2024年11月30日土曜日

原田尚美(第66次南極観測隊隊長)     ・南極を極める

 原田尚美(第66次南極観測隊隊長 東大大気海洋研究所教授)     ・南極を極める

原田さんは6年前第60次観測隊で副隊長を務めるなど、南極観測隊にこれまで2回参加されています。 今回南極観測隊初の女性隊長として、南極でやり残してきたことに再挑戦する研究者として、3回目の南極に挑みます。 出発を前にした原田さんにお話を伺いました。 

観測船「しらす」では11月20日一足先に南極抜向け出航。 私たちは12月5日に飛行機で成田からオーストラリアにはいります。 昔と違って今は舟が資材を、人とは別々です。 プラス面は時間を割くことが出来ます。 マイナス面は現地に着くまで船ですと3,4週間あり、イベント、打ち合わせなどを「白瀬」の人たちと一緒に過ごすことでしっかりとコミュニケーションをとることが出来て、現地に着くとすぐに仕事に入れる。 4月5日に帰国します。 越冬隊は2026年3月頃に帰国となります。 今回は隊長として行くにあたっては、責任を感じます。 決断を下すことが重要な役割になります。 諸条件によって100%計画通りには行かないので、どこを諦めるのかを判断して隊員に告げることになり、往々にしてネガティブな決断となります。 

専門は生物地球化学、古海洋学。 生物地球化学は、海の中でいろいろな環境の変化がありますが、そこに生息する生物、プランクトンの有機物を作る生産、生物の応答、作り出す物質(主に炭素)が海のなかでどう循環していくか、といったようなことの過程を一つ一つ明らかにしてゆくという分野です。 炭酸ガスがどんどん増加していますが、吸収する場の一つが海ですが、生物を介して吸収するというメカニズムがあります。 植物プランクトンが吸収した炭素がどのくらいの時間をかけて、リサイクルされてゆくのか、あるいは一部はいろいろな生物に食べられて糞や死骸となって、海底に落ちてゆく部分もあるので、それが全体のどのぐらいなのか、といったことを定量的に明らかにすることによって、海が微生物を介してどのぐらい二酸化炭素を海中に蓄積しているのか、と言ったことを研究する分野です。 海洋学は、海底堆積物を使った研究になります。 海底堆積物を採掘することによって、数万年前、数千年前の温暖寒冷の変動が自然のサイクルだけでどのぐらい起きていたのかという事を明らかにする分野です。 

先輩が赤道の海域で採取してきたサンプルがあり、それを使って修士論文のスタートをしました。 フィールドワークもしたくて、赤道の航海に参加しました。 東大の海洋研究所が所有する白鳳丸という研究船でした。 いろいろなフィールドワークをしたくて、南極観測隊に欠員が出た時に手を挙げました。(修士課程を終わる直前までは就職をしようと思っていましたが、取りやめて進学することにしました。) 1991年初めて南極に行きました。  南極では音が全くしない無音の世界に驚きました。  1995年海洋科学技術センター深海研究部むつ研究所研究員となる。 北太平洋の研究の後、2010年ぐらいから北極に携わりました。  二酸化炭素が生物を介して有機物として海水中に炭素を貯め込みますが、セジメントトラップ(ある期間海水中に置いて,海水中を沈降してくる粒子を集める装置)を設置して、どの季節にどのぐらいの粒子が海水中に蓄積しているか、1年間かけて調査をしました。  プランクトンの殻もトラップされてくるので、どういった生き物が炭素を作っているのかという事も判ります。 

2018年に2回目、南極観測隊副隊長として行きました。  マネージメント中心という事で行きましたが、1回目に失敗たことを思い出して、観測をしにくる場所だなと思いました。 3回目で隊長として行くことになりました。  自分ではなかなか出来ないので、観測するチームに一緒に行っていただきました。  セジメントトラップは33年前とは仕組みが変わっていません。 2週間ごとのサンプルを手に入れることが出来ます。 センサー類は大きく進歩しています。  

南極は地球を冷やす寒冷圏です。 温暖化に対する応答、北極は激しい温暖化に見舞われているが、南極は温暖化に対する応答が緩くて、余り氷が減っている印象がないし、海氷も大きくは変わっていない。  しかし2014年ぐらいから急激に現象が南極でも見られるようになった。 海と氷床の関係性を明らかにする監視観測が重要だという事で、第66次もトッテン氷河沖?の氷床の観測を行います。(一番融解が進んでいると言われている場所)

生まれは北海道帯広市です。 苫小牧が一番長く暮らしました。 子供の頃は理科は好きではありませんでした。 高校2年生の時に化学を選び、理科の面白さに気が付きました。 フィールドワークのフロンティア観にワクワクしました。  弘前大学の指導教官が南極観測の経験者でした。  名古屋大学大学院に進み、南極観測に繋がっていきます。     節目節目に巡り合った方との出会いで、いろんな魅力を教えていただきました。  登山が趣味です。 40代半ばから始めました。  最初が富士山でしたが、景色が変わりませんでした。  2番目に大雪山に登て、景色のすばらしさ、登山の魅力にはまりした。 93,4の山に登りました。 山を登り終えた時の充実感、達成感があります。 今年は余りいけなかったのですが、4,5つぐらい行きました。 

国連海洋科学の10年の推進役をやって来ました。  SDGsの目標の17の社会目標のなかで、進んでいないのが14の「海の豊かさを守ろう」なんです。 国連は危機感を感じて、加速してNO14を各国に薦めて行きましょうと旗を振ったのが、国連海洋科学の10年で、2020年から2030年まで加速してNO14に取り組みましょうと言う事です。 一般向けの海の辞典を作っていて、2025年秋に出版を予定しています。 海のことを知っていただきたい。 






 





2024年11月28日木曜日

長谷部愛(気象予報士)          ・〔私のアート交遊録〕 天気が語る名画の秘密

 長谷部愛(気象予報士)          ・〔私のアート交遊録〕 天気が語る名画の秘密

長谷部さんは1981年神奈川県生まれ。 テレビやラジオの現場を経験した後、2018年に気象予報士の資格を取得、気象予報士と共に現在は東京造形大学特任教師としても教鞭をとっています。 今年長谷部さんは気象予報士としての目線で、古今の東西の名画を見るという「天気で読み解く名画」という本を書き上げました。 名画に描き込まれた雲の形や、霧、光などから、その日の降水確率やその時代の気象情報が判るだけでなく、時代の異なる作品を比較することで、温暖化などの気象の変化などにも気付くことができるなど、名画の中には意外な発見が満ちていると言います。 従来のアプローチとは一味違った名画の見方に付いて、話を聞きました。

美術鑑賞をするときに、この空って雨が降りそうだとか、この季節は秋だとか、美術鑑賞をすることが多くて、気象予報士になってから益々天気についてどんどん解像度が高くなって行きました。  大学の時には教育学部の数学科でした。  数学が苦手で、苦手なものを教えられる先生になろうと思いました。  苦手な子に向き合って数学の面白みだとか教えられる先生になろうと思って、あえて苦手な数学科に入りました。  気象予報士になった数学が役に立って本当に良かったと思います。 天気予報は数式の分野になっているので、複雑な計算式の上に成り立っています。 いろいろなものに触れたいと思うようになって、マスコミの世界は視野が広がるのではないかと思って、放送局に就職しました。 

苦労して数学を勉強した割にはマスコミでは使っている場面は一つもありませんでした。  気象予報士は数学を学んでいれば有利だという噂を聞いて、受験することにしました。 合格率は4~5%ぐらいです。  1000時間ぐらい勉強しないといけないと言われています。  2年かけて4回目の試験で合格出来ました。  気象予報士の資格を取っても、就職率は1割ぐらいでした。  気象予報士の資格を生かしながらものを伝えるとなるとやはりマスコミという事になり、ラジオの気象予報士としてスタートしました。 東京造形大学で学生さんの前に立つ時に、学生さんの為になる天気の情報って何だろうと考えた時に、画家がなんか天気に左右された表現があって、それを説明できたとしたら、学生芸術表現の一つに天気というものが入って来るのではないかと思いました。 それを蓄積してゆきました。 

モナリザの背景には天気が関係しているのではないかと思います。  レオナルド・ダビンチ自体が芸術家でもあり科学者でもありました。  レオナルドの出身地が山間で、朝晩はかなり濃い霧などを見ていたと思われます。 背景を見ると霧などではぼやッとしている。 その効果を使って、遠くにあるものをぼやかして描くことで遠近法といて取り組んだと言われます。 

フェルメールの風景画は二つあります。  その一つがデルフトの眺望」(生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。)という風景画です。 本の表紙にはそれが描かれています。 空の5割が雲で描かれています。 雲の種類は10種類に分かれています。(本当は100種類ぐらいある。) 夏によく出る雲が描かれている。(入道雲とは違う。) この絵は初夏の朝ではないかと思います。 時計台には7時ちょっと過ぎを表している。  高いところから光が来ているので初夏ではないかと思います。 15,16世紀は小氷期の中でも気温の低い時代だったと言われています。  オランダは曇天が多くて晴れの日が少ない。 わざとこの絵に引き込ませるために、あえて故郷が光り輝いているところを描きたかったのかもしれません。 

ターナーの作品は嵐の作品とかが多い。 初期には輪郭のはっきりした作品を描いていた。 

晩年になればなるほど自分の芸術表現として、かなり崩していって、光の研究、大気の研究とかして行って、崩れて行った傾向があります。  嵐を描いたというのはイギリスならではないかと思います。 イギリスは強い低気圧とかがやってくることが多い。  真の姿に迫ろうとして輪郭を崩していって美術表現をしたのではないかと思います。 私も天気予報で伝える時に、最初は数字とかではっきり伝えていましたが、気象を学ぶにつれて、情感を持って伝えることを天気予報でするほうが、もしかしたら伝わり易いのかなあと思ったりします。 臨界?をぼかすような日本語の表現をするような言葉が多くなって来ました。 

印象派は光、季節を描くことを主題としていたので、本当にいろんなことが読み取れます。 モネの「ルーアン大聖堂」の連作では、天気、季節で変わりゆくさまを表現しています。  建造物で季節、天気が判るという事は凄いと思います。  

ゴッホはかなり大胆な画法ですが、「星月夜」などの空には渦巻きが描かれているが、ゴッホが南仏のあたりに移り住んでから、どんどん渦巻きが生まれて行きました。 これは風なのではないかと私は押したいと思います。 ミストラル(季節風)という風が南仏には吹いています。 それを表現して渦巻きを描いたのではないかと思います。 

ムンクも気象が関係していると思います。 背景が吃驚するぐらい赤い。 夕焼けがモチーフにはなっているが、これは大噴火の影響ではないかと言われている。 粉塵が舞いあがってより夕焼けの赤さが増すと言われています。 インドネシアで大噴火が起こって粉塵が世界中に行き渡る。  ムンクもおそらく見ていたと思います。 

北斎はデフォルメの天才と言われますが、「凱風快晴」の季節は秋で、秋を描くために、あの色と雲を持ってきたのではないかと思います。 途切れ途切れになっている雲(鱗雲、いわし雲)がたくさん描いてある。 秋を象徴する雲。 

湿度の高い輪郭のぼやけた風景を描こうとしたときに、水墨画の技法は風景を表現するのには最適だったのではないかと思います。(中国、日本) お薦めの一点は歌舞伎です。  歌舞伎の中に出てくる天気の音に注目して鑑賞を楽しんでいただけたら、より歌舞伎が面白くなるんじゃないかと思います。 雨、雷などのほかに、音のない雪にも音を付けているんです。 雪の音を太鼓で表現しますが、深々と降る雪、吹雪の雪を表現しています。










 



 




2024年11月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶

小林一茶は庶民の暮らしの中の喜びも悲しみも辛いこともすべて俳句に詠み込んでいった人生でした。 

目出度さもちう位也おらが春」     小林一茶

小林一茶は江戸時代の後期の俳人。 松尾芭蕉、与謝野蕪村と並んで、江戸時代を代表する3大俳人の一人とされています。 有名な俳句に

「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」

「名月を取ってくれろと泣く子

「雪とけて村いっぱいの子ども」 などがあります。

松尾芭蕉が江戸の前期で、与謝野蕪村が江戸の中期で、小林一茶が江戸の後期です。 一茶が65歳で亡くなった年に西郷隆盛が生まれている。 一茶が生きた時代には大衆文化が花開いた。 生涯に詠んだ俳句の数は2万句以上あります。 松尾芭蕉は約1千句で、蕪村は約3千句です。 

「めでたさも中くらいなりおらが春」 一茶が57歳の時に1年間の出来事をまとめた「おらが春」という句集がありますが、その一番最初に出てくる句です。 「おらが春」は遺稿で死後25年経ってから刊行された。  春は一般的な春ではなくお正月という事です。  「中くらい」という意味は一般的な中くらいという意味もありますが、一茶の故郷では「中くらい」を「いい加減」という意味があり、説が二つあります。  あまりこだわらず自分にどう響いたかの方がいいと思います。  病院で正月を迎えた時に、中くらいという発想はしみじみいいと思いました。(極端ではない。) 

我と来て遊べや親のない雀」   一茶

一茶も3歳の時に母親が亡くなってしまう。  父親が再婚するが、新しいお母さんと上手くいかなかった。 子供が生まれてから一層ひどくなり、毎日杖で叩かれていた。 外でも親のない子と差別されていた。  家の中にも外にも安心できる場がなかった。 わが身ながらも哀れなりけりとそういう気持ちで詠んだ句ですね。  

笋の、うんぷてんぷの、出所かな」  一茶

たけのこはいろんなところに出てくる。 場所によって立派な竹にもなるし、小さいうちにとって食べられてしまう事もある。  自分で選んで生えたわけではなく運ですね。 人間も同じですね。

 喧嘩すなあひみたがひに渡り鳥」   一茶

やれ打つな蝿が手をすり足をする」  一茶

一茶は蝿にすら哀れを感じている。 手や足をするのは、何処にでもとまれるように、汚れを落としているらしいんですが、一茶はそれを打たないように頼んでいるように見えたわけです。 僕も(頭木)病気したせいで命は大切に感じられるので、蚊も叩けないです。 薬を飲んでいて体の抵抗力は強くないです。 感染症になってしまう事は気になります。 

最晩年に一茶の家が火事で焼けてしまう。 土蔵に住むことになるが、なかは蚤だらけだった。 

「やせのみのふびんやるすになるいおり」?   一茶

自分が留守をすると、その間蚤は血を吸えない。 不憫だと同情して心配している。

「寝返りをするぞそこのけきりぎりす」     一茶

眠りながらも寝返りで虫をつぶさないように、気を付けて心配している。

蝶とぶや此世に望ないやうに」       一茶

普通、ひらひら飛んでいると綺麗だなあとか思うが、一茶は蝶が途方に暮れて飛んでいるように見えてしまう。 蝶に自分を重ね合わせて仕舞う。

「やせ蛙負けるな一茶これにあり」      一茶

語りかけている俳句はめずらしい。  普通俳句は客観的に描写をする。

「古池やかわず飛び込む水の音」    芭蕉

蛙を詠んだ句ではあるが語りかけてはいない。

じつとして馬にかがるる蛙哉」       一茶

大きな馬と小さな蛙が対比されていて、馬がクンクン蛙の臭いを嗅いでいる。 どうなる事やら蛙の方はじっと動けずにいる。  大きなものも→地位が自分より上とか、運命とか。

「散る花やすでにおのれも下り坂」     一茶

48歳の時の句。  当時40歳では初老。  人生もうまくいかなかったなあという感慨も含んでいる。 

「月花や四十九年のむだ歩き」       一茶  

月よ花よと49年間俳句を詠んできたが、無駄な事だった。 当時は人生50年と言われていた。 

「五十年一日も安き日もなく」      一茶

52歳になった詠んだ句。 

一茶は長野県(信濃国柏原)の宿場町で生まれた。 家は農家、長男で跡継ぎになる筈だった。  3歳で母親を亡くして、新し母親に殴られる日々になってしまった。 祖母が優しくしてくれていたが14歳の時に祖母が亡くなる。 15歳の時に江戸に奉公に出されてしまう。 その後の詳細は判らないが、一茶自身が書いたところによると、住む場所にも困って他人の軒下で雨露をしのいだり、苦しい日々を送った様です。 現存する最初の句は25歳の時の句、その後旅をして39歳の時に故郷に戻ります。 父親は病気で亡くなってしまう。 父親は田畑、財産を半分づつに分けるように遺言するが、母親と弟は承知しない。   ここから長い遺産相続の争いが始まる。  決着したのは12年後の51歳の時。 ようやく生まれた家に暮らせるようになる。 

「ふしぎなり生まれた家で今日の月」     一茶

「老が身の値ぶみをさるるけさの春」     一茶

政治が腐敗して幕府が傾いて、わいろが横行してお金がものを言う世の中でした。 人間まで値踏みをするのはおかしい。  社会の方こそ人の役に立たなくてはいけない。    助け合う、迷惑をかけあう、社会はそのためにある。  個人が社会の犠牲になるという事は逆ですね。 

露の世は露の世ながらさりながら」     一茶

一茶は52歳で結婚して54歳で初めての子が生まれるが、生後一か月で亡くなってしまう。  56歳の時に女の子が生まれる。 翌年正月に元気に迎えることが出来て、その時にこういう句を詠みました。 

「這え笑え二つになるぞ今朝からは」    一茶

無事に2歳を迎えられたことに喜びに満ちている。 しかし、その半年後に女の子も亡くなってしまった。 その時に読んだのが、この句です。露の世は露の世ながらさりながら」

露は葉っぱの上に乗る水滴で、儚いもの。  儚い世はわかっていたけれども、人間も儚い存在と判っていたけれども、それでもそれでもあんまりじゃないかと、そういう気持ちだと思います。 その後、次男、三男も生まれるが、みんな亡くなってしまう。 さらに妻迄亡くなってしまう。(37歳)  

「もともとの一人前ぞ雑煮膳」       一茶

一人で新年を迎えて、もともと一人で食べていた雑煮じゃないかと、自分に言い聞かしている。  周りに薦められて再婚するが、上手くいかず3か月で離婚してしまう。  脳卒中で言語障害になる。 それでも俳句は詠む。  64歳の時に再再婚する。 相手には2歳の男の子がいる。 翌年に火事に遭って、家が焼かれ土蔵で暮らすがここで亡くなる。  (1828年11月19日  65歳)   切実な人間の句を詠んでいる。 

生きる時に迷ったりするときに私は思い出します。 おぼろ=ぼんやり、はっきりしない、暗くて道がはっきりしない。  みずなり=水溜まり  人生の道ははっきり見えない。  迷いながらおそろおそろ歩いていても、水溜まりの足をつっこんでしまう。

「おぼろおぼろ踏めばみずなり迷い道」    一茶







2024年11月24日日曜日

秋吉久美子(女優)            ・年を重ねるたび、知らないを知る

 秋吉久美子(女優)            ・年を重ねるたび、知らないを知る

秋吉久美子さんは1954年静岡県出身。 幼少期は徳島県で過ごし、高校を卒業するまでは福島県いわき市で育ちました。 高校3年の時に松竹映画旅の重さ』のヒロイン募集を聞き、親に内緒でオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけとなります。 その後映画「16歳の戦争」に主演、本格的に映画デビューします。 「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」の青春映画3部作は当時の若者たちの心を揺さぶり、しらけ世代の寵児として注目を集めました。 その後数々の映画やドラマで活躍しています。 

今年70歳になりました。 去年からシャンソン歌手になりました。 おっちょこちょいと不器用ですね。 50年前に吉田拓郎さん、泉谷しげるさん等が集結してレコード会社を作ったんですが、私が歌詞を書いたり、高校の時に書いた詩に、当時のロックアーティストたちが曲をつけて下さったりしました。  母を送るという事は自分自身の総括ですね。  ちっちゃいころから総括を繰り返してきたような気がします。  2歳から記憶があります。 2歳の時に妹が生まれて、「今日から一人で寝るのよ。」と母から言われて寂しいなあと思ったんです。  シーツが冷たくて、冷たいなあと思いました。  と同時に気持ちいいなあと思いました。  それが最初の記憶でした。 それから自分自身の確認見たいなことをしてきました。  周りを見るにつけ、何で自分を確認していないんだろうと、自意識ないなあと、自分の生と死も客観視する様に子供のことからしてきた気がします。

父は映画が好きで、土曜日には必ず映画を観て帰ってきていました。 家のテレビでも映画劇場とか観ていました。  本とか、雑誌なども父は好きでした。 私も常にそれを見ているという感じでした。(小学生のころから)  クリスマスに本が贈られてくるてくることが楽しみでした。  或る意味現実世界からの逃避でもありました。  知らないことを知るというのが人生の醍醐味でもありますが、知っていることを表現するという事が女優の仕事かなと思いました。 チャンネルを合わせてゆく、無数のチャンネルを自分が持っていて、自分の中のライブラリー(汎用性の高い複数のプログラムを再利用可能な形でひとまとまりにしたもの  図書館、図書、覧や貸出用 の図書・雑誌・新聞・レコード・CDなどを納めた建物や部屋)ですよね。 女優という仕事は自分の中にある無数のチャンネルを開けてゆくというか、突入してゆく喜びであり、それを伝えるという喜びなんですね。 

本も好きでしたが、徳島県では一人で山歩きをする子供でもありました。 いわき市時代も川で一人で真っ暗になるまで遊んでいました。  山の中の洞窟で化石堀もしました。 岩の壁に向かって金づちとドライバーでやってゆくと、急に岩がパリンと割れて貝が出てきたりします。 何千年前の未知との遭遇ですね。(中学生の頃)  山の中で蛇に出会ったりすると怖さという喜びですね。 怖いという感覚が喜びに変わるんです。 或る時どぶ川でドブネズミと正面から見合いましたが可愛いんです。 大概の動物は正面から見ると可愛いという事に気が付きました。  いろんなことを見て知りました。 本も30ページを過ぎたあたりから折あってゆくと段々喜びに変わってきたりします。  人間も同じですね。  

好奇心の入口を勉強と言うならば、勉強好きですが、改めて勉強だとは思わないですね。  53歳の時に早稲田大学大学院公共経営研究科に入学しました。 公共=政治ですね。   興味があったのは哲学、倫理学、文化人類学でしたが、安保、ベトナム戦争などが有ったり、映画なども問題意識の高い映画が青春映画として公開されていましたが、その時代のいろいろある中で答えを見いだせないまま私自身は横に置いといてという感じの中で、人生の目的を絞れなかったんです。  正義感があればあるほど、人生というものは不平等になってゆくという、正義感がある若者ほど人生のなかで危険な道を歩くかなければいけないんじゃないか、というのを先輩たちの行動を見て感じて、もういいや正義なんてダサいみたいな、自分はヒッピー的なノンポリというか、そんな感じで、ドロップアウトする方向が正しいんじゃないかと、思っていたところがあり、人生に目的を見いだせなかった。  これこそは正義だという事はあったけれども、イコール危険と結びつきやすいという答をだしてしまったので、それを横に置いたまま生きてきてしまった。 

公共経営研究科という入口が開かれた時に、改めてこれを勉強するというのは、神のはからいというか、それはいいんじゃないかと思いました。 2年間学び、そこにエクスタシーを感じてしまうと、もう芸能界に戻ってこれなくなるんですね。 一日が40時間あればという感じです。 今、哲学の教室にも入っています。 英語で読む旧約聖書の会にも入っています。 詩吟もやっていて、映画を観て語る会にも入っていて、予習復習をやっていられない。「推し」の人がいて、京大では経済学、東大では東洋文化史、その先生が歴史、哲学、文化人類学をやっていて凄く面白い方で、今ついていきたい「推し」です。 脱皮の繰り返しというか、鮮やかな生き方で、ユーチューブ、著書なども見なければいけない。  歌舞伎も好きになって中村獅童さんのファンになっています。 江戸時代の庶民、ドフトエフスキーの庶民から庶民観にも興味が湧いてきました。  歌舞伎の世界から教えられることが凄くあるなと思いました。 

長生きするつもりはなくて、終わりがあるから充実するという人生があるわけですよね。  歳を取って一番いけないことは視野を狭めてゆく事じゃないかと思います。  体力がある限り視野を広めてゆく事が大事だと思います。  例えば、詩吟であれば、椅子に座りながら詩吟を吟じて、李白杜甫とも出会えるわけですよ。 中国の歴史の深さ、文化の深さが凄いと椅子に座りながら味わえるわけです。 哲学ではソクラテスと出会うのも可能だし、旧約聖書を読む会では何千年もの前の人の考え方にも出会える。 道徳心、宗教心が無いとソドムとゴモラをやってしまうんだなあと思います。  なんだってありだというような今の時代は、何千年も前の時代のソドムとゴモラの世界と一緒だななあという風に思います。 歳をとってゆく事はますます視野は広がりますよね。  若いときには正義感が邪魔をしてしまって、腹を立てるばかりじゃないですか。  歳をとって見聞を広げて、円熟の中で感じてゆくのが年齢じゃないでしょうか。
















2024年11月23日土曜日

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕 

高橋さんは1944年千葉県生まれ。 出版社勤務を経て作家活動に入りました。 40代の終わりに直木賞作家車谷長吉さんと結婚、ほどなく神経症を発病した車谷さんと向き合う日々を描いた詩集で1997年読売文学賞を受賞しました。 車谷さんは異色の私小説作家として知られ、苦労が多かったものの穏やかな時間も過ごすなかで、2015年車谷さんは急逝、9年が経ちました。 最新作の「この世の道づれ」には、夫婦で過ごした時間を改めて振り返る随筆と共に、高橋さんの詩作のモチーフの一つとなってきた、海や水についてのエッセーが収録されています。 作家同士の結婚の日々はどのようなものだったのでしょうか。 テーマとしてきた海や水の詩の背景には、想像を絶する過酷な体験や心の動きがありました。 その作品世界の原点についてもお話を伺いました。

車谷長吉は2015年、69歳で急死しました。  ショックで私は何を聞かれても、「申し上げることは何もありません。」と答えていました。  遺稿集を出したりしているうちに、言いたいことが沢山溜まってきて、「夫・車谷長吉」という書き下ろしの本をだしました。   そこに書ききれなかったことや、日常の暮らしぶりを描いたのが最新作の「この世の道づれ」です。 車谷の変人ぶりを面白がってもらえる本になったのではないかと思います。 彼の私小説は事実だけではなくて。嘘の部分も取り入れて作品を仕上げていました。 実名で出したりして、名誉棄損で訴えられたりしたこともあります。

夫は結婚後2年で脅迫神経症になりました。 幻覚幻聴に悩まされ、生活がめちゃめちゃになりました。  最初の5年はきつかったんですが、後の10年ぐらいは穏やかで、大きい旅行などした日々がありました。  私は幼いころから世間的にいい人であるように躾けられてきました。  余り嫌ですと言えなかった。 でも最近は厭な人のお別れ会などには欠席してしまいます。 毎朝慰霊に向かってお経をあげてお線香を上げています。 そしてお喋りします。 まだ二人で暮らしている気持ちなんです。 この人の文学を検証するという事が、今私の生きる励みになっています。 来年4月に姫路文学館で車谷長吉没後10年で、展覧会あがあります。  全集も後一巻で完結します。 その日までに出してあげたいと思っています。 夫のことは運命だったとしか言いようがないですね。 

テーマの一つが海や水です。 私の実家は海から100mぐらいのところにあります。(九十九里浜の海辺の町)  海辺で「どうろくじんさま」と歌いながら泥の船を作っていました。  或る時大人になって道祖神様という事と判りました。 海と陸の境目に出現するんです。 「どうろくじんさま」って素敵だと思いました。 海から悪いものが入ってこないようにというもののようですが。  泥の船を海に向かって舳先を作るんです。 波が来た時に船が海に向かって走ってゆくように見えるんです。 泥の船を作るのが好きでした。  作文は苦手でした。 

九十九里浜には津波は来ないと言っていましたが、津波が来て私の実家は半壊しました。 津波を見に行った人が犠牲になりました。(16人)  一階の柱の上の方に黒いシミが付きましたが、そのことを詩に書いています。

「海へ」という詩集の中から「海の言葉」

「壁の上のほうに真っ直ぐな
黒い線が残っていて それは
波が来た跡だと弟が言う
部屋の中に黒い吃水線を
海は引いていった
弟の家族は黒い線の下のほうに布団を敷いて寝る
彼らが寝ている間
海は寝ないで海の音楽を
くり返している
くり返している
あ 風が出てきた
あ 楽器が壊れた すると
弟たちは寝汗をかく
海は魚や昆布をふとらせ
貝がらを舌でなめ
月のように光らせる やさしいこともするが
時折陸地をのぞきに行く
やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと
おやすみ おやすみ
ずっとおやすみと
海は陸のいきものに言いふらし 言いふらし
もんどり打って帰ってくる
海の引く線は
透明であるべきだと
海は考える
しかし海は黒い線を引く」

海は好きだとか、良いなとか言いますが、海は人間とは別な言葉をしゃべるわけで、海の非情さ、を私たちは津波でもって知らされたわけです。 牙をむく時もあるという事です。   

「日常」

「おはようございます こんにちわ  頂きます  ごちそうさま  ありがとう     おやすみなさい  これらは日常の言葉である   この国に大地震と大津波が来て        放射能が降って  日常が揺らいできたから  日常をはっきり声にすることで              揺らぎを抑えようとする  抑えられる」

日常を回復していかなけらばならない、そう思って書いた詩です。 何もかも揺らいでどこに掴まればいいかという時、言葉に捕まればいいと思いました。 挨拶をすると落ち着く。 日常が引き寄せられると思いました。  命を救おうと文学賞を作りました。 全国から詩、短歌、俳句、エッセーなどを公募しました。 弟は防災士になりました。 文集も作りました。(5冊) 

私は大学ではフランス文学を専攻しましたが、友人が萩原朔太郎の「月に吠える」を読みなさいと薦めてくれました。 日本語の美しさを感じました。 卒業後出版社に就職しました。  会社が倒産して、怖いものがなくなったような、開き直った感じがしました。   次の出版社に行きました。(青土社)  詩集の編集なをし、詩を学んでいきました。 非現実を入れなければいけないんだなという事を学びました。 非現実を入れた方が強い詩になる。 詩集を自費出版で出しました。 会社を41歳で辞めました。 自費出版の詩集をつくる会社を興しました。 口コミで次々仕事が来るようになりました。 

詩は何となく降って来ます。(他力)  言葉が好きなのでなんか書いています。 生きる励みになっています。  俳句を作り始めて、俳句をやる様になると詩は駄目になるのではないかと思いましたが、俳句を作っていても詩が書きたくなってきます。 海を自分と同一化している時期がありました。  「私は海の一部だから」という詩も書いたことがあります。  80歳になりますが、目標が出来て、88歳までに四国お遍路88か所の札所を全部廻ろうと決意しました。 夫と廻ったのが2007年です。  









2024年11月22日金曜日

小森邦衞(「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 後編

小森邦衞(石川県立輪島漆芸技術研修所 所長「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 後編 

小森さんは昭和20年輪島市生まれ。(79歳)  中学を卒業後、家具職人を経て漆芸の技術である沈金の職人に弟子入りします。 23歳の時に輪島市に出来た漆芸技術研究所の沈金科に2期生として入学しました。  在学中に沈金職人として独立しましたが、再度研究所の髹漆(きゅうしつ)科に入って漆塗りなどを学び、作品を作り続けます。  小森さんの作品は40代になってから展示会で入賞するようになり、2006年61歳で人間国宝に認定されました。 美しい漆芸作品を追求しながら小森さんは研修所の所長を2020年から務めています。 その研修所は今年1月の能登半島地震で建物が損壊して、授業が出来ない状態になりました。 卒業予定の生徒は輪島市を離れて卒業制作を仕上げ、5月に卒業式が行われました。  10月になってようやく在校生の授業が再開し、来月12月には8か月遅れで新入生の入学式が行われる予定です。 災害を乗り越え漆芸の技術伝承に取り組み象徴としても小森さんの思いをお聞きしました。

研修所はおよそ9400平方メートルあります。 敷地内には大きな木が沢山植えられています。 1月の地震の影響で、研修所のトイレは建物の外の仮設トイレが使われていて、敷地内のアスファルトは地割れしているところもあります。 職員の人の中には、地震の後に起こった火事で家が全焼してしまって、仮設住宅で生活している方もいます。 生徒も家が全壊、半壊だったりして家に住めなくなってしまった人もいます。 研修所の建物も損壊して立ち入りが出来なくなってしまいました。 

石川県立輪島漆芸技術研修所のほかに石川県輪島漆芸技美術館の館長もやっていました。 

又重要無形文化財輪島塗技術保存会の会長もやっていました。 2日には家内の実家を見て回ってから美術館に行きました。 研修所は1月4日が仕事始めでしたが、外から順番に見て回り、どうしたらいいか打ち合わせをしました。 1月はほとんど毎日来ました。 1月9日に職員から今年は授業の再開は無理ですと言われました。 研修生の卒業生が17名いました。 作品を仕上げて卒業させてあげたいと思いました。 市外の各大学にお願いして卒業生、先生方も送りこんで、製作を仕上げてもらうという相談を持ち掛けました。 各大学に教室を一部屋空けてもらって対応することになりましたが、お金がありませんでした。   銀行に行って義援金の口座を作りましたが、法律的に使う事には制限があり駄目でした。  見舞金として口座を作ってそこに振り込んでもらえれば、すぐ使えるという事を教えてもらいました。  生徒にかかる費用を賄う事が出来ました。  5月7日に卒業式が出来ました。  17名中15名が卒業出来ました。  2名は輪島に住むことも出来ないようなことで理解しました。 

卒業式では「芸は人なり。」、「漆人となって羽ばたいて欲しい。」という言葉を送りました。  ものを作るということはその人柄が出てきます。 という事で「芸は人なり。」  そして漆芸家となって生きていただきたいと思いました。 在校生は10月半ばからスタートしました。 寄付金を元に5年後に本宿舎が出来ることになりました。 卒業生の作品が3点ここに飾られています。  蒔絵の技法で作られた硯箱(紅葉が細かく金粉で描かれている。)、沈金という技法で作られた箱(金でフクロウが黒い漆のなかに浮かび上がっているようなもの)、黒一色の漆で作られた3段重ねの重箱です。 

研修所では輪島塗だけではなく、日本全国の漆に関する事が学べる場所です。 日本全国、海外からも研修生が来ます。 イタリアからも来ています。  人間国宝の先生方が日本各地から教えに来ていただけます。  研修所にはちょうどコロナが始まった時に、私は就任しました。 3年間は生徒さんを集めるのにも苦労しました。  卒業して作品の成長具合を頑張っているなあとみると嬉しいですね。  生徒からの刺激を受けることもあります。 デザインですね。  自由な発想をします。 環境はしっかり整えてあげないといけないと思います。  9月には豪雨もありましたが、めげないで頑張らなければいけないと思います。 地震があって思ったのは、能登の人は辛抱強いと思いました。  皆さんからいろいろなご支援を頂いていますし、研修所をしっかり立て直してその方たちの恩返しをしたいと思います。 









2024年11月21日木曜日

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さんは群馬県出身。  小学生から高校まで童謡歌手として活躍、1969年に「夜明けのスキャット」でデビュー、今年歌手生活55年を迎えます。 1980年代からは姉の歌手安田祥子さんと童謡コンサートも開催、人気を集めています。 

*「人生は素晴らしい」 作詞:mildsalt 作曲:岩崎 貴文  歌:由紀さおり

歌手生活55年に記念曲  別れを沢山経験しなければいけない世代に突入したけれど、出会って素敵な時間を共有させていただいたことに「ありがとう」と言う気持ちで歌えばこの歌はきちんと成立するなと思って、お客様に気付かされたこともあります。 それを感じてからは素直に「ありがとう」という気持ちで歌っています。

55年の記念コンサートのタイトルが「新しい私」。  母が長唄をやっていて三味線があったのを思い出し、本條 秀太郎先生(日本民謡端唄俚奏楽・現代曲三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家)のところに習いに行きました。  自分の生き方に対しても謙虚でありたい、お客様に対しても謙虚でありたいというところから学びが欲しいと思いました。 三味線から能楽堂に繋がって、東京公演は実現しましたが、コロナになってしまって大阪、名古屋では辞めてしまいました。 弾き唄いを習得したいと思いました。 51,2年目から赤坂のライブでジャズメンと一緒に、着物を着てジャズも歌って、三味線も弾くという「新しい私」を披露しようとしましたが、最初の1年目は惨憺たるものでした。  続けて55年目でも新歌舞伎座からスタートすることになりました。 パリでも歌う事になり、フランス語で都都逸もやるという事になりました。 フランス語の勉強に3か月ぐらい通いました。 「夜明けのスキャット」などのほかに新しいものの取り合わせが欲しいと思ったんです。  

1946年群馬県桐生市に生まれました。 歌手になったきっかけは姉です。 横浜に移り住んで、姉が小学校の講堂で合唱団で習っていて、それをみて姉と共にお稽古するようになりました。 小学校1年生の時にコロンビアレコードのオーディションに受かって、レコーディングをしました。  1969年に由紀さおりとして、「夜明けのスキャット」でデビューしました。 その後姉と一緒に歌ったりしました。 ソロで歌う時と全然違います。  皆さん方にご支持を頂いたことが、一番大きな原動力になりました。(二人で歌う事は38年続けてこられた。)  

30代の後半に激痛が走って病院に駆け込んだら、子宮筋腫でしたが直ぐには手術が出来なくて、5年ぐらい悪化させてしまいました。  手術に耐えられる身体を作ってから摘出手術をしました。  今年の7月にもベッドから落ちて鎖骨を骨折してしまいました。   今もコルセットをしています。 仕事をしながら直すという事が当たり前になっています。 声の方は40周年あたりからお酒も控えるようになりました。  ここ4,5年は週に一回耳鼻科に行ってメンテナンスしています。 喉を乾燥させないようにしています。 私は鼻から喉の下までタオルをして寝ています。  

「はじめの一歩日々生き切る」 ブログのタイトル。 日々一秒もおろそかにしない生き方、を自分に課しています。  80歳になったら、姉と一緒にカーネギーホールをやりましょうと言っています。  カーネギーホールではすでに2回歌っています。 目標設定することにより、身体のメンテナンスも気お付けますし、自分の生きる力にもなります。   墓のこと、遺言とか、母が私の為に作ってくれた安田音楽事務所という会社を母が旅立つ時に、譲り受けました。  そのあたりを考え始めています。 

〔わたし終いの極意〕とは、「夢にチャレンジし続ける。」、です。 












2024年11月19日火曜日

小森邦衞(「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 前編

 小森邦衞(石川県立輪島漆芸技術研修所 所長 重要無形文化財「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 前編

小森さんは昭和20年輪島市生まれ。(79歳)  中学を卒業後、家具職人を経て漆芸の技術である沈金の職人に弟子入りします。 23歳の時に輪島市に出来た漆芸技術研究所の沈金科に2期生として入学しました。  在学中に沈金職人として独立しましたが、再度研究所の髹漆(きゅうしつ)科に入って漆塗りなどを学び、作品を作り続けます。  小森さんの作品は40代になってから展示会で入賞するようになり、2006年61歳で人間国宝に認定されました。  小森さんの故郷であり、作品制作の拠点でもある輪島市は、今年1月に発生した能登半島地震で甚大な以外を受け、9月には豪雨災害が追い打ちをかけるように、大きな被害をもたらしました。 

輪島市は日本海に面していて、山に囲まれとても自然が豊かなところです。 1月に地震で建物が潰れたり、傾いたままの状態であったり、輪島市のところどころで解体工事などの作業が行われています。 漆芸技術研修所に飾られている3点を紹介します。 小森さんの作品は朱色の漆が美しい丸い器で、食べ物を入れる曲輪作りで、藍胎食籠(らんたいじきろう)という作品です。 

二つ目は蒔絵という技法で作られた箱、黒い漆に金や銀で山アジサイが表現されています。 三つめは沈金という技術で作られた箱で、黒い漆に金粉で竹の林の中を鳥が飛んでいる様子が描かれています。 

輪島塗の特徴は大まかに二つあります。 しっかりとした什器、お椀なども堅牢で使い勝手の有るお椀などを作っています。 もう一つは堅牢優美な、しっかりとした模様が付いていて愛でてもらえるような仕事ではないかと思います。 輪島塗は下地も4,5回つけて、それを砥石で研ぎなおかつ、墨で研いでその上に中塗り、上塗りをやります。 漆器は木が多いです。 木体にに塗ってゆくので熱伝導率が低いです。 汁物を入れてもなかなか冷めないし、外には熱さを感じない。 

室町時代に輪島には重蔵神社があり、神殿の扉の裏側に銘文があり、輪島の発祥が言われています。 立派な扉を作るにはそれなりの職人さんがいたという証明になると思います。輪島塗は室町時代と言われていますが、鎌倉時代には輪島地方にもあったと思われます。   輪島は漆を塗る、乾燥させるのには適したところだと思います。 地の粉、下地の中に入れる粉で、珪藻土を粉末にしたものを漆に混ぜるわけですが、混ぜながら塗り重ねてゆく事が輪島塗の堅牢になる大きな原因になるわけですが、地の粉が取れたことが、輪島塗の隆盛に繋がったのではないかと思います。 漆は湿度を与えることによって乾いてゆく。 輪島は町全体が湿気に潤う。 

漆とは全く関係ない家で育ちましたが、周りは漆関係の家が多かったです。  大工になりたかったが、中学を卒業すると、和風の家具のところに弟子入りしました。 身体が小さかったので体力的には厳しかったので、沈金師のところに弟子入りしました。  動かず胡坐での仕事も大変でした。  4年経って年季明けとなった時に、輪島漆芸研修所が出来ました。 翌年2期生として入りました。 漆に関するいろんなことを教えていただきました。松田権六先生からいろんな話をしていただきました。 

研修所終了後作品を作ろうと思って勉強しました。 日本伝統工芸展に出品しましたが、6年連続で落選しました。 自分で作りたいものを徹底的にやろうと思って、輪島塗は分業化されていたので、塗りが出来るように再度髹漆(きゅうしつ)科に入りました。 竹を素材にして竹を編んだものを利用しました。(藍胎)   曲輪の技を利用した技法を考え出した先生からも教えてもらいました。  日本伝統工芸展には40代には受賞するようになりました。 

1989年には日本伝統工芸で網代隅切重箱「玄」がNHK会長賞受賞。 50代で曲輪作曲輪造籃胎盆「黎明」で日本工芸会保持者賞を受賞。 2006年「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝)に認定される。

一つ失敗することによって次が見えてくるという事が大事なことだと思います。 私が物を作るということに熱中し始めたら、稼ぐという事があまり頭になくなって、妻も伝統工芸展には先に入選したいたこともあり、生活するという事に関してはお互いに苦労がありました。 作品を作るという喜びに関しては共有出来たと思います。 常に仕事のことを考えていれば、アイディアが切れるという事は無いです。 図案日誌をつけなさいと言う事は、松田権六先生から教えていただきました。 

2016年に俳句の句集を出版しました。 自分の作品を作るという事は、自分を見つめ直すことになります。 作品を見ていただいて、批評してもらう事は物つくりとして大切だと思います。  人間が成長するために自己満足だけで作っても決して良くないと思います。 

「朝寒や夢の中まで漆塗り」 小森邦衞

集中している時には夢の中まで漆を塗っている時があります。 

基本的には朱と黒と金というのは、日本の漆文化の中心になると思います。 好きなことをやってそれで生涯を終えれば、こんな幸せなことはないんじゃないかと思います。 若い時に漆と出会って、人生を迷うことなく歩んでこれたと云う事は幸せなことだと思います。  大震災、豪雨災害があり、家も研修所も被害に遭いましたが、日本全国、海外のご支援等で、輪島塗も立ち直りつつあります、ご支援有難うございました。 

 









2024年11月16日土曜日

柴原聡一郎(奈良市埋蔵文化財調査センター) ・〔人ありて、街は生き〕 29歳、令和の時代に古代を掘る

柴原聡一郎(奈良市埋蔵文化財調査センター) ・〔人ありて、街は生き〕 29歳、令和の時代に古代を掘る

2022年12月奈良市のの西部にある富雄丸山古墳で、研究者たちも驚きの声を上げるような品々が発掘されました。 一つは盾のような形をした青銅の鏡、もう一つは蛇が蛇行するように浪打つ形の2mを越える鉄の剣、いずれも国宝級の大発見として大々的に報じられ、大きな関心を集めました。 この発見に調査員として立ち会ったのが、奈良市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎(29歳)です。  世紀の大発見の現場はどのようなものだったのか、見つかった品々はどのような価値を持つのか、現代に考古学を研究することにどのような意義があるのか、伺いました。

鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡は盾の形をした鏡というのが、一番大きな特徴です。 日本では弥生時代、古墳時代の鏡は6000枚以上出てきています。 そのすべてが丸い形をしています。 一番大きいもので直径が40cmぐらい、一番多いものが10cm後半ぐらいです。 鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡は日本で初めて丸い鏡ではない鏡として出て来たのが大きな特徴です。 大きさが長さが64cmで日本国内では破格の大きさです。 

蛇行剣、5世紀ぐらいに日本で作られたもので、剣の刃の部分が真っすぐではなくて、まるで蛇が海を進んでいるかのように、左右に何回か曲がっている特徴的な剣です。 蛇行剣は日本でも数十本出土がありますが、1m程度のものです。 富雄丸山古墳の蛇行剣は剣身だけでも237cmという巨大な剣です。 蛇行剣は実際の戦いで使う剣というよりは、儀式の時に使うための剣ではないかという風に考えられています。 当時の古代東アジア世界でも最大ではないかと思われます。 

普通は40代、50代のベテランの人が調査したりしますが、私みたいな若造が大発見に立ち会う事になってしまい、吃驚しています。 富雄丸山古墳は円墳で、円の直系が109mぐらいで、円墳は国内では20万、30万基とも言われていて非常にたくさんありますが、そのなかでも一番大きいと言われています。 又富雄丸山古墳は単純な円形ではなくて北東の方向に四角い張り出しの部分があります。 この四角い張り出しの部分で祭りごと、御供え物をする儀式の場ではないかと言われています。 この部分のことを「作り出し」という風に呼んでいます  この「作り出し」の部分から今回の大発見がありました。 古墳の埋葬施設は基本的には古墳の一番高いところにあり、富雄丸山古墳もそこに埋葬施設がありますが、ここは過去に盗掘を受けて居たり、発掘調査もされています。 見つかった場所自体も大きな謎を投げかけています。 

古墳時代は3世紀中ごろから6世紀の終わりごろまでの時代です。 3世紀は中国の魏志倭人伝には邪馬台国(卑弥呼など)のことが書かれています。  5,6世紀には数多くの記載があり詳しく判っていますが、4世紀は日本と中国、韓半島の間であまり国同士の正式な交流が無かった時代でして、4世紀の倭国の事情を残した歴史書があまりありません。 富雄丸山古墳が作られたのが、この謎の4世紀に当たります。 何故富雄丸山古墳が作られたのか、どういう人物が葬られているのかという事を考えることで、謎の4世紀がどういった時代だったのか、という事にも繋がります。 しかし調査をしてみるとかえって謎が増えてしまいました。  

2017年度に航空レーザー測量で古墳の形を調べる調査がありました。 その時に日本最大の円墳であるという事が判りました。  発掘調査で墳丘の構造を調査することになりました。(2018年)  当時大学生で古墳の構造を扱っていました。 調査センター長に是非参加させてほしいと直談判しました。 発掘調査には細心の注意を払って行わなくてはいけないので、その体制つくりに4年掛かりました。 調査は30人ぐらいで5か月間かかりました。墓の部分を確定しるために最初広く浅く掘りますが、それに1か月かかりました。 穴が出てきて深さ1,5mぐらいありますが、そこの一番下の部分に、木で出来た棺桶を保護するために周りに白い粘土が出てきました。(発掘1,5か月ほど)  私は金属探知機を買って休み時間に粘土槨に当ててみました。  反応があってしかも棺桶のなかではなくて、もっと浅いところにあることが判りました。 2,5mぐらいで鉄の反応がありました。 一部で銅の反応がある所もありました。  

2週間後に蛇行剣と鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡が出てきました。 最初に一寸掘った時には剣の幅が6cmぐらいあることが判りました。 古墳時代の剣の幅は通常2~3cmなので相当大きなものであることが予測されました。 レントゲン写真を撮ることで一本の剣であることが判明しました。  蛇行剣を掘っている時に鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡の一部が見えましたが、その時点では何なのか全く判りませんでした。 最初模様もないつるつるした面でした。(鏡かどうかは判らない。)  裏の一部に文様を確認したが、なにかは判らなかった。 取り出して裏返した時に、鼉龍鏡と同じ文様を確認出来ました。 最初頭が真白になりました。 一週間たって凄いものが出て来たと実感しました。 新聞、テレビなどで大きく報道されました。  

考古学に興味を持ったのは中学生ぐらいです。  古墳時代を研究する視点、どういう風な視点で古墳時代、人類の過去を見るかという事を考えるのが、私は好きなタイプです。   遺物とかを見て判断するときに、過去を見ようとするときには、どうしても主観的なものが反映されてしまう。  古墳時代などは、戦前は古事記、日本書紀などに書いてあることを割りと素直にそのまま信用するという歴史観がありました。  戦後はそういった記述を素直に信用するのではなくて、科学的な方法を使って批判検証をしてゆこうという方向になりました。 

古墳時代の研究をしているように見えて、過去を通して現代を見るような視点にあるのかなあと思います。 現代で忖度と言う言葉がはやりましたが、実は古墳時代にも忖度はあったのではないかと思います。 現代社会が変化したことによって、どういう言う風に古墳時代観が変わるのかという事も、私は凄く好きです。 あくまでも昔のことを見ているというのではなく、現代とのかかわりが歴史学の中では非常に重要だと思います。 人間の行動は現代も過去も変わらないんだという、人間の普遍性みたいなところに気付くと、考古学の面白さが判るのかなあと思います。 












2024年11月15日金曜日

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・分からないから、突き進む! 前編

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・分からないから、突き進む! 前編 

細密画の技法で虫の絵本「しでむし」「ぎふちょう」「つちはんみょう」などを描いて来た舘野鴻さん、一冊の絵本を作るために、長い時は10年をかけて虫の生態と生育環境を調べて、こんな角度から、こんなアップでしかも細密画で描くとほという驚きの絵本を作られました。 今年森の生き物たちを緻密な絵で描いた絵本「どんぐり」で1年間で日本で出版された絵本の中から優れた絵本に授与される日本絵本賞を受賞しました。 絵本の原画展のほか舘野さんは子供たちとの昆虫観察会や講演会、ワークショップや絵画教室を各地で開かれ、忙しい毎日を送っています。  現在56歳、50歳を過ぎてから仕事が楽しくなったという舘野さん、これまでの半生、様々なことに挑戦しながら突き進んできました。 その原動力となっているのが、分からないことを知りたい、分からないから面白いという思いです。 

今は別の用事が増えてきてしまって、描く時間が無いという事が一番問題かなと思っています。 近所に住んでいた熊田千佳慕さんの家へ絵を習いに行っていた母に連れられて通ううち、出入りするようになり絵を学んでいきました。 幼少期はしゃべるのが苦手でみんなと共感するという事が出来ませんでした。 寂しさと劣等感がありました。 だから絵を描くようになったと思います。 小学校の頃にスーパーカーブームがあり、車を描くようになりました。 友達が見ると喜ぶわけです。 「ぎふちょう」を描いていた時の筆は長さ2cm、太さは4,5mmでした。 その先に命毛という細い毛があって、それで1mm以下の細い線が描けます。 線は上手く描けますが点はその筆ではうまく描けません。

「ぎふちょう」に表紙はぎふちょうと他に数種類ありますが、3週間はかかります。 複雑な構造のものをアップで描くとか、という時には考えなしに描くことは難しい。  中学時代、陸上部に入りたいという事で退部する友人に頼まれて生物部に入部することになりました。 中高一貫学校で大学生OBも来るんです。 そうすると一気に世界が広がりました。 そこで出会ったのが「オサムシ」という虫です。 オサムシを見ると日本の土地がどういう風に変化してきたのか、気候が変化してきたのか(地史)が見えてくる。 経験していない事、知らないことが多すぎて、圧倒され恐ろしくなりました。  小学生の頃に両手を見ながら「なんで俺は生きているんだろう。」と毎日思っていました。 

中学の時には虫が好きになりました。 北海道に行ったら金ぴかなオサムシを見ました。  札幌学院大学へ進学することになりました。  友人と3人でテントをもって山に行きました。 大千軒岳と言って砂金で栄えたところで、1630年代の話で隠れキリシタンが住んでいましたが、松前藩に見つかって106人が殺されてしまいました。 山に登ると美しい山でした。 そこで虫を取ることが出来ました。 数えたら106匹でした。 数がぴったり合ったことにびっくりしました。 そこで怖くて虫を取るのをやめました。   死んだ虫、キリシタンに供養しないといけないと思いました。(21歳) 祈りとか弔うとか、そういったことで描いてゆくと決めてしまいました。 

大学は中退して、芝居、音楽などにのめり込んでやっていました。  そこでの仲間にはいろいろ影響を受けました。 文化的なものを一気に学んで行けました。  絵は描いていました。 或る美術家に出会って、君の描いているのは美術でも何でもないと、今まで思っていたことを全部ひっくり返されました。  急に視界が開けた気がしました。(20代半ばから後半)  自分の絵の評価が判らなくて、一回だけ「僕の絵はちゃんと描けているんですか。」と聞きました。  「うん、十分描けているよ。」と一言言われて、凄くホッとしました。

30代を生物調査のアルバイトをしながら絵を描く修業時代になります。 41歳で細密画の絵本「しでむし」を発表。(29歳で結婚、30歳で子供が誕生)   図鑑の中の昆虫の解剖図の話が入りいろいろ描いてその後の絵本の参考になりました。  身体の中の仕組みが判ると、どうしてこういう形をしているのか、どうやって動くのかということが判って来ます。 沢山の虫の解剖をしてきましたが、罪悪感が常にありました。  写真、パソコンの技術が発達して被写界深度に高い画像が合成できるようになって、絵でしかできなかったことが写真が出来るようになって、急に仕事がなくなってしまいました。  編集者から絵本を描くことを紹介されました。  師匠と同じ所へ行くのは厭でしたが、見苦しいとか汚いとかみんなが目をふさぐようなものにこそ、輝く何か大事なものがあるんじゃないか、という思いがありました。 しでむしは死体を餌にする虫で、埋葬虫とも言われている。 どんな汚くても、皆が殺したくなるような虫を、極上に美しく描きたい、それです。 













2024年11月14日木曜日

リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

 リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

ダイクさんはアメリカカリフォルニア州生まれの79歳。 東京で会社役員をしながら、石橋湛山の著作の英訳に取り組んでいます。 石橋湛山は戦前を代表するリベラル派言論人で、当時の主流だった領土の拡張を目指す大日本主義に反対、台湾、朝鮮、樺太などの植民地を手放す小日本主義を唱えました。 戦後は政界に転じ、自由民主党第二代総裁と第55代内閣総理大臣となり、国民の期待を集めましたが、病気の為2か月で辞任、首相を続けていれば日本の政治や外交は違ったものになっただろうと言われています。 今年は湛山の生誕140年没後50年の去年には、国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、改めて湛山の思想と活動に注目が集まっています。

国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、第一回の講師をやりました。 統一教会のスキャンダルが出た時に、自自民党の中で石橋湛山の路線をもう一回発見しようという動きがありました。 反安部と反岸信介のグループです。 全部で8回会館の中でやりました。 9回目は甲府の石橋湛山が育ったところにいって行いました。 だいたい60人ぐらいが出席しました。  出席率はいいし勉強もしてきました。 石橋湛山の思想は幅が広いので、いま日本が必要とされる政策には必要だと思います。

石橋湛山の存在が判った時は大学院生でした。(昭和43,44年)  京都大学の松尾 尊兊先生がハーバード大学に来られました。  ちょうどベトナム戦争で学生たちは反戦運動などしていました。 松尾先生は反戦に熱心な日本の学者で、学生と気が合いました。 勉強会で石橋湛山のいろんなものを読ませられて、そこで知りました。 個人主義、自由主義、基本的に思想家として徹底していました。 ウイリアム・ジェームスなどと思想の繋がりがあることに驚きました。 1968年ソ連がチェコを侵略しました。 その時に石橋湛山が日本の防衛論という記事を出しました。 それも松尾先生に読ませられました。 チェコの反応を見るべきだと書いていました。 しかしソ連がチェコから撤退するのに20年以上かかりました。 今ウクライナの問題があって、台湾の問題があり、当時のことがもう一回繰り返しているので、日本の防衛論、日本がこういう時期のなかで、どういう風に防衛の準備をしなければならないのか、日本の役割はどうなっているのか、戻ってきているような感じがします。 

石橋湛山の英訳を始めたのは、コロナになってからです。 石橋湛山のことはあまり書いていなかったです。 石橋湛山全集は全部で16巻ありますが、2セット持っていて一つは東京に、もう一つは山中湖に置いてあります。  石橋湛山は寺育ちで、日蓮宗のお坊さんの資格もあり、立正大学の学長もやりました。  完成は来年早々になると思います。 出版も来年です。  1920年代大日本主義には彼は反対していました。 台湾、朝鮮、樺太などの植民地を独立させるべきだという考えで、ヨーロッパ、中近東などでも植民地を持つ時代はもう終わりで、独立を求めている時代でした。 植民地を持つことは小さな欲で、大きな欲の為にはこれは邪魔になる、日本はもっと大きな欲を持つべきだという事で、石橋湛山の言う大きな欲とは日本はもっとグローバルになるべきだという事です。 

1920年代は日本は技術もあるし、資本の力もあるし、その力をもって日本は海外に会社が進出して海外の人たちに仕事を与える、例として言っていたのは「ぼたもち」と「重箱」。 「ぼたもち」は資本、「重箱」は土地。  会社を海外に持ってゆくと歓迎される。  1920年代の初めでは中国に進出していた会社は数百しかなかった。 1925年になると4700社が中国に進出している。 15万人の日本人が中国に住んで中国人を採用してやっていた。  原外交は、中国はまだ統一されていないが、統一には介入べからずという事で、中国に行って何とか繁栄させたいという事は日本の役割だという事で、石橋湛山はまさにそう考え方を持っていた。 植民地にすると防衛しなければいけなくて兵隊が行かなければならない。 経済的には合わない。 しかも列強が敵になる。 平和的に日本が海外に進出してグローバルな経済を作るのがいい、と考えていた。

1930年代に満州事変があって、反日運動が盛んになる。 世界の大不況の時に石橋湛山がケインズを導入した。  高橋是清にも影響を与えた。  石橋湛山と同じ考え方をもっていた経営者はたくさんいた。 経済倶楽部を作って人気があり、東京だけではなく大阪、神戸、福井県、岡山県などで作られて、石橋湛山は演説に出掛けた。 海外に投資して自由経済で行くべきだと主張した。 1934年ごろから日本は段々別の方向に向かってゆく。 石橋湛山は自分が思っていた方向は出来なくなった。 昭和16年7月に100年戦争という題名の演説をやりました。  真珠湾攻撃の4,5か月前です。 おそらくアメリカは英国の味方でドイツと戦争をする。  まさか日本と戦争をやるとは思っていなかった。 日本は日中戦争をやっていて、統制経済になることは仕方がないが、この戦争が終わったらその時の日本の将来をどう考えるか、今の段階で我々が考えなければならない。  日本は統制経済のままで続くのか、市場経済に戻るのか、考えなければならないという凄い先見の明がある。 

終戦になって日本を作りなおさなければならないと、石橋湛山は新聞記者から政治家になろうと考える。 吉田内閣の大蔵大臣になりました。 国会の最初のスピーチは数時間のスピーチだった。  日本のビジョンのようなものが出ている。 日本はモノ不足だったから、何とか供給をなんとか増やさなければならない。  そのためには石炭が必要。 炭鉱を復活させるための一番いいやり方は、炭鉱の持ち主を中心にして、価格などを決めて炭鉱を復活させること。 GHQ、経済学者などは炭鉱を国有化すべきであると、石橋湛山の考えに反対していた。 進駐軍の日本と南朝鮮は日本の予算、でも貧しい日本では無理で別の形で展開しなくてはいけない。 昭和22年に石橋湛山は公職追放になった。 1947年から1951年まで続いて、政治活動、原稿も書けない、演説もできない。 

昭和22年の公職追放は数千人に昇る。 会社の経営者、市川房枝(女性解放運動)などが公職追放になった。(GHQの反対者)  鳩山内閣の時には通産大臣になる。 1955年に自由党と民主党が合併して自由民主党が出来る。 1956年に石橋内閣が誕生する。 病気のために2か月で辞める。  日本は市場経済に戻すべきだという事で、電電公社の民営化、国鉄の民営化、という考え方を持っていた。  岸信介が副総理だったので、岸信介が総理大臣になった。 当時は石橋湛山の内閣に希望を持っていた。 アメリカに対しての独立性、経済をもっとオープンにしてという事があった。 岸信介になって日本は別の道を歩み出した。 

辞めたあと病気が治ったら、立正大学の学長を16年間務めました。 立正大学の講義が全巻の中に入っています。  中国に2回行って周恩来首相と会いました。 中国との交流、貿易を重視していました。 ソ連にも行きました。 田中角栄が1972年にようやく行けるようになりますが、田中角栄にも影響が大きかった。  

ダイクさんは1945年にアメリカカリフォルニア州生まれ。 日本には交換留学生として来日。 カリフォルニアには日系人が多くて友達がいました。  1965年に来ました。  バード大学院で日本研究で博士号を得ました。  半導体をテーマにして、半導体業界がどういう風にして伸びたのか、研究しました。  教鞭をとるようになって助教授になりました。 オハイオ州知事から日本の企業誘致の話がありました。 大学を辞めて日本に来ました。  ホンダがオハイオに決めてくれました。  日本の自動車メーカーの最初の工場でした。  オハイオでは数万人の大きな工場になっています。  アメリカへの投資では日本が圧倒的に日本が一番です。 石橋湛山が考えていた海外投資てグローバルになる、まさに今、日本がそういう姿になっている。 その後私はビジネスの世界に入りました。 日本での生活は40年を越えています。  日本は今別の形で生まれ変わってきていると思います。  海外の投資から見ると、日本の経済を連結ベースで考えると、GDPの1,5倍になっていると思います。 国内のGDPが伸びなくても失業率は上がってきていない。 日本の会社は海外で伸びている。  

石橋湛山が総理を続けていれば、日本は違った道を進んでいると思います。 経済の考え方は絶対違った形で行っていたと思います。 岸信介になって安保がそういった形になって、日本はアメリカにべったりとなった。  海外の政策が変ってきたと思います。 

出版に際して期待するものは、①日本の近代史、日本の民主主義は根が浅かったから戦争になったんじゃないかと言われるが、僕はそうじゃなくて、日本人が求めていた民主主義は根が強かった。 ②戦後日本に民主主義をもたらしたのはアメリカの司令部だという考え方があるが、これも間違っていると思います。 ③石橋湛山の中心になっているのは市場経済、これを忘れてはいけない。 英訳を通して見えてきたのは、石橋湛山の目を通じて見ると、正しい日本の歴史とかが見えるようになってきあと思います。














2024年11月9日土曜日

2024年11月8日金曜日

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤さんは1946年静岡県 生まれ78歳。 イラストレーターを経て40歳の時に漫画家としてデビューしました。 途中夫の介護で10年ぐらい創作から離れた時期もあったんですが、その後復帰、76歳で発表した「ぼっち死の館」が今年の手塚治虫文化賞漫画大賞の候補作になるなど、話題を集めています。 「ぼっち死」は一人ぼっちで死んでゆくことです。  斎藤さんが暮らす東京郊外の団地には高齢の単身世帯が多くて、そこで起こるあれこれが漫画の元になっていると言います。 斎藤さん自身の団地での暮らしぶりや、漫画を通して伝えたいことについて伺っていきます。

「クリぼっち」(クリスマスが一人ぼっち)「ぼっち正月」などと言っていました。 そして死もぼっちですね。 単身世帯が多くておばあちゃんが多いです。 病院に運ばれたり、自分で施設に入ったり、本当にぼっち死されたりいろいろあります。 動物の死とか、周りで起きてきたので、死は特別な事ではないですね。  自分にもやがてやってくることですし、周りの人も同じような状況です。 

東京の多摩ニュータウンに住んでいます。 昭和40年代に雑木林を開いて、街を作ったところです。 憧れのところでもありました。  49,50年前に引っ越してきました。  今はシャッター商店街とジジババにが住んでいます。(子供たちは巣立ってゆく)  リフォームして若い人もはいって来てはいます。 

「ぼっち死」は6っつで構成されていますが、一番気持ちが楽しくなるのが、牛の出てくるものです。 「牛のいく」?は主人公が男性で一人で暮らしています。  心がほぐされて高齢の女性と話すようになってゆくというものです。  自分が婆さんなってみると、それぞれ皆さんいろいろあったんだろうなあと言う気がします。 

子供の頃から絵は好きでした。 短大を出て自立しようと思っても何もなくて、働きながら英会話をマスターしようと思って、英会話学校に勤め始めました。 学校で使う教科書の絵を描いていた人の手伝いをしていました。 その人が辞めることになり、後をついで描き始めました。 その後知り合いを介してイラストの仕事が始まりました。 イラストの仕事も少なくなってきて、漫画ならば稼げるのではないかと思いました。 漫画の経験は全然ありませんでした。 1987年、40歳の時に漫画を描く決意をし、『ダリア』で『ビッグコミック』新人賞を受賞することが出来ました。 夫が倒れたり、母親も病院に行ったりで描けない時期がありました。 脳出血で夫は倒れました。 介護が始まりました。 母親も脳溢血で入院しました。  母親は主に弟が面倒見ました。  介護期間は11年でした。   一時期大学に通いながら介護をしていました。  

夫とは籍を入れませんでした。 特に結婚とかにあこがれもなく、結婚しようというような感覚があまりなかったです。 医療費がかかるが、籍をいれていないと医療費控除にならないので、60歳の時に籍を入れることになりました。 夫とは20歳の時からの付き合いでした。  夫は結核になったり病気をしたりして 働かないので、私が働いて無我夢中で生きてきました。 夫は大変だったので、寂しいというよりはよかったと思いました。   最後まで看取ったという納得感はあります。         

一人暮らしの不安は全然ないです。 漫画教室もやっています。 年代層もいろいろなのでたのしいです。  団地内ではお年寄り同士の交流はあります。  友達の家で倒れて5分もしないうちに治ったんですが、病院に行ったら入院してくださいと言われました。 脳梗塞でした。  日常の暮らしのなかでセーフティーネットが出来上がっているという感じです。 市から老人向けのグループを作ったり、自分たち同士でもグループを作っているので、何かやろうとするときにはそこに属せば、いくらでもやることはあります。  飼い猫を通して付き合いが広がります。 ほどほどの距離を取って付き合っています。

生きる上での大切なことは、心を開いて受け入れる、余り頑なに心を閉じない方がいいなと思います。  歳をとった方が気持ちが楽です。  若い人にも伝わることを描いていこうと思っています。  












2024年11月5日火曜日

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年 

荒木さんは現在64歳、16歳の時にオーディションで審査員特別賞を受賞して、芸能界いりし阿木洋子、宇崎竜童の曲「渚でクロス」でデビューました。 民放のバレーボールのスポーツ根性ドラマ「燃えろアタック」の主役で俳優としても人気者になり、1983年に歌手・タレントの湯原昌幸さんと結婚して芸能界を引退、その後同居の義理の母が認知症を発症し、介護が始まりました。 20年の介護の末、義理の母は87歳で亡くなりました。 その後荒木さんが知らない間に中国で主演ドラマ「燃えろアタック」が大ヒットし、中国に呼ばれるようになり、それが芸能界の復帰のきっかけになりました。 

最近はテレビの司会をやらせて頂いたり、リポーターとしてロケに行ったり、講演会もやらせていただいています。  オーディションでは落ちてしまったと思ってあきらめていたら、審査員特別賞を受賞して出てみませんかと言われて、チャンスだと思って出ることにしました。  「渚でクロス」でデビューました。 

*「渚でクロス」  作詞:阿木燿子 作曲宇崎竜童 歌:荒木由美子

1年間に4枚出してアルバムも作り、忙しかったです。  湯原さんとはしょっちゅう番組でお会いするようになりました。  13歳年上でした。 結婚して芸能界を引退しました。 結婚後2週間目に義母が倒れてしまいました。 翌年に子供を授かりました。(24歳) 義母の介護と子供の世話で同時進行しました。 義母は手術をしてリハビリをして元気になったんですが、家のことは全部私がやるようになったので、やることがなくなってしまって、認知症と診断されてしまいました。 20年の介護で大変でした。 本を出したことで、湯原さんと話をして本当の話をさらけ出して、書くことが出来ました。 今は語ることが楽になりました。 まだらボケで、若い男(実は息子)がいるとか、指輪、アクセサリー、お金が盗られたとか(犯人は私でしかない)、言われてそれがストレスになって、溜まって昌幸さんとけんかになるわけです。 

後援会ではヒントになればいいと思っていて、私のやったことが全部がお手本でもないし、感情も違う、性格も違うので。  円形脱毛症、自立神経失調症とかいろいろありました。 美容院にも行っていられませんでした。 円形脱毛症は3つもありましたが、気が付きませんでした。 酷い時にはペットボトルが持てないほど手が震えていました。(自立神経失調症)  その時には判らないが、感情のコントロールが出来ないことがありました。 今思うと20代、30代をどうやって乗り越えたんだろうと思います。 この家から出ていってら終わりだと思っていました。 離婚しようと思ったことは一回もありませんでした。 

今は認知症に対する見方も変わってきましたし、相談窓口も増えました。 私たちは認知症を隠すかの様に生活をしていました。  義母は本当に私が頼りみたいだったようで、好きだった様です。  最後は急性白血病でした。(クリスマスの日)  食事は喉を通らなくなりましたが、会話は出来たんです。 段々しっかりしてくるんです。  1月9日に亡くなりましたが、段々顔も綺麗になってきて、3日前から綺麗な顔になりました。 8日に病院の部屋から出ようとしたら、何故かふっと振り返ったら、目が合って、先に部屋を出ていた昌幸さんと息子に声を掛けて部屋に戻ってもらいました。  瞬きもしないで私の事を見るので、「なんか言いたいことある?」って聞いたら、「うん」と頷くんです。  点滴をしている手で私のおでこを撫でて、「長い事ありがとうね。」と言ってくれました。昌幸さんも「由美子よかったな。 おふくろがちゃんと挨拶してくれて、本当に良かった。」と言ってくれて、自分も嬉しかったと思います。 

その日家に帰ったら、病院から電話が来てすぐ戻って下さい。」と言われました。 病院に戻ったら、今度は大鼾で寝ているんです。  その後付き添っていて、大鼾のまま亡くなりました。  前の日の挨拶が最後でした。  あの一言でこれまでの苦労が全部吹っ飛びました。   半年後ぐらいにテレビに出ませんかという話があって、こういう話も義母からのご褒美なのかなと思って、それで始まりました。  介護のすべてが終わったのが43歳でした。  介護の話をするのは若いと思っていましたが、若くてもかいごの経験を20年したというのは、これは宝ですよと言われました。 

2004年に復帰しました。  「燃えろアタック」が中国で大人気になり、或る人から中国に招かれてファンの人も空港に来てくれたりして、最高のおもてなしを受けました。 帰りの飛行機のなかで、やってみようかと思う後押しになりました。  日中友好の為には役に立ちたいと思っています。 「燃えろアタック」の負けない精神は、私の中にも根付いていて、介護、仕事など大変でしたが、今となっては全部が無駄ではなかった、財産として私の中にあります。  「介護のミ・カ・タ」「覚悟の介護」など出版