2025年8月12日火曜日

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

 太平洋戦争で日本人が1万人以上の命を落としたパラオ諸島のペリリュー島、この島に今も眠る父親の遺骨を求め手がかりを捜し続けてきたものの、その活動に一区切りをつけた女性がいます。  青森県六戸町に住む田中恭子さん(84歳)です。 戦後80年経った今、父親にどんな思いを抱いているのか聞きました。

父親がどんな人だったのかはわかりません。  父親がいつ動員されたのかも知りません。  満洲に行ったことは手紙で知りました。  昭和19年3月に軍服が送られてきて、母親は新聞などから南方に行くんだろうとさとったようです。  昭和19年5月にペリリュー島へ着きました。  この島には旧日本軍の大規模な飛行場があり、アメリカ軍はフィリピン攻略のために、重要な拠点と考えていました。  4通の手紙が私の手元にあります。  蟻の巣みたいに島の中全体に洞窟を作るために忙しかったようです。  2枚目当たりまでは余裕があって様々なことを書いています。  30数名の部下の家族のも父は手紙を書いていました。4通目は文書も少なくなっていて、 私のこと(・・・明るさと素直さを生かす如く恭子の訓育を望む。)、母親のこと(不幸であった俺の分まで母上様に孝養を願う。健康第一なり。病める家があるものは暗いものである。・・・)短めに書かれています。  遺書の様なものなので母が私に渡してくれたものと思います。

艦砲射撃があり、日本軍が1万名に対してアメリカ軍は5万名でした。  兎に角長引かせて本土に来るのを遅くさせるという事だったようです。  昭和20年4歳で父の死を知ることになります。 父がいないという事に引け目を感じていました。  父親の最後を知りたいと願う様になりました。  きっかけは満洲の戦友から「戦死した人のことを風化させてはいけない。」と電話を受けた事でした。  夫が中心となりペリリュー島戦車隊の会を結成、夫と共に情報を集めてきました。  生き残った人のうち4名の方の話が貴重でした。  父親の戦車に「陸奥」と書かれていたことを知りました。(アメリカの資料)   

平成7年に初めてペリリュー島に行くことになりました。  父に全部関連して景色などを考えました。  10日間泣いて帰ってきました。  全国から20数人行きました。  初めて会った人たちでしたが、兄弟みたいな感じがしました。  平成27年にペリリュー島を訪れました。  長年の活動が実り、戦車の掘り起こしと、遺骨の収集が本格的に行われました。 これまでに掘り起こされた戦車には「陸奥」の文字の戦車は発見されませんでした。  去年12月国が新たに戦車の掘り起こしをするといういことで、これが最後かと思ってペリリュー島へ向かいました。  しかし発見する事は出来ませんでした。  もうお骨はないと思って諦めました。(土にかえったものと思います。)   万一、父親のお骨が判っても、部下30数目にのお骨が見つからないままだったらどうしようと思いましたが、父だけのお骨を持ち帰ることは出来ないと思います。  


















2025年8月11日月曜日

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る 

瀬古さんは四日市工業高校時代インターハイの800m、1500mで優勝するなど、中距離、長距離ランナーとして将来を期待されていました。  その瀬古さんを日本屈指のマラソンランナーに育てたのが早稲田大学競走部の中村清監督でした。  厳しい練習で知られる中村監督と瀬古選手、どんな師弟関係があるのでしょうか。 

中村監督が亡くなって今年で40年です。  怖かったです。  話が長くて練習の前に1時間ぐらい話します、乗っちゃうと2時間ぐらいは話します。  先生にとっては息子のような感じでした。  中村清さんは1913年韓国ソウルに生まれました。  早稲田大学在学中の1935年箱根駅伝で1区を走り区間一位、翌年は10区を走り区間2位の好成績をおさめます。    陸上1000m、1500mでも当時の日本記録を樹立して、1936年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表として出場しました。  1938年軍隊に招集され従軍、母校競走部のコーチに就任したのは終戦の翌年でした。  早稲田が箱根駅伝で18年振りの総合優勝を成し遂げたのは就任から6年後の1952年、更にその2年後の箱根でも総合優勝に輝きました。  一旦早稲田の競走部から退きますが、監督として復帰したのは瀬古俊彦さんが入学した1976年でした。  中村監督の指導の下、瀬古選手は大学2年で福岡国際マラソンで日本人トップとなったのをはじめとして、次々と記録を打ち立てます。   昭和55年瀬古さんが卒業してからは、瀬古さん所属の実業団SB食品陸上部の監督も兼ね、強豪チームに育て上げました。  中村さんは1985年5月渓流釣りの最中に足を滑らせて川に転落、帰らぬ人となりました。(71歳) 

私は早稲田から誘われましたが、受験に失敗しました。  南カルフォルニア大学に入学しました。  1976年早稲田大学に入学、中村コーチでした。  当時は箱根駅伝のは予選会にも通らなかったです。  瀬古を教えるのには中村しかいないと小田幹雄先生が頼んだらしいです。  それで合宿に参加しました。  「こんな弱い早稲田にしたのはお前たち学生のせいではない、OBが悪い。 私が謝らせてくれ。」と言って、自分の頬を自分の平手で思い切りバンバンたたき出しました。  「これで許してくれ。」と言ってみんなは唖然とました。   海岸に行って、 「瀬古君これからマラソンをやるんだけれど私の言う事を聞けるか。」と言って片手で砂を取って、「この砂を食べたら世界一になれる薬だったらお前食べれるか。」「これを信じて食べたら世界一になれるんだよ。」 私だったら簡単だと言って、口に入れて食べちゃいました。  凄い人だと思って、「ハイ、マラソンやりますから教えて下さい。」と言いました。  

月曜日は大学は練習が休みですが、私だけ中村監督の家に呼ばれて、話を聞いて練習をして美味しいステーキを食べて帰るという事をしていました。(特別扱いされていた。)  中村監督は中距離をやっても大した選手にはならない、マラソンだったら君のスピードを生かしたら世界に通用する。」と言われてマラソンに進む事になります。 (大学1年)  私なりの練習方法を二人で会話しながら進めていきました。 (ああしろこうしろとは言わなかった。)   宗選手の練習は朝40km、夕方40km走ると中村監督からは言われていましたが。   急には追いつけないので徐々に練習方法も増やしていこうと言われました。  「昔は選手を殴ったが、聖書を読んで愛の精神を勉強している、だから絶対殴らない。  本当にいう事を聞かなかったら自分を殴る。」と言いました。  この人は命がけでやる人だなと思いました。練習で雨が降る時がありましたが、傘をさしているのを観たことがないです。  練習時間が5時間とか長いですが、座っているのを観たことがないです。  

どっかの時点で厳しい練習では限界があることを感じたのかもしれません。  聖書に「他人にしてもらいたいことを貴方も他人にしなさい。」と書いてあります。  中村監督はその精神なんです。  私もそのような思いでアドバイスをします。  私は大学2年で福岡国際マラソンで日本人最高の5位でした。  3年生では日本選手としては8年振りとなる福岡国際マラソン優勝、4年生では日本人初の2連覇、モスクワオリンピック代表の座も射とめる。  福岡国際マラソンで日本人最高の5位になって、来た中村監督と座ったままで握手をしたら、「貴様はなんだ、教えている監督に座って握手するとはなにごとだ。」と言われて怒られてしまいました。  そういった精神は僕の心に残っています。 

1980年 SB食品に入社しました。  中村監督が「SBに行くぞ。」と言われてそうしました。  陸上部が無くて監督が自由に作れるからと言っていました。  1980年5月にモスクワオリンピックのボイコットが決まる。  「オリンピックだけがマラソンではない、他のマラソンで勝ちまくったらオリンピックに勝っただけの価値があるから、瀬古いいか、そういう風にしよう。」と言われました。  3つの目標を立てて全部達成しました。  1983年東京マラソンで自己最高の2時間8分38秒で優勝、福岡でも優勝、1984年のロサンゼルスオリンピックでは金メダル間違いないという予想だったが、14位だった。  「金メダルを期待している。」と毎日言われるわけです。  重荷になってもっと頑張らなければと勝手に思ってしまいました。  勝てばいいかも知れないが、負けることも人生に取って大事。   

その翌年新潟県で渓流釣りをしていた中村監督は事故で亡くなりました。  テレビで知りました。  家内と結婚する3週間前に亡くなりました。  妻に任せられると、僕は安心して天国に行ったと思っています。  1986年ロンドンマラソンで優勝、1987年ボストンマラソンでV2を達成。   瀬古は中村監督がいないと走れないと思われたくなくて、いなくても走れることを見せたかった。   1988年現役を引退。  勝てるような練習が出来なくなりました。   ソウルオリンピックの代表選考がもめました。  福岡国際マラソンで一本化という事でしたが、僕は怪我をして回避してしまいました。   4か月後の琵琶湖マラソンに出たんですが、物議をかもして瀬古は卑怯だといろいろ批判が出ました。 琵琶湖マラソンでは優勝しましたが、タイムはよくはなかった。  何で瀬古が選ばれるんだという事で、自分は皆さんから喜ばれてないんだなと言うようなことがあって、マラソンが楽しくなくなってしまいました。  ソウルは最後のマラソンだと思って出ました。  

SB食品の監督に就任しました。  自分の顔を叩いたり、砂を食べたりもしましたが、人真似は駄目だと思いました。  自分の心から出てくる言葉とかでないと駄目ですね。  中村監督は、自分が選手の見本になる人、そして引っ張てくれる人、そういう人です。  中村監督はソウルで生まれて貧しくて、日本に戻って来るのに皆さんのカンパで東京に来て、その恩返しのために自分は強くなって陸上競技に貢献する、原点がそういったところだと思います。  自分がお世話になった恩返しだと思います。  僕らも恩返しと言う気持ちはあります。  

中村監督は手紙を書くのが好きで、私に所には100通ぐらい来ています。 他の選手にも同様です。   

「49年前に先生にお目にかかった時のこと今でも鮮明に覚えています。 ・・・早稲田大学のセミナーハウスで、長距離合宿がありました。 ・・・ 「君が瀬古君だな、1年間浪人させてすまなかったな。  OBを代表して私が謝るから。」と意外な言葉が返ってきました。・・・「1000m、1500mのラストの切れ味は素晴らしい日本人離れしている。」と褒められました。 ・・・これはきっとマラソンで大成する。 私が命懸けで面倒を見てあげるから。」と言って命がけで指導して下さいました。 ・・・自分の顔を叩いたり、砂を食べて見せたり、雨のなかを5時間も6時間も立ったままで、私たちを観てくださいました。 ・・・私も先生と同じ年頃になりました。・・・こうやって半生を陸上競技に奉げてこられたのも先生のお陰です。  これからも陸上競技、マラソンの発展のために残りの人生をかけて行きますので、どうか見守って下さい。 」

言葉って、人の命を救うし、喧嘩もする。  だから言葉って本当に大事だと思います。 

















2025年8月10日日曜日

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで 

今から40年前の8月12日日航機墜落事故で亡くなった歌手の坂本九さん、「上を向いて歩こう」「見上げてごらんよ要るの星を」などその歌は40年経った今も幅広い人々に愛され続けています。  当時11歳だった大島花子さんは、現在シンガーソングライターとして父坂本九さんの歌を通してその思いを届けたいとライブ活動を続けています。  大島花子さんは坂本九さんと女優の柏木由紀子さんの長女として1973年に生まれました。  大学在学中ミュージカルなどの舞台に立ち、そのまま作詞作曲を手掛けながらライブ活動を始めます。  2003年には「見上げてごらん夜の星を」でメジャーデビューを果たしました。  坂本九さんへの思いと時代を越える歌の力について伺います。 

父の影響は大きかったと思います。  健康で居なくてはいけないという事で、家ではサウナスーツを着て腹筋の運動をして汗をかいたり、テニスをしたり健康管理には気を使っていまいた。  舞台に向かう時の緊張感とかを垣間見ました。  今となっては何ともいない時間が戻りたい瞬間というような気がします。  亡くなる前日に暑いなかを庭掃除を一緒にしました。  その瞬間がキラキラ胸に焼き付いています。  一緒にいられる事がどれだけ価値のあるものだったのかという事が、その瞬間を思い出すたびに考えさせられます。 

あの出来事があって、感情を誤魔化しながら日々を生きていたような気がします。  30年経った頃に私は「悲しみを私は乗り越えていないんです。」と言えるようになりました。  悲しみと一緒に歩いて行けばいいんだなと思いました。  それから楽になったような気がします。  乗り越えなくてもいいんだと思った時に楽になりました。 

2009年に男の子を出産しました。  命の尊さを改めて考えさせられました。  出産をきっかけにもっと歌いたいと思うようになりました。  2003年にデビューをしましたが、命の尊さ、日常の大事さと言ったことを音楽で伝えていきたいとくっきり見えてきたのが、出産後でした。  より生活と密着した思いと地続きの曲を歌うようになりました。  今は息子も高校生でバンドをやっています。  

シンガーソングライターとして20年になります。  トークでは何でこの歌を歌うのかとか、何のためにこの曲を作ったのかとか、説明してから歌ったりします。

*「上を向いて歩こう」  歌:大島花子  手話で一緒にうたう。

父が手話が好きで習っていました。  私も大人になって手話の勉強をしました。  永六輔さんが作った「そして思い出」と言う曲がありますが、手話から作られた曲で坂本九が歌いました。  「誰かと話がしたい。」と言う出だしがありますが、心を通わすことが話をすることなんだなあと思いました。  人と人がコミュニケーションをするのを教えてくれたのは手話かもしれないと思います。  東日本大震災の時には40回以上継続的に伺っています。  音楽はお腹を満たしたりすることは出来ないが、ご飯では満たせない心を満たすという意味では、人間にとって必要なものだなあと思います。

「上を向いて歩こう」は保育園から高齢者施設でも歌いますが、一緒に歌ってくれます。 音楽は言語を越える力があるんだと、父の歌が証明している様な気がします。 

「心の瞳」は素敵な曲なのでA面にと思ったのですが、B面になってしまいましたが、父が亡くなってしまって、葬儀では私が弾いて父の声と重ねるという事にしました。  亡くなる当日にラジオの歌番組に収録があってこの歌を歌っています。  これを聞いた中学の先生が合唱にしようという事で徐々に広まっていきました。  大事な人との別れは必ずだれもが経験することで、その心をもっと大事にしていいんですよと、悲しみは有っても別に悪いものではないにのだから、泣いてもいいし泣かなくてもいい、私だから伝えられるメッセージだと思うので伝えていきたいと思います。  大事な人が目の前にいる人は、その時間を大事にして頂きたい、私はそんな思いを歌に載せて歌い続けて行きたい。











2025年8月9日土曜日

2025年8月8日金曜日

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋 

長崎に原爆が投下されて明日で80年です。  今年被爆者の数が初めて10万人を下回り、平均年齢は86歳を越えました。  被爆の記憶や記録を少しでも多く次世代に残そうと、国では全国の被ばく者を対象に体験記の募集を始めました。 そのなか被ばく80年にして初めて語ったと言う体験記が長崎に寄せられました。  綴られていたのは原爆に翻弄された或る恋の物語です。  手記を出したのは長崎で被爆して現在は群馬県高崎市にお住まいの森貴美子さん(85歳)です。  森さんが5歳の誕生日を迎えた4日後に原爆が投下されました。  森さんは被爆体験を語るのに何度も葛藤したと言います。  80年間誰にも話さなかった過去をなぜいま語ることにしたのか、伺いました。

こんなことは人に話すようなものでもないし、今まで誰にも話したこともないし、それをわざわざ書かなくてもいいかと思っていました。   死に直面した病気にかかてしまいました。  自分の命の限界を知った時に、何かの役に立てばと思って、 書くことにしました。  被爆したのは私の責任ではないじゃないですか。  もし被ばくしていなかったらこんな生き方をしていなかっただろうとか、苦しむことはなかっただろうとか、心のなかに自分は被爆者だという事を絶対思っていましたから。  

5歳の時に爆心地から4,5kmの家で被爆しました。  光が全体を包んだと同時に家中の家具とかが爆風で全部とんじゃって家に中は無茶苦茶でした。  母と伯母が私と妹を押し入れに突っ込みました。  それが良かったのかもしれないです。  妹と二人で泣いていました。  妹が亡くなりましたが、いつ亡くなったのか私は判らないです。 

「終戦を迎え私は大学時代にある男性と交際を始めました。  彼は私より7歳年上。 将来は結婚を前提としたお付き合いです。 勿論私の両親公認でした。 その方は真面目で正直な人でした。  結婚が二人の間で具体的になり始めた頃、私は初めて迷い出したのです。 私は被爆者。  このまま結婚して子供が生めるのだろうか。  仮に子供が生まれてもその子は一生被爆二世として生きて行なければならない。  今考えると馬鹿な考えと思うところもあるかとは思いますが、当時の私は不安で結婚に踏み切れなくなりました。  彼は子供のことが心配なら子供入らないとさえ言ってくれましたが、私自身いつ発病して死ぬかわからない、という思いに取りつかれ彼との交際を諦めお別れしました。  私が何の躊躇もなく結婚していたら今と全く違う人生が展開していたと思っています。  原爆は一瞬のうちに人の人生、生き方を変えてしまうものと思っています。 幸い体には目に見える傷は残っていないものの、心には生きる事への諦めがずっと残っていました。」

はじめて恋をした方と結婚したかった。  結婚してもいいのか迷い出しました。 私は被爆者なんです。  家から彼を送ってゆくときに小さな公園で被爆のことを話しました。 隠し事をして結婚するのは卑怯なことだと思いました。  二人で背負ってゆくんなら二人で背負ってゆくしかしょうがないだろうと言いました。  聞いた時にこの人に負担をかけたら絶対駄目だと思いました。  結婚に踏み切れた人は勇気があったと思います。  

被爆体験のことを書いて読み返してみたら、こんなに浅い考えじゃないよな、もっと根深いものが自分のなかには残っているなと言う気がしています。   結婚をお断りした後、もう自分の人生は終わりだと思いました。  もう他に人とも結婚はしないし、出来ないし、これから先何を目当てに、何のために生きていくんだろうと思って死にたくなりました。  写真を全部ハサミで切ってしまって捨てました。  生まれた時から24,5歳までの写真は一枚も残しませんでした。  死のうと思いましたが、母に見つかって失敗しました。  被ばくしたからこそ生きて行かなければいけないと、今は思っています。 

原爆は私から愛、家庭、子供、自分そういったものを全部奪いました。  被爆するという事はある意味殺されるという事、生きる意味を否定される事です。  自分の夢や目標に向かって進んでいきたいと思た時に、それに全部ストップをかける。  原爆は本来の私を殺した敵です。  逃れられないから皆苦しんでいる。   特に小学生たちに、昔こういうことがあったんだよ、貴方たちの時代には絶対こういう事がないような、そういう世界をつくってねって、それを言いたかった。  原爆のことを知らない人たち、ちょっとでも知ってほしい。













2025年8月7日木曜日

金城利一(沖縄県豊見城市)        ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道

金城利一(沖縄県豊見城市)     ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道 

金城さん(91歳)が生まれ育ったのは沖縄県南部の豊見城市。  沖縄戦当時、海軍司令部などの軍事施設があったため、アメリカ軍の激しい攻撃をうけ、おおくの住民が犠牲となりました。  戦後80年沖縄戦を体験した世代の沖縄県民全体に占める割合は8%を切り、戦争体験を聞くことはますます難しくなっています。  11歳の時に沖縄戦を体験し、家族5人を失った金城さんに戦争の記憶と戦後80年の今、強める平和への思いを伺いました。

私は幼少のころ父が亡くなりまして、弟と二人兄弟でした。  貧乏で二人は育てられないという事で、私は母の実家で母と一緒に育ちました。  弟はおばあさんと一緒に育ちました。  弟とは一緒には遊んでいました。  学校でも遊びは兵隊ごっこでした。  小学校3年には軍事訓練も受けました。  ルーズベルトとチャーチルの藁人形を作って竹やりで突くわけです。5年生の時には学校は兵舎になって、兵隊が防空壕を掘って、その土を出すのが我々の仕事でした。  授業はなかったです。  軍国少年として育っていきました。  

1945年3月になるとアメリカの艦船が接近して、艦砲射撃が始まります。  4月には沖縄本島に上陸してきます。  4人に一人が犠牲になった地上戦が始まります。  3月23日は5年の終了式の日でした。  直ぐ帰るように言われてその日から防空壕暮らしです。  5,6世帯(20名ぐらい)が一つの壕に入っていました。  最初のころに母の実家は艦砲射撃でやられました。  1945年5月22日には旧日本軍の第32軍が首里城地下の司令部を放棄して、沖縄本島南部に撤退することになる。  住民も南へと避難を余儀なくされる。朝早く壕を出ました。  隊列を組んで後ろの方を歩いていました。  2,30mぐらいのそばに弾が落ちるわけです。   そこで隊列から別れてしまいました。  戻ったのは1/3ぐらいでした。  その後南へと向かいましたが、会えませんでした。  後ろの組は全員生き残りましたが、先の組は生き残ったのは2人でした。 おばあさんと弟は先の組でした。

命令なので南部を目指していきましたが、向こうに行っても壕はないとおじいさんが言うので、行かないでおこうと言われました。   戻るとアメリカ軍の捕虜になってしまうので戻れない。  近くで壕を捜してそこに入ろうとおじいさんが言って、壕を見つけて入りました。その間に10体ぐらいの死体は見ました。   4,5日してからアメリカ兵が出て来いと言ってきました。  手榴弾も投げれれることもなく、アメリカ兵が入ってきました。  おじいさんに向かって「心配ない 心配ない」と言ってきました。  手で引っ張り出されて、ここで殺すんだなと思いました。  水と菓子を出しましたが、毒が入っているのではないかと食べませんでした。  兵隊は水を飲んで菓子を 食べて見せました。  私は水も飲みましたが、その後殺されると思いました。  

糸満の潮平と言うところまで歩かされました。  そこには一杯人がいました。    母、おじいさん、私と親戚合わせて7,8名ぐらいが一緒でした。   弟、おばあさん、母方のおばあさんはおじさん伯母さんらとははぐれてしまいました。  南へ逃げた弟たちは壕を見つけて入ったそうですが、日本兵が後から来て民間人を追い出したそうです。  岩陰に隠れているところを集中砲火を浴びて亡くなったそうです。  その中の2人(従兄弟)は生き残り、日本兵の壕にもぐりこんだと言っていました。 (後日聞いた話) 戦後遺骨を捜しに行ったら大きな岩のところに白骨がありました。  誰の遺骨か、残っていた衣服のきれっぱしで母が判断しました。  遺骨を前に声を出して泣きました。

戦争と言うのは悲惨なものです。  どんなことがあっても戦争だけはいけないと思います。 南部撤退がなければ亡くならないで済んだのになあと思います。  捕虜になれば我々みたいに生き残った。  いまでも戦争はなくならず、一番被害を受けるのは住民です。  今の状況は戦前の臭いがします。  戦争に参加しない、戦争を起こさない運動を広げるべきだと思います。










2025年8月6日水曜日

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で 

8月6日広島原爆の日です。 爆心地から南東に6km広島湾にある周囲およそ5kmの金輪島、原爆投下直後大榮の被爆者がここに運び込まれましたが、その記録は乏しいのが実情です。  島には陸軍の船舶司令部が設けられ、当時14歳だった岡本教義さん(94歳)が勤務していました。  被爆者を船から引き揚げる作業で、自身も間接被爆、島は地獄のような光景となりました。  戦後は職を求めて松山市に移住したものの、病気や差別に苦しんだ岡本さん、60歳になり戦争の記憶を語り継ぐ活動をはじめ、現在は愛媛県原爆被害者の会 会長を務めています。 今年戦後80年を迎えて一層募る平和への危機感、その思いを伺いました。

9人兄弟の5番目、1945年3月に学校を卒業して、軍族となって広島市中心部の実家を出て広島港にある旧陸軍船舶司令部の寮で暮らしていました。  金輪島は日清日露戦争のころからの本隊の要塞で、日本の地図には載っていない。  軍事施設があるという事を公にはできなかったようです。  原爆が投下された時には、朝礼が終わって南西の方向でぴかっと光りました。  白い煙が真っすぐ上がって横に広がりました。  金輪島では間口10m長さ20mぐらいの倉庫、木工所が潰れました。(爆風と海のしぶき)   ありとあらゆるむしろ、毛布、テントを出すように言われました。  夕方3時ごろから船が広島から来るようになりました。  人をピストン輸送しました。  負傷者を船から持ち上げます。  肩を貸して手を持つと腕の皮膚がツルっと抜ける。  前は焼けただれるが、背中は綺麗なのでそこに手を添えて移動する。   自分の親や兄弟ももしかしたらそうなっているのかとふっと思いつきました。  水を持ってきて傷を洗ったりしてあげる。  何のためかと言うとそこにはウジ虫が沢山湧いているのを取ってやるためです。   恐る恐るやると上官が来て、親や兄弟そう思ったら手ぬるいことができるかと酷く怒られました。  

お母さんが一生懸命に子供に乳を飲まそうとしている。  しかし子供は息絶えているから口が開いてない。  名前を呼んで一生懸命飲まそうとしていた光景を思い出します。  火葬場に行く時の臭いは思い出します。  人間の末路かなあと言う臭いがしています。 魚の腐ったものよりもまだ悪い。  息絶え絶えに「水を呉れ」と言うので綿花に水を浸して飲ましてあげると、兵隊に見つかって怒られる。  「火傷をしている人間に水を飲ましたら死ぬんだ。お前はそういう事が判らぬか。」と言うんです。  14歳の子供にわかるわけないです。  いずれ死んでしまう様ならば水を飲ましてあげて、「美味しかった。」と言ってもらえればそれに越した事は無い。  目を盗んで水を飲ましてあげて、10分もするとその人はいきを引きとる。  そのことはいまだに気になってはいます。  医者は軽症者には水を飲ませてもいい、重傷者には飲ませないようにと言うが、人間1/3火傷をすると助からないという事は後々わかるが、水を飲ませたのが良かったのかどうなのか、教えてもらえません。 これは永遠に僕が死ぬまでもっていかなければいけない事かと思います。 

家族を捜すための許可を貰って、8月13日に広島市街に入りました。  焼け野原で歩いても歩いても瓦礫ばかりでした。  似ているなと思って声を掛けたら弟でした。  帰ったら両親もいました。  全員無事でした。  父親は喉頭がんで、戦後の生活はどん底でした。  食べ物には苦労しました。  電気工場に見習いに行きました。 (広島)  その後松山に永住することになりました。  

被爆者を介護する時に間接的に被爆しました。  喉頭がんが2回、舌癌が1回やっています。21歳のころに娘さんと結婚することになり、親に話に行ったら被爆者と結婚したら奇形児が生まれるから、結婚したらいけないと反対されました。 原爆手帖を持っている、原爆被害者と言うだけで結婚が出来ませんでした。  その後別の人と結婚することになりましたが、被爆のことは結婚後に嫁に話しました。   60歳になって定年になったら定年離婚となりました。  30年間辛抱してくれました。  

語り部になったのは愛媛県原爆被害者の会 に入ってからです。  60歳を過ぎてがんになった時に原爆のことなどいろいろ考えました。  病室で自身の経験をノートに書いてみました。   会長職を5,6年やっていますが、段々人が少なくなって平和運動が薄れていくのではないかと言う危惧をしています。  若い人に平和の尊さを噛み締めて欲しい。  選挙の投票率も少ない。  今自分がやらなくても他人がやってくれるからと人任せにして、これは一番危ない事です。 平和はどこから来ているのかという事を噛み締めて欲しい。  今の若い人は平和ボケしている、なんかおかしいですね。  戦争になる根本はどこにあるか、こういうことを考える若者は一人でもおりますか。  核兵器廃絶に関して理屈無し、絶対に持ったらいけない。  

去年ノーベル平和賞受賞、日本原水爆被害者団体協議会の活動が注目されましたが、全世界の人から核兵器の廃絶と言うものに対して、もっと目を向けなければいけないという警鐘のための尻叩きのものと僕は感じています。  80年は第一歩です。  今は小さな平和です。  今の平和はほころびています。 ほころびを糸と通そうか、抜こうか中途のところです。  情けない事です。  何べんもがんを患ってもなおかつ生かしてもらっていることは、まだまだ僕の努力が足りないから、もう少し頑張れもう少し頑張れと、生かされているのではないかと思います。  どんなことがあっても戦争だけは止めて下さい。