2023年4月30日日曜日

泉谷しげる(シンガー・ソングライター 俳優)・オレが語る泉谷しげる

泉谷しげる(シンガー・ソングライター 俳優)     ・オレが語る泉谷しげる 

昭和23年生まれ、1972年春夏秋冬』が大ヒットします。  一躍フォークシンガーとして注目されました。  5月に75歳を迎えます。  俳優としてもテレビ、ドラマで活躍しています。

春夏秋冬』  作詞、作曲、歌:泉谷しげる

それまで激しい演奏をやっていたので、シングルで出した時に兎に角、パンチがないという事を言われました。  最初シングルの話もなかったが、そのうちラジオで出して、皆さんがいい歌だと認めてくれました。   山本周五郎さんに「季節のない街」という小説あり、慌てて春夏秋冬』に変えました。  季節感がなくなってしまったことを歌ったので、自然風景のことではないんです。   田舎で育って東京に来た皆さん喜び感じてくれました。  団塊の世代で大半が敗者というような時代でした。   

青森県で生まれて3歳から東京で育ちました。   暴れる時は暴れて、家にいる時にはこもってしまうような極端な性格の子でした。  乗り物には酔ってしまって駄目でした。 バス旅行が厭になって絵を描くようになって漫画を描いて、漫画家を目指そうといしましたが、家の中でもじっとしていられなかった。    乗り物にも大変な思いで挑戦しました。 今は大丈夫です。   外へ出たいという思いは強かったです。   中学校ぐらいからエレキが流行り始めました。   寺山さんが「書を捨てよ町に出よう。」というフレーズを出して、自分もやってみようと思いました。   エレキバンドをアマチュアでやっていて、預かっていた楽器を火事で燃やしてしまいました。   弁償しなければいけないと思っていました。  フォークブームになっていて、どこでも歌えたので、凄く頑張って返却できました。   フォークをやっているうちに周りには吉田拓郎とかいろいろな人が居て、忌野 清志郎(18,9歳)にはレベルが高くてびっくりしました。  

「キャラは自分で作る」という本を出版。   外見と違って意外とまじめで、キャラを自分で作って来ましたが、やはりしんどくなってきました。 それを本には書いていますが、無理しているとことがあったので。  人間は基本的には何にもないところから始まって、どんな人間になるかですね。   慌てて自分を形成する必要もないです。  若いうちは「無理」をトライする。  しかし途中で嫌になってしまうが、一回休むなり、一回辞めるなりする。  自分の才能だけをひけらかそうとしている人は大体ろくなものは作れない。自慢だからつまらない。   レコードは一人で聞くし、1対1になった時にどうするか、考えないといけない。   

1977年ごろにフォーライフレコードを辞めて、音楽界から干されるんです。     音楽界は意外と保守的なんです。  「フォークの裏切り者」のレッテルを貼られる。   休もうと思っていた時に、向田邦子さんから、吉展ちゃん事件を題材にしたテレビドラマの犯人役を「お前やれ」と言われ、啖呵のかっこよさ、に感じてやる気はなかったが、引く受けました。  それ以後俳優の仕事がいろいろ舞い込みました。  

不得意のことをやってみせるのも、元気だという事になるので、俳句と、お花と料理を作るという番組からオファーが来てしまって、料理もいろいろトライしました。   女性はこんなに大変なことをやっていたのかと思って、申し訳ないし、いい運動にもなって、料理を始めました。

本の最後の方に「性格はこれからもどんどん増やしていけ」と書いてあります。     性格を決めたところで性格を維持できるわけがないし、意識もしていない。       他人が言っているだけであって、自分はどういう性格かわからない。  受け入れることはできる。  いろんなものをやりたいという欲望があるうち、いろんなことをやらざるを得ない時、厭なものを克服した時の達成感は嬉しいものです。  自分の元気を見せるのが大事だと思っています。   酒もたばこも辞めて、これもお客さんの為です。  

*「長い友との始まりに」  作詞、作曲、歌:泉谷しげる








































2023年4月29日土曜日

寺島実郎(日本総合研究所 会長)    ・〔私の人生手帖〕

 寺島実郎(日本総合研究所 会長)    ・〔私の人生手帖〕

寺島さんは1947年北海道生まれ、1973年大学院を卒業後、三井物産に入社、イラン革命やアメリカ大使館占拠事件が勃発するなか、商社マンとして命の危険が伴う中で、情報の収集にあたりました。  その後ワシントン事務所長などを歴任し、2009年からは大学の学長も務めています。  一方、商社時代から雑誌に20年以上に渡って連載をするなど、執筆や言論活動にも大きな軸足を置いてきました。  各種のメディアを通して、政治、経済、外交、宗教など幅広い分野で提言を続けてきた寺島実郎さん、寺島さんを形作ってきた日々はどのようなものだったのでしょう。  今日は幼少の頃の話や、中東時代、確かな提言をどのように獲得していったのかなどを中心に伺います。

NHKの大河ドラマの「花の生涯」というドラマは衝撃的でした。  桜田門外の変は幕府の大老の井伊直弼が殺されて、明治の時代になってゆき、或る意味悪役だったんですね。   歴史の見方を変えれば、開国、日本の近代化に持ってゆく一つの転機に立っていた日本の人物なんだという事で、実は花の生涯だったというふうな捉え方をNHKが大河ドラマでやった。  歴史観としてこういう見方もあるというんじゃなくて、或る時代を一歩前に出て捉えてるテーマが多々あって、あれが明治に対する考え方を変えたと、僕自身も思いました。 教科書で教わるだけではなく、歴史を多元的に見なければいけないと思いました。

経済の現場にいたというのが僕の一番大きなアイデンティティーです。   多摩大学の学長もやっていますが、いろんなことをやっていると言われますが、僕のなかではみんな繋がっています。  夜の時間の無駄遣いしないというのは新入社員のころからで、8時には中座していました。  文献、本を読んで自分の面を作る。   朝は早く起きて連載の作品を作ることに集中しています。 (岩波の雑誌の「世界」で20数年に渡って連載を続けている。)  本は人の倍ぐらいの速度で読むことが出来ます。  寺島文庫には10万冊越そうとしています。   最近ではAI、生命科学とかの新しいジャンルが増えてきています。  

父親が北海道の炭鉱の労務の仕事をしていました。  その後九州の筑豊に小学校2年から3年まで居て、又北海道の炭鉱に戻って、小学校高学年では札幌に住んでいました。   子供のころに異文化に接して、物凄く刺激になりました。  いじめにも会いましたが「山よりおおきな獅子出ないよ。」と母親から言われて、度胸を据えろという事だったと思います。   傾きかけた筑豊の現場にいて、弁当を持ってこれない子、両親が子供を捨ててどっかに行ってしまって、小学校3年生の子が、弟、妹に食わせるために、川でザリガニを取って来て煮て食わしているシーンを見ることになってしまいました。  世の中の不条理を感じました。  これが原点になっているように思います。   

母親は国際赤十字の資格で中国の大陸戦線を動いていたというキャリアの人で、めちゃくちゃ度胸の据わった人でした。   母親のインパクトをどっかで引きずっているかもしれません。   母親は炭鉱での文化活動の中心になっていろいろやっていました。     当時は炭鉱では労働紛争が荒れ狂っていました。  労使紛争のあるよぅなところに転勤していって、それを納めて一つの流れを作ってゆくことでした。  親父が転勤するときには何百人という人が日の丸の旗を振って送ってくれました。   

70年安保、全共闘運動とかにぶつかったのが、僕の大学時代でした。  1年以上全く授業が行われない中で、一般学生のなかで集まって、大学の変革、世の中の在り方としっかり向き合おうという立場でやっていました。   左翼黄金時代の我々一般学生の位置づけは右翼秩序派という事になるわけです。  戦後日本の政治が一番熱気をはらんでた時期でした。   1年半は大学が閉鎖されました。  機動隊が入って来て、大学の正常化が実現し、僕の周りにいた仲間のはずだった1000人以上の人たちが、就職を決めて出てゆく人たちがいて、パーっといなくなった。   最後に集まった人はわずか6人でした。   なんだこれはと思って、もっと本気で勉強しないといけないと思って大学院に行きました。

開発というものを抱えている地域に行って、住民意識の変化を分析するという、社会学のフィールドワークみたいなことをやって大学院に通っていました。   経済界の中心部みたいなところに行こうと思って三井物産に行きました。(大学に戻ってもいいぐらいの気持ちでした)   半年しないうちに辞表を書きました。  満額回答、右肩上がりでこんなところにいたら自分が駄目になると思いました。   入った年の73年は中東戦争が始まって、第一次石油危機で、商社批判が起きました。  先輩の仕事の総合商社の経営戦略に引き込まれて行きました。  1979年にイラン革命が起きました。  ラン・ジャパン石油化学プロジェクト(IJPC)があって、本当に会社がつぶれるかもしれないという事になって、7000億円失いましたが、よく潰れなかったと思います。  

イランの革命政権と向き合うために、情報活動をしました。  当時アメリカのテヘランの大使館が革命勢力によって占拠されてしまっていた。  アメリカは5人のイラン問題専門家を選び、その責任者から5人に会う事になり、首を突っ込むきっかけになりました。  そのうち3人がユダヤ人でした。  なんでイランに社運をかけるようなプロジェクトをやったんだと口をそろえて言われました。  3年、5年も前からイランに革命が起こるというレポートを見せられました。   社から誰も知り合いのいないイスラエルに行くように命じられました。  テルアビブ大学を拠点にしてイラン情報に対する活動を始め、それが僕にとって大きな転機になりました。   それまでは自信満々で来ていましたが、言葉が通じず、自分が持っていた世界観、知識が全く意味なくなりました。   ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などについて最小限度の勉強をしていなかったら、相手とコミュニケーションなんて出来ないという事に愕然として、全く駄目だという事でした。   

我々は極端に平和な安定した時期を生きれた世代で、そのことを知らないままに生きてきた人間なんですね。   しのぐために、人と向き合ってその人の本音を引き出さなかったら、情報活動は出来ないです。   自分が全く無知では相手にされません。      テルアビブ大学ではホメイニ師について、いろいろなジャンルの人たちが集まって調査、研究しています。  吃驚するような情報が行きかっていました。  情報は命がけなんだと思いました。    そういう意味で中東では鍛えられました。   

アメリカから帰ってきた時が50歳ぐらいでした。  30代は中東で、40代ではアメリカに10年間いました。    歴史の脈絡、世界史の脈略などもっと体系的にものを捉えることが必要です。  歴史の脈略をどこまで深く体系的に整理できているかが、物事を見抜く鍵なんです。  20世紀、戦後日本史、近代史をようやく、自分自身の歴史に対する見方を踏み固め直している、といったところです。  廃刊した本は重要だと思っています。  原爆に関する開発した人たち、投下に関わった人たち、被害者達、等々重層的に一つの書架の中において、眺め考えると、見え方が変わってくる。  世界を回って自分が見てきたことを体系化してゆく、ものごとの繋がりを組み立てて行くのが、見た人の責任だと思っています。   ネットワークで世界を見るという考え方で見ると見え方が変わって来ます。   

若い人たちへは、ITで武装し,SNSで武装した世代が育ってきて新しい可能性を切り開いてくれるという事は大いに期待しますが、日本が幸せな空間に閉じ込められているために、幸せな幻想の中に生きている。   世界が抱えている不条理、我々が解決していかなければいけないテーマなどについて、殺気立って問題意識をもっている人間が育つのは、非常に難しい環境にあるのが日本だと思います。  そしてどんどん内向きになってきている。    自分が果たす役割について真剣に考えなければいけないところに来ているのかなと思います。  

教育の一番のポイントは自覚を持たせることなんです。  環境がいかに厳しくても、その中で自分自身の問題意識を研ぎすましていかないと駄目だと思います。  今気を付けなくてはいけないのが、AIが進んできて、思考の外部化と言いますが、自分が考えたことと、AIが考えたこととあり、自分が本気で考えたことでなくても、情報らしきものは手にできる。      環境が大きく変わった時に持ちこたえて行けるような知の基盤を作ることは、逆に今ほど難しい時期はないんじゃないかと思います。  逞しい知の基盤を作るのには紙にペンで書いて、行間を見つめて物事を考える、それをやらないとクリエーティブな思考回路は育たないと思います。
























 

























     











































2023年4月28日金曜日

鬼木一直(東京富士大学教授)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 パパだからこそできる子育てを!

鬼木一直(東京富士大学教授)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  パパだからこそできる子育てを! 

リモートワークなどで仕事をする人が増え、男性の育休取得が社会の課題となる中、お父さんも子育てをする機会も増えてきました。   いざ、育児をしようと思うと、何をしたらよいのかわからないと、戸惑うパパも多いようです。   かつて大手電機メーカーで開発や人材育成の仕事を担当し、現在は大学で学生たちに実践教育をしている鬼木一直さんは、ご自身が3人の子育てをした経験をもとに、パパ目線の子育ての本を出しました。     ママとは一味違うパパだからこそ出来る子育てとはどんな子育てなのか、鬼木さんに伺いました。

大手電機メーカーに就職して研究所でハードディスクとか大型液晶ディスプレーの開発などを行っていました。   クラウド、レーザーディスプレーの開発などいろんな仕事をしました。   長女が2歳の時に、私ががんになってしまって、抗がん剤などの治療をしていましたが、或る程度時間をコントロールできるような仕事を捜して、移ることにしました。現在は男女双子の子と合わせて3人います。   長女が15歳で、双子が10歳になりました。  

大学では情報学とか経営情報学、専門演習などを担当しています。  大学では実践教育を重要視しています。   幼児教育は大切だと考え学会に参加したり勉強したりしました。子育ての本を書く機会を得ました。    当時の育メンでは女性が育児をすることをベースにしてそこに男性がお手伝いしているから育メンでした。  

ファーザーエフェクト(お父さん効果)、父親とよく交流した子供ほど学力、人間力、チャレンジ精神がたかいんじゃないかというデータも出てきています。  パパなりのやり方を生み出してゆくことが大切だと考えています。   得意なところと苦手なところがある筈なので、上手く分けてやってゆくことも重要な点になります。  お母さんのストレスとしては友達と話をしたいとか、美容室に行きたいとか、そういったことがなかなかできないのがストレスになっていると思います。   子供とは接していながら、孤独感を味わうという事も聞きます。  

男の人は子供と同じ目線で接するのが大事だと思います。  女性は繊細なところがあるので、男性はもっと大きなかじ取りをしていった方がいいと思います。    教えてあげるのがティーチング、それに対してコーチング、子供の考えていることを引き出してあげる作業が大事です。   潜在的な能力を引き出してげることが大事だと思います。     お風呂、トイレなどの掃除は男性がやると喜んでもらえると思います。   お風呂に一緒に入ることもスキンシップとしていいと思います。    

「手伝ってあげるよ」というような言葉は、そもそもお母さんがやることが前提になっているので、イラっと来ることがあると思います。  「頑張ってね」というのも距離感がありますね。  こういうところが大変なんだという事を聞いてあげる姿勢が大事だと思います。   時間があるときに頑張るのがいいかなと思います。  試行錯誤しながらやってゆく、その過程が重要だと思います。   一番いけないのは二人で子供に同時に怒るという事です。   逃げ道を残して反省を促すようにする。  

子供って天才だと思っていて、親が制約をかけてしまう事はもったいない。   身体は小さいがしっかりとした人格を持った一人の人間ですから、尊重して一緒になって考えてあげたり、一緒にチャレンジしたりする。   子育ての大事なことは、視野を広げる、感受性を大切にする、そうすると選択肢が増えてくる。    心の安定という意味ではハグは重要です。   

子育てをしていると想定外のことがいろいろ起きます。   想定内に納めることがそもそも間違っている。  考える力を日常のなかで育ててあげることが大切だと思います。  父親、母親では意見の違いがあるが、価値観の違いを理解することも大事です。     笑顔のなかで接してしっかりハグしてやって、絆を深めてゆくことが凄く大事な作業です。  努力を誉めてあげることがやる気に繋がっていきます。   一番大事ことは子供が大好きであるという事を、ハグとかで伝えてあげることが大事です。   親の価値観を押し付けるのではなく、子供の選択肢を狭めないことです。  笑顔で子育てを楽しむ。























































2023年4月27日木曜日

中野京子(ドイツ文学者)        ・〔私のアート交遊録〕 名画に書かれた災厄に抗う人々

 中野京子(ドイツ文学者)    ・〔私のアート交遊録〕  名画に書かれた災厄に抗う人々

「怖い絵」のシリーズなど恐怖というこれまでになかった切り口で名画を読み解き、恐怖の裏側にある人間の姿に迫った著作で知られる中野さん、過酷な運命に翻弄されながら人々の姿を画家たちがどのように描いて来たのかを様々な作品を通して見つめてきました。   今日はパンデミックや飢餓、天変地異、戦争といった状況の中で生まれ、いまも人々の心をつかむ数々の名画を通してその魅力やそこに秘められた謎を解いていただきます。

コロナ禍の3年は結構忙しかったです。   「怖いクラシックコンサート」、「舞台怖いね」、「星と怖い神話」(プラネタリューム館) 3つの仕事がありました。      「災厄の絵画史」の本を最近出しました。   私が今回感じたのは、人間って最悪の中でむき出しになる人間の汚さがあるんだけれど、逆に懸命に運命と戦って希望をもって立ち上がる姿、それが描かれているんですね。   コロナも希望をもって立ち上がって行くんだろうなと思いました。   本にはルネッサンスから印象派まで網羅されている。  33点使いました。  ドローネーというフランスの画家の「ローマのペスト」という絵があり、それを表紙にしました。   ドローネーが描いた時代はコレラのパンデミックの時代だったんですが、コレラを描くのではなくローマ時代のペストを描いたんです。     天使が長剣(正義の印)をもって扉の前で、悪魔を引き連れて悪魔に槍で扉を叩かせている絵なんです。  聖人伝説を元にした話の絵です。  槍で5回たたくと中に人が5人殺される。   

「死の勝利」 ブリューゲルの作品。 ペストの時代、戦争。  骸骨がいっぱいある。 中世の一番ひどい時はヨーロッパの1/3はペストで亡くなっていると言われている。    聖職者も亡くなってしまって、教会への失望はあったと思います。   プロテスタントが出来てきてとか、という事があります。   死神は平等、王も聖職者もあくなるという事は相当ショックだったと思います。   人間が一番怖いのは死ですね。  肉体の死、精神の死(狂気)  肉体の死の中には暴力、戦争、災害、病気とか、精神の死では未知のものに対する不安、他者、愚かさなど。   

私はツヴァイクの「マリー・アントワネット」を翻訳していますが、マリー・アントワネットが市中引き回しされるのをダヴィットがスケッチするんですね。  その絵を観た時にこれは凄いなと思いました。  ダヴィットは反王党派だった。  王妃に対する憎悪があったんです。  人間の描き手の姿が出てきてしまう。   しかし、ナポレオンにすり寄って行ってしまい、ナポレオンが失脚したらダヴィットはフランスにいられなくなりベルギーに逃げてしまう。  

絵には文法があり、その時代時代の色彩の意味があります。   受胎告知だったらマリアの色は赤と青という事に決まっていて、そこに白ユリが来る。   擬人化、概念を人間として描く。  シンボルとかもありある程度知らないと理解が難しい。  印象派以前の絵画にはたいてい意味があったんだから、意味がある絵は意味を知ろうとした方がいいんではないかと思います。    いろんなところに公立美術館が出来て、そう知識のない人が観て、全然わからないから面白くなくなった。 そこで印象派が出てくるんです。  印象派は見たまんま、感じたまんまとなってゆく。  

でも印象派のスーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」では、皆日傘を持っているが、以前は柄が木で凄く重くて奴隷とかに持たせていた。 日傘は王侯貴族のものだった。一般の人が日傘を持てるようになったことは日本人にはからないと思う。 大きなバッグを持つ人はいないが、大きなバッグを持つ人は下層階級だった。  猿が出てくるが猿は悪徳の象徴だった。   印象派も100年以上たってきているので、そういったことも知っていた方がいいと思います。  

絵にも小説と同じような伏線があり、背景などに描かれている。  背景について、なんだろうと思ったら調べていけばいいと思います。  ルーベンスの「キリスト昇架」 ドラマチックな作品。  動画がなかった時代で、ルーベンスの絵は動いて見えたと思いますね。イエスの存在の重さを感じます。  

画家が意味を伝えたいという絵は、意味を知っておくべきだと思います。  やっぱり知っている方が面白いです。  知識によって磨かれる感性ってあると思うんです。      「怖い絵」展をやった時に凄く人が来ました。  78万人以上来ました。  知って観たら面白いと気づいた人が居たんだという事があり、どんどんそうなって行くんだと思います。   日本人は前から絵が好きだったと思います。

お薦めの一点ですが、「災厄の絵画史」にいれた一点ですが、ムンクの「病める子」 結核で15歳で亡くなった姉を描いた絵です。  その時ムンクは13歳でした。  10年以上たってから思い出して描いたものです。   ムンクの母親も結核で亡くなっている。  そばでうなだれて泣いているのは母親の妹か姉かはわからないが、死に行く子が叔母に対して、逆に慰めている情景。  心に突き刺さるような絵でした。
















































 

2023年4月26日水曜日

久山敦(咲くやこの花館名誉館長)    ・〔心に花を咲かせて〕 牧野富太 郎ゆかりのロックガーデンを再建

久山敦(咲くやこの花館名誉館長)    ・〔心に花を咲かせて〕  牧野富太郎ゆかりのロックガーデンを再建 

最近は牧野富太郎さんの話をあちこちで聞くようになりました。  牧野富太郎ゆかりのロックガーデン(石を組み立ててその隙間に植物を植えたもの)が神戸市にある当時の灘中学校に有ったということが判って、そのロックガーデンの再現が行われているという事です。  牧野博士の関西での活動は東京や高知と違ってあまり知られていませんが、どうも牧野富太郎博士の人生に大きな力をくれた地域の様です。  又再建に至るには偶然の出会いがあったようです。 再建を主導したロックガーデンの権威、久山敦さんに伺いました。

連続テレビ小説の「らんまん」のモデルが日本の植物学の父と言われている牧野富太郎という事で、牧野富太郎さんのことがいろんなところでクローズアップされています。  94年間の中であれだけの偉大な仕事をしたという事は信じがたく尊敬しています。  関西は牧野富太郎さんの人生を大きく変えるような場所でもあったんです。  裕福な家庭に生まれたが植物のことにお金をつぎ込み、借金をして大変な窮状の中でそれを救ったのが関西の方だと言われています。   神戸に池長孟(はじめ)さんという方がいて、当時は京都大学の学生でした。  牧野博士が生活に困っていて標本を売らざる得追えないと、朝日新聞に窮状を訴えていました。  池長孟さんは海外に流出したら困ると思って、買い取るという事を考えました。  養子先が豊かな家で当時の値段で3万円(現在の1億円に近い額)を差し出したんです。  生活の面倒も見て、神戸市内に研究所も作って標本を仕舞っておきました。  牧野博士は六甲山などに来て植物採取には来たが、標本の整理には手が回らなかったようです。   講演をしたりして、弟子に相当する人たちが関西には結構いたようです。   肉が好きだったようでもてなしもされ、借金もゼロになり、東京の家も援助した様です。 

愛弟子の川崎教諭という人が灘中学にいて、牧野博士と一緒にあちこちに植物採取、研究に出かけました。  1937年当時は阪神でロックガーデンが盛んな時期で、川崎先生はいち早く1934年には彼が灘中学にロックガーデンを完成させました。  生徒の情操教育の為でした。   海外のものとか、高山植物など珍しい植物を身近で観られるようにしたようです。   

私がシニアカレッジで植物に関する講習をしていた時に、灘高の校長先生の奥さんが参加していました。  そこで灘高にもロックガーデンがあったという話をしました。   石だけは校庭に残っていました。  或る先生が調べたらロックガーデンの写真、127種類の植物のリストといったものまでが出てきました。  牧野博士は灘校でも講義をしています。  牧野博士は日記をつけていたので、関西、阪神における行動がいろいろ判りました。    初めてロックガーデンを観た時には植えるところが少ない様でした。 1934年当時の学校の配置図が出てきて、道路を作ったりするには邪魔なので別のところに移したようです。   150平米あったようで小豆島から石を持ってきたようです。     エーデルワイズ、チングルマ(高山植物)などが植えられていました。  横には鳥の小屋があり30種類を飼っていたいたようです。  灘高の校長先生も植物が好きで、水やりなどフォローするという事で再建の話が進んでいきました。  

70種類ほどの山野草を植えてゆきました。  野生のチューリップ、野生のシクラメン、タツタソウなど丈夫で楽しめるものを植えてゆきました。   まずはよく観察してもらって興味を持ってもらう。  

私は山野草に最初興味を持ちました。  1980年代に第二のロックガーデンのブームが来ました。  1972年から1年間、英国王立キュー・ガーデンズに学びました。  那須高原に日本で一番大きなロックガーデンを作るのに手伝わせてもらったり、淡路島に5000平米のロックガーデンを作ったりしました。   花博が1990年にありましたが、温室の中に冷房の部屋を作って、高山植物のロックガーデンも作りました。  出来るだけ自然の植物を自然のように見てもらうというよなものがロックガーデンです。  

ロックガーデンはイギリスではじまりました。  ロックガーデンの父と言われたレジナルド・ファラー(1883年にイギリスのソールズベリーに生まれ、1960年に亡くなりました。ファラーは庭園デザインの分野で活躍し、特にロックガーデンの設計や植栽に関する専門知識を持っていました。)が日本の石に対する精神、石庭を見て涙を出して喜んで、そこからイギリスのロックガーデンも変わっていきました。  イギリスも日本も園芸が盛んですが、日本には植物が7000種類ぐらいあり、イギリスでは1600種類ぐらいで少ないんです。   世界で一番大きなガーデンセンター出来たのは東京の染井なんです。  日本とイギリスは昔から植物交流がありました。   

牧野富太 郎の足跡をたどって行っても残っているものが少ないですが、灘高に石が残っていたことは有難い事です。  植物だけではなく、他の生き物を含めて、一緒に生きているんだという事を大事にしていかなかったら、住みずらいですね。  ロックガーデンの様に根の張る場所がある生き方は放っておいても育つし、見事に出来てゆく可能性は高いです。

灘高のロックガーデンは一次系としては70種類ぐらい植えて完成はしています。  将来的には横の場所に石を動かしてゆとりをもって広めに作りたいと思っています。  咲くやこの花館も当時植えられていたなかの60種類ぐらいを植えて、観られるように展示しています。  牧野博士に関する展示もやっています。  自然界は植物も動物も繋がっているのでそういったことも知ってもらいたいです。
























































 










  

2023年4月25日火曜日

初音家左橋(落語家)          ・みんなで笑って三十七年  ~地域寄席で人をつなぐ~

 初音家左橋(落語家)       ・みんなで笑って三十七年  ~地域寄席で人をつなぐ~

市民が主催する自主運営の落語会、いわゆる地域寄席の魅力やそこから広がる人付き合いの輪について初音家左橋さんに伺います。

1979年十代目金原亭馬生に入門。  小駒という名前で前座修行、1982年馬生さんが亡くなったため、兄弟子金原亭伯楽門下へ移籍する。  1983年3月に二ツ目昇進、1995年の春に真打昇進、初音家左橋という名前にして活躍する。  入門から数えておよそ45年、そのうちの37年間に渡って出演してきた地域寄席に関する事を中心に話を伺います。

常設の寄席、プロの興行主などの商業公演と呼ばれているチケットを発売して儲ける公演、地方自治体などがイベントとして開催する夏祭りなどのイベントとして噺家さんを呼んで落語を行う、今回取り上げるのは地域の個人とか有志が自分で主催運営する小さな落語会で地域落語会と呼ばれている。 

事務机を高座にしたてて、毛氈、敷布などをかけてその上に座布団を乗せます。   ふかふかの座布団はしびれるので適度に使い込んだ座布団の方がいいんです。  出来れば大きめの座布団がいいです。 気楽に出来ます。    長く関わってきた川崎かぅひぃ寄席を例にとり、地域寄席の魅力、思い出などを伺います。  コーヒー店の店主が主催しました。  近くにわたりだ寄席(今はない)があり、市会議員が地域に還元するという事でやっていました。  コーヒー店でも何かやりたいという事でわたりだ寄席の人に相談して始めたようです。   

比較的大きい喫茶店で最大80人ぐらいは入れる老舗喫茶店です。  三笑亭夢三四さんと代わりばんこに出ました。  私が多摩区で三笑亭夢三四さんは麻生区で二人とも川崎出身なんです。  歌丸師匠が来たこともありその時は最大80人ぐらい入りました。  平均40~50名は来ていたと思います。   7年間続いて店が閉店してしまいました。88回やりました。   川崎市役所のすぐ隣、川崎グランドホテルに会場を移して隔月開催されて19年続きました。   宴会場はお金がないので借りられないので、レストランでテーブルを片付けていすを並べて、コーヒーブレイクの「中入り」があるのでコーヒー代を一杯500円という事でホテルに渡して、やっていましたが、打ち上げをやってそれを会場費にしようという事で、ホテルで打ち上げをするようになりました。  

贔屓の旦那衆という事で結構なお金を集める事ができました。  80人以上になると5円玉をいれた大入り袋をお客さんに渡します。  宮前区のお寺で住職がやってほしいという事で4月8日の花まつりの日に花まつり落語会をやって、25年ぐらい続いています。  川崎かぅひぃ寄席は平成22年川崎市川崎区からディスカバリー川崎、川崎区の宝物として川崎市民の記憶遺産の一つとして認定された。  

川崎グランドホテルが取り壊しになることになりました。   駅に隣接している商業ビルがありそこにホールがあり、今はそこでやっています。  桂 米多朗さんと交代で毎月やっています。  ここでも10数年やっています。

地域寄席の良さは、皆さんが笑顔になるのが一つですね。  仲間意識というか、知り合いが増える。   若手がのびのびやれるし、勉強にもなります。    私も前座のころからやっていました。   








  




















 

2023年4月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 遠藤周作

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  遠藤周作

遠藤周作は1923年生まれで、今年生誕100年に当たります。  11歳でカトリックの洗礼を受け、大学卒業のフランスに留学します。  1955年「白い人」で芥川賞受賞、1995年文化勲章を受章しています。  翌年1996年に亡くなりました。  

「夜中に布団をひっかぶっていると、昨日今日の、あるいは過去の自分のやった恥ずかしいことが一つ一つ突然心によみがえって、いてもたってもいられなくなり、あー、あー、あー、と思わず大声を立てているのです。   あ―そんなことかと思われる人は気の強い奴。   気の弱い奴ならこの夜の経験は必ずある筈だ。 それがないような奴は友として語るに足りぬ。」遠藤周作

この番組が文庫本になります。  

代表作には「海と毒薬」「沈黙」「深い河」などがあります。  1923年3月27日生まれで今年生誕100年になります。 関東大震災からも100年。 同じ年の生まれの作家に司馬遼太郎、池波正太郎、佐藤愛子などがいます。  遠藤周作は雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。  「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである。  

僕(頭木)もお風呂とか、トイレで過去の恥ずかしいことを思い出して声を出したりします。  今もあります。  私(河野)もあります。  

「時々私はこんなことを想像することがある。  いつか私が死に、御棺の周りで妻や友人たちが私についていろいろ語ったとする。  あいつはいい奴だったとか厭な奴だったとか、沢山のその人たちの目を通した私が語られるが、それをじっと聞いてる私はやっぱり棺の中でつぶやく。   いや、俺はそれだけじゃないぞ、それだけじゃないぞ。」遠藤周作

俺はそれだけじゃないぞ、という思いはありますね。   沢木耕太郎さんの本に、「世界は使われなかった人生であふれている」、というのがありますが、映画評論家の淀川長治さんが本当は学校の先生になりたかったと言っていて、吃驚しました。  日常生活でも相手によっていろんな顔を見せている。  いろんな私があるが、なおそれだけじゃないぞとという思いが人間にはある。    自分をすべて出し切ることは難しい。 純文学とユーモアエッセー、でもそれだけではない。  

「自分が弱虫であり、その弱さは芯の芯まで自分の付きまとっているのだ、という事実を認めることから他人を見、社会を見、文学を読み、人生を考えることができる。」遠藤周作

ここまで自分の弱虫を認めることは難しい。   遠藤周作が「狐狸庵先生」を書き出したのは38歳の時に、大病して3度の大手術をして一時は心臓停止の危篤状態になって、それから「これはあかんわ」と思ったことがきっかけになっている。  その後病気と闘って、10回入院して8回手術をしている。  こういう経験が大きかったと思います。    自分の弱さに気が付けば他人の弱さにも共感できる。    遠藤周作は心暖かな医療の運動も展開している。      

*「おらしょ」  オラショは、パライソ(天国)やインフェルノ(地獄)の教えが、隠れキリシタン(カクレキリシタン)によって300年間あまり、口伝えに伝承されたものである。カクレキリシタンにとって、オラショは一種の呪文のようなもの  1970年代以降、皆川達夫らにより原曲の比定などの研究する。

「沈黙」 映画化もされた。 作家グレアム・グリーンから遠藤周作は「20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家」と言われている。    江戸時代キリスト教が禁止されていた時代に、踏み絵をすることでキリスト教徒であると逮捕されてしまう。  しかし、踏んでしまった人たち、そういう弱い人たちをテーマにしたのがこの小説です。  

「私は、自分が宗教的、思想的な選択をしてキリスト教の洗礼を受けたのではなくて、私の家がそうだったからという理由でいつの間にか洗礼を受けさせられた。   いつの間にかとは変だけれど、母親に教会に行きなさいと言われて、意地汚いものですから教会でくれるパンやお菓子が目当てで行っているうちに、洗礼も受けさせられた。   皆さん年頃になってから、私はもう何回母親に勝手に着せられたキリスト教という洋服を脱ぎ捨てようとしたかわかりません。  全然私に合わないんだもの。  しかし、脱ぎ捨てても、脱いだら着るものがないんだ、私には。   裸になってしまうから、仕方なく着たままでいるのです。」 遠藤周作  

生まれた家とか親とか環境で決まってしまう事は色々多いと思います。  自分に合っていればいいが、どうしても合わないこともあるわけです。   遠藤周作は自分なりのキリスト観を持とうとした。   「沈黙」を発表したときにはキリスト教徒には反発する人も多くいた。  人は苦しい時に理解してくれる人を求める。    真の理解者となり、一緒に苦しんでくれて、苦しみを分かち合ってくれる、それが遠藤周作にとってのキリストなんじゃないかなと思います。  

「人生が愉快で楽しいなら、人生に愛はいりません。  人生が辛く醜いからこそ人生を捨てずに、これを生きようとするのが人生への愛です。」   遠藤周作

可成り逆転の発想です。  人生を捨ててはいけない、自殺してはいけない。 

第三高等学校を受験することになり、三高の帽子を買ってしまったが試験には落ちてしまった。  帽子をかぶって先生や友達に合格したといったんだそうです。  理由は自身にもわからなかったそうです。  学校中の笑いものになったが、浪人して翌年受験するが落ちてしまって二浪して,三浪して、医学部を受けるように言われたが、慶應義塾大学文学部を受けて合格する。  父親は医学部に受かったと思って大喜びしていたら、違っていて勘当されてしまう。  就職も松竹を受けるが落ちてしまう。  浪人時代から肺を病んで喀血していたりした。  

「陽気の時には、例えば本を読んでも頭の中には入らないんだ。  自分の中に問題がないからだ。   僕は滅入った時非常に読書量が増えるんです。  滅入っているからこそ書物に書かれている問題が時間をもって迫ってくる。  これまでに作り上げてきた僕の人生観などは、皆そういう状態の時に本を読み、考えたことによって形成されています。」遠藤周作








 










 











 






























  







  

2023年4月23日日曜日

粟国淳(演出家)            ・〔夜明けのオペラ〕オペラの魅力を追い続けて

 粟国淳(演出家)          ・〔夜明けのオペラ〕オペラの魅力を追い続けて

粟国さんは今最も注目を浴びている演出家のおひとり。   2021年の新国立劇場「チェネレントラ」や2022年の日生劇場「セビリアの理髪師」は世代を超えて楽しめるオペラとして評判を呼びました。  現在は新国立劇場研修所や大学でも指導に当たり、又日生劇場芸術参与として劇場全体の運営にも携わっています。  今年60年を迎える劇場では日本初演の「メデア」そして粟国さんにとっては初演出となるヴェルディーの「マクベス」と話題作が揃っています。   オペラという総合芸術の楽しさを次世代につなげていきたいと様々な試みを続ける粟国さんに伺います。

4月は学校が始まったばかりで忙しいです。   コロナで大変でしたがようやくもとに戻りつつある状況です。   日生劇場が60周年を迎えます。  小学生から高校生までに劇場で舞台を見せるという事を一番のテーマとして60年間やってきました。  大人の方にも特にオペラを見せるという事もあります。   「メデア」は日本初演になります。 変わり目の作品の一つだと思います。  オペラは劇であり綺麗な音楽が流れているわけではなく、ケルビーニの時代にグルックが音楽は言葉、ポエム、詩、ドラマを支えるものであって、その逆ではない、オペラも歌を、テクニックを披露する感じになってしまったようですね。  言葉、ストーリーーが段々なくなってきたところにグルックは変えて、又元に戻していこうとして、現代のオペラに発展していくと思いますが、ケルビーニがこの「メデア」で凄いストーリーで響きですね。  ブラームスからワーグナーもこの作品は素晴らしいと絶賛していました。  

ドラマチックで演劇的要素が強くて、共感部分と違うのではないかいう部分もあるが、心のなかに浸み込んでくるようなものがあります。   1953年ヴィットリオ・グイの指揮で主役を演じたのがマリア・カラスで、この作品を復活させたという感じです。  「マクベス」を秋に行います。   「マクベス」も難しい作品なのでなかなか取り上げられない。 ヴェルディーがいろいろ指示して何百回も稽古をした作品です。   ヴェルディーが「マクベス」をやるにあたってベルカント( イタリア語で『美しい歌』という意味。系の歌い手は厭だと言っていたぐらいです。  歌、声を中心にする歌い手は厭だという事でした。 演劇的に言葉をちゃんと伝える。  

*「憐れみも誉も愛も」 マクベスから

マクベスは権力欲、名誉欲とか、今に通じるものが沢山あります。 ドロドロしたオペラですが、子供達への学校公演でも見てもらいます。   子供ながらもハムレットも何のための復讐だったのか、みんな死んでしまったという時に、心のなかで凄く悲しかった。   復讐はしたけれど自分も亡くなる。  美しいオフィーリアも亡くなってしまう。           一体復讐って何なのかなあと考えました。  日本でも戦国時代はマクベスだったわえけじゃないですか。  辛いですよね。  100年前のヴェルディーの作品を観て、我々は馬鹿なことをやってと言って笑わなければいけないが、考えられないと言えるはずが、「そうだね」といまだに言わなければいけない。  今でも同じことが起きているという事、だからこそこういう作品を取り上げて考えさせなければいけないんじゃないかなと思います。  どうやったら、言葉と芝居と音楽が一体になるかという事を作っていきたい。   

ヴェルディーはシェークスピアが大好きでした。   「リア王」を手掛けたかったが、いろいろな事情で進められなかった。   

プッチーニの「ラ・ボエーム」   テレビドラマのようなとんとんとしたセリフがあってその中にプッチーニの音楽とセリフ、アクションが全部オンタイムで進んでゆく。  でも見ている側には何のストレスもない。   これが見事です。  

*「ラ・ボエーム」から第一幕  ミレッラフレーニとパヴァロッティー ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 

オペラ歌手はドラマを歌わなければいけない、演じなければいけない難しさがある。    「ラ・ボエーム」を観て演出家に成ろうと思いましたが、ゼッフィレッリの「ラ・ボエーム」だった。    今はその再演出家としてかかわっている、自分にとっては感慨深いです。  いつかはオペラ演出家としては唯一演奏してみたい作品は「マクベス」と思っていましたので、でもちょっと怖いですね。

 









































 


2023年4月22日土曜日

坪倉優介(草木染作)          ・草木染に込める命の再生

坪倉優介(草木染作)  ・草木染に込める命の再生~記憶喪失からつかみ取ってきたこと~ 

34年前大阪芸術大学に入学したばかりの18歳の時、運転していたバイクが停車中のトラックに衝突し意識不明の重体になりました。  10日後意識が戻った時にはそれまでの記憶のほとんどを失ってしまっていました。  家族や友達の顔だけでなく、食事や睡眠といった基本的な生活習慣も理解できぬまま退院、今も18歳までの記憶は残っていません。  現在草木染め作家として活躍する坪倉さんに、記憶を失った直後の日々の葛藤、草木染に込める思いを伺いました。 

草木染の作品、一つは薄い淡い色の茶色、もう一つは黄色のようにも見えるし黄緑に近いようにも見えます。   光の当たり方によって色合いがちょっと変わります。   蓮の葉っぱで染めています。   蓮だけでベージュにもなるし、もっと深いグリーンにもなりますし、黄色にもなります。   埼玉で撮った蓮では黄色に染めるやり方で淡いピンクに染まったこともあります。   花が咲く前なのか、後なのか、水、土が関西とは違うのか、調べし続けて居ます。   人間が作ったペンキ、絵の具はカラフルで綺麗ですが、その作り得ない色を自然は作り上げる。  草木染めの面白いところは、観た時の葉っぱの色、花の色とは全然違う色に染まるのが面白いです。  

34年前18歳の時に、バイクに乗っていて交通事故に遭って救急車で運ばれました。   意識が戻ったのは事故から10日後。   ゼロ歳の赤ちゃんの戻ってしまったのが、脳内出血の怖さかなと思います。   それから12年後に書いた著書があります。     退院して家に向かう時の描写が書かれている。                         「これから何が始まるんだろう。   目の前にあるものが初めて見るものばかり。  何かが僕を引っ張った。    引っ張られてしばらく歩くと、押されて柔らかいものに座らされる。   バタンバタンと音がする。   色々なものが見えるけれど、それが何なのかわからない。   柔らかいものに座っていると突然動きだした。   外に見えるものがどんどん姿かたちを変えてゆく。   上を見ると細い線が3本ついて来る。  凄い速さで進んでいるのに、ずっと同じようについて来る。   線が何かに当たってはじけ飛ぶように消えた。    すると2本になった。  しばらくすると今度は4本になった。  この線は何なんだろう。 ・・・・急に今まで動いていた風景が止まった。  すると上で動いていた線が止まる。  最初と同じ3本になっている。  ・・・外に出されると、僕が見ていた細い線がずっと遠くまで延びていた。 ・・・つぎに止まった場所には静かで大きなものがあった。 ・・・「ここが優介のお家やね」と言われた。 何のことかわからなくてただ立つだけだ。   何かに引っ張られてそのまま入ってゆく。」

線は電線だったという事です。  名前を分ける理由が判らなかったので、車も人も動物も自分とは違うもの、今まで観た病院の中ではない場所にいきなり連れられて行って、そこは不安、これから先どうなるんだろうと思っていたが、唯一変わらないのが電線だった。  それを見ることで安心はしていました。   

「僕が何したの。 何が何だかわからない。  この家や部屋と呼ばれるところでどうすればいいのだろう。 ・・・どこへも行けない。 何も手が出せない。  座って周りを見るけれど、知らないものばかり。・・・何を言っているのかもわわからない。  どうしていろいろな顔をするのだろう。  それで僕の気持ちも変わってしまう。  口が大きくあいて身体が揺れている顔を見ると安心。 でも目や口を小さく細くした顔で見られるのは厭だ。  僕が何をしたの。」

言葉を知らない赤ちゃんのような状況で、表情、空気で判断するしかない。  お口を大きく開けて笑っていると安心しました。  いまだにお腹が空くってなんだ、眠たくなるってなんだ、皆がしていることに合わせるようにはしているが、未だによくわからない。    

「母さんが僕に前に何かを置いた。  煙がもやもや出てくるのを見て、直ぐに中を覗く。 すると光る粒粒がいっぱい入っている。  こんなきれいな物どうすればいいのだろう。  母さんがこうして食べるのよと教えてくれる。・・・ぴかぴか光る粒粒を口の中に入れた。舌に当たると痛い。・・・ こうして噛みなさいと言われる。・・・ 動かせば動かすほど小さな粒粒も動きだす。   口のなかでジワリと感じるものがあった。  ・・・どういったらいいのか言葉が出ない。   母さんが美味しいと聞いて来る。 それが何のことかわからないので黙って口を動かし続けた。・・・母さんがもっと口に入ると思えば「美味しい」と言って、・・・僕は口を止めて「美味しいといった。」・・・あの光るものをご飯というんだ。 口の中でこういう風になることを「美味しい」というのか。」 

いろんなものに興味を持つきっかけになったのは、「美味しい」というこという思いがあり、重要な言葉でした。  ご飯を食べ始めた頃、母さんがどんな意味でどんなもんかは僕は知らない。  その人に気づいてもらうための音なんだと思って「母さん」って言ってましたが、僕の母さんという風には感じていない段階だったと思います。  母さんはいっぱいいるけれど、あの人だけは僕に凄く一生懸命な母さんだという話を友達にしたら、「それはお前の母さんやから。」、「あの人はお前だけの母さん」、「どんなに大変なことになってもあの人がそこまでしてくれるというのは、お前はあの人の子だから。」と言われて、気付くきっかけで、他のどの人とも違う凄い力を持っているんだなあと思いました。

3か月後に母親の努力で大学に戻ることが出来ました。   途方に暮れていると、手を引いてくれる人、一緒に行こうという人が必ずいました。   食堂の食券も何が何だかわからなかった。  食べた事がない感動が毎日ありました。   いろいろな凄い感動を平静に装ってはいました。  大学までは3本乗り換えがありましたが、駅名が漢字で読めないし、音、色、数とかで、半分山勘で降りていました。  学校に行くつもりが和歌山、神戸にいたりもしました。  今考えると凄い冒険でした。  

切符を買う事を教えてくれる人もいれば無視する人、怒る人そういったことを見極めることが大変で、人に接したくない、人に迷惑をかけるなら姿を消そうと思って、最終的に行き着くのが山のなかでした。    家族が探してまた家に帰って来ました。  逃げる、避けることを止めた一番のきっかけは、或る日夜中に、そーっと出て行こうとしたときに、母が気付いて、「優介どこに行くの。」と言ってきました。  「一人になりたい。」と言いました。  言い合いになり、玄関から出て行こうとしたら母が「優介はどこにも行かせない。 優介は母さんが生んだ子なんだから。」と言って涙ながらに止めました。  この人にこんな顔をさせるなんて、俺ってなんて奴だ、と思いました。  出てゆくことを止め、母は崩れ落ちました。

母を喜ばせることは自分の喜びでもあり、楽しみなので、大きく変わるきっかけはあの日のことでした。   大学には7年通って卒業しました。   染色家としては、1996年に京都の染色家・奥田祐斎さんに弟子入りしました。  自由に草木染をさせてくれる解放感がありました。   染工房夢祐斎を設立。  同じように記憶を無くしてしまった人には何人も会いました。   その場に立ってその先を見た時に、楽しいワクワクすることが沢山あって、ご飯を食べる、会社に行ける事、帰る家がある事、そばに待ってきてくれる人がいる事など実はこんなに一杯幸せを持っていたと、前向きに気付いてもらいたい。      今、18年分なくても、誰にも負けないぐらい凄い幸せになれる笑顔を沢山の人に貰ったので、過去とつながったとしても今の自分ではなくなるのが凄く怖い。   今のままの自分で生き続けたい。  今日生きていることが一つの記憶になってゆくから、過去を取り戻そうとするのではなくて、今日から何かを始めればいい、と思います。  記憶、思い出を一言で言うとエネルギー。  だからこれからも頑張ろうという人間を成長させるエネルギーになります。

























































 









2023年4月21日金曜日

大石みちこ(脚本家・東京芸術大学大学院教授)・マダム・バタフライの「声」に耳をすませて

大石みちこ(脚本家・東京芸術大学大学院教授)・マダム・バタフライの「声」に耳をすませて 

1965年、東京都生まれ。  東京芸術大学美術学部を卒業したのち、企業に就職。    広報を担当していましたが、2004年父親の病気をきっかけに仕事を辞めることになりました。  丁度その時に東京芸術大学大学院に映像研究科が設立されることになり、映画が好きなこともあって39歳で受験、合格して映像研究科脚本構成一期生となりました。   その後2010年の映画「ゲゲゲの女房」の脚本を手掛けるなど、理論と実践を同時に学びながら後進に育成にもあたり、この春からは東京芸術大学大学院映像研究科の教授になりました。  又、執筆活動も続けていて、「奇跡のプリマ・ドンナ 三浦環の「声」を求めて」を去年上梓しました。

 三浦環は今ではあまり知らない人が多いのではないかと思います。  グラバー園に三浦環の銅像がありますが、グラバー亭がマダム・バタフライとオペラの舞台になった場所に近いという事で建てられました。   実家のお墓が上野寛永寺の霊園にありますが、そこに一風変わった蝶々の形をしたお墓があり、バタフライと英文字で刻まれています。     オペラ歌手の三浦環のお墓だという事が後に判りました。  上野のお墓はお弟子さんが建てたという事も後から判りました。

コロナの関係で家にいることが多いので、三浦環のことを書いてみようと思いました。   資料などを集めたり図書館で調べたりしました。   三浦環は大正3年(1914年)に三浦政太郎さんと一緒にドイツ、ベルリンへ渡っています。   第一次世界大戦の勃発でイギリスのロンドンに逃げていきますが、交流のあった留学生の保住重任?さんという法学士が日記に残していました。  晩年山梨県山中湖村に疎開していましたが、そこにはアルバム、手紙、着物、アップライトピアノが残されていました。   他にも手紙を発見することが出来ました。   「エール」でも柴咲コウさんが三浦環を演じています。  山中湖村では去年はピアノが修復されてお披露目の会が催されました。  今年の2月22日(誕生日)には山中湖畔に銅像が完成、お披露目の会が催されました。 

三浦環は東京都出身で、東京・虎ノ門の東京女学館の出身で、お嬢さん学校で天真爛漫な性格を培ったのはこの女学校時代ではないかと思います。  海外に羽ばたいて、現地の一流の音楽家たちと一緒に舞台を踏んで、活躍していたという事は素晴らしい魅力の一つだと思います。   海外に渡る後輩たちにも力を注いだようです。  蝶々夫人を作曲したプッチーニにも会っています。   1946年に三浦環は亡くなっていますが、翌年に遺稿集『お蝶夫人』があります。   海外から来る演奏家などにも親切に対応したり、子供にも優しかったようです。(自身には子供はいない。)  猫、犬などの動物も好きだったようです。  海外に行った後はほとんど日本には帰ってこなかったようで、海外のオペラカンパニーと契約してしまうと、中々帰国でき鳴ったようで、政太郎さんが亡くなった時に、その死をハワイで知ったという事です。  ヨーロッパ、アメリカ、アジアのいろいろな国に行っていました。  

昭和10年に日本に戻って来て、日本での演奏活動を始めます。  海外の歌曲を日本語に訳して歌う事も多かったようです。   「冬の旅」を1946年にNHKで録音したものがあり、亡くなる直前だったので本人が納得できないという事で放送はされませんでした。   

「冬の旅」 一部放送 歌:三浦環

母親の影響で義太夫、歌舞伎が好きでした。  三浦環は東京女学館を卒業後、帝国劇場で1年ほど歌っていますが、西洋の発生方法で歌うということが、ななかなか受け入れられなかったようです。  

私は子供のころピアノを習っていましたが、挫折しました。  絵を描くのが好きだったので、東京芸術大学美術学部に入りました。   のびのびした学校でした。  芸祭では演劇をしました。  卒業後広告の会社に入って、広報などやっていました。   父親の病気をきっかけに退職しましたが、なんかものを書きたいという思いがありました。   父が亡くなり、大学に新しい映像研究科が設立されるという事を知って、入ることを決意しました。  監督コース、脚本コース、プロデュースコース、技術パートがあり、撮影、照明、サウンドデザイン、美術、編集など7つのコース、7つの領域があって、監督コースは北野武監督、黒沢清監督が教授を務めていました。  脚本コースは田中陽造先生でした。  

私の脚本コースの人は6名でした。  映画は最初にどんなワンシーンを描きたいかという事を監督、脚本などがイメージすることが重要なのではないかと思います。  ワンシーンを作る為に話を編んでゆく。  2010年に公開された「ゲゲゲの女房」。  水木しげるさんという漫画家の奥さんの人生を描いた映画でした。  水木しげるさんは不思議な幻想的な世界を描く漫画家です。  戦争で片腕を無くしてしまい、残された手で漫画を描き続けた漫画家です。   昭和の暮らしを調べて見るととても興味深くて、いろいろシーンを付け加えました。   人の気持ちを映像でどういう風に表現するかという事は本当に難しいです。   

若い世代に対しては、映画は最初にどんなワンシーンを描きたいかという事が大事だと思うので、まずは大切にしてほしいと思います。  幕末から明治にかけて、人間はどう追う風に生きてきたのか、興味を持っていて、特に女性の生き方を小説として書いてみたいと思います。  






































   

2023年4月20日木曜日

小西博之(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

 小西博之(俳優)    ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

小西さんは63歳、大学卒業後NHKドラマ「中学生日記」でデビューします。   その後萩本欣一さんのバラエティー番組に出演して「コニタン」の愛称で一躍人気者になりました。 しかし司会や俳優業など活躍を広げていた2005年末期の腎臓がんと診断されます。   厳しい手術と治療に耐えて仕事に復帰しました。   現在は俳優業の一方で日本航空高等学校通信制過程の東京キャンパス長を務めています。   小西さんは人生の山坂をどう越えてきたのでしょうか。 

僕は30年来「ラジオ深夜便」が大好きでずーっと聞いています。  去年、日本航空高等学校の90周年を迎えました。  7割は普通科で、3割がパイロット、地上係員、CAさんのことを学びます。  小学校のころパイロットになりたかったんですが、昭和47年中学の中里先生との出会いがあり、僕の人生を変えていただきました。  初めての土曜日のホームルームの4時間目の時に、「男ども1週間いろんなことがあったろう。 前に出て綺麗さっぱり洗い流して新しい月曜日を迎えたい奴は出てこい。」といったんです。   

「学級委員長の小西、お前からや。」  出ていたら、「あとの19人はどうしたんや」という事でみんながずらっと並ぶわけです。   先頭にいた枝光?君は真面目な子で怒られた事のない子が「枝光」と言われた瞬間に泣き崩れていました。  どうなるんだろうと思った瞬間に先生はハグをしてくれたんです。  「勉強を一生懸命頑張ったな。 偉い。」と抱きしめました。 その後ほかの人たち全部にハグをして、最後が僕で「来い」と言われました。  同様にハグしてくれて、「頑張ったな、この1週間」と言っていただきました。  

「お前たち、朝このきれいな机で勉強できるのは、小西がな、野球部でいち早く来て練習終わってから誰よりも先に教室に来て、雑巾でお前らの机を拭いてくれんやぞ。 小西に感謝しろ。」といったんです。  「小西 本当に有難う。」と抱きしめてくれて、今でも涙が出てきます。  「お前のやっていることは俺が絶対フォローしてやる。」と言われて、世の中がそこで変わりました。   次の週も「男ども・・・」と言って、みんな出て行って一人一人ハグして1週間分を褒めてくれる。  それがずーっと続いて、夏休みに考えて職員室に行って、将来を決めたんですが、「先生聞いてくれますか。」と言いました。 

「なんでや。」と言われたので「先生がかっこいいです。」と言ったら立ち上がってハグしてくれました。  野球をやって教師への道と、勉強して教師への道があるがどちらがいいかと言われて、「野球がいいです。」と言って野球を一生懸命やることにしました。    高校、大学共に野球で引っ張って貰いました。   大学での野球が厳しくて辞めて、生徒の前ではパフォーマンスしなくてはいけないと思って演劇部に入りました。  合気道をやっていたので怪獣をやれという事で関西弁でやっていたら、劇団のマネージャーからテレビに出たいかと言われて、連れて行って貰ったのがNHKの「中学生日記」でした。    生徒の役でした。  

銀河テレビ小説とか、島の若者Aでエキストラで出て藤岡弘さんと戦ったこともありました。 20年後に藤岡さんと出会って、覚えてくださっていました。  「中学生日記」のレギュラーになって、欽ちゃんを紹介してもらって、芸能界の道へと進みました。   大きな病気をしてから、全国の高校500校ぐらいで命の授業をしています。   山梨で授業をしていたときに、日本航空高等学校の院長先生が全国の通信教育の校長になって学んでいる子を助けてほしいと言われて、61歳で引き受けることになりました。 13歳の時の夢が50年経って叶いました。  

最初は何もわからなくて落ち込みました。  そこでコロナで学校に行かなくて家でやっていて、ちょっと楽になって、3月には卒業式を迎えることになりました。  送辞で、2年生の子が泣きながら「先輩のお陰で学校に行くことが出来ました。」といって、答辞でも「お前たち、俺はな・・・」と言って泣くんです。   保護者のお礼の言葉も「こうまでして、うちの娘を通信で高校卒業有難う。」と言って」みんなが泣くんです。  通信ってこうなんだと思います。  7割は不登校でやって来ます。  同じような境遇なので先輩たちが優しくハグしてくれるんです。    先輩たちが遠足に行った時に自分たちの話をしてくれます。  それでみんなが心を広げてくれて、学校へ来てもいいんだという思いを抱きます。  全部家でやって年間1週間授業をやるコース、1回/週のコース、毎日コースの3つのコースがあります。  

突発性難聴にもなり病院にいっても手遅れと言われました。  耳鳴りがしていて、或る近所の老医師から「良かったねえ、誰も持っていない可愛い鈴虫が二匹いるよ。」と言われました。   その時僕は泣き崩れて、「おんなじや。」といったんです。  師匠の萩本欣一さんと同じことを言うと思いました。  「悪いことも受け入れる。」という事で、その晩から寝られるようになりました。  身体にいいことをしようと思って煙草も辞めましたら、15kg太りましたが、1年かけて15kg落としました。   

2004年8月にアフリカに行く番組があり帰ってきたら、体調が悪くなりました。     食欲がなくなり、3大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)がなくなり、12月23日にホテルのトイレで血尿で血の海になってしまいました。  病院へいってクリスマスの日にエコーを撮りました。  緊急検査をして、がんで普段なら死んでいるぐらいの大きいと言われました。 縦が20cm、横が13cmあると言われました。   ゴールデンウイークまでは持たないので、好きだと言っていたハワイに行きましょうという事を行っていました。   

今年92歳の父親には、心の整理をしておいてほしいと言いました。  手術の後、7月には徹子さんと一緒の番組に出て「末期がん」でしたという事、7月にでようとそれだけを楽しみにしていました。   5月をクリアして7月に番組に出ることが出来ました。   それまでに、お風呂で毎晩1時間ぐらい「死にたくない。」などと言って泣きました。  そうして泣き疲れるまで泣くとぐっすり眠れるんです。  僕は辛かったら泣いてくださいと言います、しっかり泣けばスッキリします。  闘病と言いますが、病気とは戦えません。  

先日もウルトラマンの大先輩(団時朗さん)が亡くなりお別れ会に行ってきました。  寂しくなるから行きたくないですが。   2009年4月、小西と同じ「欽ちゃんファミリー」の一員だった清水由貴子さんが49歳で自殺したことを知りました。  泣き崩れて「なんでしんだんじゃー。」と言って怒りました。   毎年4月20日にはお墓参りに行きます。 今日も生きる、明日も来る、と思って生きる思いを持つということは大切だと思います。  

「わたし終い」というのは、がんをしてから考えないようにしています。  人生を仕舞うという事はマイナスの様に思えて、夢を持つことによって人生楽しくなるという風に考えてずっと来ました。   今は考えを変えました。  嫌いな言葉の終活の番組に出ました。 雑誌の終活に関するの対談にも参加しました。  或るおじいさんが亡くなって、葬儀の時に自分が元気な時に撮ったものを自分が出て、お話をした動画があって観ますかと言われました。  

「・・・中卒だったが、夜間に引っ張ってくれた松本・・・」というんです。 「お前のお陰で大企業に就職出来て本当にありがとう、・・・有難う。」と言って頭を下げました。   その後に息子の名前を二人呼んで、「まだ若造でございますが、今後ともこの二人どうぞ宜しくお願い致します。」と言って、次に奥さんの名前を呼んで、「〇〇すまなんだなあ。  こんな我儘なわしで、本当にお前に迷惑をかけた、本当にすまん。 ええかこれからはお前ひとりだから楽しめよ。 ・・・どうか嫁とこの二人の息子をどうかよろしくお願いします。 楽しかった。 さようなら。」と言っていたのを見て号泣して、これはやった方がいいと思いました。  

終活で未来に流すビデオを撮っておいて、もし10年後に生活が変わっていれば、その部分だけ取り直せる。  そこに向かって10年間楽しめると思いました。   それが終活なんだけれども生きる目標になります。  後3年経ったら、いろいろ変わった部分を撮り直そうと思っています。  最後の部分に「先生になる夢は叶わなかった。」と言っていましたが、この部分は撮りなおせます。     いろいろな人との出会いがありましたが、やっぱり萩本欣一さんには人生のすべてを教わりました。   人生は波で100落ちたら100あがるから、20落ちて我慢したら20しかあがれない、100落ちたら100あがればいいんだ、落ちかけた時にもがいてはいけない、笑いながら落ちて行け、神様はもがけばもがくほど落ち以上にされてしまう。  100落ちたら周りが、あんなに大変なのに笑っているぞと、凄いなまだ何かあるのかなと勝手に思ってくれて、また仕事が来るよ。」と萩本さんは言ってくれました。  

わたし終いの極意とは、「明日があるから大丈夫」です。  全国の少し弱っている生徒さんを救ってあげたいです。   

















































 











  












2023年4月19日水曜日

大八木弘明(駒澤大学陸上競技部総監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 箱根から世界を目指せ!

 大八木弘明(駒澤大学陸上競技部総監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕  箱根から世界を目指せ!

今年正月箱根駅伝で駒澤大学が往路復路とも制する完全優勝で2年振り、8回目の総合優勝を果たしました。   これによって駒澤大学は出雲、全日本と併せて史上5校目の同一年度学生駅伝3冠を達成したことになります。  その駒澤大学を28年間にわたって指導してきた大八木弘明監督が今年の箱根をもって駅伝の指導からは離れ、今後は総監督という立場で卒業した田沢簾選手ら世界選手権やパリオリンピックなど世界でも活躍を目指す選手の指導に専念することになりました。  

まだまだいろいろやることがあり、旅行へ行くとかという気はないです。                  1958年(昭和33年)福島県会津若松市河東町生まれ。  中学のころから足が速く3000mは全国大会5位、福島県立会津工業高等学校時代は疲労骨折などがあって苦しむ。    高校卒業後、小森印刷(現:小森コーポレーション)に就職、競技を続ける。   箱根駅伝を走りたいという思いを断ち切れずに24歳で駒澤大学経済学部夜間部に進学して仕事、勉学、練習を成立させるために、会社を辞めて川崎市役所に就職。  大学時代は箱根駅伝を3回走って2回の区間賞を獲得。  卒業後、ヤクルトに就職してマラソンランナーを目指しますが、当時低迷していた母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。 2004年からは監督に、今年までの通算28年間に箱根の総合優勝に8回、学生駅伝27回優勝の強豪チームを作り上げました。   

36歳で駒澤大学に来てあっという間に過ぎてきたという感じがあります。  福島は円谷選手のイメージがものすごくあって、福島の選手は我慢強い、忍耐力があってコツコツやってゆくという事を学んできたという思いがあります。   中学時代から大学に行って箱根駅伝を走りたいという思いがありました。   会津工業高等学校時代は疲労骨折してしまって、トレーニングを再開しても元のような走りができなくなってしまいました。     3年間悩みました。   実業団でもやりたかったので、相談したら顧問の先生から小森印刷を紹介されて就職しました。   2年目からはエースの存在になりました。  箱根駅伝を走りたいという思いがあり、二部の大学に進み市役所に転職しました。    厳しい4年間で、分刻みの行動で、短い時間で効率のいい動きが出来ました。  朝は練習しません。  お昼に8km走りました。   4時半ぐらいからトレーニングして6時ごろ大学に行きました。 (練習がしたくて1時間目には遅刻していました。)    1984年第60回箱根駅伝に5区(山登り)を走ることが出来ました。   記念大会で20校が出場。  1区が20位ぐらいでもう区間賞を狙うしかないと思って突っ込んでいきました。  区間賞をとることが出来ました。  忙しくて大学2年では夕食を雑に取っていて、栄養面が行き届かずに貧血になってしまいました。  大会参加が出来ず悔しい思いをしました。  以後食事には気を遣うようになりました。   大学3年生の時には2区を走り、区間賞をとることが出来ました。  車を追いかけ監督車に乗って後続の選手の応援をしました。

現在は、応援のための声をかける場所が何か所か決められていて、そこで約1分の応援のための声掛けができます。  藤井選手が6区を走った時に、ラスト3kmの時にフラフラの状態で、その時に「男だろう! 男だったら最後までタスキを渡さないといかん。」といった覚えがあります。  疲労骨折などしてきた体験を生かせるように、指導にも生かしてきました。 

母校駒澤大学の陸上競技部コーチに1995年に就任。  藤田敦史選手が当時貧血であまり走れなかったが、妻に鉄分の多い食事を考えて食べさせたりしました。  夏には強くなりました。   妻は食事の管理をして、学校に通って栄養士の資格まで取りました。   最初は20人ぐらいが寮で食事をしていましたが、今では50人程度になって来ました。      

初めての総合優勝が2000年。  13年間優勝から遠ざかった時もありました。  多少自分の中におごりというか、このぐらいやっていれば優勝出来るのではないかという思いがありました。   箱根と世界とを、両方ともやりたくてしょうがなかった。  いい選手がいましたが勝てなくて申し訳なかったと思います。   昔のやり方では通用しなくなってきたという思いがあり、自分が変わらなければ絶対選手も変わって行かないと思ったので、以前の様にメニューをこちらが示して、やらせるようにしていましたが、コミュニケーションをとって、優しい言葉をかけながら接していこうとしました。  

マラソンの指導をしたいという思いはありました。 私のやり方が藤田敦史選手と合っていたようで、藤田選手との出会いは恵まれました。  箱根から世界へという思いはずーっと持っています。   大学3年生から私が練習のスケジュールを立ててきて、今年の2月まで立ててきました。   田沢簾はじめ鈴木芽吹、篠原倖太朗、佐藤圭汰とか世界を目指す選手が出て来て、そういった選手を見ながらやっていきたいと思います。  現場で、成長してゆく選手を見守るのが楽しみです。































 

 







 
















 

2023年4月18日火曜日

髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

 髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

髙橋秀実さんは1961年横浜市生まれ。   これまでダイエットやパワースポットのような身近な問題から外国人問題、道徳教育など幅広く取材をしています。   最近では認知症の父親と過ごした日々を「親父はニーチェ」という一冊にまとめました。   

父親が亡くなったのは2020年2月。   ああすればよかった、こうすればよかったというようなことが続いています。  後になって判ることがいろいろあります。  私は20歳で大学に通うために家を出ました。   弟もその後家を出て両親二人暮らしになりました。  母が突然急性大動脈解離で亡くなりまして、父が一人になってしまいました。   我々夫婦、弟が来て一緒に暮らすようになりました。   87歳でご飯も自分では作らない、作れない。  母が全部身の回りのことをやっていましたから、自分で身の回りのことができないことが判りました。   父は母が亡くなったことも理解していませんでした。(認知症)  

父の話すことを逐一メモするようになりました。    これはこういう事なのかなと考えるようになりました。   目と目で向かい合って話すと喧嘩にありますが、メモすると下を向いているので父も話しやすかったようです。   父の言葉を吟味できるようになりました。   同じような繰り返しばっかりに聞こえたんですが、メモしていると毎回ちょっと違うんです。  後で読み返した時に、そうするとこれはこういうことかもしれないと結構気が付くことがあります。   この本のきっかけはそういうことからです。 

本の中から、介護認定するときの、介護認定調査員とのやり取り。           「今日は朝ごはん食べましたか」  「ハイ美味しく頂きました」   「何を食べましたか」 「ふっくら炊き上がった白いご飯、温かい豆腐のお味噌汁、それと焼いた鮭、ほうれん草のお浸しもいただきました。」   でもその日は豆腐と目玉焼きだったんです。  調査員の人はこの時点で認知症と判ったらしいんです。   これは「取り繕い反応」と呼ばれる症状です。  判らない時に適当に取り繕う。   本には書いていないんですが、「お風呂は入りましたか」と聞かれた時に、「風呂はうちは薪ですから、息を吹きかけてやるので、火加減が大変です。」と答えたんです。  これは完全に認知症という事です。  

介護認定3という事になりました。  認知症のことについて深く知りたいと思うようになりました。  認知症には原因別として、レビー小体型認知症(脳の神経細胞にはαシヌクレインというたんぱく質が存在します。これを核とするレビー小体という物質が大脳皮質にたまると、脳の神経細胞が徐々に減ってゆく。)とアルツハイマー型認知症(アミロイドβ(ベータ)と呼ばれる異常なたんぱく質の蓄積と神経原線維変化(過剰にリン酸化されたタウ蛋白の蓄積)という脳の中での2つの変化を特徴とします。)があります。  脳にタンパク質が蓄積すること、脳の縮小が原因で起きる。  父は家父長制型認知症で、脳の大脳生理学的な原因ではなくて、生活習慣が原因で起こる認知症。    自分では何にもしないで妻が身の回りのことを全部やるという、この生活をずーっとしていると妻が居なくなると何にもできなくなる。  私が考えた病名です。  食事は作る事ですが、父にとっては座る事なんです、座ると食事がでてくる。  ですからずーっと座っていたりする。    生活習慣によって引き起こされた症状だと思います。           相手に違和感なく話すことはできる。   

正常な認知とはどういうことなのか、という事を考えさせられるきっかけになりました。 「今いるところはどこなのか」と尋ねると「ここがどこかって、そうここがどこ、どこが、ここが、どこって」  自分を確実に捉えているかどうかのテストだが、家とか病院とか言ってくればいいんですが、父が「ここってどこ」と聞き返してきたんです。  「ここはどこ」は住所、場所,位置とかですが、「ここってどこ」というのは概念、ここって言うのはどこなんだろう、と考えさせられてしまった。   これは哲学的な問題なんではないだろうかと、思いました。  

ここはどこなのか、と言うのは西洋哲学ではずーっと考えてきている。  我々はどこからきてどこへ行くのかというのは大きなテーマで、前提としても「どこ」というのは何なのか、「ここ」はどこをさしているのか、父と話をしていると、哲学の問題提起とか、そういう事に重なっているというような気がしました。   約束事が守れるかどうかテストするのが認知症の診断です。   語彙が少なくなってゆく症状が一つありますが、コップをもって「これな何」といったんです。  そうしたら「ヘー」とか言ったんです。 「これは何ですか」と聞いたら「そうなんだ」というんです。  これも取り繕いだと思いました。

妻が脱ぎっぱなしにしてあった靴下をもって、「これは何」とよく聞いていたしていました。  この時、聞いているのは靴下ではなくて、正しい答えは「どうもすみません」ですね。  「靴下」と答えてしまうと喧嘩になってしまう。  そこから「へー」とかの答えが出てくる。  取り繕い反応のひとつの解釈だと思います。  日常会話では「これは何」と言って「コップです」というような会話はあり得ない。

父は私のことを「社長」、「お兄ちゃん」と呼んだりしていましたが、自営業なので社長と言えば社長で、昔から気分がいい時には「さあ行こう 社長」とニックネームみたいに使っていたし、私は長男なので「お兄ちゃん」でもあるわけです。  

母が亡くなった後に、或る人に会った時に、「奥さん お元気ですか」と問われ「元気です。 二階で寝ています。」とか言うんです。  その人が話している奥さんというイメージのものに話を合わしているんですね。    社会生活とか、社会性、約束事、(今日は〇月〇日とか、どこへ行くとか)がかなり失われて行くと、その人の持っている認知が割とむき出しになる。  それをきちんと理解することが大事なんだと思います。  語彙は少なくなってゆくが、「それ、それ、あれ、どれ」とかでも会話は出来る。  会話にはそれぞれ距離感がある。  距離感をきちんと捉えていれば、話の内容はさほど重要ではない。認知症の反対は正常な認知ですが、多かれ少なかれ人は認知症みたいなところはあると思います。 人は一人では生きていけない、誰かに助けてもらったりしてやっと生きているわけですから。  支え合って生きている社会ですから。  超高齢者社会になり認知症は社会問題だと捉えて、支え合って生きた行く社会だと思います。  

















                            








2023年4月17日月曜日

山部泰嗣(太鼓奏者)          ・〔にっぽんの音〕

 山部泰嗣(太鼓奏者)          ・〔にっぽんの音〕

日本太鼓ジュニアコンクール 25回目になります。  今年は審査員をやりました。     全国から高校生以下の太鼓のチームが参加して、その演奏技術を競います。    大会は1999年から始まり、今回で25回目、各地区の予選を勝ち抜いた国内37の都道府県から43チーム、海外からは台湾の1チームが参加します。  君が代から始まり、プラカードを持って選手宣誓あり、去年はコロナで無観客で行いました。  今回は石川県で行われました。 太鼓はトラックで運ばれてきて何十台も集まって壮観です。  上は18歳までで下は決まりがないです。   今回は5歳が最年少でした。   課題曲と自由曲を演奏します。  課題曲では楽譜が配られますが、どう解釈して演奏するかは自由です。  今回の課題曲はテーマが「旅立ち」作曲は日本太鼓財団会長長谷川義さん。

全国で約4万チームあり、子供たちのチームは2000~3000チームあります。  

課題曲 「旅立ち」  1分 

*大分県代表 三代目源流の演奏   3位になった。

*新潟県代表 新潟万代太鼓 鼓助の演奏

自由曲は4分 5分以内に演奏を終わらせる。

自由曲

*福岡県代表 糸島二丈絆太鼓. 総務大臣賞 準優勝  曲「ガラシャ」                 小学校1年生から高校3年生までの子ども達 

特別演奏 ブラジル代表 2019年のブラジルでの大会で優勝

台湾チームは2021年動画参加以来の参加。

台湾 葫蘆墩(フルトン)Smile太鼓團  特別賞受賞

ブラジル クリチーバ若葉太鼓  特別出演  「餅つき」

海外勢の楽しさが伝わってくるのがあり、レベルも上がってきた。

*宮崎県代表  橘太鼓「響座」ジュニア 内閣総理大臣賞 優勝 「アッセンブル」

テンポが速く、正確に、一音ずつの粒立ちがいいです。  13人編成。 

熊本のチームで〆太鼓を打っていた子が明らかに上手いが、その子は自分が上手いですよという事をあまり出さなかった。  周りを引っ張りながら、上の子について行きながら、下の子にはこっちだよと、音でそれをやってゆく。  それは僕だよという事を見せないというのは素晴らしい技術だと思いました。  ただ音が揃っているからチームワークがいいというのではなく、隣のことを見るのではなく、感じながら打っているなという事は音に出るから。  チームの空気感が見える。


















2023年4月16日日曜日

芦原伸(紀行作家)           ・〔美味しい仕事人〕 食で知る世界の文化

芦原伸(紀行作家)           ・〔美味しい仕事人〕 食で知る世界の文化 

芦原伸さん(76歳)はこれまで世界70か国以上、5大陸と7つのうみを取材で旅をしてきました。   旅をして料理を知ることはその土地の生活を知る事であり、調理法は民族固有の技術であって知恵であると言います。  

ここ10年で、グローバルスタンダードと言いますが、スタンダード化してきています。  ホテルのレストラン、街のちょっとしたレストランに行くとあまり変わらないです。    その国の田舎とか、小さな街のちょっとくたびれた食堂とか砂漠の市場とか、そういったところに行くと民族料理みたいな、その国でしかない料理が根付いています。   そういうのに出会うと楽しくてしょうがないです。   色々聞きまくって記録します。    日本では肉というと牛肉ですが、世界では上位ランキングではないです。   ニュージーランドで牛肉が一番安い、つぎが豚肉、一番高いのが鳥です。   牛は放っておけばよくて草を食べている。  豚は豚舎が必要で餌もあげないといけない。  鶏は大きな鶏舎が必要で穀物の餌をあげないといけない。  育てるのに一番お金がかかる。  宗教上、牛、豚は食べられないところもあり、一番食べられているのが羊だと思います。  

明治以降に肉食文化が作られ行って、牛、豚でも薄切りがメインです。  ヨーロッパなどでは肉は固まりなんです。  薄くすると美味しくない。   イギリスでは一番のおもてなしは台所で客に一緒に食べさせることなんです。(一番フレンドリー 家族同然なもてなし)   その友達の家でスキヤキパーティーをすることになって肉を買いに行ったが、肉のブロックしか売っていない。   ハムスライサーでやってもらいました。  醤油とかいろいろ取り揃えましたが、最初の生卵から駄目でした。  その後パスタを入れて食べましたがそれでも彼らにとっては前菜なんです。  メインは何と言われてしまいました。  

南アフリカで食べましたが、ワニの肉は美味しいです。 食べるために養殖しています。  中国の広東州では「野味」といって、アルマジロ、犬、狸などがはいった鉄の檻があります。  僕はフクロウを食べました。  鍋料理で味付けは赤味噌でした。   ワイルドのものも料理法によって美味しいです。   

生まれは三重県です。  父親が医師で名古屋で開業していましたが、戦争で三重県に疎開して戦後に生まれました。  幼稚園から高校まで名古屋で過ごしました。  北海道大学に行きました。   大学3年の時に父親が亡くなり、叔父の家に養子に行きました。   中学ぐらいから鉄道に乗るのが好きでローカル線が好きでした。  大学紛争の時代で、与論島に行き、サトウキビ狩りなどもやりました。   編集者の募集があり、4年ぐらい編集者をやっていました。   1976年、フリーランスライターとして独立しました。   固定した出版社が3社あり仕事は絶えなかったです。   編集プロダクションは30年以上やりました。  バブルで海外旅行大ブームが起きました。   海外ガイドブックがなくて出しました。   草鞋を3つ履きました。  作家記者、編集者、経営者。  最後は出版社も作りました。  自分で書いた本だけで50冊ぐらいあります。  編集した雑誌を入れると数えきれないですね。   

ポルトガル料理で面白い料理があります。 「バカリャウ」と言います。  「バカヤロウ」と言っても通じちゃうんです。   塩漬けにしたタラを乾燥させます。  それを戻して、玉ねぎとインゲンなどいれて卵とじにします。  タラを取るためにイギリスとアイスランドが戦争状態になるタラ戦争があったんです。  大航海時代を支えたのがタラだと言われています。  保存が出来て力が付くから。

スコットランドの伝統料理をニュージーランドで食べたものに「ハギス」という料理があります。  羊の料理です。  茹でた内臓心臓肝臓)のミンチオート麦たまねぎハーブを刻み、牛脂とともに羊の胃袋に詰めて茹るか蒸したプディング(詰め物料理)の一種。  ニュージーランドのレストランの特別料理でやっていました。  バーンズの作詩した『ハギスに捧げる詩』 を歌い上げる儀式を執り行い、伝統的なメインディッシュとして供される。  美味しいとは言えない味でした。  

チンギス・ハーンが世界制覇できたのは羊のお陰だと言われるぐらい、羊は連れて行って食べられる、防寒具にもなる。  肉は焼かないで煮て食べるが、油がもったいなくて御馳走になる。  6月にバルカン半島に行きます。  マケドニアにはアレキサンダー大王が好んで飲んだというワインのブドウの原種が残っていて、それからワインを作っていて、それが飲めるわけです。  最後の晩餐としてのイメージは赤ワインにパン、魚はタラ、肉は羊ですかね。






























 








2023年4月15日土曜日

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)      ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)    ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~ 

鎌田さん(67歳)の専門は火山学、地球科学、科学コミュニケーションで、地球科学入門の講義は毎年数百人の学生を集め、京大で人気NO1の教授と言われました。  一昨年定年退官し、現在は京都大学名誉教授、京都大学レジリエンス実践ユニット特任教授として研究を続けて、著書やホームページ、講演などを通じて地震と火山の正しい知識を広く伝えています。   科学をわかりやすく伝える科学の伝道師を自認する鎌田さんに地震と火山の正しい知識を地球科学という大きな視点からわかりやすく教えていただきます。   

2011年の東日本大震災で日本列島は1000年振りの地殻の変動期に入りました。     1000年振りに地面が不安定となりました。 いま引っ張られるストレスが溜まってマグマにも影響します。   2011年3月11日の直後に火山の地下で地震が起き始めました。   日本には111個の活火山があります。   火山のマグマだまりの側で地震が起き始めました。   具体的には20個です。   火山の20個が噴火のスタンバイ状態になったと我々は捉えています。   20個の中には富士山も入っています。   箱根山、浅間山、草津白根山、九州の九重山、阿蘇山とか入っています。  箱根山、草津白根山は噴火しました。   富士山は噴火はしていませんが、マグマだまりが不安定になったという事はあります。  

富士山の地下には熱いマグマが溜まったところが地下20kmのところにあります。   花崗岩、玄武岩などを1000~1100℃で溶かすとドロドロに溶けます。   それが地下20kmのところにぎゅぎゅうに詰め込まれています。   111個の活火山の地下にはそれがあります。   地震によって揺れるとマグマが噴火することがあります。   マグマには5%ぐらい水分が入っています。  水が水蒸気(体積が増える)になると噴火します。     水が水蒸気になると体積が500~1000倍になります。     地震でマグマだまりを揺らすと、噴火を起こす可能性がある。  東日本大震災はマグマだまりを揺らしたんです。  

2011年3月11日の4日後に富士山の地下でマグマだまりの上が割れるという事がありました。   富士宮辺りでは震度6強という大きな地震がありました。  富士山の地下14kmのところで岩石が割れたんです。  ぎゅうぎゅうに詰め込まれたマグマだまりの上にひびが入ると、圧力が抜けます。  そうするとまた水が水蒸気になります。 そうすると1000倍ぐらいになり噴火をします。  幸い噴火はしていません。  ひび割れのまま12年経っています。  噴火スタンバイ状態という現象なんです。  

1707年江戸時代中期、新井白石が記述していますが、1707年に南海トラフ大地震が起きました。(宝永地震)    49日後に富士山が噴火しました。  火山灰が江戸の街に降って来て日記に最初白いものが降って来て、その後黒いものが降ってきたと書いている。  マグマだまりの上の方はシリカを中心に、下の方には鉄、マグネシュウムなどがある。  地震がマグマだまりを揺らしたという例です。   これからも起きる可能性があるといことで心配しています。  

太平洋プレートが日本にぶつかって沈み込みますが、跳ね返ると地震が起き、跳ね返らないでどんどん潜ってゆき、マントルに突っ込むとプレートから水が絞り出される。  太平洋プレートには水が沁み込んでいる。   沈み込んできた太平洋プレートから水が絞り出されて上の方に行き、岩石を溶かしマグマが出来てしまう。    プレートの沈み込みは地震も起こすが噴火も起こすという二つの現象の原因なんです。  火山帯はプレートが沈み込んである深さで水を絞り出して地下では火山が噴き出してくる。  日本列島には4つのプレートがあり、2つは海のプレート、2つは陸のプレートで、海の太平洋プレートは陸の北米プレートに沈み込み(東日本大震災を引き起こした。)、もう一つは海のフィリピン海プレートは陸のユーラシアプレートに沈み込みます。(南海トラフ地震を起こす。)    二つのペアの丁度いい深さのところに火山の列が出来るわけです。  それが火山帯です。  北海道から東北、富士山にかけてと、伊豆七島から西ノ島新島にかけて、これは太平洋プレートが沈み込むことによってできる火山列です。  中国地方から九州までのものは、海のフィリピン海プレートが陸のユーラシアプレートに沈み込む事で出来た火山列です。  

噴火は分かるものもあるし、らないものもあります。  2000年の有珠山の噴火は割と分かり易くて、噴火の前に山が膨れるとか、地震が起きるとかで、事前に判りました。  御岳山では急に水蒸気が上がって岩石が降ってきた。  マグマが出る前に水蒸気爆発が起きて沢山の方がなくなりました。  千差万別で火山によって違います。  富士山は前回噴火したのは約300年前で、噴火前の詳細な記録がない。  噴火を予知するためには地震の観測(マグマが上がってくるときには地震が起きる)、地殻変動(マグマが上がってくるときに起きる。)の測定、そういったことで予測する。  

これから起きてくることを注意深く見て行かなくてはいけない。  富士山は日本一観測網が完備された山ではあります。     低周波地震(液体、マグマだまりが揺れる。)が最初に起きます。(噴火の約1ケ月前)  次に高周波地震が起きて(有感地震 1週間前ぐらい)火山性微動が起きて、30分から1日ぐらいで噴火が起きる。    低周波地震は数年に一回程度起きます。  富士山は記録がないので似たような山を参考にはします。  富士山は山頂の噴火はほとんどなく横から出てきます。  1707年の噴火は南東のすそ野から噴火しました。  平安時代は北西の山腹から噴火し溶岩を流しました。    地震の起きる場所によって或る程度噴火の場所は予測できます。  富士山は1ケ月前には予兆が把握できると思っています。 

宝永の噴火では横浜に10cm、江戸に5cmの火山灰が降って、1ケ月舞っていました。  平安時代の865年には溶岩流の被害で、青木ヶ原樹海の下は溶岩です。  富士4湖だったが溶岩が流れ湖が二つになり富士5湖になった。   江戸時代の火山灰が降った後、雨が降ると泥流となり、下流まで行き、小田原まで行って毎年のように被害をもたらした。  火山灰は小さなガラスのかけらで、目に入ると炎症を起こす。   コンピューターのなかに入って誤作動を起こす。   現代社会ではライフラインは全てコンピューターで動いているのですごい被害をもたらす。   ジェット機にも被害をもたらす。  交通関係の車、電車、船なども被害をこうむる。  水も汚染される。  都市機能がマヒする。  偏西風により首都圏3500万人が火山被害になってしまう。    富士山ハザードマップが出来ています。   溶岩流が南側で起きた場合は東西の大動脈が寸断されます。  溶岩流は熱いので数か月に渡って不通になる。  神奈川県も溶岩流が流れてくる対象県になりました。   

水蒸気も一気に上がると火口の岩石を吹き飛ばします。(水蒸気爆発、水蒸気噴火)    1991年、雲仙普賢岳の大火砕流  600℃ぐらいのもので、マグマが砕けて岩石も一緒になって流れる。  600℃で時速100kmの紛体流が襲ってくる。  火山の噴火現象では一番危険です。  2000年、3000年前でも富士山に火砕流の証拠があります。  

今日、話した内容は全部地球科学の研究のベースに成り立っています。  過去に起きたことを学ぶ。   イギリスの哲学者のフランシス・ベーコンという人が「知識は力なり」といったんです。  知識は自分を守る力になります。  富士山は300年噴火していなくて恵みを与えています。  300年の長い恵みと短い災害があるが、短い災害をどうやってかわすか、火山学、地震学を知ることで災害を減らすことができる。  長い尺度で見ると日本の美しい自然を楽しむことができるし、長い恵みと短い災害、短い災害は科学を利用して被害を最小限にかわしてゆく。
































 









 























2023年4月14日金曜日

山本栄子(アイヌ文化伝承者)      ・〔人生のみちしるべ〕 アイヌとして堂々と生きる

山本栄子(アイヌ文化伝承者)    ・〔人生のみちしるべ〕  アイヌとして堂々と生きる 

山本さんは昭和20年に北海道十勝地方の本別町でうまれ、現在78歳。   24歳で阿寒湖のアイヌの男性の元に嫁ぎます。  以来4人の子供を育てながら観光地阿寒でアイヌの古式舞踊の踊り手を仕事として、文化を伝承してきました。  阿寒口琴の会のメンバーとして海外公演にも多数参加、平成27年にはアイヌ文化財団からアイ文化奨励賞を受賞しています。  阿寒湖畔には2012年アイヌ文化専用劇場イコロがオープンし、古式舞踊、現代舞踊、デジタルアートが組み合わされた新しい演目などが上演されています。    山本栄子さんは劇場の踊り手として長年舞台に立っていましたが、今はその仕事は引退し、アイヌ文化の伝承者として様々な場で踊りや口承文芸を披露、ムックリ(アイヌ民族に伝わる竹製の楽器。口琴と呼ばれる楽器の一種)の演奏などで活動しています。  お話の中で和人という言葉が出てきます。  日本の先住民族アイヌに対して、日本の多数者マジョリティーの民族の呼称として和人という言葉を使っています。 

アイヌ文化専用劇場イコロは建ってから10年ぐらいになります。   その年に引退しています。  私が活動していたところは現在資料館になっています。  舞台に一緒にお客さんが踊ったりしました。   アイヌの文化は一緒にやると楽しさが判ると思います。  刺繍、木彫りでも体験するコースがあって、体験して理解してくれる人が多くなったら嬉しいなあと思います。  

嫁いで50年以上になります。  阿寒湖は四季がいろいろ一杯あって好きですが、春は特にうれしい季節です。   前田一歩園は自然保護に対するさまざま事業を行っている団体、今は財団になっている。  明治39年に作られている。  三代目の前田光子さんという方がアイヌの生活を守るために住まい、土地を無償で提供したことから阿寒湖のアイヌコタンの発展につながったという事だそうです。  前田光子さんが言っていましたが、「人間が自然を守ろうなんておこまがしい、人間は自然に守られている」。 それを聞いて、そうだと思います。  アイヌでは自然を大事にする生活をしていました。     

昔はアイヌ全体が差別がひどくて、自分はアイヌだけれどアイヌは厭だという人が多かったんです。   観光地で堂々とアイヌの踊りを紹介してきたのが、いまは観光地ではない人も歌とか踊りの保存会を作ってやっています。   観光客のお客さんとはいろんなやり取りがありました。   かつて北海道はアイヌのと知でしたが、明治時代に持ち主のいない土地としてみなされて、全部日本の国に組み込まれて、鮭や鹿を獲って暮らしていたが、禁止されて農業をやるように強いられました。アイヌのことは今でも知られていないことが多いです。  教科書にも載っていないし、アイヌのことを勉強する場もないので、知らないのが当然なのかなあと思います。   

ウポポイ(民族共生象徴空間 存立の危機ににあるアイヌ文化の復興・発展の拠点として誕生しました。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設の3つにより構成されている。でアイヌ文化の紹介が開催されている。   開催中に20人ぐらいでいって、ウポポイで歌、踊り、楽器演奏などやりに行く予定です。     

*「イフンケ」 子守歌 歌:山本栄子  アイヌ語  祖

祖母から教わりました。  うちは農家で祖父母がいて、母は一人娘で、父が婿で来ました。   私と弟が生まれた直ぐに、父がアルバイトで鮭漁にいって、船の事故でなくなってしまいました。  小学校まで5kmぐらいありましたが、行くとアイヌと虐められました。  意味が判らなかった。 アイヌは人間という意味ですが、それが悪口にされていた。   近くでは学校に行かなくなった子も何人かいましたが、祖母からは行くようにきつく言われました。  教室では何にもしゃべらないで黙っていました。   小学校4年生でクラス替えがあって、男の先生が「このクラスにはアイヌの子が2人いるが、虐めたら承知しない。」と宣言しました。   その後にいじめた子に対してみんなの前で謝らせて、先生が本気だという事がみんなわかりました。   以後いじめる人はいなくなり学校へ行くのが厭ではなくなりました。  先生は途中で札幌に転勤してしまいました。    先生からは虐められても頑張ってやんなさいと言われました。  

祖父が中学1年の時に亡くなり、祖母もクモ膜下で倒れて、嫁に行くまで農業をやっていました。   朝、テレビでバチェラー八重子さんの歌が紹介されていて、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」と大きく字が画面に映っていました。  ずしんと胸に降りかかって来ました。  バチェラー八重子さんはアイヌの子で22歳の時、ジョン・バチェラーさんの養女になった人です。  布教活動をして、歌人でもあった。  今でも詩集を宝物にしています。  アイヌという言葉は本当は人間という意味なのに、悪口にしか使われていない、それを何とか取り返したいというのが、私の気持ちでもあるかなあと思っています。  

昭和40年20歳のころ、ペウレ・ウタリの会との出会いがありました。  昭わ39年の夏に阿寒湖で働いていた若者と旅行に来た大学生が仲良くなり、ペウレ=若い  ウタリ=仲間 ペウレ・ウタリの会を作ったんです。   アイヌの若者は差別体験をみんなしています。    アイヌの差別をなくすために戦うというような目標を立てて、親睦会から方向転換しました。   20人ぐらいでした。  会のことを知って参加しました。  

昔はアイヌは原始共産主義で、獲物、山菜を捕ったら分け合うし、みんなで助け合って生きてゆくことだよと教えてもらって、感動しました。   本当の人間らしい生き方だと思いました。   世の中が便利になったからと言ってそれが幸せかどうかは分からない。   私の人生はペウレ・ウタリの会無しでは考えられないです。  普通に、私はアイヌだよとか、アイヌ系だよと言えるようなそんな世界になってもらいたい。