2019年4月30日火曜日

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~後半~

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~後半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー

増島:「海を渡る・・・」と言うのは古い表現になってしまいました。
野茂投手のころはそういった感覚だったかもしれないが、今はそういった感覚はないです。
山本:今では学生のころからシーズンを選んで海外で暮らす事が当たり前になってきています。(スキーとか雪を求めて)
工藤:チームが何処の国にあろうが、同じ様なチーム、クラブの哲学を持って運営していくんだと言う事が、特にサッカーなどは多いのでは。
山本:使える者を使う、何処の出身だとかは関係が無い。
増島:若い人が向こうで存在を築いてしまっていて、日本に帰ってきてどうしようかなと言う形になってきている。
工藤:日本的な上下関係の在り方、人間関係、スポーツの位置づけのようなもの、そこが日常のレベルから、変わってくる流れになってきているのではないか。
山本:日本のスポーツは、あらかじめ決められた社会の仕組みがあり、そこに自分がピースとして入って行く格好になるが、海外では一人ひとりが自分の権利と能力を出す、それが受け入れられないなら別の処に行くと言う発想です。
或る意味実力勝負です。
最近のプロ野球でもそういう発想になってきている。

増島:指導ライセンスの存在、これは大きいと思います。
ライセンスも物凄く色々な段階があるようになりました。
山本:法人化をしてきてスポーツ各競技団体のガバナンスが問われるようになってきている。
情報も容易に行き来するようになった。
野球でセンターカメラでバッターの表情まで捕えられるようにカメラの性能も向上して、スター化が可能になる。
冬のスポーツは顔を覆っていて、カ-リングとフィギュアというスポーツはそうではないので,人気が上がってくる。
回線、昔は数がすくなくて、政治関係に関するものに主が行ってしまっていた。
回線が多くなるとスポーツなどで海外のゲームなども出されるようになってきている。
増島:ツールとスポーツの関係を抜きにしては考えれないと思います。
工藤:ネットの存在、情報の処理、スポーツの楽しみ方がかわってきたと思います。
山本:データの収集には随分時間がかかったが、今はなにもしないでぽっと出てきてしまう。
VTRは昔は大事なシーンを扱ったが今はプレーとプレーの間がリプレイされて、技術解説の時間が非常に増える。
同時に終わったプレイしか再生されないので過去に重心を置いた話になりがちです、スポーツの本来の醍醐味は未来へ向かう、放送そのものも変わってきていると思います。
TV、ネット、移動体通信の変化、スポーツを観る人の感覚が変わってきている。
増島:細分化、専門的になっている、その中心に居るのがファンの方ですね。
工藤:スポーツをビジネスとして成立するようになってきた。
平成の終わりごろにはネットのほうが巨大なお金を投資するようになってきたが、Jリーグが先駆的に動いてきた。
山本:スポーツを沢山の人が消費したがる、品質のいいものを欲しがるようになる、品質のいい選手、チーム同士の試合を観たいと思う。
サッカーで18もあると商品価値の低い試合などもあり、それが結果的にうまく統合されて大きな金とくっついてゆく、そういう流れにきているような気がします。
山本:ネットで見ている人間の方が多いと思います。
増島:若い人たちはネットで見ることが何ともないですね。
工藤:スポーツとお金の関係は或る種一線を引きながら存在していってスポーツの価値を高めるようなものがあったと思いますが、スポーツのよさを如何に守って行くのか、危惧するところもありますが。
山本:ドイツのカール・ディームと言う人がいますが、スポーツの価値はいったいなんなのかということですが、スポーツをやっている時に凄く楽しくて、結果に対して物凄く自分が打たれる、この二つがあるんだとこれを自分がしたいがためスポーツをやるんだと、それをお金の為にやるんだったら本来のスポーツの狙いと違うと言う事でアマチュアにこだわる訳です。
お金を貰ってスポーツをやる人達はそういうものを人に届ける、楽しかった事、勝った時の喜びを人に届けたいんだと、そのためには自分を常にそういう状況に置いておかないといけないので、そのためにはお金がいるんだという理窟だと思います。
プロとアマチュアとの境い目がすこしづつずれたり入り混じったのが平成だったと思います。
増島:スポーツの魅力は徹底したリアリティーだと思いますが。
AIがスポーツを変えると言った時にスポーツの何処を変えるのかと言うふうに考えるときはあります。
山本:ビッグデータを瞬時に計算しながらつぎの行動を予測するかとか、それを防ぐための策を授けるとかそういったことを要求していると思う。
勝負の判定にも当たり前のように要求してくる。
厳密性を要求する時代になってきている。
増島:ツールなど大変革がありました。
観る部分でも変わった時代だったと思います。
山本:平成の時代で話題になたのは不祥事の問題です、暴力的な指導、コンプライアンス、こういったことを令和の時代には過去のことにできるかどうか。
法令を整備するだけではだめだと思います。
社会の価値観がどういうふうにここの処に結実するのか、これが無いと令和の時代もやれやれと言う訳にはいかないと思います、
増島:組織の整理は必要だと思います。
インテグリティー(integrity 高潔、透明性、公正さ)、特にスポーツには求められると思います。
山本:この子は世界大会でも国内大会でも大したことはなかったが、物凄く幸せなスポーツ人生を今でも送っているよという子供をどんどん育てる指導者にもっともっと光を当てる時代が来なければいけないと思います。



増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~前半~山本浩

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~前半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
プロ野球では日本選手の大リーグ挑戦や史上初のストライキ、サッカーではJリーグの発足や2002年フィファワールドカップ日本開催、相撲ではモンゴル人を初めとする外国人の活躍、平成10年には長野で冬季オリンピックが開催されるなど平成の30年間では様々な出来事がありました。

増島:1993年にJリーグが立ちあがる。
それにより地域のスポーツであるという点、スポーツビジネスと言う言葉も定着した。
1998年に日本が初めてワールドカップに出場する。
6大会連続で出場している。
山本:スポーツには運動、体育が入っていたが、平成になって競技スポーツ、生涯スポーツ、やがて障害者スポーツとある意味でスポーツの広がりが非常に大きくなった。
工藤:昭和2年(1927年)がラジオのスポーツ中継、甲子園の実況が最初の放送です。
昭和の時代にスポーツの放送が始まって、野球と相撲が主役であり続けた。
平成元年が1989年で此の時に衛星放送が始まっています。
海外のスポーツの情報がわーっと入ってきました。
Jリーグはインパクトを感じました。
増島:今は天然芝で子供たちがやっている時代になりました。
山本:昭和のは入るべからずだった。
NHKが野球以外の放送を総合TVで夜のゴールデンタイムでやるなんていう時代が来るなんて誰も思っていなかった。
そこにサッカーの放送が来るなんて思ってもいなかった。

増島:ドーハの悲劇は全員が望んでいたものが、辛い形で思い知らされた年でもありました。
山本:1992年の春にアマチュアリーグが終わって、いよいよプロだと言う事で色々やりました。
息をつく暇なくサッカーが開催されました。
工藤:日本のスポーツは決着をつけるということでトーナメント制で、リーグ戦に基づいたスポーツ文化はあまり無かったと思います。
山本:一生懸命やって休むということを考えないでやるような、それが潔いと言うような感覚があり、疲労困憊の中でドーハに向かって行って勝ち目はなかった、と後から考えるとそう思うんですが。
増島:1993年は忘れられない年でした。
あの教訓は忘れてはいけないと思う。
工藤:地域とスポーツとのつながり、Jリーグがおおきな役割を果たしたし、インパクトを与えたと思います。
増島:当初三位一体と言う事を掲げて、地域、自治体、クラブ 3つが動くようにして行くことを浸透させていきました。
山本:指導者のライセンス制度が一番充実しているのはサッカーだと思います。
経営的な面で言うとJリーグは全クラブの放送権に対してコントロールする、商品関係もコントロールする、それはプロ野球とは違うところです。
当初クラブは10でしたが、どんどん増えて行きました。
増島:1998年に初めてワールドカップに出場して世界の舞台を経験して、その年にJクラブが潰れてしまいました。
サッカーの発展を考えた時に常に明暗がありそれを乗り越えてきた。
工藤:プロ野球を平成の時代を思い出してみると、平成になる前に南海がダイエーになり
阪急が無くなりオリックスになり、親会社の経営不振により別の新しいモデルが出来て来る。
広島、日本ハム、ソフトバンク、楽天などの様に地方のチームはお客さんを集めて地域と密着しながら新しいプロ野球の形を作って行く、これはJリーグのヒントが無ければ浮かばれなかったのかもしれない。
増島:お母さんが見られるように託児所が用意してあるとか、女子トイレも沢山出来てきて居るようになった。
工藤:プロ、アマも歩み寄ってきて障壁が無くなりつつはあるが、統一した組織でいろんなことを考えて行こうと言うことにはなってはいない。
暴力、根性主義の問題から抜け出すためにも平成と言う期間が必要だったのかもしれない。
昭和の積み残した課題から抜け出しつつある時代かなと感じます。
山本:昔は新聞にはスポーツ紙面は2ページだったが、今の新聞には4ページ、あるいは6ページとなってきている。
TVでもスポーツが多く取り上げられるようになったと思います。
昔はメインキャスターはスポーツの話はしなかったが、今はメインキャスターがスポーツの話をしてそれにスポーツコーナーの人が入ってくると言うような格好になっています。
工藤:オリンピックは最大の関心事だと思いますが、
増島:女子の種目の台頭だと思います。
1984年に女子のマラソンがスタートしています。
1992年の時には山下さんがメダルを取って、女子マラソンが一気に注目されました。
女子の競技が沢山増えて行きました。
山本:平成の時代のオリンピックはサポート体制が非常に充実して行く、色んな情報を取り込みながら積極的に前に出て行った。
オリンピックのメダルが社会に与える影響が非常に大きくなって行ってしまったことが要因に有ります。
メダルを取った選手がその後も色んなところに出て行って、これは昭和の時代には無かった。
メダルを取ることで社会がポジティブになると言う事を色んなところでしていった時代だと思います。
そこに企業が入ったりして、支援をする人が入ってその価値をもっと大事にしたい、或る意味プロ化ですよね、それが始まる。
実業団では半日仕事をしたり、あるいはほとんどしないで練習に時間を費やすと言う事が徐々に出てきて、サッカーから一般のスポーツにも広がっていったと思います。
増島:取材をしていて平成に入ってから世界を身近に感じないといけないと言う思いがありました。
海外に拠点を置いたりして、海外の試合でどうやって試合で力を発揮して行くかと言う事が平成に入って大きなテーマになりました。
昭和にはありませんでした。
山本:国立スポーツ科学センター、ナショナルトレーニングセンター、アンチドーピングの問題など攻める方守る方同時に始まった時代でもありました。
増島:マイナーな競技も拠点ができたことで合宿ができるようになり、バトミントンとか卓球、レスリングなど大きな支えになったと思います。
工藤:ジュニアの発掘にもなっていると思います。









2019年4月29日月曜日

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~
母の実家が新橋3丁目にあり鰻屋さんでした。
昔NHKではは出演者にはお弁当が出て、実家の鰻弁当を取っていて出前の手伝いもさせられていました。
たまたま東京に戻ってきたら、中学の友人と出会って、NHKの試験を受けにきたと言う事だった。
願書を貰って、NHKに来たが、どの職種を受けるのかと言われた。
競争率は高いが受ける人数が少ないと言う事でアナウンサーの部門を受けることにした。
原稿を読んでくれと言う事でそれを読んで、夕方に発表があり受かっていました。
次に写真を観て喋ってほしいと言う事で、それも又合格になりました。
次に東京大学で筆記にかんする試験があり、そこで又合格しました。
面接試験があり、以前に出前をした事があるといった話などして、次に人の名前が並べてあったが、一人も知りませんと言ったら、当時有名なアナウンサーの名前だったらしいです。
駄目だと思ったら、採用通知が来ました。

5月1日に熊本放送局に行くように言われました。
広島駅に着いた時にホームに降りて駅員から原爆が落ちた方向を聞いて、膝まづいて両手をついてその方向に頭を下げました。
戦争を体験し、あの凄惨な破壊行為に出会ったものでなければ判らない感覚です。
私は数え歳でいうことによって、戦争で亡くなっても故郷に戻れない人、戦没者追悼式であの塔の中にいる人と共通体験を持っているわけです。
80歳代は如何にして後90歳まで、100歳まで生きるか、男の年齢は75歳~80歳までは男の天下の険で、みんなここで死んでしまう。
中学、高校、大学のクラスの仲間ほとんど亡くなってしまって友達がみんな居なくなりました。
90歳代に入ったころに、あーっ、後10年足らず生きればいいと思ったら急に気が楽になりました。
昭和の番組では死、お葬式、お墓を扱う事はタブーでした。
今は平気でやっています、ここが違います。
最期に別れるのは自分です、だから生きている間に十分に生き甲斐を持って生きていかないといけないが、なかなかそうはいか無い。
*映画「南太平洋」から「魅惑の宵」

明窓上机で原稿を書いたことは一回も無い、5分とかちょっとの時間を利用して原稿を書いてきました。
原稿の98%は新幹線の中、飛行機の中、車の中、出張に行った先の夜、それが原稿を書く自分の時間です。
400字詰原稿用紙1枚を6分で書きます、続け字を編集者はよく読んでくれます。
「気配りのすすめ」 色々所作を言われてしまい、あんな本は出さなければよかったと思ったりします。
体で覚えようと時計は持っていません。
スマホ、パソコンも持っていなくて、年賀はがきも全部手書きです。
「家族と言うものは、目を見合わせてお互い常にいたわりあっていけるのが家族です、それが一番出来るのが食事で特に夕食の時間かもしれないのですが、今日本の家族の目は全部TVの方を向いています。
どうか食事の時間だけはTVを消して下さい。
私は放送局に勤めていますから、この原稿が活字になって出た時に、私は首になっているかもしれませんので有るったけの勇気を持ってこの原稿を書きます。
そうでないと日本の家族は会話を失って滅亡してしまうかもしれません。
組織と言うものは常に内側から崩れて行くものです。」
と書いて帰ってきたら、投書が机の上にガバッと有りました。
NHKからは一言のお咎めが無かったです。

現役時代からラジオ、TVは全然見ていません。
昭和58年 紅白の視聴率を上げたいので手伝だって欲しいと言う事で、私の出る秒数はたかが知れているので、その年に革命の紅白にしようとしました、次の年は都はるみさんが引退すると言う事で最期は必ず泣くと思って、ここに感動を持ってこようと思って、歌い終わって1分時間が余ったらもう一曲お願いがしますと言おうと思ったら52秒余りました。
アンコールと言おうと思ったら終了の音楽が出てしまった。
7秒遅かった、痛恨の思いでした。









鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~前半~

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~前半~
数々の人気番組のほかに多くの著作もあって中でも「気配りのすすめ」は400万部を越えるベストセラーになりました。
90歳になられた今年に入っても「昭和からの遺言」を出すなど、大変元気に活躍を続けています。

昭和27年(1952年)2月1日にここの放送局にお世話になるようになって、ちょうど1年後にTVが始まりました。
昭和63年に辞めましたが、その間にたった一つ守り通したことがあります。
他人から貰った資料は事実の半分しか物語っていない、後の半分は自分で歩いて探してくる、新人から辞めるまでやってきました。
資料を机の上に置いていったのが、城壁の様になってしまいました。
今の番組は観ていて全てに渡って下調べが足りないと思う、特にニュースはそう思う。
50年ぶりにラジオ出演しています。
最初は熊本中央放送局で空調も無いので、猫が入って来てニュースを放送中に足を噛まれて「イテテテ」と言ってしまったこともあります。
最期にラジオに出演したのは「話の泉」でした。(内幸町のスタジオ)
最期のTVは昭和63年の4月2日に撮り置きしていたビデオで出たのは最期です。
昭和63年1月23日には定年退職をしていました。

家は横浜ですが、熊本と行ったり来たりしています。
書こうと思っている内容の資料が何故か熊本が多いんです。
沖縄の海の底、シベリアの地、阪神淡路大震災、東日本大震災などにより眠っている方たちがいるが、段々風化してしまっているが、共通するものが無いから風化していってしまうので風化させないために、私は数えで年齢を言っています。
戦前はみんな数えで言っていました、私が戦争を忘れない共通点なんです。
1929年(昭和4年)東京墨田区生まれ、兄は映画監督の鈴木清順。
第一東京市立中学、旧制弘前高等学校へその夏に終戦、旧制東北大学へと進学。文学部美学美術史学科を卒業、昭和27年NHKに入社 退職が昭和63年、その後熊本県立劇場館長
青森県立図書館長を歴任。
難産の末に生れて、ひ弱で気も弱くて外で遊べないで子供のころは引きこもりでした。
兄とは6歳違っていて兄弟喧嘩もできませんでした。
兄は学徒出陣して戦後2年目に帰ってきましたが、戦争で家は焼けてしまい家族は戦争によって引き裂かれてしまっていました。
見渡す限り焼け野が原でした。
17歳でしたが、その景色を見てまだ戦争が終わるまで100年の歳月がかかるという思いがありました。
今70数年ですが、まだ戦争が終わっていないという思いがあります。

3つ児の魂100までと言いますが、そのまま90になってきています。
今でも人と話すのは苦手です。
36年間「ちょっと一杯」といって行ったことが無いです。
帰るのは二晩した夜中とかなので友達がいないんです。
生涯3人の素晴らしい先生に出会っていますが、小学校6年間担任して下さった木村民雄先生で、書き取りをやって2,3,4、5年と私は一度も間違わなかったが、或る時先生が「健二が間違えた」といってクラスがどっと沸きました。
「煉瓦」を「練瓦」と書いてしまったが、先生が「いいか健二、知ってると思っても何かをする時にはもう一遍よく調べてそれから書きなさい」と言われて、NHKに入ってからも何でも調べなければいけないと思って調べました。
それで机が城壁のようになった基でした。
第一東京市立中学の父兄会には黒塗りの車がきて、みんなどっかの社長とか大将だとかで
したが、家の父親だけが何でも無くて町内会長でした。
小学校のころは運動会が大嫌いで、海にもプールにも入ったことが無かった。
原先生が「走るのが駄目なら泳げるかもしれない」といって、水泳部に入るように言われました。
「この子は海にもプールにも入ったことが無いので泳げないからみんなの力で泳げるようにしてやってくれ」と水泳部のみんなの前で言ってくれたんです。
生れて初めて水のなかに入りました。
頭を水につけて足をバタバタして、直ぐに立ったりしましたが繰り返してプールの横方向8mを泳ぎました。
そうしたら先輩達、先生がみんなで拍手してくれてその時凄く感動しました。
感動なしに人生はありえないという、私の一つの生きる手段なんです。
それから色々な感動を味わってきました。

空襲がはげしくなってみんな休校になり、弘前ではやっているという事で願書を出したら合格して、行こうと思ったら直前(3月10日)に家が焼けてしまいました。
上野-弘前間往復代10円を何処からか親が取り揃えてくれました。
弘前の街には一人も兵隊がいなくて静かで、静かなところで暮らし生きてこそ人間なんだなと思いました。
300人の生徒が寮で暮らしていて、物心両面の世話をする業務委員長に推薦されてしまいました。(17歳)
何も無いので食料の調達、木炭の調達、停電するので電力会社との交渉などをやって、1日も学校へは出られませんでした。
東北6県、北海道にも行きました。
弘前-青森を8時間かかって行ったこともあります。
半年ごとに代わることになっていましたが、卒業までの2年間やってきました。
そこで話をして交渉することが後年放送界に入って役に立ちました。
その頃自分の事を「わたくし」と呼ぶようになりました。
言葉を綺麗にするには、いつどこでも自分の事を「わたくし」と言いなさいと言っています。
「わたし、この本読んじゃた」とは言いますが「わたくし、この本読んじゃった」とは言いません、「わたくし、この本を読みました。」となります。
「わたくし」と言い続けたのでこれが役に立ちました。
学業成績は最低でしたが、2年間の業務委員長の経験からこの男なら世の中をやっていけるだろうと言う事で卒業させてもらいました。
人間とはこういうふうな笑いもあり涙も有って、人生を作り上げて行くんだと言う事を教えて行くのがチャップリンです。
好きな音楽の一つがチャップリンの「街の灯」です。



2019年4月27日土曜日

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶~あの時、あの味】


立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶~あの時、あの味】
「極めつけは故郷冨山の食。」
代表する落語家の一人です。
語りの上手さに定評のある古典は勿論、一級の新作落語を作り演じ続けています。
人気実力ともに高い評価を得ています。
落語家としては1983年28歳という遅いスタートでしたが、その後は7年で真打ち、来年
2020年には真打ち30年という節目の年を迎えます。
この2月には初めての主演映画も封切られました。
富山県には毎月赴いて独演会を開くなど故郷には特別な想いを抱き続けています。
TV、ラジオと落語の話法、語り口の違い、凄くお喋りだったという少年時代、サラリーマンから一転して飛び込んだ落語の世界の衝撃的な出会いなどを伺います。

NHKの「ガッテン」は25年に突入します。(「ためしてガッテン」で21年)
これだけ続くとは思っていませんでした。
司会を始めた時は40歳でした。
TVの場合は総合芸術だとつくづく思います、100人近くのスタッフが動いています。
沢山のアルバイトの学生も何人も関わってくれている。
「ガッテン」ではゲストが何を言うのか判っていないので、明るい雰囲気でゲストと一緒になってスタジオを一つにまとめる事が僕の仕事だと思っています。
同じセリフを練習してきた落語と、ゲストの人がなにを急に言うかわからないスリリングさ、アドリブ感とは全く違います。
落語は前は練習してきた台詞を喋ることだけだったんですが、変わってきて落語の話の中の人物の聞いている方の立場の顔が見えてくると言うのはとても大事なことだと思います。
TV、ラジオからも色んな有難い事を学ばせてもらいました。
TV、ラジオなどは一人の人にむかってしゃべればいいのに、落語は複数の人に向かって喋るので、種類が違うと難しく何処までやってもきりがないですね。

18歳まで富山県にいました。
舌の記憶というよりも、僕の大好きな食べ物を人に食べてもらいたいと思って、渡した時の相手の反応の場面の記憶が強いです。
昆布の消費量は沖縄、富山が一番で、昆布締めの文化が富山にはあり、いか、たら、えびなど色んなものを昆布の間にはさんで昆布のだしを刺し身に移して味わう文化です。
父は毎晩昆布締めで酒を飲んでいまして、僕などはおかずに食べていました。
昆布の味がいかなどに沁み込んで何とも言えない美味しさです。
わらび、すすだけとかも昆布の間に挟んでわさび醤油などで食べます。
友人にいかの昆布締めを渡したんです、昆布をはぐると糸を引いてしまって、彼が「エーッ」といって、駄目になっているんではないのと云う顔をして、その顔が物凄く印象に残っていて、その後「美味いなあ」と言ってくれた表情の落差の記憶を思い浮かべます。
富山に帰って本当に楽しみです。
昔は無かったが、東京ではいまは富山の昆布締めを認めてくれています。
スーパーで買ったお刺し身も昆布で巻いて冷蔵庫で保管して食べると富山の気分が味わえます。
18年富山のいかを食べてきたので、東京に来た時に食べたいかは白くて吃驚しました。
東京に来て思い出すのは、食べ物で言うならば、富山と関係の無いもので言うと、実家で毎日食べていたご飯(コシヒカリ)におろしたての長芋かけて醤油をちょっと掛けて食べたとろろ芋(ながいも)ですね。
美味しいものを食べていたんだなあと思います。

子供のころは軟式テニスをやっていましたが、口から生まれたのかと言われるぐらいよくしゃべっていたようです。
人がいっぱい居るところが好きだったようです。
中学の時に弁論大会があり、出る人が出られなくなって、先生から替わりに出る様に言われて、1位になったことを覚えています。
富山にいる頃は落語は知らなくて、明治大学の落語研究会に入ったら、2年先輩の三宅裕司さん等が喋っていました。
それから毎日のように寄席、劇場などに行って仕送りのお金のほとんどと使ってしまう生活になりました。
卒業してから広告会社でサラリーマンをしていました。
観て聴いて楽しいかもしれないが落語家になることは違うと言う思いが常にありました。

28歳で落語家の道に進むことになりましたが周りはあきれ返っていました。
入門の1年前の国立劇場で立川談志の「芝浜」を観て雷に打たれるような思いでした。
それが決定打でした。
自分が思っていた落語観が打ち砕かれた思いがした。
入門後半年後に落語協会を脱退して、寄席に出ないと言う道を立川談志がどうして選んだのか、立川流というのが出来て、寄席に出ない落語家の第一号に僕がならなければいけなかったのか、うーん・・・・。なんでだろうの連続でした。
色んな場所でやらせてもらいました。
立川談志がやろうとしていたおおくの人に聞いてもらう事の一端をやり続けながら、横幅が広がってきているように思います。
今は若い人が寄席でも劇場でも来てくれるようになりました。
「修業とは理不尽に耐えることだ」と言うのが師匠のフレーズでした。
「常識通りに行くと思ったら大間違いだ、常識を疑うところから物は始めなくてはいけない」と言う人でしたから、驚くことだらけでした。























2019年4月24日水曜日

松原哲哉(常磐大学准教授)        ・【心に花を咲かせて】身近な環境再生を考える

松原哲哉(常磐大学准教授)     ・【心に花を咲かせて】身近な環境再生を考える
身近な環境を再生する二つのプロジェクトに取り組んでいます。
一つは大学の敷地内にある荒れ果てた場所を整備して、近くで絶滅の危機に瀕したゲンジボタルが住めるように整備する環境再生活動、もうひとつは茨城でも問題になっている耕作放棄地を再活用して地域を再生すること、そのどちらも授業としての活動でそれが大学が求められている地域社会への貢献でもあるわけです。
実は松原さんは京都大学でイタリア美術史を研究して、イタリア美術史の専門家です。
何故美術史の先生が授業として環境再生、地域再生に熱心に取り組んでいるのか、お聞きすると美術史も環境再生も根っこは同じで何の矛盾も無いと言う事です。

大学の敷地内の活動場所、川が流れている、もともと荒れたところを再生すると言う事を授業の一環としています。
30年ほど前に当時の理事長の発案で大学をあげて活動した水生植物園がありましたが、理事長が亡くなられて放置されて、ジャングルのような状態になっていしまっていた。
自分たちの手でもう一遍美しい状態にしようと学生たちと始めました。
自分たちの手で守り作り変えて行くということです。
地域に真摯に向き合って地域を改善して行くと言う人材を育てたいと言う大学の一番大きな方針があります。
荒れた状態すら気付かないと言う悲しい状態が大学も周りに沢山ある様な気がします。
90%以上の学生が地域から来ているので、自分の地域の中で自分の手で環境は作り変えて行けると言う意志、行動力を持つという事が地方の大学には大事な事だと思います。
2013年からやり始めて翌年に蛍の幼虫を頂いて幼虫を放しましたが、成虫となりその翌年はその成虫が自分で卵を産んでそれが成虫になる、そのサイクルが確立しました。
それが4年位になります。

生物学者ではなくて生物の勉強をしているわけではないです。
環境整備をする中で蛍のことなど学んできました。
他の蛍を再生している所4団体と連携しています。
今の子供は怒られることがあまり無いので、怒られることに対して打たれ弱いところがあると思います。
次どうしたらいいかとよく聞くんですが、大学外ではそんなもの自分で考えろと言ってくれる人がいるので、なかなか教員にはいないです。
自分が何をしていかなければいけないのか、自分で考えて段取りして行動することができるようになってきます。
自分の活動の意味みたいなものを社会に開きながら確認していって、それを又活動にフィードバックしていきます。
常磐大学ファームプロジェクト、荒れたところを綺麗にして再生することもやっていますが、こちらのほうが蛍の再生より歴史が古いです。
茨城には12年前 過疎化高齢化に苦しむ地域があり、耕作放棄地をお借りして地域と大学が連携する一つの窓口というか、地域の現状もしっかり体験します。
地域の人に指導してもらいながら小麦と蕎麦などを作っています。
地域の方が温かく迎えてくれます。
学生たちは地域の温かさに触れて、大学でもいろいろ問題になっていることがあるが、温かさが解決する糸口になるのではないかと思います。
人間教育をさせてもらっているような気がします。

茨城は魅力に欠けると言うようなこともありますが、茨城には色々素晴らしい事をやっている人がいっぱいいます。
対象に接してみないとなかなか判らない所があると思います。
美術史とフィールドワークは一見すると関係がなように見えるが、コアは同じように感じます。
自分の身の回りの中から価値というものを自分の目で発見して、自分の手で価値を改善して行く、この技を磨くことだと思います。
小さいころから絵を描く事は好きでした。
画集などを見ているうちに、色んな画家に興味はあったが、木の根っこになる人から美術史を始めたら面白いのではないかと思いました。
それがジョットだと言う気がしました。
ジョットは宗教画家で神の世界を描いている。
神の世界がジョットの中で聖なるものと俗なるものが、いままでのバランスとは違って、俗なる部分が芽生えてきているような感じでした。(中学2年の頃感じた)
ジョットはスクロヴェーニ礼拝堂の西側の壁には最後の審判が、東側の内陣には大天使ガブリエルと聖母マリアとの受胎告知が描いている。

ジョットはエンリコ・デッリ・スクロヴェーニが描いてほしいものを造形化したと思います。 
14世紀の大金持ちは天国に行きたいと思っているが、自分のような高利貸しというようなあこぎな仕事をしていると天国にはいけないと、人間の心情というものにジョットは絵の中で聖母マリアと寄進者とを大きさを一緒に描くことによって信仰市民階級が天国に行きたいと言う気持ちを具体的な形で描いている。
これは思想革命ですそれが表れているのがジョットの作品だと思います。
西洋絵画の出発点というようなものの中には彫刻があります。
ジョットはキリストの十字架像を描く時に死んでしまった十字架像を描いているんですね。
罪に問われることは無かった。
深く探求すればするほど色んなものが見えてくる。

身近にこんなに手を入れたら大きく変わる自然というようなものは、実は身の周りにあったんだと言う事に気付くことでしょうね。
気付くためには実際に物に触れなければ気付けないと思います。
人が手を入れるとこの様になるんだと言う事に判るようになたっと学生も言っています。
イタリア人は自分の住んでいる地域の入れ込みが強い、これが面白いです。
価値発見、価値発掘、発掘して発展させてゆくという事が非常に大事なように思います。
西洋美術史で培われた目、多様な価値観、そういったものが最終的には自分の地域でどのぐらい生かすことができるか、ここが最終的なことになるかと思います。














2019年4月23日火曜日

山﨑晃司(東京農業大学教授)         ・クマをもっと知りたい

山﨑晃司(東京農業大学教授)          ・クマをもっと知りたい
58歳、鹿の研究からスタートし、たまたま参加したツキノワグマの生態調査をきっかけに熊の研究に情熱を傾けるようになったそうです。
調査地域は国内にとどまらず、韓国、ロシア沿海州など国外にも広がっています。
山崎さんが熊との出会いがもたらしたもの等について伺います。

大学で鹿の研究をしていて、平成に変わるころアフリカに行ってライオンの研究をするチャンスがありました。
ライオンは一頭一頭全然違う。
日本に帰って来て見て、数が少なくて生態系のピラミッドに立つ動物をやってみたいと思いました。
熊は人くさくて一頭一頭違っていて、日によっても気分が変化したりするような、観ていて飽きない動物です。
日本では農作物被害、人身被害に遭ったりしているので、性格を知ると言う事は求められているんで必要だと思います。
子供の頃千葉県に住んでいましたので、田んぼ、畑、雑木林などがあり虫を取ったり魚を取ったりしていました。
ファーブルシートンなどの本をむさぼるよう読む様になりました。
中学、高校はテントを持って山歩きをしました。

熊が季節によって年によって食べるものの量が変わりますが、そういうものにどういうふうにしようとしているか、熊を捕獲して人工衛星で追えるような装置を付けたり、心拍計を付けて生理状態をモニタリングしたりとかします。
小指の先ぐらいの小さな装置です。
食べ物が無い年は20、30km移動して木の実がなっている林を見付けたりします。
母親が子供に伝えたり、学習があるのではないかと考えていますが、どうしてそうすることができるのか判らない所があります。
熊は秋に体重を1.5倍位に増やします。
冬眠して、メスは子供を産んで授乳する。
体脂肪を翌年の春、夏も使います。
歳を取って来るに従って、行動に変化が出てきます。
熊は20年ぐらいが寿命で、15,6歳になると皮膚がたるんできたり、筋肉が無くなってきて毛が抜けたりしてきます。
そうなると楽な生活がしたくなり、山の木の実を摂るのではなくて、人里にきて楽に手に入る食べ物を見付けようとします。
最期は人に捕まえられて殺されてしまったりします。

世界に分布している熊は8種類です。
パンダ、ホッキョクグマ、ヒグマ、アメリカクロクマ、ツキノワグマ(アジアクロクマ)
ナマケグマ(夜行性)、マレーグマ、メガネグマ(目の周りに白斑がある アンデスグマ)
日本のツキノワグマはアジアクロクマの亜種になります。
ツキノワグマは1940年代に九州では絶滅しました。
2000万年ぐらい前に熊の祖先が生まれて、果実を食べるグループが出てきてそれがクマになります。
本州、四国にはツキノワグマ、北海道には他にヒグマがいます。
歴史を遡って熊の暮らしを探るのは簡単ではありません。
日本にツキノワグマが入ってくるのは50万年前と言われています。
人間が日本に入ってきたのは5~3万年前と言われている。
中世、近世位から人間は木を使うようになって、200年以上前位には相当山に木が減った時代があります。
熊たちは山の奥とか森とかにいって生活を閉じたのではないかと思います。

1970年代位から人間が山を使わなくなった、(薪、炭、建材)
山、森が回復してきて、動物にとって済みやすい環境が再び作られてきた様です。
50年先には人口が8,9000万になると言われているので、今後さらにこの傾向は加速すると思います。
早めに人の住む場所、動物がすむ場所を考えるとか、動物に譲らなければいけない場所が今後あるかもしれない。
線引きをきちんとする必要があるかもしれない。
初めて熊に遭遇したのは八幡平で目の前ですっくと立ち上がりました。
その後逃げて行きました。
その時は50m位の距離はありました。
普通は人を見ると逃げて行きます。
あらかじめ熊に遭わないようにすることは必要です。
見通しの悪いところでは声を出したり手を叩いたり、鈴を付けたりすると言う事もあります。
人に会うと熊も吃驚します、逃げるべきか、排除するか考えます。
その時に騒ぐと攻撃を誘発してしまう可能性もあります。
熊の方を向いたまま静かに後ろに去って行って、徐々に距離を離してゆく事がいいと思います。(これだと言う方法はなかなかありません)

大分昔ですが、秋に調査で山に入っていった時に、気配を感じて横を見たら、尾根に物凄く大きい熊がいました。
明け方だったので斜めの陽の光に輝いてこちらじーっと見つめていました。
漆黒の熊ですが、朝日にキラキラ輝いていて、その姿が私が描いている熊の姿でした。
美しかったです。
調査をするために熊を追って行くので、怖い思いをした事は何度もあります。
日本のツキノワグマは寒いから冬眠するのではなく、食べ物が無いから冬眠するんです。
冬眠しているところを見に行ったら目が覚めて、逃げたが1,2m位の距離になってしまいました。
同行の一人がクマよけのスプレーをかけて、熊は斜面を転げ落ちたが、近距離だったので私にもかかってしまって2時間位目が開けられなかったです。
熊の生きざまを知りたいと言う根本的なものがあります。
熊に接する研究時間は少ないので論文を書くにも大変です。
一緒に研究する人達は一風変わっていて面白くて、そういう人達と交流することもたのしいです。
国際熊学会が2年に一度ありますが、300人位が集まります。

熊の無い毎日はありえないと思っています。
東京の奥多摩にも熊がいます。
猟師に熊の事を聞きましたが、その方と会わなかったらスムースに奥多摩の熊の調査はスタートできなかったと思います。
山に住む方の動物観、動物への接し方を学ぶ事が出来たのはとても良かったと思います。
熊を研究するようになってやりたいことがどんどん増えているし、付き合っている人も増えています。
大学に籍を置いているのでなかなか熊を研究することができないので、将来時間が出来れば熊について歩くようなゆったりした研究ができればいいなあと思います。

























2019年4月22日月曜日

竹本越孝(女流義太夫太夫)        ・【にっぽんの音】

案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

義太夫近松門左衛門が『世継曽我』を書いたが、元禄時代に竹本義太夫が、その旗揚げとしてこの『世継曽我』を語り評判をとる。
歌舞伎などにも影響するが、元々は人形芝居の進行役として義太夫がありました。
男性の音楽としてなりたった。
三味線も太棹で激しく強い三味線が特徴です。
江戸期の女性の芸人はなかなか普通には出られなかったが、女性はお座敷などで披露してきた。
女流義太夫は風紀を乱すと言う事だった)
遠山金四郎女流義太夫を目の敵にしていたようです。
明治になってそういったことから解放されて、一気にブレークしました。
女義太夫は人形も人間も付かない、素浄瑠璃と言って三味線で語るシンプルなものです。
浄瑠璃の寄席でやりますが、人がすごくて大変な騒ぎでした。

応援するために「どうする連」が出来て、クライマックスになると「どうする どうする」と声を掛けます。
自分の興奮状態をどうしてくれるんだ、という意味でお客さんが「どうする どうする」と声を掛けたようです。
人気のある太夫は寄席を掛け持ちするため人力車で廻るわけですが、連の方たちはそれを追っかけて行くわけです。
いわゆる「追っかけ」で、この言葉は女義太夫のこのことから生まれた言葉です。
現在も「追っかけ」が使われているわけです。
「寝床」という落語がありますが、そこに義太夫の話が出てきます。
義太夫は美しい声を聞かせると言うものではないので、誤解されるところがあります。

菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ):義太夫 三大演目の一つ
上演する頻度が大変高い。
菅原道真が藤原 時平の陰謀によって、左遷された事件を題材にしている。
「寺子屋の段」の一部を竹本越孝が演じて紹介する。

声と三味線だけで芝居を作って行く。
歌いあげるのでオペラのアリアみたいなところが義太夫にもあります。
女流義太夫の特徴的なところだと思います。
最初は息と声を作るために大きな声を出すが、そのうちうるさいと言われます。
息に乗せて声をだす。
エディット・ピアフが大好きです。
私の義太夫の原点はエディット・ピアフにあったのかなと思います。
*「アコーディオン弾き」

学生時代に大好きな先輩がいて、浄瑠璃のレポートを書きたいと言う事で、時間が無くて義太夫のことについて聞いてきてほしいと言われ、竹本越道さんに電話して教えてもらおうとしたら、「おいでなさい」と言われました。
義太夫を先ず聞いて、また来なさいと言われて、そのうち義太夫を一緒に習ったりしました。
或る時連れられて『壺坂観音霊験記』を聞く機会があり、聞いているうちに引き込まれてしまいました。
躍動感があり、お芝居を見ているようでした。
女流義太夫の後継者が余り居なくて、若い人にやってもらいたいと言う事がありました。ずるずるといつの間にか、竹本越道師匠の芸と人柄がたまらなく好きになりました。
日本の音とは・・・「木の音」ですかね。

竹本越孝
1972年 竹本越道に入門
1974年 上野本牧亭で初舞台
1976年 芸団協新人奨励賞受賞
1994年 (財)清栄会奨励賞受賞
2000年 重要無形文化財義太夫節(総合指定)認定
2007年 女流義太夫初の海外素浄瑠璃公演(フランス)











2019年4月21日日曜日

浅利定栄(こうじ料理研究家)       ・【"美味しい"仕事人】こうじ文化を世界へ

浅利定栄(こうじ料理研究家)     ・【"美味しい"仕事人】こうじ文化を世界へ
和食のベースである旨味や甘味は麹菌の働きによるものが多い。
味噌、醤油、酢、日本酒など麹が生み出した商品は今世界から注目を集めています。
こうじ料理研究家の浅利定栄さん(36歳)は麹の魅力を伝えようと塩麹や甘酒を使った家庭料理を各地で教えています。
浅利さんが麹の魅力を再発見したきっかけは大学卒業後、青年海外協力隊として赴任したパラグアイでのことでした。
現在は国内の教室のほか海外からの求めに応じて、味噌作りなどのワークショップで麹文化を伝えています。

健康のベースになる食生活を変えて行きたいと言う国々が増えてきています。
油っぽいものが少ない、植物性のもの、動物性たんぱく質の少ないもの、旨味と言う事で和食への興味は高まってきています。
日本で使われている調味料の基本になるのはほとんど麹からできているので。
味噌、醤油、酢、日本酒、焼酎、ミリンなど。
日本食、日本文化が高まっていると言う事は感じます。
こうじ料理研究家としてはレシピの開発、料理教室の開催などしています。
甘酒、塩麹というところで甘味、塩味を出す事をやっています。
ピザ、ローストチキンなど和食に限らず、入口は深く各地の料理を作るようにしています。
ピザの生地を膨らます時に砂糖が必要ですが、甘酒をつかってやると美味しいピザ生地ができます。
母親(浅利妙峰)が9代目で大分県佐伯市で麹屋をやっていましたが、家は330年になります。
塩麹は漬け床としてあったらしいです。
使い勝手がいいし、簡単においしくなると言う事色んなところで話をしたり、作って食べてもらった時に評判になり塩麹がブームになったようです。
昭和30年代までは味噌も手作りでやっていました。
大雑把にいうと麹と小麦と、大豆と塩水を入れて寝かせておいたら醤油ができます。

大学は医学部で看護学を学んでいました。
消化のプロセスなども勉強しましたが、今それが役だっています。
麹が酵素を一杯作ってタンパク質を溶かしたり、でんぷんを溶かしたり脂質を分解したりする作用をします。
当時麹屋を継ごうと言う思いは全くありませんでした。
大学卒業後は青年海外協力隊員として海外、パラグアイに行きました。
地域保健活動として、バランスのいい食事、手洗いの重要性など、病気にならないような授業をしていました。(スペイン語)
市内のかたが色んな行事に呼んでくれて、味噌を作るけれど麹はないかという事で話しているうちに、母が出演していたNHKの番組『きょうの料理』を見た日系人の方に、塩麹などの話をして欲しいと言うことになりました。
その後実家で働くようになり、麹の持っている力、なんで身体にいいか等の話をしましたら、そのうち食について極めたいという思いが募って、イタリアに行き、イタリアでは食文化に関する修士号を取るために留学しました。
スローフードという考え方があり、食材、郷土料理がどういう成りたちで出来たのかとか、何で無くなって行くのか(手間がかかる)、それを守っていきましょうと言う考えの大学でした。

日本で有名なのはバーニャ・カウダだと思いますが、日本では有名だと言うと笑われます。
大分ではごまだしうどんが有名で、ごまだしは焼いたエソ類などの魚の身、胡麻を擂り潰して、醤油等を混ぜて作られる大分県佐伯市の調味料で、湯に溶き入れ、うどんと共に「ごまだしうどん」として食すのが一般的です。
パラグアイでは看護師として健康教室を開いていましたが、塩麹の話は、こちらに来てからは色んなところで麹の話とか、料理を作ってだしたりしていました。
麹の働きは人間の体にいいことだと言う事をみんなに知ってもらいたいと思うようになりました。
パラグアイの日系人は2011年ごろには家で味噌、醤油などを作っていて勉強になりました。
味噌など自分の好みの味を作りだしていました。

和食だけではなくピザ、ローストチキンなど幅広く利用していて、また甘酒でドレッシングを作ったり、甘味、塩味を麹で出来た調味料に変えるだけということですが。
ローストチキンでは、塩麹と蜂蜜でつけだれを作ります。
醗酵調味料を使って料理をつくる、、麹の酵素にはタンパク質を分解する働きがあるのでアミノ酸の大きさまでします。
ぱさぱさの胸肉などにも塩麹を塗って、冷蔵庫に寝かせておいて料理すると柔らかくしっとりと出来上がります。
日本の料理を教えてほしいと言う事で教えてその代わりに その国々のレシピ、料理を教えてもらいました。
塩を塩麹に、砂糖の替わりに甘酒、白ワインの替わりに日本酒にしています。
麹の使い方はまだまだ気付いていないことがあると思います。
ただ美味しいと言うだけで無くて、食べた後にお腹の調子が良くなったとか、身体に負担がかかりにくい料理が出来上がるとか、食べて健康になると言う事はいいことだと思います。
「『With fermentation, the world will be as one(発酵で世界を平和に)』という言葉を自分のスローガンとして掲げて、『おいしく食べてより健康で楽しく』というのが目指すところです。







































2019年4月20日土曜日

永井祥子(名古屋空港中華航空機事故遺族会 役員)・事故から25年 伝えたい思い

永井祥子(名古屋空港中華航空機事故遺族会 役員)・事故から25年 伝えたい思い
1994年4月名古屋空港で乗客乗員264人が犠牲となる大惨事となった航空事故があったことをご記憶でいらっしゃいますでしょうか。
台湾を出発した当時の中華航空140便エアバスA300600R型機が着陸に失敗して炎上しました。
乗客乗員264人が犠牲となり7人が重傷を負いました。
この中華航空機の墜落事故から今月4月26日で25年となります。
当時長野県に住んでいた永井祥子さんはこの事故で、御両親と夫を亡くしました。
事故の後二人のお子さんを育て、裁判を闘い、遺族会の役員として会報の発行、慰霊式の準備などをやってきました。
現在兵庫県にお住まいの永井さんは事故を風化させてはならない、二度と同じことを起してほしくないと言う思いから、ラジオで御自身の体験を語って下さいました。

私たちの事故は阪神淡路大震災の前の年に起きた事故でした。
或る時新聞記事に「希望の灯り(HANDS)」を立ち上げる記事が載っていて、「震災の遺族に関わらず事件、事故の心のケアを」という文章を見付けて参加できるか問い合わせをしたところ、どうぞと言う事で伺いました、それが2002年だったと思います。
その後1・17の行事に参加させていただきました。
とっても温かい場所だなというのが第一印象でした。
1994年4月26日に事故が起きました。
当時3歳の娘とお腹の中に7カ月になる子がいました。
姉から電話があり、「TVで今名古屋空港で飛行機事故のニュースがあるが、お父さんたちが乗ってる飛行機じゃないよね」と言われたのが最初で、あわててTVを見て、主人たちの日程表を見てもしかしたらそうかもしれないと思ったのが最初の形になります。
名古屋に向かう間にラジオにどんどん情報が流れきました。
搭乗者名簿が読まれてて名古屋に着く頃は、駄目なんだろうなという思いが強くなったと思います。

空港のロビーに入る時にマスコミから「御遺族ですか」とマイクを向けられましたが、はっきりした状態が判らないのに、「遺族」と言われたことに物凄い自分が違う世界に入った瞬間でした。
配慮の無さ、そういう場所に向かう家族にマスコミの中を通らないといけない状況を先ず排除してほしい。
今でも大きな事故が起きた時に、TVに流れたりしていて、まだ繰り返されているんだなと残念に思います。
ロビー内に集められてTVから流れる情報をずーっと見つめるだけでした。(翌朝の5,6時まで)
誰からも何の説明も受けられなかった。
6時頃にこれから確認の為に自衛隊の格納庫に向かうのでバスに乗ってもらいますと言う話がありました。
それが初めての説明らしい事でした。
それは遺体の確認なんだろうと思いましたが。
コンクリートの上にブルーシートがあり、そこに200体以上の遺体が横たわり毛布がかけられていて、そこに入って行きました。
そこでの異様な光景とあの臭いは、私が一生抱えて行くんだろうなあという状況でした。

身体の特徴とか、身に着けていたものが枕元に有ったのでそれらを探しました。
主人は比較的早く見つかり毛布をめくって確認しました。(焼死の遺体)
両親は遺体の損傷がひどかったので、かかりつけの歯医者から取り寄せた歯型で歯医者さんのもとで確認をして貰ってようやく両親を見付けました。
炭化していて身体は人回り小さくなっていました。
ようやく母を見付けた時に「熱かったよね」と炭化した体をさすっていたら、警察の方から「汚れますから」と言われて、手は既に真っ黒になってはいたが、母は物ではないし私は母の身体に触れていたかった。
父親は最期に見つかりました。
父が経営していた会社と関連会社さんと一緒に行った事故だったので、父はきっとみんなが全員みつかるまでは自分は見つかってはいけないんじゃないかと、その時は思いました。
夫は娘を本当に可愛がっていました。
お腹の子の性別がわかって、名前を一所懸命考えて事故のちょっと前に決めて、息子にとって最初で最後のプレゼントかなって思います。

TVからの情報ではなくて、ちゃんとした機関から事故に遭われたかもしれませんという連絡が先ず欲しいと思います。
その時に必要な情報をちゃんとした機関から貰いたい。
目の前には3歳の娘がいるわけですから、さびしい思い、辛い思いをさせたくなかったので、至って明るい母だったと思っています。
お腹が大きい状態で泣くとお腹に凄く力がかかってお腹の子も駄目にしそうで、流産止めの薬を飲みながら過ごしていました。
息子を産んでその後したいことがあって、それは思いっきり泣くことだったんです。
でも息子を産んで目の前の子どもを前にして、私は泣いてちゃいけない、この子をちゃんと育てなきゃいけないと思って、なんとかやってきたんですが・・・。
葬儀が済んで49日の前に中華航空から賠償金についての封筒が届きました。
そこには吃驚するぐらい低い金額が提示されていました。
関連家会社の方達と一緒に遺族会を結成してそこを窓口に交渉してゆくことになりました。
他の方々もいくつかの遺族会を作りました。
団体交渉は納得できる状況ではないと言う事で交渉は打ち切られ裁判になって行きました。

今の法律では会社の責任は刑事事件では問えない、個人しか問えない。
書類送検自体は機長と、副機長、運行責任があるとう事で副社長始め4名でした。
事故から5年後に機長と、副機長については被疑者死亡で不起訴、副社長以下の人については監督責任があるという立場であったが、個人として刑事責任を問うまでにはいかないと言う事で不起訴になっています。
当時はそれ以上できることは無かったので、刑事責任については私たちにはできることはなかった。
民事裁判で事故の原因究明、責任の追及、正統な賠償を求めて裁判を起こすことになりました。
何故家族が亡くなったのか知りたいと思って、警察に問い合わせると、法律の中で罪に問えるかどうかを捜査する機関であって、遺族に説明する機関ではないと言われました。
事故調査委員会に問い合わせると、再発防止の調査であって、遺族の為の調査ではないと言われました。
事故原因について誰かから明確に説明を受ける機会も無かった。

裁判でも飛行機の性能、設計に関することも専門的な事ばかりで、素人に判るような説明ではなくて、原告の自分達にはよく判らないと言う事が長く続きましたし、裁判結果も判りにくい内容だったと思います。
副機長の操作ミスがあり、飛行機自体のシステムがマニュアルと自動運転の両方に対応できるような状態ではなかったというふうな印象でした。
当時の事故報告書を読んでも12項目が複合して起きた事故と言う事で、単純にこれだけという事はなかった。
判りにくい事故だったので、孤独、失望を抱えていました。
家族が亡くなった原因を適切な機関から適切な説明が可能であれば、裁判は起こさなくてもよかったと思う。
当時は意族は置き去りにされた立場だった。
泣いているといつまで泣いているのと言われ、明るくしているとあんな事故があったのに平気なんだねといわれるし、世間の言葉に傷ついたこともありました。

息子は生れた時から主人がいない状況ですが、主人がいない状況で子供たちは辛い思いをしていないだろうかと毎日感じますが、私自身は悲しいことは自分の中で処理できるが、子供を一杯褒めたい時に報告する主人や両親がいなくて、私の中では辛くて、褒めたい時、うれしい時にそれを話す相手がいないと言う事は辛かったです。
私は褒めたり抱きしめることはできるが、主人、両親はそれすら出来ずに亡くなってしまったので、どれほど無念だったろうかと思っています。
子供たちは元気に育ってくれました。
主人はこうだったとそこにいたかのように話していたので、息子なりの父親像ができあがっていったように思います。
2年前息子が大学を卒業して、名古屋に就職が決まって名古屋空港の慰霊施設のそばに住まいを見付けたいと言った時に、「どこかで父の面影を追っていたんだろと思う」「最期に息をしていたであろう土地のそばで暮らしたいと思った」と言いました。
息子はいないことも含めて受け止めているんだと私としては思って、そういうふうに思っている息子には感謝しています。

棺を受け取って帰る時に、「パパとおじいちゃんとおばあちゃんは煙になってお空に行って星になって見守ってくれているんだよ」と言って娘には伝えて、星は娘にとって特別な
存在となり、娘なりに色んな事を感じていたんだろうと思います。
娘が中学に入る年に、4月の慰霊式の時に娘が式辞を読みました。
「この事故で失われたのは264人の命だけではなく、その人達の家族を、温かさも無くしたんです」とそう読んだ時に娘の気持ちが感じられてこういったことが言えるぐらい大きくなったんだなとその時には思いましたが、大人になった今は具体的なことは言いませんが父親の存在を受け止めているんだと思います。
名古屋空港中華航空機事故については多くの人が記憶に残っていないんだと思います。
少なくとも飛行機に携わる方、空港の運営に関わる方だけはこの事故のことは風化させることなく教訓として残してほしいと言う思いは強く思います。
遺族とういうと特別な事故、震災で家族を亡くしている人を遺族と呼んでいると思うかもしれませんが、私自身は大切な家族を亡くした人を遺族と呼ぶんだと思うので、だったら全員が遺族だと思うので、そう思うんであればお互いに優しく生きられるんじゃないかなあ、自分が言われて悲しいことは言わないし、お互いに原因が違っても家族を亡くしたら悲しいと言う思いが共有できれば、お互いに優しくできるんじゃないかと思っています。


































2019年4月19日金曜日

川本三郎(評論家)            ・【わが心の人】永井荷風

川本三郎(評論家)            ・【わが心の人】永井荷風
永井荷風は明治12年(1879年)東京小石川生れ。
中学時代から芝居や寄席に親しみ文学に没頭します。
20代半ばからは、アメリカ、フランスに暮らし帰国後は作家の道に専念しました。
代表作には『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)、『つゆのあとさき』などがあります。
荷風の日記『断腸亭日乗』には荷風の暮らしや生き方が丁寧に描かれています。
昭和34年亡くなりました。(79歳)

大好きな作家です。
若い頃『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)なんか読んでいましたが、本当に好きになったのは45歳位からでしょうか。
永井荷風の文学は老人文学なんですね。
夏目漱石、太宰治など近代文学はほとんど青春文学なんですね。
荷風は大人とか老人を主人公にしていて、これは非常に珍しい。
私が荷風を熱心に読むようになったのは1980年代のころ(バブル時代)で、東京の街がどんどん変わっていった時期です。
荷風は明治時代に東京の街が次々に破壊されてゆくと言う事を非常に悲しんでいた人です。
バブル期に読むと非常に古き良き東京への想いがよく伝わってきて、それから夢中に読むようになりました。
荷風の読者は女性が少ない、荷風の小説の主人公は大抵玄人の女性なんですね。
圧倒的に中高年男性です。
荷風の代表作を3つあげるとすると『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)、『つゆのあとさき』、『断腸亭日乗』(大正6年から亡くなる前日まで書いた。42年間の記録)ですね。

東京の風景をメモし、下書きをして、最期に和紙、墨、筆で描いてゆきます。
自分で綴じて、形そのものが芸術品になっている。
晩年に住んだ千葉県市川市に原本が委託されて保管されていています。
荷風展で展示されています。
『断腸亭日乗』 荷風の若い頃の書斎の名前が「断腸亭」と呼んでいた。
荷風は断腸花(だんちょうか)という花が好きだった。
又、荷風は腸が悪かったので、日記をそのような名前にしたという説もあります。
日記の事を漢語では「日乗」という。
『断腸亭日乗』を自身で朗読している。(NHKに有った。昭和20年8月12日、13日当たりのものを朗読 当時60代)
東京で空襲に遭って、明石で空襲に遭い、岡山に行き、岡山でも空襲に遭う。
岡山の勝山というところに疎開していて、朗読は谷崎潤一郎も疎開していて谷崎を訪ねてゆく下りです。
昭和20年8月12日、13日当たりは敗戦の直前です。
戦後荷風が変人扱いされるが、原因は3度も空襲に遭って、岡山では命からがら逃げていて、空襲恐怖症があったんではないかと思う、それが奇妙な行動をするようになったのではないだろうか。
戦時下でよくこういった文章が書けると思う。
東京ではずーっと住んでいた自宅を東京大空襲で失うというつらい体験もする。
家は「偏奇館」と呼んでいた洋館だった。

「偏奇館」が東京大空襲で焼けてしまう。
「3月9日 天気快晴 夜半空襲あり。 翌日の明け方、我が「偏奇館」焼亡す。
・・・隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き・・・庭にい出たり。・・・谷町あたりもにも火の手の上がるものを見る。・・・」
酷い目に遭っているのに文章を読むと落ち着いていてよく観察し、言葉も選んでいるし、文学者ってこうでなくてはと思いました。
荷風はさっぱりしていて、要所要所に漢語を入れていて侍の文章なんですね。
音読すると心地よさがある。

荷風は『日和下駄』という散歩エッセーを書いているが、散歩は江戸時代には無かった行為です。
明治になって西洋人が持ち込んだ習慣です。
荷風はそれを好みました。
荷風は2度結婚しているが、2度離婚してほぼ単身者と言っていいので、街歩きがしやすい状況にあったと思う。
街を歩きながら観たこと、観察した人々の暮らし、地形などをどんどん作品の中に取り込んでゆく。
荷風の文学は人との関係も出てくるが、街の描写が素晴らしい。
荷風は意識的に裏通り、路地、横丁に興味を持った人です。
特に好んだのは下町でした。(隅田川の東)
荷風の好きな人は必ず「向島の私娼街、玉の井」に出かけます。
今見ている風景の後ろ側に今は失われた過去の風景を幻として観て行く、荷風の風景の見方はそれなんです。
明治時代にどんどん変わっていき、過去と現在を重ね合わせて見て行く。

荷風は尊敬する森鴎外などのお墓を丁寧に丹念にお墓参りする。
一方でモダンな東京も荷風はこよなく愛している。
関東大震災で東京が新しい都市に生まれ変わる、モダン都市が誕生して、銀座に立ち寄ったりして両極を見て来るようになる。
荷風は恵まれていたのでアメリカ、フランスに自分の文学の為に留学した。
音楽、オペラなどを楽しんだ。
若いころは洋装でいたりして本当にダンディーだった。
日本は一人暮らしが増えてきて、そういう時代に荷風は一つのお手本にもなります。
荷風は一人生きると言う事を貫き通した人でした。
亡くなった時には近所の通いの手伝い婦「とよさん」が血を吐いて倒れているのを見つける。
その人は荷風の身の回りのことを本当に良くしてくれた人だったようです。
最期の頃の日記は一行位でした。
俳句、漢詩、絵も描いていたので、『断腸亭日乗』には絵も描いている。
荒涼とした荒川放水路に良く行って、荒川放水路の風景を描いていたし、花も好きで花の事も一杯書いている。
荷風と言うペンネーム、「荷」は荷物の「荷」ですが、これは蓮の花の事なんですね。
荷風が若い頃病気で入院して、そこの看護婦さんの名前が蓮と書いておれんさんで、それにちなんで荷にしたという説があります、ほかにも説がありますが。
戦争中多くの作家が軍国主義の下で、やむを得ないところもあると思うが戦意高揚の文章を書いていたが、荷風は孤高を守って一切そういう文章を書かなかった。
戦後にすごいという事になって荷風ブームが起こりました。




















2019年4月18日木曜日

野村克也(野球解説者)          ・妻に先立たれて今・・・

野村克也(野球解説者)          ・妻に先立たれて今・・・
京都の峰山高校からテスト生として南海ホークスに入団、現役27年間に渡って捕手として活躍、歴代2位の通算657本のホームラン、戦後初の三冠王など輝かしい記録を持っています。
1070年の南海でのプレーイングマネージャー就任以降、ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任、ヤクルトでは3回の日本一に輝きています。
50年近く連れ添い多くの話題を振りまいた妻沙知代さんが2017年12月8日に吐血症心不全で85歳で亡くなりました。
野村さんは奥さんの突然の死に大変とまどい、男って弱いですねと肩を落として呟いていました。

今83歳、健康でよく食べよく寝ています。
野球を見てたら腹が立つんですよ、お前らプロだろう、プロ意識があるのかと、TV観ながら文句いっています。
この人を監督にしたらおもしろいだろうなあと言う人が見つからない。
監督の人材難と言っていいんじゃあないですかね。
プロ野球としてどうあるべきか、考えなければいけない時期ではないかと思います。
サッカーに追い越されるのではないかと思います。
子供が今野球よりもサッカーが多いですから。
4球団の監督をやりましたが、共通点は全部最下位です、最下位になると僕の処に来るんです。
3年契約という事で、3年で終わりました。
或る意味では最下位なのでやりやすい。
一番はミーティングですよ、これを僕は非常に重視して大事にしました。
選手全員を集めて、「野球とは、とおまらは聞かれたらなんと答えるのか」から始めるんですが、何処のチームに行っても、「考えたことはありません」と答えるんです。
プロなんだから今考えろと、そこからはじまるんです。
考え方が変われば行動も変わるので、原則を狙って僕の指導は始まるんですが。

僕の先生は誰もいません。
鶴岡監督からは気合だ、根性だと言うような軍隊野球でそれ以上の事は言わないです。
監督になるなんて考えてもいなかったので、30代に入って引退後の事を考えなければいけないので、誰にも負けない評論家、解説者になってやろうと心に決めて、優勝しないときは、日本シリーズの解説者として頼まれるので張り切りました。
良い評判を得てそれが監督に結びつきました。
ヤクルトの監督をやって欲しいと、本物の野球を教えてやって欲しいと相馬球団社長から言われ、ヤクルトの監督を引き受けました。
ヤクルトは9年やりました。
相馬社長からは全面的に信頼されました。

貧乏だったので母親を楽にさせたいと思って、美空ひばりに憧れて音楽学校に入ってやったんですが、高い音がでなくて音域が狭くて歌手は駄目だと思いました。
映画俳優に憧れて、鏡の前で真剣にやっていましたが、この顔では無理だとあきらめました。
金を稼げるのには野球しか思いつかなかった。
野球部に入って野球を始めましたが、結構簡単に打てました。
全国高校野球の京都予選でホームランを打って、これで何処からスカウトが来るかと思ったが誰も来ませんでした。
それでテストを受けるしかなかった。
新聞配達をやっていたので新聞の隅に南海ホークスの募集の記事がありました。
先生に相談したら行って来いと言われたが、大阪までの旅費が無くて先生が出してくれると言う事で受けに行くことになりました。
しかし、まさか受かるとは思わなかった。
球場には300人以上来ていました。
京都の名門校からも何人かきていました。
7人が残りました。(4人がキャッチャーでした)
テスト生は戦力になる訳ではないので、おまえらは5,6編球を受けるだけだと言われて、これを聞いた時にはショックでした。

3年経ったら6人が首になっていて僕だけが残りました。
ハンディキャップがあったので人一倍度努力しないと一軍には上がれないと思っていたので、バットだけは振りました、手は豆だらけでした。
或る時監督が掌を見せてみろと言われて、みんな怒られていましたが、私も見せましたら、監督が「野村、いい手しているな、良く見ろこれがプロの手だ」と言って褒めてくれました。
これは嬉しかったです。

服装に関しては妻から色々言われて、服装はセンスが悪いと着替えをしました。
2017年12月8日に妻沙知代が85歳で突然亡くなりました。
テーブルに頭を付いてうずくまっていました。
「大丈夫か」と言ったら「大丈夫よ」と言いましたが、救急車を呼んで病院に運びましたが、その前に息が無かったです。
急死だったので凄くショックでした。
裏には息子の家族がいたので、現在も助かっています。
3歳年上だったので、「俺より先に行くなよ」と言っていましたが、「そんなの判んないわよ」と言っていました。
男の弱さをしみじみ痛感しています。
実際に居なくなるといろんな面で感じます。
父は僕が3歳の時に戦争に行って亡くなってしまって、母子家庭でした。
母親が、僕が小学校2、3年生の時に子宮がん、直腸がんになり助からないと言うような状況だったが、なんとか助かったが肉、油類が食べられなくて、晩年は生きていました。

「ありがとうを言えなくて 妻沙知代へ」という本を出しました。
まさか急死するなんて夢にも思わなかったので。
幸せだったのかなあと言う事を一番聞きたかったが、聞けなかったので、そこが聞けなかった、そこが一番です。
「このがらんどうの人生を俺はいつまで生きるのだろう。」と本の後ろに書いている。
男は弱い、居る時には判らないが、居なくなって初めて感じます。
毎日寂しく生活をしています。
再婚したら、というふうにいう人もいますが、再婚は100%考えられない。
妻が亡くなって二つあります。
①鍵を持つようになったこと。 
②帰宅時に妻がいないこと。
誰もいない家に帰ること位寂しいのは無いですよ。

1965年に三冠王と取って、1970年8月の初対面で沙知代は野球の事は全然判らなかった。
どうしてあの時あの人を変えないのとか、言うようになりました。
素人目の言葉も役に立ちました。
現役時代、講演に明け暮れた時代、ヤクルト、阪神、楽天の監督時代これが三つの黄金時代ですが、この時代を支えてくれたのが沙知代でした。
南海ホークス時代に沙知代が原因で首になりました。
或るスポーツ新聞の一面に「野村に愛人」という記事があり、評判が悪くなりオーナーに呼ばれて、心配しないでいいと慰めてもらったが。
1992年にヤクルトをリーグ優勝に、翌年連覇、日本一になる。
妻がグランドに来ては、家でのぼやきを聞いていて、その選手に「貴方しっかりしないとだめじゃない」と言っていたようです。
それを全く知りませんでした。
それで南海を首にされたと言うような事の様です。
作詩が沙知代で作曲を全く面識のない三木たかしさんに依頼して、僕が歌って「女房よ」という曲を出しましたが、これには吃驚しました。
今、解説とか新聞の原稿を書いていますが、生涯野球に携われるなんて幸せだと思っています。





































2019年4月17日水曜日

中野浩一(日本自転車競技連盟選手強化委員長)・【スポーツ明日への伝言】黄金の脚力が競う

中野浩一(日本自転車競技連盟選手強化委員長)・【スポーツ明日への伝言】黄金の脚力が競う
現役時代は世界選手権スプリントで前人未到の10連覇を達成、現在は日本自転車競技連盟選手強化委員長として、東京オリンピックに向けての選手強化にあたっている。

1992年のスペインのバルセロナオリンピックの解説者として行く。
(プロを辞めた年 36歳)
選手の名前など聞いたりして情報を集める。
自転車のロードレースって凄いんだなあと改めて感じました。
種目によっては開催枠と言うのは無いものがあります。
オリンピックポイントを取らないと出場できない。
強化の方針をもう一度見直す時期だと思っています。
2020オリンピックの自転車種目としては大きく分けて4つあります。
1.トラック競技・・・室内で行う教義
2.ロードレース・・・普通の道
3.マウンテンバイク・・・悪路、山道なども走る。
4.BMX・・・アップダウンのあるところを走るレースと、自転車に乗って色んなえんぎをする種目もあります。

1.トラック競技・・・スプリント、チームパシュート、競輪、チームスプリント、オムニアム、マディソン。
UCI(国際自転車競技連合 仏:Union Cycliste Internationale)が色々変えてきた。
男子も女子も同じ種目をする。(距離は違うが)

世界選手権を走ったのは1976年から1986年まで走りましたが、250の板張りバンクはバルセロナだけでした。
日本では当時無かったです。
2,3月でトラックの世界選手権が行われ、銀メダル1つ取る。
その前にワールドカップがあったがそこそこの成績を収めてくれました。
運も結構左右するところもありますが大分力が付いたと思います。
女子の競輪は作戦的に本人が判っていな部分もあるので、今後に期待しています。
世界ランキングとオリンピックランキングはちょっと違って世界選手権でメダルを取ることは難しいと思います。
ただ、オリンピックは4年に一度なので体調管理は難しいところもあります。
ヨーロッパでは各種目で優勝すると、次の1年間はチャンピオンジャージを着て走ることができる。
私はそれを着て走ったことはあまりありませんでした。

2017年から短距離のヘッドコーチとしてフランス人のブノワ・ベトゥ(プロのコーチ)を招きました。
徐々に選手の力が上がってきています。
最新のノウハウ、トレーニング理論など取り入れてきています。
組織的に強くして行くそれが花開くように、継続して、国内競輪でも結果を残す事が大事です。
自転車競技をやっているとオリンピックに出ること、メダルを取ることが目標で、1996年のアトランタから自転車競技でもプロが出ることができるようになりました。
私が強くなっていったのは実戦で走って、やっぱり強くなっていったという経緯はあります。(お金もらいながら強くなっていったようなものですが)
高校時代は陸上部でど素人からはじめた様なものです。
ミュンヘンでエキジビションで競輪をやって意外と現地の方に受けました。
見ているうちに走りたくなり、走りましたら、見ている人も競輪って面白いなということになりました。
フランスの世界選手権から正式種目として採用されました。
オリンピックは2000年のシドニーから採用されました。
競輪の内容もアレンジされていきました。

競輪は基本的には6人で走ります。
抽選で順番を決めて、インコースから順番に付かなければいけないので6番手だと一番最後になってしまいます。
自分の力と相手の力を計りながらゴールを目指す。
色々駆け引きがあります。
北京で永井が銅メダルを取りました。
競輪はレース運びによっては勝てる種目です。
メダルを取ってもっともっと日本の競輪で活躍してもらいたい。
ネットも普及して来たりして、本場に来る人は少なくなってきています。
新しいスターが誕生してほしいと思います。

























2019年4月16日火曜日

西川古柳(八王子車人形五代目家元)    ・伝統の『車人形」を守る

西川古柳(八王子車人形五代目家元)    ・伝統の『車人形」を守る
日本の人形浄瑠璃を代表する芸能集団は、西の淡路人形座と東の八王子車人形西川座と言われています。
淡路人形は3人で一体の人形を操るのに対して、八王子車人形は滑車の付いた箱車の上に人が座り一人で人形を操るのが特徴です。
西川古柳さんは東京八王子生まれの65歳。
八王子に160年以上続く西川古柳座の5代目家元を継いで23年になります。
12歳のころから父親の4代目の指導を受け、23歳の時には国立劇場の文楽研修生として3人使いの技も学びました。
地元八王子を始め日本各地で公演を続けています。
座員の数が現在10人、演目は20近くに上り、義太夫、新内、落語など他の伝統芸能との共演も試みています。

2月末から3月中旬にかけてアメリカ、カナダを廻って来る。
ジャパン・ソサエティーと言う組織があり、日本の文化をアメリカに公開しようと言う組織があり、今回是非アメリカの方を廻って欲しいと言う事で行きました。
人形使いが6名、義太夫が3名で行きました。
義太夫は竹本越孝さん、三味線は鶴澤津賀寿さん?、鶴沢やえや?
テーマがあり「女性」というテーマでした。
演目は八百屋お七、釣女、くずのは、源氏物語。
従来の形で表現して観てもらいました。
海外の初公演は1976年 旧ソ連、アメリカ(建国200年)でした。
その後40か所以上になります。

幕末の時代まで江戸では3人使いが行われていました。
江戸での3人使いは無くなって行ってしまいます。
初代の古柳は昭島で作り酒屋をやりながら、人形をやっていました。
3人使いは10体の人形だと30人必要になります。
一人で一体の人形を使えば10人で出来ると言う事で、2代目から車人形を継ぐようになりました。
人形の背から左手を入れて顔など、人形のかかとに足の指を入れて人形の足をを操作する。
自由民権を染め抜いた衣裳があるが、新しい自由を作りだすと言う事で、言葉で運動を起こすと掴まってしまうので芝居の中で行いました。
衣裳には「自由」と書いてあり、お客さんには見えないが背中には「新」という字が書いたあります。
人形の衣裳で自由を訴えたと言う事があります。(時の政権に対する反抗の形)

八王子は織物の街で旦那衆が車人形を支えた。
人形のかかとの部分にT字型の突起物が出ていて、これに親指と人差し指で挟み、足を使って人形の足を動かしてゆきます。
顔、両手、両足の5か所を動かさなくてはいけない。
右手は右手を操作、左手は顔と左手を操作する。
工夫がしてあり、親指で上下左右の動きをします。
首の部分にも突起物があり、顔とかも動かします。
坐ったら楽に使えるだろうと言う事で箱車になりました。
車は3つ、前が2輪、後ろが1輪になっていてタイヤが楕円になっています。
重心を変えると車が回転する事が出来るようになっています。
こういったことでお芝居ができると言う事が特徴です。
3人使いとは違う動きが出来ます、人形の足自体が舞台の床を踏めると言う事が特徴です。
衣裳にはわたが入っていてふっくらしています。
一度使って次の公演が無いと人形の衣裳は壊してしまいます。
その都度作り上げます。
メンテナンスが結構大変です。
徳島、淡路などに修理に出しています。
120~130体ありますが、90以上が江戸末期の作品です。
なかには現代的な人形、動物もあります。

小学生のころは父は公演で廻っていて家にはいませんでした。
小学校6年位から人形を扱う稽古を始めました。
踊りの稽古もやりました。
父は直接教えませんでした、お弟子さんたちから教えてもらいました。
文楽の研修制が始まってオファーがありました。
23歳が上限になっていてちょうど私は23歳で応募して2年間勉強しました、4期生でした。
これが私の最大の転機になりました。
或るところで子供の会があり、そこで人形芝居をしてみないかという話があり、そこでやりましたが悔しい思いをしました。
古典なので母親たちが私には判らないから駄目だわ、という事で出て行ってしまいました。
子供だけなら見てくれると思いました。
新しい作品にも取り組もうと思って新しい作品も作るようになりました。
義太夫、新内、落語、音楽などとコラボするようになりました。
昭和50年中期位に説教節でお芝居をやったりしていました。
すたってきて、父が義太夫に切り替えて、他の事もしてもいいだろうと言う事で落語、講談、浪曲等に合わせてやってみようと言うことになりました。
話芸、外国の音楽でも色んなものを作ってやってきました。

弟が西川柳玉から西川柳時となりました。
今はシリーズ化してやっています。
2011年に8人三番叟を作り練習していましたが、大震災があり中止となり幻として消えてしまいました。
福島の被災地で今もやっています、動けるうちはずーっとやっていこうと思っています。
人形浄瑠璃の復活の為に応援に行ったりしてもいます。
2016年8月 膝栗毛シャンプスメア? トム・リー演出で実験的な企画も行いました。
1月にシカゴのフェスティバルに向けてやろうと言う事でやりました。
6月ポーランド、9月ブリガリア、12月フランスと今年は多いです。
長男が跡を継ぐと言う事で外に行って淡路の方で受け入れて貰うことになり修行することになっています。
車人形は八王子、奥多摩、埼玉の3つの座が残っています。
後援会も200人ぐらいいます。
文化庁の無形文化財指定を目指しています。




2019年4月15日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】(新コーナー)
穂村さんは現代短歌会を代表する歌人、エッセイスト、絵本作家として多方面で活躍。
短歌の魅力を探っていきます。

万葉集、百人一種など古典和歌を知っている人はいるかもしれないが、現代の短歌は話し言葉で耳で聞いてすぐわかる面白さがあるので、そういう魅力を知っていただきたいと思いました。
私は昔からあだ名は無かった。
大人になっていたが、同情して周りから「ほむほむ」というあだ名はどうかということになりました。
西加奈子さんは同じ誕生日仲間のケーキに「みっくん、ちゃーちゃーん、にしさん おめでとう」と書いてあってやっぱりさびしい思いをしたそうです。

穂村さんは1962年北海道札幌市生まれ現在56歳。
愛知県の高校から北海道大学に進学し1年で中退、1983年、上智大学文学部英文学科に入学。
卒業後、システムエンジニアとしてコンピューター会社に就職、42歳の時に総務課長を最後に退職、以後歌人、評論家、作詞家、絵本作家、翻訳家として幅広く活躍。
2005年に結婚。
1990年第一歌集「シンジケート」、1992年第二歌集「ドライ ドライ アイス」
2001年第三歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」
2018年第四歌集「水中翼船炎上中」刊行、第23回若山牧水賞を受賞。

北海道大学の頃同級生とルームシェアーしていて、友達が塚本邦雄さんの歌人の本を読んでいてそれが、短歌を意識した最初でした。
文語体で自分でできるという感じではなかった。
クラブ活動はワンダーホーゲル部でしたが、全然思っているのと違っていた。(ピクニック程度と思っていたが、そこはヒマラヤに行ったりしていた。)
環境が変わったら可能性が開けるのではないかと思って中退しました。
1983年、上智大学文学部英文学科に入学、女性が多く華やかだった。
華やさに付いていけず、ジムに通ってベンチプレスなどをやりました。
周りとずれがあり自分がどんどん暗い居場所に行って、図書館で短歌研究という雑誌を手にして、口語短歌との出会いがそこでありました。
林あまりさんの作品でした。
「きょう言った「どうせ」の回数あげつらう男を殴り 春めいている」 林あまり
この主人公は「どうせ」なになにだからという口ぐせがある。
うざいと言う思いで男を殴り、周りは春めいている。
こんな春の歌い方があったんだと思いました。
これが短歌なんだとショックを受けました。

「なにもかも派手な祭りの夜のゆめ火でも見てなよ さよなら、あんた」 林あまり
捨て台詞みたいな別れの歌だが、演劇的な感じがする。
火でも見てなよ」と言うところにひきつけられる。
林あまりさんが20歳そこそこで詠んだ歌です。
「さくらさくらいつまで待っても来ぬ人と死んだ人とは 同じささくら」  林あまり
いつまでまっても来ぬ人は死んじゃった人と同じだと自分に言い聞かせている。
潔さの桜とリンクして詠っている。
林さんは後に作詩をするが、坂本冬美が歌った 【夜桜お七】です 。

私も詩を曲に載せるようにアレンジしたことはあります。

メモを買って短歌をつくりだし書きこみました。
それを1年後の角川短歌賞に応募したら、次席になりました。
その時に受賞したのは俵万智さんでした。(林あまりさん、俵万智さんも私も同学年です。)
林あまりさんは高校時代から短歌を詠む。
俵万智さんは早稲田大学在学中に佐佐木幸綱(祖父は文化勲章受章者の佐佐木信綱)に師事。

俵万智
「思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ」
生の手触りをもった思い出が何処にあるのだろうと思った時に、もしかしたら麦わら帽子のへこみかもしれない、へこみを直すとその思い出が消えてしまうような気がして、大事にしてある、そんなイメージです。
写真だとその時の風、日差し、音とかが、写真の鮮明さによって打消される、と言う事があるのでは。
「また電話しろよと言って受話器置く君に今すぐ電話をしたい」
時代を感じます、携帯電話の時代ではこんな感じではない。
また電話しろよ」と言う感じは古風な人間関係。
「寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら」
受身の感じ。
寄せ返す波のしぐさの優しさに」は二人の関係性の比喩にもなっていて揺らいでいる。
「さ」行が入っていてさらさらと波の感じで、また最期に「さ」が入ってくる、音の響き、リズムが重要になってくる。

改めて詠んでみて生々しく思い出され、時間が歌の中に閉じ込められているような不思議な感じがします。









2019年4月14日日曜日

ロザンナ(歌手・イタリア家庭料理研究家) ・「『愛の奇跡』から半世紀」

ロザンナ(歌手・イタリア家庭料理研究家) ・「『愛の奇跡』から半世紀」
イタリア北部ヴェネト州スキオ生まれ、68歳。
音楽学校卒業後歌手を目指して1968年に来日し、出門 英(でもん ひで)さんと組んだ「ヒデとロザンナ」として『愛の奇跡』でデビュー、紅白にも出場しました。
やがて二人は結婚して3人のお子さんを設けましたが、出門さんは47歳の時に結腸がんで亡くなりました。
その後ロザンナさんは子育ての為に日本に残り、歌手としてイタリア家庭料理研究家として活躍しています。
日本語もすっかり上達をして、イタリア料理や自らの人生についての講演や執筆活動にも力を入れています。
そして3年前には日本に帰化することを決意し、申請から1年3カ月後の2017年に帰化が認められました。
来日したいきさつ、日本での50年の暮らしで感じた事、帰化の道を決意した理由、今後の歌手、料理研究家としての活動などに付いて伺います。

音楽学校卒でピアノ、発声練習などしましたが、さぼってばっかりしていました。
15歳位の時に、映画館がオープンするのでなんかイベントをやりたいと言う事でした。
ママが経営していた喫茶店に4人の学生が来ていてバンドで活動していました。
女性が一人加わった方がいいと言う事で姉に話が来ましたが、私でよければ歌ってあげるわよ、と言う事でスタートしました。
それで音楽学校に行って勉強することになりました。
ママの兄弟がいて、一人がピアニストで一人が声楽をやっていましたが、オペラではなかなか食ってはいけないので、その叔父が今度日本に呼ばれているので一緒にいかなかと誘って、バンドを組んで叔父らが日本に来たのが東京オリンピックの年でした。
それから3年間やっていたら、叔父さんから一緒にやらないかと私に手紙が来ました。
親を助けてあげるんだったらと、とりあえず出稼ぎのつもりで来ました。
赤坂に来たら日本のイメージと全然違っていて、近代的なビルが並んでいて吃驚しました。
赤坂のゴールデン月世界と言う高級ナイトクラブがあり、そこで叔父さん達とコーラスなどをやったりしていました。
一緒にレコーディングしたいと言う人がいるのであって見ないかと言われました。
それがヒデさんでした。
この世の人ではない位素敵な人に出会ったと思いました。
この人は私のパートナーとなるんだなと思いました。

『愛の奇跡』はB面で間奏部分になんか言ってってほしいとの事だったが、アモーレとか何とか言ってくれと言う事でと、彼の前なので恥ずかしかったがなんとかこなす事が出来ました。
『愛の奇跡』が大ヒットすることになりました。
その後ヒデと結婚するととになりました。
夫としては優しくて良いんですが、亭主関白でありたくて、家にいて家を守ってもらいたいと思っていました。
辞めるつもりで過ごすうちに、いつでもそのうち呼ばれて出演してしまいました。
子供は男2人、女の子が1人です。
彼は食い道楽で、朝昼晩常に違うものが食べたくて大変なんです。(和風、洋風、中華風とか)
出されたものは一度も不味いとは言ったことはないです。
47歳の時に癌で亡くなりました。
その前年になんか調子が悪いと言っていました。
触るとお腹にこぶし大のぐりぐりがありました。
病院嫌いでした。
ようやく病院に行ったら、大きな病院に行くように指示されましたが、どうも黙っていました。(12月の忙しい時期だった。)
クリスマスが過ぎてすぐ12月26日に検査入院しました。
結果が正月4日になってしまいます。

4日はゴルフのコンペがあり行ってしまって、私が電話で受けてましたが、がんでかなり進んでいると言う事だった。
夜帰ってきたが凄く機嫌が良くて話しだす機会がなかなかなかったが、がんと当人には伝えないで、がんの可能性があると言う事で、やっと納得して入院しました。
先生からはリンパ線に転移していて90%駄目だと言われてしまいました。
腸閉そくを起こす可能性もあり直ぐ手術をするように言われました。
手術をして貰ったら、長くて5月頃と言われました。(1月時点)
ヒデが亡くなって、中学とかまだ3人の子供がいるしお金が無くて、マンションを売ってイタリアに住もうかと思いました。
イタリアにいって父に相談したら、「君には3本若い木がいるんだろう。 根を下ろし始めている若い木をひきぬいて違う土に入れたら、ちゃんと伸びるのかねえ。」と言われてしまいました。
一瞬何て冷たい親なんだろうと思いましたが、考えればなんて凄い愛なんだろうと思いました。
子供たちにも聞きましたが、日本に戻ることにしました。
TV朝日からモーニングショーでパーソナリティーをやって欲しいと言われて、できないと思ったが、最終的に90分のトークショーに出演することになりました。

その後歌も歌わないのと言われて、歌い始めているうちに、狩人の加藤高道君から僕がヒデのパートをやりますから一緒にやりませんかといわれました。
4年前から一緒にツアーをやらせてもらっています。
この歳で仕事が楽しいと思うようになりましたが、素晴らしい友達がいて、楽屋が笑いで絶えないからです。
料理も母親に教わったレシピで展開していきました。
長女はモデルの万梨音(まりおん)で、NHKのEテレのイタリア語講座で2年間に渡って出演しましたが、最初彼女はイタリア語は喋れませんでした。
家では日本語だけにしていました。
この話があった時には是非やりなさいと言いました。
父親がいる間は帰化の事はできませんでした。
帰化の為の書類は70種類位あり大変でした。
一番大変だったのは帰化をするにあたって1,2年生のひらがなカタカナ、漢字の読み書きができることと言う審査があることです。
漢字が駄目でした。(音読み、訓読みとか 線が増えてくると駄目)
行ってみたらその審査は無くなりましたと言われました。
本名:加藤 絽山奈(かとう ろざんな)となりました。

最近は何処へ行っても大体イタリアレストランの美味しいのがあります。
ピッツアも窯で焼いています。
日本に来て吃驚したのは日本人の髪、目がみんな黒くて、学生などは服装も黒い。
いまだにロザンナちゃんと可愛がってくれていて、本当に幸せだと思います、このまま続いてくれてポコっと逝ってくれればいいと思っています。














2019年4月13日土曜日

淺野弥三一(福知山線脱線事故遺族)    ・重大事故をなくすために・・・JR西日本と考えたこと

淺野弥三一(福知山線脱線事故遺族)・重大事故をなくすために・・・JR西日本と考えたこと
浅野さんは事故で当時62歳の妻と55歳の妹を亡くし、次女が重傷を負いました。
事故後深い悲しみに襲われた浅野さんはJR西日本と向き合う中で、責任追及よりもまず事故の原因究明と再発防止をと行動を始めます。
鉄道事故と鉄道会社と事故の遺族の間で一体どのような話し合いが行われたのか、浅野さんの心にはどのような変化があったのか伺います。
浅野さんの妻とその妹と、次女の3人は千葉県の親戚に見舞いに行くために新大阪駅に向かおうとして、たまたま事故を起こしたこの電車に乗りました。
都市計画コンサルタントの浅野さんは事務所に出勤する途中、車の中のラジオでこの事故の事を知ります。

9時25分ごろだと思います、尼崎で事故と言うニュースを聞きました。
妹の旦那と連絡して乗った電車を聞くと、きっとあの電車ですと言う事を知りました。
大変な事故で、TVのニュースでは30分単位で亡くなった方が引き出されてきました。
亡くなった方は1両目より2両目の方がひどかった。
貼り紙が貼ってあって次女が病院に入院していることが分かりました。
次女もかなり危ない状態で、後30分処置が遅かったら危なかったと言うような状態でした。
後の二人は夕方まで探したが判らなくて、遺体安置所に行こうと言う事で身内何人かと行きました。
当日夜中に遺体を確認して夜中の2,3時頃に帰りました。
他の御家族も泣き崩れる人達がいました。
翌日の夕方に市役所の職員が自宅に連絡して奥さんではないかとの話がありました。
見に来てほしいと言う事で9時頃に行きました。
頸椎が致命傷になっていました。
顔は打撲で腫れあがっていました。
妻はかなりの外反母趾でしたので、それを見てしょうがないと認めて・・・。

事故の3日後通夜の会場にJR西日本の南谷会長と秘書室長が来て、一言二言申し訳なかったと言った後に、「これからまた保障の話もあるんで」と南谷会長が言った時には激怒しました。
今日はどういう場なんだと、常識的にいったら考えられない。
人物もそうだが、会社の体質もこの辺にあるのではないかと思いました。
19日鉄道再開に向けて、6月18日意族向け説明会がありました。
説明会の前に、「多くのご遺族負傷者の理解を得たので運行再開します。」と言いました。
「どういう方法で意向を確認したのか」と問い合わせたら、段々答えが曖昧になって行きました。(運行再開ありきだった。)
翌年、事故の責任を取って辞任した鉄道本部長等が関連会社の幹部になったことが後になって判明して、遺族等から不信感が高まったり、さらに翌年には事故調査委員会の意見聴取の場で、副社長が草むしりなど懲罰的な指導方法が問題になっていた日勤教育に付いて、現場で必要不可欠だと言い張って批判を浴びるなど、JR西日本と遺族の間でわだかまりが解けることはありませんでした。

6月25日に事故の被害者の会「4.25ネットワーク」が立ちあがる。
40、50人位の人が初めて顔合わせをしました。
月一回の定例以外に分科会などもできました。
107人が亡くなると言うJR事故史上最悪の大惨事でした。
運転手は何故制限速度を46kmも上回るスピードで現場のカーブに進入したのか。
直前の駅でホームを70mあまりオーバーランした運転手が、会社側から乗務を外されて事故調査委員会は日勤教育を受けさせられる事を不安に感じ運転に集中していなかったためにブレーキ操作が遅れたと推定した。
事故調査委員会の最終報告書では日勤教育の懲罰的な指導では運転技術の向上には効果が無い、スピードアップを図る一方で余裕のないダイヤ編成が組まれていた、速度のコントロールの出来る新型の列車制御装置を配備していれば防げたはずだと、事故の背景も指摘しました。
2007年6月に事故調査委員会が報告書を出す。
事故調査委員会が報告書は刑事司法の関係で動いてきている、その結論には会社の問題は書いてなくて個人の問題に落とし込んでいることに対して極めて不満でした。
この事故の一番の原因は何なのか、運転手のミスだけなのかと、分析していない。
異常な速度超過は私は手記に書いていますが、原因ではなく結果だと思います。
何かの動機があって異常加速をしているはず。
組織事故だと考えていました。

2006年2月1日 山崎正夫氏が社長に就任。(技術畑の人)
東大工学部を昭和41年卒業、国鉄に入って技術畑を歩んでくる。
2009年7月神戸地検が山崎社長のみを在宅起訴、辞任を表明する。
加害者、被害者と関係なく共同して原因究明をやらないかと正直に持ちかけました。
それが現実に動いてゆくきっかけになりました。
JR西日本と遺族が同じテーブルに付いて事故の背景をさぐる課題検討会第1回は2009年12月に行われました。
2011年4月に報告書が発表されるまで16回の会合が行われる。
会社側は8人責任のある人々が参加、遺族側は7人、ノンフィクション作家の柳田邦男さんがオブザーバーでした。
相手側のデータは遅れていない、そのズレに付いて話を進める。
2012~2014年までJR西日本安全フォローアップ会議が11回重なる。
専門家、学者が加わる。
ATSP、ダイヤ、日勤教育などの問題点を洗い出す。
指令系統が入ってこないとわからないので、因果関係のチャートを作りました。
人間、組織、技術、そこにヒューマンエラーが関わってくる、ビジュアル化する事を一番願ってきた。
組織の各部署が安全に対するリンクが欠けている事を明確にした。

西川福社長が「安全を軽視いていたのではない、安全を守る具体的な策にかけていた。」
と言っている。
リスクアセスメント(考えられるリスクを洗い出し分析し、その結果を評価する一連のプロセス)、会社に安全報告としてあげてくれと言うことに切り替えた、これは会社に取っては大きな決断でフォローアップ会議等の成果と言っていいと思います。
安全に対する資源がそこにのぼっているわけです。
会社と現場の職員の信頼関係が土台になって動かないとできない話です。
一番言いたいのは戦後の色んな事故、犠牲を経験しているのにもかかわらず、それは全て刑事手法と言う場を中心に動かしてきた、それは安全文化を捨ててきた。
JR西日本の事故はようやくそのスタートラインに立っているんじゃないかと思います。
妻、妹を亡くして今はガタガタの状態でなんとか私自身が生きているわけで、家族は事実上ある様で無いわけです。
この事故の憎さはえも言いません、でもそれを言ったからと言って何か前に行くんですかね。
憎さだけが前に出るのでそれは生産にはならないので、できるだけ私自身から発信すべき問題ではないと、私自身の恨み辛みの中身として閉じ込めておければいいかなあと言う思いです。
社会に対して教訓をどのように発信してゆくのか、加害者と被害者の共同の責任だと思っています。
事故の原因に付いてお互いに納得するまでやったらいいんじゃないかと思います。
自分等だけでは厳しかったら、第三者にも助けを求めて公表して行く、これが事故の社会化と言う私のイメージです。








2019年4月12日金曜日

藤城清治(影絵作家)           ・人生は光と影(1)

藤城清治(影絵作家)           ・人生は光と影(1)
大正13年生まれ、95歳になります。
影絵作品を作り始めてから70年余り、繊細で色鮮やかな光と影の作品はアンゼルセンやグリム童話、宮沢賢治の絵本にもなっています。
戦後は雑誌、暮らしの手帳で昔話や童話などの影絵を連載し、暮らしの手帳の表紙の絵も8年間担当しました。
東京生まれの藤城さんは12歳で油絵を始め、10代から絵の才能が注目されていました。
慶応大学時代、人形劇の魅力にとりつかれ勤労動員でかり出される中、人形劇慰問班として活動、昭和18年海軍予備学生となり、多くの友人が特攻に出陣するのを見送りました。
敗戦後、何もない時代に導かれるように影絵に取り組み、「暮らしの手帳」の創刊者花森安治さんとの出会いから影絵作家として活動を始めます。
一回目は戦争の時代を経て影絵作家となるまでのお話を伺いました。

大きなライトテーブルがあり、真下から光を当てて作っています。
影絵を切る時には片刃のカミソリで切っています。
ハサミでも上手くきれないし、ナイフでも駄目でカミソリの刃であれば切れるので、切りにくい面もあるが刃が薄いので、繊細な部分と力強さと荒々しさと、無限の息使いが出来るのは、カミソリが一番いいです。
折れてしまったりするが、一日に100枚位使ったりします。
カミソリで切った線の鋭さ、微妙さが一番人の心に響くように思います。
身体を動かさないといけないと思っていて、朝と夕方歩いていて1万歩歩くようにしています。
1万歩あるくことができなくなるまで頑張って、できなくなったら駄目だろうと思って、今日一日が一番いい作品が作れる自分であり続けたいと思っています。
幼稚園のころから絵を描くことが好きでした。
無口で絵ばっかり描いていました。

慶應中学に入ってそこで絵の先生が良い先生で、有名な明治時代の偉い絵描きの仲間の一人でパリまで行った人です。
洋画のさきがけになったような人が先生でした。
高校、大学共に受験勉強が無かったので絵に専念できました。
戦争中では、僕が女性の絵を描いたりして展覧会に出したりすると、軟弱だと言われて全部没収されてしました。
でも夢中で描きました。
勤労動員されたなかで、人形劇をやって慰問の為に浦島太郎、桃太郎をやったり色んな事をやりました。
戦争中の激動の中で、人形劇とか絵を描くことが如何に人間が生きていくうえで大事か僕は思ったし、世間も癒されて、見る方もやる方も涙をながして感動して、そんな中でできました。
19歳で海軍にはいることになりました。
琵琶湖の近くで1年間訓練しましたが、飛行機も無くなり、軍艦も沈んでしまった。
九十九里浜に海軍の一番精鋭が海岸線に並んで、その後ろに陸軍の大部隊が付きました。
(聞き取りにくくて詳細は不明)
そういうなかで人形の楽しさ、素晴らしさ、絵を描くことの素晴らしさ、生きることの素晴らしさがなんとなく自然に身に付いたんじゃないかと思います。

帰ってきた時にはほとんど作っていた人形をトランクいっぱいに入れて、九十九里浜に持って行って、戦争が終わった時に海に人形をみんな流してしまいました。
これをアメリカ兵に渡したくないと言う思いがありました。
後から思うと持ち帰えればいいとは思いましたが。
光を当てて、紙切り抜いて作って影絵劇ならばできると思いました。
色を塗るわけでもなく、削ったり組み立てたりするわけでもないので、教会で簡単な話に組み立てて子供に見せることもできると言うので、影絵をやろうとすることにしました。
ひっくり返ったり、大きくなったり小さくなったり、消えてしまったり、伸びたり縮んだり、動かすと光によって色々変化して面白いと思いました。
人形劇では出来ない光と影の面白さがあります。
昭和25年23歳で東京興行(現:東京テアトル)入社。
会社勤めのかたわら、人形と影絵の劇団 「ジュヌ・パントル」を結成。
映画館のパンフレットを任され、印刷とか、表紙は僕が女優の絵を描いたりしました。
花森安治の雑誌「暮しの手帖」の原稿を頼むと言う事で関わるようになりました。
彼はファッション雑誌を最初だしていて「暮しの手帖」を出すようになりました。
「君の影絵はただの切り絵ではない、光の空間がある」と言ってくれました。








2019年4月11日木曜日

安田侃(彫刻家)             ・時空を超えた彫刻を目指して

安田侃(彫刻家)             ・時空を超えた彫刻を目指して
北海道美唄市に生まれ大理石やブロンズを用いた有機的な曲線と、環境を選ばずあらゆる空間と調和できる作品作りが特徴で、その作品は国際的に高く評価されています。
その安田さんの作品が置かれているのが、北海道の中央部美唄市の森の中に広がる「アルテピアッツァ美唄」です。
今年開園27年目を迎え世界からも注目を集めて来ます。
安田さんの作品にはここ以外にも札幌駅、北海道立近代美術館、東京ミッドタウン、東京国際フォーラムなどで出会う事が出来ます。
安田さんは作品に付いて昔のお地蔵さんのように触れて遊んで貰う事で生かされると言う事があるんですよと言います。
その作品に込めた思いや作品との向き合い方等に付いて伺いました。

「アルテピアッツァ美唄」が開館したのが1992年、今年で27年目になります。
日本に帰国するようになって美唄にアトリエがあればいいなあと思って相談したら、体育館で使っていないものがあるがどうだろうと言う事で、体育館を使わせてもらいました。
学生時代のものとか、イタリアで作ったものなどを置いていました。
どんな吹雪の日でもバス停から降りた子供たちが歩いているのを見て、遊ぶような広場が出来ないものかと思って、それがきっかけとなって、役所の若い人たちが取り組んでくれました。
昔は美唄市は9万人位いて、石炭を採掘していました。
盆踊り、雪祭りなどが物凄く盛んでした。
三井、三菱という大きな財閥でしたので文化的なものを最初に持ってきていました。
映画も札幌より早かったり、歌劇団も来ていました。

子供の時から知っているところに自分の作ったものを置くことは、何の違和感もなかったです。
彫刻を体験する授業もあります。
「ようこそ先輩」というNHKの番組を頼まれたが、何をやっていいかわからなかったが、抽象の物を石で彫らせてみたら面白いかなと思って、子供達に自分の心を石に彫ってもらいたいと言ったら、物凄く良くできたんです。
もやもやとした不定型のものを形にする、それに自分の気持ちも入り、一番難しい石を使ってすると言うのが小学校5年生で出来ると言う事が判りました。
それなら大人でもできるだろうと、いまでも続いています。
10歳ぐらいから80、90歳の方までもやっています。
「良い物を作らないでください」といって、「あくまで自分の心を正直に彫って下さい」と言っています。
或るお婆さんが「もう自分の心はいい、自分は判ってるんで、この石に山を掘りたい」と言うんです。
又或る人は「亡くなった妻を彫りたい」と言う事で、「顔ではなくて、奥さんのイメージが石に刻まれたらいいのではないか」と言ったりしました。
2日目になると段々無心になってきて、集中してきて、無心への入り口になる訳です。

私の作品は札幌駅、北海道立近代美術館、東京ミッドタウン、東京国際フォーラムなどでも出会う事が出来ます。
興味を持った人に応えられるものを持っているのが、凄くいいパブリックのアートではないかと思っています。
公共の場は誰も面倒は見てはくれないが、公共空間におけるモニュマーの日本での最高傑作は忠犬ハチ公だと思います。
興味のある人、好きな人が見に行くし、触るし、寒ければ襟巻をしてくれるし、大切にしてくれるし、人に愛されている。
精神性が多くのファンを離さないんだと思います。
見慣れてくるとごく自然に当たり前にあるように見えてくる。
環境の中になじんだ方がいいと思います。
なにも考えないでノミで彫り続けてできたものが一番いいと思っています。
ノミで彫って行くと瞬間、瞬間に形が変わるので、それを追っかけて行くと言う方が、自分が想像だにできなかった形に繋がって行くような気がします。

1991年にミラノで市が主催して、日本の銀座通りの様なところで個展をさせてもらいましたが、台座を置かないで直に作品を置いて、昇ることもできるし触る事もできる展覧会をさせてもらいました。
彫刻の材質にじかに触れると言う事は何かを感じてもらうのは一番近い、その人だけになると言う事を確信した。
5か月間の展示で5000万人の人が見たと言われます。
触ったりして何も感じない人でも記憶が残っていて、何年後かに感じると言う事があります。
ミラノをスタートにイタリアのいろいろな所要都市の街中全体を使って展覧会を使ってやらせてもらいましたが、子供の時に彫刻に触ったり遊んだりしたと言う事を大人になって挨拶されたりして、本当にうれしかったです。
子供の時に母親と歩いていた時に、必ずお地蔵さんに手を合わせて、僕には十円禿があったんですが、そこに母親は指に唾をつけて触って「髪が生えて来ますように」と拝んでその記憶がずーっと強烈に残っていて、願いを託すと言う事を理屈なしに身に付いたような気がします。
自分の彫刻もそういうふうに触ってもらって、その人の願い事、悲しい時、嬉しい時に話し合い手として、街角にさりげなくある彫刻の作品でありたいと思います。

六本木のミッドタウンの地下に、穴のある石がありますが、子供に大人気で、靴を脱いで下に並べて数人中に入ったりしていますが、外人が来て写真を撮っているんです。
彫刻を撮っていないで、靴を撮っているんです。
「日本の子供は何て可愛いんだ、入るのに靴を脱いで並べて入っている」と言うんです。
鮮明に日本のしつけ、文化が伝わるんだろうなあと思いました。
ドイツ系の或る美術評論家の人が言ってくれたのは、「貴方の彫刻はクルミの実の様だ、実の様に見たり触ったりする人は時々目の前に思いだしたりする、奇妙な形をしていて納得はいかない、納得がいかない分だけ、何日間か時々フッと思い出すだろう。
思い出すごとにクルミの実の種に肉がついてゆく。
実がどんどん増えて自分で実の種に肉付けをして、その人だけのオリジナルの形が出来て来る。
あなたの彫刻は実の種の役割りをしている」と言われました。

イタリアに50年近く生活していましたが、西洋の歴史は彫刻なんです。
歴史の出来事を彫刻が反映していると言われている。
平成の時代を無意識で表しているんだと思います。
100年後にみる人は平成はこんな良い時代だったんだなと思われるかもしれない。
時代の生き証人としての役割があるのではないかと思う。
イタリアではミケランジェロを越えたかと言われました。
パンテノンを越えた建築は3000年後にもないだろうと言われる、あの美しさ、格調の高さ。
ギリシャ人の考えは歴史は逆に決して進化している訳じゃないと言う事を証明しているのではないか、後退しているかも知れないと、ギリシャ時代の彫刻、建築が証明していると言われると、そうかなあと思ったりします。
平成時代はこんなにいい時代だったのかと言われたいと言う気はどこかにあります、戦争は起きていないし。
100年後に彫刻は土に埋まってるかも知れないが、一部が出てきてこれは大発見かもしれないと思うかもしれない、部分を疎かにできないと思って、すべての部分にエネルギーを注いで仕上げています。
六本木のミッドタウンの地下に、穴のある石がありますが、あれが一番の自信作です。
「意心帰」と言う名前で、形が心に帰り、心が形に帰る。








































2019年4月10日水曜日

杉晴夫(帝京大学名誉教授)        ・父から受け継いだ筋肉研究60年

杉晴夫(帝京大学名誉教授)        ・父から受け継いだ筋肉研究60年
東京大学医学部助手を経てアメリカのコロンビア大学、アメリカ国立衛生研究所、帝京大学などで筋肉の研究をされてこられました。
人は筋肉で身体を動かして生きています。
筋肉を鍛えることは人の健康にもかかわっています。
特に足の筋肉は第二の心臓とも言われて、私たちの健康、長寿に重要な役目をはたしています。
筋肉は不思議なもの、筋肉を研究して行くと、人間の未来の可能性も見えてくると言われています。

筋肉はあまりにも大事、恩が大きすぎると判らなくなるんです。
喋っていても喉などの筋肉が働くし、心臓が動いているから生きているんだし、歩いて行くのも足の筋肉だし、血管系も筋肉です。
神経、脳は色んな本が沢山出ているし、脳科学者などが沢山います。
健康寿命が大切になるが、筋肉が大事であると言うことになります。
人間には200を越える骨、650もの骨格筋があります。
人でも動物でも皮膚をはげば全て筋肉です。
目の中には動眼筋があります。
骨格筋、呼吸筋、心筋、血管筋、内臓筋など、全てどれかが無くなった人は全て死ぬわけです。
温血動物はたえずATP(adenosine triphosphate アデノシン三リン酸)を少しずつ壊して、それは熱になっているわけです。
筋肉の中にそういうエネルギーを発するようなものを持っている。
或るきっかけでミクロの世界の火薬の爆発みたいなものが起こる訳です。

父親(杉靖三郎)が東大医学部生理学室に勤務していて、私が幼稚園に入るころに東大に連れて行き、筋肉の実験しているわけです。
上司の橋田邦彦先生が日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。
その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。
学徒動員には反対だったがついに東條さんに同意された。
このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、玄関を出る時に青酸カリを飲んで自決されました。
父は米軍から見たら公職追放の対象になり、一瞬で首になり、無一文になって仕方なく出版社に入って医学書を書きだして、6年後に公職追放が解けましたが東大には戻れませんでした。
現在の筑波大学の体育生理学の主任教授になりました。
父は筋肉そのものを扱いたかったが、学問は駄目になったと言うことになり、著述に精を出しました。

大学に入って本を読んでいたら、父のような学問をしたくなりました。
木下先生から筋肉の研究をやるように言われました。
まず昆虫、蠅の筋肉の研究をしました。
筋肉に関する本、論文を全部読みました。(英文を含めて読んだので英語が得意になれた)
夏休みに筋肉の研究を始め、独創的な研究ができました。
英国の有名な雑誌の改訂版に私の論文が引用されました。
アメリカの研究機関で私の知らなかった技術を身につけました。
筋肉から単一筋繊維を取り出して、張力、長さを測るフィードバックという概念があって、それは発展性があってそういう技術を十分持っている人も教授陣として呼び集めることができました。
ハクスリーと言う人が研究で、「筋肉の超微小エンジンの発見」ということが書かれている。
筋肉を顕微鏡で見てミクロの縞がどういう機能をするのかわからなかったが、生理学者ヒュー・ハクスリーが滑り説を唱える。
滑り合うのは、例えると回転運動を往復挑戦運動に替えるミシンの原理にやや近いと思います。

筋肉は鍛えれば鍛えるほど強くなるととらえられているが、カスケード反応と細胞増殖因子、RNA、DNAが絡んでくる。
しんどかった位でないとトレーニングにはならない。
筋肉はすり減って来る、壊れるので、分解したATPとか出てきて、筋肉をひたしている体液がPHが酸性になって来る。
しんどかった位のトレーニングをするとPHは下がる、水素イオン濃度は増す、リン酸も増える、ATPも増える、筋肉が壊れるのでその破片も出てくる。
そういうものがカスケード反応を起こす。
筋肉の中に将棋倒しのような一連の反応が起きる。
最期に細胞増殖因子、トレーニング効果を起こす大事なタンパク質です。
これが働くと筋肉をもっともっと作れという命令として核の中のDNAに働く、それを盛んにするのが細胞増殖因子です。

人が立っている時には動脈血が足の先まで行くが、圧力みたいなものを加えて心臓に戻さないと血のめぐりが悪くなる。
足がむくんだりするのは血がたまるからで、心臓に押し上げるためには足を動かさないといけない。
それが心臓の補助的な役割を果たしている。
ATPは呼吸、酸素からできる。
ATPを試験管に入れて分解させれば試験官が熱くなり、それでおしまいになる。
ウサギなどは人に近い筋肉なのでそれを研究しています。
カメレオンの下のスピードはジェット機の加速よりも早いのではないかと言われている。
舌の筋肉は蛇腹の様に折りたたまれていて、なお且つ縮んでいる。
筋肉が伸びると言う事は、なし崩しに元に戻ると思われていたがそうではない。
舌が伸びる時、弛緩した筋肉が能動的弛緩という事、これを人類が利用すると言う事が将来あるかもしれない。
筋肉はほとんど縮まないで力を出している時に物凄く能率がいい。
鳥の翼は基の処の筋肉で動かしているが、そこの筋肉の長さは2,3%しか変わらないし、その先はてこの原理で翼の振幅が大きくなる。

昆虫が飛ぶ筋肉は物凄くATPを作る工場であるミトコンドリアをたくさん含んでいる。
ミトコンドリアは筋肉には沢山ある。
結局は呼吸に繋がる、ATPは仲立ちをしているに過ぎなくて、大雑把にいえば酸素を燃やしてゆっくりゆっくり爆発しているようにして、酸素爆発がATPの分子のミクロの爆発に置き換わっている。
筋肉の仕組みを手に入れて機械を動かす様になれば公害も無くなる、
マイクロマシーンでメスの届かないような処を直すというような考えもあります。







 












2019年4月9日火曜日

石見周三(音響メーカー社長)       ・"おやじベンチャー"で再び挑む

石見周三(音響メーカー社長)       ・"おやじベンチャー"で再び挑む
石見さんは66歳、大学卒後1976年大手音響メーカーに入社しました。
営業マンとして過ごし、2008年販売子会社の取締役に就任します。
そのころ音響メーカーはリストラ計画を打ち出し、石見さんの子会社にも社員を削減するよう指示が出されました。
石見さんはリストラを見届けた後、音響メーカーを退社します。
退社した仲間たちと新しい会社を立ち上げ、オーディオ製品の開発に乗り出しました。
新しい会社はいわばおやじベンチャー、どの様に道を切り開いてきたのか伺いました。

仲間社員が10名、会社が発足して9年になります。
演奏会場、ライブコンサートの会場で聞いた、直接録音した音楽を再生すると言う事を目指しています。
売り上げは残念ながら海外を含めて2億円弱というところです。
母が音楽が好きでその影響を受けて、子供のころから音楽が好きでした。
小学校の高学年になり放送部員になって音楽に触れる機会も多くなって、色んな曲を流して音楽が本当に好きになりました。
大学時代に通っていた目黒の駅前にビルが建って、オームと音叉のマークがありました。
このメーカーに入ることになりました。(1975年)
営業マンとして全国に支店があり傘下に営業所があり、エリアにおける家電店にルートセールスとしてお邪魔しました。
経営者とのコミュニケーション、製品説明、良い位置に展示する努力をしたり、イベントを開いたり、在庫の商談などをやっていました。

私はセールスという言葉に抵抗感がありましたが、或る時先輩から「セールスという職種は全ての要素を含んでいる幅広い人間になるためのツールなんだ、凄く大事なことでチャンスなんだと、このチャンスを生かせばどの部署に行っても、今後どんな業務に携わっても必ず勤まるので一生懸命やりなさい」と言われました。
「自分の個性を大事にしなさい」とも言われました。
「主任になったら係長の仕事をしなさい、係長になったら課長の、課長になったら部長の仕事をしなさい、一つ上の仕事を目指しなさい、そうすると新しい広い世界が見えてくるので、自分を奮い立たせて一つ上の仕事をしなさい」といわれ、非常に印象的でした。
山形の営業所の所長の時代に、最初の半年間は売り上げ目標の半分にも満たない状況でした。
或る時発想の転換をしてもっと早い締めを考えて、行動を変えました。
有難かったのは半年間支店長は売り上げの話を一切しませんでした。
凄く苦しみましたが、その後の1年半はずーっと100%達成しました。
支店長には信頼していただいて、私が上になった時の一つの上司像になりました。
後に販売子会社の役員になりましたが、個人の実力と経営能力は別物だと思いました。
冷静な判断力と人間味ですね。
責任感は感じました。
自分で経験してきたので、厳しく叱咤したりとかはあまりやらなかったような気がします。
売り上げが絶好調な人間には色んな事を言いました、気が抜けると駄目になって行くので。

本体の会社がプラズマ事業で大きな投資が必要でした。
販売価格がおちてきてプラズマTVが厳しくなり採算割れということになってきました。
正規、非正規含めて1万人のリストラ計画がありました。
当販売子会社にも80人の削減指示があり、大変なことになったなあと思いました。
東京支店長も兼務していたので、東京以北は全部私ですので、半数近くの人と面接をしました。
年齢が先輩の人もいたし、小さな子供を持つ家庭もありましたし、ローンを抱えた人もいましたし、非常につらかったです。
「貴方の居場所はないんだ」と言わざるを得ず、そういうと「どうして私なんですか、何か私が間違った事をしたんですか。」、「私は会社を愛しています、だから私は辞めるわけにはいかないんです。」とも必ず言われました。
「申し訳ない、ごめん。」としか言いようがなかったです。
話をした相手とよく泣きましたね。
私の心を察して言ってくれて話してくれた人もいました。
目標人数は達成しましたが、自分なりに頭の中を整理するつもりで、4つ下の人が社長をやっていて私が2番目だったので、彼を残して私が辞めることが合理的なんじゃないかと思いました。
辞めたのは57歳でした。

プラズマの国内販売する会社の立ちあげをやろうと言うようなことを考えつつ、将来に向かって何かできることはないだろうかと仲間を集めて合宿をしました。
10名で議論をしました。
プラズマでは採算は取れないだろうという結論に達しました。
経験のあるオーディオならばできるのではないだろうかということになりました。
10名の平均年齢は52歳でした。
オーディオは狭くなって行きそうな市場ですが、音楽産業そのものは拡大の一途をたどっています。
安定した市場だとは思っていて、参入が少ない所に参入することに意味があるのではないかと思って、他にないような価値をお届けすれば判っていただける人がいるのではないかと思いました。

部品調達など今までの環境の中から独自性は強められたと思います。
自然素材を使う事で密閉性の良い、木のぬくもり、余韻のある音、雲母によるクリアな音の製品作りをしています。
製品開発から売り上げが得られるまで、10カ月かかったので運転資金に苦労しました。
市場からは癖のない、透き通ったアンプだと評価を得ました。
その一号機アンプが今でもコンスタントにずーっと売れていることは有難いことです。
全員が老化しましたが信頼は得ました。
海外の動きが良くなってきているので、海外のショーに参加することを積極的にやっていきたいと思います。
信じあえる仲間がいると言う事は感謝と喜びです。











































2019年4月8日月曜日

杉山芙沙子(元プロテニスプレーヤー杉山愛の母)・【アスリート誕生物語】

杉山芙沙子(元プロテニスプレーヤー杉山愛の母)・【アスリート誕生物語】
日本を代表するスポーツ選手はどのような過程でどのように育ったんでしょうか。
愛さんは世界4大大会で女子ダブルスは3度の優勝の他、シングルスでは連続出場62回という女子歴代一位の記録をお持ちです。

(愛さんは2015年7月に男の子を出産。)
私は育児を経験して行く中で、自分のものではない、社会からの預かりりものと考えたらすごく楽になると言う事を途中で気付きました。
丁寧に扱うし、自分とは考え方とか違うものなので、違う意見を言ったり、想像しないような駄々をこねたり、彼女はやりたくないんだなと考えることが出来たので、皆さんにもそうして貰いたいです。
どうしてほしいのとか話ながらしているうちに、或る時から段々「あー」とか、「うー」とか発したあとに、笑ったり、更に泣いたりしました。
話や行動が通じると感じました。
2,3歳になって予期せぬ出来事を彼女がやった時に、大きな声を出してはダメとか話してゆくと、或る日判ったのかなという時が来ます。
説明しても判らないんだったら、言葉ではなくて抱きしめたりして、言葉と動きをミックスしながら、模索しながらやってきました。

しつけに関しては、体制に影響ないこと(人に迷惑をかける、危険とか以外)は怒る必要はないと思っていました。
褒める時は思いっきり褒めて来ました。
昨日は出来なかったのに、出来てるね、という感じで事実を認めて行く、それが私の褒めると言うことです。
叱る場合も、目の前で起きていることを、いきなり怒るのではなくて、事実を確認してから、私はよくないと思うけど、貴方はどう思うと言うようなことを言ってきました。
今のお母さんの多くの人は早く急ぎなさいと、多くの人は悩んでいます。
子供はあまり時間感覚が無いので、予告を早くすれば解決するかもしれない。
勉強とテニスを両立するために彼女を中心に廻っていたので、反抗している暇もないと言う事はあったと思います。
大きくなった時に私に操られて線路の上を歩いて来たような気がして、女性として、人間として焦りを感じる、能動力が無いという風に勘違いしてしまって、20歳過ぎてほんのいっとき、ママの話を聞きたくないと言う時期もありました。
反抗というのは親目線なので、親の意見とは違う事を言っているだけです。
一番大事なことは答えは私が持っているわけではなくて、子供が持っていると言う事だと思うので、子供の答えを引き出すために私が何を言ったら子どもが気付いて、自分の胸の中をはきだすことができるのかというふうに思いながら声掛けをしてきました。

愛は活発な子でした。
育児書を見ながら長女なのでチェックしてきましたが、無駄なような気がします。
子供の個性に寄りそうのが大事だと知りました。
10カ月ですっと歩きだして、2週間したら走るように歩きだしました。
朝から晩まで外で遊んでいました。
親子水泳教室に10カ月になったら入りました。
体操教室、フィギュアスケートも習いました。
クラシックバレエもやっていました。
ピアノ、絵画もやりましたが、好きではなくて辞めて行きました。
主人も私もテニスをやっていたのでクラブに3歳ごろから連れて行っていました。
運動能力にはたけていました。
テニスをやるようになって他の教室は辞めて行くようになり、小学校の一年生のころには1週間に4日テニスをやるようになりました。
小学校2年生の時にプロを養成するクラブが近くにできて、そこに行くようになりました。
まだプロになると言うようなことは思っていなかったです。

15歳でワールドジュニアランキング1位、17歳でプロに転向、25歳の時に全米オープンのダブルスで優勝、ダブルスランキング世界一位となる。
ディレクターの役をしていたが、愛が大スランプになりテニスをやりたくないと電話をしてきました。
アメリカに飛んで行き色々話をしました。
何もかもネガティブな感じでした。
テニスをやりきったのかと聞いたら、やりきっていないと言う事で、やりきって見ると言う事になりました。
彼女が又彼女らしい笑顔が取り戻せたら、又この世界で戦えると確信していました。
「ママにコーチをお願いしたい」と言う事になりました。

ジャパンアスリートペアレンツアカデミー(JAPA)を設立。
2009年に愛が引退して、その間過ごした9年間の濃い時間をなんかの形に表したいと思って、大学院を受験して纏めたいと思いました。
日本のトップアスリートにおける幼児式の両親の教育方針に着目して研究をしました。
スキルだけではなくて人間力に関わってくる問題だと言うふうな結論と考察というような論文を書きました。
身体的体力、精神的体力、知的体力(予測する力、観察する力、自分の気持ちを伝える力など)のバランスがとれた、その全てを総合して人間力と定義しました。
コーチ、親も融合して選手の可能性を引き伸ばすことを一緒ににやる方が、楽しいし伸ばせるのではないかという事で、着目したのがアカデミーでした。
親の学校、アカデミーを作ろうと思って設立しました。
悩みを共有しながら学んでいこうという学校でもあります。
どんな環境下でも自分をちゃんとマネージメント出来ると言う事だと思います。
色々なことに気付いて自ら行動できると言う事がすごく大事な力だと思います。
親子のコミュニケーションが本当に持ってこいの問題だと思います。
私が子供に伝えたかったのは楽しむと言うことだったので、どんな環境下にあっても楽しめる人に、幸せを感じる人に愛はそのまま居てほしいと思います。





















2019年4月7日日曜日

柳澤慎一(俳優・ジャズ歌手)       ・「我が人生 つづら折り」

柳澤慎一(俳優・ジャズ歌手)       ・「我が人生 つづら折り」
東京都出身86歳、1952年20歳でジャズ歌手としてデビュー、その後軽演劇でも活躍し、戦後のラジオと草創期のTVの大スターでした。
身体に障害がありながら、ジャズ歌手として今もライブハウスのステージに立っています。
社会福祉活動家、東西庶民文化史研究家としての顔もお持ちです。
俳優としては主演、助演合わせて150本以上の映画に出演されていますが、60年振りに主演した映画「兄消える」が来月公開されます。
長い芸能生活を振り返ってもらい、戦後日本のエンターテイメントの世界、伝説の名優、名人たちとの思い出などもお聞きしまます。

60年振りの映画出演、果たしてセリフが頭に入っているのか、役の人間の言葉としておさまっているのか気にしていました。
86歳で主演という事で遺作だという思いです。
全編アフレコで、並大抵ではないです。
1952年(昭和27年)20歳でジャズ歌手としてデビュー。
NHKで「君の名は」のラジオドラマが始まった年、前年にマッカサーが去った年。
歌手になる気はありませんでしたが、高校の時に共産主義にぶら下がった時があり、代々木の地下細胞にも顔を出したりしました。
思想的に転向するなら学校も転校しようと、都立豊多摩高校から青山学院に変わりました。
クリスチャンではないが教会に顔を出して、パイプオルガンを背に讃美歌を歌っていました。
老人ホーム、孤児の施設に慰問に行っていると言う事で、興味本位で一緒に行きました。
酷い施設だし、孤児たちは寒さに耐えていました。

平岡精二、ジャズ界で明日の大スターと言われた方の口真似をしてました。
進駐軍のクラブに行って2,3曲歌えば500円になると言われました。
譜面も読めない、ピアノも弾けないが、暇さえあればジャズを聞いて、2,3曲は歌えるようになりました。
男では無理ではないかと言われましたが、なんとか何がしかを手に入れるようになりました。
お金をためて、靴下、手袋、耳あてなどを買って、孤児院、老人ホームなどに持っていけるようになりました。
キャンプで歌っているうちにコンサート屋さんの耳に入って、コンサートに出て一曲歌ってみないかといわれて出て、そのうちにコンサートに来ていたNHKの音楽部の石川さんが昼の軽音楽に出て見ないかと声を掛けていただきました。

昭和27年6月30日に出たのが、初舞台となりました。
学問は嫌いではなかったので学校に戻るつもりでいましたが、そうはいかなくなってしまいました。
1953~1955年にかけて日劇に500日間出場する。
低料金で割と重宝に使えると言う事で500日出ることになったようです。
日劇では歌のほかにも小芝居もやるようになりました。
エノケンロッパ金語楼の御三家がが日本喜劇人協会を作る下打ち合わせをしていて、たまたま僕の芝居を見て、喜劇祭りにも引っ張り出されるようになりました。
打ち上げの時に突然エノケンからは「俺の二代目にするから」と言われました。
みんなびっくりしましたが、喜劇はとても身につけることはできないと思って丁重にお断りしましたが。
エノケンは自分が舞台の中央で飛んだり跳ねたりして、公演が終わるまで自分が幕を支配しないと機嫌が悪いと言うお方で吃驚しました。
東北巡業では私が義経役で馬鹿受けしたが、エノケンからこれはカットと言われてしまいました。
ロッパは俺が光る必要はない、ロッパ一座が良かったねと言われればそれがなによりなんだと、懐の深い人でした。
金語楼は落語の出なので、一人一人の個性を大事にする方だと思いました。

寄席は大好きで都々逸(どどいつ)の柳家 三亀松師匠には可愛がられました。
桂三木助、文楽、志ん生師匠などの方たちとも親しくしていただくようになりました。
NHKのドラマで印象に残ってるのは、銀河ドラマで「一の糸」という出し物があって、文楽にまつわる話でしが、文楽の若手の弟子の役割をしていました。
ひとくさりやる機会をもらってやりましたが、その道の大家人間国宝からお褒めてを頂いて何よりうれしかったですね。
人形劇「ひょっこりひょうたん島」人気を博しましたが、箱根恵明学園という処へ年に一度慰問しているので、是非生の生き生きとしているところを見せてあげようと思って、見せたら感激していました。
「トウヘンボク」の役をやりました。
社会福祉もずーっと続けて来ました。
知られたくはなかったので、慰問先では写真を撮ってもらう事はご容赦願いました。
昭和56年に国際障害者年がわが国でもスタートして、私に実行委員になるようにという事で総理府にほとんど毎日通うことになり、その合間に慰問することになるので、本格的に福祉に専念しなければいけないと言う事で、昭和56年からは表の家業になりました。
足腰が立たなくなり、3つの路線を乗り換えての慰問が出来なくなり止めることになりました。
偶数月の第三火曜日だけジャズで出ることをやっています。(浅草)
1930~1940年代のスイングジャズを6人編成でやっています。
明治元年から大正14年までジャズの歴史の本「明治・大正スクラッチノイズ」も出しました。












































2019年4月6日土曜日

保山耕一(映像作家)           ・「一滴(ひとしずく)に命をうつす」

保山耕一(映像作家)           ・「一滴(ひとしずく)に命をうつす」
56歳、TVカメラマンとして活躍していましたが、6年前末期がんと診断され、余命宣告を受けました。
今は治療を続けながら毎日早朝から、奈良の景色を撮影して編集し、インターネットでその映像を伝えています。
季節の移ろいや一瞬の輝きを捕えた保山さんの映像は、見る人に力を与えています。
自らの命と向き合いながら撮影を続ける保山さんに伺いました。

朝起きて、空を見て、風を感じて、これならここに行ったらいいものが撮れるのではないかと閃いて、始発電車に乗って現場に行く毎日で、プランもなにもないんです。
日々何を撮るべきか考えた時に、今日しか撮れないものがあるはず、今日しか撮れないものがきっと一番美しいはずだと、そういう確信があって、結果として365日、一日一日変わって行く季節にレンズを向けています。
奈良の自然を歩いていると必ず何か見せてくれる、必ず引きこまれるようなるような美しい風景が待っていると思っています。
TVカメラマンとして働いていたころに比べれば、のんびりしたものです。
4、5時前には自宅をでて始発電車に乗って奈良駅まで来て、6時の興福寺の鐘の音を聞いて、今日はどこに行こうか、決めていきます。
夕方、夜までに帰って、その日のうちに編集してSNSに映像を日が変わる頃アップします。

厭なことがあっても映像を見て幸せな気持ちで眠れますとか、頑張れますとか色々見てくれる人たちがいるので、今の奈良を伝えたいと思っています。
自然の移ろいは正直で、規則正しくて、たまに大雨、台風が来ますが、順番に春が来るし、夏も来ます。
季節が変わるのも余り当たり前のように思わなくなりました。
春が来ることも、花が咲くことも奇跡だし、有難く感じるようになりました。
一番綺麗な美しいと思う月は、生れたての月、新月は見えないが次の日は鉛筆で書いたような細い月が見えるんですが、そんな月は誰も探さないですよね。
誰もが見えるが、真剣に探さないと見えない,でも見つけた先には極上の美がそこにはあります。

春日大社の藤の色は本当に特別な色です。
でもいつも見せてくれる訳ではなく、1年のうちに一度は見せてくれる。
早朝薄暗い所で咲き始めますが、その瞬間(5~10分)の間だけ無茶苦茶美しい。
それを見た時に神様の藤だと言う人の気持ちが判ります。
藤が自ら光っているように見えます。
蓮も全く同じで、陽が昇る前2,3分の間だけ特別な色で微笑むように見えます。
どんなものにも特別な色があります、特別な色は命であったり、そこに神の姿を見たりかけがいのないものだと思っています。
撮っている映像の中では色は一番大切なものだと思っていて、絶対妥協できないものです。
絵を撮っていると言うよりも色を撮っていると言った方が正しいかもしれません。
日本人のDNAの中に日本の古来のもの、日本人が親しんできた色がDNAの中に入っていると思います。
本物の色を忠実に撮影したいと思っています。
夕陽のなかでも一瞬の輝きがあるんです、同じ赤ではなくてピークになる瞬間の色が。
一瞬の輝きが撮れているかどうか、と言うことです。

高校3年生の時に学園祭で8mmで映画を作って、上映した時にその映画を見てお客さんが泣いてくれました。
主人公が白血病で何処にでもあるようなストーリーだったんですが、泣いてる方がいて、その様子を見て衝撃でした、凄く感動しました。
こういう仕事だったら一生やっていけると思って、映像に興味を持ったきっかけでした。
(高校卒業後TVカメラマンになるため、アシスタントからはじめ、世界遺産、ドキュメンタリーなど数多く手がけ、第一線で活躍、あらゆる機材の扱いにたけたカメラマンとしての地位を築きあげて行きました)
色々特殊機材があって、表現手段がプラスされる。
大きな番組を任されるようになって2013年夏に自宅で倒れました。
末期直腸がんで何もしなければ余命2カ月といわれました。
明日生きるために何するかという事で、放射線治療,化学療法で手術ができるようになり、直腸全摘、大腸の一部を摘出して、抗がん剤治療が1年ぐらい続きました。
しかし5年後の生きている確率は10%と言われました。
再発するともっとだめになるといわれました。

せめて3年生きさせて下さいと、神頼みしました。
肺への転移を乗り越えて今5年生きています。
仕事仲間はいましたが、仕事を離れると友達はゼロでした。
凄く暗闇の中で一人漂っているような、社会の中で完全に孤立していました。
30年間カメラマンやってきてそれしかできなかった。
それで社会とつながりたいというか、誰かの役に立ちたいと思いました。
まだまだ頑張れるのでもうちょっと頑張っていきたい、という思いがありました。
家の中で過ごしているうちにスマホに動画機能がある事に気が付いて撮ってみようと思いました。
一番撮りたいもの、自分が一番親しんだ奈良を撮ろうと思いました。
最初に撮影したのが、春日大社の飛火野でした。
スマホでも動画を撮ってると撮影に集中で来て、しんどい事を忘れることができました。
生きてると言う事を感じました。
自然の風景の中に身を置いて撮影していると言う事がすごく幸せでした。

水滴、葉っぱの裏に付いた朝露、寒い日の朝に鹿が湯気を立てながら歩いて来る、色んな水が映し出されているが、希望を感じませんか。
水の循環に希望をみます。
水の色んな形、どんな水でもそこになんか自分の姿を見付けることができる、自分も死んであの世に行く時に、朝露が蒸発して湯気になって天に昇って行くような姿で最期をむかえるのかなあと思ったり、まだまだ生きるぞと思ってじたばたして歯を食いしばって水の流れを見ると、結局最後どんな水も流れの行きつく先は一緒だったり、そんなことも感じたり、その時その時の自分の気持ちが水の表情に投影できる。
春日大社も自然界の水の循環、サイクルを体験できる場所でもあります。

100年に一度の雲海を撮ったと思いました。
その時にはもう撮影は出来ないと思っていた時期で身体も心も弱っていました。
3時に起きて外に出たら夜霧が出ていて、若草山に登って日の出とともに雲海がぶあつくなって行って、奈良盆地見渡す限り雲海でした。
御蓋山が沈みかけるほどになったが、不思議はことに山頂は残っていました。
御蓋山は特別な山だなあとその風景から凄く感じました。
もっと頑張ったらこの風景みたいに、もっともっと奥があるから諦めずに撮り続けなさいと言われるような、神様と繋がったような感じがしました。
自分の能力だけではなくて何か別の力が働いているから、僕の行く所行く所すべて良いタイミングで撮影することができるんだなあと思うようになりました。
今思いますが、撮らせていただいているんです。
撮っていいよと言っているような感じで、美し風景が広がる。
役目を与えられているような気が日々強くなって確信に変わっています。
余命宣告されたときに、全部無くなって後は死ぬだけだと覚悟していたのに、コツコツ一日一日積み上げていったらいろんな人が僕を見てくれて、状況が変わっていって人生って不思議な感じがします。
余命宣告された人に僕が支えられている面もあるんで、お互い支え合って頑張れていることに感謝しているので、一日も長く続けたいと思っています。