2011年2月28日月曜日

賀陽済(かやわたる セラピスト)   

 賀陽済(かやわたる)  
千葉大医学部卒業  精神科医、田無神社の宮司、セラピスト
アラスカの先住民が来て話をする 英語で話すが、リズムがある 
相手からもっとゆっくり話をしてほしいといわれる
私は木々や風、自然と話をするんです 自然はゆっくりと話をする
昔子供の頃は武蔵野の大自然の中で遊んでばかりいた 
思春期になり人が生きる生き方はどうなったらいいのかなあ

自分を見つめる→親との関係からいずれ医者になる、宮司になるこれは勘弁してほしいと思った(親のようには成りたくない)
内村鑑三、無教会派 社会はこうなったらいいなあ、平等だったらいいなあ→ピユアーな考え→学生運動にのめりこむ
仲間が自殺する、放校になる→虚無的になる(神も仏もいるものか) 
音楽、読書にのめりこむ、酒・煙草 哲学論、自暴自棄・引きこもり
或る時フランクル「夜と霧」を読み心をいやすのは精神科医と共感する→精神科医を目指すことになる

医学部にはいるが、心の事を教えてくれない(6年間過ごす)→また引き込もりになる(哲学、音楽等のめりこむ)
離人症になる(現実感がなくなる)母校の精神科医の講師のところに行き話を聞いてもらう→聞いてもらっているだけで生き生きとしてくる
カウンセリングには力があるんだなと感じる→精神科医への道
鈴木大拙 禅に出会う 本を読み禅の道場にも通う  
禅道場に行くが全然悟っていない事に気付く。
学生結婚する  妻を通して、社会を知る
祖父から神主に成る様に言われる 宮司になるのに3年、実習、講義もうける 

決断 逃げがあっては成らない 責任を取らなければいけない
訓練分析を受ける(32歳から 4回/週 10年間)  
自分を理解していなければ相手を理解する事はできない 
5年前 米国にレクチャー 先住民との交流が得られた 
自分が自然の中に入る 食事の時に祈ってくれと言われた 
祝詞を言う 大いなる自然とともに生きる 大いなる自然に生かされる
地に足をつけ、根を張る

日本人が本来もっていたもの
ものに対しての感じ方 わが身のように感じる考えかた(はやぶさ・・・単なる物質だが)
日本人はものに対する考え方、を壊してきた
伝統文化が蓄えている宝がある それを壊してきたのが戦後65年だったとつくずく感じる 
若者が立ち返ろうと感じ始める
伝統文化を肌で感じる若者が増えてきている
潜在力 内から湧いてくる力 生かさないともったいない
①伝統文化に根差すようなありかた 実感として身につけてゆく
②希望を失うよな事を言わないでほしい
③大人は余計な事を言わなくて良い→こういう方向に行くと希望があると言ってほしい(あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目はいけない)

「言霊」言葉に魂を持っている 言葉を大事にする(自分、人etc)
 言葉に魂があるということを大事にしながら 今 今が大事なんだろう

2011年2月23日水曜日

渡辺和子(83歳)        ・ノートルダム清心学園理事長2

渡辺和子(83歳)   ノートルダム清心学園理事長
渡辺和子の父は渡辺錠太郎・・・1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、
二・二六事件の犠牲者
荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木
の要望に反して林銑十郎が就任した
翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた
渡辺が選ばれた
渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てている
といわれていた
1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に殺害された。61歳没
6時ちょっと前に30数名の青年将校が車で来る 部屋に乱入し軽機関銃で足を狙って40数発撃つ 
和子9歳の時でたまたま父の部屋にいた為、一部始終を見てしまう その光景は生涯忘れられない
和子は父が51歳の時の子供でとっても父にかわいがってもらった
父の学歴は小学校4年で独学で勉強して陸軍士官学校に入り、陸軍大学を首席で卒業する

派閥には属さず(皇道派、統制派)  外国に駐留武官として良く出掛ける  世界情勢に明るい
戦争は勝っても負けても国が疲弊する・・・軍備は強くなくてはいけないが戦争はしてはいけない→
ブレーキになっていたが
歩兵、騎兵隊の時代ではなくこれからは空軍が大事であると力説していた
旭川第7師団に飛ばされる→空軍の重要さが広まり空軍関係の要職に戻る(大正15年)
1935年7月真崎教育総監更迭の件でも怨みを買う(永田鉄山が真崎教育総監の罷免をし、
渡辺錠太郎を据えた)
戦争回避を画策するが少数派→皇道派から怨みを買う→2・26事件で敢え無く死亡

2011年2月22日火曜日

渡辺和子(83歳)        ・ノートルダム清心学園理事長

渡辺和子(83歳)   ノートルダム清心学園理事長
ノートルダム清心女子大学学長を30歳代で担当
マザーテレサ生誕100年 に当たる マザーテレサは 1910年マケドニア スコビエ に生まれる
ロレト修道女会は女子教育を行う修道会 18歳
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者である
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教えていた
1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという
1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。
テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した

1973年のテンプルトン賞 1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)
1997年87歳で亡くなる  宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた
孤児の世話、病人の看護、ホームレス 死にかけている人の世話をする。
無縁社会  望まれなかった、愛されなかった人への手の差しのべ、日本には3回来日  
渡辺和子があった時には厳しい顔、目をしていた 長い間厳しい人達を見てきたせいか?
マザーの優しさはうれいを持った人のそばに行って離れなかった

現実(貧困etc)を現実としてしっかり見つめ、自分は慰め、見捨てない
上から下を見ることは決してしなかった 「人間の尊厳」重視
行動していることは福祉事業ではない・・・困っている人がいたらそれは「キリスト」 それを助ける
 ・・・宗教に関係なく
「微笑み」(目を見つめ)、「温もり」(手を接して)、「温かい言葉」(声を出して)・・・救済者に接するときのマザーからの戒め
私は自分が辛くてもフラッシュでたかれた写真に対して笑顔で接します(長旅で疲労困憊の時) 
それゆえ神様に廻りの魂を救ってください  と約束した(渡辺との会話)
祈りに裏付けられた仕事している

ノーベル平和賞を貰ったからには有名になったので何故政府に対していろいろ要求しないのかとの問い合わせ等有
やっている事は大海の一滴かもしれないが、その一滴が大海を作る  
小さな事におおきな愛を与える事である
白衣(サリー) 貧しい人の衣 白、青、緑  ①清貧 ②清潔 ③従順