2024年5月31日金曜日

遠藤良子(くにたち夢ファームJikka理事)  ・「DV」で苦しむ女性の居場所を作る

遠藤良子(NPO法人くにたち夢ファームJikka理事)  ・「DV」で苦しむ女性の居場所を作る 

遠藤さんは新潟市出身で、東京都国立市在住の75歳。 2006年から埼玉県越谷市の男女共同参画センターの女性相談員を務め、その後いくつかの自治体で相談員を続け、現在でも埼玉県の相談員をしています。 遠藤さんは夫や家族からの暴力や、貧困に悩む多くの女性たちの相談に乗って来ましたが、更に具体的な助けの手を差し伸べようとNPO法人くにたち夢ファームJikkaを仲間たちと共に2015年に設立しました。 曜日ごとに様々な女性たちの相談に乗るほか、仕事やアパートの紹介、サークル活動などを実施しています。 2022年にはこれまでの活動が認められ、東京都女性活躍推進大賞を受賞しました。 遠藤さんにNPO法人設立の狙いや活動の成果、今後の課題などお話を伺います。 

最初は勉強にと思って相談員を週に一回ぐらいのペースでやっていました。  はまってしまって18年ぐらい続けています。 その後掛け持ちのいつかの自治体の相談員をやっていました。 

新潟から高校を卒業して出て来た後、19歳で結婚しました。 相手も19歳でお酒を飲むと暴れたり、切れたりすると物を投げたり怖いんです。 このまま続けるのは出来ないと思って逃げ出しました。 日々生きてゆくことが大変で、体験を生かそうなんて思ったことはなかったです。 子供が3人いて、長女が学校に行かなくなってこれは大変だと、ジレンマに陥って自分だけでは解決できないなと思って、不登校親の会があって、そういう所に行って学んだり、そのつながりの中からそういった子供の居場所を作ったりしました。 それが居場所つくりのきっかけです。 

NPO法人を2015年に設立しました。 活動を続けるにはお金が必要で、公的な支援を受けるには任意団体では貰えないんです。  仲間たち数人と一緒になって、立ち上げました。 「くにたち夢ファームJikka」と言う名前を付けました。 突然逃げるのには実家がある人はそこにすぐに逃げるので、ちょっとだけでも助けてくれる実家があれば救われるので、そういう思いを込めて「Jikka」と言う名前にしました。 9年になります。 DVから隠れて逃げるという事は違うのではないかと思いました。 加害者を罰することも必要かもしれないが、被害者が安心して堂々と生きてゆくという事をしていかなければ駄目で、皆で守ればいいのではないかと思いました。 そのためには地域の人にDVとは何なのか、本質的にどういう問題なのかとか、世の中全体の問題ではないのかと、理不尽な暴力に女の人は絶えなくてはいけないのか、皆で考える問題だと思いました。  個人情報との絡みもあるが、もっと知ってもらわなくてはいけない。 そのなかで被害者の人たちを守ってゆけると思ってやってきました。 加害者が来たことは一度もありません。 

月曜から金曜日まで11時から4時まで開けていて、スタッフは毎日変わります。 スタッフの得意なことをやります。 相談日、図書館の日などいろいろやっています。 NPOと言うと私たちの趣旨を理解してくれます。 国立市の福祉協議会、UR都市再生機構などと協力して、アパートとかの居場所つくりを進めています。  コロナの真っ最中に困窮者の生活支援があって、国立市の社会福祉協議会とのつながりがあるので、話を持ってこられてURさんと一緒に動いて困った家庭を救済したことがありました。 今は8室ぐらいあります。 女性支援新法、困難な問題を抱える女性への支援に関する法律。  福祉六法があって女性への福祉はないんです。 唯一有ったのが60年前ぐらいの売春防止法です。 

売春防止法に基づいて婦人施設、婦人相談所が作られた。 最近はそこを使いたがらない人が凄く増えています。 女性全般の支援が出来ない。 女性支援新法が昨年成立しました。 女性はいままでいつも世話をする立場で、自分が困った時には誰も助けてくれる人が居ない。  女性にとって過酷な世界であるわけです。 性暴力も問題になっている。 画期的な法律なので、是非生かしていけたらなあと思います。 NPOは仲間が作る法人なので、堅苦しくもないし、皆が対等に意見を出しあったりして共同でやってゆく団体です。   公的な機関と共にやっていけたら女性支援新法も生かしていけるかなと思います。 

2022年にはこれまでの活動が認められ、東京都女性活躍推進大賞を受賞しました。 世に知られていない女性の存在がちゃんと認められて嬉しかったです。 女性の独り暮らしの困窮者が増えています。 50、80問題 70,80代の母親とその娘さんとの暮らしでも娘さんがイライラして暴力をふるってしまう事もあります。 娘さんから逃げてくるが高齢で一人で暮らすしかない。  18歳ぐらいの子が逃げることもあり18歳は成人なので養護施設にも入れない。 児童相談所も相談に乗ってくれない。 それでうちに頼ってくることがあります。  色々な年代層から来ます。 

新潟で祖父が母子家庭、日雇いなどいろいろな人をお世話する姿を見てきました。 それが原体験として有ったように思います。 理屈抜きにして、人が困った時に肩寄せあっていっしょに生きてゆくんだという事を刷り込まれているという気がしています。      テレビなどで報道してもらえたお陰で、寄付を沢山いただけるようになりました。 助けて欲しい人が「助けて。」と言った時「ハイ」と言って動かないと、助けられないことが沢山あります。 出来る限り夜中であろうが電話を取ります。






















岡田美里(タレント)           ・想定外のことを楽しむ          

 岡田美里(タレント)           ・想定外のことを楽しむ 

岡田さんは1961年東京都生まれ。 父はタレントで司会者のE・Hエリックさん。  おじさまは俳優の岡田真澄さん、次女は俳優の堺小春さんです。 幼いころからモデルとして活動、1984年聖心女子大学文学部教育学科卒業し、ロサンゼルスのオリンピックのキャスターになって、その後F1のリポーターやキャスターなどで活躍しています。 1989年に結婚、2女の母となり、当時カリスマ主婦として話題になりました。 その後離婚、再婚を経て現在はタレントとして歌番組の司会や、移住した山梨県の果物を使用したジャムを開発してジャム作家としても活躍しています。 今年の3月7年介護した母親を見送りました。


コマーシャルに父と家族とかで出ましたが、一番古いのは3歳ぐらいです。 祖母がデンマーク人で祖父は日本人で画家でした。  パリでデンマークから留学で来ていた祖母と出会い国際結婚をしました。 父はニースで育って、ヨットに興味を持って日本でもヨットの日曜大工のような作業に汗を流していたことを覚えています。 16歳で初めて雑誌のモデルをしました。  大学卒業後、父がロサンゼルスのオリンピックのキャスターのオーディションを受けないかという事で受かって、そこからテレビキャスターになって行きました。  日常会話程度は出来ましたが、通訳などは出来ませんでしたので、猛勉強をして語学を学びました。 F1のリポーターもしましたが、車のことは判らないので、判らない人の代表で出てくださいと言う事でした。 中嶋悟さんが活躍していた時代でした。 鈴鹿も何回も行きましたし、海外にも行きました。 

結婚をして2女の母となり、当時カリスマ主婦と言われました。 自分では知りませんでしたが、雑誌を見て知りました。 雑誌の表紙のモデルならばそれほど時間が拘束されないのでやりましたが、表紙以外にも仕事が舞い込み全部受けていました。  幼稚園の子供への対応を考えて、転職するつもりで料理教室を開くことにしました。  募集を掛けたら一日で4年後まで埋まってしまいました。 パンも一緒に教えていました。 モデルをやっている時よりも忙しかったです。 40歳の時に子供が小学校5年生と2年生で、離婚しました。(5年間悩みました。) 世の中の目と違って、変わらずに過ごしていました。 料理教室の人も沢山いましたが、一人も辞めませんでした。  身近な人々がフォローしてくれて有難さと、性同一性障害の人たちがいましたが、そういった人たちが凄く優しかったです。

子育てに関して彼と全部一緒にやってきました。 高校の謝恩会で私が司会をやって周りの要望で彼が歌を歌うという事もありました。 成人式とか折に触れて記念写真はありますし、その部分が濃く残っていればいいのかなあと思います。 

母は7年介護しました。 私が15歳の時に母は家を出ていってしまいました。 高校からは私は父子家庭でした。 母親をどうしても引きとらなくてはいけなくなりました。 葛藤がありましたが、凄く嫌でした。 東京の料理教室2つをたたんで、家をたたんで山梨に移住しました。(コロナのちょっと前)  離れている間は多少の付き合いはありましたが。 母はちょっと母性に欠ける人だったように思います。  

介護をする中で或る時に、母の魂と私の魂は別々なんだと思いました。 私は私の魂を磨いて、母は母の魂の最後の仕上げを私が手伝ってあげればいいんだと、思うようになりました。 そうしたら急に気持ちが楽になりました。 人間は4つの死に方しかないと思ってるのではないかと医師の友人から言われました。 自殺、事故、病気、他殺でももう一つあって、老衰と言う死に方がある。 人間は老衰で死ぬのが一番幸せなんだから、お母さんが老衰で死ねるように考えてみたらと言われました。  母にも老衰で亡くなるのが一番いいという事を話したら、母もいろいろなことを言わなくなりました。 母も可愛いおばあちゃんになって、「ありがとう、ありがとう。」と言うようになりました。 92歳でした。  肩の荷が降りて、自分の新しい人生が始まったという感じがしました。 

14年間お付き合いしていた方と結婚しました。(20代の頃の元彼) 47歳の時でしたが、マネージャーから昔の人で誰かいないのかと言われて、ずっと独身の人を突然思い出しました。 思い切って電話して、会う事になりました。 2年前に結婚しました。    私は事業でアクセサリーブランドを展開していました。  忙しくなってきた時に体調を崩してしまったら、彼が2週間あれば会社を辞めて、私の会社の社長になってフォローするからと言ってくれました。  それから二人でやって行きました。 人が幸せなることが自分の幸せなんだと思うようになりました。  お互いの時間を大事にしています。

二世帯住宅に死んでいて、義理の母が一階に住んでいて、義理の母が凄くいい人で、母の足りなかった部分を補ってもらっているような感じです。  「育てたように子は育つ。」という言葉が有りますが、自分自身にも「生きてたように人は生きる。」みたいな、そんな思いがあります。 人間にはアップダウンがありますが、落差の大きな人と小さな人が居るかもしれませんが、引っ張ると一本の糸になるという事は、子供たちに言ったことがあります。 













2024年5月29日水曜日

天野和幸(ばらの都苑研究畑運営)    ・〔心に花を咲かせて〕 亡き妻の名前でバラ園をつくり25年

天野和幸(ばらの都苑研究畑運営)・〔心に花を咲かせて〕 亡き妻の名前でバラ園をつくり25年

 妻を亡くしたことをきっかけに、たった一人で900坪のバラ園を作った天野和幸さんへのインタビュー。 バラ園の名前は奥さんの都さんの名前がついていて、他のバラ園とはちょっと趣が違います。 25年経ったいまでは多くの人が訪れています。 沢山あるバラを植えただけではなく、管理も自分一人でしていると言います。 何故バラ園を作ることになったのでしょうか。 だれも手伝ってもらわずにと決めたのは何故なんでしょうか。 

浜松駅からすこし離れたところにある「ばらの都苑」、広さはかつてはお茶畑だった三反(900坪)の面積をいっぺんにバラに替えてみました。 1500株以上あります。 蔓バラをなるべくたくさん育て、それで表現したいと思っていました。 お城とか、橋とかいろんな構造物があり、それに蔓バラを這わせています。 沖縄の守礼の門をイメージした入り口で、「慈しみの門」と言う名前です。 名古屋城は恩と言う字をめぐみと読ませて「恩の城」と言う名前にしています。 皇居の二重橋を作ってみたいと思って、最近は独身の人が多いので、出会いの場所に出来ないかという事で「縁(えにし)の橋」と言う名前を付けています。   富士山のような山には「愛」と言う字が出てくるような組み立てをして、手前には「糸」へんと「半」を5m以上離して植えておいて、「絆」が出来上がります。 咲くと文字が出る。 遊びながら深い愛情をもってやっています。 

平成元年に何千本と言うお茶を新しく植えて、10年経った時に妻が病気で倒れてしまいました。 お茶では妻に苦労を掛け、お茶は見たくないのでお茶を取ってバラを植えて供養をしようと思いました。 手間がかかってもいいから、愛情を思い切り注げるものを選びました。 島田のバラ園に二人で行ってその2か月後には亡くなってしまいました。 肺の病気でした。 私の兄弟男3人と女1人の結婚していないいる家に嫁いできてくれました。  弟が鉄鋼業をやりそれをもの凄く手伝って、世界のホンダから一次下請けに登録してもらいました。 妻の支えのお陰で120%、150%に仕事が出来ました。 28年間一緒にいて、3か月であっという間に亡くなってしまいました。  亡くなった時には後をついていきたい気持ちになりました。 

一生懸命バラと話をすれば、教えてもらえるというのが僕のバラを育てるやり方です。  バラの様子を常に見ながら管理してきました。 365日都さんはここに来ているわけです。 愛情の心をどういう風に表すかという事がバラ園になりました。 絶対成功させて見せるというこだわりはありました。 すべて一人でやって供養だと思いました。 感謝の心です。 「ばらの都苑研究畑」という名称です。 公園と勘違いして犬を連れて入ってきたり、自転車で入ってきたりして、複雑な思いがしました。 そのうちに報道されて来ると、観光的ではないが花川町と言う名前のイメージアップはいまは大きくなってきている。

構造物を作って、10年経って花桃を植えたり、2月に咲く花としてクリスマスローズを植えたりしました。  ユリ、シャクナゲなども植えました。 シャクヤクにも挑戦しようと思っています。 もう少しで84歳になります。 25年間バラのお陰で健康を保ってやってこられました。  コンクールに出すように誘われて、順次出品するようになり、全国大会へも誘われて、出したら即3位に入りました。  10年間で全てを制覇してやろうと思いました。 身体の調子が悪い時には大変ですね。  1年前から放射線を2か月50回連続で治療して、血圧高かったんですが、薬で問題ないという事になりました。 インコとか鳩などの鳥も飼っています。  生活リズムをしっかり守って生活をしています。 妻が貯めてきてくれた資金で賄ってきました。  私にとってバラは女房です。 来年、再来年に繋げていくことが一番大事だと思います。  花桃の苗を種から育てた合計で1730本を4年間で6回、東北の被災地へ届けました。  石川県の被災地とかへも届けたいと苗を育てています。  地域の人たちの心の支えとして、花を植えるのもいいかなあと思います。

















 











2024年5月28日火曜日

柳亭市馬(落語家)            ・落語協会100年。これから客に恩返し

 柳亭市馬(落語家)            ・落語協会100年。これから客に恩返し

柳亭市馬さんは大分県出身(62歳)。 大分県立竹田高等学校卒業後五代目柳家小さんに入門、古典落語を中心に活躍しています。  2014年に兄弟子の小三治さんの後任として、落語協会の会長を引き継ぎました。 52歳の就任は異例の若さであり、落語協会発足後最年少の会長になりました。 2021年(令和3年)3月には第71回芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能を受賞しています。 落語協会は今年100周年を迎えました。 会長としての今のお気持などを伺います。 

この商売は50代はまだまだ若手なんです。 今まで功なり名を遂げ、芸も人気も備わった人が会長でしたが、亡くなった柳家小三治師匠が、お前の世代でやって行けという事で引き受けました。 10年になります。 大きな協会では落語協会と落語芸術協会(会長:春風亭昇太)があり、この二つが東京の興行をしています。 交互に10日間ずつ興行をしています。 落語協会は1924年2月25日に設立されました。 5代目柳亭左楽3代目柳家小さん5代目三升家小勝、と言った人たちが柱になって発足したと聞いています。 私が入門した44,5年前はお客さんは来ませんでしたね。 コロナ禍では休演せざるを得ず弱りました。 

1961年生まれ。(62歳)  本当の吉原の風情がわからなくても、落語のそのなかに出てくる人間には情があって、情は今の時代でも変わりはない。 子供の頃はガキ大将でした。(身体が大きかった。 今は身長が180cm)  落語は小学校上がるかどうかの頃に興味をっ持ちました。 (古今亭今輔師匠など) 寄席中継は楽しみでした。 噺家になりたいと思ったのは高校生の時でした。 高校は進学校だったので9割以上は進学でした。 剣道をやっていたのでその伝手があり小さん師匠のところに入門しました。 私が入る2年前に師匠のおかみさんが亡くなったので弟子は取らないと言っていました。 高校の剣道の監督の恩師が筑波大学の剣道の総監督で、中野八十二?さん(剣道の世界の大先生)と小さん師匠が付き合っていたので、中野先生の紹介で入門が決まりました。

内弟子でしたが、落語よりも剣道の稽古ばっかりでした。 兄弟子たちから落語を教えてもらいました。 師匠からは高座を見て、息、間を学ぶ様に言われました。 質問するとよく答えて貰えました。  1984年に二つ目になり、1993年に真打昇進し「市場」を襲名しました。 前座が「小幸」、二つ目が「さん好」でした。 小さんの「さん」に春風亭柳好が好きだったので「好」にしましたが、師匠はいい顔をしませんでした。 後から聞いたら、以前「さん好」という人が居て、手癖が悪くて辞めさせたという事を或る人から聞きました。  だから師匠は嫌がっていたという事を知りました。 

いい声だと言われますが、声は別段トレーニングしているわけではないのです。     両親に感謝するしかないですね。  2008年に歌も出しています。  

*「会いてえなあ ふる里に」  作詞:荒木とよひさ 作曲:岡千秋 歌:柳亭市馬

第71回芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能を受賞。 「穴どろ」を代表とする落語に評価があった。 「穴どろ」は比較的地味な話ですが、私は大好きです。 若いころに習った話ですが、なかなか馴染まなかったんですが、ようやくここ5,6年でしっくりくるようになりました。 













2024年5月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】ゴッホ(初回:2018/6/25)

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】ゴッホ(初回:2018/6/25) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_25.htmlをご覧ください。

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)     ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)     ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと 

古居さんは島根県1948年生まれ。 会社勤務からフォトジャーナリストの道に進みました。 中でもパレスチナでは30年以上取材を続け、2005年には写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞。 映画では2005年に「ガーダ パレスチナの詩」で第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。  2011年には映画『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』を制作しました。 古居さんは去年10月半ばから年末までガザで取材した二つの映画を市民に無料で貸し出しました。 日本各地から自主上映会を開きたいという動きに広がり上映会は100か所以上に広がりました。 ガザを取材して感じた事、平和への思いなど伺いました。

ドキュメンタリー映画の世界に入ったのは40歳の時でした。 会社員でしたが30代の後半に病気(リュウマチ)になり、回復はしましたが、なんでも表現したいと思うようになりました。  写真教室に入って写真をやろうと思いました。(祖父が写真屋をやっていた。)   その後、ビデオカメラについても拾得しました。  パレスチナ子供写真展があり、印象に残り自分でも行ってみたいと思いました。 その1年後に実際に行きました。(1988年) 最初は毎年行っていました。  

写真集「パレスチナの女たち」、最初は子供たちを撮りたいと思っていました。 居候先で女性たちがかいがいしく働いているのが目につき女性を撮ってみたいと思いました。  DAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞しました。   人々を撮りたいと段々思って行きました。 途中からビデオを始めました。 パレスチナの人びとの生活そのものを撮りたいと思いました。(写真では難しい。)  ビデオでは回しっぱなしにしたり、それなりに大変なこともあり編集なども大変でした。  

追いかけてみたい女性がいて、結婚、出産をしていきますが、撮影を許してくれました。  撮影の方法がそういったスタイルになって行きました。 対象は女性の方が多いです。   どういう生活をしていて、どういう風に思っているのかという事を日本で発信していきたいと思いました。  パレスチナは紛争がなければ、神聖なところで、三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)があり、綺麗なことろがあり、中世と近代が入り混じったような不思議な趣があります。  ガザ地区はちょっと違った感じがあって、情が深い人たちで人間臭くて、人との付き合いが厚い感じがしました。 ストリートチルドレンが居ないんです。 紛争地なので両親が居ない子供が沢山います。 親戚とか兄弟が面倒を見ます。    大家族で少なくとも30人はいます。  

映画の中の女の子も学校で1,2番を争う子でした。 両親が居ないと一緒に住んでいる人たちの思いで、結婚という事も決められます。  ガザ地区でドキュメンタリー映画を2本製作しました。  イスラエルによって封鎖されたりしました。 戦いだけではなく、生活面、暮らし面の女性たちの思いを撮りたかった。 ガーダという女性の存在が大きかった。 ガーダ パレスチナの詩」「ぼくたちは見た:ガザ・サムニ家の子どもたち」  サムニ家は大家族で一か所に100人集められました。(イスラエル侵攻で) その翌日にミサイルが撃ち込まれた、そういった話から始まります。  日本では人間と人間の付き合いが遠くなってきた面があるが、ガザ、パレスチナでは人間の付き合いが深く家族愛があります。  闘いのなかで生きているので極限の状態なんです。  何が大切なのは何かという事がよくわかります。 一番大切な人を失いたくない、それは戦争を止めることだ、と言う事だと思います。  

今、連絡が取れていない人と取れていない人が居ます。 ぼくたちは見た:ガザ・サムニ家の子どもたち」での通訳の人が居ますが、一緒に作ってきた人のような男性ですが、11月に撃たれてしまいました。 その人を通じて子供たちとか連絡を取り合っていたので、今は取れていないです。 ガーダ パレスチナの詩」の方は、ガーダは今カナダ?にいます。 彼女の家も夫の家も全部壊されて、ホームレスになっています。 

パレスチナでは占領が続いて厳しい状況がありましたが、或る程度は生活が出来ていましたが、普通の暮らしが出来ない状況になってきています。  これ以上命が失う事がないような状況になって欲しいと思います。 僕たちはなんでほかの国の人の様に生きられないんだ、普通の生活がしたい、と言うようなことをあちこちで聞きました。  緑はガザでもあります。 1948年以前は農業もやっていました。(イスラエルの建国 パレスチナの人が難民となった。)   

2011年東日本大震災の後に、福島県の飯館村で農家の女性たちを中心に取材しました。 飯館村が計画的避難区域になって全村非難になった時に、彼らの姿がパレスチナの人たちの姿と重なりました。 放射能と紛争地との違いはあるが、故郷を失ったという点では同じだと思います。 2016年にはドキュメンタリー映画『飯舘村の母ちゃんたち、土とともに』、2023年「飯舘村べこやの母ちゃん、それぞれの選択」の2本の映画を製作。 この2本の映画でトロントの国際映画祭大賞で第19回長編ドキュメンタリー映画部門の大賞を受賞。 『飯舘村の母ちゃんたち、土とともに』は福島の伊達市にある伊達東仮設住宅に暮らしている2人の飯館村出身のお母ちゃんたちを撮影する事によってできたものです。  不安を抱えて生きているが、でも悲しんでばかりはいない、笑い飛ばすこともあると一様な映画です。  

40歳前の農家の女性がオランダとかベルギー、ドイツとかに2週間程度行って農業などを学んでくるという先進的なことを飯館村ではやっています。 一番忙しい時に行くので夫は妻の存在を身に染みて判るわけです。 帰ってくると勉強してきたことが、いろいろ生かされるわけです。 飯舘村べこやの母ちゃん、それぞれの選択」では牛と離れ離れになってしまう、駆逐されてしまう。  子供の様に可愛がってきた牛たちと別れなければいけなくなる。 自分が生まれ育ったところとも離れなければいけない。 3人の女性を追いかけました。 女性たちが中に秘めた思いは激しいものがあります。

昨年の10月から年末にかけて、無料でパレスチナの映画を上映しました。 パレスチナのことを知っていただくことが一番大切なことだと思いました。 パレスチナとイスラエルでは長い歴史があるという事を知っていただきたいと思いました。 暴力で自分たちの領土を広げようとか、自分たちの思うように管理しようとか、そういったことは許されない事だと思います。 ハマスも許されない事ではあるが、イスラエルも国際法上許されないことを行っている。 パレスチナとかイスラエルとかではなく、人間として許されない事だと思います。 権力者の方は記録を消そうとする、歴史をなくそうとする。 私は起こってることは残したいと思います。 




  


2024年5月25日土曜日

行天豊雄(旧大蔵省 財務官)       ・〔私の人生手帖〕

行天豊雄(旧大蔵省 財務官)       ・〔私の人生手帖〕 

行天豊雄さんは1931年神奈川県横浜生まれ。(93歳) 旧大蔵省に入省後、1984年に国際金融局長86年には財務官に就任、85年の歴史的なプラザ合意では、取りまとめの重要な役目を果たして、通貨マフィアの一員として活躍しました。 退任後は銀行の合併や国際金融に特化したシンクタンクの著述?などに尽力され、現在も発言し続けています。 ご自身のこれまでの人生と共に、プラザ合意や・・?前のニクソンショックなどの舞台裏を伺うとともに、ますます混迷を深めるこの時代に円の動向にどのように付き合って行ったらいいのか、望ましい方向性などについてもお話を伺います。 

色々緊張する場面には出会いましたが、そのことでじっと思い悩んでいるという事ではなかったです。  なるようにしかならないという気持ちはありました。 国際的な話し合いで立場が違うのは多いんですが、そういう経験を何回もくりかえしていると、段々とお互いの人柄、ものの考え方が判って来ます。 どこへ行ってもいい人、悪い人はいるし、そういう事が判って来るとあまりカッカしなくなる。  こっちが人間的な親しみを感じると相手も同じような人間的な親近感、理解を示してくれるようになる。 そうなるとこの辺で手を打つかなとか、相手の立場もあるのだから、10全部とらないで5,6ぐらいで我慢して残りは相手にあげるとか、そういうゆとりは出てくるような感じはします。 

日本と言う国は為替相場に対して、関心が強すぎると言うところがあると思います。 いくらがいいかというと、誰もが納得する答えはないんです。 一喜一憂せてもしょうがないというところがあるわけです。 日本は食料とか、エネルギーとか輸入しないと食ってはいけない。 いろんなものを作って輸出しないといけない。  外との関係が非常に日本の経済は大きい。 為替相場が気になるのは仕方ない。 

プラザ合意については、アメリカがレーガン大統領の下で、税金は下げます、軍事費を増やします、とやると赤字は増えます。 金融の引き締めをやってドル高になってしまったわけです。 貿易で輸出がしにくくなって貿易赤字が出る。 アメリカの工場で物を作っても売れない。 失業が増える。  それで政治家の人たちが騒ぎ始めて、ドルが高すぎる、円が安すぎるという事を言い始める、 ドルを安くして円を高くしなければいけないという事でプラザ合意が始まって決められた。 円高にしろと言うのが世のなかの統一意見みたいになってしまった。 日本も少しは円高になってもしょうがないという感じはありました。 出来過ぎて一気にドル安円高が進んでしまった。 1ドル260円ぐらいだったが、あっという間に200円を割って、150円割れという事で、日本では円高の行き過ぎではないかという事で、何とかしろという事になる。 

通貨マフィア、あらゆる手段を使って話し合いをします。 それぞれの国の状況、世界全体の状況が一体どうなっているのかと言う事の認識を擦り合わせる。 それにはどうしたらいいのか、それぞれの国はどうしたらいいのか、現状の分析、個々の国の政策の立案、実行と言った政策協調をするのが仕事の内容です。 プラスマイナスがるのでいろいろな駆け引きがあるわけです。  国際収支の不均衡を直す責任がどの国にあるのかと言うようなことは答えが無いわけです。 力関係、駆け引きなどがあるわけです。  相手をどこまで知っているかという事も大きいです。 日本では予期していなかった円高が進んでしまいました。 

バブル、バブル崩壊、失われた20年、30年という変遷をたどる。 プラザ合意ではプラス50,マイナス50だったと思うが、その後マイナス50をどうやって改善するかという事で日本の取った政策、国内政策は余り高い点数があげられなかったと思います。 今までのような一生懸命物を作って売って、円高ではない方がいいんだという事だけで進んできた。  民の生活についてもっと金、知恵を使って動くべきじゃなかったのかなと思います。  産業構造の転換に至れなかった。  プラザ合意の結果についての対応の仕方が、日本の場合は残念ながら間違っていたのではないかと思います。 

横浜で生まれ育ちました。 第二次世界大戦に負けたとに大量の米軍が入ってきました。 外の文化に接する機会が早くかつ強かった。  外国に行ってみたいと言う思いは強くありました。 20歳になって留学しました。 氷川丸(約1万5000トン)に乗って私はアメリカに行きました。(1956年)  アメリカの奨学金で全部行きました。 ジャーナリストになりたかった。  就職難の時代だったので試験の早い国家公務員試験があってそれに受かって大蔵省に入りました。  留学の利点は外から自分の国を広い視野から見るという事でした。 当時は国際経験にある人は少なかった。(20数人いる同期で私だけでした。)  日本は大きくなっていったが、日本人はそういった意識がなく、自分の力に沿った責任感が無く、自分のことしか考えていない、そういった食い違いを凄く感じました。  なんとかしなければいけないという感じは何時もありました。 今でも続いています。 日本は仲間内は大事にする。(いいこともあるが)

留学から戻ってから為替の世界をずっと歩いてきました。  1971年にニクソンショックがあり、当時すでにアメリカは国際収支が赤字になり、金が流出してしまい、ドルと金の交換をアメリカ政府は保証していたが、その保証を止めますと決めました。 その影響がどのようになるのかはパッとは判らなかった。 後から考えると歴史的な大事件でした。   その後何年かして変動相場制に変わってゆく。  日本の経済に非常に大きな試練をもたらす事でした。 

国際金融の場では、まず国の利益を考えて、何が、どういう形が利益になるかを考えて、それをほかの連中にOKさせるために、どういう論法、説得力を持ったらいいかという事を考えるのが交渉のスタートです。  為替市場の望ましい形は、将来に向かっての予見可能性があるかないか、と言うのが非常に大事です。 後は安定しているかどうか。  






















 






  

2024年5月24日金曜日

鈴木のりたけ(絵本作家・イラストレーター)・〔ことばの贈りもの〕 私の絵本作家への道

 鈴木のりたけ(絵本作家・イラストレーター)・〔ことばの贈りもの〕 私の絵本作家への道  

鈴木さんの絵本「大ピンチずかん」はケーキを倒したり、牛乳をこぼしたりと普段ありそうな出来事に慌てたり、がっかりしてりするピンチの時の子どもの顔が描かれていて、ユーモアにあふれた作品が大人気です。 鈴木さんは一橋大学を卒業後、JR東海に入社、しかしもっとやりたいことを目指したいとグラフィックデザインを学び、デザイン会社で8年間勤務、その後デザイナーを経て、2008年に絵本作家になります。 2009年に仕事を絵で紹介する「しごとば」を刊行、「ぼくのトイレ」で日本絵本読書者賞を受賞、「しごとば 東京スカイツリー」で小学館小学館児童出版文化賞を受賞。

絵本「大ピンチずかん」が相当な売れ行きです。 昨年児童書で一番売れた本です。 総合でも2位に入ったりしています。 児童書業界ではなかなかない事です。 理屈ではなくて、肌感のあるピンチをえりすぐっていれるようにしています。 大人、子供に関係なくアルアルと言った感じです。 半分ぐらいは家の子どもが実際に起こったことです。 出版社の方ともわいわいやりながら作って来ました。  今子供は中3と小6と小4です。  「大ピンチずかん」ん構想を始めたのが小学生の低学年でした。 

1975年、現在の静岡県浜松市中央区に生まれる。(48歳) 絵本作家としては2008年にデビュー。  大学卒業後はJR東海総合職として入社。 やりたいことではなかったことから2年で退社。 グラフィックデザインを学び、デザイン会社に入社しました。 広告のグラフィックデザインを8年間やりました。 子供の頃は弁護士になりたかったです。  大学は一橋大学社会学部に行きました。 就職して、勝ち組みたいなそういった事では人生は決まらないよなと気付きました。 絵でいかにコミュニケーションをしてゆくのか、絵は手段ですね。 大学で学んだことは役に立ちました。 

「しごとば」と言う絵本。 取材の本で、1冊に9職業ぐらい入っています。 実際の仕事場にはあまり時間を掛けられないので、一つの職業に対して取材は3時間ぐらいです。  写真などもたくさん撮ります。 自分が知らないことがいろいろ出来るという事は役得だと思いました。 絵を描くのは大変でした。 美容師さんの鋏とかいろいろ道具のことまで気になりました。   『しごとば 東京スカイツリー』は第62回小学館児童出版文化賞を受賞。  「しごとへの道」時間軸を長くして仕事の本質をあぶりだしたいなあと思いました。

新幹線の運転士は自分のことではなくて、取材して描きました。 少年野球の監督の話は本当にいい話でした。 こういうことがあるから人生は面白いと思いました。 パン職人も、その人が何を経て今この仕事をやっているのか、背後にあることまで含めてみる。 ここに出てくる人たちはまだ40代の人で、今がゴールではなくいろんな人に出会って自分の仕事の軸をちょっとづつ伸ばしながら、自分の人生を力強くあゆんで行かれると思います。  そういったことを感じて欲しいと思います。 道を外したらいけないとかではなく、悩みながら進んでいくことこそ、その姿こそ生きることの意味と言うか、、素晴らしいと思います。 答えは一つもないと思います。 子供たちに伝えることは難しいかとも思いますが、終わりではなくずっと続くんだよという事を、前向きな気持ちで判ってもらいたい。

研究者の方は不登校から始まって、世の中に阻害されているんじゃないかと思うぐらい、大変な時期もあったが、こういう人を取材するから本を作る意味があるなと思いました。  母親の対応の仕方も優しくてよかったと思います。 オーケストラ団員は本当にエリートで、取材した方は気さくな方で、どうしたら人と通じあえるかを、音楽を通して学んできただけなのでという事で、正面から取材すれば、本質の部分が描けるのではないかと思って、入れることにしました。  取材してみてゆくと誰にでもドラマ、ターニングポイント、素敵な出会いがあるんだなあと思います。 
















2024年5月23日木曜日

土屋伸之(漫才協会常務理事)      ・〔私のアート交遊録〕 言葉を磨き、絵に集中

土屋伸之(漫才協会常務理事)      ・〔私のアート交遊録〕 言葉を磨き、絵に集中 

1978年東京都生まれ。 大学の先輩だった塙宜之さんとコンビを結成、幅広い分野で活躍して、現在は漫才協会常務理事も務めています。 子供の頃から絵を描くことが好きだったという土屋さん、高校生の時に競馬博物館へ行き1977年の有馬記念の記録映像トウショウボーイとテンポイントの激闘を見て、スポーツとしての競馬にはまります。 さらにビワハイジと言う黒い牝馬と出会い、気が付くとビワハイジの絵ばかり描いていたと言います。 Eテレで現在放送中の「びじゅチューン」に出演するようになった土屋さんは、これがきっかけとなって美術への関心がさらに高まり、海外の美術館に出掛ける程になって行きます。 お笑いに出会い人と遊ぶ事を覚えた、引きこもりから抜け出せたのは、お笑いのお陰と言う土屋さんに、夢中になる絵の魅力や万歳に掛ける意気込みなどを伺いました。

子供の頃は比較的おとなしい方でした。 消しゴム人形で一人で遊ぶのが好きでした。 閉じこもって独りで遊ぶタイプでした。 40歳過ぎて番組のきっかけでカミングアウトして、ユーチューブとかいろいろやるようになりました。 そのままでは駄目だという反動でお笑いを始めた、もっと人とふれあって楽しい事は外に一杯あるよと教えてくれたのがお笑いでした。 絵を描くのも小学校から好きでした。  漫画の人物をノートに書き移していた子でした。 漫画家になりたいという思いもありました。 褒められると描いちゃいますね。 うちの子供たちも一緒です。 絵は家の家族を繋げる一つかもしれないです。  リアルな絵を見せたら驚いて、いまでは尊敬してくれています。(絵を描く時だけですが。)

高校生の時に競馬博物館へ行き1977年の有馬記念の記録映像トウショウボーイとテンポイントの激闘を見て、こんな面白いスポーツがあるのかと知って、サラブレッドの美しさに心を打たれました。  ビワハイジと言う黒い牝馬と出会い、G1で勝って大きな写真を見て絵を描きたくなりました。 気が付いたら何日もその絵を描いていました。  出来上がった絵は写真みたいで、自分でもこんなに集中力があるんだと気付きました。 

雑誌のグラビアに載るゴールの瞬間のシーンを多く描きます。 競馬場へはよく行き、何時間も見ていました。  他の馬も描いています。 最初は鉛筆だけで、白黒の絵を描いていました。 大学生になったころは色鉛筆で描き始めました。 ジョッキーからとか、競馬場からオファーを頂いたりして描きました。  写真を写して描いているので、漠然と仕事にはならないと思っていました。  頼まれてインコを描きましたが、30分ぐらいで駄目でした。(感情が動かない。) 

Eテレで現在放送中の「びじゅチューン」に出演するようになりました。  最初見た時には吃驚して家族ではまって、歌なども全部覚えたりして、他の番組で紹介していたりしたら、「びじゅチューン」のスタッフさんから呼んでいただきました。 いまはレギュラーで一緒にやらしていただいています。  本格的なアートに目が向くようになりました。   上野の美術館は近いのでよく行くようになりました。 5年ぐらい前にフランスで世界最高峰のレースの凱旋門賞があり、妻と観に行きました。 美術館も観にいき凄いと思いました。  

中学、高校とどんどん引きこもって行きました。 大学に入ってこのままだといけないと、将来が不安になりました。  公認会計士を目指して勉強していましたが、楽しみとして大学のお笑いサークルのライブを見に行くことが唯一の楽しみでした。  公認会計士を諦めて、落研に入部しました。 そこで当時部長をやっていた、1歳上の塙さんと出会いました。 塙さんが4年生の時に、コンビを組まないかと誘われました。  最初は全然受けませんでした。 漫才協会に入るように言われて、厭でしたが入ることになりました。(王道路線とは違っていた。) 舞台に出て喜んでくれるお客さんを見ると快感を覚えます。 

描いた絵は50から60ぐらいはあります。 忙しさの合間に描くので1枚描くのに1週間ぐらいかかります。 師匠の内海桂子さんには絵を見せたことがあります。  師匠はインスピレーションでササっと描いてしまうのでそれも凄いと思いました。 「万歳は言葉で絵を描くものだ。」と師匠は言っています。 お客さんに頭の中に絵を浮かび上がらせるという、僕らの仕事はそういう風に思いました。  漫才の神髄はそういうところになるのかなあと思いました。  お薦めの一点としては、「びじゅチューン」のなかの「民衆を温泉に導く自由の女神」言う作品です。 











 


2024年5月22日水曜日

荒木雅博(野球解説者)         ・〔スポーツ明日への伝言〕 外れ、外れの1位からの道

荒木雅博(野球解説者・元プロ野球中日ドラゴンズ)・〔スポーツ明日への伝言〕 外れ、外れの1位からの道 

荒木さんは2塁手として6年連続でゴールデングラブ賞を受賞、更に盗塁王、2000安打達成と切れ味鋭い走攻守のプレーで多くのファンを魅了してきました。 さらに現在の日本代表「さむらいジャパン」監督の井端弘和さんと組んだ2游間は1,2番の打順と併せて、「アライバ」と呼ばれて、何度となく連携の妙を見せてくれる、球界を代表する名コンビでした。   荒木さんに守備やバッティングへのこだわり、若手への期待などを伺います。

ちょっと離れてみると、もうひとつ違うものが見えると思て、いま勉強させてもらっています。  自分がコーチをやっていた時に、「今上手くなるとは思うなよ。」とは言っていましたが、これからが楽しみな時期ですね。 上手く成り方はずっと平坦でいきなり来るので、いつ来るのか楽しみに待っています。 今の選手たちは2000年生まれとかで、「アライバ」のプレーは観ていないですね。 ユーチューブでは観ているので凄いなあで終わります。   

熊本県菊池郡菊陽町出身。 菊陽町は台湾の半導体メーカーが進出してきて、全国的に注目されている町になっています。 まったく変わってきています。  子供の頃はのどかな町でした。 小学校の頃はサッカーをやっていて、中学から野球を始めました。 高校は熊本工業に行きました。OBには川上哲治さんほか沢山の名選手がいます。 今年野球部100周年の年になります。 1995年(平成7年)のドラフト1位で中日ドラゴンズへ。  星野仙一監督で1位指名が福留孝介選手で外れて、つぎに原俊介選手で外れて、星野さんは「もう誰でもいい。」と言ったらしいです。 それが僕でした。 入ってお前がドラフト1位かとよく言われて辛かったです。 ドラフト1位と言うプレッシャーは全くなかったです。 自分の立ち位置を考えて、やるべきことをやってゆくという思いしかなかったです。せっかちで、こつこつと言うタイプでした。  

セカンドは高校2年生の時に一寸の期間やっていただけでした。(ショートでした。)  プロになってセカンドになりました。  ショートはファースト迄の距離があるので前に行って早く取らないと間に合わないことがあるが、セカンドはそんなことはなく、違いは時間の問題だと思います。  逆方向に投げなければいけないのがセカンドですね。 右にも投げるし左にも投げなければいけないポジションですが、しかし突き詰めてゆくとおんなじなんです。  ヘッドスライディングで肩を痛めてしまって送球には苦労しました。  自分の意志通りにはそこに投げられなくなってしまったのが1,2年ありました。  注射を打ったりしましたが、最終的には水泳でクロールで治りました。(33歳)  

2007年日本シリーズ第5戦、完全試合なるかの時に、ツーアウト目にキャンバス寄りの難しいゴロが来ました。 ボールを取って変なところで握ってしまいました。 握りかえるとセーフになってしまうので、どうにでもなれと言う思いで投げたら、高めでしたが、何とかいきました。 

2塁手として6年連続でゴールデングラブ賞を受賞。 「アライバ」のプレーで、グラブで取ってそのまま、ショートにトスをして、ファイストに投げてダブルプレーをとる。 声でショートの位置を感じます。 ポジションについては聞いたり見たりして身に付けていきました。 一時期ショートを守ったことがありましたが、いろいろ失敗がありいい勉強になりました。  落合監督は不思議な感じがありました。 怒らないし、技術指導と言うよりは性格をみて采配の中に入っていたのではないかと思うぐらいの感じでした。 若い選手は直ぐに結果を求めたがる。 駄目だとそれを辞めてしまう。  コツコツ積み上げることが大事だと思います。 









2024年5月21日火曜日

松本壮志(NPO法人TSUBASA 代表理事)・人と鳥の幸せを目指して

松本壮志(NPO法人TSUBASA 代表理事)・人と鳥の幸せを目指して 

埼玉県新座市にある「鳥村」は行き場を失った飼い鳥を保護して、新たな飼い主への仲立ちをする、いわば鳥の駆け込み寺的な施設です。 運営しているのはNPO法人TSUBASAです。 代表の松本壮志さんは保護している鳥が一羽でも新しい飼い主に出会えるよう、イベントなどで全国各地を回って、愛好家たちからは、「鳥じい」と呼ばれています。 他のペットでも高齢者が飼えなくなることが良くありますが、鳥にはまた違った事情があるそうです。 飼い鳥と飼い主、そして周りの人に良い環境を作っていきたいという松本さんにお話を伺いました。 

今約150羽ぐらいいます。  ここの所増えた感じがします。 インコ、オウム、文鳥などが多いです。 NPO法人TSUBASAは飼えなくなった鳥を引き取って、新しい里親を捜すという活動をしています。  高齢者、亡くなった方、病気になった方が多いです。 鳥は長生きで、鳩ぐらいの大きさで50年以上、100年と言う鳥もいます。 動物愛護法では終生飼養と言うのが義務付けられている。 飼えなくなった場合には、命のバトンをしていかなければならないのかと思います。  中継点にTSUBASAがあるものと思っています。

ペットショップで立ちいかなくなって引き取るというケースもあります。 うちの施設で一番長寿が還暦を迎えました。 なかなか里親が決まらない場合と、早く決まることもあります。 一般的な市場価格よりも半分以下の価格で譲渡しますが、残っている鳥たちへの世話代として寄付と言う形で頂いています。 鳥は頭がいいです。  10年振りにあった人もちゃんと覚えています。 

ちょっとしたことが重なって、鳥が表に飛び出して迷子になってしまうというケースが凄く多いです。 コロナの時にペットブームが起こって、犬、猫が高騰して鳥を買う事が増えました。 飼ったはいいが、コロナが落ちついえてもいいやという事で、鳥は自由に飛ぶべきだと間違ったことを考えで、放してしまう方もいます。 野生化したインコ、ワカケホンセイインコは昔大量に逃げたという事がり、群れを成して繁殖して、今の様に増えて行ってしまった。 一羽で逃げると、カラス、猫、交通事故等亡くなってしまうケースが多いです。

全国の主要都市を回って、対面によるセミナーを開催しています。 オンラインでもセミナーの開催をしています。  鳥を飼っている人同士の交流は余り無いので、セミナーをやってきっかけを作ることが凄く大切かなと思います。 飼育崩壊の一つの共通点があって、鳥が大好き、歳をとる、多くの方が孤独の方が多い。 交流する事で未然に防ぎたいと思います。  

昭和30年福岡県生まれ。 幼稚園の時代から鳥は飼っていました。 ヒヨコを飼って懐いてくれました。  雀の雛を飼って育てたこともあります。 鳩ブームで鳩もたくさん飼いました。  18歳で東京に来ました。 専門学校に通っていましたが、怪我をして新聞配達のアルバイトが出来なくなり、移動動物園との出会いがありました。 いろいろな幼稚園などを周りました。  辞めようと思いましたがデパートの屋上のちびっこ動物園が勤務先になりました。  色々あって2年ぐらいやりました。  その後動物プロダクションに入りました。 いろいろな動物を連れて行って番組の中で使うので、そういった仕事です。 動物ファーストではないという事で社長と喧嘩して1年で辞めました。

動物関係の仕事は諦めて、電気関係の会社に入りました。 8年間勤めて独立をして会社を作りました。(長野県松本市) 東京ならもっと仕事ができるという事で又東京に戻ってきました。  東京で会社を立ち上げてこれまで来られました。  松本時代にペットショップから犬を飼いましたが、2日後に骨折してしまって、病院に連れて行ったら物凄い栄養失調で、ダニだらけだと言われて、動物業界はおかしいなと再び火がついてしまいました。 自分にできることはあるのかなと思って、自分でペットショップを池袋に出しました。   犬や猫も100日以上、ワクチンを2回打たないと販売しないという事を決めました。  親と一緒にある程度の時間を過ごすことによって社会性を学ぶので、いい犬猫になる。  しかし購入側は大きくなった犬猫は買わないので、半年後には閑古鳥が鳴くような状況になってしまって、契約上すぐに店をたためないので、家に飼っていたインコなどをその店で放し飼いにしていました。(売る気はなかった。)  

段々鳥を売ってくれませんかという事になって来ました。  そして鳥の販売の方に切り替えていきました。(1998年)  狭くなったので埼玉県に移りました。 電子部品の会社もずっと続けています。 そのため理想のペットショップが出来たと思います。 全国からこられました。 2012年にNPO法人TSUBASAを立ち上げました。 職員の給料、家賃、餌代、医療費などがあるので費用が掛かりますが、募金、セミナー、イベントでの収益などでぎりぎり何とかやっています。 今10人近くいます。 鳥専門の獣医もいます。 本当に飼ってもらえるものかどうか、2回鳥と面接をして、3回目に引き取ってもらうというようなシステムになっています。 里親は関東近辺になってしまいます。 鳥が人を選ぶというコンセプトでやっています。  過去の記憶があるものと凄く感じています。

動物業界を変えたいという思いは、今でもあります。 繁殖場で鳥を迎える様な時代が来ないと、鳥たちの今に現状は良くならないと思います。  アメリカでは20年以上前から鳥を繁殖場から迎えるようになっています。  地方でTSUBASAみたいな施設を作る様であれば是非お手伝いをしたいと思っています。 又TSUBASAの直営店も増やしていきたいと思っています。


















2024年5月20日月曜日

吉田良一郎(津軽三味線奏者)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 吉田良一郎(津軽三味線奏者)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

吉田兄弟、デビュー25周年。 全国ツアーを行っています。 生の音色を改めて聞いて貰おうとしています。 和楽器ならではの音の揺れ、響き、濁りと言うか、その音を体感してもらいたいと思っています。 客席は最高で500人ぐらいです。  残りが40公演ぐらいあります。

1977年北海道登別市出身。 5歳から三味線を習い始め、12歳の時に津軽三味線に出会う。 10代で津軽三味線の大会で賞を受賞するなど頭角を現し、1999年に弟の健一さんと兄弟でメジャーデビュー。 2003年に全米デビュー、以降世界各国での活動、様々なアーティストとのコラボレーションを通して津軽三味線の世界に革新を起こし続けています。   2008年からは吉田良一郎個人としてのプロジェクトとして、学校公演を中心とする邦楽ユニット「わさび」の活動を通して子供たちに伝統音楽の伝えています。 

きっかけは父の勧めで5歳の時に三味線を始めました。 父が津軽三味線の演奏を聴いて凄く感動して、プロになりたかったらしいが、親から反対されたそうです。  民謡三味線から始めました。 津軽三味線のバチを叩く方法は独特です。 津軽平野の風、吹雪と言う音に勝つために、派手に演奏してもらうと言うところから生まれた奏法だと思います。 世界中で弦楽器で叩く、リズムを刻むものはないと思います。 

最初に父が洗面器、スコップの柄などを利用して手作りの三味線を作ってくれました。  近所に先生がいて通うようになりました。 小学校2,3年生の時に三味線を習っていると言ったら、「なんて爺臭いことをやっているのか。」と言われてショックをうけました。  中学に入ったら父に辞めようという事を言おうと思っていましたが、言えずに今日まで来ました。  その後父の勧めで津軽三味線を習い始めました。 衝撃を受けました。 譜面がありませんでした。  構え、バチの持ち方から全部やり直しでした。  津軽三味線の全国大会があることも知りました。 大会に参加したらさらに衝撃を受けました。 同世代がいました。 そして20、30代が優勝していました。 そこでスイッチが入りました。  今では大学のサークルがあり沢山います。  「ましろのおと」という津軽三味線のアニメが始まり、ハリウッドで映画「KUBO」という三味線を持った男の子が主人公でやりました。 それが津軽三味線の火付け役になりました。 

デビュー前にオーストラリアのオペラハウスで弾きましたが、満席だったところがパラパラと帰って行く姿をみました。  もっとわかりやすく、聞きやすくしなければいけないと感じました。 オリジナル曲を作ればもっと判りやすいのではないかと思いました。 オリジナル曲を作ったり、バンドとのコラボレーションを始めました。  どんなオリジナル曲でも、それはギターでもいいのではないかと言われたらおしまいだと思っています。 三味線だからできるフレーズでなければいけない。  

RISING」   演奏:吉田兄弟

結婚式でこの曲で入場してくるのが流行っているらしいです。  

2008年に若い人に和楽器の魅力を伝えるために学校公演を中心とする「WASABI」(和のサビ 一番聞かせどころ)を結成。 幼稚園から大学までが対象になっています。  オリジナル曲でやっています。 日本に触れたことのない子が多い。 教える先生もいない。  

*「ほたる」    演奏:WASABI                      朗読劇で沖田総司が亡くなってゆくシーンで使われた曲。 津軽三味線とお琴が一緒にやるという事はまずなかったですね。 

日本の音は風の音、虫の音、雪が降る音だったりとか、そこを表現していると僕は感じます。  自然から出てくる音が日本の音だと思います。 

好きなタイミングでどんどん拍手してほしいと思います。 「津軽じょんがら節」を越えるような曲を作って行けたらばなと思っています。












 










2024年5月19日日曜日

沢野ひとし(エッセイスト・絵本作家)  ・〔美味しい仕事人〕 台所を楽しむ

 沢野ひとしイラストレーター・エッセイスト・絵本作家)・〔美味しい仕事人〕 台所を楽しむ

沢野ひとしさんは児童書の出版社勤務を経て、書評誌創刊時の1976年からその表紙と本文のイラストを担当、又山岳をテーマにしたイラストエッセーで人気を博しました。 これまでのエッセーで食についてはしばしば登場してきましたが、80歳を目前にした沢野さんは台所には生きる底力が詰まっているという心境に至ったそうです。

台所がコの字型になっていて、カウンター居酒屋みたいになっています。 おたま、鍋、包丁などを吊るす家がありますが案外効率が悪いです。  キッチンの高さは高くないとやりずらいです。 道具が多いと料理ができにくくなります。 使わない道具があってもしょうがない。  台所は危険なところなので或る程度整理しておかないといけない。 本当に必要なものを用意する。 「爺にとって台所は上昇志向の場であり、瞑想にふける茶室である。」  

山登りは歩いている時間がほとんどです。 朝冬だと、2時に起きて3時にテントを?4時に出発、夏では3時に起きて5時に出掛けるという事で、2時間しかない。 夕方も3時に着いたらご飯作って5時に寝るという感じです。 マイナス15度ぐらいのところでは簡単な料理しか作れない。 

小さいころから高校、大学のころまで兄と山に行ったりスキーに行ったりしていました。 料理は兄から教わりました。 塩の分量なども多すぎると調整が出来ないので、最初は薄目にします。 高校の頃には一人で登山をするようにもなりました。 「人生のことは全て山から学んだ。」 ザイル、ロープ、アイゼン、ピッケルなど使い出す食料はどうしても軽くしなければいけない。 食糧計画はきちっとしないといけない。 「バクダン」といって醤油の中に煮干しを入れて、唐辛子、胡麻、昆布入れて持っていくと何にでも使えます。

万能調味料「ペミカン」(カナダ及びアメリカに先住するインディアンたちの伝統的な食品)、ラードにネギ、ニンニク、ジャガイモなどを細かく切って、密閉容器に入れる。 歩く時間が多いのでポケットに雨、チョコレートなどを分散しておき、食べながら歩くことが多いです。 

トムラウシチャーハン、北海道のトムラウシ山に行った時に名付けたチャーハンです。 米は30分ぐらい必ず水に浸ける。  中国には何十回と言っています。 全土に行きました。 最初はツアーに参加して段々慣れてきて、作家の友人などをとの交流もあり増えていきました。  

歌謡曲はその時代とその時代の風土、から自分は離れられないですね。 昭和の曲は涙っぽくなりますね。 美空ひばり、フランク永井、森進一・・・。   

お薦めの鍋料理としては、まずショウガを擦ってショウガ鍋、鶏肉を入れて、豆腐、ネギを入れて、それが一番好きですかね。 ちゃんこ鍋も好きです。 鍋料理はあまり凝らないです。  大根の煮物も好きです。 大根とイカ、大根とブリ、大根と牛すじとか。    玉ねぎを半分に切って、ジャガイモを半分に切って、ニンジンは少し細かく切ってコンソメ入れてずっと煮ているというのもいいですね。  台所は火と水があり、心を温めてくれる、楽しいですね。 








2024年5月18日土曜日

磯田道史(歴史学者)          ・歴史は韻をふむ

磯田道史(歴史学者)          ・歴史は韻をふむ 

著作は10冊以上、映画化された「武士の家計簿」は激動の時代を生きぬくヒントを示し人気を博しました。 現在NHKBSとプレミアム4Kで放送中の「英雄たちの選択」に司会として出演中です。 そんな磯田さんは岡山市の出身、今回は子供の頃によく通っていた岡山県倉敷市の楯築遺跡たてつきいせき)や岡山市内の御実家、京都市西京区にある国際日本文化研究センター内の図書館などでお話を伺いました。

楯築遺跡は弥生時代後期に作られたお墓、墳丘墓です。 当時発掘調査を見に来たり大雨の後土器のかけらを捜しに来たりしていました。  磯田さんは小学生の時に古墳を作りました。 やってみないと判らないことがある。 1mの古墳を作るのに面積は2mに伸ばした場合、4倍になり、体積は8倍です。 8倍の感覚を体で知っていないといけないと子供ながらに思ったんです。 

「歴史研究この6年の歩み」を卒業文集に書いています。 歴史好きは2年生ごろ始まり、4年生の頃には城を知るためには歴史を知らなければならないと、図書館で歴史の本を読んだ。 考古学にも興味を持つ。  近くに遺跡の一部が工事で掘り起こされ、土器破片などが出土してよい勉強にもなった。  土器の復元の試みなどもした。 歴史研究に示した探求心は何時までも続けていきたいと思う。 と言った内容。

これは家に伝わってきた古文書です。 池田家に仕えた磯田さんの先祖が残した家系図。(江戸時代に記される。)   歴代の当主が自分の履歴書を書いていて、全部解読すれば日にち単位で何をしていたかが判るので、学校の勉強を一時中断することにしました。(学校には行くが、宿題、学校の勉強はしない。) 歴史の年号を覚えさせたり、成績のためにやらせるから、歴史が面白くなくなる。  有名人ばかりで、皆歴史の主人公だという事を教えないのも良くない。  仁徳天皇陵でもそれを作る人が何千人もいたはずで、そこにはご飯を炊く(弥生炊飯器)人もいただろうし、視点を変えると変わって来る。 

歴史を知らないと世の中安全に暮らせない。 歴史は安全靴だと思っています。 歴史を知っていれば災害を避けられたり、苦難を避けられたり、学んでいればわかる。 類似の予測が出来る。 歴史は繰り返さないが韻を踏む。 歴史を知ってゆくと、類似のことが過去にいくつも同じことが起きている。 南海トラフ巨大地震も100年、150年、200年とか言われれるかもしれないが300年以上来なかったことはない。 来方が韻を踏んで違ってくる。 

研究に力を入れている一つが防災史です。 災害の古文書を読み解き、教訓となる言葉を拾い上げている。 災害は必ず来る。 韻の踏む起き方が、前よりも軽く韻を踏んでくる時と、強めに広く韻を踏んでくる場合がある。 能登は前より強めにですね。 地震の活動期が始まっているのではないかとも考えられる。 

価値観の多様化は必要だと思います。  江戸時代に身分制が崩壊した時に、身分に変わっていい学校に行ったらいい職があるという社会を200年やってきた。 生活が安定したら希望ができて、幸せなんだというようになっているが、そのレールがほとんど崩壊しつつある。  経済成長もそれほど高いものではなくなってきている。  人間が金太郎飴のような人しかできない。 画一した知識はこれまでにはよかったかもしれない、自動車を作ったりするものにはいいかもしれない。  工場型の経済ではなくなった時に、面白いもの、ソフトを作れと言われた時に困っている訳です。 江戸的な多様さ、価値観の多様さが必要。 受験勉強の我慢大会があって、我慢してみても、発想が価値を生む時代になると難しい。  発想を豊かにするためには豊かな体験です。 皆の為にも自分の為にもなる道楽を追求するという事が重要なところです。 

学校に何時に行くこととか、宿題をすることとかは、ルーティーンで決まってやらなければならないことで、なにかいつもと違う事をやってみる時間とものは持っていた方がいい。  その人の時間を豊かにするものは、ルーティーンでない時間を作って下さい。 そこに充実度を求めてゆくしか、この日本で解決策はないと思っています。 探究心をもってやってゆくことの大事さは必要です。 













2024年5月17日金曜日

小泉今日子(俳優 プロデューサー)    ・私は私〜自己プロデュースをするということ〜

小泉今日子(俳優 プロデューサー)    ・私は私〜自己プロデュースをするということ〜 

小泉さんは1966年(昭和41年)神奈川県生まれ。 1982年「私は16歳」デデビュー、その2年後「渚のはいから人魚」が大ヒットして、一躍トップアイドルになります。 その後も「ヤマチナデシコ七変化」、「なんてったってアイドル」などヒット曲を出して、80年代を代表するアイドルになります。 又、俳優活動にも力を入れて、ドラマ、映画、舞台と出演、2013年の連続テレビ小説の「あまちゃん」とか2019年の大河ドラマ「いだてん」などにも出ていました。  2015年舞台のプロデュースをするために会社を設立、2018年デビュー以来所属していた事務所から独立、自身の会社で活動を始めます。 現在歌手として、俳優として、プロデューサーとしてマルチに活動しています。 

デビュー以来今年で42年になります。  映画『碁盤斬り』が公開されます。 冤罪事件を起こし班にいられなくなった浪人・柳田格之進の役は草彅剛さんで、娘・お絹役が清原果耶さん、私はその親子を陰になり日向になり見守る遊郭の女将・お庚役です。 復讐劇です。  人情噺で役としてやったら凄く面白そうなので即答しました。 白石監督がきちんとした舞台としての色を作ってくれたのでやり易かったです。 京都の撮影所は初めてだったんですが、一つ一つのものを磨きながら大事に使っている、京都的なものが随所に現れている、洗練された感じがしました。  江戸の町ってこんな感じだったのかと思えるシーンが沢山ありました。 音、灯り、セットもそうですし、丁寧に作られた感じがします。  「覚悟」と言う言葉が随所にありますが、私も「覚悟」という言葉を使って生きてきたと思います。 

歌手になると決めた時も、1年目は判らなかったけど、ちゃんとやるという覚悟がないと出来ない仕事だなと感じました。  節目節目でそう思ったし、今もそうありたいと思っています。 年頃になって、一家離散的なことがあって、姉二人がいますが働けたりしましたが、私は足手纏いになってしまうと感じて、出来る仕事があるかなと思ったら受かって、自分の仕事が出来たという感覚でした。 父が小さな会社を経営していましたが、倒産して、母と私がこっそりアパートに住みました。 問題が解決して戻ってもいいといことになりましたが、私以外は誰も戻りませんでした。  早く仕事が見つかったので気は楽になりました。  皆同等と言うような家族でした。 家族離散とはちょっと大げさに言いましたが、家族が繋がってはいます。 今は亡くなって、姉一人と私だけになってしまいました。 

或る時にディレクターが変って、曲調が明るくなった瞬間があって、ショートカットにしたり、服もカジュアルにしたりして、反抗したというような印象に見えたかも知れませんでしたが、そういう訳ではありませんでした。  いいお姉さんたちと親しくしてもらって、いろいろなところへ連れていってもらったり話をしてもらって、そこで吸収してゆくのが凄く楽しかったです。 芸能界に入って一番最初に凄く嬉しいと思ったのは久世光彦さんのドラマに出た時でした。 久世さんからは飴と鞭でいろんなことを教えてもらいました。 

色々なことを教えてもらったお陰で、プロデュースに興味を持ちました。 2015年に会社を設立し、舞台に制作から始めました。 2018年には独立しました。(50代)  残りの人生は自分で責任をもって、生きてみたいと思いました。  沢山お勉強代がかかりました。 還暦までは毎年ツアーをやって、歌手として立つ場所を作ろうと思っています。 とりあえずゴールを60歳に置いていて、そこから先は未定にしています。 いろんな方がオファーしてくれるので、それだったらどうやろうかとか何時も考えています。 自分からこんな役をやりたい、この監督とやりたいというようなことは余り無いです。 総合的にプロデュースすると言うのが、多分私のやり方なのでそうなっているのかもしれないです。 









2024年5月16日木曜日

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中!

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中! 

ビリ―バンバンは1969年にメジャーデビュー、3歳上の兄孝さんと歌う「白いブランコ」や「さよならをするために」が大ヒット、1972年には紅白歌合戦に初出場を果たしました。 今年でデビュー55周年を迎えますが、その途中にはともに大病を患うなど大きな変化もありました。 菅原さんは現在76歳、ソロ活動も活発にやっています。 さいきんではアニメソングや若手アイティストの楽曲をカバーして、動画サイトで配信、幅広い世代から反響を呼んでいます。 

動画サイトは2年ぐらい前からアニメの歌とか、歌いました。 若い人はテンポが速いが、僕の場合若い人には歌えないゆっくりとしたテンポで歌おうと思いました。 Adoさんの「うっせいわ」というカバー、オリジナル曲はエネルギッシュですが、僕が歌いと違い印象になります。 ゆっくりだし、歌詞の意味がつかみやすくなります。 再生回数が150万回。 動画がモノクロです。 ゲーム音楽もカバーしています。 それまでのビリーバンバンの世界観とは全く違います。 若い人たちは全然発想が違うので、それを歌いたいと思いました。    

中学校時代からアメリカンポップスが大好きでした。 シングル盤を100枚ぐらい買いました。 それを聞いて、それが僕の音楽の始まりでした。 母は音楽が大好きで、父は音痴でした。 兄弟は3人ですが、一番上の兄が一番うたがうまかったんですが亡くなってしまいました。  次男の孝兄さんも歌が好きでした。  父が浜口庫之助先生を知っていて、紹介してもらって、兄と共に先生の学校に通うようになりました。(高校2年)  2年後に兄弟でやろうという事が決まりました。  自分では中学生のころから歌で生きて行こうと決めていました。  先生のお屋敷に白いブランコが有ったんです。 そこに座って作詞家の小平なほみさんと作ったのが「白いブランコ」なんです。 ヒット曲になりました。

それから55年になりましが、いろんなことがありました。 兄とは喧嘩が絶えなかったですね。 1976年に一回解散をしました。 半分以上は喧嘩別れと言うような感じでした。  6,7年後に再結成をしました。  一人でCDを出しましたが、仕事もなくなって来てその時が一番大変でした。 酒を飲んだり、妻とは喧嘩をしたり人生が荒れていました。  再結成をした時にCMソングがヒットしました。 再結成は母からのアドバイスでした。  2014年に兄が盲腸のガンの手術をしました。 その2か月後に僕が脳出血で倒れてしまい、ビリーバンバンはもうおしまいかなと思いました。  後遺症が残って歩くこともなかなかできなくなり、声も出づらくなりました。  健康に気遣って塩分を控えめにしていましたが、手術をして先生からは塩分が足りなすぎると言われました。 塩分も大事なんです。  

兄も車椅子ではあるが元気になり、母がまた二人でやりなさいと言ってくれて、1年後には再び開始しました。  母は僕たちのステージを一番前で見て泣いていました。 それを見てこっちも泣いてしまいました。 母は96歳で亡くなりました。 母の存在が全てと言うような感じです。 椅子から降りて寝てそのまま亡くなって、本当に天国に行ったんだなと感じました。   父も92歳で眠るように亡くなりました。  父は凄く真面目で寡黙で90歳でコンピューターを始めました。 筆でいつも朝書いていました。  父が90歳の時に60人ぐらい呼んでパーティーをやったんですが、父からも仲良くやるように言われて、ぐっと来てしまいました。

僕も両親と同じように眠るように逝きたいと思います。 終活は全くないです。 遺言状はもう書いてあります。  欲はもう捨てました。  どんどん歌っていきたいという、歌の欲はあります。 声のためにはお風呂のなかで200回腹筋運動をしています。 手足も結んで開いてを200回やります。  最後の遊びは散歩だと思います。 1時間ぐらい歩きます。  コロナ禍で丁度その時にアニメの曲を歌いました。 それが今話題になっています。 いくら喧嘩をしても兄弟愛ですね。 2022年にドラえもんの映画の歌を歌いましたが、兄弟愛がテーマになっています。  「心ありがとう」

55周年を迎えることになり、77歳にもなります。  ともかく歌を歌いたし、アルバムを作りたいと思っています。  生きていくうえで優しさがベストです。 わたし終いの極意としては、楽しく生きる、嘘をつかない、心はピュアに生きたい。 ネガティブにならないで、いつもポジティブに生きることが一番楽です。 先は判らないので、考えても仕方ない、なるようになる。 






2024年5月15日水曜日

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」 

鳥海さんは山形県出身の69歳。 長年日本の文化に無くてはならない書体を作る仕事を続けてきたことが評価されて、今年吉川英治文化賞を受賞しました。 鳥海さんは多摩美術大学で活字デザインを知り、書体を作る仕事に入りました。 現在100以上の書体を作っています。 書体の作り方、書体の面白さなどを伺いました。

鳥海と言う名前は「とりのうみ」と読み、山形県の住んでいた30軒ぐらいの村、そこにしかいないんじゃないかと思います。 東京に住んでいましたが、コロナ禍で在宅勤務が可能となり長野県安曇野市に引っ越しました。 

日本語の書体は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号、などを加えると23000字を越えます。 一文字一文字バランスよく統一感を持って作ってゆくというような仕事です。 書体とフォントは違う言葉ですが、書体はデザイン様式と言うか姿を現していて、フォントと言うのは文字のセットのことを言っています。 日本語フォントと言うと漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号があって、それだけの文字セットを作っているという事です。 日本語は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベットなどが文章のなかで混じってしまうので、どういう風にバランスよくデザインするというのが、相当難しいし、世界でもまれな書体です。 それだけに奥が深くて面白いです。 

フォントは3000以上4000未満はあると思います。 書物の活字を作ることをメインにしています。 その中に楷書、隷書、行書など多種多様な書体がります。 賞状などは書体によりありがたみがない気がします。 フォントは正方形の中に一文字を書きます。 書道は四角の中に納めるというよりは四角から飛び出すような文字を書きたいので、同じ文字でも表現の仕方が違います。 ラーメン屋などの看板には筆文字系のフォントを使っているところが多いです。 看板こそ手で書いて欲しいと思います。 

私が得意としてやってきたのは、読みやすい書体で且つ綺麗な書体を心掛けてきました。  作る時には必ず漢字から始めます。 画数が多いのでめちゃくちゃなデザインが出来ません。 12文字、書体見本を作ります。 それを元に文字を拡張してゆき、漢字が1万4500ぐらいまで増えてゆきます。 それに合わせた平仮名と片仮名をデザインしてゆきます。 漢字に比べて画数が少ないので小さくなり、太くもなります。 次にアルファベットを作って、最後に記号関係を作ります。 それで一つのフォントとしてまとめます。 藤沢周平をイメージしたものを作りました。  なんにでも使えて、安心して使えて、綺麗だという書体が出来たらいいなあと今は思います。  小説とか、印刷して読むという目的に対しては、私は一つでいいんじゃないあと思います。 

子供のころはタクシーの運転手になりあかったが、機械が好きで工業高校に行きました。  製図が好きで車の整備士になりたいと思いました。 そのうちに車のデザインをやりたくないました。 美術大学を二浪して入りました。 大学3年の時に文字デザインがあり、或る時先生が毎日新聞社に連れて行ってくれて、一文字だけレタリングしている光景を見ました。  活字の元だと言われ吃驚しました。 案内役を務めた小塚昌彦さんが発した「日本人にとって文字は水であり、米である」との言葉に郷里の風景を重ね、書体制作の道に進むことを志すことにしました。

宮部みゆきさんから「私、ヒラギノしか使わないのよ。」と言われました。 ヒラギノフォントのヒラギノは京都の地名の一つです。 ヒラギノと言う書体は結構尖っているんです。(ヒイラギから来たのかも?) 自分で作った書体は100を越えています。(見分けは出来ます。)  

今年吉川英治文化賞を受賞しました。 一人で作ると5年、10年かかるかもしれませんが、4,5人のグループでつくるので、2万3000字を作るのに2年程度で作ります。 魚へんは点が4つありますが、イライラするぐらいめんどくさいんです。   平仮名、片仮名を私一人で作ります。  筆順が変るという事は絶対駄目です。 平仮名には面白さがあります。 平仮名は半分ぐらいを占めるので、平仮名を変えるだけで文章の印象が随分変わります。 平仮名は平安時代に出来た日本独特のものです。 お金は儲からないけど遣り甲斐は相当あります。 今まではきれいな水が流れるような小川の様な書体を作っていたような気がして、大河のような書体を作りたいと思っています。

















2024年5月14日火曜日

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること 

川島さんは1931年 韓国ソウルの生まれ。 終戦の翌年島根県に引き上げてきました。   1951年に日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)卒業、約20年は病院の看護師として勤務、退職してからは研究会を主宰し、母校で教鞭をとり、東日本大震災の時には看護師のチームを率いて被災地に駆けつけました。 川島さんが考える看護師本来の看護の力である「手当」を考え、普及しようと2013年に日本手当推進協会を設立しました。 2007年にはフローレンス・ナイチンゲール記章受章しています。 

父が銀行員をしていたので転勤が多くて、小学校の時には5回、女学校は5年間で4回転校しています。 適応力は出来たと思います。 北京で敗戦を迎えましたが、父は単身赴任で奥地に行っていました。 ポツダム宣言が受諾されて、日本人が残っているのはけしからんと言うことで、即日本に引き上げという事になりました。 途中の辛い事は言葉ではいい尽くせません。  島根県に戻ってきて県立の女学校に編入しました。 厳しい校則に中で1年半過ごして、日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)に行きました。 

おむつを取り替えたり、便器を差し上げたり、ご飯を食べさせたり、身体を拭いてやったり、看護師の仕事をしていて、これが専門職の仕事なのかと疑いながら、これは大事な事なんだと自分に言い聞かせてやっていて、専門職だという確信が持てなかった。 卒業後すぐに死にかけていた少女の身体を拭いてあげたら、生き返った経験が自分自身であって、初めてやっぱり専門職だと思いました。 注射、機械が無くても命は救えることが出来ると、これが私の看護の原点です。

約70年の間で看護師の労働条件も良くなりましたが、看護界全体を考えた時に、看護の仕事の全体の流れを考えた時に決して良い方向ではないんじゃないかと思います。 社会の目はいまだに看護師は医師のアシスタントと言う風に思っている人が沢山いると思います。  看護師は誰もが持っている「治る力」を如何に引き出すかという事が看護師の仕事で、そのためには何をするかと言うと、食べたり、だしたり、息をしたり、身体を綺麗にしたり、眠ったり、話したり、動いたり、そういった暮らしの営みの一つが欠けると、病気の症状以上につらいんです。 自分のやっていた営み、習慣が保たれ続いてゆくことを、きちんと整えるのが看護なんです。  一人一人の生活習慣はみんな違うんです。 それに適したやり方で援助するという事は相当高度な能力が必要なんです。  看護医師が本来の仕事ができる環境を作るのが一番大事なんです。 人手不足、仕事の忙しさからそういったことがなかなかできない状況にある。 

昔は全寮制で看護師は結婚すると退職して、看護医師は独身が不文律でした。  私が看護師になって10年ぐらいすると、新しい教育制度の下に卒業していた若い子が「それはおかしい。」と言うんです。  数人で寮を出て働き始めたら、あまりのも賃金が安い事、労働力が厳しいことが判りました。  夜勤を1週間続けてやって、夜勤手当が入って6000円ぐらいの手取りでした。4畳半で4500円でした。  何とかしないといけないといいことになりました。 60年安保の時代だが白衣の天使と言われて労働組合に入ることはとんでもない事だった。 一緒に寮を出た人のなかで結婚して妊娠した人が居ました。 婦長に話したが、これは労働組合に入らなければいけないと思いました。  

看護師が妊娠しても、重いものを持ったりしたり、妊婦がやってはいけない言うようなことをやらざるを得ませんでした。 労働条件を改善するために、夜勤の日数を減らすとか、妊娠したら夜勤はしないとか、いろいろ要求を一杯出して、労働組合を動かした?わけです。  子供を育てながらと言う事は夫の理解がないと駄目です。  保育所(保育室)を作ったのも最初でした。   看護師をして15年ぐらいしてから自分も勉強したいと思って要望を出したら、断られてしまって、自分で作りますと言って、東京看護学セミナー という学習集団を作って自分たちのお金で運営を開始しました。 そこでの蓄積が私にとっては凄く役に立っています。 

もっと勉強したくて辞めましたが、講演、原稿の依頼が増えてきて大学に行くようなことになりました。  70歳になってから母校の教授になりました。  日赤の病院を良くすれば全国の病院も良くなってゆくと思って、もう一回日赤の役に立つことがあるかも知れないと思いました。  2年経ったら学部長になってしまいました。 主人が舌癌になりかいごもしなくてはいけなくなって、あの頃は3時間睡眠で大変した。   

「長生きは小さな習慣の積み重ね」と言う本を昨年出版しました。 人生100年と言うと凄く長い感じがしますが、一番大事なことは明るく楽しく自分らしく暮らすという事を目標にしてほしいと思います。  そのためには加齢にとらわれないことだと思います。 暦年齢と本当の心身の年齢は違うんです。  最終的には介護を受ける時間が来ると思いますが、出来るだけ短い期間にしたい。  出来るだけ心配、悩み、ストレスを減らす。  嫌な人には合わない、嫌いなことはしない。  人間は元々群れる本質があります。 一緒に食事をしたり、話をしたりすり事がとてもいいことです。  コロナ禍でそういったことが失われてしまってその後遺症が現れるのではないかと心配されます。 独り暮らしの人は、一人でいることのリスクはいっぱいありますから、一日一回は電話でもいいから声を出してしゃべることは大事です。  手を当てるという事ですごくいい効果があるんです。 痛みを取り除くだけではなくて、不安、心配も除きます。















2024年5月13日月曜日

桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

 桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

桂小須美さんは大学で洋楽を学んだあと、三味線の魅力にとりつかれて邦楽の世界に移ります。 そして修業を経て寄席の囃子として活躍していましたが、当時すでに大御所であった玉川スミさんの目に留まり、その芸を伝授されることになりました。 2012年に玉川スミさんが亡くなるまでのわずかな期間に、小すみさん伝えられた熱い思いをたっぷり語っていただきました。

音曲師と言うのは、寄席においては三味線を弾きながら歌を歌うという三味線音楽です。   玉川スミさんは芸の百科事典、生き字引といった人でした。 

大正、昭和、平成と90年近くに渡って演劇の世界で活躍した玉川スミさんは、1920年(大正9年)福島県郡山市生まれ。 生後間もなく両親が離婚し父親の元で浪曲を子守歌代わりに育った玉川スミさんは、幼いながらも浪曲を巧みに歌う天才少女と呼ばれたそうです。  その噂をききつけた女流歌舞伎の一座に入寮し初舞台を踏んだのは3歳の時、その後も10人以上の育ての親の元を転々とし、浪曲だけでなく民謡、舞踊、チンドン屋、サーカス団のブランコ乗りなど様々な芸能を経験し、習得します。 

戦後しばらくは3代目春風亭柳好さんから授かった桂小豆の名で、漫才師として寄席に出ていましたが、相方にめぐまれず昭和33年からは、一人で演じる三味線漫談を始めます。 芸名を玉川スミに替えたのは1960年(昭和35年)劇作家長谷川伸さんの門下生だったユーモア作家の玉川一郎さんから名前を授かりました。 幼いころから習得した様々な芸を盛り込んだ玉川スミさんの三味線漫談は独自の芸風を確立、120本もの扇子を使って松を表現する松ずくしという芸は1971年(昭和46年)文化庁芸術祭優秀賞にも選ばれました。 又1991年(平成3年)には勲五等宝冠章を受章しています。 晩年も舞台に立ち続けた玉川スミさんでしたが、2012年9月25日心不全のため亡くなりました。(92歳) 芸能生活90年を迎える直前でした。  

14歳までに13人の親が変っていたと言っていました。 稽古で頭をバチで殴られて7針縫ったというようなことも言っていました。  10代には失恋をして樺太の海に飛び込むとか、大変なエピソードがいろいろあります。  負けん気が強い性格でした。 2001年に国立演芸場で見ましたが凄すぎて、いろんなことをやりました。 三味線漫談、マジック、漫才、民謡に合わせて二挺鼓、太鼓の解説、日本舞踊、浪曲(一本刀土俵入り)と言ったものを一日で全部やるんです。 

桂 小すみさんは東京学芸大学教育学部音楽学科中学校課程卒業。大学在学時、在学中にウィーン国立音楽大学に国費留学、再び東京学芸大学に戻り邦楽の授業で三味線とお琴を学びました。 大学卒業後は長唄三味線方の杵屋佐之忠に師事。 その後国立劇場の大衆芸能研修生となり、寄席囃子の専門訓練を受けた後に、2003年落語芸術協会のお囃子になります。 2018年からは桂小文治門下に入り前座修行、2019年3月デビューしました。 これまでにも数々の賞を受賞していますが、今年は芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しています。

ウイーンではミュージカルを専攻していたので、御芝居、バレエ、声楽などいろんな勉強をさせていただきましたが、洋楽の観点からも和風な観点からもすごく面白くて、自分もそうなりたいという思いはなく、絶対無理だと思います。 

*さのさいり?都都逸の一部  玉川スミ

三味線の稽古場があり、「さのさ」を教えてあげるという事で、玉川スミさんが先に弾いてその後弾いたら覚えがいいと言われました。(その前に何百回と見ているので、一応真似は出来たんですが)  前に聞いた歌が素敵だったのでどういうものか聞いたら、にあがり新内という事で、稽古をつけていただきたいと言いました。  OKを頂きましたが、凄く難しい歌だったそうです。 同じことを真似っこして歌うんですが、宇宙に飛んで行ってしまったような不思議な感じがしました。  その後に師匠がお客様の前で歌ってみて弾いてみてどんな節がいいのか、と言ったことを練ってゆくものだ、そういう勉強を売る気はないかと言われました。  20分の初高座に収まるような歌をいくつか教えていただきました。 そうこうしているうちに師匠が入院してしまいました。 入院中も指導があり、危篤に二度なっても元気になったりして、「貴方の初高座を見るまでは死ねないよ。」といって下さいました。 その一月後には亡くなってしまいました。 

私はオペラ歌手になりたかったが、声が上手く出なくて挫折しましたが、ミュージカルの方は楽しく歌えるようにはなりました。  その後、長唄など日本の歌を勉強しました。  貴方の声は日本の物に向いていると言われて凄く嬉しくなりました。  私は末廣亭に入ってから亡くなったことの連絡を受けました。 吃驚して直ぐに飛んでいきました。 

「興味を持ったものはどんなものでもいいから、全部一生懸命勉強しなさい。 いっくらやっても足りないから。」と言われました。  師匠の生き方そのものかもしれません。 鏡、着物など頂きましたが、大事に使っているのが木魚と「リーン」となるのが一つにくっついているものです。 念仏するときなどに使っています。 

玉川スミ師匠への手紙

「・・・スミ師匠に音曲師への転向をお勧めいただいてからおよそ7年掛かりましたが、お囃子の古田直美師匠と、桂小文治師匠、他皆さまのご支援、御指導のお陰様を持ちまして、音曲師桂小すみとして歩き出してからちょうど6年経ちます。・・・信じられない賞をいくつかいただきまして、私もびっくりしています。 ・・・ 私にお稽古つけてくださいながらスミ師匠が何度もバーッとデビューさせて皆を驚かしてやるとにやにやしながらおっしゃっていたのを思い出します。・・・ スミ師匠が私の長唄三味線の師匠杵屋佐之忠先生と長く前からのお知り合いだという事は吃驚するご縁でした。 ・・・ 先生たちが私が入門する前に大病患われており、奇跡の復活をされた時にたまたま私が入門しています。 

私に情熱的に三味線のすばらしさ、面白さを、演奏を通して稽古を通して教えて下さいました。・・・覚えの悪さを申し訳なさを思いつつ、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。・・・生きている間は一生懸命はたらいて、死んでからゆっくり休めばいい、とスミ師匠が毎日言っておりました。・・・スミ師匠がどれだけ苦労されて、様々なことを学ばれたのか、その大変さは想像が尽きません。学校にいけなくても読み書きを覚え、6歳のころには着物の仕立てを覚え、いろいろな伺うことが一昔前の芸や暮らしの図鑑の様でした。  その大変さを微塵も感じさせず、強い負けん気と芸の力はいつも身体から溢れておいででした。・・・ 病床ですら芸事を教えていただきました。 ・・・スミ師匠いつもご指導ありがとうございます。」







































2024年5月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ 作曲:リスト               ピアノ曲としては最も有名な曲の一つ。  オリジナルはヴァイオリンの曲です。 ニコロ・パガニーニヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれた。

華やかなテクニック、音楽性を持つ音楽家。 名人芸の系譜と題しておおくりした。

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ」のクライマックスの部分 作曲:リスト 

*ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章 ロンド 作曲:ニコロ・パガニーニ ラ・カンパネッラ」の原曲

パガニーニの超絶技巧に感銘を受けた作曲家シューベルトとヨハンシュトラウスの父です。1828年(ベートーベンが亡くなった翌年)にウイーンでパガニーニは今のヴァイオリンを弾いてセンセーションを巻き起こします。 

*パガニーニ風のワルツ  作曲:ヨハンシュトラウスの父(パガニーニの超絶技巧をワルツにならないかと考えた。)

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲  第9番ホ短調La caccia)』作曲:パガニーニ  超絶技巧の曲

シューベルトはパガニーニの曲を聴いて日記に「天使の歌を聞いた。」と書いている。   

*魔笛から「夜の女王のアリア」 作曲:モーツアルト モーツアルトが歌に託した超絶技巧。

*「連隊の娘」 作曲:ガエターノ・ドニゼッティ  第一幕 トニオは「これでマリーと一緒にいられる」との喜びを爆発させる。 「ああ!友よ、何とめでたい日々だろう」を歌う。   テノールに超絶技巧が織り込まれている。 

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲 「第24番 イ短調」  作曲:ニコロ・パガニーニ  映画パガニーニ愛と狂気のヴァイオリニスト』 のオリジナルサウンドトラックから、デイヴィッド・ギャレットのバイオリン  本曲集の終曲であり、非常に有名な作品。










2024年5月10日金曜日

2024年5月9日木曜日

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ!

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ! 

フリーライターとしてかつてはタワーマンションに住む裕福な生活を送ってた紫苑さん(73歳)、その後離婚、がんなども経験し、2人の子どもを育て上げ気が付いたらコロナ禍で仕事が激減し、月5万円で生活していかなければならない現実に直面しました。 これまでの生活費を見直し、発想の転換を図って69歳から始めた節約生活、始めて見ると意外と快適で毎日心地よく生きられることが判ったと言います。 少ないお金でもきちんと生活してゆけば、楽しく元気に暮らしていけることを知って欲しいと、御自分の節約生活をブログで発信している紫苑さんに伺いました。

新聞記者に憧れて地方の支社で働いていまいたが、当時女性としては働き甲斐のないところであったので辞めてしまいました。 フリーランスになりました。 当時は雑誌に勢いがありましたので、仕事には困りませんでした。 国民年金も当時は義務ではないので払っていませんでした。 中途から払うようにとの連絡があり払うようになりました。  結婚して、子供二人産んで、離婚がありましたが、育てていきました。  公団の新築に住んでいました。(15万円ぐらい) その後に引っ越したタワーマンションはもっと高かったです。  43歳の時に就職しようと思いましたが全部落ちてしまいました。 小さい業界紙みたいなところに就職ができました。(給料が20万円) その後子供たちも独立して、安いところに引っ越して、貯金もどんどん減って行きました。 不安になりました。    家の購入価格もどんどん下がってきたので、思い切って貯金をはたいて家を購入しました。 コロナまでは普通に遊んではいました。   

コロナになっていきなり仕事がなくなりました。 年金しか入ってくるものがなくなりました。 5万円で生活しようと決心しました。(69歳)  まず食生活から見直しました。 スイーツ、駄菓子の見直し、健康に気を付けるために正しい食生活にしました。  固定費(ガス、水道、電気、税金などで2万円))通信費(1万円) 残りが2万円になります。  食費を中心にしました。(1万円) 残りで必需品を購入することにしました。 4万3000円ぐらいで生活が出来ていました。   

スイーツ、駄菓子の見直については、きな粉に砂糖できな粉は身体にいいです。 サツマイモもよく食べました。(甘くておいしいし、身体にもいい。)  胃が弱かったがよくなってきて元気になりました。 安くて低脂肪、栄養価があるのは鳥の胸肉、イワシ、レバー。豆腐、旬の野菜です。 ツナ缶、サバ缶もよく使いました。 イワシは色々料理して、今でも食べています。  1000円ぐらいで色々買えます。 1万円でいろいろできることが判りました。  節約生活をするようになっていろいろと頭を使うようになりました。  以前の着物が溢れていましたので、リメークをし始めました。  それを考えるのも楽しいです。  50歳で乳がんになり、当時はまだお金には余裕があったので着物(和服)の購入にはまってしまっていました。 今は処分しつつ着ています。(いい気分転換になります。)  

「買えない。」から「買わない。」に替えるという事は自分の意志をコントロールする事だから、快感ですね。 自分の一つの武器になるような気がします。 美容費はほとんどかからないです。 髪も自分ですきます。 ファッション代、美容代はほとんどゼロです。  住家も住めればいいと思っていましたが、友達から絵を頂いてリビングに飾ったら、豪華な感じで花を飾ったり、部屋に気を遣うようになりました。  百均の品物を使って、いろいろ工夫しました。 始めた時から5万円弱で生活してきました。 

やってよかったと思いました。 母親が楽しく暮していることで子供たちも安心しています。 身体も元気になりました。 医療費もほぼゼロです。 人と比べることに慣れて生きてきていて、人の目を気にしていたりしましたが、自分の目だけで見てゆくと、簡単になっていき、楽になりました。  健康は何よりも大事だと思います。 見栄とメンツをなくせば生きてゆけます。  

























2024年5月8日水曜日

鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

 鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

鈴木宣弘さんは1958年(昭和53年)生まれの65歳。 三重県志摩市出身。 農水省から学会に転じて、著作や講演で日本の農業の大切さ、食の安全保障を訴え続けてきました。   2022年には食料安全保障推進財団を立ち上げ、理事長を務めています。 

講演も月に20回を越えるぐらいあります。 年には200回を越えるような状況です。    日本の食料自給率を上げなければならない。 食料自給率のカロリーベースでは38%ですが、実際はもっと低いのではないかという事を、私は強調している点です。 餌の穀物は2割しか自給できていない。 肥料の原料はほぼ100%輸入に頼っています。 それが止まると自給率は実質22%迄下がってしまう。 野菜の種は9割は海外から運んできている。 野菜の自給率は8割と言っているけれども、種が止まると8%ぐらいしか作れない。 米などの種も海外に9割依存してしまうような流れが強化されている。 鳥の卵も97%自給しているという数字はあるが、餌のトウモロコシはほぼ100%輸入、雛も輸入に頼っている。 それが止まると9,2%という計算になる。  止まってしまうと異常な状態になる。 自分たちの命を守れなくなって来てる。 

日本はアメリカの戦後の占領政策で、アメリカの余った農産物を日本人に食べてもらうという事で、日本は農産物の完全撤退を進めることになって、アメリカの農産物がどんどん入ってきた。 米以外の農産物が壊滅していった。 農産物の完全撤廃は受け入れて、日本は自動車などを輸出して、経済をまわしていこうという事が、日本の経済政策の中心になってきた。 食料はいつでも安く輸入できるという事を前提にすることが、食料安全保障であるかのように、考えてやってきた。 それが今は通用しなくなってきたという事が大きな問題です。 

「クワトロショック」4つの危機に見舞われている」と主張する。             (1)コロナ禍による物流の停滞 (2)中国による食料の「爆買い」(3)異常気象による世界的な不作  (4)ウクライナ、中東の戦争の勃発

ロシア、ベラルーシは敵には食料を売らないと言っている。 農業インフラの破壊、があり、食料の囲い込み。 インドは米、麦の世界一レベルの生産国だが、自国民を守るために外に売っている場合ではないと防衛的に輸出を止めると言っている。 こういった動きが多くなって30か国ぐらいになってきた。 日本は調達が難しくなってきている。 アメリカでも計算していて、物流が止まったら世界で最初に飢えるのは日本だと、日本で一番餓死者が出ると言っている。(核戦争が起こった場合と言う極端な想定) 世界で3億人の餓死者が出るが日本に一番集中(7200万人)すると言っている。 

物流が止まったら、政府は有事立法を作って、強制的に農家に命令すると言っています。  イモ類などの増産命令を課すというような政策です。  普段から支えてゆく政策が出来ていないのに、いざと言う時だけ命令するというのは無理です。 今農家に皆さんの所得がしっかり維持できるようにする仕組み作りをして、食料自給率を普段からしっかり高めておくことが大切です。 

1950年農家人口が45,5%  アメリカの安い農産物とは対抗できなくなって農家の所得が十分に得られない状況が進んで、離農が進んできた。 車などの工業製品を輸出することで豊かにしていこうという政策をとった。  農業人口が減って、高齢化が進んで68,4歳まできてしまった。 後5年、10年経ったら日本の農業がどれだけ存在しているか。 生産資材のコストが上がってきて、農産物の売値はあまり上がらなくて、更に赤字が拡大している。 農業が崩壊して行くというような実態です。 

半農半漁の家の1人息子で、農業も漁業も手伝ってきました。  小学校の4年生の時に乱開発の影響(豊かな自然を壊してしてゆく)を先生が話をしてくれて、自分はどうやって社会を変えていけないか、そういう事に関わって行けないか、考え始めました。 東京大学農学部農業経済学科を卒業し、同年、農林水産省に入省しました。 国際部国際企画課で国際情勢の分析などをやりました。 貿易自由化に対した国内の農業、農村を守るために必死で抵抗していました。 政策を強く打ち出してゆくような余地が減らされてきている。 

要領が悪くて、研究所に移動して、アメリカのコーネル大学に行っていた時に、九州大学の先生のところで研究したいという思いがあって、九州大学に採用してもらう事になりました。 1998年の時で学界に転身しました。  ものが片付けられない、朝が苦手、要領が悪い、これは直らないです。 2006年から東京大学大学院農学生命科学研究科教授(農学国際専攻)です。 このまま日本の農業が崩壊して行ったら大変なことになると思いました。 大学では自由な発言が可能になったので、九州大学のころから発信を強めていきました。 

日本の農家の所得に対する税金の補助金の割合は3割程度です。 フランス、スイスなどはほぼ100%なんです。 欧米では、命を守り、環境を守り、国土国境を守っている産業はみんなで支えるのはある程度常識なんです。 日本の方が非常識だと考えないといけないのではないか。 2022年に「食料安全保障推進財団」を作りました。 安全・安心な食料を量的・質的に国民に常に確保するための生産から消費までの国民全体のネットワーク強化、食の安全性の「可視化」、及び必要な政策を実現するための活動を推進することを目的とする。去年1年間で40を越える場を財団が作り出しました。 食の安心安全という事で、耕作放棄地を女性の方々が借りて、子供たちを含めてやってくれる、そういった動きもあります。 地域の皆さんが農家の皆さんを支えるとともに、自分も地域の農業生産に関わるような仕組み作りを広げて行こうという声が、強まってきています。 

地域の有機農産物が学校給食にといり入れられている事は、大事な核になると思います。  地域で食料が循環できる仕組みを作るというのは、非常に大事な核になると思います。  農家が減少してゆくなかでどう支えるか、国レベルの政策も大事ですが、地域地域で地元の皆さんを支えてゆくような、ローカル自給圏を作る事によって、消費者と生産者が一体化してゆくことを広げる事が重要になってきている。 

直売所では農家の小遣い銭稼ぎにしかならないと言われてきた。 それを打ち破ったのが和歌山県の野田モデルです。 中間流通を通さずに作物を広域で販売する『野田モデル』という仕組み。 地域の直売所を転送システムでつないで、一気に沢山の店舗で品物が売れるような仕組みです。 1億円売れるような直売所が確保できたり、1000万円緒以上売り上げるのが300軒ぐらいになってきています。 そうすると農家の所得を画期的に引き上げることができる。 農家に価格決定権があるのが大きい。 

講演にも増えてきて、沢山の方が関心を持ってくれるようになりました。 食料安全保障推進財団」も、皆を支えるためには、もっと何が出来るか考えていかなければいけないと思います。 不測の事態のリスクが高まっている中で、国民の命を守れるように準備するという事が「国防」と定義するならば、国内の食料を守る事こそが、日本にとっての一番の「国防」、「安全保障」の要だと思います。 循環型食料自給圏を各地で作て、それをベースにして広げてゆくことで、日本の農業、農村、自分たちの食料、健康を守って行けるように一緒に頑張りましょう、という事を呼び掛けたいと思います。 










2024年5月7日火曜日

高柳和江(癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ

高柳和江(小児外科医・癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ 

高柳和江さんは長年笑いの医学効果の研究に取り組んでいます。 笑う事はウイルスやがん細胞と戦うキラー細胞を増やし、既存の持つ免疫力を上げることが知られています。 高柳さんは笑いが免疫力を上げることを「笑医力」と言って、免疫力を上げる副作用のない魔法の薬だと言います。 現在介護老人保健施設の施設長として、高齢者から生まれたばかりの赤ちゃんまでを見るお医者さんです。

神戸大学の医学部を出て、順天堂大学外科専攻生を経て、徳島大学医学部医学博士課程修了後、クウェートにて10年間小児外科医として勤務。  生まれたばかりの赤ちゃんを230人手術して、12歳以下のお子さんを7万人ぐらい手術しました。

クウェートと言うとおお金持ちの国なので、最新鋭の素晴らしい機械が揃っているんです。   イギリス人が来て小児外科を始めました。 イギリス方式は患者さんに皆笑うんです。 笑っていると患者さんも笑うんです。 吃驚したんですが、笑うと病気が治る子が多いんです。 入院すると病院在日数が日本で当時50日ぐらい、クウェートではたった7日間なんです。 笑うといいんだという事が判り、それは必須だと思いました。 日本に戻ってもそれを取り入れたいと思いました。 

アイオワ大学で医療管理学の研究に携わりました。 医療の質を高める事、ホッとできる場所であるとか、安全にいろんなことが出来ていることも大切で、患者満足度調査は日本ではなかったんです。  日本でも患者満足度調査を始めました。 日本医科大学に10何年いましたが、どうしたら患者さんが話したくなる医者の話し方があるかという事を勉強して、それを医学生に教えました。 今は医学部の4年生から5年生になる時には必ず全員、模擬患者の面接を受けなければいけないんです。 それから実際の患者さんに会う事が出来るというシステムになっているんです。 模擬患者さんから聞くわけです。

コロナで予防注射をするときの副作用があるがそれを減らしたいと思ったんです。  150人ぐらいの高齢者に対して笑ってもらって、ブスっと注射をするわけですが、統計を取りました。 大笑いしたグループとそうではないグループでの比較では、注射をした時の痛みも少なかったんですが、翌日に熱がでる人も少なかったんです。 統計に出ていて今論文を書いているところです。 

大きな手術をした後に療養する期間があり、患者さんに大きな名刺を渡しますが、そこには私の名前と大きな笑っている写真と「一日5回笑って、一日5回感動して。」と書いてあるんです。 笑いもそうですが、感動も本当に大切だと思っています。 古代ギリシャのアルキメデスがお風呂に入っていたんです。  水が流れ出て身体が浮き上がったんです。 これは浮力だと言って、アルキメデスの原理を発見したんです。 「見つけたぞ」と大喜びで裸のまま家まで走って帰ったというんです。  大興奮、感動です。 感動して笑う事が大切なんです。 花が咲いていて、「なんて綺麗なんだろう。」と心から感動する。 そうすると必ず笑顔になるんです。

胃とか腸の手術を単にしただけの人と、心理的な笑いを介入した人を比べると、笑った人の方が生存率が高いんです。 論文にもしましたが、データがあるんです。  実際の例で70歳ですい臓がんになった人が居て、見つかったとこには余命3か月と言われたんです。 私の笑いの講演に来ました。 幼馴染4人集まって彼女の家で朝から晩まで笑っていたそうです。 2週間でガンの腫瘍マーカーが300から激減して190になったというんです。  1年後にはガンが小さくなって、転移があって腹膜のリンパ節に有った転移が全然なくなって、2年後には何も見えなくなったそうです。 3年後には全然見えなくなって主治医が「貴方は完治です。」と言ったそうです。 私もびっくりしました。 

86才の方で心臓が悪かったんです。 歳なので手術はしないと言う選択をしました。 私のところに来ました。 時々胸が苦しくなるという事でした。 「一日5回笑って、一日5回感動して。」と言う名刺を渡しました。  3か月経って彼女は別の施設に移ることになりました。 ご家族が迎えに来て「どんな魔法を使ったんですか。」と言うんです。 「あんなにニコニコして幸せそうな母親なんて初めて見ました。」と言うんです。 皆で笑顔で帰りました。 

ガンの末期と言われた男性がいました。 ホスピスに入って覚悟を決めていました。 実は奇跡が起こりました。 ホスピスに入ってガンが治ってしまったんです。 どうしてそうなったのか判らなかったが、ホスピスから送り出されました。 大喜びで家に帰ったが、鬱になってしまいました。 その後精神病院に2年間入院してしまいました。 動かないので膝も曲がり腰も曲がりましたが、精神病も落ち着いたからという事で、家に帰るのもなんだという事でうちの施設に来ました。 例の名刺を渡しました。 3か月して彼は家に帰ることになりました。  彼は走って来て私に言いました。 「先生見てください。 こんなに元気になりました。」 「一日5回笑って、一日5回感動して、こんなに元気になりました。」と笑いながら言うんです。  感動が大事です。 

笑い、感動に加えて結局人間は感謝なんですね。 小さな花を咲かせているのを見ても「ありがとう。」という感謝ですね。 

笑い療法士を育てています。 1994年に「癒しの環境研究会」を作りました。 ソフトの部分、人間的なところがあるのではないかと思いました。 癒しを育てるのには笑い療法士が必要だと思いました。 笑いを引き出す人。 2005年から笑い療法士の育成をしています。 一番大切なのは安全安心だと思います。 安全安心を提供してくれる人、一緒にいるとホッとさせてくれる人。 心が病んでいる人には安全安心が大切です。 現在第19期生を募集しています。 

第一期生に青森県の方がいて、青森県庁に務めている人です。 青森県は自殺する人が多かったり、子供に対する虐待を何とかするために、笑い療法士となりました。 10何年活動していて、5万5000人の方が聞いていただきました。 (県の25人に1人) 7年間ぐらいで自殺する人が少なくなった。  笑い療法士の認定者は1000人を越えています。   笑いは薬になります。 リュウマチなんかにもよく効きます。 

17期生の「ダイヤ」と言うニックネームの人から連絡がありました。  97歳のお母さんを亡くされた娘さんに、私が描いた「死に方のコツ」の本を差し上げた。と言うんです。   往診の先生が、病院に行かないでうちで看取った方がいいという事で、危篤の時に「ダイヤ」が訪問看護士をしていて、娘さんが、「頑張れ頑張れ。」と言っているので、「お母さんはもう十分に頑張っているので、それよりもありがとうね、と感謝を伝えて。」といったら「お母さん、ありがとう、よく頑張ったね。」と言いました。 翌日お母さんは亡くなりました。 「ダイヤ」はそのお母さんの顔を見ましたが、見事に穏やかで美しい顔でした。娘さんが本当に看護されて、感謝しているんでしょうね、と言ったというんです。

3か月後に娘さんに電話をしたら、97歳と言うと大往生と言うが、もっともっと生きて欲しかったという事でした。 苦しい呼吸をして居たり、病院へ連れて行った方が良かったのではないかと言う思いがあったようですが、「死に方のコツ」の本(高柳和江著)を渡したそうです。 亡くなる人は呼吸は苦しいかもしれないが、本人の心は天井の方に行っているので、もう苦しくはないと書いてありました。 寄り添うという事の大切さを実感しましたと「ダイヤ」は言います。 これが実際の笑い療法士です。 笑い療法士は一般的には笑いを引き出すというんですが、心から寄り添うんです、という事をお伝えしています。  自分が心が豊かでないと、感動という事を知っていないと、感謝の大切さを判っていないと出来ないと思います。





  

2024年5月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

ゲスト:伊舎堂 仁さん 若い歌人で似たタイプが居ない歌人。 

1998年沖縄石垣島の生まれ。 大阪芸術大学文芸学科卒業後現在は東京在住。  これまでに歌集を2冊2014年に第一歌集「トントングラム」、2022年「感電しかけた話」を出版。

穂村: 最初は新聞の短歌欄で見ました。 

伊舎堂:この名前はほとんど顔見知りで一族です。 

穂村:作品も凄くインパクトがあります。

*「伊舎堂に合わせたい人が居ないんだ是非合わないでみてくれないか」  伊舎堂 仁

決まり文句は社会にはあるが、それが裏返されている。 たまらなく奇妙です。

伊舎堂:僕は空気中にこの言葉が見えるんですが。 

穂村:切実な感じがあって、冗談のように見えるがヒリヒリした感じがあって、こんな歌もあります。

*「本部長のイメトレ中のスイングのゴルフボールの飛び先に俺」      伊舎堂 仁

ゴルフのスイングのイメージトレーニングをしていて、どこか透明人間ぽい、存在を無視され切っている。 本部長の眼中に無い。 笑えるが、でも切実。

穂村:こういう歌ばかりではなく、

「雪見だいふく作り方で検索しているような子が好きである」         伊舎堂 仁

愛の歌ではあるが、凄く距離のある愛の歌。

伊舎堂:この歌は俵万智さんも好きです。 俵さんが新聞に短歌コーナーを持っていて、送ると図書カードを貰えるんです。 送り続けていました。(12年前石垣島で)

穂村:5、7、5、7、7は1000年以上変わらなくても、そのなかで微妙に揺れ動いている。 正岡子規の時代とか、われわれの時代も俵万智さん、東直子さん、林あまりさんなどは演劇をやっていた人たちです。 演劇のセリフとかが、文語から話し言葉に変わる短歌とシンクロして演劇をやっていた人たちが短歌にオーバーラップしてやって来るんです。  伊舎堂さん達の世代にはお笑い、大喜利とか言うのがあり、伊舎堂さんにはどこかそういったベースにありつつ、なんか短歌にはまった印象です。

伊舎堂:みんないとおしいということを感じます。

「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」   斉藤斎藤

これはショックの最初の一首で、私に起きたことを順番に書いてゆくと、面白くなるみたいな、その人が生きてみたものを書き方によっては、宝石みたいに出来るみたいな、そう感じた最初の一首です。

「つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる」  土岐友浩

斉藤さんとは違うジャンルで、面白いことを言っていなくてもいい、優しく受け止められる。 

「超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日曇り」          穂村弘

高校生の時に読んだ一首です。 大喜利的な奇妙な発想。

穂村:よく考えると、この短歌は曇りしかないんですね。 虹とか言ったらとんでもないし、嵐でも雨でもないし、曇り。

「ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半」       伊舎堂 仁

 とてつもない子供感みたいなもの、未来がある感じ。 

伊舎堂:僕らの世代は漫画でもセリフがめちゃくちゃ多くて、言い合いも長セリフで、それを覚えた子供たちがけんかをするから長くなるんです。 ほとんど口喧嘩のやりあいです。

穂村:無駄な感じ、無駄が輝くには時間がいりますね。 時間がたっぷりあった時だけに許される無駄な感じ。 大人は駄目ですね。 物凄く無駄なことをやっている若い人を見るとまぶしい感じがします。

「海だけのページが卒業アルバムにあってそれからとじていません」    伊舎堂 仁

人が写っていなくてこれも一種の無駄ですよね。 余白の輝きみたいな感じ。 心のページをとじていない。

「ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね」      伊舎堂 仁

徴兵反対に、特殊な角度から表現した歌ですね。 豆乳鍋の出現にはかなり資本主義が高度化しないとここまで行きつかない。 

伊舎堂:

*「次の瞬間教室に一匹の或る動物が入って来ます」           穂村弘

好きな一首です。 穂村さんぽくないところが納得するし不思議でもあります。 

*印はかな、漢字など違っている可能性があります。













2024年5月5日日曜日

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕 

「サザエさん」にイクラちゃん、カツオの片想いの相手アオイちゃん、「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎(Q太郎の弟)、一休さんのさよちゃんなどを演じてきました。 「サザエさん」は放送されて今年で55年になります。 イクラちゃんを演じて50年になります。 「ハイ」から始まってもうちょっと話せるようにと言うことで「バブー」も始めました。 もっと話せるようにという事もありましたが、「ハイ」と「バブー」を使い分けるようになりました。 前後のセリフを聞いて、それなりに反応するようにしています。 

福岡県福岡市出身。 小さいころは写真館に行ってはポーズをとったりしていました。 幼稚園の卒園式の時には代表でいう事になりましたが、最初の言葉はいくつか言えたのですが、その後は言えなくて大失敗しました。 小学校の入学式の時にはたくさんの子が怒涛の様に押し寄せてきて、どうしようと思ったのを覚えています。(大勢のところは苦手でした。)    中学生のころに新舞踊を習いました。  「どんたく」では父親と舞台で踊ったのを覚えています。 高校では演劇部に入りました。 ベニスの商人とか勧進帳などいろいろやりました。 その後地元の九州朝日放送放送劇団に入りました。(ラジオドラマなどいろいろ) 

或る時に芥川比呂志さんから主人に声がかかって文学座をうけて、私も受けることになりました。(三期目)  ただ楽しく過ごしました。 日本舞踊をやるようになって名取となりました。(放送劇団のころ)  当時声優になろうとは思わなかったです。 声優の役を段々やるようになりました。  言葉にならない赤ちゃん役はどうしようか、難しかったです。  イクラちゃんはそんなに苦労はしませんでした。  「フランダースの犬」にアロアもやっていて、「一休さん」のさよちゃん、この二つは女の子を実感しながらやりました。 好きな役でした。 

「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎は非常にやりやすかったです。 「バケラッタ」で感情を表現する。 考えたら駄目だと悟りました。 日舞は役に立ったと思います。 主人が亡くなって、坐骨神経痛があり、体力的にも気力的にも落ちて、リカちゃんがしばらく出ていなくて、出来なくなって一生懸命に考えて、やればやるほど違って、或る時に考えないようにしました。 その世界に飛び込めばいいと思って頭では考えないようにしました。(2年前のこと)  

何でもできるというのが声優の魅力だと思います。 もうちょっと体力があったら舞台をやってみたいですね。 声優という事に抵抗を感じなくなったのは割と最近です。 若い人への提言としては、若いうちはやりたいことをどんどんやればいいと思います。 でもすぐには生活が出来ないので、頭の隅に置いて挑戦すればいいと思います。 











2024年5月4日土曜日

2024年5月3日金曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編 

2008年最初のパラリンピックが北京大会、「よしやるぞ」という思いで北京に乗り込みましたが、大舞台なので凄く緊張しました。 8か国中、7位と言う結果でした。 帰りの飛行機ではずっと泣いていました。 何が足りなかったのか、どうしたらいいのかなと、自分の足りないものと自分の必要なものを考えて、次のロンドンでは絶対に金を取ってやるぞと思いました。(決勝はアメリカと中国だった。)  まずは弱気な私のメンタルだなと思い、メンタルトレーニングをやりました。  筋力と同じで、地道にトレーニングすることで少しづつ自分をプラスに持っていくやり方を自分で作っていきました。 

コートに立っている時にどんな思いでいるのか聞かれた時に、「日本のゴールを守るのが自分の役割なので、失点してはいけないんです。」と言ったところ「その言葉を変えたらもっと強くなる・」と言われました。 「失点してはいけないんです。」という否定形ではなく「パーフェクトディフェンスで行くぞ。」と言う風に変えてみたらどうかと言われました。 言葉をポジティブに変えて行って、自分のマインドをポジティブに持っていく。 それで変わって行きました。

日本は体格的にも小さめで、パワーの部分が劣ることが否めなかったが、一人一人の力は小さくても、それを繋いで一つになる、それは日本は強みなのでそこにたどり着きました。 チームで一つのボールを追ってゆく、カバーリングの動きをしてゆく。 攻撃も同じです。 コミュニケーションも増えて、チームも繋がって行きました。 

2012年のロンドン大会を迎えました。 「金メダル取りました、ありがとうございました。」と言うような勢いで行きました。 体力も前回に比べてしっかり作っていきました。 予選が1勝1敗1引き分けの2位で通過。 準々決勝がブラジル戦、準決勝がスウェーデン戦(残り30秒で同点に追いつかれて延長戦で勝つ)、決勝が中国戦。(優勝する。)  金メダルを獲得。 すべてに「ありがとう」と言う思いでした。(チームメンバー、周りの支え、日本からのからの応援など)   金メダルを取ったことで、自分自身が生きてゆくことに自信を貰えた感じがしました。   家族からは「まさか金を取るとは思わなかった。」と言われました。 凄かったです、感動しました、と言うような言葉を沢山の方から頂き、本当の意味でゴールボールをやる目的がその時に気付かされました。  

リオデジャネイロ(2016年)では5位になってしまった。 キャプテンを任されて挑んだ試合でした。 準決勝で中国に1点差で敗れてしまいましたが、次が母国開催なので挑戦しないわけがないです。(40歳を迎える頃ですが年齢は気にはならなかった。)   2016年以後あまり順調ではなかった。(後輩も力を付けて来た。) 2019年アジアパシフィック大会(東京大会の代表を兼ねている大会)へは代表落ちをしたりしました。 2020年3月には何とか代表入り内定を得ましたが、その直後にコロナで延期が決まって内定が白紙に戻されました。  体力と音の感覚を落とさないようにいろいろ工夫して対応しました。  

東京大会の代表に選ばれました。 チームのバランスをとる事と、ディフェンスが私の役割なんだなと言う思いでした。 金メダルを取ってやるというような思いでした。 心の状態も最高でした、ぶれないんです。 予選が2勝1敗1引き分け 決勝トーナメントでは準々決勝4-1でイスラエルに勝ち、準決勝でトルコに5-8で負ける。 予選の初戦がトルコ戦で1-7で大敗しました。(大丈夫なのか心配になる。)  その後も波に乗れない状況でした。 ブラジルに勝って胴メダルを獲得することが出来ました。 私は持っているものを全部出し切れました。 表彰台に上がった瞬間に引退を決めました。 仲間の成長が凄く嬉しかったです。  どんな言葉を発するかで、自分を変えて行けると思っています。  言葉が有るから思考を深めることが出来る。  言葉があるから人と繋がれる。  言葉って本当に凄いと思います。 

ゴールボールは真剣に生きてゆく、やるって楽しい、挑戦することの楽しさ、難しい、悔しい、厳しさを私に教えてくれました。  今自分があるのは、自分ひとりの力ではなくて、ありがとうと言う気持ちに気付けたときに、次の一歩に繋がりました。  壁にぶつかっていても、心持ちをちょっと変えたらそこに光が差してくる、そういう風に思っています。 一度きりの人生なので、自分を信じて自分を大事にして、自分を大事にするという事が相手を大事にするという事です。 

 








2024年5月2日木曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編 

今年8月にはフランスパリで障害者のスポーツの祭典パラリンピックが始まります。 その競技の一つゴールボールの話題です。 2012年のロンドンパラリンピックでゴールボールの日本女子の代表はパラリンピックの団体競技では初めて金メダルを獲得しました。 その中心メンバーの一人が福岡市に住む浦田理恵さん(現在46歳)です。 小学校の教諭になるために勉強を続けていた20歳のころから網膜色素変性症を患い、徐々に視力を失っていきほぼ全盲の状態になって行きました。 一時は絶望で家に1年半引きこもった時期もありましたが、家族の支えを頼りにゴールボールと出会い、学生時代までは運動音痴だったはずが、めきめきと頭角を現し日本代表迄上り詰めました。 東京パラリンピックを最後に代表を引退するまでに、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と4大会に出場し、ロンドンの金、東京の胴と二つのメダル獲得に貢献しました。 ゴールボールを通じて人として成長することを学んだという浦田さんに「一歩踏み出す勇気をもって」と題してお話を伺います。

シニア―アドバイザーとしてパラリンピックの日本代表の選手にアドバイスをしています。  技術の指導はあんまり向いていないと思っています。  チームの士気を上げたり、選手に寄り添ってメンタルのケアをするとかでは、私自身チームの役に立てるという事合宿にもスポットで参加して、言葉を通じてチームが勝ために雰囲気つくりと言ったところを、主な役割としてやらせてもらっています。 勝つためには心技体の中で8割が心で後の技が1,体が1と言う思いで選手時代も過ごしていました。 マインドセットは大事だと思っています。 

東京で辞めると言う事で目指していたわけではなくて、銅メダルを取った時に、私はやり切ったな、もう次にバトンを渡す時だなと決心しました。(44歳)  年齢ではなくてやり切ったという気持ちの部分です。  今世界ランキングは2位になっていますが、1位はトルコで頭一つ抜けているところもあるかもしれませんが、私は日本が決勝で戦っているイメージしかありません。 所属先、家族、友人などの応援があって、今の自分たちがあって、悔いのない準備が出来て、大会で自分たちの最大のパフォーマンスを発揮するのには、大会のこの場に立てたのは幸せだなあと思う事で、きっと自分たちの力は発揮できると信じ得います。 

2012年の時には左目は全く見えずに、右目は少しだけ光を感じる状態でした。 現在がほぼ全盲です。  目で見るだけが「見る」ではないと思っていて、ゴールボールをするときには音で「見る」、と言う感覚になっています。 人間の83%は視覚から得ていると言われています。 17%を最大限に生かしながら、工夫、努力して回りからのサポートがあれば、100%に近づいて行けるなと思えた時に、大したことはないかなと近づいてているんだと思います。 

20歳のころに小学校の先生を目指していました。 網膜色素変性症が発症して左目が3か月で一気に見えなくなりました。 右目が徐々に周りから視野が消えてゆく状況でした。  見えなくなってゆく自分自身が受け入れられなくて、他人に言えない時期がありました。  怖くて眼科になかなか行けませんでした。 1年半引きこもりました。  福岡で独り暮らしをしていました。 熊本の母から電話が良くかかって来ましたが、中々言えませんでした。  22歳のお正月に実家に帰って、目のことを伝える決心をしました。 駅を降りた時に母の声が聞こえてきましたが、そりらを向いても母の姿は全く見えませんでした。  見えないことを言ったら、最初は信じてくれませんでしたが、所作でようやく判ってくれました。(母は泣き崩れていました。) やっと言えたなと思いました。

母から「大丈夫よ。 目が見えなくなっても出来ることを一緒に探してゆこう。 一人やないけん。」と言ってくれて、自分の居場所はちゃんとここにあるんだなと思いました。  私ってなんでもかんで当たり前になっていたなと思いました。 家族のことを身にしみて感じました。 目に見えていたころとは違って、生活は激変しました。 工夫をしながら、基本的には音、形を使って段々生活に慣れていきました。  今でもそうですが化粧、特に眉毛を書くのは難しいです。 

「見えないので完璧は目指さない。」 見えなくなって、完璧な人はいないという風に気付きました。 自分の生き方が楽になりました。 2004年アテネで日本の女子が胴メダルを獲得したニュースの声が聞こえてきました。 ゴールボールを初めて知りました。 運動は苦手でスポーツには全く興味がありませんでした。 見えなくてもスポーツが出来るんだという事を知りました。 もしかして私にも出来るのではないかと言う、可能性を感じました。 

ゴールボールは3対3で行うチームプレイです。 アイシェードというものを付けます。(視覚障害の程度の差があるので平等にする。)  バスケットボールぐらいの大きさで中に鈴が入っています。(重さ1,25kg)  鈴の音を聞きながらそれぞれのゴールに向かってボールを転がしたりバウンドさせたりしながら相手のゴールを狙うチーム競技です。  私はディフェンスが得意なので、センターポジションにいます。 どこからボールが来るのか、出所を捜して、どの位置からどの高さで投げられてくるのか、予測しながらディフェンスをする、それが凄く難しいです。 音を聞いていろいろと予想をして、実際と合致した時にはすごい喜びを感じます。 床を転がす時の最高速度は50km/hぐらいになります。 顔に当たったりするときもありますが、恐怖はないです。  出来ないことを出来るようにするにはどうしたらいいか、探求することが楽しいです。 

初めてコートに立ってボールがゴールに入ったのに対して、全然反応が無かったです。  時間がかかりましたけど強くなりました。  音で見る力、足音、呼吸、などを耳で聞き、床の振動などを感じながらとか、18m先の鈴の音はこんなふうに聞こえるのかとか、迫ってくる距離感などを想像します。 あざの分だけ強くなります。 辞めたいと思ったことは1回もないです。 挑戦する楽しさを知ってしまったので、どうやったら出来るんだろうという、そっちの方が強かったです。











2024年5月1日水曜日

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人 

ぶっちゃあさんは1954年京都出身。 若手芸人の育成に情熱を注ぎ続けているぶっちゃあさん、その面倒見の良さから東京芸人の父と呼ばれているそうです。 相方のリッキーさんと活動をしているお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」は今年で結成43年になるとのこと。

相方のリッキーさん が所属事務所(サンミュージックプロダクション)の社長になりました。 5年に一回単独ライブをしてきました。  毎年やろうとリッキーが言い出してやるこになりました。 再来年が45周年です。 相方のリッキーは森田健作さんの付き人でした。 僕は監督、俳優志望で、相方は映画のカメラマン志望でした。  俳優養成所で一緒になりました。 森田健作さんと仲良くなって東京に来ないかという事になりました。(23歳) 森田さんの家に居候となりました。 たまたまテレビで「笑っていいとも」の前に新人が出るところがありました。 出てみたらたまたまチャンピオンになってしまいました。 

当時、漫才ブームでそれに乗りたいなと思いました。 「ザ テレビ演芸」4代目のグランドチャンピオンになりました。  師匠につく時代から師匠を持たないような過渡期の時代でした。 チャレンジする番組3つとも出たのは、僕らとダウンタウンだけですね。  段々テレビには出なくなっていきました。 でもキャバレーに行ったりイベントに行ったり仕事はかなりありました。 辞めるきっかけもなくずるずる来ました。 

当時は師匠もいなかったし、協会に入らないと寄席などの舞台には出られませんでした。  自分はバンドもやっていたので、始めたのがお笑いライブなんです。 今活躍しているいろんな人たちはうちに来てくれていました。 打ち上げで飲みながらのコミュニケーションは大事ですね。 伝わることが一番大事ですね。(声の大きさとか)  「ヒロシです。」のヒロシ、ダンディー坂野などが弟子です。 小島よしおも後輩です。 以前、早稲田のお笑いサークルの5人組でやっていました。 

いろんな職種の人と会う事で勉強になります。  アドバイスの仕方自体も時代に合わせて教え方、伝え方は考えていかなければいけない。(上から決めつけていうのではなく。)  衣装とか、靴とか着て来たもの、履いてきたものでそのまま舞台にあがることは駄目だとか言ってきました。 

生でお客さんの声援とか、受けている笑い声を聞くとたまらないですね。 又挫折がないと駄目ですね。 獅子てんや・瀬戸わんや師匠から「あんたらの様に新しい人の方が、吸収して頑張れるから、頑張んなさい。」と言われて、それが無かったら辞めていました。

コミュニケーション能力の高いことが大事ですね。  「生涯一新人」 売れるまでが新人と思っていますが、売れたら新人と言うのを降ろそうと思っていますが、おろせないまま生涯が終わりそうなんですが。 今年11月には古稀を迎えます。