2012年11月30日金曜日

金山茂人(日本演奏連盟専務理事) ・第9の季節に思う

金山茂人(日本演奏連盟専務理事)   第9の季節に思う  
1940年生れ国立音楽大學 バイオリン専攻卒業後 東京交響楽団にバイオリン奏者として入団 
その後2005年まで楽団長をおよそ30年間勤め、現在は、日本演奏連盟専務理事で東京交響楽団の最高顧問を務めています   
財団法人所沢市文化振興事業団 理事・アドヴァイザー  
 社団法人日本オーケストラ連盟 副理事長

年末 恒例の第9演奏 月22回が最高に有った  全国では恐ろしい数の演奏がある 
90%以上は地元の合唱団 所沢に第九を とアマチュアが頑張っている
昔終戦後 東京フィルハーモニーの青島俊夫さんが楽団員に日ごろ安い給料でやっているので、一時金を考えた時に第九ならばチケットを売ってくれるだろうと(昭和22年ごろ)
之が当たって、きっかけだったと言われているが、 日本人に有った曲だと思う  
第九の後に蛍の光 喜んでくれる
入場料はN響よりも高い(東京交響楽団)  
第九を聞いて、歌って 新しい年を迎えたいと言う思いですかね

3楽章の処 フォルンの演奏があるが、緊張する部分 フォルンだけ4人いる、が4番奏者に突然ソロを吹かせる(普段は陰の役割をしている4番奏者)
練習は旨く行くが 本番になると緊張する(アマチュアは問題ないがプロは緊張する) 
70分を越える曲
ベートーベンが嫌がらせの為に第4奏者にしたんではないかと思われる程の緊張を与える
東京コーラス アマチュアの合唱団がある レベルガ高い 
楽団長を30年  バイオリンオーデションを受けた ブラームスのバイオリン協奏曲を弾いて入った  
1963年(昭和38年)に入った
楽団長 立場上は会社の責任者 社長の役割  
好調だった経営が経営不振に陥り 芥川也寸志さんと相談して楽団長に辞めて貰った
(20歳年上の人だった)

その時に後釜をやることになった 36歳の時(入団後12年の時) 協力者も居た
日本フィルハーモニー 昭和31年に出来た楽団だったが旨く行かなくて新日本フィルハーモニーになった  採算が取れない 演奏会だけでは赤字(4000から5000円では赤字)
オーケストラ 事務局と楽団員 という会社組織みたいなものが2つある 
事務局は採算を考える 
楽団員は響きのいいところで良い指揮者でやるのを望んでいる
いつも芸術家ならいいが 或る時は労働者であるので 経営者としては苦労する
人数は100人は必要  いろんな曲をやらなければいけないので 120人位はいないといけない
お金の苦労が一番多かった オーケストラ連盟 
いま日本で 32団体が会員 各団体で苦労が多いと思う 
NHK交響楽団と言えども大変だと思う
国民の理解度が外国と違う  フランス 市民の為の オーケストラ、オペラ 市民から我が町にも持ちたいと市民からの要望が有った
日本の場合は殆ど海軍軍楽隊の人達が引き揚げてきて、オーケストラをつくろうと、音楽家から発言です  
あちこちで運動を起こしてオーケストラを作るので援助してください
と国や企業に頼んでも、基本的には興味が無い 
最終的には好きなことをやってんでしょう そんなに助けませんよと 言う事になります
国民の芸術に対する考え方が全く違う  何年経っても市民運動にならない
クラシックは敷居が高いと言う目で見られている
大衆化したからどうなんだと  東日本大震災での音楽へのおもい  本当の姿がしみいる
芸術と言う言葉がよくない もっとポピュラーな言葉がほしい
     
国からの援助は7~8%
第九は外国の指揮者に取ってみては、違う  
N響で72歳のときに初めて振った(外国の有名な指揮者)  
大事にする曲 そういう位置付けの曲(気高い曲)
シラーの詩   とっても全体のレベルは上がったが、やっぱり何か足りないなあと思った  
低音の厚みが違う  日本のオーケストラはあそこまでは行かないのではないかなあと思う  
N響は流石だと思う チェロバスは違う  それは歴史だと思う
街全体がそう  昔のものを大事にしようという思いがそうさせるのでは(欧州との違い)  
トロンボーンの募集で86人が来た(1人にとるのに  しかし誰も取らなかった)  
危機に陥っている 10年経てば半分になってしまうのではないか?  
第九のお陰でクラシックが大衆化したと思う  

2012年11月29日木曜日

岩松鷹司(生物学者74歳)     ・メダカはわが友

岩松鷹司(生物学者74歳)  メダカはわが友
動物の発生のメカニズムの解明をメダカを中心にして研究してきました 
メダカは1994年脊椎動物では初めて宇宙に飛び、今年も宇宙船ソユーズに乗せられて
生命現象を探る実験に使われるなど貴重な存在です しかし 日本のメダカは絶滅の危機に
陥るなど 50年に付き合ってきたメダカについて伺います
メダカは神秘的なものです 私達と同じ存在のもの 必ず価値の有るもの 価値の無いものとして見ている人が多い
価値の無いものを価値の有るものだと思われる様にするのが私の仕事です

年年メダカの種類が発見されて20数種類になります  メダカは胃が無い 
いきなり十二指腸から食道に繋がっているんです
胆嚢から胆汁液がいきなり食道のあと注入されるんです 
膵液も膵臓から膵管から腸なんです 
消化管を見ると人の消化管はどうしてそうなんだろうと
考えささられる メダカには小腸しかない いきなりそれで終わる  
肛門は身体の前に有る  
同じ脊椎動物でありながら違う
メダカは私達が赤ちゃんの状態で生まれたような盲腸もない 大腸もない そういう生き物です  
人間を研究する材料としては凄い私達に役に立つ生き物
メダカは元々アジアにしかいない動物  日本メダカは中国大陸、朝鮮半島、台湾に住んでいるが
、今の列島が出来る前に住んでいた生き物
分断されて台湾、日本列島になった前から生息していた  
メダカの生息の状況を調べれば大陸の移動だとか探るのには非常にいい材料です
日本メダカは遺伝子を写したり壊したりする遺伝子が発見されて、沢山の変異がでる魚、
メダカなんです 他には無い
さまざまなメダカが出来るのはその影響の様です 日本メダカは耐寒性がある 

他のメダカは全部熱帯魚寒いと死んでしまうが、日本メダカは水面が凍っていても死なない
遺伝子の変化で出来たようだ  青森まで生きている 北海道にはいない
(大陸の成立と関係があるのでは)
ジャカルタにいるのは、汽水域に生きている(淡水ではなく塩分が含んでいる水域) 
元々は海産魚ではないかと考えられる
メダカは脱海産魚 さんま さより (下あごの長い) 同じグループと捉えられている
かだやし グッピーとの差  アジアの日本人学校の公調委にお願いしてメダカを送って貰ったら、
全部かだやし かだやしが繁殖してしまっている
日本でもどこの河川でもかだやしが入りこんでしまっている状況  かだやしの動きは速い  
めだかはスーッと動いては止りスーッと動いては止る
名称は5000種ある  教科書に載せるのに共通の名前「めだか」が使われる様になった 
地域の数だけ呼び名が有ったようだ
うきす ちんまい ざこ じゃこ・・・・・  日本は自然崇拝の国民なので、 小さい庭園、いけばな 
日本人特有の文化が生れた  日本人の感性
日本だけにめだかに関する文化が生れた(メダカの学校・・・) 50年代 農薬で収穫を上げる 田んぼにいる小さな生き物がドンドン殺された
70年代になると国土開発 自然がドンドン開発される 水辺が分断、枯渇された 
田んぼがパイプライン化されて、水を深い溝に落としてしまえば、 
トラクターが入る、あるいは水道のパイプラインが発達して、昔からの湿原が激減してしまう 
そうして生き物が乾上がってしまう メダカがえさにする生き物がいなくなる

其れが1999年2月18日環境省の絶滅危惧種として掲載される  殆どいなくなっている
私達はメダカと同じ様に水で生きているので 水を無くすと言う事は私達が水で不足すると言う
時代が来る可能性がある
海水はどんどん濃くなってきている 古代の海よりも3倍の濃さとなっている  
自由に水を扱える時代が無くなると言う時代に通じるのでしょうか
日本が無くなって仕舞うのでは 生物もグローバル化されて日本種が絶滅してしまうのではないか 
日本の自然として守らなければならない
メダカがいなくなると言う事は自然が無くなってくる 環境ホルモンが増大  
殆ど女性ホルモンの働きをしている     病気が多くなる 生殖能力が 無くなる
全世界が注目している  メダカがいなくなることに通じる 
細胞分裂を調べたいと若い頃とった ゾウリムシを研究していた  
遺伝子の解析 段々単純なものに移って行った 
雄、雌 性の決まり方を研究しようと思うようになった  最初鼠を使った 

山本時雄先生がメダカを材料に性を簡単にコントロール出来ると言う事に成功した
之を調べれば 雄雌のでき方が判ると思って、山本先生の処に入った 之がメダカとの出会いでした
先生は受精の研究をしていた テーマを与えられて研究を始めた  
卵はどうして個体になるのか、なぜ受精できるのか、受精して発生できるのかをテーマにしようと思った
卵巣からまだ排卵していない卵を取りだして、精子を掛けると発生する 
そのことを先生に話したら、驚かれまして、だれにも言うんじゃないよと高く評価してくれた
アメリカで研究をやってくれないかとアメリカに行く 哺乳類の研究を始めた 
哺乳類は受精できない  精子を入れるようにしたいと思い、新鮮な卵と思っていたが
取りだしに5~10分掛ってしまう室温になると卵が変化してしまうので受精できない 
1年間失敗し続けた 成功したきっかけはテクニックが旨くなった5分以内であれば
受精する事が可能になった  

1個の卵に1個の精子が入れば受精できる事がネーチャーに掲載された
メダカを知りたい 学問は利益に繋がらない知識の探求なので 自分達の欲望に結びつくと
私達の物を見る方向が歪んでしまう 
大自然に私達はたがわない ルールから外れないように自然を真っ当から見る 
そういう知識が如何しても大事  それが学問である  『メダカ学全書』とする
メダカを通して世界が大きく繋がっている  メダカの飼育が簡単 世代交代が早い 
遺伝子の研究に適している  微量の成分の分析が可能になったのも影響ある
メダカはいくら学習しても教育されてもメダカである 
 
しかし臓の発達した、脳の発達した人は学習させ、教育させられると人は人間になる
教育が無ければ人間にならない  人のまま終わる  それが大事だと思った  
やれる 出来る やりたいと言う事があっても、やってはいけない事がある
やれない、やりたくない と言う事があっても やらねばならないという人の道があります  
これも研究の中で自分がやれないのをやれるように持ってゆくとか大きな努力が要りました 
小学生に「 してはならぬ、せねばならぬが人の道」 それを一生懸命伝えています
人間の有り方はいかに  人間とは如何に  と言う事を教えてくれたと思っています

仲良く おおらかに いざと言う時は協力し合って  と言う姿がメダカの有り方で有りましょうね
メダカの生き方と人間の生き方 大きな違いは 自分の事を考えていない 
自分の存在を自分では認めていない、考えていない  
私は「空」になりたい 空虚な存在になりたい 人が認識しない 人が意識しない物になりたい
 そういう思いが段々と湧いてきました
自然に帰る と言う事が空になると言う事 私達は自然の中から生まれてきたので、自然に帰ると言う事が空になると言う事
其れが理想だと最近思います   存在されないで役に立つ これが空になるという事
成長過程を調べることにより、どうしてそうなってきたのかを知ることと同時に、私達は
そうならなかったのかを判るようになるのではないかと思う
人間を研究しても人間は判らない 
人間以外を研究することによって、人間を判る事が出来る  そういう見方が大事
Aと言うものを調べるにはA以外を調べて比較しなければ Aは理解できない

メダカの復活は? 私達は自分の欲望をどれだけ抑えなくてはいけない 
利便性 快楽性 だのを追求するのでどんどん地球のスペースが無くなってきている
他の生き物が住む、存在するスペースを どんどん人間が奪ってくる 
どんどん悪い環境を作ってきている そういう事を無くせば、自分達の欲を押さえれば
多分何の苦痛もなく繁殖してゆくと思う  それは非常に難しい事ではあるが、
理想の其れを求めて行かなくてはいけないと思う

2012年11月28日水曜日

森光子(女優92歳)       ・女優が語る私の戦後 2

森光子(女優92歳)             女優が語る私の戦後 2  
長年の疲労で結核になる 3年 
じっとして居られなくて、ラジオでNHKの人を知っていて、その人に会ったら吃驚して、元気であることを判った(亡くなったと思ったとの事)
菊田一夫に出会うことになる  
ダイマル、ラケットは速いテンポでやっていた人達 台本通りにゆっくりやっていたのでは駄目だと思って速度を出してやるようになった
舞台けいこの時に会う 33年12月の公演に出して貰う事になる  (芸術座に) 
花のれん がめつい奴  がしんたれ(菊田の自伝的なもの) 林芙美子がちょっと出る
菊田少年と林芙美子との悲しい思い エピソードを持っており、2場しか出てないのに其れが広がった      劇の中の初めての出会い(林芙美子との) 昭和35年  
放浪記への気持ちを掻き立てる 

36年10月 放浪記主演 41歳で初めての主役になる   11月、12月と満員だった
どんちょうが降りて、拍手が無くて (音楽は流れていたが) 
そのうち万雷の拍手を得る事が出来て、涙が出てきた
毎回考えながら、どの様に演じるか 考えてその都度演じる   
菊田先生は私になんにもおっしゃらない 怒鳴られるよりは良いと思っていたが、
10年経ってから再演した  喜んでくれた  
「10年間、無駄飯食っていなかったな」 凄い褒め方だと思いました
林芙美子がうたた寝をする中で幕が閉まる(不思議な終わり方) 
48年に菊田一夫が亡くなる 三木のり平が脚色、潤色する 微妙な切り方
5時間余りが3時間余りにする 
 
三木のり平は何でも知っている事には吃驚させられる  
稽古の時は競馬新聞を読んでいる
皮肉っぽくて、温かくて 大てれのひと 
 いろんな人間関係を作りながら、2000回やってきた
何とか50周年の放浪記までは何とかやっていたい  
若い人に  怖くないからどんどんやりなさい と言いたい  

2012年11月27日火曜日

森光子(女優92歳)        ・女優が語る私の戦後

森光子(女優92歳)          女優が語る私の戦後  
京都 出身 14歳で映画デビュー 
昭和36年に始まった 放浪記では 林芙美子役をやる 
雑誌の掲載が決まった喜びを表現するでんぐり返しは舞台の名物になる
2000回に達した平成21年7月1日(89歳)には国民栄誉賞を貰いました  
今月10日 92歳の生涯を閉じました   2009年収録  

家のすぐ前には鴨川、玄関の方には高瀬川が流れ、川と川に挟まれて 芸者が行き交っていた母は三味線が好きだった 
朝から三味線弾いていられるとなると,芸者になっておかみさんになっていて、父は帝大の学生だった  母からは叱られた事が無かった 
元日からお客が来れば、対応に追われた  
父は大阪から月に1回か2回来てくれた  父と母は結婚出来なかった 
その様なケースはいろいろあったようだ
兄が戦争で取られた 妹がいる  母の違う妹 有ったときに圧倒された   
歌が好きで踊りが好きで 丸物にNHKが入っており 7歳のときにそこで踊った事がある

祇園祭 大文字 5山のうち 4山は家から見えた  おてんばな子だった  
将来は少女歌劇に入りたかった みずのえたきこが憧れだった
芸能界が好きならばと伯父が紹介してくれる 
新興シネマ 嵐寛壽郎(母の兄の息子)がいたので 時代劇の女優として、映画の世界に入る デビューでは凄く緊張したが、最終的には何とかなるという思いであった  
いろんな役をこなしてきた  忙しかった        朝は舞子だったり、昼は武家娘 茶店の子  
映画の世界を止める  歌を歌い、踊る事が出来ない  
立ち回りが多くなった(映画が変わってきた)  
昭和16年に辞める (その年の12月に真珠湾攻撃がある

情報は少なかった 東京に家出同然に出掛けた 
現代劇にでたい  経済的にも苦労した  
知り合いの女性に紹介されて家も定められた
銀座に事務所があり、そこに紹介されて、勉強を始める  
映画と映画の間にアトラクションがあり、そこが新人でも出来るのでそこで仕事をした
東海林太郎(早稲田) 藤山一郎(慶応) 双葉百合子 淡谷のりこ 等が第一線で活躍していた二人の間に2曲歌う役割をする
東海林太郎は生真面目な人で あまりしゃべらない   
戦争に突入して、マニキュアをするなと言われたが 淡谷さんは堂々としていた

私はこれじゃないと私ではないのよ と言っていました 
パーマネントは禁止されたが、これだけは皆辞めなかった覚えがある
歌が歌えなくなった、進む道が間違ったかなあと思ったりした  
慰問に行った 一回行くと1カ月  他にも8カ月かかったときも有る
神戸港から出帆した 五島列島 台湾へ向かうが 五島列島を出た時から襲われたりした  
台湾でバナナからコレラ菌が出てストップ シンガポールで1カ月止められる

2012年11月26日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(井上史雄)


 天野祐吉                                      隠居大学(井上史雄)  
言語学 東京外語大学名誉教授  
江戸の隠居の道楽は 園芸 釣り お稽古ごと 
究極の道楽は研究とか学問 奥が深くて一番面白い事
言葉の研究 家でも学べる 方言も面白い分野  (伊能忠敬 4000万歩、歩いた)  
私も日本全国 を歩いた
共通語と標準語は違う 共通語は皆に共通すればいい  標準語は統一する  
今の若い人は共通語は使えるが、方言は使えなくなった

方言には臭い、体温がある  
ぎすぎすしてきたのは方言が無くなったことも有りうる  
明治 会津、薩摩では言葉が通じないので 共通語を必要として展開した
「けー」(食べますか)  「くー」(食べます) 「こ」(食べよう 来よう)  
関西は言葉が長くなる 丁寧に成るほど長くなる傾向がある
江戸の敬語は貧弱であり、関西の言葉を取り入れている 
書かないの反対語は書きません(之は関西の言葉を取り入れている)
語感を大切にする必要があると思うが  携帯メール 文字だけになった 

江戸は音の街 東京は文字の街  目の文化になってきている 
ぶぶずけ  お菓子が出た時に何度言ったら手を出すか調査  
京都(5回、一人は絶対てを出さない) 日本の東西の端(1回)  東京(1回か2回)
強情 日本の東西のはずれにおおい(肥後もっかす、津軽じょっぱり)    
秋田では えふりこき (良い振りをする 見栄を張る)  
方言ドラマ おはなはんから始まる この流れは続くと思う  
正岡子規の資料館を伊予弁を使おうという風に提案したが、実際には喋れる人がいなくて現在頓挫している

2012年11月24日土曜日

山田久志(野球解説者64歳)   ・私を育てた秋田



山田久志(野球解説者64歳)  私を育てた秋田
1948年秋田県能代市生まれ 能代高校から社会人野球の富士鉄釜石へ進み、ドラフト一位指名を受けて1969年にプロ野球 阪急ブレーブスに入団 活躍しました
その年に最も活躍した選手に贈られるMVPを史上初の3年連続して受賞  阪急ブレーブスを
7度のリーグ優勝 3度の日本一に大きく貢献されました
アンダーハンドで通算284勝をあげ、史上最高のサブマリーン投手と言われています 
引退後はオリックス、中日のコーチを歴任 2009年ワールドクラシックベースボールでは
日本代表の投手コーチとして連覇に貢献されました

5人兄弟の一番下 小学校の6年の最後 父親を病気で亡くす 
中学校に行く時に 野球とか皆でやるスポーツをやってみたらどうかと母親から言われた
中学校の3年の時に 兄が高校3年で能代高校から甲子園に行く 
兄の姿を見てかっこいいと思った よし甲子園を目指して野球をやろうと能代高校に進学する 高校2年生の夏までピチャーではなかった 2年では3塁手になった  
9回裏2アウト満塁 同点 の場面 ピッチャーを励ます(自分に自信が無い)  
何でもないゴロ 取った 慎重になる ボールをグラブから落としてしまう 
拾って 取った瞬間にファーストに投げる  さよなら暴投してしまった

自分では大きな失敗をしてしまって、3年生の言っている事すら頭に入ってこなかった  
能代に帰ってきて 友人等から来年も有るから頑張れと言われた  
大田監督から言われる  失敗は誰でもある でも失敗を自分で引きずるのも その人の人間性 だけれども、失敗を力に、失敗を糧にして力に変えてゆくのも大切な事だと得々と言われた 
お前は明日からピッチャーをやりなさいと言われた  
ピッチャーとキャッチャーはやったことはない  
中学2年~高校2年の今まで、ピッチャーはやったことが無い 
  
直ぐ3年生になって 3年の夏になった  秋田高校と決勝で対戦  ここで負ける  
この時に野球に対する考え方が全く違った
自分で3振を取った時の快感、 打たれた時の周りの野手の守りで助けたれ事  
奥の深さを感じて、とにかく野球を続けようと思って富士釜石に2名の枠があり入ることが出来た関西の6大学でピッチャーをやっていた人が新監督になった  
その人がアンダーハンドのピッチャーだった  
その監督がアンダーハンドで投げるようにと指摘された、監督の指導のもとに 投手として練習を重ねた

その間1年半 社会人野球の全国大会 東京に行くこと自体が嬉しかった  
自分は試合には関係ないと思っていた  日本生命(優勝候補)と当った
出発する時になって、おまえ先発だと言われた  2~3日まえだったら緊張してだめだった 
結果は何と4対0で完封する プロのスカウトが之を見ていた
本当は日本生命等の人達を見に来ていたと思う  実力は自分が知っている  
とてもじゃないけどプロでは通用しないと思っていた
次に2回で6点取られる(日本生命で自信を付けてその試合に臨んだが)  
その年にドラフトの指名を受ける  11番目であったが  半分の人はプロを勧めたが
母親がなにを考えているんだと お前は富士製鉄に拾って貰った人間だと ちょっと野球をやってちやほやしてもらい、ドラフト会議に乗ったと
じゃあ私は行きますとそいうことは通じるかと、世の中で、 しっかり恩返しをして、しっかり皆に喜んで送って貰えるような、そういう事で初めていけるんじゃないかと
母親から言われた
  
残念だと思いながら引き返した  西鉄ライオンズからだった  私の目標がはっきりしてきた 
会社もバックアップしてくれて43年のドラフトで 阪急ブレーブスから1位で指名されて、入ることになる
1年目は2軍野生活 45年に1軍のピッチャーとしてデビューするが、7連敗 投げても投げても負ける 自分はこの世界では勝てなのではないかと、思うようになる   
6連敗した時に監督に呼ばれる  (西本幸雄さん)  
プロ野球の世界で1個人を呼ぶことはまずない もう一回2軍でやり直しなさいと 言われると思っていた
山田 どうだ 体調は?  そうだな 山田 一生懸命やっているな そういう姿を見ていると勝たしてやりたい  
非常に厳しい状態だからあえて言わして貰う

君に言わなくてはならないのが2つある  阪急は今年は断トツの優勝候補としてスタートした しかし いま5位、6位をうろうろしている
原因の一つに 山田を使い過ぎているからという声が聞こえてくるが、一切気にするな 
君を良かれと思って、君に頑張って欲しいと思って、之からも使ってゆくと
しかし 山田  今年は阪急は優勝すると、スタートした  
今低迷になったときに チームの中から皆で一緒に頑張っているはずの同じユニホームを着ている
チームの中から 監督、コーチは何で勝てない山田を使うんだと もっと山田より調子のいいピッチャーがいるのに、何でださないんだとチームの中から自分の耳に入ってくるようになった  
現場を預かるチームの最高責任者としてこれほど悔しくて情けない事はない 君はそれをどう思う
山田 君が頑張ってるのはその日だけじゃないのかと その日の結果が出ればいいと思っていないか  確かにこの世界は結果がすべてかもしれない  
処がこうして旨く行かない 自分の仕事が旨くいかない その時に自分だけ良ければ良いと 
今日よければいいと言う風な気持ちでいればそういう意見が出てくる

明日投げるときに山田はどうしてる  前々日はどうしてる  やらなくてはいけない事は一杯有るはずだ  それを君は怠ってはいないか
其れをもしやらなくてはいけない事、をしっかり自分がやっていて結果がでなかったら、
周りにいる野手の人はどう思うか  山田はあれ程一生懸命にやっていると
真剣にこのゲームの為にいろんなことをしてきたと 、それでも勝てなかったと、 
勝てなかったんじゃなくて 、我々が勝たして上げられなかったと 我々に責任が
あるんだと、言う風に野手は思ってくれる 
 
そういう選手、ピッチャーになりなさい と  だからそういう気持ちでプロ野球のピッチャーとして考えて行かないと駄目だと とくとくと言われた 
 この世界はそういう事が大切なんだと思った  
今年1年間はどういう成績であろうが どういう1年間になろうが今年は1軍でやって貰う 
但し条件がある 毎日投げる準備をしてくれと言われた これはたまらない 
成績  17敗しました  こんなピッチャーを本当に良く使ってくれたと思う 
チームの成績はと言うと 優勝候補のチームがBクラスでした
45年は私としては 非常に自分の中で助かった1年だった 

プロ野球の人間としてどうしなくてはいけないか なにをしなくてはいけないかと言う事を教わった
経験した  46年には大変な成績を収めることが出来た  巨人と日本シリーズを戦う  
第1戦 巨人  第2戦 阪急(山田投げる)  第3戦  (山田投げる)
第3戦は後楽園で行った 1-0 9回裏 それまでヒット2本に抑えていた 柴田にホアボール  
2死  長嶋が出てくる (投手仲間で一番嫌だと言われている)
センター前ヒット 打たれる 次が王  打たれた瞬間判った 3ランホームラン  マウンドから立ち上がれない状態  非常に大きなショック 誰も来ない 皆がショックを受けた
心の隙 油断が有った 最後の最後まで力を抜いたり、油断してはいけない事を髄まで教わった
当時は30歳を越えて投手は余りいなかったが、シンカーを覚えて40歳まで出来た  
シンカーは誰にも打たれなかったが落合選手から打たれてしまった
人にもシンカーの打ち方を教えてしまう  野球人生が縮じまった
良い出会いに恵まれたお陰  大田先生(ピッチャーへの転換)  中谷監督(富士釜石 アンダースローの体得)  西本監督(プロ野球人としての基本姿勢)

2012年11月22日木曜日

小林修三 (湘南鎌倉・副院長)  ・癒しの医療の原点はモーツアルト



小林修三(湘南鎌倉総合病院副院長)・癒しの医療の原点はモーツアルト
モーツアルトの曲に触発されて、10年前患者の人生に寄り添う、癒しの医療を考える会を立ち上げました  
若くして亡くなったモーツアルトの曲がどういう環境で作られたかを研究しているうちに、医者は患者の生き方にもっと敬意と愛情を持つべきだと思う様になったと言う事です  
音楽大学に進みたかった小林さんは、音楽は楽しむものという父の言う通り医者になってもこよなく音楽を愛し、医療にも役立てています

癒し系 はモーツアルトが一番多いと思いますが  癒し 落ちつきたい、 希望や勇気を貰いたい 悲しみは二つあると思う  絶望的で悲劇的な悲しさと勇気、希望があるような悲しさ   
モーツアルトはどちらかと言うと 悲しいんだけれど希望、勇気が貰えるように聞かせてくれる 
そういう曲を書く 悲しいと言う時は悲しい曲を聴いた方がいい  
元気な時は元気のある曲を聴いた方がいい  「同質の原理」
 
モーツアルトの手紙は沢山残っている 仕事を得るために沢山の手紙を書いた 
35歳で亡くなる 1791年12月5日 死因については殺されたとの一説も有るが、慢性腎臓病の最後のステージ 腎不全 と推定します
6歳のときに、お父さんが書く内容の手紙には 熱が出て、喉が痛い 脛に銅貨ほどの赤い発疹が出ている とある 溶連菌感染 溶連菌による感染症を患っていた (最初)  
 亡くなる前(2週間前) 魔笛のオペラを見ているがその時に倒れ、息苦しいがために寝ていられない様子が絵に有る

レクエム を書いている  絶筆する  鎮魂歌   
作曲している最後がベットに半座位になっており、起きあがって呼吸しなければならない  
心不全 肺に水がたまり息苦しくなる 起き上がると空気が上に行って息が出しやすい
基本的には急性腎炎が慢性腎炎になって10年20年経って、腎臓の働きが徐々に悪くなって、尿毒症になって 心不全になる
吐き気が出てきたり、息苦しさも、イライラ、貧血状態になる 食欲も無くなる  
晩年のモーツアルトはいろいろ辛い状況の中で作曲をして、かくも美しい曲を最後の最後まで書き続けたのだなあと思う 
  
今であったら、治療法があり、もっともっと長く生きられたと思う  
700曲以上作曲した  調子の悪い時、失恋した時 とかいろいろ有ったと思う  
母親が亡くなる時があり  ソナタ  母親を亡くした悲しみ思いが出てくる
音楽はその人の人生やいろんな中で自分の表現の一つとして五線譜の中に様々な思いを出してきた  
演奏家が又きちんと判ってその思いの中で演奏する
自宅ではクラシックを聴く環境は無かった 中学1年生になった時 ステレオを買って貰った 
 ベートーベンの運命 と交響曲8番のレコードを買って来て貰った
当時運動部でしごかれていたがその曲を聴くとよし という気持ちを持てた 
クラシックを聴くようになって モーツアルトを聴くようになり クラリネットをやるようになる

先輩に基本練習をしなさいと言われながら、高校時代 音楽をやりたいと言ったら、父親が音楽は楽しむもものだと言われて、そうかなあと思った
音楽家の選択肢は無くなったがクラリネットを続けた   
音楽と医療の共通項は  一番医療にとって大事なことは患者さんに安心感を与えること 
 命は半年後に無くなるかもしれない それでもほっとした 
先生に診てもらって良かったとある種の安心感は与えられる  
真剣にその人の生きざまに入っていかないといけない
すべての生きざまを頭の中に入って、ご苦労様でしたと、命は助けられないかも知れないけれども、貴方にいい医療を施したいと、その人の生きざまにシンクロナイズさせてを添い遂げてあげる生き方も有るけど死に方 と言う事を如何に最後を遂げるか、遂げさせてあげられるか  
こうしたことまで判って安心感を与えられる医療をやっている 
 
余り医療を過信しすぎない おごり 医学医療をおごってはいけない
所詮運命、生きる機関は決まっている  例え1年 生きる 生きざまをその人の最後をその人の良い方向に持って行ったら良いかを考えた時に 何もかも 医療、医学の力で長生きさせると言うようなおごりは良くない  
生命と言う者に対する奥深さや怖さ、偉大さを考えながら真剣に人の生きざまに対して寄り添って良い命を繋いで行かないといけない
 
アフリカの支援  命は平等であって誰もが助けられる物であるが しかし その国に行くとまだまだ命は不平等  最初に一度もやったこともない血液透析を数年前に行って 一例目を治療した  そのこと自体 地元メディア、厚生大臣が来て ありがとうございます 
我が国でも血液透析が出来るようになりましたと言った後 次には患者さんはどのように選びましょうか  次を助ける人を選ぶ この様な経験は一度も経験したことが無かった  
命は平等ではないと 絶句して、本当に深い 感激の後の現実の苦しみも聞かせてた貰った
日本においてはその様なことは無い 保険も100%持ってくれる  
年金、福祉の問題はあるが、この様な恵まれた国は無い

頼られたら精一杯対応する、常にしている  国によっては出来ない国がある 
経済の問題として 切実、だが現実としてある(お金がある人が優先される)
癒しの医療を考える会  NPO法人 7年になる  癒しと言う言葉は軽々しく感じてしまうが
余りにも人の、患者の気持ちを汲まない医療者の身勝手な医療があちこちに行われていたり、医療はこうだと一方的に従えみたいな 医療が行われている中で その人の生きざまを尊重した、何が大切かを考えながらやる医療が大切だと或る雑誌に投稿した 
其れを見たある患者が先生それは実行したほうがいいですよと 先生は音楽が好きなんだから 音楽なら大好きだと、音楽を通して医療や、生命の有り方を感じようと立ち上げて年2回音楽会をやりながら10年以上続いています
 
音楽療法ではなく モーツアルトやベートーベン そういう話、作曲家も病気をしていたけれどもこんな良い曲を作りましたよ だからめげずに生きて行きましょうね
と言うような そう言う勇気を得られるような音楽会を作っていきたかった
モーツアルトの病気をたどるなか、曲を聴くと言う中で 毎日毎日患者さんに追われ、教育 研究 救急診療外来 沢山の患者さんを見ながら、今だったら助けられる医学と医療がある  
多くの人を助けてあげたい  あの時代は亡くなってゆく しょうがないと言われても 治療して差し上げられたのではないかなあと思う  
引っかかりを感じながら いつも患者さんを診療しながら、常に音楽が重なり合って考えていた  
生きざま この人は何をなさってきた人なのか と いろいろの職業の人を想いながら 良い医療をしてあげたいと思っている

生きると言う事がなんなのかと どういう事が生きると言うことであってその人がそこまで来たかと それを考えざるを得ない
何とか医学を患者さんに役に立って貰いたいと思った時期(米国での研究時代)も有ったが、今、好きな音楽を聴きながら癒しの医療を考える会がある
医学は一つです  でも医療はいくつあってもいい  
医学は真理であり、原理原則であり 真実を求めつつ10年の医学は変わっているかもしれない
とにかく私達は真実を求めながら、医学研究をして医学は とやるわけです 
 
医療は医学という大きな土台の上に乗った治療で有り、診断方法である
そしてその人の個性 医学は一つだが 医療はいくつ有ってもいい   
同じ病気であっても アプローチの仕方、表現は違うわけです
同じ治療をやるにしてもアプローチが違う  どの段階でこの治療をするか多少ずれがあったりする、最終的には治療方法の選択、結果になってゆくわけです
そのためには医学をしっかり判って言う事が必要です  
医学をわかってても、どの様な良い結果を生むかはその人の個性です

よく医者は指揮者の様だと言われるが、違うと思う  
指揮者は自分達の演奏家を作曲家の意図を汲みながら演奏する
医者はもっとたくさんの仕事をしなければいけない  医者は主役で チームを動かさなくてはいけない シナリオも描かなくてはいけない (一人三役)
最後はハッピーエンドに出来れば最高  がん患者、認知症 高齢化社会 どうしたらいいか   
さまざまな高齢の方の任務にも付いていたので、私のできることは内科医として的確な診断を早くして、きちんとしたケアをきちんとして 最後の終末を如何に上手に満足した死を迎えられる事を手助け出来るか 大きな課題となります

2012年11月21日水曜日

藤田三保子(女優)        ・鳩子の海から38年 私の熱中人生 2



藤田三保子(女優)  鳩子の海から38年 私の熱中人生
突然の病  18歳の頃 考えると赤い顔をしていた  
病気の特徴的なのはほっぺの両方が真っ赤に成って 赤い赤班が鼻の上で繋がる 症状が特徴的、だから考えてみるとその頃発症したしたのかもしれません  判りません  
ハシカは 高熱が続いて 1週間40℃の熱が続いた その後から高タンパク尿が続いた
主治医は他に全く症状が無かったものだから、起因性たんぱく尿だろうと 3年ほど放置していた当時6歳と4歳の子供がいた
(相手は再婚だったので)  生命保険に入ろうと思ったら、、病院に行くことになり 腎臓がやられていて、ネフルズ症候群だと判った

でも全然自覚症状が無かった  たまたま其の時に仕事が有って 困ったなあと思っていた  
視聴率が悪くて仕事が中止になり、病院に入院することになった
膠原病を疑う先生だった 腎蔵の組織を取り検査したら、膠原病と判定された 
最初の入院が3か月半(27歳) 強い薬を飲んでいて、少しずつその薬を飲んでいくことだったが 仕事に早く復帰したいと思い、自己判断で一挙に薬を飲むことを止めてしまった  
みるみる痩せてきて喜んでいたら膝に関節痛が表れ、検査して貰ったら再発していた 
そして2カ月半入院することになった(29歳)子供との連絡を公衆電話でいろいろと電話した 
 
子供達に申し訳ないと思い、再々入院だけは止めようと以後先生の言う事をしっかり聞いて治療に専念した  先生からは女優を止めなさいと言われた 不治の病
 薬も良いのが出来て来るだろうからと、それを毎日治しながらそれを待ちなさいと言われた   若かったから、口には出さなかったが、「パンのみに生きるにあらず」 だと思った  
病に関して、最初はっきり判っていなかった  
そのうち段々不安になってきて、中々退院できなくて、入院して自分のベッドの上で 自分と同じころにデビューした人達が主役で活躍している姿を見ると、段々あせってきた  
どうして自分はこんなところにいるんだろうと思ったりするようになった

主人がある一冊の本を持ってきた 「受容」と言う本  読んでいると 最初 難病と言われたときは 驚きがあり 次に怒りが来ると書いて有った
如何して私だけがこういう病気になるのか という怒りが来るという心理的変化の様子が書いてあった 最終的には受容があると書いてあった
この病気を受け入れてこの病気と一緒に生きて行こうと おもう事と書いてあった  
怨んでも怒ってもならない 一緒に歩くしかないと思うようになった
悪く言えば諦めかもしれないけど、絶望するわけではない 良い未来があるかもしれないし、 42.195kmは駆けられないかもしれないけど、50m先までは駆けられるかもしれない 
 
30年後に良い薬が出来たら、間に合わないかもしれないけれども、間に合わないから今どうするかと言えば、そうじゃ無くて1年後にはそういう薬や治療法も出来るのではないかと思うようになって、 しょうがないや一緒に行くしかないと思うようになった  
目の前に2人の子供がいたことも良かった 身の回りの作業に追いまわされているうちに、5年経ち、10年経ち そういう事に日々追われていた
病の中を並行して家の事 食事 洗濯等々やってきた

子供を産む事 人生最大の決断だった 妊娠は完全に薬を飲まなくなってから、5年後にお願いしますと言われて、自分の年齢を考えると子供は産めないなと思った 
ドクターストップがかかっていたが、或る時に妊娠が判った あの時は困った 
どうしても出産するのであればプロジェクトを作ると 言われた
我々は医者であって如何しても生みたいとの思いがあれば、止めることはできませんと医者から言われた
最悪の場合を教えてくれた 身障者が生れる確率が25倍  母親が寝たきりになる可能性もあるといわれた

その間の 時は 暗闇の時代だった 主人は一貫して産めばいいと言っていた  
考えて考えて 悩んで、悩んでいる時 先生も女性の先生で強皮症という膠原病を患った先生だった 先生も妊娠して、子供を産んだ先生で 「藤田さん 産んでから考えなさい」と言われた  
それで私は「女は強し」と思った それから産む決心をした   帝王切開で生まれた 
その子は25歳になる ベストで生まれた わたしも2カ月の入院で済んだ
生れた直後の子供を見たのがターニングポイントですね  女優はもう駄目だろうと思っていた  
求人広告を見たら30歳以下だし  子供が例えば5歳になったときに、お母さんはどういう人だったのと言われた時にお母さんはね昔こういう有名な女優だったのとは絶対に言いたくないと思った  
ずーっと表現者でいたい  娘が20歳になったときに お母さんの人生は素敵な人生ねと言われる様にと思った それがターニングポイント
女優なのに着物一つ着れない状態だった 着物を着られるようになろうと着物教室に行った  免除は貰ったが人に着せる事も出来ない 早く着る事も出来ない
女優なのに日舞もできない そうだ日舞をやろうと思った  
日舞に通いながら着ものを早く着れる様になると思って始めた 
そうしてるうちに踊りだけやってても旨くなれない 三味線を習いに行き始めた 
和物だけをやっていてもしょうがない 洋物も カラオケ教室に行き始めたら カラオケじゃ駄目だと言う事が判ってタップダンス教室に行った  
ジャズ教室にいき いろいろやっているうちに仮面の会 (吞み会)にいった いろいろな人が参加していた
 
絵描き、イラストレーター等の話しが面白くて面白くて  月1回 参加した 下らない話だが  
何かしなくてはいけないと思っているうちに 絵描きさんから(女性)
案内状が来て 久保田雅子さんに出会う事が出来て 家が非常に近かった 
番組で白馬三山のスケッチしてほしいとディレクターから言われた
其れを書いて番組の中で数秒流れて、それを久保田さんが見てくれて、絵が描けると言われ、絵を習ったこともないしと居たら、家に来なさいと言われた
この人の言葉に乗ってみようと思った  
自分にはどういう絵が合うのだろうと思って、いろいろな絵を描いた

個展 14回目を今年やった  朗読 シャンソンとかに広がってゆく  朗読は一人で出来るので 
長く読んでも30分なのでショーにならないので考えて音を入れたら  良いのではないかと、思った 中原中也の詩を読むときに、マンドリンを入れたり 笛を入れたり  平家物語にチェロ入れたりしたが、楽譜は無いのと言われた  
困ってしまって 友人からシャンソンやらないと言われた  
音楽も入れられるし、年を取っていっても出来る 一人でもできると言う事でシャンソンを始めた
月 1回のライブをやってい(10年目に入る) 最初日本語だったが、フランス語で歌うようになった
俳句 仮面の会のお陰  吉田さんに声を掛けられて、(小さい頃詩人になりたかった)  
行きますと言った
俳句の魅了に取り憑かれた  奥の深さに感動した   けちょんけちょんに批評された
俳句絵を防府天満宮に奉納した  96年から油絵を始めたが、なぜ俳句絵を描かないのかと言われ水彩画をやった  水彩画による俳句絵をやる
防府天満宮の1100年紀で奉納の話があり、奉納することになった  

人間はやっぱり家族が無ければいけないんだなあと思いますね  
子供のころは一人で暮らしていたので温かい家庭が欲しかった
「山頭女」という雅号    「無言なる 身のかんぬきや 落とし水」  
かんぬき は黙っていて そこに停滞しているわけ それではいかんだろう  
稲の様に堰を切って水を落とす  落とし水のその日が無ければいけない 
無言じゃいけないだろうなあという思いから 作った

2012年11月20日火曜日

藤田三保子(女優)       ・鳩子の海から38年 私の熱中人生



藤田三保子(女優)   鳩子の海から38年 私の熱中人生
46年3月高校卒業後 女優になりたいとひとり上京 卒業後 5日後の事 48年劇団文学座 
付属研究所に入り、49年の朝のTV小説 NHK 鳩子の海のヒロインに    TVドラマ等に活躍するうちに過労で疲れが溜まり、身体の調子がすっきりしませんでした 
そしてその原因が難病 膠原病でした   
私は負けないという気持ちを持ち、さまざまな試練を乗り越えてきました 
病と闘いながら、子育てをして 人生を切り開いてきました 

167cmデビュー当時あった 女優としては私が一番高かったと思います   
今は若い時みたいに調子はいいです
「鳩子の海」から38年になる   斉藤こずえ は40歳を超えている 当時6歳  
鳩子の大人時代(18歳から42歳)を演じることになる
13,4歳のころに女優への思いを思い立った 母が新派の女優をしていた 
母は2歳のときに離婚  兄と、私を女手一つで育ててくれた

6歳までは転々としていた  
旅館に住み込みだと1000円プラスになると言う事で旅館に住み込みで母は働いた
別のところに預けられて育った  
2年生になって直ぐに別の山奥の処に引っ越すことになる (母親の恋愛と関係してた様だ)  2年生の時から中学までそこで過ごす  言葉使いがちょっと違うと言う事でいじめられた 
父親がいないという事で白眼視された  
学校からも社会からもいじめられた  中学校1年の時に母が借金をして そこに居られなくて 夜逃げ同然に逃げた  兄が東京で働きながら高校に行っていた

私は借家で一人で家にいた(12歳)  母から電話がかかってきて、防府で住めるところが見つかったので、こちらに来るようにとの連絡が入る
引っ越し荷物を一人で作って、運送屋さんに迎えて来て貰い、防府に引っ越す 
ようやく母と一緒に暮らせると思ったら、又そこは家族の内でそこに預けられる事になる
母はホテルの住み込みとして働く そこでも又トラブルがあり 別の処に引っ越す  
母が店を持つことになり、ようやく母と住めるようになった
凄くうれしかったが3年しか住めなかった  防府高校を受験して入った  
入ったら親友を見つけたいと思った

防府での店が借金で手放すことになった  引っ越すと母が言うので私は嫌だと反対した 
高校は変わらなくて良いと言う事になって高校1年の時に引っ越しをした
湯田温泉から山陽本線に乗り換えて学校に通うようになる  防府高校には演劇部は無かった 図書館に行って演劇の本を探したが10冊ぐらいしかなかった
「俳優術」とか借りてきて読んだ  3年生になってアルバイトをしながら 行きの運賃位は稼ごうと稼いで、卒業後5日後に東京に出掛けた
兎に角 この土地から出たいと思った  見送りは親友と母だけだった  
母が泣きだして、不思議だなあと思った 死に別れでも無いのになんで泣くのだろうと思った
そして次の瞬間 ワーッと私が泣きだしてしまった
  
木更津に母の弟がいたので木更津に行った   
歌手の家に住むようになる  1年居たら文学座などを受験させるということだったが、どうもおかしいと思って マネージャーに話すと、絵を描く画家を紹介してくれた
その画家の人が良い人で アトリエの隣の小さな部屋にベッドが置いてあり そこに住んでもいいよと言ってくれた モデルをやって資金を稼げた
役者になりたくて上京した事を画家に話すと 受験してこいと言われた  
受験、その後の授業料は出世払いで良いからと言われて画然張り切った

文学座と雲 を受けて、発表の日を待った 劇団雲は補欠  文学座は夜の部が出来たので そこにいける事が出来た
昼間はアルバイトして資金を稼いだ  むしろ夜の部の方が良かった 昼間の部であると 夜 アルバイトをするのは働く場所が限定されてしまう(水商売とか)
浦野進さんが(NHK 鳩子の海のプロヂューサー)卒業公演を見に来てくれていて、オーディションを受けに来いと言われ、オーディションを受けに行った

鳩子の海を終了してからもう一度、研究生に成れと言われた 
2回目の時は中村雅俊さんが同期生だった
オーディションに応募したのが、1500人最初は有ったとの事  一次選考は写真 
劇団の人は第二次選考からだった  
鳩子の海 は山口県を舞台にしたもので それを聞いたときには電流が走った(受かる前) 
最高は取聴率50%を越えた時が有った
思ったほどは仕事が来なかった  紅白歌合戦の審査員の声は来なかった   
Gメン75 の紅一点の役を貰う   ハードスケジュールだった
あんな仕事は2度とない  朝から朝まで 朝から朝まで と言ったような感じだった 
終わってから半年間寝ていた 

2012年11月19日月曜日

雨田光弘(チェロ奏者、画家)    ・自由な心で描き、奏でる 2

雨田光弘(チェロ奏者、画家76歳)     自由な心で描き、奏でる 2  
画家として本格的に活躍し始めたのは 室内楽を始めた頃  
再開のきっかけは チェロをやっていた時絵はやりたいと思っていたが、先生から絵を如何して やらないのと言われて封印を解きました
(理解の有る先生だったので書いてもいいのかなあと思った)  
小さい頃から絵を描くのは好きだった 褒められると描くので、描くようになる  
3~4歳のころから鉛筆を握れるようになってからふすまなどに落書きした
父は喜んでいた 子煩悩だった そのときに怒ればやらなかったと思う 
唐紙に書いたものを切り取って保存してくれた
子供の絵は面白い 思いもつかない構図だったりする

オーケストラにいるときにも書かされたりしたことはある 
プラカードとか  今でも画家だとは思っていない 子供の頃の延長だと思っている
父の知り合いで串田孫一さんが絵を見てくれて、雑誌にさし絵として描いてくれとい言われて描いた
絵が有ってそれに文章を書いてくれた 別に作家と話あって描いた絵ではない
テーマが猫 初めは猫は好きではなかった 
家の者が猫を飼いだしたら、猫が可愛くなって、顔つきが人間と同じように、目が正面にあるし表情が個性がある
30歳代の頃  身体の動きが面白い  猫全体が私は好きで、出あったりすると猫に挨拶する 人と人を繋げてくれる
猫のチェロ奏者が4匹弾いている 猫の指揮者がタクトを踊るように振ろうとしている 
4匹の猫の一番後ろの猫が後ろを向いてあかんべーをしている絵
「遅れてきたチェリストが見た風景」 という題名 チェリストは楽器が重いから遅れてくる 後ろの人はこういう気分かなと、まえの人よりは気が楽なので   
昔の方が家族的だった (社会そのものズバリだった)
 
演奏会をやる時は皆緊張している  異常な状態なので思わぬことが起きる事がある 
水墨画 墨と水彩で描く  
頭のなかでは出来てしまっていて 紙に写すことだけの事も有るし、頭に浮かばないときも有る 割合短期間に書いてしまう
思う浮かばないときには、紙のしわから 発想して展開する時も有る  
失敗してしまった線とかを利用する時も有る
チェロはいつ何時しっぱいすることが有るか判らないので、恐れがいつ有るか 絵の方は失敗すると言う事が考えられないと言うか、何とかなる
絵の方が精神的に楽 頼まれた絵しかやらないが チェロは頼まれていない物まで勉強しないといけない

エスプリ 毒とも言えるような表現ものがあるが  動きを想像して 筆で書いているかもしれない 
筆の方がしっかりとめて書く事があるが動いているようにもできる
筆の線を生かすようにしている    見る側も次の動きを想像する 
描く時に音を想像して描く 
優しい音楽の時は優しい線で書くと言う風に、聴きながら描く事もある
絵は楽しいが、描いてしまうと、自分の手から離れて行ってしまう  
愛着がいつまでも絵に対してない   
チェロを弾いてて録音等を聞いてて恥ずかしい思いをするが、絵はその様なことは無い  
取り組んでいる割合は如何しているのか 決めてはいない 
最近は本当にごちゃごちゃになっている
 
ふっと描きたくなる 又ふっとチェロを弾きたくなる  
絵の方は昔と比べると大分変ってきた
本当に絵は何のために有るのか 
人に見せるため、人に見て貰う為に 音楽は人に聞いて貰う為に有る     
だけれども自分の無理したものを人に見せたり聞いて貰うのはあんまりみっとも良くない 
出来ることを、聞かせられる事だけを聞いて貰いたい 特に無理はしたくない  
猫しか書かない  猫を見ると人に見えるし、猫を見ると人に見えてくる  

2012年11月18日日曜日

雨田光弘(チェロ奏者、画家)    ・自由な心で描き、奏でる

雨田光弘(チェロ奏者、画家76歳)     自由な心で描き、奏でる  
1935年東京の生れ日本フィルハーモーニー楽団で12年間在籍 主席チェロ奏者として活躍、退団後はソロや室内楽に活躍の場を広げる一方で、幼い頃から得意だった、絵の創作に本格的に取り組んできました  
オーケストラに在籍した時代の体験を生かし、楽器を弾く猫を題材にした水墨画を数多く手がけ 画集や、カレンダーを初め、ファイルなどの文房具などに描かれている絵として親しまれています 音楽と絵と言う2つの世界をどのように極めてきたのか、その心とは何かお聞きしました  

中学の頃 チェロの音が好きに成り、始める  
毎日弾かないと、、罪悪感があるような気がする 
顔を洗うとか、歯を磨くと同じような感覚 2~3時間練習する
アマとは練習の仕方が違う 楽しいとは言えない 
引けば弾くほど旨くなるというか先に又見えてきて 捕まえたということは無い
絵と音楽はある意味違うと思う   暗譜しなくてはいけないと言う事ではないが、覚えてしまう
父は雨田光平 日本で最初にハープを最初に入れた人であり、彫刻家です  
琴も弾くし、書も書くし、絵も描いていた
勤め人の家庭とは違っていた 羨ましい様な、羨ましくないような
最初に絵描きになりたいと思っていたが、音楽の方に進むようになった
親としては両方やりなさいとの方向の意見でした
シャガールもバイオリンを弾いた  
音楽をやることによって、絵に影響を及ぼすことがあるし、音楽を通じて、絵に影響を及ぼすことがある
基本をしっかりとやりなさいと言われた   桐朋学園に音楽の勉強の為に入学した  
18歳のときに中途退学して、チェロの勉強をして桐朋学園に入った
遅く始めたと言う事が今でも引きずっている  
子供のころからやっている人達は楽器を弾く事が綱渡りではない 綱にまたがっている 
ようやくぶら下がっている状態です  
子供のころからやっている人は休んでも、直ぐに元に戻るが 私などは常に練習していないと駄目  スタートラインが違う
好きだから諦めなかった  自分の出来る限りの処で満足しなくてはいけない  
高校を出て2年間 桐朋短期大学にまなんだ  1年 2年の区別は無かった
レッスンは厳しかった 

技術的なことばっかり言われたことが、音楽的な事を言われたりするようになった
卒業し、それまでの6年間ではまだまだでレッスンには行った  
仕送りは止められて、途方に暮れていた時に、アルバイトを見つけてくれて、キャバレーのバンドの 一員としていたことはある 
異質の世界 見たこともない様な、その様な生活も面白かった   そういう時代が有った  
何でも勉強になると言う先生の意向が有った、質の違う音楽であるが  
26歳のときに 日本フィルファーモニー楽団に受かった  憧れではあった  10人チェロの人がいた  最初はなにがなんだか判らず弾いていた

段々年月がたてば新しい人が入っていて 丁稚から番頭までいるような状態  
当時の指揮者が渡辺昭雄先生から小沢さんに変わった 一層厳しくなった
小沢さんは自分の思い通りにすると云うやり方だった  
共鳴する人もいれば、反発する人がいる 
或る時に主席に成れと小沢さんから言われた (チェロ奏者の責任者) 
弾きながら指示をだす重要な地位
気が動転して、実際の処やめたかったが、修行の一つと思い 続けた  
間違った当人を怒るのではなくて、主席に対して怒る

喜びはあんまり感じないで、プレシャーを感じていた   
日本フィルは二つに分かれて解散した 
残った人もいたが、外に出て行った人もいた(私も出て行った)
自分達の仲間たちで形成する 室内楽  自由さはあった  
オーケストラと室内楽はそれぞれ いいところがあるので、どっちがいいとは言えない
音楽と絵を結び付けたようなコンサートをやる様になった 
オーケストラにいたころは忙しくて、絵を描いている暇は無かった

2012年11月17日土曜日

永瀬忠志(冒険家56歳)      ・リヤカーマンが教える冒険スピリット 

永瀬忠志(冒険家56歳) ・リヤカーマンが教える冒険スピリット 
これまで地球を1周以上歩きました  荷物を乗せたリヤカーを引っ張りながら歩きます 
これまで19歳のときに日本縦断、 22歳からは世界に挑戦 貯金しては
歩き、貯金しては歩き、30年かけて5大陸をすべてを踏破、平成18年には、型破りな冒険で少年少女に夢を与えたと言う事で第10回植村直己賞を受賞
教員免許を持っていることで、一昨年の春から大阪の高校の非常勤講師となり 
冒険スピリットを教えています

田吾作3号 リヤカー名 アフリカを歩いた時のリヤカー  サハラ砂漠でまえに進まないときにスキーの板の様な板を使って その板を利用してまえに進む
水を沢山使う時には60L他のものも含めて90kgになるので、リュックサックでは持ち歩けないので、リヤカーにしている 
2か月分の食糧のほかにコンロとかいろいろ 持って行った  
塩湖ではでこぼこが激しくて、1日6km位しか進めないときが有った
(でこぼこを砕きながら歩く日が有った)
アフリカで使った靴 10足用意したが5足で済んだ 
穴が開いた靴 2800km位で足の裏に穴が開く
 
植村直己冒険賞 受賞  島根県出雲市に生まれる  
小学校4年になったときに 6年生に誘われて自転車で遠くに行った 20km位の旅だった
其の時楽しくてまだ見た事の無い風景を見たり、知らない人と出会う事が出来て嬉しかった  
それから日帰りで自転車に乗って良く行くようになった
高校1年になったときに 夏休みが終わって学校に登校したら、2人が真っ黒な顔をしていて、聞いたら2人で自転車に乗って島根県から大阪まで行って来た
という話を聞いて、自分はいつも日帰りしかして無かったので、刺激されて高校3年生の時に3日掛って、大阪に行ってきました

大学1年の時に 自転車で海岸べりを日本一周してきた  
来年の夏休みどこへ行こうか考えた日本の中央を縦断しようかと思った 
距離を計算したら3200km
海岸部を廻ったときは7500kmだったので半分の距離もない 
自転車で十分いけると思っていた歩いてみようかと考えるようになった
大学2年の時に日本縦断を歩いて旅をした 
歩く旅は荷物を自分で持って運ばなくてはいけなかった  荷物が増えて重くなった
北海道に行ったときにリヤカーを見かけた (前年)  
北海道で中古のリヤカーを購入して旅をするようになった

廃品回収業と間違われたりした  不審な人が歩いていると言われて、駐在所に連れて行かれた事が有った
大学を出て就職をしなかった 歩く旅はなかなかさきに進まない旅だけれどもいろいろな人に出会えるし、ゆっくり風景が見られる
今度は世界を歩いてみたいなあと思うようになった  大学3年4年はアルバイトでお金を稼いだ 
オーストラリア横断を考えた  4200km位  途中に半砂漠地帯がある 
54度まで気温が上がる時が有った  熱風が吹いてくる 歩くに歩けない 
水筒の水を頭からかぶったが熱湯になっていた もうこんな旅二度としたくない 
之が終わったら楽しい人生を送りたいなあと思って、後100kmで旅が終わってしまうと
旅が終わってしまうのかなあと寂しさがあった(半分半分の気持ち) 
アフリカも歩けるかもしれないと思い 又アルバイトをして26歳のときにアフリカに行きました
12000km 1年間かけて歩こうと思った 6700km行ったところでナイジェリアの街に着いた時に
リヤカーを荷物ごと盗まれてしまった

其の瞬間 嬉しかった これで旅を終える  歩かなくても良い アフリカの旅の2,3日目ぐらいから旅を続けない理由が無いかなと考えていた 7か月掛ってここに着いた 
リヤカーを盗まれることによって、これで旅を辞められると思った  
日本人にお金を借りて、日本に帰る支度をしていた
飛行機を予約して、飛行場に行く前に最後にリヤカーが盗まれた場所に行ってみるとやっぱりなんにもない  
その道を見ていて、ここまで来る事を次々に思いだしてきて、ようしもう一回やり直そう と強く思ちゃったんです

もう一度第一歩からやり直そうと 33歳の時実行(6年後) 其の時に使ったのが田吾作3号です376日掛ったケニア サハラ砂漠 フランスのパリまで14100km歩いた
46歳~47歳にかけて南アメリカ縦断 10000km歩く計画で行った  
ブラジルのアマゾンに行ったときに、ジャガーが出るので危ないと地元の人に言われた
(結婚して二人目の子供が出来て、生後11カ月の子供がいた時にこの旅を出発した) 
次の街まで580km離れている  客船で行った方がいいと言われる
迷って、迷って、歩こうという決断が出来ずに 船で行った  8800kmを 266日掛って歩いた  
旅を終わってあすこを歩かなかったなあとの想いがあり
ジャガーがいると言われた処を再度 歩く事にした 
 
時々大きなガサガサと大きな音がする  其の時に用意した音の出る笛のようなもので吠える
病気になった事は?  二回目のアフリカの時に40.8度の熱で病気に行ったらマラリヤだった  
10日間で直って進むことにした
旅が長くなれば、長くなるほど寂しさが増してくる  また朝が来ると思って眠る  
朝が来ると、また朝が来てしまったと思う しょうがないから起きて出発する
歩き始めると、悲しくてしょうがない ただ悲しい こんな旅をしていることが寂しい  
かまわずに泣くんです 泣きながら歩いていると 2.3時間して泣きながらいると  
自然に気持ちが静まってきて作業をするようになる  
あっちの方が砂が堅いんじゃないかと考えたり 我慢して我慢して歩いて行くと砂嵐になった時に風でいろんな事が起きる  我慢して、我慢して歩いていると そのうち我慢しきれなくなることがある,我慢の限界を超えてしまうようなことがある

沙漠を進む時に砂の上に板を敷いてリヤカーを引っ張って、砂嵐の中でやっている時の、
風で板がカーンと自分の足の骨に当った時とか、弁慶の泣き所にガーンと 当ったときはお―痛くて 痛くて 風に対していろんなことが起きる 
それを我慢して我慢してして歩いているのに もう我慢出来ない
風に向かって この野郎  もういい加減にしろ と怒鳴る  
2分か3分 風に全身で怒って居ると また自然に心が静まってくる  又それで作業を続ける
旅の途上で振り返ったときに 俺は こんなときにこんなことを思うんだなと あんな時のあんな行動をするんだなと 自分でも知らない自分に出会う楽しみを見つけた
生徒に何かを伝えるのに 中々思っているだけでは伝わらない  
冒険スピリット10カ条を教える

(1)立ち止まっていてもなにも動かない(俺はなにしているんだろう  答えが出てこない  
  頭の中が空白状態なる これだけははっきり判る 立ち止まっていてもなにも動かない)
(2)自分に出来る事は小さいことでもすこしずつでもやってみる (中々まえに進まない 歩くのが  嫌になる 10日間でまえに進む 先の事を考えると出来ないかも知れない
  自分にできることを少しずつ積み重ねて行けば出来るんじゃないかと思う)
(3)先が見えないと不安だが、だからこそ面白い(30歳の時 教員になったが 
  先が見えてしまった 先が見える旅は面白くない 先が見えない旅は不安だが面白い)
(4)一瞬の大きな喜びが明日への力になる  (歩いている時は、辞めたい、
  帰りたいと思っている時間とても多い 1%~2%ここまで来て良かったなあと思う
  其の時の喜びが大きいから、又やろと思う事になる)
(5)決断の時に心の比重の重い方にいけ( こっちに行こうか、あっちに行こうか 迷った時に   心の想いが強い方にいく  なにが起ろうが悔いは残らない)
(6)自然が自分でも知らなかった自分を教えてくれる 
(7)今日何かいい事があるかもしれない、そう信じて 朝の一歩を踏み出せ
 (最悪の事が起きるんじゃないかと思うと一歩が踏み出せない)
(8)耐えて、耐えて、悲しくなっても耐えてゆけ(母親が27歳のときに亡くなった 
  母親の顔が浮かんできて 母が口癖のようにいっていた 「またいい事があるから」
  母を思い浮かべて、問いかけると 母親が 「またいい事があるから」 と言ってくれる)
(9)一つの事をやり遂げれば、新しい目標が見えてくる(やらなければ次なにしていいか判らない 一つの事をやったらできた 出来たら之もできるかも知れない 
  次の目標が見えてくる  其れが出来たら 又次の目標が出てくる たとえ失敗しても良い)
(10)野で食べ、野に宿り 野を歩く野人に成れ(生徒に、どこででも生きていける、
  そういう人になってほしい)
  いつか歩けなくなるが、歩けなくなるまで 歩いていたい

2012年11月16日金曜日

川島みどり(看護大学名誉教授)  ・楽しくなければ介護じゃない 2


 川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授 )    楽しくなければ介護じゃない
27歳で結婚 寮にいる限りは結婚できない 結婚する相手が当時は戦死して少なかった  
昭和30年ころから結婚しても辞めないということが必要であると思った
寮から出る事に数人が実施した  外に出て初めて、如何に給料が安かったか、人間としての目覚めと結婚もして、保育所が必要と想い、院内保育所を物置を改造して、作った  
結婚をすることは勿論、子供を産む事自体も嫌みを言われたりした  
夫が癌で亡くなる 5年前  9か月間は在宅で過ごした  
其の時感じたのは訪問看護ステーションと介護ヘルパーの人との間で、連係が取れて無くて
夫は舌を取ってしまったので、筆談なんです いつも両方の調整を夫がしていた  
いろんなことを勉強した

働きながら、介護してゆくことは大変 ぎりぎりまではトイレに行けたのでその点はよかったが 食事は大切だと言っていたので 毎日ミキサー食 (数種類)
仕事が介護の逃避になれた 又介護が又逃避になれた    
仕事をしないで介護をした方が楽だとおもわれるかもしれないが、介護だけでは厳しい
だけど1年が限界だった  それより長くなるとどうにもならなくなっていたと思う
介護を受ける方  言葉、しぐさ、まなざし 優しさが一番  優しさの基本は二つある  
介護の方法を熟知すること(自信が出来るから ゆとりを持ってケア出来る)
心身共に疲れていないこと(上手に手抜きする  
大事な事と、大事ではない事の優先順位を付ける  完璧主義は駄目)
自分が兎に角マスターすること   息抜きをすること それが大事ですね  
一人で悩まない事(陰で叫べばいい)

介護を受ける方も ありがとうとの感謝 自分から動きやすい様な動作を心がける   
介護する方よりも介護される方が辛い
治る、自分が治りたいとか、治ると言う気持ちがあったら 治ってゆく  
触れると言う事は重要なこと  看護師もディスプレイを見るようになり、手を使わなくなった
看護の基本から離れて行っている  手はいろいろと情報を提供してくれる  
まなざし、ことば、ででも触れる事が出来る 人と人の触れ合い
肺がん末期患者  看護されるのを全部拒否していた人がいた  しかめっ面をしていた  
脈をとって、足を10分くらい さすっていた 
 
そうしたら貴方の手は熱いから手を冷やしてからお願いします と言われ 手を冷たくして 再びさすってあげたら 少しして「お疲れですからもう結構です  ありがとう 」 と言われた  
相手がケアを提案してくれた  触れるということは大事だと思います   
脈の取り方 手の甲を静かに柔らかくなでてやる  そうするとコミュニケーションが出来る
認知症の介護  治るという立場を取っている(緩和)  

寝かせたままではいけないので起こして しっかりと垂直に起こす (補助具を作った)
昔のことは覚えているので その中に治すヒントがあるので それをきかけに繰り返し繰り返し対応する  
その人の一番大切にしていることとか 楽しい思い出をヒントにして対応しているうちに治った例が結構ある  
根気がいる 3週間ぐらい毎日毎日 同じ事を繰り返す  直ぐには変化しない  
何で私のこんなに対応してくれるのだろうと想ってくれることがいい方向に向かう一つのポイント 看護の歴史をしっかりと書き残しておきたい

2012年11月15日木曜日

川島みどり(看護大学名誉教授)  ・楽しくなければ介護じゃない


川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授 )        楽しくなければ介護じゃない
島根県生まれ  日本赤十字女子専門学校の学生寮に入り、戦後の日本の看護を担う生徒として学んできました   
熱湯とタオルがあれば人を直すことが出来る との信念に60年間 看護師として患者と向き合い 看護の研究や若い看護師の指導に当たってきました
平成19年にはナイチンゲール徽章を受賞されています

まるまる本当の看護師としては20年です  基礎的な勉強がしたいと思って仕事を離れた  
講演に来てほしいとか言われて、そういう方向に行ってしまった
いろんなところに飛んで回っている  
講演、看護学校の学園祭 とか 大学の公開講座にとか 行っている
話す内容は前もって決めている 
執筆の方は文献とか読まないといけないので 乗り物の中が書斎です
先輩から、卒業してからはどのように専門的な知識を吸収するかによって、ずーっと差が出来てしまうと言われて、毎日勉強しようと専門書を読んでいた

結婚後時間がないので、乗り物の中で読むようにした
昭和21年から高等看護学校を作って その4回生です  
勉強は紙が無いので、教科書が無く、ノートだけで聞いて、書きこむだけだった  
当時はとにかく物が無かった 工夫をしながらやりました
病院実習として看護師が足りなくて夜 勤務する  そのハードトーレニングが役に立った  
自分が犠牲になっても、看護しなければいけないとか、患者さんに対して平等でなくてはいけない 差別をしてはいけないと言われた  
とことん叩き込まれた  
事故を起こさないように、針の数が1本無くても叩き起こされてチェックされた     
実践で身に付けさせられた  
 
ベットはしわが無いのがベット  職業を選ぶということは 女性の職業は限られていた  
今の女性は職業の選択が自由 今の女性は打たれ弱い最近特に強い
あの頃は先生がたが厳しかった  全寮制だった  寮を出ると言う事は退職願を出す事だった白衣とパジャマがあれば他にはいらないという事だった
社会性は無かった 白衣の天使は作られた虚像だった  
食べ物が無くて、本当に大変だった
人間には回復力がある 
医療の場合は外から 注射をしたり薬を与えて治すが、中に持っている直る力を引き出す  
これが看護の原点(ナイチンゲールの話し)
あらゆる病気は回復過程である  その回復過程を整えるのが看護である  
新鮮な空気、暖かさ 規則正しい食事 光 そういったものをきちっと提供する

一人一人の持っている生命力を整えるのが看護だと言っている   
生命に対して中から引き出す 
明治時代から、医師の手伝いをする職業として始まる  
看護の本来の業務 と 医師の診療の補助 の二つが仕事の内容
医療は物凄く進歩している  人間が生きて行くには欠かせない事がある 
コミュニケーションを持つ 勉強、学習する   これは自分がやらないと解決しない 
病気、手術、幼い子、高齢者、自分で出来ない状態を、自分で出来るようにお手伝いするのが看護
免疫力を高める
(身体を拭く事によって副交感神経を高めて、免疫力を高める。
言葉かけをして気持ちよくしてあげる) 

介護、看護、生活行動の援助、暮らし、食べる 、眠る 、トイレに行く等を主として生活のお手伝いするのが介護
本当は同じだと思う 高齢者が増えて看護師だけでは足りなくなり 平成12年 介護福祉法が出来て介護職が誕生する
ケアをするのは人間本来の営み それが進んで専門職が出来る

韓国で生まれて 韓国、中国を転々として 15歳までいた(父が銀行員だったので転勤が多かった)  敗戦のときは北京にいた (治安はさほど悪くは無かった)
6人兄弟だったので乳呑み子が居て、大変だった アメリカの船で先崎に着いた  
島根県に帰ってきた(父の故郷) 
お金が無かったので働かなくてはいけなかったので、お金が無くても勉強出来る道があると紹介してくれたのが、せいろか女専だった(行こうと思ったのは2人いた)
伯父が一人は日赤にしなさいと言われて、日赤にした

専門書はずーっと離さず持っていて勉強していた  大変だから続けてきた  
最後のハードルを越えた(困難)のは自分の力 自分の喜び 
診療の補助に偏ってしまって、本当の看護する場面が少ない  
自然治癒力を高めて、患者さんの気持ちをやわらげてやる
脊髄腫瘍の子供が来た  仰向けに出来ない状態だった  
お婆さんの様な顔をしていた(痛いよう 痛いようといって)
お湯を汲んで来て、脈を見たら 良くない(数えれれないほど早い) 足だけ洗いましょうねと言
て足だけ洗った  
1週間かけて、徐々に身体全体を拭いてあげた
背中の一番怖いところをガーゼで拭いてあげたら、にっこり笑って ほっぺがピンク色で ありがとうと言って、看護婦さんお腹がすいたと言った

全然食べて無かったので、配膳室に行って、おかゆを作ってあげたら、美味しそうに食べた  
脈が正常に成っていた
放っておいたら1週間で亡くなったと思うが、3か月以上少女らしい生活を病院で過ごした
ナイチンゲールの全訳本をその少女の看護をしてから、10年後に読んだ  
安楽と言うものは、それまでのその人の生命を脅かしたもの、が取り除かれて、再び生命が生き生きと動き出した兆候だ と  あっとそれを呼んで感じた  
彼女の生命を脅かしていたのは 「おでき」ではなくて 「垢」なんだと  
全身を覆っていた垢なんだと判った  
気持ちがゆったりした感じに成って、副交感神経が刺激されて 消化器が働き、胃液が分泌されて、「お腹がすいた」と言う事に成って、同時に直る力が出てきて脈が回復したと思われる  
これが私の看護の原点です

2012年11月14日水曜日

リヒテルズ・直子(主婦)       ・異文化から学んだ私の人生


リヒテルズ・直子(主婦)               異文化から学んだ私の人生
1981-83年、国際文化教育交流財団から報償奨学金を受け、マレーシア国立マラヤ大学に研究留学
オランダに16年 在住  その前の15年間 留学先のマレーシアで農業指導員のオランダ人と結婚 以後ケニア コスタリカ ボリビアと現地で農業指導する御主人と日本では体験できないような生活をしてきました  
自身を含め 日本人は自分の意見を相手にはっきりと伝える事が下手だとリヒテルズ・直子さんに 31年間 の海外生活から学んだことなどを伺います   「祖国よ、安心と幸せの国となれ」  

身近な家族はみんなオランダに 居るので(両親は亡くなってしまった) オランダに永住することを考えている
15年間  マレーシア ケニア コスタリカ ボリビア  学生の時にヨーロッパに行ってもっと面白いところは無いかなと思った  イギリス(余り元気が無かった、魅力を感じなかった)
マレーシアを選ぶ(タイとかも行きたかった)  中国人もインド人もいて 気になった  
英国の植民地だった ので英語が通じれば、何とかなると思った
父からは心配されて、世話をして貰う処などを紹介して貰った  
マレーシアのいなかに行って、宗教の事で真っ二つに分かれて行った
大きな原因は 開発援助資金が回ってくるが、どこにその資金を回すのか、宗教の問題(イスラム教)とも絡む

主人が稲作の灌漑用水路の仕事(国連の農業の専門家として入っていた)をしていた  
たまたま出会って、結婚することになる  (大反対にはあったが)
東海岸 で油田が見つかり 脚光を浴び始めた時だった 当時の東海岸は本当にいなかだった オランダは低い土地なので灌漑用水の技術は発達していた   
その後ケニアに行く 赤道が走っている 東側の方  動物王国   
ケニアでも農業指導を夫はしていた 遊牧民に農業を教えようとした  
川の流れがどういう方に行くか判らない様なので難しい(乾期、雨期が激しく)
ケニア 自分達で判断して動くので、マレーシアとの違いを感じて吃驚した   
灌漑用水を作ってもどうなるんだというような感じも持っていた(誇り高い人達だと思った)
トラクターを入れたりする、処も有ったが部品、ネジ一つ駄目になるとそのトラクターが使えなくなってしまう事がある

良かれとやっても、技術の限界みたいなものをつくづく ケニアでは感じた  
天候のなせる技は厳しいものがある
何をどう援助するかは難しい  私達が作り上げた技術はその土地にあうものを 作って来ていて その厳しさにはどうにもならないものがあるだろうし、厳しい国の人達が何で自分でやらないかと言うと 厳しいうえに 資金が無い 教育が受けてない、お金もない という地域が沢山ある  
コスタリカに5年半行く  中米の農業関係者が集まる機関があって、そこで仕事をする  
以前よりは文明的な環境で生活出来た 
軍隊を持たない、国中米の平和運動に貢献していた  
軍隊が無いと公共の事業にお金が回ってくる  (教育、医療)  
ヨーロッパで2回の戦争があり 戦争を止めましょうと言うのが ヨーロッパ連合の基本事項
コスタリカは治安は良かった 
南米のボリビア チチカカ湖のある国 世界で一番高い湖  4000m位の処に空港がある  
頭が痛かったり 吐き気がしたりした
コスタリカとはまったく違う  ボリビアはインディオ 昔からあまり違ってない生活をしている  
アドベイ 泥で練って作った壁で家に住んでいる

農業省での開発政策をアドバイスする役割  南米 スペインがやってきてキリスト教を布教しながら、搾取をして行った地域 インディオたちにはそれが染みついている
ズーッと持ち続けている  不満が有るんだろなあとは感じている  
昔ながらの道徳観が有るんですね  
ヨーロッパ人に対しては声を張り上げて話してはいけない と言うような 人に対する態度が丁寧(東洋人に対しても)  
エリートは皆アメリカの大学に行く   
エリートははっきり区別されている(学校、家等)  
昔無かった産業が最近は増えてきて、観光産業なども増え、インターネット等も普及してきて情報が入ってきて、段々中流階層が増えてきつつある

オランダに帰ってくる  子供達に対して学校が細かく対応してくれたので良かった(オランダ語が出来なかったので個人指導をしてくれた)
子供を大事にする そのことは人を大事にする  オランダは森林が少ない 教育の違い  
日本の教育は経済を発展させるための教育   国に役に立つ人材を確保   
戦後の欧州は 戦争で国を破壊されたし、差別が有った(ユダヤ人の迫害とか)  
そこから人を大切にしないと 不満を持っている人達が表れ、いろいろ悪いことをしたりとか、長い時間を掛けてしみじみ学んだと思う   
それが今の教育に行かされて、オランダなどはそれを意識してやっていると思う  
女性の仕事をする場がある  オランダでは主婦の地位が高かった
  
家の中をきちんと、片付けたり、子供達がどうするか主婦の権威が大きいだけど働き始めた 
 80年代 年金問題もあるし ワークシェアリング  週に2日、3日働く人でも 有給休暇が貰えるし、
産休は貰えるし、病気になったら休めるし、その代わり社会保障費も税金も貰いますよと言う事皆でちょっとずつ働いて、ちょっとずつ税金を払う そうすると女性も働きやすい  
生活をちゃんとやりながら、仕事もできる  税金は高いが 北欧ほどには、高くない  
デンマークは25%だが、一番良かったのは自分で国境を意識しなくなったこと(国境を意識することは争いの元 差別の元)、 人を見る目も何何人という見方はしなくなった
 
オランダで余り通じないこと 「思いやり」 人間のいたわりにも通じる大切なこと   
しかし、自分の感情を言葉にして表すということは学んだ(言わないと判らない事あり)
文化が違うので誤解されるので、誤解されないように言葉で話すことは大事  
日本人は外国に行ったらスイッチを切り替える必要があるのではないか

2012年11月13日火曜日

幸田弘子(朗読家80歳)      ・一葉を語り続けて35年

幸田弘子(朗読家80歳)             一葉を語り続けて35年   
1932年東京の生れ  NHK放送劇団に入りTVラジオのドラマ舞台等で活躍しました  
1977年からは毎年幸田弘子の会を開いて、樋口一葉を中心に古典から現代までを舞台で朗読してきました  
舞台朗読と言う分野を構築した功績に対して1981年、1982年、1984年と続けて文化庁芸術祭優秀賞受賞を始め芸術選奨文部大臣賞、1995年毎日芸術賞、1996年紫綬褒章、2002年藤村記念歴程賞 旭日小綬章受賞など多くの賞を受賞しました    
  
舞台朗読35周年 樋口一葉の朗読する   
樋口一葉が書いた言葉そういう言葉だけを続けて、一葉の一生を繋いで見た作品なんですね 一緒に体感しているように受ける    
「たけくらべ」 朗読   舞台での朗読は台本を持たない  
活字に目がいっていくよりも直接お客さんに向かって話した方がそのまま受け取って朗読の世界が有っていいのではないかと思う  いつの間にか言葉が身体に染み込んでしまった    
日記は判っていても、読んでいる   日記は読んだ方がいいと思っている   
読めば読むほど重なってゆく  
  
一度として同じようには出来ない  どれだけやってもこれでいいと言うのは無い  
挑戦している   
作品との出合い 終戦が女学校1年の時でした  防空壕の中で 学校も焼け、家も焼け 第三高女  2年の時に学芸会が有って 2クラス対抗 で8クラスあった   
たけくらべをやろうと言う事になった  
其の時の印象が物凄く強くて たけくらべだけではなくて一葉の他の作品を読もうと思った   
舞台朗読を確立する  NHK 6000人受ける 
第一次面接試験でかなり減って 講習会があり そこでまた半分減る  十三夜を読む
  
自分の分野が無い 新しい分野が出来た  なぜ一葉が好きかと言うと 文章 言葉の一つ一つの魅力と 作品の魅力 一葉の生き方そのものが感動的な魅力   
その魅力に押されて半世紀以上 ただただ読んできた   
たけくらべ の みどりさんの部分が良く判る部分の朗読   
文章の素晴らしさの中で遊んでいますね(読んでいる時の頭の中)  
朗読とは解釈 どこまで体中で読めるか  上手に読むとかは関係ない     
どこまで深く理解しているかどうか  解釈しているかだと思います  
登場人物たちにどこまで入れるか  
  
にごりえ  おりき(主役の女性)  魅力的な強い女性   おはつ も魅力的   
二十四歳で死んでしまったが、こんなにも人の心を打って 魅力的だと思う   
一葉の作品は古くなっているとは思わない 風俗等ではなく、人間が書かれているから   
和歌、古文の修行を積んだ人なので、聞いていて心地よい   
朗読していると10代になったり20代になったり30代になったりする     
膨大な日記がある 作品に成っている  暮らしぶり、考えていたことが書いてある  
半井桃水のところに勉強させて貰いに行くが慕っていた   
11月23日 一葉忌 法真寺で開催     
吉原幸子(友人) 詩の朗読する    

2012年11月12日月曜日

樋口久子(元プロゴルファー)      ・時代を作った女たち 2

樋口久子             時代を作った女たち 2  
2003年に世界ゴルフ殿堂入り  日本人で初めて入る  
1970年から、アメリカツアーを10年間行きました 日本では試合数は少なかった 3試合 
年間10試合を目標にアメリカで行ってきた(3か月間)  
通訳を雇って、移動は飛行機で、後はレンタカーで移動した 
コースの下調べは全て自分で行う    コインランドリーを知らなくて、ホテルでは洗濯したりしていた電気がま、おろし金を持って行って、ご飯、ソーメンを作ったりしていた 
しょうが等は売っていたのでおろし金でおろしたりしていた  
練習環境は日本に比べて、物凄く良かった   
ゴルフをやりたかったので、多少の犠牲はやむを得ないと思っていた

努力することは当たり前のこと  或る程度旨くなると練習が面白くなる 
150ヤードを狙うにも、真っ直ぐ打つ、フックで打つ、スライスで打つ、木を越して打つとか、いろいろ目標を作って正確に打つ、練習をする
32歳で全米で優勝する  27,8~32歳当りが一番油が乗ってくる((始めてから10年ぐらい)  (最近は5歳ぐらいから始めるので 20歳前後か)
生涯業績部門で認めて貰い入る   ニック・プライス  アニカ・ソレンスタム  
優勝回数の規定があり、それにクリアー 世界の投票権の有る人達から65%の得票を得ないといけない
日本ではほかに、岡本綾子、青木功、尾崎将司  の合計4人が入っている 
優勝して日本に帰国した時には、羽田に一杯記者が来ていて吃驚した
(それでも当時 10人位だった)
私達は1期生なので後輩が背中を見ているので、下手なことをしてはいけないなと、想っていた
アメリカでの経験で、結婚しても、ゴルフをやっていけるし、子供ができてもやっていける事を、目のあたりにして 結婚してもゴルフをやっていけると思った
結婚して、子供もできて ゴルフが続けられるか は主人の理解、助けが必要だと思う  
42歳のときに子供が授かり 2年間はゴルフはしなかった
又勝ってみたいと思うようになり、ゴルフを再開した  その後2勝する  
子供は今24歳になる  ゴルフをやらせた時期が有ったが、その後やらなくなった
ゴルフをやると、母親とは一緒に居られなくなるからと 小学校の5,6年の時に言われて、ぐさっときた
ゴルフは生涯スポーツ  14年間女子ゴルフ協会の会長を務める   
スポンサーの意向  費用対効果を考える  バブル崩壊でスポンサーは減ってしまって
これで最低だから、これからは良くなるだろうと、プラス思考なもので、そう考えた
当時はゴルフする人しか見に来なかった、
TVも見ないので、増やすにはどうしたらいいかと考えて、子供のゴルフ教室を開いて、遊んで貰う
子供だけでは、出来ないので 親とか祖父母が一緒に来るので、興味を持って貰う事になる  14年間で4000人の子供を対象に行った
ギャラリーも増えてきた   1試合の出る人数は決まっている  
選手全員を公平に参加することが難しくて、一緒くただった選手をトーナメントプレーヤーと インストラクターとに分けた   
実力主義と、指導者の育成、に分ける  
外部からの受け入れ 年間の出場資格を取り参加して貰う事になる  
宮里藍がアマで優勝する  1年間の出場資格を得られる  
そのようにして若い人達が増えてきて、新聞、週刊誌 TV等のマスコミにも取り上げられるようになった
ファンも増えて、ファン層も変わってきた  視聴率も上がって、ギャラリー動員数も増えた  
今、沖縄、九州の人が活躍している   ジュニアー育成がしっかりしている  
熊本は女子選手が多く出ている  坂田塾発祥の地 
韓国勢が強い 受け入れをオープンにしているので制限するわけにはいかない  
その中で日本選手が強くなっていかなくてはいけない
韓国はバックアップが良い  親がお金を出してプロに育てて貰う  
ナショナルチームに入ると今度は国が援助してくれる
親に速く楽をさせてやりたいとの想いがある(ハングリー精神がある)
これからはオリンピックの事もあるので、
(招致委員にもなっている)それに対抗しつつ、ゴルフも楽しみたい
も一度ゴルフと向き合いたいと思っている

2012年11月11日日曜日

樋口久子(元プロゴルファー)     ・時代を作った女たち

樋口久子(元プロゴルファー)             時代を作った女たち  
1945年 埼玉県川越市で生まれ 1968年~始まった日本女子プロゴルフ選手権に優勝 
それ以降も勝ち続け、アメリカ女子ゴルフ選手権にも参加
1977年に全米プロゴルフ選手権に優勝、 
日本で69勝 海外で3勝 と言う大記録を打ち立てました 
1997年から14年間日本女子プロゴルフ協会の会長を務め、協会の改革や若手ゴルファーの育成に努めてきました    

若い子が大勢出てくるようになった 今の子は可愛いと言われる  
若年からプレーする人が増えた  私は高校の1年でゴルフを始めた
姉の勧めでプロへと進んだ   
陸上競技の選手  中学校の時に80mハードルとハイジャンプをやっていた 
放送陸上とかNHK杯 県体などに出ていた
高校は東京の学校に通学 東京に引っ越して姉の勤めているゴルフ場でゴルフをやる様になった  
高校を卒業するときに、姉にゴルフをやるように勧められる  
協会も無かった時代 女性用のクラブもない時代  女性のゴルファーは少なかった
1963年に中村寅吉に弟子入りした   川越カントリークラブの社長も中村さんはしていた  
兄弟が多かった 8人 親からは特に何も言われなかった
両親はスポーツには関心が無かった  父親は明治生まれなので厳しかった、怖かった  
母はお針の先生をしていた
腹を立てると、自分が結局損をする と母親から言われた
(そのほかいろいろなことを母親から教わった)   
心のベースを母親から作って貰ったと思っている

父親は53歳で脳溢血で亡くなった  母親の言葉から不安が解消された事が多くあった
中村寅吉さんからのおしえ  忘れないうちに沢山打つ事を心がけた
(不器用だったし、真面目に対応していたので)
練習場勤務だったのでキャディーをしたことは無い  
アメリカのキャディーは本当にプロフェッショナル  アメリカは1人に対して1人のキャディーが付いていた  優勝は10%  とか契約していた
スタートの1時間前にはピンの位置、風向き等アメリカのキャディーは理解している

1967年に女子プロゴルフ協会が出来る  第1回のプロのテストをした 私は73でトップだった  
今日は全員を通すと言って全員が受かった
1968年から女子オープンをスタートした  第1回の優勝を飾った  
当時はプロを教えるプロはいなかった  私の場合は常に先生から教えて貰った
(非常に良い環境)
勝つのは当たり前と周りからはみられていた(のびのびとプレイはできなかった) 
ゴルフは自分の精神面でプレイが左右される   
常に自分の中の戦い  常に練習して自信を付ける
ボールを見つめる事が大事  打ってからボールをみることが必要   
パットで手が動かなく事がある(高麗、ベントで振りが判らなくなり、打てなくなる)
30勝すると永久シードを貰える 現在まで6人いる  

2012年11月10日土曜日

加藤朝胤(薬師寺執事長62歳)   ・日々これ般若心経

加藤朝胤(薬師寺執事長62歳)   日々これ般若心経
般若心経を一般の人に説法する 各地に出向いて30年になる  愛知県の商家の生れ  
父が薬師寺の高田好胤さんと親交を持っていたために,東京の大学の法学部に学んでいた時に、高田さんに出会い、その人柄にひきこまれます   
家族の反対を押し切って薬師寺に入りました  
その後修行中の困難な修行に耐えているうちに般若心経を読むようになったと言います  
短い経典の中に仏の心を感じ取り、以来心のささえとしています
般若心経は仏教のエッセンスが凝縮されていると言います

般若心経は多くの人に読まれている  釈迦様の基本的な教えが書いてあるのが般若心経 
649年5月24日に玄奘三蔵が翻訳した
弟子の慈恩大師が 唯我唯識の教えを大成されてその後 教えが伝えられている  
唯我唯識の教えを継いでいるのが、薬師寺
般若心経のほうさんも 神前においては宝のお経、仏前いては花のお経 家の為人の為には祈祷のお経  どこでもとなえるのが般若心経

写経  1文字書くと、仏一体を作るのと同じ  
如何に生きたらいいかと言う事を学ぶ場所がこの御寺
大学時代 43年~47年 大学紛争が盛んな時代 アルバイトばっかりしているような時代  
奈良に遊びに来た 父に奈良に行くと言ったら、父が高田好胤さんを知っているので、高田さんに会うように、言ってくれて会う事が出来た  
伝統行事にお手伝いに来ないかと誘われて、4年間知らず知らずのうちに御縁が深まった  
卒業するときに、商売もいいけれど、高田管長さんの姿に触れて、宝石屋も良いけれど、こちらも良いかなと薬師寺にきた

最初 断られた 外で見るのと内では違うと  どうしても入りたいと言って、納得して貰った  
両親に話したら、両親は反対した  しかしもう決めてきたと言って納得させる   
高田好胤さんは人にはとっても優しいが自分に対しては非常に厳しい人だった  
学ぶの語源はまねる  写経   字が上手下手ではない  
写した用紙を丸めて、薬師寺に納める
信念を貫かれた方が高田好胤さん   
人が喜んで下さることならば、なんでもやればいいのかなと 思った
最初から出来ないと思ってやらないで、先ずやってみる  
やってみて出来なかったら仕方ない  

間違ったら素直に謝る 早く軌道修正をする心がけが必要
30歳の頃、病気になった  顔面神経麻痺になる  
最初はどうぞ病気を治して下さい想っていたが、 何故病気が治らないのだろうと思ったが
私が病気になったお陰で正しい心の学び方を習ったなあと思います  
「色即是空」  色=目に見えるものの姿 空=目に見えない心の姿
物と心の調和が大切 病気になったならば、先ずお医者様に正しい治療を受ける 
病は気からと言われるが、病気を治そうと言う気持ちが無かったならば、病気は直せない
物と心の調和が大切なんだと言う事を教えてくれるのが 般若心経

あらすじ  多くのお弟子様がお釈迦さまを囲んで修行をしている  
多くの弟子に観自在菩薩がご自身の修業の成果を舎利子様をはじめ多くの弟子に話す   
般若の行によって静かな安らぎの境地を得ることが出来たと言う話  
お釈迦さまによってその成果がとっても素晴らしいものであり、実践にすぐれたものである
それでは般若の実践を私達もしますという内容
仏教の真髄が込められている  幸せを追う為には何かと言うものが 書いてある  
お釈迦様の教えと言うのは 必ず原因がある そして縁が働いて    結果が生れる  
縁起の法というが  この世は奇跡が起きない とお説きになったのがお釈迦様です  

種があるとする  そのままであったら花の種  花を咲かせるには撒いてあげないといけない 水を与えないといけない、太陽の光、熱 やっと芽が出て、それで花が咲くかというと、まだ育ててやらないといけない   
縁と言うのは条件  種が有って (原因) 水や太陽というものがあり(条件) 縁を加えてやる事によって、花が咲く(結果)  縁がかけたら生れない   
お釈迦様は「縁起の法」を発見した  (2500年前)

現実をしっかり見なさいよと、 無,空とか否定のもののみかたをするがそうではない  
腹が立ったときに、悩みをぶつけながら、書けばいい   許す心が大切  
幸せを邪魔する心の鬼がいる  噸 (とん) しん 愚痴
むさぼり と 怒り と 物事の道理を知らない愚かさ    何でも欲しくなる 欲望     
受け入れて貰い人は良い人、反対の事を言われたりすると悪い人
という之が怒り   そういったものを繰り返して、繰り返して、繰り返すから私達は迷いの世界になる  
迷いは消すことが出来ない 全部取り去ってしまうのではなく、それを乗り越えたときに悟り、
素晴らしい世界があるのだと、  決心することだと思う  
ついつい決心は揺らいでしまう   

冷静に判断して、何が正しいか 何が大切かという事を見極める この事が大切と思う
仏教系の大学に行って仏教の勉強をしたかった  知らない事が9割といっていい  
知っていることはごくわずか  私が理解している事を違う角度から話してくれる
人間一番大切なのは初心に還る事  歳を取ってくると 看板を背負う  
看板が大事なわけではなくて自分自身が大切
大震災  義援金届けた 被災地に出掛けると 一番たりないのはお線香と言われた  
3000箱を届ける(半年後  物資も行きとどいた頃)

かたちあるものも必要だが、宗教に携わる者としては、被災された方が前向いて生きて行かないといけない  元気を差し上げると言うか 
人生の案内者が私達でありますので、実践をして頂く  写経をして貰う  
写経は心の洗濯機です 元気に成りました という感想が有ったので写経の実践をして貰った  
其の時にいろんな話をさせて貰った  
羯諦(ぎゃあてい)(行こう) 羯諦(ぎゃあてい)  波羅羯諦(皆で行こう)  
物は分ければ細かく小さくなってしまう  幸せは分ければ広がる   
被災者の御苦労を少しでも共有することで 苦しみを共有することで 日本で命を頂いたので 手分けをして  写経して頂き、話をして 手伝いをしてきた

お寺の復興(大槌町) お寺が焼けた 先ず釣鐘をつくろうと、いったが住職は本堂をと希望したが、行く年は「追悼の鐘」を 来る年は『復興の鐘」をということで 皆に突いて貰う  
未来を担ってゆく子供たちが幸せに成ってゆくにはどうしたらいいか 考えて行かないといけない自分の目先の事だけを考えないで 何をすることが一番幸せを頂く事が出来るのか 
そのことを考えながら毎日毎日 せい一杯生きること この事が大切なのだと思っています  
それがお釈迦様、般若心経の真髄、 が書かれているのかなあと思います    
出来る事を一つずつする   それをすることが大事  
菩薩  正しい事に向かって一生懸命努力する人  
ほんの一時でもいいから菩薩をめざす(瞬間菩薩)

2012年11月9日金曜日

堺次夫(信州大学教授)     ・悪徳商法と対峙して40年

堺次夫(信州大学教授) 悪徳商法と対峙して40年
40年近く悪徳商法に立ち会っています  23歳のときにアメリカから入ってきた化粧品の
マルチ商法の被害に有ったのが、きっかけで悪徳商法と対峙する人生を歩んできました
これまで11回にわたって国会の参考人として意見陳述を繰り返し 鼠講禁止法などの成立にも
貢献してきました
その間全国各地を回りながら悪徳商法の実態についての講演をしたり、若者を対象にした
消費者教育にも力を入れています
団塊世代が狙われている  07年問題 退職金が狙われている  金利が低すぎる 
金利が下がって低金利時代と言われたのが95年からですからもう20年になる

退職金を貰っても行く先が無い、行く場所が無い かつてとりあえず銀行に預ければ5%の金利が有った  今はそれが出来ないという環境に成ってしまった
バブルの末期は7%利回り 郵便貯金で10年物で元金保証で2倍になったものもあった  
今は0.025%の金利 100万円預けると250円しかならない 税金が取られる
100万円借りれば、15万円の金利を取られる  お金がある人が危ない 
1/4の世帯では貯金そのものは無い  総額では1500兆円はあると言われる
日本人がお金がたまる様になったのは 昭和42年サラリーマンの平均年収と預貯金の額が
一致すると言う時代が有った

昭和57年に預貯金が平均年収の2倍に成った  
預貯金の額が年収を越えると誰もが金利に敏感になると言われている
結構お金はあるが金利は低すぎる   
悪は世相に敏感です どういう話に敏感か、どういう事に関心を示すか、判っている  
悪には敏感    詐欺師の話は100話をするうちに98は本当の話をする  後の2は嘘 
この二つが一気に全体をひっくり返してしまう オセロゲームの様な事になる
それで私達は引っかかってしまう  後に成って皆さん同じことを話す 
99.9%が 「まさか私が被害に遭うとは想いませんでした」と言う  悪徳商法は身近にある
中にはずーっと判らない人がいる   PCで画面勧誘することがある 
 
最後の最後は向こうの人に会う事になる  
その人に対して出る事が言葉が有って「あんなに良い人だったのに」という  老いも若きも言う 実際は違うわけですね  
悪役と言われる人はぱっと見て判るんじゃないかと思う(TV映像などから)
悪い人間は一種独特な雰囲気があるとおもわれるが、実際は違うわけですね  
兎に角敬語を使う お爺さんと言うわけではない お父さん お母さんなんですね
兎に角高齢者相手の悪い連中は話しが好きですね  2時間3時間だって話に付き合ってくれるだから良い人なんですね  
話を聞いている最中に そこまでは理解できるということは判る 
或る時にそこから次の話に繋がらない 

「そうなんですよ 話を聞いている途中で おかしいとは思ったのよ」
おかしいなあと思われている人は結構いるんです  
その表情を見せると相手の方が一枚上手で、警戒心を持ったなと思うと、内容を切り替えて、繰り返し、繰り返し儲け話をする
言う事は決まっている 「元金保証です」  「短期間」 (3か月、半年で  2倍 3倍になる)  
理由は世相に敏感に合わせる
一種の才能ではあるかと思う  騙されないプロには成れない  女性の涙に男は弱いし、 
高齢者が被害にあう機会が増えた  豊田商事事件は最たるもの

豊田商法では2500億円 4万人 一人500万円平均  高齢者が多かった  
60年7月1日に破産宣告を受け、崩壊するが、最後まで残っていたセールスマンは7000人
といわれていた  門をくぐった人間は数倍居ると言われている  皆、教育されている 
今だもって元豊田商事の支店長だったと言う人が問題を起こしている
400万円以上持ってくれば15%を与えた  100万円歩合が付けばそうすると何でもやってしまう 悪い事をやっている会社は高額歩合制をやっている
若い世代がこういう社会に入ってしまうと危険  
最初はやばい仕事なので辞めようと思っていました  
しかし若い相手をしてサインして貰い、歩合を貰うと、ボーンと歩合給が入ると、やったという達成感を持つ 正邪善悪が判らなくなってしまう  
 
多分そこから詐欺師は始まる
振り込み詐欺は若い人間が多い  5年後10年後が怖くなる    
若い人の親がそういう世界に入っていかないためには ? 
マルチ商法に若者は引っ掛ることが多い  
マルチ商法側の人間が、人間のんベンだらりと働いて、最後は片道切符で子会社にやられて、
或は途中で リストラされて そこで終わる人生を終わっていいのか もっと君の心の奥に眠る
潜在的なエネルギーに火を付けてもっと国際的なビジネスマンに成って、豊かな生活を送ったらどうなんだ   
君の親はどういう生活をしているんだとたまにあるんですね 

そういう時に子供と親の会話が少ないと子供が親を心のどこかで否定してしまうと 悪徳商業者に走ることがありますね
収入が少なくても自分の人生で、悪いことには手を染めてないし、誇りを持っていると言うような
気持ちを日常生活の中で会話を続けていると、、これは合い通じる物はあるかと、思うが逆に
成っている感じがあってそれを利用するんですね
避けるためには、どうすればいいか  これと言った物は無い 特効薬は無い  
先ず俺俺詐欺は 報道されているが、こういう事が自分の身に起こるとは思っていなかった

パニックになってしまうみたい  訓練が必要 お茶の間会議の復活とか、そこで家族一緒にいろいろ話が交わされる 情報の共有化が必要です
我が家だけに通じる「合い言葉」を作ったらいいと思う   
「携帯電話が変わった」と言う話が第一歩です  
その電話番号を聴くと同時に前の電話番号に電話する
その家庭だけの合い言葉が必要です  それがいろいろな場合に応用できる
隣近所の井戸端会議の復活もいいと思う  隣近所にもう少し目を見張って貰う  
声かけ運動が必要ですね  もっともっとお節介に成って貰う

2005年 埼玉県 富士見市 で80歳と78歳のお婆さんがリホーム詐欺にあった  
16本も契約を結ばれて 被害総額が5000万円  現金が2000万円無くなって
家と土地を担保にお金を借りて払えなくなって、その請求で訴訟を起こされた  
出て行けと追いたて訴訟  ある時にお婆さんは隣のおばさんに私達出て行かなければ
行けなくなったらしいと話しかけたが、おばさんはよく解らなくて、市役所に電話したらしい 
そうしたら飛んできて調べた 
契約書を調べて、これはお婆さんの字ですか? と聞いても解らなかった  
後で解ったが実は認知症だった 

市役所が動いて、弁護士を付けて追いたては免れたと言われるが こういうケースは今後
あちこちで発生する可能性がある
認知症の方々は300万人になる  認知症の人を狙って詐欺をする傾向が増えてきている
今や命金まで持ってゆく、 お葬式費用まで持ってゆく こういう傾向は豊田商事事件の頃から
顕著になった
私は23歳のときにフリーターだった時に マルチ商法の販売員にならないかと誘われた  
品物が無くおかしいと思って調べ始めたら、問題を起こしている
調べれば調べるほどおかしいと判り、やっつけてやろうと思った 
 
仲間に応援を頼んで旗を上げた  
どのように社会に対応していけばよいか判らないまま走りながら考えて進んできた   
昭和50年に操業  話と違う おかしいのではないかと言って、金を返せと 対応した  
新聞に載って被害者がやってきた
同じような被害が一杯有る。 これは個々の問題ではないと思い、行政が動かないときは、
立法府に持って行こうと声を届ける       マスコミにも応援して貰う
昭和50年2月に悪徳商法被害者対策委員会を結成してマスコミ発表した  
国会に呼ばれて法整備に係わった
私は家が貧しくて生活保護家庭であった 父が早く亡くなる 

高校に行くとなると生活保護費が無くなってしまう為に 伯父の被扶養者にして貰って工業高校に通う 
昭和43年、東京に来て王手電気メーカーの本社に行く 
給料を貰いながら専門学校に行けるシステムがあった  
コーラの瓶を交換すると10円貰えるので生活費にする
会社ではぬるま湯に入っているようなので、血の気も多かったのか、何かしたいと思うようになり、フリーターになった
最初北海道の酪農のアルバイトをやった 40日間 厳しかった1日800円 食事付き   
アルバイトをしながら学校に行き始めた
 
委員会の会長に成り活躍を始めた
国会に参考人として11回出掛けた  法規制の必要性を説いた (昭和49年10月24日)     
座右の銘  竹内語録  竹内昭夫先生  日本の商法の権威  信奉者になっている  
被害者は儲けそこなった人と言うような風潮が有った
「私自身を含め、消費者は無知で元々欲深なものなんだと 人間誰しもが持つ心の弱みに
付け込む奴らを放置して良いはずは無い」と言ってくれて嬉しかった
「良いマルチ 悪いマルチ 安全なペスト、無害なコレラと言うに等しい  あり得ない事」  
60年「頭の良い人ほど悲観主義に陥りやすい ここで法律を制定しても

どうせすぐに脱法されてしまう であれば何もしなくても同じだと考える人は多いかもしれませんが、しかし何もしなければ悪い輩は増えて被害は広がる一方ではないか
 過剰規制は問題だが、過小規制はまた問題だ」  この言葉には感動しています
活動できる時代環境が有った  仲間がいた事が大きい  
鼠講 超党派で議員立法を成立させてもらった   悪徳商法被害者対策委員会会長
たった7条しかない法律  もう一回猫を集める必要がある(社会の悪い鼠を退治して貰いたい)

2012年11月8日木曜日

新井高(鶴見大学教授69歳)     ・歯から教えられた人の幸せ


新井高(鶴見大学教授69歳)          歯から教えられた人の幸せ
歯周病の研究と治療に携わる   昨年定年退職  40年余り前 新井さんが東京歯科医科大学を卒業したころは、歯周病は歯槽膿漏と呼ばれ、直らないとおもっているひとも少なくなかったと言われます  
歯周病の研究と治療で数多くの業績を上げ、イプラントの専門医である新井さん歯と人生のかかわりをどのように見つめてこられたのかを、伺います  

歯科医師としての信条  1970年に大学を卒業   
歯を失う原因、虫歯と歯槽膿漏 で90%無くなる  歯周病の治療は進んでいなかった
専門分野の選択  歯を残すことに対して選択した  信条はそこに尽きる  
人の一生と歯の一生を一致させる  大きな考え方です
そうすると人生を有意義に過ごすことが出来る  食の楽しみを自分の歯で楽しむ事が出来る 動物は歯の寿命とその動物の寿命はほぼ一致している
動物が歯を無くすと、生きてはいけない  人は歯周病や虫歯にはなるが、動物はならない  
猿の野生のものと、動物園等に飼育されている猿を比較しました

野生の猿には、虫歯も歯周病も殆どない  動物園の猿は虫歯も歯周病もある  
エジプトのミイラにも既に歯周病があります
おそらく人が火を使うようになって、それから始まったのではないかと思います  
歯周病は慢性の誰にも有る疾患です
1960年代の半ば ヨーロッパで健康な歯周病になっていない人がボランティアで研究に参加  
2週間歯を磨かない場合どうなるか 3、4日に歯肉炎、2週間すると人によっては出血するという、所謂歯の表面に歯垢が付着すると細菌が溜まり、虫歯や歯周病の原因になることが実証された  
出来るだけ歯を残すと言う事がかみごたえにも影響する  
自分の歯で物を噛む必要性を感じた
木下教授の影響が大きい  一本でも歯が残っていた方が味が違うし、患者さんの為になる その言葉の影響が大きかった
歯垢を歯の表面に出来るだけ残さない 歯磨き方法は10数種類ある  
歯ブラシもまちまちだった  如何に効率的な歯垢除去するか 歯垢が歯につかなくするか
食べカスを細菌が分解して増殖したのが歯垢なので、歯垢は食べカスではない  
歯ブラシが食べカスを取るのが一番効率的な方法です

500種類の細菌が口の中に存在する  1mgの中に数億個の細菌がある  
ブラッシングの方法を研究した
歯周病は加工食品の弊害  天然食品は適度な堅さと繊維に富んでいるので、噛む事によって、自浄効果ある、マッサージ効果も有る
歯垢に含まれる細菌は砂糖が、甘いものが好き   
柔らかい加工食品を食べる欠点を補うのがブラッシング 
簡単な歯肉炎はは歯ブラシ1本で直る 原因を除去出来る  
歯周病は生活習慣病であると言える 
1本でも残った歯があると 自分自身の歯と骨が歯根膜が繊維で繋がっている  
歯の中には神経あるので、堅い物とか柔らかいもの 所謂噛みごたえがある

入れ歯で噛むよりは、自分の歯でかんだ方が、物が美味しくいただける 
舌だけではなく、口の中全体で感じる
健康な状態で1本でも残っていた方がいい  全部入れ歯にしてしまうと骨も細くなる   
8020運動 80歳で20本歯を残そう 調査の結果 20本あれば自分の歯で噛める  
乳歯の数とも一致する  28本大人の歯の数  平成元年 20本残っているのが、7%が達成していた  23年 38% 明らかに歯の数が残っている  
歯周病 歯の回り 歯茎 骨 がある  骨の中に入っている方が長い (2:1)  
炎症が起きて、歯周炎 ブラッシングした時に血が出る ここで治療を行えば直る
歯石は歯垢が唾液中のカルシュームを取り込んだものが堅くなった物  歯石を取り除く 
歯茎と骨が破壊されるのが歯周病の特徴、化膿する 
 
最初は殆ど痛くない  進んでゆく 歯肉炎 口臭 、かたい物が噛めなくなる  
歯周ポケットが出来るのが特徴 冷たいものがしみる  物が挟まる 噛めない
歯並びが変わってくる  自然に歯が抜ける  
働き盛りの人は歯周病に成っても病院に行かない  歯茎がはれる  膿が潰れる 
又見かけ上直ってしまう
その繰り返し 見掛け上直る  末期的な患者に成ってしまう  
治療が必要な時には中々治療しない  歯周病で来院する人はあまりいない
インプラント   早目に治療を受ける  歯垢が最大の原因 歯並びが悪い  
糖尿病の人は炎症が進みやすい 

血管を介して全身に回ると、動脈硬化 血栓の原因 心筋梗塞とか全身との係わりも判ってきた患者さん自身が直すと言う気持ちが無いと直せない    
治療しながら直してゆく  歯磨きをしていると言う人は2割は取れて居るが、8割は取れていない きちんと磨けていない  きちんと磨けていれば歯石は付かない
歯周病は直ると言う事を患者が理解して対応する必要がある    
1本でも残す価値を理解して医者と一体となって直してゆく
咀嚼は胃腸に負担をかけない 噛むと言うのは脳の活性化に繋がる  
噛むことによっては自身が鍛えられる 唾液の機能 歯の表面を保護している

唾液の分泌量を増やす 脳の活性化等 噛む効果は良い    
繊維性、の堅めなものを食べる  ブラッシングは其の補助になる
歯垢の除去  歯磨きの基本  歯ブラシが歯の表面に しっかり当るようにするのが基本  
適度なマッサージが必要  毛先を使う 
歯と歯の間 虫歯になりやすい部分でもある  歯間ブラシを使う  1日一回で良い  
正しく行えば電動ブラシでも普通の歯ブラシでも同様な効果はある
自分に有った歯磨き方法を歯医者と一緒に確認する必要がある  
歯を抜かないと言う事をテーマにしてきたが、途中で抜いた事がある  
其の時は敗北感がある 大半は長持ちをさせる事が出来た
噛む事によって身体全体が健康に成る  歯を磨く 当たり前のことをしっかりとやる  
欧州では80歳で20本は50%を達成している  
噛む事は健康を維持する原点