本橋成一(写真家・映画監督) ・格差社会から協力社会へ(2)(H27/5/18放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/2.htmlをご覧ください。
2015年9月30日水曜日
2015年9月29日火曜日
本橋成一(写真家・映画監督) ・格差社会から協力社会へ(1)(H27/5/17放送)
本橋成一(写真家・映画監督) ・格差社会から協力社会へ(1)(H27/5/17放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/blog-post_17.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/blog-post_17.htmlをご覧ください。
2015年9月27日日曜日
小川さゆり(山岳ガイド) ・御嶽山噴火 その時私は
小川さゆり(山岳ガイド) ・御嶽山噴火 その時私は
死者行方不明者63人、戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火から1年になります。
去年のこの日、お客さんをガイドする下見として一人で御嶽山に登っていました。
山頂に到着した直後山が噴火し、岩の下にあった穴に身体の半分をかくし、砕け散った噴石が当たったものの辛うじて生還する事が出来ました。
小川さんが生き延びたポイントは何か、山にかける人生に噴火はどの様な影響をもたらしたのか伺いました。
ガイドの仕事、100%は安全ではない山にどうやってお客さんを安全に連れて行けるか、リスク管理、万が一何か起きてしまった時にどれだけ早く対処できるか、という事です。
山で亡くなる人を見たのと、友達が雪崩に巻き込まれて亡くなりました、その時に山岳ガイドと一緒に行っていたんですが、ガイドになりたいなと思いました。
日本山岳ガイド協会の認定ガイドになっています。
私は雪山、岩の登坂はガイドとして行けません、夏山の縦装をメインにやっています。
中央アルプスがメインです。(木曽駒ケ岳、空木岳、恵那山 は有名 標高3000m弱)
ガイドだけで70日ぐらい、プライベートで120日ぐらいは行っています。
噴火当日、御嶽山に登っている。
一週間後にお客さんをガイドするので下見に行って、頂上に11時30分に着きました。
特に8合目あたりの紅葉が綺麗でした。
土曜日、天候もよく普段より頂上にいる人は多かったです。
お鉢めぐり(旧噴火口の周り)に向かおうとしていた時、背後からドーンという音がして振り向き見上げると噴煙が上がっていて、空一面に黒い粒が見えていて噴火だと思いましたが、噴火するとは全く思っていませんでした。
吃驚して、石が降ってくる前に隠れようと思いました。
登山道のわきにあった岩に張り付き身を縮めました。
視界を遮る濃いガスにまかれて、卵の腐った強烈な臭いがするガス(硫化水素)で息ができなくなりました。
息を吸うと余計苦しくなったが、喉を押さえてのたうちまわっている様な状況で、窒息して死ぬんだなという事を意識しました。
冷たい風が急に入ってきて、気がついたら普通に息ができるようになり、頭をあげると一瞬青空も見えて、視界もありました。
ガスのにおいはしていましたが、きつくはなかったので、一の池という急斜面があるので30mぐらい走って降りて、岩の下に小さな穴があったので頭を入れて背中までは入ったが、腰、右足は入れませんでした。
又ドーンという大きな音がして自分の手が見えないほどまっ暗闇になって、噴石が降ってきました。
たまに薄っすら見えるような状況でした。
噴石の砕けたものが右足にバンバンあたっていました。
家に帰ってみると右足の外側は真黒になっていましたが、特に怪我は問題なかったです。
その時はこれで終わりかなと、恐怖でしたが、噴火が終わってくれることを祈るだけでした。
主人にもう一回会いたいなあと思いました。
噴火から噴火が終わって逃げる瞬間まで1時間有ったと思います。(噴火は3回 爆発音はずーっとしていました)
噴火は3回目が一番大きくて新しい火口ができてその場所から350mぐらいのところにいた。
最初バスケットボールぐらいの大きさの岩で電子レンジ、洗濯機、一番大きいのは軽トラックぐらいの岩が降ってきた。(50分ぐらい続く)
何とか生きて帰りたいと思ったが、軽トラックぐらいの岩を見た時にはなるしかないなと思いました。
あっという間に視界が広がり、全貌が見えるが、黒一色でした。
3mm程度の火山礫で覆われていて50cm以上は積もっていて、さらさらと新雪のような感じでした。
4人の登山者に会うが、3人の男性は負傷は無く女性が脛に骨折をしていた。
全身が隠れる岩を探したが無くて、最短ルートで山小屋へ飛び込みました。
小屋の人に怪我をしている人の救助要請して、そして下山を開始しました。
噴煙をみた時に直ぐに危険と判断してどれだけ早く命を守る行動に移れたのか、それから最後に運だと思いますが、行動する事で運を引き寄せたと私は思っています。
剣が峰の連続写真があるが、1分ぐらい視界があり、どこよりも生きる可能性があったのが剣が峰だったんですが、一番多く亡くなったのが剣が峰でした。
60秒の判断、をどのようにするのか、瞬時に判断して逃げた人は助かっています。
普段から自分で考えて判断する事を常に意識していないとだめだと思います。
意識しないと自分のものにならないので、意識しないと駄目ですね。
「自分の身を自分で守る」、あたりまえの言葉ですが非常事態の時にどれほどの人がその行動に移れるのか、どれほど常に意識しているのか、ということだと思います。
ヘルメット被る、シェルターを作るとかの動きがありますが、物で解決するほど自然は甘くないのではないかと思います。
山の危険というものに対して本当に真剣に考えるようになりました、今までも考えていたつもりですが、本当につもりだったと思いました。
自分の身を自分で守るということを、お客さんに言っていますが、言葉は重くなったと思います。
山は生きていると言う想いはなかったのですが、噴火の時に山は自らの意思があるのかなあと感じました。
山は怖いところだと思います、条件が悪ければ人の命を簡単に奪ってゆく場所ですが、こちらの向き合い方を真剣に考えればそう怖い場所ではないのかなあと感じます。
ガイド登山でも自分で考えて判断して行動できる自立した、絶対生きて帰ってくるという登山者になってほしいと思います。
死者行方不明者63人、戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火から1年になります。
去年のこの日、お客さんをガイドする下見として一人で御嶽山に登っていました。
山頂に到着した直後山が噴火し、岩の下にあった穴に身体の半分をかくし、砕け散った噴石が当たったものの辛うじて生還する事が出来ました。
小川さんが生き延びたポイントは何か、山にかける人生に噴火はどの様な影響をもたらしたのか伺いました。
ガイドの仕事、100%は安全ではない山にどうやってお客さんを安全に連れて行けるか、リスク管理、万が一何か起きてしまった時にどれだけ早く対処できるか、という事です。
山で亡くなる人を見たのと、友達が雪崩に巻き込まれて亡くなりました、その時に山岳ガイドと一緒に行っていたんですが、ガイドになりたいなと思いました。
日本山岳ガイド協会の認定ガイドになっています。
私は雪山、岩の登坂はガイドとして行けません、夏山の縦装をメインにやっています。
中央アルプスがメインです。(木曽駒ケ岳、空木岳、恵那山 は有名 標高3000m弱)
ガイドだけで70日ぐらい、プライベートで120日ぐらいは行っています。
噴火当日、御嶽山に登っている。
一週間後にお客さんをガイドするので下見に行って、頂上に11時30分に着きました。
特に8合目あたりの紅葉が綺麗でした。
土曜日、天候もよく普段より頂上にいる人は多かったです。
お鉢めぐり(旧噴火口の周り)に向かおうとしていた時、背後からドーンという音がして振り向き見上げると噴煙が上がっていて、空一面に黒い粒が見えていて噴火だと思いましたが、噴火するとは全く思っていませんでした。
吃驚して、石が降ってくる前に隠れようと思いました。
登山道のわきにあった岩に張り付き身を縮めました。
視界を遮る濃いガスにまかれて、卵の腐った強烈な臭いがするガス(硫化水素)で息ができなくなりました。
息を吸うと余計苦しくなったが、喉を押さえてのたうちまわっている様な状況で、窒息して死ぬんだなという事を意識しました。
冷たい風が急に入ってきて、気がついたら普通に息ができるようになり、頭をあげると一瞬青空も見えて、視界もありました。
ガスのにおいはしていましたが、きつくはなかったので、一の池という急斜面があるので30mぐらい走って降りて、岩の下に小さな穴があったので頭を入れて背中までは入ったが、腰、右足は入れませんでした。
又ドーンという大きな音がして自分の手が見えないほどまっ暗闇になって、噴石が降ってきました。
たまに薄っすら見えるような状況でした。
噴石の砕けたものが右足にバンバンあたっていました。
家に帰ってみると右足の外側は真黒になっていましたが、特に怪我は問題なかったです。
その時はこれで終わりかなと、恐怖でしたが、噴火が終わってくれることを祈るだけでした。
主人にもう一回会いたいなあと思いました。
噴火から噴火が終わって逃げる瞬間まで1時間有ったと思います。(噴火は3回 爆発音はずーっとしていました)
噴火は3回目が一番大きくて新しい火口ができてその場所から350mぐらいのところにいた。
最初バスケットボールぐらいの大きさの岩で電子レンジ、洗濯機、一番大きいのは軽トラックぐらいの岩が降ってきた。(50分ぐらい続く)
何とか生きて帰りたいと思ったが、軽トラックぐらいの岩を見た時にはなるしかないなと思いました。
あっという間に視界が広がり、全貌が見えるが、黒一色でした。
3mm程度の火山礫で覆われていて50cm以上は積もっていて、さらさらと新雪のような感じでした。
4人の登山者に会うが、3人の男性は負傷は無く女性が脛に骨折をしていた。
全身が隠れる岩を探したが無くて、最短ルートで山小屋へ飛び込みました。
小屋の人に怪我をしている人の救助要請して、そして下山を開始しました。
噴煙をみた時に直ぐに危険と判断してどれだけ早く命を守る行動に移れたのか、それから最後に運だと思いますが、行動する事で運を引き寄せたと私は思っています。
剣が峰の連続写真があるが、1分ぐらい視界があり、どこよりも生きる可能性があったのが剣が峰だったんですが、一番多く亡くなったのが剣が峰でした。
60秒の判断、をどのようにするのか、瞬時に判断して逃げた人は助かっています。
普段から自分で考えて判断する事を常に意識していないとだめだと思います。
意識しないと自分のものにならないので、意識しないと駄目ですね。
「自分の身を自分で守る」、あたりまえの言葉ですが非常事態の時にどれほどの人がその行動に移れるのか、どれほど常に意識しているのか、ということだと思います。
ヘルメット被る、シェルターを作るとかの動きがありますが、物で解決するほど自然は甘くないのではないかと思います。
山の危険というものに対して本当に真剣に考えるようになりました、今までも考えていたつもりですが、本当につもりだったと思いました。
自分の身を自分で守るということを、お客さんに言っていますが、言葉は重くなったと思います。
山は生きていると言う想いはなかったのですが、噴火の時に山は自らの意思があるのかなあと感じました。
山は怖いところだと思います、条件が悪ければ人の命を簡単に奪ってゆく場所ですが、こちらの向き合い方を真剣に考えればそう怖い場所ではないのかなあと感じます。
ガイド登山でも自分で考えて判断して行動できる自立した、絶対生きて帰ってくるという登山者になってほしいと思います。
2015年9月26日土曜日
一龍斎貞水(講談師) ・人間国宝講談師の高座60年
一龍斎貞水(講談師) ・人間国宝講談師の高座60年
16歳でプロの講談師になった一龍斎貞水さんは2002年に講談師として初の人間国宝になりました。
貞水さんは昔から演じられている怪談ものを守りながもくぎょうや雷の効果音を使い、赤や青の照明等で雰囲気を醸し出す立体怪談を演じてファンを驚かせ、怪談の貞水と言われるようになりました。
今では怪談噺だけで年間およそ150席になります。
講談は守るべきものと開拓すべきものがあるとおっしゃる一龍斎貞水さんに伺います。
高校1年生になってその5月から高座にあがりました。
お金がなかったので都立高校に行く様に親からいわれて、都立工芸高校(工業高校)に行こうとして、願書を持っていこうとしたら誰も友達が皆行かなくて、普通科の都立城北高校を受けに行ったら、受かってしまった。
担任が音楽の先生で、工業高校へ行くための勉強しかしていなかったし、音楽、英語、数学が得手としてなくて、面白くなかった。
父親は絵描きだったが、邑井貞吉先生が父と友達だった。
或る日邑井貞吉先生のところに行って、役者になろうと思っていると言ったら、芝居も講談も元は同じ芸の極意は同じだと言われて、役者になりたいのなら上野の本牧亭に出演しているので一緒に来給えと言われた。
邑井貞吉先生がやってご覧と言われて、講談はNHKのラジオで聞いただけなので、知っている物2つを5分ぐらいやった。
邑井貞吉先生は当時講談組合の頭取で、一緒に学生服を着ていったので孫だと当時前座だった田辺一鶴が勘違いして、待遇が良かった。
邑井貞吉先生がさっきやったことを高座でやってごらんと言われ学生服で高座にあがった。
それで学校にはいかないで本牧亭に通って、講談の世界に入るようになった。
父は何も言わなかったが、邑井貞吉先生には心配で聞いていたようだったが先生はそのうち辞めるだろうと言っていたようです。
やっているうちに段々好きになった。
趣味でやっているうちはいいが、生きてゆく道だと思うと逆に辛いと思う。
邑井貞吉先生の紹介で一龍斎貞丈先生の弟子になり、貞春という名前で始めた。
最初お客がいない高座の時を狙って練習をしたりしていた。
一龍斎貞丈師匠は講談をしゃべる人間からやれと言う事で、最初お茶を入れること、先輩の着物をたたむことから始める。
心使い、気配りができるかできないか、を楽屋で皆見る。
気配りができない、心がこもった仕事をしないものが、高座に上がった心のこもった話芸をやる訳はあり得ない。
楽屋の仕事をちゃんとできる人はどんなに下手でもお客さんはちゃんと聞いている。
心がこもってしゃべっているが、いい加減な者は上っ面でしゃべっているから直ぐお客さんが離れて行ってしまう。
「らしくしなさい」と言っている、前座は前座らしく、前座なのに真打ち「ぶるんじゃない」と言っている。
怪談は目立つ、本来は難しいと思う。
話だけなのでお化けが出てきても怖くはない、言葉だけで幽霊をあらわすので、人物をはっきり語りだせなかったら怪談は成り立たない。
怪談はテーマは現代的、善い人もいれば悪い人もいる、騙すやつがいれば、騙される人もいる、足を引っ張る人もいる等、そういう人間が怪談噺には出てくる。
怪談で話す幽霊はお化け屋敷の幽霊ではない。
怪談で照明、道具、音響等を使うが、そういうものに自分の講談が負けてしまうと何にもならない。
そういうのを相手にして自分が語っていかなければならないので難しい。
立体怪談 しゃべりながら照明、音を出す等一人でやる。
昔は若い歌い手は将来ミュージカルをやりたいと言っていたが、考えたら芝居があり音楽があり、歌、踊りがある、講談ミュージカルは何がいいかと思ったら、民謡講談だと思った。
講談をしゃべる、民謡が流れる、照明、背景がある、踊りを踊る。
民謡講談で使った方法を、キャバレーで怪談噺をやってホステスが怖がってお客にしがみついたりして喜ばれた。
うちの師匠は講談がうまくできたら怪談をやってもいいと言っていた。
立体怪談を年間140~150はやっている。
段々道具類は重くなってきている。
2002年人間国宝になる。(間違いではないかと思った。)
偉大なる未完成が一番いいと思う。
壁にぶち当たるには有る程度分かってきたから壁にぶち当たる、壁を乗り越える為のテクニック等を身に付けば、さらに高い壁があり、それの繰り返しであり、一番偉大な未完成で終われればいいんで、完璧だと思ったらそこで止まってしまう。
16歳でプロの講談師になった一龍斎貞水さんは2002年に講談師として初の人間国宝になりました。
貞水さんは昔から演じられている怪談ものを守りながもくぎょうや雷の効果音を使い、赤や青の照明等で雰囲気を醸し出す立体怪談を演じてファンを驚かせ、怪談の貞水と言われるようになりました。
今では怪談噺だけで年間およそ150席になります。
講談は守るべきものと開拓すべきものがあるとおっしゃる一龍斎貞水さんに伺います。
高校1年生になってその5月から高座にあがりました。
お金がなかったので都立高校に行く様に親からいわれて、都立工芸高校(工業高校)に行こうとして、願書を持っていこうとしたら誰も友達が皆行かなくて、普通科の都立城北高校を受けに行ったら、受かってしまった。
担任が音楽の先生で、工業高校へ行くための勉強しかしていなかったし、音楽、英語、数学が得手としてなくて、面白くなかった。
父親は絵描きだったが、邑井貞吉先生が父と友達だった。
或る日邑井貞吉先生のところに行って、役者になろうと思っていると言ったら、芝居も講談も元は同じ芸の極意は同じだと言われて、役者になりたいのなら上野の本牧亭に出演しているので一緒に来給えと言われた。
邑井貞吉先生がやってご覧と言われて、講談はNHKのラジオで聞いただけなので、知っている物2つを5分ぐらいやった。
邑井貞吉先生は当時講談組合の頭取で、一緒に学生服を着ていったので孫だと当時前座だった田辺一鶴が勘違いして、待遇が良かった。
邑井貞吉先生がさっきやったことを高座でやってごらんと言われ学生服で高座にあがった。
それで学校にはいかないで本牧亭に通って、講談の世界に入るようになった。
父は何も言わなかったが、邑井貞吉先生には心配で聞いていたようだったが先生はそのうち辞めるだろうと言っていたようです。
やっているうちに段々好きになった。
趣味でやっているうちはいいが、生きてゆく道だと思うと逆に辛いと思う。
邑井貞吉先生の紹介で一龍斎貞丈先生の弟子になり、貞春という名前で始めた。
最初お客がいない高座の時を狙って練習をしたりしていた。
一龍斎貞丈師匠は講談をしゃべる人間からやれと言う事で、最初お茶を入れること、先輩の着物をたたむことから始める。
心使い、気配りができるかできないか、を楽屋で皆見る。
気配りができない、心がこもった仕事をしないものが、高座に上がった心のこもった話芸をやる訳はあり得ない。
楽屋の仕事をちゃんとできる人はどんなに下手でもお客さんはちゃんと聞いている。
心がこもってしゃべっているが、いい加減な者は上っ面でしゃべっているから直ぐお客さんが離れて行ってしまう。
「らしくしなさい」と言っている、前座は前座らしく、前座なのに真打ち「ぶるんじゃない」と言っている。
怪談は目立つ、本来は難しいと思う。
話だけなのでお化けが出てきても怖くはない、言葉だけで幽霊をあらわすので、人物をはっきり語りだせなかったら怪談は成り立たない。
怪談はテーマは現代的、善い人もいれば悪い人もいる、騙すやつがいれば、騙される人もいる、足を引っ張る人もいる等、そういう人間が怪談噺には出てくる。
怪談で話す幽霊はお化け屋敷の幽霊ではない。
怪談で照明、道具、音響等を使うが、そういうものに自分の講談が負けてしまうと何にもならない。
そういうのを相手にして自分が語っていかなければならないので難しい。
立体怪談 しゃべりながら照明、音を出す等一人でやる。
昔は若い歌い手は将来ミュージカルをやりたいと言っていたが、考えたら芝居があり音楽があり、歌、踊りがある、講談ミュージカルは何がいいかと思ったら、民謡講談だと思った。
講談をしゃべる、民謡が流れる、照明、背景がある、踊りを踊る。
民謡講談で使った方法を、キャバレーで怪談噺をやってホステスが怖がってお客にしがみついたりして喜ばれた。
うちの師匠は講談がうまくできたら怪談をやってもいいと言っていた。
立体怪談を年間140~150はやっている。
段々道具類は重くなってきている。
2002年人間国宝になる。(間違いではないかと思った。)
偉大なる未完成が一番いいと思う。
壁にぶち当たるには有る程度分かってきたから壁にぶち当たる、壁を乗り越える為のテクニック等を身に付けば、さらに高い壁があり、それの繰り返しであり、一番偉大な未完成で終われればいいんで、完璧だと思ったらそこで止まってしまう。
2015年9月25日金曜日
海老彰子(ピアニスト) ・ピアノはわが師、わが友
海老彰子(ピアニスト) ・ピアノはわが師、わが友
現在、フランスのパリを中心に活躍しています。
東京芸術大学1年生の時に、日本音楽コンクールで優賞したあと、フランスに留学し、パリ国立音楽院を首席で卒業されました。
その後様々な国際コンクールで輝かしい成績を収め、今では世界各地で演奏を行っています。
最近ではご自身の演奏活動のほか、ピアノコンクールの審査員や審査員長を務め、今年は10月にワルシャワで開かれます、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も初めて務めることになっています。
4月にショパン国際ピアノコンクールの予備選で160人近くの方を74人に絞るという審査をしました。
1974年から40年以上パリで活動をしています。
今はフランスだけではなく世界各地に演奏に出かけているので、パリでの生活だけではなくなりました。
両親がピアノを演奏させたいとの思いがあったようで、3歳半の時に姉と一緒に広島で勉強を始めました。
母はピアノが好きで、父はバイオリンとクラリネット、サックスフォンをやっていました。
音楽を職業ではなく趣味でやっていました。
4歳の時に「声くらべ腕くらべ子供音楽会」がNHKのラジオで有り、出演しまして、今も録音テープがあります。
8歳でNHKのTVの「ピアノのお稽古」に出させて頂きました。
最初の頃はピアノはやりたくなかったが、7歳の時からはピアニストになりたいと思う様になり、自分で楽しんで曲に話を作りながら勉強していました。
高校は東京芸術大学の付属高校、大学は東京芸術大学に進学する。
高校の同級生には野平一郎さん、作曲家の高橋裕さんとか他にもいろいろいらっしゃいます。
大学3年の時にパリに給付留学生として留学する事になりました。
事前に先生が決まっていたが先生が別のところに行く事に急に決まって、3カ月宙ぶらりんの状態に一時なり精神的にも厳しく、言葉の勉強もやってようやく9月にパリに入れるようになりました。
ようやく勉強する事が出来ました。
アルド・チッコリーニ 先生、有名なピアニストについて勉強する事が出来ました。(入学試験の後)
5年間勉強しました。厳しかったです。
1年の時にアルド・チッコリーニ先生からコンクールに出ないかという事で1975年ロン・ティボーの国際コンクールに参加、2位となり、課題曲に対し併せて、アルトゥール・ルービンシュタイン賞をはじめとする4つの特別賞も受賞。
1980年ショパンコンクールに出場
5年に一度 国を挙げてやっているコンクールですが戒厳令が敷かれていた年でした。
優勝は ダン・タイ・ソンさん(ベトナム 22歳) 私は5位でした。
第一次予選の時は今までで一番緊張しました。
大江光さん(大江健三郎さんの息子)の作品を演奏するようになる。
江戸京子さんが主宰される東京音楽祭に招待されて、ショパンを弾いてほしいとの依頼があり、
そのあとに江戸さんの家で大江光さんと一緒になり、後日楽譜を頂く事になる。
大江健三郎さんからお話があり、ピアノとフルートの録音をするようになる。
(大江光さんの作品を収めた2枚のCDは、いずれも日本ゴールドディスク大賞を受賞して話題となり作曲家、演奏家ともに脚光を浴びた)
光さんの純粋な感性というのが、私たちをなごませてくれた様な思い出がいっぱいあります。
浜松国際ピアノコンクールで審査員長、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も行う予定。
マルタ・アルゲリッチさんも今回審査員です。
コンクールの前のオープニングコンサートで彼女がチャイコフスキーのピアノコンチェルトを弾く事になっています。
浜松国際ピアノコンクールでは審査員としてマルタ・アルゲリッチさんに来ていただく事になっています。
ショパン国際ピアノコンクールには日本から12名参加します。
浜松国際ピアノコンクールでは449人の人が応募、87人が残る事になりました。
人生とは何かなあと考えますが、なるべくいい伝統をバトンタッチしてゆく、それに尽きるのかなあと思います。
技術だけでなく、人間としての生き方、いいと思うものを伝えていければと思います。
いろんなピアノを弾いてきたので、出来るならばショパンが弾いた時代の古いピアノ等を含めて、いろんな種類のピアノで録音を少しずつ残していけたらいいと思います。
昔のピアノは普通に弾いてはあまり音が出ないので、音が出るようにするにはどうしら良いか考えると音楽に集中して弾かないと駄目、古楽器は意義のある経験を教えてくれるところがあります。
現在、フランスのパリを中心に活躍しています。
東京芸術大学1年生の時に、日本音楽コンクールで優賞したあと、フランスに留学し、パリ国立音楽院を首席で卒業されました。
その後様々な国際コンクールで輝かしい成績を収め、今では世界各地で演奏を行っています。
最近ではご自身の演奏活動のほか、ピアノコンクールの審査員や審査員長を務め、今年は10月にワルシャワで開かれます、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も初めて務めることになっています。
4月にショパン国際ピアノコンクールの予備選で160人近くの方を74人に絞るという審査をしました。
1974年から40年以上パリで活動をしています。
今はフランスだけではなく世界各地に演奏に出かけているので、パリでの生活だけではなくなりました。
両親がピアノを演奏させたいとの思いがあったようで、3歳半の時に姉と一緒に広島で勉強を始めました。
母はピアノが好きで、父はバイオリンとクラリネット、サックスフォンをやっていました。
音楽を職業ではなく趣味でやっていました。
4歳の時に「声くらべ腕くらべ子供音楽会」がNHKのラジオで有り、出演しまして、今も録音テープがあります。
8歳でNHKのTVの「ピアノのお稽古」に出させて頂きました。
最初の頃はピアノはやりたくなかったが、7歳の時からはピアニストになりたいと思う様になり、自分で楽しんで曲に話を作りながら勉強していました。
高校は東京芸術大学の付属高校、大学は東京芸術大学に進学する。
高校の同級生には野平一郎さん、作曲家の高橋裕さんとか他にもいろいろいらっしゃいます。
大学3年の時にパリに給付留学生として留学する事になりました。
事前に先生が決まっていたが先生が別のところに行く事に急に決まって、3カ月宙ぶらりんの状態に一時なり精神的にも厳しく、言葉の勉強もやってようやく9月にパリに入れるようになりました。
ようやく勉強する事が出来ました。
アルド・チッコリーニ 先生、有名なピアニストについて勉強する事が出来ました。(入学試験の後)
5年間勉強しました。厳しかったです。
1年の時にアルド・チッコリーニ先生からコンクールに出ないかという事で1975年ロン・ティボーの国際コンクールに参加、2位となり、課題曲に対し併せて、アルトゥール・ルービンシュタイン賞をはじめとする4つの特別賞も受賞。
1980年ショパンコンクールに出場
5年に一度 国を挙げてやっているコンクールですが戒厳令が敷かれていた年でした。
優勝は ダン・タイ・ソンさん(ベトナム 22歳) 私は5位でした。
第一次予選の時は今までで一番緊張しました。
大江光さん(大江健三郎さんの息子)の作品を演奏するようになる。
江戸京子さんが主宰される東京音楽祭に招待されて、ショパンを弾いてほしいとの依頼があり、
そのあとに江戸さんの家で大江光さんと一緒になり、後日楽譜を頂く事になる。
大江健三郎さんからお話があり、ピアノとフルートの録音をするようになる。
(大江光さんの作品を収めた2枚のCDは、いずれも日本ゴールドディスク大賞を受賞して話題となり作曲家、演奏家ともに脚光を浴びた)
光さんの純粋な感性というのが、私たちをなごませてくれた様な思い出がいっぱいあります。
浜松国際ピアノコンクールで審査員長、ショパン国際ピアノコンクールの本戦の審査員も行う予定。
マルタ・アルゲリッチさんも今回審査員です。
コンクールの前のオープニングコンサートで彼女がチャイコフスキーのピアノコンチェルトを弾く事になっています。
浜松国際ピアノコンクールでは審査員としてマルタ・アルゲリッチさんに来ていただく事になっています。
ショパン国際ピアノコンクールには日本から12名参加します。
浜松国際ピアノコンクールでは449人の人が応募、87人が残る事になりました。
人生とは何かなあと考えますが、なるべくいい伝統をバトンタッチしてゆく、それに尽きるのかなあと思います。
技術だけでなく、人間としての生き方、いいと思うものを伝えていければと思います。
いろんなピアノを弾いてきたので、出来るならばショパンが弾いた時代の古いピアノ等を含めて、いろんな種類のピアノで録音を少しずつ残していけたらいいと思います。
昔のピアノは普通に弾いてはあまり音が出ないので、音が出るようにするにはどうしら良いか考えると音楽に集中して弾かないと駄目、古楽器は意義のある経験を教えてくれるところがあります。
2015年9月24日木曜日
海部宣男(国立天文台名誉教授) ・自然を知りたいという心とともに
海部宣男(国立天文台名誉教授) ・自然を知りたいという心とともに
1943生まれ 専門は電波天文学、赤外線天文学 長野県野辺山の電波望遠鏡、ハワイの世界最大級の望遠鏡、スバル望遠鏡の建設で中心的な役割を果たしました。
その後国立天文台台長を務め、南米チリの標高およそ5000mの高地に国際共同プロジェクトで大形の電波望遠鏡アルマ望遠鏡の建設にも携わりました。
2012年から3年間は世界の天文学者の集まりであるIAU国際天文学連合の会長として活躍され、このほどその任を終えました。
加盟国は70カ国ぐらい、個人の天文学者は1万1000人ぐらいです。
副会長は前にやっていたが、会長は荷が重いと思っていた。
最期が非常に忙しかった。(総会が行われる)
IAUの組織全体を大がかりに変更する。
IAU国際天文学連合 教育活動、普及活動に非常に熱心に取り組んできた。
世界的に広めるために開発のための天文学のオフィスを作った。
国連加盟は180いくつあり、天文学を本当に研究できる国はそれほど多くはないと言う事です。
大学教育の支援、小、中、高の学校の教育の支援、一般の方への普及活動をやろうと言う事でIAUの10年計画を立てて、丁度私のところで道半ばで軌道に乗った。
オフィスを南アフリカ(ケープタウン)に建て、非常にうまくいっている。
支部を6カ国に作っていった。
世界にはアマチュア天文学者がいっぱいいるので、研究者とアマチュアを結ぼうではないかという事で、天文学普及オフィスを作って、日本の三鷹につくり面白い活動をたくさんしています。
太陽系外惑星が何1000とあり重要な惑星に名前を付けようと、世界のネット上での投票にかけて選ぶと言う、皆で名前を付けようとしています。
日本の中学、高校が非常に熱心です。
野辺山の電波望遠鏡等を作ってきましたが、日本は孤立していると言う印象を持った。
世界の天文学と対抗しようとすると、相手は巨大なアメリカと、強固な連合を持っているヨーロッパで日本は一人で、アジア諸国の協力が必要だと思った。
韓国、中国、台湾、日本はお互いの頭を飛び越して、アメリカ、ヨーロッパと行ったり来たりしていてお互いの事はあまり知らないのでおかしいと思った。
経済、政治は違っても文化は共有しているので、近いと言う事と文化を共有していると言う事は学問の世界でも非常に大事で、だからヨーロッパは連合していて、アメリカはカナダと密接につながっている、何故アジアだけできないのかという発想があった。
1990年ぐらいから共同で中国、台湾、韓国、日本で東アジア天文学会議をずーっと続けてきました。
段々協力が育ってきて、天文学も盛んになってきた。
プラネタリュウム 日本では星の話はギリシャ、ローマ神話をやっている、北京、インドネシアでも同様にやっておりこれは変だと思った。
アジアにはアジアの沢山の星の話が有るはずだと思って、アジアのお互い同士が知り合うと言う事を是非やりたいと思っていて、世界天文年でプロジェクトを立ち上げようと思って、13カ国から集まった。
シンポジュウムを三鷹でやったら、60数名集まって話も100ぐらい集まって、それを本にする計画を立てた。
去年日本語版ができて英語版を進めているところです。
大事なことは絵を入れた、話を出した国の画家が描かないと文化は絶対に伝わらないので、絵も含めて文化を感じてほしいと言う事が狙いです。
英語版を出版すれば、それを元にして元の国の人が自分の国の言葉に翻訳して出してもらうという事です。
小学校6年~中学1年に掛けて自分で望遠鏡を作って、観測をやったが、宇宙、自然は不思議な面白いものだと思っていた。
山、谷を見ても不思議に思った。
火山でのないのになんで山があるんだろう、なんで谷があるんだろうと思っていた。
「自然界の脅威」という本を買ってもらって、自然の地形、造形がどうやってできるのかが判ってきて、自然とは何て凄いんだろうと思って、それがずーっと有ります。
背後にある物理法則、長い時間が作りだす自然の営みが、宇宙そのものにつながってゆくわけです。
宇宙も自然の一環として凄いものだと、そういったものをもっと知りたいと思った。
研究やるんだったら今まで誰も知らなかった新しい自然の驚きを見つけてやりたいと言う想いが一番の動機です。
電波天文学、赤外線天文学 星や太陽からも電波が出ていて、無線が発達して電波を受けることを覚えて、光ではなくて電波を受けて光と同じようにそれが何であるかを調べる。
電波で見ると、人間の目で見えなかった、全く違う物が見える。
電波天文学が始まって光と合わせて、宇宙とはこういうものだと言う事が理解できたと思います。
星は何からできるか、判らない、星ができる前の物質は温度が低い、電波でしか見えない。
星が烈しく爆発するときには、エネルギーが散らばっていくが光では見えなくて、電波では見える。
星がどうやって生まれるか、星が一生を終って死んでどうなるか、大きなサイクルが光と電波を合わせてようやく見えてきた。
銀河系等から来る電波は弱いので受けられない、波長の短いミリ波を受けたら新しいことが判るだろううと 赤羽賢司、森本雅樹先生らによる宇宙電波グループに参加、小さいミリ波電波望遠鏡(口径6m)を作った。
アメリカのタウンズ氏(ノーベル賞を貰った人)が宇宙にも化合物の電波があるはずだと言う事で見つかり、大きな分野になるのではないかという事でそっちの方に大きく転換した。
長野県野辺山の電波望遠鏡 ミリ波観測(口径45m)を作る。
世界でも驚いた、いきなり新しい大事な分野で世界一の望遠鏡を作った。
日本の天文学の大きなステップとなった。
宇宙の暗黒の冷たい雲があるが、その雲から星ができる事は観測してだんだん判ってきて、星ができると星を回りながら暗黒の冷たい雲は細かい個体の粒を含んでいて、それがくっついて惑星ができる。
暗黒星雲がどういう材料で出来ているか徹底的に調べたら、有機物、炭素の化合物がいっぱい見つかった。
われわれの体は有機物で出来ているが、宇宙にはそれのもとになる様なものができていると言う事が非常に面白かった。
これは科学として研究できるかもしれないと思ったのが非常に大きな収穫だった。
スバル望遠鏡(光)の製作にかかわる。
惑星ができる所を観測できる可能性のある望遠鏡。
INLTでは親しまれないからと提案して スバルという名前を付ける。
清少納言が星はすばるだと言ったぐらいなので、イメージが鮮やか。
日本が世界に追い付くためには一足飛びが必要だった。
ミリ波電波望遠鏡(口径6m)から口径45mへと冒険はあったが自信はあった。
日本にあった光の望遠鏡はイギリスから買った岡山にある1.9mの望遠鏡だったが、自前で8.2mの望遠鏡を作るが、日本の技術力も進んでいて着実にやれたと思います。
「初心忘るべからず」という事を常に思っている。
最初の想いは非常に大事で、新鮮、純粋。
大型計画が十分理解されていない部分があるので、是非やらなければいけないことを分野全体の支持でやってゆく、そういう考え方が必要なのでもっと組織的にやっていこうと言う事でマスタープランが出来るようになり、そこにかかわっていきます。
日本は科学雑誌が少ない、アメリカからは2桁少ない。
日本の科学者の幅の狭さがある、もっと社会に広く科学の関心が広まっていかないと危ないと思います。
出来るだけ科学を、科学の精神を広めていきたいと思います。
1943生まれ 専門は電波天文学、赤外線天文学 長野県野辺山の電波望遠鏡、ハワイの世界最大級の望遠鏡、スバル望遠鏡の建設で中心的な役割を果たしました。
その後国立天文台台長を務め、南米チリの標高およそ5000mの高地に国際共同プロジェクトで大形の電波望遠鏡アルマ望遠鏡の建設にも携わりました。
2012年から3年間は世界の天文学者の集まりであるIAU国際天文学連合の会長として活躍され、このほどその任を終えました。
加盟国は70カ国ぐらい、個人の天文学者は1万1000人ぐらいです。
副会長は前にやっていたが、会長は荷が重いと思っていた。
最期が非常に忙しかった。(総会が行われる)
IAUの組織全体を大がかりに変更する。
IAU国際天文学連合 教育活動、普及活動に非常に熱心に取り組んできた。
世界的に広めるために開発のための天文学のオフィスを作った。
国連加盟は180いくつあり、天文学を本当に研究できる国はそれほど多くはないと言う事です。
大学教育の支援、小、中、高の学校の教育の支援、一般の方への普及活動をやろうと言う事でIAUの10年計画を立てて、丁度私のところで道半ばで軌道に乗った。
オフィスを南アフリカ(ケープタウン)に建て、非常にうまくいっている。
支部を6カ国に作っていった。
世界にはアマチュア天文学者がいっぱいいるので、研究者とアマチュアを結ぼうではないかという事で、天文学普及オフィスを作って、日本の三鷹につくり面白い活動をたくさんしています。
太陽系外惑星が何1000とあり重要な惑星に名前を付けようと、世界のネット上での投票にかけて選ぶと言う、皆で名前を付けようとしています。
日本の中学、高校が非常に熱心です。
野辺山の電波望遠鏡等を作ってきましたが、日本は孤立していると言う印象を持った。
世界の天文学と対抗しようとすると、相手は巨大なアメリカと、強固な連合を持っているヨーロッパで日本は一人で、アジア諸国の協力が必要だと思った。
韓国、中国、台湾、日本はお互いの頭を飛び越して、アメリカ、ヨーロッパと行ったり来たりしていてお互いの事はあまり知らないのでおかしいと思った。
経済、政治は違っても文化は共有しているので、近いと言う事と文化を共有していると言う事は学問の世界でも非常に大事で、だからヨーロッパは連合していて、アメリカはカナダと密接につながっている、何故アジアだけできないのかという発想があった。
1990年ぐらいから共同で中国、台湾、韓国、日本で東アジア天文学会議をずーっと続けてきました。
段々協力が育ってきて、天文学も盛んになってきた。
プラネタリュウム 日本では星の話はギリシャ、ローマ神話をやっている、北京、インドネシアでも同様にやっておりこれは変だと思った。
アジアにはアジアの沢山の星の話が有るはずだと思って、アジアのお互い同士が知り合うと言う事を是非やりたいと思っていて、世界天文年でプロジェクトを立ち上げようと思って、13カ国から集まった。
シンポジュウムを三鷹でやったら、60数名集まって話も100ぐらい集まって、それを本にする計画を立てた。
去年日本語版ができて英語版を進めているところです。
大事なことは絵を入れた、話を出した国の画家が描かないと文化は絶対に伝わらないので、絵も含めて文化を感じてほしいと言う事が狙いです。
英語版を出版すれば、それを元にして元の国の人が自分の国の言葉に翻訳して出してもらうという事です。
小学校6年~中学1年に掛けて自分で望遠鏡を作って、観測をやったが、宇宙、自然は不思議な面白いものだと思っていた。
山、谷を見ても不思議に思った。
火山でのないのになんで山があるんだろう、なんで谷があるんだろうと思っていた。
「自然界の脅威」という本を買ってもらって、自然の地形、造形がどうやってできるのかが判ってきて、自然とは何て凄いんだろうと思って、それがずーっと有ります。
背後にある物理法則、長い時間が作りだす自然の営みが、宇宙そのものにつながってゆくわけです。
宇宙も自然の一環として凄いものだと、そういったものをもっと知りたいと思った。
研究やるんだったら今まで誰も知らなかった新しい自然の驚きを見つけてやりたいと言う想いが一番の動機です。
電波天文学、赤外線天文学 星や太陽からも電波が出ていて、無線が発達して電波を受けることを覚えて、光ではなくて電波を受けて光と同じようにそれが何であるかを調べる。
電波で見ると、人間の目で見えなかった、全く違う物が見える。
電波天文学が始まって光と合わせて、宇宙とはこういうものだと言う事が理解できたと思います。
星は何からできるか、判らない、星ができる前の物質は温度が低い、電波でしか見えない。
星が烈しく爆発するときには、エネルギーが散らばっていくが光では見えなくて、電波では見える。
星がどうやって生まれるか、星が一生を終って死んでどうなるか、大きなサイクルが光と電波を合わせてようやく見えてきた。
銀河系等から来る電波は弱いので受けられない、波長の短いミリ波を受けたら新しいことが判るだろううと 赤羽賢司、森本雅樹先生らによる宇宙電波グループに参加、小さいミリ波電波望遠鏡(口径6m)を作った。
アメリカのタウンズ氏(ノーベル賞を貰った人)が宇宙にも化合物の電波があるはずだと言う事で見つかり、大きな分野になるのではないかという事でそっちの方に大きく転換した。
長野県野辺山の電波望遠鏡 ミリ波観測(口径45m)を作る。
世界でも驚いた、いきなり新しい大事な分野で世界一の望遠鏡を作った。
日本の天文学の大きなステップとなった。
宇宙の暗黒の冷たい雲があるが、その雲から星ができる事は観測してだんだん判ってきて、星ができると星を回りながら暗黒の冷たい雲は細かい個体の粒を含んでいて、それがくっついて惑星ができる。
暗黒星雲がどういう材料で出来ているか徹底的に調べたら、有機物、炭素の化合物がいっぱい見つかった。
われわれの体は有機物で出来ているが、宇宙にはそれのもとになる様なものができていると言う事が非常に面白かった。
これは科学として研究できるかもしれないと思ったのが非常に大きな収穫だった。
スバル望遠鏡(光)の製作にかかわる。
惑星ができる所を観測できる可能性のある望遠鏡。
INLTでは親しまれないからと提案して スバルという名前を付ける。
清少納言が星はすばるだと言ったぐらいなので、イメージが鮮やか。
日本が世界に追い付くためには一足飛びが必要だった。
ミリ波電波望遠鏡(口径6m)から口径45mへと冒険はあったが自信はあった。
日本にあった光の望遠鏡はイギリスから買った岡山にある1.9mの望遠鏡だったが、自前で8.2mの望遠鏡を作るが、日本の技術力も進んでいて着実にやれたと思います。
「初心忘るべからず」という事を常に思っている。
最初の想いは非常に大事で、新鮮、純粋。
大型計画が十分理解されていない部分があるので、是非やらなければいけないことを分野全体の支持でやってゆく、そういう考え方が必要なのでもっと組織的にやっていこうと言う事でマスタープランが出来るようになり、そこにかかわっていきます。
日本は科学雑誌が少ない、アメリカからは2桁少ない。
日本の科学者の幅の狭さがある、もっと社会に広く科学の関心が広まっていかないと危ないと思います。
出来るだけ科学を、科学の精神を広めていきたいと思います。
2015年9月23日水曜日
南 慧昭(勝光寺) ・仏心を歌で届ける
南 慧昭(勝光寺) ・仏心を歌で届ける
1942年昭和17年、800年の歴史のある勝光寺の長男として誕生しましたが、寺を継ぐ道を選びませんでした。
鹿児島大学を卒業し、東京の大手食品会社に勤め企業戦士として働きました。
52歳の時、勝光寺を守っていた次男で副住職の光洋さんが病気で亡くなり、南さんは再び人生の選択を迫られました。
悩んだ末60歳まで会社に勤め、2年間の修業を積み勝光寺の住職として迎えられました。
その時に生まれたのが仏の教えを歌で届ける歌説法です。
小さい時から歌が大好きな南さん、大学時代はグリークラブで、社会人になってからは地域の合唱の指導者として、活躍しました。
その実績を修行した寺の長老が知るところとなり、音楽の経験を布教に生かしたらどうか、と勧められ歌説法が誕生しました。
今は自ら作曲した曲を寺や公民館、福祉施設、会社の研修会などで歌い、仏の心、教えをつたえています。
南こうせつさんは南さんの弟さんです。
勝光寺の住職を10年務めています。
修行したのは周りは平均年齢23歳で、私は60歳なので健康面を含め不安は感じました。
10年間色々あったなあと思いだしました、あっという間でした。
お寺の環境を是非解放したい、遊んでくださいと思っています。
40,50年前はお釈迦様の誕生日には甘茶を頭から掛けてあげて皆にふるまってくれる、檀家とかに関係なく頂きに来ていました。
以前よりもお寺に接する機会が少なくなりました。
甘茶の会を気候の良い5月上旬に行っています、お経をあげて、甘茶を振る舞って、本堂で音楽会をやります。
集まった方が全員参加してもらって、皆で歌ってもらいます。
楽しんでもらって、お寺、お坊さん とっつきにくいそいうものから、接していただければと思っています。
本堂にピアノがありますが、こうせつから貰いました。
子供の頃は本堂が役所、病院などが近くにあったりして会議の集会場等になっていて夜になると、宴会場になって酔っぱらった人から歌を歌えと言われて、歌って喜ばれたのを覚えています。
今考えると、毎回やるので、自己紹介したり、お話をしたり歌う事に慣れてしまったようです。
出前歌説法、出掛けて歌で説法する、心の健康について歌うんだよという事です。
きっかけは、修行して何とか卒業する事が出来て、長老から音楽を初めいろいろ経験してきたのだから、是非新しい布教のスタイルでお説法を作り上げてみたらどうかと言われた。
バブルの崩壊の時期で、世の中が一変してどうしようもなく、世の中でとんでもない事件が起きてきて、皆さんが精神的に不安定になり、是非心の健康をテーマにして明るい世の中にしてゆくように、新しい布教のスタイルを作ってみたらどうかと言われました。
特に童謡を入れてみたらどうか、一方通行ではなく皆で歌ってもらたらどうかと思った。
今日は楽しかったと思ってもらえればいいんだと言う事を、先ず実験をして、良い反響があって広がっていった。
童謡は不思議なもので皆覚えている。
地域の公民館活動で、老人会、等で来てくれないかとの話もあり、企業の方からも話がありました。
友人とともにオリジナルの歌も作詩、作曲したりしました。
「我が家が一番」
「親子三代住みなれて家族のきずな太くなる。 春の雨音叩いても、大きな掌受けとめる。
ひとの心のぬくもりを貴方は教えてくれました。 見守りがわらの頼もしさ。」
作詩 梅小路孝史さん(友人) 作曲は私です。
皆さん、手拍子をして、歌詩カードを皆が見て判るわけです。
歌はただ話だけでなくして、手拍子をしたりしていると、みな生き生きして最後には笑顔になってきます、それが一番説法していて楽しみです。
人と人の繋がり、繋がっていけば笑顔ができてきて、結果的には心の健康に繋がり、歌の役割は非常に大きいのではないかと思います。
大きな大きな人の輪 お布施の歌
「有難うございますと、心をこめて素直に言えますか。 どれほど親しい中であれ、人に施しを受けたなら感謝の気持ちを表しましょう。」
最後に歌ったあとは皆さん笑顔になる。
笑顔が出ると言う事はそれが一番素晴らしい、音楽の力は素晴らしいと思います。
周りからはお寺の跡を継ぐんですねとしょっちゅう言われて、子供の頃はお寺が好きではなかった、派手で楽しい方がよかった。
母親からは、世の中に出て思いっきり自分が暴れなさいと言ってくれた、凄いと思った。
しかし最後に、うちは1196年に大友能直候が作ったお寺であり、子供が4人いて誰も継がないのは世間の笑い物になると言ったのが重い言葉だったが、子供の意志で自分の道を選んで行くとギブアップしないが親から言われるとかならず人のせいにすると思う。
兄も飛び出し、私は東京、弟も都会に出たが都会と合わず戻ってきて副住職になる。
私は企業戦士で目の前を走っているだけだった。
52歳で神田の社長になった時に、バブル崩壊となった。
大変だという事で勉強会があったが、豊かにはなったが心はちっとも豊かにならないと皆が言う。
弟も亡くなり、別世界に行く事になる。
健康で有れば60歳からの人生は絶対楽しい、大事にして下さいと皆さんに言っています。
心の健康
人間には煩悩があり、煩悩があるがゆえに、色々邪魔をする、或いは人生を楽しくすることもある、どちらにも働く。
戻らぬ過去にとらわれず、まだ見ぬ未来に夢追い過ぎず、何とかなるさの気楽さで今を楽しく過ごしましょう。
過ぎ去った事はどうしようもない、夢は持つ事は素晴らしいが、追い過ぎてしまってはいけない。
苦しい事は色々あるが一歩踏み出せば、次の動きが出てくる。
坐禅
姿勢を正し、ゆっくりと腹式呼吸、目線1m先、半眼 手を組んでゆっくり落ち着く。
雑念が起こるが放りだす、何度もやるうちに少なくなってくる。
神経をゆっくり休める時間、結果的に自分の心を見つめ直すことになる。
1942年昭和17年、800年の歴史のある勝光寺の長男として誕生しましたが、寺を継ぐ道を選びませんでした。
鹿児島大学を卒業し、東京の大手食品会社に勤め企業戦士として働きました。
52歳の時、勝光寺を守っていた次男で副住職の光洋さんが病気で亡くなり、南さんは再び人生の選択を迫られました。
悩んだ末60歳まで会社に勤め、2年間の修業を積み勝光寺の住職として迎えられました。
その時に生まれたのが仏の教えを歌で届ける歌説法です。
小さい時から歌が大好きな南さん、大学時代はグリークラブで、社会人になってからは地域の合唱の指導者として、活躍しました。
その実績を修行した寺の長老が知るところとなり、音楽の経験を布教に生かしたらどうか、と勧められ歌説法が誕生しました。
今は自ら作曲した曲を寺や公民館、福祉施設、会社の研修会などで歌い、仏の心、教えをつたえています。
南こうせつさんは南さんの弟さんです。
勝光寺の住職を10年務めています。
修行したのは周りは平均年齢23歳で、私は60歳なので健康面を含め不安は感じました。
10年間色々あったなあと思いだしました、あっという間でした。
お寺の環境を是非解放したい、遊んでくださいと思っています。
40,50年前はお釈迦様の誕生日には甘茶を頭から掛けてあげて皆にふるまってくれる、檀家とかに関係なく頂きに来ていました。
以前よりもお寺に接する機会が少なくなりました。
甘茶の会を気候の良い5月上旬に行っています、お経をあげて、甘茶を振る舞って、本堂で音楽会をやります。
集まった方が全員参加してもらって、皆で歌ってもらいます。
楽しんでもらって、お寺、お坊さん とっつきにくいそいうものから、接していただければと思っています。
本堂にピアノがありますが、こうせつから貰いました。
子供の頃は本堂が役所、病院などが近くにあったりして会議の集会場等になっていて夜になると、宴会場になって酔っぱらった人から歌を歌えと言われて、歌って喜ばれたのを覚えています。
今考えると、毎回やるので、自己紹介したり、お話をしたり歌う事に慣れてしまったようです。
出前歌説法、出掛けて歌で説法する、心の健康について歌うんだよという事です。
きっかけは、修行して何とか卒業する事が出来て、長老から音楽を初めいろいろ経験してきたのだから、是非新しい布教のスタイルでお説法を作り上げてみたらどうかと言われた。
バブルの崩壊の時期で、世の中が一変してどうしようもなく、世の中でとんでもない事件が起きてきて、皆さんが精神的に不安定になり、是非心の健康をテーマにして明るい世の中にしてゆくように、新しい布教のスタイルを作ってみたらどうかと言われました。
特に童謡を入れてみたらどうか、一方通行ではなく皆で歌ってもらたらどうかと思った。
今日は楽しかったと思ってもらえればいいんだと言う事を、先ず実験をして、良い反響があって広がっていった。
童謡は不思議なもので皆覚えている。
地域の公民館活動で、老人会、等で来てくれないかとの話もあり、企業の方からも話がありました。
友人とともにオリジナルの歌も作詩、作曲したりしました。
「我が家が一番」
「親子三代住みなれて家族のきずな太くなる。 春の雨音叩いても、大きな掌受けとめる。
ひとの心のぬくもりを貴方は教えてくれました。 見守りがわらの頼もしさ。」
作詩 梅小路孝史さん(友人) 作曲は私です。
皆さん、手拍子をして、歌詩カードを皆が見て判るわけです。
歌はただ話だけでなくして、手拍子をしたりしていると、みな生き生きして最後には笑顔になってきます、それが一番説法していて楽しみです。
人と人の繋がり、繋がっていけば笑顔ができてきて、結果的には心の健康に繋がり、歌の役割は非常に大きいのではないかと思います。
大きな大きな人の輪 お布施の歌
「有難うございますと、心をこめて素直に言えますか。 どれほど親しい中であれ、人に施しを受けたなら感謝の気持ちを表しましょう。」
最後に歌ったあとは皆さん笑顔になる。
笑顔が出ると言う事はそれが一番素晴らしい、音楽の力は素晴らしいと思います。
周りからはお寺の跡を継ぐんですねとしょっちゅう言われて、子供の頃はお寺が好きではなかった、派手で楽しい方がよかった。
母親からは、世の中に出て思いっきり自分が暴れなさいと言ってくれた、凄いと思った。
しかし最後に、うちは1196年に大友能直候が作ったお寺であり、子供が4人いて誰も継がないのは世間の笑い物になると言ったのが重い言葉だったが、子供の意志で自分の道を選んで行くとギブアップしないが親から言われるとかならず人のせいにすると思う。
兄も飛び出し、私は東京、弟も都会に出たが都会と合わず戻ってきて副住職になる。
私は企業戦士で目の前を走っているだけだった。
52歳で神田の社長になった時に、バブル崩壊となった。
大変だという事で勉強会があったが、豊かにはなったが心はちっとも豊かにならないと皆が言う。
弟も亡くなり、別世界に行く事になる。
健康で有れば60歳からの人生は絶対楽しい、大事にして下さいと皆さんに言っています。
心の健康
人間には煩悩があり、煩悩があるがゆえに、色々邪魔をする、或いは人生を楽しくすることもある、どちらにも働く。
戻らぬ過去にとらわれず、まだ見ぬ未来に夢追い過ぎず、何とかなるさの気楽さで今を楽しく過ごしましょう。
過ぎ去った事はどうしようもない、夢は持つ事は素晴らしいが、追い過ぎてしまってはいけない。
苦しい事は色々あるが一歩踏み出せば、次の動きが出てくる。
坐禅
姿勢を正し、ゆっくりと腹式呼吸、目線1m先、半眼 手を組んでゆっくり落ち着く。
雑念が起こるが放りだす、何度もやるうちに少なくなってくる。
神経をゆっくり休める時間、結果的に自分の心を見つめ直すことになる。
2015年9月22日火曜日
寺澤 徹(元マラソンランナー) ・失速から復活へ、わがマラソン人生
寺澤 徹(元マラソンランナー) ・失速から復活へ、わがマラソン人生
昭和10年東京生まれ、戦時中に富山県の高岡市に疎開しました。
高校卒業後、地元の自動車販売店に就職し、陸上長距離で活躍しました。
1959年24歳の時に大手企業の富山工場に移り本格的にマラソンを始めました。
主要なマラソン大会で好成績を上げ、1962年12月の朝日国際マラソンでは日本最高記録で初優勝、翌年1963年の別府大分毎日マラソンではエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。
この頃ベルリンオリンピックで活躍した、村社講平さんがコーチとして指導しました。
これらの実績を元に、寺澤さんは1964年の東京オリンピックのマラソン競技に出場しました。
しかし、後半失速し2時間23分9秒で15位に終わりました。
失意の寺澤さんは一時は引退も考えましたが、その年12月の朝日国際マラソンに挑戦、日本最高記録で優勝しました。
寺澤さんはその後も大きな大会で、優勝を重ね自分の生涯最高記録も出しています。
コーチ監督兼任でも走り、市民ランナーとしても走り続けました。
健康のためのランニングを毎朝5時に起きて、1時間弱走っています。
体調はずーっといいです。
体重は若い時とほとんど変わっていません。(80歳 54.5kg 若い時は54kg)
年に一回ロードレースに14,5年参加しています。
父親の仕事の関係で、高岡市に疎開となったようです。
小学校低学年の時は身体が弱かったが、高岡は私の体に合っていた様で、高学年になると元気になりました。
全国高校駅伝の富山県予選でチームを作る事になり、陸上部ではなかったが、そのメンバーに入って一緒に1カ月ぐらい練習をしたが、何日かしたら陸上の選手よりも強かったので、県大会は一番長い距離を走ったが6位で、全国大会には行けなかったが、長い距離を走れるのかなとの思いがあり、2年の時に陸上部に入りました。
高校時代は1500m、卒業後5000mに挑戦、3年後に国体で6位に入賞する事ができた。
日本一になろうとの思いで練習をしたが駄目で、1万mで駄目で、20kmで駄目で、24歳で転職を機会にフルマラソンに挑戦する事になる。
昭和35年福井マラソン (25歳)に挑戦したら、3位に入った。(2時間34分24秒)
マラソンは走っている途中は苦しかったが、楽だなあと思った。
昭和36年 2回目が別府毎日マラソンで3位に入りました。(2時間27分14秒)
走るスタイルは後半型だったが、優勝するためにはこれではだめなので、前半も頑張ろうと翌年別府で挑戦したが、後半へばって駄目だった。(5位 2時間27分5秒)
1962年夏、ニュージーランド遠征 5名2カ月間指導を受けに行く事になる。
その年の冬 朝日国際マラソンで初優勝する。(2時間16分18秒4 当時の日本最高記録となる)
1963年 別府毎日マラソンでエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。(0秒4 アベベを上回る事ができた。 アベベは当時この世界では神様の様な存在だった)
37kmぐらいの時にアベベのタイムに勝てるぞとのコーチからの掛け声を聞いて、両足に豆ができていたが、足の痛いのを我慢して頑張ったので世界記録につながったと思う。
円谷、君原選手とともに東京オリンピックの代表に選ばれる。
日本も後半型から前半型に移行する中途の時期だった。
東京オリンピックは1964年10月21日に36カ国の68選手が参加、当日の私の体調は良かったと思います。
うまくいけば3位に入れると思ってスタートしたが、後半失速して、7,8分悪い、2時間23分9秒
15位になってしまった。
苦しかったがなんとか完走しようと思って、ゴールでは頑張って完走してよかったと思った。
タイムの悪い原因は何かは判らなかった。
最初の5kmの入りが15分38秒だった、今までの世界記録の時等は16分15秒ぐらいだった。
ちょっと早いかなあとの思いがあり、16分10秒ぐらいにして走った。
20kmの時点で世界記録の時より早かった、これから行こうと思ったが25km過ぎてから足が重くなって、30kmから18分台になり、失速してしまったが、最初の入りが早かったので、ペースを遅くしたが、それぐらいしか思い当たる事はなかった。
円谷選手が銅メダル、君原選手が8位だった。(君原選手も失速)
それまでオリンピックの日本陸上は惨敗だったので、マラソンに対する期待感があり自分たちも頑張らねばという様なプレッシャーはあったと思います、精神面でまだ
弱かったと思います。
マラソンは止めようかなという思いはありました。
年齢も29歳で限界かなあとの思いもありましたが、朝日国際マラソンに出て、2時間20分切れなかったら諦めようとの思いで出ることに決めて、30日間ぐらいしか時間がなかったが練習をして、参加し優勝する。(2時間14分48秒 日本最高記録)
行けると言う思いが出てきて、続けていった結果が別府マラソンで3連勝4連勝と続けて連勝できたと思う。
オリンピックで惨敗したことが、もう一回挑戦する事になり、そのあとずーっと競技生活、競技年齢も何年も続けてこられ、負け惜しみではないですが、負けて良かったのかなあと思います
1965年 30歳で生涯最高記録を出す。(2時間13分41秒)
1969年 34歳 最後の優勝を果たす。
監督、市民ランナーとして一般の人と走る機会も出来て、話ができたり色々良かったと思います。
東京オリンピックで辞めていたら、監督になったり、市民ランナーとして走る事もなく、続けて良かったなあと思います。
富山マラソンが11月にあり、5kmの部に参加させてもらうことになり、楽しみながら走りたいと思います。
マラソンは孤独で自分で頑張らなければいけない助けてくれる人はいないが、人生は自分だけでやってもたかが知れていて、いろんな人に助けてもらいながら、自分で研さんして成長していかなければいけない、マラソンをやっていたおかげで沢山の人と知り合いになり、相談を受けとめてくれる人がいるので、本当によかったなあと思います。
昭和10年東京生まれ、戦時中に富山県の高岡市に疎開しました。
高校卒業後、地元の自動車販売店に就職し、陸上長距離で活躍しました。
1959年24歳の時に大手企業の富山工場に移り本格的にマラソンを始めました。
主要なマラソン大会で好成績を上げ、1962年12月の朝日国際マラソンでは日本最高記録で初優勝、翌年1963年の別府大分毎日マラソンではエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。
この頃ベルリンオリンピックで活躍した、村社講平さんがコーチとして指導しました。
これらの実績を元に、寺澤さんは1964年の東京オリンピックのマラソン競技に出場しました。
しかし、後半失速し2時間23分9秒で15位に終わりました。
失意の寺澤さんは一時は引退も考えましたが、その年12月の朝日国際マラソンに挑戦、日本最高記録で優勝しました。
寺澤さんはその後も大きな大会で、優勝を重ね自分の生涯最高記録も出しています。
コーチ監督兼任でも走り、市民ランナーとしても走り続けました。
健康のためのランニングを毎朝5時に起きて、1時間弱走っています。
体調はずーっといいです。
体重は若い時とほとんど変わっていません。(80歳 54.5kg 若い時は54kg)
年に一回ロードレースに14,5年参加しています。
父親の仕事の関係で、高岡市に疎開となったようです。
小学校低学年の時は身体が弱かったが、高岡は私の体に合っていた様で、高学年になると元気になりました。
全国高校駅伝の富山県予選でチームを作る事になり、陸上部ではなかったが、そのメンバーに入って一緒に1カ月ぐらい練習をしたが、何日かしたら陸上の選手よりも強かったので、県大会は一番長い距離を走ったが6位で、全国大会には行けなかったが、長い距離を走れるのかなとの思いがあり、2年の時に陸上部に入りました。
高校時代は1500m、卒業後5000mに挑戦、3年後に国体で6位に入賞する事ができた。
日本一になろうとの思いで練習をしたが駄目で、1万mで駄目で、20kmで駄目で、24歳で転職を機会にフルマラソンに挑戦する事になる。
昭和35年福井マラソン (25歳)に挑戦したら、3位に入った。(2時間34分24秒)
マラソンは走っている途中は苦しかったが、楽だなあと思った。
昭和36年 2回目が別府毎日マラソンで3位に入りました。(2時間27分14秒)
走るスタイルは後半型だったが、優勝するためにはこれではだめなので、前半も頑張ろうと翌年別府で挑戦したが、後半へばって駄目だった。(5位 2時間27分5秒)
1962年夏、ニュージーランド遠征 5名2カ月間指導を受けに行く事になる。
その年の冬 朝日国際マラソンで初優勝する。(2時間16分18秒4 当時の日本最高記録となる)
1963年 別府毎日マラソンでエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。(0秒4 アベベを上回る事ができた。 アベベは当時この世界では神様の様な存在だった)
37kmぐらいの時にアベベのタイムに勝てるぞとのコーチからの掛け声を聞いて、両足に豆ができていたが、足の痛いのを我慢して頑張ったので世界記録につながったと思う。
円谷、君原選手とともに東京オリンピックの代表に選ばれる。
日本も後半型から前半型に移行する中途の時期だった。
東京オリンピックは1964年10月21日に36カ国の68選手が参加、当日の私の体調は良かったと思います。
うまくいけば3位に入れると思ってスタートしたが、後半失速して、7,8分悪い、2時間23分9秒
15位になってしまった。
苦しかったがなんとか完走しようと思って、ゴールでは頑張って完走してよかったと思った。
タイムの悪い原因は何かは判らなかった。
最初の5kmの入りが15分38秒だった、今までの世界記録の時等は16分15秒ぐらいだった。
ちょっと早いかなあとの思いがあり、16分10秒ぐらいにして走った。
20kmの時点で世界記録の時より早かった、これから行こうと思ったが25km過ぎてから足が重くなって、30kmから18分台になり、失速してしまったが、最初の入りが早かったので、ペースを遅くしたが、それぐらいしか思い当たる事はなかった。
円谷選手が銅メダル、君原選手が8位だった。(君原選手も失速)
それまでオリンピックの日本陸上は惨敗だったので、マラソンに対する期待感があり自分たちも頑張らねばという様なプレッシャーはあったと思います、精神面でまだ
弱かったと思います。
マラソンは止めようかなという思いはありました。
年齢も29歳で限界かなあとの思いもありましたが、朝日国際マラソンに出て、2時間20分切れなかったら諦めようとの思いで出ることに決めて、30日間ぐらいしか時間がなかったが練習をして、参加し優勝する。(2時間14分48秒 日本最高記録)
行けると言う思いが出てきて、続けていった結果が別府マラソンで3連勝4連勝と続けて連勝できたと思う。
オリンピックで惨敗したことが、もう一回挑戦する事になり、そのあとずーっと競技生活、競技年齢も何年も続けてこられ、負け惜しみではないですが、負けて良かったのかなあと思います
1965年 30歳で生涯最高記録を出す。(2時間13分41秒)
1969年 34歳 最後の優勝を果たす。
監督、市民ランナーとして一般の人と走る機会も出来て、話ができたり色々良かったと思います。
東京オリンピックで辞めていたら、監督になったり、市民ランナーとして走る事もなく、続けて良かったなあと思います。
富山マラソンが11月にあり、5kmの部に参加させてもらうことになり、楽しみながら走りたいと思います。
マラソンは孤独で自分で頑張らなければいけない助けてくれる人はいないが、人生は自分だけでやってもたかが知れていて、いろんな人に助けてもらいながら、自分で研さんして成長していかなければいけない、マラソンをやっていたおかげで沢山の人と知り合いになり、相談を受けとめてくれる人がいるので、本当によかったなあと思います。
2015年9月21日月曜日
森本早苗(化粧品訪問販売員) ・80代のカリスマ・セールスレディー
森本早苗(化粧品訪問販売員) ・80代のカリスマ・セールスレディー
84歳(昭和6年生まれ)の森本さんは化粧品訪問販売の仕事を始めて56年、今でもマイカーを運転し、お客様のお宅を訪問する現役のセールスレディーです。
持ち前の仕事に対する情熱と客様を大切にする気配りで勤務する会社で初の月間売上100万円累計売上1億円達成第一号など輝かしい営業成績を残しまして、地域を統括するマネージャーにも抜擢されました。
20年前支店長を希望退職してセールスの現場に戻った森本さんはその後も水を得た魚のように、愛車を駆ってお客様の家庭を訪問して、化粧品のセールスを続けています。
カリスマ的な営業成績の秘密は、80代になっても元気に仕事が続けられる情熱はどこから来るのか、伺います。
実家が愛媛県今治市で、家も古いと、学校を卒業すると、縁談話を持ってくるので、縁談から逃れるために東京に来ました。
会社がすぐそばで面接に行ったら、成績をグラフで表されていて、自分に合っていると思った。
常に一番がいいとの思いがあり、やりがいがあると思った。
1カ月の累計が50万円社員はいたが100万円社員は私が初めてです。
当時大卒の初任給が1万2000円ぐらいだったがその時私は10万円取っていました(退職金は無し)
1億円を達成したのは昭和52,3年ごろです、会社の中で最速でした。
秘訣は私の本を読んで見て貰えれば分かりますが、一口で言うとお客様を綺麗にしてあげることです。
朝7時には化粧をして、化粧して電話するのと、化粧しないで電話するのとでは声の張りが違います、早く人に会いたくなります。
デパートでは次に行くときは担当者が違うが、私等の場合は担当者が同じなので健康状態が判る。
綺麗にしてあげればお客さんのためには親切だと私は解釈している。
私は夢を販売すると思っているので、「訪問販売お断り」の表記には気にならない。
綺麗にしてあげると家族も喜ぶ、食卓も華やぐ。
お客さんのトイレは絶対借りない様にしている。(相手の嫌がる様な事はしない)
夏などはアイス買ってお孫さんにどうぞと言って渡したりすると、食べなくては溶けてしまうので、食べていただけるが、取っておけるものだと返されてしまうかもしれない。
その時売れなくても、次に行けるような「見込み」、将来の布石になる様な事は行う。
車で行くメリット→駐車料金を取られるので長居をしない、(もうちょっと話していて貰いたいなあと言うぐらいで帰る)
お客さんを車で歯医者さん等にお送りする事、迎えも出来る。(これは私のみ)
話し下手でも聞き上手になる事はすごく大事。
服装は白が多い、相手も気持ちが明るく感じる。
時間は一番大事です。(決めるのに2,3分で品物決めるのと、1時間で決めるのでは、時間のロスがある)
相手の名前、家族の名前なども知っておくことも大事。
礼状などは封書でなく葉書で、短く直筆で行う、メールは駄目。
気配りをする人は成績もいいという事です。
約束の時間に遅れてしまった場合は先ずお詫び、ちょっとした品物(会社の品物ではなく自分で身銭を切った物)を渡す。(言い訳をしない)
いつでも来ていいと言われたら、直ぐにいつかをこちらから言って確認した日を決めて伺う様にする。
プライベートのこと、選挙の時の政治のことは、言わないようにした方がいい。
20年前支店長を希望退職、自由にものが言える事になる、直にお客さんの声が聞ける。
色紙には「行動」と書いて配るが、社長室にも飾ってあります。
高齢化社会になり、訪問販売は喜ばれるが、車で行くと、息子は事故を気にしている。
車の中は勉強部屋です。
長い付き合いをしていると、私の方が長生きしたら死化粧させてくださいと言ってあげる人もいます、そうすると相手も安心します。
90歳までお伺いしますと言っています。
84歳(昭和6年生まれ)の森本さんは化粧品訪問販売の仕事を始めて56年、今でもマイカーを運転し、お客様のお宅を訪問する現役のセールスレディーです。
持ち前の仕事に対する情熱と客様を大切にする気配りで勤務する会社で初の月間売上100万円累計売上1億円達成第一号など輝かしい営業成績を残しまして、地域を統括するマネージャーにも抜擢されました。
20年前支店長を希望退職してセールスの現場に戻った森本さんはその後も水を得た魚のように、愛車を駆ってお客様の家庭を訪問して、化粧品のセールスを続けています。
カリスマ的な営業成績の秘密は、80代になっても元気に仕事が続けられる情熱はどこから来るのか、伺います。
実家が愛媛県今治市で、家も古いと、学校を卒業すると、縁談話を持ってくるので、縁談から逃れるために東京に来ました。
会社がすぐそばで面接に行ったら、成績をグラフで表されていて、自分に合っていると思った。
常に一番がいいとの思いがあり、やりがいがあると思った。
1カ月の累計が50万円社員はいたが100万円社員は私が初めてです。
当時大卒の初任給が1万2000円ぐらいだったがその時私は10万円取っていました(退職金は無し)
1億円を達成したのは昭和52,3年ごろです、会社の中で最速でした。
秘訣は私の本を読んで見て貰えれば分かりますが、一口で言うとお客様を綺麗にしてあげることです。
朝7時には化粧をして、化粧して電話するのと、化粧しないで電話するのとでは声の張りが違います、早く人に会いたくなります。
デパートでは次に行くときは担当者が違うが、私等の場合は担当者が同じなので健康状態が判る。
綺麗にしてあげればお客さんのためには親切だと私は解釈している。
私は夢を販売すると思っているので、「訪問販売お断り」の表記には気にならない。
綺麗にしてあげると家族も喜ぶ、食卓も華やぐ。
お客さんのトイレは絶対借りない様にしている。(相手の嫌がる様な事はしない)
夏などはアイス買ってお孫さんにどうぞと言って渡したりすると、食べなくては溶けてしまうので、食べていただけるが、取っておけるものだと返されてしまうかもしれない。
その時売れなくても、次に行けるような「見込み」、将来の布石になる様な事は行う。
車で行くメリット→駐車料金を取られるので長居をしない、(もうちょっと話していて貰いたいなあと言うぐらいで帰る)
お客さんを車で歯医者さん等にお送りする事、迎えも出来る。(これは私のみ)
話し下手でも聞き上手になる事はすごく大事。
服装は白が多い、相手も気持ちが明るく感じる。
時間は一番大事です。(決めるのに2,3分で品物決めるのと、1時間で決めるのでは、時間のロスがある)
相手の名前、家族の名前なども知っておくことも大事。
礼状などは封書でなく葉書で、短く直筆で行う、メールは駄目。
気配りをする人は成績もいいという事です。
約束の時間に遅れてしまった場合は先ずお詫び、ちょっとした品物(会社の品物ではなく自分で身銭を切った物)を渡す。(言い訳をしない)
いつでも来ていいと言われたら、直ぐにいつかをこちらから言って確認した日を決めて伺う様にする。
プライベートのこと、選挙の時の政治のことは、言わないようにした方がいい。
20年前支店長を希望退職、自由にものが言える事になる、直にお客さんの声が聞ける。
色紙には「行動」と書いて配るが、社長室にも飾ってあります。
高齢化社会になり、訪問販売は喜ばれるが、車で行くと、息子は事故を気にしている。
車の中は勉強部屋です。
長い付き合いをしていると、私の方が長生きしたら死化粧させてくださいと言ってあげる人もいます、そうすると相手も安心します。
90歳までお伺いしますと言っています。
2015年9月20日日曜日
崎原真弓(バスガイド) ・ウチナンチューの心を語り伝えるバスガイド(H27/6/21放送)
崎原真弓(バスガイド) ・ウチナンチューの心を語り伝えるバスガイド(H27/6/21放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_21.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2015年9月19日土曜日
中島 潔(画家) ・「現代の地獄絵」を描く
中島 潔(画家) ・「現代の地獄絵」を描く
かわいらしい子供や儚げな女性の絵で知られる中島さんですが、今年畳一畳ほどの大きなキャンバス5枚に描いた地獄絵を、京都市の六道珍皇寺に奉納しました。
この絵は地獄に心の音の図と書いて、「地獄心音図」と名付けられ、地獄に落ちた人が、鬼に様々な攻め苦を負わされる様子が強く鮮やかな色使いで描かれています。
地獄絵を通して、中島さんが今の時代に伝えたかったのは何かを伺いました。
地獄は八大地獄と言いまして、八つの場所に分かれているらしい。
八つの地獄を五枚の絵に描きました。
一枚目が等活地獄、次に黒縄地獄、最後が阿鼻獄(無限地獄)で一番重い罪を犯した人が行く場所です。
最初描くのが怖かったです。
ここのところ自然災害、社会において、子供さん、大人の痛ましい光景が多い。
今の世の中はちょっと変わってしまった様に思う。
若者、年寄りが住むところが無かったり、自然災害の時に、考えられない苦しみの中にいる人たちの所から、物を盗む人がいたり、人としてそんなことができるんだろうかと、驚きがあり、強いメッセージを送りたいと思い地獄絵を描きました。
自分等自身を見つめ直して、考えることが必要ではないかと思った。
「悪いことをすると地獄に行って火あぶりにされたり、舌を抜かれたりするので悪い事はしない様に」という事を子供のころに母親から言われ、怖いと思って子供心に悪い事はしないようにとか思った。
母親もそうですが、お釈迦様、お坊さん達が大事なことをどうしても伝えたいことがあったと思う。
そういうものを地獄絵を描く事によって、見いだせるのではないかと思った。
京都市の六道珍皇寺は、冥界への入口があると言われる寺で、古い地獄絵も所蔵しています。
地獄絵を見せて頂いたが、地獄絵の一番大事な真ん中に、心と書いてあった。
自分でも描き始めて、どうしてなのか判らず、描いていたが、最後に自分で思ったことは、心は普段使っている感覚ではないのではないかと思った。
魂とか、身体とは別のものだと思う。
母親のおなかの中にいる前から、身体ができる前から心があって、それにずーっと身体ができていったものではないかと思う。
それを汚しては駄目だと言う事だと思います。
私が描いた地獄の中で右往左往している人達、判り易い様に人間として描いているけれども、それは心なんですね。
身体は無くなるが、心は残ると思う。
悪い事をしてもそれで終わりではなく、ずーっと消えない、心が汚れてしまうとそのまま行くんですよ、そこで罰を受けて、もう一回心を生まれる前のものに戻して、生まれ変わりましょう、という事で地獄絵はあるのかなあと思いました。(でも安心したのは地獄も仏様の世界)
仏さまが地獄の世界を作って自分の姿を鬼にして、罰を受けさせる。
地獄の世界はもう一回心を綺麗にして戻ってほしいと言う事なんです。
罪が一番重くなってゆく最後の方は、嘘は重大な罰(良く舌を抜くと言う)で、真面目に生きてきた人に痛い目を合わすのが一番重い。
生きている素晴らしさをも地獄絵は教えてくれる。
強いメッセージを送りたいと思って描き始めたが、地獄絵の中に自分もいろんなところにいる。
地獄絵を見る人も自分はここにいると思う、どこかに自分がいる。
自分自身を客観的に見ることができる。
最初の予定にはなかったが、一番最後の時に、一番好きな部分に地蔵菩薩を入れた。
地蔵菩薩が女の人を抱きかかえられていて、さあ戻りましょうか、と 女の人は笑みなんです。
その絵を描いた時に思った、あれは母親だと、母親の愛だと。
大人になっても母親に抱かれたような気持で生きれれば、これが一番素晴らしいと思う。
いま生きている日々の中でそういう気持ちで過ごして生きていけたら、それは天国だと思います。
六道珍皇寺に奉納し、自ら地元の子供たちを前に解説をしました。
嘘をつくのはとても良くないことであると、伝える。
地蔵菩薩の事を最後に説明する。
子供達の中に私なりのメッセージを残したと思うし、悪いことをする事は気分のいいものではないので、なるべくそういう事をしない方がいいと言う様な話をしました。
自分の気持ちを後ろむきでなく、夢や希望に誠一杯走ってほしい。
地獄、心、音 心を綺麗になって綺麗な音を出すような、「地獄心音図」でそういう見方をしていただきたい。
かわいらしい子供や儚げな女性の絵で知られる中島さんですが、今年畳一畳ほどの大きなキャンバス5枚に描いた地獄絵を、京都市の六道珍皇寺に奉納しました。
この絵は地獄に心の音の図と書いて、「地獄心音図」と名付けられ、地獄に落ちた人が、鬼に様々な攻め苦を負わされる様子が強く鮮やかな色使いで描かれています。
地獄絵を通して、中島さんが今の時代に伝えたかったのは何かを伺いました。
地獄は八大地獄と言いまして、八つの場所に分かれているらしい。
八つの地獄を五枚の絵に描きました。
一枚目が等活地獄、次に黒縄地獄、最後が阿鼻獄(無限地獄)で一番重い罪を犯した人が行く場所です。
最初描くのが怖かったです。
ここのところ自然災害、社会において、子供さん、大人の痛ましい光景が多い。
今の世の中はちょっと変わってしまった様に思う。
若者、年寄りが住むところが無かったり、自然災害の時に、考えられない苦しみの中にいる人たちの所から、物を盗む人がいたり、人としてそんなことができるんだろうかと、驚きがあり、強いメッセージを送りたいと思い地獄絵を描きました。
自分等自身を見つめ直して、考えることが必要ではないかと思った。
「悪いことをすると地獄に行って火あぶりにされたり、舌を抜かれたりするので悪い事はしない様に」という事を子供のころに母親から言われ、怖いと思って子供心に悪い事はしないようにとか思った。
母親もそうですが、お釈迦様、お坊さん達が大事なことをどうしても伝えたいことがあったと思う。
そういうものを地獄絵を描く事によって、見いだせるのではないかと思った。
京都市の六道珍皇寺は、冥界への入口があると言われる寺で、古い地獄絵も所蔵しています。
地獄絵を見せて頂いたが、地獄絵の一番大事な真ん中に、心と書いてあった。
自分でも描き始めて、どうしてなのか判らず、描いていたが、最後に自分で思ったことは、心は普段使っている感覚ではないのではないかと思った。
魂とか、身体とは別のものだと思う。
母親のおなかの中にいる前から、身体ができる前から心があって、それにずーっと身体ができていったものではないかと思う。
それを汚しては駄目だと言う事だと思います。
私が描いた地獄の中で右往左往している人達、判り易い様に人間として描いているけれども、それは心なんですね。
身体は無くなるが、心は残ると思う。
悪い事をしてもそれで終わりではなく、ずーっと消えない、心が汚れてしまうとそのまま行くんですよ、そこで罰を受けて、もう一回心を生まれる前のものに戻して、生まれ変わりましょう、という事で地獄絵はあるのかなあと思いました。(でも安心したのは地獄も仏様の世界)
仏さまが地獄の世界を作って自分の姿を鬼にして、罰を受けさせる。
地獄の世界はもう一回心を綺麗にして戻ってほしいと言う事なんです。
罪が一番重くなってゆく最後の方は、嘘は重大な罰(良く舌を抜くと言う)で、真面目に生きてきた人に痛い目を合わすのが一番重い。
生きている素晴らしさをも地獄絵は教えてくれる。
強いメッセージを送りたいと思って描き始めたが、地獄絵の中に自分もいろんなところにいる。
地獄絵を見る人も自分はここにいると思う、どこかに自分がいる。
自分自身を客観的に見ることができる。
最初の予定にはなかったが、一番最後の時に、一番好きな部分に地蔵菩薩を入れた。
地蔵菩薩が女の人を抱きかかえられていて、さあ戻りましょうか、と 女の人は笑みなんです。
その絵を描いた時に思った、あれは母親だと、母親の愛だと。
大人になっても母親に抱かれたような気持で生きれれば、これが一番素晴らしいと思う。
いま生きている日々の中でそういう気持ちで過ごして生きていけたら、それは天国だと思います。
六道珍皇寺に奉納し、自ら地元の子供たちを前に解説をしました。
嘘をつくのはとても良くないことであると、伝える。
地蔵菩薩の事を最後に説明する。
子供達の中に私なりのメッセージを残したと思うし、悪いことをする事は気分のいいものではないので、なるべくそういう事をしない方がいいと言う様な話をしました。
自分の気持ちを後ろむきでなく、夢や希望に誠一杯走ってほしい。
地獄、心、音 心を綺麗になって綺麗な音を出すような、「地獄心音図」でそういう見方をしていただきたい。
2015年9月18日金曜日
故・深谷義治さんの二男・敏雄 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵(H27/07/28放送)
故・深谷義治さんの二男・敏雄 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵(H27/07/28放送)
チリ巨大地震(M8.3)の放送のため、上記の再放送は中止になりました。
日本に最大で1mの津波が、早いところでは今日午前6時ごろに到達する予想との事です。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
チリ巨大地震(M8.3)の放送のため、上記の再放送は中止になりました。
日本に最大で1mの津波が、早いところでは今日午前6時ごろに到達する予想との事です。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_28.htmlをご覧ください。
2015年9月17日木曜日
真山 仁(作家) ・記者が私の原点(H27/06/15放送)
真山 仁(作家) ・記者が私の原点(H27/06/15放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_15.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_15.htmlをご覧ください。
2015年9月16日水曜日
梅津貴昶(梅津流家元) ・私の芸に完成はない
梅津貴昶(日本舞踊家・振付師・梅津流家元) ・私の芸に完成はない
1948年昭和23年生まれの梅津さんは小児麻痺の身体で生まれ、本人いわく脳以外はほぼ全身患ったと言います。
母親の影響もあり、習いごとにいい日とされる、6歳の6月6日に花柳流に入門して日本舞踊を始め、20歳で尾上流を学びました。
振付家としては26歳の時に78歳の武原はんさんの振付をしたのを始め、5代目坂東玉三郎さん、18世中村勘三郎さん、10世坂東三津五郎さん等、当代一流の歌舞伎俳優の振付や指導をしたことでも活躍されています。
衣装やかつらを付けずに踊る素踊りを追求し続ける梅津さんに聞きました。
しょっちゅう踊りのことを考えていますが、しょっちゅう病気もしていますし、舞台と日々の暮らしはあんまり切り替えません。
勘三郎さんはすごく上がり症なんです、私もそうですが、舞台の職業に関わらず緊張しますし、幕の開く瞬間は一つの自分の中で違う世界が始まってゆくんだという覚悟みたいなのがあるが、私に対してよく上がらないねと言われますが、自分の中では心臓が口から出るんじゃないかというくらいですが表に出ないです。
昭和26年6世中村歌右衛門の舞台、この時2歳半だったが、感動して鮮明に覚えています。
戦争で歌舞伎座が焼けて、再建して4代目の節目の年だった。(1月がこけら落ちし)
近代日本画が好きだったので歌舞伎座のロビーに素晴らしい絵画ばっかりだった。
その時が100%感だったので、自分の基準になってしまって、それからが大変だった、80%感だと嫌なんですよ。
6世中村歌右衛門の道成寺を6日間見ました。(舞台に対していろんな場所で見ました。)
立体的な、宇宙の丸い中にいて万華鏡みたいな感覚でした。
舞台を観に行き学校にはあまりいかなくて、出席日数が少なくて、母が学校によく謝りに行っていましたが、私が芸の道に行く人間だと言う事、足が悪かった割に出席返事には行ったりした為、当時の時代だったのかもしれないが、校長先生も理解してくれて、卒業する事ができた。
人の悪いところを見ない、その人を良くしようと思ったら、人のいいところを見なさいと、母はよく言っていた。
ある易者に見てもらった時に、大変ですねといって、病弱だったので大変だったろうなあと自分でも思ってました。
文楽、東踊り、新派、新国劇に発展していろんなものに発展してしまったので大変な子だとは自分自身思っていたが、10人育てるほどのエネルギーが必要だと、占い師に母が言われた。
後日母は占い師はあたらなかった、10人育てるほどのエネルギーが必要だと言われていたが、私は7,8人分ぐらいと思っていたら、母は冗談ではない、20人分ぐらいだと言われてしまった。
病との闘い、股関節脱臼で生まれて、赤ん坊の時に手術が失敗、小学校で脊髄カリエス、踊れないのなら動かす方にかけてみたらというアドバイスもあり、そこから又踊りを再開してそれが良かった。
中学で蓄膿の中に悪性の腫瘍で2度手術、ストレスで胃にポリープができて手術、椎間板ヘルニアでぶどうの蔓みたいに骨がまつわりついてしまい身体が動かなくなり、それをきらないといけなくなってそこからが大変だった。
昭和63年に入院、踊れたのが平成4年で6年弱でした。
病気が何か私を押しとどめて、何かを考えたり、何かを蓄積させたりする時間なのかもしれないと思った。
その間に良い先生との巡り合いがあった。
病院は9時になると消灯になるので、スーッと抜け出してすり足の練習をしました。
新しい発見は、鍛錬の呼吸、おなかに力を入れて肩の力を抜くと言う事でしょうか、それに気が付きました。
病院の中でも綺麗に歩いている方は肩に力が入らずお腹に力が入っている。
長い間の闘病生活の工夫もきっと何かの芸には生きていると思います。
身体ではなく心が動く間は踊りに関して一つでも新しい発見、プラスの発見、踊りに対してプラスになる事はいいことだと思ってます、踊りに懸ける愛情だと思います。
その後も病気しました、本当に生まれてから,5年健康で病気のことを考えなかったことはないですね。
病気でも、経験が最大の教師だと思います。
武原はんさんとの出会い。
昭和30年、私が7歳の時に歌舞伎座で武原はんの会があり、「月」題名 高浜虚子の作詩
それを観た時には、鮮烈だった。
麻布会があって月に一回会って芸の話をしようという事で、色々な方がおりまして、(中村雀右衛門、先代の都一中(一中節の三味線方の名跡)、17代目中村勘三郎、演劇評論家如月青子、郡司正勝、6代目菊五郎の未亡人の寺島千代、表千家の桜内きく、武原はん等の先生方 そして私)色々の事を話していた。
武原先生の事は鮮烈過ぎて不思議、かげってこなくてお婆さんにならない部分がある、すごいエネルギーの人です。
武原先生との出会いは宇宙の神秘、立体感の中で会った御縁です。(平面的ではない触れあった縁)
白洲次郎さんとの出会い。
21歳の時に、或るレストランで注文していたら、シェフが白洲さんがお呼びですとの声が掛かり、「死ぬその時まで踊りの事を考えてられそうだ」とおっしゃってくださった。
白洲さんから言われて、それから5日間続けて一緒に食べることになる。
神様の引き合わせだと思います。
「どんなにいいことをしたって約束を破ってはいけない、どんなにその日に一生懸命やっても遅刻をしては駄目」、と言われた。
白洲さんがリサイタルを見に来て「高尾」は役者になるのか、舞踊家になるのか、男なのか、女の子みたいで釈然としないと言われた。
自分の心が全部見えてしまったんだと思った。
きりっとしたたたずまい、そういった方に行った方がいいよと言われた様な気がして、素踊りで行こうと思った。
昭和60年 子娘道成寺を素踊りでやったが、新しい門出なのでかならず見に行くよと言ってくれたが、2日前に倒れて見て頂けなかったのが残念です。
歌舞伎座 劇場の空気は他の劇場にない、何かがある、格式のある柔らかさ、媚びていない。
舞いと踊りで舞踊 舞踊家は舞えて踊れないといけないとだめなんじゃないですか、それを目指しています。
舞い踊りそれが私にとっての舞踊です。
自分の踊ってきた踊り方、自分が選んだ曲、自分が作ってきた振りが、私だという事が判らなくていいから、何かの形で日本の芸に残るような修行をして行きたいと思っています。
1948年昭和23年生まれの梅津さんは小児麻痺の身体で生まれ、本人いわく脳以外はほぼ全身患ったと言います。
母親の影響もあり、習いごとにいい日とされる、6歳の6月6日に花柳流に入門して日本舞踊を始め、20歳で尾上流を学びました。
振付家としては26歳の時に78歳の武原はんさんの振付をしたのを始め、5代目坂東玉三郎さん、18世中村勘三郎さん、10世坂東三津五郎さん等、当代一流の歌舞伎俳優の振付や指導をしたことでも活躍されています。
衣装やかつらを付けずに踊る素踊りを追求し続ける梅津さんに聞きました。
しょっちゅう踊りのことを考えていますが、しょっちゅう病気もしていますし、舞台と日々の暮らしはあんまり切り替えません。
勘三郎さんはすごく上がり症なんです、私もそうですが、舞台の職業に関わらず緊張しますし、幕の開く瞬間は一つの自分の中で違う世界が始まってゆくんだという覚悟みたいなのがあるが、私に対してよく上がらないねと言われますが、自分の中では心臓が口から出るんじゃないかというくらいですが表に出ないです。
昭和26年6世中村歌右衛門の舞台、この時2歳半だったが、感動して鮮明に覚えています。
戦争で歌舞伎座が焼けて、再建して4代目の節目の年だった。(1月がこけら落ちし)
近代日本画が好きだったので歌舞伎座のロビーに素晴らしい絵画ばっかりだった。
その時が100%感だったので、自分の基準になってしまって、それからが大変だった、80%感だと嫌なんですよ。
6世中村歌右衛門の道成寺を6日間見ました。(舞台に対していろんな場所で見ました。)
立体的な、宇宙の丸い中にいて万華鏡みたいな感覚でした。
舞台を観に行き学校にはあまりいかなくて、出席日数が少なくて、母が学校によく謝りに行っていましたが、私が芸の道に行く人間だと言う事、足が悪かった割に出席返事には行ったりした為、当時の時代だったのかもしれないが、校長先生も理解してくれて、卒業する事ができた。
人の悪いところを見ない、その人を良くしようと思ったら、人のいいところを見なさいと、母はよく言っていた。
ある易者に見てもらった時に、大変ですねといって、病弱だったので大変だったろうなあと自分でも思ってました。
文楽、東踊り、新派、新国劇に発展していろんなものに発展してしまったので大変な子だとは自分自身思っていたが、10人育てるほどのエネルギーが必要だと、占い師に母が言われた。
後日母は占い師はあたらなかった、10人育てるほどのエネルギーが必要だと言われていたが、私は7,8人分ぐらいと思っていたら、母は冗談ではない、20人分ぐらいだと言われてしまった。
病との闘い、股関節脱臼で生まれて、赤ん坊の時に手術が失敗、小学校で脊髄カリエス、踊れないのなら動かす方にかけてみたらというアドバイスもあり、そこから又踊りを再開してそれが良かった。
中学で蓄膿の中に悪性の腫瘍で2度手術、ストレスで胃にポリープができて手術、椎間板ヘルニアでぶどうの蔓みたいに骨がまつわりついてしまい身体が動かなくなり、それをきらないといけなくなってそこからが大変だった。
昭和63年に入院、踊れたのが平成4年で6年弱でした。
病気が何か私を押しとどめて、何かを考えたり、何かを蓄積させたりする時間なのかもしれないと思った。
その間に良い先生との巡り合いがあった。
病院は9時になると消灯になるので、スーッと抜け出してすり足の練習をしました。
新しい発見は、鍛錬の呼吸、おなかに力を入れて肩の力を抜くと言う事でしょうか、それに気が付きました。
病院の中でも綺麗に歩いている方は肩に力が入らずお腹に力が入っている。
長い間の闘病生活の工夫もきっと何かの芸には生きていると思います。
身体ではなく心が動く間は踊りに関して一つでも新しい発見、プラスの発見、踊りに対してプラスになる事はいいことだと思ってます、踊りに懸ける愛情だと思います。
その後も病気しました、本当に生まれてから,5年健康で病気のことを考えなかったことはないですね。
病気でも、経験が最大の教師だと思います。
武原はんさんとの出会い。
昭和30年、私が7歳の時に歌舞伎座で武原はんの会があり、「月」題名 高浜虚子の作詩
それを観た時には、鮮烈だった。
麻布会があって月に一回会って芸の話をしようという事で、色々な方がおりまして、(中村雀右衛門、先代の都一中(一中節の三味線方の名跡)、17代目中村勘三郎、演劇評論家如月青子、郡司正勝、6代目菊五郎の未亡人の寺島千代、表千家の桜内きく、武原はん等の先生方 そして私)色々の事を話していた。
武原先生の事は鮮烈過ぎて不思議、かげってこなくてお婆さんにならない部分がある、すごいエネルギーの人です。
武原先生との出会いは宇宙の神秘、立体感の中で会った御縁です。(平面的ではない触れあった縁)
白洲次郎さんとの出会い。
21歳の時に、或るレストランで注文していたら、シェフが白洲さんがお呼びですとの声が掛かり、「死ぬその時まで踊りの事を考えてられそうだ」とおっしゃってくださった。
白洲さんから言われて、それから5日間続けて一緒に食べることになる。
神様の引き合わせだと思います。
「どんなにいいことをしたって約束を破ってはいけない、どんなにその日に一生懸命やっても遅刻をしては駄目」、と言われた。
白洲さんがリサイタルを見に来て「高尾」は役者になるのか、舞踊家になるのか、男なのか、女の子みたいで釈然としないと言われた。
自分の心が全部見えてしまったんだと思った。
きりっとしたたたずまい、そういった方に行った方がいいよと言われた様な気がして、素踊りで行こうと思った。
昭和60年 子娘道成寺を素踊りでやったが、新しい門出なのでかならず見に行くよと言ってくれたが、2日前に倒れて見て頂けなかったのが残念です。
歌舞伎座 劇場の空気は他の劇場にない、何かがある、格式のある柔らかさ、媚びていない。
舞いと踊りで舞踊 舞踊家は舞えて踊れないといけないとだめなんじゃないですか、それを目指しています。
舞い踊りそれが私にとっての舞踊です。
自分の踊ってきた踊り方、自分が選んだ曲、自分が作ってきた振りが、私だという事が判らなくていいから、何かの形で日本の芸に残るような修行をして行きたいと思っています。
2015年9月15日火曜日
根深 誠(津軽百年の森づくり会長) ・津軽百年の森づくり
根深 誠(津軽百年の森づくり会長) ・津軽百年の森づくり
68歳 青森県弘前市で育った根深さんは子供のころから山に入って遊ぶことが大好きでした。
ヒマラヤなどの山々を歩き、九死に一生を得た経験を何回も経験してきた登山家です。
3年前からブナの苗木を津軽平野に植えて大自然に恩返しをしようとたちあがりました。
津軽百年の森作り、どんな思いで森作りに取り組んできたのか、伺いました。
3年前、白神山地の世界遺産が20周年を迎えて、観ていると騒ぐだけなので、もっと人々の見えるところでやった方がいいと提案していたが、だれもやらないので自分でやるしかないと思って、津軽100年の森作りと言う事で、ブナ、大山桜、ミズナラとか植えて、世界遺産とリンクした街の景観作りをやらなければいけないと思った。
青森市の市長が理解してくれて、青森市の公園に植える事業を継続して、今年も秋に植えます。
小学校のころから近所の山にあけび等を取りに行ったりして遊んでいました。
岩木山に登った時は驚きでした、見たことのない景観だった。
当時、3人で白神の縦走をしたのですが、頼りになるのが1/50000の地図と磁石だけでした。
猿はいるし、熊などがいて怖くて声を出しながら歩きました。
外国の山に憧れ、大学に入って山岳部に入りました。
白神山地 1/4が秋田 3/4が青森で、そこに林道を通す計画があった。
弘前大学の先生が青森県の自然保護の権威的な存在なので、その人に話したらいいと言う事で、行ったらそんな計画は聞いていないと言う。
具体的な話ではないと言われたが、その後3,4年したら新聞に載っていた。
ただ反対するのではいけないので、何のために反対するのか、決めてからやらなくてはいけないと言われた。
自然環境保全地域としてやったほうがいいと決まった。
対象面積としては16800ヘクタール、その地域の名前が無かったので白神山地と名前を決めた。
自然環境保全法に指定され、翌年世界遺産になった。(1993年に登録された 日本で一番最初)
2005年に知床半島、2011年に小笠原諸島が選ばれた。
ブナが醸し出している自然が良好な形で残っていたという事が評価された。
水資源にしても保水力が高い、腐葉土が林床に積もって水を蓄える、水を安定して平野部に供給するので、田畑が潤う。
海に流れ込む豊かな水が海藻等を育て、魚を育む、山、川、海それがひとつながりになった社会を考える必要がある。
ブナは北海道の半島の黒松内から九州の大隅半島の高隈山 冷温帯の木です。
ゼンマイも1シーズン300万円とれるしマイタケとか、元手は要らず山は恵みの宝の山です。
マタギ 閉鎖的な社会ですが、一緒に山を歩いた事があります。
ブナの木の葉が縮んでいる木があるが、病気かと思ったが、それは前年に実を付けたからだとか、イワナのことだとか、マタギからはいろいろな事を教えてもらった。
自然に対する愛情、だれもいない川のいいところに魚が生きていけばいいじゃないの、という様な考えなんですよね。
1973年に行った時にヒマラヤの人は、日本人はお金で幸せを作っているでしょうと言ったが、言葉に窮していると、そいう生き方をするんじゃいけませんよ、お金で得た幸せはお金が無くなれば不幸に変わりますよと言われてしまった。
今貴方は、風を感じたでしょう、今いい風だなあと感じたでしょう、それが幸せというものですよ、と言われた。
ヒマラヤには神様が住んでいると信じられている。
村の長老に神様がいるって言うけど神様ってなんですかと言ったら軽蔑のまなざしで見られた。
ヒマラヤの万年雪が下まで来ると滴になって、滴が集まって小川になって、聖なる川を作って海に流れて行って、植物、動物、人を生かしている(生態系) 創造主 その神を知らないのかと村の長老から言われてしまった。
知りませんでした、そんなことも知らなかったのかと大ショックを受けた。
ふるさとの自然を守るために、確固たる意識はなかったが、反対運動を起こして、時流も味方したかもしれないが世界遺産として自然は残されたが、それでいいとは思わなかった。
せっかく世界遺産になったのだから、一体化した地域社会を造ることが反対運動の到達点だなあと言う事は確心を持って言えるが、理解されなくても「津軽百年の森づくり」をやるしかないと思っている。
68歳 青森県弘前市で育った根深さんは子供のころから山に入って遊ぶことが大好きでした。
ヒマラヤなどの山々を歩き、九死に一生を得た経験を何回も経験してきた登山家です。
3年前からブナの苗木を津軽平野に植えて大自然に恩返しをしようとたちあがりました。
津軽百年の森作り、どんな思いで森作りに取り組んできたのか、伺いました。
3年前、白神山地の世界遺産が20周年を迎えて、観ていると騒ぐだけなので、もっと人々の見えるところでやった方がいいと提案していたが、だれもやらないので自分でやるしかないと思って、津軽100年の森作りと言う事で、ブナ、大山桜、ミズナラとか植えて、世界遺産とリンクした街の景観作りをやらなければいけないと思った。
青森市の市長が理解してくれて、青森市の公園に植える事業を継続して、今年も秋に植えます。
小学校のころから近所の山にあけび等を取りに行ったりして遊んでいました。
岩木山に登った時は驚きでした、見たことのない景観だった。
当時、3人で白神の縦走をしたのですが、頼りになるのが1/50000の地図と磁石だけでした。
猿はいるし、熊などがいて怖くて声を出しながら歩きました。
外国の山に憧れ、大学に入って山岳部に入りました。
白神山地 1/4が秋田 3/4が青森で、そこに林道を通す計画があった。
弘前大学の先生が青森県の自然保護の権威的な存在なので、その人に話したらいいと言う事で、行ったらそんな計画は聞いていないと言う。
具体的な話ではないと言われたが、その後3,4年したら新聞に載っていた。
ただ反対するのではいけないので、何のために反対するのか、決めてからやらなくてはいけないと言われた。
自然環境保全地域としてやったほうがいいと決まった。
対象面積としては16800ヘクタール、その地域の名前が無かったので白神山地と名前を決めた。
自然環境保全法に指定され、翌年世界遺産になった。(1993年に登録された 日本で一番最初)
2005年に知床半島、2011年に小笠原諸島が選ばれた。
ブナが醸し出している自然が良好な形で残っていたという事が評価された。
水資源にしても保水力が高い、腐葉土が林床に積もって水を蓄える、水を安定して平野部に供給するので、田畑が潤う。
海に流れ込む豊かな水が海藻等を育て、魚を育む、山、川、海それがひとつながりになった社会を考える必要がある。
ブナは北海道の半島の黒松内から九州の大隅半島の高隈山 冷温帯の木です。
ゼンマイも1シーズン300万円とれるしマイタケとか、元手は要らず山は恵みの宝の山です。
マタギ 閉鎖的な社会ですが、一緒に山を歩いた事があります。
ブナの木の葉が縮んでいる木があるが、病気かと思ったが、それは前年に実を付けたからだとか、イワナのことだとか、マタギからはいろいろな事を教えてもらった。
自然に対する愛情、だれもいない川のいいところに魚が生きていけばいいじゃないの、という様な考えなんですよね。
1973年に行った時にヒマラヤの人は、日本人はお金で幸せを作っているでしょうと言ったが、言葉に窮していると、そいう生き方をするんじゃいけませんよ、お金で得た幸せはお金が無くなれば不幸に変わりますよと言われてしまった。
今貴方は、風を感じたでしょう、今いい風だなあと感じたでしょう、それが幸せというものですよ、と言われた。
ヒマラヤには神様が住んでいると信じられている。
村の長老に神様がいるって言うけど神様ってなんですかと言ったら軽蔑のまなざしで見られた。
ヒマラヤの万年雪が下まで来ると滴になって、滴が集まって小川になって、聖なる川を作って海に流れて行って、植物、動物、人を生かしている(生態系) 創造主 その神を知らないのかと村の長老から言われてしまった。
知りませんでした、そんなことも知らなかったのかと大ショックを受けた。
ふるさとの自然を守るために、確固たる意識はなかったが、反対運動を起こして、時流も味方したかもしれないが世界遺産として自然は残されたが、それでいいとは思わなかった。
せっかく世界遺産になったのだから、一体化した地域社会を造ることが反対運動の到達点だなあと言う事は確心を持って言えるが、理解されなくても「津軽百年の森づくり」をやるしかないと思っている。
2015年9月14日月曜日
祖父江逸郎(古屋大学名誉教授) ・一期一会の人生を語る(2)
祖父江逸郎(古屋大学名誉教授) ・一期一会の人生を語る(2)
人間といういものは医学的な立場から言っても、非常に精密な機械以上でどうやっても作れない、自動制御はこれだけ精密にできると言う事は、人間がモデルとしてある一定な恒常性を保つ為に、例えば、血糖値などは一時的に高くなるけれども、自然にある一定に保たれるようにできている。
100mg/dlの様に、血圧、体温等もすべてそうなっている。
「人間この未知なるもの」の著者、アレクシス・カレルはフランスの外科医で1912年にノーベル賞を受賞。
人間の長寿、寿命の研究にもつながってゆく。
寿命は遺伝子の研究その他細かく分かれてきた、特に最近は遺伝子のテロメアという部分があって、遺伝子の端にあり、遺伝子を調整している部分で、それが短くなると言う事は寿命と関係があると、最近判ってきた。
天寿というものは或る程度決まっているのではないかと、いう考え方もあるが、それがどういう病気をその間にするかによって変わってくる。
名古屋市に112歳小出安太郎さんが世界最高齢。
長生きの秘訣を問われ「無理をしないこと、自然に任せるのが一番」と話した。
天寿に近づいてゆくための真髄ですね。
病気をしたり、転んだりして寝込んでしまうと、内部構造の機構が壊れてくるので、寿命を短くしてしまう事に影響する。
金さん、銀さん 100歳以上元気だった。
ユーモアがあって、会話を楽しむ、高齢まで行くためには好奇心が大事、新しいものにあこがれる気持ち、が大事。
江戸時代、貝原益軒 「養生訓」 84歳まで生きた。
福岡の藩士をやっていた人で、好奇心のある人で、植物学、儒学、朱子学等が詳しくて、書物を一杯読んで、研究をしていた。
「養生訓」は84歳の時に書いた本です。(元禄時代で健康に関心があり当時のベストセラー)
生活習慣病、外傷、転倒などを非常に戒めていた人だった。
現在100歳以上が6万人以上だが、50年前は100人台だった。
昭和38年からの統計があるが100歳以上は153人だった。
将来は30~60万人になるのではないかと言われている。
一方で、ぜい弱性、寝たきりの高齢者がたくさんいることになる。
テロメアは遺伝子の端についている遺伝子の付属物で寿命と関係があると言われている。
生殖細胞、癌細胞はテロメアが長い、長さによって細胞の生存期間が規定されてくると言われている、これをうまく利用する事によって寿命をコントロールできるのではないかと言われている。
テロメアの長さを調べて、寿命が予言できるのではないかと言われている。
「死神」という落語 ろうそくにたとえて言っていたが、テロメアの長さを象徴している。
ろうそくを取り替えてやると瀕死の人が元気になる、テロメアとろうそくは似ている。
人間を取り巻く環境はいろんな要素があり、作用するものはその総合なので、うまくコントロールして、自然調節論、自動制御機構が寿命を作っている様なものでもある。
「人の命は我に在り、天に在らず。」(孔子)
生き甲斐というものをある程度はっきり意識して、こういう方向に持っていこうと、自分の目標とする様な仕事があって、それを完成してゆくように努力する。
そうすると絶えず身体の中に生きる力が芽生えてくる、現実的に調査して実験的に調べた結果、生き甲斐のある人、ない人を調べてみると、死亡率も違う。
アメリカのバトラーという人が高齢医学を全世界に広めていった人で、高齢者はプロダクティブエージングが必要だと言っている、世の中のために貢献してゆく、そいうことが是非必要で、そういう気持ち、力なりを与えていかないといけない。
そいう生活様式が健康に、長寿につながってゆく。
①天寿を生きるために自分のできることはいくらでもある。
②天寿への道は中庸を守る。
(自分がどういう状態かという事は自分の健康感で判る。身体は60兆の細胞がバランスよくコントロールされ統合されていて、朝起きた時の爽快感というのが一つの指標になる。
それが損なわれている時には戻さないといけない。
そのためには栄養、運動、休養のバランスがうまくいくと爽快感がいつでもある。)
③脳の若さを保つ事が大事。
(心は脳にある、身体全体の司令塔、脳の働きが中枢になっている。
使わないと錆びてしまうので、使わないといけない。)
与えられた寿命は112歳までいける寿命を持っているが、その間に病気をしたり、無理をしたり、酒を飲み過ぎたり、煙草を吸い過ぎたりするので、身体を害してしまいます。
シルバーサイエンス 40~50年前から始まり、100歳の人の生活を研究しようと、調査を始めた。
長寿の人は好奇心を持っている、几帳面、真面目な生活をしている、考え方に柔軟性がある。
祖父江流、美老長寿
八快の勧め
三快・・・快食・快眠・快便
五快・・・快尿・快歩・快談・快声・快笑(笑いに依ってストレスが解消される)
自己流ストレッチ体操・・・一日に一回以上身体全体を動かす。(3回はやった方がいい)
朝布団の中で寝た形で(重力が無い状態で)手・舌・唇を動かす。(脳の血流が良くなる、刺激がある 血液の循環を良くする。) 寝る前も行う。
脳を刺激するために、新聞は少なくとも読む。(天声人語等コラム欄等) 本もいい。
思い出せない時の漢字は直ぐに辞書を引く。
生きてゆくと言う事は、社会人としてどういう生活をしてゆくか、という事にウエートが出てくる、使命があるわけで、集団の一員として、どういう事をやらなければいけないかという役割がある。
経験を社会に還元してゆくと言う大きな役割があるが、最近は薄らいできている。
知恵として働かせるためには人間の頭脳しかない。
近年はファーストライフになりストレスが非常に強くなって、60兆のハーモニーが悪くなってきている。
日本の伝統社会、伝統文化を重んじた社会構造が壊れてきて病的社会になってきて、大きな問題、課題だと思う。
60兆のハーモニーを壊したら駄目になるので、それを如何にコントロールし、保っていくのか。
85歳以上になったらトレーニングは必要ないと思う、機能を維持してゆく、無理をしてはいけない。
人間といういものは医学的な立場から言っても、非常に精密な機械以上でどうやっても作れない、自動制御はこれだけ精密にできると言う事は、人間がモデルとしてある一定な恒常性を保つ為に、例えば、血糖値などは一時的に高くなるけれども、自然にある一定に保たれるようにできている。
100mg/dlの様に、血圧、体温等もすべてそうなっている。
「人間この未知なるもの」の著者、アレクシス・カレルはフランスの外科医で1912年にノーベル賞を受賞。
人間の長寿、寿命の研究にもつながってゆく。
寿命は遺伝子の研究その他細かく分かれてきた、特に最近は遺伝子のテロメアという部分があって、遺伝子の端にあり、遺伝子を調整している部分で、それが短くなると言う事は寿命と関係があると、最近判ってきた。
天寿というものは或る程度決まっているのではないかと、いう考え方もあるが、それがどういう病気をその間にするかによって変わってくる。
名古屋市に112歳小出安太郎さんが世界最高齢。
長生きの秘訣を問われ「無理をしないこと、自然に任せるのが一番」と話した。
天寿に近づいてゆくための真髄ですね。
病気をしたり、転んだりして寝込んでしまうと、内部構造の機構が壊れてくるので、寿命を短くしてしまう事に影響する。
金さん、銀さん 100歳以上元気だった。
ユーモアがあって、会話を楽しむ、高齢まで行くためには好奇心が大事、新しいものにあこがれる気持ち、が大事。
江戸時代、貝原益軒 「養生訓」 84歳まで生きた。
福岡の藩士をやっていた人で、好奇心のある人で、植物学、儒学、朱子学等が詳しくて、書物を一杯読んで、研究をしていた。
「養生訓」は84歳の時に書いた本です。(元禄時代で健康に関心があり当時のベストセラー)
生活習慣病、外傷、転倒などを非常に戒めていた人だった。
現在100歳以上が6万人以上だが、50年前は100人台だった。
昭和38年からの統計があるが100歳以上は153人だった。
将来は30~60万人になるのではないかと言われている。
一方で、ぜい弱性、寝たきりの高齢者がたくさんいることになる。
テロメアは遺伝子の端についている遺伝子の付属物で寿命と関係があると言われている。
生殖細胞、癌細胞はテロメアが長い、長さによって細胞の生存期間が規定されてくると言われている、これをうまく利用する事によって寿命をコントロールできるのではないかと言われている。
テロメアの長さを調べて、寿命が予言できるのではないかと言われている。
「死神」という落語 ろうそくにたとえて言っていたが、テロメアの長さを象徴している。
ろうそくを取り替えてやると瀕死の人が元気になる、テロメアとろうそくは似ている。
人間を取り巻く環境はいろんな要素があり、作用するものはその総合なので、うまくコントロールして、自然調節論、自動制御機構が寿命を作っている様なものでもある。
「人の命は我に在り、天に在らず。」(孔子)
生き甲斐というものをある程度はっきり意識して、こういう方向に持っていこうと、自分の目標とする様な仕事があって、それを完成してゆくように努力する。
そうすると絶えず身体の中に生きる力が芽生えてくる、現実的に調査して実験的に調べた結果、生き甲斐のある人、ない人を調べてみると、死亡率も違う。
アメリカのバトラーという人が高齢医学を全世界に広めていった人で、高齢者はプロダクティブエージングが必要だと言っている、世の中のために貢献してゆく、そいうことが是非必要で、そういう気持ち、力なりを与えていかないといけない。
そいう生活様式が健康に、長寿につながってゆく。
①天寿を生きるために自分のできることはいくらでもある。
②天寿への道は中庸を守る。
(自分がどういう状態かという事は自分の健康感で判る。身体は60兆の細胞がバランスよくコントロールされ統合されていて、朝起きた時の爽快感というのが一つの指標になる。
それが損なわれている時には戻さないといけない。
そのためには栄養、運動、休養のバランスがうまくいくと爽快感がいつでもある。)
③脳の若さを保つ事が大事。
(心は脳にある、身体全体の司令塔、脳の働きが中枢になっている。
使わないと錆びてしまうので、使わないといけない。)
与えられた寿命は112歳までいける寿命を持っているが、その間に病気をしたり、無理をしたり、酒を飲み過ぎたり、煙草を吸い過ぎたりするので、身体を害してしまいます。
シルバーサイエンス 40~50年前から始まり、100歳の人の生活を研究しようと、調査を始めた。
長寿の人は好奇心を持っている、几帳面、真面目な生活をしている、考え方に柔軟性がある。
祖父江流、美老長寿
八快の勧め
三快・・・快食・快眠・快便
五快・・・快尿・快歩・快談・快声・快笑(笑いに依ってストレスが解消される)
自己流ストレッチ体操・・・一日に一回以上身体全体を動かす。(3回はやった方がいい)
朝布団の中で寝た形で(重力が無い状態で)手・舌・唇を動かす。(脳の血流が良くなる、刺激がある 血液の循環を良くする。) 寝る前も行う。
脳を刺激するために、新聞は少なくとも読む。(天声人語等コラム欄等) 本もいい。
思い出せない時の漢字は直ぐに辞書を引く。
生きてゆくと言う事は、社会人としてどういう生活をしてゆくか、という事にウエートが出てくる、使命があるわけで、集団の一員として、どういう事をやらなければいけないかという役割がある。
経験を社会に還元してゆくと言う大きな役割があるが、最近は薄らいできている。
知恵として働かせるためには人間の頭脳しかない。
近年はファーストライフになりストレスが非常に強くなって、60兆のハーモニーが悪くなってきている。
日本の伝統社会、伝統文化を重んじた社会構造が壊れてきて病的社会になってきて、大きな問題、課題だと思う。
60兆のハーモニーを壊したら駄目になるので、それを如何にコントロールし、保っていくのか。
85歳以上になったらトレーニングは必要ないと思う、機能を維持してゆく、無理をしてはいけない。
2015年9月13日日曜日
祖父江逸郎(古屋大学名誉教授) ・一期一会の人生を語る(1)
祖父江逸郎(古屋大学名誉教授) ・一期一会の人生を語る(1)
1921年大正10年名古屋市生まれ
昭和18年名古屋帝国大学医学部を卒業後、海軍軍医学校を経て戦艦大和の軍医となります。
昭和20年8月6日、江田島の海軍兵学校教官の時、原爆のきのこ雲を目撃しました。
それから3日目の8月8日には、現地調査隊の一員として、広島に入り被害状況を調べます。
終戦直後には輸送艦に乗り組み、戦場から帰国する日本兵の治療や世話にもあたりました。
戦後は脳神経内科の専門医として多くの医師の育成に当たるとともに、高齢社会に向けて、長寿科学センターを立案し高齢者や、長寿の研究に総合的に取り組みます。
そのデータの蓄積は世界的にも珍しく高く評価されています。
祖父江さんの信条は人生一期一会、それは戦艦大和との出会いであり、旧制高校の時に読み感動した「人間この未知なるもの」との出会いでした。
一期一会というのは、茶道から来ている言葉であり、一回の出会いと言う事で心をこめておもてなしをしないといけないというところから始まった言葉です。
千利休の弟子に山上宗二という人がいますが、この人も一期一会を強調した人です。
一世一度の機会に何事も粗末なきように心を配って誠意、実意を持って接する。
卒業が昭和18年、陸軍か海軍等で戦争に参加する事になるので海軍を志願した。
戦艦大和、日本が力を誇示するために世界一の船を造ろうと言う事で機運が高まり、できた船です。
当時船が積んでいる大砲は直径40cm砲が最高だったが、それが9門ある。
船の数は制限されていたので優秀な船を作って、其れに対抗しようではないかという事で、最高の技術を集中させた。
6cm増やすためにあらゆる技術を総合しないと出来ない。
大砲の数が増えると重くなるので、調整するために部分的には軽い金属を使用しなければいけない。 この技術が戦後生きている。
全長263m。幅38.9m 全甲板に3000人が集まれる、映画会も出来る。
立派な手術室もあった。
大病院で使われている手術室と同じ精度を持った手術室が設計され準備されていた。
40cmの厚さの鉄の塊で囲まれていた手術室だった。(全鑑冷暖房付きの船)
世の中に尽くすためには医学はウエートが高い職業だった。
アレクシス・カレル(ノーベル賞受賞)が「人間この未知なるもの」という本を書いて、当時ベストセラーだった。
綿密極まりない機能を備えた生体、人間は最高のものである、人間は最高の存在だと言う事であった。
血糖はいつも一定な値になるように自動調整されているという事等が書いてあり其れを読んで吃驚した。
全国の医学関係の大学卒業者、歯科関係、薬剤関係の卒業者を全部集めて、軍人に仕上げるために一緒に訓練、海軍魂を叩きこまれた。
動作迅速に、正確というのが海軍のモットーで、軍医学校に行って軍人医学、戦陣医学を叩きこまれて初めて各任地に赴任したが、私は大和の乗組員を命じられた。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加する事になる。
3000人の3カ月分を積み込むのに1ケ月かかるが、そんな準備をして、シンガポールの南の海域で戦闘の練習するために行き、連合軍が集結してくる。
航空母艦を中心にした編隊を組んでいったがこれが大失敗で、航空母艦はほとんど撃沈された。
フィリピンにアメリカを中心にした連合軍がフィリピン島に上陸をして大編隊を組むという情報が入ってきて、第一線における戦闘の尤も大事な作戦だった。
そこに行きつく前に、敵側に制空権があるので、30分おきの空襲を受けた。
武蔵が狙われて、スクリュー、舵を標的に狙われて動けなくなり、空襲を受けて沈没する。
武蔵には友人が乗り込んでいたが、気がついたら、海に浮かんでいたとの事だった。(生還した)
昭和20年8月6日、江田島にいた時に、原子爆弾のきのこ雲をみた。
キノコ雲がだんだん大きくなって、夕方まではっきり見えた。
被害の状況を見に行く必要があり、爆弾の内容も調査する必要があるという事で海軍兵学校から調査隊を出すべきだと言う事になり、10人ぐらいのチームを組んで編成された。
3日目に小さな船で行き、自転車を持って行ったら、吃驚したのは広島周辺の山は全部焼けて真っ赤になっていて、広島市内に入って行ったら、全部焼け野原で、色々な人がうろうろ歩いている。
遺体がいっぱい街の中にあり、やけどと日照りの暑さとで身体が膨れ上がってしまっていた。
雨が降ったとか、黒い雨が降ったとか言っていた。
図書館みたいなところに一杯収容していた。
吃驚したのは赤十字のレントゲンフィルムは鉛の枠の中に格納してフィルムをしまっていたが、フィルムは全部感光していて、放射線の光が鉛を通して感光してしまっていた。
帰ってすぐに報告したが、全然取り上げられてこなかった。
2,3か月過ぎてから、新聞に載った。
終戦半月前ぐらいから腸チフスがはやっていたので、隔離しなくては行けなくて、伝染病なので勝手に郷里に返すわけにも行かないし、帰していいかどうか十分調べないといけなかった。
戦後の終戦処理は大変な問題が山積みしていて、東南アジアに傷病した軍人が300万人いたが、
この人たちを早く内地に戻さないといけないが、船が無いのでどうするか、政府として取り組んだ。
海軍が解体されて、第二復員省 陸軍が第一復員省となり、復員業務をやる省に変わった。
家に帰ったのが1カ月半ぐらいしてから帰ったが、召集令状が来て、19号輸送艦に乗り組みを命ずるとの事で、300万人を内地に帰すのには10年掛かると言われていた。
激戦地だった、パラオに行った。
2000トンの船で約2週間かかってパラオに行った。
栄養失調になっていてアメリカの軍医からこの注射を打ってあげなさいと、乾燥血漿というものをくれた。
医療器具、医療用品でも格段の差があった。
アメリカの輸送船を日本に貸したので、またたく間に1年半か2年で終わってしまった。
一遍に伝染病にかかった人が入ってくるので、その検疫業務をやらなければいけなくなって、その作業もやらされた。
アメリカの医療研究の実態と、アメリカその物もみたい思いがあり、アメリカに行く事になる。
医療そのものが機械化されていたが、ワルテンベルグさんは反射機能を観るのにハンマー一つでやっていて、丹念に患者さんを看て反射学を自分で作り上げ本にまとめた。
患者を看て、データをとって、考える、その繰り返しをして考えると言う事を強調した人です。
診察というのはドクターが触って、患者さんが協力しないと所見が取れない。
最近は医者が患者さんを看ないし、患者さんも見せる事が下手になってきている。
最近の医療は、医者が患者さんを看ないし、コンピューターだけを見て、やらないので全く駄目です。
如何に検査機器が発達しても患者さんから得られるデータの方が、より一層正確です。
検査機器では血液の分析等色々はあるが、両方合いまって正しい診断ができる。
スモン病、進行性筋ジストロフィー等があるが、軍隊にいたこと、アメリカ医学を見に行ったことが大いに研究に役立った。
スモン病は昭和30年ごろから患者さんが発生してきて、巨大な研究費を投入、全国の関係している研究者を全部集めて、その結果どうも薬害ではないかという事になった。
無害だと言われていたが、量、投与期間については一切触れてない。(整腸剤)
実情調査が大きなヒントを与えてくれた。
老人医療総合センターを提案、シルバーサイエンスの研究を始めたが、きっかけは名古屋大学で神経学の教授をやっていて停年になって、セカンドライフとして赴任したのが現在の長寿医療研究センターだったが、前身は1000名の結核患者のいる8万坪の施設だったが高齢者が増えてきて、高齢医学の中心的な医療機関を作った方がいいと思って、行政関係、医師会と調整して長寿医療研究センターを作った。
1921年大正10年名古屋市生まれ
昭和18年名古屋帝国大学医学部を卒業後、海軍軍医学校を経て戦艦大和の軍医となります。
昭和20年8月6日、江田島の海軍兵学校教官の時、原爆のきのこ雲を目撃しました。
それから3日目の8月8日には、現地調査隊の一員として、広島に入り被害状況を調べます。
終戦直後には輸送艦に乗り組み、戦場から帰国する日本兵の治療や世話にもあたりました。
戦後は脳神経内科の専門医として多くの医師の育成に当たるとともに、高齢社会に向けて、長寿科学センターを立案し高齢者や、長寿の研究に総合的に取り組みます。
そのデータの蓄積は世界的にも珍しく高く評価されています。
祖父江さんの信条は人生一期一会、それは戦艦大和との出会いであり、旧制高校の時に読み感動した「人間この未知なるもの」との出会いでした。
一期一会というのは、茶道から来ている言葉であり、一回の出会いと言う事で心をこめておもてなしをしないといけないというところから始まった言葉です。
千利休の弟子に山上宗二という人がいますが、この人も一期一会を強調した人です。
一世一度の機会に何事も粗末なきように心を配って誠意、実意を持って接する。
卒業が昭和18年、陸軍か海軍等で戦争に参加する事になるので海軍を志願した。
戦艦大和、日本が力を誇示するために世界一の船を造ろうと言う事で機運が高まり、できた船です。
当時船が積んでいる大砲は直径40cm砲が最高だったが、それが9門ある。
船の数は制限されていたので優秀な船を作って、其れに対抗しようではないかという事で、最高の技術を集中させた。
6cm増やすためにあらゆる技術を総合しないと出来ない。
大砲の数が増えると重くなるので、調整するために部分的には軽い金属を使用しなければいけない。 この技術が戦後生きている。
全長263m。幅38.9m 全甲板に3000人が集まれる、映画会も出来る。
立派な手術室もあった。
大病院で使われている手術室と同じ精度を持った手術室が設計され準備されていた。
40cmの厚さの鉄の塊で囲まれていた手術室だった。(全鑑冷暖房付きの船)
世の中に尽くすためには医学はウエートが高い職業だった。
アレクシス・カレル(ノーベル賞受賞)が「人間この未知なるもの」という本を書いて、当時ベストセラーだった。
綿密極まりない機能を備えた生体、人間は最高のものである、人間は最高の存在だと言う事であった。
血糖はいつも一定な値になるように自動調整されているという事等が書いてあり其れを読んで吃驚した。
全国の医学関係の大学卒業者、歯科関係、薬剤関係の卒業者を全部集めて、軍人に仕上げるために一緒に訓練、海軍魂を叩きこまれた。
動作迅速に、正確というのが海軍のモットーで、軍医学校に行って軍人医学、戦陣医学を叩きこまれて初めて各任地に赴任したが、私は大和の乗組員を命じられた。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加する事になる。
3000人の3カ月分を積み込むのに1ケ月かかるが、そんな準備をして、シンガポールの南の海域で戦闘の練習するために行き、連合軍が集結してくる。
航空母艦を中心にした編隊を組んでいったがこれが大失敗で、航空母艦はほとんど撃沈された。
フィリピンにアメリカを中心にした連合軍がフィリピン島に上陸をして大編隊を組むという情報が入ってきて、第一線における戦闘の尤も大事な作戦だった。
そこに行きつく前に、敵側に制空権があるので、30分おきの空襲を受けた。
武蔵が狙われて、スクリュー、舵を標的に狙われて動けなくなり、空襲を受けて沈没する。
武蔵には友人が乗り込んでいたが、気がついたら、海に浮かんでいたとの事だった。(生還した)
昭和20年8月6日、江田島にいた時に、原子爆弾のきのこ雲をみた。
キノコ雲がだんだん大きくなって、夕方まではっきり見えた。
被害の状況を見に行く必要があり、爆弾の内容も調査する必要があるという事で海軍兵学校から調査隊を出すべきだと言う事になり、10人ぐらいのチームを組んで編成された。
3日目に小さな船で行き、自転車を持って行ったら、吃驚したのは広島周辺の山は全部焼けて真っ赤になっていて、広島市内に入って行ったら、全部焼け野原で、色々な人がうろうろ歩いている。
遺体がいっぱい街の中にあり、やけどと日照りの暑さとで身体が膨れ上がってしまっていた。
雨が降ったとか、黒い雨が降ったとか言っていた。
図書館みたいなところに一杯収容していた。
吃驚したのは赤十字のレントゲンフィルムは鉛の枠の中に格納してフィルムをしまっていたが、フィルムは全部感光していて、放射線の光が鉛を通して感光してしまっていた。
帰ってすぐに報告したが、全然取り上げられてこなかった。
2,3か月過ぎてから、新聞に載った。
終戦半月前ぐらいから腸チフスがはやっていたので、隔離しなくては行けなくて、伝染病なので勝手に郷里に返すわけにも行かないし、帰していいかどうか十分調べないといけなかった。
戦後の終戦処理は大変な問題が山積みしていて、東南アジアに傷病した軍人が300万人いたが、
この人たちを早く内地に戻さないといけないが、船が無いのでどうするか、政府として取り組んだ。
海軍が解体されて、第二復員省 陸軍が第一復員省となり、復員業務をやる省に変わった。
家に帰ったのが1カ月半ぐらいしてから帰ったが、召集令状が来て、19号輸送艦に乗り組みを命ずるとの事で、300万人を内地に帰すのには10年掛かると言われていた。
激戦地だった、パラオに行った。
2000トンの船で約2週間かかってパラオに行った。
栄養失調になっていてアメリカの軍医からこの注射を打ってあげなさいと、乾燥血漿というものをくれた。
医療器具、医療用品でも格段の差があった。
アメリカの輸送船を日本に貸したので、またたく間に1年半か2年で終わってしまった。
一遍に伝染病にかかった人が入ってくるので、その検疫業務をやらなければいけなくなって、その作業もやらされた。
アメリカの医療研究の実態と、アメリカその物もみたい思いがあり、アメリカに行く事になる。
医療そのものが機械化されていたが、ワルテンベルグさんは反射機能を観るのにハンマー一つでやっていて、丹念に患者さんを看て反射学を自分で作り上げ本にまとめた。
患者を看て、データをとって、考える、その繰り返しをして考えると言う事を強調した人です。
診察というのはドクターが触って、患者さんが協力しないと所見が取れない。
最近は医者が患者さんを看ないし、患者さんも見せる事が下手になってきている。
最近の医療は、医者が患者さんを看ないし、コンピューターだけを見て、やらないので全く駄目です。
如何に検査機器が発達しても患者さんから得られるデータの方が、より一層正確です。
検査機器では血液の分析等色々はあるが、両方合いまって正しい診断ができる。
スモン病、進行性筋ジストロフィー等があるが、軍隊にいたこと、アメリカ医学を見に行ったことが大いに研究に役立った。
スモン病は昭和30年ごろから患者さんが発生してきて、巨大な研究費を投入、全国の関係している研究者を全部集めて、その結果どうも薬害ではないかという事になった。
無害だと言われていたが、量、投与期間については一切触れてない。(整腸剤)
実情調査が大きなヒントを与えてくれた。
老人医療総合センターを提案、シルバーサイエンスの研究を始めたが、きっかけは名古屋大学で神経学の教授をやっていて停年になって、セカンドライフとして赴任したのが現在の長寿医療研究センターだったが、前身は1000名の結核患者のいる8万坪の施設だったが高齢者が増えてきて、高齢医学の中心的な医療機関を作った方がいいと思って、行政関係、医師会と調整して長寿医療研究センターを作った。
2015年9月12日土曜日
溝口重夫 ・残された「空襲警報」~録音盤は語る(2)
溝口重夫 ・残された「空襲警報」~録音盤は語る(2)
兄弟とともに昭和14年~20年までのラジオ放送を自宅で録音してきました。
放送局にも残っていなっかった貴重な録音の数々は2013年にNHKアーカイブスに登録されました。
そこには歌、実況放送、大本営発表、空襲の際の情報等、日本が戦争へと突き進んでゆく時代などのラジオ放送等がおさめられていました。
録音機が一般家庭にない時代、どの様にしてこれらのラジオの音が残されたのか、熊本市にお住まいの溝口さん83歳に伺いました。
「東部軍情報、敵の編隊11機は14時10分潮岬に到達し、北に進んでいます。
その先頭が阪神方面に進むものとすれば、14時20分ごろ、名古屋方面に向かうものとすれば、14時25分ごろ到達するものと思われます。」
昭和20年2月4日の神戸空襲の時のラジオの防空警報。
潮岬に来る前の警戒警報も出ているが、録音できなかった。
「空軍情報、敵の編隊は神戸の明石方面に向かいつつあます」(神戸の東郊外で録音していた)
交代で物見台に上がって見たりした。
それまでは軍事工場狙いだったが、住宅が燃えていた。
11インチレコードがあり、その素材がアルマイトに録音していた。
ラジオを直接録音するダイヤモンド針で録音するカッターがあった。
録音カッターはアメリカから輸入されて(コロンビア)、そのヘッドをラジオ装置の内部に接続して、それを大阪の林田電気屋がやってくれた、特注品です。
父親が当時、フィルム撮影機を持っていてそこに音を入れて、工場のPR用のフィルムを作ろうとしていた。(父親は大きな軍需工場を経営していたので)
国民歌謡 1939年(昭和14年)3月1日放送 国民歌謡 「朝」 島崎藤村作詩
スポーツ実況 1939年(昭和14年)3月16日 大阪場所 相撲の実況 69連勝してその後双葉山が連敗して、そのあとの3月場所の9日目 双葉山×鹿嶌洋(前の6日目に双葉山が破れた)の仕切りの状況(3分しか片面録音できない。)
純一郎?(一番上の兄が)が主に録音していた。
日本号の実況 毎日新聞社が民間航空機として初めて4つの大陸を回って帰ってくると言うイベントで出発と帰還の実況(帰還の実況 昭和14年10月20日)
昭和15年1月 大阪天満宮の初天神の録音
昭和16年12月8日 アメリカとの戦争に突入するが、昭和16年12月10日大本営発表「マレー沖海戦の戦果」 (イギリス艦隊を撃沈した状況を発表)
この4日後に東条英機がマイクロフォンの前に立つ。(戦争にいたる状況を説明)昭和16年12月14日
その時は私は小学校4年生で、当時子供達の間では戦争よりも相撲の方に興味があった。
中学になり勤労工員として働く。(0戦のエンジンを冷やす部品の加工)
隣りの建物に爆弾が落ち、何人も死んだ。
昭和17年兄が兵隊にとられてゆき、暫く録音をしていなかったが、次兄(孝)が東京に務めていたが母が死んで戻ってきて、次兄と私で録音の再開をした。
記録として残しておこうと思った。
昭和20年2月18日夜、米軍機1機が飛来した時の中部軍の警報、防空情報が収録されていて、これがアルマイト盤に残された最後の記録となる。
「中部軍情報 今夜は天候の関係上、敵機の行動の判定は極めて困難であり、又めくら爆撃の恐れがありますから、一般に敵機の爆音に注意し、退避は迅速かつ確実にやって下さい。
ただ今のところ後に続く敵機はありません。」
「中部軍情報、今夜は雨が降っておりますが、高度の高い敵機は雨には少しも関係なく行動しますから、油断は禁物であります。」
「中部軍情報 敵一機は愛媛県に侵入し、松山方面に向かっている様でであります。」
・・・
「中部軍情報、敵機は方向を変えて東に向かい、瀬戸内海に出るものと思われます。」
・・・
この後、近畿地方に警戒警報を発令、しかし米軍機一機は徳島、和歌山、大阪上空を悠々と飛行し、中部軍の防空情報がそれを後追いするという状況が録音盤に収められています。
(敵機1機の後追いの情報がいくつも放送される。)
その後アルマイトの録音盤が入手出来なく無くなり、録音ができなくなる。
父は軍事工場を子供に継がせる気持ちは全然なかった。
純一郎?(兄)は戦死する。(昭和19年12月)
出征するときに「俺ほんま行きとうないねん」と、私にポツンと言って行った。
吃驚して人に言ったら偉いことになると思った。
兄は早稲田大学での卒業論文を録音していたが、残念だがついに見つけられなかった。
兄弟とともに昭和14年~20年までのラジオ放送を自宅で録音してきました。
放送局にも残っていなっかった貴重な録音の数々は2013年にNHKアーカイブスに登録されました。
そこには歌、実況放送、大本営発表、空襲の際の情報等、日本が戦争へと突き進んでゆく時代などのラジオ放送等がおさめられていました。
録音機が一般家庭にない時代、どの様にしてこれらのラジオの音が残されたのか、熊本市にお住まいの溝口さん83歳に伺いました。
「東部軍情報、敵の編隊11機は14時10分潮岬に到達し、北に進んでいます。
その先頭が阪神方面に進むものとすれば、14時20分ごろ、名古屋方面に向かうものとすれば、14時25分ごろ到達するものと思われます。」
昭和20年2月4日の神戸空襲の時のラジオの防空警報。
潮岬に来る前の警戒警報も出ているが、録音できなかった。
「空軍情報、敵の編隊は神戸の明石方面に向かいつつあます」(神戸の東郊外で録音していた)
交代で物見台に上がって見たりした。
それまでは軍事工場狙いだったが、住宅が燃えていた。
11インチレコードがあり、その素材がアルマイトに録音していた。
ラジオを直接録音するダイヤモンド針で録音するカッターがあった。
録音カッターはアメリカから輸入されて(コロンビア)、そのヘッドをラジオ装置の内部に接続して、それを大阪の林田電気屋がやってくれた、特注品です。
父親が当時、フィルム撮影機を持っていてそこに音を入れて、工場のPR用のフィルムを作ろうとしていた。(父親は大きな軍需工場を経営していたので)
国民歌謡 1939年(昭和14年)3月1日放送 国民歌謡 「朝」 島崎藤村作詩
スポーツ実況 1939年(昭和14年)3月16日 大阪場所 相撲の実況 69連勝してその後双葉山が連敗して、そのあとの3月場所の9日目 双葉山×鹿嶌洋(前の6日目に双葉山が破れた)の仕切りの状況(3分しか片面録音できない。)
純一郎?(一番上の兄が)が主に録音していた。
日本号の実況 毎日新聞社が民間航空機として初めて4つの大陸を回って帰ってくると言うイベントで出発と帰還の実況(帰還の実況 昭和14年10月20日)
昭和15年1月 大阪天満宮の初天神の録音
昭和16年12月8日 アメリカとの戦争に突入するが、昭和16年12月10日大本営発表「マレー沖海戦の戦果」 (イギリス艦隊を撃沈した状況を発表)
この4日後に東条英機がマイクロフォンの前に立つ。(戦争にいたる状況を説明)昭和16年12月14日
その時は私は小学校4年生で、当時子供達の間では戦争よりも相撲の方に興味があった。
中学になり勤労工員として働く。(0戦のエンジンを冷やす部品の加工)
隣りの建物に爆弾が落ち、何人も死んだ。
昭和17年兄が兵隊にとられてゆき、暫く録音をしていなかったが、次兄(孝)が東京に務めていたが母が死んで戻ってきて、次兄と私で録音の再開をした。
記録として残しておこうと思った。
昭和20年2月18日夜、米軍機1機が飛来した時の中部軍の警報、防空情報が収録されていて、これがアルマイト盤に残された最後の記録となる。
「中部軍情報 今夜は天候の関係上、敵機の行動の判定は極めて困難であり、又めくら爆撃の恐れがありますから、一般に敵機の爆音に注意し、退避は迅速かつ確実にやって下さい。
ただ今のところ後に続く敵機はありません。」
「中部軍情報、今夜は雨が降っておりますが、高度の高い敵機は雨には少しも関係なく行動しますから、油断は禁物であります。」
「中部軍情報 敵一機は愛媛県に侵入し、松山方面に向かっている様でであります。」
・・・
「中部軍情報、敵機は方向を変えて東に向かい、瀬戸内海に出るものと思われます。」
・・・
この後、近畿地方に警戒警報を発令、しかし米軍機一機は徳島、和歌山、大阪上空を悠々と飛行し、中部軍の防空情報がそれを後追いするという状況が録音盤に収められています。
(敵機1機の後追いの情報がいくつも放送される。)
その後アルマイトの録音盤が入手出来なく無くなり、録音ができなくなる。
父は軍事工場を子供に継がせる気持ちは全然なかった。
純一郎?(兄)は戦死する。(昭和19年12月)
出征するときに「俺ほんま行きとうないねん」と、私にポツンと言って行った。
吃驚して人に言ったら偉いことになると思った。
兄は早稲田大学での卒業論文を録音していたが、残念だがついに見つけられなかった。
2015年9月11日金曜日
桂 由美(服飾デザイナー) ・ブライダル衣装と私の50年(放送中止)
桂 由美(服飾デザイナー) ・ブライダル衣装と私の50年
*台風17号, 、温帯低気圧(台風18号)関連情報のため放送中止です。
鬼怒川の堤防が決壊、茨城県常総市では住宅が流されたり、市街地の広範囲が浸水。
9月の総雨量の2倍程度の雨量が降る。
行方不明者10名 負傷者26名 床上浸水227棟 床下浸水925棟 (10日 夜現在 増える模様)
東日本大震災時の大津波を彷彿とさせるような、驚きのTV映像や救助の状況を観る。
地震、火山の噴火、豪雨、竜巻、熱波、寒波、干ばつ等・・・温暖化等で地球が怒っているのか?
*台風17号, 、温帯低気圧(台風18号)関連情報のため放送中止です。
鬼怒川の堤防が決壊、茨城県常総市では住宅が流されたり、市街地の広範囲が浸水。
9月の総雨量の2倍程度の雨量が降る。
行方不明者10名 負傷者26名 床上浸水227棟 床下浸水925棟 (10日 夜現在 増える模様)
東日本大震災時の大津波を彷彿とさせるような、驚きのTV映像や救助の状況を観る。
地震、火山の噴火、豪雨、竜巻、熱波、寒波、干ばつ等・・・温暖化等で地球が怒っているのか?
2015年9月10日木曜日
2015年9月9日水曜日
若林尚司(童謡研究家) ・世界に誇れる童謡を歌いつなごう
若林尚司(童謡研究家) ・世界に誇れる童謡を歌いつなごう
「小さな木の実」昭和46年 TV「みんなの歌」で大庭照子さんが歌って大ヒット この曲をプロュースしたのがNHKで皆の歌を担当し、現在は童謡研究家の若林さん、83歳、当時増えてきた交通遺児を励まそうとした曲だそうです。
昭和44年「みんなの歌」を担当、歌が好きだったので担当できたのが嬉しかった。
家庭で歌える歌をという事で「みんなの歌」が昭和36年にできた番組。(小学校中学年~中学生)
「おお牧場は緑」、「線路はつづくよどこまでも」・・・等々
酒を飲んでいて、流しが来てザ・ピーナッツの「情熱の花」を頼んだら、これは「エリーゼのために」じゃないかという事で、クラシックのいい曲を探して作れば、自分でもできるのではないかというのがきっかけだった。
先生に相談したら出尽くしているとの事だったが、ビゼー「カルメン」 「美しきパースの娘」のセレナードのメロディーが良くて、これに詩を付けることにして、「世界の音楽」の構成をしている海野弘さんに依頼した。
少年を主人公にしてもらいたいと の要望をして、できたのが「小さな木の実」でした。
彼は40歳過ぎて子供ができたので、自分の願いも込めて、長男のために「草原の足跡」を書いたが、それに言葉を変え「小さな木の実」ができた。
大庭さんはシャンソンコンクールで入賞したこともあり、NHKの歌謡オーディションも受かっていて、これに受かっていないとどんなに有名な歌手でも歌謡番組に出られない。(美空ひばりは受けていなかったので其れを楯にしたそうだ)
4月、5月の毎週土曜日に放送される事になるが、昭和46年の4月、5月でベストワンだった。
最近までこれだけ再放送されたものは、ないのではないか。
唱歌 歌もない先生もいない 井沢修二がアメリカのボストンに行って、4年間留学して帰ってきて、彼が中心になって唱歌作りが始まった。
最初に「ちょうちょ」(スペイン民謡)、「むすんでひらいて」(ジャン=ジャック・ルソーが書いた「見渡せば」という歌)、「ほたるの光」(スコットランド民謡)の3曲で、最初は全部輸入だった。
大正ロマンチズムの時代、唱歌は歌でもって子供の心をマインドコントロールしようとしているのではないかと、鈴木三重吉文学者が怒って、赤い鳥運動が始まる。
唱歌は北原白秋、与謝野晶子とかの一流文学者に頼んで作ってもらうべきであると言う事になる。
発行したのが「赤い鳥」という教育雑誌で夏目漱石がその名前を付けたといわれる。
童謡という言葉は語源は中国での言葉で「ざれ歌」、日本では大正7年に「赤い鳥」運動で童謡ができる。
東西の一流文学者が童話、童謡を作った。
北原白秋が中心になって行った。
「歌を忘れたカナリヤ」(大正7年 西条八十) 「金の舟」「少年号」「少女号」「童話」といった「赤い鳥」に類似の教育教養雑誌がどっとでる。
童謡が日本独特のものなのだと言われるようになってくる。
三木露風、野口雨情、清水かつらなどが出てきて、「叱られて」「靴が鳴る」等の名曲ができる。
1992年定年退職していたら、大庭さんが来て「小さな木の実」を携えて3000校を回っていると言う事で、唱歌として取り上げられていて、皆知っているという状況で、彼女はもう一度「赤い鳥運動」をしようという事で、手伝いをしてほしいと言われて、1995年にやりました。
ジュニア短歌を使ってやったらどうかという事で、素朴な歌ができた。(作曲はトップレベルの人に依頼した 審査は子供達が行った)
これを童謡として10曲作った。
童謡は大正時代に花が開いたがレコード等手が届くところになかったが、第一次世界大戦後、科学産業が民間に転用されてレコーディングが格段に安くなって大量生産ができるようになって、音質が良くなって、昭和と同時ぐらいに大量生産されてレコードが庶民のものになり、NHKのラジオ放送がはじまって、童謡、唱歌にとってみては爆発的な浸透力になった。(直接家庭に届く ラジオとともに広がった)
曲が定期的にできてくれないといけない様な形態になる。
遊戯唱歌をレコードにしたら凄く売れて、振付するが、そのうちに振り付け師に合う様な童謡ができるようになる。(本末転倒)
昭和12年4月から国民歌謡ができて、「椰子の実」(島崎藤村)ができる。 歌、東海林太郎
昭和16年 国民歌謡から「めんこい仔馬」等ができるが、段々軍の干渉が起きてくる。
昭和18年 川田正子さん 関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」でいきなり優勝する。
戦争が烈しくなると疎開とかで歌手がいなくなってきて、川田正子さんが毎日出る様になる。
復員船が入ってくると言う事で「引き上げ同胞激励の午後」という特集番組を作って、新しい歌を作ってほしいと言う事で「里の秋」を作って川田正子さんが歌う、これが感動した。
その後何十人と言う歌手が乱立した。
「とんがり帽子」「雪の降る街」など・・・・ラジオドラマの主題歌などができる様になる。
ラジオ歌謡ができて、「森の水車」「山小屋のともしび」「アザミの歌」「桜貝の歌」・・・・・名歌が生まれる。
「小さな木の実」昭和46年 TV「みんなの歌」で大庭照子さんが歌って大ヒット この曲をプロュースしたのがNHKで皆の歌を担当し、現在は童謡研究家の若林さん、83歳、当時増えてきた交通遺児を励まそうとした曲だそうです。
昭和44年「みんなの歌」を担当、歌が好きだったので担当できたのが嬉しかった。
家庭で歌える歌をという事で「みんなの歌」が昭和36年にできた番組。(小学校中学年~中学生)
「おお牧場は緑」、「線路はつづくよどこまでも」・・・等々
酒を飲んでいて、流しが来てザ・ピーナッツの「情熱の花」を頼んだら、これは「エリーゼのために」じゃないかという事で、クラシックのいい曲を探して作れば、自分でもできるのではないかというのがきっかけだった。
先生に相談したら出尽くしているとの事だったが、ビゼー「カルメン」 「美しきパースの娘」のセレナードのメロディーが良くて、これに詩を付けることにして、「世界の音楽」の構成をしている海野弘さんに依頼した。
少年を主人公にしてもらいたいと の要望をして、できたのが「小さな木の実」でした。
彼は40歳過ぎて子供ができたので、自分の願いも込めて、長男のために「草原の足跡」を書いたが、それに言葉を変え「小さな木の実」ができた。
大庭さんはシャンソンコンクールで入賞したこともあり、NHKの歌謡オーディションも受かっていて、これに受かっていないとどんなに有名な歌手でも歌謡番組に出られない。(美空ひばりは受けていなかったので其れを楯にしたそうだ)
4月、5月の毎週土曜日に放送される事になるが、昭和46年の4月、5月でベストワンだった。
最近までこれだけ再放送されたものは、ないのではないか。
唱歌 歌もない先生もいない 井沢修二がアメリカのボストンに行って、4年間留学して帰ってきて、彼が中心になって唱歌作りが始まった。
最初に「ちょうちょ」(スペイン民謡)、「むすんでひらいて」(ジャン=ジャック・ルソーが書いた「見渡せば」という歌)、「ほたるの光」(スコットランド民謡)の3曲で、最初は全部輸入だった。
大正ロマンチズムの時代、唱歌は歌でもって子供の心をマインドコントロールしようとしているのではないかと、鈴木三重吉文学者が怒って、赤い鳥運動が始まる。
唱歌は北原白秋、与謝野晶子とかの一流文学者に頼んで作ってもらうべきであると言う事になる。
発行したのが「赤い鳥」という教育雑誌で夏目漱石がその名前を付けたといわれる。
童謡という言葉は語源は中国での言葉で「ざれ歌」、日本では大正7年に「赤い鳥」運動で童謡ができる。
東西の一流文学者が童話、童謡を作った。
北原白秋が中心になって行った。
「歌を忘れたカナリヤ」(大正7年 西条八十) 「金の舟」「少年号」「少女号」「童話」といった「赤い鳥」に類似の教育教養雑誌がどっとでる。
童謡が日本独特のものなのだと言われるようになってくる。
三木露風、野口雨情、清水かつらなどが出てきて、「叱られて」「靴が鳴る」等の名曲ができる。
1992年定年退職していたら、大庭さんが来て「小さな木の実」を携えて3000校を回っていると言う事で、唱歌として取り上げられていて、皆知っているという状況で、彼女はもう一度「赤い鳥運動」をしようという事で、手伝いをしてほしいと言われて、1995年にやりました。
ジュニア短歌を使ってやったらどうかという事で、素朴な歌ができた。(作曲はトップレベルの人に依頼した 審査は子供達が行った)
これを童謡として10曲作った。
童謡は大正時代に花が開いたがレコード等手が届くところになかったが、第一次世界大戦後、科学産業が民間に転用されてレコーディングが格段に安くなって大量生産ができるようになって、音質が良くなって、昭和と同時ぐらいに大量生産されてレコードが庶民のものになり、NHKのラジオ放送がはじまって、童謡、唱歌にとってみては爆発的な浸透力になった。(直接家庭に届く ラジオとともに広がった)
曲が定期的にできてくれないといけない様な形態になる。
遊戯唱歌をレコードにしたら凄く売れて、振付するが、そのうちに振り付け師に合う様な童謡ができるようになる。(本末転倒)
昭和12年4月から国民歌謡ができて、「椰子の実」(島崎藤村)ができる。 歌、東海林太郎
昭和16年 国民歌謡から「めんこい仔馬」等ができるが、段々軍の干渉が起きてくる。
昭和18年 川田正子さん 関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」でいきなり優勝する。
戦争が烈しくなると疎開とかで歌手がいなくなってきて、川田正子さんが毎日出る様になる。
復員船が入ってくると言う事で「引き上げ同胞激励の午後」という特集番組を作って、新しい歌を作ってほしいと言う事で「里の秋」を作って川田正子さんが歌う、これが感動した。
その後何十人と言う歌手が乱立した。
「とんがり帽子」「雪の降る街」など・・・・ラジオドラマの主題歌などができる様になる。
ラジオ歌謡ができて、「森の水車」「山小屋のともしび」「アザミの歌」「桜貝の歌」・・・・・名歌が生まれる。
2015年9月8日火曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう (第16回)太平洋戦争の日々(2)(H27.5.3放送)
正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう (第16回)太平洋戦争の日々(2)(H27.5.3放送)
~特攻隊員とその遺書
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/16.htmlをご覧ください。
~特攻隊員とその遺書
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/16.htmlをご覧ください。
2015年9月7日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(1)(H27.4.5 放送)
保阪正康(ノンフィクション作家)・昭和史を味わう 太平洋戦争の日々(1)(H27.4.5 放送)
~学童疎開と勤労動員
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/04/15.htmlをご覧ください。
~学童疎開と勤労動員
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/04/15.htmlをご覧ください。
2015年9月6日日曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第20回 マッカーサーと昭和天皇
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第20回 マッカーサーと昭和天皇
昭和20年9月~昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立するまで昭和中期 日本が占領されていた時代。
マッカーサー最高司令官のもとで、日本の社会や政治が動いた時期。
憲法を始め私たちの国民の意識も変わってゆく。
臣民だったが、戦後の憲法のもと、市民としての権利が保証されてゆく、民主主義の社会になってゆく。
昭和20年8月30日厚木基地にマッカーサーが降り立つ。
海軍のニミッツ、陸軍のマッカーサーは戦争遂行時は恨みの対象だった。
テロ、日本人の抵抗があるのではないかという不安感があったが、抵抗に遭ったら徹底的に壊滅すると言う方針を持っていた。
マッカーサーは或る程度理想主義的なところがあって格調高い演説であった。
征服者として日本に来たのではなく、日本に民主主義を教育したいと言う立場の人として来たんだと言うふうに、歴史上受けとめられたいといっていた。
昭和20年9月27日昭和天皇とマッカーサーが初めて会談して、昭和26年4月まで11回会談を行う。
最も大事だったのが1回目だった。
天皇がアメリカ大使館を訪れることになる。(当時の吉田外務大臣が内々にマッカーサーの意図を探って作られた模様)
11回全部アメリカ大使館で行われる。
奥村勝蔵外務省外交官、侍従長藤田尚徳、宮内省職員筧素彦等いろんな人がそばについてゆく。
有名な二人の写真がある。(3枚) 一番うまく撮れている、一般的には3枚目が公開されている。
外国の新聞に載ったが、日本の新聞が外国から入ってきたという事で載せる事になるが、内務省などは発行禁止、天皇の写真を載せるのは不敬罪だと言う事で発行禁止を出すが、GHQが報道、表現の自由などを保証するという指令も出している。
一回目の会談の内容
マッカーサーの回想記では、昭和天皇がマッカーサーの前に出て「私が戦争のあらゆる責任をとるので、貴方の国からどういう処罰を受けようともその覚悟を持ってきてます」と言って流石は君主であると、言うのでマッカーサーはそれまでの感情が和らいで親しみを持てたと書いているが、本当はどうだったんだろうとなかなかわからなかったが、2002年に当時の通訳の奥村勝蔵さんが書いた報告書が外務省と宮内省に有り、公開された。
37分間会っているが、マッカーサーの回顧録に書いてあることは書いてなかった。
近年の研究、いろんな文書を分析すると天皇は其れに類する事を言ったのであろうと、但しこの事をそのまま記録に残すことは日本国民には刺激が強すぎたということで、それを伏せたと言う事が
一般的な解釈になっている。
昭和天皇は飾り気もなく正直にマッカーサーと向き合ったので、素朴な信頼を持ったと思われ,段々敬称、尊敬の言葉を使う様になっていった。
マッカーサー自身明治38年に日本に来ている。(当時少年で父はフィリピの司令官だった)
父とともに明治天皇に会っているので、好意的な目で見るようになったのではないか。
マッカーサーでなく違う軍人だったら、アメリカが穏健な統治をしたかは分からない。
2回目は昭和21年5月31日に行う、その後はその時々の社会の出来事と密接に絡んでいる。
食糧危機が高まっていて、烈しい運動があり危機的な状況になっていて、天皇は其れを憂いて昭和21年5月24日に玉音放送をする。
(祖国再建の第一歩は食生活の安定、お互いに助け合って窮境を切り開いていかなければいけない、国民が家族国家の麗しい伝統に生きて、祖国再建の道を踏み出すことが大事という内容の放送)
食糧危機に対する食糧援助の要請をしたと言われている。
3回目 昭和21年10月16日
4回目は昭和22年5月6日 憲法が施行されて3日目
社会党片山哲連立内閣ができる。 日本の国策も大きく変わる事が予想される。
社会主義的な政権ができて、天皇としては具体的にどういう指令を出すのかを聞きたかったと思われる。
日本が共産主義勢力に軍事的に攻められるようになったらどうなるのだろうかと言ったら、マッカーサーはわれわれの軍隊はカリフォルニアを守るがごとく、日本を守ると言ったと言われる。
この件を奥村勝蔵がもらしたと言われ、通訳を首になるが、そうではなくて吉田茂の政治顧問の白洲次郎が漏らしたと言われる。(今の定説)
5回目昭和22年11月14日
沖縄のことが話題になった。
沖縄に対してアメリカが一定の権限を持って駐留する事に対して、天皇はかなり積極的に認めたと言われている。
そのこと自身があって晩年まで沖縄に行きたいと言っていた、複雑な感情があったと思われる。
今上天皇が沖縄に何度も行って、沖縄の人たちと新しい関係を作っているのは其れが伏線になっているのではないかと思う。
11回目 最後のお別れの挨拶。
象徴天皇であるので、未公開になっているのは、天皇はマッカーサーとの会談は二人だけの秘密にしておく約束なので私は話さないと言った。
新しい憲法のもとで昭和天皇は象徴天皇なのだが、マッカーサーとの対談の中では必然的に政治的な発言をしなければいけないし、政治的な発言をしていると思うので、そのまま議事録として公開したらいろんな差しさわりがあるのだろうと言う事で、公開されないのだろうと思います。
昭和21年1月19日にのど自慢素人演芸会が始まり、今でも続いている。
街頭録音、音楽等ラジオ番組が放送される。
昭和20年9月~昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立するまで昭和中期 日本が占領されていた時代。
マッカーサー最高司令官のもとで、日本の社会や政治が動いた時期。
憲法を始め私たちの国民の意識も変わってゆく。
臣民だったが、戦後の憲法のもと、市民としての権利が保証されてゆく、民主主義の社会になってゆく。
昭和20年8月30日厚木基地にマッカーサーが降り立つ。
海軍のニミッツ、陸軍のマッカーサーは戦争遂行時は恨みの対象だった。
テロ、日本人の抵抗があるのではないかという不安感があったが、抵抗に遭ったら徹底的に壊滅すると言う方針を持っていた。
マッカーサーは或る程度理想主義的なところがあって格調高い演説であった。
征服者として日本に来たのではなく、日本に民主主義を教育したいと言う立場の人として来たんだと言うふうに、歴史上受けとめられたいといっていた。
昭和20年9月27日昭和天皇とマッカーサーが初めて会談して、昭和26年4月まで11回会談を行う。
最も大事だったのが1回目だった。
天皇がアメリカ大使館を訪れることになる。(当時の吉田外務大臣が内々にマッカーサーの意図を探って作られた模様)
11回全部アメリカ大使館で行われる。
奥村勝蔵外務省外交官、侍従長藤田尚徳、宮内省職員筧素彦等いろんな人がそばについてゆく。
有名な二人の写真がある。(3枚) 一番うまく撮れている、一般的には3枚目が公開されている。
外国の新聞に載ったが、日本の新聞が外国から入ってきたという事で載せる事になるが、内務省などは発行禁止、天皇の写真を載せるのは不敬罪だと言う事で発行禁止を出すが、GHQが報道、表現の自由などを保証するという指令も出している。
一回目の会談の内容
マッカーサーの回想記では、昭和天皇がマッカーサーの前に出て「私が戦争のあらゆる責任をとるので、貴方の国からどういう処罰を受けようともその覚悟を持ってきてます」と言って流石は君主であると、言うのでマッカーサーはそれまでの感情が和らいで親しみを持てたと書いているが、本当はどうだったんだろうとなかなかわからなかったが、2002年に当時の通訳の奥村勝蔵さんが書いた報告書が外務省と宮内省に有り、公開された。
37分間会っているが、マッカーサーの回顧録に書いてあることは書いてなかった。
近年の研究、いろんな文書を分析すると天皇は其れに類する事を言ったのであろうと、但しこの事をそのまま記録に残すことは日本国民には刺激が強すぎたということで、それを伏せたと言う事が
一般的な解釈になっている。
昭和天皇は飾り気もなく正直にマッカーサーと向き合ったので、素朴な信頼を持ったと思われ,段々敬称、尊敬の言葉を使う様になっていった。
マッカーサー自身明治38年に日本に来ている。(当時少年で父はフィリピの司令官だった)
父とともに明治天皇に会っているので、好意的な目で見るようになったのではないか。
マッカーサーでなく違う軍人だったら、アメリカが穏健な統治をしたかは分からない。
2回目は昭和21年5月31日に行う、その後はその時々の社会の出来事と密接に絡んでいる。
食糧危機が高まっていて、烈しい運動があり危機的な状況になっていて、天皇は其れを憂いて昭和21年5月24日に玉音放送をする。
(祖国再建の第一歩は食生活の安定、お互いに助け合って窮境を切り開いていかなければいけない、国民が家族国家の麗しい伝統に生きて、祖国再建の道を踏み出すことが大事という内容の放送)
食糧危機に対する食糧援助の要請をしたと言われている。
3回目 昭和21年10月16日
4回目は昭和22年5月6日 憲法が施行されて3日目
社会党片山哲連立内閣ができる。 日本の国策も大きく変わる事が予想される。
社会主義的な政権ができて、天皇としては具体的にどういう指令を出すのかを聞きたかったと思われる。
日本が共産主義勢力に軍事的に攻められるようになったらどうなるのだろうかと言ったら、マッカーサーはわれわれの軍隊はカリフォルニアを守るがごとく、日本を守ると言ったと言われる。
この件を奥村勝蔵がもらしたと言われ、通訳を首になるが、そうではなくて吉田茂の政治顧問の白洲次郎が漏らしたと言われる。(今の定説)
5回目昭和22年11月14日
沖縄のことが話題になった。
沖縄に対してアメリカが一定の権限を持って駐留する事に対して、天皇はかなり積極的に認めたと言われている。
そのこと自身があって晩年まで沖縄に行きたいと言っていた、複雑な感情があったと思われる。
今上天皇が沖縄に何度も行って、沖縄の人たちと新しい関係を作っているのは其れが伏線になっているのではないかと思う。
11回目 最後のお別れの挨拶。
象徴天皇であるので、未公開になっているのは、天皇はマッカーサーとの会談は二人だけの秘密にしておく約束なので私は話さないと言った。
新しい憲法のもとで昭和天皇は象徴天皇なのだが、マッカーサーとの対談の中では必然的に政治的な発言をしなければいけないし、政治的な発言をしていると思うので、そのまま議事録として公開したらいろんな差しさわりがあるのだろうと言う事で、公開されないのだろうと思います。
昭和21年1月19日にのど自慢素人演芸会が始まり、今でも続いている。
街頭録音、音楽等ラジオ番組が放送される。
2015年9月5日土曜日
中川 毅(古気候学研究センター長) ・5万年の歴史の物差しを掘り出す
中川 毅(立命館大学・古気候学研究センター長) ・5万年の歴史の物差しを掘り出す
46歳、2006年日本、イギリス、ドイツによるプロジェクトのリーダーを務め、福井県、三方五湖の一つ、水月湖の湖底から、縦に長さ46m、7万年分の堆積物を掘り起こすことに成功しました。
堆積物には1年ごとに出来る縞模様があり、年縞と呼んでいます。
2012年そのうちの5万年分が国際的な学術会議で、化石、遺跡、気候変動、火山活動等の年代を特定する世界共通の物差しに選ばれました。
中川さんの専門は古気候学、気温、雨などの気象を研究する学問です。
今後は年縞を使って過去の気候変動を研究すると言う事です。
ここまで大変な道のりだったと言いますが、この年縞の何が画期的で何が判るのか伺いました。
90cmの長さで直径が7.6cmにスライスされたものが目の前にあります。
一つの縞が1年、明るいものと暗いもので1セットで1年です。
E35資料の一番上は 41709±81年 一番下が43709±78年
3cm縞のない部分があるが、湖の岸近くに溜まっていた土が、何らかの理由で崩れて土が地滑りを起こして、一瞬で何センチもたまってしまう、これは大規模な地震であろうと思われる。
43805±79年前に大きな地震があったと言う事がこの土から判ります。
放射性炭素年代測定という方法があるが、それで年代が詳細が決定されている世界の他の資料と比較する事によって、水月湖の土の年代は恐らく世界で一番正確に判っています。
ほとんどの湖の堆積物は綺麗な縞模様を持っていません。
湖には生物、魚、ゴカイなどがいてかき乱されてしまって細かい構造は残らないが、水月湖には細かい縞模様が残っていて、細かい分析ができる。
水月湖は山から土砂が入ってくるが、最初の湖でせき止められて水月湖には届かない、海の方か高潮等があるが水月湖に届くほどでもない、山からも海からも水月湖は守られている。
日本には非常に明瞭な季節があるので、四季によって湖の中の状態が違う、湖に流れ込んでくる物の種類が違う。
春先はプランクトンが繁殖して夏までに死ぬ、梅雨時は雨がたくさん降るので岸の土が入ってくる、夏はあおこが繁殖して湖底に沈む、秋から冬にかけて、湖の中に溶けている鉄分が析出して粒になり、湖底に溜まる。
冬には中国から飛んでくる黄砂が湖底に溜まり、順番に溜まってきて綺麗な縞模様になる。
湖は段々詰まって浅くなるが、三方断層が近くに達していて、水月湖が徐々に低くなっていっているが速度が年に1mm、水月湖に溜まるのが年に0.6~0.7mmぐらいなので埋まってくるが其れを上回って深くなっている。
それほど長く連続した年縞は世界には他にはない。
7万年が水月湖にはある。
縞模様が綺麗でないところもあり人間がキチンと考えて数えているので、5年掛かりました。
土の中には様々なものが含まれていて、注目しているのが植物の花粉です。
花粉が沈んで湖底に沈んで、化石になりますが、多い時は1ccに何万粒、何十万粒あり、実験室で化学処理をして取り出して、顕微鏡で観察する事によって、杉とか、ぶなとか種類が判るので、昔水月湖の周辺で生えていた植物の種類が判り、縞模様を数えることによって、その年代にはどうなっていたか、植物の歴史が判る、それが面白い。
学生時代は環境問題に興味を持っていて、生態学の勉強をしようと思ったが、一人の研究者が観察できるのは数年~数十年なので、もっと長いスパンでの観察をしたくて、化石を知らなければいけないと言う事で、国際日本文化研究センターに安田喜憲先生がおりまして、三方五湖の堆積物の研究を始めようとしていたところで、先生のお手伝いをすることになり、綺麗な年縞堆積物が発見されその現場に居合わせることができた。
最初4m掘って、次に12m、綺麗に取れて一体どこまで綺麗な年縞がとれるのだとうかと、言う事で湖底75mに達する本格的な掘削を1993年に行っています。
湖底から45mまで連続して綺麗な年縞が続いていることが判明しました。
どうやって扱うかのノウハウも或る種未熟だった。
1m分を45回繰り返してやるので、どうしても取れない部分があり、そこには何年部に相当するのか判らず、袋小路にはまってしまって、世界的に認められる年代測定に至らなかった。
2006年、改めて予算を獲得して私がリーダーになって掘削を行いました。
1993年に掘削したものは北川浩之さん(現名古屋大学教授)が一番熱心に分析して、1998年に世界を驚かす論文を書いて、2003年に私も或る仮説を論文で提唱するが、定職が無くて、3年時限の契約で、水月湖の最初の論文を発表したが、その後は研究しにくい状況があった。
その後、突然見知らぬ人よりメールがあって、応募したら幸い採用していただいた。
2006年の掘削はイギリスの研究資金(1000万円強)でやっていた。(他に日本の協力が色々あった)
協力してくれたボーリング会社からは3人の技術者がきて、研究者2人、学生等が4~5人が参加。(その社長に説明したら採算度外視でやってくれました)
民宿に泊まりたかったが、倹約のため宿泊は放棄されていた交番で、雑魚寝、朝昼晩自炊、そこに1カ月半滞在しました。(イギリス、ドイツからも来ました)
友人たちから家財道具を提供して貰う様に交渉して、協力してもらいました。
2006年7月1日~8月11日まで、とっても暑くて、掘削後はくたびれてしまって、1週間ボーっとしていました。
掘りだしたばかりの土は冷蔵しないといけないが、冷蔵庫を買うお金もなくて、漁協の魚用冷蔵庫の一角を2m×2mで月1.5万円で借りて土を運んで来ていたが、段々漁師さんと仲良くなって、魚を貰ったりするようになって、後半は食料も良くなりました。
ボーリングはパイプを刺して、パイプにはピストンで蓋がされていて、蓋とパイプを一緒に引っ張り上げることによって、土が取れてくる。
パイプは2mのパイプを特注で開発して、それを使いましたが、固くなると1mのものを使いました。
掘削の難しさ、年縞だと1mmひびが入っていたり、ちょっとだけめくれ上がったいたりして、掘削の微妙な失敗とも呼べない様な失敗が、全部目に見える形で示されてしまう。
考えてもみなかったトラブルに次々に気がつかされるという状況だった。
掘削業者もこんなに難しいとは思わなかったと言っていました。
全部で4回掘削しました。(掘削の隙間を埋めるための掘削 掘削技術も向上)
73.2m 16万年分に相当 縞模様は45m、時代で言うと7万年分 12万年ぐらいのところにも縞模様がありました。
5万年分が世界の物差しに選ばれた。
放射性炭素年代測定という方法は、土の中に自然界に含まれている極弱い放射能を持った炭素があるが時代とともに、段々減ってゆくが、どれぐらい減って、どれぐらい残っているか、を元に年代を計算すると言う方法があって、それを適用できる限界が5万年前までで、それより昔は出来なくなってしまう。
水月湖の縞数の結果をつかうことによって従来よりも劇的に高めることに私たちの研究グループが成功して、その成果を全世界で共有してこれを使う物差しとして認めて頂きました。
放射性炭素年代測定の信頼を高めるのが、年縞です。
放射性炭素年代測定の信頼は2万年前だと信頼性は低かった。(400年の誤差があった)
年縞と照らし合わせ対応関係を明らかにして行った。(換算表が出来た)
世界各地で出てきた遺跡や遺物の放射性炭素年代測定したものと、他の遺跡から出てきたものが比較できる。
微妙な年代の差が高い信頼度で出来るようになってゆく。
2万年だと±58年の誤差、1万年だと±29年の誤差、4万年だと±80年強の誤差
5万年だと±169年の誤差
気候変動のメカニズムを一番知りたいと思っている。
過去の気候変動はいったいどういう風に起きたのかを、きっちり理解しないといけないと思っている。
各国の温暖化に関する政策の策定にあたってアドバイスをする専門家集団、今後1世紀の間に数度温暖化が起こると言っているが、地質学的スケールで見ると、100年で数度の温度変化はおとなしい変化です。
氷河期が終わった時は1年~数年で、温度が数度以上も上がるような出来事が何回か起こっています。
年縞は1年ごとの情報が全部残っているので、細かく分析すれば1年で何度か手にとるように判るようになる。
氷河期間内でも烈しい温暖化が何度も起こっている。
起こるときには地球上でどこで最初変化が起き、規模がどのようで、どのぐらいの時間で、どの地域につたわってゆくのかという様なメカニズムを明らかにしてゆく必要がある。
氷河期は、一番いい比較の対象はグリーンランドの氷で、1年1枚の縞模様があり、氷の化学組成を調べることで過去の気候変動が判るが、これと水月湖を比較すると同時に烈しい変化が起こったみたいです。
氷河期の中に起こった温暖化は、南半球あたりで最初に温暖化の兆候がみられて、数百年から千数百年掛かって、徐々にグリーンランドを含む大西洋に伝わっていったみたいです。
温暖化もいろんなパターンがあり、いろんなメカニズムが複雑に絡み合っているみたいです。
歴史に残るぐらいの時間スケールで目撃してきた気候変動は、地質学的スケールで見ると大した事ない変動なので、潜在的にはどんな極端なことが起こり得るか、基礎知識を蓄えることは非常に重要で、年縞、化石を使った過去の復元は非常に重要だと思います。
46歳、2006年日本、イギリス、ドイツによるプロジェクトのリーダーを務め、福井県、三方五湖の一つ、水月湖の湖底から、縦に長さ46m、7万年分の堆積物を掘り起こすことに成功しました。
堆積物には1年ごとに出来る縞模様があり、年縞と呼んでいます。
2012年そのうちの5万年分が国際的な学術会議で、化石、遺跡、気候変動、火山活動等の年代を特定する世界共通の物差しに選ばれました。
中川さんの専門は古気候学、気温、雨などの気象を研究する学問です。
今後は年縞を使って過去の気候変動を研究すると言う事です。
ここまで大変な道のりだったと言いますが、この年縞の何が画期的で何が判るのか伺いました。
90cmの長さで直径が7.6cmにスライスされたものが目の前にあります。
一つの縞が1年、明るいものと暗いもので1セットで1年です。
E35資料の一番上は 41709±81年 一番下が43709±78年
3cm縞のない部分があるが、湖の岸近くに溜まっていた土が、何らかの理由で崩れて土が地滑りを起こして、一瞬で何センチもたまってしまう、これは大規模な地震であろうと思われる。
43805±79年前に大きな地震があったと言う事がこの土から判ります。
放射性炭素年代測定という方法があるが、それで年代が詳細が決定されている世界の他の資料と比較する事によって、水月湖の土の年代は恐らく世界で一番正確に判っています。
ほとんどの湖の堆積物は綺麗な縞模様を持っていません。
湖には生物、魚、ゴカイなどがいてかき乱されてしまって細かい構造は残らないが、水月湖には細かい縞模様が残っていて、細かい分析ができる。
水月湖は山から土砂が入ってくるが、最初の湖でせき止められて水月湖には届かない、海の方か高潮等があるが水月湖に届くほどでもない、山からも海からも水月湖は守られている。
日本には非常に明瞭な季節があるので、四季によって湖の中の状態が違う、湖に流れ込んでくる物の種類が違う。
春先はプランクトンが繁殖して夏までに死ぬ、梅雨時は雨がたくさん降るので岸の土が入ってくる、夏はあおこが繁殖して湖底に沈む、秋から冬にかけて、湖の中に溶けている鉄分が析出して粒になり、湖底に溜まる。
冬には中国から飛んでくる黄砂が湖底に溜まり、順番に溜まってきて綺麗な縞模様になる。
湖は段々詰まって浅くなるが、三方断層が近くに達していて、水月湖が徐々に低くなっていっているが速度が年に1mm、水月湖に溜まるのが年に0.6~0.7mmぐらいなので埋まってくるが其れを上回って深くなっている。
それほど長く連続した年縞は世界には他にはない。
7万年が水月湖にはある。
縞模様が綺麗でないところもあり人間がキチンと考えて数えているので、5年掛かりました。
土の中には様々なものが含まれていて、注目しているのが植物の花粉です。
花粉が沈んで湖底に沈んで、化石になりますが、多い時は1ccに何万粒、何十万粒あり、実験室で化学処理をして取り出して、顕微鏡で観察する事によって、杉とか、ぶなとか種類が判るので、昔水月湖の周辺で生えていた植物の種類が判り、縞模様を数えることによって、その年代にはどうなっていたか、植物の歴史が判る、それが面白い。
学生時代は環境問題に興味を持っていて、生態学の勉強をしようと思ったが、一人の研究者が観察できるのは数年~数十年なので、もっと長いスパンでの観察をしたくて、化石を知らなければいけないと言う事で、国際日本文化研究センターに安田喜憲先生がおりまして、三方五湖の堆積物の研究を始めようとしていたところで、先生のお手伝いをすることになり、綺麗な年縞堆積物が発見されその現場に居合わせることができた。
最初4m掘って、次に12m、綺麗に取れて一体どこまで綺麗な年縞がとれるのだとうかと、言う事で湖底75mに達する本格的な掘削を1993年に行っています。
湖底から45mまで連続して綺麗な年縞が続いていることが判明しました。
どうやって扱うかのノウハウも或る種未熟だった。
1m分を45回繰り返してやるので、どうしても取れない部分があり、そこには何年部に相当するのか判らず、袋小路にはまってしまって、世界的に認められる年代測定に至らなかった。
2006年、改めて予算を獲得して私がリーダーになって掘削を行いました。
1993年に掘削したものは北川浩之さん(現名古屋大学教授)が一番熱心に分析して、1998年に世界を驚かす論文を書いて、2003年に私も或る仮説を論文で提唱するが、定職が無くて、3年時限の契約で、水月湖の最初の論文を発表したが、その後は研究しにくい状況があった。
その後、突然見知らぬ人よりメールがあって、応募したら幸い採用していただいた。
2006年の掘削はイギリスの研究資金(1000万円強)でやっていた。(他に日本の協力が色々あった)
協力してくれたボーリング会社からは3人の技術者がきて、研究者2人、学生等が4~5人が参加。(その社長に説明したら採算度外視でやってくれました)
民宿に泊まりたかったが、倹約のため宿泊は放棄されていた交番で、雑魚寝、朝昼晩自炊、そこに1カ月半滞在しました。(イギリス、ドイツからも来ました)
友人たちから家財道具を提供して貰う様に交渉して、協力してもらいました。
2006年7月1日~8月11日まで、とっても暑くて、掘削後はくたびれてしまって、1週間ボーっとしていました。
掘りだしたばかりの土は冷蔵しないといけないが、冷蔵庫を買うお金もなくて、漁協の魚用冷蔵庫の一角を2m×2mで月1.5万円で借りて土を運んで来ていたが、段々漁師さんと仲良くなって、魚を貰ったりするようになって、後半は食料も良くなりました。
ボーリングはパイプを刺して、パイプにはピストンで蓋がされていて、蓋とパイプを一緒に引っ張り上げることによって、土が取れてくる。
パイプは2mのパイプを特注で開発して、それを使いましたが、固くなると1mのものを使いました。
掘削の難しさ、年縞だと1mmひびが入っていたり、ちょっとだけめくれ上がったいたりして、掘削の微妙な失敗とも呼べない様な失敗が、全部目に見える形で示されてしまう。
考えてもみなかったトラブルに次々に気がつかされるという状況だった。
掘削業者もこんなに難しいとは思わなかったと言っていました。
全部で4回掘削しました。(掘削の隙間を埋めるための掘削 掘削技術も向上)
73.2m 16万年分に相当 縞模様は45m、時代で言うと7万年分 12万年ぐらいのところにも縞模様がありました。
5万年分が世界の物差しに選ばれた。
放射性炭素年代測定という方法は、土の中に自然界に含まれている極弱い放射能を持った炭素があるが時代とともに、段々減ってゆくが、どれぐらい減って、どれぐらい残っているか、を元に年代を計算すると言う方法があって、それを適用できる限界が5万年前までで、それより昔は出来なくなってしまう。
水月湖の縞数の結果をつかうことによって従来よりも劇的に高めることに私たちの研究グループが成功して、その成果を全世界で共有してこれを使う物差しとして認めて頂きました。
放射性炭素年代測定の信頼を高めるのが、年縞です。
放射性炭素年代測定の信頼は2万年前だと信頼性は低かった。(400年の誤差があった)
年縞と照らし合わせ対応関係を明らかにして行った。(換算表が出来た)
世界各地で出てきた遺跡や遺物の放射性炭素年代測定したものと、他の遺跡から出てきたものが比較できる。
微妙な年代の差が高い信頼度で出来るようになってゆく。
2万年だと±58年の誤差、1万年だと±29年の誤差、4万年だと±80年強の誤差
5万年だと±169年の誤差
気候変動のメカニズムを一番知りたいと思っている。
過去の気候変動はいったいどういう風に起きたのかを、きっちり理解しないといけないと思っている。
各国の温暖化に関する政策の策定にあたってアドバイスをする専門家集団、今後1世紀の間に数度温暖化が起こると言っているが、地質学的スケールで見ると、100年で数度の温度変化はおとなしい変化です。
氷河期が終わった時は1年~数年で、温度が数度以上も上がるような出来事が何回か起こっています。
年縞は1年ごとの情報が全部残っているので、細かく分析すれば1年で何度か手にとるように判るようになる。
氷河期間内でも烈しい温暖化が何度も起こっている。
起こるときには地球上でどこで最初変化が起き、規模がどのようで、どのぐらいの時間で、どの地域につたわってゆくのかという様なメカニズムを明らかにしてゆく必要がある。
氷河期は、一番いい比較の対象はグリーンランドの氷で、1年1枚の縞模様があり、氷の化学組成を調べることで過去の気候変動が判るが、これと水月湖を比較すると同時に烈しい変化が起こったみたいです。
氷河期の中に起こった温暖化は、南半球あたりで最初に温暖化の兆候がみられて、数百年から千数百年掛かって、徐々にグリーンランドを含む大西洋に伝わっていったみたいです。
温暖化もいろんなパターンがあり、いろんなメカニズムが複雑に絡み合っているみたいです。
歴史に残るぐらいの時間スケールで目撃してきた気候変動は、地質学的スケールで見ると大した事ない変動なので、潜在的にはどんな極端なことが起こり得るか、基礎知識を蓄えることは非常に重要で、年縞、化石を使った過去の復元は非常に重要だと思います。
2015年9月4日金曜日
山中千尋(ジャズ・ピアニスト) ・私にはピアノしかない
山中千尋(ジャズ・ピアニスト) ・私にはピアノしかない
メジャーデビュー10周年を迎え7月に新しいCDを発表しました。
山中さんは群馬県桐生市の出身、6歳の時からピアノを始め、桐朋学園大学音楽学部を経て、アメリカのバークリー音楽大学に留学し、技術に磨きをかけました。
山中さんのリリースしたCDはあらゆるジャズチャートで1位を獲得しています。
第23回日本ゴールドディスク大賞、スイングジャーナル誌ジャズディスク大賞、日本ジャズ誌賞など様々な賞を受け多くのジャズファンに支持されています。
現在はニューヨークにお住まいの山中さんに伺いました。
10周年まで、あっという間でした。
世界各地に演奏するために出かけています。
「シンコペーションハザード」という新しいCDを発表。 ハザード=冒険という意味もある。
ジャズのルーツに戻って来ようと思い、「シンコペーションハザード」というアルバムを出しました。
シンコペーションというリズムで出来て、リズムが色々絡んでくる、ジャズの心臓というか、大元になったリズムなんで、シンコペーションで冒険してみようと思って、「シンコペーションハザード」としました。
でき上った曲は収録から2日前だったので、ドキドキ厳しかった。
コンサートで八木節をアレンジしたものを最後に行っています。
子供時代はおてんばで野性児でした。
母の勧めでピアノを習い始めたのは6歳でした。
自分の曲と合わないと編曲してしまったりして、先生から貴方が直しては駄目だと言われた。
そんなに変えたいのなら、ジャズとかという風に先生が言ったのがあり、ジャズを知りました。
父はフルート、母はハープをやり妹はバイオリンをやってます。
ピアノを職業にするという事は思っていなかった。
その後東京に行きたくて、東京の高校に通う様になりました。(桐朋学園の高等部)
音楽学校では厳しかったが、音楽家の卵たちと一緒に過ごせたのは財産だと思います。
演劇部と、ガムラン音楽(インドネシアの民族音楽) 響きが素敵で大学生のサークルに入れてもらっていました。
高校で出会った友人でバイオリンをやっている人がいて、自分を音楽に捧げるようにしている生活をしていて、自分は唯いわれることをやっているのではないかと思う様になった。
人の音でしか自分を表現できないと言うのが、ジャズをやるきっかけですが、直にピアノと自分の間に第三者がいなくて、何か音楽で表現できないか、探していました。
ジャズは自分の解釈で、編曲するが、100人が100通りの演奏をするアレンジだったり、アドリブだったりするので、そこに自分らしさを出すので自由がある。
ピアノの基礎もやりたかったので、桐朋学園大学音楽学部に入る。
クラシックを勉強しながらジャズ研のサークルにいったりするが、自分ではそのような音が出せなくて、一人でやってみるがなかなか判らなかった。
バークリーの大学に応募して、評価されて入学が許可されて、奨学金も貰えることになって、そのあとにもう一回試験がありました。
一番いいクラスに入る事が出来て、上手な人と一緒にやると色々少しずつ判るようになってきました。
いろんなコンサート、ライブに毎日のように出なくてはいけなくて、凄く経験を積ませてもらったのが、良かったと思います。
卒業してIAJA(全米ジャズ教育者協会)でのコンペティションがあり、そこで優勝して、ワールドツアーを組んでツアーをしていた時に、ビックバンドに誘われて、ツアーをした。
*シスターズ・イン・ジャズ国際コンクール 優勝(主催:国際ジャズ教育者協会、2000年)*
2005年にメジャーデビューをしてアルバムを出しました。
ピアノは私にとって第六の器官の様な感じがします。
ピアノがある事によって、自分の生きる道しるべを得ているのだなあと感じます。
ピアノを弾いていると心も体も安定します。
練習時間は決まっていないが、気が付くと10時間でも練習できますが、時間が無いんですが16時間ぐらいは練習したいと思っています。
メジャーデビュー10周年を迎え7月に新しいCDを発表しました。
山中さんは群馬県桐生市の出身、6歳の時からピアノを始め、桐朋学園大学音楽学部を経て、アメリカのバークリー音楽大学に留学し、技術に磨きをかけました。
山中さんのリリースしたCDはあらゆるジャズチャートで1位を獲得しています。
第23回日本ゴールドディスク大賞、スイングジャーナル誌ジャズディスク大賞、日本ジャズ誌賞など様々な賞を受け多くのジャズファンに支持されています。
現在はニューヨークにお住まいの山中さんに伺いました。
10周年まで、あっという間でした。
世界各地に演奏するために出かけています。
「シンコペーションハザード」という新しいCDを発表。 ハザード=冒険という意味もある。
ジャズのルーツに戻って来ようと思い、「シンコペーションハザード」というアルバムを出しました。
シンコペーションというリズムで出来て、リズムが色々絡んでくる、ジャズの心臓というか、大元になったリズムなんで、シンコペーションで冒険してみようと思って、「シンコペーションハザード」としました。
でき上った曲は収録から2日前だったので、ドキドキ厳しかった。
コンサートで八木節をアレンジしたものを最後に行っています。
子供時代はおてんばで野性児でした。
母の勧めでピアノを習い始めたのは6歳でした。
自分の曲と合わないと編曲してしまったりして、先生から貴方が直しては駄目だと言われた。
そんなに変えたいのなら、ジャズとかという風に先生が言ったのがあり、ジャズを知りました。
父はフルート、母はハープをやり妹はバイオリンをやってます。
ピアノを職業にするという事は思っていなかった。
その後東京に行きたくて、東京の高校に通う様になりました。(桐朋学園の高等部)
音楽学校では厳しかったが、音楽家の卵たちと一緒に過ごせたのは財産だと思います。
演劇部と、ガムラン音楽(インドネシアの民族音楽) 響きが素敵で大学生のサークルに入れてもらっていました。
高校で出会った友人でバイオリンをやっている人がいて、自分を音楽に捧げるようにしている生活をしていて、自分は唯いわれることをやっているのではないかと思う様になった。
人の音でしか自分を表現できないと言うのが、ジャズをやるきっかけですが、直にピアノと自分の間に第三者がいなくて、何か音楽で表現できないか、探していました。
ジャズは自分の解釈で、編曲するが、100人が100通りの演奏をするアレンジだったり、アドリブだったりするので、そこに自分らしさを出すので自由がある。
ピアノの基礎もやりたかったので、桐朋学園大学音楽学部に入る。
クラシックを勉強しながらジャズ研のサークルにいったりするが、自分ではそのような音が出せなくて、一人でやってみるがなかなか判らなかった。
バークリーの大学に応募して、評価されて入学が許可されて、奨学金も貰えることになって、そのあとにもう一回試験がありました。
一番いいクラスに入る事が出来て、上手な人と一緒にやると色々少しずつ判るようになってきました。
いろんなコンサート、ライブに毎日のように出なくてはいけなくて、凄く経験を積ませてもらったのが、良かったと思います。
卒業してIAJA(全米ジャズ教育者協会)でのコンペティションがあり、そこで優勝して、ワールドツアーを組んでツアーをしていた時に、ビックバンドに誘われて、ツアーをした。
*シスターズ・イン・ジャズ国際コンクール 優勝(主催:国際ジャズ教育者協会、2000年)*
2005年にメジャーデビューをしてアルバムを出しました。
ピアノは私にとって第六の器官の様な感じがします。
ピアノがある事によって、自分の生きる道しるべを得ているのだなあと感じます。
ピアノを弾いていると心も体も安定します。
練習時間は決まっていないが、気が付くと10時間でも練習できますが、時間が無いんですが16時間ぐらいは練習したいと思っています。
2015年9月3日木曜日
大竹 博(副理事長) ・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
大竹 博(NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会副理事長)・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
大竹さんは52歳、糖尿病が原因で20年前に失明、その10年前22歳の時に健康診断で糖尿病を患う可能性があると注意を受けていましたが、特に何もせず過ごしてきました。
突然仕事中に目がかすみ始め、光を失ったのです。
いつか再び光を取り戻すことができると信じて、治療を始めた大竹さんですが、完全に失明したことをなかなか受け入れられなかったと言います。
大竹さんに光を失うまでの経緯、失明という現状からどうやって乗り越えてきたか、などを伺いました。
32歳の時に失明、健康診断等で危険という事は指摘されていたが、普段と変わらない生活をしていたが夕方、目の中が真っ白、(真っ赤になるという様な予兆が無く)出血、目が破裂した。
ちょっと光がまぶしい、視力が少し落ちている事は気付いていたが、まさかこうなるとは思わなかった。
視力は低下してきましたが、痛みは全くありませんでした。
白いレースのカーテンに黒いすすが上から舞い降りてくるような感じでした。
両方の掌をみると、自分の左手の人差し指が見えなかった。(仕事中だった)
翌日休息を取ったが、食欲が無く、新聞とか文字が見えなくなっていたので、眼科に出かけた。
糖尿病の病気は持っていないかを問われて、もしかしたら治らなくなるかもしれないと言われた。
大学病院に駆け込んで検査してもらったが、糖尿病性網膜症という重度の症状であると言う事が判った。
糖尿病の合併症は5年で神経等がやられて、10年で目の異変、網膜症という事で、とうとう病気が起きてしまった。
入社して半年後に糖尿病が出ている事を健康診断では気付いていました。
糖尿病は身体のあらゆる視神経、細胞がやられてしまう事の説明を受けて、目も全く見えなくなるかもしれないと言われながら様々な手法で医者と病気との戦いが始まった。
週に1度内科的な治療、眼科的な治療のお世話になりました。
レーザー治療、出血しているところを固めて先ずおさめること、そして血糖のコントロールよくしてゆく。
繰り返し1年間治療を行なってきた。
普段の生活すらも送る事が出来ないかもしれない、人生の覚悟をしないといけない、長い戦いが始まるかもしれないと、恐ろしい驚きの宣告を受けました。
治療に専念するために退職をせざるを得なくなりました。
周りで一番衝撃だったのは両親、そして職場の仲間、友人たちだったが、段々友人たちとはコンタクトしなくなっていった。
生きることがこれほど痛くつらいという事になるなんて想像もしなかったので、自分自身路頭に迷った。
通院、退院してから様々な人との出会いがあったことが自分の人生の宝だと思っています。
光を失って、人生生かされている、生きていかなければいけないんだと言う事は私にとってのおおきな転換期がありました。
通院している時に、或る視覚障害者との出会いが大きなきっかけでした。
全盲の人が私の膝にぶつかって、話をしてみると北海道から一人で通院している事が判った。
目が不自由でもこれだけ生活ができるんだと言う事、明るく輝き前向きに生きている人の人生経験を私なりに理解して、下向きになっている自分が恥ずかしいと感じた事が大きな転換期になった。
目が不自由でも点字、パソコンで多くの仲間がいろいろ助けてくれて、色々出来るんだよ、人生楽しめるんだよと言う事を教えてもらいました。
たった1時間ぐらいの時間の中で、人生の視覚障害の先輩の助言があったからこそ、私は次へのステップに動く事が出来たので人生の恩師だと思っています。
文字を習得する、情報を習得するためには、6点の点字があることを教えてもらいました。
東京の点字図書館とかで様々な所で学ぶことができるし、白い杖を使っていろんなところに出かけることができる、自立訓練があるので、是非学んで頑張ってほしいと言われた。
思いきって外向きに向けてみようと、大きな転換期があり、情報源としてラジオを活用している。(ラジオ深夜便とかいろいろ)
ラジオ深夜便の聞いている中から刺激を受けて、社会とのコンタクトをとってみようと思いました。
白い杖は拒否反応があったが(医学でまた見えるようになるのではないかとの思いがあり)、受け入れるようになった。
医者と話をして手術をすれば貴方の目は半年ぐらいで回復する見込みがあるという事で、一大
決意をして12回の手術をしたが、やればやるほど回復が遅くなり、見えるようになるかもしれないという助言があったが、駄目だった。
先ず地元の新宿にある点字図書館で点字の勉強会があることを教わって、1年半点字を読むことについて研修会でお世話になりました。
段々情報が活用できると言う事で凄く嬉しくなりやる気ができて、点字が外向きに出るきっかけになったと思います。
自分の視野が広まり、一生忘れない有難いスタートだと思っています。
点字だけの情報では困難になってきているが、現在視覚障害者は32万人位おり、点字の情報を活用しているのは1割弱と言われる。
私の日々の活動のテーマに、心のバリアーフリー、人作り、もの作り、多くの人に様々なことを理解してもらうために、色々取り組みをしています。
ハード面 バリアーフリー、ユニバーサルデザインがひろまってきました。
健常者がエレベータに我先に乗って来たりするが、社会のモラルの問題、理解しお互いの気持ちでありがとう、お先にどうぞと、言う様なゆとりができる仕組みになって、伝えてゆく事が私たちの一番の願いであり、
実現できる事への取り組みのチャレンジだと思います。
障害は不自由であっても、不幸ではない、障害は個性である、人それぞれ苦しみがあり、しかし乗りきってこの事を社会に理解してもらい、共助、一緒に、やって行かなければいけない、この事が大切だと思います。
ハード面、ソフト面が一体となって理解して解決していくようにチャレンジして頂く事が、私たちの望むことだとも思います。
5年前に亡くなった母のコメント
母は癌で1年の闘病で他界、父もその3カ月後呼吸器の病気で他界しました。
手術をする時に、私と母が一緒にドクターの説明を受けに行った時、母が医師に向かって
「私は歳取った人間でこれからの人生もう長くない、先生私の目を我が息子に差し伸べて取り替えて、私の眼が自分の息子に変わるなら替えてもらえないか」との訴えだった。
いまだに忘れられない母の言葉でした。
この言葉がきっかけとなって、親、兄弟、仲間、いろんな形で支えてくれた人の思いを、受けとめなければいけない、やらなければいけない、ということが自分の人生の大きな転換期になったと思います。
私自身失明というものは明かりを失うばかりでなく、命を失うと書くぐらい衝撃でした。
この言葉を絶対に無駄にしてはいけない、これからも人のために、社会のために、皆のために頑張ってやって行かないといけないと、気付いて、学び、目標に向かってトライすることができました。
昨年9月に結婚する事が出来て、妻が眼の替わりになり一緒に身体の一部になって生活を共にしてくれています。
夫婦で社会にチャレンジして助けること、社会の人達に恩返ししなければいけないと思っています。
社会の人達に理解してもらい、みんなで助け合って楽しい社会になるように、という努力はして行きたいと思います。
大竹さんは52歳、糖尿病が原因で20年前に失明、その10年前22歳の時に健康診断で糖尿病を患う可能性があると注意を受けていましたが、特に何もせず過ごしてきました。
突然仕事中に目がかすみ始め、光を失ったのです。
いつか再び光を取り戻すことができると信じて、治療を始めた大竹さんですが、完全に失明したことをなかなか受け入れられなかったと言います。
大竹さんに光を失うまでの経緯、失明という現状からどうやって乗り越えてきたか、などを伺いました。
32歳の時に失明、健康診断等で危険という事は指摘されていたが、普段と変わらない生活をしていたが夕方、目の中が真っ白、(真っ赤になるという様な予兆が無く)出血、目が破裂した。
ちょっと光がまぶしい、視力が少し落ちている事は気付いていたが、まさかこうなるとは思わなかった。
視力は低下してきましたが、痛みは全くありませんでした。
白いレースのカーテンに黒いすすが上から舞い降りてくるような感じでした。
両方の掌をみると、自分の左手の人差し指が見えなかった。(仕事中だった)
翌日休息を取ったが、食欲が無く、新聞とか文字が見えなくなっていたので、眼科に出かけた。
糖尿病の病気は持っていないかを問われて、もしかしたら治らなくなるかもしれないと言われた。
大学病院に駆け込んで検査してもらったが、糖尿病性網膜症という重度の症状であると言う事が判った。
糖尿病の合併症は5年で神経等がやられて、10年で目の異変、網膜症という事で、とうとう病気が起きてしまった。
入社して半年後に糖尿病が出ている事を健康診断では気付いていました。
糖尿病は身体のあらゆる視神経、細胞がやられてしまう事の説明を受けて、目も全く見えなくなるかもしれないと言われながら様々な手法で医者と病気との戦いが始まった。
週に1度内科的な治療、眼科的な治療のお世話になりました。
レーザー治療、出血しているところを固めて先ずおさめること、そして血糖のコントロールよくしてゆく。
繰り返し1年間治療を行なってきた。
普段の生活すらも送る事が出来ないかもしれない、人生の覚悟をしないといけない、長い戦いが始まるかもしれないと、恐ろしい驚きの宣告を受けました。
治療に専念するために退職をせざるを得なくなりました。
周りで一番衝撃だったのは両親、そして職場の仲間、友人たちだったが、段々友人たちとはコンタクトしなくなっていった。
生きることがこれほど痛くつらいという事になるなんて想像もしなかったので、自分自身路頭に迷った。
通院、退院してから様々な人との出会いがあったことが自分の人生の宝だと思っています。
光を失って、人生生かされている、生きていかなければいけないんだと言う事は私にとってのおおきな転換期がありました。
通院している時に、或る視覚障害者との出会いが大きなきっかけでした。
全盲の人が私の膝にぶつかって、話をしてみると北海道から一人で通院している事が判った。
目が不自由でもこれだけ生活ができるんだと言う事、明るく輝き前向きに生きている人の人生経験を私なりに理解して、下向きになっている自分が恥ずかしいと感じた事が大きな転換期になった。
目が不自由でも点字、パソコンで多くの仲間がいろいろ助けてくれて、色々出来るんだよ、人生楽しめるんだよと言う事を教えてもらいました。
たった1時間ぐらいの時間の中で、人生の視覚障害の先輩の助言があったからこそ、私は次へのステップに動く事が出来たので人生の恩師だと思っています。
文字を習得する、情報を習得するためには、6点の点字があることを教えてもらいました。
東京の点字図書館とかで様々な所で学ぶことができるし、白い杖を使っていろんなところに出かけることができる、自立訓練があるので、是非学んで頑張ってほしいと言われた。
思いきって外向きに向けてみようと、大きな転換期があり、情報源としてラジオを活用している。(ラジオ深夜便とかいろいろ)
ラジオ深夜便の聞いている中から刺激を受けて、社会とのコンタクトをとってみようと思いました。
白い杖は拒否反応があったが(医学でまた見えるようになるのではないかとの思いがあり)、受け入れるようになった。
医者と話をして手術をすれば貴方の目は半年ぐらいで回復する見込みがあるという事で、一大
決意をして12回の手術をしたが、やればやるほど回復が遅くなり、見えるようになるかもしれないという助言があったが、駄目だった。
先ず地元の新宿にある点字図書館で点字の勉強会があることを教わって、1年半点字を読むことについて研修会でお世話になりました。
段々情報が活用できると言う事で凄く嬉しくなりやる気ができて、点字が外向きに出るきっかけになったと思います。
自分の視野が広まり、一生忘れない有難いスタートだと思っています。
点字だけの情報では困難になってきているが、現在視覚障害者は32万人位おり、点字の情報を活用しているのは1割弱と言われる。
私の日々の活動のテーマに、心のバリアーフリー、人作り、もの作り、多くの人に様々なことを理解してもらうために、色々取り組みをしています。
ハード面 バリアーフリー、ユニバーサルデザインがひろまってきました。
健常者がエレベータに我先に乗って来たりするが、社会のモラルの問題、理解しお互いの気持ちでありがとう、お先にどうぞと、言う様なゆとりができる仕組みになって、伝えてゆく事が私たちの一番の願いであり、
実現できる事への取り組みのチャレンジだと思います。
障害は不自由であっても、不幸ではない、障害は個性である、人それぞれ苦しみがあり、しかし乗りきってこの事を社会に理解してもらい、共助、一緒に、やって行かなければいけない、この事が大切だと思います。
ハード面、ソフト面が一体となって理解して解決していくようにチャレンジして頂く事が、私たちの望むことだとも思います。
5年前に亡くなった母のコメント
母は癌で1年の闘病で他界、父もその3カ月後呼吸器の病気で他界しました。
手術をする時に、私と母が一緒にドクターの説明を受けに行った時、母が医師に向かって
「私は歳取った人間でこれからの人生もう長くない、先生私の目を我が息子に差し伸べて取り替えて、私の眼が自分の息子に変わるなら替えてもらえないか」との訴えだった。
いまだに忘れられない母の言葉でした。
この言葉がきっかけとなって、親、兄弟、仲間、いろんな形で支えてくれた人の思いを、受けとめなければいけない、やらなければいけない、ということが自分の人生の大きな転換期になったと思います。
私自身失明というものは明かりを失うばかりでなく、命を失うと書くぐらい衝撃でした。
この言葉を絶対に無駄にしてはいけない、これからも人のために、社会のために、皆のために頑張ってやって行かないといけないと、気付いて、学び、目標に向かってトライすることができました。
昨年9月に結婚する事が出来て、妻が眼の替わりになり一緒に身体の一部になって生活を共にしてくれています。
夫婦で社会にチャレンジして助けること、社会の人達に恩返ししなければいけないと思っています。
社会の人達に理解してもらい、みんなで助け合って楽しい社会になるように、という努力はして行きたいと思います。
2015年9月2日水曜日
谷 久光(ジャーナリスト) ・戦争当時の思いを子どもたちに届けたい
谷 久光(ジャーナリスト) ・戦争当時の思いを子どもたちに届けたい
昭和20年、小学校6年生の時に兵庫県西宮市で空襲に遭いました。
谷さんとそのご家族は無事生き伸びましたが、その時の恐い体験をはっきり覚えていると言います。
その後谷さんは新聞記者になりましたが、戦争の記事を書いた事が無く、自分の戦争体験を詳しく話す機会もありませんでした。
新聞社を退職した後もジャーナリストとして活動している谷さんは、今年の2月戦争について話す機会があり、熱心に聞く子供達を見て戦争を知らない世代に文章を残しつたえていかなければならないと、考えました。
戦争当時小学生だった人たちに当時の記憶や思いを作文に書いて送ってもらう様 6月からインターネットや新聞で呼びかけました。
130点が寄せられ7月からホームページで13点の作品を公開しています。
小学生とその親に戦争について伝えたいと取り組む谷さんに伺いました。
子育て支援の活動をしている、NOP法人の代表の吉原佐紀子さんが、戦争について小学生と親たちに話すイベントを企画した。
西村宗さん(古い友人の漫画家)と二人で、戦争前後の体験を話してみようと言う事で、2時間ぐらい体験を話しました。
飢え死寸前まで追い込まれたので、さつまいもの蔓、つくし、魚も海に行って獲るとか、食べものについての話、衛生状態が悪くなってのみ、しらみが日常的に一杯いる、電気のかさに黒い布をかぶせて光が漏れないようにしたとか、そういった話をしました。
記録して伝えるようにしないと残らないと思いました。
応募作品を公開する、企画として考えた。
70年前の子供たちの体験を今の子供たちに伝えるのがいいのではないかと、吉原佐紀子さんから言われて、目から鱗だった。
子供の頃は野次馬精神が旺盛でやんちゃな子供だった。
当時は皆軍国少年だった。
加藤隼戦闘隊長(軍神)が憧れで、昭和17年ベンガル湾の上で被弾して自爆して、亡くなったことが凄いショックだった。
小学校2年生の時に「我が町」という作文を書くように言われて、西宮を俯瞰的にみる作文だったので、先生から褒められて文章を書くことに自信を持った。
緒戦の報道にみんな子供達は喜んでいた。
昭和20年6月5日、西宮から疎開する事になり、比叡山の方の農家に行く事になっていて、B29の大編隊がきて、爆撃して東に向かうのに出くわして、防空壕に入れてもらおうとした時に、爆弾が束になって落ちてくるのを見かけてあわてて入った。
真っ赤に燃えあがっている光景をみて、防空壕から飛び出して、避難した。
爆弾のタイミングがちょっとずれていたら、亡くなっていたと思う。
翌日京都に疎開した。
終戦の日は疎開先の農家の二階で母と子供達3人の家族でラジオを聞きました。
これで空襲は無いんだとホッとしました。
先生は鬼畜米英などと言って真剣に日本は必ず勝つと言っていて、敗戦になったとたん、先生はアメリカさんとか民主主義とか言葉を使って、ころりと変わった。
子供心に人の言う事は信用できないと思った。
大学ではマスコミ論、社会心理学とか社会学を学び、ジャーナリストになろうと思った。
「楼蘭の美女」
中国の新疆 ウイグル自治区に楼蘭と言う場所がある。
4世紀ごろに忽然と消える。(2万人位の都市)
楼蘭の美女といわれる30代の女性のミイラが見つかった。
(復元するとソフィヒアローレンみたいな美女)
日本で上野博物館、京都博物館で70万人位が見るが、その交渉過程でウイグル地区の政治協商会議議長「ヒョウ」さんが、或るとき突然、[実は私は両親が日本に殺された]と言った。
こういった人たちがいっぱいいるなと強く思いました。
応募作品の原文の趣旨は生かす様にして、この人の言いたいところはこれだなと言うところは盛り上げる様にして残すが、添削すると相当直すところはある。
かなりの手順を踏んで最終原稿にする。
松尾省子さんの作品
「顔も知らない父の遺骨を抱く私に電車の客が敬礼」
・・・生きるために必死でした。 5年生の時に父の遺骨を取りにお寺に行きました。父の顔を知りません。昭和20年7月28日ルソン島で戦死 36歳 父の遺骨を抱いて電車に乗った時に気付いた方は敬礼をしてくれました。 私は父を誇りに思い嬉しかった。今は日本は平和ですが戦争を忘れたことはありません。
中尾康之介さんの作品
「母が着物を染めて服を仕立ててくれた」
・・・母が自分の着物を染めて仕立ててくれるものもありました。 ・・・友達から冷やかされるのがとても嫌で悲しかった思い出です。・・・両親は必死になって子供達のために苦労していたのだと思います。親たちは厳しい状況の中で、知恵を絞り工夫をして育ててくれたのだと感謝しています。
平山善孝さんの作品
「一夜で佐世歩は燃え尽きる、校庭には長崎の被爆者が」
・・・家は燃えて無くなってしまいました。・・・ 学校の校庭に5,6人の人が横たわっており、全身やけどで水膨れ、苦しそうでした。長崎原爆の被災者でした。 「水、水、水をくれ・・・」と叫んでいました。
水を取りに行こうとしたら大人から、「水をやったらすぐに死んでしまう」と言われました。 私は右往左往するだけで、大人の言う事に従うだけでした。・・・
その後皆さん亡くなって、運動具入れの小さな倉庫が遺体置き場になったのです。・・・
戦争を知らない皆さんに伝えたい、願いたい、もう二度と日本は戦争をしない戦争に巻き込まれない、戦争の火種と思われるものは事前に消す。・・・
それぞれ厳しい体験です。
集めた意義があったなあと思います。
作品を読んでもらって、平和の大切さを、大事なことを実感してもらって、未来に向けて行動する事に役立ててもらいたいと言う気持ちです。
もっと集めて残していきたいと思います。
昭和20年、小学校6年生の時に兵庫県西宮市で空襲に遭いました。
谷さんとそのご家族は無事生き伸びましたが、その時の恐い体験をはっきり覚えていると言います。
その後谷さんは新聞記者になりましたが、戦争の記事を書いた事が無く、自分の戦争体験を詳しく話す機会もありませんでした。
新聞社を退職した後もジャーナリストとして活動している谷さんは、今年の2月戦争について話す機会があり、熱心に聞く子供達を見て戦争を知らない世代に文章を残しつたえていかなければならないと、考えました。
戦争当時小学生だった人たちに当時の記憶や思いを作文に書いて送ってもらう様 6月からインターネットや新聞で呼びかけました。
130点が寄せられ7月からホームページで13点の作品を公開しています。
小学生とその親に戦争について伝えたいと取り組む谷さんに伺いました。
子育て支援の活動をしている、NOP法人の代表の吉原佐紀子さんが、戦争について小学生と親たちに話すイベントを企画した。
西村宗さん(古い友人の漫画家)と二人で、戦争前後の体験を話してみようと言う事で、2時間ぐらい体験を話しました。
飢え死寸前まで追い込まれたので、さつまいもの蔓、つくし、魚も海に行って獲るとか、食べものについての話、衛生状態が悪くなってのみ、しらみが日常的に一杯いる、電気のかさに黒い布をかぶせて光が漏れないようにしたとか、そういった話をしました。
記録して伝えるようにしないと残らないと思いました。
応募作品を公開する、企画として考えた。
70年前の子供たちの体験を今の子供たちに伝えるのがいいのではないかと、吉原佐紀子さんから言われて、目から鱗だった。
子供の頃は野次馬精神が旺盛でやんちゃな子供だった。
当時は皆軍国少年だった。
加藤隼戦闘隊長(軍神)が憧れで、昭和17年ベンガル湾の上で被弾して自爆して、亡くなったことが凄いショックだった。
小学校2年生の時に「我が町」という作文を書くように言われて、西宮を俯瞰的にみる作文だったので、先生から褒められて文章を書くことに自信を持った。
緒戦の報道にみんな子供達は喜んでいた。
昭和20年6月5日、西宮から疎開する事になり、比叡山の方の農家に行く事になっていて、B29の大編隊がきて、爆撃して東に向かうのに出くわして、防空壕に入れてもらおうとした時に、爆弾が束になって落ちてくるのを見かけてあわてて入った。
真っ赤に燃えあがっている光景をみて、防空壕から飛び出して、避難した。
爆弾のタイミングがちょっとずれていたら、亡くなっていたと思う。
翌日京都に疎開した。
終戦の日は疎開先の農家の二階で母と子供達3人の家族でラジオを聞きました。
これで空襲は無いんだとホッとしました。
先生は鬼畜米英などと言って真剣に日本は必ず勝つと言っていて、敗戦になったとたん、先生はアメリカさんとか民主主義とか言葉を使って、ころりと変わった。
子供心に人の言う事は信用できないと思った。
大学ではマスコミ論、社会心理学とか社会学を学び、ジャーナリストになろうと思った。
「楼蘭の美女」
中国の新疆 ウイグル自治区に楼蘭と言う場所がある。
4世紀ごろに忽然と消える。(2万人位の都市)
楼蘭の美女といわれる30代の女性のミイラが見つかった。
(復元するとソフィヒアローレンみたいな美女)
日本で上野博物館、京都博物館で70万人位が見るが、その交渉過程でウイグル地区の政治協商会議議長「ヒョウ」さんが、或るとき突然、[実は私は両親が日本に殺された]と言った。
こういった人たちがいっぱいいるなと強く思いました。
応募作品の原文の趣旨は生かす様にして、この人の言いたいところはこれだなと言うところは盛り上げる様にして残すが、添削すると相当直すところはある。
かなりの手順を踏んで最終原稿にする。
松尾省子さんの作品
「顔も知らない父の遺骨を抱く私に電車の客が敬礼」
・・・生きるために必死でした。 5年生の時に父の遺骨を取りにお寺に行きました。父の顔を知りません。昭和20年7月28日ルソン島で戦死 36歳 父の遺骨を抱いて電車に乗った時に気付いた方は敬礼をしてくれました。 私は父を誇りに思い嬉しかった。今は日本は平和ですが戦争を忘れたことはありません。
中尾康之介さんの作品
「母が着物を染めて服を仕立ててくれた」
・・・母が自分の着物を染めて仕立ててくれるものもありました。 ・・・友達から冷やかされるのがとても嫌で悲しかった思い出です。・・・両親は必死になって子供達のために苦労していたのだと思います。親たちは厳しい状況の中で、知恵を絞り工夫をして育ててくれたのだと感謝しています。
平山善孝さんの作品
「一夜で佐世歩は燃え尽きる、校庭には長崎の被爆者が」
・・・家は燃えて無くなってしまいました。・・・ 学校の校庭に5,6人の人が横たわっており、全身やけどで水膨れ、苦しそうでした。長崎原爆の被災者でした。 「水、水、水をくれ・・・」と叫んでいました。
水を取りに行こうとしたら大人から、「水をやったらすぐに死んでしまう」と言われました。 私は右往左往するだけで、大人の言う事に従うだけでした。・・・
その後皆さん亡くなって、運動具入れの小さな倉庫が遺体置き場になったのです。・・・
戦争を知らない皆さんに伝えたい、願いたい、もう二度と日本は戦争をしない戦争に巻き込まれない、戦争の火種と思われるものは事前に消す。・・・
それぞれ厳しい体験です。
集めた意義があったなあと思います。
作品を読んでもらって、平和の大切さを、大事なことを実感してもらって、未来に向けて行動する事に役立ててもらいたいと言う気持ちです。
もっと集めて残していきたいと思います。
2015年9月1日火曜日
丹野祐子(遺族会会長) ・「閖上の記憶」を伝えたい
丹野祐子(宮城県名取市立閖上中学校・遺族会会長) ・「閖上(ゆりあげ)の記憶」を伝えたい
2011・3・11の大震災から4年半が過ぎました。
あの日の津波で名取市閖上地区は被災当時4000人ほどが在宅していて、800人近くが犠牲になったと言われます。
夫の両親と、中学1年生だった長男も犠牲になってしまいました。
丹野さんは閖上の大津波の体験の語り部として、仲間と共に防災に役立てたいと活躍しています。
「閖上の記憶」というプレハブは、閖上中学校の遺族会が建てた慰霊碑を守るための社務所として震災の翌年に開所しました。
資料などを展示させて頂いています。
リアルに現場に立つと思いが全然違うと言ってくださいます。
生々しい津波の映像を現場で見て頂く事によって、本当にこの町に津波が来たんだ、街があったんだ、人々の暮らしがあったんだと言う事を知ってほしいと言う想いが映像となり、いろんな資料になっています。
今まだ更地になっていて、かさ上げ工事が進んで新しい街が着実に作られようとしているが、ほかの被災地よりも着工が遅れ気味なのでよけいに何にもないという印象が持たれてしまったのかもしれません。
当時の閖上小学生に依る紙粘土で作った震災前の街並、あの日の光景、未来の三部作を展示。
自分たちはここに生きていたんだと言う事を、あえて子供たちに作ってもらう事が目的であると言う事を先生がおっしゃっていました。
私は子供を亡くしてしまって、どうやって生きていけばいいのだろうと思い悩んで、自分だけ生き残った罪悪感に本当に押しつぶされそうになった時に、NPO法人地球のステージ代表の診療内科医桑山先生に出会って、あの日のことをちゃんと語りつたえることが私の生きる意味であり、息子がこれからも一緒に生きていく意味であると言うアドバイスをして頂きました。
あえて心の中に留めているのではなく、ちゃんと吐き出すことによってあの日と向き合うべきであると言う事で、心のケアの一環として、あえて震災前の街、未来の街、震災の残念な景色、を紙粘土でリアルに表現したのが、ジオラマの三部作です。
震災当日は閖上中学校の卒業式だった。(娘の卒業式)
体育館で息子も一緒に卒業式に参列していたが、一足先に息子は自宅に帰っていた。
私と娘は謝恩会に出席していて、一旦コーヒーでも飲もうかと思って立ち上がった時に震災が発生しました。
体験したことのない様な本当に恐ろしい揺れでした。
80人(子供40人、母親40人)が寄せ合って揺れを皆で声を掛け合いながら乗り切って外に出たが、揺れが収まった後に戻って手分けして部屋内を片付けた。
その後、お母さんたち、子供達と手を振って別れたが、それが最後の別れとなってしまった人たちがいた。
津波が来ることは予想をしていなかったが、いろんなところから津波の情報が入ってきたが、あの様な大津波が来るとは思わなかった。
どこか甘く見てしまったような人間も少なくない様な気もします。
防災無線があり、本来けたたましいサイレンが鳴るが、サイレンが鳴らなかった。(油断した)
想定外の揺れで防災無線が壊れてしまっていたことがあとで判った。
地震後1時間6分後に津波が来た。
或る人に声を掛けられて、津波が来るから逃げた方がいいと言われたが、その時東の空(海の方)を見たら、黒い煙が動いていて、てっきり火事の煙だと思ったが、誰からともなく「津波だ」と大きな声があり、私は公民館の建物の2階に娘とともに逃げ込んだが、息子の姿は判らなかった。
2階も危ないと思って、3階建の中学校に逃げてゆく人が多かったが、途中で津波に会ってしまった
人達もいた。
雪が降ってきて、まわりが白くなって暗闇に覆われてくる、夜になると空は満天の星空が広がって、不覚にも星空が綺麗だなと思う位凄い星空だった。
翌日沢山の人が家族を探し始めるが、街中は全滅だと知らされる。
もしかしたら息子は駄目かもしれない、或いはどこかで生き延びているかもしれないと、僅かな希望を持って探し歩きました。
津波は水だけでなく、瓦礫とすべて生活が流されるので、泳げば助かると言う事は絶対あり得ないです。
名取市は翌日 朝6時には自衛隊の方がたが、閖上小学校に、中学校には昼ごろに救助に来てくれました。
街の避難所にお世話になる事になるが、誰それ誰それが亡くなったと言う様なことが耳に入ってくる。
仮遺体安置所(ボーリング場)に向かったが、レーンに何百の棺が並んでいる。
一つずつ棺をあけて探して続けていたが、母親が1週間後、息子は2週間後、父は1カ月後に仮安置所で見つけることができた。
当時閖上中学校では約150人いたが、14人が亡くなってしまって、石碑を建てた。
私はどうしても亡くなった人にも手を合わせる場所があった方がいいなと思っていた、更地になった街を毎日のようにさ迷い歩いて、息子の遺品を探し歩いたが見つからなくて、悲しくて、震災の年のお盆が空けたころ、無断で校舎に入り机を引っ張り出して献花台を作って花を添えたり、お菓子などを並べて添えたが、翌日に行くと別の花や物が供えてあり、嬉しくなって、ここに我が子が生きていた事、沢山の命があったことを標すことができないかと思った。
他のご遺族の方々に連絡して、閖上遺族会を立ち上げました。
有志とともに慰霊碑を建立しました。
生徒の名前が全部書いてあって、触れるような高さ(腰の高さぐらい)になっている。
息子のことを考えるとなかなか笑う事ができなかった。
次の世代に伝えるために、語り部の会が行われて、自分の今の思いを言葉にすることによって心の中を吐き出すというこれも心のケアの一環で、私が第一回の語り部を務めさせてもらいました。
自分の命を守る事につながるのではないかと思って、今も案内をさせてもらっています。
震災は自分の身に降りかかる事はないだろうと思っていたが、そうではなかった、この震災を体験して、どこかもう震災は次はないだろうと思っていたが、或る人から「今は決して震災後ではない、次に起きてしまうであろうつぎの震災の前なんだから、次起きる震災前なんだと自覚を持ちなさい、そうして伝えなさい」というアドバイスを下さった、だから気を付けてと言う事を口を酸っぱくして伝え続けています。
2011・3・11の大震災から4年半が過ぎました。
あの日の津波で名取市閖上地区は被災当時4000人ほどが在宅していて、800人近くが犠牲になったと言われます。
夫の両親と、中学1年生だった長男も犠牲になってしまいました。
丹野さんは閖上の大津波の体験の語り部として、仲間と共に防災に役立てたいと活躍しています。
「閖上の記憶」というプレハブは、閖上中学校の遺族会が建てた慰霊碑を守るための社務所として震災の翌年に開所しました。
資料などを展示させて頂いています。
リアルに現場に立つと思いが全然違うと言ってくださいます。
生々しい津波の映像を現場で見て頂く事によって、本当にこの町に津波が来たんだ、街があったんだ、人々の暮らしがあったんだと言う事を知ってほしいと言う想いが映像となり、いろんな資料になっています。
今まだ更地になっていて、かさ上げ工事が進んで新しい街が着実に作られようとしているが、ほかの被災地よりも着工が遅れ気味なのでよけいに何にもないという印象が持たれてしまったのかもしれません。
当時の閖上小学生に依る紙粘土で作った震災前の街並、あの日の光景、未来の三部作を展示。
自分たちはここに生きていたんだと言う事を、あえて子供たちに作ってもらう事が目的であると言う事を先生がおっしゃっていました。
私は子供を亡くしてしまって、どうやって生きていけばいいのだろうと思い悩んで、自分だけ生き残った罪悪感に本当に押しつぶされそうになった時に、NPO法人地球のステージ代表の診療内科医桑山先生に出会って、あの日のことをちゃんと語りつたえることが私の生きる意味であり、息子がこれからも一緒に生きていく意味であると言うアドバイスをして頂きました。
あえて心の中に留めているのではなく、ちゃんと吐き出すことによってあの日と向き合うべきであると言う事で、心のケアの一環として、あえて震災前の街、未来の街、震災の残念な景色、を紙粘土でリアルに表現したのが、ジオラマの三部作です。
震災当日は閖上中学校の卒業式だった。(娘の卒業式)
体育館で息子も一緒に卒業式に参列していたが、一足先に息子は自宅に帰っていた。
私と娘は謝恩会に出席していて、一旦コーヒーでも飲もうかと思って立ち上がった時に震災が発生しました。
体験したことのない様な本当に恐ろしい揺れでした。
80人(子供40人、母親40人)が寄せ合って揺れを皆で声を掛け合いながら乗り切って外に出たが、揺れが収まった後に戻って手分けして部屋内を片付けた。
その後、お母さんたち、子供達と手を振って別れたが、それが最後の別れとなってしまった人たちがいた。
津波が来ることは予想をしていなかったが、いろんなところから津波の情報が入ってきたが、あの様な大津波が来るとは思わなかった。
どこか甘く見てしまったような人間も少なくない様な気もします。
防災無線があり、本来けたたましいサイレンが鳴るが、サイレンが鳴らなかった。(油断した)
想定外の揺れで防災無線が壊れてしまっていたことがあとで判った。
地震後1時間6分後に津波が来た。
或る人に声を掛けられて、津波が来るから逃げた方がいいと言われたが、その時東の空(海の方)を見たら、黒い煙が動いていて、てっきり火事の煙だと思ったが、誰からともなく「津波だ」と大きな声があり、私は公民館の建物の2階に娘とともに逃げ込んだが、息子の姿は判らなかった。
2階も危ないと思って、3階建の中学校に逃げてゆく人が多かったが、途中で津波に会ってしまった
人達もいた。
雪が降ってきて、まわりが白くなって暗闇に覆われてくる、夜になると空は満天の星空が広がって、不覚にも星空が綺麗だなと思う位凄い星空だった。
翌日沢山の人が家族を探し始めるが、街中は全滅だと知らされる。
もしかしたら息子は駄目かもしれない、或いはどこかで生き延びているかもしれないと、僅かな希望を持って探し歩きました。
津波は水だけでなく、瓦礫とすべて生活が流されるので、泳げば助かると言う事は絶対あり得ないです。
名取市は翌日 朝6時には自衛隊の方がたが、閖上小学校に、中学校には昼ごろに救助に来てくれました。
街の避難所にお世話になる事になるが、誰それ誰それが亡くなったと言う様なことが耳に入ってくる。
仮遺体安置所(ボーリング場)に向かったが、レーンに何百の棺が並んでいる。
一つずつ棺をあけて探して続けていたが、母親が1週間後、息子は2週間後、父は1カ月後に仮安置所で見つけることができた。
当時閖上中学校では約150人いたが、14人が亡くなってしまって、石碑を建てた。
私はどうしても亡くなった人にも手を合わせる場所があった方がいいなと思っていた、更地になった街を毎日のようにさ迷い歩いて、息子の遺品を探し歩いたが見つからなくて、悲しくて、震災の年のお盆が空けたころ、無断で校舎に入り机を引っ張り出して献花台を作って花を添えたり、お菓子などを並べて添えたが、翌日に行くと別の花や物が供えてあり、嬉しくなって、ここに我が子が生きていた事、沢山の命があったことを標すことができないかと思った。
他のご遺族の方々に連絡して、閖上遺族会を立ち上げました。
有志とともに慰霊碑を建立しました。
生徒の名前が全部書いてあって、触れるような高さ(腰の高さぐらい)になっている。
息子のことを考えるとなかなか笑う事ができなかった。
次の世代に伝えるために、語り部の会が行われて、自分の今の思いを言葉にすることによって心の中を吐き出すというこれも心のケアの一環で、私が第一回の語り部を務めさせてもらいました。
自分の命を守る事につながるのではないかと思って、今も案内をさせてもらっています。
震災は自分の身に降りかかる事はないだろうと思っていたが、そうではなかった、この震災を体験して、どこかもう震災は次はないだろうと思っていたが、或る人から「今は決して震災後ではない、次に起きてしまうであろうつぎの震災の前なんだから、次起きる震災前なんだと自覚を持ちなさい、そうして伝えなさい」というアドバイスを下さった、だから気を付けてと言う事を口を酸っぱくして伝え続けています。
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