2014年1月31日金曜日

2014年1月28日火曜日

増田勝彦(和紙文化研究会副会長)・温かな和紙の心を語る

増田勝彦(和紙文化研究会副会長)  温かな和紙の心を語る
1月は1年の中でも和紙を使った、和の生活様式がよみがえる時期です。
寒中、寒のうちは和紙の原料の寒ざらしや紙すきが行われる季節でもあります。
増田さんは永年和紙の研究や利用に携わって是れました。
もともと和紙を利用した表装の仕事を手掛け、その後大学では和紙の歴史や利用法等の講座を担当してこられてました。
和紙の利用は正倉院の文書から始まり、江戸時代には生活のあらゆる場面や浮世絵に代表される芸術品の材料としても活用されてきた日本独自の工芸品です。

和紙の使用の傾向、数十年前までは年末に障子を張り替えて、新しい年を迎えるという事があって、多かったんですが、この頃はマンションは障子紙が無くなって、正月に半紙を年賀として配るような風習も無くなった。
和紙を使ったポチ袋(お年玉袋)、慶弔の包み紙については、デザイン面、和紙の風合いからまだまだ愛着のある人がいる。
和紙が大量に作られた時代は夏は百姓さんが農作業で忙しい、冬になったらこうぞの伸びたのを刈り取って、和紙作りの準備が始まる。
山間が多いので、畑仕事は済んでから始まる。
刈り取った枝を大きなこしきの中で蒸して皮を剥く作業をみる事が出来る。
もともと栃木県から始まったが、地元の手すきの工房に行って、小学生が自分ですいたりして自分たちの卒業証書にしようと、地元の事をよく知ろうとお、社会勉強に一環として、また形がそのまま残るという事で、推奨されて各地で行われている。

営林署に務めようと思ったが、自分の性格に合わないと思い、表具の職を選びました。
表具はいろんな和紙を使う。 古い文書、絵画の修復を専門とする表具屋だった。
掛け軸、屏風などを作った。
手触り、透かした様子、はけの扱い、 水につかった時の様子、いろんな状態の紙の様子が解るようになった。
その後文化財研究所に勤める事になり、昔は高松塚の壁画の固定等問題にはなったが、最初の固定にも携わった。
海外の人に和紙を使った研修にも参加して、作り方の指導にもあたった。

昭和女子大の光葉博物館、顧問 大学では博物館関係のうちの保存論を中心に話した。
表具師として仕事をしていると、中国の元時代の京の紙を修理しなくてはいけない、鎌倉時代の古紙にに金泥で書いたものも修理しなくてはいけない。
それぞれの手触りが違い、疑問が起こったことに対して、研究の対象として、大学に移ってから研究の対象としての和紙になる。
和紙は中国から技術が朝鮮半島を通してきたといわれるが、中国では紀元前から紙と言うものが作られている。
日本にやってくるのは、7世紀のものがある。
絵や文字を書く材料がさがされたが、中国では木簡とか竹簡とか細長い者に文字を書いていたり、まれに絹に書いたり、石に刻んだりしていた。

文字ができるよりずーっと遅れて紙が登場する。
エジプトでも絵、文字を書きたくてパピルス層をスライスして重ねて圧縮しておくとお互いにくっついてシートが出来て、沢山のパピルス文書ができている。
パピルスが英語のペーパーの元になったといわれる。
日本では木簡、竹簡がルーツになっている。
正倉院に行くと1万点以上の和紙の古文書が残っている。
世界の7不思議だと思う。(7世紀のものが健全に残っている。)  通常通りに扱える。
麻からも随分出来ている、奈良時代の紙は麻からも紙が随分出来ていて、丈夫で、お経等一番大事なものは麻から作る、天皇が書く様な紙も麻から作る。
一般的なものはみつまた、こうぞから作る。
日本は楮の紙が出来てくる。 楮の技術が発展してくる。

楮自身は紙が伝わってくる以前から繊維として使われてきた。
正倉院にも地方の戸籍が残っており、紙の地域差がみられる。
越前、土佐、美濃が有名 手すきの和紙を作っているのが全国で200軒弱。
和紙関係者は大変な危機感を持っているが、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアでも有名な紙の産地だった。
それらの国では数軒以下、国に依っては全然ない。
日本はそういう国から見ると、1000年以上前から手ですく作業がずーっと続いているのが、200軒あるという事は或る意味、不思議なくらいな事、日本人の感性と言うものだと思う。

越前和紙、手すき和紙 越前奉書や鳥の子は高い評価 厚めの感じ。 
よーく揉むと柔らかくなるが、刀を手入れするときにうちこでといで、拭い紙として使われる。
いろんな工夫をする産地で岩野平三郎さんが日本画用の和紙を開発する。
「雲肌麻紙」という。  すこしむらがあるところを雲肌という表現をする。
東山魁夷平山郁夫 さん とか著名な画家がいるが、院展とか日展に行くと紙に描いた日本画が展示されている。
明治以降、近代的な日本画の表現に丁度いい画用紙だった。
麻とこうぞの繊維の組み合わせで新しい和紙を開発したのが岩野平三郎さんですね。
今でも続いていて、主材料になっている。
すみ流し、水の表面に墨を垂らして、花の油や鬢付け油で散らすと広がり、それを繰り返して、団扇で波を起こしていろんな形になる、そのまま移し取ったもの。
段紙?(だんし)、しわしわ 濡れた紙を2枚そのまま置いておいて、端からめくってゆく時に、2枚の表面と後ろの差で、しわの様な形になる。

土佐和紙、清張紙 こうぞの紙でしっかりして紙  尾崎しげるさんの工房で作っている。
温かみのある感じの紙。
土佐典具帖紙  薄くて透けて見える陽炎の羽のように繊細、海外では美術品の修復に結構使われる。
薄いから張っても目立たない。
こうぞの皮の白いいい部分だけを使っている。
うすようがんぴし、材料ががんぴと言う材料 薄さは同じで薄い。 謄写版の原紙用に作った。
平安時代はいろんな色に染めて重ねてふみを出すな度に使われた。
がんぴの木は栽培が難しい。  墨がにじまない紙

美濃和紙、書院の障子紙 本美濃紙は無形文化財として認定されている。 最高級障子紙
上品な白さ、うっすらとクリームがかっている。  むらがない。
むらがないのを助けるのが、とろろあおいと言う練り、おくらの花と全く似ている。
根っこを潰してから水につけるとヌルヌルの粘液が出てくる。
繊維がお互い絡まりにくくて、すくったときに、なかなか水漏れが遅くなるので、すけったを揺らして均一にする。 むらの無い紙ができる。
そば粉のつなぎにも一部では使われている。
薄美濃紙 表具の修理などにも使われる。

新しい和紙の使いかた、紙のチョッキとか財布とか、紙の布として、着物地、おび、ワイシャツを作ったりする。
和紙の繊維の織物として数社が工業的に作っている。 洗濯できるし、風合いもいいし
、温かい。
近代建築の内装の装飾にも和紙を使ったりしている。
いろんな使われ方がされている。
ヨーロッパでも見直されている。
薄くて柔らかくて、自分でいろいろ加工出来て、製品として安定している(1000年以上の実績がある)、修理し材として歓迎されている。
世界中で用いられていて、ニューヨークのメトロポリタン美術館の紙の修復部門では和紙が引き出しにきちっと整理されて置いてある。
大英博物館でもそうだし、美術館、博物館で和紙の置いてないところはないぐらい。

古文書、絵画の修復材料として、信頼されている。
酸性紙、酸性物質に犯されて茶色ぽくなって、ぼろぼろになるが、和紙はそういう風にはならない。
和紙が天井の汚れを取る薬品を含んでいて、天井にそってくれるという事でシスティーナ礼拝堂の天井、ミケランジェロの書いた壁画の修復に活躍した。
外国人も興味を持って東京文化財研究所に、1年おきに20名ぐらい研修生が来て、3週間から1カ月、修復と手すき紙の見学を含めて研修している。
安心できる素材、目に非常に穏やか、さわって感じのいいもの
和紙の作りが200軒残っているのは日本の感性だと思うので、材料としての紙ではなくて、素材そのものが持っているものを楽しみながら使うと言うのが日本人の心の中に捨ててはいないんだろうと思うので、実物を触ったりしてもらって、話を進めるようにしている
手作りなので、高いという事はあるが、伝統的工芸品が残ってるのはほかの国にはないので、皆さんにそれを伝える事が夢です。
江戸時代には膨大な印刷物が作られたが大量に虫に食われて、ごみ箱に捨てるものだといわれて、永年何十箱も集めてきたので、その繊維を生き返らせたい。
奈良時代の紙まで勉強しているので、すき返して当時の紙をよみがえらせたいと思っている。

























































2014年1月27日月曜日

2014年1月26日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(愛媛県)

五木寛之    歌の旅人(愛媛県)
今治タオル 造船 来島ドック   道後温泉  伊予の国  温暖なイメージ
司馬遼太郎記念館 
県民気質 趣味娯楽の時間が全国で最も長い。 
マイペース、のんびり屋、穏やか、人情身がある  「伊予の駆けだし」
戦国時代は水軍が活躍。 かなり荒っぽかった。 村上水軍

日野てる子 「ちいさな竹の橋」  
四国51番札所  昔のお遍路は自然の旅路 大変だった。(最近はレジャーぽくなった)
「自分探し」「自分を変えたい」
一遍上人 あらゆるものものを捨てて、念仏一つで風のようにゆびょうした人
正岡子規 高浜虚子 中村草田男など 俳人が続出している。
俳句甲子園 学校ごとに競う1998年に始まる。  俳句の街
レーモンド松屋 「来島海峡」

松山 「坊っちゃん」  夏目漱石の松山への文章は辛らつ  
作家 大江健三郎 伊丹十三(一三と昔は言っていた ロゴデザインをしていた)
早坂暁(劇作家) 鴻上 尚史  谷岡 ヤスジ(漫画家) 白川義員(写真家)
天童荒太 川上宗熏(作家) 片山恭一 大和田建樹(作詞家) 
「故郷の空」 、「青葉の笛」  大和田建樹 作詞

日本一 鯛の養殖、今治のタオル(全国60%)、花かつお キュウイ、 裸麦、
水引細工の金封(7割) 
野球   千葉茂 藤本定義 景浦將 藤田元司 西本聖 、岩村 
サッカー 長友選手
正岡子規が野球が好きで 打者、走者、四球、直球などの言葉を考えた。
(野球殿堂入している) 22歳で喀血してしまうが、喀血するまで野球をしていた。
辛いなか明るい句を読む
松山恵子 「お別れ公衆電話」

俳優 松山容子、林美智子、藤岡弘、   
秋山兄弟(日露戦争で活躍) 坂の上の雲
砥部焼   









  

2014年1月25日土曜日

秋川雅史(テノール歌手)    ・ふるさとと「千の風になって」が教えてくれたこと

秋川雅史(テノール歌手)      ふるさとと「千の風になって」が教えてくれたこと
昭和42年生まれ 4歳からバイオリンtピアノを始めました。 
後に父の指導のもと声学に転向しました。
国立大学音楽大学、大学院を卒業後、4年間イタリアに留学、帰国して第9のソロや数々のコンサートに出演します。
平成13年日本人テノール歌手として最年少CDデビュー、平成18年には千の風になってが大ヒット、その年の紅白歌合戦に初出場しました。
併せて4回の紅白出場を果たしています。
現在もTV、ラジオなどの出演のほか軽妙なトークを交えて、全国ツアーのコンサートも精力的にこなしています。
故郷への想い歌手としの心構えなどをお聞きします。

コンサートにはトークを楽しみに聞きに来てくれる人の多い。
一曲に使うエネルギーが大変なので、トークでエネルギーを回復していこうとしている。
いろいろどんなことをしゃべろうかと考えているうちに、台本を書くようになってしまって、最近では、何をしゃべるんですかと言われたりするようになってしまった。
西条市のお祭りには必ず帰ってくる。 46年間必ず地元にいます。
仕事は入れない様にしている。 祭りで声を壊してしまうので10月15,16日だけでは駄目で20日まで休む。
1年これから頑張るぞと この祭りからエネルギーを貰う。
のどの為には毎日毎日気を使う。 朝起きてから3時間ぐらいはしゃべらないとか。
楽器を常に持ち歩いているので、いつも喉の事は気を使っているので、祭りの2日間はのどに悪いことを全部やろうと、2日間で酒を一升飲んだり、夜更かしどころか、夜中からお祭りをするので2日間寝ないで、お酒飲んで、大声を出すので、声を駄目にしてしまったなあと後で思う。

腹式呼吸 おなかに力を入れて声を出すのは間違い、おなかを前に突き出して声を出す、おなかを膨らましながら声を出す。(右手をおなかに当てて膨らんでくるのをチェックする)
これを一日5分やると必ず歌は伸びます。  
これが腹式呼吸です。 おなかに力を入れると声が出ない。
私の場合は一日 2時間ぐらいトレーニングをやります。
トークに①笑い、②音楽の勉強になる事、③頑張ろうと目標になることを話す。

音楽を始めたのは4歳、父親がピアノの先生をやっていて、どこかに習いに行かそうとバイオリンを習いに行った。
気がついたらバイオリンを習っていた。
新居浜まで片道1時間掛かってバスを乗り継いでいった。
何で自分だけ遊ばないでバイオリンやるのだろうと思って、レッスンが辛かった。
しかし、あの時のバイオリンのレッスンが今の歌に生きている。
今になってようやく親に感謝している。  前は随分と親に不満とかを言いました。
14歳のときに合唱団に入ったことがきっかけで、歌は行けると思った。
これで将来歌の道に行くぞと漠然と思った。
続けるという事は人生大きな価値だと思っているので、とにかく毎日 32年になるが毎日毎日練習をしていると、成長してゆく。
身体がくたくたになり、苦しいが自分が上達したかなと思うと満足する。
人生は辛いことの方が多くて、でも一瞬の喜びが辛さを上回るかどうかだと思うんですよ。

最後の歌い終わった瞬間にホッとして、拍手があり、それが大変なトレーニングの辛さを上回るので、だから最後の拍手の為に毎日が待てるのだなあと思います。
辞めたいと持ったことは無い、普段の辛さは辞めようとする辛さではない。
歌って毎日身近にいる存在なので、歌が好きかと言われるとそういう意識はしていないが、歌が無くなったら私ではない様な気がする。
高校までは友達と共に地元にいたいと思った。
父が声学科だ父のもとでレッスンしていたが、なあなあになってしまって、高校2年で別の先生に倣う様になった。
大学は東京に行って、留学もする事になる。
生まれ育ったところにプライドを持って、自慢するが、もし愛媛にプライドを持てなかったら、18年間の人生を否定することになると思う。
こういう人生を歩んできたから、今は自分はこうなっているんだという風に自身を持って行ける感じがする。

歌の道ってとにかく長い、今46歳で出来ないことばっかりです。
まだ気持ちとしては学生だと思っている。
プロとしてのデビューとしての実感は無かった。  
プロとしての意識をしたことは無い、まだまだ勉強中の身だと思っている。
日々の節制、いま自分の出来るベストの歌を歌おうと思うと、いろいろ酒とか夜更かしなど制限していかなくてはいけないと思っている。
クラッシックの勉強をしてきて、良さを知っているけれどクラシックの音楽のコンプレックスも持っている。
男のプライドが流れている方が強いが、クラッシックがマッチしないとの思いがあり隠してバイオリンを習っていた。
イタリアでは子供にとってF1レーサー、サッカー、と共にオペラは3大ヒーローですが、日本では男性的イメージがなく日本ではクラシックは敷居が高いので、取り払おうとして親しみやすい音楽であることを広めたかった。

そんなコンサート活動をずーっとしてきた。
美空ひばりさんの名曲であったりをプログラムにいれてきたが、そんなときに出会ったのが「千の風になって」だった。
クラシックというイメージではなく聞きやすくてここちいい曲と持ってレパートリーに入れた。
クラシックではヒットする概念がなかった。(主役は音楽)
想像以外、以上の事が起きて吃驚した。 2007年、年間ヒットチャート1位になった
クラッシックの歌声が自然に聞いてもらえるようになった。
コンプレックスを持っていた自分が、子供達からの手紙を貰ったりして、男としてクラシックのをやるという事に対して、理解してもらえる世の中になってきたのかなあと思って、それが嬉しかった。
曲との出会いは自分の人生にとって大きな変化を作ってくれた。
どういう気持ちで歌ってるのかとよく聞かれるが、頭の中を無にして歌う。
感情が入り過ぎると聞いて下さる方との間に壁ができるんです。
心を無にすることができて、歌声を届けられた時がお客さんは一番感動してくれる。
お客さんが自分の大切な人を思い浮かべたり、いろいろ解釈して受けてくれる。

一番多いのは大切な人を無くして、悲しみに暮れているときにこの曲に出会って前向きに生きていけるようになりました、と言う手紙ですが、いろんな内容の手紙を頂く。
この曲を歌っている中でいろんなドラマに出会う。
この曲の作曲者新井 満さんが、この曲がヒットするという事は、CDが売れてという事はCDが売れた分だけ悲しみがあるんだよと云われた。
この曲を歌うと言う事は本当にこの曲で心を救われようとしている人たちの自分は気持ちを背負っているんだという責任感が凄く強くなって、これからも大切に歌い続けたいと思っている。
クラシックと言う音楽を世の中に浸透させてゆきたい。
オペラ、クラシックの王道にふれてもらえる世界を作れるようになればいいなあと思う。
クラシックの魅力を一人でも多くの人に伝えたい。
いい音楽を聞くと心が浄化されて、悪いことをしようとは思わない。





























2014年1月24日金曜日

深草アキ(秦琴奏者)      ・ 中国古典楽器と出会って

深草アキ(秦琴奏者)        中国古典楽器と出会って
1949年生まれ もともとはベース奏者でしたが、35年前に中国の古典楽器、秦琴に出会いまた。
秦琴は木で出来た中国の古典楽器で、今では中国でも演奏をする人が少ないようです。
三味線の様な形をいていて、弦は3本、深草さんは主に爪で奏でます。
大学卒業後、深草さんはベース奏者として活躍しますが、和楽器も興味を持ち初め、自分自身の音をもっとストレートに表現できる楽器を探していた頃秦琴を見つけました。
それを自分で弾きやすいように修理して独自の双方で演奏するようになりました。
秦琴とので出会いや魅力などについて伺います。

本名は彰 女性に間違えられる。 64歳 
基本的には演奏活動が主ですが、CDを作ったり、演劇の音を担当したりする。
桐の板で胴体が梅の花の様な形をしていて、厚さが5~6cmで60cmの竿がついていて、3弦の絹糸が張ってある。
三味線と大きく違うのが棹のところにフレットがついている、三味線はつるっとしている。
3本も16通りあるが、チューニングしながら弾いている。
中国でも専門の科がないので、弾く人は少ない。
2000年ぐらいの歴史はある楽器ですこしずつ形を変えて伝承されている。
「星めぐりの歌」 
真夜中に沁みいる様な音  
秦琴とので出会って音色作りに最初取り組んだ。  新しい日本の音色を作りたかった。
それをもとに音楽を構築しようと思った。

ベースを35年前にやっていて、自分でストレートに表現するのが難しかった。
骨董屋を何年も回っていて、渋谷で古民具市で出会った。
由来が解らないまま、そこで買った。
秦琴も私に買われなかったら、半分朽ちていたので朽ちてしまっていたかもしれない。
物凄いインスピレーションがあった。
夢中で治して、絹糸を張りたかった。 どのような太さにすればいいかわからなかったが、4年ぐらい試行錯誤しながら、手に入れてから5年ぐらいして皆の前で演奏してしまった。
聞いている人からいろいろと注文されながら、演奏を考えた。
10年単位でもものごとを考えるようになって、取り組むようになった。
全くゼロから作り上げる、音色も作り上げる、奏法も作り上げる、音楽も作曲して作り上げてきた。
この楽器独特の音色、音楽を見つけ出して奏でてゆくことによって面白さが出来てくる。

普通はピックで弾くのは手で弾くのかは分からないあが、壁画ではピックで弾いているように描かれているが、私は爪(コーティングして硬くして)で弾いている。
強弱が、私の呼吸と楽器の呼吸が合わせやすい。
調子がいい時はわたしの呼吸が綺麗だし、それに合わせて音色、音の強弱の呼吸が綺麗に歌うのでそれが大事で、それを伝えるには爪が一番いいと思います。
1987年 大河ドラマ 武田信玄で演奏している。
甲斐の地方の風の様な感じがするといわれて気にいってもらった。
『藏』、『春燈』、 『櫂』宮尾登美子さんの3部作 で私が作曲して音楽を担当させてもらった。
ベースをそのままやっていたらもっと苦戦していたかもしれない。
ベースは重くて大変だが、軽くてナイーブで柔らかいので年をとっても表現出来てゆくのではないかと思う。
演奏者が音楽より先に出てくるのは面白くは無いと思っている。
音楽に自分が捧げていきたい、そこで何かいろんなことが起きてくる。

子供の時は、割と音楽は好きだった。 父親が新しいもの好きだったので電畜があった。
中学校の 3年でエレキギターを購入した。 前年ビートルズが日本に入ってきている。
エレキ少年だった。 慶応大学に入って法学部にはいったが、音楽三昧だった。
友達が就職していく中で音楽が手放せなった。
ベースで仕事を始めた。(周りからは大変反対されたが)
卒業後バンドを組んだ。 
解散とかしながら、変遷して70年代を代表するファー・イースト・ファミリー・バンドにはいる事になる。
ボーカルが宮下文夫さん シンセサイザー 高橋正明(現・喜多郎) 私はベース  6人構成
そこに3年いたが、密度は濃かった。 観世音と言うバンドを作る。(和楽器も使用)
日本人の笛の名人とかを知らないのはおかしいと思って、聞きに行ったが、尺八の福田 蘭童のレコードで横山勝也さんと横山蘭畝さんの親子が尺八を吹いていて、音色に物凄く感動した。
バンドに尺八、鼓、琵琶なども入った観世音と言うバンドになった。

私の表現したい音楽をやろうと思ったので、私の想いが色濃く出ていることなんでしょう。
当時和楽器をしている人達が新しい音を求めていた。
観世音の時に、骨董屋を回って新しい楽器を求めていた。
妻の母親が東横で骨董屋で楽器販売やっているよとの一言でたまたま秦琴と出会う事が出来た。
10年一区切りしないと習得できないかなと思って、ある意味それぐらい習得しようと思ったんですね。
収入が大変だった。 アルバイトもしたし、どんな小さな演奏の場にも出かけた。
楽器を弾くのは運動神経もある、テクニック、指を動かす運動神経。
味が出てくれば一番いいが、どんなに年をとってもあのおじいちゃん面白い音を出しているなあと、どんなに年をとっても新しい音を出すことは、面白いと思っている。
出来る限りやり続けていきたいと思っている。
新しいCD「満月の滑空」、足かけ2年をかけた労作だと思っている。
魂の飛翔の様ないイメージ、命のあるもの必ず別れがあり、別れの中には必ず悲しみがある。
人間は悲しみを背負って、生れ落ちて生きているが、その悲しみのなかにも 思い出の中にも喜びがあったと思う。
喜びが次の希望になってほしいという気持ちの詩ですが。






































2014年1月23日木曜日

大泰司紀之(北海道大学名誉教授)  ・エゾシカは森の幸

大泰司紀之(北海道大学名誉教授)         エゾシカは森の幸
昭和15年生まれ 北海道大学獣医学科を卒業後長年にわたって北海道、中国大陸、ヨーロッパなどで鹿類の生態、進化、保全等の研究をしてこられました。
1990年には北海道生活環境部のエゾシカ問題検討委員会の座長と成り、ヨーロッパ視察を行って1998年にはその報告書をエゾシカを食卓へと言う本として出版しました。
大泰司さんは鹿に限らず、猿、猪熊アザラシなど増えすぎた野生動物の人間に依る数の管理の大切さを訴えています。
今北海道とエゾシカ協会は連携してヨーロッパやアメリカの例を参考にしながら、人間と鹿それと自然の森が共存していけるよう、適切な規模に鹿の数を管理しようとしています。
又、間引いた鹿の肉や熊の皮などを有効活用しようと大学、自治体、食肉、革細工、漢方薬の団体などを巻き込んでエゾシカは森の幸だとして様々な展開をしています。
日本で唯一北海道知床地域で進んでいる鹿やヒグマの管理方法を全国に広めたいと努力してる大泰司さんに伺いました。

植林地の芽をかじったり、皮をかじって木を枯らしてしまったりして、畑の豆、砂糖大根などを食い荒らしたりして、年間50億円とか70億円とかの甚大な被害をもたらすので困ってきている。
鉄道も列車を止めなければならない事故が1500件とか、交通事故 2000件ぐらい起きている。
死亡事故が2件発生している。 
エゾシカは北海道全域に数10万頭住んでいたが、開拓の時に鹿を大量に捕獲、大寒波が来て絶滅寸前になったが、捕獲を禁止して、狩猟と密猟で一定の圧力がかかって1960年代、2000~3000頭取っているが1万頭密猟があり、少なかった。
1980年代あたりからハンターが減ってきて、自然保護愛護運動が高まって、密猟も少なくなって捕獲圧が少なくなった。
暖冬で子鹿の死亡率が減少、森林、草原が畑になり、鹿が移動ルートが鉄道や道路になっているので鹿の事故につながる。
洞爺湖中の島で1956~66年オス1頭、メス2頭放しところでは27年後には300頭 100倍に増えている。  鹿の数は増え続ける。  

鹿が30万頭~60万頭、オオカミは1000頭か2000頭だと思うので狼出バランスをとつことは難しい。
間引き続けなければならないが、人がオオカミに替って間引き続けなければならない。
アメリカでは、1000万頭おじろ鹿がいて、毎年300万頭捕獲して、鹿と共存している。
毎年数を推定して、ある数を決めて捕獲する。 
鹿はかわいいけど食べ物になるという風になっている。
電気柵、嫌なにおいを畑に設置するが、慣れてきてしまうので、駄目。
鹿の数を押さえる。 平成12年は14万頭捕獲したが、2~3万頭は肉として活用している。
国立公園とか、生物多様性を重んじるには1平方kmで5頭ぐらいが適当。
肉を利用するには1平方km20頭いていい。
カリング 一定の鹿の数から間引く事を言う。  毎年10万頭取ろうとしている。
地域ごとに取る数を決めて間引いてゆくという理屈。

シカ肉は高タンパクで質の良い肉。  
鹿肉にするには急所を狙って即死させて、血抜きを直ぐにやる必要がある。
シカ肉はヨーロッパではお祝いの時に食べる高い肉という、牛肉とか豚肉と同じでいろんな料理の仕方がある。
北海道ではエゾシカは美味しい肉と最近はなっている。
学校給食にも出されている。 和食にも工夫されている。
エゾシカ協会 エゾシカを食べようと、衛生的に処理して牛肉と同じように、買ったらだれが取ったか判るようになっている。
ステーキ、シャブシャブ、煮込んでもおいしい。 カレーにしてもいい。

酪農学科ではハンティングも実習するが、全身の肉を食べる様な実習もする。
解体も真剣にやるので、気持ち悪いとか言っている暇はない。
骨の髄まで食べると、この鹿はむしろ幸せという感じを持つ。
鹿はかわいいけど美味しそうでもある。  魚に対する日本人の見方と同じですよ。
夏場の2~3歳のオス鹿は美味いと思う。
野生動物の管理と言ったら日本では、保護だったが、マネージメントを日本では保護管理と訳したが、数をコントロールする意味に用いられてきている。
中、山間地、山の付近の畑は人が耕さなくなって、猪、猿、鹿が凄く増えてきている。
一定の数に減らすという事が必要になってきている。
地方の人は実感している、身の危険を感じるほどなので、コントロールする必要がある。
ハンターに以前は頼ってきたがそれに対応できなくなってきてる。
ハンターは趣味で動物を取るが、害獣駆除する事も義務になっているが、個体数コントロールと成るとプロが必要で、そこが日本ではピンと来ていない。

銃の数は50万丁ぐらいだが、江戸時代は150万丁だったので農具の一つと言うような感じで猪、鹿から畑を護っていた。
個体数を少なく維持していた。
個体数管理の必要性、「野生動物管理の為の狩猟学」の本が非常に参考にされ始めている。
間引き方を研究する。
オスはメス15頭に1頭いればいいわけで、大人になるまで生かす必要は無い。
オスは秋になると発情期になってきて体重は3割減ってきて臭くなる。
ドイツでは7,8月に若オスを肉用に撃って肉業者に渡すようなことをしている。
生き残り率はどうかなどをみて、いろいろと間引きのやり方を決めてゆく、鹿に限らず他の動物についても適正率、捕獲数、捕獲の仕方を決めて、そういうのを全部合わせてトータルに行う応用的な学問が狩猟学です。

陸に限らず海でも銭型アザラシも 前は襟裳岬でも300頭前後に維持されていた。
毎年50頭ぐらい獲る人がいて、取り過ぎないようにもしてきた。
一時期毛皮ブームで50頭ぐらいになり、絶滅するというので保護したら700~800頭になって増えすぎてしまっている。
間引こうときまったが、まだそれに反対する人がいて、間引きは行われていない。
猪、猿なども増えすぎているという現状がある。
日本でもワイルドライフマネージャーというか、野生動物を管理する人を養成する必要がある。
個体数を一定に維持する処にあるので、毎年動物は主に銃に使って取り除き続ける必要があるので、ハンターのほかにそれを専門とする人が必要。
狩猟学の本は最近できたが、実際に活動する人がいないので養成する必要がある。

新たに鉄砲を持って鹿を、害獣を撃つ訓練をしなくてはいけない。
管理の為の銃の使用と言う事になる。
アメリカ、餌でおびき寄せて撃って一定数を間引く、夜間では防音装置を使って撃つ専門の人が行う。
知床半島では知床科学委員会と知床財団が銃を使って毎年鹿を数百頭間引いたりしている。
実践教育の場にしたらどうかと、教育する話が出ている。
学生も狩猟学を勉強し始めているが、法律の面が遅れている。
ペンシルベニアでは交通事故が2万件ある、北海道では2000件ぐらい有るが、半分ぐらいにしようとしている。
銃は危険なので取り締まりが厳しいので、もっと持ち易くしてもらうと有難いと思う。
間引いた動物はなるべく食料に全部回せるように出来たらいいと思う。
鹿の害は或る程度我慢して、共存してゆく。








































 

 

2014年1月22日水曜日

山田百合子(NPO法人・代表理事) ・施設の子どもの未来を支えたい

山田百合子(NPO法人夢の架け橋プロジェクト代表理事) 施設の子どもの未来を支えたい
62歳 衛星映像プロデューサーとして世界各国で知られた方です。
日本ではモータースポーツが定着していないころから、映像制作活動をめ多くの貴重な衛星映像を所有しています。
NHKでもモータースポーツの番組を多く手掛けファンの心を躍らせてきました。
山田さんの人生に変化が起きたのは、風邪から始まった脊髄炎の病でした。
山田さんは車椅子の生活と成り、映像制作も思うようにできない毎日が続きました。
そんな時、やりたいことができた自分の人生を子供たちの為に役立てたいと思い、児童養護施設の子供が夢を持てるように支援活動を始めました。
支援の仲間も徐々に増え続け、2011年にはNPO法人の代表理事になりまいた。
こうした活動で山田さんの人生も子供たちの明るい顔に救われたと言います。
モータースポーツの世界から夢の架け橋プロジェクトに力を注いでいる山田さんに伺いました。

衛星放送が始まったのが25年ぐらい前 モータースポーツの番組 
87年に会社を独立したときに偶然にFIを始めた年。 
バブル景気の最盛期なので苦労しんなかった。
ル・マン 最多優勝記録6回して、ジャッキー・イクス ベルギーでは王、長嶋の様な存在で、その人のコマーシャルを撮るので出掛けた。
幼稚園の子供たちがイクスさんだと見つけて、イクスさんが無事に戻ってくれる良いうに皆でお祈りしましょうと手を合わせてお祈りしたシーンを見て、感動した。
ジャッキー・イクスさんは尊敬されて名誉な事とさせている。
モータースポーツはヨーロッパでは尊敬されているが、日本ではそこまで行ってない状況。
ヨーロッパでは一つの文化として定着している。 レースに敬意を表する。
単なる競技ではない。 女性は着飾ってくる。
取材するチームに対する敬意として、チームの衣装に合わせるように言われ取材に出掛けた。
ベルトが違っていてベルトまで揃えるようにいわれて、ベルトを買いに行った事もある。

2000年10月 風邪から脊髄に菌が入ってしまって、脊髄に炎症を起こして、脊髄損傷ではないので、一生歩けなくなることは無いのでは、と思ったが、ぷつぷつと切れていて、一生寝たきりですと判断された。
自分では寝たきりになるとは思わなかった。
病院ではもう治ることは無いということでリハビリは出来なかった。
3か月たつと人間の体は固まるのでまずいと思って、マッサージを毎日2時間、自分でお金を払ってきてもらって、足をぐるぐる固まらない様に動かしてもらった。
痛み止めの注射をしていたが、止めてていかなければいけないので、痛みが凄くなって苦労した。
友達になるしかないといわれて、友達になりたくなかったが、13年付き合っている。

私は忙しかったので、神様が休みをくれたのだと思って最初は良かったが、痛みが出てきてとんでもない病気にかかっているとおもった。
或る方が神様があなたにメッセージを送ってくれているんだと言われた。
アイルトン・セナが亡くなって、10年になり番組を作ろうと思っていたときに出来なくなって、アイルトン・セナが自分の生れた国にセナ財団を作って、仕事を覚えさせたい、文字を覚えさせたいと、思っている矢先に亡くなった。
病気になったのが49歳の時だったので、リタイアを考える時期だったので、まあよかったかなあと思った。
母が好きなことをなんでもやりなさいと言って何でも応援してくれて、そういう親がいてなんでもできた。
アイルトン・セナも親がいないお子さんたちを面倒みる財団を作ったが、ふと日本の場合はどうかと、養護施設に連絡してみたら、いろんなことを抱えている。
もし私に親がいなかったらすごく悔しかっただろうと思って、私は恵まれた環境で仕事もいろいろな人に出会えて、そういう人たちのおかげで自分があるのだとしたら、今度はわたしが子供たちの為に何かお手伝いができるのなら、その経験が生かされるのかなあと寝ながら考えていた。
セナの亡くなった5月1日に鹿児島に入院していて、映像見せたり、モータースポーツの話をしようと思っていた。
市民ホールが偶然一年一杯詰まっていて、たまたま5月1日だけ空いていたので、これはやるしかないと映像を見せたり、話をしたり、右京さんも来てくれて話をしてくれた。

セナが亡くなって、10回忌をやろうと思った時に、改めてセナの事を調べたが、天才ではあると思うが、すごい努力家だった。
夢を持って頑張れば、夢は叶うんだよと彼は伝えたいので、彼は頑張ってきた。
僕の姿を見てほしいと、地獄の子供たちにその姿を見せたかったんだろうなと思った。
私も養護施設の子供さんにも夢を追いかける何かをお手伝いができないかと思いました。
あなたはラッキーねといつも言われていた。 
こういう風にできたことはやはりラッキーだったので、病気したときには、出会えた人たちに応援してもらえれば、お子さんの為に、その役割を私が荷っているんだとすれば、もしかして神様がこういう姿にさせたのかしらと思った。(妹に話したらあなたはどこまでノー天気なのと言われたが)

スポーツ選手で大成した人は、ボランティアで福祉の方に移るが、どうして日本と違うのでしょうか?  その辺の精神が凄いと思う。
子供たちの芽を育てたいというような思いも有ると思う。
税金制度の問題も或る様にも聞いている。  応援に対しては税金の掛け方が違う。
税金制度で企業も儲けた金を寄付に使いましょうと出てくるのでしょうが、出来なくてそこが凄く残念。
現在養護施設に3万人子供がいる。 
2000~3000人が18歳で出てゆくが、夢を持って出ていけるのか、出てゆくと住む家が無くなってしまう。
アパート借りるのにも保証人がいないし、お金がないとアパート借りれない、そこから先ずつまずく。(住み込み制度がない)
路頭に迷う、優秀な子もいるが日本ではほとんど寄付を取れる仕組みになっていないので、日本の仕組みが良くなってほしい。

京セラの稲盛さんの主催のボランティアの「盛和塾」で私も15年やっていて、そこの仲間が賛同してくださる方が増えてきてくださって、ただその方たちで運営できるかと言うと出来なくて、半分以上は会社の協力を得ながら続けている。
18歳で子供たちが出てゆくが、住まいをどうにかしたいとテーマにしていたが、手が回らなかった。
今年で10年 稲盛さんの本を読んでもらって、読書感想文を書いてもらって、優勝した人に対して稲盛さんにコメントしてもらう。
絵画コンテスト、作部、レーサーの人を呼んで、話をしてもらったり、7年間の体験ツアー ブラジル、韓国、鹿児島、北海道に連れて行ったりする。
そこで養護施設の子供と一般の子供と一緒に生活をしてもらって、夢を育てていってもらう。
お互いに手紙、メールのやり取りをするようになってきている。

体験ツアーでカートに乗せる。 右京さん、脇坂さんとかが来てくれて一緒に走ってくれる。
最初乗り気でなかった子が眼を輝かせるようになった。
本人の気持ちが一番大事で、その背中をちょっと押してやる様にしている。
仕事を通して素晴らしい人達の出会えたことは、ラッキーだった。
トップに立った人はトップに立つ理由があるなあと思う。
経営者、にしても、スポーツで頂点に立っている人は、人間として凄くチャーミング かわいい。
そこが、人を引きるけるものがある様に思う。

夢の架け橋プロジェクト ファミリーが130名ぐらいになった。
行方を見守らくてはいけないし、増やしていきたいので わたし自身が夢を持っていたいし、応援したいと思ってくれる人間でないといけないので人間としても成長していきたい。
子供は後を継いでくれなくて、部屋は空いている、そういった人達と、養護施設のお子さんとがくっついて、養護施設のお子さんをかわいがってあげる事で、自分たちもハッピーになれる、子供たちも道を誤ってしまうのか、路頭に迷わず、国を支える大人に育ってゆくのかは大きな違いなので、そのきっかけになれる様な、そのきっかけを何とかやらなくてはと思っています。

























2014年1月21日火曜日

辛島 昇(東京大学名誉教授)   ・カレーから学びとるインドの知恵

辛島 昇(東京大学名誉教授)  カレーから学びとるインドの知恵
昭和8年生まれ インドの歴史、南インドの中世史研究の世界的な権威で、去年の春にはその功績が高く評価されて、インド政府からパドマ・シュリという栄えある勲章を受けました。
又学士院賞を受賞し、文化功労者でもある辛島さんですが、カレー博士と言うちょっと意外な呼び名もおもちです。
辛島さんは留学や研究の為8年あまりインドで暮らし、そこで体験したカレー料理や食文化についての本を描かれました。
それが料理の世界を描く人気漫画で紹介されて有名になり、カレー博士と呼ばれるようになったのです。
このところインドへの関心が高まっていますが、私たちは今、悠久の歴史と広大な風土に育まれたインドの文化からどんな知恵を学びとることができるのでしょうか。

昨年末に両陛下がインドをご訪問された。
人々混じられたり、マハトマ・ガンディーの記念碑で花を捧げられり、親善を果たされて、日本とインドとの関係が一層親しいものになって大変結構なことだと思います。
インドとはどんな国なのか?
仏教がありまして、古代に日本につたわってくるが、インドでは仏教が無くなってしまうが、日本では仏教国と言う事で、仏教に由来する共通典はあるのですが、文化の在り方全体を見ていると、非常に違っているところがあると思う。
インドの多様性が原因と思う。
気候も多様で雪が降るところから熱帯間で有り、言語も系統による言語も4つもあり、個別では200とか300とかの言語っがある。
宗教でもイスラム教、ヒンズー教、ジャイナ教、仏教とか宗教が多様にある。
カースト制度があって身分が異なっているとか、食事でも異なっている。
多様性がインドには存在している。    日本では単一性が強調される。

20年前に「おいしんぼ」という人気漫画にカレーの本を書いたインド史の先生として、実名で登場されて事があり、それ以来カレー博士と言われる様になる。
東大の大学院にいるときにインドに留学しているが、1961年 50年以上前の話
南インドの歴史を専門にしていて、マドラス大学へ留学した。
寮でインドのカレーに出会う。 当時と食文化が非常に違ってきてしまっている。
ベジタリアンとノーベジタリアンの席が二つに分けられていた。
カースト制度と密接な関係がある。
肉、血、排泄物は穢れているわけで、けがれが食事に依ってつたわるという観念があって、同じ食器で食事をしないという事で、席も分かれるし、街の食堂でも別れていた。
3か月たって、嫌気がさしてきて、外食をしたり、食事の工夫をしてきた。
2年目からは洋食的な食事をするようになった。(カレーの経験はあまりしないで帰ってきた)

1969年に結婚していて、子供もいて一家でインドに行った。
近所との付き合いが和やかに行われて、インドの食事がこんなにおいしいものだと始めて解ってカレーが大好きになった。
カレーの本を書いたりしてカレー博士と言われるようになった。
カレーにもバラエティーが富んでいる。
或る人がレストランでカレーライスを注文したが、スープ皿に入ったお粥のようなものが出てきた。 それはヨーグルトご飯だった。
発音の問題 ヨーグルトの事をインドではRの発音が強くて、カレーとヨーグルトを間違えてしまった。
インドにはカレーライスと言う様な一品料理は無い。
カレーは香辛料をいろいろ混ぜ合わせてペースト状にして作ったもの。
スパイスはウコン、胡椒、ウマゼリ、カラシ、コリヤンダール、の5つが基本的なスパイス。
他にも高級なものがある。 クローブ、カルダモン、シナモン、ナツメッグ、アサフェティダ、ショウガ、トウガラシ、とか20種以上のスパイスを混ぜ合わせて、石臼で潰してペースト状にする。
それをいろいろなものに入れる。 スープ、炊きこみ、魚を焼く時にまぶす。
日本の醤油に似ている。 混合調味料。
カレーライス下さいと言うと、日本で醤油ご飯をくださいというようなもの。
西洋化しているレストランでは判るが、地方の小さなレストランでは判らない。

薬の成分がいろいろはいっている。 風邪をひいたりするとスパイスの成分の工夫をする。
各家庭で石臼をお母さんが引く事が昔は普通に見掛けられていたが、最近は無くなってきた。
仏典を見てみると、紀元前5世紀 お釈迦さまが山で身体的な苦行をされて、無意味なことを悟られて、山を下りてきて、村の乙女がお釈迦さまに食事を与えたが、パーヤサというが乳粥を召しあがった。
紀元後7世紀 中国の玄奘三蔵 ナーランダに仏教の僧院があるが、インドの食生活について述べていると事があるが、食前に供するものが乳らく(ヨーグルト) コウソ(溶かしバター)、ヘイショウ(麦の製品) 人々が食前に供するものと書いている。
玄奘三蔵の40年後 ギジョウ?と言うお坊さんが、海路でインドに渡ってナーランダの僧院で勉強したが、溶かしバター、乳らくを食べていたと記している。
麦、米を食べていたと述べている。
北インドではスパイスは多少出てくるが、ミルクの製品と麦を使ったパンの様なもの
チャパティ、ナンを想像してもらえればいいと思う。
南インドでは タミル語 寺院の壁面に刻まれている。 刻文
神様に食事をを捧げるが、作り方まで書いてある。
9世紀 神殿に神様に捧げる食事として、ヨーグルトとカーヤムで作るクーツル料理?があある。
カーヤムの組成は胡椒とウコンとウマゼリとカラシろコリャンダールで作ると書かれている。
現在のインドでカレーを作るときの基本的な5品と同じ。
カレー料理が9世紀には出来ていることが解る。

16世紀 ポルトガル人が一杯やってくるが、記述しているが魚カレーを食べた。
ご飯の上に魚を煮て作ったものをスープをかけて食べるという記述がある。
いろんなスパイスであじつけたもので料理を作っていて、ご飯とカレーが主なっていて、北インドとは違っていた。
北、南の食習慣は混ざり合ってゆくが、16世紀に成立したムガル王朝で、タージ・マハルという殿堂を立てた王朝 イスラム系の王朝
宮廷料理が両者の融合を表している。
カバーブ いろんなスパイスをまぶして、肉もヨーグルトに漬けて焼くと非常に美味しいカバーブができる。
ビリアーニ 炊き込みご飯にもスパイスが強烈に出ている。
両者が融合して、現在のインド料理の原型ができ上っている。

インド独立後 1960年 70年代 社会変化が起こってきて、西洋的な価値観、中間層が多くなってくると、いろんな料理を食べてみようという事で、いろんなインドの料理本が出来てくる。
宗教を越えたインド料理が出来てくる。
全部カレー味、ミルク仕様と言って共通性あ有るので、全体がインド料理であると1980年代以降生じてくるという状況があった。
しかし、今でもベジタリアンはベジタリアン料理しか食べないし、ノーベジタリアンの人はノーベジタリアン料理を食べ、宗教的にジャイナ教の人はジャイナ教料理しか食べないが、全体が皆がそれをインド料理として認識してくるように統一性が生まれてくるようになった。

インド語 インドにはいろんな言語があるが、ヒンディー語が多く離されるが、インド語は無い。
同じような特徴は持っている。
子音 舌を後方にそらせる様になっている。
主語+動詞+目的語  英語圏    
インドでは主語+目的語+動詞 と文法まで変わってしまう。
インドの多神教的な世界観と関連していて、インドには、実はこうだという発想がある。
ヴィシュヌ神 ヒンズー教の神 10の化身荷って現れる 亀、猪、になったりする。
ブッダもビシュヌ神の化身だったというよな話もある。
梵(宇宙原理)我(個人個人)一如(ひとつである)→我々自身の持っているものは実は宇宙を動かしている大原理と同じものである、それを悟ることによって人間は救われる、それが悟りである、そいう考えを「梵我一如
インドの思考は常に複数のものが意識されていて、一つのものではなくて、世界は単一ではなく、常に複眼で持ってものを見る、という処がある。
IT産業 インドは数学が発達しているからとか言われるが、インドは複眼的にものを見るというところにIT産業の強さがあると思う。
IT産業の一番有名な会社があるが、それを起こした人、ナラヤナ・ムルティ氏は   
常に変化、複眼的に変わっていくというそういう事を大事にしている。
日本は常に一つのものに執着して、それを追い詰めてゆくという様な処がある。

インドから学ぶべき叡知
世界ではいろんなことが起きてきていて、異なった価値観を元にした紛争が各地で頻発している。
そいう状況に対してインド文化が、文化と言うものはこういう風になければならないと発している重要なメッセージでそれを叡知と言いたいわけです。
人類は一つなわけですが、世界は一つではなく、いろんな価値観が存在する。
一つ、一つを尊重しながら、緩やかな統合によって人々全体としての未来を切り開いてゆくことが大切、叡知をインド文化は持っていて我々は学ばなければいけない。







































2014年1月20日月曜日

岡野弘彦(歌人)          ・三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(2)

岡野弘彦(歌人)     三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(2)
出身は三重県 雲出川の一番上流のところにある神社の生れ、大和に通ずる道がある。
室生寺、長谷寺、飛鳥 大和の古い中心地につながっている道すじです。
伊勢、大和、伊賀のはざま   
北畠家の旧領土、織田に滅ぼされたのち、藤堂家がそこを統治する。
そこで神主をしていたのが、私に家の祖先です。
5歳のころから、元日には父が森の中のお社で元日のお祭りをするわけです。
私は新しいひのきの桶を持って、祖父に連れられて川に行って、「今朝汲む水は、福汲む、水汲む、宝汲む、命永くの水を汲むかな」と上流に向かって唱えて、若水を汲む。

百人一首が楽しみだった。
のりとが75調だったのでなじんでいた。
中学に行くようになってから万葉集の注釈書、古事記伝等を読む習慣が出来ていた。
全寮制で厳しいしつけを受けたが、神主になる基礎の心構え、祭式の一部始終を叩きこまれた。
3年~5年までは古典、を教えられた。
数学、英語の時間は極端に少なかった。
戦争中なので、神典なので全て何の前提もなく受け入れなければならなかった。
口語の教科書の中に、折口教授、武田祐吉教授之文章が取り込まれていた。
古典に対する考え方が広くて、この先生の教えを受けたいという想いが抑えきれなくて、5年の時に国学院大学に行きたいと、受けたが英語ができなくて落ちてしまった。
英語を一生懸命勉強して、翌年受かった。

大学予科長が、戦争に行くものが出てきて、再び帰ってくる来ることのできない人も出るだろうから、今年から予科に入ったものにも、この大学の最高の教授の講義が聴けるようにと時間割を組んだとの発表があった。
金田一京助教授の言語学、武田祐吉教授の万葉 折口教授の国学 授業が聞けるようになった。(昭和18年 学徒出陣の有った年)
折口教授の出陣する学徒への送別の詩が朗読された。
「学問の道」と言う題の詩だった。
お前たちの1000人の学徒が戦陣に立ってゆくが、全部亡くなったら、国学は滅びるだろう。
1人でも生きて帰ったら、そのものに依って国学は再び興るだろうと言ってくれた。
「手の本を捨てて戦こう 身に沁みて 恋しかるらし 学問の道」 最後にこの短歌を述べた。
講堂中の若者たちがシーンとした中で、呻きの様な声が感じられた。
折口教授の学問、文学に引きこまれていった。

短歌結社に「鳥船社」 に入るのは 国学院、慶応の大学、大学のOBからしか入れない。
(試験もあった)
2年の時に「鳥船社」にいれてもらった。
先生の家にも通うようになって、庭の木の枝おろしをしたり、薪を作っていたりした。
原稿の清書を依頼されるようになり、その後、うちに来ないかと言われる。
先に住みこんでいた書生(藤井春洋)が硫黄島への配属命令が来て亡くなる事になる。
私は国学院大学に通いながら、折口先生の身の回りの世話をすることになる。
先生の歌の指導は変わっていて、その場で題を出して3首ぐらい作らせる。
題は言葉ではなくて、絵を見たときの印象を歌にさせたりした。(予測がつかない)
歌は凝縮力だから、それをきちっと心に付けるための訓練でもある。
言葉が洗錬されて、ここはこの言葉でなければならないというところまで詰めなければならない。

老、と若 老(OB、40代半ばを越えている人達) 先生は戦後若に対して、優しくなった、あんなのは今まだなかったぞと言ったりした。
教え子に対しては、非常に細やかな人だった。
感受性が鈍感だと叱られる。
道のほとりにある荒神様、お地蔵さまだとか、に必ずハンチング取ってお辞儀をする。
神社でも同じ。
この人は霊的なものに対して、差を付けない人だという事が解った。
硫黄島に出征した書生は戦死してしまって、毎年供養した。
学者ではあったが、非常に優れた細やかな教育者だった。
朝5時から夜の12時まで、口述筆記をしていたりした。
「海やまのあひだ」  「春のことぶれ」の後半に入ったところで亡くなる。
口述筆記をやっていると私の心に触れる事がある。
「人も馬も 道行きつかれ 死ににけり 旅寝かさなる ほどのかそけさ」 折口信夫の歌
ほど→時間的な期間 永い一生をかけての旅路の中で力尽きて馬方も馬も死んでいった。
その何と過疎感なことよ  判ったいたと思っていた。
しもの句で主客が変わるような気がした、自分自身が昔の人と馬と同じようにいつ終わるともしれぬ旅を重ねているからなのだ、と気ついた。

亡くなった翌年、創刊号をだす。 柳田 國男が追悼文を出すが、折口氏が旅をしてその旅の中で歌を作っているが、折口君は非常に深い心を持たせて、それを旅の歌として深々と表現しているが、そこのところが僕はそういう体験をもたなかったという表現をしているが、判る人は判っているんだんなあと思った。
口述筆記をしながら伝えたかったんだろうなあと、後になって判った。
一緒にいた7年間は楽しくもあり、歌を通しての教育、魂の感染教育といったらいいのかもしれない。
先生の墓は変わっていて、大阪にある墓には分骨したが、一番主たる墓ははるみさんの故郷石川県の海に近い砂丘の墓地 
「最も苦しき 戦いに もっとも苦しみ 死にたる 昔の陸軍中尉 折口春洋 ならびにその父
信夫の墓」 と刻んである。(昭和24年に作った墓)
「亡骸は いずくの土と成りぬとも たまは翁の もとにいかなん」
本居宣長の墓のそばに平田篤胤 の墓がありそのように刻まれているが、それをまねて
「あらみたま ふたつあいよる み墓山 我が悲しみも ここにうずめん」
を私は立てさせてもらった。
歌とか俳句という伝統文化は死ぬ間際まで作れるので、意味の深いことだと思う。
無内容な歌 最晩年に折口が言ったが、 ふーっと雪を手に握りしめると水になって指の間から落ちてゆく様な、そういうものを人の心に響かせる、そういう歌を究極に考えていたんだろうと最近そんなことが多少判ってきたという想いです。










































2014年1月19日日曜日

岡野弘彦(歌人)        ・三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(1)

岡野弘彦(歌人)     三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(1)
岡野さんは大正13年 三重県の古い神社の神主の家に生まれ、幼いころから和歌に親しんできました。
大学生の時から国文学者で歌人の折口信夫 (釈迢空)に師事して、卒業後は母校である国学院大学で教鞭をとりながら、歌人としての活動を続けてきました。
1979年かあらは歌会初めの選者と成って天皇皇后、両陛下をはじめ、皇太子さまや雅子様の和歌の進講も務めてきました。
2007年には歌集 バクダット燃ゆ で戦火の中、命を落とした人々を悼み、おととしには東日本大震災をテーマにした、歌集 「美しく愛しき日本」を発表しています。
去年11月には、文化功労章に選ばれました。

今年90歳になる。 必ず元旦には 朝日新聞なら斎藤茂吉、毎日新聞なら折口信夫の歌がかなり大きな活字で組まれて出てきたが、今はそういう事は無くなったが、正月、歌は普段よりも多く作らなければならない。
「夜ごと夜ごと 夢の枕に立つ花を 幻に見て 老いてゆくなり」 (我が魂の枕の山)
本居宣長が古典の素晴らしい研究をしたのに和歌はあまり上手な人ではなかったというのが定評だが、亡くなる前の年から、亡くなる間際までにかけて、300首ほど枕の山の歌集にのこす。
そこに残されている歌は宣長が床について枕に頭を置いてから様々な桜の幻が浮かんでくる、その歌集はいい歌がある。
私もまねをして我が晩年の枕の山を残しておこうとした。

昨年 文化功労章頂く。 
私は典型的な戦中派でして、小学校1年 満州事変 中学に入る時が日中戦争 卒業する年の秋に大東亜戦争が始まる。
戦争と自分の人生が、一番若い物を感じやすい時期がぴったりと重なってしまっていて、戦争が終わってどんなふうに心を立て直していっていいのか、一番苦しんだ年齢層だとおもいます。
平和に過ごすことができる様に心に思っているが、それが意外なことに戦争がどっかで続いている。
一番近いところでは東日本大震災がある。
「美しく愛(かな)しき日本」  「かなしき」は古い日本の言葉は人をいとしく思ったり、国を大事に思ったるする心を「かなし」で表現した。
我々祖先は大きな災害にあってきて、それで居ながら四季の変化の美しい日本列島の生活が日本人の心をこの上もなく平和で温かく優しいものにしていると思う。
1500年にわたって作り続けられてきた、和歌、短歌の伝統は形式がずーっと変わらず、民族の大事な感情情熱を凝縮させて歌い続けてきた点でも、類の無い、詩の形 文学表現の定型と言っていいと思う。
漢詩 奈良時代にはおおきな感化を受けた。
和歌は女性の手に依って作り続けられてきたことがある。

「したたりて 青海原に つらなれる この列島を まもりたまえな」
海の産物に恵まれていて、気候は穏やかで、ところどころで山が火を吹いて、突発的に地震が起きて予想もしなかったようなところまで津波が来る。
民族が列島の美しい風土の中で、段々心を優しく美しく繊細に淘汰せられていって、素晴らしい日本の文化を生みだした。
万葉集、古今集、伊勢物語、源氏物語  物語を生みだした民族は古代と違わない形で列島で保ち続けているというのは日本人の大きな誇りとして良いと思う。
源氏物語には要所要所に和歌がちりばめられていて、大きな働きをしている。

2007年 「バクダット燃ゆ」 平和への想い   
バクダットは子供のころから親しみを覚えていたところだが、あんなふうな形で銃撃されていった。
大きな戦争をして、我々は深い反省の中で生きてきたつもりなのに、世界で戦火が絶えないのだろうかといつもあって、バクダット燃ゆ と言う題を付けた。
何故そうなってしまうのだろうと思う。
宗教と言うものが現在では闘争の原因になるような形になっている。
我々は苦しんで考えなければならない、展開させていかなければならない。
戦中体験が裏にあるので。

私も予科の2年になった時に、特攻隊要員の募集があって、自分たちが犠牲にならないと国は救えないんだという切羽詰まった気持ちがあって、志願しようと思って書類を取り寄せたら、父親が駆けつけてきて、一晩父親から説得されたが、20年1月6日に軍隊に入った。
同級生が特攻隊長になって、死んでいった。
東京で大空襲にも会う。 一晩明けると焼け野原になっていた。
東京から茨城県ほこた中学が宿舎になっていて、そこに帰ると桜が満開だった。
東京の桜並木が一本一本炎になって燃え上がってゆく様子を目に焼き付いているので、ほこたの校庭の桜がはらはらと軍服に散りかかる。
6日間、死体を焼いていたが、死体の油が匂い立って、俺は桜は一生美しいなんて思えないおもわないはずだと思った。

「すさまじく ひときの桜 ふぶくゆえ 身はひえびえと なりてたちより」 と後に詠んだ。
「友多く 帰らざりけり  焼け原の 丘に残れる 大学の門」
物ごころついてから、人を殺すことばかり教えられてきた。
敵愾心をかきたてられて、敗色が濃くなってくると、神風が吹くという事が合言葉のようになって日本人全体が死に絶えるまで、我々は戦うのだという事が本当に心の底から信じなければ、日本人ではない様に言われた。
それが間違っていた事が、30代、40代の人たちは割と単純に切り替えたが、我々の世代はどうしても切り替えができなかった。
旅に出て、伊勢神宮に行った。
30分ぐらいひざまずいて祈っていたら、警備の人が立ち去れという。
なんにも心に響いてくるものがなかった。
「あまりにも しずけき神ぞ ちぬられし てもてすつぐのを すべをおしえよ」
自分の手から血がにじんでくるような戦後に反省がある。

伊勢、志摩、熊野まで行って、神社の縁の下に野宿していると、呼んでくれる。
祭りの夜に家に泊めてくれて、腹いっぱい食えと言ってくれる。
異人歓迎 旅人を歓迎する宗教的な思い。 是が大事な心なんだと、いくらか心が和んだ。
翌年近江に行くが、私の心がやっと静まる。
壬申の乱  都を大和に持ってきて新しい日本の統治、律令制度に依ってきちんとした政治体制を築こうとする。  近親の悲しい争い。
柿本人麻呂等が が悼んだ歌をうたう。
「近江の海 ゆうなみ千鳥 ながなけば 心もしのに いにしえおもほゆ」 美しい哀切な歌
心もしのに→心もくたくたになって  悲しい戦いの事が思われる
「いにしえの ひとにわれあれや ささなみの ふるきみやこを みれば悲しき」

不幸な戦争の中で死んでいった魂を和歌の形で悼んでいった、祈りの歌、鎮魂の歌と言う想いがつくずくした。
前年からの想いが静まった。  近江で静まった。
「ゆく春を 近江のひとと おしみける」  芭蕉  同じような思いがあることが段々判ってくる。
近江の国が持っている不思議な心を鎮めてくれる、安らぎを感じていると事がある。
私も近江に心を救われた感じがする。
繰り返し、繰り返し日本人同士の争いが繰り返されてきた、そういう事を改めて身にしみて感じた。
歌、物語の中に、そういう想いが濃く伝えられている。 心を深く癒してくれるし、励ましてくれる。
古い都に立つ事によって、歌に込められた祈り、鎮魂の想いを実感する事が出来た。
大学を教師になるが30代から60代まで毎年万葉旅行をして、自分の身体で感じ取る旅行をした。
いまも世界の平和を歌にする。
「美しき ことだまは 我にやどりこよ このあかときの 空に祈らん」 
和歌を作っていると 言霊 魂が細やかに自分の心に宿ってくる、日本人には歌に対する信頼感がある。




































































2014年1月18日土曜日

東 快應( 安倍文殊院・執事長)   ・ 文殊様のたなごころ

東 快應( 安倍文殊院(華厳宗)執事長)   文殊様のたなごころ
奈良県桜井市にある安倍文殊院 は大化の改新の時に左大臣になった安陪倉梯麻呂の一族の氏寺として建立した古刹です。
阿倍 仲麻呂や陰陽師として名を馳せた安陪清明ゆかりのある寺です。
東さんは4人兄弟のすえっことしてうまれました。
幼くして父を戦争で、母を福井地震で亡くし、兄弟は別々に親戚に引き取られました。
中学生になって母方の祖母と巡り合い、実の親の事や兄弟の存在を知った東さん。
兄の励ましもあり、努力して大阪の大学を卒業します。
しかし大学時代の学生の仲間と起こした企業の経営をめぐって悩み、育ての親を亡くした喪失感から、文殊院を訪ねる事になります。
35歳のときに会社を辞め、40歳で得度、仏の道に入りました。
文殊様と出会って得たことは何か、伺いました。

昭和19年生まれ 太平洋戦争末期 各地で空襲が始まっている様な時代背景。
父は南洋諸島に出征して、玉砕。 父の顔を見ずにこの世に生を受けた。
昭和23年6月 4歳のころに福井大震災 その記憶はいまだに身体で覚えている。
私が逃げ遅れて、それを察知した母親が家の中に飛び込んで、私を助けようとして抱き上げ、放り投げようとして、母親は、倒れてきた柱の下敷きになる。 これで母親は亡くなる。
尾崎という家に引き取られる。 (東の姓名のまま)
5歳ぐらいの時に遊んでいると、杖をついたおばあさんが来て、私の名を呼ぶ人がいて、色々の度に飴をくれた。
思春期に母親にあいたいとの思いが募ってきた。
自転車で「なご」と言う村に行った。 横山という家に行った。
そこのおばあさんが飴をくれたおばあさんだと判った。
じーっと私の顔を見て、「清かよう生きとったなあ」と私を抱きしめてくれて、嬉しくて泣いたことを覚えている。
母親の写真を私に見せてくれた。  生れてて始めて見るおふくろの顔だった。
兄弟がいることも知らされて、嬉しくって仕方なかった。
手紙のやり取りをするようになって、手紙をバイブルのようにカバンの中に入れていた。

3人が会社を作った時は天下を取った様な気がした。
兎に角会社を立派にしようと考えていて、苦労しながらも形が整ってきた。
心の中に慢心が起きてくる。 (俺が専務であいつが社長か やっていることは同じなのに)
一身同体でやってきたのにもかかわらず、同僚との気持ちの齟齬が出来てくる。
俺が頑張っているから会社はこうなったんではないか、俺が引っ張っているんだとの思い。
私の礎となって助けてくれた養父母がそのようなときに立て続けに亡くなる。
別れの辛さを痛感した。  心が一遍につかれたように思った。
養父がうさぎ年生れで、私の親友がご住職の奥さんの弟にあたり、それが縁でこの寺にきて、文殊様と言う事で(うさぎが守り神) 亡くなった養父に会えるような気がした。

住職から部屋に呼ばれて、仕事上の心の葛藤、養父母が亡くなった事、親に対する恩返し等について私はどうしたらいいのか、相談した。
分をわきまえると言う事を、どうわきまえるか、改めて考えるように言われた。
立場、立場で分をわきまえるのは一般に言われるが、私のいうのは違う。
分の自分の立場に立った時に、いかにその立場を自分が力いっぱいの形で自分のなせることを成しきれるかが、先ず大事なんだ。 
偉い、偉くないという事は関係ないんだと、先ずは自分自身がいる立場で、どういう事を絶対為すべきなのかという事を、よくよく考えて自分の人生観を持って、見つめ直すべきだと言われた。
それだけ悩んでいるのなら、うちに来るかと言われた。
大分考えた末に、この人だったら、自分を導いてくれるのではないかと思えて、決断して寺に入らせてもらった。

文殊様は地元でもあまり知られていなかった事に対して、皆が知っていると思っていたのに、物凄いショックだった、知って頂く様に、なにか手伝いができるのではないかと、自分の分を、考えた。
宣伝、等へのお願いをした。
お寺は信仰の場であるから、品格と言うものが一番大事なんだ。 心の中に沁みこむ信仰が一番大事でそれをわきまえたうえでの、活動ならば、一片勉強と思ってやってみれば、と言う事になった。
相談を持ちかけられることが増えてきて、その時はまだ僧侶ではなくて、私が対応するケースもある、真剣に対応するが、それでは自分自身が駄目なんじゃないかと、偽善的な思いが湧いてきて、そういう人と対坐して話すのであれば、曲がりなりにも修行して、相手に対する思いを述べさしてもらうのが、正道であろうとおもった。
本山の東大寺で得度した。

「命と言う」命題を先代からいろんな話を教えて頂きながら、つくずく思うのは 無我因縁の法
私 と言う人間が今現在生きている。  
我々それぞれの人生において、いい時は自分がやったからこれだけ有るという慢心があるが、これは完全に間違っていると思う。
私が今ここに、こうして毎日元気に過ごしているという事の証しは一体どこにあるかとういうと、
父と母がいる事によって、私がいる、命を頂いた。
正三角形の頂点に私がいるとすると、私はどうやってここにいるかと言うと、父と母がいる、
父と母にもその父と母がいる。 
支える人が無限大に広がるが、その中のたった一人がいなくても、この私は存在しない。

自分と言うものは、おれが、おれがと言って大きな顔をして生きているが、実は儚い、自分は生かされて、今ここにあることを考えないといけない。
逆に考えてみると、私の子供がいるが、次の世代も、又その次の世代もと広がっている。
未来の家族、いずれの人に対して、如何に自分の存在が大きいか、過去からの自分を見れば、本当に生かされている儚い命かもしれないけれど、未来を見つめると、自分が今行っている行為、自分が生活している態度が全ての子孫に絶大なる影響を与える、それだけの大きな力を与える自分で有る。
だからこそ、自分の生きざま、今を生きる生きざま、たとえ苦しくても苦しくても、今しっかり生きる事によって、自分の将来、子孫に大きく影響して、あの人が頑張ったから今の自分がいる、子孫が感謝するし、認識すると思う。 これがお釈迦様の教えだと思う。

東日本大震災、自然の脅威、凄さをまざまざと見せつけた。
被災者は筆舌に尽くせない辛い目にあったと思う。(色々な死の別れ等)
先代のご住職は重い心臓病を患われて64歳でお亡くなりになった。
医師からは余命いくばくとの告知を受けられた、私に対して、「自分はこれからは病人は病人
としての人生を送る。
これからはこの病気と戦う、それが勝ち目がないとしても、力いっぱい病気と闘って人生を過ごしたい」と、おっしゃった。
病気と闘う時に、自分を支えてくれるときに、一番大きなもの、それが仏教なんだよ、文殊様は温かく見守ってくれているから無為な人生は過ごしたくないと、おっしゃった。
最後まで前向きな姿勢を貫き通した。
人間は「四苦八苦の世界」に生きてる。 それでも苦しみの世界に生きていかなくてはいけない。
今、3年経って被災者は頑張って生きている。
精神的に支えてくれるのが仏教。 信仰が折れかかっている心を支えてくれる大きな力になる。

無常 常ならずの世界に生きているのだから、又違う新しい面が出来てくるという事を信じて生きてゆくことが大事だと思います。
慈悲の心を胸に抱いて相手に接する。
足元をしっかり見つめて、自分ができる事をしっかりやれ、之がまず基本だという事を文殊様はおっしゃいると思う。
私たちが人生の壁にぶち当たった時に、壁をどうやって乗り越えたら、それが正しい人としての生き方か、それが判ることが智慧だとおっしゃっている。
壁の越え方はいろいろあると思うので、越え方は人それぞれなので、そういう生き方を諭してくださるのが、文殊の知恵と思っていただきたい。
その努力が尊いのだと文殊様は諭しています。










































2014年1月17日金曜日

石倉泰三(パン店経営)      ・寅さんに助けられた神戸のベーカリー 2

石倉泰三(パン店経営)  寅さんに助けられた神戸のベーカリー 2
17日の朝は5時46分に仕事の途中でも手を止めて、黙とうする。
我々は生かされた方なので、何かを伝えてゆく、やってゆくというのは一人の有り方、くららを通して、自分を通してやってゆこうと思っている。
夜は1・17というろうそくに火をともして亡くなられた方の鎮魂のイベントがあるが、炊き出しのところで、コーヒーの炊きだしをやって一日を終えるという事になっている。
くららは長田区3番町にある。  平成10年に移動する。  都市開発の区画整理になっていた。
市場の場所で再建できないという事になって、他の場所に代わらなければいけない状況になった。
或る地主の方から紹介を頂き、新たな場所に移転する事を計画。
設計が完了して工事が始まる手前で、10数軒の周りの地域の方から、反対の言葉が神戸市に入って、福祉課から電話が入って反対の声が上がっているといわれた。 吃驚した。
そこでしか再建の方法がなかった。(復興基金の使用期限が設定されていた) 
集まってもらって話したら、パンの匂いが嫌いだとか、火を使うので危ないとか、いろんなことを言われた。
閑静な土地にそういった建物を作るのは、困るという事を聞いた。(要は迷惑なんだと思った)

お金を借りる条件に期間があって、このままでは間に合わないと思って、スパッと諦めた。
新聞広告のチラシにいい条件の土地を見つけて、即刻仮契約に行きました。
3番町に構える事になる。
地域を家族にしようと、周りの方に知ってもらいたいと思った。
近くのみずき小学校の4年生とはくららと1年間交流することになっている。
将来、地域の子がくららを荷なってくれるといいかなと思っている。
学校をキーポイントにして作業所の体験を踏まえて交流をして、市場を使って子供市場の場を作って、子供たちが作ったものを市場で実践販売して、収益を子供たちが会議を開いて何に使うかとかやっている。 (地域貢献をしてゆく)
障害を持った人が就労できるという事がなかなかできない。
或ることを介して企業と関係が出来て、パン作りを通して、かかわり合いができないかなあと考えて、その企業の新入社員を迎えて、2~3日間研修をする。
会社自体も環境が変わって行った。(障害者用の施設などを設置する様になる)

8年前、8月でお盆の日で近所で食事をしていたら、携帯にくららが燃えていますとの連絡が入り(不審火だった)、跳んで帰ったら、隣りの方が初期消火をしていて、消防車への連絡をしてあった。
家は焼け火事はおさまった。
作業所の仲間、行政関係、学校関係の仲間が集まって、くららをどう再建するかを検討した。
3ヶ月間ぐらい、パンは焼けないので別のところをお客さんに紹介した。
従業員の別の作業所を紹介してもらって、働いた。
神戸はパンの街で非常に厳しい、口も肥えている。
くららのパンは、パンでいろんな人と関係をつくてゆく、パンが武器になって、人や場所が出来てゆく、そうすれば自分たちが暮らしてきていた地域で、如何に安全で安心していい人生をおくれるか、とそういうパンになればいいと思ってやっている。
火災があって、山田監督が石倉さんたちにメセージを送った。
お金も必要だけれども、お金だけじゃないよ。 そういった人のつながり、街でどうして行くのか、どう生きて行くんだ、という様なメッセージを新聞で拝見した。

従業員に電動椅子に乗っている子がいて、携帯電話で注文などをやっていたが、手が不自由で直ぐに出られない為、掛け直ししたりして、電話代が相当掛かってしまっていた。
山田監督が障害者割引があるのではと言ったが、なかった。
東京新聞のコラムに投稿してくれて、9カ月後に制度ができた。
その間にも進行状況を逐一連絡してくれた。(たそがれ清兵衛の製作中で忙しい中)
今はくららとさくら、七つの実の3つの事業所をやっている、NPO法人。
(法人を取ったのが6年前)
さくらはデーサービスの様なもの。 それぞれに障害の人が携わっている。
最初は5人だったが、25人になっている。
現在パンは120円、18~20種類ぐらいになっている。  一日に200~何百個焼いている。
一番年配は60歳代  それぞれ彼らには存在観がある。

今年で20年になる。 いろんな事が煮詰まった20年だった。
寅さんから「何とかなるよ」と教えられるものがありますね。
最初は上から目線だったが、大震災後に同じ目線になった様に思う。
くららの2階の場所も、団子屋のテーブルをイメージして、いろんな方がそこに寄って喜んだり、泣いたり、わーわー言いたりして、そういう風な場所であって、そこから何かが出来てゆくとか、若者も育てていかなければとも思っている。
地域に貢献してゆくような、そういう風に思っている。
若手がくららの事を荷なって行って、面白いことをドンドンやっていってもらえるくららにしてもらえればいいと思っている。

































 

2014年1月16日木曜日

石倉泰三(パン店経営)      ・寅さんに助けられた神戸のベーカリー

石倉泰三(パン店経営)  寅さんに助けられた神戸のベーカリー
石倉さん61歳は脱サラして、平成 6年に神戸市長田区の山きち市場にパン屋さんを開きました。 (妻、悦子さん)
夜店は知的障害を持つ仲間5人が働く共同ベーカリーで、いつも仲間の笑顔と笑声があふれる店でした。
ところが開店9カ月で阪神淡路大震災に見舞われ、ベーカリーは大きな被害を受けました。
平成8年に公開された「男はつらいよ」シリーズの最終作「寅次郎紅の花」は寅次郎が被災地で支援のボランティア活動をする話です。
その映画に石倉夫妻は勇気付けられました。
石倉さんはこの春でベーカリーを始めて20年になります。
道程は決して平坦ではなくその度に寅さんに助けられてきました。
障害者が働く共同作業所を続けて来られた、石倉さんの20年の歩みを2回に渡り伺います。

寅さんに力を借りてパン屋を再開させた経緯を伺います。
震災から始まるが、大震災に遭遇して、作業所が被害を受けたが、何とか立ち上げる状況にはなったが、男はつらいよは大好きで、もし寅さんがきたらどういう風に接してくれるだろうかとワイワイ盛り上がっていた。
不安をすこしでも取り除きたいと寅さんの事を言っていた。
神戸でロケがあるので、妻が手紙を書きたいと思って、このようなことをする妻ではないのだが、手紙を出した、それからが御縁のはじまりです。
何故か今から思えば判らないが、来てほしいなあと言う想いがあって、書きたいという気持ちになった。
明るくなるんじゃないかなあとの想いはあったが、来てくださいというような言葉は書いてなかった。

一週間経たないうちに葉書が来た。 
どこの山田さんだろうと思ったが、返事がっきたので本当に吃驚した。
内容は「さぞかし大変な思いをされたでしょう。 パン屋さんの事は覚えておきます」ほとんどそれだけだったんです。
その葉書がいまも宝物になっています。
ロケは10月25日から始まる。 
前日に知り合いになった新聞社の方が監督とお会いして、くららベーカリーがモデルになるとの事を聞いて、そこで初めて知って吃驚した。
なんかの間違いではないかと思って、行ったら、セットがあって白い看板(石倉ベーカリーの看板)を観たら、吃驚したというか愚じゃ愚じゃになった気持ちだった。
エキストラの募集の声があり、すかさず手を挙げました。
ロケが済んだ後に看板を処分するという事なので、それをもらいうけることにした。
この看板の前に立つと、元気を貰うというか、こういう事があったんだから頑張れる、という事が沢山あった。

40歳からパン屋を始めるが、それまではサラリーマンだった。
私は(妻)障害のある人と一緒に仕事をしたいと思っていたので、(妹は知的障害あがあって)
むしろ私の方がしてみたいと思っていたので、嬉しかった。
長女も障害をもって生まれてきて、養護学校まではいいが、学校の先が行き場がないという想いがあり、それならば作ればいいと思った。
障害を持つ兄弟姉妹の会にかかわっていたので、利用者の中から行くところがないという声を聞いたので、集まれば何かできるのではないかと思って、その思いを温めていた。
くららを作ることになって行った。
神戸はパンのメッカであるが、非常に厳しい。
会社務めが終わってから、車にパンを積んで、納品をしながら家に帰っていた事を7~8年やっていた。
パンだったら食べるものだろうから、途切れは無いだろうと、パンにたどりついた。
そこの事業所と協力しながら、やっていけるだろうと思ったので、決めた。
くららベーカリーの名前の由来 くらら 倉ちゃんと言われていたので 「ら」は我らのら、皆のら
「くらら」 とした 最後のらは大きな文字にした。
5人 全員男性 一人は夜間高校に行っていた。 昼間はずーっと家の中にいたのでメンバーにしたかった。
福祉事務所の紹介とか、養護学校の卒業生が来ることになる。(18,19、30代)
やまきち市場 活動している仲間の人が店をそこに構えていて、その人は娘さんが2人障害を持っていて、空き店舗があって、ここでやらないかとの声がかかってそこでやることになる。

障害を持つ子の店を開く事に対しての市場の反応は、遠い感じで見ていた。
障害を持った子が作ったパンなどは食べられないとの声は出だしはあった。
地場産業のパートさんとかが買い物に来て増えてきた。
1個 100円 どの種類でも同じにして、計算がしやすいようにした。 最初は10種類ぐらい。
最初は一日 120~150個ぐらい作っていた。
9か月が過ぎて平成7年 阪神淡路大震災が起こった。
やまきち市場のちかくは火災が発生、水が出なくて、豆腐、こんにゃくを投げたりして火を止めようとしていた。
燃える寸前に風向きがかわって、寸前で市場は残った。
店自体は全壊に近い状態だった。 市場は44店舗あったが、木造の古い建物で、木造は全部全壊だったし、鉄骨も全、半壊の状態だった。

電車が動いていない中、友人がリュック背負って歩いてきた。 
「石倉さん まずパンを焼こうな」と 言ってくれた。 この言葉が凄く励みになった。
焼く様になったが、お客さんがいなかった。 自分たちは何ができるだろうと思っていたら、炊き出しをやっていたので、パンしかないので、仲間にも声をかけて炊き出しをやった。
焼きたてのパンをテーブルに並べて、道行く人に声をかけて食べてもらった。
年配の人が泣きながら食べてくれて、「美味しい、有難う」と言ってくれて、人の役に立てたという想いがあった。
障害をもった当事者が被災者を支援したことができたという事が自信につながって、そういう事をこれからしていかなければいけないと思い始めた。
市場で17市として、被災された人々を支援してゆく、仲間と助け合いながら再建してゆくというのがいいのではないかと思ってきて、バザー的な皆が寄って、はじめていった。
11月17日にもっと声をかけて、17市の拡大版をやった。 15から16団体が集まった。
(今は40~60団体)
再建の足がかりを作った。 

後半になったら市場全体が17市の時には、市場全体が入ってやってくれた。
炊き出しをした時に市場の人にも声をかけて、炊き出しの資金とか、材料の購入は市場の中の店から買って調達して、それから段々と仲間として見てくれるようになって、17市の時には安否確認したり、バザーで喜んで買っていってもらって、温かい感じの市場、受け入れてもらえたんだなあと思った。
「寅次郎紅の花」 寅さんの存在が我々には凄い大きい。 
寅さんの映画にかかわらしてもらったのが凄い励みになった。
かかわり合いを大事にして行かなければいけないなあと思った。
山田監督とも1年に一度、2年に一度 いまだにつながりがある。

















































2014年1月15日水曜日

ヤマザキ マリ(漫画家)      ・人生なんでも行動してみるもんだ(2)

ヤマザキ マリ(漫画家)   人生なんでも行動してみるもんだ(2)
漫画家人生のスタートと、息子の誕生、育成と同じです。
がむしゃらはいいものだと悟った。
その時のコンディションが実は私は心地がいいと判った時期でもあった。
漫画で賞をもらって、それをきっかけに日本に帰ってきた。
自分の経験を生かした、フェレンツエの漫画を描いたりしていた。
そのうちに、イタリア関係の仕事がつぎからつぎへと来ること事になる。
帰った時に、私の子供の事は、母には言ってなかったので、一人増えたと言ったら、私の子供だったので、母は吃驚仰天して、しょうがない孫の代まで私の責任だと言ってくれた。 
これには感動した。

日本でイタリアレストランがはやっていて、日本イタリア協会があって、そこから事務局をやってくれないかと言われて、事務局に行くようになり、大学でイタリア語の講座を設けたいのでやってほしいといわれて、3校担当することになる。
日本人の思っている憧れのイタリアと私が知っているイタリアとは齟齬があるが、崩さない様に対応していた。
有るレストランで日本で素うどんに相当する様なピザを1500円で売っていて、之は原価は100円ぐらいじゃないのと思って、或るときTVディレクターにイタリアでは冷蔵庫の残り物でイタリア料理を作っていたりすると話したら、面白いという事になり、TV番組で「週末はイタリアン」ヤマザキマリのコーナーが札幌のTV局でやるようになる。
料理研究家でもなんでもないのに、やっていた。
主婦からは人気があったが、専門のレストランからはひんしゅくを買った。(原価を言ったりした)
温泉リポーターもやった。   来るもの拒まずでなんでもやっていた。

母は何の確証もない音楽という技を使って、北海道に暮らすようになって、最終的には根室、九州、札幌とか、そんなところにまで弟子を作って、車で楽器を積んで運転してゆき、漁師、牧場の子供たちに教えている。(土産を一杯積んで帰ってくる さけ、牛乳とか)
母のことを思えば、いろいろなことをやっていてもそんなに苦労とは思わなかった。
母がそろそろ又イタリアに言ってみないと言われた。
マルコじいさんはすでに亡くなっているが、母はその娘家族と親しい仲になっていた。
母からはその家族の事は変な家族だという事は聞いていた。
母を通じて、行ってその家族に出会う事になる。
その娘の息が大学生になっていた。 
息子が私に古代ローマの歴史の事とを目を輝かせながら、一週間一生懸命に話す。
帰って来てから、物凄い厚い手紙が、彼から毎日届く様になる。
ローマへの想いだとか、歴史、ルネッサンス、一人の人を取り上げて書いてあったり、面白い手紙だった。

或る日父親から 息子が病気になって入院してしまったと、電話がかかってっ来る。
あれは恋わずらいだよっと、笑って話す。
或る日、病院から電話がかかってきて「結婚していただきませんか?」といきなり言ってきた。
私は14歳年上だし、子供もいるし、と思ったが、じゃあ結婚だけでいいのとOKした。
(結婚の経験もなかったので)
子供とその人が又14歳違いだった。  その差の関係がいい感じだった。
マルコじいさんの孫と結婚するとは思わなかった。
人生なんでも行動してみるものだと思った。
動いてみると、その人には何か用意されている。  
それは決して私たちが人為的に作られたものではなくて、動いてみたところで活性化されて、機能を果たすのだと思った。

私は後悔しないので、失敗しても失敗は恥ずかしいことではないので、後で笑い話で、苦労とかも商売できるし、損はしていないと思う。
余り動じない人になりました。
彼は専攻が比較文学で、カイロ大学に入学していたので、カイロのイタリア大使館で結婚しました。
彼はカイロからシリアにいく。 2カ月に1回シリアに行くようにしていた。
シリアに引っ越すことになる。(当時はシリアは平和だった)
ダマスカスは世界最古の街 何にもない砂漠地帯にいきなり古代ローマ遺跡が出てきたりだとか、アッシリア人の古代遺跡が出てきたりだとか、古代の物が山の様に転がっている。
世界遺産になってもおかしくない様な神殿にカラフルなものが見える。
洗濯物で、何かうちに用事ですかと人が出てくる、そこに人が住んでいるんです。
住めるから住んでいるんですと言われた。

イタリアのローマでは2000年前と500年前と現在とが普通に渾然一体となった暮らしをしている事に凄く不思議に感じたが、シリアに来て、今まで人間が生きてきた歴史を掘り下げていったら、物凄く大きなことを含めて、ひっくるめて世界と言うんだなあと、時の流れの解釈が違うなあと思った。
見方が完全に変わった、時空に対する考え方が変わった。
創造力が更に肉付けされた。
他の仕事はしなくなっていたので、漫画を描く事に集約されて、いろんなことを沢山書いた。
日本の皆さんが敷居が高くなっている事に対して、イスラム教、イスラム世界圏に偏見があると、納得いかない事に想いがこみ上げて来て、シリアを舞台にした漫画を書いてみたりした。
いろいろ不便はあるが、不便には対処法があるので、それよりも外に出て、貰ってくる情報量の方が貴重過ぎてしまって、追いつかない、不便の事を省みる暇がない。

市場に行くのが好き 1000年前と同じ。
私はイスラム教ではないが、人間の力では補えない、神に対する信仰の神聖さに触れられる機会があるという意味でもシリアの生活は面白かった。
日本にいるだけでは感じられない経験と言う意味ではシリアはたっぷりした。
お風呂の無い生活が続いた。(シャワーのみ)
テルマエ・ロマエ」という漫画につながっている。
お風呂は浸かる為にある事が判らない
ローマには公衆浴場の遺跡があるが、現在は公衆浴場が無い。  
古代ローマ人と日本人が最も似ていることは、浴槽に洗う目的で入らなかった、リラックスするための要素として湯船を利用していた。
古代ローマの人達は、戦争で行った戦地にさえ、お風呂を掘って兵士たちの体力を回復させていた。
戦争時、日本人も船の上とか、占領した地域にも風呂を作ってリラックス、体力を回復していたという事実を知って同じことをやっていたことを知った。

構築していたわけではなかった。 昭和の銭湯の舞台  そこに古代ローマ人が出てくる事を思い出した。 
面白いといわれて、掲載してもらった。
いろんな思いが出てきて、とめどもなく出てきてしまった。
古代ローマ人は現在のイタリアの人とは全く違った人種で有った。
キリスト教と言うモラルが入ってくる前の時代だったから、リベラルであって、誇りを凄く強く持っていた。
硬い融通のきかないローマ人を書いてみたくなって、人情あふれる日本人に接したときにどうなるだろうと想像しただけで面白くなって、ルシウスというモデルができた。
劇画的 細い線のタッチで1ページ書くのに最初4~5時間掛かっていた。
絵画畑の人間なので、軽く書く事ができなかった。 今は漫画の書き方は修得できたが。
4等身の様な人の漫画は逆に難しい。 書いた事の無い絵なので、何とか格闘してきた。

ヒットしようと思って漫画は書いていなかった。
全国で500人~1000人が面白いと行ってくれたらいいと思っていた。
ネットで話題になり、賞を貰った。 漫画大賞、手塚治虫文化賞を頂く。
映画化の話もあり、キャストは日本人で、イタリアで(日本の京都の太秦のようなところ)撮る事になる。
阿部寛さん 中村勘三郎さんが本になる前にみていて、これは阿部さんだろうといわれた。
阿部さんはルシウスを本当によく演じてくれた。
本当に忙しくなってしまった。  酷い時は10個ぐらい連載した。
イタリアでは午後6時になると、皆仕事を辞めてご飯は必ず一緒に食べて団欒して一日が終わるという、しかし漫画家にそのようなことはできない。
家族との軋轢が出来てしまった。
旦那は最初漫画はいいと思ったようだったが、猛烈に忙しくなって、旦那は裕福な家で、仕事をしなくていい環境の中で文学ができたりしているが、生産して、経済力と密接につながっていることが理解不能だった。

起きてる時は心配するので、寝てから漫画を描くというような生活が現在も続いている。
これも纏めあげていればいずれ役に立つと思っている。
創造力が止まらない、放出していかないと健康で居られないと、自分で判っているので漫画を描き続けている。
天皇賞を見に行って、馬も苦労しているのだんなあと思い馬の事を書きたいとも思った。













































2014年1月14日火曜日

ヤマザキ マリ(漫画家)      ・人生なんでも行動してみるもんだ(1)

ヤマザキ マリ(漫画家)   人生なんでも行動してみるもんだ(1)
1967年東京生まれ 46歳 人生は波乱万丈 指揮者だった父を早くに亡くし、ビオラ奏者の母と妹の3人で北海道で幼少期を過ごした山崎さんは14歳の時に、母の勧めでドイツとフランスを一ヶ月間一人旅をします。
この旅の途中で偶然マルコさんというイタリア人のお年寄りに出会ったことがきっかけで17歳の時に高校を中退し、絵の勉強の為イタリアのフェレンツエに行きます。
仕送りはあったものの何故か食うや食わずの貧しい生活が続いた11年間、その終わりごろ、シングルマザーになります。
子供のため、生活の為にと始めたのが漫画でした。
人生なんでも行動してみるものだ、世界を旅し、そこで暮らす、その経験は決して無駄にばらないというヤマザキさんの話を伺います。

今は北イタリアに住んでいます。
祖父は1915年~1925年までアメリカに暮らしていたし、母も音楽家なので海外に足しげく行く人間でしたし、海外のお客さんも来たし、海外文学が子供のころから好きだった。
海外に対するあこがれは子供のころから増長していった。
絵が描きたいと母親に言っていて、海外の絵をいずれ身に行くだろうと思った。
14歳の時に母と行く予定で有ったが、急に母がいけなくなって、イタリア、フランス、ドイツを回って最後の一週間だけ一人で旅をすることになる。(一か月の旅だった)
言葉は全然できなかった。 
ドイツへ向かう時に判らなくて、途方に暮れて人生に頼るのは自分しかないと思った。
1981年 当時の14歳としては、どう見ても10歳ぐらいにしか見られなかった。
よく旅を全うできたなあと思った。 
自分とあう接点が何もなかったし、誰も助けてくれる様な事はなかった。
この旅のせいで一遍に成長した様に思う。

フランスでは、有る家でクリスマスでピアスをもらっって付けろと言われて、、耳に穴を開けなくてはいけなく、そこの主婦が美容師で、パーマをかけられ頭の恰好からピアスを付けられたり、してしまった。
あの旅が私の人生を大きく決めるきっかけになった。
旅行の途中で、マルコおじいさんに出会い、お前は家出しただろうといわれて、事情を説明しろと言われて、ヨーロッパに絵を見て来いと母から言われた経緯を話した。
女の子一人で旅をさせる親の気持ちが解らないと、心配だから帰ったら親から自分に手紙をよこす様に言われる。
そこから母親との文通が始まる。
進路について、語学をやりたい思っていたら、騙されたと思って一回イタリアによこせとおじいさんから言われて、母親から行ってみたらと言われて、イタリアに行くことにした。
マルコおじいさんは陶芸家だった。
絵をやるというのは技術力だと、技術力をきちんと磨いておけば、お前がどんな創造力を持ってそれを形にしようとしたときにも、技術が助けてくれる、と言ってくれた。
17歳の夏にフィレンツエに行った。
まずおじいさんが迎えに来てくれて、画家を紹介されて、ドンドン継続してしまって11年になる。

最初は美術を学ぶ学校に通って、フィレンツエで吸収できるものは吸収しようと思った。
仕送りは貰っていたが、好きな人がいて、(詩人)教養が高くいい人で、刺激を与えてくれる。
一緒に暮らすようになったが、経済力が全くない人だった。
日本でバブルの始まる時期だったのでイタリアでも日本人のアルバイトは沢山あって、働いた。
似顔絵、革製品屋さん、洋服屋さんとかいろいろやった。
相手は金銭感覚の全然無い人だったので、常にお金がない。
文壇のサロンにも顔を出したが、そこでもあまりお金がない人が結構いた。
物質的なもので心が満たされる事はないという事、定義が定着したし、周りもそういう人達だった。
一番厳しいときにはインフラが止められてしまう。(電気、ガス、水道など)
冬は大変、布団を何枚もかぶって、電気が無いのでろうそくを一杯買ってきて、鏡に前の行くと明かりが倍になる。(エジソンが既にやっているといわれた)
いろいろやっていると困った時に応用できる。 なんだかんだと生きていけると思った。
ボランティアで、後でキューバとか、南米に行くことになるが、何にもないような状態だったが、キューバは一番大事な時間に停電してしまう。
皆が外に出て楽器を持ち出して来て、音楽が流れ、おじいさんおばあさんが踊り出してきたりして楽しんで、お金は人間の幸せとか、楽しみとは全く関係ないとキューバで確証された。
子供の頃、キューバの音楽が好きで、マラカスを担当して、やっているうちにキューバの風景が広がってくるので一杯絵を描いた。
南米音楽が凄く好きになってしまった。  キューバに対する思いが強くなった。
自費でならボランティアがあるというので、稼いで出掛ける事になる。

サトウキビの収穫の手伝いに行ったりして、やってきた。
キューバでは踊りに出かけるが、踊りの踊れないことは、女としてはキューバでは最悪だといわれて、ステーしていた家のお嬢さん(踊りの名手)から踊りを学ぶ。
当時キューバでは月収が一般的に1~2万円/月ぐらいだった。 
チョコレートを買ってきたが、皆でワーッと食べるが、そのあとで包んだ紙をポケットに入れておき、後でその紙を取り出して、匂いを嗅ぐ。 
匂いを嗅ぐだけで子供たちは幸せになれる。(感動した)
帰りの飛行機の機内食の残りを見たりすると、切なくなる。(キューバの子供たちを思い出す)
詩人の彼とは10年間暮すが、彼がキューバに来て、一旦帰って行くが、その時に妊娠している事が判る。
赤ちゃんができるという事にいろいろ考えてしまって、この人の子供なら一生大事に育てられると思って、喧嘩をしたり、お金がない事ですさんでいるという状況をこの子供には見せられないと思い、詩人の人とは別れようと思った。

子供は現実として大きなものなので、生き方を変えてみないといけないと思った。
私は一人で産婆さんを呼んだが、本当に駄目なことになったら行きますとのことで、タクシーで大学病院に行って、運ばれてから3時間で生れた。
その時に、人生幸せだよと見せてゆくためには、この子が物心つくまでは人生が辛いという事を
なるべく見せないようにしようと、詩人の人とは別れようと決心する。
油絵では食べてはいけないので、友人から漫画を何故描かないのと言われて、描き始めた。



















2014年1月13日月曜日

山口育子(こむる理事長)     ・賢い患者を目指して

山口育子(こむる理事長)   賢い患者を目指して
1965年 大阪生まれ  24歳の時に突然卵巣がんが見つかり、手術を受けます。
しかし、癌告知が一般的ではなかった時代で抗癌剤で辛い症状が出て始めて、自分の病気を知りました。
患者と医療者がもっと、コミュニケーションを取って、治療について話し合う必要があるのではないかと思っていた矢先、大阪で患者と医療との橋渡しを行う市民グループ、こむるに出会いスタッフに加わることにしました。
このこむるでは賢い患者になりましょうとの合言葉に、患者と医療者が対話と交流の中からお互いに気付きあい、歩み寄る関係作りを目指して、電話相談を中心に活動を続けています。
こむる(COML) 医療と法の消費者組織という英語の頭文字を取った造語。

賢い患者とは? 
①病気はだれにも変わってもらえない持ち物 最終的には自分の持ち物なのだと自覚する。
②病気の説明を受けたら、理解する努力をして、自分がどんな医療をお受けたいのか、しっかり 考えよう。
③こういう理由で、私はこの治療法を選びますと、伝える。
④コミュニケーションをとりながら、自分で出来る役割をしっかり理解して、医療者と共同しながら治療  を受けていきましょう。
⑤一人で悩まない。 誰か(かかりつけ医、電話相談等)に話すことによって悩みを整理する。

1992年2月にスタッフに入る。
1990年9月に卵巣がんになって手術を受ける。 抗がん剤の治療は無かった時代。
入院が300日以上だった。  癌は隠す時代だった。 生きていける確率は2割と言われていた。
本当の事を知るには凄く努力しなくてはいけない。
医療者とのコミュニケーションがあまり成り立たない環境だった。
コミュニケーションを医療現場に成り立たせなくてはいけないと感じた。
医療の裏側も見えてくる。  人手不足、夜勤の厳しさ 医療者も悩んでいる。
患者の言動で傷つく事があることが分かった。
こむるが発足1年で、新聞に載っていて、内容に共感して、想いを手紙に書いて送った。

当時25歳だった。 何でも自分でやりたい子供だった。
癌になったことによって多くの出会いがあった。
今を生きているという事がこんなに幸せなんだと、実感させてもらった。
どんな出来事も100% マイナスの事はない。 
必ず自分の肥やしになることって有るんだと知ることができたことは喜びでもあった。
電話相談の内容は幅広い。
病状の不安、薬の副作用、、医療者との関係作りがうまくいかない、納得いかない結果での解決の手段、等 お金の相談等(相談のうちの15%)は増えてきている。
53000件の相談があった。 20000件の相談を担当する。

失明の相談 深い悲しみの声  死ぬ準備を手伝ってほしいとの相談 
80代の男性 最愛の妻を亡くした人の相談 等々。
何故相談するにいたったのか、詳しく聞いて、問題整理の手伝いをして、人に依って問題に対する想いが様々なので自分の中で考えてもらって、情報提供する。
納得いかない結果になって、説明はなかったのかと聞くと、説明はされたというが、1時間説明を口頭で受けている、専門的な話をするので、全て理解して記憶にとどめる人は少数派だと思う。
聞いていないという人の大半は聞いていても理解していなかった、こういう事が結果としては説明を受けていなかったと言う事になる。
情報の共有化が為されていない。
インフォームドコンセント 1990年 日本の医療に発展させてゆく必要があるとの報道があった。
どんな病気、病状でも、患者が望めばきちんと説明を受ける権利がある。
説明すること、といって解釈されている。(一方通行的)
先ずは概要説明、次に詳しい説明(質問もその時までに事前に用意) 落ちついた段階でしっかり話ができれば実りの多い時間になると思う。

コミュニケーション 双方向性 患者側からの医者に対する怖さ、思い込みのずれが生じる事もある。
患者側からのコミュニケーション能力を高める必要もあるのではないか。
人に伝えるときにきちんと言語化する努力をする事も必要、語彙を増やす。
今は余命まで含めて話す時代になった。
治療の選択肢も複数あるので、医者には言えない場合もある。(効果がほとんど同じでそれぞれ一長一短がある治療法など)
患者しか選べない時代になってきているので、しっかりとしたコミュニケーション、理解が必要。

賢い患者になる為の10ケ条
①伝えたい事はメモして準備
②対話の始まりは挨拶から 人間関係の基本は挨拶
③より良い関係作りはあなたにも責任がある
④自覚症状と病歴はあなたが伝える大事な情報(特に子供の自覚症状は自分で言う様に教育  が必要。)
⑤これからの見通しを聞く (治療期間、できなくなる事、治療後に日常生活への影響)
⑥その後の変化を伝える努力を(悪くなった事だけでなく、良くなったことも報告する)
⑦大事なことはメモを取って確認(余白のあるメモを用意、質問、答え、+αの情報が得られて、  それをファイルしておくと貴重な情報ファイルができる)
⑧納得できない事は何度でも質問する(嫌な思いをさせる様な言い方ではなく工夫した質問)
⑨医療にも不確実なことや、限界がある(病気になった-の状態をを+に転じてほしいと医療に受 けにくるが、せいぜい0になったら好しとしてほしいとの本音を聞く事がある、過度な期待をしな い、完壁ではない、絶対ではないと理解出来ると見方は変わってくる)
⑩治療方法を決めるのはあなたですが、一人で悩まないでください(よく相談して、アドバイスを 貰いながら一緒に決めてゆくが、最後に結論するのか患者さん)

高齢になってくると判断力が衰えてくるので、どこまで治療を望むのかなどを身近な人と話し合っておくことは必要です。
命の問題に対してはしっかり向き合っておくことはとっても必要なことですね。
自分の命を振り返って、きちんと生きてきたなあと、そう思って死ねたらいいと思って、そういう事を感じっせてくれたのは病気でもあった。
大人になって急に賢くなろうといっても、難しいので子供の間から賢い患者になる練習をしないといけないんじゃないかと思う。
ツールがあったら学校の先生でも養護教員でも出来るのではないかと、小学生向けの副読本を作る様なプロジェクトチームを立ち上げたいと思っている。






















































2014年1月11日土曜日

長岡照子(防災未来センター語り部)    ・備え忘れず残された私は生き抜く

長岡照子(防災未来センター語り部)    備え忘れず残された私は生き抜く
兵庫県西宮市 1995年1月17日の朝激しい揺れに見舞われました。
この阪神淡路大震災で、弟を亡くし、自らも腰を痛めて足に障害を起こしました。
一時期は鬱状態になって、家にこもりきりになりましたが、仮設住宅のボランティア活動を通じて次第に心を開く様になりました。
10年前からは亡くなった人たちの無念を伝えたいと、兵庫県の人と防災未来センターで語り部ボランティアを続けています。
神戸生まれの長岡さんが経験した昭和13年の阪神大水害、太平洋戦争、阪神淡路大震災
先を読み備えることが大切だという長岡さんが、86歳になった今、若い世代に伝えたいことは、なんなのか伺いました。

西宮市の団地の4階で地震にあった。 そのときは揺れよりも地響きを感じた。
いきなり、布団ごと上下した。 全部棚から落ちてきた。  声も出なかった。
息子も上から落ちてきたもので阻まれたが、何とか脱出して、私を通り越して玄関の方に向かっっていって、先に私を助けだしてくれずに、ドアを開けようとしたが、ドアが歪んで開かないので、息子が体当たりして暫くしてから開いた。(逃げ道の確保が先ず必要)
後の余震が長くて怖かった。
仏壇と琴が倒れてきていて幸いに琴が仏壇を上手く支えてくれて、その間に起きれないで居た。
ようやく息子が私を引っ張り出してくれた。
(今から3年前には足が動けないようになって手術をした。)
水を確保しようとして、浴槽からは水がちょろちょろ出たので、そこから段ボールの内側にビニール袋を入れて、水を確保した。
水道管が破裂して水たまりができて、その水たまりから水を掬って持ち帰った。
給水車が来てくれるようになって、寒い中、2時間待って水をもらった。
切断されてしまった高速道路でバスが、落ちそうになっていたのは、西宮神社の前のところ。

明石に住んでいた弟が亡くなったことが嫁さんから知らされた。
私の弟である長男が、17歳で戦時中、特別幹部候補生志願して、戦闘に参加しようとしたが、通信兵になり、浜松の飛行場で仕事をしていたら、敵機がきて、機銃照射でやられて、右手が肩の少し下あたりから無くなってしまった。
苦労して左手一本で1級建築士を取ったが、右手が無いことで落胆して、自殺未遂をする。 7回
其中で奇跡的に命を取り止め、仕事をするようになり、そのうちに人を使くようになって、夫婦でがんばってきたが、阪神淡路大震災の時に下敷きになってしまって、病院に入って4~5日頑張ったが、亡くなってしまった。
新聞で語り部募集の記事があり、これらの苦労を無駄にしてはいけないと思った。
私は大震災で腰をやられて、歩くとコツンコツンと音がして、段々右足の方が痛み駄目になってきた。
息子の店もやられてしまっていた。
心身症となる。 心の病なので人と話をしなさいといわれたが、団地なので話す相手もいなくて、外には出なくて、気持ちが開く事も出来ずに、鬱になってきてしまった。
仮設159個出来る。 そこにボランティアで参加するようになる。
仮設住宅の表札が無くて、判りにくいので、かまぼこの板に絵を描くことを思いたち、新聞社等に協力を依頼してかまぼこの板の募集を行った。
一杯送られてきた。
動物とか花とかいろいろ描いて、仮設住宅に取り付けた。
協力者が出てきて、女子大学生、大工さんなどが協力してくれて、相談に来たりして来ているうちに、病気も良くなってしまった。
私の実家は紙問屋をしていた。  昭和13年に大水害にあう。 その時に水が大事だと思った。
水道は止まってしあったが、井戸水があり、それで助かった。
生きるためには、何よりも水が大事だという事が判った。

太平洋戦争の空襲がその7年後にある。 実家は燃え焼けてしまった。
身の周りの必要な物は、リュックに詰め込んでいて、それをしょって逃げることをいつもしていた。
戦後は明石の県営住宅に入って5~6年生活していた。
非常時の身の守り方は、身について、人よりも先を見るようになった。
60歳前後の女性たちが来て、笛を首にかけていて、「笛を持っていますよ」と言ってくれた。
バックなどい笛をいれておいても役には立たない。
役立ってくれていて、ホッとする。  無駄ではなかったと思っている。
かまぼこ板は東日本大震災の仮設でも持って行った。
大震災から19年、語り部をはじめて10年 伝えたいことはいっぱいあるが、負担が重い。
自分の命を粗末にしすぎる。 世の中平和なほど命を粗末にする。
親が子を殺す、子が親を殺すことはなかったですよ。
所謂、「自己本位」になっている。

昔は親は子供に為に犠牲になってもいいと思っていたが、今はそれが無い。
昔は、震災直後は分け合って食べていた。 「我欲」が強くなってきてる。
「欲ではなくて自分の命」だけは守って欲しい。 授けられた尊い命 命の大切さ、尊さ。
今はあまりにも命を粗末にしすぎる。
6400人の方の無念さを持って帰ってその人の分まで生きてください。
自分が10年生きられるとしてら、その人たちの分も1年2年加えてください。
皆さん、したい事は生きている限りは出来るが、その人たちはしたいことができずに断ち切られて、突然の不幸で命を亡くしているので、・・・それだけです。

①逃げ道の確保  ②水の確保  ③知らせるための笛の確保 ④携帯ラジオ  ⑤携帯電話  
を身につけること 、寝るときには袋に入れて、プラスチックの安全ピンで布団に付けておく。
強い揺れで思わぬ方向に飛んでいってしまうので、留めておいた方がいい。










































2014年1月10日金曜日

石沢久夫(画家)         ・地域に根差して画業60年

石沢久夫(画家)     地域に根差して画業60年
1932年群馬県高崎市生まれ 1946年県立高崎工業高校で建築科に入り、建築を学びました。
在学中から絵画の魅力にひかれ、画家を志すようになって、高校卒業後も5年間会社に務めながらがら絵の勉強を続け、美術展に出展しました。
1957年、地元経済人で美術にも詳しい井上房一郎の紹介で、世界的な建築家、アントニン・レーモンドを知って 翌年からレーモンドが設計する建築の壁画などの製作に携わりました。
1961年製作の群馬音楽センターのフレスコ壁画は石沢さんの仕事の中でも最も代表的なものです。
其他JR高崎駅の階段ホールの壁画や、高崎市内の長松寺の襖絵の製作 、群馬の美術1941~2009展への出品など地域に根差した美術活動を続けてきました。
今年2月8日~3月23日まで、高崎市美術館での石沢さんのこれまでの活動の集大成ともいえる「自然へのかたらい石沢久夫の仕事展」が開かれます。

1999年開館 幽玄派美術館  以前は演芸場の場所だった処。 田舎風の物に仕上げた。
約300点はある。  百人一首がテーマになっている作品が100点あり、並んでいる。
日本人100人の心象和歌展に大体出した。
「自然への語らい石沢久夫の仕事展」 私の絵が具象でもなく、抽象でもない。
108回展の時に、元情報新聞の社長さんをやっていたかが、気にいってくれて、高崎市の市長にプッシュして決まってきて進んでいる。
どこにもない絵を作りなさいと言われて、自分の気持ちが勝手に出てくる絵は一般の方には難しいが、最近はぼつぼつ共鳴される方が多くなってきた。
15歳ぐらいからの作品数点、を含めて アントニン・レーモンドの関係資料、等も展示される。
終戦直後、焼け野原で建築を勉強。  山口薫画伯が疎開で来ていた。
学校に非常勤講師でこられた。
中村節也さんなども来られた。 絵の時間が週に6時間有った。
「風をかきなさいとか、匂いをかきなさい」とか、感じたままを書いても絵になるからと、楽しさを覚えて深く書く様になった。

クラスの展覧会をやって、鑑賞に井上さんがこられて、選抜で10数名井上邸に呼ばれた。
次の週は数名、最後には私だけが残った。
サラリーマン生活をしながら、モダンアート協会 出品 10数年出していた。  
昼夜勤があるので、絵を書く時間ができた。
アントニン・レーモンドとの出会い  井上さんのところに毎週行って絵の指導を受けていた。
井上さんは群馬交響楽団の理事もやっていて、音楽堂をつくろうという事になって、レ-モンドさんにお願いに行った。
その流れで、私が事務所に行くことになる。   私の絵を数点持って行った。
気にいってもらって、即決だった。     フレスコ壁画を担当する事になる。
事務所は60名程度の人数   最初はイラン大使館の壁画を任される。
日本画でやる事になる。 (洋画を勉強していたが、本を読んで何とかできるだろうと思った) 
これはテストの様だった。 (25歳から行った。 レーモンドさんは当時70歳ぐらいだった。)

音楽堂、私が日本の楽器をスケッチして、レーモンドのアレンジと一緒に原画を作った。
レーモンドのデザインと言われるが、そういう感じで進んでいった。
JR新幹線高崎駅の階段ホールの壁画、長松寺の襖絵、高崎市新庁舎の壁画など。
福沢一郎 絵描きさんが西口、東口に作ることはきまっていたが、地元の人も参加した方がいいという事で、「昼の群像」と言うテーマで描いた。
高崎市新庁舎の壁画、市制100周年として「我ら高崎市民」というテーマで、101名の人物像を描く。
100名は100周年を意味して、1名は未来の人をイメージ
長松寺襖絵、色が無い方が見る方が自分で色を作ってみてくれる。
一番小さな筆で持って、細かく書き込んでゆく。
絵は塗るものではなくて、描く事だと思うので、見る方に深みのある空間が感じ取れると思う。
完成までに11年掛かった。

公共のいろんなところに大きなものを展示してあげれば、自然のうちに目に入ってくると思う。
そうすると毎日の生活に必ずプラスになってゆくと思う。
高崎は生れたところなので愛着はある。
物を写す、描写だけではなかなか出ないので、絵画は作るものだから、自分で感じているままを表現していけば、自然の営み、それが伝達できるんだと思います。
自然から来る教えを、大きく表現してゆく様な作品を作っていきたい。
イサム・ノグチさんが言われたが、「20年経って正しくないものは芸術ではない。」
良いところを学んで手の動く限り、描き続けていきたいと思う。










 








 








2014年1月9日木曜日

河西瑛一郎(高尾の森作りの会代表)  ・親父パワーで森を救え

河西瑛一郎(高尾の森作りの会代表)    親父パワーで森を救え
1940年今れ  大手新聞社で営業の仕事をしていた河西さんは、定年になる直前の 2000年に高尾の森作りの会をスタートさせました。
この会は荒廃した高尾山の森を救おうと立ち上げた。

なんで皆さんがこんなに集まってくるのだろうと、話し合ったが、普通の社会生活の中では味わえない、達成感、充実感を味わえるのではないかと感じた。
一日の汗がどこかで役に立っている様な気がすると、非常に喜びを感じて集まってくるのではないかと思う。
5月から9月まで、草が繁茂するので、植えた苗が育たないので草刈りを主にやっている。
9月~12月までは間伐、木を間引いてやる作業、1月~4月までは蔓、灌木、草を刈り、地面を出して、楽に植樹ができるようにする。
4月に植樹祭を行う。  杉、檜が8割の人工林なので、いろいろ問題がある。
花粉の問題、生物多様性の問題  杉、檜を間伐して、広葉樹を植えている。
なら、かつら、山桜などを植えて、50年かけて今8割ある針葉樹の森を半々にして行こうというのが大きな目標です。

メンバー間に上下関係がない。
定年になって社会になにか貢献したいという様な思いで入会している人が多い。
かなりの方がここでは何が必要か、何が不足しているかを自分で考えて行動する人が多い。
安全を確保する事はかなり訓練している。
チェーンソーの重大事故は13年間無い。
プロからチェーンソーを一月おきに習っている。
森林作業、チェーンソーを使った伐倒作業は尤も危険と言われている。
ボランティア団体なのでノルマはないので、安全第一でゆっくりやろうという事でやっている。
木がたくさんあるので、隣りの木に寄りかかって倒れない場合があり、之が一番厄介。
ウインチで引っ張って引きずりおろしとか、いろいろやっている。
木を倒すのには5分、10分ですが、そのあとの処理に30分以上かかったりする。

作業指針をきちんと守っていけば危険なことは無い。
①作業はお互い離れてやるように、②上下での作業はやらない様に、この二つは厳しく言っている。
パイオニアワーク チャレンジする事が皆さん集まってくる中にあるのではないか。
林野庁から任されている。
1999年にこのようなことをやろうと思い立った。
バブルのころに自然を利用した観光事業に積極的に投資した時代だったので、それに日本山岳会自然保護委員会は反対した。(私も其中に入っていた)
バブルに陰りが見えてきて、山を利用した巨大開発事業は無くなってきた。
日本山岳会の自然保護委員会の活動は反対の対象が無くなってきた。
反対でけでなく、作ってゆく様なことはないかと考えていて、林野庁のOBがいて、国有林に民間の活力を導入する、日本の非常に困難に直面している林業を広く国民に知ってもらうためには森林ボランティア団体を組織して林野庁の応援団を作ろうという様な動きがあり、それと噛み合って提案をして話はとんとん拍子に進んだ。

いろいろ調査したが、高尾山がいいと推薦されて今の場所にした。
林野庁の担当官からは、急だから大変だと言われたが、是非やらしてほしいという事で協定書を作って今に至っている。
会員は230人 60歳過ぎの人が多い。 いろんな職種の人が参加している。
新たなチャレンジする案が出ると、直ぐに対応できる様な技能を持っている人が出てくる。
元気な女性が多い。  キッチン班が大活躍してくれる。 食べるのが楽しみ。
作業終了後に山から下りてくるが、その時が楽しい。  大体100人が作業をする。
一日の汗をかいて、どっかで役に立っているという実感を持ちながら帰ってくる事が非常に素晴らしいことだと思う。
新しい森ができつつある。  多様性 広葉樹の森、針葉樹の森、紅葉が引き立つ。
お互いが補い合っている。
暗いところには小鳥はいないが、明るくなって小鳥が増えてくる。

中学校から山に登り始めて、山岳部がある高校、大学を選んで即刻山岳部に入部した。
新聞社も山を自由にのぼれるのではないかと思って入ったが全く当てが外れた。
25年経って部署が変わって、外資系の会社をやれという事で、それも軌道に乗り、外資系と言う事で夏休みも1カ月取る事ができるようになり、山に登ることもできるようになり、59歳の時に先ほど話した様な事があり森の会を運営するようになった。
運用面、資金 山の中に倉庫がほしくなるので、道具の購入もお金がかかるので、林野庁の国土緑化推進機構という団体がありボランティアを支援してくれる事が判り、申請をして支援を頂いて基本的な道具を整えることができた。
周辺の会社も支援してくれる事になる。   支援団体が19社付いてくれる。
資金は活動には足りるし、老齢化の問題も会社の若い人の参加もあり、クリアしている。

森林ボランティアは大都市はやりやすい。 休みの日は自然の中に居たいという想いはあると思う。
非常にアクセスが良い事が利点になっている。
大人数の団体だが、纏めよう纏めようとは思っていない。
各人それなりに考えてやってくれていると思う。
ボランティア団体は4~5年が賞味期限でそのあとはパワーがなくなってくると聞いているが、焦らずゆっくりやっていこうと、我々が森に育てられているという風に思っている。
スポンサー企業と一緒になって、親子森林体験スクールを3回開催している。
山で草を刈ったり、道を作ったり、木を植えたりしている。
6年間やってきた。  小学4~6年生が対象だが、中学生になっても続けたいと言う生徒が親と一緒に本隊に参加すると言う事で非常に喜んでいる。
バトンを引き継ぐ若者が育ちつつある。

高尾の森100周年 間伐した木を使って冬の暖房は高尾山の薪を使ってもらおうとか、ここから育った人が国土の森林を守ってくれるようになったら嬉しいと思う。
文明が栄えた故に森林を伐採してしまって、森が無くなって滅びて行った歴史がある。
日本の山、森林には問題もあるが、これだけの山、森林があるという事は日本の大変な財産なので、山、森林に目を向けてもらって、有難さを味わって貰えればいいなあと思っている。

























2014年1月8日水曜日

富山和子(環境問題評論家)    ・25年目を迎えた瑞穂の国のカレンダー

富山和子(環境問題評論家)   25年目を迎えた瑞穂の国のカレンダー
里山や棚田の美しい田園風景をカレンダーにして水田が日本の文化と環境を守ると訴えてきた富山和子さん、その日本のコメのカレンダーが今年25年を迎えています。
富山さんは79歳になられるそうですが、群馬県の出身です。
立正大学、日本福祉大学教授を 歴任後、日本の環境問題評論家として活動を続けてきます。
水と緑と土の物質循環の上に日本の美しい自然環境が保たれている。
そんなメッセージを写真に込めて1990年から始めたのが米カレンダーです。
棚田ブームのきっかけにもなりました。
25年間のカレンダーの発行部数は累計で150万部を越えています。
12枚の写真の脇にいは富山さんが描き下ろした詩が英訳付きでそえられていて、海外でも毎年心待ちにしているファンが多いといわれます。
25年目を迎えた瑞穂の国のカレンダー、富山さんに伺います。

「水田は文化と環境を守る」というタイトルが描かれている。
米と日本人とは母と子の様に太いきずなで結ばれています。
今農業は危機に瀕しています。
私たちが日本文化という土台をを失うという事でもあり、山や川など自然の環境も危うくなっていることでもあります。
美しい文化、自然を次の世代に送るために、どうしても農業を守りたい。
そんな願いを込めて作ったのがカレンダーの狙いです。

1990年から米の自由化が目の前に来ていた。
カレンダーなら写真の力を借りながら、出来るので、家じゅうで見て頂けると、農業の大事さが訴えられると思った。
米カレンダーとして1990年版から始める
写真の下に詩を描いて、脇に英訳が添えられている。
日本の四季折々の写真が添えられている。
写真集ではないので、私の思いを写真を借りながら作ってきました。
2014年版で言うと6月 原発とTPPが頭にあり、岡山県の棚田 主婦が二人働いている、そのうちの一人は86歳、豊かな風土、近所ぐるみで皆で共同して棚田を作り、共同して水を引き、守り優しい風景です。
この優しさをしっかりと見てほしい。
水と緑が自然にマッチするように二人がたたずんでいる。(日本の米作りの原点)
耕作放置 美しい自然が守れなくなる。
誰がこの国土を守ってゆくのか、手をかけてきたから今までは守られてきた。

7月 北海道の唐松 どうってこと無い人工林だが、北海道にはそこら中に唐松がある。 
最初、明治の開拓の時に唐松を持ちこんだ信州の人なんです。
種で苗木を育てて、何年も何年も試行錯誤して北海道に唐松が適しているというまでにはどれだけの苦労、思いがあったろうと思う。
釧路の上の方に、どうにもならない原野があったが、営林署の人達が死に物狂いで一本一本植えていった。
あっけし牡蠣が絶えていたのが、復活しているのです。
それで森林は海の魚を育てていることが判る。
不毛の原野の段階では雨が降ると、ザーッと降って、どーっと土砂が出て乾いてしまうが、森林が土を養う、水は土の産物だと思っている。
森林で水が吸い込まれてゆっくりと出て行く。
豊かな土で養分を持ちながら、ほどほどの温度でゆっくりと海に出て行って、魚も、牡蠣も養分を頂く。
内陸の森林までが海の生物を養う。

唐松林が地下に水を溜めこんであっけし海岸に注ぎ込む。
国土の土台には先人たちの血の出る様な苦心の積み重ねがあるんだと言う事を、僅かな時間の間に忘れてしまうという事が残念です。
日本は木を植えることで水田を作り、木を植えることで水田に引く川の水を養い 文化を育ててきた。
日本では空き地があれば畑にしてきた、どうにもならない荒れ地は木を植えてきた。
8月 福島県相馬の海岸 水田  震災の翌年の写真(去年) となりは立ち入り禁止区域
海水をかぶっている土地 大変な思いで回復している。
自分たちでも食べないかもしれないが、兎に角ほったらかしにしていられなくて、こういう想いが日本の人達が日本列島を支えてきた。
米カレンダー 1年がかりで作り始める。
写真を探し始める。  個々の写真家、プロダクション等にに声をかけて、持ち寄ったものを選んで半年掛かって決める。  
最初は数千枚から1万枚 そこから1000枚を選んで、その中から12枚を選ぶ。

私の故郷の群馬県、25年間群馬県は登場していなかった。
行っていない県は無いが足を踏み入れていないところは若干ある。
写真を決めてから地名を確認するが、それが大変。
讃岐富士 香川用水 香川用水を使う事でこの土地を潤している。
一枚一枚に農業、林業の想いが繋がっている。
アジアの稲作国家が集まって、なんかやろうじゃないかと集まりがあった。
タイ、フィリピン、インドネシアは一生懸命だったが日本政府はあまり関心がなくて、カレンダーを持って私が行ったら、英訳が付いていたのでじーっと見てくれて、これからは国連も国際米年をやらなければという様な事になって、2004年に国際米年を制定してくれた。
各国の要人が興味を持ってくれて、催促のメールがあった。
新潟県と石川県能登半島が世界農業遺産として登録された。
世界無形文化遺産に和食が認定された。  米を中心とした食。

日本は農林漁業が一緒です。
日本人の心の文化遺産 感性まで 風景を見る目、聞く耳、気温や湿度までからんで、太古の昔から一生自然と付き合ってきてDNAが全部受け継がれてきている。
大元は農作業から来ている。
土台を忘れてはいけない。 
今も農業は多様なんですよ、役割が。
25年 300ヶ所 その土地と対話をしてきたが、一枚一枚教えられる凄い国だなあと思った。
奈良の室生に海神社があるが、あるときにあなたの詩碑を建てたいとの事、話の有った10年前のカレンダーの詩の一節だった。
「故郷と言えば先ず山を思い、山懐の民家を思い、山を神とし、湧きいずる水を命として米を作って来た日本人のこれが原風景 心のよりどころだ。」 
式年造営を伊勢神宮と同様に20年に一度社を建て替えるので、記念に建てたいとの事で、10年間温めて居たと言う事で感激した。 

カレンダーなので365日どこかで見ていてくれる。
トイレに飾るべし、対話ができるから という新聞に投書をいただいたことがある。
作る側は結構つらくて、何度やめたいと思ったかわからない。
最初の頃は悩んだが、続けるという事は力なり、と友達、読者から言われて、背中を押されながら続けてきた。
どうか先人たちのやってきたことを、思い起こしていただきたいし、調べて頂きたい。






























































2014年1月7日火曜日

篠原有司男・乃り子(現代芸術家)    ・ポップアートの先駆者40年ニューヨーク生活を語る

篠原有司男乃り子(現代芸術家)  ポップアートの先駆者40年ニューヨーク生活を語る
1932年東京生まれ 日本のポップアートの先駆者 ニューヨークで暮らす現代芸術家です。 
乃り子さんは夫の仕事のサポートをしつつ、自らの芸術を発表しつつ活躍しています。
1952年東京芸術大学美術学部油画科に入学、絵具を含ませたボクシンググローブを初め、壁に張ったキャンバスをぼかすかと叩くボクシングペイントで一躍有名になりました。
乃り子さんは1953年富山県高岡市生まれ、19歳の時に美術を学ぶ為ニューヨークに渡り、美術学校に入学して、半年後21歳年上の有司男さんと出会い、恋に落ち一緒に暮らすようになりました。
乃り子さんは今キューティーと言うキャラクターを製作し、新しい境地に入っています。
2人に密着したドキュメンタリー映画「キューティー&ボクサー」が日本でも公開されています。

日本で初めてモヒカン刈りをした人 1958年だった。 
偶然、カミソリで蕎麦屋の2階でやった。 これを芸術にしてやろうと思った。
この時代には外からいろんなアートの運動がどんどんきた時代。
芸大の中はクラシックな事をやっていた。  何をやって言いかわからない時代だった。
乃り子さんは21歳年下、現在60歳      日本には時々は帰ってくる。
夜、広沢虎造なんかを聞いていて日本には帰りたいと思う。
酒は飲めない様になってしまった。  お陰で元気になった。
1969年にアメリカに渡った。 37歳  40年を過ぎた。
ボクシングペイントは1960年にやり始めたが、評論家、メディアは全然相手にしなかった。
雑誌社が来て、若者のドキュメントという事で来て、その時に初めて記者の前でやってみたら、伝統も何もないめちゃくちゃな男だというわけで、写真を観たら、結構かっこ良くて、これはアートになるぞと本能的に思った。

その後取材があって、野原でやる。 取材の2人だけの前でやる。
アクションペインティングです。 やたらぶっ飛ばすだけ。
ドキュメンタリー映画 「キューティー&ボクサー」 私たちの生活以上に綺麗にできていると思う。
最後に2人でボクシングをやる姿があるが、綺麗に取れている。(乃り子)
大不満、芸術のコンセプト、哲学を前面に押し出すのかと思ったらラブストーリーになっている(有司男)
毎週のように撮り来る。そのうちに気にしなくなってきて、後半の部分を使ったのが多い。
生活のにおいがいっぱい。 
この映画によってアーティストも普通の人間だと思ったとの新聞論評があった。
妻(乃り子さん)に対してはわたしは作品をけなしてきた。  それがばねになった。
生徒には褒めるので教師としては失格。

有司男さん 父は詩人 母は日本画家  麹町で文化地区の長屋に育った。
子供の時から母から絵の方の影響はあった。
1952年に芸大の油画科に入った。 教育が古かった。
ヨーロッパからは新しいアートの嵐が吹いて来ていた。
卒業制作で君の絵には嘘が無いといわれて、来たなと思ったが、しかし君は学校をやめなさいと言われて、学校を辞めた。
外の第一線でぶつかってみたいと思った。  
アートは成功物語をひっつけようとするが、アートに成功も何もない。
売れるとか、評価を受けたとか、賞をもらったとかは、全く関係ない。
アートはもっと深いところで、運命なんで、美は悪魔で、悪魔に引きずられている。
古典の教養、教養をしっかり身につけることが長持ちしている。
ダビンチの最後の晩餐をみてもちっとも面白くはないが、全部を見ると彼は大天才で、高い気持ちで何かに向かっている。

夫は理想を言っていただけじゃない(乃り子)
俺のは売れない、お前のは売れると、いじめられてきた。
生きていかなければいけないので、アーティストは水を飲んでいれば良い様なセリフを言うから嘘だと思っちゃう。
家賃払ってちょっと残ればそれで十分、最低限あればいい(有司男)

乃り子さん  高岡市出身 パチンコ屋と映画館をやっていた。
映画は気にいると何回も何回も見た。
末っ子だったので日曜日の絵画室に一緒に行って、そういう事が日常的にあった。
大学に落ちたので、直ぐに絵を描きたいと思ったので、アメリカに行った。
1972年の夏 1ドル 280円になり 今がチャンスだと親を説得して、行けば何とかなるだろうと思って行った。
半年後に有司男さんと出会う。
スタジオがあるから来ないかと言われて、行った。
日本での彼は全然知らなかった。   彼が絵を描くなどと言う事は全然知らなかった。
最初は尊敬したが、自分のアートが出来てくるようになるといろいろ違う事が出来てくる。
違う道を行くようになった。

昔の教育で、援助する事は当たり前だと思っていたが、ところが向こうはドンドン利用して行った。
私が妊娠して動けなくなったときに、私のキャンバス絵具を使って、描きだした。
私の絵の技法も取られてしまった。
キューティーを見つけたときは、初めて自分はアーティィストだと気がついた。
自分が皮膚から骨の髄から、頭の中までアーティストだと確信できた。
日本での活動とアメリカの活動はもう全部同じ。
便利なところで描けばいい。
アトリエを構えて、キャンパス取っ組んでいるのは珍しい、まだやってんのと言うような感じ。
デッサン力で勝負している。
2人が同じ場所で芸術をやってゆくには、お互いのある距離ができるようになった。
一つの鉢に二つの違う花が一緒に育つのは難しい。
栄養が足りなくて本当に困ることは確かで、それがうまく合えば良い物ができるし、良い展覧会も出来るし、良い花を咲かせることはできる。

同業者が夫婦になるのは、アーティスト、人が一緒に協力してというのは難しい。
アーティストは完全に独立した部屋が必要。 2000年にここから先はわたしの部屋だからと宣言して、仕事をしている間は声もかけてほしくないと言ったが、なかなか守ってくれなかったが、ある程度敷居は高くなりました。
子供は39歳になる。 絵をやっている。 皆アーティストだから一つの屋根の下では難しい。
息子の作品から刺激を受ける。
アーティストはニューヨークにいると、そんなことよくやっているなあ、偉いなあと言われる。 
文化の最先端を行っていると思う。 人間の中にある一番大事なものと、取っ組んで、人間を豊かにしているぞという一番大事な自信、喜びと言うか、出来たときに作品が万人のものであるという喜びがある。画商から言われて書いたものとは違って。(有司男)
若いころは収入がなくて貧しくてみじめだった。  私が初めてキューティーを自分で発見したときに、夫婦の問題が永遠に皆人間が持っている問題だから発表したときに、皆さんが同感してくれた。
皆に通じる事を私が描く事ができたことに凄くうれしかった。
自信を持って、自分のアートが皆に共通項を見出してくれたことによって、とっても嬉しかった。
一生描き続けてゆきたいし、何かいつも新しい物を発見してゆきたい。(乃り子)















































 

2014年1月6日月曜日

宮城まり子(ねむの木学園園長)     ・私の子供達、共に生きる日々 2

宮城まり子(ねむの木学園園長)   私の子供達、共に生きる日々 2
日本で初めての肢体養護施設を設立して、芸能界から姿を消しました。
まり子さんの良きパートナー作家の吉行淳之助さんとの3つの約束も伺いました。
それから45年、今は静岡県の掛川市に移転した広大なねむの木村には子供たちが寝泊まりする施設や充御意うを受ける教室作物を作る農園、果樹園のほかガラス屋さん毛糸屋さん雑貨屋さん、子供達ん絵の作品を展示する美術間など、私の子供達共に生きつ日々 をお聞きします。

子供達は「お母さん」、「まりこ」「母ちゃん」 職員からは「まり子先生」と言われる。
現在は72名、5歳~70歳まで 職員は82名 施設を作ったのが45年前。
昭和43年 浜岡町からスタート その時は子供は8名 先生は街の小学校から派遣されてきて4名 施設の広さは2間でした。
建てていたときは怖くなかったが、段々立ってきたら恐くなって子供たち8人顔を見たときには総毛だって、この子らを私が看るのかと思ったら、恐かった。
責任の重さで、責任を持って行けるのかなあと思いました。
お母さんが、お山の中の一軒屋に住んでいて、医者が遠いいとか、学校が遠いいと言って連れてくるのは間違っていると思う。
子供が一番楽しく勉強できて、お友達がいるのが一番いいのではないかと思った。
辛かったことの方が多い。 その前の4年が辛かった。

役所の許可、書類も作るのも、相談する人もいなくて、辛かった。
厚生省も書類に手本も無くて、さよならと言って笑って、出た途端に泣き出したりした。
エレベーターを待っているときに、柱にもたれて泣いているときに、背中からスーッと滑って、降りてきて足を投げ出して、書類を放り出して泣いていた。 他のところでも同様にあった。
職員もTVで知ってはいたが、仕事なので簡単には許してくれなかった。
何べんも何べんも行くうちにいいお友達になってしまった。
役所なので、スーツを着て行ったり、長いドレスを着て行ったりしたら笑われて、お辞儀をするとお尻が全部に見えてしまう様な短いスカートをはいていって、こんにちわと言って部屋中を歩いて回ったらぷーっと皆噴き出して笑った。 それくらいから皆優しくなった。 それから3年掛かった。
舞台に間に合わないので時代劇の真っ白なお化粧をしたまま厚生省に伺ったこともあった。

最初8名 全部覚えている。 
背が小さくて痩せて声も余りでなくて、この子は食べるのが嫌いだという事で、そんなことがあるのかなと思って、何が好きかを聞いたら肉が好きだというので、カレーライスを作った。
食べよう、私もいっしょよ、と言ったら、来て食べた、全部食べた。
そうしたら涙が出てきて、涙が出てきて、お母さんにカレー全部食べたよ、と言ったらお母さんはそうですかといってくれたが、その子を丈夫にしようと思って、食べたよ、食べたよと叫んだが、あっちにも気の毒だったし、私がはしたない女だという事が判って、今でもあの声を覚えています。
今は元気になりました。 10年ぐらいいました。

絵を教えたり、音楽、ダンスを教えたり、自分の能力を発揮できるような教え方をしている。
絵は描いたら、上手いとは言わない、おいしいわという。
「良いわ」と言ったらそういう絵がいいと思ってそういう絵を描いてしまうので、自分で好きなように感じた事を書きなさいと言った母の様にしている。  母の影響が強い。
夕方 「としみ」ちゃんがハーモニカ吹いていて、悲しいという。 
街中に音楽が流れるが、寂しい歌が流れる。
ビクターに行ってジャズのレコードを購入しようと思ったら、ただで10cmの高さぐらいくれた。
それをかけた。 私が箸を持って、私の茶碗を叩いたら、皆が叩きだして、テーブルも叩いていいんだよと言ったらなんでも叩き出す様になった。 子供はビートがある。
うちはそういう曲だけになった。
ボール紙でギターを作って、自分のズボンのゴムを取って弦にして、やっていた。
太鼓、あき缶に小石を入れてマラカス、空の瓶をマイク代わりに歌っていた。
「おかあさんの歌」 を自分たちで作詞作曲をして歌ってくれた。
かあさん かあさん 病気をしないで、心配だから・・・・と言う内容の歌をグランドで歌ってくれた。
本物の楽器を買ってあげた。   譜読みから勉強している。

「ママにささげる歌」 5人のグループの歌
「ママ ママ 優しく僕を愛してくれたね まま、ままごめんね 僕の母さん
ママ、マま優しく生きてゆく心 教えてくれたね 僕の母さん   幸せをくれた母さんの為に
お祈りをしてるよ 昼も夜も ママ、ママ 今ではこんなに大ききなったよ 有難う 母さん
僕の母さん  幸せをくれた 母さんの為に お祈りをしているよ 昼も夜も
ママ、ママ 今ではこんなに大きくなったよ 有難う 母さん 僕の母さん 僕の母さん」

CD,DVDを入れた。
私は一人ずつ稽古をして、私の声がでなくなり、直ってきたが、長ーい疲れだと言われた。
夜中に悲しんだりしたが、私の声と取り換えたんだと思ったら、悲しさはなくなった。
まりこさんが子供たちへのインタビュー。  歌を歌うとおなか減る。? 減る。 
演奏どういう風に良かった? 一曲、一曲違った色と絵が見える様で良かった。
ピアノ、サックス、ベース、ドラム の4人 悲しい音、嬉しい音が出たりして、自分が優しくしないといけないと自分のどっかで鳴っている。
一流のを聞くとどう思う? 僕も一生懸命いつもお母さんに勉強させてもらっている事をもっともっと一生懸命やりたいなと思うし、心がいっぱいになる。
今、抱きしめてあげたい。
じゅんちゃんを、ここのところ抱きしめている。
じゅんちゃん 酷い目にあっているので、愛されていることを教えてあげたい。 
入園時は抱きつくことはしませんでした。
抱っこ、抱っこした。 抱っこ、抱っこした。 頭の能力は1歳半ぐらいです。

子供たちが描いた壁画がある。 掛川市
ねむの木学園前でバスを降りると、桜の木があり春になると凄い 片側に200本、もう一方100本
1997年に掛川市にいく。 
身体障害者 のどかな家(お年寄り) 感謝の心、優しいおうち 星に祈る 吉行淳之助文学館
ドングリの格好をした館(子供たちの絵が展示)
民家もあってそこに住んでいる人たちもいる。
一緒に暮らしているとみじめだと思うのは間違いだと思う。
何にもできなくても、なんにも感じなくても、感じさせるようにしたい。
私ね、もうじき死ぬと思っている。 遺書は半分書いた。
ありったけやって、CD、とか一杯売れたら、もう一本映画をとりたいと思っている。
あそこを守ってくれる人が欲しい。
一人では無理、絵の部、音楽の部それぞれにやってもらいたい。
経営は? それを考えるとなかなか死ねない。 自分の物なんかは買わない様にしている。
心が子供と通じる人がいてほしい。 
























2014年1月5日日曜日

宮城まり子(ねむの木学園園長)     ・私の子供達,共に生きる日々

宮城まり子(ねむの木学園園長)   私の子供達,共に生きる日々
1950年、昭和25年になやましブギでデビュー、昭和30年、「ガード下の靴磨き」で大ヒットします。
その後も数々のヒット曲を歌う一方で菊田一夫の演出の舞台やミュージカルに欠かせない女優と成りましたが、突然芸能界から姿を消して、昭和43年、静岡県浜岡町に、日本で初めての肢体養護施設のねむの木学園を設立し、福祉の世界に身を投じました。
生涯のパートナーとして作家吉行 淳之介さんが亡くなるまで、彼を愛し続けた宮城さんは浜岡町から移転した静岡県の掛川市のねむの木村に吉行淳之介文学館を作り訪れる人に見てもらっています。
ねむの木学園設立から45年、子供達の描いた絵画や、5人の子供達の歌の才能を見事に引きだしてコンサートを開くなど、86歳の宮城さんは休む間もありません。

足が駄目で車椅子に乗っている。
母は眼の下にほくろがあり、弟にも同じ場所とにほくろがあり、拾われえてきた来たのではないかと悩んだが、母はこのほくろは涙ほくろで、悲しいことが多いので、その代わりあなたにはえくぼ付けてあげたと言って、えくぼに喜びを持たせてくれた。
母は最高の人、優しくて、厳しくて、母は結核でずーっと病気で私が12歳の時に亡くなりました。
私は絵が好きだった。 母もベッドの上で描いていた。
(母は絵が上手かったのでどうして自分は下手なのかを聞いたところ)
人が上手だとか、へたとか言ってはいけない、貴方は貴方の絵を描きなさい、私は私の絵を描くので、それでいいんですと、言われた。
それからは思った通りの描く様になった。
手の長い絵をかいたら、先生から見た通りにかく様に言われて、母親とは違う事を言うので、先生が嫌いになり、絵を描く事も嫌いになり、絵が好きで絵描きになりたいと思ったが、絵を辞めました。

父と弟と3人で東京から大阪に父の仕事の関係で行った。
15歳ごろから一人で生きていかなければと思うようになった。
「しかられて」を舞台で歌った。 (1週間だけだったが)
東京の浅草に戻ってくる。  又「しかられて」が始まりだった。 寄席で歌っていた。
其時に菊田一夫さんが益田喜頓さんと一緒に来てくれて、日劇に出ないかと言われて直ぐにハイと返答する。(21歳の時)
大階段を駆け下りてきて歌うのでやったことが無く、怖くて早く行って練習をしてこなす様にした。
「お母ちゃんの手」を作って歌った。
日劇に出ていて、有楽町の階段を落ちて、恥ずかしい気持ちとだれか見ていないかと見回したら、大人達が靴磨きをしていて、そこに一人子供が靴磨きをしていた。
大人の中で子供がやっていることを許せないと思ってしまった。
あの子の事をちゃんとしなければ許せないと思ってしまった。
それが生きてゆくことの困難な人の理解する、気持ちを持ってゆく初めだった。

しかし何もできない状態がずーっとあって、「ガード下の靴磨きに」の詩に出会った。
昭和30年に歌う。   紅白歌合戦に出場して歌う事になる。
私は恥ずかしがりやです。(今でも)
後ろからぽんと押してもらわないと出れれない。
「ガード下の靴磨きに」がヒットしたら、同じよいうなものをやるのは駄目で、新しい物をチャレンジしたかった。
舞台、ミュージカルを沢山やるようになった。 難しかったが、楽しかった。
ニューヨークで新しいもののミュージカルが上演されるとそれを良く見に行った。
菊田一夫 「何もしないで出世する方法」ミュージカル 
全部泥棒の話  島に宝物があるという事で、その島の12歳の少女役をやる。
余り考えることの無い子の役で、脳性麻痺の病院に勉強に行くがここでもショックを受ける。

それが深くなっていった。 この子達をこういう勉強のさせ方をしていいのだろうかと、思った。
もっと自由に自由にやらなければいけないのではないかと思った。
アテトーゼ の役を菊田一雄先生からやるように言われたが、その役は断った。
辞めちまえと言われてワンワン泣いていた。
先生の付き添いの女性から「先生もまりちゃんとおんなじ気持ちよ」といわれて、先生がそのあと来て「明日楽しみにしているよ」と言って、本当はしかったのは優しい心で叱ったのだと思って、自分の思い通りに演じた。
「ねむの木」の仕事をさせてくださるようなきっかけを作ってくださったのも、もしかすると菊田先生かもしれない。
「ねむの木」の仕事については吉行さんには、人の事をお世話しようなんて、思いあがったことをしてもいいなんて、なんてなかなか言えなかった。
身体が悪くて、お金がなくて、病気が治らない子のお手伝いをしていいか、言ったが「思いあがるなよ」と言われて、それから10年して又云った。
「ガード下の靴磨きを」一回やった時の言って、又10年してから言った。

君は10年前から言ってるね。といって
条件は①お金がないと言わないこと ②愚痴をこぼさないこと、③辞めないこと その約束を守れるのならやってもいいでしょうと言われた。
私を辛い目に合わせたくないから、彼は反対していたと思う。
「こんなに良いこと、楽しいことを経験する事はないよ」と彼に言っている。
この頃は言わない、そう言う暇はない。
展覧会をやっているが、絶対見てくれていると思う。






 
























2014年1月4日土曜日

冷泉貴実子(財団法人・冷泉家時雨亭) ・歌を守り文化を伝えて800年

冷泉貴実子(公益財団法人・冷泉家時雨亭)   歌を守り文化を伝えて800年
藤原定家を排出してきました。
蔵の中には国宝5件を始め重要文化財47件がおさめられて、歌会など様々な行事と共にうけつがれてきました。
その冷泉家の第24代当主の長女で、今の第25代当主の為人さんの妻が冷泉貴実子さん66歳です。
冷泉貴実子さんは和歌の文化と公家の暮らしを紹介し、合わせて文化財保護の理解を深めようと、公益財団法人冷泉家時雨亭文庫事務局長として活動しています。
冷泉はどの様にして歌を守り文化を伝えてきたのかお聞きしました。

冷泉家は完全な姿で現存する唯一の公家屋敷として、国の重要文化財に指定されています。
建物の特徴は200年前の建物、当時の公家としては中ぐらいの家とされている。
歌会をするのにふさわしい様に建てられた家と言われている。
簡素に、ちょっと気品のある建物。
門からは中が見えない様に、「立て蔀」と言われて目隠しの様になっている。
「立て蔀」(たてじとみ)は源氏物語などには絵が残っている。
屋根はこけらぶきで こけらはさわらの木を薄く切った木片を重ね合わせて曲線をだしている。
蔵が5つあり、重要なお文庫という蔵がある。 
普通に屋根の様に建物についていない屋根になっている置き屋根作りになっている。。
土壁の厚さが30cmあって、壁土が用意されていて、いざとなると、屋根を取り外して、隙間を目張りをして完全な防火建物になって天明の大火の時にも焼け残った。

お文庫の1階は国宝、重要文化財、典籍、古文書とかを入れている。
2階は神様を祭っている神殿になっている。
和歌の神様とか先祖の神様をお祭りしているが、滅多には入らない。
正月などには門松とかをその蔵にしかしない。 蔵を拝むことが初詣にしている。
歴代の人が皆神様になる。
子供の時からお文庫に近ずくとばちが当たるといわれていた。
俊成、定家は神様だと思っていて、藤原俊成、定家だと判ったのは、ずーっと後で歴史上の人物だと判ったのは小学校の高学年になってからです。

お文庫には点数は千点以上ある。
古今和歌集後撰和歌集 は藤原定家が写したもの。
明月記 藤原定家が生涯にわたって書いた日記。
古来風体抄藤原俊成が書き残した歌論書
拾遺愚草、藤原定家の私家集。
この5件が国宝に指定されている。
47件の重要文化財は、主になるのは 平安時代の詩歌集の纏めたものとカ、鎌倉時代の詩歌集の纏めたものとか、そのほかいろいろある。
俊成、定家は勅撰集、天皇とか院の命令で和歌集が編まれていた時代で、勅撰集の撰者になっていた。 凄く栄誉のあるものだった。 
古今集が一番初めで、室町時代までに21にわたって編まれたもので、一度歌ったものは次からは取り入れることはできないという事で、すごく勉強していた。

編集のための材料 私家集 当時は皆自分で写すか、誰かに写させるかしかなかった。
藤原定家は何冊か本を借りてきて、写し間違いあがあるのでどれが原典に一番近いものなのか正しいのかをを研究したしたのが、子の人の一番の功績だと思います。
日本の古典学者の元みたいな人ですね。
勅撰集を編集するためにそれまで日本にあった古典籍を写した。
公家、貴族たちの仕事の一つだと思うが現在ににこっていない。
一番原典は宮中にはない。
写した本は藤原定家に最終的には行きつく。
大方の日本の古典籍は藤原定家が書き写したから残った。
源氏物語にしても、藤原定家が書いたものが原本になっている。

残ったものは冷泉家にあるものが日本の古典籍の源になったものが非常に多いのでお文庫は大変重要なものです。
800年以上守ってきた。
明治維新以降の歴史で日本の中ではいろいろなことが無くなってきてしまった。
勅布に依ってお文庫を勝手に開けてはならないという命令が出た時代もあった。
戦後古いものに価値を見出さなかったことがあって、外国に出て行った。
そういう時代に守ってきたことが大変だった。
家一つにしても税金対策に追われていて、重要文化財に指定されて、褒めて頂ける要素があるが、60数年前にはだれも価値を見出してはくれなかったし、税金を払えなかったら売ってしまったらどうかと言う風なことが国の指導だった。
両親は凄い苦労をしてしまったようだ。
お文庫が残ったのはばちが当たるという様な事を言われていたので残った様なもの。
価値がないと言われる時代に守るのが難しい。

大火、政変があったが、明治維新の戦乱は所領の人達が走ってきて、箱に収められていて、箱ごと疎開させる。
主人だけが守ったのではなくて、所領の人達とが一体になって守ってきた。
大天才は俊成、定家以外はいなかった。
藤原定家が、日記に高貴政治は我がことにあらずと記載している。 文学の道を目指す。
天才は新しい物を作るが、古い物を破壊した。
変な人もいなかったし、凄い人もいんかあった、きちっとした人が守り続けた文化だと思う。
全国に門人がいて全国との交流を通じてちゃんとした情報を得ていた。
分析をちゃんとしていたというのが良識ある人々かと思います。
明治維新の政変にしても家のものを守ることを主眼にして、そのものを疎開させることを熱心にしていた。(情報は素早く察知していた)

1月1日にはお文庫にお参りに行く、それが初詣。 2日には書き初め。 歌の読み初めでもある。
三が日は雑煮、お説量ろを頂く。 7草
歌会始め 沢山の門人が集まっていただいて歌会をやる。
7月7日の歌会も有名になった。
歌い方 ひこう 和歌だから歌うもの 今でもやっている。
皇居での歌会始めとは違う。 宮中で今行われているのは現代短歌。
現代短歌は明治維新になって文明開花と共に入ってきた芸術という考え方に位置する。
会の主題の中で 例えば「初春」の中でおんなじ気持ちを祝うというのが和歌です。
冷泉家は目に見えないものも守っている。 和の文化の物なのかもしれない。
11月1日 「古典の日」 呼びかけ人の一人  伝統文化を守ると言う事は。
この国の長い伝統文化を守ることは、この国の存在理由かと思う。
それがあるからこの国なんでしょうね。

1000年前の歌が今すぐ理解できる言葉が続いている国は世界にほとんどない。
民族衣装が日常的に、よそいきにしても着ている国はほとんどない。
祭りにしても、日本中に一杯ある、この様に祭りが続いてきている国は無い。
片一方では伝統の文化を守ってこそこの国の存在の意味があると思う。
「もえいずる 緑の草に いななきて 初春いわう 野辺の若駒」 冷泉貴実子さんの歌











 



































2014年1月3日金曜日

ピーター・マクミラン(教授)       ・新富嶽三十六景に思いを込めて

ピーター・マクミラン(教授)     新富嶽三十六景に思いを込めて
アイルランド出身1987年来日以来、日本で暮らしています。
マクミランさんはアイルランド国立大学を首席で卒業後、アメリカのプリンストン大学、コロンビア大学、イギリスのオックスフォード大学で客員研究員として、賢さんを積みました。
現在は杏林大学客員教授、東京大学の非常勤講師を務めています。
翻訳家としては、2008年に百人一首を英訳出版して日米翻訳賞を受賞しました。
又版画家としては葛飾北斎の富嶽三十六景にならい、新富嶽三十六景を製作し、各地で版画展を開催しています。
富士山を愛し、製作拠点を山中湖の別荘にしているマクミランさんです。

日本の正月は数え切れないほど過ごす。
国に帰るのは夏です。  正月は山中湖の別荘で過ごす。
昔、山中湖は凍っていた時期があったが、最近は何年おきに凍る程度になる。
冬の富士山は真っ白くて、すごく綺麗です。
日本人にとっての富士山は私には専門ではないが、私にとっての富士山はインスピレーションの源になっている。
富士山に関する詩を書いたりもしている。
富士山の素晴らしさを世界に発信しようと思って、万葉の時代から現代にいたるまで文学で読まれている富士山に関するものを抜粋して、英訳しました。
万葉集、伊勢物語、源氏物語、古今集とか、江戸時代の能とか。
文化のかかわり(文学、絵画、宗教性ほか)は富士山は世界一だと思います。(外国では無い)

富士山は時代によって違うように書かれている。
昔は恋愛の象徴 噴火している高嶺を見て自分の燃えている心を想像したり、片想い、会えない恋人の情などを示していた。
お能の「はごろも」 天女が降りてきて、そのまま天国に帰ってしまう、 時代に依って。
新富嶽三十六景  富嶽三十六景、物の見方を新しい視点で見つめる。
西斎 と言う雅号(北斎に真似て)
版画のテーマの一つは持続可能な地球、と社会
温暖化に依って水が増えたりする事を皆で考えましょうと、描写している。
新富嶽三十六景は現代の日本はどういう風に見ているかを描いている。
消費社会になっている現代のギャップを描いている。
今は100枚以上ある。  セレクトして本に出来ればと思っている。

葛飾北斎の絵には丸、三角、四角を取り入れている。 
幾何学に依って、写実的に描写ができると、北斎は考えていた。
江戸時代は持続可能な社会。 
これからは世界の人が地球人として地球を考えて行かないといけない。
外国の方にアピールして日本の文化の素晴らしさを見てもらいたい、富士山の姿を見てもらいたいという想いもある。
赤富士が最初 高速道路が富士山の頂上に向かって走っている絵、戦後の日本は経済大国になったが、最近は不要な道路まで作っている様な事も聞くので、この様な作品を作った。
太陽があり、鶴が飛んでいて、鶴の羽根のところが富士山の形になっている絵、富士山が世界遺産になり、それのお祝いに作った。
鶴が世界にとび立ってゆく。(もっと日本文化を発信してゆき、日本の文化の素晴らしさを理解してくれればいいという想いで作った)

日本人が優れた精神性を持っている。 物の考え方が違った思考を持っている。
角を立てない、下手にでる、相手が悪いのではなく、相手に悪いだとか、そういった考え、コミュニケーションが優れていて、それが世界には知られていない。
コミュニケーションが優れている事、気の使い方、調和を取る、相手を思って物事を表現する。
婉曲の美、それによってとても良いコミュニケーションが取れる。
外国、英語圏は率直自分で考える事、表現する事が誠実、そういう事を見せることによって自分の誠意を見せる。
日本文化と出会って、又自分の文化を見直すことにもなる。

アイルランドと日本は共通点はある。
アニミズムの信仰であったり、木に神が宿ったりと言う様な信仰もあり、太陽を崇拝したりすることはある。
言霊、古代のアイルランド社会では詩人の言った言葉が、現実になるという風に言われていた。
おとぎ話 同じ話がある。 浦島太郎と全く同じ話がある。 妖精の話などもある。
日本の民話 人間と動物との堺がない。(人間と同じように動物と言葉を交わす)
アイルランドの富士描いたが、パイプとして広げたい。
日本を世界の人にもっともっと知ってもらえれば、日本は世界の中で大事な役目があると確信している。
摩擦を避ける、宗教観が寛大的、受け入れる精神が世界に広がれば素敵だと思う。
神道 束縛されずに、自然と調和して、今でも続いている考え方は奇跡だと思う。

百人一首を英訳、それを日本語にして本にしている。「百人一首、香り立つ大和心」 
10年前ごろに百人一首を翻訳した。
古典の基礎になっている。
万葉集、伊勢物語、源氏物語、古今集とかは長すぎるので、百人一首になった。
これに依って、日本人の素晴らしい精神性が初めて分かった。
大震災の時に、日本に残るのであれば、社会貢献したいと持った。
大きい夢を持って日本文化を世界に発信しようと思って決心した。
伊勢物語を完成したので、来年にペンギンブックスで出してくれるので世界100各国で販売される。 
最初の年で1万部、ライフワークとして日本文化を発信してゆきたい。
新富嶽三十六景を出して、日本のイギリス大使公邸で行い、売り上げを全部大震災に寄付する。

芭蕉は 皐月富士 夏のさなか、その時の富士山を描写しているが、伊勢物語で登場してきた富士山の姿。  芭蕉は深い教養がある中で、俳句を詠んでいる。
伊勢物語の完成、訳は終了しているが、注釈がまだある。
他に2冊出版社からの要請がある。
展示会が3~4回あるので、新富嶽三十六景の製作もやってゆく。





















































2014年1月2日木曜日

西山和宏(押絵羽子板職人)    ・江戸の華・羽子板の魅力

西山和宏(押絵羽子板職人)  江戸の華・羽子板の魅力
浅草の羽子板市が江戸の風情を伝えています。
1962年 西山鴻月さんの長男として、向島に生れました。
幼いころから鴻月さんの傍らで、押絵羽子板の心と技を学びました。
師匠の技とはよく見て聞いてその通理り行うというのが伝統を継承する基本でした。
和宏さんは高校を卒業して羽子板職人になって、30年を超しました。
2年前鴻月さんが90歳で仕事を離れた為、和宏さんが200年続く押絵羽子板の伝統を引き継ぐことになりました。
江戸の華、羽子板の魅力を伺います。

長唄の大曲、京鹿子娘道成寺 赤の衣装 (父の作品) 
金閣寺の雪姫 ピンクの衣装 (私の作品)
歌舞伎、狂言 昔ながらの女の羽子板も手掛けている。 つまみかんざし 妻が作っている。
正月は羽子板を飾る昔からの風習がある。
2尺羽子板 60cm 桐の板を使用する。(軽さと音がいい)
父が顔を描き、私が衣装を作ってきましたが、父も93歳になるので目が不自由になってきたので、現在は私が全てを作っている。
和紙を数枚を重ねたものを厚紙にしてその中に、軽い綿を入れて布でくるんで花を作ったり人物を作っていたと聞いている。   立体的になっている。

ほとんどが歌舞伎役者  世相を反映したものもある(アニメキャラクター、野球選手等)
1か月に1回程度は歌舞伎を見に言っている。
押し絵と羽子板は別の物で有った。
室町時代の看聞日記と言う書物に最初に出てくるが、京都の公家女官が紅白に分かれて羽根付きに興じられたという文章が残っている。
押し絵は婦女子の(公家の文化から来たと思われるが)自分の着物の残りで花鳥風月を表して、薄い和紙に綿を入れて、きれでくるんだ押し絵細工をしていたと思われる。
歌舞伎が全盛になった江戸時代中期、後期にかけて浮世絵師だろうと思われるが、めでたい羽子板に歌舞伎役者をテーマに作ったら売れるのではないかと思って作ったのだろうと思う。
参勤交代で江戸に来た殿様、家臣がお土産に持ち帰った。

羽根を付くというのは、無病息災を祈る神事の様な遊びの様な。
疫病は夏に発生することがおおく、病原菌のもとの蚊を食べてくれるのがトンボらしい。
羽根をトンボにたとえて、年の初めに羽根を付いて、空気中にある蚊を食べてもらおうという様な事で始まっていると聞いている。
女の子の生れた初めての正月には、羽子板を送るという風習があった様です。
浅草で行われる羽子板市 12月17,18,19日 毎年行われる。 30軒ぐらいの店が出る。
母は88歳になるが60歳までは丸髷を結っていた。
玄関を使って羽子板のミニ博物館で明治、大正、昭和の羽子板を展示している。

始めたのが高校卒業して18歳から33年間やっている。
父は大正生まれで、小学校しか出ていないが、墨田区の伝統工芸保存会が36年前に発足して、当時父親は50歳台後半で、会長職を長くやっていた。
挨拶、講演会等で文章をかくようになって、文章が整ってきたのではないか。
墨田区の名誉区民に王貞治(生れて中学までいた)と一緒に平成22年に表彰される。
人の顔、姿を映している仕事なので気持ちは作品にですので、いい人間でないといけないと言われた。
18歳で言われて、意味をなかなか理解できなかったが、20歳の時にある老夫婦がきて、孫に何を言ったも聞かないが、この人が作った羽子板ならば私たちの想いが羽子板を通して孫に伝わるのではないかと、言われた。 
20歳であったが、心が大事なんだなあと私が感じ、それが現在の私の骨の部分になっている。

剣道で気、剣、体 という言葉があるが この三つが一緒にならないといい到達にならないが、気が一番大事で、気があれば剣と体はおのずと付いてくる。 というたとえ 今、剣道5段です。
部品は50~60有り、綿でくるんで、衣装描いたり、顔をかいたり、かんざしを作ったり、小道具類も作るので手間が結構掛かる。
20本作るのに1ケ月かかる。
最初下図描き、型紙に移す(50~60個)
舞台から役者が飛び出てくるような臨場感、躍動感、迫力がでるのが、飽きの来ない羽子板になる。
歳を重ねるうちに惰性に流される事はあるかもしれないが、向上心が常に物作りでは持っていないと前に進めないと思う。




























2014年1月1日水曜日

坂東玉三郎(歌舞伎俳優)     ・新春に語る私の新たな挑戦

*明けましておめでとう御座います。
 昨年の3月にブログを立ち上げて以来(以前記録してあった内容追加を含め)続ける事が出来 て、新しい年を迎える事ができました。
 今年も引続き頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
 
坂東玉三郎(歌舞伎俳優)   新春に語る私の新たな挑戦
歌舞伎の世界の正月の習わし
後輩が先輩のところへの年始の挨拶、飾りも正月らしくなる。
2日の大阪で舞踊公演がある。 正月はほとんど舞台がある。
1964年6月に玉三郎襲名して(14歳)、今年で50年になる。
お玉という役割 (玉三郎なので) 芝居の途中で襲名の挨拶を行った。
両親が歌舞伎座に良くいっていて、6歳の時には弟子入れが決まっていた。
先代の幸四郎、松緑、勘三郎さんとかを見ていました。
昭和36年の時、十四代目守田勘弥に弟子いりして、39年に養子になった。
尾上 梅幸の弟子が近所にいて、父が飲み友達だったので、歌舞伎へどうというような、ほんのちっちゃなきっかけから歌舞伎の世界に入るようになった。

女形、東洋に残っているが、一番残っているのが日本。
能楽は600年前から女の役を男が演じている。
ギリシャ悲劇、シェイクスピアの劇でも、女の役を少年がやっていた。
段々ギリシャ悲劇、シェイクスピアの劇も女優さんがやるようになった。
能楽、歌舞伎には残った。  俳優業としての一つの分野と成る。
守田勘弥(養父)は立ち役なので女形の事はほとんど教えてはくれなかった。
そばにいた、坂東たもん? ずーっと付いていてくれて、普段のたたずまいを教えてくれる、中村歌右衛門さん、中村 芝翫さん、梅幸さん 多くはこの3人に方から学美ました。
見るという事、初歩的には真似るという事。
先輩とは身体も資質、違うので教えられたことができないことがあるので、自分なりに消化するにはどうするかと言う工夫をする。

あまり壁にぶつかったことはなかった。
精神的にも、肉体的にも疲れる事で、すこし調子が落ちることはあったが、自分がこの道を進んでいいかどうかという様な事は悩まなかった。
不調の壁はたまたまあった。 ただただやってきたことでしょうか。
1960年代70年代 ラジオなどで音楽を流しながら語る番組が沢山企画され、洋楽が多かったが、邦樂で出来ないかと言うNHKからの話がありまして、「玉三郎の邦樂ジョッキー」
1976年4月から1年間行う。(26歳)  楽しくできた。
現代劇、バレー、映画監督、シェークスピア劇への出演、演出などいろいろな分野に挑戦する。
世の中の外に出たところから、自分の位置を客観的に見たいという気持ちはあった。
松緑、幸四郎さん等もオセロ、ベニスの商人 とかをやっていて、自分もそういうものをやってみたらどういう風な歌舞伎に対する見方が、変わってくるだろうかという事で、マクベス夫人をやり、松緑さんがオセロをやるという事でオセロののデズデモーナをやらせていただいた。

歌舞伎ならば歌舞伎の世界の人達と作っていくわけですが、新劇と言うか、そういうところから集まってきて、俳優もいろいろなところから集まって、新しい舞台を作ることを知るわけです。
自分の演劇的な広がりも出来るし、やったことによって他の演劇を見ることができる。
大変大きな意味でした。
次は海外の物がみられるようになり、オペラ、バレーを見たりだとか、20歳台にやって、演出にも興味を持つようになった。  映画も見たり勉強した。 
演劇は総合芸術なのでいろんなものを見なければいけない。
自分のやってきた中で、歌舞伎以外は1割は無い、5%以下ではないか。 
新派は多くやらせてもらったが。
沖縄の組踊に挑戦  
能楽にも近いところもあり、組踊がどんなものかというものを知りたかった。(体験して判る)
もともとは踊りが元で、琉球王国の王朝の踊りに近代になって物語が付いてきたもので、沖縄独特のもの。

『聞得大君誕生(ちふぃじんたんじょう)』
新作組踊 琉球王国をおさめる王の妹の役 神事をつかさどる。
地元の沖縄の芸術大学を卒業した人達は本当に熱心で一緒にやらしてもらって幸せでした。
古典に目を見ける人たちが少なくなってきている中で、こんなに若い人たちが古典を愛している事に対して勉強になった。
東京の国立劇場で3回、沖縄の劇場に3回 全て超満員だった。
2008年 中国の崑曲 蘇州の崑曲がもともとになってきたに向かっていった。
京劇が出来てくる。 『牡丹亭』に巡り合う。日本の牡丹灯籠に影響を与えている。
とうとう言語でやることになる。(蘇州語で行う)
音楽がすばらしかった。 若い方々が熱心であった。

趣味は海に入る事 兄がダイビングの草分け的な存在で、ショップをやり始めて遊びに行っていた。
10数年前からダイビングを始めました。
甥が素潜りを研究しているので、素潜りから始める。
免許がないと機器類を取りあつけえないので、免許を取った。
2000年に鼓童の人達から呼ばれて、アマテラスと言う事で共演しました。
2012年から芸術監督になってほしいといわれて、将来の方針を出したり、ツアーの新しい作品を作ることをしてほしいといわれて、受ける事にしました。
培った総合的なものを古道の皆さんと新しく創作したのが「アマテラス」です。

その日その日を精一杯やるのが自分の方針ですし、本当に明日明後日、来年がどうなるかわからないので、健康で全力で舞台に上がれるというのを願うのが一番の抱負です。
健康で有れば舞台に対する力も十便に発揮できるので、願いは出来る限り健康で、皆さんに心地よい物を舞台でお見せできる身体であります様にとう事ですね。
全力でやっていけば、自然の流れがいい方に、、いろんなところに運んでくれて言ってくれると思います。
人対人で伝えることが一番大事だと思います。
その場その場で最善を尽くして伝える。
私たちの下の世代が頑張ってきているので、その後ろ盾になれればと思っています。