2024年12月21日土曜日

花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

 花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

花谷さんは1976年神戸市出身。 現在は山梨県北杜市を拠点に活動しています。 子供の頃から六甲山に親しみ、信州大学進学後はヒマラヤを初め世界の未踏峰、未踏ルートに挑戦、2012年にはヒマラヤの キャシャール南ピラー(6,770 m/ネパール)に未踏のルートから登頂に成功し、2013年に登山界のアカデミー賞とも呼ばれる第21回ピオレドール賞を受賞しました。 この受賞をきっかけに若い登山家をヒマラヤの未踏峰に挑戦させるヒマラヤキャンプを立ち上げ、南アルプス甲斐駒ヶ岳の山小屋の運営や、そこに至る登山道の整備など登山文化を支える活動に力を入れ始めます。 中でも登山道の整備を有料の体験型イベントワークショップとして、参加者を募る試みには新しい発想として注目されています。 人を育て登る化を次の世代にどうつなげるのか伺いました。

36歳の時に登った登山が評価されてピオレドール賞を受賞しました。 そのルートはかつていろいろな有名な人たちがトライしましたが、登れなかったというルートです。 山へ登るパフォーマンスで何か残すとなると、選ばれた人でないとなかなかそれを維持する事は難しい。 僕はそういう人間ではないということが20代から嫌というほど味わってきています。 極限の登山をしてゆくという分野においては、世界のトップと思われるようなパフォーマンスを見ていると、とてもここまでは出来ないと25,6歳のころ感じました。   24時間、365日山とクライミングのことしか考えていないんじゃないかなというモチベーションと集中力という心の部分の強い人たちを見てきています。 僕はそこまでの心の強さの持ち主ではなかった。 

2014年にもヒマラヤに行きましたが、登れなくて自分がどういう事をやりたいのか、考えながらいました。  新しく経験する場、組織が弱体化してきているので、何とか改善したいと思いました。  ピオレドール賞を受賞して大きく変わったことは、プロとして活動できるようになりました。(資金面の充実)  これを生かして何かできないかなあと思いました。 20,30代が初めてヒマラヤに行く機会を作ろうと思いました。  

山小屋を運営する元になったのは、この地域の資源をどう活用してゆくか、という事がありましたが、山は公共の物なのでどうしても行政と絡まなければならない。 僕の前の管理人さんがもう山を降りるという事になり、自分がやってみたら面白いのかなと思いました。  行政とのやりとりの問題も繋がりました。  山梨県北杜市の指定管理業者として甲斐駒ヶ岳の山小屋「七丈小屋」を引き継ぐことになりました。 山の魅力を発信しました。   山小屋、登山道などをどうにかしなければいけないと考えました。  利便性を高める、魅力の発信で人はたくさん増えましたが、登山道は歩きにくくなっていきました。 2019年10月に台風19号がきて、登山道などが物凄い被害を受けました。  集中的な雨も増えてきています。 登山道がなくなってしまうのではないかという危機感、恐怖感がありました。  そこが活動を始めた大きな原点です。 

山の管理について、日本は公的な関与が脆弱な状態です。(外国と比べると一目瞭然。) 予算、人員も少ない。(根本問題)  有料のイベント、寄付を募る、ワークショップを作って回してゆく事を考え実行しつつあります。  登山道が壊れたことによって失われた植生を取り戻してゆく事が一番大事な発想の原点です。(自然環境第一)  作業の意味合いを知ってもらう事が大事です。 ワークショップに来る方は自分でお金を払います。(ガイド登山の一種のようなもの)  クリエーティブな作業で楽しいです。  日本の良くないところはボランティア(無償でやることに対する価値が根強くある。)、運営の中心の人とか技術的な指導者までもがボランティアでやっているのが現状です。 それだと続かないですね。  運営の中心の人とか技術的な指導者にはしっかりとお金がまわるような仕組みを作ってゆく事が大事です。  

自分が関与した山には山に対する見方が変ります。(ホームマウンテンになる。) 持続性に繋がる。 人口減少、高齢化があるので、今までと同じ仕組みでは成り立つわけがない。  発想を根本的に変えていかないと成り立たない。  いろいろな仕組みを変えてゆく事でどんどん良くなってゆくはずです。  日本3大急登で長くて険しい登山道ですが、登山道を修復するワークショップには開始から2年間で200人が参加しています。  今年10月に実施したヒマラヤキャンプでは若手登山家4人と共に、西ネパールの未踏峰6207mのサンクチュアリピークに挑戦、見事に世界初登頂に成功しました。





2024年12月19日木曜日

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて 

音無さんは1949年東京生まれ。 21歳の時に民放のドラマ「お登勢」でヒロインに抜擢され脚光を浴びました。 NHKでも大河ドラマ「女太閤記」や「独眼竜正宗」など数多くに作品に出演しています。 今年11月には歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台に出演、老いと病というテーマに正面から向き合いました。 私生活では村井國夫さんと結婚、二人の子供を設けました。 30歳で乳がんを患い死を覚悟したこともあると言います。  音無さんは6人姉妹の4女ですが、この2月に妹を亡くしています。 大切な人との別れ、そして自身のがん体験など逆境をどう越えてきたのでしょうか。 

歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台「つきかげ」で茂吉の妻の役を演じました。 小劇場なのでお客さんが近くて全部肌で感じられるような劇場でした。 私たち夫婦が人生をしまう方向に来たねと思いつつあります。 「俺の家族としての役目は終わったんだな。」というも茂吉のセリフがありますが、マグロ漁船に乗って行く次男を見送るシーン、末娘の縁談話などで、深夜眠れなくて、そのセリフがあるんですが、うちの家族にピッタリです。 

SNSで発信していますが、今年の2月に妹がなくなりました。 コロナで妹のゴルフなどの洋服の店が上手くいかなくて、悩んでいましたがその後食欲がなくなり、突然亡くなってしまいました。 6人姉妹でよく集まっていましたが、突然一人欠けてしまってショックです。 貴方の分まで幸せになるから、という気持ちが大きいです。 人生何が起こるかわからないから、その日その日を過ごせたという事に感謝しながら、という気持ちがより強くなりました。 

子育てが終わって本格的に女優として復帰するという矢先に、乳がんが見つかり青天のへきれきと言った思いでした。  近所の人が乳がんの検診にいってしこりがあって、取り除いたが良性で、しこりは自分でわかるという事で話し合っていた晩に、お風呂で触ってみたら内側にペットボトルのキャップぐらいのしこりありました。 痛くないのでしばらく放っておきましたが、つれるような症状が起きて、病院にいったら乳がんと言われました。 アメリカでは部分摘出がおこなわれたりしているが、安全な手術をした方がいいと医師から言われました。 精神的にもダメージを受けました。 リハビリも病院では頑張りましたが、家に帰ってくるといろいろな事でやはり病人なんだと気付かされ落ち込んでいきました。  女優が出来ないのではないかといったことも考えるようになりました。 

鬱の状態が9か月ぐらい続きました。  子供が友達の家から帰ってきて、「友達のママは笑うのにどうしてママは笑わないのい。」と言われてショックでした。  それから鏡の前で笑う練習をし始めました。 それがきっかけで少しづつ前向きになって行きました。   子供とは一緒にお風呂に入ることはできませんでしたが、夫の仕事の関係でどうしても一緒に入らなくてはいけなくなって、一緒に入ったら私の顔だけしか見ないんです。  こんな小さな子に気遣いが出来るのかと思ったら、ワーッと泣いてしまいました。 「ママ泣かないで、歯が生えてくるようにおっぱいも生えてくるから。」と言われて、こんな子供を残して私は死ねない、生きなければいけないと思いました。 下の子が小学生にあがる5年頑張ろうと思いました。  子供からいろいろ励まされて、今思えば一番いい精神科の先生だったと思います。

1976年に結婚してから金婚式が近いです。 同じ職業なので会話は多いです。  夫は80歳になりました。 夫は5人兄弟の末っ子で上の二人の兄は亡くなっていて、3人しか残っていません。 91,85、80歳です。  お互いに褒め合ってやって行こうとしています。 12月の誕生日で75歳になりますが、現役で終わりたいという思いがあります。 健康維持に努力できることは努力したいと思っています。 夫は毎日ウオーキングを8000歩程度はしています。  玉三郎さんが「努力をするという事はどういうことかというと、死ぬ一歩手前までやり遂げることが努力だ。」と言っていました。  アスリートではないので、演出家の要望に対して応えられる身体にしておくという努力しかないと思います。  口がまわれるように努力する。  食事も身体にいいものを摂るように心がけています。

2020年から娘と一緒に食卓の動画配信を始めて、150本ぐらいになりました。 料理は好きでいろいろな料理教室にも行きました。  東日本大震災の時に被災地で「幸せなら手をたたこう」を歌う事になり、歌ったらみんな涙を流しながら歌ったんです。 歌の力を感じて東京に戻って歌声喫茶をやろうという事になり、そこから始まりました。  お金がプールされると被災地にお土産を持って避難所を7か所ぐらい回ります。  歌声喫茶も13周年記念を迎えました。  被災された方が生き抜いてきた、という事に強さを感じます。  幸せに生きることが亡くなった方への供養になるんだ、という想いの方が沢山います。

〔わたし終いの極意〕は笑う角には福来るですね。  一日一回は笑う。















2024年12月17日火曜日

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

 世界各地に赴いて昆虫調査を行い、多数の著書や図鑑制作にも携わっている丸山さんに伺いました。 

今年の6月に動物学教育賞を受賞しました。 日本はほかの国に比べて昆虫が非常に子供の趣味、遊びとして身近にあります。その延長として昆虫に関するいろいろな本が沢山あったり、電話相談も多いですね。 他の国は昆虫籠とか、虫取り網は余り無いですね。 アメリカとかヨーロッパの都市部には蝉とかカブトムシはあまりいないです。 昆虫は沢山の種がいます。  昆虫は知られているだけで120万種ぐらいいます。  日本では4万種ぐらいが知られています。 実際には6万種、8万種いると言われています。  それぞれが違う暮らしをしていて違う姿をしています。 あらゆる生物の中で最も多様なのが昆虫です。 昆虫は生態系の歯車としても非常に重要な役割をしています。  植物の8割は昆虫が受粉しないと実がなりません。  野菜、果物もそうです。 果物は9割以上が昆虫が居ないと受粉ができません。 昆虫がいないと新しい植物が生えない、森も更新されません。

何故昆虫が多様なのかというと飛べるという事が重要です。 あらゆる生物の中で最初に飛んだのが昆虫です。 飛ぶことによっていろいろな環境に進出する機会を得ました。 そして様々な種に別れていきました。 天敵に狙われにくい。 繁殖相手を効率的に見つけられる。 他に、変態をするという事です。 幼虫から成虫にかけて形が違って行って、特に完全変態と言ってさなぎの時期があります。 昆虫の7割、8割が完全変態をします。 完全変態が何故大事かというと、幼虫と成虫が全然違う姿になります。 幼虫は一番餌を食べたり成長するのに一番重要ですが、成虫よりより幅広い変化が出来るようになった。 それでいろいろな環境に適応で出来るようになった。 

昆虫学者にはそれぞれ専門があって、私の場合は蟻の巣の中に共生している昆虫の分類学、新種を発見したり、図鑑などを作ったりしています。 蟻の巣の中にはいろいろな昆虫が住んでいます。 蟻塚コウロギという小さなコウロギがいます。 蟻から口移しで餌をもらったり、蟻の幼虫をかすめ取ったりして生活しています。 蟻は暗いなかで臭いとか音を出して、それを言葉の様にしてやり取りをしています。  寄生している昆虫はそれを真似ることによって蟻の巣の中に入り込むんです。 蟻は仲間だと信じているんです。 人間の場合は目と音ですね。 そこを上手く騙せたら人間の社会にも入り込めるわけです。 

大学院の時に、ハネカクシという昆虫の分類、新種発見をしていました。  ハネカクシは土の中、茸に住んでいて、その中に蟻と共生するタイプが結構います。 そのころ(28年前ごろ)共生するほかの昆虫を日本で研究している人が居ませんでした。 日本全国の蟻の巣を調査して行ったら、どんどん新種が見つかりました。 そしてのめり込んで行きました。  新宿に住んでいましたが、3歳の時にカマキリがいました。 カマの内側に赤、白、黒の不思議な模様がありました。 カマキリの形、その模様の衝撃がいまだに残っています。 そこから昆虫にのめり込んで、図鑑を買って貰って、いろいろな昆虫を覚えていきました。  昆虫を捕まえて飼育するという事も繰り返していました。 中学、高校となると魚、両生類も好きになり、植物も好きになりました。  

最近はアフリカのカメルーンによく行きます。 サスライアリという何千万匹という働きアリからなるコロニーを作る蟻ですが、そのコロニーのなかにハネカクシが沢山います。 進化を調べるため、標本にするために通っていました。  蟻の種によって共生する昆虫も特定な昆虫になります。(臭い、音を複数真似られない。)  行くたびに新種が見つかります。 吸虫管を使って口で吸ってハネカクシを取ります。 

子供の頃一日に蚊に何百か所も刺されて、それを繰り返しているうちに、いまでは蚊に刺されてもほとんど気付きません。(新しい蚊に刺されると、気が付くが30分するとわかなくなる。)  アフリカには危険な蚊が居るので、それに気付かないのは危険だと思います。 蚊の痒さ、腫れるというのは、人間が病気にならないための防御反応だと思います。

オドリバエ贈り物作戦、(人間がやっているようなことは、結構昆虫もやっている。)オドリバエはほかの昆虫を捕まえて雌にあげて、雌が食べている間に交尾をする。 それが進化してゆくと、捕まえた昆虫を糸で包んで渡す。 さらに進化すると、中には昆虫が入っていない包みを渡す。 それが作れる雄は強い雄という事です。 あらゆる生物は自分の遺伝子を残すためにあらゆることをしている。  社会性昆虫の面白いのは奴隷制です。    サムライアリ、働きアリは自分で捕まえた餌を自分で食べることはできない。 定期的にクロヤマアリの巣に集団で侵入していって、幼虫、サナギを強奪して帰って来るんです。 生まれて来たクロヤマアリは自分の巣だと思って働くんです。 サムライアリの幼虫はクロヤマアリに育ててもらいます。 サムライアリたちは働くよりも子供を作るとかにエネルギーを投資したほうがいいわけです。  人間社会でもあちこちで奴隷制が生まれていました。蟻は世界で2万種ぐらいありますが、奴隷制も何十回と進化しています。

ハキリアリは中南米にいます。 葉っぱを切って巣に運びます。 粉々にして菌と混ぜて発酵させます。 おがくずみたいなものを作って、そこに菌を植えて大きくなってゆくと菌糸の丸い球ができます。 それを餌にしています。 タンパク質に変えた方が栄養効率がいい。  雑菌が入らないように抗生物質を混ぜて、その菌だけが育つようにするんです。  偶然の積み重ねで昆虫は進化してゆくんです。  昆虫は世代が短いので偶然何かが起こるという可能性が高いんです。 子供も何千匹と生むので、中には特異な能力を持って生まれる突然変異も出てきます。  一番生きやすいように本能としておこなわれている。   昆虫の研究は最初害虫から始まりました。  農学の見地から研究している人が多いです。  

2017年に子供相談をする時の前任が矢島稔先生でした。  その先生の図鑑を読んで僕は育ちました。 「ハエが生きていることはどんな意味があるんですか。」という質問がありました。  生態系のなかの歯車としての役割があり、山の中で動物の死体を分解する重要な役目を持っている。 と言ったところから意味のない生き物はいないんだという事に繋げました。  今一番問題だと思っていることは、昆虫が減っているという事です。    ドイツの研究ではこの20年間に昆虫の個体数が、76%減ったと言われています。  昆虫は近年急激に減少しています。 理由は凄く強い農薬が使われれるようになった。 温暖化による気候変動の影響もあります。  昆虫のお陰で享受していることが沢山あります。 人々の昆虫に対する理解度、昆虫と共生しているを知って、自然を守ってゆく事が大事です。  昆虫を好きな人を増やす、昆虫が嫌いじゃな人を増やす、という事を私は大事にしています。







 








  

2024年12月15日日曜日

西本昌司(岩石・鉱物担当/愛知大学教授) ・子ども科学電話相談40周年 ~好奇心、岩を穿つ~

 西本昌司(岩石・鉱物担当/愛知大学教授) ・子ども科学電話相談40周年 ~好奇心、岩を穿つ~

地質学、岩石学は石や地層から謎を解き明かす、これが地質学です。 謎というのは地球の歴史です。 地下でどんなことが起こっているのか、地球規模で起こっているようなことを石から読み解くという学問でまさに歴史科学と言った感じです。 過去にどんなことが起こっていたかという事は石しかないんです。  この前愛知県の鳳来寺山という山があってあそこにある石は火山の石なんです。 でもい愛知県には火山がないですね。 大昔(1500万年ぐらい前)火山があったという事です。 今噴火している火山の地下で何が起こっているかという事は見れませんが、昔の火山の跡にいけば、昔の雨、風、川が山を削って地下の状態を出してくれているわけです。(地下がむき出しになっている。) 昔にあった火山の地下にもぐっているのと同じです。  石が判って来ると、タイムマシーン乗って昔の地球板碑が出来るんです。 石を通して時空を越えてゆくと言う様な楽しい学問です。鉱物の集合体が岩石です。 鉱物は何が集まっているかというと原子が集まっています。 原子が判って来ると世界が広がります。  

町の中の石にも注目しています。  注目したきっかけは二つあります。 ①考古学、歴史研究者とコラボしたこと。 古墳、石器、城の石垣などでの重要な石については考古学者などは石のことは判らない。 石のことを頼まれました。 私は歴史のことは判らないので一緒にやって行くうちに面白くなりました。 石から人の歴史もわかるんだという事に気づかされました。 ②街中にある石材を調べ始めたら、世界中からいろいろな石が集まっていて、はまってしまいました。  何十億年前の石は日本にはないが、石材としていっぱいあります。(海外に行く必要がなく磨いてあるので観察の準備が出来ている。)    

建築のデザインとしての歴史みたいなものが背後にあって、建築設計者のデザインでありアイディアでもあります。  石材は飾りで構造的には不要なものです。 時代的な流行があるわけです。 例えばバブル期に使われた石材と最近とでは全然違います。 バブル期には赤い石材が流行っていたり、時代背景を感じさせるものがあります。 バブル期には高級な大理石がトイレに使われたりしています。(今は絶対ない。) 経済状況が如実に表れます。 

アンモナイトが石材に見られたりします。 アンモナイトの渦巻き模様が現れるようにするのにはかなり難しいと思います。 斜めに切ったりしたりすると決して渦巻きは出てこない。  何でなのか考えてゆくと、アンモナイトは同じ方向に並んでいたのではないかと思います。  アンモナイトは沈むと水平に倒れて渦巻き方向を横にするように沈むと思います。 という事はあれはおそらく海底に沈んでいたものです。 

子供の頃は自然界で蝉を取ったり蝶を取ったりして遊んで昆虫標本を作っていました。  出身は広島県の三原で海、山が近くにありました。  化石よりも岩石が好きで集めていました。  鹿児島県の海岸で遊んでいたら水に浮く石を見つけて吃驚しましたが、軽石だという事を教わりました。 大学は地質学の方に進みました。  同じような興味を持ている人が沢山いました。 昨年末二人の小学生がスタジオに来てくれました。 石について一緒に盛り上がりました。  

卒業後科学館に入りました。  収蔵庫が無くて展覧会を開く時にはほかの館から借りてこないといけない。 その結果全国の博物館に友達が出来ました。 集客をするには恐竜展が一番で、恐竜のことも勉強するようになり、自分の世界を広げることにもなりました。  学芸員として指導していたお子さんが世界的な恐竜学者になって、学芸員冥利に尽きます。 出来るだけ現場に行って、自然に目を向けてもらうような教室をやっています。  大人にも共感してもらえる人がいっぱいいることを知ってもらいたいと思います。(大事な事です。)  「好き」を追求すれば知識も増えるし、エンジョイできると思います。 人と違う発見が出来る人は観察眼が凄いというか、発想力が凄いと思います。 

地球は石の惑星です。 地球の石のことが判ると、他の惑星のこと宇宙の歴史のことも判ります。 石材の生まれた場所(採掘場)を観に行きたくなります。 町に出回っている石材は採掘地でとられる極く一部で、我々は不人気なところを見たい。 学術的に面白いのは別の石との境目とかで、それは何かの事件の跡なんです。 例えば一方はマグマの固まった石、一方は海の底で出来上がった石だとするとどうあって出会うのか。  海の底に固まった石が地下に埋もれて、そこにマグマがやってくるという事件の跡です。 境目を見るのが面白いです。 







2024年12月13日金曜日

鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方(初回:2024/6/16)

 鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方(初回:2024/6/16)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 分からないから、突き進む! 後編

舘野鴻(画家・絵本作家)    ・〔人生のみちしるべ〕 分からないから、突き進む! 後編 

僕は死ぬという事がとても怖いので、だからシデムシを扱いました。 汚いと言われているけれども、だってあなたは生まれたら死ぬでしょう、我々死んだらどうなりますか。 シデムシがいるという事は必ずどっかに死体があるという事です。 世の中のことわりとして死ぬという事がある。 逃れることは出来ないとネガティブに捉えるのか、歩むべき道を歩み、死んでいき皆さんの糧になるのか、何かとなって循環してゆくのか、という風な思いです。      シデムシを出して一番大きいのは真面目にやり過ぎたんですね。  終わったら本当に死ぬんだと思いました。 絵筆を持つことが怖くなりました。  身体の調子が悪くなって、薬を飲んだり、鍼をやったりしましたが駄目でヨガをやるようになりました。  売れない本だと思っていましたが、病んでいる人に反響がありました。 生きる事ってこういう事よねとか、言われたりしました。  私が読者の人々に救われ続けています。 

僕らの仕事は伝わらなければ零点なんですね。 よかったのか外れたのかは、読者の前に持って行って初めて判るんです。 絵本は幅広い読者の方がいる。 シンプルです。 子供は見て直ぐに言語化できない。 私がやっていることの評価が出るのは10年20年先です。  売れなと思っていましたが、仕事はぽつぽつ来るようになりました。  月刊誌「科学の友」というところから絵を描いて欲しいと連絡がありました。  沢田さんという方にお会いしたら、「しでむしを書いた時の気持ちを忘れないでください。」と言われました。   出来るのかなとは思いましたが、腹は漠然とやるんだろうなあと決まっていました。     

2009年に「しでむし」 2013年に「ぎふちょう」 2016年に「つちはんみょう」 2020年に「がろあむし」を出版。  取材に10年かけたものもあれば、3年、4年も空いてようやく1冊と言った感じです。  稼げないのでずーっとアルバイトです。 しゃべるのが苦手で,講演も断っていました。  1時間30分ぐらいの講演を一日3回ぐらい練習をしました。 しゃべる事、会話が大事なことになってきています。 人に伝るための媒体としての絵本は、私なりの研究の方をしています。  絵本という土俵に何とかたどり着きましたが、自分のがむしゃらにやってきたことが、そのためにやっていたのかと、振り返ればそういう事になっていると思います。  

2022年に出版した絵本「うんこ虫を追え」 (知恵と根性と体力で、うんこ虫のくらしの解明に挑みます。失敗を繰りかえし、取材にかかった月日は4年。現代のファーブル昆虫記のような、オオセンチコガネの一大観察記です。) 1週間で書き上げました。 「がろあむし」は作画だけで3年掛かっています。 時間をかければいいという問題ではないと思います。  「ソロ沼のものがたり」は童話短編集です。 リアルサイエンスファンタジー。 この世界では虫が喋ったりもして、生き物たちの濃厚なドラマを、美しい挿絵と共に丹念に描く。 虚構を表す時に真実はどこにあるんだ見たいな、問いかけがある。  ファンタジーという事と直結しているんだろうなあと思います。

擬人化の文学とかに関する興味は「ぎふちょう」を書いているころからありました。  編集者の方と連作短編にしませんかと言われて、話が進んでとんとん拍子に原稿を書くことが出来ました。 虫は描きたくなくて、虫を描くと具体化されてしまってつまらなくなるので、分からないままにしたかった。 だから読んでいる人が虫になったり会話?になったりできたりするんですね。  背景、舞台だけを描かせてもらいました。 このためにした取材は無いんです。  若いときには自分がある様な気がするが、うすうす俺は何もねえなあとおもって、それを自覚した時に何が生まれるかというと、なんにでもなれる。 

年齢と共に諦めるのが上手くなる。 「駄目だこりゃ」「まあいいか」「しょうがねえや」とか、これが一番元気がでます。  どうせ何もないと思った時に凄くキラキラしたものが見えてくるという事が結構多いです。  最近はなにか教えてあげようというようなことは何一つ考えていないです。 うんこ虫を調べて行っても判らないことに行きついてしまって、その人によって見えてくるものが違うと思います。  判らないから面白い、だからそれを伝えたい。  虫はこう生きている、じゃあ俺はどうなのか、いつもそこですね。 みちしるべは虫なんですかね。  鏡の様に虫は見せてくれる。 虫は無垢で勇敢で潔い。 それに比べて俺はどうなんだ、虫は凄いなと思います。  





2024年12月12日木曜日

齊藤隆(歌声喫茶店長)         ・歌声喫茶70年、これからも響け!

齊藤隆(歌声喫茶店長)         ・歌声喫茶70年、これからも響け!

この番組の中で紹介された、竹内まりあの「命の歌」の歌詞を紹介します。 

「生きてゆく事の意味  問いかけるそのたびに 胸をよぎる愛しい人々の

あたたかさ この星の片隅で めぐりあえた奇跡は どんな宝石よりも 大切な宝物 

泣きたい日もある 絶望に嘆く日も そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影

二人で歌えば 懐かしくよみがえる  ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり

本当に大事なものは 隠れて見えない ささやかすぎる日々のなかに

かけがえのない喜びがある

いつかは誰でも この星にさよならを する時が来るけれど 命はつながれてゆく

生まれてきたこと 育てて貰えたこと 出会ったこと 笑ったこと

そのすべてにありがとう この命にありがとう」