2023年10月31日火曜日

片岡鶴太郎(俳優・画家)         ・〔わが心の人〕 棟方志功

片岡鶴太郎(俳優・画家)         ・〔わが心の人〕  棟方志功 

棟方志功は1903年明治36年)青森市生まれ。 版画に新風を吹き込み、独自の表現を深め世界の棟方と言われました。  1975年(昭和50年)9月に亡くなりました。(72歳) 今年は生誕120年に当たり、今、東京国立近代美術館では大規模な企画展が開かれています。

体重は42,3kgぐらいです。 毎日ヨガをやっています。  5時間ぐらいかけています。  基本的には夜11時に起きてヨガが始まって朝5時ぐらいまでやって、そこからゆっくり朝食をとるのを12年やっています。 食事は1食です。 果物、野菜が中心です。 体重はずっと変わっていないです。  やっていて気持ちがいいです。 

最近の映画では「春に散る」、ボクサーがテーマの映画です。 ボクサーの現役をリタイアして、或る青年と出会って光るものがあり、佐藤浩市さんと二人で世界チャンピオンにしようかという事で、魂をもう一度蘇らせて、世界を目指すという話です。 若きボクサーは横浜流星さんが演じました。 横浜流星さんはトレーニングに打ち込んで、最終的には現実にプロライセンスを取りました。  原作は沢木耕太郎さんです。 今回で4回ボクシングに関わる作品の役をやりました。  

ドラマで棟方志功を演じたことがあります。(1989年)  渥美清さんが棟方志功を演じたことがあり、それを観て(小学4年生)強烈な印象を受けましした。  こんな仕事をやりたいと思いました。  プロデューサーの澤田隆治さんに棟方志功の役を指名してもらいました。  棟方志功のNHKのドキュメンタリーが残っていて、独特のそのキャラクターを役者としてどう演ずるか、考えました。  津軽弁の指導のかたも横についてもらって指導していただきました。  そのドラマを渥美清さんが観ていたことが後で判ったんです。  渥美さんは実際に棟方志功と会って話をして、その時の様子を話してくれました。

絵を描くようになってから、改めて棟方志功の作品を見るようになります。 38歳から絵を描き始めました。  ドラマのロケで朝5時に玄関を出た時に、振り向いたら赤い花が咲いていました。 その赤い花に魅せられてしまいました。  観ていようが誰も観ていまいが、自分もこのように凛と咲いていたいなと思いました。  後でそれが椿の花だという事を知りました。  この感動を伝えるのは絵だなと思いました。  直ぐに墨と硯を買って密かに始めました。   花は立体的で難しいので、魚から描き始めました。 独学で毎日毎日やって行きました。  個展をやるようになっていきました。(39歳)  個展をやるために1年間で125点描きました。 それから60歳まで毎年やりました。  肉眼で見る色と違って感じる色が出てきました。  「感じた色をもっと表現していってください。」と言われました。  そこから自分の色が出てきました。  

自分で絵を描く様になってから、棟方志功の作品を観ると凄いなと思いました。 まずオリジナリティー、青森の民族的なもの、大和絵、が根底にあって、そこから独特な棟方志功の色合いがあり、海外だったら相当なインパクトがあったと思います。  アニミズム(霊てきなもの)とプリミティブ(原始的なさま)、縄文の時代の感じでしょうか。  むき出しの人間性(喜怒哀楽)の方という感じです。 野人的な面と同時にもの凄い繊細な心の中の網を持っている人だと思います。  

生誕120年という事で、富山から始まり今東京で開催。  僕の絵は身近なものがモチーフになって居るのでわかりやすい絵だと思います。  絵と一体になっている言葉、棟方志功も作品の中に詩を詠んでいたりします。  私も少なからず棟方志功の影響を受けてきたと思います。  今多く描いているのが、金魚、小鳥が多いです。  自分なりにアレンジして描いています。  「老いては「好き」にしたがえ」という本を出版しました。    好きなことをやることが一番大事じゃないかと思います。  リタイアしてから趣味を見つける事はなかなか難しいと思います。  若いうちから好きなものを持っておいて、忙しいとか言い訳を付けずにやってみる。  来年は70歳になります。 90歳になった時にどんな絵、書を書いているのか楽しみです。  90歳になった時にもしゃれた格好をしていたいです。
























 


















2023年10月30日月曜日

小柳 淳(作家・書店主)        ・旅する作家の本屋さん

小柳 淳(作家・書店主)        ・旅する作家の本屋さん 

東京吉祥寺に今年6月に一風変わったちいさな書店がオープンしました。 店主は元鉄道会社勤務ので旅行作家の小柳 淳さん(65歳)、海外へは31か国113回旅をしたという大の旅行好きの小柳さん、お気に入りだった旅の本をそろえた小さな書店が閉店してしまたったのにショックを受け、退職を機に自ら旅の本を取りそろえた書店を開店してしまいました。  読書週間に町の小さな旅する本屋さんの魅力と小柳さん流、旅の流儀を伺いました。

5か月ぐらい経ってやっとなれてきました。  旅行そのものは子供のころから好きでした。 中学2年生の時に上野から夜行列車に乗って福島県の会津に行きました。(蒸気機関車ブーム)  形は変わっても旅行は好きでした。  大学を卒業して就職したのが鉄道会社でした。  観光の宣伝、営業部にいたり、インバウンドをやろうというのを今から20数年前に考えついて、国土交通大臣よりYŌKOSO! JAPAN 大使に任命されました。    去年退職をしました。 10何年前に青山に旅の本屋がありましたが、閉店になってしまいがっかりしました。 

それでは自分でやればいいじゃないかとふっと思いつきました。  3年前に「棚貸し本屋さん」に出会って、そこに一箱スペースを出しました。 そこで本屋さんの仕入れからいろいろ勉強もしました。  会社を辞めて今年の2月ごろ突然吉祥寺でいい物件に出会い、決まってしまいました。  お客さんが「ここ面白いね」おっしゃってくれます。 開店時間が12時34分(1234と数字が並ぶ)になっています。  閉店が18時になっています。  月、火は休みです。  広さは15坪ぐらいです。  関西国際空港旅客ターミナルビル、小田急ロマンスカーの車体などを設計した岡部憲明さんに店舗のデザインをお願いしました。  光の当て方とかきめ細かく設計していただきました。  

奥は4坪ぐらいのギャラリーがあります。(写真、絵など展示会とか)  1400冊前後あります。  地理、地図、風景、自然、歴史、宗教、食べ物、海、山、交通、言語などがあります。  売れ行き2位が高校で使っている地図帳。  本の並べかたも工夫して地域別、テーマ別とかしています。   長岡の大空襲の鎮魂の花火「白菊」、花火師の話の本もいいです。  ポルトガルの本もいいです。 旅の小物もあります。(4色ボールペン、スケッチブックとか)  海外へは31か国113回旅をしていますが、香港には79回行っているので香港コーナーがあります。  乗り物を使って旅をする関係の私の著作が多くあります。  話をする中で旅のアドバイスなどもしています。

売れ行きNO1は開店して半年と言う影響もあるかもしれませんが、私の書いた「旅の言葉を読む」という旅のエッセー本です。  この本の中には本のことが一杯入っています。 「旅先への興味と敬意」、興味の深堀り(言葉、歴史など)、何も知らないと失礼なことを言ってしまう事もあるので敬意が必要です。 だから本を読んでから行きたいと思っています。 旅は行く前、旅行中、帰ってからの楽しみに加えて、旅の本を読むことが楽しみになると思います。  


















 




















2023年10月29日日曜日

矢野雄太(ピアニスト、指揮者)     ・〔夜明けのオペラ〕 人に寄り添い、音を創る

矢野雄太(ピアニスト、指揮者)     ・〔夜明けのオペラ〕 人に寄り添い、音を創る 

矢野さんは埼玉県出身、6歳からピアノをはじめ、東京芸術大学音楽学部ピアノ科卒業、同大学院修了後イタリアのミラノ市立音楽院指揮科を経て、ミラノスカラ座研修所を終了しました。 スカラ座では「リゴレット」、「ジャンニ・スキッキ」などオペラのアシスタントを務めました。 又イタリアのMDIアンサンブルやミラノクラシカ室内管弦楽団を指揮、ピアニストコレペティトゥアの研鑽を積んできました。 2021年に帰国し、今年琵琶湖の春音楽祭に出演、ミス?オペラメディアの副指揮や8月にはオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の指揮を務めました。 この4月からは母校の東京芸術大学オペラ科で後進の指導にもあたっています。 

学校は10月から後期が始まって、担当しているクラスは来週から始まります。 今31歳です。 24,5歳までは芸大で勉強していました。 芸大ではピアノを専門に勉強していました。  今は声楽科の皆さんと授業をやっています。  母校で自分がオペラを教えていることにまず驚いています。  母が町のピアノの先生でした。  6歳で僕がピアノをやりたいと言ったらしいです。  何回も辞めたいという思いはありました。  高校は東京芸術大学の付属高校に入りました。  中学に入る時に芸高を目指しました。 1学年1クラスで40名で全楽器でした。  刺激されてもっと勉強しないといけないと思いました。  8歳からピアノコンクールには出ていました。  大学でもヨーロッパのコンクールには薦められて出ました。(国際コンクール)  大学院までは日本にいました。

イタリアのミラノ市立音楽院指揮科にいきました。  先生からのアドバイスもあって指揮科に行くことにしました。  その後ミラノスカラ座研修所にいきました。 イタリアと言えばオペラなので、先生からオペラを勉強するように言われました。  試験科目には歌もありましたが歌はやったことがありませんでした。  歌は懸命に勉強しました。 オペラも観た事はありませんでした。 「ラ・ヴォエーム」の課題もありましたが、「ラ・ヴォエーム」も観た事がありませんでした。  8名が受かりました。(日本人は1人) 

入ってすぐに「ジャンニ・スキッキ」をやりましたので、思い出深いです。  演出はウッディ・アレン(映画監督)でした。  オペラは総合芸術なので僕に取っては全てが新鮮でした。  

*「ジャンニ・スキッキ」から「私のお父さん」 ジャンニ・スキッキ』の中でも最も広く知られた曲。 

ミラノスカラ座研修所にいた時には毎週のように違うオペラを読んで行くという感じで、ついてゆくのに必死で勉強しました。  オペラ指揮の授業もありました。 ひたすら詰め込んでいました。 「リゴレット」をやった時にリゴレット役をレオ・ヌッチさん(現代のイタリア・オペラ界を代表する歌手)が歌っていました。 

*「リゴレット」から 歌:レオ・ヌッチ

イタリアには5年間居ました。 2021年帰国。 コロナ禍でどうやって仕事をしていったらいいか、途方に暮れる毎日でした。  オペラに携わる仕事がしたいと思いました。 自分から連絡を取って積極的に動きました。  オペラって素晴らしと実感したので、オペラを仕事にできて幸せだと思います。 オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の指揮をして、総合芸術として一つ終わると達成感を感じます。

*「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲

















 




























2023年10月28日土曜日

垣根涼介(直木賞作家)         ・(インタビュー)

垣根涼介(直木賞作家)         ・ (インタビュー)

受賞作「極楽征夷大将軍」では室町幕府を樹立し、征夷大将軍となった足利尊氏の生涯を、無欲の人物という独自の解釈で描いています。 新たな足利尊氏像からみえる、今という視点から話を聞きました。 

23年ぐらい前にデビューしまして、それから13年ぐらいは現代小説を書いていました。  いくつか文学賞の候補になり、幸い受賞することができました。 10年ぐらい前から歴史小説を書き始めまして、5回ぐらい候補になりましたが、受賞には至りませんでした。    今回たまたま3度目の直木賞候補で受賞する事ができました。  

諫早を出て40年近くになります。  国内、海外にもいろいろ旅行しましたが、住んでみるとどこがいいかというと諫早は相当上のランクに来ます。 優しい感じの美しさで過ごしやすいところは実は世界的にもなくて、海、山があり温暖でご飯も美味しい、不自由なく生きていられるというのでは、諫早はかなり上位に入って来ます。

1966年(昭和41年)生まれの57歳、長崎県立諫早高等学校筑波大学第二学群人間学類卒業、2000年『午前三時のルースター』でデビュー。  2004年には日本人移民たちを描いた 『ワイルド・ソウル』で第25回吉川英治文学新人賞受賞などを受賞、今回直木賞を受賞。  本を読むのは子供のころから好きでした。 28歳で結婚をして、ローンを組んでマンションを購入しました。  世の中が不景気になり、経済状態も悪化して、バイトもできないので、小説でも書いてみようという事がきっかけになりました。 『午前三時のルースター』というデビュー作となりました。  社会人1,2年目は広告の製作をやっていて、そのために文章を書くことがあり、修行として本を浴びるように読みました。1日1冊と決めて2年間で700冊ぐらい読みました。 小中高とよく本は読んでいました。 大学時代は旅行に出かけていました。  

受賞作「極楽征夷大将軍」は鎌倉幕府を倒して室町幕府を成立させ征夷大将軍となった足利尊氏の生涯を、やる気も執着も使命感もない無欲の人物と独自の解釈で描いた歴史小説。 周囲から極楽殿とからかわれていた尊氏の不思議な求心力や意図せずに上り詰めた背景を、影の立役者である弟の足利直義と家臣の高 師直こう の もろなお)の視点と史実に基ずく丁寧な筆質で書き上げた大作です。  私は50歳を超えたあたりからは毎日を機嫌よく過ごしたいと思っている人です。  子供のころから何の努力もせずに気分が全てで生きてきた歴史上に人物がいるんです。 それが足利尊氏という人物です。 勉強もできない、武芸もできない、ないない尽くしの人でした。  でも後醍醐天皇、新田義貞、楠木正成を破ってゆくわけです。 それはなんでと思った処から始まりました。 

結局足利尊氏は基本的には何も考えていない人です。 なんだか周りが決めてくれたことがうまくいく、というような人ですね。  ぼんくらだが、彼は物凄く人が良くて、人の悪口をいったり人の好き嫌いがないんです。 弟の足利直義と家臣の高 師直こう の もろなお)は資料で調べている限りでは相当優秀です。 この二人が鎌倉幕府を倒して、尊氏は御輿の上に乗っかっていただけの人です。  でも不思議なのは尊氏の存在が薄くなってくると足利家が纏まらなくなるということもあり、独特の魅力のあった人なんでしょうね。  我がないんですね、本当になにも考えてない。 人の上に担ぎやすいんでしょうね。

征夷大将軍になった人はみんなある家の正室の嫡男なんですね。 でも尊氏は側室の嫡男なんです。 本来足利家を継ぐ立場ではなかった。 親から期待されて育ってはいない、教育を受けて育っていない。 人の好さを売り物にするしかなかったのではないか。 足利直義と家臣の高 師直こう の もろなお)も戦は下手で負けてしまうが、尊氏が加わると何故かうまくいってしまう。 戦は理屈通りにはいかない。 感覚的に次の手、次の手を打って行かなくてはいけない。 そういうのには尊氏は向いていた。  

社会は皆が頑張って努力すれば一定の方向に報われる的なことがあったと思うが、停滞したという事はこの30年間感じ続けています。 織田信長のような強力なリーダーシップではなくて、尊氏の様になんにでも変化できる人なのではないかと思いを掛けて書いたのが、そういう事です。 現在の我々は大それた野望は持っていないと思います。 今の時代に生きているみんなって、それぞれ迷いながら虚しさとかを感じながら生きていると思います。   700年前にもそういった人が一人居たというように足利尊氏を捉えています。 強烈な野望、欲望を持っている人間が尊氏を祭り上げた。 「足利兄弟は現代に生きる我々に何かを教えてくれる。」という事を直木賞選者の伊集院静さんは言っています。 

歴史小説を書く時に考えるのは、常に今の時代にリンクしているかどうかという事です。  虚しさという穴の中に 人々の欲望が全て吸い込まれてゆくというような発想で書いています。 『信長の原理』という本では信長の一生を書きましたが、それは「効率」の話を書きました。  信長が部下を使う時に、どうしたら最も効率よく部下が動いてくれるのか、試行錯誤をし続ける話を書いています。 今の時代にリンクしていないと書く気が起きない。

時代の流れも違ってきているし、潮目の変わり目も早くなってきている。 初志貫徹というのはある時代が一定の方向を向いている時で、潮目がころころ変わる時代には、初志貫徹はかなりハードな生き方ですね。  もうちょっと柔軟な感じで、生き方をじわじわっと変えて行ってもいいような気がして居ています。 駄目な例として尊氏を書きました。 調子が悪くなった時、負けが込んだりした時にどう対処してどう損害を一番少なくするか、というのが今の時代は大事だと思います。  

今の娯楽はほとんど眼か耳から入ってくるもので、感覚的なものは映像の方が伝わりやすい。  この人は何を考えているのだろうとか、人間の思考を追っかけるような小説は、映像ではなかなか表しにくいところがある。 人の気持ちを詳細に書けること、文字は最大の映像に対する優位性だと思っています。  映像とは違った面白さを提供できると思って小説を書いています。 若い人には「心配するな、何とかなる。」と言いたいです。







































































2023年10月27日金曜日

萩生田愛(バラ輸入業)         ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 アフリカのバラが教えてくれた夢を叶え続ける人生

萩生田愛(バラ輸入業)・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  アフリカのバラが教えてくれた夢を叶え続ける人生 

萩生田さんはアフリカのケニアのボランティア活動で学校に行けない子供たちの現状があることを知ります。  世界に誇るケニアのばらを通じて経済的な支援をしようと、ビジネスを展開しました。 5歳の子どもの母親でもある萩生田さん、子供が生まれてからは仕事に対する価値観を大きく変わり、新たな夢に向けて動きだしています。 

ケニアのバラは色が鮮やかで丈夫で、日本ではなかなか見られないバラですね。 1か月持つというお客様もいます。  2011年ケニアにボランティアに行った時にバラに出会いました。  ケニアの村で小学校を作るボランティア活動に参加していました。  1年生から8年生まであり、教室が少ないと違う学年の生徒が入って、20人程度の教室に50~80人がひしめき合って座っているような学校も沢山あります。  教室を作って現地のお母さんたちに教えたり道具の管理の方法を教えたり、といった活動をしていました。  

学校を作っていていろいろな壁にぶち当たりました。  学校を作っても学校に行けない子供たちがいました。  両親の雇用を作って子供たちが学校に行けるような環境を作ることも大事だという事を感じました。 ある店で生命力のあるバラに出会いました。 1か月も長持ちしました。  日本では3日から7日で枯れた経験がありました。 ケニアはバラの生産大国だという事が判りました。  このバラを日本に持ってくれば、もっと沢山の雇用を増やすことが出来て、日本ではバラを見て心の豊かな人が増える、そのような循環を生み出したいと思いました。 バラを輸入しようと思いました。

日本のバラは単色が多いが、観たことのない柄と鮮やかな発色で大輪でした。 ナイロビから車で3,4時間行くと標高が2300m程度のところに湖があり、そのほとりにバラを生産する農家が沢山あります。  日本の天井の高さの5倍ぐらいのグリーンハウスがあり、その中で栽培されています。  一つのハウスに5人程度のお母さんたちが担当しています。 蕾から少し開く頃に収穫して、段ボールに300本ぐらい詰めて、トラックでナイロビまで運んで、飛行機で17時間かけて日本に運ばれてきます。  水を上げると生命力がみなぎって来ます。 2012年に輸入を開始した時に、生産者の数が150人、現在では1500人になっています。  

私は高校時代はオーストラリア、アメリカの大学を卒業しました。  祖父から「将来、英語をぺらぺらに話して、グローバルに活躍する女性になりなさい。」と言われました。  生きた英語を身に付けて人とコミュニケーションをする、そのために英語を使えばいいんだと思いました。  高校でオーストラリアに留学したり、大学ではアメリアの行くことになりました。  アメリカの大学に行って価値観が大きく変わったと思います。  アメリカでは発言がないといないのと同じという風に思われてしまって、評価につながらない。  「あなたはどう思うの」といつも聞かれます。  大学での専攻は国際関係学とスペイン語学の二つです。 模擬国連に参加して、アフリカで貧困や環境破壊など様々な課題があることを勉強しました。 アフリカの貧困問題に関心を持って、解決の一部になりたいと思うようになりました。  

「これからケニアのバラを輸入して貢献できる仕事をしたい」とケニア人の友達に言ったら、「貴方の大好きな仕事をしなさい、そしてあなたがやっていることを愛しなさい。」と言ってくれました。 結婚して現在5歳の子がいます。  バラの事業との関係性について混乱してしまって、両立が難しい期間がありました。  産後2週間で復帰しなければいけなくて、子供が成長するにつれて、少しづつバランスが取れるようになりました。  人々の生活スタイル、社会の仕組み、豊かな社会の循環とか学びたいと思って、デンマークに一人で留学しました。(子供が3歳の時)  夫、実家の両親が理解してくれました。    

自分のメンタル面の回復、生産性のない会話(東京ではなかったことでした)などをして、余白と無駄しかない生活を体験しました。 こう言うのが豊かさだと気が付きました。  自分自身への厳しさ、人への厳しさが緩まって、自分自身にも優しくなれる、人にも優しくできることになり、肩の力が抜けました。  「スロー フラワー」環境に配慮された花を育てて人の心を豊かさをはぐくんで行こうという活動を新しく始めるきっかけになりました。  無理にやらなければいけないという考えを手放して、「スロー フラワー」という概念に出会いました。  無理しないライフタイルになったかなと思います。 

子どもには健康で自由に生きて欲しいなあと思います。  ケニアではケニアの村の大人たちが村の子供達皆を育てているような感覚を感じました。 隣近所の距離感が近いと思います。  日本のマンションとかみたいに隣近所との面識がないと、子供を観てと言ってもできないです。  アフリカローズを始めた時の原動力は、不平等への怒りとか、憤りが原動力だったと思います。  今は10年事業をやって来て、或る程度の形にもなって来て、ふっと湧いた自分の欲求とかを純粋にかなえてあげる、そういう感じになっています。   夢を叶えるためにコツがあって、方程式の様にこれをやれば叶うという事があるんです。  人それぞれ思考の癖があるので、そこのメンタルトレーニングと言うか、夢を叶いやすい体質にする方法があるんです。  夢がかなったというイメージを先に描いてしまう。  それと組み合わせて行動をしてゆく。  自然に触れることで感性は磨かれると思うので、自然に沢山触れさせたいなあと思います。 

 
















 
















 







2023年10月26日木曜日

江川悦子(特殊メイクアップアーテイスト)・〔私のアート交遊録〕

江川悦子(特殊メイクアップアーテイスト)・〔私のアート交遊録〕 

本場ハリウッドで学んだ技術であらゆる顔を作り出し、今放送されているNHK大河ドラマ「どうする家康」をはじめ、数々の映画やドラマ、CMを手掛けています。  出版社で編集の仕事をした後、結婚を機に渡米、特殊メイクを生かしたハリウッド映画を見て衝撃を受け、メイクアップ学校に入学します。 子育てをしながら特殊メイクの技術を学び、ハリウッドの映画スタジオで助手となります。 映画デューン/砂の惑星』やゴーストバスターズ』、などのプロジェクトに参加、帰国後特殊メイクの製作会社を立ち上げます。 この道を歩み始ま手36年特殊メイクは俳優を役の顔に変える、体感も触感を含めたリアルを表現したいと語り、今もその最前線を走る江川さんにお話を伺いました。 

ファッション雑誌でしたので、季節の洋服を紹介したりしていました。 途中で結婚して、夫の転勤が3年目にあって、渡米することになりました。(会社を辞める)   最初はアメリカの映画を沢山観ました。  狼男に変身するという映画があり、狼男アメリカン』映画です。 人間の皮膚が伸びたり、毛が生えたりいろいろ面白く変化してゆく過程があり、興味があって、特殊メイクの学校がるという事もあり、やろうかなと思って始めました。 当時、電話かファックスぐらいしかなくて、電話をかけてアポを取るしかなかったです。 自分でやるしかなかったです。 順調に言いました。(25歳) 

一番最初はB級ホラー映画みたいで、それを手伝って、それからデューン/砂の惑星』、ゴーストバスターズ』に参加できました。 デューン/砂の惑星』の前はメタルストーム』というホラーっぽいものでしたが、いろんなことを手伝って終わってしまいました。 1982年にアカデミー賞にメイクアップ部門ができました。 特殊効果担当のリック・ベイカーさんが受賞しました。  そこから主流になってきたイメージがあります。  アメリカには6年弱居ました。夫の転勤で日本に帰って来ました。  

日本ではバブル期で営業業界も予算がありました。  日本でも新しい風をといった動きがあり、受け入れてもらいやすかった。  特殊メイクをする人は日本にはほかに一人居ました。  ゴジラをやっていた人たちがちょっと興味を持って、やり始めている感じでした。  タイミングが良かったなという感じです。  1987年親鸞 白い道』で日本映画初参加しました。 鎌倉時代の僧侶で浄土真宗の開祖親鸞の半生を描く。三國連太郎さんの原作の小説『白い道』を、三國さん自身が初監督して映画化した作品です。  日本では初めての作品なので学びながら仕事をしていました。(子育てと平行なので大変でした。)   

特殊メイクでいろんなことが出来るという事がわかって来たことと、CGみたいなものも出てきて、アニメを実写化するという事が実現できるようになりました。  特殊メイクをやるような人も増えてきました。  滝田監督の「おくりびと」ではご遺体を作りました。 触るシーン、顔を綺麗にするシーン、髭をを剃るシーンでは生きている方だとどうしても動いてしまうので、動かないものが欲しいという事で、作らせて頂きました。  肉眼でリアルでいいものを作るというのは最低限私たちの役目だろ思っているので、そういったポリシーでやっています。 動物もちゃんと植毛しないといけないが、産毛などを省略してしまうといかにも作り物とばれてしまう。 根気がいります。  私のところには今13人います。  スキャニングを導入したのは6年前です。 今は全部スキャニングで型を取って、3Dプリンターで出力しますが、2日ぐらいかかります。 それから造形の仕事になってゆきます。  

リアルさについても、皺もいろいろあるので、その見せ方も含めて観察してゆくのが重要だと思います。  架空のものを作る時にはインスピレーションに頼るしかないです。 図鑑、深海魚の図鑑とか良く観ています。  宇宙人の参考にもなります。  これとこれを組み合わせたら面白いというようなこともあります。  メイク、特殊メイクは特に演じる邪魔になってはいけない。 そういうメイクをしたことによって、役に入りやすいという風に持っていけたら、最高にいいことだと思います。  特殊メイクのすそ野は今は凄く広がっています。 独自に成長していっている世界だと思います。  CGとどこまで助け合って行けるかという事にかかってきてりるかと思います。  

この世界も好きでないと続かないと思います。 つまらないと思ったらおしまいだと思います。   常にハードルは高くという思いはあります。  自分でデザインしたキャラクターを登場させた映画を作りたいなあと思っています。 お勧めの一点としては「メタモルフォシス metamorphoses)」 2巻同時にでていて、厚くて立派な本で、リック・ベイカーさんの子ども時代から辞める60幾つまでのすべての作品の写真とか、工程が出ていて凄くおもしろい本です。 特殊メイクの集大成のような本です。
















 






2023年10月25日水曜日

加藤亮子(芝の原っぱ実行委員会委員)  ・〔心に花を咲かせて〕 ビルの谷間に原っぱ広場を

加藤亮子(芝の原っぱ実行委員会委員・芝の家スタッフ)〔心に花を咲かせて〕  ビルの谷間に原っぱ広場を 

高層ビルが連立する東京都港区、おしゃれな地域としても知られてます。 その芝という地域のビルの谷間に地域の人が協力して芝の原っぱを作り、交流を進めていると聞きました。 再開発が進む中、土地の確保もさぞ大変だったろうと思います。 どんな経緯で作ったのか、どんな場所になっているのでしょうか。 又都会は人と人との交流が希薄といわれていますが、ビルの谷間のその地域はどうなのでしょうか。 どんな原っぱで原っぱを作ったことで、どんなこうかがあったのでしょうか。 当初から芝の原っぱつくりに今も力を入れている芝の原っぱ実行委員会委員の加藤さんに伺いました。

細い路地が残っている中にポッと緑の豊かな空間があらわれるという感じで、不思議な場所ですねと言われることがあるぐらいです。 オープンが2021年5月、3年目にはいっているところです。 164平方メートルです。  もともとは3階建ての住居が経っていました。 1階に地域つくりの場所が始まりました。  そのたてものが取り壊されることになり、その空き地をコインパーキングになるという話を聞いて、町内会長さんと共に地域のために使える場所に貸してくれませんかと話したのが始まりです。  

街の中に緑があることで心が潤うし、防犯という面でも安全な綺麗な街という事で、町内会で取り組んできたという事という事が一つ、町内会長自身が園芸が大好きな方で、自身の家の屋上にもばら園を作っていたりするかたです。  その方の思いがベースにあると思います。  それが原っぱ広場です。  町内会の方と芝の家という地域交流拠点とで相談をして作って行きました。  井戸端会議的に使ったり、いろいろな形で使われています。  舞台があり音楽をしたり、御芝居したり映画上映会をしたりとかしています。 いろいろやりたいことはあったんですが、試行錯誤を重ねて絞り込んでいきました。 ルールについてもいろいろ議論していきました。 (ボール遊びはだめ、火は使わない、ペットははいらないとか) 

町内会では防災と町内美化、お祭りに関することが3つの軸かなと思います。 担い手不足も言われています。  参加者は声掛けをして誘って行きました。  地主が土地を町内会に提供する時には税金の減免処置があるという事でいいですよという事になりました。  コインパーキングの収益よりも地域の交流をはぐくむ方が価値があると考えてくださったお陰です。  緑があり癒されますと言ってくださいます。 昆虫も来ます。 縁の繋がる場所にもなっています。  

維持することは思った以上に大変です。  水やりとか、見守りとか当番を決めてやっています。(20名程度)  月二回手入れの日を決めて草取りとかやっています。  町内会が主体となって活動をしています。  講談、落語会などもやっています。  お互いが大事に使おうという意識が芽生えています。  話が出来る場所があるということは貴重だと思っています。  再開発の話もあり、10年後ぐらいには残念ですが、この場所自体はなくなってしまうと思います。  再開発後に住民自身が手入れが出来る緑の庭を作って欲しいとお伝えしながらやっているので、何かしら引き継がれると思っています。 























2023年10月24日火曜日

五街道雲助(落語家)          ・了見だけはアウトローで

五街道雲助(落語家)          ・了見だけはアウトローで

今年柳家小さんさん、桂米朝さん、柳家小三治さんに次ぐ落語会4人目に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。  1948年(昭和23年)東京墨田区本所生まれ、江戸っ子で響きのある美声、確かな話芸で落語通が心酔する落語家です。 明治大学2年で中退して、1968年20歳で金原亭馬生さんに入門、1972年に二つ目昇進、五海堂雲輔に改名、1981年に真打に昇進しました。 滑稽話から人情話、時代物、怪談物など長い話を聞かせる雲助さん、明治大正の埋もれた古い話も復活させています。 

電話が文化庁からかかって来まして、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたという話を受けました。(面喰いました。)  私がこの名前を継いだときには差別用語に近いような名前でした。  本所生まれということで、そういったところで生まれたことは噺家になって得だったなあという気はします。 私が入ったころは地方出身で落語家になると言うことは難しいところはありました。  地方から来た人は訛りで困ってしまうという事はありました。 落語自体が全国区になって来ましたのでなくなっては行きました。

1948年(昭和23年)生まれで、子供時代は引っ込み思案でした。  人前に立つとか目立つというようなっことが苦手でした。 学芸会などで役をもらったりしすると、平気で人前に立てました。 役の中に入ってしまえば自分は表立たないで済むという感じでした。 母親が落語、歌舞伎が好きでよく連れて行ってもらいました。 上野の鈴本によく連れていてもらいました。 柳家三亀松先生の時には母親からは駄目だと言われてしまいました。  大変に色っぽい芸で子供に聞かせるわけにはいかないという事だったようです。 歌舞伎も母親は11代目市川団十郎さんが好きでして、団十郎、幸四郎、松緑3人で勧進帳を入れかわりでやったというものにも連れて行ってもらいました。  雲の上の団五郎一座などにも連れて行ってもらいました。 生でしたので大変に影響を受けるところがありました。  

明治大学に入って落語研究会に入りました。 しゃべり下手でしたので、雄弁会か落語研究会と思っていましたが、落語研究会に入ってしまいました。  中学、高校では寄席には行っていませんでしたが、連日寄席通いをするようになってしまいました。 すっかり落語にはまってしまいました。 好きになったのが小さん師匠、うちの師匠でした。  大学を中退して落語の世界に入る事になりました。  2年から3年になる時に落第制度がありました。 勉強しようと思ったが、教科書が無くて、全部寄席代に使っていました。 それでは噺家になるかというようなところはありました。 

小さん師匠の家をさがして、弟子入りに行きましたが、20数人いてとても取れないということでした。 馬生師匠のところへ行くことになり入門することになりました。(20歳) 弟子はもう6,7人いました。  私が7人目で「駒七」という名前が付きました。 通いでした。   優しく丁寧に接してくれる ようなところはありました。 どんなことをやってもいいよというようにフリーなところはありました。  それによって肥やしになったという事はあったと思います。  

1972年で二つ目となり、六代目五街道雲助」と改名。(珍名だった)  当時、何故か松本のタクシー会社のコマーシャルをやったことがあります。 二つ目での高座は余りありませんでした。  勉強はしていました。(1年で200近く)  続きものの人情話をするようになったのも自分のためになったという気がします。  しか芝居(噺家芝居)もよくやり役に立ちました。 

1981年33歳の時に真打昇進。 「とり」を取ることは緊張するし、力も籠もります。翌年師匠に馬生が亡くなりました。(54歳) ちょっと若過ぎました。 古速記から掘り出すようなことを始めました。  古速記は落語の宝箱のような気がしましました。 馬生師匠は落語に出てくる役を演じるんじゃない、役の心を演じるんだという事は、凄く肝に銘じています。  「なんでもいいんだよ、でもどうでもよくはないんだよ。」という言葉は、すべて生活などに的を得ている言葉だと思います。 

今年、古今亭志ん生さんの没後50年。 馬生さんの没後40年。 志ん朝さんの没後23回忌。  「貴方の持っている無形文化財をどんどん披露していてくださいよ、それをまた後進にも伝えていって下さいよ、そういう立場に貴方は立ちましたよ」、という事なので、責任感を感じているところです。 了見だけはアウトローでいた方がいいという感じがします。弟子は3人います。 五街道 喜助、佐助、のぼり 3人とも寄席のトリが取れる器にはなっています。 健康管理はしっかりやって行きたいと思います。































2023年10月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 石川啄木

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  石川啄木

1886年明治19年〉生まれ、 1912年(明治45年)に亡くなる。 26歳の若さでしたが、残された歌は、時を越えて今なお心に新鮮に響いてきます。

「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」        石川啄木

歌集に「一握の砂」「悲しき玩具」があります。 去年が没後110年。            「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」は凄く感傷的ですね。  石川啄木はとことん感傷的です。 啄木の歌の良さの一つだと思います。

「一握の砂」はは三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得た。

[東海の小島の磯の白砂に                                                           

われ泣きぬれて 

蟹とたはむる] と改行してある。 

「我々の歌の形式は、万葉以前からあったものである。 しかし我々の今日の歌は、どこまでも我々の今日の歌である。 我々の明日の歌もやっぱりどこまでも我々の明日の歌でなくてはならない。」 

「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」     石川啄木

「ぢっと手を見る」で人間の悲しみが出る。

短歌は花鳥風月を詠うものと思っていますが、この歌には花鳥風月が全く出てこない。  石川啄木は生活を詠う。 庶民の実生活を詠う。 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」   石川啄木

気の変わる人に仕えてつくづくと我が世が嫌になりにけるかな」   石川啄木    会社勤めで嫌な上司がいる人にはすごく共感できる歌だと思います。

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」     石川啄木    ぐっと胸を掴むような歌です。

永遠にまろぶことなき佳き獨樂をわれ作らむと大木を伐る」     石川啄木    啄木の初期の作品  カフカの作品にも駒という同じような作品がある。 きわめて些細な事でもそれを本当に認識すれば、すべ手を認識したことになる、と哲学者は思った。 回転する駒を上手く捕まえることが出来たら真理に到達できると思った。 駒を捕まえると当然駒は止まる。 哲学者はいつまでも真理に到達できず、よろめきながら去ってゆく。   永遠に回り続ける駒は人を惹きつけるものがある。 どっしりした大木から駒を作れば永遠に回り続ける駒が作れるのではないかという発想が面白いですね。

大海にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾億年. も」          石川啄木   人間も沢山いるのだから中には死なない人もいるのではないか、周囲に自分のことを知られているといつまでも死なないのはおかしい。 

わが胸の底の底にて誰そ一人物にかくれてさめざめと泣く 」      石川啄木   自分の中に誰かがいて誰かが泣いている気がする、そんなことがありますね。

「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」        石川啄木    ノスタルジーも石川啄木の重要な要素です。 

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」     石川啄木   ノスタルジーに浸るためにわざわざ出かけて行って聞く。

ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」 石川啄木   故郷の山をここまで肯定的に詠んだ歌はそうそうない。

「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」       石川啄木   石川啄木の本当の生まれは渋民村ではなくて、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村です。 1歳の時に渋民村に引っ越す。 啄木の父は僧侶。 出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤一(くどうはじめ)が本名だった。 木」は雅号。 13歳の時に、後に妻になる堀合節子と出会う。5年生(最終学年)の1902年(明治35年)、一学期の期末試験で不正行為等があり、木は、10月27日に中学を退学し渋民村を去る。 東京でもうまくいかず20歳の時に母校の渋民村尋常小学校に代用教員として戻ってくる。 その時にはすごく熱心に教えていた。 父親が檀家ともめて失踪してしまう。 啄木も渋民村を去ることになり、その後二度と戻ることはなかった。  

石をもて追はるるごとくふるさとを 出 ( い ) でしかなしみゆるなし 石川啄木   帰れなくなった人ほど故郷は恋しいのかもしれない。

 当てはまらぬ無用な鍵! それだ! どこ持って行っても余のうまく当てはまる穴みつからない」  石川啄木  (日記の一節)                   本人は小説家になりたかった。 でもうまくいかなかった。 

何 ( なに ) となく自分えらい人のやうに思ひてゐたりき。 子供なりしかな」石川啄木

 こころざし得ぬ人人の あつまりて酒む場所が 我が家なりしかな」    石川啄木 

公園の 隅 ( すみ ) のベンチに二度ばかり見かけし男このごろ見えず」   石川啄木  挫折を経験したことは啄木の短歌にとって、とても大きなことだと思います。   

「ふといままで笑っていたような事柄が、すべて急に 笑う事が出来なくなったような心持ちになった。」 

「歌は私の悲しいおもちゃである」  歌は挫折した自分を慰める事であった。

「『石川ふびんな 奴 ( やつ ) だ。』 ときにかう自分で言ひて、 かなしみてみる」石川啄木  自己憐憫の極みですね。 

「自分を憐れむというぜいたくが無ければ、人生なんて言うものは耐えられない場合がかなりあると私は思う。」  レッシングという作家の言葉

病 みてあれば心も弱るらむ! さまざまの泣きたきことが胸にあつまる」  石川啄木  よくここまで病人の心を読んでいるなあと思います。

ドア推してひと足出れば病人の目にはてもなき 長廊下かな」      石川啄木

 話しかけて返事なきよく見れば、 泣いてゐたりきの 患者 」   石川啄木

病院の窓によりつつ、 いろいろ人の元気に歩くを 眺  む」       石川啄木

 氷嚢の下よりまなこ光らせて寝られぬ夜は人を憎める」        石川啄木

病人はどうしても世の中とか人を憎んでしまう時がある。それを口に出したら人は離れて行く。  口に出せない気持ちを思い切り描いてくれるのが文学のすばらしさですね。  

「ローマ字日記」は人間の心の奥底まで赤裸々に描いてある。 文学作品として読むことができる。

カフカは「幸福とは不安がないことだ」と言っている。 不安を沢山経験すると、不安がないだけで物凄く幸福なんです。 

石川啄木も大変だったと思います。

「余の求めているものは何だろう。 名でもない。 事業でもない。 恋でもない。 知識でもない。 そんなら金 金もそうだ。 しかしそれは目的ではなくて手段だ。 余の心の底から求めているものは、安心だ。 きっとそうだ。 余はただ安心をしたいのだ。 今夜初めて気が付いた。 そうだ、全くそうだ。 それに違いない。 ああ、安心、何の不安もないという心持はどんな味のするものたったろう。 長い事、物心ついて以来、余はそれを忘れてきた。」   石川啄木 (「ローマ字日記」より)





















                                          

2023年10月22日日曜日

浜内千波(料理研究家、食プロデューサー)・〔美味しい仕事人〕 家庭料理で国際交流を

 浜内千波(料理研究家、食プロデューサー)・〔美味しい仕事人〕 家庭料理で国際交流を

日本で暮らす外国人は300万人を越えています。 母国とは違う生活環境の中で、特に日本での食、食べることで戸惑う事が多いと言います。 初めて出会う日本の食材や使い方の判らない調味料など、日本の料理に挑戦したくてもハードルが高いと感じる人が多いようです。 浜内さんは健康的で素材の旨味を生かした日本の家庭料理の良さを知ってもらいたいと、SNSの動画配信に取り組んでいます。  去年9月にスタートした食で世界を応援プロジェクトは社会貢献活動として,NHK財団も参加しています。 浜内さんに取り組みの1年を振り返ってもらいました。

食で世界を応援プロジェクトはスタートして1年、あっという間でした。 第一回目は長野県富士見町でひまわり畑からSNSを発信しました。  何故ひまわりかというと、その日のゲストはウクライナからの留学生のネケロワ・マリナさんでした。 事前に日本での食事の悩みをまず聞き取ります。 ご飯には興味がないという事でしたが、フライパンでご飯を炊き上げましした。  ふりかけのご飯にしました。  ウクライナではトマト系の出汁を使うという事でトマトけんちん汁にしました。  謎の食材があるということで、レンコン、ゴボウ、コンニャク、ダイコン、サトイモなどという事でした。 全部がけんちん汁に入ってしまっていました。  タイの人ではお酒とみりんの違いが判らない、という事でした。 醤油も何十種類もあるという事でおどおどしてしまう人が多いみたいです。 みりんはもち米から作るので、冷めて硬くなるような料理にはみりんを入れないで砂糖を入れましょうと説明しています。 砂糖とコンビを組んでいいのがお酒ですと言っています。   

オイルもオリーブオイル、菜種油、こめ油、サラダ油などと種類がいっぱいあります。   枝豆は美味しいと海外では有名です。  アメリカの方に枝豆の湯がき方を紹介しました。 又焼き魚では2,3日臭いが籠もってしまったという事でした。  コロンビアのイワンさんたちには炊き込みご飯を紹介しました。  切干大根のリクエストを頂いて、みそ汁への応用を考えました。(ハードルが低い) 

日本料理は凄く素敵なのでトライしてみたいという事で、ヘルシーでうす味、綺麗な日本料理であるという事です。 しかし、スーパーに出かけると種類も多くて全くわからない、どのようにすればいいのか扱い方も判らない食材が一杯並んでいる。  日本の家庭料理を紹介すれば解決するのかなあと思い、チームが発足しました。  国境を越えた交流の輪が、食を通じてSNS上で広がっていると言う実感があります。  昨年の9月から13か国15人ほどの方が参加しました。  SNSなので直ぐ反応が返って来ます。  

昨年11月にミニライブとして、タイ出身のナッタニ・ラオハチャイナンさんへ塩肉じゃがを紹介しました。  私たちにも勉強になりました。  今年の1月のSNSライブで駐日イスラエル大使館の公邸から行われました。 ゲストが町川エフラットさん(駐日イスラエル大使館、文化・科学技術担当官)で完全菜食主義の方です。 野菜の栽培が最先端で、工業化していて日本にも輸入されている。   アボガドが輸入されていて、野菜のちらし寿司を作りました。 ミニトマトを使った豆腐サラダでイスラエルの胡麻ペーストを使いました。  

今年5月は東京大田区の町工場、ベトナム出身の社員、実習生の皆さんでした。 肉が好きという事で牛肉のしぐれ煮を作りました。  おむすびの具になります。 

8月はお父さんがアメリカの方で、お母さんが日本人という三輪マーロンさん、おふくろの味いう事で肉じゃがだが、再現できないことで聞いて甘辛いものを作りました。 SNSを通じてお母さんとも連絡しました。(オーストラリア)

9月は群馬県の大泉町、「活きな世界のグルメ横丁」(ブラジル、ネパール、トルコ、ペルー、ベトナムなど、世界のグルメ屋台が出店)にお邪魔して、いろんな国の人たちが集まっている町で、人口4万2000人ほどの町民の5人に1人が外国人です。    屋台にはいろんな国の料理が並んでいます。  ブラジル出身の沙織さん、何かあると親戚一同が集まるので、30人ぐらいの料理を作らなくてはいけなくて、食べながら出来る料理をしたいという事で、お好み焼きをすることにしました。   ブラジルではソースは甘いのは嫌いという事で、日本のソースと母国のソースという事になりました。 

私たちも海外から学ぶことがいろいろあります。
























 








2023年10月21日土曜日

森岡毅(マーケター)          ・"強み"は磨いてつくる

森岡毅(マーケター)          ・"強み"は磨いてつくる 

消費者のニーズを分析し、戦略を立て企業に利益をもたらすマーケティング、森岡さんは大阪のテーマパークに務めていた時には、ゲームやアニメのキャラクターをいかし、家族連れや関西以外から訪れる人をターゲットにすることで、来客数の数を塗り替えるなど成功を収めました。 独立した後は幅広い業種からの依頼を受け、うどんの全国チェーンや埼玉の遊園地など数多くの企業で次々と成果を上げ、現在最強マーケターとも評されています。 そんな森岡さんは神戸大学の経営学部の出身、今回はその経営学部の教室、そして神戸の街並みを見下ろす神戸大学の100年記念館などでお話を伺います。

シュークリーム、材料が高いし、人件費も高いし、生は保存が利かない、需要予測を間違えたら凄い在庫になってしまう、物凄く利益をだすのが難しい。  長く続けることは大変な苦労だったと思います。 すべてのものが消費者の視点とビジネスの視点の両方から見えてきます。  喫茶店に入ったら利益率はどのぐらいかなとか、一日の来客数を予測して、このぐらいに売り上げで、このぐらいの回転率で、坪単価がいくらだから、ここは厳しそうだろうとか、メニューの作り方を工夫しないといけないだろうとか、いろいろ考えながらコーヒーを飲んだりします。 

神戸大学では興味あるものには徹底的に勉強してそれ以外はいろんな国にお邪魔していました。 昔は数学ぐらいしかできなかった。 国語は苦手でした。 小説の読解力がなかった。  僕がいると周りに緊張感が生まれてしまうような子でした。 クラスでもあまり馴染めなかった。 皆に屈託なく受け入れられるという事に対して、ずーっと憧れと焦燥感をどっかでもっていたような子でした。  僕は勝つためにいろいろなことを考えるので、運動会とか勝たなくていけない争いごととか、クラスで凄く役に立つ時もありました。 勝つためのシナリオを作り出すためにはどういう手を打てばいいのか、というのを考えるのが好きなんです。  皆を勝たせるのが好きになってしまいました。  もともと頭のなかで考えるのが好きだったようです。  弱みを克服するよりも強みを磨いて生かしてゆくことがいい。  

曲解されている部分もあるかもしれないが、弱みが克服できないとは思ってはいない。   消費者同士の会話を聞いたら、消費者にとって何が重要かという、洞察して理解する能力は結構マーケティングには重要です。  それを私は普通の人よりもできなかった。  言葉にならない消費者の思いを読み解くというのは、僕みたいなメカニカルな人間は駄目でした。  マーケターとは何なのかというと、消費者の本能が欲している本質的な欲求、この発?を捉えることからすべてが始まるんです。  ここを捉えないと自分が強い作戦が作れないとなったら、私は石にかじりついてもできるようになりたいと思うんです。 私は・・(聞き取れず)調査は苦手だったんですが、私なりのやり方で・・(聞き取れず)調査はそれなりに出来るようになっていきました。  私はディープな消費者と行動を共にする変なやり方をします。  彼らがどんなことに感激するのかとか、自分自身でも体験してそれを理解するというやり方をしていて、こんなことをやるマーケターはあまりいないです。 

身に付けたいスキルは、必要な経験、学びを継続さえすることが出来れば、多分身に付くと思うんです。  或る程度、モチベーション、自信が伴わないと継続するのは難しい。 好きなことを目指してやってみたいことを目指して、自分の特徴を生かしながらたどり着いた方が確実だと思います。  能力にでこぼこがある子どもとかが、小さい時にもう少し自信が持てたり、気付かせてあげる大人(親御さん、先生など)がそこに自信を持たせてあげたら面白い色どりのある社会になるんじゃないですかね。 

神戸大学在学中に阪神淡路大震災を経験。  大阪まで運ばないと焼いていただけない。 友人と一緒に彼女(両親と一緒に中国から留学生としてきた。)を運んで、彼女は日本人よりも礼節正しく頭がよく朗らかな子でした。  その子があっけなく亡くなった。 骨を拾った時に凄く軽くて、もの凄い衝撃を受けました。  自分もいつ死ぬのか判らないという事をあの時から凄く意識するようになりました。 

神戸はあらゆる切り口からいろんな魅力が見つけられる街なので、観光地としても強い実績を持ってきました。  地域再生も全く同じです。 地元であるがゆえに地元の良さがあまり判っていないですね。  今沖縄でテーマパークを作っています。(刀という会社が中心となっている。) 沖縄にテーマパークを作れば、日本のために、日本の子どもの未来のためにとてつもなくいい事業が出来ると思いました。(10年越しの野望)   稼ぐだけではだめで、人を作るという事だと思っています。 テーマパークを通じた観光人材育成の構造を地元の方と一緒になって作る、そこで豊かな生活をして子どもを大学、大学院に行かせるという事に誇りを持てる地域性にどんどん変えてゆく、10年、20年後には大きな変化が見えるのではないかと期待しています。 

学校では人間は平等だと教えられるが、権利は平等だが、チャンスは平等であるべきだと思います。 でも人は平等には生まれていない。  持って生まれたものは全部違うし、家の経済力は違う、国も違う、生まれながらにして不平等。 このことはえてして残酷です。  しかし一人一人が違うという事をポジティブに捉えることはできないのかと思います。  自分にしかできない事、自分にしか思いつかない事が何かあるんじゃないか。  自分の生き方は自分の努力次第で、いろいろ選ぶことができる。 そこをポジティブに捉えて欲しい。 若い人に対して、自身の中に必ず誰かのために役に立てる、何らかの特徴があるんだという事を、本気で信じていただきたい。  それを磨いて行って、強みを作ってゆく。 自分次第で楽しく生きられる未来がきっとあると思っています。 










 









 































2023年10月20日金曜日

森まゆみ(作家)            ・関東大震災100年、聞き書きから学ぶ歴史

森まゆみ(作家)            ・関東大震災100年、聞き書きから学ぶ歴史

森さんは1954年東京都文京区生まれ。 大学卒業後出版社、PR会社などを経てフリーの編集者、ライターとなりました。 1984年主婦仲間と協力して、地域雑誌谷中・根津・千駄木」を創刊、自分たちの住む地域を対象に、聞き書きと言う方法を通して地域の歴史や文化、地域が抱える問題などをとりあげました。 「記憶を記録に」という編集方針のもと多くの読者を得ました。 今年は関東大震災から100年、森さんは谷中・根津・千駄木」で取り上げた庶民たちの震災体験に再度当たり、新著「聞き書き関東大震災」を出版しました。 未曽有の大災害を体感し、将来の災害の手立てになればという思いも込められています。

関東大震災と東京大空襲は大きな事件だったので、父方の祖母から芝,白金あたりで関東大震災に遭って、宮城県の実家に1歳の子を連れて列車のつぎはぎで避難したという事を何度も聞かされました。 母方の方は関東大震災は浅草あたりで遭って隅田川に沢山溺死した光景を見ているので、それが怖くて東京大空襲の時には川に逃げるのは辞めようという事で浅草寺に逃げて助かりました。 20代の終わりに地域雑誌谷中・根津・千駄木」を創刊してからは街のお年寄りの話を何千人ときいてきましたが、この二つは必ず出てきます。

「聞き書き関東大震災」を出版しました。(340ページ) 大事なのではと急に思いつきました。 1984年主婦仲間と協力して、地域雑誌谷中・根津・千駄木」を創刊し、2009年まで26年間出していました。 主に地域の歴史を掘り起こして「記憶を記録にしておこう」と毎回1万分ぐらい売れていました。 その雑誌から関東大震災に関するものをピックアップしました。 時間軸に沿って編集し直して、揺れ始めてからどのように行動したとか、何が大変だったのかという事など全体像が判る様にしたいと思いました。 1990年に一回関東大震災に関する特集をやっています。(24号) 

谷中・根津・千駄木」辺りは大空襲では焼けなかった地域で、古い建物が残っています。耐震基準の見直し以降、しっかりした建物が出来たり道が広がったり、強度改築へ行政が補助を出したりしています。  関東大震災はほとんどが焼死で、阪神淡路大震災では圧死が多かったです。  東日本大震災では多くは津波による溺死でした。 

実際に体験したことは非常にリアルです。  自分たちが街を守るという事は必ずしも悪い事ではないですが、関東大震災では自警団が木刀とか日本刀とか武器を持ち出して、まともに答えられないと暴力をふるってしまう、という事は非常に良くなかったですね。 当日の3時ぐらいから「流言飛語」で、朝鮮人とか、社会主義者が大挙して襲ってくるとか、毒を井戸に入れるとかあり、朝鮮人の虐殺、中国人の虐殺、間違えられた日本人も殺されたり、という事がありました。(福田村事件 劇場映画にもなる) 朝鮮人の虐殺の映画化は難しい。  関東大震災では約10万5000人が亡くなっていて、首都の半分ぐらいが焼けてしまって、大日本帝国陸軍の本所の被服廠(軍服を作っていた跡地)の沢山の人が大八車などで集まって来て4万人ぐらいのうち3万8000人ぐらいが焼け死んでしまったという、最悪の事態でした。  

早稲田大学政治経済学部卒業して、出版社に就職しました。 フリーとなり、地域雑誌谷中・根津・千駄木」を創刊することになります。 子どもを育てながら街で出来る仕事はないかという事で3人(イラストレーターを含め4人)で始めました。 山崎さんは自然が好きで、妹(仰木ひろみ)は暮らし向きが好きで、私は歴史、古い文化が好きで聞き取りをしたかった。

私たちの街は火事がなかったので、無事を喜ぶという話があります。 長屋が潰れて救出したという話があり、お茶の水あたりが焼けて本郷三丁目辺りに火が来るという事で、どうにかしなければいけないという事で、青年団、在郷軍人会、町会などが活躍しました。  私と同じ名前の「まゆみ青年団」というのがあって、真砂町、弓町の名前を取った青年団で、凄く消火活動に活躍した人たちでした。 その後被災者の救援をしたり、無事だという手紙の代書をしたりボランティア活動をしました。  家の地域は焼けなかったので逃げてきた人への援助、もてなしをしていました。

後藤新平はスケールの大きな政治家ですが、関東大震災の時、加藤内閣の時に首相が病気で亡くなって、後藤新平が内大臣になり、復興院を作って総裁になり、都市計画をするチャンスでグランドデザインを作ります。  反対もあり予算も削られて行ってしまう。 でも耐震性のある復興小学校と復興公園をセットで作ったり、大きな公園を作ったり、震災復興の橋をいくつも作って、ほとんど重要文化財になっています。 

9月2日に内乱が起きていないのに戒厳令を出します。 そして軍隊が動き出します。 軍隊が強くなってゆくきっかけにもなったと思います。  町会、青年団、在郷軍人会とかお上のいう事を聞くような団体が増えて行った。 自分の町は自分で守れみたいな、国防というようなものに繋がってゆく。  戦時体制に入ってゆく流れがあると思う。  吉野作造は宮城県古河の出身の政治学者、東京大学教授で、関東大震災の後の朝鮮人虐殺をちゃんと伝えようとして、どのくらいどこで亡くなったのか調べて「改造」という雑誌に書こうとしたしたが、検閲でつぶされてしまう。 社会主義者の虐殺もあり、亀戸事件川合義虎平澤計七、加藤高ら10名が殺される。)、16日には大杉栄、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一も憲兵隊によって殺されている。 吉野作造も標的にされていたようです。(昭和8年に肺結核で亡くなる。)  今回暗い時代の人々の章に吉野作造を加えました。 

関東大震災の時に人が一番助かったのは上野公園です。 50万人が避難してきて長い人は1年ぐらいいました。 東大の法学部の末広厳太郎先生、穂積陳重任先生たちが学生と一緒になって、避難生活を支えたりしました。 防災の点でも都心の緑は大事です。 神宮外苑にも5万人の人が避難しています。 日比谷公園、神宮外苑も開発されようとしている。 木が持っている人間にとっていいもの、大事なものがある。  東京は木と共に暮らす大都市であってほしい。












  












































 










  

2023年10月19日木曜日

高汐 巴(歌手/元宝塚歌劇団トップスター)・〔わたし終いの極意〕 出会いはすべて愛おしい

高汐 巴(歌手/元宝塚歌劇団トップスター)・〔わたし終いの極意〕  出会いはすべて愛おしい 

高汐さんは京都出身の70歳。 宝塚歌劇団の花組男役トップスターとして活躍し36年ぐらい前に宝塚を卒業しました。 初舞台から51年目になります。 初舞台から51年目になります。 愛称の「ペイ」は、本名を美子と言いますが、林家三平 (初代)のギャグ「よし子さん こっちむいて・・・」というのがありますが、学生時代から「三平」と呼ばれていて、そこから「ぺイ」となりました。 新語が生まれて行って、全部「ペイ」が付くんです。(アラウンドペイ、ペイヤングなど)

初舞台が1972年、16年在籍していました。 芸事は全くしていませんでした。(周りは芸事が出来上がっている人たちばっかりでした。)  厳しかったんですが、楽しかったです。 声だけは大きかったです。 好奇心は強かったです。 父は殿様蛙のような、山口県萩の出身で二枚目のモテモテの父でした。  母は滋賀県の近江商人の血が流れている12兄弟の長女でした。 根性のありド根性蛙のような人でした。 (い加減なところもありました。)  「高汐さんはトップになれないんじゃないの。」という声を聴いて「なにくそ」と思いました。  トップの主役を頂いた時には、80人のチームのリーダーとしてセンターで立たせていただけるので、プレッシャーがあり嬉しいとかはまったくなかったです。  

昨年、「吾輩はペイである」というエッセーを出版。 私が9歳の時に両親が離婚して、紆余曲折があり、父の新しい家庭に新しい母と何年か過ごすことによって、屈折した時を過ごし、暗くなって又母の方に戻って(中学3年生)、宝塚と出会って、宝塚に育てられ宝塚に救われたような感じです。 初めて宝塚を見た時には、衝撃で絶対この舞台に立ちたいと思いました。   父は3回結婚していて第一夫人に4人、二番目が私の母で妹が一人居ます。 三番目は連れ子がいました。 4年間一緒に暮らすことになり、自分の居場所がなく気を使った子供時代を過ごしました。  どこでも自分の力で咲いてゆく逞しさ、が大事で特に母からもらっているような感じです。  

宝塚からは膨大なプレゼントを頂きました。 一番大きなものは感動です。  両親からは健康な体を貰ったことが一番貴重です。 母は100歳で昨年亡くなりました。 父は87歳で亡くなりました。   父が荼毘に付されて出て来た時には、人間はこうなるんだよと、灰になってお骨になって、それを観た時に一日、一分、一秒を大切にしなければいけないんだなという事を感じました。  父親っ子だったので悲しかったです。 それで母も大事にしなければと思いました。  父の死が大きな節目になりました。  

今月上演された舞台だれがオバンやねん!」では母親がモデルになっています。 だれがオバンやねん!」は母の口癖でした。  私が母親の役をやりましたが、いろいろ母の気持ちが判りました。  母に対して私なりの親孝行は出来たと思います。  10年前に大阪芸術大学の客員教授として通っていて、毎週母の元に行けました。   

先はどうなるかわからないので、考えても仕方のない事なので、悔いがないように今をちゃんとしっかり生きるという事にしています。  今を大事にしています。  私が経験した、私にしか判らないことを、学生たちに伝えればいいんじゃないかと思っています。  学生たちから学ぶという事が多いです。 母は他人に何かしてあげたいという気持ちの強い人で、高齢になってして貰う事になった時に、「お母ちゃん これやって。」とか言うととても生き生きするので、それってすごく大事なことだと思います。  自分が何か役に立ってるという事が高齢になっても生きるエネルギーになるという事を学びました。

地に足の着いた芸能の仕上げの時期だと思います。  〔わたし終いの極意〕とは、この瞬間を全力で生きる、です。(休憩もしますけど) 精神のチェンジ、マイナスには考えない。