2016年6月30日木曜日

2016年6月29日水曜日

2016年6月28日火曜日

玉川奈々福(浪曲師)      ・気がつけば編集者から浪曲師に

玉川奈々福(浪曲師)      ・気がつけば編集者から浪曲師に
昭和30年代まで落語や講談を押さえて、大衆芸能のトップに君臨した浪曲ですが、いつしかラジオやTVに登場する機会がめっきり減りました。
そんな中大活躍をしているのが玉川奈々福さんです。
玉川奈々福さんは上智大学を卒業後、出版社に入社して文芸図書の編集者になりました。
著名な作家と組んで、かずかずの本を出しましたが、人生の転機となったのが浪曲の三味線との出会いでした。
初めて間近で聞く三味線の音色に衝撃を受けた玉川奈々福さんは玉川福太郎氏に入門しました。
厳しい稽古に耐え7年後の2006年プロの浪曲師玉川奈々福としてデビューしました。
以来、自分の芸を磨くと共に積極的に様々なジャンルの演奏家と共演したり公演のプロデューサーをしたりしてきました。
新作作りにも取り組み、今日の世界に新風を吹き込もうとしています。
浪曲への熱い思いを伺います。

「左甚五郎旅日記」の中の「掛川宿」の冒頭を演ずる。
譜面が一切ない、微妙な合図で、一席をアウンの呼吸で三味線のかたと進める、自由な芸です。
私は三味線から入りました。
上智大学を卒業後、出版社(ちくま書房)に入社して文芸図書の編集者になりました。
沢山の人々とお付き合いさせて頂き、著名は方で言えば小沢昭一さん、嵐山光三郎さん、井上ひさしさん、山田洋次さん(映画監督)、横尾忠則さん(画家)、志村ふくみさん(人間国宝)、石牟礼道子さん等に色々勉強させてもらいました。
作家の方々と話す時に語彙が豊富ではなく自分が軽く、一生続ける習い事をしたいと思って、或るとき新聞で日本浪曲協会が一般の人に向けて三味線教室を開くという記事があり、参加する事にしました。
三代目玉川勝太郎が会長で幹部の人が大勢来ていて、30~40人位参加したいと言う人が来ていました。
三味線をやった人がかなり多かった。
初代東家浦太郎師匠を弾かれていた玉川美代子師匠がお手本の三味線を弾いてくださって、これまでの三味線の音の概念がガラガラと崩れた。
扱い方を全て教えてもらって、おっかなびっくり触りました。
辞めないで来たのが今につながっています。
隠されたミッションがあって、才能がありそうだったら、ピックアップしてプロに誘いこもうという思いがあった。
翌年7月7日に玉川福太郎師匠から誘われて、その翌月が舞台が用意されていてプロの曲師としてデビューしてしまいました。

主に土日、師匠の曲師として弾く様になりましたが、3~4年経ってもなかなかうまくならなかった。
浪曲での三味線は声の合間をつくって引かなければいけないのに、声とぶつかる三味線を弾いていました。
浪曲が判らないから、一席浪曲を覚えるようにすれば三味線の呼吸が判ると言われた。
先輩から勉強会をするように言われて、浪曲の本格的なスタートでした。
1995年に入門しましたが、2006年に玉川奈々福になりました。(玉川奈々福で10年になります)
ある時師匠の家で酔った勢いで天保水滸伝をやってもらう様に師匠に進言、お前が会をつくれと言われて会を企画することになりました。
かつては3000人位浪曲師がいましたが、少なくなってしまって今の師匠を見てもらったら凄いと言われるのではないかと、天保水滸伝をするとともに、第一回ゲストに小沢昭一さん、第二回に井上ひさしさん、第三回に澤田隆治さん(お笑い界のドンと言われる)、物凄くお客さんが来てくれました。(今まで伝え方が下手だった)
色んなジャンルの人とコラボも行う。(韓国のパンソリ、オペラ、落語、講談など)
自分の浪曲を客観的に考える事になるし、色んな芸能の表現などを見られて、浪曲を考えなおしてくれるいい機会にもなりました。

他のジャンルの歴史、浪曲の歴史、自分の芸能はどういうところから生まれてとかを、話しているうちに色々勉強にもなりました。
三味線は語る人物の感情に寄り添って、語る人物の背景にある世界の風景を、感情を音色一つで描いてくれます。
平家琵琶、謡曲、浄瑠璃(江戸)、浪曲(明治)が生まれる。
私は新作も作っています。
浪曲は義理人情の世界が多いが、そうでないものもいっぱいあります。
老若男女に絶対に判る浪曲をつくってやろうと思って、浪曲「シンデレラ」を作り笑いも取り入れようと思いました。
或るとき「椿姫」を聞いて、この物語は浪曲むきではないかと思いました。
吉原を舞台にして、花魁「松の位」 遊女を椿太夫として考案して新作を作りました。
笑いだけを強調すようという訳でもありませんが30分位あるので、色々感情が動く方が、人の心が躍動するので、笑う部分、ホロっとする部分があると面白いので笑いもいれるようにしています。
「金魚夢幻」 玉川奈々福 創作
深堀隆介さんに金魚を書いていただいた演壇のテーブルかけ。
養漁場の金魚師でん助と今までにない色に生まれてしまった金魚との恋の物語。
子の話は金魚の話の様で、実は私たち人間について書かれており、人間とは何か?という大きな問題が隠されています。
我々日本人が金魚と共に歩んできた長い月日の深い結びつきが、この一作に込められています。
若い浪曲師5名が、どんどん伸びてきています。
生の声の圧は、CDなどとは違う迫力があります。
浅草の木馬亭で毎月1~7日 浪曲の定席があります。


























2016年6月27日月曜日

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!
水色の雨、パープルタウンのヒット曲でおなじみ、1986年イギリス人の音楽プロデューサーと結婚して、アメリカのロサンゼルスに住み、1男1女を育てました。
15年ぶりに日本で音楽活動を再開しようとした時に、東日本大震災が起きて、八神さんの人生は大きく変わりました。
祖国日本の大災害にいてもたってもいられず、必死で帰国した八神さんは、東北の支援活動に乗り出して、協力者をつのって支援ライブ活動に奔走しました。
その後、熊本地震、病院の入院病棟への慰問等、現在もアメリカから帰国してチャリティー活動に東奔西走しています。
八神さんを逞しく支援活動に奮い立たせたものは何だったのか、被災地の人達や、入院病棟の患者さん達と、どんな交流が続いているのか伺いました。

日本の活動から退いて15年、日本に歌を届けに行こうと言う事で、2011年3月11日ロサンゼルスから日本に向かった。
日本に辿りついて、コンサートは延期になり、名古屋の実家に戻って、悲惨な状況のTVを見ました。
八神さんはエンターテイメンター、ミュージシャンなのでこういう時には何かしてくださいと言われて、何ができるだろうと思いました。
ラジオ番組にだしていただいて、一緒に出来る人を探そうと、メールを下さいと言う事を発信しました。
色々な方からメールをいただいて、出来れば一緒に行動したいとか、お金では何とか協力できますとか、被災地に近いのでどこへでも車でお連れします、という様な内容がありました。
太平洋を越えてのPPCと言う活動をスタートしました。
東北支援のイベントを月に一回と、アメリカと日本を行き帰すると言う事をスタートしました。
山形のイタリアンシェフの奥田政行さんが被災地に入って炊き出しをスタートしているが、腹を癒すだけでなく、心を癒すためには音楽が必要だと言う事をおっしゃいました。
奥田さんとはそれからも活動をして、最近は熊本の震災にも今度は女川町の人達と阿蘇に応援しようと言う事にしました。

最初奥州市でチャリティーをやらさせて頂いて、それから南三陸町と陸前高田に入りました。
瓦礫が山となっている脇で歌ったこともあります。
最初は牡蠣の養殖をやっていた30名程度の方たちでした。
童謡を歌っていましたが、「水色の雨」は詩の内容がちょっと合わないと思っていましたが、要望があって歌ったら、皆さんの顔がぱっと明るくなるんですね。
奥田さんの炊き出し料理も素晴らしかった。
最初は欲張って5か所位回りましたが、その場から離れるのがつらかった。
その後は2~3か所にしました。
協力してもらったお金とか、自腹で行いました。(マネージャーとかは無し)
自分の力を信じてやらないと人との良い関係も築けないと思いました。
メールを送っても返信が無くて、自分で力をつけようと初めて思いました。
先ずは人を頼らないと言う事で、メールが来なかったので次に電話をかけました。
最初に電話をかけたのがJAの女性部で、八神さんは名古屋出身なので、愛知の知多の方たちが一緒にやりたいとの事で、場所はセントレア国際空港、自分は力があるんだと思いました。
メールではなかなか動かない、声を届ける、駄目だったら会いに行く事が必要だと思いました。

自分の為にやるのは限られているが、人の為にやろうとすると、何倍にも力をだすことができると思った。
阪神淡路大震災の時にロサンゼルスの自宅でニュースを聞いて歌を届けたいと思ったが、被災者が歌ってと言う様な感じではないと言う事で、その言葉でホッとした自分もあった、自分の歌が求められるか判らないし、迷惑がられたらみじめだと思った。(弱い自分があった)
今回東北の時には、飛んで行く勇気が備わっています。
大槌町街全体が流されていて、寒い夜そこでチャリティーをやって、女の子が歌を有難うと言われて、サンキューカードをもらって、その小学校の3人の子を連れてニューヨーク(9・11でのビル)へ連れて行って、パワフルな街になったことを見せたかったので、歌だけではなくそんなこともしました。
「枯れ木に花を咲かせましょう」 チャリティーのCDになり東北支援をしました。
この子たちは小学校3年生でしたが、去年の春、中学校に行くになり、卒業するので、伺い立派に成長した姿を見ました。
ピアノを弾く姿を見てびっくりしました。
退場の時に「枯れ木に花を咲かせましょう」 の曲が流れ歌を聞きました。

継続していると次に何ができるかが段々判ってくる。
私の声は紅白時代をクレヨンの色で言うと6色だったのが、48色位あると言うぐらいの表現力が付いたと思います。
自分の人生色々あった方がいいと思います。
病院の慰問は、リクエストがあったので歌を歌ったりする活動をしました。
亡くなった人の友達から、あの日は本当に嬉しかったと言うメールをいただいたりしました。
人とのつながりは時間ではないと凄く感じました。
アルバム「There you are」は私にとっても一生思い出に残るアルバムだと思います。
以前の考え方と違って、自分の歌がどういう力を持っているかという事を貪欲に知りたい。
東北の人達に教えていただいたのは、「人間いつ何が起きるか判らない、明日のことはわからない、、確かなのは今だけだから」、私の歌も同じで確かに歌えるのは今日だけと思って歌うと、毎日どこかで歌いたいと言う気持ちと、私の歌を聞きたい人のところに歌を届けたいと思う様になりました。
アルバム「There you are」の中から「1年と10秒の交換」
NHKの取材で女川町で出会った佐々木さん、両親が旅館を経営していたが、彼女は旅館を継ごうと心に決めていたが、両親に告げずにいて、津波にあって両親と旅館を失ってしまった。
彼女は大事な一言を両親に言えずに終わってしまった。
自分のこれからの人生、1年、これを諦めて10秒だけ絶対会えないはずだった人にもう一度10秒戻ってくるんだったら、果たしてその交換は出来るかどうか、それがこの曲です。
彼女はこの曲を聞いて両親に会えるような気がすると言ってくれました。
もう一回抱きしめられたいという気持ちが最近すごく強いと彼女はおっしゃって、この曲を聞くと隣に両親がいるような気がすると言っていました。





























2016年6月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”
ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』  
イタリア音楽家たちによるヴィヴァルディの四季。
鳥のさえずりの音をだすパイプオルガンの音。
ヴィヴァルディの四季の遺伝子。
1678年生まれ 1741年ウィーンで亡くなる。
詩と音楽を楽しむのがヴィヴァルディの四季
*「夏」 第二楽章 
聞きなれない打楽器負の音、をイメージした効果音をチェンバロの鍵盤楽器に紙を載せて、打楽器を演奏するように叩く。

ヴィヴァルディにとってもヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』 は自信作で有った様で、自分のオペラに春のメロディーを使っている。
ヴィヴァルディのオペラが最近見直されている。
ヴィヴァルディはオペラの初期の時代。

*歌劇 「テンペーのドリッラ」から 「そよ風のささやきに」
「春」のメロディーをこんなに堂々とコーラスに使う。

バロックの作曲は自然をオーケストラやコーラスで描く事をやりたかった、特に嵐を描写する事がイタリアのバロックの作曲家にとっては課題でした。
オペラ 『グリゼルダ』 「恐ろしい嵐のあとは」 
モーツァルトの「夜の女王」を彷彿とさせるが、こちらのオペラの方がずーっと先に書かれている。
嵐をホルンがファンファーレの様に荒々しく表現している。

再作曲 ヴィヴァルディの四季を素材にシンセサイザーやコンピューターを駆使して現代版の四季をマックス・リヒターが作って、ヴァイオリニストのダニエルホープが演奏したCDがリリースされて大反響。 
*「春、第0楽章 第一楽章」
鳥のさえずり、春の息吹がここちよく聞こえてる。
オリジナルのいい音を大事にしてそれに色々な色合いを付けてゆく、四季に敬意を払って、さらに今のこういう世界はいかがでしょうか、といった感じ。

*アストル・ピアソラ 「ブエノスアイレスの四季」 ヴィヴァルディの四季から影響を受ける。
他の多くの作曲家も影響を受ける。
*アストル・ピアソラ 「リベルタンゴ」















2016年6月25日土曜日

榎木孝明(俳優)        ・時代劇への想い

榎木孝明(俳優)    ・時代劇への想い
鹿児島県出身 1981年NHK 朝の連続TV小説、「ロマンス」主演でTVデビュー。
そのご俳優として映画、TV、舞台で活躍しています。

伊佐故郷大使、さつま大使、鹿児島お茶大使、本場大島紬大使、さつま焼大使などを引き受けています。
鹿児島は人間性の良いところだと思っています。
大河ドラマ、「真田丸」で穴山梅雪を担当。
歴史は多角的に見る必要があると思います。(勝者が歴史を書いている事がある様にも思う。)
役者を40年やっていますので、役に近づいて行くためには個人の意識は必要ないと思っています。
個人が頑張っても大した表現には成らず、自分のエゴを捨てることで魂が自分にきてくれる瞬間がきっとある様な気がして、それが判れば 極端な話やれない役は無いと思っています。
役がいかに生きて役の魂が喜んで下さるか、に近づく事だと思います。

両親が教職で、姉が3人いて、男らしい遊びは余りしなかった様に思う。
男も着るものは「ブラウス」だと思っていて、デパートに買いに行った時に「ブラウス」と言ってしまった失敗談もあります。
小さい時から何にでも疑問を抱くタイプだったが、「ぎ」(言い訳)を言うなと父親から殴られたりしました。
母親は優しい母親でした。
「お前には無限の可能性がある」と耳にたこができるぐらい母親からいわれました。
母は去年97歳で亡くなりました。(有難うしかないです)
美術系の大学に行って、途中で中退して芝居の道に進みましたが、母親からは泣かれました。
悪い役をやると、世間に合わせる顔が無いと、雨戸を閉めたりして外に出なかったりしたそうです。
NHKの大河ドラマだけで9作品になります。
民放では時代劇を殆どやらなくなってしまった。
日本人の動きがこんなに綺麗だと言う事に気づきます。(食事、ふすまを開ける所作など)
4歳ぐらいから時代劇に興味を持ち、刀を作って独り遊びしていました。

27歳の時に真田太平記をやって、本格的な立ち回り、乗馬などを勉強しました。
落馬の稽古をして、背中の骨を骨折したこともあります。
鍼の先生のところに行って、先生から骨折しているかもしれないと言われて、病院に言って即入院でした。
今を一生懸命生きればいいんじゃないかと思います。
13年構想して、8年前、「半次郎」という映画をやって、リーマンショクなどもあり大変だったがやってよかったと思います。
廻りから99%反対されましたが、妻からは後悔するぐらいだったらやればと言われて、やることにしました。
地元の人にエキストラに多くの方に出て頂き、西南戦争を主軸に脚本を書いたんですが、自分の先祖が西南戦争に参加したとか、大量に出てきて、自分の事の様に一生懸命やってくれて、それが映画にその気持ちが封じ込められ、臨場感あふれるものになりました。
自分で調べたり、本を読んだりすると中村半次郎の生き方にあこがれました。

死と生 死を一生懸命見つめていくと生きている事がよく判ってくる世界だと思っています。
死をうけ入れる生き方が日本人の根底には有るのではないかと思って、そういう事を表現できるのが半次郎を映画化する事だと言う事に至りました。
示現流 抜くまいと、真剣のつばと鞘をこよりで結んでいたそうです、こよりを切って剣を抜いたからには相手を殺すか自分が死ぬかどっちかを選べと言う教えなんだんです。
本当は時代劇をやるときには、そういう奥の精神を表現する人が全体のおなじ様な事を思って作ると全く内容が変わってくると思います。
時代劇再生運動 4年前に水戸黄門の番組がなくなり、打ち上げにも参加して、自分にも何かできないかなと思って、はじめました。
3つの柱があります。
①国主導型で年間映画を10本作り、日本文化を海外に売り出す。
 (黒沢さんの映画が日本の敗戦イメージをどれだけ払しょくしたことか)
②京都近郊に大時代村構想を働きかけている。
 (日本の文化を発信する基地 団塊の世代とかそこに住んでもらって観光地化する)
③日本の根本的な教育を考える。
 (武士道、生と死の感覚をちゃんと教える機関)
日本伝統工芸も危機的状況なので、これも何とかしたいと言う思いもあります。
頭で考えるのが西洋文化、日本は「はら」の文化だと思っていて(はらをくくる、はらがすわるとか)、「はら」文化を推進していけたらと思っています。








2016年6月24日金曜日

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(2)

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(2)
1970年代 シンセサイザーを使った音楽で新しい分野を切り開いてゆく。
NHKでステレオ放送を行い、他のメンバーと共に担当する事になる。
音楽の場合はオーケストラは、フルート、クラリネット、ファゴット、トランペット、フォルン、トロンボーン、チューバという風に、モーツァルト時代までは楽器は改良されたけど、ワグナー以降はそのまま、殆ど新しい楽器は開発されなかった。
アメリカでモーグ・シンセサイザー(アメリカの電子工学博士であるロバート・モーグが開発したアナログシンセサイザー及びその製品群) どんな音でも作り出せる装置を作りだした。
これは凄いと思って飛び付きました。
今までの楽器の延長ではなかった。
自分の描いた情景をそのまま現実の音として出している。
音色を変化させることも出来る。
これを使って、自分の描いている世界ができるのではないかと思い、音の宇宙を作ってみたかった、そういう装置だと思いました。
アルバム「月の光」 (音楽が流れる)
しずくなのか宇宙なのか違う世界を感じられる不思議な音、全部自分で行いました。
相談する人もなく、参考にするレコードもなく、音を作るのに直感が必要だと思います。

モーグさん自身もこういったというイメージがあって作ったわけではなく、音を作るうえでの色んな要素 46個を一つのフレームの中に入れたという、感じのものです。
アルバム「月の光」は日本のレコード会社では扱ってくれなかった。
新しいジャンルなので置く場所、棚が無かったと言う事だった。
アルバムを作るのに1年4カ月かかったので、何とかしなくてはいけないと思って、アメリカのピーター・マンヴェスというディレクターが「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムをリリースして世界的にヒットさせて、彼しかいないだろうと思って、無我夢中でもっていった。
反応が余りにも違うので吃驚した、その場でやるということが決まってしまった。
クラシックチャートで最後には1位まで行きました。(1974年)
それから日本で知られるようになる。
ここで新しいことをやって世間をあっと脅かしてやろうと言う事は全然なかった。
新曲「イーハトーヴ交響曲」 歌姫に初音ミクを起用したが、呼吸が合わないと駄目で、それが実にうまく合って、生の指揮者に合わせてバーチャルアイドルが歌うと言う事は、これからの現代アートにおいて絶対必要なことだと思います。
宮澤賢治の不思議な異次元の世界のパイオニアには、絶対このキャラクターは必要だと思いました。
「勝海舟」のテーマ曲(音楽が流れる) 1974年
当時アメリカ大陸まで横断する事は今の宇宙を目指す若者たちの心意気と同じだと思います。
水平線から太陽が昇る、そんなイメージなんですが。
シンセサイザーをやりながらやっぱりオーケストラの音の魅力を忘れたくなかったのでこういった曲を書いたわけです。
手塚さんとの付き合いもあって、手塚さんの映画は必ずオーケストラで演奏しました。
オーケストラにも新しい発見がありました。
好奇心がある以上は続けてみようと思っています。
面白いことをやっている事で、結果的に新しいことだった。
「イーハトーヴ交響曲」の中から「銀河鉄道の夜」 (音楽が流れる)














2016年6月23日木曜日

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(1)

冨田 勲(作曲家)       ・響きを極める(1)
2013年平成25年に10月13日の「大人の生き方」に出演され自らの作品について語りました。
東京都出身で慶応大学在学中に作曲を始めました。
NHKの大河ドラマ、「花の生涯」、「勝海舟」、を始め「新日本紀行」などの番組のテーマ音楽を手掛けました。
1970年代から一早くシンセサイザーを取り入れ、1974年にはアルバム「月の光」が世界的なヒットとなりました。
富田さんが作曲家としてこだわってきた、音の響きとは何か、当時発表したばかりの新曲「イーハトーヴ交響曲」から話が始まります。

昭和27年NHKの仕事をして、それから60年以上になります。
最新の仕事がコンピューターで作られたキャラクターの初音ミクと宮澤賢治のコラボレーション。
「風の又三郎」を知ったのが小学校の3年生の時で、戦争がただよっていました。
宮澤賢治の不思議な世界にみんな取りつかれました。
宮澤賢治の世界を音楽で表現すると言う描き方は私にはできないし、あくまで子供の頃の童話の印象が今でも残っていて、特に「銀河鉄道」は衝撃でした。
宮澤賢治の世界を音楽で表現すると言う思いは、気持ちの中に住み付いていていずれ纏まった曲にしたいと言う思いは持ち続いて、この機会に奮起して書きました。
交響曲の中にプリマを設定しようと思ったが歌い手が現実には見つからなくて、キャラクターの初音ミクを思い浮かべました。
初音ミクは歌う表情も全て自在に動かせるので興味を持ちました。

コンサートの会場の真ん中に大きなスクリーンがあって、そこに初音ミクが登場して、オーケストラの演奏、指揮者に合わせて、踊り歌う。
指導すればうまくなるのでそこが面白いです。
ミクの動きには伝えてやらないとミクは動けない、違和感のない様な歌い方をしないと意味が無いのでそこをどうもっていくかです。
「あいうえお、かきくけこ」はいいが「さしすせそ」が至難の業なんです。(前後が難しい)
次の拍まで細かく分割しているんです。
テンポが遅くなったりすると思った様な音にならなくなってしまう、大変な技術です。

昭和27年頃、テープが高価だったので、生放送なので録音をやって無くて記録はないが、「今日の料理」(昭和32年)からテープを使い始めました。
その前はいちかばちかで毎回生演奏していました。
当時は作曲者が指揮をするのが常識でした。
「新日本紀行」のテーマ曲(音楽が流れる) 番組は昭和57年まで続く。
最初のホルンの音は蒸気機関車の出発前の汽笛です、雄たけびです。
レールの継ぎ目の音が一つのリズムになって、それが心地よい村祭りの太鼓の音の様に聞こえて、そんな感じのイメージがこの曲には有ります。
村祭りには拍子木の音があり、工夫して(非常階段を利用)響きの有る音にして、この音も取り入れ、それが評判になりました。
譜面よりも、音がどういう形になって出て、聞いてもらえる方の耳に届くか、ずーっとこだわっていました。
「今日の料理」のテーマ曲 
小回りのきくスタジオが4つあって、そこで情報交換できるので、明日迄に「今日の料理」のテーマ曲を作ってくれと言う事でいかにおいしく食べれるかとの要望もあり、生演奏しているところに行き、いろいろ料理のイメージをして、屋上のプレハブの一角を借りてそこで出来てしまった。

「ジャングル大帝」のテーマ曲 
手塚さんはマネージャーを通さないで、自分でいきなり電話をかけてきて、作曲をしてほしいとの事だった。
虫プロに打ち合わせに行ったが、打ち合わせの人がいっぱいいて、分刻みで私との打ち合わせは17分取ってありました。
打ち合わせ室は無くて通路でやりました。
雄大なスケールのテーマ曲を作ってほしいと言われました。
聞いてもらって喜んでもらえると思ったが、最初のレオの雄たけび 一オクターブあげたがそれに拘って、真夜中に電話がかかってきて、特殊なメロディーだと言われて、考えています、考えていています、と言って時間が無くなり、結局通すことが出来ました。





















2016年6月22日水曜日

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)
折口信夫 歌人の釈迢空(しゃく ちょうくう)という名前でも知られている。
子供のころの疎開地が和歌山で、折口さんは大阪の人で、天王寺中学に通いました。
折口さんは慶応の文学部に居て、その魔力みたいなものが濃厚に残っていました。
昭和27年放送の番組で折口さんが亡くなる1年前のものを今回再放送。
「・・・流行が速やかに過ぎ去ってしまって、「飛んでも発奮」なんていう言葉は考えている間に使わなくなって、そういう言葉が増えすぎていると思う、・・・はやり出した言葉はある期間使わないと意味が無いと思います。・・・女の人ももっと良い声を出してほしい、もっと活きた声を出してほしい。・・・女の人の言葉が、単語なんかがぞんざいになりましたね。・・・女の人は日本人の半分だし、女の人の言葉は気を付けて頂かないといけないと思います。」
声が残っていると言う事は奇跡的です。
洗練された特異な体質の声が聞こえてきます、これが尽きせぬ魅力ですね。
折口さんの声は説明できなくてもなんか感じるはずです。
折口さんは芝居を見ていたので、声が裏がえる様なところは芸能をするひとの声の感じもあります。

歌人 与謝野晶子の声
短歌を三句歌った声
非常に微妙なところにまでこの人の体の奥に持っている、旋律、音調、血液の流れみたいなものが何とも清調に清く澄んで聞こえてきて驚愕しています。
聞いた瞬間にくっきりと頭の中で、薄いピンクの剃刀が頭の中に通って行くようにして、覚えちゃった、一体これ何、と思って分析しました。
イメージ的にも追っかけることができる。
頭がどうして与謝野晶子さんの歌だけこんなに鮮やかに覚えてしまったか、それに驚愕して、この天才歌人を30年位追っかけています。
肉感的な大きな与謝野晶子さんは声がとても小さかった。
本当の歌は喉にあるところに隠れて少しづつ出たり引っ込んだりするもの、女の人が持っている歌の秘密を与謝野晶子さんは体現している感じがします。
与謝野晶子さんの心の中の情感が読む声の波立ちと、うっすらと淡い血液がフーっと波立って来る感じと共に、私たちに過不足無く伝わってくる。
体内から言葉の妖精が少し顔を見せたり沈んだりしている様な様子で以て伝えてきている。


斎藤茂吉の声も凄い。
活字で読むだけでなくて、声が残っている奇跡を皆さんに上手に届ける、そういう試みを続けていかなければならない、それも詩の仕事ですから。
与謝野晶子さんを自分のお母さんの様に大事にした堀口大学、堀口大学研究を私は大分ブラジルでやっていました。
声を聞く事で寄り添って行く様な、歌を作った時の状況、息使いを判ると同時に、自分もそれに沿って生きている、それが大事。
見えないところで自分の中のもう一つの魂が成熟し始めている。
そうすると過去の事ではなくて、今に生きて行く聞く自分と繋がれる。
感受性の鋭い人は活字を見ただけでそういうものを感じる。

最近本を出版 「我が詩的自伝」 
この本を作る事によって、声の複数性、そこに存在している声がふーっと膨らんできた、そういう事が起こりました。
「詩集 怪物君」
5年前の大震災から書きはじめました。
詩なんて何ができるのと問われて、これは必死になって答えなければならない。
東西の大詩人の言葉を引っ張り出したり、夢に責任を持たなければいけないと言ったり、かんがえたり、5年間に渡って書き続けて、恩義を感じて亡くなった吉本隆明さんの詩を書き写す作業も始めて、その作業は別の手の音楽をつくる様なことなんだなあ。
本にならないと思っていたが。
「GOZOノート」、「心に刺青をするように」
大震災後、皆さんの気持ちが違う波立ちを起こしてきて、違う色を使います、そういうことに敏感であらざるを得ない様な、日々の仕草の大事さを本になって現れてきました。
心の織物としての本があるんです。
大震災後、日々の仕草の大事さがもう一度本の傍に寄ってきましたね。
77年間生きてくると、言葉にしなければいけない責任が生じます。
言葉が更に裏道を通って間道抜け道を通ってけもの道を通って行くように仕向けて、その言葉を聞こうとしている。
77歳で、歳が歳になってくるとその歳が緩やかさという別のスピードを得てくる、別の色合いを帯びてくる、数字で数えるのではないそうした、なにか薄い剃刀の柔らかい火の様な色がふーっとたってくる、それがもしかすると時間というものかもしれない。












2016年6月21日火曜日

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(1)

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(1)
昭和14年東京生まれ 慶応義塾大学を卒業後、昭和39年処女詩集を発表、代表作には『黄金詩篇』『オシリス、石ノ神』などがあります。
吉増さんは詩の朗読の先駆者としても知られ、海外でも朗読ライブを開催しています。
写真、映像など言葉以外の表現の可能性も追求し続けています。
去年、日本芸術院賞恩賜賞を受賞されました。

時間と闘う、時間をどうとらえるかという事が常に心を捉えて離さない。
国立近代美術館で吉増剛造展が開催されていて、「声ノマ」 タイトル。
「声の間」、「声の魔」「声の真」かもしれないが、漢字からカタカナになる、小さい道筋も「ま」の中にある。
一万円の万、「万歳」、 考えてゆくほどこの「万歳」の万を「マ」にしました。
吉本隆明さんを追慕する作業を開始しました。
吉本隆明さんが私の詩を分析され、「この奇妙に散乱する様な詩を書く男の意識には生活全領域に対する配慮が常に働いている」とおっしゃった。
とっても感心しました。
全身詩人と言う時に 全領域にたいする幻想が働いている、そうしたタイプの物書きだと、捉えたと思いました。(私の解釈)
これまでの詩作はあらゆるものを全身で受け止めながら、文字にするものは文字にし、映像でとらえられるものは映像にし、格闘をして来た。
誰でもが子供のころから持っているものをどんどん引き出して、出来ることならば表現にならないかとやった時に、写真を撮って、映画をつくって、声に出して五感全部働かせる、というこういうことがでてきました。

子供の頃、傷付きやすい性格のタイプだった。
5歳の時に聞いた、1944年 ガー、ガーと言う音がして、「空襲警報発令中なり」を聞きました。
(空襲警報の再現録音放送が入る)
5歳の子供ながらなんとも不思議な言い方をすることに、変だなあと記憶に残っている。
言っている人の恐怖感、発信の状態の中で感じられる空気を、5歳の男の耳は聞き取っている。
無意識のうちに詩を書き出して、何故か知らないけれど、40年後に耳が気象通報を聞きたがった。
その遠景は5歳の耳が覚えたことを言いましたが、その声にこもっているすこしこわい様な間合いです。
このこわい様な間合いが5歳の男の子の耳に詩の始まりの響きとして定着したんですね。
テープにとって自分の声、人の声を聞きます、与謝野晶子の声に耳を澄ましたり、相撲の呼び出しさんの声を聞いたり、私たちの周りの声等の中に非常に深いものが眠っていますね。

展覧会には収集したカセットテープがずらりと並べられています。
自分自身の声を録音する事は、たった一人になりたいという欲望があり、自分の心に聞いてみて一人ごとを自分で聞くと言う事に録音装置は宝の小箱みたいに有難い。
500卷のカセットテープの数になっている。
声ノート 1984年9月2日のもの
「雨が止んでこれが凄い
景色です。・・・ 白い雲の空が移動しています。・・・青緑色の海が上から迫ってくるように・・・雲の色がこれは凄いですね。・・・眼下は麦の黄色く緑の麦の畑が絨毯の様になっていて、むこうの山には引きずる様にして白い雲が渡っていて、・・・」
風景が浮かんできます。
盛岡インターの辺りは宮澤賢治が歩いた風土なんです。(花巻から雫石あたり)
宮澤賢治が感じたことを、東北道を走りながら、詩を書くための思考の実験をしています。

肉声を録音すること、声は内臓から喉の手が伸びてきて、それにものを言わせている、声はお腹の中から呼吸がでてきて、その呼吸の手が動いている。
ひとつの器官だけを重視するのではなくて、頭で考えると一つに限定してしまうが、あらゆるものを捉えて表現しようとするときに、文字だってもしかすると銜えてまうかもしれない。
或るときアメリカに行く事になり、日本語を聞いた事の無い人が日本語が聞きたいので日本語を出してほしいと言われて、自分が作った詩を読むと言う事を外国で始めました。
日本語が判らないので、声の調子、表情、仕草など生きている全体を捕まえる。
それがある種の衝撃でした。
心の中には色んなものがあり、烈しさ、優しさ、文字を読んだ時にそういうものがわき上がってくるとリング?(聞き取れず)が違ってくる。
読んでいる時に作曲状態をつくっている様なものです。
逆さ言葉、ジャズの世界でもあり、アフリカの長い歴史の中に流れていて、はるか極東まで伝わってきている。

根源的な人間の営みとつながっている。
ジャズだけではなく、文楽の烈しい太夫の発声、身体の動きにも、ジャズの持っている根源的なものに近い様なものがあります。
「産湯」の詩を朗読
「死水から産湯へ 産湯から死水へ 濡れている たっぷりと 濡れている どこからかひび割れてくる河底に萌えたち始める眼 その気配も 
死水から産湯へ 産湯から死水へ 泳いでいる死体 黒岸の村 あちらの側の餓鬼が揶揄する かるーくゆがんでいる宇宙 乾季と雨季は 医者がしらべる 「おれはなんにもすることはないや!」
死水から産湯へ 産湯から死水へ 濡れている なにもかも 母よ 睫毛よ 岸辺の筏よ 気がつくといつも銀河のような中洲にとり残されて夜の帳のおりてゆく 「わたしはあのうみがなつかしい。」 
独特な間合いでの朗読
人間の一生がこの一遍に込められている。
水は重いし静かだし、私たちの水の惑星ですが、時には非常な怪物の様に立ち上がる事があって、水に触れている恐ろしさと生まれてきたことの不思議さがところどころに見えます。















2016年6月18日土曜日

荒木香織(メンタルコーチ)    ・代表を変えたスポーツ心理学

荒木香織(元ラグビー日本代表メンタルコーチ)・ラグビー日本代表を変えたスポーツ心理学
ラグビーワールドカップで 24年間勝ち星の無かった日本が去年のイングランド大会で世界ランキング3位の南アフリカを破るなど 3勝をあげ日本ラグビーの歴史を変えました。
その影の立役者と言われるのがメンタルコーチを勤めた荒木さん43歳です。
現在は兵庫県にある園田学園女子大学教授としてスポーツ心理学を教えています。
五郎丸選手がキックの前に見せるプレパフォーマンスルーティーン、スポーツ心理学に基づいて五郎丸選手と荒木さんが作ったものです。
日本ラグビー日本代表を変えたのは何だったのか、メンタルコーチの役割は何か、大舞台で活躍するために心をどうコントロールしたらいいのか、伺いました。

過去2度優勝している世界ランキング3位の南アフリカに勝つ。
国内合宿のみで計画していたのでラグビーワールドカップに行く予定にはなかったが、出発の5日前に来てほしいとの電話があり、赤ちゃんを連れてゆく事になりました。(試合2週間前)
試合の前には選手の中には眠れない人とか、食事が余り喉を通らないとかいろいろ症状がありました。
眠れない人には眠れない理由を話し合いをしながら見つけてゆくしかないです。
不安材料を無くすように働きかけてゆきます。
ミスをしたらどうしようとか、上手くいかなかったらどうしようとか、いろいろ考えてしまい、眠れなくなる。
自分の判断を不安に思わないで、どんな判断しても、チームでやるので廻りがフォローする様に練習してきているので、何をしたいかを考える方が勝ちに繋がるので、そういう話を早いうちに話をしました。
何が不安なのかを明確にして対策を立て取り組めば不安は無くなると、4シーズン取り組んできているのでこうすれば大丈夫と判っているので、その様に話しています。
今が何ができるかという事です。

南アフリカ戦で劇的な勝ち方をするとは思わなかった。
3点リードされていて、ペナルティーキックでは同点、スクラムを選んで逆転トライ(34-32)
エディー・ジョーンズさんはペナルティーキックを望んでいた。
歴史を変える、主体性をもってやってゆく事を目標にしていたので、みんなで決めたみたいです。
世界で戦うには自分達で意思決定ができるようにしてゆく必要があった。
勝った瞬間、人生のうちで一番感動しました、息子を生んだ時よりも感動しました。
サモア、アメリカに勝って3勝、スコットランドに大差で負けて決勝ラウンドにいけなかった。
エディーさんは質の高い練習をしました。
1日1回~2回はエディーさんと話して報告しますし、スタッフミーティングコーチミーティングは毎日あります。
選手の状態などほぼ完ぺきに把握していました。
コミュニケーションの風通しは良かったです。

2012~2015年メンタルコーチを担当。
協会からいきなり電話がかかってきて行きエディーさんと1時間位話をしました。
自分の力を試してみようと行く事になりました。
それまで日本のチームにはメンタルコーチはいませんでした。
メンタルコーチは基本的にはまず観察をしています。
自分達で考えられるように、話し合いをするセッションがあります。
個人的に選手との話し合いをして取り組んでいきます。
日本のチームは、はじめは勝つ気がしない、やる気もしない、勝った事のないチームだった。
諸外国では大きな声で歌って試合に臨むので、先ず、君が代について、大きな声で歌うことが大切だという事で提案があり、始まりました。
自信がつけるような取り組は沢山しました。
強そうに振る舞うことは取り組みました。
自主性を育てる。 日本選手は自分達で考える事ができないので、話し合う事で考える力、出来ることは何かなど、細かいことを毎日やってきました。
ラグビーは規律のスポーツですから、フィールド以外でも規律を大切にしました。

当初世界ランキングトップテンが目標だったが(15位)、3年目でクリアーして9位になり、勝てるんだと自信がついてきました。(11連勝する)
五郎丸選手がキックの前に見せるプレパフォーマンスルーティーン。
最初はエディーさんからの要求です。
技術はあるので、それを成功させるのはメンタルなので、真理的スキル、こういう事をすればいいパフォーマンスができるという事が判っていたので、二人の気持ちがしっくりきて、一連の動作として3年掛かりました。(ポーズ自体には全く意味がありません)
ボールを蹴るまでの身体の一連の動作の確認をしているので、たまたまあのような形になったようです。
両手を組むのも判らないです、自然と生まれてきたものです。
キックをする時の準備なので、一連の動作をすることによって、いろいろな邪魔となる考え、不安を取り除く事が出来るので、一連の動作自体に集中出来るので、他のことを考える必要が無い。
スポーツ心理学に裏打ちされている。

私は陸上の短距離選手でしたが、全国大会に参加している事で満足している様だった。
反復練習でメンタルは鍛えられると思っていたが、メンタルは別に鍛えないといけない。
それに気付いた選手はメンタルを鍛えている、強い。
どれだけ話してくれるかがパフォーマンスに影響するので、プライベートの話も出ます。
選手と私との共同作業になります。
私がいなくても自分で自立して出来るのが最終的な目標です。
緊張する事は構わないと思います。
普段通りと思う人ほど出来ないと思います。
緊張していないという事はやる気が無いという事かも知れません。
メンタルコーチ(スポーツメンタルトレーニング指導士)は全国で120人位ですが、少ないです。
最近は企業へのセミナーにも行きます。
淡々とコツコツと活動して行きたいと思います。






















2016年6月17日金曜日

常盤勝範(壺阪寺住職)     ・当たり前の日常を見つめ直す

常盤勝範(壺阪寺住職)     ・当たり前の日常を見つめ直す
西国観音霊場 御本尊の千手観音菩薩は目の病に効くと言われ、目の観音様として古くから信仰されてきました。
明治のころ、沢市お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺坂霊験記が大人気となり浪曲歌舞伎の世界でも演じられてきました。
また目の不自由な人たちの老人福祉にいち早く取り組み、昭和36年養護老人ホーム「慈母園」・
を開園しています。
広い境内には本堂をはじめ、三重塔、数多くの石像、季節の花々が咲く山のお寺です。
特に花には眼の不自由な方の為になるべく香りの有る花を選んで植えているという事です。

石仏はインドから切り出して、殆どインドの人に彫っていただいたものばかりです。
壺坂霊験記 夫は小さいころに疱瘡をわずらって目が見えなかった沢市
妻お里は眼を開眼させたくて、千日間お参りしていた。
沢市は浮気をしてるのだろうと、問いただすが、観音様にお祈りしていたんだというと、済まなかったと言って謝り、迷惑をかけたと悟る。
連れ添って観音さまにお願いして、3日間沢市はお願いすると言って妻を帰して、迷惑になると谷底に身をなげる。
お里は戻ってくるが、沢市の姿を見て、お里も身を投げる。
二人の思いやりに免じて、二人の命を助けて眼を開いてやるという観音様のお告げがあり、その通りになる。

養護老人ホーム「慈母園」 目の不自由な老人の人達専門の施設。昭和36年に開園。
現在50名、部屋も50あります。
私は昭和37年生まれで、小さいころから目の不自由な人とのお付き合いはありました。
父から眼を見えることに感謝しないといけないことを言われました。
父は常盤勝憲、人を考えないといけないと父からよく言われました。
目が見えないハンセン病のかたが、指が損壊していて指を使えないので、舌を使って血が滲んでいても一生懸命点字を勉強している姿を見て、せめてお手伝いができるようではないかと思い、社会事業を模索して、その一つが「慈母園」という結果だったと思います。
ハンセン病の方との交流もありました。
父はインドのハンセン病の救済活動にたいしても、昭和40年ごろからインドに頻繁に行くようになりました。
その御縁で石の仕事も始まりました。
最高は高さ20mの観音像があります。
インドのハンセン病の救済活動がはじまり、インドとのご縁が熟成していった結果がこの大量の石仏なんでしょうか。

インドとの交流は続けています。
インドへの社会事業もしていて学校にいけない人達の奨学金のこと、障害を持っている方への奉仕、学校も経営しているので、色んな話などしながらやっています。
日本は大乗仏教、インドで仏教は殆どない状況です。
インドでは絶対食べてはいけない食物がある、日本はおおらかになり過ぎているのかもしれない。
インドでは戒律が厳しい。
27年間住職をしてきました。
感謝という事を常に父は言っていました。
父は癌になって、いろいろ境遇を受けて色んな機会を与えられている事も感謝、いろいろな苦しみが判ったことも感謝と言っていました。(58歳で父は亡くなる)
人を直接救う事にたいして凄く力を込めていた事業ばっかりでした。
「天知る地知る我知る」 父は周りからの評価でなく、自分が一番よく知っていると言っていました。

父は冷静に見ていたと思います。
ハンセン病の後方支援などもよく考えていました。
僧侶としての社会事業なんだなあという事をこの頃よく考えるようになりました。
黒子になる、黒子がいないと舞台が成り立たない。
ものを与えればそのものに色んな心が宿る時代ではなくなって、タイミングとか、いろいろなやり方が複雑化していると思う。
今の社会には共通項が無い様な時代だと思います。
ものによる支援は限界に来ている様な気がして、違う処方箋を考えていかないと社会不安はどんどん助長されるようにも思います。
「今日を迎えて有難う」という一言を自分に言えるか言えないのか、考えていかなければいけない時代になってきた様な気がします。
人を思いやる心を芽生えてくることを期待していけないかも知れません。
人間とは脆いものだと自分自身経験したので、何か心の余裕を持つべきだと思います。














2016年6月16日木曜日

2016年6月15日水曜日

梅木信子(医師)        ・96歳・現役女医

梅木信子(医師)        ・96歳・現役女医
大正9年大分県生まれの96歳。
兵庫県加古川の女学校を卒業し、23歳の時に靖之さんと出会って、婚約しましたが、結婚式目前の一か月前に戦死してしまいました。
確認裁判をへて、婚姻関係を認められ、靖之さんの慰霊と結婚式を挙げ正式に入籍したのは戦死から 3か月後でした。
軍人遺族の特典という制度を活用して、猛勉強して、東京女子医大に入学しました。
31歳で医師国家試験に合格、大学等で仕事をした後、40歳の時東京都日野市に開院し、地域医療に貢献しました。
2009年89歳の時に医院を閉じて夫との思い出の地、兵庫県神戸市に住まいを移しました。
現在月に2から3回、医師として仕事をしています。
海で散った夫の意志を継ぐため夫の母校神戸大学第一科学部に奨学金を設け、若者を支援しています。

身体の悪いところはないが足が弱ってきました。(家の中は大丈夫)
働きたくないが医者が少なく、困る時だけお手伝いしますと言っています。(今月は5回です)
聴診器を扱うのは得意です。(聴診器と触診を根本的にたたきこまれた)
離れ島に行っても診断できます。
「ひとりは安らぎ感謝のとき」 出版
生まれは九州ですが、1歳の時に引っ越してきて神戸に来ました。
本当の思い出の土地が神戸です。
夫、梅木晴之とは3年間は二人でいろいろなところを歩きました

孫の代まで患者さんを見てきました。
大正昭和平成と生きてきました。
昭和の時代は日本人は誇り持っていました、どんなに貧乏でも自分の力で、足で生きていました。
自分の運命に逆らわなかった、人を見て羨ましがらなかった、身分相応を心得ていました。
子供のころは運動一本槍でした、勉強はしていませんでした。
兄弟は7人で5番目でした。
性格は明るくて人気者でした。
看護師になりたかった、軍国少女に育ってしまいました。
赤十字に入りたかったが、希望者が凄く多く落ちてしまいました。(友達は受かったが20歳ぐらいで戦死してしまった)
1943年 23歳で靖之さんと出会いました。(遠戚)
女の子と歩いていたら、商船学校では歯を折られるほど殴られるような時代でした。
家に来てくれたり、六甲山に行ったり、海辺を二人で離れて歩いていました。
幸せでした。
訃報は10月22日に知りましたが、広報が入った(夫の実家にきた)のはずーっと後です。
結婚式の直前でした。
艦から最後に上陸して来た時に2時間一緒になりました、それが証拠になり、又結婚許可願が出してあり、そういうのが皆証拠になり、裁判所で認定されました。(涙ぐみながら)

結婚しようとする気持ちは当然でしょう、今の人の気持は判りません。
5年間いいなずけでしたもの、あの頃の女の道だと思います。
当時はみんな生活の為に再婚したんだと思います。
猛勉強し、勉強のために予備校にも行きました。
入学試験も物凄い志望者でした。
外科は体力を使うので、女性には無理だと思いました。
精神科に2年いましたが、これは良かったと思います、選んだのは内科です。
あの年代の悪い時期に生まれ合わせて、だけど皆誇りに満ちていました。
明日死んでもいい、いつ死んでもいいと思っているから長生きしているんじゃないですか。
自分で生きようと思っているんじゃないんです、まだこの世の中に何かすることがあると、誰かが置いてくださっているんだと思います。
自然のまま、眠くなったら寝て、お腹がすいたら、食べる、食べたくなかったら何食でも食べない、自然のままに生きています。

農薬使わないで、自分で種を蒔いて楽しみで家庭菜園をやっています。
花も好きです。
料理も全て自分で作って外食はしません、食事をつくることはボケ防止にもなります。
冷蔵庫にあるものをどう利用しようかといつも考えています。
山のものを取りに行きます、歩く事は健康にもつながります。
何十年も一人でいるので寂しくはありません、あの人が一緒に居るから(梅木晴之の写真)、それにいろいろな人も来てくれますし。
一人は自由ですが、姪とか甥とか周りの人が心配してくれる事は悪いなあと思っています。
甥がオーストラリアに来なさいと言うが、まだいますが、最後はオーストラリアかも知れません。
心配する人の為に老人ホームかもしれません。
ここはいいところなので、ここに居たいが皆が心配します。
医者が一人入らないと採血したりする7~8人のグループは出来ないので、頼みに来るので、まだこの世で必要とされているのかなと思います。





















































2016年6月14日火曜日

松島啓昇(ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って

松島啓昇(慶州ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って
慶州ナザレ園は韓国のソウルから300km離れた韓国の南部の街にある福祉施設です。
この施設では太平洋戦争の前後に、朝鮮半島出身の男性と結婚して韓国に渡り、その後夫と離婚や死別して行き場をうしなった日本人女性を40年以上に渡って受け入れてきました。
秋田市日本舞踊家松島さんは74歳です。
松島さんは30年間慶州ナザレ園の女性たちの支援活動を国内外で続けてきました。
慶州ナザレ園で暮らす日本人女性たちは日韓の歴史のはざまでどのように翻弄されてきたのか、松島さんが繰り広げてきた草の根交流の持つ意味合いとは何か、伺いました。

慶州ナザレ園には今19名います、94歳が平均年齢です。
寝たきり、車椅子がほとんどで、受け答えができて話ができる方は数名です。
私は静岡出身で、短大卒業後日本舞踊を習いました。
友達がやっていて誘われていったのがきっかけです。
歌舞伎座他、舞台でも公演しましたが、古典なので大変勉強させてもらいました。
慶州ナザレ園のことは新聞記事で知りました。(1985年)
慶州ナザレ園では常備薬もない状況で、何とか常備薬を持って行ってやりたいと思いました。
下田と秋田でチャリティーを行って、錠剤を募ることにしたらたくさんの薬が集まり、それを携えていきました。(1986年2月)
日本人に父を殺されている、その人が日本人を助けてくれているキム・ヨンソンさん(私財を投じて施設を作った人)にお会いしました。
会った時に「私に力が足りないから助けてくださってありがとう」と言われました。
全身の血が入れ替わる様な感覚がありました。(浄化されるような不思議な体験)

日本に帰ったら一人でも多くの人によその国で頑張っている事を日本に知らせますと言ったら皆が飛んできて、皆が泣きながら生きていてよかったと言ってくれて、それを見たキムヨンソンさんがその人たちは今日泣きましたね、この人達は今迄泣いた事が無いんです、と言いました。
日本に帰ってから慶州ナザレ園協力会をつくることになる。
チャリティーをしたり新聞にも報道されて、それを見た方が振り込みをしたりして協力してくれたりしました。
最初は1972年帰国者寮として始まった施設です。
キム・ヨンソンさんが、どん底で苦労してきている日本人を知って、日本に帰れるように救済しようと思って、始まったわけです。
日本人を救済するには大変恐ろしい時代でした。
日本が35年間韓国を支配しましたが、韓国は言葉や名前を変えさせられた時代でした。
国賊ですよと、止めてくださいと言われてたが、この人達に罪があるとすれば韓国青年を愛したという事だけです、この人達が植民地になっていたところの男性と一緒になると言うことは親からも縁を切られ、それでもあの海峡を渡って本当に強い勇気と愛を持って渡って来てくれた、自分達の同胞を愛して渡って来てくれたこの人たちを見棄てることはできますか、見棄てることはできませんね、とキム・ヨンソンさんが言ってくださいました。

慶州ナザレ園はキム・ヨンソンさんが私財を投げ入れました。
父親を日本人に4歳で殺されて孤児だったが、自分の友達の父親がクリスチャンで学校へ入れてもらったそうです。
その後白樺の木から油を取るパテントが取れて、戦争が勃発してお金が入るようになった。
そのお金を元に慶州ナザレ園を設立したそうです。
慶州ナザレ園には日本人は当時34名いました。
私が皆さんの名前を呼んだら、今まで尋ねた日本人から名前を呼ばれたことが無く、呼んだら涙を流しました。
山崎さんと言う人は、両親と一緒に韓国に渡って、結婚して子供がいましたが、子供の時から目が悪くて、韓国が独立した後に又南北の動乱が有り、夫や子供を失って、彼女は洞窟で暮らしていて、食べるものが無くて草を食べたりして、風呂も入れないでボロボロな着物をきて、ナザレ園で保護されたときは人間かと思われるような状況でしたが、慶州ナザレ園で過ごしているうちに大変美しい笑顔で、色の白い綺麗なお婆ちゃんで、ハーモニカを吹いて日本の音楽を奏でています。
入ってきたときには皆韓国語で話していました。(日本人とは判らない様にするため)
今の園長のソン・ミホさんが日本語を独学で勉強して、あの方々に教えて、段々蘇って話せるようになりました。(標準語なので方言が無い)

慶州ナザレ園で亡くなる人も出てきています。
生きて帰れなくても死んで魂になったら日本に帰れます、と言っています。
歴史の中で日本は韓国とは兄弟の様に付き合ってきた時期もありました、鎖国の時代ですら朝鮮通信使が日本に来て、たくさんの文化芸術生活様式まで伝わって、日本は受け入れて発展して現在に至っています。
大事な国だったが大事なもの、絆を失ってしまいました。
武力でもって行ったことの間違いは絶対にしてはいけないと思います、まだ痛みを持っている方がいます。
歴史は繰り返してはいけないと思います。
きっと理解しあえると思います。

彼女らが韓国に残ったのは夫や子供がいたからです。
家族の中に日本人がいたら仕事は奪われ、子供も敵国の女性と判ると離れてゆきます。
ソン・ミホ園長は貴方がたは身寄りがないからここにいるわけではないですよ、貴方がたは祖国を愛しなさい、日本という国を愛してアジアの先頭の国になって、世界の平和のために尽しますように、日本と韓国がもっと仲良くいつまでも続きます様にお祈りしましょうと、貴方がたがこうしていることが日本と韓国の大きな懸け橋になっています、それをお祈りするのが貴方がたの使命ですよとおっしゃっています。
入る時は身も心もズタズタになって来た人ですが、ナザレ園で安らぎを得て日本の安寧をお祈りする中で、笑顔が輝いています。
ソン・ミホさん 2代目園長 博士号をもっていて、日本人女性の為に身をささげてくれる人。
クリアしなければいけないのは、人間の心ではないでしょうか、もっと相手の立場に立って理解しようと思えば、わだかまりも無くなると思います。





















2016年6月13日月曜日

長谷川ゆき(「うみべの文庫」代表) ・”絵本”が結んだ 小さな奇跡の物語

長谷川ゆき(塩竃市「うみべの文庫」代表) ・”絵本”が結んだ 小さな奇跡の物語
2012年自宅の一階を改装して長年の夢だった絵本図書館「うみべの文庫」をオープンしました。
オープンから4年、文庫は週に2日間開館され、子供達と本を繋ぐ場、人々の出会いの場となっています。
絵本が大好きで長く読みき聞かせの活動をして来た長谷川さんはいつか子供達の為の文庫を開館したいと30年かけて一冊ずつ絵本を集めてきました。
しかし、2011年の東日本大震災で自宅は全壊、文庫の為に、集めてきた絵本も津波で流されてしまいます。
一旦は夢をあきらめかけた長谷川さんでしたが、本を流されたことを知った全国の人達が本を送ってくれるようになり、震災から1年8か月後、「うみべの文庫」はオープン、夢を叶えることができたのです。
長谷川さんはその後交通事故、病気に見舞われながらも文庫を続けています。

2000冊余りの本が全国から送られてきました、今では3000冊に近づいてきました。
小さいころから本が大好きで暇さえあれば本を読んでいました。
宮澤賢治が好きでした、少女が読む本等も大のお気に入りでした。
図書館に行って近所の子に読んでと言われて読んであげて、図書館の方からやってみませんかと言われたがその時は断りました。(交通事故で鞭うち症、杖をついて、胴はコルセット)
図書館の講座があり、行ったらとても楽しかった。
グループを作る話があり、連絡係を担当する事になる。
回数も毎月になり、いろんなところにお邪魔するようになる。
お年寄りの施設、病院、などいろいろなところから声がかかる様になり忙しくなりました。
人前に出るのが苦手で、慣れるのに辛かったです。
絵本が頂点にあって、読み手と聞き手が同じ地にいて絵本を楽しむという事が旨く出来たと思う時がとても幸せです。
同じ本を読んでも一回一回が全然違います。

絵本をたくさん集めていましたが、高校の国語の先生が文庫を開いて長く活動していたので憧れの様なことが根底にありました。
読み聞かせがイベントの様に扱われるのが残念に思いました。
オープンを2011年夏に予定をしていました。
817冊まで一人で集めてきました。(自分の好きなもの)
2011年の東日本大震災で自宅は全壊、文庫の為に、集めてきた絵本も津波で流されてしまいました。
通院して診察台に乗っている時に地震に遭い、誘導されて体育館に行きました。
主人も息子も深夜に避難所で顔を合わせる事が出来ました。
避難所は真っ暗で大人子供の泣き声などが交錯していました。
背中をさすって一緒に泣く事しかできませんでした。
語りの会で練習した「山の里の春」という話を、体育館でしました。
段々、子供に話した昔話や創作した話などもしました。
話の時間が認知されて、電気も点く様になって絵本も届くようになって、読み聞かせも出来るようになりました。
日常の生活自体も無くなってしまっていました。

一番大きな痛手で失ったものは本だったという事を話したら、或る人がインターネットで呼びかけてくれて、奇跡が起きて全国から絵本が届くようになりました。
思いのこもった宝物の様な本もメッセージと共に来ました。
仮設に入る人達への支援のための読み聞かせの為に週に3回行くようになりました。
主人から家には主婦がいないといわれるほど飛びまわっていました。
酷い経験をした皆さんと一緒に立ち上がらなければ私自身が歩いてゆく力が無かったのかもしれません。
朝、三陸道を走っていたときに、居眠り運転の車が私の車にぶつかり、救急車で運ばれたこともありました。
その後も赤信号で止まっている時に、追突にあったり、ぶつけられたのが10回位あり、大けがも2回あり、神も仏もないのかと思いました。

2012年11月 「うみべの文庫」がオープンし、責任の第一歩が果たせてホッとしました。
子供と大人と同じ位の割合で人が来て、吃驚しました。
本を手にして皆さんいい顔をして、浄化作用があるのかも知れません。
利用者さんの事、読み聞かせの本、私の感想を日誌の様に書きためて300日目になり、ノートは5冊目になります。
或る人からここには本が沢山あるが、本よりもホスピタリティーがありますねと言われて、なんだろうと今でも考え続けています。
震災からの時間はとても短いとも感じますし、物凄く長いとも感じる不思議な時の流れを生きている様な気がしています。
伝えなければならないことが見えてきた様な気がして、何があっても変わらないものをしっかり伝えていきたいと思います。
人間って素晴らしいなということかもしれません、人っていいなあと思いますし。
被災したり事故に何回もあったりして、神も仏もないという話もしましたが神も仏もいました、人と人との繋がり、奇跡も見せてもらいました。
体調は崩していますが、一日でも長く、一回でも多く開館したいと思っています。
(最近体調も悪く送られた本も整理ができずにいて申し訳ないと、手紙、絵本の受け取りはお休みだそうです)


















2016年6月11日土曜日

広瀬浩二郎(准教授)      ・さわって広がる心の絆

広瀬浩二郎(国立民族学博物館准教授)  ・さわって広がる心の絆
48歳 中学1年生の時、病気で視力を失った広瀬さんは触る事で開かれる可能性を、触文化と名付け豊かな世界を人々に伝えようとしています。
国立民族学博物館には訪れた誰もが点字を触って楽しむ事が出来るコーナーがあります。
これまで見学、見て学ぶ事が中心だった博物館に広瀬さんのアイデアを取り入れて設けられました。
触ることで感じるという世界は私たちに何をもたらすのでしょうか。

触る点字を博物館でやろうという原点は、見ることと、触ることの違いに気づいて、そこを追求していかないといけないと思いました。
見えなくなっていい意味での開き直りがあり、点字を覚えました。
最初は文字だと判らなかったが、点字を覚えなくてはいけないと思って、段々判るようになりました。
体育、美術の授業では、いろんなことをやらせてもらってよかったなあと後で思いました。
走り幅跳びでは、助走を付けて踏切り板を使ってやることは無理だと思っていましたが、歩数を数えて、飛ぶと、多少ずれるが、砂場に着地できる。(新たな発見)
触ることは手を意識しがちだが、触覚は全身に分布しているので、足でも触れるし、他の部分でも感じることはできる。
現代は情報量が膨大なため視覚中心で、視覚偏重の時代になってきている。

進路を決めるときに、先生からの一言で、大学で歴史を学ぶことを決意しました。
身体障害者の歴史は資料がすくなく研究されていない、そこにスポットを当てることが無かった。
1987年京都大学文学部に合格、
古文書を解読する必要があり、くずし字辞典などがあり、或る程度読めるようになるが、私の場合は古文書が読むことができなくて、3年生の夏休みの時に、山伏に興味があり、本を読んだりしていたが今一判らなかった。
自分で体験すればわかるのではないかと思いました。
山形の羽黒山で山伏修行に参加します。(9日間)
フィールドワークの原点、本では分からないことがたくさんありました。
南蛮燻し トウガラシとどくだみを煎じた粉を火鉢に入れていぶすと、それを吸うと咳がでて、涙がでて苦しくなる、と言う体験をする。
そういった中で話の輪ができてくる。
古文書は読めないが、人の話を聞く、自分で体験するということはできる事に気付いた。

研究対象、目の見えない宗教者や芸能者たち、全国各地を訪ねて歩く日々が続きました。
①山伏に代表されるような民間信仰、民族宗教の研究
②障害者の歴史
2つのテーマで、出会ったのが琵琶法師で、宗教と芸能が一体の部分で活躍をしていた人たちだった。
地神盲僧は中世、琵琶法師の姿を現在に伝えている人達ではないかという事で本格的に調査しました。
宮崎で活動する琵琶法師の永田法順さんに会い、語りの力、音に触れました。
卒業論文は琵琶法師の事、修士論文では東北のいたこを取りあげました。
博士課程では京都に本部がある大本教という教団です。
教祖の出口王仁三郎さんの魅力にはまりました。
出口王仁三郎さんの和歌「耳で見て 目で聞き 鼻でもの食うて、口で嗅がねば 神は判らず」 
これは自分でやっている事みたいだなあと思いました。
神を真理とか学問とかに置き替えると示唆的な歌だと思う。
常識を乗り越える、漠然と思っていた事がこの和歌で勇気付けられた。

2001年33歳で国立民族博物館に就職。
触る文化の研究に本格的に取り組み始める。
ふれ愛観音 西村公朝先生 との出会い。
触って感動したのは仏さまのほっぺたがふっくらして優しい気持ちになりました。
普通の仏さんはうつむく目線をしているが、ぱっちりしていて正面を向いている。
ふれあい この言葉は健常者が一般的にに使っている言葉。
愛 触る側の人達が愛を持って仏さまを丁寧に触る、仏さま自身も愛をもって優しく見つめてくれる。 
ふれ愛 相互接触、お互いの愛がぶつかり合うところに独特の空間、温もりが生まれる。

もの背後には目に見えないものを感じとる魅力であり、奥深さだと思います。
触る文化を深めることで人間同士豊かなコミュニケーションができる。
フリ-バリアという新しい発想に辿りつきました。
バリアーフリーとの違い
①方向が双方向(強者から弱者への一方向ではない 価値観が多様)
②感覚の使い方 (バラバラではなく5感が行き来している 交流している 感覚の多様性)

コミュニケーション 視覚中心のコミュニケーションになってしまっている。
見る、聞くは受動的になりがちだが、手で触るということは能動的です。
自分で人と触れあい、絆を深める時代なんじゃないかなあと思います。




2016年6月10日金曜日

丹治富美子(詩人・エッセイスト)  ・森に暮らし、古典をひもとく

丹治富美子(詩人・エッセイスト)  ・森に暮らし、古典をひもとく
埼玉県浦和市出身 浅間山の山麓の中で20数年暮らしています。
この森で花を愛で鳥と遊び自然と共生しながら詩を書きオペラの脚本を創作しています。
平成13年群馬県の国民文化祭で発表されたオペラ「みづち」はこの環境の中で製作されました。
自然との共生を歌う「みづち」は新国立劇場でも再演されて高い評価を得ました。
一方で丹治さんは源氏物語、枕草子など 古典の研究者として知られ、五感、視覚、嗅覚、聴覚など匂い、色、味、動物の鳴き声などから、源氏物語を読み解く研究者です。
丹治さんは東京農業大学で源氏物語、枕草子など古典を語り、当時の自然や生き方などを若い世代に伝えています。

冬は鳥たちが寄り添う様に近づいてきますが、夏になると森に戻って行きます。
以前は鬱蒼としていました。
私は自然は少しも怖くない、人に自分の誇りを穢されたり傷つけられたりする方が恐ろしいことですと言って過ごしてきましたが、ここ2,3年はあっという間に開発されて、住宅地と変わらないほどになってしまいました。
敷地一杯にある木を切ってしまって、雀、カラスなどが住むようになって、どんどん生態系の様子が変わってきてます。
人類はこれまで自然を征服する、それが人類の性と思いますが、森を征服しつくしてしまうと、虫や動物などが住めなくなる。
そうするとやがて人類もそうなると思っています。
文明とは一体どこまで突き進むのだろうと、思い始めて、その想いをオペラ「みづち」に書いてみました。
みづち 架空の動物で み=水 づ=古語では「の」にあたる ち=精霊 水の精霊の事を歌いあげた。

時代を1000年昔にして、3000年の未来へこの自然の大切さをつたえるという、メッセージを持ったオペラに書き上げました。
群馬県は東京都に水を供給しているところで、水は生命を持っているものは必ず水なしでは生きていけないのでテーマに選びました。
日照りで苦しむ村の様子、押黒族というのは自分のところだけに雨を降らそうと、みづちを捉えた。
みづちを助け出さないと、この世に雨が降らないという事で主人公がみづちを探す旅に出かける。
自分が生かされている、人間が生きてゆく事、自然の大切さ、生命、人を思う心を旅をしながら理解してゆく。
美しい地球を守るために主人公の小太郎は、自分の身近なことに大切にすればいいことに気付く。
美しい故郷を守ってゆけばやがて地球全体に広がってゆく事に気付く。
上演時間は2時間。
群馬県の国民文化祭で発表され、新国立劇場でも再演された。
愛を訴えるオペラは多いが、自然を正面から訴えるオペラは珍しいとの評価が大きい。
森に住んで、文明の在り方に気付けたオペラだと思っています。

源氏物語は様々な分野、様々なことを膨大に含まれた物語なので、テーマを決めて分析すると面白いと思いました。
人間は五感を持っているので、それで切り開いていけば面白いと思って、その様な読み方をしてきました。
源氏物語を読もうとして35年掛かりました。
嗅覚が面白いと思いました。
この部屋に夏の香りの荷葉(かよう)(蓮)という練香を薫きしめています。
甘葛(あまずら)の蜜と香木を何千杵と叩いてタドンの粉とで作るが、ブレンドの仕方がある。
源氏は自分のブレンドの仕方があってそれを衣服に薫き染めると、それは源氏の君だと判るようにした。
自分の香りが相手に移ってしまう、移り香がある。
香りは心を穏やかにする香りと、気持ちを高ぶらせる作用がある。

紫の上は、源氏が新しく結婚したところにいかなくては行けなくて、耐えて耐えて源氏の衣服に紫の上は香を薫き染めてゆくが、他の女性も同じように夫に香を薫き染めてゆくが、その女性は理性の糸がぷっつりと切れて、思い切り後ろ姿に投げつけ、夫は灰まみれになる、という状況があり、同じ香りの場面だが、紫の上はじっと耐える女性で、もう一方は自分の感情を押さえきれなという事が描かれている。
源氏物語の教室を開いて、軽井沢は25年以上、浦和は18年になります。
美しく老いましょうという事を目標にしています。
毎年20種類ぐらい草々を乾燥して、薬草茶をつくっています。
私は病気をしたことがありません。

東京農業大学の学部長が、我が校は文化芸術の面が足りないので補ってほしいと頼まれて、古典の話をさせてもらっています。
学生たちは、人間として生きいきと生きている、1000年も前の人達の事を改めて感じることに興味が湧く様です。
人生において、心に響く一言が話せたらといつも思っています。
私の文明はもうこれまででいいという事で森の中に入りました。
いろいろな事を見聞きし、星の美しさ、月の美しさ発見する事などが様々にあります。
森の中で暮らしていると動物の方から近づいてきます、かけがえのないことだと思います。
私の作品がすさまじい加速を続ける文明にふっと立ち止まって頂けるシグナルであればいいなと思って過ごしています。








2016年6月9日木曜日

犬塚 弘(クレイジーキャッツ・俳優) ・第二の人生は舞台から(2)

犬塚 弘(クレイジーキャッツ・俳優) ・第二の人生は舞台から(2)
やってみると長いセリフだが、セリフを理解してくると面白い事を感じる。
新劇の芝居は厳しいです。
NHKのドラマには数知れず出ました。
本格的に芝居をやって難しいと感じたのは57歳でした。
徹底的に一言一言しぼりあげられ、これが本当の演劇だと判りました。
「だけどなあ」というセリフでも2時間ぐらい考えました。
演出家木村光一さんに 「越前竹人形」で皆の前で徹底的に怒鳴られました。
井上ひさしさんが僕を育ててくれたようなもんで6年間ずーっと使ってくれました。
栗山さん演出家  笹塚の劇場で最後の6年間お付き合い 76歳でそれが最後でした。
役者の存在感というものを味わいました。
いい演出家につくといい勉強になる思い、すごい人だと思ったし、やさしいし、それが山田洋次さんでした。
1シーンでも練って練ってやりました。
「寅さん」シリーズにも沢山出ました。
渥美さんとは長い間付き合いました。
旅館の主人役をやった時に、寅さんとのやり時の時に、赤ん坊をしょった方がいいと、山田さんからいわれて、たまたまその旅館の家で生まれた子がいてその子をしょって演技したことがありましたが雰囲気が良く出ていました。

小さい時は細かいものをつくったりしましたが、ゴルフをやる様になると、とことんやるタイプなので、ハンディーシングルまで行きました。
当時トッププロになる前、青木、尾崎、安田などと一緒になった時代がありました。
鉄棒が好きで、中学の頃、体操の選手になりたいと思ったこともありました。
4歳の時に母親から締め出されて、どこへ行くか考えて電車に乗って乗り換え乗換えして、高円寺まで行って、おじいちゃん家に行ったこともあります、好奇心が強かったですね。
近所のお兄ちゃんにいろんなところにつれていかれたが、それが池部良さんでした。
そのうち映画に出ていて、後で池部良さんだと判りました。
明治座で端役をやっていたときに、暇だから楽屋でお雛様を描いていたが、欲しいと言われて池内淳子さんが持って行ってしまった。
それから20年経ってから、友人から絵がフランスにあったぞと言われた。
フランスのパリの喫茶店に飾ってあったそうです。
絵は趣味という事ではありません、それ以来描いていません。

18年ぶりに中国地方に旅行しようという事で行ったが、昔芝居で廻ったことがあるので、懐かしい人たちにいろいろ出会う事が出来ました。
3分ぐらいずーっと見つめられてようやく判ってくれて、いやーっ懐かしいと言われたこともあります。
一番大切なのは女房です今でも愛していますから、去年の12月13日に亡くなりましたが。
結婚してからずーっと病身ですから、小学校の下級生として知っていましたし、自分の気に入った顔だったし、ずーっと付き合っていたし、結婚して病身だった。
昔洋画映画が好きで「我が生涯最良の年」という映画を見て、そこに出てくる奥さんでマーナ・ロイという女優に惚れてしまって、それが家の奴とそっくりなんです。
病身なので子供はいなくて、でもずーっときました。
クレージーチャッツで楽しかったが、演劇の世界に入って難しさ面白さを知って、へたばるまで演劇をやりたいと思いましたね。
76歳の時に最後だよと言われたが、映画で呼ばれて、動けないけれどもやる気になりました。



2016年6月8日水曜日

犬塚 弘(クレイジーキャッツ・俳優) ・第二の人生は舞台から(1)

犬塚 弘(クレイジーキャッツ・ベーシスト・俳優) ・第二の人生は舞台から(1)
昭和4年東京都大森生まれ  サラリーマン家庭に生まれた犬塚さんはジャズにあこがれて10代の頃ハワイアンバンドを作りました。
昭和30年にはハナ肇さんとジャズバンドを作り、渡辺プロダクション専属のタレント第一号になります。
日本の経済成長と共にクレージーキャッツはコミックバンドとしてTV、映画、舞台にと大活躍します。
犬塚さんをはじめ、ハナ肇、植木等、谷啓等、メンバーはいずれも当時ジャズの世界では名の知られた人達でした。
昭和61年57歳の時犬塚さんは新たな人生を切り開こうと芝居の世界に飛び込む決断をします。
犬塚さんがひたむきに役に取り込む演技が評価されたこともありますが、セリフが人物の内面から出てくるまでじっくり稽古する事、若い役者たちと熱っぽく語りあう事等クレージーキャッツの時代とは一味違う喜びを感じたからだと言います。

87歳 ふっくらとした身体。
熱海に住むことになり、一切辞めたが、NHK、民間放送も来たりした。
親父からはどんなに偉くなろうが、威張るな、皆国民は平等だと小さいころから言われた。
父は商社マンでロンドン、インドに滞在、外国のジャズのレコードなどを集めていて、子供の頃手廻しの蓄音機でレコードを聞いていた。
当時ウクレレとギターがあった。
終戦後食べものが無くて辛かった、しかし家には人が結構いっぱい集まってきていた。
松下村塾の様な所があるからという事で文化学院に行ったら女ばっかりで、2/3が女だった、
西村伊作という人が学校を始めたという事。
ハワイアンバンドを作ろうという事で、兄から言われて、5人位で、銀座のオーディションを受け、受かってナイトクラブでやる様になる。
個人レッスンを受ける様になるが、スタルタ教育だった。
5000円の月給だったが、スカウトされて違うところに行ったら、1年たたないうちに又スカウトとされて、5回スカウトされて、萩原哲晶とデューク・オクテットに行く事になり仕事をしていた。

昭和28年(24歳の頃)位にハナ肇さんが来て人気がでる様なバンドを作らないかとの話が来た。
口説かれてやってみようかなという事になり、キューバンキャッツでやる事になる。
面白い植木さんという人がいるという事でひっぱって来て、トロンボーンをやる変わった人がいるという事で引っ張ってきてそれが谷啓で、ほかにピアノなど回りがワーッと騒ぐようなバンドを作ろうという事になる。
3年間売れませんでした。
渡辺プロダクションが作られて、事務所をつくっていた。
原稿用紙をつくって谷啓と喫茶店でネタをかんがえたりしていた。
米軍キャンプを廻ったりして、パントマイムをやって、トロノーンボーンをはずしたり、ドラムで叩きながら移動して、床を叩いたり、マクロフォンを叩いたりして、エヘヘヘヘと笑ったりして、それが受けた。
そうするとクレージー、クレージーと騒いだ(スラングでいかしている、かっこいいという意味だと言われた)それでクレージーキャッツという名前にした。
大阪の舞台でもやる様になったが、最初受けもしなかったが、10日間のうちにこんなバンドはないという事で有名になってくる。
東京のテネシーというジャズ喫茶もやる事になったが、そこで大受けした。

昭和34年フジTV開局クレージーキャッツレギュラー番組「大人のマンガ」がスタートする事になる。
1週間前に三木鮎郎さんとか有名な作家が10人ぐらい集まって、どういう番組を作ろうと会議が始まっていた。
始まって1週間経たないうちに書けないという事でいなくなってきて、若い奴が来たが、それが青島幸雄さんで、杉山幸一さんの同級生で、援助してくれたらしい、そして番組が始まってどんどん有名になった。
無理してセリフを覚えたが、セリフを覚えきれない人がいたりした。
三木のり平さんがセリフを忘れて、生放送で大変なことがあったりした。
ふざけて勝手放題やって繋げたりしていたこともある。
ハナ肇、植木等、谷啓がスターになったが、俺はなだめ役でいいからと言った。
植木等は本当は真面目な人です。
「スーダラ節」 こんな歌は歌えないと植木は怒ったが、お寺の父の前で歌ったらこれは哲学的だ売れるぞと言って、売れないと思っていたが売れてしまった。

谷啓は変人です、人に対して出しゃばったりしない遠慮する人だがやり出したら何するか判らない人です。
所沢で仕事をして帰る時に、暗闇の中成増辺りで自動車を止めて谷啓が出てゆき、谷啓の合図とともに5分後ライトを点けたら、畑の中で素っ裸で踊っていた。
退屈だと思って気を使って楽しませようとやったという事だった。
ドラマをやることになったが、宇野重吉さんとか山田五十鈴さんとかに教えてもらったりして、何か面白かった。
新劇の芝居もやることになり、やったがすごく楽しかった。






2016年6月7日火曜日

2016年6月6日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・もはや戦後ではない

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・もはや戦後ではない(第30回)

経済白書は昭和22年7月に第1回目がでた。
平和時の国家予算、日本の経済はどういう方向に進むのか等、総合的な日本の経済状況を総括的に記録するのが白書という形で出てくる。
第1回は財政基盤ができてなくて、国家予算の体を成さない状況だったので、それを正直に示していた。
昭和31年の経済白書 副題「日本経済の成長と近代化」
10年経って、戦後復興も終わって新しい時代の経済に入ってゆくという事を国民に訴えている。
「もはや戦後ではない」という文が終章に書かれている。
国際収支が5億3500万ドルの黒字になっている。
GNP10%の伸びを含めて日本経済が昭和6年の状態に戻った状況になった事を示す。
軍事化した政治にたいする反省、問題点を指摘している。
経済企画庁の調査課長の後藤譽之助さんを軸とするスタッフ。
昭和10年代は軍事を中心に痛めつけられた、経済の大蔵官僚だった。

大蔵省を中心とする有能な経済官僚は軍事に痛めつけられていて、自分達の政策を何ひとつ打ちだすことができなくて、平時になってやっと打ち出すことができて段々実ってきて、もはや戦後ではないと、そこに経済官僚たちの誇りを感じます。
福田赳夫さんが大蔵省の主計官僚だった時に、軍人に予算をどう使うか、という事を聞く事自体が、統帥権侵害だとか、サーベルで脅かされたりした、ということを書いたりしています。
消費者の購買力が上がってメーカーの商品が多様化してゆく。
生活の近代化の方向に進まないといけないと言っている。
電化製品、TV、洗濯機、冷蔵庫、(3種の神器)、扇風機などが出回るようになってくる。
特に弱電部門等は著しい技術革新をしてゆく。
大形の土木機械の開発、繊維部門でも新しい素材が開発される。
経済の仕組みがぐんぐん良くなってゆく。(神武景気昭和30~32年)
皇太子御成婚の時、(昭和34年4月10日) 白黒TVが普及する。
経済白書は日本人の勤勉性も評価している。
世界情勢が平和的共存の方向にいって、それがあいまって日本経済もよくなる。

「もはや戦後ではない」 昭和31年2月号文芸春秋、中野好夫さんの論文がでる。
当時、半藤さんが中野好夫さんに依頼したと言っている。
55年体制、自由民主党、日本社会党が支えてゆく事になる。
昭和30年11月 自由党、日本民主党、改進党などが合同する、自由民主党結党。
対立が鮮明になる、基地問題、教科書、などいろいろな問題が対立点として出てくる。
鳩山一郎内閣、日ソ国交回復、ソ連との関係を良好にしてゆく外交方針の一番の柱となる。 
昭和31年10月に日ソ国交回復の共同宣言についての演説。(鳩山首相)
平和条約締結後に歯舞、色丹両島を返還するという事を述べている。
平和条約の締結、60年経った今も結ばれていないが異様な感じがする。
ソ連が拒否権を使わないという事で、国際連合に加盟する事が出来、日本が新しい国家像をもっているという事が理解されていった年だと思います。

昭和31年3月に芥川賞受賞した「太陽の季節」(石原慎太郎23歳)
吃驚する様な新しいモラル、選考に賛否両論があり対立が際立っていた。
「私の秘密」(高橋圭三アナウンサー)、「チロリン村とクルミの木」、「お笑い三人組」等の番組が放送される。
歌謡曲「ケセラセラ」「有楽町で逢いましょう」「ダイアナ」




2016年6月5日日曜日

小原乃梨子(声優)       ・時代を創った声(5)

小原乃梨子(声優)       ・時代を創った声(5)
ドラえもんののび太君、マージョ様ドロンジョ様ほか様々なアニメのほか、映画の吹き替えなどを担当。
26年間 のび太君を担当。
映像を見ていると役に入って行ってしまう。
お色気のあるキャラクターの元になったのは、吹き替えでブリジッドバルドーとかジェーンフォンダ等を担当するようになって、そうなってきた様に思う。
ヤッターマンシリーズは悪の3人組は変わらずにやっています。
色っぽいとどうしても下品になってしまうのでやだなあと思って、品が悪くならないようにやっています。
たくさんのキャラクターがかさなってくると、例えばブリジッドバルドーを演じるんじゃなくて、ブリジッドバルドーのやってる役を演じるんだと判るまで時間がかかりましたが、それからは楽になりました。

小学校4年生の時に終戦で、童謡がはやっていて、いいなあと思って劇団に入団していろいろ教わって公演したりNHKのラジオに出たりしました。
劇団には3つ下に池田昌子さんがいました。
父は弁護士だったので、私のすることは好きではなかったようですが、母からは洋服をつくってもらったりいろいろ随分サポートしてもらいました。
中学では演劇部で演劇の勉強などをしていました。
若草物語の映画が来て、この役をやりたいなあと思っていました。
女優を意識したのが若草物語を見たのが初めてです。
それから何十年経ってから吹き替えを担当するようになったが吃驚しました。
その後高校卒業後TVに飛び込んで、やたらでていました。
洋画の吹き替えのジャンルがでてくるが、生放送だったので画像と合わなかったことがしばしばだった。

録音になるが30分ロールを回すが、とちったら最初からやりなおすので、皆さん円形脱毛症になりました。
男性陣は大変でした。
朝までかかったのが良くありましたが、みんなで協力していい輪が出来ました。
今はいい翻訳家が沢山育っているので楽ですが。
TVの草創期を支えたメンバーといった感じです、だってそれができなくては帰れないんです。
アニメも増えてきて、吹き替えはイアホーンから聞こえてくるが、本当にしっかり見てしっかりやらないとどこのタイミングでやるのかが難しい。
紙で動くところに感情を入れるのは吹き替えとは違います。
人形劇 ブンブンたいむ ぬいぐるみの中に入っている俳優さんが上手だとやり易いです。
声がでなくなった時は大変つらいです。(風邪、体調など)
自分でここのトーンでこう行きたいのに、でてくる音がそうでないときは本当にきついです。
2カ月ぐらい声がでなくなった時もありました。

私の失敗談からとか、基礎が大事ですよと、若い人たちにアドバイスしています。
健康も芸のうちです、周りに迷惑をしてしまうので。
皆年齢が上がってゆくので、ドラえもんも次の世代に渡してゆくのも、素晴らしい事じゃないという事で変わったわけです。
いい作品は色々な世代をつないでいかなければ。
子育ての時期は大変でした、なりふり構わずという様な状況でした。
子供を親戚に預かってもらって、見てもらったりしました。
明け方の時もあるので、迎えに行って回りに気兼ねして車をそーっと出すことがありました。
主人の母が認知症になった時は相当きつかったです。
どうしていいか判らない状況で、頑張りすぎました。
乗り越えるのにはこの仕事をやらなければという思いがあり、必死な時間が何年間かありました。
祖母がそうならなかったら、私は回りのありがたみが判らずに来てしまったのかもしれません。

今の若い人は本を見ない、文字は素晴らしいツールなので、感じられる心が持てるように詩がいいと思う。
いい経験よりも悪いとか嫌な経験の方が力になると思います。

















2016年6月4日土曜日

吉岡幸雄(染織史家)      ・祈りの色を染める

吉岡幸雄(染織史家)      ・祈りの色を染める
70歳、京都で江戸時代から続く染色工房の5代目当主です。
長年自然素材の染料で糸や布を染める技を究めることに力を注いできました。
正倉院宝物など古い布の復元や東大寺、薬師寺などの法要で飾られる造花の和紙なども染めています。
吉岡さんが常に感じているのは古の人々の色を染めるということへの熱い情熱と、手間の掛け方です。
古代の人々の心と技に迫る染めの道について伺います。

今、ネズミ色を染めているが、矢車(やしゃ)という染料で染めています。
次に定着させる液ですが、無色透明ですが鉄分がたくさん入っている。
手で布を動かしながら交互に15分間づつ浸けることによってグレーになる。
水は100mの地下水を使います。
我々が勝てない色ができていて古典に対する尊厳が僕の中にあります。
作業はとても手間暇がかかり、そうでないと出来ないです。
芯まで色が入っていないと人間の目というのは鋭いので、満足しません、浸透したものが美しい。
濃いものを使うといろいろむらができてしまう。
料理でも急いで作ると中に味が沁み込まないが同様です。
高貴な紫、紫草の草の根を使います、隠れた処から色素を引っ張り出してくる。
桃色、ベニバナから作ります、花そのものはオレンジですが赤と黄色の色素を花弁に持っていますのでオレンジに見えます。
水で洗うと黄色が抜けて赤だけ残して、赤はわら灰のあくでもんでやると赤が出てくるので、赤だけを取って染めていきます。(わら灰も作っています。)

私たちは江戸以前のやり方を踏襲する事をモットーにしています。
自然と共存共栄している様な物がいい技術だったり、いい理論だったりだと思います。
染料の元となるのは全て自然の生みだしたものです。
天然の染料だと、派手、きらびやかは問題ではなく、色の見えている裏にまだ色が見えているというか、眼球の中の裏にまで入ってくるように見えるんです。
美しく染めないといけない、材料を無駄にしてはいけない、持っているものを十分に引き出す、材料を上手に使ってあげる。
染色は現在よりも奈良時代、平安時代の方がピークだと思っています。
染色の為のレシピ帳みたいなものがあり、それが記載されている。

羅列してあるだけで、細かいことは書いてなくて、何故この紫を求めるとかは書いてはいない。
色にたいする思いを知りたくて、源氏物語を読んで、研究しました。
1/3~2/3は海外から材料を輸入していて、日本の色と言えるかは別にして、その色を使って季節感をあわすために使っているが、飛鳥時代から始まっています。
微妙に移り替ってゆく色に、季節に対しての思い入れは日本人は強いです。
日本人は色を組み合わせるには、その時に咲いている自分の好きな花をお手本にするとか、その基本になっているのが季節です。
5月は紫の季節だと思います、(藤、カキツバタ、アヤメ、桐等)
繊細さ、そういうものは日本人の得意のものではないでしょうか、それは自然がこしらえたと思います、自然をよく理解、感謝している人は色にたいする感性はおのずから付いてくるんじゃないかなあと思います。

昭和21年京都で江戸時代から続く長男として生まれる。
若いころ家の仕事を継ぐのは嫌だった。(文学に傾倒していた)
現代文学を学ぶため東京の大学に進み、出版会社に就職、2年余り務めた後、1973年美術工芸を専門とする出版社を設立して独立、日本の美術や工芸に深くかかわる様になる。
その5年後、世界の染色と織物を探究する30卷に渡る全集の仕事が舞い込む。
正確に伝えなくてはいけないので、海外の美術、博物館などを必死になって見て、美しいなあと思うものは1700年以前のものだった。
化学染料が発明されていない時代でした。
色にたいしての興味が強く出てきた。
父 常雄さんのライフワーク 帝王紫(古代の紫)の復元に精力を傾けていました。
特定の貝の中にある極僅かな量の色素を集めて作られてました。
この貝を調査するため吉岡さんは南米ペルーに向かう父に同行しました。(1983年、36歳の時)

海岸で貝を採取して、1週間以上いました。
幸運に色んな貝が取れて良かったです。
家業を継ぐ大きな転機になりました。
1988年 家業を継ぎ、5代目当主となりました。(41歳)
着物、帯とかの産業は駄目になってゆく時代だった。
物を売るシステムも変えてしまったので苦労しました。
材料の購入に関する事でも苦労しました。
父の代から東大寺、薬師寺、法隆寺などのお寺神社の仕事があった。
薬師寺では、国の繁栄と人々の幸せを願う春先の法要が1300年余り続いている。
花会式と呼ばれる今の形になったのは900年余り前、花会式では本尊の薬師如来が桜、カキツバタなど10種類の和紙に染められた造花で飾られますが、その内4種類を納めています。
堀川天皇が皇后の病気平癒を祈願したところ病気が治り、皇后は翌年の法要で薬師如来に10種類の造花を捧げました。

衣装も古代のやり方でやってみたいと思いました。
現代はできないので挑戦してみようと思いました。
布の手帳(サンプル)があったので、これを見ていて簡単にできると思うが出来ないんです。
400年前のものですが、色が褪せていなくて、本当に綺麗です。
色も出せないがこのような糸もないし絞りも出来ないです。
桃山時代にはもっと凄い物もあるし平安時代にもあるし、飛鳥までさかのぼります。
これを見て感心ばっかりしています。
自然のたまものがもたらす奥深い美しさを知ってほしいと思い、各地で展覧会を開いています。
講演もやっています。
継続している事によって仕事の継続が出来、技術も忘れない。
植物からもらう色の奥底には又色があると思います。





2016年6月3日金曜日

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る
昭和25年東京生まれ 66歳 中学生のころから写真をはじめたハービーさんは大学生の時、人の心が優しくなり、希望をつたえる写真をモノクロで撮るというスタイルを決めます。
しかし就職活動に失敗し、違う人生を考えようと、ロンドンに渡り、劇団の役者になりました。
それでもハービーさんは街の人々、ミュージシャンの自然の表情を写真に撮り、その作品が徐々に評価され、写真家としてのキャリア築きます。
昭和58年に帰国した後も一貫して自分のスタイルで活動を続けているハービーさんは日常にこそ輝く奇跡の様な瞬間があると言います。

*ロンドンで女性の先生が子供達の手をひいて歩いてる写真
1974年 24歳の時に撮った写真。(ロンドンに行って1年目)
近くの学校に行って、交渉して写真を撮らしてもらった。
金髪の先生に子供達がまとわりついて、歩きだして、光が一瞬射して金髪がキラッと光ったのをシャッターを押しました。
*お婆さんと娘さんと孫が並んでいる写真 バックは東日本大震災の仮設住宅。
南相馬市の仮設住宅に住んでいるお婆さんを娘さんとお孫さんが訪ねて、手を握り合っている写真で翌年お婆さんは亡くなられた。(ストレスから) 一瞬のドラマが目の前で起こった。
*パレスチナでの若い男性女性7人が野外で明るく談笑している写真。バックは壁がある。
2013年に国境なき子供達という組織の要請によってパレスチナに行ったが、全長800km 高さ9mのコンクリートの分離壁があった。(ベルリンの壁の倍以上の高さ)
閉じ込められた様なところで希望を求めて努力している人たちがいて、精一杯生きる希望を絶やさず夢を求めて努力している人達、こういった光景を撮らせてもらった。

モノクロというのは色のない分、光と影、構図、被写体の表情が強調される。
色が無くても水墨画が描くものには情感が伝わってくるので、あえてモノクロを使っています。
広角、望遠は使わず、テーマが常にポジティブな心を歓喜する様な写真を撮りたいと願っているので、同意が得られたら、その人の幸せをそっと祈って、何気無く撮ります。
その一瞬こそ大切なんだと肝に銘じて相手を尊敬して撮ります。
スナップ的なところが凄くあるので、彼らの一瞬の表情を見逃さない様に、心をリラックスさせて、素の彼等がでる様に展開してゆくかが決め手になってゆきます。
構図、横位置で撮ると周りの環境が写る、縦位置で撮るとその人の本質が写ると思っています。
頭上を広く開けると、希望が写ると思っています。
靴まで写すとリアリティーが写ると思っています。
逆光、斜光とかを入れると、光の存在をより感じて、一つの希望の光を意味しています。

父は結核にかかっていて私が小さい頃私に感染して、結核性の病原菌をもらってしまってカリエス(骨が腐る)にかかって、腰椎が患って、子供のころは立ち上がれなくて、コルセットをして学校に通ってランドセルが背負えなかった。
体育ができなくて、仲間外れにされて、孤独と絶望感しかなった少年時代、なるべく人の目につかないように人の影に隠れて生きていこうと思っていました。
小学校6年 修学旅行で班に分かれるが僕をどこにもいれてくれなかった。
仲のいい友達が一人、二人いたが、頼って行くとお前なんか嫌だから来るなと大声で言われてしまいせつなかった。
先生も冷たかった。
十何年孤独と絶望で、自分はいない方がいいんじゃないかと思った。
写真家となって考えたのが、僕に向けられた優しい笑顔が一日一回、1秒でも見られたらどんなに良かったのかなと思います。
中学で写真部に入って、写真という表現方法が手に入って、生きる希望を写真から感じられたらというおぼろげなテーマが授かった様な気がしました。

写真を撮ると、仲間にちょっと入れるような気持がして、大学に入って人にカメラを向ける勇気、覚悟が段々出来たかなと思います。
人が人を好きになるような写真、そういう写真を撮れれば人がもっと優しくなって、弱者に優しい社会ができるかもしれない、という希望を持って人の心を優しくする写真を撮りたいと願ってきました。
写真関係に就職できればいいなあと思って、4~5社受けたが、駄目でした。
半年のつもりでイギリスに友達と2人で行きました。
魅力は自由です、私の過去を誰も知らない。
日本人の劇団がありオーディションが受かって、役者になったが、すごいスパルタでした。
劇団を辞めて1か月後にギャラリーに行って、ある写真家と出会い、暗室を貸してもらって100枚ぐらいプリントしたら、みんながいい写真だとほめてくれて仲間に入らないか、一緒に住んでもいいと言われ3年間暮らして、大きな写真展をやらせて頂いた。
1973年に撮ったクエートでの写真、ストリートスナップの写真とか展示しました。
彼らの一員となって、初めて孤独感から救われた3年間で、素晴らしい出会いがありました。

その後ただで部屋を貸してくれる人がいて、隣にジョージという18歳ぐらいの青年が来て、半年ぐらいいたが彼が或る日バンドをやるので出ていったが、それが後のボーイ・ジョージです。
或る日地下鉄に乗っていたら、向かいの席に人気バンドのザ・クラッシュのボーカルギターリストのジュー・ストラマーさんが乗っていて、千載一遇のチャンスなので、写真を撮っていいかどうか聞いたらいいという事でした、降りようとした瞬間振りかえって、「君撮りたいもの皆撮れよ、それがパンクだぞ」、と言って降りて行ったが、その瞬間に僕の人生は変わった。
写真家になるんだったらもっともっと積極的に撮れという事だった。
ある日本人の写真家が日本に帰るので、空きが出来て僕が入り込んで、いい写真家だという事が日本でひろまって仕事が入る様になった、
ゲイリー・ムーアさんのオフィシャルカメラマンを2年やっていました。
天才ギターリストのゲイリー・ムーアさんがオリジナリティーをつくるのに20年掛かったという。
凡才の自分の写真のオリジナリティーをつくるのには、どの位掛かるんだろうと思いました。
イギリスでの10年間は私を作り換えてくれました。

1983年日本に帰国、いろんな人の写真を撮る様になる。
2011年日本写真家協会から作家賞を受賞。
これまで表彰されることが無かったので、公的に認められたことが嬉しかった。
3年前写真展をやって250~260点展示して、感想文ノートに10代の女の子からのものがあって、私は何度も自殺未遂をして、今回も退院の後写真展のポジティブな写真を見て、自殺はもうしない、これからは強く生きていきたい、と書いてあり写真をやっていてよかったと思います。
人の命を救えたのかなと思い、写真をやっていて良かったなあと思いました。
劣等感は自分の味方であるかもしれない、劣等感を長所に転じさせるかもしれない。
自分をいつも新鮮にしておかなければいけない、新鮮にして行くには今の空気、知らないものを知ることの刺激とか、別の世界からの影響を受けないと自分が錆びてしまうので人の作品を見る、他の分野との交流、いろんな世代との交流、とか色んな交流をする。

技術以前に、習得する部分が有り、自分の心の中から湧いて来る物をそれぞれの分野で形にしているが、心が大切で、自分を知ること、世の中で生きていくので礼儀、が必要。
全ての出来事は再現できないので、一瞬一瞬を無駄にしないで大切にして真心こめて生きていかなければいけない、と思います。
自分に与えられたペースを素直に取り入れて継続することで、思いもよらぬ場所に自分がいける。
60歳過ぎて写真家でこうしてラジオに呼ばれて、人さまにお話しすることが、孤独と絶望感しかなかった少年時代に、想像できたでしょうか。
写真を続けて一枚一枚積み重ねる事で、考えられ無かった所にいける、誰でもがその可能性を持っているという事を強調したい。
写真家になる人はカメラを買った日では無くて、本当に撮りたいものに出会った日であるという持論があります。
やりたいことを思いたったが吉日、遅すぎることはない、命ある限り遅くはないと思います、自分しかできないこと、今しかできないこと、これをやりたいという事が有れば、そこから汗をかいて、そうすると思わぬ人生が待っています。







2016年6月2日木曜日

船本芳雲(書家)        ・故郷への思いを書にしたためる

船本芳雲(書家)        ・故郷への思いを書にしたためる
横浜市に住む73歳。おととし2014年の毎日芸術賞を書道の部で受賞しました。
受賞の対象は横浜の美術館で行われた、「沁み入る故郷」船本芳雲書展です。
作品は10mの大作を含む45点で全て自分で作った詩です。
芸術性に富み、評価の高い書道展となりました。
船本さんは樺太生まれ、5歳の時終戦間近に、銃声の響く中、一家5人で子船で樺太を脱出しました。
幸運にも北海道宗弥谷の網元に救出されました。
船本さんにはその記憶はありませんが、父が囲炉裏の前で子供たちに話したことが記憶に刻まれてゆきます。
やがて、奥能登に落ち着き石川県の珠洲市に居を構えました。
石川県の高校を卒業して、旧国鉄に就職、23歳で書道部に入り、書家の青木香流に師事して本格的に書を学びました。
自分で文章を作り、筆で表現する漢字かな混じり書の魅力に取りつかれ40歳で国鉄を辞め書道の道一本に絞りました。
船本さんの詩の原点は樺太からの脱出と、故郷能登の自然にあります。
子供のころから書を学び大学で書道を専攻している書家が多い中で、船本さんは社会に出てから書を始めた変わり種の書家と言われています。

一日中書いている時もあります、作品の制作が迫ってくると、相当の時間数を掛けます。
思った通りの線が紙の上に乗っかってこない、難しい時もあります。
横浜の美術館で行われた、「沁み入る故郷」船本芳雲書展で第56回毎日芸術賞の書道の部で受賞。
自分の文章で書作をしたい、これが私の大きなテーマでもありますので、どう表現するのか、相当時間もかけてきました。
最大の大きさが約10mの作品、9m、8m、7m 10数点の大きな作品を並べさせてもらいました。
タイトルが「父のさっそう? 囲炉裏の向こう側」240×540
「炉端がたり」 180×1440 「父母の温もり」990の長さ
詩の中味がすべて自作。
父と母の子供を守ってゆく壮絶な船旅の模様が、小さいころ囲炉裏で父の語りを聞いていて、文章で残すという事がそれが書に結びついてゆく。
漢詩文だけの世界だけではないという事がこの作品を生み落としてゆく事になってゆくんだろうと思っています。

昭和17年生まれ 樺太に生まれる。
父は味噌、醤油、酒の小売業 丸源?という小さな店をやっていました。
終戦直前昭和20年3月頃に能登に向かう。(珠洲市の戸籍からおおよそ判断)
樺太での記憶はほとんどありません。
父母と兄、私、弟の5人で脱出、祖父祖母は現地に残ります。
銃声の聞こえる中、出来るだけの荷物を持ってゆくので、おんぶも抱っこも出来ないので、氷の坂道など転んだら起きてこい、待ってやるからと何回も子供にいい聞かせたそうです。(弟は2~3歳)
宗谷村の網元が船を出してくれて岸に着けたと炉端語りで語っているので、漂着の様な形だったと思います。
追っ手があったり、凍傷で下の子が危ないとか、荷物を放り投げて船の安全を計ったとか、厳しい選択があったようです。
祖父母の実家が能登の珠洲市にありましたのでそちらに向かいました。
高校卒業後、国鉄の職員になり、書道部があり、入りました。

級があり、上がってゆくのが楽しみでした。
展覧会に挑戦してゆく形になります、又師匠(青木香流)がおもしろかった。
絵、陶芸、文章など、そういうものが身近にありましたので、書は書くだけではないという面白さにひきつけられたと思います。
絵、陶芸をやったり、簡単な俳句、文章など、文学的なものを先生は書いていました。
国鉄を40歳の時に辞めました。
その3年前、毎日書道展で最高賞を受賞して、そのことを含めて決断ができたと思います。
先生が給料と同じ額を出そうという事で活断を促してくれました。
殆どの方が大学で書道の勉強をしている人が多かった。
基礎的なことが養われていないところがあるので、前向きにいろいろ考えていくわけですが、大学で書道を専攻した人から見ると、船本芳雲は変わり種という事になるのかなあと思いますが。
壁一面書道の本があります。
73歳になってみても新しい情報、アンテナを高くしておかないといけないと思っています。

漢字かな混じり文 その世界に入る前に、唐以前のものを勉強すべきという先生の教えがあって、発表するものはどういう形にするかということは、漢字かな混じり書という事になります。
書道の人達は一般の人たちと大分離れている様な気がします。
読めない様な漢字を書いている、展覧会に行っても読めないので詰まらないというような構図が描かれている様な気がする。
手紙を書くのも漢字かな混じり書のひとつ。
漢字かな混じり書という分野が無かったら、書は続けて居ないと思います。
発表したい文章を自分でみつけてくるか、俳句とか短歌とか詩など、一旦自分の体に取り入れて書作するか、私の場合はそれを丸ごと自分の文章で書作するという大きな違いがある。
文学的な味わいの深いもの、という様な指導者の一文があったりして、抵抗感があった。
自分の訴えたいことを見失ってしまう様な気がして、作品に制限が出来てしまうものと思って、表現するのに、自分の思う言葉があると思う。
門下に必ずテーマを与えて(「星」「空」「海」とか)、ものの見方を強くして行って、良い文章が生まれると思う。

踏み込んだものの見方ができてくる。
作品が多様化してゆくというのは、文章によって書表現が広がってゆく。
何をどう表現するのか、最も大切なところが漢字かな混じり書には有る。
見付拓=詩人としての名前
集団とは離れたかもめを見て自分ではないかと思って作った詩
「かもめは私です」
「かもめ一人 訛を置き忘れ 雑踏の中 方向のとれぬ かもめ一人 足踏みをする私がいました かもめは私です」 9mの作品
雑踏の中に自分が身を置いた時に、私が過ごした能登の訛をしゃべる人がいて、この歌を作りました。
「そこが故郷です」
「訛を追えば そこが故郷  人ごみの中に 故郷がいた」
書道で一番大事なこと、最終的には線だと思います。
線を作るのにどうするのかという勉強の過程が、古典、きちっと仕上がっている楷書、早書が訓練の対象になる。
腕に貯金をするという、時間をかけていかなければならないもの、それが古典の勉強。
鍛えあげられたものが線、線の深さが書家の生命になってゆくだろうと思います。


















2016年6月1日水曜日

内藤大助(元プロボクサー・タレント) ・出会いが人生を変える

内藤大助(元プロボクサー・タレント)  ・出会いが人生を変える
昭和49年 北海道生まれ  20歳の時にボクシングを始め、22歳でプロデビュー、2007年にWBC世界フライ級チャンピオンに輝きました。
2011年に現役を引退し、タレント、ボクシング解説者として活躍しています。

引退から5年になる。
北海道豊浦町生まれ 41歳 22歳でプロデビュー、2007年にWBC世界フライ級チャンピオン。
豊浦町の道の駅には沢山のトロフィーが展示されている。
3度目の世界挑戦でチャンピオンになったが、初めて世界挑戦した時にはタイで行った。
1ラウンド34秒で負けてしまって、ファンが離れていってしまったが、自分の街の人達は応援してくれて感謝しています。
母、兄との3人暮らしで、近くにお婆ちゃんが住んでいます。
生まれてすぐに離婚し、3人で暮らしています。
お婆ちゃんは可愛がってくれますが、母は生まれてこの方一度も誉められたことが無い。
全日本新人王を取った時でも褒めてくれなかった。
「自分の子供を褒める親がどこにいる」と言われてしまった。
いつか褒められてやろうと頑張ってきた。

中学2年の時からいじめが始まったが、これはしょうがない、運命だと思う様になって気持ちは安らいだ。(ネガティブな考え方)
グループのいじめと身体が大きい不良の、二つのいじめがありました。
一方は使いっぱしり、昼食のおかずが取られる、暴力などがありました。 
他方は精神的ないじめでした。(辛かった)
お腹が痛く、毎日5~6回下痢をしていました。
病院で診察を受けて、胃カメラ検査で胃潰瘍だと言われました。
回りは気付いていたが、関わりたくないという様な感じで、途中から笑われたり、友達が寝返ったりして、心の傷がきつかった。
余り勉強ができなくて、中学の先生から怒られて、「お前又こんな点数をとりゃがって、体育は出来る、運動神経はいい、でも運動神経が良くて、食っていけるのか、世の中やっていけるのか、勉強できなかったら何の意味も無い」と言われた。(この先生に会いたいです)
得意なことに対して、否定する様なことは言ってほしくないと思う。
高校進学の時にグループがばらばらになり、高校は一緒にならなくなり、いじめは無くなった。
私は運動神経が良いため、高校では溶け込んでいくようになりました。
ボクシングを始めて色んな人との出会いがあり、「内藤君はいつもマイナス思考だよ」と言われた。

他の分野にも後押ししてくれるような言い方をしてほしかった。
ほめて伸ばすことをやってほしい、プラス思考、楽しくやることが大事だと思います。
高校3年の時にホテルでアルバイトをしていた時に、ここで働けばといわれて、内定して、入社する予定だったが、ミスをしてしまい内定取り消しになってしまった。
数日後、母親から「内地に行け」と厳しく言われてしまった。
或る日、格闘技の本を見たら、近所にボクシングジムがあることに気付いた。
これだと思って入りました。
強くなってゆくのを感じて、誉められて自信が持ててきて、いじめを抜けたくて始めたボクシングが純粋に面白いと思う様になった。
はっきり物が言える様になり、心のゆとりができる様になり、プロボクサーになってデビューしたいと思う様になった。
一生懸命にやっていると応援してくれる人が増えてくれて、強くなっていったと思います。
何もしていない人に対して人は寄ってこないです。
一生懸命やっているうちに自分の事ではなくて、応援してくれる人の為に頑張ろうと思う様になりました。

トレーニングの辛さといじめに会う辛さを考えたら、いじめに比べればましだと思って頑張りました。
悪いことをしてやれとか、ひねくれた考えがあった時期もあったが、ボクシングに出会って、人生の恩人だと思って感謝しています。
虐められている時に、身体が大きくて暴力的な奴が強く、自分は弱いんだと思っていたが、ボクシングをやって、本当の強さはハートの強い人が強いと思う様になりました。
練習は人以上にやって、自信も付きました。
何にもしない人に強さはできないと思う、何でもいいから一生懸命やったら強いと思う。
辛いことは人に言う事、回りも声掛けをしてほしい、コミュニケーションは大事です。
誉めて伸ばす事をして欲しい、やる気が出るので。
人のお陰で今の自分があるので、引退してからは人の役に立つ事、人が喜ぶ様なことをして行きたい。
いじめに対する講演をしているが、いじめをなくすような活動もして行きたいし、自分が役に立つ事が有ればどんどんやって行きたい。