2020年8月31日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

 今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森さんは滋賀県の大津市琵琶湖を臨む田園風景の中にアトリエを構えて里山環境を取り戻すために活動しています。  二回目の今日は夏のオーレリアンでの活動を伺います。

周りが田んぼに囲まれているので緑に包まれています。  農家の方は夏場は比較的にほったらかしなので人気が無く静かで、大好きです。

写真家としては生き物が活発なので撮影するものが結構多いです。 

環境農家としては鹿、イノシシなどの害の少ない野菜を植えたり、果樹類の下に生える雑草を取り除く作業などをしています。

昆虫はかなり多くて、玉虫は多くて炎天下が大好きです。

蝶は午前10時ごろまでと午後3時以降に飛んでいて、5種類のアゲハチョウが見られます。1年を通してみられるのが9種類です。

アゲハチョウ、クロアゲハ、ナガサキアゲハ、カラスアゲハ、キアゲハは大変数が多いです。  こういう蝶が増えるように努力しています。

蝉は夏に初め、盛り、終わりと出る順番が決まっていて大好きです。

ニイニイゼミは夏を知らせる蝉で、最近は少なくなってきています。

クマゼミ、アブラゼミは夏の真っ盛りに鳴いて、乾燥したところが好きです。 

ヒグラシは早朝か夕方、あるいは雨が降る直前に鳴いて、合唱します。  このころにツクツククボウシも鳴くようになってそうすると秋が近づいてきます。

昆虫教室も行われて今年で23回目になりました。  今年はコロナの関係で通常の半分以下で50名程度でした。

民宿みたいなところに泊まってオーレリアンの丘ともう一か所に子供たちを連れて行って観察したりします。

オーレリアンの丘は6年になりますが、これほどいい状態に計画通りに行くとは思わなかった。

大きくは里山環境を目指したい。  

昆虫教室の一日目はオーレリアンの丘に行きました。  子供たちが蝶に夢中になっている様子がうかがえます。  子供たちは美に関する感覚が敏感です。 

2日目に名水の里山を訪れていて、休耕田を利用して人工的に浅い水辺を作っています。

そこにはいろんな生き物がいます。 1泊目で友達ができるので2日間は超リラックスして昆虫採集を楽しんでいます。  

最終日には表彰式があり3つの賞があり、大賞がオーレリアンの丘賞です。

オーレリアンの丘賞をもらった子は凄く昆虫の大好きな子で、広い視点と細かな視点があり人にも親切にしてます。  6cmぐらいの大きなヒラタクワガタを採取しましたし、ほかにもたくさんの昆虫を採取しました。

昆虫教室の子をみていると自分の小さいころを思い出します。  それぞれの道に進んでいても昆虫採集をしていた時のことは役に立つと思います。  本当のものをみるという事は大事だと思います、生命のオリジナルをみたということは大事なことだと思います。

9月には耕作をして菜の花の種まきをします。






2020年8月30日日曜日

2020年8月29日土曜日

いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】

 いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】

戦後75年を迎えましたが、平和の俳句の取り組み、NHKTVを良くご覧になるという方ですと「植物男子ベランダー」というドラマの原作がいとうさんのエッセーです。   音楽好きの方ですとリズムに乗せて歌ってゆくラップの先駆けの一人としても知られています。 仏像や文楽、能などの伝統芸能にも精通してその多彩ぶりは周知の通りです。  いとうさんは1961年東京葛飾区で生まれました、1984年大学を卒業後出版社の編集部に就職1986年に退社、TVの司会や音楽、舞台などで活躍、1988年に作家としてデビューしました。  2013年に『想像ラジオ』で野間文芸新人賞を受賞しています。  来年3月に還暦を迎えるいとうさんの人生手帳にはどんな思いがつづられてきたのでしょうか。

今年は物を書くように重点を置こうと思っていたので、一人でやることが多かったのでコロナの影響は少なかったです。   ロックダウンするのかなあと思って音楽もロックダウンしてしまうといけないと思って、MDL(オンラインフェス「MUISC DON'T LOCKDOWN」)「巣ごもりフェス」を立ち上げて仲間たちといろなソフトをタダで配信することをやってきました。

打ち合わせは今は出かけてゆくのが馬鹿馬鹿しいです。

MDL(オンラインフェス「MUISC DON'T LOCKDOWN」)のほうには、能の流派の総家からも連絡が来て、能楽堂が全く使えなくなってしまって、文化的なことだったら無料で貸したいから何でもやってくれというような連絡がきましたが、宗家が謡をやってそれを撮ってくれれば我々が配信しますという事で、まったく能に興味もなかった人も見るわけで異文化交流が起こるなと実感しています。

家にいることが好きなので鉢うえが凄くあるので前よりも世話がよくできる様になりました。

石牟礼道子さんという作家の方の16巻ぐらいある全集を50回づつ読むというのを何か月も続けています。

ある人から石牟礼論を書いてみないかと言われて、とにかく読んでみないと分からないので、一人の作家を全部読むという事は本当にすごく充実したことです。

石牟礼さんを読むのも一つの息抜きだと思っていますし、MDLも息抜きだと思っています。

小さいころは本さえ与えておけば静かにしていたようです。 文字は好きだったようです。

小学校の低学年の時に先生が親との面談の時に乱読をさせろと言ったらしいです。

宿題でもないのに勝手に詩を作って先生に提出したりして、いい作品だと先生が清書して教室に貼ってくれたりしてくれました。

褒めてくれるという事はすごくいいことだと思いました。 先生との出会いがよかったと思います。

家では放任主義で進路に関しても自分で決めたものだったらいいから、と言われました。

東邦大学附属東邦高等学校にいって、落ちこぼれていって国語と英語だけは成績は良かったです。 法学部を受けて早稲田大学に入りました。

学生時代にピン芸人として活動し始めました。

自分は番組を作りたいと思うようになって、TV局の入社試験を3つぐらい受けましたが、すべて落ちてしまって、自分はなにものでもなかったということに気付かされてどうでもよくなって、ある出版社の募集要項があり、ドキドキすることを書きなさいという事があって、面白いと思って出したら来いという事になりました。

TVに出たり二股をかけていましたが、両立ができなくなって出版社を辞めてフリーになりました。

NHKの「土曜クラブ」という司会のレギュラーと日テレの仕事も入ってきました。

僕は利益に対して目端が利くように見えているが、全然見えていないんです、目端の利く人から見ると、助けるというかものを振りたくなるものがあるんだと思います。

才能を見つけるとその人のために何でもしたくなってしまいます、応援してしまいます。

応援団には言葉が必要で、あり来たりの言葉で褒めてもみんなは振り向かないので、この人ならではの言葉を自分は編み出しやすい人間だという思いはどこかにあります。

コミュニケーションすることは本当に大事なことだと思います。

高校の先生が奇跡はあると思うかと急に授業中に言い出して、ほかの人が発言するなかで自分とは違うなあと思っているうちに、自分の番が来て、「例えば先生と僕が話しているとして、何かの言葉で大きくその人の考えが変わるとしたら、それが奇跡なんじゃないか」と言ったら、先生が俺もそう思うと言ってその議論が終わって、このことが自分にとって大きなことで、モーゼの海が割れるようなことも奇跡かもしれないが、人が人と話をしていて、人生観、価値観が変わってしまったという事がもし言葉で起きたら、奇跡が起こることは素晴らしいことだと思います。  それをなるべく僕は見たいんだと思います。

尊敬している柄谷行人と批評家が「君子豹変せず」ではなく「君子豹変する」と言っていて、おもしろいと思って、僕は君子豹変したいです。

連句,連詩は自分の中のテーマになっているもののやり方の一つ、方法論の一つです。

エッセーでも書きだしたことを待てよと言って、自分が否定してゆくような書き方ができるときに自分で楽しいです。  綱渡りするようなことをすることは好きですね。

意味もなく方向も決めずに1時間以上歩くことをやっていて、近所でもまったく知らない景色があり、同じ道に戻ったりしますが、違う道からはいると同じ道に入る感覚が違います、そのことが改めて面白かったです。

本も似たようなところもあり、ページをめくるという事は人間の脳みそに対する刺激がメディアとして面白いと思います。

沢山の芸術の中にはそれぞれにいろんなやり方は違えど、根幹は同じではないか、どうやってドキドキさせて、どういう風に脳みそを塗り替えるかという事をみんな考えてこう来たんでしょうね、ドキドキさせ人間の脳が喜ぶのはわくわく感であったり、ドキドキ感であったりするわけです。








2020年8月28日金曜日

2020年8月27日木曜日

柴田理恵(女優)            ・【私のアート交遊録】笑いが命のエネルギー

 柴田理恵(女優)            ・【私のアート交遊録】笑いが命のエネルギー

演劇に目覚めたきっかけは子供のころ山本リンダさんの物まねを披露したところ、友達がたくさん増えたことで人の前に立つ面白さを覚えたといいます。  明治大学文学部演劇学科を卒業後、劇団東京ヴォードヴィルショーを経て仲間と共にWAHAHA本舗を旗揚げ、NHK週間子供ニュースの初代お母さんやバラエティー番組で明るいキャラクターを生かして活躍しています。  お笑いは品も大切、勘違いせずにそうしたベースを整えて舞台に立ちたい、笑いは命のエネルギーの元と、笑いにこだわり演劇人生を驀進中の柴田さんに笑い、舞台、表現の面白さについて伺いました。

WAHAHA本舗も3年ぶりの「王と花魁」という作品をやろうと思っていましたが、全部中止になり稽古も出来ないという事で全部の舞台がなくなってしまいました。

家にいることになりうちも色々片付けました。  なかなか捨てられないタイプです。

14年飼っていた犬がなくなって、子犬を飼おうと思って保護犬を探しましたが、譲渡会も開けなくて、リモートで家に来ることになりました。 2か月で6kgでしたが、いまは17kgになってしまいました。 遊びの対応に苦労しています。

夫婦で1時間ぐらいウオーキングをしたりしています。

来年の秋にはコロナも落ち着くだろうと、再開を予定をしています。

生での笑いはのけぞってワハハと笑うんです、お客さんと一体化できる良さもあります。

富山県出身で中学生の時に立山登山をもれなくやることになっていて、そこで物まね歌合戦をやることになり、理恵ちゃんもなんかやってという事になり、ふっと頭に浮かんで山本リンダさんの物真似をやったら凄く受けて、途端に友達が増えました。 それから色々やるようになりました。

高校の時に富山県に早稲田小劇場が来て、友達と観に行きました。  その時に白石加代子さんがいてかっこいいと思いました。

他にも富山県に来るお芝居は見ていました。 杉村春子さんの「欲望という名の電車」、滝沢修さんの「セールスマンの死」、東山千栄子さんの「桜の園」など観ました。

こんな芝居をやりたいと東京に出てきました。

大学でどんどん勉強するとわからなくなってきて、自分が好きな芝居は何だろうと思ったら、東京ヴォードヴィルショーに行きつくわけです。 かしまし娘、お笑いが好きでした。

東京ヴォードヴィルショーに無理やり入れてもらいました。

親には国語の先生になると言って明治大学に入ったので、両親は怒っていましたが取り合えず3年という事で納得してもらいました。

アルバイトをしながらずーっとやっていくんだと軽い気持ちでいました。

入って2か月で役が付いてしまって、ドキドキでした、中国の首相の役でした。

終わってみたら楽しかったです、それの連続でした。

先輩たちとの方向の行き違いなどもあり、楽しい笑いをやりたいという事でWAHAHA本舗を旗揚げしました。(24,5歳)   大変でした、今までどれだけ先輩たちが守ってくれたのか判りました。

母は教員していましたが、厳しい人でした。  平手打ちなどよくやられました。

中学校3年生の時に、母親からこれからは酒を飲まなければいけないといわれました、酒を飲んでも飲まれないような人間になれ、そのためには強くなるしかないという事で訓練しました。(両親の前だけ)

笑いは変わらないと思う、自分が解放されるための笑いだと思います。  ワハハと笑ってあー明日から頑張るぞと思える笑いでないといけないと思います。  笑う力があれば頑張る力もあるはずなので、少しでも微笑むことができたら、それは絶対に前に進む力だと思います。

「くちづけ」という宅間孝行さんの作品がありますが、初演が2010年、再演が2015年、2020年再々演という事でやりたいのですが、初演をみて本当に感動しました。

妻に先だたれた父親と娘の二人暮らしで、お父さんは末期がんに侵され、娘は知的障害を持っている方で、これか先どうして行ったらいいだろうという題材ですが、日常に笑いもあり悲しいこともあるドラマで、これは私のお勧めです。









2020年8月26日水曜日

高野孝子(野外・環境教育活動家)    ・【心に花を咲かせて】自然は人を変える

高野孝子(野外・環境教育活動家)    ・【心に花を咲かせて】自然は人を変える 

高野さんは自然のなかでの体験から学ぶ教育プロジェクトの企画運営に長きにわたって取り組んでいる方です。   環境教育NPOを作り、ミクロネシアの島ヤップ島で電気もガスも水もない中、子供たちが自分たちの工夫で暮らすキャンプをさせる活動を毎年一回30年にわたって続けたり、地元新潟を拠点に自然キャンプや無農薬のお米作り、自然の中で暮らす技を古老に聞くなど様々な活動をされています高野さん、社会貢献活動に献身する女性7年に向けた「オメガアワード2002」を緒方貞子さんや吉永小百合さんと共に受賞、2017年には「ジャパンアウトドアリーダーズアワード 2017」の特別賞を受賞されるなど自然の中で人を育てる活動が大きく評価されています。   高野さんが大事なことと考えていることは何なんでしょうか、高野さんに伺いました。

アマゾン川源流を1000kmカヌーで下ったり、ベーリング海峡横断、北極圏をパラシュートで降下したり、冒険家として20代~30代に活躍。  地球規模の教育プロジェクトを企画運営して体験から学ぶキャンプに集中して、福井県でも子供キャンプをしています。

コロナでできないだろうと思っていたら、できるやり方を考えていろんな体験活動をさせてあげたいという事で、万全の感染対策を整えて2泊3日で行いました。

子供たちはテントを張って我々大人たちはブルーシートを屋根替わりをして、外で暮らすという体験です。     5人用テントを2人で使うようにしました。

地域の高齢の方に来ていただいて、昔遊びを習ったり、竹を切ってその竹からどんなものが作れるか、遊べるかというような事をやったりしました。

今ある便利なものがなくてもきちんと命をつないでいける、但し健全な自然があって、そういったものを取り出す知識と技術があればできる、という事を体験的に学んでもらう。

トイレは自分たちで作りました。(大きさなど考えて穴を掘って排泄物を自然に帰す。)

トイレットペーパーについても、おじいさんの時代にはくずの葉っぱで使っていたという事で全員トライしました。

台所用品は鍋とお玉、菜箸、へらだけです。(ナイフは持ってるがまな板はない)

自由に工夫できる環境にして大人も干渉はしない。

急に違うことをやるので戸惑うが、すぐに工夫をし始めます。

マッチは使うが、火をおこしてゆく段階は難しい、最終的にはご飯も炊けるがお惣菜も出来て、その達成感はめちゃめちゃ楽しいです。

キャンプを終えた後は自信を持つ、屋根さえあれば寝れるとか、外でトイレをすることは嫌だけれどやろうとすれば出来るとわかった、というような事を言っていてこれは成長だと思います。  人とかかわることの喜びもあると言っています。

ヤップ島では電気もガスも水もない中、子供たちが自分たちの工夫で暮らすキャンプで、30年近くやっていて、島も変わってきて、最近は電気、電話、もあって車もありますが、私たちが行くとそういったものがないところで寝泊まりさせてもらっています。

始めた動機は一緒に社会を作る、考える仲間を作りたかった。(20代後半)

小さい頃は割と自然が豊かな場所でした。(新潟県南魚沼郡塩沢町)  大学院生の時にあるプログラムに参加して、各地に行って3か月間一緒に暮らす、ホテルではなくて自然の中で暮らすという事で、これが大きい体験でした。

日本人は私だけで、インフラの無いところで、水を確保し、食べ物は持ち込みましたが、煮炊きするすべを確保して暮らしを始めますが、厳しい環境ですがちょっとした工夫で日々が楽しくなるという事を学びました。

人間って世界のなかでいきている大勢の人の命の中の一つだと痛感しました。

全てのところで互いに依存しあっている生き物同士の真っただ中で常に体験していました。

ヒルに吸い付かれる森の中を歩くんですが、森の中にもたくさんの生き物がいてお互いに必要としていることが判って、ヒルは嫌ですが、ヒルのお陰で生きているものもいてヒルが果たしている役割もあるという事が自然と納得できました。

ある沼に夕方になると野生の生き物たちが水を飲みに来るという事で茂みにいて、夕日が沈んできたら、あちこちからいろんな動物が集まってきて、オレンジ色の夕日の光とその場所が混じるようになって、そこに飛び出していきたい衝撃にかられました。 一緒に水を飲もうとしたら彼らはどういう反応をするのかと思いました。(いかなかったが。)

3か月の経験が今の活動につながっています。

文化の違い、言葉、宗教、育ち方、仕事も違う人達と生活する中で、違いを受け入れるという事が自然と身についたことが、原点になっています。   平和な社会を作ることができるはずだと思わせてくれる一つの経験でした。

自然のなかで暮らすことでプライバシーもほとんどなく、同じものを食べて、同じ課題に取り組んで工夫しながら毎日を過ごすと、生活がシンプルなだけに相手のことが見えやすいし、心の中に持っていた飾りがそぎ落とされて、運命共同体のような環境です。

子供のころから好奇心が強くて、アメリカに1年留学して帰ってきて、ますます違う価値観に触れることは大切なんだと思っていましたが、日本で過ごすうちに忘れそぅだと思って出ていきたいと思いました。  多様なものに出会うと自分のあたりまえが崩れる、そうすると私にとってはめちゃめちゃに楽しいことでした。

それで3か月間のプログラムに参加しました。

シンプルな暮らしを体験することはすべきだと思っていて、本当に大事なものが判って来ると思います。

大事なものは人とかかわる力、信用してもらえるような自分、というような事だと思います。

ヤップ島での体験者は小学生から青年までいますが、昨年その調査をしたんですがその経験から、時間が経過して20年過ぎても影響を与えているという事が見えてきました.。  その経験を踏まえて自分の価値観の一部になっていると書いてくれたりしています。

工夫する力は前の人達のほうが多かったと思います。

去年池田町でキャンプをしていた中学生が高齢者に聞き取り調査をして、子供たちが驚いたことに私は吃驚したんですが、昔は約束をしないでも遊び相手がいたとか、その辺にあるもので遊んでいた、子供だけで遊んでいた、というような事に驚いています、裏返せば今はそういうものがないという事です。

自然の中で工夫して暮らすという事は生きる力、折り合いをつける力とかだと思います。

これからも自然の中での学びの場つくりをしていきたいと思います。




2020年8月25日火曜日

山内一也(ウイルス学者)        ・ウイルスは人生のパートナー

山内一也(ウイルス学者)        ・ウイルスは人生のパートナー 

山内さんは1931年神奈川県生まれ、半世紀以上にわたってウイルス研究と感染症対策に取り組んできた日本を代表するウイルス学者です。  天然痘と高い致死率を占める牛の感染症牛疫の根絶に貢献されました。   牛疫根絶計画では国連機関の顧問も務めました。 研究の現場を離れてもウイルスへの関心は少しも衰えず数多くの著作を発表しています。 今月には新型コロナウイルスをはじめ、繰り返し現れるウイルスと人間社会の関係を俯瞰した著書「ウイルスの世紀」を出版しました。

人間社会にはまだこのウイルスに対する免疫がないわけですから、ウイルスは簡単に広がる。  ウイルスにとっては人間は単なる動物なんですね。 人間は大変な数でウイルスにとっては好都合な環境です。  コロナウイルスはRNAウイルスの一つですが、ウイルスにはDNAウイルスとRNAウイルスとあります。  DNAは二本の鎖の中に設計図が入っている、RNAは一本なんです。  変異が来たらコピーするときにミスが起きたらそのままミスは子孫に伝わってしまう。

コロナウイルスは一番大きな遺伝情報を持っている。  インフルエンザでは1万5000字に対して、コロナウイルスは3万字で情報が多いという事はいろいろ複雑な機能を持っているので、うまく生き延びようとする非常に製造戦略に長けたウイルスという事になります。

DNAはA,T,G,U、でRNAはA,U,G,Cの羅列になります。

変異はどんどんしていますが、偶然に起きます。 それが症状の重さにつながっているかどうかの判断はできない。  大きな変化にはなっていないと思います。

コロナウイルスは歴史が古く1930年代に鶏で見つかり、豚、牛、ペットなどにいて、サーズは2003年に出てからコウモリのコロナウイルスに注目が集まって、中国ではコロナウイルスの探索がかなり精力的に行われて、いくつかのウイルスもとれています。  そういった結果から新しいコロナウイルスが出てくる危険性があると、そして中国では野生動物を食べる習慣があるという事から中国では新しいコロナウイルスが出現するホットスポットがあるという警告がいくつか出てきていました。  学術論文に出ても社会、政治には伝わっていなかった。

最終的にはワクチンしかないですが、もう一方で治療薬が大事です。

コロナウイルスの増殖する仕組みはかなり詳しくわかっていて、どこの段階で阻止するかといような薬を調べ上げて、候補が出てきて患者に使ってみているわけです。

ワクチンはもともとは動物から作られていたのが1950年代から、細胞培養で作られるようになって、1970年代から組み換えDNA技術、21世紀になってから急速に遺伝子解析の技術が進んでワクチン開発の技術もものすごく急速に進んでいます。  新しいタイプのワクチンがいくつも出来てきていますが、副作用の仕組みだとかに関する理解はまだ深まっていない。  副作用は使ってみないとわからないという難しい問題を抱えている。 順次動物実験、人体実験などを経て進めてはいますが。

細菌はほとんどが二つに分裂していって、自分の細胞の中にタンパク合成とか培養器さえあれば外界で増えていきますが、ウイルスは生物に寄生しなければ増えない、自前では増えることはできない。

ウイルスが生きていないか生きているか、と言えば私は生きているといえると考えていますが、30,40年前に提唱された生物の定義に当てはめると、ウイルスは生物に入らない。

1931年生まれで、小学校、中学校と戦争の中で過ごしてきました。  軍人になるぐらいしか選択肢が考えられない時代で、特に何になりたいという気持ちはなかったです。 終戦の日は陸軍幼年学校の面接試験の直前でした。

東京大学の生物系に漠然と入って、医学部に入る人が多かったが人類学をやろうと思ったが、結核になり休学して本を読んだりしているうちに獣医畜産学科に進学することにしました。 獣医微生物学、細菌学教室に入ってきました。

北里研究所に入って、天然痘ワクチンの製造と改良研究に従事しました。

牛のお腹に種痘をして出来た種痘を掻きとってそこからワクチンを作るという事です。

当時天然痘が起こっていた地域がアジア、中近東、アフリカで、人改良した熱に強いワクチンはネパールで使いました。  ウイルスは一般に熱に弱いので、いろんな物質を加えて、凍結乾燥して、粉末にしてワクチンとしました。  1980年に天然痘は根絶しました。

フルブライト留学生としてカリフォルニア大学に行って、豚のポリオウイルスを研究して、細胞での実験をするようになりました。 3年ぐらいやって帰ってきました。

国立感染症研究所に入り、発病のメカニズムの研究などをやっていました。

東京大学理化学研究所に行き、麻疹ウイルスと麻疹ウイルスの祖先になっている牛疫ウイルスの研究をやっていました。  遺伝子工学が開発され進み始めたときでした。

牛疫根絶計画が進んでいて、地域がアジア、中近東、アフリカで、天然痘と同じ地域で、天然痘ワクチンを利用することを思いついて、天然痘ワクチンに牛疫ウイルスのワクチンとして働く遺伝子を組み込んだワクチンを作って、野外試験直前まで行きましたが、いろいろ理由がありそこで終わってしまいましたが、学術顧問、アドバイザーとして参加してきました。  

人類が根絶できたウイルスは天然痘と牛疫だけですが、その両方にかかわってきました。

ウイルスは好奇心の尽きることがない、ウイルスはそういう意味でのパートナーと言えます。

善玉ウイルスもあります、胎児は両親両方の遺伝子を受け継ぐわけですが、母親にとっては父親の遺伝形質は異物で本当は拒絶するわけですが、拒絶しないように胎盤には膜があって拒絶するリンパ球は入れないで栄養だけを通す膜がありますが、膜を作るのにウイルスが役立っているという事もあります。

腸内細菌のほうに影響を及ぼすことで間接的に健康のバランスを保ってくれている。

海にも30桁の数字になるようなウイルスがいて、気候変動、炭酸ガスの循環にまでかかわっていて、ウイルスの役割はものすごく大きくて、病気は氷山の一角にすぎないと考えたほうがいいです。

野生動物だけで30何万もの未知のウイルスがいるという推測もあります。

地球上で最も数が多くて最も多様性に富んだ生き物はウイルスだと言っていいと思います。

人のゲノムの中にウイルスとウイルスの祖先両方合わせると4割ぐらい占めていて、我々自身がウイルスを抱えている。

水疱瘡のウイルスは神経細胞の中に一生います。 歳を取ると飛び出して帯状疱疹を作る。

新型コロナウイルスでは我々は基礎医学の立場で見ているがそれは木で、公衆衛生対策は森で、森をみている人たちがどういうことをやっていて社会の健康を守ってくれているのか、非常に興味深く見ています。

新しいウイルスは文明の産物なので、社会学の問題となってきてしまって、ウイルスの観点から言えば人、家畜、野生動物のそれぞれの健康は繋がっていて、ワンヘルスという視点で取り組まなければいけない。

新しい感染症の監視、予測、防止、起きたときには確認して制圧する、制御するという事をいろんな分野の人たちが協力して取り組んでいくべきだと考えています。









2020年8月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】手塚治虫のブラック・ジャック

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】手塚治虫のブラック・ジャック

「人間はなぜ苦しむのだろう。 なぜ生きるのだろう。 なぜこんな世界があるのだろう。

なぜ宇宙はこんな世界を作ったのだろう。」 「ブッタ」の中の言葉 手塚治虫

漫画家で代表作は「鉄腕アトム」、「リボンの騎士」、「ブラックジャック」、「火の鳥」、「アドルフに告ぐ」など数多くあります。

1928年昭和3年生まれ、存命であれば92歳。  1989年に亡くなる。

先にあげた言葉は手塚治虫漫画全体に言える言葉ではないかと思います。  手塚さんの漫画は生きることの苦しみというものが必ず出てくるんです。  

「僕がはっきり胸を張って想像したといえるのは、漫画に悲劇の要素を持ってきたという事だと思う」と、手塚治虫は言っています。

生きる苦しさから宇宙にまで到達する漫画はいまだになかなかほかにないと思います。

戦争を体験していることが大きいと思います。 

宇宙の成り立ちまで思いが至るという事は手塚治虫は科学的な視点をもっていることが大きいと思います。 医学部を出ていて医学博士でもあります。

戦争を体験して、目の前で沢山の人が死んでいったという体験と、人の生き死ににかかわる医者という仕事と科学者、それが手塚漫画の土台なんですね。

「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね。  それでも私は人を治すんだ。  自分が生きるために。」 「ブラックジャック」のなかからの言葉。

ブラックジャックはとんでもない高額の手術料を請求したり、態度も感じがよくない、こういう主人公は当時はいなかった。 非常にいろんな面で変わっていた。

手術の場面がいろいろ出てきて、吃驚する。

リアルで暴力をふるったりするするが、しんみりとするようなところもある。

「降るような星空か。 流れ星になって10、20と毎日消えてゆくように見えても、星の数は一向に減らない、病気っていう奴はこの星空みたいなもんだね。 なあ妹さん」

妹さんというのはドクター・キリコという安楽死を薦めるドクター・キリコの妹です。

感染症に掛かったドクター・キリコが死にそうになるのを、妹がブラックジャックに頼んでドクター・キリコは助かり、手術の後に空を見上げながら言うんです。

ブラックジャックは子供のころに不発弾の爆発で大けがをして、本間丈太郎という医者が手術をして助ける。  本間丈太郎は老衰で亡くなるが、その時に天才的なテクニックで手術をするが、その手術は完璧だったのにそれでも本間丈太郎は亡くなる。  そのあとでブラックジャックが思い出すのは本間丈太郎が言っていたこの言葉です。

「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね。」

強引に生かすべきなのかどうか、限界がある、自然に生まれて自然に死んでゆくほうが本当の姿なのではないか、という意見もあります。  医学は人間の命を扱う最も重要な仕事ともいえるが、一方で存在そのものを否定されかねない仕事でもあるわけです。

私(頭木)も難病になり治療をしないで自然に任せていたら、20歳で死んでいてそれは嫌です。

手塚治虫の漫画は必死に生きようとする人間の姿もちゃんと描かれていて、そこが好きなところです。

「それでも私は人を治すんだ。   自分が生きるために」 「ブラックジャック」の「二人の黒い医者」の回に出てくる言葉

安楽死を仕事にしているドクター・キリコ、ある女性が事故で全身が動かなくなって安楽死したいという事でドクター・キリコに頼むが、ブラックジャックが手術をして女性を助けて子供たちも大喜びするが、助けた女性と子供たちを乗せた病院の車がトラックと衝突して親子もろとも全員が死んでしまう。  ドクター・キリコは大笑いするが、でもブラックジャックは今のように言うわけです。「それでも私は人を治すんだ。   自分が生きるために」 これはとっても感動しました。

「この空と海と大自然の美しさが判らん奴は生きる値打ちなどない。」 「ブラックジャック」の「宝島」の回に出てくる言葉。

ブラックジャックは結局は患者を助けるが、この回だけは本当に見捨てて死なせててしまう。   ブラックジャックは高額な医療費を取るので、財宝があるはずだと悪人たちがブラックジャックを襲って拷問して島の場所を白状させるが、島にはどこにも財宝がない、ブラックジャックは島自体を買い取っていた、美しい自然をそのまま残すために。 島自体が宝だった。 悪人たちはハブにかまれてブラックジャックに縋りつくがブラックジャックは死ねと言って、「この空と海と大自然の美しさが判らん奴は生きる値打ちなどない。」 と言っている。

「昔自分の家のすぐそばにある原っぱで、繰り広げられる小さな地獄の数々は、それでもタフに生き抜くことの喜びを教えてくれました。」  「ガラスの地球を救え、21世紀の君たちへ」のエッセー集の中の言葉。

「生命あるもののすばらしさも、またどんな生き物にも必ず訪れる死についても、自然の懐でのびのびと遊びながら子供たちは身体で知ってゆくことになるのです。  そこで様々な生き物たちの生と死と出会って、生きることの喜びの裏側にある悲しみも知らず知らず身体の奥のほうで理解してゆくのです。」

生きることと死ぬことの喜びも知るけれども悲しみも身体の奥のほうで理解する、だから身近に自然があったほうがいい、子供のころから小さな地獄に接しておいたほうがいいと言っている。

自然の中にいると虫の死骸をたくさん見るわけで、そういうところで暮らしていると生きるとか死ぬとかという感覚が凄く違ってきます。 過酷な世界だけれど、だからこそ必死で生きるんだと理屈ではなく身体で感じます、だから手塚治虫の言葉はすごくわかります。

子供のころに自然体験をしていたほうがいいと思います。

「まず大丈夫でしょう、ははは、大人になるまでには忘れます。 なーにちょっとしたあれですよ。」   「来るべき世界」 初期の漫画のラストのほうの言葉。

核実験の影響で新人類フウムーンという人間よりも優れた生き物が誕生して、人類が侵略されてしまうが、実はもっと大変なことが起きて、宇宙から暗黒ガスが地球に迫って地球上の生命がすべて滅亡しそうで、フウムーンは地球上の動植物を載せて巨大船団で宇宙に旅立ってゆくが、人間も善良な500人を乗せてゆくが後は置き去りとなる。  残された人間も宇宙船を作るが、欲とかエゴがぶつかって宇宙船が破壊されてしまう。  最後には太陽の光の影響で暗黒ガスは酸素に変化してくれて人類が偶然に助かる。  フウムーンの中でロココという女性だけが人間の健一少年と出会って、人間も捨てたものではないということで愛情を抱いて、ロココは人類の味方をしてくれて、人類は凄く助かるわけですが、人類はロココを眠らせて小さなロケットに乗せて宇宙のかなたに追放しようとするが、健一は吃驚して怒るが、本当に宇宙に放り出してしまう。  健一はロココに人間は恩知らずだと謝って嘆き悲しむ。  ひげ親父が「まず大丈夫でしょう、ははは、大人になるまでには忘れます。 なーにちょっとしたあれですよ。」という。

これはひどいでしょう、子供のたわいない初恋みたいな扱いなんですね、人間の自覚のないエゴイズムの恐ろしさ、鈍感で下品で、そういうものがこの言葉のなかに凄く表れている。

これをラストシーンに描く手塚治虫はすごいと思いました。

「私は死に物狂いで治そうとする患者が好きでねえ」 「ブラックジャック」のなかの言葉で、必死で生きようとする命の輝きのようなものが手塚漫画には常にあります。

苦しいけど生きるというのは納得しづらいが、それを納得させてくれるのが手塚治虫の漫画ではないでしょうか。

火の鳥」は永遠の生命を持つ不死鳥である火の鳥を登場させて、古代から未来まで、生きるとは、生命とは、宇宙とはという壮大なテーマが語られゆくが、その中に出てくる言葉で、絶望を踏まえた上でのぎりぎりの期待の言葉。

「でも今度こそ、と火の鳥は思う。 今度こそ信じたい。 今度の人類こそきっとどこかで間違いに気が付いて、生命を正しく使ってくれるだろう、と。」 「火の鳥」からの言葉






2020年8月23日日曜日

粟国 淳(演出家)           ・【夜明けのオペラ】オペラはこんなに面白い

 粟国 淳(演出家)           ・【夜明けのオペラ】オペラはこんなに面白い

音楽一家に生まれ、2歳からイタリアで音楽の勉強を重ねローマ歌劇場でオペラ演出の研鑽を積みました。    その後日本で新国立劇場の演出助手や文化庁在外研修員として研鑽を積んだのち「愛の妙薬」で演出家デビューをし、その後日本とイタリアで様々なオペラにかかわり現在は日生劇場芸術参与としても活躍しています。

4月にイタリアに帰る予定でしたが、今年は帰れないかもしれないので心配しています。

父は粟国安彦、オペラ演出家で、1969年にイタリアに渡って、オペラを学びたいということで家族で行って、50年近くイタリアで生活しています。 

母は元藤原歌劇団の合唱団でした。 歌手としてはイタリアでは辞めてしまいました。

70年代80年代にはオペラ歌手とか日本の方がヨーロッパに勉強しに行って、粟国家に毎日のように家に泊まったりしてオペラの話などをしていて、私のそんな環境の中で、ピアノ、ヴァイオリンとか勉強していましたが、演出家になるというような事は考えていませんでした。

小学生のころに父の夢としてはオペラ専門の指揮者になってほしいというように思っていました。

14,5歳のころには父は日本でオペラの仕事をしていましたが、友達は全部イタリアにいたし、成人になるまではイタリアにいることになりました。

指揮者の勉強もしていましたが、22歳の時に父は49歳で突然亡くなってしまい、本当に自分は何をやりたいのとか自分に問いかけて、一回全部音楽を捨てました。

ブティックでドアマンからスタートしました。

日本語は母親としか話しませんでしたが、ブティックで日本語にも触れる事ができました。

父の死ショックから立ち直るのに2年ぐらい時間がかかり、オペラも聞きたくないと思っていたところに従兄弟がイタリアに来て、オペラを見たいというところから人生が変わりました。

「ラ・ボエーム」を一緒に観に行って演出がフランコ・ ゼフィレッリでした。

「ラ・ボエーム」なんて子供のころから何百回とみてきましたが、初めてオペラを見るような気がしました。  改めてオペラ全体に惹かれてしまいました。

自分も父と同じように演出家になりたいと思いました。

*「ラ・ボエーム」から「冷たき手」 歌:ルチアーノ・パヴァロッティ

翌日父親の先生だった人に電話をして、レッスンを開始しました。

楽譜をどう読んでいくかというところから始めて、装置を描いたり、衣装をスケッチしたり、役をどう動かしてゆくとか、歌うことも自分でもやりました。

先生は芝居役者、歌い手、演出家、指導者というすべてをやってきた先生なのでその考え方を理解して行こうと思いました。

30歳の直前で「愛の妙薬」というコメディー的なもので、日本で演出家でビューしました。

装置、衣装とかイタリアのカラーを出そうと思って作りました。

*「愛の妙薬」から「村の皆様お聞きください」 ドゥルカマーラが歌うアリア 歌: シモーネ・アライモ

父親の担当したオペラの映像を観てみると似ているところがあり血の繋がりというものはすごいものだと思います。

*「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」 歌:ロベルト・アラーニャ



2020年8月22日土曜日

吉田栄子(戦災孤児)          ・私の家族はどこ? ~"空っぽの墓"に参り続けて~

 吉田栄子(戦災孤児)        ・私の家族はどこ? ~"空っぽの墓"に参り続けて~

太平洋戦争末期およそ1万5000人が犠牲となった大阪大空襲、吉田さんは両親を含む家族9人を亡くしました。  吉田さんは空襲で失った家族の遺骨を見つけられないまま今年86歳を迎えました。 今もなお家族の遺骨が納められていないお墓に参り続けています。  かつて吉田さんは今の大阪市難波で家族や叔父一家と共に11人で暮らしていました。 10歳の時に和歌山県にほど近い親戚の家に一人で疎開しましたが、1945年3月13日の大阪大空襲で職場にいた兄以外の家族9人を亡くしました。   空襲で家族のほとんどを亡くして人生が一変し、戦災孤児となった吉田さん、戦後75年吉田さんが歩んだ苦難の人生、そして家族の遺骨が判らないまま墓参りを続けてきた思いを聞きました。

親が訪ねてきてくれるのを待っていましたが、来ないので線路伝いに歩いて難波まで行きました。  周りは何もなくて蔵だけは建っていました。

自分の家まで着いたら、母の弟、兄とかが来ていました。

家族は居ないので小学校に避難していると思って避難所に一目散に行きました。

体育館には亡くなった方が男か女かわからないあられもない形のままの焼死体が置かれていました。

隣の家の人たちと共に逃げようとしているところを、隣の家の人が振り返ってみたら両側の家が崩れ落ちて私の両親たちの家族が見えなくなったと言うことをそこの避難先で聞きました。

兄は家の近くに勤めていて、空襲の夜には兄は出社していたため空襲は免れました。  家が燃えているのが見えていたそうです。

別の小学校にも私は見に行って校庭には遺体が並べられていました。  足元の靴の間から手編みの靴下を見たときに自分のと同じ靴下で間違いなく姉の遺体だと思いました。

疎開先に戻った後も兄は家族の行方を探し続けましたが、家族8人は同じ場所で亡くなったことが判りました。  6歳の弟を母がお腹に抱えてなくなった、父が一番上にかぶさってなくなっていたそうです。

母は7人産んでまして、私は女の子3人の末っ子で、凄く父は私をかわいがってくれました。

親戚のおじさんがこの子が大きくなるまでには凄く苦労するだろうなあというのが耳に入っていました。  これからどういうことが起こるのかは何も考えられなかった。

家族の遺骨は空襲直後の混乱でどこに引き取られてどうなったのか判りませんでした。

私は親戚を転々とする生活が始まります。  母の姉が引き取りに来てくれて4kmの道を叔母と共に歩いて叔母の家に行きました。

兄が養子に行くことになりましたが、叔母が私も連れて行けということになり私も兄の養子先に連れていかれることになりました。

そこの生活は物の無い戦後だし、向こうの方としてはうれしいことはないと思います。

学校には行かせてもらいながら、顔色を見ながらいろんなお手伝いを一生懸命しました。

実家を離れてから5か所目、14~17歳まで母方の叔父に引き取られ、人生最大の苦労する日々を送ることになりました。  中学校2年生の3学期の時で、叔父さんが母の弟で叔母さんとは他人で、子供さんも小さくて、私が預かってもらうということは大変迷惑だったと思いますが、そこの叔母さんがもの凄くきつかったです。

3人子供がいて、私が行ってから4人目を生んでその世話も全部私がやることになりました。

学校から一目散で帰ってきて、叔母さんとしてはただの働く女中さんということでした、中学卒業したら仕事をするようにと言われて、美容学校へ1年だけ行かせてもらいました。

逃げ出すところがないから逃げ出したいと思わなかった、日々の暮らしで精いっぱいで将来のことなんて何にも考えていなかったです。

警察の官舎に勤めていた人がいて叔母さんが無理やりその人と結婚させられました。(21歳)

離婚しようと思ったが、どうしようというということで5年ぐらいは子供は産もうとは思いませんでした。

26歳でお産も一人でして、2人目の時もだれも手伝いをしてくれる人もなく一人で産みました。

子供が小学校に入るようになった時には凄くうれしかった記憶があります。

美容師として独立してからは先祖への墓参りをするようになりましたが、家族の遺骨は行方が分からないままでした。  遺骨はないけれど私の行く場所はそこしかないんです。

50回忌で子供が一緒に行ってくれるようになりました。

大阪国際平和センターでは大阪大空襲で亡くなった人を追悼するモニュメントを作り犠牲となった人を刻印するという話を聞きました。  名前だけでも残しておきたいと手続きをしました。   名前を確認して息子も胸が詰まったと言っていました。

今年新たに豊中市の服部緑地に行く予定で、そこには空襲によって亡くなった2870人の遺骨が納められているといいます。   亡くなった家族の遺骨がそこにあるかもしれないという希望を持っています。   

親が亡くなったことによって人生が全部変わってしまったことは、凄く悔いのある人生でした、一回しかない人生ですから。   

遺骨が見つからなくても有ると思ってお墓参りしています、念ずれば通じると思ってお参りしています、それが唯一の私の心の拠り所ですよね。










2020年8月21日金曜日

坂上多計二(旧海軍直営農場 小隊長)  ・私は日本兵を見殺しにした ~命の選別~

 坂上多計二(旧海軍直営農場 小隊長)  ・私は日本兵を見殺しにした ~命の選別~

坂上さんは太平洋戦争の末期フィリピンミンダナオ島にいました。  旧海軍の農場で食料を生産する任務に就いていたのです。   相次ぐ機銃掃射や砲撃の野戦病院で目の当たりにした命の選別作業、逃げ込んだジャングルでは激しい飢えに苦しみ坂上さんの命に対する感覚は次第に麻痺していきます。    そして坂上さんは自らも日本兵を見殺しにするという命の選別を行うことになります。 95歳の今も全国各地で体験を語り続ける坂上さんに伺いました。

本当の生き地獄体験をしました。    アメリカ軍はレイテ、ルソン島を取ってミンダナオ島に来ました。   アメリカとしては戦略的な意味はなかったです、フィリピンから日本兵を追い出すために来ました。

第103軍需部タバオ支部の海軍直営農場にいました。   野菜、いも、とうもろこし、鶏卵などを採っていました。     農場を作って自給自足をしていました。

小隊長で農作業の指導をしていました。 部下は30人ぐらいいました。

危険なときもあり、破裂した小さい破片が刺さったこともあります。

即死状態の人もいました。

重傷者を担架で野戦病院に連れて行きました。 野戦病院は2時間ぐらい後方にありました。

通り道にはアメリカ軍がくることを予想して、照射してくるわけですから命がけの運搬でした。

重傷者にはガンバレと励ましてゆくしかなかった。

軍医がでてきて、最初の言葉に吃驚しました、「あと2,3時間したら死ぬから治療はしない、ここでは死体の始末はできないのでお前が連れて帰って自分たちで始末をしろ」と言われました。

奥さん、子供がいるから何とか治療をしてほしいといったが、駄目は駄目だといわれました。     悔しくて悔しくて、これが日本の海軍病院かと思いました。

担架に乗せたまま連れて帰って、暗いから穴が掘れないので、寄せてかぶせてそれが埋葬です、本当に悔しかった。

戦場と化した農場をついに放棄して、小隊を率いて米は各々40kg、塩を瓶に入れジャングルに25名程度の人数で逃げました。

山地族の生活していた跡地を見つけて生活をするようにしました。

サツマイモの蔓があり、2班に分けて片道2日をかけてサツマイモの蔓を2,3回取りに行くことをやりましたが、辞めました。

トカゲ、蛇、猿も食べました。

段々痩せていきますが、骨と皮だけのようになっても死にません、塩がなくなると身体が膨らんできます、水膨れになったらアウトです。

明けても暮れても食べ物のことしか頭になくて、アメリカ兵が怖いとかなかったです。

兎に角何か食べ物を探さないといけなかった。

死体にはウジが湧き白い歯、白い眼のように見え、息が切れれば我々もこんなになるんだと思いました。  地獄はこれだと思いました。

或る日、小屋で休んでいたら、隊長誰か来てますというものだから行きましたら、弱った日本兵が一人俺を此処に泊めてくれというものだから、駄目だ、泊める余裕がないから駄目だと追い出しました。

隊員も水膨れして毎日のように死んで行ったりしているので、隊員のことしか頭にはありませんでしたので、他人の面倒を見るというような余裕はなかったです。

翌日小屋から少し離れたところで死んでいました。  写真が2,3枚あり子供二人と奥さんの写真で家族のことを思いながら死んでいったんだなあと思いました。

極限の状態での判断だったと思います。 これが生き地獄だと思います。

戦争というものは人間を鬼にします、どんなに立派なことを両親から習っても戦争の場になれば鬼になります、地獄を体験したということをしょっちゅういうのはそういうことです、地獄の中にいれば人間は人間ではなくて鬼です、それが戦争です。

生きている限り伝えていきたいと思っています。

結婚して長く子供が生まれなくて、断った兵隊の罰が当たったんだと長い間考えていましたが、ようやく子供が生まれたときには色紙に子供の手型と足型をとりまして、今も床の間に飾っています、これは一生忘れてはいけないということで飾ってあるわけです。

戦争を起こさないためには命を大事にするということです。

命は連綿としてつながっているということを知ってほしいと思います。






2020年8月20日木曜日

山根昭吉(大東町戦没者遺族会 海潮支部長)・遺骨に宿る望郷の思い~硫黄島遺骨収集を続けて~

 山根昭吉(大東町戦没者遺族会 海潮支部長)・遺骨に宿る望郷の思い~硫黄島遺骨収集を続けて~

山根さんは87歳、、父親が戦死した硫黄島での遺骨収集に7度参加し、213柱の遺骨を故郷に返してきました。   山根さんは硫黄島に眠る遺骨の数々にどのようなことを感じたのか、伺いました。

「天皇陛下万歳」と叫んで戦死した、こういうことを聞いていますが本当だろうか、恋人の名前、母への「お母さん」だと思います。   硫黄島の2万名のご遺骨は皆そうじゃないかと思います。

戦時中、昭和16年は幼い時で農作業の手伝いをしていました。

父が出征するときは小学校5年生で、私は長男で兄弟5人いました。

母は朝早くから働いて、夜も星が出るまで働いていました。 兄弟もできる事は手伝っていました。

村は模範村として島根県でも表彰された村で、ルーズベルト、チャーチルの等身大の藁人形が役場の前に設置されていて、青竹3本がありそれを突くようにという札がありみんな通る人が突いていたような時代です。

昭和19年に父が出征しますが、父は丙種合格で入隊しました。   3か月過ぎて、面会が許されて夜行列車で行って、母と一緒に行っていろいろな話、手紙にやり取りについてに示し合せのことも話ました。

任地よりはがきが届いていて、元気で暮らすようにとの内容で、点が打たれているものがあり点より二つ目の字を読めということで、「小笠原硫黄島」ということになります。

「さようなら」と最後に書いてあって不安に思いました。

暗号にする必要があったのは軍隊では任地を知らせるということは米軍、英軍に知られるといけないということでした。

はがき、手紙は一週間に一回は来ていて、母が返答を出していました。

その後父からの便りも途絶えてしまい、こちらからの手紙も帰ってきてしまいました。

昭和20年8月15日に隣の家に行って、ラジオを聞きに行きましたが、雑音が入っていてよくわからなかったが、どうも戦争に負けたそうだということでした。

どこかで生きているのではないかと思っていましたが、玉砕して死んでしまっていました。

名誉の戦死ということでしたが、子供ながらにも悔しくて仕方なかった。

平成11年67歳の時に初めて硫黄島に遺骨収集に行きましたが、母の88歳のお祝いをして、その時点でみんな社会人になったことを父に伝えたいということと、母が元気なうちに行こうと思って遺骨収集に行くことにしました。

入間基地の自衛隊の飛行機に乗ってわたりました。  お父さん迎えに来たよと感涙にむせんで般若心経を唱えるのにも涙で潤んでとぎれとぎれの般若心経でした。  お米、酒,お菓子、線香、写真、小さな石塔などお供え物を持っていきました。

艦砲射撃で蜂の巣のように大砲が撃ち込まれていて地獄の島なんです。

地下壕は火炎放射器で焦げた豪ばかりで蒸し焼きにされたんだと思いました。

20平方キロの島にに2万人がいまして、物凄い戦争でした。

遺骨収集だけではなく終わりごろには地下壕の調査班にも回りました。  爆破されているので全体として出る遺骨なんてないです。

白い布にくるんで持ち帰るわけですが、いつも涙が出てくるんです、これは行ったものでないとわからないと思います。

いつも噴火する島で今でも蒸気というか煙が出ている島で、凄く暑くて、どこへ行っても水がない島です。 そういうところで日本の兵隊さんは過ごされた。

食料は無し、弾は無し、本当に地獄の島なんです。

そういうところで玉砕された兵隊さんたちを思うと、いつも涙が出る、そういう島なんです。

7回続けて又ほかの人を迎えに行こう、こういう心ばかりで、あー自分は来てよかった,又いこうとこういう心がいつも帰るときには思いました。

何回行っても遺骨が出てくるんです。

硫黄島を語る会も今年が最後で閉じてしまいました。

歳をとってしまって作業が安全にできなくなってしまって遺骨取集の許可が出ません。

絶対に戦争は起こすな、二度と戦争はしてもらいたくないですね。  妻を思い、子供を思い、「天皇陛下万歳」と叫んで戦死された人は私には想像がつかないんです。  戦争資料には「天皇陛下万歳」と叫んで戦死したとこういうことを聞いていますが、それは本当だろうか、恋人の名前、母、だと思います、私の父もそうだったと思います、硫黄島の2万名のご遺骨もみなそうなんじゃないかと思います。





2020年8月19日水曜日

田淵幸一(野球評論家)         ・【スポーツ明日への伝言】ONを止めたホームランアーティスト

田淵幸一(野球評論家)・【スポーツ明日への伝言】ONを止めたホームランアーティスト

東京六大学野球の長嶋茂雄さんらが持っていた本塁打記録8本を塗り替え、王貞治さんの 連続ホームラン王の記録を13年でストップさせた元プロ野球選手の田渕幸一さん、今年1月に野球殿堂入りを果たしました。   新型コロナウイルスの感染拡大によって延期されていた表彰式が昨夜東京都内のホテルで行われました。

小学校4年生ぐらいから野球を始めました。 家の前が学習院で10人ぐらい集まって、下手な子が見張りをやって門番が来たら逃げろというようなやり方で野球をやっていました。

甲子園に出れるような学校に入りたいと思って、たまたま近所に法政一高の先輩が行っていまして、来いということで法政大学第一高校に入りましたが、120人ぐらいの部員がいました。

声を出すのみで硬球に触れなくて、どうしたら触れるのかなあと思ったのが、バッティングキャッチャーでした、それがキャッチャーの始まりでした。

監督の松永 怜一さんが手首も強そうだから明日からバッティングしてみろいうことでレギュラー的なものになりました。  松永さんから見出してもらいました。

高校3年の時に松永さんが堀越に行ってしまって、大学の野球部に入ったときに松永さんが法政大学の監督になって、大体7年間松永野球を学んでいるわけです。

松永さんは厳しく怖かったです。

1年の時に優勝のかかった慶応戦に起死回生の同点ホームランを打ったのが第一号でした。

延長で勝って次の試合で勝って初めての優勝でした。

1年後輩の山中ピッチャーは48勝という記録でこれは破れないと思います。

ホームラン22本目はあまり記憶がないです。 

昭和43年ドラフトがあり、電話があり阪神タイガースとのことでした。  ドラフト前には川上さんと会っていて待ってるよと言われていて巨人に入れるものと思っていましたが。

最初の一打席が江夏の代打で初めて代打で出ましたが、投手は平松でストレート3球で一回も振れず三振の屈辱で、早くてバットが出ていかなくて、構えるときに手首を耳の位置までだったのを胸のマークまで手首を下げて、次の日に2本ホームランを打ちました。

王さんのバッティングで足を離しているのを見て自分でもやってみようと思ってやってみたら飛ぶようになりました。

長嶋さんがバッターボックスに入るとものすごく深呼吸するんで、オールスター戦の時に聞いてみたら、息を臍の下まで吸って、ボールが来たら吐くんだと、すると力が抜けていいんだといわれて、それを真似したらボールが飛ぶようになりました。

江夏は記録の時には王さん、長嶋さんとしか三振取らなかったですね、7,8,9番と気合いの入れ方が違うんです。

昭和50年43本でホームランタイトルを取りましたが、その時に王さんは内転筋か何か痛めていました。

474本打ちましたが、怪我さえなければ600本ぐらいは打っていたのではないかと思います。

昭和53年のオフに突如トレードという話が深夜にありました。

夜中に呼ぶような球団はもういいと腹はくくっていました。

西武に行くことになり西武の監督が根本さんで法政の先輩でした。   その後広岡さんが監督で厳しい練習をしました。

玄米食べさせられたり、食事の時にはビールを飲んではいけないとか、健康管理を厳しくやられました。

最初平岡さんの就任の挨拶の時にはみんなぼろくそに言われて、燃えさすためにこき下ろしたんです。

広岡さんは松永さんと似ています。

私は昭和59年を最後にユニホームを脱ぎます。

怪我はいろいろなところを毎年のようにやっていました。

星野との本当の出会いは阪神のユニホームを一緒に来た時からですね。  2002年のオフに中日を辞めて、タッグを組んで2003年に胴上げした時にマウンドで抱き合いました、それから親友としての付き合いが始まりました。

星野、山本といういい友達に恵まれました。

2018年1月4日マネージャーから星野が逝ってしまったという連絡があり号泣しました。


2020年8月18日火曜日

高山良二(元陸上自衛隊員)        ・地雷原を農地に変えた日本人

 高山良二(元陸上自衛隊員)        ・地雷原を農地に変えた日本人

高山さんは73歳、1992~93年にかけてPKO国連平和維持活動でカンボジアに派遣されました。   自衛隊を定年退職してからは愛媛県の自宅とカンボジアを行き来して、内戦で埋められた数百万もの地雷を地元住民とともに除去し続けています。  第二の人生を異国の戦後復興に捧げる高山さんに伺いました。

PKOで行った時にはまだ内戦がくすぶっていました。  停戦合意が出来たからと言ってぴたっと弾が飛ばなくなるということではないです。

戦争がなくなって今カンボジアの人たちは100%と言っていいほど、ポルポト政権とか政府軍とかは過去の話なので、これからのカンボジアを我々は発展させてゆきたいと言っています。

全国で1年間で地雷の被害を受ける人が600~800人と言われていましたが、現在は200人ぐらいになっています。

地雷原として指定されていないところのほうが沢山埋まっていると私は思います、現に事故が起きているところは地雷原と指定されていないところが多く起きていて、悲惨な状態です。

1992年10月から93年4月にかけて45歳の時にカンボジアに行くように命令がありましたが、当時は行ったら足が飛ぶか、死ぬかというような報道でしたので、一晩はいろいろ考えましたが、行かなければいけない、行って成功させなければいけないと思いました。

第二次先遣隊として84名を連れてゆく責任者としていきました。

乾期のキャンプの門のまえの田んぼの中で10歳の男の子が牛を連れてきて杭を打とうとして金づち代わりに使ったのが不発弾でガツンとやったら爆発して即死してしまいましたが、その光景を見てしまいました。

子供たちは地雷や不発弾に対する正しい知識がなかったです。

72A型対人地雷、手のひらに乗るぐらいの平たい円柱形で、側がプラスチックで中の撃針部分だけが鉄なので金属探知機に引っかかるわけです。

5,6㎏の圧力がかかると発火して、足で踏んだ場合は足首あたりまで損傷します。

1970年にカンボジアでクーデターが起き、ポルポト率いるクメール・ルージュへと政権が移り20年以上内戦状態になり、その間に埋められた地雷は400万~600万個と言われている。

敵の前進を遅らせたり、土地を使わさないようにしたり、自分たちを守るために地雷は使われていました。     軍人及びその家族によって埋められました。

私は施設科部隊で橋を掛けたり道路を修理したりする任務でしたが、地雷の処理の訓練はしていました。

命令で行って命令で定められたことしかできなくて、融通性のある任務付与ではなかった腹立たしさはありましたので、フリーになったら戻ってきて気が済むまでやるんだと強烈に思いました。    PKOで行った事で人生観、価値観がひっくり返りました。

2002年55歳で自衛隊を定年退官して、すぐにカンボジアに行って地雷除去の団体に加わりました。     行ったところは内戦の最後の激戦地でした。

二人一組で1.5mの幅の奥行40cmの草や木をのけます、その後金属探知機を動かします。

地雷を作動させないように土を少しづつのけていって、金属源が何か調べて、地雷だったらそこに印をつけて一旦そこにおいて置き、ライセンスを持った隊員が来て誘爆させます。

気温が40度以上になることもあるのできついです、いろいろ装備もつけてやるので大変ですし、自分もいつか怪我をしたり死ぬかもしれないという怖さがあります。

一日、二日では成果は見えないが、5年、10年と経つとコメや大豆を干したりするブルーシートが確実に増えてゆくんです。

住民参加型地雷処理活動は私がカンボジアの処理組織の長官に提言した内容で、啓蒙、啓発活動、危険回避を村人でできるということです。

2007年1月19日朝に地雷原のなかで大きな爆発が起きて7名がなくなってしまいましたが、帰国する時にプノンペンの本部の事務所に立ち寄ったときにそのことを知りました。

本部から現場まで450kmありましたが、急遽夜中でしたが引き戻りました。

対戦車地雷が8個ほど集団で埋められていて、その上に対人地雷が置かれていたものと思います。

7人が処理しようとしていたら、敏感な対人地雷に触れて誘爆して、対戦車地雷が爆発してしまったようです。  男性が4名、女性が3名で年齢は若い人が22歳、小隊長が45歳で亡くなった男性一人と女性一人は婚約していました。

7名の遺品は全部拾い上げて、火を焚いて荼毘に伏して、小さな骨を遺族にお返ししました。    一度は責任を取って死にたいと思いました。

これからもこの活動を続けて恥を忍んででも生きて村の楽な生活できるようにという思いでした。

安全な畑にしないといけないということで、みんな一緒にやることによって村の復興といったことが芽生えてきたんだと思います。

達成感としては、山の頂上にアタックする裾野の一歩ぐらいだと思います。

地雷原だった場所で芋を栽培して焼酎に加工して販売までしています。  村人にお金が回っていくようにしないといけないと思いました。

戦後処理の場所から平和のメッセージを送る酒という風なキャッチフレーズで言っていますが、戦争をして殺し合いをするよりは酒を飲んで楽しい生活ができる、どっちを選びますかということです。

目指す目標としては、私がそこには要らなくなるということだと思っています。

ひとたび引き金を引くと子供、孫の代まで続いていくので、それでも引き金を引く選択をするのですかと、世界の人たちに言い続けたいということと、引き金を引く選択は絶対してはいけないと思います、平和を現場から訴えたい。



2020年8月17日月曜日

望月左太寿郎(邦楽囃子方)        ・【にっぽんの音】

 望月左太寿郎(邦楽囃子方)        ・【にっぽんの音】

「だじゃ」は中学からのあだ名になっています。

静岡の伊東市生まれ、40歳。 父は日本舞踊、立花流2代目家元 立花 寿美造

19歳で長唄囃子方の望月佐太郎さんのもとで 修行を積みながら東京芸術大学邦楽科別科を終了、2005年に望月左太寿郎の名前を許されて囃子方の一歩を踏み出し、現在は舞踊界、演奏界、海外公演などで活躍、若手の囃子方たちと若獅子会やお囃子プロジェクトというグループを結成、伴奏楽器である囃子に注目してもらおうと、囃子をメインにした公演を開催してその楽しさを広める活動をしている。

大学に行くにあたり、邦楽があってとか知らなくて、スポーツをやりたいと思っていたが、高校3年生の時に芸大に行くときに、日本舞踊とは違うお囃子で行ってみたいと初めて思いました。          囃子を職業にするということに対して父は何も言いませんでした。

邦楽囃子は歌舞伎、日本舞踊の後ろで演奏している囃子、三味線と一緒に演奏する打楽器、笛という形です。

「囃子」は「はやしたてる」という語源ではないかと思います、「謡」は「うったえる」というところから来ているらしいです。

三味線の旋律に乗って、唄に乗って打つということが多いです、日本舞踊、歌舞伎の伴奏が主な役目だと思います。

若獅子会はなかなか聞く機会のない邦楽を大勢の人に聞いてもらおうとして始めたグループで、新たな楽しみ方を探してゆこうということで5回目から創作曲を作るようになって、これから聞いてもらうのが第一作目です。

*「若獅子 Ⅰ」  演奏:若獅子会

囃子だけではなく舞台を作り上げてゆくことが魅力だと思います。

お客さんと一緒にその会場の空気を作ってゆく一体感が出た瞬間は気持ちいいです。

*「ひよどり越え」(合戦の前の宴のシーンで酒盛りをして楽しんでいる様子)演奏:若獅子会

小鼓の起源はインドと呼ばれているが、ズンズービー( dundubhi )という楽器がありましてそれがもとなんじゃないかと言われています。

日本にわたってきて独自の開発がされて、肩に担いで打つという独特な奏法がなぜ生まれたかはわからないが、日本独自の進化を遂げたのが小鼓です。

ただ打てばいいだけではなく、調べというひもがかかっていてその部分を打った後に少し開いたりすることによって音を作るので、左手が一番重要です。

打楽器で音を変えてゆくということでは世界でも珍しい楽器です。

左手で持って右肩に担いで、右手を添えて下から打ちます。

よく使う楽器だけでも50~60種類ぐらいあります。

当たり鉦(お祭りなどで使う楽器)、オルゴール(お輪を並べて打っただけ 蝶々舞っていたり御姫様のかんざしが揺らめいているようなシーンで使われる)

他の楽器ではまつむし(松虫が鳴いているシーン)、カラスが鳴いたり赤ちゃんが泣いたり鶯が鳴いたりするものもあります。

*「マスターオブ着到Ⅱ」 演奏:お囃子プロジェクト 

邦楽囃子のジャンルを崩さないことが大事だと思っています。

日本の音とは静寂、間 音がないところに美徳を感じる感覚だったりとかが、日本の音、感覚かなと思っています。







2020年8月16日日曜日

宗像伸子(管理栄養士・料理研究家)    ・【美味しい仕事人】「食は命」です

宗像伸子(管理栄養士・料理研究家)    ・【美味しい仕事人】「食は命」です 

40年近く病院に勤務し、患者の健康を栄養の面から支えてきました。   職がいかに生きる喜びを与えるか目の当たりにしたという宗像さん、病院勤務の後も大学での指導や栄養コンサルタントのほかNHK「今日の料理」のテキストに掲載されているレシピの栄養計算を担当するなど、食と健康に関する著作は130冊を超えています。   宗像さんに栄養に取り組んできた人生と生涯現役を支える食事力などお話を伺いました。

NHK「今日の料理」のテキストに分量のほかに栄養価の数字が出ているが、30年ぐらい前からレシピから計算して出しています。

先生によって油の量が多かったり、塩分量が多かったりしますので、編集部の方に連絡して、その方が先生にお伝えして、ではこうしましょうということもままあります。

乳幼児に蜂蜜はよくないが、インターネットでアップされたりして心配な点もあります。

高齢者の低栄養ということでお肉は食べなくていいよというような方がいますが、私はずーっと前からそんなことはないということをお伝えしていたのですが、まだまだそういう風に言う人もいます。    お肉は高齢者になっても食べていただきたい。  日野原先生も週に2回はステーキを食べていました。

フレイル、体力が落ちたとか、食が細くなったと感じる人がいると思いますが、このようなことが続くと健康障害を起こしてしまう、

サルコペニア、加齢により筋肉量が少なくなって筋力、身体機能の低下、転びやすく成ったり、躓いたりして骨折して寝たきりになる原因にもなります。  栄養の十分な摂取、体力の維持、運動が大切になります。

父が開業医で、95歳まで仕事をしていまして、母は料理が好きで、この道に入ったのかなと思います。

父は誰かが風邪をひくと鍋で部屋を暖かくして、すき焼きを食べてすぐに寝かせて薬、注射は一切なかったです、食事で治すということをしていました。

山王病院では舌の超えた患者さんが多くいたので料亭の懐石料理の店に行って2年間勉強したり、洋食の料理を勉強するために講習会に参加したりしました。   有吉佐和子さんからカレーの味を褒められた記憶があります 

茂恵会半蔵門病院では手塚治虫さんからはにこにこして美味しいと言っていただきました。

ある末期がんの人が来て、主治医は食べられるはずだということで、バナナミルクを召し上がりますかと言ったらうなずいて、それがおいしくて、それがきっかけでどんどん流動食からおかゆ、普通食になり一か月ぐらいで元気になって退院されました。

材料別、調理法別にカードを作って、料理のカードが私が出る頃には1000枚以上になったと思います。

集大成が「一品料理500選、治療食への展開」で医学書専門の出版社から出させていただきました。  一品一品に病気の5種類に対してコメントをしていました。

予防医療ができる専門家としても活躍。  病気になってから食を正すということでは遅いのではないかと痛感して、予防医学の面から健康食とはどういうことかということをやりたいと思って、いろいろな媒体を通して啓蒙して、起業して現在に至りました。

生活習慣病予防のためのサロンで、一日2000キロカロリーがどんなものか、テーマに即したレクチャーをして、料理のデモストレーションをして、それを味わっていただきます。

一番大切なことは御出汁をしっかりとるということです。(塩、糖をうまく調節できる)

ゴルフをやっていて30年ぐらいになり、コンペをやっていて昨年で60回で終了しましたが、参加者は平均すると40名程度です。(出版社、医師、銀行、広告代理店、看護師・・・・)     会話を通して友好関係を持つというウエートが高かったです。

食事力は人間の基礎的な能力の一つと考えています。

食事力は100年を想定して、気力、体力を維持するために食事、食行動を自己管理することを言います。  まず大事なことは一日に何をどのくらい食べたらいいか目標を持つことです。

栄養計算はめんどくさいので4つ食品群を使って説明しています。

一群には卵、牛乳、乳製品、二群は魚介類、肉類、豆類、三群には体の調子を良くするビタミン、ミネラル、食物繊維で、野菜類、芋類、果物、四群には穀類、ご飯、パン、甘いもの、油もの という風に4つのグループにわけます。

この中から上手に朝、昼、晩の食事を組み合わせて摂る、それがバランスの摂れた食事になります。  野菜の摂り方が少ないということがありますので野菜はしっかり摂っていただきたい。

定刻に朝、昼、晩の食事を摂ることも大事です。

食事は栄養補給と共に休息の場でもあるということも知っていただきたい。

家族、友人と楽しく食べることも大切です。

手作りの食事を心がけることも大事だと思います。

健康寿命を食事面で実践するということも大切だと思います。



2020年8月15日土曜日

令丈ヒロ子(児童書作家)         ・【戦争・平和インタビュー】「戦争を知らない私から子どもたちへ」

令丈ヒロ子(児童書作家)         ・【戦争・平和インタビュー】「戦争を知らない私から子どもたちへ」 

令丈さんは子供たちが楽しめるファンタジー作品を数多く執筆、代表作「わかおかみ」や「小学生シリーズ」は累計で300万部以上を売りあげ、これを原作としたアニメ映画は日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞するヒット作となりました   デビューから30年ユーモアあふれる作風で愛されています。   そんな令丈さんの作品の中で唯一戦争を題材に書かれたのが「パンプキン!模擬原爆の夏」です。  1945年日本各地に落とされた原爆の投下訓練のための爆弾模擬原爆について、主人公の少女と少年がともに調べ事実に迫ってゆく物語です。   自ら戦争を経験したことのない令丈さんがどのような思いをもって、どのようにして子供たちに伝えるための作品を作り上げていったのかを伺いました。

パンプキン模擬原爆とは、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾がありますが、丸くてずんぐりむっくりしていてその形からファットマンという名前がついていました、ファットマンと同じ大きさ、重さ、同じ形で中に核物質は入っていないが、火薬が入っていて原子爆弾の投下練習として作られた模擬原子爆弾です。

パイロットが目的地に落とすときに、風が上がって旋風で飛行機が巻き込まれてしまうので、巻き込まれないように、正確に落とすための練習としてパンプキン模擬原爆が作られました。

本当は50発でしたが1発は海上投機されていて、49発が北海道、沖縄を除いて日本各地に落とされたということです。  大阪は7月26日に東住吉区に投下されました。   死者は7名で負傷者は73名ということです。

2003年に自転車で通りかかったときに石板があり、読んでみたら模擬原子爆弾で亡くなった方の慰霊のために建てたという文章があり吃驚しました。

模擬原子爆弾って何と思いました。

2008年にその碑の近くに引っ越してきて、地元の街並み保存委員会のメンバーになったというのがきっかけで、初めてどういうものか知りました。

作家だったらこのことを本に書いてほしいといわれて、実際にあったこと、戦争をテーマにした本は書いたことがなかったが、見過ごすことができないという思いがあり、やらなければいけないと突然思いました。

それまでは子供たちが楽しめるような本を書いてきましたが、伝えようとかの意思で本に取り組んだことがありませんでした。

最初は元になる資料、米軍資料の「原爆投下報告書」がすべての大元になっています。

日本の原爆投下候補地をどう絞っていったかとか詳細に書かれています。

1945年4月27日に第一回原爆投下目標剪定委員会がありました。

人口が多い都市が入っています、東京、大阪、京都、佐世保、福岡、横浜・・・・・・。

会議が進んで7月25日に広島、小倉、新潟、長崎に対して原爆投下命令が下されるわけですが、ちょっと前の原爆実験に成功した直後からパンプキン模擬原爆が投下されます。

この資料を読んで大まかな計画、全貌が判りました。

近所に住んでいる方で、長崎で被爆された山科和子さんが一瞬でご家族を亡くして、ご自身も放射能の後遺症で長く苦しんだんですが、非常に頭脳明晰な方で通訳をされていて、自分の被爆体験を日本全国、海外の学校にいって語り部としての活動をしていて、その人を紹介してもらって話を聞く機会ができました。

聞いていて壮絶な体験なので安易に聞いていいのかと思いました、そして結婚はされたが、子供はつくらかなったとか、言っていました。

アメリカによって落とされた爆弾で家族を失ったので、アメリカに行くのは抵抗がなかったかどうか聞きましたが、私は割り切っていたのではないかと思ったが、そうではなくて全然嫌でしたとのことでした。

アメリカの学生さんに原子爆弾は持たないほうがいいとか、戦争はよくないということ体験談を話したら、泣いて話を聞いてくれて、話してよかったと言っていました。

本を出すにあたって体験談として出しても世の中には多くあるので、どうすべきか考えていたら、山科さんが長崎はいい街でいろんな国の人が共存していたと、お互いを尊重していたとおっしゃって、そういう世界がこの先も出来ないはずはないとおっしゃって、それが本のテーマとして、その言葉をうまく伝えるような作品にできないかと思いました。

フィクションとして小学生の男の子と女の子を主人公にしたほうが感情移入しやすのかと思いました。

読みやすいようには工夫しました。(子供が調べてゆくスタイル)

主人公たくみ君らを通して大事な問題の破片を盛り込んで、過去に何があったか知ることも大事で、アメリカ、中国、韓国などの現在の文化は知っているが、当時のことは知らないが段々と調べてゆくにしたがってわかってきてショックを受けてゆくわけです。

この本は血が飛び散ったり目の前で家族亡くなってしまうとか痛々しい場面はないです。

未来につなげる考えも入れないと児童書作家である意味がないのではないかと思ってまずは手に取りやすいように工夫をしました。

これをきっかけにしていろんなことに興味を持ってほしいという入り口として、事実を知ってほしいということで、知りたいことは自分で調べるとか、やっていってくれたらいいと思ってこういう話にしました。

過去を知らないと未来のビジョンは立てられないと思うので、戦争の事実はしっかり知っておいてほしいとは思いました。

より良い未来を作る有力な手掛かりの一つとして知識があると思うのでちょっとでも貢献できればと思いました。










2020年8月14日金曜日

佐藤哲雄(インパール作戦 元分隊長)    ・【戦争・平和インタビュー】「100歳の今、伝えたい "生き抜く尊さ"」

 佐藤哲雄(インパール作戦 元分隊長)    ・【戦争・平和インタビュー】「100歳の今、伝えたい "生き抜く尊さ"」

佐藤さんは大正8年生まれで、現在100歳、新潟県の北部の村上市で暮らしています。

昭和19年3月に始まったインパール作戦は当時のビルマ国境近くの地域からインド北東部のインパール攻略を目的に展開された作戦です。   食料や弾薬が不足する中激しい戦闘が繰り広げられ最も過酷な戦争、最悪の作戦などと言われています。

佐藤さんはこの過酷な戦場を日本を出発する前に上官から生きて帰って来いという訓示を胸に秘めて生き抜きました。  佐藤さんは戦場から自身の行動を記録した書類を持ち帰ってきました。  この書類を手掛かりに、聞きました。

(方言もあり高齢でもあるので聞き取りずらく、正確さを欠くかもしれません)

インパール作戦は負け戦の延長戦でしたね、無茶な作戦だったと思います。

この紙が残っているから思い出されます。

書き出しが昭和15年4月10日、現役兵として歩兵第16連隊留守隊第8中隊に入営から始まっています。   あの当時は万歳と日の丸の旗に送られていったので、死ぬのが当たり前だと思っていたので、死ぬことはあんまり気にしてはいなかった。

昭和16年に16連隊から58連隊に転属するために新発田市を出発して新潟県の西の上越市高田に向かっています。   その時訓示は最初は立派に先輩の傷をつけないように死ねという感じでしたが、最後に死ぬばかりが国のためにならないから必ず帰ってきて国のために働けという最後の言葉でした。

負けるとは思わなかったが、この人は何を考えてこういう訓示したのかなあと不思議に思っていた。

ああいうことを言うには負けることを考えていたのかなあと最後まで腑に落ちなかった。

ビルマに行ってからあの人は先を見通していたのかなあと思いました。

昭和18年3月15日作戦のためにコダン出発、これがインパール作戦と言われている。

インドの北東部の攻略を目指したものの、物資の補給がままならないまま強行されて今では最悪の作戦とも言われています。

第31師団は連合国軍の補給の要所コヒマの攻略が目的でした。  部隊長として私は数十人の兵士を纏めていました。

小隊長が負傷してしまっていたので、私が引き連れていたが、最初から勝つ見込みがなかった。

川を渡るのに食料がないので牛やヤギも載せて船が満足に渡ればよかったが、満足には渡れないと思った。

食料としての牛やヤギは流されてしまって、不安でした。

3月19日、左ひざ関節に迫撃砲弾破片創を受ける。(怪我をする)

病院に行くまで2週間もかかり麻酔もなく手術をしました。

行くまでにマラリアにもかかってしまって40℃の熱が1週間かかりました。

戦友が面倒見てくれて熱も下がってきました。

生きて帰ってこいという訓示が頭の中にありました。

退院後コヒマに到着するが、相手は補給が整っていて日本の状況は悪化してゆき、ほどなく撤退が始まるが、多くの日本兵が病気や飢えで亡くなって、死体が多くあったことからその道は白骨街道と呼ばれています。

死にそうになっている戦友がいても手助けすることもできない、体力的に手伝っていると自分も駄目になってしまうような状況でした。

病気で死んでしまう人が多かった。

ヒョウとかハゲタカに襲われているのも見ました、みるみる白骨化していきます。

食べ物はなかなか手に入らず、バナナ、葉っぱを煮てみて食べられそうならばそういったものを食べていました。

昭和22年新潟の実家に戻ってこられました。

戦争に負けてしまっているので、よく帰ってきたというような歓迎される事は言われなかった。

帰ってこないでビルマで逃亡したほうがよかったのかなあと思ったこともありましたが、段々山の仕事も覚えてきて信用してもらって、グループを作って真面目に仕事をして、思いが変わってきました。

去年インドにできたインパール平和資料館に戦地で使っていた双眼鏡を寄贈しました。

戦争は絶対してはならないと思います、死にに行くようなものだから。

戦争なんて人を殺さないと自分が殺されるのだから、いいに拘わらず悪いに拘わらずこういうことをしてはいけない。

人間であって人間ではなくなる。





2020年8月13日木曜日

曾根幹子(広島市立大学 名誉教授)    ・【戦争・平和インタビュー】「未来を奪われたオリンピアンたち」

 曾根幹子(広島市立大学 名誉教授)    ・【戦争・平和インタビュー】「未来を奪われたオリンピアンたち」

大学で地域スポーツの振興などについて研究してこられた曽根さん、現在67歳、ご自身も走高跳の選手として1976年のモトリオールオリンピックに出場したオリンピアンであります。

曽根さんは6年前から戦争で命を落とした戦没オリンピアンについて調査を始めました。

遺族の元を訪れ、オリンピック後の生活や出征前に家族に残した言葉、戦地から送られた手紙や遺品などについてつぶさに調査を行ってきました。   オリンピックを通じて世界中のアスリートと交流し、世界の国々の様子を目の当たりにしてきたオリンピアンがあの戦争をどのように見つめ、どんな思いで戦地に向かったのか伺いました。

最初にオリンピックを見たのは1964年の東京オリンピックで、こういうところで一度立ってみたいと思いました。

1976年のモトリオールオリンピックに出場しましたが、走高跳で1m70cmという最初の高さを3回目でクリアして次は跳べなくて予選敗退でした。

本当のオリンピックの面白さは各国の人達と肩を組んだり、写真を撮り合ったりあの閉会式にあるのではないかと思います。


戦没オリンピアンを調査するきっかけは、最初広島市が被爆70年史を作るということで、書いてくれないかと言われました。   これを調べたことがきっかけで戦没オリンピアンを調査することになりました。

忘れてはいけないことを忘れているということで、それを紡いでいかないといけないのではないかと思いました。

ドイツでは1980年の初めから世界戦没オリンピアンの追悼をしていまして、その中でちゃんと定義されていて、戦争や暴力行為で亡くなったオリンピック選手という定義でした。

日本では原爆投下でその後闘病で亡くなった人が入るのかどうか、ということに関しては戦争が原因で亡くなったということで戦没オリンピアンに入るということでした。

栄光の足跡は残しているが、出征してから後のことが判っていない人も結構多かったです。

軍歴証明書が非常に重要になるということが判って、それをいただくには3親等以内でないと申請できないので、いろいろご家族とあって話を聞くことができましたが、戦後何年もたっているのでご遺族の方が少なくて本当にわからなくて苦労しました。


広島県出身で5人の戦没オリンピアンをめぐる調査と課題ということで論文を書かせていただいています。

今も継続してやっていますが、ほかにやっている人がいないということもあります。

38人の方がいて、陸上と水泳の戦没者が多いです、一番多いのがベルリンオリンピックの出場者で戦争で亡くなっている方が多いです。

1940年の東京オリンピックが返上になったのは1938年の7月に決定されて、代替え大会とし国際大会が浮上しますがこれも中止になりました。

広島出身の児島康彦さんは1936年のベルリン大会に17歳で出て、シベリア鉄道の長旅で体調を崩して、100m背泳ぎが6位でしたが、メダルは期待されていました。

お国のためにということで頭に刷り込まれていました、思いを簡単に口には出来ない時代でした。

松永行(あきら)さんは戦地からの手紙が8通残っていて、拝読しましたが、東京師範学校出身で先生になるのが将来の道だということを考えていたようですが、教科書を送ってくれというような事が書かれていました。

ガダルカナルで1943年に亡くなってていますが、教育学、教育史などの教科書を送ってくれということで、生きて帰れたらこうしたいということがあったと思います。

出征前の写真が残っていますが、物凄い悲壮な顔なんです、もう生きて帰れないだろうと思って日本を発たれたということはその顔からわかります。

広島の江田島出身で1932年のロサンゼルスオリンピックで水泳で銀メダルを取った河石 達吾さんは1940年7月4日に故郷に帰られて、親戚の人に話したことはもう二度と生きて帰ってこられないのでくれぐれも後のことは宜しく頼むということを言って出征されたそうです。(硫黄島で亡くなる。)


簡単に海外に行ける時代ではなくて、自分とは違う文化に触れたり、食生活、建物など今の自分との比較、今の日本との比較することができる、今置かれている状況が若あるわけです。

昔のオリンピアンは外交官のような役目で、フランクに楽しく交流をしているわけです。

1936年ベルリンオリンピックの棒高跳びで銅メダルを獲得した大江 季雄さん、ベルリンオリンピックの翌年ニューヨークで室内大会があり大江さんが参加するわけですが、エンパイアステートビルなどを見て明らかに国力の差を感じていて、太平洋戦争に突入した時には選手たちには負けるということが判っていたと思います。

私が知る限りでは最後まで生きるという希望を捨てなかったということをいろいろなところで感じました。(調査をしなかったら気付なかったことです。)

広島市で被爆して原爆症で亡くなったオリンピアンがいたこと、その方が初めて初めて戦没オリンピアンとして位置付けられました、高田静雄さん、陸上競技の砲丸投げで日本記録をおよそ20年間持ち続け砲丸王として有名で、27歳の時にベルリンオリンピックに出場、爆心地から680mの建物内で被爆、長女も亡くし1963年54歳で亡くなる。

私にとって原爆を考えるうえでも、戦没オリンピアンを考えるうえでも非常に大きな意味のある方でした。

アスリートが身体が動かなることが人一倍つらいものだということを感じます。

原爆を体験した瞬間とか原爆症で肝臓が腫れて腰が曲がって歩くのが大変だということを聞いた時には原爆が生きながらえたとしても、後遺症を残すわけです。

写真家としても遺品に膨大な写真を残していて、その写真を観て不思議な気がしました、どの写真を観ても明るくて希望に満ち溢れているんです。

平和公園で慰霊碑の前でアメリカ人の夫婦が腕を組んでいて一歩踏み出しているポーズですが、高田さんがそのポーズをお願いしたそうです。

自分がどう生きたらいいのか問うのは改めて考えさせられました、やりたいことができる時代で自分が与えられた人生を自由にデザインすることができるので、精一杯生きることが亡くなった人たちへの恩返しなのかなあと思って、いただいた人生を大事にしたいなあと思います。

気が付かないうちに戦争に向かっていることがあるので、自分の中にアンテナを立ててアラームを鳴らさないといけないと思います。

オリンピズムの目標があり、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和の社会の確立を奨励するということがあり、スポーツは人間の調和のとれた発育に役立てることが重要なんだということも書かれています、いかなる差別を伴うことなく友情、連帯、フェアプレーの精神にをもって、相互に理解しあうオリンピック精神に基づいてオリンピックを行わなければいけないということが書いてあります。

記録、勝敗も重要ですが、そうではなくて交流の場、海外の選手、観に来てくれる人達が日本の国民と触れ合う機会をたくさん作って相互理解につなげていってほしいと思います。




2020年8月12日水曜日

浜田桂子(絵本作家)           ・【戦争・平和インタビュー】「"対話"から紡ぐ平和」

 浜田桂子(絵本作家)       ・【戦争・平和インタビュー】「"対話"から紡ぐ平和」

浜田さんは昭和22年生まれ、72歳、結婚、出産を経験し、37歳の時に絵本作家としてデビューしました。   ロングセラーとなっている「あやちゃんのうまれたひ」をはじめ、デビュー以来命の大切さをテーマに創作活動を続けています。   そんな浜田さんが作家生命をかけて取り組んだのは平和に関する絵本の制作です。     タイトルは「へいわってどんなこと?」、中国や韓国の作家たちと4年以上の対話を重ねて作りました。  この絵本は日本だけでなく海外でも大きな反響を呼び、先月には香港の出版界である栄誉ある賞を受賞するなどいま改めてこの本が注目されています。   戦後75年、価値観の異なる人との対話が平和につながるという浜田さんに伺いました。

小さい時から絵を描くことが大好きで、両親が喜んでいましたし、本も好きでしたので大きくなったら本に絵を描くということを思っていました。  

10代で私は父と母を病気で亡くしています。   父は中学2年の時にくも膜下出血、母は高校3年の卒業目前に肺がんで亡くなりました。   思春期の時期にかけがえのない人と死別しなければならなかったことで、命なんて願っても祈っても消えるときにはふっと消えてしまうというというような、生きることの不信感のようなものが強かったです。

そうした中でも絵本へのあこがれ、いつか絵本を作りたいという思いは心の支えになっていたと思います。           不信感が180度転換したのが私の出産の体験でした。命のつながりというのを何か形にしたいと思っていました。  それが結果としてデビュー作の「あやちゃんのうまれたひ」になりました。

これまでに27冊の絵本を手掛けてきて、中でも力を入れたのが「へいわってどんなこと?」で戦争はしない、嫌なことは嫌だと意見が言える、悪いことをしてしまったら謝るという言葉と共に優しいタッチで描かれています。

平和を考える心の扉をノックする絵本であったらいいと思っています。

昨年の6月ぐらいから香港では自由が奪われる危機感ということで市民の方が声をあげたり、デモをされたりしていましたが、ぜひ香港でもこの本を出したいというオファーをいただいて、出版し香港から受賞されました。

最初3000部ですぐまた3000部が増刷されました。

読書会も開かれていまして、市民の方たちを励ましているということもうかがっています。


絵本作家としてデビューする前、30歳の時に児童文学の作家の方に誘われて、被爆ということを経験された方との交流の中から衝撃を受けたことがいくつもありました。

被爆者の方たちが生き残ってしまったという罪悪感を持っていらっしゃるんですね。

それと被爆者の方たちに対する差別が厳然としてあるという事実に非常に衝撃を受けました。

被爆者のかたは語ることによって平和を作っているということを目の当たりにしました。

平和の絵本を子どもに読んであげたりしていましたが、下の子供は怖いこんなの、と言ってみようともしてくれなかった、うえの子は昔話を聞いているような反応で、皮膚感覚として伝わっていないと思っていました。

「へいわってどんなこと?」についてはアジアの人と向き合おうと言うことになりました。

最初はできるか不安がありましたが、同じ絵本作家の人たちとは気持ちをかさねられるのではないかと思いました。

試作本を作って意見交換してゆきました。

韓国の作家から痛烈な批判を受けました。  戦争の場面で浜田さんは無意識かもしれないけれど、日本人の特有の被害者の意識がでた表れではないかという指摘で、どういう場面かと言いうと平和って戦争の飛行機が飛んでこないこと、爆弾が落ちてこないこと、家や町が破壊されないことという受け身の文章でした。

二度とあのようなことはしない、二度と他者を苦しめない、だから平和は大事だという意識は大変希薄、まさに意識が現れた文だという指摘でした。  日本では通用するでしょうがアジアでは通用しませんと言われまして、驚いたのと腹が立ちました。

知識と本当に苦しんだ人たちの思いというのはわかっていないということを痛感しました。

唯一の戦争被爆国ということで日本は加害の意識を全部それでそぎ落としてしまった、アジアでなにをおこなったか、朝鮮半島で何をおこなったか、ということを和らげてしまったというんでしょうか、最もポイントとなったことが唯一の被爆国という言葉ということを私は知るんですね、とても複雑な思いをしました。

これ以降の平和感は変わりました、知識で知っていても感覚で捉えうる意識をする、人としての苦しみや悲しみがどういうものであったかということ、思いをはせようということを凄く考えるようになりました。

子供の主体性を考えました。

試作の中で平和って一人ぼっちにしないという場面を作りました、それは阻害する、仲間外れにするというような意味で作ったんですが、浜田さん実はひとりぼっちって凄い大事だよと言われました、一人でものを考えることは素敵なこと、個人としての権利や尊厳がきちっと守られて初めて手をつなぐ、連帯、みんなで一緒ということが力を増してくる、だから一人は大事だよということで私はハッとしました、自分の中にそういう視点は全くなかった。

子供を主体的な位置に置いたら、言葉が全部変わってくる、受け身ではなくてアクティブな言葉、戦争なんてしない、爆弾なんて落とさない、というような言葉にすることができると思って言葉を変えました。

残念ながら今対話ができているとは思えません、対話、言葉が凄く軽視されていて、ある意味表現の自由が脅かされているような、むしろ戦前に近づいているように感じたりします。

平和博物館の課題の展示に関して市民からのクレームが非常に多くなってきて様々な展示を縮小せざるを得なくなったということを学芸員の方から伺いました。

最近は価値観を共有しない、対話を許さない、議論を許さない雰囲気を感じています。

言葉の暴力が容認されてしまってるような社会、これは対話を軽視されているということを痛感します、ヘイトスピーチが横行してナイフのように人を傷つけるわけです。

対話しないと違う側面を知らないわけですから、一方的に信じた悪いイメージから憎しみ、怒りとかが勝手に生まれてしまう。

対話は自分の意見に屈服させるものではなくて、相手を尊重し、違った意見が出てきたときにまず受け止め背景を理解してゆく。

違う意見の中から新しい認識が生まれてきたりするので、対話とはそういうことかも知れません。

同意できない場合には冷静にそれを伝えればいいと思います。


感覚的に多様なものに触れるということも大きいと思います。

その一つに絵本もあると思います、絵本は大切なことをシンプルに伝えていますので、人の価値観に押しつけがましい形ではなく訴えられるのかなあと思います。

戦時中、国は軍国少年少女を育てるために絵本、紙芝居をフル活用しました。

出版社は苦い経験をもとにして戦後出発しています。

自尊心を育むことがとっても大事だと思っています、生まれてきてよかったそう思えることは他者に共感できる力を産むんですね。

子供は感覚が鋭い部分がある、子供の声にじっくり耳を傾けてほしい、子供は社会を構成する仲間であるという視点がもっとあっていいのではないかと思います。

身近なこと、これってなんかおかしいのではないかという違和感を大切にすることも平和につながって行く第一歩のような気がします。

SNSに関してはいろいろありますが、SNSも力になることもいろいろあります。

声を上げると筋力のようなものがついてくるような思いがします、発言することを躊躇しないということも大事なことかと思います。

共感を広げる活動でなにか平和を作っていけたらいいなあと思います。

絵本は武器よりもはるかに安い、喜び、うれしさ、楽しさを生み出すもので、共感を集めてみんなの思いが重なって平和になっていけばいいなあと思っています。



2020年8月11日火曜日

木本孝(旧樺太 真岡郵便局電話交換手)  ・【戦争・平和インタビュー】「戦中の集団自決"乙女たち"の思い いま語らん」

 木本孝(旧樺太 真岡郵便局電話交換手) ・【戦争・平和インタビュー】「戦中の集団自決"乙女たち"の思い いま語らん」

1945年8月20日、太平洋戦争の終結を告げる玉音放送から5日後、旧樺太、現在のサハリンで電話交換所として働いていた10代~20代の女性9人が青酸カリを飲んで集団自決しました、終戦の混乱のなか、侵攻してきた当時のソビエト軍から自分たちの純潔を守るための最後の抵抗でした。   亡くなった電話交換手は9人の乙女として語り継がれ、多くの本や映画のテーマにもなっています。    乙女たちの同僚だった女性が今も北海道千歳市に暮らしています、木本孝さん(92歳)これまで自分の体験についておおくを語ってきませんでしたが、戦後75年の今年、乙女たちの記憶を後世に残したいと思い口を開きました。

小樽市にうまれ、2歳の時に樺太の真岡という街に引っ越しました。   真岡は軍と山と二つしかなくて、背中には山があり前には海がある不凍港でした。

ニシン、マスなどが多く獲れるところでした。  船の中にニシンが零れ落ちるぐらい湾の中に入ってきます。  街は栄えてきました、遊郭、バーができて夜になるとキラキラでした。

電話交換手として働いていました。  街には憲兵隊、陸軍の兵隊の観測所もありました。

仕事に関して厳しく躾けられました。    学校で決めて電話交換手になります。

電話交換手は憧れの仕事でした。50名以上いました。10代後半から20代後半が多かったです。

昭和20年8月の終戦の直前にソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄して、真岡を含む樺太にも攻め込んできました。

電話交換室のなかに有線放送があり、ソ連の兵隊が国境線のシスカを乗り越えて南方に向かって進んでいるということを知りました。  心配でした。

終戦になって引き上げ班と残る班に分けることになり、どちらかを選びなさいと言われました。

私は残りたかったが一人っ子なので引き上げることに決めました。


8月20日、7時40分ぐらいに表のほうから、ソビエトの軍艦が入ったと叫んだ男の人がいました。

崖のそばまで行ったら海一面真っ黒い軍艦が何隻も止まっていて、機銃掃射がありました。

防空壕に入いろうと両親と一緒に防空壕に入ってじっとしていましたが、蓋を閉めたがトントンと音がして剥がされて、そこにはソ連の兵隊がいました。

3人で両手を挙げて拝んでいたら兵隊は行ってしまい、私たちは山に向かいました。

中途の空き家で何人もの人隊と一緒に一休みしていたら、兵隊が来て出ろと言われたが、だれも出なかったが、ある女の人が出て行って助けてほしいと言ったら、銃で撃たれてしまいました。

又出なさいと言われて、一人出ると又銃で撃たれてしまいました。

そうこうしているうちにジープがきて違う兵隊(海軍)が来て、自分たちの管轄なので行けということでその兵隊たち(陸軍)は引き上げていきましたので、助かったと思って自分の家に帰れました。


郵便局では後で聞いたんですが、ソ連の兵隊が攻めてくるので、薬を飲んで殉職しました。

友達がそのことを教えてくれました。(青酸カリを持っていたことは知っていました)

青酸カリはそれぞれの入手経路から手に入れました。

最初お守り程度に思っていましたが、犯されるの嫌で身を守りたいと思って、その前に飲みたいと思ったというような事でした。

穢されたり変な殺され方をするよりも職場を守って逝きたいという一心だったと思います。

教育をされていたし、職場を守るのが第一で死ぬなんて二も三も後です。

考えてみたら軍隊と同じような感じでした。

その後すぐ男の人が来てリヤカーでご遺体を真岡の一番大きい病院の裏に穴を掘って仮埋めしました。

落ち着いてから家族などが見えて掘り出して火葬しました。

そのなかには仲のいい友達がいました。


今でも写真を出してみています。   いつも頭から離れませんが、話したくはないんです、それを本当に判ってもらえなかったら私は粗末にできないんです。

本当に判ってもらえるかどうかということは当時の殉職した人たちの気持ちです、真剣に聞いてくれる人には話しますが、そうでない人には話したくありません、家族、子供にも話してはいません。

教育もそうなっていたので誰でもあの場面にぶつかっったら飲むんじゃないですか。

それぞれ夢があったと思いますが、残念です。

戦争って恐ろしいですよね。

戦争のない国になりたいなと思っています、そういうことを皆さんに判ってもらいたいです。

2020年8月10日月曜日

比嘉佐智子(戦争体験伝え手)       ・【戦争・平和インタビュー】「母が失った沖縄戦の記憶を語り継ぐ」

 比嘉佐智子(戦争体験伝え手)       ・【戦争・平和インタビュー】「母が失った沖縄戦の記憶を語り継ぐ」  

75年前沖縄では激しい地上戦が行われ20万人以上が犠牲になりました。

地元住民も戦闘に巻き込まれ県民の4人に1人が命を落としました。

鉄の暴風ともいわれる悲惨な沖縄戦について県内の小学校で紙芝居を使って伝えている人がいます、戦後生まれの比嘉佐智子さん71歳です。

比嘉さんの伝える沖縄戦は母安里要江(としえ)さん99歳の体験です。

3か月もの間戦火の中をさまよい家族11人をなくしました。

戦後要江さんは語り部として全国各地で公演を行ってきましたが、認知症の症状が出始め、去年語り部を引退しました。

母の引退を機に比嘉さんは活動を始めました。

継承の難しさを感じながらも前向きに取り組む比嘉さんに伺いました。


父と母が戦後に結婚して、その時の約束は戦争の話はお互いに話をしないでおこうという約束で結婚したと言っていました。

母の自分の体験については聞いたことはなかったです。

私は県立病院の看護師でした、母が全国を飛び回って語り部をしていたころはちょうど出産して、産休もなかったのですぐ出勤していました。

疲れてごろっと寝てしまっていました。

私からみたら母はすごいと思っていました。

足が痛くても断らない、これは自分に課せられたものだから断ることはしないんだと言っていました。

戦争で生き残ったのは家族で一人なので、戦争の怖さを自分しか伝えることができないんだと言っていました。

避難生活でも一番つらかったのは子供の泣き声だったそうです。

轟の豪で大声を出すとアメリカ兵が攻撃してくるということで怒鳴っていたそうです。

母乳も出ずやせ細ってなく元気もなくなってきて、洞窟の中は臭気(汗、尿、排せつ物など)が漂っていて寝ることも出来なくてひしめき合っていたそうです。

闇の中で娘の和子(9か月)は息を引き取ったそうで、何日も話すことができずに抱いていたそうです。

死臭が漂い始めて岩盤の茂みに横たえて埋めたそうです。

早く死にたいと思っていたそうです。

5歳の宣秀が残っていたので考え直して気持ちを入れ変えたそうですが、どう生きていいかわからなかったそうです。

朝起きてみたら主人も27歳の若さで栄養失調で亡くなったそうです。

宣秀も受けた傷が悪くなっていって主人が亡くなってから49日目に亡くなったそうです。

胸の中に苦しいことをすべて閉じ込めている母がいました。


33回忌になると死者は神様になって昇天するということで、自分がしゃべっていいんじゃないかなということで、区切りをつけようと思って最初TV出演がきっかけとなって体験を語る機会ができてきました。

最初の講演は1981年で、全国働く婦人の集いがあり、ほかのところでも講演して欲しいと要望があったそうです。

母が語り部として活動していた当時はよくわかりませんでした。

自分は伝えるために生かされているということも言っていました。

認知症になった今でもヘリコプターが飛んで行ったら攻撃されるといったり、常に今でも頭の中は戦争があります。

5年前から認知症が始まり、今までどんなことがあっても断らなかったが、突然自分はめまいがするからいけないということがあり(認知症の)症状が始まりました。

手を出したことのない母が私たちをたたこうとしたり、出てゆくと飛び出して車を捕まえて助けてくださいとか、手を付けられない状態でした。

つらいから思い出したくないということもあったと思います。

暗いところが嫌で怖くて寝られないということもありました。


長い年月ずーっと心の中に閉じ込めてきて戦争の凄さを感じます。

40年続けてきた語り部を昨年引退しましたが、もう楽になってほしいと思いました。

語り部を辞めたいとは当人からはなかったです、体調不良だけが自分はできない理由だと思っていたと思います。

2019年5月30日に引退していますが、大阪府の意岐部中学に講演していましたが、「みんな戦争があった過去を知らないといけない、経験した私たちは心の底から恐ろしさが出てくる、この思いを伝えてほしい」といって、最後は締めくくりましたが、認知症でも語れるのだと思いました。

母親からは語り部を継いでほしいということは何回も言われましたが、戦争のことをもっともっと知らなければ語ることはできないと思いました。

母がやってきたこの語り部を私でも少しはできる事があるのかなあと考え始めまして、できる事からという風にしています。

平和学習に昨年初めて立ちました。

紙芝居を使ってやるのはツールとしては紙芝居しかないと思っていて、紙芝居は伝わりやすいと思っています。

沖縄戦のことについて母にもっと聞いておけばよかったと思います。

苦しみとか伝える力は私にはまだまだ足りないと思います。

あの戦争を忘れない、風化させない、二度と戦争をしないで、いつまでも平和でありますようにということだと思います。 より多くの人に伝えていかないと戦争のむごさが判らなくなってしまうと思います。  体験した人が継承していく人が少なくなってきてしまって、できる事からやって行くことだと思います。

平和は願っているだけでは平和にはならないと思うので、平和の担い手としてできることをやってほしい、やることが大切なんだと考えさせられました。

もう先の時間が無くなってきているので、せめて孫にはこういったことがあったということは伝えていきたいと思います。







2020年8月9日日曜日

中村明雄(NPOマネージャー)      ・船頭唄に苦楽を込めて

中村明雄(NPOマネージャー)      ・船頭唄に苦楽を込めて
江戸時代栃木県の栃木市は街の中心部を流れる巴波川(うずまがわ)の舟運で栄えました。
いまここでは船頭さんが操る遊覧船が人気で年間およそ4万人が訪れます。
しかし去年10月の台風19号がもたらした水害のため運行ができなくなり復旧した矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で再び休業となりました。
度重なる災難と向き合いながら川と共に生きる船頭としての思いを電話で伺いました。

通常ゴールデンウイークが一番忙しくて一日1000人ぐらいの人が来ました。
船は一般に言う和船で全長が8mです。
3月から運休して6月1日から再開しましたが、元にもどるというわけにはいかずに低迷しています。
15,6年前、船游会の人たちが集まって川遊びが始まりまして、青木理事長をはじめに5.6人で始まりました。
船は借りてきました。
栃木市の観光課の方が興味を持ってちょっと運行してみたらということになり、夏祭り、秋祭り、なんかイベントがあったときに船を出して遊んでいました。
ちょっと乗せてほしいということで段々増えていきました。
青木理事長は同窓会のメンバーで同窓会に参加した時に遊びに来ないかと言われて、遊んでいたところ誘われて入ったのが船頭になるきっかけです。
2か月間、民謡の先生に民謡を指導してもらい、船の漕ぎ方、お客さんへのおもてなし、歴史などをいろいろ学びました。
お客さんが船から上がる時にはお客さんが拍手をしてくれて、評価してくれます。

*船上での観光のおもてなしの状況を披露。
「栃木河岸船頭唄」を歌う。

楽しい毎日を過ごしています。
台風19号の時には大きな被害を受けました。
船は陸揚げしましたが、縛り付けてあったものさえ流されてしまいました。
床上浸水のところもありました。
皆で協力して船が出ることを望んでいました。
栃木工業高校の生徒が竹明かりを作ってくれましたが、それも流されて泥だらけになりましたが、洗いなおしたり修復したりして復活させてくれて、そのこともまた背中を押してくれました。
川底が全然変わってしまって、川の真ん中に中洲ができてしまいましたが、重機を借りてきて船が通れるように土砂の撤去をして、2か月後には船が行き来できるようになりました。
オリンピックのランナーが船に乗れるようにしようということで、3月29日に乗る予定でした。
3月28日に電話があり延期になりますということでした。
新型ウイルスの感染拡大ということで営業できなくなりました。
6月1日からソーシャルディスタンスということでいろいろ気を使いながら再開しまし。
3か月船を操っていなかったので最初竿の使い方など心配しましたが、すぐに慣れました。
再開してゆくにあたってはいろいろ会議をしました。
地元の観光を盛り上げるためにはまず船だということで、それが背中を押してくれました。
お客さんも現在少ないですが、お客さんが一日も早く戻ってくれることを期待しています。
お客さんが喜んでくれるのが私の喜びでもあります。
巴波川は母なる川で、川から恩恵を貰ってきているので恩恵を返すということでやっていきたいです。















2020年8月8日土曜日

2020年8月7日金曜日

池田明美(紙布作家)           ・和紙と語る

池田明美(紙布作家)           ・和紙と語る
紙布は折りたたんだ和紙をmm単位で細く切り、よりを掛けて糸にし、その和紙の糸で織った布です。
紙布は江戸時代に盛んに作られましたが、明治以降和紙の衰退とともに忘れられていきました。
池田さんは宮城県白石の伝統工芸白石紙布を織る紙布作家です。
池田さんによりますと白石紙布は肌触りが良く夏は涼しく冬は暖か着心地は大変軽いということです。
軽くて汗取りもよく乾きも早くて、水に通せば通すほど丈夫になる紙布はまさに日本の気候風土に合った織物だったのではないでしょうか。
池田さんは紙布つくりの難しさはなにより紙糸作りにあるといいます。
熟練の和紙職人がこうぞやかじの繊維を並べるように均一に薄くすいた手すき和紙、その和紙と語らいながら裁断し、もんでと入りをかけかみ糸を作る、この過程が白石紙布の最も難しいところで、同時に自分にとって一番楽しい時だといいます。
和紙と向き合い和紙の声を聴きながら糸にし、紙布を織る、幾重にも手をかけ時間をかけて紙布を織る、そんな手作りの機織りの音もお楽しみください。

縦糸は絹糸を使います、横糸は和紙を2~5mmに裁断してよりを賭けた糸で織った布を白石紙布と言っています。
伊達藩、仙台藩が奨励庇護して育てたものです。
白石藩主片倉さんの処で山にこうぞ、かじを植えて和紙をすき加工して紙布を作り上げていきました。
伝統工芸展に出品しています。
紫色が縦に入っています、ほかにもいろんな色が入っています。
草木染をするので紫から藤色まで段階的に使っています。
数えると十何色入っていますが、見た目には白と紫の二色になります。
白がかじ和紙の色で水にさらせばさらすほど白くなるのがかじの特徴です。
こうぞ和紙やかじ和紙は紫外線を受けることによって白く漂白されていきます。
今回出したものは夏ものですからよりを強くして、さらっとして肌触りが良くて汗をかいても肌に触る部分は紙なので汗をよく吸い取ってすぐ乾きます。
着心地は最高だと思います。
和紙は空気が抜けますので着ていても蒸れないです。

青が大胆に使われた単衣、太古の海という藍の板締めかすりの着物です。
13年前のものです。
大きな海原をイメージして作りました。
板と板の間に布を挟んでねじで締めあげて藍の桶に突っ込み、引き揚げて板の凸凹している部分があるのでその凸凹に応じて柄が出てきます。
絹織物の半分ぐらいの重さになります。
帯、白地に藍の水玉模様。
5mmぐらいの幅に切って、木綿糸よりもちょっと太い糸を使います。
縦も横も紙なので滑りがないので帯が緩まないし軽いし閉め心地はいいと思います。
糸は太いので着物に比べて作るのはずーっと楽です。

畳一畳分を1/3に切った和紙で3匁という和紙を使っていて、その紙をWの形の折りたたんで、折り紙の提灯を作る時の方法と同じです。
切れ込みを入れていきますが、着物用では2mmにしています。
きちんと切れていることを確認しながらやります。
次が紙揉みで、切ったものを広げて屏風状に細くたたんだものを石の上でもみます。
石は溶岩石でもみます。
横幅60cm、縦が50cmぐらいの紙の両端が繋がった状態でそれをを折りたたんで、湿したタオルの間に挟んで、石の上でもみます。
溶岩石が水を吸い取るのでもみ終わるころには紙はほぼ乾きます。
手のひらで転がすようにやさしく揉みます。
その後一本一本バラバラになるように叩きます。
すきての技で繊維が縦になるようにすくので切れないようになります。

広げた紙を切れ込み2本ずつちぎって指の先で転がすようにして粒を作っていきます。
端っこからほぐしていきざるの中に入れると一本の糸になって長く続いています。
揉んだ紙一枚で50~100mぐらいの長さになります。
糸車でよりかけをしていきます。
小豆が入っていてこんがらからないようになっています。
ざるには紙30枚分ぐらいが入っています。
取っ手を一回回すと1mで100回ぐらいの撚りがかかります。
和紙120枚を糸にしようと思うと2か月ぐらいかかります。
巻き取ったものをお湯の中に通して一晩干して、生乾きにしたものをかせという木の輪っかに戻していきます。
1000回回すと一かせ(50mぐらい)が出来上がります。
それを糸巻きにかけていきます。

作業の中でうんでいる(揉んだ後に2本ずつ切って長い糸にしてゆく作業)時と撚りをかけている時が一番好きです。
いろいろ25年研究しながら紙布と向き合ってきました。
出来上がった喜びはひとしおです。
紙糸つくりが紙布つくりの8,9割を占めるというような感じです。
25年以上前に父の介護をしているときに、アルツファイマーにもなっていて、向き合っていくことがつらくて、気が付くと泣いていました。
自分を立て直すために好きなことをやろうと思って、世田谷区で生涯学習の和紙造形と出会って、心に余裕ができて父の介護も出来るようになって自分も健康に戻ることができました。
先生から紙布を知ることになり、白石和紙のすきての遠藤さんご夫妻にお会いして、教えていただいて始まりました。
紙が糸になるということがすごいと思った記憶があります。
絶やしてはいけない布であるということを感じました。
水の中に紙布を浸けてそれを着て火の中に入ったら熱くないんだ、だから火の中を潜り抜けることはできるんだという話を聞いて、記憶に残っています。
大切にしている言葉は「道を楽しむ」という言葉です。















































2020年8月6日木曜日

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に
沖縄の方言で大城さんの故郷の南風原町を「せいばる」というそうで命薬と書いて「ぬちぐすい」と読むそうです。
大城さんは琉球舞踊家として国内外で沖縄の魅力を伝える傍ら、30数年前から南風原町で
わらべ歌の普及活動に取り組んできました。
おじい、おばあから受け継いだわらべ歌は沖縄の平和の象徴であり、命の薬(ぬちぐすい)だといいます。
平和を願い歌い続ける大城さんに伺いました。(電話インタビュー)

*ちょんちょん歌 歌:大城鶴子

現在81歳で、9月に82歳になります。
幼稚園、小学校に行ってわらべ歌を教えたり、おもな仕事は琉球舞踊の教師をやっています。
南風原町は沖縄の一番南にあり、唯一海が見えないところで、部隊の豪があって負の遺産として保存し、それを通して活動しています。
6歳の時に太平洋戦争末期に、沖縄の学童を疎開することになり、熊本の八代に行きました。
対馬丸という船に乗ったんですが、那覇で浦丸という貨物船に乗り換えさせられました。
対馬丸はアメリカ海軍の潜水艦に攻撃を受けて1400名あまりいた人たちは沈没して亡くなりました。
乗り換えたおかげで今生きています。
長崎に落ちた原爆の原子雲を見ました。
20歳の時に又長崎の音楽大学に沖縄から留学しました。
高校の時に近くに教会があり美しい音楽がいつも流れてきてそれに気を惹かれて訪ねました。

小さい時から踊りはさせられていました。
卒業後中学の音楽の先生をしました。
ほかの音楽の先生は沖縄の歌などは教えませんでしたが、私は沖縄の踊り、歌も授業に取り入れていました。
私は学校を辞めて東京に行きました。
夫になる人は武蔵野美術大学にいましたが、その後結婚しました。
沖縄の復帰問題に参加して活動しました。
沖縄が日本に復帰して、沖縄南風原に戻ってきました。
沖縄の思いを伝える活動をしてきました。
沖縄は変わらないです、基地の問題とか。
南風原も変貌してきて、昔の南風原もなくなってしまうと思って、南風原音頭を作ることにしました。
音頭を自分たちで作ろうと言うことで、村々を全部回りました。
公民館にお年寄りをお呼びして歌ってもらったり、話をしてもらって、録画して音符にもして一冊の本ができました。
わらべ歌などどんどん湧き出てきました。
色々集めた中からそれを材料にして音頭が生まれました。

*南風原音頭 歌:大城鶴子

南風原音頭ができてから30年以上たっています。
わらべ歌楽譜集を作りました。
沖縄の言葉は忘れられたり、若者からは敬遠されることもあります。
それで本を作って子供たちに歌ってもらえるようにということで活動しました。
演奏できるように楽譜もついています。
今度はCDにして各家庭全員に配ろうと思っています。
琉球舞踊、歌、三線、わらべ歌と私には一つになっていると思います。
命薬(ぬちぐすい) 命(ぬち)に響いて自分の血となり肉になるんでしょうね。
歌が薬になるんで頑張って広めたいです。
姉がハワイに嫁いでいって、姉たちは活動を始めています。
その流れでハワイにはよく行って一緒に取り組んでいます。

*子守歌 歌:大城鶴子













2020年8月5日水曜日

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの
瀧澤さんは東京生まれの71歳、今月から公開されるごぜを制作しました。
この映画は最後のごぜと言いわれた盲目の女旅芸人小林ハルさんの生涯を描いたもので構想から完成まで17年の歳月を費やしました。
ことしはハルさんの生誕120年にあたります。
この節目に瀧澤さんが伝えたかったものとは何なのでしょうか。

ごぜさんというのは日本全国に存在していて、平安から始まって明治、大正、昭和の中期まで居て、小林ハルさんというのは最後まで歌っていたということで最後のごぜと言われています。
視覚に障害を持つ方たちは按摩さんなり、鍼師なりごぜと職業があったんですが、ハルさんも最初は鍼師になるような流れもあったらしいが、鍼師の先生が飲むと非常に怖い先生に恋慕して、ハルさんはごぜさんに流れた見たいです。
ごぜさんは歌を歌う、浄瑠璃、浪曲を含めてその時代に合った演目を選んで歌っていた。
一年を通してほとんど巡業だったようです。
新潟に大きな組織があり500~1000人規模でした。
山に中の小さな村まで行きました。
そこでは情報をもたらす役割もありました。
ごぜさんが来るというと楽しみにしていたようです。

小林ハルさんに実際にあった方から聞くと背筋がぞくっと来るぐらいに突き刺さるような歌声だったそうです。
非常に人に対して丁寧で優しくて思いやりが深いということをお聞きしました。
生まれて3か月で白内障にかかって視力がなくなってしまって目が見えなくなってしまって、ごぜさんになったといわれています。
新潟の三条市生まれです。
105歳まで生きた方です。
50歳後半で撮った映画で2003年に公開しているときに、次の作品は何かないかなあと思いながらTVのスイッチを入れたらハルさんの番組でした。
こんなに苦労しても普通に人に対して優しいのか、どうしてやり返さないのか、神様とか助ける人はいないのかと思いました。
民族学者の佐久間惇一さんという方がハルさんを見つけ出して世に出したんですね。

昭和53年ごぜの伝承者として国の無形文化財に指定されました。
苦労が帳消しになって、素晴らしいハルさんに感動してしまって、自分で作れるかどうかわからないが自分で作ってみようと思ってそれから頑張ってきました。
視覚障碍者なので昔ですのでいろんな方からいじめを受けたことがありますが、ハルさんの場合はやっといい人に出会ったのに亡くなってしまって、又何年かしていい人に出会ったのに又亡くなってしまう。
つらい出会いと別れがあって、ごぜの同業者からもハルさんは本当にうんと苦労をしているんですよと言っていました。
それを乗り越えてくる力とは何なのかと思って、そういう部分も映画にしたいと思いました。
ハルさんの家は庄屋まではいかないがいい家で生まれ何不自由なく暮らしてきて、母親は独り立ちのために5歳のころから礼儀作法を厳しく躾けました。
ご飯の食べ方、躾け、着物の着方、たたみ方、荷造りなどすべてに関して厳しく教えたそうです。
それは娘に対する親の強い愛情を僕は感じました。
8歳で旅に出ることになり、ついたフジ親方はお金目当てで意地悪してあきらめさせようとしたらしいです。
新潟から巡業で険しい峠をこえて福島まで行って、又帰ってくる旅で、ハルさんに言わせると一番つらくて思い出したくない旅だったといったそうです。
15歳の時に親方と別れてサワ親方のところに行って自分の娘のようにかわいがって旅に行きます。
学校も行っていないのですが、親方が「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」、ということでごぜさんの心というか愛を教えてあげてゆくんですね。
ハルさんのご霊前の前で必ず映画を作りますからと、自分の中で誓いを立てて17年間かかりましたが、それは無駄のない時間でした。
ハルさんの大事にしている言葉なんですが、「難儀をすることが本当の仕事」という言葉があり、くじけそうになった時に励みになって17年過ごしました。
「苦は楽の種」とも言っています。
苦と楽は表裏一体で苦があるから楽を感じるし、楽だったら何もないんじゃないかと思いますし、だから人生は面白いんだと思います。
映画の資金が必要で10年たってこのままではいかんと思った時に、大林 宣彦督が最初の映画の時にぼうし?(奉仕?聞き取れず)ドラマを作ったので、6年前に自分でもやってみようと思いました。
それをラジオドラマにも分けて、やったらリスナーからの励ましの手紙がありました。
斎藤真一さんというごぜさんの絵を描いた人がいて、その絵をどんどん買って退職金でも又買って、それを高田市に寄付している人がいるんです。
それを聞いて、自分の思い、夢を現実にするには自分を犠牲にするものがないといけないと思って、自分の家と土地を売って製作費にあてて動こうと思ってとやっているうちに、周りからの支援も加わりました。

私は東京生まれで、小さいころから映画が好きでした。
父親が映画好きでした。
父親とよく見に行きました。
中学に入って映画研究部に入りました。
8mm映写機が欲しくていろんなバイトをして8㎜映写機を買って自分で物語を作ってやっていたりしました。
そのころから監督になってみたいと思いました。
1980年にCMを作る映画会社に入りました。
「運動靴と赤い金魚」という映画を観て予算は少ないのに、人の心を揺るがすような映画が作れるのかと、こんな映画を作りたいと思いました。
なんともない日常ですが、人の心を揺るがすようなハラハラドキドキ演出ができるのかと思いました。
「ベースボールキッズ」を読んだ時にスポーツマンシップという言葉が原作にあり、そういう思いの少年野球「ベースボールキッズ」という映画を作りました。
メガホンを取った映画はごぜは2本目の映画です。
慈しみという言葉が好きで、私の一貫したテーマです。
ハルさんのお母さんが教える、「人を恨んでは駄目だ、人を区別しては駄目だ、うらやましがったら駄目だ」、ということを目が見えないハルさんに教えていって、ハルさんはその教えを純に守り通すんです。
ハルさんの苦労話ではなくて、けなげに生きてきた力を僕は感じてもらいたい。
力の源は人の夢とかにつながると思います。
「夢無き者に理想無し、理想無き者に計画無し、計画無き者に実行無し、実行無き者に成功無し」という言葉があり、夢が原点で夢を自分の手でつかむには努力という力が必要で、ハルさんも人には見せない努力をしてきたと思います。
17年間というものは素晴らしい人生だと思います。



























2020年8月4日火曜日

小柳 剛、玲子(ダイヤモンド・プリンセス号乗客) ・クルーズ船での隔離の日々

小柳 剛、玲子(ダイヤモンド・プリンセス号乗客) ・クルーズ船での隔離の日々
小柳さんご夫妻は1月2日にダイヤモンドプリンセス号に乗船し東南アジアを旅するツアーに参加しました。
しかし船内で新型コロナウイルスの感染者が確認され、2月3日から17日間の隔離生活を余儀なくされます。
小柳さんはクルーズ船での日々を克明に記録し、5月にダイヤモンドプリンセス号からの生還という本に纏めています。

剛:今は普通の生活を送っているつもりですが、気持ちの中ではわさわさしています。
2月20日に下船して、外に出るなということで14日間は外に出れませんでした。
帰ってから2,3日してから電話がかかってきて、毎日のように健康チェック、外に出るなと言われました。
私は相模原の病院に入っていて妻のほうも感染しているのではないかと噂が広がりました。
まったくそうではないのに、吃驚です。
2月3日の夕方に香港で下船した中国人が感染していて発症したということが、2月1日の夜中に香港政府から発表になり、厚労省も2日に情報をつかんでいます。
3日に船内放送で伝えられ検疫に入るといわれました。
船内移動は4日の夜まで自由でしたし、ショーとかもいろいろ行われていて楽観ムードでした。

5日には船から降りられると思っていましたが、5日の早朝に船長から部屋から出るなという放送があり、そこからガラッと変わりました。
14日間の隔離をしますという通達がありました。
私たちは窓のある部屋でしたが、窓のない部屋は外国人が多かったです。
隔離の状態では天国と地獄だと思います。
豪華客船というイメージがありますが、そうではなく僕らの部屋は定価が41万円/人ですが実際は20万円です。
16日間のクルーズで3食付きで施設は使い放題で、1万2500円です。
窓のない部屋は10万円で決して豪華ではないです。
僕は73歳で薬を使っていますが、隔離中に一番精力を費やしたのが薬の確保でした。
妻が隔離後10日目、僕が12日目にようやく薬がそろうことができました。
あまりにも理不尽なことが多くて逆上するわけですが、毎日続くわけはないので自分に言い聞かせるわけです。

玲子:海外のお客さんもおおくて年齢層も高く持病比率が高いのは一目瞭然でした。
薬にはややこしい名前であったり、メモで伝える程度で大丈夫なのか危機感があって、フロントの一元で管理していて本当に伝わるのかなということが一つ、漢方薬に関しては処方してもらうのには西洋医なので重要性はあまり理解してもらえないということがありました。
全てが不安でした。
通路が狭くて大型のカートで各部屋に食事を運ぶような作りではそもそもなかった。
外国人がかなり多くて標準的な食べ物を作ることがかなり厳しかったのではないかと思いました。
今では3密対策はやっているが、大型クルーズ客船ではどうしても過密になってしまうことが多いと思います。
空気感染、飛沫感染に伴う病気に対してはできるかというと、どうなんですかねと思わざるを得ないです。
私は割りと楽観主義で基本的には食べられている間は大丈夫だろうということが強くて乗り切れるだろうと思ったりしていました。
常に待っている状態でそれがストレスになるのと、東京湾も荒れていて結構な揺れでした。
ベトナムのほうから北にきたので自分の体感と外感の温度の格差があり体がなじまなくて自律神経がやられたのか、物凄く調子が悪かったです。

剛:隔離されてからの情報については、部屋にTVモニターがありますが、映るのはNHKのBS1,2,3のみで、あとは海外チャンネルとビデオ見るというものです。
情報を取るメインはスマホのネット検索だけになります。
あとは知り合いからのメールが入ってくるので情報はそれだけです。
NHKの記者からインタビューされていたので、その方から多少重要な情報は得ました。
このクルーズ船の事故をどうとらえているのかということは全くわかららなかったです。
それが一番知りたかったがそれはなかったです。
ダイヤモンド・プリンセス号はイギリスの船籍で経営はアメリカの会社で複雑です。
前例がないので厚労省は最初困ったと思います。
接岸せずに検疫を始めたが、あまりにもおおくて700名程度の感染者が出て、接岸せざるを得なかった。
なぜ早くPCR検査がしてもらえなかったか、クル-の検査は全くしていなかったので非常に不安がありました。

乗客の要望がほとんど無視されてしまった。
人数不足、緊急対策本部がなぜ作らないのか、重症者の対応など切りがなかった。
3711名で60歳以上が60%以上を占めていて、隔離するのは無茶な話でした。
高齢で持病を持っている人も隔離するわけです。
誕生日が2月18日でケーキは運ばれてきましたが、食事は来ませんでした。
17日間の出来事で二つ大きな柱があり
①厚労省はこの船の中で何をやったのかということがまだ出てこない。
②プリンセス・クルーズという船会社が一切口を閉ざしている、これは非常にひどいことだと思っています。
この二つが見えないと今回の事故の全貌はまるきりわからないと考えています。
厚労省現地対策本部が船の中に設けてその後報告書が出ていてネットで見ましたが、よかったのか悪かったのか、悪かったのならどうしてそういうことになってしまったのかということが一切省かれていて、具体的に突き詰めないとこういう事故がまた起きるのではないかと思います。

玲子:ワクチンが開発されれば又クルーズ船に乗ってしまうと思います。
旅というよりは生活するみたいな場として使っている方もいます。
出来上がったグループの交流が楽しくて乗っている方が多いので衰退はしてゆかないと思います。
安全性とかを再点検して提供するようにしないと感染症なども起こってしまうので、対策を打っているクルーズ船に乗りたいです。








2020年8月3日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
短歌の世界では歌会始の選者を務めていた岡井隆さんが先月亡くなられました。(92歳)
我々が短歌を始めたころのトップランナーであこがれの歌人だったのでとてもショックです。
寺山修司や、塚本邦雄と一緒に前衛短歌運動を推進した3人のなかの人おひとりで、最後の人です。
未来という短歌の集団のトップでした。
容貌がかっこよかったです。
歌風はベースになっているのがリアリズムで、斎藤茂吉たちがやっていた現実を一人称で歌うというようなものでしたが、青春期以降塚本邦男たちとの出会いがあったことで、三人称や、虚構にブレンドされて、カオスが岡井さんの中にはあったと思います。

「眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし王子死す」     岡井隆
王子死すというところでドキッとして母との間には緊張感があるなと伝わる感じがあります。
「泣き叫ぶ手紙を読みてのぼり越し屋上は闇はさなきだに闇」?  岡井隆
恋の歌なのかと思います。
「さなきだに」というのはそうでなくてもという意味だともいます。
心の中の風景と目に映っているものが一つになっている迫力のある歌です。
岡井さんは医師でもあったのでもしかすると病院なのかもしれない。
斎藤茂吉も精神科医であったし、森鴎外も医者だったし、明治以降医師、文学者であり物書きという系譜があると思うが、岡井さんはどこかで意識していたのではないかと思います。

「ああ迷う迷えとことん迷い抜けレモンを絞るその時の間も」?  岡井隆
我々は迷いを整理して片をつけたいと思うが、岡井さんはとことん迷い抜けと自分に言い聞かせていて、下の句もユニークでレモンを絞る時も心の中は葛藤が渦巻いているという、岡井さんでも混乱しているのかと思うと勇気付けられるような気がします。
「蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶」  岡井隆
上の句は叙景的に入って、下の句でちょっと見えを切る。
リアリズムの強みは変化を詠えるということです。
若いころの文語的な骨格の正しい感じの歌い方と段々話し言葉に砕けた感じになっていって、それが若者の話ことがと違って80,90代は渋い。
「うら寂しいダイエーでシャツを海風に耐えらえるだけおしゃれな白」?  岡井隆
かっこ悪い安物を買って、逆にかっこよくなるみたいで、なかなかまねはできない。
岡井さんは内容にも幅があるし文体にも幅があります。

後半は夏の歌をテーマ
「ラジオ体操の帰りに喧嘩して喧嘩し終えてまだ八時半」?    伊舎堂仁
小学生の感じです。
今日の終わりまではまだまだ長い、子供の感覚で長い今日が終わってもまだまだ夏休みが長くて、夏休みが終わってもまだまだ人生は長い、人生を時計に例える換算法があるが、子供だとまだ朝で、我々では夜八時半ぐらいで二度と太陽は登らないぐらいの年代に来ていて、これには膨大な時間に包まれている空気感がある。
「自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏」    鈴木晴香
どこにも書いていないが恋の歌です。
自転車を前にこいでいる人がいて、おそらくスカートで自分は横座りをしている。
恋をしてその人の後ろに乗っていたその季節だけの特別な行為なんですね。
「 二〇一七年の夏、人はまだ蜂に蜂蜜を作らせている」        鈴木晴香
2017年以前の死者に向かって説明しているようにもとれるし、何かとても大きな時間を感じる歌です、あるいは人類というようなものとか、我々に進化、運命みたいなものが「まだ蜂に蜂蜜を作らせている」というフレーズから伝わってくるような不思議な魅力のある歌です。

「おすそわえされた水ようかんが差し上げた水ようかんだと気づく猛暑日」?鈴木美紀子
よほどの猛暑日ですね。
水ようかんが妙にリアルです。
「気づく猛暑日」、時間差で気付くところが面白い。
「電気屋のマッサージ器で友達としりとりしているプール日和に」?   かみもとさん
若い方で時間の使い方が逆に若さを感じる。
「母さんと思われる人にちゃんづけて呼ばれるバス停遠い遠い夏」?   ゆきのさん
何か切ない、実のお母さんはあまり知らずに大きく成った方だと思います。
うっすらした記憶が一つだけあって夏の日にバス停で○○ちゃんと呼ばれて、おそらくその後別れたかなんかで、たった一度の記憶だと思います。
「ゴーグルの反射する日の光から彼氏いるのと聞かれた夏の日」?
まるで「ゴーグルの反射する日の光」から聞かれたかのような、鮮烈な、この鮮烈もやはり若さではないですか。
こんな鮮烈さにはならない、ある年齢以上になると。
リスナーからのもの
「そういえば血管年齢百歳といわれて十年まだ生きている」 はるがすみさん(79歳)
ユーモアと渋とさみたいな感じ、面白いです。

*「・・・」?の短歌は漢字等含め記載が違っている可能性があります。




2020年8月2日日曜日

平野 文(声優)             ・【時代を創った声】

平野 文(声優)             ・【時代を創った声】
3歳のころから子役として多くの舞台やドラマで活躍されてきた平野さん、ラジオのディスクジョッキーなどを経てアニメ『うる星やつら』にラムちゃん役で声優としてデビュー、40年近くたちます。
現在は築地の魚河岸のお嫁さんとして生活をしながら声優の仕事を続けている平野さんに伺いました。

声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、エッセイストなど多岐にわたって活躍。
『うる星やつら』は1981年の放送、高橋 留美子さん原作、ラブコメディータッチの話。
ラムちゃん役は声優として初めてです。
最初に受けたオーディションが『うる星やつら』のラムちゃん役でした。
ラジオの深夜放送では2時間を一人で生で行うので、声のリクエストをやっていたら、リスナーの一人がアニメの声をやってみたらというはがきが来て、できるかも言しれないと思って事務所にお願いしてオーディションを受けることになりました。
子役のころにアフレコをしていましたと言ったら、それではすぐに慣れますといわれました。
児童劇団にいたので基礎は厳しくしつけられましたし、大学でも演劇を専攻していたので演技の勉強は沁み込んではいたとは思います。
ラムは現代の妖精だといわれました。
演技をしない自然に行こうと思いました。
センテンスが非常に短い、「ダッチャ」という語尾をイエスという言い方とおんなじだとするんですね。
喜怒哀楽をそういった言い方で表現するようにやっていました。
原作にも投影してもらってうれしかったです。

マイクの立ち位置など技術的なことはDJの時代から教えていただいていたので基本的なことはできていたと思います。
水中の中で話す場面ではペンとか指先を唇のところにあてて前後に動かすんです。
マスクをする場面では紙コップを当てたり手で覆ったりします。
こういったことは舞台ではないことなので吃驚しました。
食べながら泣いてしゃべって、というアニメではありうるストーリーです。
3歳のころピアノを習っていて、いとこがバレエをやっていて見に行ったら譜面など見ないでできるということで自分からバレエをやりたいといったようです。
佐川さんの体操のお兄さんがNHKでやっていて、ミュージカルの舞台でやるので一緒に子役としてはいって、それが舞台に広がっていって、6年生の時にNHKの少年ドラマでデビューしました。(「名探偵カッチン」)
NHKのTVの子供番組などにも出演しました。

叔母がNHKが若者向けのラジオを始めるらしいから受けてみたらといわれて、耳心地いいおしゃべりには憧れていたので、DJのオーディションを17歳の時に受けました。
間違ってもいいから自分の思ってることを自分のことを気楽にしゃべりなさいと間違ったことは後から訂正できるからとディレクターの方から言われて肩の力が抜けました。
コンビでやるものがありましたが、コンビのおしゃべりがたのしかったです。
リスナーの方からのはがきを読むということでもいろいろなことを教えていただいたと思います。
ラジオで鍛えられた1秒以下のスポーツ的な感覚はアニメのなかでも役立ちました。
1987年『アニメ三銃士』のミレディ役をやりました。
妖艶な色っぽい女性の悪女なのでラムちゃんとは対極で「私無理です」と断りましたが、やってくださいということでやることになりました。
絵が動き始めるとその声になるんですよね。
こういうことがあるんだなという初体験のアニメでした。

報道番組、リポーターとしてもやるようになりました。
魚河岸のリポーターをしているときに見合いをして結婚することになります。
平成になったときに34歳となり、所帯を持つのもいいかなあと思って魚河岸の人とのお見合いを頼みました。
会ってみたらニコッと笑って亭主にするならこのタイプという感覚的なものがありました。
そこで教わることは楽しかったし楽でした。
自分でこれをやりたいとお願いしたのは、深夜放送をやってみたい、アニメをやりたい、魚河岸にお嫁に行きたい、その三つぐらいしかないです。
若い人達に対しては今の方はリズム感もいいし、勘もいいので、技術的なことは長けていると思いますが、私の経験上子供のころから何が役に立つかわからないからいろんなものを見ておけとか、ドアを開けたら公人であれと言われたのは必ず守っていて、声は経験値がその表現に声が看破するということがあると思うので、諸先輩の演技のずっしりした中身のすばらしさは実感していたので、演技の基礎はいやっというほど習得しておいていただきたいと思います。
声に限って言えば、地声でやってきたような気がします。
















2020年8月1日土曜日