渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)・母を語る(H16/11/16 OA)
渡辺さんは昭和2年北海道旭川市で生まれました。
昭和11年小学校3年生の時に2・26事件に遭遇、当時教育総監だった父親が自宅の居間で43発の銃弾を受けて命を落とすのを目撃します。
その後母に厳しく育てられ、18歳で洗礼を受けます。
聖心女子大学を経て、上智大学大学院を卒業後、30歳で岡山ノートルダム修道会に入り
アメリカボストンカレッジ大学院に派遣されます。
帰国後、36歳で岡山ノートルダム聖心女子大学の学長となり、長年教壇に立ち学生の指導や支えになってこられました。
2012年に発売された著書、「おかれた場所で咲きなさい」は200万部を超えるベストセラーになりました。
2016年12月89歳で亡くなられました。
家は浄土真宗でした。
父、渡辺錠太郎(教育総監)は2・26事件で亡くなりました。
父が中将で旭川の第一師団の師団長を命ぜられて旭川にいたときに生まれました。
姉は22歳年上で、そのあと兄が生まれ、3年して下の兄が生まれ、3年たって4人目として生まれました。
生まれた時は姉は結婚していて、同じ昭和2年に孫と娘と両方を設けたわけです。
母は恥ずかしがって産みたくなかったと後で聞きました。
男が児を産むのはおかしいが女が児を産んで何がおかしいと言って、父が母を説得して産んでもらって、私は父が好きでした。
父が53歳、母が44歳でした。
北海道では2歳まで暮らしました。
台湾の軍司令官になって台湾に行って、1年して東京に戻った時には陸軍大将になって、荻窪に家を建てて4歳から30歳まで過ごしています。
成蹊小学校はユニークな学校でした。
男女共学で同じ1人の先生のもとで30人仲良く一緒に6年間過ごしました。
9歳で2・26事件に遭遇しました。
その日のことは鮮明に覚えていますが、心に傷を受けたと言うことは思っていません。
雪がたくさん降っていました。。
朝6時前に門の前にトラックが止まって、怒号が聞こえて、父母と一緒に寝て居て、父は
すぐに私を起こして母のところに行きましたが、母は気丈な人で兵士たちを阻止していて、私のことなど構ってくれないので父の所に戻ってきましたが、弾が飛び交っていましたが、かいくぐって父の所に行きましたが、父は射撃の名手だったのでピストルを構えていたが、私を見てとっても困った顔を見せました。
座卓の後ろに隠れるように目で合図をしてくれました。。
ふすまを細めに開けて、軽機関銃を据えて父の足を狙って打ち始めました。
父が動けなるのを見澄まして、成年将校、兵卒5,6人入ってきて父にとどめを刺して去ってゆく一部始終を見守りました。
父の言葉で産んでもらった娘に最後を看取られて、死んでいったのかなあと、今なぜ自分がこの世に産んでもらったのか、そのためだったのかと思う時があります。
血の海の中で事切れて居ました。
「お父様」と呼んだんですけれど答えてはくれませんでした。
母が入ってきて、外に出て居なさいと言われて、私はそこにはおりませんでした。
検死の後に、父にちょっと触ったのですが、とっても冷たくてその冷たい感触が今でも思い出されます。
居合わせて父の最期をみとったと言うことに対して、母は何にもコメントはなかったです。
母は涙一滴も涙を流しませんでした、気丈過ぎるぐらいで、それで今の私があると思いますが。
子供達(9歳、12歳、15歳)3人がいましたが、これからはお父様と二人分厳しくしつけますと宣言して、お父様の名前を恥ずかしめることのないようにと、厳しく申し渡されました。
雙葉高等女学校、ミッションスクールに通うことになる。
しつけは母とは違った意味で厳しくて、大変反発を覚えて、キリスト教には背を向けて卒業しました。
中学校1~2年生の時に2回ほど補導されたことがあります。
2年生の夏に母親が校長様に暑中見舞いを書きなさいといわれて書いたのですが、自筆で「和子さん暑中見舞いありがとう、早く学校に戻っていらしゃい」と返信が来て、それが私の改心のきっかけになりまして、こんなに悪い子でも校長先生が大事にして下さると、少し改心しました。
3年生の時に第二次世界大戦がはじまり、宗教行事も少なくなりましたが。
3年生からは級長をして、卒業の時は答辞も読みました。
母は1番になりなさい、100点を取りなさいと常に言っていました。
90何点とってもこれで家に入ったら母に叱られる、家出をしようと思ったことがあります。
母は愛知県の田舎の家の12人兄弟の長女で高等小学校しか行っていませんでした。
父が相当母に対して教育をしたようで、自分でも相当勉強したようです。
母は口答えを一切許さなかったです。
キリスト教、クリスチャンになりましが母は大反対でした。
母に反抗する、学問のない母を或る程度軽蔑するような気持があったと思うんです。
洗礼を受けていいか聞いたときに、母は頭から反対されましたが、反対されるほど受けてやろと思いました。
戦争のさなかにも関わらずクリスチャンになるのは何事だと、受けてはいけないと言われましたが、四谷から雙葉まで歩いていき、一日がかりでしたが、一晩泊って翌朝洗礼を受けて家に帰って来ました。
母は非常に腹を立てて3日間口をきいてくれませんでした。
疎開をしなくてはいけなくなって和解しなければいけなくなって山梨県に疎開しました。
山梨県でカトリックの幼稚園に勤めるようになり、そのうち戦争が終わって東京に戻ってきました。
聖心女子高等専門学校の国文にはいって卒業ましたが、足りないと言うことで、経済的にも困っていて、これからは英語が必要だと言われて、先を見る目があり賢い人だったと思います。
英文科に入り直そうと、1948年新制大学の一期生として入り、1951年に卒業しました。
母の言ったことに感謝しています。
母は人はみんな自分が一番かわいいんだから人様を当てにしてはいけない、自分で自分の出来ることは自分でしないといけない、学問もできることは出来るとこまで身に付けて、お金で何も残してあげることはできないので、学問を身につける事、そして甘えると言うことを一切させてくれませんでした。
父から9年間は可愛がってもらいましたが、母に甘えたと言うことはありませんでした。
父は私を膝の上に載せて論語を判る言葉で教えてくれました。
母のお陰で修道院に行っても辛いと思ったことはありませんでした。
30歳近くまで母といたので、母を残して修道院にはいることはちょっと後ろ髪を引かれる思いはありました。
私はお父様のようなかたと結婚するという気持ちがあったんですが、生まれた時には陸軍中将でみんなから尊敬されて居る人しか知らないので、自分とあまり違わない人とのお付き合いもありましたが、何か物足りないものがあって、それが修道院に入った一つのきっかけになったと思います。
決して裏切ることのない、尊敬することがいつもできる、その方を男友達の中に見出すことが出来なかった。
神の配偶者となると言うことに理性的に思い立ったと思います。
何故修道院にはいらなければいけないのかと母から言われました。
結婚するだけが女の幸せではないからねと、或る時に言ってくれました。
修道院で6年すると一人前の修道者になります。
37歳で東京に戻って私が学長になったと言うことを非常に喜んで、父の後を継いだ(父は教育総監だったので)と言ってくれました。
私が父のような人と結婚するという気持ちを持っていたと言うことは母は知っていたと思います、それは無理だと言われました。
わたしが知っている父と母が知っている父とは違います。
理想化している部分があるとは思いますが。
わたしは父に非常にかわいがられて、9年間に一生涯分の愛情をうけた様に思うほど可愛がられたと言うことがあり、愛情不足と言う気持ちはなくて育ったことと、父の努力する姿、本をよく読んでいる姿を見て育っています。
母からは厳しくしつけられましたが、質素なことを教えてもらい、贅沢はしてはいけない、お金を使う時はいくら使ってもいいけど、無駄なお金を使ってはいけないと言うことを教えてもらいました。
修道院から家に戻ってきたときに、母から「あなたはこれで良かったわね」と言ってくれました。
それがわたしの母への親孝行かと思っています。
父の仕事の後を引き継いでさせていただくと言う気持ちは持っていました。
2017年4月29日土曜日
2017年4月28日金曜日
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(2)
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(2)
代表作「ベルサイユのばら」製作の舞台裏や、40代半ばでの声楽家への挑戦などを伺います。
「ベルサイユのばら」は24歳で作った漫画が、今もこうして生きていると言う感じ。
マリー・アントワネットの生涯を書きたくて始めましたが、創作上の人物を何人か作りましたが、オスカルと言う存在が、特に当時働いている女性に与えたインパクトは大きかったと思います。
オスカルは女性でありながら、男の子のように育てられて軍人になって、マリー・アントワネット付きの武官となって、活躍する。
革命がおきたときに市民の側に寝返る。
この人物がいなかったらみなさんの心を引き付けることはできなかったかも知れません。
マリー・アントワネットを書きたいと思ったのは高校2年生のときで、雑誌で漫画連載されるようになって、そろそろ長編を書いてみませんかと言われて、2年間ぐらい準備期間があってその時にオスカル、アンドレイ、ジュローデルと言ったような、史実にはない人物を考えました。
オスカルは7月14日にフランスに兵隊を率いて市民の側に寝返った隊長と言うことでそれがまず先にあり、文章を遡って作っていきました。
私も若かったので職業軍人がどういうふうに考えて居たのかは判らないので、女性として決めました。
女、子供には歴史物はタブーだと言われました。
当時読んでくれた小学生が、フランス革命のことが知りたくて、革命の本を買いましたとか言われて、漫画を読むと害毒だとか、本を読まなくなるなんて、そんな事はないでしょうと言いたかった。
自分で書いていておもしろかったので絶対当たると思いました。
まさか大人の人たちが読むとは思わなかった。
討論会に引っ張り出されても、男性が、女性が社会に出るのは是か非かを論じて居た時代なんです。
なんで男性の許可を得なければいけないの、と思っていました。
フランス革命当時は、「どんな天才でも女に生れればいないも同じ」という言葉を残しています、そういう時代でした。
私は家を建てたときに、全く知らない男性から電話がかかってきて、「女のくせに家なんかたてやがった」、と言われました。
二言目には女のくせにと言う言葉がありました。
オスカル、在るべき上司像のように思います。
オスカルにはアンドレイがいたことは、私もアンドレイが欲しいという手紙が来て圧倒的に多かったですね、理想のパートナーです。
経験してないことも書けるから作家だと思います。
毎週エピソードをきめてゆくのは苦しみます。(週刊誌への連載)
毎週締め切りの2,3日前は徹夜続きでした。
今書いているのは、ロザリーのその後のような形ですが、構想はあるのですが何時書きあがるか分かりません。(昔のやり方ではできません。)
漫画はそこで読んで捨ててしまって終わりというものだったので、世代を超えて読み続けられるものを作品として残したいと思ってました。
小さいころからの読書体験、映画を見た感動、色んなことが全て一つの作品になって熟成されてゆくものだと思う。
小学生の時に親が平家物語を読んでくれて、他に源平盛衰記、太平記など日本の歴史から入っています。
高校生になって、マリー・アントワネットの本に触れて西洋史に目覚めました。
フランスには行ったことはなくて日本で資料を調べたり、井上幸治先生(フランス近代史を研究)を紹介してもらって、いろいろ伺いました。
「ベルサイユのばら」が終わってから初めてフランスに行くことが出来て、その後の作品を書くときは出来るだけ現地に足を運び調査をして書くようにしました。
子供のころから勉強することは好きでした。
相撲が大好きで自分が一番やりたいのは横綱審議委員です。
子供の頃初代若乃花にファンレターを出しました。
オスカルの宣伝の懸賞幕が土俵に上がったので感無量でした。
(オスカルが女性で初めて土俵に上がったと言われました)
オペラのバリトンのパートナーとはオペラの稽古場で出会いました、25歳下です。
出会ったのは60歳になった時で、何があるか判らないよと他の女性にも言いたいです。
最後に神様が良い人を与えてくれたんだなあと思います。
現役で働いていれば出会いはあるかもしれないと思います。
閉じこもってものを書く仕事だったので、一つだけ気をつけてきたのは、歯です。
出来るだけ長く全部自分の歯でいようと思いました。
歌は一本歯が差し歯になっただけで、発声が変わります。
40代で声楽に挑戦しました。
音大に行って勉強をしたいと思っていて、中学時代に挑戦をしましたが才能がないと思ってあきらめたりしましたが、ずーっと音楽と一緒に生きてきたという感じはあります。
40歳過ぎてやり残した夢があれば片づけて置かないといけないと思いました。
5年間悩んで2年間勉強して入りました。
夢を実現するための条件がそろう時は人生に一度あるかないかだと思っていて、その時に踏み出せないとしたら、その人にとってそんなに大した夢ではないと思う。
45歳の時がみんな条件がそろった時だったと思います。
音大出て食べていけるかどうかわからなかった。
この夢を実現しないと、死ぬときに後悔するなあと思いました。
先陣を切って行くことは叩かれることも多いし、抵抗も多いし、大変だと思いますが、でも自分の人生ですし。
どうやって自分の人生を閉じて行くのかなあと言うふうに考えが行っています。
今晩寝たら明日はもうこの世に居ないかもしれないと毎晩思います、だからこそ充実させなければいけない、今日で人生が終わってもいいという気持ちで生きなければいけないと思っています。
私たちの世代になると、人生って意外と短かったなあとか、本当に一度きりなんだなあとか、感じて居ると思うので、出来ることはなるたけやった方がいいと思います。
日本ではクラシック音楽、声楽、オペラなどは食べて行くのは大変で、すそ野を広げ様として頑張って舞台を作っているので、そういったところにも足を運んで貰いたい。
若い人たちの舞台は集客が大変で、支援に私は老後の預金をそういったものに全部つぎ込んでしまったので、みなさんにもすこし目を向けていただきたいと思います。
代表作「ベルサイユのばら」製作の舞台裏や、40代半ばでの声楽家への挑戦などを伺います。
「ベルサイユのばら」は24歳で作った漫画が、今もこうして生きていると言う感じ。
マリー・アントワネットの生涯を書きたくて始めましたが、創作上の人物を何人か作りましたが、オスカルと言う存在が、特に当時働いている女性に与えたインパクトは大きかったと思います。
オスカルは女性でありながら、男の子のように育てられて軍人になって、マリー・アントワネット付きの武官となって、活躍する。
革命がおきたときに市民の側に寝返る。
この人物がいなかったらみなさんの心を引き付けることはできなかったかも知れません。
マリー・アントワネットを書きたいと思ったのは高校2年生のときで、雑誌で漫画連載されるようになって、そろそろ長編を書いてみませんかと言われて、2年間ぐらい準備期間があってその時にオスカル、アンドレイ、ジュローデルと言ったような、史実にはない人物を考えました。
オスカルは7月14日にフランスに兵隊を率いて市民の側に寝返った隊長と言うことでそれがまず先にあり、文章を遡って作っていきました。
私も若かったので職業軍人がどういうふうに考えて居たのかは判らないので、女性として決めました。
女、子供には歴史物はタブーだと言われました。
当時読んでくれた小学生が、フランス革命のことが知りたくて、革命の本を買いましたとか言われて、漫画を読むと害毒だとか、本を読まなくなるなんて、そんな事はないでしょうと言いたかった。
自分で書いていておもしろかったので絶対当たると思いました。
まさか大人の人たちが読むとは思わなかった。
討論会に引っ張り出されても、男性が、女性が社会に出るのは是か非かを論じて居た時代なんです。
なんで男性の許可を得なければいけないの、と思っていました。
フランス革命当時は、「どんな天才でも女に生れればいないも同じ」という言葉を残しています、そういう時代でした。
私は家を建てたときに、全く知らない男性から電話がかかってきて、「女のくせに家なんかたてやがった」、と言われました。
二言目には女のくせにと言う言葉がありました。
オスカル、在るべき上司像のように思います。
オスカルにはアンドレイがいたことは、私もアンドレイが欲しいという手紙が来て圧倒的に多かったですね、理想のパートナーです。
経験してないことも書けるから作家だと思います。
毎週エピソードをきめてゆくのは苦しみます。(週刊誌への連載)
毎週締め切りの2,3日前は徹夜続きでした。
今書いているのは、ロザリーのその後のような形ですが、構想はあるのですが何時書きあがるか分かりません。(昔のやり方ではできません。)
漫画はそこで読んで捨ててしまって終わりというものだったので、世代を超えて読み続けられるものを作品として残したいと思ってました。
小さいころからの読書体験、映画を見た感動、色んなことが全て一つの作品になって熟成されてゆくものだと思う。
小学生の時に親が平家物語を読んでくれて、他に源平盛衰記、太平記など日本の歴史から入っています。
高校生になって、マリー・アントワネットの本に触れて西洋史に目覚めました。
フランスには行ったことはなくて日本で資料を調べたり、井上幸治先生(フランス近代史を研究)を紹介してもらって、いろいろ伺いました。
「ベルサイユのばら」が終わってから初めてフランスに行くことが出来て、その後の作品を書くときは出来るだけ現地に足を運び調査をして書くようにしました。
子供のころから勉強することは好きでした。
相撲が大好きで自分が一番やりたいのは横綱審議委員です。
子供の頃初代若乃花にファンレターを出しました。
オスカルの宣伝の懸賞幕が土俵に上がったので感無量でした。
(オスカルが女性で初めて土俵に上がったと言われました)
オペラのバリトンのパートナーとはオペラの稽古場で出会いました、25歳下です。
出会ったのは60歳になった時で、何があるか判らないよと他の女性にも言いたいです。
最後に神様が良い人を与えてくれたんだなあと思います。
現役で働いていれば出会いはあるかもしれないと思います。
閉じこもってものを書く仕事だったので、一つだけ気をつけてきたのは、歯です。
出来るだけ長く全部自分の歯でいようと思いました。
歌は一本歯が差し歯になっただけで、発声が変わります。
40代で声楽に挑戦しました。
音大に行って勉強をしたいと思っていて、中学時代に挑戦をしましたが才能がないと思ってあきらめたりしましたが、ずーっと音楽と一緒に生きてきたという感じはあります。
40歳過ぎてやり残した夢があれば片づけて置かないといけないと思いました。
5年間悩んで2年間勉強して入りました。
夢を実現するための条件がそろう時は人生に一度あるかないかだと思っていて、その時に踏み出せないとしたら、その人にとってそんなに大した夢ではないと思う。
45歳の時がみんな条件がそろった時だったと思います。
音大出て食べていけるかどうかわからなかった。
この夢を実現しないと、死ぬときに後悔するなあと思いました。
先陣を切って行くことは叩かれることも多いし、抵抗も多いし、大変だと思いますが、でも自分の人生ですし。
どうやって自分の人生を閉じて行くのかなあと言うふうに考えが行っています。
今晩寝たら明日はもうこの世に居ないかもしれないと毎晩思います、だからこそ充実させなければいけない、今日で人生が終わってもいいという気持ちで生きなければいけないと思っています。
私たちの世代になると、人生って意外と短かったなあとか、本当に一度きりなんだなあとか、感じて居ると思うので、出来ることはなるたけやった方がいいと思います。
日本ではクラシック音楽、声楽、オペラなどは食べて行くのは大変で、すそ野を広げ様として頑張って舞台を作っているので、そういったところにも足を運んで貰いたい。
若い人たちの舞台は集客が大変で、支援に私は老後の預金をそういったものに全部つぎ込んでしまったので、みなさんにもすこし目を向けていただきたいと思います。
2017年4月27日木曜日
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(1)
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(1)
漫画家デビューから50年の節目を迎えた池田さん、代表作「ベルサイユのばら」を宝塚歌劇団での上演やアニメーション放送などさまざまに展開され、ヨーロッパやアジアなど海外の国々を含め高い評価を受けて居ます。
その後もロシア革命前後のヨーロッパを舞台にした「オルフェウスの窓」、フランス皇帝ナポレオン「栄光のナポレオン-エロイカ」、ロシアの女帝エカチェリーナ2世など華麗な歴史ロマンを次々に発表してきました。
漫画家デビューした学生時代、漫画を取り巻く環境の変化などを第一回は伺います。
50周年、過去の作品は恥ずかしくてなるべく見たくない感じで、目を落として歩いていました。
人生って短いなあと言うのが実感です。
やりたいことがあっても年齢とか、身体の衰えとか、待ってくれないのでやれるうちにやっておかないといけないと言うのが実感です、このことを若い人に伝えたい。
やりたいことをやらなかったら悔いが残ると思います。
長い間自分の中でやりたいと思っていたことを、やれるチャンスが巡って来る時はあるんです。
音楽は子供のころからの夢でした。
37歳で旧西ドイツにホームステーして語学学校に留学したんですが、ずーっといつかやりたいと思っていたことで、いまではないかなあと言う時があります、それを逃さないと言うことが大事だと思います。
子供が出来なくて、不妊治療をしていましたが出来なくて、辛い日々を過ごしましたが、或る時諦めて子供のいない人生を選んだ時から人生はころっと変わるんです。
小さい時から将来ものを作る人、物を書く人、表現したいと言うことがあって、いろいろ思いましたが、たまたま19歳のときに漫画家になることになったと言うめぐりあわせです。
小説家になりたかったので書いて文学賞に応募したりしたが、選に漏れてしまいました。
物ごころつく頃から道路に絵を書いたりしていました。
母は専業主婦だったが、戦争中に青春時代を過ごしたので、キャリアーウーマンになりたかったと言っていました。
これからの女性は男の人に頼るようではだめで、自分で生きていきなさいと、もの心ついた頃から母に言われました。
結婚すると言うことは、一人が夫も妻も二人分稼げてこそ結婚の資格があると思うんです、何時相手が病気になるかもしれない、亡くなるかもしれないので、お互いが相手の分も稼げてこそ結婚の資格があると思います。
父は典型的な昭和の男だったので、女に学問はいらないと言われました。
大学に行くなら国立大学、学費は1年間だけ、浪人は許さないと言われました。
教育大学(筑波大学)に入ることが出来て、哲学だったんですが、哲学体系などを勉強するんではなくて、自分が何かを作りたかった、ちょっと違うと思いました。
純学問をやりたかった。
哲学の原書を読むためにギリシャ語、ドイツ語、中国語もやりました。
ドイツ語を喋りたいと思って、ドイツへの留学に繋がって行く訳です。
物を作る人になりたかったと言うことが諦められなくて、学生運動が激しかった時代で、親のすねをかじりながら社会、大人を批判するのはいけないと思ってしまって、置手紙をして自立しますと言って家をでました。
私たちの世代は国家権力に抵抗しても空しいんだなあと言う敗北感を抱えて社会に出たと思います、自分自身もそうだと思いました。
革命、原水爆に反対する、いじめとかの問題、社会問題に目が向いてゆくきっかけをそこで(学生運動の時代)勉強させてもらったと思います。
家出していろいろ仕事をしましたが、人と一緒に何かすることが苦手だなあと判って、家に閉じこもってする仕事、小説家、漫画を書くことしかできないと思って、漫画だと思いました。
或る出版社を紹介してもらって、200ページ以上の物を好きに書かせてもらえると言う訓練をさせてもらって、貴重な体験でした。
1冊書いて2万3000円でしたが、生活はギリギリで時々パチンコで稼ぎました。
宿代6000円、授業料は1000円で、学生食堂で3食食べて過ごしました。
自分で衣服を買うお金もなく、知り合いの母親がファッションモデルの人とかが住んでいる管理人で、色んな服をお下がりで貰って、当時としては最先端の洋服を着ることができました。
21歳のときに、雑誌デビューしました。
書きたいものを書けると言う嬉しさはありました。
当時は漫画なんかと言う位置づけだったので、ベルサイユのばらを書いて、新聞、取材を受けたり、TVに出たりして、叩かれました。
子供に害悪を与える諸悪の根源と言うふうに言われて、文学作品のように想像力を養わないと言うふうに言われました。
映画など含めて視覚的なものはだめなんですかと、反論しました。
手塚先生が大変でしょうと言われて、僕の漫画もPTAから取り上げられて、校庭のまん中にうずたかく積み上げられて火を付けられた、だから頑張んなさいと言われました。
「ベルサイユのばら」で子供向けの漫画を書いたつもりだったが大人の方、学校の先生、仕事を持った女性が支持して下さって、読みなさいとむしろおしゃって下さったのは大きかったと思います。
ヨーロッパで認められてからだと思います、日本人の価値観は外国で認められて初めて認めると言うようなところがあるんです。
アニメに対してようやく政府も動き始めました。
日本の漫画がヨーロッパに認められフランスなどは文化予算を付けて漫画文化を育てようと言う取り組みをしています。
うかうかしていると世界に追い抜かれてしまうと言うことはあります。
我々のまいた種が世界中に広がって、向こうに行くと若い人たちも私のところに寄ってきて、私のすべてはベルサイユのばらでできていますとか言ってくれて、人生に影響を与えることができたと思って嬉しいです。
音楽家のボブ・ディランがノーベル文学賞を貰ったように、漫画が近い将来ノーベル賞を貰うのではないかと思っています。
漫画家デビューから50年の節目を迎えた池田さん、代表作「ベルサイユのばら」を宝塚歌劇団での上演やアニメーション放送などさまざまに展開され、ヨーロッパやアジアなど海外の国々を含め高い評価を受けて居ます。
その後もロシア革命前後のヨーロッパを舞台にした「オルフェウスの窓」、フランス皇帝ナポレオン「栄光のナポレオン-エロイカ」、ロシアの女帝エカチェリーナ2世など華麗な歴史ロマンを次々に発表してきました。
漫画家デビューした学生時代、漫画を取り巻く環境の変化などを第一回は伺います。
50周年、過去の作品は恥ずかしくてなるべく見たくない感じで、目を落として歩いていました。
人生って短いなあと言うのが実感です。
やりたいことがあっても年齢とか、身体の衰えとか、待ってくれないのでやれるうちにやっておかないといけないと言うのが実感です、このことを若い人に伝えたい。
やりたいことをやらなかったら悔いが残ると思います。
長い間自分の中でやりたいと思っていたことを、やれるチャンスが巡って来る時はあるんです。
音楽は子供のころからの夢でした。
37歳で旧西ドイツにホームステーして語学学校に留学したんですが、ずーっといつかやりたいと思っていたことで、いまではないかなあと言う時があります、それを逃さないと言うことが大事だと思います。
子供が出来なくて、不妊治療をしていましたが出来なくて、辛い日々を過ごしましたが、或る時諦めて子供のいない人生を選んだ時から人生はころっと変わるんです。
小さい時から将来ものを作る人、物を書く人、表現したいと言うことがあって、いろいろ思いましたが、たまたま19歳のときに漫画家になることになったと言うめぐりあわせです。
小説家になりたかったので書いて文学賞に応募したりしたが、選に漏れてしまいました。
物ごころつく頃から道路に絵を書いたりしていました。
母は専業主婦だったが、戦争中に青春時代を過ごしたので、キャリアーウーマンになりたかったと言っていました。
これからの女性は男の人に頼るようではだめで、自分で生きていきなさいと、もの心ついた頃から母に言われました。
結婚すると言うことは、一人が夫も妻も二人分稼げてこそ結婚の資格があると思うんです、何時相手が病気になるかもしれない、亡くなるかもしれないので、お互いが相手の分も稼げてこそ結婚の資格があると思います。
父は典型的な昭和の男だったので、女に学問はいらないと言われました。
大学に行くなら国立大学、学費は1年間だけ、浪人は許さないと言われました。
教育大学(筑波大学)に入ることが出来て、哲学だったんですが、哲学体系などを勉強するんではなくて、自分が何かを作りたかった、ちょっと違うと思いました。
純学問をやりたかった。
哲学の原書を読むためにギリシャ語、ドイツ語、中国語もやりました。
ドイツ語を喋りたいと思って、ドイツへの留学に繋がって行く訳です。
物を作る人になりたかったと言うことが諦められなくて、学生運動が激しかった時代で、親のすねをかじりながら社会、大人を批判するのはいけないと思ってしまって、置手紙をして自立しますと言って家をでました。
私たちの世代は国家権力に抵抗しても空しいんだなあと言う敗北感を抱えて社会に出たと思います、自分自身もそうだと思いました。
革命、原水爆に反対する、いじめとかの問題、社会問題に目が向いてゆくきっかけをそこで(学生運動の時代)勉強させてもらったと思います。
家出していろいろ仕事をしましたが、人と一緒に何かすることが苦手だなあと判って、家に閉じこもってする仕事、小説家、漫画を書くことしかできないと思って、漫画だと思いました。
或る出版社を紹介してもらって、200ページ以上の物を好きに書かせてもらえると言う訓練をさせてもらって、貴重な体験でした。
1冊書いて2万3000円でしたが、生活はギリギリで時々パチンコで稼ぎました。
宿代6000円、授業料は1000円で、学生食堂で3食食べて過ごしました。
自分で衣服を買うお金もなく、知り合いの母親がファッションモデルの人とかが住んでいる管理人で、色んな服をお下がりで貰って、当時としては最先端の洋服を着ることができました。
21歳のときに、雑誌デビューしました。
書きたいものを書けると言う嬉しさはありました。
当時は漫画なんかと言う位置づけだったので、ベルサイユのばらを書いて、新聞、取材を受けたり、TVに出たりして、叩かれました。
子供に害悪を与える諸悪の根源と言うふうに言われて、文学作品のように想像力を養わないと言うふうに言われました。
映画など含めて視覚的なものはだめなんですかと、反論しました。
手塚先生が大変でしょうと言われて、僕の漫画もPTAから取り上げられて、校庭のまん中にうずたかく積み上げられて火を付けられた、だから頑張んなさいと言われました。
「ベルサイユのばら」で子供向けの漫画を書いたつもりだったが大人の方、学校の先生、仕事を持った女性が支持して下さって、読みなさいとむしろおしゃって下さったのは大きかったと思います。
ヨーロッパで認められてからだと思います、日本人の価値観は外国で認められて初めて認めると言うようなところがあるんです。
アニメに対してようやく政府も動き始めました。
日本の漫画がヨーロッパに認められフランスなどは文化予算を付けて漫画文化を育てようと言う取り組みをしています。
うかうかしていると世界に追い抜かれてしまうと言うことはあります。
我々のまいた種が世界中に広がって、向こうに行くと若い人たちも私のところに寄ってきて、私のすべてはベルサイユのばらでできていますとか言ってくれて、人生に影響を与えることができたと思って嬉しいです。
音楽家のボブ・ディランがノーベル文学賞を貰ったように、漫画が近い将来ノーベル賞を貰うのではないかと思っています。
2017年4月26日水曜日
ペギー葉山(歌手) ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山(歌手) ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。
高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。
ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。
「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」(平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。
2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。
65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。
高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。
ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。
「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」(平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。
2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。
65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。
2017年4月25日火曜日
荻原浩(作家) ・五度目の正直 直木賞
荻原浩(作家) ・五度目の正直 直木賞
60歳、「海の見える理髪店」で去年直木賞を受賞しました。
2006年に「あの日にドライブ」で直木賞候補に挙がり、その後 「4度目の氷河期」、「愛しの座敷わらし」、「砂の王国」と 4度の候補になり 5度目で受賞しました。
荻原さんは大学卒業後、二つの広告製作会社を経てフリーのコピーライターになり、40歳の時初めて書いた小説「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビューしました。
ユーモア小説、サラリーマン小説、ミステリー小説と幅広い分野の小説を書く作家として多くのファンがいます。
2016年の115回目の直木賞での受賞となる。
候補は或る日突然連絡があり、待っていて過去4回は残念でしたと言われて、3回目ぐらいから疎ましくなり、マイナスの事しか考えられなかった。
「海の見える理髪店」は6編の短編になっている。
だいぶ前から長編を書いて次に向かうサイクルでやっていて、さぼり過ぎかなと思っています。
ときどき短編を書きます。
その時書いている長編とは傾向の違う短編を書きます。
一つ書き終えると違うことをやりたいと思ってしまう。
あなたはこういう路線ねと言われたときに、いやそうではないかもしれないと思ってしまい、違ったものを書いてしまう。
器用貧乏かもしれません。
どの小説もお勧めです、小説家にとって自分の本は子どもみたいなもので、同じように時間をかけて書いたものなので優劣はつけられない。
小説家としてデビューして今年で20年になります。
2作目は「おろろ畑でつかまえて」(ユーモア小説)の続編で、どこかで違うものをしてみたいと思いました。
方向転換できたと思ったのが5作目で「噂」(ミステリー)というものです。
埼玉県さいたま市(旧大宮市)出身、1956年(昭和31年)生まれ。
3人兄弟のまん中です。
漫画が好きでノートに書いて友達に見せたりしていました。
昨年ある特集で漫画をやりますと言って書きまして、世の中に出したのは二つ目です。
読書は普通だったと思います。
中学生ごろからミステリー(アガサクリスティー)、シャーロックホームズシリーズ(コナンドイル)、SFなどを読んでいました。
一番読んだのは大学生になった頃です。(成城大学)
ポスターなどを書くサークルだと思って広告サークルに入って、文章を褒められて文章を書く仕事に行ってしまったと言う感じです。
41歳から小説家になりましたが、原稿料を聞いて安いのにびっくりしました。
広告時代と2ケタ違いました。
35歳で広告会社を辞めてフリーになりました。
組織に向いてない人間と言うわけではなくて、組織に向いてない人間になろうと思ってたからだと思います。(組織の下にいたくなかった)
フリーになるためにまず2番目の会社に転職しました。(居心地は良かった)
フリーとなって短い手間でたくさんもらえたので、フリーの生活を謳歌して居ました。
しかし何年もやっていると不安になる。
フリーのコピーライターは年齢だけで古いと思われたりして、自分でやらずにスタッフを抱えてやる様に周りもやっていて、自分ではそうではなく何か違ったものをやってみようと思うようにりました。(39歳)
1997年「オロロ畑でつかまえて」で第10回小説すばる新人賞を受賞しました。(41歳)
出版社のあちこちからうちの社でもと言うような話ありましたが、本はそう売れるものでもないので、食べてはいけないと思ってとりあえずコピーライターでお金を稼いで、使う時間は小説の方にほとんどつぎ込む様な生活をしていました。
妻が最初の会社のデザイナーだったので、一緒に行動してくれるような人だったので、割と反対されずに済みました。
「明日の記憶」若年性アルツハイマーをテーマにしたもの。
記憶ってなんだろうと思い始めて、いろいろ調べたり、取材したりして書きました。
私の場合は取材しすぎてしまってもダメで、感情移入してしまうことがあるので、冷静にならないといけないと思っています。
言葉は正解というものがないので何年やってもこれでいいのかと、毎回思いながらやっています。
校正の度にここはと言うものが何時も出てくる。
言葉はちょっと前後を変えるだけとか助詞を変えるだけで違ってくるので、選択肢がいろいろあって、言葉の表現に関しては頑張って行かないといけないと思っている。
文章だけは自分の思う思考の組み合わせ、思考の流れのものを作りたいと思っています。
村上春樹さんは好きです。
文章力に関して、あの人の書くものを見ると、こんなことをこんなふうにするのかと、内容的にはどうかと思うものもあるが、技術的には凄いものがあります。
60歳、「海の見える理髪店」で去年直木賞を受賞しました。
2006年に「あの日にドライブ」で直木賞候補に挙がり、その後 「4度目の氷河期」、「愛しの座敷わらし」、「砂の王国」と 4度の候補になり 5度目で受賞しました。
荻原さんは大学卒業後、二つの広告製作会社を経てフリーのコピーライターになり、40歳の時初めて書いた小説「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビューしました。
ユーモア小説、サラリーマン小説、ミステリー小説と幅広い分野の小説を書く作家として多くのファンがいます。
2016年の115回目の直木賞での受賞となる。
候補は或る日突然連絡があり、待っていて過去4回は残念でしたと言われて、3回目ぐらいから疎ましくなり、マイナスの事しか考えられなかった。
「海の見える理髪店」は6編の短編になっている。
だいぶ前から長編を書いて次に向かうサイクルでやっていて、さぼり過ぎかなと思っています。
ときどき短編を書きます。
その時書いている長編とは傾向の違う短編を書きます。
一つ書き終えると違うことをやりたいと思ってしまう。
あなたはこういう路線ねと言われたときに、いやそうではないかもしれないと思ってしまい、違ったものを書いてしまう。
器用貧乏かもしれません。
どの小説もお勧めです、小説家にとって自分の本は子どもみたいなもので、同じように時間をかけて書いたものなので優劣はつけられない。
小説家としてデビューして今年で20年になります。
2作目は「おろろ畑でつかまえて」(ユーモア小説)の続編で、どこかで違うものをしてみたいと思いました。
方向転換できたと思ったのが5作目で「噂」(ミステリー)というものです。
埼玉県さいたま市(旧大宮市)出身、1956年(昭和31年)生まれ。
3人兄弟のまん中です。
漫画が好きでノートに書いて友達に見せたりしていました。
昨年ある特集で漫画をやりますと言って書きまして、世の中に出したのは二つ目です。
読書は普通だったと思います。
中学生ごろからミステリー(アガサクリスティー)、シャーロックホームズシリーズ(コナンドイル)、SFなどを読んでいました。
一番読んだのは大学生になった頃です。(成城大学)
ポスターなどを書くサークルだと思って広告サークルに入って、文章を褒められて文章を書く仕事に行ってしまったと言う感じです。
41歳から小説家になりましたが、原稿料を聞いて安いのにびっくりしました。
広告時代と2ケタ違いました。
35歳で広告会社を辞めてフリーになりました。
組織に向いてない人間と言うわけではなくて、組織に向いてない人間になろうと思ってたからだと思います。(組織の下にいたくなかった)
フリーになるためにまず2番目の会社に転職しました。(居心地は良かった)
フリーとなって短い手間でたくさんもらえたので、フリーの生活を謳歌して居ました。
しかし何年もやっていると不安になる。
フリーのコピーライターは年齢だけで古いと思われたりして、自分でやらずにスタッフを抱えてやる様に周りもやっていて、自分ではそうではなく何か違ったものをやってみようと思うようにりました。(39歳)
1997年「オロロ畑でつかまえて」で第10回小説すばる新人賞を受賞しました。(41歳)
出版社のあちこちからうちの社でもと言うような話ありましたが、本はそう売れるものでもないので、食べてはいけないと思ってとりあえずコピーライターでお金を稼いで、使う時間は小説の方にほとんどつぎ込む様な生活をしていました。
妻が最初の会社のデザイナーだったので、一緒に行動してくれるような人だったので、割と反対されずに済みました。
「明日の記憶」若年性アルツハイマーをテーマにしたもの。
記憶ってなんだろうと思い始めて、いろいろ調べたり、取材したりして書きました。
私の場合は取材しすぎてしまってもダメで、感情移入してしまうことがあるので、冷静にならないといけないと思っています。
言葉は正解というものがないので何年やってもこれでいいのかと、毎回思いながらやっています。
校正の度にここはと言うものが何時も出てくる。
言葉はちょっと前後を変えるだけとか助詞を変えるだけで違ってくるので、選択肢がいろいろあって、言葉の表現に関しては頑張って行かないといけないと思っている。
文章だけは自分の思う思考の組み合わせ、思考の流れのものを作りたいと思っています。
村上春樹さんは好きです。
文章力に関して、あの人の書くものを見ると、こんなことをこんなふうにするのかと、内容的にはどうかと思うものもあるが、技術的には凄いものがあります。
2017年4月24日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】
頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】
「ダメな男と言うものは幸福を受け取るに当たってさえ、へたくそを極めるものである。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿でけがをするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。」 (太宰治)
20歳の時、難病潰瘍性大腸炎を患い13年間に及ぶ療養生活を送りました。(頭木)
悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を絶望名言として紹介しています。
代表作は「人間失格」
太宰治は38歳(1909年生まれ)で亡くなっているが、松本清張さんと同じ歳。
太宰治を嫌いな人で代表的なものは三島由紀夫。
太宰の持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦、器械体操、規則的な生活で直されるはずだと言っている。
太宰は三島より16歳年上だが、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言っている。
それに答えて太宰は「そんな事言ったってこうしてきてるからやっぱり好きなんだ」と言っている。
それを聞いて三島は又怒るわけで、二人は両極端な人ですね。
「生きて居ること、生きて居ること、あーっそれは何というやり切れない、息も絶え絶えの大事業であろうか。
僕は僕と言う草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。
生きて行くのにどこか一つ欠けて居るんです。
足りないんです。
今まで生きてきたのもこれでも精一杯だったのです。
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えて素知らぬふりをして生きて居るのではないのか。」(「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)
思春期はどうしても多かれ少なかれ生きづらさを感じていると思う。
辛い辛いと言ってくれることは救われる。
太宰を嫌いな人はナルシスト、甘ったれだとか、駄目な自分に酔っているとか、そんなふうな言い方をして貶す。
普通は自分を隠すが、だけど本当は誰だってナルシストだし、甘ったれだし、駄目な自分に酔っているそういう部分はあると思う。
それをそのまま書く嘘の無さに若いころは感激するんじゃないですかね。
大人になるとあからさまに描かれることに耐えられなくなってくる、隠すべきものをそんな見せつけないでほしい、と三島も言っている。
私自身、若いころ太宰を読んで、そのうち太宰なんかと思い読まなくなって、又今では読むようになってきている。
太宰に戻ったのは、病気をしたことが大きかった、改めて又魅かれるようになった。
辛い環境の中で過ごしていかなければいけないと言うことの中から、太宰に救いを見出すと言うことはありました。
自分に問題があるのではないか、廻りの環境に問題があるのではないかと思った時に読むと、救われると言う気になります。
私は病気になっている自分を写真とかに残したくはなくて、当時の期間の写真は一切ありません。
当時、摂られるのを拒否していました。
「私は人に接するときでも心がどんなにつらくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で楽しい雰囲気を作ることに努力する。
そして客と別れた後、私は疲労によろめき、お金のこと、道徳の事、自殺の事を考える。」
自殺、死にたい、という表現は作品の各所に出てくる。
現実に人と会う時には楽しくしていて、書く時には赤裸々に書いていて、その差も面白いです。
明るくしていれば周りも楽なので判らない。
人間は一筋縄ではいかない、表面的なもの、奥底にあるもの、二重三重に判らない、外から見るだけではとても判らない。
*「男のくせに泣いてくれた」曲
「夢のように はかなく 私の記憶は 広告写真みたいに 悲しく通りすぎてゆく 淋しかった 私の話を聞いて 男のくせに 泣いてくれた 君と涙が 乾くまで 肩抱きあって眠(ね)た やさしい時の流れはつかのまに いつか 淋しい 季節の風を ほほに 知っていた
君と涙が 乾くまで 肩抱きあって眠(ね)た やさしい時の流れはつかのまに いつか 淋しい 季節の風を ほほに 知っていた」
一緒に泣いてくれる、歌詞も太宰的な感じがする。
「命運がふっと胸に浮かんでも、トカトントン。
火事場に駆け付けようとしてトカトントン。
お酒を飲んでも少し飲んでみようと思ってトカトントン。
自殺を考えトカトントン。」
トカトントン、に特に意味はない。
トカトントンと云う音が聞こえてきてむなしくなる、やる気がうせる。
カフカも同じようなことを言っている。
「いま僕がしようと思っていることを少し後には、僕はもうしようとは思わなくなっている。」 (カフカ)
人間って、人生に大きなものを求めているがなかなかそういい事はない。
小さな事の積み重ねで、そう思うとついむなしくなってしまう事があると思う。
人間どこかでなにか大きなことを待ち続けて居る気持が、人生のどこかにあるのではないか。
人生に何か大きなこと期待しているからこそ、トカトントンが聞こえてきてしまうという事があるかもしれない。
病気が治るとなんでもどんなこともできるように思うが、手術をして治ると思っていたようなことはできなくて、その時の悲しさはありました。(13年間闘病生活)
「私は自分に零落を感じ敗者を意識するとき、必ずヴェルレーヌの泣きべその顔を思いだし、救われるのが常である。
生きていこうと思うのである。
あの人の弱さが却って私に生きて行こうと言う希望を与える。
気弱い内性の究極からでなければ、真に崇厳な功名は発し得ないと私は頑固に信じて居る。」 (「服装について」 エッセーの中の一節)
絶望の言葉が却って生きていこうと言う気を起させる。
共感する、太宰の文学も共感を読者に呼び起こして、共感できると人は少し救われる。
太宰と落語に共通性を感じる。
太宰はあんまり本を所蔵していなかったが、三遊亭圓朝の全集だけは持っていた。
落語には絶望に根差した笑いがあって、それは太宰も同じではないかと思います。
太宰は本当に弱い人だと思います。
弱さには弱いからこそ価値があり魅力がある、心が弱いからこそ、そこから光が発する、と言うこと。
弱いからこそいろいろな事に気付くことがある。
本当に弱いからこそ、他の人には気付かないことに気付ける。
「もっとも深い地獄にあるものたちほど、純粋に歌えるものはありません。
僕たちが天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なんです。」(カフカ)
深い地獄にある者ほどうまく純粋に歌うことが出来る。
弱いからこそ、そういういろんなことに気付いてうまく歌うことが出来る、作品を書くことができると言っている。
「ダメな男と言うものは幸福を受け取るに当たってさえ、へたくそを極めるものである。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿でけがをするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。」 (太宰治)
20歳の時、難病潰瘍性大腸炎を患い13年間に及ぶ療養生活を送りました。(頭木)
悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を絶望名言として紹介しています。
代表作は「人間失格」
太宰治は38歳(1909年生まれ)で亡くなっているが、松本清張さんと同じ歳。
太宰治を嫌いな人で代表的なものは三島由紀夫。
太宰の持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦、器械体操、規則的な生活で直されるはずだと言っている。
太宰は三島より16歳年上だが、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言っている。
それに答えて太宰は「そんな事言ったってこうしてきてるからやっぱり好きなんだ」と言っている。
それを聞いて三島は又怒るわけで、二人は両極端な人ですね。
「生きて居ること、生きて居ること、あーっそれは何というやり切れない、息も絶え絶えの大事業であろうか。
僕は僕と言う草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。
生きて行くのにどこか一つ欠けて居るんです。
足りないんです。
今まで生きてきたのもこれでも精一杯だったのです。
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えて素知らぬふりをして生きて居るのではないのか。」(「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)
思春期はどうしても多かれ少なかれ生きづらさを感じていると思う。
辛い辛いと言ってくれることは救われる。
太宰を嫌いな人はナルシスト、甘ったれだとか、駄目な自分に酔っているとか、そんなふうな言い方をして貶す。
普通は自分を隠すが、だけど本当は誰だってナルシストだし、甘ったれだし、駄目な自分に酔っているそういう部分はあると思う。
それをそのまま書く嘘の無さに若いころは感激するんじゃないですかね。
大人になるとあからさまに描かれることに耐えられなくなってくる、隠すべきものをそんな見せつけないでほしい、と三島も言っている。
私自身、若いころ太宰を読んで、そのうち太宰なんかと思い読まなくなって、又今では読むようになってきている。
太宰に戻ったのは、病気をしたことが大きかった、改めて又魅かれるようになった。
辛い環境の中で過ごしていかなければいけないと言うことの中から、太宰に救いを見出すと言うことはありました。
自分に問題があるのではないか、廻りの環境に問題があるのではないかと思った時に読むと、救われると言う気になります。
私は病気になっている自分を写真とかに残したくはなくて、当時の期間の写真は一切ありません。
当時、摂られるのを拒否していました。
「私は人に接するときでも心がどんなにつらくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で楽しい雰囲気を作ることに努力する。
そして客と別れた後、私は疲労によろめき、お金のこと、道徳の事、自殺の事を考える。」
自殺、死にたい、という表現は作品の各所に出てくる。
現実に人と会う時には楽しくしていて、書く時には赤裸々に書いていて、その差も面白いです。
明るくしていれば周りも楽なので判らない。
人間は一筋縄ではいかない、表面的なもの、奥底にあるもの、二重三重に判らない、外から見るだけではとても判らない。
*「男のくせに泣いてくれた」曲
「夢のように はかなく 私の記憶は 広告写真みたいに 悲しく通りすぎてゆく 淋しかった 私の話を聞いて 男のくせに 泣いてくれた 君と涙が 乾くまで 肩抱きあって眠(ね)た やさしい時の流れはつかのまに いつか 淋しい 季節の風を ほほに 知っていた
君と涙が 乾くまで 肩抱きあって眠(ね)た やさしい時の流れはつかのまに いつか 淋しい 季節の風を ほほに 知っていた」
一緒に泣いてくれる、歌詞も太宰的な感じがする。
「命運がふっと胸に浮かんでも、トカトントン。
火事場に駆け付けようとしてトカトントン。
お酒を飲んでも少し飲んでみようと思ってトカトントン。
自殺を考えトカトントン。」
トカトントン、に特に意味はない。
トカトントンと云う音が聞こえてきてむなしくなる、やる気がうせる。
カフカも同じようなことを言っている。
「いま僕がしようと思っていることを少し後には、僕はもうしようとは思わなくなっている。」 (カフカ)
人間って、人生に大きなものを求めているがなかなかそういい事はない。
小さな事の積み重ねで、そう思うとついむなしくなってしまう事があると思う。
人間どこかでなにか大きなことを待ち続けて居る気持が、人生のどこかにあるのではないか。
人生に何か大きなこと期待しているからこそ、トカトントンが聞こえてきてしまうという事があるかもしれない。
病気が治るとなんでもどんなこともできるように思うが、手術をして治ると思っていたようなことはできなくて、その時の悲しさはありました。(13年間闘病生活)
「私は自分に零落を感じ敗者を意識するとき、必ずヴェルレーヌの泣きべその顔を思いだし、救われるのが常である。
生きていこうと思うのである。
あの人の弱さが却って私に生きて行こうと言う希望を与える。
気弱い内性の究極からでなければ、真に崇厳な功名は発し得ないと私は頑固に信じて居る。」 (「服装について」 エッセーの中の一節)
絶望の言葉が却って生きていこうと言う気を起させる。
共感する、太宰の文学も共感を読者に呼び起こして、共感できると人は少し救われる。
太宰と落語に共通性を感じる。
太宰はあんまり本を所蔵していなかったが、三遊亭圓朝の全集だけは持っていた。
落語には絶望に根差した笑いがあって、それは太宰も同じではないかと思います。
太宰は本当に弱い人だと思います。
弱さには弱いからこそ価値があり魅力がある、心が弱いからこそ、そこから光が発する、と言うこと。
弱いからこそいろいろな事に気付くことがある。
本当に弱いからこそ、他の人には気付かないことに気付ける。
「もっとも深い地獄にあるものたちほど、純粋に歌えるものはありません。
僕たちが天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なんです。」(カフカ)
深い地獄にある者ほどうまく純粋に歌うことが出来る。
弱いからこそ、そういういろんなことに気付いてうまく歌うことが出来る、作品を書くことができると言っている。
2017年4月23日日曜日
平松政次(元プロ野球投手) ・カミソリシュートで打倒巨人
平松政次(元プロ野球投手)・カミソリシュートで打倒巨人
岡山県出身69歳、岡山東商業高校時代選抜で優勝し、社会人の日本石油では都市対抗で優勝しました。
ドラフトで2度にわたってあこがれの巨人から上位指名の約束を受けたものの実際には指名されず、2位指名された大洋に都市対抗で優勝した直後に入団し、打倒巨人を目指すようになります。
以来大洋一筋18年間、独特のシュートボールを武器に数々のタイトルを獲得し、200勝投手にもなりました。
現在もプロ野球評論家として活躍する平松さんに伺います。
今年、星野仙一さん、伊東勤さん、平松さんが選ばれました。(野球殿堂入り)
現実になり感動しました。
最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、沢村賞1回、オールスター出場8回、201勝を挙げる。
甲子園で優勝、都市対抗でも優勝し、プロ野球でも活躍したので総合的に評価されたのだと思っています。
星野さんは監督としても活躍したのでもっと早く殿堂入りしてもよかったのではないかと思います。
岡山東商業高校では先輩の秋山さんに次いでの殿堂入りとなりました。
当時長島茂雄さんの大ファンでした。
長島さんは昭和33年に巨人に入団したので小学校5年だったと思います。
日本石油で優勝して、昭和42年8月に入団して、8月16日広島戦で第一戦、9月6日対巨人戦に初先発して、長島さんと対決する。
ネクストバッターサークルの長島さんを見て居ると地に足がつかないような状態でした。
私がマウンドに立って、サード長島さん、ファースト王さんという自分の思いとは全く違った状態の勝負となりました。
ドラフトで入れなかった悔しさと、巨人戦に勝たないと全国区になれないと言うこと、長島さんにあのピッチャーは凄かったなあと思われたいと、そういう思いがありました。
1年目は3勝、2年目は5勝でした。
社会人では直球を三振するがプロではものの見事にホームランするわけで、プロの凄さを感じました。
2年目の春先、カーブを長島さんに大ホームランを打たれる。
それがよかったように思う。
ファンのような気持で投げて居たと思って、そこから切り変わりました。
3年目、3試合連続の完封勝ち、4年目(昭和45年 23歳) 初完封、次に堀内投手との投手戦 同点で9回に満塁策を川上監督が取る。
堀内投手の代わりに国松選手を代打で送って来るが、ピンチを脱する。
練習だけしか投げたことにないスライダーを投げて、キャッチャーフライに仕留めた。
延長戦を制して2試合連続の完封となった。
オールスター戦で優秀投手賞を貰う。
巨人戦3試合連続の完封、32イニングス連続無失点の記録を作る。
杉下選手の35イニングスの記録があるが、記録は破れそうだと思っていた。
長島選手を迎えて、キャッチャーがスーと中腰になったので、なんだろうと思いながらスナップスローを頭の上に投げた(絶対打たれない様なボール)を大根切りの様にホームランを打たれてしまって、記録は達成できなかった。(まともには勝負したかったが)
その年 25勝19敗、防御率1.95(生涯最高記録) 最多賞、沢村賞、ベストナイン賞
翌年 17勝で 2年連続最多賞、 この年の巨人戦は4勝2敗 4勝全て完投勝ち。
「巨人キラー」と言われるようになる。
都市対抗の時代、或る人がシュートを教えてくれて、しかし都市対抗時代はシュートを投げた事は無かった。
プロに入って二年間は余り勝てずにいて、近藤さんからヘボピッチャーと言うようなことを言われて、めらめらと来て、シュートを思い出して投げたらそれがすごくて物凄く曲がった。
なんでこんなボールを今まで投げないんだと言われた。
それから2ケタ勝利へと向かって行った。
体も鍛えられて、ストレートも良くなった。
200勝記念パーティーで長島さんが平松のシュートボールは打てない、短く持ちたいが、巨人軍の 4番打者が短くは持てないと挨拶しました。
長島さんの攻略法として打つ瞬間に短くスーッと持つようにした様だった。
巨人の牧野さんの指示はシュートは打つなと言うことだったが、真っ直ぐに見えてしまってついシュートを打ってしまう。(シュートとストレートの見分けがつきにくい投法)
私はストレートが90%で、ストレートで三振を取るようにしていました。
毎日がストレートの練習をしていました。
時代は違いますが、チェンジアップを覚えたらもう少し勝てたかなあと思います。
ピッチャーでホームランは25本で歴代4位になっています。
与えた18年間のデッドボールは120個でいまだにセリーグ記録になっているが、王さん、長島さんには当てては居ない、日本球界の宝なので怪我をさせたくないと言う思いはありました。
金田さんの左腕に当てて凄く怒られました、左腕は宝ですからね。
そのうち肩を痛めましたが、今の様に中5日、6日おいて試合に出てていたら、肩をいためることはなかったかも知れませんが、記憶の中にとどめてもらったことは幸せだったと思い悔いはありません。
子供のころからの夢を持って、ずーっと目標を持ってやってこられたことは、人間としては大事だと思います。
若い人は夢を持って突き進んでゆくことが大事で、壁に突き当たっても壁を突き破って行ってほしいと思います。
岡山県出身69歳、岡山東商業高校時代選抜で優勝し、社会人の日本石油では都市対抗で優勝しました。
ドラフトで2度にわたってあこがれの巨人から上位指名の約束を受けたものの実際には指名されず、2位指名された大洋に都市対抗で優勝した直後に入団し、打倒巨人を目指すようになります。
以来大洋一筋18年間、独特のシュートボールを武器に数々のタイトルを獲得し、200勝投手にもなりました。
現在もプロ野球評論家として活躍する平松さんに伺います。
今年、星野仙一さん、伊東勤さん、平松さんが選ばれました。(野球殿堂入り)
現実になり感動しました。
最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、沢村賞1回、オールスター出場8回、201勝を挙げる。
甲子園で優勝、都市対抗でも優勝し、プロ野球でも活躍したので総合的に評価されたのだと思っています。
星野さんは監督としても活躍したのでもっと早く殿堂入りしてもよかったのではないかと思います。
岡山東商業高校では先輩の秋山さんに次いでの殿堂入りとなりました。
当時長島茂雄さんの大ファンでした。
長島さんは昭和33年に巨人に入団したので小学校5年だったと思います。
日本石油で優勝して、昭和42年8月に入団して、8月16日広島戦で第一戦、9月6日対巨人戦に初先発して、長島さんと対決する。
ネクストバッターサークルの長島さんを見て居ると地に足がつかないような状態でした。
私がマウンドに立って、サード長島さん、ファースト王さんという自分の思いとは全く違った状態の勝負となりました。
ドラフトで入れなかった悔しさと、巨人戦に勝たないと全国区になれないと言うこと、長島さんにあのピッチャーは凄かったなあと思われたいと、そういう思いがありました。
1年目は3勝、2年目は5勝でした。
社会人では直球を三振するがプロではものの見事にホームランするわけで、プロの凄さを感じました。
2年目の春先、カーブを長島さんに大ホームランを打たれる。
それがよかったように思う。
ファンのような気持で投げて居たと思って、そこから切り変わりました。
3年目、3試合連続の完封勝ち、4年目(昭和45年 23歳) 初完封、次に堀内投手との投手戦 同点で9回に満塁策を川上監督が取る。
堀内投手の代わりに国松選手を代打で送って来るが、ピンチを脱する。
練習だけしか投げたことにないスライダーを投げて、キャッチャーフライに仕留めた。
延長戦を制して2試合連続の完封となった。
オールスター戦で優秀投手賞を貰う。
巨人戦3試合連続の完封、32イニングス連続無失点の記録を作る。
杉下選手の35イニングスの記録があるが、記録は破れそうだと思っていた。
長島選手を迎えて、キャッチャーがスーと中腰になったので、なんだろうと思いながらスナップスローを頭の上に投げた(絶対打たれない様なボール)を大根切りの様にホームランを打たれてしまって、記録は達成できなかった。(まともには勝負したかったが)
その年 25勝19敗、防御率1.95(生涯最高記録) 最多賞、沢村賞、ベストナイン賞
翌年 17勝で 2年連続最多賞、 この年の巨人戦は4勝2敗 4勝全て完投勝ち。
「巨人キラー」と言われるようになる。
都市対抗の時代、或る人がシュートを教えてくれて、しかし都市対抗時代はシュートを投げた事は無かった。
プロに入って二年間は余り勝てずにいて、近藤さんからヘボピッチャーと言うようなことを言われて、めらめらと来て、シュートを思い出して投げたらそれがすごくて物凄く曲がった。
なんでこんなボールを今まで投げないんだと言われた。
それから2ケタ勝利へと向かって行った。
体も鍛えられて、ストレートも良くなった。
200勝記念パーティーで長島さんが平松のシュートボールは打てない、短く持ちたいが、巨人軍の 4番打者が短くは持てないと挨拶しました。
長島さんの攻略法として打つ瞬間に短くスーッと持つようにした様だった。
巨人の牧野さんの指示はシュートは打つなと言うことだったが、真っ直ぐに見えてしまってついシュートを打ってしまう。(シュートとストレートの見分けがつきにくい投法)
私はストレートが90%で、ストレートで三振を取るようにしていました。
毎日がストレートの練習をしていました。
時代は違いますが、チェンジアップを覚えたらもう少し勝てたかなあと思います。
ピッチャーでホームランは25本で歴代4位になっています。
与えた18年間のデッドボールは120個でいまだにセリーグ記録になっているが、王さん、長島さんには当てては居ない、日本球界の宝なので怪我をさせたくないと言う思いはありました。
金田さんの左腕に当てて凄く怒られました、左腕は宝ですからね。
そのうち肩を痛めましたが、今の様に中5日、6日おいて試合に出てていたら、肩をいためることはなかったかも知れませんが、記憶の中にとどめてもらったことは幸せだったと思い悔いはありません。
子供のころからの夢を持って、ずーっと目標を持ってやってこられたことは、人間としては大事だと思います。
若い人は夢を持って突き進んでゆくことが大事で、壁に突き当たっても壁を突き破って行ってほしいと思います。
2017年4月22日土曜日
西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って
西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って
65歳、東南アジアのボルネオ島の熱帯林を守ろうとNGO非政府組織、「ウータン・森と生活を考える会」を昭和63年に結成し、代表を務めて居ます。
ボルネオ島では大量に伐採された木材が日本などの先進国に輸出され、熱帯林の減少が続いて問題となっていましたが、近年油ヤシのプランテーション、大規模農園の開発が進み新たな問題となっています。
西岡さんは何度もボルネオ島に渡って現地のNGOと連携し、熱帯林を守る活動を続けて居ます。
熱帯林で何が起きて居るのか、私たちの暮らしとどうかかわっているのか、伺いました。
65歳で退職し現在無職です。
休耕田を利用して「虹の畑片野」という名前でやろうとしています。
ウータンと言うのは森と言う意味です。
「ウ―タン・森と生活を考える会」
1987年にマレーシアのサラワク州と言うところで森林伐採が大変な事になっていると言うことで日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、それから始まったわけです。
事務局のメンバーが20名、当時公務員、教師のメンバーが多かったが、今は退職された方が多く無職が多いです。
小さい頃、母親の家が高島の浜にあり、海水浴が出来た綺麗なところでしたが、コンビナートを増設と言うことで海辺がいっぺんに変わってしまいました。
父親に誘われて山に虫取りなどもしていました。
高校時代になって環境がずいぶん変わってきました。
ボルネオ島の大半は森林におおわれて居て町だけが開けて居て、1965年以降に独立して、日本企業が入って森林破壊が進んできた。
日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、募金活動をしましたが、集まったお金を持って帰らなくて途中で姿を消してしまった。
現地のNGOの組織と組織としてやっていかないといけないと言うことになり、「ウ―タン・森と生活を考える会」を立ち上げました。
マレーシアのサラワク州では原生林が85%ぐらいがすでに伐採権が与えられていることが分かってきた。
欧米のNGOとも交流をもつようになり、ドイツの代表が日本に来て、一緒になって熱帯材の使用削減をしようと言うことになりました。
1990年から企業、自治体に対して2~3回で使い捨てになっているベニアの合板を長く使ってもらったり、使用量を少なくしてもらうとか、いろいろ話し合いを持ちかけに行きました。
建築方式も見直してほしいと言うようなことも申し入れをしました。
現地の森林の調査も行いました。
最初大阪府が対象でしたが、1995年ぐらいには関西レベルの取り組みとなり、全国でも300ぐらいの自治体が熱帯材の使用削減に取り組みをしていただきました。
環境省が環境基本計画を策定しようと言うことになり、熱帯材の保全、熱帯材の使用料を減らすことを提言しました。
違法な伐採が世界各地で行われていることが判ってきて、1998年G8サミットの時にG8のなかで検討してほしいとブレア首相にグリーンピースが申し入れをして、検討してほしいと言うことになりました。
ボルネオ、アマゾンでも違法な伐採がされていた。
1992年違法な形でシンガポール経由で日本に輸入されていたことが分かった。
違法伐採、運ばれ方など、現場への調査などを行いました。
2007年私はマレーシアで単独で調査をしていました。
EIA、テラパックの団体がホテルにいたが、悪徳警官が来て2人留置されてしまい、カメラ、お金など取りあげられたりしていました。
私もカメラをとられたが、急遽別のカメラを出して難を逃れた。
2003年からラミン(ゴニスチラ(ジンチョウゲ)科 Gonystylus 属の広葉樹。散孔材)を使わないキャンペーンを行い、モップの柄の部分を使わない運動を展開しました。
半年で50社、1年目に100社、3年後に200社と言う目標を立てたら、或るデパートが調査をしてくれました。
目標より早く進み、2007年では500社が辞めていただくことになりました。
最終的に日本では750社が辞めていただき世界では2000社以上が取り組み、2010年以降違法ラミンの取引は世界で出来なくなりました。
森林伐採をした後に油ヤシを作っていて、紙パルプの為の植林もしていました。
パームオイルはマーガリン、ファーストフード、洗剤、工業用燃料などに使われています。
植物油と書いてるのは油ヤシが大半です。
日本では昔は米油、ゴマ油、菜種油があったが、パームオイル、油ヤシは安価です。
油ヤシに転換していくと言う形があり、拡大して行った。
泥炭湿地だったところが、乾燥して行き、泥炭湿地を保全しようと言う取り組みを進めて居る。
雨が降らない時があり、火災が発生している、2015年インドネシアは世界3番目の二酸化炭素排出量になっている。
或る国立公園の1/4が燃えてしまいました。
再植林を展開しています。
5日間のツアーを組んで植林したりボルネオの人たちとの交流なども行っています。
オラウータンが棲む森が無くなってきて、油ヤシばかりになり、火災が起きてきてインドネシア政府も対応しているが、われわれ自身も生活の見直しをやっていかなければならないと思う。
持続可能な社会を作っていこうと米国でも取り組んでいます。
違法伐採を無くして森林再生をして持続可能な開発を目指していきたいと思います。
皆さんの生活も振り返って見直して頂けませんでしょうか。
65歳、東南アジアのボルネオ島の熱帯林を守ろうとNGO非政府組織、「ウータン・森と生活を考える会」を昭和63年に結成し、代表を務めて居ます。
ボルネオ島では大量に伐採された木材が日本などの先進国に輸出され、熱帯林の減少が続いて問題となっていましたが、近年油ヤシのプランテーション、大規模農園の開発が進み新たな問題となっています。
西岡さんは何度もボルネオ島に渡って現地のNGOと連携し、熱帯林を守る活動を続けて居ます。
熱帯林で何が起きて居るのか、私たちの暮らしとどうかかわっているのか、伺いました。
65歳で退職し現在無職です。
休耕田を利用して「虹の畑片野」という名前でやろうとしています。
ウータンと言うのは森と言う意味です。
「ウ―タン・森と生活を考える会」
1987年にマレーシアのサラワク州と言うところで森林伐採が大変な事になっていると言うことで日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、それから始まったわけです。
事務局のメンバーが20名、当時公務員、教師のメンバーが多かったが、今は退職された方が多く無職が多いです。
小さい頃、母親の家が高島の浜にあり、海水浴が出来た綺麗なところでしたが、コンビナートを増設と言うことで海辺がいっぺんに変わってしまいました。
父親に誘われて山に虫取りなどもしていました。
高校時代になって環境がずいぶん変わってきました。
ボルネオ島の大半は森林におおわれて居て町だけが開けて居て、1965年以降に独立して、日本企業が入って森林破壊が進んできた。
日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、募金活動をしましたが、集まったお金を持って帰らなくて途中で姿を消してしまった。
現地のNGOの組織と組織としてやっていかないといけないと言うことになり、「ウ―タン・森と生活を考える会」を立ち上げました。
マレーシアのサラワク州では原生林が85%ぐらいがすでに伐採権が与えられていることが分かってきた。
欧米のNGOとも交流をもつようになり、ドイツの代表が日本に来て、一緒になって熱帯材の使用削減をしようと言うことになりました。
1990年から企業、自治体に対して2~3回で使い捨てになっているベニアの合板を長く使ってもらったり、使用量を少なくしてもらうとか、いろいろ話し合いを持ちかけに行きました。
建築方式も見直してほしいと言うようなことも申し入れをしました。
現地の森林の調査も行いました。
最初大阪府が対象でしたが、1995年ぐらいには関西レベルの取り組みとなり、全国でも300ぐらいの自治体が熱帯材の使用削減に取り組みをしていただきました。
環境省が環境基本計画を策定しようと言うことになり、熱帯材の保全、熱帯材の使用料を減らすことを提言しました。
違法な伐採が世界各地で行われていることが判ってきて、1998年G8サミットの時にG8のなかで検討してほしいとブレア首相にグリーンピースが申し入れをして、検討してほしいと言うことになりました。
ボルネオ、アマゾンでも違法な伐採がされていた。
1992年違法な形でシンガポール経由で日本に輸入されていたことが分かった。
違法伐採、運ばれ方など、現場への調査などを行いました。
2007年私はマレーシアで単独で調査をしていました。
EIA、テラパックの団体がホテルにいたが、悪徳警官が来て2人留置されてしまい、カメラ、お金など取りあげられたりしていました。
私もカメラをとられたが、急遽別のカメラを出して難を逃れた。
2003年からラミン(ゴニスチラ(ジンチョウゲ)科 Gonystylus 属の広葉樹。散孔材)を使わないキャンペーンを行い、モップの柄の部分を使わない運動を展開しました。
半年で50社、1年目に100社、3年後に200社と言う目標を立てたら、或るデパートが調査をしてくれました。
目標より早く進み、2007年では500社が辞めていただくことになりました。
最終的に日本では750社が辞めていただき世界では2000社以上が取り組み、2010年以降違法ラミンの取引は世界で出来なくなりました。
森林伐採をした後に油ヤシを作っていて、紙パルプの為の植林もしていました。
パームオイルはマーガリン、ファーストフード、洗剤、工業用燃料などに使われています。
植物油と書いてるのは油ヤシが大半です。
日本では昔は米油、ゴマ油、菜種油があったが、パームオイル、油ヤシは安価です。
油ヤシに転換していくと言う形があり、拡大して行った。
泥炭湿地だったところが、乾燥して行き、泥炭湿地を保全しようと言う取り組みを進めて居る。
雨が降らない時があり、火災が発生している、2015年インドネシアは世界3番目の二酸化炭素排出量になっている。
或る国立公園の1/4が燃えてしまいました。
再植林を展開しています。
5日間のツアーを組んで植林したりボルネオの人たちとの交流なども行っています。
オラウータンが棲む森が無くなってきて、油ヤシばかりになり、火災が起きてきてインドネシア政府も対応しているが、われわれ自身も生活の見直しをやっていかなければならないと思う。
持続可能な社会を作っていこうと米国でも取り組んでいます。
違法伐採を無くして森林再生をして持続可能な開発を目指していきたいと思います。
皆さんの生活も振り返って見直して頂けませんでしょうか。
2017年4月21日金曜日
かこ さとし(絵本作家) ・“生きる力”は子どもたちから(2)
かこ さとし(絵本作家) ・“生きる力”は子どもたちから(2)
1959年絵本作家としてデビュー。「だむのおじさんたち」
子供たちと毎週日曜日に一緒に遊ぶために、せめてもと思いお話とか、紙芝居などを土曜日に書いていた。
それを見た人が出版社にアルバイトで勤めていたが、出版社に話して、出版社に呼ばれることになりました。
編集長さんにお会いしたら、大きなテーマを考えてほしいと言われました。
感動して、今の時代にふさわしいものと言うことで、復興期だったので造船の事、機械工業とか、化学工業とかがあったが、夕方になると電気量が少なく停電になる。
発電をテーマにしたらいいと思って、編集長さんから電気のことで行きましょうということになりました。
構想を練って、ダムを作ってめでたしめでたしでは面白くないので、山の中で工事に携わる人、廻りの自然などを含めた詩情があふれるような物を作ろうと思いました。
発電と動植物の関係をうまくマッチさせたいと思いました。
童話作家の川崎 大治さんというかたから、日本児童文学会で話題になっているとお話がありました。(30歳ちょっとの頃)
会社の仕事は重要だと思っていたので、会社の仕事を80%ぐらいにして20%を絵本にというような気持は品格に関わりあさましいと思って、仕事を120%やって開き直れるような気持で、土曜の夜は徹夜もして絵本仕事をして、日曜日は子供会をやる、それをやっていました。
それが皮切りになって他の社から注文がありました。
どんなことを書けばいいのか教えてもらったりして、絵本のイロハから教えてもらったりしました。
1974年「美しい絵」出版
前年に会社を辞める。
それまで出版社から言われるままテーマに従って考えて出していました。
一人前の会社員としてやると言う主義があって、休みにゴルフを誘われると一緒に行ってそのしわ寄せが夜の時間帯に来て時間の調整が難しくなり、又管理職にもなってきて研究の仕事から遠のいてきて仕事の面白味も薄れて、絵本の仕事に力を入れようかなあと思った。
収入が減ってしまうが、妻がキャラメル売りの仕事をするとか、子供も大きくなってきたので、家族の支援もあり退職願を出してフリーになることにしました。
新聞で田中首相がモナリザの絵をルーブルから日本に持ち込むと言う話があり、子供向けの絵の本を出したいと各社回ったが、断られてしまいました。
或る一社だけが承諾してくれましたが、最後になってピカソのゲルニカという絵がまとめになるが、ピカソが亡くなって家族が係争中で裁判が決着するまで国外で掲載ことはならんとうことになりました。
子供の教育のために掲載を是非お願いしたいと、許可を願いにフランスまで行こうと決心したら、出版者に電報が入って許可を貰うことができた。
私自身の思っていることを何とか伝わるように、それが子供たちに心に響いてくれればいいと、そういうことで絵を見てほしいと思って、描いた人の心がそこに表れて居るか込められていることが問題なんだと、その思いを紙芝居なんかを描いていたので一冊のものにしました。
若い時に芥川龍之介に熱中して、天才でも歩きながら考えていたと言うことで凡人はしょっちゅう考えてもいいが堂々巡りで、気が付いたときにメモするようにしているが、いいと思っても後で見ると大したことないことが多い。
しかし、これが種本みたいで、段々練って行って文に仕立てて行く。
これがないと全然進んでいかない。
お蔵になっているものが多くて、生きたのは1/100ぐらいです。
子供さんから手紙、感想などをいただくのが宝で50数年間取ってあるが、返事は直ぐ出すようにしていて、続きを描いてほしいと言う要望があり30年過ぎに書き始めて40年後に出版することができました。(「どろぼうがっこう 」続編)
良くないからやめななさいと言ってやめるよりも、自分でやめるようにすることが子供の成長だと思います。
普通の子供はプチ悪の面とプチ良いの面があって葛藤しながら自分で磨いてゆく、磨いてゆくことがいいところなんです。
好きなものを選んで、読書の大事さを知ってもらえれば一番いい。
自然界からいろんなものを教わったような気がする。
家の中で本だけで過ごすよりも、本も読むけれども外で遊ぶようにしてもらった方がいいのではないか。
本を読む間接経験よりも直接経験の積み重ねがとても役に立つ。
子供は読んだもの、経験したものなどで琴線に触れるものがあったならばそれを追求してて行動として表す、行動に出ると言うことが素晴らしいこと。
子供の理解出来る文章、絵、図なりで、理解出来ると言うところに入れてあげるとOKです。
20年間、役に立つと見越して書かないといけない。
せっかく生まれてきたので何かお返ししていかなければ申し訳ない、それだけです。
生き甲斐を20年間失っていたのを、後の70年間を楽しく、色んなことを教えてもらって、
こんなことをやってきたということを残していきたい。
テロだとか、内戦だとか、人と人の争いがあり非生産的な状態が途切れない、人間の社会として克服出来るようにしてほしい、しなければいけない。
ノートに書き記したものを1つでも2つでも、元気なうちに皆さんにお渡しできればと思っている。
1959年絵本作家としてデビュー。「だむのおじさんたち」
子供たちと毎週日曜日に一緒に遊ぶために、せめてもと思いお話とか、紙芝居などを土曜日に書いていた。
それを見た人が出版社にアルバイトで勤めていたが、出版社に話して、出版社に呼ばれることになりました。
編集長さんにお会いしたら、大きなテーマを考えてほしいと言われました。
感動して、今の時代にふさわしいものと言うことで、復興期だったので造船の事、機械工業とか、化学工業とかがあったが、夕方になると電気量が少なく停電になる。
発電をテーマにしたらいいと思って、編集長さんから電気のことで行きましょうということになりました。
構想を練って、ダムを作ってめでたしめでたしでは面白くないので、山の中で工事に携わる人、廻りの自然などを含めた詩情があふれるような物を作ろうと思いました。
発電と動植物の関係をうまくマッチさせたいと思いました。
童話作家の川崎 大治さんというかたから、日本児童文学会で話題になっているとお話がありました。(30歳ちょっとの頃)
会社の仕事は重要だと思っていたので、会社の仕事を80%ぐらいにして20%を絵本にというような気持は品格に関わりあさましいと思って、仕事を120%やって開き直れるような気持で、土曜の夜は徹夜もして絵本仕事をして、日曜日は子供会をやる、それをやっていました。
それが皮切りになって他の社から注文がありました。
どんなことを書けばいいのか教えてもらったりして、絵本のイロハから教えてもらったりしました。
1974年「美しい絵」出版
前年に会社を辞める。
それまで出版社から言われるままテーマに従って考えて出していました。
一人前の会社員としてやると言う主義があって、休みにゴルフを誘われると一緒に行ってそのしわ寄せが夜の時間帯に来て時間の調整が難しくなり、又管理職にもなってきて研究の仕事から遠のいてきて仕事の面白味も薄れて、絵本の仕事に力を入れようかなあと思った。
収入が減ってしまうが、妻がキャラメル売りの仕事をするとか、子供も大きくなってきたので、家族の支援もあり退職願を出してフリーになることにしました。
新聞で田中首相がモナリザの絵をルーブルから日本に持ち込むと言う話があり、子供向けの絵の本を出したいと各社回ったが、断られてしまいました。
或る一社だけが承諾してくれましたが、最後になってピカソのゲルニカという絵がまとめになるが、ピカソが亡くなって家族が係争中で裁判が決着するまで国外で掲載ことはならんとうことになりました。
子供の教育のために掲載を是非お願いしたいと、許可を願いにフランスまで行こうと決心したら、出版者に電報が入って許可を貰うことができた。
私自身の思っていることを何とか伝わるように、それが子供たちに心に響いてくれればいいと、そういうことで絵を見てほしいと思って、描いた人の心がそこに表れて居るか込められていることが問題なんだと、その思いを紙芝居なんかを描いていたので一冊のものにしました。
若い時に芥川龍之介に熱中して、天才でも歩きながら考えていたと言うことで凡人はしょっちゅう考えてもいいが堂々巡りで、気が付いたときにメモするようにしているが、いいと思っても後で見ると大したことないことが多い。
しかし、これが種本みたいで、段々練って行って文に仕立てて行く。
これがないと全然進んでいかない。
お蔵になっているものが多くて、生きたのは1/100ぐらいです。
子供さんから手紙、感想などをいただくのが宝で50数年間取ってあるが、返事は直ぐ出すようにしていて、続きを描いてほしいと言う要望があり30年過ぎに書き始めて40年後に出版することができました。(「どろぼうがっこう 」続編)
良くないからやめななさいと言ってやめるよりも、自分でやめるようにすることが子供の成長だと思います。
普通の子供はプチ悪の面とプチ良いの面があって葛藤しながら自分で磨いてゆく、磨いてゆくことがいいところなんです。
好きなものを選んで、読書の大事さを知ってもらえれば一番いい。
自然界からいろんなものを教わったような気がする。
家の中で本だけで過ごすよりも、本も読むけれども外で遊ぶようにしてもらった方がいいのではないか。
本を読む間接経験よりも直接経験の積み重ねがとても役に立つ。
子供は読んだもの、経験したものなどで琴線に触れるものがあったならばそれを追求してて行動として表す、行動に出ると言うことが素晴らしいこと。
子供の理解出来る文章、絵、図なりで、理解出来ると言うところに入れてあげるとOKです。
20年間、役に立つと見越して書かないといけない。
せっかく生まれてきたので何かお返ししていかなければ申し訳ない、それだけです。
生き甲斐を20年間失っていたのを、後の70年間を楽しく、色んなことを教えてもらって、
こんなことをやってきたということを残していきたい。
テロだとか、内戦だとか、人と人の争いがあり非生産的な状態が途切れない、人間の社会として克服出来るようにしてほしい、しなければいけない。
ノートに書き記したものを1つでも2つでも、元気なうちに皆さんにお渡しできればと思っている。
2017年4月20日木曜日
かこ さとし(絵本作家) ・“生きる力”は子どもたちから(1)
かこ さとし(絵本作家)・“生きる力”は子どもたちから(1)
今年91歳、今でも続々と新作絵本を生み出している現役絵本作家です。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」などの人気シリーズから、歯や骨など人の身体、宇宙や気象現象、動植物について専門的に描いた科学絵本まで今までに生み出した絵本は600冊を超えます。
福井県越前市で生まれたかこさんは敗戦を迎えた時は19歳でした。
多くの友人たちを戦争で亡くし自分は死にはぐれたと感じて生きる道を失ったと言います。
そんなかこさんの生きがいになったのはセツルメント活動で出会った子供たちの存在でした。
東京大学工学部を卒業して化学メーカーの研究者として勤めていたかこさんが、どうして絵本作家になったのか伺いました。
4つ身体に故障があり 腰、首が痛いし、他に薬で何とかしていますが、眼も片目が悪く30年前から緑内障になってます。
長生きしたのは胃腸が丈夫で、兄弟は病弱で先に亡くなりました。
夜は片目だとだめなので日没とともに仕事は無理で、仕事は午前中に出来るだけしています。(若い頃の1/3ぐらいになってしまいました)
10時ごろには寝て、夜明けをまって仕事をやっています。
子供さんにいつの間にか興味を持って、子供さんの事を知りたかったが、工学部だったので児童心理とかを全然知らなかったので、本を読んだがさっぱり身に付かなかった。
子供さんをじかに観察して体得するしかないと思って、機会が出来ないかなと思ったが、会社員を務める中で、社会の裏表を知ったし、業務を通じて貢献、お返しするなかでもっと、直接的な事をしたいと思って、セツルメントを戦後大学生が復活させて、偶然に子供会を手伝ってほしいと言うことで行きました。
川崎に行って、会社勤めとセツルメントを2つやっていて、偶然に女子学生が手伝いに来ていたが、その後その女子学生がアルバイトで出版社にいき私の事を吹聴して、出版社のほうから絵本を書かないかと言うことになりました。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」はたくさんの方が読んでくださって、3代にわたって読んでくれたと言う話もあります。
子供さんにも共感できるものがないと、あとからずーっと続いていかない。
こちら自身が子供と同じような心にはなれないけれども、人間としての考えを自分が持っていると言うこと、自分をさらけ出す覚悟の様にして書いて、最低は10数回は書きなおします。
絵の方は時間はないが、5~6回は書きなおします。
「矢村のヤ助」 1955年頃子供会で話したらこどもたちの反応が凄かった。
当時木下順二さんの「夕鶴」が評判で、学生時代演劇をやっていましたが、木下順二さんの所に押し掛けたりして、尊敬している作家です。
「夕鶴」の内容に腑に落ちないところもあって、鶴は高貴の鳥であってヤマドリの方がずっといいと思ってヤマドリの話を基にして、ヤ助の物語を書きましたが、好評でした。
「矢村のヤ助」の概要
ヤ助と歳をとったお母さんが居て、ある冬の日に罠にかかったヤマドリを助ける。
或る日アカネと言う旅の娘が道に迷ってヤ助の家に来る。
冬を一緒に過ごし、結婚をしてお母さんと3人で一緒に暮らしているが、村を恐ろしい鬼が襲って、米10表、あわ10表、女房を添えて持って来いと言うことになる。
鬼をやっつけるには強い弓を使って一本を注ぐ、矢羽は13フシのヤマドリの尾羽でなくてはいけないとアカネが提案する。
アカネはヤマドリであることを白状する。
ヤ助は勇敢に鬼に立ち向かって鬼をやっつけるが、アカネはヤマドリに戻ってしまって、一緒に暮らすことはできなくなってしまう。
これは2014年米寿の記念として全国の公共図書館に寄贈している。
子供さんは共感すると大事に抱いて寝床まで持って行ってくれるので、全国の図書館に贈りました。
戦争中、戦後、反省としてあるので、自分自身を省みると恥ずかしいので自分自身が出来ること、やれなかったことを、どう反省するんだと言うことを出発点にさせてもらって、頼りになるのは子供さん達だけだと、子供さんたちの未来のために自分の様に後悔をしないように、自分で考える、自分で世の中を判断できる賢さを身につけてほしいと、それをお手伝いできないかと、思ったわけです。
20歳までは後悔、失敗の人生だった。
自分でも考えたはずだが、軍人だったらただで学べてこんないいことはないと思った、飛行少年だったので、近視が進み航空の道には進めなかった。
考えが浅かったわけです、判断が誤りだった。
優秀な友人たちが軍部の学校に入って特攻でみんな死んでしまって、私などは死にはぐれです。
戦争の問題を解決できる方法はないものかと、子供さんたちに明らかな方法で示したいが、いまだに勉強が足りずに、戦争を防ぐ、戦争をしないための具体策が自分でも探しあぐねてるところです。
戦争の悲惨さはよく書かれるが、悲惨を生むための、産んでしまった自分の責任に対して十分でない様に思って、それが残念です。
経済の問題をどう考えるか、どう処理するかの大問題があり、新しい考えの学者さんがいるが、自分では残念ながら実現できていないと言うこともあり非常に残念です。
3歳になると個性が出てきて、自分の好きなことは自分の発案でやって、厭な事は黙って、理屈は大人に向かって言わない。
生きる目標を失っていたが、子供と接して喪失感が無くなってきて子供には全部教わりました。
素晴らしい判断力、感性でした。
今までの教育学の理想児、児童学の本とは違う。
近所の子供さん達を集めて教わった方が早い。
今年91歳、今でも続々と新作絵本を生み出している現役絵本作家です。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」などの人気シリーズから、歯や骨など人の身体、宇宙や気象現象、動植物について専門的に描いた科学絵本まで今までに生み出した絵本は600冊を超えます。
福井県越前市で生まれたかこさんは敗戦を迎えた時は19歳でした。
多くの友人たちを戦争で亡くし自分は死にはぐれたと感じて生きる道を失ったと言います。
そんなかこさんの生きがいになったのはセツルメント活動で出会った子供たちの存在でした。
東京大学工学部を卒業して化学メーカーの研究者として勤めていたかこさんが、どうして絵本作家になったのか伺いました。
4つ身体に故障があり 腰、首が痛いし、他に薬で何とかしていますが、眼も片目が悪く30年前から緑内障になってます。
長生きしたのは胃腸が丈夫で、兄弟は病弱で先に亡くなりました。
夜は片目だとだめなので日没とともに仕事は無理で、仕事は午前中に出来るだけしています。(若い頃の1/3ぐらいになってしまいました)
10時ごろには寝て、夜明けをまって仕事をやっています。
子供さんにいつの間にか興味を持って、子供さんの事を知りたかったが、工学部だったので児童心理とかを全然知らなかったので、本を読んだがさっぱり身に付かなかった。
子供さんをじかに観察して体得するしかないと思って、機会が出来ないかなと思ったが、会社員を務める中で、社会の裏表を知ったし、業務を通じて貢献、お返しするなかでもっと、直接的な事をしたいと思って、セツルメントを戦後大学生が復活させて、偶然に子供会を手伝ってほしいと言うことで行きました。
川崎に行って、会社勤めとセツルメントを2つやっていて、偶然に女子学生が手伝いに来ていたが、その後その女子学生がアルバイトで出版社にいき私の事を吹聴して、出版社のほうから絵本を書かないかと言うことになりました。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」はたくさんの方が読んでくださって、3代にわたって読んでくれたと言う話もあります。
子供さんにも共感できるものがないと、あとからずーっと続いていかない。
こちら自身が子供と同じような心にはなれないけれども、人間としての考えを自分が持っていると言うこと、自分をさらけ出す覚悟の様にして書いて、最低は10数回は書きなおします。
絵の方は時間はないが、5~6回は書きなおします。
「矢村のヤ助」 1955年頃子供会で話したらこどもたちの反応が凄かった。
当時木下順二さんの「夕鶴」が評判で、学生時代演劇をやっていましたが、木下順二さんの所に押し掛けたりして、尊敬している作家です。
「夕鶴」の内容に腑に落ちないところもあって、鶴は高貴の鳥であってヤマドリの方がずっといいと思ってヤマドリの話を基にして、ヤ助の物語を書きましたが、好評でした。
「矢村のヤ助」の概要
ヤ助と歳をとったお母さんが居て、ある冬の日に罠にかかったヤマドリを助ける。
或る日アカネと言う旅の娘が道に迷ってヤ助の家に来る。
冬を一緒に過ごし、結婚をしてお母さんと3人で一緒に暮らしているが、村を恐ろしい鬼が襲って、米10表、あわ10表、女房を添えて持って来いと言うことになる。
鬼をやっつけるには強い弓を使って一本を注ぐ、矢羽は13フシのヤマドリの尾羽でなくてはいけないとアカネが提案する。
アカネはヤマドリであることを白状する。
ヤ助は勇敢に鬼に立ち向かって鬼をやっつけるが、アカネはヤマドリに戻ってしまって、一緒に暮らすことはできなくなってしまう。
これは2014年米寿の記念として全国の公共図書館に寄贈している。
子供さんは共感すると大事に抱いて寝床まで持って行ってくれるので、全国の図書館に贈りました。
戦争中、戦後、反省としてあるので、自分自身を省みると恥ずかしいので自分自身が出来ること、やれなかったことを、どう反省するんだと言うことを出発点にさせてもらって、頼りになるのは子供さん達だけだと、子供さんたちの未来のために自分の様に後悔をしないように、自分で考える、自分で世の中を判断できる賢さを身につけてほしいと、それをお手伝いできないかと、思ったわけです。
20歳までは後悔、失敗の人生だった。
自分でも考えたはずだが、軍人だったらただで学べてこんないいことはないと思った、飛行少年だったので、近視が進み航空の道には進めなかった。
考えが浅かったわけです、判断が誤りだった。
優秀な友人たちが軍部の学校に入って特攻でみんな死んでしまって、私などは死にはぐれです。
戦争の問題を解決できる方法はないものかと、子供さんたちに明らかな方法で示したいが、いまだに勉強が足りずに、戦争を防ぐ、戦争をしないための具体策が自分でも探しあぐねてるところです。
戦争の悲惨さはよく書かれるが、悲惨を生むための、産んでしまった自分の責任に対して十分でない様に思って、それが残念です。
経済の問題をどう考えるか、どう処理するかの大問題があり、新しい考えの学者さんがいるが、自分では残念ながら実現できていないと言うこともあり非常に残念です。
3歳になると個性が出てきて、自分の好きなことは自分の発案でやって、厭な事は黙って、理屈は大人に向かって言わない。
生きる目標を失っていたが、子供と接して喪失感が無くなってきて子供には全部教わりました。
素晴らしい判断力、感性でした。
今までの教育学の理想児、児童学の本とは違う。
近所の子供さん達を集めて教わった方が早い。
2017年4月19日水曜日
観世清和(能楽・観世流二十六世家元)・銀座で出逢う新しい能
観世清和(能楽・観世流二十六世家元) ・銀座で出逢う新しい能
観世流の新しい能楽堂が4月20日に銀座複合ビルの地下3階にオープンします。
渋谷にあった旧観世能楽堂が移転するもので、これを機会に一般の人達にも能楽を楽しんでもらおうと様々な企画を準備していると言うことです。
銀座の地は江戸時代に観世家が幕府から屋敷を拝領していたところで明治元年まで能舞台や家屋敷などがありました。
新しい能楽堂は銀座の中心部に建設された複合ビルの中に入っていますが、周辺に歌舞伎座や帝国劇場があることから、銀座を伝統文化の一大拠点にしたいとしています。
銀座で出会う新しい能、観世清和さんに伺います。
銀座6丁目の複合ビルの地下3階に構えることになりました。
和の文化を取り入れつつ地下を感じさせない雰囲気作りに心がけています。
能楽堂は渋谷の能楽堂の総ヒノキ作りの能舞台を釘を使わない組み立て式なので綺麗に解体して、運んで来て組み立てて復元しました。
屋根のひわだは新しくしました。
旧能楽堂は552席だったのを480席に減らし、前後左右の幅を広げました。
椅子も疲れないように人間工学的に工夫をしました。
目付柱は取り外しができるようにしました。(能以外の使用が出来るように考える)
(*目付柱→面(おもて)を着けた演者は、面の小さな目の穴から見える大変狭い視界でしかないので常にどこかに目標物を必要とする。舞台で舞い始めた演者が、目を付けて演技をする柱という意味で、目付柱とされている。)
正面から出来るだけ見られるように、正面席の数は増やすように工夫をしました。
イヤホーンガイドを導入する様にインフラ設備のしつらえをしています。
物語の場面場面の状況の説明は絶対必要だと思っていて、日本語のガイド、多言語ガイドも取り入れて行きたいと思っています。
バリアフリーも考慮しています。
銀座1丁目に三代将軍家光公から500坪の土地を10代目観世重成が1633年ごろ拝領しました。
243年間、明治維新まで居住をさせていただきました。
祝賀能が始まりますが、44年前の舞台開きの番組と全く同じで、宗教的色彩が強い天下泰平国土安穏という祈りの心の翁をして、鶴亀の前囃子、「高砂」を行います。
4月24日の晩に若手の特別公演を行います。(7時30分開演)
ひと段落したら謡曲講座、入門講座などの催しも考えています。
きっかけが大事だと思いますので、生の能の魅力をふれていただきたいので、能舞台を見るとか、すり足とかそういったところからの講座をやってみたいと思っています。
2020年東京オリンピックパラリンピックがありますが、文化プログラムについては協力して、外国の方々に日本の文化をアピールしていきたいと思っていて考えています。
お茶、お花、お能 日本の伝統的な文化のエキスに触れて頂くようなことを企画していきたいと思っています。
近くには歌舞伎座、新橋演舞場、帝国劇場などがあるのでネットワーク作りをさせていただきたいと思っています。
伝統を守ることは魂を削って守っていかなければいけないし、伝統をいい形で後世につなげて行く、発展させてゆくことが非常に大事だと思っています。
息子は能の稽古ばかりだけではなく学校生活、学業と家業のいいバランスをとってもらう事が大事だと思います。(バスケットボール、生徒会長をやっている)
それと今しかできないことをやれと言っています。
過度の稽古はいけないと言っているが、役者の心は大いに真っ直ぐに育ててやらないといけない。
怒るだけでなくて、褒める時は本当に褒めてやれと言っています。
「風姿花伝」は人生論であり、哲学書であり、経済的な事(一座建立)も言っています。
根本的な体幹、身体能力は必要なので、五感に沁み付けさせる、理屈の世界ではないので、体で覚えて行く。
平家物語の中に能楽の演目に取り入れられていないような素晴らしい物語が残っているが、そういうこともやってみたいと思っている。
「阿古屋の松」を復曲 震災に絡んだもの 東北復興の祈りです。
現代人の感性も大事なので、360度眼を開いていろんなものを吸収して、いろんなものを感じて感性を磨いて、現代人としての700年前の演目の捉え方も必要なんだと言っています。
守り伝えてゆくことも大事ですが、現代人としての感性を磨くことも大事な事だと思っています。
一般の人も能の体験、稽古をやって能を見るとまた違った世界が見えてきます。
観世流の新しい能楽堂が4月20日に銀座複合ビルの地下3階にオープンします。
渋谷にあった旧観世能楽堂が移転するもので、これを機会に一般の人達にも能楽を楽しんでもらおうと様々な企画を準備していると言うことです。
銀座の地は江戸時代に観世家が幕府から屋敷を拝領していたところで明治元年まで能舞台や家屋敷などがありました。
新しい能楽堂は銀座の中心部に建設された複合ビルの中に入っていますが、周辺に歌舞伎座や帝国劇場があることから、銀座を伝統文化の一大拠点にしたいとしています。
銀座で出会う新しい能、観世清和さんに伺います。
銀座6丁目の複合ビルの地下3階に構えることになりました。
和の文化を取り入れつつ地下を感じさせない雰囲気作りに心がけています。
能楽堂は渋谷の能楽堂の総ヒノキ作りの能舞台を釘を使わない組み立て式なので綺麗に解体して、運んで来て組み立てて復元しました。
屋根のひわだは新しくしました。
旧能楽堂は552席だったのを480席に減らし、前後左右の幅を広げました。
椅子も疲れないように人間工学的に工夫をしました。
目付柱は取り外しができるようにしました。(能以外の使用が出来るように考える)
(*目付柱→面(おもて)を着けた演者は、面の小さな目の穴から見える大変狭い視界でしかないので常にどこかに目標物を必要とする。舞台で舞い始めた演者が、目を付けて演技をする柱という意味で、目付柱とされている。)
正面から出来るだけ見られるように、正面席の数は増やすように工夫をしました。
イヤホーンガイドを導入する様にインフラ設備のしつらえをしています。
物語の場面場面の状況の説明は絶対必要だと思っていて、日本語のガイド、多言語ガイドも取り入れて行きたいと思っています。
バリアフリーも考慮しています。
銀座1丁目に三代将軍家光公から500坪の土地を10代目観世重成が1633年ごろ拝領しました。
243年間、明治維新まで居住をさせていただきました。
祝賀能が始まりますが、44年前の舞台開きの番組と全く同じで、宗教的色彩が強い天下泰平国土安穏という祈りの心の翁をして、鶴亀の前囃子、「高砂」を行います。
4月24日の晩に若手の特別公演を行います。(7時30分開演)
ひと段落したら謡曲講座、入門講座などの催しも考えています。
きっかけが大事だと思いますので、生の能の魅力をふれていただきたいので、能舞台を見るとか、すり足とかそういったところからの講座をやってみたいと思っています。
2020年東京オリンピックパラリンピックがありますが、文化プログラムについては協力して、外国の方々に日本の文化をアピールしていきたいと思っていて考えています。
お茶、お花、お能 日本の伝統的な文化のエキスに触れて頂くようなことを企画していきたいと思っています。
近くには歌舞伎座、新橋演舞場、帝国劇場などがあるのでネットワーク作りをさせていただきたいと思っています。
伝統を守ることは魂を削って守っていかなければいけないし、伝統をいい形で後世につなげて行く、発展させてゆくことが非常に大事だと思っています。
息子は能の稽古ばかりだけではなく学校生活、学業と家業のいいバランスをとってもらう事が大事だと思います。(バスケットボール、生徒会長をやっている)
それと今しかできないことをやれと言っています。
過度の稽古はいけないと言っているが、役者の心は大いに真っ直ぐに育ててやらないといけない。
怒るだけでなくて、褒める時は本当に褒めてやれと言っています。
「風姿花伝」は人生論であり、哲学書であり、経済的な事(一座建立)も言っています。
根本的な体幹、身体能力は必要なので、五感に沁み付けさせる、理屈の世界ではないので、体で覚えて行く。
平家物語の中に能楽の演目に取り入れられていないような素晴らしい物語が残っているが、そういうこともやってみたいと思っている。
「阿古屋の松」を復曲 震災に絡んだもの 東北復興の祈りです。
現代人の感性も大事なので、360度眼を開いていろんなものを吸収して、いろんなものを感じて感性を磨いて、現代人としての700年前の演目の捉え方も必要なんだと言っています。
守り伝えてゆくことも大事ですが、現代人としての感性を磨くことも大事な事だと思っています。
一般の人も能の体験、稽古をやって能を見るとまた違った世界が見えてきます。
2017年4月18日火曜日
一龍斎春水(講談師) ・女性の生き方を語る
一龍斎春水(講談師) ・女性の生き方を語る
かつては声優として麻上 洋子さんとして活躍されました。
宇宙戦艦ヤマトの森雪の役と云えば印象に残っている方もいるのではないでしょうか。
声優の仕事を今も続けていますが、40歳になった時に語りの芸を極めようと、人間国宝の一龍斎 貞水に弟子入りし、12年かかって真打ちとなり、講談師としていま全国を回っています。
黒沢 良さんと言う大先輩が声優のための学校を開いてくれて、そこに入学させてもらって卒業するときに宇宙戦艦ヤマトの番組とめぐり合うことになり、オーディションで森雪と言う役をゲット出来て、恵まれました。
声優の学校は30人ぐらいの生徒で私が最年少でした。
声優はいろんな役に変身が出来て楽しいです。
声優は今もやっていて45年になります。
声優は芝居ができないといけないので、声優の学校を出る時に劇団に入りました。
早野寿郎さんという大竹しのぶさんらを育てた演出家が居て、先生の劇団に入って10年やっていましたが、基本は声でどう演じられるかと言う方が私にとって大事で、そっちの方を勉強する方法はないかと思っていたら、山内 雅人さんがドラマティックに読む事をやりたいと言っていて、是非私も勉強させてもらいたいと言うことで読むことの勉強が10年続きました。
お客様が自由に聞けるものにできないのかなあと思っていたら、一龍斎 貞水さんにめぐり合うことが出来ました。
一龍斎 貞水さんは講談師として初めて人間国宝に認定されたかたです。
一龍斎 貞水さんの話芸を聞いたときに物凄く自由に鵜飼が舞台の上から縄を投げ掛け纏めてキューっと引張って来るような空間を感じました。
お客さんとの空間が私がこうなりたいと思っていたことが妙に合致して、この人のところで学びたいと思って入門させて下さいと申し出ました。(40歳)
声優としてのスキルを上げたいと思って行こうと思ったが、飛び込んでから知ることになるが何百年の和芸の世界であった。
異次元の世界に飛び込んだ事を後になってから気付いて後戻りはできないと思いました。
講談も落語の世界も発声練習なんてありません。
海に向かって叫んだりするのはのどをからしてしまうので、そんなことはやりません。
師匠から盗んだものの一番は一生懸命やること、お客様に誠心誠意向う事です。
今、師匠はがんを抱えて居てのども治療によって荒らしてますが、普通の人なら声が出なくなるが、師匠は全然関係なく声が出ます。
医者がびっくりするぐらい声が出ます。
私は真打ちになるまで12年かかりました。
どういう芸をやっていったらいいのか、悩みました。
男主人公の話ばかりで、話の中身が判らないことが多いし、調子が身体の中入っていかないといけないが、そこでまずつまずいてしまう。
宇宙戦艦ヤマトの話を考えたら出来る思って、それが出来るならいいと言われて、力を得て新しいものを作りながら進めました。
師匠に春水は変な事をやっているので辞める様にと言った先輩がいるようでした。
やっているうちにお客さんは新しい事をやりたいと思っているんだと言うことで、この女性の話をあなたがやってこの人を検証してくれたらと本を送ってくれた人(黒瀬曻次郎(
くろせしょうじろう)先生と言う作家)がいて、「中村久子の生涯」という本でした。
中村久子さんは3歳のときに両手両足を病気で無くされて72歳まで生きて、人の12人分ぐらいの生涯を送られた方です。
手足のない身体で自立をし、子供を産み育て、大黒柱となり、社会的にも沢山の貢献をして最後には多くの病気を抱えた自分の身体を医学に役立ててくださいと言って、身体全部を提供して亡くなった方です。
物凄い人の生涯の本を読ませていただいて大感動して、涙を流しながら読んで、自分の話にしたいと師匠に打ち明けたら、作れるならいいよと言っていただきました。
すこしずつ高座にかけてみましたら、お客さんの反応はノーだったんです。
あなたの将来のために良くないので早くやめなさいと言われてしまいました。
古典は合わないと思っていたので、やってきたのを大事にしていいんだよと言う人は少数派でした。
私の背中を押してくれたのは乙武 洋匡さんでした。(「五体不満足」と言う本を出版)
100万人の人達がこの本をOKと言ってくれた人々がいる。
私にノーと言ってきたのはたった一人じゃないかと、世の中にはイエス、ノーが五分五分いるわけだからやっていこうと思いました。
二つ目になり、二つ目になると独演会を開けるようになって、久子さんの話を作り始めようと思ったときに、お客さんが「いいね」と言ってくれるようになりました。
金子 みすゞさんの話も作ってみたらとお客さんから言われて、金子 みすゞさんに出会うことができました。
中村久子さんの話は10話で完結しました。(1話で45分ぐらいかかります。)
中村久子さんは口で着物を縫えるようになれるが、つばがついてしまうのでまわりの大人には拒否されてしまう。
これに悩むが、おばあさんから「人は自分に自分の姿を見せてくれる、有難いと思え。
これに勝つためには久子がこれを自分の力で乗り越えることだ」と教えてくれる。
それから13年後にはつばが一滴もつかなくなった。
合わせの着物をたったの2日で縫えるようになる。
自らの身を見世物小屋に売って、その最初のお金で母親が久子さんの治療に抱えてきた借金を全部清算して、見世物小屋に出て自立をして、口で出来る芸を持って芸を見せ売れっ子の芸人さんになる。
裏切られたりしながら、売られた4年半は大変な暮らしをする。
中村久子さんは明治30生まれで亡くなるのは昭和43年です。(障害者に何の制度もない時代)
お寺の方から法話の代わりに呼んで下さったり、福祉関係で呼んで下さったりして、1時間半貰えるので、語ったりしています。
献体のための身体を娘さんが抱えて、「お母さんの生き方は最後まで立派だった」と娘さんが言う、それが第10話の最後になる。
講談を語るたびに、自分が励まされ背筋を正され、お金ではない、自分が生きてきたことの自分自身を生かすため、自分の資質をすべて活かして何かを伝えることができればと思います。
金子 みすゞさんも一生懸命生きた方です、こびへつらうのではなく、自然が素晴らしいとか、そこに向かって真っすぐに進む、そういったところが大好きです。
朗読も始めました。
私に課せられたものを全うしていきたいと思います。
かつては声優として麻上 洋子さんとして活躍されました。
宇宙戦艦ヤマトの森雪の役と云えば印象に残っている方もいるのではないでしょうか。
声優の仕事を今も続けていますが、40歳になった時に語りの芸を極めようと、人間国宝の一龍斎 貞水に弟子入りし、12年かかって真打ちとなり、講談師としていま全国を回っています。
黒沢 良さんと言う大先輩が声優のための学校を開いてくれて、そこに入学させてもらって卒業するときに宇宙戦艦ヤマトの番組とめぐり合うことになり、オーディションで森雪と言う役をゲット出来て、恵まれました。
声優の学校は30人ぐらいの生徒で私が最年少でした。
声優はいろんな役に変身が出来て楽しいです。
声優は今もやっていて45年になります。
声優は芝居ができないといけないので、声優の学校を出る時に劇団に入りました。
早野寿郎さんという大竹しのぶさんらを育てた演出家が居て、先生の劇団に入って10年やっていましたが、基本は声でどう演じられるかと言う方が私にとって大事で、そっちの方を勉強する方法はないかと思っていたら、山内 雅人さんがドラマティックに読む事をやりたいと言っていて、是非私も勉強させてもらいたいと言うことで読むことの勉強が10年続きました。
お客様が自由に聞けるものにできないのかなあと思っていたら、一龍斎 貞水さんにめぐり合うことが出来ました。
一龍斎 貞水さんは講談師として初めて人間国宝に認定されたかたです。
一龍斎 貞水さんの話芸を聞いたときに物凄く自由に鵜飼が舞台の上から縄を投げ掛け纏めてキューっと引張って来るような空間を感じました。
お客さんとの空間が私がこうなりたいと思っていたことが妙に合致して、この人のところで学びたいと思って入門させて下さいと申し出ました。(40歳)
声優としてのスキルを上げたいと思って行こうと思ったが、飛び込んでから知ることになるが何百年の和芸の世界であった。
異次元の世界に飛び込んだ事を後になってから気付いて後戻りはできないと思いました。
講談も落語の世界も発声練習なんてありません。
海に向かって叫んだりするのはのどをからしてしまうので、そんなことはやりません。
師匠から盗んだものの一番は一生懸命やること、お客様に誠心誠意向う事です。
今、師匠はがんを抱えて居てのども治療によって荒らしてますが、普通の人なら声が出なくなるが、師匠は全然関係なく声が出ます。
医者がびっくりするぐらい声が出ます。
私は真打ちになるまで12年かかりました。
どういう芸をやっていったらいいのか、悩みました。
男主人公の話ばかりで、話の中身が判らないことが多いし、調子が身体の中入っていかないといけないが、そこでまずつまずいてしまう。
宇宙戦艦ヤマトの話を考えたら出来る思って、それが出来るならいいと言われて、力を得て新しいものを作りながら進めました。
師匠に春水は変な事をやっているので辞める様にと言った先輩がいるようでした。
やっているうちにお客さんは新しい事をやりたいと思っているんだと言うことで、この女性の話をあなたがやってこの人を検証してくれたらと本を送ってくれた人(黒瀬曻次郎(
くろせしょうじろう)先生と言う作家)がいて、「中村久子の生涯」という本でした。
中村久子さんは3歳のときに両手両足を病気で無くされて72歳まで生きて、人の12人分ぐらいの生涯を送られた方です。
手足のない身体で自立をし、子供を産み育て、大黒柱となり、社会的にも沢山の貢献をして最後には多くの病気を抱えた自分の身体を医学に役立ててくださいと言って、身体全部を提供して亡くなった方です。
物凄い人の生涯の本を読ませていただいて大感動して、涙を流しながら読んで、自分の話にしたいと師匠に打ち明けたら、作れるならいいよと言っていただきました。
すこしずつ高座にかけてみましたら、お客さんの反応はノーだったんです。
あなたの将来のために良くないので早くやめなさいと言われてしまいました。
古典は合わないと思っていたので、やってきたのを大事にしていいんだよと言う人は少数派でした。
私の背中を押してくれたのは乙武 洋匡さんでした。(「五体不満足」と言う本を出版)
100万人の人達がこの本をOKと言ってくれた人々がいる。
私にノーと言ってきたのはたった一人じゃないかと、世の中にはイエス、ノーが五分五分いるわけだからやっていこうと思いました。
二つ目になり、二つ目になると独演会を開けるようになって、久子さんの話を作り始めようと思ったときに、お客さんが「いいね」と言ってくれるようになりました。
金子 みすゞさんの話も作ってみたらとお客さんから言われて、金子 みすゞさんに出会うことができました。
中村久子さんの話は10話で完結しました。(1話で45分ぐらいかかります。)
中村久子さんは口で着物を縫えるようになれるが、つばがついてしまうのでまわりの大人には拒否されてしまう。
これに悩むが、おばあさんから「人は自分に自分の姿を見せてくれる、有難いと思え。
これに勝つためには久子がこれを自分の力で乗り越えることだ」と教えてくれる。
それから13年後にはつばが一滴もつかなくなった。
合わせの着物をたったの2日で縫えるようになる。
自らの身を見世物小屋に売って、その最初のお金で母親が久子さんの治療に抱えてきた借金を全部清算して、見世物小屋に出て自立をして、口で出来る芸を持って芸を見せ売れっ子の芸人さんになる。
裏切られたりしながら、売られた4年半は大変な暮らしをする。
中村久子さんは明治30生まれで亡くなるのは昭和43年です。(障害者に何の制度もない時代)
お寺の方から法話の代わりに呼んで下さったり、福祉関係で呼んで下さったりして、1時間半貰えるので、語ったりしています。
献体のための身体を娘さんが抱えて、「お母さんの生き方は最後まで立派だった」と娘さんが言う、それが第10話の最後になる。
講談を語るたびに、自分が励まされ背筋を正され、お金ではない、自分が生きてきたことの自分自身を生かすため、自分の資質をすべて活かして何かを伝えることができればと思います。
金子 みすゞさんも一生懸命生きた方です、こびへつらうのではなく、自然が素晴らしいとか、そこに向かって真っすぐに進む、そういったところが大好きです。
朗読も始めました。
私に課せられたものを全うしていきたいと思います。
2017年4月17日月曜日
大藏基誠(能楽師狂言方) ・【にっぽんの音】
大藏基誠(能楽師狂言方) ・【にっぽんの音】
狂言 能と狂言をひっくるめて能楽。 私は能楽師狂言方です。
能は昔の話を幽玄美を使って物語を作り上げているが、狂言は主人、太郎冠者(たろうかじゃ)、女、男、鬼、婿など何処にでもいるような、キャラクターを使って物語を展開している。
能は悲劇が多くて、狂言は家にあるのが全部で180曲演目があるが80%は喜劇です。
人間の弱さ面白さを描いているのが多い。
子供にやってはいけない、見てはいけないと言うような事に、やってしまう見てしまう心理を描いていたりするのが狂言の面白さです。
海外でやっても笑う壺は一緒です、根源的には変わらないです。
狂言は短いものだと6分、長いものだと1時間ぐらいになります。
舞台は能楽堂になり、都内で10数か所あります。
なにもない空間で舞台を作って行く。
「ここは宇宙でござる」というとそこは宇宙になってしまう、お客さんの想像にゆだねる。
能はお面を使うが、狂言は素に近い。
断髪令が出て、「ちょんまげ」を許されたのが相撲と能楽の世界だったが、相撲は残しますと言うことになり、能楽の世界は我々も落としましょうとなり、自由になりました。
能は敦盛だとか実在していた人物を演じるので面に憑依(ひょうい)させる、面を付けることによってその役に入る。
狂言は実在する人物ではなくて何処にでもある話なので面を付けることなく素顔で行います。
昔は面は高価なものだったので、買うことができなかったのでその時に顔を化粧をするようになったのが歌舞伎の世界と言うふうに聞いたことはあります。
おおきく分けて大蔵流、和泉流があり、鷺流があったが途絶えてしまった。
大蔵流には大藏彌右衞門家(本家)があり、東京に山本東次郎家、京都に茂山千五郞家、茂山忠三郞家があり、大阪神戸を本拠とする善竹忠一郞一門があります。
毎年5家狂言会をやっていて、若手がそろって、いろんな家の技が見れて面白いです。
小学校上がるまでみんな狂言をやっていると思いましたが、小学校に上がってから家だけなんだと気付きました。
反抗期には家出をしたりしたこともありました。
舞台に行かなかったことで父親が代役をやったりして親父に申し訳ない事をしたと言うことで、親の顔に泥を塗ってしまったことを後悔して、やろうかなと思いました。
みんな舞台に命をかけて居る、舞台に穴をあけてはいけないと言うか、みんなの熱い思いは大事にしたいと思っています。
舞台は一番と言うことを息子には見せようと思っています。
息子は同じクラスに狂言をやっている子がいて、いい環境だと思います。
稽古や、舞台に立つ瞬間は凄く厭です、めちゃめちゃ緊張します。
毎回演目が違うので、次のセリフを覚えなくてはいけなくて、並行して覚えなくてはいけないし、セリフも100点出さないといけないので追い込まれた時は厭になります。
だけど舞台に出てお客さんの笑いだとか拍手を貰うと、全部吹っ飛びます。
「一期一会」なんで今日の舞台はもう二度と見れないだろうと思ってやっています。
お客さんと演者とで一緒に作る空間だと思っています。
間を大事にするので、間をとった瞬間に携帯の音がしたりすると何やってんだろうと思います。
最近は見るお客さんが違ってきて、TV映画を見る感覚で来るお客さんが多いです。
TV、映画は一方通行だが、舞台はそうはいかないが薄れてきているように思う。
狂言はみんなに想像してもらって楽しむお芝居だと思っています。
『kyogen lounge』 44回目になり、パーティーと狂言を一緒にした舞台で、楽しんだ後狂言を見て、又お酒を楽しむと言うような空間を作っています。(1回/2カ月)
そこでの出会いがあったりして、狂言を通して繋がってもらうのはうれしいと思っています。
敷居が高いとか伝統芸能に対するイメージを変えてみたいと思ってやっていますが、好評です。
自分自身がパーティー好きと言うような思いもあり、思いつきました。
30代、40代の人が多いです。
狂言を見に来るときに、昔は何を着てきてもいいですよと言っていたが、最近はおしゃれして来てと言っています。
自身が脚本し舞台「TheFactory」を演出。
やるきっかけになったのは、日本の芸能をもっと知ってもらいたいと言うことが根本にあって、津軽三味線、尺八、和太鼓、狂言、殺陣、そこにアニメーションダンスを入れました。
間に芝居を入れる事によって、それぞれの津軽三味線、尺八、和太鼓、殺陣などの文化を知ってもらいたいと思いました。
音楽だけではなくて茶道、華道とか日本の文化を取り入れてもいいと思っています。
日本の文化を知ることによっていろんなものが見えてくるのではないかと言う思いがあります。
狂言の180曲の演目の中で誰一人として死なない。
人間の弱さ、面白さ、失敗談を描いていて、怒られるがその先は許すという、仏様、神様の教えが詰まっている演劇なんです。
おおらかな気持ちで物事を見なさいよとメッセージ性が強いと思っていて、日本の芸能全般が誰も人を殺していいとは言わない、文化芸術を楽しむことによって平和な地球が作り上げる事できるのではないかと言うことで、もっと発信してゆきたい。
狂言だけでなく、歌舞伎、文楽、落語などもっと楽しんだらいいんじゃないかと言う思いが「TheFactory」になった訳です。
世界中を回りたいと言う思いはあります。
日本の良さを発信したい 「おおらかさ」
日本の音 季節を感じたりしてしまうが、1年を通して日本の音で出て来たのは「鼓」です。
小鼓は湿気を大事にしていて、大鼓は乾燥を大事にしている。
小鼓に調子紙を貼っているが、この紙(切手より小さい)一枚で音が違ってくる。
「紙一重」という言葉はこのことからきている。
どんな音楽でも鼓の音が入ると凄く和っぽくなる。
左手で持って右肩に乗せて、右手で叩く。(意外と知られていない)
いろいろ知ってもらって人生を豊かにしてもらえればいいと思います。
狂言 能と狂言をひっくるめて能楽。 私は能楽師狂言方です。
能は昔の話を幽玄美を使って物語を作り上げているが、狂言は主人、太郎冠者(たろうかじゃ)、女、男、鬼、婿など何処にでもいるような、キャラクターを使って物語を展開している。
能は悲劇が多くて、狂言は家にあるのが全部で180曲演目があるが80%は喜劇です。
人間の弱さ面白さを描いているのが多い。
子供にやってはいけない、見てはいけないと言うような事に、やってしまう見てしまう心理を描いていたりするのが狂言の面白さです。
海外でやっても笑う壺は一緒です、根源的には変わらないです。
狂言は短いものだと6分、長いものだと1時間ぐらいになります。
舞台は能楽堂になり、都内で10数か所あります。
なにもない空間で舞台を作って行く。
「ここは宇宙でござる」というとそこは宇宙になってしまう、お客さんの想像にゆだねる。
能はお面を使うが、狂言は素に近い。
断髪令が出て、「ちょんまげ」を許されたのが相撲と能楽の世界だったが、相撲は残しますと言うことになり、能楽の世界は我々も落としましょうとなり、自由になりました。
能は敦盛だとか実在していた人物を演じるので面に憑依(ひょうい)させる、面を付けることによってその役に入る。
狂言は実在する人物ではなくて何処にでもある話なので面を付けることなく素顔で行います。
昔は面は高価なものだったので、買うことができなかったのでその時に顔を化粧をするようになったのが歌舞伎の世界と言うふうに聞いたことはあります。
おおきく分けて大蔵流、和泉流があり、鷺流があったが途絶えてしまった。
大蔵流には大藏彌右衞門家(本家)があり、東京に山本東次郎家、京都に茂山千五郞家、茂山忠三郞家があり、大阪神戸を本拠とする善竹忠一郞一門があります。
毎年5家狂言会をやっていて、若手がそろって、いろんな家の技が見れて面白いです。
小学校上がるまでみんな狂言をやっていると思いましたが、小学校に上がってから家だけなんだと気付きました。
反抗期には家出をしたりしたこともありました。
舞台に行かなかったことで父親が代役をやったりして親父に申し訳ない事をしたと言うことで、親の顔に泥を塗ってしまったことを後悔して、やろうかなと思いました。
みんな舞台に命をかけて居る、舞台に穴をあけてはいけないと言うか、みんなの熱い思いは大事にしたいと思っています。
舞台は一番と言うことを息子には見せようと思っています。
息子は同じクラスに狂言をやっている子がいて、いい環境だと思います。
稽古や、舞台に立つ瞬間は凄く厭です、めちゃめちゃ緊張します。
毎回演目が違うので、次のセリフを覚えなくてはいけなくて、並行して覚えなくてはいけないし、セリフも100点出さないといけないので追い込まれた時は厭になります。
だけど舞台に出てお客さんの笑いだとか拍手を貰うと、全部吹っ飛びます。
「一期一会」なんで今日の舞台はもう二度と見れないだろうと思ってやっています。
お客さんと演者とで一緒に作る空間だと思っています。
間を大事にするので、間をとった瞬間に携帯の音がしたりすると何やってんだろうと思います。
最近は見るお客さんが違ってきて、TV映画を見る感覚で来るお客さんが多いです。
TV、映画は一方通行だが、舞台はそうはいかないが薄れてきているように思う。
狂言はみんなに想像してもらって楽しむお芝居だと思っています。
『kyogen lounge』 44回目になり、パーティーと狂言を一緒にした舞台で、楽しんだ後狂言を見て、又お酒を楽しむと言うような空間を作っています。(1回/2カ月)
そこでの出会いがあったりして、狂言を通して繋がってもらうのはうれしいと思っています。
敷居が高いとか伝統芸能に対するイメージを変えてみたいと思ってやっていますが、好評です。
自分自身がパーティー好きと言うような思いもあり、思いつきました。
30代、40代の人が多いです。
狂言を見に来るときに、昔は何を着てきてもいいですよと言っていたが、最近はおしゃれして来てと言っています。
自身が脚本し舞台「TheFactory」を演出。
やるきっかけになったのは、日本の芸能をもっと知ってもらいたいと言うことが根本にあって、津軽三味線、尺八、和太鼓、狂言、殺陣、そこにアニメーションダンスを入れました。
間に芝居を入れる事によって、それぞれの津軽三味線、尺八、和太鼓、殺陣などの文化を知ってもらいたいと思いました。
音楽だけではなくて茶道、華道とか日本の文化を取り入れてもいいと思っています。
日本の文化を知ることによっていろんなものが見えてくるのではないかと言う思いがあります。
狂言の180曲の演目の中で誰一人として死なない。
人間の弱さ、面白さ、失敗談を描いていて、怒られるがその先は許すという、仏様、神様の教えが詰まっている演劇なんです。
おおらかな気持ちで物事を見なさいよとメッセージ性が強いと思っていて、日本の芸能全般が誰も人を殺していいとは言わない、文化芸術を楽しむことによって平和な地球が作り上げる事できるのではないかと言うことで、もっと発信してゆきたい。
狂言だけでなく、歌舞伎、文楽、落語などもっと楽しんだらいいんじゃないかと言う思いが「TheFactory」になった訳です。
世界中を回りたいと言う思いはあります。
日本の良さを発信したい 「おおらかさ」
日本の音 季節を感じたりしてしまうが、1年を通して日本の音で出て来たのは「鼓」です。
小鼓は湿気を大事にしていて、大鼓は乾燥を大事にしている。
小鼓に調子紙を貼っているが、この紙(切手より小さい)一枚で音が違ってくる。
「紙一重」という言葉はこのことからきている。
どんな音楽でも鼓の音が入ると凄く和っぽくなる。
左手で持って右肩に乗せて、右手で叩く。(意外と知られていない)
いろいろ知ってもらって人生を豊かにしてもらえればいいと思います。
2017年4月15日土曜日
寮 美千子(作家・詩人) ・心をほぐす詩の授業(H29/1/21 OA)
寮 美千子(作家・詩人) ・心をほぐす詩の授業(H29/1/21 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/01/blog-post_21.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/01/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2017年4月14日金曜日
木之内均(イチゴ農園経営) ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ
木之内均(イチゴ農園経営) ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ
熊本地震から1年、南阿蘇村立野では大規模な土砂崩れが起き、家屋の損壊、橋の崩落など大きな被害を受けました。
木之内農園は関東出身の木之内さんがおよそ30年前に一人で起こした農園です。
当時阿蘇では珍しかったいちご狩りの観光農園やジャムなどの加工品のアイデアで先進的な農業経営で全国的にも注目されていた農園でした。
昨年の大地震とその後の豪雨の影響で現在も農園は8割が使用できない状況です。
地震から1年、農園を取り巻く現状や 木之内さんの今の思いを伺います。
橋が崩落して先には行けません。
道路は新しく作り直しています。
少し残ったところで畑を耕して、これからジャガイモを植えます。
10ヘクタール近く作っていましたが、8ヘクタールが修復作業に提供していて、農業はごく一部しかできません。
飲料水の水も出なくて農業用水は何時になるか判りません。
水がないのでハウスは全く何も作れない状態です。
橋、道が出来たあと土砂を取り除いて元の畑にする作業があるので、5~6年かかるのではないかと思います。
社員は9人います。(12人いたが辞めた人もいます)
加工場も水が止まっているので12km先から水を毎日汲んできています。
事務所も石垣が崩れて解体しないといけません。
観光のトロッコ列車も止まっています。
今年の梅雨の時期に崩れる可能性もあります。
ハウスが10以上あるが橋の工事のために全部たちのかないといけない。
年間5万人のイチゴ狩りに来て居ましたが今年は全くないです。
農業ボランティアでジャガイモの植え付けをしてもらっていますが、本当にありがたいです。
助けがなければ事業自体が成り立たなくなってしまいます。
地震後、1年は早かったなあと思います。
現場では復旧の入口です。
14日の地震は阿蘇は何にも影響がなかった。
熊本は地震がないといわれていて、前震があった時はこれで地震は終わりだと思っていた。
夜中に本震が来て、陸路が崩れて通れなくて缶詰になりました。
橋が落ちてなければ会社まで5分ですが、会社に来たのは3日目の夕方でして想像を絶する揺れでした。
ベッドにはいつくばっていた感じで揺れが長かったです。
家が滑り落ちているのではないかと思いました。
皆さんには是非懐中電気を枕元に置いておいてもらいたい。
娘の部屋に行くのに物が崩れて居て、何も見えないし、ようやくたどり着いて娘がスマホを握っていたのでその光で2階からようやく降りてこられました。
水槽にウナギを飼っていたが、ありとあらゆるものがめちゃめちゃでした。
懐中電灯を探したが置いてあるところに無かった。
ようやく懐中電灯を探して、集落に行ったが殆ど家がつぶれて居ました。
姪が堀炬燵に隠れたが挟まれていてしまいなんとか助けたが、半年ぐらいは家の中に寝られなかったです。(ワゴン車に寝て居ました)
立野地区の人は大津町の仮設住宅に行ったり親戚にいったりしています。
私も大津町にアパートを借りて居ます。
山にはまだ亀裂が入っていて、地震よりそのあとの集中豪雨で崩れた山の方が多いです。
今年の梅雨で又崩れるのではないかと心配です。
戻ってきたところで水田での仕事がないということもある。
滝野病院があるが100人を超える雇用をもっていたが、ここも閉鎖になっている。
私のところもパートさんの雇用はできなくなった。
若い人は離村の可能性が高いです。
うちは観光農園で規模も大きかったが、今の規模を維持するには他のところには無くて、
他に移る事はできない。
なんとか時間はかかっても立野でやろうと思っているのが会社の方針です。
大学が農学部で子供のころから農場主になりたいと思って現在に至っています。
立野は棚田で外輪山の切れ間に在り、まつぼり風が吹くところで条件のいい場所ではない。
昭和60年ごろは地価の高い時期で場所のいいところには入れなかったので、ここが借りられた。
そして少しずつ大きくなってきた。
私はもともと動植物が大好きでした。
子供時代は川崎にいたので川崎ぜんそくになり、苦しい思いをして、親が引っ越しを決断して町田に行き、周り中山と畑しかなくて、本当にうれしかった。(小学生の頃)
動物を飼うのが好きでしたが、餌の確保に苦労して最終的には自分でお寺の畑を借りて作業して餌を作るようになりました。(小学校5年生の頃から高校まで)
肥料には家のトイレから取り出して利用したりしていましたが、近所から文句を言われたりしました。
34歳のときにあごにがんが出来てリンパに転移していたら長く生きれないといわれて、半分死刑宣告を受けたようなもので、その時若い者たちが家にいてくれて居なかったら100%つぶれて居たし、農業は諦めざるを得なかった。
彼等に何か恩返しをしたいと思って、出資をして取締役になりチームをまとめていけば自分が死んだ後でも続けられるかもしれないと思って、彼等を呼んで会社にしないかと言って、それが有限会社にする大元なんです。
農業はたんぼまで水を引っ張ってくるには何km言う水路が必要で、農道管理もそうだが地域の人たちが共同で守っている。
野焼きもみんなでやっており、野焼きをやめたらブッシュになり阿蘇の景色も見渡せなくなる。
一人ではできないので地域をどういうふうに大切にするかは避けては通れない。
若い後継者が減っているので人材を育成してゆくことも大事です。
無一文から始めて大病したりしてやってきましたが、「危機はチャンス」という言葉がありますが、今度の震災も大きな危機ではあるが、発展的な復興を願っています。
ここは阿蘇の玄関口なので、外輪山を越えないと阿蘇に入れない、立野が唯一の切れ間になっていて通れるところなので、この地区は必ず建て直ると思います。
地域に産業が根付いてないと人も住めないし活気も出てこないので、初めからもう一度作り直せるので、観光農園を作りなおしたいと思っています。
熊本地震から1年、南阿蘇村立野では大規模な土砂崩れが起き、家屋の損壊、橋の崩落など大きな被害を受けました。
木之内農園は関東出身の木之内さんがおよそ30年前に一人で起こした農園です。
当時阿蘇では珍しかったいちご狩りの観光農園やジャムなどの加工品のアイデアで先進的な農業経営で全国的にも注目されていた農園でした。
昨年の大地震とその後の豪雨の影響で現在も農園は8割が使用できない状況です。
地震から1年、農園を取り巻く現状や 木之内さんの今の思いを伺います。
橋が崩落して先には行けません。
道路は新しく作り直しています。
少し残ったところで畑を耕して、これからジャガイモを植えます。
10ヘクタール近く作っていましたが、8ヘクタールが修復作業に提供していて、農業はごく一部しかできません。
飲料水の水も出なくて農業用水は何時になるか判りません。
水がないのでハウスは全く何も作れない状態です。
橋、道が出来たあと土砂を取り除いて元の畑にする作業があるので、5~6年かかるのではないかと思います。
社員は9人います。(12人いたが辞めた人もいます)
加工場も水が止まっているので12km先から水を毎日汲んできています。
事務所も石垣が崩れて解体しないといけません。
観光のトロッコ列車も止まっています。
今年の梅雨の時期に崩れる可能性もあります。
ハウスが10以上あるが橋の工事のために全部たちのかないといけない。
年間5万人のイチゴ狩りに来て居ましたが今年は全くないです。
農業ボランティアでジャガイモの植え付けをしてもらっていますが、本当にありがたいです。
助けがなければ事業自体が成り立たなくなってしまいます。
地震後、1年は早かったなあと思います。
現場では復旧の入口です。
14日の地震は阿蘇は何にも影響がなかった。
熊本は地震がないといわれていて、前震があった時はこれで地震は終わりだと思っていた。
夜中に本震が来て、陸路が崩れて通れなくて缶詰になりました。
橋が落ちてなければ会社まで5分ですが、会社に来たのは3日目の夕方でして想像を絶する揺れでした。
ベッドにはいつくばっていた感じで揺れが長かったです。
家が滑り落ちているのではないかと思いました。
皆さんには是非懐中電気を枕元に置いておいてもらいたい。
娘の部屋に行くのに物が崩れて居て、何も見えないし、ようやくたどり着いて娘がスマホを握っていたのでその光で2階からようやく降りてこられました。
水槽にウナギを飼っていたが、ありとあらゆるものがめちゃめちゃでした。
懐中電灯を探したが置いてあるところに無かった。
ようやく懐中電灯を探して、集落に行ったが殆ど家がつぶれて居ました。
姪が堀炬燵に隠れたが挟まれていてしまいなんとか助けたが、半年ぐらいは家の中に寝られなかったです。(ワゴン車に寝て居ました)
立野地区の人は大津町の仮設住宅に行ったり親戚にいったりしています。
私も大津町にアパートを借りて居ます。
山にはまだ亀裂が入っていて、地震よりそのあとの集中豪雨で崩れた山の方が多いです。
今年の梅雨で又崩れるのではないかと心配です。
戻ってきたところで水田での仕事がないということもある。
滝野病院があるが100人を超える雇用をもっていたが、ここも閉鎖になっている。
私のところもパートさんの雇用はできなくなった。
若い人は離村の可能性が高いです。
うちは観光農園で規模も大きかったが、今の規模を維持するには他のところには無くて、
他に移る事はできない。
なんとか時間はかかっても立野でやろうと思っているのが会社の方針です。
大学が農学部で子供のころから農場主になりたいと思って現在に至っています。
立野は棚田で外輪山の切れ間に在り、まつぼり風が吹くところで条件のいい場所ではない。
昭和60年ごろは地価の高い時期で場所のいいところには入れなかったので、ここが借りられた。
そして少しずつ大きくなってきた。
私はもともと動植物が大好きでした。
子供時代は川崎にいたので川崎ぜんそくになり、苦しい思いをして、親が引っ越しを決断して町田に行き、周り中山と畑しかなくて、本当にうれしかった。(小学生の頃)
動物を飼うのが好きでしたが、餌の確保に苦労して最終的には自分でお寺の畑を借りて作業して餌を作るようになりました。(小学校5年生の頃から高校まで)
肥料には家のトイレから取り出して利用したりしていましたが、近所から文句を言われたりしました。
34歳のときにあごにがんが出来てリンパに転移していたら長く生きれないといわれて、半分死刑宣告を受けたようなもので、その時若い者たちが家にいてくれて居なかったら100%つぶれて居たし、農業は諦めざるを得なかった。
彼等に何か恩返しをしたいと思って、出資をして取締役になりチームをまとめていけば自分が死んだ後でも続けられるかもしれないと思って、彼等を呼んで会社にしないかと言って、それが有限会社にする大元なんです。
農業はたんぼまで水を引っ張ってくるには何km言う水路が必要で、農道管理もそうだが地域の人たちが共同で守っている。
野焼きもみんなでやっており、野焼きをやめたらブッシュになり阿蘇の景色も見渡せなくなる。
一人ではできないので地域をどういうふうに大切にするかは避けては通れない。
若い後継者が減っているので人材を育成してゆくことも大事です。
無一文から始めて大病したりしてやってきましたが、「危機はチャンス」という言葉がありますが、今度の震災も大きな危機ではあるが、発展的な復興を願っています。
ここは阿蘇の玄関口なので、外輪山を越えないと阿蘇に入れない、立野が唯一の切れ間になっていて通れるところなので、この地区は必ず建て直ると思います。
地域に産業が根付いてないと人も住めないし活気も出てこないので、初めからもう一度作り直せるので、観光農園を作りなおしたいと思っています。
2017年4月13日木曜日
吉村孝司(天草エアライン社長) ・たった1機の航空会社
吉村孝司(天草エアライン社長) ・たった1機の航空会社
天草エアラインは所有する旅客機が1機と言う航空会社です。
熊本県天草空港と、熊本、福岡、大阪の間を一日10便が運航しています。
社長の吉村さんは62歳、日本航空で主に営業を担当し、20014年天草エアラインの社長に就任しました。
社長自らが搭乗前の手荷物検査、機体の清掃などを担当するなど社員全員が出来ることを何でも担当するという社風で逆境を乗り切って来ました。
1年前、熊本地震が起きた時には臨時便を運行するなどして、地域の足としての役割を果たしました。
小さな航空会社の経営をどうかじ取りし、大手航空会社にはないサービスを展開しているのか伺いました。
最新型の飛行機、「ATR42」フランスとイタリアの合弁会社の飛行機で日本で初めて導入、音も静かです。(プロペラ機)
1200m~2800mぐらいの低い高度で飛ぶので眺めがいいです、
天草空港がベースで10便飛行して居ます。(天草、福岡、熊本、大阪)
天草空港は午後8時30分までなので、それを超えると入れないので最悪欠航となることもあります。
就航率は過去5年間95%は就航しています。(大手とは引けを取らない)
安全が第一だがお客さんが定時に出発できるように皆が心がけています。
熊本地震から1年になるが、その時熊本市にいて吃驚しました。
2回目の地震の時に熊本空港が閉鎖になり、新幹線も止まってしまい、天草空港は使えたので、天草と福岡を飛び続け臨時便も出したりしました。
交通網が遮断した時に我々の飛行機はずいぶん役に立ったと思います。
熊本県と天草西町で80%ぐらいの出資比率で、残りが天草の民間企業と言うことになります。
天草は島なので不便さを解消しようと言うことで設立されました。
天草は医療施設が沢山ありますが、医者の数が不足していて、天草以外の所から来るときに飛行機を使って通勤代わりに使っている人が30名ぐらいいます。
命の翼と言われていて、そういった関係で毎日運航できるようにしています。
コスト削減のために最低限の社員しかいないので、手伝いすると云うことで私を含めて営業の人達などもヘルプする体制になっています。
手作り機内誌もコストをかけないでお客さんに喜んでもらうというコンセプトで作られました。
一人何役もこなすが、コスト削減と大手航空会社にはない温かみのあるサービスをコンセプトにやっています。
私は日本航空に40年近くいました。
一番長いのは営業です。(旅行代理店との団体営業が主)
日本航空は2010年に経営破たんしたが、その時は鹿児島支店長でしたがびっくりしました。
飛行機は飛ばさなければいけないので、従来通り一生懸命やらないといけないという記憶があります。
去って行く従業員がいて心が痛みました。
2014年に社長に就任することになりました。
前社長もJALのOBで、退任すると云うことで後任にどうかという話があり、そういういきさつで受けることになりました。
どんな会社かということはあまり判りませんでした。
天草エアラインに乗ってみて経験したことのないほっこり感を感じました。
2008年ごろ会社そのものが経営危機に見舞われた。(まだ私が会社に入る前)
リーマンショック、東日本大震災がありお客さんが低迷した時期でした。
債務超過に陥る時期でした。
整備費用がかかるので補助をいただく事と、お客様も増えてきて利益が出るようになりました。
前任者の社長が社長室をぶっ壊してみんなと同じように坐って、コミュニケーションを図ったり、機体の掃除も社長も参画してみんなでやるようになった。(危機感の共通化)
16年前にたちあがった会社で、当時からのスタッフが殆どです。
2009年以降決算が黒字になっています。
市をあげてサンタの街ということで年間を通してイベントをやっているので、クリスマスにサンタの恰好をしてもらっていただけると3000円と破格の割り引き運賃を導入したりしました。(一カ月間座席のコントロールもしながら)
かなりのお客様に利用していただいて大成功でした。
マスコミにも取り上げられ集客につながりました。
ANSB(天草をなんとかせねばいかんばい)という組織を作って、いろんな人がアイデアを出したものを吟味して、その活動で色んな事をやっています。
梅雨の時期に黒い傘を使うが、レインボウカラーにした方がいいと言う事で導入したり、そういった積み重ねで、お客さんが喜んでもらえるようにしています。
あっという間の40年でした。
高校時代に或る放送会社で1か月の派遣の話がありヨーロッパに行く機会があり、見るもの触るものすべて初めてで、心に残って世界と一緒に関わっていきたいとJALに入りました。
天草に来てここはパイロットも客室乗務員も整備、営業、総務もオペレーションも全て同じところにいるので、航空会社にいるんだなと、ここに来てよかったなあと思います。
事業を拡大することは難しく、いかに一機を大事に飛ばしてゆくかと言うことと、費用は決まっているのでいかに収入を増やしてゆくかを考えていかないといけないと思う。
高齢化で年々人口が減っていくのでお客様を増やしてゆくのは厳しいが、天草以外の方々を呼び込むしかないと思う。
外国の方はあまり見かけないので、天草にも外国の方を呼び込むための企画商品、外国人が来やすい様にやっていきたいと思います。
天草エアラインは所有する旅客機が1機と言う航空会社です。
熊本県天草空港と、熊本、福岡、大阪の間を一日10便が運航しています。
社長の吉村さんは62歳、日本航空で主に営業を担当し、20014年天草エアラインの社長に就任しました。
社長自らが搭乗前の手荷物検査、機体の清掃などを担当するなど社員全員が出来ることを何でも担当するという社風で逆境を乗り切って来ました。
1年前、熊本地震が起きた時には臨時便を運行するなどして、地域の足としての役割を果たしました。
小さな航空会社の経営をどうかじ取りし、大手航空会社にはないサービスを展開しているのか伺いました。
最新型の飛行機、「ATR42」フランスとイタリアの合弁会社の飛行機で日本で初めて導入、音も静かです。(プロペラ機)
1200m~2800mぐらいの低い高度で飛ぶので眺めがいいです、
天草空港がベースで10便飛行して居ます。(天草、福岡、熊本、大阪)
天草空港は午後8時30分までなので、それを超えると入れないので最悪欠航となることもあります。
就航率は過去5年間95%は就航しています。(大手とは引けを取らない)
安全が第一だがお客さんが定時に出発できるように皆が心がけています。
熊本地震から1年になるが、その時熊本市にいて吃驚しました。
2回目の地震の時に熊本空港が閉鎖になり、新幹線も止まってしまい、天草空港は使えたので、天草と福岡を飛び続け臨時便も出したりしました。
交通網が遮断した時に我々の飛行機はずいぶん役に立ったと思います。
熊本県と天草西町で80%ぐらいの出資比率で、残りが天草の民間企業と言うことになります。
天草は島なので不便さを解消しようと言うことで設立されました。
天草は医療施設が沢山ありますが、医者の数が不足していて、天草以外の所から来るときに飛行機を使って通勤代わりに使っている人が30名ぐらいいます。
命の翼と言われていて、そういった関係で毎日運航できるようにしています。
コスト削減のために最低限の社員しかいないので、手伝いすると云うことで私を含めて営業の人達などもヘルプする体制になっています。
手作り機内誌もコストをかけないでお客さんに喜んでもらうというコンセプトで作られました。
一人何役もこなすが、コスト削減と大手航空会社にはない温かみのあるサービスをコンセプトにやっています。
私は日本航空に40年近くいました。
一番長いのは営業です。(旅行代理店との団体営業が主)
日本航空は2010年に経営破たんしたが、その時は鹿児島支店長でしたがびっくりしました。
飛行機は飛ばさなければいけないので、従来通り一生懸命やらないといけないという記憶があります。
去って行く従業員がいて心が痛みました。
2014年に社長に就任することになりました。
前社長もJALのOBで、退任すると云うことで後任にどうかという話があり、そういういきさつで受けることになりました。
どんな会社かということはあまり判りませんでした。
天草エアラインに乗ってみて経験したことのないほっこり感を感じました。
2008年ごろ会社そのものが経営危機に見舞われた。(まだ私が会社に入る前)
リーマンショック、東日本大震災がありお客さんが低迷した時期でした。
債務超過に陥る時期でした。
整備費用がかかるので補助をいただく事と、お客様も増えてきて利益が出るようになりました。
前任者の社長が社長室をぶっ壊してみんなと同じように坐って、コミュニケーションを図ったり、機体の掃除も社長も参画してみんなでやるようになった。(危機感の共通化)
16年前にたちあがった会社で、当時からのスタッフが殆どです。
2009年以降決算が黒字になっています。
市をあげてサンタの街ということで年間を通してイベントをやっているので、クリスマスにサンタの恰好をしてもらっていただけると3000円と破格の割り引き運賃を導入したりしました。(一カ月間座席のコントロールもしながら)
かなりのお客様に利用していただいて大成功でした。
マスコミにも取り上げられ集客につながりました。
ANSB(天草をなんとかせねばいかんばい)という組織を作って、いろんな人がアイデアを出したものを吟味して、その活動で色んな事をやっています。
梅雨の時期に黒い傘を使うが、レインボウカラーにした方がいいと言う事で導入したり、そういった積み重ねで、お客さんが喜んでもらえるようにしています。
あっという間の40年でした。
高校時代に或る放送会社で1か月の派遣の話がありヨーロッパに行く機会があり、見るもの触るものすべて初めてで、心に残って世界と一緒に関わっていきたいとJALに入りました。
天草に来てここはパイロットも客室乗務員も整備、営業、総務もオペレーションも全て同じところにいるので、航空会社にいるんだなと、ここに来てよかったなあと思います。
事業を拡大することは難しく、いかに一機を大事に飛ばしてゆくかと言うことと、費用は決まっているのでいかに収入を増やしてゆくかを考えていかないといけないと思う。
高齢化で年々人口が減っていくのでお客様を増やしてゆくのは厳しいが、天草以外の方々を呼び込むしかないと思う。
外国の方はあまり見かけないので、天草にも外国の方を呼び込むための企画商品、外国人が来やすい様にやっていきたいと思います。
2017年4月12日水曜日
早川由美子(ドキュメンタリー映画監督) ・輝くインドの女性たち
早川由美子(ドキュメンタリー映画監督) ・輝くインドの女性たち
フリーの映画監督早川さんは一昨年、インド、デリーのアジア女性映画祭から招待を受け、その時のインド紀行を2週間の旅日記として製作しました。
現在日本国内各地で上映展開しているこの映画はアジア各国の懸命に生きる女性の姿が生き生きと映し出され映像を生かして自国の難しい状況を必死に伝えようとする女性映画監督の迫力が画面に浮かびあがっています。
早川監督が感じたアジアの女性たちのパワフルな底力はもの言う機会のなかった女性たちが新たな手段として映像を記録、国や地域に訴え社会を変えて行く姿が具体的に判ります。
ストレートに国情を訴える女性の姿と早川さんの受け留め方をお聞きします。
ビデオカメラが段々小型化して、パソコンで編集ができるようになったので女性も段々進出してきました。
映像の凄さに感動して、ビデオカメラで表現したいと思うようになりました。
ティッシュペーパーを配るアルバイトをしていてホームレスの人たちと仲良くなっていて、女性が一生安定して働くには公務員しかないといわれて、郵便局員として働いていました。
駅、公園のベンチのまん中にひじかけがついていて、野宿者を寝かせないためにつけて居るのではないかと思って、凄く厭だと思って、街中から坐ったり、たむろすることに違和感を感じてそのことを取材始めました。(まだ勤めて居る頃)
それを記事にしましたが、何処も載せてくれる媒体はありませんでした。
あるインターネットのサイトが始まって、そこに記事を投稿したら思わぬ反響がありました。
ホームレスは自己責任だ、椅子を占領する方が悪いとか、そういったコメントであふれて居て世の中にはこんなふうに思う人がいるのだと吃驚しました。
この記事に関してTV局から4日間取材されて10時間撮影されて、最終的に放送されたのは3分ぐらいでした。
それを見たときに、表現される世界の情報量の多さと豊かさに圧倒されて私も映像をやってみたいと思うようになりました。
ジャーナリストになりたいと思うようになり、5万円のホームビデオを買ってイギリスに留学しました。
ロンドンの国会の前にテントの群れが並んでいるのが見えた。
イギリスは 国会の前にホームレスがいると思ったら、政府の戦争に反対して抗議活動をしているんだと言われた。
それを記録し始めました。(第一歩でした)
2009年に映画を完成させて日本ジャーナリスト新人賞に応募したら選ばれました。
当時、インターネットに動画を投稿することがはやり始めた時期でもありました。
小さい作品を80品ぐらい作って学んでいきました。
7~8品 原発で家族が崩壊してゆく家庭、公団住宅の問題などの作品を作る。
私は社会運動とか、デモとか何もしていなかったが、映画の上映を通じて社会問題に取り組んでいる人が呼んでくれて、あらゆる社会問題に触れるきっかけになりました。
日本の社会運動を見たときに高齢の方が多い、平和運動でも安保運動での人たちが頑張っている。
若い人の関心はなく日本の高齢化を思いました、、貧困、労働問題でもそうでした。
若い人たちには生活に余裕がなくて、無理だと云うことが判り、住まいの事が何とかなればもっと社会問題の関心も持つのではないかと思うようになりました。
わたしのなかでは住宅が大事なテーマになっています。
一昨年、インドの映画祭。
知り合いに日本駐在のインド大使を紹介してもらって、インド大使は女性だった。
「インドで活躍する女性達」という本を頂いて、面白そうな女性達の事を知りました。
そしてインドに行って、行き当たりばったりの取材をしました。
デリーからアーメダバードという都市に行きました。(ガンジーが育ったところ)
女性の日雇い、露天商とかの労働者が、自分たちの生活、地位を向上させるために組合を作り、銀行、学校作って組織を回している事を知って、会員が200万人がいて40年活動しているとのことでいきました。
文字が書けない読めない人がたくさんいる、担保を持っていないのでお金を借りれない。
高利貸から借りるしかなくて、一生を縛られてしまうので、自分たちで銀行を作ることにする。
文字が読めないのに、40歳から映像制作する人などもいてとてもパワフルです。
自分に自信を持てるようになったと言っています。
映画作りを始めて10年以上になるが原点をみるような思いをしました。
インドの映画作りをやっている人は一般的にエリートが多い。
彼女たちのドキュメンタリー映画は社会を変えて行く武器として使っているという側面が多いと思います。
住居、健康、雇用、暴力、など色んな事を取り込んでみんなに知ってほしいと出してゆく。
「アジア女性映画祭」と云う名前なのでアジアに起源をもつ女性監督の映画が上映されている。
ヨーロッパに亡命している人の作品も上映されていました。
イランの監督とかはスカーフをかぶっていないといけないが、スカーフをかぶらないで出演したので、国に帰った時に政府から引きとめられるかもしれない、政府から助成金が貰えないかもしれないと言っていました。
インドの監督、農地が強制的に取り上げられたり、工場汚水が垂れ流しになり農地が荒れてしまったとか問題が起きているが、そういったことが報道されるのはまれです。
しかし彼女は10年かけて取材して映画にしました。
彼女は暴行を受けて腕を折られて、逮捕されて裁判も開かれないで有罪になって服役して刑務所から出てきて映画を完成させたと言っていました。
カースト制度は法律では禁止となっているが、社会には根付いていて無くすのは難しい状況です。
彼女たちには激しい戦いですが、それが彼女たちが戦う気を起こさせているのかもしれません。
日本でもいろいろ社会の問題はあるが、TV、新聞で取り上げるのはほんの一部で、限度があり、状況を変えたいと思うなら、自分たちで撮って行くのがいいのではないかと思います。
彼女らに見習うべきだと思います。
技術ではないんだよと言っています。
今は撮ったものを瞬時に誰のチェックも受けず、世界に発信されてしまうので、トラブルをどう考えるか、いろいろ問題があると思いますが、そういったことをディスカッションしています。
言いたいことがあって何かを表現している人と接していると、私はこういうふうに生きて居るの、あなたはどうやって生きて居るのと、自分の生き方を問われ続けていると思うので、それが自分の人生をより考えさせてくれるきっかけを与えてくれたし、豊かにしてくれていると思うので、その体験はいろんな人にして欲しいと思っています。
フリーの映画監督早川さんは一昨年、インド、デリーのアジア女性映画祭から招待を受け、その時のインド紀行を2週間の旅日記として製作しました。
現在日本国内各地で上映展開しているこの映画はアジア各国の懸命に生きる女性の姿が生き生きと映し出され映像を生かして自国の難しい状況を必死に伝えようとする女性映画監督の迫力が画面に浮かびあがっています。
早川監督が感じたアジアの女性たちのパワフルな底力はもの言う機会のなかった女性たちが新たな手段として映像を記録、国や地域に訴え社会を変えて行く姿が具体的に判ります。
ストレートに国情を訴える女性の姿と早川さんの受け留め方をお聞きします。
ビデオカメラが段々小型化して、パソコンで編集ができるようになったので女性も段々進出してきました。
映像の凄さに感動して、ビデオカメラで表現したいと思うようになりました。
ティッシュペーパーを配るアルバイトをしていてホームレスの人たちと仲良くなっていて、女性が一生安定して働くには公務員しかないといわれて、郵便局員として働いていました。
駅、公園のベンチのまん中にひじかけがついていて、野宿者を寝かせないためにつけて居るのではないかと思って、凄く厭だと思って、街中から坐ったり、たむろすることに違和感を感じてそのことを取材始めました。(まだ勤めて居る頃)
それを記事にしましたが、何処も載せてくれる媒体はありませんでした。
あるインターネットのサイトが始まって、そこに記事を投稿したら思わぬ反響がありました。
ホームレスは自己責任だ、椅子を占領する方が悪いとか、そういったコメントであふれて居て世の中にはこんなふうに思う人がいるのだと吃驚しました。
この記事に関してTV局から4日間取材されて10時間撮影されて、最終的に放送されたのは3分ぐらいでした。
それを見たときに、表現される世界の情報量の多さと豊かさに圧倒されて私も映像をやってみたいと思うようになりました。
ジャーナリストになりたいと思うようになり、5万円のホームビデオを買ってイギリスに留学しました。
ロンドンの国会の前にテントの群れが並んでいるのが見えた。
イギリスは 国会の前にホームレスがいると思ったら、政府の戦争に反対して抗議活動をしているんだと言われた。
それを記録し始めました。(第一歩でした)
2009年に映画を完成させて日本ジャーナリスト新人賞に応募したら選ばれました。
当時、インターネットに動画を投稿することがはやり始めた時期でもありました。
小さい作品を80品ぐらい作って学んでいきました。
7~8品 原発で家族が崩壊してゆく家庭、公団住宅の問題などの作品を作る。
私は社会運動とか、デモとか何もしていなかったが、映画の上映を通じて社会問題に取り組んでいる人が呼んでくれて、あらゆる社会問題に触れるきっかけになりました。
日本の社会運動を見たときに高齢の方が多い、平和運動でも安保運動での人たちが頑張っている。
若い人の関心はなく日本の高齢化を思いました、、貧困、労働問題でもそうでした。
若い人たちには生活に余裕がなくて、無理だと云うことが判り、住まいの事が何とかなればもっと社会問題の関心も持つのではないかと思うようになりました。
わたしのなかでは住宅が大事なテーマになっています。
一昨年、インドの映画祭。
知り合いに日本駐在のインド大使を紹介してもらって、インド大使は女性だった。
「インドで活躍する女性達」という本を頂いて、面白そうな女性達の事を知りました。
そしてインドに行って、行き当たりばったりの取材をしました。
デリーからアーメダバードという都市に行きました。(ガンジーが育ったところ)
女性の日雇い、露天商とかの労働者が、自分たちの生活、地位を向上させるために組合を作り、銀行、学校作って組織を回している事を知って、会員が200万人がいて40年活動しているとのことでいきました。
文字が書けない読めない人がたくさんいる、担保を持っていないのでお金を借りれない。
高利貸から借りるしかなくて、一生を縛られてしまうので、自分たちで銀行を作ることにする。
文字が読めないのに、40歳から映像制作する人などもいてとてもパワフルです。
自分に自信を持てるようになったと言っています。
映画作りを始めて10年以上になるが原点をみるような思いをしました。
インドの映画作りをやっている人は一般的にエリートが多い。
彼女たちのドキュメンタリー映画は社会を変えて行く武器として使っているという側面が多いと思います。
住居、健康、雇用、暴力、など色んな事を取り込んでみんなに知ってほしいと出してゆく。
「アジア女性映画祭」と云う名前なのでアジアに起源をもつ女性監督の映画が上映されている。
ヨーロッパに亡命している人の作品も上映されていました。
イランの監督とかはスカーフをかぶっていないといけないが、スカーフをかぶらないで出演したので、国に帰った時に政府から引きとめられるかもしれない、政府から助成金が貰えないかもしれないと言っていました。
インドの監督、農地が強制的に取り上げられたり、工場汚水が垂れ流しになり農地が荒れてしまったとか問題が起きているが、そういったことが報道されるのはまれです。
しかし彼女は10年かけて取材して映画にしました。
彼女は暴行を受けて腕を折られて、逮捕されて裁判も開かれないで有罪になって服役して刑務所から出てきて映画を完成させたと言っていました。
カースト制度は法律では禁止となっているが、社会には根付いていて無くすのは難しい状況です。
彼女たちには激しい戦いですが、それが彼女たちが戦う気を起こさせているのかもしれません。
日本でもいろいろ社会の問題はあるが、TV、新聞で取り上げるのはほんの一部で、限度があり、状況を変えたいと思うなら、自分たちで撮って行くのがいいのではないかと思います。
彼女らに見習うべきだと思います。
技術ではないんだよと言っています。
今は撮ったものを瞬時に誰のチェックも受けず、世界に発信されてしまうので、トラブルをどう考えるか、いろいろ問題があると思いますが、そういったことをディスカッションしています。
言いたいことがあって何かを表現している人と接していると、私はこういうふうに生きて居るの、あなたはどうやって生きて居るのと、自分の生き方を問われ続けていると思うので、それが自分の人生をより考えさせてくれるきっかけを与えてくれたし、豊かにしてくれていると思うので、その体験はいろんな人にして欲しいと思っています。
2017年4月11日火曜日
中野慶(児童読み物作家) ・ヒロシマの意味を問い続けて
中野慶(児童読み物作家) ・ヒロシマの意味を問い続けて
東京都生まれ59歳 1976年に原水爆禁止運動で被爆者と出会った事から反核運動に参加、出版社で編集者として働きながら、被爆体験の聞き取りを続けて来ました。
アトピー性皮膚炎で苦しんだ自身の体験から被爆者のかゆみに着目し、かゆみを通して被爆者の苦しみに向き合う中学生を描いた児童文学「やんばる君」を執筆するなど、独自の視点から独自の被爆体験を残そうとしています。
中野さんがプロ野球広島カープの新井選手の歩みを絵本にまとめました。
広島にかかわる深いメッセージが込められています。
年々継承が困難になっていると言われる被爆体験を次の世代にどう繋いでいくかお聞きしました。
新井選手は25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
今年40歳の大ベテランでカープの中心選手。
小学校3年生の時の新井選手に光を当てて、1985年の物語としてこの本は始まっています。
人間的な魅力、素晴らしいひたむきな人柄を子供からお年寄りまでお伝えしたいと思いました。
野球を中心に新井選手の成長物語を書いていますが、脇役が二人登場して、ブツエン先生と「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんです。
中沢さん自身被爆者で原爆でお父さんと、兄弟二人を亡くされています。
この本では中沢さんのもう二度と原爆を繰り返して欲しくないという強い思いを若い世代にブツエン先生と、新井選手が受け止めて行くことが書かれています。
被曝の苦しみと貧しさにも負けずに生きてきた広島の皆さんにとっては広島カープは市民球団で心のよりどころになっています。
25年ぶりの優勝を喜ぶファンの皆さんの心の奥には苦しかった時代の思い出がいつも離れない。
新井選手の成長物語と25年ぶりの優勝を祝っていただける喜んで頂ける内容となっています。
新井さんは放課後遅くまで「はだしのゲン」の本を全巻読んだそうです。
被爆者の戦後の苦しみが並大抵ではなかった、肉親を奪われ食べるもの住む家がない中で人生を歩まざるを得なかった。
踏まれれば踏まれるほど強く生きて行く、ひたむきで強い姿は新井さんが子供時代に「はだしのゲン」に出会った事に深く影響されていると思います。
中沢さんは広島カープ誕生から熱狂的なファンです。
中沢さんは新井選手をずーっと応援してきました。
私は子供時代は東京で育って身近に被爆者はいませんでした。
初めて被爆者の証言に耳を傾けたのは1976年大学1年生の時でした。
悲惨さ地獄絵のようなことに信じられない思いでした。
8月6日、9日は重要な事ではありますが、被爆者であるがゆえに仕事に出会えない、結婚に反対されるとか、さまざま差別を受けたと云う事を含めて、多くの苦しみ悲しみがあったということに目を向けていきたいと思うようになりました。
少しでも理解したいと思いました。
被爆者の証言する機会があると思うと積極的に動いて聞き取り調査をしていきました。
1対1の証言では50人を超えたと思います。
複数を対象にしたことを含めれば100人は超えています。
1985年行宗一さんらと話をしたときに、「皆さんたちは私たち被爆者をカンパを届ける対象としていつまでも見ないでください、このようにお酒を飲んだり、話したり人間同士の付き合いをして行きましょう」と言われた時はハッとしました。
カンパをしなくてはいけないと感じましたが、お金の面だけではなくてもっと一人ひとりの被爆者に人間として向き合ってゆく、親しくなってゆく事が大事だと云う事を強く感じる様になりました。
その2年前に、1983年に肥田舜太郎先生、医者で被爆者でもある方で、先日100歳で亡くなられました。
医師として広島で被爆者と向き合っていたときに、被爆者の数人の方がケロイドの個所を猛烈にかゆがってつらそうにしている、そういうエピソードを話されて、私にとって吃驚仰天するような話だったんです。
私は子供の時からアトピー性皮膚炎で苦しんで来ました。
被爆者は自分とはまったく違う世界に住んでいると思っていたが、かゆみの苦痛をしている被爆者がいたんだと云うことで被爆者との距離が近づいた様に思います。
「やんばる君」 2000年に書いている、被爆者のかゆみについて書いています。
1995年 中学校1年生が主人公でアトピー性皮膚炎でかゆみに苦しんでいる少年。
ヤンバルクイナにちなんだ少年のニックネーム
彼は夏休みの自由研究で沖縄に行きたかったが、広島の事にテーマを切り替え、被爆者のかゆみの問題に直面して、その少年が被爆者から聞き取って行く、自分の皮膚感覚と通じ合う被爆者の苦しみから学び取ってゆくということはまさに私が感じ取ったことです。
被爆者はケロイドの痒さを大げさにはしないが、何故だろうと思い、かゆみも苦痛だったろうけれども、8月6日の広島でおびただしい人が亡くなって行く、助けることもできない。
その後の差別などの苦しみにも直面して行く、結果としてかゆみの苦痛はより相対的にちいさな事になってしまった。
自分自身が感じ取ったことを変形しながら書いたものです。
本当のところを感じ取ってくれたのは大人の方が多かったです。
編集者の仕事が忙しくて夜中までやっていましたが、その上に自分の本を出すということは困難な事でしたが、無名な人がひたむきに生きてきたことがとても大事だという人生観を持って来たので、歴史を動かすのは無名な民衆であるということを信じてきたものです。
若い世代に被爆体験を問い続ける本を何冊も書いてきました。
爆心地から2km離れた広島の或る地域に25回ぐらい通って、そこは被爆に苦しむ人が多くて、60人ぐらいの人から3年数か月かけて聞き取りをして、その町の戦後史を聞き取る中で本名で本を出す事が出来ました。
人間を見る目がすこしづつ豊かになったかなと思っています。
一人ひとりが人間として何に向き合ってきたのか、人に語らずに墓場にもっていきたいと言う思いの人もいれば、胸に秘めてきたことを私に語ってくれる人もいます。
かけがえのない出会いを出来たと思います。
被爆体験はつらく重たいことなので被爆者から2世、3世に伝わって行く事は難しい。
被爆者は高齢になってしまったが、なんとか証言を続けている方が多いが、専門家としてデジタルアーカイブの様な形で世界に発信していることもあり、広島に関心を持ってくれる条件はあると思います。
長い時間の流れの中で被爆者がどう生きて来たのかとか、どのような喜び悲しみ苦しみ辛さがあったのかと言うことをしっかり聞きとろうとしてきました。
原爆の被害によって人生が変えられてしまった人たちをトータルにとらえなおすことが必要ではないかと思います。
大多数の被爆者は有名ではないし、広島長崎に暮らしていた庶民として被爆と言うすさまじい体験をして、それを乗り越えて生きたという事は、庶民の歴史でありながら世界史そのものに足跡を刻んできた。
語り口は淡々としているが何度聞き直しても重たいものを持っているし、自分自身を奮起させてくれるようなものを持っていると思います。
自分はまだ被爆者の苦しみを本当に理解出来て居ない、被爆者の苦しみの本当のところをつかみとっていきたいと人一倍強かったが、被爆者の苦しみに寄り添う形で生きてきて、それが宝物だったように思います。
東京都生まれ59歳 1976年に原水爆禁止運動で被爆者と出会った事から反核運動に参加、出版社で編集者として働きながら、被爆体験の聞き取りを続けて来ました。
アトピー性皮膚炎で苦しんだ自身の体験から被爆者のかゆみに着目し、かゆみを通して被爆者の苦しみに向き合う中学生を描いた児童文学「やんばる君」を執筆するなど、独自の視点から独自の被爆体験を残そうとしています。
中野さんがプロ野球広島カープの新井選手の歩みを絵本にまとめました。
広島にかかわる深いメッセージが込められています。
年々継承が困難になっていると言われる被爆体験を次の世代にどう繋いでいくかお聞きしました。
新井選手は25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
今年40歳の大ベテランでカープの中心選手。
小学校3年生の時の新井選手に光を当てて、1985年の物語としてこの本は始まっています。
人間的な魅力、素晴らしいひたむきな人柄を子供からお年寄りまでお伝えしたいと思いました。
野球を中心に新井選手の成長物語を書いていますが、脇役が二人登場して、ブツエン先生と「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんです。
中沢さん自身被爆者で原爆でお父さんと、兄弟二人を亡くされています。
この本では中沢さんのもう二度と原爆を繰り返して欲しくないという強い思いを若い世代にブツエン先生と、新井選手が受け止めて行くことが書かれています。
被曝の苦しみと貧しさにも負けずに生きてきた広島の皆さんにとっては広島カープは市民球団で心のよりどころになっています。
25年ぶりの優勝を喜ぶファンの皆さんの心の奥には苦しかった時代の思い出がいつも離れない。
新井選手の成長物語と25年ぶりの優勝を祝っていただける喜んで頂ける内容となっています。
新井さんは放課後遅くまで「はだしのゲン」の本を全巻読んだそうです。
被爆者の戦後の苦しみが並大抵ではなかった、肉親を奪われ食べるもの住む家がない中で人生を歩まざるを得なかった。
踏まれれば踏まれるほど強く生きて行く、ひたむきで強い姿は新井さんが子供時代に「はだしのゲン」に出会った事に深く影響されていると思います。
中沢さんは広島カープ誕生から熱狂的なファンです。
中沢さんは新井選手をずーっと応援してきました。
私は子供時代は東京で育って身近に被爆者はいませんでした。
初めて被爆者の証言に耳を傾けたのは1976年大学1年生の時でした。
悲惨さ地獄絵のようなことに信じられない思いでした。
8月6日、9日は重要な事ではありますが、被爆者であるがゆえに仕事に出会えない、結婚に反対されるとか、さまざま差別を受けたと云う事を含めて、多くの苦しみ悲しみがあったということに目を向けていきたいと思うようになりました。
少しでも理解したいと思いました。
被爆者の証言する機会があると思うと積極的に動いて聞き取り調査をしていきました。
1対1の証言では50人を超えたと思います。
複数を対象にしたことを含めれば100人は超えています。
1985年行宗一さんらと話をしたときに、「皆さんたちは私たち被爆者をカンパを届ける対象としていつまでも見ないでください、このようにお酒を飲んだり、話したり人間同士の付き合いをして行きましょう」と言われた時はハッとしました。
カンパをしなくてはいけないと感じましたが、お金の面だけではなくてもっと一人ひとりの被爆者に人間として向き合ってゆく、親しくなってゆく事が大事だと云う事を強く感じる様になりました。
その2年前に、1983年に肥田舜太郎先生、医者で被爆者でもある方で、先日100歳で亡くなられました。
医師として広島で被爆者と向き合っていたときに、被爆者の数人の方がケロイドの個所を猛烈にかゆがってつらそうにしている、そういうエピソードを話されて、私にとって吃驚仰天するような話だったんです。
私は子供の時からアトピー性皮膚炎で苦しんで来ました。
被爆者は自分とはまったく違う世界に住んでいると思っていたが、かゆみの苦痛をしている被爆者がいたんだと云うことで被爆者との距離が近づいた様に思います。
「やんばる君」 2000年に書いている、被爆者のかゆみについて書いています。
1995年 中学校1年生が主人公でアトピー性皮膚炎でかゆみに苦しんでいる少年。
ヤンバルクイナにちなんだ少年のニックネーム
彼は夏休みの自由研究で沖縄に行きたかったが、広島の事にテーマを切り替え、被爆者のかゆみの問題に直面して、その少年が被爆者から聞き取って行く、自分の皮膚感覚と通じ合う被爆者の苦しみから学び取ってゆくということはまさに私が感じ取ったことです。
被爆者はケロイドの痒さを大げさにはしないが、何故だろうと思い、かゆみも苦痛だったろうけれども、8月6日の広島でおびただしい人が亡くなって行く、助けることもできない。
その後の差別などの苦しみにも直面して行く、結果としてかゆみの苦痛はより相対的にちいさな事になってしまった。
自分自身が感じ取ったことを変形しながら書いたものです。
本当のところを感じ取ってくれたのは大人の方が多かったです。
編集者の仕事が忙しくて夜中までやっていましたが、その上に自分の本を出すということは困難な事でしたが、無名な人がひたむきに生きてきたことがとても大事だという人生観を持って来たので、歴史を動かすのは無名な民衆であるということを信じてきたものです。
若い世代に被爆体験を問い続ける本を何冊も書いてきました。
爆心地から2km離れた広島の或る地域に25回ぐらい通って、そこは被爆に苦しむ人が多くて、60人ぐらいの人から3年数か月かけて聞き取りをして、その町の戦後史を聞き取る中で本名で本を出す事が出来ました。
人間を見る目がすこしづつ豊かになったかなと思っています。
一人ひとりが人間として何に向き合ってきたのか、人に語らずに墓場にもっていきたいと言う思いの人もいれば、胸に秘めてきたことを私に語ってくれる人もいます。
かけがえのない出会いを出来たと思います。
被爆体験はつらく重たいことなので被爆者から2世、3世に伝わって行く事は難しい。
被爆者は高齢になってしまったが、なんとか証言を続けている方が多いが、専門家としてデジタルアーカイブの様な形で世界に発信していることもあり、広島に関心を持ってくれる条件はあると思います。
長い時間の流れの中で被爆者がどう生きて来たのかとか、どのような喜び悲しみ苦しみ辛さがあったのかと言うことをしっかり聞きとろうとしてきました。
原爆の被害によって人生が変えられてしまった人たちをトータルにとらえなおすことが必要ではないかと思います。
大多数の被爆者は有名ではないし、広島長崎に暮らしていた庶民として被爆と言うすさまじい体験をして、それを乗り越えて生きたという事は、庶民の歴史でありながら世界史そのものに足跡を刻んできた。
語り口は淡々としているが何度聞き直しても重たいものを持っているし、自分自身を奮起させてくれるようなものを持っていると思います。
自分はまだ被爆者の苦しみを本当に理解出来て居ない、被爆者の苦しみの本当のところをつかみとっていきたいと人一倍強かったが、被爆者の苦しみに寄り添う形で生きてきて、それが宝物だったように思います。
2017年4月10日月曜日
宇津木妙子(ソフトボール・ドリーム理事長) ・【“2020”に託すもの】
宇津木妙子(NPO法人ソフトボール・ドリーム理事長)・【“2020”に託すもの】
ソフトボールは日本が金メダルを取った2008年の北京オリンピックの後種目からはずれてロンドン、リオでは実施されませんでした。
しかし2020年の東京オリンピックでは野球とともに3大会ぶりに実施されることが決まっています。
2008年ソフトボールで金メダルを取った時には放送席が大変で、放送中ですがおめでとうを周りからの声がありました。
その時は大泣きしてしまいました。
1964年東京オリンピックの時、小学校5年生で、たまたま飯島選手から聖火を頂き、運動会の時に聖火をもってグラウンドを2周走って拍手を貰い、オリンピックと自分がラップしていて、何で私だったんだろうといまだに不思議に思いました。
その頃スポーツは好きでいろいろやっていました。
中学校に入ってスポーツで母に褒めてもらいたいと思って、いろんな部に入ったんですが最後にソフトボールをやるるようになりました。
入ったんですが、先生の指導が厳しかったが、その時のとの出会いは今の指導の中でも生きて居ます。
ソフトボールはそれぞれの個性の良さを出せると先生から言われたことは、誰にでもできる手ごろなスポーツだと思います。
ソフトボールは人生そのものだなあと思います。
ピンチがあり、チャンスがあり、苦しい時に逃げたいと思った時に誰か助けてくれたり、でも最後は自分なんだと、自分でミスしたことを取り消すには自分が頑張らなければいけないと学びました。
ソフトボールは一人ではない、だけれども最後は自分なんだと云う事を学びました。
挨拶、時間厳守など当り前な人間教育をさせてもらったと思います。
高校、企業スポーツでもソフトボールを続けました。(13年間)
オイルショックで会社が厳しい中で続けることも有難さ感謝を学びました。
雑用、トイレ掃除などもやらされてコンプレックスも感じたし、3年頑張って人事異動があり寮生と向き合って人をどうやって生かしたら良いかを学びました。
28歳のときにジュニアのコーチをさせていただいて、埼玉に戻った後コーチをしていたら、昭和60年に監督が決まるまででいいから来てくれと言われて行って、12名の選手のいるチームに行きました。
コーチを引きうけ、31歳でバリバリだったので、先頭切って一緒にやりました。
年末に工場長に呼ばれて監督をやってほしいと言われました。
父からはお前が背中を見せてやっていかなければいけないといわれました。
企業スポーツの経験してきた厳しさについても、父にもいろいろ話したら父も泣きました。
女性は公平に扱わないといけないとか、一人ひとりその中から活かして行く事などいろいろ話す中で、やってゆくことを約束しました。
指導者になったら素の自分をさらけだそうと思って、父の涙から学びました。
チームは3部から上がっていって、日本の3冠をとってしまうまでになりました。
アトランタでソフトボ-ルはオリンピックの正式種目になってその時はコーチとして参加、2000年シドニーでは銀メダルを取ったがその時は監督として、2004年のアテネでは銅メダル、2008年は解説者としてオリンピックに行きました。
アトランタは最強のチームだと思いましたが、船頭が5人いて、組織も悪かったのか選手をうまく使いこなせなかったのが一つの敗因にもなったし、経験不足もあったと思います。
これからは守って守って守り抜いたら勝てるのではないかと思いました。
22名の選手を選んで、各々の性格なども考えたりして、向き合って話し合って指導して行きました。
厳しい練習にみんなよく付いてきました。
2000年シドニーでは銀メダルでした。
決勝では同点となり、投手交代を考えたが出来ず、雨の中で戦う中、アメリカのチームは8回の裏、審判が今までストライクを取っていたのが段々ストライクを取ってくれなくなったとキャッチャーが言ってきて、高山のうえのボールでいいから攻めろと言って、高めのボールをレフトに打たれて、レフトが滑って終わりました。
2008年にも雨が降ってきて、その時の場面は一生忘れられないと思いました。
2000年シドニーでピッチャー交代していれば金メダルは取れたと思っていたので、選手に申し訳ないと今でもいっぱいです。
アメリカは強かったです。
2008年には金メダルを取る。
上野投手の413球の熱闘、上野だったら絶対やってくれると思って、夢を彼女に託しました。
次からオリンピックから外れることになる。
普及しか無いと思って、最初ヨーロッパ ロンドンに行って、グラウンド、道具も何とかしないと思ったが、西アフリカに行った時はもっと厳しく草ぼうぼうのグラウンドで、時間はルーズ、何やっていいかわからないような人達で、グラウンド作りから始めて、指導者に指導して、翌年は道具を持って行って子供たちにも指導をしましたが、普及はなかなか難しいと感じました。
身体能力はよかったのでちょっと教えると早かったので、やって観て面白かった。
2011年 リオでのソフトボールの参加の可能性があったが駄目でショックでした。
同年 NPOを立ち上げる。
大震災の時だったのでどうしようか迷ったが、①復興支援、②オリンピック復活、③社会貢献、この三つを柱に書類を出して認可していただきました。
52年間ソフトボールで走ってきたので、ソフトのおかげで今の自分がいるし、いい選手と出会えたし、いい指導者先輩に出会ったし、恩返しをしていこうとしました。
福島、岩手に行ったりして自分の出来ることをやって行きたいと思っています。
2020年、野球、ソフトも勝たなければいけないという使命があり、結果をださなければいけないし、普及もしていかなければいけないと思います。
ソフトボールは人生みたいな感じがするので、世界中の子どもたちに伝えたいと思います。
そのあと続いて行くにはいい試合をしてほしいと思います。
ソフトボールは全部つなぎです、応援も含め和を広げて行くスポーツだと思います。
ソフトボールは日本が金メダルを取った2008年の北京オリンピックの後種目からはずれてロンドン、リオでは実施されませんでした。
しかし2020年の東京オリンピックでは野球とともに3大会ぶりに実施されることが決まっています。
2008年ソフトボールで金メダルを取った時には放送席が大変で、放送中ですがおめでとうを周りからの声がありました。
その時は大泣きしてしまいました。
1964年東京オリンピックの時、小学校5年生で、たまたま飯島選手から聖火を頂き、運動会の時に聖火をもってグラウンドを2周走って拍手を貰い、オリンピックと自分がラップしていて、何で私だったんだろうといまだに不思議に思いました。
その頃スポーツは好きでいろいろやっていました。
中学校に入ってスポーツで母に褒めてもらいたいと思って、いろんな部に入ったんですが最後にソフトボールをやるるようになりました。
入ったんですが、先生の指導が厳しかったが、その時のとの出会いは今の指導の中でも生きて居ます。
ソフトボールはそれぞれの個性の良さを出せると先生から言われたことは、誰にでもできる手ごろなスポーツだと思います。
ソフトボールは人生そのものだなあと思います。
ピンチがあり、チャンスがあり、苦しい時に逃げたいと思った時に誰か助けてくれたり、でも最後は自分なんだと、自分でミスしたことを取り消すには自分が頑張らなければいけないと学びました。
ソフトボールは一人ではない、だけれども最後は自分なんだと云う事を学びました。
挨拶、時間厳守など当り前な人間教育をさせてもらったと思います。
高校、企業スポーツでもソフトボールを続けました。(13年間)
オイルショックで会社が厳しい中で続けることも有難さ感謝を学びました。
雑用、トイレ掃除などもやらされてコンプレックスも感じたし、3年頑張って人事異動があり寮生と向き合って人をどうやって生かしたら良いかを学びました。
28歳のときにジュニアのコーチをさせていただいて、埼玉に戻った後コーチをしていたら、昭和60年に監督が決まるまででいいから来てくれと言われて行って、12名の選手のいるチームに行きました。
コーチを引きうけ、31歳でバリバリだったので、先頭切って一緒にやりました。
年末に工場長に呼ばれて監督をやってほしいと言われました。
父からはお前が背中を見せてやっていかなければいけないといわれました。
企業スポーツの経験してきた厳しさについても、父にもいろいろ話したら父も泣きました。
女性は公平に扱わないといけないとか、一人ひとりその中から活かして行く事などいろいろ話す中で、やってゆくことを約束しました。
指導者になったら素の自分をさらけだそうと思って、父の涙から学びました。
チームは3部から上がっていって、日本の3冠をとってしまうまでになりました。
アトランタでソフトボ-ルはオリンピックの正式種目になってその時はコーチとして参加、2000年シドニーでは銀メダルを取ったがその時は監督として、2004年のアテネでは銅メダル、2008年は解説者としてオリンピックに行きました。
アトランタは最強のチームだと思いましたが、船頭が5人いて、組織も悪かったのか選手をうまく使いこなせなかったのが一つの敗因にもなったし、経験不足もあったと思います。
これからは守って守って守り抜いたら勝てるのではないかと思いました。
22名の選手を選んで、各々の性格なども考えたりして、向き合って話し合って指導して行きました。
厳しい練習にみんなよく付いてきました。
2000年シドニーでは銀メダルでした。
決勝では同点となり、投手交代を考えたが出来ず、雨の中で戦う中、アメリカのチームは8回の裏、審判が今までストライクを取っていたのが段々ストライクを取ってくれなくなったとキャッチャーが言ってきて、高山のうえのボールでいいから攻めろと言って、高めのボールをレフトに打たれて、レフトが滑って終わりました。
2008年にも雨が降ってきて、その時の場面は一生忘れられないと思いました。
2000年シドニーでピッチャー交代していれば金メダルは取れたと思っていたので、選手に申し訳ないと今でもいっぱいです。
アメリカは強かったです。
2008年には金メダルを取る。
上野投手の413球の熱闘、上野だったら絶対やってくれると思って、夢を彼女に託しました。
次からオリンピックから外れることになる。
普及しか無いと思って、最初ヨーロッパ ロンドンに行って、グラウンド、道具も何とかしないと思ったが、西アフリカに行った時はもっと厳しく草ぼうぼうのグラウンドで、時間はルーズ、何やっていいかわからないような人達で、グラウンド作りから始めて、指導者に指導して、翌年は道具を持って行って子供たちにも指導をしましたが、普及はなかなか難しいと感じました。
身体能力はよかったのでちょっと教えると早かったので、やって観て面白かった。
2011年 リオでのソフトボールの参加の可能性があったが駄目でショックでした。
同年 NPOを立ち上げる。
大震災の時だったのでどうしようか迷ったが、①復興支援、②オリンピック復活、③社会貢献、この三つを柱に書類を出して認可していただきました。
52年間ソフトボールで走ってきたので、ソフトのおかげで今の自分がいるし、いい選手と出会えたし、いい指導者先輩に出会ったし、恩返しをしていこうとしました。
福島、岩手に行ったりして自分の出来ることをやって行きたいと思っています。
2020年、野球、ソフトも勝たなければいけないという使命があり、結果をださなければいけないし、普及もしていかなければいけないと思います。
ソフトボールは人生みたいな感じがするので、世界中の子どもたちに伝えたいと思います。
そのあと続いて行くにはいい試合をしてほしいと思います。
ソフトボールは全部つなぎです、応援も含め和を広げて行くスポーツだと思います。
2017年4月8日土曜日
向谷地生良(浦河べてるの家理事) ・弱さを絆に
向谷地生良(浦河べてるの家理事) ・弱さを絆に
北海道日高地方に浦河町に精神医療の常識を覆すと、世界から注目さわれているコミュニティー社会福祉法人、浦河べてるの家があります。
「べてる」とは旧約聖書の中にある言葉で「神の家」という意味です。
ここでは精神障害のある人達150人が全国から集まり、地域で働きながら共に暮らしています。
べてるの家のメンバーで特に多いのが幻覚や幻聴、妄想を伴う統合失調症です。
理事でソーシャルワーカーの向谷地さんはメンバーがたがいに助け合いながら病気と向き合い地域で生きる為のユニークな取り組みを40年近く実践してきました。
心の病に苦しむ人たちがどのように暮らしているのか、伺いました。
精神障害がある人たちがよりよく生きるためにさまざまな仕組み考え、従来タブーとしてきた幻覚や幻聴妄想との共存を目指しています。
本人たちに聞くと辛いし怖いし、その思いを聞いてもらったら楽になる。
私たちが辛い時に聞いてもらうと楽になるのとおなじなんですね。
単純に聞くのではなくて機嫌よく聞く、楽しい出来事、大事な出来事として聞くわけです。
自分で自分がイメージする病名を付けたらと言うとその名前が全部違うんです。
自己病名をつけ、ユーモラスに語り返すことで病気と言う経験を自分の生活の一部だと云うことで分かち合える。
みんなが培ってきた生きる文化だと思います。
理念があり、「弱さを絆に」、「昇る人生から降りる人生」、生きづらさを抱えた当事者が社会で生きて行くために生み出されてきたものです。
心の病はその人の生きづらさ悩みがに詰まった状態、その中で精神のバランスを崩して病気になっている。
助け合いは必要だと云う事が改めてわかる。
暮らしの中で煮詰まった生きづらさ、苦悩が最大化すればそれをどう生きるか自分らしく、自分のペースで模索して行く、それが生きることで生活すること。
大変ですが、自分のものとして取り戻すことは大切なきっかけになる。
日本の精神医療は入院を中心に考えられてきました。
多くは長期入院となり、病院を増やした結果、入院患者は世界でも突出して多くなっています。
べてるの家は昭和54年にはじまり、精神障害のある人が地域でどう暮らすか模索してきましたが、症状は一進一退でした。
必要以上の入院や薬には頼らない。
生きづらさを仲間に打ち分け、たがいに苦しみ、辛さを共有し、生き易さを目指す。
私は最初は混乱状態でどう対処していいか分からず、積み重ねの中で生まれて来ました。
おまえはだめなやつだとか、死ねとか、辛い状況に追い込まれて、そういった幻聴を共有します。
同情しつつ笑ったりする訳です、情けないけど笑える話があるわけです。
他の人の役に立ったとか、幻聴さんと喧嘩してはだめなんだとか、幻聴さんには優しくしてあげると突然帰ってくれるとか、幻聴さんが判ってくれたとか、やってみたらその通り幻聴さんが帰ってくれたとか、ということで受け継がれていって自分の経験が人の役に立ったんだと云うみんなにとって大きな経験です。
共同生活をしていて、グループホームでは仲間同士が悩みを語り合います。
最近まで治療の常識として、見える(幻覚)、聞こえる(幻聴)、誰かに狙われているとか、そういうことを語らせるとだめだという常識があったんです。(最大のタブーだった)
持って行き場がなかった、緩和させるのは薬と言うことで薬中心になっていた。
私たちの活動は、吃驚すると思います。
昭和30年青森県十和田市に生まれました。
中学1年の時に心の弱さに関心を持つようになりました。
先生と名の付く人とはうまくいかないというジンクスがあります。
担任の先生とはそりがうまくいかなかった。
議事の運営が杜撰だと云うことでみんなの前で、先生にコテンパンに殴られました。
事あるごとに体罰を受け、両親が学校に抗議、自宅療養になりました。
そんな時母親が教会に通うようになりました。
大学紛争の時代でもあり、入ってくる情報と自分の中の現実がミックスされて、大人になっていいんだろうかと、謎を聖書の世界とかに尋ねてみようと思ったりしました。
聖書には弟子に裏切られたりとか、情けないことがいっぱいあり、みじめさに興味、関心がありました。
キーワードは弱さでした、弱さをめぐるエピソードは惹かれるものはありました。
これさえなかったらというあなたの持っているトゲ、こそ私からの最大の贈り物だというメッセージがある。
トゲ、これこそ神様から与えられた恵みなんだと気付く場面があります。
自分の思っている抱えきれない弱い部分、自分の経験そのものに反転?(聞き取れず)した可能性があるかもいしれないと学んだ気がする。
当時公害、薬害の時代でもあった。
仕送りを断り、特別養護老人ホームを住み込みで働きながら大学に通う。(夜間介護人)
自分に根本的苦労が足りないと思ったので、決めたことはとことん苦労しようと言うことでした。
特別養護老人ホームでは不遇な人生を過ごした人が多かった、寝たきりとなり、ここに向かってゆくのかと思った。
大学卒業後病院でソーシャルワーカーとして働く様になる。
当事者と距離を置いて働くようにしていることを知ったときに、違和感を感じました。
寝食を共にしてきた経験からすると、ずれを感じました。
精神障害者に対する有る偏見のようなたぐいのものを感じました。
1年後使われて居ない教会を借りて共同生活を始めます。
精神科を退院したものの地域に居場所を失っていた人たち、後のべてるの家に繋がる活動です。
一緒に暮したらもっとそこでのことが判るのではないか、自分のことが分かるのではないかと思いました。(1979年ごろ)
退院した人たちは何かが欠けて居て病院に戻ってくる。
病院の上司から、訪問しすぎだとか、外へ出る回数が多いとか、電話が多すぎるとか、今日からは私の前から消えてくれと言われました。
目の前が真っ白になりました。
ちょうど結婚したばっかりだったし、この業界は狭いのですぐ事情が伝わるので、人ってこういうふうにして燃え尽きたり、鬱状態になったり出勤できなくなるのかもしれないと思いました。
べてるの家の仲間と共にきよしさん(幻覚、幻聴のある)に寄り添い続けました。
きよしさんは入退院を繰り返し、何かが不足していると考えてもさっぱり分からなかった。
もがき苦しむ中で、イエスキリストが旅の中で、あえて淡々と進むこの旅の風景が自分の中にあるのだろうと、現実的な行き詰まりの中にも、イエスの旅の物語をある種の肯定感が自分の中にベースとしてあるかもしれないと思いました。
病院を退職、べてるの家の仲間たちと歩み40年近くなります。
きよしさんは症状が落ち着き、入院することはなくなりました。
気心の知れた関係が生まれて、話が出来て、通じ合うものが生まれ人の心持が変わると、その人の抱えている生きづらさの心象風景が変わる、幻覚妄想が変わるんです。
その人の生きて居る物語が変わってきます。
2500人ぐらいの人が毎年訪れて居て、心に病に苦しんでいる人たち、関係者がべてるの家の哲学に多くの共感が寄せられて居ます。
絶望的な状況の中でうろうろさえしていればちゃんと突破口はある、そんな絶望の仕方を是非発信していきたいと思います。
生きて行くために生み出された
北海道日高地方に浦河町に精神医療の常識を覆すと、世界から注目さわれているコミュニティー社会福祉法人、浦河べてるの家があります。
「べてる」とは旧約聖書の中にある言葉で「神の家」という意味です。
ここでは精神障害のある人達150人が全国から集まり、地域で働きながら共に暮らしています。
べてるの家のメンバーで特に多いのが幻覚や幻聴、妄想を伴う統合失調症です。
理事でソーシャルワーカーの向谷地さんはメンバーがたがいに助け合いながら病気と向き合い地域で生きる為のユニークな取り組みを40年近く実践してきました。
心の病に苦しむ人たちがどのように暮らしているのか、伺いました。
精神障害がある人たちがよりよく生きるためにさまざまな仕組み考え、従来タブーとしてきた幻覚や幻聴妄想との共存を目指しています。
本人たちに聞くと辛いし怖いし、その思いを聞いてもらったら楽になる。
私たちが辛い時に聞いてもらうと楽になるのとおなじなんですね。
単純に聞くのではなくて機嫌よく聞く、楽しい出来事、大事な出来事として聞くわけです。
自分で自分がイメージする病名を付けたらと言うとその名前が全部違うんです。
自己病名をつけ、ユーモラスに語り返すことで病気と言う経験を自分の生活の一部だと云うことで分かち合える。
みんなが培ってきた生きる文化だと思います。
理念があり、「弱さを絆に」、「昇る人生から降りる人生」、生きづらさを抱えた当事者が社会で生きて行くために生み出されてきたものです。
心の病はその人の生きづらさ悩みがに詰まった状態、その中で精神のバランスを崩して病気になっている。
助け合いは必要だと云う事が改めてわかる。
暮らしの中で煮詰まった生きづらさ、苦悩が最大化すればそれをどう生きるか自分らしく、自分のペースで模索して行く、それが生きることで生活すること。
大変ですが、自分のものとして取り戻すことは大切なきっかけになる。
日本の精神医療は入院を中心に考えられてきました。
多くは長期入院となり、病院を増やした結果、入院患者は世界でも突出して多くなっています。
べてるの家は昭和54年にはじまり、精神障害のある人が地域でどう暮らすか模索してきましたが、症状は一進一退でした。
必要以上の入院や薬には頼らない。
生きづらさを仲間に打ち分け、たがいに苦しみ、辛さを共有し、生き易さを目指す。
私は最初は混乱状態でどう対処していいか分からず、積み重ねの中で生まれて来ました。
おまえはだめなやつだとか、死ねとか、辛い状況に追い込まれて、そういった幻聴を共有します。
同情しつつ笑ったりする訳です、情けないけど笑える話があるわけです。
他の人の役に立ったとか、幻聴さんと喧嘩してはだめなんだとか、幻聴さんには優しくしてあげると突然帰ってくれるとか、幻聴さんが判ってくれたとか、やってみたらその通り幻聴さんが帰ってくれたとか、ということで受け継がれていって自分の経験が人の役に立ったんだと云うみんなにとって大きな経験です。
共同生活をしていて、グループホームでは仲間同士が悩みを語り合います。
最近まで治療の常識として、見える(幻覚)、聞こえる(幻聴)、誰かに狙われているとか、そういうことを語らせるとだめだという常識があったんです。(最大のタブーだった)
持って行き場がなかった、緩和させるのは薬と言うことで薬中心になっていた。
私たちの活動は、吃驚すると思います。
昭和30年青森県十和田市に生まれました。
中学1年の時に心の弱さに関心を持つようになりました。
先生と名の付く人とはうまくいかないというジンクスがあります。
担任の先生とはそりがうまくいかなかった。
議事の運営が杜撰だと云うことでみんなの前で、先生にコテンパンに殴られました。
事あるごとに体罰を受け、両親が学校に抗議、自宅療養になりました。
そんな時母親が教会に通うようになりました。
大学紛争の時代でもあり、入ってくる情報と自分の中の現実がミックスされて、大人になっていいんだろうかと、謎を聖書の世界とかに尋ねてみようと思ったりしました。
聖書には弟子に裏切られたりとか、情けないことがいっぱいあり、みじめさに興味、関心がありました。
キーワードは弱さでした、弱さをめぐるエピソードは惹かれるものはありました。
これさえなかったらというあなたの持っているトゲ、こそ私からの最大の贈り物だというメッセージがある。
トゲ、これこそ神様から与えられた恵みなんだと気付く場面があります。
自分の思っている抱えきれない弱い部分、自分の経験そのものに反転?(聞き取れず)した可能性があるかもいしれないと学んだ気がする。
当時公害、薬害の時代でもあった。
仕送りを断り、特別養護老人ホームを住み込みで働きながら大学に通う。(夜間介護人)
自分に根本的苦労が足りないと思ったので、決めたことはとことん苦労しようと言うことでした。
特別養護老人ホームでは不遇な人生を過ごした人が多かった、寝たきりとなり、ここに向かってゆくのかと思った。
大学卒業後病院でソーシャルワーカーとして働く様になる。
当事者と距離を置いて働くようにしていることを知ったときに、違和感を感じました。
寝食を共にしてきた経験からすると、ずれを感じました。
精神障害者に対する有る偏見のようなたぐいのものを感じました。
1年後使われて居ない教会を借りて共同生活を始めます。
精神科を退院したものの地域に居場所を失っていた人たち、後のべてるの家に繋がる活動です。
一緒に暮したらもっとそこでのことが判るのではないか、自分のことが分かるのではないかと思いました。(1979年ごろ)
退院した人たちは何かが欠けて居て病院に戻ってくる。
病院の上司から、訪問しすぎだとか、外へ出る回数が多いとか、電話が多すぎるとか、今日からは私の前から消えてくれと言われました。
目の前が真っ白になりました。
ちょうど結婚したばっかりだったし、この業界は狭いのですぐ事情が伝わるので、人ってこういうふうにして燃え尽きたり、鬱状態になったり出勤できなくなるのかもしれないと思いました。
べてるの家の仲間と共にきよしさん(幻覚、幻聴のある)に寄り添い続けました。
きよしさんは入退院を繰り返し、何かが不足していると考えてもさっぱり分からなかった。
もがき苦しむ中で、イエスキリストが旅の中で、あえて淡々と進むこの旅の風景が自分の中にあるのだろうと、現実的な行き詰まりの中にも、イエスの旅の物語をある種の肯定感が自分の中にベースとしてあるかもしれないと思いました。
病院を退職、べてるの家の仲間たちと歩み40年近くなります。
きよしさんは症状が落ち着き、入院することはなくなりました。
気心の知れた関係が生まれて、話が出来て、通じ合うものが生まれ人の心持が変わると、その人の抱えている生きづらさの心象風景が変わる、幻覚妄想が変わるんです。
その人の生きて居る物語が変わってきます。
2500人ぐらいの人が毎年訪れて居て、心に病に苦しんでいる人たち、関係者がべてるの家の哲学に多くの共感が寄せられて居ます。
絶望的な状況の中でうろうろさえしていればちゃんと突破口はある、そんな絶望の仕方を是非発信していきたいと思います。
生きて行くために生み出された
2017年4月7日金曜日
米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) ・挫折こそが人生を開く
米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) ・挫折こそが人生を開く
米村さんは昭和30年千葉県に生まれました。
3年間浪人の後、東京学芸大学教育学部に入学し卒業ご 、同大学院理科教育学専攻科を終了、学校の先生になります。
ところが学校や保護者とうまくいかず 40歳で退職してしまいます。
その後サイエンスプロデューサーとしての活動をはじめ、舞台で楽しい科学実験をしたり本を出版したりと幅広く活躍するようになりました。
サイエンスプロデュ―サーとして新たな世界にたどり着くまで米村さんはどんな日々を送ってこられたのでしょうか。
62歳になります。
年間週1回ペースで日本全国廻っています。
名刺を作るときに肩書きを書くのに、科学関係の仕事なので「サイエンスプロデュ―サー」という言葉を勝手に作ってしまいました。
ステージで1時間から1時間半程度のサイエンスショーをたのしんでいただくステージを中心に動いています。
科学を多くの人に楽しんでもらう、そのためのアイディア、企画、製作、自分が出て実演するそういうような仕事です。
昭和30年、千葉県の田舎に生まれました。
人見知りのする、内気な子供でした。
自然豊かなところだったので、そういったところで遊んでいました。
動植物、星とか、自然の中の遊びと学校の理科との中から、興味を持ちました。
集団の中に入るのは不得手でした。
夏休みの後の学校へ行くことは気が重かったです。
中学、高校もクラブ活動はせずにさっさと家に帰っていました。
将来に対する考えがなくて漠然と科学関係の仕事がいいなあぐらいに思っていました。
大学に行って科学関係の道に歩みたいと思ったので、大学の試験を受けたたのですが不合格になってしまいました。
実力のないのを見せつけられて落ち込む半面、本当はがんばれば何とかなると云うことの葛藤がありました。
浪人生活に入って予備校には2時間もかかるので、自分で参考書を買って勉強するが、勉強のやり方が良く分からず、模擬テストをやっても合格が難しいという結果が出てきて、又落ち込んでしまいました。
気がついてみると3浪ということになり、世間が遠く見え焦りを強く感じました。
父は高校卒業するときに労災で亡くなり、母親がおおらかだったのでプレッシャーを感じなかったのはありがたかったです。
東京学芸大学教育学部に入学して、引き続き大学院に進みました。
大学卒業後まだ仕事は無理だという思いと勉強が判り始めて、大学院に進むことにしました。
大学に籍を置いて研究生と言う立場になりました。(26歳)
3年間研究生として過ごして、就職活動をしなくてはいけないと思って、理科の教員になろうとして合格して教員採用と言うことになりました。(29歳)
赴任した学校はいわゆる教育困難校で、授業が思う良うに成立しない状況でした。
多くの生徒は弁当を食べたり勝手な事をやって教室は雑然としていました。
そもそも自分はなんで理科の教師をやっているのかと言う思いがあり、理科の楽しさをつたえるためには原点に帰って、実験とか観察とか、実習的な事を体験させることで、興味が湧くのではないかと言うことに思い至って積極的に実験をやらせる、実験を見せて興味を引く事をしました。
生徒も興味を持ち始めたが、学習内容そのものに対するモチベーションではないので学習指導は順調に言った訳ではなかった。
実験そのものは周りから注目され始めましたが、授業はなかなか成功してはいなかった。
教師になって13年経って、当初目指していた授業には成っていなくて、自分の限界のようなものを感じ始めて、教師には向いていないのではないかと思うようになり、精神的にも行き詰ってしまって、真剣に転職を考えるようになりました。
気持がいろいろ揺れましたが、比較的簡単に学校をやめられることになり、独立をしました。
いろんな仕事をやっていたら、講演依頼とか、実験を見せてほしいとか話が来るようになって、アシスタントも必要になり、経理関係などの問題があり法人化しないといけない
ということが判り、会社を設立をしようということになりました。
順調になってきて結果的には今はそうやって自分の仕事を納得させている。
世の中が引っ張り上げてくれているので、これが天職でそうなってるのかなとは思っています。
落ちこぼれた生徒の気持ちは良く判るし、一般の人、子供たちに実験を見せた時に原理とか勉強的な話はついてこれないよということは良く分かるし、科学は難しいよねと言うのが判るので、どういうふうに話したら判ってもらえるか、自分自身が落ちこぼれのようなものなので、一般の人達、子供達の接点になるにはいい経験を積んだことが結果的には良かったと思います。
自分は思うようにいかなかったが、頑張っていればなんとか成っていくものだなあと思うので、うまくいかないことも有るかと思うが、苦労が必ず実になり糧になり繋がって行くので、あきらめずに今関わっていることに頑張って集中していれば将来人生を切り開いてゆくきっかけになると思う。
躓いたことが後の実りになっているので、うまくいっていないことが受けとめることになると思います。
人生は長いので、思うように発揮できなくてもこつこつやっている中でどこかで観てくれている人もいますし、努力は実を結んでゆくので、若い人たちは短絡的に見ないで希望を持っていかれたらいいのではないかと思います。
米村さんは昭和30年千葉県に生まれました。
3年間浪人の後、東京学芸大学教育学部に入学し卒業ご 、同大学院理科教育学専攻科を終了、学校の先生になります。
ところが学校や保護者とうまくいかず 40歳で退職してしまいます。
その後サイエンスプロデューサーとしての活動をはじめ、舞台で楽しい科学実験をしたり本を出版したりと幅広く活躍するようになりました。
サイエンスプロデュ―サーとして新たな世界にたどり着くまで米村さんはどんな日々を送ってこられたのでしょうか。
62歳になります。
年間週1回ペースで日本全国廻っています。
名刺を作るときに肩書きを書くのに、科学関係の仕事なので「サイエンスプロデュ―サー」という言葉を勝手に作ってしまいました。
ステージで1時間から1時間半程度のサイエンスショーをたのしんでいただくステージを中心に動いています。
科学を多くの人に楽しんでもらう、そのためのアイディア、企画、製作、自分が出て実演するそういうような仕事です。
昭和30年、千葉県の田舎に生まれました。
人見知りのする、内気な子供でした。
自然豊かなところだったので、そういったところで遊んでいました。
動植物、星とか、自然の中の遊びと学校の理科との中から、興味を持ちました。
集団の中に入るのは不得手でした。
夏休みの後の学校へ行くことは気が重かったです。
中学、高校もクラブ活動はせずにさっさと家に帰っていました。
将来に対する考えがなくて漠然と科学関係の仕事がいいなあぐらいに思っていました。
大学に行って科学関係の道に歩みたいと思ったので、大学の試験を受けたたのですが不合格になってしまいました。
実力のないのを見せつけられて落ち込む半面、本当はがんばれば何とかなると云うことの葛藤がありました。
浪人生活に入って予備校には2時間もかかるので、自分で参考書を買って勉強するが、勉強のやり方が良く分からず、模擬テストをやっても合格が難しいという結果が出てきて、又落ち込んでしまいました。
気がついてみると3浪ということになり、世間が遠く見え焦りを強く感じました。
父は高校卒業するときに労災で亡くなり、母親がおおらかだったのでプレッシャーを感じなかったのはありがたかったです。
東京学芸大学教育学部に入学して、引き続き大学院に進みました。
大学卒業後まだ仕事は無理だという思いと勉強が判り始めて、大学院に進むことにしました。
大学に籍を置いて研究生と言う立場になりました。(26歳)
3年間研究生として過ごして、就職活動をしなくてはいけないと思って、理科の教員になろうとして合格して教員採用と言うことになりました。(29歳)
赴任した学校はいわゆる教育困難校で、授業が思う良うに成立しない状況でした。
多くの生徒は弁当を食べたり勝手な事をやって教室は雑然としていました。
そもそも自分はなんで理科の教師をやっているのかと言う思いがあり、理科の楽しさをつたえるためには原点に帰って、実験とか観察とか、実習的な事を体験させることで、興味が湧くのではないかと言うことに思い至って積極的に実験をやらせる、実験を見せて興味を引く事をしました。
生徒も興味を持ち始めたが、学習内容そのものに対するモチベーションではないので学習指導は順調に言った訳ではなかった。
実験そのものは周りから注目され始めましたが、授業はなかなか成功してはいなかった。
教師になって13年経って、当初目指していた授業には成っていなくて、自分の限界のようなものを感じ始めて、教師には向いていないのではないかと思うようになり、精神的にも行き詰ってしまって、真剣に転職を考えるようになりました。
気持がいろいろ揺れましたが、比較的簡単に学校をやめられることになり、独立をしました。
いろんな仕事をやっていたら、講演依頼とか、実験を見せてほしいとか話が来るようになって、アシスタントも必要になり、経理関係などの問題があり法人化しないといけない
ということが判り、会社を設立をしようということになりました。
順調になってきて結果的には今はそうやって自分の仕事を納得させている。
世の中が引っ張り上げてくれているので、これが天職でそうなってるのかなとは思っています。
落ちこぼれた生徒の気持ちは良く判るし、一般の人、子供たちに実験を見せた時に原理とか勉強的な話はついてこれないよということは良く分かるし、科学は難しいよねと言うのが判るので、どういうふうに話したら判ってもらえるか、自分自身が落ちこぼれのようなものなので、一般の人達、子供達の接点になるにはいい経験を積んだことが結果的には良かったと思います。
自分は思うようにいかなかったが、頑張っていればなんとか成っていくものだなあと思うので、うまくいかないことも有るかと思うが、苦労が必ず実になり糧になり繋がって行くので、あきらめずに今関わっていることに頑張って集中していれば将来人生を切り開いてゆくきっかけになると思う。
躓いたことが後の実りになっているので、うまくいっていないことが受けとめることになると思います。
人生は長いので、思うように発揮できなくてもこつこつやっている中でどこかで観てくれている人もいますし、努力は実を結んでゆくので、若い人たちは短絡的に見ないで希望を持っていかれたらいいのではないかと思います。
2017年4月6日木曜日
中島京子(作家) ・ロング・グッドバイ、ダディ!
中島京子(作家) ・ロング・グッドバイ、ダディ!
厚生労働省の推計では2025年には65歳以上の5人に1人はなると予想される認知症、アメリカでは認知症のことをロング・グットバイ 時間とともにゆっくりお別れしてゆくと表現するそうです。
直木賞作家の中島さんは認知症の父親を10年間介護して看取りました。
記憶や言葉が失われてゆくのは悲しくて辛くて、介護は大変な事もありましたけど、お父さんは楽しい思い出もたくさん残してくれたと言います。
その体験を小説にした「長いお別れ」は同じように認知症の介護に当たってる人や医療関係者から感動と共感を呼んでいます。
お父さんとの長いお別れ、いとおしくて大切な時間に込められた家族の思いを伺います。
2013年の暮れに父が亡くなったので、3年になります。
86歳でした。
父は大学の先生をしていまして、フランス語とフランス文学を教えていました。
定年後は外に余り出たがら無かったですが、趣味は囲碁が大好きで碁会所に通っていましたが、碁会所が無くなってからちょっと居場所がなくなったようなさみしさをもっていたように思いました。
そのころから記憶に自信が無くなることが起って来たんじゃないかと思います。
一緒には暮らしてはいなかったのですが、鬱のような感じで食べ物をあまり食べなくなって、ネガティブな発想ばっかりしてどうしたのかなと思った頃がありました。
病院から抗うつ剤などを貰ったが、父は嫌がって全部捨ててしまったりしました。
今から思うと認知症の前段階だったのではないかと思います。
2004年の春、父の同窓会があり、何時もやっている場所なのに、判らなくて家に帰ってきてしまったことがありました。
もう一回送り出したが又帰ってきてしまって、おかしいと思って物忘れ外来にいきました。
他に記憶が不確かになってきたように思いましたが、そんなに進んではいませんでした。
進行を遅らす薬を処方されていまして、3年間はゆっくり進行させることは出来ると言われていましたのでそんなには進みませんでした。
あるとき母がどこかに父と一緒につれていって、一人で帰ってくることはできました。
フランスに姉が結婚して住んでいたので、父母と私でフランスに行ったことが大きな思い出となっています。
セーヌ川を荒川(荒川の近くに住んでいました)と間違えたのが面白い思い出でした。
一番びっくりしたのは、車を運転していて父から突然「ところであんたはだれの娘だっけ」と言われてどういうことになっているか判らなかった。
自宅で母が父の面倒をみて居て、私が家に通っていました、私が2009年に3カ月アメリカに行くことになり、通うことができなくなるので、2008年ぐらいからデイサービスに行くようになりました。
スタッフの方から先生と呼ばれたりして、楽しそうにデイサービスに通っていました。
歩けなくなったり、しものことが自分でできなくなってくるが、そうであっても尊厳を保ちたいと思っているようで、そういうふうに思いながら介護した方がスムーズだと思います。
2012年に転んでしまって、ベットから良く落ちてしまったり、幻覚を見るようなことが多くなりました。
父は若い頃柔道をやっていたので転ぶ時には受け身のような転び方をしていましたが、最後には大腿骨を骨折して、入院することになりました。
手術は無理と言うことで寝たきりになるといわれました。
坐れるようになれば車椅子で生活ができれば、お花見ぐらいは出来るのではないかと思いました。(介護4でした)
オムツが厭だったので、夜中に何度も母がお手洗いを手伝ったりしたので母は大変でした。
入れ歯を直したら食べられるようになって食欲が出てきて、食べると元気になって歩けるようになりました。(栄養を摂ることは大事なんだと思いました。)
1回目入院し、家に戻ってきた、意識が無くなって救急車で2度目の入院しました。
それが最後で亡くなってしまいました。
12月25日に入院して、フランスの姉に連絡して27日に帰ってきて、29日の朝に亡くなりました。
父は短歌を作ったりエッセーを書いたりもしていたので、病院のベットで父の書いた面白いエッセーを枕元で読んだりしました。
人が笑ったりするのが好きだったので良かったと思います。
看取った後は余り何を考えたか覚えてないです。
介護の体験を小説にしました。「長いお別れ」
アメリカでは認知症のことをロング・グットバイと呼んでいるので、タイトルを「長いお別れ」としました。
介護自体は楽しいかと言うと難しいが10年の間に父が残してくれた、一緒につくった思い出が10年なので沢山あります。
直木賞を受賞した時に可笑しかったのは、候補になっていることを言ってはいけないと言われていて、つい母に言ってしまったが、誰にも言ってはいけないと言って父ならば言ってもすぐ忘れるので、どうしても言いたい時は父には言ってもいいと云ったんですが、そのまま父はすぐ忘れるからいっても大丈夫というようなことを言ってしまったんです。
父は嬉しそうに「さすがはお父さんだな」、と父自身が言ったんです。
ある時期から言葉の意味が判らなくなってしまっていて、単語の意味をなさないことをいうようになりました。
私のしょげている様子を見て、意味なさないが、ここは慰めなければいけない場面だと思って、慰めてくれるような口調で言ってくれる事がありました。
「鼠」とか難しい漢字を書いて吃驚することがあります、昔覚えたことは忘れないんですかね。
『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞。
介護をしてとっても大変だったと思っていたけど、この小説を読んだらそういえばおかしいことがたくさんあった事を思いだしたと言って下さって、そういう風に読んでいただけたら嬉しいと思いました。
厚生労働省の発表では2025年には、65歳以上の5人に1人は認知症になると予想している。
認知症はそれほど怖がらなくてもいいのではないかと思います。
厚生労働省の推計では2025年には65歳以上の5人に1人はなると予想される認知症、アメリカでは認知症のことをロング・グットバイ 時間とともにゆっくりお別れしてゆくと表現するそうです。
直木賞作家の中島さんは認知症の父親を10年間介護して看取りました。
記憶や言葉が失われてゆくのは悲しくて辛くて、介護は大変な事もありましたけど、お父さんは楽しい思い出もたくさん残してくれたと言います。
その体験を小説にした「長いお別れ」は同じように認知症の介護に当たってる人や医療関係者から感動と共感を呼んでいます。
お父さんとの長いお別れ、いとおしくて大切な時間に込められた家族の思いを伺います。
2013年の暮れに父が亡くなったので、3年になります。
86歳でした。
父は大学の先生をしていまして、フランス語とフランス文学を教えていました。
定年後は外に余り出たがら無かったですが、趣味は囲碁が大好きで碁会所に通っていましたが、碁会所が無くなってからちょっと居場所がなくなったようなさみしさをもっていたように思いました。
そのころから記憶に自信が無くなることが起って来たんじゃないかと思います。
一緒には暮らしてはいなかったのですが、鬱のような感じで食べ物をあまり食べなくなって、ネガティブな発想ばっかりしてどうしたのかなと思った頃がありました。
病院から抗うつ剤などを貰ったが、父は嫌がって全部捨ててしまったりしました。
今から思うと認知症の前段階だったのではないかと思います。
2004年の春、父の同窓会があり、何時もやっている場所なのに、判らなくて家に帰ってきてしまったことがありました。
もう一回送り出したが又帰ってきてしまって、おかしいと思って物忘れ外来にいきました。
他に記憶が不確かになってきたように思いましたが、そんなに進んではいませんでした。
進行を遅らす薬を処方されていまして、3年間はゆっくり進行させることは出来ると言われていましたのでそんなには進みませんでした。
あるとき母がどこかに父と一緒につれていって、一人で帰ってくることはできました。
フランスに姉が結婚して住んでいたので、父母と私でフランスに行ったことが大きな思い出となっています。
セーヌ川を荒川(荒川の近くに住んでいました)と間違えたのが面白い思い出でした。
一番びっくりしたのは、車を運転していて父から突然「ところであんたはだれの娘だっけ」と言われてどういうことになっているか判らなかった。
自宅で母が父の面倒をみて居て、私が家に通っていました、私が2009年に3カ月アメリカに行くことになり、通うことができなくなるので、2008年ぐらいからデイサービスに行くようになりました。
スタッフの方から先生と呼ばれたりして、楽しそうにデイサービスに通っていました。
歩けなくなったり、しものことが自分でできなくなってくるが、そうであっても尊厳を保ちたいと思っているようで、そういうふうに思いながら介護した方がスムーズだと思います。
2012年に転んでしまって、ベットから良く落ちてしまったり、幻覚を見るようなことが多くなりました。
父は若い頃柔道をやっていたので転ぶ時には受け身のような転び方をしていましたが、最後には大腿骨を骨折して、入院することになりました。
手術は無理と言うことで寝たきりになるといわれました。
坐れるようになれば車椅子で生活ができれば、お花見ぐらいは出来るのではないかと思いました。(介護4でした)
オムツが厭だったので、夜中に何度も母がお手洗いを手伝ったりしたので母は大変でした。
入れ歯を直したら食べられるようになって食欲が出てきて、食べると元気になって歩けるようになりました。(栄養を摂ることは大事なんだと思いました。)
1回目入院し、家に戻ってきた、意識が無くなって救急車で2度目の入院しました。
それが最後で亡くなってしまいました。
12月25日に入院して、フランスの姉に連絡して27日に帰ってきて、29日の朝に亡くなりました。
父は短歌を作ったりエッセーを書いたりもしていたので、病院のベットで父の書いた面白いエッセーを枕元で読んだりしました。
人が笑ったりするのが好きだったので良かったと思います。
看取った後は余り何を考えたか覚えてないです。
介護の体験を小説にしました。「長いお別れ」
アメリカでは認知症のことをロング・グットバイと呼んでいるので、タイトルを「長いお別れ」としました。
介護自体は楽しいかと言うと難しいが10年の間に父が残してくれた、一緒につくった思い出が10年なので沢山あります。
直木賞を受賞した時に可笑しかったのは、候補になっていることを言ってはいけないと言われていて、つい母に言ってしまったが、誰にも言ってはいけないと言って父ならば言ってもすぐ忘れるので、どうしても言いたい時は父には言ってもいいと云ったんですが、そのまま父はすぐ忘れるからいっても大丈夫というようなことを言ってしまったんです。
父は嬉しそうに「さすがはお父さんだな」、と父自身が言ったんです。
ある時期から言葉の意味が判らなくなってしまっていて、単語の意味をなさないことをいうようになりました。
私のしょげている様子を見て、意味なさないが、ここは慰めなければいけない場面だと思って、慰めてくれるような口調で言ってくれる事がありました。
「鼠」とか難しい漢字を書いて吃驚することがあります、昔覚えたことは忘れないんですかね。
『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞。
介護をしてとっても大変だったと思っていたけど、この小説を読んだらそういえばおかしいことがたくさんあった事を思いだしたと言って下さって、そういう風に読んでいただけたら嬉しいと思いました。
厚生労働省の発表では2025年には、65歳以上の5人に1人は認知症になると予想している。
認知症はそれほど怖がらなくてもいいのではないかと思います。
2017年4月5日水曜日
D・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”
デービット・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”
デービットさんはイギリスの生まれで大学で日本語学科を専攻しました。
およそ30年前に来日し、金融業界で活躍していましたが、42歳で仕事を辞めて趣味の茶道を楽しむ生活をしていました。
2年程してひょんなご縁で文化財の修理を専門とする会社を任されました。
昨年日本の経済を活性化する方法を提言した本を出版して話題となっています。
「新・所得倍増論」を発表。
日本の国宝を守る本だったが、そこから日本経済の全般に対する見方からスタートして、パーツパーツを取り上げて、専門書を書いてきました。
今回は経済専門書と言うことで、生産性の分野を取り上げて書いた本です。
国連の分析、世界銀行の分析とかで日本人労働者の質がきわめて高いという評価をされているにも拘わらず、世界第3位の経済かもしれないが、一人当たりで計算すると27位だった。(本を書いた時点)
2016年の数字では世界第30位です。
子供の6人に一人が貧困、福祉、年金が大変な状況で、高齢者の介護、医療は国として払えるかどうかと言うところがあって、国の借金が1000兆円を超えて居る。
悪循環にある。
これまでの実績のある国の経済成長してきた中で、子供の6人に一人が貧困で、国が破綻して良いのか、いいわけがない、しかし危機感もない。
現実を客観的にみて欲しい。
イギリスの田舎の生まれ、4人兄弟で3番目です。
オックスフォード大学で日本学科を専攻、文学、日本史、読むこと、書くこと、そして戦後経済の発展は論文を書いた部分でした。
漢文、古文、漢詩なども勉強しました。
当時イギリスは失業率が13%とかで日本は高度経済率が高く日本を勉強する人がいなくて、就職が有利なのかなあと思って決めました。
日本企業がニューヨークに進出している関係から、3年間アメリカに住んでいました。
バブルが崩壊して1990年に来日。(日本にある仕事しかなかった)
その後金融機関に入社、42歳で会社を辞める。
茶道、書、能、旅行したりしていたが、京都の町並みを見て、何処にもあるような町並みに変って行くのをみて、ストレスがたまるだけで、一軒を買って改修して日本文化が楽しめるようにしました。
文化財修理会社の面倒を見てほしいといわれて、引き受けることにしました。
日光東照宮が出来たときに出来た会社で、漆塗り、彩色調飾り金具の修理をしてきた会社で、日本最高の技術を持っている。
京都の技術は日光の技術には足元にも及ばないものです。
この業界の職人の4割ぐらいを雇用していて、最大手の会社です。
これが無くなることは日本の文化財の修理としては大打撃です。
職人集団を守らないとしょうがないからと言うことで引き受けました。
京都は分業制が多いが、日光の場合は、日光東照宮を中心に380年前から常に修理をしている場所です。
日光東照宮は建物が多く、仕様が極めて重く、常に仕事がありますから、物凄い技術が集中されています。
18歳で雇って亡くなるまで会社で仕事をしてもらう文化があるが、いろいろ問題があり一時期4割を非正規社員にされた時期があり、私が社長になった時にこれはおかしいので内部の無駄を省いたりして全員正社員に戻しました。
技術の継承は若い人を雇っているか、雇っていないかだけの問題です。
文化財を守ると云うこと自体は意味があるとは思えない。
近代的なものだけではなく、古くはこういうものがありましたということで、人生が豊かになる。
赤坂迎賓館、京都迎賓館のアドバイスをやっているが、国賓が来るときに使われるが、たまに使われるだけなので、もったいない。
一般公開しましょうということになり、毎日何千人来て、意味合い、使われ方、歴史的背景、何処の大統領がきたとか、両陛下がこういうところで実際に御挨拶されるとか、いろいろ紹介している。
文化財は守るためにあるのではなくて、皆さんが学んだり体験したり空間を楽しんだりするためのものなので、文化財を皆さんに楽しんでもらうためのものだと思っていて、楽しんでもらうために修理をしなければいけないということで、修理をする職人が結果として必要になってくるが、これがメインになってはだめなんです。
文化財を説明するときに、建造物としての説明が多くて残念に思います。
陽明門を50年ぶりに修理をして今年3月10日一般公開しましたが、私が検査してきましたが500以上の彫刻があり、漆、金箔がありすばらしいものです。
いろいろな彫刻物などはそれぞれ深い意味合いがあり、日本の宗教の考え方、哲学的な事、道徳、なんの意味があり何を伝えようとしているのか、残念ながら伝えて居ない。
これからは解説しようと、事業を立ち上げて居る最中です。
日光の場合は見えるところが彩色されている処だけではなくて見えないないところも彩色されている。
職人の世界と神様の世界で、修理するときにしか見れない。
角の龍の彫刻などは頭の部分は誰にも見れないので普通のやり方ではそこには彩色しない。
彩色は通常は顔料をじかに塗るが、日光ではまず漆を塗って(黒と赤の両方塗っている)、その上に全面的に金箔を貼って、その上に彩色を塗るが、普通は一色塗るが、二、三回塗り重ねていってぼかしたり色んな事をしています。
こういったものは日光にしかない。
段々劣化して外側が消えていくが、重ねて塗っているので顔が変わっていきます。
更に劣化すると、金箔が見えてきて、金箔が無くなると、漆が見えてきて何時まで経っても木が見えない、違う楽しみがみえてきて何時まで経っても美しいままで、これは独特の文化です。
こういったことは説明しないと判らない。
外国人観光客にいうのではなくて、向こうから言ってもらうのがベスト、感じてもらって理解してもらって日本文化の深さを言ってもらう。
時間とお金をかけて日光に来て、感動するものなのに感動させないままで帰ってもらうことは作った人(命をかけて修理しているのに)に対して失礼だと思います。
外国人にもきちんと説明すると又来たいと感じるかもしれません。
明日の日本を支える観光ビジョン構想会議が開かれたが、2020年4000万人、2030年6000万人外国人観光客を誘致すると云う目標が設定された。
文化庁の日本遺産認定が数年前から始まっているが、ストーリーがあるので、物語を語ってもらおうと整備している。
どういう神様、仏様かとか、歴史的な事とかいろいろな情報を知らせる。
多面的に判るように解説をやろうと文化庁などでやっています。
観光産業がどう伸びて行くのか楽しみです。
京都は世界観光都市として満足度世界一になりました(イギリスの雑誌で紹介)
外国人宿泊世界観光都市ランキングがあるが、2年前 100位以内に入っていない、昨年89位、潜在能力は1位、実績は89位と言うことです。
日本経済全面的なものです。
89位をトップ10あるいは20にするのか、潜在能力をものにするのが今一番求めてられている。
デービットさんはイギリスの生まれで大学で日本語学科を専攻しました。
およそ30年前に来日し、金融業界で活躍していましたが、42歳で仕事を辞めて趣味の茶道を楽しむ生活をしていました。
2年程してひょんなご縁で文化財の修理を専門とする会社を任されました。
昨年日本の経済を活性化する方法を提言した本を出版して話題となっています。
「新・所得倍増論」を発表。
日本の国宝を守る本だったが、そこから日本経済の全般に対する見方からスタートして、パーツパーツを取り上げて、専門書を書いてきました。
今回は経済専門書と言うことで、生産性の分野を取り上げて書いた本です。
国連の分析、世界銀行の分析とかで日本人労働者の質がきわめて高いという評価をされているにも拘わらず、世界第3位の経済かもしれないが、一人当たりで計算すると27位だった。(本を書いた時点)
2016年の数字では世界第30位です。
子供の6人に一人が貧困、福祉、年金が大変な状況で、高齢者の介護、医療は国として払えるかどうかと言うところがあって、国の借金が1000兆円を超えて居る。
悪循環にある。
これまでの実績のある国の経済成長してきた中で、子供の6人に一人が貧困で、国が破綻して良いのか、いいわけがない、しかし危機感もない。
現実を客観的にみて欲しい。
イギリスの田舎の生まれ、4人兄弟で3番目です。
オックスフォード大学で日本学科を専攻、文学、日本史、読むこと、書くこと、そして戦後経済の発展は論文を書いた部分でした。
漢文、古文、漢詩なども勉強しました。
当時イギリスは失業率が13%とかで日本は高度経済率が高く日本を勉強する人がいなくて、就職が有利なのかなあと思って決めました。
日本企業がニューヨークに進出している関係から、3年間アメリカに住んでいました。
バブルが崩壊して1990年に来日。(日本にある仕事しかなかった)
その後金融機関に入社、42歳で会社を辞める。
茶道、書、能、旅行したりしていたが、京都の町並みを見て、何処にもあるような町並みに変って行くのをみて、ストレスがたまるだけで、一軒を買って改修して日本文化が楽しめるようにしました。
文化財修理会社の面倒を見てほしいといわれて、引き受けることにしました。
日光東照宮が出来たときに出来た会社で、漆塗り、彩色調飾り金具の修理をしてきた会社で、日本最高の技術を持っている。
京都の技術は日光の技術には足元にも及ばないものです。
この業界の職人の4割ぐらいを雇用していて、最大手の会社です。
これが無くなることは日本の文化財の修理としては大打撃です。
職人集団を守らないとしょうがないからと言うことで引き受けました。
京都は分業制が多いが、日光の場合は、日光東照宮を中心に380年前から常に修理をしている場所です。
日光東照宮は建物が多く、仕様が極めて重く、常に仕事がありますから、物凄い技術が集中されています。
18歳で雇って亡くなるまで会社で仕事をしてもらう文化があるが、いろいろ問題があり一時期4割を非正規社員にされた時期があり、私が社長になった時にこれはおかしいので内部の無駄を省いたりして全員正社員に戻しました。
技術の継承は若い人を雇っているか、雇っていないかだけの問題です。
文化財を守ると云うこと自体は意味があるとは思えない。
近代的なものだけではなく、古くはこういうものがありましたということで、人生が豊かになる。
赤坂迎賓館、京都迎賓館のアドバイスをやっているが、国賓が来るときに使われるが、たまに使われるだけなので、もったいない。
一般公開しましょうということになり、毎日何千人来て、意味合い、使われ方、歴史的背景、何処の大統領がきたとか、両陛下がこういうところで実際に御挨拶されるとか、いろいろ紹介している。
文化財は守るためにあるのではなくて、皆さんが学んだり体験したり空間を楽しんだりするためのものなので、文化財を皆さんに楽しんでもらうためのものだと思っていて、楽しんでもらうために修理をしなければいけないということで、修理をする職人が結果として必要になってくるが、これがメインになってはだめなんです。
文化財を説明するときに、建造物としての説明が多くて残念に思います。
陽明門を50年ぶりに修理をして今年3月10日一般公開しましたが、私が検査してきましたが500以上の彫刻があり、漆、金箔がありすばらしいものです。
いろいろな彫刻物などはそれぞれ深い意味合いがあり、日本の宗教の考え方、哲学的な事、道徳、なんの意味があり何を伝えようとしているのか、残念ながら伝えて居ない。
これからは解説しようと、事業を立ち上げて居る最中です。
日光の場合は見えるところが彩色されている処だけではなくて見えないないところも彩色されている。
職人の世界と神様の世界で、修理するときにしか見れない。
角の龍の彫刻などは頭の部分は誰にも見れないので普通のやり方ではそこには彩色しない。
彩色は通常は顔料をじかに塗るが、日光ではまず漆を塗って(黒と赤の両方塗っている)、その上に全面的に金箔を貼って、その上に彩色を塗るが、普通は一色塗るが、二、三回塗り重ねていってぼかしたり色んな事をしています。
こういったものは日光にしかない。
段々劣化して外側が消えていくが、重ねて塗っているので顔が変わっていきます。
更に劣化すると、金箔が見えてきて、金箔が無くなると、漆が見えてきて何時まで経っても木が見えない、違う楽しみがみえてきて何時まで経っても美しいままで、これは独特の文化です。
こういったことは説明しないと判らない。
外国人観光客にいうのではなくて、向こうから言ってもらうのがベスト、感じてもらって理解してもらって日本文化の深さを言ってもらう。
時間とお金をかけて日光に来て、感動するものなのに感動させないままで帰ってもらうことは作った人(命をかけて修理しているのに)に対して失礼だと思います。
外国人にもきちんと説明すると又来たいと感じるかもしれません。
明日の日本を支える観光ビジョン構想会議が開かれたが、2020年4000万人、2030年6000万人外国人観光客を誘致すると云う目標が設定された。
文化庁の日本遺産認定が数年前から始まっているが、ストーリーがあるので、物語を語ってもらおうと整備している。
どういう神様、仏様かとか、歴史的な事とかいろいろな情報を知らせる。
多面的に判るように解説をやろうと文化庁などでやっています。
観光産業がどう伸びて行くのか楽しみです。
京都は世界観光都市として満足度世界一になりました(イギリスの雑誌で紹介)
外国人宿泊世界観光都市ランキングがあるが、2年前 100位以内に入っていない、昨年89位、潜在能力は1位、実績は89位と言うことです。
日本経済全面的なものです。
89位をトップ10あるいは20にするのか、潜在能力をものにするのが今一番求めてられている。
2017年4月4日火曜日
伊藤ゆき(ネパール研究者) ・ネパールに魅せられて40年
伊藤ゆき(ネパール研究者) ・ネパールに魅せられて40年
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。
9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。
ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。
村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。
海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。
高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。
ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。
ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。
9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。
ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。
村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。
海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。
高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。
ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。
ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。
2017年4月3日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】西郷隆盛
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。
祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。
1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。
学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育
鉄道開業
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。
林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。
西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。
祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。
1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。
学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育
鉄道開業
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。
林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。
西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)
2017年4月2日日曜日
堀 絢子(声優) ・【時代を創った声】(第14回)
堀 絢子(声優) ・【時代を創った声】(第14回)
堀さんは50年以上にわたって声優活動を続けてきて、「忍者ハットリくん」のハットリくんや、「新オバケのQ太郎」のQ太郎役などで知られています。
先月にはその年度で最も印象に残る声優や作品をたたえる第11回声優アワードで功労賞を受賞しました。
広島を舞台にした反戦反核を訴える独り芝居、「朝ちゃん」は30年近く続けられて講演数は250回を超えています。
「新オバケのQ太郎」が1970年代、「忍者ハットリくん」が1980年代に放送。
曽我町子さんが演じて居て2作目のお化けのQ太郎を担当。
子供の世界が良く描かれていた、子供が遊べるような、子供たち自分が飛び込んでいけるような子供の世界という、気持が遊べるようなそれが素敵だったと思います。
声優の人たちもまだアニメの世界がいっぱい作られていたころではなくて、始めたばかりだったのでみんな遊びたがっていました。(収録自体を楽しんでいた)
ハットリくんは服部半蔵の子孫と云う設定となっている。
語尾に「ニンニン」とつけたのは私でした。
いきなり屋根を掃除することになり、そのシーンが長くて困ったと思って、間が持てないと思って「ニンニン」と言って暴れたんですが、スタッフも気がつかなくて、それでも受けていました。
そのほかに「ニンともかんとも」とかいろいろ付け加えていきました。
アドリブもそこが楽しければ楽しいほど生き生きとしてくる。
ちょっとした表情とか動きとかの中に楽しさがあると良いんじゃないかと思います。
ちゃんとした絵が無くて勝手な想像でやってるだけのこともありました。
高橋和枝さんがいてゲストが来て電話をする形式があり、キャラクターがコロンコロン変わって見事だなあと思ってあんなことがやれるのならやってみたいと思いました。(高校生の頃)
高橋和枝さんは天才だと思いました。
それから入って行きました。(その前は児童劇団に入っていました)
母親から大反対されて、往復ビンタを貰いました。
ろくなもんじゃない世界だと思っていたようです。
いろんなアルバイトをしながらレッスン料を稼いで、母親には内緒でレッスンをしていました。
作ると云うことに凄い魅力を感じて居ました。
やっている中の面白さは他にたとえようもなく楽しかったです。
父は医者で母親は進路はそっちの方面を願っていたようでしたが、父は早く軍医として招集されて広島に行って、8月6日の朝礼の時に原爆が落ちて、三次までトラックで自分ではいあがれる者だけ連れて行ってたが、父は亡くなってしまいました。
母は医僚系の仕事に(医者がだめなら薬剤師とか)つかせたかった。
反対を押し切ってやってきました。
独り芝居「朝ちゃん」、原爆の被害にあった朝ちゃんを助けようとする家族と友人の物語を通して反戦反核をうったえる独り芝居。
反戦(半千の)500回の公演を目指してきて、現在254回ようやく半分になりました。
どんなに父が悔しかっただろうと思いまして、あの人が生きている方が私が生きて居るより世の中のためになると凄く思ってしまって、私が何十倍も頑張らないと生きているって許されないと思ってしまって、自分に出来ることは無いかと思ったときに、子供の番組をやらせていただいてきたので、恩返しもしたいと思って、そういう内容に取り組むことにしました。
命を大事にしてほしいということと、粗末に自殺したりするなんか許さないと思って、命を大事にしなくてはいけないと云う事をずーっと訴えて来ました。
最初の頃、20歳代の女性が来て、自分はずーっと死にたいと思っていて、手伝えと言われたからここに来たけど死にたいと思うのはやめましたと言って、凄くうれしかったです。
どんなにつらくても生きていきましょうと言ってその人と手を取り合ってニッコリ出来ました。
一回しかない命だから粗末にしては厭だ、と一生懸命訴えて居ます。
山本 真理子さんの「広島の母たち」という本に出会いました。
これを形にして伝えていかなければいけないと思いました。
ハットリくんを始めたころでしたが。
白いセーラー服にモンペ姿でやっています。
難しいのは誰も助けてくれないということと、芝居全体の把握がきちんとできるように自分で心がけて居るつもりです。
でもまだ足りないのではないかといつも思っています。
若い人たち皆さんとっても出来るのが早くて器用ですが、もうちょっと下手でもいいかなあと思ってしまいます。
器用すぎて、上手過ぎて面白くないんです、生きて居るってそんなに器用でパキパキしてないと私は思います。
欠けて居るのが人間だと思っていて、皆さん上手だからどういう風にやればと口では言えないが、段々やっているうちに自分で感じ取って下さるしかないと思います。
人間としての心がちゃんとみなぎっていれば、温かみがちょっと加わって来ると思う、そうすればしめたものだと思います。
これから先もそれなりにやってゆくしかないですね
2017年4月1日土曜日
山本一力(作家) ・歴史にみる土佐人の気質
山本一力(作家) ・歴史にみる土佐人の気質
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。
窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。
喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。
「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。
ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。
土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。
東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。
万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。
アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。
大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。
窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。
喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。
「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。
ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。
土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。
東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。
万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。
アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。
大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。
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