2021年10月31日日曜日

おおたわ史絵(医師)           ・医師として受刑者たちにできること

 おおたわ史絵(医師)           ・医師として受刑者たちにできること

東京都出身 57歳。  父は医師、母は元看護士、この二人の間に生まれ、自らも医師の道に進みました。   父から継いだ診療所を2017年に閉院して次の人生を模索中に、法務省からの誘いもあって2018年から受刑者たちの診療に携わり、矯正局の医師として仕事をしています。  

法務省矯正局での仕事は刑務所とか少年院とかに収容されている人たちの医療を担当する医者という事です。  2018年からです。  刑務官が何時もぴったりついています。  怖い思いをしたことは一度もありません。   父親は広島出身で原爆で家をなくしたり財産も全部なくなり、兄弟も被爆したり、亡くなったり、いろんな経験をして死生観に関していろいろな思いがあったと思います。  そういったことから医師になろうとした動機だったと思います。   決して裕福な家庭ではなく、親戚なども私が医者になることを切望しているのが子供ながらに判りましたが、自分も医者に向いているのかなるべきなのかわからなかったが、医学部を受験することにしました。  今度生まれてきたら、いやだというわけではないが医者はやりません、別のことにチャレンジしてみたいという思いは有ります。   

東京都葛飾区出身で、父は医師、母は元看護士です。  母は地方の山の中の出身で、子供の頃虫垂炎になってこじらして腹膜炎になってようやく町の病院に行って、手術を何回も繰り返して18歳ぐらいになるまで9回も手術をしました。   

「母を捨てるということ」 2020年に出版しました。  母が亡くなってから5年経ってようやく書けた本です。  母が鎮痛剤を使うようになって、その後鎮痛剤依存症になって行く経過を辿るわけですが、私が中学生の頃にはそういう状態になっていて、その母のことは私が結婚しても母の薬物依存症という病との闘いはずーっと私の中で潜在的に続いて来た闘いで、それに対して思いを書いたものです。  編集者の人からの本にしませんかという誘いがありましたが、腰が引けました。   書けないと思ったが書き始めてみると、自分の心の整理が進んでいきました。   今ではこの形になったことを感謝しています。  言葉にするのに母が亡くなってから5年かかりました。   なんて言ったらいいかわかりませんが、母は嫌いは嫌いです、「嫌悪」という言葉が一番近いかもしれません。  自分にも同じようなところがあるからこそ嫌悪感があるんだと思います。  美談とかというものではなく、生易しいものではなく、愛情というようなもので乗り越えられるというような話ではないです。  向き合えずに逃げたりしましたが、家族なので逃げ切れない。  生きている限りは関わり続けざるを得ない問題です。  

父は「お前の好きなようなことにチャレンジしなさい」というような人でした。  母は医者になってほしいという思いが強くありました。   母は薬物依存症ですが、薬局で普通に手に入るものではないんです。  父親からの注射液を得て打っていましたが、父が亡くなってしまうと困るので、娘である私が医者になっていてくれれば、私が供給源になるわけです。   薬物依存の人はどんなことをしても薬物を手に入れようとします。

東京女子医科大学医学部を卒業。  最近ニュースになりましたが、当時は男女の入試の格差などは極く当たり前でした。 

『女医の花道!』、『続・女医の花道!』   学生、研修時代の話です。 30年前の話で懐かしく思います。   医者になるためには医学部の受験があり、毎年の試験があり、卒業試験、医師国家試験があり、合格して初めて医師となるが、専門医などのたくさんの資格があって、その後もいくつもの試験を受けてゆく事になります。   仕事しながらどんどん難しい試験があります。  その間母との確執の問題もありました。   医師もいろんな方向があり、研究職、機械を使ったテクニシャンへの道、精神科のように言葉で治療してゆく道、などいろんな道があります。   いろいろないい医者の形はあると思います。

2004年に父が亡くなりました。  開業医だったので夜中に飛んでいくこともありましたが、医者の仕事が好きでやっていたんだろうと思います。   倒れるまで医者の仕事をしていました。  身近にお手本があり、それがプレッシャーにはなりました。  父の後を継いで15年間やりました   いろいろな出来事があり、思うような医療をするのが苦労するようになってしまいました。   悩んだ末に診療所を辞める事にしました。     法務省の方から声がかかりました。  見学に行ってそこから人生がシフトしていきました。   受刑者の多いのは窃盗と薬物です。   いくら頑張って警察が捕まえても医療と同時進行しなければ、再犯率は下げられないという事はテレビでさんざん私は話してきていたので、刑務所のなかで医療との両面でやって行ければ、もしかしたら何かが変わって行く可能性があるかもしれないと思い、即答しました。  

今はできる事があって求められていることがあるので一生懸命やろうと思っていて、将来のことはあまり決めつけないほうがいいと思っています。   一生懸命やっているとおのずと行くべき道は必ず現れるようになっていて、開ける方に真剣に向かっていると悪くない人生になるような気がしています。    矯正の現場は自分がやってきた医師の仕事が一直線上につながるなと感じました。


 





 

2021年10月30日土曜日

佐藤義則(元プロ野球選手・コーチ)     ・人を育てる~信頼と挑戦~

佐藤義則(元プロ野球選手・コーチ)      ・人を育てる~信頼と挑戦~

1954年北海道生まれ、大学卒業後阪急ブレーブスに入団、ピッチャーとして通算165勝、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、44歳まで活躍しました。   引退後はオリックス、阪神、日本ハム、楽天、ソフトバンクでコーチを20年務め、4球団を優勝に導きました。   日本ハムではダルビッシュ有投手を、楽天では田中将大投手を育成した佐藤さんに人を育てることについて伺いました。   キーワードは信頼と挑戦です。

育てるという事を一言でいうと難しいんですが、信頼関係を大事にして選手がどれだけ納得してやってくれるかという事が大事かなと思います。   一番は根気よく相手と接することが大事だと思ってやってきました。   一方的ではなく選手も言葉で返せるようにいろいろ話し合わないといけないと思います。   「はい」という言葉は使わないようにいっていて、本当に判って「はい」と言っているのか、言われたから「はい」と言っているか、判断が難しい。  

「ヨシボール」という独特の変化球ですが、三振をとりたいので考えました。  大学の時には直球とカーブだけだったので、直球のボールを落とすにはどうしたらいいか考えて、編み出しました。  フォークボールは頭の中にはなかった。  指が短かったので合わないと思いました。   「義ボール」はカーブと同じ握り方で捻り方を変えただけです。  困ったらいつでもストライクを取れるボールを覚えてくれれば、試合中でも助けてくれるボールをしっかり覚えなさいという風には教えています。   まずは挑戦してみる事が大事です。   

教える方も教わる方も納得しいないと伸びないと思います。   選手がこの人のいう事をやっていたらうまくいくのかなあと思われることが大事です。   社会の上司、部下の関係では、上司が頑張った部下に対してどれだけ上の方に伝えてあげられるか、と言いう事が大事だと思います。   信頼関係が出来ると上司のために頑張って働こうと思ってやるのが会社がうまく軌道に乗っていく方法じゃないかと思います。   信頼関係を築くには、スキルを伝えることで結果を出すのにつなげて信頼してもらうという事、コミュニケーション、人間関係(心の部分)だと思います。  やってくれないと教えたくなくなるし、一生懸命やる方を優先的に推薦しなければいけない。  

日本ハムの時には2軍のコーチで、ダルビッシュを6月に先発させるようにしたのが 最初で、1軍に行ったら2軍にくることはないので。  ダルビッシュも田中もスタイダーピッチャーと言われていたが、今から10年やるためには直球を磨かないといけないので、というのが最初です。  10年やるために今から準備しようという話を2人ともしました。  注意するときには注意しないといけない。   いい選手はそんなに教えることはないですよ。  本人の一番良い状態のバランスを覚えておかないと、おかしい時のアドバイスができないので、しっかり頭の中に入れておきます。  細かいところは色々ありますが、後は膝と肘の使い方ぐらいです。   選手に聞かれたことに対して的確のこたえることがコーチとして大事なところです。   

社会人でドラフトにかかる能力がある選手が居るので、関メディベースボール学院の選手でプロ指名がかかるようにしたいなあというのが夢です。    若い人には自分のやりたいことに挑戦してゆく気持ちを出してほしいという事と、やって見ないと何も生まれてこないので、まずは挑戦するという事を念頭に置いてなんでも挑戦してほしいなあと思います。  










 

2021年10月29日金曜日

佐久間レイ(声優・劇作家)       ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】声は、心の扉を開く鍵

 佐久間レイ(声優・劇作家)  ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】声は、心の扉を開く鍵

NHK「今日の料理ビギナーズ」のハツ江おばあちゃんを初め、「それいけアンパンマン」のわたこさん、「魔女の宅急便」のジジなど数々の作品に出演してきた人気声優です。  東京都出身で現在56歳、シングルマザーとして娘さんのことを大事に考えはぐぐんできたと言います。   子育てや心のケアなどをテーマに自ら活動している佐久間さん、これまでの経験をどのように受け止め伝えようとしているのか、伺いました。

「今日の料理ビギナーズ」は今年で15年目、NHKのEテレとNHK総合で放送中。  料理を伝えるだけだったら、今はいろんなデータがありそれを見た方が早いかもしれないが、短いなかにアニメーションを入れ込んだり、心の栄養剤みたいなそういう役割かなと思ったりします。   ホッとする場所でありたいと思っています。   ハツ江おばあちゃんは78歳であるんだけれどもお酒を飲んでますね。   娘のとし子がいてあまり料理はしなくて、でも優しく包んだりしています。   食材を買いに行っているところから料理なんですよね。食事って、おいしくて、嬉しくて、楽しくて食事だと思います。  

17歳の時にNHK音楽番組「レッツゴーヤング」に出演。  サンデーズのメンバーでした。   バレエとかピアノとか慣れていて舞台が好きでした。   ソフトの部活で骨折したりして、高校卒業した後はどうするんだろうと自分で考えました。 そうしたら舞台とかに対する気持ちがワーッと盛り上がってきて、たまたまうちの近くの劇作家の先生のところに女優さんになりたいと言いに行きました。   サンデーズのオーディションがあるので、受けてみたらと言われました。   サンデーズのメンバーなることが出来ました。 NHKホールで歌わせて頂いたりしていましたが、そこでまた迷いが生じて、 体調を崩したりして辞めさせていただきました。    声優の方々に誘っていただき、行ってみたら声優の仕事が面白かったです。   自分の姿を皆さんに見ていただいてする仕事が恥ずかしいんですね。  吹き替え、アニメーションなど、全然ちがうものとして生きるとき、物凄くおもしろかった。   やってる役がヒットしても誰も気が付かない、それが心地よかった。   キャラクターのおおもとの性格みたいなところだけを捉えて、捉えるコツは好きになる事なんです、悪役でもどっか愛すべきところがあるんです。  

結婚して子供が出来て、2歳の時に頑張るだけ頑張ってみましたが、その後娘と二人になりましたが、大変は大変でしたが、私は却って仕事があることが救われました。  仕事で離れたりすると娘が恋しくて、跳んでくると疲れなんか飛んでしまいます。   落ち込んでも仕事の仲間が助けてくれたりしました。   私のストレスから娘もストレスを抱えるようになり、急な動作をしたり、幼稚園でも拒食症のような状況になり、幼稚園の園長先生から「よかったね。」と言われて、「エッ」と言ったら、チック症(本人の意思とは関係なく(不随意)・急に(突発的に)運動や発声が反復して起こる病態で、それぞれ運動性チック、音声チックと呼ばれます。 心理的なストレスや、遺伝子や脳の機能障害がチックの発症に関与すると報告されています。が出たりする状況を、要は肯定してくれました。  いろんなストレスがあって彼女はそれを外に表現して、表現できるようになったねと、もっとため込んでいたらもっととんでもない事になる、ちょっと余裕が出来てきてママ私つらかったよと言ってくれている。   外へ出したんだ、バランスとっているんだと思えたら、気持ちが明るくなりました。 

或る時電車のなかで凄く動きが出ちゃって、押さえたら、娘が「これ治る?」って言ったんで、「悲しい思いをしたけれどきっと治るよ」と言ったら、娘が「治んなくても可愛い?」って聞いてきて、その一言はハンマーで殴られたように、私の心のなかのすべてに光を当てて包み隠さず自分で見るようになりました。  電車の中の出来事の時には抱きしめてしまいました、「治らなくても可愛い」って。  自分のせいで子供がこうなってしまったことを見たくないから、でもそこをしっかり向き合わなければいけない、一緒に越えて行かなければいけないと思いました。

回りのお母さんたちは見て見ぬ振りをしていましたが、「発表会などで変な動きをしてしまってごめんね」と言ったら、みんなが「そんなことはないよ」と言ってくれました。   アンパンマンのように、今までなんで助けを求めることをしかったんだろうと思いました。 小学校の頃にはほぼ治って行きました。   拒食症も親指大のおにぎりを大きな皿に一個載せて渡したら、「これだけ?」と言って食べてお代わりを要望してきました。  嬉しい楽しい食事はそれからのスタートになりました。  食は心を癒すこともできるし、あっという間に治りました。  

気が付いたら「今日の料理ビギナーズ」は今年で15年目になってしまっていました。  ハツ江おばあちゃんとはご縁だと思います。   人とのかかわりで一番難しいのは、心を開いていただくことです。  心の扉が開いてくれると、講演などでちょっと難しい話があっても聞いてくれます。  ハツ江おばあちゃんとかキャラクターの声は心の扉が開いてくれるカギだと思っています。  「見えないへその緒」という作品がありますが、見えないへその緒は男性、女性、いくつだろうが、心を育てる。   見えないへその緒で愛情を送って育てるというのが、誰にでもできるんだよと。  大人同士でも繋がれる。 今自分にできる事をやっていけたら、相手も生きるし、自分も生きるような気がします。  
















 

2021年10月28日木曜日

中村メイコ(俳優)           ・【私のアート交遊録】名優たちが先生だった

中村メイコ(俳優)           ・【私のアート交遊録】名優たちが先生だった 

2歳8か月で芸能界にデビュー、喜劇女優として映画や舞台、TVで活躍してきました。  女優として学校に行くことのできなかったメイコさんにとって楽屋やステージが教室、先生は名だたる名優たちでした。   古川ロッパ、エノケン、森繁久彌、徳川夢声、こうした名優たちと過ごした時間が今の自分を作っていると言います。   79歳の時に過去にとらわれる気持ちを断ち切らないと人生の最後を軽やかに生きる事が出来ないと、始末を始めたメイコさん、トラック7台分の物を手放してたどり着いた結論は、ものにはお別れ時があるが、思い出の品を捨て去っても形のない財産は残るという事でした。  名優たちの教えと人生を前向きに生きるヒントを伺いました。 

昨年股関節を骨折して周りにはご迷惑をお掛けしています。   たまたま引っ越しをするという事があり、子供たちもいて大きな家にいましたが、マンションに移る事になり、ものを捨てなければならない事になりました。   トラック7台分の物を捨てました。  草履だけでも50足ありました。  思い切って捨てないとものの整理というのは大変です。

横山隆一さんという漫画家さんが新聞に連載していたものを映画にしようという事で、「江戸っ子健ちゃん」 の健ちゃん役はエノケンさんの坊ちゃん、フクちゃんは八の字眉で頭でっかちで私にそっくりだからという事で私になりました。  まだおむつが取れていませんでした。   2歳8か月ですが、なんか今でいうNGを出したくないという思いがありました。   エノケンさんは「喜劇は人を笑わすので、自分が吹き出したり、自分が笑っては絶対駄目、糞まじめにやればやるほどお客さんは笑ってくださる。」と言っていました。  徳川夢声さんが言いましたが、「今は語り手がしゃべり過ぎる。」ですって、間を持つことが大事だと言っています。  目に浮かばせる間と言いますか。   徳川夢声さんと「TV結婚式」の番組を一緒にやっていた時に、「本日の新郎は・・・」としばらく間があって、これが間なのかとじーっと見ていたら、小さい声で「忘れた。」と言って、忘れていると思わせないところが凄いですね。   巡業があって7,8歳の頃に誕生日に夢声さんが誕生日のお祝いに何か買ってあげるということになり、戦争中で店も閉まっていました。   古びた時計屋さんが開いていて小さな虫メガネがあって、それを買っていただきましたが、女の子としては面白くも何ともありませんでした。  「畳の目だろうが埃だろうがこれで拡大してみてご覧、面白い発見がある。」といってくださって、でも本当に面白かったです。 夫を決めるときにこの虫メガネで観察して決めましたと、夢声さんにいいました。 いまだに持っています。  

森繁久彌は私にとっては図書館というか、どの角度からどの話を聞いても、ちゃんと良い答えが出てくる人、本当に凄いです。  「ハイネ」だろうが、古典の詩をそらんじているんです。  うまい話し方なので聞きほれてしまいます。  森繁さんとは親子から始まって、ガールフレンドになって、許嫁になって、奥さんになって、ジジババの役をやりたかったが、実現できませんでした。   娘役から恋人役になった時に、どうしたらいいか尋ねたら、「メイコちゃんはそのままでいい、親子の時はあなたの頭を撫でたりしていたが、今度はお尻にする。」と言われ、よく触られました。   今では大変ですが、紳士性というか、触られてる相手が嫌にはならないです。  森繁さんはアナウンサーでしたし、新宿のムーランルージュの小劇場の劇団でお芝居もしていたのでいろんな経験があるんでしょうね。  テレビ番組、「大根の花」、舞台での「屋根裏のヴァイオリン弾き」とかの演技、そして「知床旅情」なんて行ったことのない景色が見えてきますもんね。

NHKの「お笑いオンステージ」で10何年続きましたが、南伸介さんという、とぼけたナンセンスな役をなさる割にはすごいインテリさんです。   付き人がおおきな風呂敷包みを持ってくるので中身を聞いたら、「内緒ですが汗をかいた時の南伸介さんの下着類で、メイコさんに迷惑にならないようにリハーサルごとに着替える。」という事でした。    喜劇をなさる方ほど、エノケンさん、ロッパさんを始めみんな「心二枚目」です。    ロッパさんも物知りで英語力が凄くて私の英語の先生です。  有名なハリウッドの俳優さんが来た時には通訳なしで対応していました。  ロッパさんは元々映画雑誌の編集者を経て舞台に入ったようです。   

三木のり平さんも本当に素敵な二枚目さんです。  のり平さんの膝にポンと乗る場面があるんですが、かつらは重いしうまくできない。  ポンと乗らないとオチにならない場面なんです。  初日になってうまくできましたが、実はのり平さんが乗りやすいように場を変えていたんですが、一言も言いませんでした。  後で発見して涙が出ました。  のり平さんの出発は新劇だったようです。  

私のように贅沢な、俳優として育ち方をしたのは珍しいと思います。   心の中に名優たちの思い出という財産は本当に沢山あります。   NHKの「お姉さんと一緒」をやっているときは10代でした。   声を変えてやったのがそれが最初でした。 その後7色の声とか言われてしまいました。   喉の手入れは何にもしていないです。   唐辛子とかワサビとか酒とか喉に悪いものが結構好きです。  一杯飲まないと一日は終わらないし、朝は4時起きです。  今でも3時間寝れば十分です。   健康的なことは何もやっていなくて、暴飲は時々有りますが、暴食はないです。  ほとんどなんでも食べられます。  病は気からということわざがありますが、余り悩まない、余り追求しない。

「私は公私ともに喜劇で生きてきたつもりです。」と書いていますが、顔が悲劇的ではなくて、明るく生きて行きなさいよと神様から言われて、生を受けたんだと思っちゃったんです。  金銭には私はあまりこだわらないです。  お金がなくても明るい明日があればいいじゃないかみたいな、おおざっぱに言えばそれが私の人生観ですね。  恋もあんまり追いかけない。  未だにお金はたまらないし、恋も少なかったですね。  惚れっぽいんですが、真剣に思って逢瀬を重ねたなんて人は本当にいません。  ほどほどがいいですね。 若い人には古い映画を一杯見てもらいたいです。   ラブシーンが素敵です。 色々な映画のテーマミュージックが未だに心に残っています。



















2021年10月27日水曜日

石川美枝子(ボタニカルアーチスト)   ・【心に花を咲かせて】描いているのは植物のエネルギー

 石川美枝子(ボタニカルアーチスト)   ・【心に花を咲かせて】描いているのは植物のエネルギー

ボタニカルアート 植物画と言いますが、単に植物を描けばいいというものではないそうです。   桜のボタニカルアートで世界でも知られている石川さんですが、石川さんはなぜ桜を描くことになったんでしょうか。  そして今はボルネオの植物に夢中で、12回もボルネオを訪れ、ラフレシアや食中植物のウツボカズラを描いているそうです。  なんでボルネオ植物なんでしょうか。  描いているのは植物のエネルギー、ボタニカルアーチストの石川さんに伺いました。

植物学的に描くという事が大前提にあります。  花、葉など特徴的な要素を盛り込むことがとても大事です。  描く前に特徴を調べて描きます。  花の大きさとか測って実物大で描きます。   ボタニカルアーチストとして35年になります。   アマチュアとプロとの境があまりない世界です。    

高校の頃デザイナーになりたくて美大に入ってデザインの勉強をしましたが、学生運動の激しい時代であまりデザインの勉強をしないまま卒業してしまいました。   コツコツ絵を描くのが楽しくて、印刷会社でアルバイトをしながら絵を描いたりしていました。   図鑑も好きでした。  イラスト画を描く部署を紹介されました。   昆虫とかも描きましたが、自分には植物があっているのかなあと思いました。   植物に関すことを博物館などに行ったりいろいろ勉強しました。   それから植物が面白いと思うようになりました。   地域によっての違い、植物のサイクル、樹木の芽から落葉までとか、生命の流れが判って生物のエネルギー―の凄さが判りました。  

桜を描くようになったのは図鑑の仕事でした。  30種前後描きました。  開花の時期もあるので、花に関しては全部がいい状態で描くことはできませんでした。  その後自分で桜の絵を描いてみたいと思いました。   桜は500種類あると言われました。 それぞれどっかが微妙に違うわけです。   枝を頂いて詳しく観察して描きます。   オオヤマザクラを描くことにして枝を頂いて、1年目は鉛筆デッサンで終わってしまいました。  変化してしまうのでせいぜい2,3日ですが、その間にも成長してしまいます。  ベストの時期を見つけて描くのが大変むずかしいです。    いい経験になりました。  写真にもとりますが、写真では微妙に歪みます。  基本的には人間の目で見て描きます。  ボタニカルアートは写真のない時代に始まりました。   

植物と向かい合った時に上手に描こうというよりも、真摯に描きたいと思います。    構図も考えます。  葉っぱを少なくしたり少しずらしたりすることによってスッキリ見やすくなるという事はあります。   花の儚さと、一杯咲いている豪華さの両方表せたらいいなあと思いますが、なかなか難しいことです。  桜の花の温かさと冷たさみたいなものを感じたりもします。  

ボルネオの植物にも目覚めてしまいました。   熱帯雨林には前から興味がありました。 夫が若いころから南米が好きで、或る時にボルネオに主人が行く機会があり、1994年に初めて観光旅行のつもりで行きました。   奥地にリゾート施設があり、そこに向かうのに小さな飛行機でいろいろ森林を案内してくれました。   知らない植物にすっかり魅了されてしまいました。  ひしひしと生物のエネルギーを感じました。  ラフレシアは蕾から1年かかって花が開花しますが、ラフレシアを描いてみたいと思いました。  しかし一番いい状態に出会う事がなかなか難しい。  1999年にはどうしても見るぞと、行ったら咲いているという情報が入って、山を1時間半ぐらい歩いて行ってスケッチをして、翌日も山に行きました。  写真も沢山撮りました。  苔、落ち葉などの環境も描きたいと思いました。  アリノトリデという植物がありますが、人間の握りこぶし2,3個の大きさの瘤を作ってそこに蟻が住めるような迷路を植物が自ら作るんです。  ところどころに穴が開いていて蟻が入れるようになっていて、なんてすごい植物だと思いました。  10年後に同じ場所に行ったら本当に少なくなっていました。   観光客も増え、森も荒れていました。  アリノトリデを捜しましたが、見つかりませんでした。   気候問題も各国が取り組んではいますが、進んでいないですね。   熱帯雨林を開拓して油ヤシのプランテーションがあり、インドネシアやマレーシアで穫れた油ヤシはポテトチップとかの食品とかに使われ、化粧品、洗剤など身近に使われています。   熱帯雨林の破壊に日本人も気が付かないところで加担しています。  私が描いたものがなんらかのきっかけになってもらえれば嬉しいと思います。 










2021年10月26日火曜日

岸本力(声楽家)            ・哀愁のロシアの歌を歌って50年

 岸本力(声楽家)            ・哀愁のロシアの歌を歌って50年

1947年大阪府生まれ、東京藝術大学音楽学部声楽科を卒業し、大学院を終了しました。    1972年にプロデビューをした後、ロシアの民謡や歌曲を歌い続けてきました。  第41回日本音楽コンクール第一位や第5回チャイコフスキー国際コンクール最優秀歌唱賞など数々の受賞歴があります。  

9月末に東京都内のホールでコンサートを行いました。  二期会のロシア歌曲研究会のコンサート。  半年ぶりの演奏会でした。 「地上はすべて闇に覆われている」「さようなら」2曲歌わせてもらいました。  宮原卓也さんを追悼する会でもありました。  宮原先生はロシア歌曲、特に声楽曲を広めた方で、日本における先駆者です。 去年の12月30日に亡くなりました。  

子供のころから高い声が出なかったので歌は嫌いでした。   父が大工でして、男同士が酒を飲みかわす、男の仕事に憧れました。  ダムの建築士になりたかったが、理数系が苦手なので諦めました。  高校のハンドボール部に入って、掛け声が大きくていいと校長先生から言われました。   音楽の先生から歌をやらないかと言われて始めました。  ピアノは弾けないし、3年の4月から猛勉強しました。  2浪して東京芸術大学音楽学部声楽科に入りました。  回りは凄くて落ち込んで1年の終わりごろには大学はやめようと思いました。   日本人はバリトン、テノールが多くて私のようなバスは少なかったです。  大阪に帰って母親がやっている農家で歌を歌って一緒に土を耕していたときに、労働歌、ロシア民謡にぴったりだと思って、駄目元だと思って復学しました。  ロシア民謡からチャイコフスキーをやったりしました。  当時は芸大では誰もやっていませんでした。  

卒業後小野光子先生に師事しました。  大学時代にはロシア語はマンツーマンで教えてもらってラッキーでした。  小野光子先生の母親は関 鑑子さんで「歌声運動」で有名な方です。   小野光子先生はロシア音楽の歌曲の先駆者です。  「ロシアの歌だけではだめ、風土、政治、国民性、ロシア人の性格、歴史を知らなければ、本当のロシアは歌えないよ」と言われました。

1972年 第41回日本音楽コンクールで優勝。  「ボリスの死」という歌を歌いました。ムソルグスキーの傑作です。  その時にアクションを加えて25人の審査員全員が1位にしてくれました。   1974年 第5回 チャイコフスキー国際コンクールで最優秀歌唱賞受賞。  日本民謡「五木の子守歌」、「ボリスの死」などを歌いました。  1976年文化庁派遣芸術家在来研修員としてイタリア、オーストリアへ留学。  基本の声を出すことに非常に勉強になりました。  オペラにも沢山出演しました。  

*「疲れた太陽」の中から「鶴」   歌:岸本力  戦場で友達が死んでしまって鶴となって天国に行ってるんだろうなあという悲しみの歌。  原語で歌っています。

ロシアの音楽の特徴は弱拍部から出て来る。  弱拍部に人間の憂い、哀しさを感じる。

日本では明るく歌われているが、「トロイカ」は失恋の歌で哀しい歌だよ、、という事です。   

20012年 メドベージェフ大統領より、プーシキン・メダル(ロシアの文化勲章)を授与される。   突然電話があり吃驚しました。  

二期会のロシア歌曲研究会 地道に勉強しています。   若い人ではロシア漬けになる人はなかなかいないです。  ロシア語では歌ってるが、ロシアの心、魂を歌っていないとよく言います。  1991年ソ連が崩壊してそれから変わりました。  崩壊前はレベルが高かったが、崩壊後は優秀な人が海外に出て行ってしまいました。  ゲルギエフという指揮者が出てきて今もう一度復活させています。  プーシキンとエセーニンについて11月にリサイタルを予定しています。  




  

2021年10月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】鴨長明の方丈記

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】鴨長明の方丈記

「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。  よどみに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。  世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし。」                             方丈記  鴨長明

方丈記は隠者文学ともいわれています。   鴨長明は50歳の春に世を捨ててその後山にこもったと言われています。   晩年の鴨長明は小さな庵で暮らしていて、その庵が一辺が約3mの正方形で、方形の一畳の庵だから方丈でそこで書いたから「方丈記」です。  鴨長明は小さいころに住んでいた家に1/100にも及ばないと言っています。   父親は下鴨神社の神事を統率する禰宜(最高位)の鴨長継で、当時の下賀茂神社は大変な勢力があり、財産が豊かだった。  鴨長明は平安時代の末から鎌倉時代の初めの人。 1155年生まれ(推定)     

*「ゆく河の流れは絶えずしかももとの水にあらず。  よどみに浮かぶうたかたはかつ消え、かつつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。  世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし。」 は方丈記の冒頭部分、無常感が漂っている。     

*「濁悪世(じょくあくせ)にしも生まれあひてかゝる心うきわざなん見侍(はべ)りし。」       方丈記  鴨長明

(酷い時代に生まれてしまって、このような辛いことまで目にすることになった。)   鴨長明が生きた時代は源平合戦だけではなく、天変地異が沢山起きた。  五大災厄が方丈記にはすべて書かれている。    ①1177年の大火事で都の1/3が火に飲まれた。  ②1180年4月 酷い竜巻 ③同年6月 福原遷都(人災 京都が荒れ果てる)  ④1181年大飢饉(干ばつ、洪水で多くの人が飢えて亡くなる。 伝染病の蔓延)  ④1185年 大地震(文治地震

大地震についての記載

「そのさまその世の常ならず、山は崩れて河を埋み海は傾きて陸地(ろくぢ)をひたせり土さけて、水わきいで、巌(いわお)われて谷にまろびいる。・・・地の動き、家の破るゝ音、雷(いかづち)にことならず。  家のうちにをれば、忽ちにひしげなんとす。  走り出づれば、また地われさく。・・・恐れの中に、恐るべかりけるは、唯地震なりけりとこそ覚え侍りしか。」方丈記  鴨長明

(・・・山崩れて川を埋め、海からは津波が押し寄せてきて、地面が割れて水が噴き出す。・・・  地面が揺れて家が倒壊する雷のような音がする。 家の中にいれば押しつぶされるようになるし、外に出たら地面が裂ける。・・・  恐ろしい中でも最も恐ろしいのが地震でである。)

飢餓についての記載

*「いとあはれなる事も侍りき。  さりがたき妻、をとこもちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。  その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。   されば、親子あるものは定まれる事にて、親ぞ先立ちける。」

(愛する妻や夫がある人は先に死んでゆく。 その理由は極々まれに食べ物が手に入った時に、愛する相手に譲ってしまうから。  親子の場合は親が先に死ぬ。) 

「火垂るの墓」を書いた作家 野坂昭如の文章の一部

「飢えた時の人間の姿というっものは筆舌に尽くしがたい。  食いものがなくなると人間が人間でなくなってしまう。  僕はそういう地獄図を何度も見てきた。  親子であっても握り飯一つ挟んで、本当に殺し合いをする。」  

どちらも本当だと思う、人間には両面がある。 同じ人間でも時と場合によって両方の行動をとってしまう場合がある。  極限状態に陥ると人間どんな行動をとるのかわからない。

*「不生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。 又不、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」  方丈記  鴨長明

(生まれたり死んだりする人はどこからきてどこへ去ってゆくのかわからない。 又家のことでどうしてこんなに心を悩まし、見栄えを気にしたりするのかわからない。)     この言葉は夏目漱石が正岡子規への手紙で引用している言葉です。  夏目漱石は若いころ方丈記を英訳している。  

鴨長明が18歳の時に父親を亡くして後ろ盾をなくしてしまう。  跡目争いに負けてしまう。  結婚するが妻子とも別れて鴨川のほとりで暮らすが、屋敷はそれまでの1/10になってしまう。  47歳の時に新古今和歌集の選人に抜擢される。  河合神社の神官の話があるが、横やりがあり果たされず失踪してしまう。  世捨て人となる。 

*「はなくちより水はいりてせめしほどの苦しみはたとい地獄の苦しみなりともさばかりこそはとおぼえはべりしか  しかるを人を水をやすきことと思えるは、いまだ水の人殺すさまを知らぬなり」     発心集   鴨長明

蓮華城が入水して亡くなる。 周りの人が見に来て立派な坊さんだとほめたたえる。  ところが数日して幽霊が出る。  あなたに止めてほしかったが止めてくれませんでした。  悔しくて仕方ありません。 そんなふうに言うんです。   元気な時の判断と死を前にした判断て違ってくると思うんです。   胃ろうになって死んだほうがましだと思うようになるが、いざそうなってみると生きたい方が多いんです。  

(鼻や口から水が入って来る苦しみは地獄の苦しみでもそれほどではないだろう。 入水して死ぬことは簡単だと思っているのは、水の本当の怖さを知らない)

*「すべてあられぬ世を念じ過ぐしつゝ心を悩ませる事、三十余年也。  其間、折々のたがひめ、おのづから短き運をさとりぬ。  すなはち、五十の春を迎へて、家を出て、世をそむけり。」      方丈記  鴨長明

50歳の春に鴨長明は出家してしまう。   鴨長明は神道であったのに晩年出家(仏教)してしまう。  方丈記を書いたのは58歳の時でした。  

*「 ことさらに無言をせざれどもり居れば口業ををさめつべし。  必ず禁戒を守るとしもなくと、境界なれば何につけてかやぶらん。」     方丈記  鴨長明

無言の行はとっても難しいです。 

*「かむなは小さき貝を好む。  これ事知れるによりてなり。  みさごは荒磯にる。 すなわち人を恐るるが故なり。 我またかくの如し。  事を知り世を知れれば、願はず、わしらず。 たゞしづかなるなるを望みとし、愁へなきを楽しみとす。」      (ヤドカリは小さな貝。 自分の身の丈が判っている。  ミサゴ(鳥) 荒波が打ち寄せる岩ばかりの海岸に住んでいる。  人を恐れる。  私もまったく同じ、自分を知り世の中を知ったら何かを願い事はないし、人に交わりたくもない。 ただ静かに暮らすことだけが望みで憂いがないことが楽しみ。)       方丈記  鴨長明

※確認は、岩波文庫、「方丈記」市古貞次 校注 による。






2021年10月24日日曜日

伊香修吾(演出家)           ・【夜明けのオペラ】

 伊香修吾(演出家)           ・【夜明けのオペラ】

岩手県で生まれ、盛岡で高校時代を過ごした伊香さんは東京大学経済学部を卒業し、大学院経済学研究科修士課程修了、新国立劇場を経て、英国ミドルセックス大学大学院舞台演出科修士課程修了、英国ロイヤルオペラ、ウィーン国立歌劇場・ウイーンフォルクスオーパー、ザルツブルク音楽祭などで研鑽を積み、15年間ヨーロッパで過ごしました。   日本に帰国後は日生劇場やラ・ボエーム、びわ湖ホール、ドンジョバンニなどの演出を担当、又他ジャンルとのコラボレーションにも積極的に取り組み、能楽師、狂言師が参加した『オペラ@能楽堂』は東京、パリ、ジュネーブ、チューリッヒ、ローザンヌで上演されています。  

2017年のラ・ボエームはミミが世を去った後に残された5人のボヘミアンたちが、且つての青春時代を回想するという形で演出をするという事をしましたが、2021年はコロナで同じようにはできないという事情があり、2017年とは正反対のような演出でやってみました。

オペラとの出会いは、大学に入る前1年浪人していた時期に、親戚の人にオペラに連れて行ってもらいました。  オペラは嫌いなものに属していましたが、素晴らし体験になって一晩で人生が変わってしまったと思います。(上野の文化会館で見る。)   大学ではオペラを自主上演しようというサークルが出来ていて、すぐ入って活動を始めました。  すべて自前でやるという事でした。 自分はヴァイオリンを弾いていましたが、そのうち歌の方もやるようになりました。   大学院へ行って引き続き経済の勉強をしました。   興味があったのは難民問題、環境問題で大学院では環境経済学を学びました。   国連の職員になりたいとは思ったんですが、オペラ熱が自分の中で高まって行って、オペラでなんとか食べて行けないかという思いになりました。   劇場に勤めれば好きなところで生活が出来て、生活も安定するだろうと思いました。   新国立劇場に就職することになりました。   

*「コウモリ」の序曲  ヨハン・シュトラウス2世が1874年に作曲

小学校4年生からヴァイオリンを習い始めました。 中学校を卒業するまで先生について習いました。  並行して長音の勉強もしました。   歌も小学校時代から好きでした。  クラシック音楽と出会ったのはFMラジオでした。  CDが出てきた当時でお小遣いを溜めては好きなCDを購入していました。   バロック音楽が好きで、はまってしまったのはヴィヴァルディの「四季」です。  

「四季」から「春」  

新国立劇場に就職してオペラを見る機会が増えました。  演出というものがある事に気付きました。(26,7歳)   新国立劇場に来日していたイギリスの演出家のデイヴィッド・エドワーズさんに相談したら、ロンドンに来て勉強したらどうかと言われて新国立劇場を退職してロンドンに行くことにしました。  3月31日まで働いて4月1日にロンドンに向かいました。  芝居の基礎から勉強してみたいと思ったので、大変有意義な時間でした。 自分がオペラに入るきっかけとなった「コウモリ」の演出家のロベルト ヘルツルさん?のアシスタントをする機会が得られて、ウイーンに行くことを勧められウイーンに行く事になりました。  本当にご縁には恵まれたなと思っています。 

来年はワーグナーのオペラを演出する予定になっています。  演出家としてはその作品が何を言っているかという事を間違いのない形でお客様に判っていただくことが大事なことだと思います。  

*「コウモリ」の第三幕のフィナーレ












2021年10月23日土曜日

藤原帰一(国際政治学者)        ・【私の人生手帖(てちょう)】(後編)

 藤原帰一(国際政治学者)        ・【私の人生手帖(てちょう)】(後編)

後編では、国際政治と映画はどのように繋がるのか、その基本となる姿勢はどのようなものなのかを中心に伺います。

映画を考えるときに、どのへんでどういう展開が出てくるのかということが大変大事です。 ヒーローが居てヒーローは色々欠点とかがある、何らかの出来事によって追い詰められる。  助けそうな人も配置しているが、そう簡単には助けてあげない。  追い詰められて助けてもらう。  これがラブストーリーだったら最後に結ばれる。  色々伏線もある。     これをちょっとでも変えて面白くすることは難しいことです。 「カサブランカ」は何度も見ましたが、脚本の構成も画面の構成も本当にクラシックなハリウッド映画ですね。   男は意味ないのにかっこつける。  「気取り」が男を支える気取りなんです。  娘が好きなのは「風と共に去りぬ」。  「風と共に去りぬ」はかつての南部に対する強烈な憧憬を持ったスカーレットがかつての南部にぴったりのアシュレーに憧れるわけです。  レッドバトラーがスカーレットから最後の最後に出てゆくわけです。 明日があるという事を発見する。  映画はジェンダーの視点によって違ってくるんですね。  

「山猫」(監督はルキノ・ヴィスコンティ)、「道」(監督はフェデリコ・フェリーニ)   「道」では女が「私なんか生きている値打ちなんかないのよ」といった時に、道化師の男が石を拾って「こんな石にもちゃんと神様がここにおいてくださっている意味があるんだよ。」というと、女が救われたような顔をするんです。  ここだけの場面でも凄い映画です    「山猫」では舞踏会 自分は貴族で、貴族は滅び去ってゆく階級だと思っている。  甥が成金のお嬢さんと結婚する、これが新しいイタリアになって行くんだろうとわかっている。  貴族の令嬢たちはやがて滅びてゆくだろうと思っているが、舞踏会では見事に踊るわけです。  滅びゆく貴族だけれど貴族にしかできないんだという誇り。   一つの時代の終わりを 舞踏会一つで示してしまう。  ヒッチコックは「暗殺者の家」から「サイコ」まで全部好きです。

日本では小津監督の映画は素晴らしいと思います。 溝口健二監督西鶴一代女』、黒沢監督の映画も繰り返し見ます。  「野良犬」「用心棒」「天国と地獄」など。 

高校生の時にスピルバーグ監督の「激突」という映画が公開されて、「野良犬」などを見て、構成が卓抜で僕が映画の世界に入ってゆくのは駄目だと思い知りました。  映画の世界に関われないんだったら、生きる意味は有るんだろうかと、そこまで考えました。  弁護士とかになってお金を稼いで映画を見る人生を考えていましたが、国際政治を教えていた坂本先生の授業は違っていて、考えさせることを大事にする先生でした。  国際政治に関心があったし、面白いと思って大学院への進学を決めました。     

武田泰淳という作家の「政治家の文章」の中で、政治家が書いた文章を紹介しながら、どういう人なのかという事を面白がっている。  ちょっと突き放した視点。 武田泰淳と丸山真男とは友達で、丸山真男もちょっと突き放した視点で面白がる、それが私は好きだったと思います。  政治の分析をするときに注意しなくてはいけないことは、なにが起こっているのかについて、どこまで判るのかを見る事です。 情報は不完全。  こういう事になっているんだよという事は早い時期から流れます。  判っていることと判っていないことの区別をまず自分で立てることが一番大事です。   判ったつもりになることが一番怖いです。  

今年の8月31日のアフガニスタン完全撤退という方針を貫く、ドーハで行われた和平の協議が破綻した。 その時の選択肢はあり、撤兵を繰り延べにする(時間稼ぎが出来た)、でもバイデンはしなかった。   これは判らないことで、おそらくトランプ政権の時にタリバンとアメリカ政府が交渉して、完全に撤退するならそれまでアメリカの兵士を攻撃しないとタリバンはいうんですね。  トランプ政権の時に実際に守られていた。  撤退を繰り延べにしたら、米兵に対する攻撃を始める可能性がある、だから出来ない、完全撤退を堅持したんだと、私はその可能性はあると思います。  仮説を言いましたが、もっと情報を集めてきちんと押さえなくてはいけない。  新聞記者などはとにかく起こったことに対して書かなくてはいけないが、学者はこれは判りませんという事は出来る。  

私たちは現実を客観的に見ることができないです。  みんな自分の見える範囲で見ているし、自分で持っているものの見方に沿って解釈している。  客観的な現実となると良く判らない。  現実は色々な視点から構成されていて、政治の現象は特にそうなんです。  限られた情報の中でやり取りをする。 国際政治の場合には特にそうですね。  映画はカメラの視点、カメラは全部映すことができる。  映画は視点を明確にするために工夫をします。  この人の目から見ているんだなという事をわざと出す。  主人公の視点から映画を見るように表現を工夫している。 又主人公よりも引いた視点でサスペンスを作る。  映画は視点の操縦によって生まれてくる。 小説の場合も主人公の視点を中心として小説を組み立てるという方法が、20世紀小説には特に盛んになって来る。   その後語り手が信頼できない人だという筋書きも出てくる。(羅生門など)   様々な視点から見ていると見えてるものが違う、ストーリーが違う、それを何だったんだろうかという事を再構成するのが国際関係の勉強なんです。  まさに映画と国際政治が繋がるんです。







2021年10月22日金曜日

安井浩美(通信社通信員)        ・愛するアフガニスタンで20年

 安井浩美(通信社通信員)        ・愛するアフガニスタンで20年

タリバンによりアフガニスタンの首都カブールが制圧され、アメリカ軍の撤退期限が8月31日と迫る中、急遽派遣された自衛隊機で退避した唯一の日本人が安井浩美さんです。  安井さんは中学生の時に見たNHKのシルクロード番組に夢中になり、初めて憧れのシルクロードを旅したのが26歳の時でした。  それから4年後美しい民族衣装の遊牧民がいるというアフガニスタンに入国が叶いました。  戦禍のアフガニスタンを訪れ困難にあっても素朴でおおらかな人々と交流する中で、2001年タリバン政権が崩壊した後、アフガニスタン移住を決意します。   2001年から安井さんは現地で貧しい子供たちへの寺子屋を開設したり、手芸工房を開いたり女性たちの収入の場を作ったりしてきました。  今はアフガニスタン人の夫と離れ、一人で退避することになってしまい、タリバン政権が女性の就労をどう認めるのか、いつ帰国できるのか、見通しのたたない日々が続いています。  安井さんが暮らしてきたアフガニスタンの社会とそこで暮らす素朴で温かいアフガニスタンの人たちについて、イスラム社会での女性の立場、役割とはどんなものなのか、そして今国際社会はアフガニスタンとどう向き合って行けばよいのか、安井さんに伺いました。

8月27日自衛隊機によって退避した唯一日本人。  現在はパキスタンのイスラマバードで退避しています。  400km離れていて気候風土が全然違います。  カブールは高地で過ごしやすいんですが、イスラマバードは低地で湿気が多くて雨が多くて緑が一杯です。日本政府から退避するようにとの連絡があり、24日には飛行機が来ていました。  退避する人たちが集合場所に待っていた時に、爆発が起こってしまいました。  大使館チームはバスが15台ぐらいで、全体では200人ぐらいいたと思います。   自爆テロという事でその日は退避できなくなりました。  翌日空港に向かってタリバン兵の居る検問所で許可の手続きをしました。   

8月15日カブールが陥落した時には何の前触れもなかったです。  こんな早い段階でカブールが陥落するとはだれも思っていませんでした。   その日も普通に仕事をしていました。   事務所は町の真ん中にあり、普通タリバンが居ませんが、白い旗が立っていてタリバンが入って来たのを自分自身の目で見ました。   

何もかもわらないというのが事実で、タリバンが勝利宣言をしてからいろんな人から聞きますが、タリバンは根本的には以前と変わっていないのではないかという意見が多々聞かれます。   25年前のタリバンの考え、やり方とは現在は違うように見えますが、いずれそのようになるのではないかと思ったりしています。  女性たちのデモがカブール以外でも起こっていましたが、デモをする場合はタリバンに許可を取るようにという事で、最近はデモの話は聞かなくなりました。   この国では元々女性が一人で外を出歩くという事はありませんでした。  女性の衣装も自由度がありましたが、今後はどうなってゆくのかわかりません。  爆発などがなくなったのは良いですが、権利、自由が奪われつつあるのは現実なので、タリバンと国民の間でどううまく解決できるのかという事は今後のことです。  

中学生の時に見たNHKのシルクロードの番組に憧れてどうしても自分の目で見たいと思って、25歳の時に友人と1年間のシルククロードの旅に出ました。  アフガニスタンとイラクが戦争中でアフガニスタンには入れませんでした。   どうしたら入れるのかを考えて、ジャーナリストビザを取って入国しました。  2001年の9・11の同時多発テロ以降、通信員として働くようになって、アフガニスタンに腰を落ち着けて住んでみたいと思い移住を決意しました。  気に入っていましたが、もっとアフガニスタンを知りたいという思いはありました。   日本とは違う親切さが身に染みました。  すごくおおらかです。  食事、泊めてもらう事とかに一切気を使わないです。  大家族で子供は5~7人ぐらいで、中にはひ孫まで一緒に住んで200人ぐらいになる家族もいます。  家父長制です。  女性のほうが強い家族が多いですが、貧困家族では男性が強い場合が多いです。  民族、地方、個人によって差はありますが。   

避難民の家族の人から子供の教育をして貰いたいという話があり、避難民のキャンプの一角を利用して寺子屋みたいな学校を作りました。   最初70人ぐらいいましたが、別に建物に移らなければいけない事情が出来て、国連、国の難民省が政府の建物で廃墟で空いているところがあり、そこに移動しました。  そこでは200人以上が通っていました。 5歳から15,6歳ぐらいまでです。  子供にとっての普段できない想い出作りをしたかった。  5年間やりました。  2007年には子供たちも学校に行けるようになって、キャンプも閉鎖する時期になって、私も引退しました。   

寺子屋の流れで、働けない母親に対して刺繡をしてもらう仕事が見つかって、出来る人を集めて仕事をしてもらいました。  続けたくて2010年会社を立ち上げて本格的に始め11年目になりました。   女性が働くという事は男性に甲斐性がないからという風な見方をされてしまう、女性が働いているという事を小耳にはさむと怒るわけです。  この20年の間どんどん変わってきて、女性が働くことによって家計が2倍になるわけで、豊かになるわけです。  それで男性も協力的になってきましたが、かたくなな人も一方でいます。  

この先どうなるかわからず、工房は今閉まっている状態です。   1000年以上も壊されなかった仏像が、たった20年間支配してきたタリバンに壊されてしまって、或る芸術家は私たちを認めるとは思えないと言っていて、その時にはこの国を出るしかないと言っていました。 アフガニスタンの人たちへは状況を見つめて神にゆだねるしかないと思っています。 国際社会の的確な判断がアフガニスタンの国がどう行くのかというのを大きく左右すると思うので、そこのところを国際社会にどういうサポートが出来るのか、立て直し出来るように知恵を絞っていただきたいと思います。












2021年10月21日木曜日

橋本孝(ドイツ文学者)         ・ドイツ文学に好奇心が動き出す

 橋本孝(ドイツ文学者)         ・ドイツ文学に好奇心が動き出す

岡山県生まれ、86歳。 宇都宮大学の教壇に立つ一方でグリム童話をはじめとした多くのドイツ文学の翻訳を手掛けてきました。   10年に渡って日本とドイツの学生の派遣事業を行うなど国際交流などにも尽力しました。   そうした功績がたたえられ今年6月にドイツ連邦共和国功労勲章1等功労十字章を受章、8月には外務大臣賞を受賞しました。   歳を重ねても学び続ける重要性をグリム童話から教えられたという橋本さんにドイツ文学の魅力を伺いました。

グリム童話に死神というものがあります、日本の死神は枕元に立つ事になっていますが、ドイツのグリム童話の死神はベッドの足の方に立つ、死神は足の方から来るんです。  足を鍛えましょうという事で一番いいのは歩くことです。  天気のいい日には散歩(1万歩 約6km)をしています。  歳をとると散歩が面白くなります。  知識を病まないようにする、そのためにはいろんなところに自分を置きましょう。   子供らしくなるといろんなことが疑問になる。  そうすると自分で調べるわけです。  

学校は法学部を卒業しましたが、先生がドイツ語をやりましょうという事になって、特別授業をやってくださって原書を読むことになって、当時親からの送金の5000円をほとんどドイツ語の勉強につぎ込みました。  法学部を卒業後文学部独文科に行きました。  周りからは笑われました。  博士課程まで終わりました。  宇都宮大学の教養部が独立して新しい教授が欲しいという事で、留学から帰ったばっかりだったので、応募したら採用されました。  グリム童話を本格的にやろうと思ったのはドイツの大学に行った時に、ドクター、デイネッケさん(図書館長)からグリムをやりませんかと言われたのがきっかけでした。  ドイツにはたくさん行きました。  ベーテルへ泊っていた時に障害のある人たちがみんな働いていることに感動、ショックを受けました。  

同じ地元の文学者山本有三の存在が大きかったです。  東大の独文科を卒業して演劇を主としてやられて、ゲーテと似たようなところがあるわけです。  山本は親から丁稚奉公に行かされるが向学心に燃え、紆余曲折しながらも東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。  共産党との関係を疑われて一時逮捕されたりするが、菊池寛に助けられる。   人のつながりは本当に重要だと思います。   日本国憲法の序文の文章は山本有三の文章であるという事、戦争放棄の問題もこれは文化だと、文化は耕すという意味ですから、世界中を耕して日本国憲法を植え付けていきましょう、というわけで文化の日が出来た。   日本人は大きな宿題を山本有三から与えられていると思います。  

グリム童話を読むときに一つ気を付けてもらいたいところがあります。  昔話は掘り起こしただけではなく、現代生きている悩みとかいろんな環境の問題とかいろんなものをそこから学び取ることが重要なんだという事です。  いじめがあるが、これは怖い話をしなかったせいです。   グリムは序文に残酷なものが沢山入っています、でも父母、祖父母の愛情をもって話してくだされば、子供に響くはずだと、子供は二度とそのような事はやってはいけないと自分で思う。  

この本には全部で201話入っています。  10年かけて翻訳しましたが、難しいのは方言です。  ドイツ人に助けてもらったりしました。  2019年 デイネッケさんの息子さん家族が日本に来て会う事が出来感激しました。    

2021年6月にドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章することになりました。   その後外務省からメールが入って外務大臣賞を頂くことになりました。 日独の理解と若者の交流をやったので表彰しますというような内容でした。  東日本大震災前は日独合わせて800人ぐらいの学生が企業研修とホームステーのプログラムをやってきましたが、震災後は現地の若者を元気づけようとドイツから毎年20人が来ました。  サマースクールをやって植樹をしました。   

グリム童話、グリム兄弟は人生の書だと思っています。 或る意味では哲学の書です。   哲学は愛と知の学問で、これがグリム童話の中にはあるんです。  子供に読みなさいと言って渡すのではなく、両親、祖父母がゆっくり読んで聞かせてあげるのが重要です。  ドイツ文化全体を考えていただくとドイツ人のものの考え方、学ぶものがあるのではないかと思います。







2021年10月20日水曜日

瀬古利彦(元マラソンランナー)     ・【スポーツ明日への伝言】息子がくれた心の金メダル

瀬古利彦(元マラソンランナー) ・【スポーツ明日への伝言】息子がくれた心の金メダル 

瀬古さんは日本陸上競技連盟のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして、東京オリンピックでのメダル獲得を目指して先頭に立って日本のマラソン界の強化に当たってきました。  そうしたさなかオリンピック目前の今年4月血液の癌ホジキンリンパ腫と8年余り戦い続けてきた長男の昴さんが34歳でその生涯を閉じました。  昴さんは闘病中の心の動き、家族との交流をユーモアに包んだ文章で書き綴り、「がんマラソンのトップランナー」という1冊の本に残しました。  がんマラソンのトップランナー瀬古昴さんのゴールを最後まで見守り続けた父瀬古俊彦さんに伺います。

ランキングからすれば大迫選手も100位ぐらいのレベルですが、6位入賞しました。  女子も一山選手が8位で二人とも見事な入賞だと思います。   大迫選手の走りが若い選手に勇気を与えたと思います。  

4月13日に長男昴を亡くしました。  僕は気持ち的には大分落ち着きましたが、家内はまだ落ち着かない時があります。    生きるか死ぬかという事をここ1,2年やっていて、オリンピックとも重なったので、私の気持ちが現場の若い選手たち、スタッフたちに伝わらないいように明るく立ち回りました。  昴が「がんマラソンのトップランナー」という本を出版しました。  書き始めたのは亡くなる1年半前ぐらいです。   書くきっかけは1月1日に医師が巡回に来られて、「昴君の病気は初めてのことが多くて、我々もいろいろ勉強になっています。 昴君は病気のトップランナーだから。」という話が出ました。   その後マラソンを見てトップを走るランナー、これが僕だと思ったようです。  ホジキンリンパ腫でした。  

「この本を書きたいと思ったのは、まず自分の経験を一度客観視したいと思ったから、そうすることで自分が何を得たのか、読んでくださる皆さんと何をシェア出来るのか、整理してみたかったからです。  そして辛かったことも明るく楽しく伝えたかった。 人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇だという、チャップリンの言葉があります。  客観的に見ることでつらいこともユーモアに変えられると思ったのです。」

本にはそのように書いては有りますが、本当に痛い、苦しい、辛いそれの繰り返しでした。最後にオチを付けて書くという、凄いと思いました。  僕には痛みや苦しみを見せなかったですね。  

昴は1986年生まれで、ソウルオリンピック(最後のマラソン)のちょっと前でした。  びわ湖マラソンで優勝してソウルオリンピックの代表権を得る。  メダルは取ることが出来なかったが、家に帰ってきて、家内と2歳の昴が折り紙と段ボールでメダルを作ってくれて授与式をしてくれました。  そのときには大泣きしました。  あの時にはバッシングがありましたし。

「父に対しては20代のころから変なライバル心があり、強く反抗していたように思います。・・・性格的にも真反対、繊細で敏感な僕と超鈍感な父。 父の生き方には最近なるほどなと思わされていて、父の生き方から学べることが沢山あるなと思っています。 病気になってからこの期間で僕自身も多少は苦労をしたという自負が出来たのかもしれません。」

昴はお父さんを全然超えていますね。 本当に痛みに耐えていましたから。  昴は大学に進んで環境問題に取り組みました。  家では電気、その他いろいろ注意をされました。 2012年ごろから様子がおかしくなりました。(25,6歳)  昴は怒りなどを内にため込むタイプでした。  「マッサージをしてくれれば病気が治るような気がする」というのでマッサージをしてやっていたら、「お父さん、僕は一日の中で一番楽しみなのは、お父さんからマッサージしてもらうのが一番楽しみだ。」と言われて、涙をこらえてどんな時にもマッサージしようと思いました。  

亡くなる1週間前に昴から連絡があり、「もう声が出せなくなってしまうかもしれないからいうけど、大事なことを言うからよく聞いてて、僕お父さんのこと大好きだよ。」と言われました。  「ありがとう、 お父さんも昴のこと大好きだ。 必ず治して又元気でやって行こう。」と言いました。   4月8日に三重県の四日市で僕が聖火ランナーをやって、その聖火を病院にもっていって、昴に見せてあげられたのがよかったと思います。







2021年10月19日火曜日

田村佳子(英語塾講師)         ・横浜英連邦墓地に見る平和の願い

田村佳子(英語塾講師)         ・横浜英連邦墓地に見る平和の願い

47年前の10月横浜に引っ越して間もない田村さんは、散歩がてらに近所の森を訪れました。   森の中は芝生か広がりバラの花が咲く空間、そこは広大な英連邦墓地だったのです。   この英連邦墓地に眠る英連邦捕虜は1700人余り、墓碑銘を見るとその多くが20代の若者でした。   なぜこんなに多くの若者がここに眠っているのか、戦後生まれの田村さんはこの疑問をきっかけに墓に眠る若者たちの経緯を調べ、海外から訪れる元捕虜や遺族との交流を重ねてきました。   

 第二次世界大戦で日本で亡くなった英連邦の兵士たちのお墓です。  シンガポール、ジャワなどで英連邦軍、アメリカ軍、オランダ軍などを捕虜にします。  船で日本に連れて行きます。  日本の若者は戦争で行ってしまうので補充するという意味合いもあったようです。  捕虜収容所は日本には130か所あったんですが、炭鉱、造船所、工場、鉄道の荷物の上げ下ろしをする人などがいました。   病気やけがで亡くなった人たちを埋葬したものです。  アメリカ軍、オランダ軍は遺骨を本国に持って帰りますが、英連邦軍は第一次世界大戦の時にあまりにも死者が多いので、戦地にお墓を作って埋葬するという法律が決まって、第二次世界大戦の戦死者もそれに則って戦場だったところに埋葬しています。  日本では横浜にある墓地が唯一の墓地です。  

初めて墓地に踏み入れた時には全く予備知識がなかったのでびっくりして何の墓地だろうと思いました。   翌日にも行ったら事務所でいろいろな資料を見せてもらいました。  次回、イギリスから何人か来るのであってもらえないかとの話がありました。  今度エリザベス女王が訪日されるので,BBCがそれのための取材をしているのでインタビューさせてほしいとのことでした。   墓地の印象などを伝えました。  その後墓地に来る戦争未亡人、捕虜体験の方と交流が積み重なっていきました。  戦争の歴史、捕虜の歴史など全く知らないまま、その人たちに会って、彼らの考え、どんな生活をしてきったのかなど直接うかがう事が出来ました。   

墓地の管理人を介して笹本妙子さんに会う事になりました。  二人でPOW(Prisoner of war)戦争捕虜研究会を立ち上げる。   130か所ぐらいあったので地方地方で細々と研究している人たちがいるという事が判って、2002年に立ち上げました。 日本の書類はほとんど焼却されていて、アメリカの公文書館などに沢山ありました。  当初30万人ぐらいが捕虜になっていて、なかには捕虜輸送船で日本に送られる人たちがいて、中途で爆撃に遭い沈没する船もありました。  日本に送られた人たちは炭鉱、造船所、工場、鉄道の荷物の上げ下ろしなどで働かされました。  

最初遺族とか友人とかとの方々と会う時にはどういったらいいのかわからなかったが、1980年代後半からすこしずつ許そうじゃないかと変わってきた方々がいました。  「昨日横にいた友達が今日は亡くなっている。  ただただ悲しい。 僕たちの青春を返してくれ」という人もいました。  

イギリスが2年に一回戦争未亡人の墓参の旅がありました。  エレンバタワーズ?さんという方がご主人のお墓に来られました。(昭和62年)   エレンさんとの文通が始まりました。 写真を送ってくれて、これが主人で、時々でいいからお墓の近くに咲いている野の花を供えてくれないかという事でした。  エレンさんが亡くなりましたというう事を娘さんから手紙が来ました。  結果的に二代に渡って文通することになりました。 父の墓に行きたいという事で娘ら5人と共にまず横浜の墓地へ、そして父の墓の函館まで一緒に行きました。  バラが用意されていて小さなバラの植樹式がありました。 今は150cmぐらいになって大輪のバラの花が30ぐらい咲かせているそうです。(植樹は14年前)

「恨みつらみはあるかもしれないが、お互いに平和について考えませんか、過去は修復できないが、子供世代、孫世代に向けて、平和についてお互いに話し合い努力することはできないでしょうか」、って言ったら「そうしましょう」と言ってくれる人は何人もいたので嬉しく思いました。  

ブレア首相が来日して、ある機会がありブレア首相に声を掛けました。  墓地とのかかわりなどを一気に言いました。  「この墓地は平和について考えることが出来る大変重要な要素を持っている。」と言いました。   にっこり笑って写真を撮りましょうという事になりました。  

オランダ国王のレセプションにも招待されました。  オランダの外務大臣からの連絡でした。  明日も来てほしいという事で行ったら、オランダ国王ご夫妻がが日本に来ていて、そのお別れのコンサートがありそれに招いてくださいました。  コンサートではお見掛けすることが出来なかったが、後程外務大臣と侍従長の案内で国王ご夫妻の前に伺う事が出来て、オランダ国王の新聞記事のことなどをお話ししました お妃から会わせたい人がいるという事で、連れられて行ったら、今の上皇ご夫妻が居てびっくりしました。  私の取り組みについてお妃が紹介されて、当時ご両人からお言葉を頂き、「歴史はとても大事です。 歴史を忘れてはいけません。」とおっしゃられました。

戦争は兵隊だけが戦って苦しむのではなくて、その家族も一般市民も巻き添えを受ける事になる。  肉体的にも精神的にも被害を受ける。  平和を守っていきたいと常に思っています。  

「私は父の墓参に日本を2度訪れた。  それは平和と友情の橋を両国にかけたいとの思いの旅でもあった。  戦争は多くの破壊と損失をもたらす恐ろしいもの、もし人類がお互いに助け合っていきることを学ぶなら必ず平和と幸福は世界中に広がり、戦争は無くなるでしょう。 ・・・平和と友情の橋を架けるため、もし一人一人が小さな石を持ち寄るなら少しずつ憎しみの心は解けて平和が花開くでしょう。」









 

2021年10月18日月曜日

川瀬露秋(地歌筝曲・胡弓演奏家)     ・【にっぽんの音】

 川瀬露秋(地歌筝曲・胡弓演奏家)     ・【にっぽんの音】

進行役:能楽師狂言方 大藏基誠

師匠が川瀬白秋で秋を頂いて、自分で「川瀬露秋」と考えました。  

1967年福岡県久留米市生まれ。 母親の影響で小学校1年生の時にお琴を、小学校2年生の時に三絃の三味線を習い始める。  中学2年生の時に地元の合奏会で演奏していたところを、琴古流尺八奏者の第一人者の川瀬順輔さんにスカウトされる。  15歳で生田流筝曲川瀬白秋さんの内弟子となる。  

将来芸大に行って戻ってきてお琴の先生になりたいという思いはありました。   川瀬順輔さんにスカウトされ単身上京して、三絃、胡弓、歌舞伎三曲を学ぶ。   2009年に川瀬の家の芸を継ぐために師匠夫婦の養子になる。  川瀬露秋」を襲名する。  現在は生田流筝曲白秋会の代表として演奏会や舞踊の地方、伴奏での演奏、歌舞伎三曲の演奏、編曲、音楽史などを行っている。  

歌舞伎三曲は江戸時代から続く3種類の音楽の総称で、筝曲(琴)、地歌(三味線)、尺八音楽で独立して演奏することもありますが、合奏するそれが三曲と言われています。   日本三曲協会があり広報部を6年間勤めました。   三曲は能から来た曲がとても多いです。   能を見るようにして能とのつながりを勉強しています。  

*胡弓 音色を披露  弦を弓で擦って音を出す楽器   本体は三味線よりも小さい。 胴を回して演奏する。

*「鶴門」 作曲:川瀬順輔  胡弓奏者:川瀬露秋 尺八だけの演奏だったが川瀬白秋先生が胡弓の手をつけて尺八と胡弓の合奏の形にしました。 

内弟子時代は稽古は厳しかったが、可愛がっていただきました。  歌舞伎の舞台では黒御簾というところ(舞台の下手にある部屋)で三味線や鳴り物の方と一緒に演奏します。  「縁切り」、「あこや」、「朝顔日記」など胡弓での有名な演目があります。  市川猿之助さんのお芝居の時に17歳で初めて師匠と一緒に黒御簾で弾きましたが、21歳のときには一人で初めて黒御簾で弾きました。  添うように演奏するよう心掛けています。

*「雪」 地歌   胡弓奏者:川瀬露秋

日本の音とは、春は鶯、夏はお祭りの音、秋は虫の音、冬は除夜の鐘の音です。

*「夕焼け小焼け 変奏曲」 作曲:野村正峰  胡弓奏者:川瀬露秋  ほか琴、十七弦


2021年10月17日日曜日

2021年10月16日土曜日

岸田 ひろ実(母)            ・「もうあかんわ」を切りぬける 作家・岸田奈美 母と娘の15年〈1〉 

 岸田 ひろ実(母)  ・「もうあかんわ」を切りぬける 作家・岸田奈美 母と娘の15年

〈1〉 

パラリンピック放送のスタジオゲストやワイドショーのコメンテーターとして活躍しているエッセー作家の岸田奈美さん(30歳)、ダウン症の弟良太さんのこと、中学時代に心筋梗塞で亡くなった父親のこと、大動脈乖離で倒れて車椅子ユーザーとなった母親のこと、家族のことや日々のてんやわんやを軽快な関西弁で綴り相次いで書籍化されています。  岸田奈美さんと母ひろ実さんが家族のピンチをどう乗り越えてきたのか、そして母と娘はどう向き合って来たのかを3回シリーズでお送りします。 一回目の今夜は母ひろ実さんがこれまでの道のりを語ります。

短期大学を卒業して大手系列の不動産会社に就職、そこで主人の浩二さんと出会う。  野球をずーっとしていたので、身体はがっちりしていました。  結婚して1年半で寿退社しました。  22歳で奈美が誕生。 26歳の時に阪神淡路大震災に遭う。  マンションの7階で壁にクラックが出来たり、家具が全部倒れたりしましたが家族は全員無事でした。  甲子園球場の近くに夫の実家があり、半壊でした。  両親を車で連れ帰りました。  主人の父親は大工でじっとしてはいられないという事で戻り、主人はサラリーマンで自宅待機を申し付けられていました。   会社を辞めて大震災で困っている人たちを助けるという思いで、父親と一緒にやってゆこうという事で、まず大工仕事を父親から学びました。  

1995年第二子 良太が生まれます。  息子がダウン症だということが判りました。 医師から説明を受けて意識が遠のいてゆくような状況で、ショックでした。  主人は「みんなと一緒に遊びに行けるし、生きているだけでいいんや」、みたいなことを言ってくれた時に「いやいやそうじゃない」と辛くて、「このまま良太と二人で消えてしまいたい」とポロっと言ってしまいました。   「ママが育てるのがいややったら、育てなくていい、どこかに預けることもできる、俺はママが元気やったらいいから」と言われました。   なんてことを言うのと思うと同時に、いざとなったら育てなくてもいいと思ったら、すごく気持ちが楽になりました。   やれるところまでやろうと一瞬で変われました。

出来ることがいろいろ遅かったが、彼の得意なことをまず伸ばしていこうと思いました。  保育園で人生で覚えなければいけないことを保育園のお友達から教えてもらったといっても過言ではないような保育園生活でした。  二人を同じように育てていたつもりでしたが、娘が転んだ時に、良太を手放せないので、「起きなさい」と言ってもさらに号泣して、「私のことなんかいらんと思っているやろう 良太のことが好きなだけでしょう」と言われて、えっと思いました。  こんなに寂しい思いをさせたのかと思いました。  それからはことあるごとに抱きしめようと思いました。   

2005年6月9日主人が亡くなってしまいましたが、その2週間前「ちょっと胸が苦しいような気がする」と言っていました。   車で迎えに行って帰ってきて車を降りて歩く姿が本当にゆっくり歩くんです。   病院に連れて行こうとしたら行かないと言っていましたが、その晩の11,12時ぐらいに胸が苦しいので救急車を呼んでほしいと自分から言いました。   手術を開始したが、予想外に危ない状況で人工心肺装置を付けなければいけなくて、2週間の闘病生活がありましたが、意識を取り戻すことなく亡くなってしまいました。  急性心筋梗塞でした。  主人は39歳で私が37歳の時でした。  

号泣したのは亡くなった時と葬式の時ぐらいで、後は色々忙しくて泣いていられない状況でした。  それと主人が尊敬していた人からの手紙があり、小学校の時に父親を亡くしたが、父親を亡くしたことよりも母親がずっと悲しみに泣いている姿を見ることが僕にとってつらかったので、ひろ実さんには悲しいでしょうが、子供たちの前では元気な振りをしてください、という内容で、そこからスイッチを切り替えて、これからは夫の替わりをしていこうと思いました。  整骨院での受付の仕事から始めました。  整体の教室が福岡であるという事で行きました。  もう少しで整体の学校も終えて次の段階に行けるかなあと思った時に、大動脈乖離という病気になってしまいました。   救急車で病院に行きCTを撮ったら1分1秒を争う事で死ぬかもしれないという事でした。  冷静に聞けるのが高校2年生の娘しかいませんでした。   元通りになるのはほとんどゼロに近くて、とにかく命を助けることを最優先にしますという事でした。  手術は成功したが下半身が利かない状態になりました。 

リハビリが始まると現実が段々判ってきて、寝返りの練習から始まります。  起き上がることが出来ない。   落ち込みましたが、兎に角元気を装うとしました。  社会で生きてゆくことができない、子供たちの世話もできないという事が判るにつれて、ついに情けない気持ちを打ち明けてしまいました。  娘に助けてもらいながら或るカフェに入って、娘に向かって「私は死ぬかもしれないし、死にたいと思っているから死んでも許してほしい」という気持ちを打ち明けてしまいました。   「わかった、死にたいなら死んでもいいよ 許す」と言われました。  吐露したら気持ちが楽になりましたが、「死んでもいいよ」と言われたらさらに気持ちが楽になりました。  本当に苦しい時とか悩んでいる時にはこの人に言っちゃあ駄目とか決めつけないで、まず言ってみたらいいんだなと思いました。   この気持ちを誰かに聞いてもらうという事がすごく大事なことだと思います。

物理的に歩けなくなったという事でしてあげられることが減ってきて、子どもたちに頼らないといけないことが増えてきて、頼られる存在ではなくていいんだなと思って、子供たちに頼ってみようと思いました。  「もうあかんわ」という事が色々襲ってきますが、何とかなってきています。  生きるか死ぬかで考えたら、大体のことはシンプルに決断を下せるなという感じです。  



 









2021年10月15日金曜日

杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・【人生の道しるべ】〝一世(ひとよ)の終りに降るもの″がある

 杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・【人生の道しるべ】〝一世(ひとよ)の終りに降るもの″がある

1955年東京都生まれ。(66歳)  武蔵野美術大学を卒業後編集の仕事をしていましたが、27歳で写真家を目指して独立、平成4年36歳の時に家族で礼文島へ移住しました。   以来、礼文島や北海道北部を写真に撮り、写真集やエッセー集、ガイド本など10冊以上の本を出版しています。    杣田さんが今年8月に出版したのが 「キャンサーギフト礼文の花降る丘へ」です。  キャンサー=癌 ギフト=贈り物  杣田さんは2016年に肺がんと診断され手術を受け闘病してきました。  今年の1月に余命宣告を受け命の期限と向き合いながら作った本でした。   礼文の自然と花々、家族と供に生きてきた人生、写真や短歌に込めた想いについて生き生きとお話しくださいました。 そして先週天国に旅立たれました。(収録 9月中旬)

今年初孫が生まれて、6か月です。   毎日毎日変化してゆくのが楽しみです。  「キャンサーギフト礼文の花降る丘へ」を8月に出版して、今まで生きた来た30年間の写真への想いとエッセーと短歌とを組み合わせてこの本は出来ています。   表紙のキラキラ光る海とエゾスカシユリの対比がいいと思っています。  癌になっていただくものが多いと最近思います。 キャンサーギフトとはこういうものだと感じます。 いつも感じないようなことも、こんなことが私の周りにはあるんだという事を改めて感じます。  

私と夫は喧嘩の多い夫婦でしたが、以後はずいぶん夫も優しくなって、いろんな優しさを私に分けてくれる様になりました。   会社との契約ももう少し頑張ってと延ばしてもらえました。   写真をゆっくり見直すことが出来て、私の人生ってこういうものだったんだなと感じます。   

*「うつつとは死を意識して輝くと母の愛した言葉の一つ」  母は88歳で亡くなっていますが、亡くなる前によく言っていた言葉で、その意味がやっとわかるという感じです。  死を意識した時に一層輝く現実があるんだなと今思います。  

漫画家の内山安二さん(代表作に『コロ助の科学質問箱』など。)に凄く影響を受けています。  「一生懸命遊んで一生懸命生きるんだ、それがいいんだよ」、って私に教えてくれました。  彼から随分いろいろな遊びを教えてもらいました。 一生懸命仕事をすることも教えてもらいました。  ヨットとか、お酒を飲んで銀座とはどんなところかとかいろいろ。   67歳の時に大腸がんで亡くなられてしまいました。  ベッドの上でも漫画を描いていました。   このライフスタイルの貫き方が凄く魅力的でした。  「宇宙は優しいよ」という言葉を言っていましたが、その言葉の意味が今は凄く良く判ります。   

*「宇宙は優しいよと石一つ多感な心におきし人あり」  

27歳で会社を辞めて写真家を志しました。  思ったように仕事が進まず、なかなか一人前にもなれなかったです。  それを乗り越えてゆく力は内山さんから頂いたように思います。   主人との出会いは礼文島でした。  こんな面白い人が世の中にいるんだと思いました。   一旦東京に帰ってきて結婚して娘が生まれました。  東京でまた出会って結婚しようという事になりました。   そして出会った礼文島に住もうという事になりました。 生後3か月の娘を抱っこして礼文島に行きました。   なんとも美しいところだと思いました。   山へ行って朝から晩まで花の写真などを沢山撮りました。  夫は電気関係の仕事をしていましたが、さっさと辞めて収入もないのに移り住んでしまって、でも楽しかったです。  夫は宮本誠一郎(礼文島で写真家、自然ガイド、環境アセスメントの調査などの仕事を行う。)で花、鳥を撮ったり、真冬の礼文島のレポートもしています。  

写真家で一つの花とか、一つの地域でずーっと撮り続ける人って意外と少ないです。   花だけではなくて芽が出て実をつけ土に還ってゆく、生き続ける様子を写真に撮るのがとても好きなんです。  それがライフワークだと思っていて礼文島はそれを撮るのに向いています。  

ツリガネニンジンの紹介

*「秋の花静かに咲けり実を結ぶただそれだけにただひたすらに」

エッセーの紹介

「6月の花のように競って咲かず、のんびりと咲いているから秋の花園は癒される、と思っていました。  でも本当にのんびりと咲いているのでしょうか。  違うのではないかと最近思います。  自ら秋という季節を選んで開花しているのかもしれません。 虫たちも繁殖期の様に活発には活動してはいません。 ・・・秋の花の代表として例えばツリガネニンジン、花の形も色も控えめで群落していても静かなたたずまいです。 ・・・ツリガネニンジンのめしべが棍棒状のものと三つに割れているものとあるのを知っていますか、と聞かれました。・・・ツリガネニンジンは昼間より夜の蛾の仲間によって花粉を運んでもらっているらしいのです。・・・昼間はマルハナバチの仲間など多くの昆虫が訪れますが、主に花粉を運んでくれるのは夜に活動する蛾の仲間でした。夜に開花が始まり蜜の分泌も夜のみに行われるそうです。・・・静かな趣きで咲くこの花にこんな夜の顔が隠されているとは、なんと奥深い世界でしょう。  すごいなあツリガネニンジン。」

一つの花に昼の顔と夜の顔があるという、植物の知らない世界を知ることが出来ました。  ほかにも凄いものがいっぱいあるんだろうなあと思いました。  これは宇宙ですね。  

「約束した明日などないと知らされる閃光走る脳内の闇」

初めての抗癌剤を点滴で受けた時に気を失って、その後目が見えるようになって、いろいろ検査をして一安心という事になる。  この病気にはギフトがあるんですね。  

レブンアツモリソウの写真に添えられた短歌

*「とわとわに咲き継いでゆけアツモリソウ人の歴史は置き去りにして」

レブンアツモリソウは絶滅が心配されるほどでしたが、保護活動されていて、ずーっとこの花が咲き継いでほしいという思いでこの花を見ています。   私も保護活動をしていますが、ずーっと自然に咲いているような花になってほしいと思っています。  

道しるべになったこと、一番は家族の存在だと思います。   娘のこともエッセーにしました。 たくさんの出会いが島にはありました。

*「ただいま島の花たち 抱きしめる ともに吹かれし 風のいたみを 」  

花たちとの息遣いをずーっと残していきたいと思っています。   北の島に生きてゆくということの厳しさ、面白さ、やさしさ、自然そのものが本の中に残して行けたら私は最高です。

*「咲きながら一世の終わりに降るものをキャンサーギフトと私は呼ぼう」  この短歌がこの本の中で一番気に入っています。

*印の短歌は文字、漢字などが違っている可能性があります。

2021年10月14日木曜日

沼尻竜典(指揮者)           ・デビュー30年、新たな挑戦

 沼尻竜典(指揮者)           ・デビュー30年、新たな挑戦

1964年東京生まれ。  桐朋学園大学卒業後、ベルリン芸術大学に留学していた1990年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、その後は指揮者として国内外で活躍されています。  オペラ指揮者としては1997年に日生劇場が制作した、モーツアルト作曲「後宮からの逃走」でデビュー、その翌年に開館した滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで初代芸術監督の若杉弘さんの元、青少年オペラシリーズなどを担当、2007年からは第2代芸術監督に就任されました。  これまでに出光音楽賞、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章などを受賞され、今年は第51回ENEOS音楽賞がびわ湖ホールと共に送られました。 

9月末にはNHK交響楽団の定期公演にデビュー、NHK交響楽団とは学生時代からのお付き合いで、弾かせていただきました。  公演の時には早い握手でちょっと戸惑いましたが。  

2歳半ぐらいから家にあるピアノで音を出して遊んでいました。  3歳からピアノのレッスンを始めました。  小学校にあがってからは教室にオルガンがあるので、歌謡曲などリクエストしてくるので弾いていました。  中学の時に鑑賞の方の先生に凄くいい先生がいて、名歌手、名演奏を聞かせてくれました。  高校が音楽高校のピアノ科に入りました。 そのころから作曲に興味があって 、ピアニストになろうという気持ちはなかったです。 桐朋学園大学に進み作曲をやってみたら、ピアノよりももっと孤独でした。  作曲をやっていても大変だなと思って指揮の方に移っていきました。   作曲を三善晃先生には指導を受けていました。  作曲をやるようになってからはピアノが面白くはなりました。 大学4年間は自由に過ごしました。 留学を終えて帰ってきた高関 健さんからは色々教えて頂きました。  今、武蔵野音楽大学で教授をしている北原幸男さん、それから清水 和音さんなど授業以外でたくさん刺激がありました。  

卒業後、2年間はぶらぶらしていて小澤征爾さんのアシスタントなどをしていました。   ドイツ政府の奨学金を頂いてドイツ留学しました。  日本の指揮は型から入りますが、ドイツでは入学試験でピアノやらいろいろ弾かされたり、歌を歌わせられます。  入学試験でカルチャーショックでした。   3人でブザンソン国際指揮者コンクールを受けに行き、2人(現在 フランスで有名な指揮者マルク・ビヨーレ?、中国の指揮者ロン・ユー)は予選で落ちてしまいましたが、優勝できました。  仕事がワーッと来るようになりました。   1991年に指揮者デビューして丁度30年になります。  

いろんな国のオーケストラに行けたりして、日本とは違ういろいろ経験ができました。  オーケストラの人たちとのコミュニケーションはするようにいしています。  指揮は見て覚えるというような感じでした。  いろいろ会話で得るものがありました。

びわ湖ホールが開館するときに若杉弘さんが小規模のものをやってくれないかとの誘いがあってやることになりました。   9年間やりましたが、非常に良かったです。  大きなオペラでは日生劇場でモーツアルト作曲「後宮からの逃走」でデビューしました。  若杉さんが監督を退くことになりその後を引き継ぐ事になりました。  びわ湖ホールは15年やっています。  芸術監督はプランニングですが、年度全体を見ながらバランスとりながら配置をしてゆくとか、コーラスをやらせたりソロをやらせたり、音楽祭のプロデュースをしたりいろんなことをやります。  ドイツの歌劇場の音楽総監督を兼任して、体調を崩してしまいました。 大変だったけれど行ってよかったです。 

来年春からは神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督になります。  普通の演奏会だと数日ですが、オペラだと10日から2週間とか一緒に過ごします。   神奈川フィルハーモニー管弦楽団とはそういった関係が続いてきましたので、ホールもいっぱいあるし、東京にも近いので東京での活動もできるし、という思いでした。   楽器をやってもらうとは大事で、自分が専攻している楽器でもって音楽のエッセンスをきちんと感じたり理解してもらって、そのうえで指揮をやるという、これからはそういう時代だと思います。







2021年10月13日水曜日

清水浩(慶應義塾大学名誉教)      ・電気自動車への見果てぬ夢

 清水浩(慶應義塾大学名誉教)      ・電気自動車への見果てぬ夢

1947年仙台市生まれ。 40年に渡ってEV(電気自動車)の開発を続けてきました。  いままでにつくった試作車は15台、まだ商品化されたものは有りませんが、確実にEV(電気自動車)の時代に向かっていると感じているそうです。 EV開発の歩みと開発にかける思いを伺いました。  

社会が要求するようになったという事とそれに対応できる技術が成長してきたという事が大きなポイントだと思っています。   日本は2035年を目標に新車販売のすべてをハイブリッドを含む電動車にする方針で、EUは2035年にはハイブリッドも含めてガソリン車の新車販売を事実上禁止するという事で、ドイツで世界最初にガソリン車を販売した会社が2030年には新車は全部EV(電気自動車)にすると、加速が凄いです。   

 40年前に始めった時には5年もすればEVの時代が来るという思いでしたが、すでに40年経ってしまいました。   2004年には高性能の試作車エリーカを、NHKスペシャルでも今年10月に世界最速への挑戦、スーパーEV誕生というタイトルで放送。  最高時速370km/hと当時の世界最速を出しました。   重要な要素技術としてリチュウムイオン電池が発明されて実用に使えるようになったこと、ネオラジュウム鉄ホウ素磁石が発明されて実用に使えるようになったこと、(モーターに使った時に小型化、効率化できる磁石)。 車輪の中にモーターを入れる、「イン ホイールモーター」、床下に強いフレーム構造を作ってその中にすべての電池を入れてしまうという考え方、こういったことをすると、電気自動車らしい機能と性能を持ってくれるという事です。  

「イン ホイールモーター」では消費エネルギーが少なくなる。  車体の上の空間が広く使える。  すべての車輪が加速減速を独立に行う事が出来るので厳しいカーブ、滑りやすい雪道での加速減速が安全に出来るようになる。   そういう利点があるので開発してきました。   電動車椅子、電動自転車では使われています。  一般の自動車ではまだ自動車メーカーがそういう気持ちになってくれていないというのが現実です。   テスラが2008年に商品化しました。  2009年に大学初ベンチャーという事で会社を立ち上げ。 テスラのようにならなかったのは一言で言うと開発資金だと思います。  私たちは約10億円で作ることができました。   試作車から商品にするためには信頼性、耐久性、生産性というものすべてを満足しなければいけない。  そのためには100~200億円がかかってしまう。  工場を作るとなるとさらに大きなお金がかかってしまう。  日本の国内での調達が難しかった。  

信頼性のテストをして改良してという事が延々と続くわけです。  衝突試験などにも大きな費用が掛かります。  世界のあらゆるところで走って問題がないかどうかやらなければいけない。 あらゆるテストをして商品として問題がないかどうか証明しなくてはいけない。  国内でも堀江貴文さんが投資をしたいという話もありましたっが、いろいろ事件があって実らなかった。  

小さい時から車を見るのが好きでした。  大学も工学部を受験しました。  東北大学の応用物理に入りました。  交通戦争と言われ年間1万6000人の方が亡くなられていたので、車の道へは悩んで、基礎的なことを学んでおけば新しい機械が作れるのではと考えました。   大気汚染の測定のためのレーザーレーダーの開発をしていました。  国立環境研究所に就職しました。   筑波から東京上空まで測定できるレーザーレーダーを作るのが目標で3,4年かかって装置を作り上げました。 (当時世界最大)   レーザーのパワーよりも反射光を受ける望遠鏡の大きさ(当時の常識は直径50cm→1.5m 面積で10倍)で達成。  電気自動車でも電池のエネルギーよりも走る時のエネルギーを出来るだけ小さくすれば、電池のエネルギーを大きくしなくてもいいという考え方です。 それが「イン ホイールモーター」という考え方です。  エネルギーを極小にするという考え方です。

車が好きで、大気汚染についてやってきて、そこから電気自動車への道へ進みました。  エリーカは私にとって8台目の電気自動車となります。  メーカーでも電気自動車の開発はしていましたが、細々とやっていました。  実用化できる考えの人は皆無でした。  2台目は2輪車に「イン ホイールモーター」を取り入れました。  1997年慶応大学に移る。   商品化を目指すために高級な電気自動車を想定しました。  8輪車8輪駆動を考える。   皇室で使っていただくことを想定して、カズを作りました。   検討していただいたが、豪華な商品は使う習慣がないという事で実用化はあきらめざるを得ませんでした。 カズがエリーカ(5人乗り)に繋がりました。   2000年からは自移動運転の研究も始めました。 その後も試作車を作り続け、大型バスも作りました。  その後高級車から普通のタイプの車を作っていきました。   

2013年に今の会社を立ち上げました。   中心にやっているのは「イン ホイールモーター」をさらに進化させようという事です。  今は第4世代の「イン ホイールモーター」の開発鵜を続けています。  モーターの中にインバーターも組み込むことも考えています。電気自動車特有のプラットホーム(サービスやシステム、ソフトウェアを提供・カスタマイズ・運営するために必要な「共通の土台(基盤)となる標準環境」)に発展させようと考えています。

車が電気自動車になるという事は車が世界中の人にとってより身近なものになる。  車のサイズが小さくなっていって、一人乗りの車が主流になるという事も考えています。   私が考えた電気自動車が社会で受け入れられたなと思えるときが私の人生の始まった時だと思っています。   中国で作られる7%が電気自動車です。(200万台)  日本で作られる電気自動車は0.2%です。  買いたいなあという電気自動車が生まれてきた時に携帯電話の進化と同じような広がり方をするのではないかと思います。  例えば飛行機のビジネスクラスのカプセルに車が付いて走るようなイメージです。   自分では非常にいいテーマに巡り合ったと思っています。












2021年10月12日火曜日

今泉宜子(明治神宮・文化研究所主任研究員)・100年計画の鎮守の杜"明治神宮"

 明治神宮は1920年(大正9年)11月1日に創建され、年間1000万人の参拝客が訪れています。   楠や樫などが生い茂る神宮の森は騒音を遮り気持ちが休まります。   都心の貴重な森ですが、この神宮の森は自然林ではなく明治時代の初期にドイツで森林学を学んだ東京帝国大学の本多 静六教授を中心にした林学者たちによってつくられた森です。     今泉宜子さんは明治神宮の造営について研究され、イギリスやフランスに留学しました。   今泉さんは明治神宮は当時の西洋の思想や知識の影響を受けて作られたもので、西洋と日本の架け橋であると言います。  

 明治神宮は創建されて去年100年経ちました。    明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をおまつりする神社ですが、東京に作ろうと運動して展開したのは、民間有志の方がたで、その中心人物は渋沢栄一さんです。    渋沢さんと東京商工会議所に集まった有志の方々が明治神宮奉賛会という団体を立ち上げ、東京を世界に誇る帝都にしたいという事で、明治天皇と由緒のある代々木の御料地の跡に作る事になりました。  候補地としては39件に上っていました。(富士山、筑波山、箱根山など)   東京の候補地の近くには練兵場がありほこりが舞い、煙突があり煙害でもありました。  環境に強い森つくりに取り組んでいます。    渋沢栄一、東京市長阪谷芳郎といった有力者により人口の森を作るんだという事でした。   明治神宮の森のグランドデザインを作ったのが、東京帝国大学の本多 静六教授。 本多教授の教室にいた本郷 高徳さん(講師)が現場の実務を担ったかたです。 二人ともドイツに留学して林学を学んでいます。   上原啓二さんは本多教室の大学院生でした。(23歳) 上原さんは明治神宮の造園現場で学んだことを博士論文にまとめ、その後東京農業大学の造園科学科の創設者となります。  

明治神宮を作るにあたって3大美談があり、一つ目が渋沢栄一たちが民間運動を展開したこと、二つ目が森つくりをするため、全国から延べ10万本の樹木が寄せられたこと、三つ目が造営工事に当たり、全国各地の青年団の造営奉仕があったことで11万人です。   引き込み線を作って全国から寄せられた予想以上の数を処理しました。   青年団の造営奉仕活動については「青年団の父」と呼ばれる田澤 義鋪さんという方の活躍がありました。  地方青年の育成に力を注いだ方です。  青年リーダー研修として活用できないかという考えでそれを実現しました。   明治神宮鎮座の翌年に全国青年団の拠点が作られ、それが日本青年館で今年設立100年を迎えます。  

森に入ると騒音も聞こえず、真夏には森の中に入るとホッとして森のありがたさを実感します。   森で種類の多い木は楠、樫、椎と常緑広葉樹で東京の気候風土に合わせた樹木として常緑広葉樹を植えることを選択しました。  煙害にも強い樹木でもあります。   最初は常緑広葉樹で作る事には大隈総理大臣が大反対したが、本多 静六教授も最初は針葉樹の明治神宮を作ろうと思っていた。  当時は神社と言えばスギ、ヒノキのイメージが一般的だった。  科学的な判断が決め手になりました。  渋沢は本多教授を呼んで自分たちの想いを伝えて、どうしても東京に人工の森を作りたいという事で、説得する。  本多 静六教授と本郷 高徳は同じ埼玉県の出身で信頼のある仲間だった。   同じ埼玉の渋沢からお金はいくらでも出すからと、の森を君たちの学問と技術で作ってくれと言われて自分達は一生懸命になったと後述している。  情熱と情熱のぶつかり合いという、とてもいいエピソードだと思います。  

上原啓二が大阪の堺にある常緑広葉樹の茂る仁徳天皇領を見て、それをもとに大隈総理大臣らを説得する。  「林園計画書」を立てる。 100~150年かけて自然の森を作る。予測図が4段階あり、①植えた当初 ②50年後 ③100年後、④最後の林相   大がかりな森の健康診断は50年前にありましたが、ここで委員会を結成して森の健康診断を実施しました。  常緑広葉樹の森に遂げつつあるという事、2800を超える生き物がはぐぐまれている、という事が判ってきました。   ヒートアイランド現象で土が乾燥してきて土壌の中の生物が減少している報告もあります。   若い造園学者、東京農業大学の本多先生の後輩の研究者たちが明治神宮で研究会を開いています。   明治神宮はドイツの造林文化、森林美学などを含めた多面的な文化が導入されていると思います。  

2000年から明治神宮に奉職。  東京大学で比較日本文化論を専攻、神道学を学び、明治神宮の研究に至りました。   大学の時には合気道をやっていて、合気道部の本部道場が明治神宮にあったのがご縁になりました。  卒業後鎮守の森、里山の間伐をして間伐材を炭焼きするというボランティアをしていました。   或る時自分も神主になろうと思って、会社を辞めて国学院大学に学んで、神職の資格を取りました。  20年前に研究職として明治神宮に奉職しました。   それまでは出版社に勤めていました。   生まれも育ちも岩手県の田舎で伝統の習俗であったり文化であったり、そういったものにどっぷりと浸かって好きだったという事が私の原風景かなと思います。   研究職となり、ロンドン大学、フランスの国立社会科学高等研究院に勉学しました。   明治神宮では外国人が半数以上占めます。 20年前は外国人のVIPの参拝や海外の大学の受け入れなども多くなってきて日本文化や明治神宮の歴史を外国語で伝える国際力が求められるようになりました。   そこで留学の機会を明治神宮から与えられて、明治神宮の歴史を英文で書いて博士号をとって来いと言うミッションを与えられました。   明治神宮を海外からと内側からの両方の視点から明治神宮の歴史を考察するという事はとても大きな発見があったと思います。 

鎮守の森としての内苑だけではなく外苑、神宮球場とか渋沢栄一たちが作った明治神宮は内苑のほかに外苑があるわけです。  表参道も明治神宮と同じ年に誕生するわけですが、これも明治神宮造営プロジェクトで作られた場所であると考えると、日本の歴史だけではなくて、近代スポーツの歴史であったり、街路の道の歴史といったものがかかわってきて、日本の文化だけでは完結しているものではないわけです。  街つくりの思想も関わっているわけです。  明治神宮の研究を通して比較日本文化というものに改めてたどり着いたというような状況です。  近代絵画の美術館、歴史館なども海外での見聞がとても生かされていると思います。   とても重層的な空間として作られました。  

「明治神宮 内と外から見た百年 鎮守の森を訪れた外国人たち」 新しく出版。     明治神宮を訪れたたくさんの外国人が登場します。  内と外から百年の歴史を見るというものです。




2021年10月11日月曜日

髙柗邦孔(髙柗義伸選手の父)      ・【アスリート誕生物語】車いすバスケットボール 

 髙柗邦孔(髙柗義伸選手の父)    ・【アスリート誕生物語】車いすバスケットボール 

東京オリンピックの車椅子バスケット銀メダル。  アメリカには歯が立たないかと思っていたら、見ごたえのある試合でした。  最初の試合でベンチスタートでしたが、最後の30秒ぐらいを出させてもらって、私の眼からは頑張っていると思いました。   左足の膝が人工関節になったのが中学3年生の時、骨肉腫が再発して左足の切断を受けたのが5年前16歳の時でした。   あくまで障害前の義伸のまんまの対応でずーっとしてきているつもりです。   吃驚するぐらい精神的に落ち込むとかはなかったです。  後ろ向き的なことは一度もなかったです。  

小さいころは喘息気味でしたので水泳を始めて、幼稚園に行ってから体操、サッカー、ラグビーとやって、小学校に入って4年生の時から野球をやるようになりました。  非常に活発です。  走るのが早かったのですが、優しさからか遠慮があってサッカーのボールさばきは得意ではなかった。   私は土日は一緒に野球漬けでした。   プレーの反省の会話をしたりして密になりました。   なんにしてもまじめに取り組む子でした。  みんなで練習した後も家に帰ってきてから素振りしたりいろいろ練習していて、バスケットをやるようになってもその姿勢は同じでした。  勉強はあまりやらない子でした。  食事は何でも食べていました。   母親にはきつい言葉を投げかけることはあったりしましたが、私に対しては反抗期はなかったです。   

足が痛いと言っていたが、整骨院では成長痛だという事だったが、中学3年生の夏の大会の時に、足を引きずるほどで、成長痛でそこまでの痛さはないと思いました。  整形外科に行ったっら、ちょっと骨がおかしいという事でガンセンターか大学病院に行くように指示されて、そこから闘病生活がスタートでした。   大学病院に行きましたが、骨肉腫ということがなかなか判明しませんでした。  1か月検査入院していたが、がんセンターのほうに行ってくださいと言われて、がんセンターへ行ったら即骨肉腫だとわかりました。  抗がん剤と人工関節の手術をしましょうという事になりました。   頭髪が抜けてしまっても学校へは行きたいという子でした。    回りも応援してくれました。   抗がん剤を受けると体がだるくなって寝たきりに一時そういう状況になるんですが、卒業式と公立の高校試験のどっちを受けたいか、選択を迫られたが、卒業式を友達と一緒に迎えたいという事で、私立は受かっていたので、卒業式に出ることに本人が決めました。

再発して左足を切断して、医者からは抗癌剤の治療を勧められたが、もう抗癌剤の治療はしたくないという事で、抗癌剤をせずに今に至ります。   新聞を見ていたら、いろんなスポーツを体験できるフェスティバルがあり、車椅子バスケットを体験できるという事で、誘ってみました。   後日練習場に行ってみて、入ってくださいという事で、佐々木さんが競技用の車椅子を用意してくれて借りて行いました。   左足の膝から下を切断したのが高校2年生の時でしたが、何とかなるかというような、本人もあっけらかんでした。   こちらもできないことはサポートしてけばいいと、そう思っていました。   切断前にたまたまマジックを持っていて、親指の爪に顔を描いてお別れを言いましょうという事で「今までありがとう」と私がいったら、本人も喜んで「俺もやりたい」と言って顔を描いて写真を撮って「今までありがとう 俺の左足」と言って盛り上がっていました。  手術の時には「最後は俺の足で歩かしてくれ」と言って、自分の足で歩いて手術室に向かって行きました。  

手術の翌年2017年高校3年生で23歳以下の日本代表に選ばれました。   2018年には代表の合宿に召集され、2019年強化指定選手に選出され、今年日本代表選手としてパラリンピックに出場して銀メダルを獲得。  こんなビックな選手になるとは思わなかったです。 私はボクシングの部活で高校2年生で関東チャンピオン、高校3年生で全国3位でしたが、義伸が小学校6年生のころに「関東チャンピオンぐらいにはなってよ」、と言っていましたが、もう「代表」には勝てません。  

環境が良かったと思います。 栃木レイカーズにはロンドンパラリンピックに出た増渕選手が居て、車椅子の操作を教えていただき、大塚先生という監督は車椅子バスケットの元日本代表だった方で、バスケットの基礎を教えていただきました。   現状に甘んずることなく向上心を持ってやっているので、そこのところは尊敬できると思います。  家族のチームワークもいい方向に向かう一つの要因かと思います。












2021年10月10日日曜日

伊藤蘭(歌手・女優)          ・「普通の女の子に戻りたい」から44年

 伊藤蘭(歌手・女優)          ・「普通の女の子に戻りたい」から44年

1955年東京都生まれ。   1971年NHKの歌謡番組のオーディションに応募し、藤村美樹さんと田中好子さんとキャンディーズを結成しました。  歌手活動のほかバラエティー番組でも活躍しましたが、人気絶頂の1977年日比谷野外音楽堂のコンサート中に解散を宣言、翌年の解散コンサートと同時に芸能界から引退しました。  1980年に女優として復帰してからは、映画、舞台、テレビと活躍を続け、2年前にソロ歌手として再デビューしました。  今年9月44年ぶりに日比谷野外音楽堂のステージに立った伊藤蘭さんに伺いました。

ステージでは「春一番」をまず選曲して歌いました。  皆さんが一番なじみのある歌で一曲目にしました。   キャンディーズとして活躍したのは4年半ほどでした。  睡眠時間も5時間程度で目まぐるしかったことは事実です。  解散後は3人で国内、海外旅行をしていました。   お芝居も一からスタートしたいと思って始めました。  CDを出しませんか、という話はありましたが、歌に関しては後回しになってしまいました。   2019年にソロ歌手として再デビューしました。  毎日がチャレンジでした。  そこにサウンドがあるという事が一瞬のうちにその世界に連れて行ってくれる、イントロが始まった途端に音楽のすばらしさを味わいました。

9月に2枚目のアルバムを発表して、自身で作詞したものが2曲あります。  先にメロディーがあります。  「名前のないChristmas Song」は佐藤準さんが先に作曲していただきました。  

*「あなたのみかた」  作詞、作曲:トータス松本  歌:伊藤蘭

相手を励ましているんだけれども、逆に自分が励まされているという優しい歌です。

「振り」は練習してもすぐ忘れてしまったりして、藤村美樹さんに一緒に手伝ってもらったりして苦労しました。   自分の過去のヒット曲を歌うというのは、二人が居ないさみしさはありますが、歌う事によって二人の存在を思い出す事が出来るという嬉しい瞬間でもあります。  3人は一歳ずつちがっていて私が一番上になります。  

普段は隠れていたいようなタイプですが、そういった場所を与えられた時に、自分というものをそこに集約して出そうとしてあがくんでしょうね。  家ではお互いに軽い感想ぐらいは言いますが、ダメ出しをするようなことはしないと、それぞれが思っていると思います。先日のコンサートには主人は来ていましたが、娘はスケジュールの関係で来られませんでした。   「蘭さん歌をやってよかったね」と言ってくれました。  

44年を振り返って、間違いなく解散を理解してもらえたという事、後押しをしてもらえたという事で歩めている人生なんだなと、思いました。

*「家路」  作詞:森雪之丞,作曲:布袋寅泰  歌:伊藤蘭



2021年10月9日土曜日

2021年10月8日金曜日

山崎夏生(元プロ野球審判員)      ・審判員は"縁の下の力持ち"

 山崎夏生(元プロ野球審判員)      ・審判員は"縁の下の力持ち"

1955年新潟県上越市生まれ。  子供のころから野球が大好きでプロ野球選手を目指しましたが、実力を悟り断念したという事です。  大学卒業後スポーツ新聞社に就職、紆余曲折を経てプロ野球の審判員の世界に飛び込みました。   1982年パリーグ審判員として採用され以後29年間で一軍公式戦1451試合に出場しました。  2010年に現役を引退した後は日本野球機構NPBの審判技術員として、後進の指導に当たりました。  現在は審判応援団長を名乗り、審判の権威向上に努め講演や執筆活動を行っています。  審判は黒子ではなく試合を構成する重要な存在だと言います。 

プロ野球は今まで85年の歴史があり、選手、審判ひっくるめて1万人以上います。  そのなかで10年間在籍するともらえるバッチです。  2582番になっています。  これで公式戦、オールスター戦など全部見られます。   いい試合をするためにはいい審判が必要です。  審判応援団長と勝手につけました。   コロナ禍で講演など今は活動が狭められています。  資格研修を受けて今はプロ野球以外の審判を全部やっています。  

現役審判は53人います。  2軍は3人制審判、1軍は4人制審判になっています。   40年以上前に入りましたが、当時は元プロ野球選手が多かったです。  2010年までセ・パリーグで審判は分かれていました。  仲が良くなかったですね。  統合した当時はしっくりいかなかったです。  2013年12月から審判学校方式が設立され、応募が130~170人あり、60人ぐらいに絞りこみます。  1週間ホテルに缶詰めになりびっしりやります。  最終日にテストを行って4~6人一次候補が残ります。  残った人達を春のキャンプに連れて行って5日間ぐらい最終試験を行って3~4人に絞り込みます。  B,Cリーグに派遣されて、1~2年実戦形式で研修を積んでもらって、秋のフェニックスリーグでNBPの若手審判と3週間、18試合に参加して、育成審判を通して採用されるのが2.3人です。

野球が好きで、中学、高校、大学と部活動して、プロ野球の選手になりたかった。  北海道大学の3年生の時にプロ野球の選手は断念しました。  日刊スポーツを受けて入れました。   残念ながら販売局の営業マンでした。  1981年の日本シリーズを見ていて初めて審判の存在に気づきました。  審判としてならばプロ野球の現場に入っていけるのではないかと思いました。   公募もなくてパリーグ審判会長のところに直談判に行きました。  門前払いされました。  翌日会社に辞職願を出して退路を断ちました。 2か月間死に物狂いでトレーニングをして、基本動作を教えてもらって、ルールブックも250ページ丸暗記しました。   翌年又パリーグ審判会長のところにいきました。  決め手になったのは情熱だと思いました。  テスト生としてキャンプに連れて行ってもらう約束を取り付けました。  1か月間やりましたが、初日で愕然としました。  球速が早くてボールがよく見えませんでした。  でもテスト生として採用してもらいました。  年俸160万円でサラリーマン時代と比べて激減、半分以下でした。  27歳で、結婚していて子供もいて厳しかったです。  シーズンオフは朝から夜の12時まで掛け持ちでアルバイトをしました。   10年間やりましたが、妻にも働いてもらいました。  

審判も1年契約で力なきものは去れ、というような感じで、厳しかったです。  55歳が定年ですが、そこまで行く人は半分ぐらいです。  1軍に上がるまで8年かかりました。オールスター戦には3回、日本本シリーズは未経験です。  公式戦は1451試合。 選手と同じでミスジャッジが続いたりすると2軍に落とされます。 首になる人もいます。   自分自身に情けなくて何度も夜に布団をかぶって泣いたこともあります。   17回退場宣告していますが、そのうちの15回は自分のほうに非がありました。  

審判として見ていたなかでプロ1年目から松坂選手と清原選手は飛び抜けていました。  当時のオリックスの野田投手が19三振取った時がありますが、(当時の日本記録)すごく印象に残っています。  同い年で1年後輩の山本 隆造君という非常に優秀な審判がいました。  元プロ野球選手でパリーグを代表する審判でしたが、残念ながら56歳でガンで逝ってしまいました。  

昔は徒弟制度みたいな感じで師匠が居て、沖 克已さんには8年間ものすごくお世話になりました。  命日にはお墓参りに行っています。  アクションジャッジで有名な露崎 元弥さん、三浦 真一郎さんも堂々としていました。  「俺がルールブックだ」といった二出川 延明さん等も居ました。  

1993年アメリカの審判学校に行きました。  校長の言葉が印象に残りました。 「審判にとって何が一番大切か、それは尊敬される人間だ」という言葉でした。   「人間は神様ではないから99点までしか取れない、欠ける1点を補うのは選手からも監督からもファンからも信頼され、尊敬される人間性である」と、非常に心に残りました。 自分でも追い求めて行こうと思いました。  

「プロ野球審判ジャッジの舞台裏」、「全球入魂プロ野球審判の真実」2冊出版しています。  書くことは好きで19歳から日記を書き始めてずーっと今でも書き続けています。 今の子どもは野球をやろうとするとチームにはいらないといけない、技術の向上、勝つことなどを求めてしまうので、野球の上手な人を優遇するようになってしまう、子供のころは野球の楽しさを知ってほしいと思います。







2021年10月7日木曜日

加藤秀俊(社会学者)          ・先立った妻との心の旅路

加藤秀俊(社会学者)          ・先立った妻との心の旅路 

メディア論など多くの分野で活躍されてきた社会学者の加藤さん(91歳)は、一昨年9月、65年連れ添った最愛の妻たかえさんを突然虚血性心不全で失いました。  あまりの突然の別れに加藤さんの喪失感は計り知れないほど大きかったと言います。  ようやく落ち着きを取り戻したころ、加藤さんは二人が歩んできた人生を共通体験を振り返って綴った「90歳のラブレター」という本にまとめました。   小学校時代の出会いから戦中戦後、核家族化の時代を経て老後の生活にたどり着いたお二人の人生の心の旅路は読む人の胸を打ちます。   老いとともにいつかは必ずやって来る愛する伴侶との別れ、その悲しみをどう乗り越えてゆくのか、話を伺いました。

妻がなくなってちょど2年になります。   まさか今日という日が来るとは思わなかった。

1年後の知り合いへの挨拶文(「90歳のラブレター」という本の中)

「65年にわたって苦楽を共にしてきた妻の加藤たかえを失いました。  昨年9月16日のことでした。  ・・・翌朝様子を見に行くとすでにこと切れていました。 享年89歳 虚血性心不全による突然死でした。 ・・・ようやく心身ともに一段落しましたのでここにお知らせ申し上げます。」  

半年ぐらいは私自身も本当に落ち込んでしまって、身体の調子も悪くなって、一週間ほど入院したり、体重も落ちたりしました。  記録しておくことは夫の務めかと思いました。 世の中に半分いる極々当たり前の女の人たちの生涯というものを書いた書物は私は読んだことがない。   普通の女が昭和と言いう時代をどう生きたか、それを書いておくのが私の義務だと思いました。  

小学校からの出会いでしたが、顔見知りだったという程度の認識しかないです。  20歳近くになって駅でばったり会って、声を掛けたらそうでした。  青山にある清南小学校でした。   家内は青山学院専門部学に進みましたが学徒動員で工作機械の会社に勤めて旋盤工をやっていたらしい。(13,4歳)    私は陸軍幼年学校に入って仙台で暮らしていました。  作曲家のいずみたく、作家のなだいなだは幼年学校の同期でした。   機銃、爆撃にも会いました。  家内は空襲で焼け野原となりむしろを敷いて暮らしていました。  つらい時代でした。

18歳の時に東京商科大学(現一橋大学)に通っていた時に、駅で見覚えのある女の子がいたので、声を掛けたらそうでした。  それを機会に付き合い始めました。 昭和27年の血のメーデー、彼女のほうは日教組のメンバーで、私は全学連のメンバーで1万人参加者がいたのに、ふと隣を見たら彼女がいました。  奇跡の様でそれが結婚への決定打になりました。   1953年京都大学に仕事が得られて、1954年(昭和29年)、ハーバード大学に留学することになり、8週間の予定が1年になり、彼女を呼び寄せて結婚しようと決心しました。  ハーバード大学助手か助教授だったヘンリー・キッシンジヤー(後の国務長官)に結婚のことを話して手配してくれました。  当時は色々制約があり、手続きもありおいそれとは渡航は出来ませんでした。   貨物船できて、飛行機でボストン空港にきました。  ようやく再会しました、その時の光景は鮮明に覚えています。 

経済的にはロックフェラー財団から奨学金が毎月300ドルが出て、二人でかろうじて暮らしてゆける額でした。  屋根裏部屋でした。  その後日本に帰ってきて、日本とアメリカとイギリスと6つぐらい大学を転々としました。  京都大学の助教授になったが、大学紛争でくたびれて辞めて完全無職状態になりました。  笑って済ませてくれたことは嬉しかった。  ハワイの東西文化センターに就職しました.。  永住しようと思うくらいでしたが、東京の学習院に戻りました。  放送大学教授、中部大学教授・理事・学監・中部高等学術研究所所長・顧問、国際交流基金日本語国際センター所長などをやって、気が付いたら60歳になっていました。   

引っ越しは数えきれないほどで、今住んでいるところは70歳の時に作ったものです。  それからの20年間が二人で一番落ち着いた時期で幸せでした。   植物の手入れが大変で植木屋さんにも手伝ってもらっています。   

60歳ぐらいから心臓の兆候があったんですが、80歳以降がひどかったですね。  毎年のように入院していました。   私がニトロゲンという薬を持っていて、発作が起きた時に飲ませていました。   私も65歳の時に胃がんになりました。  初期だったのでこうして生きています。  胃は2/3無くなっています。   

「・・・もう90歳になろうとしている。  握りあっている手や指もお互い随分やせ細ってしまったが、二人の間を静かに流れている微弱電流のようなものは、少しも変わっていないと僕は思った。  そしてあなたも同じ感覚を分かち合っていることが指先から確実に伝わってきていた。」  

一日の会話の半分は健康のことで、半分か1/4ぐらいが思い出話、1/4ぐらいがこれから何ができるだろう、という事でした。   家内は島が好きで沖縄、石垣、小笠原などにはいきました。  海外もシチリア、タスマニアなどに行きました。  最後の旅は奄美、沖縄で1週間ぐらいのクルーズでした。  亡くなる半年前でした。   











2021年10月6日水曜日

樋口強(作家・落語家)         ・笑いは楽しい抗がん

 樋口強(作家・落語家)         ・笑いは楽しい抗がん

1952年兵庫県姫路市生まれ。  43歳の時に悪性の肺がんが見つかり、手術と厳しい抗癌剤の治療をうけ日々の暮らしを取り戻しました。   2001年からは生きていることの喜びを伝えようと、いのちの落語会を開いています。   

最近はがんの治療、経過観察とかはやっていません。  1996年、43歳の時にがんが見つかりました。  癌は肺小細胞癌であり、当時は治療が困難で、3年生存率は5パーセント、5年生存率になると数字がないとまで言われていた。  8時間を超える大手術になり、9か月の入院生活になりました。   治療の後遺症がたくさん残りました。   それを抱えて生きてこれました。   肺小細胞癌は増殖するスピードが早いんです。  抗癌剤の治療が非常につらいわけです。   後遺症で感覚神経がほとんどなくなってしまいました。 頭の先から足の先までしびれてしまっていて、感覚がないんです。   てんかんも起きてきて、或る時突然意識がなくなって倒れるんです。  何回もあり救急車で運ばれた時もあります。  腎臓機能が大きく悪化しまして、人工透析の一歩手前で20数年生きてきました。  最近日常生活でつらいのが緑内障で、目の視野がだんだんと狭くなっていって、見ずらくなっている状況です。  これらは治ることのない病気ですが、命と引き換えのお土産かなと思って心の折り合いをつけています。    

43歳は働き盛りでしたが、一瞬にしてできなくなり、一番思ったのは仕事をしたいという事でした。   病室で寝ているときに落語が聞こえてくるんです。  志ん生さんの火炎太鼓が好きでそれで落語を始めました。  笑うとあれほど苦しい治療がスーッと気持ちが落ち着いたんです。   こんな時にこそ笑いというものが必要なんだという事に気が付いたんです。   小学校の1,2年生のころから、父が落語が好きで寄席に連れて行ってくれました。   大学時代は落語研究会に入りました。  退院して会社に復帰して、落語の会を開こうと思いました。   2001年、がんに出あって5年後ですが、5年生きるのは大きな目標でした。   妻の提案で「一つの通過点の記念として、落語会を開いて皆さんお呼びしたらどう」という事を言ってくれました。  それは良いと思って一回きりのつもりでやりましたが、来た方々が来年もやろうよと言ってくれました。    それが続いて恒例となりました。   「いのちの落語独演会」として、生きる希望と勇気を笑いに乗せて伝える創作落語というコンセプトで、実際に癌になった過程を笑いに変えて伝えてゆくというところをしっかり大事にしていこうと思っています。  お呼びするのは、癌になった人とご家族の方だけという事になっています。  家族にしかわからないつらさもあります。  ご招待として入場料は頂きません。    来年又ここでお会いしましょうという意味合いで、1年に一回の開催にしています。

「いのちの落語独演会」の一部を紹介。  

「いのちの落語独演会」は19回過ぎました。 毎年新しい落語を作ってきました。   落語会は2部構成になっていて1部は私の落語、2部は参加された方が主役で、自分が今思っていることを自分に語りかける独り言、といことで1分の時間で行います。  最後は三本締めを行いますが、一本目は「今日の命と家族へのエールを込めて」、二本目は「会場の仲間へのエールを込めて」、三本目は「変わらぬ明日への願いを込めて」という事で行います。  

「あなたの声」、という事で書いてもらっています。                   「毎年今日のこの日が私の命の更新日です。 又一年更新できました。」        「癌になって初めて夫が笑いました。  来てよかった。 本当に来てよかった。」   「樋口さんのお話、笑っているのに一緒に涙が出て止まりません。」          「決意の三本締め、気合が入りました。  また来年も必ず来ます。」

去年、今年と開催できませんでした。  マスク無しで大声で笑いたい、その時が来るまで待とうというつもりでいます。   「待てないんです」、という手紙もいただきましたがつらいんです。 

参加される人にどういう言葉でお迎えするか、いろいろ考えたんですが、「お変わりありませんか」という言葉でお迎えすることにしました。   癌患者とは言わないで、癌の人、あるいは癌の仲間というようにしています。   「頑張って」という事も言わないようにしています、すでに頑張っているんです。  11冊目として「魂の叫び」という本を出版しました。   来年70歳、自分では想像できなかった年齢であります。 20回目の「いのちの落語独演会」の幕を何とか開けたいと思っています。  新しい出会い、自分の人生がどんな新しい景色が見られるのか、「ありがとう」という言葉に向かって生きて行きたいと思っています。








2021年10月5日火曜日

白井晃(演出家・俳優)         ・引き際の美学

 白井晃(演出家・俳優)         ・引き際の美学

1957年京都府生まれ。  大学を卒業した後、広告代理店に就職、その後劇団遊◎機械/全自動シアター」を主宰し、2002年の劇団解散まで演出及び俳優として活動しました。   2014年KAAT 神奈川芸術劇場のアーティスティック・スーパーバイザー(芸術参与)に就任、2016年にはKAAT神奈川芸術劇場の芸術監督となり、今年の3月に退任しました。 代表作に俳優としては「オケピ!」「三文オペラ」演出家としては「ビッグ・フィッシュ」「バリーターク」などの作品があります。  

2014年からKAAT 神奈川芸術劇場の芸術参与という事で2年間やってきまして、その後芸術監督としてやってきて、2021年3月の2年前に後任にバトンタッチするために指名させてもらって、やめる事になりました。  7年間は濃密な時間でした。  新しい血をどんどん入れてゆくべきだと思ってお伝えしました。   最終年にパンデミックがあったという事は非常に残念でした。  自分で描いていたプログラムのラインアップのすべてが出来なかったという事、自分自身の公演も二つ潰れて、中座してしまったという事は残念でした。  2019年度には過去最高にまで増えたという事は自分としてはホッとしているところです。 芸術監督というのは旗振り役なので、そこそこ面白いことが出来たのかなと思います。   劇場は人が集まってこそ価値があるものだという信念でやってきましたし、まずはプログラムを充実させてたくさんの人に来ていただくという事を目指しました。  

沢山のプログラムを作ることはお金もかかるし、マンパワーもかかる事なので7年間劇場の皆さんには苦労を掛けましたし、喧々諤々やっていました。   劇場として若いアーティストを育てていきたいという空気はあって、目星をつけて若い演出家などを決めて行きました。  僕も小劇場でやっていて、大きな劇場でやれるのかという不安はありましたが、結局こういったことは慣れなので、チャンスを与えるという事は大きな仕事だと思っています。  技術力が売りの劇場だったので、そういった意味では若手の方々にベテランと接触する中で、演出家は育ってゆくものですから、そういう事を目指してきた感じです。

若手を認めて引き入れるという事は勇気のいる事ですし、まだ負けてはいられないというような思いがあるなかで、苦しい作業でした。

「三文オペラ」は役者として出ました。  演出家と役者の立場と芸術監督と演出家を守る立場と二つが同居してしまって、面白い経験でもありました。   

演劇、作品、プロダクションという事だけでお客さんが興味を引いていただけるように、日本の演劇シーンがなっていってくれればと思いますが、それにはまだ時間がかかるかもしれません。  メディア的にネームバリューが高いという事ではなくて、演劇的にネームバリューが高いという、そういう方々で演劇に沢山お客さんが来てくださるような場所になって行けばいいなあと思います。   劇場文化は人が集まる広場として時間と場所を共有するという事が最大の特性だったのに、コロナ禍で時間と場所を共有するという事が出来ないという、本当に演劇とコロナの相性が悪かったと思います。  これから劇場というものがもう一度考えるいい機会にはなったと思います。    集まってなにかを共有する、その何か違うものが見つかってゆくかもしれない。   

劇場文化というものによって生かされてきたので、その面白さを今後の世代の人たちにもっと知ってもらいたい。  だから子供たちに思いっきり劇場の面白さを感じてほしいというのが大きなイメージとしてあります。  




2021年10月4日月曜日

2021年10月3日日曜日

羽佐間道夫(声優・ナレーター)      ・【時代を創った声】

羽佐間道夫(声優・ナレーター)      ・【時代を創った声】

 羽佐間さんんは映画「ロッキー」のシルヴェスター・スタローンや歌手でコメディアンのディーン・マーティンなど多くの俳優の吹き替えを担当してきました。    今月で米寿(88歳)を迎える 羽佐間さんんですが、今も元気に活躍中です。  

コロナ禍の中オファーがあるんです。  番組のナレーションとか一人のものが多いんです。 録音も交流のない中でそれぞれ収録してゆくので、ほかの人との間がとれずフラストレーションがたまります。   相手が居ないので距離感が判らないし、顔が判らないから感情の起伏があらわせない。   

父が赴任したのが三池炭鉱で、採炭して出てきた人たちにスピーカーから朗読をして聞かせていました。   僕は小さいころからそれを聞かされていて、巣立ちの第一歩として持っていたのかなと思います。   中学在学中に演劇部へ入部し、児童文学賞をとられてた方が先生だったので芝居が好きで、その先生に芝居を教わりました。  高校でもはまって行って楽しいなあと思って、それがこの道に入ったきっかけだと思います。  その後、役者を志して舞台芸術学院に入学。卒業後は新協劇団(現・東京芸術座)に入団しました。  貧乏でアルバイトのしまくりでした。   いい俳優になりたい、でしかなかったです。   寄席の切符売りのアルバイトをしていたが、当時の売り場は顔が見えず壁に空いた手を出す穴だけで応対をしており、当時の客層から「女性の切符売りの方が評判がいい」と考え、女性のような高い声で応対をした。   後に「それが最初の声優の仕事かもしれない」と思いました。   新劇のそうそうたるメンバーに教わってきたがどうも身に付かない、判らない、或る時浄瑠璃の竹本越路太夫さんという人に巡り合って、その人のお弟子さんに浄瑠璃を教わって行って、「おまえか」というある部分があるが、その言い方について言われてそれがきっかけになって、いろんな人に教わってゆくんですが、凄く具体的に判って段々伝承芸能にはまってゆきました。   

文化放送に勤めていた幼馴染の岡田太郎さんからラジオドラマをやってみないかと誘われました。  周りはベテランばかりでやっていられない、というような中でとにかく通って耳で盗んでゆくような作業でした。  ラジオ出演がきっかけで吹き替えの仕事が来るようになりました。 最初はヒッチコック劇場でした。  吹き替えをする声優の人口は凄くすくなかった。  300人ぐらいしかいなかったのですごく忙しかった。  劇団からは白い目

で見られました。舞台俳優になっていたらどこまで行けたのかなという思いはありました。   

シルヴェスター・スタローンはこんなに苦しんだ俳優はいません。  何故かというと僕のボイスカラーにない人なんです。  僕がハリウッドの俳優の吹き替えを275人やっているというんです。  それに違和感がないのはどういうわけですかと言われるが、僕の声は個性のない声なんでしょうね。   本当にみんなその人だと思ってしまうんです。 雰囲気を早くキャッチして出す。   一人づつ呼吸は違うので呼吸は大事です。  

ナレーションは物事を客観的に伝えてゆく作業で、絵は向こうに出来ていて、向こうの人物の前にせりふを終らせなければいけないので、10秒なら10秒で終わらせる技術を持っていなくてはいけない。   客観的な情景をしゃべるのがほとんどなので、多少主張するためにはオーバーに言った方がいい場合もあります。    

声優として大切なことはいっぱいありますが、究極的にはその人のフィロソフィー、考え方、自分がどうやって生きてゆくか、という事を常に心に思っている。   絵を最近よく見に行きますが、絵はちゃんと心に訴えてくるものと、どうしてかというようなものがありますが、感性の中に叩き込んでゆくという作業は我々はしなければいけない。  感動、感情を表現できないと駄目ですね。  心に持っているものそれは大切だと思います。   若い人にはできれば苦しいことをどんどん味わってゆくのが 唯一俳優として育てる道だと思います。  自分がうまいなあと思っては駄目、思った時には止まるんです。  

主にチャップリンの無声映画を台にして、そこにセリフを自由に、間だけが一緒になればいい

から、舞台の上で恥をかくなら舞台の上でという事で始めた「口演」です。  








2021年10月1日金曜日

アレキサンダー・ベネット(武道学者)   ・私の武士道研究30年

アレキサンダー・ベネット(武道学者)   ・私の武士道研究30年 

ベネットさんが武道に引き付けられたのは、17歳の時交換留学生として千葉県の高校で初めて知った剣道の体験でした。  その後武士道の研究に取り組みいまや日本を代表する武道学者の一人です。   剣道、薙刀、居合道、銃剣道のほか古武道の実践と研究にも長く取り組んで来られました。 

京都大学で「武士道の定義と追及」というテーマで、博士号を取得。  ニュージーランドの大学でも博士号を取得。(剣道に関する内容)    初めて武道を経験したのは高校性の時でしたが、厳しい世界で正直あまり好きではありませんでした。   ニュージーランドではいろんなスポーツをやっていました。  1987年に交換留学生として来日し千葉市立稲毛高校に1年間留学しましたが、剣道は初めてで見た時にはびっくりしました。   入部したが、やることが同じことの繰り返しでした。  1週間で飽きてしまって、やめようとしたが、先生からはやめさせてもらえず、又やり始めたんですが、やればやるほどはまってしまいました。 

武道から学ぶ事は、自分の人間としての弱点とか、どういうところを直していけばいいのかとか、手掛かりが多いんです。   人生の哲学を与えてくれるような、そういうところにやってゆくうちに気づいていきました。   武道の言葉に心の付く言葉が多いです、平常心、不動心、とか、身体を使っているが心と体を同時に鍛えていることがやっているうちに気づく点が多いわけです。  剣道教士七段で、今はいろんなものを含めて31,2段ぐらいになっています。  明治以前のものを古武道、明治以降のものを現代武道と言います。(柔道、空手など)   古武道には〇〇流と言って流派があります。  

剣道教士七段、なぎなた五段、居合道五段、銃剣道錬士六段、短剣道錬士六段を取得し、天道流、鹿島神傳直心影流をやっています。  新渡戸稲造の「武士道」の本は相当影響を受けました。   新渡戸稲造盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれ、英語を勉強して札幌農学校に二期生として16歳の時に入りました。  内村鑑三らとは同級生だった。  クラークの影響でクリスチャンになって、卒業後東京大学に行くが中退して、アメリカに行きジョンズ・ホプキンズ大学に入りました。   その後ドイツに留学、尊敬する教授とで宗教教育の話になるが、日本の教育には宗教教育はなかった。  道徳心をどう教えているかを問われて、これは武士道ではないかと気が付く。   「武士道」を英語で出版する。 その数年後ロシアと戦争するが、誰もロシアに勝つとは思っていなかった。   日本人の強さの秘訣は何だろうと、いう事になり、新渡戸稲造の「武士道」に書かれているのではないかという事でベストセラーになる。  セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。   1899年に英語で出されて、日本語で出されたのは1908年でした。

剣道をやり始めて判らないことが多く、哲学的なところまで勉強しないといけないと思いました。  剣道から日本思想史、日本史、に興味を持つようになりました。   18歳の時に一旦ニュージーランドに帰って道場を作ってしまいました。  最初3人でしたが、1,2か月経つと20人ぐらいに増えました。  初段で教える事の経験もなく、いろいろ質問もあったりして、もっと勉強しないといけないと思いました。  世界剣道選手権に出場、第五回世界なぎなた選手権大会男子個人部準優勝などしました。  「剣道ワールド」という雑誌も作り20年ぐらい経ちました。  

剣道で学んだことは、日常生活に十分応用できるという事で、好きな言葉に「残心」という言葉がありますが、例えば竹刀が当たってそのあとの心構え、身構え、が凄く大切です。  慎重に登山して頂上を極め下山しますが、下山時の事故が多いのは「残心」がないからだと思います。 一本を決めてガッツポーズをとるのは「残心」がないから、又それが相手に対して非常に失礼なことだという事になります。   剣道の相手は敵ではなく、剣道の道を行く協力者なんです。   「打って反省、打たれて感謝」という言葉があります。   打っても、もっともっと良くなるように反省をする。    それは打った相手がいるからできる事。 打たれたことはどこか弱点があるからで、相手がその弱点を打ってくれたことにより教えてくれた、常にお互いが学び合っているという事です。  相手に対して感謝を思わなくてはいけない。  稽古をする前と稽古の後には「お願いします」「ありがとうございます」という心を込めて礼をするわけです。  

「葉隠」も世界的に有名な本です。   肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめたものです。  その中で有名な言葉が「武士道とは死ぬことと見つけたり」というものがあります。  過激に聞こえるところはあるが、文脈をしっかり読むといっていることが違うんです。  死ねという事を言っていない。  「葉隠」を武道家という立場から英訳してほしいとの依頼があり、英訳し始めたがどうも納得できなくて、夢に山本常朝が夢に出てなんだこの英訳はと怒られました。  翻訳ではなく話を聞いてそれを書くという風にやり方を変えると、山本常朝は優しい人だと判りました。  「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは、生きる事とはどれだけ素晴らしいことか、無駄にしてはいけない、だから必死に生きろ、という事です。  勘違いされている本だと思います。  今をどのくらい大切にしているか、やっている剣道にも共通しています。  決めたら「全心」で打つことで「残心」が自然に湧いてくる。   武道の良さは普遍的な価値がいっぱいあるからいいんです。  武道は世界遺産だと思っています。