2014年4月28日月曜日

関根勤(タレント)         ・萩本欽一の人間塾

関根勤(タレント)      萩本欽一の人間塾
萩本さんは芸能生活 50周年を迎える。
関根さんは娘でタレントの関根麻里さんを育てた話や思い出のスピーチ、生まれ変わったら何になりたいか、など話が弾みました。

「ノーベル賞」
萩本さんにはノーベル平和賞を取ってほしい。  チャンスがあるとすれば、平和賞でしょう。
ベストファーザー賞を貰った。(関根)
娘が生まれた時に、笑わして楽しければ世の中楽しいんだと、すりこもうと思った。
兎に角娘を笑わせました。 お風呂で歌いながら麻里に向かって尻を振り、麻里がそのリズムに合わせて勤の尻を叩いていた。
桃太郎を毎日読んで、ぼけて聞かせた、そうすると娘が突っ込んできた。
花咲かじいさんが入ってきたりする。

「思い出のスピーチ」
西山 浩司の結婚式 式後、食事中にアドリブで始めた。
アドリブでやった結婚式が一番泣けた。
言葉を揃えてないから、たまたま、それでは隣のおばさん お話をと、ギャグ風にいった。
「私、私 私・・・ 」しか言っているうちに涙を流した。(西山氏の妹だった)
そのうち周りから拍手がわいた。(言葉ではないと思った)
最後にお父様に、と言う事で、だまってたが、一言「私は今日まで娘がとられたと思ったが、でもこんなに素敵な皆さんの言葉を聞いているうちに、今私の娘は、西山のところに嫁に行ったと気付いた。」
仲人を一度やった事がある。(関根)  ギャグを入れて、詠み出したら、一人で笑い出してし舞った。(妻からはしかられたが、その人からは喜ばれた)
小堺君の結婚式で、私が司会で、萩本さんは主賓で、小堺君の友達がスピーチで出てきて、いきなり萩本さんに「欽ちゃん、ご飯たべてる場合じゃないよ」と言って、私は小堺君と目を合わせて、あいつ何言うんだと焦りましたよ。

「9回裏 2アウト 満塁」 
3点負けていて、其時勝ったよ、勝ったよ、と言っていた。
バッターを呼んで、耳元で囁いた。 腕がないのでお前はお母さんに打たしてもらえと言った。
バッターボックスにたったが、戻ってきて、お母さんは熊本にいるので、熊本はどっち方面ですかねと言って、空がつながっていると言ったら、3塁打を打って同点になる。
そのあと、またヒット打って勝った。
大事な時こそ、非日常的なこと、だらしなくする。
ペルーの女子バレーの監督がピンチの時にタイムアウトするが、「今日のランチ 何食べる、パスタ食べる このあと皆で食べよう だからがんばろう」と、ふっと力が抜けて、絶対打ってこいと言うと硬くなる。
関根、小堺は駄目 気が小さい 駄目だからいい。

「生まれ変わったら」
もう一回コメディアンやりたいか?
出来ればもう一度やりたい、と言いたいが、できれば30代をながめにしてもらいたい、と思う。
人間、30代、40代、50代と変えないといけないと思う。
私は27歳で頭が停まってしまっています。(関根)
生まれ変わったら、サッカー選手になりたい。(関根)
生まれ変わったら、違う人生を歩みたい。 会場では10%
犬は単純でいい、食べる、寝る、生きる この3つに向かって真贄に生きる。
紅鮭 の生き方も尊敬する。(関根)

「最近気になる人」
若手で組むとしたら、コントやるには筋肉の柔らかい人がいい。
瞬間的にその人の動きとしゃべりを見ている。
好きな映画はチャップリンの「モダンタイムス」
貧乏している時に映画をみて、帰りに1時間歩いたが、気付かないうちに家に着いた。
ああいうコメディアンになりたい。
チャップリンに逢いに行ったが、4日いたが会えなかった。
日本から来たのにあってくれないのと、声を出して叫んだら、呼んで家に入れてくれた。
45分ぐらい話せた。(20分ぐらいと言っていたが)
本当にうれしい時は飛び上がる。(チャップリンに出会ったときにそうだった)

大河ドラマで、宮本武蔵の最後の1年を演じてほしい。(関根)
それは駄目でしょう。















2014年4月27日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(宮崎県)

五木寛之       歌の旅人(宮崎県)
人の心を和らげるような雰囲気が、宮崎の言葉の響きにある。
宮崎交通のガイドさんは当時、憧れのスターだった。
高千穂 への郷愁がある。
宮崎日日新聞 地方では老舗の新聞社
小坂今日子、「思い出枕」  70年代の歌
日南海岸 60年代は新婚旅行地だった。
岩切章太郎 フェニックスを植えた。
ゆったりと生きていける土地
第一次産業が日本で一番高い県、全国有数の農業県
野菜、米、果物。  マンゴー 、地鳥、牛肉   切干大根が全国一
冬の日照時間が長い。
県民性いもがらぼくと 芋がらで作った木刀なので、見かけはいいが芯がお人よし、戦わない。
鹿児島、福岡は前へ出てゆく様な、強いところがあるが、宮崎はおっとりしている。
今井美樹 「プライド」(歌)

農民たちが年貢で飢饉の年に払えないで、おかみに訴えたりするが、北陸では一向一揆で有名だが、逃散(ちょうさん) 一揆の様ではなくて、この土地には住めないなあと思うと、2,3年の計画を練って、一夜で逃亡する。
新しい土地との調整を事前にしておいて、新しい開墾地を作るとか、そこに迎えてもらうと言う事を取り付けておいて、強烈な年貢、苦しい生活、信仰の弾圧とかあると、一夜にして村全体が逃亡する。
宮崎では、いくつかこの逃散の歴史がある。
農民の知恵があった。 一つの柔軟な戦略だと思う。

照葉樹林が日本最大級 2012年にユネスコのエコパーク 登録されたところ
若山牧水  伊藤一彦(若山牧水の研究者)
高山 文彦(アニメ監督) やまさき 十三 黒木和雄 
中山大三郎、作詞、作曲 「男の背中」 (歌 増位山) 「無錫旅情」(歌 尾形 大作)
宮崎の焼酎 原料が多彩 芋、麦、米、そば、トウモロコシ、栗
「しょちゅくれ」 大酒のみ
「だりやみ」 一日の疲れをいやす晩酌  「だれた」 疲れた。
「てげてげ」 ほどほど

俳優 永瀬正敏 温水洋一 緑摩子
スポーツ選手 井上康生、青木宣親 松田丈志

都井岬 軍用馬が野生化    飫肥(おび) (「九州の小京都」とも称される城下町)











2014年4月25日金曜日

森下辰衛(三浦綾子記念文学館)    ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)

森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)
13年間闘病生活をする。  前川さんが亡くなったころが一番悪い状況だったが、彼女を養ったときでもあったのではないかと思います。
「氷点」 デビュー作 出版から50年。 その後80冊余りの本を出版。
一番中心にあるのが、 題名 氷点 心がさみしくて凍えてしまっても生きて居られないと言う人間にはそういう時が時々ある。
どうしてそんな寂しさに落ちいってしまうのか、又しかしそこから本当に人間を回復させて生かしてくれるものは何なのか、問おうとしたことがそこにあると思います。
人間を人間らしく生きさせるために、其所に先ず光を当てると言う事をしたのだと思います。
陽子 主人公を設定したところ、自殺未遂、3日間のこん睡状態で生き返るのかなと、いうところで物語は終わっているが、そこに中心の心がある様な気がしています。

陽子は綾子さん自身の直ぐ下の妹の名前です。
綾子さんが13歳の時に陽子さんは6歳で亡くなってしまった。(医者の誤診)
「お姉ちゃん 陽子死ぬの」 と言ったことを綾子さんは何度も何度も思い出す。
自分は悪くないのに死んでいかなければいけないものの、寂しさ、不安、恐さ、絶望感、を感じる。
「幽霊でもいいから陽子ちゃんにあいたい、陽子ちゃんでておいで」と叫んだそうです。
三浦文学は そういう「でておいで」 という、呼び声の文学ではないかと思います。
綾子先生の担任だった生徒がいた。
不登校の生徒だったが、大福餅をもってきて、僕に向かって「坊っちゃん、学校に出ておいでよ」
小説の中にも「でておいで」と言う言葉がいろいろなところで出てくる。
「銃口」のたこ部屋から逃げ、納屋で隠れているところに、主人公の北森竜太と彼の父政太郎が来て、政太郎さんが「安心して出てきなさい」というと、転がるように出てきて、その人をかくまって、国に帰させてゆく。
北森竜太が満州で逃亡している時に、竜太を助ける人物になる。

「氷点」 罪 に許しを乞う。 誰か許してくれる人はいないのか、許してくれる人格である、誰かを求め始める陽子を書いていて、続編で自分を産んだ本当の母と出会って、其母を許せないとか、最後になって、「許し」が本当にわかる。 

13年の闘病をしていたからこそ、むしろ人間のことがよく判るんじゃないかなと思っている。
その間にいろんな人に出会って、悩みを打ち分けて、その相談相手になって欲しいと言う事で、いろんなことを持ち込んで、綾子さんはじーっと聞きました。
そこに秘密があるのだと思います。
人の言葉を本当に注意深く聞く、読むと言う事を通して、言葉と言うものは養われてゆく。
人間観も、世界観も養わってゆく。
その人たちの悩みの声、苦しみの声、痛みの声に耳を傾ける、それを通して三浦綾子は人生の事、家庭の事、人間のことを理解していったのだと思います。
語る言葉の力、の素晴らしさは、実は聞く事の力があって初めて、生まれてくるものだと思っています。

勿論読書、聖書、手紙のやり取りも、勿論あるとは思いますが。 言葉の人だと思う。
「はじめに言葉があった。 言葉は人の命で有り、光で有った。」と聖書に書いてある。
母の腕の中で子供たちは言葉を学んでいって、嬉しい言葉、物語の楽しさ、言葉の温かさ、そういうものを子供たちは一杯もらって成長してゆく、人格が形成されてゆく、どんなに大事なことかと思う。
いろんなことを知るようになってゆく。 
三浦綾子が、痛恨の思いがあったとすれば、子供たちに「あなたたちは戦争に行くのですよ」、と一生懸命、国が注ぎ込もうとした言葉だけを、一生懸命注ぎ込んだんじゃないか、そういう痛恨の思いがあって、最後の小説、「銃口」で子供達の生活作文が大事だと知っている先生たちが、一生懸命教育をしてゆく物語を書こうとした。
言葉は物凄い力を持っているものです。

全国に110か所 2000人の会員がいる読書会。
東北にも仙台、福島を中心に読書会がある。
震災の1カ月後に仙台に読書会があって、そこに行く。
荒浜地区に連れて行って貰ったが、根こそぎ津波で流されて、どろの中に埋まっている様な地域だった。
光景を見てどんなことを語れるのか、途方に暮れるばかりだった。
三浦綾子と言う人は、人生の大事なものを根こそぎにされて、泥のなかに泥まみれにされた人なのではないかと、そこに還ってゆきました。
この東北から三浦綾子の様な人が、本当に命のある言葉を語り始める人が、東北から日本の希望が始まり、日本を変えてゆく器がここから起こされるんじゃないかなあと、確信として仙台の人たちに話をしました。

三浦綾子読書会の人と記念文学館の人と、協力して2012年5月に1万数千冊、被災地、仮設住宅、図書館打とかにプレゼントする活動をしました。
全国に呼び掛けて、沢山の本を下さいました。
三浦綾子さんの言葉が被災地に届けられて、それがもとで三浦綾子読書会が始まりました。
一緒に手を携えて生きてゆく、三浦綾子の言葉が私の支えになっていますと、涙ながらに語ってくださった方がいます。
「私にはまだ死ぬと言う大切な仕事が残っている」と、三浦綾子が晩年に繰り返し語った。
老いてゆき病になると、自分で自分の人生は使い物にならないと思ったりするが、最後まで人は生きている限り死ぬまで、この地上にある限り、大切な大切なもので、大切な使命がある、と言う事なんじゃないかと思う。
ドストエフスキーが「地獄とはもう愛せないという事だ」と言う名言を言っている。
もう愛せないと思えるが、それは気の毒です、でももう愛さないと決めてしまえば、その人生はもう地獄の様なものとして決まってしまう。
でも神様はそうでなくて、そんな風にあなたは思っているかもしれないが、死ぬところまで大切な仕事として、私はあなたに与えているんだよ、それを大事に死んでみないかい、と言ってくださっていると思う。

にもかかわらず、愛せないような状況だけれども、愛すると言う道もある、死ぬという大切な仕事があると言う事が、はっきりとあらわしている。
死ぬと言う事は誰も好きではないが、大切な仕事として、尊ぶ事を三浦綾子は見せてくれている。
三浦文学が語っているもう一つの事、其れは、にもかかわらず愛する事の凄さ。
前川正さんが其れを見せてくれた。
神様が、そういう、にもかかわらず愛して生きていこうとする、そういう奴はいないかと、いつでも探している。
「にもかかわらず、愛する。 にもかかわらず生きる。」

「銃口」 子供が生活の作文を書くと言う意味があると思う。
地球が始まってから終わるまで、たった一人しかいない、掛け替えのない自分が、その掛け替えの無い人生の中でいろんなものに出会って、体験したこと、考えたことを自分の言葉で書いてゆく、それだけでとっても素晴らしい掛け替えのないものじゃないかと、先生が子供に教える場面があるが、子供たちは自分の言葉で自分の人生と世界の真理を発見してゆく。
そうやって子供は成長してゆく。

人間が人間として人間らしく生きる力が、その言葉の養いの中で生れてくる。
子供の言葉であっても、真理として世界を照らす、不正を照らしてしまう力を持っている。。
治安維持法を持つ国がそれを恐れて弾圧する、そういう構造もあったかもしれない。
「銃口」と言う作品のなかで書こうとしている。
三浦綾子の文学は証しの文学、 体験の文学と言われる。
体験談を通して、人生がどういうものか、神様がどういういうものか、証しをする。
三浦綾子の文学は生活つづりかたの文学だったと思う。 
三浦綾子記念文学館のコンセプトは「光と愛と命」 どれも言葉のことを言っていると思う。
言葉は光で有り、愛であり、命でもある。
































 

2014年4月24日木曜日

森下辰衛(三浦綾子記念文学館)  ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)

森下辰衛三(浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)
北海道旭川市生まれの三浦綾子の文学を研究している森下さんに伺います。
51歳、元福岡女学院大学助教授で、8年前に家族で旭川に移りました。
今は旭川市にある三浦綾子記念文学館特別研究員として三浦文学の魅力を伝える活動をしています。
今年は三浦綾子のデビュー作氷点から50年と言う記念の年です。
3年前の震災以降、三浦綾子の著書は多いものでそれまでの4倍も増刷されより多くの人に読まれるようになり、再び注目されています。

4月25日が三浦綾子の誕生日   「氷点」は 50年になる。
三浦綾子さんは大正11年に旭川市で生まれる。 堀田綾子
17歳 小学校の先生になる。 軍国教師として教える。
子供達に一生懸命、軍国教師として、あなたたちはお国のために、天皇陛下のために、戦争に行くのですよ、それが日本人として最も素晴らしいことなのですよと、教えました。
7年間小学校の先生をした後、昭和20年敗戦 GHQが入ってきた。
軍国主義的な教科書の本に墨を塗らなければならない事になる。
それを見ながら私がやったことはなんだったんだろうか、子供の心に墨を塗る、それは本当に大きな絶望の時でした。
人間の価値観は一日でこんなにも大転換してしまうものなのか、自分の人生の目的もすっかり失ってしまった。
教師として語る言葉は無いと、昭和21年に教師をやめる。
信じることが無いと言う絶望感、虚しさ、人間不信と言う事で本当に心がすさんでゆきます。
教師を止めた年に、肺結核、脊椎カリエスになる。(当時としては死の病)
自分も愛する事ができなくて、オホーツク海に身を沈めて死のうとしたりする。

前川正という幼馴染のクリスチャンが現れます。 北海道大学の医学部の学生ですが、彼も結核になって、休学を何年もしていると言う状況でした。
綾子さんの心のすさみから、煙草を吸ったり、酒を飲んだりしていることを聞き、訪ねてゆくが、拒絶する。(クリスチャンなんて大嫌い)
私を生かし直してくれるなら、本物の愛があるなら、欲しいと叫んでいる、そんな乾いた魂があると言う事を前川さんは気がついて、前川さんに導かれて綾子さんはキリスト教の信仰を持つ事になる。
綾子さんを救う事ができないと言って、それが情けないと言って、前川さんは小石を持って自分自身の足をうち始める。
その姿の背後に綾子さんは今まで見たことがなかった光を見たような気がすると、書いている。
綾子さんの人生が大きく転換し始めてゆく、聖書を読み始めて、神様を求めてゆくという生活が始まってゆく。
病気が悪くなり、札幌医大病院に入院して、脊椎カリエスの為にギブスベッドに入る、と言う事になる。

洗礼を受けて、クリスチャンになる。
大きな手術をして、肋骨を8本きるとる大手術、病状は良くなるが、客血が出るようになりそんなな中で、前川正は1954年5月に亡くなる。
1955年6月 三浦光世が突然彼女の前に現れる。 前川正にそっくりな、クリスチャンだった。
二人は愛し合う様になった。
いつ治るかわからない、ギブスベッドにはいっている綾子にプロポーズする。
私たちは前川さんに導かれたのです、前川さんに喜んでもらえるような二人になろうという。
13年の闘病の後に、37歳で35歳の三浦と結婚する。
1963年に朝日新聞の懸賞小説 社告を見て「氷点」を執筆する。
1964年に一等入選して作家デビューする。
1999年に亡くなるまで30数年にわたって、沢山の小説を書いてゆくが沢山の病気もする。
喉頭癌、血小板減少症、重症のヘルペス、直腸癌、直腸癌の再発、パーキンソン病。
最後のパーキンソン病の時には、妻に献身的に介護をした。
沢山の傑作を書いて逝った作家だったと思います。

三浦文学の研究を始めたのが、1995年に福岡女学院短大で教え始めた時に始めたので20年目になる。
学生から三浦綾子は教えてくれないのかと、言われたのが、一つのきっかけ。
こんな愛と言うものが男女にある、こんな愛に出会って、変えられていった三浦綾子さんの人生って本当にいいよなあ、と学生がみているから、三浦綾子をじっくりと読ませる、一緒に読んでゆく事がとってもいいことではないかと思った。
研究をしていなかったが、1年間ゼミと言う授業で有名な作品を取り上げて、読むようにした。
10数名を連れて旭川に行って、綾子さんにお会いしたが、パーキンソン病が悪くなっている状態だったが、一緒に学生と話をして、震える手でサインをして文庫本を一人ひとりに下さった。
学生も私も感激しました。  学生の顔つきも変わった。

三浦綾子は人を変えてゆく、人を励ましてゆく、人を生かしてゆく力のある文学なんだなと、体験的に知るようになった。
読めば読むほど深いもの、キリスト教を伝道する文学と若干見ていたが、でもそれ以上に深いものが、豊かなもの、研究するに足るものがあることを確信するようになった。
三浦綾子読書会を始めようと考えた。 
銃口」 作品 のなかで 「人間が人間として生きることは実に大変なことだなあ」、これは治安維持法違反、冤罪で捕まえられて、尋問され、拷問されていた時の人物の言葉。
苦難をしいてくるなかで語られた言葉。
人間が人間として生きるのを難しくさせるものがあって、①罪 ②苦難
罪の問題 罪があるが故に、人間が自分の心がおかしくなり、人間関係が壊れ、家族がおかしくなり、果てには国同士が戦争をするところまで行く、それも全部人間の罪から出ているのではないかと三浦綾子は見ている。

罪に対する解決、許し、そこからの解放 そういうものがキリスト教のなかに一つの答えがある、だからキリスト教の聖書の言葉を紹介する、と言う事を三浦綾子がしたのかなと思う。
人間が人間として人間らしく生きてほしい、という本当に母の様な深い愛が、三浦文学の根本のところにあって、豊かな人間の物語がそこにあったと思う。
「氷点」 の創作ノートに描かれている佐石土雄は、実はだれとでも話をしたい懐かしさのままにルリ子と河原にいって、るり子に泣かれて錯乱状態になって、ルリ子の首を締めてしまう。と言う事がノートに書いてある。

養女誘拐殺人魔と言っていい人物なんですが、佐石土雄を綾子さんはとっても寂しくて、誰でもいいから私と話をしてくれないかと、願っていた人だったとそこに書いている。
或る日、ルリ子とであって、川に行こうと連れて行ったが、ルリ子はさびしくなって、泣きだして思わず首をしめてしまい、気がついたらルリ子はぐったりしていて、そして逃げた。
佐石土雄は関東大震災の時に、両親を亡くす、東北に住んでいるおじさんに育てられるが、16歳の時にたこ部屋に入れられて、たこ部屋を転々と渡り歩き、赤紙が届いて中国に渡り、大けがをして、終戦直前に北海道に渡り、日雇い人夫をして、内縁の妻 ことさんと出会う事になり、奥さんが子供を産むが奥さんが亡くなる。
仕事もなく泳ぎに行こうかと思って、家を出てしばらく歩いたところで、ルリ子さんに出会う。発作的に行きずりのルリ子の首を絞めて殺してしまう。   と言う様に細かく設定している。
つかまって、自供して直ぐに自身も留置所で首を吊る。
大震災から戦争、佐石土雄は日本が通った苦難を一身に集約した様な人生。

①どうして俺の人生にはこんなに苦難が沢山あるのかと、叫んでいる、問い。(苦難)
②どうして人間は罪を犯さずに、生きてけないのだろうかと言う、問い。
 殺そうと思ったのではないのに、どうして罪を犯してしまうんだろうか、問い。(罪)
苦難と罪、二つの問いが三浦綾子の大きな主題になっている。
 
アダム へブライ語では「土で作られた人」という意味  直訳するとつちお(土雄)  佐石土雄 
全ての人間の避けがたいもの それが罪、苦難
苦難を生きていかない人の原型として佐石土雄 を綿密に愛を持って書いている。
「銃口」の最後の頃に近堂弘 が出て来るが、佐石土雄にそっくりな経歴で、佐石土雄に対する一つの答えとして出てくる。
苦難の中を生きながらも、絶望しないで、愛して生きる、にも関わらず、命がけで人を愛して生きる、人生と言うものがあると言う事を近藤博で描いてゆく。
近堂弘は戦争が終わると言う日、昭和20年8月15日に小浜というもう一人の兵士と一緒にトラックで輸送していた。
そこにソ連軍の飛行機が来て、小浜伏せろと言って、小浜のうえに覆いかぶさってゆくが、銃弾を受けて死んでゆく。
罪と苦難の故にへこたれて、死ななければならないんじゃないんだ人間は、にもかかわらず愛して生きてゆくと言う道が人間には有るし、人間の本当の素晴らしさや高貴さはそこに在るんだと言う事を近堂弘を通して描いている。
近堂弘の最後を語った手紙を読んで、北森竜太が近堂博の様な人間がいたことを教えたいと、もう一回教壇に立つ、そういう物語になってゆく。

14年間務めて、1年間の休暇があった。 戻って論文を書いて、教授になる予定になっていた。
家族と共に旭川に行く事になる。 三浦綾子の研究をする予定だった。
聖書の文章 「貧しいものの開拓地にはおおくの食料がある。」 心に留った文章だった。
北海道を回って判ったこと。 
読書会と言う形で、街、村に行きなさい、そこに行って三浦綾子さんと一緒に神様の愛を伝える仕事をしなさい、それがお前の開拓地であり、それがお前の食物なんだ、それがおまえの仕事なんだと、そんな風に聞こえるようになりました。
帰れば教授になれる予定だったので、恐れはあったが、妻と語り合って、バックできない一つの道が用意されていると思わざるを得ない様になった。
旭川の冬、福岡、西日本では365日変わらぬ生活ができるが、半年間は雪の中を歩くしかなかった。
そういう言う体験をしたことがなかった。
思索を深めてゆく、人生についてだったり、人間についてだったり、自分自身についてだったり、神についてだったり、すこしずつすこしずつ歩く速度で考えてゆく、それは素晴らしい時間、場所、季節で有ったと思う。


震災以降、三浦綾子の著書が多く読まれるようになったが。
希望を語っていると言う事、苦難を知っていて、苦難の中で人はどう生きてゆけるのかと言う事を、人生を通して考えて、その回答をはっきりと語ることができる人だったと言う事が非常に大きいと思います。
人間の温かさを求めている、多くの人が、そういう時代だと思います。
競争がますます激しくなり、人の愛が本当に冷たくなり、社会、国際関係でもせめぎ合う中で、人間の本当の温かさ、命の温かさ、愛の温かさ、そこに戻ろうよ、というメッセージが三浦綾子の中に在ると思います。
そのメッセージで自分の生き方を反省しながら、この時代をどう生きていったらいいか、指針、問い、栄養になると思う。
そういった三浦文学を読んでそれを片手に生きようとしているのではないかと思う。













2014年4月23日水曜日

平本紀久雄(海と漁業を考える会会長)  ・ 絵馬に見る、漁師たちの願い

平本紀久雄(千葉の海と漁業を考える会会長)   絵馬に見る、漁師たちの願い
三陸沖から房総沖にかけての太平洋沿岸で取れる水産資源を研究し、いわし予報官と漁師さんたちから呼ばれれるほど慕われてきた平本さん、講演や相談を受けて忙しい毎日を送っています。
平本さんは江戸から明治時代にかけて、海岸集落の神社などに奉納された絵馬を探して歩いています。
畳一畳分もある大きな絵馬には当時の地引網の様子やそこに集まる人たちを書いた作品がおおく、豊漁に笑い、不良に泣いた漁師たちの心のうちが見えるそうです。

退職して14年、最近では民謡歌手とジョイントで、私が話をして、民謡歌手は大漁節などを歌ってくれる。
イワシは一杯取れると食べたくなくて、取れないと食べたくなる。
20~30年前までは日本一のカツオのえさのイワシの供給地だった。
1990年ぐらいからイワシは取れなくなって、どん底から少し良くなった程度。
マイワシしが減って、カタクチイワシが増えてきている。
大きなうねりみたいなものがあるようです。
昭和37年に水産試験所に入る。 当時はマイワシは全然取れなかった。
10年経って、マイワシが取れるようになって、1980年代は毎年の様に取れて日本全国の総漁獲量の40%近くがマイワシ一種類だった。

務めてから3年経って、魚を予想しろとの通達があり、親潮、黒潮等、海流の変動だけで言っていたが、当時は全然当たらなかった。
地道に調べ始めた。
漁業者は自分なりの予報を持っているが、自分の予報よりも水産試験所のデータが当たるようになった。(それまで10年間掛かった)
銚子がイワシが取れるところで、予報を頼りにしてくれるようになった。
マイワシはうまれて1年経たないと、判らない。
魚種に依って、水揚げ場所が違う。 イワシは銚子。
イワシはニシンの仲間でマイワシ、カタクチイワシ、ウルメイワシ等26種類ある。
イワシの季語は秋だが、マイワシの場合は入梅ごろに一番脂が乗っていて美味しい。
カタクチイワシは脂がのるのは夏だが油が乗り過ぎて、使い物にならないので、秋から冬。
ウルメイワシは冬の油の抜けたものを干物にする。

マイワシは一番取れている時は魚粉にする。(70%)
養殖魚のえさ(30%程度) 人間が食べるのはほんの数%。
マイワシは生で食べるのが一番おいしい。
多く取れている時はそれなりの予報ができるが、取れない時の予報は難しい。
魚種の代わり方は、誰にも予測はできない。
魚の生活、何を食べどういう風うな集まり方をするのか、生き物として見る。
ベテラン漁業者に凄く教えてもらった。
①浦周りイワシ  取れた浦 から毎日南に下って取れる。
②沖寄せもの  ある日突然沖から群れが出てきて突然いなくなる、そして又出てくる。
③地ごいわし  群れは小さいけれど、いつもいるイワシがいる。

漁師は大事なところはなかなか教えてくれない。   親から子に教える。
サバは目が良くて夜でも群れを作っている。
イワシは目が弱いので群れが夜になると散る。
今、カタクチイワシが少し減ってきて、マイワシが増えてきているが、思ったほど増えてきてはいない。
マイワシが本格的に増えてくるかどうかは判らない。 70年周期説がある。
利根川河口で1月前で遭難した船はあとかたも無かった、1週間前のは船底が見えたが。
漁業者は信心深い。  絵馬 遭難をのがれたという感謝の絵馬が飾られている。
江戸時代から絵馬を奉納する。 畳一畳より大きな絵馬が奉納される。(漁業絵馬)
神社に所狭しと残っている。
地引網の絵馬が一番多く残っている。
イワシ漁の絵馬は一番盛んだった銚子には無い。

絵馬の数でどういう漁業がいつまで栄えたのか判ると思って調べた。
50以上神社を回った。 
江戸時代と明治では顔料が違ってきて、江戸時代の方が立派な絵が多い。
昭和になると、汽車が描かれている。
魚を盗みに来る人がいるが、その人が追いかけられて水をかけられて転んでいる絵などもある。
万祝い 大漁の時に船主が御褒美に反物を配り、仕立てて、出初めの時に着て神社にお参りする。(綿の入っていないどてらの様なもの)    木綿に藍染め 
万祝いも絵馬も千葉から始まって、北は八戸、南は静岡まで広がっている。
江戸から関西に「干鰯、ほしか」(高級肥料 魚粉)に運ぶ一番の産物だった。
米、綿、藍(肥料を凄く消費する) の為に運んだ。 あらゆる農産物の肥料
江戸時代 大阪に出荷されたもの 1位米、2位木綿、3位菜種、 次にほしか
江戸の経済はほしかで支えられていたと言っても過言ではない。

舘山は漁業を捨ててきた街ではないかと思う。
江戸時代はほしかを生産して、江戸に運んでいた、明治、遠洋漁業でオットセイを取りに行っていた、大正ではカツオ漁、関東大震災で土地が隆起して港が使えなくなる、戦争で軍港になる。
今はカツオ船が全くなくなり、サバの船も無くなってしまった。
家族で漁業を営むところでは親から子に技術、情報が伝わらなくなるのが心配。
浜がドンドン荒れてきている。
九十九里浜 砂浜が何千年かけて蓄積してきた物が、数十年で無くなってきた。
海岸に砂が出ない様に、ブロックで囲った。(人間の都合)
帳尻が合わなくなって、良くしようと思って逆に自然を悪くしている。

郷土史を調べ始めている。
内村鑑三は水産課の足を洗って思想家、教育者になっていった経緯は館山での出来事。
明治時代にマグロ漁業の日本一の漁港だった布良(めら)の神田吉右衛門の影響を受けたことを繰り返して言っている。
どんなに技術改良をやっても駄目だと人間を変えなければだめだと、布良(めら)で神田さんにあって半月後に辞表を出して、旧制一高で、半年後に不敬事件を起こすことになる。





































2014年4月22日火曜日

井上萬二(陶芸家人間国宝)    ・井上萬二人間国宝、白磁の魅力を守りぬく(2)

井上萬二(陶芸家人間国宝)     人間国宝、白磁の魅力を守りぬく(2)
昭和9年生まれ 85歳 真っ白な白磁の壺や皿、花器などを作ることで知られ多くのファンを魅了しています。
白磁の原点は化粧しない美しさと語る井上さんは、1995年平成7年重要無形文化財、白磁保持者に認定されました。
息子康徳さん、孫祐希さんと共に白陶に励んでいます。
生家はもともと窯元でしたが、15歳で海軍の飛行予科練習生と成り、1945年に復員しました。
16歳で父の進めで、柿右衛門窯で働き始めて轆轤を学びました。
県立有田窯業試験場の技官として勤務、若い人への指導のほか幅広く独自の技を極め、窯や釉薬、デザインの研究などにも励みました。
轆轤の神様と呼ばれ、多くの人達から指示されていて、アメリカでも陶芸を指導してきました。   来年で陶芸家として70周年を迎えます。

朝は8時に仕事場に行きます。
自分で厳しく、朝8時、夕方5時まで働く様に律するようにしています。
その後、ウオーキングを1時間する。
自然の季節の移り変わり、人との出会い、明日の作との構想を練りながら歩く。
食生活にも気を使っている。 腹八分目  
月1回は健康診断、血液検査をして、医者の指示で健康管理をやっている。
煙草は40年以来吸っていないし、酒はすこしは飲んでいる。(晩酌はしないし、正月に飲むぐらい)、旅先で宴会はあるが、ビールを一口飲むぐらいでウーロン茶を飲むぐらい。
健康で明るく楽しく生きてかなくてはいけないと思う。

昭和35年ぐらいから、指導の講習を開いて、25年間 述べ500人ぐらい育成した。
窯業大学があり、毎年 2時間講義に行っている。
実技ではなく、陶芸に取り組む心の話をしている。
10の技を指導するためには、13,14,15の技を取得して絞って10の技を教えなければならない。
自己の研讃をはかっていまだにやっている。
昭和44年にアメリカのペンシルバニア大学に日本の伝統工芸の指導に来てくれないかと言う事で行っている。
トータルで24,5回アメリカの大学に行ったが、指導した人も数百名いるが、美術学部なので中学、高校、大学の先生になるコース、の指導に行く。
通訳は付けないと言う事で、渡米する前に、単語をすこし覚えて、自分一人で乗り換えて行った。
夜は宿舎で毎日勉強して、片言の英語で教えるようにした。
発音は学生たちが教えてくれるので巧くなった。

アメリカは伝統工芸がないので、自由な表現をするので、和と洋のセンス融合、newとoldの勉強ができたことはいい経験ができた。
日本国内でも旅に行ってお城、神社仏閣に行って、地方の文化を吸収して間接的な美の勉強の糧にする。
15年前にハンガリーの文化大臣から展覧会をやってほしいと言われて50~60点送って、開会式に夫婦で来てほしいと言われたので、日本の人が行けるようにツアーを組んでほしいと言った。
280人が応募してくれた。 180名は女性だったので着物を用意してほしいと言った。
お花、お茶、和楽等の先生がおおく着物を着て貰ってさっそうと歩く姿がいい文化交流になった。
ドイツが平成7年、日独文化センター、 モナコ、ポルトガル、スエーデン等で紹介を行った。
後継者の育成、自己の研さん 日本の伝統文化の紹介もやっている。
息子が55歳 大学卒業後直ぐにこの道に入った。
孫も大学卒業して、1年間社会勉強してから同様に陶芸の道に入った。(25歳)

人間は目標を持ってやらないといけないと思う。
技術とセンスを磨く。 工芸は技術を先に学んでからセンスを磨く事が必要。
最高に技術を学んだら、いいアイデアが浮かんでくる。
自分しかできない形をいくらでも生まれてくる。
いくら机の上で考えて、デザインして作ってもその通りにいい形は生れてこない。
自分が持っているアイデアを生みだした形は、作らないと生まれない。

人の物真似ではだめで、自分が想像した物で作る、その為には見るものを美に換算する様な見方をしないといけない、好奇心を持たないといけない。
展覧会などを見て、これはいいというアイデアを盗んできて、そのアイデアから自分なりの原材料で自分のものを作ってゆく。
四角いビルディングを見て、丸い壺になるような、美の感覚を求める様にする。
銀座で38回目の個展をするが、新しいものを出さないといけないので、自分自身勉強になる。
失敗したものはいいアイデアの元になってくる。
2016年 日本磁器誕生 400年になる。
有田が、若い人たちが焼き物の街として、有田に住めるような環境作りと陶芸の街を作らなくてはいけないと思う。
陶芸家もいかにして400年にわたってきた道のりと今後の展望も持っていかなくてはいけない。
400点の色々違った自分の作品を収集中です。(作成) 














































2014年4月21日月曜日

井上萬二(陶芸家人間国宝)    ・井上萬二人間国宝、白磁の魅力を守りぬく(1)

井上萬二(陶芸家人間国宝)       ・井上萬二人間国宝、白磁の魅力を守りぬく(1)
昭和9年生まれ 85歳 真っ白な白磁の壺や皿、花器などを作ることで知られ多くのファンを魅了しています。
白磁の原点は化粧しない美しさと語る井上さんは、1995年平成7年重要無形文化財、白磁保持者に認定されました。
息子康徳さん、孫の祐希さんと共に白陶に励んでいます。
生家はもともと窯元でしたが、15歳で海軍の飛行予科練習生と成り、1945年に復員しました。
16歳で父の進めで、柿右衛門窯で働き始めて轆轤を学びました。
県立有田窯業試験場の技官として勤務、若い人への指導のほか幅広く独自の技を極め、窯や釉薬、デザインの研究などにも励みました。
轆轤の神様と呼ばれ、多くの人たちから指示されていて、アメリカでも陶芸を指導してきました。   来年で陶芸家として70周年を迎えます。

敷地 1200坪 工房、住まい、駐車場、庭
轆轤の神様 焼き物を加色をする前に形を作るのが原点、思う様に製作できるようになるまで無給で修業しないと、親から無給で精進するように言われて、戦後の混乱の時代だったので、修行にはいい環境だった。(遊びの世界が無かった) 技術に専念した事に依る所以だと思う。
伝統は常に新しくなくてはいけない。
時代時代に無名の陶工たちが作り上げた名品が伝統として残っていて、それを模倣する事が伝統ではなくて、受け継いだ技を正しく受けついて、そして現代の平成の伝統を作り上げてゆくのが我々の世界です。
先ず形を作るのに専念する。
3世代展を開催。

陶磁器 磁器を石を原料としたもの、陶器は粘土。
白磁 究極の形を生みだしたものが白磁だと言いたい。
加飾 白磁は白単色で加飾の無いもので、最高の美人に作らないといけない、その為には形がいい、スタイルがいい、顔立ちもいい最高の美人を作らなくてはいけない、化粧はする必要がない、形が完ぺきというもの。
創造するセンスと作りだす技術と人間性があいまって作品が生み出されるものだと思う。
陶土 不純物の無い状態にしなくてはいけない。(環境、着物、手、等清潔に)
陶石の選別
白磁はごまかしのきかないもの。(加飾では誤魔化すことも出来るが)
土こね3年 気胞が出ない様にこねあげる。

硬い陶土で製作するので力も必要だし、それ以上に技が必要になってきて、なかなか土が思う様に動いてくれない、10年ぐらいは土は文句ばかり言うが、20,30、40年とたつと、素直に動いてくれるようになるが其域に達するのが技ですね。
形になって、乾燥、仕上げ (綺麗に仕上げる技が必要) 
表面を拭いて、素焼きをする (900土)
表面に釉薬(白釉)をかけて、本焼きする。
窯の焼成、炎の違いによって微妙に色合いが違ってくる。
鉄を原料にすると還元して青、 酸化したら黒 銅を原料としたら酸化したら青になる、還元されたら赤になる。
酸化、還元に依って窯の色合いが違ってくるので窯のテクニックを総合して一つの作品が生まれてくる。
小さくても大きくても、窯に入るまでの工程は1カ月~1カ月半かかる。

技術も昔ほどには修行も永くない。  蹴り轆轤 腰も手も動くので、技に依って作り上げる。
電動なので手先だけの技なので、容易になった。
昔は陶芸はできなかったが、最近は女性の進出が多い。
窯元だったが、軍国少年だったので、将来軍人になろうと言う様な夢を抱いていた。
14歳の時にパイロットになりたいと思って、親の目を盗んで試験を受けて、15歳の時に海軍の予科練に行った。
軍隊での訓練、強靭な精神力を叩きこまれて、若いころの精神力で戦後無給で精進できた、耐えたので、轆轤も巧くなったと思う。
土曜、日曜もなかった。

復員して有田に8月16日に戻る。(16歳)
親が焼き物の跡を継いでくれと言われて、自分が作ったものを自分で売り出す事をしたかった。
修練に励むことになる。 無給、で勉強した。
昔の職人は変わり者が多くて、盗め学べと言う事を言われた。
定時以内は先輩の手伝いなどをして、5時以降は一人で、勉強する機会になった。
師から心の技を受けると言う事をつくづく感じた。
何事も心がないといけないと思うが、表面の美的な感覚を持てばいいと言う様な状況で、表面の美も必要だが、かまどに古い破片を拾いに行って、その裏を見て美を感じていた。
展覧会で入賞する事もいいけれど、審査員する人が裏まで返して見る美的感覚を持ってくれたらいいけれど、表面だけの美的感覚だけを見て貰ったら、焼き物の真の意味が駄目だから、評論家と実務者の見る目が違ってくる。

今からの若い人たちは技の表裏の美の世界と論と文の世界を持っていかなくてはいけないと思う。
奥川忠右衛門、 人生の中で出会いは一番大切だっと思う。
7年修行して、どこまで修行していいのか、壁にぶち当たって、其時に昭和27年ごろ、奥川忠右衛門に出会って、大きい壺を作るのに、神技的なめまぐるしい技で作りだしてその技に驚嘆して、給与を観たら普通の技術者の3倍の給与を貰っていた。 
どうせやるならこの人に近づこうと思って、奥川さんの家に行って、教えてほしいと言ったら弟子は持たないと言った。
こよなく酒を愛された豪快な方で、日曜に入って技術を学んだ。
3年間学んだ。(大壺の作り方など)
座右の銘 初めて東京で個展をするときに、小山富士夫さん 東洋陶磁研究社 文化庁技官
に推薦文を書いてもらう様に依頼した。
あんたには書く必要がないよと「名陶 無雑」 いい焼き物には雑念がない。
こんにち、それを座右の銘にしている。
平凡で丸い形が一番難しい。 それが最高の美でないと駄目 平凡だから一番難しい。
いつまで見ても飽きのこない形。
死ぬまでが我々は修行なので、長生きがしていきたい。
精進を日々している。  酒を控えて、腹八分目  ウオーキングをする。 


































 

2014年4月20日日曜日

東 洋一(恐竜博物館・特別館長)  ・アジアの恐竜研究センター確立へ、恐竜博士の熱い挑戦

東 洋一(福井県立恐竜博物館・特別館長) アジアの恐竜研究センター確立へ、恐竜博士の熱い挑戦
アジアの恐竜を研究する国際シンポジュームがありました。
このシンポジュームの開催を引き受けたのが、日本で最初に恐竜をテーマにした学位論文で博士号を取った恐竜博士の吾妻さんです。
東さんの恐竜研究はもう40年近く。
現在は福井県立大学恐竜学研究所の教授、福井県立恐竜博物館の特別館長として日本とアジアの恐竜の研究をしています。
大成功のうちに国際恐竜シンポジュームを終えたとういう東さんに永年の研究への情熱と、将来の研究への夢をお聞きします。

原寸大の化石が40~50体展示されている。
スクリーン、音で恐竜時代にいる様な感じ。
昨年7月にアジアの研究者が集まって、グループを作ろうと、アジア恐竜協会を立ち上げて、私は副理事長と言う事で、事務局を日本の福井県立博物館でやってほしいと言われて、担当する。
準備が大変だった。  資金を集めるのが大変。
総参加者が136人 若い人たちのうねりを感じた。
恐竜研究はヨーロッパで発生して、北米で発展を遂げてきたが、最近は恐竜研究の一つの中心がアジアに移ってきた。
羽毛を持っていたんではないかとの研究もあり、羽毛恐竜がアジアから大量に出てきた。
発掘の情報の共有、研究成果を詳しく議論したりする場が持てないかと言う事で、協会を作るきっかけになった。

福井県立大学、恐竜学研究所で昨年の9月 今井君 モンタナ州立大学の修士課程を修了して戻ってきて、卵のかけらが出てきたものを研究してきた。
その中の一つが鳥類の卵で、世界で一番古い鳥類の卵であることが解って、その研究成果を発表した。
その卵は1億2000万年ぐらい前、 始祖鳥が鳥の祖先と言われ続けてきたが、最近もっと古い鳥の祖先が見つかって、1億6000万年ぐらい前に一番古い骨の化石が見つかっている。
鳥の足跡ではないかと思われるものはもっと古いものがある。
現在の鳥類の祖先は、小形の肉食恐竜だと、判ってきた。
鳥の卵を調べると、白亜期の後期、7000万年前までは鳥類の化石の卵が出ていたが、白亜期前期からは見つかって無かったが、今回は其頃の鳥の卵の化石が見つかった。
4mmぐらいの破片。
恐竜もいれば鳥類も共生していた、唯一の証拠。

恐竜をテーマにして博士論文にした。
勝山で発掘し始めたころ、恐竜の足跡と骨を関係付けて、当時の環境はどうだったかと合わせて論文を構成した。
子供のころは恐竜は日本にいなかったので、興味は無かったが、小学校5年生の時に化石採集に連れて行ってもらった。
河原から友人がクジラの化石を見つけて、それがきっかけで化石に興味を持った。
貝の化石、鯨の化石がどうして山の中から出るのだろうとの、思いから興味を持った。
福井県立博物館、昭和59年に開館したが、その2年目に、石川県で女子高校生が発見したと言われる恐竜の歯が持ち込まれた。
恐竜の実物の化石に初めて出会って、調査を重ねると、歯とか、足跡が見つかった。
石川県で見つかった地層が手取層群で、福井県でも富山県でも広く広がっている。
昭和57年貝の化石を採取に来たが、偶然歯の化石を見つけた。
ワニの化石だった。 

昭和63年に予備調査をしたら、運よく肉食の歯が2本見つかる。
発掘調査をお願いしてOKの返事が出て、1年目で骨のかけらを含めて100個でた。
もっと掘るべきだと言う事で、崖を削ってもらって、面掘りをやった。
あごに歯が付いたものとか、質的に変わってきたものが出てきて、肉食恐竜の、爪の化石、大腿部などが出てきて、足跡の化石まで出てきて、二次調査をずーっと続けてきて25年間続けてきた。
その成果を元に恐竜博物館が建設された。
中国の董枝明(ドンチィミン)先生と知り合う事が出来て、先生のところにお邪魔した。
中国の恐竜と縁が深いので、全身が出ているので、福井県で出たものがどの部分か、おおざっぱに判るし、論文も沢山あったのでコピーして、また交流も深めた。

海外との交流も更に深めた。
展示する種類を広げようとすると、とレプリカになるので、レプリカの依頼を海外に依頼をしたり、海外の博物館、研究者との交流も深まることになる。
当館に始祖鳥のレプリカがあるが、大英博物館、ドイツのベルリンにある博物館に頼んでレプリカを作ってもらった。
レプリカと言っても本物から取ったものなので、本当に精巧なものです。
福井県立恐竜博物館が出来たのが、2000年7月。
収蔵システムをどうするか、登録システムをどうするか、内部の整備をしながら、研究もしなくてはいけない、発掘をしなくてはいけない、広報活動もしなくてはいけない。 色々大変だった。 
最初の5~6年は年間25万人の入場者。
7年目ぐらいから増えてきて、今年度70万人を超すのではないかと思う。

恐竜が町おこしになってきている。
子供たちへの教育活動も行っている。 発掘体験、野外調査の学習 歴史など。
恐竜、過去に地球に住んでいた動物 化石を通じて昔を想像する、考える。
科学に親しむと言う事になる。 科学の好きな子供が一人でも増えるように期待したい。
若い研究者に過去のことを伝えて引き継いでもらいたい。
30年ぐらい前は日本には恐竜はいなかったが、外国に負けない恐竜時代の国産の絵が出来てきている。
発掘とか、研究が進むともっと、行けると思う、兆候がある。
翼竜の足跡は勝山から出ているが、骨は出ていない。
たまに地上に降りてきて、休んだり、餌を食べたりするのに地上に降りてきたりする。
どんな翼竜かは足跡だけだはどんなものか判らない。
足跡だけでも4種類ぐらいあるが、どんな形をしているのかは今は判らない。
骨が出てこないと判らない。



















2014年4月19日土曜日

森谷英俊(興福寺執事長)     ・維摩経(ユイマキョウ)に今を学ぶ

*4/20,21は小旅行の為、投稿できません。
追って追加したいと思います。ご了承下さい。

森谷英俊(興福寺執事長)         維摩経(ユイマキョウ)に今を学ぶ
五重塔の隣りにある東金堂には国宝維摩居士坐像があります。
眼光鋭く、みるものにせまるような姿です。
このインドの維摩詰という人物は仏でも僧侶でもないのですが、彼を主人公とする経典維摩経が今に伝えられ、興福寺ではその教えを大切に守っています。
興福寺(大化の改新で有名な藤原鎌足が、669年京都の山科に創建した山科寺を、710年平城京遷都とともに、鎌足の子の不比等が、現在地に移し、その名も興福寺としたもので、藤原氏の氏神である春日神社と神仏習合で、一体となった寺)
西暦100年ごろに成立したと考えられる この経典では、生老病死だけではなく、政治、経済、平等と差別と言った人間社会のかかえる様々な問題を、維摩きつに依って提起されています。
興福寺の執事長の森谷さんは寺の生まれではなく、大学卒業後出版社、市役所での勤務をお経て僧侶になりました。
いくつかの寺を訪ね、32歳の時に興福寺に入る事になった森谷さんは、以来維摩経の教えを本格的に学び、広く市民に伝えています。
経典に記された物語には現代社会にも通ずるものがあると、いう森谷さんに伺いました。

維摩経はインドにおきまして、紀元前後に商人、王侯貴族が勃興してきた。
非常に活発なエネルギーが満ち溢れていた。
商人たち、、王侯貴族達の中の在族の長者を主人公にしたお経です。
仏教の目的は我々生きとし生ける者の救済になるが、当時のインドでは非常に貨幣経済に突入していた。(日本が縄文時代)
社会の大変革を迎えた中で、人心も色々な価値基準も変わった時代で、まさに現代の日本、世界と同じ状況に、近い。
人は欲望がある。 社会的な生き物なので規則、制約がある。
そういうものにどうしても縛られてしまう。
欲望、制約から解放されるのには仏教の世界がある。
維摩居士(釈迦の在家の弟子)は在族にありながら、制約から離れて、心の束縛から解放されて自由な世界を示した経典なんです。

智慧の文殊様との問答を通して、行くわけです。
智慧の文殊様がしり込みするほどの、出家者でない、維摩長者との会話がわくわくするような感じで展開される。
全ての人のリーダーとして維摩長者は共通の福を人々が求めるように、常に我々衆生につき従う。 
維摩経の中の第2章 「方便品」にある「令興福力」(りょうこうふくりき)
その中の共通の福を追い求める力を付けてもらう事、と言う事で福力と言う言葉が出てくる。
それを興福寺の興福、福力を興さしむの意味になっている。
現代語訳はシナリオ形式になっている。
初期大乗経典で有るので、部派仏教、出家至上主義、自分が悟りをひらかないことには、人を救う事もなかなか容易にできないと言う事で、悟りだけを求めてゆくが、座禅を組めない忙しい人たちとかは、悟りを開けないのかと言う風な話にもなってゆくが、それは違うと言う事で誰でも平等に悟りの世界に行こうと言うのが、大乗の運動であった。 宗教改革
最初の頃の経典が維摩経であるわけです。
生老病死だけではなく、政治、経済、平等と差別と言った人間社会のかかえる様々な問題を、維摩詰に依って提起されています。

①平等性を追求する、②誰でも等しく悟りへ到達する事が出来る。
思想的には空 空の考えを導き出す、仏教でいうところの縁から成り立っている非常に在家のものに興味を持たしてくれる、真実の道に導いてくれるような意味合いの経典。
弟子品(維摩経の第3章) 自分の悟りを求める 第一義
菩薩品(維摩経の第4章) 弥勒菩薩とか力のある菩薩が出てくるが、彼等も悟りへの道についての思い違いを維摩居士に正されると言う事がある。
観応力 こころで見る。 弥勒様は56億7000万年の後に表れる。

維摩経に出会ったのは高校生のころに、失恋から入ってゆく。
大きな最初の挫折、乗り越えるもの、忘れさせてくれるもの、ないかと図書館に行ったら、世界古典体系があった。 
仏典、聖書があり、結局仏典は良く分からないから、それを読んだら其中に維摩経があった。
こうした道を進めば自分は鍛えられるなあとそのときは思った。
須菩提(釈迦の十大弟子の一人)が維摩居士のところに托鉢に行く。
お釈迦さまが悪魔の道の石絵をしたときにお前は付いていけるのかと言ったら、どんな悪人でもついて行くのかというギリギリの選択を迫る。
須菩提は真実の悟りに目覚めてゆく。

いずれ死ぬだろうとは思っていたが、現実問題ではなかった。
友人たちとの海外旅行先で、気がついたら病院に運ばれていた。
薄れゆく意識の中で、このままもう終わりなのかという気持ちがあった。(死を実感した)
仏教の道に入ることを決意、興福寺の田川俊英さんに出会う。
仏教の合理的な考え方に惹かれて興福寺に入る。(32歳の時)
維摩経が現代社会にも通じる事に気が付く。
性差別、弱者虐待、そうしたことが社会現象で見られている。
維摩経は平等性を追求している。 

維摩居士 自分が病気になると言う事は我々と同じレベルまで神通力を弱めて病の身を見せる。
同じレベルで、一緒に物事を成し遂げていこうと言う。
「己の病を持って彼の病を憐れめ」と続く、自分が病で苦しむ事で初めて他人の病の苦しみを共有できると説く。
日本の社会も進歩してきて体の不自由な人にも快適な生活が送れるように、環境がととのえるとおもって、色々政策がなされているが、個人個人がそうした方々に対してどこまで、同じ心根、心情を共有できるかと言うのは、なかなか難しい問題だと思う。
悟りの道筋では縁と言う思想がカギになると言います。
「縁」、現代語に訳せば、「物事を成立させる条件」と言ったらいいと思います。
世は時空は違うが一瞬を共有している。 
その中の一つが欠けてもいまのこの世界は成り立たない。
縁と言うものは非常に大きく、ミクロの世界から、マクロの世界まで、世界を形造る条件として、有機的に絡み合っている。
色々な原因があって、結果が生まれ、そしてそれが原因と成って、結果が生まれると言うコスモロジーの世界を仏教では縁と言う。

縁で成りたっている私と言うものは常に変化せざるを得ない。
常に今、未来はまだ来ない。 人間は皆今しか生きられない。 不動の今。
どのように理解してゆくかと言うのが悟りへの道の入り口だろうと思う。
「般若心経」 空の思想は維摩経にも記されている。
空は仏教の基本的な考え方。
どこまでも変わらない自分があると言う事は仏教では考えない。 アートマン=我
「法」とは「任持自性・軌生物解」(にんじじしょう きしょうもつげ)
 (「それ自体の本性を保持し、軌範となって他の解知を生ぜしめるもの」とされる。)
この世の中で全て変わらない事は無い。 諸行無常
物事を成りたたせる要素はある。 
例えば、時計というもの ぜんまい、ネジ、・・・で成りたってるが、バラしたら時計は無い。
時計と言う絶対のものは無いが、時計を成りたたしている要素はある。
我空法有(がくうほうう) 物事の存在ありよう。
我空法空(がくうほっくう) 部品すらもない。
自性 →物事を常に永遠にあらしめる変わらない本体。  
自性が無い状態を「空」という。

色即是空   色 物質と言っても、ものの形と色であって、物事を理解しているわけではない。
本と言っても、形だけを見ている。 (中味を知っているわけではない)
本があるんだと、概念として、言葉として表した事があるんだという錯覚に陥っている。
あの人はいい人(A)です。 Aさんはいろいろな条件 縁で 殺人を犯してしまうかも、物を取ってしまう事があるかもしれないし、悪いことをしてしまうと、Aさんは悪人になる。
Aさんは悪い人だと固定概念を持って見てしまう。
Aさんを理解しているわけではない。
そういうものを乗り越えないと、人間関係も、物事の本質も見えてこない。
固定概念を乗り越えていかないといけない。
それを自性と言っているが、物事全て自性がない というのが「空」なんです。
周りの人が亡くなっても自分だけは、どこまでも生きてゆく様な想いは持っている。
それは自性がないことを認識していない。
常に変わる。 諸行無常。全ては移り変わって変化してゆく。

維摩経では 対立する二つの事柄でも、一つと捉える事で真の悟りに到達出来ることが示されている。
入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん) 維摩経第9章
この世の中はあなたと私とか、正しいとか間違っているとか、自分から離して、自分と対比させて認識の世界が成り立っているので、どういう風に菩薩達は乗り越えているのか、というお話の内容にもなっている。
色々な例を対になって話している。
獅子菩薩が出てきて、福と罪は本来、別々のものだが、本来は一緒なんだと言っている。
福は善行、罪は悪行 どうして一緒なのか。

仏教では全てを平等追求するのが基本なので、縁に依って現象を起こす。
何かを取ってしまったら、罰せられるし、あの人は悪い人だと言う事になるが、仏教的に見ればその人は悟りに入れないのかと言う話になるが、悪人でも救われるだろうと言うのが仏教の考え方です。
我々悟ってない人間がなぜ悟れるかと言う事です。
悪人はどこまで行っても救われないのかと言う事になってくる、改心したときに、聖になる世界に行けないのか、とういう話になってしまうので、そうしたものが一つとして考える処に罪も伝業も同じ土俵の中で、縁に依ってたまたまできた、そうした現象を固定的にとらえてしまう事を無くそうよ、言う事なんです。
穢れと清らか  悩みと悟りとかは 対極ではない。

唯識 悟りへ至る実践業の中での心の動きを分析したもの
心の深層は 阿羅耶識に溜めこまれている。
満月 離れた月と自分の認識する月 仏教的には一つ 
認識するものと認識されるものが唯識仏教では一つになると言う考え方。
我々が概念化してみて居るものは、なにか覆いかぶさって見せていると言う事、ずれがある。
(認識のずれ) 固定的ではない。
富める者、貧しき者  富める者は喜んで分かち与える、貧しきものは卑下する事無く、より自分を向上させて、より社会の中で自分を高めてゆく、良い循環と言うものが仏教の中では求められる。
 




































2014年4月18日金曜日

山田圭輔(金沢大・麻酔科蘇生科医)  ・ 生き方を共に探るガン哲学外来

山田圭輔(金沢大学付属病院麻酔科蘇生科医)   生き方を共に探るガン哲学外来
2001年から金沢大学附属病院癌緩和ケアーチームの一員となった山田さんは薬物療法や神経ブロックなどで癌患者の痛みを軽減してきました。
しかし、患者の精神的苦痛への対応に悩んできた山田さんは、去年5月癌哲学外来を病院内に開設し、進行癌、再発、転移などに悩む本人や家族と、生と死について対話する専用の時間を設けています。

「ガン哲学外来」、私は麻酔の医者なので、癌に依る身体に依る身体を和らげると言う語が仕事ですが、心の痛みを和らげる、事を「ガン哲学外来」でやる事にしました。
普通はサイエンスで対応するが、心の痛みはサイエンスでは対応できない。
自分の生死を自分の言葉で考える、と言う事を哲学と言う風に表現してみました。
自分が死を意識したときに、残った人生をどう生きるか、全て自分の問題です。
自分の意志で亡くなるまで、自分で生きると言う事としかありません。
ホスピスでも癌患者の身体、心の痛みに対応しますが、心の痛みと言うのはなかなかつかみにくい、難しい問題です。
御自身で考えてもらう、その手助けをする役割り、聞き役として、確認をしたり、手助けをする。
生死の問題を話せる相手はそんなにいない、家族の間でも話しにくい事がある。

病気の経過がどうなっていくか、身体がどういう風になっていくか、其時にどういう事が出来るか具体的なアドバイスも出来るので、患者さんからすると安心するのではないか。
今の医療に欠けている事だと思った。
医師は病気を治すと言う事に目をむけてしまい、治らない人にどう対応するのかと言う事にはあまり目を向けてこなかった。
10年以上この仕事を続けていると、いろんなことに自分はどうすればいいかなやんだし、相談、、学んだ。
順天堂大学の日野先生、(恩師) 最初に癌哲学学会を最初に作った。
私に刺激になり、影響を受けて、金沢の方で「ガン哲学外来」を始めた。

人が生死に向き合う時に、どうすれば心に平安が保てるかと言う事はある程度、共通したところはあると思う。
死ぬまでどういう風に生きるか、と言う事だと思います。 生老病死 
死をある程度覚悟する、死は避けられない者であると言う覚悟を決めた時に、残りをどう生きるかはそれぞれの問題だが、それぞれの人が自分はこうするんだと、結構しゃべってくれるので、私はそれを聞くわけです。
ご本人から来られる方は、ある程度覚悟されている方が多いと思います。
家族へも縁起でもない事を話さないでと、言われてしまう事がある。
そういう様な場所だと言って、自由に喋りなさいと言うと、思いをしゃべってくれるものです。
効果があったかどうかは帰るときに、笑顔になれると判る。

繰り返し来るかたもいる。
家族の方だけが来ることもあるが、亡くなる人にどう向き合うか、と言う事です。
残された時間をどう共に生きるか、是も覚悟です。
やけになる人は少ない。  未来を考える場にもなっている。
命に響く言葉を与えることができる。 
亡くなるまで生きる、支えた人はたくさんいるので、そういう人たちの言葉をすこし与えると言う事は出来る、それがヒントになっていただければいいと思います。
オーストリアの精神医でヴィクトール・フランクル 「夜と霧」の作者 
非人間的な、絶望的な状況で、人間らしい気持を忘れずに、そこにいた苦しむ人を救う、励ますと言う事をした。
幸い、生きて解放されて、後も世の中で苦しむ人を支えたという人ですが、人間らしさに焦点を当てた、そういう人がいたと知るだけでも力になる事はあると思います。
マザー・テレサ  最貧層の人に捧げた。
色々学んで智慧を借りると言う事だと思います。

生死を考える、どこかに時間を取ることが必要かと思います。
病院の中でも考える時間と場があればいいと思います。
医学部の学生のころからこういったことをやろうと思っていた。
癌の痛みの治療、尊厳死の問題、恩師の村上教授が幅広く取り扱っていて、特に癌の痛み治療、癌の心の治療に非常に興味を持った。
歳を取ってきてから、手術、全身麻酔の仕事等からは離れて、癌の患者さんの仕事をするようになった。
最近は癌の痛みの治療薬は非常に発達しているし、癌の治療は随分発達しているので、癌の再発、転移があっても、病院に通院される方、痛みをコントロール出来る方はかなりたくさんいます。
そういう時に段々不安になってくると言う事があります。
自分がこのさきどうなるのか、自分に価値があるのか、意味があるのかと、当然迷うわけで、そういう時こそ癌哲学外来は発揮するんだと思います。

癌治療が発達してきているので、癌を抱えながら生きる時代になってきている。
昭和56年ごろに自宅で亡くなる方の数と、病院で亡くなる方の数が変わった時期だと思う。
医学部で精神世界を学ぶ場はあまりない。(昔も今も同じだと思う)
死を実際に考える事は大事だと思うが、判らないと恐怖に考えるのは当然のことだと思う。
シニアに時代には、或いは若いころから生死をすこしずつ考える事は大事だと思う。
癌哲学教室 各自が生死をどういう風に思うか、グループで発表させると言う試みをしている。
それぞれ学生の考えは非常に参考になる、いろいろ学びました。
フランスのパスカル ①科学的な考え方 それだけではない  ②繊細なる精神、科学、合理性を越えた考え方   
両者のバランスが成り立たないと人間はなかなかやっていけないところがある。
医療、福祉、教育、合理的な面だけでは済まないところがある、それを強く意識する事が必要。

医学の知識、科学の知識を持ちながら、精神、心の問題を見る、バランスが大事なんだと思います。
父親は癌で亡くなったが、整形外科医をしていて、最後は石川県立中央病院の病院長をしていて、病院長になった時に、その時に安心して死ぬことができる病院にしたいと発言したのを、覚えているが、医学はどれだけ発達しても人が死ぬという事実は絶対変わるわけではなく、医学ばかりに目が行っていると、ついついそちらの方を見失ってしまうのはよろしくない、父はそういうバランスを取った病院をめざしたのではないかと思う。
自分も安心して死にたいと思う。
















































2014年4月17日木曜日

2014年4月16日水曜日

岩崎京子(児童文学作家)     ・童話作りで見えてきたこと

岩崎京子(児童文学作家)       童話作りで見えてきたこと
1922年大正11年東京生まれ 子供の頃から本が好きだった岩崎さんは、児童文学の世界に入ったのは結婚後夫に勧められて、書き始めたことだとおっしゃいます。
ご本人も作家としては遅いスタートだとおしゃっていますが、昭和34年のデビュー作「さぎ」で児童文学社協会新人賞を受賞、昭和45年「恋のいるむら」で芸術選賞、文部大臣賞、昭和49年
「はなさか」で日本児童文学者協会賞を受賞するなど児童文学界を代表する作家の一人として知られています。
岩崎さんは童話の元は、昔話だと気付いて、永年昔話や民話の取材を各地でされてきました。
創作活動をする一方で、子供たちに自宅を解放して、子供の本の家を開き、その活動は40年を越えるといいます。
90歳を越えてなお、好奇心あふれる児童文学作家の岩崎さんに伺いました。

童話創作60年以上になる。 
必要に迫られて書いて、書くものがないから探し歩いて元気を貰ったとかと思います。
「子供の本の家たより」
「ぶんこのお客様」 子供たちの実態を知りたいのがぶんこのお客様
いろんな鳥がかつてはいた。
3人兄弟で、私は仲間外れで、近所の家に行くが遊びになかなか入っていけない。
本しかなくて本が好きになりました。 
適齢期の頃、戦争末期から終戦直後での混乱期だから、旦那さんがいないのでやっと落ち着いてきて、貰ってやると言う人がいて、是しかないと思った。
最初の日に正座させられて、10カ条の家庭方針が書かれていて、9条目までは納得できる内容で、10カ条目が「テーマを決めて勉強しろ」と書いてあった。
吃驚して、テーマを決めないと妻の座は危ないと思って、考えて一番楽なのは子供の本だなあと思って、家に置いてきた本を持ってきて本を片っ端から読もうと思って、それを話したらいいと言う事になった。

いつの時代でも同じですが、先輩たちに造反してゆく若い世代がありますよね。
児童文学のなかにいて、子供もかわいいだけではない、少年文学宣伝をした人がいて、私たちはでも、かわいいと言う様な生活童話しか書けない、何を書いていいかわからない。
其頃教養派、石井桃子さんとか、瀬田貞二さん、松居 直さんとか、子供かわいいという抒情ではだめで、行動を書く、主人公の子供の行動を書いただけでも、骨太の文学になる。(人間を書く)
それは民話だと思い、民話を考えるようになって、書いてみてはと進められて、民話を書いた。
与田準一さん(北原白秋の弟子)を紹介されて、友人がちゃんと日本語を勉強しなさいと言われて、与田先生に伺って作品を置いてきて、やってました。
文学は人間を書くもので、全然人間を見ていないと言われて、「窓を開けてみなさい」と言われて、(心の窓を開けてみなさいと言う事だったが)、家で窓を開けたが、勉強にならないなあとおもったりした。

普段遊んでいる男の子一人がバケツ一杯かえるを入れているので、蛙をどうするんだろうと、聞いたら怪我をしている鷺を拾っていって家に持って帰って、これはその餌だと言う事で、慣れてきて付いてくるとの事、想像を交えたりして、書いたら21枚になった。
題を「さぎ」にした。  昭和34年のデビュー作となる。
白鷺物語、山の鶯 、ゆうじときじ 鳥が多い。 
童話の元は昔話  昔話は子供の教育でもあるし、教科書でもある。
生き方について親が話すのに、狸にしたり、狐にしたりしているので、使わせてもらった。
昔話を将来につなげてゆきたい。
今の子供たちは昔の話より、現代の話とか、家庭の話とか親近感を持つと思うが書けないです。北原白秋も子供の言葉は、詩で天使の声だと言って集めていらしった。  

リンゴが落ちるのを、子供(りんご)が枝につかまっている、手が痛くなるからはなす、それがりんごが落ちるなよと言ったんですって。 (?)
幼稚園の先生がメモして話してくださって、ニュートンがりんごを落ちたのを見て、地面が引っ張ったという、あれとおんなじ発想なんだと、科学の真理につながる。
子供から学んでいる、子供はありがたい存在です。
「はなさか」 江戸時代の植木職人の日記、メモを元に描いている。 
常七が短い日記を書いている。 天保2年やよい 11日地震 新花 花のみ、葉はい出ず、木全体が花で埋まり候、 吉野と名を付けて候。
大島桜と江戸彼岸桜の交配化 植物学者藤野重雄 明治19年に「染井吉野」と命名する。
江戸時代に花を一生懸命に植えて江戸の街を、東京の街を、花の名所にしようと言う職人さんがいたと言う事は、日記に残っているのは凄い。
世田谷は桜が多い。 新聞記事にコラムがあって、供養桜という文が出た。
若い職人さんが脚立に上がって作業していたときに、高圧線に触って、感電して亡くなって、其供養のために小学校1年生に3年物ソメイヨシノの苗を10万本あげる。
それが世田谷に植わっている。 千歳船橋と経堂の間の並木もその時の名残らしい。

越後ちじみ歌、東海道鶴見村 久留米がすりの歌、少女たちの明治維新・・・・。
作品の幅の広さ がある。 書くために行く。
みつばちの件で北海道への調査をしようとしていたら、夫が切符を買ってきてくれて、12日間行ってきた事もある。
トルストイ 「イワンの馬鹿」  トルストイ研究もする。 凄い勉強になった。
昔話、地方地方で扱う材料が変わってくる。
「トイレのはなこさん」 ノックして入れば何にもないが、ノックしないで入ると、なかにははこさんがいて、怖いことがあったりする。
学校には怪談の生れる部屋があったりする。(トイレ、理科室とか)
これだけは子供に伝えたいと言う事を話にしたり歌にしたりして伝えてきている。
なるべく、書き続けて、自分のものを全部渡してゆきたいと思っている。








































2014年4月15日火曜日

立花 隆(作家)         ・ ”自分史”で豊かなセカンドステージを

立花 隆(作家)             ”自分史”で豊かなセカンドステージを
人は60歳の定年の年頃になると自分の生きてきた人生を見つめ直して、自分の人生は果たしてどんな意味を持っていたのか、問い直す人が多くなるようです。
作家の立花さんは数年前まで大学のシニアむけの講座で、自分史を書く講座を担当していました、
立花さんは、60歳は人生の中間地点、そこから人生のセカンドステージが始まると考えるべきだと話しています。
そして実り豊かな人生のセカンドステージを送るためには自分のファーストステージをしっかりと見つめ直すことが必要で、それには自分史をかくことが最良の方法だと話しています。

今年で74歳になる。
「臨死体験」 現時点ではどうかという番組をNHKで作っている。
新しい考えも出てきている。  世界中を回って取材している。
立教大学のシニア向け講座として始まる。
自分史の講座はあるべきだと思っていた。
「20歳の頃」 分厚い本を書いたが、自分史的なことをきくと物凄く面白い。
いろんな人たちが参加した。 ありとあらゆる階層の、ありとあらゆる生活体験者がいた。
応募者の相当部分の人が学校の先生の体験者、介護師さんとか、福祉的な保険師さんとかの構成が多かった。  団塊の世代が多かった。
有る時代背景を共通に持っている人達が自分史を書くと一つの時代史ができ上るみたいな、そういう感じがあって面白かった。
団塊世代全体の生活史みたいな感じで面白かった。

2008年スタート 団塊の世代が還暦を迎えるときだった。
リーマンショックが起きて、日本全体がもう一度反省し直す、過去に目を向けて、これからどうするんだと、考え直し出した時期でもあった。
60歳を人生の中間点と考える。
70歳を過ぎた人間は、60歳は人生の中間点であると、実感として感じる。
父母は90歳以上生きた。 母から60歳代と70歳代は全然違うよと言われた。
60歳は40歳、50歳の延長に来る、想像がつくが、70歳になるとそれ以前とそうとう時間軸というか、人生をルックバックした時の感覚が違う。
還暦はものすごく意味のある人生の切れ目の様な感じがする。
還暦過ぎてないのは、ちゃんとした人間になって無い様なそういう感じがする。

自分史的なものを書きだしたくなる。
自分の人生とは何だったんだろうと、思う様になる。
自分史を書きだすと、それが自分で判ってくると言うか、自分をルックバックして自分自身を見直すために自分史を書かないと駄目見たいな、そういう感じです。
後半の人生に活かす。
幼児体験、子供体験、青年体験、から書きだす。
自分と自分を取り巻く世界の時間の流れ、時代の流れ、そういうものがどんどん見えてくる。
他人の自分史も面白い。
1クラス 49人いたが自分史を全部詠むが、誰の自分史を読んでも面白い。
読んで、うーんと唸るような内容を書く人は自分の人生の見返し方が違う。

自分史を書くには
①自分史年表をつくる。  ②人間関係クラスターマップを作る。 ③エピソード集をつくる。
①自分史年表をつくる。
 まさに絵巻物風に書いてしまう。  おおざっぱな履歴書
 人間の記憶はエピソード記憶がメインになっているので、エピソードがちりばめられた自分史の  絵巻物を書く。  
 それを描いたら、ある意味で自分史ができちゃった様なものですね。
 自分史を書こうと思ったら、まず材料を集める。   
 アルバムを並べて、アルバム写真帖見たいな自分史の部分を作る。
 母親が子供の頃の物を溜めてくれている場合があるので、そういった物を集める。
 そういう事をやり始めると記憶がよみがえってくるので、素早くメモする。
 エピソード帖見たいな物を作る。
 自分史を書く場合は異性との関係は絶対はずすなと言っている。
 いろんな人がいろんな思い出を書いて面白かった。
 自分のファミリーがどういう風にでき上ったか、エピソードを交えてつづってゆく事が大事。
 
②人間関係クラスターマップを作る。
 自分を核に置いたときに、自分を取り巻く人間関係が全てが一覧表になって見れるような、時  代別に全ての人が持っているはず。
 そい言うものの積み重ねがその人の人生のはずですから。
 其時その人が出した年賀状の記録があったら、その人の人間関係の一断面が底に表れてい  るはずですから。
 会社就職とか、住所が変わるとき、引っ越したとたんに人間関係がガラッと一新されて、新しい その人を取り巻く人間関係ができる。
 書いているうちに頭の中によみがえってくるので、素早くメモ帳に書きつづる。
 その人の記憶の中にあるその人の人生の骨格みたいなものですから。

③エピソード集をつくる。
 いろんな段階でいろんなエピソードが記憶からあふれ出てくるから素早くメモるということです。

3つがそろうと自然に自分史はあふれ出るように筆先から出てくる。
大手新聞社に勤めた柳沼正秀さんの例
授業の途中で皆に紹介した。
実生活に於いてコンピューターの仕事をやっていた。
一見して見事です。 エピソード一つ一つが又面白い。
学校名、会社名、付き合った人、仕事、能力の財産、人脈の財産 人生の転機、節目 参考に歴史的な背景、社会的な処など
自分史を書くときに、自分がどういう時代に生きたのかを常に意識しろと、そういう意味で、忘れるなと言っているので、そういう枠がある。

日本の総理大臣、アメリカの大統領を全部思い出す様に最初の授業でいったが、なかなか最初思いださないが、あるきっかけで記憶が思い出される。
プライベートだけでなく、社会とのつながりの中で思い出して書いてゆく。
本人の自分の歴史を書きん込んでゆくのが大事

池田千賀子?さん
東京生まれで静岡に養女に行った。
最初書いてもらったが訳が解らなかった。 物ごころつかないうちに養女にいって、文章化しようとしても、自分の記憶の中の自分とずれてしまっていてわかるように書けなかった。
まず、判るように書かせる、説明可能なように図面化する事が先ず大事だった。
養女にいった先が親戚だからこそ、複雑なことがあって、親戚どうして移動すると叔母さんがお母さんになったりして判りにくい。
新しい両親と自分の関係が凄くいい関係で、より濃密になったと言う事があり、巧く書いてゆくとなかなかな、クラスターマップが巧く書けて、そういう体験を積み重ねたことでその後の人生に於いても、結局人間の人生って、全ての人が人間関係の中を泳ぎ渡ってゆく、そういう人生なので、そのあたりが彼女は非常に上手に自分史の中で、その後に人生についても書きあげた、と言う事がありますね。

自己満足の度合いが皆違うが、基本的にはすごく喜んでいる。
辛い人生を過ごした人もいるが、そういった言を書く事に依って自分自身が癒されると言う事もある。
書く事の癒し効果があるという事も感じた。
そこまで書いていいのと思うほど、書きこんでいるが、本当に自分を捨てた男を追って新しい家庭の中に踏み込んでいって、新しい女から罵詈雑言を浴びせられて、そういうドラマチックな場面があったりして、その後、実人生の凄くいい、別れた男の子供二人をちゃんと育てて、子供との関係もずーっと書いているが、それが又良い内容なので、読ませる自分史だったと思う。
ファーストステージをきっちり見つめて、自分のセカンドステージをより良いものにする。

書く事自体がその人を癒すという側面がある。
体験が起きた時点では物凄く辛かったことが、ある程度時間が経ってみなおすと、違う形で見えてくることがある。
自分史を書くと言う事は、すごく大事な体験になると思っています。
社会との接点は、 ある世代の人たちの自分史を書かせてそれを束にして読んでみると、その時代が見えてくる、そういう事がある。
時代の歴史は、結局はある下のレベルまで降りてくれば、自分史なんです。
全ての時代の歴史は下に降りてくると、それは誰かの自分史なんです。
きちんと自分たちの時代を見直そうとおもったら、全ての人が自分史を書いて、全ての人の自分史が見える様な形にするのが大事だと思っている。
立花サイト 「自分史クラブ」がある。
全ての人の歴史が面白い。
ある程度歳をとると、俺はなんだったんだろう見たいな、自分を含む世界の歴史の一部としての自分史を書きたいみたいな、そういう気持ちが誰の心の中にもあると思う。














































2014年4月14日月曜日

西岡久寿樹(総合研究所所長)   ・患者に学ぶ医のこころ

西岡久寿樹(東京医科大学医学総合研究所所長)  患者に学ぶ医のこころ
昭和18年三重県に生まれ 三重大学医学部卒業 カルフォルニア大学のリュウマチ科に学び、帰国してからは、東京女子医大、聖マリアンナ医科大学教授を歴任して、一貫して関節リュウマチ、痛風など痛みを取り除く道を歩まれました。
1973年には、日本人にはないと言われていた、痛風が発症する事を学会で発表して併せて痛風の治療法に尽力されました。
現在は四六時中、痛みが続く線維筋痛症の究明と治療法の確立に取り組まれています。

診療、リュウマチ膠原病の研究、若い先生のトレーニング等をやっている。
免疫学、血液学、骨関節の諸道をやってきたので、リュウマチ膠原病、痛み 興味を持って患者さんを見たり研究を進めている。
線維筋痛症、 骨粗鬆症もいろんな痛みがある。 
線維筋痛症の場合は頭のてっぺんから、つま先まで全部が痛くなってしまう病気。
実家の医者は150年の歴史がある。  志摩市で開業している。 
そこも関連していて土日はそちらに行く。
痛みは身体の痛みと心の痛みと二つあり、両方見ないといけないと最近痛切に感ずる。
どう考えているのか、どうしようとしているのか、短い時間で患者の心を、目の動き、一つ一つの言葉から読み取る様にしている。

線維筋痛症 30代、40代の女性に多い。 
中枢神経に問題があり、様々な原因で中枢神経が痛みを普通では感じない痛みを拾ってしまう。
気圧の変化で痛むとか、精神的なストレスがあっただけで痛むとか、痛みに対する感受性が非常に高まってしまっている。
1990年代アメリカで患者を見ていたが、日本ではないと言われていたが、日本でもあるといったら、全国から問い合わせがあって、行政面でも何とか作らなければいけないと、実態調査を行ったら、推定患者数200万人と言われて吃驚した。
高齢者では骨粗鬆症、多発性筋肉リュウマチ(元気なおじいさんがかかるリュウマチ、ある日突然体中が痛んで寝たきりになってしまう)
治療法は明確で1週間で直ぐに治るが線維筋痛症は原因が解らない。
痛みの受容体が脳下垂体で、それを標的として治療薬が開発してきて、痛みはかなり軽減できるようになってきた。

原因、物質レベルまで捉えてないといけないが、その部分は不明確。
診断できる医者もほとんどいなかったという事もある。
痛風 今はだれでも知っているが、当時は日本ではないと言われていたが、でも実際は研修医として当時見ると全国からちょろちょろ来ていた。
血液中の尿酸値を調べたら、推定0.3% 30~40万人の指定患者がいることが解った。
初めて日本人も痛風になると、国際会議で発表したら、東洋人でもなるのかと大反響で、白人の富裕層の病気でと考えられていた。
ベルツ博士が日本人に痛風無しと明治中期に言った。
新しものに対する興味があって、追っかけではなく立証しようと思った。

線維筋痛症、すこしずつ光明が見えてきた。 心の痛みが結構この痛みをおこす。
子供の頃いじめられたとか、離婚、交通事故、様々なストレスがかかるようなことがあって、それからしばらくしてから起こる。
心の痛みが身体の痛みを招き、身体の痛みが心の痛みを招く、両方からこの病気をコントロールしていかなくてはいけない。
精神科の医師と心療内科の医師、神経内科の医師、リューマチの医師がチームでやらないと駄目。
初診料、一人にかかっても、4人に掛かっても同じ料金になる。

患者さんとの対話は常に上から目線では絶対駄目、水平でも駄目、自分たちが下にいると言う事が大事なんです。
取材と同じ、上から目線では本音を絶対に言わない。
ある親しくしていたジャーナリストから言われた言葉だが、取材対象が向こうから来てくれるし、座っているだけでいいと、向こうからいろんな情報を提供してくれるからと言われて、そういう見方があるのかと、私の心の中に残った。
患者さんの本音の部分をどうやって引きだすか、そういうところが非常に医師として要求される時代になってくると思う。
伊勢では地元の言葉を使ってやる。(フランクになる)
踏ん反りかえっている時代はもうとうに過ぎていると思う。
患者さんの情報が勉強になり、血と成り肉と成って次のアイデアが出てくる。

患者を見ないで、パソコンを見る、若い医師が多いが、これをやっていたら情報を得るためには集中できない。  これでは駄目です。
患者さんとの関係が希薄になってしまうと、私たちの仕事と言うものは終わりなんですよ。
患者さんだけでなく、家族も一緒にいれて話す様にすると情報が増えるし、家族も理解する。
家族に理解してもらうと言う事は非常に大事です。
インターンは無くなり、研修医となりその第一号だった。
トータルに患者さんを見ることが大事だと思い、いろんなところを回ったが、それが大きな財産になった。(4年間の総合診療が凄く貴重な体験だった)
人間の体は一つなので、パーツではないので、タイヤだけを取りかえればいいというものではない。

とかく専門志向ですが、総合診療をきちんとやってくるのが本質、土台の無いビルディングみたいなもので、総合診療は建築でいえば土台の部分です。
総合診療を充実させることが、医療費をコストダウンさせる一番大事なところですが、今の日本医学界で判っている人が少ない。
医療とは高度医療だけではなくて、患者さんを元の生活に戻してやることだ。
病気になった患者さんを一生懸命第一戦に戻してやることが国に取って、税金、収入が国に入る。
日本は難病対策、医療費補助にかなり回る。 
難病の患者さんを如何に少なくするかが大事で、治療薬をきちんと開発する環境を作ってあげることが非常に大事です。
難病を減らす、その為にはきちんと薬を開発する。
製薬会社の倉庫には途中であきらめた薬がいっぱいある。
IPS細胞で最終医療、超先端医療と、製薬会社で眠っている薬を安全性は終わっているわけです、それを患者さんに巧く適用拡大する、この二本柱が絶対必要です。
新しい薬を作るために患者さんから情報を得なくてはいけない。

目の病気と関節の病気(ベーチェット) 合併症 ある先端医療に使っている薬を使うと両方とも綺麗になってしまう時があるので、そういう視点で難病を捉えてほしいと思っている。
患者ありきの僕たちの仕事ですから。
行政に対して、日本の医療が世界のモデルとなるような、システムを作るのに役立てば私の仕事は終わったと思っているのですが。
線維筋痛症も病気のメカニズムもかなり分かってきたので、それに対する治療はできるわけなので明るい見通しになってきた。
学会を作ってガイドラインを出して、一番大事なのが国家試験に線維筋痛症 出題項目として取りいれられたので、勉強しなくてはいけなくなったので、勉強した医師はこれからは経験を積んでいく事でしょう。
学んだ物をどうやって次の世代にバトンタッチしてゆくか、患者さんから教えてもらった情報を次の世代に教えてゆく事、情報、家族のケアの仕方、心の問題 色々ある。





























































2014年4月13日日曜日

山本玲子(石川啄木研究家)    ・新たに羽ばたき、啄木の魅力を伝える

山本玲子(石川啄木研究家)        新たに羽ばたき、啄木の魅力を伝える
岩手県、八幡平市出身、東北福祉大学を卒業した後、岩手県立博物館を経て、1990年1月から、石川啄木記念館に勤務しました。
およそ24年間学芸員として、独自の視点から石川啄木の作品と人間性を研究し、紹介してきました。
著書に、「花と香りと女の暮らし」、「啄木歌ごよみ」、「拝啓啄木さま」等があります。
法人法の改正に依って、財団法人石川啄木記念館が解散し、記念館の運営が盛岡市に、移管したのを機に、2013年11月30日に記念館を退職しました。
今は啄木ソムリエと成って、自由な立場で啄木の魅力と感動を伝えたいと全国を舞台に活動を続けています。

4月13日は啄木忌  啄木を偲ぶ会などが開催される。
函館、啄木のお墓が立待岬にあり、地蔵堂で、啄木の法要がある。
盛岡の宝徳寺でも啄木の法要が行われる。 
東京でも啄木終焉の地にお花をささげると言う事もしている。
頼る人は函館にいたので、啄木が亡くなってから節子さんは函館にいって、啄木の骨を函館に持って行った。
啄木は小樽にいて、そのころに借りていた部屋の隣に、易者さんがいて、占い、催眠術に興味を持つ人だった。
自身の占いもしてもらっていて、55歳で亡くなると言う占いで有った。
実際は26歳と2カ月で亡くなる。

石川啄木記念館に24年務める。
啄木の資料、手紙などから離れると言う事が出来ない様な気がしたが、物に拘らない事にしたら、心が自由になった。
小学校の5,6年生の頃、兄が湯呑茶碗を買ってきて、それに啄木の歌が書いてあった。
「故郷の 山に向かいて 言う事なし 故郷の山はありがたきかな」
兄は文学青年だったので、兄の影響がある
生活の中に啄木の歌があって、知らず知らずに目にしていた。
東北福祉大学を卒業後、岩手県立博物館に就職。
昔の人はどいう言う風に幸せと感じてきたのか、調べてみたいと思った。
民俗学を勉強したいと思った。 門屋光昭さんと出会って、民俗調査をした。
人々の衣食住について、調べた。

博物館は10年勤務、展示の案内をするのが仕事だった。
石川啄木記念館の学芸員が欠員になったと言う事で希望して、学芸員として24年間務めた。
企画事業に追われていた。
6月に啄木祭、啄木学級、短歌甲子園 故郷で啄木学級、誕生日には啄木生誕かるた大会などの対応、等をやっていた。
啄木没後100年記念事業、大震災の年が重なって、心の復興にならないかと、陸前高田に歌碑を新たに立てることをした。
「ほにつとう なみだのごわず いちやくのすなを しめししひとを わすれず」
石川真一さん(啄木のひ孫)が字を書いてくださった。

「拝啓啄木様」 啄木の日記、エッセーとか、啄木のメッセージがあり、それに対する私の返事と言う様な感じで書きました。
膨大な資料から取っている。
私の短歌ベスト3
「いのちなき すなのかなしさよ さらさらと 握れば 指の間よりおつ」
(かなし と言う言葉をほとんどひらがなで書いている。 私は愛するの 愛をかなしと読む。
命のない砂は 何と興味深いのであろうかと、そうすることで啄木は生きていると言う事を実感している。 命の無い砂が何と興味深いという風な意味で捉えるといいなと思っている)
「わかれきて ふとまたたけば ゆくりなく 冷たきものの ほほを伝えり」
(南道行さん? 移動で東京に行かれたが、 震災後に復興の様子を見てきた人で、愛情と平和を持っている人だと思っていた。 南さんが移動になると言う事で浮かんできた歌)
「あたらしき こころ求めて 名も知らぬ 街など今日も さまよいてきぬ」
(私ガフリーになった心境ですが、新しい気持ちになると言う事は心が弾む、新しい出会いがある)

100年前から私たちに、向けて様々なメッセージを送っている。
哲学があるし、啄木を知ることに依って、人間を知ることになるし、自分自身を知ることになる。
「人間は自己にある欠点を 他に認めた時、その欠点を酷く憎むものである」
啄木を嫌いだと言う人がいるが、啄木の中に自身の欠点を見ているのではないかと思う。
石川啄木の生き方には批判的な見方もある。
啄木は文学と言うものを高級なものにしないで、庶民に近ずけたと言う風に思っている。
歌は、日常の生活の中では漬物の様なものだと言っている。
大逆事件 評論が残っている。
啄木はしっかりと見つめようとした。
思想を調べてキチンとものを言おうと思った訳です。
言論の自由を啄木は訴えたかったと思う。
時代閉塞の現状は、今の時代にも重なる。
明治の時代の問題点を挙げているが、現代にも重なる。 (教育、就職難)

必要と言う事、が私たちが最も向かうべき理想であると言っている。
必要なことをしましょう。 何故明日が必要か、と言う事を考えましょうと言っている。
代用教員時代、学校のストライキにかかわって、放免されたりした。
盛岡中学時代、 労働運動が始まって、労働者たちの運動があって、社会に対して訴えるという新しいやり方に興味を持つようになって、先輩たちがストライキをするが、それに啄木が参加する。
代用教員時代、教育に不満を持っていて、子供たちと共に授業をボイコットする。
故郷を離れることが自分の身を切られるような思いで去ってゆくが、辛い思いもあるが、自分の味方になってくれた人もいるし、山河があり故郷をとっても愛していた。
心の中に磁石があり、いつも故郷の方向を向いていて全てを受け入れていた。

これからはフリーの立場で、活動をしてゆこうと思う。
仙台文学館では15周年記念で啄木展を開催しているので、全面的に協力している。
函館文学館 啄木講座があり、呼ばれている。
全国を回りたいと思っている。
啄木の魅力と感動を全国に皆さまにお伝えしたいと思っている。









































2014年4月12日土曜日

2014年4月11日金曜日

佐藤通雅(歌人)         ・慟哭(ドウコク) 震災を言葉に

佐藤通雅(歌人)      慟哭(ドウコク) 震災を言葉に
佐藤さんは1943年昭和18年に岩手県遠野で生まれました。
東北大学教育学部を卒業後、宮城県内の高等学校に勤務し、2003年平成15年に定年退職しました、。
2012年平成 24年に歌集「こはじも」で第27回詩歌文学館賞、短歌部門賞を受賞しています。
2013年平成25年11月に歌集 「むがすこ」を出版して、大震災から3年後詠んでおられます。

昔話 ではなくて「むがすこ」と読む。
これから100年後、200年後、以下の震災と言うものがそのうち皆から忘れられて、物語としてつとしてゆくのではないかと、「むがす、むがす らずもねいこと あったじも むがすことなるときをはよこよ」 と言う事から取った。 
むがす=昔  らずもねいこと=とんでもないと  あったじも=あったそうな
苦しみが早く終わって、昔話として語られる時が早くきてほしいと、祈りを込めて作った、そのような題だったんです。
遠野物語はいつも傍らにありました。
3.11に震災が起きた時に、震災はやがて来るだろうと思っていた。
8割の確率でかなり大きな地震が予告されていた。 しかしいつ来るかわからない。
直後はどれほど広いものだとは判らなかった。

町内会の人と巡回を始めた。 食料、交通、通信手段を確認しながらいったが、規模の大きさを知ったのは持っていた携帯ラジオだった。
津波警報をずーっというものですから、これはとんでもないことになったんだなあと思いました。
携帯ラジオを一晩中聞いていた。 
荒浜では200名から300名の遺体が見つかったとあった。
アナウンサーがそれをいいながら慟哭し始めた。
石巻、気仙沼で大火災が発生したとか、大震災だと気付いた。
何とか早く浄化してほしいという気持ちがわいてきて、其時に浮かんだのが「むがす 
むがす・・・」と言う事だった。
「背足も冷えて眠れず ヘルプ ヘルプ 答えくるるは、余震のみにて」
「冷凍のしし(肉)のごとくに、冷え切りし 肩に手のひら あてて明け待つ」
外がようやく明るくなった時に一つの不安が終わったなあと思った。

仙台文学館でシンポジュームがありました。 「大震災と詩歌 被災県から発信 パート3」
1回目は短歌の集い 会場は溢れんばかりに来ました。
これまでにない優れた歌を作った。 何かしなけらればと言う様なつよいおもいがあったと思う。
2回目が俳句、 3回目が詩と俳句と短歌 3つの部門でやった。
始めの震災直後は、兎に角全体が被災者だという感じだったが、時間がたつに従って、震災の絆の一人ひとりの心に入ってきて、一人ひとりが背負ってゆくほかないんだという様な気持ちが強くなってきた。
被災は時間と共に、世の中では忘れられてゆくが、しかし一人ひとりが傷として中に持っている。
2年経ったあたりから、やっと何かいわなければならないと短歌などで出てきた。
東北地方は一種の植民地のような形なので、震災が起きた時に、かなり同情が集まったのは確かなんですが、しかし忘れさられてゆくスピードも予想以上に早かった。
オリンピックがきまった後の忘却の速さはこちらが驚くばかりだった。

福島、家を追われるという事、具体的な感覚が解ってもらえない。
故郷を失うと言う気持ちは、映像化できない、言葉にもしにくい、一気に全てを失うという事の辛さをが全体に広まってゆかないで、3年で忘れ去られてゆく、という気持ちが出てきた。
いつか関心外になるだろうと思っていたので、一人ひとりが傷を負った時から文学は始まるんだと覚悟していたので、やっと出発点かなという気がしています。
全国的な目で見ると三陸は一つの地域でしかない。
私たちが傷ついたのは、日本でもう原発は売れないから、海外にいって売ろうと、セールスが始まったのは非常に傷ついた。
日本がだめなら海外に行って売ろうという発想は私たちは全く考えなかった。 唖然です。

平成元年から河北新報の歌壇の選者をやってるので、ずーっと拝見してきたが、今回の3・11以降の一般の方たちの創作意欲はこちらが驚くほどだった。
河北新報は5月1日からようやく再開したが、どーっと来て真に迫るものだった。
被災の状況に依り3つの段階にわかれると思った。  
第一は直接の被害者  第二が家族を失ったり、家を失ったり直接被害受けた人 第三は直接ではないけれど何らかの形で被害を受けている人
一杯作って送ってくださったのは第三の人々。
1カ月、2カ月たつうちに第二のグループの方たち  亡くなった方たちの代弁を何とかしようとの想い、言葉として残してあげたい、との想い。
今まで歌を作っていなかった人が、短歌、俳句があるなと考えて、何人も投稿してくださった。

自分の幼い子供を失った人は、今も作っていない。
言葉にするという事はそう簡単なものではない。  10年以上かかるのではないかと思う。
心身にひずみが来ると、10年はかかるのではないかと思う。
短歌の世界では震災の後に、当事者、非当事者か と言う事が問題になった。
当事者でもないのに作っていいのかと、歌人の苦しみがあった。
神戸の震災の時にも、どっと出来たが、その時の反省で、ただ同情して作ったとか、自分は被災していないのにTVを見て作ったとか、そういう問題が反省された。
今回気付いた事は、神戸の場合と、今の場合が違ってきたことに気付いた。
携帯、パソコンの違いだと思った。  
神戸の場合は一人ひとりがぱちぱちと撮るようなことはなかった。
今回はかなりギリギリまで撮って、それが日本ばかりでなく、世界に広がってゆく。
現実と非現実の世界がほとんど境界線が無くなったと思った。
映像=非現実 非現実でみて作られるのも同じだなあと思って、この人は圏内、この人は圏外と言う事は止めた。

大川小学校を訪ねた時に詠んだ歌。「裏山へ」
「裏山へ なぜ逃げなかった 問ふて問ふて問ふてすべなきことをまた問ふ」
校舎のすぐ裏手は山なので、誰もが思う。
高校の先生をやってきて、一人も亡くさなかった事にホッとしている。
一人一人の教員の無念さも判る。
大川小学校を見るときには複眼で見ていかないといけないと思う。
「何もかも かたずけられてゆく  消されてゆく 待ってください 声がするんです」
親の立場で作っている。  私は文語体だが、口語調でなければいけないと思った
震災の表現は今から始まると思っている。
震災にあった人は、一人一人が自分で背負って生きていくしかない。
たまたま自分が生き残ったと言う気持ちがどうしても抜けない。
「生き残る ものの不浄よ ぬか(額)たれて 安らかに と低く言う ほかはなく」
生きるか死ぬかは偶然でしかなかった。
死者の想いも引きうけて、前に進むしかない。
  



































































2014年4月10日木曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発(2)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)    自分にもできることからの出発(2)
輪島塗で知られる、石川県輪島市生まれ、69歳、
中学を卒業後、和家具を作る仕事についましたが、20歳の頃これなれらできると、思った漆工芸の道に進路を変えて、輪島塗の師匠の弟子と成りました。
地元の漆芸技術研修所で、人間国宝松田権六さんをはじめ優れた指導者たちの指導を受けて、漆芸作家を志し、其登竜門とされる、工芸展に6回連続して落選しながらも、苦境を乗り越えて、漆塗りの技の独自の道を切り開いていきました。
平成18年、漆塗りの技の重要無形文化財保持者、人間国宝に認定されました。
美しい漆器作りに精魂を傾け、お弟子さんの育成にも励む小森さんに伺いました。

小森さんの漆器は一般的な素材とは違う素材を使って作っている。(編んだ竹、曲げ輪とか)
漆器の美しさ 漆の世界に入った時は沈金という文様を付ける仕事に入ったが、途中から自分の作品を作るために自分の生地を作る世界に入ってくると、上の加色よりも漆の本来の美しさ
と言うものをずーっと追及したくなって、漆独特の艶が凄く魅力的だなあと思った。
漆の木は植林して12,3年経つと漆を取れるようになって、一本一本の性格もあって、一つの畑から良く似た性質の漆が取れる。
本来の美しい漆は、唯つややかだけではなくて、深い鈍い光を放ちてくる。
その美しさに取りつかれてしまって、本当に魅力的だなと思う。
漆の本来持っている美しさにひかれていった。
漆を取ってから2,3年寝かせ其漆の性質を見て、何年か前の漆とブレンドする事に依って、艶も変わってくる、漆の醍醐味みたいなものがある。

「底艶」 表面的に艶があるだけではなくて、中塗り、上塗りを経て、薄い層の底の方から艶がにじんでくる。
ブレンドする事によって、自分の好みの柔らかさ、硬さ、塗りやすさ、に調整する事に依って出てくることと、漆が持っている質にもよる。
ヘラ、はけ 古い道具  ヘラは能登に入口に桂浜があって発掘していたときに私が使っているヘラの材質、ヘラの形が全く同じ物が漆が付いているが故に腐食しないで出てきた。
ずーっと昔から変わらない道具を使っていたという気がする。(縄文時代~)
ヘラは 下地、 輪島の場合は米のりに「生漆」を混ぜてそこに「じのこ」と言うのを入れて、それをお椀に塗ったり、器物に塗ったりするが、その時の道具(あての木が素材 石川県の県木 ひばの仲間) 道具は自分の手に合う様に自分で作る。
見た目には形は同じだが、腰のしなり、先の柔らかさはそれぞれ違うと思う。
自分の道具でないと仕事はできない。
私は弟子のヘラは使えない、弟子は私のヘラは使えると思うが。

はけ 物を塗るという状態が起きた時に、古代の方は草の芯、繊維を固めて物を塗ったと思う。
その後、動物の毛を束ねて、はけ状にして塗ったと思う。
今私が使っているのは、人間の髪の毛を漆で固めて、それをほぐしながら使っている。
髪の毛が12,3cm伸びるとハケができる。
孫娘が差し出してくれた髪を使って、はけ屋さんに作ってもらったが、もったいなくて使いきっていない。
女性の弟子は、一本か二本は自分の髪で自分のはけを作っています。
塗るところは短いが、其はけのなかにずーっと長いまま入っている。(鉛筆を想定してもらうといい)
教え子でイギリスの方がいるが、あるとき、黄色いはけを持ってきた事がある。(娘の髪を使用)
漆を塗るときに、樹液の中とか、塗っている最中に浮遊しているごみがつくが、それを「ふしがつく」というが、ふしを取る道具を「ふしあげ棒」という。
職人さん、それぞれ素材が違う。  かや、竹を細くしたもの、歯科医師が神経を取るときに使う器具、とかいろいろ使うが、私の場合は鳶の羽を拾ってきて、毛の部分を綺麗に取って、根元にしなりをつけて使っている。

弟子は現在5人いる。 
一番弟子は10年になる。 去年に入った子、2年、3年、5年経った子がいる。(男性3、女性2)
研修所でも教えている。 8時15分から5時15分までが私の仕事場の時間です。
漆器 1年目は丸いもの、 2年目は角いもの、3年目は融合したもの、竹を割って竹を編んで物を作ることを教えている。 4年たったら年季あけと言う式をやって卒業してゆく。
昔より年季明け式は簡略化されてきている。  
年季明けする人の友だち、ご両親を呼んで、私の友だちとか、うちの家族集まって、親子盃をやって、親子の縁を結んだよと言う事をやって、記念品を渡して、宴会を行う。
輪島の後継者が育たない、後継者が少ない、業界が若い人たちを取らない(不景気もある)
即戦力がどこでも欲しいと思うが、基本的なことを教えていって、自分のところで一人前にしてそこからまたと言う事はなかなかやらない。(弟子をしっかり育てていこうという時代では無くなってきているのでは)
教えると言うのは授業料を欲しいぐらいなのに、手当を出しながら教えてゆくと言う、その辺の難しさは業界としては問題があるんでしょうね。

竹材 表面はあまり必要ではなくて、節の長いのがほしい。(45~50cm) 節の部分は使わない。
裏山から取ってきて、油抜きの工程を経て、井桁に組んで乾燥させる。
秋にきりだす。 ひと夏越したものを順々に使う。
漆 漆をかく職人が少なくなってきて、私は岩手県浄法寺町でかいてもらっている。
ほかに茨城県大子、 飛騨の高山、岡山県の奥の方で漆が取れる。
97%は外国品(中国が多い)  昨年から価格が1.5倍になってきている。
弟子を取るようになったのは50歳代の後半からだと思う。
研修所でどうしても習いたいという事で、成り行きで取ったが、赤の他人と言う事で妻にとっては厳しかったと思う。
人間国宝になると、技術伝承 後世に残してゆくのが必要と成るが、認定される前から弟子を取っていたので、あんまり考えたことはない。

弟子の教育、一人一人に対する考え方、見方をするようになって、人間としての成長が自分自身有るように思う。
素姓の違う子たちを、どういう風に仕付けながら育ててゆくかと言う事は、仕事を教える以上に難しいものがある。
研修所での教育と言うものは教えるだけなので簡単だが、仕事場の弟子は教えてその子たちが、どう育ってゆくかをしっかり見ていかないといけない。
世の中で生きていけるように、仕事場にいるうちから生きざまを教えていかなければいけないのではないかと思っている。
弟子を育てる信条、人間性と言うものではないか、芸は人なり。 
でき上ったものから人間を想像できるようなものを作ってほしいと思う。
技術も大事ですが人柄が大事だと思う。

松田権六先生から図案日誌を書きなさいと言われて、自分の作品のアイデアをメモする。
アイデアスケッチを一杯書きなさいと言われた。
若いころのデザインと、今のデザインは違うが、体力的にも、技術的にも衰えてきているが、どういう風に融合しながら、どういう風に表現するかというのが、これからの私の課題だと思っている。
それをしっかり見極めて製作に生かしたいと思っている。
70歳になったらつややかな漆が美しいと思うのと、70歳なったら70歳になった漆を自分で探さなければいけないのかと思う。
素材をどう活かしてゆくかが大事だと思う。
漆と言うものは、樹液を取るのに6月から9月にかくが、養生かき と言うのは1年でその木をかききらない、3分ぐらいかいて、何年か先にもう一度かく。
もうひとつは木からその年に出る漆を全部かきとり、切り倒してしまう。
一本の木からの生命、人間でいえば血液、大切な樹液を使わせてもらっているので、尊い物を自分の仕事に生かしてゆく有難さを、大切にして行かなければいけないのではないかと思う。
































2014年4月9日水曜日

鶴岡真弓(多摩美・人類学研究所・所長) ・渦巻文様に魅せられて40年

鶴岡真弓(多摩美術大学芸術人類学研究所・所長)  渦巻文様に魅せられて40年
19歳の時に、横浜からソビエト船でナホトカに渡り、単身アイルランドまで旅をして渦巻きの形をしたケルト文様に魅せられました。
文字を持たなかったケルトの人達の想いは独特の文様に表現され、やがて鶴岡さんはケルト文様のうず巻きや組み紐文様は日本人が描いてきた文様とよく似ていることに気がつきます。
ケルト文化研究の先駆けになった鶴岡さんに伺います。

人間が三半規管で平行な状態を保っていると思っていても、不意をつかれるところに人生のダイナミズムがある。   
カルマン渦 障害物が異物があるからこそ、水の流れがそこで踊ってみようと思う。
ラーメンにナルトがあるが、あれが決定的な素晴らしい渦のデザインだった。
何故ナルト巻きが日本からなくなってゆくのか、怒りを感じています。
神社の神文、でんでん太鼓(パワーを赤ちゃんに与える) 西園寺家 家紋左三つ巴にもある。
神聖なものだといわれてきた。
渦は日本のものだと思い込んでいた。 ブリテン島(イギリス) アイルランド ケルト人がいた。
その人たちの美術に学生の時に、突然であって、羊の皮とかに装飾されたお経に不思議な渦巻き模様があり、それがでんでん太鼓の三つどもえ、ナルト巻きのコイル状のものが、アイルランドの国宝のケルズの書、今から1200年前にアイルランドの島の修道士たちが書いたお経の三つどもえがそっくりだった。

非常に驚いて、毎日毎日通いました。
何で日本から来て、毎日来るのかと聞かれた。
ミクロコスモス(小宇宙)、マクロコスモス(大宇宙) ケルトのお坊さんたちはミクロの中に入ってゆくほど、そこに宇宙が開ける (壺の中の大宇宙)  ひっくり返った世界。
小さき者の中にこそ、それを見つめれば見つめるほど、そこに大宇宙が開けるよという、メッセージを渦巻き紋様と言う、三つ巴、というケルトのまったき文様に込めて、当時の大変高価な子牛皮紙に、手に入らない顔料で渦巻きを書いていった。
私たちとは何か、宇宙自然と言ううごめきとはこういうエネルギーに満ちているのではないかと、この羊皮紙のうず巻きに託して、表現したと思う。
大自然、宇宙、生命は渦巻きだと言うのが一つ。
物の中にも アニマ、 魂の活動があり、渦巻く様に動いている。(アニミズム

アイルランドのスケリッグ島 修道士の修行の島 
船で行くが渦巻く波にもまれながら行くが、恐怖と闘いながら、大いなる自然の渦のうごめきに自分を託す。
渦 始めも終わりもない形をしている、一個の命が終わった先端部で又次の生命が生まれて次々に展開してゆく、始めと終わりがないというのが生命なんだという事を、教えてくれている様に思えた。
死が終点ではなくて、時間が巡ってくれば又死からよみがえるという奇跡が起こるかもしれないと、それを祈るのがハロウィン。
近代人は生まれて死ぬという直線の中でしか、自分たちの人生を考えていないと思う。
死が訪れたら、多くの現代人は病院の中で終わることだと覚悟して思っていると思う。

今はスケリッグ島には修道士はいない。
何故修道士がスケリッグ島を選んだのかと言うと、わざわざ危険にさらされる処を選んだ。
死と隣り合わせで、苦行をやっている人たちが昔からいた。
ケルト人は紀元前1000年にヨーロッパを席巻して、その後ローマに追われて、アイルランドにいってしまう。
ユーラシアの両側に小さき島のアイルランドと日本がある。
自然の脅威と闘いながら、脅威があるという事は自然がおおいなる渦を作って常にうごめいている。
日本列島人とケルト人は合わせ鏡の様に思っている。
結び目 霊結び 男女が恋をして、其時に二人で心の底から魂の結び目を作って、それを実際に持ち合う。
死んだ人と、生きている我々がその魂が結び目を作る。
絆、結び目 を作るっことに依って、結ぶことに依って最初は別々だったあなたと私が強くなる、深くなる、絆ができる。
しめ縄、あざなえる縄の様に、2本、3本になって行った時に、そこになにか新しい命、意味、価値がそこに誕生する、というそれが渦巻きとか組み紐とかに表してきた、日本の、アジアの歴史がある。
結び目はまさに、終わりのエッジから放射状になって、また人々へ、幸運なら戻ってくる。
飾るというのは、幸運であれかしと祈りのうず、祈りの結び目。
自分の体に結び目をまとわせるという事が、人間に幸運を、健やかにという事を、祈りの衣、帯、
日本とケルトで響き合っている。

ちょうつがい 蝶が羽を広げて、光の象徴。 箪笥のなかには私たちの命を護ってくれる、薬、お金、着物、守り神としての蝶の文様。
青海波文様 扇を開いた様な形の波が重なる様にして、こちらにやってくる波です。
夏、かき氷屋さんにある旗、全く知らないかなたから、きっといいものが運んで来て呉れる者があるよ、それが波、青海波文様。
畳の縁、掛け軸の文様、装飾しているが、光そのもの。
飾り、余ったスペースと思われているが、一個の小さき文様でも、結び目でも、晴れの日、人生の節目節目でそこに込める様なものが、心をこめてたむける花の様に、生と死が飾られる。

お祭り、祈りの行事 そこにデザインはある。
祇園祭は疫病が夏になると、はやるので、清める。 
装飾の展覧会、動く織物、動く結び目、動くちょうつがい。
鐘を叩くが、美しい結び紐を垂らしていて、それが鐘を叩くたびに揺れる。
お祭りは人間の幸福を祈る。  又神々に見て頂いて喜んでいただく。
最高の手段が、飾ること。 
自分が誰かと誰かをつなぐもの、渦と渦、違う存在がそこで出会う、再開できる、そういう空間や時間を作ってゆく、という仕事、営みが飾る、装飾するという、営みだと思う。
川が合流するときには緩やかな渦ができる。 そこに何かのエネルギーが生じる。
人間が、生きる、死ぬは 合流するんだと思う様になった。
合流するという事を考えたら、生きている事が、そこで緩やかな渦になって合わさってゆく、そうすると生きるという営みはいつかやってくる、もうひとつのステージと合流するんだと、合流地点まで元気にいってみようと思いながら、ケルトのうず巻きもナルトのうず巻きも青海波文様も全部同じ、厳粛な装飾文様としてみている。









































2014年4月8日火曜日

加藤みどり(声優)        ・サザエさんの声で、45年

加藤みどり(声優) サザエさんの声で、45年
74歳 サザエさんの声で出演している「サザエさん」が最も長く放送されているTVアニメとして、ギネス世界記録に登録されました。
加藤さんがサザエさんの声で出演したのが、1969年、加藤さんの声がサザエさんの声にぴったりでTV曲からこの番組一本にしてほしいと説得されたと言います。
アニメ、サザエさんの家族と声優仲間の絆、加藤さんの元気のもとについて伺います。

「サザエさん」、45年になる。
波平、サラリーマンで趣味の広い人、釣りもやれば和歌もやる、何でもかんでもできるが、下手。
船、 日本の母と言う感じ。 優しい母
夫(ふぐたますお)、大阪の人で早稲田大学を出た人。28歳の設定
サザエ   24歳  
かつお、小学校5年生
わかめ、小学校3年生
たら、私の子供  2歳半

声優が変わってきている。
波平がここで変わって、変わっていないのが、私と舟さんとたらちゃんです。
始まった時は29歳だったが、今は74歳。
最初の頃は子供の様な声だったが、 西洋形の発声よりも、邦学の発声をやりなさいと言われて、小歌、清元、をやって、今は義太夫です。
もう一つの番組は6時間録音にかかるので、鍛錬、お稽古していないと出ない。
NHKの俳優養成所で取られて訓練して、放送劇団に入れてくれるのかと思ったら駄目で30人会を作ってそこでやった。
NHKがデビューだった。  1969年にサザエさんが始まった。
オーデションだった。 それまで受けたことがなかった。
一言二言でいいよと言われたので、あて馬だと思った。

松本みきさんがOKを出してくれた。 ノー天気の明るさがいいといわれた。
自由奔放なところがプロデューサーの目にとまったようだ。
他の番組は全部降りなさいと言われた時も「ハイ」と言った。
ギャラが安かったが、どうなるんですかと言ったら、お金のことを言ってはいけませんと言われて、あなたにはちゃんとした家庭があるので大丈夫ですねと言われて「ハイ」と言った。
必要な一本になったのは30年後です。
そんなに続くとは思わなかった。 収録が木曜日なので必ずいなさいと、休みはありません、あなたは全部の人に絡むからスタジオを出てはいけませんと言われた。 トイレも行けなかった。
君がそういう事を一生懸命やっているという事で、スタッフは君の為に一生懸命やってあげていますと言われて、その一言でやる気がでてくる。
だから、プロデューサーが亡くなった時にどうなるんだろうと、思った。
周りのスタッフから大丈夫ですよと言われて、何の心配もなくやってきた。

どうして評判がいいのかと言われるが私としては判らないが、演出家のいう事が直ぐにできる様な声優さんになって下さいとは言われました。
台本をその場でくれて、1回絵を見て、はい本番です、と言うんです。
(本来は台本をさきに渡して、何回か練習をやって、大丈夫そうならそれでは本番と言う形だが)
最初は永井 一郎さん(波平)、近石真介さん(ますお) 大山のぶ代さん(かつお) 山本嘉子さん(わかめ) トップランクの声優さんだった。  私が一番キャリアとしてはなかった。
私だけが心配で、他の人は出来るんです。 厳しかった。今では私より上の人がいませんが、
なんでそんなことをするんですかといったら、集中力の問題だと言われた。
何度もやっていると、狎れになってきて皆がだらしなくなってくるので、と言う事だった。

大山さんが高橋和枝さんに替ったが、この二人がいて私は巧く行った感じです。
色々あったにしても私は自然に楽しくやって、帰っておいでと言われているので。
永井一朗さんが1月に亡くなった。
亡くなる3日前に録音を取っている。  何が何だか判らなかった。
「波平」さんと言う形でお送りますと言われて、子供たちは出なさいと言われて、はーと言ったきりだった。
ファンの方たちがずらーっと並んだ。 この番組は凄いんだなあと思いました。
長谷川町子先生の原作が良かったのもありますが、アニメも45年という歳月を皆さんの力があったから続けられたわけで、これだけの方が後押しをしてくださったという事で、亡くなって1週間ぐらいたってしばらく気落ちしました。

どんなに人が変わってもアニメのサザエさんは変わらないんだと、いうそれが一般の家族と同じなんだと、そうなってきたんだという気がしますね。
昭和で、変わってほしくない事がありますね。
一番大事なのはコミュニケートの問題だと思います。
鼻濁音に関しては、プロデューサーからいかんと、流行語はいかん、かつおとは対等に遊んではいいけれど、どんなことがあっても汚い言葉、人を傷つける言葉は全部カットするといわれた。
挨拶はキチンとする。 いってらしゃい。おかえりなさい。 
昭和の家族の愛の言葉ですね。 心の豊かさ。
私は昭和の物の無い時代なので、合っている。
65歳以上の方にとっては懐かしい思いがあると思う。

私はもともとは弱いが、気力で持ってきて、65歳を過ぎてからあちこち悪いところが出てきて、病院へ行くと病気ではないんですよ、老化ですよと言われる。
笑い声がいいという事は、発声法から行くと非常にいいボディーを使った声だと言います。
健康のバロメーターでもあるのかなと思います。
音域が物凄くあったが、低い声で何時間でも朗読できる、逆になってきた。
声優になりたいのならドンドンやっていけばいいと思う。 門戸は開かれている。
その時その時に必要なものを自分で得ていけば、努力していけば、しっかりとした社会的な地位はあると思うので。
一昨年、園遊会で、元気な声を陛下に声をかける。
普通は陛下から声をかけるが、判らないかと思って「サザエでございます」と声をかけた。

スタッフの方が、とっても丁寧に一つ一つの台本を作ってくれるので忠実に、監督から言われたことは直ぐ治せるようなもので有りたい。
出来ればこの声でずーと続けて行きたい。























































2014年4月7日月曜日

臼井二美男(義肢装具士)     ・血が通う義足を作りたい

臼井二美男(義肢装具士)  血が通う義足を作りたい
障害を持つ人の為に義足を作り続けている臼井さんは58歳、サポートしているのは、東京オリンピック、パラリンピックの招致の際、最終プレゼンテーションでスピーチをした佐藤真海さんを始め400人に及びます。
大学を中退したあと、フリーター生活を経て、28歳の時に当時の財団法人鉄道交済会東京身体障害者福祉センターに就職、義足の作り方をいちから学び、国家資格である義肢装具士を取得しました。
1989年からは、通常の義足に加えスポーツ義足の製作もはじめ、義足を装着してのスポーツも指導してきました。
どんな気持ちを込めて義足作りに当たっているのか、障害のある人たちに力を発揮してもらうためにどんなサポートをしているのかを聞きします。

佐藤真海さんとの出会いは11年前、ある日大学生の女性が訪ねてきた。
杖をついて足を引きずるような様子だった。
走りたいけれども私でも大丈夫でしょうかと言ってきた。
歩くのも上手ではなかったが、真剣な訴える目つきが違っていた。
普通にあるいても痛くない義足の製作から始まった。
私はトラックの運転手を始め、バーテン、ガードマンやったりいろんなアルバイトをやった。
自分に有った手に職を付けたいと、職業訓練校があって、そこに義肢科があって、小学校の6年生の時に担任の女性の先生が悪性の腫瘍になってしまって、膝からうえで足を切断して義足になったという事を思い出したんです。
そのことをふっと思って義足を作る仕事にチャレンジしてみようかと思って、学校の門を叩いたのが最初です。
実際に働いている製作現場を見学に行った。(鉄道交済会東京身体障害者福祉センター)
そうしたら一人欠員があり、入らないかとの話になり、やってみようという事になり、学校には行かないで今の職場に入ることになった。

本を読んでも判らない事が多くて、先輩から指示された事を一個一個やってゆく事の繰り返しだった。
人間、同じ人はいなくて、足の長さ、皮膚の硬さ、骨の長さ、表面の皮膚の状態、千差万別なので一人一人に合わせて作るのがなかなか難しい。
自分ではうまくできたと思ってはいて頂いたら、きつくてはけないとか叱られて、義足を床に投げられたこともあり、其時はショックだった。
一人一人の感性もあり、きちっとしたのがいい人もいれば、緩めの方が好む人もいる。
日本人は感覚が豊かなので、障害を持ったことでナイーブな方がいるので総合的に理解して一緒に作っていくみたいなことがないとなかなか受け入れてもらえない。

義足は全体重をうけ止めるところなので、ソケットに全体重がかかる。
走ると200kgぐらいかかるので、ソケットが適合していないと、必ずどこかに傷ができたりあざができたり、トラブルになってしまう。
スポーツをやる選手は筋肉がついてくるので、そういったことを想定しながらやらないと、長く使えない。(半年先を考えながら作らないといけない)
はいているのを忘れてしまうまで行けばいいが、そこまではそう簡単にはいかない。
出来ればその義足を使って、スポーツをするとか、行けなかった旅行に行くとか、新たな事ができる様な義足作りができればと思っている。
合わなくなると最初から、足の切断面を石膏で型を取り、修正をやって、仮のソケットを作る。
よかったらそれを仕上げて、本ソケットを作る。
担当している人が400人ぐらいいる、その人たちとずーっと付き合ってゆく。

30年間やっていると長い付き合いと成る。
人生の節目節目に立ち会うこともある。 結婚式に立ち会うとか、就職とか。
ハワイで水にはいりたいのだけれども、とか 温泉の大浴場に入りたいとか、要望があるとどうすればいいかとかいろいろ考える。
ネジが多いと故障の原因になるので出来るだけシンプルの方がいい。
今はカーボンファイバーでスキーの板の様になっている。
体重をかけると板がたわんで反発を利用して、跳んだり、走ったりする。
佐藤真海さんは膝からしたの切断なので、大きくは3つの構成部品、足を入れるところ、パイプみたいなもの、地面を踏みしめるところ、と成る
ひざより上の切断の場合は、人工の膝がついている。(丈夫に出来ている)
動きの加減を油圧、空圧で再現するという風に高度になってきている。

1989年からスポーツ義足の製作を始める。
就職して5年後に、アメリカの義肢の雑誌があり、パラリンピックで義足で走っている写真があり、自分の周りを見ると義足で跳んだり、走っている人がいなかった。
聞いても走ったっことがないという。
義足の機能が走ったりできないんだと、アメリカ製で丈夫な部品を研究費で買っていただいて、走れるかどうか、実験的なことをやって、病院では教えてくれなかった。
やってみるとぎこちないが1日目で走れてしまう。 その時に涙を流した。
諦めていた事に対する感動、泣いた姿をみて、継続してゆく価値があると思って今に至っている。
一般の義足は見るからに足の形をしていてふくらはぎがあり、柔らかい素材がついている。
スポーツ用は機能重視なので、板の様になっていたりする。
生活が出来て、スポーツが出来て、という様な事は出来ない。
後50年もすれば、万能の義足ができるようになるかもしれないが、今は万能ではない。
障害者のスポーツセンターがあり、月に1回集まって基本的な走りなどを一緒にやって、徐々に走るためのサポートを一緒にやる。
一緒にやることが励みになる、安心する。
2000年 シドニーで、鈴木徹君が日本で最初に義足でパラリンピックで走った。
ロンドンの時には義足の選手が7人参加、新しい人たちが出てきている。

佐藤真海さんは走り幅跳びの選手 アーチェリーに義足の選手がいたり、義足を使った選手のサポートという事で行かせてもらっている。
欧米は義足の歴史が古いので、海外の選手の義足を見てくることは非常に勉強になる。
日本選手にすこしでもいいところを取り入れていきたい。
日本に6万人義足を使ってる人がいるが、スポーツ義足を使っている人数%だと思う。
佐藤真海さん等が活躍する姿を見ると、スポーツをやっていない人でも励みになる。
パラリンピックとかが持っている、人をたくましくさせるきっかけ作りになるイベントだと思っている。
週に5回ぐらい会社を終わった後に練習をしている姿を見ると、涙が出てくる。

選手の育成、若い選手を育てる、最初からスポーツをやりたいという人は少なくて難しくて、
スポーツの効能は大きいので出来るだけ誘おうとしている。
職場の技術者、一緒に歩んで行ける様な人の育成、 その二つが必要です。
基本は、病院で悲しみのどん底にいて、その人たちを少しでも早く、気持ちだけでなく身体を含めて社会に戻してあげる、自信を付けさせる、笑顔に早くさせる、そういう基本的な活動を続けてゆく、その上に、スポーツがあったり、仕事があったりするので、それだけはまだまだ変わらない形で続けてゆきたい。
サポートするのが、天職みたいな感じになっているので、義足で溌剌としている人達を一人でも増やしたいと、そんな気持ちでまだまだいたい。



















































2014年4月6日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・ 特集・昭和史を味わう

保阪正康(ノンフィクション作家・評論家)     特集・昭和史を味わう
36回シリーズで3年かけて昭和の全時代を味わってゆく予定。
「何故今昭和史なのか」
昭和と言う時代にはいろいろなことがあり、色々なことに出会った人はどういう思いで生きてきたのか、それをきちんと調べて次の時代に伝えていきたいと思った。
昭和と言う時代は人類史の見本市である、兎に角人類が体験してきたことをほとんど全部詰まっている。
戦争、占領、テロ、クーデター、革命騒動、貧しさ、議会政治、飽食の時代、軍事指導から民主主義、いろんなものが詰まっている、謙虚に見直すことが必要、国民的遺産であると思う。

一つに日本人が変わったのが、明治維新でいきなり国際社会に出ていった。
二回目の変わり方は、明治以後の政治体制が壊れて、民主主義の形で国際社会に入ってゆく、ここで又日本人は変わったと思う。
元号で見るという事は、いろんな意味で民心の一新、として考える。
元号で見るのは主観的歴史、西暦で見るのは客観的歴史。
昭和天皇の存在、天皇の性格がある意味時代を作っているという事もあるし、時代が天皇の性格を作っているというか、相互の関係性がある様に思う。
元号で見ることに依って判ってくると思う。
昭和は3つの顔を持っていると思う。
昭和20年9月2日が境目、 ミズリー号上で降伏文書に調印 8月15日ポツダム宣言受諾
連合国に占領される。 6年8カ月続く 昭和27年4月28日に独立が回復する。
国家主権を失っている。  どこの国にも大使館、領事館をおけない。  昭和中期
昭和27年4月29日~昭和64年1月7日 昭和後期 と考えている。

昭和の歴史はほとんどラジオの歴史でもあり
ラジオの放送開始 大正14年3月22日(放送記念日)
日本放送協会が設立したのが大正15年8月20日
大正天皇崩御 大正15年12月25日 
戦中、戦意高揚などにも使われた。

ラジオ音声 3つ
昭和初期は昭和天皇の即位式典       昭和3年11月6日  実況中継
昭和中期は出陣学徒の壮行会         昭和18年10月21日 神宮外苑競技場
昭和後期は東京オリンピックの開会式    昭和39年10月10日  日本選手団入場

戦争の痛手から立ち直って、高度経済成長へと時代が突き進むことになる。
昭和天皇の実録が出される。
明治天皇の実録は昭和43年 明治100年のときにだされた。
大正天皇の実録は墨塗りにしてあるところがあり、資料として読みこなすには大変で十分に読みこなす事はされていない。
昭和天皇は20卷ぐらいと言われる(明治天皇の1.5倍と言われる)
在位期間が長いのと、資料がたくさんあるので、其資料がどういう風に使いこなしてゆくか、興味が持たれる。

昭和と言う時代は、人類史の見本市で、日本人の国民性は100年200年後にどのように感じたのか、きちんとしたデータを残してゆくのが大事だと思う。
一人一人がどうやって生きたのか、きちんと記録として残さなければいけないと思う。
時代の歌、
①東京行進曲(昭和初期 佐藤千夜子)  
②麦と兵隊(昭和中期  東海林太郎)  
③青い山脈(昭和後期  藤山一郎

昭和史は記憶を父とし、記録を母として、教訓と言う子供が生まれるのではないかと思う。
過去の教訓を生かして、学んで未来に託す。
































2014年4月5日土曜日

坂口勝春(アジア図書館事務局長)  ・ 市民が作るアジア図書館

坂口勝春(アジア図書館事務局長)     市民が作るアジア図書館
民間の図書館で坂口さんを含めて3人の人達のボランティアで運営しています。
蔵書は50万冊、そのうち5万冊を常にを展示し、貸し出しもしています。
アジアについて日本で出版された本はもちろん、アジア各国で出版さた本も数多く所蔵しています。
オープンしたのは32年前の昭和57年で、平成23年に一般財団法人になりました。
何故アジア図書館を作ったのか、どんな図書館を目指しているのか、お聞きしました。

70坪の2階建て 築30年以上になる。  手作りの本棚もある。
表題は「中国古代服飾研究」 中をあけると中国語で書いてある本。
図書資料は日本語、中国語、韓国語、タイ語、インドネシア語・・・・多数ある。
美術全集とか個人では手に入れられないものを社会的に図書館がやらなければならない
独自性と意義がある。
アジアユネスコ文化センターが各国に共通な絵本を出そうと出版活動を行い、非常に広がってきていて、アジア図書館の良さにして行きたい。
ジャンルは問わずに本が集まっている。
90%は図書館の蔵書として、10分ぐらいのところに書庫として蓄えている。
最初の頃は自分たちで出し合って買ってきたり、貰ったりしてきた。
段々年数がたってくると、本を出版したのであげますとか、父が亡くなったので、引き取ってほしいとか、学校が統合したので引き取ることになったり、図書館に収めたいとか、本が増えていった。

民族言語を勉強する場でもある。 
60歳で定年になって、勉強する人たちもいる。
ボランティアで予算が組めない。 ローテーションを組んでやっている。
ボランティアは平日は3~5人、20人は登録している。 イベントの場合は40人ぐらい集められる。
会社で15人ボランティアで3回目になり、韓国からも来て第4次の交流で高校生が10名、手伝いに来たりしている。
関係が良くなくても、民間交流、文化交流こそ、こうやって私たちの出番だと思っている。
40年ぐらい前に10年務めてきた会社を辞めて、リュックを担いでインドを回ったこともある。
物ではないという事、物に溢れて又次々に物を求めてゆくという事が本当に喜びになるのか、幸せになるのかと、ハッとさせられた。
文化、芸術も上から目線で見てきた日本の学校教育だとか、いいのかと思った。
民族の固有な伝統的なものがそこにあ有り、村の人が演奏して踊ってくれて、歌ってくれる。
文化、伝統芸能で狂言なども秋祭りには奉納して、300年受け継いだお祭りがあって20歳になれば舞台に上がるという事をしていた。
それと重なるんですね。

明治から140年間が欧米がテキスト、教えてもらう先生だった。
それに向かって日本は走ってきた。 アジアはごっそり抜けてゆく。
アジアの文化、芸術、思想、哲学、歴史、を大事にする、物ではない、道具ではない、そこにこそ私たちは一生懸命勉強してゆこうと図書館作りを始めた。
本はいつでも自分が好きな時に教えてもらえる。 そこに本の力がある。
勉強会をスタートさせて、日本を海の外から見て、アジアを鏡にしてゆくと、自分たちを見つめてゆくまなこが二つある。
日本の中だけで見ていたら、500年前1000年前を見るのも一つの鏡、海の外からも見てゆくという事、2つを持って勉強してきたのがアジア研究会だった。
ガレージを借りて、そこに本を集めて、一生懸命勉強会を重ねながら、本を貸出しようと拡大してきた。
拡大するうちにいろんな趣味の人がいますから、手伝う人が増えてきて、本も増えてくる、勉強の場も増えてきて、文化講座をしましょうとにぎやかになってきました。

32年前は図書館の卵が誕生して、貸してほしいという人が多くなって、駅の近くにもうひとつ民間のビルを借りて1部屋、2部屋と広げて、次に引っ越していって10万冊、20万冊と成って、3回目に引っ越して50万冊になった。
お金のことを気にしていたら、きりがないので、自分たちで智慧を出して、本を集めるための仕事には場所が必要で、趣旨に賛成してくれる会員を皆さんが支えてくれる。
全国から応援してくれる。 今は1200人が支えての会費を払ってくれる。
催しをして参加されて会費を払ってくれる方、いらなくなった本をリサイクルバザーとかで運営のたしにする。
市民が作って市民が運営して、市民が支える。
公立図書館がいっぱいあるが、私たちの場合は予算がなくても自分たちで本を集めて、運営資金を何とか集めて、読みたい本をそこに揃えてゆく、アジアを理解するための特徴を持った
図書館にしてゆく、言葉も学べ、人も集まってきて、文化も学べる。総合的にできる。
そしてアジアに特化する場所は行政ではなかなかできにくい。

多様な民族、多様な文化 それを理解してゆく為には、日本に来ている人がいるので、口コミで教えてあげましょうとか、いってきてくださる人がいる。
本を通じて、20カ国以上と付き合いたいが、現在5カ国、6カ国 と交流。
本をドンドン送っている。インドにも2万冊送った。 
日本語教室を作りたいとかプロジェクトの呼びかけもある。
海外からも呼び寄せて、催しをやったりしている。 7年連続してやったこともある。
本に触って見ようという風にしなければいけない。
その入り口はなんでもいい、写真集、音楽、料理教室、そういう事が入り口で、次には本を読んでみようと、間口を広げて、敷居を低くして、誰もが近寄れる場所にしたい。

本が集まって、人が集まって、次に資金を集める事に挑戦している。
全部合わせて皆が利用できるようにしたいが、そのためにはもっと多くの人に応援してもらいたいと思っている。
これからの50年 100年は否応なしにアジアの人と付き合っていかなくてはいけないので、アジア図書館を施設として、皆が勉強できる場を作りたいので、100万冊並べて、その為の資金を集めてゆきたい。
先につながる図書館にしてゆきたい。
先ずは廃校になった小学校に移していきたいと思っているので、宣伝している最中です。

自分の為に自分の人生はあると、いう風な考え方はでき上っていて当たり前かもしれないが、それだけでいいのかとの想いはある。
自分も支えられているし、今の社会に感謝しながら何か役になる事をやらなければいけない。
一人で生きている訳でもないし、助けられている、次にバトンを渡してゆかなくてはいけない。
飲む水は次の、次の世代、 アジア図書館と言う井戸はドンドン汲んでも汲んでも湧きががってくる井戸にしたい。
直ぐには目に見える効果はなくても、湧いてくるところまで作っておけば、社会教育としての井戸を一つでも二つでも作っていきたいと思っている。
アジアの足元を見ることに依って、気が付くはずなので、市民が市民に依る出来ることをやれば、意外や意外出来るじゃないかと言う事です。
バトンタッチするためにはあと10年、は一生懸命身体を動かしてアジア図書館のレールを敷いて、後にバトンタッチしてゆきたい。

付き合えば必ず友だちはできるので、草の根の文化交流で友だちが沢山出来れば、100万人、200万人友だちを作れば、戦争などはやろうという事がなくなる。
皆が智慧を出しあい、持ち寄って、本が集まってきて、それが社会の文化のインフラだと思っている。
































2014年4月4日金曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発(1)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   自分にもできることからの出発(1)
石川県輪島市の生まれ 69歳 中学校を卒業後、タンスなど和家具を作る仕事に就きましたが、思うところあって、20歳のころに漆工芸の道に進路を変え、輪島塗の師匠の弟子と成りました。
地元に設立された漆芸技術研修所で、人間国宝松田権六さんを始め、優れた指導者の教えを受け漆工芸の作家を志す様になりました。
しかし作家への道は厳しく登竜門とされる公募展に6回連続して落選し、鳴かず飛ばずの苦しい生活が続きました。
そうした苦境を小森さんは独自の道を切り開く作品で乗り越え、漆の道に進んで、およそ40年後の
2006年漆塗り技の重要無形文化財保持者に認定され、人間国宝と成りました。


輪島市 能登半島の中ほどのところ  輪島塗として有名。
漆芸作家として漆器作りをしている。 
塗師 漆器のボディーがあってその上に布着せをして、下地を付けて、中塗りを付けて、上塗りをする、色々な過程を経て、最後の上塗りをするまでの工程を行う。
ほぼ30畳の工房、20年前にここに引っ越してきた。
下地を付けるとき、上塗りをするのにいい時期があるので、時期的なタイミングを合わせながら行う。
工房展にだす、中塗り、上塗りを現在はやっている。
日本伝統工芸展 それが一番大事な展覧会です。 
7月の終わりに展覧会の締め切りがあり、8月の前半に監査、審査があり、9月の20日前後に東京の百貨店で開催される。
自分の作品を見たり周りの人の作品をみて、帰ってくるときに、来年1年間の製作のスケジュールを自分の中で組み立てる。
日本伝統工芸展の審査委員も行っているが、毎年では無い。(審査委員、監査委員を担当)

気温が24度、湿度は65~70%ぐらいが、漆を塗るにはベストな状態です。
漆は湿度が低いと乾かなくて、湿度が高いと乾く。
漆を取ることを「かく」と言うが、かかれた時期、かいた木の性質によって乾きは微妙に違う。
一桶に集めるので、桶一個一個に依って、その乾き、艶、が微妙に違ってくる。
湿度が高すぎると乾きが早く乾きすぎてしまって、それはまた困る。
中が乾かないと「うむ」というがそれは又よくない。
時期、時期に合わせながら仕事をするのが大事。
10年ほど前に能登空港が出来て、東京に来るには凄く便利になった。
羽田~能登空港まで1時間 家から2時間で都内に行けるようになった。

挨拶状(一昨年の個展)
「20歳の頃、私にもできると思い、漆の道に入りました、30歳40歳私だから出来ると思い頑張り、50歳、私にしかできないという事を意識し、又目指してきました。
60歳、いまの私にしかできない仕事を、そして今の私の精一杯の仕事でございます。」
仕事の歩みと人生が凝縮されてもの。
中学校を卒業して大工になりたいと思っていたが、身体は小さくて、大工は諦めて家具屋さんに務めた。
身体は小さくて、長い板を削ったり、タンスを担いだりするのがきつくて、家具屋での仕事に一人前になったころから、体力的に長く続けられないと思い、自分で出来る仕事は無いかと探したら、漆の「沈金」という仕事なら出来るのではないかと、夜だけ1年間通ったのがきっかけでした。
「沈金」 仕上がった輪島塗の器物の上に「ちんきんとう」と言うのみで彫って、そこの上に漆を引いて、漆をあらかたふき取って、そこに金箔なり、金粉、顔料などをいてれ、余分な金粉なりを取ってしまう、彫ったところに金を沈めるという事です。

夜だけ樽見幸作という師匠のところにいくが、昼間も来て弟子にならないかと言われて、家具屋をやめて、3年間の修行奉公、1年間のお礼奉公をすることになる。
最初は商品には触らしてもらえなくて、まず朝から晩まで点を掘れるようにするのが第一の修行、お客さんへの対応も行う。(人にかわいがってもらう事は一番大事だと言われた)
さらに腕を磨く為、地元に新設された漆芸研修所に入る。
そこで松田権六先生との出会いがあった。  
輪島塗だけが塗りものではないよと言う事を色々な形で教えてくれた。
漆器と言う塗るものは器地があって、器地がいい形でいい骨格があって、その上に下地という漆を塗ることをやる、いい着物を着せる、最後に沈金なり、蒔絵でお化粧をする、それが漆器と言う塗りものだよと、教えてもらった。
お化粧だけではなく、大事なのは骨格、着物もちゃんと着ることだと教えてもらった。
器地のデザインをよく知って漆を塗る、それが輪島塗には欠けている世界ではないかと、40何年前に言っていた。

見方が変わってきて、分業化されていたが、自分のサインの入れられる物を作りたかった。
工芸展に6回連続して出品したが、入選しなかった。
7回目に落選したら、漆の仕事ができれば好いなと覚悟して出品したら、7回目で入選出来た。
当時、結婚して子供ができたりして、生活を支えるという意味では厳しかった。
彼女は研修所の後輩で、先に彼女が入選したが、私が2,3回入選したころから、彼女は漆の仕事からはスパッと止めて、専業主婦になった。  本当に貧乏だった。
昭和52年、32歳の時に日本伝統工芸展に初入選、その後10年にNHK会長賞を受賞 「曲輪造籃胎喰籠」曲輪造 という技法は「あての木」の原木を薄い2mm、3mmの厚みに製材した材木で、直径を計算して、両脇を三角に削って、三角をうまく合わせることに依って、同じ厚みの曲げた板ができる。
それを3重なり、4重なりに組みあわせて、器地を作る技法 赤地友哉先生に習う。
籃胎(らんたい) 竹を編んだボディー(太田儔先生に教えてもらう。) 
その二つを融合させ器地を作った。 
喰籠(じきろう) 器物の形 昔は食べ物をいれたが、今はお茶道具のお菓子を入れる器として使われている。

色が大変素晴らしい 溜め塗りと言う技法 朱の漆を塗って、最後にすき漆という 透明度の高い漆を塗る。  
竹を編んだ網目の引っ込んだところに漆が余分に溜まる、そうすると網目に陰影が出てくる。
側面の曲げ輪の部分には朱の溜めから、うるみ色の溜めにグラディションに作って、その上にすき漆をかけると言うやり方をしている。
41歳の時にNHK会長賞を受賞。
自分のやりたいことが見えてきた時。 両方融合してやるのは当時私しかいなかった。
竹は伸び縮みが少ない材料で、狂わない。 
網目が表に出ない様に濃い漆で塗るが、受賞作品の場合は網目を塗りこめなかった、網目をデザインとして生かした。

私自身輪島の中にしかいなくて、一体世の中、どのような漆器が流通しているのか、昭和50年代、百貨店で漆器を売る時代になってきていて、百貨店では一体どういうものが並んでいて、どういうものが売れるのか、みたいと思った。
東京、名古屋、大阪、京都、神戸の百貨店を全部見て回った。
漆器は使ってもらって なんぼかと思っているので、毎日毎日使っていただける汁椀などは漆の大事な世界だと思っているので、そういうのを改めて確かめたかった。
作家という事よりも、塗師と言う生きざまも大事だと思っているので、手の中に入れて慈しんでもらえるもの、毎日毎日使ってもらうものはもっと大切だと思います。

目標は無かったという事ではないが、とりあえず自分のやりたいことが次々に見えてくる。
自分の今できることをやりながら、もう少し先の自分を見る目を持つ事が当時の私には大事でした。
一番になりたいとの考えはなかった。
自分のやりたいことだけをやってきた事が良かったと思う。 後悔はなかった。
自分を裏切らなかったという事でしょうか。
















2014年4月3日木曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発は津波情報の為中止

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   自分にもできることからの出発(1)は津波情報の為に中止になりました。

2014年4月2日水曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)  ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)

おおつきちひろ(スペイン料理店オーナー&シェフ)”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)
スペインの人にとっての食への見方、先ず食べるぞ、しゃべるぞと思いきるしゃべる。
どんなに高級なレストランでも、大きな声でしゃべっている。
人生、食が有って、生きているぞ、と言う事ですね。
食べる量は昔から、たっぷり食べる。  5回食べている。
日本でのおやつに当たるところが軽食ぐらいになる。
①朝8時、②11時、次が③2時~4時(一番重い食事)、④6時ごろ、7時頃(同僚とビールと食事)、⑤10時~11時に家で夜のご飯
仕事よりも家族で一緒に美味しいものを食べる事が人生、一生の楽しみである。
週末、1週間必要なものを買い込む。  大きなカートに山盛りになるぐらい買い込む。
牛乳だったら1ダース、だいたいkg単位で購入する。

3回目の旅以降、ホームステーする。 
家族、生きる事とは何、と言う事に興味を持っていたが、スペインに行ったら、この人たちは時間と言うものをゆったりと十分に味わいつくす様に、なんて人間らしいんだろうと思った。
原点になる食はどんな風な作り方をして、作る時間を楽しんでいる彼等を見たいから、レストランの料理では見えないものがあるから、素朴で優しく、温かい料理を勉強したいと思った。
生活の一部始終を見せてもらうと、やりたいなと思った。
バスクに行く。、2回目の時に旅先で知り合った人(鉄鋼業の営業の人、美食家)の家に来てもいいと、言ってくれた。
旬なものを如何に簡単に美味しく食べるか、と言う料理がある。
バスクは環境が日本に似ている処。 海にも近い。
家に依ってそれなりの味を持っている。(家ごとに味を伝える)

バスクに400ぐらい、美食クラブがある。  作るのも、食べるのも好きな人たち。
食を通じて、街の人たちの結束も出来るし、いろんな料理をお互いに持ち寄って、残してゆく、淘汰してゆく、発展してゆくすばらしい文化だと思う。
おいしい料理を食べさせてもらって、歴史も教わった。
スペイン料理は地方性がある。  言葉も違うし、料理も違う。
パエリア バレンシアの小さな村から発生した料理。(米地帯)
湿地帯なので米を作る。 他のものはあまりとれない。 工夫して薄くすれば、出来てしまう。
サマセット・モーム 作家がいるが、パエリア  カタツムリとインゲン豆と鳥肉とがのった物が本来のものだが、観光用魚介の一杯乗ったものがあると、サマセット・モームが世界的に話したり、書いたので一躍有名になったが、実は貧乏料理だった。
今ではどこでも食べられるようになった。
お手伝いさんは木曜日が休みになるので、その日にパエリアであればだれでも食べれるので、木曜日はパエリアの日になっている。  

まな板は小さいものしかない。 ニンニクなどを手に持ってみじん切りにする。  調理鋏。
無駄にしない、拘りながら細かくやったり、時間をかけたり、手をかけないところはラフに行う。
レシピ通りではなく、自分らしく作る料理を非常に感じる。
相手に食べさせたい料理とは、をいつも考えている。(誰に何を作ってあげるか?)
如何に美味しく食べようか、主婦の知恵、自分なりの工夫をすることが最も料理をすることで大切なことか、そういうところに私は引かれてゆく。  素材を大切にする。
マドリードの料理学校にも通う。  
どこの料理学校で習ったのかと言われたりして、権威主義みたいなものがあり、比較の意味でも通う事になる。(料理学校、レストラン)
料理教室もコックさんを目指す人たち、家庭の主婦向け、の両方に通う。
20年前に店を開く事になる。 料理教室をやっていたりしていたが、教えていた人たちが自分で作った料理がどうだったのか判らなくなてしまった、と言う方たちにアンテナショップになるという事もあったが、日本の人たちはすごく忙しいので、作れる人たちばかりではないので、スペインのお母さんたちがやっている家庭の様な場所を作りたいというのも有った。

スペイン料理、家庭料理はこんなにおいしいものなんだと、レストランを作ることにした。
レストラン料理は見た目も美しくインパクトがあり、料理の味も最初にどかんと美味しいと、来るようなものなのですが、私がスペインのお母さんたちから教わった料理はあつくて、温かくて、優しくて、明日の元気につながる料理だったんです。
それが私のコンセプトなので、基本にあるのは家庭料理の温かさ、明日の元気に繋がる料理です。
スペイン料理の魅力、食とは何なんだと、いう事をもう一度考えてほしいと思ったので、スペインの人たちの生き方などを背景に本を執筆した。
テーマ、例えば、ニンニクはスペインでは私が考えていた以上の手法がありその魅力が、他の国でもあるのではと思い、調べてみたら新たに魅せられて、もっと日本食にも使えるのではないかと、テーマに取り上げてやるようになった。
からさ、これにも魅力に取りつかれた。
スペイン料理は ニンイク、オリーブオイルを使ったもの。  
オリーブオイルなくしてスペイン料理は語れないので、オリーブオイルのソムリエになった。

醤油とオリーブオイルは相性がいい。  みそ汁の中に入れても相性がいい。
酢のものにオリーブオイルはかけなかったが、そこに一滴かけると、美味しいものができ上る。
日本の家庭の中にある和食に、オリーブオイルをうまく組み合わせて行った時に、新たな広がりが出てくるという事を、皆さんに紹介したいと思っている。
スペインの人達は自分に与えられた環境の中で、100%以上に生きているという感じがする。
時間と言うものも、急がずにゆっくりと体験したり、食べるだけでなく作るとか、素材を選ぶという事から楽しみながら一日を過ごしている。
そういう事を素朴な中で感じている。
今日と言う日をゆっくりと体験する事が、なくなってきていると思うので、自分の時間と言うものを、身をゆだねると言う事を教えてもらったし、彼等は自分と言うものを慈しんでいる。
私たちは、自分をけずっている様な気がして、膨らましていない。
スペイン人から教わったものは、自分と言うものを100%以上に生きることだったと思う。



























  

2014年4月1日火曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)  ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)

おおつきちひろ(スペイン料理店オーナー&シェフ) ”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)
東京、渋谷でスペイン料理店を経営する。 30年前子供と一緒に海外を旅したいと、スペインを訪れ、スペインの素朴で素材を活かした家庭料理のおいしさに魅せられました。
その後、マドリードなどの料理学校や、各地方の料理名人たちから直接学び、レパートリーを増やし、スペインを訪れた回数は130回と言います。
その腕を活かして20年ほど前にスペイン料理店を開きました。
スペイン料理のレシピや留学中のエピソードをまとめた本を数冊執筆してきました。
スペインの魅力を語っていただきます。

契約しているお弁当の注文があると起きるのは午前5時です。 9時ぐらいまで作業する。
原稿を書いたり、支払い、メールの処理、駅で販売始めたクロワッサンを焼きながらやっている。
午後は雑誌の撮影、TVの撮影、とか食材の仕入れ、、業者との打ち合わせ、出張講師、など日に依ってやっている。
夜の11時半ぐらいまでやっている。  
小さい頃は、楽天的、おてんばで自分の考えを全て行動に移すような性格だった。
女は勉強よりも、家庭的なことをやりなさいという様な状況だった。
結婚に因って解放された。  
何でも自分の思ったことは追求してもいいんだよと言うような人だった。
自由にしてやりたいことをする、それが生きていることだよ、と言う様な人だったので、全ての事から解放された。
出産の時に、胎児の状態が横になってしまっていて、最後は吸引分娩したが、駄目で、引っ張り出す様にしてだして、子供の方も泣かないような状態で、2日後に自分のところに来た。 8日間入院した。
家に帰ったが、もう一度病院に戻ってしまって、生死がどうかという様な状況だった。

子供が生まれた頃から、自分が世界から離れていってしまうという恐怖感があって、お母さん編集者募集の記事があり、電話をかけて会いに行った。
夫の同僚が結婚する事になり、島根に家族で初めての飛行機で行って、夫はすぐにとんぼかえりだったが、私は子供と二人で、すこしずつ東京に帰ろうと、旅をすることになる。
外に行くという事は、色々なものが見えてくると思った時でした。
5歳でも父親の代わりに支えになる様にすることもある。
その後の海外旅行をすることの原点だったと思う。
小学校の3年の時に、海外に行こうという事になる。(1970年代後半)
自分を試してみたいと思ったのと、子供の計画で旅行をしたことがあるので、海外に行きたいとの思いはあった。
行き先について友達に相談したら、あなたを見ているとスペイン的だと言われて、歴史、建物、食べ物、あなたの好奇心を満足させる物が全部あると言ってくれた。
スペインとの縁みたいなものの様に感じた。

スペインに向かおうかと思った。
スペイン語を習い始めたり、知り合いの兄が脱サラして暫くスペインに住むという事で、家を訪ねてきてくれた。
行く寸前になって止めようという事になり、(3人目の子供が出来たことが解り)、でも外国でも問題なく産めると後押しをして、その人はスペインに行ったが、やり取りをしている中で、手伝いに来てほしいとの要望があり、出産予定日が10月(2学期の真ん中)と言う事で、躊躇したが、子供が腕を骨折してしまって、夫が腕だったんだからスペインに行ったらと言われた。
子供の先生も同意してくれて、出掛ける事になる。
思ったよりも出産が早くて、自分たちの時間が3週間多く取ることができた。
アルハンブラ宮殿に行きたくて、グラナダに行った。(親子二人旅と成る)
息子は白ゴリラがみたいという事でバルセロナに行くこととになる。

二人の旅になった時に全てスペイン語、しかも私は緊張した顔をしているので、言葉もあまり通じないという事もあり、息子はパニック状態になる。
外に出たがらなかったり、食べものもあまり食べない。
息子を引っ張る様にして、いろいろなものを見て歩いた。
スペインは、実家に戻るような気持ちがあり、成田についた時、日本に戻ることが嫌な思いがした。
直ぐにスペインに行きたくなる。
又直ぐ行きたいと行ったら、姑からは烈火のごとく怒られた。
自分でためたお金とは言え、もう二度と行くんじゃありませんと言われた。
語学学校に夫に勧められて、夫に入会手続きもしてもらって、学生時代よりも真面目に勉強した。
しかし、落第したが、留学していた方とかがいろんな体験を話してくれて、とても楽しかった。
二度目の親子旅 小学校6年生の夏休みを利用して、駐在員の方からのお世話になり、一週間ほどいて、その後子供とセビリアで二人で暮らす事にしようという事になり、出掛けてゆく。

マンスリーホテルの様なところだった。
買い物も非常に珍しくて、作り方を見たりして、フラメンコの友人を紹介されていて、その人たちとプールに行ったり、家に招待されたりして、スペイン人の生活がどんどん見えてきた。
生ハムのスープ、細いスパゲティーみたいなものに凄く日本の味の様に、素朴で深みのある味だった。(味噌とか醤油などは一切使っていなかったが)
その料理法を教わった。 骨をことこと煮るだけ、ちょっとオリーブ油を加えるだけ、そこから出てくる味は非常にスペイン料理に興味を持った。
小学校のお母さんたちがスペイン料理を教えてほしいとの事で、料理を教えることから始まった。
1か月に一度ぐらいの割合で始まったが、教えてほしいとの要望があり、区の料理室が増えてきた時代で、それを借りに行こうという事で申し込みに行った。
区報にのってから、是非にとあちこちから話があって、一週間が全部予定が入ってしまう様な事になる。
1980年代の事 海外に料理の目が向いてゆく時代でもあった。

仕事を持つ事は、大反対を受ける義母たちへの名目が立つという事もあるし、どうせ学ぶのなら深く広くきちんと自分の中に手を入れたいと思って、是非仕事にしたいと思った。