tag:blogger.com,1999:blog-66034865488929841062024-03-19T07:53:54.798+09:00明日への言葉秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comBlogger4363125tag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-46787882452957172152024-03-19T07:53:00.000+09:002024-03-19T07:53:22.200+09:00秋田道夫(プロダクトデザイナー) ・機嫌のデザイン<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E9%81%93%E5%A4%AB"> 秋田道夫</a>(プロダクトデザイナー) ・機嫌のデザイン</p><p>秋田さんは1953年生まれ(70歳)。 現役のプロダクトデザイナーです。 大手メーカーで製品デザインを担当したのち、フリーランスに転身、代表作にLED式薄型信号機、六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズのセキュリティーゲート<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">、交通系ICカードのチャージ機などがあります。 </span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">2020年には現在世界一受賞が難しいと言われる国際的なGerman Design AwardのGold(最優秀賞)を獲得するなど、受賞多数。</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"> 最近はSNSでの情報発信や本の出版など活躍の場を広げています。 </span></p><p>この土鍋は陶器でもなく磁器でもない、その間ぐらいの材質で薄くて6mmで出来ています。 直径24cmぐらい、蓋のついた鍋です。 取っ手がなくて、鍋の一部を内部に弧を描く様に持つところが2か所ついている。 いかに使う人がスムースに浸かるかと言う事を考えています。 <span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">交</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">通系ICカードのチャージ機も斜めになっています。 平らだと上に何か乗せて忘れたりするので、上には乗せられないように斜めにしました。 アイディアは自分の失敗体験から来ます。 観察はデザインに勝ると言っています。 使い勝手のいいものが自分の仕事だとすると、よく観察されたものを作るものが使い勝手がいい。 </span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">中学生の時にバインダーを買って、駄目になってしまってこういう方法にすればいいのではないかと思って、絵を描いて送ったんです。 それが工業デザイナーのスタートかなと思います。 色々なものを知るという好奇心がないと衰退してゆく。 何故機嫌が悪いのかという事も面白かったりして、それを解決すれが多くの人が機嫌が良くなるのではないかと思っています。 「機嫌のデザイン」、曇りの日が一番おおくて、晴れたり雨になったりして、感情が上がったり下がったりするよりも、曇りでいいと思うなら機嫌がいい、と言っています。 期待をし過ぎるなとも言っています。 </span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">客観性があってそれが今でも続いていますね。 47,8歳のころには自分で売り込みに行った時代もありました。 具体的な仕事もなくて実力の発揮のしようがなくて、そこで思ったのが、月になぞらえて、月は球体で同じ面を見せていて陽も当たらない。 信号機、セキュリティーゲートもあまり気にはしない。 それとは逆に土鍋などは注目を浴びる。 一番注目を浴びたのは</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">一本用ワインセラーです。 月の裏側の仕事も大事だと思って、信号機などもやっています。 両方やってみようと言うつもりでやっています。</span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;">使っている人が「これっていいだろう。」と言うようなものを作りたい。 言い過ぎない、言い足りないぐらいがちょうどいい。 「それ風」と「それ」とは違うと思う。 「匙を投げない」、細かいところに機微がある。 機微を感じるというのがこれからのデザインなのかなあと言う気がします。 ATMも会社によって手順が違ったりする。 手順、所作も大切なデザインだと思います。 一つの手順を減らすだけで、利用者が1000万人だったら1000万手順が減らせるわけです。 力の原動力は好奇心、観られてる意識です。 </span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;"><br /></span></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-40455089367501723122024-03-18T06:19:00.000+09:002024-03-18T06:19:08.743+09:00林家正楽(紙切り) ・〔にっぽんの音〕(初回:2023/6/19)<p> 林家正楽(紙切り) ・〔にっぽんの音〕(初回:2023/6/19)</p><p><a href="https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/06/blog-post_19.html">https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/06/blog-post_19.html</a>をご覧ください。</p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-79282840431975063472024-03-17T08:36:00.001+09:002024-03-17T15:18:37.385+09:00黒川勇人(缶詰博士) ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて<p> 黒川勇人(缶詰博士) ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて</p><p>黒川さんはこれまで世界53か国、数万個の缶詰を食べて来た缶詰通です。 世界の缶詰にはそれぞれの国の食文化が現れていて、実に多様です。日本の缶詰もグルメ志向にこたえる品そろえが増えてきていて、日常の食卓だけでなくアウトドア―の場面で人気を呼んでいる様です。 一方非常食の役割を持つ缶詰です。 防災食の観点から缶詰をさらにおいしく活用する考え方や方法についても黒川さんにお話を伺いました。</p><p>ブログで缶詰のことを発信してもう20年ぐらいになります。 海外に赴任した友だちに送ってもらったりとか、旅行に行ってその国の缶詰を送ってもらったりとか、それらを足すと今までに53か国の缶詰を食べていたことになります。 約2万缶になります。 ポルトガルでぜひ買って来てほしいのは干しだらのパテの缶詰です。 干したたらを一度塩抜きしながら水に浸して戻して、柔らかくなったらオリーブオイルとかニンニクを混ぜるパテがありますが、ポルトガルに行くとこれがちゃんと缶詰になっているんです。 とてもおいしいです。 首都のリスボンに行くと缶詰をメインにおつまみとして出す缶詰バーが沢山有ります。 缶詰が主役のレストランもあります。 世界で唯一と言う缶詰専門料理レストランには世界中から旅行客が来ます。 缶詰協会がありその直営店では20社ぐらいのメーカーで300種類ぐらいの缶詰が並んでいて、それを買いに行く観光客もいっぱいいます。 日本でも真似してほしいと思っています。 </p><p>フランスは缶詰のもとになった食べ物は瓶詰ですが、瓶詰を発明したのがフランスです。(1804年) ナポレオンがいろんな国と戦争をしていて、兵隊の食料として便利なものはないかと国民にアイディアを出してもらった。 保存食の研究をしていた方が、煮沸消毒した瓶の中に熱々の料理を詰めて、それを鍋に入れて加熱した後でコルクで蓋をして密封したんです。 何故か半年、1年経っても腐らない、という事に気付いて、政府にお見せしたところそれが採用されました。 瓶詰が出来た最初でした。 6年後にその技術がイギリスに渡って、ブリキで缶を作ったんです。 缶詰が誕生したのはイギリスと言うことになります。(1810年) フランスには鯖缶があって、ソースに漬けてあり、ソースが非常に凝っていて、蜂蜜味のカレーソース味とか、バジル風味のホワイトソース味とかいろいろあります。 </p><p>イギリスではベークドビーンズというのがあり、甘めのケチャップに浸った柔らかい豆料理なんです。 焼き豆と言うより煮豆です。 朝、食パンをカリカリに焼いて、バターをたっぷり塗ってその上にベークドビーンズをかけて、ナイフとフォークで食べるらしいです。 ぼーっとした味ですが、365日欠かさず食べる人が居るそうです。 ほうれん草の缶詰は味付けされていなくて、くたくたになっています。 くたくたになっているほうれん草をミキサーで粉々に砕いて、カレーで味付けをするために使うものだとわかりました。</p><p>アメリカで一番衝撃を受けたのは、スパゲッティーの缶詰です。 茹でたスパゲッティーが味付けされた状態で入っています。 おおきめの缶に入っています。 麺は伸びちゃっていて、ふにゃふにゃになっています。 旨いとは思わないが売れています。 コンビーフが誕生したのはシカゴです。 </p><p>日本ではツナ缶が売り上げのトップになっています。 モルディブ共和国ではマグロとカツオが良く獲れます。 1980年代水産加工ができる工場を建てて、日本のメーカーが支援して、缶詰を売れば外貨が稼げるという事でツナの缶詰をヨーロッパに売りました。 2011年の東日本大震災の時に、モルディブの政府が恩返しをしようという事で、8万6000缶日本の被災地に送ると発表して、一般市民もツナ缶を持ち寄ったそうです。 合計で60万缶被災地に送られたというエピソードがあります。 被災地では缶切りが無いだろうという事で、缶切りがなくても大丈夫なように缶を開け直して、熱湯消毒をして、作り直した缶を送ったそうです。 感謝の気持ちを伝えたいと思って2013年にモルディブに行きました。</p><p>最初缶詰を認識したのは4歳の時でした。 父親のキャンプに同行して翌朝、鍋に缶詰を入れて温めていました。 缶詰とは知らなっかった。 ごもくご飯の缶詰で感動しました。以後缶詰に興味を持ち始めました。 2000年ごろに仕事がうまくいかない時期があり、鯖缶での節約生活をしました。(数年) 自分で缶詰が好きなことに気付きました。 缶詰を真剣に見なおそうと思いました。 2004年に缶詰のブログをだしました。 研究しているうちに缶詰が仕事になってしまいました。 </p><p>アヒージョの缶詰、アヒージョはスペインの料理で、ニンニクを利かせたオリーブオイルでぐつぐつと肉とか魚を煮た料理です。 キャンプなどで鉄なべに中身を入れて一緒に野菜などを煮込むと美味しいです。 脂が残るが具の旨味が溶け出ているので、パンに脂を吸わせて食べます。 </p><p>缶詰は非常食に向いていると思います。 東日本大震災の時に、宮城県の沿岸の缶詰工場はストックしてあった缶詰がヘドロまみれになりました。 石巻では丸2日ぐらい食べるものがなくて、缶詰工場の人たちがヘドロまみれの缶詰を取り出して、缶詰でしのいだという事でした。 防災食審査委員を務めて5回目になります。 防災安全協会が年に一度あり、僕は缶詰を審査しています。 毎年新しい商品が出てきています。 非常食も普段食べているものに近いものへと変わってきていて、ローリングストックが推奨されてきています。 或る時にまとめ買いをしておいて、普段使って、減った分を購入する。 ご飯、パンの缶詰もあります。 肉、魚のほかに煮物などの副菜があります。 食後のデザート、スイーツ缶があり,美味しいです。 (精神的ショックを受けているときには甘いものが大事です。)</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p> </p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-50890058220489614342024-03-16T08:35:00.001+09:002024-03-16T15:52:33.882+09:00藤本秀弘(次の世代に引き継ぐ会」理事) ・「生物多様性の森」のまもりびと<p> 藤本秀弘(<span face=""BIZ UDPGothic", "Hiragino Sans", Meiryo, sans-serif" style="background-color: #fafafa; color: #232324; white-space-collapse: preserve;">「山門水源の森を</span>次の世代に引き継ぐ会」理事) ・「生物多様性の森」のまもりびと</p><p>昭和18年滋賀県多賀町生まれ、81歳。 長浜市<span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">西浅井町山門の森とのかかわりが始まったのは今から37年前でした。 当時は高校の理科教師でしたが、専門は地質学、生き物は専門外どころかむしろ嫌いな方だったそうです。 そんな藤本さんがどのようにしてこの森の保全に関わるよになり、現在も理事を務める団体、</span><span face=""BIZ UDPGothic", "Hiragino Sans", Meiryo, sans-serif" style="background-color: #fafafa; color: #232324; white-space-collapse: preserve;">「山門水源の森を</span>次の世代に引き継ぐ会」を設立し、今に至っているのか、そして森の将来についてどんなことを考えているのか伺いました。</p><p>当初数年続けばいいという考えはありました。 植物関係の研究会に入っていて、こちらは地質学なのでどこか総合的な研究が出来る場所がないかと探しました。 琵琶湖の西側の今津と言うところの近くにフィールドがあると言ったら、別の人が山門を紹介しました。 その場所を選定しました。 1987年3月21日に最初行きました。 その後10人ぐらいで月に一回5年に渡って活動しました。 <span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">「奥びわ湖・山門水源の森」は広さ63ヘクタールぐらい(甲子園球場が16個入る。)、そこに3つの湿原がある。 森や水源が生物多様性を持っている。 滋賀県の一番北で、少し行くと敦賀湾が見えるんです。 冬場は豪雪地帯です。 前には琵琶湖があるので夏場は逆の風が入っています。 面白い植物があります。 ブナとアカガシがちょうど境目になっている。 豪雪地帯のユキツバキと平地のヤブツバキがあります。 その雑種が出来てユキバタツバキと言います。 </span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">森全体は薪炭木(炭焼き用の木)です。 平安時代の後期にはすでに炭焼きをやっていたという記録があります。 900年にもなり、20年に一回切ってゆくとなるとかなりの回数になります。 人の手が関わり合って今日まで来ています。 琵琶湖周辺には湿地が多数あったが、高度経済成長の中、湿地がつぶされて山門湿原が最後に残っている湿原となります。 湿原そのものが酸性なので、栄養がないところに生える植物が結構多く観られます。 絶滅滅危惧種などもあります。 日本にはトンボは約200種いると言われ</span><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">ていますが、そのうちの100種類ぐらいは滋賀県にはいます。 そのうちの半分はこの狭い湿原にいます。 </span><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%84%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%AF">ミツガシワ</a>と言う植物が可成り広いの面積を占めています。 元北大の湊?先生の本の中に</span><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">ミツガシワがあり、それは生きている化石だという文章を覚えていました。 それが一つのきっかけになったかもしれません。 白い星のような花びらがあり、そこに繊細な毛が生えています。</span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">一時期そこに開発の手が加わろうとしました。 1960年代ゴルフ場ブームがあり、ゴルフ場に植える芝を湿原で栽培しようという話が持ち上がり、一部工事をはじめました。 保安林でもあったのでその事業は中断しました。 その後ゴルフ場として開発しようという事が表面化しました。(1990年 新聞報道で知る。) 重要性を県、地域に説明ししました。 アマチュアのメンバーだったので行政への圧力はなかった。 1992年に調査した報告書を作って、一旦終わりという事にしました。 自然の貴重性とかなんか惹かれるものがありました。 バブル経済の崩壊と言うことでゴルフ場開発もとん挫しました。 </span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">1996年に滋賀県が買収をして県有地化されました。 しかし盗掘などに困っていました。 専従の件の職員を置いて欲しいという要望を出しましたが、人件費の問題もありかなえられませんでした。 我々の方で保全に関われるようなグループを作ることになりました。 それが</span><span face=""BIZ UDPGothic", "Hiragino Sans", Meiryo, sans-serif" style="background-color: #fafafa; color: #232324; white-space-collapse: preserve;">「山門水源の森を</span>次の世代に引き継ぐ会」になって行きました(2001年)</p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">最初はコース管理と湿原に入って来る土砂の管理で精一杯でした。 1960年代に一部芝の育成用に開発した部分がありましたが、すでに40年近く経っていました。 もともとは湿原だったが、樹林に変っていました。 湿原に戻そうと、県と相談して、最初は狭い範囲で取り組みました。 10m×10mの樹木を取って3年経過を見ました。 湿原の植物、トンボなども戻ってきました。 その後全面積に対して進めて行きました。 2007年から復元作業に入りました。 終了したのは2010年でした。 呼び掛けて手伝ってもらって574名最大でかかっています。 作業した日は152日になります。 切り倒した木は人手で湿原の外に運び出しました。 湿原を維持するためには人手を加えて行かないと維持できない。 </span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">1990年代ミツガシワが結構ありましたが、2000年代に入って鹿の食害が進みだして、2010年には全く咲かない状態になってしまいました。 2011年から防獣ネットを張って、再生を試みました。 8,9頭ネットにひっかかりましたが、ネットを破って中に入って食べるという事もあり、毎日見回りをしました。 数年やっていて、現在は中に入って食べられるという事はありません。 ほぼ従来と同程度までは再生してきました。 冬場は2m近く雪が降るのでネットを外す作業があり取り付けの作業もあります。 山頂にある笹も鹿に食べられてしまって、その対策でネットを同様に張って、笹も回復しています。</span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;">生物多様性の保全は難しいです。 昔は保全と言う意識はなかった。 人と自然との営みの中で多様性が維持されてきている。 人が引きあげてしまうと保全しようとすれば、当然なにがしかのテコ入れをしないと実現しない。 2050年にどういう森であって欲しいか、という議論をやっています。 引き継げる森にしたいと思っています。 若い人たちに入って議論してほしいと思っています。 会員は130名程度で推移しています。</span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p><p><span style="color: #0a0a03; font-size: 16px;"><br /></span></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-46863403559805163292024-03-15T06:09:00.002+09:002024-03-15T06:09:24.711+09:00小澤俊夫(口承文芸学者) ・〔人生のみちしるべ〕 心を励ます声~昔話と我が人生 後編( 初回:2023/2/10))<p> 小澤俊夫(口承文芸学者) ・〔人生のみちしるべ〕 心を励ます声~昔話と我が人生 後編 (初回:2023/2/10))</p><p><a href="https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/blog-post_10.html">https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/blog-post_10.html</a>をご覧ください。</p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-80734115641804716922024-03-14T07:48:00.000+09:002024-03-14T07:48:14.454+09:00原岡見伍(俳優) ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ<p>原岡見伍(俳優) ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ </p><p>原岡見伍さんは1951年兵庫県西宮市の生まれ。 NHKのアナウンサだった父親の転勤で過ごした大阪で、1957年から60年までの3年半NHK大阪放送児童劇団に所属し、テレビやラジオの子役として活躍しました。 その後東京の高校、大学時代は野球に熱中し、大学卒後は就職した証券会社や民放テレビ局などでも演劇とは無縁の生活をしました。 2002年から2011年チーズ輸入自社加工メーカーの常務や子会社の社長を務めましたが、東日本大震災により全事業を手放し退任、破産に追い込まれました。 体調を崩し、長期療養を1年半が終了した時点で、俳優の仕事が心から好きだったと改めて判り、芸能会社のオーディションを受けて合格、養成学校で学びました。 2015年4月から子役時代より半世紀余りの空白を経て、後年俳優の道を歩んでいます。</p><p>今年公開される映画に端役で出ているのと、ユーチューブに一本出ています。 NHKBSに初めて出させていただきました。 「プラトニック」と言う題名のフレンチレストランのマネージャーとして出ました。 「チコちゃんに叱られる」にも出ました。 昨年健康サプリのCMにも出ました。 </p><p>父が原岡一郎で元NHKのアナウンサーでした。 1934年に入局しました。 父が大阪に転勤になった時にNHK大阪放送児童劇団に入りました。 1957年に子役デビューしました。 「子犬と線路と少年」の主役の少年として出ました。 「赤いほっぺのほっぺちゃん」というラジオ番組にも出ました。 稽古でリアルさを習ったりしました。 父が広島に転勤になり3年半ぐらいで辞めることになりました。 広島では放送劇団はなかったので何もしませんでした。 その後東京に来て少年野球チームに入りました。 都立戸山高校、一橋大学に行きました。 高校ではピッチャーを主にやりましたが、上級生と意見が合わず2年で辞めてしまいました。 大学でも野球部に入りました。 東都大学の3部でしたが、レベルは高かったです。 3年生でレギュラーになりました。 </p><p>高校2年の時に哲学、思想に興味がでてきました。 大学ではフランス語が第二外交語で、シャンソンが好きになり、演歌とは違った乾いた悲しさがあると感じました。 大学卒業後は野村証券に入りました。 11年務めてその後フジテレビでも12年務めました。 その後ソニーのコンピューターエンターテイメント、そのほかの関連会社に行きました。 父が病に倒れてしゃべれなくなってしまって、父の世界を継ごうかなと言うような思いが出てきて、新聞にフジテレビの採用の広告が出ていました。 それを見て行ったら受かってしまいました。 </p><p>ソニーミュージックとコンピューターエンターテイメントのトップを兼ねていた人から声がかかって移ることにしました。 その方が辞める時には私も辞めるというような契約でしたが、思ったより早く辞められて、私も独立してプロデューサーの会社を立ち上げました。イタリアの食品関係の会社から役員としてフルタイムで来てほしいという事で、会社をたたんで行きました。 順調に行っていましたが、2011年の東日本大震災で原料を保管してもらっている倉庫が全部だめになってしまいました。 資金繰りと工場再開に向けて半年間奔走していましたが、或る時にドクターストップがかかってしまいました。 1年半療養をして、その時に全部を捨てました。 辞めて2か月後に会社を倒産という事になりました。 </p><p>体調も良くなって、今後どうするか考えた時に、演劇とか思想とか表現の方の世界が好きなんだろうと改めて思いました。(62歳) 役者がやれるかなあと思いました。 今入っている所属事務所のPRがガラ系で見かけました。 縁だろうと思って申し込んで、授業料を払って2年間研修をしました。 2015年にプロダクションとしての契約をして、芸名も「原岡見伍」にしました。 最初はエキストラから始まりました。 かつてやっていた仕事が役でもいろいろ生きています。 73歳になりましたが、自分では年を取ったとは思わないんです。 50代中、後半ぐらいからの役を含めてやれたらいいなあと思いますし、夢ですが端役でもいいからカンヌのレッドカーペットに行きたいです。 昔のフランス人の恋人に見て欲しいと思います。 シャンソンでも何かできたらいいなあと思います。</p><p>人生49:51で51を選ぶときには、以前は僕は大変そうな方を選んできましたが、大変でも苦労しても大丈夫なほど好きなもののほうを選んでいった方がいいと思っています。 そうするともっと努力も出来るし、我慢、耐えることも出来るだろうと思います。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-19690672442823602872024-03-13T08:58:00.001+09:002024-03-13T14:11:54.902+09:00坪川拓史(映画監督 俳優) ・室蘭から世界へ<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E5%B7%9D%E6%8B%93%E5%8F%B2">坪川拓史</a>(映画監督 俳優) ・室蘭から世界へ </p><p>坪川さんは1972年北海道長万部町<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">出身、高校卒業後上京して1991年に</span>劇団<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>オンシアター自由劇場<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">に研究生として入団、同時期に独自で映画製作も始めます。 1996年故郷長万部町にあった映画館の解体をきっかけにして、初長編映画作品</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」の製作を開始して10年がかりで完成させ、</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「第23回トリノ国際映画祭 (グランプリ)、</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">(最優秀観客賞)」を受賞しました。 その後2007年に</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>アリア<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」、2013年に</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>ハーメルン<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」、20221年に</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>モルエラニの霧の中<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」を公開し、ほぼすべての監督作で脚本、編集、音楽の作曲とピアノ演奏を担当、2011年に故郷室蘭市に戻って室蘭市から映画製作を続けています。 自主映画のために上映する映画館の交渉まで全て自ら行っているという事です。 来月は短編映画2作品と長編映画4作品の全作品が東京と京都で公開されるという事です。</span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」は2005年に製作して19年目にしてようやく公開されることになりました。高木均さんが完成の前に2004年に亡くなられて、追悼試写会流行っていましたが。 イタリアの</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">トリノ国際映画祭で</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">グランプリと</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">最優秀観客賞を頂きました。 2作目が</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>アリア<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」で完成が2007年でしたが、17年目でちゃんとした劇場公開となりました。 試写会とかもあんまりやっていないです。</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"> 脚本もいつも自分で書くので、この人にやって欲しいと書いてしまって、俳優さんに貴方を想定して書きましたという事で、交渉して9割7分ぐらいの確率になっています。 キャスティングもロケ場所も全部自分でやっています。3作目が</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>ハーメルン<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」、最近の作は</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>モルエラニの霧の中<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」です。 2020年に完成しましたが、コロナで延期になって2021年に岩波ホールで公開されました。</span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">子供のころは映画館のない街でした。 函館、室蘭が近い都会で、18歳までに見た映画は3本だけでした。 「キタキツネ物語」「南極物語」「ネバ―エンディング・ストーリー」だけでした。東京に行った途端に一杯観ました。 小学校5年生の時に男子を集めて、お話を書いて、演出みたいなことをして、美術、衣装を作って発表したりしました。</span></p><p><span face="sans-serif" style="color: #202122;"><span style="background-color: white;">東京に来て専門学校に入って寮生活を始めました。 同宿の人が朝までゲームをやっていたりして僕が飛び出しました。(2か月で中退) </span></span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">大田区洗足池公園でホームレス生活を送る。 11月ごろに親にもばれたりして正式に退学届を出しに行ったら、芝居のタダ券を上げると言われて、行ってみたのが</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>オンシアター自由劇場<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」の「ティンゲルタンゲル」の芝居でした。 これをやりたいと思ってしまいました。 基礎も何にもないので、2年ぐらい悶々としました。 20歳の時に入団のオーディションがあり、受けに行きました。 そうそうたるメンバーの方たちが怖そうな顔をしていましたが、</span><span face=""Hiragino Kaku Gothic ProN", "Hiragino Sans", Meiryo, sans-serif" style="background-color: white; color: #0f1111;">小日向文世が中央にいてニコニコしていました。 小日向さんに何か楽器は出来るのか聞かれて、とっさにアコーディオンが出来ますと嘘をついてしまいました。 合格しまして慌ててアコーディオンを買いに行きました。 今はアコーディオンが食い扶持になっています。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">近所に映画学校があり、「映画に出てくれませんか。」と言われて、出ることになりました。(8mmフィルムで撮影する学校) 製作中にいろいろ注文を付けていたら、「</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">だったらお前が撮れよ。」と言われて、撮ることになりました。 そう言った彼とはカメラマンとして長い付き合いをしています。 20代は俳優としても10作品ぐらいは出させてもらいました。 30歳過ぎてからは映画を撮るだけになってしまいました。 撮っていると出たくなり、出ていると撮りたくなります。 本当は絵本作家になりたかったが、絵が下手だったので駄目でした。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">本が出来上がった時には頭に浮かんでいてロケ場所などは決まってしまっています。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">「</span>ハーメルン<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">」は</span>福島県<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">の会津の</span>昭和村がロケ現場でした。 2009年から始めていたので、東日本大震災は2011年で丁度真ん中でした。 廃校に関する検索をして気にいったものを壁に貼って書いたんですが、いざその廃校を60か所捜してもなくて、2009年の1月に知り合いが似た廃校があるという事で、理想通りではなかったら<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">「</span>ハーメルン<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">」を撮るのは辞めようと思って行ったら、まさしくそれでした。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>モルエラニの霧の中<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」では<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E4%BA%AC%E5%AD%90">香川京子</a>さんに出ていただいたことが信じられませんでした。 撮影開始が2015年でしたので、当時香川さんは80歳を過ぎていました。 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%94%BF%E5%A4%AB">小松政夫</a>さんも出演しましたが、亡くなったのが2020年の12月でした。 小松さんには5作品出てもらっています。 最初に小松さんは舞台があるので出られないという事でしたが、僕が「何年でも待ちます。」と言ったら真剣な顔になって「出る。」と言ってもらえました。</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」は撮影で8年かかりました。 以後作品に出ていただきました。</span></p><p><span face="sans-serif" style="color: #202122;"><span style="background-color: white; font-size: 15.104px;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%97%A5%E5%87%BA%E5%AD%90">吉田日出子</a>さんからは大きな影響を受けました。 </span></span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」では</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">吉田日出子さんの撮影だけで5年ぐらいかかっています。 名女優です。 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%90%BE%E4%B8%80">山田吾一</a>さんは父親の先輩で</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」に是非出てもらいたくて、お会いした時には送った本には赤線が一杯入っていてよれよれになっていました。 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E6%BC%A3">大杉漣</a>さんが皆さんに行ってくださった言葉が有って、「映画と言うのはみんなで同じ船に乗って旅をするのと一緒です。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>モルエラニの霧の中<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」も途中いろんなことがあるかもしれないが、いつかきっと 素敵な港に着くと思うので、その乗組員の一員いなれて嬉しいです。」と言ってくださいました。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">こういう絵が欲しいと思ったら待っちゃう。「</span>美式天然<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」に満開の一本桜のシーンがありますが、ちゃんと咲くのに3年待ちました。 CGは使ったことがないです。 資金がない分を時間を贅沢に使っています。 大丈夫と言っていたらいつかは大丈夫になると信じてやっています。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span>モルエラニの霧の中<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」の続編を撮りたいと思っています。</span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"> </span></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-8302985172662513942024-03-12T08:40:00.002+09:002024-03-12T13:15:40.914+09:00三浦律子(主婦) ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」<p>三浦律子(主婦) ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」</p><p>NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、三浦さんは優秀賞3点のうちの一つに選ばれました。 三浦さんの障害は内部障害で腎臓が一つしかありません。 幼いころ医師に10歳まで生きられないと宣告されました。 さらに言語障害もあり小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できなかったと言います。 三浦さんは現在43歳、余命宣告をされた10歳を大きく越え、2人の子どもの母になりました。</p><p> 長崎県佐世保市出身。 郡上は夫の故郷でして、郡上の豊かな自然、草花や蝶を追いかけて暮らしています。 27歳の時にこちらに来ました。 </p><p>「生きた時間を生きる」</p><p>「私は43歳、身長166cm、体重58kg物理的に外見でかけているものはなく、白髪のない長髪で一見とても健康な健常者です。 私の障害は内部障害、腎臓が一つしかない点です。 小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できない言語障害を抱えていました。」</p><p>ほとんど普通の人として暮らしています。 私は4歳の時に体内に腫瘍が見つかりました。その腫瘍が腎臓に癒着してしまいました。 手術をして腫瘍と一緒に腎臓も摘出しました。 摘出した腫瘍の中に髪の毛とか小さな歯のようなものが入っていて、人間を形成できるであろうというものが沢山入っていた、おそらくバニシングツイン(<span face=""Zen Maru Gothic", sans-serif" style="background-color: white; color: #212529; letter-spacing: 1.28px;">双子のうちの片方が妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見える現象)という見解でした。 母親の胎内で消えてしまうらしいが、たまたま私は内包して何かの拍子に急に成長しだしたのではないかという事でした。 10歳までは生きられないだろうと言われました。 身体がパンパンにむくんだりして大変でした。 </span></p><p>ちゃんと喋れずに小学校に入ると言葉の学校に通うようになりました。 母は罵声を浴びたりただ泣くばかりでした。 母は夜台所で泣いていたりしていました。 私自身は仲間外れにされたりからかわれたりいろいろありましたが、幼稚園、小学校と仲良くしてくれた子が一人居てくれたおかげで、人を憎まず、恐れず済んだんだと思います。 理恵?ちゃんと言いますが、今も仲良くしています。 </p><p>「定期的な検診、尿検査、傷跡の癒着や腸閉塞など痛い思いを多々しながら、私は死ぬはずだった10歳を越え、少しづつ体力がつきました。 身長も平均より伸び、小学校を卒業するころには言語障害もほぼ克服、正しく発音できる言葉が増えて行きました。 スモールゴールを越えながら、私は少しづつ少しづつ普通に話せる様になって行きました。」 </p><p>読書感想文発表大会があり、大会に出るごとに言葉をしゃべらざるを得ない状況に追い込んでゆくわけです。 そのたびに私の言葉は増えて行きました。 10歳を越えても母は安心していないし、今でも安心していない、心配しています。 </p><p>部活もできなかったし、外で遊び廻るという経験はなく、家に帰って来て寝るというような生活でした。 たまたまテレビを見ていたらスキーを滑っている場面があり凄いなあと思って居たら片足のスキーヤーでした。(長野パラリンピックだった。) 腎臓も一個ないから駄目なんだと思っていたが、一個あるんだと思いました。 好奇心を押さえたままだったがそれを辞めようと思いました。 岐路の節目節目で障害のある方に3回出会っています。その出会いのお陰で一歩、二歩前に進みました。 まずは両親の反対を押し切って京都の大学に進学しました。 親からは自分でやりなさいと言われて、奨学金とアルバイトでやりました。 大学を無事卒業しました。 二輪免許も取りました。(父にバイクに乗せてもらった経験とどこへでも行けると思いました。) </p><p>名古屋で就職をして、結婚、出産、二人の娘の母親となりました。 子供を理由に諦めるという事はしたくなくて、バイクを再開しました。 楽しくてうずうずしている姿を子供には見せたいです。 バイク仲間とあちこち行っています。 </p><p>「或る日バイクで出かけた先、道の駅で左ハンドルについいている筈のクラッチレバーが右ハンドルについている二輪車両の隣にバイクを止めました。 良く観る中年男性のバイク乗りで、バイク屋さんをしているからと名刺を貰い、帰途に就きました。 帰宅後名刺を見ると片腕ライダー肩書がありました。」</p><p>福井勝一さんです。 最初気が付きませんでしたが、吃驚しました。 片腕でバイクの整備をいろいろしている姿を見た時に、障害の有無は関係ない、個人差だなと思いました。目標に向かって何かに取り組むと言う事を忘れていました。 一般人に混ざって演説大会で日本一になりたかった。 中学生で弁論大会、その後30大会近く参加して、30年目で演説の全国大会で優勝することが出来ました。 </p><p>私はアコースティックギターで弾き語りをするのが趣味の一つです。 地元のライブにも出させてもらえるようになりました。 素敵な人が居て調べたら<a href="長谷川きよし">長谷川きよし</a>さんでした。 今年活動55年目を迎えるそうです。 全盲の方です。 ライブに行ったら吃驚、感動しました。 同じテーブル席の方々から凄く親切にして頂いて、感謝でした。 長谷川きよしさんとファンの方に力を貰って今回障害福祉賞の原稿を書こうと思いました。 ギターを弾くことにも熱が入って行きました。 ファンレターを出そうと思ったが、私自身の文字を読んでもらえる事はないと思って、点字を覚えて送ったら直に触れてもらえると思って、昨年の夏から点字を習い始めました。 全盲の方の弁論大会を見ることがあり、いろいろ便利な使い方が有ることも判りました。 </p><p>どんな境遇にあっても、父親母親が楽しく笑って家庭での時間を過ごせたら、障害のある無いにかかわらず子供はみんな穏やかで幸せになれるんじゃないかと考えています。</p><p>「私は太く長く生きるつもりです。 太く短く何て悲観的にはなりません。 私の好奇心は4歳の時と変わらず旺盛です。 お母さんは強いんだから。 我が人生の本舞台は将来にあり。 これからも楽しく生きて、生きた時間を私は過ごしていきます。 有名なアフリカのことわざに「高齢者が一人亡くなることは、図書館が一つなくなることに等しい。」と言う言葉が有ります。 私が亡くなった時に「お母さんは図書館と言うぐらいなんでも知っていたよね。」と娘たちに言ってもらえるように、沢山の知識、経験を積んで、日々有意義な時間を生きる、それを「生きた時間」と私は呼んでいます。 好奇心の鈴を鳴らし続けて行きたいと思います。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-11104555640947595392024-03-11T09:22:00.002+09:002024-03-11T09:27:20.370+09:00きじまりゅうた(料理研究家) ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%9F">きじまりゅうた</a>(料理研究家) ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って</p><p>台所の残り物でちょっとした食事を作る料理バラエティー番組「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」などでの親しみやすいキャラクターでも人気のきじまりゅうたさん、その活躍の陰には祖母の村上昭子さん母の<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">杵島直美</span>さんと言う二人の名だたる料理研究家の存在があるようです。 </p><p>祖母の村上昭子さんが亡くなったのは2004年。 生まれた時から祖母と同居していました。 初孫で子供心に祖母が溺愛していたのを実感していました。 祖母のそばでずっと台所にいました。 ステーキナイフを渡されて人参の皮とか、キュウリのヘタなどを渡されてい切っていなさいと言われて遊んでいました。 台所は撮影できるスタジオ場所でもありました。 小学校上がる前には一人で卵焼きができました。 祖母から天才だという風に褒めれてやっていました。 小学校の卒業アルバムにはコックさんと書きました。 高校生で自分の将来を考えた時に、料理メディアの業界に生きたいと思い、祖母に料理研究家になりたいと言いました。 祖母は「男がやる仕事ではない。」と言いました。 収入の安定するサラリーマンになりなさいと言われて、選択肢から外してしまいました。 </p><p>大学2年の時に友人に誘われてアパレルショップを手伝うようになりました。 そしてアパレルショップの社員になりました。 24歳までそこの会社にいました。 この先どうしようと悩んでいる時に祖母が亡くなりました。 周りからも言われたりして料理の道への気持ちが動きました。 1年間は会社に残って欲しいという要望があり、その間で夜の調理師学校に行くことにしました。 母にアシスタントになりたいと言ったら了解してもらいました。 母のことは杵島さんと呼んでいて、未だに杵島さんと呼んでいます。 アシスタント時代は時給でした。 </p><p>母の動き、カメラマンさんの動き、などを見てタイミングを見計らうとか、いろいろな段取りを学びました。 レシピの書き方は見て覚えました。 アシスタントになって5年後ぐらいに独立しました。(27,8歳) そのころ「弁当男子」が流行り始めました。(2008年) 出版社と話し合いがあり「弁当男子」と言う本を出すことになりました。 「料理研究家の仕事は料理の作り方を伝えるプロであるべき。」という事は言われてきました。 うちは家庭料理研究家なので店に憧れても駄目で、家で作るものを家で作り易く、そこを考えろとはうちの家訓のような感じです。 母が業務用のガスコンロのカタログを取り寄せた時には、祖母は激怒しました。 理由は「火加減が強くなってしまったら家庭料理ではなくなるでしょう。」という事でした。 42,3年前に家を新築するときに、料理家の動線、カメラマンのスタイリストの動線、編集者の動線などを建築士がチェックしてくれて、完璧な動線を組んで撮影しやすい家を作りました。 祖母は良く可愛がってくれました。 今となっては尊敬する偉人みたいな感じです。 母は現役でやっているので、先輩であり師匠であります。 ライバルの様な部分もあると思います。 </p><p>祖母、母への手紙</p><p>「・・・俺が料理家になったことをバアバに伝えたらどんなリアクションをするんだろうか。 ・・・なくなって20年以上経った今でもちょいちょい夢には出てくるが、料理の話題には全然ならないんだよね。・・・料理家一族の家訓めいた大事な教えを聞いて来たけど、子供のころから働くバアバと直美さんを間近に見てきて、言葉にできない感覚を受け継げたことが俺にとっては財産です。・・・これからも料理研究家として芯の部分を大切にしながら、料理を軸に自由気ままにいろんなことをしたいと思っています。 直美さんも年を重なるごとに自由になって仕事もプレイベートも元気に飛び回っています。他の一層に70代を迎えていることが息子として弟子として、人生の後輩として凄く頼もしく感じています。 俺はまだ40代に入ったばかり、これからの人生も楽しみだは、と思えるのは二人のお陰だね。 これからも引き続き、宜しく。」</p><p>引き継がれてきたハートは、結局誰かに喜んでもらいたいのかなあと思います。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-67791895202003831322024-03-11T07:25:00.000+09:002024-03-11T07:25:26.652+09:00奥田佳道(音楽評論家) ・〔クラシックの遺伝子〕<p>奥田佳道(音楽評論家) ・〔クラシックの遺伝子〕 </p><p>幻想交響曲の第二楽章「舞踏会」、2010年12月カーネギーホールでの演奏、小澤征爾指揮、斎藤記念オーケストラ演奏。 2024年2月6日に88歳で亡くなった<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE">小澤征爾</a>さんに思いを寄せてお送りしたいと思います。 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E7%A7%80%E9%9B%84">斎藤秀雄</a>さんが1974年に亡くなって1984年に小澤征爾さんと秋山和義さんを中心にして斎藤秀雄メモリヤルオーケストラを作って、東京文化会館と大阪のシンフォニーホールでコンサートをやって、それがきっかけとなって斎藤記念オーケストラが出来て、松本での音楽祭、内外でのステージがありました。 晩年は小澤さんは病との闘いでしたが、最後まで若い人に音楽をと、世界に飛び出しなさいというメッセージを最後まで送り続けた方でした。</p><p>小澤征爾音楽塾があってオペラを若い人に教える機関があります。 <span face="sans-serif" style="background-color: white;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3">ヘルベルト・フォン・カラヤン</a></span>、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3">レバード・バーンスタイン</a>に可愛がられた。 生涯音楽家として二人と付き合い続けた。 小澤さんの集中力、人間力が素晴らしかったです。 小澤さんは30歳の時にウイーンの音楽界、ザルツブルク音楽祭に名乗りをあげました。(1966年) 60年、70年代は小澤さんとウイーンでは蜜月関係にはならなかった。(お互いが探り合う時代) 1980年代の半ばにストラビンスキーの春の祭典をウイーンフィルの指揮をして、大絶賛となる。 ヴェートーベン、ブラームスを聞いてみようじゃないかという空気が生まれた。 2002年のニューイヤーコンサートに出る。 一番評判になったのが、<span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲</span>「悪魔の踊り」。 <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">ヘルメスベルガーは19世紀から20世紀の世紀転換期に活躍した作曲家、</span>ウイーンフィルのコンサートマスター、ウイーンの指揮者でした。 <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC2%E4%B8%96">ヨーゼフ・ヘルメスベルガー</a>作曲</span>「悪魔の踊り」を一気に世界の音楽ファンが知ることになる。 </p><p>*「悪魔の踊り」 作曲:<span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">ヨーゼフ・ヘルメスベルガー 指揮:小澤征爾 </span>ウイーンフィル管弦楽団 2002年ニューイヤーコンサートのライブ録音。</p><p>ウイーンフィルに新しい風を吹かせたことが、ウイーンでの小澤さんの活動のキーワードになっている。 1990年代から小澤さんとウイーンフィルは蜜月になりました。 </p><p>*交響曲第8番 「第3楽章」 作曲:ドヴォルザーク <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">指揮:小澤征爾 </span>ウイーンフィル管弦楽団 1992年定期公演での録音</p><p>*交響曲第9番 新世界より 「第4楽章」 作曲:ドヴォルザーク <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">指揮:小澤征爾 </span>ウイーンフィル管弦楽団 1991年定期公演での録音 小澤さんとウイーンフィルの大きな転換点になった演奏。 小澤さんはボストン交響楽団の監督を29年間を続ける。</p><p>*ディヴェルティメント ニ長調から第1楽章 作曲:モーツアルト <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団 2017年演奏。</span></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-68178608041830310182024-03-09T06:52:00.003+09:002024-03-09T06:52:36.741+09:00鎌田浩毅(京都大学名誉教授) ・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム~(初回:2023/3/11)<p>鎌田浩毅(京都大学名誉教授)・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム~(初回:2023/3/11) </p><p><a href="https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/03/blog-post_11.html">https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/03/blog-post_11.html</a>をご覧ください。</p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-32778534525498588662024-03-08T07:25:00.001+09:002024-03-08T11:47:33.559+09:00生島 淳(スポーツジャーナリスト) ・故郷のためにできること <p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6%E6%B7%B3"> 生島 淳</a>(スポーツジャーナリスト) ・故郷のためにできること </p><p>生島さんは宮城県気仙沼市出身、56歳。 早稲田大学社会科学部<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">社会科学科卒業後、広告代理店を経てフリーのスポーツジャーナリストとして活躍中です。 フリー―アナウンサーの<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7">生島ヒロシ</a>さんの弟でもあります。 アメリカ大リーグをはじめNBAやNFLなどのメジャースポーツから日本のプロ野球やラグビー、ロードレースなどを中心に幅広く取材し、様々なメディアで作品や文章を発表しています。 今月11日に東日本大震災から13年になりますが、生島さんは当時気仙沼市に住んでいた実の姉を震災で亡くしました。 その出来事をきっかけに高校時代を過ごした故郷、気仙沼を改めて見つめ直し故郷のためになにが自分にできるのかを考え続けています。 震災から13年になるのを前に故郷のためにできることと題して生島さんに伺います。</span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">ドジャースは日本の方にも親しみのある球団だと思います。 野茂はじめ日本人を一番多く取得した球団ですね。 僕は広い視点で見て行きたいと思いますが、大谷がどの程度打てるのかは楽しみです。 50本は期待したいです。 エンジェルス時代は敬遠も多かった。 しっかり勝負する機会も増えると思います。 40本40盗塁は期待したい。 山本投手はフロントスタートか2番手でいきそうです。 1シーズンコンディショニングに気を付けて頑張って欲しいです。 バッターでは吉田正尚選手もいい成績を残したので、期待したいです。 ヤンキース、レッドソックスもここの所苦戦していて、ヤンキースも2009年以来ワールドシリーズに行っていない。 1990年代の後半からの黄金時代はジーターを筆頭に品格と素晴らしいチームが出来上がって行った。</span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">*「花は咲く」 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">作詞:</span>岩井俊二 作曲:菅野よう子 東日本大震災復興支援ソング</p><p>姉は57歳で亡くなりました。 <span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『気仙沼に消えた姉を追って』と言う本を2011年11月にだしました。 気仙沼はいい街だったという事を書き残しておきたかった。 5月23日に見た光景はまだ覚えています、モノクロームになっていました。 なぜ逃げなかったのか、僕には釈然としないものがありました。 判断の積み重ねで、姉は姉でそういう人生を生きてきたんだなと思いました。 逃げないという判断をしたのは僕としては残念でした。 母が2月に亡くなっていて、納骨の日で上京する日でもあって、午前中の大船渡線の列車を取っていれば助かったかも知れない。 残念だが何でそうなってしまったのかを知りたかった。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">姉から電話があって長男が受けました。 僕の携帯に電話をかけてくれていたら、「「逃げろ」とか言ったかもしれない。 ちょっとしたことで人生大きく変わって行ってしまう事がある。 3月18日にすべての携帯電話が復活しました。 その時点で繋がらないのはもう無理なんだろうなと思いました。 うつうつとした日々を過ごしました。 2か月経って気仙沼に行き取材をしました。 家からこんなに海に近かったんだと驚きを覚えました。 道路も新しくなって運転していても、故郷だという感覚も薄まって来てしまいました。 本、雑誌なども沢山かいましたが、そういったものもみんな流されてしまったんだなあと思いました。 安心する場所が気仙沼にはなくなっちゃったというのは正直思います。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">母親の骨壺は姉の家にありました。 家にいても大丈夫だろうと判断したものと思います。 避難先として公民館が200m先にあって、そこに逃げて助かった人たちもいました。 書くことで自分を納得させたかった。 母の介護を姉に任せてしまっていたことは申し訳なかったと思います。 姉が欠けたという事で帰る家がなくなり、故郷が希薄になって、13年経ち、町の区画も変わって行くと、故郷への思いも難しいものだと思います。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">僕を形作ってくれたのが気仙沼にあると思います。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;"><br /></span></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-79471394748782418072024-03-07T08:39:00.001+09:002024-03-07T12:53:36.292+09:00佐々木道彦(ワイナリー代表) ・ワインで地域の食と人をつなぐ<p> 佐々木道彦(ワイナリー代表) ・ワインで地域の食と人をつなぐ</p><p><span face="sans-serif" style="color: #424242;">宮城県南三陸町</span><span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">、</span>この町で地域の食材と人を繋ぎたいと地道な活動を続ける人が居ます。 ワイナリー代表の佐々木道彦さん(50歳)です。 佐々木さんは震災後に町で初めてとなるワイナリーをオープンし、地域の活性化を担っています。 町に賑わいを取り戻そうと奮闘する佐々木さんに活動内容と今後の目標などを伺いました。 </p><p>2020年10月に南三陸町に新しい産業としてワイナリーを興しました。 醸造したワインを販売するだけではなくレストランを併設して、ワインと地元の味を楽しむことができる。 今はカキを使ったグラタン、春はサーモンとかです。 季節によって食材が変って来ます。 海産物だけではなく、77%は山で里山では野菜、米などが栽培されているので、美味しい食材が沢山あります。 最近はツアーのお客様も沢山来ていて、又地元の方も少しづつ増えてきています。 収穫ワイン会を毎年ブドウ畑でやっています。 </p><p>400ヘクタールの畑で植樹しながら増やしています。 9割ぐらいは契約農家さんからブドウを購入してワイン作りをしています。 山形県は全国4位の生産量で岩手県は全国5位の生産量です。 宮城県が45位ぐらいです。 果樹に頼らなくても農水産業で成り立ってきたからかと思います。 最初に植え始めたものが8年目になり500本ぐらいあって1トンぐらいが収穫できるようになってきました。 同じ品種でもその地域の気候風土によって味が違ってきて、同じ土地から取れる野菜、海産物と相性がいいのではないかと思います。 </p><p>南三陸町に移住して5年目となります。 山形県出身で、横浜国立大学卒業後、静岡県浜松市に本社のある大手楽器メーカーに務め、東日本大震災が起きた時にボランティアで駆けつけ、その後宮城県の仙台に移住する。 最初に実際の光景を見た時にはショックでした。 がれきの撤去とかおこなって、段々町が綺麗になって行ったものの、人口は減って行って、地域に元気をもたらすのは地域に根ざした新しい産業、事業を起こさないといけないと感じていました。 会社では<span face="sans-serif" style="color: #424242;">新規事業開発に携わっていたので、何かできないかと思って3年後に家族と共に移住しました。 たまたまワイングラスを作る機械があり、それを通してワインの魅力に引き込まれました。 ワインは人を笑顔にさせるお酒だなという事を感じました。 勉強してワイナリーを作りたいと思うようになりました。 </span></p><p>仙台で仕事をしながらワイナリーの起業についての勉強をしました。 2015年に秋保温泉という仙台から車で30分ぐらいの所に震災後初めてワイナリーが出来て、そこでワインの仕事をやらさせて貰いました。 2017年に南三陸ワインプロジェクトがスタートしたことを知り、期待感を持ちました。 移住してから5年近くはいろんなことをしてきて、本当にこれでいいのかという思いはありました。 ワインは出来ていたので、販売については免許が必要で、法人として免許を取って行かないといけないという事です。 <span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">2019年1月南三陸地域おこし協力隊にはいって、</span><span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">2月に南三陸ワイナリー株式会社を立ち上げました。 </span><span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">4月からワイン販売スタートしました。 </span></p><p>我々が作ったのは辛口の白ワインで、お食事と一緒に楽しむお酒なので、牡蠣、ホタテとか、鮭とか合わせて飲んで下さいと言い続けてきました。 甘めのワインが好まれるのと、ワインそのものを飲む方が当時は少なかったです。 ワイナリーをオープンさせたという事が一番の転機だったと思います。 <span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">地域おこし協力隊と言っても事業はあくまで個人のリスクでやってゆくので、何千万円と言うお金を銀行から融資をしてもらい、立ち上げたもので、ワイン作りを証明できた、理解していただいたと思っています。 水産加工場だったところを利用させてもらったり、多くの方々のご協力があって出来ました。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="color: #424242; font-size: 17px;">新しいことをやるのは自分での遣り甲斐でもあります。 大地に囲まれて季節を感じながら、自然を感じながら生きていけるというのが支えになっていると思います。 自分の毎日の楽しみが、自分でもそれが出来ていて、生活も楽しめているところが支えになっていると思います。 </span></p><p>三陸沿岸部には「きりこ」と言う文化があり、三陸沿岸部は水害、冷害が多くて不漁、不作の時に神社へのおそなえ物として、紙を形どって神様に奉げていた。 創作きりこを作るようになって、神社以外でも創作きりこが使われるようになりました。 神社の方からきりこを切っていただいて、それをワインのラベルとして使っています。</p><p>海中熟成、ワインを海中に沈めて熟成させる。(海中の振動で熟成が早まる。) イベントとしてみんなでやります。 いろいろな異業種の方々と一緒に活動をしています。 ワインツーリズムを一昨年から始めました。 南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡の4都市を結んでシャトルバスを走らせて、三陸のワインを楽しむようなツアーを今年は6月に2日間やることが決まりました。 7割以上が東北以外の方が来ます。 継続していきたいと思っています。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-86027918401589157842024-03-06T09:15:00.002+09:002024-03-06T17:38:46.617+09:00山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年<p>山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年</p><p>13年前東日本大震災で津波発生の翌日から職場の美術館に泊り、突き動かされたかのように被災した品々を集め、被災した街の風景をカメラで撮り続けた人がいます。 宮城県気仙沼市にある公立美術館「リアス・アーク美術館」の館長で、当時は一学芸員だった山内 宏泰さんです。 震災を経験した自分たちの視点で被災状況を記録し、後世に伝えたいという思いからだったと言います。 震災の2年後から東日本大震災の記録と津波の災害地と名付けた常設展示を始めました。 中でも話題を呼んだのが、徹底的な聞き取りをもとに被災したものにまつわる創作ストーリーを書き添えた点です。 山内さんはどんな思いで被災した街を見つめ暮らしの痕跡であるものにストーリーを綴ったんのでしょうか。 又能登半島地震が発生し、大きなh害を受けた方々がいらっしゃるなかで、今どんなことを思うのか伺いました。</p><p>「アーク」は箱舟と言う意味で、建物全体が箱船のような形をしています。 造船技術が対応しているもので鉄板が構造物のあちこちに入っています。 さまざまな生き物、文化と言ったものを次の世代につなげるための船なわけです。 美術館という事で地域性の高い作家さんも扱っていますが、常設展としては歴史民族系の常設を持っています。 震災の記録の常設展示も作っています。 総合博物的な運営をしている館という事です。 </p><p>鰹にまつわる文化のコーナー、九州、四国、関東あたりまでの鰹はルビー色の脂身の少ない登りガツオですが、三陸沖まで来ると、特に秋には猛烈に脂ののった鮮度のいい鰹が水揚げされる街が気仙沼と言う事です。 鰹の水揚げ量はずっと日本一です。 カツオ漁で使われる棹が展示されていますが、4m前後です。 グラスファイバーで出来ていて重たいです。 それに鰹は大きいと70cmぐらいになるので、相当な重さになります。 </p><p>東日本大震災の記録と津波の災害史と名付けたもう一つの常設展示、壁一面に写真パネルが掲げられている。 2011年3月24日に気仙沼市内で撮影された沢山の流出物が押し寄せている写真が掲げられている。 写真が203点、被災物が155点、災害史系の資料が135点ぐらい、全体で500点ぐらいの資料があります。 一番早いのは当日美術館の屋上から撮っています。(15時30分) 高さ100mぐらいの白いものがもうもうと見えるわけです。 津波で破壊された家屋の巻き上げられてゆくホコリだと思います。 夕がたになると闇の中に赤あかと燃え盛っています。 12日間燃え続けます。 15日の日に学芸員で、今後どうするか、話し合いをしました。 美術館の再開は無いかもしれない。 街は壊滅している。 しっかりと記録に残して、それだけはやろうという事で16日から現場に出ました。 </p><p>3階建ての建物の前に、それを覆うぐらいのい高さまで様々な被災物が山積みになっている状態でその前に長靴履いて立っているのが私です。 私の自宅があった場所の斜め向かいです。 これを眼にして呆れている状態です。 津波は陸に上がってくると流れてくるものは固形物です。 フロアーの中央には津波で押し流された様々な流出物が展示されています。 </p><p>2011年の出来事が起こる前から津波に関しての調査、研究を私はしていました。 1896年(明治29年)三陸地震、津波があるんですが、死者数が約2万2000人、被害エリアが2011年と非常に近い。 その37年後の昭和8年(1933年)にも昭和三陸地震、津波が来ていて、死者が3060名ぐらいです。 それから27年後1965年(昭和35年)チリ地震津波、全国で142名亡くなっている。 そのうちの100名ぐらいが岩手、宮城の沿岸部になっている。 そこからたまたま50年空くんですね。 2010年にふたたびチリ地震、宮城県は養殖業が壊滅、激甚災害になっていました。 東日本大震災はその翌年です。 2006年ぐらいから地域住民に備えて下さいという事を伝える活動をしていました。 当時は全然興味を持っていませんでした。 </p><p>2006年当時、国が宮城県沖を震源とするマグニチュード8を越えるような巨大地震の発生確率30年以内で99%と言われていた。 最短20分で10mを越える津波が三陸沿岸部に襲来しますと、科学的に想定されていた事実です。 護岸整備などを整えていて、それで大丈夫だという風に宣言していた。 それを信じて50年間実際に津波は来なかった。 作ったから大丈夫とどっかで勘違いしていた。 2011年に津波が来て、皆想定外だというんです。 前例がない、1000年に一度の災害だと言いだす。 展示のベースになっている記録調査をやらなければならないという風に使命感を持った最大の理由は、そういった嘘を言い始めたことに対する怒りです。 40年に一回は大津波が来ているんです。 防災は現実には無理なんですが、減災は可能なので日頃から意識して、避難先には備蓄の食品があるとか、避難所にはせめて100人が10日ぐらいは用を足せるぐらいの、汲み取りのトイレぐらいは作っておくべきだと思います。</p><p>二つ折りの携帯電話が開いた状態で多く見つかったりするが、話している間に津波に被災してしまう事が多いのではないか、まずは兎に角逃げて欲しいという思いで、創作ストーリーで心に訴えたいと思いました。 足踏みミシンの創作ストーリーとか、炊飯器など共有しやすいものを選んでいます。 </p><p>小さいころは飯時間、寝る時間以外は家にいないような子でした。 絵は好きで、図画工作、陸上が好きでした。 勉強は大嫌いでした。 <span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;">宮城教育大学中学校美術教員養成課程卒業、同大学院入学</span><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;">(リアス・アーク美術館勤務のため9月で中退)。 美術館にはすでに採用されていた人が居ましたが、開館の2か月前に辞めたという事でした。 地域の人とはとことん酒を飲んだり食べたりして仲良くなって行きました。 15年ぐらい経つとよその人間だという事が大分薄れて来ました。 17年目には大震災となりました。 震災発生1年後に他県の大学から声がかかりましたが、離れるのは無理だと断りました。</span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;">一番大きかったのは、ここに来ると何て言ったらいいかわからなかった、どう表現したらいいのか判らなかった言葉が、その言葉が全部あるというんです。 皆さんが共有できる言葉を提供するという事は目標の一つでしたから、感想として多かったので良かったです。 復旧復興事業が始まる前に、自分たちがどういう状況に置かれていて、何を今から考えなければいけないのか、何を失って何を取り戻さなけれいけないのか、必要なことは何か、不必要なことは何なのか、そういう事をちゃんと考えられる脳にセットしたかった。 皆言葉を失っていたので。 だから急ぎました。 </span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;">能登半島地震では古い家屋が沢山倒壊しました。 撤去作業が進められているが、家の下にある大事なものとかも区別なく撤去されてしまう可能性がある。 そういったものを大事に扱うという事を早い段階から訴えてはいます。 残さなければならないという意識があれば、大きい間違いはないと思います。 貴重な奥能登の文化を根こそぎ破壊されてしまうような事だけは、それは完全な人災ですから、何とか阻止しなければいけない。</span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><span face="YuGothic, "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", HiraKakuProN-W3, "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro W3", "Hiragino Kaku Gothic Pro", HiraKakuPro-W3, メイリオ, sans-serif" style="background-color: white; color: #222222; font-size: 16px; text-align: justify;"><br /></span></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-35276005735009982542024-03-05T08:43:00.003+09:002024-03-05T19:05:42.387+09:00石渡博明(国際視覚障害者援護協会 理事長) ・途上国に“あはき”の技術を<p>石渡博明(国際視覚障害者援護協会 理事長) ・途上国に“あはき”の技術を </p><p>国際視覚障害者援護協会は、アジアをはじめとする発展途上国の視覚障害者を招き、日本の盲学校への支援や按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動を続けてきました。 1971年の創設以来、これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。 その取り組みが国際文化交流に大きく貢献したとして、このほど独立行政法人国際交流基金から地球市民賞を貰いました。 この取り組みの意味そして石渡さんの思いなどについて伺います。 </p><p>私たちの団体は発展途上国の視覚に障害のある若い人たちを日本にお呼びして、日本の盲学校で按摩、鍼、灸の技術の習得の手助けをする活動をしています。 これまで世界19の国と地域から89人の留学生を受け入れています。 「筑波盲」で勉強している人が2人、筑波技術大学が2人、京都府立視覚障碍者福祉センターで勉強している人が1人います。 マレーシアが1人、キルギスが2人、モンゴルが1人、ミャンマーが1人です。 基本的にはある程度日本語をやった人、日本点字もできる人となります。 </p><p>初代の理事長が韓国の方で、日本で勉強したいという事でしたが、当時は心身に障害のある人は留学生になれないという、規定がありました。 日本にいる韓国の親戚に身を寄せて勉強したいという事で、千葉の盲学校で勉強しました。 台湾とかほかの人4人と親睦団体として国際盲人クラブ(ICB)作りました。 韓国のその方が大学の卒業論文でアジアの視覚障害者の実態調査をしました。 日本に来るシステムを作りたいという事で留学生奨学生制度を作りました。 それが現在に至っています。 </p><p>視覚障碍者にとっては身近にマッサージがありますが、日本の様に体系だった勉強が全くありません。 アジアでは盲学校が非常に少なくない国もあります。 私どもの研修施設で寝泊まりをして日本語の勉強、日本点字、歩行訓練などを予備研修としてやります。(6か月) 付いていけなくて帰る人も少ないですがいます。 戻ってからは福祉の分野、教育の分野などでも力を尽くしています。 </p><p>私は神奈川県横須賀市1947年生まれです。(76歳) 中学で急に視力が落ちました。 「奇跡の人」が上映されたり、「目の見えぬ子ら」と言う本が出て話題になりました。 視覚障害に興味を満ち始めました。 大学受験では人の役に立ちたいという事で、東京教育大学特殊教育学科の視覚障害を選びました。 大学紛争の時代でほとんど勉強はしませんでした。 通産省の外郭団体で働いていました。 海外から技術者を呼んで勉強させるための企業に支援金を出す団体です。 私は日本語の先生をやったりコーディネーターなどをやっていました。 初代の理事長が韓国語の通訳としてきていました。 手伝ってほしいと言われて手伝うようになりました。 定年退職した年に、週一回ボランティア出勤をして翌年毎日来てほしいと言われて、2010年から理事長になりました。 </p><p>2000年から文科省から補助金が出ましたが、いろいろな支出は全国の寄付で賄うというような状況でした。 安定的な財源がなかった。 2018年には文科省から補助金が打ち切りになりました。 廃止の話もある中で、6か月研修を3,4か月にしたりして対応してきました。 留学生が帰った後のフォローもしてきました。(情報交換など)</p><p>台湾の方(全盲)、モンゴルの方が最近始めたことが印象的です。 日本のような系的な勉強を一から学びたいという事で日本に来て3年間盲学校にお世話になって、国家資格も3つ取って、帰国後も頑張っているという事です。 モンゴルの方はある程度日本語を勉強してから来ましたが、頑張り屋さんで盲学校卒業後国に帰って、もう一度日本に来て筑波技術大学の大学院で勉強して、国に帰ってモンゴル盲人協会立の職業訓練学校で先生として後輩の指導をやっています。 自分で立ち上げて盲人のための幼児教育を始めました。 地方の目の悪い子供たちを捜し訪ねて、日本の協力も得て、施設を作るという事をしました。 日本に行って国際視覚障害者援護協会でいろんなことを学んだので、彼女は日本の援護協会のミニ版を作りましたと言っていました。 私はこの仕事をしていて一番感じるのは、出会いが凄く大事だという事です。 留学は大事なことだと思います。 文化、人を肌で感じることが大事だと思います。 続けてゆくためには財源と後継者が大事です。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-61365170673352590192024-03-04T08:23:00.003+09:002024-03-04T08:23:31.835+09:00穂村弘(歌人) ・ほむほむのふむふむ<p> 穂村弘(歌人) ・ほむほむのふむふむ</p><p>ゲスト:笹公人さん</p><p>「終楽章」と言う最新歌集の内容についてと、「新短歌入門」と言う入門書について。</p><div>1975年東京都生まれ、17歳のころ寺山修二の短歌を詠んだことがきっかけで、短歌を始める。 1999年未来短歌会に入会。 <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E4%BA%95%E9%9A%86" style="background: none rgb(255, 255, 255); color: #3366cc; font-family: sans-serif; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="岡井隆">岡井隆</a>さん<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">に師事。 2003年</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">第一歌集『</span>念力家族<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』刊行。 後にNHKでドラマ化されました。 その後</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『念力図鑑』、</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『念力ろまん』などを発表、最近の歌集は父親の介護を詠んだ</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『終楽章』です。 去年出版された『新短歌入門』はNHK短歌のテキストの人気連載『念力短歌入門』を書籍化したものです。 現在は「未来」選者、俵万智さんとアイドル歌会の選者も務めています。 </span>大正大学客員准教授でもありミュージシャンであり、作詞家でもあり幅ひろく活躍しています。</div><div><br /></div><div><span style="background-color: white; color: #202122;">『終楽章』は2年前の夏に出ました。 </span></div><div><span style="background-color: white; color: #202122;">*「パトカーに乗せられ帰宅した父はあっけらかんと巻き寿司を食う」 </span>笹公人 そのころ自分が20歳代に戻っていたようで、僕のことを兄貴と言うんです。 当時慶応大学のワグネルと言うオーケストラのコンサートマスターのヴァイオリンをやっていて、ヴァイオリンの稽古に行くと言って、夜中に出ようとするんです。 見張っていてもどこかで脱走してパトカーに乗せられて、何もなかったかのように巻き寿司を食べていました。</div><div>父は80の後半です。</div><div><br /></div><div>*「幾たびも死ねと念じたことがある父のひげ剃るシェーバーの唸り」 笹公人 右半身が動けなくなり、僕が髭を剃ってあげる。 父とは趣味が合わないというか、厳しかったですね。 伊藤一彦?先生の歌を或る時に読んで</div><div>*「ベッドの父のむつきをかおるを喜びと死たる二月今ははかなし」? むつきはおむつですね。 お父さんのおむつを替えることを喜びとしてと書いてあって、衝撃を受けました。 </div><div><br /></div><div>最後の親孝行と思えば気持ちが切り替わって、短歌で気持ちが変わることがあるんだと思いました。 </div><div><br /></div><div>*「ゴム手袋を二重にはめて香たいて気合いで父のおむつ替える」 笹公人 リアルですね。 </div><div><br /></div><div>アイドルと笹プロデューサーが短歌をQ&Aをやって行きました。 </div><div><br /></div><div><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">「</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">サキサキ</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">と</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">セロリ噛みいてあどけなき</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">汝(</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">なれ</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">)を</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">愛する理由</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">はいらず」</span> 佐々木信綱 穂村:<span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">サキサキ</span>はセロリを食べている音だが「オノマトぺ」(擬声語)についての質問に対して具体例を示している。 <span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">サキサキ</span>とシャキシャキでは短歌にした時、何倍も違う。</div><div><br /></div><div>平安時代の中期に<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%BB%BB">藤公任</a>が上の句で風景を表現して、下の句で自分の心の面が歌の基本の形であると、説いていることを知って、それを僕は知ることでスランプを脱出することが出来ました。 伝統と現代文化とつながる部分を意識して書いています。</div><div><br /></div><div>穂村:僕は入門書を読むという発想ななかったですね。 入門書は書いたことがなかったです。 口語、文語についても文例を上げて受ける雰囲気の違いを説明しています。</div><div><br /></div><div>「終バスにふたりは眠る紫の<span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;"><降りますランプ></span>に取り囲まれて」 穂村弘 語順によってもその場の雰囲気が違ってくる。</div><div><br /></div><div>結社離れが心配です。 毎月締め切りがあるので、締め切りがないと何とかそれまでに作って、ああ短歌って面白いみたいなことはあると思います。 自分とは違う世代と交流が出来、勉強ができる。 結社に入りやすい環境を整えることも必要かと思います。 </div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div> </div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div> </div>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-47274752766788924702024-03-03T08:50:00.001+09:002024-03-03T13:36:33.363+09:00佐々木優子(声優) ・〔時代を創った声〕<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%84%AA%E5%AD%90">佐々木優子</a>(声優) ・〔時代を創った声〕 </p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『</span>ちびまる子ちゃん<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』のこたけおばあちゃん、「サンドラ・ブロック」や「ニコール・キッドマン」、「</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">エリザベス</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">・ミッチェル」、</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「メグ・ライアン」など女優の吹き替えでも活躍中です。 1990年からこたけおばあちゃんを担当。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『</span>ちびまる子ちゃん<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』は今年で35年目になります。 あっという間でした。 はじめたときは20歳でした。 老け役は一回もやったことはありませんでした。 オーディションもなく監督から指名され、なんでという感じでした。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">横浜出身で小さいころはお転婆でした。 幼稚園の年長組ぐらいから小学校1年まで児童劇団に入りました。 舞台には憧れました。 中学では演劇部に入りました。 文化祭ではシェークスピアをやったり、3年で部長になってピーターパンを現代風にしたりして脚本も書きました。 高校ではテニス部に入りました。 進路を悩んで、</span>日本テレビ音楽学院と青年座は残って両親の意見が違うなか、最終的に日本テレビ音楽学院に通う事になりました。 声優の勉強もあり特待生3人の一人にも選ばれて、水曜ロードショーに見学にも行けることになりました。 でもアテレコには興味はなかった。 或る時に本番中にセリフのひと言がない事で止まってしまって、セリフの重要性に気が付きました。 初めて声の仕事に興味を持ちました。</p><p>「がんばれベンジー」が最初の作品です。(1979年) プレッシャーが凄かったです。1990年<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『</span>ちびまる子ちゃん<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』をやることになりました。 原作をみてもあまり出てこないししゃべらない。 祖母がだみ声なのに或る時に、バレエシューズを手に持って「年寄りってかわいいのよ。」とだみ声から少女のような声で言ったんです。 それが妙に印象に残っていました。 キーの高いおばあちゃんにしようかなと言う風に思いました。 やってみたら駄目とは言われず、原作者の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%93">さくらももこ</a>さんからは可愛いおばあちゃんにしてくれてありがとうと言われました。 </span></p><p><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">35年目の『</span>ちびまる子ちゃん<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』ですが、生活の一部であって、身体の一部であって、と言う感じです。 一番つらいなあと思った時は、一番忙しい時でした。 似たようなヒロインを朝から深夜まで毎日やっていて、芝居のしどころが無いような感じで、自分が見えなくなっていってしまうような感覚に陥てしまって、辛くて声優を辞めたいと思いました。 数年続いて、身体を壊してしまって、(腸捻転で2100ml内出血していた。)入院して5か月仕事を中断しました。 復帰できないかもしれないと思いました。 死んでいたかもしれないと思った時に、昔観た映画作品を舞台化してみたいと思いました。 脚本を書き始めてそれから3年かけて自分でプロデュースして、舞台をやりました。 以後、もやもがそれから一切感じないようになりました。 </span></p><p>若い人へのアドバイスですが、マイクの前だけれど御芝居しようというんですが、本当にそれが必要なのかと言う顔をするんです。 おそらく生き残っている人たちは、声優さんでもおそらくそういうところの感性がある人たちが残ってゆくと思います。 今それだけできればいいかと思いますが、その先に本物の楽しさがあるという事を気が付いてくれたらば、意識してくれたらいいなあと思います。 生成AIに負けないためには人間らしさ、自分が感じている言葉を発するという、それを感じる声優さんになって欲しい。 </p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p> </p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-85613113479648350412024-03-02T13:01:00.000+09:002024-03-02T13:01:11.974+09:00大塚善章(ジャズピアニスト) ・88歳、米寿のステージ<2> (全2回)(初回:2022/12/3)<p> 大塚善章(ジャズピアニスト) ・88歳、米寿のステージ<2> (全2回)(初回:2022/12/3)</p><p><a href="https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/12/blog-post_3.html">https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/12/blog-post_3.html</a>をご覧ください。</p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-84696464903925155102024-03-02T10:15:00.003+09:002024-03-02T12:51:53.334+09:00大杉隼平(写真家) ・「父・大杉漣のふるさと徳島を撮り続けて」 <p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E9%9A%BC%E5%B9%B3"> 大杉隼平</a>(写真家) ・「父・大杉漣のふるさと徳島を撮り続けて」</p><p>大杉隼平さんは6年前に亡くなった徳島県出身の俳優<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E6%BC%A3">大杉漣</a>さんの長男です。 父の故郷徳島の自然、生きる人、食など知られざる魅力を発掘し、その姿を写真に収め発信を続けています。 大杉隼平さんが徳島を撮り始めるきっかけと父大杉漣さんの影響についてのお話を伺います。</p><p>大杉隼平さんさんは東京生まれ、41歳。 ロンドンで写真を学び、帰国後から写真家として雑誌や広告の世界で活躍しています。 近年は2018年に亡くなった父、俳優大杉漣さんの出身地である徳島の自然、文化、そこに関わる人を精力的に撮影、写真を通して徳島の魅力を発信する活動にも力を入れています。 </p><p>大杉漣さんは北野たけし監督の映画をはじめ数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した俳優、名バイプレーヤーでした。 テレビのバラエティー番組にも出演して、幅広い世代の方に人気を博していた漣さんでした。</p><p>父であり親友のような人でした。 小さいころはおばあちゃんちへ遊びに行くといった感じでした。 大杉隼平さんが生まれる前に「愚の心配」と言うタイトルがついたメッセージを送っていました。 </p><p>「愚の心配」を朗読。 「真っ暗な夜があっても前だけは真っ黒になる。 これが親の心配であろうとお前は親を越えるだろう。 いつか悲しみも喜びも遠くから眺める時がきても、育つのだ。 一枚の壁として一本の瓦礫の木として。 隼平へ 」</p><p>何度も何度も読み返して、お守りのような感じがして、自分の心のなかにずーっとある手紙にはなっています。</p><p>今年父の7回忌になります。 父であり尊敬する人でもありました。 高校を出たあと写真の専門学校に行きました。 写真を見た時には記憶がよみがえるという事は凄くいいことだと思いました。 その辺が写真をやりたいというきっかけにはなりました。 伝えいたことは何だろうと考えるので、それと写真を撮る時に言葉を大事にしようと思っています。だれかの言葉がヒントになる事はあります。 </p><p>ロンドンに留学しました。 その後アメリカのデザイナーさんと一緒に仕事をした時に、水の音を表現してほしいとか、抽象的な表現ではあるんですが、それをやってゆくときに自分自身で考えることによって、出会えてよかったなと思える仕事の一つです。 徳島を取り始める時にNHKの「徳島をどう取りたいか。」というインタビューに対して、「知らないことを武器にしてやりたい。」と答えましたが、それは素直な気持ちだったと考えています。 知らないからこそ行った時の感動とか、感情が動くことはすごくあると思うので、この気持ちは大事にしたいと思っています。 </p><p>父が亡くなる数日前に父から「徳島を撮れよ。」、と言った言葉がずっとあって、それとマッチングしたところもありました。 やればやるほど、その理由も大きく変わってくるところもありますが、父の存在はずっと心に中にはあります。 祖父が校長先生をやっていたので教え子の方たちとお会いすることが結構多かったです。 </p><p>徳島の工芸に関する写真。 藍染、木工職人、鍛冶職人、阿波人形浄瑠璃を作る人形師、左官職人などの職人と職人が生み出す工芸品の写真です。 その地に根付いた文化、伝統工芸だったりあるので、一番最初に撮りたいと思ったのは工芸の部分です。 事業所だけでも200を越えていて、例えば藍染一つとってみてもやり方、出す色も微妙に違っていて、ひとくくりには出来ない。 藍染の工房に行った時に、人はしゃべらずして、言葉を発するというか、後姿から伝ってくる丁寧さ、プロの仕事だと思う部分には感動しました。</p><p>阿波人形浄瑠璃を作る人、甘利さん。 甘利さんの作ったものをぜひ見ていただきたいですね。 きめ細やかな作業を見てゆくと、手間をかけるという事は大事なことだと思います。 伝統工芸だけではなくて、徳島に来た時に後継者を作ることが大事だと思っているところがあります。 継がせても生活が出来ないという事があったり、継がせないという方も結構多いです。 </p><p>徳島の自然。 場所によって見える景色が全然違う。 海、山、川が自然としてきちんと残っていて、自然が豊か。 写真は一瞬の出会いかなと思っています。 (天気、風、光の入り方など) いのししの罠猟師、矢形諭?さんを取材。 手で捕まえに行ったものを生きたまま山から降ろしてくる猟師なんです。 彼のやっていることは最初から最後まで動物に愛情をもってやっているんで、心が動きました。 罠一つとっても痛くないように調整してかける。 会ってみないと判らない人ってたくさんいます。 その皮を利用して、徳島の技術を使って何がうみ出せるかという事を考えています。 </p><p>徳島の発酵文化。 鳴門市の井上さんと出会って、丁寧な仕事をされていると思いました。 1年熟成のものと5年熟成したものでは全然違う事も教えてもらいました。 木樽は日本全国で必要としているところはかなりあると思います。 徳島が出来るという事は強みだと思います。 阿波晩茶、乳酸発酵させるのも全国的に少ないと思います。 急斜面で葉をとったり大変な作業ですが作り方を知りませんでした。 手間のかかったお茶です。 </p><p>中央卸売市場に一緒にいきましたが、魚種の種類が多いです。 写真を通じて何が出来るかを考え続けたいです。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-13296153557461084472024-02-29T07:47:00.001+09:002024-02-29T11:45:23.686+09:00南 伸坊(イラストレーター) ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!<p> <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BC%B8%E5%9D%8A">南 伸坊</a>(イラストレーター) ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!</p><p>月間漫画「ガロ」の編集長を経て、フリーのイラストレーター、エッセイストとして活躍しています。 前衛芸術家の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E5%B9%B3">赤瀬川原平</a>さんや建築史家の藤森照信さんたちと設立した路上観察学会などで培った洞察力、情報収集力を元に旺盛な好奇心で活動を続けています。 おかしみのある文章でも多くのファンのいる伸防さん、絵でも文章でもわらいがないものは書きたくない、読んでいる間だけでも楽しい気分になって貰えれば、世の中に訴えたくと言うのは無いですねと話す伸坊さんです。 美術から笑いや、老いについてまで幅広く発信し、人を楽しませたいという伸坊さんにお話を伺います。 </p><p>出来るだけ笑いのあるものを書きたいと思っています。 子供のころからみんなが笑ってくれるのが嬉しかったです。 ラジオからテレビに替わってゆく時代でした。 相撲は物凄く好きになって行きました。 ものをしっかり見るという事は今の私を形作っていると思います。 細かいものが見えてくると楽しいです。 看板とか絵を描いてるというのもずっと見ていました。 人がやっていることを再現したりするのが面白かったです。 </p><p>路上観察学会は路上にあるくだらないものに目を付ける。 それを独自の解釈をすると面白いんです。 旅館についている階段を上ってゆくがどこにも行けない。 変なものであるという事は判って、無用になっているものなんだけど、きちんと残っているというものがまだいろいろあるという事に気が付きました。 その階段は四谷に有ったので四谷階段と名付けました。 病院の通用門にアーチ型のひっこんだものがあり、そこが全部コンクリートで覆われていたんです。 後にトマソンというタイトルがついた。</p><p>赤瀬川原平さんは美学校時代の先生でもあります。 千円札事件と言うのがあって、本物の束の様に描いて、その事件の裁判でお世話になりました。 講義が凄く面白かった。 <span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8">宮武 外骨</a>という編集者の人の講義をしてくれました。 </span>路上観察学会の人はみんな似ています。 みんな子供ですね。 発表するのにも如何に面白くやるかという事に気を使います。面白ければいいというのが基本です。 何が面白いんだろうという事を考えるようになりました。 わかっていることを判りなおす時に、笑いと言うものが起こるんじゃないかと思います。 似顔絵をみて笑うんです。 その人なりの或る理解をしているわけです。 自分の持っている情報よりも、出力できる情報が物凄く少ない。 見て判っていることが自分で判って、それが嬉しんじゃないかと思います。 その時に笑いが出てくる。 つまらないという事は、全くわからないか、判り切っていることは面白くない。 </p><p>顔で似せると似顔絵よりももっと喜ぶという事を知りました。(小林旭、松田聖子、アラーキー、スティーブ・ジョブズ、由紀さおりなど) 再現するためにその人の顔を良く観ます。 輪郭は物凄く大事ですが。 最近はおじいさんになってきたので段々パーツが減ってきました。 一般の人は必要なものを見ていますが、絵描きさんは不必要なものを物凄く良く観る。 ピカソの絵の模写をすると、今まで気が付かなかったようなことに気が付いてくるんです。 子供は人相書きをすると、凄く似ているものを描くそうです。 モンタージュが以前はありましたが、何故辞めたかと言うと似顔絵の方が似てるからだそうです。 大人は特徴を頭で考えるんです。 子供にいきなり描かせると、その時の印象が絵に出るんでしょうね。 </p><p>文章も笑ってもらえると思って書きます。 老後に必要なものは、笑顔と笑顔を共有できる人達です。 口が「へ」の字になって来るのは重力の影響もあると思います。 高校受験、大学受験でも失敗して、段々頑張らないでいい方向に流れて行きました。 お薦めの一点は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1">アルベール・マルケ</a>(日本人が好きな絵だとは思います。)の絵です。 マルケの絵は水のある景色が多いです。 水の質感がいいです。 </p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-5498305163888975122024-02-28T09:18:00.001+09:002024-02-28T12:21:33.937+09:00川崎景介(花文化研究家) ・〔心に花を咲かせて〕 源氏物語が花に託したもの<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E6%99%AF%E4%BB%8B"> 川崎景介</a>(花文化研究家) ・〔心に花を咲かせて〕 源氏物語が花に託したもの</p><p>源氏物語には数々の花が登場、木や竹などの植物を合わせると100を越えると言われています。 お花など植物の登場の仕方がいろいろな意味を含むという事ですね。 川崎景介さんは花文化を長く研究して、花を考えるという事で考花学を提唱して学問として広げたいと考えているそうです。 </p><p>奈良時代に編纂された万葉集にも植物に関する歌が沢山出てきます。 「萩」が入番多く詠まれていると言われています。 梅などの花も沢山詠まれています。 平安時代になって古今和歌集、新古今和歌集と言った歌集にも花や植物にまつわる歌が沢山出てきます。 源氏物語に沢山出てくるのもその流れをくむものと考えられます。 人々の心情、個性を際立たせるため、知らしめるために植物が重要な役割を果たしたと思っています。 紫式部は生年月日、没年月日も定かでないと言われていますが、源氏物語の作者だという事は判っています。 </p><p>桜について光源氏が歌を残しています。 光源氏が熱病に罹って北山に療養に行き、去る時に僧に 歌を送っている。 </p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">宮人</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">に行き</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">て語らむ山桜風より</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">さきに</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">来ても見るべく</span>」 光源氏 (<span face=""Meiryo UI", "MS Pゴシック", Georgia, "Times New Roman", Times, serif">内裏に帰って宮人に語ることにしましょう。山ざくら風が吹いて花が落ちてしまう前に来て見ることができるように)</span></p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">優曇華(うどんげ)の花</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">待ち得</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">たる心地して</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">深山</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">桜に目こそ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">うつらね」 僧(返歌)</span></p><p>光源氏があまりにも美男子だったので<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">優曇華(うどんげ)という仏典の美しい花にたとえて返しています。</span></p><p>光源氏は義母の藤壺の宮と関係を結んでしまい、不義の子を身ごもらせてしまう。 父親である桐壺帝は自分の子どもだと思っている。 </p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">おほかたに 花の姿を</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">見まし</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">かば 露</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">も心</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">のおかれまじやは」</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> </span>藤壺の宮 (<span style="background-color: white;">もしも世間なみに、この美しい花の姿(源氏の君)を見たならば、露ほども</span><span style="background-color: white;">心がこだわる事はないのに……(実は、すっかり心がとらわれています)美しい桜だけではなく不倫の愛)</span></p><p>自分の母親である桐壺の更衣は帝の妃の中でも一番身分の低い人ですが、桐壺帝から寵愛を受けた人。 藤壺の宮はこの人に大変よく似ていたと言われる。</p><p>光源氏は桜の美しさに例えられることが数回ある。</p><p>夕顔、のエピソード。</p><p>幼いころお世話になった女性にお見舞いに行く光源氏は、付近に咲いている夕顔の花に気を止める。 小さな女の子が光源氏に扇を手渡すが、そこには歌がしたためられていた。</p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「心</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">あて</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">に</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">それかとぞ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">見る</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">白露</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">の光そへ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">たる夕顔</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">の花」</span></p><p><span face="-apple-system, BlinkMacSystemFont, sans-serif" style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0.95); font-size: 16px;">(あて推量ながら、源氏の君かと存じます。白露の光にひとしお美しい夕顔の花、光り輝く夕方のお顔は。)</span></p><p>光源氏は誰であろうかと気になる。</p><p>「<strong style="box-sizing: border-box; font-family: "Hiragino Sans", "Hiragino Kaku Gothic ProN", serif;">寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔」 </strong>光源氏(返歌)</p><p>(<span face=""Meiryo UI", "MS Pゴシック", Georgia, "Times New Roman", Times, serif">近寄ってこそ確実に判別できましょう。あなたが黄昏時に遠くからぼんやりと見た花が夕顔であるかは。―私が光源氏であるかどうかは近寄ってみれば確認できましょう。)</span></p><p>後にこの女性と恋愛をする。 亡くなってしまうが一人の娘を残してゆく。(玉鬘) 後に光源氏の人生に関係を持ってゆく。</p><p>植物の名前をはめたことでその人のキャラクターがたってくる。</p><p>紅花の名前を冠されたっキャラクターが末摘花という姫君。 没落貴族のお嬢さん。 ひょんなことで光源氏は出会う。 朝日に照らされて姫君の姿が見えてくる。 <span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">源氏がこの女性につけたあだ名で、彼女の「鼻が紅い」ことと</span><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%8A" style="background: none rgb(255, 255, 255); color: #3366cc; font-family: sans-serif; overflow-wrap: break-word; text-decoration-line: none;" title="ベニバナ">ベニバナ</a><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">の「花が紅い」ことをかけたものである。 光源氏は生涯</span>末摘花を大切にする。</p><p>撫子は美しい女性、魅力的な女性を意味するが、男女関係なく子供のことを表していたというような歌が残されている。 光源氏は「葵の上」と結婚するが、「葵の上」とは馴染めずに、それが源氏が多くの女性との浮名を流すという事にも関係しているとも言われている。 「葵の上」は子供を身ごもって病にかかって子供を産み落として亡くなってしまう。 「葵の上」の母親に慰めの歌を送った。 「<span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif">草枯れの 籬(</span><span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif">まがき</span><span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif">に残る 撫子を</span><span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif" style="background-color: white;">別れし秋の 形見とぞ見る</span>」 (<span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif" style="background-color: white;">草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を</span><span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif" style="background-color: white;">秋に死に別れたお方の形見のように思って見ています。)</span></p><p>撫子は後に立派な夕霧と言う若者に成長する。 「<span face=""Helvetica Neue", Helvetica, Arial, "Hiragino Kaku Gothic Pro", Meiryo, "MS PGothic", sans-serif" style="background-color: white;">別れし秋」は</span>「葵の上」のこと。</p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">今も見て なかなか袖</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">を 濡らす</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">かな</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;"> 垣(</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">かき)</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">ほあれ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;">にし やまと撫子」 </span>「葵の上」の母親の返歌<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white;"> (</span><span face=""Meiryo UI", "MS Pゴシック", Georgia, "Times New Roman", Times, serif">今もこの子を目にしながら涙がとまらずに、濡れた袖を朽ちさせてしまうのではないかとかえって・・・。荒れてしまった垣根の中に咲く大和撫子のようで、愛しくも不憫で)</span></p><p>朝顔も印象的に使われています。 <span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所は</span>光源氏<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">の最も早い恋人の一人。 次から次へと恋人が出来るので、過ごす時間も少なくなっていってしまった。 久しぶりの訪れた光源氏は朝の光のなかで輝く彼女の姿を見て、やっぱり綺麗な人だなと思う。 朝顔の花を見て、</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所に歌を送る。</span></p><p>「咲く花のごとく美しい人よ 浮名のたつのは秘めたいがどうして摘まずにいられよう この今朝の朝顔を」</p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">朝霧の晴れ間も待たぬ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">けしきに</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">て花に心をとめぬとぞみる</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">」 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所の返歌 (</span><span style="background-color: white; font-style: italic;">朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので</span><span style="background-color: white; font-style: italic;">朝顔の花に心を止めていないものと思われます。)</span></p><p>朝顔は大陸から薬として種がもたらされたが、垣根などに咲いていたようです。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所は夜な夜な自分の生霊を、源氏ゆかりの姫君たちを苦しめていた。(嫉妬心) </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所の身にはけしの香りがする。 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> けしのお香は悪霊大安のために使われていたお香なんです。 それで悟る。</span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所が住んでいた六条院を譲り受け、改装してゆかりの姫君らを住まわせ、ちなんだ季節の庭をそれぞれ与えた。 紫の上(正妻格)には春の庭、御用松,紅梅、桜、藤、山吹、躑躅などを植える。 夏の庭には</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">花散里と言う女性(若いころからの恋人関係)控えめで、優しく教養深い。 橘、撫子、薔薇など。 秋の庭、</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">六条</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">御息所の遺児、</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">秋好中宮の実家とする。 紅葉、秋を彩る花が咲いていた。 冬の庭、明石の君 竹、松、菊,ならなどが植えられる。 明石入道から娘を嫁にと言われる。 </span></p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">末遠き二葉の松に引き別れいつか</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">木</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">高きかげを見るべき</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> </span>」 <span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">明石の君 (</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">二葉の松のような幼い姫君と別れいつか影を作るほど高くなったその木を拝むことができるだろうか、私は。)</span></p><p>「<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">生ひそめ</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">し根も深ければ武隈の 松に小松</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">の千代を</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">ならべむ」 光源氏返歌 (私たちと深い根でつながった子だからあの</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">武隈に生えた松と小松の様に並んで立つ日も来るだろう。) </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">武隈は松の名所として知られた風光明媚な地。</span></p><p>紫式部は源氏物語を通して当時の社会の生きずらさ、特に女性たち、自由が利かない、好きな人とお付き合いすることもままならない。 男たちも官職、身分で行動が制限されている。 そういったことに対する切なさ、悲しさ、むなしさなどを巧みに込めているのではないか。 </p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-86446631007149731742024-02-27T08:31:00.002+09:002024-02-27T14:04:59.136+09:00星加ルミ子(音楽評論家) ・ビートルズが遺したもの<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%8A%A0%E3%83%AB%E3%83%9F%E5%AD%90"> 星加ルミ子</a>(音楽評論家・<span face=""BIZ UDPGothic", "Hiragino Sans", Meiryo, sans-serif" style="background-color: #fafafa; color: #232324; white-space-collapse: preserve;">元音楽雑誌編集長</span> ) ・ビートルズが遺したもの</p><p>1962年にデビューしてから解散するまでの8年間に数々の名曲を発表しました。 レコードCDの売り上げが10億枚以上と今も世界の音楽史シーンに絶大な影響を与えています。 今年がイギリス出身の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA">ビートルズ</a>が1964年にアメリカに進出して60年に当たります。 去年11月には27年振りにビートルズの最後の新曲として<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">「</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">ナウ・アンド・ゼン</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">」(原題: </span><i style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><span lang="en">Now and Then</span></i><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">)が発表され注目を集めました。 この曲はなくなったジョン・レノンさんが生前にテープに残した曲の音源にAIなどを活用し、メンバーのポール・マッカートニーさんやリンゴ・スターさんが新たに演奏を加えるなどして、完成させたものです。 今日は1965年に日本人で初めてビートルズの単独インタビューに成功し、それ以来親交を深めてきた音楽専門誌「ミュージックライフ」の元編集長で音楽評論家の</span>星加ルミ子さんにお話を伺います。</p><p>ビートルズはオリジナル曲216曲世の中に出しています。 どの曲を聞いても無駄な曲が無いんです。 ビートルズは今後伝承されてゆくミュージシャンの一人であろうと思います。</p><p>星加ルミ子さんは1940年北海道生まれ、中学、高校時代を青森県八戸市で過ごしました。 その後東京の東洋女子短期大学英文科を卒業、<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">新興楽譜出版社(現・</span>シンコーミュージック<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">)に入社。 1965年音楽専門誌の</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『</span>ミュージック・ライフ<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">』の編集帳に就任。 イギリスで日本人ジャーナリストとして、初めてビートルズの単独インタビューに成功。 1975年に退社後はフリーの音楽評論家として活動しています。 </span></p><p>着物を着て、伺って入っていったら、最初に飛んできたのはジョージ・ハリスンでした。 私の帯に触って「なんでこんなに太いベルトをしているの。何でこんなに長いスリーブなの」、と聞きました。 他の3人も来て、ジャパンなんていったことがないなあと言っていました。 話のきっかけを作ってくれたのは着物でした。 当時彼らは24,5歳で私も24歳で同じような年ごろでした。 一人一人に対しての質問状を持っていきました。 ポールが一人づつ配ってくれて、たわいもない質問なので気さくな感じで面白がって答えてくれました。 凄く打ち解けてくれました。 年も同じぐらいの若い女性だし、片言の英語しか喋れないので警戒心を解いてくれたよいうです。 30分だけと言われましたが、結局3時間いました。 ジョン・レノンがお世辞ではなく日本に行きたいと言っていました。 </p><p>日本に行ったら相撲レスラーに会いたいというんです。 翌年来るとは夢にも思っていませんでした。 相撲から思い出して、4人の手形を貰ってそこにサインをしてもらいました。 6月29日から7月3日までの僅か103時間の日本での滞在でした。 高速道路を閉鎖して、空港からホテルまで10数分で行ったそうです。 ホテルから武道館までも同様でした。 ホテルも武道館も若い女の子が一杯でした。 警備員が8000人担当したと言われています。 失神してしまった女の子もいて、救急車が何台も来ました。 ビートルズの人気は世界的なものでした。 武道館では11曲歌って35分でした。 それを5回やりました。 絶叫だらけで音も聞こえないような状況でした。 有名人も来ていました。 </p><p>1時間ぐらいインタビューをしました。 お土産屋が一杯あるんですが、彼らは日本製のカメラを買っていました。 ジョン・レノンが日本の子どもたちは今一番何が人気があるのかと聞いて来たので、思いつかなくて「シェー」(おそ松君の)と言うのが流行っていると言ったら、面白がってやってくれました。(写真がある。) </p><p>8月一杯14都市でアメリカでコンサートを行いました。 結果的にはビートルズの最後のライブになりました。 私は6都市でコンサートを見ました。 どこも11曲35分間のコンサートでした。 日本では最後の曲が「<span class="util-Delimiter" face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #cccccc; margin: 0px 5px; position: relative;">-</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">I'm</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> In </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">Love</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> (Demo<span style="font-size: 14px;">)</span></span>」でしたが、アメリカではロング・トール・サリーに皆で決めたと言っていました。 ニューヨークのシェア・スタジアムは何万人もはいれて3階までいっぱいで、少しでも近づこうと人が降って来るんです。 吃驚しましたが、下にセーフティーネットが設置されていました。 失神する子が大分いました。</p><p>*「ヘイ・ジュード」 ポール・マッカートニー<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">によって書かれた楽曲</span></p><p>私の一番好きな曲です。 1967年にはロンドンのビートルズのレコ―ディングにも立ち会う事になります。 8月にビートルズを育てた<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">ブライアン・エプスタインという</span>マネージャーが不慮の事故で突然亡くなってしまいます。 そういったことを口実に会えなのか交渉したら、レコーディングをしているから来ないかと言われ行きました。 普通レコーディングしているところなどは絶対いれてくれません。 2時間以上いました。 </p><p>1970年にビートルズが解散。 いろいろ泥臭いことがあったようです。 1980年12月8日にジョン・レノンが撃たれる。 吃驚しました。 最初聞いた時にはそんなに思っていませんでしたが、4枚目の<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">『</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">ヘルプ!</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">』(</span><span face="sans-serif" lang="en" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;"><i>Help!</i></span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">)を聞いて、凄い曲を作っている連中だと思いました。(何言ってるんだ今頃と馬鹿にされました。) いい時代に接したと幸運に思っています。 </span></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-14318538616355153922024-02-26T09:35:00.001+09:002024-02-26T19:49:23.421+09:00頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~<p>頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~ </p><p>「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3%81%AE%E7%9E%B3">二十四の瞳</a>」は作家<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%BA%E4%BA%95%E6%A0%84"><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">壺井 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">栄</span></a>が1952年(昭和27年)に発表した作品で1954年に<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E6%83%A0%E4%BB%8B">木下<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">恵</span>介</a>監督高峰秀子主演で映画化され大ヒットしています。 </p><p>「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」 (「二十四の瞳」)</p><p>代表作には「二十四の瞳」のほかに、<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『母のない子と子のない母と』、</span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">『柿の木のある家』などがあります。 </span><span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">1899年(</span>明治<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122;">32年)生まれ。</span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">壺井 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">栄は祖母から昔話、子守り歌などたくさん聞いて育った。 素直な文章で朗読には向いている。 「下積みの人たちが激しい生活の中に秘めている深い怒りや悲しみを、その人たちにも読まれるように書くことが深淵になっている。」と言っています。 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">壺井 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">栄自身も大変な貧乏、病気で苦労しています。 </span></p><p>「二十四の瞳」は小さな島の岬の分教場に新任の若い女性の先生がやって来て、1年生の12人の子供との交流を描いた作品です。 <span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">壺井 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">栄も小豆島出身です。 山、川、海があり温暖で日本で最初にオリーブを栽培したところです。 昭和3年から昭和21年までが」描かれている。 </span></p><p>「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」 (「二十四の瞳」) この言葉は読み終わってから見ると非常に胸に応えます。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「女子のくせに自転車に乗ったりして。」 </span>(「二十四の瞳」) 先生が自転車に乗ってやって来る。 生徒の言葉です。 今では当たり前のことですが。 規範から逸脱することが気に食わない。 大石先生の自転車以来、女の自転車もようやく流行り出してくる、という事になってゆく。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「生意気と言われてけなされた彼女の洋服や自転車は、それがきっかけとなって流行り出し、今では自転車に乗れぬ女は無いほどだ。 だが20年近い歳月はもう誰も若い日の彼女を覚えたはいまい。」 ルールからはみ出して決まりを破って、それでようやく世の中が変わってゆくわけです。 でもその最初の人は非難されてしまう。 世の中が変わった時には忘れられてしまう。</span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「戦争は自転車迄も国民の生活から奪い去って、敗戦後半年の今、自転車は買うに買えなかった。」 </span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「私は女に産まれて残念です。 私が男の子でないのでお父さんは」いつも悔やみます。」 これは紫式部も言っています。 長い間女性は嘆かなければならなかった。 </span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「選挙の規則が改まって、普通選挙法というのが生まれ、2月に第一回の選挙が行われた。 2か月後のことになる。」 </span>(「二十四の瞳」の冒頭の文章) 昭和3年2月20日の第一回普通選挙、満20歳以上のすべての男性に選挙権が与えられた。 女性には選挙権がなかった。 女性に選挙権が与えられたのが昭和21年4月10日の選挙です。(戦後) </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」 </span>(「二十四の瞳」) 1954年には映画が公開された。「七人の侍」「ゴジラ」(第一作目)も公開された。 <span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">木下恵介監督は原作を重視する監督でした。 戦争の影響はまず不況と言う形でやって来る。 貧しい村です親が娘を売るようなことが起きてくる。 大石先生の生徒も売られてしまう。 </span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「今日の一家の命を繋ぐために、冨士子は売り払われたのだ。」 </span>(「二十四の瞳」) この時に大石先生がかけてあげた言葉が、<span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」でした。 不幸は人を孤独にさせる。 </span>孤独だけでも癒してもらえればどれだけ助かるか。 人生にはどうしようもないこともある。 そういう時には泣くことが物凄く大切です。</p><p>「沖縄の惨劇にも広島、長崎の原爆にも渦中にいなかった日本人は他人事の様に涙を流さなかった。 涙が足りなかったのである。 それほどざらざらした世相だった。」山下恵介監督 </p><p>*「故郷」 作詞:<span face="sans-serif" style="background-color: white; color: #202122; font-size: 15.104px;">高野辰之</span> 作曲:岡野貞一 </p><p> 「うさぎおいしかのやま・・・」とあるが、当時日露戦争で子供たちにうさぎを取らせて、その毛皮を寒い戦地に送るためにやっていたといことです。 そうすると大分印象が違います。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「病気になっても村に医者はいなかった。 良く効く薬もなかった。 医者も薬も戦争に行っていたのだ。 おばあさんが亡くなった時には村の善宝寺?さんまでが出征して留守だった。」 </span>(「二十四の瞳」) </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">成長した生徒たちは徴兵されて戦場に行きます。 戦死したり障害者になったりする。 </span></p><p><span style="color: #444444;"><span style="background-color: white;">大石先生にも子が出来るが青い柿の実を食べてなくなる。 </span></span><span style="background-color: white; color: #444444;">「近年村の柿の木も栗の木も熟れるまで実が成っていることがなかった。 みんな待ち切れなかったのだ。 子供等はいつも野に出て「つばな(茅花)」を食べ「いたどり(虎杖)」を食べ「すいば(酸葉、蓚)をかじった。 土の付いたサツマイモを生で食べた。」 </span></p><p>子供の御棺を作るのにも木材がなく古いタンスを利用して作る。</p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「一家そろっているという事が子供に肩身の狭い思いをさせる程、どの家庭も破壊されていたのである。」 </span>(「二十四の瞳」) 学徒は動員され、女子供も勤労奉仕に出る。 それが国民生活だと大吉たちは信じた。 戦争で亡くなった家には門のところに門標が飾ってあって、それは名誉なことされた。 それが戦後になると隠すようになる。 大石先生の夫も戦争で亡くなり、母子家庭となるが就職が不利になる。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「自分だけではないという事で、人間の生活は壊されても良いというのだろうか。」 </span><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"> </span>(「二十四の瞳」) 皆が大変だから大変でいいのか、我慢していいのかという問いかけです。 </p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">「一切の人間らしさを犠牲にして人々は生き、そして死んでいった。 驚きに見張った眼はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れて止まぬ涙を隠して、何者かに追い回されているような毎日だった。」 </span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;">大石先生の生徒の磯吉が目が見えなくなって戦争から帰って来るが、「死んだ方がましだ。」という。 </span><span style="background-color: white; color: #444444;">「死にたいという事は生きる道が他にないという事よ。 可哀そうに、そう思わないの。」とたしなめる、 </span></p><p><span style="background-color: white; color: #444444;">子供のころに大石先生やみんなと撮った写真があり、目の見えない磯吉はそれを手に持っていて、いう。 「それでもな。 この写真は見えるんじゃ。 な、ほら真ん中のこれが先生じゃろ。そして・・・。」 </span></p><p><span style="color: #444444;"><span style="background-color: white;">木木下恵介監督は長期ロケをして撮影したフィルムは10万フィートとなり、完成フィルもはや約1万4000フィート(7倍以上)、普通は2倍程度。</span></span></p><p><span style="color: #444444;"><span style="background-color: white;">何故そんなに自然の美しさをフィルムに捉えようとしたのか、それを語っている言葉。</span></span></p><p><span style="color: #444444;"><span style="background-color: white;">「悠久の天地、自然のなかで、なぜ人間はおろかな戦争を始めるのであろうか。 何故いじらしい命を捨てさせるのであろうか。」 </span></span>(「二十四の瞳」)</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p><p><span face="Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif" style="background-color: white; color: #444444;"><br /></span></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-14781703525546554362024-02-25T07:28:00.000+09:002024-02-25T07:28:10.178+09:00阪哲朗(指揮者) ・〔夜明けのオペラ〕 更なるオペラの発展に向かって<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E5%93%B2%E6%9C%97">阪哲朗</a>(指揮者) ・〔夜明けのオペラ〕 更なるオペラの発展に向かって </p><p>去年琵琶湖ホールの芸術監督に就任、<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">山形交響楽団の常任指揮者として6年目を迎える</span><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;">阪哲朗さんに話を伺います。 阪哲朗さんは</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">京都市立芸術大学作曲科を卒業後</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">ウィーン国立音楽大学指揮科にてK.エステルライヒャー、L.ハーガー、湯浅勇治の各氏に師事、</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">1995年第44回</span>ブザンソン国際指揮者コンクール<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">優勝。 ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアなどヨーロッパの歌劇場に招かれ成功を納めます。 2008年、2009年にかけての年末年始には</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">ウィーン</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">・</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">フォルクス</span><span style="background-color: white; color: #444444; font-family: Arial, "Hiragino Kaku Gothic ProN", sans-serif;">オーパー</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">歌劇場で「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%86%E3%82%82%E3%82%8A_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF)">こうもり</a>」を指揮し、絶賛を浴びました。 ヨーロッパ歌劇場で指揮した公演数は25年間で1000回を越えました。 2017年にドイツから帰国、</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">山形交響楽団の常任指揮者に就任、2020年京都府文化賞功労賞を受賞、2022年と2023年のNHKニューイヤーオペラコンサートの指揮も務めています。</span></p><p><span style="color: #202122; font-family: sans-serif;"><span style="background-color: white;">指揮するだけではなく、各団体の楽譜を作ったりもしています。 小さい時から音楽は好きでした。 ピアノは4歳から始めました。 両親の出身は山形でしたが京都に住んでいました。 高校は普通の高校で野球部でした。 合唱部にもいました。 野球部で指を故障して合唱部に行く回数も増え、2年氏の時に先生から指揮者をやるように言われました。 </span></span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">京都市立芸術大学作曲科に入りました。 指揮をするのが好きで行動していたら、先生方が会議をして指揮者として卒業させるという方針になりました。 ミュージカルが流行って舞台芸術に触れたことが大きかったです。 オペラに興味を持って、学外の関西の音楽団体のところへピアノを弾きに行ったり、練習の指揮をしに行ったりしました。 大学の4年の学園祭で「こうもり」を上演しました。 男性が少なくて美術の人を動員して苦労しました。 </span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">*</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">「こうもり」 作曲:ヨハンシュトラウス2世 頭の部分</span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">ウィーン国立音楽大学指揮科に留学しました。(2年間) 24歳からオペラの現場に行くことになり、そちらの方が面白くてずっといることになりました。 オペラはシンフォニーとかとは違って実験的なものをやり過ぎるとお客はついてこないので、興業として成り立たないと忘れ去られてしまう。 オペラは演劇がもとにあってBGMの様に音楽があって、歌ってみようかという事で歌が入ってとか、芝居の延長線上であると思っています。 お客の集中力のコントロールを音楽でやっていて、聞いて欲しいところ、ぬいてもいいところがあります。(4、5時間のものもあるので) </span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">1995年第44回</span>ブザンソン国際指揮者コンクール<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">優勝した時は27歳でした。 このコンクールは小澤さんが優勝して有名になりましたが、ドイツでは知られていないですね。 2017年に帰国、</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">山形交響楽団の常任指揮者に就任。 「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%AE%E9%A8%8E%E5%A3%AB">ばらの騎士</a>」は今稽古が始まっている最中です。</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"> 琵琶湖ホールでは「ウイーンの風」といタイトルで「フィガロの結婚」、「こうもり」もやり、その集大成が</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">「</span>ばらの騎士<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">」です。</span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">*</span><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">「</span>ばらの騎士<span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;">」から「三重唱」 作曲:</span>リヒャルト・シュトラウス</p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p><p><span style="background-color: white; color: #202122; font-family: sans-serif;"><br /></span></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6603486548892984106.post-26480769784446460842024-02-24T07:35:00.001+09:002024-02-24T11:35:33.757+09:00吉野隆子(オーガニックファーマーズ名古屋)・〔わたしの人生手帖〕<p> 吉野隆子(オーガニックファーマーズ名古屋)・〔わたしの人生手帖〕</p><p>名古屋市の中心で20年間毎週土曜日の朝、全国でも最大規模の有機農産物の朝市が開かれています。 農家の高齢化に伴って後継者の問題が深刻な課題になっていますけれども、期待が寄せられているのが農業と縁のなかった人たちが新しく農業を始める新規の農家です。 この朝市はそうした人たちが農業を始めるまでをサポートし、有機の野菜を売る場を確保するとともに消費者と生産者との交流の場となっています。 朝市を運営する(オーガニックファーマーズ名古屋代表の吉野隆子さんです。 吉野さんは大学卒業後大手商社に勤務、夫の転勤に伴って名古屋で2004年オーガニックファーマーズ名古屋を立ち上げ実績を上げてきました。 去年には全国農業推進協議会副理事長に就任しています。 今日は新しくく農業を始める人たちを応援し続ける吉野隆子さんのこれまでの人生を伺います。</p><p>朝市では今はほうれん草,なばな、キャベツ、大根、ニンジンなどいろんな色どりの野菜が揃います。 焼き芋、焼き菓子もあります。 オーガニックの物ばかりです。 運営側が受け取っている手数料が安くて、机一つに並べる形で4000円でやっています。 3年目までは2000円でやっています。 朝8時30分から11時30分までです。 当日の運営をボランティアが手伝ってくれています。(子供と大学生) ずっと独りでやって来ましたが、去年一人アルバイトでやってもらっています。 3時間の間の300人から500人ぐらいのお客さんが来ます。 出店は農家ではなかった人が多いです。(企業を退社とか) </p><p>高校生の時に貧血が酷くて頻繁に立ち眩みがあって、起立性低血圧と言われて、「治らないので一生付き合いなさい。」と言うことを言われました。 でも出会ったのが、玄米食事療法でした。(玄米と野菜を中心にした食事療法) 有機野菜を食べなさいと言う指導を受けてはじめました。 弁当も玄米でこそこそ食べていました。 1年ですっかり良くなりました。 子供の本に興味があって子供の本の仕事をしたいと思っていましたが、出版社は全く募集はしていなくて、商社に行きました。(事務職) 結婚を機に会社を辞めることになりました。 夫の転勤で名古屋に来ました。 新聞で野菜の宅配があるという事を知りました。 会員になって1年後にスタッフにならないかという事を言われ、行くことになり畑などに行くようになりました。 有機農業の面白さを自覚するようになり、はまってしまいました。 夫が東京に転勤になり、東京農業大学に学士入学しました。(3年生に編入) 2年間フルに授業を受けました。 </p><p>同じゼミの人が有機農業の団体の事務局をしていて、手伝ってほしいと言われて手伝っていました。 その人が就職して山形の方に行ってしまうという事で、泣きつかれてやることになりました。 その幹事会に出ると知らない事ばかりでした。 有機農業をやりたい人が一杯いるが、辞めて行ってしまう。 辞める理由は販路がないからという事でした。(40代初め頃) </p><p>スタートが2004年で20周年を迎えます。 朝市をやろうと言い出したのは市役所の方で、立ち上げから手伝う事になりました。 出店したいというとその家の田んぼ、畑を確認に行っています。 農家の人に一緒にいてもらうので、判らないことがあるとその人に聞いてもらう、相談してもらう機会として、畑に行く作業があり、これを大事に思っています。 一番の問題点は安売り合戦になってしまうという事です。 注意をして辞めなければ出店をご遠慮させてもらいます。(今までに3人ぐらいいます。) お客さんと出店農家、出店農家同士の会話が凄く多いです。 誰がどんなものを持ってくるか、ホームページを見ていただくと直ぐわかります。 </p><p>朝市村が県の研修機関になっていて、そのうちの何軒かは受け入れ機関になっています。 新規就農したいという相談が来るようになって、サポートできる体制を作って行くことが大事だと思いました。(2009年) 「笑顔の種まき」というキャッチフレーズがあります。 岐阜県の白川町で相談に来た人が8人いて、農業に加えて林業とか観光とか相まって地域の活性化にもつながってきています。 ここまで続けてこられたのは農家に対する尊敬と感謝だと思っています。 今一番やらなければいけないことは経済的な部分をきちんとして、次の人を作らなければいけないという事ですが、なかなか難しいところです。 お金は出店料だけで補助金はなしでやっています。 ボランティアの人への交通費の支払いもあります。 経済的なところを何とか成り立たせたいという事が一番です。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>秋田宏http://www.blogger.com/profile/05331105087224388563noreply@blogger.com