紫舟(書家) 日本人の心を書に~式年遷宮の題字を手掛けて
NHK大河ドラマ 竜馬伝の題字などでおなじみ 今年伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮では神宮からの依頼を受け、祝御遷宮と書かれた4文字の書を奉納しました
詩集さんは立体造形や、動画や音楽などを駆使するメディアアートなどを手掛け、多彩な表現で日本の文化を発信しています
書家を志したきっかけ、書、文字を通して私たちに届けようといている思い、革新的な手法と発想で世界に向かって発信しようとする挑戦などについて伺います
海が好きなので、海に潜ったりするが、伊勢は魚、貝などが一杯居そうなので潜ってみたい
鈴鹿の墨を以前使った事がある
式年遷宮の奉納 遷宮が行われえる3年前にお話を頂いたが、こんなに使われるとは思わなかった
ここに来る電車の中とか、全国の神社にも使われている
手を合わせた後に御幌(みとばり)薄い布があって 優雅に舞って、こうやって上がるのは神様から迎えられた人なので、という案内された方の話なので、書を書かせていただいたのだと思います
1年半ぐらい時間があったので、参拝を繰り返して、感じたことを書いてほしいと云われたので、何百、何千と書いたと思うが、一案だけ差し出した
しっくりくる、ふに落ちる感覚を信じています
「祝御遷宮」に関しては、感じたまま書いたと云う方がしっくりくる
こんな風に表現しましたとは一度もまだ言っていない(言葉に置き替えていない)
書の中に感情を込める、意思を込める事を重視いていた
優しかったり、温かかったり、感情が伝わるのではないかと、ずーっと製作してきた
文字を造形として捉えると言う事をこれから自分の活動の中で、加えていってはどうかなあと思っています
俵屋宗達、本阿弥光悦が書いた作品で、鶴の上に書が書かれた作品があるが、ずーっと見ているとどうやら、そこに書かれている言葉、句には、あまり意味がない(飛ばしてあったりする)
恐らくそれは所を意味とか重視するのではなく、造形として描かれているのではないか
鶴の絵が流れるように描かれていると、其れに合わせて、太く、細く書かれていたりとか
鶴が沢山いてバタバタと羽根の音がするような所には、書がとてもたくさん書き連ねていたりだとか、まるで音が聞こえて来るように、書を用いているのが光悦で、そういう表現方法もあるのだなあと思い、絵の中の一部として捉えられて、今の時代もひょっとしたらわかりやすいとではないかと思う
6歳から書を始めていて、高校生までお稽古をして、地元を離れるときに一旦筆をおいて、そのあと大学に行って、一般の会社に就職して、自分の人生とはこれだったのかなあと思い悩んで、書家の道に進みました
奈良で3年暮らして、名工とか人間国宝とか人々に接して、日本の伝統美を学びました
日本の伝統美をバランス感覚を目とか身体とか、手とかに身につけられたらどんなに素敵だろうと思った
物を作るのが大好きで、物を作る人たちを尊敬している
学生時代は木型から靴を作ったりしていました
他にガラス加工、革製品加工などをやっていました
今も、ガラスで書を作ってシャンデリアに作りかけたもの、言葉はもともと立体だった事で、一旦紙に書いた書を鉄で溶接したりグラインダーで削って立体的にしたものとか、蒔絵をしたりした
フランスでは展示の打ち合わせをして 行きたかった街を見てきた
日本人の作家が作った作品をギャラリーに並ぶのは少なくなった
日本の文化、製品であったものを、そのまま別の国に出そうとするのが一般的だが、何故それが通用しないんだと云う事を考えてみたところ、日本人は同じ黒でも、何色でも見分けられるが、見分けられない国がある
西洋の絵画は一言で言うと立体的、日本の絵は平面的だと云われているが、見ている景色は同じだけれども、平面的に見える国と立体的に見える国があって、色が一色に見える国があれば50色も見分けられる国の人がいる
こんな風に違うのであれば其国の人が見える様な見方で物を作ってあげれば、文化は、越えられなかった壁が越えられるんじゃないかなあと思う
彼らが見えるような見方で作ってあげるのが一つの方法なんではないかと思う
文化を込めるのが一つのテーマにしている
正解かもしれないし、正解でないかもしれないので、かれらの反応を見てみたいと思っている
当初は書だけを展示していたが、繰り返す中で、もっと音楽が国境を越えられるように、感動してもらえる様な作品を作るにはどうしたらいいかと思っているうちに、立体的になったり、音楽とコラボしたり、いろんな試みをして、すこしずつようやく伝わり始めたのかなあと感じています
アートの力で子供たちに対して出来る事はなんだろうと思って、これまでは日本の文化を世界に発信するためにというテーマでずーっと作ってきたが、子供たちのために作ってみようと思って、象形文字をモチーフにしている
書いた象形文字を壁から壁に落ちてくる 象形文字を自分の影でふれると、其書は鑑賞者に吸い込まれて、その言葉の意味のアニメーションに変化する
例えば象の象形文字 ふれると象のアニメーションが出てくる、音も出る
鑑賞者とアニメーションが相互作用を起こす
アニメーショウン同士も相互作用をする
私たちの使っている言葉はどんなふうに作られてきたのかとか、発想は無限大だとか、いろんな表現をしてもいいんだと、其作品を通して感じてもらえればいいと思っている
日本人の発想は本当にすごいと思っていて、モノクロのTVの時代に鉄椀アトムを創造できる創造力だとか、映像を見ていると今の東京の六本木の建物が出てくるとか、発想力は凄いと思っている
前に進もうとしたときに、スカートのすそを踏んでいるのは自分だと思う時がいっぱいあって、
自分で自分を縛っている考え方、物の見方から自分を自己解放してあげる
そうするといろんな発想が出てきたりする、そういったことは意識している
趣味もクリエーティブな事が好きで、人間国宝、名工と言われる人を巡って一緒に物を作ったり、今まで知らなかった技術を知るとか、そういったことが好きです
書道家になる前までは、打ち込めるものがなかった
ようやく書道家と言うものを見つけて、情熱を傾けられるものを持つことができて、喜んでやっている
日本は海と共にあって、志摩の素晴らしい自然があって、海にプロジェクションマッッピングを作ってみたいと思っている
水に映像は映らないが、不可能なことでは無いと思っています
海を割るとか、船を空の上に走らせるとか、一隻の船を浮かべる
其周りの海面に映像を映す
海を割る モーゼの十戒、沖縄の浦島太郎で出てきたりしている
思いついたり誰かが言ったことを小さく試したりすると、全く新しいものができたり、よりいいものができたりするので、試してみると云う事は非常に価値のあるものだと思います
最近の作品でクジラの作品 黒と白のクジラがいて月と太陽がある
2転3転して辿り着いたクジラの作品で、一つの物を諦めずに作り続けていると、全く違うものが生れたり、感動も用意されていると思う
2013年11月30日土曜日
2013年11月29日金曜日
木之下晃(音楽写真家) ・世界の巨匠を撮る
木之下晃(音楽写真家) 世界の巨匠を撮る
指揮者や演奏家、オペラハウスなどを被写体に、数多くの芸術的作品を生みだして、世界的に高い評価を受けています
ヘルベルト・フォン・カラヤンを始め海外の巨匠からの信頼も厚く、其作品は数々の権威ある賞を受賞した写真集を始め、CDジャケトなども通して、クラシック音楽ファン皆さんにはおなじみの事と思います
一瞬のシャッターチャンスにかける木之下さんの思い、巨匠と呼ばれる音楽家の素顔などを伺っていきます
カラヤンを指揮しているモノクロ写真 真横の位置から捉えている 右手に指揮棒 高く掲げている
目は理想の音を夢見ているような気がする カラヤンの手の先ではっきりとオーケストラの音を感じる
自宅のカラヤンの写真 深い茶色で家具は統一 カラヤンは大きく厚い大きな楽譜を両膝に開いている 穏やかで静か、ちょっと緊張感も感じる
カラヤンを撮るのが夢だった
思い続けていると不思議といろんな人にしゃべる カラヤンを撮りたいよ
カラヤンは自分で認めた写真家でしか撮ることしか認めなかった
記者会見場で、たまたま自分で気にいる写真を撮れて、カラヤンの関係者に見せたら、納得してもらって、カラヤンのところに連れて行ってくれた
サインしない人なのにサインをしてくれた
4つの家に連れて行ってもらう事が出来て、写真を撮ることができた
言い続けている、思い続けていると、不思議なことに、叶う事が出来ると思う
プライベートの写真まで撮れるようになったのは?
撮った写真が相手に良い感じで記憶される 被写体の人がとにかく気に入ってほしい
必ず本人に見せてきた そうすると良い、悪いを判断してくれる
記憶に残るものと残らないものがあるので、必ず記憶に残るのが次につながってくると思う
カラヤンはシンプルな人 厳しさが凄い 自分が認めないような写真は残しておきたくない
小澤 征爾 ステージでの写真 指揮者とオーケストラの間に入り込んで指揮者の真前から仰ぎ見るようになっている 左手は顔の上ぐらいの高さまで上がっていて、下がった右腕はV字になって手に持った指揮棒は天を指している
半身に捻った身体はダイナミック 写真を見る人の後ろの方でオーケストラの音が鳴り響いている
自宅の大きなソファーの上で胡座をかいているカラー写真 周りはアイボリーの色調
くつろいでいる穏やかな写真 小澤 征爾さんは一番多く撮っている人
日本に帰ってくる都度に撮りたいと思い続けて、小澤さんの所に通い続け顔見知りになって行った
1975年 小澤さんがサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていて、其時に日本ツアーをするときに、一緒に広島に行った
小澤さんは交響楽楽団のアメリカの人たちに広島を知ってほしいと云うのがあって、演奏して、1日休暇を取った
小澤さんと原爆資料館に行ったが、焼けた累々とした写真を見ながら、涙をぽろぽろ流していて、其時に小澤さんを撮り続けて見たいと思った
ボストン、パリ、ベルリンフィルとか自前で小澤さんにくっついて行った(40歳代のころの事)
アメリカで人気を得た一つに、フリーダム
小澤さんはいつもGぱんとか綿ぱんとか若者に共感があった
小澤さんを撮ることで指揮者を撮ることを学んだ
新しい写真を撮りたいと、言い続けて、小澤さんの前に座り込む事ができた
(今は決して出来ない)
指揮者は棒を振る、棒を見てオーケストラは音を出すが、音を聞いてから映していたら、指揮者は違う事をしている
シャッターチャンスは指揮者が音を行った瞬間にシャッターを押さないと駄目
其れを小澤さんを撮りながら、勉強し、何となくわかってきた
クラシックの巨匠たちを撮っていて、じーっと見ていて、音を感じて、どうやったら写真の中に音を感じるかを考えた
物事を感じるには集中力がとっても大事で、シャッターを切るのは、的の真ん中を打つためにシャッターを切るが、集中力を相当持たないと駄目
写真の機能が良くなって、それほど集中力がなくても写真は取れるようになったが、そうすると不思議なことにそういう風にして撮った写真は、人間性がドンドン薄れてきている
デジタルの写真はだれでも綺麗に撮れるが、本当にその人の個性は出てこない
最近、いろんな機能がつき始めてからは、傑作は撮られていない
傑作とは、写真の中に写し手の人間性がいかにあるか、と言う事
人間性はいかに得られるかと言うと集中力に尽きる、本当に集中する
シャッターを押す技、目で見た通りには撮れない 見た瞬間に撮れるように訓練が必要
段々見た目に近い写真が撮れるようになる、其れが良い写真
ジャコモ・プッチーニのオペラ『トスカ』の写真 フローリア・トスカの恋人マリオ・カヴァラドッシが銃殺されることになり、数人の兵士の銃口がマリオ・カヴァラドッシに向けられて、銃の引き金を引いて、今まさに銃が火を噴いた瞬間を撮っている(普通煙だけしか映らない)
こういった瞬間を撮るのには、本当に集中力が必要 如何に突き詰めてゆくか
サムライの修行は集中力の獲得です
被写体の人はどこの場面、瞬間を撮っているのか、判る
昭和11年長野県諏訪市に生まれる 小学校1年~中学校2年まで愛知県田原市で過ごす
中日新聞社に就職、仕事の傍ら名古屋市内の音楽公演の記録写真を撮り始める
広告代理店を経てフリーになり、世界の巨匠、音楽家、オペラハウス、コンサートホールの撮影をライフワークとされています
父が中日新聞社で働き、戦争中で、学徒出陣があり、紅白のまんじゅうを一緒に食べたことがある(その人は本当は家族と食べるはずなのに、家族がいなくて、涙を流しながら食べていた)
父親が暗室の中で真っ白い印画紙が現像液の中で、スーッと像を持って出てくるところを見て、本当に魔法だった(小学校の1年生の時)
作品は同じものが2枚ない 手で作り同じものが2枚ない
オペラハウスの写真 ブラジルのアマゾナス劇場
観客席から天井までをステージ側から魚眼レンズで撮ったもので、装飾のきらびやかさがいたる所に施されている
バルコニー方式観客席が4階まである
天井にはブラジル人の芸術家「クリスピン」の歴史ある天井画、繊細で複雑なシャンデリアがつるされていて沢山ある
一番最初に見たのがパリのオペラハウスで、これはすごいと思って、撮り続けた
稼いだ金は其取材にほとんど使ってしまった
赤道直下で燕尾服で来る 空調があり、人の手で風を送るようになっている
オペラハウスができたところは経済がストップする
日本ではバブルで2800出来た 劇場文化は有る文化と共に発展する
道楽でオペラハウスを撮りに行っている(金が本当に掛かる)
30分ぐらいで撮影しなくてはいけないので大変(人がいないところでないといけない)
発表したのは1/100ぐらい 今一生懸命整理している
本物の芸術家は亡くなってから、本物かどうかが、時代と時間が選択して決める
ムーミン物語を書いたトーベ・マリカ・ヤンソンさんがいるが、撮った写真を一杯持っている
トーベ・マリカ・ヤンソンさんの写真集を出す
次の世代に残っていく写真を整理していきたい
時間に選択された写真、そういったものをしっかり形にして残していきたい
指揮者や演奏家、オペラハウスなどを被写体に、数多くの芸術的作品を生みだして、世界的に高い評価を受けています
ヘルベルト・フォン・カラヤンを始め海外の巨匠からの信頼も厚く、其作品は数々の権威ある賞を受賞した写真集を始め、CDジャケトなども通して、クラシック音楽ファン皆さんにはおなじみの事と思います
一瞬のシャッターチャンスにかける木之下さんの思い、巨匠と呼ばれる音楽家の素顔などを伺っていきます
カラヤンを指揮しているモノクロ写真 真横の位置から捉えている 右手に指揮棒 高く掲げている
目は理想の音を夢見ているような気がする カラヤンの手の先ではっきりとオーケストラの音を感じる
自宅のカラヤンの写真 深い茶色で家具は統一 カラヤンは大きく厚い大きな楽譜を両膝に開いている 穏やかで静か、ちょっと緊張感も感じる
カラヤンを撮るのが夢だった
思い続けていると不思議といろんな人にしゃべる カラヤンを撮りたいよ
カラヤンは自分で認めた写真家でしか撮ることしか認めなかった
記者会見場で、たまたま自分で気にいる写真を撮れて、カラヤンの関係者に見せたら、納得してもらって、カラヤンのところに連れて行ってくれた
サインしない人なのにサインをしてくれた
4つの家に連れて行ってもらう事が出来て、写真を撮ることができた
言い続けている、思い続けていると、不思議なことに、叶う事が出来ると思う
プライベートの写真まで撮れるようになったのは?
撮った写真が相手に良い感じで記憶される 被写体の人がとにかく気に入ってほしい
必ず本人に見せてきた そうすると良い、悪いを判断してくれる
記憶に残るものと残らないものがあるので、必ず記憶に残るのが次につながってくると思う
カラヤンはシンプルな人 厳しさが凄い 自分が認めないような写真は残しておきたくない
小澤 征爾 ステージでの写真 指揮者とオーケストラの間に入り込んで指揮者の真前から仰ぎ見るようになっている 左手は顔の上ぐらいの高さまで上がっていて、下がった右腕はV字になって手に持った指揮棒は天を指している
半身に捻った身体はダイナミック 写真を見る人の後ろの方でオーケストラの音が鳴り響いている
自宅の大きなソファーの上で胡座をかいているカラー写真 周りはアイボリーの色調
くつろいでいる穏やかな写真 小澤 征爾さんは一番多く撮っている人
日本に帰ってくる都度に撮りたいと思い続けて、小澤さんの所に通い続け顔見知りになって行った
1975年 小澤さんがサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていて、其時に日本ツアーをするときに、一緒に広島に行った
小澤さんは交響楽楽団のアメリカの人たちに広島を知ってほしいと云うのがあって、演奏して、1日休暇を取った
小澤さんと原爆資料館に行ったが、焼けた累々とした写真を見ながら、涙をぽろぽろ流していて、其時に小澤さんを撮り続けて見たいと思った
ボストン、パリ、ベルリンフィルとか自前で小澤さんにくっついて行った(40歳代のころの事)
アメリカで人気を得た一つに、フリーダム
小澤さんはいつもGぱんとか綿ぱんとか若者に共感があった
小澤さんを撮ることで指揮者を撮ることを学んだ
新しい写真を撮りたいと、言い続けて、小澤さんの前に座り込む事ができた
(今は決して出来ない)
指揮者は棒を振る、棒を見てオーケストラは音を出すが、音を聞いてから映していたら、指揮者は違う事をしている
シャッターチャンスは指揮者が音を行った瞬間にシャッターを押さないと駄目
其れを小澤さんを撮りながら、勉強し、何となくわかってきた
クラシックの巨匠たちを撮っていて、じーっと見ていて、音を感じて、どうやったら写真の中に音を感じるかを考えた
物事を感じるには集中力がとっても大事で、シャッターを切るのは、的の真ん中を打つためにシャッターを切るが、集中力を相当持たないと駄目
写真の機能が良くなって、それほど集中力がなくても写真は取れるようになったが、そうすると不思議なことにそういう風にして撮った写真は、人間性がドンドン薄れてきている
デジタルの写真はだれでも綺麗に撮れるが、本当にその人の個性は出てこない
最近、いろんな機能がつき始めてからは、傑作は撮られていない
傑作とは、写真の中に写し手の人間性がいかにあるか、と言う事
人間性はいかに得られるかと言うと集中力に尽きる、本当に集中する
シャッターを押す技、目で見た通りには撮れない 見た瞬間に撮れるように訓練が必要
段々見た目に近い写真が撮れるようになる、其れが良い写真
ジャコモ・プッチーニのオペラ『トスカ』の写真 フローリア・トスカの恋人マリオ・カヴァラドッシが銃殺されることになり、数人の兵士の銃口がマリオ・カヴァラドッシに向けられて、銃の引き金を引いて、今まさに銃が火を噴いた瞬間を撮っている(普通煙だけしか映らない)
こういった瞬間を撮るのには、本当に集中力が必要 如何に突き詰めてゆくか
サムライの修行は集中力の獲得です
被写体の人はどこの場面、瞬間を撮っているのか、判る
昭和11年長野県諏訪市に生まれる 小学校1年~中学校2年まで愛知県田原市で過ごす
中日新聞社に就職、仕事の傍ら名古屋市内の音楽公演の記録写真を撮り始める
広告代理店を経てフリーになり、世界の巨匠、音楽家、オペラハウス、コンサートホールの撮影をライフワークとされています
父が中日新聞社で働き、戦争中で、学徒出陣があり、紅白のまんじゅうを一緒に食べたことがある(その人は本当は家族と食べるはずなのに、家族がいなくて、涙を流しながら食べていた)
父親が暗室の中で真っ白い印画紙が現像液の中で、スーッと像を持って出てくるところを見て、本当に魔法だった(小学校の1年生の時)
作品は同じものが2枚ない 手で作り同じものが2枚ない
オペラハウスの写真 ブラジルのアマゾナス劇場
観客席から天井までをステージ側から魚眼レンズで撮ったもので、装飾のきらびやかさがいたる所に施されている
バルコニー方式観客席が4階まである
天井にはブラジル人の芸術家「クリスピン」の歴史ある天井画、繊細で複雑なシャンデリアがつるされていて沢山ある
一番最初に見たのがパリのオペラハウスで、これはすごいと思って、撮り続けた
稼いだ金は其取材にほとんど使ってしまった
赤道直下で燕尾服で来る 空調があり、人の手で風を送るようになっている
オペラハウスができたところは経済がストップする
日本ではバブルで2800出来た 劇場文化は有る文化と共に発展する
道楽でオペラハウスを撮りに行っている(金が本当に掛かる)
30分ぐらいで撮影しなくてはいけないので大変(人がいないところでないといけない)
発表したのは1/100ぐらい 今一生懸命整理している
本物の芸術家は亡くなってから、本物かどうかが、時代と時間が選択して決める
ムーミン物語を書いたトーベ・マリカ・ヤンソンさんがいるが、撮った写真を一杯持っている
トーベ・マリカ・ヤンソンさんの写真集を出す
次の世代に残っていく写真を整理していきたい
時間に選択された写真、そういったものをしっかり形にして残していきたい
2013年11月28日木曜日
柴門 ふみ(漫画家、エッセーイスト) ・恋で発見新たな自分
柴門 ふみ(漫画家、エッセーイスト) 恋で発見新たな自分
東京ラブストーリー、あすなろ白書など90年代を代表する恋愛漫画を次々と生みだして来ました
恋愛の神様と言われ、今も幅広い年代のファンに支持されています
サイモンさんが今、テーマにしているのは大人の恋愛です
同世代の男女を中心に取材してエッセーに纏めました
デビューから30年以上恋愛を見続けてきました
恋愛氷河期といわれて若い世代の恋愛が冷え込む中、今改めて恋の力をつたえたいと考えています
デビューして、来年で30年を迎える 人の2倍のスピードで時間が過ぎている様に思う
漫画はいろんな工程があるので、ストーリーを考える、下書き、ペン入れ、完成の仕上げに入ってきているときと全然違うので、取材に行って話を聞くのも、大きな意味で漫画を描く仕事なので
漫画との出会い
小学校に上がる前に読んでいたが、言葉が読めない年齢だったが、読んでいた(今でも記憶に残っている)
漫画は非日常の世界で憧れだった
小学校に上がると近所に貸本屋があって、少年雑誌を数冊毎月借りて読むようになった
手塚治虫の鉄腕アトム、石ノ森章太郎のサイボーグ009があった
少年活劇に惹かれていった
盲想癖は小学校3年、4年ころからあった
最初、漫画を模写して、セリフを変えてつけたりして、次はキャラクターを勝手に動かして、違うストーリーに持って行ったりした
交換日記で友達とやり取りして、そこに絵を描いたりしていたが、其れがエッセーを書くようになった原点だと思う
漫画の描き方を手塚治虫、石ノ森章太郎が出版していたので其れを読んで勉強していた
徳島には高校卒業までいた 中学に入っても盲想は変わらなかった
好きな人がいたが、妄想して展開した(恋愛盲想時代)
好きですとのオーラを送って、友達を介して聞いてもらったら、NGだった
好きな気持ちは消えなかった これは何だと自分の気持ち中に目が行った(中学時代)
恋を知ったことで、猜疑心、嫉妬心とか嫌な面を知るようになった
10代は自分の心を傷付ける事しかできなかった
高校3年の時に、文化祭で劇を上演する事に対して、私とクラスの男性2人だけが反対だった
それに感動した
女性の親友は裏切られたので、男性にはかなわないなあと思った(男の優しさ)
「東京ラブストーリー」
短編を書いていたが、複数の男女を組み込んだ恋愛を描いた方が良いと思った
都会の女性を取り入れて、恋に積極的な女性を取り込んだ(赤名リカ)
1980年代後半に実際に身の回りにいたので、触発された
人生に於いて自分が好きな人とが自分の事を好きだと思う、相思相愛になれると云うのは奇跡の一瞬だと思う
其時は人間は死ぬとか孤独とかを忘れられる
そういう事を人生で経験していると、死ぬのも怖くないと後書きで書いている
自分が差し出さないと得るものは無いと云う事は信念で持っていました
大人をテーマにした恋愛
私の周りに未婚の女性が多いが、恋愛相談を受けて、人の恋愛話の相談に乗っていた
其れを表現したくなった
バブルのころに楽しんで、婚期を逃してどうしたらいいのかとか、罰一になってしまって、同僚から付き合ってほしいと云われて、好のみではないけどどうしようとか、と言う様な相談だったりする
30歳以上のおとな 女性が働いている中でいろいろ出てくる
仕事と恋愛をどっちを優先するか、収入の少ない男性とどう付き合うか、部下が恋人だけどとか、昔とは違う物が現実に起きてくる
大人でも恋をすると基本的には心情は中学生に戻る
若返るし、エネルギーが出る
10代の恋愛は未熟で、恋に恋をするような感じで、大人はリアルな恋愛であると云うような位置付けですが、私の中では
今、恋愛なんてめんどくさいなと思っている人の刺激剤になってもらえればいいと思う
自分に素直に生きてゆくと、できるだけ多くの人に出会うと、気の会う人が出てくると思う
イケメンと、本質的なところとは何の関係もない
職業別情勢の恋愛事情をインタッビューで取材しているが、20~50代まで仕事を持っている女性に聞くと、20代でも恋愛の体験のない人はいない
女の数だけ恋愛があるので、深く探ってみたい思いがあります
新しい発見は尽きない
創作は自分との戦いだと思う
自分の中で完成したものを出していないと云う事で、自分に負けていると云う気持ちはある
東京ラブストーリー、あすなろ白書など90年代を代表する恋愛漫画を次々と生みだして来ました
恋愛の神様と言われ、今も幅広い年代のファンに支持されています
サイモンさんが今、テーマにしているのは大人の恋愛です
同世代の男女を中心に取材してエッセーに纏めました
デビューから30年以上恋愛を見続けてきました
恋愛氷河期といわれて若い世代の恋愛が冷え込む中、今改めて恋の力をつたえたいと考えています
デビューして、来年で30年を迎える 人の2倍のスピードで時間が過ぎている様に思う
漫画はいろんな工程があるので、ストーリーを考える、下書き、ペン入れ、完成の仕上げに入ってきているときと全然違うので、取材に行って話を聞くのも、大きな意味で漫画を描く仕事なので
漫画との出会い
小学校に上がる前に読んでいたが、言葉が読めない年齢だったが、読んでいた(今でも記憶に残っている)
漫画は非日常の世界で憧れだった
小学校に上がると近所に貸本屋があって、少年雑誌を数冊毎月借りて読むようになった
手塚治虫の鉄腕アトム、石ノ森章太郎のサイボーグ009があった
少年活劇に惹かれていった
盲想癖は小学校3年、4年ころからあった
最初、漫画を模写して、セリフを変えてつけたりして、次はキャラクターを勝手に動かして、違うストーリーに持って行ったりした
交換日記で友達とやり取りして、そこに絵を描いたりしていたが、其れがエッセーを書くようになった原点だと思う
漫画の描き方を手塚治虫、石ノ森章太郎が出版していたので其れを読んで勉強していた
徳島には高校卒業までいた 中学に入っても盲想は変わらなかった
好きな人がいたが、妄想して展開した(恋愛盲想時代)
好きですとのオーラを送って、友達を介して聞いてもらったら、NGだった
好きな気持ちは消えなかった これは何だと自分の気持ち中に目が行った(中学時代)
恋を知ったことで、猜疑心、嫉妬心とか嫌な面を知るようになった
10代は自分の心を傷付ける事しかできなかった
高校3年の時に、文化祭で劇を上演する事に対して、私とクラスの男性2人だけが反対だった
それに感動した
女性の親友は裏切られたので、男性にはかなわないなあと思った(男の優しさ)
短編を書いていたが、複数の男女を組み込んだ恋愛を描いた方が良いと思った
都会の女性を取り入れて、恋に積極的な女性を取り込んだ(赤名リカ)
1980年代後半に実際に身の回りにいたので、触発された
人生に於いて自分が好きな人とが自分の事を好きだと思う、相思相愛になれると云うのは奇跡の一瞬だと思う
其時は人間は死ぬとか孤独とかを忘れられる
そういう事を人生で経験していると、死ぬのも怖くないと後書きで書いている
自分が差し出さないと得るものは無いと云う事は信念で持っていました
大人をテーマにした恋愛
私の周りに未婚の女性が多いが、恋愛相談を受けて、人の恋愛話の相談に乗っていた
其れを表現したくなった
バブルのころに楽しんで、婚期を逃してどうしたらいいのかとか、罰一になってしまって、同僚から付き合ってほしいと云われて、好のみではないけどどうしようとか、と言う様な相談だったりする
30歳以上のおとな 女性が働いている中でいろいろ出てくる
仕事と恋愛をどっちを優先するか、収入の少ない男性とどう付き合うか、部下が恋人だけどとか、昔とは違う物が現実に起きてくる
大人でも恋をすると基本的には心情は中学生に戻る
若返るし、エネルギーが出る
10代の恋愛は未熟で、恋に恋をするような感じで、大人はリアルな恋愛であると云うような位置付けですが、私の中では
今、恋愛なんてめんどくさいなと思っている人の刺激剤になってもらえればいいと思う
自分に素直に生きてゆくと、できるだけ多くの人に出会うと、気の会う人が出てくると思う
イケメンと、本質的なところとは何の関係もない
職業別情勢の恋愛事情をインタッビューで取材しているが、20~50代まで仕事を持っている女性に聞くと、20代でも恋愛の体験のない人はいない
女の数だけ恋愛があるので、深く探ってみたい思いがあります
新しい発見は尽きない
創作は自分との戦いだと思う
自分の中で完成したものを出していないと云う事で、自分に負けていると云う気持ちはある
2013年11月27日水曜日
高野英一(ワイン会社代表) ・ワインで出会った仲間たち
高野英一(ワイン会社代表) ワインで出会った仲間たち
高野さんは 11年前、55歳で大手電力会社を早期退職して、耕作が放棄されていたブドウ畑を耕し、ワイン作りに励んできました
幼いころから過ごしていた勝沼、このブドウ畑が次々に耕作放棄地にかわってゆく事に心を痛めたのが主な理由でした
先輩と共に二人で耕した畑は60アールですが、その後多くの仲間が加わって、今では3棟のワイナリーで1万7000本のワイン作りをしています
当初会社の仲間の定年退職後の仕事に受け皿にしようとだけ考えていたワイナリーですが、高野さんの来る者は拒まずの精神に即発されて、首都圏で会社をリタイアした人に加えて、今では20代~40代の若手も参加するようになり少しずつ耕作放棄地の再生にも貢献しています
今は仕込んだワインの瓶詰めまでの管理ですね
設備的には2万本 1万7000本を作っています
ブドウは1.5トン、委託で5トン、買い入れを含めて17トンをワインにしている
6000Lの目標が17000Lくらいになっている
2007年 他のワイナリーに頼んでワインにしてもらってたのが、自前のワイナリーを持って、免許取得して、他のところから委託を受けて、目標2万本ができればいいと思っている
よそでやらない少量ロットをやるとか、個別のワインを作ってやるとか、地域の活性化に役に立てればいいなあと思っていて、小さい仕事も受けてやっている
大手の工場のスケジュールに合わせて、ブドウを持ち込んでワインにしてもらうが、ブドウに合わしてスケジュールに組めないで、ブドウが傷んでしまうとか、傷んだブドウでは良いワインができないことが解っていたので、ブドウに合したワイン作りができるようにしなくてはいけない、其れがワイナリーを作った最大に理由ですね
2002年会社を辞める 最初2人で始めた 行き当たりばったりで、やってきた
やらざるを得ないような状況でやってきた
手伝ってくれる人が徐々に増えてきた 皆さんに支えられてやってこられた
最初退職した人たちの受け皿にと言う様に思っていたが、半分は若い人が来てくれる様になった
最初、自前でやってゆくのがかけだったが、楽観的に思っていた
地域に役立てる様な新規事業がないかという事で提案制度があって、見渡したところ、ワインの搾りかすから、ワインを作るのをヨーロッパでは持っていて、最後の物を有機肥料にする(木のチップとワインの搾りかすブドウを混ぜて作りだす) 畑に戻すサイクルがある
循環サイクルに乗せられていいと思ったが、採用される寸前で提案制度の条件の中で、5年累損解消がクリアできず提案を取り下げ、自前でやることになる
勝沼 私が小さい頃 農地は宝物見たいなものだった 退職するような時には周りの畑が耕作放棄になってしまって、周りの耕作している畑の厄介者になっていた
耕作放棄地が2町歩 復元できるようになった
最初、10何年放棄されていた土地で、大木になっていたり、コンクリートがあったり、復元の仕方を見出して、2年掛かって6反歩(60アール)復元して、そこで力尽きた感じがあった
日本のワインの本を開く鳥居平はワイン作りの一等地のところ
2往復で目いっぱいで、年寄りの畑ではないなあと思う 55歳だから出来た
70歳、80歳の人にやれということは無理ですね(今私も66歳で大変です)
最初果樹農家から指導をしてもらう
剪定の仕方、消毒に至っては、どの時期に何の消毒をしたらいいのか分からなかった
天候 台風、長雨とか大変 人間の力ではどうにも出来ないような状況の中で農業をする
ネットで集まった若い人達が農業に携わりたいと、耕作放棄地の手伝いをしたいと、今年20kgの
ブドウが取れて、ワインを作る、来年には200kgになる
若い人たちが応援に来てくれる
最初40歳代の人が来て、ワインつくりをしたいとの申出でがあった
放棄地を紹介したら、その人がネットで会員を募集して、410数名応募があり、毎週誰かが来るようになった
10アールをブドウ作りをやるようになった
イベントもやるようになって、バーベキューとかも、やるようになる
地域の活性化に貢献してくれるようになった
2人では6反歩が精一杯だったが、当時借りていた1町歩の残りを担当してもらった
最近の若い人たちは農作業を楽しんでやってくれる
農作業は娯楽だとは思っていなかったので、考え方、ものの価値観が違うと思う
今後もっと広がってくるのではないかと思う
金を払ってワイナリーのお手伝いをすると云いうのが、広がってきている
どう対応してゆくか、現在手探りの状況です
「ロシナンテ」というグループを作る 高齢者を会員募集
若い人も応募してきた(地域活性に役立っている)
リタイアした人も入ってきている 大手の会社の役員だった人、医者だった人とか
その人たちと、当社の農業部門を法人化する事を検討している
ワインビネガー(酢) の新たに部門を作って会社を興すとかも担当者が中心になってやってもらう
「人間裸で生まれて、裸で旅立つ」 事は以前から思っていたので、できるだけオープンにしてやっている
やりたいと云う気持ちを持っている人が集まってきて、それぞれの人間関係、人脈を使いながら最後まで走り続ける環境を作っているという事ですかね
安く借家(3万円で1万円は会社が負担)を借りて、1週間おきに自宅と勝沼を往復するとか、コンテナを改造してそこで生活をして、1週間のうちに水曜日に帰って、金曜日に戻ってくると云う様なことをやっている人がいます
あまり干渉しない、それぞれ皆さん、人生経験揉まれた方なので、心配はしないが、奥さんは大丈夫なのかと問い合わせたら、何ら問題ないことが判った
退職金をつぎ込んだが、妻は反対するのは判っていたので、事後承諾してもらった
今は妻には諦めてもらったと云うのが、本筋です
妻の関心が孫に100%向かったので、こちらへの関心は無くなった
高野さんは 11年前、55歳で大手電力会社を早期退職して、耕作が放棄されていたブドウ畑を耕し、ワイン作りに励んできました
幼いころから過ごしていた勝沼、このブドウ畑が次々に耕作放棄地にかわってゆく事に心を痛めたのが主な理由でした
先輩と共に二人で耕した畑は60アールですが、その後多くの仲間が加わって、今では3棟のワイナリーで1万7000本のワイン作りをしています
当初会社の仲間の定年退職後の仕事に受け皿にしようとだけ考えていたワイナリーですが、高野さんの来る者は拒まずの精神に即発されて、首都圏で会社をリタイアした人に加えて、今では20代~40代の若手も参加するようになり少しずつ耕作放棄地の再生にも貢献しています
今は仕込んだワインの瓶詰めまでの管理ですね
設備的には2万本 1万7000本を作っています
ブドウは1.5トン、委託で5トン、買い入れを含めて17トンをワインにしている
6000Lの目標が17000Lくらいになっている
2007年 他のワイナリーに頼んでワインにしてもらってたのが、自前のワイナリーを持って、免許取得して、他のところから委託を受けて、目標2万本ができればいいと思っている
よそでやらない少量ロットをやるとか、個別のワインを作ってやるとか、地域の活性化に役に立てればいいなあと思っていて、小さい仕事も受けてやっている
大手の工場のスケジュールに合わせて、ブドウを持ち込んでワインにしてもらうが、ブドウに合わしてスケジュールに組めないで、ブドウが傷んでしまうとか、傷んだブドウでは良いワインができないことが解っていたので、ブドウに合したワイン作りができるようにしなくてはいけない、其れがワイナリーを作った最大に理由ですね
2002年会社を辞める 最初2人で始めた 行き当たりばったりで、やってきた
やらざるを得ないような状況でやってきた
手伝ってくれる人が徐々に増えてきた 皆さんに支えられてやってこられた
最初退職した人たちの受け皿にと言う様に思っていたが、半分は若い人が来てくれる様になった
最初、自前でやってゆくのがかけだったが、楽観的に思っていた
地域に役立てる様な新規事業がないかという事で提案制度があって、見渡したところ、ワインの搾りかすから、ワインを作るのをヨーロッパでは持っていて、最後の物を有機肥料にする(木のチップとワインの搾りかすブドウを混ぜて作りだす) 畑に戻すサイクルがある
循環サイクルに乗せられていいと思ったが、採用される寸前で提案制度の条件の中で、5年累損解消がクリアできず提案を取り下げ、自前でやることになる
勝沼 私が小さい頃 農地は宝物見たいなものだった 退職するような時には周りの畑が耕作放棄になってしまって、周りの耕作している畑の厄介者になっていた
耕作放棄地が2町歩 復元できるようになった
最初、10何年放棄されていた土地で、大木になっていたり、コンクリートがあったり、復元の仕方を見出して、2年掛かって6反歩(60アール)復元して、そこで力尽きた感じがあった
日本のワインの本を開く鳥居平はワイン作りの一等地のところ
2往復で目いっぱいで、年寄りの畑ではないなあと思う 55歳だから出来た
70歳、80歳の人にやれということは無理ですね(今私も66歳で大変です)
最初果樹農家から指導をしてもらう
剪定の仕方、消毒に至っては、どの時期に何の消毒をしたらいいのか分からなかった
天候 台風、長雨とか大変 人間の力ではどうにも出来ないような状況の中で農業をする
ネットで集まった若い人達が農業に携わりたいと、耕作放棄地の手伝いをしたいと、今年20kgの
ブドウが取れて、ワインを作る、来年には200kgになる
若い人たちが応援に来てくれる
最初40歳代の人が来て、ワインつくりをしたいとの申出でがあった
放棄地を紹介したら、その人がネットで会員を募集して、410数名応募があり、毎週誰かが来るようになった
10アールをブドウ作りをやるようになった
イベントもやるようになって、バーベキューとかも、やるようになる
地域の活性化に貢献してくれるようになった
2人では6反歩が精一杯だったが、当時借りていた1町歩の残りを担当してもらった
最近の若い人たちは農作業を楽しんでやってくれる
農作業は娯楽だとは思っていなかったので、考え方、ものの価値観が違うと思う
今後もっと広がってくるのではないかと思う
金を払ってワイナリーのお手伝いをすると云いうのが、広がってきている
どう対応してゆくか、現在手探りの状況です
「ロシナンテ」というグループを作る 高齢者を会員募集
若い人も応募してきた(地域活性に役立っている)
リタイアした人も入ってきている 大手の会社の役員だった人、医者だった人とか
その人たちと、当社の農業部門を法人化する事を検討している
ワインビネガー(酢) の新たに部門を作って会社を興すとかも担当者が中心になってやってもらう
「人間裸で生まれて、裸で旅立つ」 事は以前から思っていたので、できるだけオープンにしてやっている
やりたいと云う気持ちを持っている人が集まってきて、それぞれの人間関係、人脈を使いながら最後まで走り続ける環境を作っているという事ですかね
安く借家(3万円で1万円は会社が負担)を借りて、1週間おきに自宅と勝沼を往復するとか、コンテナを改造してそこで生活をして、1週間のうちに水曜日に帰って、金曜日に戻ってくると云う様なことをやっている人がいます
あまり干渉しない、それぞれ皆さん、人生経験揉まれた方なので、心配はしないが、奥さんは大丈夫なのかと問い合わせたら、何ら問題ないことが判った
退職金をつぎ込んだが、妻は反対するのは判っていたので、事後承諾してもらった
今は妻には諦めてもらったと云うのが、本筋です
妻の関心が孫に100%向かったので、こちらへの関心は無くなった
2013年11月26日火曜日
岸平典子(ワイン製造販売社長) ・ワインで見つけた私の故郷
岸平典子(ワイン製造販売社長) ワインで見つけた私の故郷
山形県上山市にある武田ワイナリーは大正時代から続く上山ワインの醸造所です
ここではブドウの栽培、収穫、醸造、熟成、瓶詰め、出荷まで一貫して行っています
5代目の社長に成る岸平典子さんは、このワイナリーの長女として生れ、大学でワイナリー作りの基礎を学んだ後、ワインの本場フランスに渡り、4年間にわたって本格的なワイン作りを勉強してきました
その後、実家のワイナリーに戻り、ワイン作りの一翼をになってきましたが、兄の突然の死去の後
社長を継ぎ、高い品質のワインを世に出しています
収穫仕込みも最終段階 今頃までが一番忙しい時期だった
ブドウの四季に合わせて生活している 7月が酷い気象だったので、苦労した
こういう時は特に技術が必要です 細かい、丁寧な仕事が重要になってくる
大正9年にワイン作りを始める ブドウ作りはその前の前の代からやってきた
棚の様な形の物は日本の品種を栽培 垣根みたいなものはヨーロッパのやり方なのでヨーロッパの品種を栽培している
全体で15ヘクタール 東京ドームが3つ入るぐらいの広さ
畑の斜面が東南斜面なので日当たりのいい場所になっている
兄と私の二人兄弟 味を作る仕事なので、未成年の時はワインは駄目だったが、科学的な調味料を使ってはいけないとか、自然なものを食べる様にとか、味覚教育に厳しかった
兄はすでに継ぐものと思っていて、東京農大の醸造科に進んだ
私は大学は応用微生物学を修めて、ワインの世界に入ろうと漠然と思っていた
私の方が守備範囲の広い学問だった
ワインの知識を付けないといけないと思ってフランスで、栽培学、醸造学を学ぼうと思った
行ってみてカルチャーショックを受けた
フランスのワイン生産者は誇りを凄く持っていた
自分の土地にきちっと向き合ったワイン作りはどういう事か、刺激を受けて、考えるようになった
その土地の風土を表すワイン作りの哲学がある、と思った
自分が身体で知っている所の土地で、ブドウを作ってワインを作れば上山の味が出せるのではないかと思って、日本に戻ってきた
技術者の立場でワイン作りをしていた 兄とか父とかと、ぶつかったことは有った
ブドウである原料 選別して良いものを使う事を主張したが、父は大地からの恵みだから全部使う事を主張してぶつかった
タンク1本だけ自分でこっそり自分の思っている製造方法をやって、比較して飲んだら私の方がうまかった
父は嫌な顔をしていたが、最終的には味なので、納得してもらった(時間はかかったが)
兄が次期社長と言う事で働いていたが、心臓発作で亡くなってしまった(30歳前)
社長として動く事は全く考えていなかったので、戸惑いがあった
7年経ってから受け継いだ
(営業のやり方、値段の分け方 財務 全然知らなかったので勉強した)
ワイン作りより大変だった
ブドウ作りの技術的な事だけに目がゆき、周りが判らなくなる様だったので、俯瞰して見えるようになってきた(アプローチの仕方が変わってきた)
判断を迅速にすることが大事 判断してから悩むことが結構ある
従業員は15名 年間30万本作っている 生産量の割に人数は少ない
8名は栽培もやるし、醸造もやる セクションは無い
ビニョロン→直訳は畑の人 意味はブドウ栽培をやって醸造して売るまでの人をいう
皆でやることによって、この土地がどういう土地か、今年のブドウはどういうブドウか、全ての事を判って、物作りに愛着がわいてくる ビニョロンを目指していきたい
単一の物だけがあるのは不自然 異常な状態 雑草が下に生えている(自然な状態に近い)
四季折々に雑草も生えている
アブラムシはカラスノエンドウにつくが、カラスノエンドウがないと、ブドウに昇ってきて、芽を食ってしまう、そうすると農薬を使わなくてはいけなくなる
洞爺湖サミットの時に当社ワインを使わせてもらった
消費者が上手いと云ってくれるのが一番と思っているので、身が引き締まる思いがした
お客さんに出したときに、美味しいと云ってくれた時が一番嬉しい
やっぱり上山はいいところだと思う ブドウ栽培をしていてもブドウが生き生きとしたブドウになる
日々勉強して少しでも多く上山の味を表現できて、お客様に届けようと思っている
山形県上山市にある武田ワイナリーは大正時代から続く上山ワインの醸造所です
ここではブドウの栽培、収穫、醸造、熟成、瓶詰め、出荷まで一貫して行っています
5代目の社長に成る岸平典子さんは、このワイナリーの長女として生れ、大学でワイナリー作りの基礎を学んだ後、ワインの本場フランスに渡り、4年間にわたって本格的なワイン作りを勉強してきました
その後、実家のワイナリーに戻り、ワイン作りの一翼をになってきましたが、兄の突然の死去の後
社長を継ぎ、高い品質のワインを世に出しています
収穫仕込みも最終段階 今頃までが一番忙しい時期だった
ブドウの四季に合わせて生活している 7月が酷い気象だったので、苦労した
こういう時は特に技術が必要です 細かい、丁寧な仕事が重要になってくる
大正9年にワイン作りを始める ブドウ作りはその前の前の代からやってきた
棚の様な形の物は日本の品種を栽培 垣根みたいなものはヨーロッパのやり方なのでヨーロッパの品種を栽培している
全体で15ヘクタール 東京ドームが3つ入るぐらいの広さ
畑の斜面が東南斜面なので日当たりのいい場所になっている
兄と私の二人兄弟 味を作る仕事なので、未成年の時はワインは駄目だったが、科学的な調味料を使ってはいけないとか、自然なものを食べる様にとか、味覚教育に厳しかった
兄はすでに継ぐものと思っていて、東京農大の醸造科に進んだ
私は大学は応用微生物学を修めて、ワインの世界に入ろうと漠然と思っていた
私の方が守備範囲の広い学問だった
ワインの知識を付けないといけないと思ってフランスで、栽培学、醸造学を学ぼうと思った
行ってみてカルチャーショックを受けた
フランスのワイン生産者は誇りを凄く持っていた
自分の土地にきちっと向き合ったワイン作りはどういう事か、刺激を受けて、考えるようになった
その土地の風土を表すワイン作りの哲学がある、と思った
自分が身体で知っている所の土地で、ブドウを作ってワインを作れば上山の味が出せるのではないかと思って、日本に戻ってきた
技術者の立場でワイン作りをしていた 兄とか父とかと、ぶつかったことは有った
ブドウである原料 選別して良いものを使う事を主張したが、父は大地からの恵みだから全部使う事を主張してぶつかった
タンク1本だけ自分でこっそり自分の思っている製造方法をやって、比較して飲んだら私の方がうまかった
父は嫌な顔をしていたが、最終的には味なので、納得してもらった(時間はかかったが)
兄が次期社長と言う事で働いていたが、心臓発作で亡くなってしまった(30歳前)
社長として動く事は全く考えていなかったので、戸惑いがあった
7年経ってから受け継いだ
(営業のやり方、値段の分け方 財務 全然知らなかったので勉強した)
ワイン作りより大変だった
ブドウ作りの技術的な事だけに目がゆき、周りが判らなくなる様だったので、俯瞰して見えるようになってきた(アプローチの仕方が変わってきた)
判断を迅速にすることが大事 判断してから悩むことが結構ある
従業員は15名 年間30万本作っている 生産量の割に人数は少ない
8名は栽培もやるし、醸造もやる セクションは無い
ビニョロン→直訳は畑の人 意味はブドウ栽培をやって醸造して売るまでの人をいう
皆でやることによって、この土地がどういう土地か、今年のブドウはどういうブドウか、全ての事を判って、物作りに愛着がわいてくる ビニョロンを目指していきたい
単一の物だけがあるのは不自然 異常な状態 雑草が下に生えている(自然な状態に近い)
四季折々に雑草も生えている
アブラムシはカラスノエンドウにつくが、カラスノエンドウがないと、ブドウに昇ってきて、芽を食ってしまう、そうすると農薬を使わなくてはいけなくなる
洞爺湖サミットの時に当社ワインを使わせてもらった
消費者が上手いと云ってくれるのが一番と思っているので、身が引き締まる思いがした
お客さんに出したときに、美味しいと云ってくれた時が一番嬉しい
やっぱり上山はいいところだと思う ブドウ栽培をしていてもブドウが生き生きとしたブドウになる
日々勉強して少しでも多く上山の味を表現できて、お客様に届けようと思っている
2013年11月25日月曜日
天野祐吉 ・隠居大学(徳光和夫)
天野祐吉 隠居大学(徳光和夫)
天野さん最後の収録です。
私(天野)はどちらかというとクールの方ですね。
私は(徳光)巣鴨で生れて、豊島区、目黒区で育っていつの間にか茅ヶ崎です。
茅ヶ崎は40年です。
「茂雄は神様だから、一茂は神の子」 「一茂は神の子にもなりませんよ」
これは毒舌ですかね。
「20数年前の友人でも、親友でも、その人が長嶋さんの悪口を言ったら即、絶交します。」
これは確かに、申し上げましたし、2人ぐらいいますので。
そんなに長嶋さんが好きなんですね。
高校2年生の時に、長嶋さんの大学新記録の8号ホームランを観て、この人の後輩になりたいと思って、立教大学を受けたんです。(クリスチャン系の大学だとも知らず)
4つの学部を受けて、たまたま社会学部で10日前に勉強した日本書紀がそっくり問題として出たので、もしかしたら受かっていると思って、行ったらやっぱり自分の番号がなかった。
補欠はあちらと書いてあって、補欠のところに自分の名前があった。
昭和33年に長嶋さんがジャイアンツに入ってから、ジャイアンツファンに宗派を切り替えるわけです。
土井勝が同級生で そんなに長嶋さんが好きならば、アナウンサーになればいいじゃないかと、背中を押してもらった。
アナウンサーになるきっかけだった。
デパートへ1年から4年までアルバイトで行っていたから、デパートに行きたかったが、
自分の人生を振り返って、長嶋さんとの出会い、長嶋さんとの丁度いい距離のお付き合いができて、自分の人生を豊かにしていると思えてならない。
日本TVにはいったのも、長嶋さんの一挙手、一投足を実況したかったが、これだけは叶わなかった。
TVが始まってから10年目だった。 幸運に入れた。
草野球で全員を長嶋の名前にして、実況中継の練習をしていた。
電車で通勤しながら、景色を見ながらも実況中継の練習もした。
しかし、野球中継にはいけずに、プロレス中継に回された。
古館、福沢氏は同様にプロレス中継出身者です。
ジャイアント馬場に出会って、良い人でいろんなことを教わった。
「親しき者にも礼儀あり」「人間これからやってゆくうえで、人との距離を常に考えろ」とか
馬場さんは非常に読書家で、物の考え方がしっかりしていた。
マラソン中継はうるさいように思う。 しゃべっていないとアナウンサーはいけないように思うんですか?→ 間が空くのが一番怖くて、ちょっと間が空くと、何か埋めないといけないと働く。
目に映るものは全部描写しろと、先輩から教えられた。
フライが上がって、見て居ればわかるので「レフト取りました」ではない事を言ってほしいと思っているのかもしれない。
絵と言葉は働きが違いますよね。 絵に語らした方が良い場合と、どうしても言葉でないと云えないと言えないことがあると思うが、其れがうまくかみ合ったときに画面が生き生きとしてくるんでしょうが、かみ合わせが難しいんでしょうね。
黙ると云う事を身につけると本当に良い放送ができるのではないかと思うんですが。
最近の司会者は自分の言葉で自分で意見を言おうとするが、とっても多い。
本来はそうではないと思う。
鵜飲みにしてしまう方が居るので、これが怖いと思う。
司会者はAさんはこうだ、Bさんはこうだ、Cさんはまた違う考えだと云うように、これらを取材して紹介するのが司会者だと思うが、自分の意見だけを言うようなことは、ちょっと司会者としては違うのではないかと思うが。
絵と言葉の関係 政治家がばかばかしい事をやってもばかばかしいとなかなか言えないが、久米さんは上手いなあと思ったのは、それまで鉛筆を持っていたのを、ポロっと落とす。
其れが「呆れたものだ」という言葉になっている。
久米宏はニュースを普遍性を持たしたと思う(言葉を砕いて判るように表現した)
言葉ではいわなかったが、鉛筆、頭を掻いたり、横を向いたりして、絵で表現していた。
けんかとか人の本質的なことはあまり言えないタイプですね。
相手の言葉を引き出す 本音を引き出すのは難しいと思う。
褒めまくるとか、やたらと怒らせると、本音が出てくると言われている。
天野さんは 柔和で有りなあがら本当に鋭いことをポンとおっしゃると常日頃から感じていたんですけれども。
こっちがコメントを求めると、求めた以上のコメントが天野さんから来るので、こっちは得したと思うんですね。
一番困るのは、新人があらかじめ質問を用意して、其れを読んで聞いて、とってもこちらの話を聞いてくれない。
質問を事前に用意してゆく人は伸びない。
一つだけ用意して其れを何とか相手の話を広げていこうと云う人間は伸びますね。
話の中で、新しいネタが出てくるが聞いていないので、話が広がっていかない。
聞くほうが難しいと思う(話上手よりも聞き上手にならないといけない)
マイク持って49年になる。
TVの初めのころは生が多かったが、今はスポーツ中継とワイドショーぐらい。
生の持っている面白さは大事だと思う。
私は(天野)馬鹿なことを言うので、生なのでTVにはあまり出させてくれない。
問題発言をしそうな人は、問題発言をしたくてするのではなくて、問題発言をする事に依って、その話題が広がるだろうと。
今は同じ原稿を読むが、読む担当者が生きる様な原稿を書いた方が良いと思っているが、標準的な物を書かなくてはいけないと言われる。
清水一郎 私の師匠ですが、ニュースでもプロレスでも同じように話す。
民放 専門に読んでいるナレーターがいるが、いつの間にかそうなってきている。
分業化、効率的になってきたのか?
客観的に見ているとTVもちょっと変って来るのではないかと思っている。
TVが出てきたことでジャーナリズムが文字のジャーナリズムから、話し言葉のジャーナリズムになった。
TVが面白いのは、現場に立ち会わせてくれる、中継だから経過を教えてくれる 其れが特徴
其れをもっと生かすとジャーナリズムとして今までになかった新しい可能性が出てくると思って期待している。
可能性の凄くある中の数%しか使ってないのに、死に体になっている印象を持っている。
BSが相当面白くなってくるのではないかと思う。 丁寧に作っているから。
地上波のTVの持っている行き止まりをなんとか打破しようと、新しい試みが出てきているようで
古い時代の物に近づいている様な感じですね。
温故知新→ 温故起新 ですかね。
昔の面白いものは 作り方が本当に一生懸命に、作り手の汗が伝わってくるような感じ。
技術的には楽になってきているが、昔はいいところを作るために徹夜してやったりしていた。
若い人は好きですね 若い人に期待するしかない。
(天野)若い人で良い仕事をする人が出てきたら、褒めまくりで行こうかなと思います。
(徳光)4打数 1安打 1安打は辛口にしてもらって、残りは褒めてもらって。
9月28日収録した隠居大学の最後の録音
天野さん最後の収録です。
私(天野)はどちらかというとクールの方ですね。
私は(徳光)巣鴨で生れて、豊島区、目黒区で育っていつの間にか茅ヶ崎です。
茅ヶ崎は40年です。
「茂雄は神様だから、一茂は神の子」 「一茂は神の子にもなりませんよ」
これは毒舌ですかね。
「20数年前の友人でも、親友でも、その人が長嶋さんの悪口を言ったら即、絶交します。」
これは確かに、申し上げましたし、2人ぐらいいますので。
そんなに長嶋さんが好きなんですね。
高校2年生の時に、長嶋さんの大学新記録の8号ホームランを観て、この人の後輩になりたいと思って、立教大学を受けたんです。(クリスチャン系の大学だとも知らず)
4つの学部を受けて、たまたま社会学部で10日前に勉強した日本書紀がそっくり問題として出たので、もしかしたら受かっていると思って、行ったらやっぱり自分の番号がなかった。
補欠はあちらと書いてあって、補欠のところに自分の名前があった。
昭和33年に長嶋さんがジャイアンツに入ってから、ジャイアンツファンに宗派を切り替えるわけです。
土井勝が同級生で そんなに長嶋さんが好きならば、アナウンサーになればいいじゃないかと、背中を押してもらった。
アナウンサーになるきっかけだった。
デパートへ1年から4年までアルバイトで行っていたから、デパートに行きたかったが、
自分の人生を振り返って、長嶋さんとの出会い、長嶋さんとの丁度いい距離のお付き合いができて、自分の人生を豊かにしていると思えてならない。
日本TVにはいったのも、長嶋さんの一挙手、一投足を実況したかったが、これだけは叶わなかった。
TVが始まってから10年目だった。 幸運に入れた。
草野球で全員を長嶋の名前にして、実況中継の練習をしていた。
電車で通勤しながら、景色を見ながらも実況中継の練習もした。
しかし、野球中継にはいけずに、プロレス中継に回された。
古館、福沢氏は同様にプロレス中継出身者です。
ジャイアント馬場に出会って、良い人でいろんなことを教わった。
「親しき者にも礼儀あり」「人間これからやってゆくうえで、人との距離を常に考えろ」とか
馬場さんは非常に読書家で、物の考え方がしっかりしていた。
マラソン中継はうるさいように思う。 しゃべっていないとアナウンサーはいけないように思うんですか?→ 間が空くのが一番怖くて、ちょっと間が空くと、何か埋めないといけないと働く。
目に映るものは全部描写しろと、先輩から教えられた。
フライが上がって、見て居ればわかるので「レフト取りました」ではない事を言ってほしいと思っているのかもしれない。
絵と言葉は働きが違いますよね。 絵に語らした方が良い場合と、どうしても言葉でないと云えないと言えないことがあると思うが、其れがうまくかみ合ったときに画面が生き生きとしてくるんでしょうが、かみ合わせが難しいんでしょうね。
黙ると云う事を身につけると本当に良い放送ができるのではないかと思うんですが。
最近の司会者は自分の言葉で自分で意見を言おうとするが、とっても多い。
本来はそうではないと思う。
鵜飲みにしてしまう方が居るので、これが怖いと思う。
司会者はAさんはこうだ、Bさんはこうだ、Cさんはまた違う考えだと云うように、これらを取材して紹介するのが司会者だと思うが、自分の意見だけを言うようなことは、ちょっと司会者としては違うのではないかと思うが。
絵と言葉の関係 政治家がばかばかしい事をやってもばかばかしいとなかなか言えないが、久米さんは上手いなあと思ったのは、それまで鉛筆を持っていたのを、ポロっと落とす。
其れが「呆れたものだ」という言葉になっている。
久米宏はニュースを普遍性を持たしたと思う(言葉を砕いて判るように表現した)
言葉ではいわなかったが、鉛筆、頭を掻いたり、横を向いたりして、絵で表現していた。
けんかとか人の本質的なことはあまり言えないタイプですね。
相手の言葉を引き出す 本音を引き出すのは難しいと思う。
褒めまくるとか、やたらと怒らせると、本音が出てくると言われている。
天野さんは 柔和で有りなあがら本当に鋭いことをポンとおっしゃると常日頃から感じていたんですけれども。
こっちがコメントを求めると、求めた以上のコメントが天野さんから来るので、こっちは得したと思うんですね。
一番困るのは、新人があらかじめ質問を用意して、其れを読んで聞いて、とってもこちらの話を聞いてくれない。
質問を事前に用意してゆく人は伸びない。
一つだけ用意して其れを何とか相手の話を広げていこうと云う人間は伸びますね。
話の中で、新しいネタが出てくるが聞いていないので、話が広がっていかない。
聞くほうが難しいと思う(話上手よりも聞き上手にならないといけない)
マイク持って49年になる。
TVの初めのころは生が多かったが、今はスポーツ中継とワイドショーぐらい。
生の持っている面白さは大事だと思う。
私は(天野)馬鹿なことを言うので、生なのでTVにはあまり出させてくれない。
問題発言をしそうな人は、問題発言をしたくてするのではなくて、問題発言をする事に依って、その話題が広がるだろうと。
今は同じ原稿を読むが、読む担当者が生きる様な原稿を書いた方が良いと思っているが、標準的な物を書かなくてはいけないと言われる。
清水一郎 私の師匠ですが、ニュースでもプロレスでも同じように話す。
民放 専門に読んでいるナレーターがいるが、いつの間にかそうなってきている。
分業化、効率的になってきたのか?
客観的に見ているとTVもちょっと変って来るのではないかと思っている。
TVが出てきたことでジャーナリズムが文字のジャーナリズムから、話し言葉のジャーナリズムになった。
TVが面白いのは、現場に立ち会わせてくれる、中継だから経過を教えてくれる 其れが特徴
其れをもっと生かすとジャーナリズムとして今までになかった新しい可能性が出てくると思って期待している。
可能性の凄くある中の数%しか使ってないのに、死に体になっている印象を持っている。
BSが相当面白くなってくるのではないかと思う。 丁寧に作っているから。
地上波のTVの持っている行き止まりをなんとか打破しようと、新しい試みが出てきているようで
古い時代の物に近づいている様な感じですね。
温故知新→ 温故起新 ですかね。
昔の面白いものは 作り方が本当に一生懸命に、作り手の汗が伝わってくるような感じ。
技術的には楽になってきているが、昔はいいところを作るために徹夜してやったりしていた。
若い人は好きですね 若い人に期待するしかない。
(天野)若い人で良い仕事をする人が出てきたら、褒めまくりで行こうかなと思います。
(徳光)4打数 1安打 1安打は辛口にしてもらって、残りは褒めてもらって。
9月28日収録した隠居大学の最後の録音
2013年11月24日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(三重県)
五木寛之 歌の旅人(三重県)
「鈴鹿サーキット」 何十万と云う人が全国から集まってきた
斎藤 緑雨 文学者 のお寺の一角に五木文庫がある
斎藤緑雨文学賞 途中で廃止になってしまった
津:県庁所在地 浄土真宗高田派本山 専修寺
「御食国(みけつくに)」朝廷に海産物など送っていた、海の幸を税金代わりに送る国が3つあって、そのうちの一つ 若狭の国、淡路の国、志摩の国
伊勢神宮の遷宮 20年に一回の遷宮 厳粛な雰囲気がある 古式のスタイルを守る
技能伝統が保たれている 技術者が途絶えない
音楽関係者が少ない 田端義雄 「帰り船」 「異国の丘」(シベリアに抑留されていた人達の 望郷の歌) 阿部静江「コーヒーショップで」 西岡恭蔵「ぷかぷか」
鳥羽一朗「カサブランカ グッドバイ」
文学関係者 本居宣長 江戸川乱歩 丹羽文雄(「親鸞」大作) 笙野 頼子(新しい文学の作 家) 松尾芭蕉
実業 松坂商人 伊勢商人 三井高利(三井財閥創建) 河村瑞賢(海運輸送の先駆者)
大黒屋光太夫(ロシア漂流して話題になった 体験した外国の事情を日本に紹 介した) 松浦武四郎(北海道と云う名前を付けた人) 御木本幸吉(真珠)
映画監督 小津安二郎 市川昆 衣笠貞之助 高畑 勲 和田勉(「朱鷺の墓」の演出担当)
伊勢路 人々の交流の多いところ
文学的土壌が或るところ 佐佐木 信綱記念館 知的に評価されている
高田派 ユニークな存在 親鸞の教えを忠実に教える
専修寺 五木さんの「100寺巡礼」では三重県ではここだけが出てくる
天然養殖真珠の額日本一 海女さんの数 日本一高い牛肉 松坂牛 錠前の生産、出荷額
自動販売機、火災報知機 生産高
農業も盛ん イセエビは第2位
相撲、三重ノ海 琴風 大筒 野球、沢村栄治 バトミントン、小椋久美子
レスリング、吉田沙保里 陸上、瀬古利彦 野口みずき
植木等(生れは名古屋 3歳で伊勢市へ)
熊野古道 奈良時代、平安時代から通ったのかと思うと、木立ち、風景などがひとしお
三重県は歴史のある県 日本文化とは何かとか、考える時にどうしても忘れられる事のできない土地柄だと思います
「鈴鹿サーキット」 何十万と云う人が全国から集まってきた
斎藤 緑雨 文学者 のお寺の一角に五木文庫がある
斎藤緑雨文学賞 途中で廃止になってしまった
津:県庁所在地 浄土真宗高田派本山 専修寺
「御食国(みけつくに)」朝廷に海産物など送っていた、海の幸を税金代わりに送る国が3つあって、そのうちの一つ 若狭の国、淡路の国、志摩の国
伊勢神宮の遷宮 20年に一回の遷宮 厳粛な雰囲気がある 古式のスタイルを守る
技能伝統が保たれている 技術者が途絶えない
音楽関係者が少ない 田端義雄 「帰り船」 「異国の丘」(シベリアに抑留されていた人達の 望郷の歌) 阿部静江「コーヒーショップで」 西岡恭蔵「ぷかぷか」
鳥羽一朗「カサブランカ グッドバイ」
文学関係者 本居宣長 江戸川乱歩 丹羽文雄(「親鸞」大作) 笙野 頼子(新しい文学の作 家) 松尾芭蕉
実業 松坂商人 伊勢商人 三井高利(三井財閥創建) 河村瑞賢(海運輸送の先駆者)
大黒屋光太夫(ロシア漂流して話題になった 体験した外国の事情を日本に紹 介した) 松浦武四郎(北海道と云う名前を付けた人) 御木本幸吉(真珠)
映画監督 小津安二郎 市川昆 衣笠貞之助 高畑 勲 和田勉(「朱鷺の墓」の演出担当)
伊勢路 人々の交流の多いところ
文学的土壌が或るところ 佐佐木 信綱記念館 知的に評価されている
高田派 ユニークな存在 親鸞の教えを忠実に教える
専修寺 五木さんの「100寺巡礼」では三重県ではここだけが出てくる
天然養殖真珠の額日本一 海女さんの数 日本一高い牛肉 松坂牛 錠前の生産、出荷額
自動販売機、火災報知機 生産高
農業も盛ん イセエビは第2位
相撲、三重ノ海 琴風 大筒 野球、沢村栄治 バトミントン、小椋久美子
レスリング、吉田沙保里 陸上、瀬古利彦 野口みずき
植木等(生れは名古屋 3歳で伊勢市へ)
熊野古道 奈良時代、平安時代から通ったのかと思うと、木立ち、風景などがひとしお
三重県は歴史のある県 日本文化とは何かとか、考える時にどうしても忘れられる事のできない土地柄だと思います
2013年11月23日土曜日
2013年11月22日金曜日
加藤章(日本モンキーセンター園長) ・猿を知り、人を知る
*{お詫び} 3日間 ブログを休みましたが、旅行に出かけたため投稿できませんでした
毎日見てくれている友人から、そのようなときには幾日休みますと事前に連絡した方が、良いのではないかとの、指摘があり、確かにそうだなあと思いました
今後はそのように進めていきたいと思います
(二日酔いの時とか、風邪とかで体調が悪い時もありますが、何とかやって行きたいと思います)
未投稿分は追って、進めたいと思います。
加藤章(日本モンキーセンター園長) 猿を知り、人を知る
加藤さんは1955年岐阜県生まれ 58歳 麻布獣医科大学を卒業した後、1981年猿専門の動物園 日本モンキーセンターに入りました。
獣医として、猿の健康管理に当たるとともに、生態研究に取り組んできました
加藤さんは猿を知ることは、人を知ることだと云います
猿を知ることで人の何が解るのか、そして猿と共に歩んできた加藤さんの人生とは、どんなものだったのかを伺います
猿を男性がじっくり観察している姿が多い 女性は赤ちゃんとか家族を観察する
男性は群れの全体を観察する傾向がる
卒業後変わったことをやってみたいとの考えもあり、家に近いところに猿の動物園があって、たまたま獣医を募集していたので、飛び込んだ次第です
以前は猿の種類は圧倒的に多かった 当時は100種類 今は70種類 それでも世界一ですが
遠足が非常に多い時代だった 30年で大分変ってきた
猿は病気が大学で学んだ家畜、犬猫の病気と違う
人と全く同じ病気、移し、移される関係にあるので、全部白紙に戻されてしまった
随分勉強をし直した
昔は誤診、失敗に付き合った猿がいたが、最近は何とかやっていけるようになりました
猿の生態研究もおこなってきた
ゆっくりと動物を観察する事が出来た その時その時の興味を見る、ずーっと見ることもできるし有難い職場だと思っている
ゴリラは物静かでゆっくりと考えて行動する
チンパンジーはいろいろやって答えを導き出す プロセスを考えるものではなく
800万年前ぐらいに、おそらく私たち人間とチンパンジーは同じお母さんから生まれただろうと、
そこから1人はチンパンジーの道を歩み、もう片一方は人へと進んできたと言われる
チンパンジーと非常に近い似たものも持っているし、進化によって限りなく離れて行っているものもあります
化石などが途切れているところがあり、森に住んでいたが、何故森から離れたかという事が一つ難しいところです
草原は森よりも食料が少ないし、他の獣に身をさらけ出すことになるので、、木の上という安全なところを何故捨てたのかは解明されていない部分なんですが、ともかく離れた
離れたことによって、遠くを見渡すため2本足で立って、常時立つ、且つ長距離を歩くのに、徐々に大きくなった頭を支えて、立って歩く
非常に広い範囲を歩けるようになって、いろんな文化ができた
赤ちゃんを抱いて歩かなければいけないという、マイナスが出てくる
猿は生れた瞬間から親に掴まって暮らす
動物は直ぐに歩きだすが人間は抱えて歩かなくてはいけない
身体を振り子のようにしないと歩けない構造だったが、何故続けてきたのか、研究者がいっぱいいていろいろな説がある
奇跡的に残ったのが私たちだと思う
今人間がいろんなことで包み隠されて見えない部分、進化の過程で判らなくなった部分、経済活動だとかいろんなことで見えなくなった部分が猿には恐らくさらけ出されているだろうと、人を映す鏡として、猿を観てゆくと云う事は必ず辿ってゆけば人間のいろんな行動、理由が解るだろうと霊長類学だとかが生まれてきた
日本猿は世界に先駆けて、日本が霊長類学をリードしてきた原動力にもなります
日本猿は野生のニホンザルは非常に面白い
社会構造がちゃんとできていて、役割分担ができている
ボスを中心につくられた非常に民主的な集団、利害関係が無く、力でなにかを抑えてくのではなくて、皆で群れを作り上げて、皆でどうしら生き残っていけるか、それだけを目標に皆が動いている
40年、50年前までは、強権的なボスという風に考えられているが、
山の中では威張っているのを、おっぽってよそ行ってしまえばいいんですが、何故ほっぽっていかない、何故付いていくのか、そんなところもニホンザルの研究としては重要な部分だった
ボスはなるのではなくて、されてしまう
威張ってれば皆付いていかない 何故ついてゆくかと言うと自分たちの利益になるから
日本猿の社会は母系家族
屈強のオス猿になっても、お母さんはお母さんなのでお母さんについていく
お母さんがついていくものは皆がついてゆく
お母さんは何についてゆくかというと、自分たちの為になる、世話をしてくれるのに付いてゆくのが得です
何が得かというと、先ず外敵から守ってくれる、美味しい木の実がなっている場所、良い場所を確保してくれる、よその群れからメスを奪いに来た若い猿を追い出したり、喧嘩を仲裁する、子供の面倒をみる
ボスのオスを仕立ててしまう
オスがなって利益があるかというとそうではない
山では食べ物を独占する訳にも行かない
利益と言えば、ごろんと寝転んだときに、毛繕いをしてもらうぐらい
猿の群れが林道をわたってゆくときに、私たち人間を見ると、林道にボスがピタッと座る
群れが無事に行き去るのを、見ながら私たちをけん制する
年寄りや遅れているものがいると、わざわざ戻って迎えに行って、一番後ろに行って、渡りきると又先頭に戻る
見ていて目頭が熱くなるような光景を山で見る事が出来る
力にあまり関係ないので、たいていは歩けなくなるまでボスは続く
縄文以前 人が集まって暮らしていたころは、こんなことから始まったのではないか?
皆が弱い生き物としてあつまって役割分担をしながら、子供を生み増やし、育って行く為には何かよりどころが欲しい、そんなところで自然発生的に出てきたのが、猿のボスで、ボスを中心に補佐がいたり、役割分担をする様な社会が出てきた
原始的な民主主義の始まりではないかと、研究し出したのも日本の霊長類学が進歩した元になるのではないかと思う
土地というものに、人が縛られて農耕民族になって、土地を所有している力の強いものが、給料やるから言う事を聞け、言う事を聞かなければよそに行けと言われる時代が来る、それ以前の時代には恐らく人が尊敬するリーダーのもとでみんなが一つになっていたのではないかと思う
ボスの他に影の権力者がいて、メス頭がいて、全てのメスを束ねている
母系社会なので、おばあさん、母、子供(オスもいる) 母が強くて、容認しているのがボスになる
非常に平和的で素晴らしい社会で縦割りというよりは「斜め割り」と呼んでいるが、多様があり、役割分担がある
動物の社会は明確ないじめがある 血統を残して行く為の物 病気に強い、戦いに強い、繁殖力のあるもの そういったものを残す為には持っていないものを少しずつ排除してゆく、という働きがある
大きな群れを持っているところには必ず発生してくる
結果として弱い者はそこから外れてゆく
其れに欲、娯楽、快楽が加わったのが、人間のいじめなのではないかと思う
寒い環境で身体一つで生き残ってきたのは、厳しいいろいろなことを乗り越えてきた証拠だろうと思う
奇跡の中で、最大の努力をしてきた苦難を乗り越えてきた結果が人間なので、もう少し人間を見直してもう少し、頑張らなければいけないのではないかと思う
繋げてくれた過去の猿や、猿人、原人に感謝しなければいけないと思います
闘争がある 食べ物、メスを取り合う
争いのない猿たちがいる スリランカのトクモンキー 彼らは基本的に闘争をしない
おとなのオスで8kg 日本猿の半分以下の体重
通常10~15頭だが、26頭になるが、全く争いが起こらない
取った猿がその場でのんびり食べられる
どこで争いが無くなったのか判らない
争いの種になるのが(食べ物とか)無くなったので、そうなったのかどうかは判らない
獣医になって35年 園長もやっているが、家族と顔を合わせるのが一日1~2時間 猿と接しているのは30数年間 一日 8~10時間になる 空気のような存在
自分も猿になってしまっているのかもしれない
園長という事で比較的自由に研究とかを、できる事がある
獣医は猿に取っては一番嫌がられる
吹き矢で眠らせたりするが、矢を持ってきてくれたりするが、もうやめてくれというような顔つきで持ってくる
バナナに薬を隠して飲ませようとするが、其時にバナナの方を見ないで私たちの目を見て全てを判断する じーっと見ていてバナナをぽとっと捨てるんです、たくらんでいることがばれてしまう
猿は白眼が全く見えない 目の表わす表情が人間より少なくなるが、相手の考えていることを早く読み取らないと、群れの中で生きたり、敵対する相手と向き合った時に、怒ってるかどうか、攻撃の意志がどれほどあるのか、目で判断をするので、人間の目はばればれの目をしていて、彼らにははっきりと判っていると思う
治療をする時に、逃げられないように、両側から麻酔の吹き矢でやるときに、両方からやると人に当たってしまったりするとまずいので、片方は吹き矢を入れていないが、其れが直ぐに判ってしまう(気合いの入れ方の違いが目に表れる)
獣医になるつもりは無かった
旅客機のパイロットになりたかったが、鼻が悪かったのですぐ諦めた
30数年やってみて、テーマを与えられた仕事なのかと思う
種類を競う事はもう無理な時代になってきている(野生からは一切持ってこない)
どこにもいない猿がいるが、当然一代で消えてゆくが、これから10年で20種類減るのではないかと思う
①環境の再現 熱帯雨林、湿地、草原 ②運動能力を観て頂く為、猿の能力を引き出すための
仕組みのある展示を軸に展開していけたら思っています
猿って面白いなと思っていただけるような園つくりをしてゆきたいと思います
毎日見てくれている友人から、そのようなときには幾日休みますと事前に連絡した方が、良いのではないかとの、指摘があり、確かにそうだなあと思いました
今後はそのように進めていきたいと思います
(二日酔いの時とか、風邪とかで体調が悪い時もありますが、何とかやって行きたいと思います)
未投稿分は追って、進めたいと思います。
加藤章(日本モンキーセンター園長) 猿を知り、人を知る
加藤さんは1955年岐阜県生まれ 58歳 麻布獣医科大学を卒業した後、1981年猿専門の動物園 日本モンキーセンターに入りました。
獣医として、猿の健康管理に当たるとともに、生態研究に取り組んできました
加藤さんは猿を知ることは、人を知ることだと云います
猿を知ることで人の何が解るのか、そして猿と共に歩んできた加藤さんの人生とは、どんなものだったのかを伺います
猿を男性がじっくり観察している姿が多い 女性は赤ちゃんとか家族を観察する
男性は群れの全体を観察する傾向がる
卒業後変わったことをやってみたいとの考えもあり、家に近いところに猿の動物園があって、たまたま獣医を募集していたので、飛び込んだ次第です
以前は猿の種類は圧倒的に多かった 当時は100種類 今は70種類 それでも世界一ですが
遠足が非常に多い時代だった 30年で大分変ってきた
猿は病気が大学で学んだ家畜、犬猫の病気と違う
人と全く同じ病気、移し、移される関係にあるので、全部白紙に戻されてしまった
随分勉強をし直した
昔は誤診、失敗に付き合った猿がいたが、最近は何とかやっていけるようになりました
猿の生態研究もおこなってきた
ゆっくりと動物を観察する事が出来た その時その時の興味を見る、ずーっと見ることもできるし有難い職場だと思っている
ゴリラは物静かでゆっくりと考えて行動する
チンパンジーはいろいろやって答えを導き出す プロセスを考えるものではなく
800万年前ぐらいに、おそらく私たち人間とチンパンジーは同じお母さんから生まれただろうと、
そこから1人はチンパンジーの道を歩み、もう片一方は人へと進んできたと言われる
チンパンジーと非常に近い似たものも持っているし、進化によって限りなく離れて行っているものもあります
化石などが途切れているところがあり、森に住んでいたが、何故森から離れたかという事が一つ難しいところです
草原は森よりも食料が少ないし、他の獣に身をさらけ出すことになるので、、木の上という安全なところを何故捨てたのかは解明されていない部分なんですが、ともかく離れた
離れたことによって、遠くを見渡すため2本足で立って、常時立つ、且つ長距離を歩くのに、徐々に大きくなった頭を支えて、立って歩く
非常に広い範囲を歩けるようになって、いろんな文化ができた
赤ちゃんを抱いて歩かなければいけないという、マイナスが出てくる
猿は生れた瞬間から親に掴まって暮らす
動物は直ぐに歩きだすが人間は抱えて歩かなくてはいけない
身体を振り子のようにしないと歩けない構造だったが、何故続けてきたのか、研究者がいっぱいいていろいろな説がある
奇跡的に残ったのが私たちだと思う
今人間がいろんなことで包み隠されて見えない部分、進化の過程で判らなくなった部分、経済活動だとかいろんなことで見えなくなった部分が猿には恐らくさらけ出されているだろうと、人を映す鏡として、猿を観てゆくと云う事は必ず辿ってゆけば人間のいろんな行動、理由が解るだろうと霊長類学だとかが生まれてきた
日本猿は世界に先駆けて、日本が霊長類学をリードしてきた原動力にもなります
日本猿は野生のニホンザルは非常に面白い
社会構造がちゃんとできていて、役割分担ができている
ボスを中心につくられた非常に民主的な集団、利害関係が無く、力でなにかを抑えてくのではなくて、皆で群れを作り上げて、皆でどうしら生き残っていけるか、それだけを目標に皆が動いている
40年、50年前までは、強権的なボスという風に考えられているが、
山の中では威張っているのを、おっぽってよそ行ってしまえばいいんですが、何故ほっぽっていかない、何故付いていくのか、そんなところもニホンザルの研究としては重要な部分だった
ボスはなるのではなくて、されてしまう
威張ってれば皆付いていかない 何故ついてゆくかと言うと自分たちの利益になるから
日本猿の社会は母系家族
屈強のオス猿になっても、お母さんはお母さんなのでお母さんについていく
お母さんがついていくものは皆がついてゆく
お母さんは何についてゆくかというと、自分たちの為になる、世話をしてくれるのに付いてゆくのが得です
何が得かというと、先ず外敵から守ってくれる、美味しい木の実がなっている場所、良い場所を確保してくれる、よその群れからメスを奪いに来た若い猿を追い出したり、喧嘩を仲裁する、子供の面倒をみる
ボスのオスを仕立ててしまう
オスがなって利益があるかというとそうではない
山では食べ物を独占する訳にも行かない
利益と言えば、ごろんと寝転んだときに、毛繕いをしてもらうぐらい
猿の群れが林道をわたってゆくときに、私たち人間を見ると、林道にボスがピタッと座る
群れが無事に行き去るのを、見ながら私たちをけん制する
年寄りや遅れているものがいると、わざわざ戻って迎えに行って、一番後ろに行って、渡りきると又先頭に戻る
見ていて目頭が熱くなるような光景を山で見る事が出来る
力にあまり関係ないので、たいていは歩けなくなるまでボスは続く
縄文以前 人が集まって暮らしていたころは、こんなことから始まったのではないか?
皆が弱い生き物としてあつまって役割分担をしながら、子供を生み増やし、育って行く為には何かよりどころが欲しい、そんなところで自然発生的に出てきたのが、猿のボスで、ボスを中心に補佐がいたり、役割分担をする様な社会が出てきた
原始的な民主主義の始まりではないかと、研究し出したのも日本の霊長類学が進歩した元になるのではないかと思う
土地というものに、人が縛られて農耕民族になって、土地を所有している力の強いものが、給料やるから言う事を聞け、言う事を聞かなければよそに行けと言われる時代が来る、それ以前の時代には恐らく人が尊敬するリーダーのもとでみんなが一つになっていたのではないかと思う
ボスの他に影の権力者がいて、メス頭がいて、全てのメスを束ねている
母系社会なので、おばあさん、母、子供(オスもいる) 母が強くて、容認しているのがボスになる
非常に平和的で素晴らしい社会で縦割りというよりは「斜め割り」と呼んでいるが、多様があり、役割分担がある
動物の社会は明確ないじめがある 血統を残して行く為の物 病気に強い、戦いに強い、繁殖力のあるもの そういったものを残す為には持っていないものを少しずつ排除してゆく、という働きがある
大きな群れを持っているところには必ず発生してくる
結果として弱い者はそこから外れてゆく
其れに欲、娯楽、快楽が加わったのが、人間のいじめなのではないかと思う
寒い環境で身体一つで生き残ってきたのは、厳しいいろいろなことを乗り越えてきた証拠だろうと思う
奇跡の中で、最大の努力をしてきた苦難を乗り越えてきた結果が人間なので、もう少し人間を見直してもう少し、頑張らなければいけないのではないかと思う
繋げてくれた過去の猿や、猿人、原人に感謝しなければいけないと思います
闘争がある 食べ物、メスを取り合う
争いのない猿たちがいる スリランカのトクモンキー 彼らは基本的に闘争をしない
おとなのオスで8kg 日本猿の半分以下の体重
通常10~15頭だが、26頭になるが、全く争いが起こらない
取った猿がその場でのんびり食べられる
どこで争いが無くなったのか判らない
争いの種になるのが(食べ物とか)無くなったので、そうなったのかどうかは判らない
獣医になって35年 園長もやっているが、家族と顔を合わせるのが一日1~2時間 猿と接しているのは30数年間 一日 8~10時間になる 空気のような存在
自分も猿になってしまっているのかもしれない
園長という事で比較的自由に研究とかを、できる事がある
獣医は猿に取っては一番嫌がられる
吹き矢で眠らせたりするが、矢を持ってきてくれたりするが、もうやめてくれというような顔つきで持ってくる
バナナに薬を隠して飲ませようとするが、其時にバナナの方を見ないで私たちの目を見て全てを判断する じーっと見ていてバナナをぽとっと捨てるんです、たくらんでいることがばれてしまう
猿は白眼が全く見えない 目の表わす表情が人間より少なくなるが、相手の考えていることを早く読み取らないと、群れの中で生きたり、敵対する相手と向き合った時に、怒ってるかどうか、攻撃の意志がどれほどあるのか、目で判断をするので、人間の目はばればれの目をしていて、彼らにははっきりと判っていると思う
治療をする時に、逃げられないように、両側から麻酔の吹き矢でやるときに、両方からやると人に当たってしまったりするとまずいので、片方は吹き矢を入れていないが、其れが直ぐに判ってしまう(気合いの入れ方の違いが目に表れる)
獣医になるつもりは無かった
旅客機のパイロットになりたかったが、鼻が悪かったのですぐ諦めた
30数年やってみて、テーマを与えられた仕事なのかと思う
種類を競う事はもう無理な時代になってきている(野生からは一切持ってこない)
どこにもいない猿がいるが、当然一代で消えてゆくが、これから10年で20種類減るのではないかと思う
①環境の再現 熱帯雨林、湿地、草原 ②運動能力を観て頂く為、猿の能力を引き出すための
仕組みのある展示を軸に展開していけたら思っています
猿って面白いなと思っていただけるような園つくりをしてゆきたいと思います
2013年11月21日木曜日
三輪えり花(演出家・脚本家) ・気軽に楽しくシェイクスピア
三輪えり花(演出家・脚本家) 気軽に楽しくシェークスピア
慶応義塾大学 文学部英米文学科 で英文学を専攻 在学中に交換留学でカナダのビクトリア大学で、学び卒業後はロンドン大学大学院演劇科に進んで、ヨーロッパの前衛芸術の演出を研究しました
三輪さんはこのころまではシェイクスピアとは縁がなく、シェイクスピアの何がそんなにすごいか、わからなかったそうです
その後、文化庁の在外研修で再び、イギリスに渡り、英国王立演劇アカデミー等で演出や演劇教育の研修を積みました
その際、ロイヤルシェイクスピア カンパニーの演出家ジョン・バートンの講座を受けたときに、シェイクスピア開眼のきっかけをつかみました
三輪さんは日本人にもっと気軽にシェークスピアの良さ、面白さを感じ取ってもらおうと、この10年ほど、「何が凄いのシェイクスピアア」、「シェイクスピア遊び語り」のイベントを続けています
シェイクスピア セリフの宝庫と言われている
「世界は皆一つの舞台、人間皆単なる役者、退場もするし、登場もするし、生きている限り演じ 続ける何役も」
シェイクスピアらしい言葉 「お気に召すまま」の喜劇のなかの台詞の一つ。
大学は、イギリス人の先生のゼミで自由 1970年代の日本の小劇場運動を英語の論文にしてみようと思って、寺山修二の作品を一本英訳したものをくっつけて、論文として提出する事にした
実体験は無いので論文から利用した。
シェイクスピアの関連の授業があったが、覚えているのが、あまりなかった
シェイクスピアは古臭いと思っていた(400年前の時代)
最初カナダに1年間無償で行かせてもらう 演劇教育、演劇史、演出、美術、評論などを学んだ
中世演劇 現代英語を使っていない 中世英語の演劇 シェイクスピアの作品をいくつか読んだ
ロンドン大学では演劇というものを人間形成の面から役に立つのでは無いかなと思ったので、其れを追求するために、演劇科に行った
演出学、俳優学、作家学、舞台監督美術 があったが演出学に行けばくまなく俯瞰できると思って選んだ
前衛的なものを研究している アバンギャルド シェイクスピアとは益々遠のく
ヨーロッパの前衛的なものは徹底的に、伝統と正統を打ち壊すものだった
劇団スバルに入るが、劇団スバルは典型的な伝統と正統の劇団だった
文化庁派遣在外研修で再びイギリスに行く
2年間の研修生 英国ローヤルシェイクスピア カンパニーに在籍した。
有名劇団にも出入りさせてもらった
英国が主催した全欧の演出者協会のワークショップが開かれていた
応募する事が出来て受け入れられた(演劇学校が始まる前にそこに入ることができた)
そこはプロとして活動しているヨーロッパ中の優秀な演出家たちが集まって、自分たちの技術を磨く、他の国の人たちがどんなことを考えているか、今、ヨーロッパ演劇に何が必要なのか、世界的な目で見る様なそういうワークショップだった
その中には超有名な演出家のワークショップがいくつもあって、いくつも取った
その中でも特にこれが私を作ったと思える講座に出会った
ロイアルシェイクスピアカンパニーのシェイクスピア演出の第一人者と言われるジョン・バートン
シェイクスピアの演じ方(独り言を演じるには)そういう講座だった。
行ってみたら、人のよさそうなおじいさんだった
インド人の女性がそばにいた 今ハムレットを演じるのには彼女が一番だ、だから連れてきたとこともなげに言った(ハムレットは男性なのに)
彼女はしゃべるとあらゆる演出についてくる人だった
「生きるべきか、死ぬべきか」
シェイクスピアのセリフは直前に発した言葉に依って、自分の思考回路が触発されて、新しい窓が開くのだ そういう風に読め、そういう風におっしゃる
どうしようかな、今の俺みたいな感じで出てくる どうしたらいいんだ というような雰囲気
それが「to be or not to be」 現状維持か現状打破か どっちなの
現状打破は全てにとどめを刺して、終わらせると云う事ですよね とハムレットは言う
全てにとどめを刺して終わらせると云う事は、自分も死ぬと云う事かしらという風になって、其独白全体の中で、初めてdie 死ぬと云う言葉が出てくる
dieと云う窓が開く様に演じろとおっしゃる というとto die dieの単語が出てきたら イコールto sleep そっちの窓が開くように演じろと云う 死ぬと云う事と眠ると云う事について、思考回路を新しく探検してゆくフェーズに入るのだと云う様な事で、単語に依って新しい思考回路の窓は次から次に開いてゆく
登場人物が自分の思考の流れを発見するからお客様は、其れを発見する旅路に一緒についてゆくから面白いのだと云う事が解ったんです
ジョン・バートンのワークショップをきっかけに、ドンドンファンになると思って、絶対日本に紹介したいと思った
ちょっと窓を開いてもらったので、面白さが解ってきた
敷居高くなく、身近な素晴らしいものとして受け取ってもらったら、毎日の人生が豊かになる
シェークスピアを知ると勇気付けられてくる
「何が凄いの?シェイクスピア」 初演が2003年
立体講座にすればシェークスピアの面白さが判ると思い、始まり方特集、かっこいい死に方特集、翻訳比べ、長い台詞の聞き方、聞かせ方 とかいろいろ其れを知っていればなるほど、と判るように行った
「じゃじゃ馬倣し」 じゃじゃ馬だったのが、強い夫の言う事を聞く、淑女になってゆく でも本当にそうですかというような話
ハムレットの言葉(前向きな部分)
「人間というものはなんと優れた天の創造物か 理性は優れて 動きや形は尊敬に値し その行動は天使の様で その知覚力は神の様で 世界の美を表す 動物達の鏡となる存在である」
それに引き換え俺は・・・・・と続く。(落ち込む)
400年前の人 シェイクスピアの自筆の戯曲が残っていない
どこまでシェイクスピアの書いたものなのか、其れがはっきりしない
シェイクスピアは突然ロンドンに現れ、突然田舎に帰って、田舎では全く演劇活動せずに、なりをしずめて、亡くなってしまう 別人説も出てくる。
フランシス・ベーコンがシェイクスピアではないかとの説もある
エリザベス女王だと云われたこともある
シェイクスピア、ユダヤ人説まである
ハムレットは舞台がデンマーク ヴェニスの商人はイタリア
イギリスの作家なのにイギリスの舞台が少ない
リア王 イギリスがキリスト教になる前の話がリア王 だから良い
マクベス スコットランドはイギリスではないのだから良いんだと云う事
シェイクスピアはエリザベス女王のお抱え劇団のお抱え付き作家だった。
微妙な勢力あらそい 時には殺人も起こる そういうものは舞台を外国に移す
イギリスを舞台にするわけにはいかないので、外国を舞台にして書いた
当時のイギリスが鏡の様に心の中に映ってくることを目論んでいたのだと思う
亡霊、妖精、魔女が出てくるが、実在感があった
亡霊に依って人格が破壊される 妖精が助けてくれる夏の夜の夢みたいなものもある
シェイクスピアが生きていた時代の前、ルネッサンスの時代の前 キリスト教以外の物を語るのは許されてはいなかった(おおざっぱに言うと)
ルネッサンスになってから、ギリシャ神話、妖精とかの話をすることができるようになってきた
そういったテーマを含める時も、シェイクスピアは外国を使っている
劇場 ①貴族の館の中でのプライベートビューイング、
②テムズ川の河畔に丸く闘牛場見たいな円形の箱を作って、円周には客席、そこには屋根があるが、舞台はドーナツの真中にせり出していた
夏の昼間の舞台だった (パブリックの劇場ではろうそく等は無かったので)
「良い夜を 良い夜を 何千回の良い夜を」
(今が夜だという事をしつこく知らせる「ロミオとジュリエット」)
広大な戦場を見せる時にも、「はるか彼方に見える・・・」という言葉を使ってその場面の情景を、お客様の脳内に投影する力を持っていた、言葉が
想像力の中で観覧者と同体験を共有していた
「シェイクスピア遊び語り」 2009年からスタート
作品の一つ一つに、その作品ならではの面白さが有る、其れを提供する場所を作ろうと思って、シリーズ化して、これまで9回やった
朗読、音楽、お芝居の再現 作品をダイジェストに面白く見てもらう
耳で聞く方がイマジネーションが喚起されるので
本格的なお芝居を見たい人は、どうぞと云う入口を空けてやる面の役割り
入口をあけてやると云う面では成功している思います
今の地球の人たちに聞いてもらいたいと云うセルフ(ヴェニスの商人から)
ヴェニスの商人の 、ユダヤ人のシャイロックが復讐のために人殺しをしようとしています
それをキリスト教徒が何とか仲間を救おうとしている
「宗教を越えてあなたも祈るでしょう 私も祈る その同じ祈りが、其れは自分達の究極の救い
つまり相手を救う事によって、天に認められることの為の祈りではないですか」
正義だけでは、人間らしいとは言えない 人間らしいとは情けを恵むと云う事なんだと云う台詞
動物は知性を働かせるのが好きです 喜びを感じるようです
人間も動物の一部として、知性を働かせることに喜びを感じるんだと思います
もっと人間らしいのは、動物と人間を違わせしめるものは何かと言ったら、想像力を働かせることに、最大の喜びを感じるのが、人間を人間ならしめている点なのではないかと思う
シェイクスピアは想像力の翼を広げてくれると思う
ハムレットのセリフの中に
「私はくるみの殻の中にいても、更に広い世界を我が世界と思う事が出来る」
くるみは脳の様な感じ くるみと脳はシェークスピアの中でよく比較されるが、脳内にいればどんな場所に綴じ込められていても、どんな迫害に有っても、イマジネーション一つで広い憧れの喜びの世界に飛んでいける
その手段を与えてくれるのがシェイクスピアの言葉、セリフの数かず、ドラマだと思っています
慶応義塾大学 文学部英米文学科 で英文学を専攻 在学中に交換留学でカナダのビクトリア大学で、学び卒業後はロンドン大学大学院演劇科に進んで、ヨーロッパの前衛芸術の演出を研究しました
三輪さんはこのころまではシェイクスピアとは縁がなく、シェイクスピアの何がそんなにすごいか、わからなかったそうです
その後、文化庁の在外研修で再び、イギリスに渡り、英国王立演劇アカデミー等で演出や演劇教育の研修を積みました
その際、ロイヤルシェイクスピア カンパニーの演出家ジョン・バートンの講座を受けたときに、シェイクスピア開眼のきっかけをつかみました
三輪さんは日本人にもっと気軽にシェークスピアの良さ、面白さを感じ取ってもらおうと、この10年ほど、「何が凄いのシェイクスピアア」、「シェイクスピア遊び語り」のイベントを続けています
シェイクスピア セリフの宝庫と言われている
「世界は皆一つの舞台、人間皆単なる役者、退場もするし、登場もするし、生きている限り演じ 続ける何役も」
シェイクスピアらしい言葉 「お気に召すまま」の喜劇のなかの台詞の一つ。
大学は、イギリス人の先生のゼミで自由 1970年代の日本の小劇場運動を英語の論文にしてみようと思って、寺山修二の作品を一本英訳したものをくっつけて、論文として提出する事にした
実体験は無いので論文から利用した。
シェイクスピアの関連の授業があったが、覚えているのが、あまりなかった
シェイクスピアは古臭いと思っていた(400年前の時代)
最初カナダに1年間無償で行かせてもらう 演劇教育、演劇史、演出、美術、評論などを学んだ
中世演劇 現代英語を使っていない 中世英語の演劇 シェイクスピアの作品をいくつか読んだ
ロンドン大学では演劇というものを人間形成の面から役に立つのでは無いかなと思ったので、其れを追求するために、演劇科に行った
演出学、俳優学、作家学、舞台監督美術 があったが演出学に行けばくまなく俯瞰できると思って選んだ
前衛的なものを研究している アバンギャルド シェイクスピアとは益々遠のく
ヨーロッパの前衛的なものは徹底的に、伝統と正統を打ち壊すものだった
劇団スバルに入るが、劇団スバルは典型的な伝統と正統の劇団だった
文化庁派遣在外研修で再びイギリスに行く
2年間の研修生 英国ローヤルシェイクスピア カンパニーに在籍した。
有名劇団にも出入りさせてもらった
英国が主催した全欧の演出者協会のワークショップが開かれていた
応募する事が出来て受け入れられた(演劇学校が始まる前にそこに入ることができた)
そこはプロとして活動しているヨーロッパ中の優秀な演出家たちが集まって、自分たちの技術を磨く、他の国の人たちがどんなことを考えているか、今、ヨーロッパ演劇に何が必要なのか、世界的な目で見る様なそういうワークショップだった
その中には超有名な演出家のワークショップがいくつもあって、いくつも取った
その中でも特にこれが私を作ったと思える講座に出会った
ロイアルシェイクスピアカンパニーのシェイクスピア演出の第一人者と言われるジョン・バートン
シェイクスピアの演じ方(独り言を演じるには)そういう講座だった。
行ってみたら、人のよさそうなおじいさんだった
インド人の女性がそばにいた 今ハムレットを演じるのには彼女が一番だ、だから連れてきたとこともなげに言った(ハムレットは男性なのに)
彼女はしゃべるとあらゆる演出についてくる人だった
「生きるべきか、死ぬべきか」
シェイクスピアのセリフは直前に発した言葉に依って、自分の思考回路が触発されて、新しい窓が開くのだ そういう風に読め、そういう風におっしゃる
どうしようかな、今の俺みたいな感じで出てくる どうしたらいいんだ というような雰囲気
それが「to be or not to be」 現状維持か現状打破か どっちなの
現状打破は全てにとどめを刺して、終わらせると云う事ですよね とハムレットは言う
全てにとどめを刺して終わらせると云う事は、自分も死ぬと云う事かしらという風になって、其独白全体の中で、初めてdie 死ぬと云う言葉が出てくる
dieと云う窓が開く様に演じろとおっしゃる というとto die dieの単語が出てきたら イコールto sleep そっちの窓が開くように演じろと云う 死ぬと云う事と眠ると云う事について、思考回路を新しく探検してゆくフェーズに入るのだと云う様な事で、単語に依って新しい思考回路の窓は次から次に開いてゆく
登場人物が自分の思考の流れを発見するからお客様は、其れを発見する旅路に一緒についてゆくから面白いのだと云う事が解ったんです
ジョン・バートンのワークショップをきっかけに、ドンドンファンになると思って、絶対日本に紹介したいと思った
ちょっと窓を開いてもらったので、面白さが解ってきた
敷居高くなく、身近な素晴らしいものとして受け取ってもらったら、毎日の人生が豊かになる
シェークスピアを知ると勇気付けられてくる
「何が凄いの?シェイクスピア」 初演が2003年
立体講座にすればシェークスピアの面白さが判ると思い、始まり方特集、かっこいい死に方特集、翻訳比べ、長い台詞の聞き方、聞かせ方 とかいろいろ其れを知っていればなるほど、と判るように行った
「じゃじゃ馬倣し」 じゃじゃ馬だったのが、強い夫の言う事を聞く、淑女になってゆく でも本当にそうですかというような話
ハムレットの言葉(前向きな部分)
「人間というものはなんと優れた天の創造物か 理性は優れて 動きや形は尊敬に値し その行動は天使の様で その知覚力は神の様で 世界の美を表す 動物達の鏡となる存在である」
それに引き換え俺は・・・・・と続く。(落ち込む)
400年前の人 シェイクスピアの自筆の戯曲が残っていない
どこまでシェイクスピアの書いたものなのか、其れがはっきりしない
シェイクスピアは突然ロンドンに現れ、突然田舎に帰って、田舎では全く演劇活動せずに、なりをしずめて、亡くなってしまう 別人説も出てくる。
フランシス・ベーコンがシェイクスピアではないかとの説もある
エリザベス女王だと云われたこともある
シェイクスピア、ユダヤ人説まである
ハムレットは舞台がデンマーク ヴェニスの商人はイタリア
イギリスの作家なのにイギリスの舞台が少ない
リア王 イギリスがキリスト教になる前の話がリア王 だから良い
マクベス スコットランドはイギリスではないのだから良いんだと云う事
シェイクスピアはエリザベス女王のお抱え劇団のお抱え付き作家だった。
微妙な勢力あらそい 時には殺人も起こる そういうものは舞台を外国に移す
イギリスを舞台にするわけにはいかないので、外国を舞台にして書いた
当時のイギリスが鏡の様に心の中に映ってくることを目論んでいたのだと思う
亡霊、妖精、魔女が出てくるが、実在感があった
亡霊に依って人格が破壊される 妖精が助けてくれる夏の夜の夢みたいなものもある
シェイクスピアが生きていた時代の前、ルネッサンスの時代の前 キリスト教以外の物を語るのは許されてはいなかった(おおざっぱに言うと)
ルネッサンスになってから、ギリシャ神話、妖精とかの話をすることができるようになってきた
そういったテーマを含める時も、シェイクスピアは外国を使っている
劇場 ①貴族の館の中でのプライベートビューイング、
②テムズ川の河畔に丸く闘牛場見たいな円形の箱を作って、円周には客席、そこには屋根があるが、舞台はドーナツの真中にせり出していた
夏の昼間の舞台だった (パブリックの劇場ではろうそく等は無かったので)
「良い夜を 良い夜を 何千回の良い夜を」
(今が夜だという事をしつこく知らせる「ロミオとジュリエット」)
広大な戦場を見せる時にも、「はるか彼方に見える・・・」という言葉を使ってその場面の情景を、お客様の脳内に投影する力を持っていた、言葉が
想像力の中で観覧者と同体験を共有していた
「シェイクスピア遊び語り」 2009年からスタート
作品の一つ一つに、その作品ならではの面白さが有る、其れを提供する場所を作ろうと思って、シリーズ化して、これまで9回やった
朗読、音楽、お芝居の再現 作品をダイジェストに面白く見てもらう
耳で聞く方がイマジネーションが喚起されるので
本格的なお芝居を見たい人は、どうぞと云う入口を空けてやる面の役割り
入口をあけてやると云う面では成功している思います
今の地球の人たちに聞いてもらいたいと云うセルフ(ヴェニスの商人から)
ヴェニスの商人の 、ユダヤ人のシャイロックが復讐のために人殺しをしようとしています
それをキリスト教徒が何とか仲間を救おうとしている
「宗教を越えてあなたも祈るでしょう 私も祈る その同じ祈りが、其れは自分達の究極の救い
つまり相手を救う事によって、天に認められることの為の祈りではないですか」
正義だけでは、人間らしいとは言えない 人間らしいとは情けを恵むと云う事なんだと云う台詞
動物は知性を働かせるのが好きです 喜びを感じるようです
人間も動物の一部として、知性を働かせることに喜びを感じるんだと思います
もっと人間らしいのは、動物と人間を違わせしめるものは何かと言ったら、想像力を働かせることに、最大の喜びを感じるのが、人間を人間ならしめている点なのではないかと思う
シェイクスピアは想像力の翼を広げてくれると思う
ハムレットのセリフの中に
「私はくるみの殻の中にいても、更に広い世界を我が世界と思う事が出来る」
くるみは脳の様な感じ くるみと脳はシェークスピアの中でよく比較されるが、脳内にいればどんな場所に綴じ込められていても、どんな迫害に有っても、イマジネーション一つで広い憧れの喜びの世界に飛んでいける
その手段を与えてくれるのがシェイクスピアの言葉、セリフの数かず、ドラマだと思っています
2013年11月20日水曜日
六車 由実(デーサービス・管理者) ・介護現場で見つけた新たな民俗学 2
六車 由実(デーサービス・管理者43歳) ・介護現場で見つけた新たな民俗学 2
高度経済成長期 大手企業 企業戦士 というイメージしかないが、普通の人たちがいろんな地域で支えていたことに驚きを感じる
「聞き書き」 認知症の話を聞くのは無理かなあと思っていたが、話がとても好きで、最初何を言っているのか分からなかったが、スタッフがくっついて歩いていたりした
何とか理解したいと思って、単語は聞き取れたので、単語だけでもメモをしていた
話の文脈、話の流れが段々と理解できるようになって来て、コミュニケーションがとれるようになってきた
狩野川の近くで育っていて、台風の状況とか、沼津駅から走っていた蛇松線のことを話してくれた(今は無いが)
実は認知症の人の記憶の出し方は、確かな事を言っているんだと云う事が驚きだった
普段ぐるぐる回っている人だったが、話を聞きたいと云うとちゃんと席に座って、話をしてくれるようになったんですよ
紡績会社の関連会社のメリヤス編み機 靴下を編む機械の営業をしていたみたいで、農家に編み機を売り歩いていた(副業として農家が靴下を編むことをしていたことが分かった)
最晩年の人 何かを伝えたかったのかもしれない
その人が別の施設に行くことになり、本を出す切っ掛けになった
その本を息子さんに渡したと云ったら涙を流されて喜んでくださった
もしかしたら息子さんに伝えたかったのではと思った
自分の生きた証を残したいよ、というようなことを話す人が多い
自分の死をどこかで見つめていると思う
何かを残しておきたい、何かとと言えば自分の生きてきた記憶であるとか、経験であるとか、其れを自分の子供、孫、若い世代に残したいと思われるのかなあと思う
いつ亡くなるか判らない女性がいた
私のやっていることを聞いて、私に直接聞いてもらいたいと、生い立ちではなくて、満州で御主人が亡くなられて、その時のことを聞いてほしいと云ってきた
自分の辛かった出来事を、娘や孫に読んでもらいたいとおっしゃった
ご主人が将校 八路軍に射殺された経験を持つが、その話だけではなくてご主人との出会いだとか、写真を交換して、マント姿がとっても恰好よかったとか、あの人と出会えて本当に幸せだったとおっしゃった
ご主人の実家に預けて、本人は仕事をしていたが、息子がお母さんと認めてくれなくなってしまって、息子と離れて暮らすしかなかった
辛い思いをしているうちに、素敵な男性に出会って、制服姿が格好良くってという、乙女心が判るような話をしてくれた
二人の男性に巡り合えて、本当に幸せだったという結論になった
「聞き書き」 どういう展開になるのか判らない
纏めてご家族に渡したら、すごく納得してくれた
「思い出の記」 2人
ご両親の事 お兄さんの事 子供のころの思い出 電話局の交換手 ご主人の事 日本に戻ってから御主人が亡くなって子供たちへの想い 終わりに
ご本人とご家族に渡す
家族はいろんな反応がある 息子さんが読んでくれて嬉しかったとおっしゃった
有る男性が亡くなって1年以上たった 亡くなったことを風の便りに聞いて、思い出のある方だったので、私はお線香をあげに行った
お嫁さんが対応してくれた これをもらった時には、おじいさんの人生をどういう風に受け止めて良く判らなかった 亡くなってから葬儀社の人に読んでもらったら、おじいさんは凄い人生を歩んできたんだななと、納得できたと云われた
形に残しておいてよかったなあと思った
自分史とは区別したいなあと思う 語る人と聞く人との関係性の上に成り立つ
自分史は自分で自分の人生を還り見るという事であって、語る方も気が付かない人生も引き出せるのかなと思っている
介護される側と介護する側の固定的な関係になるが、お年寄りの持っている経験、知識は、私たちには考えられないような、沢山の物を持っている
一方向的にかかわるしかできないのは、もうしわけないと云うような風に思っていたが、聞き書きは経験されたことを聞かして貰うので、其時は先生であり、私たちは生徒になる
関係性が逆転している
スタッフ自身の人生に向き合う事にもなる
これでいいんだと、勇気付けられることもある
介護の仕事は大変だ大変だといわれるが、仕事をしながら、貴重な人生勉強をさせていただいているように思える
その方にお話を聞く事で愛情が湧いてくるとか、親しみがわいていたりして、人と人としてかかわれるようになってきたりして、其れが普段のケアの変化にもつがなってゆく様な気がする
介護現場の「聞き書き」は聞く側にとっても重要だと思われる
自分の人生って、自分で纏める事は難しいと思う 自分では客観的にはなかなか見れない
編集者見たいなものだと思っている
最近やっているのは「思い出の味」 聞き書きでお話を聞いたのを、皆で味を再現してゆく
端午の節句の時に、お寿司を頼んだが、汁物を作りたかった
豚汁 愛知県の山奥の出身の人 八丁味噌(赤味噌)の味
作る事になり、レシピを聞く 味付けに興味深々
味見をしてもらったら、良いんじゃないですか という事になる(102歳のおばあさんの評価)
それ以来、納涼祭、運動会とかで、餃子、とかも作った
ドイツの癌のホスピス 癌の末期の患者さんに思い出の味を聞く 其れを聞いて再現する
味は難しい 味見して、最後に口にして、引き取ってゆく その本を読んで
介護現場として、記憶に残っている味をどこかで再現する機会がないかと思って始めた
皆で共有できる 評価したりして、思いもよらないような深い意味合いを持ち始めた
民俗学だけでは言い尽くせない、人間学の様な感じ 人と人が深くかかわってくる
聞き書きは最初、孤独な作業だったが、一緒に働いてくれる人が判ってくれて、スタッフがいるからこそ出来る(大規模介護施設では出来ないことだった)
ここに来るのが楽しみだと云って下さる 生き生きとしている
関係性の問題が一番大きいと思う(一方的に介護されているとは思わない)
お互いの人生を認め合って、共にここを作っていると云う関係性、雰囲気がとても居心地のいい場所になっていると思う
家族と一緒に住んでいても孤独な思いをされている方も多いが、同世代の人が集まって、聞いてくれる人もいて、ホッとできる瞬間を日々作っているのかなあと思う
スタッフが自分が年をとった時にどういう介護をされたいのか、という事に尽きるのかなと思う
高度経済成長期 大手企業 企業戦士 というイメージしかないが、普通の人たちがいろんな地域で支えていたことに驚きを感じる
「聞き書き」 認知症の話を聞くのは無理かなあと思っていたが、話がとても好きで、最初何を言っているのか分からなかったが、スタッフがくっついて歩いていたりした
何とか理解したいと思って、単語は聞き取れたので、単語だけでもメモをしていた
話の文脈、話の流れが段々と理解できるようになって来て、コミュニケーションがとれるようになってきた
狩野川の近くで育っていて、台風の状況とか、沼津駅から走っていた蛇松線のことを話してくれた(今は無いが)
実は認知症の人の記憶の出し方は、確かな事を言っているんだと云う事が驚きだった
普段ぐるぐる回っている人だったが、話を聞きたいと云うとちゃんと席に座って、話をしてくれるようになったんですよ
紡績会社の関連会社のメリヤス編み機 靴下を編む機械の営業をしていたみたいで、農家に編み機を売り歩いていた(副業として農家が靴下を編むことをしていたことが分かった)
最晩年の人 何かを伝えたかったのかもしれない
その人が別の施設に行くことになり、本を出す切っ掛けになった
その本を息子さんに渡したと云ったら涙を流されて喜んでくださった
もしかしたら息子さんに伝えたかったのではと思った
自分の生きた証を残したいよ、というようなことを話す人が多い
自分の死をどこかで見つめていると思う
何かを残しておきたい、何かとと言えば自分の生きてきた記憶であるとか、経験であるとか、其れを自分の子供、孫、若い世代に残したいと思われるのかなあと思う
いつ亡くなるか判らない女性がいた
私のやっていることを聞いて、私に直接聞いてもらいたいと、生い立ちではなくて、満州で御主人が亡くなられて、その時のことを聞いてほしいと云ってきた
自分の辛かった出来事を、娘や孫に読んでもらいたいとおっしゃった
ご主人が将校 八路軍に射殺された経験を持つが、その話だけではなくてご主人との出会いだとか、写真を交換して、マント姿がとっても恰好よかったとか、あの人と出会えて本当に幸せだったとおっしゃった
ご主人の実家に預けて、本人は仕事をしていたが、息子がお母さんと認めてくれなくなってしまって、息子と離れて暮らすしかなかった
辛い思いをしているうちに、素敵な男性に出会って、制服姿が格好良くってという、乙女心が判るような話をしてくれた
二人の男性に巡り合えて、本当に幸せだったという結論になった
「聞き書き」 どういう展開になるのか判らない
纏めてご家族に渡したら、すごく納得してくれた
「思い出の記」 2人
ご両親の事 お兄さんの事 子供のころの思い出 電話局の交換手 ご主人の事 日本に戻ってから御主人が亡くなって子供たちへの想い 終わりに
ご本人とご家族に渡す
家族はいろんな反応がある 息子さんが読んでくれて嬉しかったとおっしゃった
有る男性が亡くなって1年以上たった 亡くなったことを風の便りに聞いて、思い出のある方だったので、私はお線香をあげに行った
お嫁さんが対応してくれた これをもらった時には、おじいさんの人生をどういう風に受け止めて良く判らなかった 亡くなってから葬儀社の人に読んでもらったら、おじいさんは凄い人生を歩んできたんだななと、納得できたと云われた
形に残しておいてよかったなあと思った
自分史とは区別したいなあと思う 語る人と聞く人との関係性の上に成り立つ
自分史は自分で自分の人生を還り見るという事であって、語る方も気が付かない人生も引き出せるのかなと思っている
介護される側と介護する側の固定的な関係になるが、お年寄りの持っている経験、知識は、私たちには考えられないような、沢山の物を持っている
一方向的にかかわるしかできないのは、もうしわけないと云うような風に思っていたが、聞き書きは経験されたことを聞かして貰うので、其時は先生であり、私たちは生徒になる
関係性が逆転している
スタッフ自身の人生に向き合う事にもなる
これでいいんだと、勇気付けられることもある
介護の仕事は大変だ大変だといわれるが、仕事をしながら、貴重な人生勉強をさせていただいているように思える
その方にお話を聞く事で愛情が湧いてくるとか、親しみがわいていたりして、人と人としてかかわれるようになってきたりして、其れが普段のケアの変化にもつがなってゆく様な気がする
介護現場の「聞き書き」は聞く側にとっても重要だと思われる
自分の人生って、自分で纏める事は難しいと思う 自分では客観的にはなかなか見れない
編集者見たいなものだと思っている
最近やっているのは「思い出の味」 聞き書きでお話を聞いたのを、皆で味を再現してゆく
端午の節句の時に、お寿司を頼んだが、汁物を作りたかった
豚汁 愛知県の山奥の出身の人 八丁味噌(赤味噌)の味
作る事になり、レシピを聞く 味付けに興味深々
味見をしてもらったら、良いんじゃないですか という事になる(102歳のおばあさんの評価)
それ以来、納涼祭、運動会とかで、餃子、とかも作った
ドイツの癌のホスピス 癌の末期の患者さんに思い出の味を聞く 其れを聞いて再現する
味は難しい 味見して、最後に口にして、引き取ってゆく その本を読んで
介護現場として、記憶に残っている味をどこかで再現する機会がないかと思って始めた
皆で共有できる 評価したりして、思いもよらないような深い意味合いを持ち始めた
民俗学だけでは言い尽くせない、人間学の様な感じ 人と人が深くかかわってくる
聞き書きは最初、孤独な作業だったが、一緒に働いてくれる人が判ってくれて、スタッフがいるからこそ出来る(大規模介護施設では出来ないことだった)
ここに来るのが楽しみだと云って下さる 生き生きとしている
関係性の問題が一番大きいと思う(一方的に介護されているとは思わない)
お互いの人生を認め合って、共にここを作っていると云う関係性、雰囲気がとても居心地のいい場所になっていると思う
家族と一緒に住んでいても孤独な思いをされている方も多いが、同世代の人が集まって、聞いてくれる人もいて、ホッとできる瞬間を日々作っているのかなあと思う
スタッフが自分が年をとった時にどういう介護をされたいのか、という事に尽きるのかなと思う
2013年11月19日火曜日
六車 由実(デーサービス・管理者) ・介護現場で見つけた新たな民俗学
六車 由実(43歳) 介護現場で見つけた新たな民俗学
静岡県沼津市のデーサービスの施設管理者として毎日お年寄りの世話をしています
5年前まで、東北芸術工科大学の准教授として、民俗学の研究に携わっていました
民俗学は各地に伝わる伝統行事や風習を丹念に調査してどんな背景のもとで、それらが誕生したのか、人々のどんな思いや願いが込められているのか、現代生活にそれらがどのように受け継がれて来ているのか、等を探る学問です
鏡餅をお供えしたあと、其れを御汁粉や雑煮にして食べる鏡開きの風習、そこには神様への供えものを一緒に頂く事で霊力を身につけて、一年間の健康を祈る意味が込められています
六車さんはそういった各地に残る神々への供え物にスポットを当てた本を世に出してサントリー学芸賞を受賞するなど民族学者として将来を嘱望されていました
ところが六車さんはアカデミズムの世界を飛び出して、介護現場に身を投じて、現在介護民俗学という新しいフィールドを開発して検証しています
その活動を纏めた新書がこの秋、日本医学ジャーナリスト協会賞大賞を受賞しました
何故、大学を飛び出して介護現場に身を投じたのか、民族学者としてそこに何を見いだしたのか
伺いました
民家を借りて改良して利用した施設 広さ16畳 ここが中心の部屋 一日の定員が10名
要支援介護度1~5まで 幅広い 年齢層 60~102歳までの方がいる
認知症、車椅子、心臓疾患とかいろいろ 9時から4時過ぎまで
スタッフはぜんぶで6人と看護師1人 管理者、兼介護職員、兼生活相談員 なんでも屋
やっと1年になる 去年の11月1日から
お年寄りと一緒に何かをするのが難しいので、疑似家族みたいな場所になっている
午前中はお風呂が中心、並行して身体を動かしたりして、食事をして、午後は体操したり、おしゃべりをしたりして、4時に帰られる
行事は思い出に通じる物をやりたいと思っている
一人ひとりの想いをくみ取るために、普段の話の中からヒントを得てやっている
七夕 灯篭流しが有って、其れに合わせて灯篭に皆さんの亡くなった方の名前を書いてもらった
沢山の死を経験しながら、その思いをくみ取れないかなあと思って、灯篭に名前を書いてもらった
あるおばあさんは主人の葬式には出ていなかった
(ショートステーにいた 亡くなったことも知らせていなかった)
嫁さんも参加したが おばあさんがあんた書きなと云った
嫁さんが戒名を書いたら、其戒名の中に名前が入っていて、亡くなったことを知っていたことが判った
関係性が深まる
昼食後 ご馳走様を言う時に 「上手かった(馬勝った)、牛負けた」 と言われた
うちでも使っていたよとか、言いあった これが大いにはやった
大学で研究する事自体は、面白いが、とても過密なスケジュールで動かなくてはいけないし、研究論文を1年間に何本しているとか、数に成果で、評価されてゆくような状況
なるべく食い下がっていたが、段々虚しくなってきて、受賞後外部からの評価が高まった
とても忙しくなって、自分で研究する時間が無くなってきて、学生とのかかわりも取れなくなって、体調もちょっと崩したのもあったので、止めることを決断する
沼津の実家で静養して、失業保険がもらえないので、フィールドワークは続けたいとは思っていた
お年寄りの恩返しができればいいなあと思って講習を受けたのがきっかけになった
実際に働いて見ると沢山の昔の話をしてくださって、言葉が豊か、表現が豊か、記憶も確か
介護施設ができるのではないかと思った
かなりのお年寄りがいて、民俗学研究に取っても面白いと思った
今までテーマを決めてやっていたが、テーマに関係ない話もあったが、できるだけテーマにそって話を聞く様にしていた
テーマを指定しないで聞いていると、自分では考えていなかったような、内容、生き方があって、逆に教えてもらう事が多かった
現代の漂泊民 家を持たずに、定住しないで、転々として生きている人たち
芸人、宗教者、とか 高度経済成長期の漂流民
電線を張る職業の人 →10人ぐらいの人と、家族と一緒に集団で移動していた
子供たちのそこの学校に通う事を10年以上していた
そういったことを考えたこともなかった
80歳代の人 椎葉村に行ったことがあると話してくれた
介護される人は基本的な情報、は少ないが話を聞いているといろんなことが沢山合って吃驚した
蚕の鑑別嬢 養蚕については研究が進んでいるが、交配させないといけないので、良い種を作るために、鑑別するが、これまでに全く聞いたっことがなかった
片倉工業に所属して、村に派遣されて何日間かお邪魔をして、集中的に鑑別していた
戦後昭和30年代まで 今では仕事そのものも忘れられて行った
一つ一つの話が新鮮で、どっかに書きとめて置かないといけないと思った
「聞き書き」 常にボールペンとメモ用紙をポケットに入れている
最初の大きな介護施設では、話を聞いていてひんしゅくを買ってしまった
現在のところでは、聞くと相手ももっと話に乗ってくるようになった
立春にいなり寿司を作った 近所に配って、お駄賃を頂いたが、其れが楽しみだった
一番必要なのは、驚く事、興味を持って聞くと面白いし、相手も話に乗ってくる
戦前に口ずさんでいた歌をおばあさんが突然歌い出してて吃驚 回りも知らない歌だった
「蛙の夜回り」の歌
静岡県沼津市のデーサービスの施設管理者として毎日お年寄りの世話をしています
5年前まで、東北芸術工科大学の准教授として、民俗学の研究に携わっていました
民俗学は各地に伝わる伝統行事や風習を丹念に調査してどんな背景のもとで、それらが誕生したのか、人々のどんな思いや願いが込められているのか、現代生活にそれらがどのように受け継がれて来ているのか、等を探る学問です
鏡餅をお供えしたあと、其れを御汁粉や雑煮にして食べる鏡開きの風習、そこには神様への供えものを一緒に頂く事で霊力を身につけて、一年間の健康を祈る意味が込められています
六車さんはそういった各地に残る神々への供え物にスポットを当てた本を世に出してサントリー学芸賞を受賞するなど民族学者として将来を嘱望されていました
ところが六車さんはアカデミズムの世界を飛び出して、介護現場に身を投じて、現在介護民俗学という新しいフィールドを開発して検証しています
その活動を纏めた新書がこの秋、日本医学ジャーナリスト協会賞大賞を受賞しました
何故、大学を飛び出して介護現場に身を投じたのか、民族学者としてそこに何を見いだしたのか
伺いました
民家を借りて改良して利用した施設 広さ16畳 ここが中心の部屋 一日の定員が10名
要支援介護度1~5まで 幅広い 年齢層 60~102歳までの方がいる
認知症、車椅子、心臓疾患とかいろいろ 9時から4時過ぎまで
スタッフはぜんぶで6人と看護師1人 管理者、兼介護職員、兼生活相談員 なんでも屋
やっと1年になる 去年の11月1日から
お年寄りと一緒に何かをするのが難しいので、疑似家族みたいな場所になっている
午前中はお風呂が中心、並行して身体を動かしたりして、食事をして、午後は体操したり、おしゃべりをしたりして、4時に帰られる
行事は思い出に通じる物をやりたいと思っている
一人ひとりの想いをくみ取るために、普段の話の中からヒントを得てやっている
七夕 灯篭流しが有って、其れに合わせて灯篭に皆さんの亡くなった方の名前を書いてもらった
沢山の死を経験しながら、その思いをくみ取れないかなあと思って、灯篭に名前を書いてもらった
あるおばあさんは主人の葬式には出ていなかった
(ショートステーにいた 亡くなったことも知らせていなかった)
嫁さんも参加したが おばあさんがあんた書きなと云った
嫁さんが戒名を書いたら、其戒名の中に名前が入っていて、亡くなったことを知っていたことが判った
関係性が深まる
昼食後 ご馳走様を言う時に 「上手かった(馬勝った)、牛負けた」 と言われた
うちでも使っていたよとか、言いあった これが大いにはやった
大学で研究する事自体は、面白いが、とても過密なスケジュールで動かなくてはいけないし、研究論文を1年間に何本しているとか、数に成果で、評価されてゆくような状況
なるべく食い下がっていたが、段々虚しくなってきて、受賞後外部からの評価が高まった
とても忙しくなって、自分で研究する時間が無くなってきて、学生とのかかわりも取れなくなって、体調もちょっと崩したのもあったので、止めることを決断する
沼津の実家で静養して、失業保険がもらえないので、フィールドワークは続けたいとは思っていた
お年寄りの恩返しができればいいなあと思って講習を受けたのがきっかけになった
実際に働いて見ると沢山の昔の話をしてくださって、言葉が豊か、表現が豊か、記憶も確か
介護施設ができるのではないかと思った
かなりのお年寄りがいて、民俗学研究に取っても面白いと思った
今までテーマを決めてやっていたが、テーマに関係ない話もあったが、できるだけテーマにそって話を聞く様にしていた
テーマを指定しないで聞いていると、自分では考えていなかったような、内容、生き方があって、逆に教えてもらう事が多かった
現代の漂泊民 家を持たずに、定住しないで、転々として生きている人たち
芸人、宗教者、とか 高度経済成長期の漂流民
電線を張る職業の人 →10人ぐらいの人と、家族と一緒に集団で移動していた
子供たちのそこの学校に通う事を10年以上していた
そういったことを考えたこともなかった
80歳代の人 椎葉村に行ったことがあると話してくれた
介護される人は基本的な情報、は少ないが話を聞いているといろんなことが沢山合って吃驚した
蚕の鑑別嬢 養蚕については研究が進んでいるが、交配させないといけないので、良い種を作るために、鑑別するが、これまでに全く聞いたっことがなかった
片倉工業に所属して、村に派遣されて何日間かお邪魔をして、集中的に鑑別していた
戦後昭和30年代まで 今では仕事そのものも忘れられて行った
一つ一つの話が新鮮で、どっかに書きとめて置かないといけないと思った
「聞き書き」 常にボールペンとメモ用紙をポケットに入れている
最初の大きな介護施設では、話を聞いていてひんしゅくを買ってしまった
現在のところでは、聞くと相手ももっと話に乗ってくるようになった
立春にいなり寿司を作った 近所に配って、お駄賃を頂いたが、其れが楽しみだった
一番必要なのは、驚く事、興味を持って聞くと面白いし、相手も話に乗ってくる
戦前に口ずさんでいた歌をおばあさんが突然歌い出してて吃驚 回りも知らない歌だった
「蛙の夜回り」の歌
2013年11月18日月曜日
吉川晃子(千歳音訳友の会) ・録音図書で豊かな時間を
吉川晃子(千歳音訳友の会) 録音図書で豊かな時間を
北海道千歳市音訳友の会に所属 27年にわたって視覚障害者が利用する録音図書を作っています
これまでに音訳した本はおよそ200冊 時間数にして、1900時間のカセットテープやCDを製作しています
この活動が認められ、今年の朗読録音奉仕者感謝の集いで厚生労働大臣賞を受賞されました
この賞は財団法人鉄道弘済会と社会福祉法人日本老人福祉委員会が録音図書作りを更に広め、ボランティアの方々の技術の向上を図るために設けられたもので、今年で43回目です
吉川さんは40歳を越えてから音訳活動を始めて、母親の在宅介護をしながらも活動を続け指導員としても若手の養成にも取り組んでいらっしゃいます
賞を受賞されたあとも、これまでと変わらず、週3回音訳活動をする点字図書室に通い続けています
厚生労働大臣賞の受賞は全く驚いている 私が一番吃驚している
録音図書は私一人で出来るわけではないので、代表して頂いてくるねと言って行って来ました
27年間 1900時間はほとんど小説 他の物もあるが合わせるともっと長くなる
他にプライベートサービス これを読んでほしいと持ってくる物、新聞の小説 1カ月分を切り抜きで持ってきて、個人的に持ってくるものもある
受賞作品は推理小説 鳥羽亮の作品 得意分野と云う訳ではないが
渡辺淳一 柳生十兵衛、北海道昔話とか様々なものがある
1986年 43歳のころに 子供達も大きくなっていたので、何かをやりたいなとは思っていたが、具体的には何か分からなかった
たまたま市の広報で、視覚障害者のための朗読ボランティア養成講座の募集が載ったので、本を読むのが好きだったので、これなら私に合っていると思って講習を受けに行った
アクセントが凄く違っていた 最初ショックを受けた
アクセント辞典首っぴきだった イントネーションも違っていたりして、いろいろ苦労した
自分のスケジュールと合わせて、仕事をしている 録音室に来る日と決めてしまう
週2回から3回 自宅からバスで来る 生活の中に織り込まれている
時間があったらやろうというのは意外とできない
ボランティアだから(手を抜いてもいい)というのではない
翻訳というのは聞いて下さる方が解りやすい、聞きやすいと云うのが先ず第一だと思う
雑音、何かが入った時、これくらいはいいだろうと云うのは、本のシミだと思う
なるべく音が入らないように気を配っている
母親の在宅介護をしながら、続けていた (要介護度5)
いろう バリアーフリーにして病院から連れてきた
週2回はお風呂とかデーサービスに、その間急いで録音室に行く
周りからは家でゆっくり休みなさいと言われるが、でも自分の時間を作れて、却って気分転換ができて、リフレッシュする
翻訳というものがあったから、母の介護ができたのではないかと思う
スタジオは2つある 福祉センターができたときに一緒に出来た
音が入るので、空調は効かないようにしている 夏は30度になってしまう
現在 会員は51名 男性7名
読んだら、第一校正、次に第二校正に行き、指摘されたところを直して、第三校正に行って正確に直っているかどうかのチェックが入る
30分読んだら、自分でチェックして、前に進みでて行く
1冊読み終わったら、頭からもう一回聞き直してみるが、校正に出すと一杯出てきます
1冊3カ月ぐらい掛かる
でき上って、これで1冊出来あがったと、達成感を感じる
音訳と朗読は違う 音訳は視覚障害者の目の代わりなので、私の感情を入れてしまうと、感情の押し付けになってしまう
朗読は表現して鑑賞する
客観的に、意味通りに、する 男性、女性のニュアンスはあるが
だからと言って、棒読みでもいけない
利用する方の立場に立って読むようにする
涙声になるような時もぐっとっこらえて、落ちつくのを待ってから読むとか、そういったこともある
趣味で合唱をやっているが、40年になる 腹式呼吸、姿勢をきちっとする、鼻濁音を気を付ける
日本語は鼻濁音が綺麗だと思う 段々と身についてきた
ボランティアには責任感がある
生活の一つになっている
講習会をしてもなかなかボランティアの人は増えない
私の健康であったり、家族の理解が、長く続いたことだと思う
北海道千歳市音訳友の会に所属 27年にわたって視覚障害者が利用する録音図書を作っています
これまでに音訳した本はおよそ200冊 時間数にして、1900時間のカセットテープやCDを製作しています
この活動が認められ、今年の朗読録音奉仕者感謝の集いで厚生労働大臣賞を受賞されました
この賞は財団法人鉄道弘済会と社会福祉法人日本老人福祉委員会が録音図書作りを更に広め、ボランティアの方々の技術の向上を図るために設けられたもので、今年で43回目です
吉川さんは40歳を越えてから音訳活動を始めて、母親の在宅介護をしながらも活動を続け指導員としても若手の養成にも取り組んでいらっしゃいます
賞を受賞されたあとも、これまでと変わらず、週3回音訳活動をする点字図書室に通い続けています
厚生労働大臣賞の受賞は全く驚いている 私が一番吃驚している
録音図書は私一人で出来るわけではないので、代表して頂いてくるねと言って行って来ました
27年間 1900時間はほとんど小説 他の物もあるが合わせるともっと長くなる
他にプライベートサービス これを読んでほしいと持ってくる物、新聞の小説 1カ月分を切り抜きで持ってきて、個人的に持ってくるものもある
受賞作品は推理小説 鳥羽亮の作品 得意分野と云う訳ではないが
渡辺淳一 柳生十兵衛、北海道昔話とか様々なものがある
1986年 43歳のころに 子供達も大きくなっていたので、何かをやりたいなとは思っていたが、具体的には何か分からなかった
たまたま市の広報で、視覚障害者のための朗読ボランティア養成講座の募集が載ったので、本を読むのが好きだったので、これなら私に合っていると思って講習を受けに行った
アクセントが凄く違っていた 最初ショックを受けた
アクセント辞典首っぴきだった イントネーションも違っていたりして、いろいろ苦労した
自分のスケジュールと合わせて、仕事をしている 録音室に来る日と決めてしまう
週2回から3回 自宅からバスで来る 生活の中に織り込まれている
時間があったらやろうというのは意外とできない
ボランティアだから(手を抜いてもいい)というのではない
翻訳というのは聞いて下さる方が解りやすい、聞きやすいと云うのが先ず第一だと思う
雑音、何かが入った時、これくらいはいいだろうと云うのは、本のシミだと思う
なるべく音が入らないように気を配っている
母親の在宅介護をしながら、続けていた (要介護度5)
いろう バリアーフリーにして病院から連れてきた
週2回はお風呂とかデーサービスに、その間急いで録音室に行く
周りからは家でゆっくり休みなさいと言われるが、でも自分の時間を作れて、却って気分転換ができて、リフレッシュする
翻訳というものがあったから、母の介護ができたのではないかと思う
スタジオは2つある 福祉センターができたときに一緒に出来た
音が入るので、空調は効かないようにしている 夏は30度になってしまう
現在 会員は51名 男性7名
読んだら、第一校正、次に第二校正に行き、指摘されたところを直して、第三校正に行って正確に直っているかどうかのチェックが入る
30分読んだら、自分でチェックして、前に進みでて行く
1冊読み終わったら、頭からもう一回聞き直してみるが、校正に出すと一杯出てきます
1冊3カ月ぐらい掛かる
でき上って、これで1冊出来あがったと、達成感を感じる
音訳と朗読は違う 音訳は視覚障害者の目の代わりなので、私の感情を入れてしまうと、感情の押し付けになってしまう
朗読は表現して鑑賞する
客観的に、意味通りに、する 男性、女性のニュアンスはあるが
だからと言って、棒読みでもいけない
利用する方の立場に立って読むようにする
涙声になるような時もぐっとっこらえて、落ちつくのを待ってから読むとか、そういったこともある
趣味で合唱をやっているが、40年になる 腹式呼吸、姿勢をきちっとする、鼻濁音を気を付ける
日本語は鼻濁音が綺麗だと思う 段々と身についてきた
ボランティアには責任感がある
生活の一つになっている
講習会をしてもなかなかボランティアの人は増えない
私の健康であったり、家族の理解が、長く続いたことだと思う
2013年11月17日日曜日
栗山龍太(盲特別支援学校教諭) ・盲導犬と共に立つ舞台
栗山龍太(横浜市立盲特別支援学校教諭) 盲導犬と共に立つ舞台
盲導犬に対する自身の思いを歌った、3年前に歌手デビューした栗山さん、37歳です
11歳の時に病気で視力を失った栗山さん 横浜市立盲特別支援学校の教師になった24歳の時に盲導犬と行動を共にするようになりました
その後音楽関係者の友人の勧めもあり、自分と盲導犬との絆をこの「僕の取り柄と盲導犬」と題した歌にして、34歳のときに歌手になりました
アーティスト名は「栗山龍太とダイアン」 盲導犬の名前も入っています
ライブの舞台でも必ず一緒です 教師をしながら盲導犬と共に歌手として活動する栗山さんに伺います
教師生活が今年で13年目 CDを発売したのが3年前
3歳からピアノをやっていて、曲は中学校の時から作り始めていて、小学校5年生で失明、ギターとかハーモニカを独学で勉強して、自分で曲を作ってマルチトラックレコーダーで作って、其れをいろんなところにオーディションで送っていましたが、21歳の時に友人が声をかけてくれた人がいて、友人はその後音楽の世界でTVに出たり、していた 私は教師になった
その後音楽会社を立ち上げた彼が私の結婚式に来てくれて、彼からCDを出してみないかと言われて、3年前に出さしてもらった
障害は持っているが、気持ち的には大変だなあとは思わないので、僕の特徴ってなんだろうと云う事に行き着く 毎日一緒にいる盲導犬とは二人で一つという様な感じ
歌にしたのが2頭目(ダイアン)
盲導犬に巡り合って、自分にできないことができるようになった
盲導犬を通していろんな人と巡り合った 犬がいると云う事は周りにとって話しかけやすい
CDを出した歌の内容は1番から6番まであり、5年生で失明して、将来盲導犬を持ちたいなあという想いから始まって、実際協会に行って訓練、そして街に出掛けたり、犬の世話に関する事、犬の寿命は10年~15年程度なので別れがあるので、お別れの日があるならば、日々を大切に生きなければいけないと云う内容の事を歌った
盲導犬をにもいろいろ性質があり、2頭目は神経質なタイプ
CDの評判 全国から手紙が来たり、聞いて涙を流したと云うような話を得たりしている
学校では按摩、マッサージ、鍼、灸などの国家試験を受けるための指導をしている
医療全般についても教えている 解剖学、生理学、臨床医学、つぼに関する事、を含めて教えていたり、実技などを教えている
学校のバンド部の顧問もやっていたりするので、いろいろと評価してもらっている
ロック、ポップスとかいろんなジャンルを歌っている
生徒もいろいろいて音楽に興味を持っていない人もいる、年齢の幅も広い
失明して、気持ちがすさんで、鍼灸を覚えることによって、患者を癒すと云う使命感が出てきて、人から必要とされることを知って、、社会復帰してゆく姿を見ると、自分自身熱くなるものがある
目が見えない者にとって音楽は、私の三度の食事と睡眠に匹敵するようなサプリメントだと思っている
音楽はコミュニケーションのいいツールであり、心の支えであると思う
音楽は学校を卒業しても止めないでいてほしいと思っている
私の場合は音楽が本当に心の支えになっていた
授業には盲導犬は連れていかないので、寂しがったりはする
ライブにはダイアンを連れてゆく 大きい音でも平気のようだ(鼾をかいて寝ているときもある)
盲導犬がいるので、健康に過ごせていると思う
イギリス人の友人がいて、北鎌倉に住んでいて、バーベキューで知り合いになって結婚した
盲導犬とはその1年前に出会っている
ダイアンは子供の様なもの 子供は1歳と3歳がいるので、子供たちのいい遊び相手になっている
メジャーの人に歌っていただけるような歌を作っていければいいなあと思っている
人の心に残るようなメッセージ性のある曲を作りたいと思っている
デビュー後1年後に大震災があり、社会貢献活動をしている
私は目が見えなくなったと云う事で、親がいなくなって児童養護施設で育ったと云う事がありまして、児童養護施設にチャリティーという事で、津波で御両親がいなくなった人がいたりして、歌いに行って支援ができたことが、嬉しかったと思う
1年、2年目と慣れてきて、5年目で盲導犬ダイアンが段々自分に近くなった様な気がする
盲導犬に対する自身の思いを歌った、3年前に歌手デビューした栗山さん、37歳です
11歳の時に病気で視力を失った栗山さん 横浜市立盲特別支援学校の教師になった24歳の時に盲導犬と行動を共にするようになりました
その後音楽関係者の友人の勧めもあり、自分と盲導犬との絆をこの「僕の取り柄と盲導犬」と題した歌にして、34歳のときに歌手になりました
アーティスト名は「栗山龍太とダイアン」 盲導犬の名前も入っています
ライブの舞台でも必ず一緒です 教師をしながら盲導犬と共に歌手として活動する栗山さんに伺います
教師生活が今年で13年目 CDを発売したのが3年前
3歳からピアノをやっていて、曲は中学校の時から作り始めていて、小学校5年生で失明、ギターとかハーモニカを独学で勉強して、自分で曲を作ってマルチトラックレコーダーで作って、其れをいろんなところにオーディションで送っていましたが、21歳の時に友人が声をかけてくれた人がいて、友人はその後音楽の世界でTVに出たり、していた 私は教師になった
その後音楽会社を立ち上げた彼が私の結婚式に来てくれて、彼からCDを出してみないかと言われて、3年前に出さしてもらった
障害は持っているが、気持ち的には大変だなあとは思わないので、僕の特徴ってなんだろうと云う事に行き着く 毎日一緒にいる盲導犬とは二人で一つという様な感じ
歌にしたのが2頭目(ダイアン)
盲導犬に巡り合って、自分にできないことができるようになった
盲導犬を通していろんな人と巡り合った 犬がいると云う事は周りにとって話しかけやすい
CDを出した歌の内容は1番から6番まであり、5年生で失明して、将来盲導犬を持ちたいなあという想いから始まって、実際協会に行って訓練、そして街に出掛けたり、犬の世話に関する事、犬の寿命は10年~15年程度なので別れがあるので、お別れの日があるならば、日々を大切に生きなければいけないと云う内容の事を歌った
盲導犬をにもいろいろ性質があり、2頭目は神経質なタイプ
CDの評判 全国から手紙が来たり、聞いて涙を流したと云うような話を得たりしている
学校では按摩、マッサージ、鍼、灸などの国家試験を受けるための指導をしている
医療全般についても教えている 解剖学、生理学、臨床医学、つぼに関する事、を含めて教えていたり、実技などを教えている
学校のバンド部の顧問もやっていたりするので、いろいろと評価してもらっている
ロック、ポップスとかいろんなジャンルを歌っている
生徒もいろいろいて音楽に興味を持っていない人もいる、年齢の幅も広い
失明して、気持ちがすさんで、鍼灸を覚えることによって、患者を癒すと云う使命感が出てきて、人から必要とされることを知って、、社会復帰してゆく姿を見ると、自分自身熱くなるものがある
目が見えない者にとって音楽は、私の三度の食事と睡眠に匹敵するようなサプリメントだと思っている
音楽はコミュニケーションのいいツールであり、心の支えであると思う
音楽は学校を卒業しても止めないでいてほしいと思っている
私の場合は音楽が本当に心の支えになっていた
授業には盲導犬は連れていかないので、寂しがったりはする
ライブにはダイアンを連れてゆく 大きい音でも平気のようだ(鼾をかいて寝ているときもある)
盲導犬がいるので、健康に過ごせていると思う
イギリス人の友人がいて、北鎌倉に住んでいて、バーベキューで知り合いになって結婚した
盲導犬とはその1年前に出会っている
ダイアンは子供の様なもの 子供は1歳と3歳がいるので、子供たちのいい遊び相手になっている
メジャーの人に歌っていただけるような歌を作っていければいいなあと思っている
人の心に残るようなメッセージ性のある曲を作りたいと思っている
デビュー後1年後に大震災があり、社会貢献活動をしている
私は目が見えなくなったと云う事で、親がいなくなって児童養護施設で育ったと云う事がありまして、児童養護施設にチャリティーという事で、津波で御両親がいなくなった人がいたりして、歌いに行って支援ができたことが、嬉しかったと思う
1年、2年目と慣れてきて、5年目で盲導犬ダイアンが段々自分に近くなった様な気がする
2013年11月16日土曜日
中西玄禮(法主) ・人生の錦秋、花のように心を開いて生きる
中西玄禮(法主) 人生の錦秋、花のように心を開いて生きる
京都、浄土宗禅林寺法主 中西玄禮72歳 京都東山の山の斜面にお堂が並ぶ禅林寺
創建されたのは、平安時代の初めの863年 「永観堂」いうの名で広く知られる古刹です
毎年秋になると境内を埋め尽くします
本尊の阿弥陀仏は首を左に傾げ、振り向く姿から「見返り阿弥陀」と呼ばれ、多くの人の信仰を集めています
第90代法主を務める中西さんは、幼稚園や学校、企業に出向いて法話を行う、出前説法を続けています
もともとは兵庫県姫路市のお寺の生まれで、幼いころから寺の暮らしを真近に見て、僧侶にはなりたくないと思っていました
そんな中西さんが仏の道に入ったのはなぜか、70歳を過ぎた今、社会の中でどんな存在であろうとしているのか、伺います
中学(昭和20年代)、高校1,2年までは坊主にはなりたくないと思っていた
人の死の不幸でもって、家の家計が成り立っているのなら、僧侶と言うのはなんと言ういじましい職業なんだと、ちょっと耐えられないと思った
高校2年の時に進路を決めなければならない 教師になりたいと思ったが、父親の本心は仏教系の大学に行って、仏教を学んで後を継いでもらいたいと思っていた
先生に相談した、人の不幸で生活してゆくような生活は嫌ですと言ったら、坊さんは大変尊いお仕事をしていただいていると私は思っていると、私の母親が亡くなった時に一緒に悲しんでくれて救われる様な気がする、尊い仕事をされていると思っている
どうしても坊さんが嫌だと云うのであれば、嫌でない坊さんになったらどうだと一喝された
その言葉に目が覚めた
2年から3年の間の春休みに、永観堂でお坊さんになるための、資格を取る修行期間がある
2週間泊まり込んで、厳しい修行をするが、ここに入って修行したが、過酷だった
朝3時半起床 一日三回 朝4時、昼10時、夕方4時 水をかぶる
京都は結構冷え込むので、氷を割って水をかぶる 其れがお風呂代わりなんです
身体を清めて、衣に着替えて、本堂で2時間、言行を行う 正座がきつかった
出前説法 ただ仏様の教をつたえると云うことなんだけれども対象に依って伝え方が違う
(幼稚園児、小学生、青年、お年寄り)
テーマ 「二度と無い人生だから」(坂村真民)という詩があり、テキストにしながら二度と無い人生をどのように生きていけばいいのか、其れを仏教ではどう教えているのか、が一つのテーマになる
「美しき人になりたく候」 女性を対象にした講演 会津 八一早稲田大学の教授の言葉
美しく生きると云う事はどういう事なのか
①深くこの生を愛すべし 自分の生命、人生を深く愛してゆく事が美しく生きてゆく生き方
②かへりみて己を知るべし
③学芸を以て性を養ふべし
④日々新面目あるべし
ベースになるもの 「恩に報いる」 恩を知り、恩を感じ、恩に報いると云う事である
父親母親、周りを取り巻くいろんな人々の御恩を大切にしなくてはいけないんだと云っている
老人会 自分が子供のころの親や、周りの人はすでに亡くなっている場合が多いので、お墓参りするとか、法要にお参りすることしかできない
恩返しができなくなったときに「恩送り」がある
直接返せないので、その人から受けた恩を違う人に恩を送る
親から受けた恩を子供に恩を送るとか、受けた恩を次の世代に、あるいは誰かに恩を送ってゆくことはできる
残りの人生は、恩送りの生き方が大事だと思っている
生きると云うのは、確かに辛いことですが、残された家族の方々にどれぐらい寄り添えるかが、大きな仕事だと思っている
お坊さんの役割りは、今つらい思いをしている心の中に、なにがしかの希望の明かりをともしてあげる(人生の応援団)
どういうのが嫌でないお坊さんか
一休さん、良寛さん 本質的には禅の修行を積んだ人 子供達からも「さん」付けで呼ばれる
だれからも親しみをおもってもらえるようになりたいと思っている
7代目の住職が「永観」 正しくは「ようかん」と呼ぶ
50歳の2月15日 お釈迦様 涅槃 前の夜からお堂にこもって念仏を唱える
6万遍の念仏を唱えながら、阿弥陀様の周りを回る
夜が明けるころになって、自分が唱える念仏のほかに、念仏が聞こえてくる
良く見ると、壇の上にいらっしゃるはずの阿弥陀様が、いつの間にか壇から降りて、自分を先導するように前を歩きながら念仏を唱えていた
余りの不思議さに吃驚してそこに立ちつくして、うずくまるように念仏を唱えていると、阿弥陀様がふっと左から後ろを振り向かれて「永観遅し」と声をかけられた
うずくまっていないで、一緒に唱えようと云われた
阿弥陀様が振り向いたままの姿で今もなお立ちつくしていらっしゃる という伝説がある
自らを省みる 今までの生き方を深く反省する 遅れてくるもの、今立ち上がって生きようとする気力さえ失っているもの そういう弱者 仏さまの前に回って拝むことができないそういう人々を、だからこそ見捨てないんだと、振り向きながら気にかけ、気にかけ見守り続けているよという姿
と同時に、振り向くと云う姿の中には、私たちが過去に忘れてきた日本人の美意識、倫理観、お互いが助け合ってゆく観念、美徳、価値観をもう一度取り戻そうよ
失ったものに対して、其れが実は大事なんだよと示してくださる
更に、若い方々に言っているのは、阿弥陀仏が振り向いて待ち続けておられるのは、①飽きず、②焦らず、③諦めず という三つの心がこの振り向き待つという姿の中にあらわされていると思う
無量寿経 「志願無倦」(しがんむけん) 忌むことがない 飽きることは無い
願を果たして倦む(退屈する。嫌になる。飽きる)ことが無いこと
阿弥陀仏が全ての人を救おう 志願 誓願 そういう思いは飽きる事もなく諦める事もない
諦めない阿弥陀の志願、誓願が立ち止まって振り向き、待ち続ける姿として表現されているんですよと、お話をさせてもらっている
仏教では、共通の教えがあって 仏教の三本柱
①報恩感謝(「ありがとう」という気持ち)
さまざまな御恩を感じ、その恩に報いると同時に御恩 に対して感謝する
②懺悔滅罪(「ごめんなさい」という気持ち)
御恩をお頂いている自分でありながら其れに反する行為、恨んだり、ねたんだり、相手を傷つ けたり、これまでどれほど繰り返してきたか、どれほど親不幸をしてきたか、気付かないところ で、親だけでなく周りの人にどれだけ迷惑をかけてきたか、至らない自分であったという、そう いう罪深さを反省すると云う事
③誓願立志(「お幸せに」と願う気持ち)
自分一人が幸せになると云う事を追い求めている時代はもう終わった
縁のある親、子供、家族、のある周りの人々の御縁を大切にしながら、そういう方々の幸せの ために自分は何ができるか、其れを考えながら、一人でも多くの人を幸せに繋がるような生き 方をしようと願い、更に其れを実践してゆく
その人の幸せのために何かできなくても、その人の幸せを祈ることはできる
「惜しみなく与える人になろう」と出前説法の最後にいつも言っている
無量寿経の中に在る言葉
和顔(わげん) 愛語(あいご) 先意承聞(せんいじょうもん) 小欲知足(しょうよくちそく)
お金や物ではなくて誰にでもできる尊いお布施がある 心が通い合う大きな力がある
①和顔 明るい笑顔 赤ちゃんの笑顔は周りがなごむ 心がなごむ 自分も笑顔になる
心は開けるそうすると、心が通じる
②愛語 愛情のこもった言葉 おはよう、お休み いただきます ご馳走様 ありがとう
はいと云う返事
③先意承問 相手の心を承る 相手の気持ちになってみる 相手を思いやる心
尽くしあう、支えあう構造
④小欲知足 現代に求められているキーワード 欲を少なくして足りることを知る
今が幸せだと感じられなければ永遠に幸せは来ない
今生きているだけで十分に価値がある
もみじ もみじが散るように自分も土に帰ってゆく事があるのかもしれないと無意識に思う
「阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の たぐいならまし」
(あみだぶに そむるこころのいろにいでば あきのこずえの たぐいならまし) 法然上人
阿弥陀様のお慈悲の光に照らされると、秋の梢には真っ赤な葉もあれば、黄色い色もあれば、青い部分もあり、虫食いもあれば、大きな葉もあれば、小さな葉もあり、それぞれがそれぞれの色を発して、非常に錦の様な鮮やかな輝きを見せている
人として此の世に生きとし生けるものは阿弥陀仏のお慈悲の光に照らされると、年寄りは年寄りとしての光があり、若い人、赤ちゃん、男、女 それぞれに光があり、個性を輝かせつついずれは仏さまの浄土、大地に帰ってゆくのですよ と云っている
京都、浄土宗禅林寺法主 中西玄禮72歳 京都東山の山の斜面にお堂が並ぶ禅林寺
創建されたのは、平安時代の初めの863年 「永観堂」いうの名で広く知られる古刹です
毎年秋になると境内を埋め尽くします
本尊の阿弥陀仏は首を左に傾げ、振り向く姿から「見返り阿弥陀」と呼ばれ、多くの人の信仰を集めています
第90代法主を務める中西さんは、幼稚園や学校、企業に出向いて法話を行う、出前説法を続けています
もともとは兵庫県姫路市のお寺の生まれで、幼いころから寺の暮らしを真近に見て、僧侶にはなりたくないと思っていました
そんな中西さんが仏の道に入ったのはなぜか、70歳を過ぎた今、社会の中でどんな存在であろうとしているのか、伺います
中学(昭和20年代)、高校1,2年までは坊主にはなりたくないと思っていた
人の死の不幸でもって、家の家計が成り立っているのなら、僧侶と言うのはなんと言ういじましい職業なんだと、ちょっと耐えられないと思った
高校2年の時に進路を決めなければならない 教師になりたいと思ったが、父親の本心は仏教系の大学に行って、仏教を学んで後を継いでもらいたいと思っていた
先生に相談した、人の不幸で生活してゆくような生活は嫌ですと言ったら、坊さんは大変尊いお仕事をしていただいていると私は思っていると、私の母親が亡くなった時に一緒に悲しんでくれて救われる様な気がする、尊い仕事をされていると思っている
どうしても坊さんが嫌だと云うのであれば、嫌でない坊さんになったらどうだと一喝された
その言葉に目が覚めた
2年から3年の間の春休みに、永観堂でお坊さんになるための、資格を取る修行期間がある
2週間泊まり込んで、厳しい修行をするが、ここに入って修行したが、過酷だった
朝3時半起床 一日三回 朝4時、昼10時、夕方4時 水をかぶる
京都は結構冷え込むので、氷を割って水をかぶる 其れがお風呂代わりなんです
身体を清めて、衣に着替えて、本堂で2時間、言行を行う 正座がきつかった
出前説法 ただ仏様の教をつたえると云うことなんだけれども対象に依って伝え方が違う
(幼稚園児、小学生、青年、お年寄り)
テーマ 「二度と無い人生だから」(坂村真民)という詩があり、テキストにしながら二度と無い人生をどのように生きていけばいいのか、其れを仏教ではどう教えているのか、が一つのテーマになる
「美しき人になりたく候」 女性を対象にした講演 会津 八一早稲田大学の教授の言葉
美しく生きると云う事はどういう事なのか
①深くこの生を愛すべし 自分の生命、人生を深く愛してゆく事が美しく生きてゆく生き方
②かへりみて己を知るべし
③学芸を以て性を養ふべし
④日々新面目あるべし
ベースになるもの 「恩に報いる」 恩を知り、恩を感じ、恩に報いると云う事である
父親母親、周りを取り巻くいろんな人々の御恩を大切にしなくてはいけないんだと云っている
老人会 自分が子供のころの親や、周りの人はすでに亡くなっている場合が多いので、お墓参りするとか、法要にお参りすることしかできない
恩返しができなくなったときに「恩送り」がある
直接返せないので、その人から受けた恩を違う人に恩を送る
親から受けた恩を子供に恩を送るとか、受けた恩を次の世代に、あるいは誰かに恩を送ってゆくことはできる
残りの人生は、恩送りの生き方が大事だと思っている
生きると云うのは、確かに辛いことですが、残された家族の方々にどれぐらい寄り添えるかが、大きな仕事だと思っている
お坊さんの役割りは、今つらい思いをしている心の中に、なにがしかの希望の明かりをともしてあげる(人生の応援団)
どういうのが嫌でないお坊さんか
一休さん、良寛さん 本質的には禅の修行を積んだ人 子供達からも「さん」付けで呼ばれる
だれからも親しみをおもってもらえるようになりたいと思っている
7代目の住職が「永観」 正しくは「ようかん」と呼ぶ
50歳の2月15日 お釈迦様 涅槃 前の夜からお堂にこもって念仏を唱える
6万遍の念仏を唱えながら、阿弥陀様の周りを回る
夜が明けるころになって、自分が唱える念仏のほかに、念仏が聞こえてくる
良く見ると、壇の上にいらっしゃるはずの阿弥陀様が、いつの間にか壇から降りて、自分を先導するように前を歩きながら念仏を唱えていた
余りの不思議さに吃驚してそこに立ちつくして、うずくまるように念仏を唱えていると、阿弥陀様がふっと左から後ろを振り向かれて「永観遅し」と声をかけられた
うずくまっていないで、一緒に唱えようと云われた
阿弥陀様が振り向いたままの姿で今もなお立ちつくしていらっしゃる という伝説がある
自らを省みる 今までの生き方を深く反省する 遅れてくるもの、今立ち上がって生きようとする気力さえ失っているもの そういう弱者 仏さまの前に回って拝むことができないそういう人々を、だからこそ見捨てないんだと、振り向きながら気にかけ、気にかけ見守り続けているよという姿
と同時に、振り向くと云う姿の中には、私たちが過去に忘れてきた日本人の美意識、倫理観、お互いが助け合ってゆく観念、美徳、価値観をもう一度取り戻そうよ
失ったものに対して、其れが実は大事なんだよと示してくださる
更に、若い方々に言っているのは、阿弥陀仏が振り向いて待ち続けておられるのは、①飽きず、②焦らず、③諦めず という三つの心がこの振り向き待つという姿の中にあらわされていると思う
無量寿経 「志願無倦」(しがんむけん) 忌むことがない 飽きることは無い
願を果たして倦む(退屈する。嫌になる。飽きる)ことが無いこと
阿弥陀仏が全ての人を救おう 志願 誓願 そういう思いは飽きる事もなく諦める事もない
諦めない阿弥陀の志願、誓願が立ち止まって振り向き、待ち続ける姿として表現されているんですよと、お話をさせてもらっている
仏教では、共通の教えがあって 仏教の三本柱
①報恩感謝(「ありがとう」という気持ち)
さまざまな御恩を感じ、その恩に報いると同時に御恩 に対して感謝する
②懺悔滅罪(「ごめんなさい」という気持ち)
御恩をお頂いている自分でありながら其れに反する行為、恨んだり、ねたんだり、相手を傷つ けたり、これまでどれほど繰り返してきたか、どれほど親不幸をしてきたか、気付かないところ で、親だけでなく周りの人にどれだけ迷惑をかけてきたか、至らない自分であったという、そう いう罪深さを反省すると云う事
③誓願立志(「お幸せに」と願う気持ち)
自分一人が幸せになると云う事を追い求めている時代はもう終わった
縁のある親、子供、家族、のある周りの人々の御縁を大切にしながら、そういう方々の幸せの ために自分は何ができるか、其れを考えながら、一人でも多くの人を幸せに繋がるような生き 方をしようと願い、更に其れを実践してゆく
その人の幸せのために何かできなくても、その人の幸せを祈ることはできる
「惜しみなく与える人になろう」と出前説法の最後にいつも言っている
無量寿経の中に在る言葉
和顔(わげん) 愛語(あいご) 先意承聞(せんいじょうもん) 小欲知足(しょうよくちそく)
お金や物ではなくて誰にでもできる尊いお布施がある 心が通い合う大きな力がある
①和顔 明るい笑顔 赤ちゃんの笑顔は周りがなごむ 心がなごむ 自分も笑顔になる
心は開けるそうすると、心が通じる
②愛語 愛情のこもった言葉 おはよう、お休み いただきます ご馳走様 ありがとう
はいと云う返事
③先意承問 相手の心を承る 相手の気持ちになってみる 相手を思いやる心
尽くしあう、支えあう構造
④小欲知足 現代に求められているキーワード 欲を少なくして足りることを知る
今が幸せだと感じられなければ永遠に幸せは来ない
今生きているだけで十分に価値がある
もみじ もみじが散るように自分も土に帰ってゆく事があるのかもしれないと無意識に思う
「阿弥陀仏に 染むる心の 色に出でば 秋の梢の たぐいならまし」
(あみだぶに そむるこころのいろにいでば あきのこずえの たぐいならまし) 法然上人
阿弥陀様のお慈悲の光に照らされると、秋の梢には真っ赤な葉もあれば、黄色い色もあれば、青い部分もあり、虫食いもあれば、大きな葉もあれば、小さな葉もあり、それぞれがそれぞれの色を発して、非常に錦の様な鮮やかな輝きを見せている
人として此の世に生きとし生けるものは阿弥陀仏のお慈悲の光に照らされると、年寄りは年寄りとしての光があり、若い人、赤ちゃん、男、女 それぞれに光があり、個性を輝かせつついずれは仏さまの浄土、大地に帰ってゆくのですよ と云っている
2013年11月15日金曜日
挾土秀平(左官技能士) ・世界に発信、左官の技 2
挾土秀平(左官技能士51歳) 世界に発信、左官の技 2
守られた約束の中で自然素材でやるという、其中で表現を変えていって進化している。
土壁は洗練して、洗練して、完成されていると思っているが、私は逆戻りをしている。
こういう配合で、こういう塗り方をしたらこのくらいの大きさのしみ?が出てくるはずだと狙っているとか、自然の現象がお手本(例えば山の斜面の土の山肌とか)、自分で消化している。
良い詩をよんだり、言葉、 「青が荒ぶる」と言うタイトル 青い土でサンプルを作ったりして、其れを利用したりする。 言葉に色や肌が一杯詰まっていると思う。
書く事も好き 思いを言葉にするのが好き。
ブログを書いているが一日300人のアクセスがある。 良い文章ができると、良い左官工事をしたな、と思っていて、其れが左官仕事に通じてきていると思う。
江戸屋萬蔵がなんでこんなだらしのない仕事をするのかと、思う時があるが、多分施主が悪かったか、怒っていたか、金がなかったか、だと思う あの天才がこんな仕事することは無いと思っているので、職人は言葉で感情を残すべきだと思っている。
フランスに行って、フランスの町の景観に非常に感動した。
建物を作っているが、其れが集まって、田園とかも集まって、日本と言う風景を作っている。
最近のこの日本の風景どうなってるのと思う。
パリに行ったときに、石の築造500年と言う建物が、びっしりと昔のまま、ペンキ一つ塗らずに、石が欠けたら欠けたまま、四方八方に広がっている、圧倒的な歴史的な景観ですね。
中に入るとエレベータがあったり、近代的な設備がある。
外観の街と言うものに対する、景観の美意識は、半端ではない。
タバコを吸う人が一杯いて、投げ捨てる、自由にタバコを吸って、生きていると云う街だと思った。
日本は素晴らしいものがあると触っては駄目という。
景観は住む人の品位だと思う。 これでは私たちの将来は無いなと思います。
昭和初め、か大正時代 京都の街の絵を見たが、ほれぼれするほど良い景観なんですよ。
街おこしの議論を良く聞くけど、イベントをするのが街おこしと言ったりするけど其れは違うのではないか、街が日本的だったら来るんじゃないのと思う。
日本の景観に対する感性が衰えているのではないか。
左官の仕事をして、32年になるが、32年間仕事が減りっぱなしですね。
今は住宅では皆無になっている。
日本的な精神性が無くなっている。 瓦、畳、木、土は其れが日本。
美意識と言うときに 「美しい」「かわいい」「綺麗」と言う言葉があって
「美しい」 : いとおしい いつくしむ おもいやる
「かわいい」: かわいそう 「美しい」「かわいい」この二つの言葉はいっぱい感情がある
「綺麗」: 綺麗で終わって感情が無い 今の日本の建築、住宅は皆「綺麗」で出来ている。
板は10年経つと 美しいになる。 綺麗はやがて汚い 古くなるになる。
「美しい」「かわいい」でないと駄目なんじゃないか。
車窓からの風景 10年見ている。
本当に日本の風景だなあと思うのは、名古屋から東北までの中で一か所もない。
景観を意識したことが言える、建築のプロヂューサーがいないと駄目ですね。
日本人の感性、伝統の技 積み重ねてきた左官に限らず、フランスの国では素晴らしいと
日本人の感覚を知りたくて、繊細な、緻密な技能を本当に評価してくれる。
日本では、なんで大事にしていないのと、云われる。
日本人の職人さんが、海外に自分たちの技能を教えに行っているパターンは、たまに目にする。
盆栽師が世界に行ってたり、そういうのを見ていると、どうなるのかと思う。
国力を失っていると思う。 1000年も秘密を守ってきて、なんと名人なのといわれるものを、職人たちが流出してるとしたら、大損失ですよね。
日本人の知性とかで、生みだしてきた文化なので、それを出していいのかなと思う。
保護しないと行けないと、1000年掛かっているんだから、 私もそうするかもしれないけど。
左官だけで飯を食ってゆくのは、ここしばらくは食って行くると思うが、10年先、20年先にはどうなるかわからない。
別の事をやりながら、左官を手助けするような、左官を2番にする すごく悲しいことだと思うが
一番大切なものを2番にしておけば、レベルを落とさずに持っていられるのではないかと思う。
蔵をもっと充実させていきたい。
新しい表現方法を取り入れるとか、誰も見たことのない土壁の肌合いを研究して、其れができる新しい後継者を育て、バトンタッチする。
現在4人いるが、6人になれば凄くいろいろなことができる。 究極の弟子を育てたい。
弟子はまだ塗れないからそれは絶対ですが、素晴らしいとか、あまり褒めない。
弟子が美術館に行って絵画を見てきましたと言ったら私は「馬鹿」といいますね。
それに可能性を感じない。
そんなものを見るから頭がカチカチになってしまう。
自分で新しい物を創作しようとした時に、無意識に同じようなバランスをコピーしてきたと私は成ってきたので、どうしたらそれを破ろうかと苦労してきた。
現場でどうしたらいいかと考える 柔軟な創造力 変な勉強はしないように言っている。
基本技能を持って、現場で考える、常に課題を貰って考える。 柔軟なふうがいい。
お客さんからテーマをもらうので、ここだけで考えた方が変な響を受けていない人だけで出来る。
自分が感じる美しい物は何なんだと、と言うところでないといけない。
頭が真っ白でないといけない。
それを見るのはいろんなものが、できるようになってからだと思っている。
知らないでいると、知った時に爆発的な力を発揮する。
38歳の時に、宮澤賢治の「春と修羅」 の一節を知る。
言葉の凄さに感動する。
その詩を全部読んだら自分の事を書いてあるのかと思うほど感動した。
それがいまでも、凄い頭に残って、どれだけ創造力を働かせて壁を生みだしたか知れない。
素材を大事に集めている。(赤い土だとか、黄色い土、藁、など)
職人がいなくなり始めているのは、腕はいいが素材がないという事がある。
海外の人の日本文化に対する評価の高さは凄い。
日本の左官は世界一。
アメリカが其れを理解してくれると、そうすると日本人が、凄いんだと逆輸入してくれるのではないかと、アートのまねごとをやって、海外で認めてもらって、我々はこれだけ素晴らしいと、体験として持って帰りたい。
日本でもっとやりたいから海外で行ってきます。
守られた約束の中で自然素材でやるという、其中で表現を変えていって進化している。
土壁は洗練して、洗練して、完成されていると思っているが、私は逆戻りをしている。
こういう配合で、こういう塗り方をしたらこのくらいの大きさのしみ?が出てくるはずだと狙っているとか、自然の現象がお手本(例えば山の斜面の土の山肌とか)、自分で消化している。
良い詩をよんだり、言葉、 「青が荒ぶる」と言うタイトル 青い土でサンプルを作ったりして、其れを利用したりする。 言葉に色や肌が一杯詰まっていると思う。
書く事も好き 思いを言葉にするのが好き。
ブログを書いているが一日300人のアクセスがある。 良い文章ができると、良い左官工事をしたな、と思っていて、其れが左官仕事に通じてきていると思う。
江戸屋萬蔵がなんでこんなだらしのない仕事をするのかと、思う時があるが、多分施主が悪かったか、怒っていたか、金がなかったか、だと思う あの天才がこんな仕事することは無いと思っているので、職人は言葉で感情を残すべきだと思っている。
フランスに行って、フランスの町の景観に非常に感動した。
建物を作っているが、其れが集まって、田園とかも集まって、日本と言う風景を作っている。
最近のこの日本の風景どうなってるのと思う。
パリに行ったときに、石の築造500年と言う建物が、びっしりと昔のまま、ペンキ一つ塗らずに、石が欠けたら欠けたまま、四方八方に広がっている、圧倒的な歴史的な景観ですね。
中に入るとエレベータがあったり、近代的な設備がある。
外観の街と言うものに対する、景観の美意識は、半端ではない。
タバコを吸う人が一杯いて、投げ捨てる、自由にタバコを吸って、生きていると云う街だと思った。
日本は素晴らしいものがあると触っては駄目という。
景観は住む人の品位だと思う。 これでは私たちの将来は無いなと思います。
昭和初め、か大正時代 京都の街の絵を見たが、ほれぼれするほど良い景観なんですよ。
街おこしの議論を良く聞くけど、イベントをするのが街おこしと言ったりするけど其れは違うのではないか、街が日本的だったら来るんじゃないのと思う。
日本の景観に対する感性が衰えているのではないか。
左官の仕事をして、32年になるが、32年間仕事が減りっぱなしですね。
今は住宅では皆無になっている。
日本的な精神性が無くなっている。 瓦、畳、木、土は其れが日本。
美意識と言うときに 「美しい」「かわいい」「綺麗」と言う言葉があって
「美しい」 : いとおしい いつくしむ おもいやる
「かわいい」: かわいそう 「美しい」「かわいい」この二つの言葉はいっぱい感情がある
「綺麗」: 綺麗で終わって感情が無い 今の日本の建築、住宅は皆「綺麗」で出来ている。
板は10年経つと 美しいになる。 綺麗はやがて汚い 古くなるになる。
「美しい」「かわいい」でないと駄目なんじゃないか。
車窓からの風景 10年見ている。
本当に日本の風景だなあと思うのは、名古屋から東北までの中で一か所もない。
景観を意識したことが言える、建築のプロヂューサーがいないと駄目ですね。
日本人の感性、伝統の技 積み重ねてきた左官に限らず、フランスの国では素晴らしいと
日本人の感覚を知りたくて、繊細な、緻密な技能を本当に評価してくれる。
日本では、なんで大事にしていないのと、云われる。
日本人の職人さんが、海外に自分たちの技能を教えに行っているパターンは、たまに目にする。
盆栽師が世界に行ってたり、そういうのを見ていると、どうなるのかと思う。
国力を失っていると思う。 1000年も秘密を守ってきて、なんと名人なのといわれるものを、職人たちが流出してるとしたら、大損失ですよね。
日本人の知性とかで、生みだしてきた文化なので、それを出していいのかなと思う。
保護しないと行けないと、1000年掛かっているんだから、 私もそうするかもしれないけど。
左官だけで飯を食ってゆくのは、ここしばらくは食って行くると思うが、10年先、20年先にはどうなるかわからない。
別の事をやりながら、左官を手助けするような、左官を2番にする すごく悲しいことだと思うが
一番大切なものを2番にしておけば、レベルを落とさずに持っていられるのではないかと思う。
蔵をもっと充実させていきたい。
新しい表現方法を取り入れるとか、誰も見たことのない土壁の肌合いを研究して、其れができる新しい後継者を育て、バトンタッチする。
現在4人いるが、6人になれば凄くいろいろなことができる。 究極の弟子を育てたい。
弟子はまだ塗れないからそれは絶対ですが、素晴らしいとか、あまり褒めない。
弟子が美術館に行って絵画を見てきましたと言ったら私は「馬鹿」といいますね。
それに可能性を感じない。
そんなものを見るから頭がカチカチになってしまう。
自分で新しい物を創作しようとした時に、無意識に同じようなバランスをコピーしてきたと私は成ってきたので、どうしたらそれを破ろうかと苦労してきた。
現場でどうしたらいいかと考える 柔軟な創造力 変な勉強はしないように言っている。
基本技能を持って、現場で考える、常に課題を貰って考える。 柔軟なふうがいい。
お客さんからテーマをもらうので、ここだけで考えた方が変な響を受けていない人だけで出来る。
自分が感じる美しい物は何なんだと、と言うところでないといけない。
頭が真っ白でないといけない。
それを見るのはいろんなものが、できるようになってからだと思っている。
知らないでいると、知った時に爆発的な力を発揮する。
38歳の時に、宮澤賢治の「春と修羅」 の一節を知る。
言葉の凄さに感動する。
その詩を全部読んだら自分の事を書いてあるのかと思うほど感動した。
それがいまでも、凄い頭に残って、どれだけ創造力を働かせて壁を生みだしたか知れない。
素材を大事に集めている。(赤い土だとか、黄色い土、藁、など)
職人がいなくなり始めているのは、腕はいいが素材がないという事がある。
海外の人の日本文化に対する評価の高さは凄い。
日本の左官は世界一。
アメリカが其れを理解してくれると、そうすると日本人が、凄いんだと逆輸入してくれるのではないかと、アートのまねごとをやって、海外で認めてもらって、我々はこれだけ素晴らしいと、体験として持って帰りたい。
日本でもっとやりたいから海外で行ってきます。
2013年11月14日木曜日
挾土秀平(左官技能士) ・世界に発信、左官の技
挾土秀平(左官技能士) 世界に発信、左官の技
挾土さんは1961年、岐阜県高山市に生まれ、父の後を継いで左官職人になりました。
30代半ばでセメントを塗る仕事から土壁を塗る仕事に、取り組み始め伝統的な技術を高度に駆使して、土壁塗りをする一方で、従来の左官仕事には見られないアートと呼ばれる造形作品も試み、左官の仕事に新風を吹き込んできました。
挾土さんのこれまでの仕事には、岐阜県の文化財である土蔵の修復、北海道洞爺湖サミットの土の円卓、首相官邸の桜色の壁、ホテルの金色の壁など、近代的でユニークな発想の物が多くあり、その仕事は日本から世界へと広がっています。
挾土さんは今年度、日本の文化を海外に伝える、国の文化交流師に選ばれ、ニューヨークで講演や左官仕事の個展を開くことになっています。
土壁を塗る仕事には生きる喜びがあるという挾土さんに伺います。
「歓待の西洋室」 大正5年に高山市内に建てられた洋館 長い年月放置されて壊れかかっていたものを挾土さんが譲り受けて移築して、究極の左官の技で修復中です。
20坪ぐらい 魅力、和洋折衷 混沌としている状況の時、本当に日本人が西洋の物を受け入れて、日本的に西洋を表現している、何とも言えない品格がある建物だと思う。
西洋でのモールディング 天井に在る装飾 ほとんど石で作られているが、日本人は土で作っているとか、木で掘って作っていてそれに漆をかけいるとか、なのに畳が敷いてあるとか、其れがミスマッチしていない。
日本人の感性がどれほど、優れていたとか、日本人の品の良さが表れている。
私は、それと、今の感覚と織り混ぜた、現在と和洋折衷の中間をやってみたいと思っている。
天井 創建当時は白い漆喰だったと思うが、見たときにはグレーだった。
多分落ちつくだろうと、グレーの砂で作ってみようと思った。
奥のある感じを目指している。(人の目は奥深さ、分厚さを感じる)
左官は絶滅危惧種であると思う。
今家はいっぱい建っているが、全部パネルの組み立てで工業的に作られたタイル調とか、木目調で、其れをただビスで打って、パーっと出来ちゃう。
今の家に和室は無いので、大工は必要ないし、左官も必要ない。
職人は不必要な家になってきてしまっている。
半分腐ってきているように、ひねくれてきているが、やっぱりさっき言った厚みのある物がしっかりとした腕で、しっかり塗られた空間をたまに作ると素晴らしい、其れは消しちゃ駄目だと思う。
アメリカで今度個展を開く 左官は水もの仕事 大工は図面があり、伝わりやすい。
左官はその時の土の粘り、どれだけ砂、水を入れるか、天気、四季、塗る厚み、広さ等に依ってその時々で全部違う。 口とか図面では伝えられない。
日本の左官は世界一だと思う。
アメリカに知らせれば、日本人も凄いんだと、気付いてもらえるのではないかとどんな反応があるか、試しに行ってみる。
父の時代に左官 私は2代目 どうも私の一族は古いタイプの家で、後を継ぐのは当たり前な感じだった。
最初セメントを塗る仕事をした。
全国技能コンクールで優勝、2000年ぐらいの時に土に取り組む。
27歳ぐらいになった時に、飛騨にバブルが来た、建設ラッシュで儲かってゆく。
ただ、人が物の様な感じだった。 人の取り合い、人間関係が最悪だった。
金の亡者と言うような状況、人間不信になる。
土壁を知る。 真反対でセメントはカチカチとなり、失敗したら、壊すが、土の場合は容易に直せるし、色、感触、見た目、セメントとは全く逆だと思った。
土壁は呼吸をするし、部屋の空気を柔らかくする。
土壁は身体にいいんじゃなくて、精神に良いと思う。
家の外部を縫って、その近くに大きな木が立っていて、木漏れ日が壁に当たって、モミジなどの影の葉っぱが揺れているのを見ると、ぼーっと見ていて是が最高だと思う。
土の種類 使いにくい土は使いやすい土を混ぜればいい。
今は手に入る土でどうやるかを考えている。(その土地に在る土を使うのが良いと思う)
土に無い色が緑 日本中探してもなかった。 緑色を土(茶色、黄色とか)に加えると落ちつく色になる。
キプロスに緑色の土があった。 みつけたときは感動した。
土、水、光 凄い大事なものと思っている。
木は土が伸びるている。 花は土が咲いた。 石は硬い土 亡くなれば土になる。
土で植物が繁栄する。 土は一番もとになる。
土は人を裏切らない。 自分の腕、やり方、練った土の分量、で壁ができる。
土はちゃんと答えてくれる。
日本人と左官は離れ過ぎている。
講演するが、左官を知らない人が非常に多くなってきている。
壁作業 子供、感動する子と泥が汚いと云う子が半分半分。
古い建物の修復 高山に県の指定文化財の土蔵があったが、伝説の土蔵がある。
江戸の神田で人をあやめて、飛騨に逃げてきた左官職人 江戸屋萬蔵と云う名前。
偽名だと思うが、飛騨の職人町に住む 囲う土蔵を作りだしたのが、江戸屋萬蔵だと言われる。
国学者 田中大秀(『竹取翁物語解』など)の書物蔵を作った。
駆け落ち人を江戸屋萬蔵が追いかけて行って、返り討ちにあって47歳で死んだと云われる。
その人は、腕がすごく良くて、絵心があって、才能がある事が判る。
その土蔵を34歳で修復した。 漆喰が白、飾り窓が黒 壁は黄色。
中塗りの表面を出したところは 薄いピンク、黄色、グレー が試験塗りがしてあった。
これを観て色を決めたと思われる。(黄色だが、もし薄いピンクだったら本当に感動もの)
250年経っていた土蔵があった。上塗りのしていない土蔵だった、「結い」皆で総出で作った土蔵
土壁 4cmくらい 落ちている部分がある(剥がれた状態) 剥がれた姿をそのまま新しくした。
創建当時にしたくなかった(ただの箱になってしまうので、と思った)
復元論争になった。
文化財保護審議委員会は「創建当初に」
左官職人は「時の復元に」という新聞の題目だった。
昔の人は手間をかけてるなと言う事が良く判る。
昔は1cmを3回に分けて塗る。
手間をかけて質の良いものを作った。
伝統 守られた約束がある。 アートと言われるが、あたらしい伝統だと思う。
挾土さんは1961年、岐阜県高山市に生まれ、父の後を継いで左官職人になりました。
30代半ばでセメントを塗る仕事から土壁を塗る仕事に、取り組み始め伝統的な技術を高度に駆使して、土壁塗りをする一方で、従来の左官仕事には見られないアートと呼ばれる造形作品も試み、左官の仕事に新風を吹き込んできました。
挾土さんのこれまでの仕事には、岐阜県の文化財である土蔵の修復、北海道洞爺湖サミットの土の円卓、首相官邸の桜色の壁、ホテルの金色の壁など、近代的でユニークな発想の物が多くあり、その仕事は日本から世界へと広がっています。
挾土さんは今年度、日本の文化を海外に伝える、国の文化交流師に選ばれ、ニューヨークで講演や左官仕事の個展を開くことになっています。
土壁を塗る仕事には生きる喜びがあるという挾土さんに伺います。
「歓待の西洋室」 大正5年に高山市内に建てられた洋館 長い年月放置されて壊れかかっていたものを挾土さんが譲り受けて移築して、究極の左官の技で修復中です。
20坪ぐらい 魅力、和洋折衷 混沌としている状況の時、本当に日本人が西洋の物を受け入れて、日本的に西洋を表現している、何とも言えない品格がある建物だと思う。
西洋でのモールディング 天井に在る装飾 ほとんど石で作られているが、日本人は土で作っているとか、木で掘って作っていてそれに漆をかけいるとか、なのに畳が敷いてあるとか、其れがミスマッチしていない。
日本人の感性がどれほど、優れていたとか、日本人の品の良さが表れている。
私は、それと、今の感覚と織り混ぜた、現在と和洋折衷の中間をやってみたいと思っている。
天井 創建当時は白い漆喰だったと思うが、見たときにはグレーだった。
多分落ちつくだろうと、グレーの砂で作ってみようと思った。
奥のある感じを目指している。(人の目は奥深さ、分厚さを感じる)
左官は絶滅危惧種であると思う。
今家はいっぱい建っているが、全部パネルの組み立てで工業的に作られたタイル調とか、木目調で、其れをただビスで打って、パーっと出来ちゃう。
今の家に和室は無いので、大工は必要ないし、左官も必要ない。
職人は不必要な家になってきてしまっている。
半分腐ってきているように、ひねくれてきているが、やっぱりさっき言った厚みのある物がしっかりとした腕で、しっかり塗られた空間をたまに作ると素晴らしい、其れは消しちゃ駄目だと思う。
アメリカで今度個展を開く 左官は水もの仕事 大工は図面があり、伝わりやすい。
左官はその時の土の粘り、どれだけ砂、水を入れるか、天気、四季、塗る厚み、広さ等に依ってその時々で全部違う。 口とか図面では伝えられない。
日本の左官は世界一だと思う。
アメリカに知らせれば、日本人も凄いんだと、気付いてもらえるのではないかとどんな反応があるか、試しに行ってみる。
父の時代に左官 私は2代目 どうも私の一族は古いタイプの家で、後を継ぐのは当たり前な感じだった。
最初セメントを塗る仕事をした。
全国技能コンクールで優勝、2000年ぐらいの時に土に取り組む。
27歳ぐらいになった時に、飛騨にバブルが来た、建設ラッシュで儲かってゆく。
ただ、人が物の様な感じだった。 人の取り合い、人間関係が最悪だった。
金の亡者と言うような状況、人間不信になる。
土壁を知る。 真反対でセメントはカチカチとなり、失敗したら、壊すが、土の場合は容易に直せるし、色、感触、見た目、セメントとは全く逆だと思った。
土壁は呼吸をするし、部屋の空気を柔らかくする。
土壁は身体にいいんじゃなくて、精神に良いと思う。
家の外部を縫って、その近くに大きな木が立っていて、木漏れ日が壁に当たって、モミジなどの影の葉っぱが揺れているのを見ると、ぼーっと見ていて是が最高だと思う。
土の種類 使いにくい土は使いやすい土を混ぜればいい。
今は手に入る土でどうやるかを考えている。(その土地に在る土を使うのが良いと思う)
土に無い色が緑 日本中探してもなかった。 緑色を土(茶色、黄色とか)に加えると落ちつく色になる。
キプロスに緑色の土があった。 みつけたときは感動した。
土、水、光 凄い大事なものと思っている。
木は土が伸びるている。 花は土が咲いた。 石は硬い土 亡くなれば土になる。
土で植物が繁栄する。 土は一番もとになる。
土は人を裏切らない。 自分の腕、やり方、練った土の分量、で壁ができる。
土はちゃんと答えてくれる。
日本人と左官は離れ過ぎている。
講演するが、左官を知らない人が非常に多くなってきている。
壁作業 子供、感動する子と泥が汚いと云う子が半分半分。
古い建物の修復 高山に県の指定文化財の土蔵があったが、伝説の土蔵がある。
江戸の神田で人をあやめて、飛騨に逃げてきた左官職人 江戸屋萬蔵と云う名前。
偽名だと思うが、飛騨の職人町に住む 囲う土蔵を作りだしたのが、江戸屋萬蔵だと言われる。
国学者 田中大秀(『竹取翁物語解』など)の書物蔵を作った。
駆け落ち人を江戸屋萬蔵が追いかけて行って、返り討ちにあって47歳で死んだと云われる。
その人は、腕がすごく良くて、絵心があって、才能がある事が判る。
その土蔵を34歳で修復した。 漆喰が白、飾り窓が黒 壁は黄色。
中塗りの表面を出したところは 薄いピンク、黄色、グレー が試験塗りがしてあった。
これを観て色を決めたと思われる。(黄色だが、もし薄いピンクだったら本当に感動もの)
250年経っていた土蔵があった。上塗りのしていない土蔵だった、「結い」皆で総出で作った土蔵
土壁 4cmくらい 落ちている部分がある(剥がれた状態) 剥がれた姿をそのまま新しくした。
創建当時にしたくなかった(ただの箱になってしまうので、と思った)
復元論争になった。
文化財保護審議委員会は「創建当初に」
左官職人は「時の復元に」という新聞の題目だった。
昔の人は手間をかけてるなと言う事が良く判る。
昔は1cmを3回に分けて塗る。
手間をかけて質の良いものを作った。
伝統 守られた約束がある。 アートと言われるが、あたらしい伝統だと思う。
2013年11月13日水曜日
白取克之(管弦楽団団長) ・賢治の夢の実現 東北農民オーケストラ(再放送)
白取克之(農場経営 東北農民管弦楽団団長) 賢治の夢の実現 東北農民オーケストラ(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_12.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_12.htmlをご覧ください。
2013年11月12日火曜日
岩佐 大輝(農業生産法人GRA) ・イチゴの街を取り戻せ
岩佐 大輝(農業生産法人GRA) イチゴの街を取り戻せ
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県山元町のイチゴ栽培を復興しようとたちあがって農業生産法人GRAの代表岩佐さんの話です
岩佐さんは山元町出身の36歳、東京でITベンチャー企業を経営する青年実業家です
故郷山元町の復興にはイチゴ栽培を復興する事が、欠かせないと農業生産法人を立ち上げました
然し、今までやっていたイチゴ栽培では未来は無いと、コンピューター技術と農業を融合させた先端農業を導入し、震災の2年後には日本のどのイチゴよりも大きく甘く、香りのある、山元町ブランドのいちご、「ミガキイチゴ」を完成させました
岩佐さんは震災から2年半、東京と山元町を週に何度も行き来して、山元町の復興に全力で挑んできました
岩佐さんのベンチャー魂溢れる活動を語っていただきます
山元町はかなりの被害を受けてほぼ壊滅状態と言われたが、かなり復興が進んできた
内陸部はかなり元通りになってきている
沿岸部、いちご団地は今年の9月に全てのいちご農家が定植(イチゴの苗を植える)までこぎつけた
海岸線の町並みは消え去ったままになってしまっている状況は変わらない
130軒近くあったが、高齢のために止めた方が多い、50歳代は再起をかけようとしているが、高齢者はリタイアしてきている
8月の終わりは第一回目の定植が終わって、11月の初旬には初出荷できると思う
高校生まで山元町に暮らしていた
震災で線路まで流されて、今帰ると自分が過ごした街がそこにあるのかと思われるような感想を持つ
震災当日、東京にいて、山元町の様子はTVでは判らなかった
3日後に車で被災地に向かった
一言で云うと地獄絵図の様に思った 俄かには信じられなかった
イチゴ農業、イチゴ産業 山元町のイチゴ出荷は当時14億円 山元町の予算が40億円
其産業が一瞬で無くなってしまって、これは何とかしないと町としての機能が無くなってしまって、人が無くなって、文化が無くなって、と恐怖を感じた
最初はごみの処理とか手伝った
かろうじて残った農家が5軒程度あって、復興に意欲を燃やしていたが、一方で家を流され、畑をながされ、家族を亡くしたりした人たちが多くおり、もう一度立ち上がる気力が無くなったのがほとんどだと思った
何とか復興の旗印になるような成功事例を急いで作らないと、この街に目が行かなくなるのではないかと考えた
最初ボランティアを始めて、そのあと農家のマーケティングのコンサルティングのような事をして、自分たちでもハウスを作ってみようと云う事で震災の年の秋に、自分たちで井戸を掘って、ビニールハウスを作った
井戸水は全部塩水なので、育たないが、かなりの時間塩分を含んだ水でイチゴを育てた
奇跡的に育ってくれて、大収穫の春だった(2012年)
食べるものを作る難しさを味わい、食べたときの喜びに感動した
3人でスタート(腕のいい農家の友人、ボランティアの受け入れ担当の役所の友人)
65歳以上の高齢者がほとんどだったので、培ってきた技、ノウハウをなんとか受け継いでいかないといけないが、人間の手足だけでは限界があるので、コンピューターを使って彼らのやってきたことを再現する
一人の名人の技で大きな農場を経営できる 農業が産業化する 高付加価値の産業ができる
外の風向き、風の強さ、太陽の強さ、温度、湿度、二酸化炭素濃度といったデータをあらゆるセンサーを用いて、吸収する、其環境に応じて、窓を自動的にあけたり、二酸化炭素を注入したり、細かくコントロールすると、イチゴは最適な環境で成長する事が出来、品質が安定する
収穫量 10アール 3.5トンの収量 我々の技術を使うと7トンぐらい収穫できる
経営を始めるときには、既存の状況はどうなっているかをかなり分析して、新しい戦略を考えると云うプロセスが、今までの経営の経験を活かしたと言う事になると思います
資金は大変ですが、農業は保護されている産業で、スタート時に半分ぐらい助成金でカバーされる
2億円の額は銀行から借りて調達をする
役員全体が連帯保証を持って責任を持つという方法しかない
これからは国も日本の農業の活性化に力を入れているので、うちのような会社も、ドンドン出てくるのではないかなあと思います
ヨーロッパの農業大国と言われるオランダなんかは、九州ぐらいしかないのに、食料の輸出が世界第2位だとか、そういった国もある
コンピューターでフルオペレーションを行って、農場に発電機があって、電気を作ってそこから出る二酸化炭素を栽培に利用している、熱も利用している
GRA設立 農業、教育、交流 3本の柱がある
山元町の場合、急ピッチで産業の復興をする必要があった 若者が残らないと将来これをやろうとは思わないので、子供たちが将来の夢を志を持って生きる、教育プログラムとして山元町の中学校に提供することも非常に重要だと思っている
交流事業 →東京、大阪、他の都市から山元町にゆく 交流が生まれる 話の中からいろんな事が生まれてくる
10年以内に我々の活動をきっかけに100社ぐらいの企業化、農業を継ぐ人が現れる事を目標にしている
結果として、雇用と云うものを1万人規模で、作っていこうというビジョンを掲げている
山元町だけでなく、沿岸部 気候も良く施設園芸に向いていると思う
GRA 4つの理念
①実行実現 ただ想像したり思うだけでなく実際に手を動かして、考えて物を作ってゆく、どうし てゆくかか考える
②価値共創 多くの人々と一緒に何かに取り組むことで、イノベーション新しいものを創造して ゆく
③是利利他 社会問題としてこういった問題がある、こういった地域をつくりたい 社会囲周に 対して、解決する 何を我々は役に立てるかを考えている
④電光石火 何事も誰よりも、素早くやろう 素早く成し遂げよう スピード感を絶やさずに地 域を活性化させよう
創造的復興に取り組んでいきたいと思っている
1年で約3000人以上が見学に来ている 素晴らしいものがあると集まってくる
日本の農業 イチゴだけで200種 バラエティーに富んでいる 奥行き感 圧倒的に優れている
ただ外国の模倣ではだめで、日本のいいところをたくさん発見して、日本の強い農業を作っていきたいと思う
「ミガキイチゴ」 山元町特産 東京で一粒1000円 山元町の他の野菜の値も上がってくる
東北被災の支援に答えるためには、新しい街を作っていかなくてはいけない
風化するのは当然なので、我々は勇気を持って受け入れて、立ち向かって新しい東北を作っていかなくてはいけない
何かに挑戦するという心意気を持たないと、亡くなった方に報いる事ができないのではないかと思う
インドへのビジネス 2012年11月 ムンバイから東に180kmぐらいのところ
農場を作って2013年3月に大収穫に成功した
①インドのマーケットはポテンシャルがあって、かなりの中間層のマーケットが大きくなってきてる
②震災後に立ち上がった会社が、インドに行って実績を作ることで証明する事は、非常に大事だ と思っている 我々の農業は世界で通用するという勇気と刺激を持ってもらって前に進んでい けたらいいんじゃないかと思っている
③インド、暑くて過酷な地域 栽培に成功すると日本でも作るのが難しい、夏のシーズンに作る ための研究のテーマとしてもインドで栽培する意味がある
園芸の場合 ハウスの建設コストが億のお金がかかるので、付加価値の作物を作らないと採算が合わない
イチゴ、トマト、パプリカ レタスなどに限られてくると思う
小エネルギーで栽培する技術が完成してくると、あらゆる作物にコンピューターでの栽培技術が転用できる
あらゆる地域で食べ物が栽培できる様になる、事が可能になってゆくと思う
まだスタートして2年、スピードアップしていかないといけない
山元町の人口は20%減っている それをしのいでゆくにはスピード感が必要
山元町、東北が世界の施設園芸の最先端基地になるような街に作って行きたいと思っている
1万人の雇用 ビジョンを達成するためにあらゆる努力をしてゆきたいと思っている
我々の取り組みを良く見えるように若い人たちに、夢を持ってもらえるようなGRAの活動を見せてゆきたい
イチゴの街を取り戻せ
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県山元町のイチゴ栽培を復興しようとたちあがって農業生産法人GRAの代表岩佐さんの話です
岩佐さんは山元町出身の36歳、東京でITベンチャー企業を経営する青年実業家です
故郷山元町の復興にはイチゴ栽培を復興する事が、欠かせないと農業生産法人を立ち上げました
然し、今までやっていたイチゴ栽培では未来は無いと、コンピューター技術と農業を融合させた先端農業を導入し、震災の2年後には日本のどのイチゴよりも大きく甘く、香りのある、山元町ブランドのいちご、「ミガキイチゴ」を完成させました
岩佐さんは震災から2年半、東京と山元町を週に何度も行き来して、山元町の復興に全力で挑んできました
岩佐さんのベンチャー魂溢れる活動を語っていただきます
山元町はかなりの被害を受けてほぼ壊滅状態と言われたが、かなり復興が進んできた
内陸部はかなり元通りになってきている
沿岸部、いちご団地は今年の9月に全てのいちご農家が定植(イチゴの苗を植える)までこぎつけた
海岸線の町並みは消え去ったままになってしまっている状況は変わらない
130軒近くあったが、高齢のために止めた方が多い、50歳代は再起をかけようとしているが、高齢者はリタイアしてきている
8月の終わりは第一回目の定植が終わって、11月の初旬には初出荷できると思う
高校生まで山元町に暮らしていた
震災で線路まで流されて、今帰ると自分が過ごした街がそこにあるのかと思われるような感想を持つ
震災当日、東京にいて、山元町の様子はTVでは判らなかった
3日後に車で被災地に向かった
一言で云うと地獄絵図の様に思った 俄かには信じられなかった
イチゴ農業、イチゴ産業 山元町のイチゴ出荷は当時14億円 山元町の予算が40億円
其産業が一瞬で無くなってしまって、これは何とかしないと町としての機能が無くなってしまって、人が無くなって、文化が無くなって、と恐怖を感じた
最初はごみの処理とか手伝った
かろうじて残った農家が5軒程度あって、復興に意欲を燃やしていたが、一方で家を流され、畑をながされ、家族を亡くしたりした人たちが多くおり、もう一度立ち上がる気力が無くなったのがほとんどだと思った
何とか復興の旗印になるような成功事例を急いで作らないと、この街に目が行かなくなるのではないかと考えた
最初ボランティアを始めて、そのあと農家のマーケティングのコンサルティングのような事をして、自分たちでもハウスを作ってみようと云う事で震災の年の秋に、自分たちで井戸を掘って、ビニールハウスを作った
井戸水は全部塩水なので、育たないが、かなりの時間塩分を含んだ水でイチゴを育てた
奇跡的に育ってくれて、大収穫の春だった(2012年)
食べるものを作る難しさを味わい、食べたときの喜びに感動した
3人でスタート(腕のいい農家の友人、ボランティアの受け入れ担当の役所の友人)
65歳以上の高齢者がほとんどだったので、培ってきた技、ノウハウをなんとか受け継いでいかないといけないが、人間の手足だけでは限界があるので、コンピューターを使って彼らのやってきたことを再現する
一人の名人の技で大きな農場を経営できる 農業が産業化する 高付加価値の産業ができる
外の風向き、風の強さ、太陽の強さ、温度、湿度、二酸化炭素濃度といったデータをあらゆるセンサーを用いて、吸収する、其環境に応じて、窓を自動的にあけたり、二酸化炭素を注入したり、細かくコントロールすると、イチゴは最適な環境で成長する事が出来、品質が安定する
収穫量 10アール 3.5トンの収量 我々の技術を使うと7トンぐらい収穫できる
経営を始めるときには、既存の状況はどうなっているかをかなり分析して、新しい戦略を考えると云うプロセスが、今までの経営の経験を活かしたと言う事になると思います
資金は大変ですが、農業は保護されている産業で、スタート時に半分ぐらい助成金でカバーされる
2億円の額は銀行から借りて調達をする
役員全体が連帯保証を持って責任を持つという方法しかない
これからは国も日本の農業の活性化に力を入れているので、うちのような会社も、ドンドン出てくるのではないかなあと思います
ヨーロッパの農業大国と言われるオランダなんかは、九州ぐらいしかないのに、食料の輸出が世界第2位だとか、そういった国もある
コンピューターでフルオペレーションを行って、農場に発電機があって、電気を作ってそこから出る二酸化炭素を栽培に利用している、熱も利用している
GRA設立 農業、教育、交流 3本の柱がある
山元町の場合、急ピッチで産業の復興をする必要があった 若者が残らないと将来これをやろうとは思わないので、子供たちが将来の夢を志を持って生きる、教育プログラムとして山元町の中学校に提供することも非常に重要だと思っている
交流事業 →東京、大阪、他の都市から山元町にゆく 交流が生まれる 話の中からいろんな事が生まれてくる
10年以内に我々の活動をきっかけに100社ぐらいの企業化、農業を継ぐ人が現れる事を目標にしている
結果として、雇用と云うものを1万人規模で、作っていこうというビジョンを掲げている
山元町だけでなく、沿岸部 気候も良く施設園芸に向いていると思う
GRA 4つの理念
①実行実現 ただ想像したり思うだけでなく実際に手を動かして、考えて物を作ってゆく、どうし てゆくかか考える
②価値共創 多くの人々と一緒に何かに取り組むことで、イノベーション新しいものを創造して ゆく
③是利利他 社会問題としてこういった問題がある、こういった地域をつくりたい 社会囲周に 対して、解決する 何を我々は役に立てるかを考えている
④電光石火 何事も誰よりも、素早くやろう 素早く成し遂げよう スピード感を絶やさずに地 域を活性化させよう
創造的復興に取り組んでいきたいと思っている
1年で約3000人以上が見学に来ている 素晴らしいものがあると集まってくる
日本の農業 イチゴだけで200種 バラエティーに富んでいる 奥行き感 圧倒的に優れている
ただ外国の模倣ではだめで、日本のいいところをたくさん発見して、日本の強い農業を作っていきたいと思う
「ミガキイチゴ」 山元町特産 東京で一粒1000円 山元町の他の野菜の値も上がってくる
東北被災の支援に答えるためには、新しい街を作っていかなくてはいけない
風化するのは当然なので、我々は勇気を持って受け入れて、立ち向かって新しい東北を作っていかなくてはいけない
何かに挑戦するという心意気を持たないと、亡くなった方に報いる事ができないのではないかと思う
インドへのビジネス 2012年11月 ムンバイから東に180kmぐらいのところ
農場を作って2013年3月に大収穫に成功した
①インドのマーケットはポテンシャルがあって、かなりの中間層のマーケットが大きくなってきてる
②震災後に立ち上がった会社が、インドに行って実績を作ることで証明する事は、非常に大事だ と思っている 我々の農業は世界で通用するという勇気と刺激を持ってもらって前に進んでい けたらいいんじゃないかと思っている
③インド、暑くて過酷な地域 栽培に成功すると日本でも作るのが難しい、夏のシーズンに作る ための研究のテーマとしてもインドで栽培する意味がある
園芸の場合 ハウスの建設コストが億のお金がかかるので、付加価値の作物を作らないと採算が合わない
イチゴ、トマト、パプリカ レタスなどに限られてくると思う
小エネルギーで栽培する技術が完成してくると、あらゆる作物にコンピューターでの栽培技術が転用できる
あらゆる地域で食べ物が栽培できる様になる、事が可能になってゆくと思う
まだスタートして2年、スピードアップしていかないといけない
山元町の人口は20%減っている それをしのいでゆくにはスピード感が必要
山元町、東北が世界の施設園芸の最先端基地になるような街に作って行きたいと思っている
1万人の雇用 ビジョンを達成するためにあらゆる努力をしてゆきたいと思っている
我々の取り組みを良く見えるように若い人たちに、夢を持ってもらえるようなGRAの活動を見せてゆきたい
イチゴの街を取り戻せ
2013年11月11日月曜日
川岸美枝子(和栽技能士) ・着物の文化を世界に広げたい 2
川岸美枝子(和栽技能士) 着物の文化を世界に広げたい 2
今は徐々に仕事が減ってきている
独立したのが昭和61年 月に40~50枚の仕事がありました
当時、もう洋服になっており着物の必要性はあまりなく、贅沢品であったが、まだ注文はそこそこあった
結婚に際しても、たんすの中に着物を持たせて、嫁がせるような風習は残っていた
喪服、訪問着、紬、小紋の一セットで注文があった
今は月に10枚有ればいいほうです
反物自体も決して安ものではないし、仕立て代、長襦袢、帯、小物、帯締め、いろんな付属があって着つけができるようになるんで、躊躇してしまうかもしれない
平成元年ぐらいに中国の方に仕立ての技術提供を、と言う話があった 技術が行ってしまっているなあと思う
今は既製品で浴衣が出ているが、日本の中で本当は仕立てられると本当は一番いいと思うが、
海外縫製が残念ながら主流になってしまっていると、呉服屋さんなどから聞きます
かたちのある技術は決まっているので、もう輸出されてしまっているのだんなあと思っているが、心のこもった仕立て、着心地のいい仕立ては日本でなければなかなか難しいと思っているが
着たときに身体になじむとか、お客さんの身体にあったもので寸法を決めるものなので
縮緬素材、結城紬、大島紬いろんな素材があるので、素材にあった仕立てをしないと、高価なものなので後々まで大事にしてゆくためには、きちんとした正確な仕事をした着物の仕立て上がらないと難しいと思います
流れ作業で覚えた仕立てでは判らないと思います
同じ失敗を重ねて、嫌にならず腐らず毎日重ねてゆく、そこで生れてくる自分だけの物は、自分でしか判らないが、其れを形にしたときは嬉しいし、それをお客さんに提供できる喜びは自分で無いと判らない、海外縫製には無いことだと思う
最近は仕立て代込みでいくらと言う風になっていて、商法が変わってきている
(買う方からすると判りやすい、お得感がある)
前橋のほうの家で5人をバラバラにやっている 教室で3人を教えている
先ずやって見せて目で見てもらって、やってもらうのが基本なので、マンツーマンで出来るだけやっている
高校生、夜間の高校生に話をするが、非常に反応が良くて、技術を如何に自分に付けて、将来をどうなるか、人とのかかわりを話したが、非常に興味を持ってくれて感想文などを頂いた
やってきたことに対して、話をさせてもらった
話の前に着物を着てもらったが、周りの人の見る目線が変わってきた
これからも機会があったら話をさせてもらいたいと思っている
文化を見つめ直してもらえると良いなあと思います
頑張った先に自分を描き出せる何かが有るってなったら、やるべき事に価値があるのではないかと、感想文に書いてあったりして、講演会をやってよかったと思っている
どんなことでも何かにぶつかるが、そこを越えると何か自分にとって、一つ自分も越えられるし、何かが開かれるし、自分の励みになって、良いんじゃないかなあと思っている
家族のきずな 安心して一つの仕事に打ち込めることができたと思っているので父に感謝している
家族 父は77歳 (母は亡くなってしまった) 息子、娘
長男は前橋福祉専門学校で作業療法師の勉強を、長女は医療関係に進みたいと云っている
15年ぐらい、民謡をやっている
母親が芸事が好きだったのと、歌ぐらい歌えないといけないかなあと思って、民謡をやりました
腹から張った声を出さないと、いけないといけないので、健康にもいいと思っている
師匠が83歳で凄く若くて元気です
民謡も着物の世界 そちらの方からも仕事に話があったりするので有難いことです
着物の仕立て方で立ち姿も変わってくる
仕事を始めて34年 着物の枚数にすると7000枚になるかもしれない
一枚一枚が全部違うので、違う布質をいかにきれいに仕上げるか、それだけの経験があるからだと思うので、今までの仕事量に感謝しているし、これからの自信にもなると思っている
あっという間の様な時間だった
川岸さんの天職でしょう、とか言われるが、決して天職ではなくて、挫折を繰り返して、何とかそれを乗り越えてきて、私としては適職だと思っている
伝統文化を伝承してゆかなくてはいけないし、伝えるものを伝えてゆこうと思っている
和裁自体を知らない人もいるので、こういう世界もあることを知ってもらいたし、着物を一年に一回は着てもらいたいと思う
今は徐々に仕事が減ってきている
独立したのが昭和61年 月に40~50枚の仕事がありました
当時、もう洋服になっており着物の必要性はあまりなく、贅沢品であったが、まだ注文はそこそこあった
結婚に際しても、たんすの中に着物を持たせて、嫁がせるような風習は残っていた
喪服、訪問着、紬、小紋の一セットで注文があった
今は月に10枚有ればいいほうです
反物自体も決して安ものではないし、仕立て代、長襦袢、帯、小物、帯締め、いろんな付属があって着つけができるようになるんで、躊躇してしまうかもしれない
平成元年ぐらいに中国の方に仕立ての技術提供を、と言う話があった 技術が行ってしまっているなあと思う
今は既製品で浴衣が出ているが、日本の中で本当は仕立てられると本当は一番いいと思うが、
海外縫製が残念ながら主流になってしまっていると、呉服屋さんなどから聞きます
かたちのある技術は決まっているので、もう輸出されてしまっているのだんなあと思っているが、心のこもった仕立て、着心地のいい仕立ては日本でなければなかなか難しいと思っているが
着たときに身体になじむとか、お客さんの身体にあったもので寸法を決めるものなので
縮緬素材、結城紬、大島紬いろんな素材があるので、素材にあった仕立てをしないと、高価なものなので後々まで大事にしてゆくためには、きちんとした正確な仕事をした着物の仕立て上がらないと難しいと思います
流れ作業で覚えた仕立てでは判らないと思います
同じ失敗を重ねて、嫌にならず腐らず毎日重ねてゆく、そこで生れてくる自分だけの物は、自分でしか判らないが、其れを形にしたときは嬉しいし、それをお客さんに提供できる喜びは自分で無いと判らない、海外縫製には無いことだと思う
最近は仕立て代込みでいくらと言う風になっていて、商法が変わってきている
(買う方からすると判りやすい、お得感がある)
前橋のほうの家で5人をバラバラにやっている 教室で3人を教えている
先ずやって見せて目で見てもらって、やってもらうのが基本なので、マンツーマンで出来るだけやっている
高校生、夜間の高校生に話をするが、非常に反応が良くて、技術を如何に自分に付けて、将来をどうなるか、人とのかかわりを話したが、非常に興味を持ってくれて感想文などを頂いた
やってきたことに対して、話をさせてもらった
話の前に着物を着てもらったが、周りの人の見る目線が変わってきた
これからも機会があったら話をさせてもらいたいと思っている
文化を見つめ直してもらえると良いなあと思います
頑張った先に自分を描き出せる何かが有るってなったら、やるべき事に価値があるのではないかと、感想文に書いてあったりして、講演会をやってよかったと思っている
どんなことでも何かにぶつかるが、そこを越えると何か自分にとって、一つ自分も越えられるし、何かが開かれるし、自分の励みになって、良いんじゃないかなあと思っている
家族のきずな 安心して一つの仕事に打ち込めることができたと思っているので父に感謝している
家族 父は77歳 (母は亡くなってしまった) 息子、娘
長男は前橋福祉専門学校で作業療法師の勉強を、長女は医療関係に進みたいと云っている
15年ぐらい、民謡をやっている
母親が芸事が好きだったのと、歌ぐらい歌えないといけないかなあと思って、民謡をやりました
腹から張った声を出さないと、いけないといけないので、健康にもいいと思っている
師匠が83歳で凄く若くて元気です
民謡も着物の世界 そちらの方からも仕事に話があったりするので有難いことです
着物の仕立て方で立ち姿も変わってくる
仕事を始めて34年 着物の枚数にすると7000枚になるかもしれない
一枚一枚が全部違うので、違う布質をいかにきれいに仕上げるか、それだけの経験があるからだと思うので、今までの仕事量に感謝しているし、これからの自信にもなると思っている
あっという間の様な時間だった
川岸さんの天職でしょう、とか言われるが、決して天職ではなくて、挫折を繰り返して、何とかそれを乗り越えてきて、私としては適職だと思っている
伝統文化を伝承してゆかなくてはいけないし、伝えるものを伝えてゆこうと思っている
和裁自体を知らない人もいるので、こういう世界もあることを知ってもらいたし、着物を一年に一回は着てもらいたいと思う
2013年11月10日日曜日
川岸美枝子(和栽技能士) ・着物の文化を世界に広げたい
川岸美枝子(和栽技能士) 着物の文化を世界に広げたい
群馬県前橋市出身 高校を卒業後、和裁の仕事がしたいと東京の老舗のデパートの和裁養成所に勤めました
6年間、全寮制で生活をしながら、修業をし、厳しい指導の元、メキメキと腕をあげて行きます
川岸さんはそこで男仕立てと言う仕立て方を覚えました
男仕立てとは、胡座をかいて左足の親指に反物を挟んで裁縫をする仕立て方で、この方法で仕立てると張りのあるしっかりとした着物ができるという事です
養成所を出てから、東京で独立、和裁教室を作ります
30歳で前橋に戻って結婚、様々な技能の日本一を競いあう大会、技能グランプリ4回目の挑戦で見事優勝、平成18年には46歳の若さで現代の名工に選ばれ、去年は黄綬褒章を受賞しました
しかし、その一方で夫が53歳という若さで亡くなってしまいます
川岸さんはいま、二人の子供を育てながら一家を支えています
今、一日、午前中3時間、午後3時間を仕事をするようにしている
小学校の卒業式の時には羽織を着ている方が結構いたと思う
私の下の子の小学校の卒業式には和服は2人だった
着物は日本の文化だと思っているが、なかなか見る姿が減っているのは寂しいです
行事の時に着るとか無いと、なかなか袖を通さないのが現状だと思います
子供のころは負けず嫌いだった 出来ないことはできるまでやろうとやっていた
お裁縫道具を学校で購入した時期があり、親に買ってもらったが、興味があった
最初単純なものを作っていた 母親にもアドバイスしてもらった
中学、高校時代 洋服を作ったりしていた
先生から和裁の方に進んだ方がいいのではないかと勧められ、そのまま受け入れた
実用裁縫養成所で6年間修行をした
和裁 先輩たちのまねをする 見よう見まねでやってきた
同期は17名 一番遠くは秋田から来ていた
100畳敷きに120名が入ってそこで黙々とやっていた
手は器用だと云われていたが、実際に行ったらとんでも無かった
絹針を使うが、縫えない、触れば針は欠ける 兎に角駄目続きの毎日が続いた
出来ないので、一番隅のほうでしばらくいて、3カ月ぐらいが過ぎた
全寮制なので、生活の部でも隅の方に行くことになる
負けず嫌いのところもあって、
追いつくためには人の何倍もやらなければならないと思った
寮のおばさんに頑張れと、諭されたこともあった
自分に危機が迫るといつも助けてくれた人がいるので、本当によかったなあと常に感じる
同期の人では1人、2人やっているかどうか、判らない
いろいろな積み重ねが有ってのことなんだけれども、昨日のことは今日無駄にしてはいけないと教わったような気がする
やってきたことは無駄にしてはいけない 昨日より今日より明日 と言う想いがいつもあったので続けられた
周りの人が喜ぶ姿を見ると、あーやってて良かったなあと思う
そうすると自分のところに喜びが回って来る
男仕立て →裁縫養成所の先生から教えてもらった
胡座をかいて、左足の親指に反物の布を挟んで、左手で引っ張って、張って仕事をする
胡座をかくだけでも疲れるが、メリットがあったのでクリアしたいと思った
先輩の何人かは男仕立てはやっていたし、仕事も早く技術も良かった
仕上がりが綺麗に縫いあがる
昭和61年まで裁縫養成所で過ごして、独立する
1級の資格がある人がグランプリが受けられるが28歳で1回目を受けてみるが失敗する
29歳の時に4位入賞(2回目) 3度目で3位 4度目に出て、優勝する事ができた
結婚して1年して夫が糖尿病になってしまう
平成22年に6月に亡くなる(53歳) 子供は中学、高校生の時だった
入退院を繰り返して、徐々に悪くなっていったので、自分がやらなければとい言う想いがあった
46歳で現代の名工に選ばれる(全国で最年少 平均60~70歳)
去年、黄綬褒章を受賞 和裁をやってゆく上で、普及とか物を伝えてゆく作業とかを含めて、いろんな範囲が広がってゆくので、頑張ってゆきたい
若い人たち、一般の方々に和裁ってこんなもの、着物の良さとはこんなもの、とかが専門家が判る言葉で伝えていければ良いかなと思います
和裁は日本だけの技術、世界にこの技術を運べたら良いなあと思います
群馬県前橋市出身 高校を卒業後、和裁の仕事がしたいと東京の老舗のデパートの和裁養成所に勤めました
6年間、全寮制で生活をしながら、修業をし、厳しい指導の元、メキメキと腕をあげて行きます
川岸さんはそこで男仕立てと言う仕立て方を覚えました
男仕立てとは、胡座をかいて左足の親指に反物を挟んで裁縫をする仕立て方で、この方法で仕立てると張りのあるしっかりとした着物ができるという事です
養成所を出てから、東京で独立、和裁教室を作ります
30歳で前橋に戻って結婚、様々な技能の日本一を競いあう大会、技能グランプリ4回目の挑戦で見事優勝、平成18年には46歳の若さで現代の名工に選ばれ、去年は黄綬褒章を受賞しました
しかし、その一方で夫が53歳という若さで亡くなってしまいます
川岸さんはいま、二人の子供を育てながら一家を支えています
今、一日、午前中3時間、午後3時間を仕事をするようにしている
小学校の卒業式の時には羽織を着ている方が結構いたと思う
私の下の子の小学校の卒業式には和服は2人だった
着物は日本の文化だと思っているが、なかなか見る姿が減っているのは寂しいです
行事の時に着るとか無いと、なかなか袖を通さないのが現状だと思います
子供のころは負けず嫌いだった 出来ないことはできるまでやろうとやっていた
お裁縫道具を学校で購入した時期があり、親に買ってもらったが、興味があった
最初単純なものを作っていた 母親にもアドバイスしてもらった
中学、高校時代 洋服を作ったりしていた
先生から和裁の方に進んだ方がいいのではないかと勧められ、そのまま受け入れた
実用裁縫養成所で6年間修行をした
和裁 先輩たちのまねをする 見よう見まねでやってきた
同期は17名 一番遠くは秋田から来ていた
100畳敷きに120名が入ってそこで黙々とやっていた
手は器用だと云われていたが、実際に行ったらとんでも無かった
絹針を使うが、縫えない、触れば針は欠ける 兎に角駄目続きの毎日が続いた
出来ないので、一番隅のほうでしばらくいて、3カ月ぐらいが過ぎた
全寮制なので、生活の部でも隅の方に行くことになる
負けず嫌いのところもあって、
追いつくためには人の何倍もやらなければならないと思った
寮のおばさんに頑張れと、諭されたこともあった
自分に危機が迫るといつも助けてくれた人がいるので、本当によかったなあと常に感じる
同期の人では1人、2人やっているかどうか、判らない
いろいろな積み重ねが有ってのことなんだけれども、昨日のことは今日無駄にしてはいけないと教わったような気がする
やってきたことは無駄にしてはいけない 昨日より今日より明日 と言う想いがいつもあったので続けられた
周りの人が喜ぶ姿を見ると、あーやってて良かったなあと思う
そうすると自分のところに喜びが回って来る
男仕立て →裁縫養成所の先生から教えてもらった
胡座をかいて、左足の親指に反物の布を挟んで、左手で引っ張って、張って仕事をする
胡座をかくだけでも疲れるが、メリットがあったのでクリアしたいと思った
先輩の何人かは男仕立てはやっていたし、仕事も早く技術も良かった
仕上がりが綺麗に縫いあがる
昭和61年まで裁縫養成所で過ごして、独立する
1級の資格がある人がグランプリが受けられるが28歳で1回目を受けてみるが失敗する
29歳の時に4位入賞(2回目) 3度目で3位 4度目に出て、優勝する事ができた
結婚して1年して夫が糖尿病になってしまう
平成22年に6月に亡くなる(53歳) 子供は中学、高校生の時だった
入退院を繰り返して、徐々に悪くなっていったので、自分がやらなければとい言う想いがあった
46歳で現代の名工に選ばれる(全国で最年少 平均60~70歳)
去年、黄綬褒章を受賞 和裁をやってゆく上で、普及とか物を伝えてゆく作業とかを含めて、いろんな範囲が広がってゆくので、頑張ってゆきたい
若い人たち、一般の方々に和裁ってこんなもの、着物の良さとはこんなもの、とかが専門家が判る言葉で伝えていければ良いかなと思います
和裁は日本だけの技術、世界にこの技術を運べたら良いなあと思います
2013年11月9日土曜日
わかぎゑふ(劇作家) ・咲いていない桜が好き
わかぎゑふ(劇作家) 咲いていない桜が好き
27歳の時に作家中嶋らもさんのパートナーとして劇団を旗揚げしました
現在は座長として脚本、演出を担当し、大阪庶民の喜怒哀楽をテーマにした数多くの人情劇を世に送り出しています
NHK、ETVで放送中の英会話番組リトルチャロでは原作を手掛けています
迷子になったチャロという白い子犬が、飼い主を求めて懸命に生きる姿には、わかぎさん自身がこれまでの人生から得た教訓、そして、東日本大震災の被災地の皆さんへのメッセージが込められています
そのメッセージとは何なのでしょうか、わかぎさんの人生の歩みと共に伺います
先輩から付けてもらった 本名「ふきこ」のFを「ゑふ」と言う事になった
子供のころから日本に興味があったので、日本人らしい文字があってもいいと思って旧かなの「ゑふ」にした
大阪の人情 匙加減の中に全てがあって、駄目だよと言う前に、「其れはやめといたほうがいいんちゃうかなあ」という言葉が、何パターンも用意されていて、人に駄目と言う前に、段々段階を踏むような人を育てるのに寛容な場所だと思っている
あいまいさが人情
2001年、大阪舞台芸術賞の奨励賞を頂く
「お祝い」というお芝居 お祝いから一番遠い人の話を書こうと思った
生理用品の開発をする男の人を書こうと思って作った
歳の離れた妹がいて、初潮を迎えて、回りからかわれて、交通事故に会って、亡くなる
生理用品の開発をする事を決心する
昭和初期なので、周りの人に聞けなくて、女郎屋に行って、聞いたりするが、親身になって答えてくれる女郎と結婚することになるが、その後、女郎と結婚したってことでその土地から追われたりする
リトルチャロ チャロが懸命に生きる人情話 人間の男の子と思って書いている
どの犬にもモデルがいる ドレットは原田芳雄をイメージして描いている
もともとは水泳選手を目指していた オリンピックを目指していた
昭和34年生まれで 東京オリンピックがあり、幼稚園で旗を振っていて、オリンピックの選手になりたいと思った
大学に行ったら周りが絵を描いたりする人たちで、体育系から文化系になってしまった
強化選手にはなったが、たいした選手ではなかった
漫画研究会を中学の時に作った 絵を描く様になって、父が絵が好きだった事もあり、父とよく話す様になり、最も親密になったころだった
グラフィックデザイナーに向かおうとするが、途轍もなく技術が無いことを思い知らされた
高校のころに誘われた先輩が、劇団を作られたのでそのまま手伝いに行っていた
芝居をやるイメージは全くなかった(主に劇のバックの絵を描いたりしていた)
面白くて、或るとき脚本を書かなければいけなくなって(25歳)、書いたが全然面白くは無かった
役者をやりだして、直ぐに無理だと思った 周りには才能がある人がいっぱいいたので
いろんな芝居の分野が出来るような人になりたいと思って、そうしたらいろんなところで役に立つかなあと思っていたら、いつの間にかl脚本家、演出家になって、なんでもやらなければならなくなった
それまで、挫折感の塊だった(特に役者の時)
父の影響が強かった 父が56歳の時に生れた(当時すでに孫がいた)
父は達観して娘を育てる様な感じだった 明らかに他のお父さんとは違っていた
死ぬ前の日に危篤になり、先生が覚悟してほしいと云われて、父は手を胸の上で組んで、カクッと亡くなって、眠るように死んだ
兄が「ちょっと待てよ まだやろう」 と言いだして 父が動かなくなった状態から 「ごめん ごめん」と云った 楽しかったよ と言うような死に方だった
なんでもやってみろ、なんでも食って見ろ、なんでも試してみろ 等人だった
好きなものだけがどうせ残る いろんなことをやってみろの中から演劇が残ったと思う
種と鉢を渡されて、花を咲かせることが小学校の時にあったが
菊の花の予想していたことと全然違った花だったが、人生も同じように、自分が一生懸命咲こうと思っているところに、うまく花がつくとは限らないと思うが、自分では考えもしなかった所に花が咲いていったりするものなので、どこが養分になって、どこが花になるのかは意外と判らないと云うのが私の率直な考え
どの人生もお楽しみ
人生の花 その人がこれだと、これが自分の落ちつきどころだと思う瞬間が花だと思います
誰かに依って安心感を得る時かもしれないし、仕事で成功した時かもしれないし、たった一瞬かもしれない 自分で満足したと思える瞬間
父は三味線を弾いていて近所に教えていて、私は子供のころ三味線、長唄の教えを受けていた
演劇で或るときに長唄を作ってほしいとの依頼があり、全然長唄はしらなかったが、請け負った
なにも見ずに歌詞を書いて、今藤美治郎さんが長唄にしてくださった
でき上った長唄を歌い始めたときにアッと思った 父のひざの上で小さな種が植わってたんだと
思った 凄く吃驚して、父親に見せたかったなあと思った 幸せな瞬間だった
リトルチャロの東北編の詩
「私は咲いていない時の桜は好き 人は咲いているときにしか桜を見ない
しかし夏、秋、冬と太陽や風、雪に耐えている 春に綺麗な花を咲かせるために
ひと時の幸せの為に懸命に生きる そんな風に生きてきた
支援はお金だけではなくて、忘れない、まだ終わって無いといい続ける事が凄く大事だと思う
あらゆる意味で、気持ちでつながらないと、どうにもなっていかないので、手を離さないと云う気持ちはとても自分の中では強く持っていないといけないと思っていて、今度の震災については最後まで、手を離さないでおこうと思っている
栄養(お金とか物資ではなくて)をとり続けて努力していれば、どこかで花が開く
東北の人々との交流の中にちょっとずつ希望の種が植わっていけばいいなあと思う
27歳の時に作家中嶋らもさんのパートナーとして劇団を旗揚げしました
現在は座長として脚本、演出を担当し、大阪庶民の喜怒哀楽をテーマにした数多くの人情劇を世に送り出しています
NHK、ETVで放送中の英会話番組リトルチャロでは原作を手掛けています
迷子になったチャロという白い子犬が、飼い主を求めて懸命に生きる姿には、わかぎさん自身がこれまでの人生から得た教訓、そして、東日本大震災の被災地の皆さんへのメッセージが込められています
そのメッセージとは何なのでしょうか、わかぎさんの人生の歩みと共に伺います
先輩から付けてもらった 本名「ふきこ」のFを「ゑふ」と言う事になった
子供のころから日本に興味があったので、日本人らしい文字があってもいいと思って旧かなの「ゑふ」にした
大阪の人情 匙加減の中に全てがあって、駄目だよと言う前に、「其れはやめといたほうがいいんちゃうかなあ」という言葉が、何パターンも用意されていて、人に駄目と言う前に、段々段階を踏むような人を育てるのに寛容な場所だと思っている
あいまいさが人情
2001年、大阪舞台芸術賞の奨励賞を頂く
「お祝い」というお芝居 お祝いから一番遠い人の話を書こうと思った
生理用品の開発をする男の人を書こうと思って作った
歳の離れた妹がいて、初潮を迎えて、回りからかわれて、交通事故に会って、亡くなる
生理用品の開発をする事を決心する
昭和初期なので、周りの人に聞けなくて、女郎屋に行って、聞いたりするが、親身になって答えてくれる女郎と結婚することになるが、その後、女郎と結婚したってことでその土地から追われたりする
リトルチャロ チャロが懸命に生きる人情話 人間の男の子と思って書いている
どの犬にもモデルがいる ドレットは原田芳雄をイメージして描いている
もともとは水泳選手を目指していた オリンピックを目指していた
昭和34年生まれで 東京オリンピックがあり、幼稚園で旗を振っていて、オリンピックの選手になりたいと思った
大学に行ったら周りが絵を描いたりする人たちで、体育系から文化系になってしまった
強化選手にはなったが、たいした選手ではなかった
漫画研究会を中学の時に作った 絵を描く様になって、父が絵が好きだった事もあり、父とよく話す様になり、最も親密になったころだった
グラフィックデザイナーに向かおうとするが、途轍もなく技術が無いことを思い知らされた
高校のころに誘われた先輩が、劇団を作られたのでそのまま手伝いに行っていた
芝居をやるイメージは全くなかった(主に劇のバックの絵を描いたりしていた)
面白くて、或るとき脚本を書かなければいけなくなって(25歳)、書いたが全然面白くは無かった
役者をやりだして、直ぐに無理だと思った 周りには才能がある人がいっぱいいたので
いろんな芝居の分野が出来るような人になりたいと思って、そうしたらいろんなところで役に立つかなあと思っていたら、いつの間にかl脚本家、演出家になって、なんでもやらなければならなくなった
それまで、挫折感の塊だった(特に役者の時)
父の影響が強かった 父が56歳の時に生れた(当時すでに孫がいた)
父は達観して娘を育てる様な感じだった 明らかに他のお父さんとは違っていた
死ぬ前の日に危篤になり、先生が覚悟してほしいと云われて、父は手を胸の上で組んで、カクッと亡くなって、眠るように死んだ
兄が「ちょっと待てよ まだやろう」 と言いだして 父が動かなくなった状態から 「ごめん ごめん」と云った 楽しかったよ と言うような死に方だった
なんでもやってみろ、なんでも食って見ろ、なんでも試してみろ 等人だった
好きなものだけがどうせ残る いろんなことをやってみろの中から演劇が残ったと思う
種と鉢を渡されて、花を咲かせることが小学校の時にあったが
菊の花の予想していたことと全然違った花だったが、人生も同じように、自分が一生懸命咲こうと思っているところに、うまく花がつくとは限らないと思うが、自分では考えもしなかった所に花が咲いていったりするものなので、どこが養分になって、どこが花になるのかは意外と判らないと云うのが私の率直な考え
どの人生もお楽しみ
人生の花 その人がこれだと、これが自分の落ちつきどころだと思う瞬間が花だと思います
誰かに依って安心感を得る時かもしれないし、仕事で成功した時かもしれないし、たった一瞬かもしれない 自分で満足したと思える瞬間
父は三味線を弾いていて近所に教えていて、私は子供のころ三味線、長唄の教えを受けていた
演劇で或るときに長唄を作ってほしいとの依頼があり、全然長唄はしらなかったが、請け負った
なにも見ずに歌詞を書いて、今藤美治郎さんが長唄にしてくださった
でき上った長唄を歌い始めたときにアッと思った 父のひざの上で小さな種が植わってたんだと
思った 凄く吃驚して、父親に見せたかったなあと思った 幸せな瞬間だった
リトルチャロの東北編の詩
「私は咲いていない時の桜は好き 人は咲いているときにしか桜を見ない
しかし夏、秋、冬と太陽や風、雪に耐えている 春に綺麗な花を咲かせるために
ひと時の幸せの為に懸命に生きる そんな風に生きてきた
支援はお金だけではなくて、忘れない、まだ終わって無いといい続ける事が凄く大事だと思う
あらゆる意味で、気持ちでつながらないと、どうにもなっていかないので、手を離さないと云う気持ちはとても自分の中では強く持っていないといけないと思っていて、今度の震災については最後まで、手を離さないでおこうと思っている
栄養(お金とか物資ではなくて)をとり続けて努力していれば、どこかで花が開く
東北の人々との交流の中にちょっとずつ希望の種が植わっていけばいいなあと思う
2013年11月8日金曜日
小野和子(宮城民話の会顧問) ・津波を伝える民話の力 2
小野和子(宮城民話の会顧問) 津波を伝える民話の力 2
{猿の嫁御」
昔々 或るところに娘3人持った親父がいて、山の田さ 水かけにいったんだとしゃ
掛けても掛けても 水かけらんなくてや 娘3人持ってたから 一人くれるから だれかこの田さ
水掛けてくれけねべかなあ 独り言行ったんだと 山から、がしむしがしむしと猿一匹降りてきて、たちまち田さ ざんぶりと田さ水掛けてくれたとしゃ 助かった 助かった 猿と約束してうちさ帰った 行ってくれるんだか、くれねえんだか、しんぺいでしんぺいでまんまかれえあや
(一番上の娘 怒って枕を蹴って出て行った 二番目も同様に怒って嫁に行くことを拒否
三番目も駄目だと思っていたら三番目の娘は嫁に行くことを承諾
猿の家に嫁に行く 初節句が来て実家に帰る事になる 土産に餅が好きだから餅を持っていくことになる 餅を臼にいれたまま持ち帰る事になる )
美しい藤の花が咲いていて、おらえのおやじさあ あの花など取って言ったらもちよかよろこぶべなあ お安い御用だと猿は臼おいて登ろうとすると、あら土のうえなど臼おいたら、土くせーっておらな親父さんはもちくえべなーと言うので、猿は仕方なく臼をしょったまま 藤の木さのぼっていったんだと
(もっと上もっと上と 娘が言うもので 富士の枝が折れて 川に落ちて流される)
猿はごろりごろりと流されたんだと 岸でそれを観ていた娘は一人ではしゃいで喜んだ
猿は俺が流されてゆくのを悲しんだと思ったが、猿、川に落ちる命はおしくねえ
あったらおめ―をごけにするがやー と発句よんで、ごろりごろりながされていったんだとしゃ
娘はとっとと家さ帰って来たんだとしゃー こんでえんつこ もんつこ さけた
「えんつこ もんつこ さけた」 宮城県で昔話が終わったという言葉である
この話を聞いて猿がかわいそう さるはなんにも悪いことはしないのに
民話を聞き始めて40年前、 この話が最初の話 宮城県で多く語られる話
猿がかわいそうだと云ったら、話しをしてくれたおばあちゃんは おれはそうはおもわねえ と
風呂敷包み一つで嫁に行って、姑、など苦労話をする 帰ろうとおもう事があるが、仕方なく川のそばに行って、川の音に負けないように泣いて家に帰ったという
娘は猿を葬って勇ましく帰ってきた 私はじーっと我慢して実家には帰れなかった
民話って幾重にも幾重にもかぶせて判らないように語るところがある
おばあさんと改めて話を聞いて、この話を聞くと立体感が浮かんでくる
大学で日本文学を勉強してきたが、文字に残ってきた文学だけが、文学として教えられてきた
名もなき人たちが口伝えに語ってきた物語の面白さ、広さ、深さみたいなものは全く知らなかった
話を聞かせてもらうと、全く知らなかったと言う想いと共に、一つの病みつきになった
戦争で本は読めなかった 本格的に読んだのが、大学に入ってから
民話絵本を作る会のサークルができたことを知って、仲間に入れてもらう事になる
そこで話を聞くことになったのが始まりです
その後は一人で活動するが、段々増えてきて宮城民話の会を作ることになる
つてもなく話を、あっちにいったり、こっちに行ったりして聞いた
糸がほどけるように話が段々広がって聞けるようになる
一人で100話近く話をしてくれた人がいた
TV等が普及して語りの場が無くなってきて大きく変わった
「猿の嫁御」でも話が違う事があったり、続編があったりする
私は後語りを生みだしてきた 話を聞いて自分自身の想い等を記録する
最初、聞きとりながら書いていて、その後重いテープレコーダー利用するようになる
「が」 文字にすると一つだが発音されるのはいろいろある
民話声の図書室を始める
聞いてきたテープをCDにして、文字と対応させながら、誰でもが聞こえるように作業着手している
伝承語り手の映像でも撮ろうとメディアテークの協力を得ながら、映像でも撮っている
第7回民話の学校で被災された方々の映像記録を撮ってくれた若い監督2人が震災間もなく仙台に来て、自分たちの映画を撮っていたが、映像を撮ることに無力感があったと云っていた
物を撮るのではなく、生きている人たちの言葉で綴る震災映画を作ろうと試みた
言葉は映像の中でずーっと残ってゆく
民話を語る人、民話を聞く人に依る映画を撮りたいと云う事だった
民話伝承者 200話ぐらい語たれる方 3人を撮ってほしいと云った
聞き手は私が担当して、映画ができ上った
語りのグループが日本全国でいろいろ出来てきた
「波の音」、「波の声」「歌う人」 東北3部作が渋谷で一般公開される(11/9から)
海に向かって柏手を打って礼をしていた人がいて話をお聞きしたいと云ったら、ガダルカダルからの生き還りの人だった
島に上陸していったところ、食べ物が無くて、1日40粒のコメが配られたとおっしゃった
40粒はスプーン一杯にもならない 米粒の多さ少なさで兵隊同士が争っていたとの事
醜いなあと思っていたところを子供のころに聞いた食べ物で争った兄弟の話の事を思い出した
その話は、目の見えない兄弟がいて、美味しいところを兄に、すじの所を弟が食べた
兄はもっと弟は美味しいところをたべているのだろうと、兄が弟の腹を裂く
俺が食べたのはがんこだ、がんこだ かっこう、かっこうと弟は飛んで行った
(東北ではかっこうのことをがんこ鳥という)
兄は兄の方で本当に腹が裂けてしまったのかと、ぽっとさけたか、ぽっとさけたか 今度はホトトギスになって飛んで行ったと云う悲しい話がある
明日は敵に突っ込んで死のうと自分一人でもいいから、そう思ったという
故郷の神様、仏様を全部思い出して、その夜は寝たところ、夢でおばあさんが出てきて、風呂が沸いていて、大皿に一杯あんころモチが出ていて、其れを自分は食べたと、それから不思議なんだけれど毎日おばあさんの夢が出てきて、あんころモチを食べさせてくれて、おなかがすかなくなり、見つかった食べ物は戦友に食べ物をやり、怪我をした戦友の荷物をしょってやり、無事に日本に帰って来たという
この話を信ずるかと言われて、この話を信じれば、昔話をしてもいいと言われて、20話ほど話してもらった
きちんと記録に残したいと思っている
{猿の嫁御」
昔々 或るところに娘3人持った親父がいて、山の田さ 水かけにいったんだとしゃ
掛けても掛けても 水かけらんなくてや 娘3人持ってたから 一人くれるから だれかこの田さ
水掛けてくれけねべかなあ 独り言行ったんだと 山から、がしむしがしむしと猿一匹降りてきて、たちまち田さ ざんぶりと田さ水掛けてくれたとしゃ 助かった 助かった 猿と約束してうちさ帰った 行ってくれるんだか、くれねえんだか、しんぺいでしんぺいでまんまかれえあや
(一番上の娘 怒って枕を蹴って出て行った 二番目も同様に怒って嫁に行くことを拒否
三番目も駄目だと思っていたら三番目の娘は嫁に行くことを承諾
猿の家に嫁に行く 初節句が来て実家に帰る事になる 土産に餅が好きだから餅を持っていくことになる 餅を臼にいれたまま持ち帰る事になる )
美しい藤の花が咲いていて、おらえのおやじさあ あの花など取って言ったらもちよかよろこぶべなあ お安い御用だと猿は臼おいて登ろうとすると、あら土のうえなど臼おいたら、土くせーっておらな親父さんはもちくえべなーと言うので、猿は仕方なく臼をしょったまま 藤の木さのぼっていったんだと
(もっと上もっと上と 娘が言うもので 富士の枝が折れて 川に落ちて流される)
猿はごろりごろりと流されたんだと 岸でそれを観ていた娘は一人ではしゃいで喜んだ
猿は俺が流されてゆくのを悲しんだと思ったが、猿、川に落ちる命はおしくねえ
あったらおめ―をごけにするがやー と発句よんで、ごろりごろりながされていったんだとしゃ
娘はとっとと家さ帰って来たんだとしゃー こんでえんつこ もんつこ さけた
「えんつこ もんつこ さけた」 宮城県で昔話が終わったという言葉である
この話を聞いて猿がかわいそう さるはなんにも悪いことはしないのに
民話を聞き始めて40年前、 この話が最初の話 宮城県で多く語られる話
猿がかわいそうだと云ったら、話しをしてくれたおばあちゃんは おれはそうはおもわねえ と
風呂敷包み一つで嫁に行って、姑、など苦労話をする 帰ろうとおもう事があるが、仕方なく川のそばに行って、川の音に負けないように泣いて家に帰ったという
娘は猿を葬って勇ましく帰ってきた 私はじーっと我慢して実家には帰れなかった
民話って幾重にも幾重にもかぶせて判らないように語るところがある
おばあさんと改めて話を聞いて、この話を聞くと立体感が浮かんでくる
大学で日本文学を勉強してきたが、文字に残ってきた文学だけが、文学として教えられてきた
名もなき人たちが口伝えに語ってきた物語の面白さ、広さ、深さみたいなものは全く知らなかった
話を聞かせてもらうと、全く知らなかったと言う想いと共に、一つの病みつきになった
戦争で本は読めなかった 本格的に読んだのが、大学に入ってから
民話絵本を作る会のサークルができたことを知って、仲間に入れてもらう事になる
そこで話を聞くことになったのが始まりです
その後は一人で活動するが、段々増えてきて宮城民話の会を作ることになる
つてもなく話を、あっちにいったり、こっちに行ったりして聞いた
糸がほどけるように話が段々広がって聞けるようになる
一人で100話近く話をしてくれた人がいた
TV等が普及して語りの場が無くなってきて大きく変わった
「猿の嫁御」でも話が違う事があったり、続編があったりする
私は後語りを生みだしてきた 話を聞いて自分自身の想い等を記録する
最初、聞きとりながら書いていて、その後重いテープレコーダー利用するようになる
「が」 文字にすると一つだが発音されるのはいろいろある
民話声の図書室を始める
聞いてきたテープをCDにして、文字と対応させながら、誰でもが聞こえるように作業着手している
伝承語り手の映像でも撮ろうとメディアテークの協力を得ながら、映像でも撮っている
第7回民話の学校で被災された方々の映像記録を撮ってくれた若い監督2人が震災間もなく仙台に来て、自分たちの映画を撮っていたが、映像を撮ることに無力感があったと云っていた
物を撮るのではなく、生きている人たちの言葉で綴る震災映画を作ろうと試みた
言葉は映像の中でずーっと残ってゆく
民話を語る人、民話を聞く人に依る映画を撮りたいと云う事だった
民話伝承者 200話ぐらい語たれる方 3人を撮ってほしいと云った
聞き手は私が担当して、映画ができ上った
語りのグループが日本全国でいろいろ出来てきた
「波の音」、「波の声」「歌う人」 東北3部作が渋谷で一般公開される(11/9から)
海に向かって柏手を打って礼をしていた人がいて話をお聞きしたいと云ったら、ガダルカダルからの生き還りの人だった
島に上陸していったところ、食べ物が無くて、1日40粒のコメが配られたとおっしゃった
40粒はスプーン一杯にもならない 米粒の多さ少なさで兵隊同士が争っていたとの事
醜いなあと思っていたところを子供のころに聞いた食べ物で争った兄弟の話の事を思い出した
その話は、目の見えない兄弟がいて、美味しいところを兄に、すじの所を弟が食べた
兄はもっと弟は美味しいところをたべているのだろうと、兄が弟の腹を裂く
俺が食べたのはがんこだ、がんこだ かっこう、かっこうと弟は飛んで行った
(東北ではかっこうのことをがんこ鳥という)
兄は兄の方で本当に腹が裂けてしまったのかと、ぽっとさけたか、ぽっとさけたか 今度はホトトギスになって飛んで行ったと云う悲しい話がある
明日は敵に突っ込んで死のうと自分一人でもいいから、そう思ったという
故郷の神様、仏様を全部思い出して、その夜は寝たところ、夢でおばあさんが出てきて、風呂が沸いていて、大皿に一杯あんころモチが出ていて、其れを自分は食べたと、それから不思議なんだけれど毎日おばあさんの夢が出てきて、あんころモチを食べさせてくれて、おなかがすかなくなり、見つかった食べ物は戦友に食べ物をやり、怪我をした戦友の荷物をしょってやり、無事に日本に帰って来たという
この話を信ずるかと言われて、この話を信じれば、昔話をしてもいいと言われて、20話ほど話してもらった
きちんと記録に残したいと思っている
2013年11月7日木曜日
小野和子(宮城民話の会顧問) ・津波を伝える民話の力
小野和子(宮城民話の会顧問) 津波を伝える民話の力
1934年岐阜県高山市生まれ 東京女子大学日本文学科を卒業、1958年から宮城県仙台市に住んでいます
その後宮城県内の民話を語る方々を訪ねて歩きまわり、民話を採集記録して40数年になります1975年に仲間と宮城民話の会を設立しました
2011年3月11日の東日本大震災後の8月に宮城民話の会が開いた民話の学校を中心に伺います
仙台市青葉区だったので私は大きな被害は無かった
民話を訪ね歩いたところは、沿岸部もあったが、大震災後可能な限り調べたが、かつて訪ねた方が今回の震災ではすでに亡くなっている方はいました
津波があったので、日常的に記録する事がいかに大事か再認識した
私たちの会は海辺、山辺を訪ねて民話を記憶している方から、一つ、二つを聞いてくると云う仕事でしたが、子供のころから覚えている人とかに一杯話を聞いて記録してきたが、活字で記録するだけじゃなくて、声で話して下さることがとっても面白かった
多くの人に味わっていただきたくて、宮城民話の学校を立ち上げた
1年おきとか2年おきとかに、全国から民話を聞いて下さる方に来ていただいて民話を聞いていただく(私たちの会は20名ぐらいの小さな会なので毎年は実施できない)
2011年夏には県の一番南の丸森町を拠点に山元町の語り手とかの人たちに集まっていただいて民話の学校を開く予定だったが、大震災にあってしまった
今年は止めようとの話になった(第7回)
今まで語りつがれてきた民話でないもの
小野とめおさんは新地町の人(福島県)で家も畑も全部流された東京の青梅に避難していた
手紙のやり取りをして、其中に「郵便を渡されて、封書の名前を観ただけで、嬉しくて封を切らないうちから涙がこぼれ今まで我慢していた何かが堰を切った様に泣けて泣けて涙が止まりませんでした」と書いてあった
「私には民話があるのだ、生きてる限り私は民話で頑張ろうと自分で自分を励ましました」と言う事が書いてあった (大正13年生まれの小野とめおさん)
直ぐその後仮設住宅に戻ってきて、民話を小学校にいったり、集会所で語ったりしている
山元町に住んでいる庄司あいさん 昭和9年生まれ 彼女も全部流された
「形あるものは全て無くなったけれども、私には何より民話が残っています
これを命綱 離しません」
私はこの二人のお手紙を観て、民話の力を改めて思った
この人たちの意志を生かすべく何らかの形で、民話の学校を開きたいと思いました
私の若い友達も4人の子供を残してやはり震災で亡くなっている
(子供の文化の窓口の仕事をしていたが、一度も子供には民話を話したことは無く、民話を話したいと云っていたが))
この方々にあの日のことを語っていただきたいと思った
二人のほかに、やはり家も奥さんも亡くされた方ほか、民話の会の人たちを含めて6人の方にお願いした
3月に被災されてお願いに行ったのが5月で 2カ月しかたってなかったが、快く引き受けてくれた
従来の民話の学校の内容とは違って、過酷なあの日を語ってもらった
語りにはこういう力を持っていて、こういう存在の仕方をして、人を支えるんだと云う事がその時に身に沁みて実感した
私としては生き残った者が何かしないときけないと、その流れの中で、被災された民話の語り手の人に、あの日のことを語っていただくと、そのことが被災された方のすこしの力になるだろうし、あの日の様子を胸をかきむしられる思い、を共有できる何かを残してもらえるかも知れないと思った
海の見える会場ではすこし残酷だとの声もあったが、明日をどう迎えるかを考えるためにも、残った海辺のホテルで行った(希望者が多かったが、200人で打ち切らせてもらった)
辛い体験を語ってくださった 不思議な密度の濃い時間を過ごした
とめおさん 東京から自分の家がどうなってるか、聞いたらなんにもありません、大きな柿の木があったはずなのに、と言うと、なんにもありません との返事 あるいは妻が車の中にいて流されてゆくときに、静かに手を振って遠のいてゆく状況、等々の話をされた
淡々と話す内容ではない内容ではあるが、淡々と話されて、かえって臨場感がうかがえた
民話の学校を聞いた方の感想
「6人の被災された方の話はあまりにも悲惨な内容ですが、その語り口が昔噺の様になっていることに先ず驚きました 語ることの意味を改めて感じました
語ることによって少しずつ自分を解放出来る方々、語るようになれるまでどれだけ血の汗を流されたことだろうかと思いました 私はせめて聞き手になったらと参加しました」
話す人も話せるか心配だったが、すっこしでも苦しみを分けてくれと言っているように、聞いてくれて話せてよかったと云っていました
3.11を風化させないために、根拠地を作っている メディアトークが映像で残しておこうと、一部始終を映像に記録してくださった
学校に参加できなかった方にお見せする機会を作れた
1934年岐阜県高山市生まれ 東京女子大学日本文学科を卒業、1958年から宮城県仙台市に住んでいます
その後宮城県内の民話を語る方々を訪ねて歩きまわり、民話を採集記録して40数年になります1975年に仲間と宮城民話の会を設立しました
2011年3月11日の東日本大震災後の8月に宮城民話の会が開いた民話の学校を中心に伺います
仙台市青葉区だったので私は大きな被害は無かった
民話を訪ね歩いたところは、沿岸部もあったが、大震災後可能な限り調べたが、かつて訪ねた方が今回の震災ではすでに亡くなっている方はいました
津波があったので、日常的に記録する事がいかに大事か再認識した
私たちの会は海辺、山辺を訪ねて民話を記憶している方から、一つ、二つを聞いてくると云う仕事でしたが、子供のころから覚えている人とかに一杯話を聞いて記録してきたが、活字で記録するだけじゃなくて、声で話して下さることがとっても面白かった
多くの人に味わっていただきたくて、宮城民話の学校を立ち上げた
1年おきとか2年おきとかに、全国から民話を聞いて下さる方に来ていただいて民話を聞いていただく(私たちの会は20名ぐらいの小さな会なので毎年は実施できない)
2011年夏には県の一番南の丸森町を拠点に山元町の語り手とかの人たちに集まっていただいて民話の学校を開く予定だったが、大震災にあってしまった
今年は止めようとの話になった(第7回)
今まで語りつがれてきた民話でないもの
小野とめおさんは新地町の人(福島県)で家も畑も全部流された東京の青梅に避難していた
手紙のやり取りをして、其中に「郵便を渡されて、封書の名前を観ただけで、嬉しくて封を切らないうちから涙がこぼれ今まで我慢していた何かが堰を切った様に泣けて泣けて涙が止まりませんでした」と書いてあった
「私には民話があるのだ、生きてる限り私は民話で頑張ろうと自分で自分を励ましました」と言う事が書いてあった (大正13年生まれの小野とめおさん)
直ぐその後仮設住宅に戻ってきて、民話を小学校にいったり、集会所で語ったりしている
山元町に住んでいる庄司あいさん 昭和9年生まれ 彼女も全部流された
「形あるものは全て無くなったけれども、私には何より民話が残っています
これを命綱 離しません」
私はこの二人のお手紙を観て、民話の力を改めて思った
この人たちの意志を生かすべく何らかの形で、民話の学校を開きたいと思いました
私の若い友達も4人の子供を残してやはり震災で亡くなっている
(子供の文化の窓口の仕事をしていたが、一度も子供には民話を話したことは無く、民話を話したいと云っていたが))
この方々にあの日のことを語っていただきたいと思った
二人のほかに、やはり家も奥さんも亡くされた方ほか、民話の会の人たちを含めて6人の方にお願いした
3月に被災されてお願いに行ったのが5月で 2カ月しかたってなかったが、快く引き受けてくれた
従来の民話の学校の内容とは違って、過酷なあの日を語ってもらった
語りにはこういう力を持っていて、こういう存在の仕方をして、人を支えるんだと云う事がその時に身に沁みて実感した
私としては生き残った者が何かしないときけないと、その流れの中で、被災された民話の語り手の人に、あの日のことを語っていただくと、そのことが被災された方のすこしの力になるだろうし、あの日の様子を胸をかきむしられる思い、を共有できる何かを残してもらえるかも知れないと思った
海の見える会場ではすこし残酷だとの声もあったが、明日をどう迎えるかを考えるためにも、残った海辺のホテルで行った(希望者が多かったが、200人で打ち切らせてもらった)
辛い体験を語ってくださった 不思議な密度の濃い時間を過ごした
とめおさん 東京から自分の家がどうなってるか、聞いたらなんにもありません、大きな柿の木があったはずなのに、と言うと、なんにもありません との返事 あるいは妻が車の中にいて流されてゆくときに、静かに手を振って遠のいてゆく状況、等々の話をされた
淡々と話す内容ではない内容ではあるが、淡々と話されて、かえって臨場感がうかがえた
民話の学校を聞いた方の感想
「6人の被災された方の話はあまりにも悲惨な内容ですが、その語り口が昔噺の様になっていることに先ず驚きました 語ることの意味を改めて感じました
語ることによって少しずつ自分を解放出来る方々、語るようになれるまでどれだけ血の汗を流されたことだろうかと思いました 私はせめて聞き手になったらと参加しました」
話す人も話せるか心配だったが、すっこしでも苦しみを分けてくれと言っているように、聞いてくれて話せてよかったと云っていました
3.11を風化させないために、根拠地を作っている メディアトークが映像で残しておこうと、一部始終を映像に記録してくださった
学校に参加できなかった方にお見せする機会を作れた
2013年11月6日水曜日
本田進(農業) ・地域から新しい農業をめざして
本田進(農業) 地域から新しい農業をめざして
京都府の職員となってからも、仕事の傍ら農業を続けてきました
20年ほど前から農薬や化学肥料を使わない、自然を生かした有機無農薬農業に取り組んでいます
本田進さんの作ったお米は、とても評価が高く京都の料亭にも納められています
この料亭はもともとは丹後の料理旅館で、丹後地方の様々な農家の協力を得て、農産物を栽培契約をして、お店で料理として提供するだけでなくて、それらを京丹後市で加工して全国に販売したりしています、シイタケや、山椒等の生産のアドバイスなどをしています
自然派の農業の魅力や苦労、地域における未来、夢などを伺います
天橋立から近いところで、農家の一戸当たりの農地面積は4から5反の小さな面積
ほとんどがお米作り、あとは山に入って炭焼きだった
昔は天秤棒の両側に直径1mの藁で編んだ容れ物に 肥料を入れたりしながら担いで田ぼまで行っていた
小学校の時に稲の観察日記を書いた (絵と文章)
よく田植えの手伝いをしていたが、ごく普通に行われていた
18歳になって就職をして、京都府の職員になった
当時は選択肢はあまりなくて、家から通えるところで京都府の職員になった
農業は親がやるから、手伝いをするという感じだったが、子供が生まれて親も動けないようになって、自分でやろうと云う気持ちになってきた
自分が農業をやっている目線で地域の事をみてゆくことが、地域の皆さんの意向に沿ったように思う
無農薬での水田 きっかけは農薬を使って消毒をするが、一斉に行っていたが、どうしても若い人が農薬を蒔く先端にいて、作業すると体調が良くないと思っていて、身体に悪いものは稲にもかけたくないと思っていた
自分の娘がアトピーになり、自分なりに勉強してみて、やっぱり食べ物なのかなあと思っていた
宮津で農薬を使わない米作りをしている人に出会って、この人に接してひらめきがあった
農薬を使わないで、稲作りをしようと始めたのが、20年前 完全に抜いたのが15年前になる
仕事があり草取りができなくて、人にお願いするがタイミングが難しくて、草ぼうぼうになり最初は収量は無かった
殿様かえるが絶滅したと、日本全国で聞くが、毎年毎年殿様蛙が一杯発生して、オタマジャクシを上手に育てるのが私の仕事でして、尻尾が落ちるまで田んぼの水を落とさない
彼らがカメムシを取ってくれるので、其れが大事でして
一匹の蛙が一日10匹以上食べて、今年もカメムシの被害がほとんど見当たらない
蛙は田んぼの守り神ですね
マムシが沢山出てきて、マムシは元気の出る薬なので、取って皮をむいて一日干しにして焼いて食べる
田んぼは生き物の住まいの場所になっている
稲の株と株の間があいている
健康な稲を作るには風通しを良くしてやる必要がある 縦横30cm開ける
草取りは手押し除草機でやる場合に狭いと、横方向の除草ができないので、横も出来るようにする為には空ける必要がある
根を伸ばすので、株が大きくなる
有機肥料 カニ殻を使っているが、これは料亭からでたカニ殻を送ってもらう
家庭から出る木、葉っぱを粉砕するものがあり其れをもらってくる
其れを混入させて肥料にする
地元のいい食材を使いたいとの話があり、共鳴して一緒にお米を作る
公務員は地域の皆さんに奉仕をする仕事、裏方を40年間やってきた
その様な気持ちになったのは40歳を越してからだった
ゴールにきたが何かやり残した事がある様な気持ちがあったが地元のいい食材を使いたい、地元の活性化にも繋がるとの話に、これだと思った
今はお米だけではなくて、山椒、 この木の栽培は難しい
木を植えて5年経ったら半分は無くなる 生存率50% 生存率が高まる条件が少しずつ判ってきた
6次産業(サービス業は3次産業 農業は1次産業 食品加工は2次産業) に共鳴します
付加価値のある農業経営をしなければならないが、そのためには6次産業の実施をしてかなければならない
農業はマーケットを知らない マーケットに必要な食材を提供しなくてはいけない
シイタケのほだ木を1000本森に取り入れる
見える形で原材料作りをしてゆく、そういう風な道もあるのかなあと思う
サンフランシスコの近くにプルーン畑を見に行ったことがある
道の両側に広大な草原が見えるが、其れは稲だった
其れを観て、同じやり方では絶対に勝てないと思った
除草剤はヘリコプター、殺虫剤はヘリコプター しかし水はあるけど雨はほとんど降らない
無農薬、有機肥料、ここにしか活路は無いと思った
日本の農業者が全て同じようにできるかと言うと、そうではないようなので、やりようによってできると思う
知り合いの或る人の言(小篠綾子さん ファッションデザイナー)
「いろいろ物作りをしてきたが、儲けてやろうと思っていろいろやってきたが、儲かった試しは一度もない、だけどこれは面白いなあと思って作った時に、そういうものが売れていって儲かる
だから儲かると思ってやっては駄目、これは面白いなあ、楽しいなあと思ってやってたら勝手についてくる」
儲かるとか儲からないと云うよりも、人生やっぱり自分がこれだと思う事を楽しんでやるのが、これが一番いいことなのかなあと思っている
あれをやろうかこれをやろうかと悩んでいるときに妻が大病を患って、いろんな方の新しい出会いがあって、いろんなアドバイスがあって一命を取り止めて、あるがままに生きてゆくのも、一つの道かなあと思う事もあるし、知り合いの方からの言葉も大切だなあと思います
農業は1年に一回しか実験は出来ない 妻の手助けもあって続けられるので、一人では続かない
若い2人が米作りを教えてほしいとの要望があり、今年は上手くいかなかったが、来年は新しい試みをしたいと頑張ってくれており、仲間が出来て楽しみです
京都府の職員となってからも、仕事の傍ら農業を続けてきました
20年ほど前から農薬や化学肥料を使わない、自然を生かした有機無農薬農業に取り組んでいます
本田進さんの作ったお米は、とても評価が高く京都の料亭にも納められています
この料亭はもともとは丹後の料理旅館で、丹後地方の様々な農家の協力を得て、農産物を栽培契約をして、お店で料理として提供するだけでなくて、それらを京丹後市で加工して全国に販売したりしています、シイタケや、山椒等の生産のアドバイスなどをしています
自然派の農業の魅力や苦労、地域における未来、夢などを伺います
天橋立から近いところで、農家の一戸当たりの農地面積は4から5反の小さな面積
ほとんどがお米作り、あとは山に入って炭焼きだった
昔は天秤棒の両側に直径1mの藁で編んだ容れ物に 肥料を入れたりしながら担いで田ぼまで行っていた
小学校の時に稲の観察日記を書いた (絵と文章)
よく田植えの手伝いをしていたが、ごく普通に行われていた
18歳になって就職をして、京都府の職員になった
当時は選択肢はあまりなくて、家から通えるところで京都府の職員になった
農業は親がやるから、手伝いをするという感じだったが、子供が生まれて親も動けないようになって、自分でやろうと云う気持ちになってきた
自分が農業をやっている目線で地域の事をみてゆくことが、地域の皆さんの意向に沿ったように思う
無農薬での水田 きっかけは農薬を使って消毒をするが、一斉に行っていたが、どうしても若い人が農薬を蒔く先端にいて、作業すると体調が良くないと思っていて、身体に悪いものは稲にもかけたくないと思っていた
自分の娘がアトピーになり、自分なりに勉強してみて、やっぱり食べ物なのかなあと思っていた
宮津で農薬を使わない米作りをしている人に出会って、この人に接してひらめきがあった
農薬を使わないで、稲作りをしようと始めたのが、20年前 完全に抜いたのが15年前になる
仕事があり草取りができなくて、人にお願いするがタイミングが難しくて、草ぼうぼうになり最初は収量は無かった
殿様かえるが絶滅したと、日本全国で聞くが、毎年毎年殿様蛙が一杯発生して、オタマジャクシを上手に育てるのが私の仕事でして、尻尾が落ちるまで田んぼの水を落とさない
彼らがカメムシを取ってくれるので、其れが大事でして
一匹の蛙が一日10匹以上食べて、今年もカメムシの被害がほとんど見当たらない
蛙は田んぼの守り神ですね
マムシが沢山出てきて、マムシは元気の出る薬なので、取って皮をむいて一日干しにして焼いて食べる
田んぼは生き物の住まいの場所になっている
稲の株と株の間があいている
健康な稲を作るには風通しを良くしてやる必要がある 縦横30cm開ける
草取りは手押し除草機でやる場合に狭いと、横方向の除草ができないので、横も出来るようにする為には空ける必要がある
根を伸ばすので、株が大きくなる
有機肥料 カニ殻を使っているが、これは料亭からでたカニ殻を送ってもらう
家庭から出る木、葉っぱを粉砕するものがあり其れをもらってくる
其れを混入させて肥料にする
地元のいい食材を使いたいとの話があり、共鳴して一緒にお米を作る
公務員は地域の皆さんに奉仕をする仕事、裏方を40年間やってきた
その様な気持ちになったのは40歳を越してからだった
ゴールにきたが何かやり残した事がある様な気持ちがあったが地元のいい食材を使いたい、地元の活性化にも繋がるとの話に、これだと思った
今はお米だけではなくて、山椒、 この木の栽培は難しい
木を植えて5年経ったら半分は無くなる 生存率50% 生存率が高まる条件が少しずつ判ってきた
6次産業(サービス業は3次産業 農業は1次産業 食品加工は2次産業) に共鳴します
付加価値のある農業経営をしなければならないが、そのためには6次産業の実施をしてかなければならない
農業はマーケットを知らない マーケットに必要な食材を提供しなくてはいけない
シイタケのほだ木を1000本森に取り入れる
見える形で原材料作りをしてゆく、そういう風な道もあるのかなあと思う
サンフランシスコの近くにプルーン畑を見に行ったことがある
道の両側に広大な草原が見えるが、其れは稲だった
其れを観て、同じやり方では絶対に勝てないと思った
除草剤はヘリコプター、殺虫剤はヘリコプター しかし水はあるけど雨はほとんど降らない
無農薬、有機肥料、ここにしか活路は無いと思った
日本の農業者が全て同じようにできるかと言うと、そうではないようなので、やりようによってできると思う
知り合いの或る人の言(小篠綾子さん ファッションデザイナー)
「いろいろ物作りをしてきたが、儲けてやろうと思っていろいろやってきたが、儲かった試しは一度もない、だけどこれは面白いなあと思って作った時に、そういうものが売れていって儲かる
だから儲かると思ってやっては駄目、これは面白いなあ、楽しいなあと思ってやってたら勝手についてくる」
儲かるとか儲からないと云うよりも、人生やっぱり自分がこれだと思う事を楽しんでやるのが、これが一番いいことなのかなあと思っている
あれをやろうかこれをやろうかと悩んでいるときに妻が大病を患って、いろんな方の新しい出会いがあって、いろんなアドバイスがあって一命を取り止めて、あるがままに生きてゆくのも、一つの道かなあと思う事もあるし、知り合いの方からの言葉も大切だなあと思います
農業は1年に一回しか実験は出来ない 妻の手助けもあって続けられるので、一人では続かない
若い2人が米作りを教えてほしいとの要望があり、今年は上手くいかなかったが、来年は新しい試みをしたいと頑張ってくれており、仲間が出来て楽しみです
2013年11月5日火曜日
キュッヒル・真知子(コンサートマスター夫人)・ウィーンの人と音色に魅せられて
キュッヒル・真知子(ウィーンフィル・コンサートマスター夫人) ウィーンの人と音色に魅せられて
世界最高峰のオーケストラの一つ、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の日本公演が明日から各地で開かれます
オーケストラを取りまとめるのがコンサートマスターですが、そのコンサートマスターを支えているのが、日本人のキュッヒル・真知子さんです
キュッヒル・真知子さんは学生時代にウィーンで勉強したことがありましたが、縁があって1975年コンサートマスターをしていたライナー・キュッヒルさんと国際結婚をしました
以来、38年間、2人のお子さんを育てながら、日本とオーストリアの音楽交流の影の役割りも果たしてきました
還暦を迎えた今年、これまでの人生を振り返る本も出版しました
1年に2回ぐらい日本に来る
一番気を使うのは主人の健康管理 良い演奏ができるので
ヴァイオリンもやるので指先も気を付けている
少女時代はおてんば娘だった 母が非常に音楽が好きで、母の勧めで音楽学校に行く
オルガンを始めて、その後ピアノに変更
一番最初にウィーンに行ったのは1974年、ウィーン大学のドイツ語の夏期講習に行った
ウィーンの街の名所旧跡を回って、勉強は全然していませんでした
1975年日本で演奏会がありそこに行って、知人が招待したいと云われて、知人と食事をしていたら、キュッヒルさんが入ってきて、一緒に食事をすることになり、其れをきっかけに、ウィーンに出かけて付き合うようになり、結婚しましょうという事になり、ウイーンにそのまま留まる事になりその年の12月に簡単な結婚式をする 翌年両親を呼んで盛大な結婚式を行った
主人は自然そのままの人だった
主人はすでに21歳からコンサートマスターだった
ウィーン国立音楽大学教授は30歳の時から更に忙しくなった
指揮者と全体を纏める事がいろいろ大変で、指揮者と噛み合わないと苦労する
音楽的な解釈が食い違うと大変
年末、年始 リハーサル クリスマス、大みそかコンサート、大みそかのオペラ ニューイヤーコンサート (休みは12月24日のみ)
午前(10時~1時)、午後(3時~6時) 夜(7時~10時) が毎日と成るので本当に忙しい
見ているだけで健康状態が判るようになってきているので、疲労の程度、栄養管理等気を使う
家にいるときは明治の男と言った感じで、男子厨房に入らず、お湯も沸かせられない
着るものも全部揃える
娘は35歳と30歳になる オペラ座の事務、写真家 とそれぞれ仕事をしている
今年還暦 「青い目の夫」 の題名の本を出版した
ファンの皆さんにいろいろうかがう事が多いので、纏めて皆さんに読んでもらえればいいと思って執筆した
かなり踏みこんだ事が書いてある 生活の内容 自分史 出版に関して主人が一番喜んでいる
私たちのスキャンダルも書いてある(主人以外の人との付き合い)
心の広い包容力のある人でこの人と結婚してよかったと思う
皆さまに良い演奏を聴いてもらうのも私の役目でもあるので、サポートしてゆきたい
主人は63歳 ウィーンフィルは2年後はコンサートマスターを降りることになるが、演奏する事が好きなので、90歳まではやりたいと云っている
世界最高峰のオーケストラの一つ、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の日本公演が明日から各地で開かれます
オーケストラを取りまとめるのがコンサートマスターですが、そのコンサートマスターを支えているのが、日本人のキュッヒル・真知子さんです
キュッヒル・真知子さんは学生時代にウィーンで勉強したことがありましたが、縁があって1975年コンサートマスターをしていたライナー・キュッヒルさんと国際結婚をしました
以来、38年間、2人のお子さんを育てながら、日本とオーストリアの音楽交流の影の役割りも果たしてきました
還暦を迎えた今年、これまでの人生を振り返る本も出版しました
1年に2回ぐらい日本に来る
一番気を使うのは主人の健康管理 良い演奏ができるので
ヴァイオリンもやるので指先も気を付けている
少女時代はおてんば娘だった 母が非常に音楽が好きで、母の勧めで音楽学校に行く
オルガンを始めて、その後ピアノに変更
一番最初にウィーンに行ったのは1974年、ウィーン大学のドイツ語の夏期講習に行った
ウィーンの街の名所旧跡を回って、勉強は全然していませんでした
1975年日本で演奏会がありそこに行って、知人が招待したいと云われて、知人と食事をしていたら、キュッヒルさんが入ってきて、一緒に食事をすることになり、其れをきっかけに、ウィーンに出かけて付き合うようになり、結婚しましょうという事になり、ウイーンにそのまま留まる事になりその年の12月に簡単な結婚式をする 翌年両親を呼んで盛大な結婚式を行った
主人は自然そのままの人だった
主人はすでに21歳からコンサートマスターだった
ウィーン国立音楽大学教授は30歳の時から更に忙しくなった
指揮者と全体を纏める事がいろいろ大変で、指揮者と噛み合わないと苦労する
音楽的な解釈が食い違うと大変
年末、年始 リハーサル クリスマス、大みそかコンサート、大みそかのオペラ ニューイヤーコンサート (休みは12月24日のみ)
午前(10時~1時)、午後(3時~6時) 夜(7時~10時) が毎日と成るので本当に忙しい
見ているだけで健康状態が判るようになってきているので、疲労の程度、栄養管理等気を使う
家にいるときは明治の男と言った感じで、男子厨房に入らず、お湯も沸かせられない
着るものも全部揃える
娘は35歳と30歳になる オペラ座の事務、写真家 とそれぞれ仕事をしている
今年還暦 「青い目の夫」 の題名の本を出版した
ファンの皆さんにいろいろうかがう事が多いので、纏めて皆さんに読んでもらえればいいと思って執筆した
かなり踏みこんだ事が書いてある 生活の内容 自分史 出版に関して主人が一番喜んでいる
私たちのスキャンダルも書いてある(主人以外の人との付き合い)
心の広い包容力のある人でこの人と結婚してよかったと思う
皆さまに良い演奏を聴いてもらうのも私の役目でもあるので、サポートしてゆきたい
主人は63歳 ウィーンフィルは2年後はコンサートマスターを降りることになるが、演奏する事が好きなので、90歳まではやりたいと云っている
2013年11月4日月曜日
堀内永人(歴史作家) ・77歳からの作家人生
堀内永人(歴史作家) 77歳からの作家人生
1930年昭和5年 静岡県掛川市 83歳 77歳から物書きの道に入り、今年7作目の小説、
「江川太郎左衛門の生涯」を書きあげました。
元銀行員だった堀内さんは53歳で銀行を退き、企業経営にかかわりますが、お金を貸す側から借りる側に回り、資金繰りに大変苦労して、辛い体験をしたと云います。
大学卒後、50年後、73歳の時に、日本大学大学院に設けられた、国際関係研究科博士前期課程に入学して、毎朝3時に起床、会社務めと、大学院通学をやり遂げました。
77歳から郷土の先人や、偉人たちの伝記小説を書き始めました。
主人公は静岡県の駿河や伊豆周辺で活躍してきた人達です。
この地方には江川太郎左衛門や、二宮尊徳ゆかりの歴史が残っています。
特に伊豆韮山代官を代々受け継いだ、江川家には江戸末期の渡辺崋山、高野長英、谷文晁などに関する古文書が残されています。
今年 6月文化庁から、国の重要文化財に指定されています。
最初何冊書けるのかと不安だった。 「江川太郎左衛門の生涯」 厚さ3cm。
父親もがっちりした体格 、当人もよく似た体格 自画像を鏡を使って書いたといわれる。
おじいさんは非常に有名で絵も描くし、書も書くし、剣術も立つと、文武両道に秀でた方
およそ200年前、江川太郎左衛門 名を英龍 1801年韮山代官の第2子として生れた。
江川太郎左衛門が財政破たんをした伊豆の優良な商人の財政立て直しに、二宮尊徳を三顧の礼をして、財政を立て直した事が第一作目。
何故江川太郎左衛門が多田弥次右衛門という名主を助けたかと言うと、江川太郎左衛門の先祖がお金で大変苦労した時代があり、その時に多田家が助けたという事があり、恩返しの意味を持って江川太郎左衛門は多田弥次右衛門の苦しいところを救った。
二宮尊徳をお招きして尊徳の力を借りたという事です。
同時に多田弥次右衛門の財政的破綻を救っただけでなく、江川太郎左衛門自身が二宮尊徳から数々の教えを受けて、その報徳の教えに基ずいて、江川大明神と敬われるような立派な代官」になったという経緯がある。
二宮尊徳 真面目で日本人の典型 報徳の教え 誠を尽くし勤労し働き、分相応の生活をして残ったお金の一部を社会の為に、使ように心がければ世の中平和で豊かになる。
①至誠 ②勤労 ③分度(自分のお金の収入と支出の分をわきまえる) ④推譲
善い行いをすればするほど経済が豊かになり、経済が豊かになれば善い行いもすると皆さんに説明している。→報徳思想
江川太郎左衛門は幕府の代官なので、自分の支配地の外に出る事は当時としてはできなかった。
二宮尊徳は小田原藩の住人なので自分から出向くことができないので、三顧の礼を尽くしてお迎えして、結果は非常に良い方向に向かった。
財政再建で活躍した事をテーマに 「韮山に咲く報徳の花」 第一作を書きあげる。
読みやすいように小説に仕立てた。
曾祖父が美人ヶ谷に移り住んで生活をする。 内科医だった。
地元の銀行マンになり、53歳で銀行を退職、会社経営するが苦労する。
バブル前で資金的に苦しかった。 援助を受けるが、思い出すたびに胸が痛くなる。
自分が資金繰りをせねばならず、銀行はなかなか貸してくれないので苦労した。
どうして資金が苦労するんだろうと考えてるときに、報徳思想と言うものに出会って、学べば学ぶほど、なるほどこの教えをしっかりやっていれば、乗り越えられたんだと、深く学ぶようになりました。
経営に反映する。 報徳の神髄を学びなさいと今も言っている。
分度をきちっと掴んでいれば、自分のお金を使わないで、社会に貢献しなさいと、あるいは将来のために蓄財をしなさいと絶えず口にして言っている。
そうしていれば衰える事は絶対ない。
自分の収入を考えている利己主義の店(B)と報徳の精神で行う店(A)ではAの店にいくのは人情ではないかと思う。
人にはお金では測れないところがある。(気分、気持ち)
利己主義のかたの店より、社会にいろいろと尽くされる方の店に行くと確信をしています。
信用、道徳と言うものがあればおのずと信用はついてくる。
信用があれば人を裏切らない。
時代の推移には関係ない。 万国普遍だと思う。
歴史小説でないものも書こうと思って、少しは手を染めたが、書くと云う事は紙になって残るので、立派な人が現在うずもれている方が沢山いらっしゃる。
その人たちの思想も立派な思想がある。 其れをこのままで世にうずもれたままでいると云う事は社会の損失であると思って、すこしでもそういう方の志、思想、行いを世に広げたいと思って歴史小説に取り掛かった。
資料を集めれば、集めるほど、その想いは強くなった。
江川太郎左衛門は幕府の一地方代官、日本の国をゆるがすような黒船到来の時に国防、海防を叫んで、軍備は外国から武器を購入するだけではだめだと、もっと近代的な事、幕府もやらない、それなら自分がやろうと、作ったのが韮山の反射炉ですね。
天然痘から領地の民を救うために、種痘を二人の自分の子供に植えつけて、種痘の効果があると云う事を実証して、領民たちも安心して種痘を受けて、天然痘は起こらなかった。
迷信がはびこっていたので、皆が受けないので、自分の子を試験台にして、安心を与えた。
反射炉は世界産業遺産の候補にもなる。
日本でも初めての西洋式帆船建造もこの地で行われた。
日本で初めてパン焼き機を作ったり、江戸湾のお台場を海防のために作った。
幕府の命令でやったのかと思っていたが、調べると違っていた。
砲台を作ろうと幕府に申請するが、許可が出なかった。
研究すればするほど、江川太郎左衛門は立派な凄い人だなあと思っています。
55歳で亡くなったが、もっと長生きをすれば、幕閣の中枢を担ったのではないかと思う。
読者をどこに置くかという事で、小学校の上級生、中学生に読んでもらおうと、平易に書いた方がいいと思って書いた。(振り仮名を付ける)
挿絵も地元の方々の協力(地元の高校生の美術部の人とか)の元に作成した。
取材は資料を読み、現地を見て、目と足で書いたと自負している。
パソコンに書き込んだ。 修正が容易なのでパソコンを使った。
紙に出力して、読みやすくするためには、音読をして、文章がよろしくないときには、音読が途中で止まってしまうので、音読をして修正をする。
本の最終頁に記載されたもの。
「著作活動に於いて、最高の理解者であり、最高の応援者は妻の智子であった。
残念なことに妻智子は静岡県立癌センターに於いて平成25年5月17日 2年6カ月の闘病のすえ、不帰の人となった。 筆者最大の痛恨事である。 本書を妻智子の霊前にささげる。
妻に読んでもらって、妻からはいろいろアドバイスを受けた。
執筆活動は、9時頃就寝して、朝の3時に起きてパソコン入力している。
大学院に行っていた時代は、仕事を並行して、執筆活動をしていた。
「早起きは三文の得」
生涯自己啓発を常に頭に於いているので、死ぬまで勉強だと云う事でいつでも頭の中に作品を描いて、次はどう展開するんだと言う事で、忘れないようにメモをしたりしている。
8作、9作、10作(資料がまだ集まっていないが)まで書きたいと思っている。
二宮尊徳の銅像 アメリカの教科書に牛を引きながら勉強する子が描かれていて、二宮尊徳の子供のころ、牛の代わりに薪を背負って本を読んでいる姿として、明治新政府が其れを借用した。
幸田露伴が二宮尊徳という小説をかいたが、口絵に絵描きが資料を集めていた時に、アメリカの教科書を日本が借用して、明治政府は日本の小学校の教科書にした。
牛を薪に変えたらどうだろうと云う事で、原型になったといわれる。
1930年昭和5年 静岡県掛川市 83歳 77歳から物書きの道に入り、今年7作目の小説、
「江川太郎左衛門の生涯」を書きあげました。
元銀行員だった堀内さんは53歳で銀行を退き、企業経営にかかわりますが、お金を貸す側から借りる側に回り、資金繰りに大変苦労して、辛い体験をしたと云います。
大学卒後、50年後、73歳の時に、日本大学大学院に設けられた、国際関係研究科博士前期課程に入学して、毎朝3時に起床、会社務めと、大学院通学をやり遂げました。
77歳から郷土の先人や、偉人たちの伝記小説を書き始めました。
主人公は静岡県の駿河や伊豆周辺で活躍してきた人達です。
この地方には江川太郎左衛門や、二宮尊徳ゆかりの歴史が残っています。
特に伊豆韮山代官を代々受け継いだ、江川家には江戸末期の渡辺崋山、高野長英、谷文晁などに関する古文書が残されています。
今年 6月文化庁から、国の重要文化財に指定されています。
最初何冊書けるのかと不安だった。 「江川太郎左衛門の生涯」 厚さ3cm。
父親もがっちりした体格 、当人もよく似た体格 自画像を鏡を使って書いたといわれる。
おじいさんは非常に有名で絵も描くし、書も書くし、剣術も立つと、文武両道に秀でた方
およそ200年前、江川太郎左衛門 名を英龍 1801年韮山代官の第2子として生れた。
江川太郎左衛門が財政破たんをした伊豆の優良な商人の財政立て直しに、二宮尊徳を三顧の礼をして、財政を立て直した事が第一作目。
何故江川太郎左衛門が多田弥次右衛門という名主を助けたかと言うと、江川太郎左衛門の先祖がお金で大変苦労した時代があり、その時に多田家が助けたという事があり、恩返しの意味を持って江川太郎左衛門は多田弥次右衛門の苦しいところを救った。
二宮尊徳をお招きして尊徳の力を借りたという事です。
同時に多田弥次右衛門の財政的破綻を救っただけでなく、江川太郎左衛門自身が二宮尊徳から数々の教えを受けて、その報徳の教えに基ずいて、江川大明神と敬われるような立派な代官」になったという経緯がある。
二宮尊徳 真面目で日本人の典型 報徳の教え 誠を尽くし勤労し働き、分相応の生活をして残ったお金の一部を社会の為に、使ように心がければ世の中平和で豊かになる。
①至誠 ②勤労 ③分度(自分のお金の収入と支出の分をわきまえる) ④推譲
善い行いをすればするほど経済が豊かになり、経済が豊かになれば善い行いもすると皆さんに説明している。→報徳思想
江川太郎左衛門は幕府の代官なので、自分の支配地の外に出る事は当時としてはできなかった。
二宮尊徳は小田原藩の住人なので自分から出向くことができないので、三顧の礼を尽くしてお迎えして、結果は非常に良い方向に向かった。
財政再建で活躍した事をテーマに 「韮山に咲く報徳の花」 第一作を書きあげる。
読みやすいように小説に仕立てた。
曾祖父が美人ヶ谷に移り住んで生活をする。 内科医だった。
地元の銀行マンになり、53歳で銀行を退職、会社経営するが苦労する。
バブル前で資金的に苦しかった。 援助を受けるが、思い出すたびに胸が痛くなる。
自分が資金繰りをせねばならず、銀行はなかなか貸してくれないので苦労した。
どうして資金が苦労するんだろうと考えてるときに、報徳思想と言うものに出会って、学べば学ぶほど、なるほどこの教えをしっかりやっていれば、乗り越えられたんだと、深く学ぶようになりました。
経営に反映する。 報徳の神髄を学びなさいと今も言っている。
分度をきちっと掴んでいれば、自分のお金を使わないで、社会に貢献しなさいと、あるいは将来のために蓄財をしなさいと絶えず口にして言っている。
そうしていれば衰える事は絶対ない。
自分の収入を考えている利己主義の店(B)と報徳の精神で行う店(A)ではAの店にいくのは人情ではないかと思う。
人にはお金では測れないところがある。(気分、気持ち)
利己主義のかたの店より、社会にいろいろと尽くされる方の店に行くと確信をしています。
信用、道徳と言うものがあればおのずと信用はついてくる。
信用があれば人を裏切らない。
時代の推移には関係ない。 万国普遍だと思う。
歴史小説でないものも書こうと思って、少しは手を染めたが、書くと云う事は紙になって残るので、立派な人が現在うずもれている方が沢山いらっしゃる。
その人たちの思想も立派な思想がある。 其れをこのままで世にうずもれたままでいると云う事は社会の損失であると思って、すこしでもそういう方の志、思想、行いを世に広げたいと思って歴史小説に取り掛かった。
資料を集めれば、集めるほど、その想いは強くなった。
江川太郎左衛門は幕府の一地方代官、日本の国をゆるがすような黒船到来の時に国防、海防を叫んで、軍備は外国から武器を購入するだけではだめだと、もっと近代的な事、幕府もやらない、それなら自分がやろうと、作ったのが韮山の反射炉ですね。
天然痘から領地の民を救うために、種痘を二人の自分の子供に植えつけて、種痘の効果があると云う事を実証して、領民たちも安心して種痘を受けて、天然痘は起こらなかった。
迷信がはびこっていたので、皆が受けないので、自分の子を試験台にして、安心を与えた。
反射炉は世界産業遺産の候補にもなる。
日本でも初めての西洋式帆船建造もこの地で行われた。
日本で初めてパン焼き機を作ったり、江戸湾のお台場を海防のために作った。
幕府の命令でやったのかと思っていたが、調べると違っていた。
砲台を作ろうと幕府に申請するが、許可が出なかった。
研究すればするほど、江川太郎左衛門は立派な凄い人だなあと思っています。
55歳で亡くなったが、もっと長生きをすれば、幕閣の中枢を担ったのではないかと思う。
読者をどこに置くかという事で、小学校の上級生、中学生に読んでもらおうと、平易に書いた方がいいと思って書いた。(振り仮名を付ける)
挿絵も地元の方々の協力(地元の高校生の美術部の人とか)の元に作成した。
取材は資料を読み、現地を見て、目と足で書いたと自負している。
パソコンに書き込んだ。 修正が容易なのでパソコンを使った。
紙に出力して、読みやすくするためには、音読をして、文章がよろしくないときには、音読が途中で止まってしまうので、音読をして修正をする。
本の最終頁に記載されたもの。
「著作活動に於いて、最高の理解者であり、最高の応援者は妻の智子であった。
残念なことに妻智子は静岡県立癌センターに於いて平成25年5月17日 2年6カ月の闘病のすえ、不帰の人となった。 筆者最大の痛恨事である。 本書を妻智子の霊前にささげる。
妻に読んでもらって、妻からはいろいろアドバイスを受けた。
執筆活動は、9時頃就寝して、朝の3時に起きてパソコン入力している。
大学院に行っていた時代は、仕事を並行して、執筆活動をしていた。
「早起きは三文の得」
生涯自己啓発を常に頭に於いているので、死ぬまで勉強だと云う事でいつでも頭の中に作品を描いて、次はどう展開するんだと言う事で、忘れないようにメモをしたりしている。
8作、9作、10作(資料がまだ集まっていないが)まで書きたいと思っている。
二宮尊徳の銅像 アメリカの教科書に牛を引きながら勉強する子が描かれていて、二宮尊徳の子供のころ、牛の代わりに薪を背負って本を読んでいる姿として、明治新政府が其れを借用した。
幸田露伴が二宮尊徳という小説をかいたが、口絵に絵描きが資料を集めていた時に、アメリカの教科書を日本が借用して、明治政府は日本の小学校の教科書にした。
牛を薪に変えたらどうだろうと云う事で、原型になったといわれる。
2013年11月3日日曜日
内田美智子(助産師) ・小さなおせっかいの勧め
内田美智子(助産師・思春期保健相談師) 小さなおせっかいの勧め
内田さんは助産師の仕事だけでなく、子育てに悩んでいるお母さんが増えているため、子育て支援にも力を注いできました
忙しい合間を縫って命、食、生をテーマに九州だけでなく全国で講演をされ、子育て中のお母さんや、思春期の子供達の悩みを聞いて、アドバイスをされています
福岡県行橋市 黒田勘兵衛の街
中学生のころに助産師になりたかった 当時はお産婆さんと言われているが
昭和32年生まれで、私も自宅で生れた
おせっかいをやく産婆さんになぜか憧れた 22歳で助産師を取得、今年で35年目になる
ベビーマッサージ 月に4回母親がマッサージをする (肌と肌のふれあい)
赤ちゃんから癒しのオーラと生のエネルギーが出ている 其れをお母さんに受け取ってほしい
「額に書かれている言葉」
「ひたすらお母さんを求めて泣き続ける赤ちゃんが何もしてもらえなかったらどうなるか
泣かなくなります 無視され続けると、何も感じなくなります
次第にあきらめて無表情になります 抱っこされる心地よさ、愛される安心感を感じながら、赤ちゃんは生きる力をより発揮してゆきます
一人では生きてけない人に必要な信頼関係を学んでいきます
泣き続ける赤っちゃんを困らないでください
赤ちゃんにはそれしか方法がないのです抱っこしてほしいだけです
お母さんが抱っこに疲れたら、お父さんでも、おばあちゃんでも、少しだけ変わってあげてください 抱っこして愛してくれる人がいる事に気付いた赤ちゃんは、きっとお母さんを困らせなくなります 手のかからない子に、こそ手をかけてほしい
泣かない、我儘を言わない、なんでも言う事を聞く子を良い子と思わないで下さい
なんで泣くのと思わないで、抱っこしてあげてください」 助産師、内田美智子
10年ぐらい前に書いた
どうしたらいいかわからないお母さんが多い
昔は大家族だったので、いろいろ学ぶ場があったり、世話を焼く人が必ずいた
赤ちゃんは泣くことしか知らない
聞くに堪えないようなニュースが入ってくる
苦しみながら、子育てする女性は沢山いる
人工中絶ができる国なので、20万体を超す中絶がある
基本的には産んでほしい、流産する赤ちゃんが沢山いる中で、生きてゆく力がある子供を中絶すると云う事なので、出来るだけ避けたいですよね
産んでいただけるような方向で話をする
15歳、16歳という年齢の人がいるが、子育てが本当に大丈夫かと思う人がいるが、年齢ではないと思っている
日本でも昔は15歳、16歳で嫁に行って、そこで子供を産んで育てる女性はいたという歴史はあるし、幼い女性が子供を生んできた時代はあった
今の時代は勉強とか、いろいろあるので、大変だが、周りにサポートする力があって、本人にその気があったら上手に子育てしている幼い子供たちがいる
勉強、スポーツやったり自由にできるのに、何故その子がそうなってしまったのかは、大人は考えないといけないと思う
女性は自分の身に降りかかってくるが、パートナー(15歳)は父親になれるかと言うとできない
今迄に中絶を勧めたことは無い 夫もそうです(産科医)
今までに、2800人ぐらい取り上げた)
講演で半分は大人向け、あとは小学校、中学校、高校 一番多いのが、中学校
お母さんは命がけで産んだんだよと、言う事をいう(糞ばばあと言うような時代の子)
目の前で亡くなるお母さんもいる 次の子を産めないお母さんもいる 何が起きるか判らない
大人への講演は幼稚園、小学生、中学生、高校生の保護者、地域の大人が対象になるので幅広い
手をかけてくださいという、中学、高校生は手をかけた結果が出てくるが、元には戻れないので今から始めることはできるので、今から始められることをしてくださいと言っている
親が先に死ぬので、一人で生きて行ける子を育ててください、どんなことがあってもくじけないとか、何があっても負けないとか、そういう子を育ててくださいと言っている
食育、問題がある10代の子と話をしているときに、気がついたのは、ご飯をまともに食べていないなあと気がついた
ご飯を作って食べさせるのが大事だと思った
今は何でも売っているが、それでは満たされない
冷蔵庫には食べるものがあるので、勝手に食べられるので、カップめん、コンビニの食べ物で満たす
母親とかが、作ったご飯に表れる
手をかけないと(子供は、自分に対して、そんなに面倒なのかと思ってしまう)
今手をかけられなかった子が育っている
年寄りに対しての講演、凄い知恵と知識と技術をこの世の中に置いてて行ってくださいと言っている(棺桶に持って行ってしまわないで)
自分たちの生きてきた時代とあまりにも違うので、遠慮してしまう 出しゃばらないといけない
おふくろの味を知らない人が増えてきてしまった
親から教えて貰った料理は作れるが、其れを子供には食べさせていないという傾向が多くある
今の社会はおかしいと感じている世代が行動を起こしてゆく必要がある
かわいい孫がこのままでいいのか 先ずは身近なところから行動をする
しつけ 言ってもらいたい 子供のいいなりは絶対いけない
厳しく言ってもいつかは子供も判ってくれるはずです
内田さんは助産師の仕事だけでなく、子育てに悩んでいるお母さんが増えているため、子育て支援にも力を注いできました
忙しい合間を縫って命、食、生をテーマに九州だけでなく全国で講演をされ、子育て中のお母さんや、思春期の子供達の悩みを聞いて、アドバイスをされています
福岡県行橋市 黒田勘兵衛の街
中学生のころに助産師になりたかった 当時はお産婆さんと言われているが
昭和32年生まれで、私も自宅で生れた
おせっかいをやく産婆さんになぜか憧れた 22歳で助産師を取得、今年で35年目になる
ベビーマッサージ 月に4回母親がマッサージをする (肌と肌のふれあい)
赤ちゃんから癒しのオーラと生のエネルギーが出ている 其れをお母さんに受け取ってほしい
「額に書かれている言葉」
「ひたすらお母さんを求めて泣き続ける赤ちゃんが何もしてもらえなかったらどうなるか
泣かなくなります 無視され続けると、何も感じなくなります
次第にあきらめて無表情になります 抱っこされる心地よさ、愛される安心感を感じながら、赤ちゃんは生きる力をより発揮してゆきます
一人では生きてけない人に必要な信頼関係を学んでいきます
泣き続ける赤っちゃんを困らないでください
赤ちゃんにはそれしか方法がないのです抱っこしてほしいだけです
お母さんが抱っこに疲れたら、お父さんでも、おばあちゃんでも、少しだけ変わってあげてください 抱っこして愛してくれる人がいる事に気付いた赤ちゃんは、きっとお母さんを困らせなくなります 手のかからない子に、こそ手をかけてほしい
泣かない、我儘を言わない、なんでも言う事を聞く子を良い子と思わないで下さい
なんで泣くのと思わないで、抱っこしてあげてください」 助産師、内田美智子
10年ぐらい前に書いた
どうしたらいいかわからないお母さんが多い
昔は大家族だったので、いろいろ学ぶ場があったり、世話を焼く人が必ずいた
赤ちゃんは泣くことしか知らない
聞くに堪えないようなニュースが入ってくる
苦しみながら、子育てする女性は沢山いる
人工中絶ができる国なので、20万体を超す中絶がある
基本的には産んでほしい、流産する赤ちゃんが沢山いる中で、生きてゆく力がある子供を中絶すると云う事なので、出来るだけ避けたいですよね
産んでいただけるような方向で話をする
15歳、16歳という年齢の人がいるが、子育てが本当に大丈夫かと思う人がいるが、年齢ではないと思っている
日本でも昔は15歳、16歳で嫁に行って、そこで子供を産んで育てる女性はいたという歴史はあるし、幼い女性が子供を生んできた時代はあった
今の時代は勉強とか、いろいろあるので、大変だが、周りにサポートする力があって、本人にその気があったら上手に子育てしている幼い子供たちがいる
勉強、スポーツやったり自由にできるのに、何故その子がそうなってしまったのかは、大人は考えないといけないと思う
女性は自分の身に降りかかってくるが、パートナー(15歳)は父親になれるかと言うとできない
今迄に中絶を勧めたことは無い 夫もそうです(産科医)
今までに、2800人ぐらい取り上げた)
講演で半分は大人向け、あとは小学校、中学校、高校 一番多いのが、中学校
お母さんは命がけで産んだんだよと、言う事をいう(糞ばばあと言うような時代の子)
目の前で亡くなるお母さんもいる 次の子を産めないお母さんもいる 何が起きるか判らない
大人への講演は幼稚園、小学生、中学生、高校生の保護者、地域の大人が対象になるので幅広い
手をかけてくださいという、中学、高校生は手をかけた結果が出てくるが、元には戻れないので今から始めることはできるので、今から始められることをしてくださいと言っている
親が先に死ぬので、一人で生きて行ける子を育ててください、どんなことがあってもくじけないとか、何があっても負けないとか、そういう子を育ててくださいと言っている
食育、問題がある10代の子と話をしているときに、気がついたのは、ご飯をまともに食べていないなあと気がついた
ご飯を作って食べさせるのが大事だと思った
今は何でも売っているが、それでは満たされない
冷蔵庫には食べるものがあるので、勝手に食べられるので、カップめん、コンビニの食べ物で満たす
母親とかが、作ったご飯に表れる
手をかけないと(子供は、自分に対して、そんなに面倒なのかと思ってしまう)
今手をかけられなかった子が育っている
年寄りに対しての講演、凄い知恵と知識と技術をこの世の中に置いてて行ってくださいと言っている(棺桶に持って行ってしまわないで)
自分たちの生きてきた時代とあまりにも違うので、遠慮してしまう 出しゃばらないといけない
おふくろの味を知らない人が増えてきてしまった
親から教えて貰った料理は作れるが、其れを子供には食べさせていないという傾向が多くある
今の社会はおかしいと感じている世代が行動を起こしてゆく必要がある
かわいい孫がこのままでいいのか 先ずは身近なところから行動をする
しつけ 言ってもらいたい 子供のいいなりは絶対いけない
厳しく言ってもいつかは子供も判ってくれるはずです
2013年11月2日土曜日
梶原千沙都(ヘルマンハープ奏者) ・音楽のバリアフリーをめざして(再放送)
梶原千沙都(ヘルマンハープ奏者・52歳) 音楽のバリアフリーをめざして(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/01/blog-post_5.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/01/blog-post_5.htmlをご覧ください。
2013年11月1日金曜日
田代美代子(歌手70歳) ・私が見つけたやり直し人生
田代美代子(歌手70歳) 私が見つけたやり直し人生
「愛しちゃったのよ」のヒット曲で知られる田代さんは、これまでの自分の生きてきた道、これからの生きる道、そして10年間の闘病生活の話を中心に、公演やコンサート活動を進めています
病気療養中、田代さんを変えたのは野菜の大切さを知ったことでした
又ユネスコの寺子屋運動にも積極的に参加し、世界中の子供や女性の現状を知るたびに、今自分にできる事は何かを考え、早稲田大学大学院で、女性の教育史を学び、食育ソムリエの資格も取りました
2013年、大きな節目 早稲田大学大学院の修士課程を卒業、本を出すことができた
「歌が紡ぐ日本の地図」 1年ががりで作った 歌が地図の中に盛り込まれている
「愛しちゃったのよ」は大学の時で、21歳の時だった 昭和40年5月 レコード大賞新人賞を受賞ワイドショーの司会もこなすが、疲れから病気になる
地方の仕事の時にバッタリ倒れる 急性すい臓炎 物凄く痛くて、脂汗で震えるぐらい痛い
仕事はもうお終いと思った
人が怖くて、外に出るのが怖くて、皆が私を見ているようで、怖かった
毎日が、今日が終わって、ただ明日が来るようなそんな毎日でいいのと、自問自答した
病気の治療は3年、仕事を止めていた間は 、10年弱だった
病んだ心はなかなか治らなかった 勝手に傷つけられた気持ちになっていた(被害者意識)
食生活を変えたらいいのではないかと、気がついた
庭に野菜を植えて育てた きゅうり、トマト、ナス、インゲン、オクラ等
手をかけただけ、答えてくれる
野菜を育てる事で食べる事も、私の心も変える事が出来た
野菜、花、イヌ猫(拾ってきた)が一番で、私はビリっかすだと、自然に思えるようになった
(若いころは自分が一番だと思ってきていた 末っ子でしたし、仕事を始めて直ぐに、大ヒットになってちやほやされていた)
にこっと笑える様になったが、それまでに10年掛かった
陰のもの、陽のもの 色のバランスよくして食べた
せき(赤)、とう(オレンジ)、おう(黄色)、りょく(緑)せい(蒼色)らんし(紫色)
血行が良くなると、頭にも身体にも心にもいいと思う
母が過去に病気の時に、庭で花造りを始めて元気になったという事があり、私は野菜だった
食育ソムリエ 生産者と消費者をつなぐ役割 日常に密着した仕事
稲作文化、農耕文化は一人ではできなくて、地域の人が皆一緒になってやるので、そこが日本人の根本的な精神のルールはそこに在るのではないかと、思っている
ユネスコの活動 叔母が日本のユネスコ協会連盟を立ち上げたときから、参加していた
世界寺子屋運動をやっていることを聞いて、インドのスラムの中の寺子屋のビデオを頂いて、私の知らない世界があることを知って、これが大人に聞いた、映画で見た貧困なんだと、すごいショックだった
一緒に行きませんかと誘われて、一緒に出かけた
気温が45度、埃とにおいと 動物と人間が一緒く」たんで、2日目になると臭いが気にならなくなる
12日間回るが、東京に帰ってから、コンサートをやろうと思って、市のホールを借りてやった
他の人にも声を掛けて、協力を仰いで、2003年にインドのカルマータカ州の奥に入った村に、「初チャリティーコンサート田代美代子」という寺子屋を建立する事が出来た
入学する子と卒業してゆく数が合わない 途中で挫折してしまう
ようやく3年前に入学者と、卒業者がピタッと合った
勉強も大事だけど食べていかなくてはいけないと子供が言っていたが、仕事が周りには余りない
日本は恵まれすぎていると思う
寺子屋では読み書き計算ができるようにと、教えている
学校にいけないのは、子供だけではなくてお母さんもいけない
女性に教育はいらないという思想なので吃驚したが、日本でもつい最近までは一緒だった
女性の高等教育はどう勝ち取ったのかを、勉強したいと思った
湯川告義先生の女性教育史の本を読んでいたら、明治の与謝野晶子だと書いてあって、この先生のもとで学びたいと思って勉強した
先ずは受験勉強、内緒でやっていた 65歳ごろから、3年以上受験勉強をした
最近は、大学の受け入れ体制もいろんな方法でやっている
受験したときには、周りは若い人だらけだったので、受験の撮影に来たんだと云い聞かせて、臨んだら気楽になった
落ちても皆にしゃべろうと思っていたが、落ちたら来年もまた受けようと思った
受かって、狂喜した 受かった人だけ口述試験 3人の教授に囲まれた
卒業しても難しい言葉で話さない人になってください、今までと同じ言葉で学んだことを、優しい言葉で表現して伝えてください、そういう人になってくださいと言われた
教育学研究科 学校教育を専攻 女子教育史を勉強
修士論文は「与謝野晶子の女性教育論の実践についての一考察」
男女平等、男女同等、男女の機会均等とか、今現在よく聞く言葉を初めて訴えた人
女子の教育はあったが、裁縫、料理、花とか、良妻賢母を目指したような教育だったが、男子に劣らない様な学科にしようと女性も勉強出来るようにと、文化学院 西村伊作と組んで作った
世の中、男と女しかいない 社会は男と女で一緒になって作るもの 女性も社会に進出して男性と同等に働く、そのためには、男性と同等に教育をうけていないといけない、とおっしゃった
家庭生活も同等 与謝野鉄幹とは平等に行った
13人の子をもうけて、2人は亡くしたが、11人立派に育てた
鉄幹を追って海外に行き、ロンドンで女性の社会進出、参政権獲得運動が行われていて、これらの事に感動して、真っ先にやらなくてはと目覚めたようだ
災い転じて 振り返って見ると、前はいい気になって不平不満を持っていて、そして病気になって神様は罰を与えたのかなと思ったが、神様はきっと軌道修正してご覧と、ヒントを与えてくださったのかなと、今は思います
プラスに考え始めると、なんでも良い方に転がってゆくような気がする
嫌なことがあっても、何かをおっしゃりたいんだなあと思います
この角を曲がったら、必ずきっと良いことがあると、自分に思っています
「愛しちゃったのよ」のヒット曲で知られる田代さんは、これまでの自分の生きてきた道、これからの生きる道、そして10年間の闘病生活の話を中心に、公演やコンサート活動を進めています
病気療養中、田代さんを変えたのは野菜の大切さを知ったことでした
又ユネスコの寺子屋運動にも積極的に参加し、世界中の子供や女性の現状を知るたびに、今自分にできる事は何かを考え、早稲田大学大学院で、女性の教育史を学び、食育ソムリエの資格も取りました
2013年、大きな節目 早稲田大学大学院の修士課程を卒業、本を出すことができた
「歌が紡ぐ日本の地図」 1年ががりで作った 歌が地図の中に盛り込まれている
「愛しちゃったのよ」は大学の時で、21歳の時だった 昭和40年5月 レコード大賞新人賞を受賞ワイドショーの司会もこなすが、疲れから病気になる
地方の仕事の時にバッタリ倒れる 急性すい臓炎 物凄く痛くて、脂汗で震えるぐらい痛い
仕事はもうお終いと思った
人が怖くて、外に出るのが怖くて、皆が私を見ているようで、怖かった
毎日が、今日が終わって、ただ明日が来るようなそんな毎日でいいのと、自問自答した
病気の治療は3年、仕事を止めていた間は 、10年弱だった
病んだ心はなかなか治らなかった 勝手に傷つけられた気持ちになっていた(被害者意識)
食生活を変えたらいいのではないかと、気がついた
庭に野菜を植えて育てた きゅうり、トマト、ナス、インゲン、オクラ等
手をかけただけ、答えてくれる
野菜を育てる事で食べる事も、私の心も変える事が出来た
野菜、花、イヌ猫(拾ってきた)が一番で、私はビリっかすだと、自然に思えるようになった
(若いころは自分が一番だと思ってきていた 末っ子でしたし、仕事を始めて直ぐに、大ヒットになってちやほやされていた)
にこっと笑える様になったが、それまでに10年掛かった
陰のもの、陽のもの 色のバランスよくして食べた
せき(赤)、とう(オレンジ)、おう(黄色)、りょく(緑)せい(蒼色)らんし(紫色)
血行が良くなると、頭にも身体にも心にもいいと思う
母が過去に病気の時に、庭で花造りを始めて元気になったという事があり、私は野菜だった
食育ソムリエ 生産者と消費者をつなぐ役割 日常に密着した仕事
稲作文化、農耕文化は一人ではできなくて、地域の人が皆一緒になってやるので、そこが日本人の根本的な精神のルールはそこに在るのではないかと、思っている
ユネスコの活動 叔母が日本のユネスコ協会連盟を立ち上げたときから、参加していた
世界寺子屋運動をやっていることを聞いて、インドのスラムの中の寺子屋のビデオを頂いて、私の知らない世界があることを知って、これが大人に聞いた、映画で見た貧困なんだと、すごいショックだった
一緒に行きませんかと誘われて、一緒に出かけた
気温が45度、埃とにおいと 動物と人間が一緒く」たんで、2日目になると臭いが気にならなくなる
12日間回るが、東京に帰ってから、コンサートをやろうと思って、市のホールを借りてやった
他の人にも声を掛けて、協力を仰いで、2003年にインドのカルマータカ州の奥に入った村に、「初チャリティーコンサート田代美代子」という寺子屋を建立する事が出来た
入学する子と卒業してゆく数が合わない 途中で挫折してしまう
ようやく3年前に入学者と、卒業者がピタッと合った
勉強も大事だけど食べていかなくてはいけないと子供が言っていたが、仕事が周りには余りない
日本は恵まれすぎていると思う
寺子屋では読み書き計算ができるようにと、教えている
学校にいけないのは、子供だけではなくてお母さんもいけない
女性に教育はいらないという思想なので吃驚したが、日本でもつい最近までは一緒だった
女性の高等教育はどう勝ち取ったのかを、勉強したいと思った
湯川告義先生の女性教育史の本を読んでいたら、明治の与謝野晶子だと書いてあって、この先生のもとで学びたいと思って勉強した
先ずは受験勉強、内緒でやっていた 65歳ごろから、3年以上受験勉強をした
最近は、大学の受け入れ体制もいろんな方法でやっている
受験したときには、周りは若い人だらけだったので、受験の撮影に来たんだと云い聞かせて、臨んだら気楽になった
落ちても皆にしゃべろうと思っていたが、落ちたら来年もまた受けようと思った
受かって、狂喜した 受かった人だけ口述試験 3人の教授に囲まれた
卒業しても難しい言葉で話さない人になってください、今までと同じ言葉で学んだことを、優しい言葉で表現して伝えてください、そういう人になってくださいと言われた
教育学研究科 学校教育を専攻 女子教育史を勉強
修士論文は「与謝野晶子の女性教育論の実践についての一考察」
男女平等、男女同等、男女の機会均等とか、今現在よく聞く言葉を初めて訴えた人
女子の教育はあったが、裁縫、料理、花とか、良妻賢母を目指したような教育だったが、男子に劣らない様な学科にしようと女性も勉強出来るようにと、文化学院 西村伊作と組んで作った
世の中、男と女しかいない 社会は男と女で一緒になって作るもの 女性も社会に進出して男性と同等に働く、そのためには、男性と同等に教育をうけていないといけない、とおっしゃった
家庭生活も同等 与謝野鉄幹とは平等に行った
13人の子をもうけて、2人は亡くしたが、11人立派に育てた
鉄幹を追って海外に行き、ロンドンで女性の社会進出、参政権獲得運動が行われていて、これらの事に感動して、真っ先にやらなくてはと目覚めたようだ
災い転じて 振り返って見ると、前はいい気になって不平不満を持っていて、そして病気になって神様は罰を与えたのかなと思ったが、神様はきっと軌道修正してご覧と、ヒントを与えてくださったのかなと、今は思います
プラスに考え始めると、なんでも良い方に転がってゆくような気がする
嫌なことがあっても、何かをおっしゃりたいんだなあと思います
この角を曲がったら、必ずきっと良いことがあると、自分に思っています
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