2016年8月31日水曜日

2016年8月30日火曜日

2016年8月29日月曜日

城谷 護(腹話術の会きずな代表)・こころ和ませる一人芝居

城谷 護(腹話術の会きずな代表)・こころ和ませる一人芝居
腹話術を始めて 30年、数少ないプロの腹話術師です。
今年4月には公演回数が3500回を越え浅草の演芸場で多くの仲間が記念公演を開いてくれました。
公演ではご自身の出身長崎の原爆被害を自ら脚本を書いて腹話術で語りかけお客さんから多くの共感を得ました。
城谷さんは演芸場ではお笑いを演じますが、子供達にはいじめをなくすこと、福祉施設では高齢者を元気付けること、東日本大震災の被災地ではこれまでに80か所以上のボランティア公演をするなど社会に役立つ腹話術を心掛けています。
昭和15年長崎県雲仙市の生まれ、長崎工業高校を卒業して、川崎市の造船会社に就職し、船舶の設計をしながら川崎の市民劇団、京浜共同劇団で俳優として、製作者として活動していました。
45歳になって新しい演劇として腹話術に出会い 60歳の定年退職を機にプロの腹話術師になりました。
人形の五郎ちゃんとは30年来のコンビです。
人生の大半を川崎市で過ごされた城谷さんは現在は川崎文化会議の議長も務められ、このほど川崎文化会議の50年の歩みの記念誌を発行するなど忙しい日々を送っています。

五郎ちゃんとは30年になります。
人形は初代のまんまです。(人形ドックには入りましたが)
プロの腹話術師は絶滅危惧種になりました。
東京圏では数人です。(全国でも数十人と思われます)
浪曲では東京圏で60人ぐらいいますので、それに比べると少なくなりました。
しゃべる時に少しは口はあけますが、動かないでしゃべっています。
声は子供の声が多い。(1、2オクターブ上)
人形が生きいきしていないといけない。(手、頭、口などの操作)
お客さんの反応なども見ながらやる必要がある。
ネタは何百と言っていいぐらいあります。
東京演芸協会が3500回を記念して、20人ぐらい出てくれて4時間半ぐらいやりました。
超満員でした。

面白い話もやりましたが、私らしさも出そうと思って被爆者の話もしました。
15歳で大やけどをして、1年9カ月療養して、大人になって世界をまたにかけて核兵器を止めるように訴えている人、谷口稜曄(すみてる)さんの話。
それから馬が2頭いて、父親が一緒に立っている写真、馬が戦争に取られていく日の記念写真。
兄達が馬に乗っているが、そのうちの一人が17歳で原爆で即死したが、五郎ちゃんと会話の中でそういうことは忘れてほしくないと思って話しています。
普通合わないと思うが、事実の持つ重みは心を打つみたいで帰りがけに、今日の話は良かった感動した、あんなことが腹話術で話せるんだねと言ってくれました。
先輩芸人が伝統的な芸の腹話術に君は社会性を持たせた功績は大きいと励ましの言葉を頂いた。
被災地は結構行っています。(全国色々)
悲しい時に行くのでこんな笑いでいいのかなあと思いますが、本当に喜ばれました。
神戸では長生きして良かったとか、宮城では今日は一年分笑ったと言われました。

ハンセン病の療養所が全国にいくつかありますが、或るところに行った時に80台の後半のお婆ちゃんがこんなの初めて見たよ、とおっしゃって、その人はおそらく10歳にならない頃隔離されてこの療養所に入れられたと思う。
「こんなの」という言葉が深い意味が有ると思う、考えさせられました。
韓国に行った時に、その国の言葉を覚えていくわけですが、「戦時中に日本が皆さんの国にご迷惑をかけたので、今日はお詫びに来ました、これからは日本は戦争はしませんのでぜひこれからは仲良くしてください」と言ったが、ワーッと拍手が来て、終わったら新聞社、TVの記者などが来て、新聞の一面のトップに大きな写真入りで出ました。
腹話術で平和友好の為に役に立ちたいと思って、アメリカ、フランス、ロシアなどにいって平和の話をしました。(フランス語はできませんでした)

小学校、保育園では、いじめのことを例え話をしながらいいますが、終わった後は優しくなるそうです。
子供達のこころを掴みながら、子供達自身が納得いく、解決の方法を見出すことが大事だと思います。
挨拶のモデル校になった小学校があったが、挨拶ができない子供達がいるので来てくれと言われ1時間半挨拶の問題の話をしたら、1カ月後に友達と話せるようになって、3ヶ月経ったら学校の先生と話せるようになったと言うことだった。
1年半たって心配で聞いてみたら、クラスの委員長になったと言う事でした。
その子が気がついて動きだすことが大事だと思っています。

自閉症の子がいる中学校に行っていた。
登校する日は普段10人いかないが、五郎ちゃんが行く日は15人ぐらいになる。
大きなマスクで顔を隠していた子供がマスクを外して、五郎ちゃんを抱っこしてにこっとした。
人形には人間じゃない魅力がある。
率直に言っている、うそつきではない、良い格好をしない、信頼できるそういうものが有るのではないか、それを人形の中にその子は感じたと思う。

小さい時に見て、なんで人形がしゃべるんだろうと不思議なままで大人になってきました。
いつかやりたいと思っていた。
自己流で腹話術を始めたが、上手くなれなくて、島三紀夫さんという師匠に出会って教えを乞うたが、断られ師匠の追っかけを3~4年やったら、本気だと認められ指導してもらえる様になった。
45歳だった。
劇団、腹話術、会社と大変だった。
腹話術の脚本も書きます。
自分の人生と重ねたネタを私はやりたいんです。
芸は単に上手でしょうと言うよりも、聞いている人達が共感したり感動したりするものでないと駄目だと思っていて、その人の人柄が滲み出るものでないと駄目だと思う。
兄が原爆で犠牲になってから父が仏壇に向かって、「茂よ われはなんで死んだとか」 と毎日泣いていました。
私が5歳の時でしたが、鮮明に残っています。

認知症の人達のところに行く事が多いが、絶対笑わない人がいましたが、その人を五郎ちゃんが笑わせました。(入所して3年経つが初めてとの事)
しゃべらなかったお婆さんがいたが、「お婆ちゃん 20歳の時に何をしていた」と言ったら、突然「名古屋の工場にいてさ・・・・」とずーっとしゃべりだして、周りのスタッフの人が吃驚しました。
腹話術もセラピーに生かせるのではないかと思う。
自閉症、医療分野、福祉、教育などにも生かしたい。
腹話術の会きずなの会員 80人(川崎中心) 浦和では30人のサークルがあり教えています。
他にも北海道、鹿児島、神戸などに行ってサークルの人に教えています。
腹話術は流派があるが、垣根を取り払う様に全国的に交流会もやっています。

川崎文化会議という団体、文学、音楽、美術など色んな人たちが入っているが50年経って記念の冊子を作ろうと、川崎全体の文化史になる様に年表を充実させようと自分達の文化以外にも調べて作りました。(1947年以降の様々な出来事を調べ上げる)
川崎は労働者の街、色んな意味で注目された街です。
文化運動なども纏めておきたかった、3年掛かりました。













2016年8月28日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)    ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"

奥田佳道(音楽評論家)    ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
セレナード 夏の夜の音楽  モーツアルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク 第4楽章から
*「ロンド」
ナハトムジークを直訳すると「夜の音楽」  
儀式、パーティーがあった時にそのために演奏する音楽。
作曲 1787年8月10日に完成 
5つの楽章から出来ていてメヌエットの楽章が1つ無いが、判らない。
第1楽章:アレグロ ソナタ形式 ト長調 4/4拍子
第2楽章:ロマンツェ(アンダンテ) 三部形式 ハ長調 2/2拍子
第3楽章:メヌエットとトリオ(アレグレット) ト長調 3/4拍子
第4楽章:ロンド(アレグロ) ロンド形式 ト長調 2/2拍子

*「グラン・パルティータ」のアダージョ

チャイコフスキーのセレナード
弦楽セレナード 
セレナードとワルツの要素をミックスしたもの、アレンスキー1861年生まれ ロシアの哀愁的な響き
*アレンスキー作曲 セレナード

ムーンライトセレナーデ、サンライズセレナーデ 一緒にでたが、有名になったのがムーンライトセレナーデだが、サンライズセレナーデも良い曲です。
*サンライズセレナーデ

プリンス ロック界のモーツアルトと呼ばれる、モーツアルトとの共通点がある。
誰もやらない曲を作り、自分で演奏し、皆に聞いていただくために自分でプロデュースをする、全て自分でやったという事は本当にモーツアルトとの共通点があると思います。
*「パープルレイン」

2016年8月27日土曜日

平山 優(時代考証者)    ・大河ドラマ「真田丸」の時代

平山 優(時代考証者)    ・大河ドラマ「真田丸」の時代
山梨大学の非常勤講師や山梨県立博物館の福祉官などを経て、現在は山梨県立中央校という学校で教壇に立たれています。
御専門は日本の中世史で武田家や真田家にまつわる多数の著作が有ります。
当日の公演の会場となったのは長野県高山村です。
高山村は真田丸にも登場する福島政則が晩年を過ごしたところでもあります。
福島正則は石田三成と仲たがいして、盟友の加藤清正と共に徳川方についた武将です。

20年以上前に福島正則の史跡を見にやって来たことが有ります。
福島正則は石田三成こそ豊臣家を危うくすると思って、家康と共に彼を排除したが、結果的に徳川家康の天下掌握に大きく寄与することになる。
大阪の陣が始まるが、福島正則は大変苦悩する事になる。
福島正則は家康にほぼ軟禁状態となる。
自分は大坂方の使者に対面することなく、家臣に対応させて自分は味方できないと、言って追い返したと伝えられている。
福島正則は大阪にあった自らの屋敷に大量の備蓄米を備蓄していました。(確実な資料)
徳川家康は当時大阪の屋敷に2万石の米をもっていました。
秀頼は大阪に籠城するために兵糧米を没収したが、福島正則は8万石を備蓄していた。
福島正則は無条件で引き渡した。

自分が時代考証をするとは思っていなかった。
ドラマの内容が極端に史実と違ってしまう事を修正する様な、アドバイスをする役目です。
三谷幸喜さんの作品ですが、三谷さんをお手伝いする役目をもっています。
三谷さんにはお会いしたことはありません。
時代の流れ、時代の動きなどを年表に作ったり、資料を提供したりして、大まかなあらすじを作って渡したりします。
出来上ったシナリオをみて、内容に誤りはないか、おかしいところはないかチェックします。

第1話から2話、武田勝頼が滅亡すると言うところから始まるが、真田の一族に人質を解いて故郷岩櫃(いわびつ)に戻すと許可をするところから始まるが、どのルートを伝わって岩櫃(いわびつ)まで帰すかが、プロデューサーからの質問だった。
いろいろ考えたが、余地峠(武田信玄が軍用道路として利用した)を経由して榛名山のふもとを通って岩櫃(いわびつ)に行くルートを考えたが遠回りとの意見もあり、十国峠のルートも考えたが、峠を越えた処の大日向がその時期北条方に帰属していることが資料から判ったので、碓氷峠を越えて軽井沢に一泊して岩櫃(いわびつ)に帰るルートにした。
視聴者から軽井沢は新しいのではないかという質問が有ったが、古い軽井沢は武田の時代に宿場町として機能していることが判っている。
言葉遣いが現代風すぎるとの意見もあるが、難しい。(若い人は時代劇を余り見ない)
戦国時代の言葉は復元することが不可能です。
黒田官兵衛 正式には発音は「黒田くあんひょうえ」です。
当時外国人宣教師が文字にして残しているので、これで発音が判る。
昔の人の発音を史実どうりにやったらほとんどの人が判らないと思う。

隠しテーマがある。
①家族をテーマにしている。
通常戦国期の武士の家では、家を2つ、3つに割ってお互いが殺しあうことが普通でしたが、真田家は分裂することがほとんど無かった一族です。
分裂したのは、真田幸綱の時代、その後再び一本化され、関ヶ原の戦いの時になる。
信繁が討ち死にしてからは真田家は松代藩の藩主として幕末まで存続する。
②偉大な父をもつ子供の苦悩、挫折、成長を描く。
武田勝頼、北条氏政、上杉景勝、豊臣秀次、徳川秀忠、真田信幸、信繁など。
滅びのはかなさも描いている。
信幸、信繁は父親の背中を見ながら成長してゆきます。
信繁は新しい環境で、文物、人物と出会い、その中でもまれて視野を広げてゆく。
兄弟の考え方が次第に距離がでるようになる。

当時の村社会は、村の人達は刀を差し、周りの村と水争いなどをするときには、合戦と言われるほどの戦いを行っていた。
そういった方向で今回進めている。
武士以外は大刀を差してはいけないという事になっていたが、戦国時代迄の村社会の男子は元服すると、刀差しの祝いをして、村の人は皆武器の使い方を知っていた。
今回、村の戦いもちゃんと描かれている。
③今回新しい視点の導入、新しい史実の導入も行っている。
真田昌幸は変幻自在な動きをする。(裏切り、寝返り)
今回、国衆という言葉が多く出てくるが、国衆は学術用語でもある、小さい場合は数ケ村、大きい場合は郡規模の村を支配する領主。
大名が国衆の安全保障を維持出来なくなった場合、国衆は自分の領地を守るために、守ってくれる新たな上級権力と結びつくことは当時は当然のことです。
真田昌幸達は自分達の領地をどうやって守るかで苦悩したが、そのことを沢山描きました。
大名視点、上からの目線に気付いていただきたかった。

6月17日 真田信繁の手紙が発見されたというニュースが有りました。
写しはあったが、今回原本が発見されました。
新資料の発見が有って、ドラマの動きに大きな影響を与えたということが実はあります。
信繫が大阪に人質として行く事になるが、その後人質の地位から外れて秀吉の家臣になったということだが具体的な地位は全く分からなかった。
朝鮮出兵の時に、肥前名護屋の城の留守居役を細かく決めて秀吉が大阪に帰るが、その資料が真田家の記録にあり、信繫は馬回り組とでてきた。
どうしようと思っていた役だったがこれで見事に解消した。
信玄枡は京枡(現在使っている)の3倍あった。
信繫に舛を統一すると言わせている。(太閤検地について押しだしたかった)
三谷さんは沢山の資料を読み、それを自分で咀嚼して物語に織り込んでゆくという事は唯脱帽するばっかりです。
北条氏直に降伏したらどうかという事は多くの大名も動いているが、徳川家康は北条とは太いパイプが有り徳川家康が動いたのも記録で判っているが、だれが入ったか判らなかったので信繫にした。

史実どうりではドラマは作れない、ギリギリのところで折り合いを付けて、証明できないことは無かったとは言えないということにもなり、歴史ドラマの成立する余地があるという事です。
真田信繫は生前、幸村と名乗ったという事実はありません。
信繫が戦死してから70年後に難波戦記に幸村という名前が登場します。
講談本が出来、講談で語られて、民衆に認知されいてゆき、名前がいつしか変わって行った。
赤備え、大元は武田軍から来ているといわれる。
武田信玄の重臣に飯富虎昌(おぶとらまさ)がいて弟が山県昌景、飯富虎昌(おぶとらまさ)が亡くなった後、山県昌景が赤備えを継承して(武田軍最強の部隊)、真田信繁は武田の衣鉢を継ぐという形で大阪の真田の軍勢を赤備えにしたんだろうと言われる。
丸馬だし 武田信玄が築いた城に多く見られる。
真田十勇士はいません。












2016年8月26日金曜日

英 裕雄(医師)       ・大都会・新宿 訪問医療がみる生と死

英 裕雄(医師)       ・大都会・新宿 訪問医療がみる生と死
英さんは医師になってすぐ新宿で訪問診療を始めました。
地域の訪問診療医として目指したのは病院で行う高度なレベルの医療を提供して、在宅で生活する人を支えたいというものでした。
介護保険制度がスタートしてからは、高齢者医療の分野でも在宅での訪問診療への取り組みが進められてきました。
英さんはその前から訪問診療の有るべき姿を模索してきました。
単身者、外国人、高齢者 様々なバックグラウンドをもつ人達が暮らす大都会の新宿、訪問診療医英さんが見てきた人たちが織りなす生と死はどのようなものか、伺いました。

訪問診療、元気な人を対象とするのではなくて、病院に行けない、寝たきりだったり、障害が重い状況等、継続的な医療が必要な患者さんに対して、定期的に医者がお伺いしながら、診療してゆく事を基本としている。
患者さんがより重症度が高くなってきて、単なる往診ではなくて体系的に訪問して行く医療体系が必要になってきた。
病院は生活とは切り離された所にある。
病気は生活と介護を含めて不可分なところがある。
病院は色々な高度な検査をするが、訪問医療で出来ることとできないこと、病院で出来ることとできないことが有り、当初は病院と同じような検査をして出来る治療をするという意気込みで始めたが、それだけでは改善しない。
色々考える時期が有ったが、病院では医者が薬、検査をやってたりするが、その間看護士が医療以外を行う側面があった。(食事、その他の色々の世話など)
そういった側面が大事だと気付いた。
自宅でも病院と同じように改善できると実感したのは、在宅医療を始めてから、5~10年ぐらいたってからです。

病院に行かなくても自宅で対応して見ようと、そういうことを繰り返してゆくうちに、介護の意義、やり方などを会得してゆき、病院に行かなくても良い様な状況になり、在宅医療もあながち捨てたものではないと思った。
最初、研修医の時代とかに、在宅医療をしたわけではなく、病院医療の限界性を感じた。
社会生活の不安、様々な身体が動かない不安などは、生活支援、不安に寄り添うようなサービスの提供が必要だと思った。
家での生活を支援する仕組みが必要と感じて居た時に、友人から在宅医療が大切になると示唆され、始めて見ました。
データも大事な指標になるが、それ以上に生活の指標が凄く大きい。
病院的な発想ではなくて、生活の機能と病状の回復が病院とは逆転している。
例えば病院では炎症を起こしている患者さんには、炎症が大分回復するまではそれなりの食事制限をするが、在宅では炎症がちょっと良くなって患者さんが食欲がでてきたときには、患者さんの要望を取り入れる。
高齢者にとっては生活機能の改善を先にとった方が、予後が良いということが在宅医療で学びました。

24時間、365日対応で患者さんと接しています。
患者さん、家族の方は24時間、365日対応しているわけです。
患者さんと共に苦しむ、悩むとか、葛藤、不安を高じさせている原因を探ったりすることは、医学の教科書には書いていない。
そういったことを学ぶいい機会になった。
介護の不安感、生活の不安感などはしゃくし定規に解決出来るものではない。
不安と寄り添いながら模索してゆき、介護のサービスの方と連携しながら、御家族の協力を得ながら、支えとかをしてゆく。
20年間やってきて、若い人で継続してゆく事は難しい。
かけがえのなさを感じていて、自分に負担軽減しながら、多くの医療者が負担無く、24時間、365日出来る様な体制を作った方がいいと思う反面、24時間365日患者さんと向き合って得られるものとか姿勢とかも感じる。

卒業は商学部で改めて医学部を目指しました。
高校から大学にかけて母親が乳がんになり、闘病の過程を手伝う中で、母親との関係、家族の関係が段々壊れて行ったり、母親の病弱の姿とか、人間の健康というものを物凄く重要なことだと思いました。
医学的知識が無い、体験が無いという事などにたいして自分に軸が無いと感じて、自分が生きてゆく上で医学が必要だと思って、医学部に行く道を志ざしました。
母親の症状にたいして医師からは厳しいことを言われたが、他の病院等にいったが、最終的には先生のいうことは正しかったと、受け入れざるを得ない様な状況になって初めて事実が認識できた。
患者さんと家で病状にたいして家族と向き合うという過程は、病気のつきあい方を患者さん、ご家族が探る過程でもある。
お任せ型の医療ではなく自らやってゆく医療は或る意味健全な医療だと思っている。
自分でチョイスしながら自分なりの一番ベストな医療を考えるのは、一旦退院して自宅でいろいろとトライする事はいいことかもしれません。

歌舞伎町の裏の大久保は韓国の方だけではなくてアジアの人が多く居住している。
一人ぐらしの高齢者が沢山います。
日本の高齢者の独り暮らしは15~20%と言われるが、新宿は30%、大久保は40%。
経済的に恵まれていない方が多い地域でもあります。
日本の将来はこうなってしまうのではないかと思う。
家のない方が居る、生活保護の方で簡易宿泊所で日常生活をしている方がいて、往診をどうしようかと思っている。
全ての基盤が無くて、そういった人達をどう支えていくかはこれからの課題です。
或る意味基盤整備をしてゆく必要がある。
高齢化社会において、医療的な解決だけでは多くの人たちが幸せに生活しきれないという事は我々はもう身につまされています。

誰も病弱になりたいわけではないし、自分の死がそう簡単にきてほしいとは思っていなくて、生老病死という言葉が有るが、自分の人生はこんなはずじゃなかったと、そう思ってほしくはない。
色んな模索をしながら自分にとって必要な医療は何なのかを考えて頂き、その中で自分の人生はどうあるべきなのかを考えて、模索に寄り添うのが在宅医療の一番大きな役割だと思う。
介護に関して完璧なものを目指してしまうと、逆にそれができないから家に連れ帰ることができませんという事につながりがちだが、出来る範囲で出来ることをやってもらえればお年寄りにとって嬉しいことは多いと思う。
自分の人生を生き切った感、在宅の患者さんは、そういうもの見せつけてくれる機会が多いですね。
我々にとっての支えです。
若くて自分で動けるのにもかかわらず、酒の問題から切り離すことができなくて、段々身体が蝕まれてゆき、本人は歩けるようにリハビリをやりながら酒を止めてゆきたいとその人なりのプロセスはあるが、禅問答のようだが、そういう葛藤のなかで何とか私としては本人なりに頑張りたいと言う気持を皆でサポートできたらいいなと思って、周りの皆とそういう方向で調整をしています。

人工呼吸器、胃瘻(いろう) 単に延命医療と言われるが、在宅で人工呼吸器、胃瘻(いろう)を使って外出したり旅行に行かれたりする人は少なくない。
医療行為が人を孤独にしてしまうのではなくて、周りの人の支えとか、社会の触れかたが人を孤独にしているのだと思う。
延命医療を逆に生活を取り戻す為の医療に替えてあげる、併用すると言う事も大事かと思っています。
人生の意義深さにおいて、医療を変えてゆくというのも、在宅医療の大きな役割です。
大抵の人達は自分の最期を気が付いていないのではないかと思う。
たまに自分でちゃんと御別れをする方がいる。
家族全員をベッドに集めて、時計を見て皆さんに笑顔で手を振って挨拶してそのまま息を引き取った人もいる。
良い思い出を残してゆくという事はいいことだと思います。(在宅の良さかもしれません)
問題解決型医療を教育で受けてきたが、20年間やってきて、寄り添い型、お互いに問題を抱えながら一緒にいることの重要性を凄く感じるようになったし、今を生きる、今を共に生きることが大事だと思っています。














2016年8月25日木曜日

2016年8月23日火曜日

先川祐次(旧満州建国大学一期生)・わが青春の満州の学び舎

先川祐次(旧満州建国大学一期生) ・わが青春の満州の学び舎
戦前中国の東北部旧満州には、満州建国大学という当時のエリートが学ぶ最高学府が有りました。
昭和13年に開学したこの大学は日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアといった複数の民族の学生が一緒に学び満州校の建国理念である、五族協和の精神のもとに特別な教育が行われていました。
現在福岡市にお住まいの先川さんはこの満州建国大学の一期生で、昭和13年から青春の6年間、様々な民族の学生との共同生活を通じて、人間としての基礎を学びました。
卒業後はここで培った語学を生かして、満州国政府の外国情報課に勤務し、戦後は西日本新聞社に入ってアメリカなどの特派員として活躍しました。

96歳、九州シニアライフアドバイザーの肩書きがある。
元気なお年寄りを増やすためのボランティア団体。
今が一番自由を満喫しています。
週に3回身体のトレーニング、英語の教室、カラオケの教室、一番熱心にやっているのが九州大学に来ている留学生の大学院生に日本語を教えています。
同窓会を開いているが最初は30人以上いたが、今は5人ぐらいです。
一期生75人いたが、現在は私一人です。
生まれは大連、小学2年の時から奉天で育ちました、父は朝鮮銀行に勤めていましたが、満州銀行ができて、奉天の支店長になりました。
小学校5年の時、昭和6年9月18日に満州事変が起きました。
夜の10時頃に、父がいきなり入ってきて叩き起こされた。
今から何が起こっても騒ぐんじゃないと言われた。
寝室の窓が真っ赤になって、地響きがして、しばらくあっけに取られた。
一晩中大砲の音がしてまんじりともしなかった。
父は何が有っても騒ぐなと言ったのか、どうしていったのか、幼心にずーっと残りました。
守備隊長は碁の仲間で家によく来ていたので、情報を知っていたのだろうと思う。

正月前に、道路は凍っていて、黒いものが転がっていたが、朝起きてみると、中国の労働者の凍死体だった。(食べるものが無くて死んでいた)
中国の金持ちは肥っていておめかけさんがいて、子供心に凄い違いだなあと思いました。
ロシアの人達はパンを売りに来たりしていた。
貧富の差、民族的な生活様式に違いなどを子供の時に目の前で見ていました。
日本人は豊かな暮らしでした。
中学5年の時に、校長先生に呼ばれて、満州建国大学が出来るので、新しい国のリーダを作る大学で一切ただで、こずかいまでくれるらしいというので、良い学生を推薦する様に言われているのでぜひ受けるように言われました。
150人だが半数が日本人、中国人が55人、他に台湾、蒙古、朝鮮、ロシアで全部で150人。
石原莞爾が大学を作った。
入学して3カ月後に、日中戦争が始まって1年後の7月7日、石原莞爾が「皆さん、親父同士がけんかを始めたのに、息子に仲良くしろというのは誠に申し訳ありません、ごめんなさい」という事から話始めた。
この大学では一切外からの干渉はさせないようにする、全て自由だから絶対に軍と官僚上がりの先生は入れない、約束すると言いました。
9月には彼は東条英機と意見が合わなくて、参謀長でありながら戦争反対で、軍を追われて退役した。

午前中は授業(精神を高める)で午後は体育訓練(肉体鍛錬)です。
教授陣も一流の方が集められました。
6つの寮があって、塾が有りました。
五族協和を目指す理念ということだが、朝から晩まで一緒にいると兄弟みたいになります。
五族協和を目指すというが、やっていることは何だという事で殴り合いの喧嘩もしました。
五族協和を目指すというが全く表面的なことだった。
課外授業 今の部活動 農業を一生懸命やるとか、一人一人に馬一頭が当てられ、乗馬、合気道、銃剣術、グライダーとかやれるものなら何でも身につけろという事でした。
自分が慕う先生のところに行って色々教えを乞いました。
私の場合はドイツ語の登張信一郎先生で、日曜は5人ぐらいで行って、四斗樽に柄杓で酒を飲んで談論、学問、人生の話などをしました。
五族共和を目指すことが御題目になってしまったが、色んな民族と話し合ったが、独りよがりは駄目だということが判って、コミュニケーションが人間の付き合いの中で一番大事だということが判りました。
国と国との関係もそうですが、会社の中でも、仕事をする上で一番大事なの上手い円滑なコミュニケーションをどうするか、いかに努力をするか、という事を習いました。
身体では6年間鍛えられて、基礎体力はあの時代に作ってもらったと思います。

外交官がやりたくて志願して、総務庁の広報所、外国情報課でトレーニングを受けたが、満州国政府の外国情報課で、日本がどのように戦争に負けているかを知っていました。
戦争が終わって、12月に満州国元外国情報課課長から電報がはいって、満州から引き揚げる人の手伝いをするように言われて、その仕事をした後に、西日本新聞社に入りました。
(前身が福岡日日新聞社で以前には地方紙として満州にも入っていた)
特派員として最初中近東、アフリカでそのあと又アフリカに行って、次にワシントン支局に行きました。
行ってから1年目にケネディー大統領が暗殺されました。
アメリカ政府の方では建国大学をちゃんと知っていました。
ホワイトハウスの記者はだれでも入れなくて日本の枠は22人で、ケネディー大統領はフランクな人で、思いついたら今から記者会見をするという事をします。
建国大学当時、万里の頂上越えてシンガポールまで6人で行こうとしましたが、途中で捕まってこんこんと諭されて、この経験が、後に6か月かかって、イラン、イラク、シリア、レバノン、通ってエジプトへ行って、シナイ半島で国連軍の従軍記者をして、スーダンまで行きました。(冒険旅行が有ったので、けろっとして出来ました)

同期生には中国に親友が一人いますが、そのほかの人は亡くなりました。
ヘイトスピーチ 一言でいえば馬鹿馬鹿しい。
どんな時代でも話合うという事は非常に大事です。
九州大学に留学している大学院生が建国大学のことを中国で勉強するように言われて、今私が教えています。



















2016年8月20日土曜日

2016年8月19日金曜日

2016年8月18日木曜日

山本嘉子(元保育園園長)     ・絵本で伝える空襲体験

山本嘉子(元保育園園長)     ・絵本で伝える空襲体験
昭和15年横浜市生まれ 4歳の時に空襲に遭い自宅は全焼しました。
父に背負われて逃げ回ったこと、毎日遊んでいた友達が防空壕で落ちた爆弾で亡くなったことなど、山本さんに残る記憶と今を伝わる当時の記録を取材し、空襲の様子を判り易く子供に伝えようと絵本にして出版しました。
東京に移り住んだ山本さんは保育の学校で学び、東京オリンピックの年に杉並区立保育園の保育士となり、後に園長となり2001年定年退職しました。
退職後は絵本の読み聞かせ活動に参加、小河内(こごうち)文庫の小鳥の部屋に自宅の部屋を提供し、子供との活動を続けました。
小河内(こごうち)文庫は日本で初の図書館児童部門支所として活躍された小河内(こごうち)芳子さんが残された本を元に開かれたものです。
山本さんは戦争や空襲を体験した人が少なくなり、戦争が風化しないようにという思いを込めて横浜空襲後、絵本にまとめました。
絵本の題は「雲の上まで花いちもんめ」  花いちもんめは当時毎日繰り返した遊びでした。
「雲の上まで花いちもんめ」は去年自費出版しました。

終戦70年、横浜の空襲が5月で、5月に出版した絵本が新聞に取り上げられて、出版の反響があり沢山の方、施設等から注文して下さいます。
様々な立場の方から反響が有りました。
当時の資料なども送ってくださって、新たな資料なども掘り起こすことも出来ました。
府中で大きなコンサートが有り、福島の学童保育のお父さんに出会って子供を50人預かっていると言う事で50冊送りました。
しばらくしてから感想を一杯送ってきてくれてそれが財産ですね。

感想 1年生
「本を読んで逃げている人のページが怖かったです。 
遊んでいるところは良かった。
今、私は泥団子作りが上手になりました。」
感想 3年生
「本を読んでいて戦争がどれだけ恐ろしいかと思った。
夏休みはプールとドッジボールで忙しいです。」
感想 4年生
「読んでみたら戦争のことが少し判ってきました。
友達や人がたくさん死んで悲しくなるから絶対に嫌です。
うちのおばあちゃんにも聞いてみます。」
感想 6年生
「子供達が遊んでいる時に大きいサイレンが鳴って、飛行機が爆弾を落とし始めてびっくりしました。
そんなことが有ったなんて恐ろしいことでした。
私達は戦争のない時代に生まれて、本当に良かったなと思いました。」

感想 2年生達のクラス
「僕が本当にあったことと聞いたら、そう本当にあった事と言ったので胸がズキンとしました。」

「絵本を読んでから皆で花いちもんめをして楽しかった。
友達は大事だと思った。
戦争は怖いのに何でするんだろうね」

「日本がず-っと戦争をしないのは凄いことです。
戦争をしないから平和な授業ができるのです。」
他にもたくさんあります。

4歳の時に空襲体験。
怖いよりもただただ驚いたが、殆ど思い出すことがズーっと無かったが、保育園で仕事をしていて、自分の子育てもしていて、退職間際になって年長さんのクラスで絵本を読んだりしていて、そろそろ私は退職なんだと思った時に思いついて、戦争の空襲のことを言って、怖くておしっこをしてしまったとうっかり言ってしまった。
シーンとしていたのが大笑いになってしまって、そのあとのことを話すことができなくなってしまった。
空襲は横浜で昭和20年4月ごろの夜のことだった。(夜から朝方の中くらいの空襲だった)
当時は戦争のさなかだったが、子供達は一生懸命遊んでいました。
絵本には当時の遊びなども描いている。
タイトルは最初に作ろうと思った時にこれしかないと思いました。「雲の上まで花いちもんめ」
夕焼けかと一瞬思ったが、違うんだと思った記憶が有り、空襲の時の空の真っ赤だった。
そのうち怖くて泣いていた。
仲好しのお友達が、死んじゃったと言っていたが、聞いた時には死が判らなかった。
夕焼けの色、茜色が好きだったが、記憶とも重なる部分が有る。

絵は得意ではなかったが、塗り絵の絵を真似して、絵は好きでした。(父も娘も絵が好きでした)
色鉛筆を使っています。
苦労したのは戦争の焼跡の場面がどうしたらいいか判らなくて、図書館に行って何冊か借りてきて焼け跡らしい写真、絵を参考にしました。(写真はあったが絵は少なかった)
夜明けに助かった人達のところにおにぎりが届いて、食べたその一瞬だけは覚えています。
その時に、○○ちゃん(いつも一緒に花いちもんめをして遊んでした)が死んでしまったと言う事を近所のおばさんがしていたと、後で母親が言いました。
図書館の資料を頼りに自費出版をしました。
体験記なら書いているが、絵本の面倒は見ませんと言われてしまいました。
絵本を専門に編集をして下さる人が近所にいて、アドバイスをしてもらいました。

世の中の雲行きが怪しくなってきたという事もあって、孫もいるし遺言だと思ってやりました。
一番安心して接するのは子供だと思っていますし、未来をしょってゆくのは子供ですし、最初子供達は悪い子はいないので、それぞれ生きいきした人生を歩んでもらいたいと思っています。
それぞれの人生を全うできる世の中になってほしいと思いますが、そこに戦争が入ってしまうと、全てぶち壊し、命まで危ないです。
災害ではなく、人工的なものなので、それは無くなってほしいと思います。
保育士になるまではこれだけ子供が好きだとは思わなかった。
学ぶ為の奨学金をもらうには3年は働かなくてはいけないと言われたが、40年近く続いてしまいました。
0~6歳までの子を毎日見られるという仕事はなんて有難い仕事だと思うようになりました。
0歳ではあやした時のお世辞笑いみたいな笑いと、違って子供同士の笑いは共感笑いがあります。
1歳になると要求がでてくる、言葉が出せないので暴力的に奪い合う。(かみついたり)
2歳になると、言葉を介して友達と交渉できるようになるが、言葉と行動が一緒に出る。
3歳になると理屈がでてくる、それがまた面白い。

短歌
「泣きわめき ごめんしたって許さない、 3歳同士の自我の輝き」
4歳~5歳になると、大きく飛躍して抽象的なことが判る様になり、昨日のことが思い出すことができる様になり、話し合いができる様になる。
喧嘩することが栄養になる、伝えあう、判り合う、その時どうしたらいいかとかを経験で学べる。
大人になった時に話し合いが上手な人間が増えれば暴力の連鎖は無くなるのではないかと思いますが。
退職して読み聞かせのグループに入ったらそこが小河内(こごうち)文庫というところで、小河内(こごうち)芳子さんが、図書館の中に児童部門がきちんと位置付いていなかった時代に児童部門が大事だと主張して、全国に児童図書の大切さ、子供たちへの与え方を広めていった方です。
自宅で小さな文庫を開いて、グループで文庫活動をしていたが、引退されて残した絵本を何とかしようと言う事で活動をしていたが、そこに入って2000冊近くの本を集めて読み聞かせ、工作遊び、おもちゃ遊び、等の活動しました。

文庫を始めて7~8年して、世の中も怪しいなあという思いもあり、遺言の様な思いで書き残したいと思いました。
わらべ歌遊びが交流とか、音楽を含めて良さがあるので、何とかまとめてみました。
この絵本を元に読み聞かせや、講演とかもやっています。
戦争体験を辛過ぎてなかなか話さない様な人達もいます。
語り継ごうと言う事をもっと日本でもやってもいいのではないかなあと思います。

















2016年8月17日水曜日

大石芳野(写真家)       ・生きていることへの答えを求めて(2)(H28・2・24放送)

大石芳野(写真家)          ・生きていることへの答えを求めて(2)(H28・2・24放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/02/2.htmlをご覧ください。

2016年8月16日火曜日

2016年8月7日日曜日

リオ・オリンピック放送の為しばらく休みます。

リオ・オリンピック放送の為、ラジオ深夜便「明日への言葉」は放送されていません。
放送が再開されるまで、しばらく休みます。

2016年8月6日土曜日

玉本英子(ジャーナリスト)    ・「戦火の中東 取材報告」(H27/10/3放送)

玉本英子(ジャーナリスト)    ・「戦火の中東 取材報告」(H27/10/3放送)
第23回坂田記念ジャーナリズム賞 特別賞受賞作品
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/10/blog-post_3.htmlをご覧ください。

2016年8月5日金曜日

葉佐井博巳(広島大学名誉教授) ・被爆体験どう語り継ぐ

葉佐井博巳(広島大学名誉教授) ・被爆体験どう語り継ぐ
85歳  原爆が投下された翌日の8月7日、広島市の中心部に入って被爆した入市被爆者です。
広島大学工学部を卒業した葉佐井さんは、大学で原子核物理学の研究を続けました。
被爆者が浴びた被爆線量を推定する、新しい推定方式を作りだしました。
葉佐井さんは大学の研究者時代は、自らの被爆体験を公の場で語ることはありませんでしたが、大学を退いた、2005年からその体験を語り始めました。
葉佐井さんが被爆体験を語り始めた理由は何か、その体験を次の世代にどう語り継ごうとしているのか、伺いました。

メインは広島市から依頼されて、資料館に修学旅行で来る生徒さん達に語っています。
県外の人ですと、全てが珍しい話の様です。
1931年広島生まれ。{満州事変)
軍人になる様に教育されました。
学徒動員で軍事工場にもいきました。(原爆が落とされる1週間前から動員がかかる)
家から直接軍事工場に行き、機関銃の弾を製作する事でした。(実際には作るまで行かなかった)
8月6日 爆心地から15km離れた場所で、工場で準備体操をしていたら、強くピカッと光って、何が起きたか判らなかったが、しばらくしてからガラス窓がガタガタいいだしたので、工場が狙われたと思った。
山に逃げたが、なにも判りませんでした。
戻ると、朝の10時頃に大勢の人が市内から郊外に汚い埃を被って汚い顔をして歩いてきました。
皆自分の家に落ちたと言っていたが、合点が行かなかった。
昼過ぎにトラックで負傷者が運ばれてきて、本当にびっくりしました。
人間の顔が溶けている、身体の皮膚も溶けて流れているようだった。
負傷者をおろす事が仕事だったが、物凄いショックだった。
触っても痛いとは言わず、重症の人は触っても痛くなかったのかなあと思いました。

8月7日広島の中心部に向かう。
どこへ行ったのかは覚えていない。
帰ろうとしたが、建物が無く道が判らないので、路面電車の橋などを渡って自分の家に帰りました。
家は無くて綺麗に焼けていました。
父は単身赴任でいませんでしたが、母と妹二人がいたが、上の妹は集団疎開でしたので、母と妹に会う事が出来ました。
広島の周囲の風景を見てきていたので、死んでしまったと覚悟はしていましたが。
私は入市被爆者です、後で爆心地から2km以内の広島市に入った人です。
これが戦場かなと思いました。
やがて自分も死ぬのかなあと思いました、不思議な感覚でした。
どうしても仇を討つぞと、そういう思いでした。

終戦の時に家は無くて、田舎にいて学校は破壊され始まってなくて、妹が日本は戦争に負けたと言ってきた。
天皇自ら負けたと言う事で、本当かなあと思いました。
一人になるまで戦え、決して降伏してはいけない、捕虜になるなら自決死しろと言われていたのに、簡単に止めることができるのなら何故止めなかったのかと、それが私の本当に一番のショックでした。
学校が始まって、行って見ると何カ月もたっていないのに、戦争で死んで来いといった先生が、平和主義をいうわけです、吃驚しました。
鬼畜米英と言っていたのが、米英に習えという。
先生に質問しました、「どうして変わったですか」と言ったら、「仕方なかったんだ」と言われた。
「仕方なかったんだ」という言葉だけは使ってはいけないと思った。
私は全て大人にだまされた、特に先生に騙された。
戦争に行くときに親が死んで帰りなさいという、こんなバカな話は無く、でもそれが当たり前だった。
「仕方がない」世界を作ったらもういけないという気があり、以来自分が体験して自分が確認しなければ人の言う事は信じないという事になってしまいました。
自分の目で正確に確かめたい、そのためには正しい情報がたくさんいるが。

日本の都市が空襲で壊滅状態だったので、復興するには工業の力が要ると思って、工学部が一番役に立つだろうと思って電気工学部に入りました。
就職の為に診断書を貰いに病院に行ったら、結核だと言われて、2年遅れて卒業したが、就職口が無くて、研究生として残っていた。
原子核物理をやる様に言われる。
アメリカは原爆を濃縮するのにサイクロトロンという機械で作ったんで、サイクロトロンが原子核の研究には一番最先端の道具だった。
原爆を作られるといけないという事で、全部捨てられてしまって、実験は道具が無いので、10年遅れた。
原子核研究は膨大な装置が必要で、田無に原子核研究所が出来、筑波に高エネルギー研究所が出来、外国人と一緒に研究するようになり、アメリカに行くことになる。
ロスアラモス、アメリカが原爆開発した処で、原爆を作ったことが自慢で、広島から来たことを言うとトーンが変わってくるが、異和感を感じた。

放射線があるという事は判っていたが、測定器がチャチではっきりしなかった。
中性子爆弾をアメリカが作ろうとした時に、広島の放射線の中性子が少なかった。
少なくてあの様な被害がでたというのは、危ないという事です。
広島の土地でどの程度放射線が有ったかという事を、広島の土地で計らなければ行けないが、計ったのはあるが非常にデータの数が少なく当てにならない。
しっかりやろうという事で始まりました。
残留放射能を計れるものがほとんどないので、建物の石の中にある元素が非常に少なく、石を溶かして抽出して、計るという、残留放射能から推定する。
緻密なデータがそろいました。
今は1~1.1kmぐらいまではほぼ完壁になったと思います。

訴訟問題が起きており、厚生省は訴訟に有利な様な研究をしてくれないかと言ってきたが断りました。
被爆者も被爆者の有利になる様にという風に思うもので、どっちにも味方しないつもりでやりました。
皆さんに知っていることをしっかり伝えておきたいと思って、ピースボランティア、伝承者に物理的なことに関してはこうですと、出来るだけ正確にお話しています。
正確に伝える人を養成しておかないといけないと思います。
しっかり記録を大事にしていってほしいと思います。
核兵器は非人道的で、使ってはいけないという事を皆が自覚する様に広げていきたい。




















2016年8月4日木曜日

森 重昭(原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない

森 重昭(広島原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない
御自身も被爆者でありながら、原爆が投下された8月6日広島で亡くなった12人の米軍捕虜の身元を調べそれぞれの家族に伝えてきた森さん79で歳です。
今年5月27日、歴史的とも言われたオバマ大統領の広島訪問、原爆慰霊碑への献花と所信表明演説、そのあと、大統領から優しく抱擁された森さんの姿は印象深く記憶されています。
森さんは戦争犠牲者に敵味方は無いと、黙々と精魂傾けて広島市民だけでなく、米軍兵の最後をも調べ家族に伝えました。
そのことは日本だけでなく世界の人も初めて知ることとなりました。

まさか自分が大統領にお会いできる機会があるとは思いもよらなかったです。
広島に大統領がおいでになると発表された時は本当に吃驚しました。
まさか私が献花式に登れるなんて、天地がひっくりかえるぐらい吃驚しました。
アメリカとの付き合いは長い長い付き合いです。
アメリカ人が広島で被爆死しているという事はアメリカの遺族も知りません。
ましてや日本人はもっと知る機会はなかった。
私が米兵が留置されていた中国憲兵隊司令部のとなり、爆心地から400~500mにあった陸軍の学校(国民学校)に行っていたからです。
米兵は3か所に留置されていて、中国憲兵隊司令部に留置されていて全員が亡くなりました。
一人ひとり、どの人がどのように最期を遂げたかということを、ありとあらゆる資料を使って、アメリカの英文の記録類を徹底的に調べて、古くて読めない文字、読めない言葉も綴られていて、推測を交えながら調べました。

原爆体験記も読んだり、原爆体験記を書いた人は2000人を超えています。
広島原爆戦災史があり(公の歴史本)、1~5卷まで有り、全部で4000ページを徹底的に読んだら、意外なことが判ってきました。
NHK、各新聞社など全てが記事を書いたもの、後で、それが正しいかどうか検証する手掛かりにしていた本です。
色んな資料を徹底的に研究してきた私にとっては、間違いがいっぱいありました。
違いを具体的に指摘していったが、市役所の人が言うには、色々他の方からも指摘があり、改訂版を出そうと思っているとの事だった。
貴方にぜひお願いしたい、手伝ってほしいと言われました。
その後も自分持ちの費用でいろいろ調べました。

1945年8月6日 8時15分 原爆投下。
その時私は街の橋の上にいました。(8歳)
集団疎開、縁故疎開があり、ほかに分散授業があり、私は3人で分散授業に行くところでした。
爆心地に近い方に二人がいて、その陰になっていて、私だけがやけどをしていない、怪我もしなくて、爆風で押され川に落ちました。
爆風は真上から来るんです。(600m上空で爆発)
2人は大やけどをして亡くなったらしいという事を聞きました。
キノコ雲の端っこの中にいましたが、10cm先が見えず、しばらくじっとしていました。
川から土手を這いあがったら、20歳代の女性がふらふらしながら私に近づいてきました。
身体が血だらけで、胸が裂けている、病院はどこかと消え入るような声で言いました。

上空で爆音がして、必死で逃げたが、道という道には人が横たわっていて、家も倒壊していて助けてほしいという声が聞こえてきましたが、必死で逃げました。
「坊や、ここにおいで」という声が聞こえて、防空壕に引っ張り込まれました。
黒い雨にあい、痛いんです、コールタールの塊みたいで体中真黒になり、衣類は捨てました。
新聞紙を身体に結わえ付けました。
3日間水もなくご飯も食べず、水が飲みたくて、水たまりに行って、黒い雨が降っているので、それを除いて飲みました。(今考えると、放射能の塊の様なものを飲みました。)
最後はアメリカの調査を始めるわけです。
周りからの協力は全然なくて、非難されるようなことを言われました。
話をするのに国際電電に申し込んだら、一回3500円、オペレーターに頼んだら、500円で話を通訳もしてくれることになる。
プライバシーの壁には大変苦労しました。
12人が判明。
遺族の方とは全部手紙のやり取りをしました。
去年初めて日本に遺族が2人来ました。
心をこめて御礼を言ってもらいました、辛い思いをしたけどやってよかったなあと思いました。
私が登録した遺影を一緒にいて観ましたが、15分ぐらい観ていて、次のところに行きませんかといたら、このままにしていてほしいと言われて、後から考えると2時間は観ていました。

オバマさんと一緒に高校生も来ましたが、どうしてアメリカ人の兵隊を調べたのかの質問があったが、自分もアメリカ人と同じような運命をたどったかもしれない、とそういう風に思ったからです。
校長先生が8月5日に第二次疎開で三次に付き添って行ったが、翌日学校が全滅して、生徒、先生が真っ黒な遺体になって、学校に横たわっていたそうです。
同時にアメリカ人の遺体が一人横たわっていたそうですが、(学校の記念史に書かれていた)これはアメリカ人ではないぞ、自分だと、アメリカ人と同じ様な運命になった可能性はあると。
日本人の慰霊碑は沢山あるが、アメリカ人の慰霊碑は無く作ってあげたいと思って、アメリカ人の為に一生懸命やっていたら、随分嫌がらせもありましたが、だったらもっと立派なものを作ってやろうと思いました。

そういった思いがアメリカに伝わって、慰霊碑の除幕式の時にアメリカ人の記者がそっと聞きました。
費用はどうしたのかと聞かれ、お金が無いのでアルバイトをしましたと言ったら、物凄く評価してくれました、嬉しかった。(涙を流しながら話す)
日本人はだれも褒めてくれなかったが、アメリカ人はそうして褒めてくれたことに対して嬉しかった。
日本人とアメリカ人と、こうして遺影と名前を登録して判ったが、日本人は随分被爆死した人にたいして追悼の想いでいつも8月6日が来ると、記念式典に参加したりして亡くなった人に追悼しているが、アメリカ人も一緒、だからどうして亡くなったか知らしてあげなければいけないし、自分でそれをやってあげようと思ってやりました。
ゴルフを辞め、バス代も節約して、アルバイトもしてお金を工面しましたが、私が何をやっても誰も認めてくれなかったが、だけど今回はアメリカ側のトップの招待者だった。
大統領のスピーチの早い段階で、私のやったことをそのままおっしゃって、嬉しくて・・・(涙声)やっと評価してもらえたと、・・・大統領有難うございました。
私の後ろには12名の米兵が、大統領を待っていましたよ、71年間待っていましたよ。
日本の14万人亡くなった人が、きっと大統領良くおいで下さいましたと言ったに違いないと、私は確信をもちました。
原爆で亡くなった全ての人が大統領を歓迎したに違いないと、私は感じました。
アメリカの遺族の方々に、手紙に貴方がたの大統領は素晴らしい人だと、スピーチをDVDにしたもの、私の被爆体験もほんの一部も入っているので是非観てほしいと書いているところです。
平和というものは押しつけられるものではなく、自分で作り出すものです、それが私の願いです。













2016年8月3日水曜日

岩崎恭子(五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト

岩崎恭子(バルセロナ五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト
7月24日 NHK放送博物館で行われたトークイベント、ゲストはバルセロナ五輪競泳女子200m平泳ぎで優勝した岩崎恭子。
38歳になったばかりの岩崎さんが当時の裏話などを語ってくださいました。

今、子供は幼稚園の年長さんになりました。
主人はラグビーの選手、日本の代表にもなりました。
私は5歳の時に、沼津市にある小さなスイミングスクールで泳ぎ始めました。
3歳上に姉がいて、2歳下に妹がいて、姉妹全員水泳とか他の習いごともしていました。
姉は高校1年生のインターハイで優勝しました。
初めて姉を抜いたのは中学1年生です。(オリンピックに行く1年前)
選考会で粕谷恭子さんがNO1でいました、私はNO2でした。
練習は1日3000~4000mしか泳がなかったが、代表選手になると8000mぐらい泳ぐことになります、兎に角やるしかなかった。
当時千葉さん、林さんにマスコミが注目していた。
稲田法子さん、春名美佳さん、と私で中学生トリオと言われていました。
彼女らがいなかったら、乗り越えられなかったと思います。

バルセロナに入ってから、セックスチェックをして、又マジョルカ島で最終調整をして、そこで誕生日をしてもらいました。
粕谷恭子さんからは2~3(3~4m)秒離されていたが、試合が近づくにつれて勝てる様になってきた。
7月27日のレース当日、予選が5組、上位8人が決勝に参加する。
予選第5組でアニタ・ノール(世界記録をもっている2歳年上)が隣にいて、2分31秒程度だったのが、大接戦する、最後のタッチで0.01秒負けて2位だった。(相手は流していると思った)
鈴木陽二先生(鈴木大地のコーチ)から良い泳ぎで良かったと言われて、「もう一回泳ぐんだぞ」と言われて、クールダウン(疲れを取る為の泳ぎ)する泳ぎに入った。
鈴木陽二先生としては「もう一回泳ぐんだぞ」といったことは、これで満足するんじゃないぞという意味を与えたつもりだった。
お昼の時におにぎりを4つ食べてしまいました。(通常は2つぐらい)
鈴木大地さんからは勢いがあるとの事だった。(アナウンサーが聞いた事)

決勝で、アニタ・ノールは私の後から入ってくるはずが先に歩いていて、緊張しているのかなあと思いました。
私は後半スピードが上がって行くタイプですが、アニタ・ノールは最初からどんどん行くタイプなのでそこにくっつき過ぎると、オーバーペースになるので、それだけは阻止しようと思った。
自分のペースを守りながら泳ごうと思っていました。
ゴールした時には優勝だとは気がつきませんでした。
帰ったら金メダルフィーバーだった。
成田に着いて、最後に降りるように言われて、別行動することにたいして心苦しかった。
淋しさも段々感じてきたりしました。
アトランタを目指してゆく4年間、注目されることによって、違った生活になって、注目されすぎて苦しかった。(家族を含めて)
速くなければ良いんじゃないかと思う自分がいて、唯泳いでいるだけだった。
気持ちの入っていないトレーニングをこなすだけだった。
広島のアジア大会には代表には成れなかった。

アトランタ代表には成るが、NO2でアトランタに行く事になり、決勝には残れなかった。(10位)
アナウンサーからインタビューを受けて、「良くやったね、恭子ちゃん」と言われた時に号泣してしまいました。
大学2年の時に引退。
大学で水泳を続けていればオリンピックという目標が持てると思っていたが、1年、2年終えても思えなかった。
鈴木先生からは「命をかけてやるものだ」とおっしゃったので、流石にもうそういう気持ちには成れないと思って、田中雅美ちゃんもアトランタに一緒に行って、彼女のレースを見た時にくやしいとは思わず頑張れと思って、ライバルにたいして頑張れと思ったらもう競技はできないと思いました。
教えることの大変さ、水に顔を浸けられない子をどうやったら顔を浸けて浮かしてあげられるか、沢山応援してもらった分をそういったことで返してゆくことが必要なんじゃないのかと思った時に、水泳と関わりながら、子供達を教えたり、底辺の拡大、水泳の研究をしてゆく事が自分に合っていると思いました。
そしてそういった活動をしてきました。











2016年8月2日火曜日

2016年8月1日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・高度経済成長の始まり(第32回)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・高度経済成長の始まり(第32回)
日本が経済大国になってゆくプロセスを見てゆく。
政治の季節から経済の季節に見事に変わってゆく。
政策プランナーが状況を良く分析していた感じがする。
岸の後任に池田隼人がバトンタッチする。

特徴
①デモなどで荒れた空気になっており、忍耐と寛容という言葉を口にして社会全体に落ち着きを取り戻そうとした。
②女性閣僚の登用、中山マサさんを厚生大臣に入閣する。
高度経済成長政策
「貴方の給料を2倍にします」
「私は嘘を申しません」
具体的に口にした。
所得倍増計画は短期間に(10年)2倍にする、国民の一人ひとりの富をおおきくしてゆく。
根幹は公定歩合の引き下げで、企業が設備投資をする、それによって製品を大量生産してゆく、大量消費の時代に向かってゆく。

昭和35年度、国民所得が12万円を45年度には24万円にする、という目標を立てた。
見事に成功する。
ブレイン 下村治の経済理論が、池田政策とマッチング。
伊藤昌哉(池田首相の秘書)  政治の季節のエネルギーを経済に向けたら、凄い国を作るんじゃないかと、デモを見ながら思ったと言っている。
財界四天王 小林中 水野成夫、永野重雄、櫻田武といった経済指導者が池田首相の経済政策に協力して行った。
昭和39年に東京オリンピックがあり、観光施設、新幹線の新設などを行う、判りやすい目標になった。
産業基盤が急速に整備されるが、珍しいぐらいのスピードだったと思う。
民の活力を徹底的に刺激していった。
岡山の水島コンビナート(三菱化成)、山口の徳山コンビナート(出光興産)など、大きなものを作る。 (その後北海道から九州まで出来てくる)
関西電力の黒四ダム、映画にもなる。(昭和38年に完成している)
7年の歳月、500億円の建設費、25.8万KW 163人の犠牲者。     

労働力不足での集団就職、昭和38年がピークで7万8000人が地方から都会に就職する。
貿易、資本の自由化が高度経済成長の中で進む。
ソニーのトランジスターラジオ、本田のオートバイ、トヨタの自動車、石川島播磨重工の造船、家電製品は松下、シャープ、サンヨー、日立、東芝、三菱など沢山製品を開発して、海外にでてゆく。
草創期にはその人の能力、技術、人間性で企業が発展することがある。
(井深大、盛田昭夫、松下幸之助、本田宗一郎などなど)
年に物価が4~8%の消費者物価が進む。
社会全体が輝いていた元気な時代だった。

昭和35年10月12日、社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺される。(日比谷公会堂)
昭和36年1月20日 ケネディー大統領の就任。(43歳)
ケネディー大統領の有名な演説
「・・・そして同胞であるアメリカ市民の皆さん、国が貴方の為に何をしてくれるかではなく、貴方が国の為に何ができるか考えようではありませんか。 同胞である、世界市民の皆さん、アメリカが貴方の為に何をしてくれるかではなく、人類の自由の為に共に何が出来るかを考えようではありませんか。」
キューバ危機、ケネディー大統領暗殺。