2012年12月31日月曜日

天野祐吉           ・隠居大学(マギー司郎)

天野祐吉              隠居大学(マギー司郎66歳)  
マギーさんは「課外授業 ようこそ先輩」で 母校の小学校にマジックを教えに行きその番組が、2004年第31回日本賞教育ジャーナル部門で最優秀番組に選ばれました
天野さんはこの番組の審査員を務めていて、マギーさんの授業や考え方に感銘を受けたそうです。 
一方マギーさんは賞を受賞したことで自分に自信を持ち
天野さんを自分の事を認めてくれた人生の恩人と思っているそうです

マジック 大掛かりにやらない 人間味あふれる手品 
手品の原形みたいなものを見せてくれる その面白さ がいい
課外授業で評価して頂いてから普通に喋れるようになった 
それまでは普通の会話が出来なかった 一方通行だった 
それがちゃんと受け答えが出来るようになった
4年生のクラス 自信が無かったので良かったと思う 
先生が子供達と遊んでいるのではなくて子供達の中に割合老けた子供が一緒に遊んでいると言うような感じだった
無我夢中だった  ずーっと小学校から中学まで自信を持てた時期が無かった 
 
4年生達と交わって 心配で大丈夫かなあと想いながらやっていたら 子供達もリラックスした   子供達にいろんな形を考えてきて参考になった  
一番嬉しかったのは 涙してくれたり  いじめ子がいなかった 
あの番組を見て以来いじめっ子が無くなった  
出来ない子が一杯いた  だめでも大丈夫なんだと言う事が判った  
正直言って今でも失敗もするが、リハーサルを見ていないので失敗がお客様には解らない
自信をもつということは大事だと思う  
小学校からずーっとおびえながらやっていた  自分では客観的に見れない 
あれ以来9年目に成るが本当に良く喋っている

先生に褒めて貰う事が良い  出来なくて当たり前、と言う風にいじめっ子も想い始める  
虐めちゃいけないと言っても虐めは無くならない 、言葉だけで出来るわけがない   
教えてやろうという 上から目線でやると いけないので そうしないようにやろうと思ってやっても子供達は察してしまう  
弟子は12人いる  なんにも教えた事はない  
DVDでマジックは教える事が世間ではあるが 良く分からない  
弟子ではなく、仲間、友達なんです
内気で不器用だった  知恵の輪はきらきら光っていて物凄く輝いて見えた 
おもちゃ屋に行って買った

学校にもって行ってやったら凄いじゃないと回りから言われた  
16歳で家出をしてマジックの広告を見てその道に入っていった(布団をもって家出した)
茨城弁なんですが、もうちょっときつい 
(ヌード劇場の楽屋、キャバレーとか女性の世界で生きてきたので柔らかくなっている)
夜中の3時までの公演だったので起こさないような芸を覚えてしまった
(寝ている所を起こすと怒られた踊り子が出て来るとお客は起きて来る)
マジック 縦じまのハンカチを取り出して 表裏を何もない事を客に見せる 
それを手の中に入れて、揉んで さっと見せる 縦じまが横じまにして見せる
失敗する時がしょっちゅうあるが、演出と思われる 
  
間違いこそ人間的な部分が出て来る  
ある人、第二の人生 子供のころに手品をやりたかったので 手品をやり始める 
奥さんと一緒に一座を組んで老人ホームを廻ったら、おお受けする
来てほしいと回りから言われる  家の亭主を見てきたけれども こんなに嬉しそうな顔を見たのは初めてだと奥さんが言った

2012年12月30日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(大阪)

 五木寛之                歌の旅人(大阪)  
「選ぶ力」 五木寛之   
上方文化  香川県 に次いで2番目に小さな面積の県  人口は3番目
蒸気機関車の時代 福岡から大阪まで12時間 東京まで24時間掛った
いらち (せっかち) 気が短い  動作が速い
 
元気のいい歌が多い 「大阪ラプソディー」    
「雨の御堂筋」

御堂筋 御堂をつなぐ道筋  南御堂 北御堂  蓮如が大阪という字を言葉として書きつけた 石山本願寺を立てて周辺に寺内街が出来て 繊維産業とか、役所とかが生れて来て、 いろんな歴史が有った上で御堂の繋がっている筋合いのところに今でも製薬会社、繊維産業、証券会社、銀行が来る  
それがビジネスセンターになる  
大阪城が大阪のへそのように思われているが、本願寺の後でその後に大阪城が出来た  
大阪はある意味では宗教都市だと思っている  
精神的文化を持った都市だと思う
御堂筋は心に信心をもつ人達が通った道 
   
新聞社 食品会社、化学、薬品等大阪に本店をもつ会社が多い 
 
井原西鶴 直木三十五 川端康成  開高健 司馬遼太郎 黒岩重吾 小松左京 藤本義一
田辺聖子 高村薫 橋田壽賀子(脚本家)   文化的に深い土壌
 
賀古隆  我が人生の歌語りのテーマ曲 「大河の一滴」

外でご飯を食べる 大阪では気楽に外に出てご飯を食べる 
料理人をテーマにした曲が多くある
食い倒れ
坂田三吉  通天閣 今年100年に成る  
この界隈大衆演劇をやる芝居小屋がある 
東京の浅草と同じように心の故郷に繋がる入り口のような気がする 雑然とした処が良い
大月みやこ      
人が作り上げた街  運河、    
堺 街自体が大名に干渉されずに、自分達で街を守る、運営してゆく、貿易、商取り引き 武器の売買
蓮如が石山に本願寺を建てたのも、堺へ通じる道筋であったし、京都への水運も有り、交通の要所だったんでしょうね
「二人の大阪」    やしき たかじん「東京」  

2012年12月29日土曜日

奥村彪生(料理研究家75歳)    ・日本の伝統料理の知恵と技

奥村彪生(料理研究家75歳) ・日本の伝統料理の知恵と技
昭和12年生れ 大学で食文化の講義をするなど、食生活の充実の為の実践と研究をしています
縄文時代から現代まで日本人はどんな食べ物を食べてきたのか強い関心があり、
日本をくまなく歩き 伝承されてきた各地の料理の世界を見つめてきました
正月は日本人にとっては元旦が重要  雑煮とおせちを食べるが 本来は組重 重詰めともいう  
正月食べる顔は雑煮 雑煮は神様と一緒に頂く食べ物でなおかつ 酒の肴なんです 
お神酒のあてなんです  
雑煮が始まるのは室町時代 元々は上流階級 足利将軍、貴族を含めて お祝い事に食べていた
上流階級の婚礼の時の 婚礼の時のお嫁さんがその家のものになったという証を示す 
お色直しの時に 祝い肴として雑煮を祝ったのです
餅を食べることを おちつき餅という  この家に長く落ちついて舅、姑、主人にお仕えしますよ 
という そういう印でも有った

正月に祝うようになるのも、室町時代  戦国時代に成ると、織田信長が徳川家康をもてなす時に 
大事な客なので その時に第一にお雑煮です
現在とは中に入っているものが違う  干しアワビ 干しなまこ するめ  豆が入っている 
雑煮は京都で生まれて、京都で育つ 

戦国末期に甘い白みそが出来る 
これが出来てから味噌を澄ますのが邪魔くさく成ってそのまま使うようになる
上流階級では昔ながらの大豆で作る味噌を (大豆と小麦で作る味噌) 澄まして 
そのうわずみを雑煮に用いた 元々は「すまし」と言った 味噌澄ましと言った
段々庶民化してゆく 1650年ぐらいになると京都では上流階級も一般庶民も 皆が元日に 
雑煮を祝う と言う記録がある
山陰 雑煮は丸い餅  元をたどると飛鳥時代にすでにゆで上げきを食べている 
都では奈良時代に成ると現在のソーメンの親 さくべ むぎなわ ゆであげきで食べている
水あめを入れて  そういう名残りが出雲に残っているのかなと思ったりしているが
大きく分けて丸餅 と角餅に分かれる 

丸餅は古式 丸は円満を表す 
餅には稲霊 稲の神様が宿っている  日本は農業国家 明治まで8割が農民
豊作を願う と言う事もある 
丸は円満 望みがかなう   年玉を頂くとあるが、 昔は「まるこ餅」を配った  
それが年玉
雑煮を祝うと言うことは年神様の魂も頂いている という表現に成って来る  

江戸時代に江戸に伝わる
江戸は武家の社会だから 敵をのしちゃえ と言う事で のし餅   
もう一説は庶民の間に普及して
ゆくのが、元禄時代以後 長屋住まいが多い
餅を搗くのに狭い台所では餅が搗けないので  ひきずり賃突き餅屋が来る 
搗いてはもう握るのが邪魔でのしちゃえと言う事でのして食べた
本当のお祝いが神事に成ってゆく  30日 みそか(三十日)の日に主人がこもる  
夕食を食べて部屋の中にこもる そして除夜の鐘と共に神社に行って新しい火を
貰って来て、それで雑煮をたく、火種にしていた 
 
なぜこもるか 一旦死ぬと言う仮定で、新年を迎えて蘇る 更生ですね
日本人は絶えず新しく物事を切り替え切り替えてゆく思想がある   
年ごとに新たに 新たに という  そして若水を汲んで自ら火を焚いて 
だしを取って雑煮を作っていた
雑煮は一家の主人が作るんです(いまは奥さんだが)  私の親の時代まではそうしていた  
雑煮を食べるとは云わない 雑煮を祝うと言った
  
雑煮だけでは人を持てなすにはお酒のあては少ない 戦国時代に「とり肴」と言う名前で 
海老 こぶ かずのこがつく
初めて出て来るのが石山本願寺 そこの日記に出て来る 別名「そえ肴」と言った   
それが段々年代があとに成って来るに従い贅沢に成って来る
天保のころ 大阪 鴻池家(日本一の金持ちと言われた)の記録がある  
ゴマメ 数の子 たたきごぼう 豆 梅干し  全部一重に入っている   質素だった
雑煮こそ我が家の顔なんです  地産地消(四里四方) 身の回りのもので食生活を成立させて
いたのでその土地の食材を使って一つのお椀に仕上げてゆくから
その土地の傾向がずーっと出て来る  言葉と一緒  方言 言葉が変わると雑煮が変わる  
おなじ地域でも家柄によっても変わる (武家、商人、農家、漁師) 
雑煮こそ世界遺産だと言っている  これほど土地柄を表している食べものは世界にはない
日本料理の良さは 縄文時代からずーっと6000年ぐらいは基本は変わっていないと思う
  
素材を清らかに食べること 出来るだけクッキングしないで
基本的には生食です  その代表が刺身  料理と言うのは中国語なんです   
中国の南北朝の時代  ほんぞう書に出て来る
擦り合わせる時の料理法則 という言葉  料は 正しく測ると言う意味(米へんにます)  
理は 正しく切り刻む 薬材ですから    
奈良時代に日本に入る  日本に入ってから料理と言う意味が変わる 
料は 正しく切る 理 は正しく盛る 美しく切って美しく盛る それが生食なんです
割鮮 新しきを裂く  これが料理なんです 刺身なんです  いまだに刺身は切って美しく盛る 
なんにも変わっていない これが縄文時代から続いている料理文化 余り油などを使っていない
土井勝 経営の料理学校に入る 2カ月で辞めてほしいと言われた 
いると先生がやりにくいと言われた

人に教えることはサイエンスでしょう 何でこうするか解説してくれると応用が出来る 
そのことをしてほしいと言った それもそうやなと言って今日の話はなかった事にしようと言われた
その後に職員に成りませんかと言われた 3年間下働きをした 
この魚をおろせといきなり言われたが、旨く出来なかった
切ったものをごみに捨てたが、土井先生がこれは使えませんかと言われて 翌日から頭、あら等
を作ってまかないで出したら、土井先生が食べてくれた
旨いよと言われて、レシピを作った  
捨てるものは無いんだと思った 今もそうやってやっている
伝承料理に成ったのは  7年間下働きをしていて、他の先生の講義を聞いていて ふっと思った  
切ります 煮ます でいいのかなと他に考えることはないかと
近くで葬式が有った 耳をそばだてると 改良?をしている
  
冠婚葬祭の村であるコミュニティーである場を踏まないと こういう催し物 祭事の料理、しいては
家庭料理の教育はないんだなと感じた
NHKで柳田國男さんが出ていた  先生の話を聞いていたら凄く面白い  
食習の勉強をしたいと言った
民族学の先生のところに行って足を突っ込んだ  風俗史学会で 食べ物だけを勉強している会が
あった  一遍 箸の話でもしてみませんかと言われた
「料理人から見た箸が築いた文化」 話をした  世界の料理の中で魚を焼くのに うねり串で焼く  
あれはナイフ、フォークでは食べられない 箸だから食べられる
器を手にとって二本の箸で食べるのは世界で日本人だけです  
器をテーブルから離すのは世界的にタブーなんです 日本だけが許されている

器を手にとって箸で食べると、たべやすいから  一番食べやすい姿勢は脇を詰めて腕を90度に
曲げてへその高さぐらいで食べると非常に綺麗です
ここにも清らかに食べる綺麗に食べる 縄文の思想が掲げられている
   
元々日本人は手でつまんで食べる (卑弥呼の時代は)
奈良時代は箸で食べる  雑煮は箸で食べる 柳の木がいい 一方は私が食べる箸 もう一方は
神様が食べる箸 そういう思いが込められている
自分専用の箸がある  この様な文化は他には無い  
使いやすい箸の長さは 「ひとあた半」 ひとあたは 親指と人差し指をピンと這って結んだ線が 
「ひとあた」
中国、朝鮮でも箸はあるが、スプーンもある  日本は箸だけですべてを行う  
器から直接お汁を吸うのは世界にはない 合理的、 なお美しく清らかに食べる
其れが日本の料理全体、生活にも全部繋がってゆく

古代食 天武天皇の孫 長屋王 遺跡から出てきた記録の中から食べ物だけを整理して、再現した
日本人が今御馳走としているものが全部入っている  米、味噌、醤油 (の祖先がある)  
塩辛 寿司(なれすし) 鹿、猪 兎 のなれすしがある
現在は握りになるが  日本の食文化の特長は全てシンプルにしてゆくこと 
その典型的なものは寿司  なれすしは東南アジアで生まれる 中国雲南地方のもの
中国では昔のまま、日本は昔のものが有り、室町時代、江戸時代に替わった物も有り 
現代化された物まで有り、全部そろっている
酢飯に刺身を載せている 一番シンプル   赤道直下ボルネオまであった(寿司)
梅棹忠夫  食文化 受信をしないで発信しなさいと言われた 
寿司は嫌がられたがドイツ、オランダ、フランス、イタリアでもなれ寿司を評価する 
 
チーズ文化
ほうれん草の胡麻和えが喜ばれた(欧州ではゆでてごちゃごちゃにする) 
最近は寿司も嫌がらず
に食べるようになった
魚の管理がずーっと発展してきた  鮮度管理 どうしたら旨く食べられるか 
極め付きが活けしめ
世界に誇るべきものは日本の包丁 包丁刀 と言われる  
こんなに切れる包丁を持っている国はない 包丁錆びれば、心も錆びると言われた
友達は包丁を神棚に上げて柏手を打っている

日本料理アカデミーで4回担当したが、質問が有ってそれを解決するために 「京料理とはなにか」と
言う本を作ろうと思っている それが日本料理とは何かに行きつく
世界遺産としてきっちりと認識して頂くためには、そのことをしていかなければ、単に言葉だけで
申請しても価値はないと思っている
正月の食事 ゆっくり時間を掛けて家族と団欒をしながら食事が出来る時間が作れる時でしょう  
食べることは単に身体を作るだけではなくてコミュニケーションを取る重要な装置でもある
美的センスを向上させる役目も有る  広がると経済産業発展機能がある 
農業水産の健全な育成振興が出来る

2012年12月28日金曜日

山下光江(フラワーデザイナー)     ・新年のウイーンに花を飾る喜び

山下光江(フラワーデザイナー)         新年のウイーンに花を飾る喜び  
オーストリアウイーンフィルファーモニー楽団のニューイヤーコンサートを控えて会場であるウイーン楽有協会の黄金のホールを飾り付ける準備は始まっています
山下さんは普段は東京でフラワーデザインの仕事をしているのですが、年末に成りますとウイーンに赴いて、ニューイヤーコンサート会場の花の飾りつけを担当しています
全部で10数人の中のただ一人の日本人として、2006年の暮れからこの仕事に参加し、今回で7回目になります

11月からクリスマスの準備に入り、12月25日に撤収して、お正月の飾りに入るので今が一番忙しい
出発は25日に行く 28日から仕事に取り掛かる予定   
朝トラックで運ばれてきた花を会場内に入れます
黄金のホール 50m(奥行き) 20m(幅) 2000名が収容できる会場  
花を飾る場所   花だらけとなる 舞台正面 パイプオルガン 両サイド 2階両サイド  
立見席 メインのTVカメラの前  花を最初撮りながら会場が全部映る状態になる  
バレーの踊る会場 すべてに花が満載される
こんなに飾っているコンサートは他にはない 
フラワーデザインになるきっかけ  小さい時から花が好きだった 
が職業にするとは思っていなかった  OL時代に花を良く買いに行っていた
その花屋さんがとても素晴らしかった どこで勉強したのか聞いたらアメリカとの事だった  
その花屋さんがきっかけと言えばきかけだった
アメリカに行くことになり、花の勉強をしようと思って出掛けた  
専門の学校がある (プロを育てるための学校)

友人に誘われて、オハイオ州にいって、花屋さんに行って働いた 翌年の3月末に日本に戻ってきた
結婚式場の飾りつけ、企業のイベントの飾りつけ等を開拓して、生徒に教える等を行っていた 次に何をしようと思った が漠然としていた  毎年ニューイヤーコンサートを何気なく見ていた  
2004年 ムーティーさんの指揮の時にアーこれかもしれないと思った  
NHKに電話をしてつてが無いかを聴いたが、なかった
場所に行ってみたいと思った あらゆる人に聞いた オーストリアに講演をする人等に聞いて回った 実現するまで3年掛った 
ウイーンに行って花を担当している方に会おうと思ったが合わず仕舞に成ってしまった  
年末にFAXでイエスかノーか連絡してほしいと言ったが 返信はノーだった
諦めかけている状況だった  
2006年にある方とスイスで落ち合う事に成り、ウイーンに行くことになり、一緒にウイーンへ行った

ウイーンフィルの楽団長 チェロをやる人にお会いして、楽団長のアドレスを教えて下さって、手紙が良いかもしれないと言われて、手紙を出した  無理だろうとは思っていた
1ヶ月後に本人から手紙が来て、とても気にかけて下さった様で 花に関して言われるのは初めてだと言われた その後はトントン拍子で話が進んだ
2006年末は新しいデザイナーを取ったので 知らない日本人等お世話できないと反対された 
花組合の理事長が最終的に決まって、そこに居ればいいと言われた  
組合の中では盛り上がっていたようだった(日本人が来ると言う事で)
2007年の飾りつけが一緒に出来た  
サンレモ 観光の人は多いが静か  花の産地  サンレモ(熱海と姉妹都市)に近付くとだんだん畑に成っており温室が沢山見える
ノーベル賞の授賞式のはなもサンレモから送られてくる  
切り花は3万本位  鉢はウイーン 300から1000位
29日にかなり進んでゆく 30日コンサートがあるので合い間合い間に飾りつけを行う 軍人が多く参加してくる     まだ舞台の上は何もない
31日の朝方3時、4時位に終了する
1日は本番  11時から(夜の7時から日本で放送される)
飾りつけは11人~12人 ウイーンの人がほとんど   
舞台正面の下の方を主に担当する (指揮者の足元)
飾りつけに言葉は殆どいらない 

2012年12月27日木曜日

河野保人(チター奏者80歳)       ・チターの奏者60年

河野保人(80歳)             チターの奏者60年  
「第三男」でチターの楽器が知られるようになりました 哀愁にあふれ多くの人を魅了します  
子供の時にチターの曲を始め得て聞いて、大人になって演奏したいと、単身でドイツに勉強に行きました  
現在は世界的な実力を誇るチターの第一人者です  

今持っているチターは弦が42本有る 少ないものは3本~74本までいろいろある  
自宅には67台ある  
こういう楽器が欲しいと職人さんに注文する(3~4年掛る)
味わい深い、哀愁を帯びた音色  
2つの異なった楽器を一人で弾くようなもの(ギターとハープを一緒にしたようなもの) 
指で金属弦を弾くので10年ぐらいは厳しい
指が切れるそのうちに良い皮膚が指先に出来て来る  良い具合のタコが出来て来る  
15~20年やっていると柔らかいタコが出来るようになる
肉体を楽器になじませる  
5mm位の間隔しかないので引きやすい様なタコが出来ないといけない(段々に成っている)
ピックで弾くと良い音は出ない 柔らかいタコで以って弾く事により柔らかい音が出る
最初にチターの曲を聞いたのが戦時中 叔母の家でレコードを聴いた 
これがきっかけだった     音色に感動した
楽器は知っているのは単語だけだった  それが私の人生を決めてしまった  
高校卒業して 東京に出てきて仕事を始めた(米軍キャンプ)
チターを持っている将校がいた  それを聞いたり、触らして貰ったりした   
レコードで聞いた音とは違っているなと思った
「第三の男」で映画で聞いて、今までとは全然違っていた

日本では勉強できないのでドイツに行かないと出来ないので、ドイツに渡った(昭和37年)  
保証人の手紙が無いといけなかったので日本にいるドイツの人から、本国の友達に連絡して、保証人に成って貰って、ようやく外務省に許可を貰う事が出来た  
(片道切符で行った  その時は夢中だった)  
言葉はすこし(ラジオのドイツ語講座、ドイツレストランでやっていたので)出来る程度だった  
チターはまだ弾けなかった(ヴァイオリンは子供の頃からやっていたが)
叔母が音楽の先生をやっていたので、ピアノとかヴァイオリンとか作曲を教えてくれた  
音楽には規則が無いと最初の頃から教えてくれた
レコードを聞かして貰うのが御褒美だった
  
300ドル持って行く  生活するには仕事が無いといけない  
ヴァイオリンのオーディションを受けて受かることが出来た
仕事の契約をして 滞在許可証を貰わなくてはいけない 
3つのビザ(労働ビザ、滞在ビザ、アルバイトビザ)が無いと 滞在できない
結婚していて、子供がいたが 単身でドイツに行った 
3つのビザを日本の外務省に送って、ようやく妻と子供をドイツに呼ぶことが出来た
ヴァイオリンがそれだけ出来るのなら、チターをやらないでヴァイオリンをやったらどうか、チターではドイツ人でも弾けないんだと こんなのをやっても先ず仕事が無いよといわれた 
それが昭和38年 当時は何人かはいたが、弾ける人はいたが皆おんなじで教えることはしない   
自分の作品を持っていないとマイスターに成れない  ただ弾くだけではチターは駄目  
3000曲位はある(古い曲から自分で作曲したものまで)
自分で表現できるような弾き方が出来ないと駄目  
弾き方が地味なので今の弾き方に合わない  
私は魅力の方が強くてのめり込んでしまった  先ず楽譜が無い   
覚えたての曲を弾いていると、喜んでくれて、自分でも益々深入りした
ヴァイオリンも喜んでくれたが、チターは心底喜んでくれた
修行は4~5年 自分の才能を過信していたが、チター初めて見たら大変なことが判った 
手のタコ  タコをつくるまでが大変だった

日本に帰ってきて ドイツから仕事の話が有った 
もっとドイツに居たかったが子供の事があるし、帰ってきた
最初のうちの演奏会はヴァイオリンとチターの両方をやっていて、段々とチターを増やしていった  
ドイツの方が理解してくれた
今から40年前ぐらいから日本でも理解してくれる人が増えてきて呉れた  
後援会も出来た
CDをつくって保存できるようにした 
聞いて子供が魅力を感じてくれると思ってCDをつくった
自分で音を作って行かないと駄目 それを如何に表現するか  
息子もチターを演奏している

2012年12月26日水曜日

渡辺愛佐子(杜氏 37歳)       ・創業百年の酒蔵に新風を吹き込む

渡辺愛佐子(杜氏 37歳)          創業百年の酒蔵に新風を吹き込む  
昭和50年生れ 東京農業大学 醸造学科を卒業 山梨の醸造会社で研修して 実家の酒造会社に入社現在杜氏として8年 

12月に新酒が出来上がる 
ゆっくり発酵させた分 味わい、香りが柔らかく出る様な形の酒に成る  
その時の米のでき具合、気候により 発酵させる温度を決める
絞る時期が少し遅れてしまった  「美濃錦の初心しぼり」  
ゆっくり発酵するタンクもあれば急ぐタンクも有るので温度管理している
生き物を扱ってるような感じがする  
発酵の途中によってゆっくりしてほしい時があるのでこっちが思っていたような発酵の仕方をする
動く 酵母達が発酵させていくので酵母が食べれるのが 糖分なんですが、その糖分が元々酒を仕込むには、米と蒸し米と、麹と、水仕込んでゆくが、ここには糖分が無い訳です  
麹がつくる酵素によって、お米が糖化されて 甘くなって それがやっと酵母が食べれる   
米が糖化されて解けて行く工程 と 酵母がそれを食べて発酵してゆく工程が、一緒に酒作りは進んでゆくわけです 
そのバランスがうまく行くように、持って行かなければいけないので、温度が高かったり気候が高かったりすると発酵が進んでしまったり、逆に急に寒くなったりするとゆっくりしてしまうので  
様子を見ながら、調整してゆくわけです
仕込みは10月の終わりに仕込む   
酒母」 良い酵母をたくさん育てる工程をする  
沢山育った酵母を元に添え 「中留め」、と言って 雑菌に汚染されないように、すこしずつ大きく仕込んでゆく
   
新しい米を使って 精米 米の外側にいろんな栄養分があるので、栄養分を取る精米をしている(我々が食べている精米は10%)
普通酒では30% 純米大吟醸は50%以上磨く  米の芯だけで作る  
食べる米は粘り、甘みであったりする方がおいしいが 酒をつくるにはいいデンプンが
たくさん有る方が良い米と言われる  大粒の米が良いとされている  
食べるものとは違うものに成って来るので酒に適してる米と食べるコメは違う
米を洗って余分なぬかとかを落としてから 水に浸ける  
お酒作りの米ですと 70%の米はゆっくり吸わせても大丈夫なのですが、大吟醸に使う40%のものは、沢山吸わせるとべたべたになってしまうので、それこそ水の温度、水につける時間を何分、何秒と測ってしていかないと吸い過ぎてします
 
経験で解ってゆく 水を切って米を蒸してゆく  
蒸し具合によって、蒸す時間、蒸気の量の調整によってその年によって 一番酒をつくるのにいい状態をつくってゆく
をつくる  穀物にカビをはやしたものを言う  
カビなのでつくる場所も温度30度位 湿度も高いところで増やしてゆく 
そこに蒸米を入れて種麹を振る(粉のような状態) 
それでそこから菌糸が生えてきててカビが生えて来る  
その状態で放置すると胞子が出来てしまうので、そういう胞子は酒には適していない

麹の役割は米を溶かすことなのでつくる酒によってどの程度溶かしていきたいか、発酵させるのにどういう風にバランスを取っていきたいかによって、多少出来上がる麹の調合を替えてゆきます  
(蒸した米を広げて その後に麹菌を振る それを手でもむような作業をする 均一に菌が付くようにする)  
種を付けた米を一旦寄せて次の日にばらばらにしてゆく  
温度と時間を旨くやって行って 中仕事 止め仕事と言って 2回 手を入れて混ぜてゆく
布一枚 掛けるか掛けないかで温度は違ってくる 
出来た麹を出して 仕込みに使ってゆく  
其れを元に蒸米 麹 水 そこに酒母を入れる(酵母を育てる工程にうつる)

1本のタンクを仕込むのに、酒母を元に3回に分けて酒母が1だったものを2の大きさにするために添え仕込みと言うものをして、2日目に戻りと言って 又良い酵母を沢山つくる 
沸かす 仕込みを休む日を取って、3日目に中仕込み 
2の大きさであったものを4の大きさにして 4日目に留め仕込みと言って4のおおきさで 有ったものを8の大きさにして すこしずつ大きくしてゆくことによって、折角良いお酒をつくるのに適した酵母を一気に薄めて雑菌に汚染されないように、すこしずつ大きく仕込んでゆく 
仕込み大きくして行って3回仕込む事によって やっと1本のタンクが仕込みを終わることになります  
仕込み終わった後は 最初は米は水を吸って米はパンパなんですが、1日目 2日目となると 段々麹の酵素が米を溶かしてゆくので米もゆるくなっていきます

酵母も段々増えてゆきますので、ふわふわとした泡が最初出てくる 
米が解けながら酵母も最初増えて来る  
泡が上がってきてそこから有る程度来るとスーッと落ちて来る
そこからまた発酵していって有る程度酵母まで沢山育つと アルコール発酵を始める 
徐々に酒が出来てきて、米が解けてきてやっと旨味が出来てきて、絞れる状態に成って来る  大垣 水の都 水が豊富に湧出している  創業100年に成る    
蒸米を 練り餅として、蒸しあがりの状態をみるがそれを食べたことが有る
両親は 子供は女の子 3人だったので継いでくれないと思っていたが、大学で実験、生物の神秘に興味があって面白いなあと思っていた

たまたま父の友達の息子さんが賞(酒)を取ったという話を聞いて 観光がてら、両親が見に行ったら、娘でも出来るのではないかと母が思った
東京農業大学の醸造学科に母が勧めて、行くことになった
生き物なので日に日に変わってゆくので面白い  
山梨県の醸造会社に行って学ばせて貰った
体力仕事なので、冬の間は特に帰ったらパタン、キュウーの状態だった  
杜氏になるまで 新潟から杜氏は来ていた  
段々酒の量が少なくなって人が少なくなって一緒にやる様になる
最初は一緒につくっていた杜氏とやる様にすれば出来ると思っていたが、そういう風に成らない
米一つとっても出来が違えば、それに対応して水の浸け時間だとか、処理の仕方を多少替えてゆくんだと思うのですが、それをどうするか判らない状態でした
年年やっていくうちに気付く事があり変わってきた  
つくり易くなった部分があるがやっぱり奥が深いなあと思った
自然の力とのやりとり  もっと元気になってほしい事とか ぶつぶつといったりする
すこしずつ変化してゆくと言うのが楽しさにつながると思うが、最終的にやっぱり酒を絞って美味しいなと思えるものが出来るのがうれしい

どぶろく 昭和村で作っている 8年ぐらいになる   
若い方にも飲んでもらえるようなものをつくって行きたい 
今のお酒もそうなんですが、ちょっと味口が変わった 
切りくちが変わったものもいいかなと思っています
「覚眠深睡酒」  1億年前の地層から湧き上がる柔らかい水を使って 仕込んでいるので柔らかく米のうまみがあってスーッと飲める酒に成っている
「白雪姫」 地元の田んぼに蓮華草を撒いて化学肥料を使わない米を使った酒を販売しています 寒い時期につくった方が旨い酒が出来るので3月まで期間が有る

2012年12月25日火曜日

徳永二男(ヴァイオリニスト66歳)     ・ヴァイオリン一筋芸の王道に挑む

徳永二男(ヴァイオリニスト66歳)       ヴァイオリン一筋芸の王道に挑む  
昭和33年 6年生の時に 第12回全日本学生音楽コンクールで全国大会で第一位を受賞 
桐朋学園大学 音楽科に入り、斎藤秀雄さんに師事されました
昭和41年に当時日本の楽団史上最年少の、コンサートマスターとして東京交響楽団に入団 
昭和51年NHK交響楽団のコンサートマスターに就任
N響を退団された後は、ソロ、室内音楽に専念される一方、指揮者、音楽監督としても活躍されています 
そして2008年からは徳永二男の挑戦と題して,10年間毎年一回 リサイタルシリーズに取り組まれています  今年10月で半分の5回を迎えました   

年越しコンサートを港未来ホールで20年間行っている  
40数年前にベルリンに留学していて クリスマスを経験した 忘れられない
東京でいう銀座通りが綺麗で歩いているだけでわくわくした 
 一番中心にツォー駅 そこの横に戦争で壊れた協会が残っている
隣接した新しい教会でコンサートがあり、そこに連れて行って貰って感動した 
 正月よりもクリスマスの方が盛り上がる
リサイタル 5回目になる  一回目と5回目では演奏の質が自分でも変わってきたと思う  
2年、3年先の曲を頭に入れて勉強し始めている

準備段階も長い  
課題をもって自分自身が少しでも高いところにいけるように、表現、 他の芸術の経験も有るのでその時の感動をどう表現できるか挑戦している
音楽家としてヴァイオリンは楽器としては変な持ち方をする 
音楽家としての寿命としてはヴァイオリンは長くない  指揮者が一番長い
我々はどうしても身体を使わなくてはいけない 
全身運動 どうやって表現することが出来るか 黙っていると技術は下がって行ってしまう
挑戦と言う気持ち 技術的にも、出来るだけ保ちたい あわよくば上昇したい  
日々工夫と言うか自分の筋肉をばらばらにして、心に感じたことをどうやって音で表現するか  勉強を重ねてきた 
  
楽器を弾くと言うことは常に全身運動ですね  
自然体と言うものをきっちり頭に入れて勉強してそのうえでの表現 簡単に言うとそういう事です 10代、20代、30代でも 譜面を見てステージで消化するのに5分で出来たものが時間がかかりますけど、 しかし時間がかかると言うことはいいことだと思う  
若い人達の工夫と 66歳の工夫は違うと思う  
若い人はより正確さ、テクニックの歯切れ、よりスムースに、より流暢に、より指も早く、如何に技術をアップするか
我々は如何に現状を維持するかを考えている
ヴェートーベン 10曲 クロンツエルソナタを2曲弾く  ブラームス3曲を中心にやっている  
バッハの6曲 
父親はヴァイオリニスト 4歳のころにいきなり 呼ばれて ヴァイオリンをもってみろと言われて 動かしてみろと言われた
 
これはいけるかもしれないと言われた
鷲見三郎先生に習いに行った  家でも厳しく教育された  
理由としては父親が音楽を始めたのは16歳 
(ラジオでクラシックの音楽を聞いたら、いても立つっても、居られなくなり、親の反対を押し切って東京に出てきた) 
ヴァイオリンを勉強し始めて高校に行きながらアルバイトしながら、勉強して 一生懸命勉強してた 父親も苦労して東京音楽大学に 東京交響楽団に入団した  
そのころから外国からもいろいろな先生が来るようになって、父親も指導を受けたが、言われることはよくわかるが、どうしても技術的に付いていけない  
矢張り音楽は3歳、4歳、5歳からでないと駄目だと思うようになった  
子供に夢を託す(当時音楽を志した人達の主だった)  桐朋学園大学  斎藤秀雄先生(チェロ)    室内楽を小学校の5年生の時から習った

オーケストラで皆と一緒にやるのが楽しかった  
アメリカに演奏旅行に行った(メンバーは素晴らしいメンバーだった) 
鷲見三郎先生は基礎をしっかり教える先生だった
NHK交響楽団 コンサートマスター 29歳の時  日本のその楽器のトップの人がやっていた 
浜中浩一(クラリネット) 千葉かおる(フォルン) 北村源三(トランペット) 霧生吉秀(ファゴット)
リハーサルの時に指揮者が注文を付けた時に演奏者との仲介役をする  
信頼して貰って初めてできる  
指揮者も優れた人が沢山いた  マタチッチ先生氏(85歳) 車で迎えに行った  
先生に引くつけられる 手の動きではなく解る 先生の懐に入り込む
こういう音楽家に成りたいと思った    ヴァイオリンと対話をする 
運動選手(アスリート)と同じ  腕、手、指は自分にとっては道具ですね

解りやすくいうと 譜面はメッセージ 頭でデザインする  そこから指示がでて、手が動く  
自分の道具を常に信頼のおける道具に、しておかなければいけない
腕と、手と指を常に鍛えて鍛えて訓練しておかないと駄目 日々工夫で、一つ簡単に言うと余分な力を抜く、脱力 、音まで脱力しては駄目
音を支えるための筋肉は必ず必要  でもそのほかの力は必要最小限度 
余分な力は使わない  ここのところは非常に大切です
常に日々工夫です  自分の身体に興味を持ち続ける 
もっとこうなるんじゃないか ああなるんじゃないかと日々工夫して実際やってないとなかなかできない
43年ぐらい教えている  優秀な方が沢山出てきている  
三浦章宏(東フィル)、小森谷 巧 (読響)  扇谷泰朋(日フィル) 等 コンサートマスター さらにその2代目

ドイツ国際コンクール 16歳で史上最年少で」優勝した 三浦文彰  お母さんも生徒だった  小林美樹  ポーランドの国際コンクール(世界の頂点のコンクール)で2位
音楽監督も始める アイザックさん(82歳) アシュケナージピンカス・ズーカーマンジュリアン・ラクリン、 マイスキー 世界の頂点の方が来て下さる
指揮者とオーケストラの一体感の有る音楽をつくりたいと思っている
健康が一番大切でやっぱり身体に何か問題があると演奏も駄目だと思います

2012年12月23日日曜日

新里和弘(医師)             ・認知症患者には優しさが一番

新里和弘(医師)          認知症患者には優しさが一番
20年間認知症と付きあってきました   
根本的な治療法が見つかっていない現在 一番の治療法は親切と優しさだと言われます
その考えを実践するために、今年四月都立松沢病院では新里さん達は中心に成って認知症の
患者が住みなれた地域で家族と一緒に、安心して生活できるように
地域に根差した医療、福祉、介護の密接なネットワーク化を測って認知症疾患医療センターを
開設しました 
認知症患者と向き合って20年
認知症患者300万人を越えた(65歳以上)  今は割と早い時点で私は病気なのだろうかと言う方が増えている

地域連携 地域に出掛けて行くことがある  
認知症の事について知りたいという欲求がある,増えてきている実感がある
昔はMRIが無かったが、今はMRIで検査をしている しかし基本的な診察は同じ  
最近は診察されるのは昭和一桁の人
20年前は 認知症とは云わず 痴呆と言われていた  
私は精神科医だったので認知症の対応が気に成っていた  厳しくしていいことは何もない
丁寧に接する   大事なことは本人が如何に安心感を持って貰えるかだと思う  
旦那さんが認知症  ある日 旦那が岡山のおふくろのところに帰ろうかと言う  
親は亡くなったのよと言うと はっと驚いてその後看取ったのよと30分ぐらい話す

2から3時間してまた同じ話をする  
どうしたらいいかと相談があり 身体が丈夫だから大丈夫よ,貴方がそう言うなら岡山に帰りましょうかと言ったら,このことは2回でぱたっと止んだ  
亡くなった事実は忘れてしまうが 親孝行出来なかったというような悔みの念が有って、それがまた次の言葉として出て来る
そういう意味では奥さんは嘘を言っているが、それは本人の安心感を重視する方向で有れば、
ある程度の演技、アドリブで対応する 
そうすれば納得する(その時の感情が収まるそれを続けることが良い介護に成ってゆく)
認知症を家族の中だけで済まそうと言うことは通用しなくなった  
介護保険を受けていろいろなサービスを使う
  
オープンに成って認知症を支えてゆく方向に有る
時代は変わってきた実感はる  あるところまで進むと家庭内では処理できなくなる  
多くの人の助け知恵をかりてやるのが鉄則ですので、助けを求め合おうよ と言う姿勢
家族を支援することは 患者さん本人を支えているというコンセンサスが出来上がってきた
治療の変化は? 昔は薬はなかった 入院希望した  
進行の程度を遅らせる薬が4つ出来てきた
ので、早目に受診して貰って早期に薬を飲む方向になってきた
認知症は認知機能が低下および社会生活の問題が生じて認知症と判断される  
生活に問題が無ければ認知症ではない

出方が違う認知症がある(万引きとか)  6~7割はアルツハイマー  血管性認知症 血管が詰まって脳の一部がやられる
アルツハイマーはやられやすい部位がある海馬 苔状回    4大症状がある

①レビー小体認知症  脳の中にレビー小体という物質が沢山出て来る  症状が特徴的 
 見えないものが見える(幻視)  皮膚の上を虫が這っているとか
   パーキンソン症状も出て来る   薬の調整の余地のある病気
②前頭側頭型  もの忘れと言うよりはと言うよりは人格の変化  万引き 車で乱暴な運転  
 高速道路を逆に走ってしまったりする
③物取られ妄想  人のせいにしてしまう アルツハイマーの初期から中期に掛けてが多い
④嫉妬する妄想     私のいない間に人を連れ込むとか    妄想は訂正不能
 生活の積み重ねで出て来る妄想なので軽いもの

感情が積み重なって家族の者が取ってしまったのではないかと言うようになってゆく
70、80歳になると脳の機能が低下するもの  判別は難しい  
認知症は年単位で必ず進んでくるので 矢張り変化を感じた場合は専門家に掛りやすい社会に
するといい
早期発見、早期診断、早期治療 が必要だと思う(進行性の病気なので)
記憶力の低下 の判別難しい  
2年前にMRIを取っていれば 今回取って比較するのが一番良い

家族だけが相談できる窓口を設置して 家族だけで相談して貰う 
内容によって良性 悪性なのかの判断はできる
悪性は事柄自体を忘れてしまう 会った人の内容が忘れていたりするのは良性だが会ったこと自体を忘れてしまうとか5分後に同じことを言ったりすると悪性,根治薬は現在はないが 
若年性アルツハイマー  65歳より若い世代   非常に告知をされたときはショックなこと  
家族で皆で協力していく 尊厳を重視した対応 認知症は本人の認知機能が
低下するので 段々と自分が病気だと言う意識が無くなってくるので尊厳を重視した対応が
出来なくなるので、安心感を重視した対応に切り替えざるを得なくなる

切り替えを旨く周りの者がサポートする必要がある  
尊厳を重視した対応から安心感を重視した対応に切り替える必要がある
資源を如何にあちこちから取ってくるか (手帳、年金) 情報を集める必要がある
先ず介護保険の申請  介入のチャンスを意識して伺うべきだと思う  
認知症を抑制するためには刺激が必要
もの忘れについては抑制する薬を飲んで貰う   プロセスの経過の中で問題行動が出て来る  
夜眠れない 大声で騒ぐ 幻覚 徘徊 

その時に薬がかなり有効です 症状によってはかなり効く     
家族のサポート 不安、不満を聞いてやる  頑張りすぎないように入院を進める
環境が余り変わるとよくないが、アットホームな感じで行うようにする  
(拘束は行わない ショートステーの様な感じで行う)
徘徊については薬は効かない  家族が一緒に回って満足すれば一番良いが,一日中回らないと気が済まないような人がいるので難しい処も有る 
イギリス 初期支援チーム 看護師 ケースワーカー 医師がチームを組んで病気の対処法、家族の支援をする仕組みが動きつつある

再生医療 判らない  中枢神経系なので 神経細胞が無くなる  
大元の原因がアルツハイマーであればアミロイドというものが溜まって行くために神経細胞が減ってゆくのでiPS細胞が如何役に立つかは判らない  現状では治すことは出来ない
ワクチン かなりの人が副作用でなくなった  亡くならない方は中断した 
認知症が進んで亡くなった 脳を調べた その時にアミロイドはすっかり無くなっていた
それにも拘わらず認知症は進んでしまっていた  ワクチンが効いてアミロイドが無くなってしまった  
副作用の無いワクチンのをつくること,おそらくワクチン等、根治的な治療を行うにしても認知症は明らかになってからでは遅いではないかと言う事 早い段階でアプローチをしないと効かないのではないか

認知症は どんどん早期診断  アミロイドは病気が出て来る10年20年前から溜まり始めていると言う事が判って来ていて そこの段階から知見を始めたいと思っている
微妙な問題で PET検査でアミロイドが溜まっていることが判る  しかし治療法が判らない  
慎重に今後も進めて行く事が必要がある
沢山の薬が開発されて現在ある4つの薬を旨く使う 医療だけでは完結しない 
告知は始まりであってサービスを受け 家族で支え介護サービスが入って広くは社会が支える
必要がある  
「恍惚の人」徘徊のたびに弱ってゆく  病み抜ける  
最後まで暴れて亡くなってゆく人はいない 
大変な時期を旨く乗り越えて 旨く病みぬけて良いお婆ちゃん 良いお爺ちゃんに成れて、その辺を目的にしている 
旨く援助が出来ると言う事を治療のやり甲斐にしているので 「病み抜ける」ことが大事

2012年12月22日土曜日

黄地耕造(鋳造会社社長81歳)    ・祈りの音を永遠に

黄地耕造(鋳造会社社長81歳)        祈りの音を永遠に    
滋賀県東近江市 (かつての長村)
60年に渡って全国各地の寺院の梵鐘を作り続けてきて,手掛けた梵鐘は3500に登ります 
奈良薬師寺を始め、国の内外の多くの寺院に釣鐘を納め,仏像、燈籠等、お寺や神社に納める鋳造品の製造にも携わっています   
鐘の音で人々に安らぎを与えたいとおっしゃってています  

音色 ちょっと聞いただけはガーンと言ったようですが、打撃音、高音、余韻の三拍子必要と言われている
梵と言うようなことを連想する様な音  高音 は長い方がいいと言われている 
遠くに響く音  それが一旦下がってから余韻がある
梵鐘はみ仏のみぎょうえ?を出す宝物であるという考えから、形だけ良ければいいと言うのではなしに、作るものも突いてくれる方も 温床に対する考え方を,大事にして頂いて、作るものと、突いて頂く方が一体となって、将来の皆さんの心休めて貰えるような梵鐘になる様にと心がけて作っています
 
700年前から梵鐘作りを生業として、技術が伝承されてきた  昔は出掛けて行ってお寺で作る 
大八車に道具を積んで出かけていって庭先で作っていた
戦後にも2か所 出ふきといっていがたを作って行ったことがある  
銅と錫の比率 銅鍋の古いもの、銅の上に錫を塗り込んで映す鏡等を集めて これは銅分が 多いのでとか、集まったい物の元になる金属をみて、調整していた  
現在は銅も錫も純な金属を入手できるので、いろいろ調整できる

土も大事 何度も何度も焼いて、梵鐘をつくり つくったあとも粉にしてふるいにかけて、粒度を分類するとかして、何度も使う方が癖の無い土になる
皆一つ一つ同じように自分で出来ることの最高の技術を駆使して作ったと満足はしているが、今後次の方の梵鐘に心を込めて突いて頂きたいと思いがある
火入れ式 鋳型の流し込む時 は い込む前日から自然とそういう気持ちになり、お願いで来るのは最後は仏さんのお加護だけと言う事になる
昭和11年 周囲のお寺には鐘があるが、そのお寺には無くて、一生かかってでも作ってくれと頼み、遺言で亡くなった 
コツコツ働いたお金で作ってほしいと依頼されて 作ったことがある  (父親から聞いた話)  
そこに出掛けて行って梵鐘を見学した
 
父親が苦労しているのをみているので、鋳物師には成ろうとは思わなかった  
中学の時には就職先を決めていた 
最初は特にどうと言うことはなかったが、母は7歳の時に亡くなって お婆さんに育てられて お婆さんは信心深く 段々家業を継ぐ気持ちには成っていった 
奈良の薬師寺の梵鐘を作らしていただいたのが、現在まで梵鐘をつくることになるきっかけだった
高田好胤さんは判り易く説明してくれた 
段々頂いた本等を頂いたものをみているうちに心がそっちの方に向いてきて、お写経をしたりした
金堂が新しくなり、梵鐘が割れていて 音がひどかったので、新しくすることになる
人間らしさをちょっとでも教えていただいたので、心、心が一番 心がすさんではいけないと 教えられた
気持ちの持ち方が 高田好胤さんに会ったとき以降では違ってきた  
高田好胤さんとインドにも行くことになる  
南方で亡くなった戦没者の慰霊のために、小さな鐘を持って行って、叩いて み霊にお礼にきましたと祈った

日本で一番清らかな音は梵鐘だと言われた(高田好胤)  
薬師寺 三重の塔 法要の起工式で 塔楼を分解した 
誰でも組み立てられるように順番を丁寧に書いて分解した  
あと5年経ったら組み立てするが薬師如来の御念力があれば生かされると思うので、十分節制して、もうちょっと頑張っていきたいと思っている  
その日その日一日一日を大切に過ごさせて頂きたいと思っています  
東本願寺 梵鐘 もう二年になるが平成20年末に 750回忌 を記念につくりかえると言う事で4500kgの記念の梵鐘をつくった

50年前に700回忌に、御縁があり、父がハスの花をつくり替えた  
前の梵鐘は慶長9年に大阪の人がつくった
長村いもじ 第3代目佐平の名を梵鐘に刻み込む 長村いもじ(長村の鋳物師の意味)   
岩手県 大槌町 江岸寺 本堂 鐘楼堂も津波では助かったがその後の火災で、燃えてしまい 梵鐘の上の方がとけてしまった      住職も行方不明  
来年3月11日が3回忌と言う事でつくることになる
(現地の人の梵鐘の音を聞きたいと要望があり)
除夜の鐘 で年が締めくくる   
大晦日が一番心の一段落と言いますか、又来年も正月早々から皆さんの癒しのお手伝いが出来たら有り難い事と思っています

2012年12月21日金曜日

篠塚健次郎(64歳)           ・パリダカからエコカーレースへ 2

篠塚健次郎(64歳)        パリダカからエコカーレースへ 2  
山梨県の清里で現在は生活している     
妻が清里でペンションを始めた  
2000年からパリに住むようになり、ペンションは休んでいた
今年建物を大改修をした 
とっても環境がいいところで1300m位の処に有って夏でもクーラー入らない 
冬は寒いが 野辺山でスノードライビングスクールをやっている
それを4年ぐらいやっている  来年ペンションを再オープンする  
夜は星がとっても綺麗 とっても落ちつく  東京から2時間で行ける場所

東海大学から講演を頼まれた  打ち合わせに大学に行った 
大学がソーラーカーをやっていること聞く  
南アフリカで大会があると言う事だが政情が悪く参加,出来るかどうか検討中であった   
結局一緒に行ってくれれば、大学も安心してくれるし、一緒に行くことになった  
今まで自分が走っていた車とは全然違うので興味は余りなかった   
南アフリカに行ってからソーラーカーに乗ることが出来た
初めて出て優勝してしまった  
1200~1300w発電できる 馬力にすると2~2.5馬力   
地球温暖化が注目されている状況だった
もっと何で開発しないのかなあと思うようになった 
 
もしかしたらこれが自分の一生の仕事になるかなと思うようになった
ソーラーパネル、ボディー、モーター、バッテリーが主な構成  企業に協力して貰う為に企画書を作成した
2009年オーストラリアで 50台出て来る 世界で一番大きな大会 
ライバルチームが凄い  F1チームと一緒の力の入れようだった
5位、位には入れればとっても幸せだと思ったら、優勝してしまった   
学生と一緒だと時間の制約があるため 年に1回参加が限界
今年 独自のソーラーカーチーム 篠塚を立ち上げた  
今年はギネス記録に挑戦するとか いろいろなイベントに出たいと思った
出会い 1番目 ラリーと出会った 2回目は1986年にパリダカールに出会った  
2009年 3回目はソーラカーとの出会いが出来た

これから一生やっていくのかなあと思っている  
ソーラーカーは人の役にも立てるのかなあと思っている  排気ガスゼロ  
実用化出来れば素晴らしい
10億人ぐらいが車とともに生きてきた 
中国、インドが 新たに車を使うようになると 大変なことになる
これからの車はこういう車なんだと提案する義務があるように思う   
20年ぐらいかかるとは思うがすこしずつ開発してゆく必要がある
考え方は必要と思う 
 
①重量を如何に少なくするか  昔の車は軽自動車で400kg 小型車 800kg~1000kg だった
  が  今の車は軽自動車で800~900kg     小型車で1300~1500kgある 
  倍ぐらいになってしまった    ちょっと豪華になり過ぎた傾向にあると思う  
②空気抵抗が大きい  時速60kmを越えるとグーッと空気抵抗が上がってくる  
  幅と高さに影 響される  もっと形状を考える
③ころがり低抗 タイヤとか回転する抵抗がおおきい  今のタイヤは幅が広い 
  時速250kmで走るには必要だが1/3位の幅で十分だと思う
市販の車に反映できればいいと思う
  
我々の車はソーラーパネルで発電して、リチウムイオンバッテリーに蓄えて バッテリーからモーターに モーターで走る 所謂電気自動車  構造は電気自動車  
電気自動車は100kmで走れる  今年の南アフリカのレースでは4632km走った 
世界で最長距離のレース 10日間で走る  (2日間は雨)
ギネススピード記録に挑戦 これはソーラーパネルで発電した電気をそのままモーターに伝えなくてはいけない     バッテリーを積んではいけないのがルール
88.8kmが現在の世界最高記録 オーストラリアが持っている   
それに挑戦しようと言う事でバッテリー外して 組み替えてその車でやろうと挑戦した 
79.08kmで駄目だった  基本的にはレースと記録挑戦は無理が有った  
専用の車が必要であると痛感した(空気抵抗、重量 )

来年リベンジしたいと思っている  ソーラーでやる事が沢山あって楽しい
自分達のチームは優勝するためにきているのか、上位をめざせばいいのか  
完走すればいいのか 目標により大きく違ってくる
トランスミッション交換に通常は半日掛るが 20分でやってしまう  
オイルの交換でオイルが130℃に成っていて 優勝を狙っているとやけど覚悟して交換する
温度が下がるのを待つと時間ロスが発生、そういった場面が一杯あり 全部加えると大きな差として出て来る   
南アフリカに初めて行った時には、目標が定まっていないと思った  
目標を定めて一つに纏める事が私の役割だと思って行動した

私は子供のころはとっても身体が弱かった 大人しい存在だった  
友達に誘われてラリーに参加したのが私の人生を決めたような感じだった
ラリーを続けることにより、出会いにより人脈が出来たり、階段をちょっとずつあがって、信頼されたり 知名度が上がったりとか ラリーをやっていることによって、ちょっとずつ備わってきたと思う 8年間ブランクの時期が有ったがパリダカールに参加で来たので良かったと思った    
待たなくていけないときも有る 人生、矢張り登り坂有るし下り坂も有る
 
若い人達への助言 
①好きなことを見つける努力をしなさい  
②得意なことは絶対何かがあるのでそれを見つける努力をしなさい
③なにかやろうと思った時には紙に書いて、整理しなさい  それを見直して紙が目標になる  ④バレリーの言葉 「湖に浮かべたボートを漕ぐように 人は後ろ向きに
 未来に入ってゆく  目に映るのは過去の風景ばかり 明日の景色は誰も知らない」   
 漕ぐのはいいが 右とか左とか 言ってくれる人がいないといけない
 本人は良いと思っているかもしれないがアドバイスしてくれる人が必要   
⑤失敗を恐れるな 3回に一回位何かうまくいけば後の2回は失敗してもいいかなと、その位の  気分でいいような気がする  3割は大好き  失敗しても絶対復活できる

2012年12月20日木曜日

篠塚健次郎(ラリードライバー)      ・パリダカからエコカーレースへ

篠塚健次郎(ラリードライバー64歳)    パリダカからエコカーレースへ  
パリからアフリカ・セネガル のダカールまでの12000km走り 、途中サハラ砂漠を縦断し 世界一過酷なモータースポーツと言われている通商パリダカ
このラリーで総合優勝の実績を持つ篠塚さんは2008年から母校の東海大学のドライバーとして、ソーラーカーレースに参戦 親交の有る技術者とチームを結成
世界最速となる時速90km以上の達成を目標にギネスでの認定をめざしています  
今まで化石燃料で世界を走ってきましたが、これからクリーンな車を提案するのが、義務だと思うようになりました  
ソーラーカーでも早く走れることを多くの人に知ってほしいと、新たなラリードラバー人生に意欲を燃やしています  
パリダカ等、22回の出場で 7回の栄光に輝きました

基本的には1月1日にスタートする ときがあるが 前後してスタートする場合がある 
20日間位走るレース
フランス人は長いレースが好き  
過酷 冒険 瞬発力だけではなくて 作戦を立てて 旨く行ったとか行かなかったとかも併せてやることが好きな国民
第一回目が1979年に行われた  
どんな車でもいいという とっても荒っぽいレースが基本 「ティエリー・サビーヌ」と言う人が計画したレース
1日約800km走る 沙漠で道が無いところ 
GPSが当時は無かった コンパスで角度をみながら 沙漠は道が無いので方角で行かなくてはならなかった
途中で砂丘が出てきたりすると 行きたいのだけれどもいけない処があり、ミスコースする車が結構ある
レースをやりながら危険なことが多くある
「私にできるのは冒険の扉を示すこと 扉の向こうには危険が待っている  
扉を開くのは君だ 望むなら連れて行こう」   ティエリー・サビーヌの言葉
危険なことは判ってて参加する 
サーキットレーサーならヘリコプターが来て直ぐに病院に運んでくれるが、このレースではそうはいかない 
手当が遅れて亡くなる場合がある
いろんなリスクがあるがクリアしながらレースをする  
日本人が考えるのは 何でこんな危険なレースをするんだ なんかあったらどうするんだ
責任は誰が取るんだ と言う風になる 
 
貴方は危険な競技と判ってて、やっているんだから それは貴方の責任でしょうと、とってもクリアーな考え方
すべてはあなたの責任ですよ、嫌だったら出なければいいじゃないですか、と言うようなことです 日本人とは全然違う
18歳の時に(大学1年) ラリーと言う言葉も知らなかった  友達に誘われてラリーに参加した (ナビゲーター役)  
車が横に滑ることを体験して、衝撃的に面白かった
こんな風に車は動くんだと経験した 感動的だった  これが病みつきになった 
学校にはあまり行かずにアルバイトで金を稼いで、出場するようになった
自分に向いているのかなあと思うようになった  
パリダカに22回参加  1986年 第8回大会から出る 2007年まで走る

2008年 主催者から重大発表がある 通過するモリタニアと言う国でテロリストが暗躍していて パリダカを襲うと脅迫しているとのことで今回は中止にしますとの事
中止に成ってしまったので、凄いショックだった  
その頃からアフリカのいろんな国で内乱、指導者が変わったりで ちょっとラリーを出来る情勢では無くなった
南米にコースは変わった 2009年から    
フランス スタート 南フランスまで800km アフリカに入るのも毎年変わる モロッコ 山岳国家 アトラス山脈 3000m級の山を越える 雪が降るしスキー場も有る
そこから南に行く モリタニアは90%が沙漠の国 セネガルのダカールに着く事になる 
フランス人がリタイアした人が住みつく人が結構いる
どばく 下が堅い土地をいう さばくは砂地  コースのうち 1/3が沙漠 1/3がどばく 1/3がちゃんとした道

凄く丈夫に作らないと車は壊れてしまう  車をつくる時の感覚が全然違う  
ミスしても車が壊れないように作ると言う考え方(F1等とは全然違う)
大きな事故は3回起こしている 
1991年  3位を走っていて、砂丘で大きなうねりを越えている時 150kmを越えていた時 予想外のジャンプをして、バンパーから着地  縦に転倒 6回転した 
ナビゲーターが怪我をしてしまって、そこでリタイアーした 
その年に自分が載っている車のモデルテェンジする予定だった  
なにがなんでも勝たなくてはいけないという思いがあり、頑張りすぎた
 
修理工場がそのままついてゆくような感じ 何が壊れるか予想出来ない  
競技車3台、4台走るがトラックが7台、8台 必要になる 全部で50人ぐらいの編成
チームにノウハウが無いといけない 実際にアフリカで走ったことが無いといけない  
優勝1回 2位が2回 3位が4回  (22回中)
最初の頃は途轍もなくヨーロッパのチームは 巨大なチームだった  
物量には叶わなかったが段々コンパクトなチームでも勝てる様なノウハウを積んできた
ヨーロッパでは車は大事な産業だと言う事を理解している 
アピールする必要があると言う事を大事に思っている
建物が凄い 100年以上たっているものがたくさん有る  古いものを大事にする  
衣食住、文化、芸術、スポーツ 各分野で世界一だと自負している
毎週どこへ行ってもイベントがある 
  
8000万人がフランスに来る 日本は700万人位 
日本も凄いと思うのでもっともっとアピールして世界の国から来て貰うようにしたいもの
フランス人は戦う事が好き 競争するのが好き  
凱旋門、からスタートしたり、ベルサイユ宮殿からスタートしたり 最も人気のあるところからスタートする
1971年プロのラリードライバーになりたかったが、ラリーという、そういう職業は無かった  
とりあえず社員になった
ラリーは会社の出張で出掛けた 契約ドライバーで有れば走るだけだったので社員で良かった  いろいろなことが出来た
2008年を最後にラリードライバーを辞める

2012年12月19日水曜日

松居直(絵本編集者86歳)     ・絵本の力を信じ続けた編集者人生 2



松居直(絵本編集者86歳) 絵本の力を信じ続けた編集者人生 
「セロ弾きのゴーシュ」掲載第2号「子供の友」 茂田井武 (絵) 宮澤賢治(文) 
5歳の子供に宮澤賢治の本を読んであげたら喜んできたとの話を聞いたので選んだ
5歳の子供達が宮澤賢治の事をそんなに喜んで聞くのかと それでは宮澤賢治の
「セロ弾きのゴーシュ」を掲載することにした 絵は茂田井先生がぴったりだと思った
茂田井武先生に絵を頼もうとしたら、先生は病気なので絵を描くのは無理ですと奥さんから言われたが、奥から「その仕事する」と言われた 
御無理をされてはいけませんと言ったら、「それはどうしてもやりたい それを描けたら死んでもいい」と言ってくれて出すことが出来た

しかしその後で先生は亡くなって仕舞いました 全力を挙げて描いたと言っていた  
第3号は「シートン動物記」  松下紀久雄さんに絵をお願いした
毎月1冊ずつ「子供の友」 30円 「母の友」が20円  他で利益を出してきたお金でこちらに
つぎ込んだ  
10カ月たっても1万部売れなかった 辞めようとの声も有った
11号(2月号)を出した時にサンケイ児童出版文化賞をいただいた  
この賞が来なければ諦めていたかもしれない  段々毎月徐々に増えて行った
賞を貰って辞めるわけにはいかないので、続けようと言う事に成って2年目に入った 
役に立つためになる本は作らない  教材的な本がずーっと幼児向けに作られていた
先生方が使いやすい教材 子供の為と言うよりも教える側の為に作られる本では子供は
喜ばない
  
私は気に入らなくて 子供の為の絵本を作りたかった
子供をわくわくわさせる 喜び、楽しみを感じて 子供の心を動かすようにしないと子供は成長しません  頭が働いただけでは子供は成長しない
感性と心が子供の中で生き生きと感じられた時に子供は成長する  
生きる力をもつわけですからそういう本をつくろうと思いました
絵と文章の素晴らしいものは 絵と言うのは子供に語りかけるものだと思いました  
物語を絵で語りかける様なそういう画家を選んで、子供が見ただけで
ストーりーが判るというもの 文章の方は子供に日本語の本当に生き生きした力が伝わるような
新しい物語体験が出来る様なそういう文章を選ぼうとした
この二つを組み合わせることによって、新しい可能性が開けるのではないかと思った  
従来は縦型の本が主流だった

日本の絵巻をみていたので横にした方が物語が繋がってゆくという経験をしたので横版にしようと思った  
文章が縦だと合わないので思い切って横にした  
そうしたら教育関係の方に叱られた 
国語の教科書が縦型なのに何事かと、本箱に入らない 本が有って本箱があるんでしょう 
本箱が有って本がある訳ではないでしょうと言った
理解してれくれる人がかなりいた  今は殆ど横書きに成っている  
横書きにしたのは「子供の友」です
外国の絵本は優れた絵本が有った 単行本の本を出そうと思った 
一番最初に出したのが「100万匹の猫」 挿絵を生かすためには横書きにしないといけない
思い切って単行本(石井桃子先生に訳して貰った)の横書きを出して、それは中々売りにくかったが、それでも喜んでくれる人は沢山いた
  
横の絵の動きはダイナミックな構成 日本の子供に日本の文化を知らせるのが、
私の編集方針の一つでしたから 横の構図を生かしたかった
最も売れたベストセラーは「グリとグラ」ですね  版を重ねて200版  何千万部だと思う 
日本の絵本の中で最も売れた
中川 李枝子が 文章 山脇百合子が絵を書いた(姉妹)  中川さんは保育園の保育師だった 同人雑誌の投稿していて、それを見て独特の文章だと思っていた
日本の児童文学は童心主義 生活童話(社会主義的な発想で子供の生活と言うものをしっかり押さえたリアリズムの児童文学) 
二つあったが両者ともに行き詰って いると私は感じた   
童心主義も上から子供達に語りかける様なそういう発想を感じる  
リアリズムの生活童話も大人が子供に語ると言う 子供の側からの  
発想が無くて 大人の発想したものを子供に伝えると言う、そういった感じを持っていた

中川 李枝子の創作が目にとまった 子供そのものが童話の中に出て来る 
これは素晴らしいと思った  「母の友」に中川さんに書いて貰った それが「たまご」
絵本にしたいといったら山脇さん(妹)に断られた 当時フランス文学の大学生だった  
おだてておだてて最終的には「たまご」が名を替えて「グリとグラ」を完成させた
フランスでは鼠が歩くのを「グリグラ」と表現する  「グリとグラ」は鼠が卵を探す物語
赤羽末吉 長 新太 佐藤忠良らを発掘 「おおきなかぶ」(ロシアの話)  
佐藤さんは戦後4年間ロシアで捕虜生活をしていた 
ロシアの生活、人間、自然、 ロシアの人、生活を見続けてきた 
だから書けるだろうと佐藤さんに繰り返しお願いした  描けるのは佐藤さんしかないと思った
この話は事実とはまったく違います  大ウソです  最初大株をお爺さんとお婆さんが引っ張るそのうち 犬が引っ張り 猫、鼠が引っ張る(そんな事有る訳が無いが)
しかしその中にリアリティーを感じる  

しかしその話の中に有る真実を絵を通して、日本の子供に語って下さいと  
そのロシアの生活から佐藤さんが感じたことを繰り返し繰り返し教えてくださいと言った  
真実を伝えましょうと言ってくれた  嘘の中に真実が有る    
佐藤さんは彫刻家ではあるが、内面の世界を伝える
安野 光雅 繰り返し繰り返しお会いして 話を聞いているとその人が本当に何を求めているのか、何を伝えたいのか どういういイメージを持ってるのか
どういう思いを持っているのかが判る
  
そういう事を豊かに持っている人は絵を描ける(それが芸術家) 
あー子の方は芸術家だなあと思う人にお願いする  
赤羽先生に本当にお書きしたいのは何ですかと聞いたら 雪だといった  
旧満州でみた雪と日本の雪とでは全く違う  日本の雪は本当に美しい 
だから日本の子供に    美しい日本の雪を伝えたい とおっしゃった  
「笠地蔵」 は何と言っても雪です   「笠地蔵」は赤羽先生にお願いした  
あとで知ったのですが、何千枚という雪のスライドを取っている  
日本の雪を見続けてきた先生です
福音館書店  海外にもっと日本のものを知ってほしかった
  
ですから海外にしょっちゅう行きました  相当売りこみました
日本はどうしてこんな本が出来るのか、どのような伝統があるのかと言われた  
PRした 42カ国ぐらい行って来た
「小さなうさこちゃん」 ディック・ブルーナさん 1963年に2度目にフランクフルトのブックフェアー行った時に、オランダに行ってアムステルダムに行って 松岡享子さんにお手伝いして貰い
美術館に行って、うさこちゃんの本を見せて貰った 
ブルーナさん絵の線は容易に掛ける線ではないと吃驚した  
厚みの有る線で他の絵本の線とはまったく違う
ブルーナさんのアトリエに伺う事が出来て 、本当に時間を掛けて丁寧にあの線を書かれるんです
ブルーナさんから4冊が送られてきた 見た時に、この本は売れると思った  
ブルーナさんは単なるイラストレーターではない、本当にオランダ文化を知っている人です
子供に対してとっても温かい強い関心を持っている 
 
どのように表現すれば子供が喜ぶかと言う事をこの人は判ってらっしゃると思いました
海外では 「グリとグラ」 「おおきなかぶ」良く評価された  
これを描いた人は世界最高だねと言われた 皆が認める
赤羽先生の「スーホーの馬」は評価されてこれも海外に翻訳されている
日本の絵本は40言語以上に翻訳されている  
台湾 韓国 中国等に多く翻訳されている   韓国は文化的に日本に近い  
もっともっと民間の交流が出来た方がいい 
絵本は長い年月読み続けられている名作が幾つも有る   
「ピーターラビット」の話   1902年が初版 100年以上読まれている グリとグラも50年たっている
編集者としての喜び 子供が本当に素直に喜んでくれる 親があの本を読んだ時は喜んでくれたよ と言って貰った時は本当にうれしい
大人も子供に自分が読んでやった本を子供が本当に喜んで その子供が親になったときに 
まず自分の子供に読んでやったりしているのをみると
その一番最初に読んでやった大人は本当に喜ぶと思うんです
そして大人はかつて自分が若い時にこういう事をして、其れが子供に中にちゃんと残っていると言う事を感じると人間としての喜びが非常に深いところから感じる
子供の時に本当に喜んだ本を高齢者に成って、読むと又違った面白さを感じる
この歳に成って外国の本や日本の本を読むとこんなことが書いてあった 

気がつかなかったという事が沢山あります
子供の時の事を想いだしたりして、そして高齢者として生き甲斐みたいなものを感じる  
絵本が自分に語りかけてくれる
之から絵本は子供の本と言うよりも 子供から老人まで全部含んだ読者層が出来ると思っています
これからは高齢者がドンドン繰り返し読むようになるのではないでしょうか  
絵本にはそれだけ魅力と力がある

2012年12月18日火曜日

松居直(絵本編集者86歳)    ・絵本の力を信じ続けた編集者人生

松居直(絵本編集者86歳)   絵本の力を信じ続けた編集者人生
近江商人の家系に生まれ、幼時より上村松園竹内栖鳳などの作品に接して育つ
同志社大学を卒業後、金沢の書店に入社 童話、絵本の出版を手掛けるようになり、
昭和31年には「子供の友」を創刊します
以来、グリとグラ 大きな株 小さいうさこちゃん親と子供に親しまれる名作を数多く編集してきました  
この間、無名の新人を発掘したり、これまで絵本など書いたことの無い作家や、
画家を大胆に起用したりと、戦後の児童出版会をけん引してきました
編集者生活60年 自らを編集職人と呼ぶ、松居直さんにこれまでの道のりを辿りながら 、
絵本作りに掛けた信念と熱い思いを語っていただきます

本をプレゼントする前に読んでいただきたい  そして手渡す 
本の選択 一番良いのは図書館に行って いろんな意見を聴くのが良いと思う 
図書館の無い処は幼稚園に行って先生にご意見を聞くとか、どういう本が好きかとか
本屋では目移りがしてしまう 子供と一緒に気楽に行くのが良い  
絵本を通して子供に字を教えるとか、読書の習慣を付けさせようとか、考えるがどう思うか  本が役に立つものだと大人は先入観を持っている 

子供はそんなことを思っていない 面白いと思わないと子供は 本に対して興味を持たない  
本を選ぶ時に、子供の気持ちをちゃんと自分の中にも感じていて、子供に替わって本を選ぶということ  子供に与えるものではなくて一緒に楽しむものだと思う
絵本は大人が子供に読んでやるものだと思う  子供が楽しんで喜ぶ本を作りたい  
読ませるものではなくて大人が読んであげるものだと思う(編集方針) 
子供は絵本の絵を読んでいる  絵は言葉なんです  
子供は意識はしていないが絵を読む  絵本の世界が子供に見える 
4か月の赤ちゃんに絵を見せると、子供は手を出したり、舌を出したり、非常に興味をもつ 
絵が心を動かす  感性を動かす 理屈ではなくて目を輝かせる  
語ってやると言葉に対する、フレッシュな感性をそこで見つけると思う

其れが実は言葉の基本なんです 言葉は教えるものではない  知識、情報ではない  
耳から聞いた音 それを語ってくれた人の感情 それが声の言葉に非常に豊かにある 
戦後絵本 児童出版の牽引車 松居直さん   きっかけは 2歳前に母が絵本を読んでくれた  その前に子守歌なんです 私の言葉に対して心を開いたのはどうもそういう気がする  
記憶には無いが 私が父親に成って子供が2カ月ん時に 泣いていて 母親がいないのに気がついたのかもしれない 
思わず抱っこした ゆすっていたら全く無意識に子守歌を歌った  
赤ん坊は静かになり降ろした  子守歌に対する子守歌を歌を歌って貰ったと言う記憶が無い
しかし、歌っていた 本当に驚いた きっと自分が歌って貰ったから 残っていて、
私の中に有って それが口から出てきたんだろうと思います

言葉を聞くと言う事と口に出すということは深い繋がりが有るのだろうと思った  
言葉というものに気が付く一つのきっかけだった
わらべ歌 全国に一杯あるが 今の母親は歌わないだろうと思う 
沼津の子守歌 200人ぐらいいた時に聞いてみたが 知っている人は一人もいなかった  
子守歌は言葉の体験の出発点ではあるのだが
沼津の子守歌「千本松原」 坊やは良い子だ ねんねしな この子の可愛さ限りなさ 
天に登れば星の数 七里ガ浜では砂の数 山では木の数 カヤの数
沼津へ下れば千本松 千本松原 小松原 松児の数よりまだ可愛い ねんねんころりよ おころりよ

子供は意味は解らないが声の音として浸み込んで来る 声は人間の感性 気持ち 
それが言葉を支えている 
 しかし最近の言葉はそれが消えている 文字ばかり
「子供の国」(1922年創刊) 日本で最初の絵雑誌 姉が(12歳上)が読んで貰って、それを読んで貰って 私(6人兄弟の5番目)が寝るときにほとんど毎晩読んで貰った
「子供の国」は殆ど童謡 日本の詩人が子供の為に詩を書こうとした童謡の黄金時代だった 
北原白秋 野口雨情 西條八十 初期には彼らの傑作が本当に込められていた 
子供の国では指し絵 武井武雄 清水良雄 岡本帰一 本田庄太郎 初山滋 竹下夢二 
若い画家の子供に対しての思いを込めた指し絵が付いていた
童謡と童画とが見ていてとっても惹かれました 
母親が読んでくれたもので、母の気持ちが有るし、 そういう母親と子供の関係が幸せだったと思う一番記憶に有るのは、北原白秋の「雨降り」 朗読をしてくれた 
 一番驚いたのは最後の節、「ピチピチ チャプチャプ ランランラン」  ピチピチもチャプチャプも言葉を知ってました ランランランも知っていました 
 
処が ピチピチ チャプチャプ ランランラン と読まれるとリズムがある  身体にリズム感が響きました 翌朝布団の上でおどっていた と姉から言われた(私は記憶が無いが)
意味よりも言葉と言うものの持っている本質を体で感じる心で感じる 
其れが声として出て来る 身体も動かす それが言葉というものです 
北原白秋は日本語の名手だと思う
私が谷川俊太郎と親しくなり 彼が北原白秋には敵わないと言った 
あれだけ日本語が使えればいいと  この人は子供の頃北原白秋の詩を読んで貰ったと思った

この人だったら 子供に対して、詩が書ける人だと思ったので子供の為に書いてほしいと頼んだ 日本語の美しさ、リズムがある 万葉集の時代からリズムある 5、7、5、7、7   3,4,6とかのリズムも有る 自然に耳にしてゆくと自分のものに成って感性に響いてくる  
「子供の国 」絵も本当に良かった  童画(武井武雄が作った言葉)  
武井武雄はモダンな絵描き  アール・デコ アール・ヌーヴォーユーゲント・シュティール
というものを日本の絵描きが影響を受けていた  
子供達はそれを見てファッションの真似をしたかった

京都二中 の頃は民族学 日本の美術に興味を持った 先生が京都の田舎へ行って、
昔話だけではなく 伝承 歴史を調べた  美術に対しても造詣が深かった
「京都民族史」を編纂した方だった  
先生にいろいろなところに連れて行って貰い絵巻物 を沢山見た
鳥獣戯画 に感動した 絵巻物に意味を持って、出来るだけ絵巻を見た  北野天神、  丹後半島の先端に浦神社があり 浦島太郎の絵巻ものが有ると言われて行った
歩いて歩いて歩いて 神社で浦島縁起絵巻を見せて貰った  
日本の美術、古い文化、自然の美しさ 伊勢半島もいろいろ回っていろいろな神話を知りました
ものを沢山見ないといけない 知識だけでは駄目 体験していないと駄目 ものを作るのは手と足の仕事です その次に頭(感性) 如何に五感を働かせるか プラス第六感が大変大事

広辞苑に「鋭く物事の本質をつかむ心の働き」とある これが第六感   
ものを作るのには この第六感が非常に大事
中学の後半は戦争 戦争中は軍国少年だった 当時としては当たり前   戦争が終わって 
死ななくてよくなって 私にとって大問題となった
死ぬと言うことは教えられたが 生きると言うことは18年間教えて貰わなかった  
戦争が終わったときに吃驚したのは死ななくても良くなった事
死ななくても良くなったことは大問題 どうするかと どういう風に生きるのか 
一体いつまで生きるのか それが私の戦後の課題です

それからずーっと 今に至るまで 生きること 死ぬと言う事は 私はあんまり考えません  
今日をどう生きるかが私の最大の課題です
同志社大学に入って ものを作ると言うことは生きると言う事ですから たまたま出版の世界に入ることになる  たった一人編集者として入る 教えて貰ったことはない
編集の事を教えて貰ったのは本屋さんに並んでいる本です  
現場で製本、印刷 全部マスターしました 
宗教書を売るために本屋を作り、他の本も売る様になる 
そこの本屋にいって働くようになる(妻の実家)  福音館書店
大正時代に金沢の宣教師が来て、聖書、讃美歌宗教書売るために出来た 
それだけでは成り立たないので、他の本も売る様になったのが 福音館書店

戦後5年 東京に出てきて東京では大きな出版社がありとても太刀打ちできないと思い、
生き残れるには、子供の絵本がもっともっと本格的に作れば可能性があると思った
「熊のプーさん」 中学5年の時初版本を読んだ  
子供の本はこんなに面白いものかと知った  子供の本を片っぱしから読んだ  
児童文学というものに非常に興味を持つ様に成って学習参考書、辞書よりも、こちらの方が将来性があると思った
幼児に物語の面白さを体験して貰う事が大変大事だと思った 
それが日本の出版界ではまだまだ弱いなあと思い
一日一話と言う事で短い話をいろんな作家の方等に書いて頂いて 育児、児童心理学を入れてエッセーとして合わした「母の友」を創刊した 
1953年創刊 今でも続いている

岩波書店 「岩波の子供の絵本」を創刊する 1953年 母の友と同時期に出す 
外国の絵本を翻訳して出す  日本の物語にして出すという画期的な出版だった
其れを読んだ時に吃驚した こんなに面白い本はないと  
そして日本のオリジナルな本をつくろうと思った  それが出版社の役割だと思った
子供の絵本を出版することになる  月に一回出そうと思った  「子供の友」 昭和31年4月に創刊した  第1号 「ビップと蝶」 与田凖一(北原白秋の第一弟子)
特に戦後の平和についての物語を出来るだけ出したいと思って お願いした 
絵は堀文子先生 心にしみてくる様な独特な美しさを持っている
絵が語りかける力が有る  文章(与田凖一)と絵(堀文子)がぴったりと合った作品が出来た 記念すべき第一号が出来上がった

2012年12月16日日曜日

藤川幸之助(詩人50歳)      ・認知症と向き合う(1)



藤川幸之助(詩人50歳)  認知症と向き合う(1)
24年間認知症だった母親を 父親が亡くなった後の12年間一人で介護されました  
認知症の母が人間らしさを引きだしてくれた、という詩人の藤川さんに聞きました
1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念  認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける

ことし9月に84歳で母親が亡くなる  60歳の頃に若年性認知症になる  
初期のころは父が介護 それから私が引き継いだ
熊本が実家  長崎の平戸で教員を私はしていた  5時間掛る 
1ヵ月から2カ月に一回行っていたが、父が亡くなる頃は1週間に1回に成り長崎に連れてきた
最初 私は介護する気はなかったが、私は次男なので 父親から遺書のような感じで言われたので、仕方なくやる様になった
自分を責めた 自分の家族の事を考えると 母を家に入れるわけにもいかず、
施設に入れた(姥捨て山みたいなイメージが有った)
母を捨てた冷たい息子だと回りから見られている様な気がして 自分を責めた 
私が帰ろうと立ち上がると 母もたちあがって 私が玄関まで出てゆくと 一緒に付いてきて
じゃあ帰るからと言うと母が私の裾をぐっと握るわけですよ

その時に判っていたんですよ 優しく離したら 又裾を握る  
怒りながら泣きだした そうしたら裾を離した 車に乗って帰るすがら何で優しく出来ないのかなあと思った
自分ばっかり楽なことをしているのかなあと 授業をしながら泣いてしまった(子供達が2~3人が来てくれて 励ましてくれた) 新たに泣いてしまった
 
「扉」
「認知症の母を老人ホームにいれた。  
認知症の老人たちの中で静かに座って私を見つめる母が 涙の向こう側にぼんやり見えた。 
私が帰ろうとすると 何も分かるはずも無い母が私の手をぎゅっとつかんだ。  
そしてどこまでもどこまでも私の後をついてきた。 

私がホームから帰ってしまうと  
私が出ていった重い扉の前に  母はぴったりとくっついて 
ずっとその扉を見つめているんだと聞いた。
 
それでも
母を老人ホームに入れたまま  私は帰る。  
母にとっては重い重い扉を  
私はひょいっと開けて  また今日も帰る。」

これは 長崎に連れて帰ろうと思った大きなきっかけです  
2時間 その扉の前に立っていたと施設の人に聞いた 
母は何にもわからないと思っていたが、会話は全くなくて (その話を聞いて) 
むき出しの母の心を見るようだった
家に連れて来てからは 色んな事が有った  徘徊 ふっといなくなる 
 1日中探したがいないときが有った  コンテナの陰にいた
何でうろうろするのかと思った  
自分のイメージ通り何故しないのかとイライラしていたが 今ではそれが判る  
あれは父が亡くなったのが判って 一生懸命に探していた 母には母の理屈がある 
母には母の頭の世界が有って それを判ろうとしなかった あの時は
でも介護中の真っただ中では そういうことは全く考えられない
 
余裕はありません 誰も  誰もないと思いますよ
母の事を判るための 入口にしたり、きっかけになればよかったんですね  
大分経ってから判った イライラして辞めさせることだけを考えた
おむつの交換  車で外に連れて行った時に うんこの臭いがしてきて パーキングに止まって トイレに行くのに 男子、か女子かで悩んだし
替える時にうんこに触ってしまって 私の肩に触って仕舞い 私の肩に付いてしまい 
怒って床にうんこを投げつけた イライラしたが やらざるを得なかった
戻ってきて 車に座ると母は眠ってしまい なんでおれはこんなことを事をしなければいけないのかと 涙が出た  泣いてばっかりいた
でもこんな大変なことを父はひとりでやってきたんだと 判って しっかりやらなければいけないと 父の事も判った 
 
母がおむつを変える時に 母は あっ あっ あっと笑っていた 
何で笑っているんだろうと思っていたが これも後で判った
あれは恥ずかしかったんですよ  息子におむつを替えられるなんて、恥ずかしがりますよ  
イライラしていました 朝起きて、今日ぐらいは母に優しくしようと思いながら母に会うと
イライライライラしていました おむつを床に投げ捨てたりして    反省してまた繰り返す    
同じ言葉ばっかり話す時がある  同じ言葉ばっかりするなと怒鳴る   
周りの話が判らないので自分の話をするしかない  
其れを繰り返す  話に参加しようと思う  うるさいと言うので黙ってしまう   
周りがワーッと笑うと一緒に笑っていました(話の内容が判らないのに)
認知症が家族にいるときは当時は隠すようにしていた  或る部屋から出さないとか  
母は父が手を取って連れだしたりしていた(恥ずかしいことではないと)
私は自分の母がこの様になったことを恥ずかしいと思っていた

父はスケジュールを作って介護していた  或る時に散歩に行った時に 母が奇声を発したら、近くにいた子供が小石を拾って、こちらに投げつけてきて逃げて行った
私は頭にきて 待てと言って 追いかけて行こうとしたら 父がお前こそ待て と言って止めて 
あの子たちは母親の病気を知らないからあのような行動にでた
今度 あったら大切なことだから説明してやればいい 
 お前は母の病気を知っているだろう  お前こそ恥ずかしがっているだろう と怒られた
お前はこの姿を見て恥ずかしいと思っているかもしれないが、俺は御母さんが奇声を発しているこの姿が 必死に生きてる姿に見える と言う

お前には判らんか 御母さんはこの病気を抱えながら必死に生きているんだと 其の姿がこの姿なんだぞ 本当に自分の母親の姿が本当に見えないのかと
其の時の事が 頭に刻み込まれました   
優しさ、責任、夫婦愛    母親が痴ほう症と判ったときに 父は心臓病を患っていました 
御母さんの世話は俺が全部やるから命がけでやるから、と宣言した
私としては そんなに母親を愛するとか 母の事を診ようとはまったく思わなかった  
息子がずーっとやりながら母を愛することとははこういうことなんだと
母の痛みを感じると言うことはこういうことなんだと、母がつらい思いをしていると言う事が自分の事として感じると言うことは、こういうことなんだと思い始めた

母が認知症に成らなかったらこんなに母の事は思わなかった  
母が認知症になったからこそ私と母の絆の結び直しをしてくれたように思う(父親とも同じ想い)
母親に父は優しいまなざしを向けると 言葉に成らないので父にぱっと抱きつく 
二人でハイハイハイと40分ぐらいやってた(父と母も結び直しをやっていたと思う)
自分達にとってはマイナスの事だと思うが、(母が認知症になったということは 
人生 色んな事がありますよ )これを受け入れることによって、見えて来るものは一杯ありまね 絆の結び直しもそうですし、 母を思いやって行くと言うか
自分が母から育てられていると思った 途中で  振りかえって思ったのではなく  
人を思いやる気持ちと言うものを母がグイッと引きだしてくれている感じがしていました  
母が育ててくれる 自分を (繰り返し イライラとの イライラが長いが)
「母が育ててくれる 自分を」 を瞬間 思う  
言葉も動きもない様な人間が そこに生きているだけで大きな意味があると思う

人は存在するだけで、本当に価値があると思った  
其の関係性の中で私達は生かされていて、生かされていてここある自分と言うものにどんどん気付き始めた
面倒を見る気持ちも変わってきた  イライラ  感情はどうにもならない 
けれども 自分の精神が鍛えられたのが判る でも又イライラする
楽になったのかなと言う気持ちはある  講演者として回っていて 帰った  
母が調子が悪くて呼吸が止まる  死に目位は合わせてくれと思っていた
一度息が切れた 良かった良かったと思っていたら、回りの看護師さんが「藤川さん 藤川さん」と叫んだら 息を吹き返した それで私は複雑ですよね

講演の為に出掛けて行かなくてはいけなくなって 新幹線の中で母の死を知らされた 
母の亡きがらを見て涙は出なかった (これでゆっくり母は休めるなと
良かったと思いました)  父から任されたので責任を果たせたなと思った
命のリレー 観念的な事を言われても判らないと思っていた 
認知症を抱えながら必死に生きている母を見た時に この生きざまをしっかり見る事が私が母のバトンを継ぐことなんだなと 亡くなる何日か前にふっと思った     
私を一人前にしてくれたと言うか 私を育ててくれた 
母を私はずーっと支えていたと思っていた  振りかえってみると 私が母に支えられていた  
育てられていたなあと思った  
だから「生かされて ある」と言うことは そういう事ですよね

2012年12月15日土曜日

青柳良明(57歳)        ・人を繋げば街は輝く

青柳良明(57歳)       人を繋げば街は輝く  
京都の街作り、人作りを進めていらっしゃる青柳さんのお話です   
京都の街の人が持つさまざまな分野の高い文化の知識と経験を繋ぎ合わせて、街作りに活かそうとパワフルに活動している青柳さんに伺いました  
国民文化祭 400万人が参加者で大盛況  過去最高の人出 
平成23年 1年間を京都文化年として位置付けて1年間通して京都で催し物を沢山して、多くの方に見ていただこうと言うプランを作りまして実行して頂きました  
準備の段階から係わった  準備課長のポストが出来て、先ず知名度が無いと言う事で いろんな事業の組み立てをしてゆきました

文化に直接担当したのは初めて 
高校卒業後 京都府庁に入る(立命館大学には夜間で勉強した  法学部)
2年間法学部で勉強したが、面白くなくて歴史を選択、その後、地理に変わった  
8年間勉強した
その地域がどんなところだったんだろうと調べる 一の坪 条里制の名残り  
地名はないがしろに出来ない、地域の歴史が地名に刻まれていると感じた
いろいろなイベントに係わる 
平安遷都1200年 京都府コンベンション室長  自身の意向ではなかった
前例が大嫌いだった (性分)  新しい事新しい仕組みを作る  一つでも何か工夫した  
児童手当の認定に関して、所得の変化をグラフにしてみようと思ってグラフにした  
こうやって所得が増えて行って児童手当はこうなるのかとか 工夫を重ねた
仕事に工夫をしてきた 地域のイベント、街おこしへの参加  
少林寺拳法を高校からやっていたので道場の先生になった 
これに関してネットワークが出来た
京都の街は凄いと思った(平安遷都1200年を担当して)  これが国民文化祭に繋がっていった 
人のネットワークの繋がりが出来た 
長岡天満宮のコンサート、 勝報寺のイベントなどにも一緒に手伝った
寺脇研(ゆとり教育) とのつながりが出来て、平成2年から始まって勉強会をつくろうかと言う事になった、
京都文化塾プロダクションだった
若い人達と年配者ががやがやと集まってやって勉強会を進めた  
企業家も若い人達のアイデア 考え方を吸収出来て良かった
まなびピアをやったときにこれまでにやったことが無い事が出来そうだと 京都なら市民同士 市民と企業 学生と地域とのコラボレーションが出来るのではないかと思った
出会いの場が無いと言われた (若い人と年配者)  
吞み会を年間 数回やった 数十人が集まる 
そこで発言がいろいろありプランが出来上がってきたりした

国際漫画ミュージアム  京都は漫画にゆかりの有る漫画家が多くいる 
鳥獣戯画 漫画神社みたいなのが有ればいいねと言う話があり 牧野先生、地域の援助等により 国際漫画ミュージアムが出来るきかけになった   
自分が持っているものを認めてほしいと言う事があると思う 
自分の話を聞いてほしいと置き換えてもいいかもしれないが、若い人がそういう機会に恵まれていない
吞み会には行かないし、企業に入っても、上下関係の中での付き合いもない  
若い人はアイデアの宝庫なのに勿体ないと思うんですよ
引きだしてあげるのが大人の役目だと思いますし、若い人達のお陰が成功の秘訣だと思います
京都への恩返し、人が好き この両方があって 京都がすたれて行かないように人の力を借りて京都をこれからも発信し続けられるようにしたいと思います
閉塞感が日本全体に有るが  膝を交えて小さい単位で良いので座を作っていくと言う事が凄い大事だと思う  
顔見知り出れば多少無理がきく
ネットの中では実現しない ちっちゃな単位で良いので日本全国で座が出来て行けばいいと思うその座がネットワークでつながってければいいのではないかと思う  
先ずは直接顔を合わせて 若い人は現実の場に入ってゆく勇気を持ってほしい   
修羅場を体験させなければいけないと思った

まず体験をして自分達のやっている学問と現実が結びつくのが判る と言う事がありましたので、学生には大いに町中に入って貰って 自分達の考えていることが、甘かったと、駄目だしをくらって、さあどうしようかと本気になって考える所から大学の学問、授業と言うもんが生きて来ると思うようになった(大学で非常勤講師として)  
京都市内には手垢が付いた観光地が多い(サクラ綺麗 、もみじ綺麗ばっかり)  
自分達が掘り起したらいいと 知らない処に放り込んで地域の人とがちんこ勝負させて、学生が観光はこういう事を提案したいんだと、地域の人にプレゼンテーションさせて 地域の人がそんなことで地域の事が観光が成り立つかと言う事を、修羅場を何度も経験させて何度も落ち込んで本気に考えなければいけないと何度も経験させて、知らなかった現実に直面して、初めて本気になって取り組んでくれた
 
観光で人が行くと言うところではなかった処があり学生にチャレンジさせた  
地域の人は学生が来たぐらいで地域おこし、活性化は出来るわけないだろう、という事で厳しい意見が出た  
学生はめげずに頑張ってくれて、本気の度合いを理解してくれて、そこから自分達のやろうとしている事と地域の声を組み合わせて、プランを作り始めた 
井手町と和束(わづか)町 「大人の修学旅行」  炭焼き体験 山菜による料理作り    
ツアーを組み立てて商品化して販売するところまで学生にやって貰った
奥深い京都を知ってよかったと言われた  
御茶の本場で 御茶の入れ方 飲み方を体験して良かった
   
茶歌舞伎=御茶を飲んで産地、銘柄を当てる
室町時代から行われていたもの   宇治の玉露  九州の玉露  あり ゲームをやって体験して貰う  種をまく事が出来た  地域の人が受け継ぐ
一回こっきりの名刺のやりとりで終わってしまう人がいたりするが、メールで元気ですかと 送信すると返事が返ってきて それがもとで 100人 8000人となった
メールマガジンを発行して対応する  現在はフェースブックで近況をやりとりしている
一度だけの名刺交換で死んでしまって会わないことがあると思うので 繋がりをもつことが大事に思う

「お陰さまで」  仕事の御縁を頂いたのも 誰かのお陰で出来たと思うので、お陰さまでと言う事考えて行けば、きっと自分自身が我儘する事は出来ないし、勝手なことが出来ない  
それを皆が考えて行けばきっと平和になるのではないかと思う  
少林寺拳法の高僧から教えて貰った 中は人の幸せを考える人間に成れよと、喧嘩に強くなる人間をつくるわけではない、お互いが技を掛けあって、掛けられれば、相手は痛いだろうと、ならば相手と仲良くすることを考えなくてはいけない 
そのためには人の幸せを考えなくてはいけない  
常に感謝の気持ちを持っている  
「たまたまでいい」  望まない たまたま事情があって仕事が舞い込んできた
  
奇跡に近い割合で人に巡り合ったりするのではないか
出合ったことが嬉しい それを大事にして拒否しないで自分で出来ることをする
平成14年文化庁長官 河合隼雄先生 日本は文化で元気にしたいなあと言われた  
関西文化圏を立ち上げた
面白いとおもろいは違う  おもろい→ 面白いプラスかっこいい  
すたれないように興味を持って貰う  
京都がより輝けるには?→ほりかわ大学をつくろうと  文化塾プロダクション発展的にやらして貰う自分はこういう事が出来るんだよと言う人 自分は学びたいと言う人、を集めて、そういう人が出合う場にしたい  
生涯学習の新しい過程が出来る様なそういう仕組みを作りたい  それが「ほりかわ大学」

2012年12月14日金曜日

倉本聡(脚本家77歳)      ・震災後に思う 2

倉本聡(脚本家77歳) ・震災後に思う
中西悟堂(日本野鳥の会の創設者)が父の親友だった  
父は俳人だった その頃から野鳥の名前、声をよく覚えた 
父は高校2年の時に亡くなる 生前贈与の精神的遺産が非常に大きかったことを思う  
毎週宮澤賢治の作品を音読させられた 物凄く後で役に立った
年を取ってからだと身体に沁みつかない  文章の韻律が身体に浸み込んだ 
 麻生中学、高校と進む  (小学校1年の時に国民学校に入った)
小説を書いたのは中学 戯曲の様なものを書いたのは高校時代  山野楽器の息子が同期にいて、テープレコーダーを貸して貰って ラジオドラマを作った

大学では劇団に入った  本物のラジオドラマを作ったのが青森放送で1本書いた  
卒業する時に新日本放送からラジオドラマを書いた
日本放送に入社  生の擬音の作り方を徹底的に学んだ  
母親、妹、弟をかかえていて 食えなかった  内職を始めた(日本TV)
自然に興味を持ったのは 大学時代は山によく行っていた  富良野に行ったのは42歳  
カヌーとか乗馬とかを始めたのは遅かった(50歳ぐらいから)
富良野塾 2010年に閉塾  役者とライターを育てたかった  劇団を作る気はなかった  
ニューヨークの演出家テリー・シュライバー が日本に来た時にいろいろ話した

日本の売れている役者はどのくらいスタジオとかで勉強しているか聞かれて、売れている役者は
日本では勉強していないでしょうと言ったら、吃驚された
アメリカでは売れている役者は皆学校に行くと そうしなかったらトレーニングをする  
ボクサーが一週間休んだら身体の筋肉が落ちてしまう  ダンサーが
ダンサーが1カ月練習しなかったら後退してしまうだろうと言われた  
演技も同じだと 常にやっていなくては駄目だと言われて あーそうかとこれでは日本も
遅れてしまうと思った     プロの俳優さんたちが勉強できる場所を作りたかった 
日本のプロなんか来てくれないので素人から始めた

同時に生活をさせようと思って 授業料、一円も取らないでやろうと思って、農協に話した  
日雇い (でめん)を雇ってくれないかと交渉して始めた
興味のある人 2年間 途中で挫折が多くあった 夜逃げ 駆け落ち 等有った
禁句をつくった  1.「そうはいっても」   2.「前例にない」 3.自己責任でやる  
4.金を借りることを一切しない(私  宮澤賢治の教え) 
マイナスはない  バーチャルなものだと言う事を教わった (借金はしない)
自分で現役でないと生徒は来ない  現役をやるということは物凄く労力がいる 
そのうえで教えなくてはいけない ダブルにきく そのことに体力が持たなくなった

生徒にどんどん無反応 無気力になってきた  それに嫌気がさしてきたので塾を辞めた   
年齢差が出来てきたことも 議論しようと思っても議論に成らなくなってしまった
「時が来たら勇気を持って脇へどけ」と言う言葉があるがやっぱりどくまいと閉塾の挨拶で言った
環境教育基本法 シンポジウム に参加したがちっとも判らなかった  
判りやすい形を取るべきだと思って、じゃあ自分でやろうと思って ゴルフ場が閉鎖されたが
そこを森に返すことにしようと思った  
芝をはぎ取り 耕して 地場の木の種を拾って来て畑に蒔いて、芽をださして、それを植えて行った

34町歩を森に返そうと思い4万5000本位かな  種をまき始めると 鼠算的に増えてくる   
ゴルフ場を作り過ぎた 前の姿を知っているので、もどそうと思った
人工林は幾何学的に成りやすい 自然林は鳥が糞を落としたりリスが運んだりアットランダムになる
考えたのはロストボールがあってそれを打って落ちたところに植えることにした   
芽が出始めてしばらくしたら鹿が出てきてしまい、駆除の相談を大学の先生に
相談したら、人間の髪の毛の臭いが嫌いと言う事で、ヘアートニックを撒いたがきかなかった  
散髪屋に行って毛を貰って来て撒いたが、最初きいたが駄目だった
一番良いのはライオンのおしっこだと言った その代わり強烈なにおいだと言われた  
旭山動物園に行って貰おうとしたが 効かないと一笑された

考え方を変えて 鹿にくわれるならそれより多く植えればいいと考えた 放置した  
その後木の成長の方が勝った
環境教育をしている  例えば 46億年と言う歴史と言うのを460mの小道にした 
地球の歴史が判るようにした  人類がでたのは20万年まえ 2cm  西暦元年は
ゴールから0.2mmまえ  産業革命は0.02mm前  表現のしようがない   
同様のものが全国各地に出来てきている
脚本家になるには何が必要か 観察眼 でしょうね  興味と好奇心と  マンウオッチング 
人を見る事がなによりも先行すると思います

物まねの人がよく人の特長をぱっとつかむんですよね それに近い感覚を持たないと 
人間が何をかんがえているかという 事とか  インナーボイス 無口の人が
心の中で何を考えているのだろうとか 話の合間 間を取っている時に何を考えているのだろうとか、想像する能力が一番大事なような気がする
無口の人間が心の中で一体何を考えているんだろうと言う事に興味もって  前略おふくろ様でそのインナーボイスをナレーションにしてみようとして使って、北の国からにも出した
本来は喋らないものですね  外国の名優を見ていると 黙ってインナーボイスでしゃべったか見ていると判りますよ (アンソニー・ホップキンス 、デ・ニーロ)  
それを見抜く力は脚本家になる一番の資質(入り口)ではないでしょうか
 
笠 智衆さん(りゅうちしゅう)に80歳を過ぎた頃 出てほしいと言ったが、駄目ですと言いながら 口説き落として 出てくれて そして物凄い芝居をする それを3回ぐらいこなした
自分はこれで最後の作品かと思った時はその作品を良くするしかない  
後何本書けるかは自分の意味、仕事に対する 何を書くかかにかかってくるような気がする
自分のしたい仕事には限度があると思うし、60歳代にはこれが終わったらあれを書くかと
言うように 湯水のように意欲が湧いていたが流石にそれが無くなった
もう80歳になるのでもういいかなと思います

2012年12月13日木曜日

倉本聡(脚本家77歳)      ・震災後に思う

倉本聡(脚本家77歳)  震災後に思う
TVドラマ、北の国からとして知られる 脚本家 フリーの脚本家として来年で50年になる 
 震災後何度も被災地を訪れて 「明日かなしべつ」を完成させました
 
大震災時には富良野にいた TV点けたら驚いた もろいですよね 都会は  
津波の恐ろしさは映像を見て声が出無かった
 「明日かなしべつ」 昨年6月に富良野で開催 その後東北に15回ぐらい無料で見て貰う
最初の炭鉱の閉山 は石炭から石油に切り替わったあたり 今回は原子力が出てきた 
炭鉱の閉山時期と原子力の立地がきまった頃とシンクロしている
炭鉱で働いていた人が原発に大分流れている   人間が段々代替えエネルギーに頼っている  
便利だと言っているが本来人間が頼りにするのは
自分の中に有るエネルギーではないかと思い、ズーッと書いています

人間は20万年前にホモサピエンスとして 段々脳が肥大化して、いろんなことを発明するが、
サボると言う事するようになる  リモコン操作等 サボりたがる
最初は家畜 化石燃料 石油 原子力まで来てしまった 
便利と我々は言っているんだろうけれど 身体を使わないから 筋肉が落ちてくる
高い金を払ってジムに行って なんの生産性もない重いものを上げたり下げたりとか、
どこにも行きつかない自転車に乗って漕いだり おかしな行動に出る
便利と言う以前に自分の中に有るエネルギーを大事にすべきだと言うのが私のスタンスですね
富良野に住んで自分で出来るだけやろうと思っていたが、出来ないことも有る 

巨大な石を動かすこと  若者に聞いたら スコップを使って石の周りを掘って露出させ
てこで動かせば 1日3cm位は動かせるのではないかと言われた  
10日であったら1m位は動かせる この事には感動してひれ伏した
誰に頼めばいいかと依頼する 都会では依頼して金を払って解決しようとしている
石油は2兆バレル 8000億バレル使ってしまったので 1.2兆バレル 富士山の容積にすると 
1/7位、大したことない 40年しか持たない
代替えエネルギーも先が見えている  太陽が作った化石燃料に頼っている以上はそんな頼りない
状態 だから原子量に行っちゃったんでしょうね
東海村 事故の時に街の広報で自宅にいてくれといっていたが、どうしてか判らなかったと言っていた(説明されてなかった)

これだけ大事故に成ってしまって説明せざるを得ない状況に成ってしまった  
マイクロシーベルト(μSv) 現代文明社会はどうなのか判らない  
自動車を運転しているが如何して動くのは判らない  
そんな文明社会で我我は生きている
 けなしべつ  かなうしべつ  アイヌ語 べつ=川の意味  暴れる川の事を「べつ」 
暴れない川を「ない」という
「かなしべつ」という架空の街を作った  故郷の問題 エネルギーの問題  炭鉱は国策 
国から借りた土地に炭鉱住宅を立てて そこで生活していた
美空ひばりがきても大相撲が来てもただで見させてくれた 
閉山に成って 炭鉱住宅から追いだして、しばらくは炭鉱の廃坑が並んでいた
15~20年前は火を付けて火事のように一面火で覆われていた  

更地にして返さなければいけないので 
いきなり故郷を喪失してしまった しかし御墓はある 墓だけは残っている
福島にいって立ち入り禁止区域にも入ったが、津波にはやられていないので家だけはずーっと
並んである
でもそこには入れない 入れない人は一体どういう思いなんだろうと凄く重くのしかかったですね
0.35マイクロシーベルトに設定していたが 山の峠道は10.88マイクロシーベルトで鳴りっぱなしだった 
村に入ると 家はしっかりして残っている     
柿の実がたわわに残っていた
浪江町の住職と手紙のやり取りをしているが、いろいろと住所が変わるが、手紙の内容でいつも
書かれているのが あだたら山の描写なんです
 
あの山をぐるっと回って避難して住んでいる 高村光太郎 「智恵子抄」に出てくる空が描かれて
いるが あだたら山にある空が本当の空だと描かれているが、本当の空が無くなちゃった訳でしょう  
そういう風に転々としている人達のことを思うと、かつての炭鉱を追いだされた人達もそうだし、中央の豊かさを請け負わされた人間が役済になると追いだされる  
初めて福島に行った時に気になったのは高圧線の電線 銀色に光っていて目に付いた

沖縄の街を歩くとフェンスの街 フェンスの銀色の線に見えたが それを想い起こした
震災後 講演を頼まれていった時に 手を上げて貰う事にしている  岐路に有る 
原発のリスクを覚悟出来るか  それは嫌だから生活を少し落とす(生活が不便小国になるが )
800人(一般400人 高校生400人)の処でやったが  一般の人は90%が昔に戻るに賛成  
高校生は70%は戻れないからリスクを覚悟するに手を上げた
経験した人にはどうってことはなかった 一度甘いものを知った人はそれが忘れなくなる
日本は戦後 高度成長したが 日本というスーパーカーを作ったが 二つを付けることを忘れた 
ブレーキとバックギア 止まることも、もどることもしなくなった
突き進むのみ ここをどうやって若い連中に伝えてゆくには本当に難しい問題だと思う  
1972年に戻ったとしたら 今の消費量の2/5で済む  
それは今の世界の電気使用量の平均値 

日本は突出している  出来ないことではないのだが一度知った甘い汁は中々戻れない
原発の放射能が襲ってくる怖さは遥かかなたに置いといて携帯とか、スマホとか、パソコン 年中使ってないと気が済まないと言う風に慣れちゃった
若者達がこんなに増えてしまって さあ将来どうするんでしょうね
日本は教育制度からおかしいと思う  
知識 今の教育制度は 偏差値も知識 知識を吸収すると言うのが若者達の常識に成っている
知識を一杯知っている人間がいい学校に入れていい就職が出来て出世が出来る 
こういう構造になっている   頭のいいと言うのが知識からきている

ものを沢山知っている ものを知っている人間ばかり育ててしまった  
知識を知っている人間を育てる事と、知恵がある人間を育てる事と、どっちが大事かというと
絶対に知恵のある人間を育てることが大事だと思う  
戦後の教育が間違ってしまったと感じる
自然塾 2世代キャンプ 3世代キャンプ やっているが 今夜の宿を自分達で作ってくださいという 
森の中にあるもので 生木を使わないで落ちているものを使ってやって下さいと
最初なにもできないが、アイヌの有る方法をヒントに与えると午後子供達が我然頑張る 
3世代になると 御祖父さん御婆さんが頑張る 
今親が子供を育てているが、これは間違いだと思った  
御爺さん、御婆さんに子供を育てていた(昔)
親が働いている時に保育所に預けている  金を掛けて保育所に預ける  
御爺さん、御婆さんが亡くなると死に目に会えない

家庭の構造が間違ってきていると思う  病院の中で死ぬと言うのは孤独死ですよね   
楽に死なしてほしい  そのことが何よりだと言う気がしますね
周りの人の思いは当人の思いに比べれば軽い 
死は当人のものですら、周りの人が如何思うが人工呼吸で生きているのは残酷だと思う
お客の心をどこまで洗えたのかが私達の仕事ですから  心の洗濯屋なんですよ私達は
1960年代 金の卵 で東京に人々が集中した  
その人達が子供を産んで その子供達には故郷が無いのでは