2022年8月31日水曜日

前田美波里(女優)           ・まだまだ現役バリバリです!

前田美波里(女優)           ・まだまだ現役バリバリです! 

子供のころは活発で学校が始まる前に男の子らといろんな遊びをしていました。   放課後は海の方に行って遊んでいました。   小学校4年生でクラシックバレエを習い始めて、学校へ行くより楽しかったです。   森下洋子さんに憧れていました。    黒くなると仕事に差し支えるので、最近は海ではなくプールで泳いでいます。   コロナではジムがクローズになり行けなくなったのでウオーキングを始めました。   水泳を本格的に始めて4種類、一番好きなのがバタフライ、平泳ぎ、クロール、背泳ぎです。  

ブロードウェイミュージカルの『ピピン』 危険が伴う役なので中尾ミエさんと私で一つの役を行います。 

初舞台は15歳でした。  コマーシャルで名前が知れて声がかかりました。  東宝現代劇8期生で高校へ行きながら勉強の最中でした。  芸術座で発表会があり、舞台へ行くように菊田一夫先生たちから言われました。   東宝が手がけたミュージカルの2つ目の作品『ノー・ストリング』で初舞台を踏みました。   「王様と私」という映画を観た時に、なんて素敵なんだろうと思ってミュージカルの面白さを知り、ミュージカルにはすんなり入っていけました。  

当時ミュージカルは定着していなくて、映画からは声はかかりますが、映画はやる気があるわけではなかったし、学校は余り休めませんでした。   資生堂のカレンダーのオーディションに応募して、作っていただいたポスターが有名になりました。   化粧品メーカーの150記念で似たようなコマーシャルをするということで、当時のように水着で出るわけにもいかないので、スカートが風に舞って素敵なコマーシャルを撮っていただきました。 あのままだねと言ってくださったのはとても嬉しかったです。   8月8日で74歳を迎えました。   

『ピピン』ではピピン王子の祖母・バーサの役です。  おばあちゃんが自分自身がこうやって生きてきたんだと諭すんですが、ミュージカルなので歌い、しゃべり、パフォーマンスがアクロバット的なもので、昔は空中ブランコの大スターという事なので、空中ブランコに乗ってパフォーマンスをします。    高さ3mで命綱はありません。   肉体を動かして人に表現することが何よも楽しみだと思っているので。   主演の森崎ウィンさんはねずみのごとく身体が動き、ぴったりの役です。  

父がアメリカ人で、若いころはいろいろ切ない思いをしました。  名前はコマーシャルで有名になってしまいましたが、女優としてはまだほんのひよっこで、いい役が付いてもそれを表現できなかったので、いろいろあったことはまあちょど良かったのかもしれません。 自分で努力して自分の名前に恥ずかしくない芸が出来るようになってから、活躍できるようになってから、幸せと思えれば本当にありがたいことだと思います。   父親の血が半分入っていて芸能界は住みずらい世界で早くこの世界を辞めて、父親が再婚して亡くなってもいるし、温かい家庭に早く入りたくて、マイク真木さんも早くに母親を亡くしていて、20歳で結婚してしまいました。  離婚も早かったですが。  でも今の奥さんとも凄く仲良しで、真木家でイベントがあると何故かお邪魔しています。  

ミュージカルが定着するまでには何年もかかって、29歳の時に劇団四季さんが変わった作品をやるのでどうでしょうかとお誘いがあり、コーラスライン』のオーディションを受けるように言われて、受けに行ったら終わっていましたが、スタッフさんが上手く入れてくれました。   そこからはミュージカルをやらせていただけるようなことになりましたが、それまでは日本に定着しないので苦労しました。  ミュージカルが定着したのは、劇団四季さんが「キャッツ」をしてからだと思います。  

年齢なんて意識しないことですね。   肉体的には歳をとって来るんでしょうが、まだあんまり衰えを感じていません。

『ピピン』は 「東急シアターオーブ」で昨日から始まり9月19にまで行います。    生きるという事はどういう事なんだろう、人生をどうやって自分で切り開いてゆくのかという事に、本当にぴったりの作品なんですね。  お子さんからおじいさんおばあさんまで楽しんでいただける作品だと思います。

2022年8月30日火曜日

田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】 田辺聖子

 田辺美奈(田辺聖子の姪)        ・【わが心の人】  田辺聖子

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の生まれ。   1964年(昭和39年)芥川賞を受賞。  91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。   日記を紹介しながら田辺聖子さんの戦中戦後の日々を辿ります。   

田辺聖子は3人兄弟の長女で2歳下に私の父(聡 あきら)、3歳下に妹(俶子 としこ)です。     BSプレミアムで再放送されている朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」田辺聖子の半生を描いたもの。

91歳で亡くなった後、青春時代の日記が見つかりました。    期間限定で叔母の家を記念館として皆さんに公開しようという事でプロジェクトを組んで下さり、私たちもそれに向けて家の片付けを始めました。  押し入れの中から一冊のノートが出て来ました。    17歳から19歳までの青春時代の日記(終戦を挟む)という事になります。    家が大阪の大空襲に遭って失って、着の身着のままで生活しなくてはいけなくなった。   雑誌への掲載と本にしていただくことになりました。   

田辺聖子さんは1928年(昭和3年)大阪の写真館の長女として生まれました。  本が大好きでした。  昭和19年4月に現在の大阪樟蔭女子大学に入学、戦時下の体験をして、昭和22年卒業、会社員の仕事をしつつ、執筆活動も行う。   36歳の時に芥川賞を受賞。  平成20年に文化勲章をを受章、2019年6月6日亡くなる。(91歳)  

大学に入っても勉強はままならず、寮に入って勤労動員されて旋盤を回していたという事でした。   航空機製作所で飛行機の部品を制作していた。   週末には帰宅していました。   友達とは楽しく会話をしていたようです。   空襲で家が焼けてしまったのは昭和20年6月1日の大阪大空襲の時でした。    6月2日の日記には大変なことがあったらしいという事で電車も動かないような状況の中、友達と共に帰宅する。          「まだ延々と燃え盛っている。 真っ赤な火だ。  喉が痛く目が沁みる。  第百生命は全滅だ。 ・・・」   叔母はちょっと足が悪く7,8kmを家を心配しながら歩いた様子が描かれている。    「・・・お母さんが見るも痛ましい姿でやって来た。  眉は黒く眼には涙の痕がある。  ・・・お母さんは私を見つけてみるみる眼を潤ませた。  聖ちゃん、家が焼けてしもうた。  ・・・私は不覚にも涙がこぼれた。 あんたの本なあ沢山あったのが出すことが出来なかった。 ・・・涙がポトポト水槽の上に零れ落ちた。 ・・・あの美しい古い家、それが2,3時間のうちに夢のように灰になって消えてしまうという事があり得るであろうか。 ・・・(すべてのものを)嘗め尽くして、それは余りにもあっけない。」

父は家には早く帰ったので、戸棚の中に入っていた貴重品だった食料油、洋酒、食料品などは持ち出さずに、日本刀を一つ持って出てきたという事で、戦後ですが、食料やらあったら本当によかったのにという事だったが、やっぱり日本男児だとからかわれたりしたと叔母から聞かされました。  

昭和21年12月31日の日記の内容。   「気立ての優しい女の子に成ろうと思ったのに、それもなれず弟や妹に当たり散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでいるばかり。   いったいこれで、無教養さで小説家なんて難しいものに成れるかしら、と心配でならない。  ・・・ 今、少し小説を書きかけているけれど、どうも思う様に筆が進まない。  ・・・私はもうこの道しか進むべき道はない。  来年も又幸福な精神生活が送れますように。  私は20歳になる。・・・さらば19の幸多かり日年よ。」

日記にはいっぱい赤線が引いてあったりして、「私の大阪八景」「欲しがりません、勝つまでは」自伝的小説の「しんこ細工の猿や雉」のなかで全く同じ文章が出てきたり、日記の出来事がそのまま描かれていたりしています。   

8月15日の日記にはどのように書かれているのか気になって最初に見ましたが、ここだけ黒々とした墨のような文字で他とは全然違う記述の仕方をしていて非常に驚きました。  文語調で、叔母にとっては特別な一日だったという事が伝わって来ました。  叔母からは戦争の話を聞く機会は残念ですがありませんでした。  

私が大学院時代に週に一回叔母の秘書役的なことをやっていました。   感情をあらわにするようなタイプではないんですが、一度だけ怒ったことがあります。   法事の時に、お酒の入った遠い親戚のおじさんが「聖ちゃんこれからはもっと立派なものを書かんとあかん」と説教をしたことがあって、その時叔母が珍しく怒って「私は大説家ではなくて小説家ですから」ときっぱり言い返したんです。   叔母は軍国少女だったんですが、敗戦でひっくり返ってしまう体験をして、大きなこと、立派な事のもろさ、それに比べて人の心の移ろい、愛が生まれたりとか、色褪せていったりすることの方が本当はずっと確かで切実なものなんじゃないかと叔母は感じていたんじゃないかと思います。

読者の反応がいろいろありました。  








2022年8月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 茨木のり子

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  茨木のり子 

戦争中から戦争直後の女性の青春を描いた代表作「わたしが一番きれいだったとき」など、没後16年経った今も人々の心をとらえ続けています。  どんな時も個として生きることを貫き、何もにも寄りかからず強く美しく生きた茨木のり子の言葉をお伝えします。

「もはや出来合いの思想には倚りかかりたくない。  もはや出来合いの宗教にはりかかりたくない。  もはや出来合いの学問にはりかかりたくない。  もはやいかなる権威にもりかかりたくはない。  長く生きて心底学んだのはそれぐらい。 自分の耳目、自分の二本足のみで立っていてなに不都合なことやある。  りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ。」       茨木のり子

  茨木のり子は昭和を丸々生きた詩人です。  生まれたのが大正15年、亡くなったのが平成18年。    

「後年歴史年表をしげしげ見るようになってから、私が生まれた昭和元年から12年ぐらいまでが日本にとってどんなに激動の時代であったかが判り、慄然となる。」      昭和16年からは太平洋戦争になる。  戦争と青春が重なっている。            上述の「りかからず」の詩が茨木のり子の中でも、もっとも有名な詩だと思います。  73歳の時にこの詩集を出しているが、詩集としては当時大ベストセラーになった。(24万部) 
 茨木のり子の強さは反抗の強さ。  圧倒してくるものに対しての反抗です。   

「自分を強い人間と思ったことは一度もない。   むしろ弱い駄目な奴という思いが何時もありまして、兎に角和自身は強くはない、弱い人間です。」
「一般には人間も学歴や社会的地位で価値が決まるようですが、私のランク表に寄れば役立たずの駄目人間とされている人がすこぶる高みの椅子に座っていたりします。」     絶望を踏まえたうえで弱い者の側から声を上げている。  その声が凛としている。    

「大人になってもどぎまぎしてもいいんだな。  ぎこちない挨拶、醜く赤くなる失語症、滑らかでない仕草、子供の悪態にさえ傷つてしまう頼りない生ガキのような感受性、あらゆる仕事すべてのいい仕事の核には震える弱いアンテナが隠されている、きっと。」 茨木のり子  (「鎮魂歌」のなかの「酌む」という詩の一節)
山田太一さんの「左手の人差し指」という童話を読みましたので、例えとして判り易いと思うので紹介します。
左手の人差し指をカッターで怪我をした子、普段はあまり使わない指だが、怪我をして気が付く。  学校に行っても心配する人、ドジだとかいろいろな反応がある。   キャッチボールが出来ないので教室に戻ると心臓の弱い女の子がいて、それにも初めて気が付く。  指を怪我しただけでも気づかなかったことにたくさん気付く。  つまりどこかに弱さがあると普通なら気かないようなところに気く、考えないようなことを考える。 これが「震える弱いアンテナ」という事かなあと思います。   

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね」      茨木のり子(
見えない配達夫」の詩集のなかの「わたしが一番きれいだったとき」の詩の全文)


 茨木のり子は15歳で戦争がはじまり終戦が19歳。  軍国主義教育を学校で受けて軍国少女だった。  敗戦なって世の中の価値観がいっぺんに変わる。   

ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて    気難しくなってきたのを友人のせいにはするな  しなやかさを失ったのはどちらなのか  苛立つのを近親のせいにするな   なにもかも下手だったのはわたくし  初心消えかかるのを暮らしのせいにはするな   そもそもが ひよわな志にすぎなかった        駄目なことの一切を時代のせいにはするな  わずかに光る尊厳の放棄  自分の感受性ぐらい自分で守れ   ばかものよ」    茨木のり子 (詩集「自分の感受性ぐらい」) 

ばかものよ」は茨木のり子自分自身に向かって𠮟っている。   

派手目のものを着ていると、国防婦人会に叱られたものです。  私は軍国少女ではありましたが、美しいものを求めることはそんなに悪なの、とどこかで思っていた。 個人の感性こそ軸になるのだという思いが強まって行ったように思います。  

幼いころわたしは勇気りんりんの子供だった

大人になったらこわいものなしになる筈だった

気づいたら

やたらに こわいものだらけになっていて

まったく

こんな筈じゃなかったな

よくものが見えるようになったから

というのは うぬぼれ

人を愛するなんてことも何時のまにやら

覚えてしまって

憶病風はどうやら そのあたりからも

吹いてくるらしい

通らなければならないトンネルならば

さまざまな恐れを十分に味わい尽くして

いつか ほんとうの

勇気凛凛になれるかしら

子供のときとは まるで違った」    茨木のり子(詩「通らなければ」)


母親を11歳の時に亡くしている。  父親はスイスに留学した医学博士で、病院の副院長を務める。  無医村に行ってお金を払えない人たちも診た。  茨木のり子が36歳の時に亡くなる。  翌年に『鎮魂歌』を出す。  

物心ついてからどれほど怖れてきただろう

 死別の日を
 歳月はあなたとの別れの準備のために
 おおかた費やされてきたように思われる
 いい男だったわ お父さん」    
茨木のり子(詩「花の名」の一節)
父親が亡くなることをずーっと恐れていた。  当時は結婚していて夫は医師で妻が書く詩に対して応援してくれる人だった。  愛する人が増える程怖さも気づく。  

「波の音」の一節

「・・・子供のと少しも違わぬ気性が居て しみだけがずっと深くなって・・・ 」

「みずうみ」の一節

「・・・人間は誰でも心の底にしいんと静かな湖を持つべきなのだ ・・・人間の魅力とはたぶんその湖のあたりから発する霧だ・・・」

「人に伝えようとすればあまりに平凡過ぎて、決して伝わってはいかないだろう  その人の気圧のなかでしか生きられぬ言葉もある」    茨木のり子(「いいたくない言葉」の詩の一節)

48歳の時に病気で夫も亡くす。  79歳で亡くなるまで30年間続く。  夫を亡くした悲しみから立ち直るために韓国語を習う。  夫いに関する詩は自分が生きている間は出さないと決めていた。     茨木のり子は或る人にはこういっています。  「出版されたら私のイメージも随分変わるだろうけれども、それは別にいいの。 どう読んでもらってもいい。  ただこれについてはどなたの批評も受けたくないのでね。」

「歳月」という詩集のなかの「古歌」の一節

「わたしの貧しく小さな詩篇もいつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか」 茨木のり子







2022年8月28日日曜日

岩田達宗(オペラ演出家)        ・【夜明けのオペラ】

 岩田達宗(オペラ演出家)        ・【夜明けのオペラ】

兵庫県出身、東京外国語大学卒業後、演劇やオペラの舞台製作に関わり、1991年オペラ演出家の栗山昌良氏の演出助手となり、1996年に演出家デビュー、1998年から2年間イギリス、ドイツに留学、2011年にブリテン作曲、「ねじの回転」で文化庁芸術祭大賞を受賞、独創的で卓抜した舞台作りで新国立劇場、日生劇場を始め、日本各地のオペラ公演を手掛けています。   現在大阪音楽大学客員教授、又2020年からはリモート講義岩田達宗道場を開催しています。

オペラはどうしても準備に時間がかかるものですから、複数の舞台を並行して準備することはないんですが、感染症でたくさんの舞台が延期になって、延期になったものがたまたま先月、先々月重なってしまって、掛け持ちで稽古場をめぐる事をやってしまったら、こんな(擦れた)声になってしまいました。   お客様を迎えられることがこんなにいいものかとこの2年間ぐらいで痛いほど判りました。   

父がお寺の住職で、お経の一種で声明(仏典に節をつけた仏教音楽という音楽の一種があります。   父親がテノールで声明を歌う人でした。  父に習って声明をやっていました。小学校1年から6年生までピアノは習っていましたが、怖くて厳しい人で嫌で嫌で、学校では音楽はとらなかったです。  父親が戸籍を区役所に出す時に、達宗の「宗」の宇冠をどけて出したんです。  この子はもっと自由に生きて欲しいという事で「達示」に変えました。   オペラ演出家になる時に「達宗」に戻しましたが、「たつむね」ではなく「たつじ」と読むようにお願いしました。   中学、高校は映画にはまって、学校をさぼって映画を観ていました。  安藤元雄さんというフランス文学者、詩人の先生がいて、大学の先生に成ろうと思っていました。  先生が2年生の時に辞めてしまって途方に暮れて諦めました。  映画と大学のラグビー部に入ってラグビーをやっていました。   オペラの大道具を運んだりするアルバイトをずーっとやっていました。   映画音楽が好きだったので、シンフォニー、ミュージカルが好きになって、高校時代にはレコードをひたすら聞いていました。  

ジーザス・クライスト・スーパースター』から「I Don’t Know How to Iove Him」

どうやって人間が生の声で生きた言葉を伝えるか、悩んでいる人たちに心惹かれていきました。   舞台監督助手を10年間やりましたが、いろいろトラブルを起こしてしまい、舞台監督助手をやっていたら問題をおこすので、演出家にしてしまおうという事になりました。1991年オペラ演出家の栗山昌良先生の演出助手となりました。 

1998年から2年間イギリス、ドイツに留学しました。     イギリスではロンドンで朝、昼、晩劇場に通いました。   ドイツでは兎に角行ける劇場を全部回って観ました。(50か所ぐらい)   得たものはたくさんありますが、日本の舞台のスタッフは相当優秀だなという事かもしれません。  日本の合唱団も素晴らしいという思いもありました。   

尊敬している演出家の人が出演者とスタッフに、「皆さんを幸せにします。 皆さんが幸せな気持ちで舞台にのらなくて、どうしてお客さんが幸せな気持ちになれるでしょう」というんです。  感動しました。  僕もそういう気持ちで舞台に出演する歌い手の方たちに赤いバラを渡して対応しています。(イギリスで知ったことです。)

「フィガロの結婚」の手紙の二重唱  歌だから手紙のようにはたくさん書けない。  「言葉の数は少ないけれどきっと判ってもらえるよね」と言いう事を歌っている。    オペラだとお芝居の言葉の1/5ぐらいしか言葉が使えない。  言葉が少ないがきっと判ってもらえる、というのがオペラそのものなんだというわけです。

*「フィガロの結婚」の「手紙の二重唱」

「ショパン」というタイトルでショパンの生涯を描いているオペラ、ショパンの曲150曲で2時間のオペラを構成している。  ショパンはオペラが好きだった。  

*「別れの曲」 作曲:ショパン

2022年8月27日土曜日

白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

 白井佳夫(映画評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和7年神奈川県生まれ。  大学卒業後、キネマ旬報社に入社、36歳で編集長に抜擢されました。  視点や企画で高い評価を得ました。  その後もフリーの映画評論家としてテレビの映画解説や地域の映画祭への尽力など映画への深さを発信し続けていて、90歳の現在も週刊誌や月刊誌に映画評論を書き続けています。   終戦後白井さんの映画評論家としての人生はどのようにスタートしたのでしょうか、敬愛する小津安二郎監督のおよそ2時間の映画に込められた日本人の感性や死生観など日本映画の神髄について、また確かな映画評で知られる白井さんの映画は評論はどのようにして生まれるのか、などお話を伺いました。

昨年から今年5月ぐらいまで、誤嚥性肺炎をおこしてしまって一週間入院して、大腸検査をしたら大きなポリープが写っていて、取る事になって病院に行ってPCR検査をしたら陽性で、病院の入退院を繰り返しました。  その後いくつかは仕事をしています。

映画は産業革命以後に興った新しい芸術なんです。  監督を中心に多い時は100人以上集まって人間が集団でカメラ、録音機材、照明機材とか機械を使って作る文化で、産業革命以後の文化なんです。  黒沢さんはどうやってあんな面白いものが出来るんだろうと思って、よく観察したら判りました。   「7人の侍」はアメリカの西部劇と同じような迫力を持った日本の時代劇を作りたいと、黒沢さんの考えから出来たもので、「7人の侍」のあらゆるシーンは3台のカメラで撮っているんです。  最初はやぐらの上からアップなどのシーンを撮り、午後になると穴を掘って穴の下から見上げたシーンを撮って、黒沢映画は同じシーンを6本のフィルムがあり、編集室で選択している。    どこから撮られてもリアルな演技をしなければいけない。 

母親が娘時代に映画をよく見ていて、土曜日になるとよそ行きの服を着せられて新宿に行って買い物して、食事して映画を見るという事を月に1回ぐらいやっていました。   大学に入って映画を観ていてもこのシーンは幼いころ観ているという事が頻繁にありました。  どれも大人の映画でした。   戦争時代には、家は茅葺の屋根で火が点いたりすると小作人の人が来て火を消してくれました。   終戦の日はラジオを聞いても良く判らなかった。  おじさんが「日本は戦争に負けた。」ということを一言いって、その晩から電気の灯がともり、ラジオから歌が聞こえてきたりして、世の中大きく変わたっと思いました。 軍国少年でした。  厚木に住んでいて、マッカーサーが厚木に降りてきて、東京に進駐して小田急線で一緒に乗ったりして、兵隊さんからコーラを飲ましてもらいました。     学校で全校生徒が映画館に行ってアメリカのカラー映画を観に行きました。  綺麗さにびっくりしました。   高校に行くときに結核にかかって2年半休学しました。     病院には朝早くいってその後アメリカ映画を観ていました。 これで映画に目覚めました。   アメリカの楽しい生き方を知って、映画を観て映画評論家に成ろうと思いました。    その後イギリスとか外国映画が入ってきて観まくりました。  

映画の雑誌を読んでも物足りなかったが、『キネマ旬報』を読んだら面白かった。   日本映画と外国映画の両方扱っていました。   小津安二郎の「晩春」という映画を観に行きました。   日本的映画の作り方があることを知ってびっくりしました。   お茶会、京都のお寺巡りとか純日本的なことが出てくる。   ヒロインが付き合っている人と自転車で疾走するというような場面もあり、小津さんてしゃれたことをするなあと思いました。  外国の映画がそうであるように、日本には日本人独特の映画の作り方があることを、小津さんの映画によって教えられました。   

1958年にキネマ旬報社に入りました。  昭和48年編集長になりました。  読んで面白い雑誌にしなければいけないと思っていろいろなことをやりました。   出版社みたいに高い原稿料は払えないが、池波正太郎さんに原稿依頼したら、昔から映画が好きで映画は趣味だから、映画のことを書くなんて夢のようだからただで書く、と言っていました。   五木寛之さん、野坂昭如さんの対談についてもカメラマンと共に同行させてもらいました。生き生きとしたジャーナルを作りたかった。   

編集長を8年半つとめ解任となる。   突然首になってびっくりしました。  自分が作ってきた人脈があり、それが断ち切られてしまうのが何とも残念でした。   ロッキード事件での記録をもっと日本政府に公開すべきだと、ニューヨークタイムスに意見広告を文化人と共にやったのが首になるきっかけですね。   でもあのままやっていたら50歳ぐらいで過労死で死んでいたかもしれないです。   テレビ東京が日本映画専門の評論をやる事になり、条件を3つ出して、①今までの人はニコニコ笑いながら傑作ですと言うようにやっていたが、私は笑いません、②放映時間に合わせて短縮してますと言わせてほしい、③本当は大きいがブラウン管に合わせてトリミングしてあります、という事でした。  曲折がありましたが、全部やらせてもらいました。  どんどん視聴率が上がってきました。  テレビ東京視聴率ベスト3に入りました。   

評論は、ストーリーはほんの一部で、映画全体の感覚の流れを自分の感性を通じて、論理化して自分だけが書けることをやってきました。  批評を書くことを第一に考えて感性を磨き、それ以外は出来るだけ少なくした生活パターンでやって来ました。   小津安二郎の「東京物語」、ベストテンを選ぶと必ず上位に入って来る、小津さんの映画は芭蕉の俳句のような気がする、5 7 5という小津さんが持っている格調みたいなものの中に、あらゆることを日常的に閉じ込めてゆく、天地悠久なるものを閉じ込めることができる。   日本文化全体のシンボルのような作品になっているなあと思います。    日本人の死がどのようにして永遠化されるのか、見事に映画の中に捉えていると思います。   

90年のうち、60年を映画専門にやってきて自分としては精一杯やったと思います。  原動力となるものは好きな気持ちですね。   

2022年8月26日金曜日

さくまゆみこ(NGO代表・翻訳家)   ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 本という窓をあけて世界を見よう

 さくまゆみこ(NGO代表・翻訳家)   ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】  本という窓をあけて世界を見よう

1947年東京都生まれ。  小さいころから本が好きで、大学卒業後一度は出版社に勤務しましたが、退社してイギリスに留学、児童文学を学びました。   帰国後は編集、翻訳をしながら大学で学生の指導に当たりました。  これまでに手掛けた絵本、児童書は250冊以上、今回 「ENEOS児童文化賞」を受賞するきっかけとなった、『エンザロ村のかまど (たくさんのふしぎ傑作集) 』はアフリカでかまどの作り方を教えることで、女性や子供の自立を促した日本人女性の活動を描いた作品です。   児童書に寄せる思いを伺いました。

ずーっと東京暮らしでしたが、娘の出産で手伝いに来て、コロナの関係もあってすべてがオンラインになってきたので、2年半ぐらい長野に住んでいます。 

『エンザロ村のかまど 』という本が出ていますが、 この本が出来るきっかけになったのが岸田袈裟さんというケニアに住んでいる方です。   岸田さんがたまたま日本に来た時に話を聞いたことがあって面白いと思って、その時には編集者だったので岸田さんに本を書いてもらいたいと思いました。   ケニアに来て、私がどんなところでどんなことをやっているのか見ないと駄目でしょうと、岸田さんから言われました。  それでケニアに出かけてエンザロ村という山深い村に行きました。  子供がお産後未満児?が沢山死んでしまうという事があって、原因は綺麗な飲み水が手に入らないという事で、沸かして飲めばいいという事でかまどを考案したんです。  何度も話をしているうちにあなたが自分で書きなさいと言う事になり、自分で書くという事になりました。  

2002年にケニアに行って、『エンザロ村のかまど 』という本が出たのは2004年です。  御礼に主学校に英語の本を送ったんですが、到着しなかったり、郵便局止めになっていて税金を払わないと引き出せないという事があり、空いている部屋を使って子ども図書館を作りました。   最初エンザロ村に作って、もう一つ作った後に、岸田さんががんで亡くなってしまいました。  でも続けてやって行こうという事になりました。 

小さい時から本が好きで、小学校高学年で少年少女世界文学全集を購読するようになって、どんどん新しい作品を読んでいきました。   叔母がアメリカから本を送ってきてくれて、翻訳をしてみようというきっかけになりました。   「アルプスの少女ハイジ」、「マザーグース」の2冊でした。    出版社に入りましたが、子供の本を出そうという事でしたが、子供の本のことについては何も勉強してはいないし、自分に子供がいるわけではないので、大人の本の編集を希望して、子供と大人の本の編集を一時期していました。 子供の本の面白さが段々判ってきて、児童文学と言えばイギリスが本場の一つなので、イギリスに留学することになりました。   

両親と子供3人という家庭の一部屋を借りて、両親が出かけた時に子供の面倒を見て、そのかわりに部屋代、食事代がただという事でした。   日本に居ては学べないことを沢山イギリスで学ぶことが出来ました。   学校で子供一人一人の状況に合わせて指導するとか、凄いと思いました。  何もないところで子供たちがクリエーティブに遊ぶというようなこともやっていました。   

日本に戻って、翻訳で食べて行けたらいいなあと思たんですが、子供もできたし、別の出版社に就職しました。   上の子が小さい時に一時的に主婦をやりましたが、これは向かないと思いました。   交渉して時短で子供の世話との両立をしました。   出版社の経営が悪化してきて、辞めてフリーになって仕事をしていたりしていました。   清水雅子さんという方から大学が定年になるので後をやってみないかと言われて、引き受ける事になりました。  下調べなどを含めてやることがいっぱいあって大変でした。   本は面白いよというそこだけ伝えられればいいかなと段々思ってきました。  

翻訳もやってきて250冊以上出版してきました。   翻訳は最初本を探すことから始めて、いろいろ情報を集めて書いて、出版社に持ってゆきます。   気にいった出版社があったら出してもらえる、というようなことをずっとやってきました。   出すという事になると原書の出版社と契約をして、私が翻訳者として仕事に取り掛かる事になります。   

絵本は絵と言葉の出会いが面白いなと思います。  幼児、小学生とかに理解できるようになっているかとか、テンポなどを考えながら選んで行く面白さはあります。   異文化を日本の子供に伝えるという役割もあるわけで、注を付け過ぎてもいけないし、そのへんの難しさもあります。   

今でもアフリカは見る、聞くが主流というところもあるんで、エネルギーが生のまま出てくるという事があったりするので、スケールが大きいなと思うものが沢山あり面白いなあと思います。   日本は同調圧力が強いと思います。   いじめなどで、今ここに我慢できないとしても、こことは違う世界がどっかにあるんだという事を知ってゆくという事も大事かなと思います。  子供の前に多様な窓を開けておくというのは大事なことの一つだと思いますので、そういったものを訳していきたい。   

IBBY(International Board on Books for Young People=国際児童図書評議会)の仕事もしていますが、戦後のドイツで出来た組織で、創設者のイエラ・レップマンさんはユダヤ人でナチスの迫害にあって、戦時中は外国に避難していました。  ドイツは焚書をやっていたので本がなくて、子供にはパンも必要だが本も必要だと考えました。  戦争をした相手の国から本を送ってもらって、子供たちが読んでお互いを理解し合う、という事から戦争のない平和な社会が作れないだろうかという風に考えたんだと思います。   日本の優れた本を世界に紹介することも必要だと思って、「おすすめ 日本の子どもの本」を日本語版、英語版の両方で毎年出しています。  「おすすめ 世界の子どもの本」、日本で翻訳出版された世界の子供の本の中から、みんなに読んでもらいたいなあと思う本を選んで、毎年出版しています。   外国から避難してやってきたお子さんたちに、文字がなくても理解できる子供の本をプレゼントしようという事でやってて、ウクライナの子に対してはウクライナ語でプリントアウトして渡そうという試みをしています。    少年院ライブラリーというのが借りの名前でしたが、「明日の本棚」という名前にして、本との出会いが少ない子供たちに向けたブックリストを作っていて、少年院、鑑別所などへ向けて作っています。  本は一生の友達になるという事もあるので、本はいいよと言いたいです。 

2022年8月25日木曜日

中嶋朋子(俳優)            ・私のアート交遊録】 心揺さぶる言葉を求めて

 中嶋朋子(俳優)            ・私のアート交遊録】  心揺さぶる言葉を求めて

子役としてスタートしたころから、言葉を書き留めていたという中嶋さん、去年「めざめの森をめぐる言葉」を出版しました。   周りの人たちから送られた言葉、家族にかけてもらった言葉、励まされ慰められ希望を与えてもらった言葉がどう中嶋さんの心と身体に染みいっていたのかが綴られています。   現在も映画や舞台を中心にラジオでの語りやナレーター、バラエティー番組に出演するなど幅広い活躍を見せている中嶋さんです。   役者として人としてコミュニケーションの根幹にある言葉とどう向き合うのか、俳優中島さんの言葉や表現にかける思いを伺いました。

TBSラジオドラマ「ラジオシアター〜文学の扉」、10年ぐらいやりました。   短編小説などから選んで、ゲストと2人で何役もこなして楽しかったです。   映像では自分の肉体もあるので制限がありますが、ラジオだと古い建物、釘、動物の役もやりました。  

デビューは赤ちゃんモデルでした。  母がアート系の学校に行っていたので、友達に貸し出されていた。(絵、写真のモデル)   1975年劇団ひまわりに入団、以来ずーっといます。   学校で習うより台本が先でした。  情景を思い浮かべながら読んでいた記憶があります。   北の国から』で黒板蛍役を演じたのが、8,9歳の時でした。   そこでの自然体験はかけがえのないものでした。   大自然を相手に大人たちも繕うことなく、大人たちが子ども扱いするという事はやっていられなかったですね。   子供ながらに言葉を客観視する癖がつきました。

去年「めざめの森をめぐる言葉 Sleeping Giant」を出版しました。    言葉はいろんな形で降り注いでいるけれども、私たちの大いなる巨人が目覚めるために降り注いでいるギフトなんじゃないかという思いがあり、「めざめの森をめぐる言葉 Sleeping Giant」と付けました。   アイヌ語の「イランカラプテ」は笑顔でアイヌの方が「イランカラプテ」と言って挨拶してくれて、「こんにちは」の意ですが、「貴方の心に触れさせてください。」という意味が込められていると言われた時に、なんてすばらしいんだろうと思いました。    ショーン・ぺンは元々大好きな俳優さんなんですが、ハリウッドの異端児でやんちゃですが、「自分が思う程人生は逃してはいない。」と言っています。   自分を責めがちですが、ゆっくり行こうぜ、みたいで凄く肩の荷が降りたんですね。            ミヒャエル・エンデは大好きな作家です。  「はてしない物語」などが有名ですが、児童文学とかではくくれない哲学的要素があって、闇というものに対してそれを排除するという考えではなく、子供にこそ闇といういものは有るけれどもそれがあることで、輝きや光が見えてくるし、闇の中にどんな学びがあるんだろうという事をサラッといえる方ですが、「はてしない物語」のなかで、物語の答えは自分の人生でどっかから降ってくるというよりは、自分が探したから、はじめっからそこに有ったんだよという、自分が行く道の上にあったものを私はちゃんと手にしているという感覚ですかね。  追い求めてる生き方だからこそ、人生に必ず自分が手に取りたいものがやって来る、と言った希望ですね。

良かったなあと思う本も忘れてしまいます。  その一節を書き留めて、ページ数も書き留めて、その時何を思ったかも書いておきます。   自分の中に深く思ったことは別のノートに清書して、そうすると自分のための言葉が集まって来るんです。  自分の感覚こそ自分で語れるものだから、自信を持って体感したことは持っていたいと思います。  

倉本聰先生は凄く小さいころから、美学という学問があるんだよとか教えてくださったり、なんだろう美学ってと普通の子供としては出会わないようなことを教えてくれました。  物語を語るうえで、大きい嘘はついてもいいが小さい嘘をついては駄目だというんです。  細かいところは徹底してリサーチをしてやりなさいと言う意味なんですが。      「北の国から」でねこという一輪車で石を運ぶシーンがありますが、普通の収録では石の下に発泡スチロールとかを入れて軽くして運ばせるという事をしますが、倉本先生はそれは駄目だと言って、重たいものを子供たちがどうっやて運ぶか、通らなければいけないものだから、そこに嘘があってはいけないというんです。   語尾を変えてはいけないと言われました。    語尾を変えるとキャラクターが変わってしまう、語尾で人格って変わるんだと気が付きました。   蛍役は9歳からずーっとだったので、自分のアイデンティティーを構築してゆく、人格形成をしてゆく中で、私自身は人格否定されるようなものなので、辛い時期がありましたが、彼女も私の一部だと思ったら楽になりました。  

山田洋次監督、常に作品を構想しているような感じで、言葉のリズム、響きは大事にされます。

シェークスピアの作品は最初なんて面白くないものだろうと思いました。   喜劇的の要素の芝居を観ていた時に、人を惹きつける演説なんだなと思って、お客さんとのやり取りがあるものが見えてきた時があって、生き生きと語ることが大事で、韻を踏むというのはその流れなんだなと思って、シェークスピアはどれだけ生きた言葉として語れるか、が命なんだなと思いました。  凄く楽しくなりました。 

主人との会話の中でもいろいろあります。   演技に関して悶絶している私を見て、伊藤若冲は千載具眼の徒を待つ」という言葉を知ってるとか、主人が言うんです。  自分の表現を判ってくれる人を千年でも待つ、という意味ですが、頑張れる気持ちになりました。

田中邦衛さんは本当に温かい方で、子供に対しても敬う気持ちで接する方でした。    その姿を見て周りもそのスタンスになって行ったというのがあると思います。    18歳のころにロケ出発前にくしゃくしゃに丸めた紙を渡してくれました。   きちんと立っているあなたの姿が美しいというような内容の詩でした。 18,9歳の子娘にこんな詩を送るなんてなんて素敵な方なんだろう胸が熱くなる経験がありました。 これも本に書きました。「探せばギフトがある」、その視点を持つことが出来たことで、毎日宝探しが出来るようになりました。  それをシェアしたくて本にしました。   祖父が「骸骨」という雅号で、観音像を彫ったことがあって、招福観音と言って足元に招き猫がいる観音様です。  群馬県の海雲寺の御本尊としておいていただいています。  私のお勧の一点としてはその招福観音像です。

  

2022年8月24日水曜日

2022年8月23日火曜日

出羽仁(書籍編集者)           ・家族で残した父の抑留日記

 出羽仁(書籍編集者)           ・家族で残した父の抑留日記

出羽さんは昭和27年神奈川県生まれ。  太平洋戦争開戦と同時に、父親は特別高等警察、いわゆる特高に拘束され戦争終結まで4年近く抑留生活を送ることになります。  戦後父親は医師となり70歳で亡くなりますが、抑留生活の日記を残していたことが判ります。  父の戦争体験を後世に残そうと、出羽さんは叔父や妹と共におよそ20年かけて「英国人青年の抑留日記」としてまとめたものです。  

父親の名前はシディングハム・イーンデュ・デュアです。    イーンデュという人が私の曽祖父にあたりまして、幕末の時代にイギリスから日本に渡ってきています。(10代)   長崎のグラバー亭のグラバーさんに可愛がってもらったそうです。   上海で日本人女性(常川ヤス?)と結婚します。  結婚して長崎に又来ました。  私の祖父はウイリアム・デュアと言いまして父と一緒に抑留されますが、祖父の生まれは東京です。  祖父は日本語はしゃべれましたが読み書きは出来なかった。  私が中学生の時に祖父は亡くなっています。   祖父も日本人の女性と結婚していて、父も同様です。  日本が好きで日本にずーっと住んでいるわけです。   

1941年12月8日真珠湾攻撃と共に抑留されました。  4年間近く自由を奪われる。  父、祖父は民間人で、捕虜ではなく抑留されるわけです。    特高に身柄を拘束されて尋問されて家宅捜索を受けて怪しいものとかカメラ、双眼鏡などが没収されてしまう。  抑留所に収容されてしまう。    全国に21か所の抑留所があって876人が収容されていた。   南足柄市内の山あいにあった神奈川第一抑留所に父は抑留されました。  連合国側の人、日本で仕事をしていた人たち、宣教師、たまたま日本に来ていた船員の人たちも抑留されました。   

まとめた本は500ページ近い本になっています。  父が実際に書いていた日記は戦争が終わる1年ぐらいです。   交換船で一番仲の良かったロバート・クラウダーさんが帰ってしまって、父のストレスのはけ口が日記だったと思います。  書き出しが1944年10月22日です。  外国人に配給されるものは日本人への配給よりは良くて肉などもあり、それ以外にも定期的に赤十字から支援物資が届くんです。   しかし、日本人が食料を横領してしまって、抑留所の管理監督をしていた警察の人、雇われているコックなどの胃袋に入ってしまった。 父は医学の研究をしようと思って、医科大学に入ります。   教養課程にいる時に身柄拘束されてしまいます。   抑留中も日本語を忘れないようにしようという事で日本語と英語で日記を書いていました。   それぞれ対訳したので厚くなってしまいました。

1944年10月22日の文章 「・・・今までやった中で最悪の仕事だ。・・・得たものは一日中働いて一日握り飯2つ・・・こんな腐ったゴミ溜めのようなところはもうごめんだ。 だけど僕がすべてに無罪だとは言い切れるだろうか。」 

11月7日  「・・・この戦争はいつ終わるのだろうか。  もし来春までに終わらなかったら、僕の医学の道は断たれると思う。・・・どうしても学校に戻らなければならない。  そして科学者たちの間で生きるんだ。・・・」

5月29日  「・・・続々とB29が通った。  400機ほど京浜地区に来たらしい。 ・・・攻撃目標は横浜、川崎だったらしい。  横浜方面に物凄い煙がもうもうと昇っているのが見えた。  母とエディーはあの下にいるのか。 無事でいてくれればいいがなあ。」  (エディーの日記にも爆撃の様子が書かれている。  老婆を背負って防空壕へと助けた様子も描かれている。 この日一日で3789人が死亡。  1万2391人が負傷。2万9350棟が灰となる。)   エディー(父の弟)は当時中学生だったので、年齢の関係で抑留されなかった。  

8月15日   「6時ごろから空襲、8時半ごろに解除。・・・聞こえるのは蝉の音のみ。・・・代表がラジオを聞きに行った。・・・上がってきて内容を話した、「終わりだ」 ・・・みんなは狂喜しているが僕は不安を感じだした。  母とエディーに会えなくて心配でたまらなくなった。・・・いつ一家だんらんの楽しさを味わえるであろうか。」 

(エディーの日記  母から戦争が終わったことを告げられる。  僕の人生の一番ハッピーな瞬間となった。)   

母(日本人ではあるが)、エディーはイギリス人の家族ではあるが近所の人からは親切にしてもらいました。  人間の本質みたいなものがそこにはあるんだなと思いました。

1980年代、父と一緒に南足柄市内の山あいにあった抑留所跡にいきましたが、父は自分の厳しい苦しい抑留生活を癒してくれた自然を懐かしんでいたのかなと思います。  父は絵が好きで、鳥、昆虫などの絵を描いていました。  医学の研究者になりたかったが、抑留され、お金も必要で、諦めて外科医として病院に勤務する事になります。  病院の意向で整形外科への方向になり、パーキンソン病になりリタイアすることになります。

父の抑留に対しては誤解をしていました。  改めて日記を見てみるとこんなにひどかったんだという事が判りました。   一番大変だったのは紙がボロボロの日記を、英語、日本語共にきわめて難しい表現があちこちにあり、パソコンにいれてデータ化しなければならなないが、アメリカにいる妹がやりました。  とんでもなく大変な作業でした。  父の残した日記は稀な歴史の事実なので、世の中に知っていただきたいと思って、いろいろ考えながら進めていったら、20年ぐらい経ってしまいました。   父を尊敬はしていましたが、父がこれほどの人だとは思いませんでした。   



 

2022年8月22日月曜日

鈴木敦(演芸場席亭)          ・【にっぽんの音】

鈴木敦(演芸場席亭) 恩田えり寄席囃子)   ・【にっぽんの音】 

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

鈴木:昨年4月父の跡を継いで7代目席亭に就任しました。   寄席では正月の元日から 年末まで365日落語を中心とした演芸を披露している場所です。   東京では新宿末廣亭、池袋演芸場、浅草演芸ホール、上野鈴本演芸場があります。

大藏:鈴本演芸場は165年の歴史があります。

鈴木:現存する寄席のなかで一番古いです。

大藏:出囃子、落語家さんが登場するときに三味線の音が流れてくるが、演奏しているのが恩田さん。

鈴木:ほかに紙きりとかやっている時にBGMとして、地囃子をやっています。 三味線は師匠がやりますが、他の楽器、太鼓、などについては前座さんがやります。  前座は曲が決まっていて、二つ目になると自分で曲を選択してお囃子師匠方にこれで行きますと言います。   真打になって襲名するときに、その名前の師匠がずーっと使っていた曲を受け継いで行います。(受け継がない場合もありますが。)   お囃子の師匠は頭に入っていてパッと弾けないといけないわけです。  

恩田:笑福亭鶴瓶の出囃子(どんこ節)を演奏。  柳屋三三師匠の娘道成寺を演奏。  人によって娘道成寺のいろいろな部分が使われます。  変わっているのは洋楽、チャイコフスキー(白鳥の湖)、三遊亭白鳥師匠が使っています。  

鈴木:プロレス団体UWFのテーマ曲(Uーのテーマ)を使っている人もいます。

恩田:紙きりの時にはいろいろ即興でやったりします。  ウルトラマンの話でウルトラマンのいろんな曲を弾いたりもします。   寄席の雰囲気が好きで寄席の中で働きたかった。  東京では師弟制度がなくなってしまったので、国立劇場の伝統芸能育成機関があって、寄席囃子コースが昭和55年ごろにできて、育成しています。   私は11期です。  入った時は4人いましたが、卒業は2人になり、今現役では1人です。  兎に角寄席の空間とが好きです。  最前列の人って結構油断していて、歯を磨いている人がいました。(笑) お囃子部屋から見えるので。   これは末廣亭ですが、目の悪い方がヘルパーさんに連れられてきて一番前に座るんです。  カップスープへおもむろにポットを出して入れて、かき回して飲んで寝ちゃうんです。(笑) また起きてパンを食べたりして、好きな師匠の時だけ起きていました。

鈴木:今はコロナの影響で食べるもの、お酒などは中止になっています。  寄席も中止と言われて大変でした。  どん底で代替わりしたので気負わずにはできました。    中止になったものを生配信で復活させました。  昼の4時間、夜の4時間ものの形を変えずにやりました。  無観客だったので、反応がないので演者さんも苦労しました。   特に漫談など。   応援チケットを買っていただいて、演者さんへの援助をしたりしました。  

恩田:子供がいると子供に合わせてゆくような傾向があります。  紙切りも子供優先でやっていました。  先の長いお客さんですから 。(笑)  これ、やらかしてしまったな、というのはいっぱいあります。(笑)   最初のころは緊張し過ぎて、きっかけの言葉(音を入れる)がなかなか頭に入ってこなくて、そのタイミングを失ってしまったこともあります。  志ん生師匠と志ん朝師匠を間違ってしまったり。

鈴木:芸人さんが来ない時がありますが、落語協会に誰かいないか電話したり、上野近辺に住んでいる人に電話をしたり、やっています。  色物さんが二回出てくることもあり ました。  

鈴木:日本の音とは、客席でお客さんが大笑いしている声、寄席囃子。

恩田:日本の音とは、衣擦れかなあ。楽屋で歩いていると裾の音がして、袖にいると衣擦れの音が近づいてきて、それがいつも耳にあります。  絹の着物だとあまり音がしなくて、前座さんが着ている合成繊維はばさばさ聞こえます。  誰が近づいて来るのか何となくわかります。

2022年8月21日日曜日

湯澤規子(法政大学教授)        ・【美味しい仕事人】 育てよう!食の学び

 湯澤規子(法政大学教授)        ・【美味しい仕事人】  育てよう!食の学び

湯沢さん(48歳)は、「生きる」をテーマに地理学、歴史学、経済学の視点から日常を問い直すフィールドワークを重ねています。  今日は食べ物から見えてくる一人一人の「食べ物語」について伺います。

「食べ物語」は食べる+物語という意味と食べることを物語ると二つ掛詞みたいになっています。   教室に来なくては手に入らないものは何だろうと考えた時に、予測不能な場の即興性というんでしょうか、そういうものを共有しながら、自分の印象の中に刻まれたり、仲間と話して初めて、立体的に知識が立ち上がってきたり、そういったことを大事にしたいと思って、その時ワークショップは効果的でした。  食べることは日常生活の中で日々のことなので、等身大の出来事の中に、歴史の中に面白い出来事、あるいは大きな意味があるという事、私自身歴史研究をしている中でつくづく気付いてきたことを、みんなと立ち上げたいと思って「食べ物語」という話をしています。

食べ物を物質として理解している、栄養素、何に役に立つのか、とか機能性に注目して、それも大事な研究ですが、私たちは人間として何故人と食べるんだろうか、どうして調理をしてきたんだろうか、同じ食材なのに世界中いろんな料理があるのだろうか、もっと多面的に見てみようと思いました。    食文化、という文化でもあったりする。   立体的な食べ物像を学生たちと話したいと思った時に、胃袋の物語を、100年ぐらい遡って話し合いました。  私にも歴史があると言う事をワークショップの学生さんたちも気づき始めます。

自分の話をすると人の話を聞きたくなるんです。   30人いるとい30人の物語があります。   印象深かったのが、「バナナの恋ばなし」というのがあり、バナナはかつては高価な食べ物だったのでそういった経緯を話したら、或る女子学生が駆け寄ってきて、「おじいさんのことが判った」というんです。  おじいさんが妻に愛の告白をするときにバナナを一房持って行ったらしいんです。  今ではバナナは安いのでそんなものを持って行っておかしな人だと思ったけれども、配れる高級フルーツを持ってくるとは何ていかした人だろうという事で評価が180度変わったと言って、世代を超えて判りあえたというんです。  好きなものにもそれなりの物語があるようです。   その物語でさらにその人となりを理解できるようになります。   

戦後の農業史、食物史は今につながる、未来につながる大事な事なのに、それを等身大で教えられない歯がゆさがありまして、どうしたらいいかと思っていた時に、「食べ物語」を話すことで、出会ってゆく中で、これを授業の切り口にしたらいいのではないかと思いまして、それが始まりでした。  高度成長期は食べ物だけではなくて生活が劇的に変わっています。   三世代に渡る生活史みたいなものを話し合ってもらって、自分史の中につなぎ合わせてる、そういった取り組みをします。  キッチン一つとってみても好みとか、時代によって考え方が違います。  料理に対する向きあい方の違いも時代によって違う事を知って来るとのびのび生きるというか、三世代年表を作ると自分を発見できるとともに、前の世代のことも理解できることがいいかなと思います。   

大学院での世代間があるワークショップで、食べ物とは何という話をすると、若い人は自分のなかにいれる栄養と書いたんですが、70代の人は平和と書いたんです。  本質を衝いた話し合いになって行きます。   

高校生の頃に食に関わる仕事をしたいと思っていましたが、挫折して辿り着いたのが歴史地理学でした。    大学生の時には個人食堂にアルバイトで行きました。   8年前に愛知県一宮市の鋳物工場に歴史家としての資料調査をする機会があり、工場で食に関わる資料が沢山あって、食を歴史でやったら、自分でやりたかったことにもなるし、面白くて、胃袋から歴史を書くという事をやってみようと思いました。   単なる労働力ではなくて、生きた人間としての労働者の日々みたいなものが立ち上がってきて、面白かったので『胃袋の近代―食と人びとの日常史』としてまとめました。   些細なことを日常の食のリアリティーを生き生きとえがけました。 

うんこはどこからきてどこへ行くのか、という人糞地理学。  愛知県一宮市の鋳物工場での排せつ物を近隣の農家に売り買いしていたという古文書が残っていました。  農村にいって大根が作られそれが工場にいく、循環するような世界が見えてきて、物質循環は江戸時代で終わったのではないかと言われて来たが、実は近代でも形を変えてあって、経済事象としても重要ではないかと思って小さな論文を書きました。  発表したら、皆さんが興味を持ってくださって、広がって行って書いた本です。  

『胃袋の近代―食と人びとの日常史』を書いた後にそれを読んだ人たちが、私の話を聞いてくださいという事が非常に多くて、そこが「食べ物語」の始まりだったんです。     或る子供食堂のスタッフがおいしいパンを焼いてきました。  柑橘系の香りがする凄くおいしかった。  水俣で作っている甘ナツのピールを焼き込んでるという事でした。   それには物語があり、水俣病で苦しんだ漁師が陸に上がって、甘ナツを無農薬で作っているという事でした。   地域の中にも食べ物の物語があるという事を知り、これは全国各地、世界中にあると思います。  フードバンクというのがありますが、それと併せてフードバンクストーリーを積みかさねることによって、食べ物を介した新しい社会の在り方が見えてくるのではないかと思って、今考えています。


  

2022年8月20日土曜日

井上章一(国際日本文化研究センター所長)・「洛外」から見た京都

 井上章一(国際日本文化研究センター所長)・「洛外」から見た京都

「京都ぎらい」「京都まみれ」そういった著作がある井上さん、厳しい批評、歯にきぬ着せぬ言葉の裏に京都への愛着を持つそんな研究者として知られている方です。   1955年(昭和30年)生まれの67歳、京都市西部の右京区で生まれ、25歳までは右京区の嵯峨で暮らしました。   ここは京都では洛外と言うエリアとされています。   その昔豊臣秀吉が都を囲うように御土居という土塁を設けました。   その内側を洛中、その外側を洛外と呼ぶようになりました。  その洛外も嵯峨に育ったことで、少し距離を置いて京都という街を見つめるという独自の価値観を井上さんは持つにいたります。   洛中に軒を連ねる老舗の暖簾を受け継ぐ人々に何を思うのか、千年の都と言われる京都の今の街並みをどう見つめているのか、コロナ前には年間400万人を超える外国人観光客が訪れていた京都、街の国際化が進みましたが、それによって失われたかもしれない京都の大切なものについても教えていただきました。   ズバズバと京都についての評論を展開されますが、最後までお聞きいただくと井上さんならではのユーモア、故郷京都についての深い知識や愛情、そういったものからのものなんだと感じていただけると思います。 

右京区の花園で生まれました。  妙心寺の直ぐ南側です。  小学校に入る半年前に嵯峨に引っ越しました。   東京に出張することを「東下り」という人が未だにいます。  東海道、東海道新幹線も東京から見ればすべて西になってしまいます。  西海道と言っても言ってしかるべき道ですね。  東海道と言っている以上東京は下りです。  多数派ではないが、洛中の人はそういう人はいます。   洛中に住んでいることを誇りに思っている方は老舗の方なんですね。  京都でも後継者問題があり、無理強いは出来ない。   300年、400年続いたしきたりを守り続ける事、口うるさい親戚、昔からのお得意さん、そういったものに縛られながら、仕事を続けることに、跡継ぎはみんな喜びを見出しているわけではないと思います。  

洛中、洛外、というのは平安京が出来た頃は「洛中、辺土」と言っていました。  室町時代後期には今の街は出来上がり、その辺からが京都の街中に生きる人々の歴史的意味があるのではないでしょうか。  上京、中京、下京と京都の中心部にありますが、上、下とはっきり分かれたのは応仁の乱の後からだと思います。   応仁の乱で多くの人が疎開をしました。  焼けた後に京都の人々が帰ってきて、新しく京都の街をこしらえ始めます。  上京に溝を掘ったり、土塁を作ったりして上京というところを作りました。  別の人たちは下京という新しい街を作りました。  これが後の京都の街を基礎付けていると思います。  戦国時代の終わりごろから、伊勢、近江、若狭など周辺の地域からビジネスチャンスを見出した方が来るようになります。  そういった人たちを中京衆と呼びますが、新参者という響きは有ったと思います。  中京衆がその後の京都の発展を支えるようになり、三井などそうですが、大阪、東京に店を持つようになり、やがては全世界に店を構えるようになるわけです。   

京都は第二次世界大戦でそんなに空襲を受けなかったんです。   多くの古い家屋が保たれました。   連合国は京都の街並みをそこそこ守ったわけです。   守られた街並みを資本主義の欲望のもとに壊していったのが、洛中の人たちなんです。   私は建築の勉強をしてイタリアで凄く衝撃を受けました。  フィレンツェのパラッツォヴェッキオは市役所としてパソコンを使って仕事しています。  パラッツォヴェッキオは築500年ぐらいになるんです。  日本では考えられない。  京都はすっかり現代都市になってしまっている。  ポーランドのワルシャワでは1944年のドイツ軍の空爆でほぼ瓦礫になったが、自分のところの家を支えていた石を拾い出し積み上げていって、かつての家と寸分たがわず作り上げるんです。  京都ではマンション、ホテル、駐車場、雑居ビルに負けていっている。   日本では建築文化があんまり有難られないんだなあと、私は感じます。 

御池通り、堀川通り、五条通りは広いが昭和20年に広げられたんです。  空襲を受けた時の火よけ地、軍事物資の輸送を考えた道路でした。   見事に祇園祭の地域は守られている、綾小路、六角、新町など祇園祭に鉾や盾を出すエリアは手をつけなかったんです。   熾烈を極めた戦時体制の時ですら、祇園祭の中枢には軍は手をつけなかった。  高度成長期にどんどん街並みが変わって行ったことを切ないなあと私は感じます。  

上海は大変な勢いで経済発展を遂げました。  30年、40年で人口、経済規模も10倍ぐらいになったかもしれません。  1980年代に訪れた時に北京語を話す人に街を案内してもらいました。  上海は上海語をしゃべるので自分には全く分からない、と言われました。   5年前に行った時には上海で上海語をしゃべる人はほとんどいなくなっていた。  上海が発展してビジネスチャンスのため世界中から経済人が押し寄せたんです。  その人たちはみんな北京語の学習者なんです。  北京語が圧倒的に多く使われるようになる。     京都、大阪はそんなにも経済的な発展はなかったので、関西弁でやり取りが出来るわけです。   いわゆる日本文化と言われるものを丸ごと守っている地域は、芸子、舞子さんがいる花街なんです。  京都では芸者とは言わない、芸者は男なんです。  国際化した日本語は芸者で芸子は国際化しないんです。  芸子という言葉はなくなってほしくないです。  


2022年8月19日金曜日

堤治(産婦人科医)           ・産みたいときに産める社会へ

堤治(産婦人科医)           ・産みたいときに産める社会へ 

現在72歳、今も都内にある病院の名誉病院長として、診察や手術を行うだけではなく分娩にも立ち会ています。  今年4月には不妊治療に対する保険適用が拡大がされるのに合わせて著書も出しました。   堤さんは愛子さんのお誕生に東宮御所御用係として、皇后さまの妊娠から出産までの主治医を務めたことでも知られています。   半世紀にわたって妊娠や出産、不妊治療に携わってきた堤さんに伺いました。

今まで体外受精を含めた不妊治療は保険適用ではなかった。  子供が欲しい方は自由診療で、自分のお金を払って診療を受けるというのが長年のスタイルでした。   今年4月には不妊治療に対する保険が使えるようになりました。   経済的負担は大きなハードルでした。 全国で体外受精が増えてきているというのが実感です。    難治性不妊というのがどうしても出て来て、年齢が高くなってくるとそういった頻度も増えてくる。   難治性不妊に対する診断や治療は今回の保険適用ではカバーされていない。   難治性のために特別な保険で適用されていない検査や治療を行うと、すべてが自費診療になってしまう。   カバーされていないことをやるとすべてが保険ではなくなるという事です。

体外受精、顕微授精などは治療を始める時点で、女性の年齢が43歳未満であることが条件になっています。

体外受精の成績?というのは年齢によるところがあります。  43歳以上の方に手厚くしてもらいたいというのは現場の感覚としてはあるわけですが、国、公的資金、保険機関などがあるが、どうしても費用対効果を考えないといけない。   私が診ている平均年齢が40歳ぐらいです。   保険適用が制限されているかたの方が大半を占めているし、43歳以上で不妊治療をする方もいます。   43歳以上では不妊治療に向いていないと判断されては大きな誤解になるので、43歳で子供を作りたいと思った方は、むしろ早く産婦人科等に行って相談をしていただきたい。  48歳で体外受精を受けて49歳で出産された方もいます。  

「妊娠の新しい教科書」を発行、日本は妊娠に関して疎い国で、欧米では小学校のこのころから精子、卵子とかを教えている。  日本は性や生殖に対する教育が遅れている。    卵子は赤ちゃんの卵巣の中で作られて、500万~700万個作られてその後新しく作られることはない。  だんだん減って行って閉経の時にはゼロになる。  20歳の時には卵子も20歳、40歳の時には卵子も40歳、こういった知識があまり知られていない。   不妊治療が保険適用になるという機会にも合わせて、一般の方にも妊娠の仕組みとか、よく知っていただきたいと思って出版しました。   日本の不妊治療の特色は、女性が社会進出をすると、妊娠出産育児が後回しになって、結婚年齢が40歳ぐらいになり、不妊治療を受ける頻度が高くなり、体外受精の治療が必要になる。   社会の体制として働きながらでも妊娠出産育児が安心してできる体制が整っていれば、20代で簡単に妊娠出産もできる。  そういう社会を目指すべきだと思います。

天皇陛下、皇后陛下の長女の愛子様の出産に立ち会わせていただきまして、去年20歳の誕生日を迎えられました。   御退院の時には雅子様は「お産は楽しかった。」とおっしゃいました。  陛下は検診の度に雅子様のところに来ました。  いろいろなお話、画像などもご夫婦で一緒に見ていただきました。   妊娠出産育児は夫婦共同で行うものであるという事を陛下が自分の行動で示されて感動しました。   雅子様には妊娠などに関する勉強をいろいろしてもらいました。   今は皆さんに楽しいお産をしましょうと、雅子様にあやかってお話をしています。   

埼玉県の秩父市に長男として生まれました。  4000ℊで生まれました。 産婆さんが頑張ったが駄目で産婦人科の先生を呼んできて鉗子分娩(赤ちゃんを引っ張り出すような処置)で生まれました。  小学生のころから読書好きでした。  小学校の図書館の本は全部読みました。   多い時には20羽の伝書鳩を飼っていました。  1978年に世界で初めて体外受精に成功、ルイーズちゃんというイギリスの子です。   1976年には医者になっていましたので、1979年から不妊治療という事で卵子の研究に没頭しました。   家は代々織物業をやっていて、斜陽産業なので医学の道に進ませてもらいました。  

1985年からアメリカのワシントンに2年間留学しました。   卵子の研究で東京大学から博士号を貰って、第二ステップとして留学することになりました。   卵子、精子がどうやって受精して、着床して妊娠して育つメカニズムがわかってくれば、受精しない、着床しない、流産することに対する対応が出来るという考えで、研究していくつか実現できました。

患者さんの声をよく聞くという事は今もよく行っています。  仕事をすることは祈りかなあと思っています。   一生懸命にやればやるほど人の役に立っているという実感があるので、多少疲れるという事はあっても擦り減らない仕事かなあと思っています。   息子は二人とも40代ですが、二人とも医師になっています。   妻も研修医の時に子供が生まれましたが、下の子は28週、1242ℊという早産でした。  今では大きく育ちました。  長男には2人、次男には5人の子がいます。   5人は今勤めている病院で取り上げました。  屋上にはバラを植えて水をやったりするのが日課になっています。

生命の起源を辿れば同じところから出てきているので、命を大事にするというのが自分の心の中の底辺にあるのかなと思います。   生命の誕生に携われるという事は本当に幸せなことだと思います。  生殖医療をどこまで広げて言ったらいいのか、子宮が生まれつきない方は卵子をとってご主人と受精させて、代理の方に移植、妊娠出産していただく、代理懐胎、生まれつき卵子のない方が卵子を提供してもらえれば、自分のお腹を痛めて子供を作ることができる。     卵子提供の基盤は出来ているけれども、実際的には国内でできにくいので、しかしこれからは考えていかなくてはならない。   卵子凍結し、子供を作りたいときに作る、そういう選択肢があってもいいのかなあと思います。   

2022年8月18日木曜日

アグネス・チャン(歌手・エッセイスト) ・【わたし終いの極意】 終活は人生最後の大冒険

アグネス・チャン(歌手・エッセイスト)・【わたし終いの極意】  終活は人生最後の大冒険 

香港生まれ、1972年に「ひなげしの花」で歌手デビューして、一躍人気アイドルになりました。  1994年にはアメリカのスタンフォード大学で教育学博士号を取得、大学で教鞭をとったり本を執筆するなど教育の分野でも力を発揮しています。   又、自身の癌体験をもとに癌検診の大切さを訴える啓発活動にも積極的に取り組んでいます。  20日に67歳の誕生日を迎えるアグネス・チャンさんに伺います。

日本での芸能活動は50年になります。   仕事、結婚、子育て、病気とかいろいろ体験して、お陰様で充実した50年だったと思います。   仕事だけではなく家庭を持ったことは私にとってありがたかったなあと思います。  2015年に「ひなげしの終活」を発売、注目を集める。 2007年に乳がんを宣告されて、もしかして命が終わるのかなあと思いました。  生きる事死のことを考えるようになりました。   その前年に顔面麻痺があり、笑う事が出来なかったり、一つ一つ出来ることに感謝しなければいけないんだなあと思いました。   NHKで乳がんに関する番組があり、観て感動してしまって、来年は現場に行って励ましたいと思いました。   会場に行くことが出来て、乳がんに関する知識も色々得て、1週間ぐらいしてテレビを見ている時に、右胸がちょっとかゆいかなと思って掻いてみたらちっちゃなしこりがありました。   もしかしてと思って調べてみたら早期の癌でした。  食事とか健康には気を付けていましたが、宣告された時には頭が真っ白でした。   その時には小学校5年生の子はどうすればいいんだと頭に浮かびました。   

終活」というと後ろ向きな感じがしますが、自由になって夢を追いかける時期だと思うんです。   私たちが楽しく生きていることが若者にはいい手本なんです。   終活は人生最後のチャレンジ、冒険です。  そして自分の何かを残すという事、文化、特技を伝え教えるとか。    自分の残した種が芽になり、花が咲き、種になり、次の世代につながってゆく。  或る意味死んではいない、身体はなくても魂が残ってゆく。   

母は香港にいて97,8歳になります。  1年に半分ぐらい帰って介護しています。    一緒にいることが一番の孝行かなと思いました。   母が昔歌ってくれた歌を耳元で歌ってあげたり手を握ってあげたりしています。   母は向上心のある人で私たちも刺激されてやりますが、なかなか褒めてはくれなかったです。   子供たち3人ともスタンフォード大学に行きました。  どんな育て方をしたのか、という事で本を書くことにしたらと言われて、出版して日本でもベストセラーになりました。  香港、台湾でもベストセラーになりました。    ポイントは毎日を楽しくする、そうすれば好奇心、向学心も育って、エキサイティングな子育てをしようと思いました。    

ユニセフの活動で電話も通じない海外に行きますが、幼い子を10日間みなくてはいけない時もあり、母親がいない時でも楽しく過ごせる方法を考えて、ビックリ袋を作ったんです。  その中にいろいろなものを入れるんですが、面倒を見る人が夜になるとそれを隠すんです。 朝起きると子供たりはそれを捜していろいろ遊ぶわけです。  

一番上の子が36歳になります。  1998年に初代日本ユニセフ協会大使に就任。  児童買春、児童ポルノの問題でタイに行きました。   貧困のせいで親が子供を売ってしまうわけです。  100%性病になり中にはエイズになってしまう子もいます。    発病すると売春宿によっては山奥に捨ててしまいます。  そういった子をどうやって力になって行けるのか、いつも考えさせられました。   翌年は南スーダンに行って、それは児童兵士の問題でした。  何十年も内戦が続いて、末期になると子供たちを使うんです。   私はクリスチャンですが、どうして神様はこういうことをやったんだろう、とか改めて悩んでしまって、同行の看護師さんから「理屈を言う暇があるなら、 与えられた役目を果たしなさいよ」と言われて、「役目は何だろう」と言ったら、「たくさんの人と話をして現状を広めるのが貴方の役目でしょう。 自分のできるところをやりなさい。」と言われて衝撃でした。   

がんになって負のことばっかりだとは思わないんです。   命の大事さが判ったし、2人に1人はがんになる時代になり、残った人は看病をするというようになり、無関係の人はほぼいなくなる。  女性の検診率が低い。  検診率の向上を掲げ、10%を割るようなところもありましたが、いまは大体40数%、70%程度に検診率も上がってきた地域もあります。  一生懸命活動すれば、後輩を通し私の魂がほの人に感じれば、それこそ命のリレーです。 

病気になったせいなのか、生きてることが奇跡で、歳を重ねるのは、身体が出来るだけ健康でいたいというのが大前提で、見た目がどうかとかはあまり気にしていないです。     笑顔が絶えなければ若く見えると思うし、前向きなエネルギーで若く見せようと思います。 食事には気を付けるようにしています。   肥らないように現状維持を心掛けています。 人は老け方が違う、18歳でも無気力だと老人のように見え、70代でも生き生きしている人は少年のように見える、身体と相談しながらどのぐらいできるのか、そっちが大事だと思います。   50周年の記念曲とアルバムも発売されて、新刊(「0歳教育」)も発売になって、絵本も4冊発売になり、絵も自分で描きました。  

人間の持っている最大の力は愛する気持ちだと思います。  齢を重ねることは怖がらずに、人を愛する気持ちはいつまでも無くさないで、それだけ信じて毎日やって行けば何とかなるんじゃないかと思います。  わたし終いの極意とは、「毎日が誕生日」です。   毎日新しい自分が生まれ、ハッピーになれる。

2022年8月17日水曜日

白石豊(福島大学名誉教授)       ・【スポーツ明日への伝言】 本番に強い心をつくる

 白石豊(福島大学名誉教授)     ・【スポーツ明日への伝言】  本番に強い心をつくる

昭和29年生まれ、筑波大学大学院体育研究科修了後、筑波大学大学、福島大学、朝日大学で教壇に立ちながらスポーツとメンタルの関係について研究を続け、実際に学生だけではなく、オリンピック代表選手やプロ野球選手などへの指導をしてきました。  42年間の大学教員生活を終えられて、現在は岐阜に白石塾を開校し、トップアスリートやコーチに指導してきたメンタルトレーニングの内容などを一般の人たちへも伝える活動をしています。 

私がメンタルの勉強を始めたのが1972年なので、丁度今年で50年になります。  当時東京教育大学(現在の筑波大学)の1年生でした。    ミュンヘンのオリンピックで男子体操は15個のメダルを取りました。(金=5、銀=5、銅=5)  そのうちの半分が私の先輩たちでした。   喜び勇んで練習を始めたら故障して腰が動かなくなり、大学の図書館に行っていろんな本を読んでいました。  ソ連のスポーツ科学者が書いた本を読んでいたら、ラリサ・ラチニナというソビエトの女子体操のローマオリンピックチャンピオンで、マイケル・フェルプスが出てくるまでオリンピックの総メダル数ギネスだった方です。  「私は体育館だけで練習するのではなく、頭でも練習する。」と書いてありました。   今風に言うとイメージトレーニングだったんです。  この一行をきっかけにいろんな本を当たって行きました。   

いいイメージトレーニングをするには2つ条件がある。                ①肉体はリラックスしていなくてはいけない。(スポーツだけではなくてあらゆる学習活動、仕事も全く同じ。)                                   ②肉体はリラックスしつつ精神は集中していなくてはならない。

リラックス、集中という言葉は聞いていたが、どうやってやるのかは聞いたことがなかった。   そこから追及するようになりました。  私は8つのメンタルスキルを30数年前から教えるようになって、①意欲、②自信、③感情コントロール、④リラックス、⑤集中、⑥イメージコントロール、⑦コミュニケーションスキル、⑧セルフコミュニケーションスキル です。

ドイツのシュルツという人が100年前以上に開発して自律訓練法がいいというのが判って、大野清志先生という教育心理学の先生がいまして、学科目の紹介に自律訓練法がありました。   シュルツさんはリラックスすると重くなるという事と、温かくなるという事を見つけた方なんです。  緊張するとふわふわして軽い、手足が冷たくなったりする。   大野先生に教えを請いに行きました。   重くなるように唱えて、自律訓練法記録用紙を渡されて、どんな感じなのか書いてくるように言われました。   1週目が右手、2目が両手、3週目両手と右足、4週目両手両足、5週目全身、6週目が右手が重く温かいになるんです。 順次10週目になります。  11週目は鍛錬と言われるへその下の気力がみなぎると言われるそこがふわっと温かくなって、額は逆に涼しいという感覚になると、イメージ凄く出るよと言われました。  11週目を終えて、イメージトレーニングに入ろうかと言われました。   金メダルをとってきた選手の体操の動きを穴が開くほど見て、頭に焼き付けて、帰って下宿で自律訓練法でリラックスして集中して額に意識して、今日見てきた最高のものを頭で再現しなさい、と言われました。  これで人生変わりました。

体操のチームドクターで日本の腰痛の権威の矢橋健一先生が横浜にいるから紹介状を書いてあげると或るオリンピック選手の先輩から言われました。  週一でひと月来れば痛みをとってあげると言われて実際痛みが取れました。  次の一か月は当時の巨人のチーフトレーナーの井上良太さんを紹介してもらい治療を受けて復帰できてしまいました。 その後筑波大学に残って体操のコーチをやるように言われました。  練習量を増やしたりして13年間勝てなかったが、最終種目で大逆転して全日本で優勝が出来ました。  当時はメンタルのことを聞いてくる人は誰もいませんでした。  川上監督が辞めて翌年書いた「座禅とスポーツ」を読んで衝撃を受けて、自分も心を磨かないと駄目だと思って盛岡の東顕寺?の座禅の強化合宿に行きました。  

体操、野球、バスケットボール、新体操、スピードスケート、サッカー、ゴルフ、エアレースなどの選手、舞台もワールドカップ、オリンピックなどいろんな舞台のスポーツを見てきました。   1985年の大阪大学の先生にヨガを教えていただきました。  駒澤大学の野球部の太田監督とお会いしてうちの野球部に教えて欲しいと言われました。  その時のキャプテンが広島にドラフトNO1で入った野村謙二郎君でした。   一流選手を見られるようになりました。  どんないい選手でも必ず浮き沈みがあります。    困っている時に私のところに来るのでみんな暗い顔をしてきます。   具体的に何していいかわかるので2時間もすると明るい顔をして帰ります。  

女子バスケットの萩原美樹子さんは4年連続得点王でしたが、2年連続得点王の時に決勝戦。国際マッチで5年間連続5点以下という本番に弱いという烙印を貼られてしまいました。   夜も眠れないという事で私の話を聞いて尋ねてきました。  18歳の時の決勝戦でのミスがトラウマになっていたようです。  3か月ぐらいで自信を6点ぐらいにする方法は持っているよと言いました。   4か月後のアジア予選では大活躍をして日本を20年振りのオリンピックに導いた立役者になりました。

ドイツのハイデルベルク大学のメンタルトレーニングの草分け的存在のエバー・シュッピッヒャー?という教授が奈良女子大学に来ていました。 ⑧セルフコミュニケーションスキル、選手は自分のなかで心でつぶやいて自分をつぶすんだよねといって、ネガティブセルフトーク、これは駄目なんです。  ⑦コミュニケーションスキル ここも磨かなければいけない。  

アメリカのメジャーの野球のコーチは選手が求めているものに即座に対応できる準備はするし、一番先に来て一番遅く帰る、怒鳴るなんてことは絶対ない、と言うんです。     日本は指示、命令、恫喝。  私も最初はそうやっていました。  中にいいものを持っていて、それを外に出す手助けをするのが教育者というんだよと、引き出すんだよと、言われました。  それから勉強しました。 引き出すような教育方法をとっている人はいませんでした。   アメリカのビジネス書で、上司が部下にどのようにかかわり、言葉かけをするかで、生産性が全然違うと、部下が自信をもってやる気をもって集中して楽しくやってくれるようにするのは上司の役割だ、という事が書いてありました。  私も怒鳴るのを辞めて、上手に聞いてあげる、褒めてあげる、と言ったことをやって行ったら、こっちのストレスはなくなって行って、結果は凄いわけです。  これはあらゆる指導、リーダーシップとかに使えるので沢山利用しました。   

遥か前から心技体という事は言われてきましたが、まず技術、駆使するための体力に割かざるを得なかった。   私のところに相談に来たトップアスリートは心の使い方を誰からも習っていなかった。    ホッと負けてしまった瞬間にどうするのこれ、ということが起こり、そういう人たちのサポートをしてきたと言うだけです。   阪神タイガースの下柳君などは32歳の時に会って二桁づつ勝って42歳まで投げたいと言ってきて、37歳の時に最多勝を取りたいと言ってきて、目標は15勝という事で、15勝に向けて生活スタイルも変えなければという事で、結局15勝して広島の黒田君と最多勝をわけました。  

どうせ死ぬので死ぬまでは生きたい、出来れば生き生きと生きたいという風には思っています。





2022年8月16日火曜日

上野和子(語り部)           ・学童疎開船「対馬丸」事件を語り継ぐ

 上野和子(語り部)           ・学童疎開船「対馬丸」事件を語り継ぐ

太平洋戦争末期日本の戦況が悪化した1944年8月22日夜、沖縄から本土に疎開する児童たちを乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。  学童など乗員1788人のうち1482人が犠牲になりました。  上野さんの母親の新崎美津子さんはこの時、引率教員でしたが、4日間の漂流の後に救助されました。   教え子の多くが犠牲になったのに自分だけ助かったという負い目から沖縄から離れ対馬丸のことを語らない母親でしたが、晩年の数年間は講演の場で悲惨な体験を語るようになりました。   上野さんは直接の体験者ではありませんが、母親の体験を埋もれさせてはならないと、8年前から語り部として活動を続けています。

今年1月には埼玉県の草加市で行いました。  200人ぐらいの方が来ました。(教職員対象)    小学校6年生の2クラスにも話をしました。   栃木市市役所会議室で50名ぐらいを対象に行う予定です。(ここでは3回目)

両親ともに戦争を経験して、母親は対馬丸事件を経験して4日間漂流してやっと助かった身です。    沖縄から離れようという思いがあり、栃木県に落ち着いたと思います。   父親は医師で無医村のところを紹介してもらったのが栃木県でした。 (昭和30年前後) 父は沖縄には病院が少なく沖縄に開業したいという思いがあったようですが、母が沖縄には帰れないという思いがあったようです。   

対馬丸は元々は学童疎開用ではなくて、中国と行き来した商船で、荷物を運んで那覇に荷物を降ろして,空になった船に児童、一般の人たちを乗せて疎開する形でした。    1944年太平洋戦争末期、沖縄の学校では勉強どころではなく、兵隊さんたちの訓練で校庭を闊歩したり、教室も占拠されていた。   サイパンが7月7日に陥落して、7月19日に疎開しなさいと発令されました。    子供たちだけ本土に疎開させることに対してなかなか集まらなかった。   8月21日に出港、22日夜10時ごろにアメリカの潜水艦ティノサから発射された魚雷で沈没する。    母は児童を引率するために乗船していて、母の妹さんも同乗していまいたが、亡くなりました。   船が沈むときに私の人生も終わりだと思って、息を一杯吸って沈んだそうです。   気がついてみると浮きあがっていたという事でした。  4日目に助けられました。

1010空襲、その後壮絶な地上戦がありましたが、母は戦争のことは一切話しませんでした。助かった子供たちにかん口令が敷かれたと言います。  

*「さんざめく子らを乗せたる対馬丸わが目の前で魚雷命中す」   新崎美津子

*「親を呼び師を呼び続くいとし子のはなかんばせの命のほしき」  新崎美津子

*「妹よ硬く握る手が離れ学業半ばのなんじも沈みけり」      新崎美津子

(*聞き取れず正しくない文字、漢字があるかもしれません。)

「小桜の塔」 子供たちだけを祀った塔がなかったという事で、愛知県の子供たちが1円活動して資金を作りたてた塔だと聞いています。  2004年対馬丸記念館が出来ました。  

荒井退造は栃木県出身で、島田知事と共に沖縄の人たちを約20万人救ったと言われている人です。  

母はいつも冷静で冗談が好きな人でした。  自分が先生だったという事は一切いいませんでした。  残された短歌を読んで当時の母の気持ちを理解するようになりました。   86歳の時に本当の気持ちを人前で吐露した時にはびっくりしました。   亡くなるまでに4回話しました。  回が重なるに従い母の表情が段々軽くなってきたのが印象深いです。 母の体験を聞いた時に、これは大変な事じゃないかと感じて、母の体験を世の中から埋もれさせてはいけないと思って、書いて応募したら載せてもらえたのがきっかけとなりました。母は90歳で亡くなりましたが、私が整理して短歌集を出版することになりましたー。

私の講演活動は8年前から始めました。  或る講演会では、最後に私を紹介する立場の先生が号泣してしまったという事もありました。  母のことを判って貰えてよかったなあと思いました。  30回以上講演をしています。  3年前、ギターリストの又吉康之さん企画の音楽と映像の集いで対馬丸の講演を行いました。  2020年に対馬丸記念館から正式に語り部として認められました。  書きたいという気持ちが出てきて、活字にしておくといいなあという思いがあり、「孫たちへの証言」へ投稿して採用されました。(2011年母が亡くなって1か月半ぐらい)   2012年短歌集「紺碧の海から」を出版。  祖母のツルと母の短歌集です。  

*「鉄槌の一撃なりき夢を追うさきてあこ戦死との深夜の電話」       ツル

*「夢にあれこの夢覚めよ戦死とはごごう?にてあれとしたり?祈りたり」  ツル

*「国のためとただに耐えたる30年思いたどれば怒り沸き立つ」      ツル

*「風化させじ短き命の尊さを語り部となり世にし伝えん」     新崎美津子

*「美しきブルーの玉の我が地球何故に戦禍の絶ゆる事なき」    新崎美津子

(*聞き取れず正しくない文字、漢字があるかもしれません。)



2022年8月15日月曜日

坂本冬美(歌手)            ・【師匠を語る】 猪俣公章

 坂本冬美(歌手)            ・【師匠を語る】  猪俣公章

猪俣さんは歌の師匠でもあり、プロデューサーでもあり、東京のお父さんでもある、そんな存在です。

猪俣公章さんは1938年福島県に生まれます。  1966年森進一さんのデビュー曲「女のためいき」で作曲家として本格的にスタートを切った猪俣さんは、数多くの名曲を残しています。 その一部、森進一さんの「おふくろさん」、内山田洋さんとクールファイブの「噂の女」、水原弘さんの「君こそわが命」、テレサ・テンさんの「空港」、海原千里・万里さんの「大阪ラプソディー」などおよそ30年間の作曲家生活で3500を超える作品を残し、1993年55歳でこの世を去りました。  猪俣さんは坂本冬美さんが「あばれ太鼓」でデビューした6年後に亡くなっています。  

教えを受けていたのは約8年です。   NHKの『勝ち抜き歌謡天国』という歌番組があり、作曲家と出場者が二人ペアを組んで勝ち抜いてゆくという番組でした。  最終回が和歌山で行われて、そこに私が出場しました。  たまたま組んだのが猪俣公章先生でした。    番組収録後にご挨拶に行ったら、「おい、歌手になりたいか」と先生がおっしゃいました。 「ハイ、なりたいです」と言ったら連絡するからとい言われました。    オンエアが1週間後でしたが、そのちょっと前に電話で連絡があり、いろんなところからお誘いがあってもすべて猪俣公章にまかせてると言いなさい。」と言われ、そのように動きました。  それから2週間たったころ、又突然電話が掛かり、「大坂に来たのですぐ出てらっしゃい。」と言われて急遽和歌山から行きました。  先生がプロデュースした「近松心中物語」のラストシーンを見て感動しました。  「東京に出てくる気は有るか。」と言われて、「ハイ」と答えました。  直ぐにリュックを背負って先生のところへ行きました。   

猪俣先生のお誕生日会があり、夜遅くなって段々人が帰って行ってレコード会社の人が数名いる中で、突然歌え、と言われて歌ったんですが、「バカ野郎、へたくそお前なんか田舎へ帰っちまえ」と言われて、涙があふれて来ちゃいました。  「これも修行のうちだ。」と言われて、「顔を洗って又みなさんの前で歌いなさい。」、と言われてまた歌いました。  今度は「よし、いいぞ」と言ってくださいました。  根性を試してみたかったのかどうか?   初めて「紅白」に出させていただいた時も「泣くな、泣くと歌にはならないから。」と言われました。   運転手などもやって付き人のような形をとって、レコーディング、裏方、マネージャーさんなどの仕事の理解が出来ました。  

譜面が読めなかったので、「譜面の読み方を教えて欲しい。」と言ったら、「演歌歌手に譜面は必要ないんだ。」と言われました。   「譜面通りに歌っていい歌が歌えると思うな。」、と言われました。   朝、犬の散歩をしながら発声練習したり、待っている間の車の中で発生練習をしていました。   4月に上京して8月にはレコード会社が決まって、来年の春にデビューさせましょうという事になりました。   それがなければ、先が見えない状態で生活していたら挫折していたと思います。   デビュー曲が「あばれ太鼓」 19歳の私が、30年前に村田英雄さんが「無法松の一生」で大ヒットした楽曲をテーマにしていて、「ダサくない」?と思いました。    「先生、この歌は流行らないと思います。」と言ったら、「バカ野郎、新人が流行るとか流行らないとか、百年早い。」と怒鳴られました。    3回目のレコーディングでようやくOKが出ました。    

最初の歌いだしで、「どうせ・・・」とありますが、「どうせ」に前に、「ん」を入れなさい(心のなかで)と言われました。 インパクトが違うんですね。  フレーズごとに教えられながらレコーディングしました。   70万枚を超える大ヒットとなり、その年の新人賞を総なめとなる。   翌年「祝い酒」で「紅白歌合戦」に初出場、泣くな、と言われていたので何とか泣かずに歌い終えました。   緊張感が解けて泣きながら袖に帰って来ました。  よく頑張ったと初めて褒めていただきました。 

全部で66曲先生に作っていただきました。   「レコーディングの時には,詩をよく読んで理解して歌詞を大切にして歌いなさい。」、といつも言っていました。  

肺がんになり1993年6月10日55歳で亡くなる。   私は知っていましたが、先生は病気の内容を知らずに、入退院を繰り返していました。  段々病状が悪化して、亡くなる2日前に病院に行ったら、陽気な感じで「ガンかもしれない、もうだめかもしれない。」と言われて、私はドキッとしました。  秋にはロサンゼルスとサンフランシスコで私のコンサートをやる予定で、先生が指揮をしてくださるという話があり、「先生が指揮してくれなければ始まらないコンサートですよ。 元気出してください。」と励ましました。  後ろ髪引かれる思いで病室を後にしました。   2日後危篤だという事で病院に駆けつけました。  その後仕事に行きましたが、病室のことと葬儀の時のことは記憶がありますが、他は記憶から消えてしまって放心状態でした。  

その後出したのが「夜桜お七」(作詞:林あまり,作曲:三木たかし)でした。   小西先生にプロデュースしてもらって、出来た曲でした。   猪俣先生との最後のお別れで花を手向けていたら、後ろに三木先生がいて「冬美、先生のそばにいてあげなさい。」と私の背中を押したんです。 猪俣先生が三木先生に託したのかなと思いました。  作曲が三木先生でこの歌しかないと思いました。 

2018年には猪俣公章さん生誕80周年記念アルバム、「Enka III ~偲歌~」 猪俣公章さん作品10曲が収録されていて、選曲は私が行いました。   最後の曲が「君こそわが命」で、先生もよく歌っていて、先生のお好きな曲だったのではないかと思い、これを最後に選びました。  

先生への手紙

「毎日大好きなお酒を飲んでいらっしゃいますか。  先生がそちらに行かれて29年という月日が流れました。 ・・・私も55歳になりました。  ・・・勝ち抜き歌謡天国』をきっかけを機に内弟子となり、翌年「あばれ太鼓」でデビューしたのが19歳の時でした。・・・ 「この曲は流行らないと思います。」 などと大変な失言をしてしまいました。 若気の至りとはいえ、今思い出しても冷や汗が出る程申し訳ない気持ちでいっぱいです。・・・素晴らしいデビュー曲を書いてくださったことに心から感謝しています。・・・この歳になってようやく猪俣メロディーを表現できる歌い手に成れたような気がします。・・・まだまだだなと微笑んでいらっしゃるのか、それとも少しは褒めていただけるでしょうか。 ・・・私がそちらに参りましたら是非答えをお聞かせください。  ・・・これからもどうぞ見守ってくださいませ。」

  


2022年8月14日日曜日

岡本静(ミンダナオ島からの生還者)   ・【戦争・平和インタビュー】 ひとりぼっちの帰国

 岡本静(ミンダナオ島からの生還者) ・【戦争・平和インタビュー】  ひとりぼっちの帰国

昭和8年(1933年)フィリピン ミンダナオ島のダバオ地域で商店を営む両親のもと、祖父や兄弟家族12人で暮らしてました。  太平洋戦争末期アメリカ軍の攻撃が激しくなり、その攻撃から逃れるため家族はジャングルをさまよいます。  祖父は行方不明になり、両親など家族10人は亡くなってしまいます。  当時12歳だった岡本さんはたった一人日本に帰国、過酷な状況を生き延び、フィリピン、ダバオでの壮絶な体験を文章や絵に書き溜めてきました。  

祖父は清?、父が久吉?、母が雪乃?、一番上の姉が佐代子?、次が美代子?、次が私、妹が智子?、洋一?、徹?,喜美子?、由美子?、薫?の12人家族でした。    大勢の家族が亡くなっているから、絶対亡くなったところにはいかなければいけないと思っています。   行くのを待ってくれていると思って、一回でも多く行ってあげたいと思っています。   もう77年になりますが、一日も忘れたことはないです。 

姉が3歳の時に、祖父が先にダバオに行って、年中暑いところだから子供は裸で育てられるからきなさい、という連絡が両親にあり、姉が3歳の時にフィリピンに渡ったそうです。   ダバオで百貨店を開いて、なんでも扱っていました。  スコールが毎日夕方に来て、飛び出ていって,帰ってきたら母が石鹸で身体を洗ってくれてそれで終わりです。   現地の子と夜にかくれんぼをして遊びました。    近くに映画館があり、繰り返し繰り返し夜中まで観ていました。    戦争になり、学校では薙刀を習って「敵をこれで突くのよ」、と言って習っていました。   学校の帰りには並んで軍歌も歌っていました。 

 昭和20年(1945年)アメリカ軍がミンダナオ島ダバオなどに侵攻してきました。   突然みんなで逃げる事になりました。   着いたところが農園をしていて2日ぐらいいた時に、アメリカの爆撃が始まって、父が外に井戸で水を浴びていました。   日本の飛行機だろうと思っていたら撃ってきて、日本の飛行機との空中戦を展開しました。 また逃げ出して着いたところが独身の男の人が住んでいる家でした。    姉が新聞社に勤めていて日本は負けるから早く逃げないといけないという事で、又逃げる事になりました。  

逃げる様子をA3のスケッチブック、A2の画用紙に絵に描いています。(150枚ぐらい鉛筆で描いている。)   爆撃で石が妹の頭に当たってぺっちゃんこになった絵、智?ちゃん智?ちゃんと言って生き返ると思って揺さぶっていたら、一回「うん」と言ってから、もう即死でした。  年子の妹の智子?です。  みんなで一晩中泣きました。  一番家の姉が「もういつ死ぬか判らないから兄弟仲良くして行こうね」と言っていました。   翌日には又別の場所に逃げていきました。   銃を担いで木に寄りかかっている絵、死んでいる日本兵で、うじむしが湧いている。  白骨化したものもあちこちにありました。  

死んでいる母親に子供が泣きついている絵、ジャングルの遠くから子供の泣き声が聞こえました。  その子のお母さんが死んでいました。   さらにジャングルの奥に進んでいって、様子を見てくると言って出て行った祖父が戻って来ませんでした。  長女も行方不明になってしまいました。  さらにジャングルの奥に進ん行き、父が小屋を作って、父が様子を見に行って出ていくことを3日続けていました。  アメリカ軍の倉庫からみんなが盗んできたようで、それをどこかで聞いたようで、行ったら殺されると母が言っていたが、手ぶらで帰ってきて、3回目には夕方になってもなかなか帰ってこなくて、帰ってきたら顔が真っ青になっていた。  頭が痛いと言って囲炉裏の方に足を向けて寝ました。   お粥が出来たと言って足を叩いたが起きない。  顔を見たらすっとわかりました、死んだ人を見てきているから。   喜美子?も下痢をしていて、起きてこなくて、喜美子?も一緒に死んでいました。   

別の小屋を見つけたが、母も姉、妹たちも寝てしまって、私と弟洋一?だけが元気でいられました。   食べるものもないし、過ごしているうちに、鉄砲の音がしました。  日本の兵隊だと思って、母が呼んできなさいと言いました。   行ったら一人の日本兵が来てくれました。  母が撃ち殺して下さいとその人に頼みましたが、そんなことはできないと帰って行きました。    私がいつもおんぶしていた六女由美子?が亡くなってしまいました。   なかなか埋められなくて顔だけ残して埋めました。  スコールが来て段々水が溜まっていき、その様子を母に告げると涙を流していました。  その2日後には薫?(4か月)が死んでしまいました。   父親の横に寝かしてきなさいと言われて、おんぶしてジャングルの中を歩いて父親の隣に寝かせましたが、父親の顔にはカブトムシが一杯群がっていてそれが怖かった。   急いで戻ってきました。  母親も亡くなって、兄弟4人になってしまいました。   次女美代子?、三男徹?は歩けないのでおいてゆく事になりました。 次男の洋一?と二人で行く事になりました。  「連れて言って、どこ行くの」と姉の声がして泣いていましたが、黙っていました。   軍属のおじさんと収容所を目指しました。 姉の同級生がいて、「静ちゃんじゃないの、遅かった、お姉さん昨日死んだよ。」と言われました。   長女の姉が行方不明になっていたが。   

洋一?はトイレに入るとなかなか出てこなかった。  栄養失調で下痢をしたら、絶対助からないと言われていて、或る時私にもたれかかったまま死んでいました。  綺麗にして埋葬してくれました。  ついに一人になってしまって、何も考える余裕がありませんでした。トラックに乗って病院船に乗りました。  軍医さんから4,5人孤児たちがいて一緒に甲板に行くように言われ、両親にお別れを言いなさいと言われて、みんな泣きながら「さようなら」といっていました。   椰子の実がぽっかり浮かんでいたのが見えて、軍医さんが「椰子の実」の歌を歌いはじめました。  

戦争が無かったら平和に暮らしていたのに、どうして戦争が始まったんだろうかといつも思っていました。   母親が死んでも兄弟が死んでも泣きもしなかった。  心が鬼になってしまった。   何処の国も争いごとをしないで仲良くしてほしいと思います。     77年になるが一日も頭から離れたことはないです。   

岡本さんの戦争体験は息子の賢一?さんによって手記としてまとめられ、高知市の図書館で読むことが出来ます。

2022年8月13日土曜日

笑福亭仁智(落語家)          ・上方落語の昨日・今日・明日 (収録:2022年7月2日)

 笑福亭仁智(落語家)      ・上方落語の昨日・今日・明日 (収録:2022年7月2日)

1952年8月12日生まれ、高校卒業後に故笑福亭仁鶴さんのもとへ弟子入りし、当初は古典落語、後に新作落語で実力を発揮し、2003年と2015年には文化庁芸術祭の優秀賞を受賞、又2018年からは上方落語協会会長を務めています。   落語家として仁鶴さんの元で歩み始めた修業時代、上方落語協会会長として見た現状や、これからの落語の可能性など上方落語の昨日・今日・明日 について伺います。

小さい時、上がり症で人前に出るのが駄目でした。   高校1年生の時に友達に誘われて若手の落語家の勉強会に行きました。  笑福亭鶴光さん、桂米蔵さんとかいて、毎月行くようになりました。  高校2,3年生の時に進路指導がありましたが、年間120回ぐらい遅刻するのでサラリーマンは無理だと思いました。   落語を覚えて家族の前で披露して、笑ってもらえるという感動を得ました。   噺家になりますと自分では決めました。  入門先を決めるにあたって笑福亭松鶴師匠(笑福亭仁鶴師匠の師匠)、桂米朝師匠、桂春団治師匠、桂文枝師匠など考えましたが、弟子がいない師匠のところがいいのではないかと考えて、笑福亭仁鶴師匠は人気があり、面白さもあり、ここに入門しようと思いました。   電話番号を調べて連絡して、友人と共に会いに行きました。   1か月後に、ネタを覚えて聞いてもらいに行きました。  師匠のネタの池田の猪買い』を披露しました。   OKとなって翌年から行きました。  

通いでやっていました。  師匠は車が好きで運転していて、そこで稽古をしてもらったりしました。   笑福亭は「捨て育ち」というような気風があり、いってみれば「ほったらかし」というような感じでした。  自由奔放といった感じです。  噺家は自分で味、芸風、自分らしくそれぞれ育ててゆくものなので、弟子に対しても、自分で覚えなさい、芸を盗みなさいと言います。   

去年の8月17日師匠が急に亡くなってしまいました。   余り話さない人でしたが、2日前に米朝師匠、松鶴師匠の話とか、真打制度の話とか2時間ぐらい話をして、びっくりしました。   教えてくれる人が亡くなるという事は中々きついです。   

4年前に前会長が辞めると言われて、選挙になって、上方落語協会会長をやる事になりました。   僕らが入った時には50人ぐらいで松鶴師匠が会長をやっていました。  16年前、前会長の桂文枝師匠が三枝の時に、365日落語をやっているところがなくて、それを作るんだという事でそれが出来てから、変わりました。  お客さんもたくさん来ていただきましたし、1週間同じメンバーでやるので、いろいろ勉強にもなりました。   今は270人ぐらいいて、勉強会も盛んで落語家の一人前になる成長速度が凄く早くなったと思います。 可能性としたら人数が多いに越したことはないですね。   お客さんにとっては団子状態になってしまう危険性もあるので、個性を作りにくいとか、落語のネタの想定も50代が一番聞きやすいというような構成になっているので、35,6歳で一人前になった時にその年齢のギャップが試される時だと思います。  

頑張らなければしょうがないようなところに放りこまれて、そういったところで育てられました。    映画、御芝居が機械仕掛けと言いますか、デフォルメして大げさになって行く方向にあり、落語はお客さんと作り上げてゆく芸なので、噺家がしゃべっているのをお客さんが想像して物語を描いて、面白がったり感動したりする芸なので、その存在価値をお客さんに知らしめて、感じて頂けるならば、生活の中での存在がちゃんとしたものになって行くんじゃないかと思います。   笑いがもたらす健康効果が医学的科学的に研究されている大学の先生とかがいらっしゃって、大阪の万博のテーマが「健康」で、落語を聞いたらこれだけ健康にいいという、医学的科学的データを数値化していただき、落語の健康効果を国が認めたりしたら、落語を聞くという処方箋が出たら入場料が保険で2,3割負担で聞けるというような状況になるのではないかと思います。  薬と違って副作用がないんです。 


2022年8月12日金曜日

亀山亮(写真家)            ・沖縄戦の記憶を写す

 亀山亮(写真家)            ・沖縄戦の記憶を写す

亀山さんは」戦争を理解したいという一心で、世界の戦場を撮り続けています。  アフリカを8年に渡って取材した写真集『AFRIKA WAR JOURNAL』は第32回土門拳賞を受賞しました。  沖縄で長期の撮影を始めたのは2015年からで、沖縄戦の体験者に出会ったのがきっかけでした。  沖縄本島や慶良間諸島で行われた集団自決には、沖縄戦が日本独特の戦争であったことに気づかされたと言います。  言葉では語りがたい体験をした人たちから当時の記憶を写真とインタビューで取材し、その記録を「戦争・記憶 沖縄戦と集団自決」にまとめ、去年出版しました。   現在、メキシコで取材している亀谷さんに電話で伺いました。

*電話でかつ早口のため聞きづらい状況で内容に齟齬があるかもしれません。

メキシコは2015年から始めていて、麻薬組織、移民の問題など取材しています。   北米自由貿易協定が1994年に出来て、メキシコとアメリカの関税がなくなって、日本の自動車工場がメキシコにいっぱいあります。   1996年から取材をしています。(20歳)   中東、アフリカの紛争地に取材に行きました。  2000年にコロンビアに行って、メキシコの状況と似ていました。 毎日人が殺されていて、なんで殺されたのか、誰に殺されたのか判らない状況でした。  パレスチナ地区で取材中に左眼を撃たれて失明しました。 

アフリカを8年に渡って取材した写真集『AFRIKA WAR JOURNAL』は第32回土門拳賞を受賞しました。  アフリカの7か国の紛争地を取材した写真集です。   バックグラウンドとか何が起きたかなどなかなかわからない状況でした。   僕の父親が、(僕が?)24歳の時に自殺してしまって、死に対すること興味を持ち始めて、アフリカに行っても表面的な争いよりもその人のなかにある存在する戦争みたいなもの、どこで起きたとか、時代とかは関係ない。

15歳の時からカメラを撮り始めて、三里塚闘争を続ける農家を取材したことを皮切りに活動を始めました。   現在は八丈島で暮らしています。  海が好きでもりで突いたりしています。   

沖縄には住んだことがあって、2012,3年に沖縄の北部で揉めている地域があって、オスプレイの発着所を作るという事でした。   沖縄に取材に来た時にたまたま沖縄の集団自決 の方にお会いして、取材を始めました。    なかなか話をしてくれる人にはお会いできませんでした。  座間味諸島というところがありますが、取材を始めました。  集団自決に関しての写真となると難しいです。   「戦争・記憶 沖縄戦と集団自決」にまとめました。  2021年9月に出版しました。  モノクロームの写真と実際に出会った体験をした方たちへのインタビューが一緒に文字として記載されている。 

集団自決とは、日本軍から、米軍の捕虜になることを禁止されたという事で、捕虜になるんだったら自ら命を断てと言われて、自分ではなかなか死ねないので、隣人、家族同士で命を奪い合ったというような、背筋が凍るような出来事でした。  若い男は戦争にいって、高齢者、女性、子供しかいなかった。   1945年3月にアメリカ軍が慶良間諸島,阿嘉島に上陸、阿嘉島では集団自殺はなく処刑されている。   慶良間諸島だけで自決した人は569名という数字がある。   

集団自決に軍の関与があったという事を認めた判決が平成23年4月です。  渡嘉敷島のKさんは当時8,9歳で自分と姉と母親と山に逃げて、自分だけは生き残れたが、家族は全員殺されてしまった。  体験したことは心の中にずーっとしまっておいた。   集団自決に軍の関与があったという事を認めた判決に至る時に、自らの体験を裁判の場で金城さんは証言しました。   金城さんとは2回会いました。  学校の先生をしていた方です。   身内にも話したことはなかったそうです。   キリスト教の宗教に出会ったことで乗り越えられたんだと思います。   沖縄キリスト教短期大学の学長まで戦後になった方です。

集団自決の最中に、首を激しく叩かれて、でも死んだふりをして生き延びた方もいます。  彼女は或るきっかけを機会に後世に残したいとしゃべってくれました。    遺骨をずーっと拾い続けている国吉勇さんという方がいます。   ガマ(防空壕的な役割)には今でも遺骨が眠っている。    今は体調が悪くなって遺骨の収取は出来なくなりました。 

日本人の精神構造の中にずーっと続いていて、その構造は一緒だと思っていて、忖度とか、長いものには巻かれろとかあり、戦争とか災害とか極度の状況が出来てくると、強烈なリアクションをして、強烈な結果を生む、それはこれからも起きる事だと思います。  善悪論とか人間論とかで判断できる問題ではなく、戦争が始まってしまうと勝ち負けは関係ないし、全員が敗者で・・・・・。    

2022年8月11日木曜日

加藤浩二(低山登山家)         ・超低山巡りで日本再発見

 加藤浩二(低山登山家)         ・超低山巡りで日本再発見

標高50m以下、またはその都道府県で一番低い超低山を専門に登り続け、現在全国341の超低山を制覇しました。  超低山に取りつかれたきっかけ、又その魅力はどこにあるのか、伺いました。

2004年現在で標高50m以下に登った山の数は149です。  今は155になりました。  地図に載っていない低山を含めると341になります。   一日15か所の山を登ったこともあります。   携帯自転車を持って行って岡山の主に古墳が中心でした。

山が好きで高校時代ワンダーホーゲル部で登っていましたが、日本百名山も制覇しました。  キリマンジェロも登りましたが、日本百名山を制覇して目標の喪失感を抱えていて、2000年に会社の同僚に誘われて大阪の天保山(4.5m)に登ったんですが、山の概念が一変しまして、低山登山に魅せられて低山クラブ隊長として全国低山を行脚しています。   天保時代に安治川をさらった土砂を積み上げた山なんです。  鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜がこの地から軍艦で逃げ帰ったという歴史的事実があります。   1914年ごろは天保山は9mぐらいあったそうですが、地盤沈下で4.7mになりました。  一時期国土地理院から抹消されてしまいました。   仙台市にある日和山(ひよりやま)が6mで全国最低峯となりました。   地元の人が天保山を地図に載せることに立ち上がって、1997年に復活しました。    2011年の東日本大震災で日和山が根こそぎ流されてしまい、跡形もなくなりました。   地元の人が復興を祈ってその地に石を積んで、国土地理院も標高を測り直して3mという事が判りました。   2014年からは日和山が日本一低い山という事になりました。  日和山という名称は全国にあり、「日和」という事で天候を見るところでした。(帆船のために天候を見る。)   

低山は地元の生活にかかわりが深くて、里山、古墳、城山だったりして、神社の名前がそのまま名前になっていたりします。  その土地土地の歴史や物語が秘められています。  四国の徳島市にある弁天山(6.1m)、自然に出来た山では一番低い山です。   平安時代には海の中にある島でした。   源義経が屋島を攻める時に、この山の近くの小松島に上陸して源氏の白旗を上げてみんなを呼び込んだという歴史のある山です。  近くに旗山がありこれは再発見となりました。 

東京港区の愛宕山(25.7m)、讃岐丸亀藩の家臣の曲垣平九郎が急な石段を馬で駆けあがって徳川家光に梅の枝を献上したという話で有名です。  「出世の石段」という名前が付いています。  NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、現在は放送博物館があります。  

千葉県木更津市にある太田山(40m)、山頂に展望台があり、ここから見る東京湾は絶景です。   日本武尊が嵐の海で亡くした妻の弟橘媛を悲しんで、この山に登って海を見続けたという事で、「君不去」(きみさらず)という名前が付けられ、木更津に変化したという。  

兵庫県の唐船山(19m)、中国の唐との交易時代、唐の船が宝物を積んだまま赤穂沖で嵐で沈没して、そこへ土砂が堆積して島になったと伝えられている。    日本夕日百選に選ばれています。  

北海道釧路のお供え山(正式名称はモリシヤチャシ跡)チャシ=砦  寛延4年(宝暦元年:1751)ごろ、釧路一帯を勢力圏としたアイヌの首長・トミカラアイノが築き、その後も一族が居城したとされています。

東京足立区の小右衛門富士塚(2.3m)、富士塚は江戸中期から明治時代にかけてミニチュア富士を作って、「富士講」に行けない人が多くて、行けない人のために富士山から溶岩を持ち帰って、同様の御利益があるという事で流行りました。  開発で富士塚は潰されてしまったが、現在でも関東地方には100以上残っています。  おおきいものは15mぐらいあります。    

静岡市の船山(43.5m) 安部川という急な川があり、この川の中州にあります。  滑らない靴など完全装備して登頂に成功しました。 

広島県江田島市茶臼山(11m) 平常は海の中にあります。  潮が引かないとそこに渡れない。  私は2時間待ちましたが、4分ぐらいで登れました。  茶を挽く臼に似た山容から茶臼山と呼ばれていて全国に50ぐらいいあります。  

石川県珠洲市の岳山(37m) 岩山ですが地震で道が崩れてしまって、30分ぐらいかけて登ります。  漁業者にとっては豊漁の神様になっているんで、登頂が欠かせない。

新潟県村上市の鳥越山(50m) 断崖絶壁で途中まではいけましたが、岩山でオーバーハングしているところもあり、怖くて諦めました。 

低山は情報が少ない。(インターネットがない時代)  9割がたは道があるが1割は道がない山だったりします。  低山なりの達成感があります。  退職後は里山保全のボランティア活動に参加しています。  都会に近い低山は崩されて山ではなくなったりしています。  低山を地図に載せる運動が高まって来たりして、村上市にある稲荷山(15.3m)が2012年に新潟県の最低峯として地図に載りました。   13年越しで小笠原の飯盛山(50m)に行きました。  

行きたかった山で最近(6月)行けたのが、新潟県の日和山です。  インターネットで情報交換しています。  上野低山巡りを推奨しています。  浅草の待乳山(9.7m)、上野の摺鉢山(23.3m)、新橋の愛宕山(25.7m)などです。