2024年12月21日土曜日

花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

 花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

花谷さんは1976年神戸市出身。 現在は山梨県北杜市を拠点に活動しています。 子供の頃から六甲山に親しみ、信州大学進学後はヒマラヤを初め世界の未踏峰、未踏ルートに挑戦、2012年にはヒマラヤの キャシャール南ピラー(6,770 m/ネパール)に未踏のルートから登頂に成功し、2013年に登山界のアカデミー賞とも呼ばれる第21回ピオレドール賞を受賞しました。 この受賞をきっかけに若い登山家をヒマラヤの未踏峰に挑戦させるヒマラヤキャンプを立ち上げ、南アルプス甲斐駒ヶ岳の山小屋の運営や、そこに至る登山道の整備など登山文化を支える活動に力を入れ始めます。 中でも登山道の整備を有料の体験型イベントワークショップとして、参加者を募る試みには新しい発想として注目されています。 人を育て登る化を次の世代にどうつなげるのか伺いました。

36歳の時に登った登山が評価されてピオレドール賞を受賞しました。 そのルートはかつていろいろな有名な人たちがトライしましたが、登れなかったというルートです。 山へ登るパフォーマンスで何か残すとなると、選ばれた人でないとなかなかそれを維持する事は難しい。 僕はそういう人間ではないということが20代から嫌というほど味わってきています。 極限の登山をしてゆくという分野においては、世界のトップと思われるようなパフォーマンスを見ていると、とてもここまでは出来ないと25,6歳のころ感じました。   24時間、365日山とクライミングのことしか考えていないんじゃないかなというモチベーションと集中力という心の部分の強い人たちを見てきています。 僕はそこまでの心の強さの持ち主ではなかった。 

2014年にもヒマラヤに行きましたが、登れなくて自分がどういう事をやりたいのか、考えながらいました。  新しく経験する場、組織が弱体化してきているので、何とか改善したいと思いました。  ピオレドール賞を受賞して大きく変わったことは、プロとして活動できるようになりました。(資金面の充実)  これを生かして何かできないかなあと思いました。 20,30代が初めてヒマラヤに行く機会を作ろうと思いました。  

山小屋を運営する元になったのは、この地域の資源をどう活用してゆくか、という事がありましたが、山は公共の物なのでどうしても行政と絡まなければならない。 僕の前の管理人さんがもう山を降りるという事になり、自分がやってみたら面白いのかなと思いました。  行政とのやりとりの問題も繋がりました。  山梨県北杜市の指定管理業者として甲斐駒ヶ岳の山小屋「七丈小屋」を引き継ぐことになりました。 山の魅力を発信しました。   山小屋、登山道などをどうにかしなければいけないと考えました。  利便性を高める、魅力の発信で人はたくさん増えましたが、登山道は歩きにくくなっていきました。 2019年10月に台風19号がきて、登山道などが物凄い被害を受けました。  集中的な雨も増えてきています。 登山道がなくなってしまうのではないかという危機感、恐怖感がありました。  そこが活動を始めた大きな原点です。 

山の管理について、日本は公的な関与が脆弱な状態です。(外国と比べると一目瞭然。) 予算、人員も少ない。(根本問題)  有料のイベント、寄付を募る、ワークショップを作って回してゆく事を考え実行しつつあります。  登山道が壊れたことによって失われた植生を取り戻してゆく事が一番大事な発想の原点です。(自然環境第一)  作業の意味合いを知ってもらう事が大事です。 ワークショップに来る方は自分でお金を払います。(ガイド登山の一種のようなもの)  クリエーティブな作業で楽しいです。  日本の良くないところはボランティア(無償でやることに対する価値が根強くある。)、運営の中心の人とか技術的な指導者までもがボランティアでやっているのが現状です。 それだと続かないですね。  運営の中心の人とか技術的な指導者にはしっかりとお金がまわるような仕組みを作ってゆく事が大事です。  

自分が関与した山には山に対する見方が変ります。(ホームマウンテンになる。) 持続性に繋がる。 人口減少、高齢化があるので、今までと同じ仕組みでは成り立つわけがない。  発想を根本的に変えていかないと成り立たない。  いろいろな仕組みを変えてゆく事でどんどん良くなってゆくはずです。  日本3大急登で長くて険しい登山道ですが、登山道を修復するワークショップには開始から2年間で200人が参加しています。  今年10月に実施したヒマラヤキャンプでは若手登山家4人と共に、西ネパールの未踏峰6207mのサンクチュアリピークに挑戦、見事に世界初登頂に成功しました。





2024年12月19日木曜日

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて 

音無さんは1949年東京生まれ。 21歳の時に民放のドラマ「お登勢」でヒロインに抜擢され脚光を浴びました。 NHKでも大河ドラマ「女太閤記」や「独眼竜正宗」など数多くに作品に出演しています。 今年11月には歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台に出演、老いと病というテーマに正面から向き合いました。 私生活では村井國夫さんと結婚、二人の子供を設けました。 30歳で乳がんを患い死を覚悟したこともあると言います。  音無さんは6人姉妹の4女ですが、この2月に妹を亡くしています。 大切な人との別れ、そして自身のがん体験など逆境をどう越えてきたのでしょうか。 

歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台「つきかげ」で茂吉の妻の役を演じました。 小劇場なのでお客さんが近くて全部肌で感じられるような劇場でした。 私たち夫婦が人生をしまう方向に来たねと思いつつあります。 「俺の家族としての役目は終わったんだな。」というも茂吉のセリフがありますが、マグロ漁船に乗って行く次男を見送るシーン、末娘の縁談話などで、深夜眠れなくて、そのセリフがあるんですが、うちの家族にピッタリです。 

SNSで発信していますが、今年の2月に妹がなくなりました。 コロナで妹のゴルフなどの洋服の店が上手くいかなくて、悩んでいましたがその後食欲がなくなり、突然亡くなってしまいました。 6人姉妹でよく集まっていましたが、突然一人欠けてしまってショックです。 貴方の分まで幸せになるから、という気持ちが大きいです。 人生何が起こるかわからないから、その日その日を過ごせたという事に感謝しながら、という気持ちがより強くなりました。 

子育てが終わって本格的に女優として復帰するという矢先に、乳がんが見つかり青天のへきれきと言った思いでした。  近所の人が乳がんの検診にいってしこりがあって、取り除いたが良性で、しこりは自分でわかるという事で話し合っていた晩に、お風呂で触ってみたら内側にペットボトルのキャップぐらいのしこりありました。 痛くないのでしばらく放っておきましたが、つれるような症状が起きて、病院にいったら乳がんと言われました。 アメリカでは部分摘出がおこなわれたりしているが、安全な手術をした方がいいと医師から言われました。 精神的にもダメージを受けました。 リハビリも病院では頑張りましたが、家に帰ってくるといろいろな事でやはり病人なんだと気付かされ落ち込んでいきました。  女優が出来ないのではないかといったことも考えるようになりました。 

鬱の状態が9か月ぐらい続きました。  子供が友達の家から帰ってきて、「友達のママは笑うのにどうしてママは笑わないのい。」と言われてショックでした。  それから鏡の前で笑う練習をし始めました。 それがきっかけで少しづつ前向きになって行きました。   子供とは一緒にお風呂に入ることはできませんでしたが、夫の仕事の関係でどうしても一緒に入らなくてはいけなくなって、一緒に入ったら私の顔だけしか見ないんです。  こんな小さな子に気遣いが出来るのかと思ったら、ワーッと泣いてしまいました。 「ママ泣かないで、歯が生えてくるようにおっぱいも生えてくるから。」と言われて、こんな子供を残して私は死ねない、生きなければいけないと思いました。 下の子が小学生にあがる5年頑張ろうと思いました。  子供からいろいろ励まされて、今思えば一番いい精神科の先生だったと思います。

1976年に結婚してから金婚式が近いです。 同じ職業なので会話は多いです。  夫は80歳になりました。 夫は5人兄弟の末っ子で上の二人の兄は亡くなっていて、3人しか残っていません。 91,85、80歳です。  お互いに褒め合ってやって行こうとしています。 12月の誕生日で75歳になりますが、現役で終わりたいという思いがあります。 健康維持に努力できることは努力したいと思っています。 夫は毎日ウオーキングを8000歩程度はしています。  玉三郎さんが「努力をするという事はどういうことかというと、死ぬ一歩手前までやり遂げることが努力だ。」と言っていました。  アスリートではないので、演出家の要望に対して応えられる身体にしておくという努力しかないと思います。  口がまわれるように努力する。  食事も身体にいいものを摂るように心がけています。

2020年から娘と一緒に食卓の動画配信を始めて、150本ぐらいになりました。 料理は好きでいろいろな料理教室にも行きました。  東日本大震災の時に被災地で「幸せなら手をたたこう」を歌う事になり、歌ったらみんな涙を流しながら歌ったんです。 歌の力を感じて東京に戻って歌声喫茶をやろうという事になり、そこから始まりました。  お金がプールされると被災地にお土産を持って避難所を7か所ぐらい回ります。  歌声喫茶も13周年記念を迎えました。  被災された方が生き抜いてきた、という事に強さを感じます。  幸せに生きることが亡くなった方への供養になるんだ、という想いの方が沢山います。

〔わたし終いの極意〕は笑う角には福来るですね。  一日一回は笑う。















2024年12月17日火曜日

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

 世界各地に赴いて昆虫調査を行い、多数の著書や図鑑制作にも携わっている丸山さんに伺いました。 

今年の6月に動物学教育賞を受賞しました。 日本はほかの国に比べて昆虫が非常に子供の趣味、遊びとして身近にあります。その延長として昆虫に関するいろいろな本が沢山あったり、電話相談も多いですね。 他の国は昆虫籠とか、虫取り網は余り無いですね。 アメリカとかヨーロッパの都市部には蝉とかカブトムシはあまりいないです。 昆虫は沢山の種がいます。  昆虫は知られているだけで120万種ぐらいいます。  日本では4万種ぐらいが知られています。 実際には6万種、8万種いると言われています。  それぞれが違う暮らしをしていて違う姿をしています。 あらゆる生物の中で最も多様なのが昆虫です。 昆虫は生態系の歯車としても非常に重要な役割をしています。  植物の8割は昆虫が受粉しないと実がなりません。  野菜、果物もそうです。 果物は9割以上が昆虫が居ないと受粉ができません。 昆虫がいないと新しい植物が生えない、森も更新されません。

何故昆虫が多様なのかというと飛べるという事が重要です。 あらゆる生物の中で最初に飛んだのが昆虫です。 飛ぶことによっていろいろな環境に進出する機会を得ました。 そして様々な種に別れていきました。 天敵に狙われにくい。 繁殖相手を効率的に見つけられる。 他に、変態をするという事です。 幼虫から成虫にかけて形が違って行って、特に完全変態と言ってさなぎの時期があります。 昆虫の7割、8割が完全変態をします。 完全変態が何故大事かというと、幼虫と成虫が全然違う姿になります。 幼虫は一番餌を食べたり成長するのに一番重要ですが、成虫よりより幅広い変化が出来るようになった。 それでいろいろな環境に適応で出来るようになった。 

昆虫学者にはそれぞれ専門があって、私の場合は蟻の巣の中に共生している昆虫の分類学、新種を発見したり、図鑑などを作ったりしています。 蟻の巣の中にはいろいろな昆虫が住んでいます。 蟻塚コウロギという小さなコウロギがいます。 蟻から口移しで餌をもらったり、蟻の幼虫をかすめ取ったりして生活しています。 蟻は暗いなかで臭いとか音を出して、それを言葉の様にしてやり取りをしています。  寄生している昆虫はそれを真似ることによって蟻の巣の中に入り込むんです。 蟻は仲間だと信じているんです。 人間の場合は目と音ですね。 そこを上手く騙せたら人間の社会にも入り込めるわけです。 

大学院の時に、ハネカクシという昆虫の分類、新種発見をしていました。  ハネカクシは土の中、茸に住んでいて、その中に蟻と共生するタイプが結構います。 そのころ(28年前ごろ)共生するほかの昆虫を日本で研究している人が居ませんでした。 日本全国の蟻の巣を調査して行ったら、どんどん新種が見つかりました。 そしてのめり込んで行きました。  新宿に住んでいましたが、3歳の時にカマキリがいました。 カマの内側に赤、白、黒の不思議な模様がありました。 カマキリの形、その模様の衝撃がいまだに残っています。 そこから昆虫にのめり込んで、図鑑を買って貰って、いろいろな昆虫を覚えていきました。  昆虫を捕まえて飼育するという事も繰り返していました。 中学、高校となると魚、両生類も好きになり、植物も好きになりました。  

最近はアフリカのカメルーンによく行きます。 サスライアリという何千万匹という働きアリからなるコロニーを作る蟻ですが、そのコロニーのなかにハネカクシが沢山います。 進化を調べるため、標本にするために通っていました。  蟻の種によって共生する昆虫も特定な昆虫になります。(臭い、音を複数真似られない。)  行くたびに新種が見つかります。 吸虫管を使って口で吸ってハネカクシを取ります。 

子供の頃一日に蚊に何百か所も刺されて、それを繰り返しているうちに、いまでは蚊に刺されてもほとんど気付きません。(新しい蚊に刺されると、気が付くが30分するとわかなくなる。)  アフリカには危険な蚊が居るので、それに気付かないのは危険だと思います。 蚊の痒さ、腫れるというのは、人間が病気にならないための防御反応だと思います。

オドリバエ贈り物作戦、(人間がやっているようなことは、結構昆虫もやっている。)オドリバエはほかの昆虫を捕まえて雌にあげて、雌が食べている間に交尾をする。 それが進化してゆくと、捕まえた昆虫を糸で包んで渡す。 さらに進化すると、中には昆虫が入っていない包みを渡す。 それが作れる雄は強い雄という事です。 あらゆる生物は自分の遺伝子を残すためにあらゆることをしている。  社会性昆虫の面白いのは奴隷制です。    サムライアリ、働きアリは自分で捕まえた餌を自分で食べることはできない。 定期的にクロヤマアリの巣に集団で侵入していって、幼虫、サナギを強奪して帰って来るんです。 生まれて来たクロヤマアリは自分の巣だと思って働くんです。 サムライアリの幼虫はクロヤマアリに育ててもらいます。 サムライアリたちは働くよりも子供を作るとかにエネルギーを投資したほうがいいわけです。  人間社会でもあちこちで奴隷制が生まれていました。蟻は世界で2万種ぐらいありますが、奴隷制も何十回と進化しています。

ハキリアリは中南米にいます。 葉っぱを切って巣に運びます。 粉々にして菌と混ぜて発酵させます。 おがくずみたいなものを作って、そこに菌を植えて大きくなってゆくと菌糸の丸い球ができます。 それを餌にしています。 タンパク質に変えた方が栄養効率がいい。  雑菌が入らないように抗生物質を混ぜて、その菌だけが育つようにするんです。  偶然の積み重ねで昆虫は進化してゆくんです。  昆虫は世代が短いので偶然何かが起こるという可能性が高いんです。 子供も何千匹と生むので、中には特異な能力を持って生まれる突然変異も出てきます。  一番生きやすいように本能としておこなわれている。   昆虫の研究は最初害虫から始まりました。  農学の見地から研究している人が多いです。  

2017年に子供相談をする時の前任が矢島稔先生でした。  その先生の図鑑を読んで僕は育ちました。 「ハエが生きていることはどんな意味があるんですか。」という質問がありました。  生態系のなかの歯車としての役割があり、山の中で動物の死体を分解する重要な役目を持っている。 と言ったところから意味のない生き物はいないんだという事に繋げました。  今一番問題だと思っていることは、昆虫が減っているという事です。    ドイツの研究ではこの20年間に昆虫の個体数が、76%減ったと言われています。  昆虫は近年急激に減少しています。 理由は凄く強い農薬が使われれるようになった。 温暖化による気候変動の影響もあります。  昆虫のお陰で享受していることが沢山あります。 人々の昆虫に対する理解度、昆虫と共生しているを知って、自然を守ってゆく事が大事です。  昆虫を好きな人を増やす、昆虫が嫌いじゃな人を増やす、という事を私は大事にしています。







 








  

2024年12月15日日曜日

西本昌司(岩石・鉱物担当/愛知大学教授) ・子ども科学電話相談40周年 ~好奇心、岩を穿つ~

 西本昌司(岩石・鉱物担当/愛知大学教授) ・子ども科学電話相談40周年 ~好奇心、岩を穿つ~

地質学、岩石学は石や地層から謎を解き明かす、これが地質学です。 謎というのは地球の歴史です。 地下でどんなことが起こっているのか、地球規模で起こっているようなことを石から読み解くという学問でまさに歴史科学と言った感じです。 過去にどんなことが起こっていたかという事は石しかないんです。  この前愛知県の鳳来寺山という山があってあそこにある石は火山の石なんです。 でもい愛知県には火山がないですね。 大昔(1500万年ぐらい前)火山があったという事です。 今噴火している火山の地下で何が起こっているかという事は見れませんが、昔の火山の跡にいけば、昔の雨、風、川が山を削って地下の状態を出してくれているわけです。(地下がむき出しになっている。) 昔にあった火山の地下にもぐっているのと同じです。  石が判って来ると、タイムマシーン乗って昔の地球板碑が出来るんです。 石を通して時空を越えてゆくと言う様な楽しい学問です。鉱物の集合体が岩石です。 鉱物は何が集まっているかというと原子が集まっています。 原子が判って来ると世界が広がります。  

町の中の石にも注目しています。  注目したきっかけは二つあります。 ①考古学、歴史研究者とコラボしたこと。 古墳、石器、城の石垣などでの重要な石については考古学者などは石のことは判らない。 石のことを頼まれました。 私は歴史のことは判らないので一緒にやって行くうちに面白くなりました。 石から人の歴史もわかるんだという事に気づかされました。 ②街中にある石材を調べ始めたら、世界中からいろいろな石が集まっていて、はまってしまいました。  何十億年前の石は日本にはないが、石材としていっぱいあります。(海外に行く必要がなく磨いてあるので観察の準備が出来ている。)    

建築のデザインとしての歴史みたいなものが背後にあって、建築設計者のデザインでありアイディアでもあります。  石材は飾りで構造的には不要なものです。 時代的な流行があるわけです。 例えばバブル期に使われた石材と最近とでは全然違います。 バブル期には赤い石材が流行っていたり、時代背景を感じさせるものがあります。 バブル期には高級な大理石がトイレに使われたりしています。(今は絶対ない。) 経済状況が如実に表れます。 

アンモナイトが石材に見られたりします。 アンモナイトの渦巻き模様が現れるようにするのにはかなり難しいと思います。 斜めに切ったりしたりすると決して渦巻きは出てこない。  何でなのか考えてゆくと、アンモナイトは同じ方向に並んでいたのではないかと思います。  アンモナイトは沈むと水平に倒れて渦巻き方向を横にするように沈むと思います。 という事はあれはおそらく海底に沈んでいたものです。 

子供の頃は自然界で蝉を取ったり蝶を取ったりして遊んで昆虫標本を作っていました。  出身は広島県の三原で海、山が近くにありました。  化石よりも岩石が好きで集めていました。  鹿児島県の海岸で遊んでいたら水に浮く石を見つけて吃驚しましたが、軽石だという事を教わりました。 大学は地質学の方に進みました。  同じような興味を持ている人が沢山いました。 昨年末二人の小学生がスタジオに来てくれました。 石について一緒に盛り上がりました。  

卒業後科学館に入りました。  収蔵庫が無くて展覧会を開く時にはほかの館から借りてこないといけない。 その結果全国の博物館に友達が出来ました。 集客をするには恐竜展が一番で、恐竜のことも勉強するようになり、自分の世界を広げることにもなりました。  学芸員として指導していたお子さんが世界的な恐竜学者になって、学芸員冥利に尽きます。 出来るだけ現場に行って、自然に目を向けてもらうような教室をやっています。  大人にも共感してもらえる人がいっぱいいることを知ってもらいたいと思います。(大事な事です。)  「好き」を追求すれば知識も増えるし、エンジョイできると思います。 人と違う発見が出来る人は観察眼が凄いというか、発想力が凄いと思います。 

地球は石の惑星です。 地球の石のことが判ると、他の惑星のこと宇宙の歴史のことも判ります。 石材の生まれた場所(採掘場)を観に行きたくなります。 町に出回っている石材は採掘地でとられる極く一部で、我々は不人気なところを見たい。 学術的に面白いのは別の石との境目とかで、それは何かの事件の跡なんです。 例えば一方はマグマの固まった石、一方は海の底で出来上がった石だとするとどうあって出会うのか。  海の底に固まった石が地下に埋もれて、そこにマグマがやってくるという事件の跡です。 境目を見るのが面白いです。 







2024年12月13日金曜日

鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方(初回:2024/6/16)

 鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方(初回:2024/6/16)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 分からないから、突き進む! 後編

舘野鴻(画家・絵本作家)    ・〔人生のみちしるべ〕 分からないから、突き進む! 後編 

僕は死ぬという事がとても怖いので、だからシデムシを扱いました。 汚いと言われているけれども、だってあなたは生まれたら死ぬでしょう、我々死んだらどうなりますか。 シデムシがいるという事は必ずどっかに死体があるという事です。 世の中のことわりとして死ぬという事がある。 逃れることは出来ないとネガティブに捉えるのか、歩むべき道を歩み、死んでいき皆さんの糧になるのか、何かとなって循環してゆくのか、という風な思いです。      シデムシを出して一番大きいのは真面目にやり過ぎたんですね。  終わったら本当に死ぬんだと思いました。 絵筆を持つことが怖くなりました。  身体の調子が悪くなって、薬を飲んだり、鍼をやったりしましたが駄目でヨガをやるようになりました。  売れない本だと思っていましたが、病んでいる人に反響がありました。 生きる事ってこういう事よねとか、言われたりしました。  私が読者の人々に救われ続けています。 

僕らの仕事は伝わらなければ零点なんですね。 よかったのか外れたのかは、読者の前に持って行って初めて判るんです。 絵本は幅広い読者の方がいる。 シンプルです。 子供は見て直ぐに言語化できない。 私がやっていることの評価が出るのは10年20年先です。  売れなと思っていましたが、仕事はぽつぽつ来るようになりました。  月刊誌「科学の友」というところから絵を描いて欲しいと連絡がありました。  沢田さんという方にお会いしたら、「しでむしを書いた時の気持ちを忘れないでください。」と言われました。   出来るのかなとは思いましたが、腹は漠然とやるんだろうなあと決まっていました。     

2009年に「しでむし」 2013年に「ぎふちょう」 2016年に「つちはんみょう」 2020年に「がろあむし」を出版。  取材に10年かけたものもあれば、3年、4年も空いてようやく1冊と言った感じです。  稼げないのでずーっとアルバイトです。 しゃべるのが苦手で,講演も断っていました。  1時間30分ぐらいの講演を一日3回ぐらい練習をしました。 しゃべる事、会話が大事なことになってきています。 人に伝るための媒体としての絵本は、私なりの研究の方をしています。  絵本という土俵に何とかたどり着きましたが、自分のがむしゃらにやってきたことが、そのためにやっていたのかと、振り返ればそういう事になっていると思います。  

2022年に出版した絵本「うんこ虫を追え」 (知恵と根性と体力で、うんこ虫のくらしの解明に挑みます。失敗を繰りかえし、取材にかかった月日は4年。現代のファーブル昆虫記のような、オオセンチコガネの一大観察記です。) 1週間で書き上げました。 「がろあむし」は作画だけで3年掛かっています。 時間をかければいいという問題ではないと思います。  「ソロ沼のものがたり」は童話短編集です。 リアルサイエンスファンタジー。 この世界では虫が喋ったりもして、生き物たちの濃厚なドラマを、美しい挿絵と共に丹念に描く。 虚構を表す時に真実はどこにあるんだ見たいな、問いかけがある。  ファンタジーという事と直結しているんだろうなあと思います。

擬人化の文学とかに関する興味は「ぎふちょう」を書いているころからありました。  編集者の方と連作短編にしませんかと言われて、話が進んでとんとん拍子に原稿を書くことが出来ました。 虫は描きたくなくて、虫を描くと具体化されてしまってつまらなくなるので、分からないままにしたかった。 だから読んでいる人が虫になったり会話?になったりできたりするんですね。  背景、舞台だけを描かせてもらいました。 このためにした取材は無いんです。  若いときには自分がある様な気がするが、うすうす俺は何もねえなあとおもって、それを自覚した時に何が生まれるかというと、なんにでもなれる。 

年齢と共に諦めるのが上手くなる。 「駄目だこりゃ」「まあいいか」「しょうがねえや」とか、これが一番元気がでます。  どうせ何もないと思った時に凄くキラキラしたものが見えてくるという事が結構多いです。  最近はなにか教えてあげようというようなことは何一つ考えていないです。 うんこ虫を調べて行っても判らないことに行きついてしまって、その人によって見えてくるものが違うと思います。  判らないから面白い、だからそれを伝えたい。  虫はこう生きている、じゃあ俺はどうなのか、いつもそこですね。 みちしるべは虫なんですかね。  鏡の様に虫は見せてくれる。 虫は無垢で勇敢で潔い。 それに比べて俺はどうなんだ、虫は凄いなと思います。  





2024年12月12日木曜日

齊藤隆(歌声喫茶店長)         ・歌声喫茶70年、これからも響け!

齊藤隆(歌声喫茶店長)         ・歌声喫茶70年、これからも響け!

この番組の中で紹介された、竹内まりあの「命の歌」の歌詞を紹介します。 

「生きてゆく事の意味  問いかけるそのたびに 胸をよぎる愛しい人々の

あたたかさ この星の片隅で めぐりあえた奇跡は どんな宝石よりも 大切な宝物 

泣きたい日もある 絶望に嘆く日も そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影

二人で歌えば 懐かしくよみがえる  ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり

本当に大事なものは 隠れて見えない ささやかすぎる日々のなかに

かけがえのない喜びがある

いつかは誰でも この星にさよならを する時が来るけれど 命はつながれてゆく

生まれてきたこと 育てて貰えたこと 出会ったこと 笑ったこと

そのすべてにありがとう この命にありがとう」



2024年12月11日水曜日

渡辺貞夫(サックス奏者)         ・91歳、音楽の原点を語る

 渡辺貞夫(サックス奏者)         ・91歳、音楽の原点を語る

渡辺さんは栃木県宇都宮市出身。 1933年(昭和8年)生まれ91歳。 渡辺さんは音楽人生の原点となった出来事について、お話を伺いました。

1年で52か所61公演行う。 でも少ないですね。 一か月のうち高々1週間ぐらいじゃないですか。 50,60代のころは月に20回とかやっていました。 今年4月に最新アルバム「ピース」を発売、7年振りです。 ウクライナのことがあってから、何かメッセージがないかなと思って、ピースという曲があったのでそれをテーマにして頂きました。 一回リハーサルしてテークワンでとりました。(私はどれもそうです。) 最初の思いを大切にしたい。 上手い下手ではなくて、どうして思いを伝えられるかという事です。 

昭和20年宇都宮で空襲に遭っています。 自宅が焼失しました。 母と妹たちは疎開して、父と私だけでした。 空襲だという事で家の防空壕に入りましたが、父が駄目だという事で町内会の防空壕に行こうとした時に,家に焼夷弾が落ちて焼け落ちるのを見ました。 町内会の防空壕に行ったら、満員で入れませんでした。 宇都宮城のお稲荷さんのところで朝まで父といました。 郊外の農家に親戚と一緒にお世話になる時に、その時にたまたまポケットにハーモニカが入っていました。 ハーモニカを吹きながら歩いて行ったことをよく覚えています。 父も音楽、琵琶をやっていました。 母は三味線を弾いていました。 終戦の年のクリスマスの日に父がジングルベルを英語で歌い出したんです。 吃驚しました。

終戦の2週間後には進駐軍が宇都宮に進駐してきました。 追いかけて行ってガムやチョコレートを貰いましたが、包装紙がピカピカ光って見た事がありませんでした。 憧れが強くなっていきました。 音楽映画も一杯来ました。 先輩の父親が映画館の支配人をやっていて、その影響で音楽の世界に入って行きました。 聞いたことのないリズミカルな明るい音楽で、憧れました。 映画の中で10歳ぐらいの少年がかっこよくクラリネットを吹くわけです。 1週間毎日その映画を観ました。 戦後で楽器のない時代に、楽器屋にクラリネットが一本だけ置いてあり3000円と書いてありました。  父親にせがんで、買ってもらいました。  先生もいなくて、父親の知り合いがクラリネットを吹いたいたこともあり、その人に3日間教えてもらい音を出すことが出来ました。  教則本を見つけて、自宅の屋根に上って練習をしていました。 クラリネットを学校にも持っていき、1年先輩の山内さん(映画館の支配人の息子)がヴァイオリン、内田がトランペット、宇佐美?などと講堂に集まって音を出して、いろいろな曲を演奏し始めました。  山内さんのお父さんがダンスホールでタンゴバンドをやっていて、僕を雇ってくれました。  勝手に吹いていました。

当時映画「銀盤の女王」(フィギュア・スケートの世界選手ソーニャ・ヘニーの映画入り初主演作品)があり、サックスの音が美しくて、欲しくて憧れました。 仕事の関係で父親が東京によく行くので一緒に連れて行ってもらって、一回りうえの従兄弟が新橋のダンスホールのボーイをやっていて、よみうりホールでジャズコンサートがあってそれを聞くのが楽しみでした。 夜は新橋のダンスホールのバンドのサックスを聞いていました。 父親にねだって何とか買って貰いました。 日本製で2万4000円でした。  

栃木県立宇都宮工業高等学校を卒業後、2年だけ好きなことをさせて欲しいと父親に言って、上京しました。 2年経ったら帰る気もありませんでした。 音楽の即席バンドが出来たりして、仕事は結構ありました。 トラックに乗っていろいろなキャンプに行ったりしました。 譜面が読めなくて読めるようになったのは22歳の時でした。  フルートのレッスンで7年間学びました。 その後渡米(1962年)して、フルートでは重宝されました。 

アメリカには3年10か月バークリー音楽院に留学しました。  ジャズ理論を教わり目からウロコでした。  ブラジル、アフリカ、インドなど沢山の音楽を日本に紹介しました。 1978年 アルバム、『カリフォルニア・シャワー』の大ヒット、1980年武道館でのリサイタル、1981年「フロント・シート」が全米ジャズチャート1位。            振り返ってみるといい時代に生まれたなあと思います。  人との出会い、いいきっかけが一杯ありました。  音楽はコミュニケーションのいいツールだと思います。 自然の中から聞こえる音は一番強い音ですね。 生きている音ですね。 鶏よりちょっと大きな鳥が鳴きながら森の中に入ってゆく音を聞いた時には、ジャズのフレーズが聞こえて来たという事がありました。  苦しくて音楽を辞めたいと思った時はありません。 好きな事が出来て生かされている、こんな有難いことは無いです。  ステージは僕が一番元気になれるところです。 プレイを通して聴衆の皆さんと出会って、気持ちが通じ合う、音楽を通じて皆さんの心にタッチできたら、それが僕の願いです。













2024年12月10日火曜日

三田村鳳治(元住職)           ・102歳、あの日のことを伝えたい

三田村鳳治(元住職)           ・102歳、あの日のことを伝えたい 

昭和18年10月21日、立正大学2年生の三田村さんは、太平洋戦争の学徒動員で明治神宮外苑を行進していました。 そしてその日から終戦までの2年足らずの出来事は、三田村さんは忘れられないことの連続でした。 陸軍整備兵として宮崎県の都城西飛行場へ配属、そして鹿児島県の知覧飛行場と終戦間際まで敵艦隊に体当たりする特攻機を見送りました。 

来年3月に103歳です。 2か月前に転倒して腰の骨を折ってしまいました。  昭和18年10月21日明治神宮外苑で雨のなかを鉄砲を担いで行進していました。 送る言葉は声が小さくてわからなかった。 答辞はよく聞こえました。 「生等もとより生還をきせず、・・・」  私は俳句に詠んでいます。 「秋くれば友と歩みし雨の外苑」

昭和16年12月8日の真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入する。 開戦の翌年4月にはアメリカ軍が東京、横浜などに空襲している。 4月18日アメリカの飛行機を見ました。 まさかアメリカの飛行機が飛んでくるとは思わなかった。(学徒出陣の前)  学徒出陣で東条英機首相の訓示があったが私は東条は厭だった。 天皇陛下万歳があって、その後どこからか、「海行かば」の歌が聞こえてきました。  

私の家はお寺で仏教の道に進もうと中学生で得度しました。 文学部に入りました。 弁論部に入って集まってやろうとすると、届け出をしないと集会が出来ないんです。(言論統制が厳しくなる。)  徴兵されて東部第62部隊川崎溝ノ口に、12月1日に入りました。 4月1日つけで立川の航空技術学校へ行けと言う命令がありました。 飛行機の技術的なことを学びました。  宮崎県の都城西飛行場へ配属、そこで第一回の特攻隊を出しました。 10人でした。 仲の良かった北海道の戦友が亡くなってしまいました。 その後知覧に行きました。 知覧に着いて「貴様ら死ぬんだから、髪の毛を爪を切って遺書を書け」それが最初の言葉です。 

整備は見つからないように夜に整備しました。 朝、飛行機を飛行場迄押していきました。 そこで又整備をします。 送るのにもそんなに悲しいとは思っていませんでした。 飛行機にもいろいろありましたが、九七戦というのは足が引っ込まないんです。  土手にぶつかったりおっこったりたりしました。 酷いもんでした。 当時逗子開成中学は海軍兵予備校だと言われていました。 校歌を歌って送り出しました。 ガソリンの補助タンクの代わりに爆弾をつけるのが一番嫌でした。 特攻機を先導する飛行機が一機いて、戦果を見届けて帰ってきて報告するわけです。  突っ込むところとか通信で連絡します。

「飛ぶ戦友(とも)を送る知覧や桜散る」  三田村鳳治                    私が桜の枝を取って操縦室に入れてあげました。  知覧には遺書とか手紙とか沢山展示されてされています。 知覧には何回も観に行きました。 友達はみんな死んでしまいました。

「やあ寒や友をしのびて朝の経」  三田村鳳治

「秋の章友の変化の菩薩かな」   三田村鳳治                    皆特攻観音ですから。

「友は逝き我は長らえ秋の浜」  三田村鳳治                     何故自分だけ生きているのか、辛いですね。 海外にも慰霊に行きました。 ビルマは3,4回行きました。  子供は宝です。 こういう子供たちが日本を平和にしなくてはいけない。  戦争は絶対しない。 輝く未来、そのためには教育です。 

 








2024年12月6日金曜日

森口健司(被差別部落出身の中学校教諭)  ・〔人権インタビュー〕 語り合い、夢を託す

 森口健司(被差別部落出身の中学校教諭)  ・〔人権インタビュー〕 語り合い、夢を託す

森口さんは1959年(昭和34年)に徳島県阿波市で生まれ、現在65歳。 被差別部落の出身で差別をなくしたい一心で、教師になりました。 中学生と部落問題について考えたいと、隠し続けてきた自らの体験をもとに、エッセー「スダチの苗木」などを執筆して朗読の教材として掲載され、全国に届けられました。 部落の出身であることを明かして、生徒たちと語り合い今年で43年目、教壇に立つ最後の年となりました。 差別をなくすという夢を子供たちに託し続けてきた森口さんの教師人生、そして今子供たちへ託す願いについて伺いました。

子供たちというのはほとんど部落問題を知りません。 先生方も部落問題を学習した経験のない方も沢山います。 そういう子供たちにどう届けてゆくかという時に、私自身の存在が資料になるわけです。  小学校5年の時、地区外の友達の家に3人で行きました。  私が駄菓子屋で菓子を買って3人で食べていた光景を見て友達のお父さんが叱るんです。 「情けないことをするな。」と言いました。 それ以後友人の家に行くことはなかったです。 部落の子は自分が部落の子だという事を知らない。 部落外の子は誰が部落の子だという事を知っているんです。

50年以上前、中学、2.3年の時に、私は仲間と柔道の全国大会に出場することになりました。 その時の指導された方が部落の大先輩でした。 部落問題についてもいろんな思いを伝えていただきました。 私に夢を託すように、今度は中学校の先生になって、この故郷の先生になって後輩たちを全国大会に導いて欲しい、そして部落問題をしっかり教えてこの問題を解決してゆく教師になって欲しい、そんな夢を語ってくれました。  中学2年の時に、一番の友人が差別をなくすのは学校の先生になるのが一番いいと思うといいました。 彼の言葉がずっと生き続けています。 

中学では部落の仲間と柔道で夢を実現していました。 勉強も頑張っていました。 高校に行った時には部落の子はいませんでした。 同和問題ではそのクラスにはいないという前提で発言がありました。 その言葉を聞くたびに卑屈になりました。 自分の本当の事が言えない。 部落問題から逃げたいという思いで、故郷を離れて大学は徳島から離れました。 大学4年間京都で過ごしたことは本当に大きかったです。  私の生きる方向を明確に示してくれました。 アルバイト先で、部落の人をさげすんだ仕草があるんです。 私の前に4本指を出すんです。 頭では知っていましたが、実際にされました。 先輩と一緒に飲み屋へ行った時に、根掘り葉掘り聞かれたことがありました。 先輩にまた行きましょうといったら、もう行かないという事でした。 理由を聞いたら、この間連れて来た子は部落の子だ、連れてきたらいけない、と言われたそうです。 他にもありました。 大学ではいろいろ親しい友人が出来ましたが、部落の人間であることは隠し続けてきました。 同じゼミの友人に一人だけ伝えたことがありました。 お前が部落の人間であろうがなかろうが、俺には全く関係ないと言いました。 彼がいたから救われたし、励まされました。

大学卒業後故郷の母校の教師となりました。 堂々と部落のことを語れる子どもたちを育てていきたい、そういう思いでした。 私は子供と共に成長してゆくようになります。 何で先生は部落のことばっかり授業するんですかと生徒に言われました。 今だったら先生自身のことだと軽く言えますが、でも20代前半の頃はそうは言えませんでした。 或るお母さんが自分の子供のことを心配して、部落の子と仲良くなって心配しています、先生の方からその友達を呼ばないようにして頂けたら嬉しいです、と言われました。 これを聞き逃したら私は教師ではなくなると思いました。  私もその立場の人間です。 私も中学2年の時に部落のことを知って、それが教師になるエネルギーです、部落差別をなくすために教師になりましたと言いました。 差別の有りなしのないいいクラス、学年にしてゆきたいと言いました。 そういう取り組みをするんで安心してください。 お互いが信頼し、尊敬し、お互いを大事にするそんな関係を作る教育をきちっと続けます、と話をして一生懸命聞いてくれました。 

誠実に伝えることによっていろいろな反応があります。 共感してくれる人、聞きたくない人などありますが、全部その反応を引き受けてきました。 それが全部私の生きる糧となって来ました。  伝えることによって何かが変わる。 

「スダチの苗木」 私の中にある部落問題、自分の中にあるすべてをさらけ出すしかないと思いました。 父は8人兄弟の3番目です。 経済的に厳しい家庭に育っています。 父も母も部落で生まれました。 卒業の時に父が京都の下宿に来たんですが、父親の姿が恥かしいと思いました。 私は私のことを隠し続けていますから、卑屈な気持ちでいました。 部落のことが判ったらやっていけないというような恐怖もありました。 スダチの苗木を植えるのにスコップとツルハシを持ってきていて、それが恥ずかしくてたまりませんでした。  私は苗木に食って掛かりました。 自分をさらけ出すという取り組みの中で、苗木の件をしゃべった瞬間に、情けない父への思いがありましたが、いまは誇りに思っていますが。 変ってこれたのが大きな喜びになっています。 

父の前で「スダチの苗木」を読んだんです。 目を真っ赤にして、「お前のような先生がいたら、部落の子はうれしいなあ。」と一言言いました。 父へ感謝しかないです。  自分の本当の気持ちを伝えてゆくという事は、こんなに自分を豊かにする、そのことを確信したのは「スダチの苗木」です。 

小学校4年生の時にお父さんが亡くなった生徒がいました。 亡くなった背景に部落差別があります。 職場で差別的なことを言われ、酒におぼれるようになって、身体を壊して亡くなりました。 その生徒は学校でしゃべらなくなります。 彼がいろいろなことをしゃべる様になったのは中学3年の時でした。 「父ちゃんごっついいい人、優しかった、父ちゃんが食堂に連れて行ってくれてごっつい美味いんよ。」としゃべり出して、学ぶ意欲が広がっていって、彼が憧れていた高校に進学していきました。 

安心して自分の心のうちにあるものが、語り合える、そういう人権学習を積み上げていきます。  自分自身に引き寄せて、自分の言葉で自分の思い、自分自身が抱えている事を語って行きます。 そのなかで子供たちがどんどん成長してゆくんですね。 クラスのなかに共感が生まれます。 部落問題の解決は、他人ごとではなく我が事です。 自分の言葉で語る、自分を伝えてゆく。  やっぱり知る事です、他人ごとにしない事です。 すべての子供たちが立場を越えて、自分に何が出来るかという事を問い続けてゆく、そんな積み上げのなかで、私たちの生きる世界は本当に豊かになると思います。 出来る限り子供たちや多くの仲間と繋がり続けたいと思います。 




 





















 

2024年12月5日木曜日

桜井恵子                ・〔人権インタビュー〕 えん罪の夫を支え続けて 布川事件を語り継ぐ

桜井恵子     ・〔人権インタビュー〕 えん罪の夫を支え続けて 布川事件を語り継ぐ 

1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件(布川事件)、逮捕された桜井昌司さんと杉山卓男さんの二人は無期懲役の判決を受け、無罪が確定するために43年7か月のも年月がかかりました。 その一人桜井昌司さんはさらに国と茨城県を相手取って、奪われた権利への損害賠償を求める裁判をして勝訴しています。 72歳になる桜井恵子さんは、冤罪に苦しむ昌司さんを支え続け、昌司さんが76歳で亡くなった後も、冤罪による被害者を支援する活動を続けています。 恵子さんに冤罪はどのような苦しみを人にもたらすのか、夫を見続けてきた経験の中でお話を伺いました。

恵子さんと昌司さんが出会わられたのは1998年1月。 日本国民救援会というのがあって、茨城県本部の方から手伝ってほしいと言われて、救援会は人権救済団体で裁判で戦っている人たちを支援するという団体でした。 布川事件での男性(桜井昌司さん)の新年会での挨拶を聞いて、強く関心を持ちました。 40代後半のおじさんでしたが、少年の様に輝いていました。 29年間無実の罪で拘束され続けてきたという環境が、どれほど厳しかったのか、そこから解放されたものと、自分の生活を確立するために働く、新しい生活に向かってゆく、希望でしかなかったと思います。

1999年昌司さん(52歳)と私(46歳)は結婚しました。  両親は猛反対でした。 「最高裁まで行った裁判で間違っているはずがない。」と父が言っていました。 「親子の縁を切る、」と言われた時も「判りました。」と言いました。 結婚して籍は入れましたが、同居は出来ませんでした。 裁判を優先するために、夫は仕事をして自分の生活を確立する、私は水戸で長く務めさせてもらったところで続けてゆくという選択をしました。  週末にお互いが通うと言う様な生活を9年間続きました。  毎日夜9時にお互いが電話で連絡し合う、夫は約束を厳格に守ってくれました。 夫の真面目さが伝わって来ました。  

冤罪に巻き込まれ、無実の罪だと訴えるところを支援してくれる人に出会って、この人たちの信頼を裏切ることはできないと思うようになった、だから一生懸命やる、自分自身にも嘘をつかない、という事でした。 自白してしまったことは自分自身に嘘をついた、やってっもいないことを自白してしまった、という事です。 取り調べの苦しさから逃れられなくて、一時的にそうした、でも一生背負う事になるわけです。 有罪判決が出て、29年拘束されるわけです。 だから自分は一度でも約束を守らない事は無い、嘘はつかない、人の心も裏切らない、という風に自分は心がけてきたと言っていました。 

弟が病気で入院していましたが、夫も通って話をして弟も理解してくれるようになったようです。 弟がなくなり、夫が行ってその後に両親が着くわけですが、その場で父が夫に「今日一緒に家迄まで来てくれないか。」と言って、恵子の連れ合いですと、町内の近所の人たちに紹介してくれました。  弟が自分の死をもって自分たちを家に戻してくれた、みいたいな所があります。 1999年結婚した時あたりは、第二次再審請求に向けた準備をしていた頃です。 2001年に第二次再審請求が申し立てられました。  一緒に行動するようになって、最初のイメージとはだいぶ違うところが出てきて、暗くないと眠れないというんです。 常夜灯がいつもついていて、24時間365日間監視の生活をしてきたので、人に見られているという事から解放されたいという事でした。  夜中に突然起きて、心と体がバラバラになると叫んで、部屋のなかをうろうろし始めました。 4階の部屋から飛び出してしまうかもしれないので、捕まえておいてくれとか言っていたりもしました。 夫の中で何が起きているんだろうという感じでした。 

会の事務局の人に相談したら、29年間獄中で一人で自分と戦い、司法とも戦い、自分一人でやってきたのでかなり無理をしたはずなので、大なり小なり発作的なことを起こしながら、普通の人間に戻って行くのではないのかと言われました。  無実の罪で有罪判決が出る、懲役の刑が確定する、この誤り、本人を救うのにはそこを改められることしかないはずです。 再審で無罪判決を貰う、それがないと冤罪の人の人権は守られない。 

1967年からおよそ3年間全17冊の日記があります。 拷問的なことはなかったと言っていました。 淡々と永遠に何時間もやられることがどんなに苦しいか、当事者でないと判らないと思います。 あの手この手で自白させるようにするわけです。 嘘の自白をしてしまう場面がありますが、そこに行くと必ず絶句して言葉が出ないんです。(後悔をする場面)   心が折れてしまった瞬間を皆さんの前で、何度も何度も語らなければならなくて、そのたびに夫の苦しみを私は感じました。 

2001年に第二次再審請求が申し立てられ、その4年後2005年に水戸地方裁判所土浦支部が再審開始を決定。 前回の裁判では出てこなかった新たな証拠がでてきました。 取り調べのなかで夫は手で首を絞めたと自白させられて、調べは進んでいったと思いますが、実は死体検案書は「絞殺(推定)」と書かれていました。 ひも状のもので絞めたという風な、解剖した先生の記録がありました。(ずっと後の再審の段階で出て来た。)  矛盾があり大きな争点になりました。 再審が開始されたのは、逮捕されてから38年経ってからです。   一度は棄却された。 最初の裁判の時にこれが出ていたならば、その後は無かったかもしれない。 再審が開始された時には本当に喜んでいました。 位牌の前で何時間も号泣していました。  2011年およそ44年振りに、再審無罪が確定しました。 2012年に国と茨城県に対して、損害賠償請求の裁判を起こすことになります。 

布川事件の責任の所在をもっと明らかになる方法は無いものかと、この手段しかないと言いました。 勝っても負けても5年で終わりにするという事でスタートしました。 しかし結果的には10年掛かりました。  2019年には昌司さんに直腸がんが見つかりました。(ステージ4)  本人は直すという事を最後まであきらめなかったです。 夫は「負の言葉を口にするな。」と信条の様に言っていました。 2021年に国家賠償請求の勝訴が確定します。最初に出た言葉が「俺はこの判決を待っていたんだよ。」と嬉しそうに言いました。 2023年の夏に亡くなりました。(76歳)  「私がいてくれてよかった。」と言ってくれたので、「私がこの人に必要とされる人間になりたい。」という、最初の思いがきっと夫には伝わっていたという思いがあります。  時間があまりにも掛かりすぎます。 きちんと再検証して頂きたい。 その事件の中で何を学んで、何を後の人たちに引き継いでゆくか、という意味では、布川事件は凄くいい教訓を残してくれていると思います。















2024年12月4日水曜日

村山浩昭(元裁判官・弁護士)       ・〔人権インタビュー〕 想像できますか、袴田巌さんの“58年”を

 村山浩昭(元裁判官・弁護士)・〔人権インタビュー〕 想像できますか、袴田巌さんの“58年”を

58年前静岡県で味噌製造会社の一家4人が殺害された事件で、死刑囚となった袴田巌さん(88歳)の再審で今年9月静岡地方裁判所は無罪を言い渡し、その後確定しました。 巌さんと巌さんを長年支え続けた姉のひで子さん(91歳)にとって半世紀以上に渡って待ち望んでいた判決でした。 その無罪判決を裁判所の前で喜びつつも複雑な思いを抱きながら聞いた人がいます。 10年前静岡地裁の裁判長として、袴田さんの再審の開始と拘置所からの釈放を決定した元裁判官で今は弁護士の村山浩昭さん(67歳)です。 村山さんは無実の人を冤罪から救済するための最後の砦とも言われる再審に、これだけの時間があってはならないと,、再審に関する法律の改正を呼び掛けています。 村山さんに袴田さんのような思いを知る人を二度と生み出さないためには、どうするべきなのかをお聞きしました。

無罪判決が出るであろうという事は予測はしていました。 ホッとしたというのが第一印象です。 ようやく無罪になった長かったなあと思いました。 私どもが2014年に再審開始決定を出し、中々再審決定がしなかった。 東京高裁で取り消されてしまったという事がありました。 取り消されただけで救済が遅れる、再審公判が遅れるという事が間違いなかったので、驚くと同時に後悔しました。 58年という長きによる苦しみに責任を負わなければいけない一人だったものですから、余計辛かったし、「良かったですね」という事で済ましてはいけないのではないかという気持ちがあったんだと思います。 

袴田さん自身は長い間死刑の恐怖におびえながら拘置所に収容された影響で、今も意思の疎通が難しくなっていて、今回の判決を法廷で直接聞くことが出来なかった。 ご本人が一番聞きたかったはずですね。 それが叶わないようになってしまった、そのようにしてしまったという責任は重大だと思います。 国家権力が無実の袴田さんを死刑囚にしてしまったんですね。 58年間苦しみ続けてしまった。 人権侵害の最たるものです。 名誉回復は出来るけれども、どこまで行っても回復できない損害を負わせている。  こういうことが起きないように何をなすべきか、国を挙げて考える必要がある。 再発防止、早期救済の道すじをつける、そのことを実現しなければ、袴田事件の責任を取ったことにはならない。

再審は非常にハードルが高くて、中々開始にならない。 袴田事件が冤罪ではないかという風に言われていた死刑事件だという事も承知していました。 大変な事件を引き受けるという事は思っていました。 この時にはすでに46年もの歳月が経っている。 事件を担当するにあたっては、私が静岡にいる間には必ず結論を出すと、そういう覚悟で行った記憶があります。 2012年から審理を担当。 2014年に再審の決定文を書くことになります。 今迄の裁判に関わった人たちは、大先輩、著名な方たちがいるわけです。 そういった方々の判断が間違っているかもしれないという事をはっきりという訳ですから、勇気は必要だと思います。 私は新証拠があっての再審ですので、従前有罪にした裁判官もこの新証拠を観ていたら無罪にしたかもしれない、そういう可能性はあります。 

袴田さんが怪しいのではないかと思った理由の一つが、犯行時に袴田さんが着ていた服とされていて、過去の裁判で有罪の決め手とされてていた証拠が、事件発生から1年2か月後に現場近くの味噌タンクの中から見つかった血の付いたシャツやズボンなどの5点の衣類が2010年に検察側から5点の衣類のカラー写真が新たに開示されたことで、これが袴田さんの犯行着衣だったのかどうかという事が争われた。 それを見て正直随分鮮やか(血の赤い色など)だなあと思いました。 味噌に浸けていて、そういう色が残るのかなあと思いました。 事件発生から1年2か月の間味噌タンクに漬かっていた5点の衣類の血痕に赤みが残るかどうか、争われました。 弁護側は実際実験をして赤みは残らないと主張、検察側は赤みが残るとした。  赤みが残るんだという学者さんを見つけてきて、そういう意見書を書いてもらうという発想になってしまうのがとても悲しいですね。 5点の衣類について捏造の疑いに言及しました。  袴田さんを犯人に決定つけるためにやったとすれば、捜査機関以外にはないと私は思いました。 

袴田さんの釈放ですが、刑の執行停止の条文で、拘置の停止もできるという解釈論を行いました。  そこで考えたのは袴田さんの健康問題です。 もう一つは捏造の疑いをはっきり書きました。  国家権力が無実の袴田さんを死刑囚にしてしまった、そう言う疑いがありますよ、しかも違法な捏造という行為によって死刑囚に陥れてしまった、という事態なわけです。 そういう事態を想定しながら、まだ拘束するんですかと、人道上の問題としてもやってはいけない事ではないかと思いました。 

検察は抗告をして、高等裁判所、最高裁判所で審理、最高裁判所で指し戻されて再び高等裁判所で審理がおこなわれた。 再審開始決定から9年後でした。 無罪判決まで10年が掛かった。  これは長すぎですね。 (袴田さんの再審開始決定を村山さんが出した後、村山さんの手を離れて袴田さんの審理が続くことになる。 静岡を離れる。)  早く再審公判が開かれて欲しいと思いました。  きちんと真実が探求されて、無罪になることを祈っていました。 

再審を開かずの扉にしてしまっているのは、裁判所であり、検察官であり、場合によっては弁護人もその責任者の一人かもしれません。 検察官の一番大きな問題は証拠を出さない。 検察官としては最もよい証拠を提出します。 検察側にとって良くない、不利な証拠は証拠請求しないという事が出来てしまう。 被告人の不利益になるという可能性も大いにはらんでいる。 改めないといけないと思っています。 再審請求事件はあまり多くない。 どうしたらいいのかとか、条文も非常に少ない。裁判官はどうしても期日を指定してゆく事件に追われてるので、そちらが優先する。 裁判官一つのポストで3,4年で転勤してしまう。  そういったことが積み重なるととんでもなく時間がかかってしまう。 裁判官の職業倫理の問題だと思っています。 寝かせてしまうという事はあってはならないと思いますが、起きないとは限らない。 

裁判官を定年退官して2年になります、弁護士になり、刑事訴訟法の再審に関する規定(再審法)、を変えようと日弁連の再審法改正実現本部の副本部長として活動しています。  3つの法改正を訴えています。 ①検察側の証拠の開示に関するルールがないので、重要な証拠が眠ったままになってしまうので、一定のルールを設ける。 ②再審開始決定の段階で検察側が抗告できる仕組みに今はなっているが、再審を始めるという決定にもし検察側が不服があるんだとすると、再審裁判の審議の中で有罪の立証をすればいいわけなので、検察の抗告権を禁止する。 ③再審に関する規定の整備。

③再審に関する規定の整備。 裁判官の立場から見ると、手続き指定がないために、審議を進めるという事がやや難しい。 そのアクションがないと進まないままになってしまう。 それが長期化の大きな原因になってしまっている。 刑が確定しているので、受刑中か、死刑の場合は刑の執行を待っているか、刑の執行が終わって受刑後に社会に戻っているか、と考えられるので、進行形で冤罪被害が続いている。  そこを理解しないといけない。  確定しているから、基本的には動かさなくてもいいんだという発想の法律の制度ではないかと思います。 

検察側は証拠開示については事案ごとに適切に対応している。 証拠開示によって事件の関係者などのプライバシーの侵害につながる恐れがある。  検察の抗告については裁判所による不当な再審開始の決定の是正をしている。 抗告できずに安易な再審開始を認めると、司法制度への信頼が失われる。 と言った見解を示している。  全く賛同できません。 証拠開示がスムースに言っていたらこんなに時間はかからなかっただろうと思います。   そういう例ばかりです。 検察官が抗告した多くの事件では、抗告が棄却されて再審になって無罪になっているのが、圧倒的に多数なんです。  抗告を禁止すれば早く再審公判に行くわけなので、早く無罪判決になるというケースが当然出てくる。 

無罪かもしれないという人を救済するために、再審法はそのためにある法律だと理解すべきだと思っています。  逮捕されると悪い奴が捕まっても当たり前だと、多くの人が思っています。 捕まったから犯人視する見方はこの社会から亡くさなければいけないと思います。 無罪推定原則は実社会では結構虚しく響いているのかなあと思います。 姉のひで子さんは巌の58年を無駄にしないでほしい、再審法の改正を実現してほしいと訴えています。 あれだけ酷いことにあったら恨み言の一つや二つは言いたくなるのが当然だと思いますが、そういう響きではないです。 巌さんだけではなく、本当にそういう立場に置かれた方を救済する、そのために巌さんとひで子さんが経験したこの事実を、大事に使ってほしいという意味だと思います。  私たちに向けられた大きなメッセージ、ミッションだと受け止めています。 再審法は変えられると思います、その最後の一押しは世論だと思います。法務省の後ろ向きの態度は一向に変わっていません、専門家同士の議論では決着がつかないという事だと思います。 結局人権を大事にしない、救済を求めている人たちに対して、手を差し伸べない社会になってしまう。  いつか実現できると思ってやらなければいけないし、テーマの一つである再審法の改正については必ず改正できると思って取り組んでいます。






















2024年12月3日火曜日

佐藤路子(旧優生保護法訴訟 原告の義理の姉)・〔人権インタビュー〕 旧優生保護法が問いかけたもの

佐藤路子(旧優生保護法訴訟 原告の義理の姉)・〔人権インタビュー〕 旧優生保護法が問いかけたもの

 旧優生保護法は障害などを理由に 強制的な不妊手術を認める法律です。 戦後間もない1948年から1996年まで施行され、およそ2万5000人が不妊手術を受けさせられました。 この問題を巡っては全国各地で39人が国を訴え、今年7月に最高裁判所大法廷が旧優生保護法は憲法違反であることを判断しました。 又10月には被害者に保証を行うための法案が成立しました。 2018年に全国で初めて裁判を起こしたのが、15歳の時に不妊手術を強制された宮城県の佐藤由美さん(60代)です。 知的障害の由美さんに替わって裁判に参加し続けたのが、義理の姉の路子さんです。 佐藤路子さん、由美さん共に仮名で本名は公表していません。 原告たちが戦後最大の人権侵害と呼んだ旧優生保護法が問いかけたものとは、伺いました。

由美さんは夫の妹に当たります。 交際中に障害の妹がいるという事は聞いていました。  妹は仙台の施設の方にて、面会しました。  人なつっくこくすぐ受け入れてくれたような気がします。   知的障害ですが、日常会話は普通に出来ました。  結婚については母親、祖母、叔父さんなどが心配をかけたようです。 私が結婚したのが19歳で由美さんは17歳でした。 由美さんは地元の中学を終わってから、仙台の学校で裁縫、料理などをするところで何年かいました。 学園祭とかことあるごとに行っていました。 仙台には25歳ぐらいまで居ましたが、その後家に来ました。 40年ぐらい一緒に暮らしてきました。 私には3人子供が居まして、妹が帰ってきた時に3番目が生まれたころでした。 おむつを替えたり面倒を見てくれました。  

傷が目についてしまって、なんで大きな傷があるの吃驚しました。 私が結婚してその12月に義理のおかあさんが子供が出来ないように手術をしていると言われました。 詳しい内容については聞くことが出来ませんでした。 夫も判らなかったようで秘密にしていた様です。  由美さんが22,3歳の頃に縁談の話がありました。 仲人さんには子供が出来ない身であることを話したようです。  後遺症もあっていつもお腹が痛いというようなことは言っていました。 30歳ぐらいの時に痛みが酷くなって卵巣膿腫という事で、卵巣摘出手術をしています。(癒着の為)  当人は手術のことはわからなくて、不憫に思いました。

旧優生保護法が出来たのは1948年、議員立法で成立しました。 この時代人口過剰にも直面していた。 優生保護法第一条、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する、と書かれています。 人口を抑制するためには知的障害、精神障害は遺伝するという誤った知見をもとに強制的な不妊手術を認めるという、のがこの法律でした。 

地元にはハンセンの施設があるので、障害、遺伝というような障害者には差別意識がありました。 飯塚純子さん(仮名)の活動がきっかけとなりました。 2017年2月、飯塚さんの人権救済の申し立てに対して、日弁連が国に意見書を出しました。 弁護士の新里宏二さんに電話をしました。  「優生手術に謝罪を求める会」(東京)の方が2017年3月2日に宮城県議会で勉強会をしたみたいです。 その機会に私はお会いし、話を聞きました。  飯塚さんは20年も自分の被害を訴えても、国から手術をした証拠があったら持ってきなさい、と言われたそうです。 手術した証拠がないので訴えることが出来ませんでした。 手術台帳が県の方で焼却していてなかった。  由美さんがまさか法律に関わる手術であったという事は想像していませんでした。(義母はもう亡くなっていて聞けなかった。)  

妹の情報開示請求すれば判ると聞いたので、開示請求を出しました。 優生保護法に基づく手術で遺伝性精神薄弱という事で15歳の12月に手術をしていたことが判りました。   頭のなかが真っ白になり吃驚しました。  遺伝性精神薄弱ではなく、なぜ15歳でしなければいけなかったのかという怒りもありました。 1歳の頃に手術をした時に、麻酔が効きすぎて障害になったという事は、結婚するときから聞かされていました。 遺伝性精神薄弱であれば、手術しなさいと来たら、受けざるを得なかった状況でした。  国から宮城県に対して件数を増やすように指示があったようです。 北海道に次いで二番目に手術の件数が多い。 

全国初の国家賠償訴訟に繋がりました。(2018年1月30日) 厚労省と3回交渉しましたが、当時は合法に行われていたという事を主張していました。  弁護士が「これは裁判するようですね。」ということで始まりました。  由美さんと同じような方が全国で沢山いらっしゃるのでは無いかと訴訟を起こしました。  娘からは反対されたが、一か月過ぎて理解してくれました。  最終的には39人の原告が国を訴えることになりました。   記録の残っているだけでも全国で2万5000人が手術を受けました。 

勝たなければ駄目だと思いました。 一審が2019年5月仙台地裁で 旧優生保護法は憲法違反であるという事は認めたものの、20年が経つと賠償請求できる権利が消滅するという除斥期間を根拠として原告の訴えを退けました。 2022年2月に大赤高等裁判所で、初めて国の賠償責任を認める判決が出ました。 その後国が認める判決が続きましたが、2023年6月の仙台高等裁判所の判決では、再び20年間の除斥期間を理由に原告の訴えを退けました。 この時の仙台高裁の裁判長は向き合っていない感じでした。 判決文にはミスがあり、本当は私は義理の姉なのに義理の妹と書かれていた。  普通だったらありえない判決だった。 他の高等裁判所では国の責任は認めていて、最終的には最高裁大法廷で判断することになりました。 その結果今年7月3日に旧優生保護法は憲法13条と14条に違反するという初めての判断をしました。 20年の除斥期間については認めず国に賠償を命じました。 仙台高裁の判決については取り消して審議のやり直しを命じました。 勝利を認識しました。

憲法13条:すべて国民は個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

憲法14条:すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 

10月に補償法案が成立しました。  被害者本人に1500万円、配偶者に500万円まど。 2万5000人の存命の方には申請をしてください、という通知をあげるのがいいのではないかと思います。 差別のない社会を、と訴えたいです。








2024年12月2日月曜日

村瀬麻利子(岐阜県在住の里親)      ・〔人権インタビューシリーズ〕 一緒に幸せになろうよ

村瀬麻利子(岐阜県在住の里親)   ・〔人権インタビューシリーズ〕 一緒に幸せになろうよ 

経済的な理由や虐待などで実の親と暮らせない子供の数はおよそ4万2000人、里親はそうした子供を家庭で受け入れ育てる制度です。 国は家庭的な環境で子供を育てることが大切だとして、法律で里親制度を推進しています。 しかし児童養護施設などで暮らす子供が7割以上、里親家庭で暮らすのは2割ほどにとどまっています。 村瀬さんは現在59歳、4人まで受け入れが出来る児童養育里親を務めた後、より多くの子供に提供したいと、6人まで受け入れ可能なファミリーホームという形に規模を広げて、活動を続けています。 村瀬さんは共に暮らす子供一人一人とどのように向き合い、今どんなことが必要だと考えているのか、お話を伺いました。

生後間もない子から18歳までの子を6人委託してます。 年齢はバラバラで2歳、3歳、小学校4年生、6年生、中学2年、高校1年生です。 朝から晩までてんやわんやです。 仲良くするときもあれば喧嘩もしますが、基本的には仲良しです。  コロナがきっかけで保護される子が多くいるという事を聞いて、6人受け入れることが可能なファミリーホームに移行しました。 家庭での経験をさせてあげるという事が目的です。

最初養護施設の子(2歳)を週末だけ預かっていました。  5年後に職員さんから養育里親になりませんかと言われました。 研修を受けて登録しました。  おかあさんがシングルで生後4日から来た子もいました。 育児放棄で来た子(幼稚園)もいます。 幼稚園の子が凄く食べるというんですが、実際は食べれなくてトイレで吐いていました。 今目の前にあるご飯を食べなかったら明日は無いと思ってしまうらしいんです。 安心させるためにいつもごはんはあるから大丈夫だよとかなり長い期間言い続けていました。 

自分が甲状腺の病気をして、もう少し遅かったら死んでいたという状態になって、子供を預ける制度が有ったらいいなあと思っていました。 幼少期に父親から理不尽な扱いをされたという事もありました。  過去の経験から何か力になれたらいいなあと思い里親を始めました。  父親からは殴られたり、生むんじゃなかったとか言葉で伐倒されたりして、家族が幸せと思ったことはなかったです。 うちにくる子もそういう思いがあると思います。  一緒に幸せになりたいし、子供たちのお陰で自分も元気でいられる。 

怒ったりするかもしれないが、必ず一人ぼっちにはさせないという事は根底にあります。  愛情に飢えていた子は、どれだけ愛情をかけてもざるの様に流れでて忘れてゆくんです。  だから常に全力で頑張っています。(時には疲れますが)  最初来たころは物欲ですが、何年か暮らしているうちにものではなくなり、ぎゅーして変わっていきます。 目に見えないもので繋がり始めたのかも知れません。 常に真剣なのでぶつかり合ったりします。

残り物を出したり、ちょっとしたことで、本当はママは自分のことを好きじゃなかったんだと、毎日言われました。  好きだよ好きだよという思いで接しました。 大人になったら私の思いが判ってくれたらいいかなという思いでいます。 里親のことろに来た時にはマイナスの状態になっているので、それをゼロにするのが難しい。 「ありがとう」、「ごめんね」が知らない。 他人の言う事を聞く耳を持たない。  遮断してしまうのでなかなか入って行けない。  「馬鹿野郎、死ね」と言い続けけられてきているので、すべてを敵と思って誰かと戦おうとする。  1年ぐらいすると、この家の中には怒ってくる人がいないんだねとついこの間言った子がいました。 育つ環境が大事だと日々感じます。 

風呂にも毎日入っていない、歯磨きもして居なくてはが全部虫歯、靴もボロボロで破れている子が来ました。 名前は言えるが、後3か月で小学校へ入学するのに読み書きが出来ない。  3か月でひらがな、数字を教え込みました。 学ぶことを知らない子でした。   根気よく続けて、あいうえおをものすごいスピードで覚えました。 しかし長い単語「しんかんせん」とかがなかな覚えられない。 入学直前には読めるようになりました。 数字も10までは書けるようになりました。 学校に入って国語、算数を覚えていきました。   でもちょっと油断すると崩れて立て直すのに時間をかけたりしました。 日常生活も何も知らない子でした。(トイレに行くタイミング、風呂に入ることも知らない、服を洗う事、着替えることも知らない。)  転んで血を流しても言わない。(言ってくれれば手当をするんですが)  日常生活も大半が出来るようになり、勉強も教えれば出来る子だと判りました。  教えるが楽しくなって、今では学年でトップになってしまって、将来学校の先生になると張り切っています。

私の幼少期は本当に死んだ方がいいのかなあと思いました。 病気で死んでしまう可能性が有ることを経験して、自分の命はここまでかなあと思いました。 パートで働いたことがありましたが、体力が持たなくて自分は世間に必要ではない人間なんだなと、落ち込んだ時期がありました。 そんな時に三日里親をやりませんかという広報を観ました。  これだったら自分の過去を生かせると思いました。 子供の為にも母親の為にもなれると思いました。  自分の生きた証を残したかったのかもしれない。 何があっても折れないし、自分根底はぶれない。 

子供たちがなりたい道に進めてあげたいので、何になりたいのか日々聞いています。 高校1年生の子は自分はちっちゃい子が好きだと気付いたみたいで、乳児院で働こうか、保育士の免許を取ろうかと言っています。 夜の大学に通わせようかと思っています。

国が社会的養護のことを理解していないと思います。 実際に子供のことを考えていてくれるのかなと思います。 お金のことで言うと足りていないと思います。 里親はみんな優しいのでお金ではないという思いでやっているので、皆さんがんばってやっていますが、時給換算すると凄い事です。 社会枝的養護の子は本当に育てにくい、生きにくい、ひび里親の方はみんな悩んでいます。(暴力、暴言など) 里親制度をちゃんと国は理解していないと思います。 国は里親の方から直に生の声を聞いてもらいたい。 地域と一緒にやっていけたらいいという思いはあります。(偏見とか、理解してもらえない部分がある。)  生まれて来た子には差別はないが、でも世の中は偏見の目で見られてしまう。  なじみがないのかもしれない。  一人でも多くの子供たちに勇気と自信をもって、社会に出られる子供に育ててあげたいという思いです。 まだ2歳の子がいるので、彼らが20歳になった頃も生きていたい、ずっと子供たちを見守っていてあげたい。 この場所はみんなの安心安全基地でありたい。  子供たちの「ただいま」の笑顔が観たいから。






















2024年12月1日日曜日

秋野暢子(俳優)             ・“鬼退治”を終えて~食道がん闘病記~

秋野暢子(俳優)             ・“鬼退治”を終えて~食道がん闘病記~

 秋野暢子さんは1957年大阪府生まれ。 中学、高校と演劇部に所属していてその実績が評価され1974年にNHK銀河テレビ小説「おおさか・三月・三年」のウェイトレス役で俳優デビューしました。 1975年のNHK連続テレビ小説おはようさん』のヒロイン・殿村鮎子役で18歳で抜擢され本格的に女優活動を開始しました。 その後もテレビドラマや映画で幅広い役柄を演じ、情報番組のコメンテーターとしても活躍しています。 又東日本大震災や熊本大地震などの被災地を訪れ、ラジオ体操やヨガなどの指導を行って、支援を行っています。  その一方で2022年7月には食道がんの治療の為、芸能活動を休止することを発表、治療を終えて去年1月に復帰しました。 秋野さんはがん治療は一人ではなく医療関係者とチームを組むことで行う為、鬼退治と称して前向きに治療を行いました。  がん治療を通じて感じた人生観の変化などについて伺いました。 

体調はとてもいいです。 食道がん(私の場合はステージ3)を科学放射線治療した場合、だいたい50%2年以内に再発するという統計が出ているそうです。 2年を過ぎて、来年1月にPETをやってみて、大丈夫だったら半年に一回検査をするという事になっています。  がんのことを話すと言ったこともあり、仕事の幅が増えてきました。  病気をしてみると仕事だけではなくて日常一つ一つを大事に生きるという事を考えると、仕事に対する姿勢も変わって来るかなと思います。 60歳の時にフルマラソンは辞めろと言われまいた。 ひざ、腰に師匠が出てくるだろうと言われました。 フルマラソンのために10km走っていましたが、5kmにしました。 薬の後遺症で足首あたりがしびれていて、現在はトレッドミルで家で走っています。 

2022年に頸部食道がんと診断されました。  2021年12月に鎖骨と鎖骨の間になんかあるなと感じました。(11月には人間ドックに入ってなんでもなかった。)   大学病院などで血液検査、耳鼻科に通ったが原因が判らなかった。 ピンポン玉の大きさぐらいに感じるようになりました。 6月に内視鏡をやったらがんだという事が判りました。  原因が判ったのでショックはなかったです。 手術をするとなると、食道を全部取って、声帯まで取らなければいけないので、抗がん剤と放射線治療を選びました。 これは効く場合がある人とない人があると言われましたが。 がん治療はチームになって向かって行かなくてはいけないので、桃太郎の鬼退治と似ているなと思いました。 

治療の選択は私自身だと思いました。(主治医は自分だという考え方)  病気になったこと、どういう風に治療してゆくのか、それらを報告するのが私の生き方だろうなと思って、ブログで発信することにしました。  そのことで意見交換、励まし合いなどがありました。 抗癌剤の副作用で髪の毛が抜けるという事を聞いて厭だなと思ったので、バリカンで切ってもらって、自分で剃刀を使って剃っちゃいました。 それを見た先生は秋野さんへの抗癌剤は毛が抜けないんですが、と言われちゃいました。  

1957年大阪府生まれ。 呉服屋の末娘でした。 5歳の時に父が訳の判らない保証人のハンコを押してしまって、家屋敷が全部なくなってしまうという大事件がありました。   取り立てが来たりして精神的にダメージを受けて吃音が出るようになりました。 小学校に行っても引っ込み思案で明るい子ではありませんでした。 小学校5年生の時に学芸会で面白い役をやることになりました。 演劇の盛んな中学高校に入ることになりました。 徹底したアクセントを習って吃音が直って行きました。  審査員の中から仕事の依頼が来たりしました。 仕事をこなしているうちに、NHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』にウェイトレス役で出演して、18歳になって1975年のNHK連続テレビ小説おはようさん』のヒロイン本格的に俳優の道に進みました。 

役者をやって、自分ではない人の人生を生きるという事が面白いですね。 役柄によってはバッシングされることもありましたが、三国連太郎さんが「これもきっと君の演技の幅になるから、力を入れてやりなさい。」と言われました。  絵を描くこともやっていて個展を開いたりもしています。 絵も芝居と似ているところがあります。 全く何にもないところから始まる。(役柄も同様)  絵はやめどころが判らない。(演技も同様) 絵も芝居も点数が出ない。 明るくて元気になると言っていただけます。 生き物を描くことが好きです。 生きる事への思いとかが、生き物を描くことに繋がっているのかもしれません。   病気前後での画風は特に変わってはいません。  

東日本大震災の時には、私のブログに飛んできてくださったいわき市の方とコンタクトが取れて、東北に伺うようになりました。  皆さんと一緒に運動したり、花作り、料理などを始めました。 行くと喜んでくれました。  勉強をして今は呼吸筋のトレーナーでもあります。 ですので皆さんと呼吸の運動をしたりしています。  闘病中に朝昼晩と呼吸筋の運動をしていました。 海馬に情動部分(感情をコントロールする部分)があり、これが乱れるのが自律神経の乱れとなる。 不安になったり恐怖感を持ったりうつ病になったりする。 乱れをなくするためには呼吸しかない。 闘病中も心を穏やかにしてくるれることにつながったのかなと思います。  大災害では皆さん大変な目に遭っているが、生きようとする力、諦めない姿、凄いなあと思います。

がんを経験して、命には限りが有るという事をしっかり知りました。  その日一日一日を大事に生きる、これは奇跡だなあと思います。 食べて、飲んで、歩いたり、考えたり、いろんなことが出来るという事は当たり前ではなくて、奇跡だと思います。 奇跡は突然降って来るのではなくて、毎日の中にあるなあと思います。 大事に生きなければいけないと思います。  娘が結婚することになり、子供が出来ました。  我が身に死の思いがあって、数か月後に新しい命が生まれてくる。  生きると言う事、命とはどういうことか、つくづく思います。 孫を前にすると長生きしたいなあと思う様になりました。