2023年7月31日月曜日

西加奈子(作家)            ・がんになって見えた風景

 西加奈子(作家)            ・がんになって見えた風景

西さんは1977年生まれ46歳。 父の海外赴任地イランテヘランに生まれ、幼少期をエジプトのカイロで過ごし、その後大阪府和泉市で育ちました。  大学卒業後情報誌のライターのアルバイトで書くことの喜びを感じ、2004年に小説「あおい」で文壇デビュー、2015年には小説「さらば」で直木賞を受賞しました。  2019年12月から語学留学のため家族と転居したカナダのバンクーバーで2年前に乳がんが見つかります。  コロナ禍でもありカナダでの乳がんの治療を強いられた西さんは、その自身の体験を「蜘蛛を捜す」というノンフィクション作品として発表し大きな反響を呼んでいます。  西さんに日本とカナダの医療システムの違いに戸惑いながらも、カナダの医療機関で闘病を行い克服し、がんになって初めて見えたというその風景など、がんとの向き合い方日いて伺いました。

がんと宣告されたのが2021年の8月です。  しこりはその年の2月ごろに見つけていました。  5月に病院に行っていろいろな検査をし8月に宣告されました。  南京虫に食われたらしくて、仕方なく5月に病院に行きました。   蜘蛛に食われたようで、他に何か気になることはないかと言われてしこりがあることを伝えました。   それから検査が行われました。  電話で結果を聞いた時にはあまり実感はありませんでしたが、専門医からステージ2bと詳細に聞いた時は凄くショックでした。  進行も早いという事でこちらで治療する覚悟を決めました。  当時子供は4歳で、夫に話をしても直すしかないという事で変らずに過ごしてくれました。   友人たちにも子供の面倒を見てもらったりしまた。  

闘病記に記そうとは思っていませんでした。  宣告された日に日記をつけ始めました。  その後客観視した文章を綴ることを始めました。   大分溜まって来て誰かに呼んでほしいと思うようになりました。  私の担当編集者の方に読んで欲しいと思いました。    タイトルのくもをさがす」というのは、虫に沢山食われましたが、祖母が弘法大師の大ファンで「蜘蛛は殺してはあかんで。」とよく言っていました。  これって祖母が私に教えてくれているのではないかと思いました。  あの蜘蛛は祖母だと思っているんです。   何かに耳を澄ます、目を凝らすという事をこれからもしたいと思いを込めて「くもをさがす」としました。 

25万部売れているところです。  乳がん以外のこともいろいろ書いたので、そこに共鳴してくれたのかもしれません。  小説は出した瞬間に読者のものだと思っています。   

男性の英語は標準語に聞こえて、女性の英語は関西弁に聞こえました。(関西のおばちゃん風)   可哀そうな患者としては一度も扱われませんでした。  抗がん剤の影響で髪の毛が抜けることはつらくはなかったですが、数か月間で絶好調という日はなかったです。 その前までは人生で一番トレーニング、エクササイズなど異常にやっていました。     時間は戻らないし、自分が悪かったというう事は絶対思わないようにしました。     看護師から「喜びは奪われるべきではない。」と言われハッとしました。   免疫力が衰えている中で、コロナ禍でそこら中に消毒液があるし、マスクをしてくれているのでかえって良かったと思いました。      

全摘手術が終わって自分の身体を見て、かっこいいと思いました。  予防的にもう一方も摘出しました。  変異遺伝子があったので、右にあったけど左に転移する確率は80%以上あり、取った方がいいと言われ迷わなかったです。   何歳になっても素敵な人に出会えて、その人が一生の友人になるという事を知ったので、それだけでも言ってよかったと思います。  「ミールトレイン」(ールトレインというのはカレンダーに友人たちがメニューを書き込んでくれ、毎日順番にご飯を届けてもらえるシステム)は本当にありがたかったです。 愛としか言えないようなものでした。

手術後に「人生で一番自分の身体を好きになった瞬間かもしれなかった。」と本に書いてありますが、  本当にかっこいいと思いました。    40何年間生きてきて、身体はずーっと休まず動いてくれて来ていて、もっと褒めるべきと思って、自分の身体をいつくしんだ、愛した瞬間でした。  一番やりたかったのは日本の家族(両親とか)と友人たちと会う事でしたがすぐできなかったので、思い切り泳ぐことでした。   キックボクシングは再開していませんが、柔術は再開しました。  

どう感じるかは読み手の方が決めることを大前提として、伝えたいのは、私の身体は世界でたった一つ、人生、命はたった一つであるように、読んでいる方も身体は世界でたった一つ、人生、命はたった一つだという事です。  或る程度死の淵を見たという点では、凄く大きな出来事ですけど、私の人生の瞬間に過ぎなかったと思うんです。   作家になって15年ほどになりますが、作家というよりは読者であることの喜びは全く減じないです。 今後どんな本に出合えるのか楽しみで仕方ないです。 

貴方の身体はたった一つだし、命もたった一つ、貴方の生を、身体を、生き方を愛するのは世界で貴方のはずです。  ご自身の命と身体を兎に角兎に角愛しんであげて欲しいです。


































 










2023年7月30日日曜日

松本白鸚(歌舞伎俳優)         ・"一生修行"〜見果てぬ夢を追い続けて

松本白鸚(歌舞伎俳優)         ・"一生修行"〜見果てぬ夢を追い続けて 

松本白鸚さんは歌舞伎の名門高麗屋の8代目松本幸四郎の長男として、1942年東京に生まれました。   3歳で初舞台を踏んで以降、勧進帳の弁慶、寺子屋の松王丸など器の大きな役柄を数多く演じて、去年文化勲章を受章するなど、人気実力ともに不動の地位を築いてきました。  その一方で20代のころから西洋演劇、現代演劇にも積極的に挑戦して、26歳で初演したミュージカル、「ラ・マンチャの男」では54年間にわたって1324回のロングラン公演となり偉業を達成しました。  今年4月に行われたその最終公演では80歳を迎えた松本白鸚さんの気迫に満ちた芝居と歌に観客から惜しみない拍手が送られました。  一生修行という松本白鸚さんにお話を伺いました。

今年4月24日初演から54年1324回に渡って主演を務めた「ラマンチャの男」の終演を迎えました。  もぬけの殻というか、心から身体も声もセリフも、気が抜けたようになってしまいました。   26歳で初演をして「ラマンチャの男」の前に、「王様と私」というミューカルに出会った時が22歳でした。(1965年)  「心を繋ぐ6ペンス」、「屋根の上のヴァイオリン弾き」など数々のミュージカルに出演。  「スウィーニー・トッド」をやって、「染五郎さんはどういった発声法をやっているんですか」と聞かれて、自分でも判りませんでした。  自分はオペラでもないし歌舞伎でもないし、スウィーニー・トッドは、街の工事現場の音を音楽にした、難しいミュージカルなんです。   これがミュージカルの発声ではないかなという事が判って、それを歌劇のオペラの方に伝えました。 しばらく考えて良く判りましたと言ってくれました。 

歌舞伎は歌舞伎、ミュージカルはミュージカルなんですね。  国際ドンキ・ホーテフェスティバルがブロードウェイで開催されて、日本から参加。   電話が来た時に英語ですよと言われたが、迷いなく「行きます」と言っちゃいました。   以前父が歌舞伎のことでブロードウェイに教えに行ったんです。  勧進帳の弁慶役を習った恩返しに、「ラマンチャの男」の時に貴方に英語を教えるという事で、直ぐに芝居後の9時、10時過ぎから明け方の4時、5時まで学びました。  「もうこれ以上できません」と言ったら、「形ばかりのものをしては駄目だよ 頭を使って考えなさい」」と言われました。  今でも鏡台の前に飾ってあります。   

近松門左衛門の言葉に「虚実皮膜の論」言う言葉があります。  芝居というのは偽物だと、嘘と真実のぎりぎりのところをやっている、生き死にを繰り返している。 あの時代だからあれで通ったと思います。 今は芝居も踊りも嘘で幕が開きます。  嘘ですけれども1時間、2時間の間に一瞬でも真実があるんですね。 僕は「虚実皮膜の論」というのは今ではそういう風に生かしたいです。  あれば僕の人生かなと、3秒でも4秒、5秒でも「虚実皮膜の論」というのはそういう事だと思います。 過去も将来も今がもとになっていますから。 今をないがしろにしないでほしい。  稽古の間は今ですから。 芝居が始まると過去です。  

ブロードウェイでの「ラマンチャの男」二月半、8時開演、10時過ぎまでやって遅い夕食を食べて、帰って寝ると12時過ぎます。  ふっと目が覚めると4時で寝られなくて、あたりを見回すと夕暮れの4時なんです。   それが千秋楽まで続きました。  英語のセリフが自分を傷めつけていたんですね。   2時間15分歌って踊ってやりました。   猪熊先生から「初日のドン・キホーテの英語はみんなから光を与えられていたけど、千秋楽のドン・キホーテではみんなに貴方が光を与えていたね。」、と言ってくださいました。

菊田一夫先生から「ラマンチャの男」をやってほしいと連絡がありました。  父は自分でやりたかったようですが、ミュージカルですから、私がやることになりました。        歌舞伎もミュージカルも徹底してやらないと弾き飛ばされます。   生半可な覚悟ではできないと思いました。  「ラマンチャの男」を観に来てくださったお客様、共演者、スタッフの人たちへ感謝です。  「ラマンチャの男」は哲学的で難解でした。 勧進帳の弁慶も1150回になります。  3歳から始めて学校に稽古(鼓、三味線、長唄、踊り、仕舞など)で子供にしては厭ですよ。  役者を辞めるという事を父に言いましたが、じっと聞いていて翌日は勧進帳の末期をやっていて、自分はもう一遍芝居をやらなきゃならないという気持ちになりました。  厭な事に対してもっと自分を厭なことに突っ込んでいくと、厭なことが厭に思えなくなってきたんです。  あーこれが仕事かなと思いました。 3人の子供の子育てなどみんな家内がやっていました。  

芝居とは、最近分かったことなんですが、自分でも判らないです。   いろんな境遇があってこそ、極めるというか、だから判らないです。   いろんな芝居をやって来ましたが、結局は人間ではないでしょうか。  人間に戻ってくる。  その人がどういう考えで、そのことに、芝居に、ミュージカルに、歌舞伎にむかっているかという事だと思います。   もっと上手くりたいね。もっと上手くりたいなあ。  上手くなりたいという事は、今を大事にするという事と似ていますね。  

 

















  










































2023年7月29日土曜日

野村喜和夫(詩人)           ・〔私の人生手帖〕

 野村喜和夫(詩人)           ・〔私の人生手帖〕

野村さんは現代詩のトップランナーの異名を持ち、長年に渡たって現代詩を牽引してきました。  その創作活動と昨年刊行された最新詩集「美しい人生」が評価され、先ごろ日本を代表する詩人大岡信さんの名前を冠した大岡信賞を受賞しました。  野村さんは1951年埼玉県生まれ。  中学高校時代から詩を書き始め、大学院を中退後、50歳まで大学の非常勤講師などフランス語の教師を務めました。  1999年高見順賞、2011年鮎川信夫賞など多くの賞を受賞、評論や翻訳なども手掛けるなど幅広く活動してきました。  今日は常に困難と共にあったという現代詩の詩人としてのこれまでの人生と共に歩きさ迷いながら詩を生み出してきたという野村さんの詩のスタイルについても伺います。

パリは親しい他人みたいな感じです。  最初に行ったのは20代の終わりごろです。   パリで自分の青春は終わったという感じです。  大岡さんは僕にとっては大恩人で大岡信賞は特別な感慨があります。   高見順賞、花椿賞の時に大岡さんは選考委員をしていて、こういいました。 「今の詩壇で野村ほどの詩人馬鹿はいない。」 (全身全霊で詩に取り組んでいる。)   僕の詩人人生の大きな励みとなりました。   

最新詩集「美しい人生」 ある時期から複数の詩集を同時進行的にやっていまして、「美しい人生」もその一環です。  書いているうちに、人生は本当に美しいかもしれないと思うようになっていました。  アイロニー(本当の考えや意図と違う考えをほのめかすことによって伝えること)がアイロニーでなくなる瞬間と言った感じです。  人生を放り投げてみたらどうだろう、人生を海の彼方に開放してやったらどうだろう、そうしたら美しくなるのではないだろうか、と思いました。  

「美しい人生」の中から詩「頌」

(スピノザ:17世紀のオランダの哲学者  人間の欲望とか、情動に深い洞察を加えた哲学者。                                       西脇順三郎:ノーベル文学賞の候補にもなった昭和期を代表する大詩人。)

「もしも計りにかけることが出来るなら 一瞬は重く永遠は軽い  パスカルをもじっていうなら  人間はただそこに立つ一本の樹木に過ぎない。  ただ時より鳥が止まりに来てさえずり 樹木は自身の奥深くからやってきた声の様に聞きとり  何とも言えない喜びを覚える   それが共生という事だ  樹木はそのような喜ばしい作為に 鳥という他者によって与えられたのである。  鳥も又樹木へのそのような贈与によって いわば鳥以上の存在となったのである。  丸く琥珀に閉じ込められた様に秋の日 もうバッハしか聞かなくなりました。  君は手紙でそのように心境を伝えてきた  もろくろ草の群落から   枯れ枯れの百日草の花口へ なお強い日差しの中を飛ぶ蝶と共に歩む我々には   実際バッハしか聞こえないのかもしれない   それが美しいから近づくのではない  近づきたいという衝動がそれを美しくするのです  時には書き加えていた  スピノザの淡い繁栄  僕は僕でゴルトベルク変奏曲などを聞きながら  秋にぴったりな西脇順三郎の詩を読み  西脇には何故かバッハが似合う事を発見したりした  白壁のくずるる街を過ぎ  路傍の石、寺に立ちより  曼荼羅の織物を拝み 枯れ枝の山の崩れを越え  水抜きの長く映る渡しを渡り  草の実の下がる藪を通り  幻影の人は去る 永劫の旅人は帰らず  読んでいる間僕の耳には 無伴奏ヴァイオリンパルティータの音の唐草模様が絶えず絡んでいた  生きる喜び それを最も強く与えられるのは  何かが猶予された時であり  ある決定的な事柄が先に延ばされ   ひと先ず時間が宙釣りにされると 私たちはモルヒネを打たれた様に  甘美な弛緩や神経の端々迄 波動として伝わってゆくような幸福な物質となる   それから間もなくのことだ   君の訃報がもたらされたのは どこからか冬鳥も飛来して  ふらふらと庭石の上に止まる  その羽根をのぞき込んで  僕は死んだ君からのメッセージを読み取ろうとした。  もうバッハ もうバッハ  もうバッハも聞こえない  消える永遠の正しい泡?であるべきか   我々は」

「消える永遠の正しい泡」は言葉の遊びがありまして、西脇順三郎を真似した様なところがあるんですが、我々の存在というのは、無常、迅速と言いますか、大変あわただしいものです。 そのあわただしいをひっくり返すと、「ただしいあわ」になります。

日本語ですと、詩と死は同じ音なんですね。  そこからいろんなことが考えられます。 僕もいつ死んでもおかしくない年齢になっています。  遺稿を書くつもりで書いています。  

生まれは埼玉県の入間市で、当時は純農村地帯でした。 最寄りの駅まで歩いて40分ぐらいかかりました。   家は製茶業を営む農家でした。(狭山茶)  野山を駆けまわって遊んでいました。   中学ごろから詩らしきものは書いていました。  初恋、性への目覚めと文学への目覚めがシンクロしたと言いますか、そういう時期がありました。    本格的の現代詩を書こうと思ったのは大学に入ってからです。  吉増剛造さんの「黄金詩編」という詩篇が刊行されて、観たらたちまち引き込まれてしまいました。   大学に入学したのは1970年です。   戦後の激動の時代は去っていました。  虚無感があり、何を書いていいのか、というところからの出発でした。  

大学、大学院に進んで、孤独な生活を送って詩をかいていました。   大学院の時に指導教授に渋沢孝輔という詩人で、ランボーの研究者でもありました。   ランボーは15歳から20歳までに世界文学に燦然と輝くような詩を書いた後、アフリカへと去った詩人です。    渋沢先生とマンツーマンでランボーの詩を徹底的に読み込み、自信が生まれました。(30歳前後)   現状に対しる怒り、世界を変える、世界は言語で出来ているので、既成の言語を破壊して新しい言語を作るという事ですね。  それをランボーは実践しようとして、結果は挫折してしまった。   そういう行為に憧れました。  

若いころ、生き難さがありました。(社会的不適応)  よりどころになったのが詩でした。  第一詩集が1987年(36歳) 「川萎え」  パートナー(ボードレールを研究)は詩人が第一という事で大目に見てくれる人でした。(経済的援助も含め)      彼女は後にフラメンコダンサーのなりました。(野村眞里子)   詩のフェスティバルも何回かやりました。   二人で「一般財団法人エルスール」を設立しました。 2017年には自宅を改装して「ひとダンスミュージアム」を開設しました。  

代表的な評論集のタイトルが、「移動と律動と眩暈と」といいます。  この3つが詩作のキーワードになっています。  歩くとリズムが生まれてきます。 不思議と言葉が生まれて来ます。  それをさらに続けていると或る種恍惚といった状態になります。  それが眩暈という事です。  机に向っては詩はなかなか出てこない。  言葉が何となくやってくる。  72歳になります。  詩人になろうと心に決めた瞬間が人生最大の転機でした。   1997年から1年間パリに滞在したことがありますが、第二の岐路かもしれません。(日本の仕事を放棄)    そこで詩を書いて纏めたのが「風の配分」という詩集でした。  それが高見順賞を受賞することになりました。  その後の詩人人生がやり易く成りました。   日本の現代詩を海外に紹介していきたい。  








 


























 















  と   」

 













































2023年7月28日金曜日

大崎麻子(元国連職員)         ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕

大崎麻子(元国連職員ジェンダー・国際協力専門家) ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 

1971年生まれ、52歳。 上智卒業後米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院修了。  国際連合開発計画(UNDP)でジェンダー平等と女性のエンパワーメントを担当し、世界各地で女性の教育、雇用、企業、政治参加促進等のプロジェクトを手掛ける。  現在はグローバル動向と日本の現状を熟知するフリーのジェンダー・開発政策専門家として、国内外で講演、セミナーを行うほか、内閣府男女共同参画会議の専門委員など複数の公職を兼務しています。

小さいころから海外に対するあこがれ、海外で働いてみたいという気持ちはありましたが、父が新聞社で勤務していたので、報道とか、メディアとかそいう領域で将来働いていたいと、子供のころは思っていました。   大学では幅広く勉強したいと思って、哲学、比較宗教学とかそういったものを学びました。  大学在学中に1年間アメリカの女子大学に留学しました。   男性と知り合い結婚しようという事になって、大学を卒業して結婚して、大学院に進学しました。  9月に大学院が始まりますが、妊娠していることが判って、入学の辞退を申し入れました。  大学院では子育て中とか、妊娠している人もいると、言う風に説得されて、「子育てと大学院の両立が出来ないことを合理的に説明してくれ」と言われました。  うまく説明が出来ず、進学することにしました。  

つわりがひどくて起きれなくて、匂いにも敏感になっていて、ジャーナリズムの授業は実践的でこれは無理だと思いました。   辞退しようとして行ったら、ジャーナリズだけではなくほかにもあるのでそこから選べばいいと言われました。  最後にたどり着いたのが人権人道問題でした。  多様な人たちがいるという前提でカリキュラムが組まれていたり、子育て中でも授業に行けるようにいろんなサポートがあったりしました。(30年前)   

自分の生き方、進路を決める時に如何にこうあるべき、という思い込みに如何に影響を受けるか、という事ですね。  母親からは結婚には反対され、子供が生まれたことを連絡すると、大きな責任もあることだし、「何も考えていないのか」という事で一時期音信不通になりました。   里帰り出産という文化はアメリカにはないんです。  産後2,3月で一時帰国して、母親は直ぐに面倒を見てくれました。  ニューヨークに帰る時には一緒に来てくれました。(息子も28歳になる。)    

その後国連に入り出張も凄く多かったんですが、アジアに出張する時には母が成田から一緒に飛行機に乗ってくれて、同行してくれることが1,2回ありました。  出産してからの方が人権の勉強に身が入りました。  世界人権宣言の冒頭に「すべての人は生まれながらにして自由であり、権利と尊厳において平等である。」と言う言葉が書いてありますが、実感を伴って蘇りました。    モチベーションが高まりました。  この子が大人になった時にはどういう世界になっていてほしいとか、時間軸、空間軸が広がりました。     

1990年代国連の幹部職に女性が少なかった。   理由は子育てで辞めてしまうので、両立できる環境を整備してゆくという取り組みが熱心に始まりました。   2歳までは子供を連れて行っても、子供の分まで支払われるような仕組みがありました。  2002年に娘を出産して、飛行機で一緒に行きました。   1歳になるまでにアジアの5,6か国行きました。  緊張して待っていますが、私が抱っこひもで娘と一緒にその場に行くと、急に緊張ががほぐれました。   そうするとフランクに話をしてくれます。  

様々な問題、生活上の問題に共感できる。  仕事にも生きてくるという事を常々言ってもらった。  急に子供は熱を出したりするので、常にプランB、プランCというようなこと迄考えて、リスクマネージメント管理が常に出来ていたりします。  残業はしたくないので集中して仕事をするとか、自分の時間管理も日々の生活のなかで訓練されて行きました。

当時の夫が日本に転勤になって、小学生の息子と2歳の娘育てなければいけなくなって、辞めてしまうのももったいないと思いました。  上司と相談したら、「ジェンダーという仕事、女性のエンパワーメントを手伝う仕事というのはどこにいてもできる。 あなたはかなり経験も積んでいる。 日本に帰っても専門家としてやってゆける。」という事で国連を辞めて日本に帰ってきました。  

日本に帰って来て離婚をしてシングルマザーになりました。  息子は小学校5年生で、私は就職しようとしましたが、見つからずフリーランスにしようと決めました。      子育てに周りの支援を利用するという事はニューヨークで学んだので、周りの手を借りながら育ててゆくというで対応していきました。   私が仕事から学んだことは、「すべての人は生まれながらにして自由であり、権利と尊厳において平等である。」これは凄いことだと思いまます。  国連の開発に携わって、国連の究極的な目標は、一人の人間が自分の人生の選択肢を増やして、それを自己決定しながら生きてゆく。  そのために必要な力を身に付ける、それをサポートするのが、開発の究極的な目的なんだ、というところで仕事をしていて、子育ての最終的な目標も、エンパワーメント、一人の人間が自己決定しながら、生きてゆける。  小さい時は心と身体の安全、安心、自分が大切にされているなという、その感覚が人間が生きてゆくうえでの一番の根っこになるので、大事にしていきたい事です。

息子が3歳の時に、本の時計のなかの3時が読めたので、時計が読めるのではないかと思って、いろいろとヒートアップしていきました。   息子は答えられなくて、「ママごめんね、僕まだわからないんだ。  でも4歳になったらきっとわかると思うからそれまで待っていて。」と言われました。   ハッとして、この子にはこの子のスピードがあるんだという事に気が付きました。  

子育ては親だけでやるものではないし、多様な大人がいろんな形でかかわって、子供を育ててゆくことが大事です。  自分で選ぶ、エンパワーメント、一人一人が意識してゆくことが大事だと思います。  選んで違うなと思ったらチェンジする、その発想は大事だと思います。   私も経験してきて正解はないと思います。  正解かどうかが判るのはずーっと後の話だと思います。  





























 


















2023年7月27日木曜日

田中みずき(銭湯ペンキ絵師)      ・〔私のアート交遊録〕 銭湯ペンキ絵~Notアート、BUT Paint

 田中みずき(銭湯ペンキ絵師・〔私のアート交遊録〕  銭湯ペンキ絵~Notアート、BUT Paint

昭和40年頃街にはいくつもの銭湯がありました。  銭湯の最盛期には東京には数十人の銭湯ペンキ絵師がいたと言いますが、現在は田中みずきさんを含めて3人。  子供のころから絵を描くことが好きだったという田中さん、高校時代は現代美術を目指していましたが、大学で卒論をテーマに何故銭湯の壁に富士山が描かれ続けてきたのか、を書いたことをきっかけに、銭湯ペンキ絵師の道を志します。  見習い期間を含めて9年で独立し、結婚して、子供を出産、子育てをしながら銭湯絵師の道を歩んでいます。  仕事は銭湯の休業日または開店前の数時間、足場を組むことからスタート、下書きはなし、まさに時間が勝負です。  店主とお客さんを繋ぐ会話の糸口になるような絵を描きたいという女性ペンキ銭湯絵師の田中みずきさんに銭湯ペンキ絵にかける思いや夢を伺いました。  

浴槽の上に木の板を組んで、ペンキで3原色の赤、青、黄と白を混ぜていろんな絵を作って絵を描いていきます。  匂いの強いものではないものを使用しています。   大きな木の板に枠を取りつけてなるべくペンキが沢山混ぜられるように、という形で使っています。    筆、ローラーを使ったり、大きな刷毛、細い筆などを使って描いています。

大まかに2,3年は綺麗に持ちます。  営業時間、換気の程度などによって違ってきます。   富士山を描いて欲しいというのは8,9割あります。  最近は地元の名勝を描いて欲しいとか、地域のキャラクターを作っているので、キャラクターも一緒に描いて欲しいというような問い合わせもあります。    男湯の方が波が高かったり、ドラマチックに描かせてもらう事がおおくて、女湯は桜のピンクの花の絵とか、穏やかな明るめの絵にさせて貰っています。   

富士山は静岡側から、山梨側からというような要望もありますし、遠くに描いたり、朝焼けの赤い富士山とか一回一回違う富士山を描いています。   富士山がどのように受け入れられてきたかという事を調べたりしてきました。   北斎の作品のなかで見ると美しく形が決まっているんですが、先のとがった富士山になってしまうので、落ち着かないものになってしまうので、北斎しか描けない富士山だと改めて思いました。  ゆったりと眺められる富士山を考えています。  

私は9年ぐらい修業をしました。  足場の組み方、現場現場でどの様にして銭湯らしさというもの出してゆくのかなど、銭湯の空間自体を把握して、ペンキ絵を段々自分の中で組み立てていった様に思います。   最初は荷物を運んで、ひたすら青空を描くという修業をしてゆきます。  3,4年空を描き続けます。  その後遠景の小さい松を描いたり、少しづつ絵描くところが増えてゆきます。   現代の名工の一人である中島盛夫さんに弟子入りしました。  「見て盗め」という事は何度も言われました。  描けるようになってきてからどこを見て行けばいいのかという事が判る様になって来ました。

独立する1年ぐらい前に、一軒の男湯、女湯を描かせてもらいました。   「仕事がきたら受けてみなさい。」と言うようなことを言われました。  銭湯が休みの一日に行います。  朝8時に伺って夜7時ぐらいには終わるようにしていますが、初期のころは夜中までかかったりしました。  天井に近い部分から下に向かって描いてゆきます。  効率を考えて描いていきます。  描き始める時には頭の中には全体の完成した形は出来ています。  私は個性を狙って描くことはないです。  他の人を真似しようと思って描いても真似ができないとことは分かっています。  

小さいころから絵を描くことは好きでした。  父が新聞記者で美術の批評、美術の事を書くという事をしていたので、父に連れられて美術館に行くという事がよくありました。   美術作品が作れるようになればいいなあと思っていました。  高校では現代美術が好きになっていました。  デジタルアートに興味が移って行きました。  美術史を勉強できる大学にと思って美術史を専攻していきました。  それまで知らなかったものの見方、新しい歴史の発見からそれまであった作品が全然違う視点でみられるようになって、凄くおもしろくなりました。  現代美術の福田美蘭さん等が好きでした。  ペンキをモチーフにした作品を作っていました。   束芋さんがアニメーションのような形で映像作品と銭湯のような装置を組み合わせて作品を作っている方がいました。   銭湯もモチーフにできるんだと思いました。  ペンキ絵も面白いと段々のめり込んでいきました。

担当の山下裕二先生は現代美術にも造詣の深い方でした。  一遍上人の絵とペンキ絵のどちらがいいでしょうかと相談に伺ったら、「面白いから銭湯ペンキ絵をやった方がいい。」と言われました。  そこからペンキ絵について調べ始めました。  富士山が世の中でどう受け止めてられたのか、絵画のなかで日本では富士山はどのようにかかわり続けてきたのか、など勉強出来ました。  卒業論文を書くために現場を拝見しました。  その中でペンキ絵を描く職人が居なくなってきていることが判りました。  通ううちに「描き方を教えてもらう事が出来ないでしょうか」、と言う事で弟子入りすることになりました。   最初は断れました。  見習いという事になりました。 師匠からは別に仕事を持つように言われました。  

独立して、結婚をして子育てをしながら、続けています。  お産前後はどうなる事かと思いましたが、復帰することが出来ました。   周りに助けられながら、産後2か月から仕事を頂きました。   ペンキ絵は広告の世界と強く結びついているので、ペンキ絵の下に広告が並べられていました。   映画などその時代に合ったペンキ絵を描きつつ、若い人たちにも興味をもって頂けるように、ペンキ絵が描く続けられたらなあと思っています。 延べ総数で300、400ぐらいは描いていると思います。  個人的には名前は入れないようにしています。   遠洋漁業船の風呂場にも絵を描かせてもらっています。    ホテル、旅館では海外からのお客さんの為にも、富士山の銭湯ペンキ絵と言う形で描かせてもらったりしています。  デイケアーセンター、老人ホームなどでも依頼いただいています。   お薦めの一点は、かわらもん?さんのトウデーシリーズ?の作品で、グレーとか単色の画面の上に白い色で、その日の日付が描かrている作品があります。   見ているとなんでこの日付を描いているのだろうとか、絵なのか、数字なのか、不思議になって来ます。   なんでもない一日を作品にしてゆく事は、ペンキ絵に重なる部分も会うのではないかと思います。  なんでもない一日が後になってみると、意味がある一日だったのではないかと、そんなことを気づかせてくれる作品かなあと思います。








 





















 







 








 


















2023年7月26日水曜日

吉田正人(筑波大学教授)        ・〔心に花を咲かせて〕 絵に描くとわかる自然界の不思議

 吉田正人(筑波大学教授 日本自然保護協会監事)  ・〔心に花を咲かせて〕  絵に描くとわかる自然界の不思議

自然を見るのにスケッチが大事だと言いますが、描いてみるといろいろ見えてきます。    目で見える情報は8割がたですが、実際に描いてみると、描いている中で気付いてくることが一杯あります。   描き終わった段階で、隣の人と見せ合ってみると自分が気が付かないことに、周りが気付いていたとか、同じものに気づきていたとか、学びあう事が沢山あります。  見せあう事で発見が2倍、3倍にも広がる。  フィールドノート(ポケットに入るような大きさ)をもって、学生時代から生物学を勉強していました。  

じっくりと描き始めたのは最近のことなんです。  コロナ禍で自宅で過ごす事が多くなって、早起きをして1時間ぐらい房総半島の里山を歩く事を始めました。  最初は写真を撮ってフィールドノートに名前を書いたりしていただけでしたが、或る時からスケッチを始めました。(3年ぐらい)   女郎蜘蛛などが目に入り、女郎蜘蛛と似たような蜘蛛で背中の模様も目のような模様がありました。 家に帰って調べて観ると「スズミグモ」でした。  もともとは南方系の蜘蛛でした。  温暖化のせいかもしれません。

個体ごとに模様が少し違います。  自宅のハマユウの葉っぱについていたハマオモトヨトウの名の幼虫が描かれています。   頭の部分とシッポの部分がオレンジ色で凄く目立ちます。   どっちが頭なのかわからないという事で鳥の攻撃がかけられないかもしれない、というような説はよく言われます。  頭の模様をもっと良く観るとテントウムシの模様に似ているんです。   テントウムシは鳥にとって毒素みたいなものを持っていて、食べたらまずいよという事をアピールするためにああいう色をしていると言う説もあります。 ハマオモトヨトウの幼虫もハマユウを食べて毒素を貯めて、まずいよという事をアピールする意味があるのかなあと思っています。(どこにも書いていなくて私の説かも)

鳥はコジュッケという鳥を描きました。  逃げ方が最初歩いて逃げるんです。     近づくとパッと飛び立ちます。   そういった様子をメモ書きしています。      鳥はすぐ飛び立ってしまうので記憶に残る範囲で簡単に描きます。  トンボとか見たものは何でも描いています。  トキは飼育されているトキを描きました。  山並み、里山、田んぼの風景も描きました。   益々旅の思い出がよみがえってくるような絵になります。   

描くことによって、写真と違って自分が一番印象に残ったところをもう一度見直してみるという事になります。  また細かいところまで気が付いて描くことがある。  自分で描くので記憶に定着します。   写真ではすごい短い時間しか自然と触れ合っていない。 

隠岐の島では乳房杉(ちちすぎ)という有名な杉があります。  杉と落ちている枝とシダの3つをスケッチしました。  枝が横に伸びないで真っすぐ上を向いています。(フォークを上に向けて刺したような形)   雪が沢山降る地方では同じ杉なんだけれども、枝が上を向かないと枝が折れてしまう。   枝に触っても太平洋側の様にあまりチクチクしない。  五感を使って観察しながら描きます。  

ハエトリグモという蜘蛛がいます。  大きさは1cm前後。  顔の前に大きな目が4つ付いています。  頭の横のあたりに右に2つ、左に2つ小さな目が4つ付いています。  目も8つあります。   スケッチすることによって気が付きました。 ハエトリグモの仲間は日本中の家のそば、山のなかにもにいます。  模様も違います。  スケッチすることによって多様性を感じます。   

カメラがなかった時代は絵の専門の人が描くという事があり、今も伝統としてあります。  このスケッチは気が付いたことをメモしていくという事なので、上手に描こう思わなくても大丈夫です。  先入観を捨てて、自分の目で見て描くという事が大事です。 虹を描くと日本人は7色ですが、アメリカ人は6色で描きます。  自分の国の文化のフィルターにかけて観ています。  

自然の中でいろんな生き物がいて、多様性のすばらしさ、を感じ取ることができる。   沢山の生物によって生態系が成り立っている。   食物連鎖によって成り立っているが、多様性が崩れてしまうと、その生態系は非常に崩れやすくなる。   小笠原諸島などは外来種が入りやすい。  元々の固有の生態系が少ない種類で出来ている網で、そこが壊されてしまうと絶滅しやすい。   沖縄はかつては大陸とつながっていたので、多様性は高い。   いろんな生き物がいるんだという事自体が楽しく思える、という事は環境教育の第一歩だと思います。    

私は千葉県に住んでいたので、子供のころ自然は周りにいっぱいありました。  中学生のころから牧野富太郎などの伝記を読むことによって、自然に興味を持っていきました。  植物生態学を学ぶ事が環境問題の解決になるかなあと思って、この世界に入って来ました。大事だなあと思ってくれる人を育てる意味で、子供向けの自然観察会をしたいなと思いました。   子供に連れられて大人が自然観察に加わるという事もあります。  継続的に描いてゆくことが大事だと思います。  自分のいい人生の記録にもなると思います。    毎日自然のスケッチをすると、心の癒しにもなると言っています。  

 
















































  

 

2023年7月25日火曜日

石原まき子               ・「やっと裕さんの嫁になれました」

 石原まき子               ・「やっと裕さんの嫁になれました」                                                                                                                                       1987年に 夫の石原裕次郎さんを 病気で亡くしたまき子さん 、2021年に石原プロモーションを解散し、同じ年にNHKの番組に放送した「ありがとう裕さん さらば石原軍団」には命ある限り裕次郎の名前を守りますとコメントを載せていました。  まき子さんは映画界のトップ女優北原三枝という名前を捨て、裕次郎の妻石原まき子として生きることを選び、裕次郎さんを支え続けました。  90歳の今、自分自身や裕次郎さんについてどのような思いを描いているのか、伺いました。

最後は病気のために減塩食で終わった人で、病院の減塩食は絶対に嫌がって駄目でした。   私が自分で編み出しながら、減塩料理を編み出しました。    今は神経質にならずにやっていて、その分数字に弱くなりました。   私が現役から引退したのと同じで、石原プロモーションをたたんで、現在になっているので、責任感もなくなってやっと私も石原家に嫁に来て、嫁の立場、嫁でいいんだなという事でのんびりやっています。  石原プロは制作会社なので、制作に関わってきた人たちが、ほとんど裕次郎さんと同年配でしたから、亡くなったり病気になったりして、映画制作への情熱はありますが、身体がついていけなくなって諦めて現在の音楽出版という名前に変更して、スタッフも若い人たちに頼りだしました。  

裕さんが復帰できなくなるような病状になって、或る時聞いて欲しいと言う事でした。  「僕がいなくなったら、石原プロはすぐたためよ。」と言いました。 それが遺言でしたが、スタッフの方々の頑張る姿をみると、皆さんに言えませんでした。   記念館が出来たり、製作もできる様にもなって、会社が回るようになりました。  歳を経て居なくなる人たちも出てきました。   やっと今裕次郎さんの嫁になったという感じです。    嫁時代を取り戻したいです。   いつも留守番でした。  52歳で亡くなりましたが、結婚生活は30年程度でした。  でも銀婚式、金婚式は裕次郎さんがいるように皆さんがお祝いしてくれるんです。   結婚生活を50年、60年と続いている感じです。   

結婚した時に裕次郎さんから「お酒はやめません。 朝帰りはいたします。 海ははいつも好きな時に出ます。(ヨット)  車も好きな車に乗ります。  自分のところに来た封書は開けては困ります。」と言われました。   本当に実行します。  たまに、これから帰るから誰それさんと誰それさんの食事を用意してほしいと言います、それが夜中です。  全部料理します。   最初は料理はあまりできなかったが、段々料理を覚えてゆくわけです。  5人、10人来てもそれなりのやり方が出来るようになりました。  裕次郎さんがラッキーだったのは、一つ年上だったので、お姉さんで、料理人、看護師で、母親で、奥さんなんです。 お姉さんぽく慕ってくれました。  

歳を重ねるにしたがって、ストレス解消の一環なんだなと、そういう解釈が出来るようになりました。  若い時はつらかったですが。   朝がたに大勢連れてきて、これだけは何とか辞めて貰いたいと思って義母に話しましたが、「私もそうやってきたのよ。」と言われてしまいました。   義母に倣って、義父も待合、お酒の席が大好きだったので、その席に義母は菓子折りを持ってきましたが、私は足袋とか、半襟とか持っていきました。

義母はとってもモダンな人でした。  私の母は山口県の田舎から東京に嫁に来て、戦争で家が焼けて、庭に野菜を作って何とか生きることにしのいできました。  二人を見てきたので、やってこられました。  あっという間に撮影所のなかに溶け込んで行く素直な性格があり、友達もわっとできる。  若い俳優さんたちとは遊び歩き、スタッフ、裏方にはいいおじさんとして友達がいっぱいできるわけです。   石原プロが出来た時にはそういった人たちが集まってできたわけです。(28歳)    「黒部の太陽」を作った時は33歳でした。  協力体制が出来ていました。 

以前は女優として我儘なところもありましたが、私はこういう星の下に生まれたんだなと、それだけです。   もうこれ以上やったら会社もつぶれるかもしれないと思ったら、映画が大ヒットしたり、いい方向に向いてくれました。   駄目そうになると歌がミリオンセラーになったりしました。   21歳で映画界に突然現れて、混乱期から丁度高度成長期に広まっていき若者たちを引っ張り上げました。   

私がこの世界に入ったのが15歳でした。  背がどんどん伸びて、相手とはいつもローヒールでした。  初めて裕さんと出会った時に、やっとハイヒールが履けると思いました。価値観が全く同じでした。 ただ鶏肉だけが裕さんは嫌いで私は大好きでした。      

 




























  








2023年7月24日月曜日

2023年7月23日日曜日

澁谷朋子(上武大学理事長)       ・絵手紙で学生の心をはぐくむ

澁谷朋子(上武大学理事長)       ・絵手紙で学生の心をはぐくむ 

渋谷さんは日本でいち早く大学の授業に絵手紙を導入し、自ら学生たちに手ほどきをしています。   学生たちは授業が進むにつれて絵手紙が上手く成るだけではなく、将来に役立つ教養が身に付いていくといいます。  大学の授業に絵手紙を取り入れたきっかけや、渋谷さんが感じる絵手紙の魅力を伺いました。

上武大学はビジネス情報学部と看護学部の学生およそ2000人が学んでします。    1クラス140~150人で二クラスで300人程度絵手紙を学んでいます。      絵手紙は絵と文字と文章、3つでなりたっています。  筆のてっぺんをもってなかなか書きにくいが、いろいろ練習をしています。  2,3回目から描き始めます。 はがき一杯に自分の名前の一字を書いてもらい、色を添えます。  裏は両親あての住所と、その下に両親に当てての文章を書きます。  次には桜の葉とか苺、野の花、野菜、紫陽花、・・・段々と難しい題材に挑戦してゆきます。  筆先で描くので一気に集中しだし面白さを感じます。  最後授業には自分の大事なものを題材にして描いてもらいます。       200文字には10年後の自分に宛てて文章を書いてもらいます。  

離れて暮らしている家族に感謝の気持ちを送ったり、学長とか理事長に描いたりします。 段々物事を考え、それを纏めて行き、人間性、感受性が育ってゆくような感じがします。  今の人は文章を書くのが苦手な人も多いので、200文字を書くに当たっては起承転結を教えて行って、書き方の練習をしていっています。   漢字とか意味を調べたりするので、文章を作る力は伸びていきます。 一クラス分を確認し、書き直しさせたりします。    文章が向上して就職活動にも役立ちます。

もう14年目になりますが、きっかけは私のカルチャー教室に看護師さんが数名習いに来ました。  患者さんが絵手紙を習いたいという事で、自分たちは絵手紙が出来ないので絵手紙を習いたいという事で来ました。  看護学部があるので、その生徒たちに習わせたら役に立つのかなあと思って導入しました。  集中して描かないと描けないので本当にシーンとして描きます。   全学部に広げていきました。  野球部も参加して、それだけではないかもしれませんが、2013年の春に全日本野球選手権大会で優勝しました。      集中力のほかに客観的に自分をみる力、自ら発信する力などが養われていると思います。

絵手紙を学んだブライト健太君は中日から4年生の時にドラフトで指名を受けました。   私に1年生の時に絵手紙を送って来ました。  試合に勝てなかったのは試合に出れなかった人にも責任があるというような内容のものでした。  彼は3年生まで試合に出ていないんです。  4年の春になって初めて試合に出られました。  凄い努力をしたと思います。  野球部の監督自身も描いています。

上武大学は渋谷さんのお父さんが1968年(昭和43年)に作った大学です。     渋谷さんは現在79歳。  北里大学で化学を学び、卒業後東大の研究室へ、結婚後海外でも暮らしました。  

私が絵手紙を始めたのは1992年で、31年経っています。  或る時に新聞に絵手紙が載っていました。  それを観て私が求めていた世界だと思い小池先生の教室に通いました。   小池邦夫先生は絵手紙の創始者で、現在日本絵手紙協会の名誉会長です。    通信講座に入って2年目に入院してしまいました。  「能と心」という絵手紙を送ってくれました。  「がんばれ がんばれ 今日は立春」と書いてありました。 小池先生の絵手紙をずーっとベッドのそばに飾っておきました。  それが絵手紙をずーっと続けている原点と思います。  退院後3か月してから小池先生からカルチャー教室の先生をしてくれないかという話があり講師をすることになりました。  

理事長になった後も通信講座は続けました。  小池先生への絵手紙は自分の心の整理、確認になりました。  絵手紙の導入が運動部に役に立つとは思ってもいませんでした。   絵手紙での国際交流の一環で海外にも行っていましたが、コロナ禍ではできなくなって、オンラインでシンガポールの大学と絵手紙での交流を始めました。 日本と違って凄く独創的です。  絵手紙を広げてゆくために、絵手紙ギャラリー&ミュージアムも作りました。  学生たちと小池先生の絵手紙が展示されています。  








 




















  









 







2023年7月22日土曜日

野村良太(登山ガイド)         ・〔人ありて、街は生き〕 670キロ・ひとりぼっちの大冒険

野村良太(登山ガイド)   ・〔人ありて、街は生き〕  670キロ・ひとりぼっちの大冒険 ~北海道分水嶺単独縦断~

野村さんは大阪府出身の28歳、北海道大学ワンダーフォーゲル部での活動をきっかけに、山岳ガイドの道に入り2022年2月から4月にかけて、北海道の中央部の山岳地帯宗谷岬から襟裳岬までの670kmを単独で走破しました。   この活動によって冒険家植村直巳の名を後世に伝えようと創設された植村直巳冒険賞を2022年度に受賞しました。   肉体的にも精神的にも厳しい670kmの道のりの中で何を感じて、達成したものは何か、お話を伺いました。 

植村直巳冒険賞はこれまで海外で活躍された方ばっかりだった。  僕の場合は北海道の大縦走だったので、国内での受賞は僕が初めてだったようです。  吃驚しました。      他人がやったとかと思うぐらい突拍子のないものです。    小、中、高とずーっと野球をやっていました。  登山は北海道大学に入ってからです。   山が好きで選んだというわけではないですが、ワンダーフォーゲル部に入りました。  北海道を中心に四季を問わずいろいろな山を登りました。  4年間で400日ぐらいは山にいました。

単独行をするようになって大きい山に行きたいと思って、知床半島、日高山脈などを全山縦走しました。(2~3月)  志水哲也さんという方が襟裳岬から宗谷岬迄半年間かけて、何回かに分割して縦走した方だという事が判りました。(2019年)  卒業のタイミングでコロナになってガイドとして生きて行こうと思っていましたが、夏までの仕事が全部白紙になってしまいました。  その年の夏ぐらいから準備を始めました。  先輩にも話をしましたが、突拍子もないことだと言われました。  いつ頃出発したらいいのか、食料は、どのぐらいかかるのか、登山道具とか暗中模索でした。  お金もなかったので企業とコンタクトを取ったりしました。   

襟裳岬から出発して宗谷岬まで向かうルートで一回失敗しています。  全体のスケールが見えていませんでした。   失敗して得られるものもありました。  今回は宗谷岬から出発して襟裳岬のルートにしました。  前回は南から技術的に厳しい日高山脈を最初に越えたいと思っていました。  南斜面は太陽で雪がザグザグになり登りずらい。  北斜面は凍っていてそこを降りないといけない。  効率が凄く悪くて、北から行かなければいけないと気づきました。   

宗谷岬を出発したのが、2022年2月26日でした。  帰ってきたのが4月29日でした。(63日間)  風速の一番強い時には風速40mぐらいありました。  雪が真横に飛んでいるような状況で、テントなどでやり過ごしました。  寒い時にはマイナス20℃ぐらいになります。  荷物は一番重い日で45kgぐらいあったと思います。     一日8~10時間歩きました。  楽しい時間は良く見積もって10%ぐらいです。   あとは踏ん張っている、我慢の時間が長いです。   一番多く食べていたのはアルファ米で水でもどして、乾燥野菜、乾燥高野豆腐、フリーズドライのスープを飲んで、ペミカン(加熱溶解した動物性脂肪に粉砕した干し肉ドライフルーツなどを混ぜ、密封して固めることで保存性を高めた食品)でカロリーとタンパク質がとれる。 ほぼ同じものを同じ時間に食べていました。  

山頂に立った時の景色は北海道の山を独り占めにいているような感覚が何日かに一回訪れます。  北海道大分水点という、日本海とオフォーツク海と太平洋の境界になっている一点が北海道の真ん中ぐらいにありますが、稜線を一回り観た時になんと贅沢なことをしているなあと思いました。  爆弾低気圧が来ると丸々3日ぐらいは何もできない時間が出来てしまいます。  ほぼ60日間を厭でも自分と向き合わざるを得ないです。  気持ちの部分は本当に浮き沈みが激しくて、勘弁してくれという思いでした。  なんでこんなしんどいことをやっているんだろうというのが9割あります。  携帯中はラジオを一日10時間とか15時間つけっぱなしにしていました。  気晴らしになりました。

地図の裏に日記をつけていました。 後半になるほど、いろいろ考えることがあり書くことが増えました。  後半は食料も少なくなり、空腹を紛らわすためにも書きました。    読みかえすといろいろのことが鮮明に思い出されます。  最大のピンチは最後の食料デポ地に荷物を置いた時点で、食料がねずみに荒らされてしまって、その先使う予定だった食料が2割ぐらい使えなくなってしまって、大きなミスをしてしまったと思いました。 事前に食料とか燃料などを4か所の避難小屋のおいておきます。  札幌の友人に手配してもらって乗り切りました。(サポートを突き放す胆力はなかった。)  

アイゼンを使わないで済むようになって、核心部は抜けたと思いました。(3,4日前) 独りで行ったけど沢山の人に支えられている思いでいたので、仲間にむかえられた時には目頭が熱くなりました。  自分の力でやり遂げたと言う実感はないです。  経験をどう生かすか、平出和也さんと言う登山家が「自分が経験して成長したかどうかは、経験した時点ではわからない。  その経験を次の挑戦をするときに、上手く生かせた時に、初めて前回あんなふうに成長できたんだとか、あの時よりもうちょっと出来るようになったんだなという事が実感できる。」と言われていて、まさにその通りだなあと思います。








   
















































      

2023年7月21日金曜日

井垣伸子(関西学院大学)        ・次世代を育てる~新しいシスターフッド

 井垣伸子(関西学院大学ジェネラティビティ研究センター 前センタ長) ・次世代を育てる~新しいシスターフッド

井垣さんは1955年東京生まれ、津田塾大学、大学院で数学を学び名古屋商科大学、帝塚山大学を経て2005年から今年3月まで関西学院大学の教授として学生の指導に当たって来ました。  2020年に設立された関西学院大学ジェネラティビティ研究センターの初代センター長としてプロジェクトを運営してきました。   ジェネラティビティとは生み出すという意味のジェネレートと世代を意味するジェネレージョンを掛け合わせた造語で、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行く」という意味だそうです。  

今は定年後の準備期間という感じで、4年生だけゼミを1週間に1回だけ担当しています。  来年からはフリーになります。   ジェネラティビティとはもともとは心理学の学問の世界の中の専門用語です。  エリクソンという心理学者がいて、その人が作った造語です。  アイデンティティーという言葉を作ったのもエリクソンです。  日本語に訳しても「自己同一性」という事でよくわからなかったが、今は日常的に使っています。  ジェネラティビティも今は馴染みのない言葉かも知れないが、何年か経つとみんなが使うような時代がいいなあと思っています。  自分のことだけでいっぱいで自分以外のことには気が回らないという状況があります。  中年以降のどこかのポイントで、次世代のことを考える、自分の外の社会のこと、地球のこと、そういった外側に目が向くという心理的な変換期をエリクソンは見つけた。  

数学、応用数学を学生に教えてきましたが、研究センターを大学の中に立ち上げたりするとは思ってもみませんでした。   関西学院大学の総合政策学部にいるんですが、社会の現実の問題を考えるという学部です。  そこに20年前に転任してきて、私も何かやりたいとずーっと思っていましたが出来ずにいて、ジェネラティビティという言葉に出会って、私の定年までの3年間はこれに掛けようと思いました。 

小さいころから算数は好きでした。  高校では数学しか勉強したくなかった。  母からは好きなことをやりなさい、働きなさいということは言われていました。  大学の1年生の時には寮に入って勉強しましたが楽しくってしょうがなかったです。(毎日が修学旅行みたいな感じ。)  その後下宿しました。  博士課程が修了するとすぐに名古屋商科大学が決まりました。  「うちは商学部だから、純粋数学ではなく、もっとビジネスに役立つ内容を教えてほしい」と言われ、半年間アメリカのペンシルバニア大学に留学し、応用数学を学ばさせて貰いました。(当時41年前は女性の教員は私だけでした。)     博士号を取るのには18年間かかりました。(45歳)  途端に気力がなくなりました。 

趣味はたくさんあります。 音楽関係ではピアノ、ギター、ドラム、などなんでもやりたくなるんです。  スポーツでは卓球は本職みたいにやっていました。 テニス、スキーなど、最近ではキャンプをやったりしています。  私にとって遊びが論文を書くことからの逃避行動でしかないわけです。(気分転換)  オートバイもやりました。(オートバイを教えてくれたオーナーが19歳で全日本のチャンピオンになった人で大先生した。)   

シアトルのワシントン大学に1年間行きました。  その時に純子さんに会う事になります。  武田宗徳さん以外は全員アメリカ人で能ミュージカルみたいなものをやりました。  それをシアトルタイムズの一面に記事が載りました。  それが夢に見ていたボランティア活動の最初でした。  

日本に戻ってジェネラティビティ研究センターを立ち上げました。  アンケートを行って、若いころは自分のことだけが心配だけど、ある時点で次の世代の事を考えだすという意識がそこで交差する訳なんです。  このポイントのところを「目覚めポイント」と名付けました。  男性の場合、定年後60歳から70歳で「脱自己本位的態度」への関心が強くなる。  自己も成長したり充実感を持つ。  女性は年齢を問わず、ずーっと成長するんです。  クリエーティビティーが女性の場合はちょっと弱いんです。

ジェネラティビティは次世代のことを考えるだけではなくて、自分の自己実現というクリエーティビティーが深く関わっているんです。  そこが大事なポイントだと思います。   自分の中に向いた時がその人の力がでるという、そういう事なんです。  自分がどうしてこの世に生まれて来たか、とか、深く深く追求して、その結果自分がこういう人間だという、そこを使った社会貢献、その人にしかできないもの、そこで外とつながるという、これが本当のジェネラティビティだと思います。  魂レベルで自分の中から湧き上がってくるものそれを見つけること、それが社会と貢献することに繋がるんです。

「50代からの生き方のカタチ 妹たちへ」去年出版しました。  50代ぐらいでこのまま人生終わっていいのかなあと悶々としている人が多い。  女性をターゲットにアドバイスを頂こうと思って、平均年齢83歳(一番若い人がやましたひでこさん、最高齢が鮫島純子さん 今年1月に亡くなる)の方々にメッセージを残してもらいたいなあと思いました。     東北旅行の企画があり、渋沢栄一のお孫さんである鮫島さんが来るという事でその旅行に参加しました。 青森の「森のイスキア」(佐藤初女さん)にも一泊するという事でした。  当時93歳で鮫島さんと同い年でした。   ツーショットを写真に残そうと思いました。(写真も趣味)  半年後佐藤初女さんが亡くなりました。 

本の中の鮫島さんの言葉のなかの一部。                                     「・・・世界の平和なくして人は幸せにはなれないと言いう事です。 「百の世の長き命を預かりて、子らに伝えん平和の尊さ」 生きていればいろいろなことがあります。 ・・・心の平和を選択するという事をどうか忘れないでください。  世界を美しい色で色どり平和に導いてゆくのは、他でもない私たち一人一人なのですから。」

この本の12人のほかに応援団があってその応援団長が、デザイナーの鳥丸軍雪さんです。  ダイアナ妃が日本に来た時の最終日の天皇の晩餐会でダイアナ妃が着ていたドレスが鳥丸軍雪さんのデザインのドレスでした。  鳥丸軍雪さんは凄くジェネラティビティの強い人です。  直島には残っていたものがほかのところには残っていない、これこそジェネラティビティだと思いました。   日本の原風景がここにあったんだという、そしてここに現代アートを持ってきて、まさにジャネレートして作りだした。  直島に行って世界中の人が来ることがわかりました。   西脇市に伝統的な播州織という織物があるんですが、そこに新しい風を吹き込んでいる玉木新雌さんという女性がいます。 今世界中に出しています。  岩城紀子さんは日本の伝統的な方法で作った食材を作っているが潰れそうなわけで、自分で店を作って売ろうという事でそれを売って次世代に残しているんです。

人と人を繋ぐことによって、そこに化学反応が起きてくる、私にできることはそこだだなと思って貢献していこうかなと考えています。  「気が済むまでやろう。」という事。   日々の生活のなかで生きている充実感、そういった物を持ってほしいと思います。      経済的な一つの尺度でみんなが動いてしまっている、そういったことに危機感を感じます。

































 
















 



















2023年7月20日木曜日

村松喜久則(民謡パフォーマー)     ・〔わたし終いの極意〕 元気の秘訣は民謡にあり!

 村松喜久則(民謡パフォーマー・東京の民謡を歌い継ぐ会会長)・〔わたし終いの極意〕  元気の秘訣は民謡にあり! 

松村さんは長野生まれの東京育ち、74歳。  大学在学中に民謡歌手の原田直之さんに弟子入りしました。  歌手活動の一方で東京の民謡を歌い継ぐ会長として、これまでに300曲近い東京民謡を復活させています。   さらに民謡の魅力を伝えたいと、近年は民謡ミュージカルや、民謡落語、動画サイトでの発信など新たな境地を開きつつ、後進の育成にも力を注いでいます。 

*「秩父木挽唄」  歌:村松喜久則

角材を板に挽くのが木挽きの仕事です。 民謡パフォーマーと名乗っていますが、現在歌手活動に加えて民謡ミュージカル民謡落語、動画サイトでの発信など、民謡を核としたさまざまなエンターテーメントに挑戦していまして、幅広く民謡の魅力を知っていただきたいと、多種多様な芸を演じるという事で民謡パフォーマーにしました。   落語は三遊亭圓丈師匠の晩年に落語の手ほどきを受けました。  ミュージカルの方は一時役者をやっていたこともあり、芝居台本を書いています。  「笑えばこの世はパラダイス」、「鶴の恩返し」の脚色、民謡バージョンにしました。 

動画サイトで発信している、10倍速の「八木節」が若い世代に大人気になっています。

「八木節」 通常バージョン  歌:村松喜久則

10倍速の「八木節」     歌:村松喜久則  実際は3倍速ぐらいです。

子供のころは東京に住んでいて、民謡を聞くことが全くありませんでした。 小学校5年生の或る日、ラジオから民謡の歌(同世代)が流れてきて、カルチャーショックを受けました。    民謡のこぶしにしびれました。   レコードを買ってもらって聞き覚えで歌っていました。  中学では師匠に付きました。  太鼓も勉強して太鼓に夢中になりました。  民謡歌手の原田直之先生との出会いがあり、大学在学中に弟子入りしました。 4年生の時に大学紛争で、ロックアウトになり卒業前に内弟子になりました。    朝10時から夜の10時まで自宅稽古、出稽古は一日4か所と凄く忙しかったです。  

25歳の時に民謡大会に出て、結果は3位でしたが、レコード会社から誘いがあり、レコードデビューしました。   民謡ブームもあり順調でした。   「東京民謡を歌い継ぐ会」の代表も現在しています。   江戸時代には全国から人と共にいろんなものが集まって来ました。  歌や踊りも集まってきました。   民謡は人々の暮らし、日本人の豊かな心を表している歴史の証しとも言われます。  東京全域に都市開発が押し寄せ、農林水産業が衰退してゆくなかで東京民謡も忘れられて行ってしまう。

*「櫓胴突き唄」 家の普請で杭を打つ時に、丸太をピラミッドの形に立てて重い鉄の重りを「ヨーイ」と言った時に引っ張り上げる。 「コーラ」で手を放す。 杭の頭にドスンと落ちる。  音頭取が息を合わすために歌ったそうです。  田植えなども歌う事で仕事がはかどったそうです。    東京民謡の特徴は節の上がり下がりが激しい事、音の幅が広い、旋律が直線的で江戸っ子気質を表して歯切れがいい。  元気じゃないと歌えないし、元気よく歌っていると元気になるんです。

演出家の岡本和彦先生が高校時代から集めていて、何とか残したいという事で、「東京民謡復活の会」を始めて、私にも声をかけていただきました。  昭和59年から始まりました。  音源資料が残っていました。 またお年寄りを訪ねて取材しました。    残してほしいと足を運んでいただいた方もいました。  つき2回東京都内を公演して歩きました。  オールナイト民謡フェスティバルという事で浅草で27年やらしていただきました。  昭和56年から57年にかけて調査した時に、純粋の民謡は700から800ありました。  その中から300曲ほどが私たちの手元に資料としてあります。  そのなかの274曲を復曲して127曲を音源化(CD)しました。    設立から40年になります。  

民謡には思いやりと優しさがあります。  「歌う事で愛の泉が湧く」という標語を作りました。  自我、利己心を捨てて、純粋に他人の利益を考える「利他の心」で生きることを学ぶ事が出来ました。 

父は2005年に亡くなりました。(85歳) ソーメンを食べ、おしっこを手伝って、私の腕の中で亡くなりました。  母は2014年に亡くなりました。(92歳)     認知症が進む中、最後の10年間は身動きが出来ない完全介護の状態でした。    民謡を歌ってというとちゃんと歌うんです、ちゃんと覚えているんです。      亡くなる最後の言葉が「則ちゃん」でした。  切なく嬉しく涙しました。     母の介護は10年続きました。  妻の母親も一時期同時に介護していました。       

母はユーモアのある人で、自分でも笑って過ごすという風にしたいと思います。     民謡をずーっと続けてゆくこと、少しでも皆様方に元気をあたえ、喜んでいただけるような芸を披露し、芸能活動を通じて少しでも世の中のお役に立てればと思っています。   わたし終いの極意としては、「大変さを楽しみ、老後を笑って過ごす。」という事です。  母のお陰です。  民謡が精神安定剤の音楽だと思っています。

*「神津音頭」     歌:村松喜久則   もともとは伊勢音頭です。
















  















    




















2023年7月19日水曜日

服部道子(プロゴルファー)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 いつまでもチャレンジャーでいたい

 服部道子(プロゴルファー・〔スポーツ明日への伝言〕  いつまでもチャレンジャーでいたい

服部さんは高校2年生だった1985年、アマチュアゴルフの大会では世界で最もレベルの大会と言われる全米アマチュアゴルフ選手権で日本人として初めての優勝を果たしました。    その後アメリカの大学に留学、帰国してプロゴルファになってからは、ツアーで18勝、1998年には賞金女王にも輝いています。  ツアー引退後は東京オリンピック女子ゴルフの代表チームのコーチとしてメダル獲得に貢献しています。  自身のゴルファーとしての歩みを振り返っていただきながら、いつまでもチャレンジャーでいたいというこれからについても伺います。

東京オリンピック女子ゴルフの銀メダル、素晴らしかったです。  今の女子ゴルフは勢いがあります。  1985年、全米アマチュアゴルフ選手権で日本人として初めての優勝。  私は初めてのアメリカ独り旅でした。   ホームステーで温かく迎え入れてもらえました。   何もかも新鮮で楽しく試合を迎えることができました。  決勝は暑い日で36ホールでした。  ピッツバーグの東海岸の暑いところでした。  相手は強豪のオハイオの大学生でした。  お互い励まし合いながらやっていきました。   成田空港から降りてきたらびっくりしました。  母も20歳の時に日本女子アマチュアゴルフ選手権競技で優勝しました。  

最初の日本女子アマ優勝が15歳9か月でした。(高校1年生)   ゴルフのきっかけは母でした。   基本はプロの方に教えていただきました。  全米アマチュアゴルフ選手権で優勝したことが、アメリカ留学のきっかけになりました。  アメリカテキサス大学オースティン校に留学しました。  帰国後はプロになるつもりはなくて、帰国後の就職をどうしようかと思っていました。」   母が「(JLPGAの)プロテストに申請したから受けてみなさい」と勧められて、受けてトップ通過することが出来ました。  

プロとしての心持が全くなくて、日本の社会も知らないので戸惑いがありました。       挨拶とか、年功序列的な事とかですね。   気持的にもやもやしたところがあり1992年は最後の方で崩れたりしていました。   1993年あたりはトーナメント数が40近くありました。  落合さんとゴルフを回る機会があり、質問したかったができなくて、帰り際に落合さんから「自分の苦手なことを続けると勝てるようになるから」と言われて、自分なりに分解して、早起きをしてランニングを始めました。   トーナメントが終わった月曜日は苦しいが、冷静に自分と向き合えるようになりました。   1993年ミズノオープンレディスゴルフトーナメントでツアー初優勝。 通算18勝。   

留学時のホームシックは忙しすぎてなかったです。   勉強が7,8に対してゴルフは2,3の割合でした。   1998年には年間5勝を挙げて賞金女王になりました。(30歳)  25,6歳ぐらいから女性としては身体の衰えみたいなものを感じ始めて、30歳ちょっと前はスランプがありました。  伊藤園レディース、グレートアイランドクラブ(千葉)で19アンダー。  初めてて最後ですが、すべてがスローモーションに感じられるんです。  自分でボールを思うようにコントロールできるような感覚でした。   その時の3,4か月前に父を亡くしていて、父が天からパワーをくれているような、不思議な気分の一週間でした。  

岡本綾子さんからは「怪我も自分の実力のうちだから」と言われて、41歳まで怪我もなく、今も元気でいられるのは岡音さんの言葉があったってだなあと思います。  不動裕理さんは年下ですが。違った視点で言ってくれるので、心強い存在です。  彼女は6年連続賞金女王ですから。 角度の違う意見を言ってくれます。  一般的に大変だという事を思わない力、正しく努力できる力とか、違った才能があるのかもしれません。   

2009年に結婚、2012年日本女子オープンが最後の試合となる。 長男出産。  今は若手育成に力を注ぎたいと思っています。   段々日本人のメンタリティーも世界に出ても自分を出だせる、自分の空気感でプレーできる選手が凄く増えたなと思います。  2019年に渋野さんが優勝しましたが、そこからなんか違った扉が開いた気がします。  

2021年『好転力』という本を出版。  ゴルフから学んだ人生哲学を綴る。 「死ぬまでチャレンジャーで居たい。」と思っています。   











   

























 










2023年7月18日火曜日

三波美夕紀(三波春夫さん長女・元 マネージャー)・今、三波春夫が新しい

 三波美夕紀(三波春夫さん長女・元 マネージャー)・今、三波春夫が新しい

7月19日は昭和の歌で国民的歌手と言われた三波春夫さんの誕生日で、存命であれば100歳を迎える記念の年です。  三波さんは長編歌謡浪曲、セリフ入り歌謡曲など独特の世界を切り開きました。  その三波さんの芸の世界を未来に伝えようと、三波さんの長女の三波美夕紀さんは、南流を創設し長編歌謡浪曲の指導をはじめ、所作指導など続けています。  三波さんに三波流を通して何を残し、何を伝えたいかなどを伺いました。

亡くなって22年になります。  朝起きて夜寝る迄三波春夫でした。  空いている時間は原稿を書く、本を読む勉強家でした。   寝っ転がってテレビを見るという姿は見たことがないです。   「お客様は神様です」のフレーズを生むことになったとは、昭和36年に公演ツアーの最中に、司会者が「さあ三波さん超満員のお客様どう思われますか。」と尋ねたことに対して「あー 神様の様です。」と言ったら、お客様がワーッと喜ばれて、やり取りをして、次の土地、次の土地でもやってくださいという事を興業師さんに言われて、「お客様は神様です」というようになったようです。  真意は「神前に立って祈る時のような気持で、心をまっさらにして歌わないと完璧な歌は歌えないと、だから私はお客様を神様と見て歌います。」という意味ですが。

16歳で南篠文若(なんじょう ふみわか)と言う名前でデビューしました。   20歳で歩兵として陸軍に召集されて、満洲の北部差全線のところに送られてしまいました。    退却行軍、終戦後は4年間シベリアに抑留されました。  帰国後浪曲師に戻って、その後歌手になりました。  戦時も抑留の時も周りから浪曲をやってほしいという要望があったそうです。   抑留中に30作ぐらい新作浪曲を書いて聞かせてみんなが元気になったそうです。   ソ連側からの要求があったと言っています。  帰国後浪曲師に戻ったんですが、「農民よ立ち上がれ」みたいな内容だったのでお客さんから受けなかったようです。 そのうちに受けるような形になって行きました。   

浪曲のお客さんが減って来て、お客さんから「浪曲よりも歌を一杯やってくれ」と言われて歌の時代が来ているんだという事で、歌手になる決心をしたんだそうです。(昭和26,7年)  先生について歌謡曲の発声法に直して、昭和32年の「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」でデビューします。 A,B面共に大ヒットすることになります。  当時は洋服で歌うのが当たり前で、洋服で歌っていたが、歌とあわないという事で、着物に変更しました。(半年後) お客さんに喜ばれたそうです。  

オリンピックが昭和39年に行われ、テーマソング「東京五輪音頭」がその前年に発表された。   日本の復興を見せる大イベントなので、どこに行っても東京五輪音頭」を歌いました。  昭和42年 日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界の国からこんにちは」が8社競作で発表され、総売上げが300万枚を突破する。

浪曲のいい節と歌をドッキングさせて、何か作れないかという事で、長編歌謡浪曲というネーミングで、作っていきました。 「俵星玄蕃」、「紀伊國屋文左衛門」など自分で書いて作っていきました。  40作以上新作長編歌謡浪曲を作りました。 昭和47年「大忠臣蔵」は3時間10分ぐらいの組曲アルバム、平成6年「平家物語」は2時間25分の組曲アルバムです。  日本人の真心を平家物語を通じて、世の中に表わして行きたいという意味でした。  平家物語は構想10年執筆6年でした。  

長編歌謡浪曲のスタイルは1番、2番と歌があり、浪曲の節に入ります。 登場人物がセリフを語って、節があって、歌で終わるという形です。  すべて三波が作りました。   新しい人がやろうと思っても、譜面が残っているのは歌の部分だけでした。 それで私がその節とセリフの部分を教えるようになりました。 

三波は弟子を取りませんでしたが、作品を作る為に時間がなかったんだと思います。   若手の演歌歌手の山内惠介さん、三山ひろしさん、辰巳雄太等から教えて欲しいという事で教えています。   所作も難しいので教えています。   長編歌謡浪曲はお客様が喜んでくれるから、と皆さん実感しています。  一人ミュージカルと言った雰囲気です。   辰巳雄太さんはおじいちゃんとカラオケで、マイクを長く握っていられるからという事で、長編歌謡浪曲やっていたそうです。  

2011年に「三波流」を作る。(三波が亡くなって10年後)  歌に合わせた所作、本物を作っていきたいと思いました。  三波は作詞とか、仕事は早いなと思いました。(短い歌ならその晩に作詞してしまう。)  「自分はいつなんどきでも、人に笑顔を向けられるような人で居たい。」と言っていました。  真心の人、物事をおざなりにはしない人でした。  100年という事で4枚組のDVDを発売します。(生涯が詰まったようなDVD)  来年に生誕100年記念公演を行います。