2022年2月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】老子

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】老子

老子は孔子、孟子などと並ぶ中国古代の思想家で、その著作は日本でも昔から広く読まれて来ました。  今日は老子の絶望名言をお聞きいただきます。 

「世の中の人は何をするか知っているのに、私だけが真っ暗だ。  世の中の人は何をするのか判っているのに、私だけは悶々としている。   ふらふらと海を漂う様で風のように行き先も知れない。   みんなは何かを成しているのに、私だけは一人引き籠もっている。」       老子第20章   翻訳:前川淳

寺田寅彦はエッセーで、爺ぐさいばかりか偽善者らしいもったいぶった顔をしていてどうも親しみを感じないので、通読することがない、と言っている。 敷居が高い。  折り紙の創作者の前川淳さんが老子の一節を訳しています。   前川さんが老子について、世紀の賢人などではなく情けない感じの、それゆえにくめない老人だと言っています。  

「部屋から出てかなくても世の中のことは判り、窓から外を見なくても天の理法は見て取れる。  遠くに行けばゆくほど道のことは益々判らなくなる。  そういうわけで聖人はどこにもいかないで判り、何も見ないで明らかである。   なにもしないで成し遂げる」 老子第47章  翻訳:蜂屋邦夫  以後の翻訳はすべて蜂屋邦夫

引きこっもりっぽい言葉。 最近中国では「寝そべり族」という言葉があるが老子的です。価値観は一つじゃないほうがいいと思います。  いろんな価値観が老子にあるという事は良いことだと思います。   

老子は紀元前6~4世紀の人と言われている。 

「私には3つの宝があり、 しっかりと保持している。  第一は慈悲、第二は倹約、第三は世の中の人々の先頭には立たない、という事である。」    老子第67章 

「何事にも進んで果敢に行動するものは殺される。  何事にもぐずぐず尻込みするものは生かされる。」    老子第73章

一般的な考えとは全く逆です。

「爪先で立ってるものはずっと立っていられず、大股で歩くものは遠くには行けない。」 老子第24章

背伸びをせず、ゆっくり歩いて、先頭に立とうしない。  

老子の伝説では晩年に砂漠に去って行ったことになっている。  関所の役人が老子に教えを乞うたところ、老子が書き残したのが「老子」という本だと言われている。  この伝説はいろんな作家の心をとらえて、いくつも作品が生まれている。  役人が敗者だったから老子は心を許した。  

「同じ靴でも私の靴は砂漠を歩く靴、彼のは朝廷に登る靴なのです。」 魯迅の短編小説に中から

「黄塵の渦巻く中をのろのろと砂漠に向かって、消えてゆく老子の姿を私は愛した。  人生から足を洗う事のすがすがしさがあった。」  原田清輝 

ドイツのブレヒト、中国の魯迅、日本の原田清輝らの老子に関する作品がある。

「仁君が才能あるものを尊重しなければ人民は争わないようになる。  仁君がめずらしい財宝を尊重しなければ人民は盗みをしないようになる。  仁君が大きな欲望を持たなければ、人民は乱れなくなる。」    老子第3章

才能ある人を評価する価値観を疑う人はほとんどいないと思います。  老子はそれを否定しているので面白い。  才能を競い合うようになると、より才能が磨かれるといことになるが、老子はそもそも才能を磨く必要がないと言っている。   

「知恵の鋭さを弱め知恵によっておこるわずらわしさを解きほぐし、知恵の光を和らあげ世の中の人々に同化する。」   老子第4章と第56章と、2回も出て来ます。  核兵器なども各国が才能を競いあわなければ、起きない。  老子は学問は否定していない。

「なにもなさないという事を成し、なにも事がないという事を事とし、なにも味がないという事を味とする。」     老子第63章  

「なにも味がないという事を味とする。」というのは個人的には響きます。  病気をして絶食療法をしたことがあります。  点滴のみで水も飲まない。  そうすると口の中では何も味がしない。  舌の感度は鈍ってゆくが、唾液などで味を味わおうとすると舌が敏感になって行く。  療法後ヨーグルトを飲んだら口の中で味の爆発が起き、凄い衝撃でした。   そうすると薄味の方がおいしいんです。 薄味にするといろんな素材の細かなことまで判るんです。   ほかにも言えて、病気になると葉っぱがそよいただけで、感動したりするわけです。  萩原朔太郎も病気をした時の経験を書いています。  老子を知ったと言っています。  元気になってしまうと又いつの間にか敏感さ失ってしまう事にもなる。   老子の言葉は含みのある言葉だと思います。  

「自分たちの食べ物を上手いとし、自分たちの衣服をいいものとし、自分たちの住まいに安んじ、自分たちの習俗を楽しいとする、隣国が見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が聞こえてきても住民は老いて死ぬまでお互いに行き来することがない。」 老子第80章

隣の家、国がいいなあというのは妬み、競争心、侵略にまでつながるわけです。  この言葉は老子の理想とする国の在り方、生き方である。  老子が読まれる時代になってきているのかもしれません。  

苦しい時には人生の道を間違えたのかなあと思うかもしれないが、「苦しい道こそ正しい」 苦しい時には励まされる言葉です。

 

2022年2月27日日曜日

川口成彦(ピアニスト・古楽器奏者)    ・【夜明けのオペラ】ショパンの愛したオペラ

川口成彦(ピアニスト・古楽器奏者)    ・【夜明けのオペラ】ショパンの愛したオペラ 

32歳、東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、同大学院古楽科およびアムステルダム音楽院古楽科修士課程を修了、2018年第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位となりました。  このコンクールの模様はNHKのBSでも紹介され話題となりました。  川口さんはフェレンツエ音楽祭などヨーロッパの音楽祭に数多く出演、第46回日本ショパン協会賞受賞、2021年には 第31回日本製鉄音楽賞 フレッシュアーティスト賞を受賞しています。

ショパンはオペラが大好きで、ショパンの夜想曲だとか、彼はオペラは作らなかったけれど、ピアノでオペラアリアを作曲されているぐらいです。  バラードもドラマチックでオペラのような要素も凄くあると思います。  彼のピアノの演奏法自体が、ピアノで歌唱的な表現を目標にしていたと言われています。   彼自体、音楽というのが言語表現だと言っています。  音に言葉が内在しているという風に捉えています。 ピアノは音が減衰してしまうので、ピアノで人間が歌っているように表現するというのは結構難しい。  でもショパンはそれを目指していた。  なのでショパンは10代のころからたくさんのオペラを観にいっていた。   

*「願い」 ショパンの歌曲  ワルシャワにいた10代の頃の作品  

ショパンは若いころから大切な人を亡くしている。  妹のエミリアは彼が17歳の時に亡くしている。  大親友だったヤン・ビャウォブウォツキ Jan Bialoblocki(1805-1827)も彼が18歳の時に亡くしている。 

*「ポロネーズ第15番 変ロ短調 KK. IVa-5」 通称『別れのポロネーズ ショパンが16歳の時の作品   妹のエミリアが結核で療養に一家で鉱泉行くときに書いた作品。 出発に先立ってこの曲を友人コルベルクに送った。 

ショパンはロッシーニの大ファン。  1830年に祖国ポーランドを離れてウイーンでの活躍を目指すがうまくいかず、パリに行きロッシーニと出会う。  

モーツアルトはショパンが幼少期から大切な音楽家だったようで影響を受けている。

*歌劇 ドン・ジョヴァンニ』から「お手をどうぞ」モーツアルト 作曲による変奏曲 ピアノ独奏

1933年にショパンとベッリーニはパリで会っているが、その2年後にベッリーニは亡くなってしまう。  

ショパンはピアノ音楽の作曲家なんだと割り切ってというか、ピアノを愛しすぎて、ピアノ音楽しか書かなかった。  オペラが大好きだったショパンのピアノ曲にはオペラ的な場面が沢山あります。   

*「ノルマ」から「清らかな女神」のピアノ変奏曲  ベッリーニ:作曲

2022年2月26日土曜日

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】 

震災時に福島県立博物館館長を務めていた赤坂さんは復興構想会議委員として、震災や原発問題に積極的に発言してきました。  1953年東京生まれ、1992年東北芸術工科大学助教授。1999年4月に東北文化研究センターを設立してセンター長就任、柳田國男とは違った視点で「東北学」を提唱しました。 何故「東北学」を立ち上げたのか、大震災を経て改めて東北をどのような観点から見つめているのか、ご自身の人生とどのように重なっているのか、など伺いました。

3月11日は何度も体験してきていますが、10年目の時には取材をしたかったのですが、コロナで出来ませんでした。  無力感に苛まれるというのが毎年の3月の迎え方ですかね。   諦めたらすべてが終わるという事を、肝に銘じているというか、そういうふうに感じて考えている人が沢山いるのではないかと思っています。    水産業の若者が「みんなの海」と言ったんですね。   「みんなの海」としてこの海に向かい合わなければ、前に行くことができない、だからこの若い世代は横の連携、仲がいいんです。    震災の年の5月に僕は南三陸町の新渡戸という漁村を訪ねています。   湾に囲まれた小さな漁村で津波に完全にやれてしまっています。  高台にすぐに非難してほとんどの人は助かっているんですが、鹿踊り(ししおどり)、民俗芸能が江戸時代から伝えられてきた村なんです。  鹿踊り(ししおどり)のリーダーの男性から話を伺った時に、避難所に彼はいたんですが、鹿踊り(ししおどり)の太鼓とか衣装の民俗芸能に関わるものを流されてしまったので捜したんですね。  見つけて5月の連休の時衣装を洗い清めたり、足りないものはよそから送ってもらたりして、鹿踊り(ししおどり)を避難所で踊ったらしいです。  そうしたら女性たちが初めて涙を流したという事を聞きました。  民俗芸能って何だろうと考えました。  単なる娯楽でもないし、単なる芸能でもないんですね。   民俗芸能によって励まされたり、癒されたり、支えられてきたという歴史があるんですね。   鹿踊り(ししおどり)というのは鹿の供養なんですが、人間達の供養とか鎮魂という事がテーマなんですね。  たくさんの死を抱えながら生き延びる事を繰り返してきたのが、東北の人たちかなあと考えました。   

父親が福島の白河郡の出身で炭焼きをしていた、という事が僕におおきな影を落としていたと思います。  事業に失敗して東京に出て来ましたが、静かな親たちでした。   本はよく読みました。 高校時代は図書館で、大学生になってからはバイトをして、物書きとなってからは印税とか入りましたが、ほとんど本に化けちゃいました。  ちょっとした図書館ぐらいは自宅にあります。  本を読むときには線を引きます。  古本屋に柳田國男全集がありそれを買いました。 当時4万5000円でした。  書棚において眺めたり読んだりしているうちに、柳田國男論を書いたり、民俗学の世界に足を踏み入れて行くきっかけになりました。   父親の人生を理解したい判りたいという思いはあったと思います。  

38歳の時に「柳田國男の発生」という連載を始めました。  編集者から柳田國男に関わる旅をして下さいという条件を言われました。  その最初が遠野でした。  違和感を感じました。  常人は稲作中心なんです。 しかし旅をしてみると村中で炭焼きをやって居たり、木こり、狩猟をやってる風景が当たり前にみられるんです。  それから20年ひたすら東北を歩いていました。  稲を作る日本辺境ではなく、もう一つの文化圏がある中の一つとして東北を浮かび上がらせてみたかった。  それが「東北学」だったと思います。    山菜、キノコを取ったり、狩猟、川で鮭を取るとか、実は縄文時代の東北の暮らしなんですね。  縄文人の暮らしの伝統、知恵、技が今でも東北には生きているんじゃないかと思ったんです。  300人ぐらいの人生を描きました。 

こちらが裸になって話を聞きましたので、あまり苦労はしませんでした。   脳梗塞で倒れたことがある15歳の時の父親から教わったという炭焼きの話を聞いた時には最高でした。   ろれつが回らないとか関係なく、言葉って心できいているんだと思います。   耳を傾けるなかで、ああっ生きるっていいなあとか、生きるってそれだけで凄いことだなあと感じる瞬間はたくさんありました。   それって岡本太郎さんが感じ取っていた東北なんですよ。   岡本太郎さんが書いている本の中で「生活と生命」という言葉を使うんです。  僕が聞き書きで感じ取っているものと重なっていました。   太陽の塔の中には地球の生命の歴史をらせん状に辿るような作品です。  

大震災の後1年半はひたすら東北を歩いていました。   何が起こったのかを目に焼き付けておきたかった、聞こえてくる声に耳を傾けていました。   ふっと気が付くと至る所に花が添えられているんです。  震災で亡くなった人たちへの供養の花です。  死者を悼む、死者を鎮魂する文化が至るところであります。  新渡戸という漁村の高台に鹿踊りの供養塔があり、「生きとし生けるものすべての命のためにこの踊りを奉納する」と刻まれています。  

福島県立博物館館長を17年間してきて、後半は震災でミュージアムと災害をテーマにいやおうなしに考えざるを得なかった。  その後ライフミュージアムプロジェクトをずーっとやっているようで、災害をどういう風に記憶を引き受け、記録すると言った現場で何をする事が出来るのか、という事がテーマになってきた。  最後は奥会津で仕事をしたいと思っています。  奥会津ミュージアムを作ろうと思っています。  

2022年2月25日金曜日

荒井朋子(千葉工業大学惑星探査研究センター)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】夢をかなえるまで、あきらめない

 荒井朋子(千葉工業大学惑星探査研究センター主席研究員)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】夢をかなえるまで、あきらめない

近年、地球の生命の種は塵として宇宙から地球に運ばれた、という可能性が考えられています。   この仮説を実証するため、毎年双子座流星群としてたくさんの塵を地球に運んでくる小惑星に探査機を送り、塵と塵の故郷を調べる探査計画の実現が2年後に迫っています。   荒木さんはこの計画においてサイエンスチームのリーダーを務めています。   一児のの母でもあり、現在50歳になる荒井さん、幼いころからの夢を実現するためにどのように仕事と子育てを両立させてきたのでしょうか。

我々が進めている深宇宙探査技術実証機DESTINY⁺ (Demonstration and Experiment of Space Technology for INterplanetary voYage with Phaethon fLyby and dUst Science)というミッションは、「」です。  個体微粒子と呼んだりします。   その塵が太古の地球の生命の元になったかもしれないという仮説を実証するためにいろいろ観測をします。  1mmから10mmの塵ですと流星という形で大気圏に飛び込んできた時に光って見えます。  それより小さな塵は流星のように燃え尽きないでしずしずと地球に落ちてきます。   それを調べて観ると炭素とか、有機物が含まれていることが判って来ました。  塵には1mmの1/10、1/100とかあるのでその中に入っているのは微々たるものですが、全体量としては毎年凄い量が降ってきます。 1年に4万トン以上降って来ています。   地球が誕生して約36億年とすると毎年有機物を含んだ塵が4万トン降ってくるわけです。  最初の種が地球の内部にあったのか、地球の外からなのか二大仮説があります。  宇宙空間に行って直接塵を調べてそれを明らかにしようとする目的です。   塵がどんな天体から来たのかはわからないです。    ふたご座流星群はたくさんの塵が地球に降ってきます。  今回はファエトン(フェートンとも呼ばれる)という天体が太陽の周りをまわっていて塵を吹いています。  ファエトンの軌道には塵の帯があります。  その塵の帯を地球が横切るんです。  それが流星群なんです。  

ふたご座流星群の母親天体のフェイトンは楕円軌道をしています。  地球は円軌道なので、探査機を飛ばしてもその天体とすれ違ったとしても物凄く速いスピードですれ違ってしまうので、一瞬しか観測することができない。  すれ違う時に沢山データが取れるようにして、行ってやろうという事になりました。  飛び込んできた塵をその場で分析できるようなダスト分析装置を持って行って、組成分析、大きさ、塵が飛んでくる方向、スピードを測ることでファエトンに着陸しなくても情報を得られるように工夫しました。  新幹線の数百倍の速さですれ違うので、若干離れていないとカメラの視野に入ってこないので500kmまで近づいて行って秒速36kmで通り過ぎてゆくファエトンをカメラで捉えながら塵の測定を行います。   そしてつぎの天体に行きます。   

父親の影響で3,4歳ごろには天体に興味を持ちました。   地球以外にも生き物がいるんだという事で育ってきました。 でも違うんだといことを小学校で学んだところから、それはなんでだろうと思い始めここまで来ました。    宇宙飛行士が取ってきた石を分析してみて地球以外の星がどんなもので、なんで地球とは違うのかを調べるのに、いろんなことが判るので石って面白いと思いました。   そういった仕事に関わりたいと思ったのは大学院に入ってからです。   最初に月についての研究をやらせてもらいました。    月からの石を触れて、調べるとそれが何時できて、どういう風に出来たかが判ってしまう、これにははまりました。  月探査のミッションに配属されるのかなと思ったら、国際宇宙ステーションの開発プロジェクトでした。  5年経って移動できました。  月の周りをまわって観測するときの観測装置の開発などの仕事をしていました。  

結婚は移動する前で子供も授かりました。  産休後、育児休暇はほとんどとらずに、新しい部署に復帰しましたが、体調など思わしくなくなってきて、辞めることにしました。  ダメもとで応募したら国立極地研究所で採用してもらいました。(特別研究員-RPD制度で2年間のみ)  その後棟東京大学総合研究博物館 特任研究員として3か月いました。  その後千葉工業大学惑星探査研究センターに移りました。   塵に興味を持ち始めたのは流星でした。   流星の塵は微妙な大きさを持っていて、隕石と同じような情報が取れれば面白いと思いました。  

子供は小学校の頃からロボットをやりたいと言っていました。  内閣府男女共同参画局の去年のデータでは6割以上の女性が出産を機に離職する。   女性を意識せざるを得なかったのが出産でした。  辞めた後もやりたいことがはっきりわかっていたら、何かきっかけを掴む事が出来ることもありますので、発信してゆくことは大事だと思います。    受援力は大事だと思います。  あきらめる前に立ち止まって声をあげてみることは良いことだと思います。  いい意味で周りの人を巻き込みながら、やりたいことを続けて行ければいいと思います。  探査機関係の進捗は設計が終了して、制作を始めていいかどうかの審査の段階です。  今後制作を開始して打ち上げる状態まで持ってゆきます。 


2022年2月24日木曜日

植本一子(写真家)           ・【私のアート交遊録】レンズの向こうに見る家族

 植本一子(写真家)         ・【私のアート交遊録】レンズの向こうに見る家族

1984年広島県生まれ、2003年にキヤノン写真新世紀荒木経惟氏より優秀賞を受賞、写真家としてのキャリアをスタートさせ幅ひろく活躍しています。    2013年からは下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げ一般家庭の記念撮影をライフワークとしています。  写真家としてキャリアをスタートさせた後、亡くなった夫や二人の娘との生活を「かなわない」「家族最後の日」「降伏の記録」の三部作を通して、家族の在り方を問うてきました。   一方で植本さんはフェルメールの現存する35作品すべてを収める旅に出ています。  作品を正確に切り取るという従来の写真集とは違って、アートがどのような空間の中で受け入れられているかを写し出しています。   町の写真館として普通の家族の記念写真を撮りつつ家族の在り方や、人生の生き方を見つめる写真家植本さんに伺いました。

2018年に出版された『フェルメール』、そのフェルメール展が今年行われるはずだったが延期されました。  修復後の窓辺で手紙を読む女 私が唯一観ていないのがそれで、修復中でした。   撮影するために世界7か国を回りました。  感想を日記のように書きました。   2回に分けて最初は1週間ヨーロッパ、2回目は2週間かけてヨーロッパとアメリカにきました。   本を出そうという企画の時には夫はがんで入院していました。  行く計画の日の2か月前に夫が亡くなりましたが、行くことに決めました。   気分が変わることが出来ました。  フェルメールはうまく光を取り込み、「光の魔術師」と言われる。   私も写真を撮る時、光を撮るのが上手と言われて、「杉並の光の魔術師」とギャグで自分で言っていた時期がありました。  

一番最初に回った美術館がオランダの王立博物館で、真珠の耳飾りの少女』がおいてあって、最初から主役級で何気なく全部撮った後に、移動の電車のなかでポストカードのようなグッズを見ていたら、アッ本当に耳飾りがあるという事にその時に気づいて、自分は何を見ていたんだろうと吃驚しました。   観るとは何なんだろうと思いました。   フィルムで勉強しなさいと言うような時期に始めたので、今回もフィルムで撮りました。 ある時期からデジタルも取り入れ、仕事はデジタル、自分の作品はフィルムと分けました。  フェルメールは仕事であるが、失敗できないという事があり、自分の作品という思いでやってみようと思いました。  プレッシャーはありましたがやってよかったです。   観る状況は日本とは全然違って人も少ないし、自然光で見られるような感じでした。  

下北沢で写真館を開いていて、「天然スタジオ」という写真館です。  天然光を使って皆さんの写真を撮っています。    フェルメールは向かって左側から光が入りますが、たまたま同様になっています。   6畳の狭い部屋で朝は9時、10時で、冬は13時、夏は14時ぐらいまでの日中しか動きません。  それなりに人数によって型は決まってきます。デジタルなので500,600枚は撮りその中から選びます。   8,9年やっていますが、籍は入れてないカップル、シングルのお母さんなどもいて、家族写真というのはやめようと思っています。   ほぐれた笑顔の写真を上手く撮れたときは楽しいです。  

小さいころから集団行動が苦手で、進路を考えた時に絵が好きだったので絵の道に行こうかとは思いましたが、写真の手軽さに飛びついて、中学3年生からはずーっとやってきました。  高校では写真を撮ったり遊ぶのが面白くて、1年生の時には440人中下から3番目になってしまいました。   そのころ撮った写真をまとめたものが高校卒業後すぐに「写真新世紀」という新人賞を荒木経惟氏より受賞しました。  

執筆活動もしていて、「かなわない」「家族最後の日」「降伏の記録」などを出版しています。   上の娘が生まれた時に写真記録だけでは間に合わないと思って、育児ブログを始めてそこからです。   写真にはない細かな表現が出来ます。  コロナで世の中が混乱して、そういったタイミングこそ日記が凄く残す媒体としてぴったりだと思いつきました。自分の日記を自費出版しようと思いました。    福富太郎さんのコレクション展覧会があって甲斐庄 楠音(かいのしょう ただおと)の「横櫛」という絵で撮影が不可でした。  その絵がめちゃクシャ怖くて、妖艶というか人を寄せ付けない異様な気が漂っていました。  私のお勧めの一点は甲斐庄 楠音の絵をお勧めします。

2022年2月23日水曜日

網野妙子(フラワーデザイナー)     ・【心に花を咲かせて】人を幸せにするフラワーデザインを目指して

網野妙子(フラワーデザイナー) ・【心に花を咲かせて】人を幸せにするフラワーデザインを目指して 

網野さんはドイツ流フラワーデザインを日本に広めた方で、その後プリザーブドフラワーを広め、さらに今は植物由来の造花作りに夢中だそうです。   それは花で世界中を幸せにしたいという思いからという事なんですけれど、どういう事なんでしょうか。

元々お花が大好きでした。  小学校の頃から庭に咲いている花を切り取っては学校に持っていきました。   小学校の頃からずーっと生け花をやって、大学を卒業してから生け花の専門学校を朝から晩までやって、教える立場になりたいと思っていました。   夫の転勤で海外に行った時に、生け花を教える機会があり、その方たちとの交流もあってアレンジって素敵だなと思いました。  ドイツです。  日本の生け花に似たところもあり、植物の植生を活かして葉っぱでも花でも根っこでもすべてを愛でるアレンジメントで衝撃的でした。    日本の生け花の配置がありますが、それを理論化して数値化して図面に起こしたもの、それがドイツスタイルのテキストだったんです。    ドイツの生け花の基本になっているのが日本の生け花で、造園もそうですが基本が盆栽なんです。  テキストには生け花、盆栽という言葉がしょっちゅう出て来ます。   生け花を教えている中で、向こうのスタイルが徐々に判って来ました。  

1991年に日本に戻ってきて、アレンジを習いたい人が多かったんです。  洋花が凄く多く入ってきた時代でした。  生け花からアレンジの方に変えました。   ドイツのテキストを日本語にしてしまいました。   日本では例えば秋の草花、木の枝を半年、1年持たせるためにつやを出して、(今でいうとプリザーブド)生け花の世界では100年続いてきました。   海外でも保存できる花として活用していました。   それに日本人も飛びついてプリザーブドフラワーと言い出しました。    海外に行ってプリザーブドになりやすい花を選んで、農園でプリザーブドを出荷できる畑に作り上げます。  それを工場でしっかり管理して日本に出荷できるタイプの花を作り上げる。  海外のデザイナーさんが使ったので日本人はいい花なんだなと思って輸入もしているし、日本でも作っていますが、プリザーブドフラワーを世界に広めたのは日本からなんです。  

2002年の国際花博(10年に一度でオランダで開催)の日本政府ブースからプリザーブドで全部飾らせていただくことが出来て、それ以後そのほかの数年に一度の世界の花博も同様に日本政府のブースはプリザーブドで参加させていただいています。  水やりをしなくていいので管理は楽です。   

タイのチェンマイで大きな国際花博が2006年にありまして、プリザーブドで日本政府のブースを担当しました。   見つけたのがウレタンの様な花でした。  香水を室内に香りを広めるために飾っておくものでした。   見に行ったら池の周りを這っているような植物でした。   水稲が実って倒れるのを支える草でした。  稲と一緒に植えていたんです。   硬いのでかつら剥きとか加工しにくいので、植生からいい場所をっ見つけ出して開発してゆきました。   2mぐらいになりますが、茎の芯は2~3cmあり15cmにカットしてかつら剥きして、大根で花を作ると同じようにシートを花に作り上げるわけです。   タイで加工して日本に持ってきます。  乾くとパリパリになって割れてしまうので、プリザーブドの技術があるのでソフトに加工して今の綺麗な花になってきています。   一種のドライフラワーです。  アーティフィシャルなデザインが出来てとっても面白いです。   タイの人の雇用にもなり10数年やってきました。  本来ゴミになるようなものを上手く利用、タイの女性の就労支援になる。  3年前には300人以上になりタイから表彰されました。  その植物の花は花茶として利用されていますが、皆さん知りません。  その植物が生えている時にはセノー、 市場にあるところではセスバニア、アロマのデイフユーザーではソーラ?(ソラセノーの略か?)とういう通称の言葉を使っているのでタイの人でも判らない。  アシナメーネ アスペーラという植物です。

植物による海外支援の一端、 カンボジアでは地雷を撤去した後にコットンを植えることを考えているが、植生が難しいのでその審査し、ほかの植物へと指摘をしに行ったりします。エチオピアへプリザーブドフラワーの支援にも行きました。(薔薇)  ベトナムでも話がありました。(コーヒー農園に薔薇)


 







2022年2月22日火曜日

南果歩(俳優)             ・自分で自分を幸せに

 南果歩(俳優)             ・自分で自分を幸せに

「乙女オバさん」というエッセーを2月に出版しました。  乙女心も自分の内側にありまして、夢見る気持ちを忘れない心と思っていて、乙女オバさんはそんなにかけ離れているものではないと思っていて、自分を表す言葉としてはかなりヒットするんです。  50代になっても折り返し点が見つからず、人生はそのまま自分の道を進むだけなのかなと気づきました。 このエッセーは私の失敗談をまとめたものと思っていいと思います。   失敗は私に何かサインを送ってくれていたものだと思います。   うまくいかなかったことは後でお薬として自分の心が持ち続けるんじゃないかと思います。   

兵庫県尼崎市で生まれました。  五人姉妹の五女でした。 大勢がいる事には全く苦にならない環境でした。   泣き虫でした、泣いて自己表現していました。  小柄でやせっぽちで、虚弱体質でした。  元住んでいた家は門から玄関まで並木がありました。  裏庭にも日本庭園があり広い家に住んでいました。   小学校2年生の時に、父が倒産して2DKのお風呂のない家に一家で住みました。   母の店を長女は手伝うという事で大学を途中で辞めて大変だったと思います。     高校の時に踊りをやっていましたが、何かが足りないと思って、それは言葉でした。   桐朋学園大学短期大学部演劇科に進みました。   東京で初めて見た映画が「泥の河」(宮本輝の小説)という小栗康平監督の作品で、衝撃を受けました。 その後日本の名作を観だしました。  映画のストーリー自体、私の生い立ちと重なるところが沢山ありました。   映画「伽倻子のために」は在日朝鮮人作家、李恢成の同名小説を映画化したもので、私自身在日3世なので、伽倻子は在日の養父母に育てられた日本人の少女で、伽倻子とは合わせ鏡のような人だと思いました。 新聞記事に一般公募の記事があり、伽倻子のために』のヒロイン役のオーディションを受ける時には自分の姿形をした伽倻子しか思い浮かばないという状態でした。  この役は自分しかいないという思いでした。  2200人の中から選ばれ、主役で映画デビューしました。  演じることがこんなに辛くて、自分のふがいなさを突き付けられるものかと思いました。    

涙が出るシーンで小栗監督が激怒して出て行ってしまって、どこがそう悪いのか判りませんでした。  翌朝同じシーンがあり、監督から「涙が出た後にお前は、あっ出たと思っただろう」といったんです。  「映画というものは表面だけを写しているんじゃない、写っている役者の心根まで写るんだ」と言われました。 「涙を流すシーンで涙は流れていなくてもいい、心が泣いていればそれでスタッフはちゃんと撮るんだ、一番肝心なところを忘れていたあの演技に俺は怒ったんだ」という事を説明してくれました。  ド新人の私に、俳優として生きてゆく中で最も大事なことを、その時に小栗監督は身をもって教えてくださいました。  1986年9月には坂東玉三郎演出の『ロミオとジュリエット』のジュリエット役をオーデションでつかみ、初舞台を踏む。 

31歳で出産して自分のなかで変化しました。   仕事との両立は大変でした。  30代はシングルマザーとして過ごし、40代で2度目の結婚をしました。   その10年後に乳がんが見つかりました。   まさかという思いがありました。  摘出手術をしました。  その後2度目の離婚という事になりました。   全てが信じられないような、自分が生きてきたことすら嘘だったのかなあというような感じでした。   このままではいけないという、自分で自分を励ますような声が聞こえてくるんです。   自分の人生を顧みる時間になっていたんじゃないかと思います。    怒りを通り越した感情を味わってしまったので、涙も出ないし怒るという事もできないです。  本当のショックを受けるという事は感情を失う事なんでしょうね。   勧めがあり診断を受けました。   健康は病気になってみるとどれだけ尊いものか判るし、命というものを考える時間を、私は、出産と乳がんの2回与えられていたという事が支えになったと思います。  

今は独り身なので、時間は自分のために使えます。   20代に戻ったような感覚です。 アメリカのオーディションを受けていて2021年にPACHINKOというドラマが世界配信されます。  Nicochans(ニコチャンズ)というバンドを始めました。  私が作詞してバンドが作曲をして「乙女オバさん」を作ってしまいました。  水着の写真も撮りました。 ホリ・エージェンシーから独立して仕事を進めて行きたいと思って独立しました。  


2022年2月21日月曜日

福原百之助(邦楽囃子方)        ・【にっぽんの音】

福原百之助(邦楽囃子方)        ・【にっぽんの音】 

1975年(昭和50年)東京都出身、母方のおじいさんは笛の名手として知られ、人間国宝となった6代目福原百之助さん後の4代目寶山左衛門さん。  お父さんは一中節の宗家12代目都一中さん。  おじいさんから手ほどきを受け10代から舞台で活躍、2009年に囃子方の名跡である福原百之助を襲名。  現在は長唄や日本舞踊公演での演奏を中心に新橋や赤坂など花柳界でのお囃子指導、東京芸術大学の非常勤講師として後進の指導に当たっています。 

囃子は打楽器と笛で構成されています。  三味線、お琴、などジャンルを問わず伴奏させていただいています。   メインは日本舞踊、長唄、常磐津、清元などの三味線音楽に打楽器や笛で盛り上げています。    雅楽の要素、能楽の要素、祭囃子、祇園囃子などいろんな郷土芸能をちょっとお借りしたりして、いろんな場面を演奏しています。  歌舞伎から発生しているのでいろいろなシーンに合わせた囃子を、いろんなところから取り入れてきて、今に至っていると思います。   笛は専門職で打楽器はいろいろやります。  歌舞伎舞台に向かって左側、下手に黒い御簾があり、そこに部屋があり我々の仕事場になって演奏しています。   2006年に若獅子会結成した若獅子会。  勉強会として始めて創作も行ってきました。  

*三社祭    演奏:若獅子会  

父は三味線で母は笛をやっています。  弟は一中節の浄瑠璃をやっていてみんなジャンルは違います。   小さいころから父のお稽古の三味線など聞いて育ちましたが、余り好きではありませんでした。  祖父にうまいこと誘導されていつの間にか笛をやっていました。   最近楽しいと思いながら仕事をやらせてもらえるようになりました。  

*若獅子Ⅰ  若獅子会創作  演奏:若獅子会 邦楽曲に与えられる賞、中島勝祐創作賞を受賞。     創作の一作目で面白いフレーズを組み合わせたものです。   振り付けも行って踊り付きで動画配信しています。 

邦楽囃子朗読劇も上演しています。  (竹取物語、走れメロスなど)  最初に子供たちへの桃太郎を行ったら好評で、大人向けもやってみようちう事で竹取物語を上演しました。頭の中によりビジュアル化しやすくなったという効果があるのではないかと思います。  朗読の場面に合った音を出してゆく。(背景だったり、心情だったり)  

鼓の音は色々使い分けます。  皮が薄いので湿度、気圧にとても影響を受けやすいです。 舞台で合間に乾燥して来たりすると、息を吹きかけたり、指に唾を付けたりします。   紐を左手で握ったり緩めたりして、皮の張力を調整しながら音を出し、波の音とかいろいろ表現します。   これは江戸時代のものですが、もっと古い室町時代のものもあります。毎回楽屋で組み立てます。   紐が消耗してしまいますが、麻紐でないと駄目です。

大太鼓でも風音も雰囲気でいろいろ打ち分けます。  波音もいろいろ打ち分けます。  日本の音とは小鼓だと思います。  日本の四季と能楽堂など木造の家屋に合わせ込んでいい音をだしてくれる日本固有の楽器だと思います。   小鼓は湿気を必要とする楽器で、大鼓は乾燥していなければいけない楽器が隣同志で打っているという事で不思議です。

*大太鼓 打ち出し





2022年2月20日日曜日

堀江ひろ子(料理研究家)        ・【美味しい仕事人】106歳父の健康長寿を支える

 堀江ひろ子(料理研究家)      ・【美味しい仕事人】106歳父の健康長寿を支える

堀江さんの父、堀江正夫さんは106歳。  元気に一人暮らしをしています。  正夫さんは交友関係も広く、戦争体験の講演を頼まれれば、2時間は熱く語ります。  毎日4000歩を歩き体操とストレッチも欠かさず、生活習慣病とは無縁です。  健康長寿の秘訣はと聞くと「毎日の食事のお陰です」と言います。  長女のほりえさわこさんも料理研究家です。

親子でNHKの料理番組に出演。  母親が堀江泰子でやはり家庭料理の草わけ的存在です。   母の手伝いをしていて、料理研究家になるんだと自分で勝手に思いこんでいました。    日本女子大学家政学部食物学科に入りましたが、すでに料理学校の先生もどきのことをしていました。    子供が生まれると離乳食とか、年齢に応じて仕事の内容が変わっていました。   父は職業軍人でしたので、戦争のことを講演したりしています。   BSで太平洋戦争歩兵第一連隊の証言を伝える番組で、番組のコマーシャルにも登場しました。   誤嚥性肺炎を2年続けていますので、声の出し方とか首の運動とか言われたことはすべてやっています。  総入れ歯でしたが誤嚥性肺炎を2年続けて、激やせして入れ歯がガタガタになり、柔らかければいいと思っていましたが、吸収していなくて、入れ歯を外しましょうという事になりました。   1年で9kgもとに戻りました。  コロナ前は毎週のように出かけていました。   10年前は1万歩は歩いていました。  休みの日は2,3万歩歩いていました。  最近は家のなかで歩いて指で歩数を数えています。  ストレッチもいろいろやっています。  本が好きで文庫本を読んでいます。   資料を読んで戦争のことを書こうと思って原稿を書いています。  

父に身体に優しいお弁当を作っていました。(幕の内弁当風に)   母も成人病に関することを調べてそれを父が食べてきました。    母が10年前に体調を崩して以降は家族で一緒に食べるようにしました。  そうすると、会話が生まれ笑顔が増えます。   5,6年前までは同じものを柔らかくして一緒に食べていました。  この頃は 誤嚥防止のために形態を変えました。  鶏のから揚げなどはフードプロセッサーで柔らかくして食べています。   栄養のバランスが大事です。(肉類も必要)  

タンパク質はしっかり摂ります。  今ですと朝必ず納豆、昼には卵。 野菜が不足と便秘になりやすいので緑黄色野菜を中心にします。  ほうれん草は切ってから軸だけ先に煮て出してから、葉っぱは後から入れて煮ます。  軸は私たちが食べて葉っぱは両方が食べます。    密閉容器に紙タオルを折りたたんだ上に、水を絞った青菜類を入れると3,4日はほうれん草はどうにもならないので、ほうれん草はいつでも食べられます。   基本は父には緑黄色野菜です、それとニンジンです。  緑黄色野菜、ニンジンなどは火を入れて柔らかくして食べます。   具だくさんの汁物を作ります。  翌日に牛乳、カレー粉、トマトジュース、豆乳などを入れていろいろなスープ味のものを作れます。    野菜たっぷりのスープがお薦めです。   肉類も気を付けてあげるようにしています。    鶏肉をレンジ酒蒸ししてチーズを挟んで焼くとか、鯖の味噌煮も一人分ずつレンジでやります。  皿に醤油で味つけした切り身と野菜(ネギとか)を置き、味噌と蜂蜜を混ぜて鯖の上にかけてチンすると鍋を使わなくても、鯖の味噌煮が出来るんです。

父は牛乳が飲みにくくなっているので、いろんなものにクリームチーズを混ぜていたりします。  繊維野菜をたくさん食べても便秘がちの人は油が足りないかもしれません。  油があるとするっと滑りやすくなります。   父にはうまくバターを使ったりごま油を足したり、野菜料理にも意識して油を加えています。    50,60代までは腹八分目ですが、高齢になると美味しいものを腹十分目食べて動いた方が前むきになります。  タンパク質と緑黄野菜をしっかりとって、あとカルシュウム(牛乳、ヨーグルト、チーズなど)が欲しいですね。  

「長寿豆」と家では呼んでいますが、金時豆の甘煮のことです。  父が作りだしました。毎日食べていましたが、或る時からそれを食べる時にむせている事に気が付きました。  煮汁ごとにすするので、豆の破れた粉、皮が入っているんです。  誤嚥になると思ってペースト状にするようになりました。   おいしく食べるのが健康に繋がると思います。  10人での食卓でひ孫の6歳から106歳まで居てにぎやかです。    料理は頭を使うのでいいと思います。  作れると楽しいです。



2022年2月19日土曜日

辻󠄀明俊(興福寺執事兼境内管理室長)   ・興福寺、五重塔から眺むれば〜令和の修理を前に

 辻󠄀明俊(興福寺執事兼境内管理室長)  ・興福寺、五重塔から眺むれば〜令和の修理を前に

興福寺の五重塔では新年度から120年振りという修理が始まります。   工期は7年ともそれ以上ともいわれていますが、補修は技術や記録が継承される意味でも大切な作業だと言われています。   興福寺執事で境内管理室長の 辻󠄀明俊さんにこれまでのあゆみと令和の修理でなにがおこなわれるのか伺いました。

五重塔は室町時代に再建された建物です。  創建は今から1300年前の710年に興福寺が創建されました。  五重塔は730年に建てられました。  合計5回焼失しています。  室町時代の再建なんですが、古い形、技法を堅持しています。  幕末までこのお寺の南側に奈良時代の塔が立っていましたが、残念ながら火災で焼失しまいました。  室町時代に奈良時代の塔を参考にして建てたので、古い形を踏襲することが出来たと伝わっています。  高さは50.1mあります。  古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパに起源をもっています。  古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると楼閣建築の形式を取り入れて高層化するようになった。  ストゥーパが卒塔婆になって、略されて塔婆が塔になりました。本来はお釈迦様の仏舎利を奉安する信仰のものとして建てられました。  

初層には12体安置されていて、西側に阿弥陀如来三尊像が安置されてます。 北側には弥勒菩薩三尊像、東側には薬師如来三尊像、南側には釈迦如来三尊像が安置されています。  下側には心礎と呼ばれる石の上に心柱があります。   心柱は周囲が260cm、直径83cmとなります。    心柱は3本でつながれていて、相輪を支えるような形で柱が立っています。   1階の天井の上は2層部分から5層まで吹き抜けになっています。   

五重塔の再建は1426年6月に上棟となっています。    大きな大火は2度ありまして、永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失、1180年治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による伽藍全焼しています。  興福寺の再建には①場所を変えない、②創建時と同規模、③古式古様を踏襲する、という3つを守り続けてきました。   1717年に焼けた後は中金堂の再建がなかなかかなわなかった。   その後100年で復興するが3つの条件はかなわず、一回り小さいものになりました。    慶応4年(1868年)に出された神仏分離令では興福寺は大きな打撃をこうむりました。  2万1000石の石高を持っていたが、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は早々と還俗し、、83か寺の子院、6つの坊は全て廃止され、僧は全員自主的に還俗し、管理者不在となり、近隣のお寺西大寺唐招提寺に興福寺の管理をしていました。 一乗院は奈良県庁とされ、大乗院や大半の子院は解体された。  中金堂は国に没収され、警察署や奈良県庁、郡役所に使用されました。    太平洋戦争では仏像疎開が行われて、阿修羅像とか八部衆などが吉野の民家の土蔵の方に移りました。  

発掘が終わったばかりで、今埋め戻しています。  空襲で焼けることはなかったです。 進駐軍が来て五重塔の相輪に電飾を付けろという事になりました。(飛行機の接触回避のため)   興福寺は国宝の仏像としては日本でも一番多いです。  東金堂も5度被災しています。  中のご本尊は室町時代で日光月光は白鳳時代、文殊、十二神が鎌倉時代、四天王像は平安時代、御本尊は室町時代と時代がバラバラです。  火災があるたびに仏様をお運びして、お堂が再建されると元に戻すという事をしてきました。   10年以上前ですが、境内に大きな煤が落ちていました。  近隣で火災があった様でした。  大地震での揺れについても解析が行われていて、いろいろ判って来ると思います。   修理のための調査をしていて、五重塔は常時微震しているらしいです。   3次元計測してどのように損傷しているのか、調査しています。  非破壊検査ができる事が大きいですね。

修理では約10か月をかけてまず屋根かけをします。  令和5年から着工して7年から10年で修理完了と言われています。   心柱が入手できるのかというようなこともあります。五重塔の調査、修理から何が判るか、注目していきたいです。 







2022年2月18日金曜日

野村謙二郎(元広島東洋カープ監督)   ・ふるさとで育んだ挑戦する力

 野村謙二郎(元広島東洋カープ監督)   ・ふるさとで育んだ挑戦する力

野村さんは選手としては駒澤大学時代に、ソウルオリンピックでは銀メダルを獲得し、プロ野球に入ってからは1995年に打率3割、ホームラン30本、30盗塁以上のトリプル3、2005年には通算2000安打も成し遂げました。   監督としては広島を5年間率いた中で2013年に初めてクライマックスシリーズに導くなど、その後のセリーグ3連覇の礎を築きました。   その野村さんにふるさとで育んだ挑戦する力というテーマで伺いました。

故郷は大分県佐伯市。  山があって海が近くで食べ物がおいしいし、気候も暖かくて環境的にもよかったなあと思います。   野球を始めたのは小学校1年生でした。  誕生日に父親がグローブを買ってくれました。  父親は怖い父親でした。  父は高校まで野球をやっていましたが、家業を継がなければいけなくて野球は断念したそうです。  壁当てミスなし連続100回というのをやって朝10時から始まって、終わったのが夕方の6時半、7時ぐらいまでずーっとお昼も食べずにやりました。(小学校低学年時代)  父は妥協はなかったです。    小学校の時には自信をもってやっていましたが、中学では背も大きくなくて細くて、2番で打ったり7,8番で打ったりしていました。   右打ちでしたが、左打ちに替えました。  又戻していたらプロ野球の選手にはなれなかったかもしれないです。   

大分県立佐伯鶴城高等学校へ進学する。  周りにうまい人がいるなあと思いました。  全体練習以外に自分でバットを振ったり、下半身を鍛えるために走ったりしていました。 140mぐらいの城山が高校の裏にありよく走らされました。  体幹を支える上ではいいトレーニングになったと思います。   2年の秋から3年の夏までエース投手兼主将を務めるが、3年の夏の大分大会の準決勝戦で敗れ、3年間とも春と夏の全国大会の出場を逃しました。   野球に興味を持たせてくれたのはスポーツ少年団の指導者の方だと思っていて、田舎に帰るといつも思いだします。  

駒澤大学に進学する。  回りは強豪校から入った人たちが多くて恐々して居ました。  寮に入ってバッティング練習、守備練習をした時に負けていないかもしれないと少しづつ思うようになりました。  1年生から試合に出させてもらいました。  大学でチームがリーグ優勝するなどする中で、代表に選ばれて非常にうれしかったです。  その後ドラフト1位で広島に入団。   大学での実績からおごった気持ちがあったようで、プロの世界はそんなに甘いものではありませんでした。   キャンプの初日に、とんでもない所へ来てしまったと思いました。   辞めたいなと思いましたが、3年間は必死にやろうと思いました。   17年間活躍をして盗塁王3回、1995年には史上6人目の打率3割、ホームラン30本、30盗塁のトリプル3を達成。  2020本のヒット達成。  よく17年間プロの世界で出来たなあと思います。   150本ぐらい残す中、怪我などで体調がよくない中、辞めようと思って山本浩二さんに相談したら、「一生後悔するぞ」と一喝されました。   何とかクリアしましたが、打ったというより打たしていただいたという思いがあり感謝しています。 

2010年から5年間広島の監督を担当。   Bクラスのチームだったが、2013年には初めてのクライマックスシリーズに進みファーストステージを突破、その後の3連覇の礎を築く。    最初はやってやろうという事で指導しはじめましたが、見事に自分の空回りでした。   2年目からは自分はあまり動かず、コーチの方に自分のやりたい野球というものをミーティングを通じて指示しました。  3年目は選手との距離感を縮めるためにどうしたらいいかという事をやりはじめ、コミュニケーションをとれるようになってからは、選手の成長も感じましたし、チームが変わってきた感触がありました。    僕は周りから見ると成功した人間と思われていると思いますが、その過程はあまりみない。  壁当て、練習で左打ちにして沢山バットを振ったとか、土手を走ったり、大学での練習、プロに入ってのきつい練習とかは表には出ないです。  周りの見方と自分の見方は違うわけです。 自分より体が大きいし、パワーがあって、 走るのも早いから僕以上の選手になるなと、自分と同じことをやれば僕以上の選手になるなと、自分の中の勘違いがありました。  それを変えてゆくのが大変でした。   そのシーズンを反省していって、3年目にはこれだという方向が出たので、監督を退任するまで変わっていないです。  

監督を退任後は広島大学の大学院で、主にコーチング論でしたが、齢が離れた人たちと一緒に講義を受けたり、スポーツ以外の方たちとの交流もあり、2年間いい時間でした。   指導の仕方も変わってきていて、コーチングも変わってきています。   今は解説と、野球に携わる仕事をしていますが、底辺で野球が好きで指導している方々に、自分で経験してきたアドバイス、大学院で勉強してきたことなどを、伝えることは伝えて、質問等を受けながらお役に立てれば良いと思います。  田舎っていいなあと思います。







2022年2月17日木曜日

マンスール・コルドバッチェ(画家・彫刻家)・芸術と料理で日本に恩返し

 マンスール・コルドバッチェ(画家・彫刻家・居酒屋店主)・芸術と料理で日本に恩返し

イランの画家、57歳、居酒屋の店主です。  35年前に日本語学校に留学するために来日し、奥さんの清美さんと知り合い、東京の板橋に居酒屋を開店しました。  マンスールさんは二科展に4年連続入賞、日展にもこれまで16回入選しています。    マンスールさんはこれまでお店の経営も芸術の分野でも多くの日本の人たちに支えられてきたと感謝しています。そんなマンスールさんの思いを伺いました。

1988年に初めて日本にきました。 34年目になります。  イランの日系企業に勤めるために日本語を学びに日本にきました。  昼は学校、夜は居酒屋でアルバイトをしながら一生懸命日本語を勉強しました。   日本企業が撤退してイランに帰れなくて日本に残る事になりました。   アルバイトをしていた店にお客さんで来た人にプロポーズして、きよみさんと結婚して妻の実家の近くに居酒屋を始めました。  娘も二人生まれました。   去年の日展でも絵画で入選、娘がイランの民族衣装(チャドール)を着て、それを絵にしました。    娘をモチーフに描いてきましたので、娘の成長の記録のような感じです。   4歳より絵画を始め、イランの画家HOSSEN TONDKARに師事しました。   先生は昨年に亡くなりました。   

居酒屋に来たお客さんで鶴田松盛先生と知り合い、先生のアトリエで土日一緒に絵を描いていました。  二科展の初出品、初入選しました。   4年連続で入選しました。  日展にも出品したら落選して、その後10年連続で落選しました。  「焦らず、慌てず、諦めず」という言葉を貰って、それを大きく書いてアトリエに貼って、居酒屋の厨房にも小さく貼って、2007年に日展に初入選してからアトリエのは消しました。   16回入選し、日展の会友になっています。   家族には感謝してます。  コロナ禍で、今回は白黒でやってみました。   絵にサインをした後に「、、、」がありますが、それには意味があって外国で生きてゆくと精神的にも大変で、涙が出ます、人には見せられない涙です。 「、、、」は私の涙です。    1990年後半に彫刻の瀬戸剛先生に弟子入りしました。 厳しい先生で、職人の世界の様でした。  彫刻も初出品初入選し、先生から褒められました。  ダブル入選しました。  

居酒屋の激安、超大盛。   2年目に妊婦の夫婦が来て、夫が予算がないからということでサイコロステーキを止めて380円の焼きそばを食べて帰りました。   その晩に夫婦の会話が気になって、サイコロステーキを食べたらどんなに栄養が体内の子にいいだろうかと思って、全部のメニューを380円に替えました。  値段を気にしないで食べたいものを食べて欲しかった。  しばらくしてからその夫婦が来てサイコロステーキを頼んだので、前回のを含めて大盛にしました。  笑顔が未だに忘れません。(28年前)  それが大盛の始まりですが、結構やりくりが大変です。   オムライスは3kgです、税込みで400円ですが、赤字です。  ドリンクをいただいてもらえればいくらか助かります。   アルバイトで何とか帳尻を合わせています。  

板橋は人情のある街で、好きな街です。  食器など欲しいものを店の前に書いておくと置いてあります。   近くの居酒屋の常連がうちの店に数日来ていましたが、その居酒屋のマスターが困ると思ったので、ある日断りました。   そうすると前の店に戻ったようで、マスターが翌日お菓子を持ってきて、「ありがとうございました。」という事でした。うちの店では常連さんという差がないようにしています。  

個展をやらないかという話があり、福島県の川内村で個展することになり、村興しの一環で小学校を美術館にしてそこでやる事になりました。  4か月やりました。 東日本大震災で作品を保管してくれ戻ってきました。  震災を忘れてはいけないと思って、店の時計を2時46分に時間を合わせて電池を外しました。  どんどん時計が増えて十数個の時計が2時46分になりました。  或る日時計を見て泣き始めたお客さんがいて、その晩に針を全部外して針のない時計を飾りました。  しばらくしてそのお客さんが来て、しばらくして針のない時計を見て喜んでくれて、ビールしか飲まないお客さんでしたが、焼酎を2本置いて行って、いつか友達が来た時に飲ませたいと言いました。  心の中に2時46分はしまいました。  3月11日には寄付をしています。  先生方はじめたくさんの人に出会って感謝しています。









  

2022年2月16日水曜日

黒木知宏(元千葉ロッテマリーンズ投手)  ・すべてのボールに魂を込めて

 黒木知宏(元千葉ロッテマリーンズ投手)  ・すべてのボールに魂を込めて

入団1年目の1995年から即戦力として力を発揮し、4年目には最多勝、最高勝率のタイトルを獲得、Bクラスに低迷することが多かったチームにあって、闘志あふれるマウンドの姿はエースのジョニー、魂のエースと愛されて多くのファンの心をつかみました。  1998年チームが連敗する中で先発した黒木さんが勝利まであと一つのところまで行きながら、同点ホームランを浴びてプロ野球史上最多の17連敗を喫したシーンは、七夕の悲劇と呼ばれて今も語り継がれています。   現役引退後が北海道で日本ハムファイターズでコーチを務めた後、現在は日米の野球解説者として活躍中です。

社会人チーム時代に居眠りをして頭を丸めて来いという罰を貰いました。  頭を丸めたのですが、山本ジョージさんのような髪形になって、ジョージと呼ばれていましたが、後輩の一人がジョニーと言い始めて、自分といてもしっくりして「ジョニー」と言い始めました。   先輩、後輩関係なく親近感のあるものになりました。   

宮崎県日向出身で、自然に恵まれていました。  野球と魚釣りは大好きでした。    延岡学園高等学校に進みましたが、練習は厳しかったです。 監督から特別に課題を課せられ辞めようと思ったこともありましたが、今思うと感謝しています。  1991年3年生の夏の大会の決勝戦で日向高校(自分の地元の学校で中学の仲間が多くいた。)と対戦して、勝った時には複雑な気持ちはありました。  四日市工業高校三重県代表)に4-8で敗れた。  当時は自分の思っていた(140kmぐらい)ほどのスピードは出ていませんでした。(測定値129km)   戦った四日市工業高校の井手元健一朗投手は大会でNO1のピッチャーと言われていました。   社会人野球新王子製紙春日井に入社、1994年都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として森昌彦NTT東海から補強)と共に優勝に貢献しましたが、コーチからは今のフォームではだめだと言われました。  みるみるスピードが上がって思い通りのボルが投げられるようになりました。(社会人3年目) 

1994年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズ(逆指名)に入団。  背番号が54で、あれっという気持ちはありましたが、この背番号で頑張ろうと思いました。   1年目に5勝、2年目に8勝、3年目に12勝、4年目に6月にはハーラーダービートップの6勝を挙げていた。  その後自分もチームも勝てなくなり16連敗(ワースト記録タイ)、7月7日先発投手となる。  8回までは3-1でリードしていました。   9回イチローが三振、2アウトでハービー・プリアムに対して1ボール2ストライクまで行き、インコース低めに投げた146kmのいいボールでしたが、同点ホームランを打たれてしまい、頭が真白になり記憶が飛んでいました。  ファンが暴動を起こすのではないかと思っていましたが、テレビの画面ではファンの人たちが一生懸命歌っていました。

*「あしたのジョー 美しき狼たち」 何があっても這い上がろうというような歌詞でした。  キューバとの対戦の時に私が当番する状況でしたが、林さんが歌い始めて、僕の胸に突き刺さって、みんなで歌いました。   苦しいリハビリを終えてマウンドに上がる時の登場曲は必ずこの曲にしています。

色々故障が出て来ましたが、一番苦しかったのは肩でした。  2001年6月から肩に違和感を感じて、徐々に痛みが出始めるようになりました。  気を張ってボールを投げると投げれるんで、投げたら勝つようなシーズンで、エースという立場で痛いからやめますと言えないような状況でした。   気が付いたら大きなけがになっていました。   怪我を治そうという事で緊張の糸が途切れて、翌日からボールが投げられなくなりました。  そこから2年半苦しみました。   3か所が駄目になっていて、手術をしていくと14か月はボールが握れないと言われてリハビリを考えると2年という事で諦めました。  筋肉の半分は残っていたのでそこを2倍強くすれば行けるだろうと思って保存療法が始まりました。  でも同じボールを投げられることは2度となかったです。   痛い箇所がいたくないような投げ方をすると、本来のフォームではなくなるのでどこかに歪が来ます。   歪が来たところが肘でした。   肘だったら手術をして3~6か月で回復できることが症例としてあるので手術をしました。  2004年に投げられるようになり、996日ぶりのことでした。 1勝上げるが、又肘が悪くなって452日ぶりの登板となる。   最初の復帰の登板は勝つためのビジターの試合で凄く嬉しかったです。  一球なりとも気を抜いて投げたボールはないです。  1万9482球を投げました。  

2013年から5年間日本ハムファイターズのコーチをやりました。  大谷翔平選手と同じ年でした。  どの程度の能力があるかは知りませんでしたが、2/1~半ばぐらいでその疑問は吹っ飛びました。  彼の能力を見たら両方のポジションをやらなきゃ駄目でしょうと思えるぐらい凄かったです。   彼の宝をどうやってやるかの環境つくりの5年間でした。 今年は昨年以上の成績を残すと思います。   彼は毎年進化していきます。

 




   

2022年2月15日火曜日

春日いづみ(歌人)            ・短歌に託したコロナ禍の介護

 春日いづみ(歌人)            ・短歌に託したコロナ禍の介護

新型コロナウイルスの拡大の中、介護される人、介護する家族の不安や生活上の制限など厳しい状況が続いています。   長年続いた介護百人一首は20121年度から新介護百人一首、そして装いも新たにスタートし、一万首を越える応募がありました。  感染拡大で家族すら面会できない切なさや、海外からやってきた介護研修生の熱意や戸惑いなど、11歳から102歳までの幅広い応募があり、このほど入選百首が選ばれました。   今日は選者のおひとり春日いづみさんと一緒に共に作品に込められた思いをお伝えしてゆきます。

短歌というとたった31音の小さな詩形なんですが、1300年以上にわたって日本人の気持ちを受け止めてきた、そういう詩形だと思います。   相手を思う気持ちを表現するのに一番ふさわしい詩形ではないかと思います。  時代も反映してきています。  高齢化により介護する人介護される人、コロナの影響で外出できない寂しい切ない気持ちを紙と鉛筆があれば何とか表現できるので短歌に託したという人も多いのではないかと思います。   海外の研修生が作ってみようという気概が凄いと思います。    

*「コロナ禍で妻は家族に会いたいと乱れた文字が絶筆となる」   大野和代(80歳)   乱れた文字、絶筆が作品にインパクトを与えていると思います。  

*「コロナ禍の暗き日夜に灯されし介護百人一首の募集」       角川幸恵(98歳)   心がさいなまれていた時に募集のチラシに心がパッと明るくなった。  日夜に灯されしという言葉がいいと思います。 3回連続入選。

*「遺言と延命治療の拒否願い介護?ようやく安らぎを得る」   角川幸恵2019年作品  

*「夜半に来てあの年の瀬?に帰る子を眠る振りして後ろ手拝む」 角川幸恵2020年作品

*「ワクチンを済ませた後の面会に夢の人やなと父はいいたり」  翔馬悦子      2年間の面会できない間に認知症になってしまって娘の私も夢の中に出てくる人だなと言う。  「夢の人やな」は臨場感が出ていると思いました。

*「タブレット画面に映る病室の母が薄くて母より母だ」    高橋際限(ペンネーム60歳)   薄いは色が薄いのではなくて厚みがないことを薄いと表現している。 痩せている母がより痩せて見えた。  

私(春日いづみ)の母はまもなく96歳になります。   3年前に股関節の手術をして、手押し車、杖を家の中にいれて歩いています。  父は25年前に亡くなりました。  父を介護するのは大変でした。   最近は介護制度が出来て皆さんに支えながらなんとか頑張っています。  体験、感覚、想像力とか総動員して短歌を作ります。  自身との対話、自身とのかけがえのない時間かと思います。   

*「紅の非常ボタンが母のへ?(部屋のこと?手?)の三面鏡に三っつ映れり」   春日いづみ        三面鏡に非常ボタンが三っつ映っているのを見ると、不安や不穏を感じ歌にしました。

介護する側の短歌

*「あなたとおしゃべりするために必死で覚えた温かい方言」   作田みく(16歳)  言葉を覚えることは寄り添う事でもあるわけです。 

*「あんたん時はおいしかねえ食事介助する手に喜び走る」  パパマワル・ヤムクマリ(ネパール) 声を掛けながらとか工夫しながらやっています、とのこと。

*「介護職極まって母国語に日本のおばあちゃんびっくりします」 ビスタ・アールズ(ネパール)とっさの時にどうしても母国語が出てしまうんでしょうね。  

*「介護ロボ寄り添えるのは身体面心に寄り添う介護福祉士」  小久保彩音(16歳)  心に寄り添える介護士になるんだという気概がある。

*「通院に同伴される恥ずかしさ苛立つ我を包み込む母」    岩城正秀(44歳)   麻痺のある身体と付き合って44年と書いてあります。 

*「じいちゃんと毎日豚を見に行ったほんとはいないと知ってたけれど」貝瀬明子(48歳)祖父が若いころ養豚業をやっていて、晩年は認知症になっても豚を見に行く言ってときかなかった。    「説得よりも納得」という言葉が私(春日いづみ)の中にずーっとあります。

*「ちいと馬鹿疲れてきたよこの婆も夜半の尿取り6回はねえ」   田中早苗(87歳)  夜中にご主人に6回も起こされる。  老々介護 

*「新聞紙広げ真ん中穴を開け介護床屋のさあ開店だ」     千木良正一(80歳)  さまざまな現場の知恵を学ばさせてもらう事が出来る。 まるでままごとのような明るさ、夫婦愛を感じます。

*短歌、作者名は漢字、かななど間違っている可能性があります。




2022年2月14日月曜日

三宅義行(元女子重量挙げ日本代表 三宅宏実の父)・【アスリート誕生物語】

三宅義行(元女子重量挙げ日本代表 三宅宏実の父 メキシコ五輪重量挙げ銅メダリスト 日本ウエイトリフティング協会会長)・【アスリート誕生物語】 

三宅宏実さんが現役を引退され、今年からは日本オリンピック委員会JOC)のアスリート委員として活躍しています。  アスリート委員は選手の声をIOCに反映すること。 コーチ、監督とのギャップを埋めるためにつくられました。  

三宅宏実さんは2012年ロンドンオリンピック48kg級銀メダリスト2016年リオデジャネイロオリンピック48kg級銅メダリスト夏季五輪において日本女子最多に並ぶ5大会連続出場を果たしました。

子供の頃は普通の子でした。  運動神経は普通でした。  妻がピアノをやっていたのでピアノを習っていましたが、なかなか前に進まないような感じでした。  最初は期待をすればするほど怒りたくなるのですが、それは指導者の自己満足で選手にはプラスにならない。   最初の1,2年は怒ったりしていましたが、怒っても何も生まれない、だったら褒めてのばした方がいいということで、褒めながら伸ばすという事に切り替えました。   練習場に何度か連れて行きましたが、絶対やりたくない、という環境でした。    2000年のオリンピックに間近の人が出たもので、私もやってみたいという風に変わったのではないかと思います。  当時は選手のいろいろな状況を知っていたので、重量挙げはやってほしくはありませんでした。  むしろピアノをやってほしいと思っていました。  男兄弟2人と娘がいましたが、こちらからやるようには特には言いませんでした。  次男は重量挙げをするようになりました。  

2000年11月から競技をやりたいという事で始めて、3か月間続けたら続くかなと思っていました。  重量挙げのある埼玉栄高校に進学させました。  条件をだしました。  絶対最後まであきらめない。 オリンピックでメダルを取るまで、金を取るまであきらめない、でした。 それが出来るんだったら真剣に教えてやろうと思いました。  平成13年に定年なので、この子のためにやろうと思いました。  9か月後には全国高校選手権53kg級で優勝、3年後には全日本選手権で初優勝を果たす。  記録が伸びると面白い、だから練習もできるという相乗効果があります。   自分の心に勝つという事が大事です。  不安を払しょくするためには練習しかなく、宏美はつらくても練習から逃げませんでした。痛くてもつい練習を重ねてしまいます。  痛いところに自然と手がいきますから、それを読んでおかしくないかと声を掛けます。  ロンドンが終わってリオへ行くまでの4年間は毎日が葛藤でした。   練習をして自信を掴むしかないんです。  痛めたところはやらなくてもいいから,痛くないところを一生懸命やろうという事でやってきました。  1週間休むと元の身体に戻るのに3週間かかってしまうので。(女子の方が長くかかる。)  

2004年アテネ大会出場。  それまでには3年半しかなくて、学校以外に家で土、日に練習をさせました。  普段の日は家で出来る種目をやらせました。  食事に関しては妻がトレーニングセンターへ1か月間通ったりして情報を仕入れてきたりして、作っていきました。  2004年アテネ大会(19歳)は9位、2008年北京大会は6位でしたがドーピング問題で4位となる。  金と銀では凄く差があると思いますが、銀と銅はほとんど同じだと思います。  銅まではメダリストだがそれ以下はオリンピック出場者という事になります。4位も6位も同じだと思いました。

自分自身への歯がゆさからか、突然いなくなりました。   沖縄に行ったという事でした。  一人のアスリートを育てるためにはみんなの力が必要だという事がわかったんじゃないんでしょうか?  1週間後に帰って来ました。 「お帰り」と言って迎えました。 ロンドンでは女子重量挙げで初の銀メダル、その後怪我との苦しみのなか、リオデジャネイロ大会では銅メダルでバーベルにハグをして拍手を浴びました。  怪我との戦いの中、2018年全日本選手権で優勝。   ドーピングの問題でルールが変わって18か月で6大会を義務付けられ過酷でした。   6大会という事がうまくコンディションを作れなかった一つの理由だと思います。(怪我があったのでなお厳しい)  2020年9月に腰の疲労骨折が判明。  12月の全日本選手権は欠場。  5度目の東京オリンピック出場となる。  オリンピック開催の問題もありましたが、ステージに立てたのは良かったと思います。 

 













 

2022年2月13日日曜日

津田由美(地方公務員)         ・見える障害と見えない障害

 津田由美(地方公務員)         ・見える障害と見えない障害

1970年静岡県生まれ。 津田さんご夫妻は共に身体に先天性の障害がありますが、共に働いています。  5年前夫は脳腫瘍の手術を受け、リハビリ訓練の後職場復帰しましたが、新しい仕事が覚えられない、家庭でも笑顔が無くなるなどそれまでとは違った症状、高次脳機能障害の症状が見られるようになり再び休職しました。  高次脳機能障害者支援センターで半年余りの就労訓練を受けて再び職場復帰を果たし、現在は毎日車椅子で出勤しています。   津田さんはこれまでの体験から病気や事故で脳の機能が障害を受ける見えない障害で悩んでいる方や家族に対する理解と支援を呼び掛けています。  

私は生まれつき右の手足がなくて、いまは義手と義足をはめて生活をしています。   3歳から9歳までですが、障害を持った子が入所しながらリハビリをするような施設に入所していて、義足を付けて歩く練習とか、左手だけで日常生活を行うようなリハビリをしていたおかげで、幼稚園ぐらいから義足を使って歩けるようになりましたし、日常生活は左手だけで生活できるようになりました。  18歳ですぐに車の免許を取って行動範囲が広がりました。   義足も年々軽くなってきています。    大学も愛知県にある福祉大学に通って、言語聴覚士という仕事があることを知って、大学から専門の学校に2年間通って言語聴覚士の資格を取りました。   脳梗塞、脳出血などで脳にダメージを受けた方が言語野にダメージを受けた方が失語症になり、話す機能を取り戻すとか、コミュニケーション手段を獲得するためのリハビリをしたりとか、そういったものをやっていました。  今は横浜市の区役所で事務をやっています。  20年続けています。  

2017年春に夫に異変がありました。  全身をガタガタさせて痙攣をしていました。   救急車で運ばれて脳腫瘍だと診断されました。   夫は元々足の障害を持っているんですが、結婚して数年後から足が歩きにくくなってきたとか、立っていることも大変だというようになりました。  今思うと脳腫瘍のきっかけだったのかもしれません。  鉄道会社に勤めていました。  手術は朝9時ぐらいに始まって12時間かかりました。   95%の腫瘍が摘出できたという事だった。  後遺症があるかも知れないと指摘されました。  目が見えなくなるとか麻痺が他にも出るかもしれないという事だった。  リハビリ後職場復帰をしました。   バリアフリーのある事務職になりましたが、新しい仕事がなかなか覚えられないとか、一度に二つの事が出来ないという事、コミュニケーションもうまく取れなくなってしまいました。  家でも話をしなくなり笑顔も消えてしまいました。 4か月後に仕事に行けなくなりました。   見えない障害、高次機能障害という事でした。  

高次脳機能障害者支援センター(県に1か所はある。 ほかに政令指定都市)で半年余りの就労訓練を受けて再び職場復帰を果たしました。  センター内では最初は週に2日から段々週に5日通えるように体力も付けます。  軽作業とか、運動もやっていました。  車椅子マラソン(2km)に出ようという事を夫が言い出して一緒にださせていただきました。   高次脳機能障害について周りに理解してもらうようにすることが大変でした。  支援センターの方が会社側との話し合いなどにも参加していただいて助かりました。   

何処までが障害のための影響なのか判りにくくて、見えない障害の難しさを感じます。  職場ではさらに難しいと思います。  高次脳機能障害については理解の得にくさがあると思います。   人によっても障害の内容が違って千差万別です。  私はサポートされる側だったのが、夫をサポートする側になって支える側の大変さを知りました。  支援する家族の悩み相談が出来るところがあると有難いと思います。   





2022年2月12日土曜日

長尾充徳(京都市動物園職員)      ・みんな仲良し、動物園のゴリラファミリー

長尾充徳(京都市動物園職員)      ・みんな仲良し、動物園のゴリラファミリー 

京都市動物園の人気者4頭の西ゴリラは仲良し家族です。  そんな一家の観察記を元飼育員の長尾さんが児童書「ゴリラのきずな」にまとめました。   一家は父モモタロウ(21歳)、母ゲンキ(35歳)、長男ゲンタロウ(10歳)、次男キンタロウ(3歳)の4頭で仲良し家族が出来るまでには様々なドラマがありました。  それぞれの個性や成長ぶり、家族の役割など人間の家族も参考になるようなエピソードが一杯です。   長尾さんは野生のゴリラの生態を参考にするため、アフリカを訪れたり、動物園生まれの母ゴリラに子育てを教えたりと、情熱を注ぎました。 

飼育員の仕事はだいたい34,5年やりました。    最初は熊で人工保育もしましたし、ヨーロッパバイソンも長くやりまして、・・・・の仲間が大好きだったので8年ぐらいやりました。   サッカーと動物が好きでサッカーは途中であきらめて動物を目指すようになりました。   今はゴリラが一番好きです。   最初の印象は良くなかったですが、接すれば接するほど思慮深くて、物事を考えていて、凄くこっちを観察しているなあと判って来ると凄く親しみを持つようになります。   実はオスよりもメスの方が攻撃的です。   特に子供を持っているメスは非常に強くて、それは母性のなせる業ですね。   オスゴリラは仲間を守ろうとする意識が高いです。   親しくなると挨拶もしてくるようになります。 低い声でうん-ーんと言います。   仲間を呼ぶときには細い声で ほっほーーと鳴きます。  いろんな言葉を持っていて、チンパンジーほど音声のコミュニケ―ションは一杯とらないが、必要に応じてコミュニケーションを取る形です。   

一家は父モモタロウ(21歳)、上野動物園で生まれた子で、父親を知らずに育ったので非常に戸惑う子でした。  段々親らしくなってきて特に次男が生まれると親らしい振る舞いをするようになりました。   弱点は虫が嫌いで本当に困ります。  カマキリが出入り口にいて食べたくても食べに行けないというような場面もありました。  家族思いのいいお父さんになりました。  母ゲンキ(35歳)は肝っ玉母さん的な母さんで、子供が生まれてからは凄く母性を感じるようになり、片時も子供を離さないです。  1年ぐらいはずーっと抱きます。  子供の身体中をよく舐めます。  父親、母親とも日本で生まれたゴリラで、そのペアリングで出来た日本で初めての子が長男ゲンタロウ(10歳)で、凄く当時は話題になりました。    次男キンタロウ(3歳)は物おじしないやんちゃな子です。  

ゴリラには2種類いて、日本で飼われているゴリラはほとんど西ゴリラです。 西ローランドゴリラとクロスリバーゴリラです。   もう一つは東ゴリラで、マウンテンゴリラ、東ローランドゴリラです。  西ゴリラは木が生えているような森にいます。 木の上の食べ物を取るのが得意です。  東ゴリラは草地に住んでいたりして草だとかを食べています。 西ゴリラのオスは地面にベッドを作って寝ます。  メスと子供は木の上にベッドを作ってそこで寝ます。   オスは170~230kgになります。 メスは80~130kgぐらいです。   10歳を過ぎると背中に銀白色の毛に変って成熟した大人の印になり、群れを離れて一人になり群れを作ってゆきます。  群れのリーダ-になるとシルバーバックと呼ばれます。  

チンパンジーはよく自分をアピールして声も大きいです。  群れ同士の争いもギャーギャー叫びながらやります。   ゴリラは寡黙で何か大きなことがないと争いごとにも発展しません。   チンパンジーは好奇心が強くいろいろ触ったりします。   ゴリラはすぐには触らない、じーっとまず観察します。   自分が納得するとようやく触ったりします。   チンパンジーは複数のオスがいて複数のメスがいて子供たちがいて群れが成立してますが、ゴリラは成熟したオス1頭で群れをつくります。  

10数年前に西アフリカのガボン共和国に10日ぐらい行きました。   京都大学山極 壽一先生に連れて行っていただいて、丁度2,3か月の子供を抱いている母親がいて近づいてしまったら、シルバーバックがコココッと言いながら走ってきて5mの目の前で止まってこっちをジー―ッ睨むんです。  やばいと思いましたが、「逃げちゃだめだ、お尻を見せると向かってくるから」と先生から言われ対峙しました。  何もしないとわかると振り返りもせずにすーっと消えていきました。    基本的にあまり争いはしない、グループ内でけんかが起きた時なども誰かが仲裁に入ったりします。  樹上の生活が多くて見ていた時の7割程度が樹上で過ごしていました。  飼育環境にも違いがあるのではないかと思って、建て替えの機会があった時に、鉄骨で上に登れるような状態にして、餌を求めて天井を渡ってゆくようにしました。 

食べ物も果物、パン、牛乳、ヨーグルトなど高カロリー食でしたが、歯が悪くなってきました。  肥満にもなりました。  心臓疾患で亡くなるオスゴリラが3~4割です。  餌の改善も必要だと思い、葉っぱ、牧草、葉物野菜を中心にしていきます。  昔は50数頭いましたが、現在は6つの動物園で19頭しかいません。  高齢化しています。  3歳位のオスメスペアで来るので近親交配を避けるという事があるが、小さいころから一緒にいると交尾をしなくなり、子供が生まれなかった。    オスメスを交換してあげるともう少し繁殖できたのかもしれない。  現地からとか、海外の動物園から連れてくるという事はできなくなっています。   

2007年からゴリラ担当しました。  モモタロウの父親のゴンというオスとゲンキとゲンキの母親のヒロミの3頭でした。  ゴンとヒロミが亡くなってしまって、ゲンキとモモタロウをペアリングさせるようにしました。   上野から連れてくる前にまずは仲良くなるように作戦を立てて成功しました。  子育てが心配でしたが、子育てのビデオを見せたり、いろいろ教育しました。  10か月半ほど私がミルクをあげるようなこともありました。  順調に育っていきました。   キンタロウの場合はおっぱいが出ない時期もありましたが、比較的順調でした。  モモタロウはなかなか子供に触ることが出来ませんでしたが、段々慣れて行きました。  お母さんの役割は安全基地になることが重要です。   

ゴリラに一番惹かれるのは他者への配慮があるという事です。  物凄く優しい心を持っています。  腕をなくしてしまった子がいましたが、仲間が木に登って食べものを分け与えていて、食べ物を分け与えることが出来る動物って非常に少ないです。  人間と非常に近いところがあります。  





2022年2月11日金曜日

西村理佐(医療的ケア児・帆花(ホノカ)さんの母)・【人生のみちしるべ】娘の“いのち”は明るくあたたかい

 西村理佐(医療的ケア児・帆花(ホノカ)さんの母)・【人生のみちしるべ】娘の“いのち”は明るくあたたかい

14年前帆花(ほのか)さんは生まれてくる時にへその緒の動脈が切れて、脳死に近い状態になり医師は両親に「目は見えない、耳は聞こえない、今後目を覚ますことも動き出す事もありません」、と告げました。  帆花(ほのか)さんは生後9か月の時に退院して家族3人で自宅での生活を始めます。  当初いろんな制約や前例がないことなどから、公的な援助もままならず、母親の理佐さんは丁寧に説明し、時には直接帆花さんに会ってもらう事で、すこしずつ理解してもらい、自分たちの取り巻く環境を変えてきました。   今年1月帆花さんが3歳から6歳までの西村家の生活を追ったドキュメンタリー映画「帆花」の公開が始まりました。   14年間帆花さんのケアを続けてきた帆花さんの母、理佐さんに伺いました。

今吸引しているところで、吸引は2種類あり、唾液と鼻水を吸う吸引と、喉に孔を開けて気管切開の手術をしていますが、喉の孔のところに呼吸器を装着していますが、そこの呼吸器を外して器官内の吸引をするというのがあって、今それをしているところです。  日曜日だけがいろんなサービスをしていない日になります。  家族3人だけで過ごす休日になります。  二人で必ずケアしているので 、何もしないで椅子に座っているというのが10分ぐらいです。   24時間ケアが必要で、一番大事なのが肺痰ケアで、普通は咳などで肺の痰を出せますが、帆花の場合には咳が出来ないので、痰を取ってあげないといけない。  吸引という作業になります。  吸引する場所まで痰をあげられないので、そこまであげてやるのが肺痰の介助という事になります。  体の向きを小まめに変えてあげる(体位変換)、30~40分おきに体位変換しながら吸引して背中をさすってあげたり、痰を促すお手伝いをしますが、常に夜中でも行う必要があります。   ほかにも体温調節、経管栄養とか常にあります。 見ていなくても耳でなんか変化があるのかどうか気を付けています。  

特別支援学校の中学部に所属しています。   先生が週3回自宅に訪ねてきてくれます。   1回100分の授業を週3回受けて居ます。  ほかにスクーリングと言って学校に行って友達と一緒に授業を受けたり、運動会、文化祭などの行事には学校へ連れてゆくこともあります。  凄く集中力があり、新しいことを学びたいという意欲が凄くあります。 

今年1月帆花さんが3歳から6歳までの西村家の生活を追ったドキュメンタリー映画「帆花」の公開が始まりました。  当時、監督が映画学校の学生で、卒業制作のために撮らせてほしいという事でした。  1年間では撮り切れなくて、一本の映画にしたいという風に変わりました。  3年間かかって撮影が終わり、結果7年経ってしまったというところです。   國友勇吾監督です。  ケアがうまくゆき始めた頃で、家族の始まりの物語だと私は思っています。   辛いことも沢山あったので観ると切なくなったり、懐かしかったりします。  今観るとケアが未熟だったと思います。   

帆花がお腹の中にいる間は元気に動き回っていました。  分娩台に乗って先生が見た時に、先生が血性羊水だとおっしゃって分娩室の雰囲気が変わりました。   先生が馬乗りになり、私のお腹をボンと押し帆花が出て来ました。  すぐに運ばれてゆき帆花に会えたのは生まれてから4時間後ぐらいでした。   会う前に先生からの説明があり、10分間の心肺停止があり、蘇生はしたがこれから生きて行かれるかという事は5分5分だと宣告されました。  面会するとほわーっと穏やかな顔をしていて全く辛い顔ではありませんでした。  担当した看護師さんはこの子は必ず生きるというふうに話してくださいました。   

帆花を元気に産んで上げられなかったことに対して悩み、その後私は鬱と診断されましたが、今の状況を一緒にすることは辞めようと思って、帆花が生きようとしている赤ちゃんだという事が心に入ってくるようになりました。  私も現実を受け止められるようになりました。 9か月後に在宅で過ごすことにしました。  障害者手帳を交付していただきたかったが、障害が固定しないと発行できないという事だったが、説明して生後4か月の時に取得しました。   24時間の介護という事で、主人と二人で毎日3,4時間の睡眠時間で介護していましたが、寝室に行っても気になって寝付けられませんでした。  帆花の検査入院の時に私も倒れて入院しました。  在宅7年(帆花が2年生)が経ったときにも2週間入院しました。  8年間ベッドで熟睡したという事がなくて力尽きて入院しました。   帆花を預けるという事が難しい状況で、主人が1か月間仕事を休むという事になり、在宅のチームの人にも助けていただくことになりました。

自分の分量が多すぎたことに気が付きましたので、ヘルパーさんたちに荷なっていただくようにしました。   今は週に3日は寝室で眠れるようになりました。  ブログをやっていましたが、帆花や私への誹謗,中傷がひどくなってきた時期があり、機械を使って子供を無理やり生かしているとか、脳死に近い状態だったら臓器を提供しろとか、嘘を書くなというような内容でした。   そんな折に、やまゆり事件(相模原障害者施設殺傷事件)、意思疎通ができない方々が沢山亡くなったという事件でした。(2016年)  ショックだったのはあの事件の受け止め方ですが、自分たちとは関係ない障害のある人たちが殺された事件というような、多くの人が線引きして見てるという風に強く感じて、それがショックでした。 私自身も障害が軽い人の施設は増えて行っているのに、帆花のような重度障害は充実しないのだろうかと、比較している自分もありました。 (自分のなかにある差別の感情に気付いた。)  3年間閉ざしてしまったような時期もありました。   新しいヘルパーさんが来たことをきっかけに、徐々に生活が回り出したという事でいい方向へのきっかけになりました。

小さいころから生きることはどんなことだろうとか、考える変な子ではありました。  父が出版社の編集者だったので、家には沢山の本がありました。   小学校入学前に、友達と遊んでいて、和式のトイレに入りました。  ペダルを踏んで水を流している時に、急に生きているって何だろうと思いました。  思春期になってよりよく生きるという事はどういう事だろうとか、生きている価値とは何なのかという事を考え始めていましたが、帆花が生まれてからは、よりよく生きるとか、人の助けになるとかに価値があるとか、考えていましたが、帆花は何をするにも人の助けが必要で、その姿を見た時に、情けないとか、なんで何にもできないんだとは思うどころか、生きてる、そこに命があるという事自体が、素晴らしいんだという事に気付かされて、よりよく生きるとかなんて偉そうなことを考えてたんじゃないのかと思いました。   今自分があるという事に感謝するという事もしないで、命があってそこにあるという事自体が本当に素晴らしくて、それがかけがえのない事なんだという事を、帆花によって気付かされて、よりよく生きるとか今まで考えていたことを一旦白紙に戻されました。   健康なので自分一人で生きてきたような感覚はあるかもしれないが、人と人の間で生きてこれたという事に気付かなかっただけで、それを帆花に気づかされたという事だと思います。  

毎日小さな感動に満ち溢れています。  日々小さな幸せを感じながら過ごせています。 お互いの意志を確認しながらやってきています。  知らないという事が線引きをしてしまうという事につながると思うんです。   知る機会がないという事がおうおうにしてあるんですが、私たちは聞かれたくないという事は別にないです。  知っていただきたいのは帆花が生きている、言葉はしゃべらないが帆花から発する、存在、帆花が生きているという事実をあの子が言う事が一番大事なので、あの映画で実現したのかなあと思います。   一番の願いは、私と主人が帆花のケアを引退して、助けてくれる、この人と生きて行きたいという支援者に出会って、自分の意志を組み取ってもらいながら生きて行ってくれればなあと思っています。 親の手を煩わしたくないという事をそろそろ思うんですね。  そういう風には思わせないという事が一つ、親の手を離れて人の思うように自分の思う人と生きて行ければいいなあと思っています。





2022年2月10日木曜日

塩見三省(俳優)            ・中断された人生だが・・・・

 塩見三省(俳優)            ・中断された人生だが・・・・

NHK朝ドラの「あまちゃん」の琥珀の勉さんで話題になりましたが、その1年後の2014年に脳出血で倒れました。  一命はとりとめましたが、左半身に麻痺が残りました。  懸命なリハビリで2016年にNHKのドラマで復帰して杖を突いて歩く姿で登場しました。  その後映画アウトレイジ 最終章』やNHKのドラマなどに出演しています。  2021年には病気のことやリハビリのことなどをまとめた初めてのエッセー『歌うように伝えたい』を出版しました。  

「あまちゃん」の琥珀の勉さん役は今でも心の中に残っています。  2014年に66歳の時に脳出血で倒れました。  前の年は「あまちゃん」以外でもオファーが多くあって自分としてはフル回転でやって、その冬は寒かったんですね。   すべての作品が終わって1か月ぐらい休みがあって気を抜いている時に発症してしまいました。  一瞬にして身体の具合が悪くなってしまいました。  5か月入院して、もう8年になります。   自分がガラッと変わったぐらいの8年でした。   この8年は塩見三省にとって必然だったと今は思っています。   自分の身体がもう元には戻らないんだという事を自分が知った時からは苦しいですよね。   元には戻らないんだという事を自分の中に落とし込むのに時間がかかりました。   足の不具合が残ったけれど、自分が新しい身体に生まれ変わったんだと、そういう感覚に自分を持って行こうとするのに時間がかかったが、この身体で人前に出てゆくという気持ちになったのが、4年ぐらい経った頃ですかね。  悔しさ、情けなさとかいろんなものが自分のなかで消化は出来ていないが、カメラの前に立ったり、本を書いたりして一つ一つクリアしてきました。  

長嶋茂雄さんとは同じ病気で苦しんでいる同志として接してくださいました。  僕に言ってくれる一言一言がズキッときました。  長嶋さんと週一回あっていると、自分が解き放たれてゆくような感じがあって、映画でもテレビでもこんな身体で出て行けたのは、明るい世界を見せてくださったことは僕にとっては大きい事でした。  2015年12月15日カメラの前に立って復帰しました。  NHKの恋の三陸  列車コンで行こう!』でした。  2016年、東日本大震災5周年にあたり復興へのドラマでした。  倒れてもいいと思って100mをフルスピードで歩きました。  今でもあの時のスピードでは歩けません。   みんなに助けられた作品でした。

エッセー『歌うように伝えたい』 2021年6月に出版。   この病気、この身体は一体何なんだという事を本を読んで学んで勇気づけられたことがあり、自分の闘病のこととかいろんな大切なことを書くことによって、けじめがつけられると言われて、出版することになりました。  ありのままを書くという事を核にして書き終えました。   人生は中断したけれど、昨日から今日、今日から明日って時は流れて人生は続いて行くんですね。    時間をかけて新しい明日に向かって歩いてゆくという事をやっていかないと、いけないのかなと思います。  

三省は「論語」にある孔子の弟子が「吾日に 吾が身を三省する」という言葉から祖父が取って名前を付けてくれました。   1978年演劇集団 円に入団しました。  岸田今日子さんとかに芝居の周辺に大切なもの、絵、映画、本があるんだという事を教えていただいて、この人たちについて行けば面白いことがあるのではないかと思ってくっついていきました。  つかこうへいさんとも知り合いました。   1989年「熱海殺人事件 塩見三省スペシャル」 これをやれば壁を乗り越えられるのではないかと思いました。  北野武監督作「アウトレイジ ビヨンド」「アウトレイジ 最終章」に出演。   第22回東京スポーツ映画大賞 男優賞(『アウトレイジ ビヨンド』) 第39回ヨコハマ映画祭 助演男優賞(『アウトレイジ 最終章』)  あの映画は自分というもの生き様、実際に生きて行きたいというのと、しかし苦しいというベクトルが混じり合ったところでやっていますから、僕にとっては素晴らしい映画でした。   2020年NHKの「天使にリクエストを〜人生最後の願い〜」 2021年「ハルカの光」  ホームレスになっても小説を書き続けてゆく、それはみじめでもなんでもなくて、小説を書く夢を追いかけた人間だという、自分のなかで確保してやれれば、出来ますという事でした。  「ハルカの光」は大学教授と若い男性との恋愛もの。  東日本大震災の復興10年目の作品、

74歳、倒れてから8年、僕の人生の贈り物だとしたら、残された人生で、たとえどんな悪いカードが配られたとしても投げ捨てないで、残された人生を自分のこの身体を活かしきって、生ききって、俳優という事を含めて、ものを書くという事も含めて、自分の可能性を広げて行って、一生懸命精一杯生ききってゆくという事が、自分の目標、毎日毎日を実感をもって生きてゆく、という事に尽きると思います。


2022年2月9日水曜日

佐藤B作(俳優)            ・かつてのライバル達は、今は同志

佐藤B作(俳優)            ・かつてのライバル達は、今は同志 

1949年(昭和24年)福島県生まれ。  早稲田大学を中退してアンダーグラウンドの「自由劇場」の裏方を担当したのが演劇とのかかわりの最初だったそうです。  1973年劇団東京ヴォードヴィルショーを結成、現在も座長を務めています。  萩本欽一さんのバラエティ番組「週刊欽曜日」にレギュラー出演して人気者となりました。  映画、ドラマ、舞台と幅広く活躍しています。  現在放送中の大河テレビドラマ「鎌倉殿の13人」では三浦 義澄役で出演中です。

「鎌倉殿の13人」では三浦義澄役で出演していますが、頼朝が亡くなった後に13人の合議制でいろいろ世の中を動かすのですが、13人の中の一人です。  13人の中では最年長の役です。   三谷さんは笑いに持ってゆくところに関しても細かく指示します。  過剰にやってしまうと面白さがちゃんと伝わらないとよく言われました。  

小学校の時に演劇部に入りました。(4年生)   芝居が出来なくて厳しく先生から怒られました。  中学校では演劇部は女性ばっかりだったのでブラスバンドに入りました。    バリトンという楽器を演奏しました。  早稲田大学の商学部に入って商社マンを目指そうと思いました。  受験勉強の反動で勉強するのが嫌になってしまって、「若者たち」を見て演劇がやりたくなり演劇部に入り夢中になり一気に成績が悪くなりました。   生きてて楽しいなあと思いました。  就職は厳しいと思い、プロの役者に成ろうと思い中退しました。  アングラ集団「自由劇場」を受けましたが、二次で落ちて、ほかの劇団も全部落ちて、行くところがなくて自由劇場」に無理矢理入れてもらいました。  音響の係を担当しました。  1973年劇団東京ヴォードヴィルショーを結成しました。(5人)  昼間にバイトをして夜に稽古をしました。  お客は少なかったけどやりたいことをやって充実感があり楽しかったですね。  関西の笑いが東京に入ってきた時で、関西の笑いを取り入れた演劇を作れないかなあと思いました。  笑いは難しい、怖いです。  笑いの劇団がいろいろできました。  加藤健一さんは凄く芝居がうまくて年上だと思っていたら同い年でした   3月に加藤さんとはニール・サイモンの名作を共演することになっています。(コロナで2年前に中止になったもの)  加藤健一さんは役者としての幅が広いですね。

喜劇やコメディーは普通の芝居に比べて難しいです。  どこかで笑いを取るには、振りがあって、それに関した受けがあって、落ちがあるという、それをきちんとしないとお客は笑わない。  伊東四朗さんがうちの劇団で客演がありますが、演技の仕方が見事ですね。  常にお客はどういう気持ちで芝居を観ているんだという事をきっちりとらえて演技しています。  自分の中に演出家がいるような感じです。  「よくできた喜劇程シリアスに演じなければいけない。」と伊東四朗さんから言われました。  

若い役者に伝えたいことは、「答えは脚本の中にしかないよ。」という事でどこまで深く読めるかというのが役者の勝負ではないかと思います。  読む力がないと演じる力は絶対出てこないと思います。  芝居って人間勉強ですね。  劇団東京ヴォードヴィルショーが再来年50周年を迎えます。   伊東四朗さんに伊藤博文役をオファーしたら「やるよ」と言ってくれて、本当に嬉しかったです。  その時には僕が74歳で、伊東四朗さんが86歳ですから。  「稽古をしてみて、伊東四朗が俳優として無理だと感じたら、即刻降ろしてくれ、それが約束だ。」、と言われました。  自分に厳しい人だなあと思いました。  

若い人もお金がなくて苦労しているとは思いますが、コツコツやっていれば何十年後かにはいいことがあるよと、言いたいです。  続けることは大変ですが。  僕が続けられた原動力は悔しさですね。  同年代の役者に負けたくないという事ですね。





2022年2月8日火曜日

横森美奈子(デザイナー)        ・50代からこそ思い切りおしゃれに

横森美奈子(デザイナー)        ・50代からこそ思い切りおしゃれに 

1949年(昭和24年)東京生まれ、国内ブランドのデザイナーとして50年以上にわたりファッションの最前線で時代をリードしてきました。  着痩せブームの仕掛け人としても知られています。  50代からのおしゃれの楽しみ方について伺います。

小さいころからファッションには興味があったようです。  5,6歳の頃にはお下がりでも絶対着たくない服はありました。  中学、高校は制服で紺色が大嫌いになりました。    高校の頃から自分の服を作りだし始めました。  高校卒後、桑沢デザイン研究所(リビングデザイン科、グラフィックデザイン専攻)に入りました。   子供ころから絵が好きでした。   卒業後グラフィックデザイン事務所に勤めましたが、2か月しか持ちませんでした。    手作りのものを自分でやってみようと思っていたら、菊池先生のお店から声がかかりました。

その後ニットの会社を作るからやってほしいと言われました。  ここ10年テレビショッピング、ネットショッピングのオリジナルデザインを手掛けています。   齢を取ってきていろいろな体形になっても、プロのモデルさんとは違う良さをアピールしたくて、自分で着て説明すると、とっても喜んでくださいました。   リアルモデルという事にもなってしまいました。

着痩せの本を出したのは私が最初ですが、着瘦せという言葉が世の中にあまり浸透していませんでした。   太っていたのでいかに細く見せるかいろいろ工夫していました。  小物、靴なども考えた方がいいです。   自分の若いころを基準にしてしまう方が多いですね。   50代以上の人たちを見るともったいないですね、もっとおしゃれが出来るのに、と思います。   おしゃれはまず自分のためだと思います、テンションも上がります。   緩い=だらしないではないです。   スニーカーがおしゃれの一部になっているというのも実感して、そういったこともおしゃれになれるポイントです。   人を観察するといろいろ参考になります。

40代に差し掛かったころには働き盛り頃でしたが、母の介護がありましたが、仕事が辞められない状態でした。  認知症になっても花の名前は判らなくても、「ああ、綺麗」という感性は有るんです。  介護する側のユニフォームについてやらしていただきました。  

50代以降の人は子育てなどから解放されて自由になっているので、自分の格好ももっと自由になって良いと思うんです。  私は一昨年乳がんになりまして、全摘しましたが、その時にもいろいろ経験しました。  毛が抜けると剃髪しました。  髪形もいろいろ挑戦しました。  ウイッグ(髪の薄くなった箇所に、人工の髪で作られたネット状のものを被り使用する方法。)も楽しみます。   髪とお化粧は流行があります。  服よりも髪というぐらいです。  世間というものをあまり気にしなくていいと思います。  お金をかけなくてもおしゃれは出来ます。  全身鏡で1.5m離れたところから見なさいとアドバイスしています。 3m離れたことになり、挨拶し合う距離なので全体をチェックできる。   バッグ、靴とのバランスもチェックできる。   後ろも合わせ鏡などでチェックする必要があります。   笑顔も努力です。   おしゃれでいるためには健康でなければいけないというふうには思っているので、健康には気を付けています。   どんな状況でも楽しみを捜すという事は出来ると思います。




  



2022年2月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

他に季節に比べて冬は地域差があると思います。   特に雪に関しては。

「チョコレートのぎんがみありき雪山で死にたる友の遺品の中に」    小島ゆかり

北大のワンダーホーゲルにいた時に先輩からパックを用意して、そこに非常用としてチョコレートと紙と鉛筆を入れるように言われました。(非常用食料と遺書を書くため)   

「逃げてゆく君の背中に雪つぶて冷たいかけらわたしだからね」     田中槐えんじゅ

自分の心をぶつけたというような、ぶつけた方が痛い、そんな歌だと思います。 

*「東京という名のホテルは東京に存在しない福島は雪」      ちか

ラブホテルという題で募集した時の短歌で、凄く印象に残りました。  福島に「東京」というホテルがあった。  一種の憧れのようなもの。  一層東京との距離を感じてしまう。

*「あの冬はガールフレンドだったから紺のダッフルコートで立った」 藤本玲未

ガールフレンドだったという言い方が面白い。  彼女の象徴がダッフルコート(カジュアルな普段着)だった。  

*「雪と雪出会わないまま落ちてゆき書かれることのなかった手紙」  鈴木春香

一粒の雪と雪の関係性を考えた時に、一緒に空から降って来てもほとんどの雪同志は出会わない。   人間同士を思わせる。

「六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか」       光森祐樹

バスは六面体だというんです。 そのうち三面を自分に見せている。  不思議な絵画的な遠近法が意識されるような、日常の目に見えている世界とは違う世界がこの言葉の組み立てによって立ち上がってくるような感じです。

「ヒマラヤに足跡を追ひ迫るとき未知の雪男よどこまでも逃げよ」   中城 ふみ子      

大正11年生まれ 北海道出身。 どこかで恋愛の感情がオーバーラップしているんですかね。   憧れ、運命みたいな人  捕まってくれるなというところがいい。  寺山修司に影響を与えている。  女性が自立的に主体的に生きる、そういうことを言語化した出発点と言える。

*「えっという癖は今でも治らないどんな雪でもあなたは怖い」    東直子

潜在的には次の一瞬には自分は倒れてしまうかもしれない、穏やかにコーヒーを飲んでいても、本当ははすべて世界は怖いとも言えると思う。  どんなに柔らかい雪でも怖い。

「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」      寺山修司   

どこかで我々は人生の究極の答え求めて行けるようなイメージが何となくあるが、人生は最初から大きな大きなたった一問の質問なんだ、という寺山っぽいですね。  彼にとってはジャンルは問題にならなかった。  

*「猫はなぜ巣つくらないこんなにも凍りついてる道をとことこ」 穂村弘          

寒いのになぜ巣つくらないのか不思議に思いました。  

*「いろいろなところに亀が詰まっているような感じの冬の夜なり」 穂村弘

冬はいろんなものが滞っているような感じがしました。    

リスナーの作品

*「居たいとも帰りたいとも言わない母が見たいと言った赤城の夕映え」 緒方千佳子?

*「親知らず怪獣みたくわめきだす餅か餅なのか正月なのに」      未練? 

*「初空にホバリングするヘリのあり箱根駅伝遊行寺あたり」    関本章太郎?     (は行でまとめている。)

*印は漢字、かななど記載が違っている可能性があります。



2022年2月6日日曜日

串田アキラ(特撮・アニメソング歌手)  ・【時代を創った声】

 串田アキラ(特撮・アニメソング歌手)  ・【時代を創った声】

串田さんは「宇宙刑事ギャバン」「宇宙刑事シャリバン」アニメ「キン肉マン」などの主題歌を歌っていました。 

*「キン肉マン」  歌:串田アキラ 

歌っている人がひ弱ではと思って、筋肉を鍛えようと思って腹筋1000回ぐらいやるようになりました。   ほかにダンベルとかいろいろやりました。   1983年にアニメとして放送される。    楽しいレコーディングでした。   コロナでジムに行けなくなって自宅でもできるように道具をそろえました。  ライブは無観客でやったり配信して居ました。   一体となって騒ぐことができないので歯がゆかったです。  

小さいころは普通の子だったと思います。  ラジオを作るのが好きでした。  音楽を聴くのも好きでした。  洋物を聞くのが好きでした。  FENを聞いて、リトル・リチャードの歌に衝撃を受けました。   洋物を何十曲も覚えました。  バンドの人から歌うように誘われてそれからバンドと共に歌うようになりました。(16歳)  ベースキャンプにも入れるようになり、どんどんのめり込んでいきました。    17歳でバンドボーイをしながら基礎から勉強しようと思っていろいろ学んでいきました。    趣味でやる分には父は許してくれましたが、プロとなると駄目で家を出てゆきました。   知人にお世話になりながら、アルバイトをしていました。   手に職を付けた方がいいと言われて、その時にいろいろ免許を取りました。  改めて音楽をやりたいという事を強く思うようになりました。 

1年に300本ぐらいやるようなバンドになって行きました。   或る時にレコード会社から誘いがあり、返事をしてソロデビューしました。  デビュー曲は「からっぽの青春」でした。  暗い曲でうーん、ちょっと違うという感じでした。  その後、知らないままオーディションを受けて、NHKの音楽番組『ステージ101』で「ヤング101」の初期メンバーとして活動しました。   ここでもしっくりこなかったので、3か月で辞めようと思いましたが、ゲストの方の姿、意気込みをみて、考え方が変わって楽しく3年間やりました。 

子供向けのものをやってみないかと言われました。  1979年公開の映画『マッドマックス』の日本版エンディング「Rollin' Into The Night」の主題歌を歌う事になりました。  かっこよく歌うように言われるが、なかなかできなくて、よくわからないうちにOKが出ました。  1981年特撮テレビドラマ『太陽戦隊サンバルカン』の主題歌を担当しました。

太陽戦隊サンバルカン』  歌:串田アキラ

何でOKが出たのか判らないままにいましたが、『宇宙刑事ギャバン』を歌った時にこれだと判りました。  ヒーローはかっこいいんですが、秘めた優しさなんですね。 それを歌に出そうと思いました。  それから変わりました。  

特撮アニメはみんなで一緒になって歌える。   自分だけのものではないというのがもの凄くあります。  

ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」  1964年 にサム・クックが発表した歌で、串田さんが2019年 50周年ライブで歌う。

若い声優に対しては「まず大好きであれ」という事で、いろんな壁にぶつかるかもしれないけれど、もっと好きさを強くする、そんな気持ちでやって行けば、楽しくなるのではないかと思います。


    

2022年2月5日土曜日

特集 阪神・淡路大震災から27年 ~音で紡ぐあの日の思い~

 特集 阪神・淡路大震災から27年 ~音で紡ぐあの日の思い~

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から27年になりました。  あの日を音で振り返り、27年経った今を伝えます。   地震当時の揺れの音や火災の音が一部流れます。     今年1月17日午前5時46分神戸市など被害の大きかった地域では各地で追悼行事が行われました。  会場の一つ神戸市中心部の公園には家族や親せきを亡くした方など多くの人が集まって、5000本ほどの灯篭に灯りをともし亡くなった人を悼みました。 

会場は照明が消され灯篭の灯りが浮かび上がります。  祈りを奉げる人々の顔を優しく照らします。  神戸の街を見降ろす諏訪山公園から聞こえてきたトランペットの音。  松平晃さんは毎年ここで演奏してきました。  二度と同じような災害が起こらないことを願って松平さんの思いが街に響きます。 

神戸市長田区のカトリックたかとり教会です。  お経が唱えるなか焼香が行われています。  宗教の壁を越えて亡くなった人を弔う。   震災で亡くなった人は6434人、その一人一人の名前が壁一面に掲げられている場所があります。  人々はここ瞑想空間と呼んでいます。  「又来たよ」と叔父さんに会いにきました。   天井近くに母の名前が書かれていて、見つめている女性もいます。  「毎年思うんですが、手が届けばなあと思って」  2階がすとんと落ちて引っ張り出してもらって病院に着いた時には、もう駄目だった人が一杯廊下に寝かされていました。  母はストレッチャーに乗せて連れて行って貰いましたが、結局は駄目でした。  母と腕を繋いで、が最後でした。    忘れられたら楽だとは思いますが。

放送局の室内はものが散乱し、足の踏み場もありませんでした。   街は一変しました。緊急車両のサイレンの音は止むことはなく、倒壊したビルや建物がその行く手をふさいでいます。   倒壊した建物で懸命な救出活動が進められます。   救出された女性が家族と抱き合います。  マンションの3階から火の手が上がっています。   消火活動が難航している様子です。   神戸市長田区では広範囲にわたって火災が広がりました。  火の勢いが強く住民たちはなすすべがありません。  消防車が到着しても放水が出来ません。(水が出ない)   

高速道路もいたるところで寸断されました。   淡路島では住民同士が協力して 救出作業に当たっていました。     住民たちも近くの公民館に避難しました。   学校の校庭で不安な一夜を過ごす人たちも多くいました。   

追悼行事では次の時代を担う若者たちが誓いを新たにしました。  震災で大きな傷を負った街。  神戸港の一角にあの日を今に伝える場所があります。  崩れた岸壁や、傾いた電灯がそのままの姿で残されています。   

5000本ほどの灯篭には「1・17」と「忘」という文字が書かれていて、忘れないとか、もう忘れてしまいたいというような思いがかけられています。  

経験した世代から知らない世代へ、そして知らない世代が伝え始める震災です。 小学校では、毎年1月17日が近づくと阪神淡路大震災を伝える授業が行われます。  兵庫県芦屋市で震災授業の講師を務めていたのは、米津勝之さん(61歳)、当時小学1年生だった息子の那之君と5歳だった娘の深理ちゃんを亡くしました。  見つけ出された邦幸君?のランドセルの中には「あのね帳」が入っていました。  そのノートには震災の前日の出来事が記されていました。   娘の幼稚園の慰霊碑に刻まれた文字、「忘れないあの日のことを」の「あの日」について子供たちに問いかけます。  震災の日だけにとどまらず、経験していることとか、場所とか、お互いに接点を持てるようなことを見つけ出すような場面が、結局伝えるとか、繋いでゆくという場面になるのではないかと、今は思っています。

震災の記憶はないけれど語り部として歩み始めた女性が居ます。  生後2か月で阪神・淡路大震災を経験しました。   米山未来さん(27歳)  兵庫県淡路市出身で今は東京で働いています。  オンライン語り部を始めました。  15回配信、これまで延べ1500人が耳を傾けました。   米山未来さんの父も16年前から語り部をしています。   親子で語り部に関してのことについて話し合いをしあっています。   毎年追悼行事が行われていて、淡路島の追悼の様子をライブ配信アプリで米山未来さんは伝えていました。