2015年12月31日木曜日

畠山健二(作家)         ・江戸下町の笑いと人情

畠山健二(作家)            ・江戸下町の笑いと人情
1957年昭和32年東京生まれ 子供のころから漫才や落語が大好きで将来、お笑いの世界に進みたいと考えてました。
家業の町工場の経理を担当しながらも、頭から離れなかったのは漫才や落語のことでした。
或るときお酒の席で知り合った漫才師と話が弾み、漫才の台本を書く事になります。
それがきっかけで畠山さん作、演出の漫才が第3回NHK漫才コンクール最優秀作品に選ばれたのです。
2012年には「スプラッシュマンション」で小説家としてデビューします。
コラムニストとして下町の掟や落語歳時記など新聞や雑誌にも、連載コラムを書いています。
現在は江戸下町を舞台に「本所おけら長屋シリーズ」で心の豊かさをテーマに江戸下町の笑いと人情を書いています。
下町には笑いと人情がある、このよき伝統を残したい、作品の素材は自分の体験からという畠山
さんに伺いました。

自分の名前を書いた袢纏を着て出かける事もあります。
昔ラジオをやっていた時もあり、リスナーから声が良いと言われてました。
小説家としてデビューしたのは50歳を過ぎてからで、その前は演芸、(漫才、コント、新作落語)の台本を書く仕事をしていました。
子供のころから演芸番組などが好きだった。
昭和 60年飲み屋に行ったらマスターがいて、以前ちょっと売れた漫才師だった。
漫才ブームだったが、関西の漫才だった。
東京の漫才に憤慨したが、ネタが悪い、俺が書いた方がもうちょっとまともな台本が書けると言ったら、書いてみろと言われて、当時売れていない漫才師を紹介してもらい、台本書いて演出もさせてもらって、半年たって、NHK漫才コンクールの予選に出てもらい、本選にも出て、最優秀賞を取ってしまった。
この台本はだれが書いたんだという事になり、NHKから仕事を貰う事になったり、芸人さんから台本を書いてほしいという事になり、知らないうちにお笑い作家になってしまった。

チャンスを如何に活かせるかということは大きかったと思う。
2012年には「スプラッシュマンション」で小説家としてデビューします。
スプラッシュ=水、泥を撥ねる  マンションは長屋でもある。
人間関係も希薄になってきて、昔の長屋とマンションがどう存在していけばいいのかが、ひとつのテーマになっています。
「本所おけら長屋シリーズ」も5卷になっている。
お笑いの台本を書いていた、落語に精通していた、下町に暮らしていたので、落語と人情を巧く小説と融合できないかと思った。
現代では難しいと思って江戸時代の設定で、人情、笑いに入り込みやすいと思ったら、意外と好評で5卷まで来ました。
山本周五郎さんの雰囲気があるなあと、言われます。

私の場合は長屋に特化しています。
落語というのを可なりモチーフにしている。
落語は駄目な人を排除しない、否定しない。
「本所おけら長屋シリーズ」もそういう人たちがたくさん出て来るが、人間って、皆がそういう面を心の中に持っている。
長屋の人達が持っている雰囲気というものを現代の人が読んでも、安心できたりするのかなあと思います。
落語が持っている力だと思います。
長屋の人達がそれぞれみんなが役に立つポジションをなんか持っている。
10歳から40年は本所で暮らしてきて、本所にはこだわりがあります。
関東大震災、戦争の時の空襲で可なり破壊されて、昔から江戸に住んでいた人が住んでいるというのは、この二つの出来事によって意外となくなってしまって、江戸時代に出てくるべらんめえ言葉は子供のころから聞いてはいないし、そういう文化が無くなってしまったのは残念です。

受け継がれてきた伝統、日本の素晴らしいところは四季があること、行事のほとんどは季節をイメージさせる。
それに見合う恰好をしたがる。
江戸っ子の人間が一番人様に言われて喜ぶ言葉は「粋だね」と言われる言葉、「野暮」ということは江戸っ子にとっては万死に値する言葉なんです。
粋 は垢ぬけていてちょっとした遊びに精通している人。
ほうずき市に行くときに浴衣の着こなし、柄、帯も合っていて、歩いていると、近所のおばさんに「ちょいと粋だね」と言われるのが下町の人が一番喜ぶ言葉なんです。
浴衣を着なれていない人が着ると、なんかおかしい、粋な人には見えない。

「かたや」 という遊び、鋳物の型が付いているものに粘土を押しこんで、粘土をはがして型を取ったら金粉を塗っていくというのがあって、でき上ったものをおじさんが点数を付けてくれる。
100点溜まると、大きな型を貰える、それがほしいのでそこに通って、一生懸命に頑張る。
80~90点溜まってくるとそのおじさんが忽然と姿を消す。
又半年すると別のおじさんが来て、そんなの前の人だから知らないと言われて、下町の子供はそういう事で世の中の仕組みを知ってゆく。
下町で身上(しんしょう)を潰したというおじさんが近所で登場すると、株で失敗して身上(しんしょう)を潰したというのは粋でも何でもないが、向島の料亭に通いつめてかっぽれ道場に通って一財産無くすというと、みんな粋だねと言う事になる。
芸者さんに三味線を弾いてもらって、かっぽれを踊るとか、都々逸をその場で作って歌う。
落語 登場人物で粋な都々逸を言う場面があるが、「餓鬼のころから いろはをならい  はの字忘れて 色ばかり」とか 
下町の人は粋な遊びをしたいというのはある。

子供のころから粋な職業に就きたかった。(鳶の頭、芸人、太鼓持ちなど)
落語が好きだったので、三遊亭竜楽(先代の圓楽の弟子)師匠に習って「がまのあぶら」をやった時の緊張感はもの凄かった。(あまり緊張するタイプではなかったが)
もう二度とやらなかった。
「本所おけら長屋シリーズ」は古典落語が物凄く役立ちました。
日常の生活の中で起こる様々なことをどうやって解決していくかがテーマなので、落語をモチーフにしたものが物凄く多い。
「男はつらいよ」は落語をモチーフにしていると思う。
落語のテーマは人間が普通に生活してゆく、仕事、酒、ばくち、親子、夫婦等がベースになっているのでそれを聞いて判らない人はいないと思う。
聞いている人がそれぞれにその場面等を想像してその話をそれぞれに聞いてゆく。

「本所おけら長屋シリーズ」 1冊の本を寄席だという風に設定している、最後は大ネタにしている。
わたしの武器は笑いである、時代小説は色々あるが、ここまで笑いに拘った小説は無いと思う。
笑いは泣かすのにも効果的です。
漫才を書いていたこともあり、この本は人と人との会話が多い、その方が人情感があると思う。
裏テーマとしては心の豊かさとは何か、というのを、正直にいって答えられないが、読んだ方がこういう事が心の豊かさなのかなと、その人なりに判ってくれればいいかなと、思います。
良い事ばかりでなく、むしろ悪いことも日常生活では多いかもしれないが、ちゃんと笑ってちゃんと泣いて、良い朝を迎えられれば、本当の心の豊かさなのかなあと思います。
この本は人間讃歌ですねと、手紙をいただきましたが、本当に嬉しかったです、涙が出ました。







2015年12月30日水曜日

2015年12月29日火曜日

2015年12月27日日曜日

篠崎永育(バイオリン教室主宰)  ・バイオリンの楽しさを子どもたちに

篠崎永育(バイオリン教室主宰)  ・バイオリンの楽しさを子どもたちに
来年バイオリン教育60周年を迎えます。
8歳の時に父親からバイオリンの手ほどきを受けて、その後長野県松本市のバイオリンの才能教育で有名な鈴木鎮一さんに師事しました。
楽器を通じて人の精神を豊にするという教育方針に共鳴した篠崎さんは、松本の地で9年間バイオリン教育を学び、その後北九州市に戻ってバイオリン教室を立ち上げました。
教育のモットーは子供達の自主性を延ばすこと、これまでの教え子は1000人にも及び、自分の息子にも自由にヨーロッパで音楽の勉強をするように指導してきました。
その息子さんというのが篠崎史紀さん、現在NHK交響楽団の第一コンサートマスターを務めています。

79歳、現役のバイオリンの先生です。
6歳の子供を相手にする時には私は6歳になっています。
引っ込み思案の子もいるので、笑顔で接しています。
「あいうえお」 明るく生きいきと 嬉しく笑顔で思いやりを お母さんもよろしくねとお母さんにも言っています。
その子の目線になって話等で接します。
命令するのではなく「・・・しましょう」と言います。
小さいころからハーモニカを吹いていました。(父はハーモニカの日本一になりました)
父は趣味でバイオリンをやっていて、それが良くて私は転向しました。
最初父から習って、その後海軍音楽隊の隊長をしていた人がバイオリンが出来て、その先生に教わりました。

松本に夏季学校があって行って、鈴木先生にあって指導法、教育の「育」(育てる)を重視する事に感激しました。
松本の鈴木先生の門を叩く事になりました。
先生が病気になって無料奉仕だが代理を求めていて、19歳だったが、代理をすることに手を上げました。
松本で妻との出会いもありました。
アマチュアの北九州交響楽団があり、そこでTNC(西日本TV)で聞かせてもらって、近衛秀麿さんが何でもいいからこいと言われて、 それからTNCの偉い人に掛けあってくれて、コンサートマスターにという事で、収入も得られることになった。
出張レッスン見たいな事をしていた。

北九州交響楽団のコンサートマスターをしながら、1964年にバイオリン教室も開いていた。
長男 篠崎史紀 毎日レコードをかけて聞いて遊びながらやっていました。
ベビーベッドの中にバイオリンが入っていて、それを叩いたりしていました。(環境作り)
中学になった時は自活できるような環境を作っていました。
高校生になった時には100万円を渡して遊んで来いと言って、ザルツブルクの夏季講習に行ってきた様です。(収入もよかったわけではない。)
なんか得てくると思った。(自分が若いころにできなかった事をさせた方がいいと思った)
音楽大学に行かせたわけではない。
私は実力があれば学歴などは気にしない。
「・・・してやったから、それなのに貴方は・・・してくれなかった」と良く愚痴をこぼす親がいるが、それは無いです。
お互いに自立した関係、親子喧嘩はしたことは無いです。

N響は3~5人、九州交響楽団は7人、スイス・ロマンド管弦楽団には大野君、南紫音ちゃんは1歳から来ていました。
去年バイオリン教室50周年でいろいろイベントをやりました。
来年バイオリン教育を初めて60周年になります。
今の子は環境が良くなってるので(レコード、CD、生の演奏など)、幸せだと思います。
楽器もよくなっている。
幼児教育が専門なので或る程度のレベルまで教えることができるが、後は本人次第で良い先生も紹介できる。
音楽が好きになってくれればいい、プロにならなくてもいいし、本当に音楽を通していろんな友達ができて、楽しめればいいと思います。
謡曲もやるし三味線も弾きますし(名取りも取っている)、ハーモニカもやっています。
















2015年12月26日土曜日

清水信子(料理研究家)       ・私の考える「ひとり力」 

清水信子(料理研究家)       ・私の考える「ひとり力」 
NHKの今日の料理などで活躍していて、懐石料理から惣菜まで幅広く手掛けています。
和食の基本を判りやすく伝える指導に定評があり、TVラジオ雑誌や料理講習会などで指導をしています。
25年前にガンで夫を亡くして、今は一人暮らし、親戚や廻りの友が心配してくれますが、一度甘えるときりがないと、なるべく人に頼らず、生活する工夫をしています。
電車では足腰を鍛えるために譲られない様に人の前に立たない、大好きだった車の運転も事故で迷惑をかけたくないと 74歳で辞めました。
顔色が悪い時は周囲に気遣い頬紅でカバーしたり、ストレス発散は近くを歩いたり大好きな新聞を隅から隅まで読んでアンテナを広げたりと新しい事をいつも追求し自分を磨く努力をしていると言います。

信子(しんこ)と読む。 兄は甲平(きよし) 妹は誠子(さとこ) 下の妹は昌子(まさこ)と一番下だけは父は疲れたのか普通に読みます。
正月に向けての料理は、9月に決まってテキストを作るので、9月が勝負になります。
新しい料理は3回リハーサルしないといけない、細心の注意を払ってやっています。
1回目は本の通りに作って、2回目は自分の味に直して、3回目はその味が正しかったか、どうかを試して作ると料理上手になると言われています。
おせち料理 1万円から50万円代まであって豪華になっているが、昔は祝い魚、田作り 数の子 黒豆、関西では数の子が無くなってたたきごぼう その3種類で賄っていた。

新おせち料理(簡単)
黒豆 :煮てあるものを買ってくる。 熱を加えても溶けないチーズを買ってきて、黒豆と同じ大きさに四角に切って、その二つをワンタンのかど(?)をひねり状にして油に入れて揚げる。
田づくり :170℃弱の油で揚げる→紙の上に取る→3色の味を付ける(七味とうがらし、青海苔の粉、 カレー粉)
数の子 :練ってある酒粕に砂糖を入れて、そこに数の子をガーゼに包んで1週間から10日入れておくと塩が抜けておいしい。

母が体が弱くて、入院していたりして、私が母の手伝いをして、今日の私があるのはおせっかいだったからだと思います。
母が入院した時に叔母と祖母が見舞いに来てくれて幾晩か泊る必要があると思ってきたが、昼ご飯を私が作って出したら、吃驚してこれだけできるなら大丈夫と帰ってしまった。(小学校6年生)
浴衣などの洗い物などもあったが、干すのに裏の叔母さんが干してくれたりしたのが長く続いた。
母の指導のもとに食事、漬物などをやったりしていたが、母から教えてもらって高校生のころから友達と一緒に塾みたいなものをやってみたいと思った。
栽縫は苦手だった。
ご飯味、噌汁、おかず、箸の位置など 家庭で皆一緒に食べているから判ってくるが、そういった場面も無くなってきて最近は判らない人も多くなったのでは。

日本料理を作るときにはダシを取ってほしい。
昆布とカツオがあれば取れる。
自分でダシを引くというのが基本的な基本だと思う。
一緒に入れてダシを取るのが、最小のもので最大の効果。
3分~5分 コトコト煮て火を止めて3分~5分おいて昆布だけ抜き出して、しゃくしであけると綺麗に透き通った山吹色のが取れる。
そこにほんのひとつまみの塩を入れると濁ったりしない。(板前のコツらしい)
良質なたんぱく質とミネラルが取れる事になる。
出来合いのものと飲み比べてみるとすぐわかる。
いろんな料理の下味となる。

親が子供を育てる責任の第一の大事なことは、自分が自分のものを作って食べられる事だと思います。
おふくろの味と言うけれど、やっぱり心を残した食べ物を残していきたいと感じました
25年前にガンで夫を亡くしたが、もうあと何カ月なので好きなように旅行などしてくださいと言われたが、そのあと5年生きました。
私が51歳の時でした。
何とも言えない悲しさがずーっと続いてきました。
誰にも会いたくなくて妹家族の中に入る事さえ嫌だった。
友達が本を作ろうと言ってくれて、1冊出すことにして、本は命を削る様にして作るわけなのでそれである程度立ち直ることができて、悲しいことは色々あるが、悲しんでばかりしていても彼は喜ばないと思って、一人で生きる為にはどうしたらいいか考えて、この本が生まれてきた様な感じです。
「ひとり力を鍛える暮らし方」
夫は人に干渉しない様な人でしたので、私も好きに仕事をさせてもらいました。
高校野球が本当に好きな人でした。

「ひとり力を鍛える暮らし方」 かっこいい本だと思っている。
電話を取る時も、明るい声で対応する事にしている。
少しでも私と話をする人たちが明るい気持ちになってほしいと頑張っています。
人に寄りかかれば本当に楽ですが、いつまでも寄りかかるともっと自分がつらくなる。
寄りかからないで行こうと習慣にして行けば、きっと今からでも遅くないと思っています。
こんなことをしてしまって、という思いにならない様な生き方を真剣に生きたいと思っています。
お互いに助け合っていとしみ合いながらしっかり手を組んで生きていける様な世の中を作っていきたいというのが私のたった一つの目標として生きていきたいと思います。












2015年12月25日金曜日

楓友子(ステッキアーティスト)    ・素敵(ステッキ)な杖で歩きませんか?

楓友子(ステッキアーティスト)    ・素敵(ステッキ)な杖で歩きませんか?
足の不自由な人が外出するときに、手放せないのがステッキ、その杖の従来の暗いイメージを覆すカラフルでおしゃれなステッキを作って喜ばれている若い女性がいます。
ステッキアーティストの楓友子(ふゆこ)さん、大学時代に交通事故で重症を負い、杖なしでは歩けなくなりました。
従来の杖で外出すると、かわいそうと同情されるのにいたたまれず、自分でおしゃれな杖を作ったところ、評判が評判を呼んで、とうとうステッキ作りが仕事になってしまいました。
足の不自由な人達に家の中に閉じこもらず、素敵(ステッキ)な杖で歩きませんかと呼びかける楓友子さんにうかがいました。

木製ですが、これはかなり軽いです。
7年前、交通事故に遭い、それから杖を使う様になりました。
車同士の正面衝突で腰の骨を骨折してしまい、脊髄神経を損傷して、右足に不自由が残っていて、それ以来杖を使う生活が始まりました。
頭も打って気がついたらベッドのうえで、一つでも違っていたら死んでしまっていたと医者に言われました。
交通事故の前に軽いうつ病をして、自殺未遂もしました。
その中で交通事故に遭い、実際に死を目の当たりにして、生きている事って何と素晴らしいことだろうと、逆に気付いて、事故にあったことによって、考えが変わりました。
入院は100日ほどでした。
大学4年生の夏のことでした、就職先は決まっていましたが、歩けるようになるのか判ら無い状態だったが、人事担当者が来てくれて、待っているのでリハビリに励むようにと言われました。
その後その会社に就職しました。

初めての東京での生活では満員電車の通勤は大変でした。
2年目の夏に、原因不明で歩けなくなったのが何日かあり、ショックでした。
人の持っている時間は有限なんだと知りました、歩く時間も有限なんだと知りました。
歩ける有限の幸せな時間を目一杯楽しもうと考えるようになりました。
事故以降は困難に当たってもポジティブに考える様になりました。
医療器具的なステッキを使っていましたが、或る日会社から帰る時にひじの輪っかの部分が折れている事に気付いて、街でステッキを買わなくてはいけなくなりました。
買う場所も判らず、百貨店の介護用品売り場にあることがインターネットで調べて行くと、30本位あり、介護用品を買わなくてはいけないことにショックを受けました。
杖はどれが一番ましか、という風な選択肢しかなかった。

ストラップとかリボンを付けたりしていたが、或るとき、杖ってそんなものしかないのね、かわいそうといわれてショックだった。
かわいい杖を作ろうと思った。
デザイン、工芸とかは一切していなかったので、どういう工具を使えばいいか判らず、試行錯誤を繰り返しました。
出来上って、それを持って出掛けた時が嬉しかったです。
周りの反応も変わって、かわいそうという周りの想いが、杖をどこで買ったのかという風に変わった。
ブログに写真を出して、欲しいというメッセージや、街中での声等で、段々と杖で悩んでいる人がいることが判り、作ってほしいという依頼があり、これを機に自分も仕事として始めてみようと決心をしました。
製作自体は4~7日程度です。
オーダーメイドの場合、お客さんの顔姿、好きな洋服、等を聞いて情報を集めて、それにあうイメージを描いてデザインしステッキを作ります。
カタログの中から選んでもらったりもします。(10種類 それに色のバリエーション)
装飾を取り変えたりできるようにも工夫もしています。

都内に2店舗ありそこにサンプルを置いています。
価格は1万5000円から5万円ぐらいまでです。
およそ200本ぐらいは使われています。
特に嬉しい時は出掛けるのが楽しみになったといわれることです。
ファッションの一部としてステッキを楽しんでいただけるような状態を作って行きたいと思っているので、介護用品売り場ではなく、靴、バックと同じように杖を買えるようにして行きたいと思っています、
ファッションショー(東京コレクション)で私の杖を使っていただきました。
海外のメディアも取り上げてくれました。
この夏ロンドンに一人で行ってきました、デザインを勉強してくることが目的でした。
私が杖を付いていても生活に苦労することはほとんどなかったです、電車の中でも席をさっと譲ってくれました。
建物は意外と段差があるが、当然のようにベビーカーを持ってくれたり、心のバリアーフリーが凄いです。
日本でもぜひ学んで頂きたいと思うところがたくさんあります。

だれしもが明日100%生きている保証はなく、一日一日、後悔無く生きたいと思うので、それが行動に表れているのかなと思います。
もっとおしゃれな杖を一杯だして行きたいし、もっと皆さんに手に取ってもらいやすい様な折りたたみステッキとか、作ってみたいと思います。
歩くのを助けるための杖が、杖が可愛くないから歩かないということは本末転倒なので、この杖のためだったらリハビリ頑張ろうという様な希望になる杖にして行きたいです。














2015年12月24日木曜日

2015年12月23日水曜日

2015年12月22日火曜日

中邑賢龍(東京大学教授)      ・「突出した才能」を伸ばせ(2)

中邑賢龍(東京大学教授・東大異才発掘プロジェクトROCKETディレクター)
 ・「突出した才能」を伸ばせ(2)
変わった子供たちが傷つかずに、自分らしさを発揮しながら大人になれる、そういう社会を作るためのプロジェクト。
心に病を抱えた人達、社会からドロップアウトした人達の話を聞くと、子供のころに受けた傷が凄く大きい、能力がある人なのに、周りは一つの枠に閉じ込めようとする。
ユニークだけど認められて来なかった、そういう子が不登校になる。
彼らが満足できる場を作ってみたかった。
1年目が15人、新しく13人加わる。
あまり変わることは期待していない、変えようとは思っていない、手を加えないのが基本です。
人間が生きることはどういう事かという部分の教育を徹底してやっている。
1期が600名、2期が550名の希望がありました。
想像以上に反響がありました。

スタッフは5人 非常勤が数10人、月に一回2泊3日で授業を受けるが、それプラス、プロジェクトを達成するための学習機械を展開を含め地方で合宿等を行っています。
いかを食べるために包丁などを与えて、「食べろ」と言って食べてもらいます。
「教科書下さい」という、学校が嫌いだと言ってもマニュアルがないと何もできない。
腹が減っているので何でもいいから食おうという授業をする。
煮たり焼いたりして、盛り付けも全部違う、子供の個性を発揮するという事がそういう事です、手本を示さない。
ゼロを1にする子はなかなかいないと思う。
椅子を解体して新品に再生するというプロジェクトもあります。
ばらせない、ハンマーでどう叩いていいか判らない。
壊してはいけないと言ったりするが、こちらが壊したりする。
にかわなど見たことがないので、そうやって勉強になる。
最初の取っ掛かりが判らない。

結局皆最終系を求める、上手にできたでしょうと、でもそれは求めてはいない。
にかわを使わずボンドを使うが、にかわは扱いにくいという、学校ではお前たちもにかわ少年で扱いにくいよなあと言うと、「先生にかわにもいいところがあるかもしれない、もう一回にかわ使ってやってもいい?」という、そのことが実は一番大事なことかもしれないと思う。
裏にあるいろんな学びがこの子たちにとって重要なんです。
大学の研究でも、論文書くためにというのがいっぱいいる、
本来研究は世の中を変えるためにやると思うが、大きな先の目標を見て研究している人が少なくて、特に若い人が目先のことばっかり追う様になってきている。
先を見ながら生きるという事の大事さに気付かしてやるという、これを徹底的に取り入れていこうと思っている。
消え行くものが消したら、大変なんだという事に気付いてもらう、そういうものこそ意味があるという事に気付いてもらう事が一つプロジェクトの目的なんです。

お茶作りの再生で、お金をかけてお茶作りをして子供たちが失敗しカビが生える、聞くと周りのせいにする、お爺さんに手続きを聞いてその通りにやって失敗しているという、お爺さんは親から夜通し見るように言われるが、「夜は見なくてもいい」という事が判って、「昼は見よ」という事だったが、昼間だれも見ていなくてカビが生えてしまった。
お爺さんには生活がかかっているという責任感、必死さが違う、子供達は人のお金でやっているからそういうことになるので、この違いに気付く事が一番大事だと思っている。
人のせいに置き換えるという事に、皆やってしまう、自分のやったことは自分で責任を取る。
わがままな奴が言っても誰も聞かない、とにかく自分でやりなさいと言っている。
イノベーションって、全く違う発想を投げ込むのから、起こるもので、空気を読む人達は起きにくい。
空気を読まない人達の発言をさらっと受けてくれる集団がROCKETです。
何でも許される、時間割さえ有って無い様なものです。
こんなにいい加減で計画が決まらないのに何とかなる、そういう場面を山ほど味合わせてあげる。

いい加減さの中で生き切るという事が大事、そこで悩まない。
周りが心配するから他の周りも心配する、泣こうが知ったこっちゃない、親の考えが変わっていただかないと駄目、泣く子供は親が心配して送りだすから駄目。
人を信じない生き方をし過ぎているからややこしくなる、大変だが預かった人間が責任を持ってやる。
多くは大人が責任を持ってやるという意識がない、社会が悪い、周りが悪い、政府が悪いというが、何が悪くても貴方たちがしっかりしていればどうにかなるという大人が少なくなった、私達がそのモデルにならなくてはいけないと思う。
重い障害のある人たち、別に税金を払わなくてもいい、役に立たないとか子供も悩んでいるが、人に自分の考えを理解してもらおうということは疲れる。
良いとか悪いとかで人を見たりしない、生きている、それぐらいでないとしんどい。
価値観の違い、直ぐには相いれない、話合ってすぐにどうなる問題ではない、それを越えたところにもっと大事なものがあることにもう少し気付けばいいと思う、宗教観等の違いは絶対そうです。
重い障害のある人たちが目を閉じてベッドでずーっと寝ているそれも一つの世界です。

非日常的な経験を沢山持つ、そうする事で自分に気付くことはたくさんあります。
二つの世界がいがみ合うのではなく、共存していている、どこかで緩やかに結びついて一緒に仕事をする、そんな社会を目指すのが、理想です。
重度の言語障害の子と付き合って生き方が変わった気がします。
自分のやっている事言っている事に疑いを抱かず、プレッシャーをかけていたが、重度の言語障害の子と付き合って、ちょっと聞きだすだけで5分もかかり、早く言えとは言えない、できないはできないという事に気付いた、それが大きかった。
プロジェクトの目的はこの子らを異才にしようというわけではなく、つぶれずに大人になれる様な場所がある、その存在を知って同じように学べるような仕組みができてくると、変わった人たちがつぶれないまま大人になるという事になり、面白いイノベーションが起きるようになって面白い社会ができる、子供たちが幸せに生きることが大前提ですが、連携しながらそういう社会を作るそれが目標です。


















2015年12月21日月曜日

中邑賢龍(東京大学教授)      ・「突出した才能」を伸ばせ(1)

中邑賢龍(東京大学教授・東大異才発掘プロジェクトROCKETディレクター)
 ・「突出した才能」を伸ばせ(1)
去年12月東京大学先端科学技術研究センターと日本財団が共同で、異才発掘プロジェクトROCKETを立ち上げました。
対象となるのは様々な突出した能力、異才を持ちながらもコミュニケーションが苦手、授業内容が物足りない、等の理由で学校教育の現場なになじめない子供達です。
不登校に陥りがちな子供たちの学習支援を継続的に行い、将来の日本でイノベーション、革新をもたらす可能性のある人材の才能の芽をつぶさないようにしようというのが目的です。
プロジェクトを束ねるディレクターを務めるのが、中邑さんです。
一日目はバリアーフリーに関する事。

専門は心理学です。
この社会をバリアフリーにするにはどうすればいいか考えています。
工学、医学などが一緒に集まって研究しています。
課題解決型の研究を自由にチームを組んで進めていけるのが先端系の研究の特徴です。
段差をなくせばいいというわけではなく、違った視点の研究者が集まって、多様な視点で研究をおこなうことが重要です。
最初身体障害から入って行って、物理的バリアーだけではなく、鬱病になってゆくとか追い詰められてゆく現状は、何か目に見えないバリアーがある、この社会に共通するバリアーをどう取り除くか、を研究しています。
人々の変わらない考え、硬直化した態度、それが一番社会の変化に人が付いていけないところから生まれるバリアーを感じています。

無断欠勤して首になったりする。(熱が出てしまったが、電話が苦手で出来ないことが原因)
メールは認められないが、メールでもいいという事になればこの人は首にならずに済んだはず。
テクノロジーが大きく変わってきているが、そこに人の意識がついていかない、教育者もそこに乗り切れていなく、教育現場そこが一番保守的になっている。
履歴書について手書きを要望する。(手書きが苦手な人が多くいる)
解放的に成れと言っても苦手な人がいる。
標準的な姿に近づけようとすることによって、その人たちを追い詰めている事にほとんど気づいていなくて、標準的な事に戻ることが素晴らしいという幻想が福祉、教育の中にはびこっている、これを叩き壊すのがわたしの仕事です。
昔実験心理学をやっていて、機械を使って人間の感覚器の測定をする、今から30年前、IC、トランジスターを買ってきて回路を組んで実験をやっていました。
精神医学の研究をやっていた教授から、山の施設に連れて行かれて、或る青年の前に連れて行かれて、この青年をしゃべれるようにしなさいと言われる。(「あっ」 とか 「うっ」としか言わない。)

理解は良くできているが言いたいことが言えない青年で、薬では良くならなくて、お前はコンピューターを使えるから何でもできるだろうと言われて始めた。
野球ゲームを作ろうとした、ボールがTV画面を流れ出てきて、良いタイミングで「あっ」と声を出すとバットが振れてホームランになったりアウトになったりする。
なかなか辞めないので、聞いてみたら「これを使えば対等だ」という。
「あっ」というだけなので、私達とおなじレベルで勝負が出来るから楽しいという。
スタートラインが違うのに、人間みんなおんなじだと思ってしまう。
人の話を聞いてあげることは大事だが直ぐできる事、というと物とお金で解決しようという道に入って行った。
大変な事をするからストレスがかかって病気になる、頑張らなくていい様にするために、補助するものを旨く活用してそろえる。

社会の変化に依って、人間同じように見えるがスタートラインが違って来ている。
かつて物を覚えたりしゃべったりするのは苦手でも、力があり一緒に魚を捕ったり野菜を作ったりすることができたが、今は一次産業が5%ぐらいで一緒にやろうと声を掛けてくれる人がいない。
今は第三次産業が7割、コミュニケーションが求められる。
かつては特性の違いを意識しなくてもよかったが、今は生まれた特性を意識しないといけない社会に変化してしまったが、それに誰も気づいていない。
お前が努力しないといけないと、過度に特性を求められるのでこれはつらいと思う。
8割ぐらいはその中で何とかやっていけるが、後の2割が消えてゆく。
引きこもり、非行、犯罪に走っているかもしれないが、親のしつけ 個人とかに責任が行ってしまうが、絶対にそうではない。
お前変わっているなと言われて育ったら、ぐれているかもしれないし非行を犯したかもしれない。
高度成長期に協調性のある人が求められたが、そうではない部分もこれからはどうにかしていかなければならない。

ロボットにお金を使って、ロボットを作って生産性を上げることに、どういう意味があるのかという事を考えないといけない。
機能、機能で目的を達すればいいという、物を楽しむという様な生き方を教えていない社会で、人が作りだすものを大事にする人はいない、こういうところを変えていかなければいけない。
緩やかな社会を作らないと皆が息が詰まってしまう。
ちゃんとやることを求めた結果不登校の増加にも繋がってゆく。
どうやって不登校の子供を学校に帰すかという議論ばっかりで、帰さなくて良いのではというと義務教育だからという。
絵を描くにしてもじっくりやっていると、早くしなさいとせかせるが、その時間が大事なんだという事が認められない。(何もやらないことが悪いことだと思われてしまう)
急いで一緒にという事を取り除いてあげないといけない子供たちが一定数いる。

暴走族の子供の家庭教師になったことがあるが、1年近くは一緒に合わせて遊んでいたら、或るとき「先生そろそろ勉強した方がいいんじゃないか」といった、その気持ちになるというのは凄く時間が掛かるわけです。
不良少年とも付き合ったが、ペースは大事だと思った。
見方を変えれば旨く社会に中に溶け込んでいける。
諦めることも凄い大事、ポジティブに諦める。(諦めることは悪い事ではない)
好きなことをやっているときには知らぬ間に時間が過ぎていて、意識的には頑張っていない。
過度にストレスがかかっている事は、断ったり諦めたりしないさいと言っている。
社会通念のバリアーを如何に崩してゆくか。
違う仕事をやっていたら、違う仕事同士がいい影響をし合う。

社会保障が厳しいものになっていて、派遣社員だと厳しいので何とかして会社に入らないといけないと思っているが、10年、20年先に会社が存続しているか判らない、組織が流動化してゆく時代に備えるのは或る意味重要で、今この社会から布石を起こしている人が今度社会の中でメジャーになるという、人間らしく生きられる社会システムを考えてゆこうと思っている。
プロジェクト、研究室に障害がある人達がその人にあった仕事としてたくさんバイトに来ています。
社会は或る程度無駄が必要だと思うが、学校で先生は子供に無駄をする時間が無くなっている。
子供に有給休暇の様な休みがあってもいいのではないかと私は思っている。
子供の頃から休み方を教えないといけない、親も休み方を知らない、だからストレスに倒れてゆく。
それぞれの個性、特性を障害として変えるという社会ではなくて、それを上手に生かす人がいて、生かす自分がいてという社会にしたいと思っています。
そのためには学び方、働き方を今の仕組みを変えるのではなく、もう少し新しい仕組みをそこに加えて、きっと出来るのではないかと思います。










2015年12月20日日曜日

山口和浩(大村椿の森学園園長)  ・児童虐待「信じる心」を取り戻す

山口和浩(大村椿の森学園園長)  ・児童虐待「信じる心」を取り戻す
全国の児童相談所が対応した児童虐待の件数は昨年度過去最多となりました。
その数はおよそ8万9000件になります。
虐待を受けたうち特に深い心の傷を受けた子供達を受け入れているのが情緒障害児短期治療施設です。
山口さんが勤めている大村椿の森学園もその一つです。
長崎県大村市にある大村椿の森学園は平成15年に設立されました。
山口さんは設立当初から、生活指導員として子供達と向き合い、去年1月33歳で園長に就任しました。
虐待を受けた子供たちが再び立ち直るために寄り添い続ける山口さんに伺いました。

児童福祉施設の一つになります。
心理的な困難、日常生活の困難、多岐に渡る問題を抱えている子供が入所、通所して心理治療、医療ケア、教育機関と連携して総合的に子供達に支援してゆく施設になります。
複数の心理士が子供達の今の状態、子供達の課題を精査して、治療的なプログラムを考えてゆきます。
医者も勤務しています。
入所している子供達は35名前後、年齢は小学生から高校卒業した20歳まで。
感情のコントロールができない子が多い、暴力的な行動を起こしてしまう様な子供たちもいます。
両親や兄弟と生活していた子、父親から母親に頻繁にDVが行われていた家庭で、暴力に耐えきれず母親は下の兄弟を連れて家を出てしまい、父親はギャンブル、酒などを繰り返し、経済的な問題も起こり、債権者が押し寄せたりしました。
小学校6年生の男の子に対して、罵倒、暴力をする。
父親は暴力事件を起こして、結果、本人が一人になって、子が椿の森学園に入所してきました。
凄く挑発的な部分が多くて、大人は全て敵だという様な言動が繰り返されました。
女性職員に対してが印象的だった、声を掛けても「くそばばあ」と言う様な言動をしました。
母親への怒りが何か女性職員に重なるのかなあと思ったりしました。

椿の森学園では子供が挑発的であっても、殴られても、職員は殴り返すことはしないということは徹底をしてきました。
これまでとは違う大人をしっかり見せてゆくという事が非常に大きかったと思います。
心理士が配置され、時間を掛けながら関係を築き、少しづつ家族の事を話し始める。
落ちついてきて他の場所でも或る程度の生活は送れるだろうとなった時に学園を退所してゆき、高校を進学、卒業して、社会人として働き、その後結婚して子供ができたとの報告がありました。
妻とけんかして、パニックになったこともあり、行動に出そうになったことがあり、時折自信が無くなることがあると連絡してきて、思いをきちんと言葉にできる場所になっていたという事が椿の森の治療生活に意味があったと思います。

両親がいて、父親は地元の企業で働いていて、母親は専業主婦、兄弟の一番上で、本人が小学校3年生の頃、母親が精神疾患を疑う様な症状が出始め、父親は無関心だった。
母親は不安定で、Cさん(娘)の前で手首を切るという様な自傷行為をおこなって、Cさんと一緒に死のうという様な事もあったそうです。
学園に来ることの相談がされたが、今家を離れた時に、母親がどうなるのか不安で、離れたい気持ちと離れられない気持ちがあり揺れ動きながら悩みぬいて施設にやってきました。
昼夜関係なく無断外出して、家に帰ると言ったり、自分等いなければよかったと言って、リストカットを繰り返したりしました。(入所して数年間)
自分自身の存在が大事にされてこなかったからこそ生きている意味、自分を認める力が弱くなってしまう部分があるのかなあと思います。
何度も死のうとした母親の姿を見続けた苦しさから、解放されたいという気持ちもあったのかなあと思います。

母親への心配については十分認めて、何度リストカット、無断外出をしても、貴方の課題をクリアするために一緒にやっていきたいと、こちらの変わらない思いを伝えてきました。
手首を切ることに対しては、命を大切にするという道徳的な事のほかに、淡々と傷の処理をすると同時に、何故切りたくなったのか、本人が言葉に出来るところは一つ一つ言葉にし、言葉にできたこと事態に意味があるんだよと繰り返し続けていったという事があります。
問題行動を繰り返したとしても、変わらずに関わってくれる職員の姿を繰り返し見せてゆく、一緒になってささえてゆく事によって、誰も信用できないという思いが、少しずつ緩和されていったと思います。
Cさんが学んだこと、得た力は多かったと思います。
戻ってから早い段階から不安等を相談してくれるようになりました。
地域の保健士、民生委員にたいしての相談も出来るようになって、手助けをしてくれる人がいるんだということを体験できたことは、非常に大きかったと思います。
Cさんは看護士になりたいと言って学校に行っています。

人への信頼感が非常に乏しい子供たちが多いと思います。
不安定な家庭の中で生活していた子供たちにとって、本来信じられるはずの身近な親から十分に愛情を注がれていない、十分にかかわって貰えなかった、大人への信頼感、人への信頼感が非常に乏しい、感情のコントロールがうまくできない、という特徴が多く見られます。
怒りの矛先と同時に誰よりも親に会いたいという心の葛藤があり、嬉しい半面どう言葉をかけていいのかわからない、子供もそうだし、親もそうだと思うので、憎しみと愛情とが入り混じる様な気持ちで、面会が近づくと子供自身が不安定になってきたりすることもあるのかなあと思います。

私は中学校2年生のころに父親が自殺で亡くなったという経験がありますので、学生時代から親を亡くし支援を考えける中で、支援が必要だという人たちに対してのサポートをしてみたいと思う様になりました。
椿の森学園が開所した平成15年、虐待の件数は増え始めていたが社会全体ではまだ話題にされることは少なかったと思います。
まだ目が向いていないところに対して、自分でもできることがあるのではないかと思いました。
何を信じていいのかわからなくなる部分があると思う、本来自分を愛してほしいと思う大人から暴力、無視されたり、突然目の前からいなくなる、今のこの苦しみがずーっと続くのではないかという不安感があるのではないかと思い、そういった不安感は共通している部分ではないかと思います。
出会える子供達は限られていて、目の前で出会っている子供に対して少しでも子供たちが社会の中で生きていく上での力が、すこしでも付けられればと思うし、子供自身が抱えている重い荷物を少しでもサポート出来れば良いなあと思いながら、子供達に対しての責任が非常に大きいと思います。

生きていくのも捨てたもんじゃないと思える様な姿をきちんと見せて行きたいと、日々思っています。
施設を出て行って報告をしてくれる子供達を見た時に、この施設の中で子供達をささえてゆく意味を感じさせる部分があると思います。
辞めたいとか心が萎えてしまった時期は、何度もありました。
無力感を感じさせる場面は何度も何度もあります。
最後までキチンとサポートできた対象まで行った姿を思い出しながら、今ここでささえることが次につながると言う事を、言い聞かせながらやっている部分が大きいかなと思います。
無力感 「大人は判らないよ」という言葉であったり、関わり続けながらも変えることの出来ない部分 リストカットを何度も繰り返すことに対して、短いスパンで見ると又かという様な、自分たちがやっている事に意味があるのかと思ったり、親への怒りだと思いながら繰り返し殴られたりすると、考えてしまうことはあったと思います。

現在34歳で園長をしています。
この子を任せていいのかと、保護者からの不安があるかとは思いますが、意識してやっているのは信頼関係、いい意味での信頼関係を築けるように積み重ねてやっています。
いろんなことを教えてくれるのは子供達かなあと思っています。
児童虐待が過去最高になる、しつけ、見えなかった部分が法律ができて虐待ではないかと通報が増えたのが一点あると思いますが、DVの目撃がキチンと拾われるようになり子供の部分まで見えてきて拾い上げられるようになった。
親戚、地域の関係が希薄になり、家族の中だけで背負わなければならなくなった苦しさもあると思います。
経済的にも厳しい部分もある、母子家庭になると母親は仕事に時間を費やしてしまって、子供と向き合える時間が無くなってきてしまう一面があり、又経済的な部分もあると思います。
虐待の連鎖、子供たちをもっとサポートして連鎖をさせない取り組みが社会として必要だと思います。

自分自身が夢を持てることが一つあるかと思います。
生きていきたいと思える部分をどう持てるようにするか、自分が大切にされたという感覚、実感
が非常に重要だと思います、その経験がそれが人への信頼感につながってゆくと思います。
自分が誰かに大切にされているという部分、自己肯定感をどれほど持てるかというところかと思います。
大人は粘り強く子供達と関わり続けることかなあと思います。












2015年12月19日土曜日

澤田隆治(元民放プロデューサー)  ・「てなもんや三度笠」関西弁でもウケた理由(わけ)

澤田隆治(元民放プロデューサー)  ・「てなもんや三度笠」関西弁でもウケた理由(わけ)
*今年(2021年)5月に88歳で亡くなった澤田隆治さんへの2015年のインタビュー。
NHK大阪放送局 JOBKがラジオ放送を始めてから90年になります。

昭和26年民間放送の登場で、大坂のラジオ番組特に演芸番組には活気がみなぎっていました。
昭和8年に大阪に生まれて、戦後外地から富山県の高岡に引き上げてきた澤田さん、やがて故郷の関西に戻って大学を卒業すると昭和30年に大阪の朝日放送に入社ます。  ラジオの園芸プロデューサーになった澤田さんは、多くの寄席中継や娯楽番組を制作します。
昭和30年代はラジオの時代からTVの時代に移ります。  コメディー番組やドラマに携わり、最も人気を集めた番組のひとつが、昭和37年から6年近く続いた朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大坂では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。
この番組を製作していたのが澤田さん、昭和30年 朝日放送に入社、しばらくはラジオの演芸担当のプロデューサーとして腕を磨き、その後草創期のTVディレクターに転出、数々のコメディーを製作、1970年代に製作会社に活躍の場を移してからは、日本TV系列の「ズームイン朝」を企画したり、1980年代は関西TV製作の「花王名人劇場」で漫才ブームの仕掛け人としても知られ、漫才ブームを巻き起こしたりしてTVの第一線でプロデューサーとして活躍し続けました。

戦後ラジオしか楽しみはなかったです。  あと映画ですね。 高岡は空襲を受けてなかったので映画館は全部残っていました。   映画はむさぼるように見ていました。     昭和24年に始まったNHK大阪放送局の「上方演芸会」は面白いと思いました。    海原お浜小浜さんは戦争中は「愛国お浜小浜」と名乗っていて、これはいかんという事で田舎に引っ込んでいました。  その後大丈夫だからという手紙をもらいおずおずと出てきたという事です。
昭和26年に民間放送局が相次いで開局します。
昭和30年にアサヒ放送に入社しました。  
昭和30年 関西地区ラジオ 1位アサヒ放送「漫才学校」(ミヤコ蝶々さんが校長)57.5%  2位新日本放送「浪曲ごもくめし」44.8% 3位NHK「浪速演芸会」41.3%
西宮球場で「浪速演芸会」の公開放送をやって、その時にいっぱいになったという話があります。(ラジオであるのに万という単位の人が入った。)

アサヒ放送の「お笑い街頭録音」というのがあって、13位ですが、前座があり、雁之助,小雁さん、かしまし娘の照枝、花江の時の二人を替わりばんこに連れて行きました。  堺筋の建物では公開放送の場があり、そこでは漫才の大会があり、藤田まことが新人の時に使いましたが、あまり受けなかった。  彼と出会ったのはそれが最初でした。  当時物まねでうまかったのは川上のぼるさんでした、声帯模写が実にうまかった。  司会は川上のぼるさんがやっていて忙しい時には藤田まことがやって、これがもっと忙しくなると大村崑がやっていました。

「お父さんはおひとよし」を何とか抜かなければと思っていた。
「お父さんはおひとよし」は日常会話の中にクスッと笑わせる、大阪弁の言葉を大事にした。  長沖一さんの原作でしっかりしていて、こういうものでいいのかと思いました。
花菱アチャコ、浪花千栄子 で後は劇団の人たちでした。  漫才の会話とは全然違っていました。  
劇仕立てでストーリーを構成するときに、漫才的な要素を入れて成功するのは難しかった。 リズムが違っていてボケと突っ込みをなかなか持ち込めない。  受けたのは「漫才学校」だけでした。

入社して「東西寄席風景」、「浪曲歌合戦」等を担当する。 東京の放送局との共同制作でした。  東京は落語主体でした。  
楽屋に一回見学に行ったことがありますが、凄い人たち、桂文楽さん、小さんさん、円生さん、正蔵さん等がいました、大坂はダイマルラケット、砂川捨丸・中村春代さん等。
生中継ではなかった、編集して行った。
「東西寄席風景」がその後「寄席風景」となる。  昭和31年になると聴取率を盛んに気にするようになる。
昭和29年朝日放送 ダイマルラケット、三笑亭可楽さんと準専属契約、31年ダイマルラケット、森光子、川上のぼるさんと専属契約、32年かしまし娘さんと準専属契約、33年桂米朝さんと準専属契約。
専属契約をして人を確保する。
新人を発掘する、鳳啓助京唄子さんでは鳳啓助さんが全部ネタを作りました。   そのころから新人が増えてくる。   漫才はどうにでも時間を調整できるが、落語の場合は昔のテープがありますが、ほとんど完成品ではありませんでした。  民間放送は特にそうでした。

TVの時代になってきて、ラジオよりTVが盛んになってきて、「スチャラカ社員」がベースになって「てなもんや三度笠」藤田まことにやらせるようになる。
澤田さんは昭和33年 「びっくり捕物帖」、「やりくりアパート」のアシスタントディレクターを担当する事になる。
「びっくり捕物帖」 主演は中田ダイマル・ラケット 与力(藤田まこと)の指示で事件の捜査 森光子さんとっての出世作ともなった。
「やりくりアパート」 横山エンタツ(アパートの管理人) 大村崑 佐々十郎 茶川一郎さんなど
CM 最後にセットの前に持ち込み、大村崑 佐々十郎さんが来て「ミゼット」「ミゼット」と連呼した。
大村崑 佐々十郎さん ぶっつけ本番で出演していた。

毎日放送TV 昭和35年 「スチャラカ社員」 社長 ミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケット、藤田まことさん等が出演、人気コメディー番組になる。
高度成長期にずぼらな社員が登場。 藤田まことがめちゃくちゃ売れてきて、他の局にも参加。
裏番組をやらない様に動く。
昭和37年5月 「てなもんや三度笠」がスタートする。
あんかけの時次郎 藤田まこと、珍念 白木みのるさん
時次郎が「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と締める。
演出 澤田隆治脚本 香川登志緒さん
日曜日の6時からだったので、時間帯としては難しい時間帯だった。
半年ぐらいは厳しかったが、そのうち東京でも人気になってきた。
最も高かった視聴率が東京で42.9%、大坂では64.8%となった。
笑いのテンポが早く、東京の人がなじんでしまったという事もあると思う。
全国にも判る大阪弁にしようと心掛けていました。
東京からゲストを招いたりもしました。

昭和34年 毎日放送TV 「番頭はんと丁稚どん」が「私の秘密」を抜いたと言って話題になった。
東京でめちゃくちゃ受けました。
大村崑 茶川一郎 芦屋小雁 芦屋雁之助さんなど
立体漫才の突っ込みとぼけ、大阪の場合はそれを集団で見せてゆく。
昭和の時代には大阪の番組が10年ごとに大きな波を起こしたという説を持っていて、昭和24年「上方演芸会」 昭和34年「番頭はんと丁稚どん」 昭和44年「ヤングおーおー」、昭和54年「花王名人劇場」

















2015年12月18日金曜日

高橋秀治(ロゴス点字図書館館長) ・点字とともに歩む

高橋秀治(ロゴス点字図書館館長) ・点字とともに歩む
73歳 網膜の病気で右目の視力を失った高橋さんは盲学校を卒業した後、点字を出版する施設等で点字を中心に仕事を続けて来ました。
1993年にロゴス点字図書館の前身である、カトリック点字図書館に転職、考える図書館をテーマに点字図書館の運営を続けてきました。
一方で高橋さんは選挙での情報格差は問題だとして、これまで6回の国政選挙で点字広報の発行を中心になって続けてきました。
高橋さんが今危惧しているのは点字離れです。
中途で失明した中に点字の習得を嫌がる傾向が出てきていると言います。
点字とともに歩んできた高橋さんの人生、半生を振り返りながら、点字の持つ表現の可能性等について伺いました。

点字図書は7900冊、録音図書は3万5000卷です。
厚いので90枚ぐらいが適当で、90枚を5~6分で読み取ります。(触読)
CD図書 1枚に最大限50時間が入る。
視覚障害者は6~7割が高齢者で、かなり点字が読みにくいという事で音訳の方に行ってしまいます。
考える図書館 
どうしてこんなつらい目に会うのだろうと考えるので、どうしたら生きる意味があるのだという事にぶつかり、人生には十分に生きる意味があり、前向きに生きる願いを込めて、考えるヒントを与えてくれるような本をどんどん作って、希望のある明るいものにしてもらいたいと言う意味での図書館運営をしたいという事です。
職員は10名、50~60名のボランティアの人が点字を打ってくれたり、録音したりして協力してもらっています。
人件費は東京都から補助金を頂いているが、自分達が他にやりたいと言うことの資金は自分たちで稼がなければならない。

1歳の時に右目にガンができて片方の眼球を取ってしまいました、左目は弱視です。
父親も目が見えなくて、親の意見もあり、中学からは盲学校に入りました。
周りの人に資料を点字で打ってあげたりするぐらいはできるようになりました。
時間はかかりましたが。
按摩、針灸の免許は取ったが、大阪の大きな施設があり、出版で人を集めているという事で行きました。
点字の奥深さを改めて知って、ある種の恐ろしさは感じました。
理科、地理とか一つ一つやっていかなければ行けなくて、間違った字を使ってはいけないので緊張しました。
外来語、英語など縮字もあり、見た目よりも奥深い仕事でした。

4年ほどいて、又東京に戻ってきて、点字出版社に入りました。
点字図書館にも勤務するようになる。
製版の仕事もしたかったがそこには行けなくて、点字の本の貸し出し掛かりに行きました。
2年後、東京ヘレンケラー協会があり、そこで製版者がいないので、本間一夫先生にお願いしてそこには20年ぐらいいました。
色々な本を出版して楽しかったです。
製版機は足でペダルを踏んで、指でキーを押して、目は原本を見るという仕事なので結構疲れる。
友達と一緒に社会福祉に関する事が知りたくて、夜間の大学に行って、最初の頃木田?先生、中村先生に教えてもらっていたが、全共闘の波が学校にも押し寄せてきて授業にならなくて、後半は残念だったが卒業証書はもらえました。

行政は自立して自分の力でやりなさいと言うが、聞こえはいいが難しい。
1993年にロゴス点字図書館の前身である、カトリック点字図書館に転職する。
前の館長の橋本宗明さんが11歳上の文京盲学校の高等部で一緒だったが、カトリック点字図書館の館長になり、借金が多くてみんなの給料が払えない状態で力を貸してほしいという事で、手伝いに行く事になる。
日本図書館協会とか、公的なところから仕事を貰って少しづつ返して行き、多少信用ができてずっと置かして貰っている。(当時の額で300万円ぐらい)
平成16年、橋本さんが72歳で辞めてそのあとを継ぎました。
国政選挙の時などに選挙公報が配布されるが、点字版はほんのごく一部で展開されていたが、これは情報の差別だと思って、運動を開始しました。
選挙管理員会では期間が短いので点訳時間が無いだろうとか、法律にも点字版は出せという項目は無いという事を盾に取って出来ないという事で断ってきて、我々として働きかけをしてスタートしました。

最初は我々が預かった発行部数は9000部で、実積を積んでいくうちに半分以上の都道府県から注文が来るようになりましたので、或る程度の理解はできたのかなあと思います。
読み方の統一等(にほん、にっぽんとか色々)、調整をして何とか軌道に乗せる事が出来ました。
告示前に原稿を欲しいというのですが、書き直しがあったりして時間の調整が非常に厳しいです。
全国で点字選挙公報 6万部です、手帳を持っている人は32万人で、まだ問題があります。
最高裁の国民審査があるが 最初は1日、2日前にしか原稿をもらえなかったが5日前に原稿を貰えるようになった。
声による選挙公報は? 
平成16年から3回目の国政選挙から録音部門と拡大文字の2つ媒体が参加するようになりました。
CDはごく一部、これからは伸びてゆくと思います。

点字離れ、9割がテープかCD 1割が点字となっている。(図書館の貸し出し)
幼児失明は少なくなってきて、高齢での失明が増えてきていて、点字での対応が難しくなってきている。
パソコンが普及したお陰で、視覚障害者でも音で表現できるようになってきた。
電子化が進んで点字がどこまで付いてゆくのか、はっきりしたことが言えなくなってきてしまった。
文字は自己表現だと思うので、書いてお互いが交換し合うことは当然のことだと思うが、点字がどういう風になるのか、大変気になるところです。
点字をしっかり根付かさないといけないと思います。




















2015年12月17日木曜日

2015年12月16日水曜日

碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)・心理学のメッセージで幸せに

碓井真史(新潟青陵大学大学院教授・スクールカウンセラー) ・心理学のメッセージで幸せに
東京都出身56歳 日本大学大学院で心理学の博士号を取得した後、大学教授となり現在は新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科の教授を務めています。
その傍らスクールカウンセラーとして、教育現場のいじめや不登校等の問題にも長年向き合ってきました。
1997年開始したホームページ 「心理学総合案内こころの散歩道」では世間を騒がせた事件、犯罪にまつわる心理を解説したり心理学の視点から人間関係を良くするヒントを掲載して総アクセス数は、5000万件にのぼりました。
現在はインターネット大手検索サイト内の個人ページで心理学の知見を生かして、人生を前向きに変えるメッセージを発信し続け、全国放送のTV番組などにも、コメンテーターとして出演しています。

或る有名人の自殺があってそれをあるところに書いたがクレームが来て、自殺に関しては寝た子を起こすな、という発想が多く、残念に思い自分のホームページで書こうと思いました。
利用者が増えれば、もっと普通の話題が増えるのではないかと思いました。
自殺予防に関するページを作りました。
自殺を考える人は非常に不安定な心で追い詰められた末の死で、今日乗り越えられると明日は又生きようかなと思ったりもする。
ページを見てもう一度生きようという様な感謝のメールもあるが、無責任なことを言っているなという様なメールもありました。
メッセージ性のある、こちらの想いを届けたいという思いはありました。
心理学は直接的に人の幸福を願っている学門かなと思います。
当時(高校生)、神経質で人間を怖がっていましたが、人間が好きでした。
心理学を学んで人間を知れば人間は怖く無くなると思いました。

犯罪者と自分はそんなに遠くない気がします、連続線上にただいるだけという気がします。
特に少年事件は不幸な偶然の積み重ねですね。
ほんのちっちゃなきっかけ、ほんの少しの気付きで大きく変わる人達がいっぱいいる、そこは心理学者の出番だと思います。
ポジティブ心理学 幸福になるためには何が必要か、お金、知能、学歴等いろいろ考えられるが、それらはそう簡単に変えられないが、そういったものを全部ひっくるめても、幸福感に与える影響はたった10%しか与えていない。
一番は行動習慣、土台になるのは「有難う」なんです、「有難う」が言える人は幸福感が高い、人に親切行動をし続けている人、目標を持って一生懸命熱中する活動をしている人等は幸福感が高いというのが科学的事実なんです。
これらは変化できることです。
幸せを願うなら、「有難う」を言うことは効果的です、科学的な事実です。

夜寝る前に今日良かったことを 3つ数えるとか、今までの人生でお世話になった人を思い浮かべてありがとうをカードに書くとかポストに入れなくても、幸福感は高まる。
「有難う」を言葉や文字にすると幸福感は高まる。
幸福な人は幸福な人同士が集まって、お互いに相手を幸福にしあっている、お互いに親切にし、され、お互いにありがとうを言いあって、ドンドン幸福になってゆく。
不幸な人は不幸な人が集まってお互いに不幸にしあっている。
良い人のボランティア団体、趣味の会とかに行くと、皆と同じことをするようになり、その人も幸せになってゆく。
世の中はドンドン変わるが、人の心は基本的には変わらない、変わらないからこそ源氏物語、シェークスピアとか見て私たちは喜べる。

複雑な社会でもピュアな心はあり、ピュアな思いを実現させるためには、具体的にどんな工夫が必要か考えてゆく必要がある。
法律、経済も大切で改善していかなければならないが、心の問題は意外と簡単に今日からできてしまうという事があって、心を変えてゆく。
オーナーマインド 人間がやる気を失い、幸福感を失ってゆく大きなきっかけは、やらされているという感覚が何とも苦痛で、あたかも自分が店長、社長のオーナーの様な感覚になると、頭を下げることが必要なことだと思うと、屈辱感から自由になる。
それは、見ている人は見ていてくれる。

スクールカウンセラー 
心理療法としてのカウンセラーは多くは無い、学校の潤滑油、黒子、如何に担任が良い形で子供を支えられるか、如何に親のストレスを低減させて、親御さんたちに希望、力が出てくるように助けられるとか。
全国ニュースになる一歩前の様なことは、特別な学校ではなく全国の学校にあふれています。
手首を切っている子はいっぱいいるし、とんでもない親のもとで苦労している子もいっぱいいます。
良い学校は問題を隠さないし、問題を共有する。
チームとなって問題を解決しようとするし、親を巻き込み、親も含めて皆でチームになってその子を支えていこうと体制がとれれば、そんなにひどいことは起きない。
これはひどい、かんがえられないという様なケースもあるが、それは指導力を失った状態の学校だと思う、問題を明るみに出せず、連携も出来ず、という風になってしまっていたと思う。
いくつかの不幸な偶然の積み重ねで、いろんなことが巧く行かなくなると、先生は疲れ不慣れな弱い先生が孤立する、何とかしようとする熱血先生も孤立する、学校がぎくしゃくしてゆく、きちんとした虐め自殺予防活動が不十分になってゆくという悪循環が起きる。

まずは予防だと思う。
虐めっ子は、大人に話すことは「ちくり」だというが、むしろ正義の行動だと思う。
いじめが始まって、嫌だと思って見て見ぬふりをすると、嫌ないじめの雰囲気がクラスに広がり、学年中が、学校中が嫌な感じになってゆく。
気が付いた段階で話すのは正義の行動です、と言う事を最初に伝えておく事。
子供は親には心配かけたくないというが、大人は子供の事を心配するのが仕事です、傷ついている事を話すなという事ではない、一杯心配かけてもいいい、迷惑掛けていいよと事前に伝えてゆく事です。
良い場所(来やすい環境)を提供する事も大事です。
話しやすい状況を作りながら話せる環境を作る。
親が絶対貴方を守ってやる、と宣言して同時に具体的な行動をする。(先生が駄目なら校長先生に話すとか)

SNS(いじめ) あれっと思う事があったら、その時に何でもいいから一声かけることが大事です。
どう向かい合ったらいいかわからない、色々考えてしまって話さないが、何でもいいから一声かけることが大事です、そしてもう一声何か、どうでもいい様なことでも良いからこちらから話すと、ふっと話してくれることもある。
何げない会話がとても大きな意味を持ちます。
「どうしたの」と、声をかけるためには、こちらの心の余裕が無いと駄目ですね。
相談を受ける側も、誰かと問題を共有してゆく。
溺れている人を助けるためには、泳ぎが上手でないといけないし、やたらと飛び込んで助けるのもいけない、棒を伸ばして助けるとか、人を呼んできて一緒に助けるとか、無茶をしないで皆の力で少しずつ助ける方向に行く。
親もいろいろ傷つくが、周りの愛が不十分と感じる、周りの人を針で刺す(貴方のここが不十分だと言う)周りは怖がって離れて母子カプセルに入ってしまうが、周りを上手に活用してゆきましょうと言いたい。

見て見ぬふりは、何もしていないという事では無くて、心理学的にはそれをやってもOKだというサインになっていて、エッという怪訝な目、ちょっと白い目で見る事によって、やっている人それだけではやりにくくなる。
生き辛さを感じているとしたら、それだけで十分だと思う、悩んでいる人はそれでOK、悪い奴らは悩んでいませんから。
その時その時最善の事をしていると思いますが、小さな一歩は実はもう起きているが、それに気付いていないという事が一杯ある様な気がします。
気がつくと結構歩けたりする、小さな一歩を認めてあげよう、今はできなくてもいつかは必ずできるようになるという思いを皆で持って行きたいです。





















2015年12月15日火曜日

西蔵ツワン(病院院長)      ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(2)

西蔵ツワン(病院院長)        ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(2)
難民キャンプのセンター長が女性で、ダライラマ法王の兄さんの奥さんになる人にうごいていただいて日本に行ける機会ができたので、5人(11~13歳)が1965年12月に日本行きました。
私自身は全く不安は無かった、先進国の日本に行けることが、むしろ希望に近い様な感じでした。
1959年にダライラマ及び6万人がインドに亡命して、柱として教育があり、1960年半ば代でアメリカ、スイス等に多くの子供達を受け入れてくれて、近代的な教育を受ける事ができた。
日本にも受け入れてくれないかという事で、木村肥佐生先生がおられて、第二次世界大戦中に、
モンゴル経由でチベットに入った日本人で、戦後に日本に戻って、日本国内で動いて、埼玉医科大学の初代理事長の丸木清美先生と出会い、丸木清美先生が引き受けるという事で毛呂山町の丸木清美先生のところへ1965年12月に5人が行きました。

取り合えず中学に4人が行く事になるが、その前に小学校の国語の教科書をマスターしてほしいという事で、4か月猛特訓でした。(寄宿舎での生活指導を含めて)
家族とのやり取りは殆ど手紙でやり取りをしていました。
高校、大学を出て、チベットの関する活動はしなかった、大学で研究をやったり、論文を書いたり、発表したりという事がありました。
医学博士も取りたかったので、そういう方向に集中していました。
本格的にチベットのことをやり始めたのが、或る程度自分の目標を達したので、そろそろ同胞のために何かやらなければと思って、活動しはじめたのは大学を出てから始めました。
1967年7月、ダライラマ14世が初めて日本に来る。
5人がダライラマ14世に面会している。
法王がチベットの若い人に対する教育を物凄く熱心に取り組まれて、1960年代半ばから、インド、チベット難民等に対して頑張れと廻られた時期がありました。
海外にいるチベット留学生に法王が出会ったのは、この度が初めてでした。

留学生は総勢21名になっていました。
当時毛呂病院にわざわざ来ていただいて、宿舎などもご覧になりました。
「一生懸命勉強して専門性を持ってほしい」と言っていました。
丸木清美先生が口癖のように言っていたのは、「君たちにはハンディーがあるんだから、日本人が1時間勉強するなら、2時間勉強しなくてはいけない」と、しょっちゅう言っていました。
日本人の倍努力するということは、いつも意識の中にあって生きてきました。
1987年 昭和62年に日本に帰化しました。
パスポートはインド政府が発行する特別なICカードでした。
日本に来ていて、入国管理事務所に滞在の手続きをしなければいけなかった。
「無国籍」 (  )の中にチベット生まれと書いてきていた。
結婚、子供ができて、このままだと不便なことが多くて、私が研究発表の為に外国に行くときにも不便さがあり、妻も無国籍で子供も2人無国籍だとどうなるのだろうと不安もあり、日本国籍をとることにしました。

埼玉県立飯能高校の同窓生とともに、「飯能チベットを知る会」を立ち上げる。
チベットを知る人は日本人の中ではまだまだ少ないと思いますので、発足しました。
音楽、映像でチベットの文化、歴史、現状問題を知っていただきたいと、短編映画がありましたので、上映会をしました。
(「風の馬」、「チベット チベット」、「チベットの風」、「ヒマラヤを越える子供達」等)
今、チベット人が抱えている問題に関しては、全然知らなかったと言う人が多くて、上映後アンケートなどをする中でそういう言葉が多かったです。
講演会では、渡辺一枝先生にお願いしてチベットの事をしゃべっていただきました。
*渡辺一枝さん 2012・10・22  2012・10・23 明日への言葉に出演 以下参照下さい。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/10/blog-post_22.html
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/10/2.html
国内にいるチベット人は、かなり中国の抑圧政策の中で苦しい思いをしています。
2008年にチベット国内で大きな暴動があったという背景は何かという事を考えないといけない。
最近焼身自殺、140名位が焼身自殺、ほとんどが若いチベット人でお坊さん尼僧さん等。
2008年以前は毎年1000人前後の子供たちだけでヒマラヤを越えて、ネパールを通ってインドの亡命先の学校を目指して、或いはダライラマ14世に会う事を目指して、危険の中を来る訳です。

いまでも起こっています、中国政府が言っているチベット人は幸せであるかというと、答えはNOです。
なぜ彼等は焼身自殺をするのか、なぜ彼等は子供たちだけでヒマラヤを越えて、インドに脱出するのか、なぜなぜなんです。
海外にいるチベット人たちは、こういう事を発信しなければならないという役目が、我々には有ると思っています。
チベットの国が無くなってから60年になり、私たちが日本に来たのは50年になり、其過程の中で亡命したのが1世、2世になり、3世以降になると果たしてチベットの事を言うかということは別の問題になるので、チベットの問題に関して時間がたってしまうと、そういうのを失なってしまうのではないかと、唯チベット人としてのアイデンティティーは3世になっても持っているんです。
私達の状況は放浪の民だと思っているが、他の国にお世話になって自分の国は持っていなくて、その気持ちは非常にきついものがある。

チベット人は優秀な民族だと思っていて、どこかでチャンスを与えられると一生懸命やる民族だと思っています。
それぞれの国でチャンスあるものはしっかり捕まえて、しっかり勉強して、それぞれの国の人々から尊敬されるチベット人であってほしいと私は思います。
微妙な問題であありますが、いずれチベットに帰る時に、自分の国は自分でおさめる様な人材になってほしいと思います。
今はそのエネルギーを溜める時期だと思っています。
中道の道はなんぞやというと、自分のことばっかりをしないで、相手の利になるような方策はなにか、チベットの自治区があればいい、本土にいるチベット人が幸せで有れば良いと思います。
それが中国共産党に対してもマイナスにはならない、我々にもプラスになる、中道の精神。
チベット人側に於いて120万人以上の犠牲者があることは事実ですが、中国の国民も被害者だと思っています。
正確なチベットの歴史、現状を中国国民は知らない状況なので、チベット人と中国人同士が話しをすると必ず一つの問題のきっかけになるのではないかと思う。
中道の道は中国人の学者作家、著名人から支持されているので、そういう話が中国国内で広がってくれれば、チベットがいい時代を迎えることができるのではないかと思います。




2015年12月14日月曜日

西蔵ツワン(病院院長)      ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(1)

西蔵ツワン(病院院長)        ・来日50年、「チベットの魂」を胸に(1)
1952年チベット第二の都市、シガツェ市生まれ、1959年中国政府の支配に反発する蜂起、チベット
動乱が勃発した時は7歳、チベット政府の役人だった父親はインドから戻れなくなり、其れ以降母親と妹の 3人でチベットで暮らしました。
1962年密かに戻った父親と合流し、一家4人でインドに亡命、ラージリンにある難民センターに収容されました。
1965年 13歳の時にチベット亡命政府の方針とチベット問題に関心のある日本人の働きかけがあって、他の4人の少年と初めて日本の地を踏みました。
ツワンさんは埼玉県内の中学高校で学び、医科大学を卒業して医師と成りました。
現在は埼玉県日高市の病院の院長を務めています。
1987年には日本に帰化して、医師の仕事のかたわら、日本人にチベットの事をもっと知ってもらおうと、講演や執筆活動をしています。
6年前に出身高校の同窓生達と飯能チベットを知る会を立上げ、映画の上映、講演会を開いています。

インドに行って今年で25年になります。
80年代に妻と私がインドに行く事があり、妻の出身地が南インドにある難民キャンプでモンコット?、そこで可なりのショックを受けました。
暗くて子供たちが置かれている環境が劣悪で、ショックを受けて、日本に帰って来てから何か出来ないかという事で、埼玉医大出身者の同僚と話をして、組織を立ち上げようという事になり、後輩の椎貝典子先生が父親(椎貝慶太?さん)に話をして、200万円を寄付しようと言ってくれて、3階建ての幼稚園ができました。
チベット子供支援会 パサニア(しいの木)会ができる。
図書館もたて書物もいれ、健康のためにバスケットグラウンドも作りました。
里親制度を導入して70名近く支援してきて、それから25年経ちました。

現在、中国のチベット自治区に位置付けられている。
1959年以前は広大な地域だった。
中国の青海省、西康省はかつてはチベットだった。
現在でも123万平方kmある。
東南アジアの水源がチベットにある。
ラサが中心都市 第二の都市、シガツェ市(インド、ネパールに近い商業都市)生まれ。
塩の道があり、インドに岩塩を運び、インド、ネパールからは米を運んできて物々交換をしていた。
父はいくつかある塩の道の統括する地方役人だった。
標高4000mぐらいで特に夜の空が、星が素晴らしい。
ルンタ ルンは風 タは馬 風の馬という意味を持っていて、旗に5色で願いを印刷して、チベットの風になびかせて、旗に願いを込める。
チベット人の家に行くと必ず仏画、仏間があり、朝昼晩 お祈りします。
生きとし生ける全てのものに対して、平和がありますように、というものの考え方がチベット人には心に沁みついています。

2008年6月に発行の月刊誌に手記を載せる。
チベット騒乱 
1959年 チベット動乱 民衆が蜂起、中国政府からの抑圧、ダライラマ14世がインドに亡命。
父はしょっちゅうインド、ネパールに行き来していて、チベット蜂起の日
ダライラマ法王初め約6万人がインドに亡命する。
父はチベットに戻れなくなってしまった。
中国が侵攻してきた目的
①古い封建制度から解放する。
②帝国主義が入ってくることへの阻止
それからすると中国政府から狙われやすい立場にあり、父は戻れなくなり3年ぐらいインドにいて、3年間別れ別れになりました。
中国共産党の凄いプロパガンダの中で暮らしました。
毎週映画を見せられて、如何に中国八路軍が日本軍と戦ったのか、朝鮮戦争等の内容だった。
野外の壁に映して見せられた。

遊びは兵隊ごっこだった。
公開裁判を見学させられた。
先生はチベットと漢民族の半々で、チベット語、中国の漢字などを習った。
国家分裂という事で、プロパガンダにさらされた中で、ダライラマ法王は嫌いでした。
中国共産党の予備軍として、首に赤いネッカチーフがあって、右に腕章があって2までもらって(3が最上級)いました。
3年後に父がもどってきました。(その間家族を連れだそうと機会を狙っていたらしい)
身分の低い服装に変装して戻ってきました。
父が戻ってきたときに私が密告してしまうのではないかと両親は思ったらしい。
私が骨折をしていて、湯治が目的だという事でチベットを離れインドに向かう。
ヒマラヤを越えなくては行けなくて、夜に動くのでおかしいと思って、聞いてみたら、インドに行くという事だった。
歌を歌いながら歩いてきたりしたが、国境を越えたところで、今まで歌っていた中国の歌は歌うなと父親から言われた。

インドのダージリン 難民センターに到着する。
着いたその日に公安局につかまって、一時4人共拘留される。
知り合いのお坊さんがいて、身元保証人になって解放される。
難民キャンプが70位あるが、一番最初に出来た難民キャンプで、子供に対して教育に熱心で、英国式の学校に行く事に選ばれて、全寮制の学校に入学する事が出来ました。
英語は全く知りませんでした。
キリスト教なので日曜日には教会に行ってお祈りしたり、キリスト教の勉強をさせられたりして、後で考えるといい勉強になりました。
3年間過ごして日本に留学する機会がめぐってくる。






























2015年12月13日日曜日

福田文昭(カメラマン)       ・フィルムカメラと歩んだ人生

福田文昭(カメラマン)        ・フィルムカメラと歩んだ人生
シャッターチャンスに命をかけてきた福田カメラマンの想いは、消えてゆく瞬間の時代の証しをフィルムに焼きつけること。
その写す対象はこの時代に暮らしている人々が、知りたいと思っている話題性のある一枚写真です。
昭和54年、福田さんの撮った一枚が、写真週刊誌の先駆けとなり、スクープを求めるカメラマンが数多く誕生しました。
しかし、その世界で有名になった福田さんは鬱病に悩まされ、やっと去年からカメラを手にすることが出来ました。

このレンズは45年一緒にいて、かみさんよりも長く付き合っていて、恋人みたいなものです。
フィルムを巻く瞬間の間の良さが真髄です。
シャッターチャンスを如何につかんでいくか。
今68歳です。
休みたいことはしょっちゅうです、依頼の仕事が無いので自分で計画を立てて撮ったり、仕事に追われていないので、2カ月に一回ぐらい商業出版物に載ったりするので、そんなに追われてはいません。
元首相の田中角栄さんの裁判の写真を撮り、それが雑誌に出て評判になりました。
写真週刊誌が新しく始まるにあたって、ロッキード裁判を写真に撮って載せたら読者の人に喜んでもらえるかもしれないし、注目を浴びるのではないかと思った。
写真を撮ることは許可を出してくれないので、気がつかれないように撮って載せようと思ったが、失敗を重ねて6か月後に撮れて紙面に載せられた。(昭和57年 ロッキード裁判)
判らない様に撮るのは心がぶれるので、ちゃんとシャッターが切れないので、結果はぶれた写真になってしまう。
今日は撮れると思ってシャッターを押したら撮ることができた。
田中角栄さんが憮然とした表情で、閉廷の瞬間だった。

国民の知る権利と被告の人権 板挟み 
正確に国民の人に自分の被告席の姿を見てもらうという事は、決してマイナスのことだけではなく自分を理解してもらう事はプラスになるのではないかと思う。
昭和54年 山口百恵さんと三浦友和さんのデートの写真。
ずーっと張り込んでいて撮る。
人間的魅力を感じたり、反発を感じる様な人もいたり、人間的な面白さに興味を持ってしまって、一人の人間としてどうなんだろうと、写真に収めたいとだんだん強くなってきて、百恵さんも恋の炎が燃えている様に感じた。
最初家の前で待っていたが3カ月手掛かりが無く諦めて、友和さんのマンションの前で2カ月で待って、写真を撮ることが出来た。
罪悪感はないか?
職業的に人間を追い掛けているので、逃げられてしまえば仕方ない、不運なところにつかまってしまうと、写真に撮られてしまうので、宿命みたいなもので、辛いと言えば辛いが、それで悩んでしまったらこの仕事は辞めただろうと思います。
写真を撮った翌日に、百恵さんは「私の恋人は三浦友和さんです」と公表する。
スクープは古くなってしまった。

張り込みの写真は止めるようになる。
ニュースになる様な動物の写真を撮ってはどうかとの編集長からの依頼がある。
7年間毎週毎週、日本国中歩いて撮りました。
いくら動物の写真を撮っても疲れない。
デジタルカメラになって、プロカメラマンとしては職業的技能を必要とされなくなった。
デジタルは感度を上げられるので、暗いところで撮っても色がそれなりに良く出るので、舞台は暗いので舞台で撮るときには使います。
デジカメの方がけばけばしい色で、実際の色よりも作った色になってしまう。
逆光では明るいところが飛んでしまって、よく映らないのが欠陥だと思います。
いくらデジタルが進歩してもフィルムカメラの豊かさには追い付かないと思う。
フィルムは色の出具合が豊潤、柔らかい、白から黒までの階調が非常に豊か。
デジタルは途中が省略されてしまうようで、あまり立体感が出ない。

新聞社の写真は秒を争う様な写真なので、デジカメで使うメリットがある。
コマーシャルで組み立てて写真を作り上げる様な人は、デジカメでいろんな組み立て方ができるので、メリットがある。
フィルムは楽しい。
フィルム会社もフィルムを作り続けると宣言しています。
プロのカメラマンの主流はまだフィルムです。
雑誌社などからの仕事の要請は無くなってきて厳しくなり、鬱になってしまう。(50歳代後半から依頼が来なくなってしまった)
夜眠れない、どう悪い状況を打開出来るか考えるが、答えが見つからない。
それが何日も続くと精神状態が混乱してきて、家に引きこもり、社会性が段々無くなり、友人から電話が来て一緒に会おうといってきても、段々閉鎖的になってしまう。
10数年前と3年前ぐらい、2回あります。

2011年 大震災の時に、民家がめちゃくちゃに壊れているところに行って、観てもシャッターをなかなか押せなかった。
取材は2日で終わったが、大トラブルになってしまって、今後商業ジャーナリズムで仕事をすべきかどうか悩んで、もうやめてしまおうと思って、深刻に辞めようと思った時に、自殺をしようかと思ってしまった。
人には相談も出来なくて、どん底まで行ってしまった。
明日の朝と思った時に、その朝起きれなくて、今日は駄目だと思って、本屋さんに行ったら「自殺」という本が飾ってあって、著者が末井昭さんで昔「写真時代」という写真雑誌の編集長で一緒に仕事をした人だった。
本を読んでみたら、インターネットで自殺について自分で調べてブログに書く様なことをやって、評判になっていたので、或る編集者の人が本にしたいという事で、末井昭さんも病んでいたが、上向きになって本を完成した。
自殺しようとした人を救済した人に直接会いに行ってインタビューしている。
秋田県が自殺の一番多いところで、秋田県を訪ねて行ってルポしている。
自分の足で自殺というテーマを分析しながら書いている。

1週間で4~5回読んでみて、自分なりにどう脱出していいかを自分なりに分析して、答えを見つけられると思って、そういう風に考えるようになって、自殺しなくてもいいかなあと思えるようになった。
本の最後のメッセージに、「皆自殺しないでくださいね、生きていれば色々良い事があるんですから」、という事で、確かにそうだと思った。
ハンセン病の夫婦の事を数年にわたってドキュメントした、等身大に観た写真展を一緒に見に行って、或る人から又写真教室を始めてくださいと言われて、これはやらなくてはいけないと思って写真教室を始めたら、いい加減な写真を見本に見せると生徒に馬鹿にされると思って、一生懸命に撮るようになった。
真剣に生徒に見せる、そうしているうちに真面目に一生懸命写真を撮るようになって、全然元気になり、それが去年の4月からです。
今は自分でチラシを作って、家族が一番くつろげる場所でペットを含めて家族全員の写真を撮るというのを、出張して撮ります、というのをやっています。
フィルムのモノクロ写真は心が映る、デジカメでは心が映らない。














2015年12月12日土曜日

棚橋昭夫(元・NHKプロデューサー) ・「お父さんはお人よし」ラジオ文化に生きた大阪弁

棚橋昭夫(元・NHKプロデューサー) ・「お父さんはお人よし」ラジオ文化に生きた大阪弁
「お父さんはお人よし」は2回分しか録音されていない。
昭和32年7月1日 第123回を聞きながら棚橋さんに伺います。
花菱アチャコ、 浪花千栄子と12人の子供が繰り広げるラジオドラマ、500回続いた人気番組。
棚橋さんがこの番組のプロデューサーを担当。
棚橋さんは入局が昭和27年、大阪局に昭和31年に転勤、現在86歳。

「お父さんはお人よし」は月曜日の午後8時から放送。
第一スタジオ、4本マイクがあり、お父さんとお母さんは中央に、その他には中堅等の役者が変わり番こに来ていた。
昭和29年にスタートして、31年夏にNHK全国聴取率調査で43.8%だった。
大人気番組「三つの歌」を抜いてトップになるが、そんなに気にはしていませんでした。
12人の子供がいるが、鉄道唱歌の順番で名前をつけて、長女は京子(京都)、一番下は新子(新橋)その間を10人の名前を付けている。
ドラマの放送・・・静子の婚約解消の事についてのいきさつの内容を放送。
日常のスケッチ、ごく自然な日常を描く。
長沖一 作者 不自然なことは良くないとの想いがある。
お母さんがお父さんをやりこめるところに笑いを誘う。
花菱アチャコ、 浪花千栄子 共にアドリブをうまく行う。

花菱アチャコは福井出身、小さい頃大阪に来る、セリフは多少漫才の流れはあるが、ぼそぼそという様な会話になっていて、逆に生きる。
浪花千栄子 は大阪府南河内出身 
「お父さんはお人よし」を聞いて全国でこうありたいとの反響がある。
長沖一さんの台本も比較的丁寧な会話、浪花千栄子さんも旨く大阪弁の良いところを伝えたいとの思いがあった。
長沖一さんは東京帝大出身で真面目な感じで学者風で、一方ではひょうひょうとしていた。
盲腸で入院中にも口頭で言って、実体験をそのまま台本にする。
本番もアチャコの痛い痛いぶりが大受けだった。
特集番組で「三つの歌」とのコラボレーションを行う。(アチャコが三つの歌に出演する)

民放との競争は一時期あった。
民放では役者との契約があり、使いたくても使えない時があり、若手が出てきて、かしまし娘が使いたくても使えなかった。
東京には中味では負けないぞ、という思いはあった。(三つの歌、二重の扉、話しの泉など)
当時は戦争が終わって、電波が解放されて、民放が出来て、活気がありました。



2015年12月11日金曜日

2015年12月10日木曜日

2015年12月9日水曜日

工藤千恵(性暴力サバイバー)    ・語る決意

工藤千恵(性暴力サバイバー)   ・語る決意
8歳のころ、塾からの帰り道で見知らぬ男に連れ去られ性的な暴行を受けました。
被害を受けた後は長年にわたって突然鮮明に浮き上がる記憶や周囲の好奇な目に苦しめられてきたと言います。
しかしその被害から35年、43歳になった工藤さんは性暴力サバイバーとして活躍しています。
性暴力サバイバーとは性暴力被害からの生還者という意味で性的暴行などの被害から立ち直ろうとする人々を指す言葉です。
同じ苦しみを持つ被害者の支援に繋がればと自分の体験を講演会等で語るようになったのです。
警視庁に依りますと、去年の強姦と強制わいせつ認知件数は合わせて8600件余り、しかし誰にも被害を打ち明けることも出来ない人もいるため、性犯罪被害者の実際の人数は、さらに多いと考えられています。
工藤さんが体験したこと、そして人知れず苦しむ性犯罪被害者を支えていくためには、どんなことが必要なのか、伺いました。

日本全国に数名、自身の経験の話をしている方はいますが、九州では私一人だと思います。
この1年半で30回講演を行ってきました。
今回、熊本で講演、警察関係、医療関係、弁護士、地域で見周り活動しているボランティアの人達、学校関係の人たち等に参加していただきました。
私の話を聞く事によっていろんなパターンの想像ができる、想像力ができればいいなあと思います。
小学校3年生の時に、塾の帰りに道を聞かれて、不審に感じて逃げようとしたが、手首を掴まれて、声を出したら殺すぞと言われて、そのまま連れてかれました。
1km歩かされて、畑のビニールハウスのわきに連れ込まれて押し倒されて、触られたり舐められたりしました。
助けてと、声をだそうとしたが、声が出なくて、ただただ涙だけが出てきて、悲しかったです。
不審に感じた通行人が110番して、事件が発覚して、被害にあっている最中に検察官が到着したという形でした。
恥ずかしいこと、悪いことをしたという様な思いがわいてきて、とても悲しい気持ちになったのを覚えています。
不快に感ずること、見られてはいけないところを、こんなにたくさんの人に見られてしまった、という思いが強かったと思います。

犯人は50代後半で、酔っていたという事です。(新聞記事)
次の日、学校に頑張っていったがクラスメートに取り囲まれ、たくさんの人から色々質問されたが、私ではないという事を言うだけしかできず、心を閉ざすことしか選択は有りませんでした。
中学校に行った時に性行為の意味を理解する事が出来た時に、生きていく事が出来ない位、大変な経験をしてしまったという思いになって、生きるのが苦痛になり自暴自棄になりました。
非行に走って行って、男性恐怖症になり体が震えるが、この身体はどうにでもなって良いという感覚にもなり、好きでもないのに凄く年上の人と付き合ったりして、人生をあきらめてしまった様な、自分の性、身体を大切に扱えなくなって、無茶苦茶になっているんだから無茶苦茶にしていいよ、という様な感覚で過ごしていた様に思います。
中学校3年生になった頃に、女性らしくなってゆく身体を受け入れられなくなりました。
女性らしく自分が変化して行ったら、又同じような事件を引き起こしてしまうのではないかと思って、自分が女性であることが憎らしくなって、男性には成れないのかとか、死ねば終わるのかと思ったりして、薬を大量に飲んだりすることを何度かしました。

20歳のころ、主人と付き合いのスタートをしました。
主人と食事に行ったりする時に、体が震えていないという体験をしました。
この人だったら大丈夫かもしれないと思いましたが、過去の事を黙っているという事がいいのかが、自分の中にあり、主人に付き合い始めたころに話をしました。
淡々と聞いてくれて、「そんな大変なことがあったんだね、話してくれてありがとう」と言ってくれたのを今でも凄く感謝しています。
25歳で結婚して2人の娘に恵まれました。
長女が8歳になった時にスイッチがはいってしまって、娘を家から出せなくなって、学校には行かせるが、夕方被害に遭った時間と重なると、いてもたってもいられなくなって、探したり学校に電話をしたりして、家にいるとパニックになってしまって、主人、母から説得をしてもらったが、頭では分かっているが、娘が被害に遭うかもしれないという事で心の中はいっぱいで、娘に怒鳴ったりしました。
薬を飲んでも症状は悪化してゆきました。

娘の立場になって考えて、被害に遭った経験を娘に話してみようという思いになり、主人と両親に話したが特に母に大反対された。
両親を何とか説得して、3年生の娘に話をしたら、「そんなことがあったんだ、かわいそう」と言ってくれて、だからそうなっているんだと理解してくれました。
時間を守る、行き先を細かく伝える、等どうしたら症状が出ないかを話し合った。
娘が凄く協力的で症状もよくなり、薬も手放すことが出来ました。
自分と向き合える時期が段々出てきて、何かできないかと思った時に、犯罪被害者支援センターを訪ねた処、講演会とかで話てはみないですかという申し入れがあって、講演後、会場に新聞記者の方がいまして、取材をしたいという申し入れがあって、実名で一面に4日間連載で書きたいとの事で、家族と相談する事にしました。
誰か一人でも反対があれば断るつもりでいました。
長女に話したら、怒られた、「やりたいんでしょ、誰かの役に立てると思っているんでしょ、お母さんがしなくて誰がやるの」と言われ、背中を押された様な気がしてやることにしました。(長女は高校2年)

周りの人が記事を読んで言ってきても、私は言い返せる、母は別に悪いことをして新聞に載る訳ではないので、と言ってくれました。
決心が固まった時は、自分が強くなった様な気がしました。
講演で聞いている方の中で当事者がいるので、昔のことを思い出してしまったりするので、講演後、主催の方を通して控室に来て私も当事者なんですと、どこの会場でも必ずあると言ってもいい
ぐらいいます。
訪ねてくるだけで物凄い勇気がいることです。
被害にあったからこそ被害の大きさを当事者は考えてしまったりします。
未遂の場合でも、怖さは同じで、来て頂いた事に対して勇気がいるので、有難うとまず伝えます。
話を聞いて言葉を少しずつ声をかけて行き、泣いていたのが段々落ちついてきます。
自分も自殺未遂をしたことがあるので、当事者の方も死にたいと思ったことがあるはずなので、今日出会えたこと、生きていてくれてありがとうと言います。

講演会で話をする中で、支援をする人の心のケアが重要だと言っています。
代理受傷を出す方がいて、自分は被害には会っていないがPTSD症状を起こしてしまう場合があります。
家族となると、やり場のない気持ちとかをぶつける場所が無く、家族のケアまでなかなか回っていないというのが現実です。
周りからの支えがあれでよかったのかと後悔している方などが多いので、自身を責めないでほしいとも言っています。
人は言葉で伝えるので、何が伝わるかと言うと言葉だけでなく、思いも伝わります。
罪は許せないが、2年ぐらい前から加害者の人と交流するようになって、或る人は生後10か月で両親に捨てられた経験のあるかたで、施設にたらい回しにあい、感情を溜める癖がついて、感情が溜まっていって、こらえ切れなくなって爆発した時に加害をしてしまった、といっていました。
加害者を無くすという面から考えると、いろんな角度から見ていかなければならないと思っています。
匿名でなく実名にしたのは、被害に遭った後でも、未来や希望があると思うので、架空の人では想像できないと思うので、どう見ても楽しく生きている、今の自分が好きと生きているという事を感じて欲しいので、実在していて私が工藤千恵であるというかたちで、みせたかったというのが思いの中に強くあるかもしれないです。

どっちに向かってどうしていったらいいのか見えない状態から、回復した先に自分が望めば光が必ずあるという事を感じてほしい。
自分が楽しく、自分のために精一杯生きて、それを見せることによって、判らないゴール、判らない行き先の一つを見せる意味なのかなと思っています。
被害に遭った後、毎日の生活の中で生きにくさを感じていると思うが、一人ではない、回復の過程でいろんな寄り道をするが、そこで感じることで回復に向かう事があるので、自分の人生は自分が諦めたら終りなので、もっと幸せを感じたいと思うならば、諦めないで下さい、必ず人との出会いがあるので、諦めないでくださいと伝えたい。


















2015年12月8日火曜日

2015年12月7日月曜日

2015年12月6日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第23回 昭和天皇の全国巡幸

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第23回 昭和天皇の全国巡幸
天皇がご自身で復興のために働いている国民を励ましたいと思っていて、昭和20年の終り頃から側近に伝えていて、それを側近たちが計画しようという事で始まった様です。
その時天皇は46歳。
それまで国民とは話したことは全く無く全国巡幸は天皇にとってみれば冒険という様な気持があったのでは。
最初は一般には知られていない形で、横浜、川崎、横須賀等を不意に尋ねる形の行幸でした。
昭和21年2月19日、20日 神奈川県内からスタートした。
「あっ そう」という頷く言葉が有名だが、段々会話をしてゆく。
昭和電工川崎工場を出てゆく時に従業員に初めて質問する。
稲荷台共同宿舎で復員兵に「ご苦労だったね」などのねぎらいの言葉を発する。
元兵隊が軍歌を歌っていたのを見て、「ああいうことはいけない」という様な言葉を言ったという。
小学校の校長室で休んでいるときに、外で日の丸の旗を囲んで元軍人が取り囲んで歌っていた。

食糧事情が良くなかったので、天皇の食生活も質素だったようだ。
(昼食 ご飯に海苔が載っていて、お漬物、 小さなサンドイッチとか だったようだ)
全国巡幸はその後東京、関東地方、名古屋等を順次廻ってゆく事になる。
天皇が国民と話すと国民が泣きだすので、アメリカの記者たちは不思議がったようだ。
天皇は戦争の傷跡をたしかめながら、自分を優しく迎えている国民の目を感じた。
日の丸の旗を振ってはいけない、天皇陛下万歳も言ってはいけないというGHQからの制約があった。
「わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ」 巡幸の後に歌を作る。
昭和22年 関西、東北、北陸、山陰山陽等を廻る。
広島では 禁止されていたが万歳で迎えられた。
「ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり」 

巡幸に対して、又日本の国民を戦争に駆り立てるのではないかという事で、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド等は可なり警戒して強い反対の意思表示をしている。
象徴天皇を理解する、巡幸にはそういう役割もあったと思う。
丸山眞男、「超国家主義の論理と心理」 論文を出す。
日本の国家主義がどういう特徴を持っているか、そこではどういったパナティックな社会が作られていったかという事を分析している。(天皇の巡幸の時期に出ている)
日本国民として天皇について考える時期だったのではないか。
昭和23年 1年間巡幸は無かった。
GHQの将校たちは驚いた、このまま続けたら、又天皇と密着して反GHQ、反マッカーサー運動が高まると大変だという事で、中止命令が出される。
東京裁判の判決が出る年でもあったので、この事と連携しての大騒動を警戒して、この年は巡幸は無かった。

昭和24年 東京裁判で古い体制にけりを付け、新しい体制で、天皇歓迎の渦が広がってゆく。
九州に巡幸、昭和25年四国、昭和26年が関西に巡幸する。
「老人(おいびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし」 
*(これは中国御巡幸の折、わが子を二人戦場で失った老農が少しも屈することなく食糧増産に働き
 それを青年男女が助けてゐることをきこしめし御感あっての御作である)
昭和29年 国体が北海道で開催、天皇皇后が訪問する。
沖縄巡幸は残ってしまったが、天皇は沖縄に特別な思いはあった。(昭和50年の記者会見)
昭和62年の沖縄国体に行く予定であったが、病気になって医師の判断で断念する。
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」 
遺志は今上天皇に引き継がれてゆき、10回以上にわたって沖縄に行く。
巡幸は8年間 165日 3万3000kmになる。  天皇の強い意志があったと思う。

当時の出来事(音声で紹介)
昭和23年8月6日 古橋選手が水泳自由形1500m、400mで世界記録を樹立。
ロンドンオリンピックで同じ日に同じ種目が行われたが、当時日本は参加できなくて意識的に同日に日本では行った。
初めての満州からの引き上げ 1127人乗せて高砂丸が舞鶴に着く。
炭坑に向けての放送。(昭和21年8月)
今週の明星 歌番組(昭和25年1月から始まり昭和39年まで)
「星の流れに」「湯の街エレジー」「青い山脈」





















2015年12月4日金曜日

那須正幹(児童文学作家)      ・戦後70年 戦争と平和を語る 

那須正幹(児童文学作家)      ・戦後70年 戦争と平和を語る
山口県在住 73歳 広島での被爆体験をもとに戦争を描いた作品を数多く発表してきました。
那須さんは来年出版する新作に向けて、かつて地上戦が繰り広げられた沖縄等を取材し、始めて戦場で戦う少年兵を題材にしました。
平和の大切さをどう子供たちに伝えてゆくのか、伺いました。

少年たちが戦場に出かけて人を殺す場面があります。
戦後、太平洋戦争をつたえる作品は随分有るが、戦争の時には子供は完全な被害者なんだけど、歴史を見ると子供自身が戦闘員として加わったというのが結構あるわけです。
子供は被害者だという概念だけで、戦争を語っても其れは戦争の一面で子供がその場その場で戦闘員になって、加害者になった不幸があるのではないかと感じていて、それを一つの物語にしようと思いました。
4つの物語になっている。
第二次世界大戦の満州、沖縄、戊辰戦争の少年兵
満蒙青少年開拓義勇軍に入隊して、そまん国境の警備をしたために戦闘に巻き込まれて、そのあと八路軍に入隊する数奇な運命。
沖縄では中学生の男子はみな少年兵として戦闘に加わっている。
戦争を今の子供達につたえるためには、爆弾の中を逃げ回ったという話だけでは駄目なのではないかと、「少年たちの戦場」という短編連作で書いてみました。

戦争は本当は無意味な死だと思います。
3歳と2カ月で被爆して、あの日のことは覚えています。
爆心から3km、母親におぶさるように立っていて母と一緒に被爆、父親は爆心から2kmのところの教員室で被爆し頭や背中に怪我をしたが、教え子を探さなければいけないと、2週間家に帰らなかった。
「死者名簿 名前の有れば 今は早 ほっと息づく 悲しさはそれ」 父が作った短歌
生死が判って、悲しさも忘れてホッとしている自分を歌った歌ですが、体験者でないと歌えない歌ですよね。
中学生になってクラスメートの一人の女の人が原爆症で亡くなって、見舞いに行った時には真っ白になって痩せて、毛布から足が出ていて、時々ぴくっと痙攣しているのが見えて、それだけは凄く未だに覚えています。(中学2年の夏に亡くなる)
中学2年の秋に被爆者検診が始まる。
私は赤血球に異常があり、その時初めて被爆者という認識があります。

デビュー後、広島の事を書くまで12年掛かっているが、外に出てみるとぎゃくに広島の事が気になる。
親になってそのことを書いておかないといけないと思う様になった。
この児には同じような目に遭わせたくないと思った。
佐々木禎子さん 反核運動のシンボルになっている折り鶴、佐々木さんが亡くなる時に折り鶴を折っていた。 (彼女とは同学年)
戦後ばたばた亡くなった。(あれはピカのせいだという事で)
広島の原爆は書かなければいけないと思った。
生き残った者の次の世代に伝える義務、務めみたいなものを感じますね。
70年という昔のことを現代の子供たちにつたえようと、想像して一生懸命書くけどそれを現実に共感してもらえるかは、正直言って判らない。
残酷なものを読ませないような議論もあるが、子供が3歳のころに広島資料館に連れて行ったが、展示を見せて回ったが動けない様になってしまったが、次男が高校生になった時に、次男の行きたいところに付き合うと行ったら、広島資料館に行きたいとの事だった。

材料を提供するのが大人の役目だと思う。
想像力をかきたてて、できるだけあの日の事を想像して疑似体験できるようになればいいなと思います。
戦争、原爆は僕の創作テーマとして最後まで持っていたいし、幼児絵本になるかもしれないし、シリアスなものになるか判らないが、創作テーマの一つとして死ぬまで持ち続けるだろうなという予感はあります。
僕の作品を読んで何かを感じてくれる人たちがいるんではないかと思う。


柴田れいこ(写真家)
女性をテーマに写真を撮り続けている岡山県の写真家 67歳
戦後70年の今年、3年かけて撮り続けた戦没者の妻たち 54人の写真とエピソードを展示する写真展 「届かぬ文 戦没者の妻たち」を岡山、東京、大阪で開き写真集も出版しました。
その女性たちの今の姿を写真に収め一人一人に聞き取った夫を失った後の人生とともに紹介しています。
「届かぬ文 戦没者の妻たち」
88歳から102歳までの女性たちのありのままの姿と横に彼女たちの半生、思いがつづられています。
服部茂美恵さん 94歳
夫と一緒に過ごした4カ月が生涯で一番幸せな時間でした。
夫が亡くなり昼も夜も懸命に働きました、忙しく働く事がさびしさを紛らわしてくれました。
二度と戦争は嫌です。
月日がたっても悲しい戦争があって母も子も苦しんだことをいつまでも忘れないでほしいと思います。

このような文章、写真が54人分が一冊の本にまとめられています。
母は神戸の女学生だった頃神戸大空襲に会って友達もたくさん亡くなったことを、戦後よく話してくれました。
父は戦争に行って帰ってきましたが43歳で亡くなり(中学生だった頃)ましたが、何度聞いても戦争の話は語ってくれませんでした。
フィリピンに行っていたので、いろいろな体験等を話したくない事があったのだろうと思いました。
今まで女性の色々な生き方をテーマにして写真を撮ってきたので、戦争でご主人を亡くして、戦後をどのようにご苦労なさって生きてこられたのかなという事を考えまして、お話を聞いて記録して後の世代に伝えていけたらなと思いました。
何か自分にできる事を写真家として、なにか戦争を記録して、あとに伝えていけたらと思っていました。
最初のうちは知り合いを通して近くから探していたのですが、行き詰まって岡山県遺族連盟を知って、いろいろ話をしてそちらの方から協力を得て始めました。

片山鈴子さん 88歳
私の結婚生活は僅か9日間でした。
私は夫の戦死が信じられず、生存を信じて40年以上帰りを待ちました。
平成3年にゴルバチョフ書記長がシベリア抑留者死亡者名簿を持って来日し、6000人もの死亡者が新聞に掲載されました。
私は毎日探し続け遂に夫の名前をみつけました。
その時初めて彼が死んだことを受け入れて泣きました。
片山さんは奉天の事務所に彼と一緒に勤務されていて、結婚をしたいという気持ちが固まっていたので赤紙が来たので、キチンと結婚という形を取って出征していきたいと言ったので、結婚されたそうです。
出征が8月5日、終戦が8月15日なので、直ぐシベリアに抑留されて亡くなったわけで、どうしても彼の死が信じれれなくて、シベリアのどこかで生きているのではないかと信じて、ずーっと長い間待たれたわけですが、それだけ彼の事を愛していらっしゃるんだと思いますし、日々こちらに帰ってこられてから忙しい仕事をされて、9日間だけの結婚生活だったので、お子さんがいらっしゃらなかったので、今でもお一人で暮らしていらっしゃるのですが、その分仕事先では皆さんのお世話をするような仕事をして、一生懸命皆さんのお世話をして自分のさみしさだとかを紛らわせて、お仕事の方を一生懸命それに没頭されていたのではないかと思います。
待って待って信じて待っているというつらい思いがあったのではないかと思いました。

山下由喜恵さん 96歳
二人の子供を抱えて、年老いた舅に鎌や鍬の使い方を教えてもらいながら、毎日農作業に明け暮れました。
雨にぬれて帰りついた時には夫を想い涙が止まりませんでした。
山下さんは戦後本当に御苦労をされて、鍬の打ちおろし方から教えてもらいながら、田んぼに行って、全てしたことのないことを一生懸命農業をして、大変な苦労された話は途中で声をつまされて、涙をながされて、しばらく涙を流されていました。
お姑さんを看取った話は感動して、山下さんが一生懸命苦しい農業をされる傍ら、最後まで看取られた。
お姑さんが抱いてほしいとい事で、山下さんは小さくなったお姑さんを毛布にくるんで抱いてあげたそうで、しばらくして山下さんの手の中で息を引き取られたそうです。
最後まで優しく看取られて、今でも思い出すと、胸がいっぱいになります。

取材の中で心の中に土足で踏み込んでいく様な気がして、これでいいのかなあと思いましたが、何人か話を聞いているうちに、あれっと思ったのですが、聞いてもらいたいという風な感じで進んで話してくださる人がいて、気持ちが楽になってきて話を聞きに行けるようになりました。
聞いた話は残して伝えていきたいなあと思いました。
ちゃんと子供達を育て上げ家を守りぬいて、立派に生き抜いてこられた彼女たちの誇りの様なものを、穏やかな表情の中にも凛とした美しさを誇りと共に感じました。


















2015年12月3日木曜日

的場輝佳(関西福祉科学大学教授) ・科学からみるダシの世界

的場輝佳(関西福祉科学大学教授) ・科学からみるダシの世界
1942年生まれ  京都大学で農芸化学を学びましたが、食べものの世界に興味を抱き、料理の作り方を科学的に解明する事を研究テーマとしてきました。
その中で特に日本料理、和食の素晴らしさ、それを支えるダシの存在に注目してきました。 
わたしたちが当たり前と思っている料理の仕方、昆布やシイタケなどから成分を抽出し、そのダシを利用して調理するという料理法は世界的に珍しい日本特有のものだと言います。
食文化が大きく変わろうとしている、今伝統的な和食文化を見直してほしいと言います。
調理科学の視点から食文化を研究する的場さんに、和食に欠かせないダシの特性や魅力、ダシを使った料理法の背景、現代人の食生活への提言などをお話ししていただきます。

「ダシを引く」(ダシを取る) 京都の老舗料理人さんがよくしゃべる言葉です。
素材を活かすことから引くと言っているようにも感じます。
40歳過ぎに奈良女子大学に移って家政学部、食べ物に関する事をするところに行って何か新しいものをやろうとして、料理のサイエンスがあまり分かっていなくてこれは面白そうだと思って、調理の世界の謎解きをしてみようと思ったのが、きっかけです。
味には①甘味 ②塩から味 ③酸味 ④苦味 ⑤旨味(日本人が発見)
ダシ 日本料理の世界にのめり込んでしまいました。
ダシは日本のものだと思います。
昆布、カツオ、にぼし、しいたけ、かんぴょう等からお湯で美味しさ、風味を抽出してそれに野菜等和食というものを作る下地のベースになるもの。
海外ではたん、ブイヨンとかスープに相当するものがダシです。
下味を付けておいしくするのが、下味を付けるものがダシです、日本料理が伝統的に作っているお惣菜、煮物などを作る時の基本になっている味です。

旨味の基本になっているのが主に①グルタミン酸(昆布)、②イノシン酸(カツオ、にぼし)、 
グアニル酸(しいたけ)がベースになっている。
①グルタミン酸はアミノ酸の一種 アミノ酸がつながって出来たのがタンパク質 身体の中で一番多くあるのがグルタミンサン
②イノシン酸③グアニル酸は核酸 DNA RNA が途中で切れて細切れになったのがイノシン酸、グアニル酸
遺伝子のもとになるものがベースになったのが不思議な事に旨味成分なんです。
トマト、チーズなどにはグルタミン酸が入っており、ゆっくり味わって旨味を感じながら食べるとダシの旨味を感じるんです。
ダシの味として特化して感じた調理法をしているのが和食です、フランス料理、イタリア料理等はダシを引いて料理は作らない。
(スープの中には旨味成分は入って入るが)

日本のダシは乾燥したものがベースになっていて、雑味がない、ダシを取ると臭みのないシンプルな旨味という味をベースにしたダシができます。
野菜等の食材の持ち味を壊さないで味付けができます。
ヨーロッパで煮込んで作ったダシは臭みがあり脂っこくて、そこに食べものの特徴を出そうとすると、スパイス、ハーブやバターなどを使って総合的な濃厚な味にしてしまう。
日本は縦に長く、70%が山で、海に囲まれていて、米があり、四季がありそういう環境下では、肉は少なく、ご飯を中心になり、仏教の関係で肉はあまり食べてはいなくて、そういったものが日本の食環境を作っていって、シンプルでさっぱりした素材を活かしたものが好まれる。
ダシもそれに適応してきている。
水もふんだんに有り、癖のない軟水の水で美味しいので、そういったものを含めてでき上ってきた。
ヨーロッパは硬水なので癖があり、水に打ち勝たないといけないので、濃厚でスパイスをきかしたものを作ったのかもしれない。
ヨーロッパの料理人さんは水にはこだわらない。


世界遺産になった。 和食 日本人の伝統的な食文化
①多様で新鮮な食材と、その食材の持ち味を活かした料理
②健康的で栄養バランスが良い
③料理の中に自然の美しさや季節の移ろいを表現している
④行事と食生活が密接な関係をしている
昔はダシをひいていたが、最近は便利になり、電子レンジができて、調理に手が抜けてきてしまって来ている。
料理をだれかが作って、皆で頂いてお話をして家族でコミュニケーションを取る、心が病んでいる人にその人の美味しいものを作ってあげて心が和らぐ、とか人の為に作ることを通して、何か豊かになれる。
子供たちが家庭の中で子供達の食生活、一人で食べる、スナックですませてを食べるとかそういう事が大変心配です。
家族と一緒に作った料理を同じテーブルで食べるという習慣が無くなってきた。
1日の反省とかの会話とか、偏食を正したり、そういったものが無くなって、切れたり、家庭内暴力とか、子供の心がすさんでいる事もあると思う。

平成18年食育基本法ができて、今こそ食の豊かな生活ができるようにした方がいいと思う。
京都に若い料理人さんがいて、先生との付き合いとの中で、和食離れをしている事が判り、相談して教育委員会との話し合いのなかで、日本料理に学ぶ食育カリキュラムを料理人さんが授業を始めました。
命を頂いている、おもてなしの心
ダシの作り方等を料理人さんがやると子供達は感動する、10年間ボランティアでやっている。
子供に教えるよりも家族の人に教えた方がいいにではないかとの意見もあるが、親に教えると言うと出てくる人と出てこない人がいて、本当に聞いてほしい人は出てこないので、子供全員に教えると、その感動を親に伝えそれを継続してゆけば、それが近道だと料理人さんは言います。

日本の和食の歴史を見ると、日本のオリジナルではなく海外から来たもので、日本人の感性で日本風に仕上げてきたもので、これからも変わらないと思うので、和食自身の持っているものはダシだと思うので、ダシは食材の持つ持ち味を活かすという魅力、それをどう楽しむかということは大事だと思うので、継続してゆく事を探っていきたいと思います。
香りの要素もあると思うので、味と香りが一体になったものがわたしは味と考えていますので香りをもっと意識した生活によって違ってくると思います。
洋食と和食の違い、食材、ダシの違いもあるが、日本的な香りというもの、香りの違いが決定的に違いを表していると思います。
ハーブ、バターの香り スパイスの香りが和食の中になじんでいないが、これからどういう風になじんでゆくのか気になっています。
料理人さんに聞くと、合わないから使わないと言っているが、でも美味しければ使うと言っているが、すごく興味はあります。

食料自給率は40%きっているが、欧米含めて日本だけ。
ここ数10年で日本は自給率は低くなってきてしまっている。(ヨーロッパなどは上がってきている)
海外から食料を買って生きてゆける時代はそんなに長くないと思います。
日本の食生活は危機になると思います。
自給率が下がって農村漁村の野菜、魚が取れなくなると和食の崩壊になる。
健康維持には野菜を多く取りなさいと有るが、達成されてはいないが、野菜をおいしく食べるのにはダシが絶対必要で、それに依って達成されると思う。









2015年12月2日水曜日

鈴木富佐江(着物工房代表)     ・体が不自由な人のため帯を考案して

鈴木富佐江(着物工房代表)    ・体が不自由な人のため帯を考案して
79歳 昭和11年満州生まれ 9歳で日本に戻り、小さいころから着ものの魅力や大切さを祖母からしっかりと教わって成長しました。
短大を卒業後、幼稚園の先生として働き、結婚して2人の子供を授かりましたが、ご主人が病気で亡くなってしまいます。
就職し仕事と子育てで忙しい鈴木さんを支えたのは大好きな着物を着ることだったと言います。
鈴木さんはボランティア活動に本格的に打ち込もとしていた65歳の時に脳梗塞を発症しました。
後遺症で手が思う様に動かず自分で帯を締めることができなくなり、呉服屋に相談に行きましたが、帯をきって作り帯にするしかないと言われ大きなショックを受けました。
大事な帯に鋏を入れずに自分で帯を締めたいと考えていた鈴木さん、予めお太鼓の形を帯で作り、ベルトの様に体に巻きつける簡単な方法を、思いつきます。
この帯の作り方で11年前に特許を取得、その後3000人に作り方を指導し、病気や障害などで着物を諦めていた多くの人に喜ばれています。

鋏を入れず折りたたんで要所要所を止めてゆく事で、このような帯を結べることが出来ました。
一番こだわったのは作り帯に見えない手結びのふっくらとした日本人の背中、という様な形が出る工夫をしました。
左におたいこの形ができていて、おたいこの右端から60cmから胴に巻く部分が合体していてベルトの様になっている。
両はしに黒い紐がついている。
もともとは4mの長い帯です。
屏風畳みとして二重太鼓の中に入れるのがポイントです。
二重太鼓の中には帯枕、帯上げ、帯締 3つのものがすでにセットされて通っています。
二重太鼓の山を持って、自分の背中にまわして、わきの下に帯上げと帯枕の紐を仮結びをして、ベルトの様にぐるっと前に回して、2本のひもを正面でしっかり結びます。
両脇から持ってきて、帯締をしっかり締める。
仮結びの帯枕の紐を胸の前で、しっかり締め帯の中に入れる。
帯上げを結んで、余った部分を中に入れて終わりです。(内容が良く判らず)
車椅子の方でも座ったままで出来ます。

満州で生まれて撫順という大きい炭坑の街で育ちました。
昭和18年に七五三を父の実家ですることの話があり、里帰りに来ました。
昭和21年になってから不安でいた時に引き上げが始まり、優先的に引き上げがありましたが持物の制限が厳しく、普段着しか持ってゆく事が出来ず、殆ど身一つという感じでした。
着物の持ち帰りは厳しかったが、母が七五三の着物をほどいて、おんぶ紐に作りなおしたりして、日本に帰った時にはほどき直して私の着物にしてくれました。
中学生の私にはとてもうれしいことでした。
父は綿と石炭の貿易をしていましたが、戦争が近くなってくると軍需産業になって、殆ど家に帰れない様な父でした。
終戦前に召集令状が来て、出征する事になり、母がいつ帰ってきてもいい様に、着物をきちんと手入れしておきましょうと言って父の着物は別格の様に扱われていましたが、モンゴルに抑留されて飢えと寒さの中、昭和22年に亡くなって、戦友の人達の話を聞いてむごいことだと思いました。

私達の戦後の時代は引き上げの方、疎開の方がたくさんいたが、言葉が違うし、勉強も差があったり、着ているものも違うので、母親が先生をしていたので、ちょっと出来るという事で虐めに遭い、理不尽だと思って担任の先生に相談したのですが、手ごたえが無く家出をしました。
どっかに逃げ場があるということは必要だと思います。
私は祖父母の家に逃げ込みました。
私の人生は泣き寝入りではなくて町の学校に転校するという事で解決が出来ました。
演目「父帰る」 私におたかをやらせれば先生は着物の心配は無いと思った様で、父親がいなくても一生懸命育てれば子供も間違いなく立派に育ってくれるんだなあと、いうところと結びついて一生心に残っていますが、私はその時に新しい学校が大好きで自信が付きました。
高校でも演劇部に進む。
演劇部では皆にお着せするように脚本演出をするように、何10人分という着物を着せて演劇では活躍しました。

高校生になったころ、青少年が乱れていた時代でした。
日本赤十字の橋本祐子先生が青少年赤十字団というのを全国に作ろうとの構想でした。
私は茨城県代表として研修に参加しました。
教育はボランティアの事、仲間を作る事、世の中に役に立つプログラムだったりして、私は副団長になりました。
人のためになる事の喜び、感謝されることの自覚みたいなものを培った良い青少年活動だったと思います。
結婚する気が無かったが一枚着物に袴の写真があったので、着物に誘われて、何時の間にか結婚が決まってしまいした。
夫はガンで入院して3カ月で亡くなり、私は32歳で子供は8歳と6歳でした。
ここで私がないたら大変だと思い、泣けなかったです、夢中でした。
金融機関の総合職に採用され、仕事、家事、育児、をこなさなければいけなかった。

健康のため食事には気を使っていました。
バブルの真っ最中で融資先、商談の接待とか御呼ばれがあり、私が着物を着る事に上司たちが喜んでくれて、着物で伺う事でお客様の格が上がるという事で、喜ばれました。
勝負服という存在でもありました。
60歳で退職、65歳で脳梗塞になりました。
歯を磨くのに手が動かなくなったり、血圧が高くなったりしました。
入院したら3日でだめになったりするので、家に帰って新聞を読んだりTVを見たり、家族と話したり、無理をしない日常を取り戻しなさいと言われて、それが後にとってもよかったと思います。
やりたいことがいっぱいあったので、後遺症がどうなるのか真っ暗になりました。
手が後ろに回らないことを発見して着物を着られなくなることを発見して2度目の落胆でした。
帯をきって作り帯にするしかないと言われ大きなショックを受けました。
折り紙でいろんなものを織れるのだから、帯を折り紙だとおもえば思った形が折りだせるのではないかと思った。

帯を取りだしてひらめいた事を形にしてみました。
人生無駄は無いと思いました、折り紙をしたことと合体した。
特許を取得する。
着物着付け教室とか一回もしたことが無いので何にもライセンスが無いので、息子たちに相談したら、特許が取れること、子供に頼らなくてもいいこと、お金の習いが要らないこと、等の後押しがあって特許に拘りました。
民族衣装として、自分が大好きな着物を残したいという気持ちが強いんだと思います。
着物というものは日本の風土にも適していて、こんなに美しい民族衣装はそうどこにもなくて、もっと大事に意識してほしいと思います。
病気の神様がちょっと意地悪にして、不自由にしたけれど、その不自由は発明の母に育ったと思います。
2020年のパラリンピックでおもてなしを着物でしたいという思いがとても強いです。
私が着物を通して今日あるように、小さい小さい喜びや目標を持って生き抜きましょう。











2015年12月1日火曜日

昆野美和子(俳優)        ・演劇で「生きる喜び」を伝える

昆野美和子(俳優)           ・演劇で「生きる喜び」を伝える
岩手県出身 大学では社会福祉を学びましたが、22歳の時に俳優を志して上京、学校演劇を活動の柱とする青年劇場に入ります。
以来40年に渡って全国各地を回って舞台に立ち続けています。

北上の農村地帯で生まれたが小さいころから塊みたいなものがあり、表現してみたいという気持ちが強かったが、いっぽうでは人さまの役に立つ仕事をしなくてはいけないのではないかとう気持ちも強くて大学は福祉の方に行くが、芝居は自己実現のためだけの独りよがりなものと考えていた。
それが社会性があるという事に気づいて、演劇を選択しました。
親は反対すると思って東京の友達のところに行って、代々木八幡のアパートに手付金を渡して、親に告げたが猛反対を受けてたが、結局母があなたの好きなようにすればいいと言ってくれた。
高校等の時も演劇には全然触れていなかった。
演劇雑誌を買って、昼間は生活費を稼ぐために、夜の養成所を探して青年劇場とつながりました。
4人兄弟の末っ子ですが、一つ上に6カ月で亡くなった兄がいて、兄が亡くならなければ貴方は生まれてこなかったといわれて凄く傷ついて、5歳ぐらいの時に一緒に遊んでいた1か2歳下の子が池にはまって亡くなっちゃうんです。
人は何で生まれてきて、何のために生きるんだろかという気持ちが、小さいころから自分の心の中にあった様な気がして其れを突き詰めてきた様な気があります。

正式名、秋田雨雀・土方与志記念青年劇場
土方与志は元貴族のかたで、私財を投じて築地小劇場を建てて運営された方で日本の新劇の歴史の中ではなくてはならない人です。
秋田雨雀は劇作家、社会運動家で様々な作品を残した人です。
戦後の最後の人達が作った劇団です。(創立1964年)
わたしは1975年に養成所に行きました。
1977年にNHKブーフーウーという人形劇を作った飯沢匡さんが「多すぎた札束」という作品を作って、どこかやる劇団が無いか、週刊誌に呼びかけた。
うちの劇団が手を挙げてやることになって、それが縁になってやらせて貰うことになる。
年に一本書いてくださるようになって、創作劇を中心に作品を作ってきました。
ジェームス三木さんとも青年劇場が付き合いができるようになる。

若い人向けという作品作りはしていなくて、学校公演は創立の時から大事にしていて、これだけは絶対に手放さないという思いでいます。
1000校以上廻っている。
観賞行事が少なくなった又少子化で学校が統合されて学校の数が半減しまして、上演校も最盛期と比べて半減しました。
先生も戦争体験をされていた人もいまして、戦争の記憶を若い生徒に残したいという先生もいて、私達の作るテーマと繋がって沢山上演していただいた事も有ったんですが、今は明るくて楽しくて等身大の作品の系列が多くなりました。
井上ひさしさんの「偽原始人」という作品を釜石(井上ひさしさんの母親が住んでいる)の或る学校に行って、PRをしたが中間テストの中なので、駄目という事だったが、何とかならないかと一生懸命に頼み込んだら、先生はずーっと考えて一週間延ばしましょうという事になって、其学校で実現することになりました。
それが皮切りになって、4校か5校の合同観賞を実現できた。

井上ひさしさんのお母さんにお会いして、破天荒なお母さんでとてもかわいがってもらって、高級な缶詰などを袋に入れて持たせてもらったりして、嬉しい青春の思い出です。
稽古は40日有るがその間はお金をもらえないので、夜とか早朝とかアルバイトと平行に生計を立てながらお芝居の稽古をやっていました。
芝居に出れば出るほど、財政破たんをしてしまうみたいな、不条理な環境にありました。
何が支えてくれるかというと、出会った感動とか、芝居は一人で作れるものではないのであらゆるものを共同作業で作るので、観客も自分たちが集めてくるので、繋がったそういう思いへの責任みたいなものが自分の中にあって、辞められないぞと思っています。
1990年「遺産らぷそでぃ」 転機になった作品
農家の遺産相続をテーマにした作品
急死した父の遺産相続をめぐって農業を継ぐ長男と都会に出ている兄弟、親戚等の遺産相続をめぐって葛藤するというドラマ。
私は主人公の妹役で貰えるものだったら1円でも欲しいという役柄。

描かれている世界があまりにも身近過ぎてドラマにならないと思われるが、私達の様な劇団の人間がやるとぴったりとはまるんで、代表作になりました。
農家をテーマにした作品を3作品作っています。
2000年「菜の花らぷそでぃ」  父と息子の農業の在り方を巡る対立を軸にした作品
2009年 「結の風らぷそでぃ」 主人公結のお母さん役 結が米の有機農業を宣言
何10年ぶりにふるさとでの公演を行ったが、突然舞台にでたので吃驚したと思いますが、反対はされていましたが、折々にお米や野菜を送ってくれたり、生活費としたカンパを送ってくれたりしたので身近な応援団でいてくれたので、少しは恩返しができたのではないかと思います。
養成所に入る時に東北訛りが直らないとだめだと言われて、ラジオをつけっぱなしにしてアクセントを直しました。
宮澤賢治の作品を上演するときに、方言指導が必要になって、一度封印した方言を引きだして今それが活かされたりしています。

劇団に入って40年になります。
「真珠の首飾り」 ジュームス三木さんの作品 日本国憲法の作成にかかわった女性の主役をやりました。
どこで人生を終えるのだろうか、どうやって生計を立てていくのだろうか、人生の第二ステージを切実に考えるようになりまして、もうそろそろ潮時と決めていたが、そのに大役が舞いこんできてしまって受けるしかないと思って、稽古が始まってなかなかうまくい行かなくて、今日は稽古に行きたくなくて消えてしまいたいという思いがあったが、舞台があけるまでは地獄の淵にいる様な気がしていたが、舞台があけると凄い反響だった、こういうテーマ性のある、こういう事を社会に伝えるために始めたんだと、初心に引き戻された感覚があり、40年とういう集大成の作品に巡り合ってしまったという風に思いました。
歳を取ってしまったので、夜のアルバイト(焼き鳥屋、喫茶店等)とかはできなくて、私達の年代の人達は生計を立てるために、多くはビルの清掃だとかいろんなことをしています。
今は社会福祉の支援員、障害者の人の居住者の寮母さんみたいな、生活全般のサポートの事をやっています。
社会福祉の従事者は待つ事、様々なことに不自由なので、着ること、食べること等、最大限自分の持っている力を引きだす能力を使ってもらう為に、待つ気持ちを持っているということでしょうか。
地味で貧しいけれども、正直にやってきた人生ですので、これからも生かされたことに感謝できる様な生活が送れれば良いかなあと、そういう世の中であってほしいと言う風なことでもあるのですが、そういう事が出来る様な生き方をして行きたいなあと思っています。













2015年11月29日日曜日

大竹 博(副理事長)       ・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年

大竹 博(NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会 副理事長)
・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_3.htmlをご覧ください。

2015年11月28日土曜日

加藤澤男(五輪体操金メダリスト) ・オリンピックと私

加藤澤男(五輪体操金メダリスト)         ・オリンピックと私
昭和21年新潟県生まれ 昭和43年メキシコシティーオリンピック、47年ミュンヘン、51年モントリオールと連続出場して3大会とも男子体操チームの団体総合優勝に貢献しました。
オリンピックでは個人総合 2連覇を果たす等日本選手としては最多の8個の金メダルを獲得、この記録はいまだに破られてはいません。
オリンピックでの活躍後は、母校の筑波大学で勤めながら後進の育成に携わりました。
また国際体操連盟の男子体操技術委員をおよそ20年務め、競技の発展にも尽しました。
来年のリオデジャネイロ、5年後の東京オリンピックを控え、お話を伺いました。

私が体操を始めたのは、中学からです。
5月ごろ体育の時間に幅跳びがあって、その脇に鉄棒がずーっと並んでいて、幅跳びの時間だったが急に鉄棒を1時間やらされて、3~4人集められて教務室に連れて行かれた。
体操部の顧問の先生から体操をやらないかと言われた。
当時は県大会が最終で、陸上では放送陸上があってそれが全国の大会だった。
体操だけではなくて、川から、山からいろんなことで遊んでいて、後あと活かされたと思う。
米屋に俵が天井まで積んであって、そこに登ったりして遊んだり、縁の下をくぐったりしていました。
遊びながらひっくり返り、ぶら下がりだとか、そういった体験をしてましたが、それが大事です。
高校3年になる年が新潟の国体の年で、、県で強化策を取ろうという事でした。
国体の強化という事で、叔父さんのところに籍をいれて、新潟の高校に行きましたが、そこからが
本格的になりました。
先生はインター杯で2位の選手を出している様な先生でした。

生徒もレベルの高い生徒が集まりました。
3年間国体強化の援助をしてもらい、一般の人からも応援もあり、秦野さん?という先輩にも目一杯面倒を見てもらいました。
中味の濃い練習でした。
大学に行くと4年生とでは大人と子供という様な感じでした。
道具の整備をやっているときに、鉄骨組みのトランポリンが倒れてきて、肘がかけて、そのかけらが動き回り時間が経つとかけらが丸くなってきて、痛みは無くなるが、曲げられなくなってきて、手術する事になり、取りだしてもらって、1年生の時はそれでほぼ過ぎてしまって、ようやく冬になって道具に触れるようになりました。
2年、3年と下住みで、口の悪い人もいて悔しい思いをしたり、また良い先輩もいました。
規定演技が変わった時に、早めに取り組めて6番か、7番に入れて、6番ならばオリンピックに出られるので、それからは意地でも練習をしようと思って馬鹿の様に練習をしました。
予選をトップで通って、東京オリンピックの組み3人と若手3人(私、監物永三、塚原光男) 6人でチームを組むことになり、メキシコ大会に出るのですが、種目別 床、あん馬、吊り輪 3種目をやりました。

跳馬、平行棒、鉄棒も出る権利は持っていたが、跳馬で疲労と感覚の狂いが出て、腰を痛めて腰椎分離症で腿のあたりが感覚が無くなり、その場で石膏をまかれてそのまま戸板に乗せられて、選手村に帰って来ました。
自分の点数を見ると次の事を考えられなくなるタイプなので、点数を見ない様にしていました。
6種目終わって日本が勝ったという時に、コーチが台の上に上がって挨拶しろと言われて、自分では勝ったという自覚がなくて頭を下げていました。
(自信がなさそうだったのは、自分の点数を見ていなかったという事です)
周りが何があっても自分の気持ちは今からやることに向けられるかどうか、4年間訓練していました。
電光掲示板だとか周りの関わりが入ってくると困るので、訓練しました。
4年後のオリンピックの時にはソ連のアンドリアノフが対抗馬でどんどんやってくる、並行して来て、掲示板に0.025で彼がトップに出ていて、最終種目に彼は守りに入って固くなるのが眼に見えました。
ベテランは経験を活かしたやり方ができるので、4年間体操の練習というよりも、気持ちの整理、切り替えに重点を置いていたのが非常に重要でした。
今度は転がり込んできました。

中山彰規、監物永三、塚原光男、笠松茂、私 どれとっても世界戦選手権、オリンピックでメダルを取っている選手で、後一人でチームを作るので負ける気はしなかった。
小野さんは言うに事欠いて、メダル全部持って来いと言っていました。
あん馬だけは日本にメダルを取っていなかった。(日本人は手が短い)
3回目がモントリオールで日本が落ち目になってきて、笠松さんが2週間前に盲腸をやってしまって手術をして、彼が一番のポイントゲッターだったが、補欠を入れなければならず、藤本俊が床で膝剥離骨折をやって、あん馬は何とかごまかしたが、吊り輪もやったが着地も普通の人と同じようにやろうとして踏ん張って駄目で、途中でチーム一人無くして5人でやる試合を強要されてしまった。
震えながらやった覚えがあります。
終わってから窮地を脱する方法を教えてくださいと、質問があったりした。
同じ失敗は二度と起こすまいとの思いは有ります。
失敗の経験をしないと親身にならない。
状況を知っているからベテランほど強い。













2015年11月27日金曜日

髙鶴 元(陶芸家)        ・赤色に魅せられて

髙鶴 元(陶芸家)          ・赤色に魅せられて
昭和13年福岡県福智町に400年あまりの歴史を持つ上野焼きの窯元の長男として生まれました。
26歳で独立して窯を開き史上最年少で日本伝統工芸展の会長賞を連続受賞する等、若き陶芸家として注目されます。
ハーバード大学に客員研究員として招かれたことをきっかけに昭和55年アメリカマサチューセッツ州ボストンに移り住んで伝統のわびさびの世界を大きく変化させ、赤を中心としたあざやかで生命力あふれる作品を発表し茶道具の世界に新風を起こしました。
近年は福岡県とボストンを行き来しながら、新たな陶芸の世界を築いています。

77歳を迎える。
自分の生き方はチェンジ、チャレンジ、クリエートなのでチャレンジ精神の赤は原点と思っています。
メニエール病になって 若者の病気で脳梗塞も疑われたが血管も若々しいという事でさらに挑戦していきたいと思います。
自分が渡って来た道は自分は後ろを振り返らない様にしています、さらにさらに挑戦の人生を続けたいです。
エマーソンという思想家がいたが、その人の言葉を書いています。
「人に踏まれて出来た道を行くな、それより道なきところを行き、道を残せ」
自分の身体に沁みこんで、それを一生の指針として生きて行きたいと思っています。

上野焼き 小倉藩の大名だった細川忠興が深くかかわっていた。
朝鮮からの渡来の陶工を抱えて自分の御用窯として約400年前に煙を上げた。
細川忠興は利休七哲のひとり。
自分もトライしてみたいと、古い窯跡を発掘して回って、最初は研究した。
特徴は柔らかく焼けていて、その頃の窯は割り竹式登り窯と言って竹を割って伏せたような窯でレンガを使わずに石と陶土で作っているので 天井は陶土なので輻射熱で優しいので、本当に柔らかい感じに焼けている。(耐熱レンガでは輻射熱が強くて固い感じに焼ける)
灰薬 判らなくていろいろテストして89種類をやったが、8~10種類だという事が判って、灰薬を作りながら、又新しい灰薬を作りながらやってきました。
樫の木 酸化炎焼成でやると琵琶色の様なものができたり、還元炎焼成は蒸れた様な炎が行くと土の中の鉄分を引きだすので灰とミックスして、非常に綺麗なブルーがでるんですね。
同じ上薬を使っても全然違う色が出る。

ハーバード大学からジェローム・コーエンという先生が来られて、これは凄いと言われて、ハーバード大学に招待しようという事で、周りは皆行くなと反対したが、行きました。
異文化の中で苦労したことが身に沁みて判りました。
当時若くして賞を頂き、お客さんが多くて、各界の人が集まってきて、毎晩宴会で酒を飲んで、身を持ち崩すと思って、違った自分を発見しないといけないと思った矢先に、ジェローム・コーエンがきたので、渡りに船だった、妻が大賛成だった。(家庭崩壊寸前だった)
ニューイングランドはイギリスの古い体質の人たちがいっぱい住んでいて、最初は白い目で見られたりして、登り窯を築きたいと思ったが、絶対してはいけないと言われてしまって大変だった。
ガス窯もやったが、大きすぎると言われて、研究しながらやるんだと言ってガス窯の許可を頂いた。
灰を取りよせて89種類をやったが、色あいが出ないで、味わいも出ないで魂の抜けたようなものができて、これは駄目だと思った。
渋い落ちついた焼きあがりもふっくらしたものができなくて、いろいろやっていたらボストンの美術館の人が家に来て、君がアメリカの異文化に接して、カルチャーショックを受けたから、自分では意識していないだろうが君の古い遺伝子、4~6世紀の陶人の血が出たからこんな色が出てきたんだと、日本にいたら2~3代前の上野焼きの世界の延長線のものしかでないから、アメリカまで来たからこれが出たんだから、こういう仕事をどんどん展開してゆけと、励まされました。

高鶴レッドと言われるようになったが、古い私のいにしえの遺伝子と出会った様な感じで、涙が出るような感じだった。
日本にいるときは灰は植物的なもので、アメリカに来て、金属に代わり、又35年ぶりに夏に来たが日本の湿気の多さに驚き、しとっとした物ができるであろう、思考方法もじとっとした、人間関係もじとっとした感じで、むこうは乾燥しているから、からっとしていて、人間関係もからっとしていて、同じ赤でもからっとした赤が出る。
湿気の文化と乾燥の文化を今回身体の中で感じました。
アメリカの文化はいい意味での個人主義、日本とはすべてが反対だったのでカルチャーショックがあった。
良いも悪いもこういう考え方があるんだと言わないと、あれはおかしいという様な感じで見られる。
人まねではない、個を磨かなければいけない。
例えばりんご一つにしても、いろいろな見方があるという事を息子もアメリカで学んだ。

小学校に一年生の時に先生から富士山と太陽を組み合わした絵を書く様に言われて、友人はうまく赤い太陽と富士山を書いて褒められたが、私は黒い太陽と富士山を描いたら物凄く怒られた。
1980年からボストンの生活が始まり35年になるが、長いとは思わない。
ニューイングランドの古典的なもの等いろんなものを勉強できるのでいまは最高に幸福と思っています。
赤は視覚的にぱっと見た時にわっと目に入ってくる、そういうところに物凄く感じている。
周りがあまりにも高鶴レッドと言うので、今年は黒と金をメインにしたものを手がけている。
ボストンの裏庭に林があり30数種類の鳥が来たり、ハリケーンが来て木をなぎ倒したりするが、鳥、なぎ倒された木を型どりして抽象的なものを作ったり、そういったものの沢山のものを組み合わして、一つの作品にする様なものをこの頃展開しています。
日本の紅葉の赤は優しいが、ボストンの赤は兎に角強いというか燃えるような色ですね。

日本人の良さを発信しないといけないと思う。
私は群れるのは苦手な方なので、物言わぬ焼き物が500年後ぐらいには、大声を出して言えるものを一点でもいいから作りたいですね、それが夢です。
ボストンの博物館には日本の金の屏風などがあるが、あッと思ったのは桃山文化は金と赤ではないかという感じを受けて、金を使って見ようと思って金を使い始めました。
桃山時代はキリスト教文化が入ってきて、日本の土着の文化と融合して、21世紀は又違った文化が入ってきているので、それがぶつかって世界に羽ばたく立派な文化が誕生するのではないかと思う。
400年前の暗いろうそくの灯の空間で見るわびさびの茶碗と、いまの明るいLEDの灯りで見る茶碗は、負けないためには赤の茶碗、黒い金の茶碗とか、現代のわびさびはギラギラしたものでないと、わびさびの概念も時代によって変わってゆくと思う、変わっていかないと続かないと思う。
伝統、変革のない伝統は無いと思う。
筑後市で来年 家族(私と子供3人)の作品展を開く予定です。











2015年11月26日木曜日

東山彰良(作家)         ・流れ流され直木賞(2)

東山彰良(作家)            ・流れ流され直木賞(2)
青春小説、危うい年代だから物語が作り易いという事があるかもしれません。
私は小説を書くときに、きっちりプロットを固めて書くタイプではなくて、いくつかの場面が浮かんだら、つないでゆく様なタイプで自由に物語が進むに任せる書き方をします。
無鉄砲さと親和性がいいのかもしれません。
青春時代にしたかったというのが作品に反映されているのかもしれません。
音楽が好きで中学、高校とギターをやっていましたが、行く行くは自分のバンドを作って音楽で食って行きたいという夢はあったが、それに見合う努力はしていなかったと思います。
覚悟という点で言うと全く足りなかったです、青春のやり残し感があったと思います。
中学はバスケットをやり、高校時代にはバンドをやろうと思いましたが、碌なバンド活動はしなかったです。
大学を出て、バブルがはじけた直後、まだ簡単に就職できた。
長い間の旅行にでたいという夢があり、会社を一旦止めて、大学院に行けば旅行に行けるのではとは思ったが、修士までは取れるが、博士号までは取れなくて、結婚もして、どうにかしないといけないと2000年頃思ったが、その時に逃げ込むようにして始めたのが、小説を書く事だったんです。

その年に、台湾に帰ったんですが、バンドの人達と知り合って話をしてゆくうちに、自分はいままでの人生で何かを積極的に掴み取ろうとしたことがなかったと気づいて、ふつふつとしていて、自分は音楽では楽器は大したことはできず、博士論文は何度も却下されていたが、長い文章を書く持久力だけはついていたと思った。
準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめました。
好きで読んでいたレナード(アメリカのミステリー作家)の様な小説を書くことしか思っていなかった。
論文は書きたくないが、机に向かっているという言い訳がほしかったのかもしれません。
ものを書いているという事で癒されました。
書きあがって自己満足で終わるのか、誰かほかの人も同じように思ってくれるのか知りたくなって周りの人に見せたら反応が良かったので、新人賞を探して投稿を始めました。
この仕事はやりたいとは強く思いました。
作家というのにはおこがましいというという感覚です、自分が満足できる作品を書けなかったからですかね。

自分はまだ作家になる力量がないのにデビューしてしまったという感覚がずーっとあるんです。
デビュー作は準備もなく或る夜ほとばしるように書きはじめた作品です。
思う様な商業的な成功とは無縁だったので、作家だけでは食べていけず、いまも大学で中国語を教えています。
40歳過ぎまではあまり自信は持てなかったですね。
台湾で生まれて、日本で育っているが、本名は中国名なので日本で暮らしていると日本人ではないことが判るが、台湾に帰ると子供達の間に交わると異和感を感じるみたいで、どこに行ってもしっくりこない感があって、でも子供のころからそれは悪い事ではないと開き直れた。
作家になった後も、作家として定義できないという部分もありますし、したくないという部分もあったのかもしれない。
定義をしてしまうと、後で自分とは違う大きな力で否定された時に、自我の揺らぎを経験してしまうのではないか。
例えば国家の話で言うと、自分は台湾人だと思っているのに、或る日国家からお前は違うと言われる様な揺らぎを経験したくないから定義をしない。
作家と思ってしまうと後で大きな力でお前は作家ではないと言われた時に、揺らいでしまうのであえて定義しないという側面もあったのではないかと思います。

定住しないで、出来れば一生移動していたかった、旅人の生き方に強くひかれた。
子供時代は台北の垣根の低い地域で大家族で住んでいました。
周りにはほらを吹く人達がいっぱいいて、楽しくてそんな大人になりたいとは思いましたが、そうはいきませんでした。
日本に来てからは急に核家族になり、素っ裸にされたような感じでした、怒られれば怒られっぱなし、守ってくれる人もいないし、心もとなかった。
いじめなどにも会ったが、問題は何人という事ではなくて、僕という人間なんだと気付いた時に、別にどこ出身だろうが、関係なく個人と彼等との付き合いなんだと判った時にアイデンティティーの問題を有る程度克服できたと思います。
「逃亡作法」 根なし草的な人々、いろんな国の犯罪者が出てくる。
中途半端に逃げるとにっちもさっちもいかなくなる、逃げた先には死に物狂いで逃げ込まないと逃げてる意味がない、逃げているのに何時の間にか追い掛けているような生き方をしないと逃げてはだめじゃないかと、思います、

僕が小説を一作だけ書いて駄目だという事で別の道に逃げてしまったら、ドンドン状況が悪くなるだけだと思うので、僕は運よく自分のやりたいことに逃げ込めたので本当にやりたいことを追い求めてゆくばかりだと思っています。
デビュー作から一貫したテーマです。
小説を書いている時は、自分は小説に、自分の人生に立ち向かっている感、があるからかもしれない、それで癒されるのかもしれません。
どこまで自分が新しい物語がつかめるか、という好奇心があり、書き続けたいと思っています。
物語はそこらじゅうにぷかぷかと浮かんでいるのではないかと思うのですが、どの物語を掴むかは、作家の筋力、センス次第だと思うが、自分の筋力、センスがどこまで通用するのかを見てみたい気がします。
自分で処理しきれないどろどろしたものが、身体の中に溜まってそれを書く事によって吐き出しているんだと思います。

「ブラックライダー」を書き切った時に、作家と名乗ってもいいのかなあと思いました。
デビュー作から何作かは、どこかで映像化を意識していたが、「ブラックライダー」に関しては物語は自分の力では終わらせないと思って描き続けました。
最後に一行を書き終えた時に、おわっちゃったとパニックになってしまいました。
「流」もそうです、終わらせない、物語が勝手に終わるまで終わらせない。
「流」 自分では凄いものを書いた感覚がなくて、手ごたえを感じたのは「ブラックライダー」なので
僕の目標は「ブラックライダー」を越えることなんです。
誰も書いた事もないものを書いてみたいです。









2015年11月25日水曜日

東山彰良(作家)         ・流れ流され直木賞(1)

東山彰良(作家)            ・流れ流され直木賞(1)
1968年台湾生れ47歳 9歳の時に父親の仕事の関係で福岡県に移り住みました。
大学院在学中に小説を書きはじめ、2002年第1回「このミステリーが凄い」大賞の銀賞読者賞を受賞し、デビューしました。
2009年にはお金も、学歴も定職もない若者の行き場のない日常を描いた作品「路傍」で大藪晴彦賞を受賞。
今年の夏に第153回直木賞を受賞しました。
受賞作は「流」 1970年代から1980年代の台湾を舞台にした長編小説です。
戦時中、国民党側に付き台湾にのがれてきた東山さんの祖父や父がモデルになっています。
何者かに殺された祖父、その死の真相を追う主人公の成長と青春を描い作品です。
作品のテーマである流れ流されることについて伺いました。

台湾に行ったが、まだ台湾版は出ていないが、サイン会もさせてもらったし、結構いろんな方にお会いし、忙しかったです。
台湾の若い世代の方たちにもこんなことがあったのか知らなかったとご意見をいただきました。
インタビューで政治的な意図は無く純粋な青春小説として読んでほしいと再三強調しました。
ミステリーでもある。
祖父が亡くなった後に周りの人から聞いて、ドラマチックな人生だなと思い至り、祖父を主人公にした小説を書こうと思ったがまだかき切る力がないと思って、父親を主人公にこの小説を書きはじめました。
縦糸がミステリー、主人公の成長物語、ものもののエピソードを描きました。
年配の読者がかなり多い、一番に感じたのは懐かしさなのではないかと思います。
舞台をどこに設定しようと、空気、時代を書き切れたのであれば日本の読者が読んでも、ノスタルジーを感じて頂ける自信はあったが、自分が書き切れる自信は無かったです。
今回は特に楽しんで書けたと思います、自分が熱くなって書けたと思います。

祖父を書きたかったが、1930年代の中国大陸を舞台にした大長編になるのではないかと思っていたので、その出力は足りなかったと思う。
「ブラックライダー」を書く事によって家族の事を書く事が出来る自信になった。
家族の歴史をノンフィクションで書くと加害者の要素が強くなりすぎるからと思います。
小説とした書いた方がより良かったと思います。
祖父が10年以上前に亡くなり、祖父が若いころいろいろやってきたダイナミックな人生をして来たことを知るに従い、物語が少しずつ芽吹いて行ったと思います。
父親は自分で或る程度家族の歴史は調べていたが、山東省に祖父の兄弟分が生きている事を突きとめて、父は会いに行っていたが、6~7年前に父と一緒に行ってそのお年寄りから直接聞きました。
馬爺さん 物静かな人だった。
戦争中の血なまぐさい話等もいろいろ聞きました。
父が山東省に初めて行った時に祖父が村人を殺したという石碑が有るが、それを父は見ていますが、開発で取り壊されて今は無いです。

中国の馬爺さんを訪ねて腑に落ちたのは、戦争はイデオロギー的な切り口で語られることが多いが、馬爺さんはそんなことは一切言わずに、友達がこっちの味方だったから自分もこっちの味方だったなど、という話し方しかしなかったので、腑に落ちた。
祖父は社会を良くしようとか、革命を起こして自分の理念を実現しようというのではなくて、巻き込まれて行って自分の生きるための最良の選択をしただけなのではないかと思いました。
最良の選択で守りたかったのは家族だったと思います、
戦争というのは一人の力ではどうにもならず、大きな流れに押し流されてその中で自分に出来る最良の選択しかなかったので、祖父としてはささやかな日々の暮らしをしたかったのだと思います。
母方の祖父も軍人だったが、鉄砲の弾を受けて撃たれた跡があり、それを見るたびに凄いと思っていました。
戦争に行って家族を連れて中国大陸から台湾にのがれてきたので、凄いなあと思いました。
私は台湾で生まれて、日本で育ったので、アイデンティティーに揺らぎを感じることがよくありますが、40年以上日本に住んでいるが、家族次第です。
家族が台湾にいれば台湾でいいし、家族が日本にいれば僕のいる場所は日本でいいと思います。

漠然と概念として思っていたことを言葉にしたことで、家族を守っていくんだという覚悟が芽生えてきたと思います。
流されるということは良いも悪いもない、個人であらがってもどうしようもなく、その中で個人がなにができるかという事だと思います。
ままならないことがいっぱいあるが、大きな流れで普通に考えれば利口ではない選択肢も、彼にとってはそれは友情を大切にした結果であったり、愛情を大切にした結果であったり、そういう所を描く事によって祖父の事も間接的に描きたかった。
流れを全身全霊で受けとめるときもある、損得ではなく理性を越えた行動というか。

この本の主人公に関しては、流されながらも自分であがらって、自分の少しでもなりたい自分に成っていくという少年を描きたかった。
大切なものが十人十色で違うと思うが、守りたいものさえしっかり守る、大事なものさえしっかりしていれば多少のより道はいいと思っています。
流れが自分の大切なものさえ押し流そうとしたときには、そこは本当に死に物狂いであがらうべきだと思います。
踏みとどまるポイントはその人のキャラクターの性格、キャラクターの色という事になるのではないかと思います。
最終的な漂着地、皆が自分を曲げずに到着できる地点を一番最後の章で模索したつもりです。
主人公も犯人もお互いに容易に歩み寄らせたくなかった。
覚悟が定まるまで、流れにあがらう足がかりを主人公が得た瞬間、流れの中に自分が手を伸ばして掴んで、離してはいけないものを見つけた瞬間です。
主人公が少年時代と決別して大人になってゆく、というところです。
不自由になって何者かになってゆく。
少年時代と決別して大人になってゆく、という事は不自由になってゆくという事だと思います。





2015年11月24日火曜日

2015年11月23日月曜日

Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター)  ・ラスト・ディナーは、私の歌と!

Ko-Ko(コーコ)(シンガーソングライター)  ・ラスト・ディナーは、私の歌と!
自らもガンに侵されながら病院の医療活動の一環である最後の晩餐食事会で素晴らしい歌声を披露しているシンガーソングライターがいます。 Ko-Koさんです。
20年前に右足に大きな肉腫が見つかり、その後両方の肺にも転移し手術、抗がん剤治療を繰り返しましたが、その後は免疫療法、温熱療法、心理療法など、自分の納得する治療法などを自ら選択し、現在もガンと闘いながら音楽活動を続けています。
ガンになって初めて自分のやりたかったことに気づき、家族や医師、音楽仲間に支えられて曲作り、ライブ活動に充実した日々を送っているKo-Koさんに伺いました。

最初曲が流れる。 「最後の晩餐」作曲 Ko-Ko 作詩は主治医藤岡先生の奥さん藤岡ふみよさん
「今日が最後の日だとすればただゆったりと美しい木立の中で、優しい風を感じて過ごします。 今日が最後の日だとすれば、私は愛する家族や信頼してやまない友人たちと、過ごします。」

20年前に右足のひざの裏側に大きな腫瘍が見つかり、それが検査で悪いものだと判って、その後抗がん剤や、放射線の治療をして、1年ぐらいかけて手術をしました。
結婚して2人の子供に恵まれたが、下の子を妊娠した時に肺に転移が見つかり、出産した後に検査したら左の肺に転移してかなり大きくなっていた。
肺の潰瘍を取って、悪いものとわかって抗がん剤治療を受けたが、5年後に右の肺に小さいものが見つかり、これも悪いものだという事で取っていただきました。
何回も抗がん剤をやっているのに出来てしまうので、なんかおかしいのではないかと思いだして、その頃に藤岡先生夫妻との出会いがあり、出来たら取ってという事をしていると、最終的に取れない時が来るのではないかと不安があり、抗がん剤を止めて、免疫療法とか食事療法とかの方にかけてみようかという気持ちになった頃です。
抗がん剤治療は食欲も無くなり髪の毛も抜けてしまうので気持ちも萎えてしまう。

食事療法を1年ぐらいしましたが、肉が大好きなのに食べれなくて、食べようとしたが家族から大声で止められ、我慢するのは精神的によくない事に気づいて、話して先生も同意してくれた。
それから精神的にも体力的にも元気になってきた。(今でも肉は食べています)
食は楽しくおいしく食べるのが一番だと思います。
最後に手術したのが12年まえで、5年前に両肺に影ができて、取りましょうという事になったが、音楽活動をしていたので声が出なくなると怖いと思ったし、子供も小学生だったので手間のかかる時期でもあるし、今回は手術も治療もしないという選択をしてみようと思った。
藤岡先生に話したら、「それも一つの選択だからもう大丈夫だよ、いいよ」、と納得してもらった。
ハイパーサーミヤという温熱機械が入ったので、それはやってみようという事でやりました。
病院では先駆的な食事療法をやっていて、誰とどこで食べるかが一番重要で、最後の晩餐食事会といいまして、患者が死ぬ前に食べるご飯とかというわけではない、いままでの病気の私と決別してこれから新しい自分に生まれ変わろうではないかという、再出発の食事会です。
患者さん一般の方も皆で一緒に食べます。

「最後の晩餐」の後半の曲が流れる。
「今日が最後だとすれば貴方は何をしますか。  今日が最後だとすれば貴方は誰と過ごしたいですか。  今日が最後だとすれば貴方は何を食べたいですか。 今日が始まりだとすれば貴方はどう生きたいですか。 人生の最後に思いを寄せて生きることこそが幸せにつながり、人生の始まりの様な生き方が出来る。 今ここに自分はある、 今ここに自分はある。 今ここに自分はある。」

食事の料理を作って下さるのが国境なき料理団 の本道佳子さんです。 
野菜ばっかりだが満腹になる素晴らしい料理です。
ご飯を食べてから私の歌を聞いていただきます。
歌が好きになったのも父の影響で越路吹雪さんが大好きでした。
父が亡くなった時にはお経ではなく、越路吹雪さんの歌と赤いバラで見送りました。
ピアノを教えて、ボイストレーニングの教室、ライブ、CDも出して、今年の熊本町のマラソンの応援ソングとして「ランナー」(作詞作曲 Ko-Ko)を選んでもらって嬉しかったです。
ガンになったから良かったことは、全てです、いろいろな事を学びました。
結婚する前、父が事業を失敗して、絶対に頑張るぞと、わたしも保育士をしながら昼も夜も頑張って体をいじめていましたが、病気になってなんか違うなと、せっかく生まれてきているのに色々、自分自身を見直すことができたと思います。
結婚して、いま子供達は高校2年生と高校3年生です。

私が病気だということは彼女たちも十分判っているのですが、言葉に出せないというか、私を見てる事によって安心してくれるというか、そんな感じです。
周りに支えられているというか、理解がある人ばっかりで、病気になってから音楽活動にもささえてくださる方にめぐり合う事が出来ました。
病気になってから、今日死んでも悔いのない生き方、でもそのもう一つに絶対死なないよという強い生き方みたいな潔さと強さみたいなもの、二本の柱で生きていると、何でも受け入れられるし、何でも引き寄せられるし、不思議な力だと思います。
いまの病気の状態は、左の肺にテニスボールぐらいのものがありまして、右の肺にピンポン玉ぐらいの大きさが二個、肝臓とお腹の方に転移があり、お腹の方に放射線治療をやっています。
でも歌えるんですね、先生に言わせるとゼイゼイやっていて起きていられることが不思議だっていわれるぐらいの大きさだそうです。

音楽活動はライブ等をやっています。
ライブでは私がエネルギーを与えている様で、実は私がエネルギーを貰っている様で、エネルギーの交換ができるのでとってもライブは好きですね。
少しでも多くの人に病気でもそんなに落ち込まないで、怖がらないでという事を伝えたいです。
自分の納得いく治療法だったり、情報を集めて自分の体なんだから、自分で決めてくださいと言いたいです。
納得してやると自信もつくし、絶対治るという気持ちの強さが出てくるので、又やらないと言う事も一つの治療の選択肢だと思います。
家族にたまには病人扱いさせてよと言いたい時もあります。

「手と手と手」 (作詞作曲 Ko-Ko)
「貴方の笑顔、貴方の泣き顔 貴方の声を、私の命を 手をつなぎあえたのは偶然それとも運命、
ひとすじの光に導かれながら辿りついて  澄み渡る青い空 、流れゆく白い雲、花も鳥たちも
生きる力を与えてくれる。 I belive myself 手と手と手つなげば、
love my friends 一人じゃないよ、 貴方のその手信じてご覧、手と手と手繋ごうよ。
孤独に泣いた夜も、明日が見えなくても、希望に満ちた新しい朝が迎えてくれる。 
嬉しいこと、悲しいこと、揺れ動く心、光と影に試されながら生きてゆくわ。
 I belive myself 手と手と手をつなげば、 love my friends
一人じゃないよ、そばにいるから信じた道を歩こうよ、手と手と手つなごうよ。
love my friends 手と手と手つなげばlove my friends 一人じゃないよ そばにいるから 
輝く道を歩こうよ、 歌を歌って歩こうよ、手と手と手繋ごうよ、 手と手と手繋ごうよ」

皆一人じゃないんだよという事を伝えたかった。
出会いは偶然なのか、運命なのか判らないが、会うべくして会う人たちなんだなと、それが
手と手と手で結ばれて行って大きな輪になってゆくんだよという、一人じゃないんだという事を伝えたいです。




2015年11月22日日曜日

熱田 貴(日本ソムリエ協会)     ・ワインに賭けた夢と人生

熱田 貴(日本ソムリエ協会名誉顧問)    ・ワインに賭けた夢と人生
昭和13年千葉県佐原市の農家に生まれた熱田さんは外国にあこがれて国立の海員学校に入りました。
学校を出ると希望どうり貨物船に乗り、外国を回ります。
およそ20日間の厳しい航海を終えて南米のチリの港で熱田さんにとって忘れられないワインとの出会いがありました。
昭和39年東京の赤坂見附にある一流ホテルのレストランに就職し、そこでも運命的な出会いが待っていました。

現在体重は115kgです。肥っている時は130kg有りました。
90kgを目指しています。
昭和54年東京サミットがあり、晩さん会の飲み物の責任者を担当。
カーターさん等が飲むワインは、ヨーロッパに3カ月出掛けて裏の話をうかがって勉強してきました。
主なワインとコニャック等も用意しました。
VIPを招待する店、家族との店、友達と行く店に行って大統領はどんなワインを飲むのだろうと取材します。
イギリスの労働党の代表のロイ・ジェンキンスさんはワインを40分以上かかって選んで、最初の料理スモークサーモンに対しフランスのロワールのプイィ・フュメという ソーヴィニヨン・ブランというブドウで作ったフレッシュだが爽やかでコクがあり、このワインを選びました。
(私が最初にお勧めしたワインでした)
料理とワインだけでなく、年齢層などいろいろ季節などをも考えながら、選びます。

フランスに最初行った時に、ぶどうを食べたり、ワインを飲んでみたり、土をなめてみろ、畑の石をなめて見ろと言われたりして学んできました。
日本にボージョレヌーボーが一般の輸入会社が始める5年前に、私がホテルと組んでボージョレヌーボーを紹介しようと、最初は2ケース取って素晴らしいという事で、20ケース取ってお客様に無料で招待してそれを5年間続けました。
ボージョレヌーボーはパリから南に500km弱 リオンから10kmぐらいのところの大衆的なワイン産地です。
ビジネス的には恵まれない土地であって、何とかしないといけないという事で3人の人が新種のワイン、ボージョレヌーボーを紹介してゆこうという事でこれがあたった訳です。

日本では1959年 ボージョレヌーボーの販売の動き。
セミ・マセラシオン・カルボニック方式 ぶどうを摘んできたものを密閉タンクの中で自分の重さ、酸素の供給によって、段々とワインができてゆく、それをタンクから取り出して絞ってゆく、シンプルな作り方。(通常の作り方とは違う)
東京オリンピックのちょっと前、ヒルトンホテル等ができて、ソムリエという言葉は無く、ワインバトラーとかワインスチュワート等と呼んでいた。
当時ワインを研究する会があり、日本ソムリエ協会と言う名に付けようという事になりました。
当時は10人ぐらいでしたが、現在は日本ソムリエ協会の会員は1万人位になり殆どの方がソムリエの肩書きが付いています。
ヨーロッパで或いは山梨県辺りに行って勉強する等やっていて、ワインを勉強する学校等もあります。

海外に行きたい夢があり、愛知県にある国立高浜海員学校がありそこで学んで卒業して、南米航路の就航していた会社があり、そこに就職して、1万トンの貨物船に乗って乗員は40名程度で、そこの高級職員の面倒を見る担当になりました。
波もリズムがあって、体験の結果いろいろ学びました。
水を大切にすることは先輩から厳しくしつけられました、風呂も海水で最後に僅かに水を被って終りにするという風にやっていました。
南米チリのバルパライソの港町に行って先輩に御馳走していただいた時に、初めてワインを飲むチャンスに恵まれて、ワインの素晴らしさを知り神様が私にくれたお酒かなあと思って、港港に行って色んなワインを探して飲んで勉強していました。
日本に普及したいと思いました。

船会社を辞めて1964年開業したホテルに務めることになる。
ワインの本場はフランス、ドイツではないかと思い、或るとき師と仰いだピエール・シャリオールさんとの出会いがあり、ヨーロッパに来ないかと言われてヨーロッパに行く事になる。
1年の期限でヨーロッパにいくが、ウイーンでちょっと寄り道のつもりが素晴らしいワインに出会って1年4カ月、ドイツでも1年間いて、2年4カ月道草してその後にフランスに入ることになった。
新酒ができると松の枝が飾られる。(日本では杉の玉だが)
ワインを提供するのにワイングラスではなくて、大きなビールのジョッキの様なグラスで販売するしきたりになっている。
ワインを楽しむ時にはチーズを沢山食べることを教えてもらいました。
いろいろ勉強して、道草が私の財産になっています。
「知好楽」 知識があったり、好きなだけではなく、知識がなくてもいいから楽しむことを覚えた時にワインは身近な飲み物になります。

料理とワインの相性は熱を通すかどうか、魚は白ワインが合うが、熱を通したり、ソースの濃いものを使った時は赤ワインでも十分にいける、前に日に焼いた鳥を食べるときは白でも合う、冷たいものには白ワインが合うのではないかと思う。
白ワインでも皮、種等を一緒にしばらく放置して発酵させたりすることもあります。
赤ワインは必ずぶどうの皮、種から色素を出したり、ワインの味の深みを取りだしたりします。
人間を作ってゆく中で旅は凄く素晴らしいと思う、旅は色々あるが、日本一周旅をしながら、地産地消ということで、結果的には自分で作ってみたいと思い、北海道でワインを作ろうとスタートしてまて、美味しいワインを国民の皆様に提供したいと思っています。
「我以外、みな師なり」 「鳩に三枝の礼儀あり」「軍旗に雑巾」など父から教わりました。
(雑巾こそ使った後の方が綺麗になる様にしておけ)
酒井雄哉さん 「あすは雨が降ったら濡れればいいじゃないか、濡れもしないで天気を見るなんて、何回か濡れるとそろそろ雨が来るとか理解できるが、濡れないうちは駄目だ」と言っています。
ずーっとソムリエ協会の会長を8年間やってきましたが、周りに良い人たちがいてくれて助けられてやってこられました、そういう気持ちを忘れてはいけないと思います。
魚を食べるにも、それまでには命がけで魚を捕って、運んで、料理して、色々な人の手をかけているので手を合わせてその人たちに感謝する、そうすると料理が美味しくなってくる。




2015年11月21日土曜日

加藤登紀子(歌手)        ・戦後70年を生きて、今伝えたいこと

加藤登紀子(歌手)          ・戦後70年を生きて、今伝えたいこと
昭和18年旧満州 中国ハルビン 3人兄弟の末っ子として生れました。
間もなく敗戦となり2歳の時に、母や兄弟とともに日本にひきあげます。
小学生時代は両親の出身地、京都で伸び伸びと暮らしますが、親戚の離れを借りての生活はどこか根なし草の様だったと言いいます。
その後東京に移り、1960年代の安保闘争のデモなどに参加、1965年東京大学在学中に歌手デビューします。
以来人々の心の奥に届く歌を模索し続け戦後70年の今年歌手生活50周年という節目を迎えました。
戦後の日本の歩みがそのまま自分の人生と重なるという加藤さんが語った、引き上げ家族として暮らした京都での思い出や、これからを生きる人たちに伝えたいメッセージ等を伺います。

2歳8か月の時に貨物列車に乗って、引き上げの旅を1カ月以上して、佐世保についてそこから又貨物列車に乗って京都駅について、五条辺りに母の実家があったので、辿りついた訳です。
父が翌年に復員して、家族で東京に出ましたが、色々あり挫折もあったと思うが、又京都に帰ってきました。(5歳の頃)
父は自伝書で、又東京に行く間の7年間はどん底の生活だと書いていましたが、私にとっては景色はいいし夢のような時代だった。
母も本を書いたが、おかずを買えない時は鴨川で草を摘んでおかずにしたと、書きました。
小学校2年か3年の時に音楽の点が悪くて、母は人間の喜びの一番大切なのは音楽、絵を書く事、身体を動かすことだと言っていたが、私はその全部だめだったので、母が嘆いて、2年の時にバレエを習いに行って、歌うことが苦手なのはさびしい人生になるという事で歌も習いに行きました。

母は洋裁をやっていたので、イヤリング、ハイヒール、毛皮のコートで飛び抜けている様な感じで、
兄の保護者会の時に、キチンとお化粧をして来るから、やたら目立ってしまっていた。
そういう事から考えると、私としてはお金がなかったとか全然結びつかなかった。
当時米軍の放出品が無料で或いは安く貰えたらしい、そこに衣類コート等があり、母は毛皮のコートがきることができ、縫い直して私たちの洋服に仕立て直してくれたりしました。
周りの子供達とは違う装いなので、ちょっと恥ずかしかった。(同じようにはんてんを着たかった)
母はハルビンで新しい文化を身に付けた女性として帰ってきたが、子供心にうちの家族って一体何なんだろうとの思いはありました。
日本という国の事を知らないで育ったのだから、日本の文化風習を学習していかなくてはいけない、と母から言われ作法等習いました。
神棚もないし仏壇もないし、根なし草的な家族として京都にいました。

家族は東京に移り当時高校2年生の時に、日米安全保障条約反対を訴えるデモがわきあがり、学校帰りにデモに参加しました。
戦争から15年しかたっていなくて、あの頃文化人も学者も皆参加していました。
参加の思いは、16歳で自立意識がそそりたってくる年齢だったんでしょうね。
母は大陸で取り残されて、自分自身の判断で生きるしかなかったので、国に、社会にもたれかかることはできないという自立した女性で、いまから思うとすごい人だと思いました。
兄達も学生運動をしていた時に、そういう人たちを一番応援する女性でした。
国を動かすことは生易しい事ではないが、一人の市民として誰か声を上げる人がいる社会が素晴らしいんだと私に母は言っていました。

ハルビンから引き揚げるときに、ところどころ線路が破壊されていて、その時には歩かなくてはいけなくて、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と2歳の私に言ったと言ってました。
7人目の孫が2歳になるが、丁度私の戦争が終わったころの赤ん坊の姿で、母は貴方は自分の足で歩かないとここで死ぬ事になるのよ、と言い聞かせた事は今頃になって深くリアリティーを感じるが、ウンと頷いて歩いたというそのことが、私というものを作ったと思います。
一人寝の子守唄、知床旅情を歌って、森繁さんに出会い、森繁さんがハルビンを知っており、大陸でアナウンサーをしている人だった、あえたのはそういう運命ですね。
貴方は赤ん坊だったから記憶は無いけれど、貴方の声の中にはあの大陸の冷たい風のなにかが住んでいるね、あの冷たい風を知っている声だねと森繁さんに言われました。
意識している声ではないけれども、森繁さんと出会ったこと、私が自分が生まれた時にそうやって生き抜いてきたことが私の歌手としての土台ですね。

芸能活動に集中するためにデモへの参加は控えていましたが、1968年決意の末、再びデモに参加します。
自分自身の東大の卒業式のボイコットデモです。
歌手である前に自分らしく生きたいと考えたからです。
ちゃんと加藤登紀子をやりなさいと、生まれてから全部の事をちゃんとやるのが加藤登紀子でしょうというのが、初めて自分の心に覚悟を決めたのが1968年だったんですね。
加藤登紀子というのをちゃんと生きようという決心と、どういう事を歌って行けばいいかという問いかけはそこから始まったと思います。
賛成反対、対立のもっと奥に向かって届いていく歌でないと駄目だと思いました。
心の奥深くに伝わるものさえあれば、賛成反対とかいう、そういうもののもっと奥のところで人としての本質は手をつなぐことができる、そこに向かって私は歌いたいと思いました。

デビュー50年のいま、改めて多くの若者がデモに参加したあの時代を歌っています。
1968年を描いた 「1968」(2008年に作曲)
歴史って、そのひとはその人が見てきたことしか見ていない。
1968年に日本で、世界でどんなことがあったのかは知り尽くすことはできないので、私にとっての歴史を語り続ける、私が感じ取れるものだけを歌っていけばいいと思って、私にとってだけの1968を歌にしようと思った。
枯れ葉剤で身体が二つにくっついて生まれた「ベト」ちゃん「ドク」ちゃん、「ドク」ちゃんが結婚して日本に来て、私のコンサートに来てくれて、吃驚した。
直後にベトナムに行く機会があり病院を訪ねたが、1975年にベトナム戦争が終わって、2008年まで30数年たっているけれども、まだ枯れ葉剤の影響を受けた赤ん坊を一杯見ました。
2008年に衝撃を受けていろんなことがかさなって、「1968」という詩を作ったんです。

その人の運命の中に一つ大切な原点があるとすると、私にとっては1968が大きな噴火口、エネルギーのるつぼだと思います。
その時のさなかにいたからああいう風に歌えたことはあると思いますが、思い出だけでは生きていけないという様な失恋の歌があり、思い出だけでもすごいなと、70年年月が過ぎると、取り返しが付かないほどの沢山の経験をして来たというそのことに対する愛おしさ。
2011.3.11に大地震がありましたが、あの時に物凄く自分が戦争の中で生まれて、無一文になって生き延びたことの年月のことが自分の中の土台にある事が大切に思われた。
この出来事にあった時に私はこの60数年分をかけてできることに向かっている様な気がしました。
原発事故を含めて人類があるいてきたいろんなことに対するとてつもない課題を突き付けられている、このいまをどうやって生きるかという事のために、自分の歴史の中の経験の全てを生かさなければならない、そんな気持ちになったんです。

ベトナムで戦争が終わっても消えていないことがあるように、日本でも戦争があったことの消えていないことがいっぱいあるが、それと同じようにあの日、あの時あの場所であの人とこうやっていたね、そのまま会う事もなく過ごすが、だけどどうしているだろうと思える、懐かしさ、気がかりだったリする事やいろいろな事を経験した時に、生きてきた年月の全てが凄く大事だと思えるようになりました。
東日本大震災の時に日本は大きく変わったと思う。
21世紀はいったいどういう時代なのかが凄く鮮明になってきて、どういう時代を作り上げてしまったのか判ってきた、ここからどうやって生きて行ったらいいのかという事に対して、答えが見えやすくなってきた時代だと思う。
自分の人生を誰かに預けない、自分の人生を自分の手足でまかなう、判っている生き方をする、そういう風に生きていないと危ないですよという、そういう事が判ってきた時代だと思います。
もし戦争する様な時代にしてしまったら、人類は終わりです。
そんなふうな選択をするはずは無い、させてはいけないという事もあるが。
戦前と同じような時代になってしまうということはあり得ないと思っています。

自分がどう生きたいか、はっきり答えを持つ事、自分が生きたいビジョンに向かって遂げようとして生きる事が大事だと思います。
若い人に願いたいことは、何が自分にとって素晴らしいかを確かめてほしい。
自分の一番大切なもの、愛おしいもの、すばらしいと思うもの、それを沢山持っている事が大事だと思います、それがあればある程それを阻むものに対して、強い力で向き合っていけると思います。
自分の存在に対する不安感、無意味さ、そういう自分自身に対して、世界は自分から始まるのだし、自分が中心なのだから、雑音に惑わされないで、自分がこう生きたい、大事にして生きたい、それを確実に自分の中にもてる、そう生きてほしい。
今という時間の素晴らしさをもっともっと確実なものにしてゆく事が大切だと思います。




2015年11月20日金曜日

松本 隆(作詞家)        ・「ことばの魔術師」の45年

松本 隆(作詞家)           ・「ことばの魔術師」の45年
東京都出身66歳、慶応義塾大学の学生だった頃、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんと4人でバンド 「ハッピーエンド」を結成しました。
松本さんはドラムスを担当し、同時に数多くの作詞も手掛けました。
「ハッピーエンド」の解散の後は作詞家として、松田聖子さんの「赤いスイートピー」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指輪」、キンキキッツで「硝子の少年」など数々歌を大ヒットさせ、今年で45周年を迎えました。
それを記念してコンサート 「風街レジェンド2015」を開催したり、トリビュートアルバム 「風街で会いましょう」を発表したりしています。
これまで2100曲を越えていて400組近くのアーティストに歌詞を提供しています。
30年以上たった今も新鮮さを失わないと多くの人を魅了しています。

神戸が自宅で京都が仕事場です。
東京は生活感が無くなり、いつも仕事が追っかけてくるようで断ち切りたいと思いました。
関西が憧れで、古い歴史があるところで、新しいものを作ったらいいんじゃないかという感じです。
45年はあっという間に過ぎました。
50周年をやろうとしていたが、大滝さんが亡くなり、自分でも焦って45周年をやろうと始めたら大騒ぎになってしまいました。
30周年の時に2100曲でした。(最近はあまり作っていません)
松任谷由実さんに「赤いスイートピー」を頼んだが最初は断られたが、丁寧に頼んでやってもらいました。
結構奥深くて、本人が消化できる二段も三段も上の作品を与えちゃったみたいなところはあるが聖子さんは食いついてくるんですよ。
難しい曲を無意識に自分のものにしてしまうし、全国に彼女の歌が流れている様な時代だった。

45周年で「風街レジェンド2015」を開催、フィナーレでポップスのライブで5000人のスタンディングオベーションは初めて観たし、舞台に立ってお辞儀しながら観客の顔を観るが風呂上がりの後の様に、上気していました。(出演者を見ると同様だった)
一体感があり皆が感動しているのは観たことも聞いた事もなかった。
自分たちで愛している作品がある。
僕と細野さんは「風の谷のナウシカ」が好きです。
音程リズムは有ってればいいぐらいのことで、何を伝えたらいいかという、エモーションの塊が人間の中にあってそれが出るんですけど、それが特別に持っている人がいるんですよ。
ドラムスをやりましたが大変でした。
45周年でCDも出しました。(詩の朗読)
2100を越える詩を作ってきましたが、作るのは大変でした、苦しめば苦しむほどでき上って良い詩と言われるものができると、その百倍ぐらいの快感があります。

中学の時から本は好きでした。
「ポケットいっぱいの秘密」(アグネスチャン) 1974年昭和49年 これがはじめです。
チューリップの「夏色のおもいで 」でも殆ど同時ですが、二つともベストテンに入ってしまいました。
作詞家は星の数ほどいたので、運も強かったです。
昭和50年 「木綿のハンカチーフ」(それまで都会の歌を作っていたので、素朴な歌を作りたいと思った)
木綿という言葉は当時殆ど死語だった。
その後沢山のヒット曲を世に出すが、その裏には血のにじむような事があります。
無から有をつくる、詩を作らないと全てが始まらない。
書き始めたらあっという間に出来上がりますが、それまでが苦しいです。
年中辞めたいという気持ちはありました。

現在66歳 子供のころは体がでかくて180cm有り、目立ってしまうので地味にしていました。
ボーイスカウトをやっていて歌を覚えました。(西部劇など)
クラシックが好きになって、レコードを買ってきて聞いたりしました。
ビートルズが中学3年生の時に出てきて世界中を塗り替えて、僕も塗り替えられました。
詩は好きで読んだり書いたりしていました。
高校1年でバンドを作って、歌のないバンドをやっていて、コンテストで賞を貰ったりしました。
一人卒業して、欠員ができて立教にベースのうまい人がいて、それが細野晴臣さんでした。
商学部だったので、違う方向にいきたいと思っていて、大学2年でハッピーエンドが面白くて大学に行かなくなって、作詞家をやるしかないかと思ってこの道に入りました。
筒美京平さんと知り合いになって、ペアになってあっという間に破竹の進撃が始まる訳です。
縁の下の力持ちの様な役割が好きだったので作詞家はそういうところがあるので天職かなと思った。









2015年11月19日木曜日

2015年11月18日水曜日

渡辺由美子(キッズドア理事長)  ・貧困の連鎖 学習支援で断ち切れ

渡辺由美子(NPO法人キッズドア理事長)  ・貧困の連鎖 学習支援で断ち切れ
経済大国日本でおよそ6人に一人の子供が貧困状態に置かれています。
子供の貧困を放置すれば、教育の格差拡大につながりかねないとして、子供への学習支援をしているのが、キッズドアです。
理事長の渡辺さんは千葉大学を卒業した後、大手百貨店等を経てフリーのマーケティングプランナーとして活動していましたが、2001年から1年間家族全員でイギリスに住みました。
その際社会全体で子供を育てることを体験、帰国後NPO法人キッツドアを設立ました。
2010年から渡辺さんは進学を希望する中学3年生を対象に学習会、ただゼミを始めました。
ボランティアの大学生や社会人がマンツーマンで生徒に勉強を教えるもので、現在1200人のボランティアが登録しているそうです。

中学3年生に高校受験のサポートを無料で行う無料学習会です。
私は大学では工学部で勉強していました。
就職は大手百貨店で店の販売促進の部署に行き、大きなイベントなどをさせていただきました。
百貨店を8年間いて、1年間出版社に行き新雑誌のたち上げで企画等を手伝う事を行いました。
その後フリーのマーケティングプランナーとして、活動をしていました。
インターネットでホームページを作る会社が多くなり、子供関係のホームページをやってほしいという事で企画をだしたりしていました。
子供が2人出来、子育て8割、仕事が2割という様な事になりました。
子育てをしていると、社会からの疎外感が生まれてきて、子供の社会と普通の社会を繋げる様なドアーみたいなものを作って行かないと、うまく行かないなあと当時から思っていました。
主人の仕事の関係で2001年から1年間家族全員でイギリス行きました。
8月に行き、子供は小学校に入って、下の子も保育園に入りました。
吃驚したのは書類の手続きなどは、あまりなく簡単な誓約書を書いたらOKという事でした。

長男は手間のかかる子だったし、英語も出来なかったが、受け入れ態勢はしっかりしていた。
半年間、有償のボランティアのお母さん達が毎日フルタイムでうちの息子に来てくださる。
地域で特別な子供が来た時には、予算が手当てをされて、最適な方に声をかけてやっていただく様な仕組みでした。
我が子の様に可愛がっていただきました。
1年間で英語は割と読む力、会話する力も出来てきて、日常生活もそれほど困ることなく出来るようになりました。
いい友達もできて、私の子供に対して、学校での規律を守らなくて厳しい状態だったことを、英語では分からないので私から言ってほしいと、友達が家に来て告げてくれたりした。
遠足以外はお金の徴収は一切なかったので、お金はかからなかった。
学期の初めに、学校からこんなものが必要だという物品寄付リストが来て、各家庭から出せるものを寄付してくださいという事で、集めてそこから必要なものを取って使うという様な方法です。

日本に帰ってきて、都内の学校に入ることになり、子供を取り巻く社会が大きく違う事が判った。
イギリスでは友達のために行動できるかと、日本では授業を中断させるために友達にちょっかい出すか、これは大きな違いです。
日本では教育にお金がかかるのでいろんな意味で格差ができやすい。
親御さんの都合でちょっと大変な環境にいる子をサポートする団体がなくて、こんなにないものならやってみようと思ったのがキッズドアの前身です。
無料の和文化体験、サイエンス教室などを開いたが、いいイベントで有るほど、本来来てほしい子が来なくて、豊かな家庭の子が来た。
キッズドアのやり方を根本から変えて、困っている方をサポートする。
人件費が大変なのでそこをボランティアの方に対応してもらって無料で提供できる様なサービスにしてボランティア集めをしたのが2009年です。

新聞社が記事を載せて頂いて、次の日が電話が鳴りっぱなしになった。(母子家庭等だった)
低所得の方は私立にとてもあげられないので、困っている事が判りました。
場所探しで、或る社長さんが日曜日ならば会議室を提供できるという事で、2010年夏休み夏期講習から高校受験無料対策講座ただゼミを始めました。
一番多い時は50名位、東京中から新宿に来てくれました。
レベルがかなり低い子もいて毎日格闘でした。
子供にとっては今まで孤立していたのが、親身になってくれる人がいるという事で、すごく気持ちが前向きになって、できるようになると自信になって、好転して伸びてゆく。
初年度38人が通ってくれて、全員高校に受かることになった。
人を信頼する力、自分が努力して頑張る体験がすごく大きいと思います。
寄付をいただいたり、場所を提供していただいたり、助成金みたいなものを書いて、頂くとかで毎年綱渡りでやっています。
企業、個人の方にご支援いただいている様な方も段々増えてきました。

まだまだ日本の子供の貧困に気が付いていない方がいらしって、そういう事をお伝えしながら、子供への支援をもっと考えて頂きたい。
力不足で今年の入試対策の定員は一杯なので、もっと活動を広げてゆくために資金をきちんと集められるように寄付のお願いをしっかりしてゆくなどして行かないといけないと思います。
子供は親を選べないので、生まれた環境で大きな差が付いている事は子供にとって本当に切ないことだと思うので、それを支援してやると伸びるので、子供が喜ぶのを見るとそれは嬉しいので活動を続けて行こうと思います。
子供たちがしっかり力を付けることが日本の将来を明るくすることだと思うので、日本全体の問題としてやらなければと思います。









2015年11月17日火曜日

2015年11月16日月曜日

善竹十郎(狂言師)        ・世の中まだまだ「笑い」が足りない

善竹十郎(ぜんちくじゅうろう 狂言師)    ・世の中まだまだ「笑い」が足りない
71歳 日本の伝統芸能の一つ狂言は、現在大蔵流と和泉流の流派があります。
善竹さんは大蔵流です。
狂言会で初の人間国宝になった善竹彌五郎さんを祖父に持ち、幼いころから狂言を継承してゆくために取り組んで来ました。
稽古のあまりの厳しさに音をあげ、何度も逃げ出そうと思った善竹さん、それでも伝統芸能を継承してゆく家に生まれた自分と向き合う事で徐々に狂言の面白さを見出してきたと言います。
そんな厳しい狂言の世界を生きてきて改めて思う事は、今の世の中笑いがたりないと言いう事です。
笑う事で人間関係は円満になるし、何よりも長生きにつながりますという善竹さんは今子供達をはじめ様々な場で笑いを広めようと活動しています。
狂言界の厳しさ移り変わり笑いの大切さなどについて伺います。

笑いはNK細胞、ができると言われているのでいつもにこやかにしています。
5歳から始めたと父から聞いていますが、父は戦争にいって、昭和19年に生まれて、生まれた時は父は知りませんでした。
関西から東京に移ってから私を育てることになり、謡い、舞等を教わるようになりました。
一挙手一投足に至るまで厳しく指摘を受けました。
初めての舞台が6歳の「靱猿」の猿の役 歌舞伎にも取り入れられた有名な狂言。
靱(うつぼ) 矢を入れる道具  大名がうつぼを保護する為に生きている猿の皮をはげという事になり、猿ひきが猿に別れの言葉を言って、猿の急所をうとうとした時に猿が打つ杖を取って、船の櫓をこぐ真似をする(最近覚えた芸の稽古と感違い)、それを見たら猿ひきは泣き崩れ、それを聞いた御大名は泣いて猿の命を助ける事になり、お礼に猿が舞を舞う事になる。
猿の舞う真似を面白おかしく大名が真似、楽しい事こそ目出たいと最後に収まる。

最初、父にその後、大蔵彌右衛門(祖父の次男)に稽古を付けてもらうことになり、父よりも厳しかった。
ちょっとしたセリフでも怒られ優しい言い方は無く、叩かれたり扇が飛んできたりした。
しゅちゅう辞めたいと思っていました。
大学の受験勉強、バレーの部活、稽古をやらなくてはいけないので、成績は上位には行けなくて、何とか大学にも行けました。
祖父は昔の話をよくしてくれて、これが大変な栄養になりました。
祖父を目標にしようと中学生のころに感じました。
人というのは色々な行動をする、これがいい行動と悪い行動があり、いい行動になるように狂言がさりげなく教えてくれているんだ、と祖父が教えてくれた。

人間として生きてゆく上での人間道、人間の弱さを狂言が表しているんだなあと、優しくわたしに教えてくれたおかげで、ライフワークは狂言で行こうと思いました。
厳しいところから逃れるために一時自殺願望を抱きました。(遺書まで書きましたが)
和泉流 野村万之助さん(当時悟郎)、山本東次郎の弟の則直さんと3人で狂言「新の会」をつくって、15年ほど続けました。(私が28歳の時 二人は5歳上)
流儀が違っていて、知らなかったことをいろいろ教えて頂きました。
一緒にやることに対して、流派が違っていることに対する非難は最初有ったが誤解していた様で、お互い流派は維持してやるということを説明して理解してもらった。
15年間続いた事は、いろんな形で見えないところでつながったと思う。

大学でも教えているが、学生がニコリともせず、どうして渋い顔をしているのかなあと思って、授業中に何度でも笑うきっかけを作るようにしています。
私の授業は癒しの授業だと言っています。
嫌なことが多すぎるとギスギス、イライラすると思います。
笑うとNK細胞、ができると言われていて、ストレスがたまるとNK細胞が無くなり癌細胞ができると言われていて、ガンにならないためにも笑ってくださいと言っています。
「福の神」演目 
大晦日に二人が神社に行くと、福の神が大きな笑い声を上げながら現れる。
参拝に来るお前たちに楽しく生活できるようにさせてやろうと思うが、そのためには元手がいるぞと言うが、2人はその元手がほしいから参拝しているという。
神はお供え物が無いと言うと二人はお酒をささげる、楽しく生活できるようになる秘訣は、早起きをして、他人に優しくして、お客さんを拒まず、夫婦仲良くすることで有るんだぞと語って笑いながら去ってゆく。
心の持ちようで、修行の厳しいのが有難さに変わってゆく、感謝に変わっていった。
狂言の言葉から沢山のことが学べるなあ、と歳取って感ずるわけです。