2021年8月31日火曜日

半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

 半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

1930年(昭和5年)東京都生まれ。  60代で出版社を退職後は執筆活動に専念し、特に昭和史に関する作品が多く歴史鑑定として知られています。   今年2021年1月12日に亡くなりました。(90歳)   奥様の半藤末利子さんは東京生まれ。  父は作家の松松岡譲、母は夏目漱石の長女筆子、現在新宿区立漱石山房記念館名誉館長を務めています。   最近夏目家のエピソードやご主人との日々の暮らしから別れまでを綴ったエッセー集「硝子戸のうちそと」を出版しました。   

私が小学校3年の時(昭和19年)、11月に疎開しましたが、兄と主人が長岡中学でお友達だったので、うちに遊びに来ていたりして知り合いでした。   東京に戻ってきて年ごろになったころ又会いましたが、主人は勤めをしていたころで吃驚したといっていました。    5歳年上でしたので、私はもっと若い人に目移りがしてしまいますよね。   惚れてくれて一緒になりました。  望まれて一緒になるというのは、大事にしてもらってあとになって本当にいいと思いました。  家でも「末利子さんん」と呼ばれて言葉使いも優しかったです。   「愛している」という言葉はいつも言っていました。   威張るとか怒鳴るとかは全然なかったです。   酒が好きで80代になったら家ではお酒は2杯までと、私の方から言っていました。  外では結構飲んでいて、お酒で亡くなったので本望だと思います。  89歳の時に飲んで帰ってきて、転んで大腿骨骨折して手術してリハビリをしたが、骨がくっついていなかったようで、それを知らずに痛みをこらえながらリハビリを続け、改めて人工骨を入れる大手術をしました。  家に帰ってきて、2階に昇る練習をしたり、原稿を書いたりしていました。   「家で死にたい、家で死にたい」、と言っていました。  体力の限界を感じていたのかもしれません。  

「硝子戸のうちそと」の最後のほうの部分。                      「夫は自分の死は近いことを予期していたと思う。  「コロナの時代に一つだけいいことがあるとすれば派手な葬式を誰もやらなくなったことです。   どうか私が死んだときも大げさなことは一切しないでください」、と何度も繰り返して言っていた。   彼は夫としては優等生であった。   あんなに私を大切にして、愛してくれた人はいない。  ほんの4日間だけ下の世話を私にさせたことを、「もったいない」と嗚咽をこらえながら「あなたにこんなことをさせるなんて思っても見ませんでした。 申し訳ありません。  あなたより先に逝ってしまう事を本当にすみません。」としきりに詫びるのである。」 

2階から降りてゆくときに覗いたら、口を開けて寝ていて、いつものことだからと思っていたら、娘が息をしていないのを発見しました。  腰が抜けるぐらい吃驚してしまいました。    前の晩に遺言を残して言っていました。   「墨子を読みなさい、ずーっと戦争に反対した人で、中国の2500年前の思想家の人だけど、そういったんだ」という事を言いました。   言い終わったら、ほっとした様でその後寝息が安らかでした。      (*非攻(ひこう)とは、春秋戦国時代の中国において、諸子百家のひとり墨子による非戦論平和主義の主張である。兼愛交利、勤倹節約説より導き出された墨家の基本思想(墨家十論)のひとつ。)    

まだなかなか落ち着きません。   後悔というよりも、あれ以上は出来なかった、という思いがあり仕方のないことだと思います。    母も長く介護しましたが、50代だったので体力が全然違いました。  

「硝子戸のうちそと」のあとがき                          「もし来世があるなら、私はまた夫のようにぴったりと気の合う優しい人と結ばれたいと切望している。」

私は我儘なところもありますので、あの人は本当に良かったなと思います。  我儘も全部許してくれました。  あんなに優しい人ってあんまりいないと思います。





 

2021年8月30日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】夏

 今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】夏

今年はイノシシがよく出現しました。   根っこの部分は栄養が蓄えられているので、そこを掘るんでぐしゃぐしゃになったりしました。   鍬でならしてやると2年ぐらいで再生します。  8月上旬に里山昆虫教室を行いました。  コロナ禍でしたが、いろいろ対策を立てて100名ぐらいの参加者で、スタッフをいれると120名ぐらいでした。  今年で24回目になります。  大雨の日があって、部屋の中で出来るいろいろなことをやっていました。   3日目は天気が良くてたくさんの昆虫に出会えて子供たちは大喜びでした。  子供たち同士の交流も出来ます。   琵琶湖の湖岸の砂浜に珍しいトンボ、メガネサナエが羽化するんです。  里山まで来てまた帰っていって卵を産みます。  飛び立つところが見られました。

開墾して6年目で山桜が今年は綺麗に咲きました。   植えたクヌギも大きく成ってきて樹液が出るようになり、カブトムシなどがいっぱい来ています。   子供の頃図鑑をよく見ましたが、絵本と似ていますね、物語を作ります。   子供の頃蝶が好きで全国の蝶の名前を全部覚えました。(180種類ぐらい) 今は240種類ぐらいいます。  蝶には前羽(大きな羽)と後ろ羽がありますが、眠る時には閉じて一つに重なってしまいます。

「小さな里山をつくるチョウたちの庭」 という本を5月に出版しました。   今75種類ぐらいの蝶がオーレリアンの庭で見られます。  当時30年以上前は里山の環境がなくなってゆく時代で、狭くても里山を再生したかった。  生き物を集める庭つくりから始めました。   まず蝶をターゲットに思い立ちました。    蝶は環境の豊かさを測るのにもってこいの生き物です。   幼虫は植物の葉を食べます。  種類によって好きな植物が違います。 何種類もの蝶が住んでいるという事はそれだけ多様な植物が生えていて、環境が多様であるという事です。  30年以上をかけて蝶の庭を少しずつ作ってゆく事になりました。   植物は日当たりのよいところが好きなもの、湿っているところが好きなものなど種類によって様々です。   この庭のお手本は里山、自然と人との営みがどちらも壊れることなく共存している。  

オオムラサキだとエノキしか食べない。  決まった植物しか食べない、そういった蝶が多いです。   蝶のお陰で細かい環境を注意するようになりました。  

写真を撮る行為は客観性が必要で、中に入ってると駄目なんです。  環境農家になって環境作りのこともそうですが、写真家としてのこの仕事をこれからどう考えてゆくかという大きなポイントでもあるわけです。  農薬も使わないし、有機的です。   子供たちもそこで遊んでもらいたいと思っています。   農家の方たちと外からやって来る人たちとの交流は絶対必要で大事なことです。   後継者がいないという事は全国的なことで、交流をすることで土地、棚田、田園の新しい可能性が発見できる、そういったものに繋がるといいですね。   











2021年8月29日日曜日

沖澤のどか(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】指揮者が語るオペラの魅力とは

 沖澤のどか(指揮者)        ・【夜明けのオペラ】指揮者が語るオペラの魅力とは

青森県三沢市生まれ、青森市育ち。  小学校から高校まで地元のオーケストラに所属、東京芸術大学指揮科を首席で卒業、大学院終了後ドイツに留学、2018年東京国際音楽コンクール指揮部門で第一位、及び特別賞、齋藤秀雄賞を受賞。   2019年9月21日、第56回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、同時に聴衆賞及びオーケストラ賞に輝く。  現在はベルリンフィルハーモニー管弦楽団で常任指揮者のキリール・ペトレンコ氏のアシスタントを務めています。

現在34歳です。  オペラは子供のころは全く見たことはなかったです。  子供のころからピアノとチェロとオーボエをやっていました。   叔父がチェロを弾いていて、その影響で姉がチェロを初めてその影響ですね。   まずピアノを始めて夢中になって、それからチェロを習い始めました。  地元の青森ジュニアオーケストラで姉と一緒にチェロを弾いていました。   高校2年の冬に進路を決めるときに音楽の道へと決めました。  東京芸術大学の指揮科を選びました。   東京に来て環境の変化になかなかついていけなかった。  付け焼刃で勉強したので周りとの劣等感を味わいました。  そんな状況の中で体調を崩して2年、3年目にはご飯も食べられず、夜も眠れなくなり、病院に行って不安障害と言われて、休学してしばらく青森に帰ってきて半年休みました。   在学中から学校の外での講習会に参加していて、下野達也先生のマスタークラスに何度か参加していましたが、そこで初めて才能があるといわれて、先生からもう少し芸大で頑張ってみなさいと言われて復学しました。    担当の先生が変わったことが大きくて、どう勉強を始めればいいかという、とっかかりがつかめたような気がしました。   それからは勉強に集中できるようになりました。 高崎先生につきたいとそのまま大学院まで進みました。  

声楽の友達が出来て、声楽に魅了され始めて、オペラも自然に聞くようになりました。  日本で学生がオペラを振る機会なんてないので、自分で演出して合唱もオーケストラも自分たちで集めて手作りでやりました。(椿姫)   2011-2012年、オーケストラ・アンサンブル金沢で副指揮をしていました。  事務的なこともやったので、オーケストラを全体から見る経験が出来、凄くよかったです。 

*オペラ「椿姫」から「さようなら 過ぎ去った日々よ」 歌:グルベローヴァ

ヨーロッパではオペラ指揮の授業が体系的に組まれているので、本格的に学びたいと思って留学を決めました。  角田さんにベルリンのハンス・アイスラー音楽大学を紹介されて行きました。    生活すべてが勉強になるという感じでした。  現代音楽、古楽、美術とかいろんな授業が毎日あり、英語かドイツ語で、気が付いたら積み重なっていたという感じです。   手当たり次第にコンクールに申し込んで、その一つが第56回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝できました。  

自分が大人数をまとめようという事ではなくて、自分が出す音楽がよければ自然についてくると思うので、難しいんですが、解放されるようになりました。  「ばらの騎士」は将来振ってみたいオペラの一つです。

*オペラ「ばらの騎士」から「三重唱」







 

2021年8月28日土曜日

嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

 嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和17年静岡県生まれ、雑誌編集社を経て作家活動に入りました。   軽妙洒脱な作風で多くの著作を世に送り出し、平成18年に出版されました「悪党芭蕉」は泉鏡花文学賞、読売文学賞をダブル受賞しました。   現在も25年目に入った週刊誌のエッセーなどを中心に毎日原稿用紙に向かっています。  その博識ぶりを余すところなくパワフルに語ってきた嵐山さんですが、語りと縁を絶つという人生の岐路がありました。   そして作家と編集者両方の顔を併せ持つ作品世界の原点はどのようなものだったのでしょう。   来年80歳、大きな節目を前にした人生の楽しみ方についても伺いました。

以前NHKの「新話の泉」に出演、「深夜便」も聞いています。  昔はラジオを箪笥の上に置いてあって、「笛吹き童子」などの物語が空から降ってくるようにして聞いていました。  母は104歳で1階に降りてゆくと「深夜便」を聞いたりしています。  著書は200冊ぐらいあると思います。  連載をもとにして書き直して本を出版することになります。  締め切りは気になりません。   1997年からスタート、時事ネタ、エッセーなどで話をつなげてきました。   メモをもっていろいろ観察しています。  25年目に入りました。  

1980年代に不況になって会社が倒産するところも出てきて、私がいた会社も240人いましたが、希望退職を募りました。   温厚な総務部長が先にいなくなり、学者肌の人もいなくなりました。(行方不明)     新宿西口バス放火事件(路線バスの車両が放火され6人が死亡・14人が重軽傷を負った事件)があり、或る38歳の男が気になり、記事になって、自分でも調べてみようと思いました。   住所不定者が西口に200人いると、その社会にルールがあってみんな仲がいいんです。   人間は社会的動物だという事がつくづく判りました。  路上生活をしてみて変わったことは特にないです。   

編集者は若いころはかっこいいなあと思っていました。  編集者をやってみてわかったのは接客業だという事でした。   30代で編集長をやったので、老人化してしまったと思います。   会社で人員整理をした時に、精神がカタっと変わる時があったと思います。

「悪党芭蕉」ですが、中学3年の古典で「奥の細道」が出てきました。  修学旅行が東北で芭蕉のコースに繋がるわけです。  芭蕉の人間的なものを見たいというのが一つありました。   「古池や蛙飛び込む水の音」は有名ですが、世界100か国に翻訳されていますが、「さや岩にしみ入る蝉の声」のほうがよく知られています。  13歳で父親を亡くして、若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え俳句を習う。  さや岩にしみ入る蝉の声」というのは自分がえていた蝉吟という蝉のことだと思っています。  芭蕉が23歳の時に蝉吟が死ぬんです。  29歳の時に江戸に来て俳句の修業をして、奥の細道に出て、46歳の時に山形の山寺でさや岩にしみ入る蝉の声」を詠むわけです。   蝉吟を追悼しているわけです。

水道工事人だった、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。   

和歌になんで貴族は夢中になってやるんだろうと思いますが、和歌を知らないと貴族は生きて行けなかった。   何故かというと和歌は政治用語だった。 比喩、貴族の政治は断定しない、言質をとらない、比喩で聞いて比喩で答えるという日本の政治風土は平安から始まって、和歌は文芸でありながら政治用語であったということで、延々日本の歴史にあるわけです。  日本人は情緒的な民族ですが、今はそれが壊れてきていますね。  目に見えるものしか信じるのではなくて、目に見えないものが一番大事なんだという考え方の日本の伝統に繋がって来るんです。   そういう流れで、万葉集、古今集、新古今集を読んで、芭蕉、西鶴など読むと繋がって来るものがあって、それを我々が話したり書いたりしてゆくことがものすごくおもしろいし、いつまでたってもやめられないですね。 

仕事場が神楽坂にありますが、下り坂が気持ちがよくて、上り坂は嫌ですね、下り坂が快楽ですね。  老いてゆくというのは下り坂を楽しむわけですから、『「下り坂」繁盛記』を書いています。  下り坂の価値を身体的に覚えると、下降してゆくことが面白いんですね。 





 

2021年8月27日金曜日

田村淳(タレント ロンドンブーツ1号2号)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】

 田村淳(タレント ロンドンブーツ1号2号)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】

田村淳さんは1973年山口県生まれ。  高校卒業後上京し、1993年田村亮さんとロンドンブーツ1号2号を結成、1999年からテレビ、ラジオ番組の司会に進出し、多くのファンを獲得します。  又ソロでの活動も行っていて、司会のほかロックバンド「jealkbジュアルケービー」を結成しライブを行うなど活動の幅を広げています。  2013年に結婚し、現在二人の娘さんのお父さんです。  

2006年大河ドラマ「功名が辻」に出演しました。  山口県出身で高杉晋作さんが大好きです。   「母ちゃんのフラフープ」というメインは母ちゃんがどのようにあの世へ旅だったのか、どういう風なメッセージを僕に残して、どういう風なことをかなえてほしかったのか、父と弟と僕が母ちゃんの死にどういうふうに向き合って、母ちゃんがこういう風に死にたいんだという思いをちゃんと寄せられたかというようなことを本にしました。   母ちゃんのガンが発覚したのは6年前です。  27年前から母ちゃんは延命治療は一切しないから、という事を僕の誕生日ごとに言っていました。  手術をすれば完治するものだという事で母ちゃんも納得しました。   トライしましたが、結果再発してしまいました。  自分の死に方を伝えることは、実は自分の生き方を伝える事なんだという事を僕は母ちゃんから教わりました。

大学院に行って遺書の研究などをしていたので、大学院を終了した証を、母ちゃんに見せたかったが叶わなかった。  本の最後の方には修論の一部を抜粋したものがあります。   今のほうが母ちゃんのことを思うほうが多くなっています。  母ちゃんへの憧れ意識はなかったけど、母ちゃんが死んだ後にそれを深く感じる様にはなりました。  母ちゃんは「いろいろやってもいいけどいやだったらすぐやめなさい」、と言っていました。    かっこいいなあと思っていました。  母ちゃんの視点だと僕は42歳までが反抗期だったようで、気苦労が絶えなかっただろうなと思います。  娘が二人いますが、娘のことを考えない日は一日もないです。  それと同じように母ちゃんは考えていたのかなあと思います。 

自分自身が自分であることを誇りに思う、自己肯定感、自分に自信のない子にはなってほしくないと思います。   

僕が小学校3年生の時にいじめを受けていたんですが、或る瞬間から突然いじめが始まりました。  憧れのジャッキー・チェインのヌンチャクを作って早く教室に行っていじめっ子をヌンチャクで痛めつけたという事をしました。   学校からも怒られて、被害に遭ったお子さんたちが僕の家に来て、うちの息子たちになんてことをするんだという話でしたが、母ちゃんはうちの子が一方的に悪いから謝りなさいと言って、納得できないまま、「ごめんなさい」と言いました。   次に母ちゃんは「うちの息子をいじめたのはあんたたちなんだから、あんたたちが今度は謝る番だ」と言って、親御さんがいるなかで言ってくれたのがうれしかったです。   母ちゃんは芸能界に入ることは認めてくれなかったけれど、亡くなってから母ちゃんは僕のニュース(新聞、雑誌)をスクラップしたのが出てきて、あのころからそういう風に思っていてくれていたんだと、楽しんでいてくれたんだとあとから知りました。

母ちゃんからは「興味あったり関心があることは、あなたの責任において人に迷惑を掛けずにやりなさい」と言われていたので、守られているような気がいつもありました。  芸人はこうでなくてはいけないというような、固定観念を壊すことができたのは母ちゃんのお陰だなと思います。   

2019年に慶応大学の大学院に進学、遺書の研究という事でメディアデザイン研究科に行きました。  遺書の動画サービスを思いついた時に、ネガティブなイメージがあるもので、タブーに触れてはいけないのかどうか、そういった興味がある中で、たまたま青山学院大学の住吉教授が法哲学という中で、タブーとされているものをあえて議論して、正解はないが議論することが正解なんだという面白い授業をしているので教えを請いたいと、青山学院大学を受験しましたが失敗しました。  メディアデザイン研究科があることを紹介されたのがきっかけで入れました。   思い描いていた学びの場所とは違っていました。  自分に積極性がないとおいておかれる所だと思いました。  遺書の動画サービスをどう構築していけばいいのかとか、ロゴとか、動画サービスのポリシーとか、学ぶことが出来ました。  

遺書の動画サービスの研究するに当たり、まず遺書とは何だろうというところから入りましたが、8割から9割の人が遺書に対しててネガティブなイメージを持っていました。   自分で娘に対しての遺書を書いてみました。  他人のために書いている遺書なのに、自分がどう生きたいとか、自分ってどういう人間でいたいとか、凄く明確になる感覚を強く感じました。  SNSで遺書を書く人を集めました。  2000人ぐらいに触れあいました。 書き始めはネガティブだったものがポジティブに変わってゆくことをみんな体験してゆき、行動にまで変化が起こるぐらいでした。  そのことから動画での研究をし始めました。  遺書動画も同じような効果がでました。  

娘が生まれて、「僕は君のためだけに生きないからね」と言おうと決めていましたが、娘を抱いた瞬間に「やっぱり、君のために生きる」と第一声で言いました。 長女、次女共にそういいました。  娘と相談し合う場所を決めていて、そこで娘の相談を受けたり、こちらのことなども話し合います。  単純に好きなことをして行ってほしいと思います、他人に迷惑をかけないように。  4歳ですが英語を習いたいという事で英語をできる幼稚園にしようとか、楽しみです。   生きる場所の選択肢が増えるので、選択肢が増えれば豊かな人生だととらえられるので、出来るだけ選択肢を多く与えたい。  僕も頑張って英語の勉強をしたいと思っています。

母ちゃんの手作り味噌がうまかったので、母ちゃんの味噌のレシピを再現したいと思って、畑を借りて大豆を作る事から始めています。  娘とはいつまでも悩みを打ち明けられる間でいようねという風に思っています。













 


2021年8月26日木曜日

魚戸おさむ(漫画家)           ・【私のアート交遊録】幸せな人生の終わり方とは

 魚戸おさむ(漫画家)         ・【私のアート交遊録】幸せな人生の終わり方とは

魚戸さんはこれまで家庭裁判所の判事を主人公にした「家裁の人」や「玄米せんせいの弁当箱」「ひよっこ料理人」といった食育をテーマにした漫画で人気がありますが、今は終末期医療、在宅の看取りをテーマにした漫画、「ハッピーエンド」が注目されています。   物語は函館を舞台に在宅支援クリニックを営む若き医師が様々な在宅の現場と出会いつつ、より良い看取りを目指してゆく話です。  新型ウイルスの感染拡大があたりまえな日常を一変させた中で、在宅医療に何が出来、家族にとってのよき看取りとは何か、在宅看取りケアの世界を通してみる幸せな人生の終わり方とはどういうことなのか、魚戸さんが漫画に込めた思いを伺いました。

「ハッピーエンド」の連載が一回終わったんですが、コロナが爆発したので「コロナ編」をやることになりました。   在宅医療をやってるクリニックはうちの近所にもいくつもできて、その車も走っていて、何故小さい車なのかなあと思ったら、小さい路地にも入って行かなければいけないのですが、僕の場合は大きな車にしてしまいました。   この漫画を描こうと思ったのは、患者側の話を書きたいと思ったのが、最初でした。  家族のところにやって来る医者のつもりでいました、あくまで家族の姿を書きたかった。   身内でガンでバタバタと3人、4人と死んでいって、人の死は特別なことではなくて日常よくあることなんだなという事を感じたので漫画にしました。   コロナでは先生の取材をしたかったができなかった。   知り合いの在宅医療の先生にメールをして何とか作っては見ましたが、本当に思うようにはできませんでした。   コロナの異常さを肌で感じました。

コロナによって在宅医療がどう変わったのか聞きましたが、やることは何も変わっていないという事でした。    病気に向き合っているのではなく、人に向き合っているので変わらないと、根本はそこみたいです。   

「ハッピーエンド」を読んだ人は感想が二つに分かれていて、在宅を経験された方は身近に感じてよくわかる、涙なくして読めませんという方たちがいた半面、経験しているんで読めませんという人たちがいるんです。  僕は看取りの経験はないのですが、多分こういう事になるだろうと想像し、先生にも聞いて確認するとか、リアリティーを描きたかった。  コロナで病院に入っている方は治療も済んで家に帰りたいんだけれども帰れないという人が去年も今もいらっしゃいます。  在宅を選ぶ人は帰れる。  病院にいたら家族に会えない、自分の好きな時に家に帰れない、その苦しみは想像を絶すると、体験した人からも聞きました。 

在宅医療に関してはこの本を書くまで、細かく知りませんでした。    祖父などは自宅で亡くなっているので、またそういう時代になって来るのかなあと思います。   出合う先生によって本当に違うという事はメディアなどを見ても思います。  モデルになっている先生は何人かいてそれをミックスしてあのキャラクターを作り上げました。  兎に角患者に寄り添う、自分がしゃべるのではなく、患者にしゃべって貰う。   死をネガティブではなく捉え、感じさせるか、という事もあります。   寄り添う事は誰にでもできるような気がしますが、或る先生から僕たちは寄り添うんじゃなくて、向き合っているんです、とおっしゃいました。   寄り添う、と向き合う事の違い、向き合うほうが深いというか、患者と、家族と一緒に一体になってその先を進んでゆくという事で、寄り添うというよりももっと奥深さが向き合うという中にあると思って、それを意識して書いたつもりです。 

この医師はスーパードクターではなくて、治さない医者が世の中にいるんだという事をこの在宅医療漫画を描こうと思った時に知って、患者さんと向き合ってどうやって幸せに、充実した時間を過ごしてもらえるのか、という事を考えてくれる医者がいるんだという事が、或る意味自分にとってショッキングでした。   在宅医療漫画の知られていないところを書けると思って、こういう先生を作りました。   日本は死について一番考えない国民だという事を読んだことがあって、死が身近ではなくなった。  ほとんどの人が病院で最期を迎える。  男性よりも女性のほうが死について身近に感じています。  女性が面倒を見なければいけないようなことが意識のなかにあるのかもしれない。  

百家族あれば百家族の物語があるはずなので、百通りの物語が発生するんだと思います。  いくらでも書けるとも言っていましたが、想像を絶する消耗があって、これは長くは続けられないというところは正直有りました。   人の死を漫画で描くと本当にエネルギーを消費すると先輩に言われたことがありましたが、いざ書き始めたら本当だったんだなあと思いました。   読み進んでいくと優しい感じになれるのが、この漫画の一番の目的だったので、亡くなる人を書くわけですが、悲しいことばっかりではないよねという事が自分の中にあったので、死が日常の中の一つだという事が判れば、その日常をどうやって穏やかに過ごすかという事が大切になって来る。   死ぬという事を考えることはどうやって幸せに生きるかという事を考える事なんだという事を読者に一人でも多く伝えたかった。  自分で書きながら学んでいったという経緯があり、テーマとしては全部繋がっているなと思います。

函館の生まれなので、函館のいい景色などを入れてみたいと思って書き入れました。   函館観光大使にも市から依頼されました。  

選択肢に病院で最期を迎えるのと、自宅で最期を迎えるという選択肢があることを、元気な時から知っててもらって、いざそうなったらどちらにするか、意思表示が出来るときにしておいた方が、最後の充実感が違うと思います。  最後を誰とどうやって過ごしたいか、どっちが自分に向いているのか、自分で決められる今は状況なんだと、忘れずに過ごすことは大切だと思います。    お薦めの一点としては師匠の村上もとか先生が「JIN-仁」という医療ドラマを書いていますが、以前先生と一緒に書いていた「クライマー列伝」という山岳漫画がりますが、生と死を描いた作品で是非読んでいただければと思います。







2021年8月25日水曜日

2021年8月24日火曜日

やべみつのり(絵本・紙芝居作家)     ・「ぼくのお父さん」はぼく

 やべみつのり(絵本・紙芝居作家)     ・「ぼくのお父さん」はぼく

1942年大阪生まれ、1歳からは父親の故郷である岡山県倉敷市で育ちました。   高校卒業後広島の自動車メーカー(当時の東洋工業 現在のマツダ)に就職、宣伝部に配属されカタログやポスター、パンフレットの制作などに当たりました。  23歳の時、知り合いを頼って上京、イラストレーターとして活動をはじめますが、行き詰まってしまい、そのころであった奥様との間に生まれた2人の子育てをしながら、造形教室を16年間主催、その後は各地で造形遊びや、紙芝居作りのワークショップを開いてきました。   実はやべさんの息子さんは手塚治虫文化賞短編賞を受賞した「大家さんと僕」の作者であり、お笑いコンビ「カラテカ」の矢部太郎さんです。   今年6月に出版された「ぼくのお父さん」は太郎さんが父親であるやべみつのりさんを描いた家族漫画です。   すでに10万部を超えるベストセラーになっています。   子供を見守りながら同じ目線であそんでのびのびと子供と向き合って来たやべみつのりさんに伺いました。 

紙芝居をリモートでやることはもどかしかったですが、学生はそれなりに伝わったよと言っていました。   紙芝居は日本で生まれました。  1930年ごろと言われています。    2030年には紙芝居がちょうど100年になります。   紙芝居文化推進協議会というのがありまして、副会長を担当しています。 

*お笑いコンビ「カラテカ」の矢部太郎さん、「大家さんと僕」で受賞されて漫画家としても活躍されていて、今年になって「ぼくのお父さん」を出版されました。  

太郎は1977年生まれですが、僕にとっていろんなことがあった時で、漫画の中で時間が戻れるという気がします。  造形教室をやってくれないかと頼まれたことがありました。  それがきっかけで四谷で始めました。   子育てをしたという事には僕にはちょっと違和感があります。   

倉敷市の小さなお寺で育ちました。  楽しかったのは街頭紙芝居で夢中で見ていました。 悲恋ものなどドキドキしながら見ていました。  子供は6人だったので母親も大変だったと思います。  母親の目を自分に向けさせたいのでコメの中に泥を入れたりしていたずらもしました。  壁とか土壌に絵を描いたりしていました。  中学では校内マラソンがありましたが、いつも最後まで走れなくて歩いていました。  夕暮れに練習をして、走ったら2番になってしまいました。   それが自信になった最初でした。  高校の頃は陸上部のキャプテンをして高校駅伝に出たりしました。   岡山工業高校では技術工芸科があり、そこに入りました。   当時の東洋工業(現在のマツダ)は初任給が一番良かったのでそこに就職することになりました。   宣伝部に配属されました。  子供が工場見学に来た時に渡す、車が出来るまでの冊子など力を入れてやりました。   会社の寮にいたのであまりお金は使わないので、さっさと家にお金を仕送っていました。  

小説家の庄司薫さんとの出会いがありました。  ドラマに感動して大きなクジラの絵を描いてNHKに送って、作者に届けてほしいという事をしてしまいました。  手紙が来て東京に来ることがあったら連絡してください、とありました。   ほかの人との出会いもあるなかで東京に行くことにしました。   庄司薫さんと一緒にいろいろなところへ連れて行ってもらい仕事の斡旋をして貰いました。    仕事に行き詰っていたころに、妻となる人との出会いがありました。   「ぼくのお父さん」に描かれているように、結婚して子供が生まれて父親になって、育児日記を夢中になって書きました。  毎年手造りの絵本を子供にプレゼントしました。   3歳目が「かばさん」という絵本になりました。  1977年はエポックの年で、太郎が生まれたし、造形教室を始めたのも同じ年でした。  東京保育所を訪ねたのも同じとして、山崎さんという所長さんがいて、大家さんに出会ったような感じでした。  子供を見るということはどういうことかと言う事を教わりました。  子供が教えてくれるでしょうといわれました。  

山崎さんが退職することになって、何かプレゼントをしたいと思って、山崎さんのことを紙芝居にしたいと思った。   「おしいれのぼうけん」などを書いた田畑精一さんが、たまたま山崎さんの原画を描いたものを見る機会があり、それをきっかけにして紙芝居が生まれ、絵本が生まれて行きました。  「ひとはなくもの」という絵本は孫との共作になります。   この絵本は中国とベトナムに出版されることが決まって居ます。   下手上手いではなく、自分の絵を描きたいですね。  

2021年8月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】ビートルズ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】ビートルズ

 彼らのデビューは1962年、今から60年前の事です。   全世界へ計り知れない影響を与えてきたビートルズの曲と名言のいくつかを改めていくつかお聞きいただきます。 

「昨日ははるか彼方にあった苦悩が、僕の元に居座ろうとしている。 ああ、すべてが輝いていた昨日、ふいに僕は今までの僕ではなくなった。  暗い影が僕に重くのしかかる。   ああ、悲しみは突然やってきた。  昨日。」  ビートルズ イエスタデイ」 (Yesterday

1962年10月5日にシングル盤ラヴ・ミー・ドゥ』でデビュー。            1970年4月10日に解散。   活動期間は7年半。

日本では1962年には中尾ミエさんの「可愛いベイビー」とか植木等さんの「ハイ、それまでよ」などがヒットした年です。   1966年6月30日から7月2日にかけてビートルズが日本公演を行う。  ドリフターズが前座を務める。  

「昨日ははるか彼方にあった苦悩が、僕の元に居座ろうとしている。 ああ、すべてが輝いていた昨日、ふいに僕は今までの僕ではなくなった。  暗い影が僕に重くのしかかる。   ああ、悲しみは突然やってきた。  昨日。」  作詞:ポール・マッカートニー     恋愛だけの問題ではなくて、歌詞にはいろんな思いが込められている。           ギネスによると、世界で最も多くカバーされた曲。  

「まだまだ先の話だけど、僕が歳を取って頭が剥げてきても、バレンタインのプレゼントやバースデイカードやワインを送ってくれる。  まだ僕を必要としてくれる。  食事もさせてくれるかい。  僕が64になっても」  ビートルズ ホエン・アイム・シックスティ・フォー」(When I'm Sixty-Four)

面白い歌詞ですね。  「食事もさせてくれるかい。  僕が64になっても」というところは介護みたいなところですね。   作詞・作曲:ポール・マッカートニー ですが、15歳の時にお父さんを見て作ったものです。   当時イギリスの定年が65歳でした。  定年を直前に迎えて不安定な時期。  ポール・マッカートニー自身が64歳の時には妻と別居して離婚になる。  

「僕が若かったころ、今よりずーっと若かったころは、人の力を借りたいなんて全然思わなかった。   それもいまじゃあ昔のこと。  自信がぐらついて来たのさ。  それで考えをかえて、心の扉を開いたんだ。  出来れば僕を助けてくれ。  気が滅入ってしょうがない。  そばにいてくれるだけで感謝するよ。   立ち直る手助けをしてほしい。  どうか、お願いだから僕を助けて。」   ビートルズ ヘルプ!」 (Help!) 

ジョン・レノンの作品でポールと二人で仕上げている。  急激な勢いでスターになって、心のどこかで救いを求めている。  助けを求めることができるという事は大切なことです。  家のなかの物を見渡してみると、何一つ自分で作ったものはないし、作り方もわからない。  自分では作れないものに囲まれて生きている。  でも自分一人で生きていけるような様な気になっていて、錯覚と言えば錯覚です。  無力です。  恐ろしいほど人の力を借りて生きている。   他人に対して助けてと言えるようになればいいですね。

・ロング・アンド・ワインディング・ロード」(The Long And Winding Road)   ビートルズの一番最後に発売されたアルバム。  

「君の扉へと続く長く曲がりくねった道。 それは決して消える事はなく、たびたび現れてはこの場所へ僕を連れ戻す。  どうか君の扉へと導いてくれ。  荒々しく風の吹きすさぶ夜は雨に洗い流され、あとに残ったのは涙の海。   僕は明日を求めて泣いた。    何故ここに放っておくんだい。 どうすれば君のもとへたどり着ける。  寂しさに泣きぬれたことが幾度あったろう。  僕が手を尽くしているのを君が知らない。」      作詞・作曲:ポール・マッカートニー

「悲しい曲さ、決して到達できない扉のことをうたっている。  行けども行けども終わりのない道なんだ。」とポール・マッカートニーが言っている。  ビートルズ内部でうまくいかなくなってきた当時に作っている。  

「僕と暮らすのが気が重いって、彼女が言った。  僕がそばにいると窮屈なんだって。  彼女は乗車券を買った。  乗車券をもって汽車に乗り、もう帰ってこないつもりなんだ。 僕の気持ちなど考えずに。」    ビートルズ  「涙の乗車券」( Ticket to Ride)  

ジョン・レノンの作品でポールのアイディア。   若者の恋愛の話ですが、歌詞だけを見ると熟年離婚のような感じ。  

「あいつはどこにも行き場のない男。 実在しない空想の国に閉じこもり、誰のためともなく、どうなる当てもない計画を立てる。  なにをどう考えるという事もなく、自分がどこへ行くのかわからない。  君や僕だってどこかあいつに似ていないかい。 」       ビートルズ  「ひとりぼっちのあいつ」(Nowhere Man)              ジョン・レノンの作品   ビートルズで初めて愛以外のテーマをうたっている。    

「君はその重荷を背負っていくんだ。  これから長い間ずーっと。 君はその重荷を背負っていくんだ。  これから長い間ずーっと。」  ビートルズ キャリー・ザット・ウェイト」(Carry That Weight) 

ポール・マッカートニーの作品  ここから解散に向かってゆく。 

「旅の途中で」という日本のテレビドラマで或る登場人物が「夫婦なんてみんなそんなものよ」というんですが、相手が「そうだね。」と返事するかと思ったら、「そんなことはないな。」というんです。  感動して泣いちゃいました。(頭木)  病気していると「みんな大変なのよ。」とよく言われます。  健康なひともみんな大変なんだといいますが、それはそうですが、病人だって健康な人と同じような悩みがあるわけで、その上に病気なんです。   「夫婦なんてそんなものよ」と一般化していることに対して、否定していることに対して、感動してしまいました。  もっと一人一人の思いの重さに目を向けるやさしさが欲しいなと思います。

ホワイルマイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(While My Guitar Gently Weeps) 作詞・作曲 :ジョージハリスン

「愛は人々のうちで眠ったままらしい。  僕のギターがすすり泣いている間も。  床に目をやればそこにはほこりが積もっている。   僕のギターはひそやかにすすり泣く。 」   ビートルズ ホワイルマイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(While My Guitar Gently Weeps)




  

2021年8月22日日曜日

荻野恭子(料理研究家)           ・【美味しい仕事人】料理で世界旅行を

荻野恭子(料理研究家)           ・【美味しい仕事人】料理で世界旅行を

これまで65か国以上を旅し、家庭料理を中心に調査して来ました。  現地のレシピや食習慣そのルーツを探ってゆくと、そこには気候風土と共存するための生活の知恵が見えてくるそうです。  東京で料理教室を主宰する荻野さん、世界の主婦から学んだレシピと共に各国各地域緒の食文化を伝えることで、世界の人々との相互理解に役立てていきたいと言います。

初めて海外に行ったのは20歳ぐらいでハワイでした。  65か国以上は行っていると思います。   1か国に何十回も行って研究したりしているので、渡航回数と言われるとわかりません。   旧ソビエト領15か国も何回となく行きました。   生活の知恵を求めてきたので、ホームステーをして料理を習ったり、習慣を教えてもらったりしてきました。   ロシアでは冬が半年なので野菜も塩漬けにしたり、乳酸発酵したり、煮込んだり、ジャムにしたり保存の知恵が凝縮しています。   だから主婦のもてなし、心遣いが上手です。   上手に保存食を使って短時間に品数も多く作ります。   自然の摂理に沿って生きるという事が生きる上の大切なことなんですね。 

行く国への目的をもって旅をしないといけないと思います。   行っているうちにこちらがその土地の言語を覚えるよりも、こちらが日本語を教えた方が早いという事が判り、そのようにしたり、筆談をしたりもしました。   計量カップを持って行って測ったりしていたら、こんなのわからないの料理研究家なのと言われてしまいました。   それからは大体これぐらいとノートに書いていきました。   家庭料理は計量してという事ではなく、大体でいいと思います。  

アメリカから始まってヨーロッパ、ベトナム、タイなどへ20代のころは行っていました。 30代はロシアへ頻繁に行っていました。    中学の担任の先生にロシア料理をごちそうしてもらって、物凄く新鮮でした。   それでロシアに行くようになり本を出すまでに20年ぐらいかかりました。   ピロシキ(東欧料理の惣菜パン)でもロシアの東と西では大分違います。  シベリアの方は揚げたりしますが、西の方は焼いたりします。        ボルシチ(東ヨーロッパと北アジアで一般的な酸味のあるスープ)はビーツですが、シベリア側だとトマトスープみたいな感じです。    

ハンガリーのブタペストのレストランで習いに行ったのですが、最初こんなおばちゃんでは出来るわけないだろうという事で見られたようで、鳥を一羽持ってきてさばいてくれという事でさばいたら吃驚していました。  それからいろいろ教えてくれるようになりました。  鳥を煮ているとアクが出てきますが、日本では当然アクを取り除くわけですが、アクも味のうちの一つなので取り除かなくてもいいといわれて、そういう考え方もあるのかと思いました。     

両親が下町の浅草で天ぷら屋をやっていて、つい食いしん坊になって小学校1年生で料理をやるようになりました。   マッチでガスに火をつけるのもやっていました。     祖母が漬物(塩漬け、ぬか漬け)を作っていて、刻んでご飯の上に乗せてお茶漬けにして食べるのが大好きでした。    料理の大学に行って卒業後は勤めながら稽古三昧でした。27歳で料理教室を開くようになりました。  日本料理、西洋料理、中華料理を学校に行って学んでいたので、それなりにやっていました。   現在は各国の料理を教えながら、現地の音楽を流して、衣装も現地の物をという風に少しでも現地のことが楽しめればと思ってやっています。   

世界に出ると、こんなちっぽけなことと思うようになり、カリカリしていたことがこんなことでカリカリしていなくてよかったんだと、考え方がグローバル化してゆきますし、体調管理がすごく大切になりますので、自分の体内リズムを整えることが普段から大切になります。  旬の食材をバランスよく食べる、休むこと、働くこと、この三つのバランスをとることが大切だと思います。   最初はその国のベストシーズンに行くことが大事だと思います。  目的をもって行くことも大事だと思います。    塩と水と素材、現地の食材で作るのがおいしい料理だと思います。  文化を知ると知らないのでは大きく違ってくると思います。

    


2021年8月21日土曜日

2021年8月20日金曜日

堀口雅子(産婦人科医)          ・女性医師の道を切り拓いて

堀口雅子(産婦人科医)          ・女性医師の道を切り拓いて 

堀口雅子さん、91歳。  女だからと理由で何度も自分の望む道を閉ざされそうになりながらも、女性医師のパイオニアとして医療現場の先頭に立って道を切り開いてきました。    東京大学医学部産婦人科教室の女性初の医局員、虎の門病院産婦人科医長などを歴任し、現在は性と健康を考える女性専門家の会の名誉会長も務めています。   91歳の今も現役で月2回の診療を続け、最大の理解者産婦人科医で夫の貞夫さん(88歳)との179歳コンビで10代の性教育や更年期障害などに関する執筆活動などにも取り組んでいます。   60年余りにわたってどう言う風に女性医師の道を切り開き、働く女性、働く母のための医療に寄り添って来たのか伺いました。

私は本屋の娘です。  両親は出版に関する視察でヨーロッパに行き1年余り海外生活を送ったせいか、ああしろこうしろとは一切言いませんでした。  母はいつも私の背中を押してくれました。  私は小さいころ体が弱くて、立派な先生や看護師さんにお世話になり、将来お医者さんになりたいという思いが強かったんです。  戦争が終わって医師が沢山帰ってきて女の人では医師になれないといわれました。   一度はあきらめて薬学部に進学しました。 東大の薬学部でホルモンの研究をしていました。  20代の後半になって群馬大学の医学部を受験して、女性は入れないなんて言われましたが、結果的には入れました。  60人中女性は3人でした。   女性用トイレなどなくて、いろんな開拓が必要でした。  馬術部に入りったかったが駄目だといわれたが、押し切って入り部長までやりました。  卒業が30歳でした。   5人兄弟でしたが、それぞれ違う道に進みました。

インターンは家の近くに東京逓信病院があり1年間やりました。   最初は女は駄目だという事で断られましたが、東大の産婦人科の教授の娘が行くという事で女性一人では都合が悪いという事で結局3人の女性が初めていく事になりました。  1年ほど勉強して地方の病院に派遣されますが、女性は当直室がないとかで駄目でしたが、いろいろ開拓していきました。   今までは男性の医師だったので恥ずかしかったが、女性の医師だと嬉しいと言ってくれた患者さんがいました。  女性医師第一号荻野 吟子の本も一生懸命読みました。 

結婚は38歳で、夫は3つ下でした。(医局では先輩)   39歳で長男、41歳で次男を生みました。  二人とも夫が取り上げてくれました。   保育園でお世話になったので、虎の門病院の院内保育園の設立には尽力することにしました。    子供を通して得たものをお母さん達に返せるという事はいろいろあったと思います。   働きながら生きてゆくには、何のために仕事をするのか、はっきりした信念を持つことが大事で、人間性があわない人とは距離をとって心おだやかに接してゆく、仕事をやる事によって人間性を高めてゆく、という事だと思います。  

女性の一生のうちに起こる身体の変化、心の変化は男性にないものだと思います。    まず患者さんのお話を聞き和ませます。   閉経の前後10年ぐらいに体と心の変化があります。 それを更年期と言います。   老齢期に向かっての準備期間で、大事なステップです。  女性ホルモンが減って行って体に変化が起きてきます。  心と体の調整が必要です。  産婦人科の先生、看護師さんとの交友関係を作っておくことが大事です。  

夫は4万人ぐらいを取り上げたと言っています。   10代の性教育の問題も随分一所懸命やりました。  NHKのテレビ、ラジオに出たり、新聞などにも書きました。  

私は祖父母に預けられて、父と母は1年間ヨーロッパへ行って過ごしました。  向こうで妹が生まれて、妊娠、出産が日本とは全然違っていました。  健康のためにスイミングをやっています。(コロナ禍では散歩)   朝食は夫が作って夜は私が作ります。    今の楽しみは昔もやっていたヴァイオリンです。  私が取り上げた赤ちゃんがピアノの先生をやっていて、私のヴァイオリンと一緒にやりましょうという事になりました。     未来に向かって夢を持ってもしょうがないから、現在を楽しく生きてゆくという事でしょうか。










2021年8月19日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・歌手引退・もういいかい

 小椋佳(シンガーソングライター)     ・歌手引退・もういいかい

小椋佳さんは27歳の時「青春 砂漠の少年」でデビューしました。   デビューから50年になる今年、芸能界の引退を発表しています。   およそ2000曲を作ったという小椋さん、今年「もういいかい」というアルバムを出しました。  

77歳になりました。  足の血流が悪くて散歩をしても30分歩けないんです。  9月に片足ずつ血管を広げる手術をすることになっています。   57歳で胃がんで手術、68歳で重い病気をしました。 何となく生き延びてきました。  芸能界を引退したいという最大に理由は体力ですね。  自分が歌いたいように歌えなくなって来ました。  70歳の時にNHKホールで「生前葬コンサート」という名前で生前葬をしました。  今年「もういいかい」というアルバムを出しました。  およそ2000曲を作りました。   それぞれの作った時代のこと、作った時の自分の周辺の状況のことなどを思い出します。 

小学校の時はプロ野球の選手になりたかったのですが、中学校の頃は政治家に

、高校の頃は僕が生きてゆく意味は現代のお釈迦様になるしかないとか思っていたり、法曹界へのことも考えましたが、法律の勉強は好きではなかった。  幼いころから歌う事は大好きでした。    歌を作り始めたのは高校ぐらいからです。  歌を提供する曲が何となく白々しく感じるようになって余り歌わなくなりました。 中学生ぐらいから日記をつけ始めていて、そこからピックアップしてメロディーをつけるように口ずさんでいました。  それが僕の歌作りの始まりでした。    大学でも続けていました。 

デビューが1971年の「青春 砂漠の少年」です。   デビューという感じはなくて、銀行に入って4年目でアメリカのシカゴの大学院に留学中で、その時に僕の処女作が発売されました。 きっかけになったのは「初恋 地獄編」でした。 「初恋 地獄編」は寺山修司さんが作った作品で、僕の処女作の数年前に作ったものです。   或るレコード会社のディレクターが僕の声を聴きつけて、この若者を売り出してみようと思ったらしいです。

銀行員以外に別の業務を持ってはいけないので、4年先輩の人が心配しました。   先輩たちが人事部にお伺いを立てたが、「どうせ売れっこない」という事でたいして問題にならないと思ったらしいです。   LPが出来上がった時に発売会議がありそこでは没になっていたが、若いディレクターさんが小椋佳の曲を理解できない重役連中は辞めるべきだと運動するが、ディレクターの役を降ろされてしまう。  その人は映画監督の森谷司郎さんとの出会いがあり、曲を聞いた森谷さんがこれはいいという事になり、正月映画のバックに歌をどんどん流すよ、という事になりました。   そのことがレコード会社に伝わり、一応出してみようかという話になりました。    映画は1月に、処女作は2月にだされました。 出してみたらじわじわ売れてきてレコード会社がビックリしてしまった。

留学から帰ってきて、銀行員をやりながらディスクジョッキーをやるようになりました。或る週刊誌の人が「70年代のホープ」という特集をやるという事になり、石原慎太郎さんなどもいて銀行側もいいか、という受け答えをしたようです。  いざ週刊誌が出る事になると、「70年代のホープ」というタイトルではなくて、「一銀行員の副業に驚愕した第一勧業銀行」というタイトルででてしまい、銀行は慌ててしまって、発売差し止め要求したが、すでに30万部が刷り上がってしまっていた。  結果は大した事はなかったが、常務などが発言した内容を歪曲して書かれていて迷惑をしたようで、僕は謝りに行ったりしました。

人事部に呼ばれたが、「テレビ、ラジオなどには一切出演をしないという事、ただし歌作りそのものは日記つくりのようなもので、これを止めろというならば、銀行を辞めます」、と言いました。  それからOKとなり温かく無視してくれました。

かなりヒット曲が出るようになり、マスコミさんからは僕が出て行かないことが生意気だという事が随分立つようになり、或る日上層部の人から「一度だけ人前に出た方がいいんじゃないか」という事で、NHKホールさんに出ないかという話が降りてきました。   話がまとまって一日だけださせていただきました。 1975年、46年ほど前の話です。(31歳)  

1993年、49歳で銀行を退職することになりました。(26年半勤める。)  40代になって観察者である自分と周囲の人間を見渡してみて、わかってきちゃったなという感じでした。平家物語の末尾に「見るべきほどのことは見つ」(自分の人生で、味わわなければならないものはすべて味わい尽くしたという、突き詰めた心境を表す言葉。)、その実感があって、ここにいるのは僕の役割ではないと思って、それが辞めた理由です。

東大に行って学士入学して、哲学を勉強しました。  若いころは苦しい時代で一種の精神病にかかっていましたから。  そこから抜け出せなかった。  哲学はかじりはしたが穴掘りが終わっていない状態で社会人になっていました。   哲学の世界をもう一回かじりしたいと思いました。  学士入学するには筆記試験があり、外国語二か国が必須だという事で困りました。    友人の東大の主任教授から「元のところに学士入学するんだったら面接だけでいいんだよ」と言われました。  東大の法学部に学士入学することが出来ました。大学に行って判ったのは、教授の教え方はちっとも進歩していないという事でした。  学生たちが勉強したくなるようなことをしていなくて、これではいけないという事で教授連中(ほとんどが後輩)に説教して回りました。   勉強をやり直していたら面白いんです。 レポートもちゃんと提出し、期末試験もちゃんと受けます。  全科目優を取れました。

単位オーバーで1年で卒業になり、文学部に入ろうと思って1年間勉強して文学部に入り直しました。 外国語はフランス語を勉強しました。   並行して音楽活動はしていました。 4年間大学で、そのあと大学院に2年間行きました。   小学生から、留学を含めると25年間学生をやっていたことになります。  再度学生をやらせてもらって楽しかったです。 

作詞のほうが評価が高く言われますが、僕は相当言葉にこだわっている男なんです。   こだわりから出てきた歌の言葉が、ほかの方とはちょっと違うものが出てきたというんでしょうか。  それがある種新鮮だったり、斬新だったりしたんでしょうか。  若い人には買ってでも苦労をした方がいいよと言いたいですね。  僕の若い時の苦しみが、結局僕にいろんな恵みを与えてくれた事になりました。    苦しみを避けて通っている人が今の若い人には多いような気がします。   11月から来年の9月にかけてファイナルコンサートツアーをやらせて貰うつもりです。  遺書も書いてありますし、7割がた身の回りのものは全部処分しました。   新しい歌、言葉でないと意味がない、創造という事を考えると書いている途中で嫌になって捨てるとか、最近は一曲作るのにも苦労します。 





2021年8月18日水曜日

宮崎恵理(スポーツライター)       ・【スポーツ明日への伝言】希望の人・パラアスリートを見続けて

 宮崎恵理(スポーツライター) ・【スポーツ明日への伝言】希望の人・パラアスリートを見続けて

パラリンピックの見どころ、注目の種目、選手について伺います。

出版社勤務を経てフリーのライターになった宮崎さんは、1998年長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌などへの執筆活動を続けて、2012年ロンドン、2014年ソチパラリンピックではNHKの開会式の解説者を務めました。    2016年のリオデジャネイロパラリンピック以降はNHKのホームページでコラム「パラアスリートの流儀」を連載し、その回数は50回を越えています。 

オリンピックでまず感動したのが、フェンシングのエペ男子団体の金メダル、エペはどこでもいいから早く突いた方が勝ちという事で判りやすくて、これから人気が出るのではないかと思います。   スケートボードのストリート種目でフィリピンの選手が決勝まで残るが、トリックの3回目から5回目まで全部失敗してしまって、最後に失敗してもものすごい笑顔で「大丈夫」と言って、そのあとに日本語で「ありがとう」と笑顔で言ったのが、私は物凄く心をつかまれました。  これこそオリンピックらしいという感じがしました。   国籍、人種とかを全部超越してみんなが楽しみながら競技をしている感じが伝わってきた競技だったと思いました。   

1990年代に目の見えない人のスキヤーのガイドを募集している新聞記事を見て、ボランティアで応募して一緒に滑る中、目の見えない人のパラリンピックがあって、興味深い話を伺いました。  その活動の最初が1998年の長野パラリンピックになります。   手探りで選手を発掘することからスタートしたというゼロからのスタートでした。    取材を始めましたが、選手がそれぞれ熱い気持ちをもって頂点を目指す姿を見るにつけ、ぜひ記事にしたいと思いました。   私が知っているスキーとは違って工夫がされている。   工夫にも興味深いところがありました。    新田選手は当時岡山県にいて長野パラリンピックの前年に電話をして取材しました。    将来的には僕のように片腕であっても、スキーができるんだという事を自分がスキーをやることで広く伝えていきたいという事を高校生の時に発言しています。   私が伝えてあげなければという思いがありました。    彼は来年の北京を目指して頑張っています。

夏のパラリンピックもいろいろ面白い競技があると長野パラリンピックのあとに教えられました。  2002年に北九州市で車椅子バスケットボールの世界選手権が開催されました。 取材に行ったときにこれは凄いスポーツだと、格闘技だと思いました。   台風の中、大接戦をたくさんの方が見に来て満員で、あふれた方はパブリックビューイングで見ていました。   北九州市の素晴らしい市民スポーツになったと思います。   

テニスでは2004年のアテネパラリンピックに取材に行った際に、国枝慎吾選手がシングルスは準々決勝で敗退しましたが、ダブルスでは金メダルを取りました。   国枝慎吾選手の凄さに心をつかまれました。   障害者スポーツと言われているものもやはり同じくスポーツであるという共通点が一番大きな根底にあったという風に感じています。  20年ぐらい障害者スポーツと向き合ってきたなかで、何故障害者スポーツに心を惹かれるのかを考えた時に、障害の内容は全く同じ人はいなくて、選手個人個人が個別の工夫をして、自分なりのトレーニング方法を開拓したり、義足、車椅子などを調整したりして、努力する過程を見てきている中で、そういう部分をお伝えしたいという気持ちが大きかったと思います。    

障害者は障害を受けた時期も違うし、原因(先天性なのか人生の中途でか)も違うし、オリンピックの選手のようにシステムでは作れないものです。   すべてが個別で、個人の工夫がより一層際立つと思います。   技師、義足装具士とか、トレーナー、コーチなどの存在なくしてはやはり競技は成り立たないという事が背景にあるので、そういう人たちの連携がとても大きいと思います。   

国枝慎吾選手は王者奪回というか、どのようなパフォーマンスを見せてくれるのか、楽しみです。   義足の走り幅跳びの選手でドイツのマルクス・レームという選手がいます。 彼は今年の6月に自己世界記録を更新する8m62cmという世界記録を出しています。  今回ギリシャの人が金メダルを取っていますが、記録が8m41cmです。 注目してほしいと思います。    車椅子ラグビー、日本が強いです。   5人制サッカー(ブラインドサッカー)、今まで日本は出場できていない、今回が初出場です。  5月に東京で行われた国際大会で、世界ランキング1位のアルゼンチンに決勝で戦って、惜しくも敗れました。  今回予選リーグでは強豪のブラジルがいます。    佐藤友祈選手は陸上400m、1500mで世界記録を持っている選手です。  リオでは銀メダルでしたが、世界記録を自分で更新してきている選手です。   

クラス分けが多い競技は陸上と水泳です。  障害の程度、種類、障害の原因などの違いによってクラス分けがあります。(公平性)  

パラリンピックはいろんな障害のある人たちが、そこに集ってクラス分けなどありますが、そこでスポーツを競い合う、そこに大きな多様性が見られる。    一番はやはりスポーツとしての醍醐味を何より伝えていきたい、という事が大前提にあります。   選手は夢や感動を与えたいといいますが、私は夢や感動を伝えたいと思っているわけではなく、受け取る側が感動したと思うのかどうかだけ。   私は努力してきたプロセスと共に、こんな選手がいる、こんな大会、試合がありましたとお伝えすることで、いわゆる媒介をすることを基本としていきたいと思います。   障害は乗り越えるものではない、障害は捉え方が違うし、受け入れ方も違うし、向き合ってゆくものではあるかもしれないが、乗り越えるものではないという事だと思います。  今ある身体をどういう風にして自分が受け入れてそれを工夫してゆくかというところが障害者スポーツの本質ではないのかなあと感じていて、選手の工夫を伝えて行きたいと思います。









 

2021年8月17日火曜日

塩谷五月(宮崎県・島野浦島)        ・"島の戦争"を語り継ぐ

 塩谷五月(宮崎県・島野浦島)        ・"島の戦争"を語り継ぐ

延岡の港からフェリーで20分、島野浦島は日向灘に浮かぶ人口800人ほどの小さな島です。  この平和な小島が太平洋戦争末期アメリカ軍の攻撃対象になりました。   昭和20年5月2日小学校が標的になり、児童4人を含む6人が犠牲になりました。   当時小学2年生で九死に一生を得た塩谷さんは、80歳を過ぎた今もこうした戦争の記憶を風化させまいと継承活動を続けています。  

給油所があってそれを狙って焼夷弾を落としたんです。   失敗して焼夷弾は海に落ちました。  当たっていたら駄目でした。  父は戦地に渡って祖母と母と5人兄弟で長女です。母は妊娠中でした。  防空壕に寝泊まりしていたことは忘れられません。 ほとんど毎日でした。   昭和20年5月2日 雨が降っていて敵機は来ないという意識で学校へ行きました。 雨戸を上級生が開けているときに大きな音がしました。   敵機来襲と言われて、廊下にでて目を押さえて、親指で耳を押さえ伏せました。   逃げろ、逃げろという声がありましたが、私は怖がりで腰を抜いてしまっていて、気が付いたらその場には私一人でした。   

大分県の佐伯市に駐屯地があり、民間の船が常駐していて最初その船を攻撃しました。  それから島のほうに近づいてきて、45分間島を攻撃したそうです。    気丈な祖母で、祖母におんぶされて帰ってきました。   隣の教室の1年下のたっちゃん(辰裕?)が壁に身をよせたそうですが、壁を撃ち抜いてきた弾が当たったんです。  膝から下の部分がなかったのを鮮明に覚えています。  廊下を這っていました。  旗を使って止血してたすかりました。  攻撃が怖いので夜になって延岡の病院に行き、片足を膝から下をのこぎりで切ったそうです。  学友も4人亡くなって、棺が6つ並んでいました。   

文集を平成10年に作りましたが、それから戦争のことを語るようになりました。     何か残さないといけないという気持ちになり、一人ずつ家に行って、中には断られた人もいます。  10人の人が協力してくれました。  たっちゃんが表紙の裏に飛行機と船の絵を描いてくれました。   文集がきっかけとなって小学生が自分たちの手で紙芝居を作ることになりました。   私自身で作った紙芝居もあり、実演もしました。  兵隊が船に乗って送る場面です。   中学校でも紙芝居をして女の子は泣いていました。  感想でこんな悲惨なことがあったとは知らなかったと言っていました。   

島野浦島の小学校では、塩谷さんらの証言をもとにした朗読劇が上演されました。

受け継いでくれる人がいてありがたいなと思います。  島の歴史が残ると思って本当に嬉しかったです。  日本だけでなくどこの国でも戦争をやってはいけない、人を殺してはいけないという気持ちは常に持っています。   父は赤紙が来て戦地にわたってそれっきりでした。  島からはもう一人行きましたが、その人は帰ってきて父が亡くなったことがわかりました。  雨戸を閉めて祖母と母は何日も寝て起きてこないんです。  その時の辛さは一番苦しいですね。  長女だったので家のいろいろな仕事を手伝いました。(小学校2年生以降)   遠足にも行ったことはない、そんな生活です。     

「カモペスのかばねとなりて七十余年父の面影瞼に残る」   塩谷五月

カモペスはフィリピンのいくつかある島が集まってカモペスというんだと聞きました。  地図上にはカモペスというのはないんです。   父の思い出は小学校1年生の時位までしかないんです。   心の中では戦争は終わっていないです。  平和を願う人が何人でも増えて世界中が仲良くしましょうという人が増えたらいいなあと思います。










2021年8月16日月曜日

友吉鶴心(薩摩琵琶奏者)        ・【にっぽんの音】

友吉鶴心(薩摩琵琶奏者)        ・【にっぽんの音】 

進行:能楽師狂言方 大蔵基誠

友吉鶴心さんは1965年東京浅草生まれ、父方、母方の両方のおじいさんが薩摩琵琶奏者。   祖父の名前の友吉を使わさせていただいています。  ひいひいじいちゃんが趣味で始めてじいちゃんがプロになった。  山口速水は母型の祖父。   日本舞踊、長唄、三味線、などを学ぶ。  1987年薩摩琵琶奏者の鶴田錦史さんに入門、現在は演奏会やNHKの邦楽番組にも出演のほか、デーモン小暮さんなどアーティストとの共演をしている。

師匠から薩摩琵琶であれば何をやってもいいといわれました。  27年前に師匠が亡くなってしまいました。  「古典は新しい」とあちこちで言わせてもらっていて、入れるものは新しいが器は、スピリッツはしっかり伝わるように、古いが入れるものは新しい。  そこをもう少し勉強させてもらえば、きっとなんか、薩摩琵琶は薩摩琵琶でなくてはいけないという事が見えてくるのかなあと思います。 

上から弾くのと、下から弾くのがあり、上から弾くのが「ピー」、下から弾くのが「パー」。楽器は中東で生まれてシルクロードを経て中国で現在の琵琶のような形になりました。   仏教と一緒に日本にやってきたのではないかと言われています。  雅楽のなかで演奏する額琵琶、目に見えないお坊さんがお経を読むときに木魚の替わりに奏でる盲僧琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶があります。   雅楽の場合はキーが決まっているのでそれに楽器の調整をしてゆきます。  盲僧琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶は演奏者の声がキーの基準になります。   薩摩琵琶は昔はテンプクという尺八よりも小さい竹の笛がありますが、それに合わせている絵図がいくつもありまして、テンプクと琵琶でコラボレーションしていたのではないかという事が推測されます。    昔はフレット(弦楽器指板にある隆起であり、指の位置を固定し、目的の音高を出すために使用されるもの琵琶では「柱(じ)」と呼んでいるの上を押さえて弾いていましたが、近代(江戸時代)になってフレットの間を押さえて弾きます。  繊細かつ大胆なのが薩摩琵琶の特徴です。  

薩摩琵琶は戦国時代、島津の中にいた日新公と言われる方が、文武両道のたしなみという事で古くからあった盲僧琵琶を武士が弾けるようにちょっと大きめに作って、心の支えとなるうような文言を歌詞として書き上げて、琵琶を弾きながら歌うというか、うなるというか、自分の心のなかに響かせるための、武士の精神的なことの一つとして生まれた音楽です。  師匠がバチを使ったいろいろな奏法を編み出しました。

*「敦盛」   琵琶演奏:鶴田錦史 平敦盛 - 平安時代末期の武将。若くして討ち取られた悲劇が、後に作品となる。

歌舞伎役者になりたかったが、琵琶の家だという事で始めました。  祖父は亡くなっていて祖母に相談したが、食べて行けないからやっては駄目だといわれましたが、鶴田錦史先生のところに行きました。   フレットは自分で作るためノミは研げるかと言われました、コマを作るにはノコギリが使えないといけない。  そこからのスタートでした。(22歳)      師匠が生きている間は甘えてしまっていましたが、本気でやろうと思ったのは師匠が亡くなってしまってからでした。  もっと教わっていればよかったと思うばかりです。  稽古は家でするもんだとピシャリといわれたことがあります。 

*「春の宴」  薩摩琵琶だが優雅に演奏する楽曲(源氏物語のなかの『胡蝶の巻』を題材にとった作品。)     琵琶演奏:友吉鶴心

日本の音とは二つあって、血が騒ぐ音(お祭りとか)、自分と向き合う事が出来る音(日本にはたくさんあると思います。)






 

2021年8月15日日曜日

富安陽子(児童文学作家)        ・76年目の盆まねき

 富安陽子(児童文学作家)        ・76年目の盆まねき

富安陽子さんは昭和34年生まれ、62歳、大阪市に在住。  絵本や童話、中学生向けのライトノベルなど様々な年齢の子供への本を出している人気作家で、その世界観は和製ファンタジーとも言われてます。   富安さんは2011年「盆まねき」という本で第49回野間児童文芸賞、第59回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞,これは特攻隊員として22歳で亡くなった俊介おじさんへの思いから生まれた物語で、お盆の意味や平和な暮らしの中につながっている戦争について気づかされる作品です。   2020年5月富安さんのところに思いがけない連絡が入りました。   特攻で戦死した叔父俊介の遺品がアメリカで保管されていて、日本の遺族に返還したいという連絡でした。   富安さんは家族の戦後について、作家としてどう受け止め、どんな思いを作品に込めてきたのか、伺いました。

「盆まねき」に出てくる人は私の家族をモデルにして書いています。  俊介さんは私の父の兄で、私は小さい時に祖母や叔母と一緒に東京で暮らしていました。   小学校に入学する前に両親と私だけ大阪に引っ越しました。   夏休の度に東京へ長期滞在していてお盆の時期を東京で過ごしていました。  そこには若い人の写真があって、そのうちの一人が俊介さんで父親のお兄さんで、戦争で亡くなったという事を知らされました。   戦争は私にとっては遠い話でしたが、その話を聞いた時にはショッキングでした。  


「盆まねき」の一部 「・・・ねえ大ばあちゃん、俊介さんはどうして死んじゃったの。  ・・・古い写真にはまだ若いひいばちゃんとひいじいちゃんと3人の子供が写っています。 ・・・どんぐり眼で笑っている男の子が俊介おじちゃんです。・・・3枚のうち最後に残った若い男の人の写真が俊介おじちゃんだという事はなっちゃんは知っています。・・・なっちゃんはどうして俊介おじさんはこんなに若いのに死んじゃったんだろうと不思議でした。  だから今大ばあちゃんに尋ねてみたのです。・・・ぽつんと言いました。  俊介さんは戦争で死んじゃったんだよ。  なっちゃんにヒヤリと冷たいものが流れ込んできました。  ・・・もうちょっとで戦争が終わる時に飛行機に乗って南の海に飛んで行って、アメリカの軍艦に体当たりをして死んじゃったんだ。  どうして体当たりをしたの。  敵の軍艦を沈めるためさ、そういう作戦だったんだよ。・・・自分も死んじゃうのにどうして俊介おじさんはやめようといわなかったの。  ・・・大ばあちゃん吐き出すように言いました。  そういう時代だったんだよ。・・・今から飛行機に乗って死にに行く人をみんなで「万歳」と言って送り出していたんだからね。 本当におかしな時代だったよ。  なっちゃんは何も言えなくなって、風に揺れるホウセンカをぼんやり眺めていました。」 

長男が亡くなって次に俊介さんが亡くなって、長男の時には遺骨が帰ってきましたが、俊介さんの時には戦争末期で特攻で亡くなっているので、何にも残っていませんでした。   その後南方に向かいますというハガキだけが来ました。   

極秘作戦だったのでなにもわかりませんでしたが、戦史研究家の菅原完さんが資料を捜して、ビックEというアメリカの空母に体当たりしたパイロットがいるという事でしたが長くわかっていませんでした。   それを菅原さんが突き止めてくださいました。   突っ込んだ時に叔父は飛行機から投げ出されたんですね。   遺体は残ってポケットにあったものとかがアメリカに残っていて富安俊介だという事がわかりました。(2003年)  聞いた時には息子が二人中学生で子育てに忙しくて、あまりピンとこなかったんですが、息子たちが叔父の年齢に近づいてくると叔父のことを改めて思うようになりました。   

叔父のことを書こうかと思ってもどう書いていいかわからず時が過ぎて、わからないなりにも書いてみようという気持ちになったのが、子供たちがちょうどそういう歳になった時だったと思います。  アメリカで戦史を研究している人と菅原さんとの交流があって、俊介おじさんの遺品があるので、遺族の方にお返しできればという事で、2020年にポケットに残っていた50銭紙幣を受けることになりました。  父は2019年に亡くなって居ました。   知らない叔父の遺品を私が受け取っていいものかどうか迷いましたが、アメリカから菅原さんへの連絡が5月14日の丁度叔父の亡くなった命日の日でした。 叔父だけはお墓の中に何も入っていなかったので、受け取りました。  生々しい感覚がありました。

「盆まねき」 お盆をどう過ごしたらいいか、共感できる部分。            主人公のなっちゃんは十五夜の満月、盆踊りの夜に或る男の子と出会う。  男の子に導かれ満月に向かって石段を登ってゆく。   「 ・・・こうして輝く月の光の中で眺めると男の子も青い影法師のように見えました。   身体の輪郭が月の光にぼやけ見覚えのある顔も滲んでよくわかりません。   あの世に帰るって、みんなこの人たち幽霊ってこと。 ・・・ この人達はなっちゃんよりちょっと早くあっちへ行った人たちで、盆まねきに招かれてこっちに遊びに来ていただけなんだよ。  お盆が終わるからあの世に帰るんだ。  ・・・あなたも幽霊なの。 ・・・人間は二回死ぬって知ってる。・・・一回目は心臓が止まった時、二回目はみんなに忘れられた時。・・・僕は一回しか死んでない、だってお盆に僕を思いだしてこっちに招いてくれる人がいるから。・・・忘れられちゃったらどうなるの、なっちゃんは尋ねました。  みんなが僕の顔を思い出せなくなって、いつか僕の名前も忘れてしまったら、僕の顔はぼやけて体の輪郭も薄れて、僕は少しずつ消えてゆくんだ。  すっかり僕が消えちゃったら、僕はもう僕じゃなくて、なっちゃんのご先祖様になるんだよ。  僕より前に忘れられてしまった人たちと混ざり合って溶け合って一つのキラキラした大きな塊になるんだ。  それも悪くないよね。・・・」

「さくらの谷」 今年第52回講談社絵本賞を受賞。  2019年に父が亡くなって、明け方に夢を見て、谷に満開の桜が見えて道を降りて行ったら車座になって楽しそうにお花見をしていて、よくよくみたら人ではくて鬼でしたが怖くはないんです。 輪に加わって、いつの間にかかくれんぼになって、探すと鬼ではなくてお父さんだったりしました。   桜の谷で楽しくやっているよ、というようなことだったのかなと思います。

必ず生まれた人は死ななければいけない、いつかはそちらに行かなくてはいけない。   命を繋いでゆくというのは、世代を重ねてゆく事、人間として命をつなげてゆくこと。     





2021年8月13日金曜日

難波和夫(元歩兵第21連隊 功績係 ) ・【戦争・平和インタビュー】"功績係"が見つめた戦争

 難波和夫(元歩兵第21連隊 功績係 ) ・【戦争・平和インタビュー】"功績係"が見つめた戦争

島根県飯南町に住む難波さんは戦時中、戦争の記録を残す功績係に任命され、マレー作戦のほかニューギニアやインドネシアなどのアルー諸島などを転戦します。   功績係として難波さんはどんな経験をしてなにを記録したのか、そして何を感じていたのか、伺いました。

1919年に島根県飯南町で生まれ、15歳から広島県の呉の海軍工廠で働いていた。  20歳の時に浜田市の歩兵第21連隊に召集される。   召集令状が来た時にはとうとう来たのか、というぐらいのものでした。   中国に向かってベトナムとの国境に近い旧江西省で軍事作戦に参加。   昭和15年3月26日に出発、15日間で500kmぐらい歩きました。  一日に45~50km歩いて辛かった。  30kgに加えて11kgの軽機関銃を担いでいきました。  死んだ方が楽になるというような思いでした。  昭和15年4月3日300~400m先の小高い山から軽機関銃が20~30、撃ってきました。   戦闘になり隣の兵隊が頭を撃ち抜かれました。   恐怖なんか感じる暇はないです。  悲しいというような思いは出てきませんでした。   夜になってご飯を炊きながら遺骨にするわけです。   遺体から手首を切り離して焼くわけですが、つらかったです。   死が恐ろしいとは思いませんでした。  人間いずれは死ななければいけないし、死ぬ死なないも運だと思いました。  

太平洋戦争が開始して、戦争の記録を残す功績係に任命される。   分隊長が記録したものを中隊が集めて本人の功績名簿の欄に書き入れます。   誰がどういった手柄を立てたのかを記録します。  他の部隊に転部したら一緒に送ります。  めいめいに勲章なり資金が送られるわけで最後まで保管しなくてはいけないが、敗戦になってGHQが来て辞めてしまえという事で功績名簿は要らないようになりました。 10行以内に文章をまとめていました。    

昭和17年にはニューギニアに転戦する。  かつて民間の飛行場があったので、木を切ったり、草を刈ったり凸凹を整備したりしましたが、飛行機を使用したのはたった一回だけでした。  機材がなくて手作業でやるより仕方なかった。  朝は飯盒に一合の米を入れて水を一杯入れて草を混ぜて塩をちょっと入れて汁を吸うだけで飯は食わないんです。  昼は同様にその飯盒に草とか木の芽を入れて、半分食います。  残りは同様にしてお粥にして夕飯にします。   約半年で58kgあった体重が38kgになってしまいました。 パラオに上陸した時にトラックに乗せられシートを被せられて現地の住人に知られないようにして運ばれました。   余りにもみすぼらしい姿なので、日本軍が負けることを悟らせないようにとのことでした。 

戦闘はなく食料を何とか調達するためにジャングルを切り開いたり、そんなことが戦争のようなものでした。  開墾などの行動の記録だけは残しました。   

1945年シンガポールに向かうが、魚雷の攻撃を受ける。   火災が発生して、バーンと鳴って手帳も貯金通帳もみんな飛んでしまった。   救命胴衣を付けて海に入りました。 脱出できない人の「万歳 万歳」という声が聞こえました。   海面は重油だらけでした。  4時間ぐらい浮いていました。  駆逐艦が来て助けられました。  握り飯を貰って油のついた手で食べましたが、美味かったです。  生きていてよかったなあと思いました。  

120人程度の本籍地は覚えていたので、全部書き直しました。  敗戦までは約2か月でしたが、ほとんど記憶で書き入れました。   終戦はシンガポールで聞きました。  「ああー、とうとう負けたか」というぐらいのことでした。   前から軍のやる行動はおかしいと思っていましたから。  広島、長崎の原爆も電波で知っていました。   内地のことが心配でした。  終戦から9か月後に日本に帰国しました。   日本の土を握って「日本の土はいいのお」と思いました。  でも焼け跡を見て、内地の人は我々以上に苦労しているなあと思いました。   

戦争を賛美する教育だったので、出征するときによく「ご奉公して帰れよ」と言ったりしていましたが、ということは「死んで帰れ」という事でした。  命令されたことしか、ほかに選択肢はなかった。   功績係として記録したことは、敗戦となって軍隊もなくなって、本人の手柄、功績も無駄なものになって、何にもならんものになったなあと思いました。  戦争が残したものは虚しさですね。 役に立つものは何にもなかった。

 














  

2021年8月12日木曜日

後藤文雄(カトリック吉祥寺教会神父)  ・【戦争・平和インタビュー】学校づくりは希望づくり

後藤文雄(カトリック吉祥寺教会神父)  ・【戦争・平和インタビュー】学校づくりは希望づくり ~軍国教育の後悔を、カンボジアの未来に託して~

後藤さんは昭和4年生まれ、現在91歳。  ポルポト政権によって170万人以上の命が奪われたといわれるカンボジアから14人の子供を里子として引き取り、育て上げました。   そのなかで里子のブン・ランさんとの出会いが、後藤さんの正しい教育への思いを突き動かしました。   1995年からランさんと一緒にカンボジアに小学校の建設をはじめ、これまでに19校もの学校を建てました。  後藤さんの活動の根本にあったのは、ご自身の第二次世界大戦の経験です。   1945年中学生の時に、長岡空襲を受け家族を亡くしました。  どうして自分だけが生き残ったのかとか考える中で神父となり、カンボジアと出会いました。  かつて軍国教育によって洗脳されていたと振り返るご自身の戦争体験やカンボジアを通して感じた教育の重要性、平和への思いを伺いました。

カンボジアから14人の子供を里子として引き取り、育て上げた結果、カンボジアに行ってみようと思って行って、あまりにもひどい状態の中で、興味があるのが教育なので、何かお手伝いする気持ちになりました。   最初は19校も作る気持ちはなかったんですが。    僕は長岡の出身なんですが、長岡には「米百表」の話があります。  長岡藩の藩士小林虎三郎の教えは子供の時から聞いていましたが、あの教えが具体化されたのではないかと思います。   長岡も戊辰戦争の時に賊軍に回って町中焼かれて、何もなくなった時に隣りの長岡藩の支藩三根山藩からお見舞いの米百俵が来て、それを食べようという事になるが、小林虎三郎が「食べたら今日一日で終わる、我慢してこの百俵をお金に換えて学校を作ろう」という精神があった。  そんなことを思い出しながらお手伝いしようという気になりました。  小学校の竣工式には必ず「米百表」の話をしました。  僕が小学校に上がったのは昭和11年、太平洋戦争が始まったのは昭和16年で6年生でしたが、そのころに「米百表」の話を聞きました。  

僕は愛国少年でしたが、それも教育でしょう。  ゆくゆくは「天皇陛下万歳」で死んでいってもいいと思っていました。  いかに間違っていたかという事に気が付きますが、それも教育です。  カンボジアに行ったときにポルポトが教育していたものが目の前に現れたわけです。  立て直すために何としてもお手伝いしようと思ったわけです。   平和を作るためにはまずは教育だと思います。  しっかりした教育があったらポルポトをストップできたと思います。  無我夢中で学校つくりをやりました。

1945年長岡で或る日空襲で突然家族を失い、家を失い、すべてを失いわが身一つでどう生きていいかわからなかった。  大やけどをして死んでいった母や弟の遺体を目の前で焼くわけです。  その体験を思い出すと今でもぞっとします。   母の遺体を米俵にくるんで大八車に乗せて運んでゆくんですが、死体が腐って来て悪臭がするんです。  その時は無我夢中でした。  旧制中学4年生でしたが、鬼畜米英やっつけろと敵愾心のなかでしたが、或る日突然家族を失うわけです。   戦争は絶対に認められません、許せません。  76年前のことですが、鮮明に残っています。  

カンボジアではお坊さんが学校作って先生をやりますが、或るお寺のお坊さんが自分には力がないし、学校は焼かれてしまっていて、寺の境内に学校を作ってくれないかという事で、お手伝いしようという事になりました。  

1979年からカンボジアでは難民が出始め、日本に難民の子供たちが来ました。    どこにも引き取り手のない子供が二人いて、助けてくれないかという事を難民本部を通して私のところに話が来ました。   日本語も話せない二人を引き取って一緒に生活を始めました。  最終的には男10人女4人となりました。   最初は言葉が出来ないので意思の疎通が出来なくて苦労しましたが、結果としてはとっても楽しかった。  1981年から里子を引き受けてきて40年ほど前になります。  お弁当のおかずも僕が作りましたが、朝おかずがないんです。  夜お腹がすいてお弁当のおかずをみんな食っちゃうんです。  その時は日の丸弁当(ご飯に梅干だけ)です。  そういったこともあったけど楽しかったです。

ランさんはポルポトの少年兵にさせられていて、少年兵は普段しゃべってはいけないことになっていて、成長期に声を出さなかったんです。  ですから声が出ないんです。  ランさんは母親が王族出身なんです。  父親は陸軍中将だったんです。  ポルポトは高級職業軍人をだまして集める。  国の再建のためにはあなた方の力が必要だと、呼び集めてきて全部殺したんです。   たまたまランさんがいない時に両親はいなくなって、両親が生存しているのかいないのかわからないんです。  私のところに来て何年か経った後に、おかしくなって部屋を真っ暗にした廃人みたいでした。  どうしたんだと言ったら、「僕は人を殺している」と、私は「戦争の時には仕方ないのではないか」といったんです。  弾薬庫と食糧庫をねらって衛兵をナイフで、3人のベトナム兵を殺して奪って来たといったんです。  上の命令に従わないと自分が殺されるという事で切ない思いだったと思います。  彼が言うには殺された方がよかったと言ってるんです。    ランさんは上官を殺しているんです。  その上の上官からその上官を殺すように命令されているんです。   彼はこれらの問題を死ぬまで持ち続けて行くんだろうなあと思います。   これは彼だけの問題ではなく戦争に行って残虐を経験する人たちの問題でしょうね。  

カンボジアに行って学校を作る時に、お前が殺したベトナムの若い兵士がもし生きていたら、やったであろういいことを、お前が今度償いしてやりなさいと、そこと学校つくりが結びつくわけです。   学校つくりを僕と一緒にやろうという事になります。   平和な日本で暮らしているうちに自責の念がわいてきたんだろうと思います。  彼の心にいまだに残っているかもしれません。  

私はずーっと被害者だと思っていましたが、加害者でもあったんです。  捕虜のアメリカ兵に石をぶつけたり、兵器工場で働いて兵器産業に加担して、そういう意味では私は加害者なんです。  戦争は本当に愚かなことで、決して正しい戦争なんて言うものはないです。世界中の人たちがどうやったら平和が作れるのか、もう一度真剣に考えてほしいと思います。   ポルポト時代の残酷な体験を彼らはしていて、彼らと深くかかわろうと思ったのは自分の体験と重なったことかもしれません。   

1994年にランにカンボジアに行ったことがないから一緒に行きたいので案内してほしいと、彼に連れて行ってもらいました。  そのときにお坊さんから学校を作るのに協力してほしいといわれました。  ポルポト政権は終わりましたが、残党はいっぱいいました。   最初に見た時にはこれは学校かと吃驚しました。   先生、医者など知識人はみんな殺されました。  先生の資格もない人が先生をやっていました。   資金的な裏付けがないまま安請け合いした。   最初の2,3校は溜めてきた貯金で対応しました。  金がなくなり相談してNPOを作りました。   学校建設は19校まで行きました。  ランは現場監督から仕入れから全部やりました。   彼は生き生きと学校つくりをしていました。 ランの助けが無かったら私は何もできなかったと思います。   村の人たち子供たちは本当に喜びました。 

今、ランは19校のメンテナンスを担当してやっていて、彼にすべて任せています。  若い人たちには絶望してはいけないとおもう、絶望は一切関係を断つので、絶望さえしなければ少しでも良くなる可能性があるわけです。  希望をもってその希望を具体化してゆく努力を重ねなければいけないし、自分の隣人を大切にすることだと思います。




























2021年8月11日水曜日

諸見里静子(元白梅学徒隊)       ・【戦争・平和インタビュー】沖縄戦を生き抜き"日系人の母"となって

諸見里静子(元白梅学徒隊)    ・【戦争・平和インタビュー】沖縄戦を生き抜き"日系人の母"となって

76年前激しい地上戦が行われた沖縄では20万人以上の人が犠牲になりました。   地元の住民も戦闘に巻き込まれて、県民のなんと4人に1人が命を落としました。  沖縄戦では多くの学生が学徒隊として多くの戦場に送り込まれました。    沖縄県立第一高等女学校は「ひめゆり学徒隊」、第二高等女学校は「白梅学徒隊」と呼ばれました。   白梅学徒隊では56人の女子学生が負傷兵の看護などに献身的に当たりました。  そのお一人、93歳になる諸見里静子さんは戦後ボリビアに移住し、現在は日系人が多く住む横浜市鶴見区に暮らしています。  これまで沖縄戦について多くを語ってこなかったという諸見里静子さんに伺いました。

諸見里静子さんは両親が移住した南米ペルーで生まれ、3歳で沖縄に帰国しました。  その後那覇市で育ち、1941年に沖縄県立第二高等女学校に入学、卒業を控えた1945年3月沖縄戦が始まり、静子さんも巻き込まれてゆきます。  

軍隊が来て連れてゆかれました。  簡単な看護の方法を教えてもらって、すぐ野戦病院に行かされました。   兵隊さんも粗末な寝台に乗せられていました。  若い子が下の始末までさせられました。  私は内科でしたが、外科の人は足を切断したりしたものの担ぎばっかりさせられました。    負傷した兵隊さんで近所の人もいましたが、戦争が終わってどうなったかを友達に聞いたんですが、なかなか話さない。  残っている兵隊を青酸カリを飲ませてみんな殺してしまった。   それを聞いて心が痛みました。  「貴様と俺とは同期の桜・・・」という歌がありますが、それを聞くと蘇ってきます。   特攻隊だから突っ込んでそのままですよ、帰れないです。  私たちは生き残っただけでも幸せじゃないですか。  兵隊さんが俺たちは最後で、あんたたちは死んだら駄目だよ、生き残って国のためにするんだよ、と言われました。  

兎に角沖縄戦は隠れる場所がなくて、沖縄はお墓が大きくてそこに入ったりしました。   夜になってあっちこっちに逃げるという感じで、車があってこの車に乗せてください・・・

沖縄戦を逃れてその後静子さん一家で沖縄本島南部の糸満市に移り住みます。  そこで19歳の静子さんは働くことを選択し、警察官になります。  沖縄では初めての女性警察官でした。   生きてゆくための働き口だったといいます。  

私の父親は顔が広かったので助かったところもあります。  食糧難で買い出しに行くための許可証を出す仕事もしました。  ・・・  警察官になって夫となる男性と知り合う事になり結婚します。    食糧難で沖縄北部に買い出しをしに行く日々でした。  食べるものがなくてソテツを食べた事もあります。  

戦後の沖縄はアメリカ軍によって土地が接収され、多くに人が住む場所を奪われました。  さらに県外から人が引き上げてきたため、人口も急増、1953年 当時の琉球政府が南米ボリビアへの移住事業をスタートさせます。   それから静子さんの思いもよらなかった戦後の人生が幕を開けます。   

先遣隊として夫がボリビアに行きましたが、私はあまり希望はしませんでした。   若いせいか深くは考えていませんでした。   3年後29歳の時に子供たちと一緒にボリビアに行くことになります。   しかし夫がその2年後に沖縄戦でのお腹の傷が原因で亡くなります。   子供4人と静子さんを支えたのはボリビアの自然豊かな風土と移住してきた沖縄の人たちでした。   

家の周りにはバンア、アボガドなどがあり食べ物は豊かでした。  沖縄から移住した人々はたくさんの人が農業をしていました。    戦争の話は忘れていました。  兎に角生活しなくってはいけなくて。   地方移民の方と再婚しました。  

移住生活は25年の長きにわたりました。  次女がボリビアでは治療ができない病気にかかってしまいました。   日本で治療をするためにボリビアでの生活に終止符を打ち、帰国を決意します。(54歳)     静子さん家族は日本で暮らしていた家族を頼りに、横浜市鶴見区での生活を始めます。     鶴見にはボリビアをはじめとした南米の国々からおおくの若者が日本に出稼ぎに来ていました。  自然と若者たちの面倒を見るようになり、日系人の母と呼ばれる存在になりました。  

日本語が判らない若者たちなので、どこに何があるかわからないので、郵便局、銀行などの場所、やり方などから教え始めました。   

沖縄戦などについては話すことはなかった静子さんですが、大きく変わったのは沖縄を訪れた時に出会った元白梅学徒隊の友人との再会でした。   白梅学徒隊の同窓会に出席することになりました。  あなたの人間の出会いを大事にしなさいという・・・逃げ回っているときにあなたに出会って・・・ 。  

「人間の出会いを大事にしなさい」と言ってくれたのが、同級生でした。  

沖縄戦の体験した人から聞くのは大変ためになると思うし、聞く人も喜ぶでしょう。

平和とは戦争のないことですね。  ・・・。

*非常に聞きずらくてうまく内容を伝えることができませんでした .






2021年8月10日火曜日

山口凌(高校3年生)          ・【戦争・平和インタビュー】大伯父の無念を継承する

 山口凌(高校3年生)      ・【戦争・平和インタビュー】大伯父の無念を継承する

熊本県立八代高校3年生、沖縄で戦死した祖母の兄(大伯父)を捜すとともに、その足跡をたどっています。  その活動は戦争の記憶を継承し同世代へ伝える取り組みへと広がりを見せています。   大叔父を通じて山口さんは戦争や平和への考えをどう深めて行ったのかを、伺いました。

僕が小学6年生の頃、祖母と終戦特別番組を見ていて、祖母の兄(大伯父)本田政義が沖縄戦で戦死したことを、祖母が言いました。  遺骨も遺品も残っていないという事を話したので、二人を僕が会わせなければいけないのかなあとの思いから調べ始めました。   兎に角遺骨を祖母の元に帰してあげたいと思いました。  

大叔父は昭和16年に18歳の時に出征しました。   昭和20年5月8日に22歳で沖縄で戦死しました。  インターネットで調べる方法からまず調べ始めました。  軍歴証明書という書類があって、大叔父は陸軍だったので、熊本県庁にあることが判り、申請をしてまず入手しました。  A4の2ページだが大叔父の場合は、入営、独立歩兵隊第15大隊配属、沖縄本島において戦死という たった3つだけでした。  独立歩兵隊第15大隊について調べ始めました。  主に中国で戦っていて、沖縄戦の前年の夏に沖縄に転戦してきたことがわかりました。  それから1年後に、陣中日誌とかの部隊の活動記録が見つかりました。   沖縄戦の前年の2月と昭和20年の1月、この二つの月の部隊の動きが判りました。    大叔父の名前が出てきて嬉しかったです。  祖母に見せたら涙を流して喜びました。  一般的な業務内容だったので、もっと大叔父の人生全体がわかるように調べて行きたいと思いました。  独立歩兵隊第15大隊の元将校の方が本を書いていて、偶然見つけて、〇月〇日米軍とどこで交戦した、どこで何人戦死した、誰が戦死したとか、書かれていました。

読み返すたびに戦場の様子が生々しいものに変わって行って、沖縄戦の壮絶さを感じました。   自分をそこに置き換えて、自分の思いと大叔父の思いを想像しながら、実際に書いていきました。   新聞記事に遺骨収集の活動が載っていて、南埜安男さんに連絡して遺骨収集に参加させてほしいといいました。  昨年初めて沖縄に行って遺骨収集に参加させてもらいました。   沖縄戦最後の激戦地と言われる糸満市の岬のガマ(壕)で活動しました。  当時のものがそこら中に散乱しているところでした。  ガマ(壕)は思っていた以上に狭かったです。   小指の先の1cm程度の小骨を見つけることが出来ました。  戦争を二度としてはいけない、戦争が起きないように僕らが新たに活動していって、戦争の記憶を伝えていかなければいけないと、いう風なことを感じました。

大叔父が戦死した場所であろうという場所は、傾斜がきつくて遺骨収集されていない場所で歯がゆい思いをしました。  周辺の小道を歩き大叔父が見たであろう景色を見ましたが、涙が出てきました。   遺骨が戻るだけが目的ではないんだなと、そういう戦争があったんだという記憶を伝えることが一番、遺骨収集よりも重要じゃないかなと思いました。

遺骨取集してきたこと、沖縄の現状を友達に話しました。   関心を示さないような人もいまいたが何回も話すうちに徐々に関心を持ってくれた友達もいました。  輪が広がっていったことは良かったと思います。    今年3月、全国の高校生1万4000人が「未来に向けた課題解決を考える」コンクールに出場、同世代に戦争の記憶を継承する必要性を訴えて、最優秀賞に選ばれました。  平和を作ることにはまず学ぶことから始めないといけない、これからの未来を作ってゆくのは自分たちであって、そのためには平和教育とかがどれだけ必要なのか、その重要性などを訴えました。  同世代の高校生からも平和活動の熱意が伝わって良かったと言ってくれた人が多かったです。  

記憶を受け継ぐこと、継承する事の重要性を改めて認識しました。  伝えたことを考えてもらって、何で平和がいいのかとか、なんで戦争がだめなのかという事の自分なりの考えを持ってもらいたいなあと思います。   日本では戦争体験を語り継ぐために残すという活動は一番重要になって来ると思います。   戦争体験者が少なくなってゆく中で、聞く人も少なくなってゆくので、いかに聞く人を増やすか、平和、戦争について考える機会を設ける、これが今の日本には必要だと思います。

それぞれ身近にある戦争の爪痕を知って、考えてゆくことは戦争を考えるうえでも意味のあることかなあと思います。  今を生きる私たちがこれからを作り、且つ最後に本当に戦争を経験した人の話を聞くことのできる世代の分岐点なので、如何に戦争をしない国にするために、今動いていかなければいけないという風に思っています。






2021年8月9日月曜日

メアリー・ポピオ(事業統括ディレクター) ・【戦争・平和インタビュー】世界に届け 被爆者の声

 メアリー・ポピオ(NPO法人 共同創業者・事業統括ディレクター) ・【戦争・平和インタビュー】世界に届け 被爆者の声

メアリーさんはアメリカ ボストン出身の29歳、学生時代に日本に訪れて被爆者と交流したことをきっかけに、5年前広島市に移住しました。   現在は世界に向けて平和を訴えるNPO法人を立ち上げ、オンラインなどを通じて英語で世界中の人々に被爆者の証言を伝える活動をしています。   広島から世界に平和を訴えるメアリーさんに核なき世界の実現に向けて何が大切だと考えているのか伺いました。

NPO法人PCV( Peace Culture Village)という団体で活動していて、平和学習と修学旅行のプログラムをメインの仕事としてやっています。   海外と日本の子供たち、学生たちを対象として広島でも、オンラインで広島の実相を伝えて、未来を子供たちと一緒に考えます。   オンラインだからできる事をいろいろな方法で、広島のアクセスを増やそうと思っています。   この半年で40か国からの人々にオンラインから提供できました。(2500人ぐらい)   アメリカ人向けのオンラインプログラムをやった時には涙が出た人もいたし、レバノンでのオンラインプログラムをやった時には広島のキノコ雲を見た時に、ベイルートの最近の爆発を経験した子たちとして、本当に共感できたといっていますし、シリアの人も被爆者の証言を聞いた後、強制移住民として自分の経験を証言して貢献できるかもしれないと、私の証言はここから伝えたいと被爆者に伝えて、めちゃくちゃ感動しました。

去年は原爆75年になりましたが、外国人はこれなかったが、技術のお陰で被爆者の話はコロナ禍のなかでも発信することが出来ました。   NPO法人PCVは広島での学びを追求、実践するアメリカ人、イギリス人、日本人のバイリンガルな若者チームです。  平和文化について考える機会を提供しています。   2025年まで37%の被爆者団体は続くことが難しくなります。 継承者が居ない、お金もない。  被爆者が居なくなっても次世代の平和文化リーダーをという事で取り組んでいます。

カトリックの大学で学んで、歴史で隠れキリシタンのことを学びました。   大学2年生の時に隠れキリシタンのこと調べるために、長崎に奨学金をとって1か月行きました。   原爆資料館に行って凄く衝撃を受けました。  核兵器は私にとって遠い問題ではないと思いました。    大学ではホロコーストについては学びましたが、広島、長崎のこと、パールハーバーのことについても学んでいませんでした。   戻ってから原爆について勉強し始めました。  翌年は2か月間広島に行きました。  堀江壮さんという方の被爆者との出会いで、堀江さんは英語で証言ができ直接に話すことが出来、印象的な出会いでした。    堀江さんは4,5歳の時に被爆しているが、丘の影にいたので生き残ったという風に言っていまして、家族はいろんなガンで亡くなりました。  放射線の恐ろしさを知ってびっくりしました。  アメリカ人に対して憎しみが残っているかを堀江さんに聞いてみたところ、堀江さんは「イイエ残っていない」といいました。  吃驚しました、クリスチャンですが私には許せるかどうかわからないです。  

被爆して生き残った人々は憎しみが残ってもこれを許し、平和を選択している人々で、未来の世代は二度とこのひどいことを経験しないように純粋に平和のために頑張っています。  この人たちとの出会いを広げたいと思っています。   ボランティアではなく、自分のキャリアを平和のために使いたいと、広島に引っ越すことを考え始めました。   卒業して2年ぐらいハーバード大学で働き、日本に行ったり来たりしました。   24歳で日本に引っ越しました。   スティーブン・リーパー(広島平和文化センター元理事長)にメールを送りました。  NPO法人をたちあげようとしているので来てほしいという連絡を受けました。  2017年にNPO法人PCVを立ち上げました。  私にとって平和活動は楽しいし、充実しています。 

一つの使命は外国人に被爆者の経験を伝えること、本当に影響を受けた人々のストーリーを知らないと、核兵器の酷さは判らないでしょう。  重要な情報なので伝えたい。     現在の祈りの泉のあたりに田中稔子さんという方の被爆者の幼稚園がありました。   田中さんの家族は原爆投下の数日前にちょっと遠くへ引っ越しましたが、幼稚園のクラスメートは全員亡くなってしまいました。   そういったことをオンラインだからこそ出来る、資料を全部組み合わすことが出来て、凄くわかりやすいストーリーとして伝えることが出来て、広島の歴史を伝えるだけではなくて、広島平和公園をめぐりながら、被爆者の声をあちこちに入れる方法もよく使います。   広島平和公園は被爆前は繁華街でした。  原爆のせいで繁華街の平和な日常生活、家族、文化、インフラなどが全部一瞬に消えました。 身近に感じる方法として被爆前のことも伝えることは効果的な方法だと思います。 

被爆者から、この活動から自分の価値観について学んだことができたし、自分のミッションについて、平和にどう貢献できるのか明らかになったと思います。   平和について何かしたくても、何から始めればいいのかわからないという事があるかもしれないが、ほかの人が経験したことは自分の経験のようになるなら気にするでしょう。   公人的なつながりを作ることが出来たら、人間が心理的にもっと関わる可能性があると思います。  一人一人は自分の中の平和を培わないといけないと思います。  自分の心が平和でないと世界は平和にならない。  だから憎しみを置いておいて次の世代のために未来のために進まないといけない、そういう話を聞いた時にはすごく感動しました。 

ツアーの一環として参加者と一緒に自分の平和に対する思い、願いを書いて壁に貼り付けますが、伊藤さんという被爆者の方が「許し」という事を書いてもらえました。  平和公園にある詩、「私のおばあちゃんを返しなさい、私のお父さんを返しなさい・・・」というようなことを書きたかったが、そういったことだと世界は平和にならないでしょう。 そういう思いを置いておいて、平和のエネルギー、愛のエネルギーを出して、未来に向けて行動したいといいました。  印象に残った経験でした。

核兵器禁止条約が発効され、凄く嬉しかったです。   多くの人に心の平和を紹介する作業が必要だと思います。  核兵器廃絶は人間の心の平和から来るかもしれない。  広島長崎に原爆が落ちた時には世界にグローバル被爆者がいます。   日本の問題だけではなくて国籍にかからわずみんなが協力すべきだと思います。   外国人と広島を繋ぐ機会を増やしたいのと、夢は私のような平和の仕事をやりたい外国人が広島で増えるという事です。











 

2021年8月8日日曜日

鷲津名都江(イギリス児童文学者)     ・【時代を創った声】

 鷲津名都江(イギリス児童文学者)     ・【時代を創った声】

鷲津名都江さん、「小鳩くるみ」さんといえばお判りでしょうか。  

ぴょんぴょん虫]   1953年  作詞:時雨音羽  作曲:平岡輝明  歌:鷲津名都江

デビュー曲で当時5歳。(歌ったのは4歳)

3歳の時、NHK名古屋放送局主催の歌唱コンテスト「声くらべ腕くらべ子供音楽会」に飛び入りで出場。  母の里が名古屋市内にあり、名古屋城を見学に行ったときに、「声くらべ腕くらべ子供音楽会」の看板が目について申し込んだら、47人の参加者の中から唯一の合格者となる。  4歳の夏に上京しくるみ芸術学園へ入学、日劇の「秋の踊り」で歌手・小鳩くるみとして4歳で日劇最年少デビューすることになる。   当時は連絡のやり取りで電話がなくて父とは電報でやり取りしていました。  日劇の「秋の踊り」が終わったら名古屋に帰るつもりでいましたら、評判が良かったという事で、日劇では年に何回か本公演があるのでそのレギュラーのように出していただくことになりました。 12月から『ちえのわクラブ』(ラジオ東京)にも出ることになり、東京にいることになりました。    

1963年幼児向け音楽教育番組「ドレミファ船長」ではテレビのレギュラーとして出演。   1年目は松島トモ子さんがやっていましたが、松島トモ子さんがアメリカに留学することになり、出演することになりました。    2年間やって「ドレミファ船長」が終わって、なかよしリズム』という新しい番組が出来て担当することになりました。   学校と取り決めをして、学校では普通に生徒として過ごせました。  今でも高校、大学の友達とは連絡を取っています。   高校の時には英語部に入って駐留軍の家庭に先生に連れて行ってもらったりしました。    歌手になるんだとか、目標をもって進んできたというわけではありませんでした。   出来ない出来ないと思うような仕事をさせていただきながら、少しずつできるようになってきたのかなと思います。  感謝だけです。

「ドレミファ船長」は高校生の時で、なかよしリズム』は大学に入った年から始めて、6年間やりました。   「小鳩くるみ」では古いイメージがあるといわれて、本名を平仮名にした「わしづなつえ」で出演しました。  新しいイメージの番組にという事で子供番組でしたが踊りにしても音楽、セリフにしても速いテンポで行う事になりました。  始まった当初賛否両論がたくさんありました。   2年たち、3年たって、子供たちはその通りにできなくても、全部理解していなくても喜んでいるんだという事がわかりました。

*「夏は来ぬ」  作詞:佐佐木信綱  作曲:小山作之助  歌:鷲津名都江

1969年 アニメ『アタックNo.1』(フジテレビ)のヒロイン・鮎原こずえ役を担当。    声優という言葉もなく、まだ確立していなかった時代でした。  洋画の吹き替えは高校生時代にさせていただきましたが、アニメはどうなることかと思いましたが、2年間させていただきました。  主題歌も歌っていましたが、人気が出てきて、当時はレコード会社の専属契約になっていたので、レコードを発売するわけにはいかないので、大杉久美子さんへバトンタッチしました。

*「アタックNo.1」  作詞:東京ムービー企画部  作曲:渡辺岳夫  歌:鷲津名都江

ディズニー映画『白雪姫』の主役・白雪姫は1980年から担当(小鳩くるみ名義の活動は白雪姫を担当する場合のみ行っている)

1976年から1986年まで『お達者ですか』(高齢者向け番組)後にお達者くらぶ』で司会者として通算10年間出演、レギュラーが切れることになる。  1986年、これを機にイギリスにマザー・グースを研究するために4年間留学することになる。   目白学園短期大学(現・目白大学短期大学部)助教授(英文科)に就任しました。  2018年3月、目白大学を定年退職。 

若い人へのアドバイスとしては、思った方向に行けない時に、何か別の方向のチャンスがあったならばそちらもやって見るべきじゃないかと思います。    






2021年8月7日土曜日

戸坂明日香(復顔師・京都芸術大学准教授)・再現した"生きた顔"から豊かに生きるヒントを

 戸坂明日香(復顔師・京都芸術大学文明哲学研究所准教授)・再現した"生きた顔"から豊かに生きるヒントを

復顔とは遺跡などから発掘される人間の頭蓋骨などをもとに、生きていた当時の顔を復元することです。   戸坂さんは主に美術館や博物館に展示するための復顔の仕事を行っています。   子供の頃の友人の病死をきっかけに、死と向き合いながら作品制作を続けてきた戸坂さん、大学卒業のころから始めた復顔の仕事をきっかけに、過去、現在、未来に伝える活動の面白さに気づき、生きることと向き合いながら活動するように変わったといいます。  何が戸坂さんを変えたのか、そして戸坂さんの考え方を変えた復顔の仕事について、伺いました。

復顔は2つ種類があり、人類学、考古学とかの分野で古人骨にあったり、歴史上の人物を復元する復顔というものがあり、警察とか科学捜査を目的で行われる復顔というものがあります。 私がメインでやっているのが人類学、考古学とかの分野がほとんどになります。   

考古学の方が発掘調査をした時に発掘した人骨が歴史的に意味があるものだったり、それを調べる事によって新しい事実が明らかになったりするような骨が出てきた時に、良好な形に残っていれば復顔できるぞという事になって、復顔の話がスタートします。   骨の模型を作って模型をベースに復顔をするというのが基本的な流れになっています。   最近はCTスキャンで撮ったデータを3Dプリンターで出力して、かなり精度の高い頭蓋骨が出来るようになりました。   実物と見比べる作業はなくなってきました。  2012年に始めて年間3体ぐらいのペースでやっていて、立体のほうだと27,8体になります。  粘土ではなく2次元の、鉛筆で平面上で書き起こす復顔も時々あります。(6体)

依頼は人類学の研究者、埋蔵文化財センター、科学館、歴史民俗博物館などから依頼されます。   私が復顔を始めた時には日本では3,4名だったと思います。    アメリカではFBIが復顔の主流になっていますが、ヨーロッパは一番歴史が古くて、歴史上の人物の復顔がスタートしたのがヨーロッパでした。  もっとも古い復顔は音楽家のバッハと言われていて、1800年代に行われたころが最も古い復顔と言われていて、ヨーロッパではたくさん復顔像がつくられています。  日本では警察関係の復顔がずーっとおこなわれてきていて、人類学関係で復顔が行われるようになったのは、40年程度です。

美術解剖学で有名な人というとレオナルド・ダ・ヴィンチだと思います。  レオナルド・ダ・ヴィンチはたくさん解剖をして人体の構造を把握したうえで絵画に落とし込んでゆく方ですが、構造を理解して描いたものと理解しないで描いたものとではやはり違いがあります。   大学院に進学するという事になった時に、彫刻ではなく美術解剖学に進むことにしました。  骨格標本、筋肉の模型とかを見ながら、実際に自分の身体を動かしてみたり、モデルさんを観察しながら、中の構造と外の見ている部分とはどう関連し合っているのかという事を観察してゆくことが研究内容です。   私の研究自体は論文になります。  制作も好きで並行して進めていました。  

大学では彫刻をしていましたが、人類学のほうの復顔をやってみないかと言われて、徳川家の大奥女性の復顔をやったのが最初の復顔でした。   江戸時代の人たちが食べていた食べ物は文献が残っていますが、食生活、生活環境、労働、データはないが、恰幅のいい人はそんなにいなかったと思います。  現代のデータをそのまま使うと恰幅のいいものになってしまいます。 

一番古いものは2万7000年前の沖縄から出土した旧石器時代が一番古いものです。  その後縄文時代、弥生時代、古墳時代、最近は戦国時代が一人、江戸時代と警察関係で現代という事になります。  復顔をしていて死者への冒涜なのではないかと、一時期思ったこともあります。  日本の土壌は基本的には酸性の土壌で、通常であれば100年足らずで溶けてしまいますが、骨が分解されずに形がきれいに残っているというのは、発掘されていろいろなプロセスを経て、私が復顔をやる意味というのが偶然ではなくて、何かしらの意味があって、この人と出会っているんじゃないかなという事を思うようになりました。

作る時に意識していることは、その骨の形をどれだけ忠実に復元出来るかという事です。 私は小さいころから死について考える事が多かったんですが、考えても答えは出なくて、考えることに疲れた頃復顔と出会ったという感じです。  実際に復顔の作業をっやっている時には死のことは考えないです。  生きていた時にどうだったのか、という事を全力で考えるようになってきました。   死を考えることから生を考えるようになり大きな変化だったと思いました。   小学校5年生の時に同級生が病気で亡くなって、先生から言われてもそれを認識できなくて涙も出なくて、家に帰って出されたうどんが喉を通らなくて、どうしてだろうと思った瞬間に涙が出てきて、悲しいという感情もなかったです。   自分で自分のことがよくわからないという事、それが死を強く意識したことだったのかなあと思います。  夜も眠れない時もありましたが、父が哲学、宗教、文学とか読書をするのが好きな人で、先人の本を読んで聞かせてくれたりして、いろいろな思想を父親からきいて、いろいろな考え方を聞くことが出来ました。  それが支えになったと思います。  二人称の死の恐怖が根底にあったと思います。   

いろいろな画家が自分の死について考えたり、自分以外の死について考えたり、生きているという事がどういうことなのかというのを悩みながら制作していたというのをたくさん見るようになって、絵を描いたり、作ったりすることは、自分の中にある悩みを形にすることによって外に表出するすべなのかなあと感じ取って、単純に絵を描いている時って、夢中になって忘れるんですね。   

10代、20代で味わったような絶望感はなくなりましたが、復顔をやっていることの効果なのかなと思います。   復顔を見てその時代を想像できるかどうか、イメージできるかどうかが非常に重要になって来るので、科学的根拠で復顔するわけですが、科学的根拠のない部分もあるので、リアリティー、自然な感じを出せるように制作する時には心がけて居ます。   私が学んできたことは美術の方向から来ていて、復顔をするための表情、見る人にどんな感情を抱かせるのかを研究していきたいなあと思っています。   死について偏ることなく、生と死と、両方の視点で物事を捉えて行けるように、自分の気持ちをコントロールしていけたらいいなあと思います。





2021年8月6日金曜日

菊池智子(ヒンディー語翻訳家)     ・インドの子どもにヒンディー語で平和を!

菊池智子(ヒンディー語翻訳家)     ・インドの子どもにヒンディー語で平和を! 

福島市出身51歳、原爆の日の今日は国際協力基金や、現地のNGOと一緒に原爆をモチーフにした紙芝居をインドの子供たちへオンラインで届けます。  菊地さんはインドのネール大学でヒンディー文学の博士号をとったあと、平和をテーマにした日本の絵本や漫画をヒンディー語に翻訳し、読み聞かせを続けてきました。   首都のニューデリーで夫と子供二人と暮らす菊池さん、どんな思いでインドに住み続けヒンディー語で平和について伝えてきたのか、伺いました。

パンデミックで1年半以上家に閉じこもる状態が続いています。  4月に大きな第2波がきて本当に大変な状況になりました。  重症になっても病院にも行けないとか、救急車も足りないような状況でしたが、なんとか乗り越えて、6月には落ち着いてきてきましたが、第3波の懸念が続いて気の抜けない状況です。  

日本の絵本や漫画をヒンディー語に翻訳し、読み聞かせをしてきました。  8月6日には「ちっちゃい声」という原爆の話をもとにした紙芝居の読み聞かせをします。   NGOと一緒に日本の紙芝居をインドの子供たちに届ける企画を予定しています。   広島の原爆の話をもとにした珍しい紙芝居です。    脚本を書いた人はアメリカ人で日本語の詩を書く日本語の物語を書く、アーサー・ビナードさんという方です。  猫が主人公で放射線を浴びると体がどうなってしまうのかという事などを判りやすく教えてくれます。  紙芝居は日本独特の文化、芸術で世界中で愛されています。  英語でも相当する英語がなくてkamisibaiと言われることが多い。  

紙芝居の絵は丸木位里、丸木俊さんによる「原爆の図」が土台になっている。   原爆が落ちて3日目に広島に行って広島のすべてを目で見て体験して、そのあと「原爆の図」という形で1950年から32年をかけて全部で15部あるよる巨大な屏風絵を描いています。    アーサー・ビナードさんはこの絵に魅了されたようなんですね。   すべての人間、犬、猫、鳥、花、植物とか、そういうものの美しいところと、苦しいところの両方が表現されている。  見ている人が巻き込まれるような絵だと、「原爆の図」の絵はみんなを巻き込む巨大な紙芝居なんだとアーサー・ビナードさんは感じたそうです。  その絵のある部分を切り取った形で16枚の紙芝居にしたそうです。

「ちっちゃい声」の一部朗読。

「耳も細胞、眼も細胞、唇も細胞、指も全部細胞が作ってくれる。・・・赤ん坊の細胞はいい声を出しているよ。・・・今日は1945年8月6日だ。  赤ん坊の1歳の誕生日。  姉さんが朝ご飯を作っている。  じいちゃんがまたあの歌を歌っているよ。・・・その時いきなり「ピカーッ」」

「太陽より100万倍まぶしいのがキリキリキリと刺さってきた。・・・「痛い、助けて、つぶされる」お姉さんと赤ん坊が閉じ込められて動けない。・・・猫の僕だけ逃げて助かった。・・・広島に落としたのは普通の爆弾ではなく原子爆弾。・・・細胞を壊すものが降って土に潜って体の中まで潜り込む。・・・助かっても次の日、次の日、ジリジリジリジリ ジリジリ」

8月6日にオンラインで生でやることになりました。  アーサー・ビナードさんも日本から参加されることになっています。  2016年にアーサー・ビナードさんはインドにきました。  「ちっちゃい声」は原爆の話ですが、そこから広がってゆく話だと思います。  特に今の時代に伝えるのがとっても大切だと思います。   細胞に注目すると人間も、動物も、植物も、もともとはおんなじところだという視点に行きつくと思うんです。  普遍的なメッセージを私達、子供たちに送っている作品なんです。

私は学生時代からインドが好きでした。  インドのことをもっと知りたくて、高校卒業後東京のインドの専門学校に2年間通いました。   インドへ行ける奨学金を頂いてインドにきたのが始まりでした。   母に国際電話をするのにも電話がなくて、とにかく何にもありませんでした。  ようやく慣れてきたのが1年後で、まだ帰れないと思いました。   インドの大学に入学することになり、ヒンディー文学を専攻し、修士、博士課程を修了しました。  1930年代は多くの旧習に縛られていて、2級の人間とされていた頃の女性で、自分の意見を人前でいう事がタブーの時代です。 1930年代の有名なインド受精文学者でマハディーヴィー・ワルマーさんという方がいますが、 彼女はそんな時代の中で女性の自由と自立を堂々と叫ぶんです。  当時は教育を受ける女性はほんの一握りでした。    心に刺さる彼女の言葉があるが、「幸運にも知識や教育を得ることができた知識階級の女性としてそうでない女性に覚醒をもたらすのは私たちの義務だ」といっています。  この一文を一生をかけて貫いた女性なんです。  詩、エッセー、随筆も書きます。  女性がどれだけ耐え難い思いをしているとか、嘆きがあるのかとかをすごく叫んでいる部分が見えて来るような詩でもあります。   

インドで暮らしてみて不自由だらけでした。  1993年でしたが、極端に外国人が少なく女性だという事で、インドで女性が一人で生きることがどれだけ大変なものか、身をもって体験することが出来ました。   街に行くと毎回痴漢には遭います。  私は一体人間なのかと思ってしまいました。    目の前のことを一つ一つやっている間に時間がたったという事もあるし、一度始めたことは最後までやりたいという事もあって、なんでそんなに長くインドにいるのかと言われたりしますが、前世では私はインド人だったのではないかと思っていたりします。      ヒンディー語は民衆の言語なんです。 ヒンディー語で話をすると、飾らない形で会話が出来ます。    

インドでは戦争がなくても、みんなが貧しくて大変な思いをしているし、全然幸せではないという中で、人間だという尊厳があって暮らせることが本当の平和なんじゃないかという思いがあって、自分には何ができるのかという事を考えていました。   子どもを産んでみて、人生ってそんなに長くはないんじゃないのかなと思いました。   平和にどうやったら貢献していけるかと考えた時に、原爆が落ちたという事で、インド人の方々、特に子供たちに伝えて行ける事が出来たらなあと思いました。 そこで翻訳という言う事を考えました。   2009年に初めて絵本「広島のピカ」をヒンディー語に翻訳。  つてがないのでインドでも有名な出版社に飛び込みで話を持ち込みました。  連絡もなく駄目だと思っていたら、翌年東日本大震災が起こりました。  私も福島の出身なので驚きました。   インドでも大きく取り上げられました。   原発と原爆は違うんですが、出版社の人が「広島のピカ」のことを、その年の10月にヒンディー語に翻訳して出版することが出来ました。

国際交流基金という団体があることが判って、「広島のピカ」を使って文化交流が出来ないかと思って、「広島のピカ」の朗読会が実現することになるわけです。     国際交流基金ニューデリーと共催で今年の3月東日本大震災の実話をもとにした絵本の読み聞かせの会をオンラインで開きました。   

ハナミズキを目印にして避難経路を作ろうという事があって、絵本のなかに大切なメッセージがきっと残っていくんじゃないかなと思って、伝えなきゃいけないものを子供たちは受け取ってくれるのではないかなあと思っています。  本当の幸せは日常の中にしかないんじゃないかなあと思います。  インドの大切なこととかを日本に伝えて行ったり、日本の大切なことなどをインドに伝えて行ったりするのは、ずーっと続けていきたいと思っています。








2021年8月5日木曜日

小暮聡子(ジャーナリスト)       ・戦犯となった祖父の思いを伝えたい

 小暮聡子(ジャーナリスト)       ・戦犯となった祖父の思いを伝えたい

高校2年の夏、祖父が書き残した手記を読み、祖父が、戦犯 戦争犯罪人とされたことを初めて知って大きな衝撃を受けます。  岩手県の釜石捕虜収容所の所長だった祖父、稲木誠さんは連合国の軍事裁判で有罪となり巣鴨刑務所に5年半拘禁されます。   祖父の手記には捕虜にひどい扱いをしたことは覚えもなく、戦犯の烙印を押され悩み苦しみ、戦争程愚かで残酷な愚かなものはないと綴られていました。   私の知らない戦争の記憶、祖父の思いを残さなければならないと、小暮さんはジャーナリストの道を選びます。  戦犯となった祖父の思いを伝えたい、小暮聡子さんに話を伺いました。

今から24年前、高校2年の夏(1997年)、母がちょっと読んでみてと持ってきたのが、亡くなった祖父が書いた戦争体験記で「フックさんからの手紙」というタイトルでした。    週刊時事という時事通信社が出していた週刊誌に、昭和59年9月15日から連載されていたもので、それを母が持ってきました。   フックさんはオランダの元捕虜だった人です。    1975年にフックさんが釜石市長に手紙を書いて、「戦争中に捕虜として釜石にいたものですが、釜石の取り扱いはよく、市民にも親切にしてもらいました。」というようなことが書いてありました。    30年たって捕虜の方からの手紙で、フックさんと祖父の手紙のやり取りが始まって、12年間文通を続けていました。   それについて書かれたのが「フックさんからの手紙」の連載だったんです。   祖父は戦後、連合国の軍事裁判で有罪となり巣鴨刑務所に5年半拘禁されます。    

祖父は私が7歳になる直前に亡くなっています。   「昭和19年俘虜収容所所長に任命され、俘虜は博愛の精神で取り扱うようジュネーブ条約で定められていた。 ・・・三陸海岸に敵艦隊が出現し、攻撃を加えるに至った。  俘虜は防空壕などに退避したが32人が死亡し、収容所も焼き払われた。  ・・・俘虜に対し努力していたことは事実だが日本軍の体制の中でのことだったから彼らを満足させる事は難しいことだったと思われるのだ。   怒りの心ではなくより深い心で釜石のことを思い出している、というフックさんの言葉が私の胸を打った。」

昭和19年クリスマスツリーを囲んで捕虜たちの集合写真がオランダにありました。  赤十字を通じて捕虜の家族に渡っていました。  

1950年代、祖父は時事通信のホノルル支局に勤務していた時があって、アメリカのいいところを一杯見てきて戻ってきて、日本人は体力がないので日本人は週に一回はビフテキを食べないといけないといっていました。  コーヒーなども飲んでいまして、アメリカに対するマイナスの感情は持っていませんでした。  

味方の軍艦に砲撃されて捕虜の人たちも亡くなっているわけです。  そういったこととか帰国の状況などを捕虜の人たちは克明に記録しています。   

祖父の体験を知ってから、祖父の体験を調べるようになって、気が付いたら今の職業になっていたという感じです。   手記上での祖父と私の知っているおじいちゃんとではかけ離れていたので、そのギャップにショックを受けました。   なぜ戦犯にならなければいけなくなったのかを知りたくなりました。  大学に入って国会図書館に行って、祖父の裁判資料とかを捜しました。  その後アメリカに留学することになり、元捕虜という人を探し始めました。   釜石にいた元捕虜の人には会えませんでしたが、ほかの地で捕虜になった人たちの体験を聞き始めました。   捕虜側の歴史が見えてきて、過酷な状況で働かされて、たくさんの方が亡くなったりもしています。   アメリカの戦友会に参加していろいろ話を聞いたりしましたが、私が捕虜収容所の孫であることを言うと、激しい口調で私に怒りをぶつけてくる人もいました。   話をしてゆく中で最後は関係性を築くことができた方も何人かいました。   日本に帰ったらこの話を多くの人に伝えてほしいといわれました。  

8/15から9/15までの期間でいろいいろ苦慮したことなどもを祖父は書いています。 「・・・ 味方の攻撃にさらされてやけどを負い、勝利を知らされながら、帰国を目前にして息絶えてしまった、なんと悲しいことだろう。  炎に包まれた棺の主は戦争の悲惨を訴え、抗議の声をあげているようだった。」  祖父が68歳の時に書いた原稿。

昭和20年9月15日 彼らの出発の日だった。   私の任務はすべて終わった。  ・・・引き上げ艦に向かって呆然と立っていた。   艦上からフックさんが私の姿を認め悲しんでいたというのだ。  私はその手紙を何度も読み返した。「・・・私は偽物的なアメリカの裁判を欲しませんでした。  ・・・誰もあなたのことを悪く言う人はいませんでした。」という手紙が祖父のところにきました。

戦後、フックさんとの関係を築いていったという事は祖父にとってもよかったと思います。

自分の戦争体験を書くという事は地獄の苦しみだったと書いていて、それでも若者たちへの遺書にするという事を著書インタビューなどで語っています。  私も伝えていかなければならないが、祖父の視点の歴史だけではなくて、捕虜側の歴史もちゃんと聞いて、一緒に伝えて行かないといけないと考えています。   2013年8月に釜石捕虜収容所にいた人に会う事ができました。  オクラホマへ行ってご家族と4,5時間話したりして新しい関係を築くことができました。  あなたのおじいさんは暴力的な所長ではなかったといってくれましたが、結局過去に何があったのか、白黒つけてこれがたった一つの事実であるという事を語ることはもう難しいなあと思いました。  

フックさんの息子さんとオランダに母と共に行って、息子さんとのお付き合いをするようになったし、ほかの捕虜の方のご家族ともお付き合いをするようになりました。  理解しようとすることが大切なんだと思います。









  

2021年8月4日水曜日

風間杜夫(俳優)            ・ダメ親父の哀愁を背中で表現

風間杜夫(俳優)            ・ダメ親父の哀愁を背中で表現 

1949年東京生まれ、8歳の時に児童劇団に入団、子役として活躍されましたが、中学を機に学業に専念、早稲田大学入学後演劇活動を開始、22歳の時に大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさんらと劇団、表現劇場を結成、その後劇作家で演出家のつかこうへいさんに出会い、劇団の主要キャストとして「熱海殺人事件」「蒲田行進曲」などに出演します。    1982年映画「蒲田行進曲」で一躍人気俳優に、現在もTVドラマ、映画、舞台と活躍しています。  

「セールスマンの死」、「女の一生」、「白昼夢」という作品で第46回菊田一夫演劇大賞を受賞。  先月読売演劇大賞上半期ベスト5で男優賞にも選出される。          菊田一夫演劇大賞は吃驚しました。   「セールスマンの死」はアーサー・ミラーの戯曲で社会派の作品で、演出家の長塚圭史さんがウイリー・ローマン役をやってほしいという事で、大役なのでやれることが出来てうれしかったです。  2018年が初演で再演することになりました。   舞台が回想と交錯するので、混乱するかと思ったが、意外と整理できていました。     内容が何ともつらい劇でした。    「女の一生」は主人公の布引けいのよき理解者であるいいおじさんの役。  作品として優れています。  作品の力強さを感じながら演技していました。   「白昼夢」は駄目なお父さん役で前2作とは全く違う役です。  赤堀さんが僕とやりたいという事でどんな内容なのか知りませんでしたが、引き受けました。   その父親は家族には強圧的にふるまうが、心の中では引きこもっている息子がいとおしい。   駄目おやじいという風にくくられるのは気の毒だなと思います。     父親というのは息子の懐に入ってゆくのが苦手なところは有りますね。  「白昼夢」の親父は昭和の名残がありましたね。  

お芝居をすると1か月ぐらい旅公演が続くので、年に3本も仕事をすると、そうそう時間が取れません。  息子が中学の時に「野球の試合を一度も見に来なかったよね」と責められたことがあります。

つかこうへいさんの作品は読んだことがなかったんですが、「旅立ち」という作品をやらないかというグループがあり、呼ばれていって、稽古場につかこうへいさんが現れて、「お前には垢が付いているので、俺のところに来て垢を落としてゆけ」と言われました。   それからつかこうへいさんの元で7年以上いました。   「熱海殺人事件」(つかこうへいの初期の代表的戯曲) 木村伝兵衛の感情の起伏が激しい。  よくできた芝居であれはずーっと残る戯曲ではないかと思います。   

稽古場でつかこうへいさんが言った言葉をオウム返しに言ってゆくんですが、身体をつかこうへいさんに投げだせば色を付けてくれるような絶対的信頼感があったので、カセットテープで録音して台本らしきものを作りましたが、あまり役に立ちませんでした。   全貌が見えるのは本番の10日前ぐらいでした。   感情の表出はつかこうへいさんの音で判るわけです。    

「蒲田行進曲」の銀ちゃんのヤスに対する思いはよく僕らは判ります。  好きだけど嫌い、愛しているけど憎いというか、ヤスのなかにある根深いところにある恨みつらみみたいなもの、それに近いようなものを我々はつかこうへいさんに持っていました。  つかこうへいさんは天才だと思う反面、なんで自分たちはここまで言われなければならないんだという思いはありました。   

解散しましたが、僕は一晩泣きました。  女の一生ずいぶん前から決めていたようでした。     作品選びというより誰の書いて誰が演出するかという事で、ほとんど決まってます。  

1997年水谷龍二さんとはひとり芝居「旅の空」でスタートして、2019年までに上演回数が993回。  「旅の空」は記憶喪失の男  しみじみとしていい芝居だなあと思います。 「カラオケマン」を第一部、「旅の空」を第二部、記憶喪失ののまま旅芸人の一座に入るというそういう三部の展開にしました。    2002年に三部一挙に上演しましたが、評判がよかったです。  牛山明シリーズが四部、五部もできて一気にそれをやりました。(5時間15分)  出てくるのは僕一人でした。 (2010年)  2014年から平和シリーズで三部一挙上演しました。  

口説かれてひとり芝居で「旅の空」をやりましたが、本当に難しいと思いました。  子供の頃一人でちゃんばらごっこなどをして遊んでいましたが、ひとり芝居は〇〇ごっこでいいんだとおもって、目いっぱい遊んでやろうという、そういう腹づもりです。  ひとり芝居では見えない人間をどうやって現出させるかというのが難しいです。

牛山明シリーズのその後という事で「帰ってきたカラオケマン」をやります。










2021年8月3日火曜日

渡辺えり(劇作家・演出家・女優)    ・山形で抱いた初心にかえって

 渡辺えり(劇作家・演出家・女優)    ・山形で抱いた初心にかえって

今年4月に個人事務所を立ち上げ、新たなスタートを切る。   コロナ禍で人との交流もできなくなり、お芝居も中止になり、劇場を何とか上映してほしいという事で、女性劇作家による女性を主人公に描いた戯曲を集めて、女性のフェスティバルのような形でやろうと思いました。  「さるすべり」という戯曲を書き上げて、ほかに永井愛さんらと3人で3本を急遽やることになりました。  朝の9時から夜の11時半までずーっと稽古しました。  遣り甲斐がありました。  「ガラスの動物園」を16歳の時に見て感動して、そしてこのコロナ禍で朝から晩まで芝居漬けの日々を送っていたら、山形からどうして自分は上京してきたんだろうという事を改めて考えました。   気が付いたら65歳で好きなことをやるんだったら今しかないと思って、「ガラスの動物園」のような作品を少数の人たちの幸せのために上演するという事と、映画も好きで高校生の時に「シベールの日曜日」という映画を見て感激してしまってこういう監督になりたいと思ったんです。   自分と同じように悩んでいる人たちを救いたいというか、希望を与えたいというような気持になってしまったが、全く実現できていない。 

映画は最初に見たのが「アンクルトムの小屋」で小学校1年生の時に見ました。  奴隷制度があったのかと驚きました。  絶対平等な世の中にしたいと思いました。  映画で影響を受けたのは「赤い靴」でした。  生まれて初めて2歳の時に見た映画でした。  好きなことをやると不幸になるという事が刷り込まれてしまいました。  ほかにもいろいろ見て、金持ちは性格が悪いというようなことも刷り込まれてしまいました。  苦労して苦労して何かやらなくてはいけないという事と、幼児のころはバレリーナになりたいと思いました。  車酔いするので通えなくて、高校3年生の時に1年間クラシックバレエを習いました。  小学生と一緒にやっていました。

やりたいことをやるとなると独立しかないと思いました。  子供のころから物語を作るのが好きでした。  物語を作っては書いていました。   「シンデレラ」では王子との結婚で終わってますが、その後どうなったのかとか、死ぬまでのことを考えました。  「桃太郎」では鬼を退治した後に金銀財宝を村に持ち帰って、どう分けたのかとか桃太郎が亡くなるまで考えました。  「赤い靴」を見て死ぬまで踊り続けなくてはいけないというのを見たので、それを桃太郎の続きの新作歌舞伎の物語を作った時に、影響が現れたりします。

28歳の時にフランスに行って、ロダンとかいろいろな彫刻のところに行ったら、日本にロダンを紹介したのが高村光太郎だということが判りました。  人間の苦悩する姿を彫刻にしたのがロダンが初めてでした。  それまでは貴族が喜ぶような美しい彫刻、絵が流行っていましたが、今までタブーだったものを作っていったが、そのはしりの人がロダンでもあったわけです。  子どもの頃父がよくロダンの絵ハガキを買ってきてくれましたが、父がそういうものを伝えたかったんだなあと30歳近くになってわかりました。

高村光太郎のことを書いてほしいと父から言われて、その約束を果たせたのが40歳過ぎてからでした。  祖父が父が5歳の時に亡くなっていて、父親を想像でしかわからなくて、その面影を高村光太郎に見ていたんだなという事が判って、高村光太郎に影響され心酔していって、その気持ちを私に伝えたくて、いろんなことを言っていたんだなあという事が「月にぬれた手」を書くための資料を調べていた時に、一気にわかりました。

父親の反戦の思い、戦争はこれだけ人を傷つけてこれだけ駄目にしてゆく、そういうことを伝えて行かないという事は父親を通して思ったことでした。  山形ではほとんど男性が亡くなったりしています。  自分を戦争に向かわしたのはなんだと思った時に、教育が戦争に向かわしたと、教育の現場に入って自分は学ぼうといって、軍需工場から帰って独学で学んで、大学に行っているんです。  

軍需工場が爆撃に遭うという事でそこの管理をすることになりますが、或る意味死を覚悟するようなことで、結局父が手をあげてしまったそうで、ものすごく怖い思いがあってもう駄目かと思いながら高村光太郎の「必死の時」という詩を朗読したら、不思議に怖くなくなったといいます、それほど高村光太郎に心酔しているんです。  高村光太郎がなんで「必死の時」を書いたかというと、空襲の時に、隣のおばさんの太ももが電信柱に宙吊りになっていて、それを見て高村光太郎自身が死ぬのが本当に怖くて、死ぬのが怖いのを何とか慰めるために書いたのが「必死の時」だったらしいです。  必死になれば日本という民族は死さえも怖くなくなるという詩なんです。     特攻隊員がみんな胸ポケットに縫い付けて特攻隊に行ったんです。  これを戦後知った高村光太郎が猛反省して岩手の山奥に独居生活を送るという流れになっています。  高村光太郎は戦争を賛美する詩と戦争は駄目だという詩と2種類書いています。  戦争は駄目だという詩は国から発禁処分になっていて、戦争を賛美する詩は全部発売されている。  

それを読んで若者たちは奮い立っている。  その若者の一人が父親だった。  父は高村光太郎、宮沢賢治の文学にも影響を受け、石原莞爾、本居宣長の研究もしていて、日本という国がどこから来て、どこに向かうのかという事に興味があったようです。    私は劇作家になっていろんなことを調べなくてはいけなくなって、結局父親の世界に入り込んだという事ですね。

「老後の資金がありません」という小説を舞台化したものが上演されます。  身につまされる話をミュージカル仕立てにした楽しい舞台になっています。

*特に前半は話がいろいろ飛んでまとまりずらい内容になっています。