2013年2月27日水曜日

村上隆(現代アーティスト51歳)      ・現代アートで時代を変える 2


カタールのドーハで開催され(国交40周年記念)そこで展示された作品、 圧倒的な存在感が話題になった全長100m にも及ぶ大作五百羅漢図について伺います

絵画は抽象的な現代アート 大作五百羅漢図は初めて日本人に好かれた作品です   
きっかけは 芸術新潮 辻 惟雄先生と連載をやっていた
狩野 一信の五百羅漢図が改めて脚光を浴びる展覧会作っていて、辻先生は狩野 一信を非常
に軽視していた
処が本物を観る機会が有って、見たら自分の認識が違っていたと、雑誌や本で見ていたものと、全く違う事が判った 大きな過ちをしていたと気付く
先生は五百羅漢図の事ばかり書くようになった  
最初は3cm四方に200体位をかく 長沢芦雪   五百羅漢図が見つかる
米に書けるアーティストの方を調べて、おなじ体数をかいて貰った  又羅漢の話に成って、
伊藤若冲 羅漢の話をする

狩野 一信の勉強して、大震災が有って 芸術が無力であると言うのを感じた思うところが有って報道で宗教の発生の原点が見えた様な感じがした
現代は科学至上主義で、なんでも分析できるという前提のもとに、それに従って皆が従ってゆく 
信心がまかり通っているという考え方が有る
宗教はどっちかと言うと脇に追いやられている  
割りきれないと言う事は人間の世界には有って、病気とか衛生面で 克服されていない時代は特にそうだったんだなと、大震災の時にあっと言う間に表に出てきた   
五百羅漢と言うのはそもそもいろんな禍を一個一個解決してくれると言う 

神様としていらっしゃる 十六羅漢は中国人が生みだして、日本に渡来して500人に増えた  
宗教の発生そのものに、五百羅漢と言うのは、今突然 狩野 一信の展覧会が有るけれども 
偶然ではなくて必然だなと思って常に偶然が時代にピタッと来る瞬間が有る
その瞬間に 大震災前に、辻先生は五百羅漢、五百羅漢と言っていて、大震災が有って
僕も描いてみようと思って、 自分が本当に無力であることを思い知らされて、(絶望感)  
社会に何の効果もない 何にもない生き物でした
絶望を共有することが、芸術の一番大事なものと思った  ゴッホは一番解りやすい 
ゴッホは色んな意味で絶望していたと思う

絶望の中で日本の浮世絵に希望を見出したり、自画像をかいたりし希望を見出そうとしていた 
絶望のふちまで行って自殺してしまった、ムンクも同様   
五百羅漢は、出来ないと断ろうとしたが、だめだった  
絶望している事を正直に表現すると言うのがカタールでやっていく 
展覧会の意味はなさそうだったが、カタールから助成を頂いていたし、カタールの王室の人は同じ
アジア人ということをおっしゃっていたし、アジア人同士の先進国であった日本がああいう大震災でカスタトロフして、それに気がついた芸術家が絶望してしまって、という思いで描いた

無理だから 25mでもカタール用に作れたら、皆喜んでくれるので言っとくよと言われて、
かちっと来て何が何でもやろうと思った
私は建築家に似ていると思う  設計する   歴史を知らないと出来ない 図面を引いて施工
すれば出来るというようなやり方だが、今回はそう言う風には出来なかった  
自分の中で今回はわーっと出てきた(初めて芸術家と言ったように思った)
絵具会社に連絡し、作って貰う(銀色を多く使うので 絵具を作って貰う日程等を含めて、調整する) 延300人(40~50人いた) チームワーク 絵具一つとってもチューブなっているのはここ50年ぐらい昔はオイルと油を大理石の上ですり潰して絵具を作っていた 
 
絵の大事な部分は下準備  絵は100年以上生き残れなくてはいけないので、下準備が下手だと剥落してくる
昔に成ればなるほど、アシスタントが多かったはず、そうしないと一人で出来る分量ではない 
絵画を作ると言うことはコンピューターグラフィックと同じ世界 
日本の戦後の情操教育はドイツのシュタイナーズ理論に結構趣をおいておいて、感じるままに
感じましょうと言う事が一番重要になってしまった
それの延長線上で芸術もかたられているので、感じるままに感じるって、非常に個人が主体性を
もつように、感じる 教育された方は気持ちが良くなる理論なんですね  

しかし迷走してしまっていると言うのも事実  本当はルールが有るのにも拘われず ルールが無くていいので感じるままに感じるのが一番べストなので、「ピカソの絵は俺感じない」とかに成ってしまう  
それはルールを知らないからそうなってしまう 
芸術のルールは?→写真もデザインも同じだが、 四角いもの 7:3とか6:4とか 比率は人間が
見やすい比率ですが 縦に絵を観る 横に見る時に、目が追う軌跡と言うのは目が四角の中を泳ぐ流れは有る一定のナビゲーションは可能なんです
絵を観る目の巡回先は有るわけです  それはまだ建築のように理論付けられていない  

現代美術の登場によって目線の誘導とかいうとかは 、関係ない情操教育のもっと尖鋭性のものが出てきてしまって、ただここに物体が有ればそれは芸術である というムブメントが出てきてしまって1970年代に出てきて仕舞って、あんまりそこら辺が発展していない 
生きざれにされているエリアですが ルールが有るんです
私がルールを理解していると言う事を専門家の人達が解っているので、共有しているので私が
作っているフィギュア、と言うのを珍味だけど食べてみよう、食べてみたら、まあいいんじゃないの と言うのが私の作品なんです   

ルールがある、設計図が有る、大作が有ればそれなりに複雑な建築の図面と同じように、絵画の図面も複雑に有る   
建築が地震が有れば立っていると同じように、地震と言う様な時に対応するのに匹敵するのは
絵で有れば、300年残るのか、10年しか残らないのかで、絵画の設計図の図面は全然違う   例えば 下地作る、素材の選択 素材の塗り方、乾燥のさせ方 漆職人とか、陶器職人と似ていると思う  技術的な文脈ですね
画面が有って壺が有って花が有ったら先ず花から見る  
抽象画では顔で有ったり、花であったりを、どういう風に設定、表現するかが非常に難しい

写真では解らない事が、本物を観ると絵具がちょこっとした厚みが違っていたりして、明らかに
一番最初に見る構図のところに突起部が有ったりして、それは写真には写って無かったりする やっぱり本物 を見なければ、駄目だと言う事になる
五百羅漢図も全然違う  雑誌で見ると目線から30~40cmの距離  この距離で100mの絵は
見れない 人間が必然的に後ずさりして見る 4m以上下がって見る
近くで見てこんなに複雑な事をやっているんだと 遠くで見るのと違ったものが見える

女王が村上氏のファン コロンビア大学に行かれてアートの空気を吸った 
 国を立国とはどういう事をすることか 国が立国して、存続して、頂点迎えて 衰退してゆく
そう言う歴史を学ぶ時に 国と言うフレームの中に芸術と言うものは絶対なければいけないというのは学んだと思う
経済、産業だったりするのはもちろんだが、芸術も絶対必要だと思う  
人間が生きて行く中で  そこを強烈に学んだので、そこは足りないと思ったので、凄く今精力的にやっていると思います  
早く国を熟成するためには不純物が必要だと思う
今日本は不純物を廃絶しようとしている  純粋に経済を活性化すればいいと 皆言う 
それはおかしい 不純物がないと人間は生きていけない

不勉強だと思う  カタールは王室が国を何とかしてゆこうと思っている   
早く国を熟成しようと思っている
カタールは日本のシエールガスの技術によって潤っているので日本には恩が有ると言っている  
日本がいなければ、我々の国は無いと言っている
大震災の時でも99億円を被災地に寄付している  
村上氏は日本では評価が余りないが→藤田嗣治 は珍妙な髪型 おかっぱ頭 丸眼鏡で 
パリで寵児だった 
戦争が起こって、愛国心が燃えて帰ってきた  
自分が出来る仕事で、出来る事と言う事で、戦地に行って絵を書いた  
戦争が終わって、戦犯として 日本の絵画協会みたいな処から彼こそが戦犯であると、つるし上げを食った
  
いろいろ有ってさばきを受けて逃げるようにしてパリ戻った  嫉妬と無理解だと思う
彼がやってたのは洋画 だけど彼のフォームは日本画なんですよ 
折衷したことは日本洋画の人達には許されざる事だった  
西洋のルールを学ぼうとして洋画をやっているんじゃないのか 、有ろうことか日本の魂である日本画を海外でしかも、油絵で語るとかなにごとかと言われて、彼は追われて逃げた  
芸術の本当の大事な部分は衝突なんです  衝突と破壊 そしてもう一回再生 
その衝突の瞬間は物凄い嫌われてと言うか、無理解の極地になる
何が起こっているか判らないので  でもやっている本人はビジョンが見えている 

50年後は単なる何の変哲もない風景ですよと
今は見えないかもしれないけど、困ったなあと、当人はこんなに嫌だとはおもわなかった 
毎日毎日言われる  はしたない 人のネタで商売している
藤田さんと同じ  日本画の技法で西洋で商売している事と同じ、そんなもの誰にでもできるじゃないかと、手塚先生も日本画の人に君はスケッチが出来ていないので勉強しなさいと言われた しかし 漫画は記号で有って写生ではないと言う理論を発明
私も文化の衝突の真っただ中に居るんだろうなと思いますが、勝手に人のねたで商売をして搾取であると 搾取して何も還元していない
でもそのうちに解ると思う  いずれそのうちに還元するのは実は私なんです、

私は信じて疑わないし、そう言う事をずーっとやっている
うちの「かいかいきき」という会社は狩野永徳 2代目の人の評論文から来ている かいかいきき
私が大学に入って嫌っていたのは徒弟制度、徒弟制度を安易に組み込むと将来、家が建つぐらい、高く売れるよと言われたのが嫌でしょうがなかった
作品に意味がある様に感じなかった 
しかし日本人に一番合う芸術の生成の仕方とはなにかと言うと徒弟制度しかないと言うのを現代美術を勉強して、アメリカで活動してゆくうちに、日本人とは何かと、言う事を考えれば考えるほど、徒弟制と言う事を基本にして集団で物作りをやることが非常に、適性に有ってると言う事が解ってきたので、日本人が芸術をやる時には、集団でやるべしと 理念ですね  
漫画家でもそうです 
 
映画が作りたかった 去年から出来るようになった いままでの延長線   初監督  シナリオ
 音楽付けるとか 初めて 「めめめのくらげ」
受験の絵 西洋式の絵 漫画絵 漫画絵が下手だった  
五百羅漢図を作る時には、ストーリーを考えざるを得なかった ストーリーを一杯考えていた 
ストーリーテーリングが出来るかもしれないと発見したので、絵画では伝えられない事が有るので、今の空気を今の言葉で伝えたいと思っている
フィギュア作り、絵をかいたり、映画を作り 同じ気持ちでやっている   
すべてこの世は理不尽で不幸なものである そういうメッセージなんです

私の一番大事なメッセージなんです  今現代は不幸を感じさせない奇跡的な一瞬だと思います多分これから崩れて行くと思う
こんなに幸せな日々は続かないと思う ふっと振り返るとちょっとした裂け目で地獄図が出て来る
世の中なので、それはやっぱり忘れてはいけない
子供のころにベトナム戦争が有ったり、痛い痛い病 公害がいろいろあって なんで不幸な人が
いるんだろうと思って、  今は全部隠してしまっているんで  ストーリーの中で子供達にメッセージを伝えて行きたいと思っている  
ゴヤが子供を食べている絵が有るが、あれが私の絵の原体験で、ずっと頭に残っていて時々
其の絵がフラッシュバックして来るので必要な体験だと思う

2013年2月26日火曜日

村上隆(現代アーティスト51歳)      ・現代アートで時代を変える


村上隆の作品はアニメキャラクターや漫画の様なユニークなもの 2008年『My Lonesome CowBoy
フィギュアーの作品はおよそ16億円で落札されて話題になりました
それまでも等身大の作品が何度も5000万円以上で落札されて アメリカのタイム紙で世界で最も
影響力ある100人に選ばれたり、イギリスでのアート誌でも世界のアート業界をリードする100人に
選ばれています
2010年にはベルサイユ宮殿で個展を開催 2012年にはカタールのドーハで展覧会を開きました
特にカタール出展示した全長100mに及ぶ五百羅漢図は評判になりました  
東京芸術大学で日本画を学んで、大学院で博士号を取られています 
村上さんはなにがきっかけで現代アートの世界に入られたのか、そのユニークな作品で何を
伝えたいのか等を伺いました

何が表現したいのか  芸術の世界は、日本で教育されている芸術はオリジナリティーがある、
ユニークである  そこが大事なポイントでもう一つ 孤高の生き方をしている (アーティスト)
ユニークなものが出て来る そして讃える
大竹伸朗 展覧会で衝撃を受けた(現代美術)  現代美術について勉強し始める 
32歳の時にニューヨークに渡航する(現代美術の首都)いろんな側面が有って 
マイノリティーが大きなテーマであり トレンドが来る  ニューヨークの街はアートがあふれてる 
トレンドが出て来る   脚光が浴びる瞬間が来た(日本人に)
現代美術で中国人はいなかった 私は途中に居た マイノリティーにおいての芸術とは何かという
テーマが有ってその中に入って行った

印象派(モネ、)は数人だが、当時の芸術家は何万人、何十万人がいた  
最終的には時代が洗い流して残る作品、残る作家しか残らない 残る作品は良い作品ですか
偶然だと思う  伊藤若冲 の作品は一昨年ぐらいまでは青物問屋のお宅で結婚も
しないで絵三昧の生活を送っている作家と言う事で、お寺に寄贈して作品が残っていた と言う話に成っていた
帳簿が出てきて若冲本人が青物問屋全体を纏めていて、江戸幕府との折衝をしていたという記録が残っている事で、価値観も見方も変わる
絵に対する見方が変わった  お宅で好きで好きで細かく書いていた 
火事にあって自分の財産を全部焼かれてしまい何とか生きて行かなければ行けないと言う事で職業画家になった
 
65歳過ぎ  その頃からの作品が私は好きで 凄味が有る 食うに困った人間の底力が出てきて
びんびん来るものが有って凄く そういうところが好きだなあと思っていた  計算できる人だった
近い過去はどんどん忘れてしまったりとかある(30年~50年)  偶然が残ってくる
戦争で若冲は海外アメリカ、に売られて行ったが当時は高くなく、日本では価値がなかった
ゲテモノの部類として扱われていた
プライスさんは私は好きだと言う事で購入して、隠れていた過去が解って来るうちに、この作家は
価値がもっともっと高いのではないかと(研究されたりして行くうちに、)後世の人が決めている
尾形光琳とか琳派の作家に負けて、戦中、戦後は評価は低かった

最近では尾形光琳に匹敵するのではないかと評価されている   
何故その作家が評価されるのかは偶然性が高くて正直解らない
2008年タイム誌で100人に選ばれる  (村上隆と山中教授の2人)  
ちょっと前に運慶快慶の仏像が15億円で落札された
オークション会社は高く売りたい 5億円位まで2人が競って来て16億円までになってしまった
ギリシャ彫刻と人形とをアレンジしたような感じ   印象派のモネが如何して皆好きかと言うと
それはブランドだからです
ブランドが構築されるべくして構築され、構築されるべくして構築しようとしても構築されないものは構築されない

誰かがモネを好きな人が有る分量いて、その人達がマーケットを支え続けた  
だからモネは非常に高額で今も取引されている
それが世界の価値かと言う時に、なるほどねと思う と言う事でそれは一つの価値ですね
大衆がイニシアティブを取る  母が心が休まる、という なぜ心が休まるかと言うと 有名だからと
言うのが一つの理屈 自分は幼少の頃に本で見てたら現物を見てたら涙が出てきた  
それはアイドルとかと同じシステムであって、憧れのあの作品の現物を見たから涙が出てきたと言う事でその実態は虚構で有って現実でも何でもないと思う 
 
ただ例えばサッカーを見るとファンタジスタなプレーが有るが、今考えられる技術、ゲームの運び
そういう物を全部考え尽くしてもこのプレイは物凄過ぎる 
それで点を入れるかねがファンタジスタ これと同じように芸術でもファンタジスタはある
実は私の芸術はそういう作品なんです (解って貰えないが)  マイノリティーのゴール  
セクシャリティーのゴール 彫刻、色彩 頓知 とかのいろんなゴ-ルが有る
そこのゴールにめがけてシュートが決まると尊敬されるアーティストです  
先ず技術的な面が有る、其の技術的な面は日本のアート史には見る目がない 
教育がなされていないので私の評価は低い

マネとかの作品が来て裸で森の中で食事をしている作品 凄いテクニックである  
当時のトレンドとしては、当時の作品から言って逆行している様な 時代に逆行するようなコンセプトで色の置き方、描写の仕方、テーマ設定 ゴールの狙い方が珍妙というか不思議なものを狙っている 
それが確かに今は通じるが、でも当時は通じなかったでしょう  
凄いこんなに飛距離の長いゴールをよく打てましたねと尊敬されている
芸術って そんな覚えることはないと思っているが 感性で解ると思うが 違います
サッカーとかはゴールに入るので解るが、芸術は誰が見ても解るとは云えない  
ニューヨークは現代芸術があふれている
私のは珍妙であると言う事ですね(いつもヘッディングでゴールをするような 又こんなヘッディングかよ 凄いね と言う様な)漫画が偉い 日本に燦然と輝く文化である 

日本の漫画も誰かが啓蒙しないといけない そうしなければ世界の藝術に成らない
日本人は解っていない だから外国のブランドは大好きなんですよ
 自分達はブランドを作れないと思っている
ブランドを作ると言うことは啓蒙活動ですから 啓蒙活動を集中してやり続けるプレイヤーが多い
ほど啓蒙成功する
しかし漫画のプレイは一杯いるけれども啓蒙する人は凄く少ない  漫画は芸術だと思って居る
漫画の方が正しい  マンガの方が世界の芸術でポットなんです  
それを立証するために自分自身がありとあらゆる芸術の分野を勉強してそれを立証しなければいけないと思って、自分自身が実験台になって、いろいろやっている

自分が子供のころに見たアニメ は凄いと思って感動を呼び起こす この凄さを人に伝えたいと
思って、伝えたいと思うより先に才能がドンドンそこの業界に入ってきて、物凄い驚くべき業界に漫画が成っている
葛飾北斎の冨嶽三十六景の赤富士  当時藝術だったんですかと言う事ですよね  
当時ただのポスターだった    器を包む新聞紙みたいなものだった
それを観て日本から送られてきた、版画とか包み紙を高い金で取引し始めた
これは凄いんだと印象派で伝える人が特別にいた ゴッホもそのうちの一人だった 

逆輸入で世界の浮世絵になった
何故逆輸入しかできないの 日本人は というのが 私の一番のモチベーションですね  
日本の文化を日本人たちが世界にどうですかと 問いかける事がなぜできないのかと
それを自分は若い頃から疑問に思っていたので自分自身がやって見ようと思った
それを筒井先生に話した  それは君の仕事だよ 気がついた人がやればいいと言われて、
やっている訳です
日本画とは何かとの疑問から始まった  
現代美術よりも日本画(当時平山郁夫先生等がいた)の方が遥かに高かった
マネーゲームが行われているのではないかと聞き込み調査を行っていた 確かにやられていた
バブル崩壊の時に日本画業界はクラッシュした 今もクラッシュしっぱなしだが   
いまたまたま私は現代美術の世界に来て 16億円 これはおかしい
当時のバブル経済の時の日本画の価格がおかしかったようにおかしい  
しかしそれが価格として続けて行けばおかしくなない

ではどうしたら続くのか、どうしたら続かないのかが、一番分析したいポイントなんです
それが偶然だと解ってきた   ここ10年ぐらい黒人文化が変わってきた 
マイケルジョーダンとかブラクカルチャーは凄い好きで 何かは解らないが
私の評価の1/3は黒人の文化をけん引している人達が後ろ手に成っていると言っても言い過ぎではない
胸の大きな女性がぽーんと居たり、エロチックなものが有り、それから伝えたい物は有るのか→ギリシャ彫刻、明治時代の洋画家は(安井曾太郎黒田清輝
海外に行って、ヌード絵画と言う者があると発見して、日本に輸入したが、展示禁止に成って、
いろいろ事件が有った

ヌードの人間を鑑賞するというたしなみが西洋人は有った  
我々には無かった フィギュア―では足を異常に長くとか、顔をちっちゃくとか胸を大きくとか、ヌードではない  着衣
だがそれぞれの箇所をデフォルメしているという鑑賞のルールがある
鑑賞のルールの接合(西洋式のヌードの鑑賞のルールとお宅の人達の着衣のルールを接合してゆく
とこうなるんじゃないんですかと言うのが私の作品) 
フィギュアにした理由は→6つのみ  抽象画家が私の分野 これが専門なんです
1950年代の抽象表現主義と今のキャラクター文化と言うものを接合すると、僕の絵になる 
そういう形なんです

何が求められているかと言う事からスタートする  最近は多い 漫画も多い
間違っていた教育を受けていたことを皆さん解っていただきたい   
芸術は孤高の人間が頭が飛んじゃっているような間儀で書くのではなく 
ちゃんとマーケットが有って、マーケットと歴史を作るプレイヤーが何人もいて、必然的な構造が有って次の世代に手渡されていると言う事を、一番誤解されやすいのがゴッホの逸話なんです
  
弟が生前1枚しか売らなかったという逸話が強すぎて、孤高の画家がべストと 思われているが、ベラスケスドラクロワとかアーティストはクライアントがいたりして、宮廷画家だったりして 何故そこを皆忘れてるんだろうと、忘れちゃいけないのは19世紀の最後に 50年ぐらいトレンドとして 芸術家が芸術家の為に書く芸術というトレンドが有っただけで、それの影響がいまだに続いて居ていますけど、今はそういう時代は無くなり、今のトレンドは何かと言うと 、資本主義と芸術との距離感を芸術家たちは常に探っている時代に入った
私はダミヤン・ハースト とジェフ・クーンズの後を追っただけです

ニューヨークを中心とする現代美術の世界のトレンドです  日本は間違っている
芸術は死んだあとに解るみたいなことは一般的にはある  100年後に200年後に棚をなぜている?  でも16億円で売れているが
それは資本主義です そういうものをいち早くキャッチする100年後に価値が出るので貴方の国の(トレジャー?)として買っておいた方が良いですよと、アドバイザーが生れてきた  
国の宝物になるし、将来貴方の名を残して美術館が出来ますよと言う 誘惑ですよね
モネは売れそうで売れず 、ボストンに一杯売った  
商業主義と言われれば商業主義 美術館は商業主義では無いので忘れてますが時代を経て 余計なものが現われて、ピュアな芸術しか残っていないので、そこしかお客さんは見ないが  そもそもアメリカ人のヨーロッパコンプレックス フランスコンプレックスが強く有って、フランス人はフランス人で強力なサロンが有って新しいものを排他して、画壇が有って、自分の勢力をまもっていて、印象派みたいなものははじかれた、しょうがないの、で 営業に行った 

横山大観も同じ アメリカに営業に行ってアメリカで資金を調達して、インテントを起こす資金にした
私は交渉の方が上手なんですね  才能の有るアーティストを海外に紹介する方にも精力的に
やっている(20年生き残っている 修行みたいなものは必要)  
お客の立場に成って不自然であると言う様な価格(高い)で購入して、でもそれが資本主義だと思う(株と一緒の様なシステム)
資本主義のある種の欺瞞と言うか 現代社会に転がっている大きな矛盾と言うものとどうやって
向き合えばいいかと言う事で 自分では望んでいなかったが、資本主義真っただ中に放り込まれちゃったんです 今  お金も確かに物凄い価格で売れているが、売れている仕組みを知らずして、ずーっと自分が甘んじていれば、あっという間に凋落してしまう

これは不思議なぐらい何百人、何千人と見てきているので、そうならないためにどうすればと言うかと 手を考えると いろいろと手を考えるしかない
『DOB君』15年ぐらい描いているが微妙にマイナーチェンジしている
世界のトップ10に居る様な人(私の作品を買ってくれる人)も常に不安を抱えていて、自分達の
アイデンティティーだったりだとか、未来を予測するためにいろんな投資をしている会社を買ったり サッカーチームの買い上げ アートを買ったりだとか 学習している 彼らは貪欲ですね

2013年2月25日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(鷲田清一)

天野吉                隠居大学(鷲田清一  
身体やファッション研究してきました  大阪大学元大学総長  哲学者 
「聞く力」「ちぐはぐなファッション」 出版   
体は自分の身体と当たり前のように思っているが、自分では解らない
私が私であるこの顔も見た事がない 鏡では駄目  
神様は自分の顔を観えないようにしてくれている
自分しか痛みは解らない 自分自身に対する情報は他人より非常に少ない  
自分が感じている風に他人が感じているのか不安が有る
不安を鎮めるために服を着るとか化粧が有るのではないか  
似たようなものを着る事でギャップを小さくできる

風呂は自分の輪郭が解るから気持ちいい  
一番気持ちが悪いのは自分の温度と同じ温度のお風呂に入ること 自分の身体の境界がはっきりしない
服はこれについて安心させる 輪郭を意識させる 
似ていないと駄目だが全く同じでも駄目 微妙に違わないと駄目 これが一番安定する  
山本 耀司  背広、日本の着物  殆ど完成系のもの  
着物はサイズも自由だし、着物を着るとしゃきっとするし、畳めば四角に成るし、江戸時代の方が現在よりラジカル  なにより凄いのが頭の剃りの入れ方    
どういう風に自分を表すか  ファッションどこか背伸びする 冒険をする
 
背伸びイメージとかけ離れていると似会わない 服に負ける
挙動を迫って来る服も有る  製作者はおもなってデザインして来る  
服の完成とはなにかとか  挑戦している
体毛を取ったり、眉毛を一旦剃ったりだとかしているが 顔とかボディーを気にしている 
京都にいて良かったなと思うのは 学校では私服だった 
文化 極端 はっきりしていて  芸者、舞子(凄い格好をしている) 坊さん(貧相の極み)
極端であるのでその範囲内だったら許される文化が京都にはある
一番かっこ悪いのはファッション、ファッションとは云わない  
「たかが服、されど服」

人間にとって一番大切なものは何か、との問いに考え続けるのが哲学だと    
お金 と言うものに捉われない
「誠」  要するに大事なものは皆違う  ここちいい事 快楽 楽しさがないと生き続けられない お金、豊かさが大事だと言う人もいる
人によって全然違う  哲学の誤解  理論的な思考、推理  理屈の好きな人が論理を極めて行くひとだというイメージが有るが、理論を発明するのが哲学者だとは思っていなくて、哲学というのを発見するのを哲学者だと思っている    
どういう事かというと、その人自身は雄弁に言葉では自分の一番これだけはゆるがせにしないことについて、雄弁に言葉で話したりしない

ずーっと生涯拘り続けて、これだけはおろそかにしない  
これをおろそかにすると自分を否定する事になる等、なんか確信を持っている
そういうものを私達が人の生き方をみて発見して、それを有る意味で皆に通用する言葉にして、翻訳するというのが職業人としての哲学者としての仕事と思っている      
その人の生きかたの中に何か誠と言う様なものを感じさせる 
何かが有るよねと と言う様な事にまで 皆と普通の言葉で話し
皆と普通の言葉で話し合って
行くと言う事

2013年2月24日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(北海道)

五木寛之 歌の旅人(北海道)
「家の光」のライターをやっていた時期が有って其の時に北海道に始めて行った(20代の後半)
「内地」と言う言葉を使っていた事を思い出す  昔は民謡酒場があり、三味線の音が聞こえてきた
(大好きになった)
「白い花の咲く頃」寺尾ちさ(作詞) 田村茂(作曲)  岡本敦夫(歌)
自然がたくさん残っている  函館、小樽当りから都市化が始まる 北海道人口 550万人 
札幌が192万人   
「網走番外地」矢野良(作詞) 不詳  高倉健(歌)  
こせこせしない心情を持っている  伊藤整  小林多喜二 小樽の煉瓦作りの建物・倉庫は
北陸の豪商が立てたりしていた

「恋の街札幌」浜口倉之助  石原裕次郎(歌)
明治2年に北海道と言う名前がついた  江差追分    ニシン漁がかつては有名だった  
「シルエットロマンス」来生悦子(作詞) 来生孝雄(作曲) 大橋順子(歌)
作家 子母澤 寛  三浦綾子 今 日出海 安部公房 萱野茂 渡辺淳一 池澤夏樹 京極夏彦 
藤堂志津子  等
北島三郎 細川隆 中島みゆき 吉田みわ
クラーク先生
「旅の終わりに」舘原みさき(作詞 五木寛之) 菊池俊輔(作曲)  冠次郎(歌)

2013年2月23日土曜日

平良進(俳優78歳)        ・沖縄芝居を生きて

平良進(俳優78歳)沖縄芝居を生きて
宮古島出身  劇団あやふねを主催 沖縄芝居の後進を育てる活動をしています 
妻はお婆さん役としても有名な平良とみさんです
現在 NHKの連続TV小説では「純と愛」ではなすなさん演じる 純の御爺さん役として出演しています
歴史から芝居に対する想いを聞きました    
俳優、演出家。劇団「綾船」主催。妻も俳優の平良とみ
「綾船」は、琉球弧の伝承にあるニライカナイ(神の住む海上はるかな遠い国)から、夢や希望や
財宝を積んでやってくる船のことです
昭和18年の時に4年生 疎開同様に台湾に行った(御爺さんお婆さんに連れて行って貰った) 
疎開先で御爺さんお婆さんが亡くなってしまった

おじさんのお世話になり、終戦を迎えて、宮古島に帰って来る  学校へ行かしてくれる余裕が
なかったので、農場で働く(馬を養う)
馬の世話をしていると、ある日、馬に噛まれた  馬は養えないと思い馬の世話を止める  
板前の勉強をしようと、料亭に行った
そうこうするうちに劇団が来たので見に行った(面白いとは思ったが、やろとは思わなかった) 
稽古を観ていたら 自分と同じような年頃の子が雑用をやっていた、聞いてみたら劇団の者だと言った 仕事が多くて大変だと言われた 
何気なく私にもできないものかと言ったら出来ると言われた
座長のところに行って頼んだら、座長の奥さんが何か言っていた(沖縄の言葉なので宮古島の
言葉と違って解らなかった) 渋っているようだった
宮古島の子は言葉が違うので、使えないと言っていたそうだ 役者に成りたいとは思わなかった 
雑用係 巡業するがそれでも出来ると言うのなら一緒に来るようにと言われた   
雑役係は必要だった  舞台装置、小道具 照明装置等 いろいろ大変だった
その後 子役からスタートする 劇団の中に30名近く居て 毎日喋っているので段々沖縄の言葉が解る様になった
他に新人が10数名入ってきたが、言葉が出来ずに直ぐに止めて行った  
芝居言葉 沖縄言葉も又違っていたのでそれも出来ないといけなかった
尾永小次郎が座長だった  小さかったから子役から大人、老人の役、女役でも何でもこなせる人だった 

沖縄の人間だと一目で解るような役者でないといけないと思っている
私が芝居をするようになったころは妻は人気女優に既になっていた  憧れの人であった  
若かったが、直ぐにお婆さん役をやる様になった
老け役を巧くこなす人だった  私と共演するとしてもお婆さん(妻)と子供(私)の役だった
芝居自体も台本は無くてあらすじを作って 口で全部をすり合わせて行く 肝心な言葉だけはこう
言えと言われたが、後は全部自分で考える
そこで生まれた芝居は面白いものに成って行く   18歳ぐらいからは主役をやる様になった  
20歳頃からはいろんな役をこなす
沖縄本島に進出した(それまでは宮古島、八重山でやっていた)  
客席は露天だったが(野原にテントを張ったいた感じ)雨が降ったら開けられない

冬になると寒いので客が少なくて大変だった  劇場ができて安定してきたと思ったら、映画が進出してきた   劇場が映画に変わって行く
当時30以上あった劇団がバタバタと倒れて行く (劇場も100有った)
1956年に退団して、ときわ座に移る ときわ座は一味、ふた味も違っていた  ときわ座に憧れたあの劇団は地獄だと言われた
地獄に鬼がいると言われた それが座長だった  
聞いて行きにくい思いがあったが、思い切って行ったが聞きしに勝る地獄だった
厳しかった 客席からは解らないようなミスを見逃さず、終演後、ミーティング 一人の為に全員が
夜中の3時まで行う 原稿を書いてきて、寝ているところに撒く 

「舞台はどんな名優が出てきても よその人がしくじったら、助けようと思っても助けられないんだよと 自分の力でしか 出来ないんだからと心にそれを心得よ」 と書いてあった  
お前の仕事はなんだと   座長は何時も客席から見ている
役を突然変更させられる時が有って、冷や汗ものだった  こう言ったことで物凄く鍛えられた
映画やTV時代が来て昭和45年に解散に追い込まれる  
その時には映画とは戦ったが、TVには勝てないと思った
各地に市民会館が出来てきてそこで出来る様なものを考えた  
うしお劇団を若い人だけで作った
 
新しい劇をやろうと思った
沖縄 歌劇(新派の流れ)とは違った流れ テンポの速いものをやる様になった 10年間続けた
風俗、習慣 沖縄も近代化で変わっている 
変わった沖縄を再現するには芝居しかないと思っている  
沖縄で残したい様なものを出せるのは芝居なら出せる 
そういうものを大事にしてゆきたいと思っている   今の若い人は昔の面影は残っていない 
舞台では再現できると思っている
昔の人の言った言葉 「意見と言うことは耳をきちっと開けて、心に留めなさい」  

2013年2月22日金曜日

夏苅郁子(児童精神科医59歳)      ・統合症の母との歩み

夏苅郁子(児童精神科医59歳)       ・統合症の母との歩み
鬱病 統合疾患等、精神疾患の人数は300万人を越えてます  
これまで見過ごされたのが、精神疾患の親と暮らす子供達の存在です
そんな子供達を支える活動をしているのが静岡県 焼津市の児童精神科医 夏苅郁子さんです
夏苅さんが10歳のころにお母さんが統合失調症になりました  
夜になると目付きが鋭くなり、 意味不明な独り言をつぶやきながら 部屋を歩き回ったりします
何も知らず育った夏苅さんは思春期をただただ母親を恨んで過しました自身が精神科医に成ってから、そんな母親を許そうと思う様になった  と言います  
自らの体験を公表し、多くの子供達の心を救おうとしています

母が如何して病気になったのか、今は母は亡くなったが、一人の女性の人生として振り返ると 、あーそうかこういう事で心の病に成ったのかとわかって来る面がある  
2歳ぐらいの時に母が結核に成り 、隔離病棟に収容された(2年間) 
その間私は親戚に世話になった
その間、母親は子供に会う事が出来ず( 寂しさ) 戻ったときに父との関係が悪くなっていて。
(他に女性を作ってしまっていた)
耐えて、耐えて、耐えて行った(性格上 自分の利益のために活動する様なタイプではなかったので) 
子供の頃から母とは2人だけの食事に成り、夫が帰ってこないので、段々母は食事を作るのにも、鬱陶しくなり 8年間同じ食事を取るようになっていった 
母は自分は食べる気が無く、台所の一か所にずーっと座って煎餅を食べていた  
のりで張り付いたように同じ場所に座っていた

私は家庭の団欒が解らずに育った  
10歳の時に母は統合症が発症した 怖かった攻撃的になり夜眠らない 
のそのそ歩きだしてぶつぶつ言っていて、目が鋭くて目が合うとやられるのではないかと、目を合わせないようにしていたのを覚えている(病気は知らされてなかったのでどうしたらいいのかは判らなかった この事を聞いたあるマスコミの方からどうして助けを求めなかったんですかと言われたが、何を誰に助けを求めればいいのでしょうとお答えした)         
それは後付けで病気だと解っていたら、いろいろ手は打てたと思うが よその人に言う事で母が怒るのではないかとも思って話すことはできなかった  
視野に入らない様に、怒らせないようにするしかなかった   そのような子供時代だった
 
母がたまに外に出ると、幻視が有ったりして 道路を歩きながら、ハードルをぴょんと越える様な動作をしたりして、霊が取り込んでいるとかも言われた  

最初は父とのことで悩んでいると思ったが、その後いつ病気になったのかは解らない
子供時代は自分の視野は家庭だけだったので、母に対しては怖い だった  
思春期になると目が外に向く そうすると自分の家と友達の家との違い
自分の身成りと、他の友達との違いが気になる 
母の生産性が無くなる 家事とかが出来なくなる 
掃除も行きとどいてなくて 辛いのは父親がたまに帰ってきて 家の中を見回して「お前はこんな親には成るなよ」と言われたのが本当に辛かった
父が営業職だったので転校が多かった 経済的にも父が給料を持ってきてくれなかったので、
経済的にも厳しくて それも母の病気を悪くした原因だと思います

中学3年の時に転校があり、前の学校の制服で行くように母から言われたが、人目を気にする時期だったので、嫌だと言ったら 母が似たような制服を作ってくれて、それを着て行ったら、矢張りちょっとおかしくて、でもそれしかないので着て行ったら、いじめの対象になり、周りの人からいじめに遭うようになった  
一番心に残っているのが、階段を下りた時に 踊り場で付きおとされて階段の下に転げ落ちて、
スカートがめくれて下着が丸見えになってしまった  
14歳の少女 痛いと言うのより 凄く恥ずかしくて 階段の下から上を見上げて、突き落とした3人の男と1人の女がいた
その時に「あいつらよりも良い人生を生きてやる」と思った  
その辺りから母への思いが憎しみに変わりました
 
こんなことをされるのは、自分の身なりが貧しくて、他の家と違う育ち方をされたからだと 
それからは母とは口を利かなくなった
母が辛そうな時があっても 私だってこんなにひどい目に有っていると言う感じで そこら辺から亀裂が入ってしまったと思います
貧しいだけだったら、母にこんないじめをされたとか、相談できたと思うんです
でもやっぱり同じところに座って、おせんべいばっかり食べて、タバコを吸って一日中ぶつぶつ言っている母に何も相談できないでしょう、とっても自己中心に見えました
それはこの病気の怖いところだし、悲劇だと思う

子供である私自身も母もこの病気の被害者だと思います  
お互いが憎み合っているのはこの病気の悲劇だと思います   
もし知っていたら、過去に戻れたら私は母に、なにがつらいのかとか、先ず病院に連れて行ったと思います  
治療が中断していたので、薬も飲まなくなっていたし、なんで飲みたくないのかも聞いて、よく眠れるようにしようねとか、そこから掘り起こして行けたのではないかと思います
本当にそのことを知らないと、憎しみとか、嫌悪感が 自然にほっとくとそうなってしまうと思います
この当時の状況では母にはいろいろなことを母には相談できなかった
(病気だとは、まだ知らなかったので)
 
女子大に進学するが、それは恨みだった  
母が統合失調症で 私が精神科医になったと言うと皆さん お母さんの為に精神科医になったんですかと言われるが 私の場合は母のことで自分は不利益を被ったと思った  
這いあがってやる 向上欲とは違うと思う  
やっぱり恨みと言うか、階段から突き落とされたときに、あいつらより良い人生を生きてやると思った恨みです    私は医者で無くても良かった 
弁護士でも何でも良かった(見返す事)
母は私が女子大に入ったときに、2回目の入院をして、父は母ともう一度、人生を歩む気は全く
なかったので退院後一度も家に入れないで実家に帰して離婚でした 
一人っ子だったのでどちらかにつくしかなかった
母を引き取ったのは祖父だった  二人は引き取れないと言った
学業を続ける事、母への嫌悪感 とかで、父に引き取られた

母とは10年後再会を決心するまで、会うことは全くなかた  
大学では 復讐とは人の心を救わないと感じた 見返してやりたいと思ってより偏差値の高い大学に入ってやるだけだったので、入ったら目的が無くなった
私は戻るところが無かった
医学部に入った頃 、父は再婚した 
母とはまったくちがった性格だった(社交的で明るい方だった) 
私の気持ちは船を乗り換えるようには出来なかった 実家に帰った母にも嫌悪感があったので帰れないし、結局 大学の講義を聞いて、下宿でボーっとする時を過ごす 

だから盆と正月は大嫌いでした   
学校に授業があれば時間は潰れるが、三が日ひたすら炬燵のところでうずくまっていました 
そうしているうちに心が病んでしまって行った
2度の自殺未遂をする 摂食障害も抱えてしまう 一番やられたのが孤独だったと思う 
もし母のこととか、こんなことがあったと、伝える事が出来たら、一杯一杯だった気持ちは随分楽だったと思います  この病気の特徴で 言うとまずいと思った

講義で統合失調症等を習った  教師は生徒の中に統合失調症の経験の有る生徒がいる事は
知るはずもないので、物凄くストレートに話す  
今、私が医者をやっていて、統合失調症の家族の方がいたら、すこしくるんで話ますよね
段々に受け入れられるように、でも講義なのでバーンと
遺伝も有ります とか 病後の経過は悪いですとか 症状は全部母に当てはまった  
過去はボロボロでしたし、今は孤独ですよね、 講義で未来は真っ暗な模様 
生きていればいるほど辛いと思って、1分1秒でも生きていたくないと思った  
医学生の時にも自殺未遂をしてしまった 
 
収容された病院にわざわざ大学の精神科の教授が往診に来られた 
あーこの子は精神的に弱いなあと言われた 
方向を決める時期でもあったので、私のところに来なさいと言われて精神科に入った  
立ち直れると思ったが、精神科医になると精神病院に派遣される  

自分の母の事を解決できていたら、こういう患者さんを一生懸命見ようと思ったんでしょうけれども、未解決のまま300床を見る事に成り、そこで又真っ暗だなと思ってしまって 研修医の時に2回目の自殺未遂をしてしまった   
こんなことを話したら今、精神科医として失格と言われるかも知れないけれど、何度も台の上に乗ってこれをけったら楽になると思ったんですが、やっぱり精神科医に成ってよかったと思うのは、亡くなった患者さんが沢山いて、残された家族の顔が浮かんでくる

自死家族の想いはつらいものです  残された家族の顔が浮かんでくるのと、どこかで100のうち1くらい幸せになりたいと思った事、もう一日だけ生きて見ようと思った時に声を掛けてくれた人がいた  
だから亡くなろうとしている人達にも、是非家族はそんなこと考えちゃダメと言わないで、辛いねえ死にたいほど辛いんだねと言ってあげる事と、一人にさせないで欲しい
誰かの足につかまっていて、とりあえず一日越そう 朝を迎えようと そういう風に声を掛けてあげたいと思います

2回自殺未遂して、そういう地を這うような人たちの出会いで踏み止まったんですけれど、
生きて行こうと力強くは思えなかった  
一番大事な自分のルーツ、母との事が解決していなかった  しょんぼり生きていた
友人が「貴方はお母さんと会わないと、自分自身が幸せになろうと思えないんじゃないの」と言われた 自分の親を見捨てておいて、自分だけ幸せになろうというのは思えないし、どうせろくな人生にならないと思っていたので、いろんな自分の見返す事があったり、いろんな出会いがあって、彼女の言葉が 素直に心の中に入ってきた  でも怖いと言った
 
子供時代の恐怖 10年もほったらかした事に対する恐怖 (母は怒っているだろう)
母の怖い顔は、子供時代のあの怖い顔なんですよ  
行けないと行ったら一緒についてゆくと言ってくれた
友達が付き添ってくれて10年ぶりに、母に会う事が出来た
母は札幌の奥の方に住んでいたので、飛行場まで来なくていいと言ったが、行くといて喜んで喜んで、空港から街に出るバスに、一台、一台首をつっこんで、「郁子さんいますか」と大きな声で探しているんです
母を観て第一印象が何て小さくなったんだろうと思った 年取ったんですよ 怖くてぎらぎらした母しか覚えていないので、背中がまあるまってちっちゃくなって、 「いっちゃん」と叫んできた

家に入ってお腹すいたでしょうと言って、出してくれたのが8年間私が食べていた料理だった 
母の想いは子供のころから止まってたんだと思った
氷が解けて行くように会えてよかった 私の心が救われたようだった  
母は亡くなったが、会わずに亡くなってしまっていたら、ずっと苦しんだ来たと思う
泥泥した事に他人は、はいりたくないのだが、友人は一緒に北海道まで、来てくれた事に感謝した  天から姉が降ってきた、と言うぐらいに信頼していた 
母と会って、帰ってきて何日かして、その人から請求書が届いた

相談料として10万円支払って下さい、と手紙が来た  
その晩にその手紙を読んで、その場にへたり込みましたね 今は、こう言って言えるけど、その人の優しさにすがって生きてきたので 凄い裏切りだと思った  でも払った
 何故かと言うと 一本の命の綱みたいなものだったので、帰る家がないし、友達もいないし この人から離れたら、私はきっと3回目を考えてしまうと思った
凄く屈辱的だった  それからは遊びに行くと 人の関係はお金が入ってしまうと駄目ですね  
甘える時に、これはいくらなのかなと思うようになった

その後も月に何万円と言われて支払ってきた  
でも感謝しているが騙されたと思っていないんですよ   
彼女以外はだれも何もしてくれなかったから   ドロドロしたところに入りこんでくれた  
彼女の家でいろんなご飯を作ったりして、子供時代になかった事をいろいろ教わった事、又お金を払う事で私はぴしっとなった
一本の細い糸しかなかったので、それしかないと真剣に聞いて真剣に考え、努力した 
真剣にしがみつかなければいけないと思う、 
真剣に彼女の言う事を聞くんです  真剣に一つやれば人一つ一つ強くなる

これは同じような事を、医学部にはいっていない、普通の方がそういう回復の過程をたどっているのを、見てきているので やっぱりそれだけのことを、治す人と治される人が真剣にやれば、ひとは回復するし、プラス思考に持っていけると思っています
2006年 母は78歳で亡くなる  夫と出会う事になる 
精神科医をしていながら 内なる偏見がある 
これは外に言うとよくないと 公表すると言うことは、あり得ないと思っていた(常識として)

常識の中に身を置いていた
矛盾を抱えながらも、内内の事として診療していた  
段々と健康には成ってきたが、隠し事があると言うことは、どこか壁が有った
クールな女医さんと言われていた
或る日 「我が家の母は病気です」(中村ユキ)と言う 本の新聞広告が有った 
これを読まなければいけないと思って、すぐに取り寄せて読んだ
この人に会って自分の気持ちを聞いてもらいたいと思った
彼女なら解って貰えると思った 聞いてほしいと手紙を書いて、4年前会って6時間近く話あった
(治療して貰ったと思った 語ることは治療になる 同じ境遇) 辛い事を言えた
家族として扱われたことは無かった その時はじめてだった  (52歳の時)

人は暦の年齢ではなく、いつかどこかで清算して階段を上がっていかないと、成熟出来ないと思う
自分も公表しなければいけないかなあ位と思っていたが、彼女は自分と母の為に書いたのではなかった 
今も家庭で苦しんでいる 家族、患者がもっといい医療を受けて大手を振って歩ける世の中に成って貰いたいというもっと大きな心で書いていた
彼女と話しているうちに、それに気がついて、なんて凄い人なんだろうと 思ったのと、会う前はどうしようかなあと思ったが、帰る時は公表しようと思った

人の運命は自分で選ぶことはできないと思う   
恵まれて、温かい家庭で育つのもその人の運命です 
もっと大変な家庭に生まれたのも、その人の運命だと思う  
人生は基本的には不公平だと思います
でも そこを後でぎりぎりの処で踏ん張って、乗り切って幸せになれるのは、どこが違いかと言うと、運命のもとで誰かが手を差し伸べてくれた事なんです、だから人生は不公平だけれども、皆さんの何かの援助支援、じっくり話を聞いてくれる、小さな子供だったら美味しいご飯を食べさせてくれるとか、其の時には其の人が大きなことをやったと、自分では思わなくても、後でその子供達の人生に大きな支えになる

恵まれている人は感謝して、そうではないかたに何かの支援、力を貸してほしい
ほんのひと時、の何かの支援 その人が出来る時間とか力を貸して頂きたいと思います
私は最初の色が暗い色だったので 今は凄い明るい色に見える  
生きてて良かったと思う  人生って素晴らしいと心から思えるようになりました 
応援する勇気を持ってほしいと思います
医者に成って30年 と公表してから3年間 どっちが濃い時間だと思うと公表してからの3年間が
凄く濃い時間です  輝いていて本当に良い時間を過ごせているので、それが55歳からでも60歳からでも遅くは無いです
遅いと言ってしまった時からしぼんでいってしまうので、是非神様がいいと言ってくださる時まで、いろんな可能性を持って、どの方もせっかく生きてこられたのだから、人生って素晴らしいと言って、さよなら、となるといいと思います

2013年2月20日水曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)   ・10人の山仲間へ償いの50年 2

野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年 2
身体障害者第1種3級にも係わらず、スキーで、一般の部、パラッリンピッックでも優勝されている  
元々スキーが非常に好きだった 
義足になって始めてやったのがスキーだった  巧く歩けないのに スキーを担いでゆく 
1歩が10cm、20cmでも とぼとぼとスキー場あるいてゆく 
スキーと言うものはエッジに体重を乗せる事によってスキー板は曲がるが、足首が全然動かないので膝でしかできない 
そうするとエッジングが右、左出来ない 身体だけひねる 捻ってもスキーは回らない 

そうすると義足の中で脚がぐっとそれる そうするとべロッと皮が 剥けてしまう  
そうすると痛くて歩けない  それでも一杯時間をかかって家に帰って来る  
そうして又スキー場へと通った
やっているうちに テールが回って、これだと思い、段々良くなってマスターした  
今はちゃんと滑れるようになった
当時教員をやっていたので国体で5位になった 
寛仁親王殿下が身障者の大会に出ろと言われた

どうして今さらといったが、「いいか、底辺を広げるためには、頂点を上げるんだと そうすると底辺は広がるものだから 底辺を広げるために手伝え」
と言われた  なるほどなと思ってやった いまでいうパラリンピックだった   
1980年 第3回パラリンピックに日本で最初に参加した
行って本当に良かった  外国の選手は何でこんなに明るいんだろうと、感激した 
それに比べて日本の障害者の暗さが判った
日本の福祉は目が見えない 脚が動かないのだから 不自由でしょ だから外にでないように
しましょうと言う様な世界,だからそのためには毛布を、布団を用意しましょうと言う様な福祉の形態です

ところが北欧3国は最も進んでいる  自分の有る能力を最大限活用しなさい 
そのために応援する そして世の中に係わって行きなさい  
そうすると人のためになるんだからという福祉なんですね  それを観た時には吃驚しました  
スエーデンの女の人 片足がない 濃い茶の儀足を履いている  
それを観るとあっちこっちのステッカーが張ってある 自分はあっちこっちのスキー場に行ってきたことを宣伝していた(普通身障者は本来隠したがるのだと思っていたが) 
明るい福祉をめざして行きたいなあと思った

ようやく日本でもいい成績を残すようになってきた  最初に参加した時には44歳だった
障害者は多い  事故でとか、病気でとかで障害者になった   
目の不自由な人のスキー大会を観た時には吃驚しました
その大会では一切音が消える  一般のスキー大会では音楽とかが、鳴って喧騒としているが  
シーンとしている    2人で滑って来る  健常者と一緒に滑って来る  
「アッップ、ダウン、アップ、ダウン」、「レフト、レフト」と指示する  
そうするときちっとその通りに滑って来る   あとは風の音しかない  
ゴールに入ってくると、そうするとワーッと歓声と拍手が湧いてくる 
日本では見たことが無かった 吃驚した  

スキ-ヤーを囲んで抱き合って騒いでいる  
これなんだとこれなんだと、これが本当の本当の生きる道だと思いました
盲導犬 犬がいる事 育成が大変なので盲導犬のチャリティーショーやっている  
光を失うより私などは何でもないと思った 
日本はもっとこの様な方向にもっともっと力を入れないといけない  
今でもスキーをやるので時々は皮が剥ける 
その時はビニールで足を包んで風呂には入るようにしている(私の切断なんて序の口です)

岩見沢に身体障害者の施設がある そこに講演に行きました  
そこには一杯身障者の人が来てくれていた  脚がない人 両手がない人
無くてもどっか五感の、なにかがある  
或る人は口で細いパイプをくわえてパソコンを操作する  
そしてポスターでも何でも作る      そうして売って生活費用の一部にしている  
そういう事を一生懸命に応援しているのが其の施設なんです
声に成らない声が顔だけで何か言っている なんだろうと思って聞いたら「ありがとうございました」というお礼の動作なんだと言われた

我々なんかもっともっと緊張感を持って世の為、人の為に係わってやらなければいけないだと、
つくづく思いました
そうしたら五体満足でちょっと何かに挫折した挫折したからと言って自分の命なんかを粗末にすることは絶対あり得ない
一回しかない人生なんだからとことん、最後まで自分の命を大事に大事に、して世のため人の為に係わって行く そういう生き方を教えればいいんですよ

死んだ人間に対しての償い 居なくなってからの家族の状況はどうなっているのかと言う事に対して、張り裂けんばかりに思います
不可能を可能にすると言う様な事を生涯やっていきたいと思います  
不幸にしてその後の人生を居られないと言う事の為に少しでもお手伝い出来ればと思っています
遭難の後、リーダーがゆえに遺族の方から責められる事は当然有ると思いますが、私は遺族に
いろんなことを言われた   それは当然だと思います 
自の子供達を想えば思うほど、私がこういう風にしている事に対してのギャップは物凄く大きい
私に出来る事は矢張り自分の命と行方不明になった命と、矢張り誰が見ても、野呂は頑張っていると 純真に生きてるなあと言われるようにしたい
脚がないから出来ないと絶対言われたくない
脚の有るやつよりも、頑張ってるぞと言う様な形に少しでも近づきたいと思っている

教員になったときに教室で教えている時に、遺族の方がいきなり教室に表れて、ガラッと戸をあけて、自分の息子の名前を呼びながら「返せ、返せ」と私の胸倉をつかみながら、叫んできた  私をガンガンと叩いた  はけ口が無いので私の処に来たんだろうと思った
(学校までは遠くてタクシーで来た)
他の遺族の人もこの様に直接は来なかったが、大なり小なり、そういう気持ちを持っていると思う 
だから私はこんな弱い人間だと絶対言われたくないないので 仕事の面でも、人が駄目だよと
言われても 何か実現できるように何かないかと思ってやっている   
保険会社でも優秀な成績を収める  その後新しい会社を作った  27年やっている  
私の思想の基本は民間資本でこの国、街作りをやってゆく
それに対して役所は何をするかと言うと 、内容のいい物に対しては規制緩和で応援する 
私は公共工事を増やせと言ったことは一度もない
公共工事は3.11では無いが、何があるか判らない そういう災害に対して備えるようにしておく 
又この国をこんなに素晴らしくしてくれたお爺ちゃんお婆ちゃんがいるから我々がこうやって生きれるのだから、それに対して、お爺ちゃん、お婆ちゃんが安心して生涯を終われる様なかたちにする

それが国の役目だと思います 住宅は一杯あるが、しかし今は高齢者が増えて来る  
そうすると買いもの難民が出て来る
宅配、中心街から離れたところに利便性のある施設を設けていろいろ出来る複合施設を作ったらいいと思う
一番大事なのは会議所が判断する、行政が判断するのではない 
そこに住んでいるお爺ちゃん、お婆ちゃんが判断する  ここにこんなものが欲しいな
と言う様な事を行政に認めて貰って、実現すると言う事が大事だと思う    
公共工事は私はやっていない

民間で街作りはやっている  年寄が感謝の気持ちが出てこない様な街作りは駄目 
昨年父は105歳で亡くなったが、父に70歳になったときに「70歳になった」と言ったら「まだがきじゃないか」と言われた
樺太で生まれて 王子製紙のでかい工場が有って父は材木を運ぶのに馬車を使うが父は馬具屋をやっていた
小さい頃は坊っちゃんで育った 小学校の1年の時に 父が赤紙で連れていかれて行方不明になった    死んだものと思っていた 
最後の引き上げ船、小笠原丸に乗って樺太から帰るつもりだったが、乗れることが出来なかった 
しかしそれが良かった  ロシアの攻撃に合い沈没する(1700名ぐらい死んだ)
間に有ったら私も死んでいた 大鵬もその船に乗ったが、稚内で下船した下船していなかったら
大鵬は留萌沖で死んでいた
私は帰れなかったので、ロシア人と一緒に暮らしていた(家が大きかったのでロシア人を呼んで3家族で暮らした)母親は一生懸命ロシア語を習って通訳していた 3年間暮らした
いい思い出がいっぱい出来た  米ではなく、ほとんどはロシアの黒パンだった

北海道に引き上げて来る 駅で「幸司」と呼ぶ声がするので振り返ると、軍服をきた父親だった
父親は樺太から捕虜でシベリアに行って、朝鮮に来て、朝鮮から佐世保に上がって、ずーっと北に来て北海道の江刺にきた  その時に駅でばったり会った
お金が無くて父は靴修理業をして、母は「いかむしり」 加工品にする その手伝いを兄弟皆で行った  それで生活費を稼いだ
私の山の靴は父が軍靴を直して山の靴にする 
ヤッケ、オーバーズボン、から着るものは父親に作って貰った
食べ物が無いので山で野草を取った(それが山との結び付きの始まり) 高校で山登りの練習を
やっていてお前もやってみろと言われてやったのが山岳部へ入るきっかけとなった  
当時の地図は山の地形と実際に行ったときとでは全然違っていた
当時の函館東高校は北大山岳部に匹敵していた  大学に入って山岳部に入って 地質学を専攻した (山に登れるように)

足を切るまでは全部 山々山だった  山と言うのは 山に行くと新しい自分をどんどん発見する必ず乗り越えられる という事が解る
自分で自分の装備を考えてゆく  有るものを最大限に生かす
「切に生きる」 自分も、貴方も 同じ条件ではない  全部別々の条件
それぞれの人がそれぞれの立場で今与えられたものを、最大限一生懸命 この世に係わって行く事が「切に生きる」ですから
会社経営も山の経験が生きている  単独行動、パーティーを組む場合があるが  
最終的には自分の判断だと思います  判断の責任は全部自分の責任

そのためには自分がこの問題を乗り切らないといけない 人の力を貸してくれない 
信頼はチームワーク  生きかたは信頼ですよ  周りに一杯いる  何が大事かと言うと信頼  
相手も信頼  こっても信頼 お互い持ちつ持たれつしないといけない 
一回しかない人生 頑張って最後の最後まで アー俺は生きた 俺はやったよ 
親父、おふくろに言いたいと思っています 
自分の人生を粗末にするな と言いたい(特に若い学生に) 一回しかないのだから
最大限 とことん努力する 頑張ることが生きた証ではないでしょうか

2013年2月19日火曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)   ・10人の山仲間へ償いの50年

野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年 
サハリン出身ですが、戦後は両親と函館に移住して、学芸大学、函館分校の山岳部に入り部長として活躍してきました。
37年暮れ北海道学芸大学 函館分校4年の時に 山岳部仲間10人と大雪山の最高峰旭岳周辺を歩く冬山訓練にチームリーダーとして参加しました。 
しかし合宿中に猛吹雪に見舞われ、部員が次々に倒れてゆく中、凍症を負いながらも、九死に一生を得て下山できたのはリーダーの野呂さん一人。
多くの非難を浴びつつ精一杯生きているの野呂さんの人生は、亡くなっていった山仲間への償いだと言っています。  
 
その後身体障害者となった野呂さんは若くして亡くなった仲間10人に励まされながら、生きてきたそうです。
備えあれば憂いない。 山で一番大事なのは精神力。  
いくら体力が有っても精神で参ってしまうと その体力が正常な体力が持続できない。
私に匹敵する様な体力が有っても一番最初に参っていましたもの。 
野呂さんは しっかりした足腰と頑丈な身体を持っている。  
小学校のころは体も小さく、1周4kmの公園を毎日走っていた。 

校内マラソンで3位に入って、それは自分でやろうと思った事をやり抜くと体力でも、何でも付いてくるもんです。
私の経験がどなたかの役に立つのであれば、話していかなければいけない、伝えていかなければいけないと思います。
一回しかない命、人生をいかに大事にするか、それを山で得たことを通してみなさんにお伝え
できればいいと思います。
今から50年前 昭和37年の暮れから38年の1月1日の出来事  鮮明に覚えている。 
しょっちゅう死んだ仲間は夢に出て来る。

死んだ仲間が私を一生懸命励ましてくれているのだなと思います。  
後輩に言ったことは 縁が有って 皆で持って繋がったのだから 山に行ったのだったら 
その山の中から何かを得る事 山を通して人を知り、その人を通して 自分の人生を築いて行こうじゃないかと 言う事を良く仲間に言った。
 
1月1日 生環したのは私一人だった。  同じ条件でみんな頑張って唯一 私が残った。  
仲間には申し訳ないと思ったが、仲間はみんな同じ体力で、同じ精神力であったら、皆帰れたと思う。  
自分自身はそういう環境を乗り切ったが、それがこれから10人の黒い十字架を背負って生きなければならないと言う戒めと励みになっている。  
皆全員が一生懸命、頑張った。 しかし、一人減り、二人減り、三人減り ということで最終的には私一人になり残った後、テントの無い中で一泊して下まで降りてきた。  
その経験は、その後の人生に大きな励みになっている。

12月24日に山に入った。  
雪は多い。 二手に別れて B班のリーダーとして 白雲岳でA班を待っていた。
山の中でNHKのラジオで気象情報を聞きながら天気図を書いていた。  
日本海側に低気圧が発生して荒れるのが解っていた。 
山の中に居るものなので出来るだけ降りたいと思っていたが、標高が2000m有るし、緯度が高い。予想できない様なそういう気象状況、猛烈な吹雪の中なので呼吸するのも困難 見る見るうちに皮膚が凍ってゆく。  
白雲岳の頂上までは天気が良くて、それから荒れだす兆候が出てきた。
その前に、旭岳の頂上を通って 石室に行けば予め用意しておいた食糧がある。 
 
そこにどうしても行かなければいけない。  そのためには、多くの山を越えなければいけない。 
何で山に登ったんだと、当時の新聞に書かれた。 すぐに下界に戻ればいいんじゃないかと
しかし本州の山と違って、北海道の旭岳は物凄く広いわけです。
降りるためには大きな旭岳を登って降りて行かなければいけない。
途中でブリザードに合い(猛烈な雪の嵐)、途中で呼吸困難になる。 動きがとれなくなる。  
下から風が巻いてくるので顔は上げなくてはいけない。
何一つ風をさえぎるものは無い。  -30℃の温度計を越してしまっていた。  
目は開いてられない。 鼻はねっぱってしまう。 口は呼吸困難 風雪に耐えていると
極度の緊張感と空気を吸えない様な嵐の中で人間は段々精神的に弱い物なので、正常な状況で無い状態になる。  
手袋を取ってしまったり、帽子を取ってしまったり、という正常な時だったら絶対にない事をやる。 

極度の緊張感と空気を吸えない様な嵐の中は手袋を脱いでしまう。
見る見るうちにバーっと真っ白になる。  そうしているうちに水膨れになり(黄色い)それがしばらくすると真っ赤になり 真っ黒になる。  壊疽 
人間の身体は最後にああ云う風うになるのだなあと思った。  歩く事が出来ない。 
そこに雪洞を掘った。 
(11人いるので雪洞2つ掘ろうと思ったが、掘っている時に中でくっ付いて仕舞って 1つになった)  奥に弱い人を入れて、雪洞に入った時には外の音が聞こえない。  
避難出来たと思っているうちにゴーっと凄い音が聞こえてきた。

上の方を観たらスーッと黒い線が走った。 
なんだと思ったら 物凄いブリザードが中に入ってきて、あっという間に天井が崩れ雪の中に埋まった。 
私自身はアノラックは9枚持っていた。 
テント張れとか言っていたが、バリバリに凍り、テントを張れなくなった。  
あれっと気がついてみたらヤッケが無くて無意識に腰に巻いていた。
その時のとんでもない状況は初体験。  日本海では漁船が随分遭難している事を後で知ったが
寒さに震えながら夜中 テントを張ろうと思ったがテントはバリバリに凍ってしまって駄目なので、私がテントに入って、テントを持ち上げて伸ばそうと思ったが、テントの中が酸素不足になり、
ピッケルで破って外に出た。  
最終的にはテントをあきらめろと、俺を中心にみんな集まれという事で、車座になって歌を歌ったりしていたが、私が考え事をして黙っていると 野呂さんが変だぞと周りが言いだす状況だった(私が話をしたりしている間は冷静だったが)

眠ると駄目になる(致命傷になる) 皆一晩持ちこたえた。 
 朝を迎えて、旭岳頂上に向かって行った。  
頂上には全員いたが、頂上で有る男が烏だ烏だと言って(極度の緊張による幻想)さわぎだした 。一人が噴火口に滑り落ちた。
私が助けようと降りて行って見つけたが、虫の息だった。  
目印を置いて戻ったら半分がいなかった。 
サブリーダーに聞いたが解らないという さっきまでいたんだけどなあと、先に行ったかもしれないと後で解った話だが烏が飛んでいると言った男が弱ったので、元のテントの処に戻そうと何人かが行ったが 結局自分達も体力が無くなって戻って来ることが出来なかった。
我々は知らないので、石室をめざしているものと思い、我々も石室をめざしたが、結果的には風に流されて、戻ろうと言ったがそこでもおかしくなる(家族の名前を呼んだりする)人間がいた。
 
雪洞を掘ってそこに居た。  もう一人元気な人間がいて先に行ってしまった。 
私もそれを追いかけた。  そこで日が暮れて、そして夜を迎えた。  もう一泊した。
雪洞を掘る元気もなく とど松の葉を持ってきて、敷いてそこに寝た。  
兎に角ぐっすり寝る事だと思った。  隣では田中が寒い寒いと言っていた。
夜明けとともに 3時頃、目が空いたら身体が凍って全然動かなかった。 
田中は(もう一人の名前)寒い寒いと言って眠れなかったとの事、ようやく這って行って 松の木につかまって立つ。 手を離すそうするとバタンと倒れる。 

そうすると関節が回るそうするといくらか温もりが出る。
其れを何回もやっているうちにちゃんと関節が動くようになって、田中にもやれといったが寒い寒いと言っているだけ 引っ張ったが最終的に動かなくなった。
一人でようやく降りて行って 送電線を見つけられて(その間に何度も枯れ枝と見間違えたが) 
これを頼りに行けば 勇駒別温泉に着けると思った。
その間一切止まらないで10時間歩き続けた。  
倒れたらルートから外れ、両親が最後の最後まで探すだろうと、そうさせないための一念があった 何としても俺は帰らなければいけない。  

たどり着いた時には足腰は駄目だったが意識はしっかりしていた。 
白雲荘があり、そこから女の人が「そこの人何やってんの」と声をかけてくれた。 
返答をしようと思ったが、雪を食べてきているので 声に成らず、声が出なかった。 
二人、人がいて、大学のフュッテまで連れて行って貰った。
私は先に行った別れた人達が勇駒別温泉に降りたと思っていた。 
石室から降りてきた人がいて聞いたら食料はそのままだと言っていたのでどうしたんだろうと思ったが、ようやく遭難をしたことが判った。
装備は当時は貧弱だった。  オーバーズボンは父が作った。 自分で作ったりしていた。
山を降りてきて、凍症にかかっていたが、 雪が深かったので歩けた。 
道路に降りた途端に歩けなくなった。 

ここまでは周りに雪があるから歩けた。(アイスバーンの様な状況だったら駄目だった) 
旭川の病院にいったら、針を刺しても痛くなかった。 
函館の新しく出来た病院で足を切断をした。 
(切るのではなく関節で外す  くるぶしを残す 皮を腿の皮を取って移植する 其れが再生)
しかしももの皮は薄いので 皮がついた後にビール瓶で足の皮を叩いた。 強くしようと思った。
「自分が今その立場で与えられた事を、最大限に生かして生きるのが人生ですから」 
自分が足がないのに足のある人のまねをしてもしょうがないし、今あるものを最大限にいかす。
それを最大限に生かして一生懸命に生きる事 それが「切に生きる」事だと 瀬戸内寂聴さんがある本で言っていた。  それと同じだと感じた。

放送終了後「遭難経過報告書」 「遭難を省みて」の本を頂く
「遭難経過報告書」からの抜粋
「雪洞の天井に穴があき、みるみる薄紙をはがすように風が全ての天井を吹き飛ばす。
着の身着のまま、みな車座になり、夜を明かす。 
山がごうごうとなり、冷たい強風が容赦なく吹き続け、空腹と睡魔に襲われ全員で歌うが長く続かない。  
眠れぬ夜を励ましあって長い長い夜を耐える。

12/31 夜は明けたが吹雪いている。 足の感覚は鈍いが指は動いている。 膝に力が入らない。
屈伸運動をして歩けるようになる。  
6時30分 全員にピッケル、ストックを持たせ、野呂を先頭に登る。 7時過ぎ頂上に到着する。 
一人が突然カラスの幻想を観る。 弱った一人がスリップし、噴火口に200m滑落する。  
野呂が噴火口に降りていた1時間ほどの間に5人のメンバーが消えた。
石室に降りたのだと思い、後の5人で歩きだすが、激しいブリザードで石室にはたどり着けず、野呂が掘った雪洞に弱った3人を寝かす。  脚先は凍りつくに痛み、手は石ころのよう。
スキー用の皮手袋が枯れ木のように手に凍りつく。
一瞬雲間にたんねの林が見え、元気な田中君が勇駒別温泉に向け下山を始めた。
深い雪のラッセル、何も見えないガスの中、日が暮れた。  
松の根元の雪を踏み固め身体を寄せ合って寝る。 
 
1/1午前3時 木の根につかまって身体を起こし、屈伸運動をする。 
しかし田中君は立ったまま動かない。  凍傷のため歩けないのだ。 
彼を背負い歩きだすが、途中で力つき、背からずり落ちた。 
昏睡状態に入ったらしい。 ピッケルを目印にたて、出発する。
腹がすく。 顔を押し付け雪を貪欲に食べる。 一歩進むごとに胸まで潜る。 
腰をおろして眠りたい、こんなところで死んでなるものか。 
もう助かりっこない身体が駄目になっているという気持ちが頭の中を走る。 
目にしみるような青空を目にする。  
磁石と頭の中に描いた地図とを頼りに休まず歩き続け、やがて送電線の電柱を見つけた。

「遭難を省みて」から遭難原因が大きく2つ書かれている。
①雪洞の崩壊・・・二つ掘ったが結果的に繋がってしまった。
 厚いところで160cm 薄いところでは30cm  雪質も粉雪が混じって、乱気流が伴う40mの風に  は耐えられなかったものと考えられます。
②気象判断の甘さ・・・山にいる間、毎晩気象通報を聞いて天気図を作り、朝鮮半島付近にある低気圧をキャッチしていました。  
天候の悪化は予測できたとは言え、氷点下30度以下、その上想像を超えた強風吹きすさぶ中では、人間の限界を超え、打つ手が次々と不成功に終わり、遭難へと突き進んでいったのが一番大きいと思います。  
気象条件が悪化に伴う、リーダーの判断と処値がパーティーの行動を決定付けることになり、リーダーとして弁解の余地がありません。

今なぜ45年もの沈黙を破り、明らかにしたのだろうか。「この頃、子どもの自殺など、いのちが
軽視されている。
「いのちの尊さを知らせたかった」。と平成19年東高関東青雲同窓会の挨拶で述べている。
ある日、お袋の作ってくれたおにぎりを食べながら公園のベンチに寝そべっていると雲がどんどん 形を変えて動いていく。
『そうか、自分は変わらなければいけないんだ』と直感し、そうしたら力が湧いてきた。

2013年2月18日月曜日

蓮池薫(新潟産業大学講師56歳)  ・北での24年と帰国10年 2

蓮池薫(新潟産業大学講師56歳)北での24年と帰国10年
子供が帰って来るまでの間 1年半  辛い決心になるだろうなと思った  
これだけ長くなるとは思わなかった(数カ月と思っていた)
決心が間違っていたのかなあと思う時もあったが、頑張ろうとのおもいだった
親に言ったが、何言ってんだと 我々は24年間待ったんだと言われた 
戻ってきた時には素直には喜べなかった(背後には北がいるのではないかと)
日本人として自立して行かなければならないしとか、いろいろ考えたが、子供達に合ってしばらくいて感じたのは子供達は我々よりずーっと先に行っていると思った 
 
自由を求めていると言うのを感じたし、 何か日本に来て不安も有るかもしれないが
、わくわくするようなものを感じていた言う(後で解った事)
日本語も満足にできない  これから自分に朝鮮語を話さないでくれと言われた  
早く日本語をしゃべりたいからと言った  嬉しい誤算だった
子供の順応性、吸収力がある  最初、市役所で臨時職員として採用される 
いろいろ踏み台にしていいとの市長の計らいがあった 
他の人にないもので勝負したいと思った 言葉、朝鮮民族の事  知人が翻訳家でいたので 
朝鮮語生かしたいと思った

翻訳の仕事  言葉が解るだけでは駄目 小説を一本書くつもりで訳せと 言葉をうつすのでは
プロの翻訳ではないと 翻訳が一つの作品として新たに生まれ変わったように入って来る日本人の心に染み通る様にと、いろいろアドバイスされた 
推敲は何度でもやれと言われた
一番最初に手掛けたのは「こしょう」 将軍のドラマ 歴史小説 で切れ味最高の文章の小説  
韓国でもベストセラーになった
訳すだけで8カ月かかった 新たな道が開けたと思った  
20冊を越えた 文学、演劇は元々好きだった 脚本等も昔手掛けた事も有った
韓国語、朝鮮語を教える講師 も受ける 
 
教科書を20冊ぐらい持ってきて読んだが、殆ど同じだと思って、やってみようと思った
韓国ブームも有って、教える事が面白かった 興味を持たない人をいかに引き付けるかが、
必要だし、面白かった
「半島へ再び」 出版社の方と一緒に行って来た   
小気味良い感じがした 自由になったんだという思いがあった
同じ半島なので 北の環境と同じ 土の色、山の状況、木の生え具合 やっぱりちょっとした錯覚に陥ったが 俺は自由だと思った
中央大学に復学した 子供が帰った次の年から  3年かけて終了した(残りの1年分を)  
大学は私自身出たいと思っていたと同時に親もそう思った

「悔しい」 と言う言葉  私自身にとってみれば 24年間 別の経験を積んできたら 自由を選択出来たら、むなしいものがある
子供達も同様 子供の将来にとってみても こんな風にいけたのかなと思ったりした  
悔しいと言う事をばねにした
新潟大学大学院 現代社会文化研究科 博士過程に行った  
北朝鮮が見る古代史にふに落ちない事が有って それを研究したいと思った事と
生徒に教える人間として、それだけの資質を備えていく努力をしなければ、何か同情によって講師になったんじゃないかとか、拉致被害者だからと言う様な風に思われたくなかった
 
精一杯なことはしてきたつもりなので後は、提出したので結果待ちの状態です
人間にとって絆と夢は一番大きな要素だと思う 夢の大きさは関係ないと思う  
それぞれ自分がやりたい事を精一杯そこに自分の精力を注ぎこめる
物がある  選択の自由は絶対必要なので  夢を奪われてしまった事と同じ  
北に居る間 小さいながら絆は繋がっていた  
形はどうあれ、しがみつくものがあった 
それが24年間それに耐えられた 帰ってきて道が開けた 
  
拉致の人に対して、身柄だけ戻って来るのではなくて、それ以上に その人の夢を回復させて 
絆をすべて 向こうの絆はほっぽり出してと言うのではなくそいう酷なことではない  
夢と絆を完全に回復する 拉致問題の個人から見た拉致問題だと思います
解決の糸口がない状況が続いている 心苦しい だから早く解決してほしいと思うが、
残された人達を想うのは 私は帰る寸前まで日本に帰れるとは思っていなかった
残された人達は私達が日本に帰った事、自立していることは伝わっているはずです  
殆どリアルタイムで伝わっていると思う

帰れるのではとの思いがあるのではないかと思う  
以前我々が帰れないと割りきっていた時とは 全然違う思いなのではないかと思う
帰れるかもしれないと言う思いの中で 一日 10日 1月 1年 2年  5年 10年と 遥かに強い深いものではないかと思う
一日一日が傷口を触られる様な想いでいらっしゃったと思う  
この問題は外交で説くしかないと思う
国際的な孤立は深まった 経済状況は以前と変わらない  
体制を維持するのに、反発、不満を持っている人が増えると言うことは一番大きな脅威
になるとおもって、そのためにも何か手を打たなければならない  でも2002年から現在変わらないし、その時に日本に目を向けて来ると言うことは変わらない

表向きミサイル、核実験だと新しい体制にとって先鋭化していると思うが、チャンスはあると思う
体制を守ると言う危機感からやってると思う
必死な感じが感じられる  
米国と対等に持って行こうと思っているようだが、も一つのアキレス腱 国民の生活、国民の不満だと思うんです
それを納めるには別の問題で 経済的な対策を取らざるを得ない  日本に向いてくる 
日本が一番やりやすい 過去の問題で倍賞問題,日本は拉致問題を解決すればあるいみ支援を出来るという立場なので 2002年の立場がよみがえると言う事があると思う

政府がいかに見据えてやるかだと思います  
拉致問題に関しては 誰を帰し 誰を帰さないと言う事に関しては絶対譲歩してはいけない
そのためには経済問題とか把握してやって行く  
拉致しておいて盗人猛々しいと思うが、ギブアンドテークなので解決には時間がかかる
拉致被害者は北朝鮮にはまだ必ずいる(人数はこの場ではいえないが)  
カードを保持するためにはぞんざいな扱いはしないと思う
北と粘り強く交渉する それを願っている

2013年2月17日日曜日

蓮池薫(新潟産業大学講師56歳)  ・北での24年と帰国10年

蓮池薫(新潟産業大学講師56歳)北での24年と帰国10年
北朝鮮から拉致被害者が帰国してから10年になりました 1957年柏崎市の生れ  
中央大学3年の時に拉致されて、24年間北朝鮮で過ごしました。
2002年に10月に夫婦で帰国し、その1年半後に子供達も無事日本に迎える事が出来ました。 
現在新潟県柏崎市にある地元の大学で韓国語を教えたり、翻訳家として数多くの本を出版しています。  
北で暮らした24年間の生活や想い、具体的なエピソードをつづった本を昨年の秋に出版されました。
本の内容は日本に残る決意した時の苦悩、望郷の念、脱走を考えた時の心の迷いなど率直な気持ちがつづられています。

大学の仕事が中心 この2,3年大学院に通いながら勉強したり、翻訳したり、ものを書いたりしています。 
朝型人間なので朝は早い。
「拉致と決断」を出版 書き始めたのは2年前から 一度自分の生活とか思いを整理してみたいと思った。 
拉致問題に進展がないので、皆さんに忘れてほしくないとの思いがあり、生の向こうの生活、
想いを伝えるのが一番印象に残るのではないかと思った。
各地での講演でも関心はあるが、矢張り向こうでどういう暮らしをしていたとか、どういう事をしたか等の皆さんの反応は全く違った。
35年前 柏崎に帰省されて、その時に本学部だったので理想は高かったが、サラリーマン 
弁護士ではなくても何か独立したいと思った。

拉致の状況 海岸に行ったが、そこに居た人間を拉致しようと思ったのではないか、 視線の延長線で3,4人が歩いて来るのがいたが気にはかけなかった。
煙草の火を貸してくれと言われて、火を付けた瞬間に襲われた。
殴られて、目を殴られて視界をふさがれた。 
家内はテープで口をふさがれて暗くなった後に袋に入れられたままゴムボートに乗せられて、漁船程度の大きさの船に乗せられ北朝鮮に連れて行かれた。
睡眠剤を飲まされたので一晩か二晩か判らない。 夜のみ走っていた。(疑われないためか) 
 
訓練所らしき宿舎に10日間いて 目の腫れが治ってから連れて行かれた。  
その段階では家内とは別々  女性は必要がないので返したと言われた。
招待所と言われるところに連れて行かれた。  
基本は工作員等が勉強、自分を鍛えるために,個別教育される処、10軒~15軒が建っていて、一軒一軒は山で離れて見えないような状態 ,で全体が鉄条網で覆われていた。  
ずっとそこで暮らした。
拉致されるまでの時間は 拉致という言葉すら知らない状況だった。  
女性を狙ったものと思っていた。 人身売買の様なものなのかと最初思った。
男は処理されるのではないかと思った時期があった。  
北朝鮮だと解って何かの間違いではないかと返してくれと言ったが、聞き入れてはくれなかった。

諦めるまでには2か月かかった。 半分パニック状態だった。 自殺の思いもあった。  
何のために連れてこられたのか、も解らない。 
本とか読めば状況も解るのではないかと想い語学をやろうと思った。  
余りにも向こうに反発してしまうと命が危ないと思ったので(随時言われた)
身を守る、何とかしたいと思った。  勉強しろと言われた。  
向こうの思想の問題とか、この国がどんなに素晴らしい国かと言う事を勉強させられた。

なにか目的をめざしていた。  
逃亡した事件があり、監視することは大変なので 逃げづらい処に入れて、結婚させれば、子供もできるし 逃げられないだろうと、結婚させたのではないかと思う。  
結婚したのは2年弱 子供も生れた。  
北朝鮮で絆が出来始める。
家族を守らなければならない、子供もちゃんと生きていけるようにしなければならない、想いも有り日本に帰れると言う事を前提にするのか,ここでズーと生きて行かなければいけないのかと、悩んだと言うか、有ったんですが時間が経てば経つほど帰れないと言う現実に直面する。
子供のためにそういう思いを断ち切ろうと思った。  
新しい絆のもとでこの国で生きていけるようにしようと思った。  在日朝鮮人として生活をする。
子供達までもそうするかどうかは、どうするか考えたが、日本人として育てるのは反日感情があったので同様にした。

逃げようとの踏ん切りはつけられなかった。 結婚後1年後ぐらいに海に行くことが出来て、
日本に繋がっている海だと思うと何か震えあがる感じがした。
2度目は15年後ぐらいに、中国との国境近くに行く事があった。 
数メートルの川を越えれば中国に行ける状況にはあった。
この時にはなんとも落ちつかない想いが有った。   
日本からの新聞、雑誌に触れる機会が有った。  家族の写真を観ることが出来た。
拉致被害者の会を知った。  
こういう事があるのだとわかった(本来目に触れる事が出来ない記事 チェック漏れだと思うが)
嬉しかったが、ただこんなことで帰す国ではないと思った。 
 
話題が広がると返って厳しくなるのではないかと危惧した。  より厳しい監視体制になった。
90年代 旧ソ連、東欧 社会主義が崩壊して、体制は維持したが貿易は断ち切られ援助は無くなり外交的にも非常に苦しい追い詰められて行くのを,肌で感じた。  
90年代後半には水害とかいろいろ重なって、飢饉が起きてしまって、この国はどうなるのだろうとこそこそ話す様な状況が有った。
日本との関係を改善してそこに活路を見出すと、経済的に日本から賠償金を取って、国を立て直したいと言う思いが有って、恥ではあるのだろう。
けれど日本が求めている拉致問題に対応しようとトップが思ったのではないかと思う。

ゴムボートで漂流して救出されて北朝鮮に行った、との事にして対応の練習を何度となくやらされた。
小泉総理の訪朝の前に様子が変わってきて、拉致は認めてもいいとう話になり、 最後のぎりぎりになって日本に家族を呼び寄せるのではなく、日本に行って来いという事になった。  
(嘘をつかなくてもいいと言われた)
子供は残したままであった。  
子供は連れていけない事は何となく解って、子供は置いてゆけと言われた。  
強制する様な行って来いと言う事でした。

最初は子供がいるので、兄とも口論になったが、子供の将来を考えた時に、子供は日本人として
知られてしまったし、日本は子供達が生きていけると言う感触があったので、子供達を連れてきたらどうなるんだろうと考えたら、プラス思考になった。
日本に留まっていいのではないのだろうかと思った。  
返してくれるかどうかが問題  北が何故我々を帰したか、ここまで得るものを得ていない。
当の本人を帰しただけでも大きな恥をかいた、次に子供を返すのは恥ではないだろうと 
それで目的が達成できなら時間の問題だろうと感じた。
もういいなりになりたくないとの強い思いがあった。 
 
子供の将来にプラスになると思ったら、良いと思った瞬間にそっちの想いがぐんぐんと出てきた。
24年間いいなりになって自由を束縛されてきて、ここでふんぎって賭けに出てすべてを得る方に
かけて見ようと思った。
そうなるとそっちの方にしか思考が行かない。 
大丈夫だと言い聞かせて家内に残るぞと言った。(決心がついてから話した)
母親はまず子供の事を考える、最初はたじろいたが、私を信じてくれて、1年半辛い思いがあった
が 子供達が帰って来る事が出来た。

2013年2月15日金曜日

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)    ・理想の最後を考える 2

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)・理想の最後を考える 2
祖父が医者だったが早く亡くなる 
20歳の時に、父の希望としては子供の一人は医者にしたかった 
昭和22年に旧制2高に入った (仙台) 25年に東北大学医学部に入り29年に卒業した
ホルモンの研究をする 講師になり、付属病院長 医学部長 東北労災病院長 (9年間) 
現在 宮城県成人病予防協会会長も併せて勤めている
実務はない 名誉職の様なもの(ボランティアみたいなもの)  
一番の大きいのは 癌になるとどうしていいか、判らなくて苦しむ  苦しんだ結果、 
民間療法で、訳の解らない高価な薬を購入して、結果においては何の役にも立たない  
お金がかかっただけと言う 死に対する備えがない 非常に苦しんで悩んで
、余り良い死に方でない最後を迎える事が多い

普段から 必ず人間は死ぬものですから、死と言うものを意識して、それに備えると言う事がある程度必要だと思います
考えてはいけない様な言い方が一般にされている  
死は縁起が悪い と排除してしまって、考慮の中に入れないという雰囲気がありますね
日本でもホスピス運動が起こってきている 癌の最終期をいかに尊厳を持って人生を全うして
貰うかと言う事ですが、その場合にいろいろな生と死の勉強をして貰うわけですが
今のような日本人の何にも死を考えないで、或は排除していると言う事が立派な人生を全うするための妨げになっていると言う事を感じました

上智大学に有名な先生(アルフォンス・デーケン教授)がよくおっしゃっている ドイツは敗戦国 ハンブルグに住んでいて(ひどく爆撃でやられたところ) 少年時代、ある日友達が爆撃でやられて真っ黒焦げになって死んだと言う経験をしている
彼は日本に来てからも生と死の問題を講演して歩いたんだけれども、 日本に来たけれども
同じように東京でもやられて黒こげになっているのに、日本人は何にも考えていないのんびりしていて(生と死の問題を)
立派な日本人なのにこんなに大事なことをどうして考えないのかと、良くないのではないかと思ったそうです
ドイツでもアメリカでも子供のうちから死を教えるそうです  
非常に辛くて、醜くて辛いものだと教えるそうです  
先生はこれでいいのかと思ったそうです  憂いていました
「死の学習」をしなければいけないと思います  
死に方の学習を知ることが大事だと本に書いています

具体的には人は死ぬ時にどのような死に方をするかとかその時にどのように感じるかと言う実態を学ぶことです
実態を学ばない人は、癌になれば痛くて苦しんで七転八倒して死ぬんじゃないかと考えていますが 実際はそうではない
長患いをすると非常にみじめで下の世話まで人の世話になる そんな人に迷惑をかけ、
自分もみじめになるのであれば、死んだ方がましだと言う風な考え方に非常に素朴に思う 
そういう思いだけに捉われてしまう  
癌になると大変だと恐怖心だけが募る 年寄になって醜くなると大変だと 言うような思いばかり
起こってきて良くない
生きざま、そのものが立派に成らない 
生と死をわきまえていればかなり違う 
いつかは死ぬものだと、言う自覚があればかなり違う 
実態を学べば、癌でもそんなに痛まない 
痛い場合も麻薬その他を使って、綺麗に抑える事はできる
  
死と言うものを学ぶと生、生き方が変わって来る  
生と死は表裏一体 死が解れば生が初めて判る
生きているということは死んでいないと言う事で
死んでいないと言う事がどんなに貴重なことか、有り難い事かが判る 
死を考えないと生きているのが当たり前、苦しいとなんだこんなに苦しいと浅い人生になる
自分にだけに捉われて、人の事が解らない、理解できない、親切もできない、助け合いも出来ない   自分勝手になっちゃう

やっぱり生と死の基本的な問題をちゃんと心の中で捉えないと非常に浅い人生になってしまう
大事な生をもっと大切に行きましょうと 自分の生が大切ならば、他人の生も大切だと 命を尊重しあわないといけないと言う事になる
そうすると世の中全体が違ってくる 意識の改革によって人間 立派に人生を送ろうじゃないかと
言うのが目的なんですね 
死ぬための備えではない 生きるための学びなんですよ  (良く生きるための)
30年前と今では理解がひろがっているが、理解する人は少ない
「生と死を考える会」がある (仙台ターミナルケアを考える会)平成元年に出来た ホスピス運動が始まった(英国が開始した)  日本では浜松が最初  そこに仙台でも勉強に行っている

医者が始めて、宗教学校の先生が音頭を取って、お坊さん キリスト教、天理教、医者、看護師、癌で苦しんだ人、及びその家族 有志が集まってスタートした(その時は私は入ってない)
平成4年に私のところに入会の話があった
志は持っていた、更に学んで そのうちに副会長になり 、現在会長になった
講演は127回目になる(25年になる)  お坊さんの話、癌の患者の経験の話、 癌の患者の家族の経験の話等 よりよく人生を理解して、立派な生き方をしようと 助け合いを 世の中に作ろうと それが目的になっている

終末期 死の学び、死と言うものがどのようなものかを知らないといけない 
どんな死に方があるのか  それに対してどう対応すればいいのかを学ぶ 
理想的な亡くなり方と言われている ピンピンコロリ   私は一番悪い死に方だと思う  
実際 ピンピンコロリの実態はどうかと言うと 元気な人が急に死ぬので
心筋梗塞 脳卒中 交通事故 こんなのがピンピンコロリですよ  一番悪い死に方ですよ 
家族がこまるし 本人も言い残すことが有ったと思う  残念な死に方だと思う
私はなにも心筋梗塞で逝きたいと思っていない、100歳迄元気に生きてある日コロッと逝きたいんだと  100歳まで逝きたいと最初から言わないと
今でもピンピンコロリがいいのだと神様が間違って心筋梗塞をさせてしまうかもしれないと 
冗談で言っているが100歳まで元気で ピンピンコロリというのはたまにはあるが
100歳まで生きる人は少ないし、100歳まで生きるとほとんど寝たきりになる、認知症になるのが多い  100歳まで生きることが難しいし、ピンピンではない

宝くじで6億円が当たるのと同じ それくらい珍しい事 夢をもつことはいいが現実と思うのは大変な間違い、極めてゼロにちかい 現実はそうはない 現実に備えなくてはいけない
癌は動転する 苦しんで苦しんで死ぬと思っているがそうではない  
痛みをほとんど感じない癌が1/3  ちょっとした薬で痛みを感じないで済む癌が1/3
非常に痛いのが1/3 その場合でも鎮痛薬を飲めば苦しまないで済む  
食欲がない、吐き気がするとかがあるが 財産をどうするとか、やりかけの仕事をどうするかとか
後始末はできる  皆さんにお世話になった、さようならという余裕はある(ピンピンコロリよりはいい)
天寿癌 という言葉は?  年配の人が癌になる 進行が遅い 3年ぐらいは死なないでしょう 
 
前立線癌はもっと遅い 10年しても何でもない
天寿を全うして(癌になってはいるが)亡くなる、それをいう  癌があってもなくてもいい  
95歳になると癌が有ってもなくても変わらない
好きなことをやって亡くなればいい  癌を意識しなくていい  寿命 男性79歳  女性86歳
健康寿命  健康では無くなったでも生きている  厚生労働省が出しているのが 健康でない期間男性9年女性10年少しでも年寄になって生活が不自由になると言うように厳しくとると、長くなる  
介護が必要になる 介護がないと生きられないと言う目で見ると 男性は平均健康寿命が77歳ぐらい介護が必要になってからの寿命、男性は2年  女性4年になる  実は恐ろしい事 2年ぐらいは誰かのお世話にならなければならない  

平均なので0の人も有るし10年の人も有る   たいていの人は覚悟しないといけない 
いずれはお世話になる これは事実ですからそれを支えなければいけない 
初めのところと終わりの所は誰かにお世話に成らなくてはいけない  
それが普通 それに備えようと自分がそうなったらお世話になる ならないうちはお世話する 
そう考え方をしたいですね 
それが支え合い   臨死体験 最近ではかなり詳しく研究されている
心筋梗塞で意識が無くなり心臓も止まる 死んだように見える 人工呼吸とか、人工蘇生機等を
使って良くなる 回復すると言う事がある  大けがで意識がない
水におぼれて意識がない そういう状況で死んだようになって、しかし助かったと言う事がある  勿論その間意識がない そういう人が助かった場合にその時にどうだったかと言う

経験を聞く それが臨死体験
それを丹念に調べて沢山の例を集めると共通な経験がある、一番多いのが浮遊体験 
例えば心筋梗塞で死のベットに横たわっているとする
心臓は止まっている  しかしその人の魂か意識かは解りませんが、それが浮き上がって天井の
あたりを漂って 上から見ている
自分が見ている 医者が治療していて、あー死んじゃったと言う様な事を観ている 
そういうのを観ていたと言う事を語る どうしてそうなのかは判らない

しかしそういう体験を語る そう現象があることは確か  体験した人は死が怖く無くなる 
これは大きい 人生の見方が変わって、博愛主義みたいな
皆を大事にするような 自己ばかりに捉われていることから解放されて、たとえばお金もちが慈善家になると言う様な事も報告されている
この研究はアメリカで盛んです   
どっちかと言うと、死を悩ましものと 避けなければならない恐ろしいものと それをびくびくしながら生きてゆくと言うんでは、いずれ誰でも死ぬんです
けれども、そういう生き方でびくびくしながら生きてゆくんでは、立派な死ではないでしょう
立派な死と言うものは世の中を楽しんで、感謝してそして終わると言うのが立派な死でしょう 
(ピンピンコロリではなくて)

それはどうしたら達せられるかと言うと死を学んで恐れなければ、そんなにくよくよしなくても済む死と言うものは避けられないものだし、自分でどうにもならないもので、死にたくないと思っても死んでしまうかもしれないし、死にたいと思っても死ねない人もいる 自分の手の内には無い
そういう風な自分だけに捉われないで、もっと大きなものに支えられて、いたり保たれたりすると言う理解があると、やっぱりそれが時期が終わって元のところに戻るみたいな、そんな感じになるんですね   
それが悩みを取って尊厳を全うして、悠々と生を命を全うしたと言う事になると思うんですね

一般的に言えば、健康で長生きして、そして大木が枯れてゆくように枯れてゆくと言うのが、一番いい死じゃないですかね   そういう死が望ましいと思います  
最後はボケたり、認知症になってもいいと思う  最後は心臓が止まると言う事でいいと思う 
要するにその間に、満足した生活 苦しみの無い生活 感謝の生活 が出来ればいいと思う  
そういうようにみなさんが迎えられるように我々はサポートする必要がある と思う 
癌にしても普通は悩むが最後はやっぱり諦めに到達するんですね 
死を受容すると言うか 其れを支えるのがターミナルケアーのホスピス等の役目なんですね
「千の風になって」 一つの人間の願望を表していると思う その願望があるからその歌を聞くと感動すると言う事ではないかと思う
それは己と言うものに捉われないで、もっと何か大きな力 、宇宙の力に同化してゆくというか、
そういう心境が歌われているのではないかそれは大事なことだと思う
命は遺伝子の働きでこの命が保たれている   この遺伝子を誰が作ったかと言えば 
人間ではない  何か作った力があるんでしょうね 

何か偉大なものが  村上和雄先生が遺伝子を研究しているが この方が遺伝子を研究していて、その働きに驚いてそしてこれを誰が作ったんだろうと疑問を抱くが答えは解らないで、何か偉大なもの サムシンググレート と言ってそれが作ったと言うほかはないという
それに畏啓の念を抱く  遺伝子も物質(炭素、水素、酸素等) それが出来て それが働いて、
人間が出来て 生命が営まれる
宇宙の力が作ったと それが終われば又ばらばらになり物質になり宇宙に戻って行くと言う之が
現代の科学時代の理解としてはいいのかなあと思っている
私は、自分のエンディングは自分の思い通りには成らないと思っている  
与えられたものがどれでもいいと思っている いただいたもので終わってゆくと思っています
できるうちは、やれる限り自分の仕事をやる

2013年2月14日木曜日

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)    ・理想の最後を考える

吉永馨(東北大学名誉教授85歳)理想の最後を考える
高齢化が急速に進んでいる日本社会では介護の必要な人は400万人と言われています 
このうち要介護度の4~5の人は120万人にも達しています
特別養護老人施設は圧倒的に少なく入所待ちが100人~200人の施設がざらにあると言う事です
吉永さんが理事長をしている仙台敬老奉仕会はボランティアを必要としている施設とボランティアを
希望している人の橋渡しをしている団体です
60歳代、70歳代でも身体の動くうちは介護ボランティアの活動を積極的に行って介護の実態を
体験すべきだと説いています

昭和3年生れ NPO法人仙台敬老奉仕会 公職のほかにターミナルケアーを考える会、骨髄バンクとかいろいろやっています
要介護 400万人を越えている 
申請して介護の認定を貰う 実態は500万人を越えているかもしれない 
介護4~5は120万人 一番悪い状態で自分のことは自分で出来ない 
下の世話から食事の世話まで行わなくてはいけない状態
日本に40万床 日本にはあるが、いつも満杯 申し込んでも入れない  
空くまで待って下さいと言う事になる 
一つの施設で100人、200人待ちになっている(それが普通になっている)
入れない人は介護難民と言う事になる 
長寿社会になっているが、本来喜ぶべきことであるが、実際は昔は平均寿命が短かった

明治時代の半ばに30歳代 大正になって40歳代 昭和22年から平均寿命が50歳台になった  
80歳代は夢のような数字である  昔は還暦に達すれば大変おめでたい事であった
この様な状況は喜ぶべきことではあるが、介護問題が重くのしかかっている  
乗り切ることを考える必要がある  全ての人が長生きを楽しんで感謝、尊厳を持って一生が終わるという社会を作らなくてはいけない
  
介護保険等、国の制度として整備してゆくことが大事  財政等の難しい問題がある 
民間が自分たちの仲間がそういう状況になるわけだから 元気な人が支え合おうと言う 
市民側が立ち上がることが必要です  国家的施策と市民の立ち上がり 両方必要
欧米ではボランティアが非常に盛ん 施設に行って、職員と一緒に患者をサポートしている 
また寄付が支えている   日本では遅れている そこの点を何とかしないといけない
市民が立ち上がらないといけない 仙台敬老奉仕会 作ったのは平成18年 
初めは中々市民の側が受け入れる、理解が出来なかった(外国との違い、市民の立ち上がり)

資格もないのに施設に入って来ることはとんでもないことだと言う様な感覚が有った 
慰問合唱団の様なものは受け入れていたが(介護の戦力にはならない)、素人が手助けすることに関しては受け入れてくれなかった
施設のルールとか基本的なものを学んでから理解してもらえれば中に入って、職員と一緒に介護力として働く事はできる(守秘義務、なれないために患者に怪我をさせたりしたらいけない、
施設のルールを守らなければいけない)
そういう状況を何とか理解して貰って、日本にも実現しようと努力してきた
ボランティアも難しいことではなくて、寂しがったりする人がいるので、そこによりそっていればいい 
そうすれば、自然と話しも出来るようになり、遊びも散歩もとか 難しい事は何もない 
してあげないといけないような気がするが、本を読んであげたいとか でも聞きたくない人が多い
マッチングが巧く行かない事がある 余計なことをしないで相手に合わせて、相手のことを尊重する 
一緒にいて寄り添ってあげればいいと、やっていると解って来る  
研修しても解らないがやってみると解る  相手が喜んで貰えるのかは直ぐに解る
こちらも喜んでくれたなあと解ると 世の中に対して いいことをしたなあと、自分で満足する
寄り添いボランティアですね  一緒にいて見守ってあげる
7年になるが今はまだ理解が進まないので 15人ぐらいが行っている  段々は増えてきている 
知識が広がってきたので或る時に急激に広がるのではないかと期待している
女性が多い 大体60歳位の人 家庭での時間的な余裕がある方  
環境を整備すれば そのうちに欧米に追い付くのではないか  
どうしていいかわからないのでそのままになっている人が多い
(隠れた存在を掘り起こす事が大事 )
アメリカ等は若い人もやっている 学生にボランティアをしなさいとの指導がある 
(高校生には義務つけてやっている)

アメリカでは全年齢層にまたがってやっている   沢山の方がボランティアをしている  
ボランティアが社会活動の中に組み込まれている 
米国、リバーサイド(カルフォルニア州) に昨年2月に見学に行った(姉妹都市になっている)
大震災の時に募金をして非常に多額の義援金をして下さいました  
現場を観ることが目的だった  
一つの施設にボランティアのひとが100~200人入っている 毎日来ている人から1週間に1回とか2回とか来る人もいてまちまち(出来る範囲内で対応)
ロサンジェルスにも行ったが、日系人が多くて、そこでも立派な施設があり非常に良くやっていた  
一日に20から30人きていた(4つの施設があり、1500人のボランティア)
不満があればいつでも修正する様な細かな対応をしている  
アレンジメントをすれば実現すると思う    先ず仙台でしっかり定着させて広げて発信したい

日本では慰問ボランティアが多い 
施設の方でもしっかりした訓練をして、活用していると言う事には成っていない 
グローバル化しているので、アメリカのように成って行く状況になって行くと思っている  
ボランティアをしたいと思って始めるが最初 戸惑うが、ちょっとやるとコツを覚える  
寄り沿う事がどんなに喜ばれるかと言う事が解ってくる
そうするとやった人が嬉しい  そうするとやった人は生き生きとして来る 
やりがいがある事が生きがいになって、健康にもいい 病気になりにくい
認知症になりにくい   市民のためにもボランティアは伸ばさなければならないと思う
皆で助け合って生きてゆくと言う社会になる  世話になる様になったら世話になればいい 

元気なうちは世話をするという お世話できる時はお世話する  長寿社会が生きて来ると思う
寄り添いボランティア  してあげる事より寄り添ってあげる事が大事  
やってみるまではピンとこない  やってみると解る  コツを掴んで貰う
一か月おきに研修会をしている  施設の方に巧く使いこなして貰いたい  
受け入れる側 初めは資格の無い一般市民が入ってきて、お年寄りに接触することは良くないことだと思ってました  今もそう思っているところが多い

(資格がないから知識がないから守秘義務が守れないのではないかとか、患者に怪我をさせてしまうのではないかとかを恐れるので中には入れられなと言う考え方が有った 
専門家でないと扱えない領域なんだと 自分たちは資格を持っている、そこに資格のないものが割り込んでくるのは違和感があるというような感覚がある 喜ばないというか、受け入れないというか空気がある 今でも多いと思う でも段々理解するところが増えてきて、アメリカの様子を観てきたりして)
最近は段々理解してもらえるようになった 認識が変わってきた 
(去年2月に米国に施設の人も参加した)

11月にはアメリカから呼んで講演して貰って、認識が変わってきた
老老介護(家族的なように思われるが)社会全体でやって行こうと言うシステムを作ってゆきたい老老ではなくて、全年齢層でやっていけるようにしたい  
年寄の方が時間的な余裕 精神的な余裕があるので、環境は良いと思う
やりたい人への呼びかけ、自分では出来ないけれども賛助会員になって貰って 会費を払って貰ってサポートして貰う人への呼びかけが大事だと思います
国際的なレベルに近付く方向に持ってゆきたい  団塊世代が高齢者になってきつつある  
当分は今の状況がもっと厳しくなるに違いない 

2013年2月13日水曜日

錦織健(52歳)          ・オペラの楽しさ全国に発信中2

錦織健(52歳)オペラの楽しさ全国に発信中2
イタリアとオーストリアに留学 ウィーンは楽しみました ずーっと劇場に通っていた  
立見席では1/10で見ることが出来た これは大きな財産になった
勉強の事を忘れて楽しむことが出来た   日本的なものをミックスしてやっていこうと思った 
26歳でデビュー オペラの現場を早く踏めて良かった 場数を多く踏むことが出来た
オペラを聞かない人は非常に多い 聞く人は50万人ほどはいないと思う  
オペラ歌手はマイクを使わないのが本職  生で歌うようにしている  マイクは普段使わないので、マイクさばきが解らない(近づいたり、遠ざけたり)
広いホールで歌う時の心ぼそさはある 反響の仕方がホールによって違う お客さんが入っている時と 入っていないときでは反響が違う

人が入ると反響が響かない  リハーサルと本番とは違う音になってしまうので結構難しい 
(別なホールと同じ)
冬になるとなおさら衣服で音を吸収してしまう  だから第一声が怖い
2002年からオペラをプロデュースするようになる  最近は市民オペラが出来るようになった
コンパクトな公演で全国を回りたい    判り易くて楽しいものを念頭に置いている 
外国語なので解って貰えないと言う事がある 

歌手と音楽とのからみが有り日本語にすると巧く行かない事がある
字幕を出して ドイツ語とかイタリア語で歌っています  訳し上演も考えてはいるが
オペラの今後の方向についても如何して行こうかとか考える時にも、将棋の大局観が役に立っている
オペラを楽しむ人の絶対数が少ないので、興味を持って貰うように オペラの間口を広げてゆきたいと思っている
プロデュースの仕事をするようになって、ものを書く人の気持ち(大変さ)がよくわかる様になった

2013年はヴェルディワーグナーの生誕200年 2大巨匠  公演も多くある  
モーツアルトも多くやっている モーツアルトは楽しい 
オペラの導入部(余りオペラに興味を持っていなかった人に興味を持って貰う様に)を私は担当したいと思っている
1/3からコンサートがある  全国各地にスロバキアの人達の回る予定  
オペラの紹介と いろんなジャンルの歌を歌うのも人生の柱となっている 
(ふざけ過ぎたりするのも問題とは思うが)

映画鑑賞が趣味 午前中に映画館に行ってみる  DVDではなくて迫力のあるもの、集中して
みたいものは映画館に行ってみる
見る方の準備、心構えが必要なのが舞台芸術 劇場芸術だと思う 
 映画は一番最先端だと思っている  
映像的なものCGの凄さを感じる  
オペラの舞台装置も空間に出来るようになるのではないかと思っている

2013年2月12日火曜日

錦織健(52歳)          ・オペラの楽しさ全国に発信中

錦織健(52歳)オペラの楽しさ全国に発信中
昭和35年島根県生れ 国立音楽大學卒業後 文化庁オペラ研修生としてイタリアミラノへ留学  
その後民間財団の留学生としてオーストリアのウィーンでも
研鑽を積みました 帰国後 オペラや宗教曲のソリストとして高い評価を受けてきます 紅白歌合戦、コマーシャルにも参加する
音楽の楽しさに目覚めた少年時代から 転機となった大学時代への体験を中心に伺います
第17回ジロー・オペラ新人賞、第4回グローバル東敦子賞、第1回五島記念文化賞新人賞
、第6回モービル音楽賞洋楽部門奨励賞など数々の賞を受賞。

12月は本当に忙しかった  (第九交響曲)  夏場ではやらない 興行チケットが売れない
歌は小さい頃から好きだった(アニメソング等) 両親は学校の先生 母親は音楽を教えていた
(家にピアノがありいじっていた)
自然の遊びの世界には囲まれていた 中学3年生の時に合唱部に誘われた 楽しさが判った 
地方のNHK合唱コンクールに参加した
男性陣が巧くなくて、惨敗して悔しさがあり、リベンジの思いで高校の時に合唱部に入ってコーラスを続けた

女性のみの合唱はレベルが高いが、混声合唱になると男性のレベルが低い傾向に有った  
男性を運動部からスカウトして行った
自分としては自信があったが、コーラスとなると駄目だった 
人と合わせる声の感じが必要だった
島根県の県大会で優勝した 高校3年間 コーラスのことばっかりだった  
勉強してなかったので音楽関係の仕事が出来たらと思っていた
先生について勉強した 
不思議とピアノの勉強をするのは楽しかった(4時間でも5時間でもできた) 
とにかく頑張って国立音楽大学を受けた 

母親は音楽に進むことに関して喜んでいた プロの世界は周りにプロの世界を知っている人もいなくて、想像してはいなかった
受かって大変さが解って心がへこんでしまった 一人暮らしは楽しかった (寂しさはなかった) 声楽の難しさを感じた(皆巧く感じた)
歌は駄目なので音楽史だとか頑張って将棋とかも始めた  歌は諦め気分で、将棋に熱中した 
学校では負けなしのレベルになった
歌は頑張ったが将棋ほどには頑張らなかった  大局観を将棋で戦略的に考える事が出来る
卒業する時期になって、先行きどうしようかと考えて、自分の陣地を固めてから 自分の武器は、
弱点は何かと考えて 弱点を先ず良くして行こうと考えた

テノールだが、低い声が出無くて それを克服しようと弱点ばっかり勉強した  歌も真剣に考えて 
もうちょっと東京で頑張ろうと思った
客観的に醒めた目で自分の事を観ることが大事だと思った  
声楽はスポーツに近いところがあり 肉体管理 、トレーニングとかも関係してくるので
将棋の考え方も導入出来た。  
人生の身の振り方をあたふたして決めてきた  
見切り発車してきた  人生って見切り発車なんだなと思い始めた

オペラ歌劇団に入って、そこで頑張って、文化庁オペラ研修生としてイタリアミラノへ留学することが出来た
無理だろうなと思いながら始める事が多い  出来ることから補強してゆこうと思っていた  
やっているうちに有る時に気が付いたら歌を歌って生活していた  
これがプロかと 思った(意識していなかった)  
駄目かなと思いながらあがいてきたという感じですね 歌っている時はそこそこ楽しかった   自分のコンディションは大事にしないと駄目 身体が楽器なので 又身体は老化するので
いろいろ頭を使ってスポーツ的なケアをしなくてはいけないので気を使う  
同じことをずーっとやらなければならないので、楽器が違ってしまった時に、どうするかが大変 トレーニングが必要 完成はない

研究しがいがある 正解は無いのでいつまでも研究出来るので飽きることはない  
何で思い通りに成らないんだといういらだちはあるがスポーツ選手と同じだと思う 
どんどん変わって行く自分の身体と向かい合いながら、去年はよくいったのにどうして今年は巧くいかないのだろうかと,いろんなトレーニングをしているのだと思いますけど 喜びと悲しみが同居しているんですけれども、飽きない現象がずーっと続いていると思います

中学では陸上をやったが、陸上をやっての役に立ったのは  強いものには勝てないと思った  
人一倍練習はしたが、集合写真を取ると他の人達とは違っていて弱弱しい感じだった  
走るだけなので中々補えないところがあり、陸上では向かないと思った
声楽は集合写真を撮ったら、似ている様な体形なので 向いているように感じた  
向いてないところで頑張っても巧くは行かないと思う

2013年2月11日月曜日

阿刀田高(作家)         ・本の現場へふたたび 2

阿刀田高(作家)               本の現場へふたたび 2
創作への取り組み  短編小説への構想 アイディアがあり、それをどう生かすか  
日本では自分の生活を基盤にして作って行く小説が多いが
小説を作るにふさわしいアイディアを考えることから私の場合は始める  
その場合のアイディアの
発想はどうかと言うと本当に自分でもよくわからない
年中何か小説になるアイディアはないかと想像したり、考えている  
アイディアはいろんな形でみつかる
なんか変だなあと思う事から発展する場合が多くある 常に考えている  
浮かんだ時にちょっとしたことでも記録をしておく

どんな時でも思いついたときに何であろうと記録する 
メモに書いても10%位しか役に立たない しかしこまめに書いてゆくことが大事
こんなあら筋ではいって行ったら小説になるなと思ったら 5分で出来る 内容の微調整含めて
書きだす前に出来上がっている
主人公は自分とは違う人です  短編小説は必要最小限度の処で勝負したい  
自分の読者はどういうタイプの人だろうと考えて、編集担当者と打ち合わせて、文章を入れるか
どうかを決める事がある

星新一は1000回書いて止めたが、私はどうなるか分からない  
2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長になる   
15代目の会長 1935年に日本ペンクラブが誕生 表現の自由を守ってゆこうと誕生した
(最初その10年前に国際ペンクラブが誕生している)  持ち回りで世界大会をやっている  
日本では川端康成の時に第一回目  井上靖の時に第二回目をやっている
私の時に第三回目の国際大会を行った  
80数カ国から200人を越える文筆家、ジャーナリストが集まった大会だった
日本ペンクラブの会員は2000人 総会をやると100人ぐらいしか集まらない 
ものを言いたげな人だけ集まる
 
2000人がどのあたりを考えているのだろうと探りながら運営している
電子ブックの登場 否応なしにIT化が進むことは間違いないと思います  
著作権がどう確保されてゆくかが 常に大事な要素がある
電子的な手段がどこまで発達するかは判らないが、広く、速く、安くというニーズには絶対勝っている
活字文化 紙に印刷する文化が知的な要求を満たしてきた部分がある  
良い著作と言うものは その著作者の大変な努力によってなっていると言う事を忘れてはいけない物凄い努力で出来るものであって、経済的な栄誉、社会的な栄誉,なんかの意味での評価が有って 初めて人間はそれだけの努力が出来る  大雑把にいえばそう考えてもいい  
だけれどもITとは著作者をそこまで優遇しない傾向がある
極めて民主的であって、いろんな人がボンボン声を上げて自分の物を発表していい  
後は多数決で選ばれるような状況で、そこには編集者が介入しないし著作者が必死の努力をしたかどうかは、関係ないと言う様な処で評価が決まって来る傾向がある   
広く、速く、安く 著作物を大衆の物にすることは絶対いいのだが、この方法では本当に良いものが出て来るかどうかは、非常に危ういと思っている

未来に対しては非常に心配です  
情報もいろんな形で情報が出ているけれども、そういうもので得た情報だけではものをやってゆくわけにはいかない
必ず得た情報の裏を取らなかったら、何か公的なことをやろうとしたらそれでは駄目 
百科事典は必ずしも100%信頼できるかどうかは解らないが、品質は9割がたは正しいものが
ずーっと出ている
IT関係の情報は実に危うくて、それでやってきましたよと言うことはとんでもないことになる
具体的な取材が無くても流れて来るものを纏めるだけで記事が出来る  
しかし本当のジャーナリズムはたった一つの事を調べるのに命を掛けて取って来ると言う作業がある

命を掛けてきた情報も 何となく得た情報を纏めて書いたものを 結構似たように見えてしまうのであったら誰がそんなことに命を掛けてまでやるかと言う、ジャーナリズムの生命に係わって来る
一番重要な問題だと思うが この頃 ちょっと命に係わっていないなと言う記事が見られるようになってきている  システムがその様になってきている  
IT化の危険は常にその辺にはあると思う
質の確保は 矢張り 人なんだなあと思います   
情報を得ると言う事では図書館は2番手になってきている 
世界の情報を瞬時に集める様なコンピューターをくしする機関の方がずっと凄くて、図書館は決してその様には成っていない処が図書館には人がいる 

ゆったりしているけれども自分にとっては必要な情報を求める人はたくさんいるので、自分は何を求めたいのか解らないと言う様な時には 人によって提供できるということは必要です
若い頃に 中勘助 「銀の匙」  ある時代の日本文の美しさを見事に反映している  
「ひっきょう」「つきづきしい」(ふさわしい 似つかわし) 「にび色」(灰色とも言えないはっきりしない色) 
「源氏物語を知っていますか」  古典の知識 原典を読むのが一番いいが 小説家として立ち
向かってみたいなと思っていたが 2年前から始める
自分なりの古典に対するひとつの見方が無いといけないと思った

紫式部 どうしてあのような才能を持ったか判らない  
19世紀から20世紀にかけて小説の黄金時代と言われた完成化された技を紫式部は本当に駆使している
誰かの影響を受けたということはない 宇宙人ではないかとさえ思う
「源氏物語」は世界に誇れる文化だと思う 
今後どれだけ書けるか判らないが短編小説を何か加えて、珠玉の短編小説を書いてみたい
井原西鶴 エンターテーメントとして一番的確に具現した作家だと思う 大阪の血を持っていないと
解らないだろうなと思います

2013年2月10日日曜日

阿刀田高(作家77歳)      ・本の現場へふたたび 

阿刀田高(作家77歳)              本の現場へふたたび 
昭和10年生れ 早稲田大学卒業後、国立国会図書館に司書として11年間勤務 勤務中から
執筆活動を始めて、1978年「冷蔵庫より愛をこめて」
1978年「ナポレオン狂」で直木賞を受賞 短編小説の作者として知られて、これまでに800以上に成ります
又ギリシャ神話を知っていますかなど、世界各国の古典を読み説いた随筆などでも知られています
2007年~11年まで日本ペンクラブの会長を務めました 去年4月~山梨県率図書館の館長に就任、図書館運営の最前線でも活躍しています
山梨県立図書館の館長になってほしい知事の用命を受けた人が是非やってほしいとい言われて、一旦断った  本に御奉公しようかと思って引き受けた
借りたい人が本を借りる操作を自分で行う
 
操作なしで本を持ち出すとブザーが鳴るようなシステムになっていて、問題なく稼働している
正職員ではない方が組織されているが、変更するのは難しが基本的には本来の図書館員が保持されている   本はそんなに簡単ではない
自分が何を欲しているのかと言う事が解らない人が一杯いるし、何となく知的な空間であると言う事も 庶民の文化機関としても一定の理由があるだろうと思っていますし、司書の存在、優秀な図書館員の存在は必要だと思っている
昨年11月にオープン 2カ月間で昨年の1年間の利用者を越えた 
4~5倍になったのを処理するのは難しいが、館員は良くやっているなと思っている

利用者はある限られた人と思っていたが、8割ぐらいが従来の図書館を利用した人ではない 
7~8割は図書館とは縁もゆかりもなかった人  新しい人達 市民の認識が変わったと思う
(素晴らしい事)
重要性の順番 ①人 ②本 ③施設  
一番最初に知事と一緒に記者会見した時に話したことではあるが、これは私の考えだと言った
子供の読書 どういう本が面白いのか 子供が好きか 
子供に話しかけながら共に読書を楽しんでくれれば、子供は直ぐに本を好きになり、楽しんでくれる
人の存在がとても大事だと思う   
本も沢山有ればいいが、本当に必要な本は何か と言う問題ですよね  
コスト計算をやって確かに ニーズが多い
本だからこれを10冊、20冊も購入するのか 実際大きな問題になっていてベストセラーをどうして待たされるのかと言うもっと購入すればと言う様な要求もあるが、図書館は単なる貸し本屋さんではないので、図書館としてどうしても備えておかなければならない本、 それは3年に1回借りられ無いかも知れないけれども、3年に一回切実に求める人がいる 
それはそう簡単に手に入れる事が出来ない と言う様な本に対しても準備をしていると言う事も
公共の図書館として大事な役割であり 今、街の本屋さんで購入できる本は買って読んでくださいと言うのが本音であって学生、いろいろ経済的に不自由な方で資料を求める方がいる

しかし 私達は有償で労働に対してお金を払って享受すると言うのが本来の姿であって,本も自分がその本を求めるのであれば、定価を支払って求めるのが一番正常な社会行動であって
、いろんな理由によって無料で市民に提供している
そのことは忘れてはならない  
10冊、20冊そろえることは 違う必要な本を購入出来ることでは無くなるので 市民の要求の判断が図書館員に求めれられるわけで、一番大切な判断であるわけで、だからこそと図書館員が知的であって、本について通じている事が大事です
大英図書館が無かったら、あのカール・マルクスは誕生しなかった(大英図書館でマルクスは勉強して理論を確立した)と冗談交じりに言っている
彼の読んだ本は街には無かった  もしかしたら山梨県には役に立たないかもしれない 

どこかの国の役に立ってしまうかもしれない
図書館員も知的な職業なので先生と同等かとも思う 周りには認知されてはいないが
学生時代に肺結核になり、治ってはいたが、矢張り就職が難しく 一番の志望ではなかったが、
採用試験を受けたら国立国会図書館に入ることが出来た
(一般的には健康診断ではねられる時代だった)  
図書館としては特殊 800人 1/4が国会議員にたいしての提供  国立の中央図書館 (一部が国会議員に関する仕事)図書館の為の図書館ですね
11年間整理部にいた 情報の処理をやっていた  本の分類(前半)をやっていた
  
それを記号化する作業  後半は洋書の担当 整理する
あらゆる言語の本が入って来る (失敗があったが)  普通の図書館とはまったく違う 
原稿の執筆も並行して始める 文学が好きで 表現者でありたいと思っていたのかもしれない  
給料が安かった 両親が早く亡くなり 自分で生活しなくてはいけなくなっていて、PR誌の執筆を求めていて、資料には全く困らなかったので 小使い稼ぎをやる様になって、雑文を書くようになった
本来の業務よりも収入が多くなって、辞めてしまった  
(今から思うと背筋に冷や汗が出る様な決断だったが)
40代 で雑文書きではいけないと思い、短編を書くようになる  
以前は新人は短編から入った 
変わってきて 一作どんと書いてデビューするような方向になる    
「冷蔵庫より愛をこめて」  欧米人はしゃれた作りものを書くので、その様なものを書いてみようと思った
本質的には短編が好きだったような気がする 

「ナポレオン狂」を執筆 図書館めぐりの事を書く企画があり ゲーテの事なら何でも知っていて、収集もして居る人がいて、若い頃からゲーテが好きな人で この人が小説のモデルになる人なるかなあと思って、ゲーテは止めてナポレオンを対象に作品を作った
「怖いもの見たさ」が有るので、人間は知性を持った時から 知らないものに対する恐怖は心の中に私達は積み上げてきたのではないか
その恐怖体験は私達の遺伝子、血液の中に流れているはずだと思うので、恐怖を書くと言うのは人間の考え方だとか、根源にある不安だとかに肉薄して行くことが出来るのではないかとか そういう方法によって人間の不条理を描けるのではないかと言う事で恐怖について興味を覚えています
無意識の中の恐怖、自分が自分を良く解っていないと言う恐怖は 歳を取ってきて 段々と解る様で怖いですね

恐怖を味合う事によって、恐怖に侵されない自分を意識する  
「ひかれものの小歌」 あえて一番大変な状況に有るのにもかかわらず 歌を歌って俺はこんなものにへい気だぞと 性格と言うか人間だれしも持っていることで 恐怖と言うものを恐怖文学を読むことによって恐怖を鑑賞しているんだと 本当に怖がっているのではないと いう人間の誇りがそこに有るのではないかと思います

2013年2月9日土曜日

長尾和宏(医師54歳)       ・平穏に最後を迎えるために

長尾和宏(医師54歳)    平穏に最後を迎えるために        
震災後、長尾医師は徐々に開業への意志を固めていた
不治の病でも末期の状態でも延命治療がおこなわれる現代の医療 死を考える時にだれしも
考えるのが、平穏に最後を迎える 平穏死です
長尾さんは死をむやみに先延ばしにする延命治療を受けない選択肢もあるのではないかと
考えています
自分らしく生き抜きたい 自分の最後は自分で決めたい  
そう考える患者と向き合い700人の患者を在宅でみとってきた長尾さんに
ご自身の経験と現代医療の現状を踏まえ、平穏死とは何か、満足な死を迎えるには
どうしたら良いか伺います

クリニック365日 24時間対応している 10人のメンバーでやっている 
在宅診療も含めて250人ぐらい1日在宅患者300人位(病室が点在していると言う風に考えている)
看護師25人  在宅医療は往診と訪問診療から成り立つ  
訪問診療は毎週何時に行きますと言う様な形
向こうから問われて(出前みたいなもの  夜中でも出掛ける 私だけで夜中はやっている 
酒も飲めない)行く形 
実際に行く事はそんなには無い 電話だけで済む場合が多い 
年齢層も0歳~100歳まで多岐にわたる

神経難病で呼吸が出来なくなる若い患者もあり、対応している
歳がいけば、長患いをせずに1週間ぐらいであの世に行きたいと全員が思っているが、
殆ど叶いませんよと言うのが現実です
病院に11年間勤務していたが、いろんな病人を見てきたが、食べれ無くなる、血圧が下がる 、
貧血が起こる いろんな処置をする
点滴、輸血、酸素 いろんなことをやって行く 
管だらけになって苦しんで最後は麻酔を掛けられて亡くなって行く    
本人はそのつもりではなかった声が聞こえてきそうもない状態に医療は成ってしまっている
死は敗北だと 1分1秒でも延命することが医療の使命だと考えるようになってきている
在宅医療で沢山の死を見てきた 自然に任せて延命治療をしなければ、苦痛から解放されることが解りました

癌の末期は苦しむものと思っているが、しかしそこまでは苦しくはない  家族は吃驚する  
こんな楽な最期だったとは夢にも思わなかったという
治療した上で 抗がん剤、放射線 等やって 止め時が大切  食べれ無くなると点滴をします 
沢山します 
胃がんに成って癌性腹膜炎に成って腹水がたまる 腸閉塞みたいになり、食べれない 
弱ってゆく 脱水だと言う事で 首のところから高カロリー融液を投入する
沢山点滴する  一見いいように思うが、点滴の中身にはブドウ糖が入っている  
ブドウ糖は先に癌に取り込まれる  
PET 造影検査 造影剤を注射すると癌に集まる
  
原理はブドウ糖を注射したら癌が先に取り込む だから癌が光る訳です 
癌の末期の人にブドウ糖を注射したら 癌に集まり癌に餌をやる と同じ事になる 
延命治療というが、縮命治療だと思う   水がたまっている 腸の壁がむくんでいる  
お腹の中に水が過剰な状態 そこに水を入れる
本当は水を抜かなければいけない あるいは乾かさなくてはいけない 
処が待たずに逆に水を入れる そうすると余計にむくんで、水がたまる
水がたまると抜く訳 又脱水だからと 水を入れる   そういう処置材は要らない  
待っていれば腹水は減って行く  今の医療は待てない
基本的な事が全く考える機会がない 教育が無い  
終末期医療 についての理論的なものがない 

食べられない だから栄養を与えなくてはいけない だたそれだけ   
老衰、癌の末期 にそれをやると苦しんで苦しんで亡くなって行く
そういう事をやらなければ枯れる様に穏やかな最期がある 病院では待つと言う事がない 
患者は食べれませんとなると 待つと言う事をしないで、では点滴をしようと言う事になる
死は敗北だから何とか手を打ちたいと言う事になる  貧血 ほっと居たらいい  
癌の方は困る 栄養が来なくなるので待っていればいい
輸血しましょうと言う事になる そうすると癌にとっては良い環境に成る 
輸血して吐血して輸血して吐血  苦しむ  おかしいかなと思うようになって  
開業して在宅で自然死にしたらそういう事がないと言う事が判った

17年間やってきたが、その様なことがない  延命死 自然死は全く違う  信じてもらえない 
有名病院に3度ほど講演したことがあるが 首をかしげる
勤務医の最後の時に末期の人の首の癌の人、何もしないでくれと言われて 
なんにもしなかった事があった 1週間で亡くなるかと思ったが
1か月生きぬいたことが有った  延命治療をやらなければ、穏やかな最期は可能です
その様なことを信じてくれる医療者がほとんどいない 医療界ではまだ信じられていない  

父は鬱病で入院していた 高校3年生の時に父は自殺をしました 
父が京都に連れてってくれと言われて一緒にいった 中途で行方不明になって
警察に捜索依頼して、3日後に連絡があり、警察署の安置室に遺体と対面した  
父親の顔を見た時に初めて死と対面した
医者に成りたくて 人間をみたい 人間を観る医者に成りたいと思った  
「良き生」  生きることは楽しむこと 食べること 出来るだけ笑って過ごしたい
其れを叶えてやれるような方法を教える   それが医者の仕事ではないかと思った 
その先に自然な死が有るわけですし  癌、認知症 老衰でも 
ある程度先が見えてきたら、省エネモードに身体が入って来る  
省エネモードを邪魔しないで温かく見守る
 
必要なこと 例えば痛いとか、は苦痛だけは取ってあげる  緩和医療で取ってあげる  
それが本当の医療ではないかと思う
楽しく生きる その結果として一番最後には楽しく死ねると言う事がある   
末期がんのひとでも平穏死では食べて1時間後位に亡くなる
中々信じていただけない  そんなわけないだろうと思われている
サポートしてくれて見守る医者、看護師さんがいるかどうか (癌の末期、老衰に関して)
家族の問題が大事、  家族は救急車を呼ぶ(救急車を呼ぶということは延命処置を施すと言う事) 
ほっといてくれと遺書でも残しておくことも必要  
延命治療は要らないと、死ぬまでの処置の仕方を遺書にしておく  
リビングウイル  終末期に対する自分の意志を文書にしておく
公証役場では煩雑なので日本尊厳死会 団体に入ると元本を管理してくれる 2000円/年  
入会することも大事だと思う

法的に或る程度は有効だが、不透明な部分もある  倒れた場合家族が運んだ場合 
医者がそのカードを観ても延命治療をしてしまう場合があるかもしれない
家族が医者を訴える可能性があるかもしれない  延命治療をしなかった 延命治療を中止したと言う事で医者が書類送検されてきたという歴史があるので、延命処置をしなかったという事で
逮捕されるのではないかという恐怖が医者の側に有る

終末期の患者の意志を尊重する法律を国会の中で尊厳死議連 8年前から検討されている  
終末期、リビングウイルが有って終わりが近い 2人の医者のがいて判断して、逮捕されることがないという法律が検討されている
日本老年医学会  患者の終末期 患者の不利益が多い場合は 中止してもかまわないと
言うガイドラインが出ている
法が整えば日本の終末期医療も変わって来るのではないかと思う
「平穏死 10の条件」執筆  救急車を呼ぶ意味を考えよう  癌の末期で家で死にたい と
1日、2日だと  呼吸が止まった 救急車を呼ばれる

そこでいろんな処置をされる   本人の意志と違った事に成ってしまったと言う事がある
家で看取りと言う事に成れば救急車を呼ぶこともない  
救急車を呼ぶ云うことは延命処置をするという事に成る
胃糧(いろう)  本来は子供のための物だった(お腹に管を通して直接胃袋に栄養を与える道具) 使い方の問題 
食べれない人がもう一回食べれる様にするのが本来の使い方  
嚥下のリハビリ そしてもう一回たべれるようにする
アンハッピーな使い方 意志疎通が出来ない植物人間 飲み込みが出来ない 自分の唾さえ誤飲してしまう  本人は嫌がっている かわいそうな使用方法 

認知症は増えていて、段々食べれ無くなる 欧米では胃糧しても延命効果はないと認められた 
終末期に胃糧を入れることはない 
日本ではいろいろな意見がある  日本は胃糧が作り方、管理がうまいので延命に効果があると
も言われている
ハッピーな使用方法にしたい  胃糧を止めたいとの相談が一杯ある  
訴えられる事があるので止めることは難しい
今後は超高齢社会が来るのでどうしたらいいのか 課題がある
死はみんなやって来る  考えたくないことではあるが 少しは考えようと  リビングウイル 
自分の最後について或る程度考えておく 具体的に、実行しておく  自分だけでは完結しない 家族、医者 自分によりそってくれる理解の有る先生
を探しておく    ブロックして呉れる家族、外に表明しておくことが大事ですね

2013年2月8日金曜日

寺井尚子(ジャズバイオリニスト46歳)) ・ジャズで私は開花した

寺井尚子(ジャズバイオリニスト46歳))     ジャズで私は開花した   
4歳でバイオリンを始め 12歳と14歳時に学生音楽コンクール東日本大会で奨励賞を受賞 
親や周りはクラッシックバイオリンのソリストを期待していました
左手を健症炎で痛めて、休止するしかありませんでした 
その後にジャスのレコードを16歳で゙聞き、ジャズに目覚めて、多くの人との出会いで、ジャズ バイオリニストとして開花したと言われます  

プ゚ロデビュー今年で25年 すべてのジャズの音楽が私の栄養で有、なんでジャズバイオリニストが居ないのだろうと思っていた   
自分でバイオリンで表現してみたいと思った あっという間に25年がたった  
振り返ることなく走ってきてしまった
お腹の中に居る時から 胎教で聞いていたらしく 物心ついた時にはヴァイオリンが好きでステレオからかかっていたので最初に楽器を手にしたのはバイオリンでした  
4歳から習い始めた 母もバイオリンをやらせたいと思っていた様だ(母は音楽家ではなかった)  
NHKの教育TVのヴァイオリンの番組に出る (5歳)  
そこで頑張らなければという気持ちが出てきた
コンサートでその先生がホールで演奏しているのを見て私もプロに成りたいと思った
12歳で学生音楽コンクール 東日本大会に出場 12歳で奨励賞 
14歳でも奨励賞 受賞 (順位的には4位)
健症炎になって(13歳ぐらいから段々) 動きがスムーズでは無くなる  
今も上手に付き合っている(ケアの仕方等含めて)
他のジャンルも聞いてみようとふっと思うようになった 
音楽の旅が始まった(目的もなく 従来は課題曲だとかバイオリンの曲を聞いていた)

モダンジャズの名盤中の名盤 ピアニスト ビル・エヴァンス のワルツフォーデビー というアルバムに出会った(16歳)  こんな世界が有ったんだ という驚きだった
未知の世界を体験したと言う感じだった 自由だなと思った  
レコードに合わせて弾いてみようと思った
治療に専念してクラッシクの事は脇に置いておいた ジャズの方に段々入って行った 
しかしジャズの方にはバイオリンはいなくて自分で勉強した
ジャズミュージシャンと出会う ピアニストの方からバンドを組んだ方がいいよと言われる  
ベースドラムを紹介して貰ってバンドを組むことになった

思うように行かなくてメンバーの笑顔にするにはどうしたらいいか、とかを考える日々が続いた 3年ぐらいたった時にこのままでいいのかなと言う不安が生じた
段々全国に知られる様になった  
ジャズの大御所 ピアニストのケニー・バロン に偶然会う事が出来た 
1年後にレコーディングが有るのでゲストで来てほしいと言われた  
迷いが確信に変わった(それまでは真っ暗闇のトンネルを走っているようだった)
レコーディングが終わってやっと明るみが出た感じだった   
課題曲3曲  イメージだけで何かやってみないかと言われた 
 
自分が弾き始めるので感じるままに弾いてほしいと言われた、それが始まって8分間
アルバムにも収録された   
音の中に入っていくと言う感覚でその時には、自分では覚えて無かった
(何も決めないで何にもない白紙の状態からイメージだけで形にする  
これだ 私のやりたかったのは と非常に緊張した思いがある)  
新たな一歩を踏み出した(28歳)  いい出会いがあった  いいきっかけになった
ジャズは自由ではあるが、ルールはある  リズム感に関するルール  
演奏の弾き方に関するルール  その人その人の感性 即興でやる時の感性
自由になることは難しい 本当の自由 いかに自由になるか がテーマですね  
第18回日本ゴールドディスク大賞 平成21年度(第60回)
文化庁「芸術選奨新人賞(大衆芸能部門)」 受賞する

2013年2月7日木曜日

庄村昌子(押し花作家)     ・押し花に新しい命を吹き込む

庄村昌子(押し花作家)   押し花に新しい命を吹き込む
四季折々の花々 残念なのはそれらの命が短い事  色鮮やかな美しい状態をいつまでも保つことが出来ないものだろうか  
実践しているのが庄村昌子さんです  
一般にはセピア色に変色してしまってのその状態を望むべきも有りません  
庄村昌子さんの押し花は美しい色鮮やかな状態を保ったままなのです  
アトリエで毎日15時間近く花と向き合う押し花作家の庄村さんにお聞きしました

実際の花びらで作った絵の作品 子供時代から山の景色を見るのが好きだった  
押し花なので立体的に成っていて光のさし方で印象が違ってくる
シール、ボンドを使わない (いろが変色する可能性がある) ガラスを乗せて真空にするようにする
絵を勉強してなかったのでコンプレックスを感じる時もあったが、いまは自由に描けるので、却ってよかったかなあと思う
新鮮な花を使う  花びらを分解してしまう  一枚ずつ押して 花びらも裏からカッターで傷つける 牡丹等は花粉から中の花芯からばらばらにして取っておく  
再構成する シール、ボンドを使わない ガラスを置いて真空状態にする    
花びらだけを真空状態にしても色が変わる 茎を入れて葉っぱを入れて 咲いている時のように咲かせることで、作品の中にしてしまうと色は変わらない

だから私は額の中でいきていると思います  
プランターでいい子ね,いい子ねといって水を入れて花を咲かせるとその花は色が持たない
逞しく空からの雨を待つ様な、花でないと駄目  桜もこの絵には何千個、何万個と入っているが、一晩で作る
花びらを2~3枚落とす そうすると落ちたところから並べて行って、失敗したりして繰り返しながら出来るようになった
修羅場をくぐり抜けた花が綺麗   鋏を入れようとすると嫌だという花がある 
その時は又来年にね  といって切らない

これが押し花なの 嘘! といって驚いて貰うのが嬉しい
道端に綺麗な花が咲いていた 黄色い花が咲いていた 
足をとめた時からが私の押し花なんですけど  可愛いタンポポの種類 取ってきてコップに
入れて見ていたら癒された  これを押し花にして送ったら喜ばれると思った  
押し花カードにして送り始めた
私の押し花の原点は、お世話になった方への恩返しです

友人が花を持ってきて 押し花にしてほしいと持ちこまれて 沢山押し花にした
メロンも押しフルーツなんです  お中元にメロンを貰ってお返しに何をしようかと思ったが 押しメロンにしようと思った
先ず半分に切って、中身を取って ティシュペーパー、とかキッチンペーパー、とか新聞紙を細かく切ったものをぎゅーっと詰め込む 
上からちょうどいい具合に押してゆく 最終的には一枚の紙状のメロンを作る 
押す時に圧力がかかるところは黒っぽく見えるので まあるく見えるようにする

貰った相手がほんとうに吃驚する  
頂いたものをフルーツのブドウから茄子とかいろいろものを作って額にして送る様になった
花が私の事を解ってくれたみたいで一気に咲いていたが1本だけつぼみのままでいてくれた 
つくしが出て来るのが判る (今日行かなければならないと思う)  私の押し花はつぼみを使うので取る時期を3日を遅れるといいものが出来ない
其れが一番大変ですね  花に自分の時間を合わせなければいけない
ガラスを置く時に子供に手つだって貰ったが、静電気で全部ひっくり返したことがあり、以後一人でやる様にしている
猫柳で富士山を描いている 光の屈折を教えてくれた 
光り方が全く違う 花びらは光を持っている どの角度で花びらを表現するかで、
飛び出すようにも表現できるし、みずみずしくも表現できる

猫柳は植物の一番いろが綺麗と言う事を教えてくれた 自然界の美しさを教わりました  
猫柳はつぼみのつぼみなので皮をカッターでとる 
空からにしたものを上を向けたり下を向けたりする たつ場所にしたがって陰影が判る様にしたかったので猫柳を使いたかった
いろんな角度からの富士山を作っている  富士山は先生  15~6個 作品を作っている
何万個という猫柳を使ってやるのでもうやりたくない様な事があるが、頑張っている

群馬に花を摘む場所がある  取ったら数分後には押し花になっている 
鮮度が命 ピンクのリンドウは紫っぽくなるがそのまま入れてやる
農園には何種類を栽培いているのか 自然のままに栽培しているので解らない  1600坪ある  主人が農園を担当している(草取りが大変)
不思議な出会いがいっぱいあって 雪割り草 佐渡旅行で隣に座った方は佐々木さん 
たった一つだけ押せない花 がある  雪割り草は茎が細くて
可愛くて鋏を入れられなかったと言ったら私はその花を20年間育ててるので来なさいと言われた
作品にしてお返しに額にして手紙を書いて送った   
メールは便利、簡単だが、感謝した時に 言葉でも、手紙でも、物でも 返すと言う事が大切だなあとつくづく思います
海外でも注目されている  賞を頂いた  富士山  日本人は素晴らしいと言われた  
あちらの押し花はチューリップ ひまわり はっきりしたものが主流らしい  
色が微妙に変わるものをそのまま表現するのが、考えられないことだと とっても褒めて貰った(私は行ってないが)       ルーブル美術館に飾った  
   
岩手県大槌町 人口の1割が行方不明 姉は仮設住宅で暮らしている  
7,8年前に老人ホームに送った作品が飾ってあり それを見て姉たちは頑張ろうと抱き合ったとの事(津波の直後には姉たちはその老人ホームに避難した)  
どういう状況であれ 花は文句ひとつ言わすに全うして生きる  花のように生きたい 
自分に与えられた場所で文句を言わないで 自分のできることを精一杯して、それで咲けたら、何て素敵なんだろうなと思います  
花に教わることが一杯なんだなあと思います   
押し花を通じて、いろんな人の手伝いが出来れば、感謝あの心を伝えるお手伝いが出来れば
何て素敵なんだろうと思います

2013年2月6日水曜日

矢部輝夫(新幹線清掃会社専務) ・お掃除に必要なのはおもてなしの心

矢部輝夫(新幹線清掃会社専務)      お掃除に必要なのはおもてなしの心  
東京駅のホームで車内清掃をする人達 JR東日本新幹線清掃スタッフの皆さん 清掃作業だけでなく乗客案内なども行いお掃除のイメージを変えてしまいした
清掃会社からおもてなし会社に変身させたのは鉄道の安全システムの専門家で 清掃サービス部門に全く門外漢だった矢部輝夫さんです

7年前に、この会社にきた こういうことをやったらどうかと行ったが、最初反発が来たが、何名かのリーダーがやってみたらどうかと言う事になった
東北地方に元気がないと言う事で東北地方に元気を出して貰いたいと 、着ているもの替えたり、桜の花、ショウブの花等をキャップに付けたりした
被災地と直接つながっているので、やり始めた   (浴衣、アロハシャツ等を着てやったりした)  
平成9年に制服を変えた 夏はアロハシャツに替えると言ったら挫折した 
去年7月に新しいことをやるという事に成り 有る人がアロハシャツを着ようと言いだして替えることになった  
掃除をするだけでなく お客と一緒に旅をするんだという考え方が出てきたことは素晴らしいことだと思った  
こうしなさいと言っても中々人間は旨く行かない  
雰囲気を作るのが大事 本当に皆が思ってくれないと出来ない
新幹線が入って来てから掃除に取れる時間は  12分で新幹線は折り返しする  
お客さんが降りるのに2分   掃除が終わって発射するまでは3分
合計5分 お客さんは2分では降りられない(3分~4分)  
掃除時間は7分を頂いているが、実質は5分30秒位でやってほしいと言っている

現在いろいろな人が見学に来ている 本業をきちっとやるのが、体幹を鍛える 
自由さを求めてゆく
新幹線の単位は秒で動かしている  
フランスの国鉄総裁が見学に来てこのシステムを持って帰りたいと言っていた
フランスはTGV 話が来たが そのままに終わっている 
ドイツ国営TV UIC(国際鉄道連合)が来て、こういうやり方があると国に持ち帰っている
元々こういうやり方 平成3年に東北新幹線の東京開業以来 やっているが 全体の会社の雰囲気、とかミスが多かった
努力を評価しながら、やる気を出すようにしてゆくのが大事 

現場段階の清掃を替えると言うよりもマネージメントを替えた
上からやれっと言うのではなくて、本社が現場第一線のバックアップ機関だとして、現場の努力、成果をみながらきちっと 評価してゆくことに切り替えた
自分が認められることに生き甲斐、やりがいが出て来る  ミスも本当に少なくなった  
管理は管理すること 
管理と言うんではなくて本社が現場組織を旨く動かすための潤滑油です(マネージメント)    
怒って動くならばこんなに簡単なことは無い  
動く事 そうするためにはどうしたらいいかをディスカッションをマネージャー研修で行う
東京駅(東京サービスセンター)には450名いる  他を含めると820名いる   
1組22名構成 で11組ある  120本の列車 一人1車両担当
1400両全部をこなす 1日こなす  
東京駅 新幹線を13万人を利用する  掃除だけではない 
それ以外の事もやろうと言い出したら矢張り最初は批判された
制服を替えらた掃除以外の事をどんどんお客さんが聞いてくるようになった  
それに対して解りませんとは言えなくなってマニュアルを作り勉強した

言葉使い おもてなし教育(マナー)と言っているが研修をして現場に送って行った  
まさかマナー教育を受けるとは思わなかったと当時は言っていた
何で掃除をするのか との問いに お客様に旅を楽しんで貰う為に清潔な空間を提供する 
解ったと でも みなさんがそのレストランのウエーターとか、ウエートレスがぶっきらぼうで愛想が悪かったらどう思う  
如何に料理がうまくてもげんなりしてしまう  
シェフの料理は清掃 ウエーター、ウエートレスの様な態度、その様なことはやってないでしょうね と言った  一方では態度が悪い ほんとうの目的は何だと改めて問うた  共に歩む   
笑顔、お辞儀の仕方 方法として知っておいてほしい  
コミュニケーションは笑顔だけでなくて声の調子、顔の動き、目の動き、身体全体でコミュニケーション をしている 
  
デビルノートとエンジェルノートが有る   いいね 面白いね とか、人をノリノリさせる言葉が45語ある 従業員が作った   
具合い悪い言葉 見損なったよ  やる気あるの のろいんだよ とかの言葉が45語 ある
上に立つ人間がそういう言葉を発するので 主任以上に渡してある  
効果はアンケート調査をしようと思っている
「一言で人を殺し、一言で人を生かす」  良くしてゆくためにはマインドしかない
私は国鉄に入って安全問題に関して35年やってきた  
ATMとか安全システムが仕事だった  
「安全の語り部」 制度があり その分野もやっている
安全システムは直ぐにはできない 出来るまで時間がかかる 
運用し、メンテナンスするのは人  人をどうするかが 問題  掃除も同じ

会社は人の塊  最終的には人 人をどういう風に考えるかをずーっとやってきた  
人は情緒的な生き物 
新卒社員はいない パートから始まる  1年パートをやってくれれば社員試験を受けられる  
そして2年経つと主任試験を受けられる
主任に成って3年経つと管理者試験を受けられる  
守 破 理  武道の世界  守:師匠から教わる  
破:現在の状況を打破する(現在の状況)  
理:限りなくお客様との世界に(考えているが難しい)
夢を持ちながら そのためには土台がしっかりしていないといけない 
   
矢部さんはほら吹きだけど実行するね  と言われた 
「ほら」は 実践すれば「ビジョン」に成る  
貴方達はJRの東日本新幹線という世界最高の技術をもつ車両のメンテナンスを清掃という面から請け負っている
技術者である と言っている   掃除と言う言葉を段々無くしてゆこうと思っている  
「清掃中」→「乗車準備中」(違う要素を含んでいる)
人は認められる事にモチベーションが変わって来る     
爽やか(爽やかな空間)、安心(安全を第一に)、暖かさ(旅のおもてなし温かな思い出) 
これがモットーにしている    
スタッフはいろんなことを考えて、我々はバックアップする

2013年2月5日火曜日

井上たかひこ (水中考古学者)  ・歴史を開く水中考古学

井上たかひこ (水中考古学者)  歴史を開く水中考古学
井上さんは昭和18年生れ サラリーマン生活を送った後、43歳で脱サラ アメリカに渡って
水中考古学を学びました  
学位を得た後、世界各地で沈没船や、海底都市の調査に係わってきました
水中考古学は嵐や地震などで海や湖に沈んだ遺跡を古文書や言い伝えなどを元に探り当て、
歴史を裏付けたり、謎を解明したりする考古学の一分野です
これまで地中海をはじめとする 海底で多くの古代の遺跡 遺物が発見されて話題になりましたが 
日本でも一昨年、長崎県沖で13世紀のモンゴル軍の沈没船が見つかり 
元寇という歴史的事件の解明に役立つものと脚光を浴びました
水中考古学の可能性は大きく広がりつつあります  
海底を探る方法は空気を詰めたタンクを背負ってのスキューバダイビングが 中心ですが
科学技術の発達で音波探知機や水中ロボットを使うことも多くなり今後の発掘への期待が
高まっています

平成23年にはユネスコの水中遺産保護条約が発効しました 
その影響を受けて 水中の文化遺産と其れを探る水中考古学にも日が当たり始めています 
海に潜ったときにはわくわくしながら発掘している  場合によっては途轍もない財宝に巡り合うのではないかと思ったりして11月ぐらいまでは潜っている  
春先に調査の準備 夏に発掘調査 秋から春にかけてその資料の分析、報告書の作成をやっている
水中考古学は自分自身が潜らなくてはいけないので、地中海では50m位を毎日潜っていました 
プランクトンが少ないせいか薄明るい(日本では暗い)
海底が見えるのが良いが海底が見えないのは怖い  手探りの状態は怖い
千葉県の勝浦沖にアメリカのハーマン号(黒船に近い船)が沈んでいて、それを10何年か調査している  
明治2年たまたましけで沈んでしまったが
その船は函館に籠城していた榎本武陽(旧幕府軍) と戦う為の援軍船(熊本藩がチャーターした船 
熊本藩兵350名 米国乗組員80名が乗船)が横浜港を出発して函館に向かった
処が 勝浦沖でしけに有って沈んでしまって 相当の犠牲になった
全長が71m 当時の日本に来ていた船で最大級 海中で調べると蒸気機関のエンジン 
鉄の棒が一直線に並んでいる  全体像はまだ解らない
船は甲板、マスト等は上の方の部分は流されて無くなって フナクイムシ(ミミズの大型の様な形)が
いるので木を食べてしまう  そうすると上の方は残らない
したの方は永い間に土砂が溜まってしまうので、それに隠れてしまえば酸素が遮断されるので 
安全に守られる

魅力 宝探し的な事(何が出て来るか解らない)  無人島にキャンプ (自給自足 電気が無い 
小型のジェネレーターを持ち込む)満天の星の下で眠れる
長崎県の元寇の船 の調査  (元軍が使った石の玉) の謎解きの楽しさ
地中海だけで難破船が10万隻が眠っている  世界中では 20~30万隻に成るのではないか 
日本では200隻は越えている(解っているのが216隻)
調査が出来ているのは20隻位  ほとんどは未調査に成っている  
陸上の遺跡と比べるとかなり少ない  
1960年から始まったばっかり、国、行政の認識の問題がある

陸上と同じような感覚に成ってきたが、それまでは異端児的に思われていた
表面からは見えない(土砂が覆ってしまっている) 地中海のもっとも世界的に有名な遺跡 
アレクサンドリアのクレオパトラの海中宮殿 
これもあまり深くない 水の濁り、表面から見えない 軍事的なことも有って(立ち入り禁止)  
実際は10~15mくらい  
潜るための潜水技術、危険と裏腹 そういった条件の為に発見が難しい
瀬戸物  天日で乾かしてしまうと壊れてしまう事がある 木片も水を含んで豆腐のようにぶくぶく
している  脱塩して水槽に付けるのは良いが乾燥させないといけない 
下手に乾燥させると歪んだり 縮んだり、曲がったり、元の復元が難しい 
場合によっては壊れてしまう
防ぐために化学薬品でコーティングして ワックスをかけて、元の状態に出来るだけ近くなるように、
保存処理する
そうしないと船の復元はできなくなってしまう  
陸上では発見されないようなものを水中では発見されることがある
沈没船 木造なので陸上では遺跡として残ることは難しい  積み荷から解ることがいろいろある  
歴史的に価値の有るものがある
地中海のウルブルン難破船の場合は 紀元前1350年ぐらい 古代青銅器時代  
今から3400~500年前  ちゃんとした骨組の有る船
象牙 カバの歯 工芸品用   キプロスで生産された銅の板 それにスズを混ぜて、武器とか
農器具だとかを作っていた  1枚27kgが 350枚 約10トン
キプロスは銅の産地 バルト海地方しか取れない琥珀とか リッチな積み荷が積まれていた 

今から3500年前に東地中海一帯を交易する船が走っていた、と言う事が非常な驚き  
ギリシャ人が地中海一帯を支配していた 交易も支配していたろうと  
言う事が定説だったが、 アメリカのジョージ・バス博士が調査したプロジェクト  
ギリシャの船と言うよりもセニキュア人だったろうとの説に傾いてきている
西アジア考古学者も水中考古学に注目しだしている  
陸上では発見できないものが水中考古学で発見されている
歴史の解明 航海史の解明は水中考古学無くして出来ないだろうと言われている  
定説を覆すことがあちこちで見られる

それまでヨットを乗っていた  何不自由なく暮らしていた  何かが足りなかった  
自分の心をみつめた時に  自分の人生で求めているものは
サラリーマンに成ることだったのか  そうではないだろうと  
自分の好きな事を好きなだけやることが良いのではないかと思った
水中考古学に出会って惹かれて行った(43歳)  アメリカに留学した(ジョージ・バス博士のもと)  
英語が出来ないことが辛かった
大学院の授業を取り始めたが落第点を取って烈火のごとくに怒られた  
最後はレポートを出したら、認められた

アメリカは勉強しないと駄目 入学は楽だが、卒業するのが厳しい
カリブ海のポートロイヤルという海底都市があり、1692年の大地震で港町 海賊の本拠だった  
ヘンリー・モーガンがいた)水深5m 銀の海中時計が発見
文字盤は消えて無くなっていたが、レントゲン検査をしたら 時計の針の痕跡が見つかった  
11時52分を指していた 大地震が襲った時刻だった
日本では元寇船に何回か加わった  話題性規模の大きさ 超一級の遺跡
「てつはう」(鉄砲) 蒙古襲来言葉に出て来る 鉄砲(炸裂弾) 炸裂弾がバーンと飛んできて馬が
跳ね上がっている 鎌倉武士が必死になって馬を操縦している
絵が出てくるが、そこに出て来るのが「てつはう」(鉄砲)ですね 
  
元軍が撤退する時に目くらましてきなものだろうと言われてきたが、最近の調査で
その中に鉄屑が一杯詰まっている事が判った  
非常に殺傷能力の高い兵器であることが解ってきた
電子工学が日新月歩で進歩している 水中ロボットを活用しているケースが増えてきている 
そうすると人間が潜れないような水深に調査が伸びてきている  新しい発見が期待される
日本ではまだまだ課題 これに、行政が支援する体制が整っていない
韓国、中国は国家が支援して体制が確立している
  
元寇船については国から金が出るが、以外は資金不足に成っている
もっと貢献できるのにと言うもどかしさはある  水中考古学に対する大學が少ない 
環境がまだ整っていない
マイケル・ハッチャー氏が(イギリス人がオーストラリアに帰化) シンガポール沖に中国の沈没船を発見した  
貿易陶磁器 無垢の物をオークションにかけて、何千万ドルを儲けた
これではいかんと中国は危機感を感じて、中国は国家がバックアップしている
韓国も 1970年代に元の時代の交易船が発見されて 中国、高麗の青磁 等が見つかり、
そのふねも引き上げて 博物館に展示してある
韓国の海軍が支援して潜ってやった 文化財を国威を掛けて調査するようになった  
(日本は寂しい状態)
タイタニック ユネスコの世界文化遺産に批准された(100年経つと文化遺産に成る 商業行為は
出来なくなる)
好きなことをやれるのが人間にとって幸せかなあと思います   
職業を選ぶ時、遠回りしないで 有利、不利で選ぶのではなく 好きかどうかで選んだら、人生に悔いはないのではないかなと思います

飽きが来ないし、後悔することもない 精神的にも安定してすることが出来る 
「斜員」に成れ  滅私奉公を捨ててしまって斜めに構えて、世の中を見る習慣を付けると
良いのではないかと思う 
そうすると少し違った世界が見えて来る 自分流に生きる  
水中考古学を広めるための本を出版したいと現在、執筆中