2021年9月30日木曜日

渡辺一枝(作家)            ・ふくしまの声を聞き続けて、10年

渡辺一枝(作家)            ・ふくしまの声を聞き続けて、10年 

1945年ハルビン生まれ。   1987年3月まで18年間東京近郊の保育園、障害者施設で保育士を務めた後、作家活動に入りました。   東日本大震災の年の夏に被災地でボランティア活動に携わり、その後毎月のように福島に通い続けて被災者の声に耳を傾けてきました。  東京都内で開く「渡辺一枝トークの会“福島の声を聞こう!”」はこの9年間で37回を数えます。  これとは別に今年2月には「ふくしま 人のものがたり」という本を著しました。  チベットの自然や文化、人々の暮らしに心を惹かれ、何度のチベットを訪ねこの体験を著書や講演会を通じて伝えてきました。  

9月13日東京都内で37回目の「渡辺一枝トークの会“福島の声を聞こう!”」が開かれました。  ゲストが門間祥子?さん、高校の英語の先生をしていた方で、ご自宅が浪江町にあります。 原発事故の後は東京の北区に住んで居ます。  学校解体の話があり、せめてお別れ会をしてから学校解体をしてほしいという事で署名を集めていた方です。   「渡辺一枝トークの会“福島の声を聞こう!”」をコロナ禍で25名という人数制限でやっていますが、今回は25名に届かなかったです。   東日本大震災の年の夏に被災地に行って話を聞いていて、多くの人にこの話を聞いてほしいと思いました。  最初は私自身で集まりで話したり、雑誌に寄稿したりしましたが、現地の人の言葉を現地の人の声で直接聞いていただければもっと伝わるのではないかと思って、2012年3月から始めました。  それを2冊の本にまとめました。  1冊目は津波の被害に遭われた方が多かったです。  2冊目は原発の核被害に遭われた方たちの話が多くなっています。  

藤原さんという方は亡くなっています。(詩を書く)  1人用の仮設住宅に住んでいました。   やるせない思いを広告の裏に書き留めていたものを、ボランティアの人が気付いて詩集にして出しましょうという事になりました。  

今年2月には「ふくしま 人のものがたり」という本を著しました。   「聞き書き南相馬」という本をその前にだしました。  それには津波の被害の話が多かったんです。  「ふくしま 人のものがたり」では原発災害の被災者の話を書きたいと思いました。    6人の方が登場しますが、田中徳雲さんはお寺の住職で、現地の人からは大切な人と思われている方で、お話を伺っていると私自身が求めるもの、魂の向かいたいところというものと、徳雲さんが目指したいとこと、物凄く共通するようなものを感じて、徳雲さんのことを書かせてもらいました。  永平寺で社務をしていた時にたまたま新聞で20年以内に大きな地震があるという記事があり、津波が起こって原発が危ないのではないかと思って、原発に関心をもって勉強したようです。   「日本山妙法寺命の行進」、に参加しました。  日本山妙法寺のお坊さんたちは、戦争反対という事でいろいろ活動してきました。  原発事故の後では津波の被害に遭った人の慰霊と原発反対するという事で命の行進をずっとやっています。 宗教、宗派を問わずいろいろの方が加わっています。   大飯原発差し止め訴訟の原告でもあります。

菅野子さん、飯館村の伝統食の凍み餅を作るワークショップで働いていたが、飯館村が住めなくなり、伝統食の凍み餅を伝えていきたいという事で、気候がよく似ている小海町で始めました。  そこで初めてお会いし、いろいろ話を伺いました。  伊達市の仮設住宅に入りそこを引き払わなくてはいけなくなった時に、仲良くしていた友人二人が村へ帰るという事で自身も村に帰りました。  

今野寿美雄さん、福島県浪江町の方で、原子力発電所、火力発電所の技術者。  南相馬避難20mmシーベルト基準撤回訴訟という裁判があり、一般に1年間に許容できる放射線量が1mmシーベルトと言われているが、20mmシーベルトで非難を解除しようという風にしてしまったわけです。  避難指示にならなかった地域でも高い放射線量があり、特定避難勧奨地点と呼ばれています。  そこを合わせて20mmシーベルトで非難を解除という事に対して反対して、訴訟を起こした方たちです。  或る時裁判所前でのスピーチを今野さんがしていて、トークの会でお話をしていただきたいと思って声を掛けたのがきっかけです。   今野さんは私よりずっと若い方ですが、私はなんて世間知らずなんだろうと思うような幅の広い方です。  自身も被災者なので被災者の気持ちも良く判る人です。  今野さんと話すと学ぶことがいっぱいあって、今野さんも是非皆さんに知ってほしいと思いました。   

いろいろ事情があって、チベットに最後に行ったのが2015年です。   チベットの魅力が消されてきている。  チベットらしい景色、暮らしぶり、がどんどん消えてしまっている。  

2018年度中に福島で家を解体すれば、費用は国が持つという事でしたが、それを過ぎると個人で負担しなくてはいけなくて、放射性廃棄物なので700~800万円ぐらいかかってしまう。  2017,8,9年と物凄い勢いで解体されて行きどんどんさら地になりました。   復興を目に見える形にするためのいろいろなものが作られてきました。   浪江町には水素工場が作られたりしました。   故郷を思い起こす景色がなくなってしまっている。 地形さえも崩されてしまっている。   作り上げてきた土壌が汚染され、それを削り取ってそこに土を盛るわけですが、山林を切り崩して山の土を持ってきて被せるわけです。  除染土再利用という事がいわれています。  汚染されている土でそれをきれいな土で遮蔽するわけですが、遮蔽する土は山林を切り崩して山の土を持ってきて使用するわけです。 

復興のシンボル伝承館、被災前の状態~原発建設~被災~その後を展示。  現在6000~7000人程度の人が福島県内から避難した人がいますが、そういたことは伝承していない伝承館です。  メディアからの情報だけではなくて、自分自身で知りたいという思いがあり進めてきました。  




 

2021年9月29日水曜日

稲垣栄洋(静岡大学大学院教授)     ・【心に花を咲かせて】マリー・アントワネットが愛したジャガイモの花

稲垣栄洋(静岡大学大学院教授)     ・【心に花を咲かせて】マリー・アントワネットが愛したジャガイモの花 

マリー・アントワネットというとオーストリアの王女として生まれ、政略結婚でフランスにお嫁入し、ルイ16世の即位と共に、フランス王妃となり、華やかな暮らしをしていました。  1789年のフランス革命で結局は処刑された悲劇のヒロインとしても知られています。    ベルサイユのばらの大ヒットでも知られています。   バラの花のイメージが強いマリー・アントワネットですが、稲垣さんによるとマリー・アントワネットは舞踏会の時にジャガイモの花を髪に飾って愛でていたんだそうです。  

ジャガイモの花は控えめで素朴な感じがするんですが、よく見ると中々綺麗な花を咲かせる感じもします。  マリー・アントワネットが舞踏会の時にジャガイモの花を髪に飾ったのは、ルイ16世との作戦が関係していたといわれています。  ジャガイモの原産地は南米のアンデス地域と言われています。   ジャガイモは痩せた土地でも気温が低いところでも育てることができる。   ヨーロッパでは麦を育てていたが、麦は気温が低いところでは育たなかったので、ジャガイモが重要な作物になった。  しかしヨーロッパでは悪魔の植物と言われていた。   ジャガイモの芽が出たところに毒を持っていた。  葉っぱ、茎、実などを食べてしまうと有毒で中毒を起こしてしまう。  ヨーロッパではイモを食べるという事はなくて、最初の頃は実のほうを食べてしまって食中毒を起こしてしまってジャガイモは嫌われていた。    ドイツから広まって行ったといわれる。  飢饉をジャガイモが救ってくれることは王室、知識層では判っていたが、この悪魔植物をどうやって国民の人たちに食べさせたり、農家の人たちに作らせようかというのが問題だった。  

まずジャガイモの花を見せようという事で、マリー・アントワネットが飾ったりルイ16世はボタンのところに飾った。  そのうち貴族たちが自分の庭にジャガイモを作らせる様になる。   花を愛でるために園芸植物として広がって行った。   次の作戦として、「これは王様の食べ物なので食べてはいけません」というお触れを出す。   自分たちも食べてみたい、作ってみたいという事になる。  盗みに入って行って、密かに食べて(イモを食べることが判ってきて)だんだんと庶民の人たちも食べるようになって行く。  国民を救うためにマリー・アントワネットはそういう事もしていた。   

南米にはたくさんの種類があり、いくつかの種類がヨーロッパに渡った。  アイルランドは寒くて麦が育たないので、ジャガイモが凄く貴重な食料になった。  ジャガイモが広がってゆく中で選りすぐりのジャガイモがアイルランドへと渡って行った。  一種類しかアイルランドでは作っていなくて、或る時に病気にかかって壊滅状態になり大飢饉がおこる。食べ物に困った人達が新大陸のアメリカに移り住むようになる。  その人たちがアメリカ合衆国の基礎を作ったといわれる。(1840年代)   イギリスでは実のほうを食べて食中毒を起こしてジャガイモが広がってゆくことが遅れてしまった。  

茹でたり蒸したり焼いたりしてシンプルに食べていたようです。  アンデス地方ではつぶしても食べていたようです。   ヨーロッパでは古くから家畜を飼っていたが、冬の間家畜に食べさせるようなものがなくて、たくさんの家畜を飼うことができなかった。    ジャガイモは保存も利くし、ジャガイモを食べさせてたくさんの豚を飼う事が出来るようになった。  人間がジャガイモを食べるようになったことで、麦も余ってきて牛の餌にもなって行く。   たくさんの家畜を飼えるようになったお陰で肉を食べれるようになって行く。   ジャガイモと肉との相性もいいです。  

ジャガイモが日本に入ってきたのは、戦国時代の終わりごろから江戸時代の初めの頃です。大航海時代、ジャガイモは保存が利くので最適だった。  ジャガイモはビタミンCを多く含んでいるので大航海時代でのその摂取のためにもよかった。   日本にはイモの文化があったので、ジャガイモを食べる事には抵抗感はなかったと思います。  しかし日本ではなかなか広まらなかった。  広がってゆくのは肉が食べられるようになった明治以降ですね。  ジャガタライモという言い方もあるが、ジャガイモはジャガタライモを略した言い方で、インドネシアのジャカルタからやってきたイモという事で、訛ってジャガタライモと言われるようになったといわれる。 

 静岡の山間部にジャガタイモと呼ばれるものがありますが、味が濃いです。   オランドというものはジャガイモとは違うような変わった味です。 これらは戦国時代の終わりごろから江戸時代の初めの頃に伝わったものがそのままつくられてきたものと思います。  山梨県ではジャガイモを凍らせて保存食として使用する独特な方法がありますが、南米で行われている保存方法と全く同じなんです。  

南アメリカ原産のものはいろいろあります、トマト、トウガラシ、ジャガイモ、カボチャ、など、トウモロコシは中央アメリカ原産です。  トウモロコシは世界で一番多く作られています。  お茶も歴史にいろいろ関わって影響を与えています。

2021年9月28日火曜日

二宮康裕(二宮家総本家当主)      ・文献が語る金次郎の実像

 二宮康裕(二宮家総本家当主)      ・文献が語る金次郎の実像

神奈川県小田原市出身、二宮家15代目の当主。  東北大学大学院で日本思想史を専攻、神奈川県内の中学校の教師を務めた後、二宮金次郎の研究に取り組みました。  二宮金次郎は今からおよそ230年前、江戸時代の末期の相模の国の農民の子として生まれ、16歳までに両親を亡くしました。  度重なる天災に見舞われましたが、捨て米から一表の米を収穫するなど様々な工夫を重ね、若くして家を再興しました。  実話と逸話が入り交じり後に勤勉で親孝行の少年として伝えられてきました。   二宮康裕さんは薪を背負った像はいくつかの事実を組み合わせて作られ、美化されて伝えられているものだと言います。   二宮さんは正確な二宮金次郎を伝えたいと、金次郎が残した日記や著作など膨大な資料を調べ、金次郎の実像に迫りました。 

500ページになるような「二宮金次郎の人生と思想」を出版。  金次郎の元の原稿が物凄く多くて、読むだけで10年以上かかりました。   4っつあって、金次郎の日記が50年ぶんあります。 書簡が3610通金次郎が書いたものがあり、各地での計画書が膨大です。  彼の著作の原稿も膨大です。  そしてすべてが漢文で書かれているというのが難しい。  彼は17歳ぐらいの時に俳句の叢書に出会います。   彼の俳号を「山雪」と書きます。   

「雉鳴くや七里並木の右左」 

「蝶々や日和動きて草のうえ」?

「落ち角や枯れいたどりの孤独勺」? (いたどりの枯れた間に鹿の角が落ちている)

二宮金次郎は相模国足柄上郡栢山村に生まれる。  明治15年に作られた地図があるが、栢山村には等高線が1本もない真っ平なんです。  水田が広がっている。         薪を背負った像は現在1000体ぐらい残っています。   一番最初は大正13年(1924年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられた。   昭和2年、昭和天皇即位を翌年に控えて一斉に全国に作られてゆく。  薪を背負った像の直接のきっかけとなったのは幸田露伴の二宮尊徳の小説だとわれている。  狩野派の絵師、小林 永興が室町時代の狩野元信が描いた朱買臣図(しゅばいしんず)というものがあり、それには薪を背負いながら書を読んでいる図で、その元絵を小林 永興が描いて幸田露伴の小説に載せた、というのがきっかけです。   明治時代の少年の理想像として作られたものと思います。   栢山村では薪運びの掟があり、12月、1月、2月にしか薪取りにはいかない。  その薪がお金になる。  薪取りは栢山村の弱者救済のための助け合いの仕組みになっている。  それが二宮金次郎一人の話に書き換えられたというのは事実です。  苦しんでいる農家に対する指針、一生懸命働けばやがて財を蓄えることが出来る、だから頑張ろうという風な指針を与えたんだろうと思います。   農業危機が叫ばれるたびに金次郎が登場します。   

「安民富国」という政策、これは二宮金次郎が生涯を通じて貫いた方針です。  減税が民を富ませ、購買力を拡大させる。  結果として税収が国庫に入ってゆくというのが金次郎の考え方です。  「至誠の心」いたるところに書かれているが、二宮金次郎は自分を律するという事が第一なんです。  遺言にも載っています。  自分をぎりぎりまで絞って至誠を尽くせという事を遺言で述べています。  

「仕法」政策のすすめ方、まず勤労、得たものを倹約しましょう、次の世代、自分のためにも社会のためにも譲っていきましょう。(勤労、倹約、推譲)  金次郎が37歳の時に現在の栃木県真岡市にある桜町領(小田原藩主大久保忠真の親戚)の領地が荒れ果てていて、大久保忠真が農民の二宮金次郎を抜擢する。 すぐには引き受けず8回にわたって徹底的に調査する。  1/3人口が減ったために田畑が荒れたと判断する。(現在と同じ)   対策として人口増加、やる気を起こさせる。(よく獲れると多く税をとられていた 税金対策 定額にして困っている人を焦点に助ける。福祉政策 、農家への表彰制度) 16年かかって立て直し米が倍獲れるようになる。  他の村からも要請が来るようになるう。  600ほどの村が金次郎の手法を導入した。  藩からの要請もいくつかあった。

昨日―今日―明日とあるが、昨日の稼ぎで今日を暮らし、今日の稼ぎで明日を暮らすが、昨日の稼ぎ1万円とすると、今日は8000円で暮らし2000円の余剰を作る、今日の稼ぎ1万円で明日は8000円で暮らす、それを永遠にやってゆくことによって畜財が出来る。  日々の勤労の大事さ、日々の節約が大事だと訴えた。  輪廻の図 「徳、勤、怠、失」とあり、貧乏から脱出する方法があり、一生懸命働くと富むようになるが、お金を得るとなまけ心が生じ結局貧乏に戻って仕舞う。 だから日々の勤労が大事だと説明している。  「約、富、奢、貧」 輪廻の図  貧乏から脱出するにはまず節約をする、そうすると富むようになる、贅沢心が生まれて、また貧乏になってしまうので、だから日々の節約が大事だという説明。   自然は良い時もあるし悪い時もあるので、自然と人間は合い助け合わなければならないと説いている。  

現在は二宮金次郎の時代とよく似ていると思います。  二宮金次郎の考えたのは、三つあると思っていて、①減税、②荒れ地の復活、人口減少を止める。(移民政策) ③弱者救済を相互扶助で。 

56歳で幕府から要請があり幕臣になり、印旛沼の干拓、利根川流域の整備など様々な大きな仕事を仰せつけられる。  金次郎が提案したのは20年がかりの政策だったが、時間がかかり過ぎるという事で受け付けられなかった。   時間がかかるのは農民の救済を優先したから。(労力を差し出せるような状況にはなかった。)  日光周辺の整備を任される。 適地適作という方針をとる。 江戸幕府は基本的にはすべて米だった。  病を得て69歳で亡くなる。  弟子は1400人余りいた。


2021年9月27日月曜日

2021年9月26日日曜日

高橋公(NPO法人理事長)       ・ふるさと回帰の夢の先

 高橋公(NPO法人理事長)       ・ふるさと回帰の夢の先

ふるさと回帰支援センターは過疎や高齢化に悩む地方と都市の格差を是正しようと、2002年に連合日本労働組合総連合会を中核に農協や生協などが参加して設立された、地方移住のパイオニア的な団体です。  高橋さんは設立の中心となって働き2017年から理事長を務めています。  

ふるさと回帰支援センターは有楽町駅から1分ぐらいで、ビルの1フロアーに各県のブースがあり、広さは300坪あります。  各県の相談員もいます。  26県が就職相談をしています。  移住と就職相談のフォローアップをしっかりしています。   一昨年は年間4万9000件の相談がありました。(去年、今年はコロナで制限がありました。) 去年は3万8000件、今年は順調で本気度の高い人が増えています。   移住セミナーは去年は年間349回、一昨年は545回でした。   移住先での暮らしの紹介をセミナーでやっています。  20年の実績がありますが、移住の定義が難しくて、全国統計はないんです。  1県で1000~2000ぐらいではないかと思います。    人気の一番トップは長野です。  県内に77の市町村がありますが、45自治体ぐらいがうちの会員になっています。  

最初、団塊世代のUターン促進のために作りました。   団塊世代が集団就職をしたりしました。  2007年に60歳になる人たちに対して、連合にいるときにアンケートをとったら、4割の人が定年後年金を糧に田舎に帰って悠々自適の暮らしをしたい、と回答していました。  この思いを叶える仕組みを作らなければいけないと思いました。   2008年のリーマンショックのときに若い人たちの目が地方に向きました。   地方は過疎化、高齢化が進んでいました。  農水省が田舎で働きたいという補助事業をやりました。  いくつかの自治体と若い人を送り出す事業を始めました。  そのころから若者が地方へという機運が生まれてきました。   バブル崩壊後は小手先の政策で、日本の経済政策の根本まで揺るがすような状況になり、派遣法の制定で不安定な仕事がずーっと増えて行きました。 条件付きだったが、単純労働まで派遣という事になり、現在は4割の人たちが不安定雇用になっています。   コロナ禍でもここから辞めさせるという事になって行く。   東京での生活に期待を持てなくなって、目は地方に向き始めている。   去年から今年にかけて。都心から150km圏では移住相談が倍増しています。  東京一極集中と言われて居たが、去年は東京では転入よりも転出が増えています。   

福島県の相馬市に生まれました。  小学校1年で母親を亡くして、後妻が来たりして、その人との関係は良くなかった。   父親は漁師をしていました。  家には本がなかったが、小学校のころから新聞は一面から読んでいました。  安保闘争のことなどよく覚えています。   叔父さんが神奈川にいて、高校は横浜に行きました。  そのころから本をよく読み始めました。  武者小路実篤などから西田幾多郎へといって、哲学、座禅へとのめりこんでいきました。   行き場のないような気持を解決の方向に向けたのが、弁証法でした。(合理的な考え方)   1965年日韓条約で、東京に来て初めてデモなどやりました。   早稲田大学に進みました。  学生運動が盛んなころでした。  戦後の平和教育を受けたので、ベトナム戦争もあったし、こんなことでいいのかという思いがありました。

ノンセクトラディカルで運動をしました。  文学部を中心に核マル派があったが、内ゲバなどもあり、もう少し自由に主義主張を語ったりするべきではないかということで、無党派の反戦連合という組織をみんなで作って、大学を占拠するという事になって行きます。  大学の職員からお小遣いをもらったりして、「頑張って」などというエピソードも沢山ありました。   核マル派に拉致されて、「お前の墓場に連れてゆく」、というようなこともありました。   70年安保までやって、目標がなくなって、リーダーだったので責任を取って身を引こうと思い、大学は中退しました。   学生運動は良い体験だったと思います。  

生活のために築地の魚河岸で4年半ぐらい働きました。   収入もよく午前中で仕事も終わるので午後は神道夢想流の杖術の稽古に明け暮れました。    百科事典の編集を2年程度、飲み屋の用心棒もやりました。   選挙の手伝いなどもして今に繋がってゆきます。   東海大学の松前先生が参議院選挙に立候補して、そこの選挙応援を1年やりました。   そういったことで後押しをしてもらって試験を受けて自治労の書記局に入りました。  最初は機関誌担当で全国を回って、当時 3300あった市町村のうち1000は行っています。   その後現業局、公務員の現業部門(清掃、学校給食、用務員、道路整備など)の職員が30万人いましたが、それを担当しました。  そこを民間委託しろという事になり、そうなると労働条件が悪くなるので、サービスも低下するのではないかという事で反対しました。   土光さんの懐刀で瀬島龍三さん(関東軍の高級参謀)と何回も会って、最後には切り離すという原案にあったものが、その答申から消えました。  委託するかどうかは各自治体に任せるという事になりました。   次に社会福祉、来るべき高齢者社会に向けて、この国の社会保障制度はどうあるべきなのか、という事に対して厚生官僚とブレーンと共に政策提案など大分やりました。  福祉、社会制度は勉強していないのでスウェーデンとデンマークに自費で見に行きました。  自治労は20年いました。   その後、社会政策局長としていきました。 国土・土地・住宅政策、環境政策、教育政策、農業政策などを担当。

京都議定書が作られた時で、環境問題にも取り組みました。   連合で、ふるさと回帰支援が始まります。  時期尚早だといわれたが、3年間かかって説得しました。  自分が生きてきて節々で出会った人たちが、みんなこの運動に糾合されているという感じがします。  ふるさと回帰支援センターは2002年に設立されて、形になり始めたのが2008年で、農水省が田舎で働きたいというプログラムの事業をやって、補助事業を受けながら資金を受け、2014年街・人・仕事創成本部という増田寛也さん(元岩手県知事)が日本創成会議で論文を発表して、2040年には日本の自治体のうち896自治体が消滅する可能性がある、という事で地方創成を本格的に取り組むという事で補正予算を組みました。  2015年4月にいきなり22県がうちに移住相談員を配置したいという事になり、それで花開きました。  その後少しづつ増えて行き現在に至りました。   今は自治体が1741市町村ありますが、うちの会員が500弱で約1/4で、立ち行かないところも出てくると思うので、少子化、高齢化、過疎化などの問題があり、政府が10年構想で進めてきて7年経っており、残された時間が少ないので会員を1000ぐらいまで拡大して、地方移住に意味を見出すひとたちの受け皿になってほしいと思っています。   





2021年9月25日土曜日

藤原帰一(国際政治学者)        ・【私の人生手帖(てちょう)】前編

 藤原帰一(国際政治学者)        ・【私の人生手帖(てちょう)】前編

藤原さんは大学院教授として近代国際政治の中でも、主に戦争と平和につて研究を続ける傍ら、新聞や雑誌、テレビ討論など幅広く活動を続けています。   一方映画に造詣が深く関連の著作など数多くあります。   1956年東京生まれ、中学高校時代から映画のとりこになって、その世界を目指したものの断念、国際政治の道に進みました。  今でも映画を通して世界の紛争や平和、文化、社会問題を読み解いてライフワークとしています。   映画と国際政治はどのように繋がるのでしょうか。  これまでの人生の節目節目に見た映画と重ね合わせながら伺って行きます。   アメリカの同時多発テロ9・11から20年の今、世界はどう変わったのか伺います。

20年前を思い出すとまるで別の世界という気がするぐらいです。  20年というと第二次世界大戦の終わりからオリンピックの期間よりも長いんですから。   同時多発テロが起こった時には中国もロシアもアメリカとの協力を保っていました。   ブッシュ大統領がテロ対策を優先したので、中国、ロシアを追い詰める政策は取らなかった。  20年後の今を見るとアメリカとロシア、アメリカと中国の対立が大変険しくなって、新しい冷戦ではないかという方も出てきました。   相手の政府を倒すというような軍事介入を止めようという方向にアメリカの政策も転換しました。   そういったわけでアフガニスタンは見捨てられたわけです。    アメリカに頼っている人たちが沢山いるわけですが、自分たちの身の安全を保つことが出来なくなってしまう。  1979年ソ連が軍事介入したが、戦争には勝つことが出来ず結局ソ連は共産主義体制から変わってゆくが、1989年にソ連軍は撤退します。  アフガニスタンでは内戦が展開する。  その中でタリバンが出てくる。

今度はアメリカが介入して、女性も教育も受けられるようになったが、米軍が撤退した後それが出来るかどうか、大変厳しい状態にあると思います。    デモクラシーを外から作るという事自体は無理だという事で、その人たちを見捨ててしまった。   腐敗した不安定な政府がカブールにできたが、つっかい棒をして実効性のある軍隊を作ったり政府の力を高めようと多国籍軍はするが、アメリカが介入したなかで干ばつが襲います。  中村哲さんを主体にペシャワール会を立ち上げ、灌漑事業を行う。   中村哲さんが非業の死を遂げられる悲劇がありましたが、こういったアプローチが本当なんだと思います。  安全な水の確保、医療、教育(特に女性)が必要です。

アフガニスタンの場合、いくつか映画があるが、アメリカ軍の兵士から見た現場を再現した映画があります。 「アウトポスト」という作品で、3月に日本で公開されました。   支援するためにすり鉢の底のようなところに基地を作る。  包囲する側からは丸見えだが、包囲される側は包囲する側の動きを確認しにくいという問題を抱えていたのである。 良いことをしているつもりだが、タリバンから攻撃されるために拠点を作ったに過ぎない。 そのことは兵士も判っている。  タリバンに攻撃されてみんなバタバタ死んでしまう。 実話をベースにこの映画は作られている。  「ランボー」もありました。  あの戦争は間違っていたのかもしれないという、そういう時代の気分を伝えて居ると思います。

父が銀行員で転勤をたくさん繰り返しました。    中学の時に父が横浜に家を建て、私が結婚しても横浜に住むようになりました、  小学校1年から3年までアメリカニューヨークの郊外に住んでいました。   12月8日(真珠湾攻撃)には父から小さくなっていろと言われていて、大人から「おい、東条」などと言われました。  大学の教員になってからもアメリカに住んだことがあり娘が心配だったが、そんなことは全くなく、アメリカは変わったんだなと思いました。  

小学校の低学年で最初に映画を見ましたが、高学年ではずいぶん見るようになりましたが、映画を見始めたと言えるのが中学校に入ってからです。  当時「イージーライダー」と「真夜中のカーボーイ」が一番有名でしょうか。  高校の頃、父が香港に駐在していて、独りで寮に住んでいました。   3本立ての映画館で映画を見ていました。  いろいろな映画館に通って、映画の本を読んだりして、そこから見なくてはいけない映画のリストを作って、チェックしたりしていました。   学校に行って出席だけして抜け出して映画を見に行ってまた学校に戻ったりしていました。  当時はまったのが政治に関係したものが多くて、「博士の異常な愛情」(スタンリー・キューブリック監督のこだわりが随所に光るブラック・コメディの傑作。核戦争による地球滅亡という重たいテーマを、痛烈な風刺を交えた軽快なコメディに仕上げている。 キューバ危機とセットになっている。)  「2001年宇宙の旅」 「ゴジラ」(水爆とセットになっている)   「大統領の陰謀」(ニクソンのウォーターゲート事件に関連  脚本がよくできている) などです。  







    

2021年9月24日金曜日

湯浅正太(小児科医)          ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】すべての子どもに愛を

 湯浅正太(小児科医)    ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】すべての子どもに愛を

湯浅さんが自らの体験をもとに書いた絵本「みんなとおなじくできないよ 障がいのあるおとうととボクのはなし」が関心を呼んでいます。   障害があったり病気で入院や手術が必要な子供がいる家庭はその子に親がかかりっきりになり、日常の家庭生活でほかの兄弟姉妹たちに十分な配慮が行き届いていないことがあります。   幼い健常の兄弟たちは周囲の偏見や頑張って偉いねというような、重圧の中で兄弟の障害を理解するのも難しく、親の愛情を求めて突飛な行動に出たり悩んだりすることがあります。  家族の中に高齢者や介護や支援が必要なメンバーがいると、本来愛情を受けてはぐくまれる児童期に、十分な配慮がなされず放置されたり、反ってそうした子供たちが支える側として酷使される状況は、ヤングケアラーの問題にもなっています。   

外来をやっていても、子供たちが思うように外で遊べないとか、さまざまな制限を受ける子供たちが多くて、ストレスの発散の場がなくなり、落ち着かなくなってしまったり、感情を上手く表現出来ないとか、そういった子供達が増えているなという印象があります。   小児科は生まれて間もなくから中学校3年生までが来ます。    発達障害、知的障害、てんかんをおもちのお子さん、そういった子供さんを対象にしています。   私の対応、態度、表情次第で子供たちの様子が変わるという事は毎回経験します。   ぶっきらぼうに話すような子供でも、私が優しく言葉がけをしたり笑顔で接すると、言葉使いも変わってきます。   子供たちは純粋なんだなあとつくづく感じる瞬間です。  語り続ける子もいますが、聞く耳を持たないような態度を大人がとると、 子供たちもイライラしだしたりして、聞いてくれると思うと表情も豊かになります。   中学生ぐらいの子では、リストカットしてしまったり、不登校になってしまっていたり、という子も沢山います。  家庭の背景、生活の環境によって自分の心をうまく相手に伝えられないような子供が多いと感じてまして、小児科医として助けてあげたいと思います。  なかなか気持ちを打ちあけてくれないことを多く経験するので、子供の本音を聞き出せるように心がけて居ます。    子供に安心感を持ってもらうのがとても重要だと思っていて、安心感を与えるという事は凄く注意しています。   自分の感情に気を付けながら接するようにして居ます。   

小児科医になってからではなく、小さいころから自制心は生まれたと思っています。   絵本にしましたが、自分で実際に体験したことを語っています。  周りのお子さんとは同じようにうまく行動できないような弟が居まして、うまく生活できないようなことを兄弟として感じていました。   自分の感情を押さえて誰かと接する、そういったことを身に付けてきたのかなあと思います。

絵本「みんなとおなじくできないよ 障がいのあるおとうととボクのはなし」  障害を持った子、その兄弟、病気を持った子、その兄弟とか、すべての兄弟に伝えたいと、メッセージを込めて作った絵本です。   障害を持った子、病気を持った子に親御さんは一生懸命支援しようとします。  その兄弟は親御さんに手がかからないように行動しないといけないと思う兄弟が現実です。   支援が必要な方が家庭にいる状況だと兄弟、家族は気を使いながらみんなでうまく生活できるように行動してしまうんですね。  そうすると精神的に乱れてしまうという場合もあります。   

私の場合は周りの友達と同じように行動できないことから、恥ずかしさを自分自身で感じてしまったりして、弟を大事の思ったりぐちゃぐちゃな感じを持っていました。  自分の気持ちを上手く表現できない、そうすると精神的に乱れてしまうという場合もあります。  どうしてそうなってしまうのか子供のころは判らなかった。    弟に対してめんどくさいという思いもありました。  小学校6年生の時に弟は小学校1年生でいじめられていた現場に助けたいと思って、何度も足を運んだことがありました。  弟も私を見るとホッとしていました。  

弟と一緒に暮らしていると当たり前ではないというところを、なかなか認められなかった自分がとっても苦しかったと今でも思います。   弟と接してゆくうちに、弟を周りの世界に合わせようとするのではなくて、周りが弟に合わせたり、そういったやり方があるのではないかと思うようになりました。   弟が「みんなと同じに出来ないよ」と私につぶやきましたが、初めて弟が強い不安な気持ち、悲しい気持ちを持っていたという事を知りました。   その言葉を夜中に思ってしくしくずーっと泣いていました。

障害があっても病気があっても、そういう子供たちを支援できる環境を作ることがとても大切なんですね。   絵本を作ったり様々な活動を通して困っている子供たちの力になれればなあと思って今も働いています。   兄弟達への支援も必要で、将来障害者への支援、社会を志している人材が育つためには支援がどうしても必要でそちらにも活動しています。  兄弟児支援の取り組みとしては、同じような境遇の子どもたちを会わせてあげるとか、親から兄弟に愛を注げるような環境を作るという事が一番大切なことで、そういったところへの支援が大事だと思っています。   親御さんも頑張っていて、あなた方は一人ではないんだよという事を伝えたいです。  親御さんたちが兄弟へも関われるように、社会が家庭に支援をしてあげる,そういったことが重要で あろうと思っています。   兄弟たちに「君は一人じゃないよ」と伝えたいです。  将来に対して生きる勇気を与えてあげたいと思っています。 生まれてよかったなと思えるような、そういう子供たちに育ってもらいたいと思います。







 

2021年9月23日木曜日

宮崎美子(女優)            ・【私のアート交遊録】気が付けばいつも前向き

 宮崎美子(女優)          ・【私のアート交遊録】気が付けばいつも前向き

雑誌の表紙、「篠山紀信撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」に応募した事を機に注目を集め、TBSテレビ小説「元気です」でいきなり主演デビュー、その後数多くの映画やドラマに出演、映画「雨あがる」ほか女優として活躍する傍ら、クイズ番組でもその博識を発揮しています。  毎年新しくチャレンジすることをモットーにしているという宮崎さん、去年デビュー40周年を迎え、写真家篠山紀信さんと新作を制作したり、インターネットの動画サイトで配信を始めたり、さらにこの秋には最新アルバムを発表しているという宮崎美子さん、幼いころは木登りが好きなやんちゃな女の子は、今次々に新しい世界にチャレンジしています。  コロナ禍で自粛生活が続く中でもやりたいことが一杯という宮崎美子さんに表現の世界にかける思いを伺いました。

去年はビキニ姿で、還暦を過ぎた人が落ち着かなく何やっているんだろうという気がするんですが。  去年はデビュー40周年、今年は歌手デビュー40周年です。   9月に新しい作品を発表します。  自身で一曲作詞しました。   普段詩を読んだり書いたりしないので苦労しました。    レコーディングは30数年振りなので大変でした。   

コロナ禍で自分の時間が自由に使えることは普段働いているとないから、普段できなかったものをやってみようと、昨年8月にユーチューブを始めて、1年やってきて楽しい遊び場を見つけたなと思いました。   ボルダリング(最低限の道具(シューズとチョーク)で岩や人工の壁面などを登るスポーツ)を始めたりしました。   腕力のなさ、足の弱さを感じています。   月2回のペースでやってきました。    やってみたい気持ちさえあればチャンスは巡って来ると思います。   

昭和55年篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」の表紙のモデルとなる。   新聞広告を見て写真と自己紹介のことを送りました。   大学3年生の冬でしたが、東京に面接に行きました。  その後、テレビCMに出演し木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱いでビキニ姿になるという内容で、大反響となる。  熊本放送の制作部長を通じてドラマの話があり、自分がドラマに出られる機会はこの先一生ないだろうなと思って、そこで一歩踏み出してしまいました。  TBSテレビのポーラテレビ小説『元気です!』で主演を務め、女優デビューを果たしますが、この先やって行けるのだろうかという不安はありました。   プロダクションに入りましたが、トレンディードラマは似合わないと思っていたし、クイズ番組の司会などをやっていました。   健康的な明るい娘役から大人の女優へ移行しなければいけない時期に来ていて、どうすればいいだろうと判らなくなる時期がありました。  相談しても答えはなかなか出ないうちに、恋愛ドラマの時期をすっ飛ばして、急に結婚して奥さんの役をやるようになり、お母さんの役をやって落ち着いて行きました。   自分の中にないものは出ないんだと思いました。   

25歳の時に黒沢明監督とお会いする機会がありました。   映画「乱」の末の方の役が決まりしました。  周りからは宮崎美子でいいんですかとの声があったが、「僕が選んだんだから」と言ってくださって、安堵感とうれしさがありました。   仕事で悩んだことがありましたが篠山紀信さんからは「女優さんほど素敵な仕事はない、いろんなことができる」と言われました。  いろんな人生を味わえますからね、今は面白い仕事だと思います。   デビューして20年目にようやくやって行けるという自信みたいなものが湧いてきました。   「雨あがる」(黒澤は脚本執筆中に骨折して療養生活に入り、完成させることなく亡くなった。 助監督として脚本執筆の手伝いをしていた小泉が黒澤から聞いた構想や残されたノートを参考に補作して完成させたのが、この脚本)に出演できたという事でしょうか。あのような作品に巡り合えたことが幸せでした。   優秀主演女優賞を頂くことができ、自分で女優ですと名乗ってもいいのかなと思いました。

コロナ禍でだらけてしまわないように、時間割を作って、家庭科(調理、裁縫、掃除)、国語(本を読む,漢字)、体育(ラジオ体操、スクワット)など。 厳密にはやっていません、そうすると三日坊主になってしまうので。   クイズ番組に出て、ものを知っているという事はどういうことなのか、考えさせられました。  簡単に調べて判ったような気持になりますが、それは本当に知っていることなのかなあと、本当は自分が見聞きしたことだけが、もしかして知っていることなのかも知れません。   

あの人がちょこんといるだけで和むねと言われるような、おばあちゃんが最終系です。  見てくださった人が楽しかったね、じゃあ明日も頑張って行こうと思ってくださるような作品に出続けられればうれしいです。   お薦めの一点としては、ボロディン作曲の「中央アジアの草原にて」です。





2021年9月22日水曜日

新田佳浩(パラスキーヤー)       ・【スポーツ明日への伝言】レジェンドが目指す新たな頂点

 新田佳浩(パラスキーヤー) ・【スポーツ明日への伝言】レジェンドが目指す新たな頂点

来年3月には冬のパラリンピックが中国の北京で行われます。    この大会の出場を果たせば1998年の長野大会から7大会連続のパラリンピック出場になるのが、傷害者ノルディックスキーの新田佳浩さんです。   新田さんは3歳の時にコンバインに巻き込まれる事故に遭って左腕の肘から先の部分を失います。   しかし4歳からスキーを始め、17歳で長野パラリンピックのクロスカントリー競技に初めて出場し、以来前回の2018年のピョンチャン大会まで合わせて3つの金メダルと銀と銅のメダルを一つずつ獲得しています。   半年後に迫ったパラリンピック北京大会に向けて調整を続けている新田さんに伺いました。

東京パラリンピックでマラソンで走る土田さんの姿を見て、年齢を重ねてもチャレンジする事を続ければ、必ずチャンスは出てくると思いましたし、僕自身もそういった年齢になった時に非常にスポーツの可能性であったり、道具と肉体の進歩といったところの楽しさと難しさを凄く感じました。  土田さんは45,6歳だと思います。   ランニングは時間があればするようにしています。  ニックネームは『レジェンド』と呼ばれるようになりました。

僕の両親が共働きをしていて、祖父母が稲刈りをしているときに、転倒した時にコンバインに手を突っ込んでしまって、祖父に抱かれて救急車を呼んだんですが、次に気が付いた時にはベッドの上で、母親がいましたが、父親からは「怪我をしたのは自分のせいで、決しておじいちゃんやおばあちゃんを恨んでは駄目だよ」と言われたのは印象的でした。  将来大人になった時に何でもできるような生活をさせてあげないと、この子は不孝になると家族は思ったようで、いろんなことをチャレンジする中で、岡山にはスキー場があって4歳でスキーを始めクロスカントリーも始めるようになりました。   一番最初はストックを股の間に挟んで滑りなさいというのが父親が教えてくれたスキーの技術の一つでした。  クロスカントリーも始めるようになったのは小学校3年生の時でした。   父親が地元のスキークラブにいるときに、小学校の先生がクロスカントリーをやっていて、それで始める事になりました。   

中学2年生の時に岐阜県で全国中学生スキー大会があり、岡山県代表として出場した時に、荒井秀樹さんの知り合いでスタートの役員をしている人がいて、片腕の人が参加しているという事を荒井監督に話したそうです。  長野パラリンピックが3年後にあるけど参加してみないかという事で、3年生の3月にスカウトされたのが、パラリンピックとの出会いです。  20年以上前のパラリンピックは障害を持った可哀そうな人がやっている大会だよね、という風な認識しかなかったので、両親も積極的に応援してくれるわけではありませんでした。   いつか祖父母に僕が頑張っている姿を金メダルという形で返してあげたいという思いがあって、パラリンピックを長く続けられているという風に思います。   多分パラリンピックが無かったら、事故のことを話すことはタブーとされて、或る意味、パラリンピックが家族の結束力を固めてくれた要因なのかなと思います。  

祖母が杉の木の下に腕を埋めたという事を20年ぐらい経って僕に語ってくれました。  木がまっすぐ育つのと僕自身の成長を重ね合わせて、無事にまっすぐ育ってくれた事が嬉しかったと言ってくれたのが、僕の中では印象的でした。  

クロスカントリーでまず一番は、自然を感じられること、寒い中で太陽の温かさを感じるとか、風が吹いている中で自分はこの角度が好きだなとか、新たな発見が出来ることを継続して、その環境を楽しむことが出来るというのが、クロスカントリースキーの魅力だなあと思います。  

長野パラリンピックでは17歳の高校生でした。  日の丸を胸につけて、いろいろな人に支えられてこの舞台に立てるんだという喜びを感じました。  自分も表彰台に立ちたいと思ったのが長野でした。  2002年ソルトレイクシティー大会では大学に進んでいて、銅メダルを取れました。  ドイツのトーマス選手がトップで、僕は実は4位でしたが、ドーピングで繰り上げの銅メダルだったので、複雑な思いではありました。  

2006年トリノ大会では転倒がありました。  僕はストック一本でやるので、コースによっては苦手なコースもあり平らなトリノのコースは苦手でした。  平地で2本のストックを使う選手のほうが圧倒的に早くて、対策をとってトレーニングをしてきたが、現地で選手を見るとそれ以上のことが必要だと痛感しました。  少しでも早くという思いがあり、普段やらないターンをしたり、焦りが出て転倒してしまいました。   同じ練習では駄目だと思って、翌年から会社を変えて、環境、トレーニングの考え方など変えていきました。  

2010年バンクーバー大会、金メダルをとることができる。  2007年から本格的にウエイトトレーニングを行って、2008年8月に結婚して、2009年の12月に祖母が亡くなりました。 祖父も落ち込んでいて、3か月後にバンクバーがあるので、そこでメダルを取って祖父にも頑張ってもらいたいという思いを伝えたいと、金メダルを2つ取れたことはうれしかったです。  地元の報告会で、祖父が「4年後も生きるからそれまでしっかりとトレーニングをやるように頑張れ。」といったのが印象的でした。   

2014年ソチ大会 その間に祖父が他界してしまいました。  モチベーションが下がる集中しないなかで長男、次男が生まれ、妻から中途半端な気持ちではなくやるんだったら応援するけれども、中途半端な気持ちではやってほしくないと言われて、直前の1年では自分自身頑張ったなと思います。   33歳を迎えてソチ大会から帰って来た時に、3歳の長男が手作りの金メダルを用意してくれて、「お父さん 頑張ったね」と言って渡してくれた時に、自分が頑張っている姿を記憶があるうちは現役を続けようと思ったのが、ソチの思い出です。

2018年ピヨンチャン大会では37歳 、再度金メダルをとる。  3.3kmを3周するコースで、スタートして100mぐらいのところで転倒してしまいました。  2周目までは4番で、家族の声援が聞こえて、逆転して20秒差ぐらいで金メダルをとることが出来ました。   自分のすべてを出し切れた会心の滑りだったと思います。   

去年の8月に登山でトレーニングをやっているときに足首を捻挫してしまって、完璧には治っていない状況ではありますが、今まで以上に強い自分になっていたいと思いますし、いろいろなアプローチもあるのでトレーングを続けています。  メンタルのコントロールも重要だと思います。 毎日がチャレンジですし、それを継続することと、どうやったら憧れの方向に持っていけるかという事のアプローチを続けることがスポーツの良さであり、心と体を健康にしてくれるのかなと思います。  若い人たちに対しては、失敗しても恐れない心があれば、必ず昨日の自分よりも今日のほうがよくなっていると思いますし、明日のほうがもっと良くなっていると信じて生活してもらえればいいかなと思います。






2021年9月21日火曜日

植田紳爾(宝塚歌劇団名誉理事・特別顧問)・タカラヅカ ~舞台に込めた平和への思い~

植田紳爾(宝塚歌劇団名誉理事・特別顧問)・タカラヅカ ~舞台に込めた平和への思い~ 

宝塚の舞台に60年以上かかわってきたのが、今年88歳の植田さんです。  兵庫県出身。 劇団の名誉理事・特別顧問を務めています。  「ベルサイユのばら」や「風と共に去りぬ」など数々の作品を世に送り出してきました。   その演出家としての原点が幼少期疎開先の福井県での戦争体験にあると言います。   福井市街の9割以上が焼けたとされる昭和20年の福井空襲です。  

小学校のころから日本は勝つんだとか、どこを向いても国中が そういう空気でした。   12月8日に開戦のラジオを聴きながら祖母が泣いていました。  それが戦争の印象の初めてのことでした。   小学校の6年生の時に神戸の大空襲があって、福井県の細呂木村の村長さんの家に祖母と妹と私が疎開しました。   環境がガラッと変わりました。

  昭和20年7月19日福井空襲がありました。(12歳)    西の方が一晩中燃えて空が真っ赤でした。  翌日に学校へ行かなければという思いがあり、汽車に乗って福井に降りたら、煙の中何にもなくなっていて、とにかく学校に行かねばと思って進んでいきますが、独特の臭いがしてそれが人間の焼死体だということが判りました。  いくつもありました。   福井城のお堀は真っ赤になっていてそこには焼け死んだ人が一杯浮いていていてそれは地獄でした。   何にもしていない人がこうなったと思うと、虚しさ、怒りを感じました。(1500人以上がなくなる。)  

学校に行ったら、どこそこに行けと言われて、行った先は焼死体が集められていて、一か所に集めるために焼けた死骸を手で持った時に、ずるっと皮がむけてゆく。  何をしたからこの人たちはこうなったのかなとか、考える余裕もなく早くこの仕事を終わらせたいという無感情でやっている自分に気が付いて、人間ってこんな気持ちがあるんだと思いました。 人間の感情って怖いものがあると思いました。  いまだに残っています。  

村役場のラジオで敗戦を聞いて、神戸に帰る事になりました。   宝塚のチケットを手に入れて見に行って大ショックを受けたのは、真っ白な衣装、ピンク、ブルーなどでした。 当時はカーキ色の軍服と紺のもんぺで白も汚れた白で、ライトに当たった綺麗さは同じ世界なのかと吃驚しました。  入る時と出る時のお客さんの表情が全然違うんですね。   こんなふうに人を喜ばせる宝塚の仕事がしたいと思いました。  

1957年 23歳で演出家として入団。  中学の先輩に演出をする人がいて、先生から紹介されて、「アーティストになりたいのか、アルチザンになりたいのか」と言われ、「アルチザンになりたい」と言ったらこの本を読みんさいと言われました。  段々知識を得てゆきました。  演出をやる方が面白いという思いが湧いてきました。    

40歳で「ベルサイユのばら」を脚本、演出する。  一番端的に表現できるのは本当に争っている人間同士の場合で、見る方には判り易いので、演劇の手法として僕はやっています。原作を読んで、国が潰れるという事の凄さの中に、アントワネットという女性が毅然として死刑台に登ったのはどうしてなんだろうと、いうところに興味がありました。  有名なセリフ「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」一般の人との生活の落差、その後牢獄に入ってそういったことを肌で感じてゆく。  牢獄ではいろんなことを反省したであろうし、人間の生き方としてこうだったという事は、一種の悟りみたいなものがあったような気がします。  目隠しもされずに階段を登って行って「サヨナラ、パリ さよなら フランス」と言ってにっこり笑う。  にっこり笑って死んでゆける女性を描いてみたい、見る方もその時の気持ちがわかったと言えるように説明してみたい。  

黙ってつつましやかに生活している人達が焼け死んでしまわなければならない恐ろしさみたいなものを書きたいという思いがあります。   

戦争とかいろいろ苦しみを乗り越えて今の日本があるという事は、誰かがどこかで言って行かないといけないなと思います。   何もしていない人たちが戦争に巻き込まれてゆく、そういうものが戦争ですよ、という事だけは言いたいと思います。  宝塚で華やかななかで描くからこそ、その落差をアピールできる。  

演出家として64年になり、16年ぶり婆娑羅(ばさら)の玄孫(やしゃご)が公演。宝塚歌劇の男役を追求し続けてきた轟悠が退団することになり、何か書いてほしいという事で引き受けました。   神経的にコロナ禍で疲れている中、たとえ1時間でも忘れて頂けることは何だろうかと、セリフで伝える事が出来れば面白いと思って、『婆沙羅(ばさら)の玄孫(やしゃご)をやった原因でもあります。  コロナ禍で地球上が一緒になってやらなければいけない時に、若い人たちが街中でたむろして、それはそれでいいかもしれないが、何か失っているものがあるんじゃないかなと思います。   今は平和な時代ですが、生きている人間は、一歩間違えればそういったことが起こるから、そういう事が無いように 皆が努力することなんだから、それだけは覚えておいてくださいと言いたいです。                                 




2021年9月20日月曜日

スティーヴ エトウ(パーカッショニスト)・【にっぽんの音】

スティーヴ エトウ(パーカッショニスト)・【にっぽんの音】 

パーカッショニスト重金属打楽器奏者)  ジャンベ(西アフリカ起源の太鼓で、打楽器のひとつ)、コンガ(元来キューバ民族楽器であった。 樽型の胴の上面にヘッド)が張ってある打楽器膜鳴楽器))、ドラムカン、トラックの金属のバンパー、段ボール箱、などいろいろなものを使います。  「楽器をどのぐらいもっていいますか」と言われますが、「2トンぐらいですね」と答えています。   ホームセンターに行くと何となく叩くのが習慣になっています。   

90年代に布袋君(ロックミュージシャン)のツアーでインダストリアルな音、工場音、金属をたたく音など音を記録できる機械に入れて、ゴム板みたいなものを叩いてそれをセンサーが感じて音を鳴らすのを使っていましたが、ゴム板を叩いて音を出しても説得力がないと思って、直に出るようなものを叩く方が面白いのではないかと思い、ドラムカン、トラックの金属のバンパーなどを叩くようになりました。 

1958年生まれ、親がミュージシャンでアメリカで生まれました。  6歳までニューヨークのマンハッタンにいました。  父は全盲カリスマ箏曲家衛藤公雄です。  宮城道雄の一番弟子でした。  弟は和太鼓奏者レナード衛藤。   父がカーネギーホールとか日本に帰ってきて国立劇場でやっているのを見ていて、凄く華やかにやる人でした。  とてもできないと思って音楽からは離れていたんですが、結果的にこう言う事になりました。  2015年に東京から奈良に移りました。    渋谷に住んでいましたが、街がどんどん変化して行ってしまって、子供の頃の思い出が全部消えて行ってしまいます。  そういったことに疲れた時に、縁あって1000年の建物がある奈良に移り住みました。  

*「兄弟仁義なき戦い」  ライブ人間なので最初で最後のアルバムです。 兄弟で叩き合っています。  和太鼓レナード衛藤  他の楽器:スティーヴ エトウ   即興でやっています。

中学、高校時代は第一期フォークソングブームで、みんなギターを買ってきて歌っていました。   ボンゴを買ってきて始めたのが最初でしたが、どこもやる機会がなくて、大学の時に入ったサークルが軽音楽部みたいなところで、百数十人いました。  ニューミュージック、ヒュージョン(ジャズとロックとアフリカ音楽を混ぜたようなもの)とかあって、僕のような楽器を扱うのは僕一人だけでが常に僕の楽器が舞台にあるような状態でした。  20歳ぐらいからお金をもらうツアーにも参加するようになりました。  一番最初は西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」ツアーでした。   

プロになって40年ぐらいになります。   弟はドラムを始めて、高校を出てドラマーになろうと思っていたようでしたが、兄がレコード会社に勤めていて、仕事の関係で佐渡に行ってみろと言われて行って、和太鼓の世界に入って行きました。  私は家では一切音楽は聞かないです。  

*「輝ける未来に寄せて」 作曲:衛藤公雄(父が13歳の時に作った曲)  箏奏者:衛藤公雄  

今日持ってきた楽器は薄い胴に皮を張ったもので、タンバリンのスズがないようなもので、凄くでかいものです。  皮の直径が1mあります。 

*源平合戦で那須の与一が扇の的を射るところを僕(大蔵基誠)が語らせていただいて、そこに音を乗せていただく。 (コラボレーション)

日本の音とは、お寺の鐘の音と鹿の鳴き声です。  

奈良の東大寺のお水取りを見てびっくりして、最初の2年間は仲間(ちゅうげん)としてお坊さんの付き人役をやって、次の3年間は厨房でひと月に渡って精進料理を作っています。






2021年9月19日日曜日

湯浅誠(NPO法人理事長)       ・【美味しい仕事人】つながりを育む子ども食堂

 湯浅誠(NPO法人理事長)      ・【美味しい仕事人】つながりを育む子ども食堂

子ども食堂が誕生して10年、今、全国で急速に増え続けています。   看板に子どもを掲げているのに、世代を超えた地域の人々が集まってきています。   その秘密は一体何なんでしょううか。   全国の子ども食堂を物心共に応援しているNPO法人「全国子ども支援センター・むすびえ」の理事長の湯浅誠さん(52歳)に伺います。   湯浅さんは社会活動家で東京大学先端科学技術研究センターの特任教授の横顔もお持ちです。  

子ども食堂は全国に5000か所ありまして、去年の12月で4960数えられています。  全国に行政サービスの児童館が4500か所です。 児童館よりも多くなりました。   子供が一人で行けるという事は確かですが、ファミレスに子供が一人で行くとどうしたのと言われてしまう。  大人は全くダメというわけではありません。  子ども食堂の8割は参加条件を付けていないです。   高齢者が来ている食堂は2/3あり子供限定ではないです。  子ども食堂が報道に出始めたのが、日本で子供の貧困対策推進法という法律が出来た時で、その文脈で子ども食堂を紹介されることが多かったので、食べられない子が行くところではないかというイメージが定着してしまいました。  最初の子ども食堂は2012年という事になっていますが、ずーっと変わらず地域の方どなたでもどうぞという事になっています。   行ったら噂になるようなところだと、みんななかなか行きづらいです。

2012年、島根県出身で東京で八百屋をやっていた近藤さんという方が、子ども食堂の暖簾を掲げました。  地域の人を集めてワンコイン寺子屋として勉強する場としてやって居たり、いろんな学校の先生に来てもらって、子供たちが学校の先生に文句を言う場所というようなプログラムをやっていた人でした。    子供が行ける場所が少ないから、子ども食堂という看板を掲げて、地域の方々を含め食べる場を設けたわけです。   それを見た人がこれだと自分たちでもやり始める。   子供の貧困対策推進法が出来て一気に報道が増える。  その報道を見て量が増えて行きました。  生みの親が近藤さんで、育ての親が栗林さん(池袋の方)で自分で子ども食堂をやりながら地域の方の巻き込み力が凄かった。  

栗林さんは講演に行って彼女が呼びかけて、さらに増えて行きました。   山田さんという方はパン屋さんをやっていてにぎわってたが、奥さんを亡くされてパン屋をたたんで落ち込んでいたが、栗林さんに言われて子ども食堂を始めて、今では彼の生き甲斐になっています。   子ども食堂を通じてつながりが広がっている、逆に言うとそういったつながりが減ってきてしまっていたという事だと思いいます。   都会ではないところでは老夫婦だけ、独り暮らしなどが増え、地域が寂しくなってきてしまっている。   昔はこういうところがあったよね、というのが広がった最大の理由です。   一人一人がボランタリーに始める活動です。   

2018年12月、全国の子ども食堂を支援するための民間団体「全国子ども食堂支援センター・むすびえ」を設立しました。    私が子ども食堂に関わり始めたのが2016年ぐらいからで、栗林さんから協力してほしいと頼まれました。   子ども食堂に関する気持ちを受け止める団体がなかった。   自分で作るしかないと思って作りました。   子ども食堂の運営者に対して勝手に応援させてもらっています。    いろんな企業さんからもご寄付もいただけるので、助成金として支援する枠組みを作って、食材の資金とかに対して全国に展開しています。   子ども食堂のスタイルは様々です。  子供さん、保護者、地域の高齢者の方などがまじりあう場所になっていて、そこが子ども食堂の価値だと強調しています。   

兄が障害者で、ボランティアさんが家に来てくれていて、お陰で私はいろんな人と付き合が出来て、その感覚が大人になって大事だと思いました。  多様な人とは経験しないで大人になってしまった人が相手との間合いが判らなくて、問題になってしまう事があるのではないでしょうか。   何がよくてここにきているのと問うと、大人も子供も一番多い答えは「ここではたくさんの人と知り合える。」という事です。   

鹿児島の子ども食堂に行ったときの話、小学校の2年生の子が初めて来て、母親から「行ってこい」と言われてきたとのことだった。   その家庭の状況は判らないが、食堂の方がおにぎり10個持たせてその子を帰した。  「余っちゃったから持って帰ってくれると嬉しい」と言って渡した。  このさりげなく気遣う、間合いが子ども食堂らしいんです。  

大学院在学中の2000年(平成12年)に炊き出しに必要な米穀を収集する「フードバンク」を設立し、翌2002年(平成14年)にホームレスを支援する「自立生活サポートセンター・もやい」を設立しました。  2008年失業者救援の「年越し派遣村」の村長として活動しました。  バブル崩壊後大変な時代になっていました。  1995年に渋谷でホームレス支援を始めました。   1996~70年でホームレスが6倍に増えました。(100人が600人になった。)    社会の貧困の在り方の問題としてはなかなか認めてもらえなかった。

2009年、国も公式に貧困という事を認めて、自分自身の立ち方を変えました。  認められたので、この問題の解決に向かっていかに多くの方がかかわってもらえるかが大事で、そのためには子ども食堂がいいんです。  貧困の活動をやっていて一番しんどかったのが、広がらないという事でした。   広がらない理由は深刻に受け止めてしまうこと。  子ども食堂は地域拠点として活動しているが、中にはそういう貧困の人もいる。  子ども食堂によって関わる人が爆発的に増えたんです。   子供のためにとなるとなんかやってやるかという事になり、自分が子供の相手をしつつ、子供に相手をしてもらっているというか、お互い様のつながりになるわけです。

子ども食堂をもっと当たり前のような感じにしたい。   食べられない子が行くから自分が行くと迷惑になるというのではなくて、食べに行くことで関わることにより、それが支援になる。  子どもは無料で大人は300円、500円とかで払ってもらう事が多いです。  試算した人がいるんですが、大人が10人食べてくれれば7人の子供に無料で出せるんです。 食べに行くことが支援になるわけです。  自分の自治体名とスペースを空けて「子ども食堂」と入れて検索するといいと思います。  近いところで関係を作っていただけたらいいと思います。


 





2021年9月18日土曜日

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(3)

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(3) 

戦後しばらくして自由を取り戻した日本のラジオ、昭和26年には民間放送が登場して浪曲、漫才、落語などその演芸番組は家庭で楽しめる娯楽の中心になっていました。  昭和8年に大阪に生まれて、戦後外地から富山県の高岡に引き上げてきた澤田さん、やがて故郷の関西に戻って大学を卒業すると昭和30年に大阪の朝日放送に入社ます。  ラジオの演芸プロデューサーになった澤田さんは、多くの寄席中継や娯楽番組を制作します。   昭和30年代はラジオの時代からTVの時代に移ります。  コメディー番組やドラマに携わり、最も人気を集めた番組のひとつが、昭和37年から6年近く続いた朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大阪では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。  その後番組制作会社で情報番組、バラエティー番組、ドラマなどの番組や地方博覧会のパビリオンなどをプロデュース、1980年代の漫才ブームの仕掛け人としても知られています。     最終回の今日は大阪の各局が制作した番組がどのようにぜんこくで人気を博したのか、関西弁の番組はどう言ったらほかの地域でも受け入れられるようになったのか、澤田さんの持論をお聞きします。

昭和37年5月 「てなもんや三度笠」がスタートする。   東京と大阪では1週間に3時間半という制約があり、あと30分番組がいくつかしか作れない。   その中に「やりくりアパート」があって、「スチャラカ社員」もあり、夕方6時台を何とかしたいという事で藤田まことを夕方にもってゆくことにしました。  日曜日の6時からだったので、時間帯としては難しい時間帯だった。  半年ぐらいは厳しかったが、そのうち東京でも人気になってきた。   あんかけの時次郎 藤田まこと、珍念 白木みのるさん。  小林信彦さんが週刊誌に「てなもんや三度笠」は面白いと評価してくださって嬉しかったです。    映画化の話があり、東京ではどうかという事もあったが作る事になりました。   映画的な映画でした、テレビとは違う。  でも続編を作る事になりました。   朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大阪では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。  東京で受けたのは笑いのテンポがおっとりした大阪風ではなく、かなりテンポが速かったこともあると思います。  東京の人がタレント、大阪弁に馴染むというようなこともあったと思います。  それまではタレントは大阪弁とか名古屋弁とか、岡山弁などは使っていませんでした。   全国に馴染む大阪弁にしようとして,テンポを早くしたり苦労しました。  東京からゲストを招いたりもしました。  藤田まことさんの凄いのは一時落ち込んでも這い上がって来るエネルギーの凄さ、強い人だなと思いました。  

昭和34年 毎日放送TV 「番頭はんと丁稚どん」がNHKの「私の秘密」を抜いたと言って話題になった。   もともとはヌード劇場があってそこで茶川一郎がやっていて、それを辞めて映画館にして、スクリーンの前にセットを組んで、映画と映画の間にアトラクションみたいにやろうという事でしたが、キタノ劇場でフランク永井さんのショーがあった時に幕間のコントとして大村崑ちゃんなどがやって、スタジオがないので苦肉の策で始めたわけです。  やはり「やりくりアパート」のメンバーが面白かった。  「やりくりアパート」では目立たなかった芦屋雁之助さんが小番頭の役で一挙にスターになるんです。   大村崑 茶川一郎 佐々十郎 芦屋小雁 芦屋雁之助さんなど出演します。       佐々十郎さんが3人の丁稚をいじめたりする役で、その役は嫌だという事で中途で降りてしまって、代わりに芦屋雁之助さんがやって、当たりました。(突っ込み芸)  「番頭はんと丁稚どん」は東京でもめちゃくちゃ受けました。   立体漫才の突っ込みとぼけ、大阪の場合はそれを集団で見せてゆく。

大阪の笑いを東京にわかってもらうためには、物凄く苦労をしています。  曾我廼家五郎さんの時でもそうですし、少しずつ大阪のテーストがわかってもらってきて、今では大阪も東京もなくなっています。 

昭和54年「花王名人劇場」で漫才の企画が当たって大ブームになります。  ここで大阪弁が浸透したと実感しました。  「必殺シリーズ」は最初はアンモラルでこんなものでいいのかという事がありましたが、そこが大阪テーストなのかなと思います。  いろんな条件の中で強くなってきた番組だと思います。  

昭和の時代には大阪の番組が10年ごとに大きな波を起こしたという説を持っていて、昭和24年「上方演芸会」 昭和34年「番頭はんと丁稚どん」 昭和44年「ヤングおーおー」、昭和54年「花王名人劇場」と大きなパワーを送ってきた。   笑いの供給源は大阪ということでいいと思いますが、東京で受けないとどうしようもないという事があるので、東京で受けるようなことを常に意識しながら大阪の番組を作ったらいいと思います。  「ちりとてちん」(NHK連続テレビ小説NHK大阪放送局制作)、「カーネーション」(NHK連続テレビ小説NHK大阪放送局制作)は凄かったと思います。   新しい大阪の味を発信してくれて非常にうれしいです。

2021年9月17日金曜日

鈴木賀子                ・戦災孤児、そして、「駅の子」に

 鈴木賀子                ・戦災孤児、そして、「駅の子」に

鈴木さん(83歳)は戦時中、東京 江東区で暮らしていました。  鈴木さんの日常を一変させたのは昭和20年3月10日の東京大空襲でした。   当時鈴木さんは7歳、親を失い戦災孤児となりました。  その後引き取られた先で暮らすのもかなわず上野駅の地下道で駅の子として生活することになりました。  鈴木さんは戦災孤児、そして、「駅の子」として何を経験し、何を見てきたのか伺いました。

学校から帰る時にはB29が飛んで来たら、どこの防空壕でもいいから飛び込みなさいと、いつも言われていました。  「死んでお国のために尽くせ」とか、小学校1年生でも常に耳に入っていました。  当時父はいなくて、母と姉二人、私、弟でした。  食糧難で朝早く鍋をもって並んだことを覚えています。  お米はわずかで野菜を入れてお汁が多い雑炊をみんなで分けて食べました。    それでも3月10日以降のことを考えたら幸せでした。  3月10日の大空襲では焼夷弾によって焼き尽くされ、およそ10万人が亡くなったといわれています。    寝ていたら空襲警報が鳴って「防空壕に行きなさい」という事は覚えています。   防空壕に入っていたら「いつもと違うね」と母親が言ったのを覚えています。   「大事なものを持って、お姉ちゃんと一緒におばちゃんのところにいっていな。」 というのが最後の言葉でした。  姉と行こうとしたら周りは火の海でした。  逃げまどう人がいっぱいいて、はぐれてはいけないと思ってしっかり姉の袖を握っていましった。  姉は弟を負ぶっていて3人でした。   折り重なって死んでいる人たちを見ました。  

何とか翌朝家に戻りましたが、全部焼けていました。   母と姉は戻ってくるだろうから待っていようという事で待っていました。  いくら待っても来ないので大井のおばさんのところに行こうという事になったと思います。   「母と姉は逃げきれなくて死んだんだよね」と姉がいっていました。  ほかにもいっぱい逃げてきていて、大井のおばさんのところで雑魚寝をしていました。  翌日か、翌々日にはここには居られないと姉が思ったようで、荒川区のおじさんの家のほうは燃えていないようだという事でそちらに向かったようです。    姉は職場(国鉄)に戻ると言って戻って行きました。  親戚のおばさんらしい人が来て食べ物をくれてむさぼるように食べました。   おばさんと一緒に弟と電車に乗ったら、なかなか降りないのでどこへ行くのか聞いたら、「北海道の小樽へ行って、おばさんちの子供になるのよ。」と言われました。   

最初は優しかったが、箸の上げ下ろしまで文句を言っていました。  そのうち手をあげるようになって、弟がおねしょをしてよくたたかれました。   弟をかばったりすると「もらってはきたけれどこんなに可愛くないとは思わなかった。」と言っていました。   或る時弟が居なくなって探したら、小樽の駅でうずくまっていました。  「ごはんが食べられなくてもいいから東京へ帰ろう」と言いました。   話したら、「判った、返す」と言いました。  青函連絡船の船に乗って、弁当を買いに行くと言ってお母さんが居なくなって、二人になった時にどうしようかと思いました。  甲板に出て泣くだけ泣きました。 姉が勤めている駅は高円寺だという事を思い出して、何日かかったのか覚えていませんが、それだから帰ることが出来ました。  食べ物がないので一軒一軒物乞いして歩きました。追っ払われたりしましたが、中には食べ物をくれる人がいて、弟と二人で駅で食べていました。   

姉と会う事が出来て、「まさか会えるとは思わなかった、お前は強いね。」と姉がいっていました。   姉が暮らしている寮に一緒に入らしてもらいました。  当時ものが盗まれたりして、姉が責められる姿を見てかわいそうに思いました。  3人で上野に行ったら、地下道にはいっぱいいました。   入口のところに私と弟を置いて姉は職場に帰って行きました。  お手洗いは公園にあるし、水道はあるしここにいることにしました。  亡くなる人は毎日のようにあり、2,3人で運んでいきました。   暴言を吐かれたり、殴られたりはしなかったので、空腹だけど小樽よりはいいと思いました。   闇市の残飯、ゴミ箱に捨ててある食べ残しで食べられそうなものを手当たり次第に食べました。    昼頃になるとベンチで弁当などを食べようとするので、5,6人のグループで(上は中学生ぐらい下は私でそれぞれ役割があり)で、弁当を開いたところをすっと盗むわけです。  逃げる道と集まる場所は決めてあります。  食べる量は大したことはないですが、弟の分も確保しました。  食べること、生きる事に精一杯で悪いことなんて思っていませんでした。 

上野の地下道には3,4か月いました。  姉が双葉園という孤児院を捜してきてくれましたが、一杯で弟しか引き取ってくれませんでした。   茨城の農家で引き取ることにはなりましたが、3人子供さんがいて貧しい農家で、そこでも口ではやられました。 ご飯は一善しか食べさせてもらえませんでした。 2~3か月で別の家に引き取られました。  ご飯を食べて,「お替わりは」と言われて、途端に涙がぶわーっと流れました。  その家で食べさせてもらって、中学が終わるまで居させて貰い本当にありがたいと思いました。   恩があるので村のなかでいい子でいようと背伸びしていました。   学校から帰って友達と遊ぶことはなく全部うちの仕事をしていました。   自分の弱みは見せまいといつも思っていました。   先生からも「お前疲れるだろう」と言われました。   お母さんがガンで亡くなる前に、「あんたにもうちょっと甘えてもらいたかった。」っていいました。   そうかと後悔はしました。   

戦争が終わったと感じたのは、鈴木と結婚するまではずーっと引きずっていて、結婚するといろんなしがらみがなくなり、周りに気を使うことがなくなり、自分の城が持てるので、それで気持ちが変わりました。   戦災孤児だったという事は私の力になっていて、心の傷にはなっていません。   人に甘えるということができない、それは鈴木からも言われました。   どんな馬の骨とも判らない私を食べさせて学校に通わせてくれた、そんな有難いことはない。  そのお母さんには誰よりも感謝しています。  それがなかったなら自分はどうなっていたかわからない。  



2021年9月16日木曜日

細江純子(JRA初の女性騎手・ホースコラボレーター)・馬に魅せられて

細江純子(JRA初の女性騎手・ホースコラボレーター)・馬に魅せられて 

細江さんは高校卒業後、JRAの競馬学校に入り20歳でJRA初の女性騎手としてデビューしました。   5年間通算14勝で現役を引退し、その後は新聞、テレビ、雑誌などを通じて馬の魅力や競馬の楽しみ方などを語り、馬とファンと競馬関係者を繋ぐ活動をしています。  現役ジョッキー時代は男社会の環境に戸惑い、人間関係に悩んだ時もありました。  又馬の気持ちを考える余裕もなく、自分にも馬にも無理を強いていたという事とです。  競馬の世界は厳しい世界ですが、馬の育成にかける厩務員の昼夜を問わない取り組みなど、レースの裏に様々なドラマが秘められていると言います。  JRA初の女性騎手であり馬に魅せられた細江さんの歩みを伺いました。

馬とファンと競馬関係者を繋ぐという思いで、ホースコラボレーターという名前を作ってしまいました。   コロナ禍ですが、中央競馬会は一日たりとも競馬がストップという事はありませんでした。  日本の中では大きく二つに分かれていて、中央競馬と地方競馬に分かれています。   中央競馬は全国に10か所競馬場があり、土、日に2,3場が開催されています。  馬は暑さに弱いので夏は北海道開催が多いです。  トレーニングセンターは2か所、茨城県、滋賀県にあります。   大きな大会、メッカは東京競馬場という事になります。   菊花賞は京都競馬場で3000mで行われます。   各競馬場によっていろいろコースも景色も違います。   馬は繊細ですし、個体差があり、複雑な要素が絡んでいます。   

アニメ、漫画で競馬を題材とした『ウマ娘 プリティーダービー』があり、若い人、女性、子供さんなどが競馬を知りたいとか、見てみたいという事で、人気になってきています。  牝馬限定レースもありますが、一緒に走る事になっています。   牡馬と牝馬では負担重量の違い(ジョッキーの体重さ)で差をつけています。  日本ダービーで牝馬が勝ったこともあります。   

馬は生まれた時は馬ですが、人間と馬が対話をしてゆく中で一つ一つクリアしてゆき、一つのレースに、一つの勝利に向かってゆくその過程というのが、競馬の魅了なのかなあと思います。  日々馬に接することで、この馬がどんな馬でどれぐらいのポテンシャルを持っていてどういう事が嫌いでそういう事が好きなのか、どういう事が苦手なのか、探って行ってその中で一つのレースに向けていって、馬とのやり取りを見てゆく、取材してゆく、感じてゆくというのが好きだなと思っています。  

ソダシは白毛馬で白毛馬は少ないです。 G1で白毛馬で勝つのがソダシという馬です。 札幌記念の前のオークスでは2400mというソダシにとっては長いコースで負けてしまいましたが。   札幌記念では牡馬、齢の上の馬のいる中で、自分らしい競馬に徹することが出来たのは素晴らしかったと思います。  ゴールした後ジョッキーがソダシの首のところをポンポンとたたいていましたが、よく頑張った、ありがとうと語りかけるときです。   

レースは生き物で、グラウンドコンディション、馬の走る特質、戦歴とか、いつも万全というわけでもないし、馬に関わる人たちがいかに馬のことを理解するかが大事だと思います。私はブエナビスタという馬が好きで、綺麗な顔をしていて眼がクレオパトラ見たいな眼をしていて、強くていろいろなレースを勝っていきますが、ジャパンカップで一着で入るが後着になってしまう。  他馬を妨害したという事で一着ではないレースがありました。   そのレースを機に勝てなくなってしまう。   その1年後の同じレースで勝利を挙げるんです。  100m手前でブエナビスタ自身が奥歯をかみしめてギアを一段階あげてゴールを駆け抜けたという事でした。  1年前ブエナビスタのジョッキーだったのが、外国の人でしたが、ブエナビスタが勝てないことを気にしていたが、今回別の馬に乗っていたが、駆け寄ってブエナビスタに勝ってよかったなと撫でるんです。  私自身感動的でした。  その後の調教でもなんか明るくなったという感じでした。  その後の有馬記念では復活したブエナビスタがやってくれるのではと周りは思うんですが、7着で負けてしまいます。  しかしジョッキーには追い抜いてゆく馬に「みんな頑張ってね、あとは任せた。」と聞こえたというんです。  ブエナビスタのことを私は「おしん」というんですが、おとなしくて耐え忍ぶ強い馬だったんです。  私のなかでは「心の師匠」と呼んでいます。

1996年 JRA初の女性騎手としてデビュー。   日本に競馬が入ってきたのは1860年(万延元年)江戸末期。  日清、日露戦争で日本の軍馬は西洋の馬に比べて劣っていることを感じた明治政府は1905年(明治28年)軍馬育成の国策として、競馬の開催を始める。   第二次世界大戦後一時期GHQにより禁止されたが、1948年競馬法を新たに定めて農林水産省の管理のもとに畜産業の復興支援のために、国営競馬が新たに始める。   1954年(昭和29年)農林水産省の畜産局から日本中央競馬会が引き継ぐ形でスタート。

競馬学校には私より先に入学している人が3人いました。  しかしプレッシャーがあったのか中途退学してしました。  父が競馬中継を見ていて、私も一緒に見ていて或る馬一頭だけが騎手と馬が一体に一つの塊に見えて、追いかけて見っていたら一着でゴールインしたんです。  そこで馬とか、騎手とかいろいろ知りたいと思うようになりました。 アニメで馬と女の子が一緒に成長してゆく物語があり、馬をもっと知りたい、乗ってみたいと思うようになりました。   

3年間の寮生活があり、騎手としてデビューしても、馬主さん、管理する調教師さんがこの騎手に乗せようと騎乗依頼がないとレースコースに立つことはできない。   人間関係、縁故関係などのサポートだと思います。  数年前にデビューした藤田菜七子さんという女性ジョッキーが活躍してそれに憧れて、女性騎手になりたいという女性も増えてきて、今中央競馬会には3人の女性ジョッキーがいます。   

年々レース数が少なくなってきて、自分の中の葛藤もあったし、年齢的なこともあり、海外で勝利をしたという踏ん切りもあり、5年間で引退をしました。   武豊の「競馬を伝える仕事をしてみたら」という助言をきっかけに段々チャレンジしてみようかな思いました。  取材してゆくうちに何にもわかっていなかったなと気づいて、もっと馬を知りたいと思うようになりました。  厩務員さんの話も面白くて、いろんなことを学ばせてもらいました。  










2021年9月15日水曜日

六代目立川談笑(落語家)        ・ガンからの復帰・声が出た

六代目立川談笑(落語家)        ・ガンからの復帰・声が出た 

1993年に27歳で立川談志師匠に入門、1996年に二つ目、2006年に真打に昇進した立川談笑さんです。  古典落語をもとにブラックジョークを交えた改作落語が評判で、立川流四天王の一人として知られています。   談笑さんは今年の3月ゴルフボール大の甲状腺の腫瘍が見つかり手術で声が出なくなるかもしれないと言われていましたが、5月31日に手術を受けてそれが成功し、順調に回復して6月13日に高座に復帰しました。   

声の神経を腫瘍が取り込んでいるかもしれないという事で、最悪の場合には神経を切ることになるかもしれない、声は出るがかなりのかすれ声になってしまうかもしれないと言いう事でしたが、有難いことに声が出るようになりました。   うまくいってかすれ声だと思ってくださいと先生から言われました。   手術が終わって麻酔が切れたらすぐ声を出してみました。   声が出なかったら廃業することになるし、弟子をどうしようとかいろいろ考えました。  

腫瘍があることは小学生の時から知っていて、調べたら陽性という事でした。  今回のきっかけは肺のレントゲン検査で気管の部分が左右に広がってると言われて、腫瘍が悪性になってるかもしれないという事で調べてもらったら悪性でした。   後で判ったことですが、良性の腫瘍の隣に悪性が出来ていたとのことでした。   左を向いて声を出すのが出しにくいとか、高音が出ない領域が出てきたりという事はあります。   1年かければゆっくりと治ってゆくとは言われました。

最初の独演会で2時間声を出しっぱなしなので、もし中途で駄目な場合は弟子にスタンバイしてもらって高座に上がりました。   最初の一声は「声が出ます。」でしたが、大きな拍手で感極まりました。   2年前にも大腸に穴が空く病気をしていましたが、かなり救命率の低い急性の病気で緊急手術で致死率が33%といわれていました。   大腸の一部の壁が薄くなっていてそれが弾けて穴が開いてしまったという事でした。  再発しないように腸内環境を整えるために毎朝ヨーグルトを食べています。   

(立川流四天王 志の輔、談春、志らく、談笑の四名)

立川談志が立ち上げた立川流は寄席をとびだしてしまって、寄席というベースがないんです。   落語をやる場を自分たちで作って行かなくてはいけない。   若手が5,6人でチームを作って新作落語を作ったり、お客さんを開拓してゆくというグループ的な動きが強くなってきました。  内容も演者ごとに工夫することがかなり自由になってきました。 改作落語に取り組んでいます。  場合によっては時代を現代に置き換えたりしてやっています。   「居酒屋」という落語などでも、今では小僧が居ないし、メニューも違うのでいろいろ工夫しています。  

現在55歳ですが、小さいころは母親が看護師だったので医者になりたかった。   父親はとび職で、親方でした。  男三兄弟の真ん中です。  中学、海城高等学校時代は柔道をしていました。   一浪していて、これで駄目だったらプロレスラーになろうかと思いましたが、早稲田大学法学部に受かりました。   弁護士か警察官になろうと思って司法試験の勉強をしていたが、司法試験の壁が大きくていったん凍結して、ほかに何かやることはないかと思って、落語を聞くようになって志ん生師匠にのめりこんで、齢がいっていたが立川談志師匠に入門しました。 

若いころ民放のリポーターも15年以上やりました。(30歳から)   オーディションがあり2000人から2人選ばれました。   いろんな人に生でお会いできて、あれは落語にもよかったと思います。  講釈ネタなどはまだ手をつけていないものが多くあり、リズムとメロディーとで聞いていて心地よくなるようなそういう話ももっと積極的にやって行きたいなあと思います。














2021年9月14日火曜日

山本勉(鎌倉国宝館館長)        ・仏像を知り、人間を知る

 山本勉(鎌倉国宝館館長)        ・仏像を知り、人間を知る

1953年神奈川県生まれ、68歳。  東京芸術大学在学中、奈良で出会った運慶の大日如来像に惹かれ、以来仏像研究に打ち込んでいます。   これまでに仏像の解説書を数々出版していますが、今年5月に出版した「完本 仏像のひみつ」は親子向けの仏像企画展がもとになった書籍で、非常に判りやすくユーモアに溢れています。  人生に仏像研究をささげてきた山本さんに仏像の魅力とその半生を伺います。

「完本 仏像のひみつ」 判り易く、イラストがコミカルなタッチです。  表紙は東京国立博物館にある重要文化財の菩薩立像です。  

子供のころは特に仏像には興味はなかったです。   美術史、美学を大学で勉強してから、漫画家になろうと思いました。   大学に2年生の時に、奈良に研修旅行に行って、運慶が若いころに作った圓成寺の大日如来像にであって感動して、仏像の凄さを知ったのが始まりです。   仏像っていうのは人間の体をしているんだという事が一番大きかったです。  当たり前の事実にショックを受けました。   運慶という作家、仏像についても勉強したいと強く思いました。   実技をやっている学生たちに対して、自分というのはなんてつまらない存在だろうと、凄く劣等感を持っていました。   仏像の勉強を始めて、仏像の形を見てわかる、判ったことを言葉にしてゆく、そこにはテクニックがあって訓練が必要で、訓練というのは実技の人がやっている訓練と近いことだと、そこで初めて実技の学生に対しても対等でいられる希望を持ちました。   

仏像を研究する人は実際にお寺に行って、安置されている仏像を降ろして、詳しく調べるわけです。  調べたことを記録して保存して一部の研究に使ってゆく、そういったことをはじめました。   そういったことを一生続けたいと強く思いました。

まずは形を調べます。(髪形、衣類、詳細な各部の大きさ、構造、材料など)  内部に文字が書かれていたりするので、作った年代、修理した年代、かかわった人の名前がわかる時もあります。   学生時代からやってきたので随分な資料になります。  仏像の構造などを自分で描くと自分と仏像とが深くつながったような気持ちになります。   

有名な仏像もありますが、知られていない仏像を調べてそこに光を当てて、知られるようにする、無名な仏像を有名な仏像にするというのに興味がありました。   

大学院に行って運慶の研究をしようと思いましたが、新たに加えるようなことは何もなく悩みました。   それで鎌倉時代の中、後半の仏像作家、仏師の研究を始めました。  その研究が評価を得て博物館に勤めるという機会がありました。  最初は写真資料を整理する仕事が中心でした。   昭和50年代は写真を広げて仏像の研究が出来る時間帯がありました。    或る女子大学生が来て、自分の地元の仏像を調べてくれないかとの話がありました。  栃木県足利市の大日如来を調べに行きました。  それを見たら運慶作ではないかと思われました。   X線で調べてみたら胴内納入品が確認でき、運慶でほぼ間違いないという事が判りました。  そのことを長い論文にすることによって運慶に近づけました。    「大日如来像」という単行本も出すことになり、表紙には足利の大日如来像を掲げました。  

「大日如来像」という単行本を見た方が、或る「大日如来像」を購入したそうで、X線で調べてみたいという事で、「大日如来像」の写真を送付してきました。   いかにも運慶作らしい感じがして吃驚しました。   東京のお宅に見に行きました。   どうも運慶らしいという事で詳しく調べてみると納得がいきまして、博物館に展示もし、論文も書きました。   文化庁などが交渉して購入しようとしたが、首を縦に振らず、ニューヨークのオークションにかかってしまった。  14億円で落札された様です。  2週間後宗教法人真如苑から私に電話があり、どうしましょうかという相談を頂いて、国立博物館に戻しましょうと話までして、実現して、真如苑では半蔵門ミュージアムという美術館を作ってそこに今安置されています。   無料で拝観できます。  運慶の「大日如来像」とは数奇の運命を感じます。   

退職直前に親子向けの仏像企画展を開きました。   これが今年5月に出版した「完本 仏像のひみつ」の出版のきっかけになっています。   仏像企画展が自分でもびっくりするぐらい好評でそれを展開しました。   専門家がどんなふうに見ているのか、どんなふうに考えているのか、専門用語を使わないで伝えたいと思っています。  東京国立博物館を退職して1年後に出版しました。   「仏像のひみつ」はこれで3冊目で全部で10の秘密を提示して、3冊目で「完本 仏像のひみつ」としました。  

できれば仏様を作りたいという思いが仏師の中にはあるんだと思います。  最初の「仏像のひみつ」の本が出来る直前に、妻が交通事故で亡くなっています。  そのことをあとがきに付け加えましたが、その部分が読者の心に響いたようで、「これは新しい仏様に捧げた、新しい経典である。」という言葉を書いてくださった人もいました。  

20年前から、日本彫刻史資料修正という事で 鎌倉時代の銘文とか納入品とかで判った年代の資料修正をやってきて2/3は完成しましたが、1/3はまだ残っていて完成までは10年以上かかると思いますが、何とか完成したいと思っています。  







 

















2021年9月13日月曜日

伊藤久美(トランポリン伊藤正樹選手の母)・【アスリート誕生物語】

伊藤久美(トランポリン伊藤正樹選手の母)・【アスリート誕生物語】 

伊藤正樹さんが引退したのは2019年5月でした。  母校の金沢学院大学で後進の育成のためコーチをやっていました。  昨年9月に自分でトランポリンクラブを立ち上げました。   天井の高さは10mあります。   8mぐらいは跳びます。  20秒ほどの間に技を10回違う技を披露しなければなりません。   

2歳の時に始めて小学校3年生の時にオリンピックの強化選手に選ばれました。    3年生ぐらいまではとんとん拍子で上位をキープしていましたが、4年生の時には3大会連続で中断して決勝に出れないことが続きました。    3回目の時には大泣きしていました。   「お母さんも頑張るから又練習だね」と励ましました。   正樹が4歳の時に乳がんということが判って、手術をしてしばらく留守にしていました。  子供心にも判っていたたようで、「お母さん頑張るよ」と言葉に出ていました。   病院に通いながらも「自分に勝つんだよ」と励ましていました。    

兄、姉がいましたが、正樹も運動神経は良く一番飛び抜けていました。   スキー、水泳でもすぐにうまくなっていきました。   トランポリンは楽しくてしょうがなかったようです。  高さは小さいころから同年代の子よりも高かったようで、コーチからも褒められていました。  小学校3年生の時トランポリン一本に絞りたいという事でそのようにしました。  夜5時から8時まで練習していました。  小学校3年生の時にオリンピックの強化選手に選ばれました。   2000年にオリンピックの正式種目になりました。

しつけは良いことと悪いこととの判断がしっかりできて、挨拶がきちんとできる子に育ってほしいと、いつも声掛けをしていました。   幼稚園で障害を持った子と自然に接していて優しく接していましたので、小学校に行っても同様に優しくしていました。  トランポリンだけでなく何かうまくいったら褒めていたりしました。   姉が野菜を食べなくて正樹も同じように野菜が食べられませんでした。   上の二人も段々いろんなものを食べるようになったので、そのうち食べられるようになるかと思ってあまり口には出しませんでした。   ヒレカツ、から揚げ、ハンバーグは大好きでした。 

シドニーオリンピックを見に行って、小学校の卒業文集にもオリンピックに出たいと書いていました。  中学でも北京オリンピックに出たいと書いていました。   中学では全日本で優勝、高校では本人の希望の金沢学院東高等学校に進学。  寮生活なので多少心配がありましたが、何かあったら先生や周りのご父兄に相談しなさいとは伝えておきました。 用がなくても時々見に行きました。  2008年の北京オリンピックは代表を逃しました。   オリンピック選考会の時には自分の演技が出来ませんでした。  補欠になってその悔しさがあったみたいで、しっかり練習をしていました。   そのあとのすべての大会では優勝とか上位の成績を残していきました。  ランキングも1位になりました。  

ロンドンでは4位、リオデジャネイロオリンピックでは6位。  二大会とも家族とかコーチなどと供に見に行きました。   リオでは腰を痛めていて出来てほっとしていたのではないかと思います。   高く跳ぶことは多少才能があったのかとは思いますが、あとは努力、努力の積み重ねです。   辛いといったことは一度もありませんでした。

身体は整体師に見てもらっていて、首、背骨、腰のずれ、左右の足の長さのずれなどを直して見てもらっていました。  大きな大会の前には必ず行っていました。  

2019年現役を引退。  目の前が東京だったので、何とか東京に出てもらいたいという思いがありましたが、 腰痛ともずーと戦って来たし、本人が決めたことなので、受け入れました。   リオデジャネイロオリンピックの直前のインタビューで「幼いころ乳がんと戦いながら支えてくれた母に金メダルをプレゼントしたい。」という話でした。  10年間病院に通いながら病気と闘ってきて、正樹はそれを見ながら私が正樹を支えていると判っていてくれたんだなあと思いました。  私も正樹の頑張りを見て病気と戦えたので、正樹に感謝しています。   








2021年9月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

ジョージ・ガーシュウィン ミュージカル「ショーガール」から「アイダ」  ベニーグッドマンのクラリネット  ベニーグッドマンクインテッド  1945年の録音   

ジャズの遺伝子2021年バージョン。  

ブルーノート スケール はメジャー・スケール(長音階)に、その第3音、第5音、第7音を半音下げた音を加えて用いるもの。  その音がどことなく物悲しい雰囲気を帯びていたため、ブルースの語源であり「憂うつ」を意味する「ブルー」の名称で呼ばれ定着したとされる。  1920年代のポップス、ジャズは当時のクラシックの人たちを魅了した。  ポップス、ジャズの人たちもクラシックの影響を受ける。   タンゴ、サンバ、南米の響き、シャンソンなどもクラシックの人たちを魅了した。 

 作曲家バルトーク 「コントラスツ」 ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための作品。

ヴァイオリンはヨーゼフ・シゲティ、クラリネットはベニーグッドマン、ピアノはバルトーク自身のことを考えて書いた。

*「コントラスツ」 第三楽章の部分

フランスのラヴェル、ロシアのラフマニノフもジャズやアメリカの新しい音楽の息吹を感じていた。

1920年代はラジオが放送されアメリカの文化とヨーロッパの文化が電波を通じて行き来する。 

ラヴェルのオペラ 「子供と魔法」 コミカルでファンタジックなオペラ。  ラヴェルが初めてジャズを取り入れた作品。  

ラヴェルが晩年作曲したヴァイオリンソナタ 第二楽章はブルースなんです。 

*ヴァイオリンソナタ 第二楽章の一部

ラヴェルはガーシュウィンと交流がありました。  

*「パリのアメリカ人」 ジョージ・ガーシュウィンが作曲した交響詩  クラクションの響きがある。

今年亡くなって50年のロシアの作曲家 ストラヴィンスキーもジャズに魅了された作曲家の一人です。  

*「サーカス・ポルカ」  ストラヴィンスキー作曲   ストラヴィンスキーに象のためのポルカを書いてほしいといったのは象の振り付けをまかされていたジョージ・バランシン(20世紀のバレエに多大な影響を与えた。)  シューベルトの軍隊行進曲が実はベースになっている。 ジャズっぽいメロディーになっている。  

*「スカラムーシュ」   ダリウス・ミヨー作曲の楽曲。ピアノ二重奏の版、アルト・サクソフォーンまたはクラリネット独奏とオーケストラ(またはピアノ)の版がある。

*「バラ色の人生」  作曲:ラ・ヴィ・アン・ローズ  歌:エディット・ピアフ

*「パリの空の下」  作曲:ユベール・ジロー  クラリネット:ダニエル・オッテンザマー

フランス映画巴里の空の下セーヌは流れるの挿入歌でもある。





2021年9月11日土曜日

小松 みゆき(ベトナム残留日本兵家族会コーディネーター)・ベトナム残留日本兵と その家族を探しつづけて

 小松 みゆき(ベトナム残留日本兵家族会コーディネーター)・ベトナム残留日本兵と その家族を探しつづけて

ベトナム ハノイ在住でベトナム残留日本兵家族会コーディネーターの小松みゆきさん(73歳)のお話です。  第二次世界大戦終結後、ベトナムに進駐していた日本軍は武装解除され日本に引き上げました。   しかし600人以上が帰国せずに残留し、独立のためにフランス軍と戦ったベトミン ベトナム独立同盟からの誘いを受け、軍事教官、兵士、軍医などとして働きました。   彼らは新しいベトナム人と呼ばれ、ベトナム名を名乗り、家庭を持ち、ベトナムに根を下ろして暮らしました。   ところが9年後の1954年フランスとの戦争に勝利すると、ベトナム政府は方針を変え、残留日本兵の日本への帰国を促しました。   この時家族の帯同は許されず、日本とベトナムの国交が途絶えたことで、元日本兵と家族の連絡もほとんど途絶えました。   29年前、ハノイでこの事実を知った小松さんは日本語などの教師の傍ら、家族たちの相談に乗り帰国した元日本兵を捜し、再会を助ける活動を始めました。  その結果、一つの家族の対面と4人の元日本兵の墓参りを実現させました。   これまでの活動について伺いました。

私がベトナムに来たのは1992年です、29年前のことでした。   空港からは田園風景の見られるのどかな雰囲気のところでした。   成長の波に乗ろうと外国語を学ぼうとする人が多くて日本語ブームでした。    最初に受け持ったクラスにソウさんという40歳前後の男性がいて、私の父は日本人ですと言ったんです。  調べて行ったら 第二次世界大戦終結後、ベトナムはフランス軍と独立戦争になって行くんですが、その時にベトナムに身を投じるという事がありました。    彼らのお父さんを捜すことにのめりこんでいきました。    調べてゆくにあたって、まずはベトナムの歴史を知らなければいけないと思いました。   

第二次世界大戦末期、ベトナムはフランスの植民地でしたが、日本軍が進駐して支配下において、敗戦によって日本軍は引き上げることになるわけですが、600人以上の日本軍や日本人が残留したといわれています。   明治時代からいた民間人もいました。   1944年(昭和19年)のハノイ日本人会の名簿が見つかり、600人以上が居て軍人だけではなくその中には商社、金融関係、デパートなどの駐在員が沢山いました。   その多くがベトミン ベトナム独立同盟というところから誘いを受けますが、自分達は武器もなくどうやって戦ったらいいのかわからなくて、日本人の手が欲しかったともいわれています。   彼らは新しいベトナム人と呼ばれ、ベトナム名を名乗りベトナム人としてこの地で生きてゆく決意をして、家族をもってベトナムに根を下ろして暮らしました。  9年後の1954年フランスとの戦争に勝利すると、ベトナム政府は方針を変え、残留日本兵の日本への帰国を促しましたが、家族の帯同は許されなかった。  1949年に中国に新しい政府が誕生して、後半の戦争には中国が入ってきているんです。  その時に日本兵が手伝ったという事はまずいということと、ベトナムでも自分たちだけで勝利したとしたかったという事で、日本兵がここに残っていることがまずいという空気が生まれて、穏便に帰っていただこうという事になりました。  

べトナム戦争では日本はアメリカの同盟国とみなされ、1954年から1973年までは日本との国交が途絶えて、元日本兵の多くはいろいろな事情で、日本で家庭を持つとか新しい生活を始めるわけです。  ベトナムの家族とはそれっきりになってしまうわけです。  ベトナムに残った子供はいろいろ差別があり大変でした。   ベトナムは父系家族で父親を思い続けます。  母親も子供も父親に会いたいという事で頼み込んできました。

ベトナムの家族は人づてに、それと名簿もありかなり役立ちました。   6人の妻とその家族(孫を入れないで23人)、元日本兵は11人を捜しました。   元日本兵と妻の再会は一組で、親子の対面も一組です。   元日本兵の4人の墓参りが実現しました。  皆が皆、ベトナムの家族との再会を望んだわけではありませんでした。    再開した人にスアンさんという人がいて、2000年ごろに初めてお会いしましたが、 1924年生まれの方で、当時76歳、会った時に「私は春子です。」とすらすらと言いました。  「湖畔の宿」を歌いだすんです。  夫の軍服を抱いて寝てるんだと話してくれました。   終戦の4か月前に知り合ってお互いに惹かれ合ったようです。  彼女が21歳、清水さんが24歳の時に結婚しました。(残留後)   日本兵は単独で帰るように促されたそうです。  1954年9月清水さんは出張に行くと告げたきり帰ってきませんでした。  スアンさんは農業をしながら託児所で働き、貧しさのなか3人の子供を育てました。  1993年になってある人(宮崎功さん?)がスアンさんに清水さんは日本で元気だよと告げたそうで、その話を聞いた時に、私は何とか再会できないものかと思うようになりました。  

そのころ小松さんは故郷の新潟で認知症になった母親をハノイに呼んで2人で暮らしていました。  ベトナム国営放送の日本語部門で働いていて、仕事をしながら母親の世話をしていました。 それを「ベトナムの風に吹かれて」という本に書きました。

「ベトナムの風に吹かれて」 本を出版。  松坂慶子さん主演で映画にもなりました。 認知症になった母を新潟から移住させ新生活を始めた。 ベトナム人は家族や高齢者を大切にしますから、みんなが私の母親を親切に扱ってくれました。   母親とはベトナムのいろいろなところへ旅行しました。  スアンさんとも会い、スアンさんとはいたわるような、励まし合うような感じで、仲良しになりました。   言葉は通じないのですが、言葉はいらないなと思いました。   いろいろな交流のことを文章にしてまとめて、2004年の国立民族学博物館の機関誌に載って(3人の妻たちのリポート)、ドキュメンタリー放送をしたいという事でNHKから電話がありました。  日本に戻って、スアンさんの夫の富山県の清水義春さんのお宅を訪問しました。   清水さんは83歳で脳梗塞を患い半身不随でした。  共産国帰りという事で仕事も見つからずいろいろ苦労したようです。     スアンさんに清水家からビデオレターが送られ、スアンさんが清水さんへの愛を語って、清水さんの娘さんの和子さんが父を連れてベトナムへ行きたいという事で、2006年、番組が放送された翌年、一家がお父さんをべトナムに連れてゆきます。(52年振り) スアンさんと3人の子供とその家族、総勢8人と対面しました。 清水さん家族は清水さん夫妻、娘さんの和子さん、和子さんの息子2人の5人でした。   凄く感動的でした。  

2016年 在ベトナム大使館の梅田邦夫大使がスアンさんら家族代表25人と面会されました。  2017年3月天皇皇后両陛下とスアンさんら家族代表25人と面会されました。「・・・私が居なくなってもこの友好は続きますように・・・」とスアンさんがハプニングで挨拶されました。  思わずスアンさんを美智子様が抱きしめるんです。   私にも声を掛けられて、母のことについても問われて、感動しました。  

2017年10月子供たち14人による日本へ4人の墓参旅行が実現しました。  清水さんの遺骨をスアンさんの一家に分骨して、ハノイ郊外に供養されています。  スアンさんは2018年93歳で亡くなりました。  二人はハノイ郊外の土のなかに一緒に眠っています。 

南ベトナムに移動した日本人もいて、彼らがどうやって日本に帰国したのかという事も調べて本にしたいと思っています。

日本にはベトナム人が40万人ぐらいいますが、いろんなことが起きていて、なんでそんな事が起きるのか、お互いの理解が薄いので、そのギャップを埋めるための「文化の変圧器」の役割をしていきたいと思います。





  




 

2021年9月10日金曜日

2021年9月9日木曜日

鎌田清衛(福島県大熊町)        ・なかったことにはさせない

 鎌田清衛(福島県大熊町)        ・なかったことにはさせない~福島・原発事故で消えかける戦争の遺跡~

福島県大熊町は放射線の影響で今も広い範囲が帰還困難区域に指定され、自由に立ち入ることができません。   こうした中、町に残された震災遺跡をフロッタージュという手法で記録しているのが大熊町の鎌田清衛さん79歳です。   

震災前は果樹園を経営していました。   事故を起こした福島第一原子力発電所から3.4kmのところでした。   現在は立ち入りできないことになっています。  平成8年に発足した故郷塾があって、そこの会員として入っていました。   故郷のことについて勉強していて、十数年経ったら震災が起きました。   

フロッタージュ(frottage)はフランス語で、「frotter(こする)」に由来する。  紙に鉛筆でこすって写し出すような事。    最初にフロッタージュしたのは中間貯蔵施設の無くなるであろうといわれるもの、集会所の看板とか、橋の銘板、記念碑などです。  県立博物館の行事のなかで、震災後町に入りたいがわからないから案内してほしいという事で、入ったのが一番最初のフロッタージュに会うきっかけでした。   被爆したコンクリート、木などをフロッタージュしたいという事でした。   拓本にしようとすると1枚仕上げるのに4,5時間かかってしまいます。   当時は2,3時間で被爆量が多いため立ち去らなければならなかった。(被爆後3年)   フロッタージュだと大体1時間に1枚できる。  始めてから5年経ちました。   なんでこんなことをやらなければいけないのか、やりながら考える事がありました。   中間貯蔵施設に残されているものを写真では撮っているかもしれないが、実物のイメージは残せない、そういったものをフロッタージュしていきました。  

横2m縦1mぐらいの模造紙にフロッタージュしたものがあります。  現物は持ってこられないので、これはコピーです。  「いわき飛行場跡記念碑」  原発の前は飛行場で特攻隊の隊員養成所だったと聞いていました。   原発の南に展望台があり、その近くの駐車場にありました。  杉本正衛さんが発起人となって昭和63年8月15日に建立しました。   建立の経過、国家の至上命令により進められたことなどが碑には記載されている。    原発の前が特攻隊の隊員養成所だったという事を知っている人はほとんどいなくなってきたと思います。   かん口令で口止めされた居たようです。  知ってほしいと思いますが、それはたったこの一枚だけです。  貴重ではありますが、恐ろしい。(おぞましいものがあったという事)   

フロッタージュするために東電に申請しました。  2,3か月してようやく入れるようになりました。  我々2人に対して東電の社員は6人ぐらい付きました。  高線量用の防具服、靴などを履いていきました。 (6.3マイクロシーベルトとそれほどは高くなかったが)    作業は自分たちでやりたかったが、指示だけするように言われました。   その後もう一度自分たちでやりたかったが、なしのつぶてでした。    

山並神社が原発の近くにありますが、大震災で潰れてしまいました。  その神社に1枚の行事、寄付者の名前を書いた板があります。  30×120cmで「民主憲法発布記念 昭和21年12月21日・・・」 平和憲法が出来たことの慶祝の物だったんです。     それを何とか残しておこうと思ったら潰れてしまっていて、解体されていないのでその時には出してもらいたいと思っています。  特攻隊の隊員養成所だった飛行場と地元の人は複雑な思いがあったと思います。   人の心は平和を望んでいるという事だと思います。 何とか記録として残しておきたいと思います。   

どんどん風化してゆくので、残せるものがあれば残しておいて、先人たちの足跡を時には振り返ってみてもらえればいいんじゃないかと思います。   新生大熊の人たちが、人がいなくなった元凶がこれだったよという事を示唆しててくれるのが、これしかないかなと思います。  大熊町に保管が出来る様な状況になれば、町にゆだねたいと思っています。 











2021年9月8日水曜日

高波壮太郎(画家)           ・情熱をカンバスにぶつける

 高波壮太郎(画家)           ・情熱をカンバスにぶつける

1949年(昭和24年)東京生まれ。  油絵の具を厚く盛り上げて描く高波さん、その力強さを感じさせる絵画はスポーツ選手、特に格闘技の世界で活躍する人たちに支持されています。    大相撲の横綱白鵬関には化粧まわしのデザインを依頼されました。  国内はもとより海外でも個展を開催し、今年10月にはニューヨークでの個展が予定されています。  高波さんの絵画のエネルギーはどこにあるのか、伺いました。

日本では100回以上個展をやってますし、フランスでも3回やりましたので、ニューヨークではどうみられるのか楽しみにしています。   

僕の絵はとにかく厚塗りで重たいです。   20kgを越えている絵が20枚~30枚ぐらいあります。  30号の絵で絵具代が100万円かかっているのもあります。   最初は薄かったが、ある時直接チューブから塗り付けてみたら凄く綺麗に僕の心に力強く見えたんです。 チューブで描くようになって、納得いくまで描くと相当な厚みになって来る。  段々描いていて集中してくると絵の方からこう描いてくれと言ってくるんです。   鮮やかな色で描くものもあれば、モノトーンもあり、黒一色で描く時には白はキャンバスの白になります。   絵は多分見る人の心を写す鏡になっていると思います。   見る側の気持ちによって違うと思います。   僕も絵に凄くエネルギーを詰め込んでいるので、受けとるだけのエネルギーを見る側の人も何らかの形で要ると思います。   

絵具を置く時には思いっきりよく力強く置くことを心掛けています。  アスリートの方もやる前は不安だけれど、その時には思いっきりやるんじゃないんですか。   そういったところがスポーツ選手の琴線に触れるのではないかと思います。   レスリングの富山英明さんとは30年ぐらいの付き合いになります。   1984年 ロサンゼルスのレスリングの金メダリストです。   富山さんから白鵬関を紹介されました。  化粧まわしの下絵をお願いしたいと言われました。    10年前に出来上がりました。  デザインを考えるときに白鵬関には日本とモンゴルの架け橋になってもらいたいという事で、モンゴルには雪豹が居て凄く有名で、日本は富士山に菊の花で、真ん中が白い伝説の鳥、白鵬という事で行きましょうという事になりました。   太刀持ちがモンゴルを代表する雪豹、露払いが富士山と菊の花、真ん中が白い伝説の鳥、白鵬という事です。  双葉山の69連勝に挑戦する場所で、僕のデザインの化粧まわしを付けた時に負けてしまって、63連勝止まりでした。  気にはなりました。   

富士山は30~40枚は描いていると思います。  僕でしか描けない富士山を描きたいと思っています。  どの富士山も一枚一枚違う挑戦をしています。  描くのは朝6時過ぎからで、その時間帯が一番インスピレーションが強くて、絵が描きたいんですね。    集中は1時間40分ぐらいしか続かないですね。   本当に集中して自然に手が動くようなことは20分ぐらい位しかないですね。    極端なことを言うと、2時間ぐらいで描いてしまうものもあれば、10年かかってしまう絵もあります。  描き終えてるつもりですが、或る時にふっと見た時に、こうしたらもっと良いなと降りてくる時があって、それをやると絵がよくなる時が多いですね。   

富山さんからシュノーケリングを教えてもらって、海の底をのぞいたら、複雑で美しくて、サンゴ、ウニとかが凄くおもしろくて、黒一色の30枚の絵になりました。  生きていてそれを感じるものがテーマです。  描き出すとそれまでと全く違うものが見えてきます。それが自分の中に有るものだと思います。  竹林をテーマにしたものもあり、竹林を見た時に真っすぐ生きたいという気持ちがあって、竹の根元のほうに凄く魅力を感じました。 根元のほうだけから描き始めました。  モノトーン、黒と白だけです。  「ボーダー」という竹の絵は寂しい感じですが、死を考えていた時のもので、竹林の向こう側が死の世界になっています。  この絵もそうですが、アトリエが小さいので横につなぎ合わせてゆく作品が多いです。

ニューヨークでの作品は相手の画商さんが僕の絵の中から15点ぐらい選んだ作品で、いろんなバリエーションで選ばれていて、僕の代表作となるようなものが選ばれています。  海外の展覧会はことしは5回あります。  来年は4回決まっています。 

中学1年から高校2年まで病気をしていて、高校2年の時には体重が30kgなかったんです。  そのころ生きるという事を凄く考えて、それが今に相当影響していると思います。今ここ、今ここにしかないという気持ちが強くて、それがずーっと続いているわけです。 18歳からウエイトトレーニングをしていて、54年間週に4回はほとんど休んだことはないです。    これからの夢は健康で今の生活が続いて行って、海外で僕の絵がどういう風に映るかが夢です。   絵を描くことが僕の生きる事すべてになっています。








 

2021年9月7日火曜日

パブロ賢次(靴磨き職人・画家)     ・靴を磨き、心を磨く

 パブロ賢次(靴磨き職人・画家)     ・靴を磨き、心を磨く

東京駅の丸の内北口で50年以上にわたって靴磨きをしている人がいます。 パブロ賢次さん。 本名赤平健二さん、71歳。   かつてはよく見かけた路上磨きも今ではパブロ賢次さん一人になってしまいました。    パブロさんの手にかかるとどんな靴も15分ほどでピカピカに蘇ります。   靴を磨きながらのお客さんとの対話もパブロさんの楽しみの一つです。 ほとんどが常連というお客さんの長年の人生模様も垣間見えると言います。   パブロさんのもう一つの顔は画家です。   こちらも画業50年、いまでは都内の有名なデパートなどで個展を開いたり、年に何回かヨーロッパに絵の制作にも出かけます。   巨匠を目指し敬愛するピカソの名前をとってパブロ賢次と名乗っています。  パブロ賢次さんに足元から見つめた半世紀にわたる世相と、靴磨きにも絵の制作にも情熱を傾ける思いを伺います。

靴磨きの仕事は日曜、祭日と雨の日は休みます。  時間は10時ぐらいから暗くなるまでと決めていますが、コロナの影響で大分お客さんが減ってしまって、早めに帰る時もあります。   正式に許可をもらっているのは私一人になってしました。   東京都と警察(歩道利用)の許可をもらいます。  全盛期には一家4人でやっていました。     父が始めて私が二代目で創業70年になります。   政治家の人から一部上場会社の社長さんも気軽に腹を割って本音で話すので、貴重じゃないかと思っています。   一家4人でやっていたころは普通のサラリーマンよりは収入は多くて、ピアノなどもありました。   音楽にも親しんでいてサックスでジャズなどをやっています。   学費は自分で稼いで明治大学と早稲田大学を出ました。   高校卒業してプロのバンドの仕事と靴磨きの仕事の両方やっていました。   

父が始めた当時は50円と言っていました。  ラーメン、タクシー、靴磨きの値段はずーっと一緒に並行してきています。  今は1000円で靴磨きのほうが高くなっています。私が始めた頃は300~400円ぐらいでした。   皮に靴墨を浸み込ませて表面に靴墨を残さないのがコツですね。  時々水を使って余分な靴墨をふき取ります。  靴の表面は皺があったり、ザラザラして居たり、ツルツルして居たり千差万別なので、ふき取る布もそれに応じて全部違い微妙です。  布は古い下着がいいです。   靴墨はいろいろ種類がありますが、私はそんなに使わないです。   靴墨に水を足して固すぎず柔らかすぎず,その加減が難しいです。  勘が必要です。  私のところで靴を磨くとお客さんはよそにはいかないといいます。   常連が8割です。   

昔は冬がきつかったが、今は夏のほうがきついですね。   お客さんはサラリーマンの方が多いです。   就活の人も来て、受かったと報告にきます。  足元に気を使う人は一味違うんじゃないですか。   一流企業の金融の社長さんとか、国会議事堂も近いので政治家の方などもきます。  叙勲で天皇陛下に会うという事で来られる方もいます。   忙しくて食事はできないです。  

絵は小さいころから好きで、美術の先生から絵描きになれと勧められたことがありました。 祖父が蒔絵師で漆に金粉で絵を描くことをしていて、兄も画家でプロとしてやっていました。   靴磨きも一緒にやっていましたが、5年前に交通事故で亡くなってしまいました。   兄はお茶、お花などもやっていて、いろいろな面で教わりました。      兄はわびさび的な田園風景とか描いていました。(静の世界)  私はヨーロッパ的で筆に勢いがあって動の世界です。  兄が亡くなって遺作で兄弟展をやりました。   

見えるものを描くという事は当たり前で、見えないものを描いて初めて画家なんだという思いがあり、空気、風、匂い、雑踏のざわめきとかを表現できて、ひとかどの画家ではないかと思います。   ヨーロッパに行くときは20kgの荷物を背負って各地を回ります。  事前に休業のお知らせを書いて出かけます。   1か月程度いますが、そうするうと街に大分体が馴染んできます、そうすると絵も馴染んできます。   パブロ・ピカソのパブロをとってパブロ賢次にしました。  名前を変えて4,5年になり馴染んできました。  

靴墨は油性で、油絵では揮発性の油と不乾性の油があり、不乾性の油を靴に塗ってしまうとつやが出なくなってしまいます。  どちらも油の特性を知っているという事が大事で、加えて美の追求という事で、最高の艶を出そう、最高の絵を描こうということで、極めるという事をいつも研究しています。   靴磨きの仕事が好きなので、いい仕事だと思っています。   

戦後の復興期、バブルの狂乱の時代などから今のコロナの時代まで見てきましたが、このコロナが過ぎると考え方というか生き方が変わって来るんじゃないかと思います。   昔は暮れ(年の暮れ)が忙しかったが、今は暇ですね。  暮れから正月にかけての気分がなくなった様な気がします。   うちが潰れるときは日本が潰れるときだと思っていました。  丸の内は日本の経済の中心で、ここが駄目だという事は日本全部が駄目だろうと思っていました。  コロナは想定外でした。  すべての分野で影響があると思います。

靴磨きの仕事をやってきたおかげで、絵を続けられてきました。  






2021年9月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

「ネコは言っている、ここで死ぬ定めではない」  精神科の春日武彦先生とテーマは死についての対談をして、それに漫画家のニコ・ニコルソンさんが漫画にしてつけてくれた対談集ですが、読者の年代によって反応が違いますね。   歌人の岡井隆さんが亡くなられて【ほむほむのふむふむ】でも紹介しました。  その中に面白い短歌があったから笑っちゃったんですが、亡くなったのに笑ってていいのかなと思いましたことを対談に中で話ましたが、それはそれでいいような気がしました。 

短歌入門講座という事で進めていきたいと思います。   良いなと思った短歌を紹介してどこがいいのか考えてみようかなと思います。

*「凄い人言ってる私もその一人金曜夜の渋谷になった」  下目黒りんご         どこがいいかというと「金曜夜の渋谷になった」というところ、「金曜夜の渋谷に立った」では普通ですね。  自分も渋谷の一部になった。

「指を折り数えて寂しいわたくしはあなたにとって何番目の月」  鈴木美紀子?    「何番目の月」と言いうところが面白い。  普通は「何番目の女」とかになるかとは思いますが、それでは詩にならないというか。  

*「空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋はそういう状態」   平岡あみ?      作った時に中学か、高校生だと思います。   普通は「散らかっている」とか書いてしまうが、「そういう状態」というと、一瞬考えて、引っ掻き回されたように汚いんだなと思うわけです。  

短歌の価値はそういうふうに言葉のを情報として扱うところではない。  言葉そのものが生きている感じ。  ニュースや新聞の言葉は避けたいから懐疑的にならないように書く。

*「大仏の前で並んで写真撮る私たちってかわいい大きさ」    平岡あみ?       「とてもちいさい」だとすると、当たり前で面白くない。   「かわいい大きさ」というのは大きさが中心なんだけれど、 「かわいい」=「小さい」ではなくていろいろなことを含んでいる。   小さいでは楽しさが出ない。  

*「ネズミ捕り四個を置くも一つだにかかっていない賢いネズミ」   中村清女?       80代の方だと思います。  「賢いネズミ」というところが面白いですね。    4個も置いたのに1個もかからない。  むかつく気持ちがあるかもしれないが、「賢いネズミ」というほうが面白いですね。  余裕がある感じ。  

*「「すす」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」「直ぐむきになる君が好きです」」   安武まり?                                    二人の人がしりとりをしている。  「す」で攻め合っている、5、7、5、7、7の短歌でありながら、最後に愛の告白になる。  「直ぐむきになる君が好きです」が面白くて「素敵な笑顔の君が好きです」とかではだめなんですね。   君が特別に好きだという意味にはならない。 

*「都会にはホームが十五もあるのです ねえお母さんねえお母さん」  みつ?     高校生の方だったと思います。   「ねえお母さんねえお母さん」が面白い。 お母さんは故郷にいるんですね。    新聞記事的に言うと「都会にはホームが十五もあるのです 故郷の駅は無人改札」とか普通の短歌で意味はよくわかるが、伝わらないものがある。  

「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く」  石川啄木     多分停車場は上野駅で、下宿で寝転んでいると、ふっと訛りが聞きたくなって、人ごみの中に行ってそれを捜しに行った。   「停車場の人ごみの中にふと聞きしわが故郷の訛りなつかし」これなら普通に判る。   偶然駅で聞くことはある。  アレンジすることによって名作になったと思います。 

リスナーの作品

*「手花火の最後の沈黙耐えられずさっさと家に入った私」  さっさと家に引きあげたというところが新鮮です。

*「あと少しあと少しだけ頑張れば風の稜線 稜線は風」  山登りしている様子。 言葉の繰り返しがいい。  

*印の作品は漢字、ひらがななどの書き方が違っているかもしれません。

2021年9月5日日曜日

三石琴乃(声優・ナレーター)       ・【時代を創った声】

 三石琴乃(声優・ナレーター)       ・【時代を創った声】

「美少女戦士セーラームーン」の主役月野うさぎ役などで知られています。  ナレーターとしても活躍の三石さんですが、最近ではドラマにもレギュラーとして初めて出演しました。 

「美少女戦士セーラームーン」の主役月野うさぎ役新世紀エヴァンゲリオン』で葛城ミサト役、『少女革命ウテナ』で有栖川樹璃役、ドラえもん』での野比玉子のび太のママ)役など、多くのヒットアニメの声も担当する。  

今までは10人、20人一緒にスタジオの中で頭から順番に収録していましたが、今は1人とか多くても3人で時間差で収録しています。   別々の部屋から同時に収録できるところもあります。(リモート収録)   アドバイスなどできない状態です。

「リコカツ」(離婚活動の略)に出演。  北川景子さんの母親役で、バアバと呼ばれている。  ドラマは声優とは明らかに違いました。   ドラマではあまり誇張しないように、普段しゃべっているボリュームでやりました。    あまり時間がなくセリフを覚えるのには苦労しました。  

中学校は体操部でした。  ごく普通の中学生でした。  高校は硬式テニス部と放送部を兼務してやっていました。   小学校の時に放送委員をやって見えなくても伝えられることが面白かったんです。     幼稚園の先生になりたかったが、少子化で資格を取ってもしばらく待機ですと言われて、マイクの仕事をしようと思ったのが高校時代でした。  声優養成所勝田声優学院に入りました。   引っ込み思案でいまだにあると思います。 みんなの前に出て課題をやるのが、つらかったです。  

最初の仕事が企業PRノナレーションでした。  北海道電力泊発電所安全PRビデオのレポーターでした。  ギャランティーがうれしくて、流行っていたラムの皮ジャンを買って嬉しかったです。    1992年 「美少女戦士セーラームーン」の主役月野うさぎ役のオーディションを受けました。    ちょい役をやっていたので、先輩のを参考にしたりとかしてやりました。   結果が来て飛び上がって喜びました。  ありがたいことに大ヒットしました。     元気な女の子でやってくださいと言われて、言われた通りに頑張ってやっていたんですが、或る時大先輩から、「女の子の場合は一つ役がはまってしまうとそれで終わっちゃうからね」と言われて、ガーンときてそういわれればそうだと思いました。   違う役もやりたいと思いだして、脱却できたのはありがたいことにいろんな仕事がつながったことだと思います。   来た時の作品に対してどんなものでも準備はしておかなければと常に思っています。   

一生懸命お芝居していれば見ていてくれる子供たちに届くんだなあという事は体験しました。   「セーラームーン」の一年目の時に体調を崩しました。  子宮内膜症で卵巣に穴が空いてしまいました。   即入院して手術をして数か月休養という事になってしまって、皆さんにご迷惑をかけてしまいました。  当時24歳で不安だらけでした。   ほかの人に渡した役もありましたが、「セーラームーン」には戻れてよかったと思いました。 しかし声優業は代役が立つんだという事を身をもって知りました。    やるんだったら私しかできないような、私らしい役を作ってゆこうかなと思っています。  

オーディションを受けさせてもらって『新世紀エヴァンゲリオン』で葛城ミサト役に繋がりました。(1995年)   テレビシリーズが始まって、劇場版が何作かあり、2007年に再構成された劇場版が公開されて、4作目が今年公開されました。   20代の頃のキーで声を出すのは難しいところは有りますが何とかこなすか、ほかの表現をするかですね。   

ナレーションは別ジャンルだと思っています。   映像とか作った人の演出を邪魔しないように、でも映像と見ている人の橋渡しをしたいので、立ち位置が違うような感じです。 アフレコだとSE(効果音 (Sound Effect)) とか音楽も入っていないですが、ナレーション現場に行くと大体VTR映像があってSEとか音楽も入っているところに、最後にナレーションを入れたりする順番が多いです。   SEとの間にピタッとはめたり、この人がしゃべる前までに終わらせるとか、そういったものをしっかりやるのが楽しいです。   声優は心を伝えるように、ナレーションではしっかり伝えるように心がけています。   アニメはどんな役にでもなれるという事が魅力的です。   

若い人に対してですが、いい結果はすぐには出ない、悪い結果はすぐに出ますので、一生懸命勉強してたくさん準備して、やり続けるのがいいと思います。  或る先生は「恋をしろよ、こんなところに来るよりも百倍勉強になる」と言っていました。  行き詰ってしまったことも一つの引き出しになると思います。  ネガティブな体験も逆にお芝居で生かせるという唯一の職業なので何でも財産になる、肥やしになるという事ですね。






2021年9月4日土曜日

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(2)

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(2) 

戦後しばらくして自由を取り戻した日本のラジオ、昭和26年には民間放送が登場して浪曲、漫才、落語などその演芸番組は家庭で楽しめる娯楽の中心になっていました。  昭和8年に大阪に生まれて、戦後外地から富山県の高岡に引き上げてきた澤田さん、やがて故郷の関西に戻って大学を卒業すると昭和30年に大阪の朝日放送に入社ます。  ラジオの演芸プロデューサーになった澤田さんは、多くの寄席中継や娯楽番組を制作します。   昭和30年代はラジオの時代からTVの時代に移ります。  コメディー番組やドラマに携わり、最も人気を集めた番組のひとつが、昭和37年から6年近く続いた朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大阪では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。  その後番組制作会社で情報番組、バラエティー番組、ドラマなどの番組や地方博覧会のパビリオンなどをプロデュース、1980年代の漫才ブームの仕掛け人としても知られています。   第二回はTVに移った澤田さんがコメディー番組での生放送の苦労や裏番組との競争をどう戦ったのかお聞きしました。

TVの時代になってきて、ラジオよりTVが盛んになってきて、「スチャラカ社員」がベースになって「てなもんや三度笠」藤田まことにやらせるようになる。(昭和37年)
その前に昭和33年 大阪TVの看板番組「びっくり捕物帖」、「やりくりアパート」のアシスタントディレクターを担当する事になる。
「びっくり捕物帖」 主演は中田ダイマル・ラケット 与力(藤田まこと)、森光子さんの出世作ともなった。  「びっくり捕物帖」は全国番組になりました。  藤田まことはまだ新人で出番も少なかった。  森さんはそのころから向上心があり、努力していました。   

「やりくりアパート」は夕方の番組で、 横山エンタツ(アパートの管理人) 大村崑 佐々十郎 茶川一郎さんなどが居ました。  リハーサルをやっていて東宝の演劇部の人が時間ですというと、みんなどーっといなくなるんです。  キタノ劇場に行ってしまうんです。   映画と舞台を交互にやっていますから、1時間半ぐらいの映画と休憩時間の間にこっちでリハーサルをやるわけです。   カメラは3台で1台押さえている間に2台が次の場所に行かなければいけない。   
CMがあり、最後にセットの前に、本番中にそーっと車を持ち込み、女性アナウンサーが説明をして、大村崑 佐々十郎さんが来て「ミゼット」「ミゼット」と連呼した。
大村崑 佐々十郎さん ぶっつけ本番で出演していた。  

こういった番組が後のお笑い番組を作る時のエネルギーになっているし、時間の使い方などを含めて勉強になりました。  

僕がディレクターになった時に藤田まことさんを活用しなければいけないと思って、「びっくり捕物帖」の事件の中に入れたりしました。   その間に森光子さんが結婚して東京に行く問題が出てきます。  メインの女優さんが抜けてしまうという事で大変でした。 

VTRが入り始めて、編集ができないから収録だけで、そのためにみんな忙しくなって、新喜劇は昼間と夜の公演が終わってから、夜中から朝までやっていました。  だから体を壊してゆくわけです。  スタジオでゴロゴロ眠っていました。   VTRになってスケジュールを調整するためにVTRを使う事になったので、結局労働過剰ですね。

毎日放送がTVをやりだして、吉本新喜劇がどんどん視聴率を取り出しました。  「びっくり捕物帖」を抜くわけです。  視聴者の層が変わってきました。  商店街、子供たちは吉本を見ていました。   昭和35年5月に「びっくり捕物帖」は終了することになります。 森さんで支えられていたのが森さんが居なくなってしまって、そのあと忍者物などやりましたが、駄目でした。  アチャコのどっこい御用だという捕り物を香住春吾先生に書いてもらいました。   僕はアチャコさんには芝居というもののいろんなことを教えてもらいました。   後で劇場の演出をするんですが、その時は助かりました。

「スチャラカ社員」はサラリーマンのパロディー。   社長 ミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケット、藤田まことさん等が出演、人気コメディー番組になる。  高度成長期にずぼらな社員が登場。   ミヤコ蝶々と中田ダイマル・ラケットの両巨頭が出るという事は大変なことだった。  公開放送で12時15分から45分まででしたので、どんなことがあっても12時にはお客さんを入れました。  リハーサルは12時に終わるという事が絶対条件でした。 トラブル事が出来ないのできつくならざるを得なかった。    金語楼さんを或る時ゲストに呼んだが、話の内容でゲストがきっかけをつけるようなことはおかしいといわれて、ゲストは言われて答えてストーリーが、セリフが出てくるべきだといわれて、そうでないとゲストに失礼だという事を言われて、そういう考え方があるんだと知りました。  

藤田まことがめちゃくちゃ売れてきて、他の局にも参加するわけです。   裏番組に入れるという話が入ってきて、裏番組にやらない様に動く。  昭和37年5月 「てなもんや三度笠」で藤田まことが主役としてスタートする。  あんかけの時次郎が藤田まことさん、珍念が白木みのるさんほか吉本の役者を使う事にする。  時次郎が「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と締める。


2021年9月3日金曜日

原田のりあき(アコーディオン修理職人))・アコーディオンの調べ 心の癒しに

 原田のりあき(アコーディオン修理職人))・アコーディオンの調べ 心の癒しに

原田さんが職人としてスタートしたのは52歳の時でした。   それまでは音楽にかかわりのない職種で働くサラリーマンでした。  ふっと耳にしたアコーディオンの音色に導かれるように、会社勤めを辞めて職人の道へと進んだ原田さんに人生を変えた楽器の魅力について伺います。

このアコーディオンの重さは約10kgあります。   これは中くらいの重さです。     ピアノ鍵盤式とボタン式があります。   蛇腹を左手でこぐと同時に伴奏を入れながら弾いてゆきます。    これはイタリア製です。  アコーディオンは正面からお客さんに見られるので、表面の色とかデザインに気を使っている楽器です。   これは15年ぐらいのアコーディオンですが、50年、60年手入れをして使っている人もいます。   200年前に作られて改良されてゆきいろいろな国に広がってゆきました。    もともとは結婚式とかお祝い事とかパーティーとかで踊りの輪が出来て、はやし立てるような楽器として発展してきました。    日本ではあまり踊りがないので、歌の伴奏とか、ほかの楽器との合奏とかで発展してきました。   

今は昭和の後半か平成に生まれた方が主に使っています。 女性が多いです。  ピアノとかギターは音が減衰してゆきますが、アコーディオンは蛇腹が動いている限りは音は減衰しません。  面白い音が作れる楽器です。  

アコーディオンの調律とか修理をする人は全国で4,5人です。  楽器店に所属している人を合わせても10人足らずです。    凝り性の人が多いです。   部品は全部ばらすと5000個ぐらいありますが、構造的にはシンプルです。    これまでに2000台以上は修理しています。     会話を通して、本人の気持ち、欲求を満たすような音色を出せるように気を使って修理をしています。    

「「パリの空の下」という曲をよく気分転換などに弾きます。  映画巴里の空の下セーヌは流れるの挿入歌です。  フランスでは国民的な愛唱歌になっています。  日本でもアコーディオンをやっている人はほとんど弾いていると思います。  

*「パリの空の下」   演奏:原田のりあき

現在72歳、アコーディオンの調律とか修理を手掛ける職人になる前は、一部上場企業に勤めるサラリーマンでした。  新規事業を任されてアウトドア用品の商品開発や、営業などを担当。  1970年代の後半、余暇活動の中で野外レクリェーションに目をつけて、新規事業化を考えました。  会社のトップが新規会社を作ろうという事で、私に話が回ってきて新会社でやっていたら、途中で旅行業も一部任され、アウトドア小売店のチェーンもあって事業買収などもして、一時期100名ぐらいの会社になり、社長をやっていて大変忙しかった。  1990年代になるとこの業界に進出する会社が多すぎて、混乱してきました。   本社のトップからこの事業を辞めて収束に向かえという話があり、反対はしたが、選択肢がやるか辞めるしかなかった。   精神的にも苦しい時で、ほかに余暇はないのかと考えてはいました。   

レストラン酒場で聞いていい音だと思って、何の音なのか聞いたらアコーディオンの音という事でした。   若いころからギターをやっていたし、30代からチェロもかじっていたので、アコーディオンも弾いてみたいと思いました。  アコーディオンの教室に行ってアコーディオンも購入しました。  社長業をやりながら5年間アコーディオンを習いました。   包みこんでくれるようなやさしさ、音色がありそこに惚れました。   楽器の構造とか種類だとかにも興味が向いてきて、インターネットで海外の人との交流の中で購入したりいろいろ教えてもらったりしていました。  トップとの軋轢のなかで半分もう辞めようという気持ちがあったので、週末は週末と割り切っていました。  自分で分解しているうちにハード面が判ってきました。    気が付いたら自分の買った楽器が10台、15台となっていました。   仲間から修理の話とかが出てきて、今の母体が出来上がってきました。    楽器を通して調律もやっていて演奏家の人との出会いがあり、興味があったら教えてあげるという事で、プロの仕事の仕方をびっちり教えてもらいました。   それが今の基盤になっています。   その後ドイツ、イタリアなどに行って、情報、やり方などについて学びました。   

会社を辞めることについては、親とか、周りからも心配はされましたが、やりたいことがはっきりしていたので、或る程度はうまくいくだろうという思いはありました。   さび付いた気持ちのまま会社に居続けるよりは、収入がゼロであっても納得できる時間、納得できる仕事で自分の人生で行きたいという思いが多かった。   

コロナ禍で不安になる、すさんだ気持ちになって来る時に、アコーディオンの音色がうまく慰めてくれる、アコーディオンの揺らぎ感が心地よい。   








2021年9月2日木曜日

山本恭司(ギタリスト)          ・ギターは生涯のパートナー

山本恭司(ギタリスト)          ・ギターは生涯のパートナー 

1956年島根県松江市生まれ。   15歳の時にギターを始め高校卒業後上京し、音楽専門学校に入学します。   在学中にロックバンドBOW WOWのリードギターリスト、リードボーカルに抜擢されます。   キッスやエアロスミスなどと共演して話題になります。    その後1986年からはイギリスに活動拠点を移し、活動していました。    帰国後は様々なアーティストのサポート、ソロでのライブ活動で全国を回っています。   

HOPE IS MARCHING ON / ホープイズマーチングオン

最近弾き語りなどもやっていて、歌詞カードもコード譜も一切見ないで全部やっています。   BOW WOWの結成45年、20歳でデビューしました。(現在65歳)  結成が1975年でオーディションで集まったメンバーです。   最初プロデューサーがアイドルバンドのようなものを作ろうとしましたが、次第にハードロックバンドになりました。   ファンは今でも圧倒的に男性の方が多いですね。  デビュー前NHKラジオで渋谷陽一さんの洋楽ロック専門番組であった「ヤング ジョッキー」の番組で凄く反響がありました。   洋楽ファンの方も段々BOW WOWを認めてくれるようになりました。    NHKの教育テレビで3週にわたってBOW WOWがハードロック講座をやりました。   知ってもらうのに役立ちました。

1982年に香港、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、イギリスで行われた「レディング・フェスティバル」では満場のスタンディングオベーションを受けました。    バンド名をVOW WOWと改め、VOW WOWでは本格的に活動の場をイギリスに移す。  1986年ロンドンに引っ越して3年半活動しメジャーデビューしました。   

今年45周年記念ライブをやらせてもらう事になりました。   初期のころのものも考えています。  

15歳になるちょっと前、1969年「ウッドストック」というフェスティバルの映画のギターリストを見て、カルチャーショックを受け自分でもやってみたいと思いました。     エレキギターを持つことによって自信を持つことができたし、それからの人生が明るくポジティブに開けてきたように感じます。   高校3年生の時に同級に佐野史郎がいまして一緒にギターを楽しんでいました。   今は「山本恭司弾き語り弾きまくりギター三昧」という形で回ることが多いですが、前半はアコースティックで後半はエレキギターでやっています。  ギターの深さ、面白さ、感動をしっかり伝えようと全国各地で一生懸命やっています。  一人だと身軽にいろいろなところに行くことが出来ます。  

ロックファンにとってもクラシックは身近にあったし、姉がヴァイオリンをやっていたのでメロディーは残っていて、美しいメロディーを聞くとギターに置き換えてみたいという思いがあり、いろいろやっていました。  

HOPE IS MARCHING ONというアルバムを出しましたが、癒し、優しさ、希望に満ちたアルバムを作りたいと思って作りました。  それはコロナの影響もあります。   オーケストラとの共演のライブバージョンも入っています。  やったのが大阪のシンフォニーホールというオーケストラの名門中の名門のホールでやらさせてもらいました。  

*プッチーニの歌劇の曲  ソプラノシンガーの声にギターで近づけてやってみたいと思ったのがこの曲です。 「O mio bambino caro」

ご縁という事を強く思っていて、どんなご縁があって、自分の音楽、人生をどんなふうに広げて行ってくれるんだろうと、それを楽しみに毎日生きています。





2021年9月1日水曜日

川村高子(元小学校教諭)        ・102歳の後悔と願い

 川村高子(元小学校教諭)        ・102歳の後悔と願い

戦前、戦中、戦後小学校や中学校で教諭を務め、退職をした後は戦争の体験を語る活動に力を注ぎました。   川村さんは語り部として太平洋戦争で弟と妹を失い悲しみに暮れた体験と共に、戦争が終わるまで日本は負けないと信じ、子供たちに軍国主義の考え方を押し付けてしまったという、自分自身の反省の思いを伝えてきました。   激動の時代を生き抜き、今の後悔の思いと反省の願いを持ち続ける102歳の川村さんに伺いました。

戦争のことを思い返したら本当に悲しくなります。  沢山の人が亡くなり、戦争というものは凄く残酷なものであると、喜び、生きる事とかすべて失ってしまう。  

大正8年に生まれて、小学校の先生になりたいと思って昭和10年16歳の時に女子師範学校に入学、昭和15年に師範学校を卒業、小学校の先生として働き始める。  翌年太平洋戦争が始まる。    太平洋戦争が始まった日に朝号外の音がしました。  読んだら日本はアメリカ、イギリスと戦争状態に入る、という事と、真珠湾の攻撃をして敵の戦艦を沈没させたり大変な戦果が上がったという事が書かれていて、ラジオでも何回ともなく放送されました。  高揚した気持ちでした。  戦争に勝つことを心新たにしました。  負けるということは全然考えませんでした。   昭和17年から1年生を受け持ちました。  喜んで天皇のために死ねる人になりなさいという事を教えることで、そういう人間を作ってしまった。    子供たちは同じように素直に受け止めていました。    

私は5人兄弟で長女で、妹2人、弟2人でした。   上の妹が夫と共に岡山に住んでいて、下の弟がそこに身を寄せていましたが、岡山空襲があり妹が亡くなりました。  

昭和20年6月28日に弟が汽車で妹のところに行きました。  29日の未明にラジオで岡山空襲があったと放送がありました。  7月2日に弟が頭や手に包帯を巻いてしょんぼり帰ってきました。   話を聞くと空襲で安全なところに逃げて行ったが、そこでも焼夷弾のガスで呼吸が困難になり、弟はとっさに逃げ出しました。   安全なところまできて弟が振り向いて姉に話をしようと思ったら姉が居ませんでした。   朝になって行ったら姉はみつからなかった。 遺体の収容所に行ったら遺体一体があって、眼鏡、靴などから姉の遺体だろうと思ったが、丸焼けで判らなかった。  胃を引っ張り出して胃の中身を確認したら前の晩に食べた小豆が入っていてそれで確認できました。  父は火葬にしてお骨を持って帰ってきました。   父から妹は妊娠2,3か月だったという事を聞かされました。 (22歳だった。) 

弟の春雄(?)は実家から出征しました。  出征兵士が出掛ける家は当時は誇りに思っていました。   しかし出征すると死んでしまうという事が判っているので、悲しい気持ちで笑顔は出てきませんでした。   涙を一生懸命こらえました。  弟は汽車のデッキから日の丸の旗を見えなくなるまで振っていました。  日の丸が弟を連れ去って行ったという思いです。   朝鮮に行って手紙が来ましたが、2,3か月後には手紙が来なくなりました。    昭和21年4月18日付で昭和19年ニューギニアの東部のガリというところの戦争で腹部に大砲の弾のかけらが当たって戦死した、という報告内容で戦死を知りました。  父は大粒の涙をポタポタこぼしていました。  戦争はいいことは一つもありません。

8月15日、終戦を聞いた時には予想もしていませんでした。   大変な事になったという気持ちと、天皇陛下のための自分の努力が足りなかったという反省と、ごちゃごちゃになって立っていれなくてしゃがみ込みました。   今だから言えるが、本当に自分が馬鹿だった。    子供たちに「お国のために死になさい、それは名誉なことだ」と言って教えてきた事については、本当に申し訳ないことをしたと思います。   子供たちを絶対に戦争に行かせないような国つくりをしないといけない、戦争をすることに対して子供たちが反対する立場に立って行動するような人になってもらいたいと思っています。

語り部になってから、子供から「恐ろしい戦争を大人はどうして止められなかったのか」と問われましたが、答えのしようがなかったです。   私がこういう教育を受けたからこういう人間に成ったと答えるよりしょうがない、と思いました。    語り部として言う事は、これは良いことか悪いことか、して良いことかしていけないことか、それをはっきり見わけが出来るような人になりなさい、悪いことはそれは悪いことだと発言できる様な人になってくださいという事を最後に言っています。   私たちが味わった戦争の苦しみを絶対させてはならないと思います。  戦争の悲惨さを伝えていきたい。   後悔があるからこそそう思います。    一番の願いは、戦争のない平和な世界であってほしい。