2022年4月30日土曜日

平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

 平松洋子(エッセイスト・食文化研究家) ・父と故郷を語る

父と故郷倉敷を書いた自伝的エッセー集「父のビスコ」が、今年2月第73回読売文学賞を受賞しました。  自分をはぐぐんできた祖父母や両親、故郷倉敷のからは戦中戦後を生き抜いてきた市井の人々の姿が浮かび上がってきます。  家族や故郷への思いを昭和、平成、令和にまたがる3世代のエピソードを交えながら伺いました。

ここ数年大事な友人とか仕事仲間が相次いで亡くなる事が多くて、自分の生きてきた足取り、家族のことを含めて書かなくてはいけない時期に自分が来たんだなあという事をとても感じるようになりました。  父が戦争の時にどういう暮らしをしていたのか、どういう思いだったのか、言いたくなかったこともいろいろあったと思います。   3年半ぐらい連載してきて、連載途中で父が亡くなってしまいました。  

父は昭和3年生まれで、少年時代は戦争と直結しています。  叔父が満洲にいて下関から満洲に行ったという話をしてくれました。  大学を卒業して神戸に住んでいて、機銃掃射にあい2度死にかけたと言っていました。  自分がここにいる事の不思議さを感じました。   母方の祖父は僧侶でしたが、戦争に行って帰ってきてポケットからコンペイトウを子供たちに出したそうです。 一個だけ赤い色があり子供たちは取り合いになり、喧嘩になったそうですが母が一喝したそうです。   母が言うにはお父さんのお土産はコンペイトウと虱だと言っていました。  どんぐり飯を食べていたようです。  父の体験談でもあるし、日本がどういう風に生き延びてきたのか、細かいことは大事だと思いました。  今書かないといけないと思いました。 

岡山ではばら寿司という言い方とちらし寿司という風にも言いますが、いろんな食材(魚介類、野菜、かんぴょうなど)を前日から仕込んで、彩りよく散らしていきます。  家族総出で作ります。    岡山の日生の牡蠣は有名です。  ちょっと甘めの酢の物(じゃこ、キュウリなど)は良く作っています。  倉敷川は身近な場であり、風景です。   昭和の時代の倉敷川には牡蠣料理が食べられる牡蠣船がありました。   倉敷民芸館は父が大好きでした。 大原美術館は大原孫三郎大原総一郎(長男)ら大原家が創設した美術館です。民芸運動と倉敷民芸館は重なって行きました。 倉敷民芸館が生まれたのが昭和23年で日本で2番目に生まれました。  柳宗悦らが民芸の質を高めて行こうという運動でもあって、倉敷民芸館館長の外村(とのむら)吉之介さんが土地の染色家、陶芸家などを束ねて活動しました。  倉敷民芸館では講座も開いて父は良く通っていました。 私も3,4歳の頃ですがよく連れていかれました。

倉敷には有名な老舗旅館がありますが、江戸時代は砂糖問屋だったそうで、畠山繁子さんと言って料理屋をやっていましたが、大原総一郎さんから貴重な家屋でもあるので宿か料理屋をやってもらえまいかと話があり、一念発起で旅館へと引き継いたそうです。  有名人、財界人も来て大変だったようで、献立も全部書き残しています。  倉敷の迎賓館といった役割だったと思います。   畠山繁子さんは立派な本(風土記のような)を書き残しています。

敬子?さんと言う「とんかつ屋」で人気の高いお店があります。   どうしてこんなに人を引き付けるのか考えてきましたが、仕事に対する姿勢だと思いますが、このとんかつはあのお客さんにとか、お客さんの顔が判っていて、揚げているとんかつなんですね。    民芸は自分の培ってきた技術、知恵、磨いてきたものを、工芸の形にどう生かすかと言う事だと思いますが、敬子?さんの作るとんかつもそういものなんじゃないかなあと思います。 

母方の祖母の作った俳句の句集を母から見せてもらいました。  祖母は私が2歳ごろに亡くなりました。   祖母が亡くなった25周年目に祖父が312句を一冊に自分が書き移して、手作りの句集です。  

*「孫の守飽きて老婆に日の長き」   孫は私です。  不思議に思いました。     これも書かなくてはいけないと思って祖母の俳句も入れました。 

父は美術と本を読むことが好きだったので、それが生きる力だったんでしょうね。    父は「知りたいことがあるから死ぬわけにはいかん。」と何度か言っているのを聞いています。   父が言っていた、本に書かれていること「ここの生活に目新しいものがない方がいい。」という事の意味ですが。ここ(介護施設)で目新しいものを求めるのではなく、静かに暮らしていきたいという気持ちをどうやったら受け入れられるか、という事考えていたんだと思います。  そのこととは裏腹ですが、ウナギのかば焼きを買ってきて自家製うな重をもって行ったら、涙が出んばかりに喜びました。  父が好きなものを食べたいという事で、先生も了承して、或るお菓子をもって行ったらボリボリ音をさせながら食べていました。   父の晩年、どういう風に亡くなったのかなと言う事を、言葉にして書いていかないと自分は駄目だなあと思ったので、言葉を通じて向き合う事が出来たので、良かったなあと思います。  市井の人たちの営みとも繋がりたかったので、考えながら書くことが出来ました。


2022年4月29日金曜日

角南有紀(声楽家)           ・"乳がんの経験"を絵本で伝える

 角南有紀(声楽家)           ・"乳がんの経験"を絵本で伝える

愛媛県出身の声楽家で東京芸術大学大学院を終了後に、イタリアのナポリ国立音楽院に留学し、イタリア各地のオペラやコンサートに出演しました。   ピアニストでイタリア人のアルベルト・ピッツオーさんと出会い、結婚。  3年前に完全帰国し、現在は二期会の声楽家、イタリア語の翻訳家としても活動、5歳の男の子の母でもあります。  角南さんは2年前に乳がんが見つかり、抗がん剤治療、手術、放射線治療を受けました。  角南さんは同じような経験をしている母親と家族の役に立ちたいと、イラストレーターの友人の助けを借りて、電子書籍、絵本「ママのおっぱい」を制作、さらに角南さんは多くの人の支援を受けて、この4月に紙の絵本の制作も実現しました。  角南さんにどう乳がんを乗り越えてきたのか、家族や絵本製作への思いなど伺いました。

小学校の頃に合唱をしていて、それがきっかけで歌が好きになりました。  本格的に始めたのは高校生になってからで、大学に入ってからは音楽の先生になりたいと思っていました。  周りでオペラを歌っているのを聞いて、私も歌いたいと思うようになりました。 人前で歌うようになって快感と言うか、気持ちがよくなって、聞く人も笑顔になったり泣いたり音楽には凄い力があるんだなと感じています。  恩師の林康子先生がイタリアと日本を拠点に活躍していて、イタリアで勉強したいと思う様になりました。   最初は厳しかったです。  イタリア人は声もいいし、アジアに対する偏見みたいなものもあるし、どう食い込んでいくか考えましたが、アジア人だからこそ歌える歌があると思ってからは楽しくなりました。   イタリア人の女の子と3人で一緒の部屋に住んでいて、1,2年で大分しゃべれるようになりました。   ナポリ国立音楽員で彼(アルベルト・ピッツオー)が演劇法の授業で伴奏助手をしていて、そこで出会いました。   

最初反対されて、結婚までに私の両親から3つの課題を出されました。  ①日本語が少しでも話せるようになる事。 ②日本でも二人で音楽活動をすること。 ③経済的に安定して食べてゆくこと。 クリアするまでの7年かかりました。   出産は日本で行いすぐにイタリアに戻りました。   小さいころは大きな声で歌っても関係なかったんですが、5歳になって「うるさいからやめてよ」、などと言われてしまいます。  ピアノの音は何も言いません。  怜音(れおん)という名前はアルベルトがつけました。  

日本に戻る前からしこりがあり検査では良性でしたが、或る日チクチク痛いような感じがして、日本に戻って検査をしたら悪性でした。   何よりもまず息子のことが心配で、日本に来たばかりの夫も心配でした。   夫はイタリアにいてコンサートの仕事があったので言わないつもりでしたが、何か察した様で言ってしまいました。   コロナ禍でイタリアを出る時も日本に来た時にも、待機とかいろいろあってなかなか会えませんでした。   父が医師なので判った時にすぐ連絡して、治療の環境は整えてくれました。  母は食事療法などやってくれました。   

 まず抗癌剤治療をして小さくしてから全摘の手術を受けました。  次に放射線治療を受けました。  一番つらかったのは抗癌剤治療ですね。  食欲がなくなり、味覚障害となり、髪の毛、眉毛も落ちてしまいました。   心配させるよりはキチンと判っていた方がいいと思って早い段階で子供には言いました。   4歳でしたがちゃんと理解してくれました。    乳房を取られることに対しては多少抵抗は有りましたが、治療してもらえるという事は幸せなことだと思って、不安よりは前向きな気持ちに成れました。   四国がんセンターで同じ病気の人たちなので、回りからいろいろ教えてもらえました。     両親には元気な振りを見せますが、夫には辛い時などにはつい八つ当たりをしてしまいました。   

絵本のことに関しては、辛い抗癌剤治療が終わって、これから手術をするという時に考えました。  ふと病気の親を持つこどものために何かできないだろうかと考えました。   乳癌患者の親とそのこどもたちのために活動したいと思いました。 高校の同級生の澤田乃理子さんが絵を描いてくれました。  最初は電子絵本と言う形で作られ、今年クラウドファンディングを経て、紙の絵本となりました。   子供には電子書籍は合わないので、紙の媒体で親子で読んで欲しいと思いました。   

コンサートの日程もあり、それに間に合うように治療を一生懸命行い、復帰できました。  稽古場に足を踏み入れた時には嬉しくて嬉しくて、どんなに厳しいことを言われても、なんでも嬉しかったです。   宮本亜門さんからは「楽しく歌おうね」と言われました。

「ママのおっぱい」 朗読

さいきんママがいないんだ

よくびょういんにいってるの

ようちえんには ばあばがむかえにきてくれる

おふろにはじいじとはいる たたかいごっこをするんだ

おやすみのひはいとこのしーちゃんちにあそびにいく

おとうとのゆーくんもいる

ぼくががんばってるから

ママもがんばれるんだって

だからなかない

でもねパパがきてくれるとほっとするんだ

だってないてもいいから

ぼくはながいかみのママがすきだったんだけど

ママははげちゃんになっちゃったの

それにね、ぼくのだいすきなママのおっぱい

ひとつなくなっちゃうんだって

またすぐにかってきて つけてほしいな

おっぱいだんだんはえてくるのかな

でもねママがいってた

かみのけまたのばすねって

でも おっぱいはもうもどらないんだって

どうしてなくなっちゃうの…?

ママのことがすきなのに

ママのぜんぶがだいすきなのに

 ぼく、びょういんにいって

あんまりママのこととらないでって

たのみにいこうとおもう

 そうママにいったら

ママはぼくをぎゅっとだきしめて

いったんだ

びょういんのせんせいは

せいぎのみかたなんだって

ママのびょうきをやっつけてくれるんだって

 ぼくもおおきくなったら

もっとつよくなってママをまもってみせる

おっぱいがなくなっても

ぼくはママがだいすきだから

ぼく、がんばるよママもがんばってね


クラウドファンディングを立ち上げて5日目で目標を達成して、心より感謝していて、この絵本を今後の活動に生かしていきたいと思っています。  

2022年4月28日木曜日

金子賢治(茨城県陶芸美術館館長)     ・【私のアート交遊録】 暮らしの食器もみなアート

 金子賢治(茨城県陶芸美術館館長)  ・【私のアート交遊録】  暮らしの食器もみなアート

茨城県陶芸美術館は去年「伝統もオブジェも食器もみなアート」と宣言する公募展を創設しました。  従来アートの枠外とされてきた日常食器を対象にしてきたものです。  器を客観的に評価しようというこの試みは、近年の器ブームの中大きな反響を呼びました。  伝統もオブジェも食器もみなアートと言う言葉に込めた思いや、アートとはなんなのか伺いました。

茨城県笠間は230年伝統のある産地があり、産地振興と現代の陶芸文化に何か寄与できないかという事で、公募展を行うと笠間を知って貰えるという事と、新し陶芸文化の創設を世界に訴えられるという事です。  コロナとぶつかってしまったので実際ちょっと違ってしまいましたが。  点数は多くなかったが10か国からの応募がありました。  観賞用陶器と普段使っている食器などと一体どこが違うのかという事で、それぞれ個性的に作り出していて、現代のアートそのものではないかという事で、陶芸文化と言うものを全体をピックアップしつつ、選びながらアーカイブしてゆくのが美術館の使命で、50年、100年経った後にこんな時代にこんなものがあったのかというものを、後世の人に見ていただきたいと言うのが、私どもの意図です。  日常的に食器は今までほとんど美術館としては扱ってこなかった。  美術館では購入するのに道筋があり、半年、1年はかかってしまうので購入のタイミングが合わないことがままありますので、公募展という事でそれをアーカイブしてゆくという意図もあります。    美術、芸術は作り手が表現するもので、作家の数だけ表現するものがあるが、作り手の人たちが自分の個性的な形を作るという事が表現の最も根底的なところで、それを全部アートと言っていいと思います。  

笠間と益子は隣町で、信楽の陶工は笠間焼きを興し、笠間焼きの陶工は益子焼を興しという事で、笠間に300、益子に300、合わせると600の窯元があります。  日本の文化として時代の証言として残していかなければいけないと強く思いました。   東日本大震災でも陶器市は開催して、35万人ぐらいでしたが、数年で50万人を超えるような大陶器市に成長しました。  

縄文土器がつくられたのが1万6000年前です。  戦争があったりする中で現代まで続いているというのが大きな特徴だと思います。   海外で陶芸大国と言うとイギリスです。 産業革命以降手作りを根絶やしにしながら機械化してゆくという事がありました。  バーナード・リーチは日本に来て、戻ってから陶芸の作家として活動してゆきます。  自分たちが工房を作った時には周りには何にもなかったと言います。   日本はずーっと続いてきてヨーロッパの機械文化がぶつかってきた。   機械文化と折り合いをつけて、手作りも厳然と残るという手作り産地が形成された。   焼き物だけで考えても、京焼、備前、有田、萩、薩摩、九谷、笠間、益子などがあり、明治以降は北海道にも窯が築かれる。  漆、染色、石、の工芸、竹、木など日本列島の手作りが沢山ある。  みんな機械文化と折り合いをつけてきたと思う。  柳宗悦の息子のインダストリアルデザイナー柳宗理さんは「現代の民芸は構造デザインである。」と言っています。   機械でいいものが作れるのであればどんどん使いましょうという考えはあります。   工芸は一段低く見られるという事があり卑下するようなところもあるが、工芸は彫刻や絵画ではできないという自負もある。  自信のなさと自負が共存するような微妙なところが、現代の工芸ではないかと思います。

自分がいいと思うものはどういうものなのか改めて考えると、現在に通ずるものかどうかという事、単に工芸という事ではなくて、映画、文学、音楽など、いろんなものの総合としてものをみているので、現代に通ずる表現、現代の最先端、現代を越えてゆくようなものとか、形の意識を鍛えながらものを見てゆく、つまり現代に通じるか通じないかを判断するのが美術の一番の根底ではないかと思います。  

茨城県陶芸美術館は東日本で初めての陶芸専門の県立美術館です。   日本の陶芸の歴史が見られるようにもなっています。   茨城県立笠間陶芸大学の校長も務めています。 美大を作ろうという話がありましたが、バブル崩壊後だし駄目で、結局陶芸の学校に収斂していきました。  最初にやったのが陶芸を教える先生のヘッドハンティングでした。  最初はカリキュラムを作ったり、いろいろやってきて成果が出て来ました。  卒業して8割ぐらいの人が県内で活動しています。  笠間市では陶芸を進めてゆくうえでの資金援助もしています。   海外でも個展を開催するような作家が出てきています。      お薦めの一点という事ですが、島根県に風土記の丘というところに資料館があり、「見返りの鹿」と言う埴輪があり、奈良県、静岡県でも発見されて3点あります。   破片の復元が難しく、振り向くようにしたらうまくいって、よくこのような形に作って焼いたと思います。

2022年4月27日水曜日

青木宏一郎(園芸研究家)        ・【心に花を咲かせて】鷗外が愛した草花

 青木宏一郎(園芸研究家)        ・【心に花を咲かせて】鷗外が愛した草花

明治から大正時代にかけて活躍した森鴎外、軍医として仕事をしながら「舞姫」、「うたかたの記」、「雁」、「阿部一族」、「山椒大夫」、「高瀬舟」等々たくさんの小説を書き、「ファウスト」、「サロメ」など翻訳書、随筆、評論などなど、その活躍は多岐にわたっています。  多くの肩書を持ち60年の生涯を駆け抜けた森鴎外こと本名 森林太郎の活躍は多くの人の知るところですが、草花を愛し、花畑を作って楽しんでいたことは余り知られていないのではないでしょうか。     江戸の園芸に詳しい 青木宏一郎さんはひょんなことから森鴎外が草花好きだと知って調べ始めたところ、様々な発見があったそうです。   

今年 森鴎外が生まれて160年、没後100年。  森鴎外の日記をいくつも読んだらその中にたくさんの植物、庭いじりをやっていたという事を見つけました。   森鴎外記念館に行ったら花暦の紙を見せていただきました。    いわゆるガーデニング日記をつけていました。 そういった観点から森鴎外の作品を読みなおしてみると、360種類出て来て至る所に植物が出て来ます。  

「井沢蘭研」という史伝には100以上の植物名が出て来ます。   「歌日記」に54、「即興詩人」に46、「小倉日記」に30、「田楽豆腐」に20と言う風にかなりの植物名が出て来ます。   「山椒大夫」に7つの植物が出て来ます。   元になった説教集にはない植物が一つあって、それがすみれなんです。 子どものころからすみれが気に入っていたようで、日記にも書いているし、杏奴(次女)が晩年の父のなかで、すみれのことをたくさん書いています。  鴎外がすみれに関心があったという事を裏付けるものだったと思います。  春咲く花ですみれが一番気にいっていたと思います。  安寿と厨子王の別れの場面ですみれが出て来ます。  すみれが未来に希望を持たせるように登場させている。  もう一つ好きなのが「センノウ」です。  マツモトセンノウ、ガンピセンノウとかいろいろ種類があります。  この花は江戸時代に流行しました。  戯曲の「人の一生」と言うなかにいれています。   その中で「センノウ」を奥さんに例えています。  

森鴎外は多分6歳ぐらいから花を好きになったようです。  ヰタ・セクスアリス」と言う本の中に出て来ます。  ガーデニングについては「田楽豆腐」と言う作品の中に書いています。   多くの種類が自然に咲くように心がけている。   大正2年は「阿部一族」「佐橋甚五郎」、「ファウスト」、「マクベス」を刊行するなど、又軍医として医務局長の要職に在り多忙を極めていた。  そんな中3月16日から4週間続けて休みの日にはガーデニングをやっているんです。  鴎外以外にこれほど庭いじりをする人はほかには居ないと思います。 花暦から見ると100種類ぐらいは庭に植えていたようです。    鴎外の父親が庭を作ったり盆栽が好きだったようです。  鴎外は赤系統の花が好きでしたが、チューリップ、バラは一切植えていない。  オレンジっぽい日本的な赤を好んでいました。  ほかにはだいだい色っぽい黄色系(カンゾウ、クジャクソウ、ヒャクニチソウなど)を植えていた。  ブルー系統も植えています。  独学で学んだと思います。  敷地が320坪で花畑は20~40坪です。  

鴎外は薬草の名で書いていることが多くて、「虎耳草」はユキノシタです。  ケシなども植えていました。  植物園にも多く行っていて、小石川植物園によく行っています。  正岡子規に種を何種類か送ったりしています。  「田楽豆腐」の中には失敗談も記載されています。  鶏頭、月見草などは一杯咲くので2,3本残してほとんど間引いてしまうと、絶えてしまったというような記載があります。  

鴎外は仲間の雑誌に「園芸略説」という文章を書いていて、日本の造園がどうあるべきかという事を書いています。  西洋庭園も勧めるような話も書いています。(ドイツから6冊ぐらい持ち帰っている。)  彼はランドスケープ( 景色景観風景。)まで考えていたと思います。  

私の庭には鴎外の7割の植物があり、同じ思考をしているんだなと気が付いて親しみを感じました。   鴎外は自分の心境を整え、英気を養うためにガーデニングを行い、花を見たり触れたりしていたように思います。

2022年4月26日火曜日

寺田恵子(ロックボーカリスト)      ・生涯ロックを歌い続ける!

 寺田恵子(ロックボーカリスト)      ・生涯ロックを歌い続ける!

1963年千葉県の出身。  1985年ロックバンド「SHOW-YAのボーカルとして「素敵にダンシング」でデビュー。   1989年8枚目のシングル「限界LOVERS」が大ヒットし、女性ロックバンドとしてパイオニア的な存在となりました。   その後1991年SHOW-YAを脱退、ソロとして活動。  2005年SHOW-YAを再結成して、一昨年デビュー35周年を迎え、海外進出など精力的に活動しています。

デビュー当時は、女性バンドとか女性ミュージシャン自体が凄く少なかったので、男子に負けてはいけないとい思いがあり、努力していました。   女性ファンが多かったが、子育てなどがあり、その後親子で来たりもしています。  男性ファンも増えました。  

子どものころ、歌が好きで音楽の仕事がしたいという願望が強くて、10,11歳ごろに「カルメン・牧&OZ」のレコードが家に有りそれを聞いた時に、私はこの人の跡を継ぐんだと思って、そこからロックにのめり込みました。   17歳の頃にSHOW-YAから声を掛けられましたが、断っていました。  高校2年生までは地味でした。  分校になったのを機会に、自分が派手なほうに成ろうと思って、そのころから年上に目をつけられるようになって、やんちゃなほうに行きました。  高校1年生の時、文化祭でボーカルを探していた男性バンドに誘われ、最初はこの男性主体の7人組バンドで活動しました。   その後SHOW-YAに入りました。   

1985年にデビューしました。  ポップなロックからハードなロックに変えていきました。  デビューした時にすぐ売れるのではないかと思いましたが、違って、自分でビジュアルも考えたりしているうちに4年ぐらい過ぎてしまいました。   ある日、鏡で自分の下着姿を見て「めちゃくちゃかっこいい」と思い、さらけ出して生きて行こうと思い、以後自らの下着風コスチュームにして、ハードロックというSHOW-YAの原点になりました。   売れないと思っていましたが、限界LOVERSがヒットしました。  その後バンドを脱退しました。

それぞれがいいよと言ってくれるまでに5年かかって、2005年にSHOW-YAを再結成しました。   アルバムを作るのに7年間かかりました。   全部エネルギーを出し切った時の気持ちよさに浸ることがいいんですね。  それを求めるためにパワーアップしていきました。  耳だけではなく、目とその場の空気と言うのは会場に来ないと得られない感覚で、ライブを続けることは凄く大事だと思っています。  SHOW-YAという運命的な結びつきは一番大きいような気がします。  私はSHOW-YAと男を取る時に、どっちを取るかと言われたら多分SHOW-YAを取ると思います。  喧嘩をしても戻ってこれるし、SHOW-YAには家族に近いものがあると思います。   

昨年出したアルバムが全編英語でした。  又海外に向けてと言う話になって、チャレンジすることになりました。    今年1月にはフルオーケストラと共演したコンサートを行う。  20分以上の組曲に挑戦しました。   

限界LOVERS」 バトル オーケストラ

SHOW-YAプロデュースによる女性だけの祭典"NAONのYAON 2022"を4月に実施します。

2022年4月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 レオナルド・ダ・ヴィンチ

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  レオナルド・ダ・ヴィンチ

ダ・ヴィンチは「モナリザ」、「最後の晩餐」などの作品で有名なイタリアルネッサンス時代を代表する芸術家です。  

「本当のことを言えば、僕は成功しなかったんだ。」      レオナルド・ダ・ヴィンチ  

1974年に「モナリザ」展が開かれて時には150万人以上の人が観に来て、企画展の単館の入場者数の世界記録だそうです。  手記を5000枚以上残していて1/3~1/2ぐらいは失わてしまっている。  愚痴とか悪口とかが書かれているという事で僕は(頭木)が興味を持ちました。   詠むと感動することがいっぱいあります。   

「私が学者でないから或る威張り屋は私のことを文字を知らぬ人間だと断ずれば、それだけで私をもっともらしく非難出来るとお考えであることを私は十分承知している。」  レオナルド・ダ・ヴィンチ 

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日 夜10時半ごろ生まれている。(祖父が書き残している。)  「ダ・ヴィンチ」とはヴィンチ村出身であることを意味している。 地元の裕福な家庭に長男として生まれる。  父親は公証人に就いていた。  母のカテリーナはおそらく農夫の娘とされる。(カテリーナとは結婚はしていなくてレオナルドは非嫡出子)父親は別のお金持ちの女性と結婚する。  法律上の婚姻関係のない子という事で差別があり父親の公証人の跡を継ぐことが出来なかった。   当時の階級なら当然習うべきラテン語を習わなかった。  左利きで小さいころから鏡文字を書くようになっていた。   13歳の頃にフィレンツェの芸術工房に行く。(いろんなものを作る工房)   

「幸運が来たらためらわず前髪を掴め、後ろは禿ているからね。」 レオナルド・ダ・ヴィンチ

20歳になった時に工房の親方になる。  26歳、29歳の時に大きな仕事が来るが完成させない。 ダ・ヴィンチは生涯にわたって未完成作品が多い。  実は「モナリザ」も未完成、完成のないような作品だったのかもしれない。  30歳の時に礼拝堂の大きな仕事があったが仲間は出かけるが、ダ・ヴィンチは選ばれなかった。  焦ったようでミラノの君主に自分を売り込む。   いろんな新しい武器も作れるという事で軍事の専門家として売り込む。  採用されるが、当時の技術では実現できない武器だった。  

「美し事が必ず良い事とは思わない。」      レオナルド・ダ・ヴィンチ

芸術家が美を否定するのは珍しい。   受胎告知の絵で、大天使の翼は普通当時は金色とか水色とかで描くが、ダ・ヴィンチは実際の羽根みたいなものを描いた。  美しさよりもリアルさをとった。  流行の美意識よりも自然の美しさを取ったというほうが正確かもしれない。  風景を主役に描いたのもダ・ヴィンチが最初です。   解剖図に関してもそうとう細かく研究をしている。  美と科学を結び付けたことが大きいと思います。   

「便所は待つな、ためらうな。」        レオナルド・ダ・ヴィンチ

食事中はトイレに行かないのがマナーだと言いますが、こんなの困ります。  生理現象にまで制限してしまうのはどうかなと思います。  江戸時代の川柳に「嫁の屁は五臓六腑を駆け巡り」と言うのがあります。   我慢しているから五臓六腑を駆け巡ってしまう。 昔話にも屁ひり女房と言うのが全国にあります。  

「なぜ自然は或る動物がほかの動物の死によって、生きてはならないと定めなかったのか。」     レオナルド・ダ・ヴィンチ

ほかの動物を殺して食べる、ということを言っている。   言ってはいるが、自動回転式肉焼き機など発明のデッサンをいくつか描いている。   生き物は殺したくないという人ではあった。

「植物が自分のそばにある干からびた古い杭と、その周りを囲んでいる野茨のことをこぼしている。  ところが杭はその植物をまっすぐに立たしていたのだし、野茨はその植物をいろいろな有害な仲間から保護しているのであった。」  レオナルド・ダ・ヴィンチ

自分のそばにある邪魔なもの、無い方がいいものも、実はそれがあるとそれに助けられている面があると言っている。   周囲にいる気に食わない人をどんどん排除すると、それで快適になるかと言うと、最終的には独裁者の孤独みたいになるわけです。   気に入らない人から何かしら影響を受けて、それで自分の運命が反って好転しているという事があるわけです。  ダ・ヴィンチは俺の力だけで偉くなったんだ、とは思っていないわけです。

「あたかもよく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、良く用いられた一生は安らかな死を与える。」       レオナルド・ダ・ヴィンチ

僕(頭木)がレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉のなかで最も好きな、あるいは最も嫌いと言ってもいいかもしれませんが、刺さる言葉です。   夜寝る時に「今日は充実していなかったなあ」と物足りなくなることが凄く多い。   ダ・ヴィンチは 一日が充実している夜はよく眠れるように、人生が充実して入れば死ぬときも安らかな気持ちでいられる、と言っています。  一日が充実していなくて物足りなくて寝づらいように、そういう日々が続くと人生が充実していなくて、死ぬときも安らかな気持ちでいられないという事です。  一日のうち物足りなくて寝づらいと一生の終わりもそのように思ってしまうのかなあと思うと、怖くなります。   何が物足りないのかもよく判らない。  正体の判らないものに物足りなさを感じて、そうすると解決のしようがない、そういう怖さもあります。





2022年4月24日日曜日

森谷真理(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】

 森谷真理(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】

栃木県出身、武蔵野音楽大学大学院を首席で卒業、その後ニューヨークのマネス音楽院に留学、2006年にメトロポリタン歌劇場のオペラ「魔笛」で夜の女王に抜擢されて注目を浴びました。   その後リンツ州立歌劇場や世界各地の歌劇場で活躍、2019年には「天皇陛下御即位を祝う国民祭典」で国歌斉唱を務めました。  ソリストとしての活動だけでなくこの4月からは名古屋音楽大学准教授に就任、又東京芸術大学や洗足学園音楽大学でも教え、後進の指導にもあたっています。

新国立劇場で「ばらの騎士」が終了。 学校もあり忙しい年になりそうです。   母親が声楽家でしたが、歌をやろうとは全く思っていなかったです。  小さい頃からピアノはやっていました。   高校受験にかこつけてピアノを辞めて、高校に入って母からもう一回ピアノを習っては、と言われてもう一回やろうかなと思いました。   進路に対するクラス分けが厳しくて、何になりたいのかと思った時に音楽かなと思ってしまいました。   

*「母が教えてくれた歌」  作曲:ドヴォルザーク  歌:森谷真理

大学に入った時に大学院を目指そうと思いました。   大学院が終わったら留学するんだという思いも抱きました。  栃木県小山市から武蔵野音楽大学入間校舎まで片道3時間かかって通学していました。  3年生からは江古田に移って、片道2時間でした。  朝6時20分ごろには家を出ていました。   その時間は宿題をやったり本を読んだりしていました。  大学を受験するにあたって母が日本歌曲全集、イタリア歌曲全集、マリア・カラスの録音の全集、のCDを買ってくれました。  毎日聞いていました。

*オペラ「トスカ」から「歌に生き恋に生き」  歌:マリア・カラス

大学院を首席で卒業後、アメリカに留学。(母親の友人の紹介)  マネス音楽院に2年間通って卒業と同時に仕事を頂けました。   2006年には、レヴァイン指揮『魔笛』同役で抜擢され、鮮烈 なメトロポリタン歌劇場デビューを飾る。   その後ヨーロッパに行って、2007年にコンクールを受けて1位をいただきヨーロッパデビューしました。  『トゥーランドット』リュー役での欧州オペラデビューでした。   それからアメリカとヨーロッパが半々でした。   2010年からオーストリア・リンツ州立劇場の専属歌手となりました。   

*歌劇「リナルド」より「涙の流れるままに」  作曲:ヘンデル   歌:森谷真理

激しい曲よりも、ヘンデルのような優しい包み込むような曲のほうが好きです。      2019年に日本に帰国。  「天皇陛下御即位を祝う国民祭典」で国歌斉唱を務めました。 アーカペラで歌う。  緊張しました。  2018年の12月の暮れに、単純に日本に帰ろうと思いました。  5月に宮本亞門さんの演出でドレスデンに行きます。  

*「蝶々夫人」から 「ハミング・コーラス」  作曲:プッチーニ  



2022年4月23日土曜日

岩波律子(岩波ホール支配人)      ・【私の人生手帖(てちょう)】

 岩波律子(岩波ホール支配人)      ・【私の人生手帖(てちょう)】

1968年に多目的ホールとしてスタートした岩波ホールは7月29日をもって、54年の歴史に幕を下ろします。  1974年からは世界の名作映画を上映するエキプ・ド・シネマ(商業ベースにはなりづらいと考えられている名作を上映することを目的としている。)映画の仲間運動の拠点としてにほんでは上映される事の少ないアジア、アフリカ、中南米などの映画を積極的に上映し続けました。  その活動は高い評価を受けてきました。  1990年から岩波ホールの支配人を務めてきた岩波律子さん、祖父が岩波書店の創業者、岩波ホールは父が岩波書店の社長の時に自費で創設、叔母の高野悦子が総支配人として多彩な活動を展開してきました。  岩波律子さんの人生と共に岩波ホールが果たしてきた役割などについても伺います。

1968年からスタートしてエキプ・ド・シネマを始めるまでは多目的ホールだったので、いろんなことをやっていました。   民族芸能などたくさんやっていました。  津軽三味線、越後瞽女(ごぜ)(目の見えない女性が列をなしていろんな家を回って演奏していた方々)などたくさん見る事が出来ました。  音楽会でも普通の劇場ではできないドビュッシーの歌曲全曲演奏会とか、何週間も掛けていくつもやっています。  叔母の高野の発想は凄かったと思います。   

映画の題名は観客の足の運びにも大きく影響するのでその会議などに参加しています。  原題が「山師と犬」という映画の題名(原作小説の題名)ですが、もめにもめて「山の郵便配達」に決めました。  54年間のチラシなども残してあります。  お客さんとの接触があるのがうちの特徴かもしれません。  聞くと女性は「よかった。」とか言いますが、男性はほとんど言いません。  辞める事になっていろいろ手紙などが来ました。  入口に立っていると声を掛けてくださいます。  

コロナで休館の要請が出たり、一人おきに座ってもらうとか、皆さんの出足が凄く落ちました。   若い方が余り来なくて、若い方をどうするかがポイントでしたが難しく、収支が合わなくなって厳しい状態になり、続けられなくなりました。   映画も娯楽映画ではないので観ると気が重くなったりしますが、考えさせられる映画です。   

小さいころ母が「クマのプーさん」(作者:石井桃子)を持ってきてくれて、それから本が好きになりました。   言葉に凄く興味を持ちました。  原作のリズム感を上手く再現していると思いました。   子供の頃は言葉人間でした、算数は駄目でした。  今でも本はたくさん読みます。   父は旧制中学でロシア文学が好きで「戦争と平和」など読んでいました。  映画もいろいろ評価してくれて、「さっぱりわからん」と言うと、ヒットしていたりしました。   父は捻ったものとか芸術的なものは駄目で、判り易い社会派が好きでした。  スタートした時には私は16歳でしたが、父は良いことをしたいと張り切っていたと思います。  オープニングの時の写真が出てきて、市川房江さん、遠藤周作さん、山本安英さんとかいて、こんな人たちにも助けていただいたんだなと思いました。 

大学で仏文科に入って、その後パリに留学してパリ商工会議所が設置した高等秘書養成センターに行きましたが、文学少女でのほほんとしていたので、実務が判った方がいいという事でした。  その後、フランス国立東洋言語文化学院日本部門でフランス語で日本の文化の勉強をしました。高等秘書養成センター(CPSS現・パリ・ノバンンシア経営大学院)を卒業し フランス国立東洋言語文化学院日本部門修士課程を修了を修了しました   時間的に余裕が出てきて映画、音楽を見聞きしに行く様になり興味を持ち始めました。   1978年に帰国して、センベーヌウスマンさんからアフリカの生活の話を聞いて嬉しかったです。  彼は女性については凄く尊敬しています。  母親は強いという主義なんです、女性の戦う力が凄いというのが彼の信条ですね。   彼は小説家になりたくて2,3つ書いたんですが、母親は読めないが涙を流して喜んだそうです。   文字は駄目だと思って映画を作ろうと、母親のために映画を作り始めました。  『チェド』母たちの村』などがあります。   『チェド』はアフリカにイスラム教が入ってきた時に改宗するのを拒否した人たちの話です。  母たちの村』 ここからは立ち入るなという事で女子割礼の儀式があり、それを辞めたいという思いで、子供に割礼をさせないためにそれを守ったお母さんの話です。  テーマを一つずつ出してゆくとセンベーヌウスマンさんと言う人は凄い人だったと思います。 

映画は皆さんの中に足跡を残して、考えるきっかけにはなっていると思います。  ウクライナのことに関しても、情報過多でどこまでが本当なのか判らないが、どっかから本当のものを手探りしていかなければいけないんだろうなと思います。  自分で手段を捜していかなければいけないんじゃないかと思います。   外国に関する情報はいっぱいあるけど実際にはよく知らない。   いい映画があるから見ていただきたい。  私たちが知っているつもりでいるのが残念ながら欧米でしかない。  いい映画は心の栄養になるとか、逆に考えさせてくれる映画かもしれません。   様々な国と文化があるという事が判る、エキプ・ド・シネマが始まった時に大国だけではなくてあまり知られていない国の映画とか、いろいろあるが結局スタッフが感動した映画ですね。   最初は感性ですね。   文化には人間には根底に同じものが流れているというのと、全く違う考えがあるという事、文化ってそういう2種類があると言っていた。  

本当に困った時に高野さんだったらどうするだろうね、と言う事は言われました。  父の夢見たいろいろなものを発信してゆくという事が、ある程度できたのかなあと思いますが、残念がっているかもしれないし、そうかそうかと思っているかもしれません。

   

2022年4月22日金曜日

日比野克彦(東京藝術大学長)      ・段ボール小僧から学長に

 日比野克彦(東京藝術大学長)      ・段ボール小僧から学長に

1958年生まれ、東京芸術大学大学院修了。 在学中に段ボールを使ったアート作品を発表、段ボール小僧と呼ばれ注目を浴びました。  1995年ヴェネチア・ビエンナーレに出品、現代美術家として舞台美術やパブリックアートなど多岐にわたる分野で活躍しています。  2016年からは東京芸術大学学部長を務め、この4月に東京芸術大学学長に就任しました。  

1995年から1999年まで東京芸術大学美術学部デザイン学科助教授を務める。  1999年に先端技術表現科が美術学部の中に出来まして、立ち上げで移って美術学部の教員をやっていました。   前任の澤 和樹学長は音楽部のヴァイオリン専攻の先生でした。  私自身よりも、世の中が変わって行こうよ、みたいな空気感があるなと言うのは感じました。   先端技術表現科という東京芸術大学の中では新しい専攻の領域からの学長選抜と言うのが、ちょっとこれまでとは違う空気感になるんだろうなというリアクション、期待値があるなと感じていますし、自身もそういう期待に応えて進めていきたいと思っています。   

入学式ではTシャツと帽子をかぶって段ボールを舞台に上げてパフォーマンスをやってしまいました。  入学式では学長メッセージがあり、前学長の澤さんはヴァイオリンを演奏されて、その前の宮田先生の時にはライブで象形文字を描くとか、それぞれが自分の考え方を言葉プラス自分の表現メディアで学生たち新入生たちに発信してゆくことが、芸大の入学式の特徴でもあります。   奏楽があり今年の担当が打楽器でした。  打楽器の先生と打ち合わせをして、その音楽を聴いた時に一緒にやりたいと思ったんです。   段ボールを使って段ボール箱を解体してそれをステージ上でアクションを見せながら、演奏者の背景のセットに、6分ぐらいの楽曲ですが、その間にステージ上が変化してゆくというものを入学式の時にやりました。   先人たちが築いてきたベースはある、手法はある、それによって専攻と言う基礎的なことはあるけれども、それを踏まえたうえで自分たちでやりたい事、自分のやりたいことをみつけるというのが、世の中の、社会の前に進める事になるんだみたいなことを、視覚的に聴覚的に五感に訴えるという事をまずしていきたいという思いがあったので、楽曲を聞いた時にピタッと来たので、今回の入学式をやるモチベーションがどんどん高まって行きました。

1999年に先端技術表現科が出来まして、表現するのに何で作るかという事がありますが、彫刻なら石、鉄、木とかいろいろありますが、コンピューターが出てくる、身体表現が出てくるとか、ほかにも新しいものが出てくる、そういったものを乗り越えて勉強できるところも必要じゃないかという事で、日本語ですと先端技術表現科ですが、外国語ですとインターメディアアートという呼び方をしています。(メディアを繋いで越えてゆくような)   素材に限らず横断的に自分の表現を考えるという専攻を作ろうという事で先端技術表現科が出来ました。   いろいろな分野の先生たちがいます。

アートが一番面白いところは、人と違っていていいという事です。   人と違う事を認め合う事が出来るというところがアートの一番の魅力で、多様性のある社会を実現していきましょうというのが、今、社会で言われているが、どうやってそれを築けばいいのか、行政も大事ですが、もっと一人一人の人間が多様性を認めるという意識を持つという事が何よりも一番大事だと思います。   一人一人の人間が多様性を認めあえるアートの特性をもっともっと広げてゆく、そういうものが体験できる、体感できる場を増やしてゆくのが、今僕のやりたい事です。  

自分らしさは自分が一番わからない。  一人でリンゴの絵を描いていても一人だったら、自分らしいかどうかわからない。  二人に成れば違いが判る、それで人が人を育てる。 芸大に入って周りからそれ日比野らしいと言われて、自分で気づくという場面がいくつもありました。  アートコミュニケーターは、文化的な処方を与える仕事、一人一人に合った処方が出来るという事を今研究していて、絵画を見たり音楽を聴いたりして気分がさわやかになる。  芸術もきちんと数値的に評価されるような研究もしています。   実証されれば、文化的処方もできるようになって行けると、芸術が社会の問題を解決することに役に立つという風になって行くわけです。   

きちんとこれまでのものを次の時代に伝えてゆくものは文化として大事な芸術の役割ですがそれだけではない、芸術は、一人一人の違いを認め合う特性がもう一つの大きな魅力だと思いますが、まだ伝わり切れていない。  私の役割は後者の方と思っています。   いろいろな福祉施設をお邪魔しましたが、自分がこうだろうなと思っっていたことが、それだけじゃないという事に気付かされるシーンが沢山あります。   

僕が見た人の色鉛筆は右から順番に使ってゆくんです。   一番右の色鉛筆が削れなくなったら、次の左の色鉛筆に移って行くんです。  削る時に鉛筆削りに頬を寄せて、音と振動を頭蓋骨、肌で感じてるようで、鉛筆を削りたいから芯を丸くしているのではないかと、絵を描くことが目的じゃないように見えたんです。  その行為を見た時に違う価値観と出会った瞬間でした。   いろんな違う価値観を持った人のところでいろんな人間の文化が生まれてくる。   美術館とか音楽を聴きに行く時に、自分とは違う価値に出会うのが文化施設と呼ぶならば、そういう福祉施設も違う価値観と出会う場と考えると、それは文化施設になるのではないかという考え方で「福祉×芸術」と言うのを、今芸大で授業を始めていて、福祉というものを無いものを補うという考え方ではなくて、違う個性を持っているという視点で考えるというのが芸大でおこなっているDiversity on the Arts ProjectDOOR)』というプログラムですが、始めて5年目になります。   芸大の学生も社会人も学習できるプログラムになっています。   

21世紀になっていろいろ出てきている中で、福祉の問題とかアートの役割と言うものを、もっと社会とくっつけてゆく必要があるなと言うようなことを美術学部の中でやってきて、それを今回は芸大の先生たちからも大学でやって行こうよと言う話になって、学長という立場になり、これまでやってきたことを大学として展開してゆくことなので、より一層発信してゆくことがミッションかなと思っています。   

日本サッカー協会社会貢献委員長という役をやっていまして、サッカーは世界で一番競技人口が多いスポーツです。  FIFAは国連の加盟国よりも多いんです。  サッカーで世界が繋がり、サッカーの影響力、特に青少年に与える影響力があり、一流のアスリートたちは社会的なメッセージ、人種差別をなくすとか、世界の課題に対してメッセージを投げかけることによって影響力がある。  スポーツによって様々な障害を乗り越えられることができる。  日本障害者サッカー連盟があり、ごちゃまぜサッカーをやる。  松葉杖の人、自閉症の人、目に障害のある人などが一つのチーム(5人)になって、サッカーをやるんです。  ウオーキングサッカーで僕も参加しました。(走ってはいけないサッカー)   大会の標語が「サッカーならどんな障害も越えられる」という、そういう事が実現できた一日でした。   アートもスポーツも言葉を越えて、国を越えて人と人が接することが出来る素晴らしいメディアだと思います。  

芸術の役割をもっともっと広げていきたい。  それぞれの世代ではないと見つからない視点があるので、それぞれの世代と一緒になっていろいろなものを考えて実践していきたいなと思います。



2022年4月21日木曜日

綾戸智恵(ジャズシンガー)       ・【わたし終いの極意】 きのうがあって、きょうがある

 綾戸智恵(ジャズシンガー)   ・【わたし終いの極意】  きのうがあって、きょうがある

大阪府出身の64歳。 1998年40歳でプロデビューして以来、そのパワフルな歌声と笑い溢れるおおらかなトークで多くの人を魅了しています。   私生活では長年介護をしてきた母のゆずるさんを去年一月に看取りました。

6年前から東京を離れて山梨の方で生活しています。   庭に雉が現れたり、夜に鹿の声がしたり、星がきれいで感動します。   コロナ禍でほぼ丸二年コンサートとかなかったです。 母の介護をしていましたが、そのうち手首足首を痛めて、介護施設に行ってもらいました。  2年前の12月に帰りたいということ言う事でこちらの田舎に呼びました。  段々食欲がなくなり、ほぼ一年後に亡くなりました。(94歳)   棺のなかではなく、ベッドに1週間以上遺体がいました。   母は人生の中で嫌なこともいいことも全部受け入れてきたので、余らなかったと思います。   私のことを目で追いながら、そろそろお別れがあるんだなと思っていたから、私を追いかけたと思うんです。  1秒でも私を見ていたいというように。  

母はリアリストで「明日なんて誰が判る」なんてよく言うんです。  「未来は神様でも判らない、もし明日、明後日が判ったら私はあんたを守り切る。 でも判らんのや。  ただ判っているのは昨日あれ食べた、昨日あそこへ行った、5年前こんなことをした、10年前こんなことをした、これだけは判る。  それを使い切って今日生きたらなんかの形で明日が来るんではないか。」そいう風に言われたんです。  「未来ばっかり見ているときついで」と言われて、「おまけで見なさい。」と言われました。  今64歳ですが、これがいいも悪いも明日につながるんです。  

介護のコツと言っても難しいんですが、母は母で私の子ではないんです。  だから最後まで親らしく頼ります。  「お母ちゃんが決めてくれないと困る。」とか、母が母ではないという事を忘れたことはないです。   私よりずーっと多く経験してきているので旅立つまで聞きます。  

数年前、電車で席を譲ってもらって嬉しくて感動しました。   今度も絶対に席を譲ってもらえるような人間に成りたいと思いました。  ただのよれよれと言うわけではなく、尊敬しているから譲ってくれたんだと思います。    皺、シミは自然現象でしょうがないです。   段々高音部が出なくなり、出ないところの苦しさが憂いみたいに見える。   

終活しなくても段々終わりは来ます。  最後は判りません。  コロナでコンサートに行かなくなり、家で3度3度食事を作るようになりました。   料理研究をするようになり、或る料理研究家がアイドルになっています。   テレビ見るだけでも新しい経験です。   今はレシピ本を書いたりしています。   来たものは全部受け入れようと思っています。  それが終活かもしれません。     人生消化不良を起こさない、これはなんか合わないとかあまり思わない。    生きていることはお試しかもしれない。   生きている方が私の人生の、今度現世に行ってこいと言われて、現世のお試しをしているのかも。   40歳でデビューした時も「歌いませんか。」と言われました。  昨日のお陰だと思っています。  死ぬときも昨日の結果で逝くので、終活と言うものがあるとしたら、昨日までが終活ですね。   今日は棒に振ったなあと棒に振らないとわからない。 今日は朝から何もしていない、何も結果なかったなあと言う言葉で、何か明日しようという事になると思います。   お客さんがいる限り歌います、いなくなったらやめます。  

2022年4月20日水曜日

戸張捷(ゴルフトーナメントプロデューサー)・【スポーツ明日への伝言】ゴルフの未来をプロデュースする

戸張捷(ゴルフトーナメントプロデューサー)・【スポーツ明日への伝言】ゴルフの未来をプロデュースする 

テレビのゴルフ中継から流れてくるソフトな声でい馴染みの戸張捷さん、ゴルフの解説者と思われている方も多いかもしれませんが、本業は多岐にわたります。  日本ゴルフ協会主催の日本オープンゴルフ選手権などのマネージメント、プロゴルフトーナメントの企画運営、ゴルフ場の設計監修、選手のマネージメントなど裏方として長年にわたりゴルフ界を支えてきました。 

就職したのがゴルフのメーカーで、普通に社員として働いていましたが、1年後にはゴルフ人口を増やすにはどうしたらいいかと言うところから始まりました。  テレビ、メディアでゴルフのニュースがどんどん流れた方がいい。  そのためにはトーナメントを増やすのが一番早道かなと思いました。   今でこそゴルフ人口は800万人ぐらいいますが、当時は100万人いるかいないかという時代でした。   最初に手掛けたのが「サンケイクラシック」、1973年です。  1972年に日本オープンゴルフ選手権をNHKにお願いに行って初中継をしてもらいました。 翌年の日本オープンゴルフ選手権ではNHKのディレクターから言われてリポーターもやりました。   1980年の全米オープンゴルフ選手権では青木選手とジャックニクラウスの死闘が放送されて、それも現地から解説をしました。   青木選手とは仲もよかったので、インタビューもし易いだろうし、いろいろ便利だろうから一緒に行こうと言われて行きましたがNHKからは4人しか来なかったです。  今では100人以上行くでしょうね。  初日からジャックニクラウスと回っていて、緊張していたので奥さんから緊張をほぐすように言われて、伺って一緒に毎日トランプ、花札をやっていました。  当時全米オープンゴルフ選手権の2位は本当に凄かったです。   

父親が我孫子ゴルフ場を作った時のメンバーの一人なんです。  16歳の時に父は亡くなってしまいました。  父親の仲間から入れと言われて16歳で我孫子ゴルフ場に入り、仲間の人たちと一緒に回らせてもらいました。  いろいろなことを教えてもらいました。   山本増二郎さん(日本プロゴルフ殿堂入り)は我孫子にきてヘッドプロになり、我孫子の事務所にいた林由郎さんをアシスタントプロにして林由郎さんを育てるんですね。  林由郎さんがプロになって強くなった頃に我孫子中学を卒業した青木功が中卒でキャディーで来るんです。  

高校、大学とゴルフをして住友ゴム工業に入社、ゴルフトーナメントを立ち上げるようになる。  自分で勝手にゴルフトーナメントディレクターと言う名前を付けました。  スポンサーを探す、開催するゴルフコースを捜す、地元の自治体とも話をする、プロの協会とも話をする、賞金を決める、予算を組むなど全体をやります。   アメリカみたいにロープを張ってその後ろでギャラリーが見るという風にしたら、相当怒られました。   アメリカと同じリーディングボードでやったら説明するのが大変でした。   スコア―ボードはプロセスが大事なのでバーディー、イーグルを取ったとか、判るボードじゃないとストーリーが判らないから、日本オープンゴルフなど僕は必ずあのボードを使います。

トム・ワトソン(メジャー8回優勝)  ジーン・サラゼン(サンドウェッジを考案した) などを日本に呼び込む。  サラゼンは10年間ぐらい来てくれて嬉しかったです。

日本では接待ゴルフが主流で、プロも親分子分みたいな師弟関係があって、ジャンボが出てきてそういったしがらみを全部壊してくれました。   飛行機のフラップをヒントにサラゼンはサンドウェッジを考案した。  特許を取っておけばよかったと悔んだそうです。 言い過ぎかもしれないが、プレイするだけではなくて、ゴルフ文化というものがあると思います。  クラブの本数も決まっていて、18ホールでカップも世界共通で108mmだし、人間の考える事を弄びながら、真剣にやらないと駄目なんだよと言う事を教えてくれる。  ゴルフは面白いゲームだと思います。  ゴルフは自分で審判するが、ジュニアでスコアをごまかす選手が時々いますが、聞くとお父さんに怒られるからと言うんです。  違う観点で子供にゴルフをやらせるというところからそういう子供がそういう事をやるんで、ゴルフの良さと正反対のことをやらせてしまう。  これだけはやめて欲しいと思います。

マッチプレイはゴルフの原点なので、マッチプレイのトーナメントをやるように言っているんですが、スポンサーがつかないとか、どこで終わるか判らないのでテレビが嫌がるとか、ネガティブなことが最初に出てくる。  違うだろうと思いますが。


2022年4月19日火曜日

福田緑(元教員・アマチュア写真家)   ・"祈りの彫刻"を撮り続けて20年

 福田緑(元教員・アマチュア写真家)   ・"祈りの彫刻"を撮り続けて20年

1950年生まれ、72歳。  20年あまりにわたって中世後期に活躍したドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの作品を撮り続けてきました。  これまでに東京都内の画廊で2度の写真展を開き、4冊の写真集を自費出版、2019年には日本自費出版文化賞、グラフィック部門特別賞を受賞しています。  福田さんは教員として都内の小学校で33年間勤務しました。  教員生活の後半はハンディーのある児童たちと接し、子供たちに教わる事も多く精神的に救われる場面もあったと振り返ります。  500年前のドイツの彫刻家に心惹かれる事と相通じるものがあったのでしょうか。 

今年、1月の下旬に国分寺市の画廊で2回目の写真展を6日間開催。  トータルで471名、予想の2倍以上で吃驚しました。  5冊目の写真集に取り掛かっています。  今まではお金を払って写真を載せることはしなかった、自分の撮った写真と提供していただいた写真で作ってきましたが、最後だから自分でお金を払ってでもいいから見せたいものを見せようというのが一つあり、いろいろな出来事のストーリーを書いてこなかったので、是非書いて出してほしいと言われて引き受けました。  「結 祈りの彫刻リーメンシュナイダーからシュトース」と言うタイトルにしました。

ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーは後期ゴシックからルネッサンスへの移行時期の彫刻家です。  1460年ぐらいにドイツのハイルバート・ハイリゲンシュタットで生まれたという事は判っています。  1485年から最初の作品を作ったと言われています。その後祭壇を3つ作って段々名前が広がってゆきます。   アムステルダムにある「受胎告知」は色々経て、オーストリアの或る地下に保存されていたが、ナチスが降伏した後で爆発される予定だったが、ほかの作品と共に危うく救われた作品です。  リーメンシュナイダーは1504年市参事会員に、1520-21年市長に選任され1524年までこの職を務める。  1525年にヴュルツブルクに農民戦争が起こってきて、農民の側に立って門を開けて、農民側が討伐された時に投獄されて、拷問を受けて彫刻に大事な腕を折られたという話があります。 1832年にリーメンシュナイダーのマリア祭壇が発見される。  ドイツでは名をはせる彫刻家として再浮上しました。   アメリカでは20点、著名な美術館には1~数点所蔵されています。  

オーストラリアに英会話レッスン仲間女性4人で帰られた先生を訪ねていきました。  一人で最後の1週間は旅をして帰りの飛行機でドイツ人と一緒になり、友達になりました。 リーメンシュナイダーの写真を見たら素敵な写真がありました。  1998年娘と共にドイツに旅行しました。  翌年夫と又ドイツに旅行しました。  ミュンヘンにある国立博物館に行って、壁にマリア様が浮いているように立っていました。  それを見た時にギューンときて、涙がぽろぽろ出てきてしまいました。 この人の作品は全部見てやろうという決心をしました。   

子供の頃、扁桃腺が悪くて病院から手術をした方がいいと言われて、小学校4年生の夏休みに手術を受けました。   2学期からは勉強がよく判るになりました。  6年生の頃は積極的に手を上げるようになっていました。   勉強のできない子の気持ちの判る先生になりたいと思うようになりました。    東京学芸大学を卒業後、小学校の先生になる。その後 障害のある子供たちを受け持つ特別支援学校、言葉の教室を受け持つ。 著書に 『子どもっておもしろい』などがある。  4年生を受け持った時に問題のある子供たちへの対応で落ち込んでしまって、障害のある子供たちの先生へと希望しました。  一般の子供たちよりも一生懸命やっていて、その子たちからいろいろ、しんどくてもやれるところまではやってみようというように、教わりました。  その後個人レッスンをする言葉の教室を担当しました。  

3年生で「僕、生まれ直したい。」と書いた子がいて、遊ぶ時にはとても生き生きとした顔を見せました。  暗い部屋でトンネルのようなところでボール遊びをしていて、その子の母親の話を思い出しました。  母親は生まれる前からその子を傷つけていた、本当は女の子が欲しかったが、男の子だとわかって流産しないかと思ってわざと倒れたりしたが、この子はお腹の中では必死に生きようとしていたと思います。  その男の子は哺乳瓶で飲んでいておかしいと思ったら、この二つが結びついた。  この子は生まれ直したかったんだなと、だからこのトンネルはお母さんの産道だったんだろうと、そこに私が一緒にいたことでよく生まれるんじゃなかったのかと、それで出ていったので私も涙ぐんでいたかもしれません。  それからどんどん良くなって卒業していきました。  

感覚統合、感覚はそれぞれ一つずつあるのにうまく統合できないために学校で問題を起こしてしまう子がいました。   1:1だととてもいい子だし、知恵の遅れも全くない。   だが文字を書かせると非常に苦手でした。 私よりゆっくり書かせるようにしました。  そういった問題の子にはそれなりのカリキュラムが出来る教室と言うのは救いになりました。   根気よく続けることをあの子供たちから教えてもらいました。   

2031年がリーメンシュナイダー没後500年、日本ではマイナーで本は売れないという事で、自費出版して作っています。   大写真展を2031年にはやりたいと思っています。  

 

2022年4月18日月曜日

本條秀慈郎(三味線演奏家)       ・【にっぽんの音】

 本條秀慈郎(三味線演奏家)       ・【にっぽんの音】

栃木県宇都宮市出身、37歳。   高校生の時に津軽三味線に触れ、津軽三味線をはじめる。   桐朋学園大学短期大学では現代音楽を学ぶ。  三味線演奏家で作曲家の本條秀太郎に師事。  20歳の頃に本條秀太郎の演奏の最初の一音を聴き魅了される。  

現代音楽の作曲家に新曲を創作してもらう。 世界各地のオーケストラ、アンサンブルなどと多数共演している。  2021年度、芸術選奨文部科学大臣新人賞。

*「neo」(音緒)  作曲:藤倉大(2014年作曲  約9分近くある曲)  演奏: 本條秀慈郎    音緒(ねお)は、三味線と糸を繋ぎ音にも影響する重要な部位。 胴のほうに結んである組み紐のこと音緒と言います。  全部古典にある奏法をこれまでにないほど拡大しているだけで、奇をてらったような技法は存在していないです。  藤倉さんは三味線は初めての作曲の作品。  五線譜でやっています。

三味線は音が減衰して、打楽器みたいな感じがあると思いますが、いろいろな意味で演出が出来る、時には管楽器みたいになるし、弦楽器みたいなものにもなるし、打楽器的にもなる。 自分でそうしようと思わなくても、自然に演奏がそうなってしまう。    

「さわり」は判りやすく言うと、ピアノのペダルみたいな感じで、竿と糸が触れて摩擦音がでて、残響装置です。 

高校生の時にブラスバンドでチューバを吹いていたんですが、音が大好きですんなり三味線に入っていけました。  

2019年に国立劇場で行われた「日本音楽の流れ 3 三味線」という公演で、新作の異色作品として上演された作品があり、作曲:桑原ゆう タイトルが「現代曲 降達小歌による 夢のうき世の、うき世の夢の」と言う作品です。  能楽師狂言方 大蔵基誠と三味線演奏家 本條秀慈郎との共演。  降達小歌は戦国時代から江戸時代初期にかけての流行歌、降達節とも言われている。  

*「現代曲 降達小歌による 夢のうき世の、うき世の夢の」 作曲:桑原ゆう

*「日本チャンチャカ四季巡り」   演奏: 本條秀慈郎

日本の音とは、いにしえからさいはてまでつづく不動の精神、というものを表現出来たらいいなあと常に思っています。



2022年4月17日日曜日

井澤由美子(調理師・国際中医薬膳師)  ・【美味しい仕事人】 養生ごはんのススメ

井澤由美子(調理師・国際中医薬膳師)  ・【美味しい仕事人】 養生ごはんのススメ 

調理研究家としてNHK「今日の料理」や「あさイチ」などでもおなじみですが、365日、日々の食が心と身体の薬になるという考え方から、食薬養生の暮らしを提言しています。  中医学に基づく薬膳に学び、日本に伝わる郷土食の知恵、そして現代の栄養学の視点からも心と身体の健康にアプローチを続けています。   

レモン塩が大ブームでした。   レモンをとてもよく使っていたが、皮を捨てるのがもったいなくて塩漬けにしたのが始まりでした。  旬のものをお塩に漬けたり、塩酢に漬けたりして楽しんでいます。   レモンの皮だけでなく果汁を入れた方がおいしいので、塩蔵すると長持ちして皮にとっても効能があって、皮が柔らかくなります。  調理しやすく、スープに一枚落とすだけで、皮は柔らかく香りのいいスープが出来るので、魚介スープだったら臭みも消すし、お肉のスープにいれると、レモンの効果でお肉が柔らかくなったりします。  私だけで6冊のレモン塩の本を出版しました。  企業とかが「塩レモン」を作って有名になりました。  

手作りの面白さが皆さんに伝わるといいなあと思っています。  発酵食は長寿食ともいわれています。  長寿食は腸内環境を整えるものが多い。  その土地土地に根付いているものを土地の人が食べるという事が長寿食につながると思っています。  旬の食材はちゃんと効能があります。   7年前に立ち上げたホームページで「食薬ご飯」に毎日食材一つを載せています。  効能、効果、レシピが書いてあります。   心と身体が元気になって初めて人は元気になれるので、繋がって考えています。  

国際中医薬膳師、中国の伝統医学に基づくもので、中医薬理論による食の組み立てとその調理法を学んだ人のことを国際中医薬膳師と言っています。  さらに深く学んだ人は国際中医師です。   私は食べたものがどんなふうに作用するかという事が知りたくて勉強しました。   「和魂漢才」と言う言葉がありますが、中国の学びを取りいれつつも日本の大和魂、心を大事にして組み合わせたという言葉です。    日本に伝わる民間療法とか、郷土食とかを上手く組わせて、現代栄養学を取り入れながら、レシピを組み立てています。日常の暮らしの中の食が、そのまま薬になり自分の身体を養生してゆく事になる。 

料理の道に進んだのは一言で言うと、食いしん坊だったからです。   祖母が料理が好きで上手な人でした。  茶飯という炊き込みご飯で鰹節とか乗せてくれて食べるんですが、凄くおいしくて、記憶のおいしさと自分のものがいろいろブレンドしていって何かが出来上がっていく、その思いが料理の道へのベースになっていると思います。   母も料理が好きで料理教室などもやっています。  母は和食料理です。  

卒業して23歳でお店を始めてしまいました。  4人姉妹で妹が3人居まして、妹に手伝ってもらって始めました。  築地が近くにあり取り寄せて、元気になるようにお客さんからのオーダーメードで作るようになりました。    マーサ・スチュワートの本を買って憧れました。  料理、園芸、手芸、室内装飾など生活全般を紹介していました。  或る人からマーサのテストキッチンを仰せつかって、マーサの日本版編集部に入って料理担当になりました。  私の人生はそこで変わったと思います。   祖母の感覚と似ていてマーサが好きでした。  そのころは店と編集部の仕事と子供も小さかったのでフル回転していました。 

シニアー世代へのアドバイスとしては、発酵食の力、腸内環境をよくするという事ですね。 ヨーグルト、納豆、味噌など。    ヨーグルトに食物繊維を足したり、オイルを足したり、腸によりよく効かせる食べ方があります。  納豆も繊維は入っているが、ごま油をちょっと垂らすと、腸によりよく効かせることが出来ます。  発酵食+食物繊維+オイルで腸内環境はさらに良くなります。    納豆に醤油の替わりに酢と塩をちょっと入れると泡がふわふわになるのでそういった食べ方もいいと思います。   酢にコンブ、煮干しを漬けておくと、酢酸カルシュウムになるので、骨を元気にさせます。  常温でずーっと持ちます。  

水は喉が渇く前に飲みます。   食はお腹がグーっとなってから食べるのが身体に優しい食べ方なんです。   水も冷たくなく常温にして飲む、胃がしっかり働くのは体温よりも2~3℃上なんです。   ゆっくり飲む方が身体に優しいです。   イチゴも食薬です。身体の余分な熱を取る効果もあり、ビタミンCがあるので栄養面もいいし、酸味と甘味があるので唾液が出やすくなる。  香りもいいので気のめぐりもよくする。   エリンギなどキノコ類は手でほぐして干しておくとビタミンBが増える。  エリンギはなんにでも使えます。   風邪をひいて白い鼻水の時には身体が冷えているので、ニンニク、ショウガ、ネギなど身体を温めるものを食べますが、黄色い鼻水が出ている時には身体に熱がこもっているというサインなので、豆腐とかを食べた方がいいです。  

シニア―世代には旬のものを食べるのと,ラッキョウ、ネギ類、ニンニクとか滋養のあるものと身体を温めるものがお薦めです。  緑黄野菜は粘膜をケアしますからウイルスの侵入を防ぎます。   タンパク質も豆腐、魚、肉などバランスよく摂るといいと思います。  

おはぎみたいな本を作ってみたい、未来にも残って行く本をゆっくり作りたい。  図書館みたいな、食堂を作ってみたい。  楽しく食べることが第一です。



2022年4月16日土曜日

尾野真千子(俳優)           ・おかえり糸子!『カーネーション』から10年

尾野真千子(俳優)           ・おかえり糸子!『カーネーション』から10年 ~岸和田市ファンミーティングより~

『カーネーション』は2011年10月から放送された連続テレビ小説で、世界的ファッションデザイナーコシノ三姉妹を育て上げた母の越野綾子さんをモデルに、着物の時代にドレスに憧れた少女がミシンの修業をして洋装店を開業し、娘3人を育てながら人生を切り開いてゆく姿を描いています。  主人公小原糸子を演じたのが俳優の尾野真知子さん、糸子の父親善作役に小林薫さん、母親の小原千代役には麻生裕未さん、幼馴染の勘助役に尾上寛之さん、夏役の栗山千明さん等がドラマを彩りました。  先月ドラマ10年を記念して開かれたファンミーティングでは10年経っても色あせない『カーネーション』に対する思いを尾野真千子さんが語ってくれました。  (プロデューサー 城谷厚司)

尾野:「糸ちゃん」と呼ばれて最初はうれしいけど、知ってくれる人が段々増えてくると日に日に怖くなってきて、私は大丈夫なかなと、いろいろ考えました。  

城谷:あのドラマがプロデューサーとしての原点になりました。  自分の中ではまだ続いているような感じがします。   

古原直子役の川崎亜沙美さん登場。  地元の作品が出来上がったのが一番うれしいです。

三姉妹からのメッセージを読む。(コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコ)

尾野:嬉しいです。  今でもこうして『カーネーション』を愛していただけることはコシノさんたちのお陰だと思っています。  こんな幸せな女優はいないと思っています。   共演者はいまだに家族としか思えないところがあります。    勘助が好きで一番かわいらしいと思っています。   

城谷:関西を舞台にしたドラマであるということで、出来るだけ関西の人を出そうと思いました。  岸和田弁と言うハードルもあるので、大阪の人にも来ていただきました。   糸子にイメージしていたのは、啖呵が切れる人と言うのがまず第一の条件でした。  オーディションで入ってきた瞬間「糸子」がいるなと思いました。

尾野:メイクさんが「あんたで決まりや。」と言って送り出してくれました。  それが自信になりました。  

城谷:勘助の役割は、幼馴染ではあるんですが、糸子のように夢をどんどん追いかけてゆくことはできないけれども、糸子に憧れている。    普通の人から見た視点を描くのが勘助だった。

尾野:幼馴染であるので、こいつのことは何でも知っているという気持ちだったので、心を失くして帰ってきた時に、ほんまにあの子は心を失くしてしまったんです。   役に入ってしまったんです。  私まで入り込んでいってしまいました。   糸子の父親善作役は、このお父ちゃんでよかったなあと思いました。  

城谷:ドラマの前半は糸子が父親を乗り越えてゆくというところがテーマでした。  乗り越える壁が高ければ高いほどいいと思っていました。  一番怖い人にお願いしました。小林薫さんでした。 

尾野:頬を叩かれるシーンがあり、事前に「本気で行くぞ」と言われて、叩かれましたが手の跡が赤くつくとは思ってもいませんでした。  ついている間にすぐ次のシーンへ行くぞと言われて忙しかったです。  回りの役の人はその件については知らなかったのでびっくりしていました。  花村喜一役の國村隼さん、糸子にとっては大きな出会いです。 デザイナーとしての道をスタートする。   デザイン画を見せるシーンで駆けよって行って、滑って転んで前歯を折りました。 床が大理石で下駄だったので。  一日だけ休みました。

城谷:脚本を読むのが楽しかったですね。 

闇市の会の人が登場。 闇市のシーンに登場。

  

 

2022年4月15日金曜日

ささめやゆき(画家・絵本作家)      ・【人生のみちしるべ】ボンジュール!新しい自分

 ささめやゆき(画家・絵本作家)     ・【人生のみちしるべ】ボンジュール!新しい自分

昭和18年 東京都大田区生まれ、78歳。  時にユーモラスで時にセンチメンタルに、どこか力が抜けていて洗練された美しい色使いの絵や版画は勿論、エッセーにもファンが多くいます。   昭和42年の時に独学で猛然と絵を描き始め、27歳の時にシベリア鉄道を使ってパリへ、3年後に帰国した後絵で暮らしてゆくだけの収入はなく厳しい状況だったという事ですが、決して絵をあきらめませんでした。 

「ささめやゆき」はペンネームです。   80%ぐらいの人が女性だと思っています。   鎌倉に住んでいて、自転車で隅から隅までいっています。    朝起きた時に思いついたことは必ずノートに書くようにしています。   仕事は夜中の2時ぐらいまでのんべんだらりとやっています。   これというものが見つからないと描けないので、地獄の苦しみなんです。   現実のことを紙の上に取り入れようとするので苦しむんですが、もともとは紙の上で完結すれば凄く楽なんですよね。   こういうものを描こうと思って描くのではなくて、出来たものを見てこういうものを描きたかったと気が付くんです。   その絵によって自分が教えてもらうような気がします。  

1歳8か月で東京大空襲で家を失いに疎開、戦後は神奈川県の逗子で暮らしています。  家は雑貨屋みたいな店をやっていました。  小学校に上がる前から手伝いをしていました。子供の頃は恥ずかしがり屋でした。  絵を描きだしたのは24歳の時ですが、それまでは全然絵に興味はなかったです。     逗子から電車で東京の出版社に通う途中で、川崎の煙突から出る煙が毎日違って見えたのがファンタジックだったんです。   ふっと景色を描いてみようという気になったんです。  スケッチブックなど絵の道具を買って、翌日4枚のスケッチを描いて、油絵にしようと思って30号のキャンバスを買ってきて描いていました。  3か月近くかかって描いたものが駄目で、才能がないと思ってキャンバスに残りの絵の具を塗ってこれで辞めようと思って、ふっと振り返ったら物凄く電流が走ったんです。  描こうと思ったのはこれだと思いました。

絵を学ぼうと思って美術学院に行きましたが、先生からは「きみ 才能無し。」と言われて、その後も通ったが才能はないと思いました。  会社を辞める事になり、37万円の退職金を貰って、そのお金でフランスに行きました。  1年間いてお金が無くなって、ニューヨークへ行く事になりました。  皿洗いからコックになってお金を貯めてフランスに行ってお金が無くなるまで絵を描いてみようと思い、マルス夫妻と知り合いシェルブールに行きました。   後に「マルスさんとマダムマルス」という絵本にしました。(最初の絵本)  

*「マルスさんとマダムマルス」  朗読

1年間シェルブールで絵を描き続けて日本に帰って来ました。   銀座で個展を開いた時に、絵を買ってくれたのが、後に妻になります。   「月賦でいいですか」と言われ振込先を教えたらもう会えないと思って毎月取りに行きますと言いました。  その後一緒になりました。   絵は観てもらって初めて完結するものなんです。  買ってもらって家に飾ってもらう事はうれしい事です。   

36歳の時には銅版画の制作も始めます。   2019年には『ButとOr』というイノリューム版画集を出版。  版画を使って絵を描いているんです、全て絵を描いているんです。  同じことを50年、60年やっているとマンネリ化してしまうので手先を変えてやっています。  

エッセーなども書いていますが、絵も文章も書くのが死ぬ思いなんです。   辛いけれど産みの苦しみです。  新しいものを求めて、毎回同じ苦しみがあります。  一番大切にしているのが線で、思った通りに線を引いても駄目で、僕自身から抜けていないんですね。誰も気が付かない線が欲しいんです。   世の中のレールみたいなものに戻りたくないが戻ってしまうような時もあり、いつも葛藤ですね。   レールを外れることは怖いが、死を覚悟していればなんでもできる。  毎日僕たちは一歩一歩死に向かっている、どうしてもそこからは逃れられない。  だから恐れることはないと思う。  



2022年4月14日木曜日

浅利政俊(桜研究家)           ・桜で咲かせる平和のこころ 2

 浅利政俊(桜研究家)           ・桜で咲かせる平和のこころ 2

大野農業学校、北海道教育大学卒業後、松前町で教員をした後、教育植物園の桜日本園作りに関わって、財団法人桜の会から「桜守」にも選ばれている。   「函館空襲を記録する会」の代表も務める。 

 昭和50年に函館に転勤することになりました。   中島小学校に勤めた時に、5年生の祖父(青函連絡船の船長)が函館空襲で亡くなったり、家が機銃掃射を受けたりした。  どうして函館空襲のことを教えてくれないのか、と言われました。   図書館とか教育委員会に行っても何にも資料がなかったので、函館空襲について調べることにしました。   警察は、病院はどうしていたのかとか、あらゆる領域について調べようと思いました。   青函連絡船が空襲された様子を調べました。  病院には医師は戦場に行っていない、看護師も従軍看護師としていない、看護学校を出たばっかりの若い人たちだけでした。   コンクリートつくりの大きな建物があったが空襲に遭い26人が一気に亡くなってしまった。   母親が子供を連れて防空壕に入るつもりが、後からついてくるはずの子供がいなかった。   防空壕を開けて欲しいと頼んだが、見つかってしまうという事で開けることが出来なかった。   外で声が聞こえていたが、まもなく爆弾の音がしたと思ったら、子供の声がしなくなって、しばらくして外へ出ることが出来て、目の前には頭がぐじゃぐじゃになって子供が倒れていた。  母親は泣いて泣いて泣き崩れていた。   

函館空襲は20年の7月14日、15日の2日ありました。  全部証言者に会いました。   調べたものを一纏めにして「教えてください 函館空襲を」という 本を書きました。  当時、青函連絡船が8隻沈没、座礁炎上4隻、死者は300人を超えたと言われる。     慰霊碑を作る目的があったので正確に名前を書き入れるためには、正確に調べなければならなかった。   理念としては、①調べる事、②記録する事、③慰霊する事、④伝えてゆく事、この4つを柱に「函館空襲を記録する会」の活動を今も続けています。  毎年慰霊祭を行っています。  空襲の実態、戦争の悲惨さを実感として伝えたかった。   学校から呼ばれて子供たちに話しますが、素直に聞きます。   

「桜保存子供会」を松前で作っていて、八重桜を沢山作っています。   パンダが中国から来て、八重桜を送りたいとの子供たちからの提案がありました。    とんとん拍子に話が進んで、知事さんから政府に掛け合って、官房長官がいい話ではないかという事で中国に話して、40数本を北京の公園があり、そこで受け取ってもらいました。  世界にニュースとして伝わり、中国からたくさんの人が松前にきました。   鑑真和上の精神に学ぼうと思いました。   中国の山東?小学校にその桜は渡りました。  お礼として楽譜が送られてきました。 「友情の桜」、「桜の木陰で絵を描こう」というものです。     

アメリカ、イギリス、ブラジル、北朝鮮、ポーランドなど、ポーランドのアウシュビッツ収容所跡にも鎮魂の桜が植えられています。  寒さに強い、千島桜、深山(みやま)桜、私が新しく作った紅豊を送りましたが、定着して咲いています。  

函館の慰霊碑には撃墜されたアメリカの兵隊、英連邦の捕虜になった方たちを含め、戦争で犠牲になった方を慰霊しています。   アメリカ、イギリス、オーストラリアから見に来ます。  共感してくれました。  

輸送船で宮崎丸、大運丸?という船が沈没させられて、7年半かかってようやく昨年暮れに明らかにすることができました。  7月14日に31名の方の慰霊祭をすることにしています。  ほとんど九州の人が多く、四国の人もいました。  石炭輸送をしていて魚雷で一発で沈没してしまいました。  50%は19歳以下の少年乗組員でした。  朝鮮人の方もいました。  

本気で平和で生きるという事は戦争の残酷さを徹底的に調べなければいけない。  戦争に向かわせるような子供を作ってはいけない。  そういう教育を母校の北海道教育大学で10何年間やりました。   私が教えた子供たちは平和について考えてくれる人が沢山います。  私が手本にしているのは鑑真和上なんです。  学習することに熱心だったとともに、誠実に日本の人に大事なことを教えなければならないという、誠実に実行するという心を持っていた。  奉仕の精神を持っていた、  優しい笑顔をしている。

桜を通して平和な国、平和な仕事、共感しあえる心を作っていきたいなあと思っています。

2022年4月13日水曜日

浅利政俊(桜研究家)           ・桜で咲かせる平和のこころ 1

 浅利政俊(桜研究家)           ・桜で咲かせる平和のこころ 1

昭和6年(1931年)生まれ。  91歳になります。  桜の研究のスタートは北海道の八重桜のルーツを調べる事でした。  60年以上積み重ねてきた研究は100種類を越える桜の新品種を生み出すことになりました。   浅利さんは桜を平和の心をはぐくむ花にしたいと、世界各地に桜を送って平和を呼びかけています。   

日本に昔からあったものとしては、山桜、大山桜、霞桜、大島桜、江戸彼岸桜、豆桜、冬至桜、高嶺桜、近年見つかった熊野桜、寒緋桜(沖縄)などがあります。    野生の桜の中に八重桜は無いんですね。   野生の桜は花びらがほぼ5枚なんです。  八重桜の花弁は10枚以上になります。  

昭和34年に八重桜の実を集めようとしていましたが、1本の八重桜に1000個の花がついても3~5個の実しかつかないわけです。  子供たちと一緒に、120本の木から570個ほどの実を集めて、箱に土を入れて種をまきました。  5月中旬に10本の芽が出て来ました。(専門家の間では八重桜からは芽が出てこないと言われていた。)   北海道で風雪から守ることは大変で、夏は潮風が吹いてきます。   4年後に5月中旬に1本の木から八重桜の花が咲いていました。   花びらも親のものよりも多かった。  親の性質を遺伝するんだという事が判りました。  新種として「松前綾錦」と言っています。

花びらが10枚以上のものを日本では八重桜にしています。    昭和34年以来品種改良をしたのが100種類を越えます。   寒さに、病気に強いのかどうかとか7,8年かけてチェックして世の中に出さなければいけないので、品種改良は極めて難しいんです。  60年続けてきました。   

昭和20年に農業学校に入りましたが、派遣されて北海道の農業試験場に行きました。  8月15日に玉音放送を聞き、場長から日本は負けたことを知らされました。   君たちは農家を指導する人材になってほしいと場長から言われましたが、明日からどうしたらいいんだという考えばっかりでした。    子供を教えたいという思いから北海道第二師範学校に行きました。      学校へ入った途端に心臓を悪くして入院することになりました。 結核も患う事になって、2年間休学してしまう事になります。    休学後に菅原繁蔵先生と会うわけです。(休学が無かったら先生との出会いはなかった。)   

菅原先生が宝物のようにしていた桜をくださって、「お前は将来、桜のことを一生懸命やれよ。」と言ってくださいました。   植物学会にも先生が推薦してくださいました。  最初に学会に発表した時にも共同者という形で発表しました。  大恩師です。      

日本人が2000年の歴史のなかで、丹念に八重桜を育ててきたんです。  日本の公園の85~90%はソメイヨシノだといわれている。   これは悲しいことです。  大阪の造幣局はほとんど八重桜、新宿御苑、岡山の後楽園、京都の植物園にも八重桜が残っています。桜は八重桜と山桜しかないものだと思っていました。   廃藩置県により松前城がなくなり、山桜を公園に植えていきました。  1000本のソメイヨシノを植えましたが、八重桜もぽつぽつ植えました。     南殿八重桜は遺伝子分析が進んで、北海道や松前で出来たものではないんです。   原種は本州がもとになってできています。   大島桜、山桜、長寿桜が交雑してできて、北前船に乗って松前の方に運んでこられた、という事がわかっています。   ソメイヨシノのようなてんぐ巣病を持っていません。 

八重桜は多種多様で香り、色(黄色、紫などもある。)など沢山あります。   奈良の八重桜は自然に生まれたもので、今で言う突然変異で産まれたものと思います。  霞桜から生まれたと推定されます。   自然界における突然変異は極めて少ないと言われている。(1/1千万ともいわれる。)  

平和活動にと言う事で、「松前桜保存子供会」を立ち上げる。  小さいころからの体験が絶対必要だと思って、作りました。    桜に託す平和の思いという事で、「函館空襲を記録する会」を立ち上げ、代表をしています。   体験を子供たちに引き継ぎたいという思いです。    稲を作る時にはどこの桜が咲いたから種おろしをしてもいいよと、稲と桜を結び付けて収穫があるように村中が力を合わせてやった。  桜は村を平和にさせる桜だった。   






    


2022年4月12日火曜日

山本學(俳優)              ・【出会いの宝箱】

 山本學(俳優)              ・【出会いの宝箱】

昭和12年生まれ。  高校卒業後俳優座養成所に入り、21歳でテレビデビューしました。  以来、テレビ、映画、舞台と幅広い演技で活躍しています。  今日はデビューの頃の話を中心に伺います。

85歳になります。   2年前に胃を2/3切ったんですが、それまでは歳を考えたことはなかったです。    映画はよく見ていましたが、芝居を観たのは高校2年生の頃でした。  「ウインザーの陽気な女房たち」というシェークスピアの芝居を見て突然目覚めました。   東野英次郎さんが近所にいたので、舞台装置をやりたいと言ったら、俺は役者だからわからないと言われ、とりあえず演劇の勉強をしろよと言われ、俳優座養成所を受けたらはいっちゃったんです。   1955年俳優座養成所第7期生となる(同期は水野久美大山のぶ代富士真奈美井川比佐志露口茂田中邦衛など)。  授業は面白かったが実技は駄目で自分の番に来ると休んでいました。  3年後卒業公演があり、行き先がなくて8期生として何とかいれてもらいました。   民放テレビから出演の話があったが、無理だと思って、自分で断りに行きました。    外国ロケがあると言う事を聞いて引き受けてしまいました。  テレビドラマ「少年航路」という船員の役でした。   海外ロケはなくて横浜の海で子供が溺れるのを船から飛び込んで助けるシーンでした。  その後露口茂が口をきいてくれて、新人会に入りました。   サンドイッチマンとか裏方のアルバイトもしていました。  

大学のお金も使ってしまって中退することになりました。   渡辺美佐子さん、佐藤慶さん、小沢昭一さんとかいろいろいました。   石井ふく子さんから「かみさんと私」というシリーズがあるから、それに出ないかと言う話がありました。   それに出てから、単発ですが20本ぐらい話が来て、段々芝居の道にずるずると入って行きました。  沢村貞子さんとか、望月優子さんとかから演技指導されて、劇団と言うよりもテレビの現場で育ちました。   或る演出家から「お前、テレビやってても少しは芝居が出来るようになったんだな。」と言われてカチンと来ました。  役者をやってやろうじゃないかと思いました。 

千田是也さん等は、芝居は教えられないものだと言っていました。  石井ふく子さんも、兎に角まじめにやりなさい、と言った感じでした。  東芝日曜劇場にはいろいろな役をたくさんやらせてもらいました。   「愛と死をみつめて」最初はラジオ日本放送でやって、リハーサルでも泣けちゃって困ったなと思いました。    橋田壽賀子さんが脚本を書いて1964年 テレビドラマではミコの役が大空眞弓さんで再放送が何年もありました。(河野実(マコ) - 山本學

本も大ベストセラーになりました。   最後に「健康な日を3日ください。」と言って、「掃除をして、親に尽くして、最後の日は自分のことを考える一日をください。」という、そこに来ると本当に泣けちゃうんです。  人間とはこんなに崇高なのかなあと思って。   ドラマのなかで「禁じられた遊び」を何小節でもいいからギターで弾いてくれと急に言われて、1週間で何小節か弾いたんです、手から血が出ました。  俳優はなり切ってしまうと駄目で、なり切れている部分もあるし、演じている部分もあり、客観性がないと駄目ですね。  

山田五十鈴さん、森光子さん、山本富士子さんなど、当代の大きな女優さんとも舞台を一緒にさせてもらって、それぞれ違うんですね。  尊敬して、でもおじおじしてはいけない、普通にしていることが難しかったですね。   

中原中也の詩 朗読(山本學)

汚れつちまつた悲しみに」 

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

「骨」

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨のさき

それは光沢もない、
ただいたずらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きていた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐っていたこともある、
みつばのおしたしを食ったこともある、
と思えばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨―― 
見ているのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処にやって来て、
見ているのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばはれた草に立って、
見ているのは、――僕?  
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがっている。

悲しいです、彼は悲しい事ばっかりですから。  悲しい自分をえぐるように、そして嘲笑するように、と言うところがあります。  コンプレックスが強い人でいながら、自尊心の強い人で、他人が馬鹿に見えるという、太宰などはメタメタにやられたらしい。  





2022年4月11日月曜日

小堺一機(タレント)          ・【師匠を語る】僕を育てた萩本欽一

小堺一機(タレント)          ・【師匠を語る】僕を育てた萩本欽一 

僕は萩本欣一さんを「大将」と呼んでいます。  天才なのに教えるのがうまいんです。  一般的に天才は自分が出来ちゃうから説明があまりうまくない。   

萩本欽一さんは今年81歳。   昭和16年東京の下町に生まれます。  高校卒業後浅草の軽演劇のステージで活躍した後、1966年25歳で坂上二郎さんとコント55号を結成、欽ちゃんの愛称で呼ばれた萩本さんは、名前を冠にしたレギュラーを数多く持ち、テレビやラジオで声を見聞きしない日がないほどの国民的な人気者になりました。 

お笑いが好きだったので観ていたら、当時見たことのないタイプのコント55号を見ました。  NHKの合唱団に入っていて音楽番組に出させてもらったことがありましたが、お笑いを目指すという事はなかったです。  大学3年生の時に「素人コメディアン道場」に友人が葉書を出してしまって、それで行くことにしました。  第17代チャンピオンとなり、芸能界入りしたが、マイクを持っては震えてしまうし、全然駄目でした。  勝新太郎さんが後進を育てたいという事で「勝アカデミー」に第1期生として入校し、翌年卒業しました。  修業を積んで大将の事務所に入るようになりました。  大将は僕の引き出しに入っているものを綺麗に分類してくれました。  若いころに「お前は50ccのバイクなのに60km/h出してうるせえんだよ。  3000ccの外車は静かだよ。」と言われたことがあります。   力もないのに頑張っているのは良くないという事ですが、同じようなことを関根さんに言う時には「お前は100万円持っていると100万円見せるけれど、80万円隠して20万円見せる。80万円は余裕だよ。」と言うんです。  

初めて大将の家に関根さんと伺った時に、講習が始まっちゃたんです。    嫌いなものを出されたらどうする。   喜劇の場合は「わー おいしそう」と言って戻すんです。 幼稚園児が大学院のゼミを聞いているみたいな感じです。  チャーシュー麺を出されたが、そのやり取り一つでも面白かった。   3,4時間滞在していただいて、関根さんと夕空を見上げて「あー 凄い人に会っちゃったね。」と言いました。  そういった教え方をしてもらったのは初めてで、足感がありました。  

欽ちゃんのどこまでやるの!?』に呼んでいただきました。   楽しい番組だから楽しそうにやっているのかと思ったら、「しーん」としているんです。   前の日に8時間ぐらい稽古をするんです。   周りの人から「お前たちは目の前で帝王学を教わっているんだぞ。」と言われました。   8時間もリハーサルをしたのに全然違う事を言うんです。 詰まってしまって返せないんです。    ヤカンを持つ手が震えてしまって、無理やり帰される形でもう首だなあと思いました。   後から大将が来て「おまえ なんであんなにあがっちゃうの。  俺あがらないやつは信用しないから。」と言うんです。

ご自分がテレビに初めて出た時に、16回NGを出して、「テレビは厭だ。浅草に帰る」といって、亡くなった朝日テレビの社長が「君は絶対成功するから一緒に会社作ろうと言って、今に至るわけですが。

テレビ番組『ライオンのいただきます』の話が来る何か月か前に、欽ちゃんのどこまでやるの!?』の件で喫茶店で話をしていた時に、普段は目を見て話すことはしないのに、じーっと僕の目を見て別に相談とかしなかったのに、「お前ね、ピンの仕事は来ない」「お前は全部いっちゃうから」と言うんです。   そうしたらライオンのいただきます』が来たんです。  番組は毎回、多彩な分野で活躍する「おばさま」たちをゲストに招き、「おばさま」が答えるお悩み相談や、視聴者のはがきを交えたトークなどを軸とした番組でした。 当時28歳でした。  前の晩にこう言ってやろうとかいろいろ考えて、やっていたが数字が伸びなかった。   或る時に堺さんからアドバイスがあるという事で関根さんが預かってきました。  「なんであいつ、一人でしゃべってんの」て言ってたとのこと。  大将に言われたことがある。 その後又大将から言われました。  「お前はお客さんに好かれる、嫌われるの手前 客がお前を信用していない。」 要するに本音で言っていないから。おばさんに言われて困った時に、困った顔をお客さんに振ったんです。 そうしたらワーッとお客さんが笑って、肩に力を入れないって、こういう事なんだと思いました。

テレビ、ラジオから舞台に広がってゆく。  「小堺クンのおすましでSHOW」 グッバイガール 」、「 リトルショップ・オブ・ホラーズ」、「 グランドホテル」など本格的なミュージカルにも挑戦してきました。   大将の教えは芸能界のマスターキーですね。  ジャンルを問わないです。   

2004年 首の腫瘤の摘出手術のためにレギュラー番組を一時降板。  大将に会った時にいきなり僕を指さして「おまえ、死んじゃうの。」って言ったんです。  「治ったんです。」と言ったら、「なんだ後輩が先に死ぬと思ったのに。」と、これも言われたことがないです。  逆説ですね、治って嬉しかったんです。  仮装大賞の帰り、お年玉をもらうんですが、その裏に「神様、もう一機を病気にさせないでね。」と書いてあったんです。  まいっちゃいますね。 

タケシさんが出てきて大将の笑いを一時否定する時代があったんですね。  ちょっと元気がなくて、翌週手紙が来て、その話が童話になっていて、「吸盤の付きのいいタコ(大将は昔タコと言われていた。)がいました。  吸盤をくっつけて我が世の春を楽しんでいた。ある日吸盤の付が悪くなってきた。   寿司屋の倅(僕の家は寿司屋)が飛んできて、いい吸盤の付いたタコがあるからと、吸盤を付けてくれた。  海に帰って助けてくれたその息子の自慢話をしているんです。」と言う手紙でした。  大事にしていたが一度引っ越して、どこかへ行ってしまった。   「探せよ、お前」と言われ「ハイ探します」と言って、或る時本棚からその手紙がはみ出していました。 「見つかりました。 出ていました。」と言ったら「だろ」でした。

 手紙を書いてきました。   萩持欣一様

「私、小堺一機は欽ちゃんに笑いを、大将にリーダーシップを、萩本欣一に人間を教えてもらいました。   行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず、まさにそれが貴方です。  会うたび目の前にいるのは一番新しい萩本欣一です。  かっこいい。 参りました。  出会えた幸福に感謝します。」 駄目弟子より  





2022年4月10日日曜日

若井克子(故若井晋氏の妻)       ・元脳外科医・アルツハイマーと診断される      

 若井克子(故若井晋氏の妻)       ・元脳外科医・アルツハイマーと診断される 

若井晋さんは1947年生まれ。  内科医から脳外科医そして国際地域保健学の専門家として活躍していましたが、59歳で認知症になり定年を前に東大を退職、去年2月74歳で亡くなりました。   最後まで夫をサポートした妻の若井克子さんは香川県出身、1946年生まれの75歳。今年、「東大教授、若年性アルツハイマーになる」と言う本を出版しました。  最後まで病気と闘う夫と共に歩む姿を描かれたノンフィクションです。  

長い事言葉を出せない主人と付き合っていたので、私もなんか言葉が出てこないんですね。  まずいなあと思って合唱のクラブに行ったり、パソコンを始めたり、体操、ピアノを習ったりいろいろやっています。   

一番おかしいと思っていたのは当人で、自分でMRI撮って来たり、自分で診断したりしていました。  アルツハイマーは脳の病気だけれども、脳外科医の範囲ではないんです。   今まで通りの仕事が出来なくなった。   ストレスを脳に抱えて、脳と腸は関係が深くて、脳のストレスは腸のストレスという事で下痢が最初ありました。  漢字が思い出せない、書けないという事もありました。  

若井晋さんは1947年生まれ。  1965年に東大に入学、医学部に入り内科医から脳外科医そして国際地域保健学に転身。  若井克子さんは香川県出身、1946年生まれの75歳。 1964年進学のために東京に出てくる。  日本女子大に入学。

彼は父親が病気で家が貧しかったです。  純朴な人でした。  キリスト教には最初関心がなくて、友人が高橋先生が講演に来るからと誘ってくれました。   キリスト教に出会って卒業するまでは日曜日は集会に出ていました。  そこで夫と出会いました。  徳島の高校で3年間働きました。  その後高橋先生から三重県のキリスト教の学校(私立の農業高校)を紹介されました。  彼とは手紙のやり取りをしていました。   1974年4月に結婚しました。  

厚生年金病院に内科医として勤務しますが、救急車で脳の患者さんが来ますが、脳外科医がいなくて、ほかの病院に行くことで、彼は悔しい思いをして、脳外科医になることを決心した様です。   病院を辞めて養老先生のいる解剖学教室に2年通って脳外科医になりました。   これと思ったら突っ走るタイプでした。   脳外科医が不足していて栃木県の病院で疲れ果ててしまって、アメリカに行くチャンスがあったのでアメリカに2年行っていました。    戻ってきたが居場所がなくて、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)にいって、それが東大の国際地域保健学に結びつきました。    開発途上国に行って見聞きしてきました。  2004年までに30回程度の海外出張がありました。  アフガニスタンで銃殺された中村哲医師とも交流がありました。   2001年 54歳の頃に身体の異変に気が付きました。  漢字が書けないとか、ATMの扱いが出来ない、ネクタイが結べないなどいろいろありましたが、決定的だったのはニカラグアからアメリカの空港で日本行きに乗り換えるが、日本行きの飛行機が判らなく日本行きの飛行機に乗り換えることが出来なかった。    教えてくれる人がいてその時には何とか帰ってくることが出来ました。  それがショックで大学を辞めることになりました。   大学院生を抱えていたので、1年半後に卒業するという事ですぐには辞められませんでした。   

病院でアルツハイマーですと診断されました。  私は受け入れるしかしょうがないと思いました。    やることがなくなってしまって、沖縄に引っ越してきました。    最初は色々見聞きしましたがやはり段々飽きてきて、栃木に戻りましたが、もう一度沖縄に行くことにしました。  オーストラリアの方でクリスティーニと言う女性の認知症の講演があると言う事で二人で聞きに行きました。   夫はそれまでは本当に落ち込んで気が抜けていました。  クリスティーニに会った時には自分の生き方を見つけました。  認知症の人達の前で認知症ですと告白することによって、その人たちのためになにか出来ることがあるのではないかと思ったそうです。   クリスティーニみたいに生きてみたいという希望が与えられたと思います。  その後2009年から2013年まで二人で講演活動をいろいろ行いました。   主人も生き甲斐を感じたと思います。   

司会者の質問の仕方がいいといろいろしゃべれましたが、ぼんやりした内容の質問だと話が組み立てられないので駄目ですね。    トイレに行くのに、感じないという事も出てきて3013年以降は講演は中止しました。   デーサービスに行っても対応の悪い人もいたりしていろいろ問題がありました。   2021年に亡くなりましたが、その5,6年前から言葉が出なくなり身体も動かなくなり寝たきりになってしまいました。    入院して、或る時突然電話が掛かってきて、慌てて迎えに行って帰って来ました。    子供たちも集まって、次第次第に意識が遠のいてゆく、そんな感じでした。   

私はクリスチャンなので、病とか死ぬことは神様が下さるものだと思っていました。   私が看るものだと思っていたし、神様が私にくださった仕事だと思っていました。   病気になると病気になる人の気持ちが判りますよね、彼は自分がアルツハイマーになってやさしさ、謙虚さ、人を攻撃したりしないし、そういったものが深まったんじゃないかなあと思います。   



2022年4月9日土曜日

八木透(民俗学者・佛教大学教授)    ・鬼の正体を探る

 八木透(民俗学者・佛教大学教授)    ・鬼の正体を探る

全国各地に怖い鬼の伝説が残る一方で、節分に登場する鬼や昔話の桃太郎に登場する鬼たちはどこかユーモラスで親しみが持てる存在です。  最近は漫画、アニメで海外でも人気となった鬼滅の刃などの影響で鬼に関心を持つ人が増え鬼ブームともいわれています。   鬼はいつごろから日本にいるのか、そしてその正体は何なのか、教えていただきました。

私の元々の研究は家族論、通過儀礼とかをずーっと追いかけていました。  広がって民族宗教も興味があって調べるようになりました。  それぞれの地域でいろんな面白い話が出て来まして、その中の一つに妖怪とか鬼にちなんだ話があって面白いなあと思うようになったのは20年経っていないかもしれません。    鬼は非常に人間臭い、人間そのものと言っていいぐらいの人間臭さを持っていてそれが鬼の魅力かもしれません。   

丹波の大江町、大江山は酒吞童子で有名です。  大江町が街おこしに酒吞童子という鬼を使おうという事で鬼の交流博物館を作って、その時に世界鬼学会という学会を行政が主導して立ち上げました。(1994年)     韓国、中国に何人かいるという事で世界と言う冠が付いていますが、ほとんどは日本の国内の人たちです。   専門家はわずかしかいません。  地域地域で鬼に興味を持っている一般の方たちです。   300人台の後半が入っています。

鬼が文献に出てくるのは平安時代です。(1100年ほど前)  鬼は元々目に見えないものだった。  「隠(おん)」と呼ばれていたものが、「おに」と呼ばれるようになったといわれています。  鬼という漢字を当てはめて「おに」が「き」と発音するようになった。 今昔物語にいっぱい出て来ます。  「もののけ」とも言われたりもしていました。   姿かたちは全くわからない、怖い恐ろしいものだった。  疫病、地震など、人間に襲い掛かる邪悪なもの恐ろしいものすべてを鬼という風にイメージされていたのかもしれません。 

平安時代末期から室町時代にかけて、少しづつ鬼のキャラクターが絵に描かれるようになるんです。  絵巻物に描かれる初期の鬼はいろんな格好をしているんです。  一つの形になって来るのが室町時代の中期から後期にかけてです。   人間とは真逆の悪の象徴として一つの個体がイメージされるようになります。   時の為政者に反逆するものを鬼と言うレッテルを貼って討伐する対象にしていったという可能性が一つあります。  室町時代の中期から後期になると、人間の心の中にも鬼がいる、邪悪なもの、それが鬼だという風に考えられるようになって、人間が鬼になるという話がたくさん作られてゆくんです。   

現在のような鬼の姿については、一つは「ついな(節分の行事)」 見えない鬼を退治する正義の味方として方相氏(陰陽師が演じる)が鬼に負けてはいけないので怖い顔をしている。  お面をかぶり、目が4つあり口が裂けて角が一本生えています。  その方相氏が鬼とされてしまったのではないか、というものです。    もう一つは室町時代に起こった能楽です。  人間が鬼になる話ではほぼ例外なく女性が鬼になります。  般若の面は二本角が生えていて目が血走っていて口が裂けて恐ろしい形相をしている。  般若の面がもう一つのルーツだと思います。  

酒吞童子は鬼の代表格です。  お姫様がどんどんさらわれてゆく。  誰の仕業か占ってみると大江山にいた酒吞童子という鬼の一味の大将という事で、天皇が鬼退治を命ずる。 命じられたのが源頼光で配下の渡辺綱などを組織して酒吞童子の首をはねて鬼退治を果たす。  酒を飲ませてしびれさせて退治をしたが、「鬼に王道なきものを」と言って果てたという事です。  「鬼はお前たちのような卑怯な事はせんぞ」と言う事で、人間の方が卑怯だという事です。  南北朝時代に作られた絵巻物に出てくる話です。   地元では8月10日に亡くなった酒吞童子を今でも供養しているんです。  時の為政者にとっては鬼としての存在だったが、地元の人にとっては祭られる存在だった。  天皇、大和政権には従わない地方豪族の頭領が酒吞童子(渡来系)だったかもしれない。 

「鬼女紅葉」 人間の女性がとあることをきっかけに鬼になる、鬼女伝説の代表的に話です。   信州の戸隠山に伝わる伝説です。  紅葉は第六天魔王の血を引いた美しい女性で、妖力を持っている。   源経基の妾になり、正妻の座を狙うが戸隠山に流されてしまう。  人間を食べる鬼女になったという風に伝えられているが、平維盛に討伐される。 地元では決して鬼ではなく様々な知識を授けたと言われている。   中央の為政者から見れば鬼というレッテルを貼るべき邪魔者だったんだろうと思います。  

「安達ケ原の鬼婆」 「いわて」と言う名前の女性が京の都で高貴な貴族の乳母をしていた。   3,4歳の娘がいて「いわて」は可愛がって世話をしていた。  その姫は不治の病に侵されていて5歳になっても言葉を発することが出来なかった。  或る時占い師にどうすればこの姫の病気は治るか尋ねたところ、妊婦の腹をかっさいて胎児の生き胆を姫に食べさせたら治るという恐ろしいお告げをする。  「いわて」は信じて自分の娘とも別れて放浪の旅に出る。  福島県の安達ケ原に行き着いて、数年後に夫婦が来て臨月の妊婦だった。  妊婦を出刃包丁で殺して胎児の生き肝を抜きとろうとする。  妊婦の首にぶら下がってるお守りにハッとする。  我が娘に別れる時に与えたお守りだった。  殺めてしまった女性は我が娘だった。   正常な精神を保てなくなった「いわて」は旅人の人肉を食らう鬼婆になったと伝えられている。  最後は退治される。  観音菩薩の功徳のお陰で成仏して今では「黒塚」で丁重に祭られている。

福岡県久留米市大善寺 玉垂宮の「鬼夜(おによ)」  日本三大火祭り、①京都鞍馬の火祭り、②那智大社の火祭り、③玉垂宮の「鬼夜(おによ)」(1月7日の行事)    1600年の昔(4世紀ごろ)、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)と言う悪党がいました。  暴れ放題地元の人を苦しめていた。  朝廷が何とかしないといけないという事で勅命を受けた玉垂命(藤大臣)が討ち取って首が焼かれた。 300年後に悪い出来事が絶えなくなった。 お寺の僧侶が占いをすると、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)の祟りで様々な災いをもたらしているという事で、弔いをしようという事で玉垂宮に「鬼堂」というお堂を建てて桜桃沈輪(ゆすらちんりん)の悪霊を封じ込めた。  大晦日から鬼会という仏教行事を7日間やって結願の日が1月7日で、「鬼夜(おによ)」という火祭りが行われるようになった。  平和になった。  今では桜桃沈輪(ゆすらちんりん)は祭られることで地元の人たちの罪や汚れを全部一身に引き受けて払ってくれるというんです。   仏教で祭られることで神のような存在に変っている、ここが鬼の面白いところだと思います。

鬼は反人間であり、非人間、非社会的と言っていいかもしれません。  でも別の人たちから見ると鬼は神のような人々を助けてくれる存在であったのかもしれません。  退治されるが鬼は最後には祭られるんですね。    キリスト教では悪魔が祭られることはなく、これは一神教の考え方で、日本の鬼は悪魔とはそこが違うんです。  最後は祭られて人の役に立つ存在に変る、これは日本の鬼の一番個性的なところかなという気がします。    鬼女の鬼になるきっかけは愛する男の裏切りで、怒りと嫉妬で鬼になる。  般若は美しい女性が鬼になった姿を現している能面で、嫉妬、恨み、つらみは野生動物にはない感情です。  鬼は非常に人間的なんですね。  どんな人にも多かれ少なかれ鬼になる要素は持っているのかも知れません。









2022年4月8日金曜日

井形慶子(作家・洋品店店主)      ・イギリスに学ぶ第二の人生

 井形慶子(作家・洋品店店主)      ・イギリスに学ぶ第二の人生

1959年長崎県生まれ。  大学進学を機に上京しましたが中退、編集補助のアルバイトとして社会人生活を始めます。   その後結婚、出産、離婚を経て28歳で出版社を設立し、イギリスの豊かな暮らしと生き方と考える雑誌を創刊、今に至ります。   2000年に発表した「古くて豊かなイギリスの家、便利で貧しい日本の家」がベストセラーとなり社長業と雑誌の編集長と作家という幅広い活躍を続けてきました。   50代でセミリタイアを目指したご自身の体験的エッセー「年34日だけの洋品店」を去年出版しました。  第二の人生で何かを始めたいと考える人たちへじわじわと注目を集めています。 

イギリスに行ったのが100回以上。   著書もイギリスに関する紀行文、小説などもあり100冊以上。    コロナ禍でイギリスに行くことが出来なくて、ずっと国内にいました。  イギリスにいる人たちの助けを借りて何とか2年間やり過ごしました。   

大学の頃に出版社に行きたいと思っていたが、スクープをもっていけば採用されるのではないかと思って、ヨーロッパ中をキャンプ旅行するツアーがありそれに参加しました。   パリで高田賢三に会いました。(コロナで亡くなる。)  憧れの人でした。   何とかお会いすることが出来てそのことをエッセーに書き出版社に送ったところ、1社から面接に来てくださいと言われその日に内定が出ました。    有名な方のところに原稿を取りにいったりしたときに、住まいのすばらしさに感動しました。   その後結婚、出産、離婚をして1歳の娘を抱えて、働いていました。(24,5歳)     赤ちゃんを連れて女性は一人で海外旅行が出来るかというようなことをエッセーにする企画で出版社へ持ち込んだら、その企画が通って、子供を連れて再度イギリスに行きました。   

ベビーカーで小さな娘を連れて行っていたので、19歳で独身でいった時とは全然見方が違っていました。    夜、カジュアルな民宿を捜していた時に、近所のおばあちゃんたちがきて、「こんなに冷たいのに子供に靴下をはかせていないじゃない」と言われました。   自分が受けいれられているという事を初めてイギリスで感じていました。  ある街で娘に5ポンド(300~500円)の服を買った時に、お金を渡した相手がタンクファッション(顔中ピアスをしているみたいな感じ)の青年が、そのワンピースを綺麗にたたんで、ベビーカーの娘の前に膝まづいて「君のママはこんなに素敵なドレスを買ってくれたよ。 君は世界一のレディーになるね」って言ったんです。  日本では母子家庭で孤独感が強かったので、若者からお年寄りまで社会が人と関わろうとする文化がイギリスにはあるんだと感動しました。

時間を自由にしたいという事と、家が買えるぐらいの貯金をしたいという事で会社を辞めて出版社を立ち上げました。    数年経って再婚しました。  その新婚旅行がイギリスでした。    イギリスの成熟した街並みは本当に凄いんだと思って、毎年イギリス旅行に行きクリスマスを過ごしていました。   写真などもいっぱい貯まって、この価値観を伝えたいと思うようになりました。  「古くて豊かなイギリスの家、便利で貧しい日本の家」というエッセーを書いて、もっとイギリスを知りたいという声が強くなって方向転換しました。    イギリスでは朽ちてゆくのがいとおしい文化なので、集めたものがお金に変る、奥深いところまで知ってゆくと、日本にいてこんなんでいいのと言うようなことが、イギリスに行くと必ず見つかって自分の中のバランスが取れる、それが魅力だなあと思います。  

忙しい時のピークは時間が取れなくて、夜の食事も作れないことがずーっと続きました。 娘は学校をやめて17歳で社会人になりました。   その間大事なところには関われませんでした。  50代の前半ぐらいからすこしづつ ふっとこのままでいいのか感じ始めました。   会社は順調に進んで行きましたが、自分でやり切れるのかなと思った時に、私がひるんだ最初の記憶です。   イギリスの歳を取った女性は品もあり綺麗で、「齢を取った、だから私は自由だ。」と言う言葉があって、人生を輝いて生きるのに年齢は関係ないという価値観なんですね。   イギリスでは50代、60代はゴールデンエージと言われて、これからは自分のしたいこと好きなことをやるんだ見たいな期間に移行する時期なんですね。

チャリティーのためのリサイクルショップがイギリス中で1万以上あります。   そこのレジではおじいさんおばあさんが多いです。   自分の片手は誰かのために空けておく、みたいな考え方があります。   祖父が長崎で金物屋をやっていて売ることの原体験もあり、編み物とかキルトとか服も大好きだったので洋服も作って、自分の店を持ちたいという事で、吉祥寺に店を出しました。  1年間に34日だけ開くことにしました。  無理はしたくなかった。   イギリスにちなんだもの、イギリスに行かなければ手に入らないものがいっぱいいあります。   イギリスのものに触れて、話をしたいというような人が来ます。   コミュニケーションの場ともなっています。  

楽しく生きるポイントと言うのは、早い時期から50代以降の自分の暮らしのイメージを持つことかなあと思います。  人生100年の時代では50代ではまだ半分あるという事ですから。    人生の設計図は自分がきっちり描いて行かないと、誰も教えてはくれない。  自由で好きなことが出来る時間は、人生最大の、誰にでも等分に与えられた宝物かなと思っています。   


2022年4月7日木曜日

小平陽一(元家庭科教員)       ・僕が教えたかった"人間生活科"

  小平陽一(元家庭科教員)       ・僕が教えたかった"人間生活科"

高校で18年間化学を教えた後に、新たに家庭科の教員免許を取得して定年退職するまで家庭科の先生を務めました。  どんな思いが芽生え化学から家庭科の先生になったのか、伺いました。

現在72歳、東京理科大学の理学部を卒業後、化学工業会社に就職。 大学の化学研究所を経て1976年に埼玉県で高校教員としてのキャリアをスタートさせます。   

小学校2年生の頃、「鉄腕アトム」のお茶の水博士に憧れていました。  就職はしましたが、大学時代の先生に誘われて化学研究所の方にいき、結婚をして子供もできて、一家を支えて行かなければならないという思いもあり、研究所の先が見えないポジションよりも安定した職業に就こうと思いました。  高校の教員に転職しました。  研究所にいた頃は妻は高校の化学の先生をしていましたが、僕が高校の先生になったと同時に専業主婦になりました。  1年も経たないうちに妻が働きたいという事で、子供を保育園への送り迎えとか、食事の購入なども僕がやるようになりました。   当時はスーパーで男が買い物をすることは皆無でした。4年後に二人目が生まれて大変さが3,4倍に増したような気がしました。   離乳食なども作るようになりました。  何もかも放り出したくなるような気持にもなりました。   

先生としても生徒とのぶつかり合いとか、辛い事はいっぱいありました。  化学の先生としては、自然界の何故という事、自分が感じていた常識を打ち破るとか、はっとさせられることとか、考えながら授業の準備などしていました。   進学校だったので3年生になると受験科目にとっていない生徒にとっては無駄な時間になってしまうわけです。  無理やりやらせる意味は何なんだろうと思いました。   生活に役立つ科学も考え始めました。 原子爆弾、農薬、公害など科学の負の部分も出てきていました。  暮らしの視点から豆腐を作ったり、石鹸を作ったり、染め物、タラの芽を生徒が取ってきてそれを天ぷらにしたりしました。  総合理科の中でやりました。  生徒に家庭科みたいだと言われて、家庭科があることを改めて知りました。   家庭生活では自分の家事能力の低さを感じていまして、男も家事能力を身に付けるべきだと思いました。   生活に役立つ科学という面からも 家庭科にシフトしていきました。   教育における男女平等が出来ていないという事が家庭科の女子のみ必修という事に批判もあったりしました。  1989年に学習指導要領が変わって、家庭科男女共修が盛り込まれました。   しかし教科書、施設の準備も必要だった。  実施は1994年になります。  男女共修教科書の作成に声がかかりました。 

1994年に埼玉県では家庭科の教師志望者を募集して、それに手を上げました。   女子栄養大学に1年間通いました。   女性からはおおむね賛成の声がありましたが、男性からはもったいないとか、可哀そうと言うような声が聞こえてきました。   初めて教壇に立た時は鮮明に覚えています。  16年間家庭科の先生をしていました。   化学は答えが一つですが、家庭科は答えがいくつもあると思いました。  家庭科は感性、感覚、共生、総合性とかを重視する教科だなあと思いました。   自分の生き方を考える教科と言う風に考えたいと思いました。   幸せとは何か、家族とは、夫婦とは、人生とは、自分らしさとは何かなど、そういったものに答えはいくつもあると思います。  家庭科は自分にとっての正解を自分で見つけ出す、考え続ける授業としての教科だと思います。  

家庭科は名前があっていないような気がして、或る高校では人間生活科と呼んでいて、略して人生科と言っていていいネ―ミングだと思いました。  現在、埼玉県狭山市の市民大学で教えていますが、70,80代が中心ですが、高校3年生に教えてきたこととほぼ同じです。シニア世代もこれからどう生きて行ったらいいか、日々をどう過ごすか、これが大切かなと思っています。  家族も小さくなってきていて、シングルも増えてきている。  個の時代になるような気がします。  長寿社会になるとどちらかがぽきっと折れると両方倒れちゃうんですね。  これからはそれぞれが自立する力を持つ、自立した個人同士が助け合って関係性を作ってゆく、そういう考え方が必要ではないかと思います。  

現在は、40数年前に教えていた生徒たちと一緒に300坪の畑で野菜を作り、子ども食堂に出荷する活動もしています。    居場所作りは大事だと思っています。   


2022年4月6日水曜日

村松純子(フリーライター)       ・自分のからだを知ろう

 村松純子(フリーライター)       ・自分のからだを知ろう

2003年から「自分の身体を知ろう」プロジェクトと題して、5歳前後の子ども達に身体について教える活動を行っています。   2014年にはNPO法人を立ち上げ図書館や保育園などで、身体のお話会をしたり子供に身体のことを伝える「身体先生」をはぐくんだりしてきました。  現在58歳になる村松さん、実は周りに妊娠していることを知らせるマタニティーマークという発想を生み出した人でもあります。  

5歳前後の子ども達に身体について教える活動を行っています。  身体のことを伝えるのに、小学校に上がってしまうと周りのお子さん方の反応を気にするとか、異性を気にするとか、話題がそれてしまう。  伝えたいことが伝わりにくくなる。  5歳前後は好奇心が旺盛で話したことを素直に受け止めてくれる。   

「わたしのからだ おとこのこ おんなのこ せいしょっきけい」と言う本、5歳前後の子供にも生殖器のことも教えている。  私たちの本は全部で8冊が組になっています。   消化器系、泌尿器系とか身体の主な系統を8つ取り出していますが、そのなかに生殖器系もありあります。      

「自分の身体を知ろう」プロジェクトは聖路加国際大学身体教育研究会のメンバーが中心となっています。  普及活動をするためにNPOを立ち上げました。  マタニティーマークを発案して1999年から個人で細々とやっていました。   妊娠した人、高齢者は、こういうふうに身体が辛くなる、不自由になるという事を皆さんに体験してもらってイメージすると手助けしやすくなると考えて、そういうプログラムを作れないかとおもって、紹介されたのが「自分の身体を知ろう」プロジェクトだったんです。  

脳の説明では脳は水のようなもので包まれたお豆腐のように柔らかいものだという事を知って貰うためにタッパーにお豆腐を入れて水が詰まっているものと、詰まっていないものを使って振って見せて、水が無い方はすぐ壊れ、そのうち水のある方も壊れてしまうものを見せて、脳の構造、頭を叩いたりしてはいけないことを知って貰う。   

生殖器も身体の一部なので、身体の一部としての生殖器という事では、ほかと同じような程度の詳しさできちんと教えることが大事だと思っています。  生殖に関わる機能としては最低限のことは教えないといけないと思います。  

現在の課題はメンバーのマンパワーが足りないという事が一番です。   主なメンバーは大学の研究者、教授などで仕事がありながらの活動なので時間がない。  身体のお話会をする話し手を育てる、「身体先生」と名付けて、「身体先生」研修会を行って紙芝居、本を読むときのコツとか、体得してもらうように活動をシフトしています。  今は150名を越えました。  

子供のころからアレルギーがあったんですが、そんなに重度だとは思っていませんでした。 結婚して子供を産むような時期になってきたら、アレルギーが悪化してきてしまいました。 健康に気を使うようになりました。  自分が具合悪くなると辛い思いを身をもって知るようになりました。   妊娠初期だと周りは全然気づかないが、つわりで気持ち悪くなっていると、あの人は酔っ払いなんだとか、二日酔いなんだとか思われてしまうし、貧血で倒れたら人の輪が出来てしまったりとか、行き違いがある体験をしたと言っていました。    妊婦さんであることを知らせるものはなかったです。   マークがあれば気が付いてもらえるよねと言う事で、マタニティーマークを作ろうとしました。   「BABY in ME」と言う言葉になりました。  1年以上考えてたどり着いたのが現在のデザインです。     妊婦のお母さんの絵がありお腹にはピンクのハートのマークがあり、赤ちゃんを表現しています。

厚生労働省が始める5,6年前のことでした。  身に付けて歩いてもらえるのかという事は疑問でしたので、とりあえずシールにしてステッカーを作りました。  バッジにして電車に乗った時に席を譲ってくれたそうです。   メールで連絡が入ったのでバッジとかバッグに下げるものにしました。(翌年)  

子供たちが身体の話を聞いて全部は理解出来なくても、身体への見つめ方の意識が変わってくると思います。  最終的な私たちのプロジェクトの合言葉は「身体の知識をみんなのものに」という事です。   マタニティーマークは話のきっかけになってくれればいいなあと言う思いもあり、気遣いはその先でもいいのかなと、コミュニケーションツールだなあと思っています。  

2022年4月5日火曜日

上橋菜穂子(作家)           ・香りをめぐるファンタジーを描いて

 上橋菜穂子(作家)           ・香りをめぐるファンタジーを描いて

長い間植物が気になっていました。  しかし物語になってくれる感じがなかった。  植物は静かで遠い他者と言った感じがしていました。   生まれ落ちたところで動かずに生きてゆく、受け身の生き方をしていて物語になりづらいのかなあと思っていました。  1980年代植物同士がコミュニケーションをとっているかもしれないという説を耳にしたことがありました。  或る植物が傷つけられるとそばにいる植物が反応するというような話だったと思います。  数年前に出会った本で、2000年代になってから植物はコミュニケーションをとっているという事が科学的に明らかになりつつあるという事が判ってきたんです。  植物の香りは複数の成分のブレンドで構成されているんだそうです。  葉っぱを鋏などで傷つけられた場合と、虫に食われている場合は、異なるブレンドの香りが放出されているんだそうです。   害虫のナミハダニに食べれている時とシロイチモジヨトウに食べられている時では違うブレンドの香りが放出されているんだそうです。  ナミハダニに食べれていると天敵はそこにナミハダニがいるという事に気が付くんですね。   獲物がいることを香りによって気が付くわけです。  これには吃驚しました。  

香りをかいだ時にその意味が判る少女のイメージが浮かんだんです。  これは物語になると思って書いたのが「香君」という物語です。   上下巻で900ページ余りの小説です。自分の脳みそが動いてくれるのを待っているような感じなんです。  夢に出てきた物語を書くようなイメージに近いかもしれません。   考えようと思っていない時の方がふっと現れるかもしれないです。   私自身が描いた物語を人がどんな風に感じてくれるのか、まるでわからないです。   

もう一つ面白い本に出会って、食糧問題に関する本です。  一つの食物にとても依存している場合において、或る時に一斉に駄目になってしまった場合、社会に波及する影響はとても大きいんだと思います。   社会というものはシステムが組み上ってゆくとその一つの歯車が壊れるとそれに波及して動いていくものはとても影響が大きいです。   そういう事が頭に浮かんでいました。   植物と虫との関係、それに人間がかかわってきて、人々はどう生きてゆくんだろうかという事を追いかけながら書いていたような感じです。    

バナナがある時にパナマ病という病気で凄く大きな被害を受けたことがありました。  バナナは種がなくて株分けしていって、遺伝子に多様性がない植物であったために一つの病害に物凄く大きな影響を受けてしまった。   均質であると効率がいい、どんなものになって行くか予想も付きやすい、利益も上がるが、一方で巨大なダメージを受ける。   多様であるという事は効率が悪かったり、面倒だったり、様々なことが起きてしまう可能性があるが、多様であると生き残る可能性がある。  どちらにもメリットデメリットがあるとその本を読んで考えていました。   それがこの物語に出てきたんだと思います。

ジャガイモがアイルランドにもたらされて大変人々が栄養を得ることが出来たが、ジャガイモに病気が発生して大変な飢饉が発生する。  移民となって出てゆく人の話とか、そういうことを読んだことがあり、社会の及ぼす影響が凄く大きいなあと思っていました。 

飢えに苦しんでいた人たちが奇跡の稲に出会ったら、どうなってゆくのかという物語をイメージしました。    自分は必要なことは大体わかっていると思って暮らしているが、実際には私たちは、自分が判っていないという事に気付くことがなかなか難しい。   災いと言うものは自分たちが判っていないことに気づいていなかったところからやってきたりする。   そういうことを考えながら物語を書いていました。

問題提起をしようと思って書いているわけではないんです。   生き物が生きて行こうとしている時に必ず何か問題が起きてきます。  起きてきたことに対してどうやって対処して生きてゆくんだろうか、という事が気になって物語を描いていきます。  人々がこの生態系のなかで生きてゆくときに、どういう事が起きてそれにどう対処してゆくんだろうという興味を描いてゆくと、読まれた時に、現代の自分たちの暮らしとのシンクロに感じていただけたら、そういう事なんだなあと思う感じです。  

新型コロナウイルスの遺伝子情報が世界に共有されて、世界中の研究者がものすごい勢いで研究を始めて、研究成果をどんどん発表していって、それをまた共有していって、人類の英知が共有されていって、一つの大きな流れになって、今は治療の方法などが少しづつ明らかになってきている。  多くの人々が一緒に暮らしていることの意味は、感染症においては人が大勢一緒に暮らしていることによって感染症は広まるが、一方で能力を共有して想像して、観察して、それを力に変えて、私たちが少しづつ良い方向に救われてゆく姿をみているような気がしました。   自分が書いたものとシンクロして感動しました。  

人が生きる時に自分は多くの他者と一緒に暮らしている。  お互いに支え合っているのだという、その支え合い方が見えているか見えていないかによって、考え方は大きく変わってゆくんだと思います。    或る人の利益にとっては或る人の不利益になってしまうかもしれないという状況、そこをどう解決してゆくのか、その時に他者と自分との共同体の在り方をどう考えるのかという事が大きな焦点になって来るなあと思いながら書いていました。勉強になった本だと言われるが、私自身が勉強しながら書いたからだと思います。




2022年4月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】小島ゆかり

小島さんは1956年愛知県生まれ、早稲田大学在学中にコスモス短歌会に入会します。  2006年、『憂春』で第40回迢空賞受賞 2015年、『泥と青葉』で第26回斎藤茂吉短歌文学賞受賞 2017年、『馬上』で第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞 紫綬褒章受章。  去年刊行された最新歌集「雪麻呂」は高い評価を受け、詩人の大岡信さんをたたえる大岡信賞の第3回の受賞者にも選ばれています。

短歌と出会ったのは大学3年生の時です。  母が趣味で短歌を作っていて、宮柊二先生のコスモス短歌会の本などがありました。   古本屋巡りをして文語とか、旧かなに魅力を感じました。 卒業して名古屋に戻ったんですが、結婚して又東京に戻ってきました。   35歳ごろに家族でアメリカに行きました。  小島なお(娘)がデビューした時には高校生で角川短歌賞を受賞。  お互いにはあまり言わないです。   短歌を作れば作るほど好きになります。   自然に触れると感動するというか、心がとても動くんですね。  動いた心を大事にして俳句などを詠んだりして、シンプルに作りたい派なので、エッセンスだけ俳句から学んで、一つになって行きます。  俳人では永田 耕衣橋 閒石(はし かんせき)とか好きです。  

冷えわたる夜の澄みわたるかなたよりもうすぐ天の雪麻呂が来る」   小島ゆかり    雪が降りそうだ、という実にシンプルな歌ですが、素敵な歌になります。  雪に名前を付けて擬人化している。   

*「明日また旅行くわれに若猫は気付かぬを古猫は気付きぬ」    小島ゆかり      捨て猫でしたけど両方とも飼っています。   キャリーバックのなかに入ったり、洋服の上に載ってみたりして邪魔をするんです。    

*「薔薇園の中通り抜け終活の母の時計を修理に出しぬ」      小島ゆかり      人間も生きている時計のようなものだと思えばそうだから、修理に出せばもう一度元気になるみたいなイメージが浮かんだんですが。    複雑な薔薇の字と時計の裏ブタを外した時の緻密な感じと似てると思って、この歌が浮かんでしました。  

*「文字書けずなりたる母が書きたくて書きたくて書く流星の文字」  小島ゆかり     脳梗塞で書くのも不自由になりましたが、書くことの好きな人なので書くんですが、流星みたいに字が飛んでしまう。  書きたいを繰り返すことで本当に書きたいんだという感じが伝わってきます。  

あなたとてもつかれてゐるわ ゐるわゐるわ 蝶が言ふなりわたしこゑ」  小島ゆかり     幻聴と言うのか、幻の声、蝶々が 仕事に疲れ、生きる事に疲れ、るわ ゑ で幻聴を感じさせる。  自分の内面の声だったと思うんですが、たまたま目の前に蝶々が飛んできて、旧かなのこえでるわるわと言う感じで聞こえてきたというか。  

「あさがほの明日咲く花はどれかしら夜空にひそむ死者たちの指 」      小島ゆかり    指に差された花が咲くみたいなイメージ。  咲くという事は死に近づいてくる、終わりに近づいてくる、明日咲くのは貴方よって、死者が指さすような感じが痛切にしたんです。

*「新しき冷蔵庫古き冷蔵庫擦り違えたり玄関前で」         小島ゆかり     冷蔵庫は愛着が湧く。  古い冷蔵庫を出して新しい冷蔵庫を入れるが、すれ違う時の何とも言えない切なさと言うか。  言葉の組み立てが素晴らしいから短歌になっていると思う。

*「背後より迫る指ありうつつなきつまみ心に蝶つまむとき」     小島ゆかり     蝶々は柔らかくそっとつままなければいけない。   自分をつまもうとしている大きな指が後ろから迫って来る。  漢字を用いずに「つ」という言葉がいくつもあり柔らかい感じがして、表記に面でもいいなあと思います。

*「台風の迫る真昼を深鍋に白雲のごとく沸き立つうどん」      小島ゆかり    うどんを作っている自分に台風が迫って来る。   大きなものが自分に迫って来る。  その時に自分はうどんを作ったり、蝶々をつまもうとして居たりする。          

*「カバーはずし裸の本を持ち歩く田舎に夏の雲登る今日」      小島ゆかり     本を持ち歩くことと、雲が登ることは関係ないが、何故か関係あるような雰囲気がある。  人間も夏になると薄着になり、裸の本と因果関係が皆無ではない。  

全体に無理な感じで作っているわけではなく、ゆったりとしたフォームから、でも投げ込まれた球は凄いみたいな感じです。  

リスナーの作品

*「米寿だろ看護師に言う九十と多くさばよむ病室の父」       白井義彦

*「コロナにもウクライナにも無力感岸田総理が遠くに見える」    西山洋一


*印はかな、漢字、氏名等違っている可能性がります。