2019年8月31日土曜日

佐々木孝夫(音楽プロデューサー)     ・宮澤賢治が愛した音楽

佐々木孝夫(音楽プロデューサー)     ・宮澤賢治が愛した音楽
宮沢賢治は音楽好きだったことでも知られています。
彼はレコードを愛し、作詞作曲や楽器の演奏も手がけたほか、残した童話や詩などの作品にもその影響が色濃く残っています。
宮沢賢治ゆかりの音楽を調べ100年近く前の当時の音源をレコードで収集し発表した仙台市在住のプロデューサー佐々木さんに宮沢賢治が愛した音楽についてお話を伺いました。

彼の作品の1/3ぐらいは音楽が入って言うるというぐらい音楽が好きでした。
クラシックが好きだとは知っていましたが、ジャズ、タンゴ、西洋のはやり歌、ポップスを聞いていました。
彼が生きた時代は1896年から1933年。
中心は1920年前後です。(アメリカでもジャズが初めてレコーディングされた時代)
情報通でした。
賢治にジャズの詩があるというう事にびっくりして賢治の音楽に対してどんどん入り込んでしまいました。
賢治は岩手県花巻ですが、私は北上というところです。
ますむらひろしさんの漫画を描く方の絵本が5冊でまして、それを見てだんだんわかってきました。
きっかけとなったのは「岩手軽便鉄道7月ジャズ」という詩です。
よく判らないところがありますが。
クラシックのガボットという人の曲でした。

昔の音源、SPレコード音源を探すことに熱中しました。
佐藤泰平さんが30数年前に探してその本があって初めてネットで検索することができました。
*ヴェートーベン 交響曲第6番「田園」1930年の録音のもの
SPレコード盤は4~5分しか収録できないので、「運命」だけでも4,5枚聞いているという話があります。
賢治は山歩きが好きで、小岩井農場という詩もあります。
ヘンデル、ハイドン、バッハ、ヴェートーベン、シューベルト、ブラームス、ドボルザーク、ストラビンスキーまで聞いていたというんですね。
何でも興味を持って聞いていたみたいです。
先生をやっていた時代も大変な量のレコードを購入していた様です。

*「恋は優し野辺の花よ」 1928年の録音。
浅草オペラなどで流行した歌。
賢治は上京して足げく通っていた。
貪欲に新しいものを取り入れていた。
オペレタろ4つ書いている。
*「アシェンダ ザ ソサエティータンゴ」? 1914年の録音。

童話「セロ弾きのゴーシュ」の中にもジャズが登場します。
*「馬小屋のブルース」 1917年録音。
*「インドに虎狩り」 1931年の録音
弦楽四重奏を自分で組んだりして演奏したりしたが、自分で独特な譜面台も作ってしまった。
賢治の代表作としては「星巡りの歌」
毎日がレコード三昧という事だったと思います。
賢治を音楽という角度から見ている人は少ないと思います。





2019年8月30日金曜日

三輪休雪(萩焼・十三代)         ・40トンの土から掌(たなごころ)の世界へ

三輪休雪(萩焼・十三代)         ・40トンの土から掌(たなごころ)の世界へ
古くから茶道の世界では茶人の抹茶茶碗の好みとして萩焼きは一楽二萩三唐津といわれ珍重されてきました。(1位: 楽焼 (京都)  2位: 萩焼 (山口県萩市)3位: 唐津焼 (佐賀県唐津市)
なかでも三輪窯は代表的な窯元の一つで代々萩藩の御用窯を務めてきた由緒ある窯元です。
10第、その弟11代も人間国宝という大きな名跡でこの度襲名された13代は11代の3男です。
1951年昭和26年生まれ1975年からアメリカのサンフランシスコ、アート・インスティテュートに入学1981年に帰国しました。
以後前衛華道家、故中川幸夫との二人展など多彩な取り組みの中で、土の持つエネルギーをテーマにしたダイナミックな造形が注目を集めてきました。
令和のスタートとともに13代を襲名された休雪さんは、今人生の大切な時に茶碗を手に取った人の活力となるような作品を作っていきたいと話しています。

田舎の小さい窯元ですが、代々私までいろいろな苦労を乗り越えてきたので、それなりに気を引き締めて13代として頑張っていこうという心境です。
今年の秋に個展を控えていますのでちょうど大変な時期でもあります。
兄が12代で、去年の冬に話があるという事で打ち明けてくれました。
10代は白萩釉薬を作って、11代の父が使いこなして完成させたという大きな存在だと思います。
柔らかい新雪をイメージしたんだと思います。
兄がろくろ成型を継ぎ合わせて作ったのが鮮烈な記憶があります。
若い時期にアメリカに数年暮らして、日本に帰ってきて、何をやっていいかわからない時期がありました。
スケールの大きいところで暮らしていたので、何をやってもいいか聞いたらいいよという事で、やったのが40トンの萩焼で使う生の粘土を美術館に運びこんでで道路を作りました。
本物のガードレールをつけて4輪駆動の車とバイクを走らせてわだちをつけました。
ひび割れなどしましたが、1か月間生の土で展示しました。

水害に見舞われた或る方がいて、手伝っている合間に道路に土砂があり、ひび割れていて、40トンの作品のもとになったきっかけになりました。
中学一年生の夏休みに、兄から東京にデッサンに来いといわれて、1964年で現代国際陶芸展があり兄に連れられて行ってきました。
ピーター・ヴォーコス(世界陶芸の巨人といわれた)の作品を見て、非常にショックを受けました。
アメリカの学校では私が思っていたものとは違っていました。
いろいろ旅をしてその中からヨセミテ国立公園があり大事な作品のベースになったところです。
父の作品には色濃く受けていると思います。
父は息子たちにはああしろこうしろとはほとんどなかったです。
父は道路の作品にもある程度理解をしてくれていました。

今茶碗を作ることに力をいれています。
ろくろを使わないで、50~100cmの刀状を鍛冶屋さんに作ってもらって、削いだり、断ったりして形作るわけですが、ヨセミテ国立公園の巨大な岩山を掌(たなごころ)の世界へ持ち込んでみたかった。
大きいものは大きさからくるパワーがあると思いますが、小さいがゆえにそこに込められている大きさの意味合い、パワーがあると思います。
それを茶碗の世界に持ち込む、それに力を入れようとしています。
癒し、安らぎとかもあると思うが、昔の戦に向かう前の心境というか、自分を見つめてやろうという使い方もあっていいんではないかと思います。

自分の存在意義を考えたときに、お茶の道具だけでは満足できないというか、そういった性格的なものもあると思います。
現代人がどういう茶碗を望んでいるんだろうと、そういう思いでやっています。
自分自身でも答えは出ていないが、今までにない刺激が茶を考える一つのきっかけになってくれないかなあと思います。
作り終えたときの疲労感、満足感は日に日に大きくなっています。
土は生き物だと思っていて、あなどってはいけない。
土に向かって刀で断ったりしますが、相手にされないようなときもありますし、怖いですね、だから面白いですね。
9月18日から襲名後の最初の展覧会があります。


2019年8月28日水曜日

木村正彦(盆栽作家)           ・【心に花を咲かせて】芸術を覆す盆栽の魔術師(2019.01.23)

木村正彦(盆栽作家)  ・【心に花を咲かせて】芸術を覆す盆栽の魔術師(2019.02
.27)
木村さんは盆栽の世界で世界から注目され、盆栽界に新風を巻き起こしている方です。
その作品の芸術性から盆栽の神様、盆栽の魔術師、盆栽アーティストなどと呼ばれています。
これまで内閣総理大臣賞を27回、卓越した技と自由な発想で時間を掛けて作るという盆栽界の常識をくつがえしまして、自然界の風雪に耐えた風景を短時間で作ってしまう方です。

盆栽歴は、15歳で修行の道に入って半世紀以上になります、現在78歳です。
父親が11歳のときに亡くなりました。
4人兄弟で妹が下に3人います。
母親が生活に困って、父親が残した土地を売りながら、食い扶持減らしという事で修行に出されてしまって、それがたまたま盆栽園でした。
埼玉県の大宮の盆栽町に生まれました。
盆栽の修業は嫌だなと思ったことはありませんでした。
修行は厳しかったです。
最初は掃除、水かけ、草取りなどで2,3年経ってからようやく盆栽をいじらせて頂きました。
10年経ったときに、1年のお礼奉公があるという事で11年間やりました。
1200坪あった土地を母親が切り売りして妹たちを育てました。
11年後には土地は何にもなかったです。

植物の勉強だけはしておかないといけないと思って、学びました。
夢はせめて半分の土地で池を作って、という思いがありましたが、ようやく1000坪の土地に池などを作ることができました。
まずは資金つくりという事で年が明けてから、麻布10番で高級な草花を売りました。
ビルのオーナーの方と巡り会って、ビルの1階が空いているのでそこを使ってもいいという事でそこで店を始めました。
1年間で出て行ってもらいたいというっことでしたが、1年間で次の仕事をやる資金はできました。
園芸用の土、赤玉土を自動でできないかと、大掛かりな機械を作って、一日700袋できるようにしました。(それまで機械でつくるということはしていなかった)
父親は発明家で現在でも使われている素晴らしいものを父親が開発したものがあります。
その血筋を引いているものと思います。
短期間でこの仕事も任せている工場責任者に権利すべて譲ってしまいました。
貸植木の方に進みましたが、それも直ぐにやめて資金ができたので1000坪の土地を購入しました。

盆栽を本腰を入れてやろうと思いました。
盆栽の魅力は大自然を景色の一端を表現できることだと思います。
心の目で見ていただければ大きな世界が広がるのではないかと思います。
私の場合は遊びの気持ちを表現したくて、今までになかった盆栽、もっと楽しい盆栽があってもいいんじゃないかと、作品が売れようが売れまいが趣味のような気持で作っていました。
世界中を回っていい景色、断崖に木が生えているような景色を作れないかと思って、まず自分で石から削って作り始めました。
古く見えるように着色します。
内閣総理大臣賞を受賞した「登龍の舞」、30歳を少し超えた頃でした。
15人の審査員のうち14対1で圧倒的な勝利で内閣総理大臣賞をいただきました。
原木が1.7mぐらいあったものを小さくまとめましたが、非常に難しいのですが、植物学を勉強したことが生きたと思います。
この盆栽は3年で仕上げました。

根を上にして鉢の中に活着させるために、天地逆転して、自然に見せるように彫刻しました。
これは世界的に注目されました。
絶えず新しいものを出していってます。
各国から弟子の希望がありますが、対応できず今は5人(ロシア2人、イタリア2人、コスタリカ1人)です。
盆栽の選定などを同業者から頼まれるのが多いです、仕事の8,9割がプロの方から頼まれます。
創作盆栽という部門があり毎年7年間出して全部グランプリをもらっています。
最初の作品は24年間取ってありますが、今後20,30年は持つと思います。
自然界にある石を自分で工夫した機械を使って削っていきますが、この業界ではそれができる人は他にはいません、
細かく説明しても真似はできません。
人には真似のできない能力というものが誰にもあると思うのでそれを何とか生かせば、人生の成功の道につながるのではないかと思います。
盆栽で学んだことは命を大事にするという事、若い人たちがいろんなことをやって、盆栽がその命を守って行けるのかなという作品をずいぶん作っていますが、これは邪道です、命を無視してその時だけよければいいというような作品は駄目だと思っています。
命を長く生きながらえるような作品でないといけないと思います。





2019年8月27日火曜日

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して
東京台東区出身、ニュースキャスターやエッセーイスト、タレントとして活躍されています。
1979年に俳優の奥田瑛二さんと結婚、長女は映画監督の安藤桃子さん、次女は安藤サクラさんという芸能一家です。
或る日安藤さんのお母さん昌子さんに大きな脳腫瘍が見つかり、自宅で介護を続けました。
昌子さんは平成18年に83歳で亡くなりましたが、介護中和津さんが介護うつになり、介護が終わった後にも介護後うつという状態になりました。
その苦しい状態から抜け出るのに13年も掛かったという事です。

ずーっと体も心も疲れ切っていてやっと今、心が元気になると体も元気になるという事を実感しています。
2年前まで苦しんできました。
私の目には真っ黒いものが口から出ていくのが見えたんです。
印象的には白黒TVから急にカラーTVを見るような感じでした。
自分がおかしい状況だとは思っていなかった。
介護うつが終わったと思っていたら、介護後も鬱になっていました。
介護鬱の時にはパタッと料理ができなくなりまして、人との会話もほとんどできなくなり外にも出かけることができなくなりました。
無理やり出かけて遅刻常習犯になり、人と会うのが怖かったです。
買い物に行っても買うものが流れているんです。
何とかいくつか購入して、料理するのに何を作っていいかわからない。
料理の作り方も忘れてしまいました。
文章の組み立てもできない。
コメンテーターができいない状態でした。

2時間おきに痰の吸引をしなければいけないので、睡眠不足がずーっと続いていました。
介護が終わって料理はポチポチできるようにはなりました。
人ともだいぶ会えるようになりました。
しかし、家族たちと会話していても、全員が笑っているが、私はなんで笑っているのかわからなかった。
TVみていても全員が笑ってるが私は笑えなかった。
桜が咲いて綺麗だと周りが言うが、感動が何にもなかった。
家族が変わったんだと自分では思い、自分だけ孤立している状態でした。
それが13年続いてしまいました。
人間にとって心からの感動、喜びを感じられないのは、押さえつけられている状況になっちゃうんだと思います。
年末に掃除をしていました。
TVで漫才をやっていて、介護鬱が抜けてしばらくたったら、抜け落ちていた記憶が全部徐々に繋がってくるんです。
/獅子てんや・瀬戸わんやさんの昔の漫才をやっていました。

パッと笑いがお腹から噴出して、真っ黒な塊が飛び出して行って我に返ったときに、今笑ったよねと思って周りを見渡すしたら、白黒TVから急にカラーTVに変わったように全部が違うんです。
私は鬱だったとその瞬間気が付きました。
二人目の孫が生後半年で、孫の存在は大きかった。
母の介護にやっていた事と孫にやる事はおむつ、食事などの作業は全く同じわけです。
おむつ、離乳食と介護食、など、母の介護は無理やり明るく元気にさせながらの介護だったが、最終的には見送る介護だった。
孫は未来へ命が繋がっている、命が受け継ながれているんだと実感しました。
母がここに生きているんだと思えたこともすごく大きかったです。
母の行動言動がおかしいと思ったのが1998年ごろ、本当にたどってゆくとサクラが生まれた時なんです。

長女を母に預けて入院していましたが、母が長女を連れて病院に来ました。
退院するまで長女の下着の袖口が汚れていくんです。
1週間毎日同じワンピースを着せてきたんです。
母は毎日着替えるタイプでしたが、娘が私の病院食を目の色を変えて食べるんです。
考えてみるとあの時から段々そうなって行っていたんです。
原因が脳腫瘍だと判明するのは、だいぶ後の事でした。
親のおかしな言動を医師に相談しても、知り合いに相談しても、あまり親の悪口を言わない方がいいとたしなめられてしまいました。
いろいろ変な言動があり、どうしたらいいかわからなかった。
本当は母は嘘をついていてごまかしていて、本当は行儀が悪くて、悪態をつく嫌な人間だと思うようになりました。
母のことがどんどん嫌いになって行きました。
家族が母のおかげでどんどん憂鬱になってしまいました。
母が腕を骨折してしまい、病院で診察を受けることになり、病院に脳のMRIができたばっかりだったので先生に絶対に撮ってくださいと言って、海外の仕事に行くことになりました。

帰ってきたら巨大な脳腫瘍ができていましたと言われました。
手術もできないレベルでした。
糖分と油分の代表的なような食生活だったので、和食風に私が手作りでやっているうちにあなたのおかげねと母が初めて褒めてくれました。
認知症と老人性うつ病も発症していて、この状態で家族がそばにいることが珍しいといわれました。
非常に攻撃性の強い認知症でした。
普通は付き合いきれない状況だといわれました。
母のやっていることを全部先生にお話したら、本当によくこれまでご一緒にいられましたねと言ってくださって全部救われたと思いました。
共感してくれる人が必要だと思いました。

仕事関係の友達が家に来ていた時に、母が手におむつを持って下半身すっぽんぽんで現れたときには私は腰を抜かしました。
母がおむつを使用していたことは知らなくて、「これ替えて」といったんです。
次の瞬間床に転がり落ちて私はおんおん泣いていました。
一生乗り越えられないという思い、みんなに愛情をかけていた母が、あーあ親子逆転この瞬間したなと思って切なかったです。
下の世話をすることで家族が良くやってくれました。
母がトイレでお尻が汚物だらけでしたが、血は繋がっていない夫が素手で手が汚れましたがおんぶしてくれました。
介護は育ててもらったお返しをしているだけなんだなと思った時に、凄くスイッチがOFFからONになるんですね、その時に気が楽になりました。
介護は何のためにするか「親に笑顔でさよならを言うためなんですよ」とありましたが、良い言葉だと思います。

自宅でみとることになって、酸素濃度が20ぐらいに下がってきて危なそうだという事で先生も呼びました。
その間天ぷら、中華の話をして聞かせているうちに酸素濃度が30、40と上がってきて、洋食やら屋台のそばまで話をして、酸素濃度が80まで上がって、持ち直して先生もかえってそれからほどなく、息がしていないのに気が付きました。
施設などでも○○さんありがとうと、テープに入れてパチパチとみんなで拍手で送ってあげたら魂が幸せに旅経っていくのではないかと思います。
母をあのように送ってあげてよかったと思います、母は本当に優しい顔をしていました。
介護はどうしても女の人が背負いがちなので、頑張っている奥さんにねぎらいの言葉とか、肩をたたいてあげたりしてもらえればと思います。
どういう人が思い出に残っていく人になるかというと、どれだけの愛情を人にかけたかという事になるかと思います。
そういう思いを持ってこれからも生きていきたいと思います。










2019年8月25日日曜日

釜本邦茂(メキシコ五輪サッカー銅メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言)(初回:2014.5.23)

釜本邦茂(メキシコ五輪サッカー銅メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言)(初回:2014.5.23)
75歳、京都の山城高校から早稲田大学に進学、早稲田大学2年生で東京オリンピックの代表になります。
メキシコオリンピックでは日本のエースとして6試合7ゴールを決め大会の得点王となるとともに日本銅メダルの立役者になりました。
社会人のヤンマーディーゼルでは、日本リーグ7回の得点王、チーム優勝4回という黄金時代を築きました。
その間に日本代表を14年間勤め、国際試合76試合で75得点を上げて日本サッカー協会公認の日本代表の最多得点保持者と、まさに日本最強のストライカーといわれました。
現役引退後は松下電器やJリーグ、ガンバ大阪の初代監督となり、その後日本サッカー協会副会長や参議院議員を務めました。
日本サッカー界の御意見番として活躍する釜本さんに伺いましたアンコール放送です。

2014年に旭日中綬章受章。
サッカー界の功績もあるのではないかと思います。
今でも子供たちとサッカーをやったり、海外にいったりしています。
昭和43年当時24歳、早稲田大学からヤンマーディーゼルに入って2年目でした。
メキシコオリンピックには16チームが参加、4チームずつに分かれて各グループの2位までが決勝トーナメントに出場するということでした。
日本はBグループで、ブラジル、スペイン、ナイジェリア、日本でした。
強いところばっかりでした。
初戦ナイジェリアと対戦、3-1で勝利  3点全部釜本が得点
前半24分で得点した時に肩の荷が下りて自信めいたものが生まれました。
3点目は相手のゴールキックをセンターライン付近で受けて、時間稼ぎのつもりでキックしたら左のクロスバーのところに突き刺さるように入りました。
入れようと思って蹴ったボールではなかった。

ブラジル戦 前半1点を取られるが、後半38分相手ゴール付近でヘッディングで競り合い落ちたボールを渡辺選手がスライディングシュートで入ってブラジルと引き分ける。
最終戦がスペイン 0-0で引き分け。
ブラジル-ナイジェリア戦では4-1ぐらいで勝っていたのを放送していて、日本は決勝トーナメントに行けそうで、別グループのメキシコかヨーロッパのチームとの対戦となりそうだった。
ヨーロッパとはやり慣れているので、引き分けて2位狙いだった。
スペインも2位になりたがっていた。
決勝トーナメント準々決勝、フランスと対戦して3-1で勝つ。
前半26分に日本先制、釜本がゴール、その後フランスが1点を入れて前半は1-1で終了。
後半、釜本正面からシュートして決まって2-1となり、渡辺選手のシュートが決まって3-1となりフランスに勝利。

準決勝ハンガリーと対戦0-5で敗れる。
3位決定戦 地元メキシコとの対戦 前半22分 杉山からのパスを胸で受けて前に落として、ディフェンダーをかわして左足シュート、決まって1-0 日本先制となる。
前半35分2点目を決める。
メキシコに2-0で勝って3位になる。
表彰式での声援は銅メダルの日本が一番大きかった。
ハンガリーが勝って金メダルだったが、退場者が両チーム二人ずつ出て荒れた試合でメキシコの観衆にいい印象を与えていなかった。
日本は合計9得点したうち7得点は釜本、2得点にアシストという結果になった。
東京オリンピックに向けて技術アップを図ったが、結果が出なかったが、ナイジェリア戦で自信をつけたと思う。

天皇杯、大学1年、4年で優勝 当時弱小チームのヤンマーディーゼルに入って、昭和44年天皇杯初優勝、46年二度目の優勝、昭和50年三回目の優勝 5回優勝する。
高校の先生からセンターフォワードは点を入れるところだから点を入れることだけを考えろといわれました。
負けず嫌いの性格で勝ちたいという気持ちがありポジションとしては合っていました。
技術的、体力的にも世界のレベルからは離れていた。
怪我も病気もありましたが、うじうじ考えても仕方ないので、治したらできるから中途半端なことはするなといわれました。
日本リーグ低迷期にサッカーのポスターに後ろ向きのフルヌードが掲載されました。
グラウンドに入ったときには私は我を通します、私のところに正確に蹴れるように練習しろという事で、私はいいコンビを作ってきました。
自分が走ったところにボールを来させないとだめだと思います。
自分はチームのために何ができるのかという事を考えてくれたら、おのずから良いプレーができると思います。
























2019年8月24日土曜日

渡辺美佐子(女優)            ・【舌の記憶~あの時、あの味】

渡辺美佐子(女優)            ・【舌の記憶~あの時、あの味】
東京都麻布生まれ、俳優座養成所時代に今井正監督の「ひめゆりの塔」で映画デビュー、舞台の代表作は一人芝居「化粧」で、海外公演を含めて648回演じ続けました。
TVドラマも「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など多彩なドラマに数多く出演されまして、この8月にもNHKの終戦関連ドラマ「マンゴウの樹の下で」に出演するなど実力派の女優として今なお第一線で活躍しています。
そんな渡辺さんがライフワークとして長年にわたって取り組んで来たのが、原爆の朗読劇です。
1985年演出家の木村光一さんに乞われて始めた朗読劇は、12年前からは戦争体験のある女優たちの手で毎年夏に全国各地で続けてきました。
原爆の犠牲となった子供たちや母親、家族の手記を淡々と朗読する舞台は深い悲しみが伝わって会場では涙する人が多く見られます。
戦後74年の今年、おりしも今日の午後埼玉県深谷市の公演でその幕を閉じることになりました。
今日は34年間にわたる思い、戦中戦後の日々、ご自身の舌の記憶やドラマ「不ぞろいの林檎たち」などで知られます、名プロデューサー夫の大山勝美さんの闘病生活を支えた手料理になどについて伺いました。

1985年から続けてきた朗読劇、毎年7月、8月は原爆の朗読劇を持って日本中を回るという事を決めてあったものですから、ほかの仕事をしないで日本中をめぐって歩いていました。
当たり前の生活になっていましたが、今年で終わりになると思うと・・・、でも34年間やるだけのことをやったなあという思いでいますが、歳には勝てないですね。
初めて稽古をした時には泣いて泣いて稽古になりませんでした。
伝える人が泣いてどうするんだと演出家の木村光一さんに叱られました。
最初の旅が広島、長崎でした。
今から35年前でしたので被爆された人もいましたし、ご家族を亡くされた方も大勢いるので、その人たちの前で私たちはいったい何をしようとしているんだろうかと、辛い思い出をもう一回思い起こさせてしまって、緊張して前の晩は眠れませんでした。
朗読が終わった後に劇場に来た被爆者が、『今までは人に語らなかった、就職、結婚などに対して被爆者であるという事がハンディーになったりしてしゃべらなかった人が、やっぱり経験したことを話さなければいけないんだという風に吹っ切れた」という話を聞いて、凄くうれしかったです。

仲間の18人がみんな戦争経験者なんですね。
その思いから朗読を続けてこられた。
全く戦争を知らない若い方たちを入れてやるという事は、全然感性が違うと思うんです。
1980年の時にTVのご対面番組に出ましたが、会ってみたい人に疎開したのかなあと気になっていた人がいました。
番組の人に話をして、当日を楽しみにしていました。
水永龍男君という人でしたが、登場したのは彼の御両親でした。
当時両親は満州にいて彼は東京の中学にいましたが、東京に空襲があり祖母の広島に疎開させました。
8月6日に勤労奉仕で仕事をしていて、原爆の直下にいたようです。
「遺体、遺品、目撃者もいないのであの子が死んだという事を証拠付けるものがなにもないので、いまだにお墓がつくれないんです」と、淡々とお話になりました。
どうしているのかなあという思いだけでご両親に又悲しい思いをさせてしまって、本当に申し訳無かったですといいましたら、龍男は12歳でいなくなったんだけれども、親としては転勤が多くあの子には友達が少なかった。

あの子が生きていることを知っているのは親戚と家族ぐらいしかいないんです。
あなたのようにあの子のことを35年間忘れないで、探してくれた方がいたという事はありがとうございますと、逆にお礼を言われました。
その時は泣けなかったです、それよりもなんか強いものでガツンと胸を打たれた様な感じでした。
塊のようなものがずーっとあって、どうしていいかわからないときに、朗読劇の話がありました。
資料の中に広島二中一年生322人全滅の記録「石踏み」という本がありました。
子どもを亡くされたお母さんたちの手記などの本でした。
もしかしてと思って巻末を見たら322人の名前の中に水永龍男という名前がありました。

その思いが私を35年間続けさせたんだと思っています。
世の中、戦争の記憶はどんどんなくなりますね。
朗読劇を聞いてくれて、普通の生活が凄く大事なんだという事を思いました、と言ってくれると凄くうれしいです。
学校、教科書などで戦争の現状を伝えて、戦争だけは嫌だという風に子どもたちを育ててほしいです。
小学校卒業して戦争が終わって、急に8月15日を境に世の中ががらっと変わってしまって、アメリカ映画、ジャズが入ってきて、すべてがひっくり返って、正義って何なんだという事が真逆になってしまいました。
日本万歳と言っていたのがころっと変わって行って、自分はなんなのと思いました。
戦争という風が吹いたり、逆に民主主義という風が吹き始めて、そういう風は本当に人間を変えてしまうし怖いなあと、変な風が吹きませんようにという思いでいっぱいです。

私は5人兄弟の末っ子です。
東京大空襲の時には東京にいました。
母と姉と私は長野の篠ノ井に疎開に行きましたが、食料をもらえるような時代ではなかったです。
父から送られてきたたばこと交換して3,4日リンゴばかり食べていた時もありました。
或る時カレーの匂いがして、嬉しくてその鍋を私が持っていくといって土間に鍋をひっくり返してしまいました。
母が「大丈夫?火傷しなかった?」と言って、後で思うと、もし私だったらそんな風には応対できなかっただろうと思います。
大事に大事に持ってきたカレーの元で作ったカレーだったのに、よく怒らなかったと思います。
俳優座養成所に入って、今井正監督が「ひめゆりの塔」を撮るので女学生の役を10人ぐらい選ばれました。
沖縄の事をいろいろ勉強して、大変なことがいろいろあったことを知りました。
食料もなく逃げてゆく女学生の役ですが、なんか気に食わなくて何だろうと思ったら、そんな状況の女学生がぽちゃぽちゃと太めのはずはないと思いました。
1週間断食しようと思い水分以外食べずに1週間断食しました。
1週間ではやせるものではないが、目は引っ込んできます。
戦争は愚かなことだなあと思いますし、何千年と戦争をやってきた人間は愚かだなあと思います。
「化粧」一人芝居 「面白い我に仕事あれ、それをし遂げて死なんと思う」(石川啄木)
(「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」 が正しいか)
ああこれだなあと思いました。
井上ひさしさんの作品でしたがどうするのという思いでした。
したことがない事ばっかりでいろんなことを教わって、素晴らしい私の宝物です。
人間の愚かさがあるからこそ可愛い、愛おしいというところが参ってしまいます。

素材を生かす、バランスのいい料理をしています。
大山はすごく喜んでくれました。
食べることってやっぱりすごく大事ですよね、楽しみのうちの大きな部分を占めていますし。
家族と一緒に暮らして、ちゃんと夜は空襲警報が鳴らないで、自分の好きなだけ眠れて、普通においしいものを食べて、友達と遊んで学ぶことは学んで、普通の生活が本当に大事で、それを奪うのが戦争だという事を若い人に知ってほしい。
世界をちゃんといつも見ていて何がおかしいのか何がおかしくないのか、しっかり目を見ひらいて、自分は何をしたいのか、ちゃんと持っていたいなあと思うし、それを若い人に持っていてほしいと思います。




























2019年8月23日金曜日

いせひでこ(画家・絵本作家)       ・【人生のみちしるべ】 心が立ち止まる時、物語が生まれる(2)

いせひでこ(画家・絵本作家)・【人生のみちしるべ】 心が立ち止まる時、物語が生まれる(2)
第2回は絵本作家となってからのお話を伺います。

ふらっと出た旅とかにモチ-フがあって、そこから出発するという事が多いです。
窓にひっかかって、或る小さな窓ですがそこから大きな物語が生まれたという経験があり、それが「ルリユールおじさん」というパリを舞台にした絵本です。(2016年)
その窓に出会ったのは2004年です。
娘を誘って旅に出て、地味な窓が私を呼び寄せるせるように見えました。
帰ってきたらその風景が気になって、次に下の娘と一緒にその窓を探しに行ったらシャッターが下りていました。
おじいさんは入院しているらしいという事で、手紙を書いて絵本を一冊一緒に入れて、こちらの連絡先を書き入れポストに押し込んできました。
4日目、帰る前の日に電話をしてきました。
娘と一緒に駆けつけて会うことができました。
その間にいろいろと周りの風景などのスケッチを書き込んでいました。
おまえのデッサン力はゴッホみたいだとそのおじいさんは言ってくれました。

1時間だけスケッチさせてもらう事になり、娘にも写真を撮っていいかどうか聞いたら駄目だといわれました。(手紙にはスケッチさせてもらいたいと記載してあった。)
1時間の間に本をばらし、かがる、糊付け、5種類ぐらいの紙をカットする、大急ぎで見せてくれた。
この次は暖かくなって私の体もよくなってくるだろうから取材に来なさいという事になりました。
取材の道が開かれました。
2005年、2006年と5回に渡って取材に行きました。
ルリユールの工房はフランスでも減っていて昔はパリに200軒ぐらいあったが、今は10軒もないわけです。
出版したらすぐにフランスから翻訳の話が来ました。
フランスの伝統的な職人の仕事がなくなりつつあることをフランスでは危惧をしていた。
私の片言のフランス語と80歳ぐらいのおじいさんとのぎこちない会話での情報収集がありました。

注文されて渡すまで1か月でその仕事は大体50ユーロで、おじいさんはつつましく生活していました。
5回目で1か月近くアパートを借りて過ごして目の前の公園を見ると、樹齢400年ぐらいのアカシヤの木が目の前に来ていました。
その木をいろいろスケッチして、そこを通る人たちの人生などを思い浮かべました。
そこからアカシヤの木の下の女の子、ルリユールおじさんを一気に物語にすることができました。
タブローを持って日本に帰ってきました。
導かれるままに作ってしまいました。
パリの人たちにも受け入れられました。
パリから原画展をやりませんかと話が来て、原画展もやりました。
全部つながっていて本と本が会話しているような感覚があります。
子どもを産んで育てているようで終わりがないです。

2011年東日本大震災の後、被災地で木にあうことになる。
翌年にいって宮城県の亘理(わたり)という海岸から内陸に入ったところに一本の根こそぎ倒れた木が横たわっていた。
被災地でのスケッチはそれまでできなかったが、その時には木が描いてくださいと語りかて来たような気がしました。
ここで何百人の人が亡くなりました、何百人の人が流されました、その事実を私は身をもってここで示しているんですよと、そういう姿です。
根っこも何もない、ここの人たちの根っこも無くなりましたよ、生きてゆく事ってどういう事なんですかと全部突き付けられているみたいな姿でした。
2015年にその木が撤去されるまで3年半通いました。
それを絵本にしようというのはできていなくて、それは私の中にずーっと持っていればいいことで、命あるものは限りがあってでも何かを伝えようとしているという事が私の中にあって、同じ2011年に放射能の被害があって、全村非難した子供たちのために緊急出版した絵本があります。

詩人の長田弘さんから一つの詩が届きました。
その2,3年前に娘が籍は入れないが一緒に暮らしたいという事で、長田弘さんの詩をお祝いの意味も含めて手紙で送りました。
26ぐらいの質問になっている。
「今日あなたは空を見あげましたか。 空は遠かったですか近かったですか、で始まって
雲はどんな形をしていましたか、風はどんな匂いがしましたか、となって段々難しくなってゆく。
あなたにとって私たちというのは誰ですか、何歳の時の自分が好きですか、世界という言葉でまず思い浮かぶ風景はどな風景ですか、・・・。 
段々こたえられなくなってくる。

これは絵にならない、娘に渡した詩でもあり私はこれを描かなければいけないと思って、大きくして壁に貼って1年間眺め続けした。
長田さんは大震災の時には入院していて気が付いた時には故郷の福島がずたずたにされていたことに気付く訳です。
2011年から2012年にかけてずーっとこの詩と接した姿勢でした。
その中でさっきの一本の木と出会った訳です。
どんな空を描いたらいいか迷って感じ5歳までの自分に戻っていきました。
雪解けの大きな水たまりに映る空を見たときに、空って無限なんだ、底なしなんだと、水たまりの中で気が付きました。
これが描けたら後はだいぶ楽になりました。

絵本って年齢はないんですね。
年齢、年齢によって違う読み方ができる。
読者に耐えられる絵本を作りたい。
立ち止まった場所が私の道しるべだと思います。
長田さんの中に「立ち止まる」という詩があります。
「立ち止まる

立ち止まる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。

「木のことば、水のことば、
 雲のことばが聴こえますか?
「石のことば、雨のことば、
 草のことばを話せますか?

立ちどまらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。」

私は立ち止まってきてよかったなと思います。

孫がいますが、この子たちの未来に私たちが何を残せたんだろうか、絵と言葉を使ってあの子たちが大人になっても耐えられるようなものを作りたい。
目の大きな手術を3回してきて、何を信じるかといえば、よみがえってきたその見え方を信じるしかない。
この目が信じられるものを未来の人に絵本にして送っていきたいと思います。













2019年8月22日木曜日

箱石シツイ(理容師理容師)        ・鋏ちびても腕おとろえず

箱石シツイ(理容師)        ・鋏ちびても腕おとろえず
102歳、戦争でご主人を亡くされ女手一つでお子さんを育て店を切り盛りしてきました。
長年一人暮らしを続けてきましたが、今年からは息子さん家族たちとも同居され、ひ孫さんたちも遊びに来てにぎやかになりました。
最近は長年のお得意さんたちも施設に入ったり亡くなったりと寂しくなったそうですが、評判を聞きつけて遠く県外からも訪れるお客さんも増えてきたといいます。
80年を越える理容師としての人生にはどんな苦労や喜びがあったのか、伺いました。

皆さん施設に入ったり亡くなったりする人が多くなりました。
店は昭和28年からなので、66年になります。
ハサミも自分で砥石で研ぐので減ってしまって短くなってきています。
80何年になります、19歳から使っているハサミです。
「しずえ」でしたが、訛っていて、戸籍を見たら「シツイ」になっていました。
兄弟は女が4人、男が一人で4番目の女性でした。
両親が手に職を持った方がいいという事で、親戚が床屋だったので親戚の家に行きました。
弟子が3人いて、みんなが遊んでいるときに、追いつけ追い越せという事で練習をしました。
理容師の免許を昭和11年6月に取りました。
厚生省ではなく警視庁が当時は免許を発行しました。
主人も理容師でした。
自分で店を持とうと思って貯金をしていました。
あってほしいという人がいて3人目で、真面目そうだったので承諾して結婚して、1年目で子どもが生まれました。

昭和19年7月、景気のいい時に召集令状が来ました。
戦争の末期だったので、見送りの人はたくさん来ましたが、万歳などはしませんでした。
戦地は満州でした。
手紙は2回きましたが、南京虫に刺されて痒くて夜も眠れない、君も子供を大事にして頑張ってくれ、貯金のお金を全部使ってもいいから子供を大事にしてほしいという事でした。
空襲があり早く疎開するようにと父が言って、疎開しました。
新宿の店は空襲でやられました。(東京大空襲)
昭和28年まで足音を聞くと夫ではないかと思いながら夫を待っていました。
昭和28年に戦死の通知、遺骨ではなく板の入った箱が来ました。
子どもたちと3人だけになりどうしたらいいか途方にくれました。
「猫いらず」を用意して、お父さんのところに行こうねと言ったら、死んだらおしまい生きていれば必ずいいことがあるといわれて、思いとどまって頑張ろうという事で頑張りました。
理容店を開いて、腕がいいという評判がたって、息子も小学校の4年生でしたがご飯を作ってくれたりして手伝ってくれました。
お客さんにタオルでひげを蒸している間に立ったまま、よく卵をかけてさっと噛まずに食べていました。

息子が協力してくれたおかげで店を切り盛りしていくことができました。
店は栃木県那須郡那珂川町で茨城県の境に近い所でしたが、茨城県のほかに福島県からもお客さんが来ました。
お客さんの子どもの行事の時など母親の和服の着付けも無料でしました。
リーゼントが得意でしたので、相当お客さんが来ました。
慎太郎刈が一番得意でした。
一人暮らしになり、仏壇の夫に向かって「今日は一日守ってくださってありがとうございました。
また明日も頑張りますからお願いします。」と毎晩お礼を言います。
息子からこっちに来れば、という話もありましたが、友達もいなくなってしまうので、行くのをためらっていました。

或る時、倒れてろっ骨を2本折ってしまい、2週間ぐらい入院しました。
先生、看護師さんがみんないいかたで楽しかったです。
お客さんたちはみんな待っていて嬉しい言葉を頂きました。
健康のために自分で考えた体操を朝晩やっています。
食事は青ものの菜、人参、ヨーグルト、牛乳、食パンを食べます。
ひ孫(息子の子どもの子ども)も来てくれます。
息子に髪を切ってもらって、息子は私が切ってあげます。
11月10日に103歳になります。
できる限りこの仕事をやろうと思っています。















2019年8月21日水曜日

荒木田裕子(女子バレーボール金メダリスト)・可能性にアタック! モントリオール五輪

荒木田裕子(女子バレーボール金メダリスト)・可能性にアタック! モントリオール五輪
選手引退後JOC日本オリンピック委員会の活動に長く携わってこられ、東京オリンピックパラリンピックの招致活動やトップアスリートの就職支援活動アスナビなどの創設にかかわってこられました。
現在は東京オリンピックパラリンピック組織委員会理事、全国ラジオ体操連盟会長 、IOC国際オリンピック委員会、プログラム委員会などを務めていらっしゃいます。

2013年9月7日に東京オリンピックパラリンピックの開催が決まって、4回私は招致に関わっておそらくそれが最後だという思いだったので、決まった瞬間はみんなが涙がボロボロでました。
翌日IOCの事務所に呼ばれて、当時の武田会長を含めて4人呼ばれて、今日からあなたたちのナイトメアが始まる、要するに東京に悪夢が始まるよといわれました。
オリンピックパラリンピックをやる事は大変ですよという事なんですけれど。
この6年間はいろいろ大変だったと思います。
アスリートにとってはどんどん決まってゆくしあと1年かと思います。
全国ラジオ体操連盟会長をやっています。
前任者は小野清子先生です。
去年がラジオ体操が始まって90周年になりました。
ラジオ体操は一つの地域のコミュニケーションツールであると思います。

1964年の東京オリンピックは小学生の時で家庭にはTVのない時代で、集まってTVを見て、一番印象に残っているのが開会式でした。
小さいころから仲間と何かをするのが大好きでした。
小学校のころはポートボール(ミニバスケットのような競技)をやっていました。
中学校に入ってバスケットをやりたかったがなかった。
みんなで一緒にやれるという事でバレー部に入ることになりました。
同じ仲間たちで高校までやりました。
ミュンヘンオリンピックの年に日立に入りました。
ほかはアタッカーをという事だったが、セッターをやらせるといったのは日立の山田監督だけでした。
背が低かったのでセッターだったらいけるかなと思いました。
ミュンヘンオリンピックでは女子は銀メダルで悔しさで泣いているのを見て、やっぱり金メダルでなければいけないんだと思いました。

私はなかなかうまくなりませんでした。
2年経ってバレーを辞めたいと思って、大学に行って教師を目指そうと思いました。
どうせ大学に行くなら海外に行けと監督から言われました。
中国の大学に山田監督が手紙を出したが、文化大革命の教育革命の真っ最中で今来てもまともな教育が受けられないと言ことで、カナダの大学に行くことになって、踏ん切りがつかなくて最後にもう一回バレーをやらしてくれ、アタッカーとしてやらしてくれという事になりました。
当時から手書きでデータを作って、やっていました。
私は仮想リスカル役をやっていました。
働きながら勉強しようと思って夜学に入りました。
金をとったときに本当に自分でつかんだメダルだろうかと思って、金メダルを取った荒木田裕子といわれるのが嫌で仕方なかった。
勉強して先生になろうと思いました。
コーチングの資格も取りました。

スイスから指導者として、選手としてもやってもいいという事で行くことにしました。
行ってすぐに香港でインターナショナルのライセンスが取れるという事で、周り中男の人だらけの中で資格を取りました。
しばらく日立のバレー部に戻っていたが、バレー部が廃部になるという事で、収入も途絶えてしまいました。
英語をもう少し勉強しようと思って、イギリスのオリンピック委員会に一人で行って、研修させてくださいとお願いに行きました。
アスリートをサポートする勉強をしたいといいました。
オリンピックパラリンピックを目指すアスリートを経済的に支援するところでした。
銀行にサポートしてもらっていたアスリートが優秀でそのまま残ってほしいと就職してしまいました。
イギリスの日本企業にイギリスのアスリートを雇用して欲しいとお願いに行きました。
日本に帰ってきて、企業がアスリートを雇用するとかチームを保有することにどう考えているのか聞いてみようとヒアリングしました。
その中にアスリートを雇用するには、費用が大分掛かると誤解していました。
企業には一体感の醸成がないのでアスリートを雇用することで、一体感の醸成に役に立つという事でウイン-ウインの関係を作りたいという事で始まったわけです。

強化を担当することになって、2年前に何をやったらいいんだろうと思って、女子の指導者にヒアリングしました。
オリンピックに参加していない指導者もいたりして、オリンピックで勝つという事はどういうことなのか、メダルを取るという事はどういうことなのか、アスリートを指導するのにどうしたらいいかわからないという本音が出てきました。
リオのオリンピックでは41個のメダルを獲得していて、そのうちの40個はナショナルトレーニングセンターで合宿しているアスリートが取っているわけです。
メダルを取った指導者がいっぱいいるわけで、毎月第二木曜日に決めて昨年4月から始め第一回目は山下強化本部長(JOCの会長になられた。)に依頼して講習をしました。
反応は入ってくるときと出ていく時では全然違います、やってよかったなあと思います。
プレッシャーをエネルギーに変えてほしいと思います。
スポーツには力があるという事を東日本大震災の被災地に寄り添いながら経験してきたと思うので、態度、競技を通してアスリ-トの力を共有できるような形になれば、そしてその種をそれぞれ持ち帰ってもらえば、我々も世界平和に貢献できると思うので、頑張ろうねという思いです。





































































2019年8月20日火曜日

下戸眞由美(旅の案内人)           ・心を癒す 京都の旅

下戸眞由美(旅の案内人)            ・心を癒す 京都の旅
京都市の西陣で生まれ育った京都っ子。
信心深い祖母に育てられた下戸(おりと)さんは四季折々りの祭りや行事に合わせて小さいころから多くのお寺や神社を訪れました。
その後会社勤務を経て結婚、勤務中に一時体調を崩しましたが、医師による治療と並行してかつて訪れた寺社巡りを再開し、やがて克服しました。
2014年に京都府から旅行業登録を許可され四季折々の行事や草花、紅葉など少人数でゆったり楽しむ旅を企画しそのガイドを務めています。
この春京都の大小の寺社の行事や、季節の魅力を紹介する「京都癒しの旅」という本を出版しました。
下戸さんのお好きな京都の年中行事や毎月のお勧めの場所を実体験に基づいて紹介しています。
下戸さんに京都の寺社ならではの四季の行事の魅力、案内人としての今後夢などを語っていただきます。

京都市の西陣は昔の街並みが残っているところです。
御所も近くにあります。
祖母も明治生まれで信心深い人でした。
晴明神社、白峯神宮は徒歩圏内です。
地元の信用金庫に勤める事になりました。
結婚後も京都に住むようになりました。
祖母が年に一回旅に連れて行ってくれて、それがすごく楽しみで二人の励みになっていました。
祖母も亡くなって、ゆっくりペースで地元の誰かが付き添えばもっと旅に来られる方が増えるのではないかと思いました。
京都を案内したいという気持ちが強くなってきて、まずはツアーガイドを担当して知らないことを勉強して積み重ねていきました。
知れば知るほど無知を知る、と実感しました。
2012年「京都癒しの旅」を創業しました。
その方のペースにあった旅をご案内したいと思いました。
募集はインターネットで発信しています、女性限定です。
以前精神的につらくなったことがあり、うつ病にもなり、回復したが女性ならではのつらい気持ちがあるという事を心理学で学んだ時に感じて、女性の気持ちに寄り添って女性が元気であれば家庭が元気で、ひいては世界が元気になり、笑顔で暮らせたらいいなあと思ってまずは女性かなと思って女性限定にしています。
一人、あるいはせいぜい多くて3,4人を対象にしています。
「京都癒しの旅」を出版しました。
事件、政治とか一切載っていないいいお話が載っている宮崎中央新聞を週一回出している全国紙ですが、それを読む会があるので来ないかと同級生に誘われました。
編集長の水谷さんが講演をして、本を出したかったら本を出している人と友達になったらいいとか、人生がどん底から一気に上昇気流に乗るのには決断することが必要だといわれました。
感想を述べる時に「本を書きたい」といいました。
メールで目次と前書きを書いて送りました。
エッセーみたいで面白いといわれて、ごま書房新社の社長さんに編集長の水谷さんが推薦する手紙を出してくれていました。
ごま書房新社の社長さんから声をかけていただいて出版することになりました。
神社仏閣のいろんな行事、自然の魅力などを1月から月を追て書かれています。
同じ場所でも重なりますが、行事がつながったり、季節が変わると違う顔を見せるし、書こうと思って書きました。
まずは初もうで、今宮神社
2014年に京都府から旅行業登録を許可されて、女性の方への癒しの旅を目指していることを神職の方にその話をしたら、詳しく祝詞を上げてくださって涙が出るほどうれしくて、さらに今宮神社には通うようになりました。
貴船神社の若菜神事、1月7日。
本殿の中に入らせていただくのが30人です。
七草がゆを食べるのはお正月の御馳走で胃が疲れたので、七草がゆを食べて胃を休ませましょうと聞いていましたが、宮司さんの話ではこの寒い冬に若い芽を出す、その力、植物の気を頂く日ですといわれました。
節分、壬生寺、素焼きの丸いお皿のようなものに自分の願い、名前、数え年を筆で書きます。
それを壬生寺に納める。
春と秋に壬生狂言を演じて最後に演者の方がその宝楽を割るんです。
なお一層厄が払われ、願いが叶うようにということが言われています。
京都御所で梅と桃と桜が一度にめでる時と場所がある。
出水の枝垂れ桜があり、3月の20日ぐらいから咲き始めて、まだ梅が残っていて、桃もちょうど咲いてみられます。
今宮神社、夏越の祓 半年間の厄を払って、茅の輪でできた輪をくぐってお祓いをするものです。
あぶり餅の店があり一軒は1000年を超えていて、新しい方は400年を超えています。
あぶり餅も楽しみですが、和菓子の水無月を食べる日です。
この半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事です。
7月の祇園祭 一つ一つの鉾に歴史があります。
薙刀鉾、7月5日に稚児舞い披露があります。
鉾は釘は一本も使わずに、木を組み込んでいって荒縄を絡めて組み立てていきます。
50mの荒縄を100束使うそうです。
鉾には40~50人乗り、重い鉾ですと10トンぐらいあります。
大徳寺、 曝涼展 10月の第二日曜日 所有されている宝、掛け軸を一斉につるして虫干しするんですが一般の人にも見られるわけです。
一つの掛け軸、文化財を支える多くの人、プロ、職人、芸術家達の技が伝わっている、繋がっている。
秋の大覚寺、大沢池、特別ですね、本当に綺麗です。
月見も綺麗です。
「初天神に参ったら仕舞天神にも行きなさい」これは祖母から子供のころから言われていました。
初天神にいってお願いごとをして、1年間無事に過ごせたら仕舞天神でお礼参りをするのは当然のことだと改めて思いました。

「人間関係でつらいことがあっても京都に来ていろんな温かい人と出会って、また頑張ろうと思えて勇気を貰える旅です」といってもらって、私自身の励みにもなっています。
お客さんがまだ少ないがリピーターが多いです、90%がリピーターで来ていただいています。
昔から生きた人の知恵と何も言葉をかけない自然からも守ってくれている、そういう場所が京都なんじゃないかなあと思います。
50~60軒が一つの町内ですが、町内にひとつずつお地蔵さまがいらっしゃって、順番に毎日お地蔵様の掃除をしてお花を替えます。
8月23,4日当たりに地蔵盆という行事があり、町内の空き地などに祭壇を作ってお地蔵様を飾ってお坊さんにも来ていただき拝んでいただきます。
散歩に行って自分のところのお地蔵さんでなくても手を合わせてしまう自分がいて、そういう京都の方は多いと思います。
食べ物もいろいろあり楽しみです。





























2019年8月19日月曜日

篠原由香利(ガラス風鈴職人)       ・【にっぽんの音】

篠原由香利(ガラス風鈴職人)       ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
4代目 38歳、実家を継いで15,6年。
風鈴の音色、
構造的には江戸風鈴はガラスでできているが、風鈴のなかにガラスの管が下がっていて、管が鳴り口に当たって音がする。
音が良く鳴る様に鳴り口のところをギザギザに仕上げています。
擦れる音の方が人間にやさしいと江戸時代に職人さんが考えたらしいです。
素材は大きく分けてガラスと金属、木、貝殻とかがあります。
手作業なので一つ一つ違った音になります。
作る工程は大きく3工程になり
①ガラスを溶かして風鈴の形にします。
②風鈴の内側に絵を描きます。
③管を通して短冊をつけて鳴らすようにします。
ガラスを吹くのは一個2,3分でできます。
一日200~300個 (二人一組)
絵を描く人は絵だけを描いていて一日100~150個完成するという感じです。

小さいころから絵を描くことは手伝わされたので、絵を習うという事はなかったです。
絵は顔料を油で研いで描くのと、墨で描くものとがありますが、刷毛で描いたり、墨は筆で描いたりしています。
金魚の絵が一番売れています。
元は風鈴というのは絵と音で魔よけの鈴として一年中使われていたそうです。
宝船の裏側に松が描かれていて、宝船がやってくるのを待つというシャレになっています。
*「風鈴」宮城道雄 作曲演奏 

人によって好みの音が違います。
年齢よっても違う事もあると思います。
インターネットで買うことができるが、音色を聞いて、自分の好きな音色のものを買っていただきたいと思います。
大きさ、ガラス、鳴り口の大きさで鳴り方が変わってきます。
元は中国から占風鐸(せんふうたく)として入ってきたようです。
竹林にそういったものを下げて風向きでいろんなことを占っていたそうですが、日本に入ってきて風鈴になったといわれています。
ガラスが入ってきたのは江戸時代でその前は金属だったようです。
当時はながっぽそい形でした。
昔は風鈴を天秤に乗せて売っていましたが、現在でも外国人が買ってくれるというので歌舞伎町、銀座で担いで売る人が出てきたと聞いています。

*「風鈴」 小学唱歌

スカイツリー、浅草寺など東京の風景を描いた風鈴を作りましたが、東京都チャレンジ大賞というものがあり、伝統工芸品を集めた賞でそれの奨励賞を頂きました。
時代時代によってお客様が欲しいものが違ってくると、どうしても変わってくると思います。

日本の音、除夜の鐘の音、小学校の5時になると聞こえる夕焼け小焼けの音色
今は無くなってしまった東京の建造物をいろいろ描いてみたいと思っています。












2019年8月18日日曜日

小島希世子(NPO法人代表)       ・【"美味しい"仕事人】農業で「食」と「職」をつなげたい

小島希世子(NPO法人代表) ・【"美味しい"仕事人】農業で「食」と「職」をつなげたい
日本の農業は高齢化と働き手不足で大きな課題を抱えているといわれます。
一方で働きたいけれど仕事がない人たちもいます。
ホームレスの人、生活保護を受けている人、ニート、引きこもりと言われる人々、それぞれの課題を農業を通じて解決できないかと活動している人がいます。
神奈川県藤沢市でNPO法人「農スクール」の代表を務める小島希世子さん40歳です。
今年7月から藤沢市と共同で農業と福祉を連携させる試みを市民が学ぶ講座をスタートさせました。
農業が持つ可能性を様々なスタイルで追及している小島希世子さんに伺いました。

1,5ヘクタールで野菜を30、40種類を作っています。
農薬、化学肥料を使わないことを大事にしています。
野菜のオンラインショップも取り組んでいます。
熊本県出身なので熊本県の農薬、化学肥料を使わない農家のものを直送するオンラインショップをやっています。
お米、小麦、果物なども扱っています。
2011年からは一般の方を対象に140家族ぐらいが体験農業をやっています。
延べで年間5000人の方が来園しています。
年齢問わず楽しめるようになっています。
7割が初めて参加しています。
餅つき大会とか、雑草の勉強会をやったりもしています。
雑草の根は残して刈り取りをして残します。
2008年から個人的にやっていてNPO法人「農スクール」を2013年に創設しました。
もう一度社会の戻って働きたいという人に向けての取り組みですが、具体的には働きたいけど仕事がない、ホームレス、引きこもり、障害を持たれた方と人手不足の農業界をつなぐ取り組みになります。

熊本県で生まれ育ちましたが、両隣も農家で小学校に上がると同級生も農家というところで育ちました。
小学校の低学年の時にNHKのドキュメンタリー番組で食べ物が無くて亡くなってしまう小さな子供たちがいるという番組を見て、衝撃でした。
送ってあげることは不可能だとわかって、そういう国に行ってその場で穀物とか将来作ったらいいんじゃないといわれて、農家になりたいと思いました。
農業をやるには体を鍛えようと剣道、柔道もやって、砂漠地帯ではバイオテクノロジーとか技術を持って農業をしないと育たないと思って、そういった大学を受験したが通らなかった。
一浪して同じ大学を受験したが駄目でした。
神奈川県に国際協力とか食糧問題に取り組める大学があるという事でそこに行くことになりました。
東京に出てきて衝撃だったのがホームレスの人の存在でした。
日本にも食料がなくて困っている人がいるという事を知りました。
働きたくても働けない人たちと人手不足の農業を繋げたらお互い幸せになれると思って今の取り組みをやっています。
農作物の卸業者にアルバイトに行って、そこに就職することにしました。
その後有機農業系の会社に転職して、そのあと独立しました。
就職先では教わることが多く、たくさんお世話になり助けてもらっています。

NPO法人「農スクール」を2013年に創設しました。
食卓と農業の生産現場が離れすぎているので、危機感がなかなか伝わらない部分があると思います。
一回ホームレスになったり生活保護になってしまうと、なかなか働くステップに行くことが、日本では少ないなあと思います。
200万人以上の生活保護の方がいますが、厚生労働省の推計では40万人ぐらいのかたが働けるんだけれど働ける場がないとか、チャンスがなくて働けないという事で、農業界を担う人材になる可能性があるのでうまくマッチングすればいいと思います。
ニート、引きこもりなど社会との接点が苦手な方も農業は自己ピーアールは関係ない。
ニート、引きこもりの方などは農業界の救世主になるのではないかと感じます。
作物を作っていく中で、最初自分への自信がないが、段々自信を取り戻すと服装、顔が変わってきます。
作物を作っているところでは、生き物がいっぱいいるので、生きている実感を感じることができます、それが自分を育てることにつながっているのかなあと思います。

ホームレスの方はホームレス支援団体と連携してやっています。
生活保護のかたは行政が紹介される方がいます。
引きこもりの方はインターネットで検索して自身でいらっしゃたりします。
「農スクール」を卒業して4割ぐらいの方が就職していきます。
なかには農業経営者になった人もいます。
畑は開放的なので野菜とコミュニケーションをとるので、心も開放的になるのかなあと思います。
雑草をとるのにも横並びで雑草を見ながら話をするので、目を合わせたりすることがないのでコミュニケーションの場としては話しやすいと思います。
畑は作業などを通してコミュニケーションが取りやすい場だと思います。
7月から藤沢市と共同で「農福連携講座」が始まりました。(農業と福祉の連携)
「農スクール」と市役所が中心になって講座を月に一回やっています。
「農スクール」の考え方を持ったグループがいろんなところにできて広がって行ってくれればいいと思います。
11月と1月にはオープン講座を開いて多くの人の参加を願っています。
農業は食料産業ですが、農作業をする事によって心が癒されて、心の病気を未然に防ぐ場になったり、家族のコミュニケーションの場として一緒に農作業をして、レクリエーションの場としての使い方だったり、就労支援の場であってもいいと思っていていろんなスタイルがあると思います。
独立行政法人国際協力機構(JICA)を通じて研修に来られたところもあります。
アフリカの何か国かです。
みなさんが興味を持ったのは雑草を生かすことによって、水あげをしなくてもいいという事に興味を持った方が多かったです。
雑草が残っていると必ず毎朝朝露がおりて、自然が水やりを勝手にやってくれる状態になる。
雑草を抜かずに刈って敷く、その力を借りて栽培する。
雑草を敵だと思わずに仲間にしてしまう、虫もそうです。
将来的には雑草農法を持って海外に行きたいと思っています。

















2019年8月17日土曜日

垣戸博之(元乗組員)           ・潮岬沖に消えた巨大空母『信濃』

垣戸博之(元乗組員)           ・潮岬沖に消えた巨大空母『信濃』
垣戸さんは昭和3年2月和歌山県に生まれました。
一時期東京で過ごした後、自ら志願して、横須賀海兵団に入団、当時の巨大戦艦、大和、武蔵、と同じ型の3号艦「信濃」に乗り組みます。
この船の中で垣戸さんは上官の命令を各所に伝える役目をしていました。
「信濃」は戦争末期に横須賀で建造された船で全長264m、満載時の排水量が7万2000トン、当時世界最大の航空母艦といわれました。
悪化する戦況を好転するため「信濃」は突貫作業で作られていました。
垣戸さんが横須賀海兵団に入ったころの話から聞きました。

父親の弟が東京にいてこちらに来るようにいわれていきました。
東京の中学に4年行って、家のしつけが厳しくて辛くてそこから出たくて志願しました。
学校も兵隊に行くようにというようなことでしたし。
卒業後海兵団に入り入りました。
誰か一人へまをするとバットで尻を殴られるのがしょっちゅうでした。
乗船するまで4か月ぐらいありました。
「信濃」は横須賀の一番大きなドッグで建造されました。
建造中にB29が通過したことがあり、大きな船を作っているなと確認できていると思うんです。
アメリカは近く出航するという事をつかんでいたと思います。
出航して間もなくやられたのはアメリカに情報が洩れていたと思います。
艦長からいろいろな命令が出るのでその対処の仕方の訓練をしていました。
仙台から来た阿部とは親しくしていました。

行先は呉に行って艦隊編成するという事は聞いていましたが、その先は何にも知りませんでした。
恐怖心はそんなになかったです、世界最大という事を聞いていたので沈むなんて考えていませんでした。
出航するときにはこの船で勝てるんだという思いでみんな晴れやかでした。
昭和19年11月28日の夕方、航空母艦「信濃」は広島の呉に向かいます。
出航した翌日3時過ぎアメリカの潜水艦アーチャーフィッシュ号からの魚雷攻撃を受けます。
魚雷は右舷に4発命中し、信濃は傾いていきます。
一発目の時には非番で寝ていました。
飛び起きて自分の配置へ戻るのに、船が傾いていたようでふらふらしていきました。
バランスをとるために左に注水するような命令がありました。
自分では沈むというような感覚はなかったが、後からみんなから聞いた話では、急いで作っていた関係で溶接も粗雑であったといわれている。
本来魚雷4発ぐらいでは沈むことはないが。

制海権は握っていたというが、すでに敵艦が入っているという事で制海権はアメリカが握っていた。
周りの雰囲気など知る由もなかった。
伊勢湾沖で傾いてきて、伊勢湾に入ればよかったが艦長は沈むことはないとそのまま呉に向かった。
潮岬沖ではもう動かなくなりました。
沈んで死んでしまうと気は思いはぎりぎりまでなかった。
船が艦橋と後甲板に水が入ってきたときに、艦長は「これまでだ、みな生き延びて再度国のために尽くしてくれ」という訓示をしました。
言われなくてももうだめだとは思いました。
左に逃げるようにとの指示がありましたが、自分は泳ぎが苦手なので飛び込むことができなかった。
急に船が傾いたので海に放り出されてしまいました。
駆逐艦がいてロープで引き上げてくれました。
11月ですが寒いとか全然記憶がなかったです。
船が垂直になる瞬間を観ましたが、直前上甲板でうろうろしている人も見ました。
沈没までは大きな音をたてて早かったです。
助けられて目が覚めて、駆逐艦内だという事が判りました。
昭和19年11月29日午前11時前轟音ともに潮岬沖に沈没。

垣戸さんは呉市の対岸にある三つ子島に数か月間隔離された生活を強いられる。
機密が漏れないように小さな島に送られたと思います。
国運をかけて作った航空母艦が何もしないで沈められたという事になると、影響するので漏れないように隔離されたと思います。
何にもすることがない生活は嫌でした。
同情したり話をする友達もいませんでした。
勝てる船だと信じていたので、終戦を迎えて悔しかったです。
惜しい船だったと思います。
膨大な金をかけて作ったのはなんのためにつくったのかなあと考えます。
戦争は惨めなものです。
何としても平和でなければいけないと思います、どんな理由があっても戦争はしてはいけない。
お互い人間なので徹底的に話し合う事だと思います。
政治家は権力を大事にし過ぎて戦争になるケースが多いが、人間同士なんだということを頭において深く考えれば戦争なんてありえないと思うが、戦争のない政治をしてほしいと思います。
(太平洋戦争の戦況を好転させるため国家の威信をかけ当時の金額でおよそ1億4000万円という巨額を投じて作られた「信濃」は戦うことなく、出航から約18時間ほどで沈没しました。 
今「信濃」は和歌山県の潮岬沖の海底にあり、私たちに戦争のむなしさを静かに語りかけています。)




















2019年8月16日金曜日

木村芳勝(歯舞群島元島民)        ・【戦争・平和インタビュー】(5)今こそ史実、元島民の思いを伝えたい

木村芳勝(歯舞群島元島民) ・【戦争・平和インタビュー】(5)今こそ史実、元島民の思いを伝えたい
84歳、歯舞群島の志発(しぼつ)島に住んでいた木村さんは10歳で終戦を迎えました。
その後も島で暮らしていましたが、昭和23年島を追われます。
北方領土の問題が解決しない中、戦後74年となる今、木村さんは北方領土でどんな暮らしがあったのか、そして元島民がどんな思いでこの問題を見つめてきたのか多くの人に知ってもらいたいと願っています。

歯舞群島の志発島は根室の納沙布岬から25,5kmのところです。
行きたくても勝手に行けない。
近くて遠い故郷です。
根室は70年間住んでいても故郷とは思わない。
終戦の時には北方領土には1万7000人余りが住んでいて、志発島には2000人余りが住んでいました。
志発島は自然がいっぱいありました。
魚がいっぱいあり、昆布がたくさん獲れました。
干したり、昆布小屋に積んだり、子供のころ手伝っていました。
13人兄弟の5男でした。
学校は全体で40人ぐらいでした。
遊びは夏は泳いだり冬は竹スキーをやったりしていました。

空襲の時には昼間は防空壕に入っていました。
昭和20年8月15日には重大な放送があるという事でした。
兵隊はみんな泣いて地面をたたいていました。
ソ連兵が鉄砲を持って一軒一軒探しに来ました。
「トッキー、トッキー」と言ってきました。
時計のことを言っていたようです。
母親の指輪も、時計も盗られました。
女性はいたずれをされるという事で髪を切って顔を炭で黒く塗ったりして変装して身を隠していました。
怖かったです。

ソ連は昭和21年の2月に北方領土を自国領土に編入させたが、すぐに日本人を強制退去させられたわけではなかった。
彼らは大根、人参は食べないが、ごしょ芋を食べました。
島にはソ連の兵隊の子どももいましたが、言葉は判らなかった。
身振り手振りで話をして、一緒に遊んだりしていました。
お互いに段々言葉も覚えていきました。
食べ物に関しては大人も物々交換をしていました。
学校では劇を一緒にやったりしました。
当時占領されているという感覚はなかったです。
強制退去命令は村の長の人に言ったようです。

船に乗って出るでは直ぐ帰ってくるものだと思っていました。
ソ連の子どもたちは見送りに来てくれました。
船は1万トンぐらいの貨物船で物をはこぶみたいに扱われました。
樺太についたときにも、1週間船の中にずーっといました。
船の中には約1000人ぐらいいました
与えられた面積は1家族畳2枚分でした。
我が家は両親と子どもたちで10人でした。
母親は体が悪いので寝ていて、場所がないので機関部の上に行ったりしていました。
ご飯はパンにニシン、マスのしょっぱいのを一切れで、1日2回でした。
船の中で死んだ人は海に投げられました。
函館から根室に行くのはほとんど引き上げ者でびっちりでした。

望郷の思いはありました。
これまで6回北方領土に行きました。
初めていったときにはうれしくて涙が出ました。(1960年代)
日本人が住んでいた家はなくなって、基礎だけは残っていました。
故郷の墓には姉と弟、妹が眠っています。
日ロ首脳会談で少しでも前に進むのではないかと思っていたが、その度に裏切られてきました。
北方領土に関する細かい新聞記事までスクラップしています。
平成27年で切り抜きを止めました、もう諦めました。
一つも話が進んでない。
ビザなし交流もあり、今年5月に65人の訪問団が国後島を3泊4日で行われました。
国後島には終戦時には7000人余りの人が暮らしていましたが、今は8000人を超えるロシア人が暮らしています。
グループの4人でロシア人の自宅まで行きました。
水産加工をやってる社長の家で、酒、食べたことのないような食べ物などで接待されました。
国後島は投資して建物も建てて経済も豊かになっているし、島を返せといってもなかなか返さないと私は感じました。
訪問団に参加していた丸山穂高衆議院議員が北方領土を戦争で取り返すことの是非などにも言及したが、国会議員たるものがとんでもないことを言うと思いました。
戦争の苦しみなど全然知らない人間だと思います。
返還について一歩一歩進んできているのに、一瞬のうちに崩してしまって許せなかった。
北方領土で今住んでいるロシア人とともに日本人も一緒に暮らす、という解決策もあると思います。
今はロシア人が1万8000人が住んでいて、その島で生まれてきていて故郷となっている。
元島民の平均年齢が84歳を超えて6000人を割りこみました。
酒を飲んだりすると思い出話などします。
足も駄目になってきたので、今度の墓参の時には「もう来れないぞ」というと思います。



















2019年8月15日木曜日

田中稔子(七宝焼きアーティスト)     ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ

田中稔子(七宝焼きアーティスト)  ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ
田中稔子さんは金属にガラスや釉薬を焼き付ける工芸、七宝焼きのアーティストです。
昭和13年生まれの80歳、広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日、当時6歳だった田中さんは爆心地からおよそ2kmの場所で国民学校に向かう途中で被爆しました。
その後被爆の後遺症に悩まされながら結婚、子育てをしながら田中さんは29歳の時に七宝焼きに出会います。
被爆体験を家族にさえも語ることなく、平和のメッセージを七宝焼きの作品に込めてきました。
田中さんは広島市の自宅の一階を改築し、外国人旅行者や、日本人の若者などが気軽に集まれる交流スペースを作りました。
海外から広島を訪れる人が増える中で、多くの人が出会い楽しく話をする中で被爆についても学んでもらえればと考えています。
あの日何が起きたかを多くの若い世代に伝えること、平和のメッセージを込めた作品をつくり、今も精力的に取り組む田中さんに伺いました。

平和を願う七宝焼きの作品の構想段階です。
スケッチが何枚もあります。
七宝焼きは金属にガラスを高温で焼き付けた工芸品です。
安土桃山時代に来て、日本の特産品になりました。
絵で描くよりも立体感があり輝いています。
アクセサリーだけではなく様々な作品を作っています。
額に入った縦横40cmの作品、真珠のような輝きがあり鳩が飛んでいて、右下に小さな原爆ドームがあります。
キノコ雲も怪しく見えてくる。
30km以上離れたところまで放射能が広がってゆく怖さがあります。
風を受けて死んでゆくという恐ろしさがありました。
普段は畳一畳ぐらいのサイズです。(2m×1m)
高さが5mぐらいの屋外に展示してある立体作品もあります。
表現してゆこうとすると、どうしても大きくなってしまいます。
生き残った者の一つの責任のようなものを感じていて、命がある限りはメッセージを残していきたいと思っています。

ずーっと話したくなくて70歳ぐらいになって家族に話したんですが、昭和20年8月6日の朝8時15分学校に行く途中でした。
加古町(今の平和公園のあるところ)で軍用旅館をしていましたが、強制疎開があり7月30日に急遽親戚の家に家が変わりました。
朝友達を待って団体で登校しました。
敵機が来たという事で空を見上げたら、物凄い光線が襲ってきました。
顔を右手で覆ったら、右手、頭、左首をやけどしていたが、瞬間には痛みなど感じなかった。
周りは真っ白になって全然見えませんでした。
桜の大木があったが、根が上にしてひっくり返っていました。(あとで見たが)
自分でも相当飛ばされたものと思っていたが、全然思い出せませんでした。
鈍い音を立てて熱い砂ぼこりが体を覆たんですが、それがどうもキノコ雲の正体だったようです。
遠くから見るとキノコ雲ですが、直下にいたので口の中に砂ぼこりがいっぱい入って、ジャリジャリとした嫌な感覚が残っています。
周りが真っ暗になりました。(太陽が隠されて)
三輪さんの台所が壊れて水が桶に残っていました。
やけどのあたりが物凄く痛くなったのでやけどに水をけけていたら、すごい水ぶくれができて、痛さを何とかこらえながらやっと家に帰ってきたが、家はめちゃめちゃに壊れていました。

母はトイレに入った途端に壁が倒れてきて、青い熱線が音を立てて頬をかすめたそうで、母には当たらなかった、もし当たっていたら母は死んでいました。
妹が4歳でしたが、窓ガラスが飛んできて額に深い切り傷を負っていました。
もう一人の妹は布団に寝かされていて、たまたま家に来ていた人が爆風が来た途端に布団をかけてくれたそうです。
それで下の妹は無傷で助かりました。
その後街の方からたくさんの人が逃げてきました。
安田女学校の生徒が半分服が焼けて裸の状態で泣きながら逃げてきました。
爆心に近い遠くから来た人は被爆が酷く声を出す力もなく、手を前に出して誰かが歩いているからついているという感じです。
なんで手を前にしているのかというと、大きいやけどをすると心臓の鼓動のたびに、ズキンズキンと激痛が走るんですね。
心臓よりもちょとだけ手を挙げるとなんか痛みが軽減されるような気がしました。
私もしばらくそうしていました。
その晩から人事不省になって、気を失ってから数日たって(何日間かわからない)、気が付いたら人を焼く嫌な臭いで満ち溢れていていました。
しかしそこで生活している人たちは慣れてわからなくなっていた。

身体がきつくてのどが腫れて微熱が出て、このままでは死ぬのではないかと思いました。
免疫力が落ちて口内炎ができて、治るとすぐ次ができました。
今でもうっかりすると腸から出血しますが、原因不明です。
骨も何か所か骨折しています。
6日前にもし引っ越していなかったら、骨もなかったと思います。
同じ小学校の同級生はみんな死んでしまって、骨もないです。
長い間何にも考えられないでいました、できるだけ逃げたかったので原爆を受けたことも言いませんでした。
2008年に折鶴プロジェクトがあり、被爆証言を世界に発信しようという公募がありました。
被爆証言をする語り部さんの人は一杯いました。
トルコで船が故障で止まって、4人ほど証言をする人たちが南米に派遣されたが、ここで話さないと船に乗った役目が果たせないと思いました。
向こうの国の高官、副大統領もにもあいまして、生き残ったんだから被爆証言する責任があるといわれました。
話すことはいいことなんだと思いました。

交流と証言で90か国ぐらいは回りました。
ニューヨークの人と船で知り合いになり「被爆者ストーリー」という会があるというので呼ばれて7年間、13回いって延べ4万人の人にお話をしたことがあります。
主に高等学校です。
みんな本当に真剣に聞いてくれました。
平和活動をするようになってから、「話すことが次の核兵器を使わせないための被爆者の話が一番有効な手段なんだ」と向こうの方に言われて胸に来ました。
作品も勢いそちらの方向に向かって、それからの作品はころっと変わっています。
作品は国、言葉を越えます
高齢になって世界を回って証言して歩くのは身体的にきつくなって、自宅を改築するにあたって、ギャラリーで作品を並べて交流したり、証言をする場所が作れたらと思いました。
テニスコート半分ぐらいで壁には私の作品が飾ってあります。
「ピース交流スペース」と名付けました。
心が休まる空間であればいいと思っています。

「交流ノート」を置いています、3994名になりますが、158名が外国から来た人です。
トルーマン大統領のお孫さんが来られたことがありますが、イリノイ州にトルーマン大統領の博物館がありお孫さんのダニエルさんが館長をしています。
原爆直後だったら許せるなんてとんでもないと思いましたが、来てみれば憎める人ではないし、その人が落としたわけでもないし、落とした人ももしかして命令されたら落としたかなあと、人種、国家が悪いのではなくて、戦争を起こした人たちが悪いんだということは判りました。
「おじいさんは本当に原爆を落として、罪の意識もなくてこれがあったからアメリカの兵隊を殺さないですんだと、本当にそう思っていたんですか」と聞いたら、おじいさんはちょっと後悔していたところもあるといっていたんです。
それを聞いてちょっとほっとしましたが。
トルーマン大統領は戦後、日本の政治家が行くまで日本人には一度もあったことがないそうです。
もし日本人の友人が一人でもいたら変わっていたかもしれない。
人間のナイーブな心の揺れが戦争に突き進めというのを防ぐのではないか。
それを大事にすることが必要かと思います。
相手の立場になる、共感力もできるという事です。
演劇の山田めいさんという若い方が来られて話を聞いていって、原爆劇をやるということで演劇で再現するのはあまり好きではないという話もしましたが、いろいろ駆使してうまくまとめてその演劇を見ることができましたが、心を打たれました。





2019年8月14日水曜日

上間祥之介(沖縄戦研究者沖縄戦研究者)  ・【戦争・平和インタビュー】(3)障害者の戦争体験を後世に

上間祥之介(沖縄戦研究者沖縄戦研究者)  ・【戦争・平和インタビュー】(3)障害者の戦争体験を後世に
74年前激しい地上戦が行われ20万以上が犠牲となり、県民の4人に一人が命を落とした沖縄。
今年5月沖縄戦を体験していない研究者たちが一冊の本を出しました。
タイトルは「沖縄戦を知る辞典 非体験世代が語り継ぐ」執筆したのは学芸員や平和ガイド、地域の歴史を研究している人など28人で、体験者から話を聞き2年半をかけてまとめ上げました。
このうち最も若い執筆者が23歳の上間さんです。
脳性まひのため生まれつき手や足などに障害がある上間さんは、殆ど記録がなく語られることが少なかった障害者の戦争体験について証言を集めました。

脳性まひの障害で手足が動かしずらい運動機能の障害です。
年に3,4回集まって次はどんなことをちょうさしようかと議論しながらやっています。
小学校のころから沖縄戦体験者の後援会とか講話を聴いてきたんですが、話題の中心が健常者ということに気が付いて、障害者の人たちは戦争当時どうしていたのだろうというところに疑問を持ちました。
僕にしかできない視点でやっていくことに意味があるかなあと思って、大学の卒業論文で書いたのが最初ですあ。
実態がいまだに明らかにされていません。
沖縄戦当時、障害がある方の学校は那覇にある一校しかなかったし、重い障害者ほど行くことができなかった。
研究の背中を押してくれたのが沖縄戦研究の第一人者といわれる吉浜忍先生が大学時代にいらっしゃって、沖縄国際大学を退官されて今でも沖縄戦研究をされている先生です。
大学3年生の時に先生と話をするようになって、今まで語られることのなかった人たちにスポットを当てた沖縄戦の集大成といわれる県史が発刊されるという事を聞いて、自分にとってチャンスに感じたのを覚えています。

障害を抱えている人が調査に加わって気持ちの部分とかまで表現できれば沖縄戦に関する記録が深まるのではないかと思い頑張って書きました。
肢体不自由な方、視覚障害、聴覚障害の人たちと話を聞きました。
1944年の10月10日の空襲の時から沖縄は戦場になるという事で戦局が激しくなっていきます。
自宅の前に豪を掘って15名で避難したが、艦砲射撃で豪がやられて10名が亡くなり、残ったのは視覚障害の男性のほか子どもたち4名が助かったが、そこから逃げて歩いたが、食べ物も何を食べたかわからないぐらい怖い思いをして、その後捕虜になったそうです。
人間不信になったそうです。
逃げた山の中では、戦局の悪化から日本軍による食糧の強奪、暴行が相次ぎ、本来守らなければいけない住民にまで暴力をふるったりして、住民も追い出されて、中には日本軍に攻撃されるのが嫌で逃げ出したお年寄りがいたが、外の戦争に巻き込まれて負傷したという体験をした人もいました。
或る豪では視覚障害のいる家族がいて降参した方がいいという事で米軍に降参して、食料などをもらって家に帰ってきて、日本軍が潜んでいるのではないかと間違えられて米軍の銃撃にあって殺されていたりしました。
そういったことを後世に語り継いでいかないといけないと思いました。

当時障害者は「ごくつぶし」といわれて肩身の狭い思いをして日々生活していたようです。
車椅子などないので背負って逃げたりしたようですが、戦況の悪化もあって一緒ににげられなくなり、その場に置いていったという話も視覚障害の人が聞きました。
50代の女性で精神障害の人が異常な行動をしたりするという事で小屋に監禁していたが、後日その小屋で亡くなったという話もありました。
脊髄損傷の方がいましたが、当時5歳で自力では移動が困難でした。
父親に背負われて避難していました。
姉は視覚障害でした。
周りの人たちと一緒に家族で避難していたが、周りからは足手まといになるという事で置いていくように言われたりしたが、父親は何とか一緒に背負い手をつなぎながら逃げて回り家族は助かりました。

トイレ、食事などについては障害者ではないと聞けない部分もありました。
周りの家族に助けられながら用を足したりしていたそうです。
生の声なので重みがあります。
軍国主義の時代に、戦争に役立つか否かによって価値がきめられていたという事で、同じ肢体不自由な役所のお姉さんが発した言葉ですが、「私たちはもういいからお家へいって逃げなさい」といって、それを聞いた時には僕も同じ状況になった時には、迷惑はかけたくないという気持ちは多少なりあるので、僕も同じ状態になったときにはそう発するのではないかと心が痛くなりました。
戦争になると足手まといになるという風に障害者たちは、感じるのではないかと僕は思います。
日常生活で痛感する部分は多々あるので自分にしかない視点というものを大事にしながらやっていきたいと思います。
神奈川県の相模原市で障害者の大量虐殺事件がありましたが、障害者はいらないとか、聞かれて心が痛みました。
過去にどういう事があったのかという事を向き合って生きながら平和になるための手立てをみんなで一緒に考えていけたらいいと思っています。
戦争、地震、災害とか有事の際は障害者とか社会的立場の弱い人たちが真っ先に犠牲になるという事で、そういう人と一緒にいると周りまで被害に被るという事で、周りから非難されたり心ない言葉を言われて、前に出たがらないようになっていく時代背景があったが、引け目を感じることなく語り継いでいかないといけないと思います。
今後、戦争の原因を追究していきたいと思っています。











2019年8月13日火曜日

山下幸雄(旧満州開拓団 集団自決生存者) ・【戦争・平和インタビュー】(2)ひとり、孤児として生き

山下幸雄(旧満州開拓団 集団自決生存者) ・【戦争・平和インタビュー】(2)ひとり、孤児として生き
86歳、山下さんは兵庫県豊岡市の出身、終戦の前の年の昭和19年11歳の時に家族7人で満州開拓団の一員として満州に渡りました。
同じ集落から満州開拓に渡った人はおよそ500人、日本の敗戦ともに暴徒と化した地元の人に追われながら逃避行を続け、終戦から2日後の8月17日、追い込まれた山下さんたち開拓団員は崖から身を投げて集団自決して298人が亡くなりました。
山下さんはその生存者の一人で家族を失い一人で生きてきました。
旧満州開拓団 集団自決生存者 山下幸雄さんに伺いました。

集団自決から74回目の夏を迎える。
自分でも昨日のように思えます。
国策として満州開拓団が結成され全国から約30万人が渡ったといわれる。
昭和19年3月に満州蘭西県の北安村(黒竜江省(こくりゅうこうしょう)の東北部 旧ソ連との国境の近く)に渡りました。
見渡す限り大平原でした。
豚小屋の方が上等といえるような家でした、電気、ガス、水道もなく不自由極まりないところでした。
コウリャン、アワ、トウモロコシ、大豆、などを作っていました。
冬は風呂に行って帰るときにはタオルが凍ってしまい、夏は40度、50度と、厳しい大変な地域ではありました。
日本が恋しくて仕方なかったが、しかし満州で頑張らなければいけないと思いました。
父は男らしい人、母親は人間は豊かな心を持っていけないといけないとニコニコしていました。

昭和20年5,6月ごろから戦況が悪くなり、満州にも召集令状をかけるという事がありました。
ソ連が入ってくるかもわからないという噂もありました。
8月13日に召集が掛かりました。
逃げていくために18km先の県庁所在地を目指しました。
向かう途中、日本人の馬鹿野郎とか周りから罵声が飛び交いました。
8月15日に日本が負けたという事を知らされました。
地元の軍隊が攻めてくるという事で、元来た道に向かって逃げました。
一般の満人が襲ってきました。
柄の長さ1,5mぐらいで刃渡りが30cmの鎌を持って向かってきました。
命が欲しいのでは無く、服、金が欲しいわけです。
銃もないし土団子を作って応戦しました。
隠れて逃げないといけなくて、声を出したらいけないという事で子供が泣いたら殺せと、年寄りはおんぶをしていたんではお前たちが死んでしまうので放っておけといわれました。
手を合わせて置いてきぼりにして逃げました。

私は12歳で妹は7歳、弟は3歳でした。
父は弟を殺そうとしたが、弟はニコっと笑ったので、母親は耐えきれなくなって、覆いかぶさってこの子を殺すなら私も殺してくれといいました。
そうしたら父も諦めました。
17日の朝を迎えます。(集団自決の日)
へとへとになって開拓地に戻ってきました。
村長が守ってくれるといって食事を頂きました。
もうこれ以上あなたたちを守り切れないといって、出ていくことになりました。
死ぬか、恥をものともせず逃げるかという事になる訳です。
父が17歳の元気な兄になんとか日本に帰ってこのことを知らせてほしいといったんですが、兄も疲れ切っており死にたいという事で、全員死ぬ事にしました。
そう決まったときには、もうこれ以上苦しみたくない、やれやれ有難いと思いました。
満人の手にかかって死にたくない、自分で死にたいと思いました。

死に対する恐怖はなかったです、極限状態でした。
死ぬなら外でという事で、500m先の川に崖があるのでそこにしようという事になりました。
ワーッと鬨の声を上げて服を脱いで放り出したり、お金をばらまいたりして満人が拾っているすきにみんな無事に丘の頂上まで着くことができました。
7時半過ぎに到達して10時に決行しようという事に決まりました。
叔父がお坊さんをしていたので、お説教があり、これから生まれ変わるんだという事で全員が泣きました。
死ぬなら真っ先にという事で9時半ごろから腹を刀で切って血だらけになって飛び込む人がいました。
10時までにはだいぶ飛び込んだと思います。
飛び込むときの声だけでもすごかった、地獄そのものです。
我々家族は崖の一番高いところにいて、兄とは背中合わせにしてゲートルで手足、胴体を父がくくってくれました。
「天皇陛下万歳」といったら力いっぱい押してくれという事で、父親に押してもらいました。
しかしそれほど力いっぱい押したという感じではなかった。

水を吸って、頭の中に真っ黒な物体がいっぱい詰まって割れるのではないかなという感触があって、それからは記憶がありませんでした。
気が付いたら兄とは手が離れていて、兄は白目をむいていて口から泡みたいなものが出ていました。
私は柳の木にしがみついていました。
何回か飛び込んだが浮き上がるし自分では死ねませんでした。
両親を探したが、判らなかった。
なんで確実に二人が死んだのを確認して死ななかったのかと親を恨んだこともありました。
首を切ってもらうしかないと思って指導員のところへ行きました。
馬に乗って満州の警察官が来て、死んではいけないといって、浮き上がってきて体力のある人などを含めて(体力がなく置いてきぼりになった人もいた)助けてもらう事になりました。
途中で置いてきぼりにしたおじいさんあばあさん、川でアップアップして置いてきぼりにした人たちのそのこと思うとつらいんです。
戦争の悲劇がそこにもあるわけです。

298人が集団自決で亡くなり、その後1年間捕虜として過ごすことになりました。
一日におかゆが2杯あるだけで生かさず殺さずというような状況でした。
一日に栄養失調、発疹チブスで多い時には70人が死んだと聞いています。
そこら中シラミだらけでしたが、空腹でそれをつまんでは食べました。
日本に戻ったのが昭和21年10月13日、13歳になっていたが、家族はみんな亡くなってしまいひとりぼっちでした。
日本に戻れてやっと念願がかなったと思いました。
周りの人たちは気の毒すぎてものが言えないという事で、満州のことは話しませんでした。
一人で生きてゆくためには、我慢しなければいけない、笑顔を絶やしたらいけない、楽しそうにふるまう、そのことが一番でした。
母親が言った通り忠実に実行していかないと、人はかわいがってくれないという思いで生活をしていました。

独立したらまず両親、兄弟の墓を建てること、次は家を建てたいと、先のことをいつも思っていました。
過去を悔んだりはしませんでした。
嫌なので開拓団のことは話しませんでした、兎に角忘れることに専念しました。
自分のしてきた経験を存分に若い人たちに知らせて、伝えていきたいと思って40歳ぐらいから講演を行い100回を超えたと思います。
今振り返るとこのことは戦争というものはやってはならないという事で、それがなかったらこんな悲劇はなかった。
死んでしまったら終わり、生きていれば楽しいこと、悲しいことがあるが、それを乗り越えていい方向にいい方向にと思っていって、人様の役に立つような人間になったらいいなと思いますし、生きていればこそすべてがいい方向にむかう、死んだら何にもならない。


















2019年8月12日月曜日

M.G.シェフタル(静岡大学教授)      ・【戦争・平和インタビュー】(1)アメリカ人が伝える「日本人が見た戦争」

M.G.シェフタル(静岡大学教授) ・【戦争・平和インタビュー】(1)アメリカ人が伝える「日本人が見た戦争」
アメリカ出身のシェフタルさんは33年前に日本に移住し、太平洋戦争について研究を行って来ました。
テーマの一つが日本が行った特攻です。
100人以上の元特攻兵などの証言を纏めた本をアメリカで出版し、読者から特攻に向かわざるを得なかった当時の日本の若者に対する共感が数多く寄せられました。
シェフタルさんは相手の立場を知り、人として共感する心が戦争の抑止になると考え、現在は被爆の証言を纏めて世界に伝えようとしています。
日本人が経験した特攻と被爆、その証言は世界でいかに共感の心を生み、平和へとつながるのでしょうか。

海外の方が見たことがない、聞いたことがない、考えたことがない、一般の日本人があの戦争でどういう生活をしていた、どういうことを観た、そういうことを英語にまとめて日本から発信する、日本人はどういう戦争時代を生き抜いたのか、そういう研究をやっています。
まずは特攻隊です、軍事史の中では未曽有の前例のない作戦です。
日本が唯一の被爆国になっていて、本人たちはあの日にどんな地獄を生き抜いたのか、嫌な思い出、悪夢を我慢しながら、どういう風に自分の人生をどん底状態から立ち直ったか、どんな人間でも深く深く共感できると思います。
是非全世界に発信したいです。

33年前は今よりたくさんの戦争経験者がいました。
酒を飲む店で全くの赤の他人なのに、なんで原爆をおとしたのかとか、真珠湾をどう思うとか、すぐ聞かれました。
当時私はアメリカ人の中では保守的な方で、アメリカの参戦目的は100%正当のものであり、日本は100%悪のためだった、単純に白黒にわけられていた。
私のホームタウンのニューヨークが同時多発テロに遭いました。
数人のアナウンサーが話をしていて、その一人が「神風」という言葉を使った、その瞬間になんでその言葉を使わなければいけないのか、まずいんじゃないかなと感じました。
「神風」という言葉を使って日本人はいやなリアクションをするだろうと本能的に判りました。
学問的に、知的に説明するのを当時の私はうまく説明できなくて、それはいかんだろうと思いました、大きな扉を開けるための上からの声が聞こえたような瞬間でした。

元特攻兵、その家族、100人余りに聞き取りを行ったり、その施設とかも含めて、話を聞きました。
480ページに纏め、2005年にアメリカで出版しました。
直訳すると「風の中に咲く花」という題名
深川岩男(?)氏 陸軍少尉、陸軍士官学校の昭和19年卒業生で6人編隊の隊長。
特攻隊の隊長になったことに誇りを持っていた。
国を敵から守るさきがけに立っていると、本人たちは意識があった。
当時の心境を聞いて、もし私が静岡に住んでいて私はやめますという勇気はなかったのではないかと思います。
彼らと共感を感じる、当時の10代、20代の男性だったら、きっと同じところにいるのではなかとやりたくないけど理解できます。
戦争はとっても憎いものであるけれども、元敵国の方を恨むことは研究をやっている間に完全に消えました。
同じ人間があんな大変な時代を生き抜いて、大変なものを見てきて、大変な悲しみを経験した、そういう事を知るほど私と同じ人間だ、平和が大切だとか、そういう心境になります。

相手を本能的にすぐ恨むという事よりも、その前にちょっとそのこと考えてください、そういうようなメッセージです。
アメリカの読者からは圧倒的にポジティブです。
恨みを抱え続けてきたけれど、この一冊を読んで今まで担いでいた重たい気持ちが吹っ飛ばされた、心の解放ありがとうございます、そのようなことが元米兵から来ました。

今、被爆について調査しています。
説得しようとしているのはアメリカ人、海外の方です。
あの兵器のおかげで日本の上陸作戦がなくなって、民間人が苦しんだのは残念だけれどああいうのがあったのはよかったと思っている人がアメリカの人口の半分ぐらいです。
あの「よかった」という発言を私は削除したいです。
被爆した人たちは取材に対してお断りしますというのは特攻よりもはるかにあります。
話すにはつらすぎるから今回はすみませんという人が多いです。
なんでアメリカ人が私たちのコミュニティーに首を突っ込むのかというような風に思っているかもしれません。
そう考えているからこそ私はこの仕事をしなければいけない、乗り越えなえなければいけない。
残酷な原爆史を4年間私は没頭しています。
アメリカ人と日本人の原爆の歴史観の理解合いを100%融合、一致しているものにするのにはもう無理です。
アメリカ人に一回ぐらい涙を出してほしいです。
それが私の一番の使命です。
特攻の本と同じような共感をしていただければ。

両親との3人家族で被爆して、家は無くなり両親は黒ずんだばらばらになった一部の骸骨しかなかったが、採骨してお墓に入れた。
彼女は孤児となる。
広島の中心街の会社に就職したが、両親を亡くして心のよりどころが無くて、20代が終わりそうになるころ、結婚の話もあったがいろいろな要因でできなかった。
生きがいまでなくしてしまう、人の命を奪うだけでなくコミュニティーを殺す兵器です。
人の生き続ける力を奪う、歴史上でそこまでのひどい兵器はない、本当に無くしてほしいね。
核を持つ国、世界中に伝える意義があります。
核兵器をたくさん持っている国が総力戦になったら、終わりです、人類の終わりです。
怖い惨いイメージをできるだけ多くの人に実感させたい、まさに平和の為になるのではないかと思います。
核兵器は絶対、二度と実戦で使ってしまうのはいけない。

当時の日本人の生きていた文化、生活、社会の様子を人々にも伝えることができたら、私と同じ悟りが開くんじゃないか、みんな同じ人間です。
唯一の違いは違う時と違う場所で生まれた、ただそれだけです。
人々は恨みと国境を乗り越えることができる、同じ人間同士として。
ああ可哀そうというのではなく、共感は相手の痛みを自分の痛みになるという事です。
痛み、違和感を感じて、そうしないと世の中は変わらない。
人間同士の殺し合いの場合に、最初から殺しあいができるための不可欠の一つの心理は相手を同じ人間と見ないことです、そうすればやりやすい。
同じ人間で生まれた環境と時間だけが違うと思ったら、銃の引き金を引きずらくなると思う。
共感が最初からあれば、武器を握って相手に向けてそう簡単には引き金を引かないと思います。
相手に自分がやって欲しくないことをやらない、人間の道徳の一番重要な基礎です、それを守るためには不可欠なのが共感です。

シェフタルさんは数年後には被爆証言をまとめた本を出版するという事です。














2019年8月11日日曜日

小泉靖子(朗読会主宰)          ・戦争を語りつぐ

小泉靖子(朗読会主宰)          ・戦争を語りつぐ
1935年東京生まれ83歳、終戦の時に小学校4年生で埼玉県川越市に疎開していたので戦争のことはよく知らないといいます。
その小泉さんが戦争の実態を次の世代に伝えようと決意したことがありました。
朗読の研修を受けて目の不自由な方のために録音図書を作ろうとしていたある日、朗読の仲間から日本とアメリカが戦争をした事すら知らない電車内での若者の会話を聞かされたのです。
このことがきっかけとなり平成13年仲間数人で戦争を伝える朗読会を始めました。
小泉さんは沖縄や広島に出かけて資料を集めたり全国から寄せられる戦争体験者の手記をもとに朗読会を続けています。

朗読会「語り継ごうあの日あの頃」 今年で19回目を数える。
戦争で亡くなった方が310万人いますから、1%の人が書いたとしても、たくさんあるので読む者には本当に困らないです。
2010年から2015年までの「語り継ごうあの日あの頃」の第2冊目出版。
400ページ弱で自費出版です。
友人が出版関係をやっているので、出版することになりました。
日野原重明さんが巻頭言を書いています。
「新老人の会」に入っていたのでそのご縁で書いていただきました。
最初は3,4人で始めました。
朗読教室で戦争を伝える朗読会をやらないか、と声をかけて始めました。
満員で入りきれなくてもう一回やりました。
今年のテーマは「私は兵士だった」です。
大島渚さんが「たけのこご飯」という本を著していましたが、それを購入しました。
大島渚さんの子どものころの体験記の絵本です。
三橋國民さん、金子兜太さんの本なども許可を頂いて朗読しています。

あまりにひどい体験だから思い出したくもないという方が多いかもしれません。
しかし伝えなければという気持ちです。
今回は遠藤三郎さんという軍人が書いた手記「戦争のない世界へ」というものです。
「私はあるときは満州へ、ソ連軍と衝突したノモンハンの停戦の交渉に飛んだり、飛行団長として中国の漢口へ、ハノイへ、マレーへと南方にいって、シンガポール攻略作戦やパレンバンの落下傘部隊の逓信作戦、ジャワ作戦などに参加して、1942年4月内地へ帰りました。
戦争が終わるまで航空士官学校長、航空兵器総局庁長官など航空関係の仕事ばかりさせられました。
こういう風に私は40年もの間軍人として毎日戦いに勝つことばかり研究してきた人間です。
その私のいうことをよく聞いていただきたい。・・・」
平和のために働かなければと活動しています。
今は朗読会では15人のスタッフがいます。
半数が男性です。
今回の表紙は絵本作家の長新太さんの作品です。(歯医者をやっていて長新太さんその患者さんです)

朗読教室に行ったら昭和10年生まれが3人いました。
戦争を伝える朗読会をやらないかと誘ったのが第一回目でした。
私は川越に疎開したので3月10日の東京大空襲はそんなにひどいとは知りませんでした。
8月には川越にも艦載機の空襲がありました。
8月14日に熊谷に空襲がありましたが、私自身はあまり知りませんでした。
調べてみると知らないことがいっぱいあり、皆さんにお知らせしなければと思った訳です。
朗読会が3回目ぐらいの時に、或る人が電車に乗っていたら若い男性の会話があり、「アメリカと戦争をしたらしいがどっちが勝ったんだい」、という事を話をしていたのを聞いたそうです。
B29という飛行機のことを知らなくて、「B29ってどんなビタミン?」て女の子が言ったそうです。
これは大変だと思いました。
教員をしていた友達に話して、朗読会の話す側にお子さんにも出ていただくことにして、輪を広げていきました。

テーマの設定は難しいとは思いません。
知らないことがいっぱい出てきて、知らないことを知るという事でよく聞いてくださいます。
沖縄のことをやるときには沖縄に行きます、東京にはない本がいっぱいあります。
森村誠一さんは熊谷空襲を体験していますが、森村誠一さんをはじめ熊谷の図書館にも体験記がいっぱいあります。
なるべく現地に行くようにしています。
19回目の「初めての軍隊」という滝野さかえさんの書いた文章を読む中島邦雄さんは、ラジオ深夜便に出演されていて、東京大空襲で一家の方全部を亡くしてしまったという方です。(「高座から伝える“東京大空襲”」https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/03/blog-post_3.html)参照)
新聞で読みましたが、戦争を忘れた民族には何年か後には必ず同じ運命が訪れると書いてあってぞっとしました。
一人でもも多くの方に語り伝えられたらと思っています。
若い人はなかなか出てきてくれないので、お子さんに出ていただいて親御さんなどに少しでも知っていただければと思っています。
視覚に訴えるという事で映像を入れるようにしましたが、アニメなどは難しいです。
絵本はいいです。
来年のテーマは又原爆をやろうと思っています。
掘り起こすテーマはいっぱいあります。







2019年8月10日土曜日

高島忠夫(俳優・司会者6/26死去)     ・【人生読本】「わがふるさとわが家族」(1998年1月放送)

高島忠夫(俳優・司会者6/26死去)     ・【人生読本】「わがふるさとわが家族」(1998年1月放送)
1930年昭和5年現在の神戸市東灘区生まれ、昭和26年に映画のニューフェースとして芸能界にデビューしました。
1998年1月10日放送の【人生読本】で放送された「わがふるさとわが家族」をお聞きください。

神戸の御影に住んでいました。
澤之井という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」の名の起こりとされている。
生まれた家は祖父の家で豪邸でした。
父が4男だったので長男が来てどけという事で御影に移って空襲にあって、父がトタン屋根の家を作って住み、子供のころに豪邸とトタン屋根のバラックと両方を知っています。
祖父が貸家を一杯持っていたので、父は月に一回家賃を集めて祖父に渡して生活費をもらていたので、時々競馬場にいって父は遊び人でした。
母は夫が定職を持っていなかったというのがつらかったといいます。
だから僕は夫というものは働かないといけないと思いました。
いい夫だと思っていましたが、妻からは3回離婚しようと思ったといわれましたが、聞いても言いませんでした。

神戸一中は名門校でそこに入ることができました。
小松左京、國弘正雄が同じクラスでした。
神戸一中の5年生で戦争が終わって、新制度になって神戸高校になって、3年生の時に母にギターを買ってもらって(お米と晴れ着との物々交換)、ジャズの方に行きました。
そのうちにドラムに行きました。
ドラムとギターで進駐軍の慰問団のバンドをやっていました。
グレンミラーものを多くやりました。
ハンバーガー、コーラなどに吃驚しました。
ジャズはこんなものがあるのかと取りつかれました。
神戸高校から呼び出しがあり、ジャズをとるのか高校をとるのかといわれて中退して、1年間ジャズをやって関西学院大学の高等部の3年に編入しました。
関西学院大学も中退して映画界に入ることになりました。
新聞で新東宝が第一期の募集をしていました。
井上梅次監督は京都で私は神戸という事で監督にはかわいがられました。

当方には池辺良さん、市川崑監督とかがいて、明るいスマートな都会的な喜劇映画を撮っていました。
それが「坊ちゃんシリーズ」になって行きます。
当時宝塚のオーナーの小林一三さんが季節のミュージカルというのを作って、そこで寿美花代が司会者としていて、淀薫さん、宝田明さんがきて二人でポケットミュージカルをやるという事で番組がありました。
普通は一回きりでしたが、高島忠夫は真面目だからという事で梅田コマ劇場で4週寿美花代とできました。
そこできっかけができ「カルメン」を観に行ったのがデートの最初でした。
寿美花代は「パイナップルの女王」で初めて女性役をやって網タイツの脚線美を披露した場面が話題をさらった。

車の中で、借金はあるかどうか、年収は、両親に送金しているか、彼女は何人いるのかなどを突然聞かれました。
これは婉曲な結婚申し込みだと思って、真面目に答えて、小林一三さんに話をしたら絶対にほかに漏らしたらいけないといわれました。
しかし小林一三さんから漏れてしまいました。
夫婦喧嘩はしたことはありません。
これは一重に私の忍耐だと思っています、二人のですかね。
俳優として僕自身はもう危ないすれすれのところにいるという、何度もそういう時がありましたが、民放のTVから男の俳優でTVの司会をやらないかとの声があり、「土曜ショー」に移りました。
違うタイプの司会をやろうと考えていました。
その後当たって、それからは役者は開店休業になりました。
子どもたちには役者は大変だといっていましたが、気が付いたら子どもたちは役者になっていました。

子どもらに望むのは、晩年死ぬまで幸せでいてほしい、僕はミイラになって生きていて子どもたちが死ぬときに、耳元に口をつけてお前らは芸能界へ両親を見習って入ったけれど、その人生は幸せだったかと聞いて、幸せだったといってころっと死ぬのを見て僕も死にたいと思っています。
阪神大震災では私の住んでいたところで、あんなに仰天したことはないですね。
いとこからは現場に行っても「頑張ってね」とは言わない方がいいといわれました。
どういったらいいのかと尋ねたら、「また来るね」といった方がいいといわれました。
神戸は地震のない所だといっていましたが大変なことになりました。
昔の神戸よりももっと素晴らしい街になってほしい、応援させてもらいたい。
空襲の焼け跡で、近所の人は寄せ合って同じものを食べて、助け合ってないものを都合したりして、あの戦争中の焦土と化した神戸で生き延びてきたときにお互いが優しくなったんじゃないでしょうか、その中の一人が僕だったのかなと思います。
兎に角元気に生きていこうと思います。


















2019年8月9日金曜日

岩谷湍(被爆者・元小学校教諭)      ・被爆の足跡をさがし続けて

岩谷湍(被爆者・元小学校教諭)      ・被爆の足跡をさがし続けて
長崎に原爆が投下されて今日で74年です。
岩谷さんは生後2か月の時に長崎で被爆しました。
被爆後両親を失った岩谷さんは祖母に育てられ、大学を卒業と同時にアメリカに渡り、いくつかの職業を経験しました。
34歳の時に帰国して東京で小学校の教員となり、校長まで勤めました。
岩谷さんは在職中から機会あるごとに被爆体験を語ってきましたが、当初感じていなかったもどかしさを次第に感じるようになってきました。
それは生後間もなく被爆したため、戦争や原爆について直接の記憶がなく、知っている事実も断片に過ぎないためでした。
家族はどうやって被爆して亡くなっていったのか、岩谷さんは事実を突き詰める作業を続けています。

昭和20年8月9日午前11時2分、生後2か月なので自分では覚えていないが、自宅で被爆したと聞いています。
7人、祖母、両親、兄弟4人でした。
祖母に育てられたので、主に祖母から聞いたことが多かったです。
戦前は大きな薬局を営んでいたといわれています。
母親は食事の用意をしていて、父は体を悪くしていて家にいたといわれています。
母はぴかっと光った瞬間に私の上に覆いかぶさって私を守ったと聞いています。
上の兄は中学2年生でしたが、軍需工場になっていて働いていて被爆したそうです。
次の兄が小学4年生で姉が小学3年生で当日は酢の配給の日だったそうで、銭湯に酢の配給に行っていたそうです。
銭湯の建物の下敷きになって動けなかったそうです。
父の親友が軍医でたまたま我が家に向かう途中で、壊れた銭湯のところで「助けて」という声が聞こえたそうです。
渾身の力を込めて材木をいくつかどけて引きずり出したら、親友の岩谷の子どもだったという事を、医院のその先生から直接高校時代に伺いました。

母親は実家との間を爆心地を通って何度も往復したらしいです。
放射能を浴びていたのではないかと思いますが、すぐに寝込んでしまって、私を抱きながら、私の名前を呼びながら亡くなって行ったという話を聞いています。
父親もその後寝込んで、病院に入院して亡くなったと兄から聞いています。
祖母が当時60歳で、兄弟 4人を育てるのは無理で、上の兄は母方の祖母に預けられ、二番目の兄は福岡県の叔母の家に預けられ、小学校3年の姉は横浜の叔母の家に預けられました。
私は祖母に育てられました。
二人だけでしたが、かわいがってくれて楽しかったです。
薬局を営みながら育ててくれました。
小学校の先生になりたいと漠然と思っていました。
しかし祖母をおいて長崎を出るわけにはいかなかった。
長崎の大学に入ることにしました。
祖母も被爆していましたので、大学に入るころ急に寝込むことが多くなりました。
祖母の介護をしながら大学に通うという事をするようになりました。
粗相をしたりするのを大学から帰ってから処理するとかやっていきました。
大学の近くに家を探して2年生の時に引っ越しました。(大学から2,3分のところ)
引っ越して10日目に他界してしまって、悲しくて悲しくて仕方なかった。

心無い親戚からはお前が無理やり引っ越しをさせたから死んだんだといわれて、自分のせいで死んだんだとずーっと思い込んでいました。
一人で住むことがつらくて、なかなか眠れるという事ができなかった。
友人たちがいろいろ助けてくれて大学卒業まではその家で過ごしました。
卒業するとすぐにアメリカに行くことを決めました。
中学時代に長崎の平和記念公園、爆心地の公園になどになぜか行っていて、アメリカの水兵たちが10人ぐらいで歓声を上げながら写真を撮っていて、それを見て非常に怒りを感じて、許せないという思いがして、どなってやりたかったが英語を話せないので、それができなくて英語をもうちょっと勉強すればいいと思っていました。
アメリカの宣教師の人と知り合って、英会話を教わるようになりました。
その方と親しくお付き合いをするようになって、アメリカへの憎しみが憧れみたいな感じに変わっていきました。
アメリカ人はどういう人間なのか見てみたいと思っていて、卒業と同時にアメリカに行きました。

その次の宣教師ともやり取りがあり、その方がその後オハイオ州で非行少年の更生への施設でプロジェクトを立ち上げました。
ベトナム戦争が激しい時で、子供たちが人を殺している大人たちを信じられなくなり子どもたちも暴力、麻薬などへと荒れていました。
更生の仕事を手伝うという事でアメリカに渡りました。
子どもたちは大人に対して心を開いて話すという事をしていなかった。
子どもたちの間に入って子どもたちの話を聞いてほしい、それがあなたの仕事だといわれました。
朝から晩まで子どもたちと話をしました。
日本人の彼が来てから確かに非行が減ってきているという事で、その仕事を始めて10か月後に地元の新聞社が取材にきました。
聞かれるままにいろいろ話をして、出身はと聞かれて、長崎というと原爆のことを質問されました。
両親は被爆がもとで亡くなってしまったという事も話しました。
戦争についてはいいことはなに一つない、憎むべきものだという事を話しました。
ベトナム戦争についても反対する発言をして、取材の内容が新聞に写真入りで大きく出ました。

感動してくれる人もいましたが、一部に彼は原爆で両親を殺されたから、仕返しに来ているんだとか、子供たちを集めて夜な夜な悪いことを教えているとか、そういううわさが広がりました。
あいつを追い出せとか、あいつを殺せというような声が出てきました。
ここにはいられないという事で、宣教師の彼は西に逃げて、私はニューヨークに着の身着のまま逃げていきました。
仕事を探さなければいけなくて、食べるためにはレストラン、特技を生かすためには日本レストランという事で30、40軒まわって、ようやく皿洗いでよければという事で雇ってもらって、皿洗いを一生懸命やりました。
店長から認められてウエーターになり、その仕事も一生懸命やりました。
お客さんの中に或るホテルのオーナーがいて、そのホテルのバーテンをやらないかとの誘いがありました。
経験がないが、一日目からカウンターを一人で任されました。

いい仕事をしていると引き抜かれるので、それを3,4度と繰り返して、ニューヨークに新しく全日制日本人学校ができるという話があり、そこにひょんなことから入ることになりました。
私は教師になることが夢だと話していましたが、私のアメリカの友人が私に内緒で応募してくれていました。
面接を受けて即採用という事になりました。
小学校の3年生を担当しましたが、25人ぐらいいました。
子どもたちと毎日楽しい生活をしましたが、半年しか持ちませんでした。
人数が足りなくて担任から事務長になり3年間やることになりました。(人が来たら教師に戻してもらえるという条件だったが)
日本に帰って教師になる手もあると思いつきました。
東京都の教員試験を受けて何とか受かることができて、日本に帰ってくる事とになりました。(37歳)
教頭試験を受けるように言われ合格して、その後校長試験を受けて受かりました。

校長になってから話す機会が多くなり、子供たちに戦争、家族の話などをしました。
PTA、ほかの学校などからも依頼があり話をするようになりました。
定年退職していろいろなところに行くようになって、話をしているうちに、祖母、叔父、叔母、兄弟から人から聞いた話であって、尾ひれがついて自分の想像が紛れ込んだり、母親を美化しているのではないかと疑問を持つようになりました。
一時話をやめようと決心しました。
やはり自分が話すとに意味が、意義があるのでないかと思うようになりました。
語り部が高齢になり話す人が少なくなってきました。

国立市が伝承者の育成プロジェクトを立ち上げました。
研修者に入れてほしいといいましたが断られてしまいました。
聴講生として認めてもらって一緒に勉強することができました。
長崎で被爆して2年前に亡くなりましたが、その方の話を聞く機会がありました。
その方と兄は知り合いで被爆したところも目と鼻の先でした。
その方との出会いで伝承者として話していこうという風に心の整理ができました。
被爆者としてではなく、伝承者として話していこうと思っています。
兄、姉にもっと詳しく話を聞くようにしたいと思いますが、兄は20数年前に亡くなり、姉はおととし亡くなり、二番目の兄は話したがらなかったが、詳しく聞くことができました。
できるだけ真実に近い話にしていこうと強く思っています。










2019年8月8日木曜日

岸惠子(女優)              ・戦争体験を、ドラマと本で

岸惠子(女優)              ・戦争体験を、ドラマと本で
今夜NHK総合TVで放送される「マンゴウの樹の下で」で主演されています。
このドラマは太平洋戦争の中で最も凄惨を極めたといわれるフィリピン攻防戦で辛くも生き残った戦争体験をもとにしたものです。
岸さんは戦後の昭和、平成を生き抜いたヒロイン凛子を清原果耶さんとリレー式で演じていて、伊東四朗さん、渡邊美佐子さん、安藤さくらさんが共演しています。
岸さん自身も昭和20年5月の横浜大空襲で被災した体験がありますが、主人公凛子をどんな思いで演じたのか、そして伝えたい平和への思いなどを伺います。

「マンゴウの樹の下で」では12年ぶりの主演となりました。
フィリピンの日本企業で働くタイピストで、戦争の激しいさなかをくぐりぬいた強い女性。
戦争は絶対にあってはいけないものだと思うけれど絶対にあると思います。
人間は歴史から学ばないから、今のところは日本は地球上のうえでも一番平和でいいけれど何となく。
私は戦争映画とか実録、ニュースは好きです。
この話を頂いたときに、やってみたいと思いました。
人間があそこまで、あんなに尊い命を失わせてひどいものだと思っていたので、とってもやりがいのある役柄でした。

伊東四朗さんとは初めてです。
12年ぶりなので撮影法が全く変わったので、ちょっととまどいました。
フィルムはなくなって何回でも取られると私は消耗してしまうが、伊東四朗さんには無いんです。
安藤さくらさんも素晴らしかったです。
渡邊美佐子さんが凛子とフィリピンでともに生き抜いた人、お芝居もよかったです。
あのさなかだからこそ青春って尊い、違う形の青春が生きてこられたんだと思います、今の人たちの青春と比べてもっと密度が濃いと思います。
芽生えた愛情なり友情が固いものだと思います。
すぐ隣に死があるという事は大きいです。

私は12歳で空襲体験がありました。
人間って非日常体験があり、私にはそれが多かった。
フランスでのジハード、テロ事件がありましたが、友人の家に行くはずだったが、行く機会を失ったが、その人の家の階下でその事件は起きました。
イスラム教とは何だろうかとかとの思いがあり、2月7日に起きたが、その2か月後私は一人で3000人殺された革命広場に行きました。
10年以上前から女優よりも書くことをやろうと思いました。

空襲の日、5月29日学校へ行く用意をしているところ、青い空が銀色に染まるほどB29が来ました。
隣には赤ちゃんが一人でいて、母は助けようとしていきますが、私には羽根布団を水に浸してすっぽりかぶせて、公園の所定の場所で待ち合わせましょうといいました。(私が12歳)
それで母はいなくなってしまいました。
外へ出ると生き地獄でした。
若い女性が座って動かないでいたので、ゆすったら私の上に倒れこんできて下敷きになってしまいました。(既に死んでいた。)
若い男性に助け起こされました。
防空壕に連れていかれたが、簡単なものでここにいるとだめだと思いました。
何故か公園の松の木に昇ってしまいましたが、爆撃機が来てパイロットの顔が見えました。
機銃掃射で幸い私には当たらなくて、私の家が焼けるのが見えました。
赤ちゃんを助けた母と会えたのは、講堂に行ったときに会えることができました。
防空壕にいたら亡くなっていたと思います。(そこにいた人達は殆ど亡くなりました。)
子どもはやめようと思いました、大人のいう事を聞いていたら亡くなっていたので。
雑に作った常識の中に組み込まれるのはやめようとずーっと思い続けています。
正しい歴史の中の或る部分ではなくて、私が見た感じだけを書いたりしています。
自分で確認したいという思いがあり、そこに足を運びたい、イランに行ってルポルタージュを書きたくなって、二度目に又イランイラク戦争のドラマの真っ最中にもう一度行きました。
娘には申し訳なかったが、自分の好奇心で行っちゃいました。

「マンゴウの樹の下で」(愛情、友情、なでしこ決死隊など)、このドラマは是非観てもらいたい。
1951年デビュー、映画女優となる。
自分で選んだものもあり、100本には至っていないと思います。
6年目に辞めて結婚してフランスに行きました。
彼が「人生には時折二者択一の時がある、卵を割らなければオムレツは作れない」、それで私は卵を割ったんです。
せっかく割ったんだからいろんなことをしようと思いました。
フランス映画「男と女」 53年前に作られたが、同じ監督、主演者がそのまんまの歳で作品を作り、それを見て本当に感動しました。
成熟した大人の映画ができる国は素晴らしいと思います、日本ではありえないと思います。
もう映像には映りたくはありません、日本語で勝負したいと思います。
「マンゴウの樹の下で」 人々が持っている心の中の情が描かれていると思う、今は情がなくなっていると思います。
そういう人たちがこれを観たらどう思うのだろう、命の大切さが身に染みるのではないかなあと思います。






















2019年8月7日水曜日

井上佳子(長崎県立大学教授)       ・祖父の戦地日記をたどって

井上佳子(長崎県立大学教授)       ・祖父の戦地日記をたどって
井上富廣さんは昭和13年7月中国安徽省太湖で戦死、戦地に赴き47日目28歳でした。
墓には昭和13年7月中国安徽省太湖の戦いで戦死と刻まれています。
井上さんは中学生のころからこの文字を目にするたびに祖父が戦死した中国安徽省太湖はどんなところだろうと思いを巡らせていました。
富廣さんは20歳のころから心の日記をかかさず書いていました。
戦後70年の2015年祖母のつぎえさんのタンスから新たに富廣さんの戦地日記が見つかります。
井上さんは祖父富弘さんの戦地日記をたどり、中国を取材し、去年その体験をまとめました。
なお戦地日記は当時使われていた言葉がそのまま書かれているため、一部に差別的な表現が含まれています。
当時の状況を知っていただくためそのままお伝えします。

中国の太湖というところで亡くなったと書いてあって、太湖はどこなんだろうと中学のころからずーっと考えていました。
実家にあった日記は4冊4年分でした。
戦地に行っても書いていました。
日常を凄く細かに書いています。
当時読んですぐに何をしようと思った訳ではありませんでした。

井上佳子さんは大学を卒業後、地元の熊本放送に就職、水俣病、ハンセン病、戦争などについてドキュメンタリーを作ってきて、数々の賞を受賞しました。

なぜ国民と国は対立するのかなあというのは最初の疑問で、それから国というものを追いかけてきたような気がします。
日記の中で日本が国際連盟を脱退した時に松岡洋右が日本に帰ってくるときには祖父は喝さいを送っているんですね。
日記を読んで歴史と自分がつながったような気がしました。
戦地日記を見たときには、すべて行程をたどれるように細かくかかれていました。
時間から場所から書いてありました。
昭和13年6月10日に中国に向けて門司から出征しています。
その時に手紙に妻へのこととか子供へのこととかが細かく書かれている。
門司港からは200万人の出征兵士が大陸や南方に出征し、その半数が母国に帰ることはなかった。
6月14日上海に到着、船内で予防注射をすることなど、書かれていて妻に家を守ってくれということなどについて書かれている。
6月16日列車で南京へ行く中途の広い田んぼの景色など書かれている。
6月17日汚物だらけの臭い歩道に支那の人の食を求める姿、ここもまた哀れなる景かな。・・・。(攻略から半年後)
妻への手紙も出している。(支那の人々は家を壊され同情的な感情が書かれている。)
6月21日、段々戦場に近づいてくる。
6月23日、いよいよ行軍、山また山、足は痛いしこれはとても耐え得ないと思ったが、どうにか頑張った。
ここらは敵の死体累々と実に生々しい。
稲は田んぼに無心に伸び戦地の庭に感慨無量。
午後5時過ぎ足の豆と体力消耗についに倒れた。

私は調査のため戦争体験者、遺族など750人の方に手紙を出して帰ってきたのは1割でした。
多くは戦争を語らずに亡くなった人が多かったです。

7月3日、本部医務室小隊にもずいぶん患者が出て、軍医、少尉も忙しい様子。
十分な手当てができないことに同情することが書かれている。
食糧不足、やっとのことで南京米をかじって命をつないでいるという事。
漢口方面に進撃、これからが本当の戦争です、とますます厳しい状況になってきている。
暗がりの中で書いている。
7月22日、俸給17円4銭、栄枯盛衰、世の習い、敵全滅も近からん。
我が装衣また綻ばんとす。
昼食をすまし日記をしたたむ。 今日はインキ切れる。
つづる文字又哀れ、楽しい俸給もいただき故郷へのおくりば(方言)できぬかなあ。
7月27日に亡くなる。

その時の状況を戦友がのちに手紙で語ってくれました。
銃弾が頭に当たったという事でした。
祖父は衛生兵でした。
案内をしてくれた人は安徽師範大学の教授で日中戦争の調査研究を続けている方です。
戦跡があちこちに残っています。
揚子江をさかのぼって内陸に入ったところです。
中国の戦争体験者の方に話を聞きましたが、聞きづらいことでしたが、調査に来たという事で彼らも丁寧に語ってくれました。
80代後半の方がほとんどです。
日本人の加害性を語るのでどういう顔をしていいか判らなかった。

5月の或る日、日本兵2人がやってきて19歳と17歳の姉妹を麦畑で乱暴した。
私たち子どもはそれを観ました。
その姉は抵抗したので腹を銃で撃たれて殺されました。
それを子どもたちは見ているわけです。
私がインタビューをするとじろじろ見られるわけです。
日本人に対する怖いイメージがあったのかもしれないが、帰るときに日本人って中国人とあまり変わらないんですね、と言われて、手を握って離さなかったりとか、抱きしめたりたりとかそういう体験をしました。
沢山取材しましたがたくさんの人が亡くなっていて、記録しておいてよかったと思います。
この取材も2年前に放送しましたが、或る方はもう亡くなっていると思います。
記録できてよかったと思います。
祖父の番組を作るときに、祖父の体温を知りたいと思いました。(生きていた証)
暖かい部分、冷たい部分もあると思うので全部含めて体温だと思うので、それを祖父で感じることができて生きていたんだなと思いました。
中国の人と会って感じたことは思っていた以上に戦争の温度差があることを感じました。
そういったことを伝えないといけないと思いました。
戦争だけはしてはいけないと思います。































2019年8月6日火曜日

ハロルド・メイ(プロレス興行会社社長)  ・日本のプロレスを世界に

ハロルド・メイ(プロレス興行会社社長)  ・日本のプロレスを世界に
メイさんはオランダ生まれ、55歳、アメリカの大学院を卒業して日本で就職、経営者としてキャリアを重ね、去年プロレス興行会社の社長に就任しました。
かつて国民的娯楽であったプロレス、2000年代に入ってほかの格闘技の台頭もあって低迷していましたが、メイさんの団体を中心に5年前から急速に人気を回復してきました。
今ではファンの4割は女性といわれています。
国内だけではなくて海外の試合も熱狂的な支持を集めています。
メイさんにこれまでの道のりとプロレスにかける思い、その経営哲学などついて伺います。

社長に就任した間もないころは、お客さんに対する感謝の気持ちは「今日はありがとうございます」というだけでしたが、撮影会に発展しました。
思い出に貢献できる、とともにお客さんと会う事で僕も元気をもらえます。
200,300人と毎回撮らせてもらっています。
前の会社は一部上場の1800億円近くの売上高、今は46億円のプロレス興行団体。
プロレスが好きで、又プロレスのためになる仕事をしたかったというのが理由です。
プロレスは輸出できるものだと思います。
サッカーは盛んなのは世界の国の半分ぐらいだと思います。
プロレスは世界的に盛んです。
新日本プロレスは世界2番の団体です。
世界に通用するのではないかと思います。
大きくするためにはスキルが必要になって来るんではないかと思ってやってみたかった。
今は「物つくり」から「こと体験」だと思います。
これからはサービス、体験、思い出とかを売る時代だと思っています。
プロレスは究極の「こと体験」だと思っています。

プロレスのすばらしさを判ってもらうために映像を増やす、英語のコンテンツを増やす、世界でも通用するスーパースターを呼んでプロレスの質を上げていきたい。
手ごたえを感じています。
年間日本で150試合、海外でも増やしています。
アメリカ、オーストラリア、ロンドンなどでも開催しています。
SNSを活用して入り口を増やしてゆくのがポイントになると思います。
英語の解説、ビデオなどに力を入れています。
日本のプロレスは海外のプロレスとは違います。
海外のプロレスはかなりの時間を割いてマイクパフォーマンス(言葉でのやりあい)をするが、日本では最初から最後までレベルの高い試合をする。
まずはプロレスを好きになる伸びしろが日本には一杯残っていると信じています。
かつてのファンに戻ってきてもらいたいのと子どもさんにも見てもらいたい。
来年は1月4日、5日に東京ドームで行う新日本プロレスリングがお送りするプロレス界最大のビッグイベント!WRESTLE KINGDOM14 in 東京を満員にしたい。

8歳までオランダにいて、父が日本で仕事をすることになって家族全員で日本に移住しました。(1971年)
外国人がほとんどいない時代でした。
外国人が日本の企業で働くという事は非常に珍しい時代でしたが、父は日本の企業の役員として働きました。
横浜のインターナショナルのスクールに入りましたが、オランダ語しかできなくて日本語も英語も一切できませんでした。
学校では英語、外に出ると日本語でした。
或る意味どっぷり日本語と英語につかることができました。
3、4か月で日本語、英語も話せるようになりました。
TV局は日本ではいくつもあって朝から晩まであって、日本語がすぐに入ってきました。
子供番組、刑事ドラマ、歌謡曲が好きでした。
唯一その瞬間から楽しめたのがプロレスでした。

父もプロレスが好きでした。
迫力、人間離れした技の掛け合いあがあり、今もいい思い出として残っています。
ザ・デストロイヤーアブドーラ・ザ・ブッチャーとか印象に残っています。
5年間日本にいてその後インドネシアに行きました。
離れた瞬間から日本に戻りたくてしょうがなかった。
日本人の優しさ、道を聞いても時間を割いて一緒にあるところまで行ってくれたり、片言の日本語をちゃんと聞いてくれる優しさに打たれたことと、自然の豊かさはすごいです。
オランダには山が無くて、紅葉を見に行ったり山をたくさん見て、自然の豊かさ凄さが子どもながら目に焼き付きました。
インドネシア語をこんどは学びました。
日本語は忘れてはもったいないと思って、友人にカセットテープに録音してもらって送ってもらって聞いていました。
ラジオ局の日本語での歌謡曲のラジオ番組をやらないかとの話があり、アルバイト感覚でやる事になりました。

6か国語ができるようになりましたが、どっぷりつかったという事と、歌はスーッと入ってくるのでここまで上達できたのかなと思います。
中学高校はインドネシア、大学はペンシルバニアで専攻は経営学、東洋学二つを選びました。
日本の歴史、経済学などをやりました。
日本に戻りたいという思いがあり、日本でアシスタントジェネラルマネージャーという事で入社しました。
キャリアーアップをしていきました。
新しいノウハウ、スキル、経験を積むことが自分をもっとよくできると思ったので、リスクをとってでも会社を辞めていきました。
ヘッドハンティングでした。
その間に結婚しました。
老舗のおもちゃメーカーの社長をしましたが、経営が悪化した状態で受けました。
女の子の有名な人形がありました。
定番商品に魅力を吹き込むことを一番に力を吹き込みました。
攻めの広報にも力を注ぎました。
会社の一番の資産は会社員なんです。
希望者配置でモチベーションが上がりパワーが増すと思ってやりました。

半分が外資系、半分が日本企業でした。
日本企業での経営はトップダウンではないので、会社の方針などを説明する時間、努力に時間が掛かるが、それが浸透して腹に落ちれば一枚岩になれる。
そうするとパワーが得られる、但し時間が掛かるが、そこで。
自分の主張をすることこそが、ある意味給料をもらう一つの理由で、自分の個性、自分の主張をきちんとすることこそが、会社にとっても価値を生み出すことにつながるので、是非自分の主張をしてほしいと思います。
土壌も必要だが、10個のうち9個却下されるとは思うが、1個でも通用すれば価値が生まれるのであきらめず主張してほしいと思います。
ストレスを家に持って帰りたくないので、ストレス解消のためにサバイバルキャンプをしています。
枯れ木、草などを積み上げて濡れないとか、寒さから凌いで一晩過ごします。
日本の文化の一つとしてプロレスを世界に広げていきたい、新しいお客さんをどんどん増やしていきたい。






































2019年8月4日日曜日

キートン山田(ナレーター・声優)     ・【時代を創った声】

キートン山田(ナレーター・声優)     ・【時代を創った声】
73歳、キートンさんはアニメ「ちびまる子ちゃん」のナレーションを務めていることで居られてます。
1970年に声優としてデビューされ順風満帆な生活を続けてきましたが、レギュラーの仕事がまったくなくなってしまった時期があったといいます。
収入がままならないキートンさんは家族を抱えながら何を感じ、どのようにに乗りこえたのかなどについて伺います。

アニメ「ゲッターロボ」の2号機、「ゲッター2」のパイロットの神隼人役とか、一休さんでは足利義満役など演じるとともにおおくのドラマや舞台で活躍してきました。
「ちびまる子ちゃん」のナレーションを担当するようになって今年で30年目になります。
生活の一部でそこが週の始まりみたいな感じです。
最初はこんなに続くとは思っていなかったです。
いまだかつてない汚い絵でTVで放送する絵なのかと思いました。
内容が面白いしナレーションが好きになりました。
原作者のさくらさんは6か月続けばいいと思っていたそうです。

北海道三笠市出身、建設会社に就職しサラリーマン生活を始めるが、同時に憧れだった俳優も目指して劇団に入る。
会社の階段に一枚のチラシがありそれが劇団員の募集でした。
段々考えるようになりました。
給料以上のお金を払って劇団に入りました。
2年ちょっとやっていました。
映画の世界には子供のころ憧れていました。
劇団では想像以上に駄目でした。
粘るしかないと思いました。
4年間働いて掛け持ちができないという事になり、会社はやめようと思いました。
深夜スナックでバイトをやろうと思っていきました。
夜9時から朝4時までやって、帰ってきて寝て昼から劇団に行ってという風なことを3年やっていました。(24歳ぐらい)
柴田秀勝さんがマスターと友達で、声優専門のプロダクションを作るんだということを聞きました。
柴田さんと出会っていなければ声優としての私はなかったです、恩人です。
いい先輩に一杯出会いました。

一休さんをやったのが27歳で、そのころからアニメブームがありいろいろ仕事を頂きました。
自分の味なんていうものは自分の人生経験とか体験からしか出てこない。
やはり経験が浅かった。
1970~80年代は多くの作品に出ました。
一休さんの足利義満役は好きなようにやっていました。
アドリブもOKでしたしのびのびとやっていました。
ひょうきんな役ができるんだと思いました。
そのころはめっちゃくちゃ忙しかったです。
ブームというものは後で怖いと気づきました。
或る時ふっと仕事がなくなってきました。
仕事がいやだなと思うようになりました。
そのころは子供が3人いて家も買ってローンを払い始めた頃でした。(36歳のころ)
焦ってそのうち行き詰りました。
親から借りたり、会社から前借したり、内職したり、アルバイトをしたりしました。
死ぬしかないのかと本当に考えました。
食べられないし、一人部屋にいて、子供の笑い声を聞いてふと我に返った瞬間がありました。

もうだめという自分を認めて、そうすると気持ちが楽になりました。
店に出せない野菜が畑に残っていてそれを拾ってきたり、パン屋さんから只でもらったりして、「よし、今日頑張ろう」と声を出して前向きになろうと思いました。
定期的にお金を得るには役者はやめようかなとも思いましたが、再出発しようと思って、名前を変えることにしました。
バスター・キートンから「キートン山田」という事に決めました。
子どもも事務所も反対でしたが、38歳の4月1日から「キートン山田」にしました。
まず自分が変わりました。
半年後にレギュラーが来てナレーションの仕事でした。
生本番みたいなことを7年ぐらいやって、そこでちょっと力が付いたと思いました。
ほかの仕事も徐々に入ってくるようになりました。
試練のおかげだと思います。
そうしてアニメ「ちびまる子ちゃん」と出会うことになりました。
自分の間とかナレーションが面白くなりました。
今の若い人はうまいですが、最後まで残るためには、後悔しないためには自分らしくやるという事だと思います。




2019年8月3日土曜日

2019年8月2日金曜日

島﨑今日子(ジャーナリスト)       ・【わが心の人】森瑤子

島﨑今日子(ジャーナリスト)       ・【わが心の人】森瑤子
森瑤子さんは38歳の時に「情事」でデビュー、新しい女性の生き方が描かれているとたちまち脚光を浴びました。
以来次々と作品を発表し、女性を中心に多くの読者を獲得しましたが、平成5年1993年亡くなられました。
52歳でした。
島﨑さんは森瑤子さんを取り巻く人々を丹念に取材し、「森瑤子の帽子」という一冊にまとめ出版しています。

森瑤子さんは昭和15年静岡県伊東市の生まれ。
生後すぐに中国にわたるが、4歳でまた日本に戻って東京で育ちました。
父親が子どもたちにヴァイオリンを習わすことが夢で、森さんは小学校の時から始めて、東京芸大の専攻に行かれるが、17年間ヴァイオリンを弾いています。
自分の才能がないことが判り断念して、卒業後はコピーライターをやっていて、アイヴァン・ブラッキーさんと出会って恋愛して結婚して3人の娘さんを産んで、主婦であることの鬱屈を強く抱えていて、子供の母夫の妻でしかないのかという事に悶々として、37歳で小説を書いて38歳で「情事」でスバル文学賞をとって、華々しくデビューします。
当時、女の人たちに取って憧れみたいな世界を描いた。
1978年吉行淳之介さんの「夕暮れまで」という中年の男性が女子大生を愛人にするという男性の願望を描いた世界であれば、森さんの描いたのは女の人たちの葛藤、夢、あらゆる女の人たちの気持ちがそこに投影された新しい作品でした。

森瑤子さんは「情事」以降100冊を超える作品をかきますが、自分はこうありたい、こうしたいというような世界を小説に書いてきたといっています。
森瑤子さんはペンネームで本名は伊藤雅代さん。
林瑤子さんは芸大時代にヴァイオリンの優秀な友人がいて、ペンネームを森瑤子という名前にした。
夫との葛藤が多くて、君は第一に娘たちの母親でいてくれ、第二がアイヴァン・ブラッキーの妻でいてくれ、第三が森瑤子でいてくれというんですが、森瑤子は森瑤子でいたいんですよね。
放浪癖を持った自由な人と結婚するのが私には似合っていると決断するわけです。
森瑤子さんは英語は話すことはできたが、英語で完全に意思疎通ができるかというとそうでもない部分があった。
アイヴァン・ブラッキーさんは日本語は一切読めないし話せなかった。
夫婦の齟齬があった上に生活習慣が違っていたところもありました。
夫の働き方、考え方にイラつくこともあった。
森瑤子としての活動がどんどん増えてきて収入面でのギャップも多くなる。
1985年には年収売り上げが1億円ぐらいにはなっていた。
パワーバランスの違いには森瑤子さんは気を使っていた。

森瑤子さんはあがり症で小心でシャイだったので前に出てゆくためには派手な衣装は鎧として必要だったと書いています。
森瑤子が帽子をかぶり始めるのがバブル辺り以降です。
母親が帽子が好きだった。
人気が出るにつれ帽子の鍔が大きくなっていった。
カナダの島を買い、与論島に1億円をかけて別荘を建てた。
気さくで性格のいい人だと与論島の地元の人たちは言っていました。
少々頑張って読者のためにいろんなスタイルをしていたと思います。
自分が家庭を顧みられない申し訳なさをお金で償ったという事はあったんだと思います。
娘さん3人とも聡明で、母に対する批判もそれぞれ持っているが、お母さんのことをよくわかってきて、批判はすることはしても母を否定することは一切しなかった、よく頑張ったと肯定しています。
アイヴァンさんとは夫婦の関係は破綻していたという方も沢山いますし、実際そうだったという面もあるかと思いますが、別れることは選ばなかった。
自分が亡くなるという事は判ったうえで、夫にこうしてほしい、と書いています。
周りからは頼りのない夫といわれますが、私にとっては大事な人ですと書いています。

52歳で亡くなる。
ホスピスに入っても執筆への情熱は衰えることはなかった。
最後まで口述筆記をする。
葬儀もこうしてほしいとプロデュースした。
場所、娘さんたち3人の帽子、服、自身の遺影のトリミング、憧れのヴァイオリニストの林瑤子さんに遣葬を頼む、そこまでやりました。
与論島にお墓を建てるが自分でデザインした。
「森瑤子の帽子」は4年がかりで描き上げました。
新たに取材を始めていますが、誰かを取材し始めると難しいなあと思ってやっています。
しかし段々面白くなってきます。












2019年8月1日木曜日

依田寿久、順子(画家,画家)        ・ニューヨークで描いて半世紀

依田寿久、順子(画家,画家)        ・ニューヨークで描いて半世紀
夫の寿久さんは78歳、妻の順子さんは75歳、およそ50年前アメリカに渡って、ともに画家としてニューヨークを拠点に創作に励んできました。
その作品は東京国立近代美術館など国内外の美術館に収蔵されています。
一人息子の洋一朗さんも気鋭の画家として注目されていて、現在東京三鷹市のギャラリーで3人展が開かれています。
どんな思いを込めて創作に当たっているかなど伺いました。

寿久:私は油絵具を使って製作しています。
作品の方は線の美しさをうまく出るよ言うな方向で抽象画でやっています。
小さいころ釘で道路に細かく線を描いて遊んでいたのが原体験になっています。
翌朝それを見るのが楽しみでした。
かやつり草という草がありますが、普通植物の茎はほとんど丸ですが、これは三角なんです。
切り口によっていろんな三角になり、その魅力に取りつかれました。
順子:私は武蔵野美術大学時代は油絵専門でしたが、ニューヨークに渡って、妹が和紙を送ってくれて、手触りがなんとも言えない暖かさと強さを感じて、これをなんとかして作品の素材にしたいと思いました。
私のは2層になっていて、最初の層に鮮やかな色を塗ってその上にグレー一色の和紙に引っかき傷を入れて、それを塗っておいた紙に糊で張り付けると、下の色がきらきらとカラーが飛び出してくるようで、それが新鮮で、今まで至っています。
生涯和紙でやっていくと思います。

寿久:私が浪人のころに順子が高校生の時に美術研究所に現れました。
順子:夏休み東京に行って研究所に入りました。(受験の為)
二人とも武蔵野美術大学に入りました。
寿久:1966年25歳の時に船で2週間掛かってアメリカに渡りました。
一人当たり500ドルしか持ち出しができなかった時代です。
情報はほとんどなくて何とかなるだろうというようなスタートでした。
8カ月ロサンゼルスでアルバイトとをして、その後ニューヨークに時間を掛けて行きました。
順子:2年後に私もアメリカ行きました。
アメリカに関する展覧会があり、それを見て目が飛び出すほどびっくりしました。
ジャクソン・ポロックの作品がすごく好きになり、ニューヨークに行きたいという気持ちになりました。
寿久:親兄弟には2年と言って出かけました。
順子:私も2年と言っていきました、帰ってきませんでしたが。

寿久:東京でジャスパー・ジョーンズの展覧会があり、画廊のオーナーがこれはいくらだと思う2万ドルだというんです。
自分の目で確かめたいと思ってニューヨークに行きました。
厳しい世界だという事がすぐに判りました。
画廊のオーナーがOKしないと画廊での展示ができなかった。
順子:小さい作品からやろうとしました。
作品をスライドにして持っていきました。
2点持ってくるように言われて、アメリカではじめて有名なザブリスキー画廊で5人の新人アーティストの中に入ることができました。
アメリカでは自分で動かなければ道が開けませんでした。

寿久:早い時期にバークシャーミュージアムの展覧会に出して賞をもらって、州知事からお祝いの言葉と賞金を頂きました。(1970年のはじめです。)
ビザで苦労しました。
妻も学生ビザを取得しました。
永住権を申請して、行ってから6年目の時でした。
順子:最初は素敵なアパートに主人が住んでいて、私は台所などでやっていました。
寿久:その後広い場所を求めて移動しました。
5回引っ越しています。
順子:一番つらかったのは洋一郎がアレルギー体質で風邪を引くと肺炎になり、一度は危ない時もありました。
ブルックリンに引っ越した時に治りました。
寿久:語学では苦労しました。
順子:アーティストとしてはつらいとか感じなかったです、やれば反応がありました。

寿久:日本に帰ろうという思いは一度もありませんでした。
順子:風景が好きで写真に撮って後で絵にするという事をしていましたが、川、海、空など自然を主題にするようになりました。
寿久:自分は歳を取っているという事を意識しないです。
順子:いつも絵になるものは何かを探しています、年齢的に決めたことがあるが、これ以上幅を広げない、自分が興味のあるものだけにして深くいきたいです。
洋一郎が中学2年生になったときに学校側がアートの方へ進むように決めていて、アート以外の道もあると思ってそれに抗議しました。。
才能があると校長先生が言ってそれがいいのかなあと理解しました。

洋一郎:瀬戸内の女木島での仕事は、20年間のドリームでした。
瀬戸内国際芸術祭の時にはできるのではないかと思って応募して、倉庫だったものを映画館に作り替えることでした。
「42丁目、終焉の日々」というドキュメンタリービデオを今上映しています。
アーティストになりたいと思ったのは中学3年生の時でした。
両親がというよりも自然にその方に行きました。
順子:今回みたいに家族3人という展覧会は初めてです。
寿久:3人がそれぞれのめりこんでいるという事です。
抽象で仕事をしてきて、これからは平面と立体と両方をもっともっと深くやっていきたいと思います。
順子:幅を広げないように深く深く仕事をやっていきたいと思っています。
洋一郎:日本とニューヨークで作品を発表していますが、ほかの国にも行って展覧会、グループショーなどをやっていきたいが、一番行きたい場所はアイスランドで、北欧神話に興味を持っています。