2019年3月31日日曜日

小林綾子(女優)              ・『おしん』と『なつぞら』 ~二つのドラマと出会って

小林綾子(女優)       ・『おしん』と『なつぞら』 ~二つのドラマと出会って
十勝を舞台とした連続TV小説『なつぞら』いよいよ明日から放送されます。
連続TV小説100作目となる『なつぞら』にはこれまでの連続TV小説でヒロインを演じた多くの女優が出演します。
1983年の『おしん』でヒロインの子役を務めた小林綾子さんも、今回『なつぞら』に出演されます。
久しぶりの連続TV小説出演となる小林さんに、撮影の様子やドラマにかける意気込みをお話ししていただきます。

1972年8月12日生まれ、東京都出身。
5歳の時に児童劇団に所属、活動を始める。
10歳の時、1983年、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』で少女時代のヒロインに抜擢される。
日本に『おしん』ブームを巻き起こす。
現在TVドラマ、映画、舞台、バラエティー、情報番組など幅広く活躍中。
2019年4月からの連続TV小説『なつぞら』にも出演。(連続TV小説100作目)
『おしん』のドラマが原点なので、又朝の連続TV小説に出演できるので、戻ってこられるんだ、帰れるんだという気持ちでとっても嬉しかったです。
『なつぞら』の概要
主人公は戦争で両親をうしなった戦災孤児、夏は酪農家に引き取られて十勝の生活の中で明るさを取り戻す。
そこで素敵な馬の絵を描く青年画家と出会う。
アニメの草創期に携わる。
青年の母親を演じているのが小林さんです。

『おしん』の時と基本的には撮り方は違っていないが、ドラマに携わる人が多いんだなあと感じます。
昭和の時代でも『なつぞら』の中でもモンペをはいていて、むしろがあり囲炉裏を囲むようなシーンがあり『おしん』のころを懐かしく感じました。
旦那さん役が戸次 重幸さんです。(北海道出身)
本読みをしていたら、こういった方がより北海道弁に近いと教えてもらいました。
連続テレビ小説『ひまわり』のヒロイン役を演じた松嶋菜々子さんも出演します。
丁寧に撮ると言うのは、特に連続テレビ小説の場合は言えるのではないかと思います。
スタッフの数も多いです。
小道具さんは履物担当がいたりして、細部にこだわって丁寧にやっています
食事場面でも料理研究家がやっています。
ご飯は麦飯ですが、美味しいです。

『おしん』は1983年、NHK朝の連続テレビ小説として1年間放送。
山形の貧しい農家に生まれたおしんが明治、大正、昭和の激動の時代を逞しく生き抜いてゆくと言う物語、少女時代を小林さんが演じて、その後田中優子さん、音羽信子さん、3人のじょゆうが演じる。
平均視聴率52.6%最高視聴率62.9%という驚異的記録を残しました。
山形で筏に乗って母親、父親と別れを告げるシーン、あそこが私にとっての初めての撮影でした。
1月15日から10日間ぐらいかけてロケーションしましたが、寒かったです。
吹雪のなかで倒れるシーンは藁靴の中に素足を突っ込んで本当に冷たかったです。
筏を作るために3か月前から山から木を切り出して筏を組んで設置してくれました。
筏を安定させるためにクレーンが使われたり、地元の人も協力していただいてあのシーンを撮るのにトータルで100人以上はゆうにいたと思います。
たったあれだけのシーンに一日かかりました。
1月中旬から山形、奥多摩では夏のシーンを撮って、スタジオに入って3月下旬ぐらいまで撮影がありました。
1台のカメラには経験がありましたが、NHKのスタジオでは5台のカメラがあり、緊張感一種の恐怖感みたいなものはありました。

毎日のようにNHKに通っていて、いざ終わってしまうとなると、達成感はありましたが、もう少しやっていたいと言う気持ちがありました。
劇中で吹雪の中を助けてもらったあんちゃんが吹いていたハーモニカであんちゃんが好きだった「庭の千草」を吹いてみたいと思います。(小林さんによるハーモニカ演奏)
(もう一曲 知床旅情を演奏)
会場には山形から十勝に入植された人もいました。(父親世代)
福島から入植したおしんという名の祖母もいたと言う事もあり吃驚しました。
一人では出来ないものも、色んな人達が集まってっ協力して力を合わせると大きなものができる。
『なつぞら』のロケーションの時には夏だったんですが、雨が多かったんですが、でも白い大地とかぬけるようなすがすがしい青空は、本州では味わえない十勝ならでの空気感でした。
開墾するシーを撮ったんですが、大きな切り株に何本ものロープをまいて、馬とか地元の方も含めて開墾のシーンを撮りました。
役作りの為、早く北海道弁に慣れるように北海道弁を教えてもらいました。
人を大事にしていきたいですね、みんなで一つのものを作る大切さ、みんなで力を合わせた時の力はとっても大きなものに変わって行くと思います。


























2019年3月30日土曜日

松下由樹(女優)              ・「芸どころ 名古屋」が育んだ女優・松下由樹さん 35年の女優人生を語る

松下由樹(女優) ・「芸どころ 名古屋」が育んだ女優・松下由樹さん 35年の女優人生を語る

1968年生まれ、50歳、名古屋市出身。
1983年15歳で映画『アイコ十六歳』でデビュー。
第15回日本アカデミー賞助演女優賞を受賞するなど、35年間女優として活躍中。

名古屋ではお祭り、山車をひいたり、色んな事が華やかに派手にするなど、もてなしたり、楽しませませたりするのが、どこかに根付いているような気がします。
どこか控えめなところ、奥ゆかしさがありながら、キンキラキンが大好きだったり面白さはあるが、受け入れたらとことん受け入れる、厳しさもある、そんなところがある様な気がします。
映画『アイコ十六歳』は名古屋を舞台にした映画でした。
「貴方も夏休みに映画に出てみませんか」というキャッチフレーズで、地下鉄でチラシを配っていました。
応募したら全国12万7000人の中から選ばれることになりました。
名古屋弁を前面に出しました。
1986年から1988年までNHKの「ヤングスタジオ101」でダンサーでレギュラー出演。
ダンスは高校生から習いましたが、大変でした。
167cmなので身長が高いのでやったらどうかと勧められました。
緊張すると固まってくるので、リラックスするには自分の柔らかくなるポイントを掴んでおくと楽です。
身体全部ダランとするだけでも違います。

1989年のTVドラマ『オイシーのが好き!』が初主演作。
1990年の『想い出にかわるまで』のドラマで、姉(今井美樹)の恋人(石田純一)を奪う妹役という強烈な役を演じ、注目される。(21歳)
世間から冷たい目で見られましたが、近くからもそういう感じで見られました。
1999年に「週末婚」という作品に出会いますが、私は姉の役で妹の幸せをねたんで比べてしまう役をやりましたが、思い切り嫌われようと言うふうにしました。
1996年から準主役で出演している『ナースのお仕事』は連続ドラマ4シリーズ、映画化もされる人気作となった。
職業を持っている役は私自身は知らないことを知ることができておもしろいです。
主人公のドジな新米ナース・朝倉いずみが、笑いあり・涙ありの経験を重ね、一人前の看護婦・一人の女性として成長していく姿を描く。
ナースをやらせてもらった時には当初はコメディーとして受け止められませんでした。
先輩ナースとドジなナースとのコンビが段々受け入れられていきました。
ナースとしての色んなしぐさ、言葉などをいろいろ教わりました。

2001年からバラエティ番組『水10! ココリコミラクルタイプ』に出演。
色んな種類の人の演技を短い時間でしなくてはいけなくて、そこを掴む作業は凄く勉強になりました。
アドリブではなく、作り込んでのコント番組でした。
2004年にはドラマ『大奥〜第一章〜』に主演、春日局(お福)を演じ、時代劇での新境地を開けました。
サクセスストーリーが現在と通じるものがあるのではないかと思います。
春日局は他の方もやっているので、良く知っている人たちがOKと思ってもらえるものを、私のハードルとしてもってやらせてもらっていました。
受け入れてもらえたかもしれないと思いました。
長いセリフがあるが、覚え方はバラバラです。
ひとつはあまり静かなところでは覚えないです、撮影するところは静かではないです。
どんな状況でも覚えられるようにしていきました。

35年続けてこれていること、続けて行くことが大事だと思っているので、まだまだ言えないと言う事が正直なところです。
自分でも女優やっていきたい、お芝居が好き、あきることが無い、尽きることが無いと言う事がベースにはありま
すが、やっぱり周りの人に支えられていることが一番大きいと思います。
50代に入って行くが、たのしみ、難しさ、作品を通して原点に引き返されたり、色んな事を経験させてもらう有難さがあります。
相手役とのコンビネーションが無いと、はまっていかなかったり、受け入れられなかったりするので、相手の方の協力、自分が寄りそったり、自分自身も向かい合おうとするとかを覚えていったのは、若い時とは違う事なんじゃないかと思っています。
お互いが引き立て合えることができる事が身についてゆく、そこを意識する事は若い時にはなかったことかと思います。
年齢は積み重ねの大事な一つだと思っています。
チャレンジはいつでもできるので、どの年代でも変わらないと思うので、まだまだなんじゃないのという気持ちを持つことも重要になってくると思う。
いろんな物に挑戦して、みんなに楽しんでいける作品を作れたらいいなと思っています。































2019年3月28日木曜日

小和田哲男(静岡大学名誉教授)        ・戦国と現代をつなぐ放送文化

小和田哲男(静岡大学名誉教授)         ・戦国と現代をつなぐ放送文化
小和田さんは長年にわたってNHKの歴史番組に御出演のほか、大河ドラマの時代考証をしてきました。
来年の大河ドラマの「麒麟(きりん)がくる」の時代考証も決まっています。
今回は「戦国と現代をつなぐ放送文化」と題して、大河ドラマの時代考証とはどういう仕事をするのかを、これまでの成功例、失敗例などを上げてお話しいただきました。

執筆、監修と言う事を通して、そして放送を通して戦国と現代を繋ぐ道筋などをお話ししたいと思っています。
1991年の放送、「決戦関ヶ原」で最初の出演で、関ヶ原に関する資料を調べました。
それがライフワークにもなりました。
新しい解釈、謎解き、そういったものを、放送を通して浮き彫りにしたいと思っています。
或る程度の裏づけを準備しながら新鮮味のある番組作りをしたいと思っています。
通説、定説が全てではないと言う事も伝えたいと思っています。
放送文化を通して一人でも歴史好きの人が増えてくれればいいと思っています。

大河ドラマは56年の歴史があります。
昭和38年が最初で「花の生涯」でした。
平成8年に「秀吉」の時に初めて引き受けました。
主役 竹中直人、原作は堺屋太一さんでした。(書き下ろし原作)
2006年「功名が辻」位から、3年に一度位で大河ドラマの時代考証を担当しました。
私としては「麒麟(きりん)がくる」が7作目になります。
シナリオ台本のチェックから始まります。
基本は史実との整合性をチェックします。
①原作があるパターンで原作者が生きている。
②原作があるパターンで原作者が亡くなっている。
③原作なし。
原作なしが一番やりやすいです。
次に原作者が生きている時で、原作者と交渉して原作が脚本の段階で手直しが生きて来る。
困るのが原作者が亡くなっている場合で、時代考証の意見が通りにくい。

絶対あり得ないと言う時には止めてもらう。
グレーゾーンの場合には、或る程度フィクションであっても許容範囲と考えています。
台本チェックで大事なのは、人名、地名の直しがあります。
1996年の「秀吉」の時に、浅井長政を「あざいながまさ」という発音で放送してもらいました。
大学院生の頃、地元の人がみんな「あざい」と発音していました。
地名も浅井で「あざい」と発音していました。
「功名が辻」の時も、主人公の山内一豊ですが、「やまのうちかずとよ」と呼ばれていましたが、「やまうちかずとよ」としました。
静岡県掛川市で掛川城の木製の復元がありましたが、竣工式の日に或る方が「やまうち」ですと挨拶してきました。
その方は一豊から数えて17代目の山内豊秋さんでした。
調べていったら漢字ではよく判らなかったが女性の手紙がでてきて、平仮名で「やまうちつしまどの」(山内一豊の事)となっていて、「やまうち」が正しいと思いました。

地名もあります。
「秀吉」の時、天正18年(1590年)小田原攻めの時に、石垣山城を作りましたが、脚本家が書いてきたのは、秀吉の台詞で「わしゃあ、この石垣山に城を作りたいと思う」
と書いてありました。
当時は石垣山という名称は無かったが、後に建物は崩れてなくなって石垣だけが残っていて石垣山と言われるようになったと言われる。
調べてみたら笠懸山という事で台詞は変更されました。
伏見桃山城が当たり前に通用していましたが、秀吉の時代には桃山という言い方はなかった。
伏見城が廃城になって、近くのお百姓さんが桃を植え綺麗に咲いて、誰とはなしに桃山というようになりました。
「伏見城」ということにして貰っています。
現代と戦国では時間とか距離など色々ずれがみられます。
2014年「軍師官兵衛」の時、大阪の福島正則の家で酒盛りがあり、出席していた官兵衛が翌日京都の朝のお茶会に出席している、これはだめですよと言いました。
夜まで飲んでいて、京都の朝のお茶会は無理ですと言いました。
日をずらすと言う事をやってもらいました。
多いのが旧暦と新暦の違いで「秀吉」の時に、ナレーションで「元亀元年四月織田信長軍桜吹雪の中を越前に向けて出陣」となっているが、4月20日ということは判っているが旧暦で、新暦では5月半ばで京都の桜は散ってしまっている。

2009年「天地人」の時、春日山城内での酒盛りのシーン、「越後は米どころじゃ、酒どころじゃ、じゃんじゃん飲め」とあるが、「じゃんじゃん」はないです。
又、戦国時代の越後はまだ米どころでも酒どころでもなかった。
新潟の酒がおいしいと言われるようになったのはここ50年位です。
言葉使いの直しも大変な作業になります。
「功名が辻」の時、「わしゃあ 絶対家族を守る」とあるが、「家族」、「絶対」は戦国時代にはなかった。
「わしゃあ 妻や子を守る」という風に変えてもらいました。
当時「平和」という言葉もなかった。

「江〜姫たちの戦国〜」の最初の回で、小谷城を信長が3年間攻めるが、文献的に火をかけたという記載はないし、考古学的にも焼けた形跡はなかった。
お市がお城を出る時に城を振り返るシーンでは、煙をちょっとだけ出させてほしいと言うことだった、でも本格的に燃えていましたが。
後日談があって、お城の研究仲間からは苦情を言われましたが。
「軍師官兵衛」 官兵衛が子供の頃、薬草を池のほとりに取りに行った時の場面で、池の名前を付けてほしいという事で、「竜神池」と付けて放送したら、直ぐにNHKにクレームが来て、勝手な池の名前を付けないでくださいと言われてしまいました。
他にも質問の電話が一杯きたようです。
三木城攻め、別所長治はあんな年寄りではないとクレームが来て、「軍師官兵衛」では失敗を生かせました。
「軍師官兵衛」で官兵衛が信長から刀を貰うと言う事で、渡したが、刀剣研究者から間違っていると言われました。
今は刀(かたな)で良いが、当時は太刀(たち)だったといわれました。

歴史に対する日本人の歴史観形成に大河ドラマは大きな役割を果たしている。
その責任の重大さはあると思っています。
単なる信長、秀吉、家康直の武将のドラマだけではなく、下支えをしている戦国時代を生きた武将、庶民の生の姿を出したいなと思います。
史実がどこなのか、どこからフィクションなのかという処も、少しずつ出していってるのかなあと思っています。
1969年「天と地と」 武田信玄の文書に山本勘助の実在であることが浮かび上がってきた。
歴史研究者の間では架空の軍師だという風に言われていた。
甲陽軍鑑、山本勘助の事が書かれていて偽書扱いされていたが、山本勘助の実在がはっきりして、偽書説のレッテルは剥がれました。
明智光秀、謀反人のイメージだったが、明智光秀が主人公になって、今までの単なる謀反人とは違った光秀像が描かれてくるだろうと思います。
敗者の方の消された歴史を掘り起こす、探し出す、そういう研究がさらに生れてくると思います。









2019年3月27日水曜日

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(2)

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(2)

音楽に憧れましたが、音楽家になろうと思ったことは一回もありませんでした。
楽器の演奏もできないし単なる憧れです。
音楽に一番近い学問が数学の様な気がしていました。
数学は一つの仮定から始まって推論を重ねて行って一つの結論を導きだします。
それには証明が必要で、それが正しいかどうか吟味して証明の操作が終わる。
音楽も同じで、一つの主題があって、その主題が第一、第二と主題が変わっていって、大きく展開して結論に達して、それを吟味するようにして回想しながら最初に戻ると言う、その形式論、考える事、表現手段としては音楽と数学は近いのではないかと思いました。
もう一つ、音楽は見えない音が素材、数学も見えない数が素材なんです。
情緒の数学が音楽であり、論理の音楽が数学であると言ってもいいかもしれない。

1949年に日本人として最初にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹先生の論文を読んで数学から物理学へと進みました。
数学の美しさが私の心を打ちました。
星、太陽も興味がありました。
大学院の時に理論物理学の道に進みました。
人生はほんの少しのきっかけでどうにでも変わって行く、数学ではカオスと言うが、人生は一種のカオス的な要素があり、どういう状態になっても諦めるしかないという結論はだせないと言うことです。
カオス的であるからこそ、どうなるかわからないし、何らかの解決策がある、未来は決まっていないと言うことです。
お墓が多摩霊園にあり、近くに東京天文台があり昔は構内に自由に入れました。
又プラネタリュウムに連れて行ってもらったと言う事もあり宇宙に興味を持ちました。

1977年にナサ、アメリカ航空宇宙局が打ち上げた宇宙探査機ボイジャーに、地球の生命とか文化を伝えるために、音楽、画像を収めたレコードが搭載されたが、そのレコードにバッハの音楽を載せることを提案しました。
ナサのジェット推進研究所のスタッフと仲良くなりました。
人類の進化から考えると言葉に先行するのが音です。
音楽の中で人間を離れた宇宙の普遍的な真理があるとすれば、それは結局は数学になるだろうと思って、数学の性質をもっていてなおかつ、音の素材であることの音楽を一緒にして要件を満たすのは何かと言ったら、やっぱりバッハだと言うことになりました。
演奏者としてグレン・グルードにしました。
ナサではボイジャーの事を機械だとは思っていないですね、彼だとかあの子だとか、僕もボイジャー君などと言っています。
当時の大統領のカーター氏がメッセージをレコードに入れていますが、そのメッセージが本当に凄いですね。
「これは小さな遠い世界からの贈り物です。 
私たちの音、科学、画像、音楽、思考、感情を表したものです。
私たちはいつの日にか現在直面している課題を解消し、銀河文明の一員となることを願っています。
このレコードは広大で荘厳な宇宙で私たちの希望、決意、友好の念を表象するものです。」
何か宮沢賢治さんみたいですね、こういう大統領がいたと言う事も凄いですね。
宮沢賢治さんは自分の信念を打ち出した「農民芸術概論綱要」の中で「銀河文明の一員として生きましょう」と言っています。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」と言っています。
結論として「我らに要るものは銀河を包む透明な意志、大きな力と熱である。」と言っています。
ボイジャーは地球文明のタイムカプセルだった、と言った方がいいかもしれない。
どこかで地球外知的生命体と遭遇することを夢見てひたすら旅をしていると言うことです。

人生のある時点でその時の状況が良かったとか、悪かったとかという事が、言えないのではないかという事を学びました。
もし戦争がなかったら音楽への関心が芽生えなかったかも知れませんし、全てがその時が最善だと思って努力することが、最善の人生なんじゃないかなと言う実感があります。
過去は過ぎ去ったもので存在しませんし、未来もいまだ来ていないのでこれも存在しない。
あるのはこの一瞬しかない、過去が積み重なって今があるので、未来をどういうふうに今から生きるかによって、いかようにでも未来も変わるし過去も変わって行くと言うことになると思う。
従来はこれまでの過去がこれからを決めてしまうと言いますが、これからどういうふうに生きるかということによって、これまでの過去の価値が変わってくる。
これまでがこれからを決めると言う事ではなくて、これからがこれまでを決めると言う事ではないでしょうか。
何かを始めようとする時に良い時期、悪い時期はないんじゃないかなあと思います。
思い立った時が最良の時期だと思う。

詩にも音節、リズムがあり言葉にも文法があり、詩の中に音楽的要素があると言うことです。
数学的構造もある。
数学者が詩を好きだと言う事は不自然なことではないと思います。
童謡詩人金子みすゞさんも好きな詩人の一人です。
「さびしいとき」
「私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。」

寄りそうという事の真髄を詠っていると思う。
私というものと仏様が完全に一体化してしまっている。

リベラルアーツの教育。
戦後アメリカから入ってきて、日本では教養教育と訳してしまったが、これは問題だと思う。
自由に心を解放するための学問で、7つの教科があるとされる。
数学(算術、幾何)天文学、音楽、国語(文法学・修辞学)、論理学。
例えば「月がなかったら音楽が無かったよね」・・・テーマ
40億年前に火星の1/3位の天体が地球にぶつかって、地球の片が飛び散って重力により固まったのが月。
衝撃で地球の自転軸が23度半位傾いたことにより四季がある。
潮の満ち引きで地峡の自転軸にブレーキがかかり今の時間になった。
月がなかったら一日5,6時間で回っていた。(風速400mだった)
と言う事で「月がなかったら音楽が無かった」ということになる訳です。
リベラルアーツの教育の結果、究極的に言うと、宇宙の産物としての人間の位置づけができる。
どうあらねばならないと言う事で、ひいては平和教育に繋がる。

ボイジャー1号が海王星の探査の終了後、太陽系の家族写真を撮るが、送られてきた写真には針の先のような青い孤独な地球の姿が見える。
全てはあの点の中にいるんだよ、大事件が起こってもどこからも助けにきてくれる気配なんかゼロだよね、と言う事であります。
世界の指導者たちに宇宙から地球を眺めてもらうと、何か変わるのではないかと思います。
4年前に前立腺がんが見つかり、治療の非常に難しいと言われる導管癌ということだった。
統計的には3年が限度、5年生存率は非常に低いと言われる。
統計は中央値があると言う事ですが、5年経ったら必ず死ぬと言う事はならない、と言うことです。
確率論につきつめて言うと、先に一日でも二日でもいいから生きちゃった方が勝ちだと言うことです。
病と闘うと言う表現が使われるが、病気と闘うとこっちも疲れてしまうのではないかと思います。
「僕が死んだら病気君、君も死ぬんだから二人で死んでしまうのはもったいないよね。
だったら、しばらく一緒に行きましょう」と言うのがいいんだと思います。
自分の体は存在しない、だから病気になった時は一緒に住みましょうか、という位の気持ちでいた方がいいんじゃないかと思います。
私の身体も宇宙の一部、星のかけらですと言うことになります。
「詩人のための宇宙授業: 金子みすゞの詩をめぐる夜想的逍遥」を出版。
80冊位書いているが、一度こういう本を書きたかった。
カバーには数式が書いてあるが全部僕の思い出のある数式で、隅々まで僕が楽しみながら作った本です。
生きるためには一歩一歩、道標を自分で作っていくことが必要だと思います。
身近な目標から何年後までの目標。
目標を達成するためには準備が必要。
ピアノ演奏発表、ボイジャーに関する事を自分でシナリオを作りながらやりました。
ショートレンジでは各シーズンごとに数学物理の講義もしています。
身近なところから自分の目標を立てて考える、と言う事をやることによって、その一日を生きることが、これから先の生きることの確立を大きくする、と言うことです。
















2019年3月26日火曜日

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)
1935年東京生まれ、東京大学物性研究所や大手電機メーカーの研究所を経て、玉川大学、県立宮城大学教授、鈴鹿短期大学の学長を務めました。
1970年代にナサ、アメリカ航空宇宙局が打ち上げた宇宙探査機ボイジャーにバッハの音楽を乗せることを提案したことでも知られています。
今佐治さんは美瑛町の天文台長を務めながら、講演活動や小中学校でリベラル・アーツの教育に取り組んでいます。
80歳の時に前立腺がんを患い病気を抱えながら、人生を生き生きと精力的に活動する佐治さんに伺いました。

現在84歳、あっという間の84年でしたが、太平洋戦争を初め、今話しておかなければ永遠にうずもれてしまう話もありますので、貴重な体験事実などを含めて書き遺したいと思って忙しくしています。
美瑛町美宙天文台は2016年にオープンしました。
40cmの反射望遠鏡と太陽表面観測専用の望遠鏡を備えています。
天文台の設置の提案をしました。
現代は〇○ファーストの時代で戦争にも繋がる危険な考え方で、私たちは相互依存の関係の存在だという意識の欠如から来ていると言うふうに感じる訳です。
我々の宇宙は138億年の昔にたった一つの光からできたと言う科学的事実から明白なことで、根源が同じならばお互いに相互依存していると言うことです。
宇宙と人間とのかかわりを科学的な立場から伝えるには、宇宙を見上げることが一番で、そこで天文台ということになったわけです。
講演会、学術講義などもあり、海外の方からも含めて来訪者が多く来ます。
60%位が町外から来ます。

世の中は見えないものが多い。
昼間も星は見えないが、万一星が見えれば見えなくてもあると言う事が感じていただければいいと言う事で、昼間の星を見せることにしました。
「星とたんぽぽ」 金子みすゞ
「青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。」

世界は見えないものだらけなんですね。
現在の宇宙論から言うと、見えるものは5%位だと言うことです。
後の95%は暗黒物質とか暗黒エネルギーというようなものになっています。
見えなくてもあると言う事で、昼間の星を見せることにしました。
昼間の星を観るとまるでダイアモンドの炎がはじけているように見えるんです、物凄く美しいです。
それは一等星から二等星位です。
まど・みちおさんに真昼の星を見せたことがありますが、観測室の中に数時間いらっしゃったと思います。
最期に一言「あー、これが光そのものですね」とおっしゃいました。

景色を見る時には景色の中の一点は見ない、望遠鏡で星を見る時には、星と一対一で向き合っていると言うことになるわけです。
星を見ているのは私ですが、星から逆に見られている、という感覚です。
正岡子規が詠っています。
「真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり」
今見ている光は過去の光です。
オリオン座は数百年前のもので、過去から現在までの時間の厚みを一瞬に凝縮して見ているということです。
時間空間が自分と一体になる。
戦後間もなく、中学生の頃の事ですが、戦前戦後にアマチュアの彗星探索家として世界中に知られていた本田実という方がいました。(生涯に彗星12個、新星11個を発見した)
本田実さんに憧れて岡山県の倉敷の天文台まで尋ねて行ったことがあります。
「どうして本田先生は星を観るのが好きなんですか」ときいたら、「お金のある人にもない人にもどんな人にも訳隔てなく、星は姿を見せるからね」とおっしゃいました。
本田さんはその後岡山県の長島に、愛生園というハンセン病を隔離してしまうところですが、このハンセン病棟に天文台を作っています。
もう二度と家にも帰れない、肉親にも逢えないと言う、ハンセン病の方々に星を見せたいと言う事だった。

10年前ぐらいに、金子みすゞに関する講演会が旭川でありました。
主催者の方に美瑛町に連れて行ってもらいましたが、その方から電話があり、土地を紹介して貰い、見に行きました。
そこで吹く風の音に魅入られて来てしまいました。
私が6歳で太平洋戦争でした。
兄とは年齢差があり一人っ子のような感じでした。
国語の教科書を読んで、月光の曲に関する作り話に共感して、音楽に憧れました。
昭和16年には太平洋戦争がはじまり、ピアノを弾くような状況ではありませんでした。
昭和17年4月18日に前触れもなくアメリカの爆撃機が飛んできましたが、初空襲でした。
学級担任の先生が宮沢賢治の童話を読んでくれる仙台出身の先生で、日本には2台しかないプラネタリウムを見ておいた方がいいと言う事で、有楽町に連れて行ってもらいました。
プラネタリウムを見て虜になりました。
父からはパイプオルガンを聞くように言われて、一緒に行きました。
軍服姿でゲートルを巻き、「軍艦マーチ」、「海ゆかば」、「空の新兵」などでした。
軍歌に混じって天の奥から舞い降りて来るような不思議な音楽が聞こえて、兄が「これがバッハだよ。」と言ってくれました。
パイプオルガンとバッハに目覚めた一瞬でした。

東京の初めての空襲を伝えておきたいと思いました。
空襲警報もならず、戦争の悲惨さ、非合法化、子供達の体験、非戦闘員がどのようにして戦争に巻き込まれていくのかという実体験です。
機銃掃射も受けました。
庭先に防空壕を作って段々食料も少なくなり、東村山、所沢などに買い出しに行って、金では売ってくれないので、着物帯締めなどを持って行って物々交換でした。
兵器を作るためにお寺の鐘も無くなりましたし、金属はすべて国が召し上げました。
空襲が激しくなって疎開をすることになります。
「夕焼け小焼け」の替え歌をうたっていました。
「夕焼け小焼けで日が暮れない。 山のお寺の鐘鳴らない。お手手つないで帰れない。」
なんて歌っていました。
街は焼けているのでしょっちゅう夕焼けなんです。 
山のお寺の鐘は兵器をつくるために召し上げられて鳴らない。
だからお手手つないで帰れない。

灯火管制、電燈に黒い布を掛けたんですが、爆撃機からはレーダーで見て居た訳ですが。
私はヴェートーベンの月光のレコードを布団をかぶって聞いていました。
鉄の針が無くなって、竹の針を使って聞くようにしました。
竹槍にするため竹の針も作れなくなりました。
最期ははがきの角を利用して聞いたこともありました。
特定の視点からだけから眺めるのではなくて、他との関連において総括的に理解してゆく能力が問われると思うので、専門馬鹿にならない。
リベラルアーツ教育がとても大事なことだと、心の中に再び燃えて来ました。
昭和、平成と科学が物凄く発展して、人間がやるべきことと人工知能がやるべき事の振り分け、役割分担が非常に曖昧になってきて、非常に危ないと言うような陰りが出てきたように感じます。
宮沢賢治の最期の仕事、自分の信念を打ち出した「農民芸術概論綱要」の中で「銀河文明の一員として生きましょう」と言っています。
宇宙とのかかわりの中で、我々のありよう、生き方とか、そういうものを頭に置きながら第一歩を踏み出せる時代になって欲しいと思っています。


































2019年3月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】小泉八雲

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】小泉八雲
「私ほど境遇の奴隷と呼ぶにふさわしいものはいないでしょう。
色々な力に押しまくられ最も抵抗の少ない方向に流されてきたのです。」 
(ヘンリー・ワトキンへの手紙の一節 小泉八雲

ドナルド・キーンさんが亡くなられました。
日本人が日本の古典文学等にあまり関心を示さないようなことをうれいていました。
アメリカから日本にやってきて、日本国籍を取って小泉八雲という名前に変えて、日本人に日本のどこが素晴らしいのか教えてくれた人でした。
頭に浮かぶのが「怪談」です。
NHKの「日本の面影」と言うTVドラマ、小泉八雲の生涯を描いたドラマで、見てこんなに魅力的な人かとびっくりしました。  小泉八雲の妻のセツさんが小泉八雲が亡くなったあとに「思い出の記」を書いていて、その中に出て来る小泉八雲がすごく魅力的なんですね。

境遇の奴隷と言ってますが、そういうにいうのも無理がないほど、おいたちがかなり複雑です。
1850年6月27日  レフカダ島(地中海の小さな島)生れ。
母親はギリシャ人、父親はアイルランド人でイギリス軍の軍医としてギリシャにやってきて結婚する。
アイルランドに戻るが、父親は任務で海外に赴任してしまう。
母親は慣れない土地で精神を病んでしまう。
母親は子供のハーンを残して一人でギリシャに帰ってしまう。
両親はそれぞれ別の相手と再婚してしまう。
ハーンは大伯母に育てられるが、大伯母は金持ちで若い投資家にいれあげて破産してしまう。(ハーン17歳)
学校にも行けなくなって、ロンドンのスラム街をさまよいあるくことになる。
19歳で一人でアメリカに渡り、職を転々としながら図書館でむさぼるように文学を読んでいた。
22歳になった時に原稿を新聞社に持ち込んで採用され旅行記を書くようになる。
日本に行って旅行記を書かないかと出版社から提案があり、日本に来ることになる。

「いかなるものも愛すまいと心に誓いながら、くるおしいほど激しく愛してしまう、さまざまな土地に、さまざまな事物に、様々な人物に激しく惹かれてしまう。
そしてごらんなさい、すべては泡沫の様に消え去り一条の夢と化す。
まるで人生そのものの様に。」 (ヘンリー・ワトキンへの手紙の一節 小泉八雲)

日本に来たハーンは日本の素晴らしさに夢中になる。
「知られざる日本の面影」という本に、日本に来た時の印象を克明に描いている。
島根県の松江の中学校の先生になり、松江が凄く気に入る。
松江の朝の情景を美しい文章で書いている、特に「音」に対する感性が鋭い。
16歳の時に事故に遭い左目を失明して、以後性格が変わったと言われる。
右目もかなり近眼であったようで、耳の鋭さが、敏感なのが特徴だと思います。

「神々を相手に途方にくれないものがあるだろうか。
生そのものが迷夢以外の何ものであろう。」
(「夏の日の夢」から引用)
両親との別離、貧乏、失明とか神様はどうしてこんな目に合わせるのだろうかと思ってしまう。
松江の中学校の西田先生と凄く仲良くなるが西田先生は結核になってしまう。
「あの病気 いかに神様は悪いですね。 私、立腹。
あのような良い人です。   あのような病気まいります。
ですから世界はむごいです。 何故悪しき人に悪しき病気まいりません。」

ハーンは松江でヘルンさんと間違われて呼ばれたが、面白がってそのままにしていた。
妻もそのように呼んでいた。
妻は小泉セツ(島根県士族小泉湊の二女)
困窮していて、外国人の家にお手伝いさんとして働きに行くことは、屈辱的な仕事だったが、それほど困っていた。
セツさんも境遇の奴隷と呼ばれるような状況だった。
ヘルンさんは小さいもの、弱い者に対して優しいが、その反対の人には物凄く腹を立てる人です。
そのせいで人間関係の問題を色々起こす。
優しくて怒りっぽい人です。

私(頭木弘樹)も病気をしましたが、病気をすると自然の美しさが物凄く胸に刺さるんですね。
ハーンも自然が大好きで鳥とか虫とかが大好きで、そういうものの見方には不幸の環境とか失明した事が関係していると思います。
幸せで元気な時には見逃していた魅力が、気づけるようになったんだと思います。
「耳なし芳一」は気に入っていてのめり込んで書いて行った。

「虫の声一つあれば優美で繊細な空想を次々に呼び起こす事が出来る国民から、たしかに私達西洋人は学ぶべきものがある。
自然を知ると言うことにかけては大地の喜びと、美とを感じるということにかけては、古のギリシャ人のごとく日本人は私たちをはるかにしのいでいる。
しかし西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力を判り始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまった時、つまり美の代わりに実用的なもの、月並みなもの、品のないもの、全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いた時のことになるだろう。」
(「日本の心」より)
ハーンが日本に来たのが明治23年(1890年)、日本が西洋化を進めている処を目にしている。
後の日本を予測している、警告を含めている。
役に立たないものは否定されてしまう、不要とされている人とかものとかが実は世の中をどれほど潤しているのか知れない。
ハーンは見向きもされなくなった、切り捨てられて行くものに対して、目を向けてその美しさ、魅力を発見していった。
ハーンはいいところがあると言って、妻を蛙の鳴き声のする墓場に連れて行く。
怪談を好んだのも同じことで、迷信とか怪談は世の中がどんどん発展してゆく世の中では
真っ先に追いやられてしまうが、小泉八雲はそれをいつくしむわけです。

「25年前のある夏の夕方、ロンドンの或る公園で、私は少女が通り過ぎる或る人に向かって「さようなら」と行っているのを聞いたことがある。
それはただ「さようなら」「Good Night」という短い言葉にすぎなかった。
私はこの少女が誰であるかを知らない、顔さえ見なかった。
声も二度とは聞いてはいない。
それなのにその後100回も季節を送り迎えした後まで、その「さようなら」「Good Night」という少女の言葉を思いだすと、喜びと苦痛の不思議に入り混じった感動に胸を締め付けられる思いがする。
愛情から出た言葉には全人類、幾百億の声に共通する優しい音色がある。」
(「門付け」という本の文章の一節)

通りすがりの人からの何でもない一言で、こんなにも胸をゆすぶられるのは絶望している人にしかあり得ないことだと思います。
今失われてしまっている、軽視されていしまっている、思いやり、はかなさ、脆さ、美しさ、そういったものがとっても魅力的に描かれている。
とっても大事なものを失ったんだぞと、気付かせてくれるのが、小泉八雲だと思います。




























2019年3月24日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
*「フレンチカンカン」 ジャック・オッフェンバック作 歌劇「天国と地獄」から「地獄のギャロップ」
運動会で良く演奏される曲。
オッフェンバックは1819年生まれ 生誕200年
沢山のオペレッタを作曲。
オッフェンバックの遺伝子。

*「ホフマンの舟歌」 オッフェンバックの遺作『ホフマン物語』の二重唱
1858年に初めてオッフェンバックの音楽がウイーンの劇場で上演される。
スッペはオッフェンバックに刺激されてオペレッタを作る。

*「軽騎兵序曲」 スッペ作曲
勇ましいメロディーはなじみ深い。
晩年に「ボッカチオ」と言うオペレッタを書く。

*「恋はやさし野辺べの花よ」  スッペ作曲 オペレッタ「ボッカチオ」より

浅草オペラ 1917年から6年間ぐらい、日本に西洋音楽が入ってきて、浅草オペラは大衆のものになってきた。
浅草オペラはスッペの作品を沢山上演したが、オッフェンバックの「天国と地獄」、ビゼーの「カルメン」、モーツアルトの「魔笛」をもとにした歌芝居なども上演しています。
 
*「麗しの人よ聞いて ベアトリーチェ」  スッペ作曲 オペレッタ「ボッカチオ」より
*「 ベアトリーねえちゃん」 浅草オペラでの同曲 

*ワルツ「春の声」 ヨハンシュトラウス作曲

2019年3月23日土曜日

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)   ・「楽しく老いる秘訣」

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)   ・「楽しく老いる秘訣」
古希を迎えた70歳から市販の手帳に「すごいトシヨリBOOK」という題名をつけて自分や身の回りの人の老いのしるし、兆候などを観察して記録してきました。
77歳にはこの世に居ないと予定を立てて書き始めたこの観察手帳も、いつの間にか期限を過ぎ、老人になって気付いた事の記録も膨大になっていました。
その記録を整理し、手帳と同じタイトルの「すごいトシヨリBOOK」を出版されました。
池内さんが老人になって気付いたことを記録し続けてきて、発見した楽しく老いる秘訣とは何なのか、伺いました。

老いた人間はそのなかに結構若さがあったり、悟りがあったり色んなものが混じり合っているので、タイトルも混じりあったものがいいだろうと思いました。
70歳を迎えて、60歳に対してかなり老けているので、記録を77歳までとってみようかなと思いました。
77歳を越えたらこの世に居ない事を想定して記録を取って見ようと始めました。
これは年寄りくさい、如何にも年寄りだとか、毎日気がついたりした事の記録です。
気力、体力も衰えて来るが、そこから身をそらすのは卑怯ではないかと思いました。
わざと老いに逆らってみると言うこと自体が老いのしるしです。
新しい言葉、カタカナ、若い人の言葉、早口がわからなくなってくる、だから世界が段々疎くなる、言葉から見放される。
しかし老人の宿命です。
元同僚、元同窓、元同じクラブとか、元がついて、そういうところに仲間ができて、共通点が多いし、年齢的にも近いので集まって話がしやすいので、元なんとかと群れるという特性があります。
群れる中では何にも出てこないんじゃないかと思います。

年寄りは不機嫌ですね。
おしゃべりが終わった後のなんかうつろな感じがする。
群れないで色々観察したり耳を傾けてひとりでいることを選んだほうが、毎日が楽しいんじゃないかと思います。
物がなくなって探してしばらくしてから見つかったりしますが、ものがもののけになって悪戯をしてると考えるんです。
老化早見表 三角のピラミッドがあり底辺が老化の始まりで、段々進行して行って頂点に達する、その現象が書いてあって自分がどのあたりにいるか、一目でわかるようにしたものです。
3段階ぐらいでいいです。

第一段 ①失名症(名前を忘れる) ②横取り症(話を横取する) ③同一志向症(靴など決めた所に置いていないと非常に不愉快) ④整理整頓症(きちっと整理して置かないと落ち着かない)⑤せかせか症(せかせかしている) ⑥過去すり替え症(過去の武勇談、自慢話があるが、願望が事実になってしまうようにすり替えてしまう)
⑦一時的記憶脱落症(二階から降りてきてなにしに降りて来たんだっけと一時的に忘れてしまう)
第二段 ①年齢執着症(やたら年齢に執着する 相手の年齢が気になる) ②ベラベラ症(対話を始めたら直ぐに横取りして、ベラベラとしゃべってとどまる処が無い)
③失語症(言葉が出てこない) ④指図分裂症(指図したがる 指図される側になるのを嫌がる) ⑤過去ねつ造症(過去すり替え症のもっと進んだ形) ⑥記憶脱落症(出掛けた理由が判らず天をにらんで立ちつくすような脱落状態)
第三段 ①忘却忘却症(話したと言う事を忘れて、忘れたと言う事を忘れる 老化の極みに近い 自分では手の施しようがない)

「お金を使わないで暮らす術」
暇ができて、お(O)金を使(T)わないで暮(K)らす時間を楽しむ術(J)、知恵を養った方がいいのではないないかというのが私の考えです。
「OTKJ」
①自分が住んでる街、近所の街の祭りをメモしておいて、月に一回ぐらいはその祭りを楽しむ。
②美術館はいつ行ってもいいし、何時間居てもいい。
常設館では安いし、いいものがある、人も少ない。
③自立の進め、TVと手を切りなさいと言うことです。(情報からの自立)
TVの製作は若い人がやっている。(老人からの目線ではない)
自分で考えることが必要。
ラジオはいつでも自由に聞ける。
「ラジオ深夜便」の人気のあるのは、そこに自分が求めている馴染みやすい声の時間があるという素朴な喜びと、自分の感覚が或る程度納得できるような形で番組が作られている、それが特徴だと思います。
TVを置かなければ夫婦の対話もできる。
家族からの自立、一緒という事がよきことのように感じるが、妻からの自立。
夫婦旅行をする時には、各々自由に見て回ったりすることで、お互いの見聞の話ができる。
④自分の行きつけの店をあちこちに作る、休みどころ。(喫茶店、居酒屋など)
宿などもいくつかあるといいと思う、自分の別荘といった感覚で。
⑤老いたらおシャレになりなさい。
しゃれた服を着ると言うのではなくて、近くのコンビニとか郵便局に行く時でもちゃんと着替えをするという事が書いてありましたが印象的でした。

老いと病
故障が治るものと治せないものが出てきて、治せないものが病に繋がって行き、死が徐々に近づいて来ると言う事があるが、目をそらさないで見ておく。
自分の責任でどう生きるかというその生き方が、どう死ぬかという死に方に結びついていると思います。
病があっても、強い薬を飲むとか手術をするとかして治そうとするが治そうとしない、、自分の中にある病気と共に生きる、共生、そして何年間か過ごして終わりになる、そういう生き方を私は考えています。
風の様に亡くなる、そういうふうに亡くなりたい。
目標の77歳は過ぎてしまったので、もし生きていれば3年単位で「おまけの人生手帳」として、3年単位で更新して行こうと思っています。





























2019年3月22日金曜日

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子
須賀敦子さんは昭和4年兵庫県芦屋市生まれ、昭和33年からミラノに暮らし、日本の近代文学をイタリア語に翻訳し、イタリアの人達に紹介しました。
日本に帰国してからは、大学で教えながらイタリア文学の翻訳などに取り組みます。
平成2年イタリアでの体験をもとにした初の著作 「ミラノ霧の風景」で注目されます。
平成10年3月に亡くなられました。(69歳)

亡くなってからファンが増えてきて、段々若い人のファンが増えて来ました。
「ミラノ霧の風景」が出た時には吃驚しました。
インタビューをしたのをきっかけにお付き合いさせていただきました。
須賀さんは自分の過去のことについてあまりお話にはなりませんでした。
職業作家とは違って、自然と書くことが自分で書くことが必然であって、その切迫した思いが形になったのが60歳を過ぎてからで、生きることへの思い、もどかしさ、困難、そういう事が行間に溢れているわけです。
素晴らしい文学作品だけではなくて、須賀さんが生きてきた道を知りながら読む事によって作品をより深く読めるし、それが須賀敦子という作家を本当の意味で知ることになると感じました。
「ミラノ霧の風景」で女流文学賞を受賞することになりました。
自分の体験を蒸留して、どのように文章として伝えるか真剣に問うて書かれたものので他にはない文芸作品です。
ジャンル分けを虚しくさせてしまうほどの文芸書だと思います。

『コルシア書店の仲間たち』が出た直後に、話を伺いに行きました。
一見静かで控えめな態度ですが、親しくなると物凄くお茶目でユーモラスでお喋りです。
言葉の世界を豊かにもった方です。
あっという間に現れてあっという間に亡くなられました。
ミラノ、ベネチュア、ローマ 同じ風景の処に身を置いてみたい思いと、作品の中に出て来る地名、固有名詞を全部リスト化してその場所にいったり、人物にお会いすると言うような形を取りました。
土地を知ると言う事は作品の理解に繋がるし、豊かな旅でした。
須賀さんの作品の中から最善のものを引き出そうと言う覚悟を持って旅をしました。
写真と文章が一緒になっていて、ガイド的な意図をもって本を作りました。
帰国後から書き始める時間の方がずーっと長いので、一体どうしてこの人は時間を過ごしてきたんだろうと思いました。
「書きたいと思っても書けなかったのよ」とインタビューの時に言っていました。
過去の仕事を含めて一番自分で気になっていたことに、答えなければならないという思いがあったのが「須賀敦子の旅路」という本です。
前に書いたミラノ、ベネチュア、ローマの後に、東京での日々を取材して新たな一冊が生まれました。
ようやく宿題が終えたと言うような思いでした。

須賀さんは日本に帰ることに関しては思い悩んだと思います。
長い間外国に出た人にとっては日本はしんどいところだと思います。
新たに仕事を見付けなければいけないので、悩まれたと思うが、帰ってきてよかったと割に直ぐに新聞取材で言っていました。
戦争に突入して、戦争をくぐりぬけて、戦後日本はどうやって生きていけばいいのだろうと、国として日本人としてと言うような問いを、せざるを得なかった世代ですよね。
みんなが同じ方向に歩かされて、戦争に突入してもそのことに声をあげられなかった、そういう姿をどのように変えてゆけるか、考えざるを得なかったと思うので、私たちの世代とは違う使命感はあったと思う。
日本に帰ってくることによって、自分がこれまで考えてきたことを実現できるという確信を持っていかれたのではないかと思います。
13年暮らしたイタリアから42歳の時に日本に帰ってくる。
「ミラノ霧の風景」で私たちを吃驚させる、その間20年余り、知らない事がいっぱいあります。

大学の教授として仕事をする。(50歳過ぎて)
翻訳、通訳などもこなしていた。
カトリックの団体でボランティアを束ねる事もやっていました。
社会に具体的に関わりたいと言う思いが強いし、身体を使いたいと言う思いがあったようです。
戦後間もなく大学院まで行っていましたが、結婚というよりも学者の道を歩むのが当然なわけですが、作られた道を歩むのはどうしても厭だと言っていました。
道は自分が切り開くものであって、社会が作った或るルートに乗っかることは、生きることではないと言う強い思いと確信があったと思います。
自分のどうしても気になる生きると言う事、自分にとって必然の意味を探るために勉強していると言う事はどうしても譲れなかったと思います。
なので当然廻り道になるわけです。
60歳になって自分の生きる道を探ることと、社会に対して自分を表現するものが文学において一致した処が貴い長い道のりだったと思います。

美しい文章だといわれるが、ああしか書けない、決して美しく書こうと思ったことはないと須賀さんは言っていました。
必然から出た美ですね。
自分のまわりで亡くなる人が出てきて、死者の世界が近くなった時に、初めて自分が書く意味を見出したところもあったのではないかと思います。
追憶すると言う事が自分にとって自然にできた時に、文章が流れ始めたと言う事はあったと思います。
イタリアにいる頃詩も書きましたが、やめて散文家としてデビューされました。
それも謎に残ります。
日本の文学もイタリア語に翻訳して紹介していました。
1965年に出した日本現代文学集には25の文学作品が紹介されています。
夫ジュゼッペ・リッカと協力して、夏目漱石・森鷗外・樋口一葉・泉鏡花・谷崎潤一郎・川端康成・中島敦・安部公房・井上靖・庄野潤三などをイタリア語訳。
後半の作家の作品はあまり知られていない作品が紹介されている。
イタリアでは手にするのが困難なものをどうして本、資料を集めたのか、そしてどうしてその本を選んだのかも謎です。
この本によってイタリアの若い世代の日本文学ファンが育ったんです。





























2019年3月21日木曜日

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」
70歳、皇室の祭祀をつかさどる部署、宮内庁掌典職の一員として昭和48年から28年間使え、昭和の大葬と平成の即位の大礼など、宮中祭祀の伝統を守り伝えて来ました。
神社の家に生まれ育った三木さん、京都御所に出仕していた24歳の時、皇居で働くことになりました。

普段は白い着物と白い袴、白衣白袴と言います。
権禰宜(ごんねぎ)の場合は青い袴を付けます。
皇居での神職の仕事は色ものはありません。
色が着くと言う事はそれだけ人の手の手を経ると言う事なんで、穢れが多くなるという考えがあります。
今上陛下が4月30日に、皇太子殿下に譲位されると言う事で、5月1日に天皇の位につかれます。
天皇陛下が変わられても宮中のお祭りは脈々と続きます。
退位は譲位という言葉が正しいと私は思っています。
践祚(せんそ)は「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。
神職に付いている人は「践祚」が一般的です。

昭和46年に宮内庁京都事務所で認容されました。
昭和47年に第88代の後嵯峨天皇山稜700年祭が京都で行われました。
その時に私の出身が神社であることが判って、掌典職の人が足りないので来てくれませんかと言われて、48年に3月に行くことになりました。
実家は御香宮神社です。
宮中三殿は、皇居の西側、吹上御苑の一角にあり、およそ2200坪位の敷地があります。
宮中三殿は、賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の3つがあります。
賢所(かしこどころ)は皇室の先祖である天照大神がお祭りされています。
皇霊殿(こうれいでん)は歴代の天皇陛下と皇后陛下初め皇族の御み霊(おみたま)およそ2千数百をお祭りしています。
神殿(しんでん)は日本中の神々、八十万神(やそよろずのかみ)、全ての神々をお祭りしている御殿です。
総檜作り、屋根は銅板葺きです。
天孫降臨という、天照大神の孫邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。
『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
それ以降天皇陛下がお祭りをされると言う事で、住まいの御殿にお祭りをされていたが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時に、そこでするのは畏れ多いと言う事で、大和の笠縫邑に祭られました。
第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時に伊勢の五十鈴川(いすずがわ)川上にお祭りをされました。
これが現在の伊勢神宮の内宮様になります。
全く同じ御鏡を作りまして、別の御殿でお祭りをされましたのが、賢所(かしこどころ)になっています。

皇霊殿(こうれいでん)はもともと京都御所時代はお黒戸と言うところで、女官が仏式でお祭りをされていました。
明治になって国家神道、廃仏毀釈になって、仏式でお祭りをしていたのを神式に改めました。
それで皇霊殿(こうれいでん)を作ったわけです。
神殿(しんでん)は京都の吉田神社でお祭りをされていました。
明治天皇のおぼしめしで皇居に移され神殿(しんでん)が作られました。
三つの部屋があり内々神に神様がお祭りされていて、内神は天皇陛下がお参りをされる場所、その外に下神があります。
宮中三殿をお守りするのが、掌典職の職員の人達です。
私がいたころは23人居ました。
掌典長が1人、掌典が6人、掌典補が6人、出仕が3人、女性で内掌典が5人、雑仕が2人という構成です。
天皇陛下の私的機関で、掌典補だけは国家公務員です。
歌会始の事務全般を掌典補がやります。

平日は8時半から5時までの勤務になります。
宿直の時は午後5時15分から翌朝8時30分までとなります。
神様というより貴い方がお住まいになっているという考え方で対応させていただいています。
明治の建物なので火災には気を使っています。
年間60回位の祭祀があります。
皇霊殿の御祖先のお祭りもあり、御命日に行います。
毎月1日11日21日に旬のお祭りもあります。(35回/年)
大嘗祭は天皇陛下が即位された最初の年に行う新嘗祭をいいます。
新嘗祭(にいなめさい)は11月23日に、天皇五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます
2月17日に祈念祭 としごいのまつり、一年の五穀豊穣などを神様に祈るお祭りがあります。
そしてお陰さまで立派なものが獲れました、どうぞお召し上がりください、と言うのが新嘗祭です。
お願いと御礼の表裏一体なんです。
天皇陛下が自らお供えになる。(新嘗祭)
正座で2時間で2回、合計4時間行います。
気持ちを入れないといけないので大変です。
皇太子も同席しますが、ずーっと同じ姿勢です。
国が平和で繁栄しますように、国民が安寧に幸せに暮らせますように、とお祈りします。

一番大変だったのは昭和天皇の大葬であり、今上陛下の大礼をどうするかという事でした。
一番ネックは天皇陛下がお元気なころに大葬の研究をすることは不敬であると言う事で、隠れてやるしかない。
昭和26年に亡くなられた大正天皇の皇后さまの記録がありましたので、それを書きうつすことから始めました。
その後大正天皇の大葬の記録にかかりました。
当時掌典次長をしていた前田利信 (旧富山藩主前田家15代当主)さんに頼んでその記録を貸していただきました。
200冊位ある膨大な資料で、墨で書かれていたのを原稿用紙に書き写しました。

平安時代から続く儀式で、「斎田点定の儀」では、宮中において、亀甲を焼き、その焼け方によって神意を伺う「亀卜(きぼく)」が行われる。
悠紀殿供饌 (ゆきでんきょうせん) の 儀 ・ 主基殿供饌 (すきでんきょうせん) の 儀 があり、悠紀殿と主基殿にお供え物をします。
お供えのお米を悠紀田、主基田から獲れたお米からお供えします。
悠紀の国、主基の国を選ぶのに「亀卜」といって亀甲を焼き、その焼け方によって決めます。
アオウミガメの甲羅を手に入れないといけないが、何処に声を掛けていいか全く判らなかった。
小笠原で養殖しているのを聞いて、探していただいて自然死した亀を送っていただきました。(130cmの長さが必要)
昭和63年9月病気回復の記帳に来た人の中にたまたま「亀卜」の細工を作ったと言う人が来ました。
はぼ60年ぶりに作っていただき、無事におさまりました。
うわみずさくらを燃やしてその上に亀の甲羅をかざすと、うまくヒビが入ってそのヒビによって吉凶を占う訳です。
桜も探して吉野から送っていただきました。
その時これだけ国民が思って下さるなら大嘗祭は成功すると思いました。 
自分が受け継いだものだけは変えないで伝えていきたいと思います。
































2019年3月20日水曜日

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~後編 

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~後編 

12歳で三遊亭金馬師匠に入門、三遊亭金時と言う名前で高座に上がる。
若い人は兵隊に行っていなくて、楽屋では重宝されました。
何にも知らない子供だから当たり前と思っています。
当たり前だと思うと、辛いと言う事を思ったことはなかったです。
昭和20年に「二つ目に昇進する」、と師匠から言われる。
ビルの地下で他の師匠らとともに鴨のステーキを御馳走して貰える。(8月25日)
前座も居ないし嬉しいという気持ちはなかった。
師匠に連れられてドサ周りなどしました。
当時はつてがないので地方で演芸物をやるのに、地方のNHKから本部の方に連絡してやったりしていました。
間を持たせるために、お祭りの屋台で30分ぐらい持たせなくてはいけなかった。
何でも屋になり、重宝がられました。
昭和33年に真打ちになりました。
三平、歌奴が真打ちになり、自分も真打ちにして欲しいと女将さんに言ったら、鶴の一声で動いてくれて真打ちになることができました。
昭和30年には「お笑い三人組」に出て、TVは昭和31年でした。
世間的には小金馬として有名になっていました。

稽古は「お笑い三人組」で忙しくてなかなかできませんでした。(27,8歳)
お金が溜まってから家を建てるのではなかなかできないので、家を建てるために借金をして建てるように言われてそのようにしましたが、嫁さんが来ても借金だらけでした。
「ミスター・エド」という民放の番組がありましたが、昭和37年からやりました。
(アメリカの人語をしゃべる馬のエドを主人公にしたテレビドラマ。)
馬が口をもぐもぐするのに合わせて吹き替えをする、それをやりました。
3年間ぐらいやりました。
当時「ローハイド」などアメリカ映画が一杯ありました。
吹き替えではあまり人間の役はやった覚えがないです。
民放の青春ドラマ、「でっかい青春」「進め青春」などで生徒の父親役として出演しました。
「お笑い三人組」が終わった後に、「脱線トリオ」「てんぷくトリオ」など三人が組んでやるものが色々出てきました。
「笑点」にも一時出演していました。
当時は始めた時で三遊亭 歌奴さんなどと、大喜利をやっていました。
途中で大喜利を辞めたが、段々視聴率が落ちてきてディレクターから助けてほしいと言われて、歌奴さんと漫才みたいなことをしたこともあります。
何でもかんでもやりました、ストリップの合間のコントを歌奴さんとやったり、日劇ミュージックホールでも色々くだらないことをやりました。

78年間落語界でやっています。
柳家 花緑さんは中学、高校から、9代目林家 正蔵さんも高校から寄席に入ってきているので、長生きするとこの記録を破れるかもしれません。
1962年、1970年に芸術大賞を受賞しています。
1962年の時は創作落語会の代表をしていたので奨励賞をいただきました。
1970年は自分が一席やって御褒美を頂きました。(金馬になってから)
師匠が亡くなってから3年目に金馬を継ぐように女将さんから言われて、小さん師匠のところにいき、「5年位稽古をしてから継ごうと思うが」と言ったら、じーっと見つめて「おまえ5年稽古をして話が上手くなるのか」と言われてしまいました。
「なってしまえばいいんだ、勉強すればいいんだ」と言ってくれました。
当時の落語協会の会長の圓生師匠の処に女将さんが行って、よろしくお願いしますと頭を下げてくれました。

一生懸命噺を覚えて行きました。
圓生師匠と小さん師匠には本当にお世話になりました。
小さん師匠の「おまえ5年稽古をして話が上手くなるのか」と言われたあの一言がなかったら、金馬にはなれなかったのではないかと思います。
弟子は孫弟子を入れて5人います。
落語を教えてもらうのに学校みたいに思っている人がいるが、「教えて下さい」と言われないと私も教えません。
昔は3日位で噺を覚えたものですが、今の若い人は覚えるのがどうも遅いですね。
レコーダーでいつも聞けると思うので、本気で覚えようとしないんでしょうかね。
4月ぐらいから寄席に出させていただこうと思っています。






















2019年3月19日火曜日

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~前編         

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~前編   
去年7月に脳梗塞と心不全を起こして入院、その後懸命なリハビリで回復し今年の正月には元気に高座に復活しました。
12歳で落語家になった金馬さん、昭和30年代にNHKの番組、「お笑い三人組」でも活躍されています。

落語界最古参の落語家、90歳になります。
去年に7月に脳梗塞と心不全を起こしましたが、心臓はなんとか治ってくれて、脳梗塞は酷くなかったので、リハビリをして10月まで病院にいました。
今年の1月から落語をやらしていただきました。
その時は救急車が来てくれました。
往来で倒れた時もあり、タクシーの運転手さんが気が付いてくれて、病院へ患者さんを運んで空いた救急車があり、運転手さんが呼び止めてくれて救急車が運んでくれましたが、医師がもう駄目だと言う事でした。
息も無くて、妻が身体を撫ででいたら瞼がぴくっと動いて、先生が手当てをしてくれて何時間かして息を吹き返しました。(5,6年前の話)
今回も倒れて5日位意識不明で、気が付いて病院らしいなあと思いました。
落語の覚えた話をしてみたら出来たので、脳も大丈夫なのかなあと思いました。

リハビリも一生懸命にやりました。
作業療法と理学療法と二つあります。
作業療法をやってできると褒めてくれるんです、そうすると嬉しくなりまたやるわけです。
ひと月経った頃にはリハビリをやるのに呼ばれるのが楽しくなりました。
しゃべるリハビリも一日5時間位やりました。
どんどん効果が上がりましたが、ある日突然身体が動かなくなってしまいました。
3日目には動いてご飯も食べられる様になりました。
後でわかったことですが、リハビリをやり過ぎて疲れが溜まってしまったようでした。
歌丸さんが酸素ボンベをしょって管を入れながらやっていましたが、お客さんに聞いていただいて、死ぬまでそれが出来たらこんなうれしいことはないですね。

NHKの「お笑い三人組」は元々はラジオで始まりました。
昼間の12時半から始まり、評判が良くて、夜の7時からになり、TVが始まってTVでもやってみようと言うことになりTVで大当たりしました。
ラジオとTVの両方でやっていましたので、ラジオではト書き迄読むので台詞は多かったです。
10年間それをやりました。
生番組でやっていて、テーマ曲で最期の時間調整をして、職人技といった感じでした。
立ち稽古をして当日火曜日の夕方に2回ほど通し稽古をして、その前にジェスチャーの番組がありその後に始まるわけです。
生放送でやっていましたが、生という事をみんなあまり感じていませんでした。
3人は私(三遊亭小金馬 落語)、一龍斎貞鳳さん(講談)、江戸家猫八さん(物まね)でした。
女性陣が桜京美さん,音羽美子さん,楠トシエさんでした。
楠トシエさんは歌はうまいし、声は良いし話もいいし芝居も上手いし、当時のコマーシャルソングはほとんど彼女が歌っていて、あんなに達者な人はいなかった。
桜京美さんも女優で達者で、,音羽美子さんは女優で歌手でお嬢さんといった感じでした。
それぞれが特徴を出して面白かったです。
悪人は出てこなかったですね、不愉快な気持ちをさせなかった。
ちょんまげ物もありましたが、評判が悪くて半年で辞めて、元の現代劇に戻りました。

落語はラジオでは流行っていたがTVの時代になって、動くものという事で演芸で曲芸、奇術等もあり、演芸番組が増えて行き落語、漫才も加わっています。
そのおかげで地方でも落語、漫才も通るようになりました。
私が噺家になった頃(昭和16年ごろ)は東京から一歩でると地方では落語なんてなんなのか判らなかったです。
講談、浪曲などの人気から比べると全然低かったです。
面白いからレコードで売ろうと言う事で、レコードで売っていました。
落語が少しずつ通用する様になり、軍隊慰問などに行くと、落語漫才は手軽にできて笑えるので、落語、漫才が判ってもらえるようになりました。

1929年東京世田谷の生まれで、直ぐ深川に引っ越していきました。
一人っ子でした。
同年代と喧嘩すると兄貴が出てくるので悔しかった。
家は大衆食堂をやっていました。
柳家金語楼さんの兵隊落語ができると言う事で、酒を飲んでいる店のお客さん達の前でやったら上手いぞと言われて 「将来落語家になれるぞ」と言われて、きっかけはそこからです。(小学校1年生)
それからレコードを色々買って落語を覚えました。
親は浪曲は知っているが落語を知らないので、余り反対はしませんでした。
中学に行くつもりだったが、試験に落ちて、母親が演芸関係の人に相談して、東宝名人会の支配人から頼んでみようと言う事で、行ったがが師匠からまだこの歳ではと断られて、東宝名人会の見習いと言う事で入りました。
そこで教えてくれた人がいて10位教えてもらって、東宝の社長の秦豊吉さんが喋らして見ろと言う事で、噺をしたら面白いと言われて、月給を10円貰いました。
師匠がいるわけでもないので、失敗しても怒られる訳でもないし、遊んでばっかりいました。
うるさい師匠が良いと言う事で、金馬師匠が良いと言うことになり弟子になりました。
当時の寄席には浪曲、講談、漫才だけでなく、曲芸、義太夫、清元、新内流し、色んな分野の人が出ていました。
そういったものを全部見たり教えてもらったりしてもらい幸せでした。

























2019年3月18日月曜日

藤間勘十郎(日本舞踊家、歌舞伎舞踊振付師) ・【にっぽんの音】

藤間勘十郎(日本舞踊家、歌舞伎舞踊振付師) ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

高校1年生の時から振付師見習いという事で仕事を本格的に始めました。
勘十郎を名のったのは22歳からです。
1980年東京生まれ、39歳になります。
歌舞伎を支える藤間流宗家の8世です。
祖父は歌舞伎の名振付師と言われた人間国宝の六世藤間勘十郎、母親は三世藤間勘祖
父親は能楽師で人間国宝五十六世梅若六郎。
日本舞踊を始めたのは2歳、初舞台を踏んだ時のお稽古は覚えています。
母親からは厳しく教えてもらって、祖父からは可愛がられました。
芸に対して厭だったことはありませんでした。
市川海老蔵さん、三宅健さんの「羅生門」の振付、全体監修を今やっています。
歌舞伎化する処に入ってやっています。
現代語で書かれていた作品を三味線枠が入るような言葉に変えて、主題、流れ、言いたいことを変えないようにして、直してゆく仕事です。
にわか仕込みでは出来ないことです。

祖父と父は似ているところはあります。
お能の方が制約が厳しいです。
市川海老城さんとは30年位の付き合いで、幼稚園、子供のころからです。
彼がやりたいことは判るようになりました。
歌舞伎においては舞踊が重大な位置を占めます。
歌舞伎舞踊振付師の大きな仕事としては、新しく作品を作る時に、振りをつけますが、割と演出家に近いです。
古典の物を教えることもありますが、基本の振りは同じでも色んな人がいるので、それぞれ成駒屋なら成駒屋なりの型があるので、それに準じながら変えて行くと言う事も行います。
普段のお稽古をすることも大きな仕事になっています。
人間観察は好きです。
お客さんの反応を見たりするのも面白くて、特に初日は特別です。

5歳と1歳の子がいます。
初舞台は息子と同じだと思っていたら、息子の方が二歳半で早かったです、私は三歳でした。
大藏:『よあけの焚き火』と言う映画を息子と撮りまして、親子が二人で山小屋にこもって狂言の稽古をするという映画です。
伝えると言う事をテーマにした映画です。
伝えることのむずかしさ、昔ながらの教え方がどこまで通用するのか、たまに思う事があります。
父親は背中を見せると言うタイプだったが、教え方についてどう思いますか。
藤間:本人がやる気がなかったらやって欲しくない。
長男は好きですが、次男はまだ小さいから判らないです。
子供は吃驚するぐらい覚えるのが早いです。
子供に伝えるのは割と容易ですが、お弟子さんに伝えるのは意外と難しいですね、
稽古とレッスンを間違えている人がいますね。
大藏:僕らがしっかり楽しんで向き合って行くのが芸を伝えていくことになるのかなあと思います。

藤間:バーチャル、洋楽など色んなものを取り入れたりする時もありましが、歌舞伎役者がその世界に入るのか歌舞伎の中にそのものを取り入れるのかが、一つの分岐点だと思いますが、歌舞伎の中に取り入れるには何でもやりゃいいというものではないと思っています。
古風なものに補うことによって感動を呼び起こすならいいと思っています、あくまでプラスアルファで考えないといけないと思っています。
古典の真ん中を行くような作品をやって、お客さんを無視して自分がきちんと作品に対して向かい合って、そこで勝負をしないと、歌舞伎にしても日本舞踊にしても、真っ向勝負してお客様がアッと思わせるようにならなければいけないと思って、今はあえてそうしています。
ブラジルへ公演に行った時に「三番叟」と新作、父は同時期にギリシャにいって「翁」と新作をやりましたが、評判が良かったのはお互いに「三番叟」と「翁」でした。
古典にはかなわないと思います。
好きな日本の音、自然界の音、水が流れる音、風が吹く音、鳥が鳴く音、海の波の音などが好きです。
雪の音は音が無いが太鼓一つで演奏する、それは僕たちの先人の凄まじい知恵だと思います。
聞いているだけで寒くなってきます。
自分の役に徹して一舞踊家としてやってみたい思いはあります。























2019年3月16日土曜日

寒川 旭(産業技術総合研究所 名誉リサーチャー・「地震考古学で探る未来の地震」

寒川 旭(産業技術総合研究所 名誉リサーチャー・「地震考古学で探る未来の地震」
東日本大震災から8年が経ちました。
今,南海トラフで発生する大地震が心配されています。
寒川さんが提唱した地震考古学は遺跡にある地震の跡と、古文書などの歴史資料の記述資料を照らし合わせることで地震の発生年代を特定し、発生間隔を把握、将来の地震の発生を予測し、防災に役立てようと言う学問です。
その研究成果から大きな地震には周期がある事、南海トラフなどのプレート境界で発生する巨大地震の場合には数十年前から多発する事が読み取れると言う事です。
地震考古学で何がわかったのか、これからの注意点は何か、伺います。

2018年6月18日、最大震度6弱の地震が大阪で起きました。
下からドンと突き上げるように10秒位ありました。
M6.1で規模の割には都市部だったので被害が大きかったです。
活断層が起こした地震ではないですが、内陸部地震です。
有馬 高槻 断層帯が大阪北部にあり、南北に走る上町断層帯があります。
両者の間の小さな割れ目が地震を起こしたと言う感じです。
大きい地震はプレート境界型の地震と活断層型地震と2つあります。
日本列島は、地球の表面を覆うプレートが十数枚ありますが、そのうちの4つが日本の処に集中しています。
海のプレートが、日本列島が乗っている2つのプレートよりも重くて、下にもぐりこみます。
陸のプレートはおされてきてエネルギーがたまります。
耐えきれなくなってバーンと地震を起こします、それが南海トラフとか東日本大震災の地震です。

もうひとつは、活断層から起きる地震で、日本列島はプレートがぶつかっていて押されて盛り上がっています。
細長い島の様な形になっていますが、押されて皺になったものです。
硬い岩盤で出来ているので無数の傷があります。
治っていなくて弱いままの傷の事を活断層と言います。
日本には大きいものだけで2000位あります。
活断層をグループ分けしているがそれが100余りあり、このグループが活動するとM7
以上の大きな地震となります。
活断層と呼ばれている以外にも沢山割れ目があります。
大阪北部地震は名前の付いていない割れ目が地震を起こしたわけです。

地震考古学は地震学と考古学との接点のような学問です。
考古学で見つかった遺跡発掘現場で地震の痕跡を研究するものです。
古文書などの記録からみた地震は明治から多く研究されてきました。
もう一つは考古学からの遺跡から地震の痕跡がみつかると時代が判ります。
学生時代から活断層を研究していましたが、1986年に滋賀県高島市今津町へ昔の地震の記録を見せてもらいに行きました。
そこの教育委員会の近くで遺跡の発掘調査をやっていました。
液状化現象の事を話したらそれが遺跡で見つかっているとの事でした。
そこは縄文時代から弥生時代の集団墓地でした。
土器から墓の年代が判ります。
古いお墓は引き裂かれていて新しいお墓は引き裂かれていなくて、3000年前と言う事が判り、地震の起きた年代が判った訳です。
京都府に電話すると京都市埋蔵文化材研究所に沢山出ていると言う事でした。
京都の八幡市に木津川河床遺跡に地面があちこち引き裂かれていて 下から砂があがって来ていて、とんでもない大きな地震だと言う事が判りました。
鎌倉から室町時代の地層が全部大きく引き裂かれていて、江戸時代の地層は平気で覆っていて豊臣秀吉の時代、1596年9月5日午前0時に起きた伏見地震という地震です。
その後色んなところに連絡すると色んな情報を得ました。

これは日本全国に展開できると言う事で1988年に地震考古学と言う名前を付けました。
地震考古学が誕生して全国の地震の痕跡をちゃんと調べてくれるようになりました。
阪神淡路大震災の直後に被災現場に行きました。
吃驚したのは被災された人達が「何で神戸で地震が起きたんだ」という事でした。
神戸は地震が無いところだと言っていて、聞いて仰天しました。
1596年に伏見地震が起きていますが、京都、大阪、淡路島まで凄く被害に遭いました。
阪神淡路大震災と同じことが約400年前に起きていたんです。
研究者は学会に論文を出しているだけではだめで、一般市民に研究内容を伝えないと役に立たないんだと痛感しました。

自分が住んでいる地域に過去どんな地震があったか、という事を知っておく必要があります。
伏見地震の10年前に中部地方で大きな地震がありました。
天正地震で3つの大きな活断層が連動したので凄く大きな地震になりました。
大津の坂本城に秀吉はいましたが、震度5ぐらいだったが、地震が怖くて大阪城に飛んで帰ったそうです。
秀吉は7年後に伏見城を作りましたが、朝鮮出兵をしていて九州に行ってましたが、地震対策(伏見の普請”なまず”が大事と書いている)が大事なことを手紙で伝えています。
(なまずと地震を結びつけた日本最古の文書と言われている)
1185年平家が壇ノ浦に滅亡するが、その直後に地震があったが、後漢書に平清盛が龍になって地震を起こしたと書いてあるが、それまでは龍だったがなまずに変わった。
秀吉が住んでいた近くの琵琶湖に日本最大のなまずの生息地だった。

伏見地震は有馬 高槻 断層帯と六甲 淡路島断層帯が連動した地震で、M8近い地震でしたが、その時に淡路島の多くの断層は動いたが、野島断層は動きませんでした。
動かなかった野島断層が400年後に活動して阪神淡路大震災を起こした訳です。
伏見地震の時に野島断層が動いていれば阪神淡路大震災は起きなかったわけです。
野島断想は2000年の間隔で規則的に活動する断層です。
有馬 高槻 断層帯のもうひとつ前の活動は2800年前縄文時代から弥生時代に移り変わる時代でした。
一番気をつけていなければいけないのは上町断層帯です。
9000年位活動した痕跡が無い、活動の間隔もよくわかっていない。
南海トラフの巨大地震の歴史を見てみると、90年から200年位の間隔で規則的に起きています。
最近の3回は、江戸時代1707年に起き、M8,7~9と言われた宝永地震、1854年12月23日に安政東海地震、その翌日に安政南海地震が起きM8,4前後と言われている。
新しいのが1940年の東南海地震(M7,9)と1946年の南海地震(M8,O)です。
この時はエネルギーの消費量が小さかったので、次は早く来るのではないかと言われています。 
21世紀中ごろには地震が来るのではないかと言われている訳です。

プレートが押し合って地震を起こしそうになると、押された日本列島内陸も地震活動が活発になる。
50年前ぐらいから内陸地震が多くなる傾向がある。
阪神淡路大震災から関西などでは地震が多くなってきている。
21世紀中ごろに南海トラフの大地震が起きてもおかしくない条件になってきている。

東北地方の沿岸はプレート境界にそこそこ大きな地震がいくつかありますが、東日本大震災のような大きな地震は、1000年単位で起きていることがわかっています。
869年(貞観11年)にそっくりな地震が起きています。
更に1000年前に巨大地震が起きていることがわかっています。
818年に関東で大きな地震があり、秋田、山形、新潟、長野、伊豆半島で50年間に内陸地震が多く起きていて、その後に東日本に大地震が起きています。
西日本ではちょっと遅れて827年位から地震活動が活発になって、兵庫県、島根県、熊本県などの内陸地震があって、その後887年に南海トラフ巨大地震が起きています。
現在では1964年に新潟地震があり、日本海中部地震、秋田、新潟、石川、長野などで内陸地震が沢山あって、2011年に東日本大震災がありました。(9世紀のパターンに似ている)
西日本でも同じパターンだとするともう少し内陸地震が続いて、南海トラフ大地震ということになります。
9世紀と現在はよく似ています。
869年(貞観11年)に東日本でプレート境界の地震があって、887年に南海トラフ巨大地震があって、中間に878年に関東で関東大地震と同じ大地震が起きています。

北海道の歴史を振り返ると、太平洋沿岸でプレート境界の地震が起きる。
M8クラスの地震が起きていますが、それ以外にもっと大きな地震が過去に起きています。
1611年にすごく大きな地震が起きていて、どうも400年単位で繰り返しているらしい。
北海道も内陸地震が沢山起きるかもしれない。
地震は間隔が長いので過去の地震の事を忘れてしまう。
南海トラフ大地震が来ると、津波が大阪にも来ます。
1854年の安政南海地震では、揺れ始めてから1時間40分から2時間で大きな津波が来ます。
安政の例から言うと、高さ2,3m、怖いのは津波が川を遡る。
道頓堀では多くの舟がありぶつかり合って沢山の人がおぼれて亡くなりました。
当時地震の揺れは舟が安全だと舟に乗ったんですが、津波で亡くなりました。
津波を避けるためには早く高い所に避難すると言うことです。
津波とか、地震などを物語にして小、中、高校でちゃんと教えることが災害の軽減になると思います。























































2019年3月15日金曜日

紅谷浩之(在宅医療専門医)        ・医療的ケア児にも"Happy"を(2018.12.13OA)

紅谷浩之(在宅医療専門医)・【人権インタビューシリーズ】医療的ケア児も"Happy"を
2018.12.13OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/happy.htmlをご覧ください。

2019年3月14日木曜日

笹﨑静雄(畜産会社社長)         ・「豚と話して70年」

笹﨑静雄(畜産会社社長)         ・「豚と話して70年」
70歳、養豚業の家に生まれ、豚とともに育ちました。
大学で獣医学を学び家業を継ぎましたが、まず取り組んだのは豚舎に寝泊まりして豚の性格を探ることでした。
5年間の豚舎生活で得た経験で寝床、食事など豚の喜ぶ生活環境を知りました。
豚との会話で何を得たのか、伺いました。

韓国、中国では「豚年」で、日本ではどういう訳か「猪年」なんです。
豚の家畜は中国では数千年の歴史があり、牛、馬、山羊、豚、犬などは、家畜として純化されて一般では飼われていた。
日本では日本書紀でやっと猪が出てくるぐらいです。
若い24歳の時に韓国に行って種豚を飛行機で運んで牧場をつくると言う事がありました。
韓国では当時はあわ、ひえで白米を食べるのは1週間に一回程度でした。
日曜日に豚足を煮ていて、となりの家で赤ちゃんが生まれて、母親に豚の足を食べさせるとおっぱいをたくさん出すと言う事でした。(40年以上前の話)
その2年後うちに子供が生まれましたが、妻が豚足を食べておっぱいを出してあのパワーは物凄いと思いました。
中国との国交回復があり、豚関係では当てにされて北京に行き、北京ダックの満貫全席を御馳走になりました。
コック長から背中の皮だけではなく、みずかきからまるまる食べなさい、そいうすることで初めていい健康のエネルギーになると言われました。
豚でもおなじではないかと思いました。

29歳の時に新婚旅行で香港、シンガポール、タイに行きましたが、香港の学生を面倒見たことがあったので、香港で屠畜場(とちくじょう)を是非見て下さいと言う事で行きました。
内臓を物凄く大事にしていました。
日本では内臓、骨、皮などに対しては大事にしないが、そこで大ショックを受けました。
台湾にも行ったが、内臓の方が高くて薬だよと言われました。
「医薬同源」本来の中国の言葉が「医薬同源」で、日本人が作ったのが「医食同源」なんです。
(医食同源とは、日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し、治療しようとする考え方。)
それを聞いて豚一頭大事にしなければいけないと思いました。
中国に行ったら豚は宝物だと言われました。

豚が怪我をしたり風邪をひいたりした時に、どうしたらいいかと父に聞いたら「豚は何て言ってた」と言うんです。
「豚に聞いてこい」と言う事で豚舎に寝泊まりして、豚の生きざま、好き嫌いを含めて、一緒に生活をすると判るようになります。
寝ている時でも熟睡しているのかそうではないのかと、母豚が子供をあやす時にそれぞれの豚の性格があると言うとを感じ取ってきます。
豚の性格も全部違います。
臭いを感じる力は犬よりもあります。
麻薬捜査豚がいたと言う事は事実ありますが、豚は犬みたいに捕える行動ができない。
世界中に豚は300品種あると言われるが、そこの気候風土で生き残って進化したものがそれぞれの特徴をもった豚になるわけです。
チベットでは高地なので豊かな食べ物が無くて成長は遅くて大きくはならない。
ヨーロッパではドングリを食べて丸々太って、冬は寒いので豚肉を貯蓄しても腐らないので、ハム、ソーセージを発明をして1年間豚肉が持つような技術が発達する。

「随園食単」という料理書に豚肉は45品目載っています。
様々な豚の料理が紹介されていて、目から鱗です。
東京駅に子豚像があります。
幸運の子豚像と言われています。
ローマ法王が当時のイタリアのメディチ家にあげたと言う銅像だそうです。
ドイツに幸せの豚博物館がありますが、一日見ても飽きないです。
豚と幸せとの関係、豚は子沢山で一度に多くの子豚を育てあげる、好き嫌いなく食べる。
昔は豚を森の中に放牧して森の精の力を受けて丸々育ち、大変珍重された。
一見馬鹿な振りしているが、とっても利口、神様や人々に身を捧げて全てが無駄なく役に立つ。
豚の改良を見る時に骨を見ています。
ちゃんとした豚は腰がぶれないです、競馬もそうです。
「骨のある奴」といいますが、簡単には信念を曲げない。
昔の身体という字は「體」と書いていました。
骨+豊・・・筋肉、お肉が豊かで骨が基本。
そういう骨の豚はラーメンのスープにしたら抜群にうまいです。
骨のきめも違います、きめの細かい骨の肉はうまいです。

私の処のホームページで豚の博物館をインターネットで作っています。
膨大な情報が入っています。
ブタの心臓を氷詰めにして東京女子医大に送っていましたが、ブタの心臓の弁を人間に移植する事をやっていました。
豚の細胞は人間の細胞にそっくりなんです。
どうしてだろうと聞いたら、だから医食同源て言うんだと言われました。
漢方の先生に聞いたらこれが基本ですと言われました。
食育の件で保育園、幼稚園から小学校、中学校から頼まれて、豚の話をしますが、保育園などに豚の話をするのは難しいです。
若手社員が一生懸命話をします。
豚を丈夫にする秘訣があります。
①おっぱいをちゃんと母親から飲ませる。
②人間で言うと4,5歳~小学生のころにお腹がプクンと出てくるが、プクンと出て来る子ブタを育てないと駄目です。。
その時期に胃袋と骨をつくるんです。(強い身体を作る)

人間は色々な物をたべますが、感謝をして過ごそうと言う気持が「いただきます」なんです、「命、いただきます。」なんです。
大事に育てた豚と大きくなればいいと言うような思いで育てた豚では、豚の肉が歴然と違ってきます。
豚の成績が上がらないのでなんとかしてほしいと言う事で、色んな国の豚舎を見ましたが、何が違ったかというと、豚に対する愛情なんです。
理解してやると、餌の食べ方、水の飲み方、糞の場所も違ってきます、飼い主の性格が移ります。
講演会で経済学者が日本は成熟の時代になったと言っていたので、成熟の時代の先はなんだと質問したらその人は立ち往生してしまいました。
今何が問題かというと自然ということに対してきちんと向かいあっていない。
花は人間に見せるために咲いているのではなくて、花は実を付けて次の命を育てるためです。
豚も次の子供を一生懸命育てます。
日本は人を育てると言う一番大事なテーマにぶつかっているんではないでしょうか。
豚は人間の臓器と似ているらしいので、活用できると言う事が改めて今注目されています。
内臓、胎盤、目玉も大事に言われているが、大事なことは健康な豚でないといけないと言うことです。
糖尿病患者に豚の膵臓を移植すると言う臨床研究が、3~5年で日本でも実現すると言われています。
改めて豚に感謝して育てようと思っています。
健康といいますが、健体康心、健やかな身体康らかな心、それを略して健康と言っています。
人に良と書いて食なんです、極端な話、人に良くなければ食ではないと言う事になります。
良い食を食べた豚は物凄くいいものを残して行ってくれて、愛情を注いで育てた豚は安寧な康らかな豚になり、その肉は絶対うまいと言う事を豚から教えてもらってます。





























2019年3月13日水曜日

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)    ・「"知的探求"を続けて 楽しき人生を」

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)    ・「"知的探求"を続けて 楽しき人生を」
三重県生まれ、70歳、京都大学を卒業後、生命保険会社で勤務し、その後2008年に新たに生命保険会社を開業し、社長、会長として通算10年間経営手腕を発揮しました。
出口さんは読書家、教養人としても知られ、著作は数十冊でビジネス書から文化、歴史に至るまでテーマは様々です。
その経営手腕と教養が注目されて、推挙されて2018年に立命館アジア太平洋大学学長に就任しました。
出口さんのもう一つの顔は歴史作家です。
中でも出口さんのライフワークとも言うべき著書は2017年11月に発売された、『人類5000年史 1』 紀元前の世界で、その後昨年12月にシリーズ2冊目を出版、その後毎年1冊のペースで発行する予定です。
知的探究心を保ち続け新たな道に挑戦する出口さんに、自らの生き生き人生をお話しいただきます。

幼稚園ぐらいから絵本に親しんでいたと思います。
その後世界文学全集とか、自然科学系の本が中心でした。
本を読んだら色んな事が判るんだと言う事が判りました。
歴史は今まで地球上に生きてきた全ての人々の人生の集積だと思います。
残っているのは面白い人の歴史です。
本を読むと言う事は面白いです。
小学校、中学校、高校の図書館の本はほとんど読みました。
大学は京都大学で、全共闘時代で大学は封鎖されて、ほとんど授業はありませんでした。
一日14,5時間は本を読んでいました。
生命保険の会社に入りました。
会社員になってからはTVは捨てて、ゴルフは出来なければ誘われないのでやらずに、仕事はほとんど本を読んでいました。
大学の時に比べれば少なくなったが、週に10冊位は読んでいました。
ジャンルは問わず面白くない本は読みませんでした。
書店で本を選ぶ時には、本文の最初の10ページを読んで面白いものを選びます。
忙しい時は新聞の書評で、読んでみたいと思って読んだ本で、つまらなかった本はありません。

ロンドン勤務をしました。
日本の企業 グローバル企業の違いは何かといえば、知識の量が圧倒的に違います。
日本の進学率は52%、先進国平均は60%超に比べれば2割ぐらい低く、大学に行ったら勉強をしない。
それは日本の企業が100%悪いと思います。
採用基準に成績が無い。
面談で採用し成績は参考程度。
ヨーロッパはこの2、30年では年平均労働時間が1500時間未満に減っているが、日本の正社員の年平均労働時間は2000時間超で全く減っていない。
長時間労働で勉強する時間が無い。
日本の社会の構造が低学歴にしていると理解すべきです。
製造業に必要なのは素直でがまん強くそこそこ偏差値があり、協調性が高くて上司の言う事をよく聞く人なので、日本の社会は、製造業の工場モデルに過剰提供をしてきて、勉強する人を大事にしてこなかった社会になっている。
今世界を引っ張っているガーファやユニコーンの企業の幹部はダブルドクター、ダブルマスターですから。
ダブルドクターと大学で勉強しなかった日本の経営者を比べたら、比較にならないのは明らかです。
遅くはない、今が一番若いんですから、色んな人に会い、色んな本を読み、色んなところへ出かけて行って、情報をインプットしなければかしこくなるはずがない。

2008年の生命保険業免許取得に伴い、ライフネット生命保険株式会社を開業、認知度を上げるために本を書き始めました。
いつの間にか本をたくさん書くようになりました。
歴史を書くようになったのも出版社が言ってきてくれたからです。
金融機関のトップでツイッターをやっている人はいないので、小さい会社としては大手とのそれは差別化になるのでやるように社員から言われました。
1日3回やる様に言われて居ましたが、そのうちある機会がありイスラム史をやると呟きました。
面白いから年に3回位やって欲しいと言う事で勉強会をはじめました。
そのなかに出版社の方がいて、仕事に効く教養としての世界史を初めてだして10万部を越えて、他の出版社からも歴史の本を作りませんかと来るようになりました。

古稀になって当時33歳の森亮介氏に取締役を譲りました。
一昨年APU(立命館アジア太平洋大学)が学長を日本で初めて国際公募して、誰かが推薦してと言う事を聞いて、行ってみたらインタビューを受けてみませんかと言われました。
ドクターが条件だったのでマスターも持っていなかったので、受かるはずがないと思って面白半分で受けたら満場一致で決まりましたと言われました。
余り年齢とか覚悟とか考えるタイプではないです。
別府に住んで用がある時には東京に帰ってきます。
立命館アジア太平洋大学では学生が6000人いて3000人が約90の国や地域から来ています。
日本では労働力は少なくなってきている。
1年間は寮に入って日本人と同室にして、日本語、日本の習慣などを覚えていきます。
学長のドアをオープンにして1年間に100人以上話しましが、起業したい、NPOを作りたいと言う志向が強くて、去年に起業部を作りました。
若者が集まるところでベンチャーは起こっています。

『人類5000年史 1』を出しましたがもう少し詳しいものが欲しいと言う要望があり、『人類5000年史 2』を頑張って書きました。
昔から交易、色んな活動をやっているので、世界の歴史は全部繋がっているんです。
世界と離れた歴史はありえないので、極論を言えば日本史はないと思っています。
分断して書くことはおかしいと思っています。
判りやすく書くと言う事は少しは心がけています。
紙によって始皇帝のころに文書行政ができたわけです。
中国の歴史はアヘン戦争まではずーっと世界でも進んでいるんです。
歴史も変わっていきます、歴史も学問なので皆さんが中学校の時に習った歴史と、いまの歴史が一緒と言う事は、この数十年間歴史学者はなにも貢献していないことですよ、と言うと納得してもらえます。
伝源頼朝像、藤原隆信の描いた絵は、今はほぼ100%足利直義を描いた絵だと実証されている。
歴史ははどんどん変わっています。
最初の武家政権は鎌倉幕府ではなく、平清盛の政権だと今や常識になりつつあります。
聖徳太子の実在についてもかなり疑問があると言うことが明らかになっています。
できるだけ判り易くと言う事と、できるだけ最新の知見を盛り込もうとしているので時間はかかっています。
まだ7,8割は残っています。
人間は動物なのでちゃんと食べてちゃんと寝てればいいと思っているので、健康法などはやったことはありません。
色んなところに行っていますが、歴史の舞台になった所は行ってみたいと思っていて、まだ何百、何千とあります。
地理と歴史を勉強したうえで、自分で歩いてみないと判らない、その通りだと思います。
人(出会い)、本(知識)、旅(足による実践)をしないと判らないないと思います。
知ることは無数にあると思います。

















2019年3月12日火曜日

竹迫和美(藤田医科大学大学院元教授 )  ・「医療の現場から言葉の壁をなくしたい」

竹迫和美(藤田医科大学大学院元教授 ) ・「医療の現場から言葉の壁をなくしたい」
1955年東京生まれ、早稲田大学在学中に日墨政府交換留学でメキシコの大学に1年間留学しました。
1979年から1980年にかけてNHKの「ニュースセンター9時」でお天気キャスターを務め、その後外資系の航空会社の秘書を経て、スペイン語と英語の通訳の仕事に携わりました。
竹迫さんが日本語ができない外国人の患者の為に、手助けをする医療通訳が必要だと感じたのは、1995年阪神淡路大震災の際に、病院の救急に大勢の外国人が駆け込み大混乱になったのを見てからでした。
50歳を過ぎて自らも医療通訳のボランティアをしながら、二つの大学の大学院で医療通訳者養成の研究を続けました。
2016年からの2年間藤田医科大学大学院の教授として医療通訳分野で教えました。
竹迫さんはアメリカの医療通訳者の職能団体IMIAの日本支部の代表も務めています。

今、アメリカのテンプル大学の日本キャンパスの大学院の修士で英語教育学を学び始めました。
TESOL(Teaching English to Speakers of Other Languagesの略で、英語が母国語ではない人々向けの英語教授法に関する資格のこと)、国際的な英語を教えるための資格がありそれを取りたいと思いました。
医療通訳者養成の研究をしてきましたが、判りえていないことが問題なんだと言う事があり、橋渡しの役目が必要だと言う事が強く感じました。
医療従事者になる学生に早く英語を学んでもらう事はもちろんですが、患者のかたに接する文化も配慮することも大事なんだと思いました。
都立新宿高校卒業後、早稲田大学商学部に入って、公認会計士を目指しましたが、簿記1を通った後無理だと思って、スペイン語を学ぶことにしました。
NHKのラジオとTVのテキストで独学を始めました。
上智大学の夜間のコースがありそれを取ることにしました。
日墨政府交換留学制度があり、メキシコの大学に1年間留学しました。
NHKの「ニュースセンター9時」については、最初ある教授の処に行って話したら、NHKでその教授がやっている番組で通訳を募集しているのでやってみないかと誘われました。
やっているうちに、色んな人達と会ったりしているうちに、電話で「ニュースセンター9時」の仕事をしたいんですがと話しました。
1979年から1980年にかけてNHKの「ニュースセンター9時」でお天気キャスターを務めました。

交換留学でメキシコに行った時に病気になり、医療に対する考え方が違うと言う事を知りました。
結婚してから5年半チリ住むことになり、子供がしょっちゅう病気をしました。
41度を越える高熱を出した時にも、ベッドのマットレスを取ってそこに水を流して、そこに息子を突っ込んだんです。
止めてほしいと騒いだら婦長さんに連れ出されてしまいました。
薬の処方についても不信に思う事がありました。
日本に帰ってきても、日本に来ている外国人はどんな苦労をしているのだろうと言う思いが起きました。
帰国の翌年に阪神淡路大震災が起きました。
救急の処に外国人がたくさん来て、言語ができるボランティアの人を必要だと言うことが耳に入りましたが、いろいろ事情があっていけませんでした。
それが心の中に残りました。
51歳の時に東京外国語大学の大学院に行きました。
医療通訳に関する現状を研究をしました。
修士論文が「多文化共生社会へ向けて専門医療通訳者の養成の考察」という事でした。

2007~12年までは大阪大学の大学院で学んで博士号を取得。
医療通訳の重要性について指導的な役割をしたいと思いました。
藤田医科大学大学院で教授として従事しました。
医療通訳については無償だったが、ぼつぼつ有償ボランティアという言葉が生まれるようになりました。
アメリカのIMIAは医療通訳者の職能団体。
その日本支部を2008年に立ち上げました。
外国人観光客が急増、2020年には東京オリンピックがあります。
官民一体となって医療通訳をどういうふうに現場で医療通訳者が医療通訳をして、外国から来た人等の患者をちゃんと診られるようにする、と言う事を今作ろうとしているところです。

日本の場合はここ数年で外国人がたくさん来るようになり、オリンピックもあり急ピッチで整備が進んでいて、日本がスピーディーに動くということは凄いと思います。
通訳の相手が病人なので聞き逃したり、落ち着いて聞いていないこともあるので、よく顔を見て観察しないといけない。
文化による違いもあるので、邪気払いというようなことも子供に対してやったりする国もあるので、医療現場に関しては風習を知っておかねばいけないこともあります。
検査も理由なしに言われることに対して、なんでなのかと疑問を持つ人もあり、それぞれの文化によっても違ってきます。
病院に医療通訳者がいる処も増えては来ています。
ビジネスとして医療通訳センターを作ってITを使ってつなぐと言う事もあり、千差万別です。
どんな問題を国として克服してきたかとか、医療通訳者と言う視点でどうしてきたか見てきているので、知見というものは生かしていきたいと思います。


































2019年3月11日月曜日

柳美里(作家)              ・原発事故に向き合い高校生と演劇上演

柳美里(作家)              ・原発事故に向き合い高校生と演劇上演
2015年に南相馬市に引っ越し、去年の春自宅で書店をオープンしました。
裏の倉庫を開放して劇場にし、去年秋若いころ主催してい演劇ユニット「青春五月党」を復活させました。
上演したのは柳さんが21歳の時に書き下ろした、高校を舞台にした作品「静物画」で演じたのは福島県立双葉未来学園高校の演劇部です。
震災体験を語るシーンを加えて、高校生は夏休みを返上して稽古をし、9月の公演は大成功でした。
今月3日間東京都北千住で3日間再演することになりました。

初めてこちらに来たのが2011年の4月21日で、8年は短くないです。
私が暮らしているところは南相馬市小高区は駅のそばで、駅の海側が津波の被害の大きかったところです。
その時が過ぎていかないと言う人もいます。
空白のままあるのではないかと思います。
2015年の春に南相馬に引っ越してきました。
人との出会いが大きいです。
たまたま書店を開いたら和合亮一さんの中学校の同級生がいらっしゃってその人の息子さんが双葉未来学園の演劇部の部員で、一度稽古を見に来てほしいと言う事で行きました。
やるんだったら私が21歳の時に書き下ろした、高校を舞台にした作品「静物画」をやりたいと思いました。
5月に行って9月に上演なのでかなり急でした。

福島県立双葉未来学園高校の演劇部の関根颯姫(さつき)さんと鶴飼美桜(みお)さんに来ていただきました。
2015年開校した新しい学校の二期生。
鶴飼:林修先生の授業が印象的でした。
関根:秋元康さんが印象的でした。
鶴飼:3年間過ごす中で地元を元気にさせたいと言う思いがわいて来ました。
関根:有名人が来てもっと楽しい学校なのかと思ったら、復興に対する意識が強すぎて自分はなにもできないと思って、今になって判るのはやっぱり人と繋がることが大事だと思いました。
鶴飼:震災に会った時には凄く悪いこととしてとらえていましたが、8年過ごしてみると出会いがあり、今ここで頑張れているなあとは感じます。
関根:震災当時は離れるのが厭で、避難生活も最悪で人ってこんなにつらいんだなとわかって、このままでは幸せにならないなと思って、他の人には幸せに自分の選んだ道を歩んでもらいたいと言う思いが段々強くなっています。

柳:21歳の時に書いた「静物画」を頭から書き直して行きました。
震災当日の事を生徒に一人ひとりに語ってもらったら、小学校の3,4年生の頃の事が見えてきました。
避難区域になってしまって、非難生活も大変で、子供の時の体験があるんだけれども口に出せなかったことを大事にしたいと思いました。
だからそういったことを盛り込みました。
最初会った時に話せることと、いまだったら話せることはたぶん違うんじゃないかと思います。
生徒:思いだすことは結構しんどかった。 ずーっと封印していました。
声に出してみて良かったなあと思う部分もありますが、傷を掘っていないかなあという不安は最初ありました。
何回かやっているうちに自分でも楽になり、本番では聞いてもらえているんだなあと実感しました。
生徒:思い出は消えてゆくものだと思っているんで、なんでこんなに溢れて来るんだろうと自分の中にはありました。
それまでは言いたかった気持ちがありましたが、そういう場がありませんでした。

柳:演劇部の時間もあり、静物画の稽古もありましたがどうでしたか?
生徒:ハードでしたが充実していました。 公園などでも練習をしていました。
柳:「静物画」は一言で言うと生きることと死ぬ事がテーマになっているんです。
小学校の前半の時には生きることと死ぬことに、直面することはあまりないと思うのですが、直面せざるを得なかったと言う事があり、引き出しを開けてはいけないものもあるだろうし、開けても取りだしてはいけないものもあるだろうし、慎重にやらなければいけないと思いました。
主に話を聞くことと、どんな子何だろうかと思って、信頼関係を築きながら引き出しを一緒にそーっと開けて行く作業だったような気がします。
生徒:本番の舞台に立った時には緊張していましたが、楽しみだったのは大きかったです。
無我夢中でやって、拍手を貰ってもう終るのかと言うような感じでした。
柳:再演を模索したいと思いました。
知らない人に知らせたいと言う気持ちがあり、東京電力原子力発電所の事故と言う事で、頭の東京を抜かせては語れないと思って、東京も当事者として観てほしいと思います。

生徒:1年の時にも震災の事を演じたことがありましたが、東京のメディアが悪い部分しか撮らない処があって、東京公演ってこんなものかと思いました。
柳:今度は役者として観てほしいと思います。
物語の舟に乗っているので、安心して語れるのではないかと思います。
北千住は常磐線なので、昔は集団就職で上野への前の駅なので、東京へ避難した人もいるし、関東の人にも見に来てほしいと思っています。
生徒:前は怖くて人の事を信じられなくて、しかし美里さんはちゃんと聞いてくれて美里さんとは信頼関係が出来て、出会う前とは自分自身変ったなあと思います。
柳:信頼は賭けみたいなもので、相手もいることですが、自分を投じるみたいなところがあると思う。
仮に裏切られてもいいから、信じるみたいなところがあるのではと思います。
ここ南相馬市小高区で暮らすという選択をしたので、2011年3月11日は日々向かい合っている中で書いている、聞いている、話していると言うことです。


















2019年3月10日日曜日

宗茂(元マラソンランナー)        ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪マラソンランナーの証言(2)

宗茂(元マラソンランナー)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪マラソンランナーの証言(2)
大分県出身、66歳。 双子の弟猛さんと一緒に宮崎県の実業団チーム旭化成で活躍し、日本で初めてマラソンで2時間10分の壁を破りました。
オリンピックではモントリオール、日本は不参加だったモスクワ、ロサンゼルスと3大会連続で代表になるなど、1970年代から80年代にかけてまさに日本を代表するマラソンランナーでした。
現役選手を引退してから現在に到るまでについて伺います。

練習を組むのは弟が組むんです、それに乗っかるんです。
弟はピッチ走法で私はストライド走法なので、違いがあり弟の90%の練習ができればいいと思っていました。
26,7歳まではばらばらに練習していました。
精神的なスタミナは無くて、弟みたいに持っていないとマラソンでは勝負できないと思っていました。
8月になると1週間で40kmを3回やり、精神的なものを克服しました。
福岡国際マラソンで猛選手がトップ争いで、弟が良かったが、作戦ミスだった。
38kmで弟がスパートを掛けたらよかったが40kmだった。
40kmで瀬古選手が追い抜いて優勝した。
弟とは1分間で17,8歩違います。
利き腕も違います。
性格は180度違うと言う事は無くて20度位です。
22回兄弟が出て、茂が先にゴールしたのが12回、猛が10回。
秒差の勝負は4回全部勝ちましたが、負ける時には分差の勝負でした。

現役引退後旭化成陸上部監督となる。
①ゴルフはしない。
②用事もないのに夜飲みに行かない。
この二つを決めました。
選手がいかに考えて練習するかを第一に考えました。
次の年は選手の意欲分だけは選手に返そうかと考えました。
それがいい方向に作用しました。
しかしその時その時で指導の仕方は変わって行くと感じます。
育てた選手では、森下広一(バルセロナオリンピックマラソン銀)、小島宗幸・忠幸兄弟、川嶋伸次(前東洋大監督。シドニーオリンピックマラソン代表)、宮原美佐子等です。
2005年に監督を弟の猛に渡す。
九州延岡にある九州保健福祉大学の客員教授として気功の研究を続けることになります。
気功、自然治癒能力を高めるとか、面白い世界だと思います。
「気」は送ります。
この人はどこが原因なんだと言う事は自然に判ってきたりします。
監督になって直ぐに或る気功の先生と接しました。
阿部に対して「気」を入れたら、阿部が動き始めて俺も気が出来るんだと判りました。(36,7歳)
それで興味が湧きこの道に入って行きました。
今は病気で苦しんでいる人を、今の状態から少し改善してやると言う事をやっていますが、監督時代にもう少しレベル上げてやると言う、一段階上げてやると言う意味では同じことだと思います。

鞭うちで首が回らない人が4回やっただけで普通の生活ができるとか、改善していきました。
ぎっくり腰が改善したとか、がん患者に「気」を送るとがんのマーカーが下がるとかもやっています。
自分を必要としてくれる人が周りにいると言う事が、生きる上での生き甲斐だと思います。
気功を通じて必要としてくれる人が一人でも多くいると言う事が、自分の生き甲斐となっていけば悪いものではないと思います。
マラソンが、一番自分が高い次元の世界に自分を置くことができると言う事でした。
違う分野で高い次元に来ている人達と会って、そう言う人達からいろんな話を聞いて自分の財産にもなります。
京セラの稲盛さんとも話をして凄く財産にもなりました。

選手をプラス方向にどうもっていくかが大事で、どう言うかが大事です。
2020年東京オリンピクは面白いと思います。
大迫 傑(おおさこ すぐる)、井上 直紀、服部 勇馬当たりが抜けていると思いますが、弟は佐藤 悠基(さとう ゆうき)を買っていますし、設楽 悠太(したら ゆうた)もいます。。
女子はちょっと苦しいですね。
暑さにも強く記録も持っていて精神的にも強い選手がオリンピックのスタートラインに立ち、かつ結構そこそこ暑ければ3位以内に入る可能性もあります。


























2019年3月9日土曜日

梅林秀行(「京都暮らし応援ネットワーク」理事)・「引きこもりを生き延びる」

梅林秀行(NPO「京都暮らし応援ネットワーク」理事)・「引きこもりを生き延びる」
45歳、NHKの人気番組「ブラタモリ」の京都の回に毎回登場する案内人、番組最多の7回出演。
梅林さんはもう一つの顔を持っています。
引きこもりなど生活に困っている人の相談員、NPO京都暮らし応援ネットワークの理事を務めています。
活動の原点は10年以上に渡って御自身が引きこもったと言う経験でした。
長い引きこもり生活を梅林さんは生き延びました、
どのようにして生き延びたのか、そしてその経験を相談員やガイドにどのように生かしているのか伺いました。

地面の形からやその上に生きてきた人々の生活や顔が出てきたらいいなあとそんな働きかけをしています。
できるだけ皆さんの乗って来るような言葉を考えています。
「京都暮らし応援ネットワーク」理事と言う事で、生活の困り事、悩み事、全ての相談にお答えすると言う、何でも相談です。
問題の当事者でいられる、人ごとのように思えない、それが僕にとっての相談員でいられる。
大学に入ってすぐ家から出られない状態になりました。
10年以上続きました。
研究者志望で歴史学、考古学等の分野の研究を東京の大学でやりたいと思っていました。
幼稚園、小学生低学年のころから一人で古墳、遺跡を歩いて土器を拾ったり、埴輪を拾ったりしていました。
一緒に行く友達はいませんでした。
東京の新しい環境にうまく適応できませんでした。
特にきっかけはありませんでした。
夜に起きて朝7時頃には寝ると言う生活スタイルでした。
起きている時には読書で、調子のいい時には研究室にだけはいけました。
考古学に関する本と、思想に関する本デカルトカントヘーゲルマルクスの本とかを沢山読みました。
自分の目ざしていたものから離れる焦りとか不安がありました。
命が終わったらいいなあというような思いがありました。
自分の困難は話しにくくて恥ずかしいと思いました。

最終的には早稲田大学から放り出されました。
中退と言う話がありましたが、除籍になりました。
名古屋の実家に戻りました。
夜中の3,4時ごろは一番安全な時間帯でした。
5時頃になると新聞屋の音が聞こえるので、また朝が来てしまうと思いました。
昼間になると、色んな刺激が入ってくるので危ないと思ってしまいます。
働け、学校に行けと言うような。
親が僕への接し方を変えていきました。
一般的に元気な時の関わりをそのまま続けよとうとします、愛があるから、それはよく判る。
しかし働けとは言わなくなった、最初はそれだけで十分です。
自分のかつての望みにすがり着きたくてもすがりつけない状態になってしまって、そこで初めて楽になれるのが、絶望、絶望の域迄行った時に初めて楽になる。
大学に行かなくてもいいんだと捉える。
上向いてきた時に支援団体の方に声を掛けられたのも一つです。
僕に何か力があるんだろうなという思いで関わってくれた、そう言われるとうれしいです。

最初、言ってくれた人の家に行って一緒に本を読んだりしていました。
好循環が生まれて、打ち込むようになって相談員の仕事に繋がっていきました。
京都で事業所ができると言う事で、立ちあげに関わることで名古屋から京都に転居しました。
ひきこもり支援という看板が掲げられると言う事で、却って行きずらい側面があるのではないかと感ずるようになりました。
8050問題、80歳の親が50歳の子供の面倒を見ないといけない。
親子であることをこだわらず、本人同士が離れてケースワーカーについてもらって生活等、本人が行きやすくなるところがあるので、権利を本人がしっかり行使できるようにささえてゆく。
そっちが本当の意味のサポートではないかと思います。
支援する以前の目標は本人が自立をすると言う事でしたが、今は生き延びてゆく、働けなくてもいい、布団から出られなくてもいい、その人が生き延びてゆくと言うふうに目標が変わりました。
本人がちょとでも楽なような生き方を一緒に考えたり探したりして手伝いたいと思います。
身体的暴力だけでなく心理的暴力もあるので、色んな困りごとが個人によってあるので、悩みが複数ある。

相談している時間がその人にとって居場所になっていたらいいと思います。
その人らしく過ごせる時間がまず相談の最初かなあといつも思います。
その場ですぐに解決するわけではないので、その人が困っていることを言ってもらえるような関係作りが一つ。
性暴力被害なんて言えないことがあるので、その人が困っていることをまず言ってもらえるような関係作りが一つ、何て言っていいかわからないと言う事があり、身振り手振りで出て来る困まりごとって一杯あるんです。
困っている人のそれなりの文法で悩みが判る様になる時間が必要なこともあります。
居場所型の相談も同じくらい大切だと思います。
最初メッセージが弱いので、弱い相談を大切にしたいと思います。
眠れているのか、掃除はとれているのか、きちんと休めているのか、心身ともに安らいでいるのか、それを僕の言葉で言うと「きちんとひきこもれている」のかなあと思います。
本人の言葉にならない言葉を翻訳して伝えて行く、だから弱い相談から出来たらいいなあと思います。

人間はあらかじめ効率的にできてはいない、物凄く非合理的で効率的でないのが人間だと思います。
合理的であるべき、生産性をあげてと言うふうに先入感で見てしまうと、回復までの道は遠いいでしょう。
回復していく時期に絶望してしまうと危険なところがあります。
孤独になって初めて得られる成長や回復は沢山あります。
タモリさんは孤独の価値を体現しています。
私は今でも一カ月に一度位引きこもりがあります。
孤独の空間のなかで読みふけったいろんな文献資料が、結果的に自分の専門性を培いまいた。
SOSをだすと必ず手を差し伸べてくれる人はいます、その人の事を判ってくれない所だったら一目散にその場から逃げた方がいいです。
ガイドも伝わらないことを伝えられるように一生懸命するし、一生懸命言葉を選ぶし、言葉を練っていきます。
相談員もこれからも繋がっておきたいです、自分の安全弁でもあるわけです。
相談員である事は同時に自分が尊敬している相談員との出会いの場でもある訳で、僕のしんどさがしんどく表現できる場所でもあるわけです。







































2019年3月8日金曜日

徳水博志(宮城県石巻市雄勝小学校元教諭) ・「"復興教育"で心の再生を」

徳水博志(宮城県石巻市雄勝小学校元教諭) ・「"復興教育"で心の再生を」
65歳、徳水さんが教えていた雄勝小学校は東日本大震災の津波で校舎が全壊しました。
4月になってとなり街で学校は再開されましたが、転校などで児童の数は半分以下になってしまい、また震災の辛い記憶や仮設住宅の生活の影響から子供達は勉強に集中できない状態が続いていました。
徳水さんも自宅を失い、心身の不調が続いていましたが、復興に向けて地域とのかかわりを再び深める中で、徐々に回復してきました。
そうした自分の体験を子供達のケアにも役立てたいと、徳水さんは「復興教育」というプログラムを立案実施してきました。
子供達はどう回復への道を歩んできたのか何いました。

復興住宅に入って、2年と半年になります。
いい環境です。
家はすべて失って親戚に間借りしてその後復興住宅に入りました。
地震が起きた時には今までにない揺れの強さ、3分近く長くてとんでもない事が起きているのではないかと思いました。
4年生を担当していて24人いました。
教室には5人残って遊んでいました。
おびえて泣き出していました。
校舎の倒壊はありませんでした。
しばらく校庭にいましたが、或るお母さんが「ここにいたら津波にさらわれるので山に逃がせて」と叫びました。
神社のある山に誘導しました。
山は12,3m位でしたが、神社には非難してから5~8分で津波が来て、子供達を山に避難させました。
校舎の屋上まで水没しました。
下校した2年生は家族とともに流されて亡くなっています。

4月21日にとなり街の中学校で再開しました。
108名いた生徒が41名に激減していました。
41名のうち39名が自宅を流されて、親戚の家とか避難所から通ってきました。
子供達は一見落ち着いているように見えるのですが、実は呆然自失状態だからなんです。
テンションの高い子もいました。
不安を打ち消すために喋るんですね。(高学年が多かった)
心も体も縮こまっている子が多かったです。
私自身家を失い義理の母を亡くしていて、自分のことで精一杯でした。
何をすればいいか判らなかった。
目の前の子供達から新しい教育を立ち上げるべきではないかと気持ちが固まってきました。
内面に抱えている辛さ、苦しみを解放してあげるような学び、地域を失っているので復興に参加したいという要求を子供達ももっていて、それにこたえるような教育を作ろうと思いました。

「復興教育」という名前を付けました。
①地域復興を学び、復興に参加する活動。
②子供抱えている辛さ、不安等を解決するような心のケアを行うような学び。
の2本立てです。
私自身の体験に基づいています。
自宅をながされて 教育実践資料全て流されて、失意のどん底で教師を続けていく気力がわいてきませんでした。
茫然自失が続いてましたが、地域とか校舎に何回か通っている時に、或る新聞社が学校で子供の作品を私が手に取っている処を写真に撮って全国版の新聞に報道したんです。
その記事を見て私宛に全国から続々と支援物資が届きました。
雄勝地域の人にその支援物資を配付して回っていたら、涙を流して喜んでくれて、逆に力を貰いました。

5月に地域の人から街作り協議会に参加しないかと言われて参加して、行くたびに自分の体から力が湧いてくるような体験をしました。
地域との繋がりが切れた、地域の自然、地域のコミュニティー、地域の教員だったという自分を支えていたつながりが街が消えた事で、自分自身の人格そのものが崩壊する様な感覚に陥っていて、それが喪失感の本質ではないかと思いました。
自分が元気になって行く理由は、自分自身が繋がりを回復してきているからだと捕えました。
繋がりを回復することで、希望がわいてくると言う事が判ったんです。
人と繋がり希望を紡ぐ復興思想と名づけました。
子供達にこれを応用できないかと考えたのが「復興教育」です。
授業が成立できない状態でしたが、体を動かすことはできると思ったので、私は演舞をやっていたのでこれを子供達に教えて、地域で踊ってみせようじゃないかと子供に提案しました。
体の感覚が踊ることで回復して元気になってくる。
地域で踊ってみせて、地域の人が喜んでくれて涙を流してくれるのを見て、子供自身が自信を持つんですね。
地域の為にもっと何かできないかと子供自身が思い始めました。
大人たちが復興に関わっている姿を見てもらって、地域の復興の想いを子供達に触れさせてみて、震災を乗り越えて行くモデルにして欲しいと思ってやりました。

①まず大人に出会わせること。
 職人の遠藤弘行さんの硯を彫っている姿に子供達が驚くんですね。
 うわ硯の復活の思いを語る遠藤さんの姿を見て、子供達は勇気を貰った。
 自己形成のモデルとなる。
 雄勝のスレート(雄勝石)で屋根に葺いているが、津波で散乱しているので、それに名
 前を書いて表札として配ったら、すごく喜ばれるんです。
 自己肯定感を高めて行くわけです。
 生きる力、希望を自らがつくりだしてゆくわけです。
②街の将来復興のプランを考えようと提案しました。
 子供達は自分たちなりの復興プランを作り上げました。
 街にアンケートを取りに行くと病院、商店街、学校、住宅等生活に即した要求を持って
 いてそういったものが欲しいという様に住民達は思っていて、子供達との考えの落差に
 愕然とします。
 住民の考えに沿ったプランを考えて行く。 
 滞在型観光プランに立脚した街作り。

震災2年目の方がストレスをため込み、学級が荒れて来ます。
子供に寄りそって心にある不安などを聞きとって受け止めて表現させる、そこから始めようと思いました。
俳句、作文、絵などを通して表現してもらい、それを共有する。
判り合う関係が出来て、そうすると心が軽くなり一体感が生まれて来る。
3年目は体調を崩して病気状態で 同僚達がやってくれていました。
2014年に定年退職しました。
全力でやり抜いたので、悔いはないです。
「復興教育」は子供達を地域復興に参加させて、復興の主体を育てようと言う目的の教育ですが、地域に受け皿としての会社があるかと思ったらないので、自分で会社を作ろうと思って妻と一緒に会社を作りました。
①被災地支援、教育支援、②ボランティアの受け入れ、③北限オリーブの栽培。
この三つの事業をやっています。


































2019年3月7日木曜日

青木睦(国文学研究資料館准教授)     ・「アーカイブズ・レスキュー ~記録遺産を守る」

青木睦(国文学研究資料館准教授)・「アーカイブズ・レスキュー ~記録遺産を守る」
アーカイブズ・レスキューは公文書、民間に伝わる貴重な記録等が災害にあった時などに、それらをいち早く救出、復元、保存して、次の世代に引き継いでゆくと言う新しい研究分野です。
日本では阪神淡路大震災の時に、ボランティア活動として行われ、以降研究の進んでいる欧米に学んできました。
そし東日本大震災の時には岩手県釜石市で、初めてアーカイブズ・レスキューに取り組みました。
青木さんは元々は古文書解読の専門家で、信州真田家の古文書などを研究しています。
国文学研究資料館では研究者の少ない古文書の復元と保存も並行して取り組み、阪神淡路大震災の時には、ボランティアとして公文書などの復元を行いました。
以降青木さんはアーカイブズ・レスキューの実践を通してその定着に組んでいます。

アーカイブズと言うのは、個人でも組織でも生きて行くため、企業が営業して行く為、国は自治体の運営の為の記録を作成します。
記録が溜まっていくと、いらないものは廃棄しようと言う事で、必要な記録を残していく、残すと決めたのが、アーカイブズです。
古文書、地域にある様々な資料が様々な災害にあったりします。
地域にある企業、病院、学校、自治体などにあるアーカイブズが被災すると言う事が起きるので、支援して歴史を知るための様々な活動に活かしていただこうと言うのがアーカイブズ・レスキューです。
助けたアーカイブズを必要な人たちが、よりよく活用できるようにすると言うのがアーカイブズ・レスキューと言うことになります。
欧米などは大変進んでいます。
水に濡れたり燃えたりするので、保存の為の科学的な処置方法が重要ですが、それ以上に重要なのは地域にある資料をどのようにようにネットワークや管理する体制側が、ネットワークや組織的な対応を組んでレスキューし、それを活用できるようにするがとっても重要です。

ヨーロッパでアーカイブズ・レスキューの体制が進んでいるのは、1966年にイタリアのフィレンツェにある国立中央図書館、国立公文書館がありますが、そこの資料がアルノ川の大氾濫ですべてが、100万を越える世界の歴史的な文化遺産が泥の中に埋まってしまいました。
イギリスから専門家が入って、その後世界各国の修復に関わる専門家が集まりました。
クリーニングして乾燥して図書館などで活用できる様にするという活動をしてきました。
その間に急速に進歩しました。
ICA(International Council on Archives)の話を直接聞いて、その2カ月後に阪神淡路大震災が起きました。
(国際公文書館会議 ( ICA) は、世界中の記録とアーカイブズの専門家の代表が集まり、記録の効率的な管理と、世界のアーカイブズ遺産の保存、管理、及び利用を支援することを目的とする。)
私はそれを契機に動き出しました。
神戸市の水道管の埋設の地図がなくなってしまいました。
歴史的な古い資料だけではなくて、災害が起きた時には専門家として必要な公文書も併せてレスキューすることを知りました。
戸籍、土地台帳、出生証明などが管理、残されているので、レスキューする対象になります。

東日本大震災で釜石市で実践しました。
4月26,27日に釜石市に伺いました。
市の公文書が被災したという情報が入ってきました。
当時先ずはライフラインの復旧でしたが、文書をレスキューしますと市の方に話しました。
今も8年を越えるが使えるようになりました。
2万点の文書を2カ月かけて運び出して最新の技術を使って乾燥させ、使用できる様な文書にして元に戻しました。
人間文化研究機構のレスキューチームとして行くことができました。
国文学研究資料館のチーム、千葉の国立歴史民族博物館、大阪の国立民族学博物館、の人達が関わりました。
最初私達3人が入りボランティアを募集しました。
今も続いていますが、ようやく収束する時期に来ました。

地域のアーカイブズの公開利用が進んできているのは、欧米では進んでいます。
公開システムが必要です。
自治体は住民の為に活動しているので、住民の為に公開されなければいけないと思います。
釜石市のアーカイブズ・レスキューをもとにして、全国の関係者が集まってフォーラムを開催しました。
残念ですが、岩手県には県立公文書館が無いんで、県のアーカイブズがありません。
公開できるシステムを作ってもらえるようにする。

私は本来、専門は古文書を解読してそれを保存することです。
地域の歴史、暮らしを解読することによって、多くの人に知っていただくと言う事が初めでした。
どのように古文書を収納するか、保存管理そういう事をやっておる方はほとんどいませんでしたので、それをやろうと思いました。
それがきっかけでアーカイブズ・レスキューをはじめました。
昭和26年に文部省が設立した文部省資料館ができました。
古文書が散逸の危機にあると言う事が判って、国が収集しなければいけないと言う事で設立されました。
国文学研究資料館の中には60万点に近い古文書が収蔵されています。
真田家の古文書は当館の大きな資料としてあります。

文化庁が中心になって被災文化財等救援委員会が出来ました。
阪神淡路大震災の時に歴史資料ネートワークが神戸大学を中心に出来ました。
宮城県でも東北大学を中心に宮城県の資料ネットワークができました。
愛媛県にも出来て、23を越えるネットワークができました。
記録が電子化されてきている。
電子情報は災害に弱い。
分散管理ができていないケースがあります。
原資料も重要ですが、電子情報化されたものもきちんと管理する、災害対応に応じたシステムの提案も必要です。
どのようにレスキューをするものを優先順位を付けて、レスキューするかという事も重要です。
事前に何を優先するかというシステム作りが必要です。















































2019年3月6日水曜日

井山計一(バーテンダー)         ・「日本一幸せなバーテンダー」

井山計一(バーテンダー)         ・「日本一幸せなバーテンダー」
93歳、戦後の混乱期工場勤務やダンス教室など職を転々とし、20代半ばでバーテンダーになりました。
33歳の時に大手洋酒メーカー主催のカクテルコンクールに参加、創作カクテルでグランプリを受賞しました。
雪国」は今やスタンダードカクテルとして国内外で広く愛されています。
共に店を切り盛りしてきた妻のキミ子さんを2016年に亡くしてからもカウンターに立ち続ける井山さん、その半生を描いたドキュメンタリー映画がこの1月に公開され静かな反響を呼んでいます。

「雪国」、薄く緑がかっていてグラスの底にはミントチェリーが沈んでいて、ガラスの縁には砂糖が雪を連想させる。
当時はカラーのカメラが無くて色鉛筆で材料、手順などを書いて投票するわけです。
全国8つ地域で予選がありました。
私が投票したのは第3回目の大会で2万4000人が応募しました。
最初はグラスの縁につけておきました。
ところが或る人がこの方がいいと言ってくれたと言う事でした。(長嶋会長でした)
壁に詩のような文章があってそこに書いてあった「雪国」という言葉もいいなあと思って付けました。
ウオッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・ジュース の瓶が3つ並んでいました。
 ライム・ジュース 、これを使ったらいいなあと思って、作りました。
広がってカクテルブックにも載るようになりました。
どこにも材料があり、誰でも手掛けることができるので広がる率が高かったようです。
私は酒は駄目で飲めませんし、魚は食べられません。

父が料亭をやっていました。
私は長男で姉と妹がいました。
父は私を後継ぎにしたいと思っていました。
カクテルの味見もしません、お客さんの顔つきを見て行けるかどうかを判断します。
卒業後東京芝浦電気に就職しました。
当直を変わって空襲から免れ助かりました。
昭和20年に地元に帰ってきました。
召集令状が来たのは昭和20年8月18日でした。
玉音放送を聞いてもよく判りませんでした。
9月から叔父が旅館組合の組合長をやっていましたが、ダンスホールを作ったので、見回りをやってくれないかと言われました。
ジャズをやっていて面白いなあと思いました。
ダンスを習うことになりました。
昭和23年に母親からお金をわたされて、「東京に行って勉強して本物のダンスの先生になってきなさい」と言われました。

戻ってきたらみんなが教えてほしいと言われました、それはジルバでした。
昭和24年の秋に、母親がお前の結婚式を決めてきたと言われました。
菊池キミ子だと言われましたが、生徒の一人でした。
妻はダンスはどうも駄目で練習してもパートナーとしては駄目だと判り、職を変えないといけないと思いました。
キャバレーの求人広告がありバーテンダーが向いているかもしれないと思いました。
応募者は200人ぐらいいました。
その時は27歳でもう駄目だと思いました。
バーテンダーは7名でその最期の方で受かりました。
チーフのやる仕事をよく見て、どんなふうにやるのか、何を使ったのかとか、メモをして一生懸命に勉強しました。
後で聞いた話では、ボーイ、バーテンダーが結構いるのでトラブルが起きた時に、ダンスの先生をやっていたし年配のなだめ役がいた方がいいと言う事で雇ったと言う事でした。

妻はニコニコして怒った顔を見たことが無かったです。
1年後に妻と子供を仙台に呼びました。
妻はドレスメーカーの学校の生徒で、ドレスを作っていたりしました。
我々の給料が7000円のころにホステスのドレスは2,3万円していました。
そこでドレスを妻が作るようになり、6000円で売ってそれがひろがり、ホステスは250人位いたので次から次に注文が来るようになりました。
3か月位やったら急に目が見えなくなり、病院に行ったら単なる栄養失調だと言われました。
食事もとらずにミシンを踏んでいたようです。
初めて私の役に立ったと言う事でした。
私が疲れて帰ってきて寝てしまうので起こさないように、足を使わずに手でミシンを回していたとの事でした。
もう作るのはいいからという事で、最期のドレスを届ける時に、自分では判らないので二人の子供に両手をひかれて、帰ってきました、そこまでやるとは思わなかった。

映画になり、ロケを始めた年の5月30日に妻は亡くなりました。
とにかく女房は天下一品ですよ。
店では8割がたは「雪国」を要望します。
カウンターに入るとしゃきっとします。
学生時代はスキーの選手で、その後ダンスで、足腰はしっかりしています。
キミ子がきたおかげでダンスができなくなり、その代わりにとんでもない人生になりました。
ダンスができなかったから転業して、映画にもなりました。
東京オリンピックが終わるまではみっちり働きたいと思います。





























2019年3月5日火曜日

金田諦應(僧侶・「傾聴移動喫茶」マスター) ・「被災者と未来の物語を紡ぐ」

金田諦應(僧侶・「傾聴移動喫茶」マスター) ・「被災者と未来の物語を紡ぐ」
62歳、東日本大震災の直後から避難所や仮設住宅に赴き、「傾聴移動喫茶」を開いて被災者の声に耳を傾けて来ました。
これまでに話を聞いた被災者の数は2万人近くになります。
その人の生い立ちや歩んで来た道を聞いて、共に救いの道考えて行くと言うこの活動、宗教や宗派を越えて心のケアに繋がる臨床宗教師の実現に繋がりました。
金田さんは東北大学で行われている、臨床宗教師の教育プログラムで指導者も務めています。

8年前の3月11日、最大震度7で大きな揺れが3回ほど波打つように揺れたのを記憶しています。
揺れが収まった後に考えたのはまず本堂が潰れたのではないかと心配しました。
3分ぐらいはTVが見れましたが、そこからストンと電源が落ちて全く情報が入ってこない状況でした。
6mの津波が来ると言う放送があって切れてしまいました。
6mであると海岸近くになると18m位かそれ以上になると小さいころから伝わってきていました。
沢山の人が死ぬのではと頭に浮かびました。
頼りになるのはラジオでした。
荒浜海岸に300体程の遺体が浮かんでいる模様です、とのアナウンサーの声が聞こえました。
もしかしたら10万人単位で亡くなる方が出るのではないかと叫んでいました。

夕方位に雪が降り出しました。
ずぶぬれになった人達に追い打ちをかけるような雪でした。
30分程度の間雪がやんでその時には満天の星空が広がっていました。
宇宙がむき出しの生と死を包み込んであいると思って呆然と立ち尽くしていました。
南三陸町、石巻、東松島の火葬場の施設がほとんど駄目になり、こちらに運ばれて来て荼毘にふすという情報が入り、仲間のお坊さんたちに声をかけて御遺体の御供養をしようという事を呼びかけました。
最初に運ばれてきた御遺体が小学校5年生の女の子でした。
お経を読み始めようとした時に、待って下さいもう一体来ますので二つ並べて御供養してくださいと言う事でした。
もう一体は同じ小学校のお友達の女の子でした。
衝撃を受けてお経の声が震えてなかなか出せませんでした。
その様子を撮影しようとしていた新聞社の方が俺はシャッターを押せない、どうしたらいいんだろうと困惑していました。
「貴方は悲惨な出来事を世界に知らせなくてはいけない使命があるので、とにかくシャッターを切れ」と言った覚えがあります。
自分の使命って何なんだろうと真剣に考えた時間だったと思います。

49日になってくると被災地も大分落ち着いてきて、御遺体の数も減ってきました。
被災地の追悼行脚して歩こうと呼びかけました。
南三陸町の海蔵寺というお寺(親戚)は津波から逃れられて、沢山の遺体が運ばれたところで、そこを起点に歩こうと呼びかけました。
牧師さんにも一緒に歩かないかと呼びかけ一緒に歩きました。
瓦礫の山が見えてきて、自衛隊が遺体の捜索をやっていました。
海岸が近付くにつれてお経が読めなくなりました。
讃美歌も歌っていた人達もどういう讃美歌を歌っていいかどうか判らなくなってきていた。
海岸の風景はこの世に神様だとか仏様はいるのだろうかというような、そういう問いがしみ込んでくると言うか、どう解釈していいかどうか判らない状況でした。
呆然と立ちつくしていました。
自分の立場とか法衣を脱ぎ捨てて、一求道者として被災地に入ろうと決意しましたが、何をやろうか判らなかったので、あるところに炊き出しに行きました。

被災地では医療機関がほとんど駄目になりました。
避難所には200人ぐらい居ました。
そこにきていた国境なき医師団の若いお医者さんが責任者に胸倉を掴まれて、「貴方達が次のところに行ったら、この年寄りたちはみんな死んでしまう、どうするんだ」と
必死になって叫んでいました。
若い医師はほんとうに困惑していました。
炊き出しだったら誰でもできる、宗教者だったら何ができるのだろうと二つ目の問いが廻り出しました。
生き残った人は医者に命を託している、宗教者は命だったら心、心に向き合おうと強く思いました。
傾聴活動、心に寄りそう活動という事で、「傾聴移動喫茶」「カフェ・デ・モンク」を始めました。
我々求道者に文句を言ってほしい、そういうメッセージでした。
尺取り虫が泥をはう様に情報を集めながら慎重に(入れるような場所と入れないような場所があるので)選びながら活動を続けました。

私たちに向けられた言葉は「どうして俺は生き残ったんだ、俺が生き残ったのには意味があるのか」、「誰が生と死の境を決めているんだ」とか遺体が見つからない空虚な心が向けられてきました。
宗教者としても逃げ出したくなるような思いでした。
最初の1年はそういう状態が続きましたが、49日の時に歩いた被災地の追悼行脚をもう一度歩こうと牧師さんを誘って歩きました。
以前はヘドロと御遺体の臭いと、何とも言えない雰囲気の中を歩いて行って、崩れ落ちる自分たちを見付けましたが、1年後に歩いていると、途中から風吹いてきて磯の香りがしてきたんです。
海が蘇っているなあ再生しているなあと感じました。
死には一人称の死(自分の死)、2人称の死(大切な人達)、3人称の死(社会の人達の死)の三つあるが、あの再生の風を感じた時にはさらに大きな人称、超人称というふうに思った時に、だからこそ人は必ず立ちあがることができると言う事、それが確信だったです。
この活動をずーっと続けて行こうという、そこ覚悟がその時できたと言うことは間違いないです。

大体320回位やっているが、合わせると2万人位になると思います。
3年目ぐらいの時に、海岸にある20世帯ぐらいの仮設住宅から手紙が届きました。
子供と一緒に津波から逃げる途中に、子供だけが津波に持っていかれてお母さんだけが残った方からの手紙でした。
自分を責めて責めて1年目は子供の遺骨の前で寝ていて起き上がる事が出来なかった。
2年目は無理やり立ち上がろうとした。
3年目は心の病になってしまって、リストカットはする、眠れない、食べれないと言う日が続きました。
私たちの活動を聞きつけて救いを求める手紙が来ました。
直ぐに電話をして、必ず行きますと言って3日後に行くと言う連絡をしました。
3日目のその朝に電話をしたが出ませんでした。
行く途中に旦那さんから電話があり、妻が睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂をした、という事でした。
今日は来ても居ないので、今日は来てもらわなくてもいいと言う話でしたが、家に伺いました。

一命は取り留めていて、連絡をして10日後にまた行きました。
あったときには目はうつろでした。
彼女から最初に出た言葉が「和尚さん、私の子供は今どこにいるの」という言葉でその言葉が出るまでだいぶ長い時間がかかりました。
私も暫く沈黙していましたが、「おかあさんあ、貴方だったら何処にいてほいいと思う」と問いかけました。
沈黙がずーっと続いて、10から15分してから「和尚さん、お花が咲いていてさ、光が一杯あふれているそういうところにいて欲しい」と言ってきました。
そこまで至るのに1時間ほどかかりましたが、言葉ではほんの少しですがとても濃い時間を過ごせました。
そこにいる様に和尚さんもお祈りするからと言って、それから彼女とずーっと付き合いました。
次に行った時に一枚の絵を渡され、光があふれて花が咲いている絵で、「こういうところにいてほしい」と言っていました。(お寺に飾ってあります。)

臨床宗教師と言う輪郭がはっきりし始めました。
自分たちの教義とかを一旦脇に置いておいて、相手の価値観に立ってその人に寄り添いながら、その人の人生の目的を達成するように援助して行く、そのような立ち位置、そういった構想が震災の2年目ぐらいから出てきました。
東北大学に宗教者がよりあって被災地に向き合おうと言う会が出来て、そこに或る医師が代表として調整役をしていました。(岡部健先生)
在宅の緩和ケアの方に行った方で、御自身も震災前にがんの告知を受けて余後1年から1年半という事でした。
自分の命と向き合いながら、在宅医療の将来についてとても深い思いがあったと思います。
宗教者を在宅緩和ケアのなかに、看取りの医療の中に一緒にやりたいと言う思いのある方です。
岡部先生を中心に「実践宗教学寄付講座」と言う講座が立ちあがりました。
その講座で被災地で経験したこと感じたことを伝える役目だと思ってやっています。
最初は教義、教理にこだわる人もいますが、私たちが相手のフレームの中にはいっていかなくてはいけなくて、ベクトルが逆なので、皆さんとまどいます。

この人はこういう場所に行きたいんだと、言葉の意味を消化しながたら、それにそって自分達も歩いてゆく、未来に向かって歩いてゆく力を見付けてあげると言うのが私たちの役目だと思います。
ややもすると死へ落ちて行く現場は、負のエネルギーが強くて、死はどうしても敗北感がある、しかし死にも意味がある。
一人一人の死には意味があると言う事を臨床宗教師が言語化して、プラスに変えていかないといけない、それが臨床宗教師の大きな役割だと思います。
宗教者は大自然に試されるなというふうに強く思います。
宗教者を成熟させて行くのは苦悩、悲しみだとつくづく思います。
日本の国は災害立国で、地震、津波、火山と向き合いながら、それぞれの生活文化をはぐくんできたのかなと思います。
少なくとも10年は這いずり回ろうと思っています。
復興住宅と町内会がうまく混じり合うようなつなぎ役を果たせばいいと思っています。


































2019年3月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】「夏目漱石」講談師 

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】「夏目漱石」
講談師 神田蘭
国民的代表作家 夏目礎石

講談による紹介
『本名、夏目 金之助、慶応3年1月5日 江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)夏目家の8人兄弟の末っ子として生まれる。
生れて直ぐ里子に出され、翌年には別の処に養子に出される。
8歳の時には夏目家に戻るが、幼少期に受けた孤独感というのは後の彼の人格構成や小説にい大きな影響を与えたのかもしれない。
漱石は沢山の名作を残している。
「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「虞美人草」[こゝろ]と枚挙にいとまはないが、漱石が作家としてデビューしたのは38歳、彼は49歳で亡くなるが10年間という短い間のこれらの名作を生みだした。
38歳まで何をやっていたのか。
明治16年26歳の時に東京帝国大学を首席で卒業し、英語の教師として松山に赴任する。
松山というと正岡子規の故郷、病気療養で帰って来たおよそ2カ月同居していた。
この時に子規から俳句を熱心に学ぶ。
子規が東京に戻って行く時に漱石の句が「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」
漱石に子規は「行く我にとゞまる汝に秋二つ」と返す。
文部省の命で英語研究の為イギリスに留学することになる。
当時イギリスは家賃も高く本も高い、お金がたりずにままならない。
異国の慣れない生活にたたったのか神経衰弱に罹ってしまった。
漱石は「最も不愉快な2年間なり」、「このことが余をかって創作の方面に向かわしめた」と語っている。
イギリスから帰国後、神経衰弱がなかなか治らない。
高浜虚子が、気分転換に文章を書いてみませんかと声を掛けた。
この時に書いた小説が、猫を主人公に書いた小説「猫伝」、後の「吾輩は猫である」だった。
雑誌「ホトトギス」に掲載されると、人気を博して一冊の本として出版されると20日ほどで売り切れた。

塩原さんの遺影に養子に行ったが、養父、養母の仲が悪くて、あまり落ち着いて日常生活は送れなかったようです、だから苦労したんだと思います。
3歳頃に罹った疱瘡、顔に疱瘡の痕が残ってしまって、自分の顔に凄いコンプレックスを持っていたようです。
12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校)に入学する。
友達には恵まれて中村是公など、生涯に渡る親友に巡り会っている。
大学予備門(のちの第一高等学校)に入る。
漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。
卒業まで首席で通した。
漢文が得意だったが、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に進む。
英語は何かを学ぶ時の方法として英語は勉強していいと言うふうな風潮があったようだ。
明治26年帝国大学卒業後、大学院に入って、東京師範学校の英語の先生になり、その時の校長が嘉納治五郎でした。
明治28年に松山で愛媛県尋常中学校教師として赴任。
明治29年に熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)
当時は熊本が九州では中心になっていた。
明治33年5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。
最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。

1901年、明治34年 ビクトリア女王が亡くなり、葬儀にあって下宿屋の親父さんの背にまたがって、行列を眺めたそうです。
イギリス留学に当たっては正岡子規との二度と会えないのではないかという別れがあった。
漱石の名前は、本来「流れに口を漱いで石に枕す」でなければいけないが、或る人が漱石、口に漱ぎと間違えて言ってしまって、間違っていると言われたが無理やり意味を付けた。
石に漱ぐでいいんだと言う事で中国では漱石は頑固者と言うことになる。
自分にぴったりだと思ったのかもしれない。
英国留学から帰国後、1903年には第五高等学校教授を辞任、同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。
1905年「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。
『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社。
同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」、「坑夫」,「文鳥」、「夢十夜」,「三四郎」と次々に連載。

正岡子規もそうだが、漱石は食べることへの執着がありよく食べるんです、とくに甘いものが好きでした。(ジャム一瓶舐めてしまう。)
酒は飲みませんでした。
人格的には魅力的な方だったと思う、次から次へといろんなひとがきて、それがそうそうたるメンバーだった。
漱石の家には小宮豊隆鈴木三重吉森田草平などが出入りしていた。
門下には内田百野上弥生子寺田寅彦・阿部次郎安倍能成などの学者がいる。
1910年、明治43年胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。
療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
1911年 文部省からの文学博士号授与を辞退
1915年(大正4年)芥川龍之介や久米正雄といった人が門下に加わる。
1916年 「明暗」を朝日新聞に連載中に未完の作となる。
12月9日 - 午後7時前に、胃潰瘍により死去。(49歳)
今でもみんなに読まれている。
普遍性みたいなものを持っている。

自分のにやりたい事、出世することがぴたっと会うような山縣 有朋みたいな人はよかったかもしれないが、今回取り上げられなかったが、乃木希典などは本当は詩人になりたかったんじゃないかと思います。
森鴎外などは強い気持ちを持ってふたつの自分を生き抜いた。
夏目漱石は途中でおりて、難しいと思います。
今は恵まれた時期だとは思います。
今回で最終回 (24名)