2023年8月31日木曜日

正田ユキミ(女子少年院 元法務教官)  ・“これでもか”と向き合った なぎなた人生

 正田ユキミ(女子少年院「丸亀少女の家」 元法務教官)  ・“これでもか”と向き合った なぎなた人生

正田さんは91歳、生涯打ち込んできたのが、薙刀です。  19歳の時に法務教官になり、四国で唯一の女子少年院「丸亀少女の家」で、薙刀の指導を始めます。  少女たちに薙刀を通して、心の清さを伝え続けた正田さん、これでもかと向かい続けた薙刀人生で見えてきたものを伺います。 

薙刀の長さが2m15cmありmす。  3/4は樫の木でできています。   先端が少しカーブしています。    棒みたいに振り回したのが小学校3年ぐらいですかね。  8人兄弟でした。  父は男は軍人に成れ、女は学校の先生に成れと言うのが、基本の考えでした。  土曜日の午後になると青年団が庭に来て剣道の練習をしていました。  私は防具を付けて、打ち込みで立っている役でした。  こんなこといつまでやってられないと思って始めたのが薙刀でした。  本格的に薙刀を習い始めたのは小学校5年生からですが、最初座って観るだけでした。  「見とり技」という事に気が付いたのは大きくなってからです。   つまらなかったが辞めませんでした。  何事も一生懸命やるタイプでした。   

第二次世界大戦がはじまると竹槍の練習をしました。  先生は「一人でも多く殺せ。」と言うような指導の仕方でした。   日の丸の旗をもって、母と姉と私らで兄を送り出しました。   短い命でした。  薙刀は戦争の意識を高めるものとして禁止に、薙刀の道具は焼かれ、稽古をすることさえ許されませんでした。  100本ぐらい焼き、涙が出ました。   改めて薙刀が手に入ったのは2年後でした。  18歳で学校を卒業して、戦争孤児を保護する「少女をよくする家」の門戸を叩きました。  小学校の先生になりたかったが、師範学校の通知が来たがお金がないので、諦めるように母から言われました。     新聞に「丸亀少女の家」の記事が載っていました。   

昭和25年4月1日に「丸亀少女の家」に行きました。   周りはおばあさんばっかりだから有難いと言われましたが、貴方が来てくれても払うお金がないと言われました。     無報酬で行きました。  仕事をしたいという気持ちだったのかと思います。      そこは軍隊の倉庫だったところでした。  子供達は30人ぐらいいました。  戦争孤児たちは親を奪われ、家を奪われ、罪のない人を戦争は虐めるものかと思いました。     高校を出た程度では教えるものはないし、勉強しなくてはいけないとひしひしと思いました。   法務教官になるのに一生懸命勉強しました。(19歳で取得)   

色々な犯罪を犯した少女たちが入っていました。  「こんなものいらん。」と言って、全部ご飯を投げつけた少女がいました。  ご飯粒を全て食器に戻すように言って、「こんな粗末なことをしたら、そのうち必ずバチが当たる。」と言って、3時間ぐらいかかって対応しました。  自分の涙と鼻を擦り付け、腕のあたりがカビカビになってしまいました。   そんな中で、薙刀の稽古はしていました。  昭和40年頃?、勤めだして20年ぐらい経っていましたが、薙刀を教えるのに全職員が受け入れてくれるまで、時間が掛かりました。  武器にするのではという思いがあったようです。   認めてもらえるように努力しました。   稽古が終わって汗をぬぐって整列して「ありがとうございました。」と挨拶した時のすがすがしい顔、それは何とも言えません。   稽古で多い時には70人ぐらいいました。   ふてぶてしい子だった子がいましたが、素直になって行きました。  今では80歳過ぎていると思います。  

「もやもやを薙刀を通して吐き出して、自分の身体を軽くしなさい。」という事を言ってきました。   薙刀の大会への参加も認められるようになりました。  恥かしくない試合が出来ました。  参加することに周りの反発が強くて、ようやく職員も認めました。  なんでも時間が掛かると思いました。   囲いのなかだけの教育ではいけない。    その人が持っているものを発揮できる場所をいくつも作る、それが教育かと思います。  いろいろ言ってくることを受けてやって、それに対して全部本人に考えさせて行く、それが大事だと思います。 

出所した少女たちに会うという事はないです。  私が薙刀の大阪大会に香川県代表で出た時に応援に来てくれたことがありました。  会う事はなかったが、幸せになったなと感じ取りました。   薙刀は私の命です。  今でも「これでもか、これでもか」と頑張ってています。   現在でも「丸亀少女の家」では薙刀の授業が月に2回続けられています。
















 


















 
















    








 

2023年8月30日水曜日

照屋恒(語り部)            ・対馬丸の生存者・対馬丸記念館の語り部

 照屋恒(語り部)            ・対馬丸の生存者・対馬丸記念館の語り部

照屋さんが語る戦争体験というのは、終戦一年前の1944年の8月、沖縄から九州に向かった疎開船対馬丸を襲った悲劇です。  対馬丸は奄美大島と鹿児島県本土との間に位置するトカラ列島悪石島の近海でアメリカ軍の潜水艦の魚雷によって沈没、800人近くの子供を含むおよそ1500人が亡くなりました。  当時4歳だった照屋さんは、疎開の為母親や姉と対馬丸に乗船していて、家族のなかでただ一人生き残りました。  微かに覚えている母親の最後の言葉を胸に、壮絶な体験の語り部活動を始めた照屋さんの思いを聞きます。

対馬丸の語り部は2004年から12人の体制で始まりました。  私は当時4歳だったので詳しくは判らないです。  ですから自分の体験を細かく話すことはできないし、語り部の事は最初は断っていました。  乗っていたという事は事実であり、現状試行錯誤で語り部をやっています。  父親は大阪で軍の仕事をしていました。 祖父母の那覇市に母と姉と私が行きました。  沖縄が戦場になるという事で大阪に帰ろうという事になって対馬丸に乗ることになりました。  1944年の8月21日の夕方に対馬丸は港を出港。   対馬丸は老朽貨物船でした。  甲板まで約10mぐらいあり、縄梯子で登って行きました。  二段ベッドがあってそこで寝ていた、という事でした。  子供は畳一畳に3名の子供が座っていたという事でした。  凄く暑くて禁止されていた甲板で寝た学童もいたという事です。  学童は旅の気分でした。  

出航して27時間30分、8月21日の夜10時過ぎ、対馬丸は鹿児島県悪石島の北西10kmの地点を航行中にアメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受ける。  海水が入り込み、甲板に登れず船と一緒に沈んでいったものと思います。  姉は学童疎開なので、船の先端の方に乗っていて、一般の人は船尾の方に乗っていました。  私と母親は船尾の方に乗っていました。   母親に手を引かれて甲板にあがりました。  「早く海に飛び込め、飛び込んだら早く船から離れろ。」という言葉が、残っているような気がしました。  10mあるし暗くて、大人たちが投げたという話もあり、私の場合は母親と一緒に飛び込んで、船から離れていきました。  醤油樽に縄が十字に結わえてあり、母親と一緒に縄を掴んでいました。  しばらくして、母親が「姉を捜しに行くので、縄を絶対に離してはいけないよ。」と言われ、母親は暗い海へ消えて行きました。 それが母親との別れでした。   

船の船員に助けられる間の記憶はないです。  宮崎にいた父親の兄弟の一番下の妹(伯母)が宮崎から大阪の方に私を迎えに来ました。  しばらく宮崎に生活していました。  食糧事情が悪くて、残っていたおこげを貰って食べていました。  沖縄に帰るという事になり、叔母と一緒に船に乗って行き、捕虜収容所みたいなテントで2,3日過ごしました。その後祖父母、叔母などと一緒に現在のうるま市に住みました。  小学校2年の夏休みに那覇市に移りました。  「運が良かったね。」と言われるが、憐みのように聞こえて気持ち良くなかった。 記憶がほとんどないので、何か言いたくても何も言えない状況でした。

対馬丸記念館が出来て、協力してほしいとの声があったが、60代で身体の自由が利くのでやりたいことはたくさんありました。 対馬丸に関わりたくないという事が一番大きかったです。   波の音は足を引っ張らるような感じがして嫌でした。  先輩が活動してきて話をしてきたが、自由が利かなくなって段々少なくなっていきました。  出来るうちに協力しておかないといけないのかなあと思い承諾しました。   記憶がほとんどない中、どう表現したらいいのか、迷いました。   段々話す事にも慣れて行きました。 

子供達に話す時に、「戦争だけはやったら絶対駄目だ、やらないんだ。」といつも話します。  記憶がほとんどないので、対馬丸のことをもっと聞いておけばよかった、という思いはあります。  対馬丸の語り部をやってるという事は一つの自信にはなっています。(成長した。)    体験者が少なくなっていき、関心を持っている人が継続していただければ有難いと思います。  是非対馬丸記念館を見ていただき、聞いて「戦争は駄目だ。」という事を感じていただきたい。









  


















 










 







 

2023年8月29日火曜日

稲田弘(世界最高齢トライアスロン選手) ・90歳"鉄人"は、今が青春!

稲田弘(世界最高齢トライアスロン選手) ・90歳"鉄人"は、今が青春! 

60歳から水泳を始めて、70歳で水泳、自転車、マラソンを組み合わせたトライアスロンに挑戦、76歳では トライアスロンでは最も過酷な226kmに及ぶアイアンマン(鉄人)レースに挑戦し、卒寿の今もアイアンマン(鉄人)レースに挑戦し続けている方がいます。  79歳で記録した世界選手権の年代別優勝タイム15時間38分25秒はいまだに破られていません。   84歳と86歳での世界選手権優勝は最高齢のギネスの認定を受けました。  90歳の今なおアイアンマン(鉄人)レースにチャレンジし続ける、「今が青春」という稲田さんにトライアスロンにかける情熱を伺いました。

身長は159cm、体重が53kgです。  60歳の定年を迎える頃に自宅近くにスポーツジムが出来ました。  妻が難病でそばについていなくてはならない。 このまま自分もいると駄目になってしまうと思って、健康のためにジムに入って水泳を始めました。   最初は3mぐらいしか泳げなかった。   そのうちタイムも良くなって全国マスターズ大会にも出場するようになりました。  64歳の時に面白半分に、水泳仲間とスイムが1,5km、ランが10kmという大会に参加しました。  完走出来ました。 段々タイムが良くなって69歳の時にロードバイクを買ってしまいました。  70歳の時に千葉市の幕張でトライアスロン大会が開かれ参加したら、完走できてしまいました。  その3か月後に妻の容態が悪化して、亡くなってしまいました。  しばらくは何も手に付かなかった。  一人暮らしなのでトライアスロンを続けるしかないと思いました。 

年に4回ぐらいはトライアスロンに出るようになりました。  茨城県の大会では 70歳の私は最高齢で、最高齢者特別表彰を頂きました。  以後トライアスロンにはまってしまいました。   ①オリンピックディスタンス:スイムが1,5km バイクが40km ランが10km     ②ミドルディスタンス:スイムが1,9km バイクが90km ランが21km     ミドルディスタンスに74歳、75歳の時に、年代別優勝をしました。  76歳の時にアイアンマンレースに挑戦しました。 ③アイアンマンレース:スイムが3.8km バイクが180km ランが42,195km の合計226kmです。  五島長崎で行われたアイアンマンジャパンという大会でしたが、最後のランで足がつってしまって、制限時間内にゴールすることが出来ませんでした。  

本気でやるんだったら、千葉の稲毛にオリンピック選手が出ているクラブがあるからそこでやるように言われ入りました。   コーチのもとに練習しましたが、今までとはけた違いの練習でした。  精神的にも肉体的にも進化しました。  77歳の時にミドルディスタンスの大会があり参加しまして、優勝してミドルディスタンスの世界選手権の大会の出場権利を貰いました。  世界選手権の大会はアメリカのフロリダで行われました。     75歳以上で6人いて2位になりました。   同年韓国でアイアンマン大会が開かれ参加して、そこでは制限時間(17時間)の2時間前にゴール出来ました。  アイアンマン世界選手権の出場権利を得ました。   78歳で初めて出ました。 事前の体調管理が良くなくて水泳で呼吸困難になり、途中でドクターストップがかかってしまいました。

逆に奮起して、2012年(79歳)のアイアンマン大会では15時間38分25秒のコースレコードで優勝しました。  前年の優勝者よりも1時間半ほど早いタイムで、未だに破られていません。   体調管理をずっとしてくれた山本淳一さんと妻には感謝でいっぱいです。  2015年の大会では制限時間が16時間50分だった。(10分短い)   この時にはゴール直前で転倒して、よろめきながらゴールしましたが、16時間50分5秒で失格になってしまいました。  海外のメディアが「不運の完走」という事で伝えました。  感動したという声が沢山来ました。  これを機に、応援してくれる人たちのために答えるためにやらなければいけないと思いました。  2016年の大会では制限時間が17時間に戻されて、前年よりも1分速いタイムで優勝できました。(凄く辛かったが、周りの応援で死んでもいいと思いました。)  最高齢の優勝者としてギネスに記録されました。    2018年には仲間がツアーを組んでハワイまで応援に来てくれ、優勝することが出来ました。(86歳 ギネス登録)  

睡眠は8時間とっています。  身体は毎日動かしています。(水泳、バイク、10~15kmのラン)  食事は栄養士さんに聞いて、自炊しています。 朝は野菜中心で、20種類ぐらい入ったスープ、蜂蜜とブルーベリージャムをたっぷり付けたパン、肉は鳥の胸肉、豚肉とかを食べています。  夜は玄米ご飯茶椀に一杯、おかずはめざしなどの青魚、納豆にキムチを混ぜたもの、具沢山の味噌汁がメインになっています。  90歳、急激に衰えてはきています。  筋肉の衰えはあるが、肺機能の低下は大きいです。  一昨年、自転車のトレーニング中に車と接触してしまって、骨盤を骨折してしまい、2か月半入院する羽目になりました。   リハビリを続けて、よくなって来ました。  膝の半月板も痛めて、痛みはありましたが、レースを完走するレベルまで回復しました。  

老化は人間の宿命ですから、老いには逆らわず努力で補っていけば、技術の改善は図れる。一番大切なのは楽しんでやる事です。  9月のフランスのニースで行われる世界選手権で自分の記録に挑むのが目標でしたが、6月に行われた予選で、コースミスで走ってしまって、失格になってしまいました。  12月にオーストラリアの大会(予選)に出場するようにしました。  完走すれば来年のハワイの選手権(91歳)に出場できるので完走したいと思っています。   トライアスロンに駆り立てるのは好奇心と情熱です。     今が青春だと思っています。   引退するようになったら、自転車で世界中を回って、今までお世話になった人たちにお礼を言って回りたいと思います。  同世代、若い人へのメッセージとしては「兎に角やってみること」が大事ですね。  こういう人生を送りたいという夢を持っていないと生きていてもつまらないですね。 























































 

2023年8月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 ボブ・ディラン

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕  ボブ・ディラン 

彼の代表曲「風に吹かれて」が発表されてから60年が経ち、また2016年にはノーベル文学賞も受賞して、80歳を過ぎた今もコンサートツアーと創作活度を続けています。  伝説の歌手ボブ・ディランの絶望名言です。

「何度見上げたら青い空が見えるのか。  いくつの耳を付けたら為政者は民衆の叫びが聞こえるのか。  何人死んだら判るのか。   余りにも多く死に過ぎた。  その答えは友達を風に舞っている。  答えは風に舞っている。」   ボブ・ディラン

代表曲には「風に吹かれて」、「時代は変わる」、ライク・ア・ローリング・ストーン」、天国への扉」などがあります。  現在82歳でまだ活躍中です。  2016年にはノーベル文学賞も受賞。  1974年に刊行された「ボブ・ディラン全詩集」、1993年には「増補版」?も出版しています。  2005年に刊行された「ボブ・ディラン全詩集 1962~2001」2020年に刊行された「The Lyrics1961~1973」と「The Lyrics1974~2012」の2冊。 

「風に吹かれて」は人間の根本的な問題迄書きこまれている。  根本的な問題はずーっと解決しないままで居る。  どうしたらいいかという答えはまだ風に舞っている。    当時21歳でこの曲で一躍有名になる。  1963年8月28日ワシントン大行進(人種差別撤廃を求めるデモ 大群衆を前にキング牧師が行った演説が有名。で演奏する。     ボブ・ディランはフォークの貴公子」と呼ばれる。  ボブ・ディランを見出したのはジョン・ハモンド新たな才能を発掘する)という人です。  ボブディランの才能を見出したもう一人の人が居た。  グロスマンというマネージャーで、商売としてボブ・ディランに目をつけた。  

「叶わぬことと判っていても僕はただただ願うばかり。  またあの部屋でみんなで一緒にただ座っていたらと。  またあんな日に戻れるとしたら1万ドルでも僕はすぐに喜んで差し出すよ。」  ボブ・ディラン  

21歳で、過去を懐かしむにしては若過ぎるが。  

*「ノー モア オークション ブロック」 オークション ブロックは奴隷が売買される時に立たされた競売台  「風に吹かれて」の元になっている曲。 演奏、歌:ボブ・ディラン

「どんな気持ちだ。 どんな気持ちだ。 独りぼっちになるというのは。  帰るところがないというのは。  知り合いもなく生きるのは石ころみたいに転がって行くのは。」                              ボブ・ディラン

この曲はそれまでと違っていて、ギターとハーモニカだったのが、 この曲はバンドの演奏で、エレクトリックです。   この変化が物議をかもし、大不評だったが。      

「一度でもいいから俺の靴の中身になって2週間でもいいから入れ替わってみないか。   そうさ、一度でもいいから俺の靴の中身になってみたら、あんたがどれだけ足を引っ張っているか判るだろうよ。」   ボブ・ディラン

相手の立場になって考える。  しかし、なかなか難しい。  

「山々を掌中に握りしめ、そこを縫って流れる川は日々水が絶えることがない。  そんなときもあったのに、僕は頭がおかしくなっていたのだ。  すべてを捨て去って初めて自分が手に入れていたものに気づくだなんて。」   ボブ・ディラン

山と川は比喩で、非常に豊かなものを自分は手にしていたのに、それを捨ててしまって、捨ててしまってからその価値を知る。  

1966年にボブ・ディランはオートバイに乗って転倒して怪我をする。  7年半隠遁生活をする。  

「私はバイク事故に遭って怪我をしたが、それはすでに回復していた。  本当のところは競争ばかりの社会を抜け出したかった。  子供を持ったことで人生が変わり、私は周囲の人や世の中の出来事から遠く離れた。  家族以外のことには興味を持たず、何もかも違った眼鏡を通して見て行った。」   (事故当時は25歳) 

「昨日俺は通りで誰かが泣くよりほかにどうしようもないのを見た。  おーこの川が流れ続けるのです。  何が邪魔に入ろうと、風がどちらに吹こうと、川が流れ続ける限り、俺はここに座って川の流れるのを見る」  ボブ・ディラン  

泣くよりほかにどうしようもないのってありますよね。  

1980年代に入るとアルバムのペースが落ちてきます。  ライブの観客動員も減ってくる。1990年にアンダー・ザ・レッド・スカイ』を発表後、アルバムを出した後は、7年間作らなくなる。  1997年アルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年ぶりに全米トップ10に入り、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した。  そこからは今に至る。

「頼む、銃を埋めてくれ。 2度と使う事はない。  黒い雲が空から降りる。  天国のドアを叩く。 そんな気がする。  コンコン叩く天国の扉。 コンコン叩く天国のドア。 コンコン叩く天の扉。 コンコン叩く天国のドア。  コンコン叩く天の扉。 コンコン叩く天国のドア。」 ボブ・ディラン  

「ビリーザキッド21歳の生涯」の挿入歌。  映画のなかで保安官が死んでゆく。 バッジを外し、銃を捨て、目の前が暗くなってゆく。  天国の扉をノックする。 ノックしても開くかどうかは判らないが、ノックし続けている。 
















































2023年8月27日日曜日

斎藤美穂(舞台監督)          ・〔夜明けのオペラ〕

斎藤美穂(舞台監督)          ・〔夜明けのオペラ〕 

大坂出身、大阪音楽大学と大学院で声楽を学んだあと、東京に出て舞台監督集団の会社に入り、当時はほとんどいなかった女性舞台監督の道を切り開いてきました。  これまでに新国立劇場では「アンドレア・シェニエ」や「ナブッコ」などのオペラを手掛け、他にはミュージカル、能、文楽とオペラのコラボレーション、和太鼓の公演など幅広い分野で活躍、この春には新国立地劇場で出演者が300人を超えた「アイーダ」を手掛けました。  舞台の幕が上がり、カーテンコールを迎えるまですべての鍵を握る舞台監督の仕事とは、舞台裏のエピソードを含めて、お話を伺いました。

つい先日終わったのが新国立劇場のオペラ研修生たちの公演の舞台監督をやりました。   オペラの業界では「チビタ」で通っています。  18歳の時に裏方のアルバイトに行った時に、おじさんがいきなり「おい チビタ」と呼ぶんです。  それ以来、「チビタ」で通っています。

「アイーダ」は約300人と馬2頭が出演しています。   ジュゼッペ・ヴェルディの舞台の作り方、見せ方、今までに出会ったことのない人でついてゆくのが必死でした。 

*「アイーダ」の「凱旋行進曲」

以前「アイーダ」をやった時に、イタリア人のテノール歌手でジュゼッペ・ジャコミーニとう名テノールがいますが、出番の時にぶるぶる震えているんです。 こんな世界的な有名な歌手が震えているのかとびっくりしました。  出ると堂々と歌いました。          

小学校3年生から声楽の先生のところにレッスンに通いました。  大阪音楽大学と大学院で声楽を学びました。  或るきっかけで、アルバイトとして舞台監督部に入って行きました。   私は機構で動くものと人間が動かすものがコラボしながら展開されてゆくのが一番大好きで、機械だけだとA地点からB地点までしか行かない。 人間が動かすと人間でしか見えない妙技が出てきてそれが面白かった。  舞台監督は女性の方が向いているかもしれないという人も現れてきました。  他の世界も同じかもしれませんが、男性、女性両方いるからいいものが生まれてくるという事があると思います。 

「トスカ」でスカルピア男爵をトスカがナイフで胸を刺そうとする場面で、トスカがナイフを持って襲い掛かろうとした瞬間に、ナイフがくるくると床に落ちてしまった。  さて、どうするのかと思っていたら、人差し指を突き出してスカルピア男爵の胸を刺したんです。そういったこともありました。   そういったハプニングはしょっちゅうあります。   そういったハプニングをお客様に判らないようにみせてゆく能力も必要です。

別の「トスカ」のある場面で、燭台を倒して帰ってきてしまって、本人に聞いたら「なにが」と言っていました。   スカルピア男爵が火事になったらいけないと思って一生懸命倒れた7本の蝋燭を踏んでいました。  よっぽどの事故がある限りでないとオペラは止められない。  

*「トスカ」から「歌に生き恋に生き」  歌:マリア・カラス

舞台で一番幸せだなあと思う時は、幕が開く瞬間です。  幕が開く迄が大変なので。  お客さんが、カーテンコールを何回やっても帰ってくれない作品に何本か出会って、あれも幸せでした。   舞台監督の使命は、①作品の命を守る事、②人の命を守る事この二つです。   人が増えるにしたがって危険度は増しますが、上手く出来るのは危険回避能力をあげているんです。   舞台監督は醍醐味を味わったら駄目だと思うんです。 いつも冷静で、的確な指示が投げかけるような、態勢と精神でいないと駄目だと思います。

秋からは和太鼓の稽古があります。 その先もいろいろ詰まっています。 

*オペラ「カヴァレリア・ルスティカ-ナ」から「 賛えて歌おう





































2023年8月26日土曜日

桂由美(ブライダルデザイナー)     ・ブライダルを広めたい

 桂由美(ブライダルデザイナー)   ・ブライダルを広めたい

桂さんは昭和5年4月24日 東京都生まれ。  1964年(昭和39年)東京赤坂に桂由美の名前を付けたドレスのお店を開いて、その活動をスタートさせます。  桂さんというとどうしてもウエディングドレスを思い浮かべると思います。   桂さんがデザインしたウエディングドレスを着て式を挙げたい、そんな夢を見た人も多いかもしれません。     そんな桂さん、ウエディングドレスを広めたかったわけではなく、ブライダルという言葉を日本に伝えたかったそうです。  結婚式に向かって様々なことを準備して、その本番の式に向かう全般を表す言葉、ブライダルの精神が大切だと説きます。  世界を股にかけて活躍を続ける桂さんですが、意外にも福井県の若狭町とは30年以上の付き合いがあって、新たな活動の拠点にもなっています。 

ターバンは150個持っています。 顔がちょっと大きいので、芯を入れて顔が小さく見えるようにしています。  上着(75着)とブラウス(75着)と色を合わせようとすると、150になります。   選ぶのが大変です。  色は季節を意識しています。

母親は洋裁学校をやっていて、近所の人に編み物を教えていました。  靴下から私が着ているものはすべて母親が作ったものです。  小さいころはロマンチックが大好きな子供でした。  父親に絵本を買ってもらって読んでいました。(見ていた。 3歳~5歳)   綺麗な世界に浸っていたい、ロマンチックな子でした。   夢見ていたことを実現させようとしてきた人生という事です。   母の洋裁学校には当時2000人の生徒がいました。(昼と夜間で)   仕事を終わってから洋裁学校に行く女性が多かった。     300人ぐらいがもう少ししっかり勉強したいという人たちが出てきて、自分のウエディングドレスを作って、ショーをやって、卒業することが条件になりました。  私が担当して、ウエディングドレスがいかに貧弱かが判りました。   専門の店を作らなければ、日本のブライダルの進歩はないと思いました。  1950年ごろ、ウエディングドレスを着る方は3%ぐらいしかいなかった。  外国人と結婚する人か、クリスチャンぐらいでした。  私が初めてブライダル専門店を開きました。 今は95%ぐらいがウエディングドレスを着るようになりました。  

私がアイデアをさらしましたが、悲しかったのは一番大手のデパートにブライダルコーナーがありませんでした。   コーナーを設けるように説明しても、和服がドル箱であると言われてしまいました。(お色直しがなかった。 和服は単価も高い)  銀座の街を泣きながら帰った思い出があります。   自分で店を開く決心をしました。  洋裁学校で給料をもらってそれをつぎ込んで何とか持っていました。(1,2年目)   オリンピックのあとで高度成長期に入って行きました。   そこで一番華やかになるのは結婚式でした。 結婚式は料理は松竹梅として、貸衣裳屋は振袖だけではなく江戸時代にやっていた打掛を導入しようという事になりました。  振袖は余ってしまうという事になり、お色直しという事があることに着目しました。(3日後に行うしきたり)  振袖は卒業式などで着れるが、ウエディングドレスは結婚式しか着ることができない。  そこでチャンスが来ました。  白いウエディングドレスで行われてきましたが、1981年にチャールズ皇太子と、ダイアナ妃の結婚式では、ウエディングドレスは先に着るものだという事が広がりました。 その後ウエディングドレスを先に着ようという時代になって行きました。

ウエディングドレスの製作の実技的なことについては、若狭の或る社長が手を上げてくれ、ウエディングドレスを作る工場を建てました。(30年前)   中国などでもウエディングドレスを作る工場がありましたが、人件費が高騰し、ベトナム、ミャンマーへ移動してしまいました。  日本でウエディングドレスを作っている工場は若狭だけになりました。  昨年その工場の隣に、日本で発表されたウエディングドレスと関連のものを集めたミュージアムを開館させました。  新たな取り組みを始めて、アニバーサリーウエディングと名付けています。  誕生日、家族の何かの記念日、お祝いの場でドレスを着てお祝いをしませんかというものです。  欧米で取り入れられている最近の動きだと言います。

30年後、40年後にもう一回記念にあげるというアニバーサリーウエディングがありました。  神戸で4組の方が行いましたが、「女房がこんなに綺麗だとは思わなかった。女房に惚れ直した。」と言って、「こんなことは言われたことはなかった。」と言って涙を流していました。  結婚していない娘さんが、結婚したくなったとか、結婚式を挙げていなかった方が結婚式の大事さが判った、というようなことを言っていました。

頑張っているのは、責任感だと思います。  今後結婚式も多様化すると思います。   野外の結婚式も今後増えると思います。   








 









    





















2023年8月25日金曜日

當間ローズ(歌手・モデル)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 大切な家族を幸せに

當間ローズ(歌手・モデル)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  大切な家族を幸せに

1993年ブラジルで生まれ、5歳の時に家族で来日し、日本という異文化の社会で、外国から来た子供の一人として、苦労を乗り越えてきました。  静岡県湖西市で小学校から高校まで過ごします。  高校時代から芸能界に入り、モデルを中心に活動、2018年には歌手としてもデビュー、2019年には大河ドラマ「いだてん」にも出演、現在30歳、歌手、モデル、俳優とマルチに活躍しています。  今年の4月からラジオで放送している「ちきゅうラジオ」の土曜日のMCを担当しています。  

身長が185cmあります。 筋トレは自分のライフワークというか、ほぼ毎日行っています。  最低1時間半はやります。  ジム2軒に通っています。  ブラジルとイタリアと日本の血が入っています。  1993年ブラジルで生まれ、5歳の時に家族で来日して静岡で育っています。  父はイタリアと日本、母はポルトガルとスペイン系の血が入っているので日本の血は1/4です。  家ではポルトガル語で、母が日本語が話せずひそひそと泣いていたのを目にしました。  小学校1年生から日本の小学校に通いました。  その時には日本語は全くしゃべれなかったです。  自分で表現できないので、仲間外れにされたり、辛い思いをしました。   外見も違うし、小学校3年生ぐらいまで、いじめには会いました。   最初は言葉の暴力から始まって、本当の暴力に発展しました。  

母があざを見つけて、一緒に登校して先生に身振り手振りで説明しました。  ようやく先生にいじめのことが伝わりました。  校内ではないところが多かったです。  両親に迷惑をかけてはいけないと思って、自分で乗り越えようとしていました。   だんだん少なくはなって行きましたが、中には虐める子もいました。  父の仕事の関係で、小学校4年生で転校しました。  そこの学区はたくさんの外国人の子供が居て大丈夫でした。   中学校では何をしても目立ってしまう存在で、やはりいじめに遭いました。  高校では生徒会長をしました。   虐めに対することを何か率先してやりたいと思って、生徒会長になって、地域活動を率先してやることによって、ありのままの自分で生きていけるんだ、周りの外国籍の子供達もありのままの自分でいいんだと思ってもらえるような活動をしようと思いました。  

芸能活動をするために、生徒会と勉強をずーっとしてきました。  アルバイトもしてきました。  高校1年生からオーディションに行きました。  小学生時代は友達もなくテレビが一番の友達でした。  自分もテレビの出られれば、認めてくれるんではないかと思いました。  両親は最初反対されましたが、どの後認めてくれました。  母親は苦労した家庭で育ったので、自分に対しては温かい目で育ててくれました。  兄弟は4人で僕が長男です。  次男、三男と長女(双子)です。  大学に行くことは芸能活動をする上での両親との約束だったので、行きました。  芸能生活も11年目になり、やっと皆さんに知っていただけるようになりました。  喜んでくれています。  20歳の時に、父と共にお金を工面して家を建てました。  家族が活動する原動力、励みになっています。   弟も芸能活動をしようとしています。  父親は謙虚で真面目、明るい人です。   

「ちきゅうラジオ」での「ちきゅうキッズだより」は海外に暮らす日本の子どもたちの作文を紹介するコーナーです。 日本も日本だけでは生きていけない時代で、海外との繋がり、少子高齢化で外国の方が働きにくるというようになった時に、どうしてもそういった方と付き合っていかなくてはいけない時に、子供たちが一番教えてくれるコーナーだと思っています。  海外の暮らしを純粋な目で、新しい発見をしてゆく、溶け込んでゆく姿も、これからの日本の社会にも必要なことだと思います。  両サイドから学べる素敵なコーナーだと思います。  

音が来は大好きです、本業が歌手なので。  作詞、作曲もします。 ダンスも学んでいました。  生け花もやっています。  最初は趣味でやっていましたが、依頼を頂いて今はお仕事になって来ました。  去年は京都東福寺系の・・(聞き取れず)に自分の個展をやらしていただきました。   好評でした。  独特な生け方になっています。  お花には、そこには心があって、自分の思いで大切に飾ってあげれば、お花は喜んでくれるので、その心を大切にして活けさせていただいています。   今回使ったフラワーは全部ロスフワワーです。 ロスフワワーはフードロスと同じ発想です。  ちょっと欠陥のある花は破棄されてしまいます。   そういう花も命があり、輝ける場所を与えたいという思いから、そういう花を引き取って「薔薇色の人生プロジェクト」というプロジェクトを立ち上げました。     個人とか、養護施設の子供達、国際学校の子供達、普通の学校に届けるプロジェクトです。

その花たちは規格外と言われていて、自分も或る意味規格外で、自分と重なりました。   或る時に胸に挿してあったロスフワワーの薔薇の花を、少女にあげたら物凄く喜んでくれて、逆に僕が癒されて、こんな尊い瞬間ってあるのと思って、「薔薇色の人生プロジェクト」でいろんな子供たちに贈るように始めました。  「一花一笑」、お花ひとつで笑顔になれる。  お花ひとつでその一日が楽しくなれる。  お花の処理は結構ありますが、お花に向き合ってると癒されます。 薔薇は嫌いな人はいなくて、僕もみんなから好かれる存在になりたくて「ローズ」という芸名にしました。  僕が大切にしていることは「真心」です。  心がこもっていればどんなことでも辛くないんです。  夢は北海道から沖縄まで「當間ローズ」を知って欲しいと思います。  子供達に夢を与えられたらいいなあと思います。

































 








































  

2023年8月24日木曜日

江川悦子(特殊メイクアップアーテイスト)・〔私のアート交遊録〕 特殊メイク~ハードルは高く!が私の流儀

江川悦子(特殊メイクアップアーテイスト)・〔私のアート交遊録〕  特殊メイク~ハードルは高く!が私の流儀 

北朝鮮がミサイルを発射して、緊急ニュース報道で、中止となりました。

2023年8月23日水曜日

清水節江(ローズガーデンオーナー)     ・【心に花を咲かせて】原野を開拓し夢のバラ園を実現

 清水節江(ローズガーデンオーナー)     ・【心に花を咲かせて】原野を開拓し夢のバラ園を実現(初回:2022/1/26)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/01/blog-post_26.htmlをご覧ください。

2023年8月22日火曜日

小林一夫 (おりがみ会館館長)      ・ORIGAMIで"紙"ニュケーション

小林一夫 (おりがみ会館館長)      ・ORIGAMIで"紙"ニュケーション

 1941年生まれの81歳。 東京文京区湯島に156年続く和紙メーカーの4代目で、お茶の水折り紙会館の館長のほか、NPO法人国際折り紙協会の理事長も務めています。      30代から本格的に折り紙をはじめ、日本の和紙や折り紙の文化を伝える為世界を旅してきました。  会館では折り紙教室のほか、即興折り紙の実演を行っていて、外国人観光客がひっきりなしに小林さんのもとを訪ねています。  折り紙でコミュニケーションの輪を広げる小林さんにお話を伺いました。

色々夏らしい作品が並んでいます。   連鶴、一枚の紙でずーっとつながっています。   3cmの鶴が25羽ぐらい繋がっています。  手すき和紙が丈夫だからできます。     30種類ほどのご祝儀袋の折り方が展示されています。  貰ったものが折り方で何かという事がわかるんです。   そういう意味合いがあります。  壁一面に大きな世界地図があり、2cmぐらいの小さな鶴が貼り付けられている。 世界中からお客さんが来ています。  3階はショップになっていていろいろな折り紙が並べられています。   折り紙の実演コーナーもあります。    

初代文部大臣森有礼がドイツの教育者のフレーベルの弟子がアメリカへ移民して、そこでの出会いでした。  アメリカで教育に折り紙が使われているのを初代文部大臣森有礼が見て日本に戻りました。  幾何学的なデザインのものをやっていました。   日本は独自に発展していて、折り紙が教育に使われるという事が参考になっただけです。   最初は神様に奉納したりするのに熨斗紙などが誓われました。  室町時代になって来て、儀礼を各大名に教える流派が出来ます。   折鶴は昔から伊勢神宮にあるんです。  庶民の遊びになったのは江戸時代です。   明治時代に幼児教育に取り入れらっるようになりました。(富裕層)    1970年代に折り紙の文化を広く伝えようという事で折り紙会館を開設した。  本来折り紙は身近にあって楽しんで、皆を喜ばせる事です。 僕は偉い人は必要ないと思ったんです。  折り紙の文化史を書きました。  本格的に折り紙を始めたのは30代の頃です。  知らず知らず毎日やっているうちに出来ちゃったという感じです。 最初は箸袋とか身近な物でやっていました。   こういった紙がいいと思うと上が工場なのでどんどん作っちゃうんです。  

その後いろんな国に行きました。  マレーシアのペナンに行った時、聾唖の学校に行きました。  英語が喋れないので皆さんと同じだと言ったら、反響が凄かったです。 最後はみんなが見送ってくれました。  大きな紙を使って見せるとみんな判ります。  折り紙でコミュニケーションが取れます。  海外の方も多いです。  話が出来なくても目を見ればいいんです。   今年、スペインの人が来て、ここで愛を打ち明けたいというんです。   折り紙で薔薇を折って渡す、指輪を作ってあなたが渡しなさいという事をすればいいわけです。   そういったことは毎日のようにあります。  空いている時間で薔薇と指輪をたくさん作っておきます。   

道具を使わずに紙一枚で年齢性別を問わずに楽しむことができる。  きちんと合わせる必要がない、僕は空中で折っています。   折り紙の文化を正しく伝えたいという気持ち、誰が来ても自然と公平にやっています。  











  

天野安喜子(花火師)          ・〔にっぽんの音〕         

 天野安喜子(花火師)          ・〔にっぽんの音〕

1970年東京都出身。  江戸時代から続く花火の老舗「鍵屋」(鍵屋初代弥兵衛、奈良・篠原村より江戸へ出て日本橋横山町で店を開く。葦の管に火薬を練って小さな玉をつくり、「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したところ、飛ぶように売れたという。) 「鍵屋」の15代目。 1650年創業でおよそ360年余りになります。  六代将軍徳川家宣の時代には「流星」という花火を打ち上げたという記録があります。  花火の現場は火の神が宿ると言われていて、女性が禁制でした。  時代の後押しもあって、私は女性でも15代目を継ぐことになりました。  鍵屋が本家で、番頭が腕もいいし、人間性もいいという事で、暖簾分けをして「玉屋」を名乗らせて、それ以降、「玉屋」「鍵屋」という掛け声が江戸時代は盛んに呼ばれるようになりました。  打ち上げて静かになる瞬間には「鍵屋」という声は聞こえます。

大学卒業後2年間の花火製造の修行を終えて家業に入り、2000年に父親の跡を継いで「鍵屋」の当主になりました。   江戸川区の花火大会をはじめ各地の花火大会のプロデュースを手掛けています。 柔道家としての一面もあります。  国際柔道連盟審判員も務めています。  2008年の北京オリンピック、2021年開催の東京オリンピックの柔道競技審判員として参加しました。   今年の6月にはモンゴル、グランバートルで柔道の国際大会審判、8月5には4年振りの江戸川区花火大会が開催され、手掛けました。  忙しと私自身充実します。  小学校1年生から柔道を習い始めて、国際大会では銅メダルを頂いたこともあります。     

1976年から開催された江戸川区花火大会は今年で48回目、初回から「鍵屋が手がけてきました。   打ち上げ総数1万4000発、140万人近くの観客数を誇る国内最大級の花火大会。   江戸川区と市川市が実行委員会を立ち上げて、花火を中心に両方からお客さんがご覧いただけます。  日本一の集客数を誇っています。 名物は巨大な富士山の仕掛け花火、高さ50m、幅280mで毎年異なる富士山を表現する。  そのためには75トンラフタークレーン車が河川敷に2台搬入され、50mの高さに吊って、火をつけると雄大な情景が描き出されます。  今年のテーマが「夜明けの富士 生命の息吹」です。 

花火師は、一昔前は花火を作って、花火の組み合わせを考えて打ち上げていました。   最近は民家が密集してきて大きな花火が打ち上げられなくなってきています。   打ち上げる花火の演出の時代になってきました。   まず情景を作って、花火の種類(色、形、光、音)を差し込んで、花火の点火になってゆく。(演出をしてゆく)    

コロナ禍で3年間暗いトンネルでした。  鍵屋ではコロナ終息の願いを込めた花火を打ち上げてきました。  そのなかでの4年振りの花火なので、皆さんに幸せなところでスタートできるんだねと言うところの気持ちを、奮い立たせていただければ有難いと言う思いがあります。   活力、心の豊かさも必要になってくる時であろうという事で、まずは雄大、に安全に打ち上げて行こうと思いました。   花火の思い出は色々あり、共有できるという事はいいことだと思います。  

「ヒュー--」とまずなりますが、効果音を入れています。  筒の中には上げ火薬、花火玉、その上に上空まで達するときに音を出せるように「笛」という花火を入れます。   それを入れないと無音で上がって行きます。 「笛」は音の変化も付けることは可能です。 私の花火師としてのこだわりは「間」ですね。  大きな心の波を生み出すためには、一呼吸置く「間」、感動の域が違ってくる感覚を持っています。   良いものだけ出していてもお客様は飽きてしまう。   ここぞという時に見せる「間」を調整しています。

遠隔操作で花火筒から距離をとって、電気で打ち上げて行きますが、①コンピューター方式で打ち上げる方式、②手動式(ボタンを押す)があります。  私は「間」を大事にしたいと思いますので、手動式に重点をおいて「間」を大事にする方式にしています。(ライブ感がある)   作業は大変ですが。   江戸川花火大会が終わった後、「鍵屋有難う」という事で携帯電話の光を当てて下さいました。  凄い光(何十万という)で「鍵屋」は守られているんだという思いが湧き、圧巻でした。  涙が出ました。  心がつながっている、それがお祭りの良さという部分だと思います。

「かむろ」という花火は横に一辺広がって来てから柳の様に垂れてくる。  「柳花火」はもっと繊細で情緒があります。  「牡丹」は360度どこから見ても丸く見えます。   「菊」は360度どこから見ても丸く見えますが、大きく開いてゆくときに線が入るのが「菊」です。  「牡丹」はその線が入らないです。 花火全体の雄大さ、 色、形、光、音を身体で感じるという事を目的として、足を運んでいただくと、また違ったいい思い出が出来ると思います。   音楽に合わせて打ち上げるという事も出てきましたが昔ながらの花火の愛で方が7割ぐらいになっています。  

父も柔道家でもありました。(親戚も)  父の姿がかっこよかったです。  それに憧れ、追って来たので、迷いも悔いもない、覚悟も決められました。   母から事あるごとに「父は立派で素晴らしいと、だけど人の道から外れたことをすると怖い」と暗示をかけられてきました。   両親に感謝です。 30歳で15代目を襲名しました。  1年後ぐらいにプレッシャーをいろいろな場面で感じました。  母から「もっと肩の力を抜いて、そんな姿でも良かったらお付き合いください、そんな気持ちのも力でいいんじゃないの」と言われて、ほっとしました。  自分らしさを出せばいいんだと気付きました。  周りに支えられて、本当に恵まれていると感謝しかないです。  

古きものの良いものに蓋をすることなく、心の豊かさにつながってゆくものであれば表にどんどん出すべきだと思います。  新しいものだからと言って、心を豊かさにするかどうか、見極めをしっかりしなければいけない。  心の豊かさも花火を通じて、打ち出せたら、届けられたらいいなあと思います。  

日本の音とは太鼓、花火の音と似ています。 今は通年でやるようになってきています。






















  


















 

2023年8月20日日曜日

白央篤司(フードライター)       ・〔美味しい仕事人〕 自炊力を養う

白央篤司(フードライター)       ・〔美味しい仕事人〕 自炊力を養う 

白央さんはかつてライター達の先輩が生活習慣病に罹る様子を見て、何をどう食べたらいいのか、何を補給し、何を減らすべきなのか、を考えるようになったいといいます。       30歳になった白央さんはさらに、食事と健康そして経済性を強く意識するようになって、その考え方と実践法を自炊力としてまとめて今も発信しています。  料理には得意、不得意がありますが、経済的かつ健康的に食べるスキルである自炊力を身に付けることは、元気に暮らしてゆくうえで大切な事という白央さんに伺いました。

そこだけで愛されている食べ物、料理とかあるという事が興味深いです。  旅のテーマとしていろいろなところへ行っていました。  若い人でも地域の味に馴染んでいるんだなあという事が判りました。  「にっぽんおにぎり」写真の絵本です。  各県を一つのおにぎりで表してみようというコンセプトで考えました。  0歳児も喜ぶとおかあさんから手紙を頂きました。   和歌山県は梅干しの一大産地なので梅を選びました。  福島県はいか人参を切り(郷土料理)にしておにぎり美味しいだろうなと、紹介しています。  食に関する歴史、思いもお子さんたちに紹介できると思っています。  

47の都道府県の人気の郷土料理の連載を雑誌にやりましたが、2年間目の前で観ていましたが、段取り、切り方などを見てきました。  経済的に自分の料理をまかなって行きたいと思いました。   以前会社にいる頃、先輩たちが飲んで食べているうちに、身体を壊したり、生活習慣病的な病気になってしまったりという事があって、自分の体調も管理できる力が必要だと思って、実践を自分なりにしてきました。  40歳を超えた或る時に、ブログに或る思いを書きました。  本にした方がいいという事で本にまとめました。    総合力として自炊力だなと思いました。  病気していない状態を如何にキープするか、何を食べ過ぎない、何を摂り過ぎない、何が足りないかなどという考える力が必要だと思っています。 

一番多いのが続けられないという事でした。  やってみると、三度三度栄養素をきっちり整えようとするんです。  それは中々できないことです。  自炊力を早く身に付けておく方が、良いかと思います。   まずは簡単なやり方で始めた方がいいかと思います。(ちょっと手を加えたカップみそ汁とか)   スーパーと違ってコンビニはほぼ完成された食材ですね。  作りたくない時、出来合いのものをどんどん活用していただきたい。 それに一寸何かを加えてみることもいいと思います。 

自炊力は複合的な力だと思っています。  楽に済ませたいときには、みそ汁とか豚汁に野菜とか、缶詰を利用して具沢山にするのがいいと思います。  ちくわ、魚肉ソーセージなどもタンパク質が足りない時などお勧めです。  味噌は冷凍できるので長期保存ができます。  いろいろなものが少量ずつ余った時などは、みそ汁、スープ、鍋料理などで利用します。(ちゃんぽん料理)    無理せず、楽に、そしてそこそこ美味しく、ために飛び切り美味しいものを狙うのもよし、手の込んだものを作るのもいいかと思います。    料理する力を持っていると、その人が亡くなってしまっても、思い出の味を作れる。         











 







 









2023年8月19日土曜日

新宮晋(彫刻家)            ・風が奏でる命の賛歌

 新宮晋(彫刻家)            ・風が奏でる命の賛歌

新宮さんは半世紀にわたり風で動く作品を作って来ました。  風の動きや強弱によって刻々と姿を変える作品は風の翻訳機とも言われ、世界中で共感を呼んでいます。     作品作りで見えてきたのは、自然は命の根源であり一人一人が生かされているという事、風と向き合う中で感じた命への思いを伺います。

アトリエのすぐそばに新宮さんの作品があります。  池にたたずんでいます。 水辺の鳥のような感じです。  周りの時間、景色、時の流れの中で作品が存在するという事が、僕は見たいんです。  昭和12年新宮さんは4人兄弟の末っ子として大阪で生まれました。    教育熱心な母と骨董集めが趣味で芸術鑑賞が大好きだった父、その影響で幼いころから絵を描き始め、絵画のコンクールでたびたび受賞します。  小学校のころ、母の絵を多く描いていました。  東京芸術大学を目指し20倍の狭き門を突破、現役で入学、油絵を学びます。   浪人してホッとしている人が多くて、何か幻滅を感じて東京にいたらいけないと思いました。  

大学卒業後ローマに留学、ローマ国立美術学校で絵画を学び、この地で風と出会います。  イタリアが気に入りました。   抽象画から入ったが、形の面白さ、色の面白さを純粋に取り上げようと思ったら、色、形の動きで表現しようとしたら、面白い形がいっぱい出てきました。  形があって、バックがあり、なんで背景があるのかを考えました。     額無しをやろうと思いました。  絵を切り取って吊るしてみたところ、或ることに気付きました。   吊るして写真を撮ろうとしたら動いちゃうんです。 風が吹いているんです。  風に応じた形、メカニックを組み込んだら、もっと面白く動くのではないかと考えました。 

風の存在に気付きました。  動くものが生き生きと見えてきました。  作った作品はイタリアでは評価されませんでした。  日本の大阪の造船所の社長に作品を案内したら気に入ってくれました。  1966年帰国、大阪の造船所にアトリエを構え、技術者の援助を受けながら制作に励みます。  翌年東京の日比谷公園で展覧会を開催すると、大きな注目を集めます。  屋外展示物をやる人は当時いませんでした。  大阪万博に関係する人はほとんできてくれました。  無名ですが、選ばれました。  1970年に大阪万博が開催されました。   水面にたたずむ作品が展示されました。  ニューヨークタイムズが写真を撮りに来ました。 スポットライトを当てられましたが、そこから逃げていました。   いつも先にある自分がチラッと見えちゃうんです、それが悪い癖です。  

60歳の時にある思いが湧いてきます。  地球のことをもっと知りたいと思いました。  思いついたのが世界中を回る野外彫刻展でした。(ウインドキャラバン)  ニュージーランドの無人島、モンゴルの大草原など世界6っか所をめぐりました。   風に対する信仰は共通していました。   ニュージーランドでやった時にはマオリの4つの部族は普段は仲が悪いが一緒に手伝ってもらいました。  作品を観に人々は集まって来ました。   僕の作品を観て、モロッコでは少女が、「こんな美しい音楽を聴いたことがなかった。」というんです。  そういった経験が地球の未来に対して、何かできることがないのかと思った時に、そういった子供たちを作りたいと思いました。   

今、子供たちと一緒に取り組んでいる活動があります。  こいのぼりのようなものにメッセージや絵を描いて掲げる「元気のぼり」です。  東日本大震災で被災した人たちを元気付けようと、2011年の5月に始めました。  宮城県の閖上(ゆりあげ)港を中心の方々が賛同していただきました。   「元気のぼり」に彼らも描き足してくれて一緒に掲揚しました。  戦禍のさなかにでも掲揚すれば、「ミサイルを撃ち込むのか。」というような、平和のメッセージになると思います。  世界の平和に貢献できるのではないかと、アートいというのはそんなもんだと思うんです。   これこそ風のアートだと思います。    風には国境もなく、人種差別もない、メッセージとしては判りやすいと思います。    アートは脳を通さずに、心から心へだと思います。 

地球のすばらしさを作品を通して言い続けてきた、これを誰かが別の方法でもいいから、続けて欲しいと思います。   





































 

村上しいこ(児童文学作家)       ・絶対にしあわせになるんや

 村上しいこ(児童文学作家)       ・絶対にしあわせになるんや

今年デビュー20年を迎えた村上さん、三重県出身、53歳。  絵本から小説まで幅広く手掛け、2015年には野間児童文芸賞を受賞しました。  今年4月の発表した著書「あえてよかった」の舞台は学童保育所です。   妻に先立たれて自暴自棄になっていた主人公が学童で働き始め、子供たちの悩みや心の傷、純粋な思いに触れるうちに、生きる希望を取り戻してゆくという物語です。  自らは父親の再婚相手から虐待を受け、学校ではいじめに遭っていたという村上さん、小説や絵本にどのようなメッセージを込めているのか、伺いました。

「あえてよかった」には、他の作品にも共通しているんですが、誰かと出会う勇気であるとか、自分から一歩前に踏みだす勇気を持ってもらいたいという思いがあって、この作品を書きました。   学童を通して本当の心の声を聞いて欲しい、知って欲しいという気持ちがありました。   東日本大震災があった時に、悔いが残らない人生にしたいという事を話していて、そういったことも影響していると思います。   夫が学童に務めて、いろいろ話を聞いて、衝撃的なこともあるし、親のいる時、いない時の学童の姿は違うものだなあとと言ったことを強く感じました。  

夫から聞いている話の中で感情が動かない、という事が多々あると感じました。  何かに感動することがないとか、覇気がない感じがしました。  そこから子供たちの話をたくさん聞くようになっています。  他人から言われた言葉が身体の中を素通りしていってしまう。   自分の感情がどこか置いてきぼりになって、ここまで来てしまっているのかなあと感じます。  感情を思い切り出せないで、悶々としたままになる。   コロナ禍で、一番感情を養わなくてはいけない時期に、家にずっといてという事も影響していると思います。   自分の感情を養ってゆくとかとか、言葉を覚えてゆくのは読書の一番いいところであり、子供たちに伝えたいなあと思います。  子供達が前に進もうと思った時に、大人が寄り添って前に進むのは大事なことだと思います。  

本は子供のころから読んで好きでした。  大人になって原稿用紙4,5枚の短いお話を書いていたことがありました。  自分の子供に本て楽しいんだよいう事を伝えられたらいいなあと思いました。   私が物心ついた時には母親が居ませんでした。  父親と二人だけの生活でした。  3歳ぐらいで父が再婚して、継母にも子供がいて、最初は姉との差別がありました。   小学校のころ弟が出来ました。  段々差別がひどくなっていきました。  虐待が始まって殴ったり蹴られたりしました。  食べたり寝たり普通の生活が一切許されなくなりました。   笑ったり、しゃべったり、泣いたり、怒ったりと言った当たり前の感情が私から失われて行きました。  暴力だけはエスカレートしていきました。 父は単身赴任の仕事をしていたので、ほとんど家には居ませんでした。  父が戻ってくる時には押し入れにいれられたり、継母の親戚の家に行かされて、私が父親には会いたくないという事を父親に言っているんです。  

小学生になると、継母からの傷があることが虐めの対象になってしまいます。  唯一自分の居場所にしたのが、学校の図書館でした。  物語に浸って、自分を取り戻して、一人ではないんだという事は登場人物たちとの間でした。   「手袋」という絵本では、沢山の動物が入って楽しそうに一緒に暮らしているんです。 「赤毛のアン」も前向きに生きている。  明日にはきっとこんな幸せな日が来るんだと思えば、それは楽しい日々になるんだというのが、私の背中を押してくれました。   

中学2年の時に、自分のなかで本当に限界だと思って、私は死のうとしました。  進路を決める時に、自分には毎日殴られる人生しかなくて、死のうと思ったが死ねませんでした。継母に殴られている時に、「私のことをそんなに憎いなら殺してくれ。」と言いました。(初めての口応えでした 。)   鼻で笑って「お前は半殺し、殺しはしない。」と言いました。  何故自分は死ねなかったと思った時に、今では私には本があった、本当の意味で独りぼっちじゃなかったと思いました。  本からの小さな光が当時からあったのではないかと思いました。  死ぬか生きるかしかなかったので、死なないのなら、絶対幸せになろうと思いました。   20歳までは我慢をして、絶対この家を出て、私は絶対幸せになろうと思いました。  それを心に秘めて、中学卒業後、昼は工場で働いて夜は回転寿司にバイトに行っていました。 昼のお金は全部家にいれて、夜の金は自由に出来ました。

継母から5000円盗んで、身の回りのものをバックに詰めて、家をでて面接をしたら採用されました。  住み込みで、私には個室がありました。  ベッドあり、ご飯、お味噌汁が温かくて、美味しくて、やっと当たり前の生活を手に入れたと思ったのが、22歳でした。    そこをスタートに始めたのは笑う練習でした。 松阪に引っ越したのが26歳でした。  夫と出会う事になったのは29歳ぐらいでした。  牛鍋店に仲居として入り、出会って、1年後に店を始めましたが、半年で辞めました。   本に救われたこともあり、自分の子供にオリジナルの話を書いて上げられたらと思って。原稿用紙に5~10枚程度の話を書いていました。    

夫から「応募してみたら。」と言われました。  或るドキュメンタリー番組を見て、自分は「愛着障害」ではないかと言われました。  他人に愛されてこなかった分、この人を信用したいと思った時点で、その人がちょっと横を向こうとすると、又独りぼっちになるという恐怖にとらわれてしまう。   話を書き始めて、2001年に小さな童話大賞「俵万智」賞を受賞。   或る編集長から「作家になりませんか。」と言われて、60枚書いて送りました。    返事が無くて、ずーっと待っていました。   1年後に年賀状が来て、今年は出しますと書いてありました。  『かめきちのおまかせ自由研究』でした。    ネット社会になって、広く薄くうわべのことは良く知っているが、根っこのところはよくわかって居なくて、子供達には根っこを養ってもらえる様にしてもらいたい。  自分でしっかり根を張っていないと、人を笑顔に、幸せに出来ないと思います。  絶対幸せになれる力があるからという事を子供達に、作品に込めて伝えたいと強く思っています。 周りの大人が子供たちと話をすることで、気持ちが救われることがあると思います。




















 




































2023年8月17日木曜日

海老名香葉子(エッセイスト)      ・〔わたし終いの極意〕 命の限り伝え続ける戦争

海老名香葉子(エッセイスト)    ・〔わたし終いの極意〕  命の限り伝え続ける戦争 

海老名さんは11歳の時に東京大空襲で、家族6人を亡くしたのち、父の友人だった落語家の三代目三遊亭金馬さんに引き取られました。  その後昭和の爆笑王とも呼ばれた初代林家三平さんと結婚、46歳で三平さんに先立たれた後は、おかみさんとして一門を盛り立ててきました。  一方で3月9日に「時忘れじ」の集いを開くなど、平和の大切さを伝える活動にも長き卯取り組んできます。  この10月で90歳を迎える海老名さんに、戦争体験を伝え続ける思い、そして生き方,終い方について伺います。

2005年に東京上野公園に「時忘れじの塔」という慰霊碑を建立。  私と同じように戦争孤児になった人が居ますから、その人たちの命の場?としてどうしても建てたい一心で建てました。 東京大空襲で両親と祖母、兄二人、弟、家族6人を亡くしました。 モンペを履いている母が弟を抱いて私が空に向けて「みんな平和に暮らそう」って言う気持ちの像を建てました。  上のところに時計を付けました。   毎年3月9日に「時忘れじ」の集いを重ねています。   戦後すぐに疎開先から戻って来て、16歳の時に先代の三代目金馬師匠に拾っていただきまして、その後初代三平のところに嫁に行きました。      家族のいきさつを話したら夫が泣いてくれ一緒にお参りしようと言ってくれました。    子供4人を連れて一緒に亡くなったところに行き遊んだこと、多くに他人が亡くなったことなどを話しました。  

東京都の平和の日の栄誉を仰せつかりました。   当時は東京大空襲の惨禍は語られていませんでした。  たった2時間で10万人の人が死んだんです。10日の日に東京都では東京都慰霊堂があり、関東大震災の関東大震災の身元不明の遺骨を納めていましたが、東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、そこで慰霊祭をやっています。  東京都のホールで式典をやります。  3月9日に「時忘れじ」の集いを家族だけでやるつもりでした。  段々集まって来て300人ぐらいになりました。  多い時は1800人集まりました。   

「ババちゃまたちは伝えます」  作曲:田中和音 作詞:海老名香葉子    

 名古屋の女性の方から手紙が来ました。 ロシアの女たちは夫を、息子を、孫をみんな取られている。 100万人の女たちが苦しんでいます。  日本のお母さん助けてくださいと、私に手紙が来ました。  夢中で詩を書いて見せたら、これを世界中の人に歌ってもらおうと言ってくれて、田中和音さんが直ぐ曲を付けてくれました。  日本語以外に英語、ロシア語、中国語になり、ポーランドの人がヨーロッパのことは任せてくださいと言われました。  

生まれが1933年、東京都本所。  生家は釣り竿の名匠「竿忠」   パリの万国博に出品して賞をとったようです。(明治天皇からご褒美を頂いた。)   父は三代目音吉。       音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす。  私は身体が弱くて静岡に疎開していました。(小学校5年生)   機銃掃射にあい、自転車の乗っていた人はやられたようでしたが、私は助かって怖くて逃げかえってきてしまいました。  やられた人がどうなったのか、罪悪感が残ってしまいました。  空襲があるという事で山に登って行きました。  しばらくたってから東京の方が赤いという声が聞こえました。  皆がどうか無事でいて欲しいと思いました。   明け方帰ってきて学校に行ったら、「本所、深川は全滅だってよ。」と友達が言いました。  4日後三男の兄がボロボロの姿で訪ねてきて「みんな死んじゃった。守れなかった。」と何度も泣きながら伝えられ、家族の死を知った。 一晩泊って治療を受けて兄は東京へ帰ってしまいました。

爆撃の情報があるという事で、石川県に行くという事になりました。 伯母さんと子供二人と私で行きました。   石川県の穴水に行ったら本当に穏やかでした。  半年間でしたが心に灯がついた様な気持ちになりました。  そこで玉音放送が流れて、東京の伯母さんの家に行く様に言われました。  伯母さんの家も焼けてしまっていて、余計なものが来たというような感じでした。   何も知らされず、土地も処分されていて、金庫の中身を処分されていました。  親戚の人も、人が変ってしまいました。  家の焼け跡に立った時には本当に泣きました。(11歳)  死のうと思いましたが、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、どんなときでも笑顔でいるのよ」と言われたことが心に残っています。  

行方不明の人は遺体もないので、死亡届にも名前がないんです。  ぐるぐる歩いていました。  家にはかつて金馬師匠が来ていたので、訪ねました。  師匠に会えて「生きていたのか。」と驚いてくれ、私を引き取ってくれました。   三平師匠と18歳で一緒になりましたが、46歳で亡くなりました。   ここで頑張らないといけないと思いました。 弟子は28人ぐらいいて、内弟子も10人ぐらいいました。  

今年で90歳(卒寿)になります。   「おはよう」と大きな声をかけて一日が始まります。  今日はこの仕事をしようと自分で与えます。   一杯病気もしましたが、そのたびに起き直ってしまいます。   死ぬとき迄何かしていたいです。  〔わたし終いの極意〕としては「いつも元気で明るく。」という母の言葉ですね。 






















  




















            










 

2023年8月16日水曜日

山中正竹(全日本野球協会会長)     ・すべては野球が教えてくれた

山中正竹(全日本野球協会会長)     ・すべては野球が教えてくれた 

昭和22年大分県生まれ。 大分県立佐伯鶴城高等学校から法政大学に進み、左腕のエースとして活躍、東京野球大学史上最多の48勝の大記録を打ち立てます。   卒業後は住友金属に入社、選手、監督としてそれぞれ都市対抗野球大会で優勝、監督としては社会人野球日本選手権2連覇も果たしました。   さらに日本代表のコーチ、監督としてソウル、バロセロナのオリンピックでメダルを獲得、法政大学野球部監督を務めてリーグ優勝が7回、選手時代に続いて監督としても全日本大学野球選手権の優勝を成し遂げています。  その後はプロ野球横浜ベイスターズの役員などを経て、サムライジャパン強化委員会本部長として稲葉ジャパンの東京オリンピックの金メダルを支えました。  2016年に野球殿堂入り、現在は全日本野球協会の会長、アジア野球連盟副会長を務めています。 

3月のWBCの優勝で、未だに野球の盛り上がりが続いている感じです。 WBCからいろんなことを教わりました。  野球のすばらしさを改めて感じていただいて、野球に関心を持つ方が増えました。   栗山監督を始め、選手の人たちの発言、行動や発言している内容の意味の高さとか、技術のレベル、知識のレベルの高さを感じさせてくれるような発言等がありました。   私は「品知技」という言葉を使っていますが、品性、知性、技術の3つの要素が、あのWBCから見事に発信されて、これから日本の野球の進むべき道をWBCが教えてくれたなと、あるいはそういう方向で行こうよと示したと思います。  「品知技」を高めて行く、それが野球の進化であり、これからも我々が追及してゆくんだという事をWBCのチームが私たちに教えてくれた。  

祖父からグラブを買ってもらって、それから野球をスタートし楽しくなって行きました。  上手くなりたい、勝ちたいというのがずーっと続いていきました。    決勝までは行きましたが、甲子園に行く機会はありませんでした。  中学時代に大学野球を意識させてくれたのが早慶6連戦でした。(昭和35年) できればああいうところでやりたいという風に思ったのが大学野球へのスタートです。  法政大学に進みました。 同級生で江本孟紀投手がいて有名でした。  一年先輩の田淵幸一捕手山本浩司外野手富田勝三塁手「法政三羽ガラス」がいました。  48勝しましたが、8シーズンのうち優勝は3回です。  他校にも凄い選手がいっぱいいました。  東大以外は各学校が優勝しています。  

初めて登板したのが1年生の春の大会で、途中からメンバーに入りました。  明治とやって完投負けしました。  9回から投げて、敗戦処理としてスタートしました。 その1イニングは抑えることが出来ました。  最後のカードが東大戦で、急遽登板して1-0の僅差で勝ちました。  翌日も途中から出て僅差で勝ち1年生の春の最後で2勝しました。    監督から「1年生で勝ってもすぐに追い抜かれてしまう。」というような意味合いのことを言われて、「よし、俺は4年間頑張り続けてやろう。」と思いました。  素質があったわけでもなく、身体があったわけでもない、飛び切り負けず嫌いではありました。   どうしたら抑えられるか、バッターの研究をしたり、田渕さんと話したり、いろいろな本を読んだりしました。  こうしたほうがいいんだと自分が感じたりしたら、それを徹底的にやってやろうと思いました。(根性)  

負けず嫌いと、考える事と、根性(新根性)が俺には有ったんだと思います。  根性は目標に向かって粘り強く築き上げてゆく精神性で、大事な人的要素だと思います。  それを若い人たちに求めたいと思います。  科学的に裏つけられた理論を完成させるためには、泥臭い積み重ねは必要だと思います。   1984年ロサンゼルス、88年ソウル、92年からオリンピックの正式種目になる。  世界を意識する様になったのは1980年に、世界アマチュア野球選手権大会が日本で開催されました。  準決勝を観ていました。  キューバの選手は日本とは格が違う感じがしました。   キューバの野球を学びました。  その時に私たちは日本代表チームにいて、学びました。   「知学慣等越」 知って、学んで、相手にも慣れ、対等の等、最後は越える、この5つをキューバを意識して、30年かかってキューバを越えるようになってきた。(2000年以降)

「目からうろこを落とす」そういったことを、何度でも体験したい。 キューバの野球を観た時にはそう思いました。   アメリカの大学スポーツはどういうシステムになっているのか、野球人口の少ない韓国、台湾ではどうしてあんなに強いのか、とかいろいろ思いました。 海外の他の種目のスポーツにも関心を持たなくてはいけなくなる。  監督時代の考えなどを組織運営するときに生かさなければいけないという立場にあると思ってやっています。  野球は私の人生を豊かにしてくれる、私にとって大きなツールであると思います。  際限なく課題を与えてくれて、次から次に勉強しろよと言ってくれます。  仲間がどんどん増えて、世界にも増えてゆく。 

稲葉監督が率いたサムライジャパンがオリンピックで金メダルを取る。  大学野球の監督の時に100人を超える部員がいました。  彼らを「仲間」と呼んでいます。   私が伝える事よりも、彼らから教わる方が多い。  そのなかの一人が稲葉でした。  プロ野球に入って、野村監督、栗山監督らと接していって、指導者としての勉強を彼はしていったと思います。  私が思っていたよりもはるかに高い指導者になって行きました。  残念ながら無観客のオリンピックでした。   でもやっていることは凄かった。  監督としてコミュニケーション能力、共感力を稲葉監督に感じました。   信頼関係がないと組織としてうまく進んでいかない。  私らにはない共感力を感じました。(令和の監督)    野球が私の人生を豊かにしてくれた。  野球は学ぶ事の楽しさを教えてくれた。  野球以外の人たちとも知り合え、世界中に仲間が増えて行った。  野球は最高級の遊びだと思います。  真剣にやると得るもの、学びが多い。  こんなことをしたらうまくなるとか、上手くなるためにはどうしたらいいのだろうかとか、という事を自分で考えてゆくことの楽しさを追求していったら、面白いですよと言いたいです。























   










  



























2023年8月15日火曜日

八木倫明(ケーナ奏者・作詞家)     ・音楽は私の使命

 八木倫明(ケーナ奏者・作詞家)     ・音楽は私の使命

昭和33年山形県生まれ。 大学卒業後日本フィルの事務局で仕事をしていましたが、2011年ケーナ奏者として独立しました。  2014年歌手のクミコさんの歌う「広い河の岸辺」で作詞家デビュー、2017年には一コマ漫画家の小澤一雄さんと『わくわくオーケストラ 楽器物語』を出版しています。  

7月は北海道で公演をしました。  4重奏の曲を20曲以上書いて、「やぎりんカルテード・リベルタ」という4人で演奏したかった。  朗読も音楽の間にいれたりして、東京でやっているので札幌で聞いてもらいたかった。  遠軽町でも演奏しました。 

コロナ禍で音楽は不要不急に分類されてしまい、不要不急の仕事に価値はあるのか、考えました。  結論は価値がないという事でした。  価値のない仕事を続ける意味があるのか、結論は仕事としてやれば意味はないが、音楽は仕事ではなく生き方だと思いました。  生き方は使命でもあると思います。 今は不要と思われても100年後に必要とされる音楽や言葉、歌詞を残す使命だと思いました。  仕事とは頼まれてやるもので、生き方,使命は頼まれなくてもやるもので、お金にはならないが、未来にそれが必要とされるものだと思います。

金子みすゞさんの詩を朗読する中村裕子さんと毎年一緒にコンサートしています。 宮沢賢治の童話を読み語ってそれにアイルランド音楽で伴奏を付けるという事も上演しています。宮沢賢治も金子みすゞも不要不急の作家、詩人だったと思います。 彼らは生き方として童話や詩を書いた。  100年後にも聞かれる音楽を残すという気持ちで去年作ったCDアルバムがあります。  「天使と悪魔の絶望名歌集」という肩書がついています。     タイトルは「世界が終わっても音楽と愛が残る」というものです。

*「鶴」 作詞:ダゲスタン共和国ラスール・ガムザートフ (1965年に広島の原水爆禁止世界大会に出席して、特に佐々木禎子千羽鶴の話に感銘を受け、故国に帰ってから戦争で亡くなった人々、特に兵士を悼んで、彼らが鶴となって飛んでいて、自分もいつかそれに加わるだろうという内容の詩をアヴァル語で作った。)  作詞:ウクライナ人のヤン・フレンケリ   「広い河の岸辺」を認めてくれた大前恵子さんという歌手が、私に「鶴」を訳詞してと頼まれたのが2021年の夏でした。  

コロナ禍でNHKの「ニュースウオッチ9」で僕の窮状が紹介され、支援金、支援物資が届きました。 1/3は全く知らない人でした。  その資金でアルバムを作りました。  渡辺麻友さんが自分の歌をネット上に乗せて、それが「広い河の岸辺」だったそうです。  連絡をして一緒にコンサートをやるようになりました。  「世界の果ての少年」という本があり、この小説の劇中歌が「広い河の岸辺」なんです。  この時代の音楽は芸術ではありませんでした。   そこに「世界が終わっても音楽と愛が残る」という言葉が紹介されていました。     この言葉を座右の銘にしています。

目に見えない愛や信頼に生かされていると思います。  

*「ふるさとのナナカマド」  英国映画の「生きる」のラストシーンでこの歌が歌われている。 この歌は7年前に訳してCDにしていました。   脚本はノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんです。  英国版では、その歌は「ふるさとのナナカマド」”The Rowan Tree”(スコットランド民謡)に替わっています。  黒澤明監督の1952年の映画『生きる』を英国版にリメイクした話題の映画です。  スコットランドでは子供が生まれると記念樹として、ナナカマドのが植えられる。 ナナカマドの花言葉は「安全」とか「私は貴方を守ります。」というのがあります。(子供の守護神の木) 

「ふるさとのナナカマド」(やぎりん訳詞)

こどもの頃から わたしの心に
刻まれて消えない ナナカマド
春のはじめには みどりの葉を開き
夏は誇り高く 白い花を
ああ ナナカマド

気高く美しく 白い夏の花
秋には鮮やかな 紅葉のドレス
幸せを運ぶ 真っ赤な実をつけて
心のふるさとよ ナナカマド 
ああ ナナカマド  







































2023年8月14日月曜日

北山雅康(俳優)            ・〔師匠を語る〕 渥美清

北山雅康(俳優)            ・〔師匠を語る〕  渥美清 

1969年8月27日にシリーズ第1作が公開された映画「男はつらいよ」、渥美清さんが亡くなって27回目の夏です。 

私が初めて「男はつらいよ」に出演したのは1988年の第40作目の男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』という作品からです。  最後の1995年「紅の花」で終わったので7年になります。  9作品になります。   20歳でお会いして、役者としてのものの考え方、日頃のどう見聞きしておけばいいのかという事を会話のなかでそれとなく教えていただきました。  

渥美清さん、本名が田所康雄さん、昭和3年東京都台東区で生まれ。  中学卒業後、軽演劇の座長に誘われて初舞台を踏んだ渥美さんは、1953年にストリップとコントが売り物だった浅草フランス座に入り、コメディアンとして人気を博しました。 テレビにも進出、NHKで放送されていた「若い季節」や「夢で逢いましょう」などで活躍する一方、出演した映画やドラマが評判となり、俳優としての地位が確立します。  1968年フジテレビの連続ドラマ「男はつらいよ」に主演、翌69年には映画化されて、以後毎年夏と正月の2本ペースで制作された「男はつらいよ」は次々と大ヒットを記録、国民的映画と呼ばれるとともに、シリーズが30作を越えた1983年には一人の俳優が最も長い映画シリーズとしてギネス世界記録に認定されました。  90年代に入ってからはお正月だけの1年に1本の体制となりますが、作品は特別編などを含めて合わせて50作にのぼります。  またシリーズの合間を縫って渥美さんは今井正監督の「ああ声なき友」、山田洋次監督の「はだから」「幸せの黄色いハンカチ」、野村芳太郎監督の「八つ墓村」など様々な作品にも出演しています。     亡くなったのはシリーズ48作目の「寅次郎紅の花」が公開された翌年1996年8月4日68歳でした。  

男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』のおだんご屋の店員さんの三平ちゃんの役で出演しました。   「ダウンタウンヒーローズ」という山田洋次監督の映画のなかで寮の食堂のおじさん役を渥美さんがやっていて、そこで初めてお会いしました。 (1988年)     渥美さんあは若いころ肺を患って片方切除していて、撮影所は土埃がしていて、水をまいたりしている様な撮影所だったので、ちょっとでも空気のいいようなところにいる様にしていました。(みんなとは離れた場所にいた。)  いまだに本名の北山ではなく、周りからは「三平ちゃん」呼ばれています。  渥美さんは寅さんという感じではなく、凛としていました。  話をすると暖かかったです。  「寅さん」と呼ぶ方はいませんでした。

合間の話のなかで「舞台はいいぞ。」と言っていました。   お客さんとの生の、一体感というか、そういたものを舞台は感じられるので、こういったものかと感じました。

当時はフィルムだったので、何回もNGを出して、大変でした。  撮影現場では本当に家族というような感じでした。   緊張したシーンは三平が集金から帰ってくるんですが、土手に座っている寅さんを三平が見つけるんです。  声をかけるんですが、そこは緊張しました。  スタッフさんからいろいろと脅されるんです。  意外とうまくいきました。 

48作目の「紅の花」は遺作となりました。  リリーの浅丘るり子さんが奄美に帰るのにタクシーに寅さんの一緒に乗ってゆくシーンがありますが、寅さんがかばんを忘れて、三平がそれに気づいて、タクシーを全速力で追いかけてゆくというシーンでした。  信号待ちで追いついて、かばんをトランクに入れて、二人に向かって「行ってらっしゃい、お幸せに。」と言い、道にへたり込んで手を振って見送るシーンでした。  大事なシーンでした。   渥美さんとは今回この作品は最後なるという時に、挨拶をしようと思って、廊下を追いかけて行って「渥美さん、ありがとうございました。 またよろしくお願いします。」と声尾をかけたら、右手を上げて「おう」と一声かけてくれ、その後姿が私の見た最後でした。   

1996年8月4日肺がんで渥美清さんは亡くなります。  私は山田洋次監督から伺いました。  体調が良くないことは撮影中にはわかっていました。  1997年11月「男はつらいよ」49作目「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」 特別篇が公開される。      2019年12月には「男はつらいよ お帰り 寅さん」が公開される。(50作目)  おだんご屋はカフェに改装されて、三平が店長として切り盛りして、寅さんはどこか旅の空、と言うような設定でした。   

「舞台や映画で自分の方が上手くできるんじゃないかと思うかも知れない、そういう役はあるだろう。」と言われた時があります。 「はい」というと「自分はその演じている役者よりも一つ下にいるんだよ、と思った方がいいぞ。」と言われました。  それは今も心ににとどめています。  

渥美清さんへの手紙 北山雅康

「今はどちらの旅の空でしょうか。 ・・・車寅次郎さんは今もなお多くの方々から愛され、熱く語り継がれております。 フランスでも全作品が上演され沢山の方がご覧になったそうですよ。  そして2019年には22年振りに「男はつらいよ お帰り 寅さん」が製作されました。  私三平もカフェとなった柴又の車屋でさくらさんたちと今もお帰りをお待ちしています。・・・ 撮影当時20歳の若輩者の私に舞台の面白さ、役者としての見聞を広める大切さを教えてくださいまして本当にありがとうございました。  ・・・昨年蛾次郎さんがそちらに行かれました。  本当に舞台を観ていただきたかったです。 ・・・会って沢山お話をしたいです。  ・・・渥美さんから頂いた言葉は私の宝物です。・・・」
















 























 

















2023年8月13日日曜日

林哲司(作曲家)            ・作曲家デビュー50周年 変わらぬ曲作りへの情熱

林哲司(作曲家)         ・作曲家デビュー50周年 変わらぬ曲作りへの情熱 

1949年静岡県生まれ。 1973年シンガーソングライターとしてデビューし、以降作曲家としての活動を中心に作品を発表しています。   竹内マリアさんの「SEPTEMBER」、松原ミキさんの「真夜中のドア」、上田正樹さんの「悲しい色やね」、中森明菜さんの「北ウイング」など2000曲を越える楽曲を制作しています。  今日は近年のシティーポップブームの原点となる作品を多く手がけた林さんに、今までの音楽人生を振り返りながらシティーポップブームの背景などについて伺います。

2020年に1979年の松原ミキさんの「真夜中のドア」が、ネットの動画をきっかけに世界的な大ヒットとなる。  好きな曲を好きな時に聞ける環境になりました。(聞き方自体が変わってしまった。)   今やまさに国境がないという感覚ですね。 

五人兄弟の末っ子ですが、長男、次男とは一回り以上違っています。  物心つく頃には兄たちは洋楽を聞いたり歌謡曲を聞いたりしていました。  それらが自分の耳のなかに入ってきちゃいます。   洋楽は英語の言葉は分からないがイントネーションで覚えちゃいます。  最初パットムーン、プレスリーとか甘い音楽が好きでしたが、ビートルズを聞いた時には違和感を感じました。  ビートルズのニュースが先行していましたが、段々引き込まれて行きました。     高校に入った時に初めてエレキの音を身近で聞いて、直ぐにバンドにいれてくれとお願いしました。  加山雄三さんの影響があり、曲を作るようになりました。   日本大学に入りましたが、郷里の仲間と音楽活動は続けて居ました。   学校は余りいかずに、ジャズ喫茶、映画などに行ったり本を読んだりしていました。  ポップスに傾注して、作って歌うという事が自然体でした。  

1972年南米チリの音楽祭に応募して、入賞。 それをきっかけに海外に出ました。 ヨーロッパに3か月行きましたが、歴史があり各国の文化が隣接していてそれを観れたのは良かったです。クリエーティブな部分を歌謡曲よりも洋楽の方に僕は感じました。  1973年4月にシンガーソングライターとしてデビューしました。  あとから考えると最初の10年は助走期間だったような気がしました。  1977年イギリスのバンド「ジグソー」が自分の曲「If I Have To Go Away 」をレコード化して欧米でチャートインする。  大変なことになったと思ったが、誰も騒いではくれなかった。  1979年に竹内マリアさん、松原ミキさんなどボーカリストとしてポップスを聞いて来た人たちが台頭するようになってきた。    竹内マリアさんのSEPTEMBER」は8月、松原ミキさんの「真夜中のドア」は11月に出しヒットする。   ボーカルの力が歌に息吹を与えるという事に繋がってゆくんだという事が発見できたという事は、自分のその先の活動にとっては意味のあるヒットだったと思います。

1982年上田正樹さんの「悲しい色やね」、関西弁が入っているとは予期していなかったことです。  それからは詩を意識してメロディーを作ることを自分の中で考えるようになりました。 1983年 杏里さん悲しみがとまらない」、杉山清貴&オメガトライブふたりの夏物語 -Never Ending Summer-」。   自分自身の音楽性が同調されているという事が確信を持てた時代でした。   1984年中森明菜さん北ウイング」を作曲。 激動の年でした。  曲をヒットさせ続けたという事だけではなくて、父親が倒れて3年間意志の疎通もなく亡くなり、自分の長男も生まれました。  一番忙しい時期でした。  衰えてゆく父親と育ち始めた長男、脳が持つ力を意識した時期でした。  原田知世さんの「天国にいちばん近い島」、作曲家としての売り上げNO1となるが父には伝えることが出来なかった。

1990年代、世界的にCDが売れなくなってきて、音楽産業が衰退してくる。     信頼関係もくずれてくる場面もいくつかあって、人間関係を含め、自分の環境にいら立ちを覚えました。  段々音楽を作ることが厭になった時期もありました。  35周年記念は一つの節目として臨みました。   お客さんから拍手を頂いた時に、辞めちゃあいけないのかなと思いました。(元気を貰った。)     バンド「エイド」を結成、パフォーマーとしての活動をする。  これまでの自分の曲を見直してゆくという総合ファイルライブシリーズを行う。  企画をすることが根っから好きです。    ポップスを作るという事に関しては50年経っても変わってはいないです。   作詞家をはじめいろいろな人が曲を作ってゆくうえで介在していて、感謝しかないです。  ミュージカルは色々な要素を含んでいるのでやってみたいです。