マロン(フードスタイリスト) ・「マロン流食生活のススメ」
フードスタイリストとして38年ほどやっています。
(フードスタイリストとは主に書籍や雑誌・広告の写真や、CMや映画など映像作品の撮影現場において、撮影される料理やテーブルセッティングなどの演出を手がける職業です。)
2001年にNHKの「今日の料理」に出さしていただきました。
「今日の料理」では24分で纏めます。
カメラリハーサルを本番さながらにやりますがオーバーしてしまいます。
「今日の料理」は60年ほどやっていて小さい時から見ていました。
僕も61歳になります。
今日は明日のためにあるという事で、「明日は今日よりも素敵な日にしたい」というのが僕の思いです。
長崎県対馬で生まれ、佐賀県育ちです。
高校生まではそこで育って大阪あべの辻調理師専門学校に行って勉強して、魅せる環境を作りたかったので、1983年にフードスタイリストになりました。
いがぐりのような頭をしていたので「マロン」というネーミングになりました。
小さい時に祖母が良く面倒を見てくれて、おままごとをやってそれが原点になっていると思います。
小さいころ地元で食べた味は体が覚えていて、大人になっても食べ続けると元気になり、記憶もよみがえってきます。
眼で食べる、口で食べる、音を感じる、心で食べる。
佐賀県では醤油も甘いです。
レンコンのきんぴら、ひじきの煮物、キュウリの酢の物、が祖母の三大お惣菜で、これを食べると気持ちが上がり、細胞を活性化させてくれます。
食は命をつなぐものだと思います。
若い人にはやりたいことを早く見つけてほしいと思っています。
小さいころから料理が好きだったし、祖母や家族があったからこそ今の自分があると思います。
食と健康と美容は切り離せないトライアングル、密接につながっていると思います。
食は一番だと思います。
小さい子には緑黄野菜はまずよく見て、切って匂いをかがせて、ゆでたりしますが、皆さん味付けのバリエーションが少ないと思います。
手の洗い方を小学生の時に学んで、そして爪を洗うようにしました。
基本はまずお湯を沸かす、手を動かす。
睡眠も大事です。
清潔感が必要です、髪もきれいにしてほしいです。
食べる事に主体性主体、自主性を持っていただきたい。
手足をよく動かす、よく寝る、清潔にしてほしい。
食は命をつなぐものです、命の薬と言っていいのかもしれません。
(話の内容がいろいろ飛んでうまく纏められませんでした。)
2020年2月29日土曜日
2020年2月28日金曜日
田島征三(画家・絵本作家) ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」前編
田島征三(画家・絵本作家) ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」前編
田島さんは1940年大阪府生まれ、幼児期を高知県で過ごします。
多摩美術大学を卒業後25歳の時に「ふるやのもり」で絵本作家としてデビュー、2年後に出版した「ちからたろう」では世界絵本原画展で「金のりんご賞」を受賞。
29歳の時には東京都の日の出村に引っ越しヤギや鶏を飼い、農作物を作り自給自足の生活の中で創作活動をつづけます。
49歳の時には「とべバッタ」で絵本日本賞を受賞、58歳で伊豆半島に移り住み、その後も木の実による絵本『ガオ』を出版したり、廃校になった小学校を丸ごと絵本にする空間絵本作品を制作するなど、常に挑戦を続け80歳となった今もエネルギッシュに製作活動をされています。
まさに森になっていてそれが好きで、実が一杯になっている時には次から次に小鳥が来ます。
キジバト、ツグミ、ヒヨドリ、メジロなどが来ています。
絵を描くよりも観て小鳥の人生、どこからきてどこにいくんだろうとか、いろいろ考えているだけでも楽しい、空想するのが楽しいです。
60歳になるときには気が付かなくて、いつの間にか70代が過ぎていて、去年79歳を意識しました。
80歳は傘寿で、元気そうに見える様で「おいくつですか」とよく言われるんです。
そうすると79歳とは言いたくなくて「29歳です」と言うんです、「来年30(傘寿)だから」と。
80歳になると覚悟がいるねと思います。
描くというのは波が押し寄せてくる波に似たような感情がして、階段を駆け下りて筆を持つようにしています。
ちゃんとデッサンはしない、下書きもしないで、いきなり描きはじめて、気が付いてつぎ足すようなこともします。
美術大学でデッサンをするんですが、評価がDなんです、「君はめちゃくちゃだ、デッサンは面白いということではいけない」、と先生から言われました。
生き物の愛おしさ、命の持っている激しい生きる力、バイタリティーが満ち溢れているという風に自分で感じる事があるんです。
これは何だろうと思います。
「ちからたろう」とか20代の頃の作品はへたなんですが、力強さは今描けるかなあと思います。
20代の肉体で描いたのだから強いんだけれど、内包された力強さを随分前から感じていましたが、80歳になって、正面から作品化しようと思って今挑戦している最中です。
「絵の中のぼくの村」という僕の少年時代のエッセー集ですが、穴の中の魚との格闘を今でも思い出します。
命がけで暴れるその魚の感触が掌に残っているんです。
愛おしさ、切なさ、激しさ、セクシャルな感触とか色んなものが相まって絵の中に出てきてしまうんです、そういうものを描こうと思っていないのに、それがどの絵にも出てきちゃう。
テクニックではなくて、自分が生きてきた道筋、自分が感じたこと、自分が体験したことが心の中に溜まっていて、それを表現しようとしたときに、絵に現れてくる、化学変化かもしれないし説明できないものだと思います。
説明できないものが芸術にはあります。
大坂で空襲を体験して敗戦になったのが5歳でした。
5歳で高知の山奥の村に引き上げていって小学校5年生に夏休みまでいました。
人間として形成される途中なので、そのころの体験が身体の奥にあって肉に入り込んでいるという事です。
絵描きになりたいと言ったら、父親が絵描きを目指すなんてさせないと怒り出してしまいました。
双子で二人とも絵描きになりたいと思っていました。
商業デザイナーなら収入が多いという事で、商業デザイナーになるのだったら大学に行かせてやるという事で、図案科に籍を置きながら絵画科の方に画題を提出していたりしていました。
教授がバウハウスの教育方針を取り入れていて、丸、三角をどう組み合わせれば平面上の力関係を不安定にできるとか、安定した平面構成にできるかとか演習をやって面白いと思いました。
電通、博報堂は青田刈りに来ていて、博報堂の実習生としていくことになり、製薬会社のポスターをいきなり描きました。
デザイン会社の上役から「これは君の宣伝にはなるが、薬の宣伝にはならない」と怒られてしまいました。
出版関係に行きなさいと教授から勧められて出版関係のところに行きました。
民話の絵を描いて「ふるやのもり」ができました。
1963、4年に仕事をもらって1964年の夏に仕上げました。
1964年の12月には本が出ました。
瀬川さんは本当に僕の「ふるやのもり」には吃驚してしまったんですが、一般にはとんでもなくひどい扱いをされました。
芸術として描いていて絵本として描いていないという事で、美しい花園を芸術家の泥靴で踏みにじることだけはやめてほしいというのが最後の言葉でした。
そんなことをやったものだから今色々面白い人が出てきて、ミロコマチコさん、きくちちきさん、あべ弘士さんとか次々に出てきました。
「ふるやのもり」を出したために全く仕事が来なくなりました。
ついに栄養失調になってしまいました。
むかごをフライパンで炒めて食べていましたが、偏っていたので中枢神経失調症になってしまって、身体が引きつって体中が痛くなって汗がもの凄く出ました。
就職しなかったので父に頼ることはできませんでした。
大家さんに相談したらただで見てくれる医師を紹介してくれました。
生活保護の申請書を持って国立(くにたち)の町役場いいって、「ふるやのもり」の本を見せて「これでいづれ立ち直れれるから今年1年でいいから生活保護を出してくれ」と言ったら、「こんな汚らしい本は何だ、こんな本を書いてお前はやって行けると思うのか」、と本を床に投げ捨てて、最後は殴り合いみたいな喧嘩になってしまいました。
追い出されて帰ってきて、引きつる感覚が短くなってきて、着替えるものもなくそのうちに死臭を感じて、死ぬんだなあという気持ちがしてきて、涙が出てきました。
朝戸を叩く音がして、朦朧としたなかで、美しい女性がきて、天国から迎えに来たのかなあと思いました。
下級生の女性でした。
アンパンとチーズを買ってきてくれてよみがえることができました。
その女性が今の妻です。
田島さんは1940年大阪府生まれ、幼児期を高知県で過ごします。
多摩美術大学を卒業後25歳の時に「ふるやのもり」で絵本作家としてデビュー、2年後に出版した「ちからたろう」では世界絵本原画展で「金のりんご賞」を受賞。
29歳の時には東京都の日の出村に引っ越しヤギや鶏を飼い、農作物を作り自給自足の生活の中で創作活動をつづけます。
49歳の時には「とべバッタ」で絵本日本賞を受賞、58歳で伊豆半島に移り住み、その後も木の実による絵本『ガオ』を出版したり、廃校になった小学校を丸ごと絵本にする空間絵本作品を制作するなど、常に挑戦を続け80歳となった今もエネルギッシュに製作活動をされています。
まさに森になっていてそれが好きで、実が一杯になっている時には次から次に小鳥が来ます。
キジバト、ツグミ、ヒヨドリ、メジロなどが来ています。
絵を描くよりも観て小鳥の人生、どこからきてどこにいくんだろうとか、いろいろ考えているだけでも楽しい、空想するのが楽しいです。
60歳になるときには気が付かなくて、いつの間にか70代が過ぎていて、去年79歳を意識しました。
80歳は傘寿で、元気そうに見える様で「おいくつですか」とよく言われるんです。
そうすると79歳とは言いたくなくて「29歳です」と言うんです、「来年30(傘寿)だから」と。
80歳になると覚悟がいるねと思います。
描くというのは波が押し寄せてくる波に似たような感情がして、階段を駆け下りて筆を持つようにしています。
ちゃんとデッサンはしない、下書きもしないで、いきなり描きはじめて、気が付いてつぎ足すようなこともします。
美術大学でデッサンをするんですが、評価がDなんです、「君はめちゃくちゃだ、デッサンは面白いということではいけない」、と先生から言われました。
生き物の愛おしさ、命の持っている激しい生きる力、バイタリティーが満ち溢れているという風に自分で感じる事があるんです。
これは何だろうと思います。
「ちからたろう」とか20代の頃の作品はへたなんですが、力強さは今描けるかなあと思います。
20代の肉体で描いたのだから強いんだけれど、内包された力強さを随分前から感じていましたが、80歳になって、正面から作品化しようと思って今挑戦している最中です。
「絵の中のぼくの村」という僕の少年時代のエッセー集ですが、穴の中の魚との格闘を今でも思い出します。
命がけで暴れるその魚の感触が掌に残っているんです。
愛おしさ、切なさ、激しさ、セクシャルな感触とか色んなものが相まって絵の中に出てきてしまうんです、そういうものを描こうと思っていないのに、それがどの絵にも出てきちゃう。
テクニックではなくて、自分が生きてきた道筋、自分が感じたこと、自分が体験したことが心の中に溜まっていて、それを表現しようとしたときに、絵に現れてくる、化学変化かもしれないし説明できないものだと思います。
説明できないものが芸術にはあります。
大坂で空襲を体験して敗戦になったのが5歳でした。
5歳で高知の山奥の村に引き上げていって小学校5年生に夏休みまでいました。
人間として形成される途中なので、そのころの体験が身体の奥にあって肉に入り込んでいるという事です。
絵描きになりたいと言ったら、父親が絵描きを目指すなんてさせないと怒り出してしまいました。
双子で二人とも絵描きになりたいと思っていました。
商業デザイナーなら収入が多いという事で、商業デザイナーになるのだったら大学に行かせてやるという事で、図案科に籍を置きながら絵画科の方に画題を提出していたりしていました。
教授がバウハウスの教育方針を取り入れていて、丸、三角をどう組み合わせれば平面上の力関係を不安定にできるとか、安定した平面構成にできるかとか演習をやって面白いと思いました。
電通、博報堂は青田刈りに来ていて、博報堂の実習生としていくことになり、製薬会社のポスターをいきなり描きました。
デザイン会社の上役から「これは君の宣伝にはなるが、薬の宣伝にはならない」と怒られてしまいました。
出版関係に行きなさいと教授から勧められて出版関係のところに行きました。
民話の絵を描いて「ふるやのもり」ができました。
1963、4年に仕事をもらって1964年の夏に仕上げました。
1964年の12月には本が出ました。
瀬川さんは本当に僕の「ふるやのもり」には吃驚してしまったんですが、一般にはとんでもなくひどい扱いをされました。
芸術として描いていて絵本として描いていないという事で、美しい花園を芸術家の泥靴で踏みにじることだけはやめてほしいというのが最後の言葉でした。
そんなことをやったものだから今色々面白い人が出てきて、ミロコマチコさん、きくちちきさん、あべ弘士さんとか次々に出てきました。
「ふるやのもり」を出したために全く仕事が来なくなりました。
ついに栄養失調になってしまいました。
むかごをフライパンで炒めて食べていましたが、偏っていたので中枢神経失調症になってしまって、身体が引きつって体中が痛くなって汗がもの凄く出ました。
就職しなかったので父に頼ることはできませんでした。
大家さんに相談したらただで見てくれる医師を紹介してくれました。
生活保護の申請書を持って国立(くにたち)の町役場いいって、「ふるやのもり」の本を見せて「これでいづれ立ち直れれるから今年1年でいいから生活保護を出してくれ」と言ったら、「こんな汚らしい本は何だ、こんな本を書いてお前はやって行けると思うのか」、と本を床に投げ捨てて、最後は殴り合いみたいな喧嘩になってしまいました。
追い出されて帰ってきて、引きつる感覚が短くなってきて、着替えるものもなくそのうちに死臭を感じて、死ぬんだなあという気持ちがしてきて、涙が出てきました。
朝戸を叩く音がして、朦朧としたなかで、美しい女性がきて、天国から迎えに来たのかなあと思いました。
下級生の女性でした。
アンパンとチーズを買ってきてくれてよみがえることができました。
その女性が今の妻です。
2020年2月27日木曜日
冨田章(美術史家) ・【私のアート交遊録】「初老耽美派が行く!」
冨田章(美術史家) ・【私のアート交遊録】「初老耽美派が行く!」
初老耽美派とは、富田さんと三菱一号館美術館館長の高橋 明也さん、美術史家の山下裕二さんの三人が結成したユニットの名前です。
富田さんはフランス、ベルギー、日本の近代美術が、高橋明也さんはフランス近代美術がご専門です。
山下裕二さんは室町時代の水墨画の研究を軸に、縄文から現代まで幅広く日本美術を論じてきました。
異なる分野で40年近く活躍されて来た3人が美しいもの、好きなものについて自由に語り合おうと結成したのがこの初老耽美派です。
この3人が「初老耽美派よろめき美術鑑賞」という本をこのほど出版しました。
美の王道を極めたこの3人が自由自在に美術について語っています。
富田さんにアートを緩く長く楽しむ極意について伺いました。
東京ステーションギャラリーで展覧会があったときに、鼎談をやろうという事になり、三菱一号館美術館館長の高橋 明也さんと美術史家の山下裕二さんの三人で鼎談をしました。
そのあとに飲み会があり初老に成ったら思い切り美術を楽しんだらいいのではないかという事で初老耽美派だねという事で、そちらの方の仕事が来るようになり本を出すまでになってしまいました。
初老だと思うといろいろな老化現象も当たり前だと思えるようになり、そういうものと仲良く付き合っていこうかと心境の変化がありました。
美術は共存共栄的なところがあり、お互いに判り合えることがが多くて、打てば響くという様な感じで気が楽です。
展覧会に係りあってきたので判りやすく解説する、話すという事をやってきました。
出来るだけハードルが低くて、読みやすく、面白い本がいいのではないかと思いました。
「美術鑑賞に正解はなく、そもそも美術は役に立たないものだ」という文言がありますが、勉強という風な見方で美術を見ると面白くないあだろうと思いました。
美術はまず純粋に楽しむという事が一番大事だろうと 3人とも共通に思っています。
「美術は正解が無いんだ」という事ですが、数学、物理などと違って、絶対的な正解はないと思っています。
解釈の仕方は10人いれば10通りの解釈があると思います。
幅をもともと持っているところが美術の魅力だと思います。
観る人のそれまでの経験、人生、考え方によって絵は見え方が全然違ってしまうと思います。
沢山絵を観てゆくことの方がもっと凄いとかが、だんだん判って来ると、その時点でのその人にとっての正解だと思います。
喰わず嫌いにはなってほしくないと思っています。
ルーベンスについては最初苦手だと思っていましたが、ずーっとみているうちに或るときにルーベンスが判る瞬間があり、そう思ってみると物凄くよく面白く見えてくる経験がありました。
刀剣も興味がなかったが、日本美術の田中久雄先生が武士が何故お茶をたしなんでいたかという話をされて、武士はお茶椀の良さをすぐに判ったはずだと何故なら彼らは刀を見慣れていたからだとおっしゃったんです。
刀の波紋を丸くするとあれは茶碗の景色と同じで、刀は一番大事なものでそれを見ていた人が茶碗の良さを判らなかったはずはないと言ったんです。
刀を見るようになり、工芸的な部分の造形が眼に入ってみるようになり、段々興味がわいてきて面白くなっていきました。
美術はいろいろな面白さが詰まっているものだなあと感じます。
そういうものを少しでも皆さんに味わっていただきたいというのが願いです。
自然科学のノーベル賞をとられた先生方も基礎的な研究は何が役に立つのかわからなくて、ただ真実を知りたくて一生懸命研究するが、何十年か経って実はものすごく重要な発見だったりして、それが将来的に役に立ったりすることはあるが、やっている時には全然役に立たないことだが、それをやる事で人類は真理に近づいていってるわけです。
役に立たない研究、勉強、役に立たないことが切り捨てられようとしている。
世知辛い世の中になってきていて残念だなあという気持ちがあります。
年齢に応じた感性はあるもので、いろいろな経験を積んでくると最初の頃の感激みたいなものを忘れてしまうという事があり、それはもったいないなあと思います。
それが「鈍った感性を刺激する」という章のタイトルです。
「おっぱいとエロス」は好奇心を忘れないでほしいという事です。
好奇心が無くなってしまうと何をしてもつまらないという事になりかねない。
山下さんの凄いところは水墨画の分野でありながら、現代アートまでものすごくたくさん見ていて、それは好奇心がないとできないことだと思います。
「アートは結局 好き嫌い」 まず好きか嫌いかという事が入り口としては大きいと思います。
まずは好きなものを見てどんどん発展していけばいいと思っていて、そのうちに嫌いなものにも興味を持って行くという事もあると思います。
父親が美術好きであったので美術書があったり絵が飾ってあったりして、展覧会などにも連れて行ってもらっていました。
小学校1年生の時に絵を描いたのを先生から凄く褒めてくれて美術は面白いと思えました。
中学、高校と美術に抵抗感なく親しめました。
大学は文学部で小説を読むのが好きで、小説家になろうという夢もありました。
美術史の分野がある事が判ってやってみようかと思いました。
本格的に美術史をやろうと思ったのは実は大学を卒業してからでした。
4年生の時には就職活動はしていませんでアルバイトをしていました。
勉強していた西洋美術を徹底的に観ててやろうと思って、ヨーロッパに放浪の旅に行きました。(3か月間)
凄く面白くてのめりこんで行って、これは一生やっていけるかもしれないなあと思いました。
帰国後、美術を仕事にするならば勉強しないといけないと思って大学院に行きました。
私が美術を始めたころと今とでは情報量とかかなり状況が違います。
当時日本美術は見る方が凄く少なくて若冲など誰も知らないという様な時代でした。
美術には緩く触れていくというのが一番いいと思います。
今観て感激をして観れなかったら観てもあまり意味がないと思います。
義務感に駆られていってしまうとつまらなくなってしまうので、本当に行きたいところに行く、観たいものを観る、それを最低限を守って余力あればちょっと観てみるというところが適当なのではないかと思います。
神田 日勝という画家で絶筆(32歳で亡くなる)になってしまった半身の「馬」という絵があり、好きな絵です。
部分部分を書き込んでいくので馬の前半分は完成されているが、残りの部分はまだ画面の地が出てくて物凄く迫力があり迫ってくる。
私にとって忘れ難い一点です。
初老耽美派とは、富田さんと三菱一号館美術館館長の高橋 明也さん、美術史家の山下裕二さんの三人が結成したユニットの名前です。
富田さんはフランス、ベルギー、日本の近代美術が、高橋明也さんはフランス近代美術がご専門です。
山下裕二さんは室町時代の水墨画の研究を軸に、縄文から現代まで幅広く日本美術を論じてきました。
異なる分野で40年近く活躍されて来た3人が美しいもの、好きなものについて自由に語り合おうと結成したのがこの初老耽美派です。
この3人が「初老耽美派よろめき美術鑑賞」という本をこのほど出版しました。
美の王道を極めたこの3人が自由自在に美術について語っています。
富田さんにアートを緩く長く楽しむ極意について伺いました。
東京ステーションギャラリーで展覧会があったときに、鼎談をやろうという事になり、三菱一号館美術館館長の高橋 明也さんと美術史家の山下裕二さんの三人で鼎談をしました。
そのあとに飲み会があり初老に成ったら思い切り美術を楽しんだらいいのではないかという事で初老耽美派だねという事で、そちらの方の仕事が来るようになり本を出すまでになってしまいました。
初老だと思うといろいろな老化現象も当たり前だと思えるようになり、そういうものと仲良く付き合っていこうかと心境の変化がありました。
美術は共存共栄的なところがあり、お互いに判り合えることがが多くて、打てば響くという様な感じで気が楽です。
展覧会に係りあってきたので判りやすく解説する、話すという事をやってきました。
出来るだけハードルが低くて、読みやすく、面白い本がいいのではないかと思いました。
「美術鑑賞に正解はなく、そもそも美術は役に立たないものだ」という文言がありますが、勉強という風な見方で美術を見ると面白くないあだろうと思いました。
美術はまず純粋に楽しむという事が一番大事だろうと 3人とも共通に思っています。
「美術は正解が無いんだ」という事ですが、数学、物理などと違って、絶対的な正解はないと思っています。
解釈の仕方は10人いれば10通りの解釈があると思います。
幅をもともと持っているところが美術の魅力だと思います。
観る人のそれまでの経験、人生、考え方によって絵は見え方が全然違ってしまうと思います。
沢山絵を観てゆくことの方がもっと凄いとかが、だんだん判って来ると、その時点でのその人にとっての正解だと思います。
喰わず嫌いにはなってほしくないと思っています。
ルーベンスについては最初苦手だと思っていましたが、ずーっとみているうちに或るときにルーベンスが判る瞬間があり、そう思ってみると物凄くよく面白く見えてくる経験がありました。
刀剣も興味がなかったが、日本美術の田中久雄先生が武士が何故お茶をたしなんでいたかという話をされて、武士はお茶椀の良さをすぐに判ったはずだと何故なら彼らは刀を見慣れていたからだとおっしゃったんです。
刀の波紋を丸くするとあれは茶碗の景色と同じで、刀は一番大事なものでそれを見ていた人が茶碗の良さを判らなかったはずはないと言ったんです。
刀を見るようになり、工芸的な部分の造形が眼に入ってみるようになり、段々興味がわいてきて面白くなっていきました。
美術はいろいろな面白さが詰まっているものだなあと感じます。
そういうものを少しでも皆さんに味わっていただきたいというのが願いです。
自然科学のノーベル賞をとられた先生方も基礎的な研究は何が役に立つのかわからなくて、ただ真実を知りたくて一生懸命研究するが、何十年か経って実はものすごく重要な発見だったりして、それが将来的に役に立ったりすることはあるが、やっている時には全然役に立たないことだが、それをやる事で人類は真理に近づいていってるわけです。
役に立たない研究、勉強、役に立たないことが切り捨てられようとしている。
世知辛い世の中になってきていて残念だなあという気持ちがあります。
年齢に応じた感性はあるもので、いろいろな経験を積んでくると最初の頃の感激みたいなものを忘れてしまうという事があり、それはもったいないなあと思います。
それが「鈍った感性を刺激する」という章のタイトルです。
「おっぱいとエロス」は好奇心を忘れないでほしいという事です。
好奇心が無くなってしまうと何をしてもつまらないという事になりかねない。
山下さんの凄いところは水墨画の分野でありながら、現代アートまでものすごくたくさん見ていて、それは好奇心がないとできないことだと思います。
「アートは結局 好き嫌い」 まず好きか嫌いかという事が入り口としては大きいと思います。
まずは好きなものを見てどんどん発展していけばいいと思っていて、そのうちに嫌いなものにも興味を持って行くという事もあると思います。
父親が美術好きであったので美術書があったり絵が飾ってあったりして、展覧会などにも連れて行ってもらっていました。
小学校1年生の時に絵を描いたのを先生から凄く褒めてくれて美術は面白いと思えました。
中学、高校と美術に抵抗感なく親しめました。
大学は文学部で小説を読むのが好きで、小説家になろうという夢もありました。
美術史の分野がある事が判ってやってみようかと思いました。
本格的に美術史をやろうと思ったのは実は大学を卒業してからでした。
4年生の時には就職活動はしていませんでアルバイトをしていました。
勉強していた西洋美術を徹底的に観ててやろうと思って、ヨーロッパに放浪の旅に行きました。(3か月間)
凄く面白くてのめりこんで行って、これは一生やっていけるかもしれないなあと思いました。
帰国後、美術を仕事にするならば勉強しないといけないと思って大学院に行きました。
私が美術を始めたころと今とでは情報量とかかなり状況が違います。
当時日本美術は見る方が凄く少なくて若冲など誰も知らないという様な時代でした。
美術には緩く触れていくというのが一番いいと思います。
今観て感激をして観れなかったら観てもあまり意味がないと思います。
義務感に駆られていってしまうとつまらなくなってしまうので、本当に行きたいところに行く、観たいものを観る、それを最低限を守って余力あればちょっと観てみるというところが適当なのではないかと思います。
神田 日勝という画家で絶筆(32歳で亡くなる)になってしまった半身の「馬」という絵があり、好きな絵です。
部分部分を書き込んでいくので馬の前半分は完成されているが、残りの部分はまだ画面の地が出てくて物凄く迫力があり迫ってくる。
私にとって忘れ難い一点です。
2020年2月26日水曜日
村雨辰剛(庭師) ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年(初回:2019/9/25)
村雨辰剛(庭師) ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年(初回:2019/9/25)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_25.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_25.htmlをご覧ください。
2020年2月25日火曜日
入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族)・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を(初回:2019/12/9)
入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族) ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を(初回:2019/12/9)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_9.htmlを御覧下さい。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_9.htmlを御覧下さい。
2020年2月24日月曜日
頭木弘樹(文学紹介) ・【絶望名言】金子みすゞ(初回2019/1/28)
頭木弘樹(文学紹介) ・【絶望名言】金子みすゞ(初回2019/1/28)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/01/blog-post_28.htmlを御覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/01/blog-post_28.htmlを御覧ください。
2020年2月23日日曜日
明日への言葉 投稿10年目に!
2011年2月22日の「明日への言葉」のブログの初投稿以来9年が過ぎて、10年目に入りました。
その間、体の不調とかもあったりしましたが、何とか続けて来られました。
これもアクセスしてくださる人々がいて、それが励みになって来たと思います。
参考までに、外国の方々がご覧になるようになってきて、一番がアメリカで、二番は時々の内容によるようで、いろんな国が入れ替わっている様な状況です。
ドイツ、フランス、イギリスは多くはないですが、常にベスト10に入っています。
累積アクセス数は今日で1、561、802になりました。
いつもKさんには誤字脱字について校正していただき、本当に感謝しています。
この場を借りて御礼します。
今後どのぐらい続けられるか不安な面がありますが、当面とりあえず日々頑張っていきたいと思います。
秋田 宏
その間、体の不調とかもあったりしましたが、何とか続けて来られました。
これもアクセスしてくださる人々がいて、それが励みになって来たと思います。
参考までに、外国の方々がご覧になるようになってきて、一番がアメリカで、二番は時々の内容によるようで、いろんな国が入れ替わっている様な状況です。
ドイツ、フランス、イギリスは多くはないですが、常にベスト10に入っています。
累積アクセス数は今日で1、561、802になりました。
いつもKさんには誤字脱字について校正していただき、本当に感謝しています。
この場を借りて御礼します。
今後どのぐらい続けられるか不安な面がありますが、当面とりあえず日々頑張っていきたいと思います。
秋田 宏
竹宇治(田中)聰子(ローマオリピック水泳銅メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
竹宇治(田中)聰子(ローマオリピック水泳銅メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
熊本県で育ち、筑紫女学園高等学校3年生の時に、ローマオリンピック競泳女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑秀子選手以来24年ぶり、二人目の競泳女子のメダリストになりました。
八幡製鉄時代22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目で4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代の半ばの現在も週4回の水泳教室を、そして長女の病気をきっかけに始めた喘息の子どもの水泳指導を40年続いているそうです。
娘が3人なので孫が8人います。
一番上が20歳になります。
月、火、木、金と週4回水泳教室に通っています。
大人の教室を2回、子どもの喘息児の教室を2回やっています。
指導するときにはプールに入り大声を出しています。
昭和35年ローマオリンピック。
前年17歳の時、日本選手権で女子200m背泳ぎで世界新記録を出しました。
ローマオリンピックでは女子は振るわず、100m背泳ぎで一人だけ背泳ぎの決勝に残る。
1分11秒5日本新記録で予選で3番目でいた。
私は3コースで4コースにはアメリカのリン・ バークで100mの世界記録保持者、2コースはイギリスのスチュワードでした。
スタート時にやや遅れる。
50mのターンでアメリカのリン・ バークがトップ、続いてイギリスのスチュワード、南アフリカのラムエル?、田中4位でターン。
80mを越えてピッチが上がってきて3位争いとなる。
3位に田中、南アフリカのラムエル?、フランスのピアセンチ?が並んでゴール。
着順がなかなか発表されない。
駄目だと思って更衣室に入っていたらコーチが出てきて「早く出てこい」と言われて出ていったら3位になっていました。
3位は1分11秒4で同タイムでタッチの差で銅メダル獲得となる。
当時は目視で着順を決めていました。
昭和39年の東京オリンピックの時には22歳で八幡製鉄に就職していました。
私のほかに木原 光知子さんが出場しました。
私は予選6位で決勝進出を決まましたが、木原選手はいつもよりも1秒遅れてしまって予選落ちしてしまいました。
前評判は16歳と17歳のアメリカとフランスの3人でした。
アメリカは世界記録保持者のデュンケル、予選2番目のファーガソン、フランスのキャロンは予選1位のオリンピック記録を出している。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中でした。
50mターンでデュンケルがわずかにリード、後はほぼ同時、その後ファーガソンがトップに、2位にキャロン、3位にデュンケル、田中が追いかけるが4位でゴール。
1分8秒6の日本新記録出しながら4位となってしまった。
レース後の記者会見で「レースに出るのはこれで辞めます」、と言いました。
「頑張れ」と言われれば言われるほど重圧となり言ってはほしくはないと思っていました。
切磋琢磨しながら練習をしないと結果がなかなか出にくいので、チームで練習をすると負けてはいられないという事で、男性の平泳ぎ選手と一緒に練習するんです。
山中さんは早稲田大学時代に一日に40kmぐらい泳いだといっていました。
私たちは会社に勤めていたので朝8時から4時までは仕事をしなければいけないので、5時から練習を始めて8,9時までの練習なのでそれほど距離は泳げませんでした。
いかに効率よく練習するかが大事でした。
屋外プールだったので冬は陸上でのトレーニングでした。
子どもの頃、3月末ぐらいから田んぼのために灌漑用水をため込んだ手作りのプールがあり、緩やかに流れていて、そこで毎日のように泳いでいました。
中学の水泳部に入って、1年の8月に熊本大会があり50m、100mの背泳ぎで優勝しました。
2年で50m、100mで日本新記録を出しました。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学しました。
高校1年の5月にアジア大会があって100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位以下を10mぐらい離して優勝。
足首が柔らかいという事は水を上手に扱えるので、足の柔らかさは利点になりました。
負けたくないという事は根底のどこかにあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなくて、本当に押しつぶされそうでした。
17歳で初めて出した世界記録2分37秒1、18歳の時にローマオリンピック代表選考で出した2分33秒3の世界新記録は200mでした。
ローマ、東京大会共に200mはなくて100mでの出場でした。
メキシコから200mが採用されました。
昭和41年アジア大会で100m背泳ぎで優勝して3連覇。
翌年バレーボールの監督だった竹宇治さんと結婚、3人の子どもを育てる。
長女の和佳子が喘息になったことをきっかけに水泳教室の始めることになる。
医師から喘息は泳いだ方がよくなると言われて、喘息児を専門に水泳教室をやらないかと言われました。
先生も水着も来て喘息が起きても大丈夫なように医師とタッグを組んでスタートしました。
この方法が全国に広まっていきました。
気管支に埃などがあると気管支が異常反応して痰がいっぱい詰まるので 空気が通りにくくなるが水を飲むと良い。
泳ぐとどうしても水を飲んでしまうし、プールサイドは埃がないので絶好の場所になる訳です。
昭和52年から始めて、東京にも転勤となり江戸川区でも喘息児に対しての水泳教室を始めました。
マスターズの75歳代に出て世界記録を出しました。
みなさんと一緒に楽しむのが一番と思っています。
水泳界はいま期待の星が出てきており、そっと温かい目で見つめていきたいと思います。
熊本県で育ち、筑紫女学園高等学校3年生の時に、ローマオリンピック競泳女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑秀子選手以来24年ぶり、二人目の競泳女子のメダリストになりました。
八幡製鉄時代22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目で4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代の半ばの現在も週4回の水泳教室を、そして長女の病気をきっかけに始めた喘息の子どもの水泳指導を40年続いているそうです。
娘が3人なので孫が8人います。
一番上が20歳になります。
月、火、木、金と週4回水泳教室に通っています。
大人の教室を2回、子どもの喘息児の教室を2回やっています。
指導するときにはプールに入り大声を出しています。
昭和35年ローマオリンピック。
前年17歳の時、日本選手権で女子200m背泳ぎで世界新記録を出しました。
ローマオリンピックでは女子は振るわず、100m背泳ぎで一人だけ背泳ぎの決勝に残る。
1分11秒5日本新記録で予選で3番目でいた。
私は3コースで4コースにはアメリカのリン・ バークで100mの世界記録保持者、2コースはイギリスのスチュワードでした。
スタート時にやや遅れる。
50mのターンでアメリカのリン・ バークがトップ、続いてイギリスのスチュワード、南アフリカのラムエル?、田中4位でターン。
80mを越えてピッチが上がってきて3位争いとなる。
3位に田中、南アフリカのラムエル?、フランスのピアセンチ?が並んでゴール。
着順がなかなか発表されない。
駄目だと思って更衣室に入っていたらコーチが出てきて「早く出てこい」と言われて出ていったら3位になっていました。
3位は1分11秒4で同タイムでタッチの差で銅メダル獲得となる。
当時は目視で着順を決めていました。
昭和39年の東京オリンピックの時には22歳で八幡製鉄に就職していました。
私のほかに木原 光知子さんが出場しました。
私は予選6位で決勝進出を決まましたが、木原選手はいつもよりも1秒遅れてしまって予選落ちしてしまいました。
前評判は16歳と17歳のアメリカとフランスの3人でした。
アメリカは世界記録保持者のデュンケル、予選2番目のファーガソン、フランスのキャロンは予選1位のオリンピック記録を出している。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中でした。
50mターンでデュンケルがわずかにリード、後はほぼ同時、その後ファーガソンがトップに、2位にキャロン、3位にデュンケル、田中が追いかけるが4位でゴール。
1分8秒6の日本新記録出しながら4位となってしまった。
レース後の記者会見で「レースに出るのはこれで辞めます」、と言いました。
「頑張れ」と言われれば言われるほど重圧となり言ってはほしくはないと思っていました。
切磋琢磨しながら練習をしないと結果がなかなか出にくいので、チームで練習をすると負けてはいられないという事で、男性の平泳ぎ選手と一緒に練習するんです。
山中さんは早稲田大学時代に一日に40kmぐらい泳いだといっていました。
私たちは会社に勤めていたので朝8時から4時までは仕事をしなければいけないので、5時から練習を始めて8,9時までの練習なのでそれほど距離は泳げませんでした。
いかに効率よく練習するかが大事でした。
屋外プールだったので冬は陸上でのトレーニングでした。
子どもの頃、3月末ぐらいから田んぼのために灌漑用水をため込んだ手作りのプールがあり、緩やかに流れていて、そこで毎日のように泳いでいました。
中学の水泳部に入って、1年の8月に熊本大会があり50m、100mの背泳ぎで優勝しました。
2年で50m、100mで日本新記録を出しました。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学しました。
高校1年の5月にアジア大会があって100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位以下を10mぐらい離して優勝。
足首が柔らかいという事は水を上手に扱えるので、足の柔らかさは利点になりました。
負けたくないという事は根底のどこかにあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなくて、本当に押しつぶされそうでした。
17歳で初めて出した世界記録2分37秒1、18歳の時にローマオリンピック代表選考で出した2分33秒3の世界新記録は200mでした。
ローマ、東京大会共に200mはなくて100mでの出場でした。
メキシコから200mが採用されました。
昭和41年アジア大会で100m背泳ぎで優勝して3連覇。
翌年バレーボールの監督だった竹宇治さんと結婚、3人の子どもを育てる。
長女の和佳子が喘息になったことをきっかけに水泳教室の始めることになる。
医師から喘息は泳いだ方がよくなると言われて、喘息児を専門に水泳教室をやらないかと言われました。
先生も水着も来て喘息が起きても大丈夫なように医師とタッグを組んでスタートしました。
この方法が全国に広まっていきました。
気管支に埃などがあると気管支が異常反応して痰がいっぱい詰まるので 空気が通りにくくなるが水を飲むと良い。
泳ぐとどうしても水を飲んでしまうし、プールサイドは埃がないので絶好の場所になる訳です。
昭和52年から始めて、東京にも転勤となり江戸川区でも喘息児に対しての水泳教室を始めました。
マスターズの75歳代に出て世界記録を出しました。
みなさんと一緒に楽しむのが一番と思っています。
水泳界はいま期待の星が出てきており、そっと温かい目で見つめていきたいと思います。
2020年2月22日土曜日
鬼丸昌也(NPO法人 理事) ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」
鬼丸昌也(NPO法人 理事) ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」
NPO法人テラ・ルネッサンスは鬼丸さん(40歳)が大学生の時に、一人で設立したのが始まりで今ではアジア、アフリカ、5か国にスタッフを常駐させ、紛争地に大量に残された地雷を除去する活動への支援、18歳未満で武装勢力にさらわれた元子ども兵の自立と社会復帰復への為の取り組み、日本国内での平和教育などを柱に活動しています。
紛争地に何が起きて、何が残されたのか、活動の意味は何か、お聞きしました。
スタッフは国内外含めると日本人のスタッフは16名、海外の現地人スタッフは5か国で72名います。
カンボジア、ラオス、ウガンダ、コンゴ民主共和国、ブルンジの5か国になります。
「テラ・ルネッサンス」のテラはラテン語で地球、ルネッサンスは復興とか再生という意味になります。
最初は小学校1年生の時に、小さい村に引っ越してきたときに、引っ越し先の小学校で一人になることが多くて、図書館でいろんな偉人の伝記を読むようになった時に、アジア、アフリカの独立運動の指導者の伝記に興味を持ったところ、虐げられた人たちが力を合わせて独立を勝ち取る、現状を変えてゆく姿に関心を持ったところから、こういった海外支援、国際協力に興味関心がどんどん繋がったと思います。
18歳の時にスリランカに行き、サルボダヤ運動という村作り、村おこしをしているNGOがあり、代表のアリヤラトネという方から「君がもし世界を平和にしたい、世界を変えたいのならすべての人に未来を作る力があると信じなさい。
君にも周りの方にもあらゆる人にもそういう未来を作る、変化を起こす力があるという事を信じていたら、目の前の人に裏切られても、目の前のことが上手くいかなくても、まあ変わるよね、変わる事さえ信じていればきっと君は社会や世界を変えることができる」と言われたのが18歳の時でこれが大きなきっかけになりました。
アリヤラトネさんは高校の理科の先生でしたが、活動をしていきました。
家が貧しくて新聞屋さんに住み込みながら大学1,2年生の時には通って、3,4年生の時には住み込みでカラオケやに住み込みでバイトをしながら大学に通いました。
大学4年の時に阪神淡路大震災の時にボランティア団体の神戸元気村の皆さんに出会って、アジアや世界の人々からお世話になったので神戸から恩返しをしようという事になり、地雷除去活動をカンボジアで始めていました。
2001年2月にカンボジアに訪れることになりました。
地雷の悲惨さを目の当たりにして衝撃を受けました。
当時500~600万個は埋まっていたといわれます。
地雷は敵の侵攻を止めるため、どこに地雷が埋まっているかわからないので恐怖心を与えるため、労力を使わずに敵の領地を奪う事ができる、人々の自由を奪う事ができる。
ポルポト政権がなくなったが、1979年以降も内戦が続き、いまだに被害者が出ています。
地雷で亡くなっているのは数十万人単位です、被害は主に一般人です。
地雷は効果も凄くて数十円~数百円なので非常に安いです。
地表から30cmぐらいに所に埋まっていて判りません。
地雷除去作業は炎天下でもあり危険だし大変です。
小さい子が義足をするとなると成長してゆくので交換にも大変な費用が掛かってしまって、未来が見えて来なくなってしまう。
今自分に何ができるのだろうかと思って、お金も人脈もなく、英語もよくしゃべれなくて、無いという事が人と人、人と社会を結び付けるのりしろになると思います。
見てきたこと、聞いてきたことを伝えることはできると思って報告会、講演を2001年に90回やりました。
共感してくれる方が段々増えていきました。
寄付を集めてカンボジアで地雷除去活動をしている団体に寄付、支援をしました。
それをまた報告すると言う事を繰り返して「テラ・ルネッサンス」の活動を始めるようになりました。
企業に就職しようという気持ちはありませんでした。
活動を辞めないという気持ちは最初からありました。
カンボジアの地雷被害者で元子ども兵がいて、話を聞くとやはり大変な問題を抱えていると思って、当時戦争中でたくさんの子供を誘拐しているのがウガンダでした。
2004年にウガンダ北部に調査に行きました。
ウガンダ北部には国の軍隊のベースキャンプがあるので、夜になると親が子どもたちの安全のためにウガンダ北部に向かわせるわけです、その数はおよそ1万人ぐらいです。
朝になると又家に戻っていくわけです、その子たちのことをナイトコミューター(夜の通勤者)と言っています。
戦争は弱い人たちを苦しめ、傷つけるものだと思いました。
聞いた話の中で12歳の時に「神の抵抗軍」に誘拐され訓練を受け、自分の育った村に襲いに行かされた。
そこで残虐な行為をした少年兵や少女兵はもうそこには戻れない。
そうさせることによって「神の抵抗軍」の軍隊から抜けさせないようにするわけです。
ほかの国でも行われており、子どもを軍隊に引き付ける。
「神の抵抗軍」の大人兵士はその子の母親を殺せと命令するが、出来ないというと痛めつけられた後にそれならば母親の腕を切れと命令する、切らないと母親もお前も殺すという。
仕方なく母親の右手を切断する、その話を聞いて今でも心に残っています。
例え脱走してきたり、武装解除されて帰って来た時に、さらなる困難の始まりになります。
コミュニケーションの仕方が判らない、文字の読み書きができない、仕事の技術がないので子ども時代兵士だった大人の社会復帰が難しいのと社会復帰が必要だと痛感したのも、2004年にウガンダへの調査で判った一つです。
少女たちは家事労働、性的な奴隷、強制的に結婚させられて子どもを産む、という事がウガンダでは顕著でした。
ウガンダではそのような少年少女が23年間の内戦でおよそ3万6000人いると言われています。
2005年に日本人スタッフ一人を派遣して地元の元子ども兵18人(平均年齢20代前半)の職業訓練、識字教育、などをしながら、どんなことをしたいか起業してもらってお金の稼ぎ方を学んでもらって3年が経過した時点で、店をそのまま続けてもいいし、その経験を生かしてほかに就職してもいいという事にして、自立して家族を養えるようにする、という事を目指して支援を始めました。
その間、食費、医療費は我々が支援します。
お金では借金の返済とかお酒麻薬を買う事もあるので、お金ではなく食料、医療などが買える店のクーポン券で行っています。
230名近くが卒業して店をやったり就職して継続的な収入を得ていて、平均月収が7000円前後で公務員と同じ平均月収を得ています。
我々の支援前の彼らの平均月収は128円です。
心の傷は消えないと考えていて、サポートして子どもに腹いっぱい食べさせて笑顔を見ることで、自分が幸せを感じることはできると思います。
人は問題をかかえながらでも幸せになれると思います。
問題との付き合い方を学んでもらうため、問題に立ち向かう力を付けてもらうため、それが私たちの支援の在り方だと思っています。
紛争、戦争になる原因はいろいろありますが、コンゴ民主共和国の東部の戦闘の大きな原因は大地に埋まっているレアメタルです、資源の奪い合いがあります。
20年以上で約500万人が亡くなりました、第二次世界大戦後最大です。
大事なことは、今自分にできることがあるという事です。
それを探してほしいと思います。
私たちが使っているもの、選択に、紛争や世界の課題の原因が含まれているならば、私たちの変化は世界の変化に繋がる。
私たちは微力ですが、決して無力ではありません。
微力が集まったら勢力になります。
今自分にできることがあるという事が大事な事です。
NPO法人テラ・ルネッサンスは鬼丸さん(40歳)が大学生の時に、一人で設立したのが始まりで今ではアジア、アフリカ、5か国にスタッフを常駐させ、紛争地に大量に残された地雷を除去する活動への支援、18歳未満で武装勢力にさらわれた元子ども兵の自立と社会復帰復への為の取り組み、日本国内での平和教育などを柱に活動しています。
紛争地に何が起きて、何が残されたのか、活動の意味は何か、お聞きしました。
スタッフは国内外含めると日本人のスタッフは16名、海外の現地人スタッフは5か国で72名います。
カンボジア、ラオス、ウガンダ、コンゴ民主共和国、ブルンジの5か国になります。
「テラ・ルネッサンス」のテラはラテン語で地球、ルネッサンスは復興とか再生という意味になります。
最初は小学校1年生の時に、小さい村に引っ越してきたときに、引っ越し先の小学校で一人になることが多くて、図書館でいろんな偉人の伝記を読むようになった時に、アジア、アフリカの独立運動の指導者の伝記に興味を持ったところ、虐げられた人たちが力を合わせて独立を勝ち取る、現状を変えてゆく姿に関心を持ったところから、こういった海外支援、国際協力に興味関心がどんどん繋がったと思います。
18歳の時にスリランカに行き、サルボダヤ運動という村作り、村おこしをしているNGOがあり、代表のアリヤラトネという方から「君がもし世界を平和にしたい、世界を変えたいのならすべての人に未来を作る力があると信じなさい。
君にも周りの方にもあらゆる人にもそういう未来を作る、変化を起こす力があるという事を信じていたら、目の前の人に裏切られても、目の前のことが上手くいかなくても、まあ変わるよね、変わる事さえ信じていればきっと君は社会や世界を変えることができる」と言われたのが18歳の時でこれが大きなきっかけになりました。
アリヤラトネさんは高校の理科の先生でしたが、活動をしていきました。
家が貧しくて新聞屋さんに住み込みながら大学1,2年生の時には通って、3,4年生の時には住み込みでカラオケやに住み込みでバイトをしながら大学に通いました。
大学4年の時に阪神淡路大震災の時にボランティア団体の神戸元気村の皆さんに出会って、アジアや世界の人々からお世話になったので神戸から恩返しをしようという事になり、地雷除去活動をカンボジアで始めていました。
2001年2月にカンボジアに訪れることになりました。
地雷の悲惨さを目の当たりにして衝撃を受けました。
当時500~600万個は埋まっていたといわれます。
地雷は敵の侵攻を止めるため、どこに地雷が埋まっているかわからないので恐怖心を与えるため、労力を使わずに敵の領地を奪う事ができる、人々の自由を奪う事ができる。
ポルポト政権がなくなったが、1979年以降も内戦が続き、いまだに被害者が出ています。
地雷で亡くなっているのは数十万人単位です、被害は主に一般人です。
地雷は効果も凄くて数十円~数百円なので非常に安いです。
地表から30cmぐらいに所に埋まっていて判りません。
地雷除去作業は炎天下でもあり危険だし大変です。
小さい子が義足をするとなると成長してゆくので交換にも大変な費用が掛かってしまって、未来が見えて来なくなってしまう。
今自分に何ができるのだろうかと思って、お金も人脈もなく、英語もよくしゃべれなくて、無いという事が人と人、人と社会を結び付けるのりしろになると思います。
見てきたこと、聞いてきたことを伝えることはできると思って報告会、講演を2001年に90回やりました。
共感してくれる方が段々増えていきました。
寄付を集めてカンボジアで地雷除去活動をしている団体に寄付、支援をしました。
それをまた報告すると言う事を繰り返して「テラ・ルネッサンス」の活動を始めるようになりました。
企業に就職しようという気持ちはありませんでした。
活動を辞めないという気持ちは最初からありました。
カンボジアの地雷被害者で元子ども兵がいて、話を聞くとやはり大変な問題を抱えていると思って、当時戦争中でたくさんの子供を誘拐しているのがウガンダでした。
2004年にウガンダ北部に調査に行きました。
ウガンダ北部には国の軍隊のベースキャンプがあるので、夜になると親が子どもたちの安全のためにウガンダ北部に向かわせるわけです、その数はおよそ1万人ぐらいです。
朝になると又家に戻っていくわけです、その子たちのことをナイトコミューター(夜の通勤者)と言っています。
戦争は弱い人たちを苦しめ、傷つけるものだと思いました。
聞いた話の中で12歳の時に「神の抵抗軍」に誘拐され訓練を受け、自分の育った村に襲いに行かされた。
そこで残虐な行為をした少年兵や少女兵はもうそこには戻れない。
そうさせることによって「神の抵抗軍」の軍隊から抜けさせないようにするわけです。
ほかの国でも行われており、子どもを軍隊に引き付ける。
「神の抵抗軍」の大人兵士はその子の母親を殺せと命令するが、出来ないというと痛めつけられた後にそれならば母親の腕を切れと命令する、切らないと母親もお前も殺すという。
仕方なく母親の右手を切断する、その話を聞いて今でも心に残っています。
例え脱走してきたり、武装解除されて帰って来た時に、さらなる困難の始まりになります。
コミュニケーションの仕方が判らない、文字の読み書きができない、仕事の技術がないので子ども時代兵士だった大人の社会復帰が難しいのと社会復帰が必要だと痛感したのも、2004年にウガンダへの調査で判った一つです。
少女たちは家事労働、性的な奴隷、強制的に結婚させられて子どもを産む、という事がウガンダでは顕著でした。
ウガンダではそのような少年少女が23年間の内戦でおよそ3万6000人いると言われています。
2005年に日本人スタッフ一人を派遣して地元の元子ども兵18人(平均年齢20代前半)の職業訓練、識字教育、などをしながら、どんなことをしたいか起業してもらってお金の稼ぎ方を学んでもらって3年が経過した時点で、店をそのまま続けてもいいし、その経験を生かしてほかに就職してもいいという事にして、自立して家族を養えるようにする、という事を目指して支援を始めました。
その間、食費、医療費は我々が支援します。
お金では借金の返済とかお酒麻薬を買う事もあるので、お金ではなく食料、医療などが買える店のクーポン券で行っています。
230名近くが卒業して店をやったり就職して継続的な収入を得ていて、平均月収が7000円前後で公務員と同じ平均月収を得ています。
我々の支援前の彼らの平均月収は128円です。
心の傷は消えないと考えていて、サポートして子どもに腹いっぱい食べさせて笑顔を見ることで、自分が幸せを感じることはできると思います。
人は問題をかかえながらでも幸せになれると思います。
問題との付き合い方を学んでもらうため、問題に立ち向かう力を付けてもらうため、それが私たちの支援の在り方だと思っています。
紛争、戦争になる原因はいろいろありますが、コンゴ民主共和国の東部の戦闘の大きな原因は大地に埋まっているレアメタルです、資源の奪い合いがあります。
20年以上で約500万人が亡くなりました、第二次世界大戦後最大です。
大事なことは、今自分にできることがあるという事です。
それを探してほしいと思います。
私たちが使っているもの、選択に、紛争や世界の課題の原因が含まれているならば、私たちの変化は世界の変化に繋がる。
私たちは微力ですが、決して無力ではありません。
微力が集まったら勢力になります。
今自分にできることがあるという事が大事な事です。
2020年2月21日金曜日
沢知恵(歌手・シンガーソングライター) ・【わが心の人】「詩人 塔和子」
沢知恵(歌手・シンガーソングライター) ・【わが心の人】「詩人 塔和子」
塔和子さんは昭和4年(1929年)愛媛県に生まれました。
10代でハンセン病を発生し13歳から療養所での暮らしを余儀なくされました。
しかし塔和子さんは詩を書くことで生きることの意味を問い続けました。
平成25年(2013年)8月亡くなられました。(83歳)
沢知恵さんは塔和子さんの詩に魅せられ、曲をつけてコンサートで歌い続けています。
塔和子さんと出会ったのは昭和46年、1971年(半世紀前)の夏でした。
生後6か月の赤ちゃんでした。
父がキリスト教の牧師で学生時代にひと夏、瀬戸内海にあるハンセン病療養所の大島青松園で学生研修、ボランティアでお世話になって、その後結婚して生まれた私を大島青松園に見せたいと思って連れて行かれました。
当時ハンセン病療養所に赤ちゃんを連れて行くということは考えられなくて、ハンセン病療養所の人たちは鮮烈に覚えていたそうです。
薬で治って1960年には隔離の必要がなかったが、強制隔離が続いて、全員が治って10年以上たって私が行きましたが、周りはお前はいいけど赤ちゃんだけは連れて行かないように随分反対されたが、連れていってくれました。
大島青松園には塔和子さんがいたんです。
高校生の時に父ががんで亡くなって20年ぶりに大島青松園に行きました。
皆さんが桟橋で「知恵ちゃんよく来たね」と言って大粒の涙で私を迎えに来てくれまして、私も泣いてしまいました。
それから大島青松園が故郷になり、年に何回も通うようになりました。
青松園の月刊の機関紙があり塔和子さんの詩に大変感銘を受けていました。
塔和子さんに会いたいと言ったら、父とは親しかったからあってくれると言って導いてくれました。
病棟に行って「塔和子さん」と声を掛けたら「あー沢先生のお嬢さんね」」と言って満面の笑みで迎えてくれました。
青松園に行くと必ず塔和子さんの部屋に行って、詩の話、クリエートすることについて熱く語ってくださいました。
全国に13か所の国立療養所がありますが、唯一離島にあるのが大島療養所です。
年々亡くなってゆく人が出てきて、何かせめて恩返しができないかと思って、コンサートをやらせてくださいと言ったのが2001年、国と和解した年でもありました。
以来20年間毎年コンサートをしています。
塔和子さんから詩集十数冊頂きました。
金子みすゞさんとかの詩に曲を付けて歌ったりしていたので、私の詩にも曲をつけて歌ってほしいという思いで思い、詩集をくださったんじゃないかと思いました。
塔和子さんの詩(約1000編)を私の中に取り込むのに8年の歳月が必要でした。
声をだして全部読むしかないと思って3か月かけて読みました。
*「胸の泉に」 作曲、歌 沢知恵 作詞 塔和子
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
かかわらなければ かかわらなければ
この親しさは湧かなかった
かかわらなければ かかわらなければ
このおおらかな依存の安らいは得られなかった
かかわらなければ
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人は関わることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子と関わることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
繰り返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生をつづる
ああ かかわらなければ
何億の人がいようとも
関わらなければ路傍の人
かかわらなければ かかわらなければ
私の胸の泉にも
枯れ葉一枚も
落としてはくれない
「選ぶ」という詩 塔和子
選ぶことは捨てることだ
百から十を
十から一を
選んで九十九を捨てる
この人を選んであの人を捨てる
この道を選んであの道を捨てる
ひとつの宝石
一枚の着物
一個の化粧品
選ぶことは贅沢なことだ
選ぶことは厳しいことだ苛酷なことだ
だが
人は選ばねばならない
どんなに多くの物に囲まれていようとも
自分のものにするとき
たったひとつを選ぶことを強いられ
同時に九十九を捨てることを強いられ
選んだ重さを負わされる孤独な存在だ
だか選ぶことは愛することだ
捨てた九十九より選んだ一が重くなるほど
選ぶことは捨てることだ
選んだ一のために九十九のさびしいうめき声をきくことだ
九十九のさびしいうめきを振りすてて
一を選んだ勇者はだれ
あなただ
私だ
この世に参加している
人間だ
晩年はパーキンソン病を患いましたが、病室に入ると塔和子さんの周りにはオーラがありました。
塔和子さんの詩には樹をテーマにしたものが沢山あります。
塔和子さん自身が樹のように凛として生きているイメージの方でおしゃれの好きな方でした。
思いを言葉にすることによって希望を紡いで生きてきたし、悲しみから生まれる喜びの歌を紡いで自分自身が命を繋いだ方だと思います。
2013年の夏に最後にお会いしました。(亡くなる数日前)
塔和子さんは歌「故郷」が好きで私は「故郷」を歌いかけました。
亡くなった後、ご兄弟は自分たちの家族にハンセン病回復者がいるということを長い間公にはしなかったが、ご兄弟が姉さんを故郷に迎えようと決心して、先祖代々のお墓に本名である井土 ヤツ子という名前を彫って、分骨をされました。
これは大変なことでハンセン病回復者のほとんどは故郷のお墓に帰ることはなかった。
6年前に塔和子さんが夢に出てきて、塔和子さんに導かれて大島青松園に近い岡山に引っ越しました。
コンサート以外でも大島青松園には月に2,3回通っています。
3月は東日本大震災で被災した人たちを応援するコンサートも予定しています。
東北にはずーっと通い続けています。
福島県は台風19号でも大きな被害を受けました。
少年院、児童養護施設でのコンサート活動も継続してやっています。
ともえ基金を設けてボランティアコンサートの経費の面で支えてくださいと言う事でやっています。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に憧れていて、西日本豪雨の後に、通う車の中でフレーズが出てきて、視界が涙で滲んできて、歌にしました。
塔和子さんに続く第二の人生の応援歌になりました。
*「雨ニモマケズ」 作曲、歌 沢知恵 詩 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
塔和子さんは昭和4年(1929年)愛媛県に生まれました。
10代でハンセン病を発生し13歳から療養所での暮らしを余儀なくされました。
しかし塔和子さんは詩を書くことで生きることの意味を問い続けました。
平成25年(2013年)8月亡くなられました。(83歳)
沢知恵さんは塔和子さんの詩に魅せられ、曲をつけてコンサートで歌い続けています。
塔和子さんと出会ったのは昭和46年、1971年(半世紀前)の夏でした。
生後6か月の赤ちゃんでした。
父がキリスト教の牧師で学生時代にひと夏、瀬戸内海にあるハンセン病療養所の大島青松園で学生研修、ボランティアでお世話になって、その後結婚して生まれた私を大島青松園に見せたいと思って連れて行かれました。
当時ハンセン病療養所に赤ちゃんを連れて行くということは考えられなくて、ハンセン病療養所の人たちは鮮烈に覚えていたそうです。
薬で治って1960年には隔離の必要がなかったが、強制隔離が続いて、全員が治って10年以上たって私が行きましたが、周りはお前はいいけど赤ちゃんだけは連れて行かないように随分反対されたが、連れていってくれました。
大島青松園には塔和子さんがいたんです。
高校生の時に父ががんで亡くなって20年ぶりに大島青松園に行きました。
皆さんが桟橋で「知恵ちゃんよく来たね」と言って大粒の涙で私を迎えに来てくれまして、私も泣いてしまいました。
それから大島青松園が故郷になり、年に何回も通うようになりました。
青松園の月刊の機関紙があり塔和子さんの詩に大変感銘を受けていました。
塔和子さんに会いたいと言ったら、父とは親しかったからあってくれると言って導いてくれました。
病棟に行って「塔和子さん」と声を掛けたら「あー沢先生のお嬢さんね」」と言って満面の笑みで迎えてくれました。
青松園に行くと必ず塔和子さんの部屋に行って、詩の話、クリエートすることについて熱く語ってくださいました。
全国に13か所の国立療養所がありますが、唯一離島にあるのが大島療養所です。
年々亡くなってゆく人が出てきて、何かせめて恩返しができないかと思って、コンサートをやらせてくださいと言ったのが2001年、国と和解した年でもありました。
以来20年間毎年コンサートをしています。
塔和子さんから詩集十数冊頂きました。
金子みすゞさんとかの詩に曲を付けて歌ったりしていたので、私の詩にも曲をつけて歌ってほしいという思いで思い、詩集をくださったんじゃないかと思いました。
塔和子さんの詩(約1000編)を私の中に取り込むのに8年の歳月が必要でした。
声をだして全部読むしかないと思って3か月かけて読みました。
*「胸の泉に」 作曲、歌 沢知恵 作詞 塔和子
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
かかわらなければ かかわらなければ
この親しさは湧かなかった
かかわらなければ かかわらなければ
このおおらかな依存の安らいは得られなかった
かかわらなければ
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人は関わることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子と関わることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
繰り返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生をつづる
ああ かかわらなければ
何億の人がいようとも
関わらなければ路傍の人
かかわらなければ かかわらなければ
私の胸の泉にも
枯れ葉一枚も
落としてはくれない
かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
あー かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
あー かかわらなければ かかわらなければ かかわらなければ
この歌は私の人生の応援歌なりました。
関わりを断たれたハンセン病療養所で70年間生きた詩人が発したという事は、私にとっては衝撃的な事でした。
黒人音楽が大好きでブルースを歌ってみたいと思っていました。
なかにはピアノを弾きながら朗読しているものもあります。
詩の世界で最も権威があると言われている高見順賞を受賞して、本質から湧く言葉であるという評価を得ています。「選ぶ」という詩 塔和子
選ぶことは捨てることだ
百から十を
十から一を
選んで九十九を捨てる
この人を選んであの人を捨てる
この道を選んであの道を捨てる
ひとつの宝石
一枚の着物
一個の化粧品
選ぶことは贅沢なことだ
選ぶことは厳しいことだ苛酷なことだ
だが
人は選ばねばならない
どんなに多くの物に囲まれていようとも
自分のものにするとき
たったひとつを選ぶことを強いられ
同時に九十九を捨てることを強いられ
選んだ重さを負わされる孤独な存在だ
だか選ぶことは愛することだ
捨てた九十九より選んだ一が重くなるほど
選ぶことは捨てることだ
選んだ一のために九十九のさびしいうめき声をきくことだ
九十九のさびしいうめきを振りすてて
一を選んだ勇者はだれ
あなただ
私だ
この世に参加している
人間だ
晩年はパーキンソン病を患いましたが、病室に入ると塔和子さんの周りにはオーラがありました。
塔和子さんの詩には樹をテーマにしたものが沢山あります。
塔和子さん自身が樹のように凛として生きているイメージの方でおしゃれの好きな方でした。
思いを言葉にすることによって希望を紡いで生きてきたし、悲しみから生まれる喜びの歌を紡いで自分自身が命を繋いだ方だと思います。
2013年の夏に最後にお会いしました。(亡くなる数日前)
塔和子さんは歌「故郷」が好きで私は「故郷」を歌いかけました。
亡くなった後、ご兄弟は自分たちの家族にハンセン病回復者がいるということを長い間公にはしなかったが、ご兄弟が姉さんを故郷に迎えようと決心して、先祖代々のお墓に本名である井土 ヤツ子という名前を彫って、分骨をされました。
これは大変なことでハンセン病回復者のほとんどは故郷のお墓に帰ることはなかった。
6年前に塔和子さんが夢に出てきて、塔和子さんに導かれて大島青松園に近い岡山に引っ越しました。
コンサート以外でも大島青松園には月に2,3回通っています。
3月は東日本大震災で被災した人たちを応援するコンサートも予定しています。
東北にはずーっと通い続けています。
福島県は台風19号でも大きな被害を受けました。
少年院、児童養護施設でのコンサート活動も継続してやっています。
ともえ基金を設けてボランティアコンサートの経費の面で支えてくださいと言う事でやっています。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に憧れていて、西日本豪雨の後に、通う車の中でフレーズが出てきて、視界が涙で滲んできて、歌にしました。
塔和子さんに続く第二の人生の応援歌になりました。
*「雨ニモマケズ」 作曲、歌 沢知恵 詩 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
2020年2月20日木曜日
尾藤川柳(川柳家元) ・「川柳の魅力を語る」
尾藤川柳(川柳家元) ・「川柳の魅力を語る」
2016年に16代目川柳を襲名。
誰でも楽しめる川柳は江戸時代に起源を持ち、脈々と受け継がれてきた文化文芸です。
川柳についての歴史や魅力、16代目の思いについてお聞きしました。
264年前から始まった川柳という文化がありその元祖が川柳と雅号を持っていました。
2016年に16代を襲名しました。
江戸時代から代々引き継がれるたびに襲名披露で句会を開いてひろめるというのが伝統です。
初代川柳の画軸がありますが、裃を着て文台があり宗匠として許可を得たしるしです。
初代川柳は川柳は選者です。
句は作らないです。
僕も選者として呼ばれたときには句は作らないです,宗匠として選ぶだけです。
立行司さんの様に帯刀もしていて、選で刺し違えたら責任を取って腹を切るという覚悟らしいです。
川柳は7,7の題を出してそれを前句といいますが、5,7,5の付け句を出します。
付け句の良し悪しを競っていたのが川柳という文化の始まりです。
俳句と川柳は兄弟で俳句は長男です。
連歌、連句とかがありましたが、発句は季節を決めなければいけないし、何もないところに独立させえるためには切れ字をいれます、「けり」、「かな」とか。
そうすると句が独立したようになります。
発句は季語があり切れ字がある5,7,5という形になる訳です。
それに続けて7,7で「わき」というものを詠みます。
これも季語が同じ季語でやった、3番目が5,7,5で同じ季語で作ります。
ここまでは決まりごとがあります。
次の5,7,5は平句といいますが、比較的ルールがなくなってきて、月を詠みなさいとか花を詠みなさいとか場所があるが、裏の方に行って進んでくるとなると、なにもやってもいいというところが出てくるんです。
連句の繋がって行った後ろの方の5,7,5が川柳の出発点なんです。
連句のうちの発句を詠むというのはは500年前ぐらいからあります。
川柳の方は初代の柄井川柳という人が出てきて宝暦7年8月25日と誕生日まで決まっていて、264年と俳句の半分ぐらいの歴史しかないです。
「ひんぬいただいこで道を教えられ」 江戸時代の川柳の句
抜いた大根であっちの方だと方向を指し示す。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」 小林一茶の俳句
「ひんぬいただいこで道を教えられ」の方は作者自身が句の中に入っている。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」は田舎の風景の情感が出ている。
風景を詠むのが俳句、人間を直接詠むのが川柳という感じです。
初代川柳から5,60年経って文化文政の頃4代目が出てきて、八丁堀の同心で顔が広く江戸じゅうの名士をみんな自分の傘下に入れてしまう。
その中の代表的なのが柳亭種彦とか九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山という大名まで自分お傘下に入れてしまいます。
16文を出さないと一句投句出来ないんです。
16文はかけそば一杯(500~600円)という時代でした。
武士が中心で店の旦那さんたちが川柳の作者でした。
『誹風柳多留』の初版がここにあります。
「にぎやかなにぎやかな」という7,7句の題の後に
「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」
江戸には阿弥陀様が祀られている。
1,2番は北区、3番は足立区、4番は北区、5番が上野の尾広小路、6番が亀戸、
5番目だけは江戸の中心、誇りで、「にぎやかなにぎやかな」事にたいして「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」となるわけです。
『誹風柳多留』は7,7をとってしまって面白い5,7,5の句を選んだ。
「孝行のしたい時分に親は無し」 川柳の句
「孝行をしたい時分に親は無し」だったが、伝わるうちにそうなってしまった。
課題は「浮世なりけり浮世なりけり」でした。
今は「孝行をされる白寿にする喜の字」です。 老々介護です。
私は川柳家の家柄でしたが、代々の川柳の家系ではありませんでした。
父親が新聞記者で、川柳の句会の写真を撮ってもらうために一眼レフを小学生の私にくれたんです。
そのうちに句を作ってみないかと紙をくれて、段々句を作るようになり虜になりました。
父、尾藤 三柳は川柳の大家であり、越えられないと思って、美術をやろうと思いました。
サラリーマンとして絵の具の研究室に行きました。
こうしたらいいだろうと社長に提案をしても、ほとんど見ないで捨てられました。
頭を冷やそうと屋上へ行き屋上から社長室のあたりを踏んでやって、その時にできた句が
「屋上へ出て踏んづける社長室」でした。
気持ちが癒されました。
心を吐き出すというのが川柳です。
脇屋先生のところに25歳で弟子になりました。
20年前ぐらいに或るとき尾藤一泉さん(私)に継いでもらわないと困ると言われてしまいました。(40歳を過ぎたころ)
断りましたが、父にも言われて、脇屋先生が三種の神器を持ってきました。
一番大事なものが初代川柳の印です。
二番目が初代川柳を描いた掛け軸です。
三番目が初代川柳の家紋のついた脇差です。
覚悟を決めました。
行事ごとにいろんな出費があります。
昭和の川柳の六大家と言われた村田周魚先生の句碑が倒されていたのを立て直したり、いろいろあります。
十五代までの供養もするので大変です。
川柳をひろめるという事もやっています。
北斎が川柳家であったし、娘のお栄(葛飾応為)さんも川柳家でした。
北斎は卍(百姓)という雅号で14歳から88歳まで句を作っています。
浮世絵が20歳から90歳までなので川柳の方が長いです。
判るだけで400句ぐらい残っています。
「掛物は褒めたが絵師の名は読めず」 北斎 (30歳の頃)
川柳漫画は北斎が最初に始めました。
引き継いだことを映像に残していかなければいけないと思っています。
祖父も川柳家なので古い資料が残っていますから、資料館みたいな形にしてみんなが利用できるような形にしたいというのが夢です。
父も川柳の大家でしたが、高齢化が進み、弟子も高齢化して、限界文芸という事を感じました。
是非若い人が川柳に興味を持ってもらって、でてきてほしいと思っています。
川柳は話し言葉なので誰でもできます。
老人ホームなどで川柳を自分の言葉で詠んでいいんですと言って作ってもらいます。
「取れかけたボタン私とよく似てる」
みんなが共感したそうです。
今年還暦を迎えて、夏には窓辺に咲いていた朝顔が11月ごろになると黄色い葉っぱとしぼんだつぼみだけになり逆光に萎れてゆくものが綺麗に見えたんです。
「少し疲れて暖かい色になる」 自分と一緒だなあと思いました。
川柳は人間姿すべてなんです。
嬉しいときに川柳を詠むと嬉しさが2倍になり、悲しい時に川柳を詠むと半分になります。
2016年に16代目川柳を襲名。
誰でも楽しめる川柳は江戸時代に起源を持ち、脈々と受け継がれてきた文化文芸です。
川柳についての歴史や魅力、16代目の思いについてお聞きしました。
264年前から始まった川柳という文化がありその元祖が川柳と雅号を持っていました。
2016年に16代を襲名しました。
江戸時代から代々引き継がれるたびに襲名披露で句会を開いてひろめるというのが伝統です。
初代川柳の画軸がありますが、裃を着て文台があり宗匠として許可を得たしるしです。
初代川柳は川柳は選者です。
句は作らないです。
僕も選者として呼ばれたときには句は作らないです,宗匠として選ぶだけです。
立行司さんの様に帯刀もしていて、選で刺し違えたら責任を取って腹を切るという覚悟らしいです。
川柳は7,7の題を出してそれを前句といいますが、5,7,5の付け句を出します。
付け句の良し悪しを競っていたのが川柳という文化の始まりです。
俳句と川柳は兄弟で俳句は長男です。
連歌、連句とかがありましたが、発句は季節を決めなければいけないし、何もないところに独立させえるためには切れ字をいれます、「けり」、「かな」とか。
そうすると句が独立したようになります。
発句は季語があり切れ字がある5,7,5という形になる訳です。
それに続けて7,7で「わき」というものを詠みます。
これも季語が同じ季語でやった、3番目が5,7,5で同じ季語で作ります。
ここまでは決まりごとがあります。
次の5,7,5は平句といいますが、比較的ルールがなくなってきて、月を詠みなさいとか花を詠みなさいとか場所があるが、裏の方に行って進んでくるとなると、なにもやってもいいというところが出てくるんです。
連句の繋がって行った後ろの方の5,7,5が川柳の出発点なんです。
連句のうちの発句を詠むというのはは500年前ぐらいからあります。
川柳の方は初代の柄井川柳という人が出てきて宝暦7年8月25日と誕生日まで決まっていて、264年と俳句の半分ぐらいの歴史しかないです。
「ひんぬいただいこで道を教えられ」 江戸時代の川柳の句
抜いた大根であっちの方だと方向を指し示す。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」 小林一茶の俳句
「ひんぬいただいこで道を教えられ」の方は作者自身が句の中に入っている。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」は田舎の風景の情感が出ている。
風景を詠むのが俳句、人間を直接詠むのが川柳という感じです。
初代川柳から5,60年経って文化文政の頃4代目が出てきて、八丁堀の同心で顔が広く江戸じゅうの名士をみんな自分の傘下に入れてしまう。
その中の代表的なのが柳亭種彦とか九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山という大名まで自分お傘下に入れてしまいます。
16文を出さないと一句投句出来ないんです。
16文はかけそば一杯(500~600円)という時代でした。
武士が中心で店の旦那さんたちが川柳の作者でした。
『誹風柳多留』の初版がここにあります。
「にぎやかなにぎやかな」という7,7句の題の後に
「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」
江戸には阿弥陀様が祀られている。
1,2番は北区、3番は足立区、4番は北区、5番が上野の尾広小路、6番が亀戸、
5番目だけは江戸の中心、誇りで、「にぎやかなにぎやかな」事にたいして「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」となるわけです。
『誹風柳多留』は7,7をとってしまって面白い5,7,5の句を選んだ。
「孝行のしたい時分に親は無し」 川柳の句
「孝行をしたい時分に親は無し」だったが、伝わるうちにそうなってしまった。
課題は「浮世なりけり浮世なりけり」でした。
今は「孝行をされる白寿にする喜の字」です。 老々介護です。
私は川柳家の家柄でしたが、代々の川柳の家系ではありませんでした。
父親が新聞記者で、川柳の句会の写真を撮ってもらうために一眼レフを小学生の私にくれたんです。
そのうちに句を作ってみないかと紙をくれて、段々句を作るようになり虜になりました。
父、尾藤 三柳は川柳の大家であり、越えられないと思って、美術をやろうと思いました。
サラリーマンとして絵の具の研究室に行きました。
こうしたらいいだろうと社長に提案をしても、ほとんど見ないで捨てられました。
頭を冷やそうと屋上へ行き屋上から社長室のあたりを踏んでやって、その時にできた句が
「屋上へ出て踏んづける社長室」でした。
気持ちが癒されました。
心を吐き出すというのが川柳です。
脇屋先生のところに25歳で弟子になりました。
20年前ぐらいに或るとき尾藤一泉さん(私)に継いでもらわないと困ると言われてしまいました。(40歳を過ぎたころ)
断りましたが、父にも言われて、脇屋先生が三種の神器を持ってきました。
一番大事なものが初代川柳の印です。
二番目が初代川柳を描いた掛け軸です。
三番目が初代川柳の家紋のついた脇差です。
覚悟を決めました。
行事ごとにいろんな出費があります。
昭和の川柳の六大家と言われた村田周魚先生の句碑が倒されていたのを立て直したり、いろいろあります。
十五代までの供養もするので大変です。
川柳をひろめるという事もやっています。
北斎が川柳家であったし、娘のお栄(葛飾応為)さんも川柳家でした。
北斎は卍(百姓)という雅号で14歳から88歳まで句を作っています。
浮世絵が20歳から90歳までなので川柳の方が長いです。
判るだけで400句ぐらい残っています。
「掛物は褒めたが絵師の名は読めず」 北斎 (30歳の頃)
川柳漫画は北斎が最初に始めました。
引き継いだことを映像に残していかなければいけないと思っています。
祖父も川柳家なので古い資料が残っていますから、資料館みたいな形にしてみんなが利用できるような形にしたいというのが夢です。
父も川柳の大家でしたが、高齢化が進み、弟子も高齢化して、限界文芸という事を感じました。
是非若い人が川柳に興味を持ってもらって、でてきてほしいと思っています。
川柳は話し言葉なので誰でもできます。
老人ホームなどで川柳を自分の言葉で詠んでいいんですと言って作ってもらいます。
「取れかけたボタン私とよく似てる」
みんなが共感したそうです。
今年還暦を迎えて、夏には窓辺に咲いていた朝顔が11月ごろになると黄色い葉っぱとしぼんだつぼみだけになり逆光に萎れてゆくものが綺麗に見えたんです。
「少し疲れて暖かい色になる」 自分と一緒だなあと思いました。
川柳は人間姿すべてなんです。
嬉しいときに川柳を詠むと嬉しさが2倍になり、悲しい時に川柳を詠むと半分になります。
2020年2月19日水曜日
皆川賢太郎(全日本スキー連盟常務理事) ・【スポーツ明日への伝言】「アルペンレーサーが描く新たなシュプール」
皆川賢太郎(全日本スキー連盟常務理事) ・【スポーツ明日への伝言】「アルペンレーサーが描く新たなシュプール」
皆川さんはアルペンスキー回転のスペシャリストとしてオリンピック4大会に出場、特に2006年のトリノ大会では4位に入って日本選手として50年ぶりの入賞を果たしました。
2014年に競技を引退、現在は全日本スキー連盟の常務理事として連盟の改革などに取り組みながら次代の選手を発掘、育成、強化する競技本部長も兼務しています。
最初のオリンピックは大学生の時の1998年の長野オリンピックでした。
2000年2月、ワールドカップ・スラローム、オーストリア・キッツビュール大会で、ゼッケン60番から6位に入賞。
ゼッケンの若い順に滑るので状態が悪くなり60番というとレーサーとしては難しい。
165cmのスキーを履いたのが飛躍の年となりました。
長野大会では2mぐらいが当たり前でした。
短くなると小回りが利くが技術的には難しくなる。
カーリングスキーはフランスの会社が一般のために開発されました。
レーサーも試したが殆どの人がこんなものは使えないと言っていました。
僕はこんないいものを何故使わないのだろうと思って、世界に4本しかないものを3本もらってその一年を過ごしました。
今では世界中のスキーの9割がショートスキーを履いています。
トリノオリンピック、2月25日一回目が終わってトップとの差は0.07秒差、で3位につけていた。
0.07秒というと20cm差での長さで、次までのその間の緊張は凄くて、なだめるためにリフトではクラシックを聴いていました。
スタート台に立った時には、それまでギャンブル性の高い滑りをしてきたのでゴールできなかったことが多くて、8割で滑ればいいと自分に言い聞かせてスタート台に立ちました。
エッジのかかりが悪くて、危ない箇所が3か所あったのでそれを抜けるまでは攻めないことにして緩斜面に入ってから120%で滑ろうと思いました。
滑り終わってからバックルが外れている事が判ってエッジがかからなかった要因だと判りました。
結果は4位になりました。
現役時代には最初右の前十字靭帯を切って、復活をしてトリノが終わってから左膝前十字靭帯断裂の大怪我をして、そのあと3回手術をして、合計5回手術をしています。
賞味期限が或るものが僕はすごく好きで、賞味期限があるというのは人の人生を一回疑似体験でする、人間が感ずる哲学とか、貴重性をスポーツ選手は一回疑似体験できる。
そういう風に現役時代は思っていました。
純度の高い時間を過ごせていました。
眼の衰えも感じてそろそろやめる時かなと感じるようになりました。
状況判断が凄く大事で、それが鈍ると勝負できる範囲が狭まってきて、結果としてありきたりな数字に変わってくる。
全部のコースが頭の中に入っていて、自分が滑る場所は一点一点ゲートが立っていて、そこをミリ単位でどう攻めるかというのを二つの頭でレーサーは考えるんです。
頭の知識はあったとしてもセンサーで一個一個のクオリティーを高めるのが眼なんです。
3歳からスキーを始めましたが、最後のところだけ少しやりたいことを人が認めてくれただけの話で、ビジネスも同じだと思っていて、起業したのが22歳で、20年ぐらいは次のキャリアのことを考えながら過ごすんです。
準備なきものは成功は絶対ないので、20代から現役を辞めたときには多少なりとも自分のビジネスが上手くいっていて、次のステージは人のためになることをやりたいと思っていたので、並行して勉強していきました。
現役の時に怪我をして8社ぐらいあったスポンサーが全部なくなって、収入がなくなりそれが突然のことなので状況を受け入れることに時間が掛かりました。
僕が現役を辞めたときには自分の収入と自分で自分のプレーを支えるお金を作るのは後半できたのでそれはよかったです。
本当に自分が衰えを感じるまで出来きました。
レーサーをやりながらレースをやる環境、日本代表という環境は僕にとってはいい環境ではなかった。
根拠のないものは凄く嫌いで、根拠のないなかで多くの選手を作ることは不可能だと思いました。
仕組みを上流から変えないことには大したことにはならないという事があって、現役を辞めたときには効率、ルールから変えたいと思って連盟に入りました。
一番最初にやったのは総務と規約規定改正だったりとか、組織の根幹を志願して2年間やらせてもらいました。
準備ができたなと思ったら競技本部長のポストを与えていただけました。
スポンサーが出してくれるお金もここで3倍になりました。
北野さんと二人での体制で連盟の収入が4億強増えています。
新潟の苗場で育ちましたが、当時スキー、スノーボード人口は1860万人もいて、そのうちどんどんその産業が疲弊していって、スキー場の数とスキー人口の分母が合わないとか、暖冬とかいろいろものがありますが、なくすとか減らすとかの作業をやらなければいけない。
今は700万人を割り込む状況にある。
スキー場の数も最大が700か所、今は400か所。
今の子どもたちにはいろいろな選択肢がある。
人口比率に対する分母とか、700か所作ってしまったものをどうするという問題、とかあります。
リフト券は日本では平均3500円、ニュージーランドでは70ドル、アメリカで一番高いのは220ドルです。
それでもお客さんが来るクオリティーと数だと思います。
これからの数十年のウインター産業は整理してゆく事がやりたいことです。
お金になろうがなるまいが雪のことをやりたいたいという人生だと思っています。
2月22,23日Audi FIS アルペンスキーワールドカップ2020 にいがた湯沢苗場大会があります。
一番人口が多いのがアルペンで、アルペンのワールドカップを定期的にやる事が非常に大事なことだと思っていて、観光のピーアールの一環でもあると思っています。
大きな意味があると思っていて準備しています。
本物を見せて本物に触れるという事が非常に重要だと思っています。
日本は雪が黙っていても降るので、自分たちの生活の中に取り入れてもらいたい、楽しんでもらいたいというのが一番のミッションだと思っていますので、引き続きやっていきたいと思います。
皆川さんはアルペンスキー回転のスペシャリストとしてオリンピック4大会に出場、特に2006年のトリノ大会では4位に入って日本選手として50年ぶりの入賞を果たしました。
2014年に競技を引退、現在は全日本スキー連盟の常務理事として連盟の改革などに取り組みながら次代の選手を発掘、育成、強化する競技本部長も兼務しています。
最初のオリンピックは大学生の時の1998年の長野オリンピックでした。
2000年2月、ワールドカップ・スラローム、オーストリア・キッツビュール大会で、ゼッケン60番から6位に入賞。
ゼッケンの若い順に滑るので状態が悪くなり60番というとレーサーとしては難しい。
165cmのスキーを履いたのが飛躍の年となりました。
長野大会では2mぐらいが当たり前でした。
短くなると小回りが利くが技術的には難しくなる。
カーリングスキーはフランスの会社が一般のために開発されました。
レーサーも試したが殆どの人がこんなものは使えないと言っていました。
僕はこんないいものを何故使わないのだろうと思って、世界に4本しかないものを3本もらってその一年を過ごしました。
今では世界中のスキーの9割がショートスキーを履いています。
トリノオリンピック、2月25日一回目が終わってトップとの差は0.07秒差、で3位につけていた。
0.07秒というと20cm差での長さで、次までのその間の緊張は凄くて、なだめるためにリフトではクラシックを聴いていました。
スタート台に立った時には、それまでギャンブル性の高い滑りをしてきたのでゴールできなかったことが多くて、8割で滑ればいいと自分に言い聞かせてスタート台に立ちました。
エッジのかかりが悪くて、危ない箇所が3か所あったのでそれを抜けるまでは攻めないことにして緩斜面に入ってから120%で滑ろうと思いました。
滑り終わってからバックルが外れている事が判ってエッジがかからなかった要因だと判りました。
結果は4位になりました。
現役時代には最初右の前十字靭帯を切って、復活をしてトリノが終わってから左膝前十字靭帯断裂の大怪我をして、そのあと3回手術をして、合計5回手術をしています。
賞味期限が或るものが僕はすごく好きで、賞味期限があるというのは人の人生を一回疑似体験でする、人間が感ずる哲学とか、貴重性をスポーツ選手は一回疑似体験できる。
そういう風に現役時代は思っていました。
純度の高い時間を過ごせていました。
眼の衰えも感じてそろそろやめる時かなと感じるようになりました。
状況判断が凄く大事で、それが鈍ると勝負できる範囲が狭まってきて、結果としてありきたりな数字に変わってくる。
全部のコースが頭の中に入っていて、自分が滑る場所は一点一点ゲートが立っていて、そこをミリ単位でどう攻めるかというのを二つの頭でレーサーは考えるんです。
頭の知識はあったとしてもセンサーで一個一個のクオリティーを高めるのが眼なんです。
3歳からスキーを始めましたが、最後のところだけ少しやりたいことを人が認めてくれただけの話で、ビジネスも同じだと思っていて、起業したのが22歳で、20年ぐらいは次のキャリアのことを考えながら過ごすんです。
準備なきものは成功は絶対ないので、20代から現役を辞めたときには多少なりとも自分のビジネスが上手くいっていて、次のステージは人のためになることをやりたいと思っていたので、並行して勉強していきました。
現役の時に怪我をして8社ぐらいあったスポンサーが全部なくなって、収入がなくなりそれが突然のことなので状況を受け入れることに時間が掛かりました。
僕が現役を辞めたときには自分の収入と自分で自分のプレーを支えるお金を作るのは後半できたのでそれはよかったです。
本当に自分が衰えを感じるまで出来きました。
レーサーをやりながらレースをやる環境、日本代表という環境は僕にとってはいい環境ではなかった。
根拠のないものは凄く嫌いで、根拠のないなかで多くの選手を作ることは不可能だと思いました。
仕組みを上流から変えないことには大したことにはならないという事があって、現役を辞めたときには効率、ルールから変えたいと思って連盟に入りました。
一番最初にやったのは総務と規約規定改正だったりとか、組織の根幹を志願して2年間やらせてもらいました。
準備ができたなと思ったら競技本部長のポストを与えていただけました。
スポンサーが出してくれるお金もここで3倍になりました。
北野さんと二人での体制で連盟の収入が4億強増えています。
新潟の苗場で育ちましたが、当時スキー、スノーボード人口は1860万人もいて、そのうちどんどんその産業が疲弊していって、スキー場の数とスキー人口の分母が合わないとか、暖冬とかいろいろものがありますが、なくすとか減らすとかの作業をやらなければいけない。
今は700万人を割り込む状況にある。
スキー場の数も最大が700か所、今は400か所。
今の子どもたちにはいろいろな選択肢がある。
人口比率に対する分母とか、700か所作ってしまったものをどうするという問題、とかあります。
リフト券は日本では平均3500円、ニュージーランドでは70ドル、アメリカで一番高いのは220ドルです。
それでもお客さんが来るクオリティーと数だと思います。
これからの数十年のウインター産業は整理してゆく事がやりたいことです。
お金になろうがなるまいが雪のことをやりたいたいという人生だと思っています。
2月22,23日Audi FIS アルペンスキーワールドカップ2020 にいがた湯沢苗場大会があります。
一番人口が多いのがアルペンで、アルペンのワールドカップを定期的にやる事が非常に大事なことだと思っていて、観光のピーアールの一環でもあると思っています。
大きな意味があると思っていて準備しています。
本物を見せて本物に触れるという事が非常に重要だと思っています。
日本は雪が黙っていても降るので、自分たちの生活の中に取り入れてもらいたい、楽しんでもらいたいというのが一番のミッションだと思っていますので、引き続きやっていきたいと思います。
2020年2月18日火曜日
安積登利夫(オーダーメード紳士服店経営) ・「テーラー一筋 73年」
安積登利夫(オーダーメード紳士服店経営) ・「テーラー一筋 73年」
東京都洋服商工協同組合によると昭和40年代には3000店以上あった東京都内のテーラー加盟店が現在はおよそ180店と激減しています。
後継者不足や量販店の台頭などが主な原因ですが、このままではテーラーが消えてしまうとオーダーメードする良さを知ってもらうため、次世代を担うテーラーの育成に立ち上がった人がいます。
東京台東区で店を営む安積さん(86歳)、13歳から洋服店に住み込みで働き、14年近い厳しい修行に耐えて独立、当時の広岡達郎選手との縁で読売巨人軍の御用達テーラーとなり、現在は店を息子さんに任せ。2017年に自社ビルの中に東京洋服アカデミーを開校し、自らアカデミー長として日々後進の指導と育成に情熱を注いでいます。
73年に及ぶご自身のテーラー人生を伺いました。
出身は福島県の福島市です。
2つの時に両親に満州の大連に連れていかれて4歳の時に母親が亡くなり、昭和20年終戦を迎えて、昭和21年に父親が天国に行ってしまいました。
子どもばかりでどうして生きていこうかとしているときに、浅草橋近くの久喜テーラーで小僧募集が貼ってありました。
そこに飛び込んで10年間辛抱できるかと言われて住み込みで働くようになりました。
三食付きで初任給100円(現在で2000円ぐらいか)でした。
最初掃除、洗濯など徹底的にやりました。
100円の中から90円は貯金をしました。
厳しく物差しでよく叩かれました。
有名店で技術もよかったです。
厳しいので半年から3年程度で辞めていく人がいました。
13年半働き、お金も結構残すことができました。
26歳で結婚してそれを機会に独立しました。
夏は殆ど仕事が無くて、洋服も長く着ているいろいろ直すことが必要になるので、カバンの中に修理の道具を入れてお客さんに所に行けば喜ばれると思って、直してあげたりして喜ばれました。
皴にならない保管法なども教えたりして感謝されました。
巨人軍のショートの広岡さんが近くに住んでいたので広岡さんとの出会いがあり、奥さんにアイロンがけを無料でしますと言って、アフターサービスから近づいていきました。
話す機会ができるようになり、どうもいい洋服仕立てが無いという事だったので、気に入らなかったらただでいいという事で洋服の仕立てをお願いしますと言いました。
寸法を測ったがが凄くいかり肩だったので工夫して作ったら喜ばれました。
次には礼服を作って欲しいと言いう事になりました。
段々親戚とか近所の人なども紹介されました。
広岡さんの紹介で山崎投手の仕立てをすることになり、巨人軍の多摩川の寮に行きました。
ワイシャツも作ってほしいという事になり、周りからも褒められて行って、口コミで広がっていきました。
王選手からも作ってほしいという事で作ってあげたら、今までのものと全然レベルが違うという事でした。
王家一族全部を作ることになりました。
王さんが結婚することになりモーニングとタキシードを作ってほしいと依頼されました。
宣伝になるためただで作るからとデパートなどから話があったそうですが、全部断ってお金を出しても安積のところで作ると言ったそうです。
それを聞いた時には本当にうれしかったです。
結婚式には招待状が来て、着付けも行いました。
日米野球でドジャースが来た時には、牧野茂さんが紹介してくれて、いきなり10人以上が来て一か月以内に作りました。
カージナルスも来て対応しましたが、一般のお客さんからクレームがついて、数年に一度来るお客に一ヶ月で作るのに対して、2,3か月もかかってしまう我々とどっちが大切なんだと言われてしまいました。
一か月間は大リーグにかかってしまっていたので、これからはあまりやらないようにしようと思いました。
43年にはヨーロッパに視察に行くことになりました。
どうしてもロンドンのサヴィル・ロウ(Savile Row オーダーメイドの名門高級紳士服店が集中していることで有名)に行きたくて、行って洋服と工場を見せていただきたいと言ったら工場は駄目だと言われました。
マネージャーがあなたが着ている洋服は誰が縫ったんだと言われて、これはうちの見習いが縫ったんだとその時に嘘をつきました。
洋服を脱げという事でみんなが集まって見に来て、出来栄えの良さに吃驚して工場を見に行くことがOKとなりました。
洋服の中で難しいのが肩入れ、襟つけ、袖つけなんですが、そこが急所でそこだけをやれと洋服を出されたんです。
そこは私は技術者にその急所だけは徹底的に教えていたので、これはちょうどいいと思って飛びつきましたが、アイロンが大きくて大変だったが、それを見た連中があんたみたいな若い仕事ができる人は初めてだと言われました。(33歳だった。)
吃驚したのは日本の宮内庁の御用達とか看板があり、吉田茂さんの型紙も見せてもらってここに飛び込んできて良かったと思いました。
1週間しかいられなかったが、そこに通って急所の部分だけやらせてもらいました。
一番繁栄していた時期は3000軒以上ありましたが、段々店が少なくなって行ったのは本物を着た味を知らなくなってゆくわけです。
本物のお寿司屋さんではなく回転寿司で食べるようになったのとおなじですね、本物を食べると吃驚すると思う。
東京洋服アカデミーを3年前に立ち上げました。
東京の銀座にある有名な洋服屋の職人を38年教えていた工場長が定年退職していた廣川さんが是非私にやらせてくださいと言って、裁断は伊丹先生がいてその先生も参加してくれました。
週3回10時から5時まで教えることになりました。
お客さんの気に入る洋服を作ってあげるとお客さんは自然と宣伝してくれます。
後継者を養成していきたい、こんなにやりがいのある仕事はないですね。
東京都洋服商工協同組合によると昭和40年代には3000店以上あった東京都内のテーラー加盟店が現在はおよそ180店と激減しています。
後継者不足や量販店の台頭などが主な原因ですが、このままではテーラーが消えてしまうとオーダーメードする良さを知ってもらうため、次世代を担うテーラーの育成に立ち上がった人がいます。
東京台東区で店を営む安積さん(86歳)、13歳から洋服店に住み込みで働き、14年近い厳しい修行に耐えて独立、当時の広岡達郎選手との縁で読売巨人軍の御用達テーラーとなり、現在は店を息子さんに任せ。2017年に自社ビルの中に東京洋服アカデミーを開校し、自らアカデミー長として日々後進の指導と育成に情熱を注いでいます。
73年に及ぶご自身のテーラー人生を伺いました。
出身は福島県の福島市です。
2つの時に両親に満州の大連に連れていかれて4歳の時に母親が亡くなり、昭和20年終戦を迎えて、昭和21年に父親が天国に行ってしまいました。
子どもばかりでどうして生きていこうかとしているときに、浅草橋近くの久喜テーラーで小僧募集が貼ってありました。
そこに飛び込んで10年間辛抱できるかと言われて住み込みで働くようになりました。
三食付きで初任給100円(現在で2000円ぐらいか)でした。
最初掃除、洗濯など徹底的にやりました。
100円の中から90円は貯金をしました。
厳しく物差しでよく叩かれました。
有名店で技術もよかったです。
厳しいので半年から3年程度で辞めていく人がいました。
13年半働き、お金も結構残すことができました。
26歳で結婚してそれを機会に独立しました。
夏は殆ど仕事が無くて、洋服も長く着ているいろいろ直すことが必要になるので、カバンの中に修理の道具を入れてお客さんに所に行けば喜ばれると思って、直してあげたりして喜ばれました。
皴にならない保管法なども教えたりして感謝されました。
巨人軍のショートの広岡さんが近くに住んでいたので広岡さんとの出会いがあり、奥さんにアイロンがけを無料でしますと言って、アフターサービスから近づいていきました。
話す機会ができるようになり、どうもいい洋服仕立てが無いという事だったので、気に入らなかったらただでいいという事で洋服の仕立てをお願いしますと言いました。
寸法を測ったがが凄くいかり肩だったので工夫して作ったら喜ばれました。
次には礼服を作って欲しいと言いう事になりました。
段々親戚とか近所の人なども紹介されました。
広岡さんの紹介で山崎投手の仕立てをすることになり、巨人軍の多摩川の寮に行きました。
ワイシャツも作ってほしいという事になり、周りからも褒められて行って、口コミで広がっていきました。
王選手からも作ってほしいという事で作ってあげたら、今までのものと全然レベルが違うという事でした。
王家一族全部を作ることになりました。
王さんが結婚することになりモーニングとタキシードを作ってほしいと依頼されました。
宣伝になるためただで作るからとデパートなどから話があったそうですが、全部断ってお金を出しても安積のところで作ると言ったそうです。
それを聞いた時には本当にうれしかったです。
結婚式には招待状が来て、着付けも行いました。
日米野球でドジャースが来た時には、牧野茂さんが紹介してくれて、いきなり10人以上が来て一か月以内に作りました。
カージナルスも来て対応しましたが、一般のお客さんからクレームがついて、数年に一度来るお客に一ヶ月で作るのに対して、2,3か月もかかってしまう我々とどっちが大切なんだと言われてしまいました。
一か月間は大リーグにかかってしまっていたので、これからはあまりやらないようにしようと思いました。
43年にはヨーロッパに視察に行くことになりました。
どうしてもロンドンのサヴィル・ロウ(Savile Row オーダーメイドの名門高級紳士服店が集中していることで有名)に行きたくて、行って洋服と工場を見せていただきたいと言ったら工場は駄目だと言われました。
マネージャーがあなたが着ている洋服は誰が縫ったんだと言われて、これはうちの見習いが縫ったんだとその時に嘘をつきました。
洋服を脱げという事でみんなが集まって見に来て、出来栄えの良さに吃驚して工場を見に行くことがOKとなりました。
洋服の中で難しいのが肩入れ、襟つけ、袖つけなんですが、そこが急所でそこだけをやれと洋服を出されたんです。
そこは私は技術者にその急所だけは徹底的に教えていたので、これはちょうどいいと思って飛びつきましたが、アイロンが大きくて大変だったが、それを見た連中があんたみたいな若い仕事ができる人は初めてだと言われました。(33歳だった。)
吃驚したのは日本の宮内庁の御用達とか看板があり、吉田茂さんの型紙も見せてもらってここに飛び込んできて良かったと思いました。
1週間しかいられなかったが、そこに通って急所の部分だけやらせてもらいました。
一番繁栄していた時期は3000軒以上ありましたが、段々店が少なくなって行ったのは本物を着た味を知らなくなってゆくわけです。
本物のお寿司屋さんではなく回転寿司で食べるようになったのとおなじですね、本物を食べると吃驚すると思う。
東京洋服アカデミーを3年前に立ち上げました。
東京の銀座にある有名な洋服屋の職人を38年教えていた工場長が定年退職していた廣川さんが是非私にやらせてくださいと言って、裁断は伊丹先生がいてその先生も参加してくれました。
週3回10時から5時まで教えることになりました。
お客さんの気に入る洋服を作ってあげるとお客さんは自然と宣伝してくれます。
後継者を養成していきたい、こんなにやりがいのある仕事はないですね。
2020年2月17日月曜日
山部泰嗣(太鼓演奏家 ) ・【にっぽんの音】
山部泰嗣(太鼓演奏家 ) ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
岡山県倉敷市生まれ、31歳。
3歳の時から太鼓に親しみ。6歳の時に地元の和太鼓団体である倉敷天領太鼓のメンバーとして舞台に立つ。
2004年には東京国際和太鼓コンテストで大太鼓部門にて史上最年少16歳で最優秀賞を獲得。
50年に一度の逸材、若き天才和太鼓奏者として注目されている。
現在はプロの演奏家として海外にも活動の場を広げる一方、舞台演出、作曲も手掛け和太鼓の魅力を広く発信している。
和太鼓 舞台で太鼓だけで演奏するジャンル自体が1970年前後なので50年ぐらいです。
それまでは歌舞伎、狂言、お祭り、農作業などの時の楽器の一つだった。
太鼓だけの新ジャンルとして海外ではやらして逆輸入しようという作戦で、アメリカの新聞に載り、和訳された。
ジャパニーズドラムという事だったが、日本太鼓は硬すぎるという事で、和太鼓と表記されました。
和訳というのは難しくて、ニュアンスが変わってくる。
楽器としては一番古いと言われている。
太鼓は打つものなのか、叩くものなのか、という事もあるが、面を彫ることを面を打つというが面に対して気持ちを入れてゆくことアウトプットを打つという、一夜漬けで情報を頭に入れることを頭に叩き込むという、インプット、魂を込めるものを打ち込む。
打つはボリュームではない、音量が小さいことを打ち込めていないというが、この表現と解釈を変えていかないといけないと思います。
大蔵:最初舞台に昇ってもらった時に太鼓が僕の今までのイメージの太鼓打ちとは違ったんですね。
細かい太鼓が凄く聞きやすかった。
繊細な太鼓を打つんだなというのが第一印象でした。
山辺:子どものころから太鼓を始めたので、身長、体重、筋肉もないので大人の音には勝てない。
勝つためには綺麗に打つとか音の幅、大きな音のレベルの勝負だと勝てないので、大きな音と聞かせてやった方が勝ちなんだと思って、そういうことを意識して打っていました。
東京国際和太鼓コンテストの時には早く打ったように見せてたように思います。
「早く打てればいい時代は終わった。・・・ しかし早く打てることだけで評価される時代は終わった。 ・・・早いの感覚も変わった。」 SNSでコメント
50年のなかで我々は4代目世代になってきていて、そうあらねばならぬみたいなものから変わって、もうちょっと音楽をしませんか、というのと、ただ早く打つことに何の意味があるんだろうという事で、疑問を感じながらやって行こうという意思表示でした。
大蔵:素人目線では大きな音を出して激しく叩いて、かっこいいというイメージがあるが。
山辺:疾走感を出したいのであれば、速さではなくて、もっと聞きやすくて違う形で疾走感を出す方法は何か考えていかないといけない時期ではないかと思います。
大蔵:狂言では要の演目があり、25歳で「釣狐「」をやるとか、「那須語」、「三番叟」、「末広がり」をやるとか要の演目がありその瞬間自分の芸とかに凄く向き合う。
山辺:そういう意味では30歳の時ですね。 天才少年だという事で安心していたところもあり、これでいいのかと思うようになりました。
去年アルバを作って作曲もやっています。
*「風の孤独」
母親がピアノの先生だったので譜面も勉強して書ける様になりました。
「風の孤独」ではアランビアンぽい感じがあります。
10年掛かって30歳でやっとCDを出すことができました。
「新しい皮を打って伸ばし育てていくように、太鼓を打ちながら自分もいろいろなことに打たれて成長しないといけない。
皮も人も伸ばすところ、間違えると鳴るものも鳴らなくなる。」
教育にも興味があります。
太鼓が教育に若干かかわっているので、深く考えて若干教育にかかわらないといけないのではないかと思います。
楽屋ではいろいろ気を使ってやっています。
太鼓はコミュニケーション作りの一個のツールでいいと思っています、簡単なので。
大蔵:鼓は左手でもって右肩の乗せるができない人が多い。
知っていた方がいいと思う。
狂言とかも人は人を殺めてはいけないというものがほとんどで、そういった文化は平和に繋がると思う。
文化を大事にすることによってそういった事に行きついてもらいたいと思います。
*「荒磯(ありそ)」
日本の音とは、色、景色、人、街、文化が見える音に対しては、楽器が日本のものではなくても日本の音ではないかなあと勝手に思っています。
景色が見える太鼓が打てたらなあと思います。
*「いつかきっと」
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
岡山県倉敷市生まれ、31歳。
3歳の時から太鼓に親しみ。6歳の時に地元の和太鼓団体である倉敷天領太鼓のメンバーとして舞台に立つ。
2004年には東京国際和太鼓コンテストで大太鼓部門にて史上最年少16歳で最優秀賞を獲得。
50年に一度の逸材、若き天才和太鼓奏者として注目されている。
現在はプロの演奏家として海外にも活動の場を広げる一方、舞台演出、作曲も手掛け和太鼓の魅力を広く発信している。
和太鼓 舞台で太鼓だけで演奏するジャンル自体が1970年前後なので50年ぐらいです。
それまでは歌舞伎、狂言、お祭り、農作業などの時の楽器の一つだった。
太鼓だけの新ジャンルとして海外ではやらして逆輸入しようという作戦で、アメリカの新聞に載り、和訳された。
ジャパニーズドラムという事だったが、日本太鼓は硬すぎるという事で、和太鼓と表記されました。
和訳というのは難しくて、ニュアンスが変わってくる。
楽器としては一番古いと言われている。
太鼓は打つものなのか、叩くものなのか、という事もあるが、面を彫ることを面を打つというが面に対して気持ちを入れてゆくことアウトプットを打つという、一夜漬けで情報を頭に入れることを頭に叩き込むという、インプット、魂を込めるものを打ち込む。
打つはボリュームではない、音量が小さいことを打ち込めていないというが、この表現と解釈を変えていかないといけないと思います。
大蔵:最初舞台に昇ってもらった時に太鼓が僕の今までのイメージの太鼓打ちとは違ったんですね。
細かい太鼓が凄く聞きやすかった。
繊細な太鼓を打つんだなというのが第一印象でした。
山辺:子どものころから太鼓を始めたので、身長、体重、筋肉もないので大人の音には勝てない。
勝つためには綺麗に打つとか音の幅、大きな音のレベルの勝負だと勝てないので、大きな音と聞かせてやった方が勝ちなんだと思って、そういうことを意識して打っていました。
東京国際和太鼓コンテストの時には早く打ったように見せてたように思います。
「早く打てればいい時代は終わった。・・・ しかし早く打てることだけで評価される時代は終わった。 ・・・早いの感覚も変わった。」 SNSでコメント
50年のなかで我々は4代目世代になってきていて、そうあらねばならぬみたいなものから変わって、もうちょっと音楽をしませんか、というのと、ただ早く打つことに何の意味があるんだろうという事で、疑問を感じながらやって行こうという意思表示でした。
大蔵:素人目線では大きな音を出して激しく叩いて、かっこいいというイメージがあるが。
山辺:疾走感を出したいのであれば、速さではなくて、もっと聞きやすくて違う形で疾走感を出す方法は何か考えていかないといけない時期ではないかと思います。
大蔵:狂言では要の演目があり、25歳で「釣狐「」をやるとか、「那須語」、「三番叟」、「末広がり」をやるとか要の演目がありその瞬間自分の芸とかに凄く向き合う。
山辺:そういう意味では30歳の時ですね。 天才少年だという事で安心していたところもあり、これでいいのかと思うようになりました。
去年アルバを作って作曲もやっています。
*「風の孤独」
母親がピアノの先生だったので譜面も勉強して書ける様になりました。
「風の孤独」ではアランビアンぽい感じがあります。
10年掛かって30歳でやっとCDを出すことができました。
「新しい皮を打って伸ばし育てていくように、太鼓を打ちながら自分もいろいろなことに打たれて成長しないといけない。
皮も人も伸ばすところ、間違えると鳴るものも鳴らなくなる。」
教育にも興味があります。
太鼓が教育に若干かかわっているので、深く考えて若干教育にかかわらないといけないのではないかと思います。
楽屋ではいろいろ気を使ってやっています。
太鼓はコミュニケーション作りの一個のツールでいいと思っています、簡単なので。
大蔵:鼓は左手でもって右肩の乗せるができない人が多い。
知っていた方がいいと思う。
狂言とかも人は人を殺めてはいけないというものがほとんどで、そういった文化は平和に繋がると思う。
文化を大事にすることによってそういった事に行きついてもらいたいと思います。
*「荒磯(ありそ)」
日本の音とは、色、景色、人、街、文化が見える音に対しては、楽器が日本のものではなくても日本の音ではないかなあと勝手に思っています。
景色が見える太鼓が打てたらなあと思います。
*「いつかきっと」
2020年2月16日日曜日
小倉崇(NPO法人代表) ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」
小倉崇(NPO法人代表) ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」
渋谷は駅を中心に次々と高層ビルが出現して街の様子が変化し続けています。
多くの人達がにぎやかに集まってくる一方で、都会が持つ無機質さが強くなってきている印象を感じます。
そんな渋谷の街に畑を作っているグループがあります。
ビルの屋上や再開発できた遊歩道などで野菜やコメを栽培しています。
NPO法人アーバンファーマーズクラブでは誰もが気軽に立ち寄り農作業を楽しみ取れたての野菜を味合う事を目的に設立され、現在400人近くのメンバーが参加しています。
今日は都会の真ん中に畑を置くことで農業の食や農の大切さに気が付いてほしいと語る小倉さん(51歳)に話を聞きます。
遊歩道にはプランターのような畑などで季節の旬の野菜を育てています。
葉野菜が多いですが、去年から9月ぐらいからルッコラを7品種育てています。
3回育てると固定種ができるので渋谷ルッコラを作ろうと頑張っています。
土と水と太陽があれば作物は育ちますから。
恵比須は6基のプランターで6つの保育園の子どもたちと連携してやっています。
原宿では神宮前の交差点の6階に4基の2m四方のプランターを置かせてもらって、サラダ野菜、人参も育てています。
子ども向けの食育で始めましたが、一緒に大人も来ることで大人の食育にもなっています。
アーバンファーマーズクラブは現在370から380名ぐらいです。
年齢は10代から70代までで男女半々ぐらいです。
畑の野菜という事で人々がフラットに繋がるので、新しいコミュニティーの在り方として機能しているんじゃないかと思います。
自分で栽培してみないと気が付かないことがいろいろあります。
ライブハウスの屋上に渋谷の畑を最初に作りました。(2015年)
縦1,5m横が3,5m深さが40cmのものを3台置きました。
7割は培養土を購入して3割は仲間の畑から土を持ってきて混ぜ合わせて土作りから始めました。
ねずみ、ごきぶり、からす、すずめなどがやってきて苦労しています。
油井敬史さんとは神奈川の相模湖で知り合って、10歳ぐらい年下で、就農1年目の時でした。
畑を見に行ったときに自然農法でやっていて、ほうれん草を食べたときにとってもおいしくて、そこから彼と仲良くなりました。
2011年に東日本大震災があったときにその前月に長男が生まれて、この都会でどうやって子どもを育てていったらいいのか悩むようになりました。
自分たちが食べる野菜ぐらいは育てたいなと思いました。
農家さんを訪ねていって、そんななかで油井君とは知り合いました。
大震災の時に関西では震災の影響は少しも感じなかったが、東京へ戻ってきたときに、食材を買いに行こうと思ったが何にもなかった。
東京では物を生産する力が無いんだなと思いました。
物流が止まっただけでこんなになってしまうんだと気が付きました。
編集の仕事をしているので全国の有機農業を取材することがあったので、段々自分へのモチベーションが高まってきて、そこから油井君のところに通うようになりました。
有機農業は土の力で育てるので作業は大変ですが、出来たものはおいしいです。
通っているうちに就農したばっかりの有機農家では有機農業だけでは生活が厳しく油井君などは夜に道路工事の交通整理のバイトをしていたりしていて、農家として飯がくえるように何かお手伝いしたいと思うようになりました。
彼の野菜の味を知ってもらおうという事から始めました。
友人と共にウイークエンドファーマーズと名付けて始めました。
まずはステッカー作りから始めました。
若いころ既成概念にとらわれないというヒッピーの考え方に或る種の共感を感じて、ヒッピーに憧れたが、何をやりたいのか考えたときに消去法で行くと、本を読むことだったので、出版社に入り込みました。
女性週刊誌に配属されて、そのうちにそれが廃刊になって、やりたかったビジュアル雑誌に配属になり、ファッション誌をやりました。
旅が好きだったので出版社を辞めて、機内誌を手伝うようになりました。
離島めぐり、農村取材して四季の移り変わり、とかいろいろ海外にも行きました。
今一番面白いのは土ですね。
自分の指が土を通して宇宙を調律するような不思議な感覚になります。
段々気持ちが穏やかに、丸くなってゆく感じがします。
唾液によりストレス度がチェックできるんですが、土に触れた前後を調べましたが、10人ぐらい全員が土に触れた後はストレスが減りました。
オキシトシンという脳の物質が出てストレスが低減するそうです。
オランダではその作用を注目してケアファームというシステムがあって市民が畑に行くことでストレスを解消したり、高齢者は土に触っているいると認知症の症状が緩和されるそうです。
渋谷だからこそできる新しい土から生まれるカルチャーみたいなものこそアーバンファーマーズクラブでは意識しながらやっています。
屋上全部畑にしたら野菜の自給率がかなり上がってゆくと思います。
コーヒーかすを一次的なものと合わせて発酵させてやると凄くいいたい肥ができます。
都会ではゴミが多いと言いますが、生ごみをたい肥にすれば循環することができるので都会は結構資源があります。
渋谷は駅を中心に次々と高層ビルが出現して街の様子が変化し続けています。
多くの人達がにぎやかに集まってくる一方で、都会が持つ無機質さが強くなってきている印象を感じます。
そんな渋谷の街に畑を作っているグループがあります。
ビルの屋上や再開発できた遊歩道などで野菜やコメを栽培しています。
NPO法人アーバンファーマーズクラブでは誰もが気軽に立ち寄り農作業を楽しみ取れたての野菜を味合う事を目的に設立され、現在400人近くのメンバーが参加しています。
今日は都会の真ん中に畑を置くことで農業の食や農の大切さに気が付いてほしいと語る小倉さん(51歳)に話を聞きます。
遊歩道にはプランターのような畑などで季節の旬の野菜を育てています。
葉野菜が多いですが、去年から9月ぐらいからルッコラを7品種育てています。
3回育てると固定種ができるので渋谷ルッコラを作ろうと頑張っています。
土と水と太陽があれば作物は育ちますから。
恵比須は6基のプランターで6つの保育園の子どもたちと連携してやっています。
原宿では神宮前の交差点の6階に4基の2m四方のプランターを置かせてもらって、サラダ野菜、人参も育てています。
子ども向けの食育で始めましたが、一緒に大人も来ることで大人の食育にもなっています。
アーバンファーマーズクラブは現在370から380名ぐらいです。
年齢は10代から70代までで男女半々ぐらいです。
畑の野菜という事で人々がフラットに繋がるので、新しいコミュニティーの在り方として機能しているんじゃないかと思います。
自分で栽培してみないと気が付かないことがいろいろあります。
ライブハウスの屋上に渋谷の畑を最初に作りました。(2015年)
縦1,5m横が3,5m深さが40cmのものを3台置きました。
7割は培養土を購入して3割は仲間の畑から土を持ってきて混ぜ合わせて土作りから始めました。
ねずみ、ごきぶり、からす、すずめなどがやってきて苦労しています。
油井敬史さんとは神奈川の相模湖で知り合って、10歳ぐらい年下で、就農1年目の時でした。
畑を見に行ったときに自然農法でやっていて、ほうれん草を食べたときにとってもおいしくて、そこから彼と仲良くなりました。
2011年に東日本大震災があったときにその前月に長男が生まれて、この都会でどうやって子どもを育てていったらいいのか悩むようになりました。
自分たちが食べる野菜ぐらいは育てたいなと思いました。
農家さんを訪ねていって、そんななかで油井君とは知り合いました。
大震災の時に関西では震災の影響は少しも感じなかったが、東京へ戻ってきたときに、食材を買いに行こうと思ったが何にもなかった。
東京では物を生産する力が無いんだなと思いました。
物流が止まっただけでこんなになってしまうんだと気が付きました。
編集の仕事をしているので全国の有機農業を取材することがあったので、段々自分へのモチベーションが高まってきて、そこから油井君のところに通うようになりました。
有機農業は土の力で育てるので作業は大変ですが、出来たものはおいしいです。
通っているうちに就農したばっかりの有機農家では有機農業だけでは生活が厳しく油井君などは夜に道路工事の交通整理のバイトをしていたりしていて、農家として飯がくえるように何かお手伝いしたいと思うようになりました。
彼の野菜の味を知ってもらおうという事から始めました。
友人と共にウイークエンドファーマーズと名付けて始めました。
まずはステッカー作りから始めました。
若いころ既成概念にとらわれないというヒッピーの考え方に或る種の共感を感じて、ヒッピーに憧れたが、何をやりたいのか考えたときに消去法で行くと、本を読むことだったので、出版社に入り込みました。
女性週刊誌に配属されて、そのうちにそれが廃刊になって、やりたかったビジュアル雑誌に配属になり、ファッション誌をやりました。
旅が好きだったので出版社を辞めて、機内誌を手伝うようになりました。
離島めぐり、農村取材して四季の移り変わり、とかいろいろ海外にも行きました。
今一番面白いのは土ですね。
自分の指が土を通して宇宙を調律するような不思議な感覚になります。
段々気持ちが穏やかに、丸くなってゆく感じがします。
唾液によりストレス度がチェックできるんですが、土に触れた前後を調べましたが、10人ぐらい全員が土に触れた後はストレスが減りました。
オキシトシンという脳の物質が出てストレスが低減するそうです。
オランダではその作用を注目してケアファームというシステムがあって市民が畑に行くことでストレスを解消したり、高齢者は土に触っているいると認知症の症状が緩和されるそうです。
渋谷だからこそできる新しい土から生まれるカルチャーみたいなものこそアーバンファーマーズクラブでは意識しながらやっています。
屋上全部畑にしたら野菜の自給率がかなり上がってゆくと思います。
コーヒーかすを一次的なものと合わせて発酵させてやると凄くいいたい肥ができます。
都会ではゴミが多いと言いますが、生ごみをたい肥にすれば循環することができるので都会は結構資源があります。
2020年2月15日土曜日
牧秀一(NPO法人 理事長) ・「心の置き去り ほっとかれへん」
牧秀一(NPO法人 理事長) ・「心の置き去り ほっとかれへん」
1995年1月17日の阪神淡路大震災では、6434人の方が亡くなり、およそ25万棟の住宅が全半壊しました。
牧さんは震災の復興住宅で孤立しがちな高齢者や地震によって障害を負った震災障害者の支援を行ってきました。
25年に渡って被災した人たちの悲しみや孤独に向き合い続けてきた牧さんにお話しを聞きました。
当日、木造の古い家であと2秒地震の揺れが続いていたら家が倒壊して私や家族は亡くなっていたと思います。
定時制高校の教諭で、通勤が困難で自宅近くの小学校の避難所に向かいました。(9日目)
全国から若いボランティアが来ていました。
若いリーダーの女性から「先生なんだから人の話は聞けるでしょ」と言われて、年配の方と話をし始めました。
完全に同じ目線で話をすることはできませんでした。
情報を流そうと思って、よろず新聞を作ることにしました。
足りない情報はボランティアの人と共に収集しました。
そのうち自分の悩みを相談したいという人が現れて、人目のないところで話を聞くようになりました。
一か月後、仮設住宅への入居が始まり、その8か月後には5万戸近くの仮設住宅が完成し、私が通った避難所も解消されることになりました。
ボランティア活動を終えることにしました。
仮設住宅では避難所と比べていい環境になっているので、幸せに暮らしているものと思っていましたが、仮設住宅を訪問すると、酒の瓶が転がっていたり何となく荒れていました。
家は潰れ、仕事もなく、嫁もなくなり、酒でも飲まないとやっていけないという様な事でした。
自殺する人もいました。
もう一回何かやらないとだめだと思い、13名で東灘区の仮設住宅を回ろうということにしました。
300世帯を訪問しましたが、最初なかなか会ってくれることはできませんでした。
行政ではせいぜい安否確認に来るだけで、悩みなどは話す機会はありません。
話を聞くという事はとてもしんどいことです。
自転車で回って3人の人から7時間話を聞いたことがありますが、エネルギーを吸い取られたような感じで自転車には乗れませんでした。
その人を放っては置かれへんといつも思ってしまうんです。
震災後1年災害復興住宅、アパートなどの供給が始まります。
その数は4万戸以上、高齢者母子家庭などの世帯が優先的に入居することになりました。
入居した途端に隣は知らない人という事になってしまいました。
仮設住宅では隣の声とか音が聞こえてしまうという様な面がありますが、新しい住まいでは一挙に鉄の扉という風な状況に置かれてしまいます。
復興住宅ができた瞬間に支援は途切れました。
高齢者は住み慣れた場所がつぶれて、復興住宅に住んでいるという事になると、ローンを組んで家を建てるという事も出来なくて、マイナスからの出発となってしまう。
プラスに転じることは難しくて、中はなかなか見えなくて孤立感を深めることになる。
ぽつぽつと亡くなっていきました。
一番ショックだったのは人と話す訳ではなく、みんな窓から一人で海をぼーっと眺めているんです。
僕らの活動は孤独死をなくそうという活動ですが、孤独死が出てしまいました。
防ぎきれなかったのでもうやめようと思いました。
数か月訪問できませんでした。
亡くなった隣の人からもう一度来てほしいと言われて、時間が掛かりましたが行く様になりました。
25年間続けられたのは、一緒にやってきてくれた人たちと、カンパの存在は大きいです。
そういったことに対して背中を押されている感じがします。
8年間毎月1000円送ってくれてきたりする人がいたり、そういう人達がいてくれたおかげで頑張れました。
仮設住宅でおばあさん(80歳ぐらい)と若い男の人(50歳ぐらい)が仲良くなって、
男の人にはお母さんは亡くなって、私がお母さんになってあげると言って、あなたが自分で生活できるようにという事でご飯、料理の作り方も教えました。
料理を作ってそのお母さんのところに持って行ったりしましたが、結局お母さんは亡くなりましたが、最後男の人の腕の中で亡くなっているんです。
他人でも親子関係みたいなものができるんだなあと思いました。
施策だけでは人は救えない、人は人によってのみ救う事ができるというのは確信として持つぐらいになりました。
3月にNPO法人よろず相談室の代表を退くことになりました。
最期の仕事として5年前から記録してきた被災者22人の証言を学校、図書館に配布し、広く見てもらうという事です。
現在、映像の編集をしていますが、みんなが大事でまとめるのに苦心しています。
ありのままの姿を見てほしいと思っています。
教育の場で見てもらってほしいと思っています。
調査では少なくとも349人が震災で障害を負ったと言います。
震災障害者の存在を認知してほしいと国や自治体に求めてきました。
2017年障害者手帳を申請する際の原因欄に自然災害の項目が追加されました。
震災障害者は孤立無援でした。
震災障害者の交流会を始めました。
日常的な悩みとか、自分が抱えている事とかをお茶を飲みながら話して、輪が広がって話に涙して、参加した人はホッとしたと言っています。
今後支援者としてではなくてお友達としてかかわりたいと思っています。
1995年1月17日の阪神淡路大震災では、6434人の方が亡くなり、およそ25万棟の住宅が全半壊しました。
牧さんは震災の復興住宅で孤立しがちな高齢者や地震によって障害を負った震災障害者の支援を行ってきました。
25年に渡って被災した人たちの悲しみや孤独に向き合い続けてきた牧さんにお話しを聞きました。
当日、木造の古い家であと2秒地震の揺れが続いていたら家が倒壊して私や家族は亡くなっていたと思います。
定時制高校の教諭で、通勤が困難で自宅近くの小学校の避難所に向かいました。(9日目)
全国から若いボランティアが来ていました。
若いリーダーの女性から「先生なんだから人の話は聞けるでしょ」と言われて、年配の方と話をし始めました。
完全に同じ目線で話をすることはできませんでした。
情報を流そうと思って、よろず新聞を作ることにしました。
足りない情報はボランティアの人と共に収集しました。
そのうち自分の悩みを相談したいという人が現れて、人目のないところで話を聞くようになりました。
一か月後、仮設住宅への入居が始まり、その8か月後には5万戸近くの仮設住宅が完成し、私が通った避難所も解消されることになりました。
ボランティア活動を終えることにしました。
仮設住宅では避難所と比べていい環境になっているので、幸せに暮らしているものと思っていましたが、仮設住宅を訪問すると、酒の瓶が転がっていたり何となく荒れていました。
家は潰れ、仕事もなく、嫁もなくなり、酒でも飲まないとやっていけないという様な事でした。
自殺する人もいました。
もう一回何かやらないとだめだと思い、13名で東灘区の仮設住宅を回ろうということにしました。
300世帯を訪問しましたが、最初なかなか会ってくれることはできませんでした。
行政ではせいぜい安否確認に来るだけで、悩みなどは話す機会はありません。
話を聞くという事はとてもしんどいことです。
自転車で回って3人の人から7時間話を聞いたことがありますが、エネルギーを吸い取られたような感じで自転車には乗れませんでした。
その人を放っては置かれへんといつも思ってしまうんです。
震災後1年災害復興住宅、アパートなどの供給が始まります。
その数は4万戸以上、高齢者母子家庭などの世帯が優先的に入居することになりました。
入居した途端に隣は知らない人という事になってしまいました。
仮設住宅では隣の声とか音が聞こえてしまうという様な面がありますが、新しい住まいでは一挙に鉄の扉という風な状況に置かれてしまいます。
復興住宅ができた瞬間に支援は途切れました。
高齢者は住み慣れた場所がつぶれて、復興住宅に住んでいるという事になると、ローンを組んで家を建てるという事も出来なくて、マイナスからの出発となってしまう。
プラスに転じることは難しくて、中はなかなか見えなくて孤立感を深めることになる。
ぽつぽつと亡くなっていきました。
一番ショックだったのは人と話す訳ではなく、みんな窓から一人で海をぼーっと眺めているんです。
僕らの活動は孤独死をなくそうという活動ですが、孤独死が出てしまいました。
防ぎきれなかったのでもうやめようと思いました。
数か月訪問できませんでした。
亡くなった隣の人からもう一度来てほしいと言われて、時間が掛かりましたが行く様になりました。
25年間続けられたのは、一緒にやってきてくれた人たちと、カンパの存在は大きいです。
そういったことに対して背中を押されている感じがします。
8年間毎月1000円送ってくれてきたりする人がいたり、そういう人達がいてくれたおかげで頑張れました。
仮設住宅でおばあさん(80歳ぐらい)と若い男の人(50歳ぐらい)が仲良くなって、
男の人にはお母さんは亡くなって、私がお母さんになってあげると言って、あなたが自分で生活できるようにという事でご飯、料理の作り方も教えました。
料理を作ってそのお母さんのところに持って行ったりしましたが、結局お母さんは亡くなりましたが、最後男の人の腕の中で亡くなっているんです。
他人でも親子関係みたいなものができるんだなあと思いました。
施策だけでは人は救えない、人は人によってのみ救う事ができるというのは確信として持つぐらいになりました。
3月にNPO法人よろず相談室の代表を退くことになりました。
最期の仕事として5年前から記録してきた被災者22人の証言を学校、図書館に配布し、広く見てもらうという事です。
現在、映像の編集をしていますが、みんなが大事でまとめるのに苦心しています。
ありのままの姿を見てほしいと思っています。
教育の場で見てもらってほしいと思っています。
調査では少なくとも349人が震災で障害を負ったと言います。
震災障害者の存在を認知してほしいと国や自治体に求めてきました。
2017年障害者手帳を申請する際の原因欄に自然災害の項目が追加されました。
震災障害者は孤立無援でした。
震災障害者の交流会を始めました。
日常的な悩みとか、自分が抱えている事とかをお茶を飲みながら話して、輪が広がって話に涙して、参加した人はホッとしたと言っています。
今後支援者としてではなくてお友達としてかかわりたいと思っています。
2020年2月14日金曜日
横尾忠則(美術家) ・「隠居してますます」(2)
横尾忠則(美術家) ・「隠居してますます」(2)
状況劇場 唐 十郎さんの「腰巻お仙」のポスター。
60年時代、あの時代は今から思っても不思議な時代でした。
メディアに翻弄されながらいい意味で生きてきたというそういう時代だったような気がします。
当時業界で業界の感覚から外れているようで否定する人もいました。
ほかのジャンルの人たちが評価をしてくれて、そういった人たちと交流しながら仕事がどんどん増えてきました。
旭日旗、星条旗などが描かれていますが、10代の経験だったと思います。
実家が呉服商で、反物に貼り付けてあるラベルが、日本的なものと西洋的なものがミックスされているようなそういったサブカルチャー的なもので、東京へ出てきてモダンアートに世界に飛び込むわけですが、独学で来ているのでよくわからなかった。
自分の知っているものを絵にしようという事で、子どものころ経験した、メンコ、お祭り、見世物などをポスターに取り込んだ訳です。
デザイナーには共感されなかったが、ほかのジャンル、文学者、作曲家、映画監督、演劇の人などには気に入ってくれました。
そういった人たちと一緒に仕事をする様になりました。
大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」にも主演することになりました。
出演してほしいと言われて吃驚しましたが、経験するのも面白いと思って引き受けました。
70年になって万博以降はバラバラに散って行って、アンダーグラウンド的なものは徐々に散っていきました。
1981年画家宣言をしました。
突然そんな気になりました。
1980年にピカソ展があり、それを見てグラフィックデザイナーではなくやっぱり絵画だなあと思いました。
やはりピカソに対する関心は非常に強いです。
過去の作品をどんどん捨てていって新しい作品をつくっていくという創造と破壊の繰り返しが凄まじい、毎日起こっているようなピカソの生き方が凄いと思って、ああいう生き方が出来ればいいなあと思っています。
キリコというのも自分の画風を確立したが、10年でその作風を捨ててしまって、作風を多様化していって、僕の性格にも似ていると思って、先輩の後を追いたいと思って、それでピカソ、キリコは大好きです。
2000年に入ってY字路を描き始めましたが、郷里に帰ったときに子どもの頃に三差路の突端に模型屋さんがありましたが、無くなってしまっていて写真を撮りました。
その写真を見たら不思議な光景に見え興味が湧きました。
これをテーマにしたものを描こうと思いました。
色んなY字路に出会いました、そこから始まりました。
精神世界に興味を持ったのは、1967年にニューヨークへ初めて行って、ヒッピー、べトナム戦争が盛んな時で、ぶらっと1週間のつもりで行きました。
自分が変わっていくような気がして、僕にとってのルネッサンスにしてしまいたいと思って、4か月近くニューヨークに居ました。
精神世界的なものに惹かれていきました。
現実とその背後に、もう一つ見えない世界があるんじゃないかと思って、いまでも興味があります。
曾我蕭白(そが しょうはく)の存在を知って吃驚しました。
非常に大胆な人間臭い、それを日本の風景の自然の中にその人物を登場させて、自然と人間が物凄い交流の仕方をしていて、その表現に驚きました。
それである展示会に参画することになりました。
寒山拾得(かんざん じっとく)という人はすさまじい生き方をした人ですが、それをテーマにして見ようと思いました。
寒山拾得は何故か箒を持っていて、箒を持っていたものを電気掃除機に替えて、巻物を持っていたものをトイレットペーパーに替えた絵を2,3点描きました。
昨今蕭白が人気があるのは、今は自然と人間が最も欠如した時代でもあり、人間性の回復とどっか結びつくんじゃないかなあと思います。
猫も大好きですが亡くなってしまって、野良猫が子ども3匹生んで野良猫はいなくなってしまって、2匹は事務所で飼っていて、1匹は家で飼っています。
猫とアートと僕は切り離せない関係なんです。
「タマ、帰っておいで」という本を出版します。
タマは亡くなってしまったので、帰ってきてほしいという事ですが。
タマの絵を描き始めて80枚ぐらいになりましたが、発表する気はありませんでした。
本にしましょう、展覧会をしましょうという事になりました。
文章は趣味で書いています、主にエッセーですが。
瀬戸内寂聴さんと往復書簡という形のエッセーで進めています。
小説では文学界に連載中ですが、いつ終わるかわからないようなものを書いています。
「原郷の森」というものです。
ツイッターは自分の気持ちを吐き出すつもりで書き始めました。
ツイッターは絵とよく似ていると思っています。
フォロワー数が31万9000人という事でびっくりしていますが。
今後については体と相談ですが、筆、ペンが持てる間は何かやってみたいいう気はあります。
画家は長生きするという事ですが、肉体を通して考える、感じるという仕事だから長生きができるのかなあと思います。
状況劇場 唐 十郎さんの「腰巻お仙」のポスター。
60年時代、あの時代は今から思っても不思議な時代でした。
メディアに翻弄されながらいい意味で生きてきたというそういう時代だったような気がします。
当時業界で業界の感覚から外れているようで否定する人もいました。
ほかのジャンルの人たちが評価をしてくれて、そういった人たちと交流しながら仕事がどんどん増えてきました。
旭日旗、星条旗などが描かれていますが、10代の経験だったと思います。
実家が呉服商で、反物に貼り付けてあるラベルが、日本的なものと西洋的なものがミックスされているようなそういったサブカルチャー的なもので、東京へ出てきてモダンアートに世界に飛び込むわけですが、独学で来ているのでよくわからなかった。
自分の知っているものを絵にしようという事で、子どものころ経験した、メンコ、お祭り、見世物などをポスターに取り込んだ訳です。
デザイナーには共感されなかったが、ほかのジャンル、文学者、作曲家、映画監督、演劇の人などには気に入ってくれました。
そういった人たちと一緒に仕事をする様になりました。
大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」にも主演することになりました。
出演してほしいと言われて吃驚しましたが、経験するのも面白いと思って引き受けました。
70年になって万博以降はバラバラに散って行って、アンダーグラウンド的なものは徐々に散っていきました。
1981年画家宣言をしました。
突然そんな気になりました。
1980年にピカソ展があり、それを見てグラフィックデザイナーではなくやっぱり絵画だなあと思いました。
やはりピカソに対する関心は非常に強いです。
過去の作品をどんどん捨てていって新しい作品をつくっていくという創造と破壊の繰り返しが凄まじい、毎日起こっているようなピカソの生き方が凄いと思って、ああいう生き方が出来ればいいなあと思っています。
キリコというのも自分の画風を確立したが、10年でその作風を捨ててしまって、作風を多様化していって、僕の性格にも似ていると思って、先輩の後を追いたいと思って、それでピカソ、キリコは大好きです。
2000年に入ってY字路を描き始めましたが、郷里に帰ったときに子どもの頃に三差路の突端に模型屋さんがありましたが、無くなってしまっていて写真を撮りました。
その写真を見たら不思議な光景に見え興味が湧きました。
これをテーマにしたものを描こうと思いました。
色んなY字路に出会いました、そこから始まりました。
精神世界に興味を持ったのは、1967年にニューヨークへ初めて行って、ヒッピー、べトナム戦争が盛んな時で、ぶらっと1週間のつもりで行きました。
自分が変わっていくような気がして、僕にとってのルネッサンスにしてしまいたいと思って、4か月近くニューヨークに居ました。
精神世界的なものに惹かれていきました。
現実とその背後に、もう一つ見えない世界があるんじゃないかと思って、いまでも興味があります。
曾我蕭白(そが しょうはく)の存在を知って吃驚しました。
非常に大胆な人間臭い、それを日本の風景の自然の中にその人物を登場させて、自然と人間が物凄い交流の仕方をしていて、その表現に驚きました。
それである展示会に参画することになりました。
寒山拾得(かんざん じっとく)という人はすさまじい生き方をした人ですが、それをテーマにして見ようと思いました。
寒山拾得は何故か箒を持っていて、箒を持っていたものを電気掃除機に替えて、巻物を持っていたものをトイレットペーパーに替えた絵を2,3点描きました。
昨今蕭白が人気があるのは、今は自然と人間が最も欠如した時代でもあり、人間性の回復とどっか結びつくんじゃないかなあと思います。
猫も大好きですが亡くなってしまって、野良猫が子ども3匹生んで野良猫はいなくなってしまって、2匹は事務所で飼っていて、1匹は家で飼っています。
猫とアートと僕は切り離せない関係なんです。
「タマ、帰っておいで」という本を出版します。
タマは亡くなってしまったので、帰ってきてほしいという事ですが。
タマの絵を描き始めて80枚ぐらいになりましたが、発表する気はありませんでした。
本にしましょう、展覧会をしましょうという事になりました。
文章は趣味で書いています、主にエッセーですが。
瀬戸内寂聴さんと往復書簡という形のエッセーで進めています。
小説では文学界に連載中ですが、いつ終わるかわからないようなものを書いています。
「原郷の森」というものです。
ツイッターは自分の気持ちを吐き出すつもりで書き始めました。
ツイッターは絵とよく似ていると思っています。
フォロワー数が31万9000人という事でびっくりしていますが。
今後については体と相談ですが、筆、ペンが持てる間は何かやってみたいいう気はあります。
画家は長生きするという事ですが、肉体を通して考える、感じるという仕事だから長生きができるのかなあと思います。
2020年2月13日木曜日
横尾忠則(美術家) ・「隠居してますます」(1)
横尾忠則(美術家) ・「隠居してますます」(1)
横尾さんは兵庫県西脇市の出身83歳、ポスターや絵画で世界中に作品のファンを持ち2001年に紫綬褒章受章、2011年には旭日小綬章受章されています。
横尾さんは70歳の古希を過ぎた2007年の春、隠居宣言をしました。
以来好きな絵を描くこと中心に悠々自適な生活を送られています。
隠居生活について伺いました。
同時に複数の絵を描くのでどれも描きかけという感じに見えます。
油絵の具が乾く時間があるのでそうしています。
神戸市横尾忠則現代美術館で2月1日から兵庫県立横尾救急病院展が開かれています。
病気をしたり入院したり良くするのでそういった作品があり、それを展示しようという事になり、美術館そのものを病院にさせてしまったらどだろうという事になり、病院の器具なども運んでそういった雰囲気を作ったわけです。
ポスターはかなり前に描いたものです。
2007年「思い出劇場」という作品、石和温泉に旅行した時に救急車で病院に運ばれて、その時の状況を描いた訳です。
バルコニーで市谷で三島由紀夫が自決したものと一体化したものです。
ストリップ劇場の近くで棺桶の上でギターを弾いているのが深沢史郎さん(昭和時代後期の版画家)です。
「病気の御利益」という本を出すことになりました。
病気することによって以前、以降に考え方とか生き方の大きな変化が与えられるし、病気中に考えなかったような問題,テーマを考えたりという事では一種の休息になる訳で、その後の生き方に対して御利益があるのでないかと、こういうタイトルを付けました。
足の動脈血栓になったときには足が切断しないと治らないのではないかという様なこともありましたが、切断しなくて済みました。
骨折も多いです。
睡眠時間はトータルで6,7時間です、10時頃に寝て、朝7,8時に起きますが、夜中に1,2度、目を覚まします。
歩くのは嫌いでつい自転車に乗ります。
外食はお昼だけです。
単行本より週刊誌はよく読みます。
難聴なので週刊誌はTVの替わりです。
スキャンダルは因果応報で、仏教的にみると面白いんです。
隠居宣言後13年がたちますが、一日アトリエでぼんやりしている時間が一ヶ月に半分ぐらいありますが、重要な時間でだと思っています。
70代の時に体調を崩してしまい、身体と気持ちが乖離していってしまって、それを一つにしないといけないと思いまして、「隠居宣言」という本を書きました。
隠居しなさいという事ではなくて、自分自身に語った言葉、内容です。
好きなことはするけれども嫌なことはなるべくしないという事を、その本で自分自身で宣言しました。
自分で勝手に作ったことにかかわっている間は忙しいが苦痛に感じる事はないです。
安藤広重は34歳で隠居している、伊藤若冲も早い時期に隠居しています。
自分の気に入ったしたいことだけをやるという事が隠居だと解したわけです。
生まれは兵庫県西脇市ですが、あまり帰らないです。
10代の終わりまで郷里にいましたが、以降は郷里にはあまり帰りませんでした。
西脇市には僕のモチーフになっているY字路が結構ありますからそれを絵にしたりします。
亡くなった同級生たちを故郷の絵の中に描き入れたりします。
歳をとればとるほど郷里で経験したり体験したりする記憶が、今後の絵の中に出てくるんではないかと思います。
子どものころから画家になろうとは思わなかったです。
手紙を書くことが好きで、英語を学んでエリザベス・テーラーに手紙を出したら、手紙が来て、切手を集めているという事も書いたら、彼女のところに来る世界中のファンレターの切手を切り取って送ってくれたり、ブロマイドに僕の名前入りのサインをしてくれたりしてくれました、凄く優しい人です。
他にもクラーク・ゲーブル、タイロン・パワー、エスター・ウィリアムズとかの人からブロマイドを送ってもらったりしました。
エリザベス・テーラーから手紙をもらったことが嬉しくて、学校の郵便友の会を通して、郵政局の郵便友の会の新聞に手紙の文面、写真を送ったら新聞に掲載されて、僕の思い出の記録です。
絵は物心ついたころから描いていたようです。
色んな人の挿絵を模写したり、ブロマイドを模写したりしていましたが、今は紛失してしまいました。
街の商店街の包装紙などを頼まれてバイトのようにして描いていたら、グラフィックデザイナーになって行ってしまいました。
独学でスタートしたのでよく知らないままグラフィックデザイナーになってしまった。
45歳過ぎて絵を絵を描いてみようと思って絵の方に進みましたが、不思議な縁だと思います。
人生は予測していないことが次から次に起こってきて、それにあまり抵抗しないで受け入れてやってきたような気がします。
養子で横尾家に来て、自分で主体的に事を起こすよりも身を任せた方がいいという様なことに10代で決定してしまったような気がします。
40代になってもあまり変わらない気がしました。
新聞社にカットを送っていたが、大阪の広告会社の人と知り合いになって、広告会社に行くことになり、会社が東京に移転して東京に行くことになりました。
運命の成り行きの面白さを経験して、それに任せればいいのではないかと思ってそれに任せてきたような気がします。
結婚してなかなか自分の思い通りにはならなくて、大変でしたが。
その中でも新しい発見がありました、自分一人では生きていけないという事です。
横尾さんは兵庫県西脇市の出身83歳、ポスターや絵画で世界中に作品のファンを持ち2001年に紫綬褒章受章、2011年には旭日小綬章受章されています。
横尾さんは70歳の古希を過ぎた2007年の春、隠居宣言をしました。
以来好きな絵を描くこと中心に悠々自適な生活を送られています。
隠居生活について伺いました。
同時に複数の絵を描くのでどれも描きかけという感じに見えます。
油絵の具が乾く時間があるのでそうしています。
神戸市横尾忠則現代美術館で2月1日から兵庫県立横尾救急病院展が開かれています。
病気をしたり入院したり良くするのでそういった作品があり、それを展示しようという事になり、美術館そのものを病院にさせてしまったらどだろうという事になり、病院の器具なども運んでそういった雰囲気を作ったわけです。
ポスターはかなり前に描いたものです。
2007年「思い出劇場」という作品、石和温泉に旅行した時に救急車で病院に運ばれて、その時の状況を描いた訳です。
バルコニーで市谷で三島由紀夫が自決したものと一体化したものです。
ストリップ劇場の近くで棺桶の上でギターを弾いているのが深沢史郎さん(昭和時代後期の版画家)です。
「病気の御利益」という本を出すことになりました。
病気することによって以前、以降に考え方とか生き方の大きな変化が与えられるし、病気中に考えなかったような問題,テーマを考えたりという事では一種の休息になる訳で、その後の生き方に対して御利益があるのでないかと、こういうタイトルを付けました。
足の動脈血栓になったときには足が切断しないと治らないのではないかという様なこともありましたが、切断しなくて済みました。
骨折も多いです。
睡眠時間はトータルで6,7時間です、10時頃に寝て、朝7,8時に起きますが、夜中に1,2度、目を覚まします。
歩くのは嫌いでつい自転車に乗ります。
外食はお昼だけです。
単行本より週刊誌はよく読みます。
難聴なので週刊誌はTVの替わりです。
スキャンダルは因果応報で、仏教的にみると面白いんです。
隠居宣言後13年がたちますが、一日アトリエでぼんやりしている時間が一ヶ月に半分ぐらいありますが、重要な時間でだと思っています。
70代の時に体調を崩してしまい、身体と気持ちが乖離していってしまって、それを一つにしないといけないと思いまして、「隠居宣言」という本を書きました。
隠居しなさいという事ではなくて、自分自身に語った言葉、内容です。
好きなことはするけれども嫌なことはなるべくしないという事を、その本で自分自身で宣言しました。
自分で勝手に作ったことにかかわっている間は忙しいが苦痛に感じる事はないです。
安藤広重は34歳で隠居している、伊藤若冲も早い時期に隠居しています。
自分の気に入ったしたいことだけをやるという事が隠居だと解したわけです。
生まれは兵庫県西脇市ですが、あまり帰らないです。
10代の終わりまで郷里にいましたが、以降は郷里にはあまり帰りませんでした。
西脇市には僕のモチーフになっているY字路が結構ありますからそれを絵にしたりします。
亡くなった同級生たちを故郷の絵の中に描き入れたりします。
歳をとればとるほど郷里で経験したり体験したりする記憶が、今後の絵の中に出てくるんではないかと思います。
子どものころから画家になろうとは思わなかったです。
手紙を書くことが好きで、英語を学んでエリザベス・テーラーに手紙を出したら、手紙が来て、切手を集めているという事も書いたら、彼女のところに来る世界中のファンレターの切手を切り取って送ってくれたり、ブロマイドに僕の名前入りのサインをしてくれたりしてくれました、凄く優しい人です。
他にもクラーク・ゲーブル、タイロン・パワー、エスター・ウィリアムズとかの人からブロマイドを送ってもらったりしました。
エリザベス・テーラーから手紙をもらったことが嬉しくて、学校の郵便友の会を通して、郵政局の郵便友の会の新聞に手紙の文面、写真を送ったら新聞に掲載されて、僕の思い出の記録です。
絵は物心ついたころから描いていたようです。
色んな人の挿絵を模写したり、ブロマイドを模写したりしていましたが、今は紛失してしまいました。
街の商店街の包装紙などを頼まれてバイトのようにして描いていたら、グラフィックデザイナーになって行ってしまいました。
独学でスタートしたのでよく知らないままグラフィックデザイナーになってしまった。
45歳過ぎて絵を絵を描いてみようと思って絵の方に進みましたが、不思議な縁だと思います。
人生は予測していないことが次から次に起こってきて、それにあまり抵抗しないで受け入れてやってきたような気がします。
養子で横尾家に来て、自分で主体的に事を起こすよりも身を任せた方がいいという様なことに10代で決定してしまったような気がします。
40代になってもあまり変わらない気がしました。
新聞社にカットを送っていたが、大阪の広告会社の人と知り合いになって、広告会社に行くことになり、会社が東京に移転して東京に行くことになりました。
運命の成り行きの面白さを経験して、それに任せればいいのではないかと思ってそれに任せてきたような気がします。
結婚してなかなか自分の思い通りにはならなくて、大変でしたが。
その中でも新しい発見がありました、自分一人では生きていけないという事です。
2020年2月12日水曜日
中島かおり(NPO法人代表理事) ・<虐待を考えるキャンペーン>「孤立する妊婦と虐待死する赤ん坊を救いたい」(初回2019・12・13)
中島かおり(NPO法人代表理事) ・<虐待を考えるキャンペーン>「孤立する妊婦と虐待死する赤ん坊を救いたい」(初回2019・12・13)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/npo_13.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/npo_13.htmlをご覧ください。
2020年2月11日火曜日
大谷順子(NPO法人代表理事) ・<虐待を考えるキャンペーン>「無関心は地域のネグレクト」(初回2019・12・11)
大谷順子(NPO法人代表理事) ・<虐待を考えるキャンペーン>「無関心は地域のネグレクト」(初回2019・12・11)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/npo.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/npo.htmlをご覧ください。
2020年2月10日月曜日
志賀千夏(大相撲 元大関 栃東 母) ・【アスリート誕生物語】
志賀千夏(大相撲 元大関 栃東 母) ・【アスリート誕生物語】
先代も元気で玉ノ井部屋で弟子も一緒に住んで過ごしています。
全部で30~40人います。
小さいころから骨組みはがっちりしていましたが、身体は弱かったです。
喘息がありしょっちゅう40度ぐらいの熱を出していました。
小学校3年生の頃から水泳をやらせて、段々よくなってきました。
相撲には興味がなく小学校2,3年で野球をやってきました。
千代の富士さんの相撲だけは見ていました。
先代の影響かもしれないが運動神経はよかったです。
教育方針としては、約束をしたことはきちんと守る、人に迷惑を掛けない、喧嘩になっても自分から先に手を出してはいけない、年寄りには席を譲ってあげる、そういうことは厳しく言っていました。
5年生になって、「僕がお相撲さんに成ったら喜んでくれるかなあ」と言ってくれました。
明大中野中学校に行けるようになって、相撲部に入りました。
墨田区に住んでいましたが、そこで勝ち抜いて東京大会に出ましたが、全国大会まではいきませんでした。
当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできませんでした。
泣きながら股割りの練習をやっていました。
明大中野中学校で武井監督に出会ったことが物凄く影響が大きかったです。
親子の欲目ではなくて一番稽古をして一番努力した力士だと今でも思っています。
骨盤股関節剥離をして克服して中学3年からそれなりに相撲を取れるようになって、高校1年になって、全国大会に行って予選で使ってもらって、決勝は先輩がやりました。
高校2年になるとレギュラーで弘前では3人制で先方を任され、武井先生から「志賀が必ず勝つからな」、と暗示をかけるわけです。
そこで優勝することができました。
金沢の大会では2年生で優勝して、3年生も2連覇したいと思っていましたが、東京大会で負けてしまって、「中退して相撲部を辞めてプロの世界に入る」と毎日のように監督のところへ行って言いました。(2年生)
武井先生は「お前にはインター杯で横綱に成れる力があるから、それを取ってからでもプロに成っても遅くない」と言っていました。
ブラジルから来ていた十両の子がいて「お前今ここで辞めたら負け犬だ、ここまで頑張って来て負け犬になりたいのか」と言われ、それでは頑張るという事になりました。
3年生ではインター杯で横綱になることができました。
先代は大会に応援に行ったことはなかったですが、その時の決勝戦にはこの一回だけには行きました。
国体があり旗手に選ばれていましたがそれを断って、高校在学中に玉ノ井部屋に入門し、前相撲を取って学校に行っていました。
ケーキなどを上げようとすると「おかみさん ほかの人にあげてください」とか言って受取らず、兄さんに「ほうっておいてほしい」と言っていたそうです。
親としては寂しいと思いますが、でもほかの弟子のことを考えるとそうかなあと思いました。
母であるけれども部屋の女将でもありましたから。
頑張りを見ていたら横綱になると思っていましたが、怪我が多かったです。
「この試練を乗り越えないと大関にはなれない、神様は越えられない人間には試練を与えないそうよ」、と言って励ましました。
大関になれたのは負けず嫌いと努力だったと思います。
素直でしたが頑固です。
引退が30歳、脳梗塞の再発が怖かったからです。
医師から「私の自分の息子だったらここで辞めさせます」と言われました。
若い時の脳梗塞は再発が一番怖いと言われました。
主人が引退を決めたときに、もう少し取れないかなあと思いましたが、息子に「おかみさん、もう少し自分を長生きさせてください」と言われてしまいました。
もう何も言えませんでした、わーっと来てしまいました。
息子に部屋を譲ってから11年になります。
親方として弟子から慕われるような、今の状態で頑張って行ってくれたらと思っています。
孫は娘なので、息子は自分の代で終わってもいいと思っていますが。
健康であってくれればと思います、それが私へのプレゼントだと思っています。
先代も元気で玉ノ井部屋で弟子も一緒に住んで過ごしています。
全部で30~40人います。
小さいころから骨組みはがっちりしていましたが、身体は弱かったです。
喘息がありしょっちゅう40度ぐらいの熱を出していました。
小学校3年生の頃から水泳をやらせて、段々よくなってきました。
相撲には興味がなく小学校2,3年で野球をやってきました。
千代の富士さんの相撲だけは見ていました。
先代の影響かもしれないが運動神経はよかったです。
教育方針としては、約束をしたことはきちんと守る、人に迷惑を掛けない、喧嘩になっても自分から先に手を出してはいけない、年寄りには席を譲ってあげる、そういうことは厳しく言っていました。
5年生になって、「僕がお相撲さんに成ったら喜んでくれるかなあ」と言ってくれました。
明大中野中学校に行けるようになって、相撲部に入りました。
墨田区に住んでいましたが、そこで勝ち抜いて東京大会に出ましたが、全国大会まではいきませんでした。
当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできませんでした。
泣きながら股割りの練習をやっていました。
明大中野中学校で武井監督に出会ったことが物凄く影響が大きかったです。
親子の欲目ではなくて一番稽古をして一番努力した力士だと今でも思っています。
骨盤股関節剥離をして克服して中学3年からそれなりに相撲を取れるようになって、高校1年になって、全国大会に行って予選で使ってもらって、決勝は先輩がやりました。
高校2年になるとレギュラーで弘前では3人制で先方を任され、武井先生から「志賀が必ず勝つからな」、と暗示をかけるわけです。
そこで優勝することができました。
金沢の大会では2年生で優勝して、3年生も2連覇したいと思っていましたが、東京大会で負けてしまって、「中退して相撲部を辞めてプロの世界に入る」と毎日のように監督のところへ行って言いました。(2年生)
武井先生は「お前にはインター杯で横綱に成れる力があるから、それを取ってからでもプロに成っても遅くない」と言っていました。
ブラジルから来ていた十両の子がいて「お前今ここで辞めたら負け犬だ、ここまで頑張って来て負け犬になりたいのか」と言われ、それでは頑張るという事になりました。
3年生ではインター杯で横綱になることができました。
先代は大会に応援に行ったことはなかったですが、その時の決勝戦にはこの一回だけには行きました。
国体があり旗手に選ばれていましたがそれを断って、高校在学中に玉ノ井部屋に入門し、前相撲を取って学校に行っていました。
ケーキなどを上げようとすると「おかみさん ほかの人にあげてください」とか言って受取らず、兄さんに「ほうっておいてほしい」と言っていたそうです。
親としては寂しいと思いますが、でもほかの弟子のことを考えるとそうかなあと思いました。
母であるけれども部屋の女将でもありましたから。
頑張りを見ていたら横綱になると思っていましたが、怪我が多かったです。
「この試練を乗り越えないと大関にはなれない、神様は越えられない人間には試練を与えないそうよ」、と言って励ましました。
大関になれたのは負けず嫌いと努力だったと思います。
素直でしたが頑固です。
引退が30歳、脳梗塞の再発が怖かったからです。
医師から「私の自分の息子だったらここで辞めさせます」と言われました。
若い時の脳梗塞は再発が一番怖いと言われました。
主人が引退を決めたときに、もう少し取れないかなあと思いましたが、息子に「おかみさん、もう少し自分を長生きさせてください」と言われてしまいました。
もう何も言えませんでした、わーっと来てしまいました。
息子に部屋を譲ってから11年になります。
親方として弟子から慕われるような、今の状態で頑張って行ってくれたらと思っています。
孫は娘なので、息子は自分の代で終わってもいいと思っていますが。
健康であってくれればと思います、それが私へのプレゼントだと思っています。
2020年2月9日日曜日
進藤均(障害者就労支援会社社長) ・「ワクワクする人生のパートナーとして」
進藤均(障害者就労支援会社社長) ・「ワクワクする人生のパートナーとして」
新藤さんは今年47歳、30歳で社会問題をビジネスで解決すると宣言し、3人で障害者の就労を支援する会社を立上げました。
周囲の反対が多かったようですが、インターネットを活用した就労新サイトは順調に伸び従業員は200人を超えておよそ1万人の障害のある人たちの就労を支援してきました。
新藤さんは障害者への偏見をなくすことがまず第一、これからは障害者だけなく、社会で不自由な生活を強いられている人たちなど、誰もがワクワクする人生を送れる社会システムを作りたいと言います。
会社案内には会社を立ち上げた目的は社会問題をビジネスで解決する、と書いてあります。
利益のために働くというのが会社の目的ですが、一方で世の中に困っている人たちが一杯いて、この人たちを救うという事で働くことができないかと考えたときに、この両方ができると幸せなんじゃないかとこんな会社を作りました。
障害の害をひらがなにして、「障がい」としました。
悪い印象を変えたいとあえてしました。
障害者も普通の一人の人間なんだというメッセージを込めて害をひらがなにしました。
障害のある人とは小さいころから出会う場面が多くて、学校も別々、働くところも別々で、昔には障害者を外出させないという様な風潮もあって、分断された、隔離された世界に生きているという問題意識があり、これを変えたいと思ったのがきっかけです。
学生時代から何かそういった、距離感というものに関しての問題意識はありました。
会社に就職しましたが、30歳で会社を立ち上げました。
その時には結婚して子どももいました。
既にこういった会社を作ろうと10,20のアイディアを妻に話していましたが、反対をされていました。
今回のこの事業を先輩、上司、ビジネスマンなどに相談するとみんな反対しましたので、難しいと思いましたが、どうしてもやりたいという思いもあり妻に相談したら、妻だけは賛成してくれました。
マンションの一室で3人で創業しました。(17年前)
障害者向けにサ-ビスをするというと、NPO法人、社会福祉法人であったりで、営利という会社が障害者にサービスをするという文化が無くて、株式会社自体が存在していませんでした。
僕の中には人間的な差別はなくて、彼らにいいものを提供して彼らが納得してお金を払うのであれば、それは儲けてももいいんじゃないかと思いました。
障害者の就労というものを通じて、世の中の人たちが差別、偏見なく障害者と一緒に働く世界を作りたかったので、あえて株式会社でやる意味もそれを壊す意味で株式会社にしたという事もあります。
7,8年前から企業、役所の法定雇用率を段々言われるようになって、数年前公務員の方で随分水増していたというニュースがありました。
それまで障害者を雇う事は消極的でした。
あのニュースは障害者を受け入れたくはないという事で大変心が痛みました。
企業側は障害者に合ったものをという事で取り組んでいたので、企業側は怒っていました。
その後国からも手伝いをしてほしいと依頼されました。
就労、転職をするサイトを立ち上げました。
インターネットで求人表が一杯載っているサイトで、自分で検索ができてというシステムを最初に作ったという事が大きかったです。
求人したいという会社が約1000社あります。
それを見て応募したいという方が、インターネット上で申し込みをするシステムで、企業の人事に自分の情報が直接届くという事が特徴です。
応募が駄目な時にはカウンセリングができることができて、場所、仕事内容、障害の内容などをカウンセリングをして、その人に合った求人紹介もしています。
障害ある方と企業を結び付けるというのは情報だけでは難しくて人が介在する必要があります。
障害者の方も細かな要望がいっぱいあって、企業も細かいニーズがあり、これを繋げるのには人が介在する必要があります。
カウンセリングの部屋には沢山ティッシュペーパーがあります、カウンセリングでは苦労を話しているうちに泣きだすことがあり我々ももらい泣きします。
面接の練習などをしたりもします。
説明が必要な場合もあるので企業側の研修などもやります。
入社後も間に入って就労調整したりしています。
17年間で累計でいうと8000~1万人の就職が実現しています。
3万人ぐらいカウンセリングなどをしてきていますので、頑張ったなあと思います。
現在、大坂、名古屋に支社があります。
通勤の問題もいろいろあるので、働く場所は凄くケアが必要です。
障害者雇用はここ17年で増えていますが、まだ道半ばだと思っています。
5,6年前から精神障害者の雇用もこれから進めていきましょうと国の主導で決まって、精神障害者の雇用もしようとスタートしていますが、精神障碍者の雇用は進んでいなくて、これからの10年は精神障害者の雇用のことになってゆくと思います。
障害者は日本では16人に1人、8%の方が障害のある方で、そういった方々の社会参加をもっと進めていかなければいけません。
引き籠もり、不登校、鬱、LGBTなども入っています。
様々な障害に対してなので難しいですが、やりがいがあります。
排除するではなくてその人たちの可能性を引き出して社会をともにするという事が望ましいと思っています。
新規事業創出という趣味があります。
社会問題をビジネスで解決しようとする若者が多くいます、そういう若者を支援するそういう会社の事業です。
初めての挑戦を、経験者としてノウハウを持っているものとしてサポートするというのがその会社です。
起業のお金とかまで相談に乗ります。
未経験であるため立上げの不安であるという事などに対して伴走します。
2018年にスタートして、60人ほどの若者が相談に来ましてサポートしています。
こういった人たちが増えて行くと世の中が良くなっていくと思います。
障害者の人たちが生きづらくなっているのが差別、偏見だと思っていますので、これをフラットな状態にしたいと思っていて、理由はあまり障害のある人達とそうでない人たちがあまりコミュニケーションをとってこなかった、一緒に働いてこなかった、触れる機会がなかったというところから起因していると思っていて、まずは交わる場、知る場をどんどん作ってゆけば差別、偏見はおそらく解消してゆくと思います。
お互いがあまり気にならず生活できる社会になるのではないかと思っています、。
17年前は学校が別でした、今は建物は同じでクラスは別です、将来はいっしょに学ぶ機会があるととてもすてきだなと思います。
学ぶ場も働く場、社会でもお互いに知り合う事がこれからの社会に求められる。
新藤さんは今年47歳、30歳で社会問題をビジネスで解決すると宣言し、3人で障害者の就労を支援する会社を立上げました。
周囲の反対が多かったようですが、インターネットを活用した就労新サイトは順調に伸び従業員は200人を超えておよそ1万人の障害のある人たちの就労を支援してきました。
新藤さんは障害者への偏見をなくすことがまず第一、これからは障害者だけなく、社会で不自由な生活を強いられている人たちなど、誰もがワクワクする人生を送れる社会システムを作りたいと言います。
会社案内には会社を立ち上げた目的は社会問題をビジネスで解決する、と書いてあります。
利益のために働くというのが会社の目的ですが、一方で世の中に困っている人たちが一杯いて、この人たちを救うという事で働くことができないかと考えたときに、この両方ができると幸せなんじゃないかとこんな会社を作りました。
障害の害をひらがなにして、「障がい」としました。
悪い印象を変えたいとあえてしました。
障害者も普通の一人の人間なんだというメッセージを込めて害をひらがなにしました。
障害のある人とは小さいころから出会う場面が多くて、学校も別々、働くところも別々で、昔には障害者を外出させないという様な風潮もあって、分断された、隔離された世界に生きているという問題意識があり、これを変えたいと思ったのがきっかけです。
学生時代から何かそういった、距離感というものに関しての問題意識はありました。
会社に就職しましたが、30歳で会社を立ち上げました。
その時には結婚して子どももいました。
既にこういった会社を作ろうと10,20のアイディアを妻に話していましたが、反対をされていました。
今回のこの事業を先輩、上司、ビジネスマンなどに相談するとみんな反対しましたので、難しいと思いましたが、どうしてもやりたいという思いもあり妻に相談したら、妻だけは賛成してくれました。
マンションの一室で3人で創業しました。(17年前)
障害者向けにサ-ビスをするというと、NPO法人、社会福祉法人であったりで、営利という会社が障害者にサービスをするという文化が無くて、株式会社自体が存在していませんでした。
僕の中には人間的な差別はなくて、彼らにいいものを提供して彼らが納得してお金を払うのであれば、それは儲けてももいいんじゃないかと思いました。
障害者の就労というものを通じて、世の中の人たちが差別、偏見なく障害者と一緒に働く世界を作りたかったので、あえて株式会社でやる意味もそれを壊す意味で株式会社にしたという事もあります。
7,8年前から企業、役所の法定雇用率を段々言われるようになって、数年前公務員の方で随分水増していたというニュースがありました。
それまで障害者を雇う事は消極的でした。
あのニュースは障害者を受け入れたくはないという事で大変心が痛みました。
企業側は障害者に合ったものをという事で取り組んでいたので、企業側は怒っていました。
その後国からも手伝いをしてほしいと依頼されました。
就労、転職をするサイトを立ち上げました。
インターネットで求人表が一杯載っているサイトで、自分で検索ができてというシステムを最初に作ったという事が大きかったです。
求人したいという会社が約1000社あります。
それを見て応募したいという方が、インターネット上で申し込みをするシステムで、企業の人事に自分の情報が直接届くという事が特徴です。
応募が駄目な時にはカウンセリングができることができて、場所、仕事内容、障害の内容などをカウンセリングをして、その人に合った求人紹介もしています。
障害ある方と企業を結び付けるというのは情報だけでは難しくて人が介在する必要があります。
障害者の方も細かな要望がいっぱいあって、企業も細かいニーズがあり、これを繋げるのには人が介在する必要があります。
カウンセリングの部屋には沢山ティッシュペーパーがあります、カウンセリングでは苦労を話しているうちに泣きだすことがあり我々ももらい泣きします。
面接の練習などをしたりもします。
説明が必要な場合もあるので企業側の研修などもやります。
入社後も間に入って就労調整したりしています。
17年間で累計でいうと8000~1万人の就職が実現しています。
3万人ぐらいカウンセリングなどをしてきていますので、頑張ったなあと思います。
現在、大坂、名古屋に支社があります。
通勤の問題もいろいろあるので、働く場所は凄くケアが必要です。
障害者雇用はここ17年で増えていますが、まだ道半ばだと思っています。
5,6年前から精神障害者の雇用もこれから進めていきましょうと国の主導で決まって、精神障害者の雇用もしようとスタートしていますが、精神障碍者の雇用は進んでいなくて、これからの10年は精神障害者の雇用のことになってゆくと思います。
障害者は日本では16人に1人、8%の方が障害のある方で、そういった方々の社会参加をもっと進めていかなければいけません。
引き籠もり、不登校、鬱、LGBTなども入っています。
様々な障害に対してなので難しいですが、やりがいがあります。
排除するではなくてその人たちの可能性を引き出して社会をともにするという事が望ましいと思っています。
新規事業創出という趣味があります。
社会問題をビジネスで解決しようとする若者が多くいます、そういう若者を支援するそういう会社の事業です。
初めての挑戦を、経験者としてノウハウを持っているものとしてサポートするというのがその会社です。
起業のお金とかまで相談に乗ります。
未経験であるため立上げの不安であるという事などに対して伴走します。
2018年にスタートして、60人ほどの若者が相談に来ましてサポートしています。
こういった人たちが増えて行くと世の中が良くなっていくと思います。
障害者の人たちが生きづらくなっているのが差別、偏見だと思っていますので、これをフラットな状態にしたいと思っていて、理由はあまり障害のある人達とそうでない人たちがあまりコミュニケーションをとってこなかった、一緒に働いてこなかった、触れる機会がなかったというところから起因していると思っていて、まずは交わる場、知る場をどんどん作ってゆけば差別、偏見はおそらく解消してゆくと思います。
お互いがあまり気にならず生活できる社会になるのではないかと思っています、。
17年前は学校が別でした、今は建物は同じでクラスは別です、将来はいっしょに学ぶ機会があるととてもすてきだなと思います。
学ぶ場も働く場、社会でもお互いに知り合う事がこれからの社会に求められる。
2020年2月8日土曜日
藤藪庸一(白浜バプテスト基督教会 牧師) ・「隣人といのちの電話」
藤藪庸一(白浜バプテスト基督教会 牧師) ・「隣人といのちの電話」
白浜町の海岸に連なる断崖絶壁の名称三段壁は高さ50m長さ2kmに渡ります。
ここは観光とであると同時に人生を終わらせようとする場所でもあります。
藤藪さんはこの地で自殺を考える人たちの声を聴き支援をする活動をしています。
断崖近くにある公衆電話の横には「いのちの電話」の看板、相談の電話番号を記しています。
これまでに900人以上保護してきました。
自殺を思いとどまったものの帰る場所がない人には住む場所を提供し、生きる力を取り戻していけるよう支援しています。
自殺を考える人たちにどう寄り添い、どう信頼関係を築いていくのか、その背景にある信仰とともにお話を伺います。
これまでに900人以上保護してきましたが、基本的には助けてというのが難しくなっていて、いろんな方とはかかわってきたけれど、お世話になる訳にはいかないとか、迷惑をかけるわけにはいかないとか、辛くてしょうがない所から兎に角逃れたい、そんな感じのことをみんな話します。
電話ボックスのそばに「重大な決意をする前にここに連絡ください」という看板。
生きるのか死ぬのか葛藤しながら決心がつかなくて、振り返ったら看板があったとか、ちょっと場所を移動している最中に看板を見たとかという形で家に繋がってきます。
「すみません」「助けてほしい」とかそんな感じでおっしゃいます。
「迎えに行きます」、と話を聞かないで行っています。
兎に角早く会った方がいいと考えます。
大事にしているのは、とにかく最後まで話を聞く、という事です。
その人に興味を持つようにひたすら頑張ります。
その人の考えている事、やってきたことなど全体像が判ってくるとなおさら細かいことを知りたくなって、という感じで聞いていきます。
放浪してきていると不潔になっているので、早い段階でお風呂に入ってもらいます。
きれいさっぱりしてもらった方がほっとしたといって話しやすいし受け止めやすいです。
最期には目標を作っていきたいので、次にはこういう風にしてみようかという風に持ってきたいです。
落ち着いてきて気持ちの整理がついてきたら、家族に連絡しようとか、捜索願が出ているかもしれないので警察に連絡しようとか、窓口は僕がするので自分はいなくてもいい、ここには警察は来ることもないから大丈夫といいます。
連絡を嫌がる人もいるので一晩泊って朝会おうという風に言います。
僕も信頼してゆき、その人もちょっとずつ僕のいう事も判ってくれる。
小さな約束を繰り返してゆく事でお互いに距離がちょっとずつ縮まります。
神様は私たちに一方的に約束をくださって、その約束に神様は生きてくださる。
神様は自分で決めた約束を自分で守られて本当の正しいというのはこういう事だとか、これが義というものだとかを教えられる。
神様が決めたことを結局神様が自分で犠牲を払って実現するというのが、イエスキリストの十字架の話で、旧約聖書のなかで約束が大事なウエートを占めている。
僕がみんなと約束を交わしてゆく中で、僕がその約束を守るか守らないかはとてもみんなにとっては重要で、僕の信頼が崩れることもあれば、本当に強固になることもあって、
約束は重要なものにしています。
約束を積み重ねてゆくという事は、相手をどれだけ愛するのか、信じるのか、相手の人格を認めるのか、そういうところが影響してくる。
キリスト教に出会ったのは小学校一年生の時に近所の友達に誘われ日曜日の教会学校に通い始めたのがきっかけでした。
人のために貢献する大切さを学び始めた12歳の頃、ペテロの言葉に出会いました。
ペテロが物乞いに対して言った言葉です。
「私をみなさい、金銀は私にはない。 しかし私にあるものをあげよう。
ナザレのイエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」
物乞いは足が不自由で歩けないが、立たせて歩かせてしまうという奇跡の物語です。
僕がその人と一緒に神様を見上げることはできるので、させてもらえるんじゃないかなあと思いました。
東京基督教大学に進み、牧師になることを目指しました。
卒業後、故郷白浜教会の牧師江見太郎さんから自分の後を任せたいと依頼されました。
江見太郎さんは「いのちの電話」を始めた人でした。
若かった(26歳)からかもしれませんが、周りからは「いのちの電話」を引き継ぐことには反対がありました。
僕はやらなければいけないことだとは僕の中にはありましたので、辞めるという選択はありませんでしたと江見さんに言いました。
4月1日に引き継いで4月2日に電話がかかってきました。
26歳の女性でべろべろに酔っぱらっていて、死ぬのが怖くてお酒を飲んだ勢いで飛び込もうというそういう事だったようです。
次の日正気に戻った彼女に連絡先を聞いたりして、母親が迎えに来ました。
次は4月5日当たりで、その人も酔っぱらっていて、飛び込もうと思ったらしいです。
僕が若かったので、相手にしない様子でしたが、正気に戻ってきたときに本当にいってもいいかと何度もいってくれて、その人が俺は帰る場所が無いんだと言い始めました。
2か月前に出てきて知りあいもないという事でした。
約束したので自分としては泊めるしかないと決めました。
関わった方で何人かは亡くなっている方がいます。
1,2年目ぐらいに20歳前半の男の子を保護して、家で休もうと連れ帰って、1か月ぐらいして元気になってきたころに仕事に行くと言い出して、僕はまだ無理だと思ったのですが、仕事に行き始めて表情も明るくなって元気になってきましたが、その後仕事を辞めたいと言いだして、自分の実家に帰ると言い出しましたが、失敗したと思ったが止める手立てがなかった。
帰ったものだと思っていたら2か月後に九州の警察から電話がかかってきました。
僕の名刺が入っていたので彼の遺体だと思いました。
僕らが最善を尽くしても死にたい気持ちが変わらない可能性もあるわけで、それでも僕らはこの活動を続けると、自分が後悔しないように最善を尽くすだけだなと思ったし、後悔しないように出来ることをその時その時一生懸命やるだけだなあと思いました。
共同生活をしている人が自立できるようにとお弁当屋の運営をするようになりました。
手作り弁当の店頭販売のほか、病院や高齢者への配達も行っています。
地域と人とを結ぶ活動が結果的に人を孤独になることから救い自殺防止につながると考えています。
町内会の会長もしています。
活動を通して人とのつながりが広がってゆく事を望んでいます。
孤独になってしまったり、一人で背負いきれなくなってみんな命を断とう考えているので、人のなかにもう一回戻ろうという事、つながりがめんどくさいと思ってる人もそのつながりが自分を助けることになるという考えで、その人たちとの関わりを持ちたいと思っています。
イエスキリストの「隣人(となりびと)」に関する話がありますが、「隣人」になるということは、必要最低限のものしか持っていない状況で、本当に必要がある人を見つけたときにその人の必要に答えてあげる、でも自分の必要なものを渡すことになる訳ですが、その人のことを気になってかかわってゆく、そこに「隣人」の本質が出てくるのではないかと僕は思っています。
自分の良心が働くかどうかだと思っていて、良心は神様が人に与えている心で、それが働けば後から信仰はついてくると僕は思います。
65歳のおじいさんで飛び込もうと思ったができなくて、野垂れ死にしようと思っていたら、通り過ぎていった女性たちの一人が自分の目の前に戻ってきて「おっちゃん馬鹿なことをしたらあかんで、死んだらあかんで」と言ったそうです。
その子は2000円出してくれて、手に握らせてくれた。
翌朝、意識がしっかりしてきたときに手に2000円があり、2000円で食事をして僕のところに電話をかけてきて、うちで9か月生活しました。
その後ホテルのナイトフロントに就職して7年間仕事をしました。
その女の子はよく勇気を出して声を掛けお金を差し出したなあと思います。
おじいさんはその後脳梗塞をして、がんも見つかり僕と出会ってから10年後に天に召されるんですが、彼は「この10年本当に生きてきてよかった」と言ってくれて僕は嬉しかったです。
そして「あの女の子のお陰やな」と言ってくれました。
本当に本人が生きようと思ったのはまさに女の子の行為、2000円であり、改めて思いなおすことになりました。
僕が伝えたいのは神様に愛されているというメッセージですから、それが僕の周りでみんながそうだなと思ってくれることが広がってくれるとい嬉しい話で、これからも続けようと思います。
関わる人と僕が分かち合いたいです。
白浜町の海岸に連なる断崖絶壁の名称三段壁は高さ50m長さ2kmに渡ります。
ここは観光とであると同時に人生を終わらせようとする場所でもあります。
藤藪さんはこの地で自殺を考える人たちの声を聴き支援をする活動をしています。
断崖近くにある公衆電話の横には「いのちの電話」の看板、相談の電話番号を記しています。
これまでに900人以上保護してきました。
自殺を思いとどまったものの帰る場所がない人には住む場所を提供し、生きる力を取り戻していけるよう支援しています。
自殺を考える人たちにどう寄り添い、どう信頼関係を築いていくのか、その背景にある信仰とともにお話を伺います。
これまでに900人以上保護してきましたが、基本的には助けてというのが難しくなっていて、いろんな方とはかかわってきたけれど、お世話になる訳にはいかないとか、迷惑をかけるわけにはいかないとか、辛くてしょうがない所から兎に角逃れたい、そんな感じのことをみんな話します。
電話ボックスのそばに「重大な決意をする前にここに連絡ください」という看板。
生きるのか死ぬのか葛藤しながら決心がつかなくて、振り返ったら看板があったとか、ちょっと場所を移動している最中に看板を見たとかという形で家に繋がってきます。
「すみません」「助けてほしい」とかそんな感じでおっしゃいます。
「迎えに行きます」、と話を聞かないで行っています。
兎に角早く会った方がいいと考えます。
大事にしているのは、とにかく最後まで話を聞く、という事です。
その人に興味を持つようにひたすら頑張ります。
その人の考えている事、やってきたことなど全体像が判ってくるとなおさら細かいことを知りたくなって、という感じで聞いていきます。
放浪してきていると不潔になっているので、早い段階でお風呂に入ってもらいます。
きれいさっぱりしてもらった方がほっとしたといって話しやすいし受け止めやすいです。
最期には目標を作っていきたいので、次にはこういう風にしてみようかという風に持ってきたいです。
落ち着いてきて気持ちの整理がついてきたら、家族に連絡しようとか、捜索願が出ているかもしれないので警察に連絡しようとか、窓口は僕がするので自分はいなくてもいい、ここには警察は来ることもないから大丈夫といいます。
連絡を嫌がる人もいるので一晩泊って朝会おうという風に言います。
僕も信頼してゆき、その人もちょっとずつ僕のいう事も判ってくれる。
小さな約束を繰り返してゆく事でお互いに距離がちょっとずつ縮まります。
神様は私たちに一方的に約束をくださって、その約束に神様は生きてくださる。
神様は自分で決めた約束を自分で守られて本当の正しいというのはこういう事だとか、これが義というものだとかを教えられる。
神様が決めたことを結局神様が自分で犠牲を払って実現するというのが、イエスキリストの十字架の話で、旧約聖書のなかで約束が大事なウエートを占めている。
僕がみんなと約束を交わしてゆく中で、僕がその約束を守るか守らないかはとてもみんなにとっては重要で、僕の信頼が崩れることもあれば、本当に強固になることもあって、
約束は重要なものにしています。
約束を積み重ねてゆくという事は、相手をどれだけ愛するのか、信じるのか、相手の人格を認めるのか、そういうところが影響してくる。
キリスト教に出会ったのは小学校一年生の時に近所の友達に誘われ日曜日の教会学校に通い始めたのがきっかけでした。
人のために貢献する大切さを学び始めた12歳の頃、ペテロの言葉に出会いました。
ペテロが物乞いに対して言った言葉です。
「私をみなさい、金銀は私にはない。 しかし私にあるものをあげよう。
ナザレのイエスキリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」
物乞いは足が不自由で歩けないが、立たせて歩かせてしまうという奇跡の物語です。
僕がその人と一緒に神様を見上げることはできるので、させてもらえるんじゃないかなあと思いました。
東京基督教大学に進み、牧師になることを目指しました。
卒業後、故郷白浜教会の牧師江見太郎さんから自分の後を任せたいと依頼されました。
江見太郎さんは「いのちの電話」を始めた人でした。
若かった(26歳)からかもしれませんが、周りからは「いのちの電話」を引き継ぐことには反対がありました。
僕はやらなければいけないことだとは僕の中にはありましたので、辞めるという選択はありませんでしたと江見さんに言いました。
4月1日に引き継いで4月2日に電話がかかってきました。
26歳の女性でべろべろに酔っぱらっていて、死ぬのが怖くてお酒を飲んだ勢いで飛び込もうというそういう事だったようです。
次の日正気に戻った彼女に連絡先を聞いたりして、母親が迎えに来ました。
次は4月5日当たりで、その人も酔っぱらっていて、飛び込もうと思ったらしいです。
僕が若かったので、相手にしない様子でしたが、正気に戻ってきたときに本当にいってもいいかと何度もいってくれて、その人が俺は帰る場所が無いんだと言い始めました。
2か月前に出てきて知りあいもないという事でした。
約束したので自分としては泊めるしかないと決めました。
関わった方で何人かは亡くなっている方がいます。
1,2年目ぐらいに20歳前半の男の子を保護して、家で休もうと連れ帰って、1か月ぐらいして元気になってきたころに仕事に行くと言い出して、僕はまだ無理だと思ったのですが、仕事に行き始めて表情も明るくなって元気になってきましたが、その後仕事を辞めたいと言いだして、自分の実家に帰ると言い出しましたが、失敗したと思ったが止める手立てがなかった。
帰ったものだと思っていたら2か月後に九州の警察から電話がかかってきました。
僕の名刺が入っていたので彼の遺体だと思いました。
僕らが最善を尽くしても死にたい気持ちが変わらない可能性もあるわけで、それでも僕らはこの活動を続けると、自分が後悔しないように最善を尽くすだけだなと思ったし、後悔しないように出来ることをその時その時一生懸命やるだけだなあと思いました。
共同生活をしている人が自立できるようにとお弁当屋の運営をするようになりました。
手作り弁当の店頭販売のほか、病院や高齢者への配達も行っています。
地域と人とを結ぶ活動が結果的に人を孤独になることから救い自殺防止につながると考えています。
町内会の会長もしています。
活動を通して人とのつながりが広がってゆく事を望んでいます。
孤独になってしまったり、一人で背負いきれなくなってみんな命を断とう考えているので、人のなかにもう一回戻ろうという事、つながりがめんどくさいと思ってる人もそのつながりが自分を助けることになるという考えで、その人たちとの関わりを持ちたいと思っています。
イエスキリストの「隣人(となりびと)」に関する話がありますが、「隣人」になるということは、必要最低限のものしか持っていない状況で、本当に必要がある人を見つけたときにその人の必要に答えてあげる、でも自分の必要なものを渡すことになる訳ですが、その人のことを気になってかかわってゆく、そこに「隣人」の本質が出てくるのではないかと僕は思っています。
自分の良心が働くかどうかだと思っていて、良心は神様が人に与えている心で、それが働けば後から信仰はついてくると僕は思います。
65歳のおじいさんで飛び込もうと思ったができなくて、野垂れ死にしようと思っていたら、通り過ぎていった女性たちの一人が自分の目の前に戻ってきて「おっちゃん馬鹿なことをしたらあかんで、死んだらあかんで」と言ったそうです。
その子は2000円出してくれて、手に握らせてくれた。
翌朝、意識がしっかりしてきたときに手に2000円があり、2000円で食事をして僕のところに電話をかけてきて、うちで9か月生活しました。
その後ホテルのナイトフロントに就職して7年間仕事をしました。
その女の子はよく勇気を出して声を掛けお金を差し出したなあと思います。
おじいさんはその後脳梗塞をして、がんも見つかり僕と出会ってから10年後に天に召されるんですが、彼は「この10年本当に生きてきてよかった」と言ってくれて僕は嬉しかったです。
そして「あの女の子のお陰やな」と言ってくれました。
本当に本人が生きようと思ったのはまさに女の子の行為、2000円であり、改めて思いなおすことになりました。
僕が伝えたいのは神様に愛されているというメッセージですから、それが僕の周りでみんながそうだなと思ってくれることが広がってくれるとい嬉しい話で、これからも続けようと思います。
関わる人と僕が分かち合いたいです。
2020年2月7日金曜日
稲本薫(自然農法実践家) ・「出会いが生んだコメの自然栽培」
稲本薫(自然農法実践家) ・「出会いが生んだコメの自然栽培」
稲本さんは熊本県八代の出身66歳。
農家の後継ぎとなり農薬と肥料を使わない自然栽培による米作りをして42年になります。
稲本さんが自然栽培による米作りを始めるきっかけとなったのは、「複合汚染」や「沈黙の春」など 農薬による環境汚染が社会問題となり、農薬に頼る農業でいいのかと疑問がわいたことでした。
10アールの広さで始めた米作りも今や100倍近くに規模を拡大し、酒米作りにも取り組んでいます。
生産された酒米は国内や海外のお酒のコンクールで金賞を取るほど、酒米としても認められる存在になりました。
米作りは昔から88の手間がかかると言われ大変な苦労を伴います。
その一つが田の草取りです。
除草剤を使わず人手を使わずに田の草取りをするにはどうすればいいのか、稲本さんは自然農法の先人や農業研究者たちに教えを請い、水田を観察し、米作りに取り組んできました。
人との出会いによって生み出された人生哲学が、人に聞き、勉強し、自分で考えるという事でした。
八代は殆ど水田地帯で海から10kmぐらいあります。
田植え前後は大雨が降り、冠水したこともありました。
8月ぐらいにはほとんど雨が降らないで、異常気象がますますひどくなって読めなくなって来ています。
イグサの産地でもありますが、いつ終わってもおかしくならないぐらい減っています。
20歳の時に米、イグサ、ミカンなど複合経営の農業を受け継ぎました。
化学肥料、農薬、除草剤を使わない。
化学肥料は1890年代にドイツに生まれて、日本の農家で一般的に使われ始めたのは昭和20年代になってからだと思います。
はじめたころに有吉佐和子さんの「複合汚染」がベストセラーになり読んでちょっとと思いました。
八代高校を卒業して果樹園芸、専修学校(熊本県立農大の前身)で2年間ミカンの作りの勉強をした時に、山本茂先生という果樹の病理学の先生がいて、玄米を包んでいる皮が糠、玄米を精米して糠を取った白い米は何と読むかと、脱線授業をしました。
粕であるという読み方です。
一番自分の身に付いた授業でした。
そして24歳からこの道に入りました。
教えてもらえる環境ではなかったので、自分のところの一番狭い田んぼ10アールから始めました。
1年後に結婚して妻も草取りもしてくれました。
病院の中に自然農法で作った野菜類をおいた店が病院の中にありました。
その先生は市の医師会、栄養士会、有機農業者、健康指導師会4つの団体を纏めて健康フェアを始めて、人の健康の基には食べ物があるという事、食する食べ物を食べる事という事は命を頂いているという事と言われて凄く感銘しました。
福岡正信さんの書かれた「自然農法わら一本の革命」という本があり読んでびっくりしました。
米麦連続不耕起直播は、稲を刈る前にクローバーの種を蒔き、裸麦の種の粘土団子を蒔き、稲を刈ったら稲わらを振りまく。麦を刈る前に稲籾の粘土団子を蒔き、麦を刈ったら麦わらを振りまくという栽培技術です。
直播をするがねずみ、雀などに食べられないように工夫して種の周りを土団子で囲む訳です。
先生のところに行って話を伺いました。
まずは自分で勉強しなさいと言われました。
やってみて考える実践論でした、自分の自然農法栽培にも一番生きていると思います。
教科書は自然相手で毎年気象も変わります。
失敗もするがしっかり考察すると言う事が自分の教科書にもなって行きます。
片野学さんとの出会いは我が人生一番の出会いだったと思います。
東北から東海大学農学部に赴任されて30年間お付き合いさせていただきました。
稲の根の研究者でした。
根は見えないが根を見れば地上が見えてくるということです。
根が大事で、肥料をやらなければ根がしっかり育つようになるんです。
ナチスドイツが行ったのが戦争に向けての食糧増産、少ない面積でいかに増収をするかという事に目を向けました。
ドイツのリービッヒという人が1837年に土壌分析学を始めました。
空気中に窒素があることが判り固定する技術ができて、日本にも入ってきて水俣に窒素工場ができました。
化学肥料をたっぷりある稲の根っこは簡単に伸びてゆくが、根っこは伸びていかない。
自然農法の稲作りをしている先人たちが東北には沢山いました。
昭和50年は冷害が一番ひどかったが、岩手大学が自然農法の田んぼを見に行ったが、周りの田んぼは収穫皆無だったが、自然農法の田んぼは殆ど平年作だった。
それを見た先生は唖然としたそうです。
自然農法の田んぼの土は周りの慣行農法の土に比べて2度前後地温が高かった。
長年の化学肥料が蓄積していて、肥料分が蓄積している肥毒層が地温を妨げている。
自然農法ではそれがだんだん取れてくる、根っこの力がある。
異常気象に一番強いのが自然農法です。
「ひごひかり」と「あきたこまち」を4年前に自分で改良して「稲本1号」という品種を作っています。
塩害でも実りました。
食べてもらったら高評価でし
た。
除草には苦労しました。
一町歩ぐらいの田んぼ時代に一か所が草が無かった。
田んぼの中にはタニシが一杯いました。
知りあいの自然農法の田んぼも同様なところがあり、やっぱりタニシが草を食べているという事が判りました。
ジャンボタニシは水があるところでしか動けないことが判りました。。
水の深さを管理してやれば稲を食べられずに草だけ食べさせることができるようになりました。
ジャンボタニシが増えすぎる問題が出てきて、5cmぐらいに浅く起こしてやればジャンボタニシ潜れないのでカラスが食べに来て減らすことができました。
ウンカという害虫が偏西風に乗って中国大陸から来ます。
慣行栽培の稲と無肥料無農薬の田んぼでははっきりとした差が出ました。
慣行栽培の稲は根がしっかりしていないから、作物が不健康なんです。
弱ってる作物にウンカが来る。
言い換えれば、肥料を使っている稲を枯らしているウンカは、肥料で出来ているものを人間に食べさせないために存在しているんだなという事に気付きました。
無農薬でも虫も食っていないのが本物だという事が見えてきました。
宇宙の論理だという事に気が付きました。
こういう農業を実践してゆけば地球環境回復に直ぐにつながってゆくと思います。
立花隆の「宇宙からの帰還」という本との出会いがあり感動しました。
彼は12名の宇宙飛行士を取材して回りました。
宇宙から見た地球は国境がないんです。
地球は凄く綺麗だが、いがみ合って戦争している、化学物質を垂れ流して公害を生んでいる。
上海が5年で空気が濁ってしまった。
地球に帰って来た彼らは環境活動とか活動家になっている。
国が種子法を作って種の権利を守る法律です。
最悪のシナリオは相手の国に種をやらない、兵糧攻めするという可能性もあるのかもしれない。
地球環境回復というでかいことを考えてやらないと、実は続かないんだという考え方に到達しました。
母からは「常に強い思いを持ち続ける」という事を言われてきました。
稲本さんは熊本県八代の出身66歳。
農家の後継ぎとなり農薬と肥料を使わない自然栽培による米作りをして42年になります。
稲本さんが自然栽培による米作りを始めるきっかけとなったのは、「複合汚染」や「沈黙の春」など 農薬による環境汚染が社会問題となり、農薬に頼る農業でいいのかと疑問がわいたことでした。
10アールの広さで始めた米作りも今や100倍近くに規模を拡大し、酒米作りにも取り組んでいます。
生産された酒米は国内や海外のお酒のコンクールで金賞を取るほど、酒米としても認められる存在になりました。
米作りは昔から88の手間がかかると言われ大変な苦労を伴います。
その一つが田の草取りです。
除草剤を使わず人手を使わずに田の草取りをするにはどうすればいいのか、稲本さんは自然農法の先人や農業研究者たちに教えを請い、水田を観察し、米作りに取り組んできました。
人との出会いによって生み出された人生哲学が、人に聞き、勉強し、自分で考えるという事でした。
八代は殆ど水田地帯で海から10kmぐらいあります。
田植え前後は大雨が降り、冠水したこともありました。
8月ぐらいにはほとんど雨が降らないで、異常気象がますますひどくなって読めなくなって来ています。
イグサの産地でもありますが、いつ終わってもおかしくならないぐらい減っています。
20歳の時に米、イグサ、ミカンなど複合経営の農業を受け継ぎました。
化学肥料、農薬、除草剤を使わない。
化学肥料は1890年代にドイツに生まれて、日本の農家で一般的に使われ始めたのは昭和20年代になってからだと思います。
はじめたころに有吉佐和子さんの「複合汚染」がベストセラーになり読んでちょっとと思いました。
八代高校を卒業して果樹園芸、専修学校(熊本県立農大の前身)で2年間ミカンの作りの勉強をした時に、山本茂先生という果樹の病理学の先生がいて、玄米を包んでいる皮が糠、玄米を精米して糠を取った白い米は何と読むかと、脱線授業をしました。
粕であるという読み方です。
一番自分の身に付いた授業でした。
そして24歳からこの道に入りました。
教えてもらえる環境ではなかったので、自分のところの一番狭い田んぼ10アールから始めました。
1年後に結婚して妻も草取りもしてくれました。
病院の中に自然農法で作った野菜類をおいた店が病院の中にありました。
その先生は市の医師会、栄養士会、有機農業者、健康指導師会4つの団体を纏めて健康フェアを始めて、人の健康の基には食べ物があるという事、食する食べ物を食べる事という事は命を頂いているという事と言われて凄く感銘しました。
福岡正信さんの書かれた「自然農法わら一本の革命」という本があり読んでびっくりしました。
米麦連続不耕起直播は、稲を刈る前にクローバーの種を蒔き、裸麦の種の粘土団子を蒔き、稲を刈ったら稲わらを振りまく。麦を刈る前に稲籾の粘土団子を蒔き、麦を刈ったら麦わらを振りまくという栽培技術です。
直播をするがねずみ、雀などに食べられないように工夫して種の周りを土団子で囲む訳です。
先生のところに行って話を伺いました。
まずは自分で勉強しなさいと言われました。
やってみて考える実践論でした、自分の自然農法栽培にも一番生きていると思います。
教科書は自然相手で毎年気象も変わります。
失敗もするがしっかり考察すると言う事が自分の教科書にもなって行きます。
片野学さんとの出会いは我が人生一番の出会いだったと思います。
東北から東海大学農学部に赴任されて30年間お付き合いさせていただきました。
稲の根の研究者でした。
根は見えないが根を見れば地上が見えてくるということです。
根が大事で、肥料をやらなければ根がしっかり育つようになるんです。
ナチスドイツが行ったのが戦争に向けての食糧増産、少ない面積でいかに増収をするかという事に目を向けました。
ドイツのリービッヒという人が1837年に土壌分析学を始めました。
空気中に窒素があることが判り固定する技術ができて、日本にも入ってきて水俣に窒素工場ができました。
化学肥料をたっぷりある稲の根っこは簡単に伸びてゆくが、根っこは伸びていかない。
自然農法の稲作りをしている先人たちが東北には沢山いました。
昭和50年は冷害が一番ひどかったが、岩手大学が自然農法の田んぼを見に行ったが、周りの田んぼは収穫皆無だったが、自然農法の田んぼは殆ど平年作だった。
それを見た先生は唖然としたそうです。
自然農法の田んぼの土は周りの慣行農法の土に比べて2度前後地温が高かった。
長年の化学肥料が蓄積していて、肥料分が蓄積している肥毒層が地温を妨げている。
自然農法ではそれがだんだん取れてくる、根っこの力がある。
異常気象に一番強いのが自然農法です。
「ひごひかり」と「あきたこまち」を4年前に自分で改良して「稲本1号」という品種を作っています。
塩害でも実りました。
食べてもらったら高評価でし
た。
除草には苦労しました。
一町歩ぐらいの田んぼ時代に一か所が草が無かった。
田んぼの中にはタニシが一杯いました。
知りあいの自然農法の田んぼも同様なところがあり、やっぱりタニシが草を食べているという事が判りました。
ジャンボタニシは水があるところでしか動けないことが判りました。。
水の深さを管理してやれば稲を食べられずに草だけ食べさせることができるようになりました。
ジャンボタニシが増えすぎる問題が出てきて、5cmぐらいに浅く起こしてやればジャンボタニシ潜れないのでカラスが食べに来て減らすことができました。
ウンカという害虫が偏西風に乗って中国大陸から来ます。
慣行栽培の稲と無肥料無農薬の田んぼでははっきりとした差が出ました。
慣行栽培の稲は根がしっかりしていないから、作物が不健康なんです。
弱ってる作物にウンカが来る。
言い換えれば、肥料を使っている稲を枯らしているウンカは、肥料で出来ているものを人間に食べさせないために存在しているんだなという事に気付きました。
無農薬でも虫も食っていないのが本物だという事が見えてきました。
宇宙の論理だという事に気が付きました。
こういう農業を実践してゆけば地球環境回復に直ぐにつながってゆくと思います。
立花隆の「宇宙からの帰還」という本との出会いがあり感動しました。
彼は12名の宇宙飛行士を取材して回りました。
宇宙から見た地球は国境がないんです。
地球は凄く綺麗だが、いがみ合って戦争している、化学物質を垂れ流して公害を生んでいる。
上海が5年で空気が濁ってしまった。
地球に帰って来た彼らは環境活動とか活動家になっている。
国が種子法を作って種の権利を守る法律です。
最悪のシナリオは相手の国に種をやらない、兵糧攻めするという可能性もあるのかもしれない。
地球環境回復というでかいことを考えてやらないと、実は続かないんだという考え方に到達しました。
母からは「常に強い思いを持ち続ける」という事を言われてきました。
2020年2月6日木曜日
諏訪内晶子(バイオリニスト) ・「デビュー30年目の恩返し」
諏訪内晶子(バイオリニスト) ・「デビュー30年目の恩返し」
デビュー30周年を迎えた諏訪内さんに伺います。
時間的に30年というとアッと言う間というところがあります。
最初の10年間は特にアッという間でした。
デビューのきっかけは、1990年 - チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門で全出場者最年少第1位という事でした。
去年は審査員をして評価の仕方はいい才能、いい人を見つける時に絶対的に良さ、いい人はそのまま残されるんだなあと思いました。
中間層が非常に厚いです、評価がそこが難しいです。
私としては30年が経過して、何が本質的なクラシックの演奏の仕方なのかというのが、かなり変わったと思いました。
私の先生が強いロシヤ楽派の様式を受け継いで教えてくださったのでそれが私は強いので ロシヤも変わってきたと思いました。
音に質が随分変わったと思います、柔軟になってきたと思います。
ロシアは国を挙げて競争させていた人たちは、ちょっとそういう感じなくなってきました。
1989年 - エリザベート王妃国際音楽コンクールヴァイオリン部門で第2位に入賞していたので、高校3年生という事であまり振り返りもせず、前しか向いていませんでした。
留学したことがなかったので海外で演奏することが楽しかったのと、エリザベート王妃国際音楽コンクールで出会ったロシアの3人の人に刺激されモスクワ音楽院に留学したいという思いがありました。
日本人なので留学はできませんでしたので、ロシアに行きたいという思いで、チャイコフスキー国際コンクールに行く時には勝とうという意識は取り除いて、自分の弱い所を補なって行くような準備に力を入れました。
ロシアに行けたらいいなあという思いだけでした。
プレッシャーがなくて幸運でした。
何にも期待ぜずに待っていましたら、一番に呼ばれました。
全審査員の一致による優勝という事でしたが、それがどういう意味を持つのかということ自体が判らなかったです。
江藤先生からは最初チャイコフスキーのスタイルとは全然違うと言われました。
先生からはみっちり習いました。
チャイコフスキーのスタイルは気品のある音楽だと先生からは言われました。
個人的にどういう演奏家でありたいのかというところを自分で消化する機会がなかったので、コンクールを終えてからそういう立場になって行きました。
ですから逆に大変でした。
コンクール以降生活が一変して注目されていた感じはありました。
不自然な感じでした。
19歳で文化庁芸術家在外派遣研修生としてジュリアード音楽院に留学しました。
校長先生から音楽だけでなく総合的な力を身に付けてほしいと言われ、3年後大学に編入して机に向かいました。
大変でしたが、大学時代は一生懸命勉強しました。
色んな観点から音楽を理解するという意味では、それまでのただ弾くというところから全然違ってよかったです。
個人的な活動なので、ストレスもかかり、それを支えるという意味では学術的な部分があったのはよかったですが、精神的な強さも演奏活動には必要な職業です。
プレッシャーというものは何か負い目があるから感じるんだと思います。
若い時の良さはもろさ、はかなさであったり観点が違って、経験を積んで行った人とは違う良さがあると思います。
同年代でも体調を崩す人が多かったですし、事故、病気に巻き込まれる人も多かったです。
精神的に物凄くプレッシャーがあり、その中で活動してゆく時にバランスを崩してしまうと難しかったりします。
一つの演奏会をこなして次につなげるという作業がほとんどなので一つ一つのことをこなしてゆくという事なのかもしれません。
舞台に立つ怖さは今でもあって、その感覚を変えたりするとその感覚を取り戻すのに非常に時間とエネルギーを使います。
舞台が終わると本当にくたくたになるし、舞台での感覚を下げずに保ち続けるというのはあんまり間隔があいてしまうとそれが難しくなります。
2012年からは「国際音楽祭NIPPON」の芸術監督を務める。
20代後半の頃、ソリストはオーケストラから依頼を受け、識者から選ばれて演奏ができるが、いつも受け身の状態で、そういう活動をずーっと続けていくのかなあとむなしさを感じて、只演奏するだけではなくて、私に何かできることはないかなあと思いました。
40歳になったときに行動に移さないとまずいと思って、機会に恵まれて、日本に何か恩返しがしたいと思って、総合的な形で始めました。
第六回を迎えました。
もう少し踏み入った形でほかのアーティストの人との交流ができるようになったのは非常にありがたいです。
2020年はベートーヴェン生誕250周年に当たるので、ベートーヴェンのマラソンコンサートを一日入れています。
朝から夜まで演奏します。
ピアニストとはベートーヴェンのソナタを3曲演奏します。
コンチェルトもチャイコフスキーのコンチェルトを弾きますが、ジャナンドレア・ノセダさんという指揮者ですが、情熱的で緻密で素晴らしい指揮者なのでぜひ聞いてほしいと思います。
釜石の慰問コンサートもあり盛りだくさんです。
音楽の持っている力というのは伝えるべきところには伝えていきたい、届けられるところには届けていきたいと思っています。
デビュー30周年を迎えた諏訪内さんに伺います。
時間的に30年というとアッと言う間というところがあります。
最初の10年間は特にアッという間でした。
デビューのきっかけは、1990年 - チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門で全出場者最年少第1位という事でした。
去年は審査員をして評価の仕方はいい才能、いい人を見つける時に絶対的に良さ、いい人はそのまま残されるんだなあと思いました。
中間層が非常に厚いです、評価がそこが難しいです。
私としては30年が経過して、何が本質的なクラシックの演奏の仕方なのかというのが、かなり変わったと思いました。
私の先生が強いロシヤ楽派の様式を受け継いで教えてくださったのでそれが私は強いので ロシヤも変わってきたと思いました。
音に質が随分変わったと思います、柔軟になってきたと思います。
ロシアは国を挙げて競争させていた人たちは、ちょっとそういう感じなくなってきました。
1989年 - エリザベート王妃国際音楽コンクールヴァイオリン部門で第2位に入賞していたので、高校3年生という事であまり振り返りもせず、前しか向いていませんでした。
留学したことがなかったので海外で演奏することが楽しかったのと、エリザベート王妃国際音楽コンクールで出会ったロシアの3人の人に刺激されモスクワ音楽院に留学したいという思いがありました。
日本人なので留学はできませんでしたので、ロシアに行きたいという思いで、チャイコフスキー国際コンクールに行く時には勝とうという意識は取り除いて、自分の弱い所を補なって行くような準備に力を入れました。
ロシアに行けたらいいなあという思いだけでした。
プレッシャーがなくて幸運でした。
何にも期待ぜずに待っていましたら、一番に呼ばれました。
全審査員の一致による優勝という事でしたが、それがどういう意味を持つのかということ自体が判らなかったです。
江藤先生からは最初チャイコフスキーのスタイルとは全然違うと言われました。
先生からはみっちり習いました。
チャイコフスキーのスタイルは気品のある音楽だと先生からは言われました。
個人的にどういう演奏家でありたいのかというところを自分で消化する機会がなかったので、コンクールを終えてからそういう立場になって行きました。
ですから逆に大変でした。
コンクール以降生活が一変して注目されていた感じはありました。
不自然な感じでした。
19歳で文化庁芸術家在外派遣研修生としてジュリアード音楽院に留学しました。
校長先生から音楽だけでなく総合的な力を身に付けてほしいと言われ、3年後大学に編入して机に向かいました。
大変でしたが、大学時代は一生懸命勉強しました。
色んな観点から音楽を理解するという意味では、それまでのただ弾くというところから全然違ってよかったです。
個人的な活動なので、ストレスもかかり、それを支えるという意味では学術的な部分があったのはよかったですが、精神的な強さも演奏活動には必要な職業です。
プレッシャーというものは何か負い目があるから感じるんだと思います。
若い時の良さはもろさ、はかなさであったり観点が違って、経験を積んで行った人とは違う良さがあると思います。
同年代でも体調を崩す人が多かったですし、事故、病気に巻き込まれる人も多かったです。
精神的に物凄くプレッシャーがあり、その中で活動してゆく時にバランスを崩してしまうと難しかったりします。
一つの演奏会をこなして次につなげるという作業がほとんどなので一つ一つのことをこなしてゆくという事なのかもしれません。
舞台に立つ怖さは今でもあって、その感覚を変えたりするとその感覚を取り戻すのに非常に時間とエネルギーを使います。
舞台が終わると本当にくたくたになるし、舞台での感覚を下げずに保ち続けるというのはあんまり間隔があいてしまうとそれが難しくなります。
2012年からは「国際音楽祭NIPPON」の芸術監督を務める。
20代後半の頃、ソリストはオーケストラから依頼を受け、識者から選ばれて演奏ができるが、いつも受け身の状態で、そういう活動をずーっと続けていくのかなあとむなしさを感じて、只演奏するだけではなくて、私に何かできることはないかなあと思いました。
40歳になったときに行動に移さないとまずいと思って、機会に恵まれて、日本に何か恩返しがしたいと思って、総合的な形で始めました。
第六回を迎えました。
もう少し踏み入った形でほかのアーティストの人との交流ができるようになったのは非常にありがたいです。
2020年はベートーヴェン生誕250周年に当たるので、ベートーヴェンのマラソンコンサートを一日入れています。
朝から夜まで演奏します。
ピアニストとはベートーヴェンのソナタを3曲演奏します。
コンチェルトもチャイコフスキーのコンチェルトを弾きますが、ジャナンドレア・ノセダさんという指揮者ですが、情熱的で緻密で素晴らしい指揮者なのでぜひ聞いてほしいと思います。
釜石の慰問コンサートもあり盛りだくさんです。
音楽の持っている力というのは伝えるべきところには伝えていきたい、届けられるところには届けていきたいと思っています。
2020年2月5日水曜日
山口健太(「会食恐怖症」元当事者) ・「一緒に」食べられない僕はダメですか?(初回2019・12・12)
山口健太(「会食恐怖症」元当事者) ・「一緒に」食べられない僕はダメですか?(初回2019・12・12)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.htmlをご覧ください。
2020年2月4日火曜日
北嶋由紀(国立アイヌ民族博物館学芸員) ・「自身のルーツ アイヌを誇りに変えて」
北嶋由紀(国立アイヌ民族博物館学芸員) ・「自身のルーツ アイヌを誇りに変えて」
今年4月北海道の白老町にアイヌ文化の発信拠点となる施設がオープンします。
名前は「ウポポイ」、アイヌ語で「大勢で歌う」という意味です。
多くの人がアイヌ文化を学ぶ拠点となり、差別のない多様な文化を持つ社会を築く象徴にしたいという願いが込められています。
そのウポポイには国立のアイヌ民族は民族博物館が設立されます。
学芸員としてアイヌ民族博物館の設立準備を進めている一人が北嶋由紀さん(46歳)です。
北嶋さんはアイヌにルーツを持つ一人です。
しかし自身がアイヌだと知らされずに育ち、知った後も周囲には明かせなかったと言います。
アイヌへの差別があったからです。
北嶋さんはあるきっかけで37歳の時、アイヌ文化を学ぶため大学へ入学し学芸員として文化を広めるまでになりました。
北嶋さんが直面してきたアイヌへの差別、そして差別は人生にどう影響したのか、差別、偏見のない社会にするために必要なことは何なのか、北嶋さんの思いを聞きました。
現在、基本提示の解説文をつくったり、展示資料を集めたり、企画展の準備をしています。
アイヌ民族の展示をするために資料を借りに行くんですが、アイヌの人のところに行って沢山の話を聞けたり、勉強することが沢山出来て、楽しいというかここに入れてよかったなあと思います。
みんなで一緒にいろんなことをしていける場所、いろんなことを学べる場所になってほしいと思っています。
初めて自分がアイヌだとわかったのは、TVでアイヌという言葉が出てきて、アイヌが判らなくていとこに聞いたら自分たちのことだと言われて、それでもわからなくておばあちゃんが説明してくれて、これはあまり人に言わない方がいいと言われたのを覚えています。
母は出来るだけアイヌから遠ざけようとしてくれていたのかなあと思います。
子どもの頃、私はあなたの秘密を知っているといわれて、あなたはアイヌでしょう、と言われました。
アイヌは秘密にしなければいけないものなんだと思い、それがトラウマになりはじめました。
働いていた時にも、自分がアイヌだとは見えないらしくて、アイヌってみたらすぐわかるとか、汚いとか、近づいてほしくないみたいな話を普通にしていました。
おばあちゃんの妹さん(鷲谷サトさん)がアイヌ文化の活動をしている人で、差別についての本とかが結構あるんです。
その本を読んだ時に、釧路の人が「犬殺したってアイヌ殺したっていいんだべ」という話をしたらしくて、鷲谷サトさんは凄く悲しんで泣きながら帰ってきたことが、初めの頃に書いてあって、読んだ瞬間に涙がボロボロ出てきてしまいました。
孫にはそういった思いはさせたくないという事で隠せという事は悪いことではないと感じました。
自分がアイヌということで嫌な思いをしているとか、親とかおばあちゃんには話すまいと思いました。
こんなことを親に言うと怒られるが、自分が嫌いで嫌いでたまらなかった。
誇りなんて何にもなく、何を根拠に誇りを持てばいいかわからない。
好きになる突破口が無かった。
アイヌであることがばれないか、負担でしかたない、ストレスでしかなかった。
言葉に対する敏感さが凄くありました。
「アイス」の看板がいつ「アイヌ」の話になってしまうのではないかとか。
アイヌ文化を学ぼうとしたきっかけは、旅行をしていて旭川でアイヌの着物が沢山あり凄く迫力がある模様で綺麗でびっくりしました。
作ってみたいと思っていたら、新聞で札幌大学で「ウレㇱパクラブ」プロジェクトが始まると言うニュースを目にしました。
(*「ウレㇱパクラブ」:札幌大学にアイヌの若者たちを毎年一定数受け入れ、未来のアイヌ文化の担い手として大切に育てるとともに、多文化共生コミュニティーのモデルを作り出そうとするユニークな試みです。)
応募したら受かって勉強をすることができました。(37歳で入学)
母は「一番喜んでくれるのはおじいちゃんとおばあちゃんだからね」と言ってくれました。
知識が増えて行くのが嬉しくて、しかも自分のルーツに対しての教えてもらっていることだと思うと楽しくて、自分が誇りを持てるようにもなってくるんです。
凄く楽しい4年間でした。
各地の保存会に合宿で行って、歌、踊り、歴史を教えてもらったり、人との交流をして文化を学んできました。
ここは素晴らしい場所だと思って学びの多い合宿でした。
ここでは私がアイヌだという事を受け入れてくれましたし、好きで好きでたまらなかった。
知識を身に付けてアイヌというものが差別されていい存在なわけはないという事を自分の中で確立させて、自分にとって大切にしたい文化なんだという事を語れれば、知るという事が大切なんだと思います。
差別されない環境が大切ですが、差別されないという事が判らなければいけないので、それは無理ですよね。
差別はそんなに簡単には無くならないと思います。
差別される側が頑張ってもしょうがなくて、差別する側が変わらないとどうにもならないのかなあと思います。
アイヌ民族、和人、琉球の人たち、外国の人たちがいて、それぞれの文化を大切にして普通に暮らせればいいと思います。
ほかの文化とコラボレーションするのも楽しいと思います。
今年4月北海道の白老町にアイヌ文化の発信拠点となる施設がオープンします。
名前は「ウポポイ」、アイヌ語で「大勢で歌う」という意味です。
多くの人がアイヌ文化を学ぶ拠点となり、差別のない多様な文化を持つ社会を築く象徴にしたいという願いが込められています。
そのウポポイには国立のアイヌ民族は民族博物館が設立されます。
学芸員としてアイヌ民族博物館の設立準備を進めている一人が北嶋由紀さん(46歳)です。
北嶋さんはアイヌにルーツを持つ一人です。
しかし自身がアイヌだと知らされずに育ち、知った後も周囲には明かせなかったと言います。
アイヌへの差別があったからです。
北嶋さんはあるきっかけで37歳の時、アイヌ文化を学ぶため大学へ入学し学芸員として文化を広めるまでになりました。
北嶋さんが直面してきたアイヌへの差別、そして差別は人生にどう影響したのか、差別、偏見のない社会にするために必要なことは何なのか、北嶋さんの思いを聞きました。
現在、基本提示の解説文をつくったり、展示資料を集めたり、企画展の準備をしています。
アイヌ民族の展示をするために資料を借りに行くんですが、アイヌの人のところに行って沢山の話を聞けたり、勉強することが沢山出来て、楽しいというかここに入れてよかったなあと思います。
みんなで一緒にいろんなことをしていける場所、いろんなことを学べる場所になってほしいと思っています。
初めて自分がアイヌだとわかったのは、TVでアイヌという言葉が出てきて、アイヌが判らなくていとこに聞いたら自分たちのことだと言われて、それでもわからなくておばあちゃんが説明してくれて、これはあまり人に言わない方がいいと言われたのを覚えています。
母は出来るだけアイヌから遠ざけようとしてくれていたのかなあと思います。
子どもの頃、私はあなたの秘密を知っているといわれて、あなたはアイヌでしょう、と言われました。
アイヌは秘密にしなければいけないものなんだと思い、それがトラウマになりはじめました。
働いていた時にも、自分がアイヌだとは見えないらしくて、アイヌってみたらすぐわかるとか、汚いとか、近づいてほしくないみたいな話を普通にしていました。
おばあちゃんの妹さん(鷲谷サトさん)がアイヌ文化の活動をしている人で、差別についての本とかが結構あるんです。
その本を読んだ時に、釧路の人が「犬殺したってアイヌ殺したっていいんだべ」という話をしたらしくて、鷲谷サトさんは凄く悲しんで泣きながら帰ってきたことが、初めの頃に書いてあって、読んだ瞬間に涙がボロボロ出てきてしまいました。
孫にはそういった思いはさせたくないという事で隠せという事は悪いことではないと感じました。
自分がアイヌということで嫌な思いをしているとか、親とかおばあちゃんには話すまいと思いました。
こんなことを親に言うと怒られるが、自分が嫌いで嫌いでたまらなかった。
誇りなんて何にもなく、何を根拠に誇りを持てばいいかわからない。
好きになる突破口が無かった。
アイヌであることがばれないか、負担でしかたない、ストレスでしかなかった。
言葉に対する敏感さが凄くありました。
「アイス」の看板がいつ「アイヌ」の話になってしまうのではないかとか。
アイヌ文化を学ぼうとしたきっかけは、旅行をしていて旭川でアイヌの着物が沢山あり凄く迫力がある模様で綺麗でびっくりしました。
作ってみたいと思っていたら、新聞で札幌大学で「ウレㇱパクラブ」プロジェクトが始まると言うニュースを目にしました。
(*「ウレㇱパクラブ」:札幌大学にアイヌの若者たちを毎年一定数受け入れ、未来のアイヌ文化の担い手として大切に育てるとともに、多文化共生コミュニティーのモデルを作り出そうとするユニークな試みです。)
応募したら受かって勉強をすることができました。(37歳で入学)
母は「一番喜んでくれるのはおじいちゃんとおばあちゃんだからね」と言ってくれました。
知識が増えて行くのが嬉しくて、しかも自分のルーツに対しての教えてもらっていることだと思うと楽しくて、自分が誇りを持てるようにもなってくるんです。
凄く楽しい4年間でした。
各地の保存会に合宿で行って、歌、踊り、歴史を教えてもらったり、人との交流をして文化を学んできました。
ここは素晴らしい場所だと思って学びの多い合宿でした。
ここでは私がアイヌだという事を受け入れてくれましたし、好きで好きでたまらなかった。
知識を身に付けてアイヌというものが差別されていい存在なわけはないという事を自分の中で確立させて、自分にとって大切にしたい文化なんだという事を語れれば、知るという事が大切なんだと思います。
差別されない環境が大切ですが、差別されないという事が判らなければいけないので、それは無理ですよね。
差別はそんなに簡単には無くならないと思います。
差別される側が頑張ってもしょうがなくて、差別する側が変わらないとどうにもならないのかなあと思います。
アイヌ民族、和人、琉球の人たち、外国の人たちがいて、それぞれの文化を大切にして普通に暮らせればいいと思います。
ほかの文化とコラボレーションするのも楽しいと思います。
2020年2月3日月曜日
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】(初回:2019.12.2)
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】(初回:2019.12.2)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_2.htmlを御覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_2.htmlを御覧ください。
2020年2月2日日曜日
野田圭一(声優・ナレーター) ・【時代を創った声】
野田圭一(声優・ナレーター) ・【時代を創った声】
野田さんはアニメの主役をはじめ多くの映画やドラマの吹き替えを担当しながらナレーターとしても活躍されてきました。
伝えるという点では声優もナレーターも同じであるという考え方の元、現在も様々な仕事に取り組んでいる野田さんに伺いました。
私はアニメ「グレートマジンガー」ーの主人公の剣鉄也、「バベル二世」で変身能力を持つ黒豹のロデムなどを演じた野田圭一です。
山口県出身で小さいころ人見知りで恥ずかしがり屋でした。
兄たちが出て来いという事で中学生の時に上京することになりました。
5人兄弟の末っ子で長男とは23歳ぐらい違いました。
高校2年生で就職のことを考えて、社交性に欠けていたので芸能界に行こうと思って、応募したら決勝まで行きました。
卒業して王手の繊維メーカーに就職しましたが、劇団に入ってしまって、時間的にきつくなり、会社を辞めて「現代喜劇」という新劇の劇団に入りました。
そのうちに声の吹き替えをやってみないかプロダクションを紹介され、アフレコに出会いました。
段々声の仕事が増えてきて、劇団が行き詰まってきていましたが、当時劇団の顧問が富永一郎先生でした。
松竹新喜劇の人たちと一緒に「チンコロねえちゃん」をやろうという事で蓋を開けてみると、とんでもないメークをしてきたりしました。
人見知りはなくなって臨機応変にやるようになりました。
お客さんの事とか意識しながら芝居をするんで、魅力を感じました。
声の仕事よりも芝居の方が魅力がありました。
当時は小さい劇団が沢山あり段々食えなくなってきました。
27歳ぐらいの時になると、声の方が向いているのではないかと考えるようになり、声の専門になろうと思いました。
プロダクションが変わって東映のアニメーションの仕事をやっている人と出会って、アニメの仕事をすこしずつやるようになり、吹き替えよりもアニメの方の仕事が多くなってきました。
外国映画の吹き替えは役者が役作りをやっていてこちらはできないが、アニメーションの場合はこちらができる訳です。
どういう人物にするか、どう画面からはみ出させるかなど、それが面白いと思って変わってきました。
「一休さん」の寺社奉行は真面目過ぎるので砕けた風にして自分なりに作って行けるという点で面白かったです。
最近の若い人は上手いんですが個性がないというか、画面からはみ出ない、おんなじに聞こえてしまう。
昔のアフレコは全員がそろってやっていましたが、最近はそうではなくなりまして、噛まないですね。
1968年「サイボーグ007」、1969年「もーれつア太郎」、1971年「アパッチ野球軍」その後「バベル二世」。
この頃夕がたに仕事が終わると居酒屋に行って反省会をするわけで、意志の疎通はできたと感じました。
当時レギュラーを3,4本やっていてコマーシャル、バラエティーがTVで始まってこれが大変でした。
ナレーション取りが夜10時から始めて朝の5時終了とか、こんなのばっかりでした。
寝る暇がないぐらいでした。
芝居の方もナレーションもあって初めて僕らの声の職業が成り立つんだと思います。
こっちだけというとひずみが来ます、だから僕は一体だと思っていて、芝居の方も大事だしナレーションの語りも大事だと思っています。
ベストな状態でやりたいと思っていますが、なかなかそうはいかないので、ちょっと体調が悪いときには歯がゆさはたまらないですね。
身体が大丈夫だったら何とかなるという思いがあります。
どんな作品であろうとも相手の身になって自分を聞いてみるという事が必要かと思います。
人間として生きていくうえでも、相似のものがあると思います。
声優学校、プロダクションの塾などがあるが、すごい数の新人が出てくるが 残ってゆく為には光るものを何か一つ持っていることが抜きんでて来ると思います。
自分の持っている特徴を最大限に出せる、そういうものを作ってゆく事が大事だと思います。
野田さんはアニメの主役をはじめ多くの映画やドラマの吹き替えを担当しながらナレーターとしても活躍されてきました。
伝えるという点では声優もナレーターも同じであるという考え方の元、現在も様々な仕事に取り組んでいる野田さんに伺いました。
私はアニメ「グレートマジンガー」ーの主人公の剣鉄也、「バベル二世」で変身能力を持つ黒豹のロデムなどを演じた野田圭一です。
山口県出身で小さいころ人見知りで恥ずかしがり屋でした。
兄たちが出て来いという事で中学生の時に上京することになりました。
5人兄弟の末っ子で長男とは23歳ぐらい違いました。
高校2年生で就職のことを考えて、社交性に欠けていたので芸能界に行こうと思って、応募したら決勝まで行きました。
卒業して王手の繊維メーカーに就職しましたが、劇団に入ってしまって、時間的にきつくなり、会社を辞めて「現代喜劇」という新劇の劇団に入りました。
そのうちに声の吹き替えをやってみないかプロダクションを紹介され、アフレコに出会いました。
段々声の仕事が増えてきて、劇団が行き詰まってきていましたが、当時劇団の顧問が富永一郎先生でした。
松竹新喜劇の人たちと一緒に「チンコロねえちゃん」をやろうという事で蓋を開けてみると、とんでもないメークをしてきたりしました。
人見知りはなくなって臨機応変にやるようになりました。
お客さんの事とか意識しながら芝居をするんで、魅力を感じました。
声の仕事よりも芝居の方が魅力がありました。
当時は小さい劇団が沢山あり段々食えなくなってきました。
27歳ぐらいの時になると、声の方が向いているのではないかと考えるようになり、声の専門になろうと思いました。
プロダクションが変わって東映のアニメーションの仕事をやっている人と出会って、アニメの仕事をすこしずつやるようになり、吹き替えよりもアニメの方の仕事が多くなってきました。
外国映画の吹き替えは役者が役作りをやっていてこちらはできないが、アニメーションの場合はこちらができる訳です。
どういう人物にするか、どう画面からはみ出させるかなど、それが面白いと思って変わってきました。
「一休さん」の寺社奉行は真面目過ぎるので砕けた風にして自分なりに作って行けるという点で面白かったです。
最近の若い人は上手いんですが個性がないというか、画面からはみ出ない、おんなじに聞こえてしまう。
昔のアフレコは全員がそろってやっていましたが、最近はそうではなくなりまして、噛まないですね。
1968年「サイボーグ007」、1969年「もーれつア太郎」、1971年「アパッチ野球軍」その後「バベル二世」。
この頃夕がたに仕事が終わると居酒屋に行って反省会をするわけで、意志の疎通はできたと感じました。
当時レギュラーを3,4本やっていてコマーシャル、バラエティーがTVで始まってこれが大変でした。
ナレーション取りが夜10時から始めて朝の5時終了とか、こんなのばっかりでした。
寝る暇がないぐらいでした。
芝居の方もナレーションもあって初めて僕らの声の職業が成り立つんだと思います。
こっちだけというとひずみが来ます、だから僕は一体だと思っていて、芝居の方も大事だしナレーションの語りも大事だと思っています。
ベストな状態でやりたいと思っていますが、なかなかそうはいかないので、ちょっと体調が悪いときには歯がゆさはたまらないですね。
身体が大丈夫だったら何とかなるという思いがあります。
どんな作品であろうとも相手の身になって自分を聞いてみるという事が必要かと思います。
人間として生きていくうえでも、相似のものがあると思います。
声優学校、プロダクションの塾などがあるが、すごい数の新人が出てくるが 残ってゆく為には光るものを何か一つ持っていることが抜きんでて来ると思います。
自分の持っている特徴を最大限に出せる、そういうものを作ってゆく事が大事だと思います。
2020年2月1日土曜日
竹下景子(俳優) ・愛ある教えに支えられ
竹下景子(俳優) ・愛ある教えに支えられ
1953年9月生まれ(66歳)愛知県名古屋市出身。
大学在学中の1873年19歳でNHK銀河TV小説「波の塔」でデビュー、映画「男はつらいよ」でマドンナ役を3度勤め、映画「学校」では第17回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞しました。
俳優としてのご活躍に加えまして「クイズダービー」で16年に渡ってレギュラー回答者を務め人気を博しました。
2020年4月にはBSプレミアムで放送のドラマ「70才、初めて 産みますセブンティウイザン。」に出演されます。
「70才、初めて 産みますセブンティウイザン。」は笑いあり涙ありのドラマです。
デビューから46年になります。
最初大学生で「クイズダービー」にゲスト出演して、学校も卒業して、結婚して子供二人産んで気が付いたら40歳になっていました。
レギュラーー番組の中で産休も取らせていただきました。
大学生で最初お仕事を頂けることはありがたいと思いました。
ゲスト出演からレギュラーになり、学習院大学の篠沢秀夫先生は正解が低率でしたが、間違えた中にこそ、その人らしさが表れるという事を教わりました。
人生全部が正解正解という風に行かなくてもいいんだと知らず知らずに教わったと思いました。
失敗してしまったと思っても、どういうふうに自分の中でリカバリーするか、そこにそれぞれ私らしさが表れるのでしょう。
そのことで居合わせた方と違う信頼関係が生まれたら、ちょっとした失敗や間違いがあったおかげと思えることがあるのかなあと今は思います。
「クイズダービー」での「三択の女王」というのは大橋巨泉さんが付けました。
巨泉さんは台本には全く時間の配分などはないのに、編集ゼロであの分を収録していたというのは殆ど伝説的な話です。
話術の天才でした。
私は生まれは名古屋ですが、父の仕事の関係で幼稚園、小学校の半ばまでは東京の東村山で過ごし、帰って来た時にはカルチャーショックのようなものがありました。
東村山の時には公務員住宅だったので棟割長屋のようなところでしたが、名古屋には1963年でしたので、大きな団地の中に引っ越してきて3LDKで電話もあり、という事でカルチャーショックがありました。
転校してきた学校の地元の女の子が自分のことを「わし、わし」といっていて、又違うカルチャーショックを受けました。
直ぐになじんで遊んでいました。
下町っぽいところで名古屋は垣根が無くて、付きあいがふかくて、思春期になるころにはちょっとうっとうしい感じのところがありました。
大学は東京にという事で親から離れようと東京に出ました。
初めての舞台が『和宮様御留』というもので再演が名古屋でした。
来てくださるお客様が温かい拍手で迎えてくださって、私の故郷なんだと涙が出そうになりました。
自然災害、思わぬ出来事があり、私も環境のこととか少しずつ勉強して行く中で、いかに地域のコミュニティーが大事かという事を判ってゆくにつれ、何だ名古屋を見習えばいいんじゃないかという事に気が付くわけです。
日ごろのお付き合いが本当に大事だと思います。
子どもたちは社会に育ててもらうんだと初めて親になって知りました。
地域のつながりが自然に深まって行けば人としても地域としても、いい空気が流れていくんじゃなかなあと思うようになりました。
女優として生きてゆくのに最初のハードルが結婚だと思います。
夫は理解ある人でした。
夫は写真家の関口 照生です。
子どもが生まれて仕事が来なくなるかなあと思っていたが、有難いことに初めて大きな役を頂いたのが大河ドラマの「独眼竜正宗」で乳母でした。
乳母かと思いましたが、独眼竜正宗を育てる未婚の若い剣の腕のたつ素敵な役でした。
役柄も広がって何か違う道が見えてきたとその時思いました。
忙しかったですが、理解してくれてその間夫が良くやってくれました。
一番身近な人が違うものの見方をするという事は私にとっては目が見開かれることが多いですね。
1983年は「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」でヒロイン役、1987年「知床慕情」、1989年「寅次郎心の旅路」と「男はつらいよ」で史上初の3度のヒロイン役。
1993年の映画「学校」では第17回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞しました。
みんな山田洋次監督でした。
山田洋次監督からはこれからどういうシーンを撮るかという事を最初に説明してくださいますし、「男はつらいよ」はゆったりゆったり進んで行くので、ブレークタイムがあるので私のような新参者が落ち着いてできるように配慮されてくれたと思います。
山田洋次監督からは言葉を惜しまずいろいろ教えていただきました。
渥美清さんは普段は物静かな方で、マドンナ役の女優さんには「お嬢さん」って声を掛けてくれるんです。
不思議な世界、超常現象を語ってくれる時の渥美さんの語り口の凄さ、天才ですね。
渥美さんは映画の現場をとても素敵な空気を作ってくださいます。
芸能界、俳優とかは生活が物凄く不規則になるので、計画性を持ちづらいという事はあるが、それを除けば普通の仕事と割り切っていたので、普通に働くお母さんという風に自分自身を思っていたので、特別でいなければいけないという事は一回もないです。
俳優という肩書があると旅の番組、料理の番組が出来たり、自分に興味を持てるようなものをこれはどうですかと提示されたときに、自信がないから止めておきますという事は言わないようにしてきました。
これが限界という事を決めないでおこうとしていました。
成功もあるが、失敗もあるし、俳優は全部が全部自分が引き受けるものだと思って今やっています。
俳優は勝負というか勝ち負けがないので、お陰様で自分なりの仕事のかかわりができたので、それで長くやってこれたのかなあと思います。
皆さんそれぞれ唯一無二の生きている訳ですから、そういう部分でいえばみな同じだと思っています。
1953年9月生まれ(66歳)愛知県名古屋市出身。
大学在学中の1873年19歳でNHK銀河TV小説「波の塔」でデビュー、映画「男はつらいよ」でマドンナ役を3度勤め、映画「学校」では第17回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞しました。
俳優としてのご活躍に加えまして「クイズダービー」で16年に渡ってレギュラー回答者を務め人気を博しました。
2020年4月にはBSプレミアムで放送のドラマ「70才、初めて 産みますセブンティウイザン。」に出演されます。
「70才、初めて 産みますセブンティウイザン。」は笑いあり涙ありのドラマです。
デビューから46年になります。
最初大学生で「クイズダービー」にゲスト出演して、学校も卒業して、結婚して子供二人産んで気が付いたら40歳になっていました。
レギュラーー番組の中で産休も取らせていただきました。
大学生で最初お仕事を頂けることはありがたいと思いました。
ゲスト出演からレギュラーになり、学習院大学の篠沢秀夫先生は正解が低率でしたが、間違えた中にこそ、その人らしさが表れるという事を教わりました。
人生全部が正解正解という風に行かなくてもいいんだと知らず知らずに教わったと思いました。
失敗してしまったと思っても、どういうふうに自分の中でリカバリーするか、そこにそれぞれ私らしさが表れるのでしょう。
そのことで居合わせた方と違う信頼関係が生まれたら、ちょっとした失敗や間違いがあったおかげと思えることがあるのかなあと今は思います。
「クイズダービー」での「三択の女王」というのは大橋巨泉さんが付けました。
巨泉さんは台本には全く時間の配分などはないのに、編集ゼロであの分を収録していたというのは殆ど伝説的な話です。
話術の天才でした。
私は生まれは名古屋ですが、父の仕事の関係で幼稚園、小学校の半ばまでは東京の東村山で過ごし、帰って来た時にはカルチャーショックのようなものがありました。
東村山の時には公務員住宅だったので棟割長屋のようなところでしたが、名古屋には1963年でしたので、大きな団地の中に引っ越してきて3LDKで電話もあり、という事でカルチャーショックがありました。
転校してきた学校の地元の女の子が自分のことを「わし、わし」といっていて、又違うカルチャーショックを受けました。
直ぐになじんで遊んでいました。
下町っぽいところで名古屋は垣根が無くて、付きあいがふかくて、思春期になるころにはちょっとうっとうしい感じのところがありました。
大学は東京にという事で親から離れようと東京に出ました。
初めての舞台が『和宮様御留』というもので再演が名古屋でした。
来てくださるお客様が温かい拍手で迎えてくださって、私の故郷なんだと涙が出そうになりました。
自然災害、思わぬ出来事があり、私も環境のこととか少しずつ勉強して行く中で、いかに地域のコミュニティーが大事かという事を判ってゆくにつれ、何だ名古屋を見習えばいいんじゃないかという事に気が付くわけです。
日ごろのお付き合いが本当に大事だと思います。
子どもたちは社会に育ててもらうんだと初めて親になって知りました。
地域のつながりが自然に深まって行けば人としても地域としても、いい空気が流れていくんじゃなかなあと思うようになりました。
女優として生きてゆくのに最初のハードルが結婚だと思います。
夫は理解ある人でした。
夫は写真家の関口 照生です。
子どもが生まれて仕事が来なくなるかなあと思っていたが、有難いことに初めて大きな役を頂いたのが大河ドラマの「独眼竜正宗」で乳母でした。
乳母かと思いましたが、独眼竜正宗を育てる未婚の若い剣の腕のたつ素敵な役でした。
役柄も広がって何か違う道が見えてきたとその時思いました。
忙しかったですが、理解してくれてその間夫が良くやってくれました。
一番身近な人が違うものの見方をするという事は私にとっては目が見開かれることが多いですね。
1983年は「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」でヒロイン役、1987年「知床慕情」、1989年「寅次郎心の旅路」と「男はつらいよ」で史上初の3度のヒロイン役。
1993年の映画「学校」では第17回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞しました。
みんな山田洋次監督でした。
山田洋次監督からはこれからどういうシーンを撮るかという事を最初に説明してくださいますし、「男はつらいよ」はゆったりゆったり進んで行くので、ブレークタイムがあるので私のような新参者が落ち着いてできるように配慮されてくれたと思います。
山田洋次監督からは言葉を惜しまずいろいろ教えていただきました。
渥美清さんは普段は物静かな方で、マドンナ役の女優さんには「お嬢さん」って声を掛けてくれるんです。
不思議な世界、超常現象を語ってくれる時の渥美さんの語り口の凄さ、天才ですね。
渥美さんは映画の現場をとても素敵な空気を作ってくださいます。
芸能界、俳優とかは生活が物凄く不規則になるので、計画性を持ちづらいという事はあるが、それを除けば普通の仕事と割り切っていたので、普通に働くお母さんという風に自分自身を思っていたので、特別でいなければいけないという事は一回もないです。
俳優という肩書があると旅の番組、料理の番組が出来たり、自分に興味を持てるようなものをこれはどうですかと提示されたときに、自信がないから止めておきますという事は言わないようにしてきました。
これが限界という事を決めないでおこうとしていました。
成功もあるが、失敗もあるし、俳優は全部が全部自分が引き受けるものだと思って今やっています。
俳優は勝負というか勝ち負けがないので、お陰様で自分なりの仕事のかかわりができたので、それで長くやってこれたのかなあと思います。
皆さんそれぞれ唯一無二の生きている訳ですから、そういう部分でいえばみな同じだと思っています。
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