2024年10月31日木曜日

今井むつみ(発達心理学者・慶応義塾大学教授)・赤ちゃんは、言葉を覚える天才!

今井むつみ(発達心理学者・慶応義塾大学教授)・赤ちゃんは、言葉を覚える天才! 

何故ひとは言語を持つのか、子供はどの様に言葉を覚えるのか、その謎に迫った今井むつみさんと秋田喜美さんの共著「言語の本質」言葉はどう生まれ進化したのか、大ベストセラーになり2024年の新書大賞を受賞しました。 今井さんはそのカギを握るのはオノマトペと赤ちゃんの探求心の操作だとおっしゃいます。  人はどのように言語を獲得してゆくのか、その過程でオノマトペ(擬声語)はどのような役割を果たしているのか、又人とAIの言語の学習法はどう違うのか、今井さんにお話を伺いました。

「言語の本質」はこんなに反響があるとはつゆほども思っていませんでした。 内容は心理学だったり、言語学だったりかなり広範囲に及んでいて、内容的には抽象的な話だしかなり難しいんじゃないかなと思っていました。 多くの人に読んでいただいて、全く予想もしていませんでした。 

赤ちゃんの言語学習はもうお母さんのおなかで始まっています。  音というよりはリズムのパターン、言語特有のリズムがあります。 英語のリズムと日本語のリズムは随分違います。  日本語は平坦で必ず子音、母音があります。 英語はアクセントの位置で単語が認識される。 アクセントを中心に単語が発音され、文が作られる。 お腹の中にいる時には水のなかにいるので、細かい音は聞こえない。 抑揚なパターンとリズムを学習します。 

赤ちゃんが最初にしなくてはいけないのが、単語を見つけてゆく事で、その一つの手がかりとして抑揚なパターンとリズムは重要な役割をします。  生まれてからは音の聞き分けです。  単語を見つけてゆくには、自分で手がかりを捜していかなければいけない。    ミルクとかお腹とか、大事な音の繋がりで、それが何度か現れてくると、これは一つの単位なのかというふうに気づいてゆく。  でもまだ意味は分からない。 

オノマトペ(擬声語)が何で大事かというと、この音の塊には意味があるという事をわかっていないと捜しようがない。 ヘレン・ケラーはあの有名な「ウオーター」、先生がポンプを押して掌に水がかかって、その時に先生が「ウオーター」というスペルを手にしたら、その時直感的にこれは名前なんだと、スペルと水が繋がり、彼女は全てのものに名前があるという事に気が付くわけです。 言語という抽象的な記号の集積を学習するのに、絶対に必要な気付きだと思います。 名付けの洞察と言っています。  ヘレン・ケラーは全てのものに名前があることが判って、触るものにこれは何かと先生に尋ねて、帰るまでに30ぐらいの名前を憶えてしまいました。 

普通の言葉はあまり意味と音の間に関連性が無い。 オノマトペ(擬声語)は連想がしやすい。 音と意味の対応付け、が感覚的に判って、その経験が言葉には意味があるという事の直感を得るのではないかと思います。  動詞は抽象的でイメージが湧きづらい。 保育園で「ガラガラペー」をしなさい、「ブクブクペー」じゃないと言うと判る訳です。 判りずらい動詞を何となく感覚的に意味が判る。   ものだけではなく行為にも意味があることが判って来る。 どういう言葉が判って、どういう言葉が判らないのか見極めが大事です。表情で判断して判らないと思ったら言い換えて、手掛かりを増やす。  周りの大人の役は凄く大事です。   最初はシンプルに単語だけを言う。   常に観察するという事が大事です。 

絵本の読み聞かせは凄く大切です。 子供の反応に応じて、余分に話を広げてあげたり、飛ばしたり、親が子供に合わせ子供が聞きたいことを話してあげることが大事です。 生で読み聞かせするのと、デジタルで声優さんの録音したのを比較すると、生の方が言葉をよく覚えます。(臨機応変に赤ちゃんの反応によって対応するから)  実際の感覚の経験をすることは大事です。 

AIと人との学習の違い。 AIは膨大なデータを最初からどんと与えられて、そのパタンを分析する。 赤ちゃんは限られた情報処理能力しかない。 自分がいま処理できる情報しか入れないという事をしています。 それを少しづつ広げてゆく。 AIには名付けの洞察というようなことは一切ない。  統計的なパターンの学習をしている。 視覚情報だけで、触覚、嗅覚などを繋げようとしているが、数値として学習する。 感覚のネットワークは難しいと思います。 紐つかないのは感情だと思います。 

子供が発達するうえで大事な事は、一つは自分でいろいろな仕組みを捜して、ある種の洞察を得て、発見して、自分の今ある知識の状態よりも、一段抽象化されたとか、一段上の段階に自分で自分を持ってゆく、そういう事を子供はしています。 人間はなぜを問うが、生成AIは問わない。  人間は因果を突き詰めようとする。 

「学力喪失」という本では、言葉というものは本当に抽象的な記号の集まりで、これを学習するというのは凄いことだと思います。 大人は手助けはするが教えることはできない。 赤ちゃんは自分の力で様々な仕組みを見つけて、洞察を得て自分の力でどんどん言葉の抽象度を上げて行って、概念を学習してゆく。  なのに学力不振という事を考え続けてきました。 例えば分数の意味が全然判っていない。(小学校5年生)  そもそも子供たちの問題ではなくて大人たちの方に学力というものに対して、知識というものに対して、大人の方に誤解があるのではないか、という風に考えました。  大人は一生懸命説明しようとして、説明したら判るという考えがあって、子供の観点からすると抽象的なことを言われると入ってこない。 自分で感覚的に数を操作したり、体験したりして、そこから自分で抽象化をする。 そういう経験が足りていないから、記号設置というものが数に対して出来ていない。 そういう子供が沢山いるのではないか、ということを考えて私の作った「たつじんテスト」の調査から判ったことを交えて、子供がなぜ学校で躓いてしまうのか、という事を述べたのが、「学力喪失」です。















 

2024年10月30日水曜日

玉田元康(歌手 ボニージャックス)    ・人生はチャレンジ 90歳のソロデビュー

玉田元康(歌手 ボニージャックス)    ・人生はチャレンジ 90歳のソロデビュー 

玉田さんは1958年早稲田大学グリークラブなかま4人でボニージャックスとしてデビューしました。 以来66年に渡って現役でステージに立ち続けてきました。さらに今月2日には、90歳にして初めてのソロコンサートを開き、朗々とした歌声で会場を魅了しました。  一方私生活ではここ数年に間に、最愛の妻とステージを共にした創設メンバーを相次いで亡くしています。 大切な人たちとの別れを越えて、90歳の今もチャレンジを続ける田村さんにお話を伺いました。 

*「小さい秋見つけた」 歌:ボニージャックス

西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の歌声も聞こえます。 鹿嶌さんはこの9月に亡くなりました。 学生時代から数えると70年になります。 西脇さんが亡くなったのは2021年です。 今は2人になってしまいました。 

私の生まれは旧満州です。 北朝鮮に近い穏やかな暖かいところです。 両親は九州の生まれです。 満洲で成功した親戚が居て、父は中学を卒業までせずに満洲へ行きました。 母とはお見合い結婚しました。  僕が生まれた頃は坑木を扱い会社でも偉くなっていて羽振りは良かったです。 日本は敗戦となり満洲から引き揚げてきます。 1週間ぐらい野宿して、北朝鮮迄歩いていって、身ぐるみ剥がれたこともあり、38度線を越えてからも1週間ぐらい野宿しました。 仁川という港町迄たどり着いて、その途中でも脱落する人、亡くなる人がいました。 その時は12歳でした。 博多に着き故郷の天草に行きました。

祖父、両親ともに教育には熱心でした。  満洲にいる頃に山を買わないかと言われて、父が購入してそれを売って、僕の早稲田の学費にしてくれました。   兄弟は全部で6人いました。 兄は学徒出陣して、シベリアに抑留されて、僕たちが帰ってきた2年後に栄養失調で帰って来ました。 一番下の妹は若くしてがんで亡くなりました。 2人の姉と妹も音楽教師になりました。 早稲田大学に入ったら合唱はやりたいなと思っていました。 グリークラブの歌を聞いてすぐに入部しました。 

ボニージャックスを形成して。第一回目のリサイタルは思い出に残っています。 スタートして5,6年でした。  熱気、拍手に感激しました。 妻は一つ年上で認知症の介護を10年ぐらいして見送っています。 僕が70代の後半に認知症だと判りました。 認知症の症状が段々悪くなってきて、介護していましたが厳しくなって、通いの介護施設に入れて、その後特養老人ホームに入り、その年の12月に亡くなりました。(2018年)  仕事で死に目にも会えませんでした。  私ら夫婦には子供が居ませんでした。 そのころ仕事も少なくなってきていました。 妻が亡くなった施設から新聞の求人広告がありまして、経験不問等ありましたが、70歳以下と書いてありました。  その時には僕は85歳を過ぎていました。 直談判をして入れていただきました。 いろいろな単純作業がありますが、他に「みんなで歌おう。」という事をやりました。 2019年12月から今でもやっています。  最初は週5日でしたが、今は週4日になり、歌の方を重要視してくれるようになりました。  懐かしい歌が多いです。 昔の歌が記憶の回路を繋げてくれると言いう事がある様です。 

施設へ20分程度坂を登って歩いていきますが、それが健康にいいことだと思います。  90歳でソロデビューしました。  ためらいとかは無かったです。 大庭照子さん(NPO法人日本国際童謡館館長)からの後押しもありました。  西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の分も頑張らなければという思いもあります。 ボニージャックス合唱団というのを作ってバックアップしています。 ボニージャックスも2人で続けていきたいと思っています。


















2024年10月26日土曜日

西田敏行(俳優)             ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

 西田敏行(俳優)  ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

毎週のように父親と一緒に映画を観ていたこと、それがきっかけで幼いころから俳優を目指したこと、御蕎麦屋さんで父親が食べ方を知らない若い姉妹にさり気なく食べ方を見せてあげた忘れることのできない光景、原発事故など故郷福島への思いなどを中心にお話を伺いました。

西田敏行さんは1980年民放のドラマ「池中玄太80キロ」で一躍人気者になりました。  主題歌の「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしました。 テレビ、舞台、映画で活躍を続けるその根っこにはどんな日々があったのか、そして記憶に刻まれているあの時の味を伺います。 

ドラマ「池中玄太80キロ」が大ヒットしました。 「玄太」って呼ばれました。 主題歌も当たっちゃいました。 歌手としても紅白歌合戦にも出ました。  あの時は「女太閤記」で秀吉をやらせていただきました。 夢のような年でした。 実母が歌がうまかったです。 歌は特別なレッスンを受けたわけではないんですが、歌は好きです。 役者はいろんな人間を、いろんな人の人生を俯瞰で見られたり、あおって見られたり、引いてみられたり、人生のメリーゴーランドに乗っているみたいな感じです。  或る人物に焦点を当てて、その人物に対してずーっと見つめることができ、追体験も出来るみたいな仕事って、こんな楽しい事は無いですね。 人間というのは不思議な生き物ですね。 戦争、殺人もするし、ちょっとしたことで感動して涙を流すのも人間だし、人間って何だろうと思います。  いろんな側面が人間にはありますね。 

自分が演じられる範疇は限られるし、絞られてくるという事は感じます。 大きい視点と物凄い深い視点と両方を持って人間、人生を見つめてみると、楽しいかなと思います。 青年座という劇団に入りましたが、俳優座から分裂した劇団で昭和29年に創立しました。 その後矢代静一さんの『写楽考』という舞台で主役に抜擢されました。(22歳 劇団2年目) 70年安保の時期でもあり悩んだりもしました。 人間って何を求めて、何をしたら本当の意味での幸せというものを感じ取ることができるのか、というようなことを若いなりに、役者仲間と集まって飲んでは喧々諤々と意見を言い合って、熱い時代でした。

食べ物としては会津の「みしらず柿」干し柿がうまいんです。 福島の味という感じで食べていました。 ゆべしというお菓子がありますが、素朴な甘さで心筋梗塞で倒れた時(2003年)には、子供のころ食べたゆべしが無性に食べたくなり、送ってもらいました。 健康には自信がありましたが。 頭の中では命日だと思いました。  頸椎の亜脱臼もありました。  入院して手術が必要だという事になりました。 第一頸椎で血管に一番近くて、切開するときにも血管に傷をつけると、あっという間におしまいなので非常にデリケートな手術なので、リスクは多いですと手術前には聞かされました。 当日になるまでナーバスになってしまいました。  健康には過信があって暴飲暴食がたたったのではないかと思います。  

幼少の頃西田家に養子に行って、父は引き揚げてきたばっかりで、母がおやつ代わりに梅干しに一寸お砂糖をかけてくれて、養母と実母が話し合っていて、梅干しを半分ぐらい食べていたら、実母が「じゃあね。」と言って、実母が遠ざかってゆくのを見ていました。 想起させる食べ物としては梅干しがあります。 

ラジオの新日曜名作座、森繁久弥先生と加藤道子さんは50年続けられました。 後を引き受けられるのかなと思いましたが、竹下景子さんと二人で楽しんでいます。(10年が経つ。)  加齢とともに声がかすれてくるので、声の発声は毎日練習をやります。(シャワーを浴びながら。) 70歳になると、周りの人と共にいい仕事をしたなと言えるように、ずっと続けて行きたいです。  お客様に素晴らしかった、楽しかったと言われることが、一番の自分のご褒美として生きて行こうと思っています。 

頸椎を痛めたので歩行がままならないところがあり、スクワットを毎日やっています。  若いころは身体は丈夫でした。 「植村直巳物語」で5000mを越えるところで、走ったり、荷物抱えたり、肉体が耐える様28日間トレッキングで歩きました。 やり通したので自分は頑丈だという過信があったのかもしれません。 僕はアンチエージングではなく老いを受け入れようと思っています。










2024年10月24日木曜日

山枡あおい(国立西洋美術館学芸員)    ・〔私のアート交遊録〕 光の画家モネが見つめた世界

山枡あおい(国立西洋美術館学芸員) ・〔私のアート交遊録〕 光の画家モネが見つめた世界 

国立西洋美術館では今、クロード・モネの「モネ睡蓮のとき」が開かれています。 山桝さんはこの展覧会の日本側監修者をしています。 この展覧会はマルモッタン・モネ美術館からの本初公開作品を含むおよそ50点に日本国内の所蔵作を加え、晩年の製作に焦点をあて、モネの芸術の豊かな展開を辿るというものです。 日本では過去最大規模の睡蓮が集う機会となります。 光の画家モネが後半生を奉げることになるのは、睡蓮の花咲く池、そこには最愛の家族の死あ自身の目の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面するモネの姿があります。 日本人が愛してやまない印象派、中でも光の画家といわれるモネの世界の魅力について、聞きます。

モネの晩年にしぼった展覧会です。 1890年代以降、特に20世紀に入ってからの作品1910年代以降モネが70歳を越えたからの作品が多いです。 絵の描き方、筆のタッチの使い方、絵のサイズ(格段に大きくなる。)などが違ってきています。  睡蓮のテーマは晩年のモネにとって、間違いなく最大の創造の源で、今回、睡蓮を描いたものだけでも20点以上は展示されます。 池のふちに咲く花とか、睡蓮に関連する作品も沢山展示されます。 全部で65点が展示されます。 

1920年代日本人がフランスに行って、モネの作品を購入する。 いい作品が日本にあります。  印象派を語るに当たって、19世紀のフランス美術を語るうえで欠かせないのが、アカデミーという組織がありました。 一つは教育という側面、サロンでの唯一の作品発表の場でもあった。 アカデミーはあらゆる画家、彫刻家、芸術家のキャリアを左右する存在でした。 印象派を一言で定義すると、アカデミーが左右するシステムから完全に離れたところで、製作を行い発表をした、この点に尽きるのではないかと思います。 印象派という名前は1874年(150年前)非常に豊かな個性を持った画家たちが、アカデミーに反発する形で、自分たちの展覧会を独立した立場で開催した。 その展覧会に出品された作品の一つがクロード・モネの作品でした。 それを見て「印象に過ぎない。」と言って、アカデミックな立場で悪口を言った「印象」という言葉が印象派の名前の起源になります。

それまで絵を楽しむのは王侯貴族でした。 革命以降一般市民が楽しむようになった。  都会の生活に疲れた人たちが郊外に出掛けて、自然を楽しんだり、レジャーの概念みたいなものも新しく生まれて来る。 印象画を描く風景は、或る意味レジャーの表象だと捉えることもできる。  印象派のメンバーとしては、モネ、ルノアール、カミーユ・ピサロ、セザンヌなど、強烈な個性を持った画家たちがいっとき集まって、印象派というグループで活動していました。  モネは抽象的なところもあり、1950年代にアメリカで出てくる抽象表現主義、アクションペインティング、ジャクソン・ポロックとか、と言った画家にも通じるような、予告するような表現方式にたどり着いた。 セザンヌとは対照的で、セザンヌは幾何学的な抽象絵画の父と言われるようになります。  モネは感情的な、表現的な抽象絵画の父と言われます。 

モネが生涯一貫して追求したのが、光の表現です。 常に移る捉えがたいものを、捉えることにこだわって鋭い眼と造形的な造形感覚を持っていました。 よくわかるのが連作と言われるモネ独自の形式です。 或る一つの同じモチーフを様々な天候であったり、時間という条件の元に、繰り返し描く、描いているモチーフと構図は全く違いますが、作品によって色彩、つまり光が異なっている。 光が主題になっている。  主題は何でもよかったとこれまで言われてきましたが、実はそうではなくて、積みわら、ルーアン大聖堂というモチーフにせよ、フランス国家、国の豊かさに結びつくモチーフを主には選んでいます。    モネは睡蓮の池に主題を集中していくわけですが、池の水面もある程度光と同じようなところがあって、やっぱり形、色彩を持たない、絶えず揺れ動いている。  捉えがたいものを捉えるという挑戦に没頭として行く。  

外に出て描くという事には、蒸気機関車が整備されてゆき、簡単に郊外や地方に出掛けることができるようになった。 チューブ入り絵具が発明されて、より簡単に持ち運べるようになった。 合成絵具がどんどん出てきて、色のバリエーションも増えてゆく。 

1910年代以降の製作では、最愛の奥さんを亡くしたり、目の病に罹って見えづらくなって、様々な困難に見舞われていた時期でした。 一時期製作を中断した時期もありましたが、制作意欲を取り戻して、睡蓮という主題に数十年以上奉げました。  大装飾画、睡蓮という一つの主題で部屋の壁面を覆いつくす。 又、幅4~6mのキャンバスに描いて、それをさらにくっつけてゆく。 モネが大装飾画に挑戦した時期は第一次世界大戦の時期でもありました。 終戦の翌日に描いていた大装飾画を国に寄贈します。 大装飾画のプロジェクトはある意味平和モニュメントといえるような、記念碑的な性格をもっていた。 モネの集大成という事もあったと思います。 晩年になると睡蓮とはわからなくなって来る。  睡蓮の花は主役ではなく、主役は水と水に映る反映像にあると言っています。 独立した立場で絵を描くという姿勢が、印象派の画家たちが打ち出すことによって、様々なものが生まれてくる。 新しい美術運動の先駆け的な存在ではあると思います。 

今回注目の作品としては、マルモッタン・モネ美術館から今回かりて来た、睡蓮の柳の半映を描いた作品、大装飾画の製作過程で生まれた作品(縦、横、2m四方)ですが、ほとんど睡蓮は描かれたてはいない。 青が基調となったぼんやりとした作品で、水面に柳の反映が中央に描かれています。 モネは大装飾画に関連する作品は売りたがらなかったが、唯一手放すことを許したのが、松方幸次郎だったんです。 横幅4mの作品で、一時期行方不明になっていました。 2016年にルーブル美術館の片隅で見つかりました。 現在、当館に所蔵されています。 

私は両親に連れられてよく展覧会にはいきました、 印象派の作品は近すぎたのか、関心は余り無くて、印象派の前の時代のフランスの画家の研究をしていました。 印象派ではセザンヌなどは好きでした。 モネ、ルノワールは親しみが深すぎたのか、中々関心は持ちませんでした。 でもやっぱいいなあと段々思うようになりました。 

お薦めの一点としては、当館には2016年に発見されたものと、もう一点ありまして、裏打ちされていない珍しいもので、裏打ち用のニスの影響がないもので、当時の色の質感がそのまま見られます。













2024年10月23日水曜日

2024年10月22日火曜日

大塚智丈(精神科医・西香川病院 院長)   ・人生100年時代 “ありがとう”のバトンつなげたい

 大塚智丈(精神科医・西香川病院 院長)   ・人生100年時代 “ありがとう”のバトンつなげたい

大塚さんは61歳、院長を務める西香川病院は認知症医療に力を入れている病院です。  大塚さんは診察に訪れる認知症の人に、「堂々とお世話になって下さい、そうでないと将来貴方の子世代、孫世代の人たちが世話をされることが恥かしいと思わなければならなくなります。」と頭を下げてお願いします。 ケアされることを申し訳ないではなく、有難うと感謝の気持ちで次の世代に繋げたいと考えている大塚さんにお話を伺います。 

日本では人類史上未曽有のスピードで高齢化が進んで居ます。 それに伴って認知症の数もかなり増えてきています。 2022年のデータで65歳以上の高齢者の認知症の人と認知症の予備軍と言われる軽度認知症の方は1000万人程度と言われている。 80代後半で4、5割、90代前半で約6割、95歳以上ですと8割という数字です。 女性の場合は87歳で認知症になって90歳まで生きるというのが、今現在でも平均的な生き方になっている。 多数派になってきているので、認知症になること自体を恥ずかしいとか、情けないとか、思う事自体おかしいのではないかと思います。 これだという予防法は無いです。 認知症のイメージを改善しながらやっていただくという事、備えが重要だと思います。 

20年前から始めていますが、最初の頃は心の面までは関心が行きませんでした。 NHKのクローズアップ現代で、クリスティーン・ブライデン(オーストラリアの人)さんが若年性のアルツハイマ―型の認知症になって、こんなに考えて、感じているんだという事を講演された方です。 自分の中にあった偏見に気付かされました。 信頼関係を大事にするようにしました。 それが出来ると話がしやすくなります。  

認知症になると鈍感になるようなイメージがありますが、敏感になっておられます。 些細な失敗でもその感じ方が普通の人とは違います。 自己否定感が強くなってくることがうかがえます。 認知症の人が感じている辛さは二つあります。 ①能力低下によって起こてくる生活障害です。(不便で大変)  ②認められたいという心の欲求が満たされていない事。 ①への対応はするが②への対応へは目が向いていかない。 

認知症になって怒りっぽくなった患者さんが、5年ほど経って、認知症になっているとは知らずにいろいろと質問をして、それに答えたりしたが、(社会の中の一員として自分をある時感じて)、その後一時期怒りっぽくなくなったという事がありました。  自分が役に立てたと感じられたんじゃないかと思います。  認知症になった人が、「今迄と同じように接してくれなくなったことが一番つらいです。」と本人の口から聞きましたが、今でもよみがえって来ます。  30年前に比べると認知症の進行のスピードが1/3になったと言われています。(東京慈恵会医科大学 精神医学講座 客員教授の繁田雅弘氏) 楽しみ、生き甲斐を持っている方はゆっくりが多い。 

脳と心の関係はどうなっているのか、ずーっと興味を持っていました。 医学部に進んで精神科が一番それに近いと思って、入りました。 しかし認知症には全く興味はありませんでした。 病院に入って、或る時に精神科は認知症をやって下さいと言われました。 22年前に開設しました。  2年前から、認知症のイメージを改善する話をスタッフも陪席して話をしています。 認知症の人は不便だけれども不幸ではない。 認知症の方が相談員になって、「出来る事の中で楽しめることをやって行ったら、それで十分幸せですよ。」と、当事者の方にお話ししています。 出来ることをやってもらって、そのことに感謝の気持ちを述べると、自己肯定感を感じる。  出来ないことに注意したりするとイライラしたりして、自己否定感も強くなってくるし、家族との関係性も悪くなって来るし、意欲、活動性もなくなって来る。  ポジティブな感情は進みにくくなる。

少々お世話になったり、迷惑をかけてもいいんだと、堂々とお世話になったら、お子さん、お孫さんも同じような状況が生まれてくる事と思います。 人生100年時代を迎えると、人生の最初と最後は、人間としてお世話になることは自然な事ではないでしょうか。  

若い時には認められたい自分というものがあると思いますが、認められるようになると、今度は役に立ちたい自分というものが出てきて、そうすると満足感が得られるので、人間としてもらえるものが沢山出てきて、遣り甲斐が高まって来ていると思います。 













2024年10月19日土曜日

名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

 名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

テレビやラジオのコメンテーターとしてお馴染み精神科医名越康文さん(64歳)のお話を伺います。 奈良県出身の名越さんは小学生の時に、人はどうして死ぬのになぜ生きるのかという疑問を抱きます。  名越さんはその問いに悩みながらも医学部を卒業し、精神科医として多忙な日々を送りますが、心身ともに疲労のピークに達した時、知り合いから或る寺を訪問することを薦められ真言密教と出会います。 その後名越さんは本格的に仏教を学び、日常生活の中に行や瞑想を取り入れてきました。 名越さんは特に真言密教空海に共感し、現代人が生きてゆく課題を仏教心理学の視点から考察し、仏教系の大学などで発信を続けています。    子供の頃抱いた問いに対してどのような答えを見出したのか、名越さんの思いを伺いました。

僕は昭和35年生まれで商店を経営していてほったらかしでした。 おっちょこちょいの性格でした。 父方のお爺さんが亡くなって、初めて死と直面しました。(小学校3年生)  明け方に鉄人のような父がオイオイ泣いていました。  崖から車ごと谷に落ちて交通事故で亡くなったと聞きました。 父親が亡くなるという事はこんなに悲しい事なんだと鮮烈に覚えています。 小学校4年生の時に海底大戦争(特撮映画)を見に行きました。 人間が人間を殺してゆくという風にしか見えなくて、それから一週間夜になると人間は死んだあとどこへ行くのかと大問題で、泣けてくるんです。  子供心にいくら大きな家を建てても、お金儲けても、人と仲良くしても、全員と別れるという事が判るんです。 この世にあるものを全部捨ててあの世に行かなければいけない。  生きている間に勉強、スポーツしなさい、友達を作りなさい、とか全部虚しくなっていくんです。 どうせ死ぬのにこの世の中で僕は何をしたらいいんだと思いました。(10歳) 5年生の時に国語の授業がありました。  パンドラの箱、その中に自分の心を封印しよう儀式を行いました。 

医者になって欲しいという両親の強い希望で、私立灘中学に進学します。 父が開業医の娘と結婚して薬剤師になっています。 医学部に入るという事が人生の目的でした。 医学部に入って、追試を受けて3つのうち2つ落ちるとで留年でしたが、3つとも受かることが出来ました。 駅へ向かう坂道で生暖かい風がワーッと吹いて、パンドラの箱の蓋がパカッと開くのが聞こえました。 お前は何のために生きているんだと、きました。 

祖父が脳溢血で寝ていましたが、生きることに苦しんでいることを伝えたら、増谷文雄さんという仏教の研究者の「仏陀」という本を薦めてくれました。 2日間で読み切りました。 クレイマックスのところで悟りの内容、どう生きて行ったらいいかわかると思ったら、「仏陀は悟った。」しか書いてなかった。  いろんな本を読んだり瞑想したりしました。  3年生で留年しました。  野田俊作先生との出会いがありました。 友人が、精神科医が行なっているアドラー心理学のオープンカウンセリングの見学に誘ってくれました。 不登校のカウンセリングを受けていた暗く落ち込んだ顔をしていた女の子が一時間程度で笑顔になったのを間近で目にしました。 精神科医になろうと決心して、26歳で医師国家試験に合格して、研修前に配属された脳外科で忘れられない一人の患者さんと出会いました。 

若い女性で、脳幹部にある悪性の腫瘍でした。  完治は無理で延命のための手術をしようという事でした。 点滴をするんですが、血管に入りにくい時があり、2,3回入れ直しをしたりしました。  全く痛いとか言わないで、こちらに配慮するんです。 手術前日に髪の毛を切って剃髪するわけです。 最後の仕上げを僕が担当しました。 涙が数滴落ちるのをみて、心に押し寄せるものがありました。 手術も無事終えて、懸命にリハビリをするなか、脳外科での研修期間が終わりを迎えます。  その後お見舞いに行って絵本と小さなお地蔵さんを送りましたが、父親からなくなったことと、御見舞いの品物は一緒に納棺しましたと言う手紙を頂きました。  どういう返事をしていいかわからずに今に至ってしまいました。  何でこんな優しい人がなくなってしまうのか理不尽さを感じました。 生きるといことは複雑怪奇で答えのない問いが次々にやって来るんだと思いました。 

精神科病院で勤務して38歳の時に病院を辞めて、クリニックを開業しました。  どうしてもという時には電話をかけて欲しいと言って、いつの間にか患者さんの8割が僕の携帯電話番号を知ることになってしまいました。 一番多くかかって来るのが夜の10時から2時ぐらいです。 2月頃にふっと目が覚めると、身体が冷えているんです。 Tシャツで寝ているのに汗でびしょびしょになっていて、自立神経が失調していることに気付きました。(開業して4年ごろ)  自分でも治療をしましたが無理だという事で、真言密教の祈りのお寺がありまして、そこで説明したら「大慈悲」と言われました。  「私に出来るでしょうか。」と言ったら、「貴方ならできる。」と言われました。 もう48歳で、今から仏道の修行をして出来るのかと思いましたが、「出来る、思った時からやりなさい。」と言われて、その場で真言密教の瞑想のがちれんかん?という瞑想がありますが、それを押しせていただきました。  そこから仏教の勉強が始まりました。 真言密教との出会いが大きな節目になりました。 

仏教には学と行があります。 学と行を等分にやりなさいといつも言われました。  空海の大日経の「十巻章」という重要な教科書があり、「三句の法門」という考え方が出てくるんです。 人生を成功させたい、充実させたいという人はこれをやりなさいと言う事が、大日経の中に出てくるんです。 「三句の法門」の一つは、「菩提心を(ぼだいしん)を因(いん)とし」、私なりに意訳すると、人間の心というものは、人格というものは、無限に成長出来る、という事に気付きましょう死ぬまで成長していきましょう、という事です。 二つ目が「大悲(だいひ)を根(こん)とし」、大悲の心を持ちなさい、どんなに幸せそうに生きている人も、心の中には地獄を抱えている、病気の2,3つは抱えている、その人の中には深い悲しみ、苦しみがある、それに心を寄せましょう、出会った人のみんなが苦しみにあえいでいるという事に共感しましょう、という事です。 三つ目が「方便こそ究竟(くきょう)なり」、方便することが一番大事で、自分が出来る範囲でその苦しみや悲しみを抱えた隣人に一寸でも慰められるような気持にさせてあげましょう、癒してあげましょう、という事です。 これを毎日心掛けて下さい、これはつまり仏教的行だと思います。 一日一日充実させてゆくと人は必ず人生が成功する、そういう教えたと思います。 

日々人生を生きていると、自分の蒔いた種もあれば、そうでないものも非難されたり、怒られたり、苦労したりしますが、前は不条理ととらえていました。 これを自分自身を磨かれていると捉えようという事です。 どうせ死ぬのになぜ生きるのかという事の僕自身の答えは「どのように修行しているか?、もうちょっとづつでもまともな人間なっているか?」という事です。  自分の心がどう動いているのか、絶えず気付いているという、それが修行だと思います。  自分の心の中にある寂しさに気付くことは修行になっていると思います。 誰に対する寂しさなのか、その人に辛く当たっているから、相手も辛く当てって来る。 今度からはその人にやさしい言葉をかけて見ようとして、相手が許してくれたらその寂しさは癒えますよね。 自分の心の中をじっと見つめてみる。 解決策が浮かんだり、耐える方法が浮かんだりする。 そういった過程は立派な修行だと思います。 毎日修行する毎日がここにあるので、何のために生きているのかという事は、そういう事ですから一応答えになっているんです。 

自分自身の優しい言葉で心で唱えることが必要だと思います。 祈る、拝むという事が最高で最も強力で人々を豊かに、あるいは救う心理療法だと思っています。








2024年10月17日木曜日

久田恵(作家)              ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める

久田恵(作家)           ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める 

久田さんは北海道室蘭市生まれの76歳。 大学を中退して様々な仕事を経て、女性誌のライターになりました。 1990年に『フィリピーナを愛した男たち』で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 執筆活動を続けながらシングルマザーとして子育てをして、およそ20年に渡って両親の介護もしました。 70歳の時に栃木県那須高原のサービス付き高齢者向け住宅に移住しましたが、この2月に東京の実家に戻り独り暮らしをしています。 

那須に引っ越す時には、終の棲家を自分のなかで決めて暮らすんだと思っていましたが、歳を取って来ると、高原が美しい、空が綺麗とかそういう事だけで幸せには暮らせないですね。  自分が介護が必要になった時に、どういう風にそれを乗り越えたらいいのか、サポートしてくれるのかとかいろいろあって、歳をとると車も運転できなくなるし、終の棲家として疑問が湧いてきました。  6年間過ごして今年の2月に実家に戻って来ました。  改めて思うと何て便利なんだと思いました。  以前は父と一緒に母の介護していました。 母は78歳で亡くなりました。 父も自立型の介護施設に入りましたが、その後介護型の施設に入りました。  

父の男親は曹洞宗の僧侶でした。 その影響もあり道元の本などを読みました。 父は富士製鐵(現・日本製鉄室蘭製鉄所技術者でした。 父は「料理というものは科学実験と同じだな。 科学実験だったら僕の専門だから。」と言って、しっかりと数値を計算したりしてやっていました。 父は92歳で亡くなりました。 母は脳梗塞で失語症にもなってしまって、失語症に対しての理解をしようと思って努力しました。 父は最後には身体が動かなくなって、人が生きて弱ってきて、亡くなってゆくプロセスを間に当たりにしたという感じはあります。 父からは「最後まで自分と一緒に暮らしてくれたことを、僕は凄く感謝している。」と言われました。  その時には余りピントは来なかったです。 自分が歳を取って来ると一緒に暮らしてくれることが、重要だなと理解できる。 一人ぼっちで死なないですんだという事ですね。 私は一人ぼっちで死んでいくという事を、別に悲しとは思わないと言う様な気持ちではいます。 

自身の介護を息子にという思いは無いですね。 その手立てを考えて準備して最後を迎えないとだえんだ杏と思います。 介護施設は歩いて数分のところにあります。 同じ介護施設でも、運営している人達の介護観は違うので、どこでも同じというわけではありません。  昔は入れられちゃったという事が多かったです。 自分に合うようなところを捜して、決めることが重要な時代になってきています。 

色々な仕事をしてきましたが、その時その時で考え方が違っていました。 思い立ったらすぐ行動で、それが失敗かなと思ったら速やかに辞めればいいんです。 母が急に倒れたり、息子が不登校になったり、何があるのか判らない。 息子の稲泉連2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、初の親子受賞を果たしました。 

自分でもどうにもできない性癖があって、相変わらず落ち着かない日を送るのではないかと思います。  歳を取って来ると段々めんどくさく成ったり、身体も動かなくなってくるので、潔く諦める事もあります。 出来れば施設に入らないで自分の家で過ごしたいという人の考えも段々わかってきて、地域の中にシニア食堂みたいなものがあって、そこで交流するというものがあってもいいと思います。 家が2世帯住宅なので一階がそのような場所に使えればいいかなと思っています。 〔わたし終いの極意〕とは高齢になったら、ちょっと寂しいぐらいで生きているのがいいかなと思います。 












2024年10月16日水曜日

山室寛之(野球史研究家)        ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年

山室寛之(野球史研究家)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年 

今から20年前の2004年、プロ野球は大きく揺れ動きました。 近鉄とオリックスの合併問題をきっかけにして、リーグ球団の再編成の動きが起こり、球団数が減ってしまう事に強く反対する選手会による史上初めてのストライキが決行され、50年振りの新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生、ソフトバンクによるダイエー球団買収などがありました。  日本のプロ野球が誕生して70年目のこの年に直面した危機を、当時の関係者はどう乗り切ろうとしたのか、一連の問題は今のプロ野球とどうつながっているのか、プロ野球再建問題から20年、当時を改めて取材した野球史研究家の山室寛之さんに伺います。

山室さんは1941年北京の生まれ、九州福岡で育ちます。 九州大学を卒業して読売新聞社に入社、社会部の記者として活躍します。 社会部長時代にはオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの対応を指揮していました。 1998年から2001年までは東京読売巨人軍の代表を務めました。 新聞社、球団の仕事に一区切りつけた後からは、戦前からの野球史の研究、取材、執筆を続けています。

1988年10月19日の出来事が2004年に繋がって行く動きが水面下ではありました。 2004年には近鉄の合併問題、オックスの球団吸収問題が起きます。  近鉄の指導者である社長の佐伯勇さんは応援に行くが随行したのが、近鉄を手放した際の社長である山口昌紀さん。 どうも阪急が身売りするらしいというという事を伝えられた。 山口さんは佐伯さんの元にその動きがあることを伝えます。 佐伯さんは突然「しまった。先を越された。」と発言します。 山口さんは佐伯さんの元で16年間働いた、豪放な方で佐伯さんを深く尊敬しています。 この時に山口さんは近鉄球団を処分しなければいけないという思いが宿ってきたと思います。 

1998年から2001年ごろメジャーに対するあこがれが強くなっていました。(特に巨人)  近鉄の野茂さんは1995年に移って、凄い活躍をしました。 2000年に横浜の大魔神佐々木投手、2001年にはイチローさんが行って野手でも十分にアメリカでも通用することが判ります。 松井選手がその後続いて行ってもう止められなくなる。 危機感がありました。 テレビの放映のスポンサーがなかなか見つからなくなる。 

2004年に近鉄とオリックスの合併の話が出る。 2月1日に朝日新聞が特報の記事を出します。 これが大騒ぎになる。 近鉄は35億円で売りたい。 5月に5期ぶりに黒字になったが、レジャー部門では60億円の赤字が出ていることを発表する。 その中で近鉄球団は40億円の赤字を公表する。  6月13日に近鉄とオリックスの合併が世間にも知られるようになる。 ライブドアが球団の買収をしたいという動きが出てくる。(6月30日)  

オリックスの宮内オーナーが、当時の球団の構成は1(巨人):5(セの5球団):6(それを羨ましく思うパの球団)だと言います。  そんななかでいろんな考えが出てくる。 巨人の渡辺オーナーの「たかが選手発言問題」が出て世の中を刺激する。 セ・パのいろいろな問題もある。 そのなかで選手会がストライキに入る。 「新しい球団を入れるために、最大限の努力をせよ。」、と選手会が言います。(9月のスト前日) 連盟は、「最大限の努力をするというのを入れると、新しい球団の参入に対して、フリーハンドではなくなる。」と言います。 これにより選手会の態度が硬化してストライキに入ってゆく。 

9月18日、19日の二日間ストライキが行われる。 選手会に対する同情が増え、連盟に対しての不満が高まる一方となる。 楽天の三木谷さんはしっかりした球場を持てば、何とかなることを理解し、やろうと決断します。 ダイエーは支援要請(産業再生機構)をせざるを得なくなる。(10月13日)  西武の堤さんが会社の不正経営の問題で辞任を発表しました。 ダイエーも西武もおかしくなる。 ソフトバンクではダイエーを何とかしたい、球団を持ちたいという思いが芽生える。 その時の責任者が後藤芳光さんで、父親と巨人の渡辺さんとは知り合いで、その伝手で話し合いが行われます。 孫正義さんは10月18日にはダイエーを買って、王さんに指揮を執ってもらいたいという事になります。

楽天、ソフトバンクはそれぞれの人脈によって誕生しました。 セ・パそれぞれ6チームになる。  残した問題としては交流試合の実施、アバウトだった入場者数を実数で発表する事。  これからの野球の将来は、少子化という問題は避けて通れない。 大谷選手の大活躍をいいてこにして,いい道を切り開いて欲しいです。











2024年10月15日火曜日

2024年10月14日月曜日

山崎静代(漫才師)            ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

 山崎静代(漫才師)    ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

俳優としても活躍中の山崎静代さんは、かつてのボクシングコーチの梅津正彦さんの元で、猛練習を重ねオリンピック出場を目指していました。 二人三脚でボクシングのオリンピックの夢を支えた師匠の梅津正彦さんについてお話を伺いました。

ボクシングを始めたのは2007年です。 ダイエットと、「明日のジョー」にはまっていたこともあり始めました。 

梅津正彦さんは1968年山形県酒田市で生まれます。 高校時代にボクシングを始めた梅津さんはソウルオリンピックを目指していましたが、怪我で現役を引退、その後は映画監督を目指し、助監督としていくつかの作品に参加します。 又「キッズ・リターン」や「アウトレイジ」などの北野武監督の作品や、テレビドラマのボクシング指導者としても活躍しました。  静ちゃんと最初に出会ったのも、2008年NHKで放送されたドラマ「乙女のパンチ」でのボクシングシーンの演技指導でした。 その後二人はオリンピック出場という大きな目標を掲げて、梅津さんは静ちゃんを世界を目指せるボクサーに育てていきます。  その梅津さんが皮膚がんの一種メラノーマと診断されたのは、そのさ中でした。  梅地さんは家族や仲間に支えられて、懸命な闘病生活を送りますが、2013年7月23日44歳の若さで帰らぬ人となりました。 

初めて会った時にはニコニコしていて優しそうな印象でした。 ドラマが終わった後も楽しく教えてくれるので、練習だけは続けていました。 アマチュアボクシングのライセンスがあることを知り、テストを受けてライセンスを取りました。 2012年ロンドンオリンピックで初めて女子ボクシンブが正式種目になるというニュースが入って来ました。 スポーツ新聞が「静ちゃんロンドンオリンピックを目指す」といった記事が出ました。 マスコミ先行でした。 吃驚しましたがやりたいと思いました。  梅津さんも同じことを考えていました。 やってゆくうちに甘くないという事がどんどん判って来ました。 

徐々に梅津さんの練習対応が変わってきました。  いろんなことで怒られました。 ボクシングの練習は2時間ぐらいで集中してやるんですが、5,6時間ぐらいやっていた時もありました。  梅津さんは伝わらないももどかしさ、私は判らないもどかしさが毎日続いていたような感じです。 辞めようという思いはありませんでした。  梅津さんとしてはオリンピックに連れて行くと約束した責任と、親御さんに怪我無く返すという事を言っていたので、そのためには強くするしかないので、厳しく怒っていました。 褒めてくれることはほとんどなかったです。  試合に勝った時には褒めるわけではないが、誰よりも喜んでニコニコしていました。  

2012年2月に広島で全日本選手権が行われて、ミドル級で優勝しました。  3か月後にオリンピック出場を目指した選手権に出場。 1回戦は勝利するが、予選突破はならずオリンピック出場を逃す。 呆然としてしまいました。 今迄の何年間がこの一瞬で終わったという事がなかなか受け止められませんでした。 梅津さんはいつも負けた時には俺の責任だというんです。 梅津さんは誰よりも悲しそうで落ち込んでいました。 

梅津さんから皮膚がんの一種メラノーマであることを聞きました。  切ったら大丈夫と言っていました。 二人でロンドンオリンピックを見に行きました。  自分たちが目指していた場所を確認したいと思いました。 中には勝てるのではないかというような選手もいました。 観ながら次を目指そうとは思っていました。 2013年4月にデビュー戦で敗れた台湾の選手とリベンジマッチをしました。(11か月ぶり)  その時には梅津さんは余命3か月の宣告を受けていました。  試合は観に来てくれました。  この試合には勝ちました。 4か月後には息を引き取りました。 入院中はたびたびお見舞いに行きましたが、ずっとボクシングの話でした。 しんどい状況でしたが、立ち上がってパンチの仕方などを指導してくれました。 

仕事で遅くなってしまって,行ったら「遅かったなあ。」言って待っていてくれました。 その後意識がもうろうとしてきました。 言葉で聞いたのは「遅かったなあ。」というのが最後でした。 「今迄ありがとうございました。」というと、本当のお別れみたいな感じで、言いたくなかったが、心臓が止まってしまっても、医師は耳だけは聞こえてると言ったので、「今迄ありがとうございました。」と伝えたら、梅津さんの目から涙が流れたんです。 伝わったんだなと思いました。(言葉に詰まりながら) 亡くなった翌日もずっとそこにいました。 葬儀では弔辞を読みました。


弔辞

「梅津さん大好きです。 もっともっとボクシングを教えてほしいです。・・・一生のうちでこんなにも深い絆で繋がれた出会いはもぅないと思います。・・・」 めちゃくちゃ泣いてしまいました。  現実を受けとめられない部分も当時ありました。

お墓参りに行って、結婚した事とか、仕事も頑張りますとか報告しています。 芸能人という目で見ないで、一ボクサーとして対応するとよく梅津さんから言われました。  その気持ちはずっと持とうと思っています。

梅津さんへの手紙

「梅津さんは定期的に私の前に現れます。 ・・・亡くなって11年が経った今でも、私にエールを送ってくれるんですね。 梅津さんのエネルギーは途轍もないから、今の私を支えてくれています。 ボクシングをやれたから、梅津さんと出会えたから、今の私があります。 梅津さんありがとう。 これからもよろしくお願いします。」



















2024年10月13日日曜日

山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

 山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

山下さんは昭和30年北海道生まれ。 高校卒業後北海道内の市役所に就職しました。 窓口で初めてクレームの対応をした時は、怖い思いをしたと言います。 そこで山下さんは相手いかける言葉を工夫したところ、不満を持って怒鳴る人が笑顔になるような体験をしました。   山下さんは50歳の時に市役所を退職、その後当時珍しかったクレームコンサルタントの仕事を始め、上京して企業や警察、医療機関などでクレーム対応に悩む人たちの指導を行ってきました。 山下さんは現在は宮崎県にお住まいで、出張やオンラインなどで指導を続けれています。 

今は公務員の方を中心にやりたいと思っていて、いろいろな市役所に呼んでいただいて、仕事をしています。 2年間公務員だけをやってみようと思って去年から始めました。  時代によってクレームの内容が違てきています。(不満の出し方が違う。)  15年前はもっと思いやりがありました。 企業のクレーム対応に比べて、市役所ではサービスするものがないという事です。 最近は一筋縄ではいかない無い人が増えました。 本人の思い道理に解決しないといけない。 ネット社会になって、正しいものもあれば間違っているものもあるので鵜呑みにしてくる人もいます。 カスタマーハラスメントとクレームの違いは、どこでカスタマーハラスメントとジャッジするかです。 線引きをしないといけない。 

18歳で市役所に就職して、最初一か月間インフォーメーションの部署に行きました。  或る時明らかに怒った顔で「てめー、税金で飯食っているくせに、何ボケっとしているんだ。」と怒鳴られました。 どう対応していいのかわからず、ずっと黙っていました。  25歳から心理学を勉強し始めました。  相手の心の中にあるストーリーを想像するという力です。 それが面白かったです。  クレームを言っている市民の方は、頭のなかにどんなストーリーがあるんだろう、どんな思いでここに来たんだろうと考えると、言っていることが 単にクレームに聞こえなくなる。 事柄がこの人にとってどういう事なんだろうと考える事が出来るようになりました。 こちらのかける言葉が違ってきました。 税金が高いと思って怒ってきている人に対しては「税金は高いですか。」と聞いてあげればいいんです。 その人の頭のなかはおかしいと思ってきているので、「おかしいですか。 調べていいですか。」と言って台帳を持ってくることができる。

一番最初の言葉が全てだと思っていて、何かを言った次の瞬間にこちらがかける言葉を兎に角気を付けていました。 どの一言をかけたらこの人は「そうだよ。」というかだけを考えていました。(話はほとんど聞いていなかったです。)  大切なのは内容ではなくて、相手の感情です。 相手に言葉をかけやすくなったのは35歳ぐらいからですね。(10年ぐらいは掛かった。) 笑って帰るようになりました。

両親と4つ下の知的障害の妹がいました。(兄がいたが19歳で亡くなりました。) 妹がいることで差別を受けたことが沢山ありました。  妹は知能的には3歳児ぐらいです。  新しい靴など履いて行っても汚い靴に取り換えられて帰ってきたりしました。 中学2年生の時にやっと親友が出来ました。 親友の妹が妹と一緒だったんです。 或る時に私に向かって「妹が知的障害だったという事を何でいわなかったのか。」と言われて、「妹が同じ学年にいる。 あんたみたいな人と付き合って、馬鹿が移ったらどうしてくれるのよ。」と言われてバシッと叩かれたことがりました。 その時、私の人生に問題なのかという事を始めて知りました。 妹のことに関して一番つらかったです。 父は障害者を別なところに囲って一生社会とは関わらないで幸せに暮らすことを望んでいました。 

私は障害があろうがなかろうが、社会の中で一緒に生きてゆく方が大事だと思いました。  理解されないのは分け隔てして守ろうとしているからだと思いました。 共に暮らしていけばあれが出来ないとか、こういう子なんだと判れば、人間として付き合っていけるんじゃないかと思いました。 一緒に暮らしてゆける社会を作りたいと思いました。 

30歳で結婚して40歳で子供が出来ました。 父がガンで余命いくばくも無い時でした。 まだお腹のなかにいる時に、父が「うつっていなければいいな。」と言いました。 差別を受けるような社会をなくすのが私の仕事だと思いました。  障害があるから受け入れられない、という事が無い学校を作りたかった。 そのためには公務員ではできないと思って止めちゃいました。  300坪の土地は買いました。 2007年にクレームコンサルタントとして独立しました。 東京に2012年に進出しました。 最初はクレームコンサルタントは私一人でした。  日本のクレーム対応はやり過ぎだと思います。 本当にこうしてほしいtピう事を先に言う事が大事です。 そうするとクレームを対応する人が凄く楽です。 

2015年から数年は母親の介護(認知症)で北海道に戻っていました。 在宅介護の大変さを思い知りました。 ストレスを解消すtるためには、笑う事を捜していました。 一番助けになったのは、立川志の輔さんの落語でした。 周りの力添えも沢山あり仕事も始めることが出来ました。  妹は就職もして幸せに暮らしています。 プレイバックシアターをやっていて、言葉にできていない感情を出さなくてはいけない。 相手の心の中にあるストーリーを想像するときに、とても役に立っています。

クレーム対応が好きになると人生が輝きます。  実践してくれて上手くいって、喜んでくれるとこっちも嬉しくなります。  クレームはダイヤモンドの原石だと思っています。  クレームそのものはダイアモンドではないかもしれないが、クレーム対応をして「ありがとう。」と言って帰っていったら、受けたあなたが磨かれる。  若くても歳をとっていても「助けて。」と言えることは凄く大事なことだと思います。 困った時には「助けて。」と人に言ってみてください。 きっと周りの人は助けてくれると私は信じています。














2024年10月12日土曜日

野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

 野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

日本人の死因の上位を占める脳卒中や心筋梗塞は、動脈硬化などで血管が痛むことで起こります。 しかし発症するまで自覚症状がほとんどありません。 そんな血管の状態を知る手掛かりが健康診断のデータです。 野口さんは以前自治体の保健師としてメタボリックシンドロームに着目した保健指導で事績を上げ,NHKスペシャルやためしてガッテンなどに出演、スーパー保健師と言われました。 野口さんの保健指導の特徴は血液検査など健康診断のデータから病気の芽を見つけ、生活習慣を見直してもらおうというもので、ポイントは血管を守る事、地元の企業とのタッグを組み、国も注目しました。 どんな取り組みなのかお聞きしました。

保健師は主に予防のこと、健康のことに関わっています。 保健師は今起こっていることから過去にさかのぼって、何故こうなってきたのかという事を分析する、そしてこの先このままいると何が起こってくのかという事を予測する中で、予防的に何を、生活習慣をどう変えて行ったらいいのかという事、どのような医療管理を活用すればいいのかという事をアドバイスする、そういった職種です。 予防の領域の仕事という事になります。 看護師の資格を持っていないと保健師にはなれないです。 

今迄の健康管理の仕方は、臓器ごとに身体を見て、臓器別に病気を診て病気が悪くならないように管理するという、早期発見治療が日本、世界でもそういった健康管理のされ方が中心です。 日本で一番防ぎたい病気は何かというと、脳血管疾患、糖尿病の合併症も血管の病気で、私たちの健康な寿命に影響するのは、血管が痛むか痛まないかというところがカギを握っている。 検診の中から分析をしてアドバイスをするという事をやったり、研究の中ではどういった項目が血管障害に関係するのか、分析、研究しています。 血管を痛める要素は、血圧が高い、血糖が高い、コレステロールが高いと言う様なリスクファクターと言われるものです。 リスクファクターを出来るだけ置いておかない。 リスクファクターの背景にある生活習慣の、リスクファクターを上げるような生活習慣をしないという事です。 

最初、市役所にいた頃は保健所に配置されました。 その後人事部に移って職員の健康管理をするようになって、一番驚いたのは職員は60歳以下の集団であるにも関わらず、倒れ、亡くなられるんです。 健診データを紐解いていって、探っていきました。 リスクファクターの集積という事になります。 当時は過労死と言いう言葉が中心でした。 或る日突然倒れた人たちは、血圧が高い、血糖が高い、中性脂肪が高い、悪玉コレステロールが高い。   顕著に高い訳ではなくて、わずかな異常のまま、5年、10年と続いた後に倒れる、という事が判りました。 この命は予防で出来ると確信しました。 

50代で脳梗塞になった方ですが、40歳から職場の検診が始まります。 血圧が少し高くなってきて(130をちょっと超える程度)、その後中性脂肪が少しづつ上がり、悪玉コレステロールも少し高くなってきている。 このリスクファクターが重なったという事が注目してほしい曲がり角のポイントなんです。  体重が変っていなくても、昔は筋肉だったのが脂肪に変わってきて、脂肪の場所が変って来ます。(お腹周り、内蔵脂肪にどんどんたまり出す。) 備蓄としての機能がありますが、一定以上になると、脳に血圧を上げなさいと命令したりします。 これが今まではわかっていなかった。 皮下脂肪は余り悪さをしない。 余ったものは腸管膜に蓄えられます。  男性は85cm、女性は90cmを越えるとちょっと蓄えすぎです。  血管を傷つけるリスクファクターに関係するものが、内臓脂肪が溜まり過ぎることによって増えてきます。  お腹周りが太ってきたというのも二つ目の重要なところです。 

職場が変わることによって、階段の利用度が違うとか、昼食の取り方が違ったりして、脂肪の付き方が変ったりする。  砂糖が入った飲み物がブドウ糖に変えてくれるので、元気が出るような気がするがお茶に変えただけで、脂肪を落とすことが出来ます。 60歳を越えた方はお砂糖は一日10g(ステックシュガー3本程度)を目安にしてくださいと言っています。  WHOの基準は25gです。 炭酸飲料などは500cc飲むと20~30gあります。  

脳の中にレクチンというホルモンがあって、食べ過ぎないように食欲を制御してくれています。  長く食べ過ぎている生活をしていると、レクチン抵抗性といってきかなくなる。 ダイエットをすると飢餓が襲ってきたと身体が考えてしまう。 もっと食べなさいとしばらくは指令を出してしまう。 ゆっくり痩せた方がいいです。 2006年から個人指導も始めました。(市民)  リスクファクタ―が重なっている、血圧が160を越えている、血糖、ヘモグラビンA1Cが7%超えている、など血管障害を起こしやすい。 

検診結果は大事です。 生活習慣の通信簿みたいなものです。 気になる人は個別にお話しするというやり方をやっていました。  市役所では多い時5人毎年一人ぐらいは心筋梗塞などで亡くなっていましたが、担当するようになってからは出なくなりました。 市民の方も対策前の5年間と比べてその後の5年間と比べて、心筋梗塞の死亡率が3割ぐらい下がりました。  医療費も下がりました。(心筋梗塞になると300万円ぐらいかかる。) 

 企業ともタッグを組みました。 ヘルシー弁当を考えたり、コンビニに検診車を入れて検診を受けられるようにして説明も行ったりしました。 事業者の方たちと健康に良い商品を市民の方が買ったら、ポイントを付与してもらう。 1000ポイント溜まったら1000円分の商品と交換できる。(ポイント事

2008年からメタボ検診が開始されました。 この結果を上手く活用してほしいと思います。数年でどう変わったかというような、変化を是非見て欲しい。 わずかに上げってきているといことは必ず原因があります。





2024年10月11日金曜日

2024年10月9日水曜日

2024年10月4日金曜日

2024年10月3日木曜日

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために 

橋本淳さんは現在85歳、「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1960年代、70年代の昭和歌謡を彩る多数のヒット曲を作詞しました。 作曲家の筒美京平さんとは学生時代から付き合いがあって、バンド仲間でした。 二人で多くのヒット曲を飛ばす盟友でもありました。 2020年に亡くなった筒美さんが生前残してある曲を宜しくと譜面を渡されました。 橋本さんは3年前から筒美さんが残した曲の為に良い詩を書きたいと歌詞作りに向き合っています。

私は1939年生まれで、85歳です。 作詞家としておよそ2000曲作る。 杉山先生からブルーコメットのものを作れと言われて、それがヒットしてやり始めることになりました。 京平さんらがバンドを組んでジャズをやっていました。 京平さんは1940年生まれで、2020年10月4日に亡くなりました。(80歳) 京平さんは精神的なことからうつ病ぽくなって、その後誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。  京平さんが僕のところに作品を送ってくれていたものがあって、一曲ぐらいやってみようかなと思ったんですが、40年近くやっていないなかで、一曲CDにしました。 世の中の状況が全然違ってきていました。 配信という事が判らなくて、興味を持って始めました。 手元には12,3曲はあります。 

橋本淳さん作詞のグループサウンズの曲

*「ブルーシャトー」ほか。

京平さんは「スワンの涙」が好きでした。 

橋本淳さん作詞の歌謡曲

*「ブルー・ライト・ヨコハマ」ほか。

横浜のことを作ろうと思ったが、なかなかできませんでした。 夜になってブルーのライトが海に映っていたので、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作りました。 後半部分がなかなかできなくて、歩いて歩いてやっていて、それを取り入れました。 その前に作った曲は全然売れませんでしたが、1週間ぐらい番組で流れだしたら、突然10万枚のバックオーダーが来るようになりました。  京平さんは忙しい時には一晩10曲ぐらい作っていました。(ほとんど寝ていない。)  詩を先に書いて渡していましたが、間に合わなくなってしまって、曲だけ先に作っていました。  

詩人児童文学者与田凖一(1905年 - 1997年は実父です。 高校、大学時代は父親の友人が(檀一雄、梅崎春生、川端康成ほか)僕を呼んで、一緒に過ごすことがありました。意識はしていませんでしたが、そこで自然と学んでいった様な気がします。  作曲家の人とも数人付き合っていました。 京平さんは音楽の大学ではなくて経済学部の卒業でした。 学校の教会で讃美歌を毎日弾いていました。 小学生の時からモーツアルトのピアノコンチェルト弾けると先生が言っていました。 高等部の頃はジャズが好きでした。 物凄く曲を聞いていてそれが身体の中に沁み込んでいると思います。 それを日本人の日常生活にどうやって取り込むかというところですが、京平さんはそこが非常に秀でていたと思います。  曲先で作ると難しい曲ですが、完成すると凄く易しく聞こえる。(筒美マジック) コード進行を一番先に考えるんです。 それが日本人の暮らしに、生活の響きに溶けてくるようなものを考えています。 毎月40~50枚のLPを買っていました。 どう日本化するかという事をいつも考えていました。 日本人の暮らしに合うテンポと響きを京平さんは考えていました。 詩をつけるのも大変でした。 

技術は進歩してゆくが、人間の情感、喜怒哀楽の世界は残してゆきたいと思っています。











2024年10月1日火曜日

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 幼いころから日本画の才能を発揮し、神童と言われました。 しかし画壇には馴染まず50歳を過ぎてからは奄美大島で暮らします。 そして大島紬の職人として仕事をしながら絵の世界を追求し続けました。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「ニュースセンター9時」を担当していた時には女性が居ない時代だったので、頑張らなければいけないという思いはありました。 いろいろな思いがありました。 日本で初めての世界遺産の登録をしたのが屋久島と白神のブナの原生林でした。 私は屋久島の担当として屋久島の生態系などを調査しながら、島伝いに辿って行くうちに奄美大島に出会いました。 人情の深さが心を打ちました。 人々は自然と見事に共生しながら生きていました。 すっかり虜になり気が付いたら、情報の発信拠点が出来るので担当してくださいと言われて、平成13年(2001年)から関わりました。 施設全体は「奄美パーク」と言われて、その中に「田中一村記念美術館」があります。

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 東京、千葉で過ごした後50歳で、すべてをたたんで奄美に移りました。 ここで自分の芸術の最終系を作るんだという事で20年弱奄美で過ごしました。 凛とした生き方に感動を生み、地元の南日本新聞に連載が載りました。 それを見たNHKの日曜美術館が特集を作って放送し、大変な評判を呼びました。(1970年代中頃)  「ニュースセンター9時」を担当していた時で、田中一村を知るきっかけになりました。 

田中一村の父は彫刻家でした。 田中一村は子供の頃、神童と言われました。 東京技術学校(芸大)にストレートで入ります。 同期には東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいます。 しかし2か月で辞めてしまう。 諸説あるが、大学では学ぶべきことが無いという事で独自の道を歩んだのではないかという見方をする人がいますが、先生と喧嘩して辞めたという人もいます。 自分の道を追求していったようです。 或る時「蕗の薹とメダカの図」という作品を支持者の人に示したところ、誰も賛同してくれませんでした。  自分の信じる道を進み、自分の絵の最終系を追求してゆくんだという事で、独自の道を進み始めたのではないかと思います。 

そのころ千葉に引っ越します。 祖母、姉、妹の面倒を見なければいけなかった。 自給自足の生活をする。 姉が美人で琴の名手で、この姉が最後まで一村を支えます。 鋭い批評家でもあり、一番熱い心で支えてくれた人でもあります。 コンクールに応募してもなかなか受からなかった。 川端龍子主催の青龍展に「白い花」が入選しました。 翌年万を持して「秋晴」と「波」という作品を出したが、思ったように評価してもらえなかった。  その後南の方にスケッチ旅行に出かける。 奄美にも行き、そこで虜になったと思われる。(50歳)   奄美では表現も変わって行った。  景色を描くだけではなくて、精神文化、世界観、宇宙観、人生観みたいなものを込めた絵になっています。 

そして大島紬の職人として染色の仕事していた。 5年働いて60万円貯金して3年間に90%を注ぎ込み、最後の絵を描こうとしていた。(60歳ぐらい)  自分の良心の納得がいくまで描いてゆく。 私は何と評価されても結構です、見せるために描いたのではなくて、良心を納得させるためにやっているんですからと、言っています。 今評価されなくても50年後100年後に評価されればいいと、書いています。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「不喰芋と蘇鐵(クワズイモとソテツ)」という作品が最も心を惹きつけられます。 輪廻、生命観、宇宙観と言ったものがうかがわれ、深い哲学を感じます。 榕樹に虎みみづく」という作品は、みみづくが一本足で描かれているが、スケッチでは二本足になっている。 鳥が敵を警戒していない、安らいでいる状態の時です。 自然に溶け込んでいる一村さんの目線、絵の奥の方から我々を見つめてい居るような、そんな思いを抱かさせてくれる作品ではないかなと思います。 島の文化を映す鏡みたいなところがあります。 奄美を語るのには一村さん抜きには語れないし、逆も言えます。 孤高の人ではあったが、孤独な人ではなかったと思います。(多くの島の人たちとの交流があった。)

田中一村傑作選