います。
自然の中で命が最後が来るとしても、最後の来方が、家と言うのは、華族と言うのは物凄い大きな力かと思います。
高校3年生の夏に、父が病気になり、親戚が集められて、父が11月まで入院して、生きる死ぬの世界を潜り抜けた時に医者になろうと思った。
高松赤十字病院は医者がケア、介護的な部分の発想が全然なかった。
神経疾患難病などを見ていたので、治療が無いので、何年かしたら亡くなるので、看護師さんと一緒にやってゆくという事で、看護師さんたちにケアを教えて頂き、そこで鍛えられたのが凄く良かったと思う。
人間対人間が大好きだったので、終末期ケアを徹底的に看護師さんと一緒にやった。
2年ちょっと、筋委縮性側さ硬化症、難病患者と看護師さんと泥まみれになりながら、ケアするが、チューブを入れたり、抜いたり、半年間 土日も全部やっていたが、その方の2年何カ月ケアをか考えて、私が中国、四国内科学会で発表した。
座長の先生が、この発表に何の意味があるんですかと言われた。
私の言いたいのはケアの質、工夫をしてきてやってきて、こんなことです、と言いたい。
生きた長さを言いたいんではない。 大学の先生には伝わらない事が解った。
よし判った、私が医者をやっている間に神経疾患のケアを、大学の視点がそうならば、この分野でとことんやってやろうと思った。
看護師さんと一緒に最後を看取るときに、医者が一人で独善にならないで、看護師さん、家族も一緒にと言う事で、ホスピスと同じ様な空間を一般病棟の中に作ろうじゃないかと、思った。
看護師が子宮がんになって、違う病院で療養していたが、戻ってくるようにと依頼されたが、そこで1時間弱ずーっと座っていたらようやく振り向いてくれて、一緒に帰らないかなあと言ったら、主治医が小笠原なら、帰ると言ってくれた。
沈黙も会話だと若い看護師さんに言うのだが、40分、50分の沈黙 患者のギリギリの心は微妙だし、こちらがそれに合わすのに、沈黙でもコミュニケーション、会話だと、その時思ったと、若い看護師さんに話す。
病院の中の看取り、なるべく家族の中で、なるべくホスピスに似たような感じと言う流れの中で四万十に来た。
在宅に医療は病院に医療とは全然質が違う、視点が違う。
心臓がどうの、肺がどうのではなく、その人を家族を丸ごと受け取って、ケアしている。
在宅医療は科学を越えた文学だと思っている。
文学も中学3年から親しんでいる、川柳です。
つたわるものであり、ユーモア、せつなさ、悲しさがあり、1フレーズの短詩の世界、それを在宅医療と重ねて感じる部分がある。
それぞれの個性、それぞれの状態があり、一人一人のかかわりをしてゆくので、味わいのある面白いと思っているところがある。
最後はどこで迎えたいと思ってるかと言う時に圧倒的に家でという想いが一番。
命の最後を覚悟したら、我儘を言おうと言っている。
遠慮していると思うが、やれるところまでやってみて、駄目だったらいつでも修正もするし、病院にも入ってもいいし、命がかかっている場面なのでもうちょっと我儘でもいいと思う。
仕方なしに最後を病院で迎えるのはもったいないというか、さびしいというか、唯日々が過ぎてゆくよりは長さが少々短くなっても、家族の中で、自分が生活した場所で自然に接した方が、生きている質という点では全然違うのではないかと思う、我儘になっていいと思う。
最後を家でしたいから、小笠原に頼むといわれるのは、意気に感じる。
死ぬという事をタブーにしないで、話ができるのは病院とは違う。
病院では死ぬという事はタブーで有り、敗北でもあるので。
在宅はそんなに悲愴ではない、命の最後の近い時でも、話をよくするが、あまり暗くならない話をする。
命が最後を迎える事も自然の流れなので、その流れを壊さない事、流れに乗ってゆく事、本人が辛くならないように、時間を持ちながら最後はくる。
病院のケアとは違う何か柔らかさ、悲壮感の無さ。
最後を家で迎えた時には、意外と皆さん亡くなることの前提があるので、静かな感じの最後が多い。
在宅死は自然の流れだと思います。
死をできるだけ自然に辛くない様に、痛くない様に、家族の中で自然の中で、と言う様になってきている。
資料を一杯持って診察室に入ってきて、資料を渡されて、肝臓がんで、科学療法をしたがもう効きません、あとはもう最後を家で迎えます、先生お願いしますと本人がいう。
在宅医療をしてほしいとの事だったので、できる事はしようと思った。
調子が悪くなって、日曜日に診察にったら、息子さんには有った方がいいと言っていたら、別の日にのぞきにいったら、意識はもうろうとしていて、呼吸が段々遅くなり、息子には会ったとの事で、呼吸も止まって、最後に奥さんがいったのは、この人らしい自分で段どりして、私を困らせないようにとの段取りだった、との事だった。
家族も疲れ、訪問看護も疲れ、私も疲れ、これ以上続いたらどうかと思っていると、患者さんは意外と亡くなる。 偶然ではない様な気がする。 人間の関係の不思議なことの良いうに思う。
信仰は無いが、僕の神様と言う文章を書いた事がある。
僕の中には神様がいる。 僕の神様に祈っている場面は珍しくない。
科学的な部分もあるが、人対人 仕事の中で祈るという気持ちが自然じゃないかと言う気がする。
いろいろ起こりませんように、診察したときに患者さんが帰る時にも思う、在宅の方が今晩いろんなことがが起こりませんように、一日うまくいきます様に、辛くない様に、患者さんが最後を迎えるまでいろんなことが起こりません様に、祈りだと思います。
医療は決して科学だけではない、科学を越える者がある。
人が生きるという事は科学的なものではない。
科学は限界があって、人を全部コントロールする事が出来ない、その先は祈りの世界かなと言う気がする。
四万十に来て、祈る事が多くなって、心の変化としては大きい物がある。
今は毎日の診療も疲れるが、患者さんを家で見て帰ってくる、90歳を越えた患者さんと話をして、元気を貰うし、四万十の風景を見て、自然があるという事は自然を見ている時の気持ちと言うのは祈りに似ている感じがする。
自分の中では、科学的な事にはここまでの限界があって、それ以上は祈り何だという事が自然の中で、かなりきっちりして来たような感じがする。
ここへ来て、目から鱗だったのは、堤防に沿って走る、堤防に沿って診療所に戻ってくるときに夕日が丁度上流に夕日が沈むが、本当に涙が出るんですね。
患者さんも、医療者も自然を感じる、医療者も自然を感じたら、もっと違う感性で患者さんに接することができるかもしれない。
病院の中だけが医療ではないので、感性が固くならないように自分を自然の中に置いてほしい。
風に吹かれて、外の空気を吸ったら、四万十の風の中で私は目からうろこですと言う話をするんです。
高松の病医では人を切り取っていた、人の心の一部分を切り取っていたのではないか
夕焼けに涙する亭主になるとは思わなかったと妻から言われた。
自然の力はすごいと思う。
癌で有ろうと、認知症で有ろうと、不自由になろうと、自然の中で地域の中でと言う事が成り立てばいいなあと最近強く思っている。
高齢者の方の四万十川のそばにある家のベットは川向きにあり、起きると堤防が見えるようになっている。
足が痛い腰が痛いという人が、川とかかわりながらという、生活の中に川があるというのは強く感じる。
長く寝付いている方の脇に一輪草が飾ってあったのを見たりり、四季折々の花に目が向いてきたというのは、人の命もゆったり見れるようになってきたのも自分の変化なのかなあと言う気持ちになってきた。
花の好きな患者さんにうちの庭のサザンカの花を持っていって渡したが、昔だったら絶対にそういった感覚は無かった。
自分自信嬉しかった。 患者さんも喜んでくれた。
命の最後に向けて日々を過ごしている方とかかわるという事は私の今は、無理なくやれているという気がします。
自分自身の気持ちの不安とかいろんなものを少なくするために、患者さんと接している部分とか、教えてもらう部分があると思うが、命を大事にして、最後が来るとしたら良い仕舞いだと、ご本人がそう思われるように、命にちかくで寄り添いながら、自分で出来る事を死ぬまで一緒に寄り添ってゆきたいと思っている。
2014年2月21日金曜日
明珍宗理(甲冑師) ・いまも生きる800年の鍛冶の技
明珍宗理(甲冑師) いまも生きる800年の鍛冶の技
兵庫県姫路市 昭和17年生まれ 家業は800年以上鍛冶職人の技術を伝えてきました。
平安時代、近衛天皇から明珍という姓を賜ったといわれます。
明珍のうちたる鎧、冑は太刀で切れずとたたえられた明珍鍛冶も明治時代になると需要が無くなり大変な苦境に立たされました。
それでもその都度伝統の技術を生かし、物作りに工夫を凝らし、生き抜いてきたといわれます。
そのひとつがかつて千利休が茶室用にと注文を受けて作った火箸が思わぬところから注目されたのです。です。
火箸が触れ合い、その澄んだ音色が最先端のマイクの音質検査や音楽作品などに取り入れられました。
明珍鍛冶52代目の明珍さんに伺いました。
姫路城に近いところ。 野里門 お城の一番外側の門になる。
鍛冶街、寺街、金屋街とか職人の集団がいたところがいまでも残っている。
明珍 近衛天皇に馬具の靴、あぶみを献上したところ良い音がしたと、たぐいまれなる珍奇なりと言う事で明珍を賜ったという事なんですが。
全国各地にその名前が残っている。 明珍を名乗ると100%甲冑師です。
甲冑が不要になり今から5代前に火箸を製作した。
武家社会の崩壊、甲冑は不要になり、暖房は火鉢で、火箸は絶対必要と言う事で、5代前のひとが火箸を製作した。
非常に良い音がしたという事で、志賀直哉の暗夜行路の中にも取り上げられていただいた。
全国に広がって行った。 音で今に残っている。
火箸も段々必要に無くなってきた。
火箸の風鈴 愛好家に喜んでもらっている。
仏壇に置かれているおりん。
どう技術を伝えるか、生活は必要なので三度の飯は必要なので、新しい物を見つけ出して行かなくてはいけないので、いろいろ模索しながらやっているが、風鈴を考え、今現在花器、食台、玉鋼の火箸、おりん等を挑戦している。
おりんの音色 響きは随分と長い 材料はチタンです。
非常にやりにくい素材で鉄の十数倍の焼いては打ち、焼いては打ちの繰り返しです。
この音に富田勲、スティーヴィー・ワンダー アメリカのミュージシャンが感動した。
東洋の神秘な音だと言われた。
富田先生とは40年来の付き合い。火箸の音に魅いった。 作曲された中にも取り入れて頂いた。
心が洗われる様な響きですね。
司馬遼太郎の「街道を行く」のNHKの放送のなかで、テーマ曲で使われた。
第二次世界大戦では父の代では、材料から道具から全部鉄の供出されてしまい、先祖の財産を放出することになる。
私は昭和35年にこの世界に入ったが、技術を覚えたが、燃料革命で火鉢が無くなってしまって、風鈴を生みだしたが、節目節目に智慧を出してなんとか乗り越えて新しい物に挑戦してきて、技術をつないでいます。
いろんな職人の仲間がいるが残念ながら、日本の文化が無くなるのは非常に残念。
文書に書いて道具をおいて置くだけでは駄目なんです。
技術を実際に継承しない事には次の代にはつながらない。
800年、代代受け継いできた。
せっかくここまで続いたので絶やすわけには行かないので、幸い息子が受け継ぐので息子の代までは継承できる。
狭い処に炉があって、やっとこ、の種類が100個ぐらいある。
掴むところが全部材料、太さ、形状に依って違うのでそれによって、やっとこ、は自分で作るわけです。
灼熱の作業場で、この場所で作業する姿を見られた先生が、おいそれとは はいどうぞと言うわけにはいかない、これはわたしの宝物だとおっしゃってくれて本当に有難いことです。
18歳で父の元に入った。 家も財政的に傾いている時に入った。
お爺さんの代は職人が7,8人来て隆盛をきわめたが、父の代は不幸にも材料も道具も没収されて、父は苦労して衰退して、どうなるかわからないが何とか盛り返さないといけないと思いつつ継いできた。
自分の体験になるので365日精を出した。(正月3日 お盆以外は)
頼りのなるのは自分の腕だけですね。 手にできた、たこは職人の勲章ですね。
早く覚えたい一心だった。
朝7時までには打ち出せるようにしている。 時には3時30分には起き出す事もある。
良い物を作ろうというのは明珍家の合言葉で、「利に走るな、いいものを作る」という事をやっている。
この音には絶対的な自信はある。
甲冑、の技術を受け継いでやっているので、この音は絶対に皆さんに納得いただけるいい感じの音を届ける様にやっている。
火箸を作ることにおいても、利休さんに献上したといわれる。
姫路城の欠落した、金具やなどが多々あるという事で、文化財建築協会からの依頼で、欠落した金具を作ってほしいとの依頼があった。
図面が来る。 今まで図面を見て作ったことがないので、図面通りに作らなくては行けなくて、苦労しながら140点ほど作らせていただいた。 修復に協力できて願ってもないことだった。
金具の裏面には「平成24年明珍宗理親子これ作る」 と年号を入れさせてもらった。
次男は刀匠として良い師匠に恵まれて活躍している。
長男、三男が私の後を継いでいる。
新しい技術 音響メーカーのマイクの試験に使われる。
チタンの素材は錆びない、軽い、熱伝導が遅い、アレルギーを起こさない、機械加工しかできないという事で、ならおってやるということで、新日鉄が全面的に協力してくれるという事で、研磨をしてもらったりして、貰えた。
玉鋼は日立金属さん系で協力いただいた。
体力が落ちる一方なので頑張らなくてはいけないと思っているが、息子も非常に意欲を持っているので、近い将来おもしろいものがでるのではないかと思っている。
72歳なので、54年 やってきた。
ハングリーさから出たものであって、苦しい思いもしたが、あれがあったからよかったと思う。
貧乏が良かったなと振り返ってみるとそう思う。
人様に感激してもらう様なものを作りだしている満足感はある。
日本の鉄は製鉄所から鉄鉱石とコークスで還元しているが、西洋製鉄方式が入ってきて152年目になるが、それまでは砂鉄と炭で効率の悪い還元をしていた。
収集した膨大な量の金具類があり、出雲で、コレクション展を開催した。
世の中の、日本の移り変わりは物凄いスピードで変わってきている。
職人の技術は鍛錬すれば、直ぐ売れるようになるので、木綿針の細さまでできる技術を持っているので、時計会社から依頼されて明珍の音を出したいという事で、0.2mmの細い棒を作らせていただいた。
そういった先端技術にローテク技術を、命の音を欲しいという事で、引き受けて成功しました。
兵庫県姫路市 昭和17年生まれ 家業は800年以上鍛冶職人の技術を伝えてきました。
平安時代、近衛天皇から明珍という姓を賜ったといわれます。
明珍のうちたる鎧、冑は太刀で切れずとたたえられた明珍鍛冶も明治時代になると需要が無くなり大変な苦境に立たされました。
それでもその都度伝統の技術を生かし、物作りに工夫を凝らし、生き抜いてきたといわれます。
そのひとつがかつて千利休が茶室用にと注文を受けて作った火箸が思わぬところから注目されたのです。です。
火箸が触れ合い、その澄んだ音色が最先端のマイクの音質検査や音楽作品などに取り入れられました。
明珍鍛冶52代目の明珍さんに伺いました。
姫路城に近いところ。 野里門 お城の一番外側の門になる。
鍛冶街、寺街、金屋街とか職人の集団がいたところがいまでも残っている。
明珍 近衛天皇に馬具の靴、あぶみを献上したところ良い音がしたと、たぐいまれなる珍奇なりと言う事で明珍を賜ったという事なんですが。
全国各地にその名前が残っている。 明珍を名乗ると100%甲冑師です。
甲冑が不要になり今から5代前に火箸を製作した。
武家社会の崩壊、甲冑は不要になり、暖房は火鉢で、火箸は絶対必要と言う事で、5代前のひとが火箸を製作した。
非常に良い音がしたという事で、志賀直哉の暗夜行路の中にも取り上げられていただいた。
全国に広がって行った。 音で今に残っている。
火箸も段々必要に無くなってきた。
火箸の風鈴 愛好家に喜んでもらっている。
仏壇に置かれているおりん。
どう技術を伝えるか、生活は必要なので三度の飯は必要なので、新しい物を見つけ出して行かなくてはいけないので、いろいろ模索しながらやっているが、風鈴を考え、今現在花器、食台、玉鋼の火箸、おりん等を挑戦している。
おりんの音色 響きは随分と長い 材料はチタンです。
非常にやりにくい素材で鉄の十数倍の焼いては打ち、焼いては打ちの繰り返しです。
この音に富田勲、スティーヴィー・ワンダー アメリカのミュージシャンが感動した。
東洋の神秘な音だと言われた。
富田先生とは40年来の付き合い。火箸の音に魅いった。 作曲された中にも取り入れて頂いた。
心が洗われる様な響きですね。
司馬遼太郎の「街道を行く」のNHKの放送のなかで、テーマ曲で使われた。
第二次世界大戦では父の代では、材料から道具から全部鉄の供出されてしまい、先祖の財産を放出することになる。
私は昭和35年にこの世界に入ったが、技術を覚えたが、燃料革命で火鉢が無くなってしまって、風鈴を生みだしたが、節目節目に智慧を出してなんとか乗り越えて新しい物に挑戦してきて、技術をつないでいます。
いろんな職人の仲間がいるが残念ながら、日本の文化が無くなるのは非常に残念。
文書に書いて道具をおいて置くだけでは駄目なんです。
技術を実際に継承しない事には次の代にはつながらない。
800年、代代受け継いできた。
せっかくここまで続いたので絶やすわけには行かないので、幸い息子が受け継ぐので息子の代までは継承できる。
狭い処に炉があって、やっとこ、の種類が100個ぐらいある。
掴むところが全部材料、太さ、形状に依って違うのでそれによって、やっとこ、は自分で作るわけです。
灼熱の作業場で、この場所で作業する姿を見られた先生が、おいそれとは はいどうぞと言うわけにはいかない、これはわたしの宝物だとおっしゃってくれて本当に有難いことです。
18歳で父の元に入った。 家も財政的に傾いている時に入った。
お爺さんの代は職人が7,8人来て隆盛をきわめたが、父の代は不幸にも材料も道具も没収されて、父は苦労して衰退して、どうなるかわからないが何とか盛り返さないといけないと思いつつ継いできた。
自分の体験になるので365日精を出した。(正月3日 お盆以外は)
頼りのなるのは自分の腕だけですね。 手にできた、たこは職人の勲章ですね。
早く覚えたい一心だった。
朝7時までには打ち出せるようにしている。 時には3時30分には起き出す事もある。
良い物を作ろうというのは明珍家の合言葉で、「利に走るな、いいものを作る」という事をやっている。
この音には絶対的な自信はある。
甲冑、の技術を受け継いでやっているので、この音は絶対に皆さんに納得いただけるいい感じの音を届ける様にやっている。
火箸を作ることにおいても、利休さんに献上したといわれる。
姫路城の欠落した、金具やなどが多々あるという事で、文化財建築協会からの依頼で、欠落した金具を作ってほしいとの依頼があった。
図面が来る。 今まで図面を見て作ったことがないので、図面通りに作らなくては行けなくて、苦労しながら140点ほど作らせていただいた。 修復に協力できて願ってもないことだった。
金具の裏面には「平成24年明珍宗理親子これ作る」 と年号を入れさせてもらった。
次男は刀匠として良い師匠に恵まれて活躍している。
長男、三男が私の後を継いでいる。
新しい技術 音響メーカーのマイクの試験に使われる。
チタンの素材は錆びない、軽い、熱伝導が遅い、アレルギーを起こさない、機械加工しかできないという事で、ならおってやるということで、新日鉄が全面的に協力してくれるという事で、研磨をしてもらったりして、貰えた。
玉鋼は日立金属さん系で協力いただいた。
体力が落ちる一方なので頑張らなくてはいけないと思っているが、息子も非常に意欲を持っているので、近い将来おもしろいものがでるのではないかと思っている。
72歳なので、54年 やってきた。
ハングリーさから出たものであって、苦しい思いもしたが、あれがあったからよかったと思う。
貧乏が良かったなと振り返ってみるとそう思う。
人様に感激してもらう様なものを作りだしている満足感はある。
日本の鉄は製鉄所から鉄鉱石とコークスで還元しているが、西洋製鉄方式が入ってきて152年目になるが、それまでは砂鉄と炭で効率の悪い還元をしていた。
収集した膨大な量の金具類があり、出雲で、コレクション展を開催した。
世の中の、日本の移り変わりは物凄いスピードで変わってきている。
職人の技術は鍛錬すれば、直ぐ売れるようになるので、木綿針の細さまでできる技術を持っているので、時計会社から依頼されて明珍の音を出したいという事で、0.2mmの細い棒を作らせていただいた。
そういった先端技術にローテク技術を、命の音を欲しいという事で、引き受けて成功しました。
2014年2月20日木曜日
橘 左近(寄席文字書家) ・寄席文字 命
橘 左近(寄席文字書家) 寄席文字 命
寄席文字は寄席の看板、名前などが書かれためくりの文字、師匠の橘右近さんが、ビラ文字を
寄席文字という呼び方にして皆に親しまれるようにしました。
現在、席亭に認められる寄席文字書家は左近さんを含めては16人しかいません。
左近さんは長野県出身、昭和9年生まれ、80歳
小学生の時に父からもっらった、落語全集にはまり落語が大好きになって、高校生になってからは、毎週夜行列車で東京にでての寄席三昧と成りました。
その後は落語を聞きたい一心で東京の大学に入り、寄席に入り浸りになりました。
落語を聞くとともに寄席の全てに興味を持ち始めますが、不摂生がたたって、身体を壊して、長野の実家で闘病生活に入りますが、それでも寄席が忘れられず、完治した後再び東京に出て、会社に務めながら、寄席の文字にあこがれ、寄席文字書家を目指すことになりました。
当時の寄席文字書家の第一人者 橘右近さんの弟子として仕事をするようになり、平成7年に右近さんが亡くなり、全面的に右近さんの後を継いで仕事をするようになりました。
落語との出会い、寄席文字の魅力などについて伺います。
昔は決まった人が描くという事はなかったが、専門家が出てくる時代になってきた。
右近さんにとっては弟子は私が初めてです。
寄席文字は歌舞伎文字、相撲の文字と似ているが、どこか違うと思っていた。
総称して江戸文字と言われている。
筆の持つところは1.5cmの太さで、穂先はみじかい 、5cmないぐらい。
右近様筆 専門の筆屋さんが作ってくれる。
筆にのまれるというが、普通の習字用と比べると、根元まで墨をどっぷりをつけるので、それだけに太い字も、細い字も自在に書けるようになると一人前ですね。
4段に分けて3人ずつ、人芝居 10日間の主なる出演者、原稿が来て書き上げる。
50年前に見てほれぼれとして、何とか書いてみたいと思った。
落語は好きだから、寄席にいって生を見る、そのうちに看板に見せらて、この字の方に替っていった。
昭和4年に、上、中、下落語全集がでて、父親が買って、小学校の誕生日にお前これを読んでみろと言われて、面白いし、挿絵は面白いし、丸暗記するぐらいよく読みました。
小話などをちょっとした集まりには話したりした。
飯田市は粋な町だったので、生の話家を観たのは戦時中で、感激した。
ラジオでは随分聞いていた
高校時代に 昭和24年ころに初めて、末広亭に行った。 満員だった。
夜行を利用して、日曜日に一日聞いて 最後の夜行列車で帰ってくるというような事やっていて、
なじみになった、ただ券をやるよ、と言われたりして、寄席の文字に惚れ惚れとして、字を眺めたり、歴史物が好きで、話家の系図はどうなのかなあと思うようになり、図書館に通うようになって、文献を探し求めていったり、例えば円生は初代は誰でどこで生まれて、戒名はどういう名前でとか、調べるようになった。
系図をも普通の文字ではなく、看板を貰ってきて、見よう見まねで字を書き始めていた。
何のために大学に入ったのか判らなかった。
志ん生が大好きで、追っかけに始まる。
ますますのめり込んでいったら、病気になってしまった。
両肺が真黒だといわれて、田舎に帰って入院をした。(酒も煙草をやっていた)
系図は落語家の世界でも橘さんが書いたものしか、きちっとすじだって纏めたものしかない。
平成に入ってからまとまったものができた。
落語を聞いているうち、あれだけの記憶力はないだろうなと言う事と、肺をやられていたので身体的に無理だろうなと、落語家はとても無理だろうなと、一番先に感じました。
3年も寝ていると、ラジオと本を読むことだけで、入院生活を送ったので、それが非常に後になって自分には有効だったと思う。
20歳前後の一番面白い時期に、見舞いに来てくれた人には羨ましかったが、手術をして完治した。
東京に出てきて、デザインの仕事をしながら、今度は心を入れ変えて、落語を聞きましたね。
20年間ぐらい、仕事をしながら、結婚もしたし、すっかり寄席文字の方でも名前を貰っていて、やることが専門的になった。
自分の満足するようなことはとてもないと思っていた。
師匠に入門を許されたのが、結婚とほとんど同じ時期で、昭和39年だと思います。
これなら大丈夫かなと思ったのが、3年、4年だったと思います。
直接教わったのは一度もない、書くところを見ていた。
呼吸、指先、筆の持ち方、力の入れ具合、目配り、そういったものを見て覚えるんだよと、俺は直接手を取って教えることはしないからと、そういう指導の仕方だった。
師匠の仕事が終わると、鞄持ってお送りして、師匠の生きざまをずーっと見ているうちに、この人についていこうという気になりまして、熱心さでお前を弟子にしようと思ったと、後になってからですが、行ってくださいました。
いつ弟子と認められたかと言うと、昭和39年5月23日、せがれの1歳の誕生日の時に、おい、お前にこれをやるよと、色紙に橘左近を許可するというのと、名前の表札をくれました。
貰った瞬間に、手が震えるやら、本当に感激しました。
まさか、くれるとは思わなかった。
師匠は字の大家でもあったけれども、寄席の資料の収集家でも有り、落語の本はどっさりあるし、古い寄席の資料などがびっしりあって、この本棚にある本を皆貸してやるから、好きなだけ持ってっていいよと言われた。
正式な弟子になってまで、後々まで続きました。
デザイン会社で勤務はしていたころからで、生活基盤がちゃんとあったという事も寄席文字の世界に入りやすかった。
凄い道楽を始めてしまって、かみさんは大丈夫だろうかと思ったのではないかと思います。
よく辛抱してくれたので。
デザイン会社20年目に独立と言う形で、寄席文字の書家としての3人で独立を考えた。
旗揚げして、ほとんど寄席文字一本で稼ぎ出して、今日までなんとか食べてこられた。
子弟の関係は、絶対的なものなので基盤としてやらなければいけない。
そうこうするうちに、こういう字を教えてくださいとか、大学にも落研とかが出来て、教えてほしいという人たちが随分出てきた。 (昭和42、3年ごろから)
教室を始めようという事になる。 (昭和45、6年ごろから)
師匠の右近さんが亡くなったのは91歳、平成7年
前年に師匠の念願の筆塚、千躰荒神様で有名な海雲寺というお寺に「寄席文字の筆塚」と言う碑を建てるのが念願が成就して、一門、生徒たちと旅行をして、帰りに「俺もし死んだら、増上寺で葬式をやって、葬儀委員長は 小さん師匠だな」と酔って話していたが、本当になってしまって、転んで頭を打ってそれが原因で3カ月後に亡くなってしまった。
言っていた通りに葬儀が行われた。
師匠の80歳の事を考えると、まだまだだと思っている。
29歳で右近さんに認められて、弟子になってから50年と言う事で。
師匠は32,3年ぐらい、末広亭を書いていて、全面的に師匠からバトンタッチしたのが昭和53年で、私が受け継いでから長く書いているが、師匠が74歳の時に受け継いだので、もう35,6年になるが、まだまだ頑張って書けるうちは、歯を食いしばってでも、書き通すつもりでいるが、この年になって煙草はすうは、酒は飲むので、身体の方がついてこないのではないかとの不安はあるが。
後を継ぐ若い連中が、60歳代になり、皆40年ぐらいはやっているので、それぞれの仕事をやっているので、一門の作品展をやっている。
寄席文字は寄席の看板、名前などが書かれためくりの文字、師匠の橘右近さんが、ビラ文字を
寄席文字という呼び方にして皆に親しまれるようにしました。
現在、席亭に認められる寄席文字書家は左近さんを含めては16人しかいません。
左近さんは長野県出身、昭和9年生まれ、80歳
小学生の時に父からもっらった、落語全集にはまり落語が大好きになって、高校生になってからは、毎週夜行列車で東京にでての寄席三昧と成りました。
その後は落語を聞きたい一心で東京の大学に入り、寄席に入り浸りになりました。
落語を聞くとともに寄席の全てに興味を持ち始めますが、不摂生がたたって、身体を壊して、長野の実家で闘病生活に入りますが、それでも寄席が忘れられず、完治した後再び東京に出て、会社に務めながら、寄席の文字にあこがれ、寄席文字書家を目指すことになりました。
当時の寄席文字書家の第一人者 橘右近さんの弟子として仕事をするようになり、平成7年に右近さんが亡くなり、全面的に右近さんの後を継いで仕事をするようになりました。
落語との出会い、寄席文字の魅力などについて伺います。
昔は決まった人が描くという事はなかったが、専門家が出てくる時代になってきた。
右近さんにとっては弟子は私が初めてです。
寄席文字は歌舞伎文字、相撲の文字と似ているが、どこか違うと思っていた。
総称して江戸文字と言われている。
筆の持つところは1.5cmの太さで、穂先はみじかい 、5cmないぐらい。
右近様筆 専門の筆屋さんが作ってくれる。
筆にのまれるというが、普通の習字用と比べると、根元まで墨をどっぷりをつけるので、それだけに太い字も、細い字も自在に書けるようになると一人前ですね。
4段に分けて3人ずつ、人芝居 10日間の主なる出演者、原稿が来て書き上げる。
50年前に見てほれぼれとして、何とか書いてみたいと思った。
落語は好きだから、寄席にいって生を見る、そのうちに看板に見せらて、この字の方に替っていった。
昭和4年に、上、中、下落語全集がでて、父親が買って、小学校の誕生日にお前これを読んでみろと言われて、面白いし、挿絵は面白いし、丸暗記するぐらいよく読みました。
小話などをちょっとした集まりには話したりした。
飯田市は粋な町だったので、生の話家を観たのは戦時中で、感激した。
ラジオでは随分聞いていた
高校時代に 昭和24年ころに初めて、末広亭に行った。 満員だった。
夜行を利用して、日曜日に一日聞いて 最後の夜行列車で帰ってくるというような事やっていて、
なじみになった、ただ券をやるよ、と言われたりして、寄席の文字に惚れ惚れとして、字を眺めたり、歴史物が好きで、話家の系図はどうなのかなあと思うようになり、図書館に通うようになって、文献を探し求めていったり、例えば円生は初代は誰でどこで生まれて、戒名はどういう名前でとか、調べるようになった。
系図をも普通の文字ではなく、看板を貰ってきて、見よう見まねで字を書き始めていた。
何のために大学に入ったのか判らなかった。
志ん生が大好きで、追っかけに始まる。
ますますのめり込んでいったら、病気になってしまった。
両肺が真黒だといわれて、田舎に帰って入院をした。(酒も煙草をやっていた)
系図は落語家の世界でも橘さんが書いたものしか、きちっとすじだって纏めたものしかない。
平成に入ってからまとまったものができた。
落語を聞いているうち、あれだけの記憶力はないだろうなと言う事と、肺をやられていたので身体的に無理だろうなと、落語家はとても無理だろうなと、一番先に感じました。
3年も寝ていると、ラジオと本を読むことだけで、入院生活を送ったので、それが非常に後になって自分には有効だったと思う。
20歳前後の一番面白い時期に、見舞いに来てくれた人には羨ましかったが、手術をして完治した。
東京に出てきて、デザインの仕事をしながら、今度は心を入れ変えて、落語を聞きましたね。
20年間ぐらい、仕事をしながら、結婚もしたし、すっかり寄席文字の方でも名前を貰っていて、やることが専門的になった。
自分の満足するようなことはとてもないと思っていた。
師匠に入門を許されたのが、結婚とほとんど同じ時期で、昭和39年だと思います。
これなら大丈夫かなと思ったのが、3年、4年だったと思います。
直接教わったのは一度もない、書くところを見ていた。
呼吸、指先、筆の持ち方、力の入れ具合、目配り、そういったものを見て覚えるんだよと、俺は直接手を取って教えることはしないからと、そういう指導の仕方だった。
師匠の仕事が終わると、鞄持ってお送りして、師匠の生きざまをずーっと見ているうちに、この人についていこうという気になりまして、熱心さでお前を弟子にしようと思ったと、後になってからですが、行ってくださいました。
いつ弟子と認められたかと言うと、昭和39年5月23日、せがれの1歳の誕生日の時に、おい、お前にこれをやるよと、色紙に橘左近を許可するというのと、名前の表札をくれました。
貰った瞬間に、手が震えるやら、本当に感激しました。
まさか、くれるとは思わなかった。
師匠は字の大家でもあったけれども、寄席の資料の収集家でも有り、落語の本はどっさりあるし、古い寄席の資料などがびっしりあって、この本棚にある本を皆貸してやるから、好きなだけ持ってっていいよと言われた。
正式な弟子になってまで、後々まで続きました。
デザイン会社で勤務はしていたころからで、生活基盤がちゃんとあったという事も寄席文字の世界に入りやすかった。
凄い道楽を始めてしまって、かみさんは大丈夫だろうかと思ったのではないかと思います。
よく辛抱してくれたので。
デザイン会社20年目に独立と言う形で、寄席文字の書家としての3人で独立を考えた。
旗揚げして、ほとんど寄席文字一本で稼ぎ出して、今日までなんとか食べてこられた。
子弟の関係は、絶対的なものなので基盤としてやらなければいけない。
そうこうするうちに、こういう字を教えてくださいとか、大学にも落研とかが出来て、教えてほしいという人たちが随分出てきた。 (昭和42、3年ごろから)
教室を始めようという事になる。 (昭和45、6年ごろから)
師匠の右近さんが亡くなったのは91歳、平成7年
前年に師匠の念願の筆塚、千躰荒神様で有名な海雲寺というお寺に「寄席文字の筆塚」と言う碑を建てるのが念願が成就して、一門、生徒たちと旅行をして、帰りに「俺もし死んだら、増上寺で葬式をやって、葬儀委員長は 小さん師匠だな」と酔って話していたが、本当になってしまって、転んで頭を打ってそれが原因で3カ月後に亡くなってしまった。
言っていた通りに葬儀が行われた。
師匠の80歳の事を考えると、まだまだだと思っている。
29歳で右近さんに認められて、弟子になってから50年と言う事で。
師匠は32,3年ぐらい、末広亭を書いていて、全面的に師匠からバトンタッチしたのが昭和53年で、私が受け継いでから長く書いているが、師匠が74歳の時に受け継いだので、もう35,6年になるが、まだまだ頑張って書けるうちは、歯を食いしばってでも、書き通すつもりでいるが、この年になって煙草はすうは、酒は飲むので、身体の方がついてこないのではないかとの不安はあるが。
後を継ぐ若い連中が、60歳代になり、皆40年ぐらいはやっているので、それぞれの仕事をやっているので、一門の作品展をやっている。
2014年2月19日水曜日
歌 一洋(建築家) ・お遍路さんの心に寄り添う小屋づくり
歌 一洋(建築家) お遍路さんの心に寄り添う小屋づくり
88か所参りでは春になると白い装束のお遍路さんの姿を見かけるようになります。
遍路小屋は徒歩で四国88か所をめぐる歩き遍路の人々が一休みできる屋根とベンチのある道沿いの小さな小屋の事です。
今年65歳になる、大阪市の建築家の歌一洋さんはこうした遍路小屋を四国の全ての札所の近くに建てようと、考え遍路小屋プロジェクトと言う事で、すでに49棟が完成している そうです。
歌さんが設計する遍路小屋はその地域の特徴、風物を盛り込む様に、考えられ一つ一つ違います。
どんな思いで作り続けているのか、伺います。
カタカナで遍路小屋をなずけている。
病気、家族の供養、罪をながしたいとかあったが、今の遍路さんは前向きに廻る遍路さんが多くなっているのでカタカナにした。
今は新たに人生を見つめ直すとか、これからどうやって生きてきてゆくかとか、段々多くなった様な気がする。
大きさは4~10人座れたらいいので4~10畳ぐらいまでの大きさ。
屋根があって柱は無い場合もある、壁は無いようにしている。
お寺から1~2時間程度離れてところ作るようにしている。(お寺では休めるのですこし離れて)
実家にお遍路さんがよく来てくれていた。
両親が差し上げて居てのを見ていて、真似をしてお遍路さんを接待していた。
原風景として強烈に残っていた。
接待の気持ちは割とお遍路さんに対して素直な心を持っている人達はお米を上げたりしていたが、ご苦労さんと言う気持ちがあったものと思う。
自分が遍路にいけないからその代わりに廻ってもらったという気も有ったと思う。
私も回っているが、笑顔であいさつしてくれたりしてくれると、本当に心が、気持ちがよくなって元気になる。
20~30km歩くので疲れてくるので、そういった事に支えられて歩ける。
接待の気持ちは大人になってからも、持ち続けた。
外国に行っても人々がどんな気持ちで生活しているか、どういう祈りの気持ちを持っているか、興味があった。
足元をみたら、四国88か所巡礼の道があり、世界中に無い、貴重な文化だと気がついた。
設計をやっているので、小屋の設計だったら責任を持ってやれるのかなあと思った。
今は49か所完成した。
徳島県の美術館で遍路小屋展が有った。
1/10の模型を作って展示したが、初日に来た人が一緒にやりましょうと、言ってくれた。
その人が建築費を出してくれたりしてくれて完成した。
お遍路さんがそこで休んでくれてわきあいあいと話をされていて、心がホッとして嬉しい。
遍路ノートが置いてあって、たいていの方が書いてくれる。
100%近くが感謝の言葉 休ませていただいて元気が出て感謝しているとか、四国の方々の接待、お米をあげたり、言葉をかけたりしていただいて、無意識の励みになって、親切心に触れて感謝していますという様な内容ですね。
空海の作った巡礼道があるので、接待の心、それが残ったんでしょうね。
全部形が違っていて、徳島市に作ったびざん?と言う遍路小屋があるが、女性が阿波踊りをする様な姿があるがそのまま屋根にあてはめてあるが、すごく皆さんが喜んでくれる。
記念写真に良く撮られている。
丸亀に作った小屋は、丸亀は団扇が89%占めているので、団扇のイメージで作っている。
屋根の上にタンクローリーが乗っている様な小屋
そこは大ウナギが生息していて、そういうイメージで小屋を作った。
お遍路さん、地域の人が喜んでくれる。
休んだら楽しい元気になる小屋を設計している。
ボランティアなので設計料は頂いてない。
順調にいかない事も沢山あって、設計して断たなかったのは10棟以上あったが、残念だった。
地域の状況、行政、法律的に難しいとかで駄目になったりした。
設計から完成まで2年掛かった事もある。
景観のいいところには建てないほうがいいとの意見もあって、話し合いをして合意に至った。
2001年からスタートする。 最初個人でやっていこうとしていたが、4から5年やっていたら、協力しましょうという事になり、60人ぐらいが発起人になってくれて、有難いいと思っている。
全く予想もしてなかったので有難いと思っている。
土地があるからここに立ちあげましょうとかいろいろ情報を貰って、後押しをしてもらっている。
四国遍路のおもてなし。
たった一人で歩いていてもお大師さんと一緒に歩いているという気持ち、文化は貴重なもの。
親切心に溢れた地域に益々なればいいと思っている。
現在2か所、設計している。
徳島県の牟岐町(千年サンゴをイメージ)
愛媛県久万高原町(お大師さんに着物を捧げる話があるので、物語性のある物をイメージ)
最終的には89棟作りたいと思っている。
最後の建物は現在、イメージは一切ない。
個人的な思いを離れて小屋が出来て言っている感じがする。
私の存在が小さくなって、それはいいことだと思っている。
協力しましょうという方々が段々増えている。
11年掛かって49棟できたので、8~9年で出来ればいいなあと思っているが、それぞれの人達が出来る範囲でできればいいと思っている。
支えて頂いているという気持ちが益々強くなってきている。
いろんな方がたの協力がないとなかなかできない。
小屋を一個一個時間をかけて作っているので、お寺に巡礼している形でもある。
小屋に一つ一つ思いを込めて作らせてもらっているので、生かされているという事も非常に感じる様になった。
私たちの祖父母、両親も、何かいい事があるとお大師さんのおかげと言ってますので、お大師さんは親しみを込めながら、尊敬の念の凄くあるので、それがずーっと続いている。
気持ちが作る前よりも、自分自身が前よりも心が浄化されている様な気がする。
シンプルに物事が考えたり、見えたりするようになった様に思う。
一番大事なものは、見えるとは大げさかもしれないが、精神的にすっきりしてきている。
5回もおなかの大手術をしているし、片足彼岸へ6回も突っ込んだことがある。
しかしこの年になって、逆に前よりも元気になってきた。
神社仏閣にお参りするときには、感謝する、お願いはしない。
お金が会員さん、見知らぬ方から、振り込まれてくる。
頼んでもないのに、自然に集まってくるので有難いと思っている。
私の手を離れて動き出しているので、地域の方々と一緒に心をこめてお遍路さんの為に小屋ができればいいと強く思っている。
88か所参りでは春になると白い装束のお遍路さんの姿を見かけるようになります。
遍路小屋は徒歩で四国88か所をめぐる歩き遍路の人々が一休みできる屋根とベンチのある道沿いの小さな小屋の事です。
今年65歳になる、大阪市の建築家の歌一洋さんはこうした遍路小屋を四国の全ての札所の近くに建てようと、考え遍路小屋プロジェクトと言う事で、すでに49棟が完成している そうです。
歌さんが設計する遍路小屋はその地域の特徴、風物を盛り込む様に、考えられ一つ一つ違います。
どんな思いで作り続けているのか、伺います。
カタカナで遍路小屋をなずけている。
病気、家族の供養、罪をながしたいとかあったが、今の遍路さんは前向きに廻る遍路さんが多くなっているのでカタカナにした。
今は新たに人生を見つめ直すとか、これからどうやって生きてきてゆくかとか、段々多くなった様な気がする。
大きさは4~10人座れたらいいので4~10畳ぐらいまでの大きさ。
屋根があって柱は無い場合もある、壁は無いようにしている。
お寺から1~2時間程度離れてところ作るようにしている。(お寺では休めるのですこし離れて)
実家にお遍路さんがよく来てくれていた。
両親が差し上げて居てのを見ていて、真似をしてお遍路さんを接待していた。
原風景として強烈に残っていた。
接待の気持ちは割とお遍路さんに対して素直な心を持っている人達はお米を上げたりしていたが、ご苦労さんと言う気持ちがあったものと思う。
自分が遍路にいけないからその代わりに廻ってもらったという気も有ったと思う。
私も回っているが、笑顔であいさつしてくれたりしてくれると、本当に心が、気持ちがよくなって元気になる。
20~30km歩くので疲れてくるので、そういった事に支えられて歩ける。
接待の気持ちは大人になってからも、持ち続けた。
外国に行っても人々がどんな気持ちで生活しているか、どういう祈りの気持ちを持っているか、興味があった。
足元をみたら、四国88か所巡礼の道があり、世界中に無い、貴重な文化だと気がついた。
設計をやっているので、小屋の設計だったら責任を持ってやれるのかなあと思った。
今は49か所完成した。
徳島県の美術館で遍路小屋展が有った。
1/10の模型を作って展示したが、初日に来た人が一緒にやりましょうと、言ってくれた。
その人が建築費を出してくれたりしてくれて完成した。
お遍路さんがそこで休んでくれてわきあいあいと話をされていて、心がホッとして嬉しい。
遍路ノートが置いてあって、たいていの方が書いてくれる。
100%近くが感謝の言葉 休ませていただいて元気が出て感謝しているとか、四国の方々の接待、お米をあげたり、言葉をかけたりしていただいて、無意識の励みになって、親切心に触れて感謝していますという様な内容ですね。
空海の作った巡礼道があるので、接待の心、それが残ったんでしょうね。
全部形が違っていて、徳島市に作ったびざん?と言う遍路小屋があるが、女性が阿波踊りをする様な姿があるがそのまま屋根にあてはめてあるが、すごく皆さんが喜んでくれる。
記念写真に良く撮られている。
丸亀に作った小屋は、丸亀は団扇が89%占めているので、団扇のイメージで作っている。
屋根の上にタンクローリーが乗っている様な小屋
そこは大ウナギが生息していて、そういうイメージで小屋を作った。
お遍路さん、地域の人が喜んでくれる。
休んだら楽しい元気になる小屋を設計している。
ボランティアなので設計料は頂いてない。
順調にいかない事も沢山あって、設計して断たなかったのは10棟以上あったが、残念だった。
地域の状況、行政、法律的に難しいとかで駄目になったりした。
設計から完成まで2年掛かった事もある。
景観のいいところには建てないほうがいいとの意見もあって、話し合いをして合意に至った。
2001年からスタートする。 最初個人でやっていこうとしていたが、4から5年やっていたら、協力しましょうという事になり、60人ぐらいが発起人になってくれて、有難いいと思っている。
全く予想もしてなかったので有難いと思っている。
土地があるからここに立ちあげましょうとかいろいろ情報を貰って、後押しをしてもらっている。
四国遍路のおもてなし。
たった一人で歩いていてもお大師さんと一緒に歩いているという気持ち、文化は貴重なもの。
親切心に溢れた地域に益々なればいいと思っている。
現在2か所、設計している。
徳島県の牟岐町(千年サンゴをイメージ)
愛媛県久万高原町(お大師さんに着物を捧げる話があるので、物語性のある物をイメージ)
最終的には89棟作りたいと思っている。
最後の建物は現在、イメージは一切ない。
個人的な思いを離れて小屋が出来て言っている感じがする。
私の存在が小さくなって、それはいいことだと思っている。
協力しましょうという方々が段々増えている。
11年掛かって49棟できたので、8~9年で出来ればいいなあと思っているが、それぞれの人達が出来る範囲でできればいいと思っている。
支えて頂いているという気持ちが益々強くなってきている。
いろんな方がたの協力がないとなかなかできない。
小屋を一個一個時間をかけて作っているので、お寺に巡礼している形でもある。
小屋に一つ一つ思いを込めて作らせてもらっているので、生かされているという事も非常に感じる様になった。
私たちの祖父母、両親も、何かいい事があるとお大師さんのおかげと言ってますので、お大師さんは親しみを込めながら、尊敬の念の凄くあるので、それがずーっと続いている。
気持ちが作る前よりも、自分自身が前よりも心が浄化されている様な気がする。
シンプルに物事が考えたり、見えたりするようになった様に思う。
一番大事なものは、見えるとは大げさかもしれないが、精神的にすっきりしてきている。
5回もおなかの大手術をしているし、片足彼岸へ6回も突っ込んだことがある。
しかしこの年になって、逆に前よりも元気になってきた。
神社仏閣にお参りするときには、感謝する、お願いはしない。
お金が会員さん、見知らぬ方から、振り込まれてくる。
頼んでもないのに、自然に集まってくるので有難いと思っている。
私の手を離れて動き出しているので、地域の方々と一緒に心をこめてお遍路さんの為に小屋ができればいいと強く思っている。
2014年2月18日火曜日
熊本マリ(ピアニスト 教授) ・ わが心のスペイン
熊本マリ(ピアニスト 大阪芸術大学教授) わが心のスペイン
平成26年度予算、事業計画についての、NHK審議の模様を放送のため途中から放送と成る。
子供のころから、自分から目標持って、目標に向かって、宝物を探しに行く様な性格です。
グレン・グールドに手紙を書いて、会う事になる。
15歳 スペインにいるときに、カナダのトロントに行かないかと誘われて、友達の家族と一緒に行く事になる。
奇人変人のピアニストがトロントにいることを知って、せっかく来ているのでグレン・グールドに会ってレッスンを受けたいと思ったが、住所も判らず、トロントの音楽学校で練習させてもらっていた。
目の前に楽譜屋があり、住所が判らないか、聞いたが判らず、そこに来ていた人が、住所を教えてもらった。
手紙を書いて送ったが、返事はなかなか来なかったので、住所のところへ出かけた。
入口でうろうろしていたら、おばさんがいたのでグレン・グールドの家ですかと、聞いたらそうですとの返事だったが、その日はそのまま帰ってきてしまった。
次の日にもう一度行くこと事になる。
あなたの為に、手紙が届いたのかどうかを確認しますと、家政婦らしき人にいわれた。
手紙は届いていることは判って、階段を下りてきたら、グレン・グールドが来たわよといってくれて、会えることができた。(48歳だった。 彼が亡くなる2年前)
今は話せないので、マネージャーが連絡するので居場所を教えてくれと言う事で、メモ帳を出して
連絡先を控えてくれた。
管理人の人からなんて、ラッキーな人なんだと言われた。
変人なので人が嫌いで、直ぐ逃げてしまう人だとの事だった。
その夜にで電話がかかってくる。
マネージャーから連絡があり、大事なことずてがあるとの事で、「僕はだれも人の演奏を聞かない。
何故ならば人の演奏を聞いて、僕がその人の才能を批判したり、批評をする資格は全くない。
ですから僕をそういう事をしない。才能は自分で作るものだからあなたの仕事は才能を作ることなんですよ、だから是は大切なことですから、自分を信じて頑張ってください」と言われた。
私にとって、グレン・グールドは音楽について大切なことを教えてくれた大切な人です。
ジュリアード音楽院に入学し、サーシャ・ゴロニツキー氏に師事、2年間勉強した。
コンサートの組み方 自分がアピールしたいものと、皆さんが聞きたいという様なものを半分ずつにして、私が曲をどう感じるか、わたし自身がどういう風に感じるか、曲への想いを話す様にしている。
「火祭りの踊り」スペインの一番情熱的な曲 一番最後に弾いた理由はあれを弾いただけでピアノの調率がっ狂ってしまうから。
ピアノはホールの所有するピアノ。
ピアノは木で出来ていて、生き物なので、温度、湿度によって違ってしまう。
人と似ている処がある。(若いから音が出ない、古いから音が熟しているとか)
ピアノとは対話しているような感じで、本当に演奏するときに愛情をこめてタッチによって出る音も違う。
愛する人と接しているような感じで演奏すると、全然違うんですよと教えてもらった。
日本では音の正確さを言われるが、スペインでは歌いなさい、美しい音、音色の大切さ、すごく差を感じた。
心で歌いなさいと言われたが10歳では判らなかったが、経験を積むと判ってくる。
ピアノのいいところは経験すれば経験するほど、100回同じ曲を弾いても、毎回発見があって、毎回違う風に解釈できる。
フェデリコ・モンポウ 作曲家 去年生誕100年 母親がフランス人 父親がカタルーニャ人
どちらかと言いうと神秘的で日本的。 彼のモットーは最小限で最大限を表現する。
音数は少ないが、俳句の様に、詩を書く様に音楽を書く、ピアノの詩人と言われた。
彼の曲を聞いて感動して、絶対いつの日か皆さんに知ってほしいと思って、ピアノ曲全曲を録音した。
22歳で日本に帰ってきて、それから5年経って録音した。
日本人がとても好きな感覚。 絵でいえば、墨絵みたいな感じで、聞けば聞くほど味わいがある。
瞑想的で、一人で自分を見つめたくなるような曲
必ずコンサートではモンポウを弾いている。 「秘密」 モンポウの最初に聞いた曲で虜になった。
独学で作曲しているので、演奏の中にも、響きを大切にしなさい、自由にと言うのが大切なんです。
私はモンポウを弾いていたり、勉強したりすると気持ちが落ち着いて、自分を見つめ直す、心が美しくあらわれてくるような気がする。
自分を知りたい時にモンポウを聞くと、すごくそれが音楽とともに身に沁みてくると思う。
純粋な音楽なんですね。
現在は大阪芸術大学 演奏学科の教授
一番大切なのは音楽の素晴らしさ、ピアノの素晴らしさを伝える事、練習の仕方を教えてあげる事、私がいなくなっても音楽を好きで居てほしいという事が一番大切なこと。
ピアノやることはピアニストではない、その子にとってのピアノの良さを教えてあげて、音楽の良さ、ピアノの良さを教えてあげたい。
平成26年度予算、事業計画についての、NHK審議の模様を放送のため途中から放送と成る。
子供のころから、自分から目標持って、目標に向かって、宝物を探しに行く様な性格です。
グレン・グールドに手紙を書いて、会う事になる。
15歳 スペインにいるときに、カナダのトロントに行かないかと誘われて、友達の家族と一緒に行く事になる。
奇人変人のピアニストがトロントにいることを知って、せっかく来ているのでグレン・グールドに会ってレッスンを受けたいと思ったが、住所も判らず、トロントの音楽学校で練習させてもらっていた。
目の前に楽譜屋があり、住所が判らないか、聞いたが判らず、そこに来ていた人が、住所を教えてもらった。
手紙を書いて送ったが、返事はなかなか来なかったので、住所のところへ出かけた。
入口でうろうろしていたら、おばさんがいたのでグレン・グールドの家ですかと、聞いたらそうですとの返事だったが、その日はそのまま帰ってきてしまった。
次の日にもう一度行くこと事になる。
あなたの為に、手紙が届いたのかどうかを確認しますと、家政婦らしき人にいわれた。
手紙は届いていることは判って、階段を下りてきたら、グレン・グールドが来たわよといってくれて、会えることができた。(48歳だった。 彼が亡くなる2年前)
今は話せないので、マネージャーが連絡するので居場所を教えてくれと言う事で、メモ帳を出して
連絡先を控えてくれた。
管理人の人からなんて、ラッキーな人なんだと言われた。
変人なので人が嫌いで、直ぐ逃げてしまう人だとの事だった。
その夜にで電話がかかってくる。
マネージャーから連絡があり、大事なことずてがあるとの事で、「僕はだれも人の演奏を聞かない。
何故ならば人の演奏を聞いて、僕がその人の才能を批判したり、批評をする資格は全くない。
ですから僕をそういう事をしない。才能は自分で作るものだからあなたの仕事は才能を作ることなんですよ、だから是は大切なことですから、自分を信じて頑張ってください」と言われた。
私にとって、グレン・グールドは音楽について大切なことを教えてくれた大切な人です。
ジュリアード音楽院に入学し、サーシャ・ゴロニツキー氏に師事、2年間勉強した。
コンサートの組み方 自分がアピールしたいものと、皆さんが聞きたいという様なものを半分ずつにして、私が曲をどう感じるか、わたし自身がどういう風に感じるか、曲への想いを話す様にしている。
「火祭りの踊り」スペインの一番情熱的な曲 一番最後に弾いた理由はあれを弾いただけでピアノの調率がっ狂ってしまうから。
ピアノはホールの所有するピアノ。
ピアノは木で出来ていて、生き物なので、温度、湿度によって違ってしまう。
人と似ている処がある。(若いから音が出ない、古いから音が熟しているとか)
ピアノとは対話しているような感じで、本当に演奏するときに愛情をこめてタッチによって出る音も違う。
愛する人と接しているような感じで演奏すると、全然違うんですよと教えてもらった。
日本では音の正確さを言われるが、スペインでは歌いなさい、美しい音、音色の大切さ、すごく差を感じた。
心で歌いなさいと言われたが10歳では判らなかったが、経験を積むと判ってくる。
ピアノのいいところは経験すれば経験するほど、100回同じ曲を弾いても、毎回発見があって、毎回違う風に解釈できる。
フェデリコ・モンポウ 作曲家 去年生誕100年 母親がフランス人 父親がカタルーニャ人
どちらかと言いうと神秘的で日本的。 彼のモットーは最小限で最大限を表現する。
音数は少ないが、俳句の様に、詩を書く様に音楽を書く、ピアノの詩人と言われた。
彼の曲を聞いて感動して、絶対いつの日か皆さんに知ってほしいと思って、ピアノ曲全曲を録音した。
22歳で日本に帰ってきて、それから5年経って録音した。
日本人がとても好きな感覚。 絵でいえば、墨絵みたいな感じで、聞けば聞くほど味わいがある。
瞑想的で、一人で自分を見つめたくなるような曲
必ずコンサートではモンポウを弾いている。 「秘密」 モンポウの最初に聞いた曲で虜になった。
独学で作曲しているので、演奏の中にも、響きを大切にしなさい、自由にと言うのが大切なんです。
私はモンポウを弾いていたり、勉強したりすると気持ちが落ち着いて、自分を見つめ直す、心が美しくあらわれてくるような気がする。
自分を知りたい時にモンポウを聞くと、すごくそれが音楽とともに身に沁みてくると思う。
純粋な音楽なんですね。
現在は大阪芸術大学 演奏学科の教授
一番大切なのは音楽の素晴らしさ、ピアノの素晴らしさを伝える事、練習の仕方を教えてあげる事、私がいなくなっても音楽を好きで居てほしいという事が一番大切なこと。
ピアノやることはピアニストではない、その子にとってのピアノの良さを教えてあげて、音楽の良さ、ピアノの良さを教えてあげたい。
2014年2月17日月曜日
小泉英政(農業) ・成田三里塚で完全循環農業を生きる(2)
小泉英政(農業) 成田三里塚で完全循環農業を生きる(2)
千葉県、成田市で農業を営む 65歳
1960年代にベトナム反戦運動の非暴力直接行動に参加した後、成田国際空港建設反対運動に加わり、成田市三里塚に移住しました。
建設反対運動を続ける農民たちと共に、40年ほど前から有機野菜の産地直送による農業経営を続けてきました。
小泉さんは17年前から可能な限り、化学物質の影響を受けない野菜作りを目指してきました。
化学肥料は勿論、ビニールなどの農業資材などは使わず、里山の落ち葉などを堆肥とする完全循環形の有機農業です。
福島第一原発事故では対比が放射性物質に汚染されてしまい、今も大きな影響を受けています。
空港に近接する自宅から10km離れた農地や作業場まで往復しながら、もっとも手間のかかる農業についてお聞きしました。
循環有機農業 ワンパック運動(会員制の無農薬野菜・産地直送グループ)は21年経ち 最高時で生産者が7人 会員が1400人に膨れ上がったが、その後 後退して行った。
最終的には2軒になっていた。
今後について悩んでいた時期があった。
消費者の人から電話があり、再開してもらいたいとのことで、安全な野菜を供給してもらいたい。
本当に安全なものかどうかというと、牛フン堆肥の中には抗生物質、薬剤使っているかもしれないし、おがくず自体も外国からの輸入材で、熏汁?されているかもしれない、餌も外国からの輸入穀物で生産地に置いては農薬を使って作られたものであろうと、思った。
発酵させて熟成させれば影響はほとんどなくなるのではないかと考えてやっていた。
20年経って振り返ると、この先もこのままでいいのかと考えた。
電話を受けた時にもっと循環型に出来ないかと考えた。
鶏を飼って鶏糞を作って、鶏糞を農地に施肥する様にした。
ダイオキシンの問題も出てきて、農家では畑で燃やしたりしていたが、燃やすとダイオキシンが出てくるので、ビニールトンネル、ポリマルチも減らしていこうと提案した。
今までも大変なのに、もっと大変なことを提案したが受け入れられなくて、自分でやるしかないと、始める。
ビニールを使わないと雑草がでやすくなるので、その分除草が大変になる。
周りからそんなことはできるわけがないと言われた。
大変だという事よりも挑戦することが面白かった。
夏場は朝早くて、7時ぐらいまで明るいので、労働時間は長くなるが、いろんな作業をするのでそんなに大変ではない。
鶏を飼うが、失敗する。 穀物を与えるだけでは卵を産まないので動物性たんぱく質を与えないと卵は産まない。
落ち葉で堆肥を作る事にする。 38人の会員だったがその年のうちに100人近くになった。
野菜がおいしいとの口コミ出広がる。
ある人が手伝ってくれるようになって、森を切り開く事をやってくれるかといったら、やってもいいよと言ってくれる。
森は荒れておりしの竹、蔓とか生い茂っており、樹木を衰退させるので、この整理作業から始める。
冬場の仕事としてどんどん広がっていって、落ち葉が取れるようになる。
農業を勉強したいという人も出てきて、言い循環が出来てきて、鶏の循環に替って森を利用した循環農業をができるようになった。
森も日光が入るようになり、木が元気になってきた。
森の中には綺麗な花を咲かせる植物が生えるようになった。
天候には左右される部分があるが、野菜は強いと思う。
落ち葉の堆肥と米ぬかを発酵させて肥料として使っている。 2種類を組み合わせて使っている。
水は全くやらない。 雨水に頼る。 (17年でどうしようもない時が2回合ったがその時は使った)
地下水は有限だともうので、水を大事にしなければいけない。
作物は強い物で駄目かと思っても、自分で水を探してよみがえってくる。
水をあげると、その水に頼ってしまうので軟弱な野菜になってしまう。
ただ任せるのではなくて考えながらやっている。(サトイモでも6種類やっている 日照りに強い)
年間 品種で言うと150種 保有しているのが120種 自家採取。
自家採取を100%にしようと思っている。
市販の種が段々危なくなってきている。
郵政付言 自然界で雄花が不完全の状態で咲く。 それを利用して種をつくって撒いて一代はみのるが、そこから花を咲かせて種を取ろうろしても、皆雄花が駄目なんです。
種ができない。 農民がずーっと種を買わなければならない。
雄花が咲かない野菜は本当の野菜なのだろうかと思った。
企業が自分の技術を独占するために、雄花の咲かない物を作る。
今はもう遺伝子組み換え種子になって(日本ではまだ禁止されているが)、製品としてはいろんなことで入ってきている。
外国の輸入物はかなりの遺伝子組み換え野菜が入ってっ来ている思う。
たべられる土にしようと思っている。 種も食べられるものにしようと思っている。
それが循環農場の出発だと思っていた。
自家採取をやらないと手に入らなくなってしまうのではと思っている。
自分で堆肥を作って、種も取って、自分の目の届く範囲で全部やることももう一つの農業に生き方ではないかと思う。
会員の人もそこまでやらなくていいよと言ってくれるが、やってみて、化学物質過敏症の人
がいっぱいいて、その人たちが無農薬野菜でも食べられない、と言う人がいた。
うちの野菜だったら大丈夫だと、紹介してくれた人がいて、送ってみたら、部屋のなかには入れても大丈夫との事で、肥料を段々改良してゆくうちに、食べられるようになって、今は回復している。
利潤を上げるという意味では下手な農業です。
化学物質過敏症の人と出会って、そういう風にこの野菜を待っていてくれる人がいるんだと判った。
会員が増えてきて、農地、里山が増えてきて、畑5町歩 里山5町歩 までになって、経営的にも成りたった。
原発事故でガクンと成って、土台が破壊されてしまった。
里山から回収する落ち葉が使えなくなった。 本当にどうしようかと思った。
もっと酷くなったら、孫たちは逃がさなければいけないと思った。
出荷場に目張りをするか、どうやるか、のこっていたが。
まだ落ち葉も集められない。
放射性物質の値を計っているが、去年1kg当たり330ベクレル 今年は150ベクレルぐらい。
(表面だけの落ち葉)
落ち葉堆肥は使えないので、落ち葉に替る堆肥 燕麦とか、緑肥作物を畑にまいて、青いうちにすき込んで肥料にする。(半年かかる)
思った以上にうまくできていない。
原発事故以降、止められた方が30%ぐらいいる。
経営的には大変だが、この場をしのいで、何年か後には落ち葉を集められるようになると思う。
祖母の気持ちが大きい。 養子としてしっかり生きていこうと思う事がこの事を生んだと思う。
100歳まで百姓を務めていきたいと思っている。
千葉県、成田市で農業を営む 65歳
1960年代にベトナム反戦運動の非暴力直接行動に参加した後、成田国際空港建設反対運動に加わり、成田市三里塚に移住しました。
建設反対運動を続ける農民たちと共に、40年ほど前から有機野菜の産地直送による農業経営を続けてきました。
小泉さんは17年前から可能な限り、化学物質の影響を受けない野菜作りを目指してきました。
化学肥料は勿論、ビニールなどの農業資材などは使わず、里山の落ち葉などを堆肥とする完全循環形の有機農業です。
福島第一原発事故では対比が放射性物質に汚染されてしまい、今も大きな影響を受けています。
空港に近接する自宅から10km離れた農地や作業場まで往復しながら、もっとも手間のかかる農業についてお聞きしました。
循環有機農業 ワンパック運動(会員制の無農薬野菜・産地直送グループ)は21年経ち 最高時で生産者が7人 会員が1400人に膨れ上がったが、その後 後退して行った。
最終的には2軒になっていた。
今後について悩んでいた時期があった。
消費者の人から電話があり、再開してもらいたいとのことで、安全な野菜を供給してもらいたい。
本当に安全なものかどうかというと、牛フン堆肥の中には抗生物質、薬剤使っているかもしれないし、おがくず自体も外国からの輸入材で、熏汁?されているかもしれない、餌も外国からの輸入穀物で生産地に置いては農薬を使って作られたものであろうと、思った。
発酵させて熟成させれば影響はほとんどなくなるのではないかと考えてやっていた。
20年経って振り返ると、この先もこのままでいいのかと考えた。
電話を受けた時にもっと循環型に出来ないかと考えた。
鶏を飼って鶏糞を作って、鶏糞を農地に施肥する様にした。
ダイオキシンの問題も出てきて、農家では畑で燃やしたりしていたが、燃やすとダイオキシンが出てくるので、ビニールトンネル、ポリマルチも減らしていこうと提案した。
今までも大変なのに、もっと大変なことを提案したが受け入れられなくて、自分でやるしかないと、始める。
ビニールを使わないと雑草がでやすくなるので、その分除草が大変になる。
周りからそんなことはできるわけがないと言われた。
大変だという事よりも挑戦することが面白かった。
夏場は朝早くて、7時ぐらいまで明るいので、労働時間は長くなるが、いろんな作業をするのでそんなに大変ではない。
鶏を飼うが、失敗する。 穀物を与えるだけでは卵を産まないので動物性たんぱく質を与えないと卵は産まない。
落ち葉で堆肥を作る事にする。 38人の会員だったがその年のうちに100人近くになった。
野菜がおいしいとの口コミ出広がる。
ある人が手伝ってくれるようになって、森を切り開く事をやってくれるかといったら、やってもいいよと言ってくれる。
森は荒れておりしの竹、蔓とか生い茂っており、樹木を衰退させるので、この整理作業から始める。
冬場の仕事としてどんどん広がっていって、落ち葉が取れるようになる。
農業を勉強したいという人も出てきて、言い循環が出来てきて、鶏の循環に替って森を利用した循環農業をができるようになった。
森も日光が入るようになり、木が元気になってきた。
森の中には綺麗な花を咲かせる植物が生えるようになった。
天候には左右される部分があるが、野菜は強いと思う。
落ち葉の堆肥と米ぬかを発酵させて肥料として使っている。 2種類を組み合わせて使っている。
水は全くやらない。 雨水に頼る。 (17年でどうしようもない時が2回合ったがその時は使った)
地下水は有限だともうので、水を大事にしなければいけない。
作物は強い物で駄目かと思っても、自分で水を探してよみがえってくる。
水をあげると、その水に頼ってしまうので軟弱な野菜になってしまう。
ただ任せるのではなくて考えながらやっている。(サトイモでも6種類やっている 日照りに強い)
年間 品種で言うと150種 保有しているのが120種 自家採取。
自家採取を100%にしようと思っている。
市販の種が段々危なくなってきている。
郵政付言 自然界で雄花が不完全の状態で咲く。 それを利用して種をつくって撒いて一代はみのるが、そこから花を咲かせて種を取ろうろしても、皆雄花が駄目なんです。
種ができない。 農民がずーっと種を買わなければならない。
雄花が咲かない野菜は本当の野菜なのだろうかと思った。
企業が自分の技術を独占するために、雄花の咲かない物を作る。
今はもう遺伝子組み換え種子になって(日本ではまだ禁止されているが)、製品としてはいろんなことで入ってきている。
外国の輸入物はかなりの遺伝子組み換え野菜が入ってっ来ている思う。
たべられる土にしようと思っている。 種も食べられるものにしようと思っている。
それが循環農場の出発だと思っていた。
自家採取をやらないと手に入らなくなってしまうのではと思っている。
自分で堆肥を作って、種も取って、自分の目の届く範囲で全部やることももう一つの農業に生き方ではないかと思う。
会員の人もそこまでやらなくていいよと言ってくれるが、やってみて、化学物質過敏症の人
がいっぱいいて、その人たちが無農薬野菜でも食べられない、と言う人がいた。
うちの野菜だったら大丈夫だと、紹介してくれた人がいて、送ってみたら、部屋のなかには入れても大丈夫との事で、肥料を段々改良してゆくうちに、食べられるようになって、今は回復している。
利潤を上げるという意味では下手な農業です。
化学物質過敏症の人と出会って、そういう風にこの野菜を待っていてくれる人がいるんだと判った。
会員が増えてきて、農地、里山が増えてきて、畑5町歩 里山5町歩 までになって、経営的にも成りたった。
原発事故でガクンと成って、土台が破壊されてしまった。
里山から回収する落ち葉が使えなくなった。 本当にどうしようかと思った。
もっと酷くなったら、孫たちは逃がさなければいけないと思った。
出荷場に目張りをするか、どうやるか、のこっていたが。
まだ落ち葉も集められない。
放射性物質の値を計っているが、去年1kg当たり330ベクレル 今年は150ベクレルぐらい。
(表面だけの落ち葉)
落ち葉堆肥は使えないので、落ち葉に替る堆肥 燕麦とか、緑肥作物を畑にまいて、青いうちにすき込んで肥料にする。(半年かかる)
思った以上にうまくできていない。
原発事故以降、止められた方が30%ぐらいいる。
経営的には大変だが、この場をしのいで、何年か後には落ち葉を集められるようになると思う。
祖母の気持ちが大きい。 養子としてしっかり生きていこうと思う事がこの事を生んだと思う。
100歳まで百姓を務めていきたいと思っている。
2014年2月16日日曜日
2014年2月15日土曜日
久坂部 羊(作家・医師) ・医者の父がめざした”明るい最期”
久坂部 羊(作家・医師) 医者の父がめざした”明るい最期”
昭和30年 大阪府堺市生まれ 58歳、 大阪大学医学部を卒業後、病院勤務を経て、パプアニューギニア、オーストリア、の在外公官で医務官として 9年間勤務、現在は高齢者を対象とした在宅訪問診療に携わっています。
2003年に小説「廃用身」で作家デビュー、医療現場をテーマに作品を書き続けています。
小説家を目指したのは大阪府立、三国丘高校2年生の時でした。
悩んで相談をしたとき、医者になってからでも作家活動はできると励ましてくれたのが、父輝義さんでした。
父も麻酔科の勤務医でした。
30代で糖尿病を患ったものの、好物の甘いものを食べ続け、検査も受けず、ストレスをためないのが健康にいいんだと言うのが口癖でした。
晩年も医療に縛られず、自然で平穏な死を望んでいた輝義さんは、希望通り去年7月家族に看取られながら、87歳で亡くなりました。
医療現場の矛盾を題材に描いてきた久坂部さんが明るく自分の意志を貫いた父親の最後から何を学んだのか、伺いました。
父は非常に明るい死を目指して、それを見事に自宅で昨年遂げましたので、その話をさせてもらいたいと思います。
父は大正15年堺市で生まれる。 医者の家で一人っ子だった。
家の中に競争相手はいないが、従兄弟では兄弟が沢山いて、取りあいがありそれには勝てない。
父は3月31日生まれなので、学年で一番小さいので、小学校でも負けてしまって勝てない。
父は戦わずして、価値を譲る、負ける方法を考える。(先手必敗)
戦って負けるよりも悔しさが少ない。
悔しさのもとは欲望、執着があるから負けると悔しい、と気付く。
父は欲望と執着を抑えることを押さえればいいんだと、小さきころに気付く。
私は高校2年生の時に作家になりたいと父にいった。
いきなり作家では生活はできないだろうから、とりあえず医者になれと言われて医者の道に進んだ。
父は麻酔科にいたが、「今日も外科医がいらんことをして、患者を苦しめていた」と言っていたりすることを聞いたりしていた。
手術も患者を助けるんだが、必ずしもそうではないと思った。
癌を取り残すと、再発の危険性もあるし、安全に取り過ぎると命の危険もありうるという事で難しい。
父が糖尿病になる(30歳代) 父は食事療法を始める。
半年経っても血糖値が下がらない。
甘いものを食べない為我慢するとストレスのせいで下がらないのではないかと、検査をしなければ恐くはないと言って、そういう風に通す。
私が海外赴任している時に、(パプアニューギニア)父から写真が送られてきたが、痩せていた。
半年で20kg痩せる。 60kgだったので半年で1/3痩せる。
肺がんの末期だと私は判断した。(咳が出て胸が痛い)
父は検査はしなかった、患いがあるから、悪くなるのを覚悟して受け入れる。
父の言う通りにしてあげて、病院には是非行くようにとは言わなかった。
子供の価値観を親に意志付けるのは、決して親孝行とは言えないと思う。
父が倒れたとの話が母からあり、入院したらその結果、それは糖尿病だった。
血糖値が700との事で、(正常値は105~110) 150ぐらいで糖尿病の治療をしないといけない。
200ぐらいでインシュリンを注射しないといけない、300ぐらいで糖尿病性こん睡といって、からだの調子が悪くなって、こん睡状態になって命に関わるような状態になる。
700なんて見たこともない様な血糖値。
直ぐに入院して、インシュリンを注射をして、緊急入院した。
400に低下したとの事だった。(それでも凄く高い) 咳の原因は結核だった。
病院で治療をして、結核は治って、糖尿病もインシュリンで多少良くなり、家でインシュリンをするような治療をすることになる。
退院した後も甘いものには執着せずに、食べていた。(父はストレスが一番悪いと思っている)
糖尿病は末端に血液が回らない為、壊死(細胞が腐ってゆく)してゆく。
父は足が痛いというので見ると、左足の裏側が黒くなっていた。
切断しなくては行けない様な状態だったが、当人の判断でそのままにしておくことになる。
知り合いの医者は煙草は直ぐに止めるべきだと言う、ニコチンは血管を収縮する作用があるので。
インシュリンの量を当人の判断で増やしたり治療しているうちに、そのうち何にもしないのによくなってきた。
黒い皮がかさぶたのようになってそれが取れて、下から綺麗な皮が出てきた。
其時に父が言ったことは、医者と言うのは病気が悪くなった人ばっかり研究すると、自分見たいに何にもしないのに良くなった人をもっと研究した方がいいと、そうしたら人間の持っている治癒力がどうしたら破棄できるのか判るかも知れないと。 ハッとさせられた。
次に父は白内障になる。(75歳) 妻に簡単な手術だからと言われて、運命が決めることと言って、硬貨を放って、結果手術する事になる。
85歳の時に突然尿がでなくなる。
原因を調べるために、市民病院に行く。
先ずおしっこを取ってくれと言われたが、おしっこが出ないからきたと言った。
最初血液検査をして PSA前立腺がんの腫瘍マーカーがあるが、正常値が5以下であるが、父は105あった。
是は前立腺がんと言う事は明らかだといわれる。
医師から父に告げられたが、「あっ、そうですか。 しめた、これで長生きしないで済んだ。」と言ったんです。
父は早死は困るが、長生きすることにも、物凄く恐怖心を持っていた。
実際、長生きしてよかったという人はいるが、95~100歳になってよかったという人は少ない。
いろんな機能が弱ってきて楽しみも減る、耳が聞こえなくなる、眼が見えなくなる、味覚がなくなる、下の世話もしてもらうようになる、あちこち痛い、どこへも行かれなくなる。
頭だけしっかりしていてもしょうがない。
父はよくわかっているので、100歳まで生きていたらどうしようと言っていた。
「有難うございました。 85歳まで生きたから大丈夫です。」 と言う事だった。
先生が骨に転移したら痛いですよと言ったら、あなたはわたしを脅す気かといった。
先生と30分、議論を始めた。
結局治療を受けない様にした。
2カ月後に、家で尻餅をついて、圧迫骨折で、食欲が旺盛だった父は食欲を無くしてしまった。
食べなくなったので、普通は点滴などをするが、父は食欲がないという事は必要としていないという事で、家族は食べ物をあげて飲みこんだら安心するわけですが、栄養は口から入って、消化されて、吸収されて臓器に行きわたるから意味がある。
それだけの余力がないから食べたくない、飲みたくないという事になる。
水分でも出すためには心臓、腎臓が働いて出さなければならないが、その能力が無くなってきているから、飲みたくないと言っている。
無理やり補給しても臓器そのものが使うだけの余力がない時には余計負担になる。
父も私も判っているので、そのようにした。
食べなくなると急速に痩せてきて、顔には死相が現れてきた。
亡くなったら自分で死亡診断書を書こうと思っていた。
しかし、医者の友人が子が父親の診断書を書くのはまずいといわれて、急遽友人の紹介で別の医師が来てくれて、希望はあるかと聞いて、父が長生きしたくないので早く楽にしてくれと言われた。
「はい、判りました」とも言えずにその先生はこまっていました。
5月に庭に咲いているバラを見て「バラが綺麗だね」と言ったり時間が静かに流れていった。
家族全員が死を受け入れているので、あまり食べなくても、血尿が出たりしても周りは苦にならない。
流れている時間のおだやかさみたいなものは体験して本当に得難い時間と言う感じがした。
全員死を受け入れていたが、骨折していたが、よくなってきて腹が減ってきたと言いだした。
フレンチトーストをもっていったら、食パンの1/4ぐらい食べるようになって、ちょっとずつ回復してきた。
便が出てなかった。30日目に浣腸して、どんぶり一杯分ぐらい出て、粘膜がやられたので、血便がかなり出て(洗面器一杯分)、3日血便が出て、死を受け入れていたので、本人が苦しまなければそのままにしていた。
介護療養の常識を父はいくつも覆した。
食べなくなったときでも死なない時期が10日有ったが、1日の摂取カロリーは100から200、水分も500cc飲んでないが死なない。
1か月半寝っぱなしだった父が、リハビリでその日のうちに立って歩ける様になった。
床ずれも出来ていなかった。
療養していたら、認知症も出てきた。
妄想が沢山出てくる。 歴史が好きで、「井伊直弼が出てきた」、「かかれ」と言って7人の小人がやっつけるとか、TVのNHKのアナウンサーに対して小言を言ったりする。
妄想が出たりしても、「はい、はい」と言って聞いていたらいいと、いう事で、自分が受け入れられていう事を判っているので、認知症の人を責める様なことをしてはいけない。
昨年、誤飲性肺炎で高い熱が出て、明くる日の朝、苦しかったら病院に連れていくと思っていったら、こん睡状態で下あごを突き出すような呼吸をしていて、死の直前にでる兆候で、家族を呼んで、お父さんありがとう、お父さんのお陰で幸せな人生を送らしてもらえたと父に言った。
最後に「有難う、皆のおかげで」と言いたかったら、元気なうちに言ってください。
死ぬという事は苦しいが、医療でいろいろやるとさらに苦しくなる。
近代医療で救われた人はいっぱいいるが、死に対しては医療は無力です。
①執着、欲望(もっと楽になりたいとか)を言わなかった、無欲で有った事、
②苦しみはあるという事は覚悟していた。
この二つで父はおだやかな思い通りの死を遂げられたと思います。
昭和30年 大阪府堺市生まれ 58歳、 大阪大学医学部を卒業後、病院勤務を経て、パプアニューギニア、オーストリア、の在外公官で医務官として 9年間勤務、現在は高齢者を対象とした在宅訪問診療に携わっています。
2003年に小説「廃用身」で作家デビュー、医療現場をテーマに作品を書き続けています。
小説家を目指したのは大阪府立、三国丘高校2年生の時でした。
悩んで相談をしたとき、医者になってからでも作家活動はできると励ましてくれたのが、父輝義さんでした。
父も麻酔科の勤務医でした。
30代で糖尿病を患ったものの、好物の甘いものを食べ続け、検査も受けず、ストレスをためないのが健康にいいんだと言うのが口癖でした。
晩年も医療に縛られず、自然で平穏な死を望んでいた輝義さんは、希望通り去年7月家族に看取られながら、87歳で亡くなりました。
医療現場の矛盾を題材に描いてきた久坂部さんが明るく自分の意志を貫いた父親の最後から何を学んだのか、伺いました。
父は非常に明るい死を目指して、それを見事に自宅で昨年遂げましたので、その話をさせてもらいたいと思います。
父は大正15年堺市で生まれる。 医者の家で一人っ子だった。
家の中に競争相手はいないが、従兄弟では兄弟が沢山いて、取りあいがありそれには勝てない。
父は3月31日生まれなので、学年で一番小さいので、小学校でも負けてしまって勝てない。
父は戦わずして、価値を譲る、負ける方法を考える。(先手必敗)
戦って負けるよりも悔しさが少ない。
悔しさのもとは欲望、執着があるから負けると悔しい、と気付く。
父は欲望と執着を抑えることを押さえればいいんだと、小さきころに気付く。
私は高校2年生の時に作家になりたいと父にいった。
いきなり作家では生活はできないだろうから、とりあえず医者になれと言われて医者の道に進んだ。
父は麻酔科にいたが、「今日も外科医がいらんことをして、患者を苦しめていた」と言っていたりすることを聞いたりしていた。
手術も患者を助けるんだが、必ずしもそうではないと思った。
癌を取り残すと、再発の危険性もあるし、安全に取り過ぎると命の危険もありうるという事で難しい。
父が糖尿病になる(30歳代) 父は食事療法を始める。
半年経っても血糖値が下がらない。
甘いものを食べない為我慢するとストレスのせいで下がらないのではないかと、検査をしなければ恐くはないと言って、そういう風に通す。
私が海外赴任している時に、(パプアニューギニア)父から写真が送られてきたが、痩せていた。
半年で20kg痩せる。 60kgだったので半年で1/3痩せる。
肺がんの末期だと私は判断した。(咳が出て胸が痛い)
父は検査はしなかった、患いがあるから、悪くなるのを覚悟して受け入れる。
父の言う通りにしてあげて、病院には是非行くようにとは言わなかった。
子供の価値観を親に意志付けるのは、決して親孝行とは言えないと思う。
父が倒れたとの話が母からあり、入院したらその結果、それは糖尿病だった。
血糖値が700との事で、(正常値は105~110) 150ぐらいで糖尿病の治療をしないといけない。
200ぐらいでインシュリンを注射しないといけない、300ぐらいで糖尿病性こん睡といって、からだの調子が悪くなって、こん睡状態になって命に関わるような状態になる。
700なんて見たこともない様な血糖値。
直ぐに入院して、インシュリンを注射をして、緊急入院した。
400に低下したとの事だった。(それでも凄く高い) 咳の原因は結核だった。
病院で治療をして、結核は治って、糖尿病もインシュリンで多少良くなり、家でインシュリンをするような治療をすることになる。
退院した後も甘いものには執着せずに、食べていた。(父はストレスが一番悪いと思っている)
糖尿病は末端に血液が回らない為、壊死(細胞が腐ってゆく)してゆく。
父は足が痛いというので見ると、左足の裏側が黒くなっていた。
切断しなくては行けない様な状態だったが、当人の判断でそのままにしておくことになる。
知り合いの医者は煙草は直ぐに止めるべきだと言う、ニコチンは血管を収縮する作用があるので。
インシュリンの量を当人の判断で増やしたり治療しているうちに、そのうち何にもしないのによくなってきた。
黒い皮がかさぶたのようになってそれが取れて、下から綺麗な皮が出てきた。
其時に父が言ったことは、医者と言うのは病気が悪くなった人ばっかり研究すると、自分見たいに何にもしないのに良くなった人をもっと研究した方がいいと、そうしたら人間の持っている治癒力がどうしたら破棄できるのか判るかも知れないと。 ハッとさせられた。
次に父は白内障になる。(75歳) 妻に簡単な手術だからと言われて、運命が決めることと言って、硬貨を放って、結果手術する事になる。
85歳の時に突然尿がでなくなる。
原因を調べるために、市民病院に行く。
先ずおしっこを取ってくれと言われたが、おしっこが出ないからきたと言った。
最初血液検査をして PSA前立腺がんの腫瘍マーカーがあるが、正常値が5以下であるが、父は105あった。
是は前立腺がんと言う事は明らかだといわれる。
医師から父に告げられたが、「あっ、そうですか。 しめた、これで長生きしないで済んだ。」と言ったんです。
父は早死は困るが、長生きすることにも、物凄く恐怖心を持っていた。
実際、長生きしてよかったという人はいるが、95~100歳になってよかったという人は少ない。
いろんな機能が弱ってきて楽しみも減る、耳が聞こえなくなる、眼が見えなくなる、味覚がなくなる、下の世話もしてもらうようになる、あちこち痛い、どこへも行かれなくなる。
頭だけしっかりしていてもしょうがない。
父はよくわかっているので、100歳まで生きていたらどうしようと言っていた。
「有難うございました。 85歳まで生きたから大丈夫です。」 と言う事だった。
先生が骨に転移したら痛いですよと言ったら、あなたはわたしを脅す気かといった。
先生と30分、議論を始めた。
結局治療を受けない様にした。
2カ月後に、家で尻餅をついて、圧迫骨折で、食欲が旺盛だった父は食欲を無くしてしまった。
食べなくなったので、普通は点滴などをするが、父は食欲がないという事は必要としていないという事で、家族は食べ物をあげて飲みこんだら安心するわけですが、栄養は口から入って、消化されて、吸収されて臓器に行きわたるから意味がある。
それだけの余力がないから食べたくない、飲みたくないという事になる。
水分でも出すためには心臓、腎臓が働いて出さなければならないが、その能力が無くなってきているから、飲みたくないと言っている。
無理やり補給しても臓器そのものが使うだけの余力がない時には余計負担になる。
父も私も判っているので、そのようにした。
食べなくなると急速に痩せてきて、顔には死相が現れてきた。
亡くなったら自分で死亡診断書を書こうと思っていた。
しかし、医者の友人が子が父親の診断書を書くのはまずいといわれて、急遽友人の紹介で別の医師が来てくれて、希望はあるかと聞いて、父が長生きしたくないので早く楽にしてくれと言われた。
「はい、判りました」とも言えずにその先生はこまっていました。
5月に庭に咲いているバラを見て「バラが綺麗だね」と言ったり時間が静かに流れていった。
家族全員が死を受け入れているので、あまり食べなくても、血尿が出たりしても周りは苦にならない。
流れている時間のおだやかさみたいなものは体験して本当に得難い時間と言う感じがした。
全員死を受け入れていたが、骨折していたが、よくなってきて腹が減ってきたと言いだした。
フレンチトーストをもっていったら、食パンの1/4ぐらい食べるようになって、ちょっとずつ回復してきた。
便が出てなかった。30日目に浣腸して、どんぶり一杯分ぐらい出て、粘膜がやられたので、血便がかなり出て(洗面器一杯分)、3日血便が出て、死を受け入れていたので、本人が苦しまなければそのままにしていた。
介護療養の常識を父はいくつも覆した。
食べなくなったときでも死なない時期が10日有ったが、1日の摂取カロリーは100から200、水分も500cc飲んでないが死なない。
1か月半寝っぱなしだった父が、リハビリでその日のうちに立って歩ける様になった。
床ずれも出来ていなかった。
療養していたら、認知症も出てきた。
妄想が沢山出てくる。 歴史が好きで、「井伊直弼が出てきた」、「かかれ」と言って7人の小人がやっつけるとか、TVのNHKのアナウンサーに対して小言を言ったりする。
妄想が出たりしても、「はい、はい」と言って聞いていたらいいと、いう事で、自分が受け入れられていう事を判っているので、認知症の人を責める様なことをしてはいけない。
昨年、誤飲性肺炎で高い熱が出て、明くる日の朝、苦しかったら病院に連れていくと思っていったら、こん睡状態で下あごを突き出すような呼吸をしていて、死の直前にでる兆候で、家族を呼んで、お父さんありがとう、お父さんのお陰で幸せな人生を送らしてもらえたと父に言った。
最後に「有難う、皆のおかげで」と言いたかったら、元気なうちに言ってください。
死ぬという事は苦しいが、医療でいろいろやるとさらに苦しくなる。
近代医療で救われた人はいっぱいいるが、死に対しては医療は無力です。
①執着、欲望(もっと楽になりたいとか)を言わなかった、無欲で有った事、
②苦しみはあるという事は覚悟していた。
この二つで父はおだやかな思い通りの死を遂げられたと思います。
2014年2月14日金曜日
尾原昭夫(民俗音楽研究家) ・次代につなげる「わらべうた」「子守唄」
尾原昭夫(民俗音楽研究家) 次代につなげる「わらべうた」「子守唄」
楽譜や本を出したり、演奏会、講演を開いたりして日本の伝統音楽ウィ継承する為の活動を続けています。
昨年3月に「子守唄と民話」という石井雅美先生の編集で本を出して、もも太郎の子守唄を出しまして、作詞者が判らない判らない、第3節からの歌詞が解らないという事で、それを解明したいと思うのが私の主な狙いの文章です。
今井ただ子先生?のマリンバの先生 ボランティアで積極的にコンサートをやっていて、呼ばれて、岩手の廻れ水車、会津磐梯山などを演奏した。
国便時の泉ホールで音楽祭があってそこで、ハープとオカリナとしの笛とでん日本の音階をメインにした曲を演奏しました。
出雲神楽を聞きながら育った。
子守唄、童歌歌ったり、父も尺八を吹いていた。
出雲神楽の旋律が雅楽で使う龍笛?(横笛)を使う。 音律はしの笛とは違う。
一瞬の感動も大事、あるとき映画を見ていて、その時に「千鳥」の曲があって、日本の音楽は素晴らしいと思った。
昭和29年に島根大学音楽科入学、昭和33年卒業 上京して教員になる。
坂本義孝先生?が日本民謡集を纏められたものが2冊出ていて、演奏していた。
広島県の中国山地の近い方で中世から伝統的に伝わっている田楽がある。
太鼓に合わせ歌うが、それを編曲した合唱曲を合唱したりした。
主としてはバイオリンを4年間やるが、日本民謡にも触れた。
芸大の小泉文夫先生が日本伝統音楽の研究があらわされて、画期的な音階の研究で、その影響を受けた。
ドイツから作曲家のオルフが来て、器楽の教材を持ちこんだ。
童歌とか民謡を材料にして子供たちに合奏をさせると言うのが入ってきた。
童歌を中心に研究しなければという方向になる。
童歌は地方ではどう歌っているのだろうかとか、江戸、明治、大正と、時の流れに依ってどのように変わったんだろうかとか、遊びはどのようにしていたのかとか、疑問が色々浮かんできた。
研究してみたいと思って、文部省ん申請したら、道めてもらい、3年間助成をしてもらった。
秋田の童歌「上見れば」 編曲尾原昭夫
日本の歌と音階が大事。
日本の音階には4種類ある。 律音階、民謡音階、都節音階、琉球音階。 日本の音階の主要
其他に呂(りょ)音階 呂(りょ)陰音階がある。
大和琴の糸の音の調整が丁度律音階になっている。
平安時代に雅楽に春のやよいとか、君が代もこの律音階
民謡音階 かごめかごめ とか てんてんてんまり、とか庶民的な音階になる。
都節音階 うーさぎうさぎ とか 江戸子守唄 ねんねんころりよ 雅やかになる。
琉球音階 琉球諸島で主に歌われている。
呂(りょ)音階 ド、レ、ミ、ソ、ラ、ド (ファとシが抜ける) 「島育ち」などもそう。
呂(りょ)陰音階
地元の伝承の歌が歌謡曲にまで発展してっているんだなあという事が解ると思う。
似たようなのには宮崎の刈干切唄、岩手の南部牛追唄とか、けっこう広く存在する。
呂(りょ)陰音階も広い意味で日本の音階に含めていいと思う。
日本の音階には様々な種類があり、それぞれが独特の情緒を持っている。
世界にも珍しい。
富士山、和食は世界遺産としてもてはやされているが、伝統ある日本の音階も大変な文化遺産なので、21世紀も歌い継ぎ、この音階をもとにして、新しい発展を期待している。
西洋音楽に日本のわらべうた、 子守唄は圧倒されてしまっているが、次の世代に伝える動きが底流としてはある。
立川、八王子の太鼓のグループと交流があるが、お手玉の会(鈴木幸子さん?中心に)があり、今や市を挙げてやっている状況です。
最近はやらない様々な技巧があり、改めて習うと面白い。
きっかけがあると皆のってくる。
湯山晃子さん?とか落合美智子さん?とかが、子供たちを集めて童歌の遊びや歌をやったりとかそういう実践、幼児教育の場に行って普及に努めている。
小学校の教育現場、東京都の公立小学校の研究所があり、国分寺の小学校で低学年の童歌の
授業があり、見に行ったら童歌の音階を手の合図でやって、それから童歌を自分で作っている授業もあって面白かった。
萩京子さんの全国童歌の会がある
西舘好子さん 日本子守唄協会 全国的にコンサートを開いたりして活動している。
わらべ歌、子守唄は日本語に合ったものである。
子供たちの成長段階に合う。
生れて先ず、お母さんの言葉をきき、歌って下さるのが赤ちゃんに直に入る。
脳の奥にしまわれてて大事な宝になる。
目前に迫っているのが、国分寺、泉ホールでコンサートがあり、オカリナ、しの笛、ハープの組み合わせで、日本の春と言うタイトルで、天平の響きを再現したいなあと、夢を描いている。
越天楽、演奏したい、春のやよいを現代風に演奏したい。
子供たちの江戸時代から明治、沢山の遊んでいる絵だとか行事があるので、それらを資料として残して、これからの研究とか教育に役立ててほしいと思っている。
じゃんけんも研究している。 資料を集めている。
江戸時代の後期に子供たちが作ったと考えられる。
一躍全国に広がり、世界にも広がっている。
じゃんけんの文化史のようなものを書いておきたいと思っている。
楽譜や本を出したり、演奏会、講演を開いたりして日本の伝統音楽ウィ継承する為の活動を続けています。
昨年3月に「子守唄と民話」という石井雅美先生の編集で本を出して、もも太郎の子守唄を出しまして、作詞者が判らない判らない、第3節からの歌詞が解らないという事で、それを解明したいと思うのが私の主な狙いの文章です。
今井ただ子先生?のマリンバの先生 ボランティアで積極的にコンサートをやっていて、呼ばれて、岩手の廻れ水車、会津磐梯山などを演奏した。
国便時の泉ホールで音楽祭があってそこで、ハープとオカリナとしの笛とでん日本の音階をメインにした曲を演奏しました。
出雲神楽を聞きながら育った。
子守唄、童歌歌ったり、父も尺八を吹いていた。
出雲神楽の旋律が雅楽で使う龍笛?(横笛)を使う。 音律はしの笛とは違う。
一瞬の感動も大事、あるとき映画を見ていて、その時に「千鳥」の曲があって、日本の音楽は素晴らしいと思った。
昭和29年に島根大学音楽科入学、昭和33年卒業 上京して教員になる。
坂本義孝先生?が日本民謡集を纏められたものが2冊出ていて、演奏していた。
広島県の中国山地の近い方で中世から伝統的に伝わっている田楽がある。
太鼓に合わせ歌うが、それを編曲した合唱曲を合唱したりした。
主としてはバイオリンを4年間やるが、日本民謡にも触れた。
芸大の小泉文夫先生が日本伝統音楽の研究があらわされて、画期的な音階の研究で、その影響を受けた。
ドイツから作曲家のオルフが来て、器楽の教材を持ちこんだ。
童歌とか民謡を材料にして子供たちに合奏をさせると言うのが入ってきた。
童歌を中心に研究しなければという方向になる。
童歌は地方ではどう歌っているのだろうかとか、江戸、明治、大正と、時の流れに依ってどのように変わったんだろうかとか、遊びはどのようにしていたのかとか、疑問が色々浮かんできた。
研究してみたいと思って、文部省ん申請したら、道めてもらい、3年間助成をしてもらった。
秋田の童歌「上見れば」 編曲尾原昭夫
日本の歌と音階が大事。
日本の音階には4種類ある。 律音階、民謡音階、都節音階、琉球音階。 日本の音階の主要
其他に呂(りょ)音階 呂(りょ)陰音階がある。
大和琴の糸の音の調整が丁度律音階になっている。
平安時代に雅楽に春のやよいとか、君が代もこの律音階
民謡音階 かごめかごめ とか てんてんてんまり、とか庶民的な音階になる。
都節音階 うーさぎうさぎ とか 江戸子守唄 ねんねんころりよ 雅やかになる。
琉球音階 琉球諸島で主に歌われている。
呂(りょ)音階 ド、レ、ミ、ソ、ラ、ド (ファとシが抜ける) 「島育ち」などもそう。
呂(りょ)陰音階
地元の伝承の歌が歌謡曲にまで発展してっているんだなあという事が解ると思う。
似たようなのには宮崎の刈干切唄、岩手の南部牛追唄とか、けっこう広く存在する。
呂(りょ)陰音階も広い意味で日本の音階に含めていいと思う。
日本の音階には様々な種類があり、それぞれが独特の情緒を持っている。
世界にも珍しい。
富士山、和食は世界遺産としてもてはやされているが、伝統ある日本の音階も大変な文化遺産なので、21世紀も歌い継ぎ、この音階をもとにして、新しい発展を期待している。
西洋音楽に日本のわらべうた、 子守唄は圧倒されてしまっているが、次の世代に伝える動きが底流としてはある。
立川、八王子の太鼓のグループと交流があるが、お手玉の会(鈴木幸子さん?中心に)があり、今や市を挙げてやっている状況です。
最近はやらない様々な技巧があり、改めて習うと面白い。
きっかけがあると皆のってくる。
湯山晃子さん?とか落合美智子さん?とかが、子供たちを集めて童歌の遊びや歌をやったりとかそういう実践、幼児教育の場に行って普及に努めている。
小学校の教育現場、東京都の公立小学校の研究所があり、国分寺の小学校で低学年の童歌の
授業があり、見に行ったら童歌の音階を手の合図でやって、それから童歌を自分で作っている授業もあって面白かった。
萩京子さんの全国童歌の会がある
西舘好子さん 日本子守唄協会 全国的にコンサートを開いたりして活動している。
わらべ歌、子守唄は日本語に合ったものである。
子供たちの成長段階に合う。
生れて先ず、お母さんの言葉をきき、歌って下さるのが赤ちゃんに直に入る。
脳の奥にしまわれてて大事な宝になる。
目前に迫っているのが、国分寺、泉ホールでコンサートがあり、オカリナ、しの笛、ハープの組み合わせで、日本の春と言うタイトルで、天平の響きを再現したいなあと、夢を描いている。
越天楽、演奏したい、春のやよいを現代風に演奏したい。
子供たちの江戸時代から明治、沢山の遊んでいる絵だとか行事があるので、それらを資料として残して、これからの研究とか教育に役立ててほしいと思っている。
じゃんけんも研究している。 資料を集めている。
江戸時代の後期に子供たちが作ったと考えられる。
一躍全国に広がり、世界にも広がっている。
じゃんけんの文化史のようなものを書いておきたいと思っている。
2014年2月13日木曜日
杉田 徹(養豚業) ・震災を体験して 私の復興(2)
杉田 徹(養豚業) 震災を体験して 私の復興(2)
宮城県 南陸町で養豚業を営む杉田さん 70歳
志津川で養豚業を始めたのは46歳の時、それまで東京を拠点にフリーのカメラマンをしていました。
スペインの羊飼や農業、漁業を営む明治生まれの人々など、自然と向き合って生きる人々にカメラを向ける中で、コンクリートの中の生活に疑問を持ち、南三陸町志津川で養豚を始めました。
山の中の2ヘクタールで豚を放し飼いにして、手作りのえさを与え、市場を通さず直接消費者に届ける販売を行っています。
しかし東日本大震災では餌の確保が難しくなり、収入も途絶え、一時は止めなければならない状況に立たされました。
震災後に旅したイタリアのフィレンツエで刺激を受け新しい一歩を踏み出した、杉田さんの農場での話などをうかがいます。
前々からフィレンツエ、ルネッセンスが気になっていたので確かめたかった。
確かめるのには写真しかないと思った。
震災があって、豚の頭数が少なくなり、留守中に甥に預ける事が可能で有ったので、家族とともに出掛けた。
現代のフェレンツエにかつてのルネッサンスを見つけたい。
ルネッサンスが興した、人間の復活、個人の復活を見たいと思った。
職人の人たちに拙いイタリア語で話を交わして、写真を通して、かつてのルネッサンスを見ようとした。 120名
30代に出した日本の農業と漁業で生きてきた人々の写真集を見せて、職人達を撮って行った。
家具職人、額縁、靴の職人も多い。 驚いた職人は画家。
画家も店がアトリエになっていて、自分が書いたものを、他人のもあるが、売っている。
自分の手で作ることに誇りを持っている。
なんで自分で豚を育てて、肉を売るという事は自信がないとできない。
ルネサッサンスの根源があると思う。
世間に媚びずに、こういうものを作れば、こういうものを書けば、売れてお金が入るぞと、わかってもそれをやらないで自分を貫き通す、それを理解してくれる人がいるというのが凄いと思った。
売れなくても誇りを持っている。 (この辺の内容?)
都会で住んで写真をやっていて、46歳の時にここに来たが、それはなぜかと言うのは、都会と言う人工環境に中では、自分が自分で有りたいというのがなかなか満たされる環境ではない。
日本ではどこかとかと考えると、日本の自然の中であってこそ、私が私であることができる。
それでここに来た。 ルネッサンスと重なるところはそこですね。
ヨーロッパは個人主義、
フィレンツエでは2か月間過ごす。
冬であるのに岩だらけのアルプスを越えて、イタリアに入った途端に緑で有るのには吃驚した。
冬が雨の季節であることを知った。 結果、美味しい食材で有る事を知った。
美味しいお酒を飲み、美味しい食べ物を食べて、快適さがあり、物を考える事には大事な環境であると思う。
豚の農場も見学する。 放牧していて私のところと同じで、餌は近くにある工場から持ってくるのと、硬くなったパンを食べさしたりしていた。
日本のものよりもかなり美味しかった。 臭みは無いし、肉にうまみがあった。
肉は塊で売っていて、日本の様にスライスするという料理法はない。
震災前は7,8頭 販売できたが、震災後は5頭になってしまった。
鶏の肉鳥の販売も手掛ける。 家で肉のスライス加工をする作業をやってカバーする。
甥はやはり合わないという事で6カ月後には止める事になる。
宿泊して農場体験してもらうという事もおこなう。 1~2週間 今年香港から女性が来る。
レストランで肉料理を提供する事も始める。 自分がやっている最終の仕事だと思っている。
宮城県 南陸町で養豚業を営む杉田さん 70歳
志津川で養豚業を始めたのは46歳の時、それまで東京を拠点にフリーのカメラマンをしていました。
スペインの羊飼や農業、漁業を営む明治生まれの人々など、自然と向き合って生きる人々にカメラを向ける中で、コンクリートの中の生活に疑問を持ち、南三陸町志津川で養豚を始めました。
山の中の2ヘクタールで豚を放し飼いにして、手作りのえさを与え、市場を通さず直接消費者に届ける販売を行っています。
しかし東日本大震災では餌の確保が難しくなり、収入も途絶え、一時は止めなければならない状況に立たされました。
震災後に旅したイタリアのフィレンツエで刺激を受け新しい一歩を踏み出した、杉田さんの農場での話などをうかがいます。
前々からフィレンツエ、ルネッセンスが気になっていたので確かめたかった。
確かめるのには写真しかないと思った。
震災があって、豚の頭数が少なくなり、留守中に甥に預ける事が可能で有ったので、家族とともに出掛けた。
現代のフェレンツエにかつてのルネッサンスを見つけたい。
ルネッサンスが興した、人間の復活、個人の復活を見たいと思った。
職人の人たちに拙いイタリア語で話を交わして、写真を通して、かつてのルネッサンスを見ようとした。 120名
30代に出した日本の農業と漁業で生きてきた人々の写真集を見せて、職人達を撮って行った。
家具職人、額縁、靴の職人も多い。 驚いた職人は画家。
画家も店がアトリエになっていて、自分が書いたものを、他人のもあるが、売っている。
自分の手で作ることに誇りを持っている。
なんで自分で豚を育てて、肉を売るという事は自信がないとできない。
ルネサッサンスの根源があると思う。
世間に媚びずに、こういうものを作れば、こういうものを書けば、売れてお金が入るぞと、わかってもそれをやらないで自分を貫き通す、それを理解してくれる人がいるというのが凄いと思った。
売れなくても誇りを持っている。 (この辺の内容?)
都会で住んで写真をやっていて、46歳の時にここに来たが、それはなぜかと言うのは、都会と言う人工環境に中では、自分が自分で有りたいというのがなかなか満たされる環境ではない。
日本ではどこかとかと考えると、日本の自然の中であってこそ、私が私であることができる。
それでここに来た。 ルネッサンスと重なるところはそこですね。
ヨーロッパは個人主義、
フィレンツエでは2か月間過ごす。
冬であるのに岩だらけのアルプスを越えて、イタリアに入った途端に緑で有るのには吃驚した。
冬が雨の季節であることを知った。 結果、美味しい食材で有る事を知った。
美味しいお酒を飲み、美味しい食べ物を食べて、快適さがあり、物を考える事には大事な環境であると思う。
豚の農場も見学する。 放牧していて私のところと同じで、餌は近くにある工場から持ってくるのと、硬くなったパンを食べさしたりしていた。
日本のものよりもかなり美味しかった。 臭みは無いし、肉にうまみがあった。
肉は塊で売っていて、日本の様にスライスするという料理法はない。
震災前は7,8頭 販売できたが、震災後は5頭になってしまった。
鶏の肉鳥の販売も手掛ける。 家で肉のスライス加工をする作業をやってカバーする。
甥はやはり合わないという事で6カ月後には止める事になる。
宿泊して農場体験してもらうという事もおこなう。 1~2週間 今年香港から女性が来る。
レストランで肉料理を提供する事も始める。 自分がやっている最終の仕事だと思っている。
2014年2月12日水曜日
杉田 徹(養豚業) ・震災を体験して 私の復興(1)
杉田 徹(養豚業) 震災を体験して 私の復興(1)
ソチオリンピックの為、途中から放送がスタート。
学校に迎えに行った時は水は引いていたね。
茫然というわけでもないけど、あまり感情は湧いてこなかった。 どうしようしようも無いので。
友達は家を流されたけど、彼は淡々と写真を撮っていた。
その時思ったのは、あるか、ないか、生きているか、死んでいるか。その事実しかない。
ある命、それがいずれか命が亡くなる。
命がある間を私はどう生きるか、それを計算する。 自分を作り上げてゆく為に私は生きている。
配合飼料は与えない。 発酵した、お金のほとんどかからない餌を与える。
養豚はほとんどが餌代なので、そして発酵した餌だと豚も病気にならない。 外で放牧する。
その上美味しい肉になる。 自信を持って自分が付けた値段で売る。(美味しくなければだめ)
大量生産は出来ない。
便利な暮らし方とは違う。 かまどでご飯を炊くがそのほうがご飯が美味いから。
薪ストーブ 薪を取ってきたり、薪をくべたり、肉体は疲れるが、身体に良い。
苦がないと楽は無い。
薪を作ったりして、家に帰って作業着を脱いで、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするときの快感は何とも言えない、そういう楽がある。
この地にきて25年、それまではカメラマンをしていた。
高度成長期での報道写真を撮って雑誌に載せていたのが3,4年続く。
辟易として来て、日本を抜け出して韓国に行った。
韓国の石仏に出会って、惹かれて、石仏の写真を撮った。
日本人が韓国には旅行にはほとんどいっていなかった。
親しくなると私の日本名は何何ですと、ぼそっという。
その人の名前までを奪うのは、これはひどいことだと思った。
日本人と言う民族を調べ始めないといけないと思った。
日本の自然風土とかかわって、暮らしてきた明治の時代に生まれた人々に会って、話を聞いて写真を撮る作業を始めた。
押し並べてどんな人でも苦労したという事だった。
かつての暮らしはしんどかった、しんどかったという。
私がそれを実際に体験してみようと思った。
あるところで1年間そういう暮らしをした。
雑草とどうやって付き合うかが、私にとって酷かったし、わたし自身が雑草を取るのが凄く嫌いだと言う事がよくわかった。
そういう理由で、こういうところに住んで、畑をやらないで、豚を選んだ大きな理由になる。
車を使うとか、冷蔵庫を使うとかは、昔の人にくらべれば楽ではあるが。
手間がかかる事はあるが、身体を使って考える大切さを知った。
秋田から宮城県の海辺の集落に移り住んだ。(住んでみたかった場所だった 3年住んだ)
又カメラを持って、日本人として理想の食が得られるここの人々に対して3年間写真に収めた。
日本人は自然の中に身を置いて、土手でお茶を飲んだりしてたたずむ光景などは、本当に伸びやかで、秋のススキがなびくなかでお茶をのむ、その人が解放されている。
日本人と自然とのかかわり合いの中で、一時が解放される事が、自然の中なんだんなあと思った。
その後スペインに行く。 2万人ぐらいの街 電気の無い村にバイクでかよって撮ったりした。
2年間住む。 乾ききった自然なのであまり自然に拘わらない。 恵みを与えてくれない風土。
自然は楽しみをあたえてくれない、自然とは関らず、人間同士で楽しもうじゃなあかと、そういう生活スタイル。
バル?に何気なしに入ったら、どやどやと5人が入ってきて、パンを広げて、ワインを一本取って麻の食事を始めた。
珍しいので写真を撮らせてくれと言って、写真を撮らせてもらったら、一緒に飲むように誘われて、友達になろうよと握手してきてくれた。
日本ではない光景であった。
飲め飲めとワインを進める。 皆が出てゆき私一人が取り残されて、どうも日本の友達とこちらの友達はちがうのかなあと思った。
そこで2年も暮らすと、彼等は自然を相手にしないで、我々人間は人間だけで楽しもうと、彼等はわたしと友だちになって楽しもうよ、と言う事が後になって判った。
日本人同士では「ありがとう」と言うが、私が「ありがとう」と言うと、我々は友達なのでそんなことをいうのは水臭いと言われてしまう。
遠慮はいらない、「ありがとう」と言うのは不自然だと言われてしまう。
日本では、友だち同士は 例えばどてに座って、自然に囲まれて、おだやかに自分が解放されているように、それを友だち同士が寄る、という。 付き合って安らぐ。
友だちの間柄で礼儀とは何かと言うと、自分を隠しては駄目だという事、いつも自分自身でいる事、これが礼儀。 彼らに教わった。
なんで都会で出来なかったか、都会では安らぐ事は出来ない。
自然の風土の中でしか魂が安らぐことはできないし、私らしく生きる事は、自然のなかだ、と言う事です。
南三陸町志津川に移って、3月11日に大震災に合い、餌の材料を取っていた冷凍食品工場が津波で流されて、餌が入ってこなくなり、豚を飼う事は止めようと思った。
止めるとどうなるか先が解らなかったが、母豚 7頭 オス豚1頭 処分する。
肉豚は残した。 えさは何とかやりくりしていた。(津波の前の日に1週間分を作ってあった)
こんなにおいしい豚肉を止めていいのか、改めて考えた。
甥に声をかけたらいいよと、言ってくれて2人で始めた。
豚は穀類が必要。 パン粉、小麦を使いたかったので、何とか見つけて繋げてきた。
以前からイタリアのフィレンツエに行きたいという想いがあり、保険を解約して一部を使って、2ヶ月間行ってきた。(豚が一番少ない時期でもあり、この時しかないと思った)
当時は家族は反対されたが、子供たちにとってもいい経験になると思い、一緒に連れていった。
魂を育てるためにお金を使う。
ソチオリンピックの為、途中から放送がスタート。
学校に迎えに行った時は水は引いていたね。
茫然というわけでもないけど、あまり感情は湧いてこなかった。 どうしようしようも無いので。
友達は家を流されたけど、彼は淡々と写真を撮っていた。
その時思ったのは、あるか、ないか、生きているか、死んでいるか。その事実しかない。
ある命、それがいずれか命が亡くなる。
命がある間を私はどう生きるか、それを計算する。 自分を作り上げてゆく為に私は生きている。
配合飼料は与えない。 発酵した、お金のほとんどかからない餌を与える。
養豚はほとんどが餌代なので、そして発酵した餌だと豚も病気にならない。 外で放牧する。
その上美味しい肉になる。 自信を持って自分が付けた値段で売る。(美味しくなければだめ)
大量生産は出来ない。
便利な暮らし方とは違う。 かまどでご飯を炊くがそのほうがご飯が美味いから。
薪ストーブ 薪を取ってきたり、薪をくべたり、肉体は疲れるが、身体に良い。
苦がないと楽は無い。
薪を作ったりして、家に帰って作業着を脱いで、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするときの快感は何とも言えない、そういう楽がある。
この地にきて25年、それまではカメラマンをしていた。
高度成長期での報道写真を撮って雑誌に載せていたのが3,4年続く。
辟易として来て、日本を抜け出して韓国に行った。
韓国の石仏に出会って、惹かれて、石仏の写真を撮った。
日本人が韓国には旅行にはほとんどいっていなかった。
親しくなると私の日本名は何何ですと、ぼそっという。
その人の名前までを奪うのは、これはひどいことだと思った。
日本人と言う民族を調べ始めないといけないと思った。
日本の自然風土とかかわって、暮らしてきた明治の時代に生まれた人々に会って、話を聞いて写真を撮る作業を始めた。
押し並べてどんな人でも苦労したという事だった。
かつての暮らしはしんどかった、しんどかったという。
私がそれを実際に体験してみようと思った。
あるところで1年間そういう暮らしをした。
雑草とどうやって付き合うかが、私にとって酷かったし、わたし自身が雑草を取るのが凄く嫌いだと言う事がよくわかった。
そういう理由で、こういうところに住んで、畑をやらないで、豚を選んだ大きな理由になる。
車を使うとか、冷蔵庫を使うとかは、昔の人にくらべれば楽ではあるが。
手間がかかる事はあるが、身体を使って考える大切さを知った。
秋田から宮城県の海辺の集落に移り住んだ。(住んでみたかった場所だった 3年住んだ)
又カメラを持って、日本人として理想の食が得られるここの人々に対して3年間写真に収めた。
日本人は自然の中に身を置いて、土手でお茶を飲んだりしてたたずむ光景などは、本当に伸びやかで、秋のススキがなびくなかでお茶をのむ、その人が解放されている。
日本人と自然とのかかわり合いの中で、一時が解放される事が、自然の中なんだんなあと思った。
その後スペインに行く。 2万人ぐらいの街 電気の無い村にバイクでかよって撮ったりした。
2年間住む。 乾ききった自然なのであまり自然に拘わらない。 恵みを与えてくれない風土。
自然は楽しみをあたえてくれない、自然とは関らず、人間同士で楽しもうじゃなあかと、そういう生活スタイル。
バル?に何気なしに入ったら、どやどやと5人が入ってきて、パンを広げて、ワインを一本取って麻の食事を始めた。
珍しいので写真を撮らせてくれと言って、写真を撮らせてもらったら、一緒に飲むように誘われて、友達になろうよと握手してきてくれた。
日本ではない光景であった。
飲め飲めとワインを進める。 皆が出てゆき私一人が取り残されて、どうも日本の友達とこちらの友達はちがうのかなあと思った。
そこで2年も暮らすと、彼等は自然を相手にしないで、我々人間は人間だけで楽しもうと、彼等はわたしと友だちになって楽しもうよ、と言う事が後になって判った。
日本人同士では「ありがとう」と言うが、私が「ありがとう」と言うと、我々は友達なのでそんなことをいうのは水臭いと言われてしまう。
遠慮はいらない、「ありがとう」と言うのは不自然だと言われてしまう。
日本では、友だち同士は 例えばどてに座って、自然に囲まれて、おだやかに自分が解放されているように、それを友だち同士が寄る、という。 付き合って安らぐ。
友だちの間柄で礼儀とは何かと言うと、自分を隠しては駄目だという事、いつも自分自身でいる事、これが礼儀。 彼らに教わった。
なんで都会で出来なかったか、都会では安らぐ事は出来ない。
自然の風土の中でしか魂が安らぐことはできないし、私らしく生きる事は、自然のなかだ、と言う事です。
南三陸町志津川に移って、3月11日に大震災に合い、餌の材料を取っていた冷凍食品工場が津波で流されて、餌が入ってこなくなり、豚を飼う事は止めようと思った。
止めるとどうなるか先が解らなかったが、母豚 7頭 オス豚1頭 処分する。
肉豚は残した。 えさは何とかやりくりしていた。(津波の前の日に1週間分を作ってあった)
こんなにおいしい豚肉を止めていいのか、改めて考えた。
甥に声をかけたらいいよと、言ってくれて2人で始めた。
豚は穀類が必要。 パン粉、小麦を使いたかったので、何とか見つけて繋げてきた。
以前からイタリアのフィレンツエに行きたいという想いがあり、保険を解約して一部を使って、2ヶ月間行ってきた。(豚が一番少ない時期でもあり、この時しかないと思った)
当時は家族は反対されたが、子供たちにとってもいい経験になると思い、一緒に連れていった。
魂を育てるためにお金を使う。
2014年2月11日火曜日
御手洗瑞子(ニット会社代表) ・被災者の心を一つに編む
御手洗瑞子(ニット会社代表) 被災者の心を一つに編む
東日本大震災から来月で3年 復興の状況は地域によって様々ですが、産業の復興や新たな地域おこしの面ではまだまだこれからというところです。
此のような中、震災で大きな被害を受けた、気仙沼で新たな地域産業が起こっています。
コピーライターの糸井重里さんのアイデデアから生まれた、気仙沼ニッティングという会社です。
この会社では地元の主婦の皆さんが中心になって、セーターやカーディガンを手編みで製造し、全国に販売しています。
日常の作業はそれぞれ自宅で行っているが、週に一回開かれる編み会は主婦の皆さんのおしゃべりや情報交換の場所にもなっており、楽しんで仕事をしながら家計の助けにもなっています。
この会社の代表を務めているのが28歳意の御手洗珠子さんです。
大学卒業後、コンサルティング会社に勤め、その間にブータンの観光振興の政府の仕事に携わる事になり、帰国後縁あってこのニット会社の代表を務めています。
20畳ぐらいの部屋で20名程度の人が週に一度集まって作業をする。
主にオーダーメードのカーディガンが基幹製品 エチュードと言う名前のセーターが主なもの。
アイルランドのアラン諸島を発祥としている、アランのセーターに似ている。
模様にもそれぞれ意味がある。 航海の無事を祈るというような。
気仙沼はもともと遠洋漁業の漁師街で編むという文化に親しい。
魚場に着くまで時間がかかるので、漁師さんが自ら編んだり、旦那さんを待つ間に旦那さんの為のセーターを編んだりしている。
そういった関係で編み物と相性がいいところと成っている。
編み会になると楽しくおしゃべりをしながら、やっている。
皆さん、良い物を編もうとか、ドンドンうまくなっていこうという想いが強い。
ほとんど復興支援のプロジェクトは残ってないなあと思うが、中長期的に東北の復興を考えた時に、外からの支援がひいた後に、ちゃんと現地に残る産業があると、そこできちんと持続的に収益を上げて地域に貢献してゆくことができるものを作る必要があると思った。(一過性でなく)
地域に根ずいて続けてゆく為には収益がないと駄目。
かわいそうだから買ってあげようというようなことでは持続性がない。
初期の頃、編み手さんが言った事、子物みたいなもの(たわしとか)どう参加していいかわからなかったと言っていた。
仕事の楽しさは良い物を作ったらお客さんが喜んでくれる、それっが嬉しくてもっといいものを作るろうと思えるそういう仕事をしてゆくのが誇りだと思った。
かわいそうだから買ってあげようという様な物を作ることが、自分の心持が解らなかった、と言われた。
働く人が誇りをもてるようにしようと思った。
そのためには妥協せず良い物を作ることと、お客さんが本当に欲しいと思って買ってくれるという形にしていかないといけないと思った。
全力でやっているからこそ喜ベるという事はあると思う。 ポジティブな循環になっている。
仮設住宅に入居している人は半分ぐらいいる。
自分だけではではどうにもできない事は暮らしのほとんどだと思いますが、どこか一か所でも自分が頑張れば良い結果を出せるところがあれば、気持ちを明るく持つ良い場所になっていると思う。
辛い事を抱えながら仕事に没頭する、非常に前向きになれる場所になっている。
私は東京生まれ、東京育ちで、気仙沼には震災後何度か足を運んで、友達が出来て縁あってこの仕事をするようになった。
震災前はブータンで産業育成の働いていた。
糸井重里さんとインターネットで知り合う。 糸井さんがブータンに来てくれて、交流があった。
帰国後、ブータンの事で対談があり出版社の方々がいて、糸井さんからいきなり気仙沼出編み物の会社をやりたいのだが社長をやってくれないかと言われて、是非にと言う形で引き受ける事になる。
気仙沼の人は物凄く面白い。 視野がひろく垢ぬけている。
遠洋漁業なので世界各地に行っているので、世界に海でつながっている。
田舎だという様なコンプレックスはない。
グローバルな考え方があって、大きなことに対してチャレンジしたがって、リスク持つる事が出来て、常に堂々としている。
ここ場所だったから新しいことができるのではないかと思った。
若いよそ者が来て、世界出戦えるようなブランドにして生きたいというような話をしたら、普通の田舎では何を言っているのかと言われてしまうが、気仙沼の人は夢はそのぐらいでなくちゃと盛り上がる。
こちらに来ることには全然迷いはなかった。
被災地とは言え、ブータンにいるときの方がよっぽど物がなかった。
小学校5年生の時に子供の国際キャンプに出掛けた。
世界中に友達ができるようにしようとの目的があって、ポルトガルのキャンプに行って1か月一緒に暮らした。
世界が小さくなった感覚がった。
自分の友達がいる国だといろいろなことが起こった時に心配になる。
友だちになれるような子が、いろいろ辛い経験をしている事を想像することが、自分にとっての大きな原体験で、中高生の時にも、十代のための国際会議などにもでましたが、やはり原点としては日本にいて学校生活を送っているが、離れた地域の人の事を創造しやすくなったというか、我がことのように感じるようになった。
海外からみた時に日本人とはこういうものだと思われやすいが、考えていた日本人像とは気仙沼の人はあまりにもかけ離れていたし、自分は日本を知らないあなと思った。
気仙沼の人は懐が深いのだと思う。 外から来ることに慣れている土地だと思う。
世界で通用するブランドまで育てる。 パリ、ミラノでも気仙沼ニッティングでは知られていて、2011年に震災があった時に出来た会社らいいよ、と言われるようになって丁度いいと思っている。
そこからか考えると、まだまだやることがいっぱいあって、やることが山ほどある。
編み手が19人いて、これから新しく入る方が14人いて30人を越える。
編み手にはできないが拘わりたいと思っている人もいるので、接点の人が増えてくれれば良いと思っている。(地域のすそ野の広がり)
漁業の街と同じように編み物の街と言われるようになってくれれば、嬉しい。
ハーバードビジネススクールの皆さんが取材、調査に来てくれて、ハーバードビジネススクールの事例教材として取り上げて頂く事になっていて、ハーバードビジネススクールの教材は世界中で使うので、各国のMBAの学生たちがうちの事例に学ぶのを楽しみにしている
メディアに取り上げて頂いても、震災後に気仙沼でこういった会社が立ちあがったという文脈が強いので、今年はもっと商品を一人歩きさせたいと思っている。
東日本大震災から来月で3年 復興の状況は地域によって様々ですが、産業の復興や新たな地域おこしの面ではまだまだこれからというところです。
此のような中、震災で大きな被害を受けた、気仙沼で新たな地域産業が起こっています。
コピーライターの糸井重里さんのアイデデアから生まれた、気仙沼ニッティングという会社です。
この会社では地元の主婦の皆さんが中心になって、セーターやカーディガンを手編みで製造し、全国に販売しています。
日常の作業はそれぞれ自宅で行っているが、週に一回開かれる編み会は主婦の皆さんのおしゃべりや情報交換の場所にもなっており、楽しんで仕事をしながら家計の助けにもなっています。
この会社の代表を務めているのが28歳意の御手洗珠子さんです。
大学卒業後、コンサルティング会社に勤め、その間にブータンの観光振興の政府の仕事に携わる事になり、帰国後縁あってこのニット会社の代表を務めています。
20畳ぐらいの部屋で20名程度の人が週に一度集まって作業をする。
主にオーダーメードのカーディガンが基幹製品 エチュードと言う名前のセーターが主なもの。
アイルランドのアラン諸島を発祥としている、アランのセーターに似ている。
模様にもそれぞれ意味がある。 航海の無事を祈るというような。
気仙沼はもともと遠洋漁業の漁師街で編むという文化に親しい。
魚場に着くまで時間がかかるので、漁師さんが自ら編んだり、旦那さんを待つ間に旦那さんの為のセーターを編んだりしている。
そういった関係で編み物と相性がいいところと成っている。
編み会になると楽しくおしゃべりをしながら、やっている。
皆さん、良い物を編もうとか、ドンドンうまくなっていこうという想いが強い。
ほとんど復興支援のプロジェクトは残ってないなあと思うが、中長期的に東北の復興を考えた時に、外からの支援がひいた後に、ちゃんと現地に残る産業があると、そこできちんと持続的に収益を上げて地域に貢献してゆくことができるものを作る必要があると思った。(一過性でなく)
地域に根ずいて続けてゆく為には収益がないと駄目。
かわいそうだから買ってあげようというようなことでは持続性がない。
初期の頃、編み手さんが言った事、子物みたいなもの(たわしとか)どう参加していいかわからなかったと言っていた。
仕事の楽しさは良い物を作ったらお客さんが喜んでくれる、それっが嬉しくてもっといいものを作るろうと思えるそういう仕事をしてゆくのが誇りだと思った。
かわいそうだから買ってあげようという様な物を作ることが、自分の心持が解らなかった、と言われた。
働く人が誇りをもてるようにしようと思った。
そのためには妥協せず良い物を作ることと、お客さんが本当に欲しいと思って買ってくれるという形にしていかないといけないと思った。
全力でやっているからこそ喜ベるという事はあると思う。 ポジティブな循環になっている。
仮設住宅に入居している人は半分ぐらいいる。
自分だけではではどうにもできない事は暮らしのほとんどだと思いますが、どこか一か所でも自分が頑張れば良い結果を出せるところがあれば、気持ちを明るく持つ良い場所になっていると思う。
辛い事を抱えながら仕事に没頭する、非常に前向きになれる場所になっている。
私は東京生まれ、東京育ちで、気仙沼には震災後何度か足を運んで、友達が出来て縁あってこの仕事をするようになった。
震災前はブータンで産業育成の働いていた。
糸井重里さんとインターネットで知り合う。 糸井さんがブータンに来てくれて、交流があった。
帰国後、ブータンの事で対談があり出版社の方々がいて、糸井さんからいきなり気仙沼出編み物の会社をやりたいのだが社長をやってくれないかと言われて、是非にと言う形で引き受ける事になる。
気仙沼の人は物凄く面白い。 視野がひろく垢ぬけている。
遠洋漁業なので世界各地に行っているので、世界に海でつながっている。
田舎だという様なコンプレックスはない。
グローバルな考え方があって、大きなことに対してチャレンジしたがって、リスク持つる事が出来て、常に堂々としている。
ここ場所だったから新しいことができるのではないかと思った。
若いよそ者が来て、世界出戦えるようなブランドにして生きたいというような話をしたら、普通の田舎では何を言っているのかと言われてしまうが、気仙沼の人は夢はそのぐらいでなくちゃと盛り上がる。
こちらに来ることには全然迷いはなかった。
被災地とは言え、ブータンにいるときの方がよっぽど物がなかった。
小学校5年生の時に子供の国際キャンプに出掛けた。
世界中に友達ができるようにしようとの目的があって、ポルトガルのキャンプに行って1か月一緒に暮らした。
世界が小さくなった感覚がった。
自分の友達がいる国だといろいろなことが起こった時に心配になる。
友だちになれるような子が、いろいろ辛い経験をしている事を想像することが、自分にとっての大きな原体験で、中高生の時にも、十代のための国際会議などにもでましたが、やはり原点としては日本にいて学校生活を送っているが、離れた地域の人の事を創造しやすくなったというか、我がことのように感じるようになった。
海外からみた時に日本人とはこういうものだと思われやすいが、考えていた日本人像とは気仙沼の人はあまりにもかけ離れていたし、自分は日本を知らないあなと思った。
気仙沼の人は懐が深いのだと思う。 外から来ることに慣れている土地だと思う。
世界で通用するブランドまで育てる。 パリ、ミラノでも気仙沼ニッティングでは知られていて、2011年に震災があった時に出来た会社らいいよ、と言われるようになって丁度いいと思っている。
そこからか考えると、まだまだやることがいっぱいあって、やることが山ほどある。
編み手が19人いて、これから新しく入る方が14人いて30人を越える。
編み手にはできないが拘わりたいと思っている人もいるので、接点の人が増えてくれれば良いと思っている。(地域のすそ野の広がり)
漁業の街と同じように編み物の街と言われるようになってくれれば、嬉しい。
ハーバードビジネススクールの皆さんが取材、調査に来てくれて、ハーバードビジネススクールの事例教材として取り上げて頂く事になっていて、ハーバードビジネススクールの教材は世界中で使うので、各国のMBAの学生たちがうちの事例に学ぶのを楽しみにしている
メディアに取り上げて頂いても、震災後に気仙沼でこういった会社が立ちあがったという文脈が強いので、今年はもっと商品を一人歩きさせたいと思っている。
2014年2月10日月曜日
2014年2月9日日曜日
2014年2月8日土曜日
熊井英水(近畿大学水産研究所顧問)・クロマグロ完全養殖への道
熊井英水(近畿大学水産研究所顧問) クロマグロ完全養殖への道
78歳 和歌山県 近畿大学水産研究所顧問 ヒラメやかんぱち等の人工ふ化や完全養殖を成功させ、平成14年には、世界で初めてクロマグロの完全養殖を成功させました。
海で稚魚を捕獲して育てるそれまでの養殖と違って、いけすの中のマグロに卵を生ませ、孵化せて育てるのが完全養殖です。
成功までに32年もかかりました。
去年、大阪の梅田と、東京の銀座に完全養殖のクロマグロを提供する、アンテナショップを開店させ、研究から普及に舵を切りました。
大トロがとれるクロマグロはホンマグロと言われ、日本人にとって特別な魚です。
その完全養殖に拘ったのはなぜか、熊井さんにお聞きしました。
アンテナショップは近畿大学が運営している。
天然ものと比べて遜色ないといわれている。 養殖は薬付けなどと言う事はまったくない。
30m角で深さ10mのいけすで、一番大きくなったのは304.9kg 2m87cm 。(15年掛かった)
天然と比べると脂肪分が高い。
最初2年目に 兎に角出荷して見せてほしいといわれて、いろんな方を呼んで試食会をやった。
赤みが10%、中トロが60%、大トロが30%だった。
養殖は運動量が小さく、餌を十分やるので脂肪がどうしても高くなる。
健康に育てるには、配合飼料を研究してそれを完成させるという事がまぐろも健康に育つし、肉質も良くなる。
世界のマグロ類の30%は日本人が食べるが、そのうちクロマグロは80%を日本人は消費する。
マグロは8種類ある。 一番多いのは、きはだまぐろ、63.1% めばちマグロ 18%
びんちょうマグロ 9.6% クロマグロ 大西洋 太平洋で生物学的に違う事が研究で解った
大西洋が1.4% 太平洋が0.4% 合計しても1.8% 微々たるもの
そのうちの80%を日本人が食べてしまう。
ワシントン条約では問題になる。
このまま続けて行けば枯渇してしまうのではないかと危惧されている。
いままでのクロマグロの養殖は、天然の稚魚を取ってくる。 資源を減らしている。
地中海は産卵を終わったものを捕まえて、元の身体に肥らして日本に持ってきていた。
高値で日本に売れるので競ってやるようになったため、巻き網で根こそぎ取ってしまうという事になって資源が激減した。
稚魚もドンドン取ると資源が減ってしまう。
我々は最初は稚魚を取って、親にして親から卵を取って、人工的に育てて、親にして卵を生ます。
人間の管理下で彼らの一生を一巡させる、是が完全養殖、持続的に資源を続けてゆく事が出来る。
昭和10年 長野県生まれ 海がない県、農家で生まれた。 生物好きだった。
高校ではプランクトンを集めて、ミジンコの仲間の調査をやっていた。
そのまま水産の大学に行った。 (海を観たのは中学三年の修学旅行の時、伊勢湾が見えた)
高校2年の時に始めて海に接した。
沿岸の身知らぬ生物がいっぱいあり、海の生物をやったらおもしろいと思った。
昭和33年、22歳で近畿大学水産研究所に入所した。
恩師 原田輝雄先生が主任 事務員1人、ほかおばさん1人、と私の 4人だった。
昭和29年から原田先生がはまちの養殖を始めた。 当時、海の養殖研究はやられてなかった。
最初、はまちの養殖の研究に取り組んだ。
生け簀網を細かくして、魚の密度を変えたり、餌を変えたりして実験していた。
昭和34年の春、東大の駒場の校舎で水産学会があったが、そこで「はまちの養殖について」という題で発表した。(稚魚を取ってきたものをいけす養殖で商品にするというもの、いけす養殖は世界初)
いけす網は綿糸だったので海に漬けておくと腐ってしまうのだが、合成繊維が出来てそれによってはまちも商品化できるようになった。
当時予算は、大学としては魚のえさにやる予算などは出せるか、という事だった。
銀行にお金を貸してくれと言ったが、駄目で、初代の所長が松井義一先生(旧家)が判を押してくれて借りる事が出来た。
売らないといけなくて大阪の中央市場に出荷、そこである会社の専務が応援するという事から、援助してもらったという経緯がある。
大学が魚を売って商売をするとは何事か、学問を汚すというような批判があって、そんなことをして漁業者を苦しめるのではないかと、近畿大学がやる量などは知れているのにも拘わらず、新聞にも書かれた事がある。
当時は随分苦しんだ。 近大のやっていることが学問ではない技術だと、周りの大学の先生からも面と向かって言われたこともある。
大学では水産では漁労、加工、増やす 3つのコースがあるが、兎に角増殖を専攻した。
当時漁労が花形で漁労以外は水産ではないと言われていた。
遠洋漁業で世界を制覇したと、当時言われていた。
これだけ取ってしまえば、資源がなくなってしまうのではないかと思って、やがて増殖に芽が出るのではないかと思った。
世界初の人工ふ化による養殖、ひらめ、へだい、まだい、しまあじ、いしだい、ぶり、主要な海産物をいろいろやってきた。 (我々は養殖をした親魚から卵を取って育てた。)
残ったものはまぐろだと、昭和45年 クロマグロに取り掛かる。
魚体が大きく、大回遊する魚なので、飼うと言う事自体が夢だった。 養殖はだれもやらなかった。
飼育設備もどうしたらいいか、判らなかった。
潮岬の定置網を参考にして行った。
三善信二 水産庁の生産部長が、世界からつまはじきにされるという事で、マグロも増養殖をしなければならないと言われて、東海大学、近畿大学、三重、静岡、長崎の施設に号令をかけてまぐろの研究が始まった。
まぐろは生態研究をしていなかったので、定置網ないでもみくちゃになり、肌の弱さを知った。
釣って捉えようとして、マグロに指を触ると、そこから腐るという事を漁師から言われていた。
手で触らない様にいけすに入れるのに、4年掛かった。
108リッターのポリバケツに海水を張って、手ぐすをはったものにひっかけて、ポトンと落とす。
釣り針はかえしをしない様にして、使用した。
大回遊の魚は酸素の要求度が高く、酸素欠乏になり、静かになったところをそーっと活魚槽に移す、そしていけすにうつす、と言う事で成功した。
光、音に敏感でパニックを起こして、網にぶつかって死んでしまう事がある。
(夜の雷とか、車のライト、花火とかでパニックを起こす)
対策として、夜も明かりを付けて昼間にしてしまおうという事になった。
昭和54年についにに産卵した。
卵を孵化した仔魚 3mm 何を餌にするかが問題だった。
プランクトンを人工的に増殖する。(初期のえさ) 次はどうするか 次はなにするか
成長すると、消化管が発達してきて、段々身体の大小が出来てきて、仲間をドンドン突っつく。(共食いをする)
しかし、喉につっかえて、死んでしまう。
餌をやる為の子魚の研究とか、マグロの大小を手作業で仕分けるなどいろいろやってきた。
完全養殖が 2002年 平成14年に成功する。
11年間卵を産まない時期があって、何故産まないのだろうという事だが、黒潮が大蛇行をしてしまっていた。
その影響が強いのではないかと思っている。
2004年に完全養殖マグロの初出荷になった。
台風が来て、1995年孵化したのが14匹、翌年のが35匹だったのが 台風で14匹→6匹 35匹→14匹になってしまった。
外観からはオスメスの区別はつかず、5年以上たっていたので、成熟年齢に達しているので、一緒にしてみたら2002年6月23日に卵を産んだ。 是が世界で初めての完全養殖と成った。
クロマグロは資源が少ないので何とかして、持続的に残していかないといけないと思っている。
アジアからの研修生を受け入れて人も育てている。
マグロは世界の資源だと思っている。 ほかの魚でも同じ。
3訓
①継続(生物の研究は継続する事) 忍耐が必要
②魚に学べ(観察をしっかりする)
③生き物に愛情を持って育てる。
稚魚がたくさんできても減ってしまうので、生存率を高める研究をしている。
クロマグロの資源を増やしたい。 放流。
遺伝的なものがあるので、一つ一つクリアしながら天然の資源を人工的にも増やしてゆきたい。
78歳 和歌山県 近畿大学水産研究所顧問 ヒラメやかんぱち等の人工ふ化や完全養殖を成功させ、平成14年には、世界で初めてクロマグロの完全養殖を成功させました。
海で稚魚を捕獲して育てるそれまでの養殖と違って、いけすの中のマグロに卵を生ませ、孵化せて育てるのが完全養殖です。
成功までに32年もかかりました。
去年、大阪の梅田と、東京の銀座に完全養殖のクロマグロを提供する、アンテナショップを開店させ、研究から普及に舵を切りました。
大トロがとれるクロマグロはホンマグロと言われ、日本人にとって特別な魚です。
その完全養殖に拘ったのはなぜか、熊井さんにお聞きしました。
アンテナショップは近畿大学が運営している。
天然ものと比べて遜色ないといわれている。 養殖は薬付けなどと言う事はまったくない。
30m角で深さ10mのいけすで、一番大きくなったのは304.9kg 2m87cm 。(15年掛かった)
天然と比べると脂肪分が高い。
最初2年目に 兎に角出荷して見せてほしいといわれて、いろんな方を呼んで試食会をやった。
赤みが10%、中トロが60%、大トロが30%だった。
養殖は運動量が小さく、餌を十分やるので脂肪がどうしても高くなる。
健康に育てるには、配合飼料を研究してそれを完成させるという事がまぐろも健康に育つし、肉質も良くなる。
世界のマグロ類の30%は日本人が食べるが、そのうちクロマグロは80%を日本人は消費する。
マグロは8種類ある。 一番多いのは、きはだまぐろ、63.1% めばちマグロ 18%
びんちょうマグロ 9.6% クロマグロ 大西洋 太平洋で生物学的に違う事が研究で解った
大西洋が1.4% 太平洋が0.4% 合計しても1.8% 微々たるもの
そのうちの80%を日本人が食べてしまう。
ワシントン条約では問題になる。
このまま続けて行けば枯渇してしまうのではないかと危惧されている。
いままでのクロマグロの養殖は、天然の稚魚を取ってくる。 資源を減らしている。
地中海は産卵を終わったものを捕まえて、元の身体に肥らして日本に持ってきていた。
高値で日本に売れるので競ってやるようになったため、巻き網で根こそぎ取ってしまうという事になって資源が激減した。
稚魚もドンドン取ると資源が減ってしまう。
我々は最初は稚魚を取って、親にして親から卵を取って、人工的に育てて、親にして卵を生ます。
人間の管理下で彼らの一生を一巡させる、是が完全養殖、持続的に資源を続けてゆく事が出来る。
昭和10年 長野県生まれ 海がない県、農家で生まれた。 生物好きだった。
高校ではプランクトンを集めて、ミジンコの仲間の調査をやっていた。
そのまま水産の大学に行った。 (海を観たのは中学三年の修学旅行の時、伊勢湾が見えた)
高校2年の時に始めて海に接した。
沿岸の身知らぬ生物がいっぱいあり、海の生物をやったらおもしろいと思った。
昭和33年、22歳で近畿大学水産研究所に入所した。
恩師 原田輝雄先生が主任 事務員1人、ほかおばさん1人、と私の 4人だった。
昭和29年から原田先生がはまちの養殖を始めた。 当時、海の養殖研究はやられてなかった。
最初、はまちの養殖の研究に取り組んだ。
生け簀網を細かくして、魚の密度を変えたり、餌を変えたりして実験していた。
昭和34年の春、東大の駒場の校舎で水産学会があったが、そこで「はまちの養殖について」という題で発表した。(稚魚を取ってきたものをいけす養殖で商品にするというもの、いけす養殖は世界初)
いけす網は綿糸だったので海に漬けておくと腐ってしまうのだが、合成繊維が出来てそれによってはまちも商品化できるようになった。
当時予算は、大学としては魚のえさにやる予算などは出せるか、という事だった。
銀行にお金を貸してくれと言ったが、駄目で、初代の所長が松井義一先生(旧家)が判を押してくれて借りる事が出来た。
売らないといけなくて大阪の中央市場に出荷、そこである会社の専務が応援するという事から、援助してもらったという経緯がある。
大学が魚を売って商売をするとは何事か、学問を汚すというような批判があって、そんなことをして漁業者を苦しめるのではないかと、近畿大学がやる量などは知れているのにも拘わらず、新聞にも書かれた事がある。
当時は随分苦しんだ。 近大のやっていることが学問ではない技術だと、周りの大学の先生からも面と向かって言われたこともある。
大学では水産では漁労、加工、増やす 3つのコースがあるが、兎に角増殖を専攻した。
当時漁労が花形で漁労以外は水産ではないと言われていた。
遠洋漁業で世界を制覇したと、当時言われていた。
これだけ取ってしまえば、資源がなくなってしまうのではないかと思って、やがて増殖に芽が出るのではないかと思った。
世界初の人工ふ化による養殖、ひらめ、へだい、まだい、しまあじ、いしだい、ぶり、主要な海産物をいろいろやってきた。 (我々は養殖をした親魚から卵を取って育てた。)
残ったものはまぐろだと、昭和45年 クロマグロに取り掛かる。
魚体が大きく、大回遊する魚なので、飼うと言う事自体が夢だった。 養殖はだれもやらなかった。
飼育設備もどうしたらいいか、判らなかった。
潮岬の定置網を参考にして行った。
三善信二 水産庁の生産部長が、世界からつまはじきにされるという事で、マグロも増養殖をしなければならないと言われて、東海大学、近畿大学、三重、静岡、長崎の施設に号令をかけてまぐろの研究が始まった。
まぐろは生態研究をしていなかったので、定置網ないでもみくちゃになり、肌の弱さを知った。
釣って捉えようとして、マグロに指を触ると、そこから腐るという事を漁師から言われていた。
手で触らない様にいけすに入れるのに、4年掛かった。
108リッターのポリバケツに海水を張って、手ぐすをはったものにひっかけて、ポトンと落とす。
釣り針はかえしをしない様にして、使用した。
大回遊の魚は酸素の要求度が高く、酸素欠乏になり、静かになったところをそーっと活魚槽に移す、そしていけすにうつす、と言う事で成功した。
光、音に敏感でパニックを起こして、網にぶつかって死んでしまう事がある。
(夜の雷とか、車のライト、花火とかでパニックを起こす)
対策として、夜も明かりを付けて昼間にしてしまおうという事になった。
昭和54年についにに産卵した。
卵を孵化した仔魚 3mm 何を餌にするかが問題だった。
プランクトンを人工的に増殖する。(初期のえさ) 次はどうするか 次はなにするか
成長すると、消化管が発達してきて、段々身体の大小が出来てきて、仲間をドンドン突っつく。(共食いをする)
しかし、喉につっかえて、死んでしまう。
餌をやる為の子魚の研究とか、マグロの大小を手作業で仕分けるなどいろいろやってきた。
完全養殖が 2002年 平成14年に成功する。
11年間卵を産まない時期があって、何故産まないのだろうという事だが、黒潮が大蛇行をしてしまっていた。
その影響が強いのではないかと思っている。
2004年に完全養殖マグロの初出荷になった。
台風が来て、1995年孵化したのが14匹、翌年のが35匹だったのが 台風で14匹→6匹 35匹→14匹になってしまった。
外観からはオスメスの区別はつかず、5年以上たっていたので、成熟年齢に達しているので、一緒にしてみたら2002年6月23日に卵を産んだ。 是が世界で初めての完全養殖と成った。
クロマグロは資源が少ないので何とかして、持続的に残していかないといけないと思っている。
アジアからの研修生を受け入れて人も育てている。
マグロは世界の資源だと思っている。 ほかの魚でも同じ。
3訓
①継続(生物の研究は継続する事) 忍耐が必要
②魚に学べ(観察をしっかりする)
③生き物に愛情を持って育てる。
稚魚がたくさんできても減ってしまうので、生存率を高める研究をしている。
クロマグロの資源を増やしたい。 放流。
遺伝的なものがあるので、一つ一つクリアしながら天然の資源を人工的にも増やしてゆきたい。
2014年2月7日金曜日
吉岡久子(老舗旅館女将) ・私と”ガマの油売り”口上
吉岡久子(老舗旅館女将) 私と”ガマの油売り”口上
昔懐かしいガマの油売り口上、路上からはすっかり姿を消してみられなくなっていますが、発祥の地とされる筑波山の地元では、ガマ口上保存会が作られ、伝承芸能として市民たちの間で受け継がれています。
ガま向上19代名人吉岡さんは、91歳、筑波山中腹にある老舗旅館の大御かみです。
お客さんの要望があればガマの油売りの口上を、披露し、宿泊客をお喜ばせています。
江戸時代、筑波山の長井村の兵助が陣中ガマの油を販売したその口上が人気を呼んで、子の芸が誕生したといわれます。
陣中ガマの油については400年前にの大阪冬の陣で戦場で負傷した武士の切りっ傷、擦り傷、血止めとして、筑波山のガマの油が使われて、評判となったことから陣中という言葉が付け加えられたと言う、言い伝えもあります。
ガマの口上で60年以上宿泊客をもてなす、吉岡さんにお聞きします。
口上歴は60年以上になる。 奉天から引き揚げてきてからずーとやっている。
主人は中国で身体を壊すが、命はあって帰ってきた。
旅館なので朝は早く、夜は遅いので商売はきついので、市長から主人は役場に呼ばれてはたらくようになった。
地元に名物を作ろうと、落語家の春風亭柳好を呼んで、ガマの油売りの口上を聞かせたいと、毎月来てくれ、皆が聞いた。
それを私が主人からやるように言われて、「はい」と答えるしかなかった。(終戦間もなく)
テープに取って聞いて勉強する。 自分の好きなようにやれと師匠からはいわれた。
旅館では、お客さんがおいでになったら聞かせるようにした。 今でも希望があればやる。
2000年に第19代名人になる。 口上保存会では若い人が増えて、100名以上になる。
始めた当時はまだ誰もやっていなかった。
18代は小学校の校長先生で私と一緒にやっていた。
初代 江戸の街中でやっていた。(兵助)
落語ではガマの口上をやっていた。 春風亭柳好の十八番になっていた。
しろくのガマ 前足の指が4本 後ろ足の指が6本 と成っている。
旅館は寛永5年の創業。
主人は筑波の観光協会の会長をやっていて一つの目玉にしたかった。
紙を取り出して、1枚が2枚、2枚が4枚と刀の切れ味を示すが、紅を刀にちょっとつけておき
それを腕に付ける。
口上の文句が長くて身体にも良い。
保存会のメンバーが筑波山神社へ行ってやっている。
力を入れるところ、文句を早める、しっかりゆっくりやるところとか、大きな声を出すところとかはっきりと声を出す。
岡野先生 18代名人 102,3歳までやっていた。
ガま向上19代名人吉岡さんは、91歳、筑波山中腹にある老舗旅館の大御かみです。
お客さんの要望があればガマの油売りの口上を、披露し、宿泊客をお喜ばせています。
江戸時代、筑波山の長井村の兵助が陣中ガマの油を販売したその口上が人気を呼んで、子の芸が誕生したといわれます。
陣中ガマの油については400年前にの大阪冬の陣で戦場で負傷した武士の切りっ傷、擦り傷、血止めとして、筑波山のガマの油が使われて、評判となったことから陣中という言葉が付け加えられたと言う、言い伝えもあります。
ガマの口上で60年以上宿泊客をもてなす、吉岡さんにお聞きします。
口上歴は60年以上になる。 奉天から引き揚げてきてからずーとやっている。
主人は中国で身体を壊すが、命はあって帰ってきた。
旅館なので朝は早く、夜は遅いので商売はきついので、市長から主人は役場に呼ばれてはたらくようになった。
地元に名物を作ろうと、落語家の春風亭柳好を呼んで、ガマの油売りの口上を聞かせたいと、毎月来てくれ、皆が聞いた。
それを私が主人からやるように言われて、「はい」と答えるしかなかった。(終戦間もなく)
テープに取って聞いて勉強する。 自分の好きなようにやれと師匠からはいわれた。
旅館では、お客さんがおいでになったら聞かせるようにした。 今でも希望があればやる。
2000年に第19代名人になる。 口上保存会では若い人が増えて、100名以上になる。
始めた当時はまだ誰もやっていなかった。
18代は小学校の校長先生で私と一緒にやっていた。
初代 江戸の街中でやっていた。(兵助)
落語ではガマの口上をやっていた。 春風亭柳好の十八番になっていた。
しろくのガマ 前足の指が4本 後ろ足の指が6本 と成っている。
旅館は寛永5年の創業。
主人は筑波の観光協会の会長をやっていて一つの目玉にしたかった。
紙を取り出して、1枚が2枚、2枚が4枚と刀の切れ味を示すが、紅を刀にちょっとつけておき
それを腕に付ける。
口上の文句が長くて身体にも良い。
保存会のメンバーが筑波山神社へ行ってやっている。
力を入れるところ、文句を早める、しっかりゆっくりやるところとか、大きな声を出すところとかはっきりと声を出す。
岡野先生 18代名人 102,3歳までやっていた。
2014年2月6日木曜日
笹目浩之(寺山修司記念館副館長) ・ポスターが結んだ寺山修司と私
笹目浩之(三沢市寺山修司記念館副館長) ポスターが結んだ寺山修司と私
笹目さんは1963年生まれ 寺山修二追悼公演のポスター貼りをきっかけに、24歳の時、ポスター張りの専門会社を設立、ポスター張りで培った、人の縁で演劇やイベントのプロヂューサーとしてのキャリアも積んできました。
2000年には元寺山さんの夫人の九條 今日子さんと寺山修二の著作権管理会社(寺山ワールド) を設立、2009年には指定管理者として、三沢市寺山修二記念館副館長に就任しました。
去年が没後30周年 予想を越える反応があった。
演劇がメイン、映画祭、出版、コンサート、講演会、展覧会とか多種多様なイベントがあった。
亡くなってから、没後10年の時には空前の寺山修二ブームみたいなものが起きて、出版ラッシュが凄かった。 没後20年、30年に落ちるのかなと思ったが、そうな事は全然なかった。
マルチな才能 詩人、映画監督、劇作家、評論家、写真家、俳句、短歌・・・。
晩年の活動は演劇活動 でとっつきにくいという事はあるが。
現代国語の中学校、高校の本に俳句、短歌が多くのっている。
教科書から寺山修二のファンになったというひとが2005年ぐらいから言われるようになった。
表現者の人達が寺山修二に興味を持つと、そのファンの人がまたつながってゆくという事があるかもしれない。
始めてであったのは、「家出の勧め」 単行本 タイトルにひかれた。
浪人時代の予備校の時に知り合った人で、演劇の好きな人に出会って、演劇に連れて行ってもらって、野田秀樹さんの「ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜」と言う芝居で演劇の虜になった。
寺山修二の「レミング」を見に行く事になり、是が衝撃だった。 私の人生を塗り替えた作品だった。
人間の内面を扱った芝居 自分のの殻に閉じこもっていてはいけないという様な内容だった。
言葉が自分にぐさっと入ってきた。 寺山修二を追いかけるしかないなと思った。
自分で何かしないといけないと思った。 1982年12月に見た。
翌年に寺山修二が亡くなった。
イベントに行ってたりしてるうちに、九条さんとは知り合いになった。
葬式は一般のファンとして参列して、祭壇の前で花を手向けるときに、寺山修二の代わりに自分がやるしかないと、演劇界で頑張ることをその場で誓った。 (20歳の時 恥ずかしい話だが)
北村 想 「11人の少年」 作品を見に行ったときに九条さんに偶然会って、一緒に見た。
最初で最後の最大のチャンスだと思った。
寺山修二の追悼公演第2弾 三輪明宏、若松武史、天井桟敷の関係の方が皆いて、三輪さん等を紹介してくれた。
ポスター張りを依頼される。
貼るところは飲食店が中心だったが、温かく対応してもらった。
演劇の世界にかかわれたのが嬉しかった。
天井桟敷が解散した事務所が渋谷にあって毎日遊びに行っていた。
偶然、パルコ西武劇場のポスター貼りの電話が入って、紹介された。
その後、30年パルコ劇場のポスターを張るようになる。
22歳に決心して会社にしようと思った(始めて2年後ぐらい)
最初は周りから馬鹿にされたが。 24歳の時に株式会社にした。
初年度 売り上げが2000万円だった。
天井桟敷の関係があって、ささえさん?が一人芝居をやるのでプロチテデュサーをしてみないかと言われた。
「花の明け方」と言う芝居だった。 成功して、舞台美術家古川雅之さんがこんなちらしとかポスターを作られたら、こちらも負けないよいうに頑張るしかないといった。
ポスターから演劇を活性化出来るのではないかと思った。
2009年 寺山修二記念館の副館長になる。
1997年ぐらいに水戸芸術館で寺山修二の企画があり、寺山修二ブランド化計画でグッズを
作ったりしていて、その後九条さんと会社を作ったが、段々その会社が独り歩きをして行って、
寺山ワールドに仕事が移行してきて、2008年に青森県立美術館が出来て、2~3年後に寺山修二展が大規模に行われて、その時に寺山ワールドが大本の施工責任者の展覧会を仕切る事になる。
三沢記念館から連絡があり、指定管理者を引き受けてくれないかとの話があった。
2009年4月から担当する事になり、夢にも思わなかった。
情報発信をもっとやった方がいいと思っていたので、記念館の運営を本格的にやりだした。
最初にやったのがポスター貼りで、200枚程度だったのを、1500枚くらい刷って、貼りだした。
地元にどうして親しまれていないのか、難解だからというようなことは間違いで、俳句、短歌 感銘する作品が載っているので、前衛的な演劇だけ伝えるという事は間違いではないかと思い、地元の神楽、舞踏やっている人とか、俳句を作っている文芸部とかに積極的に参加してもらうようにした。
小竹信孝 舞台美術を見て創作活動を始めた。
敷居を低く、ファミリー客を呼びたいと思って働きかけたら、前代未聞の溢れだすような状況になった。
寺山修二ミュージックミュージアム コンサート が行われて大成功を収めた。
若手の才能を見いだすコンサートに育ってゆくのではないかと思う。
三沢市が寺山修二を観光資源に使いたいと方向に変わってきて、初めて没後30年で寺山修二演劇祭を開催した。
寺山修二を研究の総本山になるスタートラインになってきたのではないかと思う。
太宰治、棟方志功、寺山修二 青森の宝だと思うので、いろんな方のネットワークが必要だと思う。
笹目さんは1963年生まれ 寺山修二追悼公演のポスター貼りをきっかけに、24歳の時、ポスター張りの専門会社を設立、ポスター張りで培った、人の縁で演劇やイベントのプロヂューサーとしてのキャリアも積んできました。
2000年には元寺山さんの夫人の九條 今日子さんと寺山修二の著作権管理会社(寺山ワールド) を設立、2009年には指定管理者として、三沢市寺山修二記念館副館長に就任しました。
去年が没後30周年 予想を越える反応があった。
演劇がメイン、映画祭、出版、コンサート、講演会、展覧会とか多種多様なイベントがあった。
亡くなってから、没後10年の時には空前の寺山修二ブームみたいなものが起きて、出版ラッシュが凄かった。 没後20年、30年に落ちるのかなと思ったが、そうな事は全然なかった。
マルチな才能 詩人、映画監督、劇作家、評論家、写真家、俳句、短歌・・・。
晩年の活動は演劇活動 でとっつきにくいという事はあるが。
現代国語の中学校、高校の本に俳句、短歌が多くのっている。
教科書から寺山修二のファンになったというひとが2005年ぐらいから言われるようになった。
表現者の人達が寺山修二に興味を持つと、そのファンの人がまたつながってゆくという事があるかもしれない。
始めてであったのは、「家出の勧め」 単行本 タイトルにひかれた。
浪人時代の予備校の時に知り合った人で、演劇の好きな人に出会って、演劇に連れて行ってもらって、野田秀樹さんの「ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜」と言う芝居で演劇の虜になった。
寺山修二の「レミング」を見に行く事になり、是が衝撃だった。 私の人生を塗り替えた作品だった。
人間の内面を扱った芝居 自分のの殻に閉じこもっていてはいけないという様な内容だった。
言葉が自分にぐさっと入ってきた。 寺山修二を追いかけるしかないなと思った。
自分で何かしないといけないと思った。 1982年12月に見た。
翌年に寺山修二が亡くなった。
イベントに行ってたりしてるうちに、九条さんとは知り合いになった。
葬式は一般のファンとして参列して、祭壇の前で花を手向けるときに、寺山修二の代わりに自分がやるしかないと、演劇界で頑張ることをその場で誓った。 (20歳の時 恥ずかしい話だが)
北村 想 「11人の少年」 作品を見に行ったときに九条さんに偶然会って、一緒に見た。
最初で最後の最大のチャンスだと思った。
寺山修二の追悼公演第2弾 三輪明宏、若松武史、天井桟敷の関係の方が皆いて、三輪さん等を紹介してくれた。
ポスター張りを依頼される。
貼るところは飲食店が中心だったが、温かく対応してもらった。
演劇の世界にかかわれたのが嬉しかった。
天井桟敷が解散した事務所が渋谷にあって毎日遊びに行っていた。
偶然、パルコ西武劇場のポスター貼りの電話が入って、紹介された。
その後、30年パルコ劇場のポスターを張るようになる。
22歳に決心して会社にしようと思った(始めて2年後ぐらい)
最初は周りから馬鹿にされたが。 24歳の時に株式会社にした。
初年度 売り上げが2000万円だった。
天井桟敷の関係があって、ささえさん?が一人芝居をやるのでプロチテデュサーをしてみないかと言われた。
「花の明け方」と言う芝居だった。 成功して、舞台美術家古川雅之さんがこんなちらしとかポスターを作られたら、こちらも負けないよいうに頑張るしかないといった。
ポスターから演劇を活性化出来るのではないかと思った。
2009年 寺山修二記念館の副館長になる。
1997年ぐらいに水戸芸術館で寺山修二の企画があり、寺山修二ブランド化計画でグッズを
作ったりしていて、その後九条さんと会社を作ったが、段々その会社が独り歩きをして行って、
寺山ワールドに仕事が移行してきて、2008年に青森県立美術館が出来て、2~3年後に寺山修二展が大規模に行われて、その時に寺山ワールドが大本の施工責任者の展覧会を仕切る事になる。
三沢記念館から連絡があり、指定管理者を引き受けてくれないかとの話があった。
2009年4月から担当する事になり、夢にも思わなかった。
情報発信をもっとやった方がいいと思っていたので、記念館の運営を本格的にやりだした。
最初にやったのがポスター貼りで、200枚程度だったのを、1500枚くらい刷って、貼りだした。
地元にどうして親しまれていないのか、難解だからというようなことは間違いで、俳句、短歌 感銘する作品が載っているので、前衛的な演劇だけ伝えるという事は間違いではないかと思い、地元の神楽、舞踏やっている人とか、俳句を作っている文芸部とかに積極的に参加してもらうようにした。
小竹信孝 舞台美術を見て創作活動を始めた。
敷居を低く、ファミリー客を呼びたいと思って働きかけたら、前代未聞の溢れだすような状況になった。
寺山修二ミュージックミュージアム コンサート が行われて大成功を収めた。
若手の才能を見いだすコンサートに育ってゆくのではないかと思う。
三沢市が寺山修二を観光資源に使いたいと方向に変わってきて、初めて没後30年で寺山修二演劇祭を開催した。
寺山修二を研究の総本山になるスタートラインになってきたのではないかと思う。
太宰治、棟方志功、寺山修二 青森の宝だと思うので、いろんな方のネットワークが必要だと思う。
2014年2月5日水曜日
鶴岡雅義(ギタリスト・作曲家) ・昭和の響きは ギターの音色
鶴岡雅義(ギタリスト・作曲家) 昭和の響きは ギターの音色
鶴岡さんは東京ロマンチカのリーダーで、「君は心の妻だから」、「小樽の人よ」などの作曲、レキントギターの奏者として知られています。
古賀正男さんに作曲を習い、トリオロスパンチョスの演奏にヒントを得て、レキントギターを歌謡界に取り入れ、数多くのヒット曲を世に送りこみました。
昭和8年生まれ 80歳でムード歌謡コーラスで活躍している鶴岡さんに伺いました。
「君は心の妻だから」 ステージでいつもやっていて、沁みついている。 昭和の歌ですね。
(来年昭和 90年になるが)
音楽の世界でもいい時代だったのかなあと思います。
子供のころからませた子供で、子供が流行歌をうたうと叱られてが、流行歌を歌っていた。
ギターを習い始めたのは中学の時。
音楽家、画家、天文学者にも成りたかった。
生れてのは中国で空が物凄く高く、夜は星が凄く綺麗で興味を持った。
引き上げ船の中で、ギターを引きながら歌っていたのを聞いて、ギターを弾きたいと思った。
其時の歌が古賀メロディーだった。
安陪保夫 私のクラッシックギターの先生
自分でも活動を始めたいと、アントニオ古賀さんと組んで数年おこなった。
レキントギター 5つ上げる (クラッシクギターはミの音→5つあげる)
トリオロスパンチョス リーダーが自分流の考案して4つあげて弾いている。
レキントギターは情熱的で真赤に聞こえた。(船の中で聞いたのはブルーに聞こえた)
トリオロスパンチョスが初来日した時に聞いて、是が私の弾きたいギターだと思った。
日本にはなかったので、レキントギターを作ってもらった。
レキントギターでいろいろアルバムを出した。 700曲ぐらい 日本の歌謡曲に合っていた。
始めて作った曲が「二人の世界」 石原裕次郎 当時もう大スターだった。
B面に「なかせるぜ」を作った。 ディレクターが二人だったので、どちらもA面と言う事になる。
レコーディングに来た時にはまだ覚えていなかった。
東京ロマンチカ 「古賀正男と古賀ギターロマンチカ」のグループの名前からロマンチカの名前を入れた。
遊び心がないと駄目だと思います。 遊び心を出すまでの蓄積が大事。
あるときに、キャバレーで3日間ショーで出るが、メンバーが地元の女性と恋に落ちた。
逢えない彼を見ていて、是は歌にできるのではないかと曲を作った。
「小樽の人よ」 (小樽ではなくて釧路だったが。) 昭和41年
「小樽の人よ」はラテンリズムです。
若い人は自由でいいと思う。 やりたいことをやりなさいと。
これからの俺たちはこの道やりたいんだと、方向で好きな音楽を選んでやればいいのではないかと思う。
座右の銘「死ぬまで青春」 明日に希望を持つ
私にとってギターが青春ですので。 青春真っ只中です。
自分で自分をお年寄りにしては駄目。
60歳になった時、70歳、80歳になった時に年寄りになったと思ってはダメ。
今のムードコーラスはわたしたちとは違うが、まねではなく、自分たちのやりたいことをやった方がいいと思う。
ニュームードコーラス 昨年より言われるようになった。(若いグループ)
食事が大事だが、いつでも自分は若いんだと思っている事、素晴らしいものに素直に憧れを持ち、感動する気持ちを忘れない事。
遅い朝食(10時頃) 夕食(6時頃) 私は2食にしている。
出来るだけ指を使う。 指を使っていると良いと言われている。
決して頑張らずに歩く事。(季節感、等を感じながら)
鶴岡さんは東京ロマンチカのリーダーで、「君は心の妻だから」、「小樽の人よ」などの作曲、レキントギターの奏者として知られています。
古賀正男さんに作曲を習い、トリオロスパンチョスの演奏にヒントを得て、レキントギターを歌謡界に取り入れ、数多くのヒット曲を世に送りこみました。
昭和8年生まれ 80歳でムード歌謡コーラスで活躍している鶴岡さんに伺いました。
「君は心の妻だから」 ステージでいつもやっていて、沁みついている。 昭和の歌ですね。
(来年昭和 90年になるが)
音楽の世界でもいい時代だったのかなあと思います。
子供のころからませた子供で、子供が流行歌をうたうと叱られてが、流行歌を歌っていた。
ギターを習い始めたのは中学の時。
音楽家、画家、天文学者にも成りたかった。
生れてのは中国で空が物凄く高く、夜は星が凄く綺麗で興味を持った。
引き上げ船の中で、ギターを引きながら歌っていたのを聞いて、ギターを弾きたいと思った。
其時の歌が古賀メロディーだった。
安陪保夫 私のクラッシックギターの先生
自分でも活動を始めたいと、アントニオ古賀さんと組んで数年おこなった。
レキントギター 5つ上げる (クラッシクギターはミの音→5つあげる)
トリオロスパンチョス リーダーが自分流の考案して4つあげて弾いている。
レキントギターは情熱的で真赤に聞こえた。(船の中で聞いたのはブルーに聞こえた)
トリオロスパンチョスが初来日した時に聞いて、是が私の弾きたいギターだと思った。
日本にはなかったので、レキントギターを作ってもらった。
レキントギターでいろいろアルバムを出した。 700曲ぐらい 日本の歌謡曲に合っていた。
始めて作った曲が「二人の世界」 石原裕次郎 当時もう大スターだった。
B面に「なかせるぜ」を作った。 ディレクターが二人だったので、どちらもA面と言う事になる。
レコーディングに来た時にはまだ覚えていなかった。
東京ロマンチカ 「古賀正男と古賀ギターロマンチカ」のグループの名前からロマンチカの名前を入れた。
遊び心がないと駄目だと思います。 遊び心を出すまでの蓄積が大事。
あるときに、キャバレーで3日間ショーで出るが、メンバーが地元の女性と恋に落ちた。
逢えない彼を見ていて、是は歌にできるのではないかと曲を作った。
「小樽の人よ」 (小樽ではなくて釧路だったが。) 昭和41年
「小樽の人よ」はラテンリズムです。
若い人は自由でいいと思う。 やりたいことをやりなさいと。
これからの俺たちはこの道やりたいんだと、方向で好きな音楽を選んでやればいいのではないかと思う。
座右の銘「死ぬまで青春」 明日に希望を持つ
私にとってギターが青春ですので。 青春真っ只中です。
自分で自分をお年寄りにしては駄目。
60歳になった時、70歳、80歳になった時に年寄りになったと思ってはダメ。
今のムードコーラスはわたしたちとは違うが、まねではなく、自分たちのやりたいことをやった方がいいと思う。
ニュームードコーラス 昨年より言われるようになった。(若いグループ)
食事が大事だが、いつでも自分は若いんだと思っている事、素晴らしいものに素直に憧れを持ち、感動する気持ちを忘れない事。
遅い朝食(10時頃) 夕食(6時頃) 私は2食にしている。
出来るだけ指を使う。 指を使っていると良いと言われている。
決して頑張らずに歩く事。(季節感、等を感じながら)
2014年2月4日火曜日
富沢信明(良寛研究家) ・科学の目で良寛さんの謎に向き合う
富沢信明(良寛研究家) 科学の目で良寛さんの謎に向き合う
新潟県生まれ 優れた宗教家、書家である良寛さんは 宝暦8年(1758年)新潟県出雲崎町で生まれた。
名主の長男だったが若くして出家し、曹洞宗の僧侶として、修行、20年ほどで宗派を離脱して、故郷にかえります。
天保2年(1831年)貞心尼、に看取られ74歳で亡くなりました。
かくれんぼをし、手まりをついて子供と遊ぶ人柄や、質素な暮らし、深い学識は人々の共感を得、多くの逸話に包まれています。
良寛さんの研究をする富沢さんは71歳、新潟大学の名誉教授で東北民芸館の館長です。
富沢さんの御専門は数学ですが、大学時代から良寛研究を始め、生涯の謎の解明に取り組んでこられました。
推測が入り乱れる良寛さんの人物像を正しいものにしたいという富沢さんにうがいました。
民芸館には1万点以上ある。(道具だけで、書は別) 未使用な道具には興味はない。
20年前から集め始める。 のめりこむ方のタイプ。
集める段階で書に出会った。 書は人物を表していると思った。人物の伝記も勉強した。
良寛の弟の山本由之に桂登紀子?と言う人がいて、その人に由之が出した手紙が10通出た。
無理して買った。 読んでみようと思った。
毎朝4時前に起きて手紙を読めるように勉強してて、少しずつ読めるようになる。
今まで判っていない事が書いてあった。
由之の亡くなる1か月前の手紙に「冬枯れの こずえに残る 一葉かな」と書いてあった。
由之の辞世の句だと思った。
良寛はもう亡くなって、自分の見たいに読んだのではないかと思って論文を書いた、それが始まりだった。
由之の事を研究すれば良寛の事が解るので、伝記はどうも想像で描かれているように思った。
正しい伝記を自分で書こうと思った。
良寛の伝記をちゃんとやろうと思って大学をやめようと思った。
新鮮なテーマなのでやる気満々だった。
次々と新しいことが見つかった。 専門は数学だったので、180度違うものだった。
証拠なしには言えないので、文献にあたって論文に書いた。
歴史、法律も科学だと思った。 証拠なしに裁判で有罪とか決められないので。
次々に新しい物が出てくるので、面白くてしょうがなかった。
良寛ほど有名偉人で居ながら、これほどわからない人はいない。
良寛は公職につかず、日記も付けて居なかったのでほとんど記録がない。
弟のゆうしは、名主で日記も付けていたので記録は残っている。
由之を物差しにして良寛を見ると良寛がいつ何をしてたかが解る。
良寛が西国からいつ越後に帰ってきたか、昔は寛政12年と言われていたが、寛政8年と言うのが今の主流だが、それより4年も早い。 論文にして発表した。
良寛の詩の内容と当時の災害で台風がいつ来たかを調べてみると、寛政3年の秋の台風に逢っている。 翌年帰ってきている。
コメ相場も上がるので、そのことが書いてあるので判る。
・・・だろう。 がそうだそうだとなって定説になる事がある。
寛政4年の帰国は決まったので、定住は早くなった。
良寛の詩で文化元年に読まれた詩だと言われていたが、良寛が寛政と文化を間違えていたといわれるが、間違えるという事はあり得ないことだと思う。
我々の方が間違えているとおもったら、「こうのね(甲子)」?ではなくて「じんのね(壬子)」?だった
「甲」と「壬」続けて書くと似ている。
誰かが読み間違えたか、書きちがえたものと思う。
*文化元年(甲子 1804年)
*寛政4年(壬子 1792年)
*一般的に 「甲子」は「きのえね」「壬子」は「みずのえね」と読まれる様であるが
良寛は出家する前に奥さんがいたことが判った。
妻帯の事を調べようとしたのが最初の仕事。
山本家の系図を見ていたら、釋尼妙歓 と書かれていた。
釋尼妙歓とはもしかしたら、良寛の奥さんではないかと思って、過去帳などを調べたらちゃんと書いてある。
山本家は真言宗で戒名が付いているが、釋尼妙歓は戒名ではなくて浄土真宗の法名なわけです,と言う事は山本家の人間ではないという事、離婚した人を良寛は記録していた。
17,8歳の頃だったと思われる。
2カ月に1回ぐらい論文を書いていて、楽しくてしょうがなかった。
検証して間違えていたら間違えていいと言えばいいのに、間違えてるとは言わないで、認めもしないのはおかしいと思う。
良寛研究のおかしいところだと思う。
数学者として良寛も研究している。 数学者として間違っていたら数学者としてはお終いになってしまうので、そういうつもりで良寛研究をしているのでちゃんと資料にもとずいて間違いの無いことしか発表していない。
五合庵に入ってからの生活は、ほとんどわかる。
山の中に一人で暮らしていた。
良寛の時代にあの様な生き方は難しかったと思う。(年金がないし)
そこで歌を勉強し、書を学んだ。
教養があったので庄屋などは良寛と付き合いたかったので、贈り物などはした。
良寛は自分が貰った手紙はほとんど捨ててしまっていたが、良寛からもらった手紙は残っている。
良寛は、名利を求めない、眼中になかった。
皆 名利を求めなければ、争いも無くなると思う。
欲が争いの元、金銭だけではなく、名誉欲が無くなれば争いは無くなる。
書を良寛は売った事は無く、好きな時に書いて気が向いたときに与えていた。
「この宮の 森のこしたに 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」 是は好きな歌
「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」 良寛の俳句
「炊くほどは 風がくれたる 落ち葉かな」 小林一茶の句で似たのがあるが、良寛が真似をしたのではないかと、論争があったが、良寛が亡くなった翌年の天保3年に句集に良寛の作として出ている。
数学でも人文科学でも研究する手法は全く同じだと思う。 論理だけでやっている。
堀部安兵衛の研究もやっているが、これも新しい発見がいっぱい出てきている。
不思議だがこういう資料があれば解けるなと思うが、欲しいと思っているとどこともなく眼の前に表れる。
直ぐに出てくるわけではないが、あるときにポッと出てくる。
どうしてそうなるのと、疑問におもうが、思わないと通り過ぎるだけ。
何故だと思うと調べるが、何の証拠もなしに言われていることがある。
ひねくれていないと駄目。
良寛は去年,本にする。
堀部安兵衛も研究してるので論文を書こうと思っている。
堀部安兵衛の魅力 義に生きた、一度思ったことはひっくり返さない。
昔の資料を突き合わせるといろいろ判ってくる。
面白くて止めろと言われても止められない。
新潟県生まれ 優れた宗教家、書家である良寛さんは 宝暦8年(1758年)新潟県出雲崎町で生まれた。
名主の長男だったが若くして出家し、曹洞宗の僧侶として、修行、20年ほどで宗派を離脱して、故郷にかえります。
天保2年(1831年)貞心尼、に看取られ74歳で亡くなりました。
かくれんぼをし、手まりをついて子供と遊ぶ人柄や、質素な暮らし、深い学識は人々の共感を得、多くの逸話に包まれています。
良寛さんの研究をする富沢さんは71歳、新潟大学の名誉教授で東北民芸館の館長です。
富沢さんの御専門は数学ですが、大学時代から良寛研究を始め、生涯の謎の解明に取り組んでこられました。
推測が入り乱れる良寛さんの人物像を正しいものにしたいという富沢さんにうがいました。
民芸館には1万点以上ある。(道具だけで、書は別) 未使用な道具には興味はない。
20年前から集め始める。 のめりこむ方のタイプ。
集める段階で書に出会った。 書は人物を表していると思った。人物の伝記も勉強した。
良寛の弟の山本由之に桂登紀子?と言う人がいて、その人に由之が出した手紙が10通出た。
無理して買った。 読んでみようと思った。
毎朝4時前に起きて手紙を読めるように勉強してて、少しずつ読めるようになる。
今まで判っていない事が書いてあった。
由之の亡くなる1か月前の手紙に「冬枯れの こずえに残る 一葉かな」と書いてあった。
由之の辞世の句だと思った。
良寛はもう亡くなって、自分の見たいに読んだのではないかと思って論文を書いた、それが始まりだった。
由之の事を研究すれば良寛の事が解るので、伝記はどうも想像で描かれているように思った。
正しい伝記を自分で書こうと思った。
良寛の伝記をちゃんとやろうと思って大学をやめようと思った。
新鮮なテーマなのでやる気満々だった。
次々と新しいことが見つかった。 専門は数学だったので、180度違うものだった。
証拠なしには言えないので、文献にあたって論文に書いた。
歴史、法律も科学だと思った。 証拠なしに裁判で有罪とか決められないので。
次々に新しい物が出てくるので、面白くてしょうがなかった。
良寛ほど有名偉人で居ながら、これほどわからない人はいない。
良寛は公職につかず、日記も付けて居なかったのでほとんど記録がない。
弟のゆうしは、名主で日記も付けていたので記録は残っている。
由之を物差しにして良寛を見ると良寛がいつ何をしてたかが解る。
良寛が西国からいつ越後に帰ってきたか、昔は寛政12年と言われていたが、寛政8年と言うのが今の主流だが、それより4年も早い。 論文にして発表した。
良寛の詩の内容と当時の災害で台風がいつ来たかを調べてみると、寛政3年の秋の台風に逢っている。 翌年帰ってきている。
コメ相場も上がるので、そのことが書いてあるので判る。
・・・だろう。 がそうだそうだとなって定説になる事がある。
寛政4年の帰国は決まったので、定住は早くなった。
良寛の詩で文化元年に読まれた詩だと言われていたが、良寛が寛政と文化を間違えていたといわれるが、間違えるという事はあり得ないことだと思う。
我々の方が間違えているとおもったら、「こうのね(甲子)」?ではなくて「じんのね(壬子)」?だった
「甲」と「壬」続けて書くと似ている。
誰かが読み間違えたか、書きちがえたものと思う。
*文化元年(甲子 1804年)
*寛政4年(壬子 1792年)
*一般的に 「甲子」は「きのえね」「壬子」は「みずのえね」と読まれる様であるが
良寛は出家する前に奥さんがいたことが判った。
妻帯の事を調べようとしたのが最初の仕事。
山本家の系図を見ていたら、釋尼妙歓 と書かれていた。
釋尼妙歓とはもしかしたら、良寛の奥さんではないかと思って、過去帳などを調べたらちゃんと書いてある。
山本家は真言宗で戒名が付いているが、釋尼妙歓は戒名ではなくて浄土真宗の法名なわけです,と言う事は山本家の人間ではないという事、離婚した人を良寛は記録していた。
17,8歳の頃だったと思われる。
2カ月に1回ぐらい論文を書いていて、楽しくてしょうがなかった。
検証して間違えていたら間違えていいと言えばいいのに、間違えてるとは言わないで、認めもしないのはおかしいと思う。
良寛研究のおかしいところだと思う。
数学者として良寛も研究している。 数学者として間違っていたら数学者としてはお終いになってしまうので、そういうつもりで良寛研究をしているのでちゃんと資料にもとずいて間違いの無いことしか発表していない。
五合庵に入ってからの生活は、ほとんどわかる。
山の中に一人で暮らしていた。
良寛の時代にあの様な生き方は難しかったと思う。(年金がないし)
そこで歌を勉強し、書を学んだ。
教養があったので庄屋などは良寛と付き合いたかったので、贈り物などはした。
良寛は自分が貰った手紙はほとんど捨ててしまっていたが、良寛からもらった手紙は残っている。
良寛は、名利を求めない、眼中になかった。
皆 名利を求めなければ、争いも無くなると思う。
欲が争いの元、金銭だけではなく、名誉欲が無くなれば争いは無くなる。
書を良寛は売った事は無く、好きな時に書いて気が向いたときに与えていた。
「この宮の 森のこしたに 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」 是は好きな歌
「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」 良寛の俳句
「炊くほどは 風がくれたる 落ち葉かな」 小林一茶の句で似たのがあるが、良寛が真似をしたのではないかと、論争があったが、良寛が亡くなった翌年の天保3年に句集に良寛の作として出ている。
数学でも人文科学でも研究する手法は全く同じだと思う。 論理だけでやっている。
堀部安兵衛の研究もやっているが、これも新しい発見がいっぱい出てきている。
不思議だがこういう資料があれば解けるなと思うが、欲しいと思っているとどこともなく眼の前に表れる。
直ぐに出てくるわけではないが、あるときにポッと出てくる。
どうしてそうなるのと、疑問におもうが、思わないと通り過ぎるだけ。
何故だと思うと調べるが、何の証拠もなしに言われていることがある。
ひねくれていないと駄目。
良寛は去年,本にする。
堀部安兵衛も研究してるので論文を書こうと思っている。
堀部安兵衛の魅力 義に生きた、一度思ったことはひっくり返さない。
昔の資料を突き合わせるといろいろ判ってくる。
面白くて止めろと言われても止められない。
2014年2月3日月曜日
伊勢桃代(元・国連大学事務局長) ・こころ優しい人を世界中に育てたい(2)
伊勢桃代(元・国連大学事務局長) こころ優しい人を世界中に育てたい(2)
国連大学 東京渋谷にある。 アジア全体に国連本部が存在していない。
国連本部はヨーロッパ中心にある。
日本に国連大学を設置するのは欧米は基本的には反対だった。
国連大学は通常の大学とは違う。 (通常は学生、教授、卒業証書)
世界各地に15の研究所・研究センターを持つ.
理解の度合いが低い、浸透しにくい。
外務省、文部省の二つの縦割りの所轄 1975年にオープンした。
①研究活動を盛んにしよう。(国連に役に立つ研究活動。)
②後進国の学者が出る幕が無いので、機会を与えるように、ネートワークを作る。
新しい学長が今年就任して、国連に役に立つという事が忘れられているので、その方向に力を入れるように変わってくると思う。
日本での国連大学では、各国の研究機関を纏める。
国連との対応についての関係を、本部からやるので、学長は青山にいる。
ウ・タント事務総長 平和を作る人材を作りたいとの思いがあり構想を提案、仏教思想の人。
国連協会主催で日、中、韓のユースフォラムで討論を毎年やっている。
基本的に出てくるのが、文化、宗教のアジアが共有するものを、これからどうやって平和的なものに生かしてゆくかと言う事を討論している。
文化の問題を非常に重要視して取り上げている。
今の外交的に解決しましょうと言っても、危ない線を歩んでいる。(戦争になってしまうような)
文化的な繋がりと言うものがこれからはますます大事になる。 宗教も入っている。
日本の文化はすばらっしい。
東アジア共同体、儒教文化、仏教、律令制度、漢字文化でつながっている。
国が個個に独立ながら、繋がってゆくのは難しい。
若い人に、新しい考え方を作って言って欲しい。
発信は大人の作った社会なので、まだまだそこが足りないと思う。
若い人に議論の場を与える事が大事。 それをしないと変わらないと思う。
国連への加盟国 193カ国 93カ国から国連の人を使用する。
国連憲章では大きな目的を掲げている。 それが大きな結束を呼ぶ。
理想的な社会を作るのだという想いで来ている人が来ている。
日本の場合は、意見をきいても発言はなし、会議の後でいろいろ皆さん思いをいう。
ああいいうなやり方は難しい。
国連ではお互いに議論をして、目的をはっきりして解決に向かってゆくが、日本の会議を見ていると、議論もしないし、どういう方向に向かっているかわからないので、団結のしようもない。
面白かったのは日本の企業にいた人(部長だった人)が、何にも動かないで段々不満が出てきていて、かつての部長の方は下から上がってくるのを待っていた、職員はうえからガイドラインを来るのを待っていた、結局両方が待っていたというケースがあった。
リーダーシップ 大きく言えば仕事の目的を明快に職員に説明できて、それが皆の共有の知識として、目的として受け入れられる、と言うのが大事。
それに関するやり方をきちんと作ってゆく、仕事の組織を作るのが大事。
いろんな文化、価値観がる中で、正しいことは正しい、間違っている事は間違っているので、リーダーは正しい判断をきちんとする事が必要です。
理事国、大国の意見、 難しいところではあるが、直接の圧力はあまりなかった。
正しいことをしていないと193カ国に説明できない。
アメリカは分担金が22%だから国連の予算についてのポストは22%ついてもいいとの事になっている。
1997年に退職 日本に戻ってくる。
財団法人女性の為のアジア平和国民基金専務理事、兼事務局長に就任。
韓国の慰安婦問題、政府が調査に乗り出して、強く頼まれた。
アジアを勉強しなくてはいけないと思った。
8年間担当 今でも感じるが、全体像を政府の役人の方でも説明できない。
真剣に皆さんに理解していただきたい問題だと思う。
去年ぐらいから、国連に気持ちが戻った。 (退職時は一旦はスパッと国連からは身を引けたが)
去年から歴代の事務総長の自伝とか、歴史を勉強してみると、やはり国連がないと世界の問題はどうにもならないという想いになって、21世紀の国連はどうしたらいいのかと真剣に考えるようになりました。
やはり、いい人材を、どう探すかというのは 21,22世紀に向かってゆくには、20世紀はいろんなことがあって、戦争の世紀ではあるが、一番興味を持っているのはその終わり方。
国際連盟、国際連合ができた。 いろんな終わり方がある。
日本の戦争の終わり方はあいまいで有って、それがいまでも響いていつのではないかと思う。
今の若い人が自分たちには戦争の責任になは無いと言うとすれば、何に責任があるかと言うと、戦争の時のいろいろな問題をそのままきっちりと把握しないで、それをまた繰り返すような状態になったとしたらそれはあなたたちの責任だと言わざるを得ない、そういうような自覚を持ってほしい。
終わり方、韓国との事を考えていきたいと思っています。
シリア内戦、いろいろ紛争があるが、難民が出てきて苦しんでいるが、募金を募ったり協力をしたい、と言う時にいろいろな方法がある。
子供と言うと集まるが、他のものだと集まらない、国連が何かしましょうと言っても抽象的で集まらない。
難民問題は本当に大変で、80%は女性と子供、是は大変な問題。
20世紀で、私たちは見方を間違っていたのではないかと思う。
第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦構造、アメリカだけでも20いくつも戦争をやっている。
そういう戦争は、社会の組織は整然としていた。
国家間の戦争で、軍隊と言う専門職の人がいた。
今の内戦は隣近所の人がいろんなことをやる、21世紀にはそうなるとは思わなかった。
中央集権的なものには反対して来たが、それが終わったらいろんなものが出てきて、戦争をする。
どこかで終結をしなくてはいけない。
終わるのかなあと思うが、だから若い人が世界的に集まって討論する事が物凄く大事で、今いろんな動きがあって、「ワンヤングワールド」というロンドンから始まって、南アで又会議が当て1000人以上の人が集まって、何とかしようという動きが出てきている。
こういうところに国家はお金を使ってほしい。
国連大学 東京渋谷にある。 アジア全体に国連本部が存在していない。
国連本部はヨーロッパ中心にある。
日本に国連大学を設置するのは欧米は基本的には反対だった。
国連大学は通常の大学とは違う。 (通常は学生、教授、卒業証書)
世界各地に15の研究所・研究センターを持つ.
理解の度合いが低い、浸透しにくい。
外務省、文部省の二つの縦割りの所轄 1975年にオープンした。
①研究活動を盛んにしよう。(国連に役に立つ研究活動。)
②後進国の学者が出る幕が無いので、機会を与えるように、ネートワークを作る。
新しい学長が今年就任して、国連に役に立つという事が忘れられているので、その方向に力を入れるように変わってくると思う。
日本での国連大学では、各国の研究機関を纏める。
国連との対応についての関係を、本部からやるので、学長は青山にいる。
ウ・タント事務総長 平和を作る人材を作りたいとの思いがあり構想を提案、仏教思想の人。
国連協会主催で日、中、韓のユースフォラムで討論を毎年やっている。
基本的に出てくるのが、文化、宗教のアジアが共有するものを、これからどうやって平和的なものに生かしてゆくかと言う事を討論している。
文化の問題を非常に重要視して取り上げている。
今の外交的に解決しましょうと言っても、危ない線を歩んでいる。(戦争になってしまうような)
文化的な繋がりと言うものがこれからはますます大事になる。 宗教も入っている。
日本の文化はすばらっしい。
東アジア共同体、儒教文化、仏教、律令制度、漢字文化でつながっている。
国が個個に独立ながら、繋がってゆくのは難しい。
若い人に、新しい考え方を作って言って欲しい。
発信は大人の作った社会なので、まだまだそこが足りないと思う。
若い人に議論の場を与える事が大事。 それをしないと変わらないと思う。
国連への加盟国 193カ国 93カ国から国連の人を使用する。
国連憲章では大きな目的を掲げている。 それが大きな結束を呼ぶ。
理想的な社会を作るのだという想いで来ている人が来ている。
日本の場合は、意見をきいても発言はなし、会議の後でいろいろ皆さん思いをいう。
ああいいうなやり方は難しい。
国連ではお互いに議論をして、目的をはっきりして解決に向かってゆくが、日本の会議を見ていると、議論もしないし、どういう方向に向かっているかわからないので、団結のしようもない。
面白かったのは日本の企業にいた人(部長だった人)が、何にも動かないで段々不満が出てきていて、かつての部長の方は下から上がってくるのを待っていた、職員はうえからガイドラインを来るのを待っていた、結局両方が待っていたというケースがあった。
リーダーシップ 大きく言えば仕事の目的を明快に職員に説明できて、それが皆の共有の知識として、目的として受け入れられる、と言うのが大事。
それに関するやり方をきちんと作ってゆく、仕事の組織を作るのが大事。
いろんな文化、価値観がる中で、正しいことは正しい、間違っている事は間違っているので、リーダーは正しい判断をきちんとする事が必要です。
理事国、大国の意見、 難しいところではあるが、直接の圧力はあまりなかった。
正しいことをしていないと193カ国に説明できない。
アメリカは分担金が22%だから国連の予算についてのポストは22%ついてもいいとの事になっている。
1997年に退職 日本に戻ってくる。
財団法人女性の為のアジア平和国民基金専務理事、兼事務局長に就任。
韓国の慰安婦問題、政府が調査に乗り出して、強く頼まれた。
アジアを勉強しなくてはいけないと思った。
8年間担当 今でも感じるが、全体像を政府の役人の方でも説明できない。
真剣に皆さんに理解していただきたい問題だと思う。
去年ぐらいから、国連に気持ちが戻った。 (退職時は一旦はスパッと国連からは身を引けたが)
去年から歴代の事務総長の自伝とか、歴史を勉強してみると、やはり国連がないと世界の問題はどうにもならないという想いになって、21世紀の国連はどうしたらいいのかと真剣に考えるようになりました。
やはり、いい人材を、どう探すかというのは 21,22世紀に向かってゆくには、20世紀はいろんなことがあって、戦争の世紀ではあるが、一番興味を持っているのはその終わり方。
国際連盟、国際連合ができた。 いろんな終わり方がある。
日本の戦争の終わり方はあいまいで有って、それがいまでも響いていつのではないかと思う。
今の若い人が自分たちには戦争の責任になは無いと言うとすれば、何に責任があるかと言うと、戦争の時のいろいろな問題をそのままきっちりと把握しないで、それをまた繰り返すような状態になったとしたらそれはあなたたちの責任だと言わざるを得ない、そういうような自覚を持ってほしい。
終わり方、韓国との事を考えていきたいと思っています。
シリア内戦、いろいろ紛争があるが、難民が出てきて苦しんでいるが、募金を募ったり協力をしたい、と言う時にいろいろな方法がある。
子供と言うと集まるが、他のものだと集まらない、国連が何かしましょうと言っても抽象的で集まらない。
難民問題は本当に大変で、80%は女性と子供、是は大変な問題。
20世紀で、私たちは見方を間違っていたのではないかと思う。
第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦構造、アメリカだけでも20いくつも戦争をやっている。
そういう戦争は、社会の組織は整然としていた。
国家間の戦争で、軍隊と言う専門職の人がいた。
今の内戦は隣近所の人がいろんなことをやる、21世紀にはそうなるとは思わなかった。
中央集権的なものには反対して来たが、それが終わったらいろんなものが出てきて、戦争をする。
どこかで終結をしなくてはいけない。
終わるのかなあと思うが、だから若い人が世界的に集まって討論する事が物凄く大事で、今いろんな動きがあって、「ワンヤングワールド」というロンドンから始まって、南アで又会議が当て1000人以上の人が集まって、何とかしようという動きが出てきている。
こういうところに国家はお金を使ってほしい。
2014年2月2日日曜日
伊勢桃代(元・国連大学事務局長) ・こころ優しい人を世界中に育てたい(1)
伊勢桃代(元・国連大学事務局長) こころ優しい人を世界中に育てたい(1)
東京生まれ、京都で育ち、慶応義塾大学で社会学を学びアメリカにわたる。
国際社会に引かれ、ハーバード大学では社会文化学を学び、当時ケネディー大統領、ジョンソン大統領のもとで仕事をし、国連ニューヨーク本部に入り活躍されました。
平成9年28年間務めた国連を退職されて帰国された後、女性の為のアジア平和国民基金専務理事の要職につかれ、戦争処理の問題などさまざまな問題に取り組んでこられました。
「心優しい人を世界中に育てたい」と題してうかがいます。
学生時代、福沢諭吉を授業の中で取りあげるは少なかった。
卒業してから福沢諭吉の事がドンときた。
150年前から問題があると言っていた。 男女平等、徹底して言っていた。
日本でも社会的にみると、出る杭は打たれるという事はある。
国連憲章 1946年に採択されていて、人間の生活のあらゆることを取り扱くという事が書かれている。
開発、貧困、不平等差、経済発展、社会発展、とかあらゆる課題を取り上げる。
地球の外の事も問題になっている。
国際連盟 第一次世界大戦の後に国際機構を作ったが、日本、ドイツとか脱退の問題があり、国際連盟は終止符をうつが、その後もっと権限を持たした機構を持たせて作り上げるという事で出来た。
中心になったのはルーズベルト。 先見の明の合った人。
留学して、勉強の区切りができた時に、ケネディー大統領の就任演説が大変感激するものだった。
人権問題を取り上げて
人権問題は道徳の問題であるとのことだった。
反貧困政策と言うものを作り上げた、ジョンソンが受け継いで、ピースコア、貧困対策、人種差別
を禁じるなど、寛容度の高い国でした。
声がかかって、反貧困政策で働いていた。
30歳の時から国連に入った。 明石靖さんがいましたが、当時人数は少なかった。
国連は国際公務員と呼んでいる。
国際的人材を養成する事は望まれているが、ルーツは自分の国にあるが、見方は国際的な見方、常に世界を頭に於いての考え方、是が国際人だと思っている。
国家単位の事を考えるのではなくて、国際的なことを考える。
社会学を専攻してきたので、最初、社会経済開発、開発問題の担当部署に入った。
社会全体の動きを見てどういう方向にいくか、何がいい政策なのかを考えてゆく。
世界がよくならなければ自分の国も良くならないという事なので繋がりを考えないといけない。
昭和44年国連に入る。 当時日本は高度成長期。
日本はいい意味で積極的に受け入れられていた。
貢献ができる、日本人は文化程度が高くて、真面目で一生懸命働く国民であるという想いがあり、発展途上国では憧れの国だった。
1960年代からいろんな国が独立していったが、その時のモデルが必要で有ったが、日本は高度な、程度の高い国だと捉えられていた。
開発問題を真剣に考えていたときで、アメリカは強い国で、進歩、開発、発展 大事だと判っていたが、そういうものとは関係ない地域、人々たちがいたが、一緒に開発に取り組むのか、それとも生きる文化、倫理とか、この人たちをどうするかと言う事については悩んだ、
直ぐにアジア開発報告書を受け持たされる。 いきなり現場に放り出されたという感じ。
自分の力が足りないという事を感じた。
日本のシステムとは大きく違って、個人の能力を発揮していかないといけないところです。
中学、高校では英語会話教育はあったが、投げ出されてから自分でやるよりしょうがなかった。
アメリカで大学院に行って英語を身に付けた。
国連に行って大変だったのは書く事だった。
一日一日が本当に大変だった。 専門性をもって伸ばしていかなければいけないという事、周りが優秀な人たちだったので。
冷戦が終わって、事件が世界中をいろいろ襲った。
情報は真実かどうかは分からないので判断力は大事になり、難しい。
専門性、考え方、論理的な思考、そういうものなければ、いくら英語を並べても通じない。
人材は増えているとはお思うが、日本的な考え方を盛り込んでもらいたい。
国連は欧米の思想で作り上げられたところで、大事だと思うが、欧米中心的な社会からもう一回アジアを見直していこうじゃないかという考え方が今強く出てきており、日本人は日本を理解して国連のやり方を踏襲しながら良い仕事をしてもらいたい。
欧米思想が今、一つの突き当たりに来ているのではないかと思っている。
新しく世界を見直す、新しい価値観と言うものを与えてゆくことが大事になると思う。
欧米の、米国は強力な影響力を与えてきたが、今の様な欧米的な資本主義で良いのか、法律、弁護士の力が強い国でいいのか、日本の様に法を通さなくてもいろいろ解決してきたやり方、人と人とのつながりで生かしたものができないかどうか、考え方が益々貧困者を貧困に追いやっている。
問題の解決が非常に難しくなってきている。
新しい国の在り方を考える。
日本人は親切、是は有難いことだと思う死、温かいと事があって、自然と付き合っている人たちが多いが、難しい点はアウンの呼吸、一うを知れば十を知る、と言うような日本的なやり方、とグローバルな社会ではっきりと物を言い、意見を交換して、議論して解決に持ってゆくという事、日本では今もこの違いあがあって、21世紀に関してはこれを見直して、グローバルに生きるにはこれも大事だというような行動パターンを新しい21世紀の中で考えるという事をしてこなかったのではないかと考える。
第二次世界大戦の終焉と言うものが、旨く出来てない。
新しい時代に移るという事が出来ていないというような事だと思う。
日本は決定が遅い。
ニューヨークから本省に入り、いろんなものを決めるが、これ自体は大事かもしれないが、世界から見ると全く遅れてしまう。
中央集権の国の方が有利にあるが、中央集権の国はそれ以上に外の問題があるので、日本の様に経済的に安定した生活にある、皆が教育されている国は本当に世界に少ないので、その国民を最高に活かして、新しい方向を考えるリーダーが必要なのにリーダーが欠けている。
韓国と中国の進出は凄いので、日本はもう一回どういう方向に、どういう近代国家になるのかという事を早急に考えないといけない。
必ずしも優秀な人材が採用されていないのではないかと思います。
優秀な若い人は出てきているが会議などでは、発言する人が決まっていて、偉い人から、地位のある人からとか、若い人の発言が本当にしにくい。
それでは新しい考えは出ないし、採用されるかもしれないというようなわくわくする気持ちがほとんど止められているのではないかと思う。
企業、学校、会社、役所も全体的に日本の組織はそうなっているのではないだろうか?
21世紀は若い人のものだと自覚してもらって、早くこの人たちを巻き込んでいきたい。
日本の国の人口構造の問題 韓国、中国が大きな力を持ってきている、それをもっと考えてもらいたい。
教育が大事、 物の考え方 批判的な物の見方、自分で考える、自分で意見を持つ、是が非常に大事だが出来ていないのが現実だと思う。
交渉と言うのは、お城の明け渡しの様に城を渡しなさいとか、自害しなさいとか、そうじゃなくてお互いにどう共存してゆくかと言う交渉なので、その技術をしっかりと身につけてほしい。
いろんな意見を面白く聞けるようにはなった。
宗教が大事。 いかにある人たちにとっては大事か。
東京生まれ、京都で育ち、慶応義塾大学で社会学を学びアメリカにわたる。
国際社会に引かれ、ハーバード大学では社会文化学を学び、当時ケネディー大統領、ジョンソン大統領のもとで仕事をし、国連ニューヨーク本部に入り活躍されました。
平成9年28年間務めた国連を退職されて帰国された後、女性の為のアジア平和国民基金専務理事の要職につかれ、戦争処理の問題などさまざまな問題に取り組んでこられました。
「心優しい人を世界中に育てたい」と題してうかがいます。
学生時代、福沢諭吉を授業の中で取りあげるは少なかった。
卒業してから福沢諭吉の事がドンときた。
150年前から問題があると言っていた。 男女平等、徹底して言っていた。
日本でも社会的にみると、出る杭は打たれるという事はある。
国連憲章 1946年に採択されていて、人間の生活のあらゆることを取り扱くという事が書かれている。
開発、貧困、不平等差、経済発展、社会発展、とかあらゆる課題を取り上げる。
地球の外の事も問題になっている。
国際連盟 第一次世界大戦の後に国際機構を作ったが、日本、ドイツとか脱退の問題があり、国際連盟は終止符をうつが、その後もっと権限を持たした機構を持たせて作り上げるという事で出来た。
中心になったのはルーズベルト。 先見の明の合った人。
留学して、勉強の区切りができた時に、ケネディー大統領の就任演説が大変感激するものだった。
人権問題を取り上げて
人権問題は道徳の問題であるとのことだった。
反貧困政策と言うものを作り上げた、ジョンソンが受け継いで、ピースコア、貧困対策、人種差別
を禁じるなど、寛容度の高い国でした。
声がかかって、反貧困政策で働いていた。
30歳の時から国連に入った。 明石靖さんがいましたが、当時人数は少なかった。
国連は国際公務員と呼んでいる。
国際的人材を養成する事は望まれているが、ルーツは自分の国にあるが、見方は国際的な見方、常に世界を頭に於いての考え方、是が国際人だと思っている。
国家単位の事を考えるのではなくて、国際的なことを考える。
社会学を専攻してきたので、最初、社会経済開発、開発問題の担当部署に入った。
社会全体の動きを見てどういう方向にいくか、何がいい政策なのかを考えてゆく。
世界がよくならなければ自分の国も良くならないという事なので繋がりを考えないといけない。
昭和44年国連に入る。 当時日本は高度成長期。
日本はいい意味で積極的に受け入れられていた。
貢献ができる、日本人は文化程度が高くて、真面目で一生懸命働く国民であるという想いがあり、発展途上国では憧れの国だった。
1960年代からいろんな国が独立していったが、その時のモデルが必要で有ったが、日本は高度な、程度の高い国だと捉えられていた。
開発問題を真剣に考えていたときで、アメリカは強い国で、進歩、開発、発展 大事だと判っていたが、そういうものとは関係ない地域、人々たちがいたが、一緒に開発に取り組むのか、それとも生きる文化、倫理とか、この人たちをどうするかと言う事については悩んだ、
直ぐにアジア開発報告書を受け持たされる。 いきなり現場に放り出されたという感じ。
自分の力が足りないという事を感じた。
日本のシステムとは大きく違って、個人の能力を発揮していかないといけないところです。
中学、高校では英語会話教育はあったが、投げ出されてから自分でやるよりしょうがなかった。
アメリカで大学院に行って英語を身に付けた。
国連に行って大変だったのは書く事だった。
一日一日が本当に大変だった。 専門性をもって伸ばしていかなければいけないという事、周りが優秀な人たちだったので。
冷戦が終わって、事件が世界中をいろいろ襲った。
情報は真実かどうかは分からないので判断力は大事になり、難しい。
専門性、考え方、論理的な思考、そういうものなければ、いくら英語を並べても通じない。
人材は増えているとはお思うが、日本的な考え方を盛り込んでもらいたい。
国連は欧米の思想で作り上げられたところで、大事だと思うが、欧米中心的な社会からもう一回アジアを見直していこうじゃないかという考え方が今強く出てきており、日本人は日本を理解して国連のやり方を踏襲しながら良い仕事をしてもらいたい。
欧米思想が今、一つの突き当たりに来ているのではないかと思っている。
新しく世界を見直す、新しい価値観と言うものを与えてゆくことが大事になると思う。
欧米の、米国は強力な影響力を与えてきたが、今の様な欧米的な資本主義で良いのか、法律、弁護士の力が強い国でいいのか、日本の様に法を通さなくてもいろいろ解決してきたやり方、人と人とのつながりで生かしたものができないかどうか、考え方が益々貧困者を貧困に追いやっている。
問題の解決が非常に難しくなってきている。
新しい国の在り方を考える。
日本人は親切、是は有難いことだと思う死、温かいと事があって、自然と付き合っている人たちが多いが、難しい点はアウンの呼吸、一うを知れば十を知る、と言うような日本的なやり方、とグローバルな社会ではっきりと物を言い、意見を交換して、議論して解決に持ってゆくという事、日本では今もこの違いあがあって、21世紀に関してはこれを見直して、グローバルに生きるにはこれも大事だというような行動パターンを新しい21世紀の中で考えるという事をしてこなかったのではないかと考える。
第二次世界大戦の終焉と言うものが、旨く出来てない。
新しい時代に移るという事が出来ていないというような事だと思う。
日本は決定が遅い。
ニューヨークから本省に入り、いろんなものを決めるが、これ自体は大事かもしれないが、世界から見ると全く遅れてしまう。
中央集権の国の方が有利にあるが、中央集権の国はそれ以上に外の問題があるので、日本の様に経済的に安定した生活にある、皆が教育されている国は本当に世界に少ないので、その国民を最高に活かして、新しい方向を考えるリーダーが必要なのにリーダーが欠けている。
韓国と中国の進出は凄いので、日本はもう一回どういう方向に、どういう近代国家になるのかという事を早急に考えないといけない。
必ずしも優秀な人材が採用されていないのではないかと思います。
優秀な若い人は出てきているが会議などでは、発言する人が決まっていて、偉い人から、地位のある人からとか、若い人の発言が本当にしにくい。
それでは新しい考えは出ないし、採用されるかもしれないというようなわくわくする気持ちがほとんど止められているのではないかと思う。
企業、学校、会社、役所も全体的に日本の組織はそうなっているのではないだろうか?
21世紀は若い人のものだと自覚してもらって、早くこの人たちを巻き込んでいきたい。
日本の国の人口構造の問題 韓国、中国が大きな力を持ってきている、それをもっと考えてもらいたい。
教育が大事、 物の考え方 批判的な物の見方、自分で考える、自分で意見を持つ、是が非常に大事だが出来ていないのが現実だと思う。
交渉と言うのは、お城の明け渡しの様に城を渡しなさいとか、自害しなさいとか、そうじゃなくてお互いにどう共存してゆくかと言う交渉なので、その技術をしっかりと身につけてほしい。
いろんな意見を面白く聞けるようにはなった。
宗教が大事。 いかにある人たちにとっては大事か。
2014年2月1日土曜日
白駒妃登美(歴史研究家) ・“博多の歴女”を救った日本史
白駒妃登美(歴史研究家) “博多の歴女”を救った日本史
福岡県を拠点にしながら、執筆活動をしているほか、全国をへ足を運び日本の歴史や文化の素晴らしさをを伝える講演活動などを行っています。
その背景には結婚、出産、そして大病を経て命を紡ぐ大切さを実感した経験があります。
歴史上の人物の生き方を通して考える、生きるヒントを伺いました。
出身は埼玉県、航空会社の客室業務員として国際線を担当、結婚を機に退職、ビジネスマナー講師などをしてきた。
子供のころは伝記を読むのが好きだった。
興味を持つとちゃんとした伝記を母に買ってきてもらった。
歴史上の人達が友達のような感覚になってしまった。
小さい頃は日本の国民性があまり好きではなかった。
歴史に関しても、あまり興味がなく外国の生活にあこがれていた。
母が時代劇が好きでTVを一緒に見ていたが、それの影響で江戸時代があまり好きではなかったが、学生の頃の歴史の授業で、先生が江戸時代の4話をしてくれて、その中に奢侈禁止令(庶民の贅沢を禁止する令)を出している。
白米を食べるのはいけない。 でもこのお触れが何度か出ているのはおかしいよね、もし庶民が
幕府のいいなりになっていたら1回しか出て居ないよね。
以外に与えられた環境の中で生き生きと暮らしていたのかもしれないと先生に言われて、眼から鱗だった。 歴史は暗記科目と思っていたから。
史実をもとにして考える事、その時代に生きていた人からのメッセージを学ぶことだと思った。
どんな歴史上の出来事にもプラスだけ、マイナスだけという出来事は無いと思った。
両面を知る事、いろんな角度から見る事で自分の視野が広がって聞く事を実感した。
吉田松陰が好き。
生きる指針を失いかけたことがあるが、その時に私心を示してくれたのが吉田松陰の生き方だった。
20歳代で安政の大獄で亡くなるが、ペリーの船にのせて貰って、外国に行きたいと嘆願したが駄目だった。
奉行所に自首して、故郷の萩の野山獄に入れられてしまう。
最大のピンチだったが、野山獄は二度と出られない言うなところだったが、真っ先に始めたのが読書だった。
1年2カ月の間であったが、600冊読んだと記されている。
いくら勉強したって、出られないので勉強したって、無駄ではないかと周りでは思ったんだと思う。
別のところを観たいたような気がする。
牢の中で出来る最高の事をしようと、それが読書だった。
自分の与えられた環境の中で、精一杯の事をした。
松陰は囚人たちのいいところを直ぐに見つけて、字がすばらしいと言って教えてもらう、他の人も弟子入りする。
囚人がいつの間にか先生になってしまった。
松陰の人生はここから始まったのではないか。
壁は遠くから見直してみる必要があると思う。 壁は実は扉だったのかもしれない。
扉を思いっきり開けたら新たな人生がひらけるかも知れない。
思い通りいにかない時こそ、天が自分に使わしてくれた人生の扉なんではないかと、そういうきっかけを教えてくれたのが、松陰先生だった。
2008年に子宮頸癌が見つかる。
手術を受けて、全摘をして放射線治療をする。
2年後 2010年に治っていたと思っていたのが、肺に転移していた。
最初の時には取りみだしはしなかったが、転移と言われた時にはショックで、死の事が頭をよぎった。
癌に対して戦闘モードだったのが良くなかったのではないかと思った。
マザーテレサは反戦集会には参加していなくて、平和集会に参加していた。
反戦集会は戦争があることが当たり前であるような事が前提。
戦っているはずの的にも沢山のパワーを送っているのではないかと思う。
癌に打ち克とうと癌にパワーを送っていたのではないかと思った。
先生からはこういう状況で助かった人を観た事がありませんと言われてしまった。
其時に力を与えてくれたのは、親友=歴史上の人物 正岡子規と吉田松陰だった。
正岡子規は脊椎カリエルで30歳半ばで亡くなった。
武士の家庭に生まれるが、覚悟、悟りはどんな状況にあっても、平然と死ねる事じゃないかと思ったそうだ。
痛みの凄さに何度も自殺を考えたそうだが、本当の覚悟、本当の悟りは、こんなに痛くても、こんなに苦しくても今という一瞬一瞬は生かされているので、生かされている今を平然と生きる事が本来の覚悟で有り、悟りなんだと、 その覚悟を決めてから正岡子規の作風が変わる。
死の前日まで執筆活動をして亡くなっていった。
私も正岡子規のように、死を迎えるその瞬間まで生かされている、今を大事にして一瞬一瞬自分らしく生きて行きたいなあと思った。
そうしたら不思議なもので、毎晩毎晩あれだけ涙が出て夜眠れなかったのが、その日からぐっすり眠れるようになったんです。
人間の持つ悩みのほとんどは過去を後悔しているか、未来を不安に思っているかのどっちかだと思う。
今が悩みがあると言う人がいたら、時間軸がいまにあっていても、視点がここと言う一点に定まっていないのかもしれない。
もっといい環境や、もっといい御縁があるんじゃないかと周りの事を気にしたり、人と比べて劣等感を感じたり、人からどう思われていたりすると悩みは尽きないと思う。
時間軸を今自分が立っている「ここ」と言うところに合わせて、視点を一点に定めたときに、ほとんどの悩みは雪の様に無くなってしまうのではないかと思う。
生きる、死ぬではない、いつ死ぬのではない、日本人が古来からずーとしてきたように、本当に自分に与えられた環境を受け入れて感謝して、其時にできる事を精一杯しようと、毎日を丁寧に生きて、生かされている今の一瞬一瞬を本当に大切にして行こうと思った。
そうしたら本当に自分の気持ちが吃驚するほど大きく変わって、プラス思考にならなきゃという感じではなくて、長くは生きられないと思っているのにもかかわらず、ドンドン希望がわいてくる。
それから結局抗がん剤治療をするようになって、もう一回検査を受けたら、肺にいくつもあった癌細胞が消えていた。
今も生かされていて、こんな風にラジオに出させてもらっている。
若いころは自分にない物を身に付けていかなければと思って、いろんな本を読んで、いつも10年後を思い浮かんで、未来を実現するために今どうしたらいいのだろうと、いつも今を未来の為のの手段にして生きてきたが、人生って、若いころは自分に不足していることを学んで取り入れる事は必要かもしれないが、ある程度人生経験を積んだら、逆に原点に立ち返るというか、今を生きる生き方が、日本人の私たちの遺伝子に組み込まれているのではないか。
日本人は海外の技術などをドンドン取り入れてきたが、そのままで取りこんではこなかった。
日本の文化は発酵文化だと思う。
海外のものを旨く取り入れながら、消化不良を起こさない様に日本人に合う形にして取り込んでいた。
戦後は海外のものにすぐ飛びつくようになって、発酵させるという手間、暇を日本人が惜しんでしまった。
これだけ物がいっぱいあるのに、日本人が幸せを感じない原因の一つではないかと思う。
人生が右肩上がりで良くなっているときは、アメリカ型の成功が高くって素晴らしい手段になる。
病気になって、生きられないとなった時に、10年後の未来を思い描いてきたので、生き方の指針を失った。
喜びがあり、悲しみもあり 良いことがあって辛い時もある。
下り坂の時には西洋の考え方方の中に答えやヒントは無いなあと思った。
東洋の思想、日本人の生き方の中にこそ、逆境をいかに生きてゆくかの答えやヒントがあるような気がする。
一時死を覚悟したが、どうしてあの時死ななかったのだろうかと思ったが、きっと何かやることがあるから生かされてきたんだろうと思ったが、逆に私が死ぬ時どういう時なんだろうと想像するが、やる事ことがあるから生かされる訳だから、死ぬ時は天がよく頑張ったねと言ってくれている時だと、そんな気がする。
良く頑張ったねといってくれるのも悪くはないかなあと思うが、本当に死を眼の前にして、そんな気持ちでいられるかの自信は無いが。
全てを受け入れて感謝して生きていきたいと思います。
福岡県を拠点にしながら、執筆活動をしているほか、全国をへ足を運び日本の歴史や文化の素晴らしさをを伝える講演活動などを行っています。
その背景には結婚、出産、そして大病を経て命を紡ぐ大切さを実感した経験があります。
歴史上の人物の生き方を通して考える、生きるヒントを伺いました。
出身は埼玉県、航空会社の客室業務員として国際線を担当、結婚を機に退職、ビジネスマナー講師などをしてきた。
子供のころは伝記を読むのが好きだった。
興味を持つとちゃんとした伝記を母に買ってきてもらった。
歴史上の人達が友達のような感覚になってしまった。
小さい頃は日本の国民性があまり好きではなかった。
歴史に関しても、あまり興味がなく外国の生活にあこがれていた。
母が時代劇が好きでTVを一緒に見ていたが、それの影響で江戸時代があまり好きではなかったが、学生の頃の歴史の授業で、先生が江戸時代の4話をしてくれて、その中に奢侈禁止令(庶民の贅沢を禁止する令)を出している。
白米を食べるのはいけない。 でもこのお触れが何度か出ているのはおかしいよね、もし庶民が
幕府のいいなりになっていたら1回しか出て居ないよね。
以外に与えられた環境の中で生き生きと暮らしていたのかもしれないと先生に言われて、眼から鱗だった。 歴史は暗記科目と思っていたから。
史実をもとにして考える事、その時代に生きていた人からのメッセージを学ぶことだと思った。
どんな歴史上の出来事にもプラスだけ、マイナスだけという出来事は無いと思った。
両面を知る事、いろんな角度から見る事で自分の視野が広がって聞く事を実感した。
吉田松陰が好き。
生きる指針を失いかけたことがあるが、その時に私心を示してくれたのが吉田松陰の生き方だった。
20歳代で安政の大獄で亡くなるが、ペリーの船にのせて貰って、外国に行きたいと嘆願したが駄目だった。
奉行所に自首して、故郷の萩の野山獄に入れられてしまう。
最大のピンチだったが、野山獄は二度と出られない言うなところだったが、真っ先に始めたのが読書だった。
1年2カ月の間であったが、600冊読んだと記されている。
いくら勉強したって、出られないので勉強したって、無駄ではないかと周りでは思ったんだと思う。
別のところを観たいたような気がする。
牢の中で出来る最高の事をしようと、それが読書だった。
自分の与えられた環境の中で、精一杯の事をした。
松陰は囚人たちのいいところを直ぐに見つけて、字がすばらしいと言って教えてもらう、他の人も弟子入りする。
囚人がいつの間にか先生になってしまった。
松陰の人生はここから始まったのではないか。
壁は遠くから見直してみる必要があると思う。 壁は実は扉だったのかもしれない。
扉を思いっきり開けたら新たな人生がひらけるかも知れない。
思い通りいにかない時こそ、天が自分に使わしてくれた人生の扉なんではないかと、そういうきっかけを教えてくれたのが、松陰先生だった。
2008年に子宮頸癌が見つかる。
手術を受けて、全摘をして放射線治療をする。
2年後 2010年に治っていたと思っていたのが、肺に転移していた。
最初の時には取りみだしはしなかったが、転移と言われた時にはショックで、死の事が頭をよぎった。
癌に対して戦闘モードだったのが良くなかったのではないかと思った。
マザーテレサは反戦集会には参加していなくて、平和集会に参加していた。
反戦集会は戦争があることが当たり前であるような事が前提。
戦っているはずの的にも沢山のパワーを送っているのではないかと思う。
癌に打ち克とうと癌にパワーを送っていたのではないかと思った。
先生からはこういう状況で助かった人を観た事がありませんと言われてしまった。
其時に力を与えてくれたのは、親友=歴史上の人物 正岡子規と吉田松陰だった。
正岡子規は脊椎カリエルで30歳半ばで亡くなった。
武士の家庭に生まれるが、覚悟、悟りはどんな状況にあっても、平然と死ねる事じゃないかと思ったそうだ。
痛みの凄さに何度も自殺を考えたそうだが、本当の覚悟、本当の悟りは、こんなに痛くても、こんなに苦しくても今という一瞬一瞬は生かされているので、生かされている今を平然と生きる事が本来の覚悟で有り、悟りなんだと、 その覚悟を決めてから正岡子規の作風が変わる。
死の前日まで執筆活動をして亡くなっていった。
私も正岡子規のように、死を迎えるその瞬間まで生かされている、今を大事にして一瞬一瞬自分らしく生きて行きたいなあと思った。
そうしたら不思議なもので、毎晩毎晩あれだけ涙が出て夜眠れなかったのが、その日からぐっすり眠れるようになったんです。
人間の持つ悩みのほとんどは過去を後悔しているか、未来を不安に思っているかのどっちかだと思う。
今が悩みがあると言う人がいたら、時間軸がいまにあっていても、視点がここと言う一点に定まっていないのかもしれない。
もっといい環境や、もっといい御縁があるんじゃないかと周りの事を気にしたり、人と比べて劣等感を感じたり、人からどう思われていたりすると悩みは尽きないと思う。
時間軸を今自分が立っている「ここ」と言うところに合わせて、視点を一点に定めたときに、ほとんどの悩みは雪の様に無くなってしまうのではないかと思う。
生きる、死ぬではない、いつ死ぬのではない、日本人が古来からずーとしてきたように、本当に自分に与えられた環境を受け入れて感謝して、其時にできる事を精一杯しようと、毎日を丁寧に生きて、生かされている今の一瞬一瞬を本当に大切にして行こうと思った。
そうしたら本当に自分の気持ちが吃驚するほど大きく変わって、プラス思考にならなきゃという感じではなくて、長くは生きられないと思っているのにもかかわらず、ドンドン希望がわいてくる。
それから結局抗がん剤治療をするようになって、もう一回検査を受けたら、肺にいくつもあった癌細胞が消えていた。
今も生かされていて、こんな風にラジオに出させてもらっている。
若いころは自分にない物を身に付けていかなければと思って、いろんな本を読んで、いつも10年後を思い浮かんで、未来を実現するために今どうしたらいいのだろうと、いつも今を未来の為のの手段にして生きてきたが、人生って、若いころは自分に不足していることを学んで取り入れる事は必要かもしれないが、ある程度人生経験を積んだら、逆に原点に立ち返るというか、今を生きる生き方が、日本人の私たちの遺伝子に組み込まれているのではないか。
日本人は海外の技術などをドンドン取り入れてきたが、そのままで取りこんではこなかった。
日本の文化は発酵文化だと思う。
海外のものを旨く取り入れながら、消化不良を起こさない様に日本人に合う形にして取り込んでいた。
戦後は海外のものにすぐ飛びつくようになって、発酵させるという手間、暇を日本人が惜しんでしまった。
これだけ物がいっぱいあるのに、日本人が幸せを感じない原因の一つではないかと思う。
人生が右肩上がりで良くなっているときは、アメリカ型の成功が高くって素晴らしい手段になる。
病気になって、生きられないとなった時に、10年後の未来を思い描いてきたので、生き方の指針を失った。
喜びがあり、悲しみもあり 良いことがあって辛い時もある。
下り坂の時には西洋の考え方方の中に答えやヒントは無いなあと思った。
東洋の思想、日本人の生き方の中にこそ、逆境をいかに生きてゆくかの答えやヒントがあるような気がする。
一時死を覚悟したが、どうしてあの時死ななかったのだろうかと思ったが、きっと何かやることがあるから生かされてきたんだろうと思ったが、逆に私が死ぬ時どういう時なんだろうと想像するが、やる事ことがあるから生かされる訳だから、死ぬ時は天がよく頑張ったねと言ってくれている時だと、そんな気がする。
良く頑張ったねといってくれるのも悪くはないかなあと思うが、本当に死を眼の前にして、そんな気持ちでいられるかの自信は無いが。
全てを受け入れて感謝して生きていきたいと思います。
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