2011年11月28日月曜日

天野祐吉          ・隠居大学(竹本 住大夫)

天野祐吉                            隠居大学(竹本 住大夫  
義太夫節の太夫
1989年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
寄席、芝居、映画等に小学校を早引きして良く行ってた
「ええ格好したらあかん」  
「上手ぶってやるな」  
昔は厳しい批評をしていたが、今は当たり障りの無い批評が多い
「貧乏に負けたらあきまへんで」 若いうちは貧乏した方がいいと思う  
「なおに なおなお」 
浄瑠璃は大阪弁  
最後は人間性 中身がもろに出てくる 
 
音に対して日本人は感受性が強い (鐘の音(ね) 虫の音(ね))
裏声が裏声として判るようでは駄目 
五線譜で浄瑠璃は出来ない 聞いて覚える  節が決まっている 演目に対して応用する
忠臣蔵 菅原伝二 吉野千本桜・・・三大名作
言葉は大事にしなくてはいけない  知らぬ顔の半兵衛 ごりょうさん・・・聞かなくなった  
高齢者向けの番組もNHKは作ってほしい  
これからの文楽が心配  これからは新作をやらねばいけないと思う
太夫はなかなか人がいない(新しい弟子)  習い事はとことん食いついていかないといけない
花柳界が盛んになると浄瑠璃等も盛んになる

2011年11月25日金曜日

柴田とよ(100歳) 健一(66歳)  ・元気でいます



柴田とよ(100歳) 健一(66歳)     元気でいます

<概要>
息子が詩を作っており ある時母親が腰を痛めたのでそれを機会に詩を作ることを母親に勧める
其の時が92歳 その後注目されるようになり 東日本大震災での「震災地の貴方に」がNHKで放送され大きな反響を呼んだ
母親と息子との係わり、詩に対する事  詩 「倅に」 「目を閉じて」 「がま口」 「被災地の貴方に」 「手紙」(天国の両親に)について

とよさんの詩を沢山の人が読んでくれた  読んでくれた人達におっしゃりたい事は?→
元気に、あんまり苦しい事を考えないで、いい事を考えて元気に。
一人でも寂しくない (ずっと来たので)  息子と一緒に詩をやっている 

「倅に」 朗読 詩を作ってゆく
「何か辛いことがあったら 母ちゃんを思い出せ 誰かにあたっちゃあ駄目だ 
後で自分が嫌になる 観てみなせ 窓辺に日が差してきた 鳥が鳴いている
元気出せる 元気出せる 鳥が鳴いているよ 聞こえるか 健一」

私が小学校4年生の時に 宿題がでまして、 詩を作って持ってこいと云うんですよ 
母親に「母ちゃん こういう宿題が出たんだけど どうやって書いたらいいんだろう」
と聞いたら 「ありのままをそのまま書けばいいんだよ」と云われた グローブと云う詩を書いた
私は野菜が好きではなかったのでその野菜を食べたらグローブを買ってくれるという詩なんですよ 出したら入選した これが詩に係わる原点となった
母親が腰を痛め、何かすることはないかと考えたら お金も掛らないし、詩を書いてみたらと母親に勧めた 
「目を閉じて」を母が書いてこれはいい詩だと思い私が新聞に投稿したら2カ月ぐらいたって 
入選してたんですよ 母親に知らせたら本当に喜んで 
それから 1週間に一度 俺も来るから 2人で意見を交換し合って 詩の教室をやろうということで それからあっという間に8年経ちました

「目を閉じて」
「目を閉じると おさげ髪の私が 元気に駆け回っている 私を呼ぶ 母の声 空を流れる白い雲 どこまでも広い菜の花畑 92歳の今 目を閉じてみる
ひと時の世界が とても楽しい」

こういう詩を書ける人はもっと一杯いると思うんですよ 詩の世界だけでなく 絵でも、歌でも、
絵手紙でもなんでも 第二、第三の「柴田とよ」は必ずいると思うんですよ
私は一人っ子なんです 裕福な家庭だったようです 
祖父があまり働かない人で家が傾いて 長屋に住んでたんですよ 
祖父と祖母と私と 母親と父親で住んでいた
私はずっと父親とは意見が合わなかった 今思うと立派な人だった 
養子でもないのにみんなの面倒を見ていたし、中華料理のコックだった
 いろんなところに行っていて中々帰ってこない 
私は祖父母と母親に育てられたようなもの 凄く可愛がられました   
子供の頃数人で 農家にスイカを盗みに行ってつかまって 母親に食べさせたかったと言ったところ 半分に切って持たせてくれった 母親に見せたところ
怒って 貧しくてもその様な事はしないと その家に謝りに行ってくれた 
  
小学校4年ごろ母親に何か買ってやろうと思った 友達と納豆売りを始めた 
当時仕入れが10円で7円ぐらいの利益があった 売ってあるってお金を貯めて
新聞配達もするようになって 昭和34年ごろで400円~500円でがま口を買ってやったら本当に
喜んで 自分で働いた金で買ってやったら喜ぶものだと感じた
母親は必ず働いていた 縫物とか
 
「がま口」
「毎年 お正月が来ると 思い出すの 当時小学生だった倅が 納豆売りをして 
買ってくれた大きながま口 母ちゃんにお年玉だよ と云って私に贈ってくれた
かじかんだ小さな吐く息の白さ はじけるような笑顔 私は忘れない 
がま口は今でも私の宝物 お金は溜まらなくってもいい 優しさが今でも 沢山入っている」

今でもがま口はある 話はするが照れくさい
26年前頃 詩集をだしたいと思って あんたはそういう才能がるんだから母ちゃんがへそくりを
貯めていたお金があるから 当時で20万円貰った
それを使ってしまって、 詩集を出せない どういう風にいいわけしたのか判らないが 
母親は何にも云わなかった
妻からも同じような事をして信用をなくす  大震災の時に家に居た 母親が心配で電話をしても通じない 翌日に通じる 関東大震災に匹敵するほど怖かったとの事
大震災の状況を知ってとよさんは詩を書いた
 
「被災地のあなたに」
「最愛の人を失い 大切なものを流され あなたの悲しみは 計り知れません でも 生きていれば きっと いい事はあります お願いです あなたの悲しみは心だけは
流されないで 不幸の津浪には負けないで」
被災者の皆様に あーなんという事でしょう テレビを見ながら ただ 手を合わすばかりです 皆さまの心の中は 今も余震が来て 傷跡がさらに深くなっていると思います 
その傷跡に 薬を塗ってあげたい 人間だれしもの気持ちです 
私も出来ることは 無いだろうか 考えます もうすぐ 100歳になる私 天国に行く日も近いでしょう その時はしらすとなり そよ風になって 皆様を応援します これからも辛い日々が 
続くでしょうが  (幸せ)は必ずやってきます くじけないで」

今はみんなが応援しているが段々忘れて言ってしまうのではないかと思っているので心配している
生きる勇気が湧いたとか、うつ病が直ったとか お婆ちゃんと似ているとか 
私達よりもっともっとつらいひとが沢山いるのだなあと感じたとか 手紙等沢山いただいた
実は我々親子の方が励まされている 母親は皆さんに感謝している
 
「手紙」(天国の両親に)
「おとっつあん おっかさん とよは100歳に成りました  2人が見守っていてくれたおかげです つれあいもそちらに行って18年 一人暮らしはきついけれど
多くの人に支えられて とっても幸せ 健一も 元気ですよ 66歳になったの 私に詩作を教えてくれた だから 寂しくはないわ おとっつあん  
焼酎ばかり飲んでいては駄目よ おっかさん 働き過ぎないでね つれあいは 如何してます? 私の事を心配してくれているかしら? 郵便配達のそよ風さんは外で待ってるわ 
     追伸 とよは もう少しこちらで がんばります まだ連れには来ないでね 」

今後私は自分も一緒になって詩を続けていければなと思います

2011年11月24日木曜日

青木十良(チェリスト96歳)         ・人生の実りの秋にチェロを弾く

 青木十良(チェリスト96歳)                               人生の実りの秋にチェロを弾く  
チェロの練習は一日2~3時間は弾く  
練習ではあらゆるあらゆる曲をひく 5~6人の生徒が現在いる 
チェロとの出会いは15歳の時  生でチェロを聞いたことから始まる
吃驚した シャンペンの泡の立つような音であると感じた 生き生きとした音  
レコードでも聞くようになる  
チェロを弾くのは昭和の初期 で珍しがられた
 
戦前の思い出→戦争で世間が緊迫してくるなどあってちょっとあわただしかった 
却って戦中の方が兎に角空襲されたり ろくなことはなかったが諦めに似たようなものが有って 成るようにならないと思っていた 
 昭和17年 満州国建国10周年祭に参加 (稼がないかと誘われる) 
人が足りず大分東京から沢山参加した  
満州に行って稼ぎませんかと誘われた事がきっかけとなる  
色んな国から検定曲が有りそれを弾く 
山田耕作 斉藤秀雄 が指揮を執る 
仕事もうまくいかず 昭和20年NHKのオーデションを受ける(精密機械軸受の事業もしていたがうまく行かなくなり) 

給料から一気に決まる (NHK専属) 結構な条件だった 
終戦間際に広島に原爆が落とされたが いち早く「原爆」だと言っていた(NHK内で) 
噂になった 情報が早かった この戦争はもう長く続かないと思った
進駐軍が入ってきた 
戦う為に土嚢が積まれていたがもう必要ないと進駐軍が全て(NHKないの土嚢)をかたずけた 後始末は進駐軍が行っていた
進駐軍兵隊と、ものを交換した 和気あいあいたるものだった  
煙草、色んな物資の交換をした 
進駐軍に聞かせる為に最初立川の飛行場の格納庫で3000人ぐらいの人が集まり行った
 
バイオリン、チェロ、ピアノ でやる サインを求められたり歓待してくれた  
クラッシック、ジャッズ  何か所でもやる 接収されたホテルでも行う 結構忙しくなってきた 
高度演奏 NHKではソロ伝票(演奏しなさいと云う注文伝票) 月1回 行う  
当時は生放送でおっかない  (入梅時キーがずれる) 全国に放送される
戦争中で慰問放送 5分か6分の曲を弾いたが 放送しないと云われる 
硫黄島が陥落したんだという 急に海浮かばに変わってしまった

満州、台湾には放送された その後ソロチェリストして活躍 
このえさんの招待でシュタオハーゲンというバイオリニストが来てその人とカルテットを組むことになる 
一生懸命にやりました
85歳でバッハの無伴奏チェロソナタ6番を録音された 
いきさつは→反響のいいホールで演奏したいと思っていたら、西脇さんが担当して録音してくれた
バッハの無伴奏チェロソナタ6番→ を練習している時でも引き込まれてしまう 
なにもわからなくなる 無我の境地に成ってしまう
全部調べてやらないとけない 組みたてが難しい  
CD発売 反響がすごかった  CDには興味は持っていなかった 
もっと早くやればよかったと思っている
91歳でバッハの無伴奏チェロソナタ5番  2009年にバッハの無伴奏チェロソナタ4番 今年CDが出る   3,2,1番が残っているが→もうやらない これからはゆっくりと休みたい  
チェロをやって来て感じたことは→音楽の難しさ、演奏の難しさ 
これは嫌っと云うほど自分の楽器から注文を受けました
 
楽器自体が私に注文を付けてくる  
楽器の方は自分を生かしてくれ 活性のある音を出してくれと要求してきます 
それに対して報いるのが精いっぱいです
ここまで歳を取ってきましたが、実は一瞬の出来事だった 
自分の人生と云うものは一瞬の出来事であったように感じます 
瞬間で、はかないものだと思いますね
兎に角自分は誠実に生きてきたと自分では思っています 
驚く速さで自分の人生は一瞬にして終わってしまうように感じます 
まだ勉強したいと思っている 

2011年11月23日水曜日

高橋由紀子(浮世絵版画版元)    ・浮世絵版画の紹介 2



高橋由紀子(浮世絵版画版元)     浮世絵版画の紹介
節電があったが 「お江戸の風はエコの風」 団扇に浮世絵版画を張り付けてPRを志す  
8/15~28日まで東南アジアに行く  バンコク、チェンマイ 、ミャンマー カンボジア 回る  
建築学科、実際の物を見せる 北斎の絵が人気有る
デモストレーションもする 質問→どのくらいで一人前になるか 給料は 等々
人材育成は→仕事もないと人材育成も出来ない 給与等を考えると抱えるのが難しい 
本当にやる気があるのかどうかの見極めも必要
私の所で一旦引き受けて組合でその後組合で引き受けてくれるか 交渉する
現代に浮世絵版画をどう浸透させるか アイディアは有るが 先立つものが無いと展開出来ない 
樋口一葉の直筆と絵を版画絵として作る 森鴎外の短歌と蝶とを版画絵にし 扇子にして敬老の日に送る・・・伝統工芸(扇子と版画絵)
学校教育に良く呼ばれる 刷りを体験して貰う  日本の文化を受け止めてほしい 
浮世絵版画に触れてもらう 
夢は→ 曾祖父が明治10年に第一回内閣博覧会に出品して大久保利通卿から賞状を2枚頂いている
祖父はイギリスのコンノート殿下に千代紙を献上している

父は戦前細川家からの依頼でセザンヌの900色刷りを刷っている 
マッカーサーに木版画を披露している  私としては後に残るようなものをやらないといけない
アンデルセン物語を木版画にしたいと思うようになった 
東京都が物つくり助成金を出してくれる情報を得て 新奇性の有るものでないと言われ 
アンデルセン物語、竹取り物語、海外の物をもう一本作りますとプレゼンする 
下絵は有名人にやってもらいます 3本セットでおこないます

大勢でやるので技の伝承にも成る 経済の活性化にもなります 何とか押して採択された 
平成19年度の事業 丸3年かけて出来上がった 
絵師は小杉小二郎先生(油絵)・・・ マッチ売りの少女を書く  
加山 又造先生の弟子の(藤川栄子)・・・ 竹取り物語  
船越桂先生・・・ピノキオ
12~17シーンで構成する  東京、京都の刷りの振り分けを刷る(シーンごと) 
布 紙をもいろいろと検討 22年2月に完成
30組作る  他には学校の教材を作りたい  
21世紀に何とか生かしたい  7代目は? 
 
伝統工芸の仕事を放送大学で息子が学び始めたが ?
若い人が入っているので跡取りになるかは検討
富士山の絵をやりたいと思った 蕪村が富士山を描いていたのでこれに感動した 彫りあがっているが刷りには入っていない

2011年11月22日火曜日

高橋由貴子(浮世絵版画版元)    ・浮世絵版画の紹介



高橋由貴子(浮世絵版画版元)      浮世絵版画の紹介
日本文化の文化紹介 浮世絵に関してアジアにはいままでいちども行ったことはなかった  
4名で行って来る
ルールは墨一色の仏画からスタートしている 江戸時代戦がなくなり太平の時代になると
 町民文化が起こって来る 
歌舞伎、落語 俳諧 が盛んになる その情報誌だったと言われている 
今歌舞伎ではどんな役者さんがどんな演目がおこなわれているか 写楽、美人画とか
風景画、相撲画 等々 それから色が付いてくるようになる 

絵草紙屋さんで売っていた  浮世絵画はかけそば一杯の値段と同額だったと言われる
参勤交代等、旅行者で土産に持ち帰ることがあったりして全国に広がる 
紙はこうぞの繊維からつくる 繊維が長いのが和紙の強さになる     ぼかしが命となる   
どうさびきとはにじみがないように処理をする 
にかわとミョウバンを混ぜて紙の両面をしっかり刷毛でコーティングする 
浮世絵版画はどのように→ 絵師が先ず絵を描く  
その次に彫り師 彫ったものをいろを重ねて刷ってゆく 刷り師 で構成されている
実際にはその3人を束ねている版元がいる 

絵師は輪郭だけを書く 彫り師はそれを反転して糊で版画材に貼りつけてしまう 
乾いた状態で彫ってしまう 
彫ったものを20から30枚刷って絵師に渡してどの部分がなに色 なに色と 色を指定してゆく 
次に彫り師が彫ってゆく(色版)→色版を刷り師が順番に刷って色の具合、線の細さとかを確認して修正があれば彫り師にフィードバックして修正作業も行う
役者絵ならこの人に、美人画この人に書いてもらおうと選択して依頼する (版元が考える)
浮世絵版画は大体5枚の板でつくられている  
版画の材料は山桜を使用する 山桜にはねばりつくような油がある 板は両面使う 
5枚ならば10色は使う
彫り師は20~30本は彫刻刀を使用する  
髪の毛を彫る人は別のひとが専門でいる場合が多い  
浮世絵版画は江戸で発達した  版画自体は京都が古かった

私で6代目 歌舞伎にはよく連れて行ってもらった 着物を来るのが好きだった 
茶道、華道等習ったが父からは一流の人に学びなさいと言われる
いい物を見なさいと言われる (全ての事に対して) 美術展のはしご等も常に観るように言われる・・・「目を肥やせ」
「バレン」 バレンとは木版を刷る時に使う道具で、竹の皮、和紙そして漆で出来た丸い形をしたものです 「当て皮」、「バレン芯(綱)」、「バレン皮(竹の皮)」で構成
紙を湿しておかないと乾燥した時に次の色を刷る時にずれてしまう 

これを一色ごとに行う (日によって湿度が違うので湿し方が微妙で難しい  
現在は部屋のコントロールが
出来るので簡単に成って来ているが江戸時代は大変だった)  
カビが生えてしまうと駄目になってしまう
和紙は刷ってすぐ重ねても構わない (すぐ吸ってくれる)
木版画は日々の生活の中では広がっていない  
有田焼をヨーロッパに輸出するときに壊れないように浮世絵版画で包んで出荷していた
 受け取った方は包んだ紙の綺麗さに吃驚したと言われている
浮世絵版画はヨーロッパで有名になった(ヨーロッパでは一色で有った) 

2011年11月21日月曜日

小沢竹俊(在宅クリニック院長)   ・看護ケアで社会を変えたい

小沢竹俊(在宅クリニック院長)    看護ケアで社会を変えたい
1994年ごろ ホスピスはまだ日本ではあまりなかった  日本に10ヶ所あるかないかの時代
5年前に独立 ホスピスに入れる患者さんが限られている 
癌もしくはエイズの患者さんしか入れない 
心臓が悪い、脳梗塞、神経難病である そんな病気で
終末期であってもホスピス病棟に入れない がんであっても全員入れるかと云うとそうではない 
入院が出来ないで終末を迎える人がいると思います 
何故この病気の患者さんだけがこのサービスが受けられないのだろうと思った時にこれは地域に出て
実際にそのホスピスと同じように最後その地域で迎えたいその人の為に働きたいと思った

日に日に弱って行く患者さんと如何向きあったらいいのか判らない
 医師もしくは訪問看護 或は介護を担当するケアマネージャーさん 或は福祉関係の人達
に是非学ぶ側を提供したい  クリニックは100人を入る研修室を備えています  
終末期の人達に対する対応の研修を行っている
他の地域の医師や看護師等の人達の支援をすることもここのクリニックの役割だと認識し、 
その思いで少し広めのテナントを作り空いた時間で研修をおこなっている
研修は→患者さんから学ぶ 良い援助が出来たのかと振り返りそれをしっかり見つめ直し話し合う
場を大事にしている

毎回50人の人達が集まって勉強会をしています  現場で悩み苦しむ人が多い 
特に一人暮らしのお年寄りが 今は希望があれば最後まで一人暮らしでありながら
自宅で過ごすことができます 最近はそういう事例を振り返りました 
最後の瞬間に立ち会う事は経験があるかも知れません
自宅で最後まで迎えたいと言う患者さんは増えていますか?→増えていると聞いています  
医師や看護師だけではなく地域で生活を支えて下さる介護の方に
例えお迎えが来るかもしれない状況であっても逃げないで係わっていただけるような仲間が
必要なんです

それは決してたやすいことではありませんが適切な症状緩和、適切な予測指示 
いくつか薬さえ工夫すれば例えお迎えが近くても痛みで七転八倒することはない
段々と歩ける患者さんが歩けなくなったり 段々トイレに行けなくなったり くるしみは避けられません  
段々と眠くなる時間が増え やがて深い眠りの中で静かにお迎えが来る
その様子を何回か経験する中で、あっこうしてこうして穏やかに一緒に最後を迎える事が出来たと
するならば それは大きな経験になるだろう
その様な仲間を一人でも多く育てていきここのクリニックだけではなくて それぞれの地域で例えその
終末期であっても係わって下さる仲間が増えたらいいと思いここで活動しています

苦しみとしてどんなものがあったのか 支えとしてどんなものがあったのか 
そして係わりを通してその患者さんや家族の支えが出来たのか
そこに意識を当てそれが出来たかどうか さらにもっと工夫をすれば出来たのか 
そういう振り返りをします
「選ぶことができる自由と云う支え」(家に居たいか 病院に居たいか等) ・・・基本的人権の考え 
 居たい場所に居る事が出来る ・・・これも「支え」です
定期的にお風呂に入りたい 訪問入浴と言ってお風呂を専門にするかたがお越し頂きお風呂に
入れて下さる      
それは単なる訪問入浴ではなく 
その人のお風呂に入りたいと言う事を選ぶことができる「支え」を強める援助と考える

支えを強める事が出来るのは医師や看護師や薬剤師だけではなくて その人の支えを出来る
介護であり家族であり 小さな看護ですらその人の支えを強めるならば
それは立派な援助者ですね 
逆にどんなに知識と経験と資格があってもその人の支えを奪うようであればそれは本当の意味
で援助者にはならない
クリニックの大事な思いとして 仲間を増やしたい そんな思いがあります  
これから社会に出る若い人たちにこの仕事の魅力を伝えたい
看護ケアの問題は単に痛みを和らげるだけとか 看取る事ではないんです

看護ケア最も魅力的なのは例え治すことができない苦しみを抱えながら人は自らの支えに気が
付く時にこれからを生きようとする力になる 
これは子供から大人からお年寄りまでの共通のテーマだと思います  
看護ケアの最も大事なエッセンスは苦しみを抱えながらも人が生きることができると言うテーマなんです
つまり終末期は例え病気を治すことはできませんが その人の支えを気が付く時 苦しみを背負いながら
も例え間もなくお迎えが来る事が判っていながらも今を穏やかに生きる可能性が見えてきます 
そのエッセンスもこれから社会に出てゆく子供たちにも当てはまるんです 
私達の人生は決して平たんではありません どんなに努力をしても 例えば試験に落ちる 
試合に負ける 失恋をする 何故自分だけこんなに苦しむ そう悩む

子供たちは少なくないかもしれない 例えどんなに辛い苦しみを背負ったとしても 
その苦しみを通して今まで苦しむ前には気が付かなかった自分の支えに
気が付く時なお今を生きようとする力がある  
どんなに辛い事苦しい事があっても人は自分の支えをしっかりと育む事が出来る時今を生きること
ができます
そしてその思いを持った時 社会に出る子供たちがただ単に自分だけが良ければいい 
そんな大人にはなってほしくない 
将来は苦しむ人の為に力になりたい そんな思いを持った子供たちがこれから増えてくれたらいい
なと そういう思いがあります
苦しみは病的、精神的、金銭的といろいろ苦しみはあると思いますが→小学生の3大苦の一つ
 朝起きることが辛い 宿題が辛い 花粉症が辛い

「苦しみとは希望と現実との開き」 なにも病気の人だけが苦しいのではない  
だれも大なり小なり苦しみを抱えて生きているのではないか
「苦しみは必ず生きていく中で現れる」 どんなに努力をしてどんなに勉強しても試験に落ちること
があれば 一回戦で去年の優勝校と出会い負けてしまう 
何故自分だけこんなつらい目に会うのだろう  
そういう苦しみにであうのが私達の人生かも知れない 
でもその苦しみは単に苦しむのではなくて 苦しむ前には気が付かなかった事に気が付く 
苦しみは負の要素だけではない 苦しみから様々なものを学ぶことがある

その学ぶ事とは何か と云うとそれは「支え」である 
「支え」・・・将来の夢がある 今がどれほど辛くても頑張る  「支えとなる関係がある」 
人は一人では弱い存在かも知れない しかしその人を認めてくれる誰か
との支えとなる関係が与えられると一転して人はとっても強い存在になる 
地域としては「絆」となる  終末期のケアをする中で特に大事な人を失った苦しみ 
にどう向き合うと良いかということも一緒に学んできました
其の中で オーデンという研究者がいます 亡くなったご遺族の調査を元に悲しみを乗り越えるため
 4つの課題を出してあります

①亡くなった事実を認める(震災での行方不明 頭だけでは理解できない 認めたくない)  
②一杯涙を流す(辛い思いをしっかりと表出 出来る)
③大事な人の居ない環境に慣れる(新しい環境に慣れる 家事、炊事等)  
④悲しみを乗り越える(大事な人 を苦しみなく思い出すそんな時期が来ることがあります)
大事な人を失う悲しみは決してなくなりません 悲しみは決して無くなるものではありません 
悲しみを忘れるのではなくそれを越えなお繋がる絆 支えとなる関係 
がしっかりと描かれ築かれるならば なおその人は今を生きる確かな力になる  そう考えます
緩和ケアの基本として拘るのは 緩和ケアは単に痛みを取る 
たんに最後を迎えることが緩和ケアではありません 

様々な困難や苦しみを抱えながら今を生きようとする人の支えを応援すること 
そこに緩和ケアの最も大事なエッセンスが含まれる 
本当の慰めって有るんでしょうか?→ありません ただ言える事は 人は一人一人 
支えられ方が違います  
人に依ってその慰められ方もことなるかもしれない
それを難しく云う事は好きではありません  一人一人異なっても共通する係わり方
 共通する向き合い方はあるのではないか 
それが見えない限り本当の意味で地域で終末期を抱えた人と向き合う事が出来ない
 一部のエキスパート 一部の専門職でしかできないのではなく
私達がどう係わったらいいかそれを判りやすい言葉で表したいのです  
その人の支えを強めるのである 

緩和ケアで社会を変えたい→新しい文化を作りたいと言う大げさな思いがあります 
 今までは苦しみ等を良い事 励ましをしたり 何か楽しい話をして苦しみを和らげようとする
そんな考えがあったのかも知れません  新しい文化とは苦しみに誠実に向き合う文化です  
例え悪い内容であっても それと誠実に向き合う事 会社で悪い出来事があった時に 
ある意味で会社は隠そうとする でもそれでは消費者が困る事があり
大きな大企業はその悪いことを隠したことが原因でその企業がその地位を失う事が過去にある
事例です 日本の文化の中に誠実に向き合う事がなかったように思う
病院で最後を迎える事が困難な時代が来る 
今から30年後には120万人も130万人も年間に亡くなる時代が来る 

その時には 矢張り自宅 もしくは介護の施設で
最後を迎えることが求められる時にそこでしっかりと向き合う人材はないとこれはいい社会に
はなれません 
私にとっての良い社会とはどんな病気でもどこに住んでも安心して最後を迎える社会でありたいのです
寄り添う医療がこれから必要になって来る  ここで求められるのは直す事だけではない
例え治すことができなくても逃げないで寄り添い最後までかかわってくれる仲間が欲しいのです 
逃げないということですね
なぜかと言うと日に日に弱まる人と向き合う事は困難です 
どんなに心をこめて力になりたいと思っても日に日にやがて食事が少なくなる

段々眠る時間が増え 段々話が出来なくなる  そういう人と向き合う事は中々難しい事でしょう  
力になれるだから向き合える これは誰でも出来ます
しかし現場で欲しいのは例え力になれなくても逃げないで最後まで寄り添い続ける人が欲しいのです  
と云うのは亡くなる前 孫の結婚式にでて良かった
こういう作品を最後に作り皆に感謝の気持ちを持って最後を迎えた 
確かにそういう患者さんにも出あってきました
しかし現場にいておもう事はそんなにいい話だけではありません 痛いのは嫌だ 
でも痛み止めだけは使っては欲しくない とか
具合が悪くなるのは先生がいけない ・・・力になりたいと思う 
ある患者さんのまえには何にもできませんでした 力になりたいと思うほどなにも出来ませんでした
その部屋に入ることは辛くて苦しくて そんな時がありました そこで学んだのがこの言葉です
「誰かの支えになろうとしているのです 

誰かの支えになろうとするその私こそ 一番支えを必要としている」 ・・・私の授業を受けた高校生
の感想文に有った
無力 弱さ が持つ確かな力 本当の力とは全ての問題を解決できるオールマイティーな力ではないんです 
例え力になれなくても逃げないで寄り添い向き合い
続けることのできる力こそ本当の力です  それはどこから来るか 弱さから来る 
弱さゆえに支えが与えられ その支え故に なお逃げないで向き合える確かな力です
少なくとも命の授業を通して何人かは医学部に入り何人かは医師になっている  
本当の意味で人を育てるのには時間がかかる 100年以上掛るでしょう 
社会的な運動として社会を良くするためには大きく2つの眼差しを考えています
一番簡単なのはトップダウン 法律を作り世界を変える (私は好きではない) 
本当に社会を変えるのはボトムアップ つまり草の根運動 その人材を育てる
若い人の中で将来苦しみの為に働きたい そういう仲間が一人でも二人でも増えてゆく 
その仲間がさらに仲間を育てる

2011年11月20日日曜日

小沢竹俊(在宅クリニック院長)   ・寄り添う医療を毎日実践

小沢竹俊(在宅クリニック院長)    寄り添う医療を毎日実践
<概要>
世の中で一番、苦しんでいる人のために働きたいと願い、医師となりました
医療過疎地で従事した後、終末期医療に従事する目的で、平成6年よりホスピス病棟を有する
横浜甦生病院ホスピスにて診療にあたってきました
この間、約1300人の患者さんの看取りを通して、緩和ケアの大切さを学びました
どんな病気であったとしても、安心して最期を迎える社会にしたいこの思いから、在宅緩和ケアを
専門にするめぐみ在宅クリニックを開設
真夜中にお迎えが来れば何時でも出掛けるようにしている 
私に与えられたミッションだと思ってます  
元々救命救急センターに働いた時があり当時も24時間救命医師として
必要な状況があればすぐに駆けつけ診療に当たると言う事を常にしていたので特別な事をして
いる云う事はなく 思っていない
ここの診療所は外来もあるが 外来の力を入れるより 病院等に通えない人の為に仕事をしたいと
言う思いで普段仕事をしています
クリニックと云う看板があるが→なるべく落ちついている患者さんの場合には近くの先生に 
以前私が働いていた病院からの流れもありどうしても以前からの繋がりが
あってお断り出来ない場合は細々と外来を見ていると言うのが現状です

一旦はクリニックには来るが直ぐ訪問しています  
ここのクリニックは開業して6年目を迎えます 
去年は204名を看取っています 延べで750名を超えています (在宅での看取り)  
9割の方が癌で残りの1割の方が老衰に近い御高齢に伴う 病名的には心不全に当たります
最初は家に帰りたいだけど家族に迷惑をかけたくないから最後は病院に行きたいなあと願う方もいます 
家に帰ると病院と違って家族も自由に会える TVもイアホーンをかけずに聞ける 
好きな描や犬に会える 孫の顔を見ることが出来る
非常に自由度が高く 出来ればこのまま家にいたいな 介護保険 家にいる事が出来る
 85%が家で 15%が病院で介護の方が来てくれる

痛みや息苦しさを我慢させたくない 薬をあらかじめめ用意すると医師、看護婦がいなくても対応
ができ苦痛が無く過ごすことができる
これはこだわってやっている 在宅の一番難しいのは預けた人が段々歩けなくなる 
日本人の多くは矢張り自分で自分の事が出来ると嬉しい
当然トイレに行ったり顔を洗ったり ふろに入ったり当然当たり前のように出来ることが前提 
それが病気とともに足腰が弱くなり出来なくなる
これは辛い事であり家族に下の世話をさせたくない 
こういう苦しみを強く持ちます 
歩けた人が歩けなくなる苦しみは薬では取りきれない非常に大きな苦しみとして大事にしています
大事にしています この苦しみはしばしば家族に下の世話になるくらいなら早く死んでしまいたい 
早く先生向こうに行けるようにお願いできませんか

この苦しみにどう対応するかが問われます 励ましは殆ど通用しません 
足が動けなく手も生きててよかったなと思える可能性を探るしかない
これは医師等が一方的に与えるものではなく 苦しみはどんなに科学が発展しても人間の苦しみを
取り除く事は出来ない 
痛みであれば薬で対応できる が苦しみは薬(抗鬱剤等で)取り去る事は出来ない 
その苦しみを抱えながらその人が穏やかに今を生きる支えとは何かと云う事を実は大事にしています
苦しみを和らげるだけではなくて苦しみなりながらではその人がなお生きててよかったなあと思う
支えはどんなものがあるだろう     そういう発想をするんですね
すると苦しみが残りながらもその支えに気が付く時になおなんか穏やかな表情 
ああこういう自分でも生きてていいかな そんな
思いになることがあります
  
医療者、家族が一方的に思うのではなくて一人一人その人の心の
支え  そこを大事にキャッチしてですね
最後の瞬間まで一人の人間として生きていると言う事にどのように係わりどのように応援出来るか
 考えた時 ただ病気だけを診断し 治療する事とは異なる
もっと違った向き合い方があるだろう どうしたら苦しむ人と誠実に向き合い 
援助が出来るかと考えた時に なるべく判りやすい言葉で我々がやっている事を表現する
介護の人達、家族 いろんな人たちとの出会いを通して前のように自由にならない自分でも生きて
ていいなあと思ったらなお係わる可能性がある
患者の反応は→どんな反応であってもそこから出発します 
 
この仕事のポイントは相手の形に合わせる かつて宮本武蔵と云う人がいました
五輪書 戦いの中で相手に合わせて戦いましょう 水は容器に合わせて形を変えている 
戦う薬を探しその薬が継続できるように応援しましょうと言う
もう痛いのは嫌です もう後は痛みなく穏やかに過ごせればもう充分です 
そういう人が居たら一言応援します 痛みなく穏やかに過ごせるように応援しましょう
中には不安です 定期的に検査をしてほしい と云われればその様に応援します 
例え治せない状況であったとしても一人一人苦しみが違う状況の中でその違う生き方をキャッチして
それぞれの生き方を応援すると言う意味でどれだけ応援出来るか
こちらの思いを説明する応援ではなく どんな事を大事に生きてきたのかを丁寧に聞く事を出発とします 
苦しみを全て和らげようとは思わない 構えて何かこうしてやろうとすると大体うまく行かない  
先入観を持たないようにしている
苦しんでいる人が私達の事を理解者だと思ってくれたらいいんです 
相手の事を理解したと思った時に人は話を聞かなくなる
 
紹介状がある 初めて会う人にもう貴方の事を理解していますと言う姿勢で会うと話が聞かなくなる 
なるべくまっさらな気持ちで患者さんに会う 
悩んでいる事等何でしょうかと云う切り口から入ると相手の苦しみの形から入れる
表情から理解してくれるかどうか患者の心が判る  顔が穏やかになる 
私は2つ質問する 初めてこの病気を知った時にどんな事を感じたでしょうか? 
何故私だけこんな病気になったんだろう まだまだやりたい事がある 
何も悪い事は一つもしていない 何でこんな目に有ったんだろう ・・・こんな話を聞いて 
ワーっと話をしてくれる

今まで闘病の中で「支え」となった事は有りますか? 
いろいろ有る 家族です 家内(一人残すわけにはいかない) 孫(せめて小学校に行くまでは) 
関係の支え  (誰かとの関係 人、動物 自然 信仰等)
人は一人では弱い存在ですがそのひとの事を心から認めてくれる誰かとの支えとなる関係が
与えられると強くなれるんですね
まだやりたい事がある 老後の楽しみとして展覧会がある 毎年出品してきた 
今年も是非出品をしたい その将来の夢 の為に頑張って治療続けてきたという人もいる
これは 将来の夢  という支えです  人はただ単に生きていると言うのではなくて過去の様々な
体験から将来の夢に向けて生きようとします
例え夢が短くてもですか? はい  この特徴は将来の夢はこの地上とは限らない
  
先生私は戦争で多くの戦友を失いました 何故自分だけ日本に生き残って 帰って来たんだろう 
そう思いながら戦後 亡くなった戦友のことを思いながら
頑張って仕事をしてきました  不況もあったし会社が倒産しそうになって辛い事があった 
でも亡くなった戦友の事を思うとこんなことでくじけてはいけない
その思いで頑張って生きてきました だから亡くなったら戦友に会ってきます 
相手の支えを言葉としてキャッチしてその支えを強める援助ですね
其の死を超えた将来 向こうから大事な家族を見守る事が出来ると思ったらそれは大きな支えになります
知らないと言う苦しみ 不安がある場合には 知らないと言う不安な気持ちを聞いてみたい 
聞いたうえで不足な情報について安心できるように知らせる

病気よりも大事なことは介護だと思っています 段々食事が少なくなっても、足が動けなくなっても
 ちょうどいい食事が守られ ちょうどいいトイレの手伝い等が出来れば 
何も医師、看護師が24時間いなくても患者さんは家で過ごす事が出来る  という発想です 
どんな私であれば苦しむ人の良い援助者になれるか という思い  
良い援助者とはただ病気の診断と治療する人ではない という思いです
最初は患者さんの前でどのように係わったらいいのか判らない状態だった  
中学卒業までは絶対医者だけにはなりたくなかった
どんな仕事に着いたら幸せになれるか と悩む(高校) 
こんな自分でも他の誰かが喜んでくれたら その人の喜びを通して自分の喜びとしたい
もし自分がいる事で喜んでくれるなら その人を通して本当の喜びに近付けるのではないか
テレサの映画を見る→「確かにインドで多くの助けを必要としている 

しかし先進国 お金はある 
住む家がある 服はある そのような先進国であったとしても
必ず悩み苦しむ人がいる だから貴方はわざわざインドまで来なくてもいい 
貴方は貴方の住む国の最も貧しい人の為に使えて下さい」・・・これが彼女のメッセージですね
私は日本で一番苦しむ人の為に働こうと思ったんです 
どんな仕事が一番喜んでくれるだろうと考えた時に命にかかわる人に付きたいと思った 
将来医者になろうと思ったのが高校2年生の時だった (思いっきり変わった)
 医者になれたら人生を捧げますと祈った 今人生をささげています
もう一つこの仕事を選んだ理由は 医学部4年生の時に臨床実習と云って白衣を着て病棟に行
実習 癌患者と(当人は癌とは判らない)向き合った時に 
絶対嘘をつく事が出来ない 

そういう患者さんとどう付き合ったらいいか判らないので 当時上智大学でアルスホンド・デーケンス先生
のもとで生と死を考える会との出合い 
日本的ホスピスを考えると言う勉強をしていた  
直すことの大切さを学んだ 
一方直すことのできない苦しみを抱えた患者さんこそ本当の意味で苦しむ人に違いない
ホスピスが日本でまだ2~3か所しかない時代 横浜更生病院に入った事がきっかけ
どんな係わりをすれば力になれるのだろうと随分と悩む  
先ず学んだのは人は単に苦しむのではなくて苦しみを通していろいろ学ぶことがあると言う事を
学んできました

有る人は病気になる前は仕事人間、一旦は落ち込むが本当の自分の支えに気が付いて穏やかな
顔に変わっていく姿等を拝見しながら決して死と云うものが
目の前にしながら、なお今は穏やかに生きる人がいると言う事を徐々に学んできたような気がします
最初の頃は何でこの人は死を前にこんなに穏やかなのか、何でこの人はいらいらするのか
判らなかった  
この人はこんな支えがあるから穏やかなんだなあと思えるようになった

2011年11月19日土曜日

小西登紀子(被爆者)        ・被爆体験 3代で朗読

小西登紀子(被爆者)    被爆体験 3代で朗読
夫 小西俊夫さんは広島の被爆者でした 
兵隊で江田島にいて原爆投下直後の広島に救護に入っての被爆でした
小西登紀子さんの被爆体験記をご本人と一緒に朗読した次男の妻 ひろえさん(51歳)とその長女 ゆうきさん(18歳) 
今年 「ピース大阪」で登紀子さんの被爆体験記を3人で朗読されましたね 
経緯は→誓いをしてくだすった新風書房の社長に昨年に 応募した それが採用された  
朗読をすることになる(3人で読むことになる) 
浦上天主堂の近くに住んでいた 大浦天主堂には行っていた(学校の近く) 
1945年 立石みかさん(登紀子さんの母親)は当時41歳で長崎洋裁女学校を経営していた 
(学院長)

軍の要職の方が来て母親との話があるので、登紀子さんは学校の方に先に行くように言われたが、お腹を壊してしまっていて行く事を拒んだが、無理やり母親から学校に行くように言われ、ようやく行った 
これが助かる事になる 用事があり中央市場に居た時に原爆にあう  
防空壕に逃げ込む 
岡町(母が住んでいる地区 ほぼ爆心地)は今燃えている最中なので行ってはいけないと止められ、翌日にいく 
母の学校も燃えていた 回りも燃えてしまっていた 
人間の姿も見かけるが男と女の判別も出来ないような真っ黒焦げの状況だった
母を探した  
.12歳ぐらいの男の子が茫然としているのを見かけ、声をかけると矢張り同様に親を探しているとのことで一緒に探すことになる 

浦上天主堂の近くで11日に母親と出会う 
 かすかに声が聞こえてくる 母の声と判る やけどはしていなかった 喉をやられていた 
会えただけで幸せだと思った 病院に連れてゆく 
そこらへんでみんな死んでいる 赤チン塗るだけでは当人は死んでしまうと思った 
14日に亡くなる 
生きる意欲は有ったがどうにもならなかった 
母は学校を何とか大きくしたいとの思いが強かった
登紀子さんの嫁に被爆体験を話す  
ひろえさんは広島出身 広島での被爆体験話は聞いてはいなかったが
ゆうきさん 学校では戦争の話は聞いてはいなかったが 祖母から話を聞いていたのでいろいろの出来ごとがショックだった

次の時代の方に話していきたい  
一般には原爆の話を聞いてくれないが孫は真剣に聞いてくれた
登紀子さん 結婚、出産 いろんな事を考えた 
産んでいいものかどうか産婦人科の先生に聞いた 
貴方は健康体だから産んでも大丈夫だと保障するから、安心して産みなさいと言われて産む決心がついた
 
福島原発 こんなに日本に多く依存しているとは思わなかった  原発を撤退してほしい 
核兵器について→いろんな国が持っている事に対して経験を訴えて原爆の悲惨さを知ってもらいたい 
亡くなった以外の人に何十年と苦しんでいる人達がいる

2011年11月14日月曜日

澤瀉徹郎(“日ポ・サロン”理事長)   ・留学生の“日本のおやじ”として

澤瀉徹郎(“日ポ・サロン”理事長75歳)                  留学生の“日本のおやじ”として 
日・ポサロン ポーランドとの国際的な文化交流  
秋にポーランドの料理を楽しむ会プラス音楽の集い(ショパン)
第10期生(今年)の留学生が一緒に楽しむ  
2002年に第1期生が来日 第10期生は神戸大学に入る(アンナさん)
毎年1名の留学生を招待する 日本とポーランドとの文化交流 
 留学生の生活のアドバイス 面倒を見ている 
改めて日本を見直すことが出来る 

1918年 ポーランドが独立するが、ロシア革命に巻き込まれると同時にポーランド人がシベリアに捕虜と云うか抑留されてしまい帰るに帰れなくなったしまう
飢えと寒さで悲惨な状態に追い込まれる  
何とか人道的に救ってほしいと全世界に向けてポーランドが声をかけたが、時代が時代だけに受け入れてくれなくて、其の時に唯一日本政府が立ち上がり、日本赤十字社が受け入れシベリアから子供たちを756名1920年ごろに受け入れ、怪我をしていたり、病気をしていたり、ボロボロの服を着ている状態、手厚く看護して本国に戻した、歴史的事実があった  
その人達の子供或は孫がこの事実を後に伝えた
 
存命の人はいないと思っていた 
2002年に天皇皇后両陛下の会合の席で90歳を越している高齢の方ですが、この席で是非日本にお世話になった事に対して、お礼を述べたいという申し出がありまして、ポーランドの日本大使館で対面した  
其の老人は着物を着て、蚊帳で寝たこともありました 
日本人が非常に優しく膝に抱っこしてくれた事を未だに覚えています 
今も覚えている歌があります
といって「もしもし亀よ、亀さんよ・・・」とうたを歌った  歴史上の証人がいた

神戸淡路大震災、東日本大震災に対して非常に心配して子供たちをポーランドに呼ぶ事になる (心のなごみ)
現役の頃は銀行マン 止めてから会社を興して、65歳でフリーとなり その時たまたま日・ポサロンの発会に出合う 是非会員になりたいと思い会員になる 
ポーランドを知る事が日本を知ることになるのですよとのお誘いがあった 
2007年から理事長になる (ポーランドとの懸け橋の一助になればとの想い)
彼らが日本の文化を学びたい気魄の前には言葉の障壁は無いと思う  
教える事も多いが教わることも多い(古典芸能、美術等)

ポーランドにはさくらの花がない 留学生は桜を非常に観たがっている
東日本大震災の時にポーランド ワルシャワ大学 でも56通の手紙が来た(即刻 対応)  
日本学科の人々から温かいメッセージをもらう 千羽鶴も頂く(折り紙の習慣は無い)
今後は→ポーランドの理解を一人でも広がるように頑張ってゆきたい
日本で学んだ留学生がポーランドでも活躍している 
京都大学に入ったある留学生は大手自動車メーカーの関連会社に就職しました 
その後その会社がポーランドに進出、ポーランドでその日本企業で働いている  
ワルシャワ大学の日本学科で教鞭を取っている人もいる  
茶道で裏千家ポーランドとして茶道を教えている

2011年11月13日日曜日

牟田泰造(元広島大学学長)     ・人生の師 湯川博士と私

牟田泰造(元広島大学学長)   人生の師 湯川博士と私
基礎物理学准教授 湯川博士の指導を受け 物理学の研究にたずさわる 
専門は素粒子論量子移動力学 
中間子論 頭の中で考えてπ中間子があるはずだと論文にする 
素粒子の根源的な物がどうやって寄り集まっているか 研究 それには力が必要 
力の源になっているのがπ中間子だと、このπ中間子を仮定すれば世の中の物質が存在すること
が証明出来るよと云った その後実験で本当に見つかる
昭和24年の事 勇気をいただいた 小学校時代は鉱石ラジオを製作した 
その後真空管を買ってきてラジオを製作(小学校6年)

諦めずにしつこくしつこくやるというのはスポーツ体験から学んだ  
気質は優しいと思われているかもしれないが短気で剛 
湯川先生は非常に短気だったようだ 
先生が退官した後も足を運んでくれ混沌会セミナーをやっていた 
混沌の中から理論が生まれると「混沌」という言葉が湯川先生は好きだった
混沌会に外部から来た方が非常にアイディアに富んだ話をされた 
だが数学的不備があっちこっとに見えた 結果的にはとっちめた様な形になった
鋭く質問する 最後に私が質問した
 
これがきいてしまい湯川先生がこれに対して怒り「ガツン」とやられた
いつも私は(湯川先生)アイディアが大事だと言っているのに最初から数学の話ばっかりしていい
アイディアを潰すような事をやっちゃいけないんだと
こんな混沌会だったら私は出ないと出て行ってしまった 
その時益川 敏英さん(ノーベル賞受賞)も仲間だった 
益川さんから慰めらたが3か月ぐらい立ち直れなかった
物理学への道は→親の商売を継ぐのか(弁当屋会社) 物理学を学んでますます興味、魅力を覚えた
 東大の大学院に行かして貰う(商売の世界とは関係ないが)
湯川先生から16年間指導を受ける 「未来を過去のように考えよ」→1977年正月 セミナーでの話 
意味を友人と語り合う

研究者は不安を抱きながら計算をして結果がこうなちゃったんで世の中はこうなっていなければ
ならない と結論するわけです 相当勇気のいる事
不備を乗り越えても生きてゆく事がある 湯川先生も何度も経験された事があると思う 
集中してやって行った結果がπ中間子論にたどり着かれた訳です
最近の若いものはすぐあきらめてしまう もっとよく考えろといいたかったんだろうと思うんですね 
若い物に対する忠告として「未来を過去のように考えてみろ」と
言いたかったのではないかと思います  未来の事を未来だと思うから不安になるわけですね 
未来には自分の理論はめちゃくちゃになっているんではないかとか
思うから不安になる 未来の事を実際に起こった過去だと思いなさい 
起こってしまった過去で自分の理論が確立していてその理論に乗っかって更に先を
研究してるという風に考えてみなさい そしたら今やっている研究に絶対の確信を持てるでしょう 
そのぐらいの確信を持ってやりなさいと言うメッセージだったのではないか
残念ながら湯川先生は直ぐに亡くなられてしまった  

研究者が物理の研究をするときに未来を過去のごとくに考えよと云うのはその通りで分かった
だけどそれだけじゃないぞと、よく考えると改革をやろうと、企業でもいい 
こんな改革をやろうと社長がもし思ったとします  その時に未来を過去のごとくに考えよ
とすれば既に改革は終わってしまっている 
その結果会社はこの様に発展しているぞという未来像が描けるわけでしょう 
そうするとこの改革をやったら未来はどうなるんだろうと言う不安は無くなってしまう
確固たる自信を持って改革を進めることができる 
と云うことで未来をかこのごとくに考えというの「研究者は」という言葉
が付いていたんだけれども これを取っ払ってもいいんじゃないかと 皆が未来を過去のごとく
に考えてやれば自信をもって何事も成し遂げられる 最後まで諦める事はない
と云う事になると思っている 

広島大学の法人化に向かった大学改革の時にも随分牟田さんの支えになったわけですね 
そう思います
国立大学の法人化は大部分の大学教授は反対でしたから 
でも世界の情勢を見ているとあれはやってよかったとあれをやらないと日本の大学はますます遅れて
行ったんじゃないんだろうかと今は確信を持って言える  
湯川さんの未来を過去のように考えて前向きに進めというかんがえは非常に役に立ったと思います
湯川さんは平和運動にも、平和活動にもいろんな事に尽力された 
牟田さんも広島の地で科学者の平和会議 運営委員長をされた
「湯川先生の句 平和公園に碑がある 「我が 日よ  再びここに来るなかれ 平和を祈る 
人の身ぞここは」 もう禍は結構だと自分のやった仕事は良い事だけ
に使って欲しい と云う思いが込められているのかなと思っている

人類は他の生物と比べて何が違うかと云うと遺伝子として身体の中に組み込まれているプログラム
ともうひとつは文化と云うものを引き継いでいる
遺伝子として引き継ぐものと文化として引き継ぐもの 二つの道があってこの文化というものは非常に
大事に扱ってきたために人類の繁栄があると思う
其のところが他の生物とは違うところだと思います  
猿とかカラスだとかも、ある時誰かが発見してクルミの皮をどうやって割ったらいいかを発見して
それを伝承してゆくそれも一つの文化ですけれども人類が伝承している文化というものは圧倒的
に大きい 伝承している文化というものは使い方によっては
悪い方向に行く事もありうる  

われわれは賢くなって知的財産をしっかり伝えながらいいものを残してゆく 
言う努力をしていかないといけないなあと思っています
文化を伝承することが言いかえれば教育 なんですけれども教育だけではなにも発展はないんです
けれども新たな知恵をそれに付け加える そうすると教育の幅は広がる
拡げる役割をしているのが何かと云うと研究上の発見 湯川先生はまさに研究上の発見を強力に
推し進めて成果を挙げられて教育の材料を増やして行かれた
我々も微力ながらその方向でして行かないといけないと思っている 

2011年11月12日土曜日

藤井絢子(菜の花projネットワーク代表) ・菜の花で地球を救え

藤井絢子(菜の花projネットワーク代表66歳)              菜の花で地球を救え  
<概要>
昭和21年神奈川県生まれ。上智大学文学部卒業。昭和46年滋賀県守山市に転居後、湖南生協に参加
家庭で使った油 廃食油から石鹸を作り 菜の花を栽培して菜種油を絞り 石油に変わり燃料にしようという市民運動其れが菜の花Projです
今では日本全国に広がりました   
いま注目されているのが福島県の原発で汚染された土地に菜の花を植える取り組みです
菜の花が何故地球を救うのか 聞きました

滋賀県菜の花館 菜の花のを乾燥して収穫する施設 食用油にする施設 
油カス 地域から集めた廃食油をバイオ燃料にする 
もみ殻を薫炭にして土壌改良材に,使ったり、発生熱を床暖房に使ったり お湯に使ったりする多機能を持たせた施設  循環型社会  
石鹸運動のシンボル 食器洗いからトイレ洗いまで全部使える  
菜種油 99.何%はカナダから輸入されるが これは香りもいい 
化学物質も使わないので味もいい

学生時代に石牟礼 道子さんの「苦海浄土 わが水俣病」という本 を読み愕然とする  
環境に関心を持つきっかけは水俣問題のこの本 琵琶湖の近くに住む 
地域の食の安全推進グループとの係わり チッソの会社があった等の偶然が重なり,段々環境の運動になって行った 
琵琶湖は1400万人の水源地 1971年に滋賀県に来た  
食の安全には大きな運動には成っていなかった  
環境に関心が向いたのは1977年5月27日の赤潮だと思います  
琵琶湖が病んでいると言うのを直接におしえてくれたのが、赤潮の臭いと色
今までは環境を汚しているのは企業と講義しているが、琵琶湖の場合はまったく違って私達も汚している 
 
汚れた水を飲まなければいけないと言うのは、被害者ですが,それ以上に加害者になっている 
それが大変大きなきっかけだったと思います   
石鹸を使う運動 メーカーが売っているものをそのまま信じてそのまま使うのではなくて使い続けると琵琶湖が病気になる 
それに替るものとして、廃食油からナチュラルな石鹸が出来る 
これを使いましょうよと口コミで伝えてゆく→赤ちゃんを守る運動、身体を守る運動 生きものにも心配りする 運動   
燐が合成洗剤に入っていてこれが原因  燐の無い石鹸の運動  
武村知事が住民自治を重要視していた  
石鹸運動 これこそが住民自治の本義だとおっしゃってくれた

問題提起を県の施策に乗せてゆく 
其れがとても県政の運営に大事なことだと言う事で 住民が盛り上がれば盛り上がるほど県政に力が入ってくる
条例出来る(住民と行政の共同  これが大きかった) 
おむつかぶれが出たりして健康にも影響していた
無燐の合成洗剤をメーカーが開発  売られる様に成る 
そうすると廃油から取る石鹸の使用量が少なくなってしまい そのことで段々と、廃食油が集まり過ぎて対応をどうするかが課題となる
    
燃料にするのをドイツでやっていることを知る
(化石燃料が途絶えた時に備えて実施しているとの事に吃驚)  
89年に環境の専門の生協を立ち上げる準備をしていた  
環境専門生協理事長をする リサイクル事業 牛乳パックをリサイクルさせる  
当時回収率は1%程度
回収してトイレットペーパーにする   環境にこだわった商品をもっともっと使ってゆく  
二つの柱を考えた  再生可能エネルギーの事を考える
太陽のエネルギーを利用するを考える

天ぷら油を燃料にする運動 天ぷら油で船が、車が動くという宣伝車で回る 
廃食油を燃料油に変えるプラントの開発はいろいろ大変だった 
バックアップしてくれる行政はなかった 環境庁に掛け合ったりした
5700人の町で小さな町で動きがみえたのが良かった  
全国から沢山の人達が見に来て下さっている    それが拡がるPR効果となった
休耕田に菜の花を植える運動を広げた 
休耕地は全国で約40万ヘクタール かつて菜の花を最大作ったのは13万ヘクタールだった  
秋に種をまく→春菜の花が咲く(菜の花フェスティバルをする)→6、7月刈り取り→乾燥させ搾油→食用油として使用→廃食油を回収→バイオ燃料にする機械にかける→
→バイオジーゼルの燃料を作る→車等に使用
     
絞り取ったカスは絶好の有機肥料  食の安全に寄与する 
農作物の自給率は40%弱  
菜の花のこの運動は全国に広がる    各地域で独立して行われている 
景色がいい、はちみつが美味くなる  全国で情報交換をする場を作る(観光効果、お土産、等) 菜の花サミットを実施 2001年第一回開催   
今年は帯広でやる(400ヘクタールを菜の花畑にしている 全国一)   
モンゴル、韓国、中国、 チェルノブイリ 農業が出来るように再生しなければいけないという考えから菜の花を植える

チェルノブイリ菜の花Projは2007年からスタートしている  
農業がきっちり出来るように再生しなければいけないと言う思いがある
植物は土壌から放射能物質を吸い上げる効果がある そしてなたね油には混入しない 
菜種ガラと畜産糞尿をバイオガスに使う 
バイオガスに使った後に液肥が出てくるがその中に入っている放射性物質セシウム137ストロンチューム90をゼオライトで吸着させてそれを管理する 
 その流れが全部出来上がっていた(チェルノブイリ)
吸い上げる効果はそんなに大きくはないが地中の水に溶けたものを吸い上げてその菜種をまいた跡には麦を蒔く その麦は食べられる麦だった

其れを見て福島でやりたかった 福島で種をまく  
直ぐに効果があるとは思えないが 油は放射性物質はゼロだが バイオ燃料として使用したい  菜種を蒔く 福島だけではなくて 今まで取り組んだ事の無いところでも蒔き始めた  
環境の問題は命の問題 これに菜の花Projが寄与できたら嬉しい  
課題は→政治の意志 仕組みの問題をつくる 市民の意志 合わせて

2011年11月10日木曜日

秋山正子(訪問看護ステーション代表)   ・人生のラストステージを支えて

秋山正子(訪問看護ステーション代表)                          人生のラストステージを支えて  
秋田県出身 父が胃癌の末期 亡くなった後で父が癌である事を母から知らされる  
2つ上の姉が転移性肝臓がんの末期である事を知らされる 
CT画像を見せられて病状を確認させられる 余命1カ月 と言われたが5カ月
家での看護を主体にする 
そんな状態で家で看病してもいいのかと云うような反対意見もあったが 家に連れてきて子供たちとの会話の弾む姿を見て,あっこういうやり方もあるんだなとそういう姿を見てもらって納得してもらった  
当人にも試験外泊と言って納得してもらった  
仕事と子育てを捨てて姉を看護するわけにもいかず、お願いして対応する  
新しい仕組みを佐藤先生に会い 引く受けてもらう事になる(東京から神奈川まで来てもらう
余命1カ月の中で夫が炊事、洗濯をする(それまでは一切家事をする夫ではなかった)
例え身体が動かない状態であっても まだまだ役割があるわけで、残された時間をベッドの上で患者役割だけで過ごすのが非常にもったいないと其の時感じました
最後は病院で亡くなった 
病院についてから2~3日で昏睡状態になる 
最後まで家に居れたかなとの想いもあったが あれでよかったと義兄からは言われた
訪問看護をするようになった(姉の看護を見て) 
住みなれた家で家族に囲まれた中で支援が出来ればなと思った

夫が東京に変わると言う転機もあったので今まで務めていた臨床の病院、看護学校 ではなく現場の看護をやりたいと強く思って訪問看護の仕事を選んだ
今は会社組織にした  (平成13年)  訪問看護、ケアマネジャー、  
初めは広域に回っていたのだが、今は全国に5400か所の看護ステーション、 新宿区内でも17か所 看護ステーションがあるので比較的事務所から近い範囲で仕事をしている 
具体的討議を行っている 医師との勉強会も行う  
ボランティアとも交流 犬等 散歩仕事 介護報酬 平成18年介護保険が改定になった時に予防に凄く力を入れて、その代り生活援助の部分は限りがある
 
ボランティアが居ないので自分たちで組織をちゃんと立ち上げて育成もしたりコーディネーターも付けて と云う事で2006年 NPO法人白十字在宅ボランティアの会を発足
看取りで印象に残った患者→77歳で子宮がんの末期の方、 大きな病院で診断を受けて そこでは治療が難しいと言われ一般病院に行った
子宮癌から骨盤のなかの骨に移転 両足が不自由になって お小水もでなくなって管を入れる お腹も腸閉そくを起こしていて 自由に食べられない
その方は強い意志を持っていてずっと天井を見てしかも時間が限られているならば 家に帰って家の同じ天井(天井のしみがいとおしい)を見たいので家に帰りたい

親戚も頼れない 検体の手続きをしてあった(70歳) 身の始末はしてある 
段々食べるものが少なくなり 死期が近づいて明日朝又来ますねと云って翌日伺ったら 
ちょっと前に亡くなっていた (土曜日) 
自分がこうしたいとはっきり言ってきちんと身の始末をしてその方に非常に感銘を受けました 在宅にこだわる事→家族に囲まれて 命の始まりと終わりが家族の手を離れて病院に委ねられて管理された中でおこなわれている現状にちょっと人間らしい姿と云うか  
命のたな心にのせて愛おしいと言うそれを 取り戻すのも必要なんじゃないのかなと思っていて家族がいなくても一人でも出来るし、丁寧のお世話をして、その人らしく見送れると言うのは今の病院で出来るのかなと 重装備になってゆく死の看取りの現状を見るにつけ、やっぱりもうちょっと自然に見送りたいと思った
 
自宅を考えを広げて居宅、ケアーハウスでも看取りが出来たならと その時に在宅ケアで培ったスキルが生かされれば想いで深い見送りが出来るのでは 
残された人も満足した死の迎え方が出来るかなと それが出来るのはやっぱり家や家に近い環境のところかなと思っているのでかなりそこにこだわっている
暮らしの保健室を始める  
看取りのまえの段階でケアをしたいのにその場が無いので
(癌の相談をもっと早い時期からしたい 不安を抱えている)
身近なところに相談をする場があればいいかなと思った 「健やかに暮らし安らかに逝くために」公開講座 在宅療養の勧めを一般の人に知ってほしかった
講座に来ていた人から場所の提供を受けてそこで始めた 
40人/月 高齢者のみならず障害を持っている人の相談等々ある
人間らしさを取り戻してみんなに囲まれながら亡くなってゆく 
家族でなくてもケアする人のチームを組んで看送れたらどれだけいいかと そういう看取りをもうちょっと拡げてゆきたい   

2011年11月9日水曜日

ニシャンタ(羽衣国際大学教授)   ・違ってるんからいいんだよ 2

 ニシャンタ(羽衣国際大学教授)                   違ってるんからいいんだよ  2
最近落語を勉強している 第1回社会人落語日本一決定戦で準優勝する 
外国人は言葉の壁がある 
武道を教えて頂いて強さが判った そして逆に人間の弱さ、もろさが判った 
最初喧嘩が強くなりたいと思い始めたが、そういう気持ちはいつの間にかなくなった
以前教えてくれた先生の息子、娘が学生チャンピオン、世界チャンピオンになっている 
最近日本は変わってきたように感じる 
日本人は生活環境の中で人間の関係を大事にしているが よく聞いたのは日本人は一を知って十判るという察する文化が有ったんだ

今でも覚えているが「ゴホン」と咳をするだけでそれを受けて回りが大丈夫かな と云う雰囲気があったが、「大丈夫?」と云うような事がない
私が電車に乗っているんですが、席を詰めてくれないとか、立っている人を座らせないとか、シルバーシートが必要な人を見ぬふりしたり寝ていたりして対応しない
マナーが悪くなってきている 人間関係が希薄になってきていると思う 
違いは無限にある 違いは 余り良い事を連想しないのでは 嫌い、敬遠したり、怖い、と云うような発想に至るのではないか

違いと云うのは人生を楽しくためにあるのではないか  ハイ判りましたと言う時に日本では頭を前に下げるが、スリランカでは頭を8の字に動かす・・・違う
違いを楽しむ 学んでゆく(何で違う文化が生まれたのか) 育ってゆく 生かす(活用するためにある) ともに笑えるような世の中になってゆくのかと思う 
世の中に学びの大事な一つの根っこは多文化共生社会作りだと思っている  
違いは新しい情報、新しい知識 自分が持っていないもの 何のために有るかと云うと自分が変化する為に有る  新しい自分を作り上げるために有る
違いを受け入れず自分を変化させない状態 排斥する これは一番勿体ない事です  新しい自分を作り出せない 

「受け入れずして変化する」・・・ 自分が変化するのではなくて相手が変化する  郷に入っては郷に従え は大事(同化) 同化にとどめるだけではもったいない 
外国人から日本人が学ぶことも大事 排斥になったり、同化したりする、あるいは変化しないで受け入れることがある(棲み分け) 
棲み分け せっかくある地域に住んでいるのに混ざっていない  例えばブラジルで日本人とブラジル人がそれぞれコミュニティーを作ってしまっている
いろいろ混ざってほしいなあと思う  お互いに違いを受け入れてお互いに変化する それがまさに共に笑える時代だと思う 
日本に来た当時、国際交流イベントが沢山あった 就職活動した時に国際と云う名前がある団体を探した  大きな団体を探したが、断られる 理由は外国人だから
最初のパーティーまがいの事から裏切られた 意外と国際と名のつく団体は外国人を受け入れない方向に有った

ある約束事の中でしか受け入れてない 既存の国際化というのは日本人が日本人の為に日本人によってやっているものと思った (日本人の自己満足的な)
消防団にも国籍情報がある 開示しているところもあるが 消防団の人が少ないので地域に入ろうとしたら 悲しかったのはその地域の為に頑張りたいと思って 
入ろうとしたときに消防団の人とのコンセンサスが取れているのにも係わらす、制度が邪魔する 
制度の改革であったり、心の改革であったり、言葉で沢山コミュニケーションを取る事によってこういう壁を救って行かないといけない部分が沢山ある
受け入れているようで外国人を受け入れていない体質が日本ではある 
日本は本能的に「違い」に対して怖さ、嫌い、敬遠と云ったものがあるからだと思う
発想を転換して「違い」を楽しいとか、沢山そこに学びがある、自分の成長の為に大事なんだと思う発想を変えた瞬間から、自分から近付くとか 自分から挨拶するとか なると思う
挨拶は人と人との係わりの最も基本的なケースですけれども、お辞儀もスリランカの人から見ると不思議に思われる? スリランカは手を合わせる

日本の企業の摩擦 「日本的経営の海外移転可能性」(博士論文)  日本経済の絶頂期に来日したので日本の経営を学びたかった 
スリランカの経営文化はイギリス人に学んだものが定着している 
特徴は階層社会文化があって 日本では画一的な要素が強い文化がある
日本は経営文化ではフラットな関係があるのかなと思います  
スリランカの会社ではトイレが3種類ある 一般工員用トイレ 事務職員用トイレ 管理職用トイレ(階層制強調部分)
スリランカでは階層間での交流はない 
時間がたつと今見ているがそれが日本のいい所と、スリランカのいい所が一緒になってハイブリッド化された新しい経営文化が生まれてる

異文化が交流することは大事だなと思います  
どっちかが「染まる」だとか「同化」するだとか「形をなくす」 ではなくて その文化のいいところをきっちりどんだけ残しつつ、進化すると言う事は大事なことと思う 
アメリカの社会作りは前はメルテイングポット という概念を使っていた  白いスープのようなもの いろんな具材が入っていても最終的には白い色にみんなが統一される(同化する) 
今ではそうじゃない サラダボールという概念を使っていて 街作りはそれとりどりの野菜が一つの椀に盛られるような特徴を生かしたまま同じ椀に盛られると言うようなことを目指している   
文化は会ったときにどっちかをなくすんじゃなくどこまで残すかが大きな課題で、残しつつ最大の力を発揮するのが求められる
世の中でいろんな事が起きているが 問題解決の糸口が日本に有るような気がしてならない 何が今一番世の中に求められているかと云うと 我々が無くしているものが三つぐらい有って ①大きな循環性を失っています  
②多様性を失ってきている  
③過剰な商品化(非人格化)→ 関係性の取り戻し
   
この三つを取り戻す事で人間らしいゆたかな社会作り、個性作りが出来るのでは(その答えが日本にあるのでは)    
日本はめんどくさい事が多い これが日本人の良さ(人間関係を大事にする)  
鯨の供養をする(命を大事にする)  針供養等々 日本人は命のありなしに係わらず敬う
命があろうとなかろうとなかろうと全てに対し想いをはせる豊かな人間性を持っているから それこそが世界が抱えているありとあらゆる問題に解決の糸口がその精神にあると思えてならない  
日本の凄いのは進化させている事 神社で(芸の神様)落語の芸をしていたら それを見ていて外国人なのに丁寧にお祈りしてと驚いていた
私も外国人だけれども神様も外国人だと  ヒンズー教の神様 (弁天様) 七福神にしても一人だけ日本で他は中国、インドからきた神様
元の形をはるかに進化させた そういう事が日本の社会にはあるんですね 
そこが魅力的 惹かれる部分がある・・・しかし最近日本人は忘れかけているのではないか

違いを取り入れてそれを物を作ったり、発揮したり、美しいものにして行ったり、皆で楽しんだり、笑ったりする文化が日本人がだれよりも長けて持っている
そこを日本人がもう一回得意技だと言う事を発揮して頂きたいと思っている 
日本はもっともっと良くなってゆくし、日本が世界に向けて発信できる素敵なメッセージもそこから生まれてくるんだと思います  
言葉と云うものは考え方を教えてくれる  人間は言葉で考える 
深い考えを持たせようと思ったら、一つの言語でどんだけ長い期間、教育を受けたかによって 変わって来るんだと思いますね 

出来るだけ長く一つの言語を特化して教育を受けると言う事は、深い考えが出来る人間形成にとっては非常に大事なんですね  
子供には出来るだけ長く日本語を深く勉強してほしいと思っている(最低大学までは) 
絶望から立ち上がるに何が必要か→世の中、自分の身の回りで起きるものは全てを力に変えないといけない 
今回の教訓も(東日本大震災)力に変えないといけない
毛利元就の矢の話を 実際にやってみて 1本で折れた 3本でも折れた 
折れた理由には2つある 3本は隙間があいていた(隙間があると折れやすい)
折れなくするには本数を増やす  これから生きてゆくには3つぐらいでは間に合いませんよと 
自分とは違う文化の人達とどれだけ固めるか 自然、自然からの教訓 失敗談、成功例、全てを本質として抱えることが大事 それが強さを増してくる
隙間→身近にある関係をもう一回 詰める必要がある 
さらにもっともっと沢山の経験とか沢山の仲間を増やして行く事が大事
セレンディプティー なまってセイロンになったと言われる  
「御縁」(日本語に訳すと) を大事にする 「偶然力」  日本との出合いは私の人生を変えた 恩返しをしたいと思っている

2011年11月8日火曜日

ニシャンタ(羽衣国際大学教授)    ・違ってるんからいいんだよ

 ニシャンタ(羽衣国際大学教授)        違ってるんからいいんだよ
龍谷大学 大学院 博士課程 経済学博士  2005年に日本国籍を取得 
日本女性と結婚 1男1女 
来日以来日本の武道を修連 拳法2段 柔道初段、空手4段 日本語も来日以来1年間で日本語能力検定試験1級を取得する 
日本に来て25年 スリランカ(セイロン)から17歳より来日
中学3年生の時に手紙が教科書に載っている TVで流された「おしん」80%の取聴率(スリランカ) 日本では50%の時もあった
其の時の状況がスリランカに似ていた(物がない ) 親近感で見ていた  
乗合牛車で学校に通っていた 72年日本から中古車が入って来る(おしんのイメージとは違う)
日本が夢を与える国になった  日本に対する興味が膨らむ (日本の情報が断片的)
ボーイスカウトで来日(御殿場で開催) 1カ月滞在 消化不良のような状態だった 
1年後に再来日(家を担保に借金をして費用捻出 7万円)
ホームステーした家に厄介になる 最初言葉が判らず目の動きとちょっとした動作でよしあしを判断した(第六感)
こんなに小さな国なのに方言が多いのに吃驚した 謙遜語 へりくだった言葉 好き  
犬にも丁寧語を使う

立命館大学 拳法4年間する 学部総代をする (録音機を使って講義を収録するが時間が長くて聞く時間が取れない アルバイト 収録時間の長さ)
日本に行くからには格闘技をしなければいけないと思った  
結婚に際して相手の父親、母親が反対した 
お墓(スリランカの墓はない長男だが墓守に必要はない)、
国籍(自分の国を捨てるようでは嫁も棄てるのでは、信用できない)  
子供(褐色に生まれたらいじめに遭ってしまうのではないか)  

半年間たってから挨拶に行く 承諾を得られる  朝起きたら妻の母親より手紙があった
「昨日貴方の本を読みました 貴方はとても強く優しい立派な人です 今の日本人にない心を持っている本当の日本人です 今まで私達が文化の違いや肌の事で
貴方の事を誤解していた自分が恥ずかしいです ごめんなさい 何を書いてよいか判らないんですが、私達は立派な息子が一人増えて幸せです
貴方のご両親に感謝します」  
「留学生が愛してる日本」を書いたのを読んでくれる
人間は心の壁を持ってしまうが、 何のために壁があるかと云うと取っ払う為にあるんだと思います 壁を取っ払う数が多ほど人間は成長できます
自分が美しくなって行くと思いますね  取っ払えた瞬間が手紙ですね 

2011年11月7日月曜日

岡田芳郎(77歳)        ・ 定年人生を心豊かに2

岡田芳郎(77歳)        定年人生を心豊かに
詩を良く書いた 友達、会社の先輩後輩の、結婚、転勤、定年、昇進とか亡くなった時 
集まった席で詩を読む(スピーチの中の一部)
「サラリーマンの酔い」
「サラリーマンは酔わずにはいられない 何かに 仕事に酔いたい 遊びに酔いたい 
一日を何かに酔いたい なぜならそれが生きるってことだから
 
いい仕事をした夜は仕事の酔いを酒で醒ます 良い酒とはそんな酒だ 
いい仕事が出来ない時 酒で命をけしかける やるせないけどそれがサラリーマンの酒なんだ
何にも酔えない一日 そんな日は人生じゃない 
何にも酔えそうもない日は人に会ってその人の酔いを借りるんだ」
今生きている時が中心 定年後に話すのは仕事以外の事を話すのが良いと思う 
映画、本、旅行、・・・酔う対象を話す その話をしながら酔う。
そこにしか人生の中心がなければ多分そこに戻ると思う(仕事の話に  会社での栄光の日々) 
「8-7か 1-0か」

「波乱万丈な人生がある 大金持ちから破産者になり また盛り返したものの 政治家を失脚し 
小説家として成功した男 事業を成功させ 新しい映像システムを作り
世界のトップスターを妻としながら 航空事故で死んだ男 
大名の娘に生まれ 幸せな少女時代を送り 家が戦いに敗れ滅んだが 助けられ 艱難辛苦の末
最後は将軍の妻となった女 野球でいえば 8-7のシーソーゲーム そんな人生も面白い
 しかし人に語れる目覚ましい成功も 輝かしい社会的地位も無く
毎日決まった時間に家を出て 伝書鳩のように家に帰り 些細なことにもくよくよしながら 
定年を迎える 吾らの時代の大多数の人間だって 1-0の投手戦のように味わい深いゲームなんだ
人生のゲームは点数の多さが大事じゃない
 
どれだけ人生といい勝負をしたかが生きた意味なんだ 自分の人生に負けるな
一投一打に魂を込める 」  
大金持ちから破産者になって盛り返したけれど政治家を失脚し小説家になった人→
イギリスの作家ジェフリー・アーチャー
世界のトップスター(エリザベステーラー)を妻としながら 航空事故で死んだ男→マイケル・トッド 
家が戦いに敗れ滅んだが 助けられ 艱難辛苦の末最後は将軍の妻となった女→江(ごう)
40年勤めて判った事がある これからやりたい事をやれるんだと言う事 
束縛されるものは無いんだという事 
結果は問われないと言う事 魅力のある人間であり続ける事が大事
現役時代の魅力ある人間→ 

①社会的存在感を持っている 
②美的な価値(態度、物腰等)を持っている 
③未来展望(未来についてのビジョンとか上昇発展してゆくものを持っている) 
 定年になると役職等無くなる
  
定年後を生き生き生きてゆくためには でも魅力ある人間でなければならない 
そのためには上記三つは形を変えて持たなくてはいけない 
①会社がないんだから自分と社会を持たなければいけない 
 仲間、サークル、家族であったり(肉声の届く社会)
 自分の世界を持つ 一人でも社会だと思う (山里離れて一人で住んだとしても社会だと思う) 
 本を読んで一日を過ごす、畑に一人で行って野良仕事をする
 これは自分一人の世界ですね 自分一人の世界の中で充実していると思う 
 こういう事が定年後の(再構築した)社会的存在意義だと思う

②美的な価値 現役以上に大切だと思う 現役時代は美的な価値が低くてもパワーと云いましょうか 
 社会的な影響力とか力がありますから皆に尊敬されたけれど
 今はそうじゃないんだから美的な美しい態度とか美しい言葉とか美しい態度、物腰こういうものを
 持っていないとこれからの魅力ある人間とは云えないんじゃないか

③未来展望→老人になったら未来展望が要らないかと云うと、とんでもなくて、矢張り楽しみとか
 続ける事、やりたい事を見つける 諦めない 一人で取り込む事を見つける
 自分の尺度を持つ  定年後の生き方と云うのは個人の力ですね 
 自分の持っている力をもう一回見つめ直して再構築してゆく
 
 人生は定年後からが勝負だ まさしくそうです  
 大事なのはこの世界に自分は自分しかいない と云う事を認識出来れば良いんじゃないでしょうか
 自分が満足できるような自分の世界を持って生きていければそれで十分なんでしょうかね  
 自分のペースでゆっくりと歩いてゆく  でも諦めてはいけない
 自分を受け入れる場所がある それを自分で見つける  
 昨日の他人は今日の友かも知れない(広い範囲を対象に出来る) 
中国の宗の時代の思想家に「朱新仲」と云う人が書いた 「人生五計」と云う本がある
5つの計画を立てろと言っている  ①生計、②身計、③家計、④老計、⑤死計
  
①生計(自分に与えられた命を如何に大事にするか、全うするか 一つは健康とか体調 
 もう一つは命と云うものを何のために使うのか 人生目標とか精神目標とか人生哲学とか 
 生を充実するための計画を作りなさい)
②身計(社会生活とか社会活動とか如何にきちんと行うか 身の処仕方) 
③家計(家庭をどのように維持してゆくのか 夫婦、親子、金銭、行事、食事、健康、隣人関係とか
 家庭を維持してゆく為の計画)  
④老計(美しく老いる計画  人間は美しく死ぬよりも美しく老いる事の方が難しい 
 年を取れば年を取るほど人生が難しくなる 
 だから美しく老いる計画を)  
⑤死計(如何に死んでゆくか どんな思いで死を迎えるのか この問題を考えるのが死計)

「3月のプロムナード」
「貴方が廊下を歩いてくる やや足早に 瞳が笑っている 恋と青春に見放された女は 
誰にでも腹を立てると言ったのはスタンダールだが 恋と青春に包まれた人は
誰にでも微笑みかける 貴方が友達とお茶を飲んで いる ちょっと首を傾け 話を聞きながら 
幸福になる偉大な技術とは 上手に生活するに他ならないと言ったのは
ルシスだが いつの間にか幸福を掴む人は 生まれながらの優しさを持っている 
貴方が話しかける部屋の中で そよ風がカーテンを揺らすようにゆったりと
自分の感情は大声で怒鳴るよりも 静かに囁く方がよく表現できるものです
 といったのはアンネ・フランクだが 

控えめで静かな人は自分の気持ちをさりげなく表わす事
を知っている 貴方がメモを書いている机に向かって 真面目に注意深く心を込めて 
枯れしぼんだ木の葉でさえも 愛がその上にかがみ込めば 豪奢なものに思われる
 と云ったのはシュレーダーだが
 
喜びと愛に満ちた人はどんな日常の事物にも 華麗な輝きを与える
 貴方はまぶしい3月のプロムナードを愛する人と歩くだろう
その道にはクロッカス ゼラニューム、サイネリア ヒヤシンス ルピナスが咲き乱れ 多分ワーグナーの
ローエングリーンが聞こえているだろう かつて鳴り出でしもの 時を経て又鳴りいずれば
幸福も不幸も歌となる
と言ったのはゲーテだが 

これからの2人の過ごす日々は喜び、苦しみ、
悲しみ、楽しみ 全てがかけがえのない味わい深い交響楽となって
いつか二人の心に響き渡るだろう 
そしてその頃21世紀がベンガルの虎のように誇りと活力に満ちてやって来るだろう」
 
観察力→日常の観察、本で読んで気に入った言葉とか気になった言葉とかを書き留める習慣
があったように思う 

ユングが云っている幸福の5つの条件
①心身が健康であること  
②朝起きて今日やることがある事  
③美しいものを見て美しいと思える事  
④楽しい対人関係が保てる事  
⑤ほどほどにお金がある事

「分け前  佳子(娘)にあげられるもの」  詩
「私の分身である佳子に分け前を上げましょう  生きている喜びを沢山 生きている悲しみは
出来るだけ少なく 私が生きられなかった生をもっと 私が見つけた素敵な世界を 
もっと そのために私が佳子に上げるものはお金ではありません 知恵でもありません 
ユーモアでもありません 経験でもありません 夢見る力でもありません
ただ、私と雅恵が生きている事 それだけです それが私達のささやかな でも最大の佳子に上げられる 
分け前なのです 私とママは佳子の分身です」 
詩を書くと言うのは習慣  降りてくる感じ  心のゆとりが必要なのでは  神経が研ぎ澄まされて
いる時にふっと出てくる時が多い

「同じ人生」  詩
「私のしてきたことはいくつかのささやかな成功と 数多くの失敗の連続だった 
それでも神様に云う事が出来る もう一度生が与えられるならば まったく同じ人生を
やらせて下さい 同じ妻と子供を与えて下さい  人生とはそれほど価値がある 
どんな人生にもそれなりの楽しみを作ることが出来る 
私は自分の人生にある深い味わいを味わい
味わっていない 深い香りをまだ嗅いでいない 他人の人生にそれを見つけ 欲しいと思うより 
自分のなかの広大な宇宙に それを探したい 
人は誰でも一人一人が深いゲームなんだ
人類のアナロジーであり 宇宙のアナロジーだ
 私はまだまだそれを楽しみたい もう一度人生を歩き直すことが出来るなら 
同じ人生にもっと深い味わい良い香りを得られるに違いない」
素晴らしい人達、芸術等々出合ってきたが薄っぺらい付き合いで終わってしまったのではないか 
違う人生を歩むと言う選択肢もあったでしょうが、 
私がやってきた事をまったく同じにやったとしても もしこういう認識を持って 
もう一回繰り返したら そのひととももっと深い会話が出来たんじゃないか 
もっと良い付き合いが
出来たんじゃないか    世界の都市へいっても深く観察できたのではないか 
上っ面をあわただしく見て過ごしてしまったのではないか そういうような悔いが残っている

2011年11月6日日曜日

岡田芳郎(元広告ジャーナリスト)   ・定年人生を心豊かに

岡田芳郎(元広告ジャーナリスト77歳)        定年人生を心豊かに
1934年東京都生まれ、電通入社、CI室長、電通総研監査役を経て1998年に退職
横井也有(やゆう) 楽隠居の進め  古い文体に触れた   おけら伝(自分に対する戒めの言葉) 
おけらはいろんなことが出来るのだけれどもみんな満足にはできない
跳ぶんだけどうまく跳べない 泳ぐんだけどうまくは泳げない
走るんだけどうまくは走れない 等々

ここに一人の老人がいます この老人は詩を作るんだけど詩になっていない 
歌を歌うんだけど歌らしくない 書き物はするんだけど出来が良くない 
横井也有は42歳のときにこの本を書いているが翌年尾張藩の寺社奉行になる
油ののりきっている時にかいたもの(自分を厳しく見つめる)
「うずらごろも」俳句の文集を集めた物 26歳~亡くなるまで書いたもの 草庵に残されていた
大田南畝がこれを読んで面白いと思い 蔦屋重三郎 版元から出版された けら翁伝
以下の4つの事が老人が生きてゆくには大事なことなんだと言っている

①心が和らいでいる(ストレスがない)  
②何事も自然の成り行きに任せて焦らない 
③環境に安んじてゆったりと暮らす(自分の現状を受け入れる)  
④一つの事に凝り固まらない (余り思いこまないで柔軟に行動する)  
気持ちよく(清く)忙しいのはいい事だ(目的を見つけてトライしてゆく)
当時の寿命は50~60歳 年老いて恥多し 

第一線から退いた人は以下の4つを考えるべきではないか
①人生は有限だ(だからやりたい事を今やるんだ  今を気持ちよく暮らす 周りを大事にする) 
②自分で幕をひく
 自分で幕を引くにはある程度自分に力が残ってるときに引かないと引けない 余力で次の道に進む  
③自分の役割を常に開発する必要がある
 傍観者にならないで自分が自分の人生ドラマの主役なのだから自分が登場人物として活躍する
 そういうドラマなのだ どんなことでもいいから自分で動く
④自閉しない 外の物をなんか取り入れる仕組み(仕掛け)を持つ   
 第一線から退いた人はこの4つを考えるべきではないか

 岡田さんは定年になってから  本を出版 それをするためには沢山の取材をした
取材することによって自分の好奇心を満たす 人と会う 旅行しなければできない
横井也有は名門の家に生まれたからこそだと思いますが、尾張藩と云う家がらとか横井家の
家長としてのいつも立場をわきまえて生きていかなければいけないと言う
束縛というかそういうものから早く逃れて、一切の束縛の無い言わば虫けらのように成って行きたい、
 自然のなかに生きたい 
横井の考え方は人の世は小さな世の中である 
自然 虫とか草花とか獣とか自然の現象(雨とか風とか) 大きな世界である 
大きな世界の中の一つとなりながら
自ら「無」 ゼロになってゆく そのようなものが彼の求めた境地なのではないか 

粋な人 器は形がある 形の中に(自分の形に)従えようとする 
袋と云うのは風呂敷もそうだが形がない 中身に従って形が出来る 「虚実の自由自在」 
松尾芭蕉が「虚に居て実を行うべし」  嘘の世界の中に真実がある 
それが俳句だよと云っている  俳句を作る時にその中には虚がある でもそれが真実だ 
俳句と云うのは本当の事を本当にある事をそのまま俳句にすれば良い俳句になると云う訳ではない 
その中に真実といったら抽象的ですけれども 嘘があることによって
本当以上に本当になる  それが本当の俳句だと言っている
  
良い俳句と云うのは本当にその事があったかどうかは実は関係ない 
感動する俳句があるが感動する俳句と云うのはそこに実があったからですよ 
(真実 人に訴えるものがあったから)
人に訴えるえうものがありと云う事は虚というものがそこにあることによって真実を見つけ出すと
言う事です そこが表現と云う技術ですね
「夏草や つわものどもが 夢のあと」 むせかえるような夏草の中で幻覚のようにつわものの
叫びとか甲冑の姿があるが芭蕉のイマジネーションの世界 なにもない草原に
行った時に人の空しさ、を感じる そこにドラマが生れてくるわけです

「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」  違う次元の世界を見る
横井は52~82歳まで庵で過ごす 粗衣粗食 風雅に生きる   
町人とはちょっと違う 高級官僚は教養をもっていた  中国、古典、等々
定年後に勉強している
「老いは忘れる方がいいんだけれども、でも忘れてはいけない」 →老いてゆくと言う事は考えない
方がいい 忘れて生きてしまってるのがいいんだ
だからいつまでも生き生きと若々しく生きていければそれはいいことなんだ 
ただ一方自分は実際には年を取って行く訳だから,老いてゆくんだと云う事は忘れてはいけない
「さくらさくら ひとひとさくら いないひと」 

2011年11月5日土曜日

水口憲哉(東京海洋大名誉教授)   ・海と魚と人と

水口憲哉(東京海洋大名誉教授)              海と魚と人と  
中国の大連で生まれる 引き上げの船の思い出 船倉での記憶 新宿にて生活を開始  
現在千葉県九十九里浜の南、いすみ市に住む
宮城県石巻市綿野葉 漁村での最初の体験 種牡蠣 (大学時代) 
東北との付き合いは長い 東京海洋大学 原発との関係を研究していた
陸前高田 火力発電所、ダムの問題で良く通った  
問題点を指摘して建設を断念に追い込む

原発をつくらせないということで30年間やってきたが、悔しさと、空しさを味わっている  
(未記載)を上回る放射能の汚染有
福島第一原発 1978年にほっき貝からコバルト60マンガン54が検出されてその時にも係わった排水溝の堆積物から放射能が検出された
 ほっき貝を採取 1年間控えて話し合いをしながら最終的に発表した  
青森県の六ヶ所村に集結 
漁場破壊、環境汚染の問題で漁業者といろんな問題に取り組む場合には伴走者と云うような立場をとっていると思っている

消費者と生産者との間に立って何時でも安全なものが食べられるようにという立場に立っている 大量の放射性物質が流出したが、世界的に見ても最大の量だと思う 
今回のように放射性廃液が直接海に流れ出したと言うのはない  
イギリスとフランスの再処理工場からは国が認めて放射性廃液を捨てているが最初の頃1年間の量よりも今回の量の方が初めの7日間で棄てた量の方が多い
それだけ規模が多い 水産物の影響は多い 回遊性魚類の影響 
汚染域にどれだけいたか 10ベクレル以下のものを子供には食べさせたいと私は思っている
日本ではこれまで放射性廃液を捨てていたが 5桁、6桁の高い濃度の廃液が流された 
千葉県銚子沖で7月8月と放射能を測定している
20ベクレル/kg 前後の値がずっと続いている (真鰯で) メカニズムが想像つかない 
理解できない 
薄まるから 放射性物質は無くなる事はない ヨウ素131 
2002年 1万枚 ハガキを六ヶ所村から流す(放射性物質の流れ具合の調査) 
一番多いのが六ヶ所村 岩手、宮城 数通返却  茨城県のところで40通の返却有
利根川と黒潮のバリアみたいなものがあって房総には流れて来ないのではないかと思われる
放射性物質は基本的には大きく広がって海面から段々深くなってゆくにつれて薄まってゆくが、さらに深く行くと底の方に溜まる (放射能の物質にもよるが)
吹きだまりのようなところに集まる 
アメリカが海に原子炉を捨てる事を考えた 最終的には海に捨てる考え方がある  
海からの恵みを考えない人達がいる
高レベルの核廃棄物 考え方を変える必要がある  
資源維持の考え方 いつまでも魚、海老を食べられるようにするには 行政にとっての資源維持の考え方、漁場破壊を許さず、乱獲を許さない 
汚染の問題は陸上でいろんな問題が出てくるので 発生源  放射能については原発であり再処理工場である
 
有機錫化合物 TBT 船底にふじ壺、海藻、牡蠣が付かないようにする船底料がある 
燃費が20%改善する 2008年に塗ってはいけないと言う事になる
発生源を断つと言う例 原発を止めて発生源を断つ  
原発は平和利用でいいものと思われてきたが呪縛のなかにとらわれてしまっている
核兵器は段々使わない方向になってきているが原発のほうはそうはなっていない 
核文明(核兵器、原発)から脱する必要がある  
子孫が安心して暮らせない
福島第一原発の事故により世界の人達が再認識させられたと思う 
地震だけは我々にはどう仕様も無い ドイツははっきりと舵を切った
電気の使い方を考える必要がある

2011年11月3日木曜日

小山修三(吹田市立博物館館長)    ・挑戦する博物館 2

小山修三(吹田市立博物館館長)         挑戦する博物館 2  
国立民族学博物館の建設に準備をしていた梅沢忠雄さんにまねかれて、民俗学博物館に入って行って仕事をするようになった 
民俗学博物館→狭い分野に入ってやるのではなく広く  解説を付けない 
物から直接考えろ 判らなければ勉強する  
1978年開館
展示と考えている事を一致させる  
一般的にはお宝物集めになってしまう  
文化は相対的なもの 日本の中に独自性がありお互いに影響を受けながらこういう格好に有る 面白くないといけないと思う 同じ人間だから楽しんで来い(オーストラリアに行ったの梅沢氏の言)  
石毛直道さんと小山さんのトークイベントショー 
大阪の吉本興業 関西で売り物は吉本と宝塚と民俗学博物館やと云う 
第一回「 ウドンとそばでどっちがうまい」 「おしゃれな縄文人」「世界の音楽アンデス」・・・砕いた民俗学の展開 (吉本と民族学博物館との対話)
三内丸山遺跡の発掘にも係わる  
ヒスイがあったり、漆の櫛があったりで縄文人は裸足で髭を生やしていると言うのにどうも疑問を感じていた
いろいろ集めて言ったら意外とおしゃれ ネックレス、耳環、腕輪、 
そんなに汚いわけないだろうと絵本を書く 
「縄文時代の子供たち」(都合のいい物だけを集めたのではとの批判があった)  
三内丸山に全部出てきた 実証された  
三内丸山の発掘が終わったら野球場にする予定だった 
(青森球場 観覧席がコンクリートで出来ていた)  
市民の力で止めさせる