2016年3月31日木曜日

2016年3月30日水曜日

2016年3月26日土曜日

葉室 麟(作家)        ・三英傑を語る~史実と小説のはざまで

葉室 麟(作家)   ・三英傑を語る~史実と小説のはざまで
1951年北九州市小倉に生まれ福岡市の西南学院大学を卒業後、地方紙の記者などを経て50歳から創作活動に入ります
2005年 「乾山晩愁」で歴史文学賞を受賞しデビュー2007年銀漢の賦で松本清張賞、この銀漢の賦はNNHK木曜時代劇、銀漢の賦としてドラマ化されました。
2012年 「蜩ノ記で第146回直木賞を受賞します。

尾張三河は戦国時代の中心地、歴史のセンターとの印象があります。
江戸期の7割ぐらいの大名が尾張三河ゆかりの人だった。
三英傑が偶然なのか必然なのか、私は必然だったと考えている。
西国は経済的で文化的で情が濃い、家族を大事にするが、東国は統制的で戦闘能力があって規律が正しい、等違いがある。
日本の中部は西と東を観ていて、その地域から三英傑が出てきたのは必然なのではないかと思います。
九州は大友、島津、龍造寺は三国志的に争い、博多を取りたい、貿易の拠点を取りたい、貿易に関心があった。
毛利も九州を取ろうとしていた。
関東は北条、上杉、武田は関東の制覇を目指した、鎌倉より関東は東国政権の場所、武家政権の本拠地を取ろうとしている。

近畿地方は将軍家を助けるかどうか判らないが、頂点に登ろうとする。
中部は、信長が出たことによって、近畿ブロックに参加する。
近畿ブロックはそこで制覇すると満足してしまう、将軍の次とか、管領とか権力を握ったら満足してしまう。
信長はそこで満足しなかった。
鉄砲で天下を取るという事は、貿易を要求する。(火薬、とか)
だから西国に向かい、それが豊臣政権まで発展する。
豊臣政権は朝鮮出兵などがあり崩壊してゆく。
徳川政権はそれを見ていて、中部なので東国が判り、東国に政権を作る。
三英傑が中部で登場してくると言うことは必然的だったのではないかと考えています。
中世の枠組みを壊してゆくのが可能だったのは、この地域から出たからではないかと思います。

冬姫の作品 信長の次女を主人公にした作品。
父信長を慕って、夫が蒲生氏郷、夫への愛情を胸に乱世を生き抜いてゆき、女性の目線から信長の偉大さカリスマ性を描いた作品で、信長のことを好意的に描いている。
信長は変わった人で自分の子供に台所用具の名前を付ける、ごとく、茶筅丸(織田信雄)とか、冬姫も冬に生まれたからなのかもしれないが、ネーミングは綺麗だった、若干夫性愛が働いたのではないかと思う。
蒲生氏郷は文武に秀でてていた、かっこいい武将だった。
ある種の愛情があった様な気がする。
政略結婚をさせられるのは、或る程度敵にならない様にするために行うので、敵になる様なポジションにはいなかった。

信長は今でも人気があり、日本史の中でグローバリズムと向かい合って、対抗できた唯一の人だと思う。
信長が持っているカリスマ性は日本人が憧れたり期待したりすると思う。
残酷でもあり、自分は信長が好きだと言う人が現代もいるかもしれないが、信長と同じ時代に生きていたらたいがい殺されていると思う。
期待感を持ってしまうのは世界の中で日本は大陸の端の国で、それれなりの大変さを背負って生きているので、世界と向かい合えるキャラクターに対する期待感があると思う。
秀吉は難しい、途中で人格が変わってしまったのではないか。
大衆の中から出てきて、情があったが、暗い歪があったのではないか、それが老年期に表出したのではないのか。
秀吉が作り上げた権力は日本史の中で最高の権力者は秀吉ではないかと思う。
海外派兵出来ている事は凄い権力。
江戸時代はそれぞれの大名が自治をやっている連合体だから統一的に兵を出すことはできない。
江戸時代は権力としては強くない政権だった。

2012年「無双の花」 立花宗茂 筑後柳川13万石の大名に取り立てられる。
関ヶ原の戦いで西軍に加担して浪人するが、10数年後に、元の領地に戻る武将。
徳川は何だろうと考えた。
徳川を描いた先達の作家は昭和の時代の人で、自分が戦争体験していて、自分の時代的経験から書いている。
山岡さんの小説は、戦後書いている。
吉川英治さんの新書太閤記は戦時中書くが、小牧長久手の戦いで終わって中断する、そこで日本は戦争で負けたために終わってしまった。
吉川英治さんは戦後、新平家物語を書いている。(国の滅び)
山岡さんが徳川家康を書いたのは平和国家建設を果たした人物として徳川家康だった。
戦争をしない国、平和国家を作ろうとしたと思う、そうしないと国は滅びると目の当たりに見ているので。
徳川政権は弱いと言ったが、関ヶ原の戦いは家康があんまり勝ち切れていない戦いだと思う、家康の本軍が来ていなくて、豊臣系だけ戦わなくてはいけなくて、600万石を没収するが、豊臣系にやらざるを得なかった。
福島正則、黒田、加藤など西国に豊臣系大大名がいっぱいできてしまった。
本来の構想だったら大阪城に入って政権運営したいと思ったかもしれないが、それができなくなり、本軍を喰い止めた真田一族の働きで歴史は大きく動いたなと思います。
家康は真田を憎かったと思う。

真田信行がなんとかしてほしいと言う事で、勘弁するが、信長だったら一瞬で首を切っていると思う。
家康は毛利、島津も生かして、幕末にはその付けが回ってくるので家康はいい人過ぎたのかなあとの気もします。
真田丸に出てくる家康像、今までと違うが、家康は自分の状態を隠さない人で、信玄に負けた時に、家康のしかみ肖像を書かせたが、或る意味自分を客観視していて、弱みをさらけ出していて、それを見る家臣は頑張らねばと言う事で、徳川家が生き伸びてゆく事ができて、一つのリーダー像だと思う。
弱みを出すのが平気だと言うことは、或る意味胆力が要る。
本当の価値は自分が判っている、人の評価を恐れないと言う強さは、或る意味男の人の中での一番の強さかもしれない。

歴史小説は結末が決まっているから書きずらいと言う人もいるが、逆に言うとそれ以外は自由なので却って自由な形式だと思っている。
真実ではないと思った事は書くことはないが、基本的には歴史の中に自分自身を探し出してそれを書くんだという考え方でやっています。
立花宗茂は英雄ではない、徳川に拾ってもらった時は5000石の提示を受ける、20年ぐらい苦労するが、不満を漏らしたことが事蹟には見当たらない。
家康は低額を提示して人間を試したのではないか。
徳川の安定期に向かってゆく時代は公的なものの大事さ、その自分の位置付け等思う。
小説って基本的に自分のことしか書けないと思う、そういう風に生きたかったとか、憧れとか、そういうことを含めて自分のことしか書けない。
「流」 東山さんと対談するが かっこいい主人公を書く作家でかっこ良かった試しはないですよね、葉室さんと言われるが。(私に対して冗談で言っていると思うが)
かっこいいあり方に対する価値観は私のものです。

50歳ぐらいから人生の締めくくりを考えだすが、自分が自分であった理由を明らかにする仕事をしたいなあと思いまして、自分と言う個性がこの世の中に存在したんだと言う事を刻みたいなあと思って、その中で書いたと思います。
候補から4回落ちてもう嫌だと思いましたが、そういう時にいただけて不思議です。
家康の実像は読みにくい。(江戸時代は神格化、明治以降は別の見方)
神格化されると本来の姿、愛すべき姿は削除されてしまう。
三英傑の良いところを並べれば今でも学ぶべきことは多い。
信長の、過去しがらみにとらわれない、自分の本拠地をどんどん移しててゆく、鎌倉武士は自分の場所に一所懸命守りそれが武士だが、信長は本拠地に拘らないで、そこの革新性が旧大名に勝って行った理由だと思います。
視野の広さ、革新性に学ぶべきだと思います。
秀吉はそれを受け継いで、武家ではないから、経済が判った、流動して来たこだわりの無さがある。
家康はきちんとした根拠地を作らなければだめだと言う事で江戸に作る。
江戸に政権を作ることはそれまでの日本にはなかったことで、家康はクラシカルな物に戻ってゆく革新派だった。
現代、伝統を守ってゆく事は大事だが新しい意味を見出して守ってゆく事が大事だと思います。













2016年3月25日金曜日

2016年3月24日木曜日

塚本こなみ(樹木医)      ・物言わぬ樹木が教えてくれたこと(H27/11/06放送)

塚本こなみ(樹木医 はままつフラワーパーク理事長)・物言わぬ樹木が教えてくれたこと
(H27/11/06放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/11/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2016年3月23日水曜日

さとう わきこ(絵本作家)    ・ばばばあちゃんに夢を託して

さとう わきこ(絵本作家)    ・ばばばあちゃんに夢を託して
さとうさんは東京生まれ、高校卒業後働きながら絵の勉強を続け、30歳の時に絵本作家としてデビューしました。
さとうさんの絵の主人公は逞しく自立した女性です。
中でも高い人気を誇るのは型破りで元気いっぱいのお婆ちゃんが主人公の絵本、ばばばあちゃんシリーズです。
ばばばあちゃんは動物たちと泥団子合戦を繰り広げたり、ベッドを庭に引っ張り出して夜空を眺めたりと豪快なキャラクターです。
そのシリーズは20作を越え30年近くに渡って子供達に親しまれています。
結婚を機に移り住んだ長野県で絵本の美術館を作りました。
現在は創作を続ける一方で美術館の運営にも力を入れています。
何故逞しい女性を描き続けるのか伺います。

女の人は何かに縛られてやっているが、いろんな興味のあることをどんどんやる人が好きで、そういう人をテーマにしたくて書きました。
女性は何かにとらわれているのではなく、新しく生まれ変わってゆく強さがどこかにあるのではないかと思っています。
ばばばあちゃんは独りで子犬と子猫を飼っている。
自分でやりたいことを絵本でもやってるとは思うが、星空は窓からですが見ています。
破天荒なところだけでは無くて経験豊富で、何が起きてもへこたれないところがある。
ばばばあちゃんはベッドの脚が折れた時に、考えどころだと言って足を全部きってそこにスキーの板を付けてそりにしてしまう。
別の考え方を持って、何とかなる様なことを思いつく、逞しいおばあさん。
絵本が出来たのが1977年ですが、それよりも10年前の事を思い出すと、女性の地位が低く見られていた様な気がしていて、そうではないという気持ちはありました。

母がモデルと言えばモデルかもしれない。
私が10歳の時に父が結核で亡くなり、母は苦労して育てていたと思います。
母は就職したがあまりにも扱いが良くなかったので辞めて下宿屋をしてなんとか食べて行く事が出来ました。
母は芯の強い人だったと思う。
子供の頃に鬼の様に感じた時と大変だなあと同情する時と、2種類を感じました。
大人になったら母の気持ちはわかった。
女性の地位が低かったし、馬鹿にされることがあったと思うが、逞しいおばあさんが居るんだよと言う様な気持で描きました。
お母さんだと制限があると思った。
お婆さんは解放されて子供っぽい事をお婆さんはする。
私はやんちゃで子供の頃男の子と思われていました。
6歳の頃遊んでいて結核をしていて、突然血をはいて、寝ている事が多かった。
19歳の時に又腎臓の結核を病んで片方を取ってしまいました。
大学へ行くのはあきらめ、予備校に通って美術を先生から教えてもらってデザイン会社に入りました。
死のうと思った時がありましたが、死ねなかった。

逞しい女に自分もなりたいと思ったんだと思います。
自分の力で絵を描く仕事に就こうと思って投稿するようになり、創作童話を出したのが30歳の時、1970年にデビュー作「洗濯かあちゃん」、何から何まで洗ってしまう、洋服、靴、星、月、かみなりさんまで洗ってしまう作品。
そこにあるモデルは母ですね、母の中にいろんな女の人の模型みたいなものがあってそれが話に出てくると思います。
今は物がありすぎて、自分の手でやると言うことはものに愛着があるが、今はお年寄りにもないかなあと思います。
手で物をやることは大事だと思います。
絵本の美術館を個人で2つ(諏訪湖、八ヶ岳)作るが、人に観てもらいたいのと、子供の為の美術館は無いのでつくりました。
絵本に市民権は無かったので、大事ものではないのかなあと思って、建てようと思いました。
美術館ではヨモギ団子作り、ドラムカン風呂などもやっています。
作った喜びを体験できるし、食べる事に依って思い出になる、伝承して行ってほしい。

父は植物が好きだったので、名前などを教えてもらい、その時に覚えたことが一生関わってくる。
興味を持つと面白くなってゆく。
生きている事が楽しくなってゆく。
生きてくるときには辛い事がたくさんありますが、それを体験してきて笑えるような人生がほしいなあと思いました。
辛いことがあったのに、その場面でのカナリヤの声とかをよく覚えています。
小さい時は病気で寝ていることが多くて、ラジオを聞いていて落語、漫才はよく聞いていました。
それが基本的にどこかにあって、どんでん返しが絵本の中にあると思います。
じじじいちゃんも考えているが、書きにくい。

お年寄りの泰然自若としている姿が凄いと思います、ある種の逞しさ。
自分のやりたいものを一直線に出してくる、それがいいなあと思います。
はぐらかされるが(回避する術がたけている)、人生経験が豊富なんだと思います。
ばばばちゃんを発見したことで自分が変わったと思います。
弱い部分があるが強くなってこれた部分があると思います。











2016年3月22日火曜日

中村メイコ(女優)        ・放送博物館60年記念講演会「私とNHK」

中村メイコ(女優)・放送博物館60年記念講演会「私とNHK」
2歳の時に映画デビューした中村さんは、戦前のTV試験放送のころからNHKの放送と関わってきました。
ご本人がかかわって来た放送番組のエピソードを交え、放送の歴史の裏話をはなしていただきました。

私の先祖は青松寺に墓がありますが、神津家は多摩墓地にあり、当然多摩墓地に入るのではないかと思っていたら、神津が私の父が亡くなる時に、耳元で一人っ子のメイ子を長い間お借りしましたので、お父さんと一緒の墓に入れますと約束したので、神津家の方に入れないとの事でした。
分骨をと言ったら、口やのどの一部が入っていたらおちおち眠っていられないと言われてしまいました。
母の故郷、愛知県の墓に洞雲寺に祖母も母も眠っているので、そちらに墓を立てて赤い字で今書き入れています。
あかるく自分の老後を語るのがいま一番目指しているところです。
2歳8カ月で映画デビューしました。
「江戸っ子健ちゃん」 笑いたくなるような面白い子役が必要で、撮ってもらった写真がそれが丁度良いと言う事で要請があり、出ることになりました。
長女カンナからは厳しく言われたりしていましたが、おむつをする頃から仕事をしていたと言ったら、「あーそう、ほんと、頑張りなさい、又すぐそうなるわ」 と言われてしまいました。

伊馬鵜平さん 10分間演芸 「ほがらか日記」 お爺さんの徳川夢声と字が読めないころ、やっていました。
坂本さん(後にNHKの会長になる)が漢字にカタカナを振ってくれました。
TVは昭和15年にはありましたが、当時は試験放送で都内の有名なデパートだけには映りました。
5歳が初の試験放送でした。
戦争を挟んでマイクロフォンとはずーっと一緒にありました。
スタジオが一番落ち着く場所でした。
私が17歳、親友の美空ひばりさんは15歳の時に対談がありました。
私たちも普通の女の子の様にボーイフレンドと銀座を闊歩したいと言う様な事を言ったら、「私はそうは思わないわ、私達って夢を売る商売なんだからファンが見てあんなことをしてほしくないことは我慢しなくてはいけない」、と言われ吃驚しました。
長い付き合いの中であの人は我慢我慢の人でした。
病院にお見舞いにいった時に、「随分と酒を飲んだがメイ子の2倍は飲んだと、メイ子にはあんたが飲みすぎると止める人がいる、私には止めてくれる人はママが死んでから居ない、止めてくれる人がいると言うことは本当に幸せなんだよ」と言ってくれました。
美空ひばりとは「悲しい酒」ではなく、本当に楽しく飲みました。

二人とも子供のころから仕事をしていたので子供の遊びは知らなくて、自分の知ってる歌を歌いっこしようと言う事で歌いあいました。
小唄、どどいつ、軍歌、何から何まで歌いました。
紅白歌合戦の司会を3年間だけにしてほしいと、3年間やりました。(カンナが生まれたばっかり)
曲目だけは決まっていて台本は無かった。
リハーサルは音楽関係だけでした、失敗もしたが面白かった。
今でも生放送は大好きです。
80の声を聞くまで生きているなんて夢にも思いませんでした。
子供の時から睡眠時間は3時間で過ごしてきました。
結婚して仕事を辞めようと思っていました。
夫から辞めない方がいいのではないかと理つめで言われて、やることになってしまいました。
糖尿の姑、子供の面倒もしなくては行けなくて本当に忙しかったです。

「お笑いオンステージ」 面白い女をやらせて頂きました。
喜劇女優になりたいと思っていました。
カンナはアメリカ、長男は絵の勉強の為スペインに留学しました。
昔は物凄く照明が熱くて、刺身など見る見る悪くなっていった。
TVはハイビジョンに替ってきて技術的なことは随分変わってきました。
昔はズームが無くて、カメラに向かって寄ってゆきました。
老後に残されたことは何だろうと思うと、現代に乗り遅れない様に、素直にカンナに聞きます。
美空ひばりはどんな歌もこなすが、小唄、端唄、都々逸などが本当にうまかった。
「お姉さんと一緒」も生だった。
長いことやっているが、ニュースだけは一度もやったことはない。













2016年3月21日月曜日

大谷茂義(そろばん塾経営)   ・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(2)

大谷茂義(元 満蒙開拓青少年義勇軍・そろばん塾経営)・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(2)
現在小さい子70人近くが塾に来ます。
簡単な球だけで計算するし、これが頭の中に入るわけです、それが面白い。
やり始めると集中力ができてくる。
そろばんの検定試験では大阪が一番多い。
北京の大学に勤務するときに久子さん?(鹿児島県出身)と出会う。
国民党と共産党が内戦をそて、国民党が負けてた台湾に逃げて行って、大陸を共産党が確保して、中華人民共和国ができて、日本人の看護士は必要なくなって解放されて、彼女は大学に来ました。
彼女は保育所で庶務の様なことをしていました。
そこで面識が出来ました。
昭和32年に結婚することになりました。

人民銀行に転職、エリートの行くところだった。
広東省、上海などからも来ていました。
国交回復の時に周恩来が田中角栄に言った一言が、物語っていると思う。
「日本人が残って中国の経済建設のために尽くしてもらったので賠償の請求権を放棄する」、と言ったらしい。
日本人がいっぱい残って、新しい中国を作って行く上での大きな役割を果たしたのでそういう言葉が出たのではないかと思う。
周恩来は日本人の医者にかかって、いろいろ親切に病気を治してもらったし、大分日本人の女性が看護婦として協力しました。
我々は炭坑に、そのほかいろいろ 例えば撫順炭坑、撫順製鉄所にも技術者が直ぐに帰らず残って全部仕事を教えました。
解放軍の空軍も航空部隊が残って協力して航空部隊を作った。
新しい中国を作って行く上での大きな役割を果たしていたので、だから日本人に対して、技術者が多いと言う事で、採用して優遇してやってきたわけで、私もそういうわけで採用されました。
いろんなところで日本人の知識、技能が生かされていたんです。
だからそういう言葉が出たのではないかと思います。

人民銀行では水を得た魚の様に計算の仕事が主なので苦労はなかった。
間違いを発見する計算方法を編み出しました。
桁違いで計算する場合が多いので、そこで発見できる。
違いの差を0.9で割る。
280円 と 28円は252円の差 252円を0.9で割ると280となる、280円の伝票を探せばいい。
集計し直すとすぐわかる。(誤算発見法)
中国では学術書が多いが、実務書がない。(日本では逆)
銀行では大変喜ばれた。
そこでの経験が中国の人たちはどうしてそろばんを習って行ったのかに興味を抱いた。
それで交流をしたいということで交流がはじまりました。

昭和33年にようやく日本に帰ることが出来た。(16年ぶり 30歳)
高度経済成長の直前だったので、タイミングがよかったと思う。
国家公務員なので、退職金まで炭坑、銀行から貰ったので、最高の給与での計算でという交渉をしました。
当時レートが1元が120円で、銀行での給与は当時の日本の大卒の月給よりも多く貰っていたという計算になります。
そういう意味でいいタイミングだったと思います。
日本に戻ってきて、塾もやりたいとも思いもあり、1級を持っていないと駄目なので、5月末に帰ってきて10月に検定試験があり、3年掛かると言われたが、1級、2級の試験を受けて、両方とも受かってしまった。
今は妻と娘と3人で塾をやっています。

「一人の百歩よりも百人の一歩」と言うことをスローガンに掲げました。
一人の落ちこぼれを作らない。
そろばんの教育は普遍性がある、そろばんは楽しいものである。
常に学び続けなければならない。
塾の良し悪しを見分けるポイントは常に研修、研究、勉強と言っている先生がいる塾ほどいい塾であると思っている。
延べ2000人の生徒が出てゆきました。
延べ日在籍数が多いところが良い塾だと思います。
1986年から大阪珠算協会の事務局で毎週土曜日、外国人の為のそろばん講座を開いていて、延べ95カ国、1154人が学んでいます。
素晴らしいものが日本の文化として残っているという評価だった。

そろばんを通じての日中交流にも力を入れています。
27年ぐらいになります。
目的は中国のそろばん教育がどうなっているのか興味があり、中国に来てほしいとの要請があり、会って始まりました。
文献を取りよせて、翻訳して、紹介すると言う会報誌、年4回 151号になります。
又、中国との交流の為に中国に行っています。
大事なのは文化交流だと思っています。
日本と中国が仲良くできないかとやってきています。
そろばんは私にとっては生活であり、智慧の泉です。
創造力を養ってくれて、心の支えになってくれて、若さを支えてくれている、生きてゆく杖になっています。













2016年3月20日日曜日

大谷茂義(そろばん塾経営)   ・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(1)

大谷茂義(元 満蒙開拓青少年義勇軍・そろばん塾経営) ・そろばんで生き抜いた戦中・戦後(1)
昭和3年大阪生まれ 88歳 小さいころからお兄さんにそろばんを教えられ、商業学校に進む夢を持って居ましたが、しかし戦争の悪化に伴い、お国の役に立ちたいと当時、拓務省が募集した満蒙開拓青少年義勇軍に高等小学校の卒業を待たずに、14歳で入隊し満州に渡りました。
この組織は軍隊ではなく、開拓農民を育てるものですが、同時にソ満国境の警備の任務も与えられており、終戦までに8万8000人の青少年が送り込まれました。
昭和20年8月9日、ソ満国境をソ連軍が侵攻、大谷さんは1カ月に渡り大陸の山中を逃げ回りました。
終戦後は帰国の機会を逃し、中国の農家や、炭坑、大学、銀行など様々な職場で働きましたが、身に付いたそろばんの能力で中国の人たちと親交を深めることが出来たと話しています。
昭和33年に帰国、中国に16年残留した大谷さんは30歳、結婚もしていました。
帰国後夫婦で始めたそろばん塾は今年57年になります。

当時この辺は田んぼでバラックで教室を住まいより先に作りました。
最近子供が忙しくて習い物が増えていて、ばらばらに来るので読み上げ算とかできない様になってきています。
9歳の時に兄からそろばんを教えられました。
商業学校に兄は行っていましたが、先生と意見が合わず学校を辞めてそろばん塾を始めてそれで教わりました。
14歳まで密度濃くそろばんを教わりました。
昭和19年10月兄はインパール作戦で戦死しました。
昭和11年広田内閣の時に、20ケ年で100万戸を移民するという計画ができて、それに基づいて募集が始まりました。
その時から5年後に満蒙開拓青少年義勇軍に参加しました。(昭和17年)
軍人ではなく開拓農民で辺境の地を守ると言うことだが準軍隊の様な訓練とかもありました。
昭和17年6月に満州に渡り、3年間国境の近くで訓練を受けてました。
満州に渡ると満州開拓青少年義勇隊と名前が替りました。

夏は農業、農閑期は軍事訓練、農業の授業をやりました。
2年目の4月、現役の将校下士官が来て実践的な訓練をしました。
射撃訓練、真夜中での訓練(昼間目隠しをして訓練する)、一人一丁の銃が与えられました。
行った年の冬、防寒設備が無くて、部屋の中でもマイナス20度になり、食糧費をさいて薪の購入に予算を回したので、1日2食、(大豆などのご飯)悲惨だった。
中には凍死する人もいました。
2年目からは農業で食べものがある程度出来た。
行くきっかけは、戦争が厳しくなって食料の配給などがあり、窮屈になり、少年の心を刺激する様なスローガンが聞こえてきて行ってやろうと言う燃えるような気持がありました。
良い話ばっかりなので応募してしまった。
昭和17年3月4日入隊する事になる。
戦況が悪くなり軍人が不足するため、満州開拓青少年義勇隊から殆ど取られるようになって、空の満州開拓青少年義勇隊がいっぱいできた。

昭和20年8月9日、ソ満国境をソ連軍が侵攻。
駐在所から婦女子と共に西に逃げるように指示がありました。
そちらに行くと山脈があり、しばらく行くと火の海になっていてどちらに向かっていいのか判らなくなってしまった。
30人位のグループの行動だった。
馬車に積み込んで行ったが道が悪いし雨でぬかるみ、1日で馬車が使い物にならなくなってしまった。
山の中を選んで進んだので、ソ連軍との遭遇は無かった。
畑もあったのでなんとか飢えをしのいで、1月以上歩きました。
幹線鉄道を越えなくてはいけないので、そこを越えるのに子供が泣いたら見つかるとやられると言うので、子供を全部始末してしまって、鉄道、川を渡って、疲れて野に横たわっていたら、一人の日本人がやってきた。
その人から日本はとっくに戦争が終わっていると言われ、武器を捨てて収容されなさいと言われた。(餓死を救う為、その様な軍人による組織が出来、収容するような行動があった様だ)
収容されることになる。
村に治安維持会があり、会長が周さんと言う大地主で、働くところはないかと言ったら、私のところに来なさいと言われた。

周さんは日本人びいきの人だった。
そこで1年間、農業の技術を持っていたので一生懸命働き、賃金を要求し渡してくれました。
その後中国の新政府のもとで炭坑で働く様になる。(住居、労働の環境は劣悪だった)
落盤事故にあって、下敷きになり、ほんのわずかの差で命が助かり、足の骨折になりました。
労働保険制度があり、保険の適用を受けることになり、3カ月間の賃金と1年間経って直らなければその60%を一生もらえることになる。
そろばんが出来るものは居ないかとの連絡があり、足が悪くても出来る会計課に入ることが出来た。
そろばんで月給をもらえる初めての仕事だった。
給料日の2,3日前は徹夜する様な状況だったが、やり方がまずいので提案して、旨く行き周りは吃驚した。
出来高払いの問題等も改良した。
その場その場の適応力、そろばん力があるためにいろんな力が発揮できるのではないかと思う。
計算するだけでなく、想像力、創造力が備わってくる。
それの元は暗算力。
その後大学の会計課に転勤することになる。
後の妻とも、大陸で出会うことになる。









2016年3月19日土曜日

竹山昭子(放送史研究者)    ・残された「空襲警報」は語る(3)生放送に課せられた役割

竹山昭子(放送史研究者)    ・残された「空襲警報」は語る(3)生放送に課せられた役割
戦時下のラジオがどのような役割を科されていたのか放送の歴史に詳しい昭和女子大学元教授の竹山さんと共にお伝えします。
大正14年 3月に始まった日本のラジオ放送は開局してまだ10年あまりで、戦時の体制に組み込まれていきました。
アメリカ軍の空襲が烈しくなる昭和20年には連日空襲警報を発令すことに追われていたのです。

一市民の中学生がよく警報を録音していたと、ほんとうに吃驚しました。
溝口さんの録音を聞くとパーっとよみがえってきました。
3月10日東京大空襲でB29に機影が東から西に去っていくときに、日本軍が高射砲を撃つがB29に届かず、一定の高さを保持してゆうゆうと去ってゆく、そういう状況を見て当時悔しかったです。
空襲警報になると防空壕に入りました。
5月の東京大空襲の時が一番危なかった。
防空壕の中にラジオ受信機を持ちこんで、土をかけてラジオの受信機が焼けない様にして、警報を伝えてくれる、命と直結しているものだった。
自宅用の防空壕もあるが、町会が作った番号付きの防空壕があり、通行人も何時でも入って良い様になってもいました。
2・26事件 学校が休校になっていて、会社も休みで、自宅にいて、ニュースが聞こえてきて、父母が涙を流していて、後になってその時のことが判りました。

情のこもった放送だった。「兵に告ぐ・・・・・」
問題解決に大きな役割を持っている事に気付いた。
ラジオの方が速報性は優れているが、新聞は後れを取るという危機感が起きて、対抗意識ができて、先に流されたら困るので、新しい情報をラジオの方に流さなかった。
12月8日真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まった時に臨時ニュースが次から次に出されるようになった。
そこから速報性を手に入れる。
戦争の状況、戦い方などを放送するようになる。
軍と情報局が担当する。(国の情報機関として統括されるようになる)
状況が悪化してくると、陸軍、海軍からニュースを出す様になってゆく。

戦争末期 空襲警報などが出されるようになる。
最初の空襲警報 昭和13年5月30日、鹿児島県の西方から国籍不明の飛行機が飛来、北九州、山口、長崎に空襲警報を西部軍防衛司令部が発令。
(偵察飛行で日本本土に接近した)
昭和17年4月18日 初めての本土空襲 ドーリットル空襲 アメリカのB25 16機が東京等にやってきて爆弾を落とした。
昭和19年末から20年になると、連日放送される様になる。
東部軍管区司令部から直接放送された。
司令部の地下室に放送施設が設けられていて、司令部の作戦室と直結していた。
壁に大きな日本全土の地図があり、情報が豆ランプに表示されるようになっていて、敵機発見の報告があると豆ランプが点灯する、担当将校が原稿を纏めて、それを伝令が放送員に届ける。
民間人が沢山動員されていた。

情報放送も出す様になる。
昭和19年7月8日 敵情報放送。 福岡支部
昭和19年11月1日東京でも情報放送を流す様になる。
生活情報も流されるようになる。
あちこち軍の通信線が切れてしまって、軍の指揮命令系統を一刻も早く伝えるのはラジオを使ってやるのが早いと言うことになって行った。
昭和20年8月9日 福岡西部軍司令部から長崎原爆投下後に、退避の放送をしている。




2016年3月18日金曜日

工藤光治(猟師 エコツアーガイド) ・白神山地と生きる

工藤光治(猟師 エコツアーガイド) ・白神山地と生きる
73歳 青森秋田の両県にまたがる白神山地のふもとでまたぎと呼ばれる代々続く猟師の家に生まれました。
白神山地は1000m級の山が連なり、殆ど人の手が加えられていないブナの原生林が広がっています。
1992年環境庁の自然環境保全地域となり、翌年にはユネスコの世界自然遺産に指定されました。
そこで工藤さんは専業の猟師として暮らし、エコツアーガイドとして自然保護を訴えてきました。
50年以上に渡り白神山地の自然の恵みで生きてきた工藤さんに伺います。

3月は狩猟の時期はお休みです。
繁殖の時期は一切やりません。
熊狩りは4月末から5月の連休明けまで、短い時期に行います。
ツキノワグマは12月初頭で冬眠に入り、4月末にならないと冬眠開けしません。
冬眠開けしてから1週間から10日が熊猟になります。
冬眠中は水一滴飲まないので、熊の胃と呼ばれる胆嚢の中に入っている苦い薬が凝縮していて、冬眠からあけて1週間ぐらいで餌を食べ始めて、胆汁が消化してゆき、真夏の場合は熊は何の商品価値もない。
猟を年中していると言うのは大間違いです。
5月の中頃になると山菜取りをして、6月の梅雨入り前にいわな取りをします。
そのあとはさくらますとか魚の漁をして、9月の中ごろになるとキノコ狩りをして11月中位まで、舞茸、なめこ等を取ったりして、雪が積もると取れないので、雪が積もると狩猟に入ります。
野兎が少なくなってきています。
野兎を食べる鷲,鷹類、イヌワシ、クマタカなど、本土てんがうさぎを食べますが、随分狩猟が少なくなってきました。
昔はかもしかの猟もしました。

白神山地が世界遺産になってからブナを見たいと言う人が大勢押し掛けてきたが、、どういう風にして世界遺産になったのか、人間とどういうかかわりが有るのか、それを知らせるためにエコツアーガイドをやっていて、20年以上になります。
最初は多く来たが今は半分以下になってしまいました。
私が生まれた処は4600年前の縄文遺跡が真上にありました。
縄文の人達は自然を相手にして、自然と人間とのかかわりが非常に大事でその点を知ってもらいたい、唯ブナを見ると言う事ではなく。
マタギとして初めて山に入る時に親父が言った言葉は、私たちは動物が憎いから殺すわけではなくて、自分が生きてゆくためには如何しても他の生きている命を頂かなければならない、動物を殺すには鬼の様な心に成れ、また鬼 それがマタギの語源です。
一気に苦しめることなく殺すには、生半可ではなく鬼の様な心に成れと言うことを教わりました。
ハンターはもしかしたら当たるかもしれないと言う様な気持、またぎは一発で仕留める。

倒れたものを神にささげる、或る儀式もあります。
山の神の祠(ほこら)は白神山地には無くて、山に入る私たちの心の中にあります。
私たちも神に見張られています、山の神と一体と言うか。
タタキ場の神様、又マタギの神様、山の神様 3種類の神様を心にもっています。
祈りを捧げます。
解体する前に、熊の皮をはいで熊の皮を熊の亡きがらに見せて、褒めてやります。
先輩とか親父とかに、これは駄目、これはここまでとしきたりをいろいろ教えてもらいました。
今はマタギは少なくなりました。
46歳が一人、50台、岩手県の遠野で見習い、甥がまだ狩猟とかやっています。
熊が大好物のブナの実が無くなってきて、虫が大発生して熟す前に食べてしまう。
前は3年に一度身を付けていたが、毎年実を付けるようになって、これは大きな変化です。
そうするとブナが枯れてきてしまう。
あと30年すると白神山地ではブナは半分ぐらいになってしまうと言う話もあります。
5月頭に花を咲かせて10月半ばすぎないと、実が落ちないが、その前に虫が食べてしまう。
一生懸命実を付けようとするが、木が弱り悪循環になる。

熊、猿等もブナの実を食べるが、山に餌がないので周辺のりんご畑等に出てきて食べる。
考えられない様なことが起きています。
又別の樹木が生えてくるので、山で生きている動物たちはますます餌が無くなる。
3,4年前、猿は苦いのでドングリは食べなかったが、ドングリを食べるようになり食性が大きく変わってきている。
水の保水力が少なくなってきて、洪水、渇水の時が交互になってきて、そしてブナが無くなってくると言うことは大変なことです。
ブナの働きが少なくなってきている。
ブナは保水力があり、落葉を蓄える、落葉が少なくなると、雨水とか浸透するするスピードが速い。
しずくが無くなってゆき、水を溜めることができなくて、その分ブナが枯れてゆく。
雪が少ない年は梅雨時に大雨になるのか、このまま秋になると大変なことになる。
山菜の数もどんどんなくなってゆく。
ブナから滴る水にはフルボ酸という鉄分が入っていて、海に流れると貝や海藻を育てる。
海と山は切っても切れない関係にあるが、そういうのがずれてきている。

世界遺産になってから外部から人が入ってきて、山菜、キノコとか根こそぎ取ってゆき、段々河が干上がってゆく。
他のものは植えないが養殖とかやっているのはわさびを食べる為にわさびを植えてます。
わさび味噌を炊きたてのご飯に載せて食べるとおいしいです。
自然のままにしておくのが一番、人が手を加えると決して良い事ではない。
環境保護とかで人が手を加えることはいいことではないと思う。
今少ないのはいわなで殆ど取られてしまった。
全面禁漁にして沢に入れない様にするのが一番だと思いますが、難しい。
野兎は3月に入ると交尾期になるので私たちは絶対撃たない。
白神山地はたき火禁止ですが、アルミホイルを持ってきて火を起こしていわなをくるんで焼いている。
今年は雪が少ないので全く予想がつかない。
世界遺産になってから、鳥獣保護区に設定されたので狩猟はできなくなってこれがいいことなのか悪いことなのか判らない。
日本鹿が白神山地でも見られるようになり、イノシシはいなかったが見られるようになり、日本鹿が繁殖したら大変なことになる。
子供のころから自然の大切さを教えることが一番だと思います。
ただ単に自然に生かされているという事です、これが私の人生観です。
今の環境は昔に比べると、今は切ない。
白神山地を残すならマタギ文化を残して行かなければいけないと思います。








2016年3月17日木曜日

秋元義彦(パン製造会社社長)   ・被災地へ!世界へ!缶詰パン

秋元義彦(パン製造会社社長)    ・被災地へ!世界へ!缶詰パン
63歳 栃木県那須塩原市で68年続くパンの製造会社を経営しています。
会社に隣接する店には、創業当初から一番人気の甘納豆パンをはじめ食パン、フランスパン、ドーナツ、ピザ等が並んでいます。
その一角に缶詰パンがあります。
このユニークな缶詰パンは秋元さんと被災地のつながりから生まれたもので、20年製造され続けています
缶詰パン誕生から今に至る道を伺います。

地震発生時から5年間続けて届けています。
仮設住宅に揚げたてのドーナツ、パンで作ったラスク等を届けています。
支援を始めた時は、パン、メーカーに依頼して牛乳、イチゴなどを集めるだけ集めて、震災直後は毎週の様に、仮設住宅に移るようになってからはほぼ、毎月現地に行って、台所が狭いのと、火事になってはいけないと言う事で、揚げものはしないという暗黙の了解があるので、私たちはドーナツなら揚げられると言う事で、プロジェクトが始まりました。
阪神淡路大震災の時に被災者の声をきっかけにパンの缶詰を作って防災備蓄食として発展させてきました。
自分たちの製品が災害現場で役に立つと言うことを目の当たりにして、出来る限り緊急な事故が起きた時に、お手伝いをして行こうと言うことが会社のポリシーになっています。
硬いパンではなくて柔らかいおいしいパンをとの要求があり、いろいろ工夫して作ったのが今のパンの缶詰の原点です。
カビが生え無くておいしいのと言うのはあい離反する事でしたので1年間掛かりました。

菌がついては駄目なので、無菌状態を保つ、酸化しない、紫外線から保護する、と言う事で缶詰なら出来ると思った。
いろいろ段階を踏んで現在の原点となる缶詰が出来ました。
缶の中に生地を入れて焼くと言うことに辿りつきました。
食べてもらうと面白いと言われたが、店に並べても売れなかった。
メディアの人たちがユニークな製品があると言う事で、世間に広がってゆきまして、中越地震の時に、自分たちで寄付をして、都内で缶詰パンを持っている自治体が送って、缶詰が学校に配られてその映像が映って、報道され生産が間に合わなくなった。
個人、会社、学校等での備蓄、の引き合いがあります。
年間300万缶弱生産しています。
約500ccの缶で350kカロリーで牛乳1本とで1食分に相当します。
いろいろな要望があり20種類あります。
イチゴ、レーズン、オレンジをジャムメーカーに作ってもらって、3年保証となっています。
400円前後で販売しています。

賞味期限がきたので処分してほしいと言われて、複雑な気持ちになりました。
処分しないでタイムリーに回収できないか考え、物流関係者、海外ボランティアの人達に問いかけて協力していただきて、問題が一つずつ解決してゆきました。
賞味期限3年のものを2年で下取り回収する事にして、NGOを通して世界に送る。
配った先で写真、レポートをお願いして、配られた状況が判る様にして、(義援の見える化)「救缶鳥」のプロジェクトが出来上がりました。
賞味期限5年という要望があるが、缶の保証期限が3年なので難しい。
「救缶鳥」
フィリピン台風、昨年3月サイクロンでの被害のバヌアツ共和国 (ニュージーランドの近く)、ケニア、ネパール等に送りました、今まで数十ヶ国になります。
缶を食器替りに出来ないかと思い、ダブルサイズ(2食分)を作り上げました。

学生時代パン屋以外の職種を選びたかった。
お婆さんから長男が跡を継ぐべきだとこんこんと諭されて継ぐ事にしました。
今は長男、次男、長女が会社を手伝ってくれているので、ホッとしています。
5年前の時に、何故役所が持っていないのか、隣の街、隣の県とは連携がしていないのが判った。
倉庫に民間の備蓄が有れば自分たちの判断で送れるのでNPOが4年前に立ちあがって、海外支援機構「We Can」が出来ました。
数か所ですが、県単位の備蓄が行われています。
パンの缶詰、水、毛布の備蓄が始まっています。
民間レベルで素早い対応が出来ると思っています。
パン屋の周辺事業で見返りを求めない、少し社会に対するお返しがソーシャルビジネスだと思います。
「救缶鳥」は参加する皆さんが主役です。
3のつく日にパンを買っていただけると売り上げの3.3%を貯めて置いて毎月の東北支援にも回しています。
2食分の缶が15缶セットになって、1万2400円になっています。
2年後、一部食べると、連絡を取り合って、次回購入する分を値引きできるようになっています。
「救缶鳥」で備蓄するならば、自分の為の備蓄が世界の貧しい国へ送るプロジェクトに参加することにもなります。
日本の優しさが伝わる様な活動になってほしいと思い、日本の国旗を箱に張って送るようにしています。
地方での焼き立てパンを宅配する事も行っています。
今年にアメリカで「救缶鳥」プロジェクトが出来て、賞味期限3年の物を2年後に回収すると言う事業を行いたいと思っています。
社会貢献できる備蓄の仕方がパンだけでなくてもいいので、このアイディアを自治体も、政府もやっていただければと思います。
「日々新た」 気持ちを新しく持っていたい。
出来るかもしれない、という仮説をたてるとできちゃうんですね。
仮説を立てて、日付けを付けてゆく。









2016年3月16日水曜日

神谷未穂(コンサートマスター)   ・復興に思いを込めて奏でる

神谷未穂(仙台フィルハーモニー管弦楽団 コンサートマスター) ・復興に思いを込めて奏でる
大震災の有った3月11日から2週間後には、震災復興のための支援コンサートを始めました。
宮城県を始め東北各地の避難所、仮設住宅などを訪ねては人々の心を慰め、元気付けて去年の秋には500回を越えていまも支援活動を続けています。
5年間の活動を通しての想いを伺います。
神谷さんは1973年生まれ、桐朋学園大学、ドイツ ハノーバ音楽大学、 パリ国立高等音楽院を卒業し、2010年9月から仙台フィルハーモニー管弦楽団 コンサートマスターを務めています。

震災の当日は、拠点の青年文化センターに団員のほとんどがいました。
最後の通し稽古で各自練習をしていました。
譜面台が倒れたり、音のすごさにただごとではないと思いました。
特に弦楽器は古くからある楽器で、私は1740年代の楽器を持っていましたが、自分の代で壊してしまったらどうしようという恐怖感を初めて経験しました。
自分の死に対する恐怖も感じました。
数秒もたたないうちに、楽器を閉まって、スタッフの誘導で外に逃げました。
本番用のドレスを着ている若いソリストもいて、ほんとうに寒かったです。
信号も消えていて、自動車事故が起きていて、悲鳴も聞こえていました。
私は仙台に引っ越して間もなくだったので、首席奏者のチェリスト原田さんに車で送り届けてもらいました。
道路地割れができており、水が噴き出ていたりしていました。
しばらくはみんなと連絡取れない状態でした。
県庁に避難させて頂いて、充電して携帯で連絡が取れるようになりました。

九州での演奏会が数日後に有ったが、キャンセルになり、沖縄公演に誘ってもらって沖縄に行く事になるが、高速バスを利用する事になる。
チケットをどうにか友人に手配してもらって、なんとか東京に戻り、名護に行きました。
プロになって初めて楽器を触らない日が5日間ありました。
無性にフランスの作曲家のモーリス・ラヴェルの「ツィガーヌ」を弾きたくなって、全身の血が騒ぎ出すような思いをしました。
周りに励まされて、募金活動が世界中から集まり、音楽で人々を力つけたいとそれぞれ思ってたが、こんな時にとの思いもあり葛藤があったが、音楽による復興と言うことに全力を注ぎました。
最初は3人とか、四重奏とか小さな編成しかできなかった。
最初は仙台の商店街の半分外みたいなところでやりました。
ジュール・マスネのタイスの瞑想曲を演奏しました。

名取、七ヶ浜 避難所とコンタクトを取り、4月7日に演奏をすることになりました。
自分たちが想像した以上の状況でした。
こんな大変なところで演奏してどうなんだろうと思ったが、音楽で亡くなった方の為に祈りましょうと呼びかけて、「星に願いを」、「アベマリア」等を演奏しました。
最初は遠巻きにしていましたが、演奏をし終わったときには何百人のかたが近くで聞いてくださいました。
音楽は人のために役立つんだというコメントを頂きました。
音楽を演奏する場所がある事で私たち自身も力を頂きました。
今まで以上に団結力が強くなって、演奏にもプラスになったと思います。
一つ一つのコンサートを大切にしようと改めて感じました。

最初海を連想する様な曲は控えていたが、元気な曲をとか、歌を歌わせてほしいと、リクエストもあり、段々演奏の曲が変わってきました。
金沢、新潟、東京のサントリーホールで演奏したりしましたが、本拠地では7月になりました。
その時演奏した「新世界」は自分の人生で忘れることができません。
仙台フィルを応援してくれた、指揮のパスカル・ロフェさんが最初日本語で挨拶して、「ふるさと」を日本語で歌われました。
復興支援コンサート公演も昨年10月には500回を越えました。
仙台フィルハーモニーも長い活動を続けなければいけないと思っています。
ロシアから支援をいただき、御礼の意味で3年前にロシアツアーを行い、その時の事が仙台フィルハーモニーにとってプラスになったと思います。
偉大な作曲家の土地、景色、食物をいただき、芸術を肌で感じて、素晴らしい経験となりました。
定期演奏会300回をそろそろ迎えるので何とか成功させたいと思っています。
コンサートマスターになって3年ぐらいは本当に大変でしたが、そろそろ6年経ち、やり甲斐、楽しさを感じています。







2016年3月15日火曜日

チョ ホンリ(ネットワーク代表)   ・「人が暮らせる」復興を 

チョ ホンリ(NPO住環境改善ネットワーク代表)   ・「人が暮らせる」復興を 
62歳 阪神淡路大震災から21年がたちました。
21年前地震に依る火災で建築設計事務所を失った1級建築士のチョホンリさんは神戸市長田区の空き店舗でその後起きた中越地震の被災地山古志村(長岡市)、東日本大震災の被災地気仙沼市、南相馬市等のアンテナショップをオープンしました。
そこでは被災地の特産品を売るだけでなくて、そこに被災者がつどい、意見の交換を行いそれぞれの復旧や復興の段階でなにをしたらいいのか、何が出来るのかを互いにアドバイスし合っています。

阪神淡路大震災の風化の危機感があり、東日本大震災でも風化が早いと言う気持ちがあり、継続して被災地間の交流、情報交換をするという事でアンテナショップをやって新たな時代に継承する様なことをやっています。
ここは発信拠点の役割をしていた市場で、被災地間を結び付けるものはないかと思って、山古志村とか、南相馬、気仙沼との付き合いがある中で、合同で支援の形で表明しようと言う事でアンテナショップを作ろうと言うことが始まりです。
山古志村は棚田の米、とか山古志村しかできない農産物を加工食に変えたり山古志村の発信をやっています。
長田は物産としてはなにもないので、震災ブランドと言う中で、それを暗く語るのではなく発信できればと思っています。
市場は空き家が多くなっていますが、震災後15年の時には歴史を取られた様な気がして、市場と関わった次第です。
そのころに東日本大震災があり、市場の復興する事にかかわった人との出会いがあって、進みました。
ここは倒壊しなかった部分でもあり、この状態を継承してやっていきたいと言う事で、やっています。
身の丈に合わない再開発をやると街の再生が難しい部分もあるので、身の丈に合った中で整備してゆくと言うのも一つの復興の有り方ではないかと思います。

昨年、NPO住環境改善ネットワークをたちあげました。
空家、空き店舗は取り残されてきたが、関わる仕事が出来ればと思っていました。
古くから長田地区を知る人間、建築業者、不動産業者などが空き家店舗を調査したが、データだけでそれが何になるのかと言う事で、拠点を持ってくる、商売ができないか、と言う事で、自分からまず飛びこんでみようと思ったのがきっかけです。
まだ始まったばっかりですが、復興の取り組みに繋がればと思っています。
若い人がどういうものを魅力と感じるか調査もする必要があります。
行政は限界があると思うので、我々が提案して、行政がサポートすると言うことをやりたい。
震災の復興は先ず仕事だと思うので、共通する仕事で触れあうという事が一番被災地間で話が進んでゆくし、継承出来ると言う、その拠点とするのが空き店舗の中でアンテナショップなり、皆が集まれて発信できると言う場所が必要と言う事で、広めていけるきっかけになればいいなあと思いました。
物を売るだけではなくて、人との交流を行う。
無くした自信、失望感とかをここから新たに組み直すことが出来れば、と言うのが狙いです。

21年前被災時に事務所が全焼して、立ち直るきっかけになったのが、消防団の服で水がほしいと仮の小さな店舗に来て、その人の話では火事で家族を救おうと飛びこむ人をはがいじめにしたが、
奥さんと子供が目の前で焼け死んでしまって、止めなかったら助かったはずだと言われてノイローゼになってしまったということで、物を無くした位良いじゃないか、命が有ったんだからと言われて立ち直るきっかけになりました。
人が基本だと思いました。
時が経つと被災格差が出来て段々連帯感が薄れてゆく。
同じ場所だけでの発想では良くないと思います。
最初片ずけから始まって、それから建築士として、後のち感じる訳です。
東日本大震災の時は2週間後に瓦礫撤去をやりに行きました。
旋盤工になりたかったが、在日韓国人と言う事で差別の様なことがあり、受け入れられず、大工になろうと思っていた、定時制高校に行っていたが限界を感じて学校も辞めてしまって、日雇いをやっているときに、或るとき若い現場監督から酷いことを言われ酷く悔しがったが、若い1級建築士が監督をたしなめた。
その1級建築士は凄いと思いました。

一緒に仕事をしていたおじさんから教育をしっかり受けないと馬鹿にされると諭されて、複学して10年掛かって1級建築士になりました。
京都大学の西山教授の本を購入して読んでいるうちに手紙を書いたら、会ってくれる様に言われ、会う事が出来ました。
建築家と言うのは、あなたの様に大工の身をして6畳一間、小さな仕事でも仕事をやる、それが建築家だと言われて、それに凄く励まされました。
人との出会いは凄く大事だと思います。
一時事務所が破産したこともあります。
被災して、又ゼロからの出発となりましたが、以前のそういった経験もあり、又なんとかなるとも思いがありました。
辛い思いは暗く語るなと言っています。
復旧は急ぐべきだが、復興は急ぐべきではないと思う。
長田は産業地帯が無くなって行って、今は住宅地になっているが、目玉が無くなってきている。
生活の拠点がいったん離れるとなかなか戻れない傾向はある。
山古志村は帰村を果たしましたが、福島は原発の問題があり、色々と難しい問題を抱えている。
共に同じ目線でこれからも、交流を深めてゆき、共有してゆく様な形の取り組みをやってゆきたい。
震災を風化させない。







2016年3月14日月曜日

佐藤清吾(元十三浜漁協組合長)  ・ふるさとの復興 命の限り

佐藤清吾(元宮城県北上町 十三浜漁協組合長)  ・ふるさとの復興 命の限り
74歳 佐藤さんが住んでいた北上町十三浜大室地区は波静かな漁港で、わかめ、こんぶ、ほや、ホタテ等を育てていました。
それが押し寄せてきた大津波で300人の人の命と家屋漁船も流され、風光明美だった港が瓦礫で埋まりました。
港に近い佐藤さんの家も家族も流され、現在も行方不明です。
昭和30年代、集団就職列車で上京した佐藤さんは、様々な経験を積んで故郷に戻り、北上町十三浜漁協組合長として活躍してきました。
その組合長を退いた後、大震災に遭われました。

現在仮設住宅に一人で5年間住んでいます、4畳半二つと、台所。
44戸有りますが、高台に移転された方もいます。
今年中には高台の造成が終わって、私らに引き渡しの予定になっています。
以前の家は海から25m位しかなかったが、明治の津波で奥に構えました。
妻(当時58歳)と小学校の1年生(7歳)の孫の写真が飾って有ります。
地震直後大津波警報が出て、一人者の老人等を避難させたりして、浜に出て行ったがまだ変化はなかった、地震から30分ぐらいで到達するとの言い伝えがあった。
避難していたらとんでもない高さになり、集落全部が流され、夢でも見ている様な感覚だった。
入り江になっているために高さが倍にもなる。
波が引いて行った時の一番奥の家さえも無くなってしまっていた。
家族が山に逃げたのではないかとの希望もあって、呼んでもまったく反応はなかった。
その晩は友人に誘われて車で暖を取り凍えずに済みましたが、寝るどころの騒ぎではなかった。
夜10時の津波が最大だったと言う話もある。

家はぜんぶ流されて何も無くなってしまった。
写真は親戚が持っていたものを貰い受けました。
漁協の代表をやっていて、災害復旧が最大の役目なので、自分の家の事情等は完全に封殺した期間でして、忙殺された期間が有ったから乗り切れたのかもしれません。
2400人いた十三浜の人が300人位亡くなり、行方不明者が70人ぐらいいます。
船は400近くあったが50~60艘しか残らず、養殖漁業の復活に使えるのはその半分しかない。
その年は収入がゼロ、翌年も無収入が予想され、皆さんからの支援だけで命をつなぐのはできなくて、残った船と生きのこった人で明日から何をやったらいいか判らなかった。
瓦礫がすごくて、漁場の整理をしないことには後から養殖場を敷設が出来ない、その復活の為の仕事は収入が無く、政府からの日当手当での仕事(アルバイト)はお金がもらえる状況だった。
そこが苦しいところだったが、協力の為にいろいろ走り回った。

日本から世界から応援される中で、中には家も船も損害を受けなかった人もいて、自分は自分でやると言う様な声もあったが、自分だけスタートする事は認めないとはっきり言って、再開の意志が有れば一緒にスタートすると言いました。
漁業は一匹狼的な考えがあり、共同でやることはトラブルも多く、纏めるのには苦労があった。
一度組合長を辞めた後に大災害が起き、どうしてもとの要請があり動きました。
物理的にも人の面倒を見られるような状況では無かったが、何回ともなく要請があり最後に有る人からこの惨状から逃げないでくれと言われて、その一言に遂に動かされました。
三陸のわかめ、こんぶの生産量がゼロだったので、輸入品と三陸品は全然違うので、その年の5月から漁場の整理を始めて、海を綺麗にして新たな施設を12月31日まで掛かって作り、翌年生産したら、値がついた。
70%のいかだを復活させたが、収穫量は通常のいかだの本数の倍は出来ました。
2年目にはいかだは100%になりました。

「大室南部神楽」伝統芸能を復活させねばならないと言う思いがあり、2年目に復活祭を行い、そのお祭りのせいでボランティアの人達を含め1000人以上の人(以前は100人位)が来て下さり、とんでもないお祭りになりました。
お祭りは絆を高めてくれます、地域の人が抱き合って涙を流しました。
方言 この土地には独特の方言があるが、死語になってしまうと言う思いがあり、その単語を使ってどういう言葉が出来るのだろうとノートに記しました。
巨大なもの=やた(八咫)もの (八咫烏から来ている) 
中国の殷を滅ぼした周の時代の尺度の単位 親指と薬指の間隔が「一あた(咫)」 それが八つ
でやた(八咫)、今でも使ってます。
以前230ページの方言集を作って、新たに復刻版を作りました。「北上町の方言集」









2016年3月13日日曜日

大澤隆夫(代表理事)       ・こころの復興に寄り添う

大澤隆夫(音楽の力による復興センター東北 代表理事)  ・こころの復興に寄り添う
東日本大震災から 5年が過ぎました。
68歳、宮城県仙台市の職員として、文化行政を担当し、仙台フィルハーモニー管弦楽団の専務理事となって1年目で東日本大震災で被災しました。
被災者と演奏家の中間組織を立ち上げ被災者の心に音楽を届け、寄り添ってきた大澤さんがどんな思いでこの5年間を過ごしてきたのか伺います。

東北大学の大滝精一先生と二人で代表理事となっています。
手がけたイベントとしては三善晃先生が作曲した支倉常長を主人公とする「遠い帆」というオペラ、国際音楽コンクール、クラシックフェスティバル、ジュニアオーケストラなどにかかわってきました。
仙台フィルハーモニーへの経済的な支援を担当しました。
定年後は専任として仙台フィルハーモニーにかかわってきました。
大震災の時はコンサートの有る日でしたが、そのコンサートの前に地震が起きました。
楽団員は無事でした。
チェロとハープの2人が泊るところが無くて自宅に泊めることになり、着のみ着のまま寝ました。
コンサートが出来なくなり、演奏で収入が得られる事が出来無くなり、基本金を取り崩す中で生活をしていきました。

ボランティアのコンサートを2週間後に行いました。
楽団員の家の損壊が有ったのですが、地域で育てられたオーケストラとして役に立ちたいと言う事で、出来るだけ早くコンサートを開始する事になり、或るお寺の会場が無事だと言うことが判ってそこで行うことになりました。
自粛する中で、折れそうな気持ちを立て直せないかとの思いが、急ぐ要因になったのではないかと思います。
音楽を中心に、或るコミュニティーみたいなものが生まれて、音楽の力があるんだという実感があったと思いました。
被災地に支援する音楽は、全く新しい枠組みを作らなければいけないと思いました。
東北大学の大滝先生にお願いして代表になっていただいて、24日にこの組織(音楽の力による復興センター東北)を作りました。
26日がコンサートの日でした。
京都からも駆けつけて頂いた人もいました。
自粛中の中での演奏は社会にどう受け入れられるかと言うことは心配でもありました。

お寺で行なったことが演奏会の趣旨と言うものを明確にしたのではないかと思います。
交通が不便の中で100人弱が来て頂きました。
演奏者も聞く方も被災者同士の垣根のないコンサートが出来、深い感動をおぼえました。
全国的にニュースになり、寄付がたくさん寄せられるようになり、音楽への評価も高まり、仙台市内の2か所で37日間のマラソンコンサートを行いました。(第二弾)
その後他のところからの要請もありました。
体育館の避難所の一角で4人で演奏をやったりしたこともあり、寄り添うようなその場の空気を感じました。
様々な反応があり、音楽は何らかの形で役に立っていると言うのが少しずつ深まっていきました。
避難所などは決して良い音響がいいわけではないが、そこにいって演奏して被災者の皆さんが元気になっていくという音楽の有り方があるのではないかと思います。
演奏家にとっても聞く人達にとっても深い感動がある、それが500回続いてきた音楽の中身なのかなあと思うことがあります。(今年で550回以上)

演奏家の想いを整理して行ってお手伝いをして、開かれたものを目指した部分もあり、それぞれの気持ちを整理して、或るコンサートを実現してゆき、他にウイーンフィルその他のお世話もさせて頂きました。
時間がたってゆくに従って歌いたいと言う話が出てきて、仮設にいる人が練習をやってコンサートをするとか、聞く事から自立する、前を向く方向に移ってゆく事もありました。
地域のコミュニティーのお手伝いと言う様な役割にもなりました。
ウイーンフィルは子供の為のコンサートの授業を作って5年間にわたって被災地を訪れて来ましたが、最初が私たちがお手伝いしたコンサートでした。
とても大きなパワーだと思います。
被災者の皆さんの心の動きに対応した音楽活動になりますが、音楽はそういった心の動きに対応できているのではないかと思います。
老人ホームに演奏に行った時に、今寝るところだと言われて、子守唄代わりに演奏したら、拍手と握手攻めにあい、心に沁みる様な演奏が出来、最終的に良かった受け入れられたと言う話もありました。

5年間は人それぞれに時間が過ぎ去ってゆきましたが、どうやって寄り添っていけるのだろうか、鎮魂、癒し、励まし、自立、改めての絆作り等、そういうものを試行錯誤して行った5年間ではなかったのかと思います。
「音楽の力による復興センター東北」は社会に支えられる音楽から、社会を支える音楽を作り上げてきたが、有効な仕組みがある事を提案していきたいと考えていますが、何時までかは判りません。
音楽が空気を震わして、それが身体に伝わって、身体に伝わった音楽が心に届くと言う、ライブならではの音楽の力があるのではないかと思います。



2016年3月12日土曜日

2016年3月11日金曜日

熊谷達也(小説家)        ・被災地を書くということ

熊谷達也(小説家)          ・被災地を書くということ
仙台在住、宮城県気仙沼市で中学校の教員をされていたこともあります。
その時の経験も取り入れ、震災後気仙沼をモデルにした架空の都市、仙河海市を舞台にした連作小説に取り組んでいます。。
被災地を知る小説家として何を書き続け様としているのか、伺います。

日々暮らしをしていて5年だからと言うことはないが、唯区切りと言う事は大事かもしれません。
ゆっくり立ち止って振り返ってみる時間としてその一日は過ごしたいと思っています。
小説は、書き終えただけでは完成形ではない。
本になったからと言っても完成形ではない、皆さんに読んでもらって完成形だと思います。
沿岸の被災地に自分の担当の編集社6社、15人を連れて行っています。
どうしてかと言うと、私が小説を書く上で最も大事なベースとなる感覚があり、それを共有してほしいと思っています。
時計の針の進み方を常に考えています。
3月11日午後2時46分、この国に暮らす全ての人の時計は止まったと思います。
同期する、本当にそこで一つになったのではないかと言う気がします。
沿岸の被災地でその日を生きるのが精一杯だが、被災地の外側の方は一度は同期された時計の進み方がすでに違ってきているのではないかと思います。

自分に何かできるのではないか、応援するための義援金はどうするかとか、真剣に思ったと思いますが、その時すでに時計の進み方が違っていると思います。
「絆」 一度はいっしょになった時計の進み方が違いはじめるのは知っていた、それをなんとかしてつなぎとめたいと言う必死の思いが「絆」と言う言葉に象徴されたんだなと、それが「絆」と言う言葉の正体だったのではないかと私は思っています。
以前の日常を取り戻せた人から元の速度で時計の針は動き始めます。
3月11日で動かなくなった人はたくさんいると思います。
動きだしてもゆっくりしか動かない人もたくさんいると思います。
5年が経過しようとしている中で、時の差は、時と共に拡大してゆきます。
被災地の内側外側で溝が深くなっています。
「風化」 最近聞かない、記憶が薄れてゆくのをなんとか止めようとして「風化」と言う言葉を使ったが、これもまた温度差がでている。

5年間経って、私は自分で振り返らないといけないと思っています。
2011年4月1日、気仙沼に行きました。
気仙沼中学校に平成への変わり目の3年間教師をしていました。
当時の教え子たちの半数が被災して家を無くしています。
大谷海岸の先に御伊勢浜海水浴場があり、そこに立ち寄りました。
海水浴場の砂浜が無くなっていて、あたり一面土の匂いで磯の匂いが無くなっていました。
お伊勢浜から本来見えないはずの高校が見えました。
至るところで自衛隊の皆さんが遺体の捜索をしていて、北上してその後気仙沼中学校に行き、倒壊した街を半日歩きました。
現実を目にして、言葉を失いました。
小説家として前の自分には、もう戻れないと思いました。
毎週のように沿岸部に、ただひたすら津波にのまれたいろいろな沿岸部の風景を見続けました。
何故そんなことをしているのか判らなかったですが、最近すこし気付きました。
言葉を失った、自分の中に言葉が戻ってこないのかなあと、自分の中に言葉が戻ってこないのかなあと試していたんだと思います。
震災のつめ跡に耐えうる様な力を持った言葉が自分の中に生まれないかな、戻ってこないかなと必死になってそれを願っていたんだと思います、でも戻りませんでした。

本が大好きな子供で、大人になってもそうでしたが、本を読もうとはするが読めなくなってしまいました。
小説の中に入っていけない、リアリティーが全然感じられない。
書き手の意図も見えてしまう。
たまに読めるのもありましたが、読んだ後で何も残らない、満足感が得られない。
小説を読めない小説家に小説をかける訳がない。
廃業するしかないなという時期もありました。
一つの転機がありました。
毎年30年ぐらい北海道に行っていて、震災の夏も北海道に行きました。
なじみのショットバーがあり、そこに行ったら映画にエキストラとして出たとのことでした。
海炭市叙景 海炭市(函館をモデル) 佐藤泰志さんの短編集 
購入して読んだら、震災後初めて我を忘れて読みました。
リアリティーの塊の様な、人間ってこのように生きているんだと、こうやって物事を感じている、登場人物が本当にいるかの様にリアリティーが迫っている。
これを読んだ時に、まだ小説にはやれることがあるかもしれない、こんな話を書いてみたいと思った。

挑戦してみたいと初めて思いました。
壊滅と言って津波で流された瓦礫の風景を撮って、全国に流しているけれど、カメラマンは以前どんな風景だったか、どんな人がどんなふうに暮らしていたか判らず、全国に流しているが、ちょっと違うのではないかと友達と話していたことがある。
その友人から震災前の三陸の海辺の街の肌触り、様子を知っているたった一人の小説家ではないかと言われた。
この二つのことがあり、ここで廃業はできないと思いました。
気仙沼をモデルにした街を作り上げて、生きている人々の話なら書けるのではないかと思った。
2012年秋に「仙河海」という名前が出来ました。( 仙は人と山 をつないでいる河と海)
書き始めて以前とは違う言葉が生まれたなと思いました。
年内に合計8冊になると思います。
私の作品で時計が止まっている人たちの時計の針が進みだすための少しでも進まないかなという思いがありました。
でもそれは無理だと思いました、時計の針を動かすのはあくまでご本人なんですね。

小説にはなにも出来ないようだけれども、そうした人たちが時計の針が刻み始めるのを待つ事はできるなと、待つと言うことは仙河海の話を書き続ける、それであなたの事を忘れませんと言うメッセージにはならないかな、せいぜい出来ることはそれぐらいかと書き続けています。
望まれないものを必死になって書いているのではないかとジレンマに陥ることがあります。
被災の外側の人に言わせると5年もたった今頃震災の事を書くのかと思う方が沢山いると思います。
被災された内側の人にはまだとても読めないと言われるかもしれません。
もしかして私自身の時計が止まっているのではないかと思ったりします。
ゆっくりとしか時計の針が動かないと言うことは、歩き始めているが辛いが頑張っている。
僕は一番後ろを歩いていればいいんだと思っています、必死になって歩いている人が後ろを振り向いた時に、いやおれが一番最後にいるから大丈夫だよ、そんなふうに有りたいなと思います。






2016年3月10日木曜日

阿部憲子(ホテル女将)      ・「語り継ぎ」で風化を食い止める

阿部憲子(ホテル女将)        ・「語り継ぎ」で風化を食い止める
東日本大震災から明日で5年。
阿部さんは53歳、震災の直後宿泊客を高台に誘導し、難を逃れました。
電気や水道が止まった中で、宿泊客や地域から逃れてきた住民の為に献立を考え食事を提供してきました。
阿部さんは避難所としての役割を終えた後も復興のため様々な取り組みを続けてきました。
中でも力を入れたのは語り部バスの運行です。
観光客が被災した町内を従業員やボランティアの語り部と共に廻るものでこれまでに30万人がこのバスを利用しました。
阿部さんはホテルの女将として震災の危機をどう乗り越えたのか、そこから得られた教訓をどう語り継いでいこうとしているのかうかがいました。

2時46分大きな地震が発生しました。
ロビーにいましたが、引き波の時には目の前に大きな島がありますが、歩いて行けるほど波が引きました。
昭和35年のチリ地震を思い起こしました。(話を何度も聞かされていました。)
水平線がどんどん盛り上がると言う様な変化でした。
100名お客さんがいました。
駐車場に避難誘導しました。(20m以上あります)
その後託児所のあるより高いところにみなさんをお連れしました。(さらに50m以上高い場所)
地震発生30分後に津波の第一波が来ました。
橋が流され、道路は瓦礫で覆われ孤立状態になりました。
公の避難所ではなかったのですが、住民の方がここをめざしてきました。
スタッフも若い女性がいて泣き出しましたが、みんなを集めて心を強く持つ様に話しました。
おにぎりもなければ半分づつに譲り合いの精神で頑張りましょうと声をかけました。

翌日には500~600名になりました。(人数を的確につかむのは難しかった)
厨房のものには1週間分の献立を立てる様に指示を出しました。
我々を頼ってきている人達がいるので、今日だけの問題ではないと言うことを私どもの関係者にも理解してもらう事が必要だと思いました。
最初食べものをたくさん食べてしまうと底をつくのが早いと、長期的な事を見てほしいと言うことを含めた指示でした。
冷蔵庫も駄目になっていたので、駄目になるものから食べなくてはいけないので、献立は難しかったです。
電気、ガス、水道が止まっていて、やりくりは大変でしたが、食の専門家がいて、それぞれの役割を意識しながら準備が進められて、お客さん、住民の方と関係性が築けてスムースな方ではなかったかと思います。
暖房、薬の問題とか直ぐに問題が一気にでてきました。

1週間目で或る程度の区切りが付きました。
警察の方が無線電話を持っていて、隣町と連絡を取り、3日目に可能な道ギリギリまで送って、別な避難所に行く事が出来ました。
最後のお客さんが帰られたのが1週間後でした。
水産業もやっていたので、被害は厳しくて9か所工場がありましたが、残ったのは1か所だけでした。
次に別なことを考えないといけない事がいろいろありました。
一部を残して住民の方も対応できるところに移動していきましたが、家を失った関係者が住むようになりました。
スタッフの雇用は非常に大事なことで、仕事は気持ちの切り替えになるし、失ったものも頑張ればひとつひとつ整えることにもなりますので、気持ちの切り替えを毎日心掛け、仲間同士の励まし合いもあり、共に支えあいました。
ライフラインが止まっていて、固定電話2カ月、水は4カ月、という環境の中で会社経営は大変な努力をすることになると思いまして、やり抜かなくてはいけないと意識して進んでいきました。

5月からは2次避難所として国からの補助がありました。
被災した工場が一つ一つ再開する事が出来、出来ることからやりました。
一つのホテルに過ぎないが動く事によって、酒屋さんが、八百屋さんが、店が無くても届けますとか、市場から仕入れたらそのままとどけますと、言ってくれるようになって、それぞれの道の開けるきっかけになったと思います。
交流人口の必要性を感じてここが頑張らねばと思いました。
少し時間がたってきたら、物が届くよりも買い求めてもらうのも、有難い応援だなと思いました。
まだ軌道に乗ったというような状態ではないです。
もっともっと被災地にお出かけ頂けるといいと思っています。
震災がきっかけですが良いところだと言う言葉も聞かれるようになって、地元の為にもなるので、そういう気持ちを抱いていただけるようにお迎えしたいと思います。

避難所になって新しいコミュニティーの始まりを意識しました。
イベントを開く事によって元気付けられると思って、いろいろ始めました。
仲間が増えてきて、笑顔が増えてきたが、又ばらばらに仮設住宅に別れてしまうと言う事で巡回バスを出すことにしました。
風呂を無料でということは今でもやっていて、交流の場になればいいと思います。
語り部バスの運行。
誰か道案内をしてほしいと言うのが始まりでした。
被災の厳しい状況の地区にいった時に、ずーっと野原だったのか言われたが、沢山の住宅があったんだと言うことを知らせるために、震災を風化させないために語り部バスの活動を重ねてきました。
朝8時45分から1時間やっています。
それぞれ物語の有る3か所を廻っています。

5年経っても復旧がままならない場所が少なくないです。
沢山犠牲になったが沢山の人が助かったという例もあり、語り部が話しています。
3月9日も地震があったが津波は来なかったが或る先生が、避難場所は屋上だが今度地震があったら不十分ではないかと、別の高台に場所を変えた方がいいと提案して、校長先生が聞き入れて保育所も合わせて10日に避難訓練を行い、11日はきちんと避難ができて助かりました。
場所を変えていなかったら大川小学校の悲劇以上の大変な出来事が発生してしまったと思い、奇蹟的な話だと思います。
南三陸町の防災庁舎は県が保有すると言う考えが進められています。
非常に犠牲になった方が多い場所で、御霊に祈りをささげる場所となっているので、手を合わせる人達をみると無念に感じます。
語り部バスの運行で30万人が利用してきました。
チリ地震の事をきちっと子供孫に語り継いだ家は違いがあったなと思います。
「津波てんでんこ」 津波が来たらてんでんばらばらでもいいから高台に逃げる。
「命てんでんこ」とも言われ 自分の命は自分で守る。
災害に遭遇して故郷の最大の危機だと思いました。
簡単には復興は出来ないとの思いはありますが、皆さんと力を合わせながら復興のモデル地区になれる様に頑張り続けなくてはいけないと思います。












2016年3月9日水曜日

天童荒太(作家)         ・「フクシマの海」 鎮魂と再生の物語

天童荒太(作家)            ・「フクシマの海」 鎮魂と再生の物語
「ムーンナイト・ダイバー」は震災から5年が経とうとする福島の海が舞台です。
表現者として震災とどう向き合うか、ずーっと考えてきた天童さんが生み出した、亡くなった方達への鎮魂と残された人達の生きる意味を問う、希望の物語として話題になっています。
天童さんは1960年愛媛県生まれ、55歳。
明治大学文学部演劇学科を卒業後26歳の時に、「白の家族」が野性時代新人賞を受賞作家デビュー 、2000年には児童虐待をテーマとし、虐待を受けた子供たちのその後のドラマを書いた「永遠の仔」がベストセラーに、2008年の「悼む人」では直木賞を受賞、不慮の死を遂げた人々に祈りをささげる主人公を描き、映画化もされました。
天童さんは傷つけられ虐げられた人に寄り添った作品を生み出していて、一つの作品に何年もかけて取り組む作家として知られています。
そんな天童さんが震災5年を前に、福島の海を舞台にかいた小説に込めたものは、人は苦しみを抱えながらも、明日を生きるための希望を見出せると言うあらゆる人に向けた普遍的なメッセージでした。

震災に対して小説を書くことは全くなくて、大きな災害であり、ドキュメンタリー、ノンフィクションがその任であろうと思っていましたし、小説は嘘を使って真実を語ると言うのが基本なので嘘は必要ないと思っていました。
被災現場に伺う機会があり、「悼む人」という作品はあらゆる人の死を平等に悼むと言う話で、あらゆるの死をどうとらえるのか、1万人を超す方が亡くなったり行方不明の方がでる状況の中で、悼むと言うことが可能なのかと言うことを作者としてどうとらえるかと言うことを頂いて、被災地に行きました。
被害のあまりの大きさが肉体で実感できる。
映像はある種の見せ場になる様な表現で、ピックアップして編集するので実測が判りにくい。
どれだけ大きい被害があったのかを実感した。
TVで判った様に気になってはいけない、その時起きたことを肌で感じる事はできないと思い知りました。 
人の死を数字にしない。
数字の大きさで被害の大きさが計られていき、数字の大きさで悲劇、悲しみの深さ、大きさを計ろうとしてしまっている。

数の大きさでは決してない、家族にとっては1/15000人ではなくて、それがすべて100%なので、そのわきまえみたいなものを決して失ってはいけない。
悲しみに対して、我々の生き方暮らし方をもう一度見直す、警鐘として受け止める流れがあって、人と人との繋がり合おうと、人と共に生きてゆく感覚をもっと大切にしようということで絆というシンボル的な言葉も生まれたが、半年、1年とたたないうちにどんどん忘れられてゆき、競争社会、格差を是認する社会になっていったし、目先の利益を追いかける社会にどんどんなりつつある。
それに対してなんでこんなことになってしまったんだろうと、社会全体がモラルを失って、大切な中心部門で粉飾、偽装、嘘をついて、嘘をついた事をだれも責任を取らないとかそんな社会になってしまった、この国は本当に美しいのか、豊かと言えるのだろうかと思った時に、何が一番の原因だろうと思う時、震災とか、震災によって起きた人々、悲しみをどんどん見ない様にしてきたことが根底にあるのではないかと思った。

放射能汚染の問題で多くの人が避難しているが、段々麻痺したり忘れて行ったりしている。
辛いこと、悲しいこと等に見ない様にすると言う社会の在り方が日本全体の人々に対して、もし自分たちがつらい立場になった時には忘れられてゆくのではないか、この社会は見ないことになってしまうのではないかと言う様な強迫観念が深層心理の中に植えつけられてしまったのではないか。
自分を判定する方々から置いていかれる、忘れられてゆくという無意識の強迫観念があるのではないか。
モラルを崩しても成績、成果を上げようとして、長期的には物凄い損失になると言うのに。
しっかり向き合うことによって目先ではなく、長きにわたって本当の幸せとは何か、豊かさをかんがえられるようになる社会になるではないかと思って、嘘を持って真実を語る世界になると思った時に、これを書こうと思ったのがその経緯で、2年前でした。

小説なら何が出来るだろうと考えて、被災地、放射能汚染区域に行って、海にさらわれた街、海に失われてしまった人々の笑顔、愛を救いあげてくることは小説しか出来ないと思い、海に潜ろうと、海に潜る話にしようとして、その時に出来ました。
「ムーンナイトダイバー」
月夜に人目を避けて汚染された海に潜って、津波にさらわれ、海に沈む街から大切な人につながる遺品を捜す男性、ダイビングインストラクター船作が主人公。
小説は人の心は目にはみえないが人の心を見せることが出来る、見えないものをいかに見せるか、底に隠れている真実、愛の真実、悲しみの底にあるきらめきみたいなものをどう見せられるかを凄く考えています。
原子力発電所の近くの街にうかがって、主人公たちがどういう場所を見て、どういう港から船を出していけるのかと言う事を見つける様な短い旅を昨年してきました。

被災直後から変わってない場所が残っている。
その前には海がひろがっていて、海はこの街を人をさらっていったが、海は穏やかで何の悪意が無い。
海に潜ることを仕事とする主人公、一人ひとりの抱えている悲しみ、重さをしっかり自分自身の魂から出る声として、骨の髄からでてくる溜息、涙になるまで深く潜っていかないと、現実に辛さを抱えている方がいるので、僕は表現が終えると海面に浮き上がることが出来るが、その方々はずーっと海面に浮きあがってこれないものを抱えている方々がいるので、表現者としてしっかり向き合わないといけないとの思いはずーっと有ります。
普遍的なことであろうと思ったが、震災で多くの人が亡くなるのは今回の災害だけではなく、交通事故でも、様々な事件でも亡くなる、それを通して自分が本当に表現したい一つがサバイバーズギルト、生き残った人の罪の意識、非常に大切な問題だと思った。
自分はなぜ生き残ったのか、愛する人はなぜ失われてしまったのか、苦しまれている方が多くいる。
一声かけていれば、交通事故に遭わなかったかもしれないとか、癌で亡くなった方に何故もっと優しい言葉をかけてあげられなかったのかとか、ずーっと苦しまれる方がいて人間にとって普遍的な誰にでもある問題ですが、語られて来なかった問題だと思います。
生きのこったことに喜べない、だれにでも起きる問題だと思います。
実はこれが愛情が豊からだからこそ、抱える問題なのではないか、人間の美質であって、そういう事を考えることが悪いことではないのではないか。

辛さを抱えていても人は生きていけるはずだし、愛が豊かであるからこそ、人間としての美質を持っているからこそ、自分を責めてしまうのであるから、愛を、美質を捨てろと言うことは間違っているのではないか、罪悪感を認めてあげる事は実は正しい在り方なんだと思う。
それを抱えながらでも精一杯幸せに向かって生きていけるはずだということを、今回の物語を描いているうちに自分自身も感じたので伝えたいと思った。
震災で起きたことは一つのシンボルとしてとらえて、サバイバーズギルトを得ながらでも人はまた明日に向けて生きていく事はきっと出来るし希望はあるし、幸せはあるし、幸せの光を見出す事はきっと出来ると言うことを伝えればと思っています。
今回は言葉がどんどん出てきて、短編ではなくて長編にさせてほしいと相談しました。
思いもかけない速さで書き上げる事が出来たし、新しい局面を得ました。
人間にとって、この世界に最も大切なものは何か、本物の愛とは何か、とことん突き詰めて考えられたことも自分にとって新しい局面でした。
読み通した時に小説と言うのはこういうものではないか言うことが、心の中にすとんと落ちる物があって、それも初めての感覚でした。

しょせん自分なんてという気持ちがあって、自分が意識しているもの、自分が普段考えているものは詰まらないと言う気持ちがあり、自分が考えもしなかったことが面白いのであって、自分が気がついていない部分にまで潜って行く事が出来た時、自分の無意識は人間共通の無意識になるはずだと、人類共通の悲しみ、怒り、希望ときっと触れあうはずだと思って、そこに突き当たると多くの方々の心の底にある、悲しみ、希望、喜び、悲しみ、秘めてきた辛さ等、行きあたる。
みんなと共通のものがきっと眠っている。
真実として皆さんに送り届ける価値がある。
違うと思ったときには、あと少しで出来上がると言う時でも全部捨ててしまうことがあり、ごめんなさいと言わざるを得ない。
世界を見るとシリア難民がいて、または仮設住宅にいて、自分が何が出来るのか、何もできない辛さに背を向けざるを得ないと言う気になってしまうと言うことがあるかもしれないが、大切なことはいま目の前にいる人に手を差し伸べることであって、手の届かない人に手を伸ばそうとして自分の心を傷つけたり、孤立するのではなく、今目の前にいる人にその人が沈んだ顔をしていたら、どうしたのと声を掛けられるかどうかが、一番大事であって、人の善意は凄く連鎖してゆく。
声を掛けられた人は、必ず誰かに手を差しのべてゆく。

広がりの先に、今遠くにいる誰かが救われてゆく、それはある種の信頼だし、人間への信頼なくして、我々は生きてゆく事はできないし、それが世界の根底いあることが世界をまだ持たせている。
核兵器、テロ、環境破壊、憎しみ、憎悪のなかでどうして人間が滅ばずにいて、幸せを時として感じることが出来るのか、それは根底に他者にたいする信頼があるからです。
他者への信頼を確かなものに、豊かなものにするために出来ることは、今目の前にいる辛い思いをしている人に声をかけたり、ちょっと歩けなくなっている人に戻って、一緒に歩くと言うことをする、自分の周りでするということこそが、人の信頼を育み、自分と言う人間の尊さを、それぞれの人が持っている命の尊厳を高めてゆく、そう信じています。
目の前の人にした事、隣の人にしたことが世界の果てまで届くんです、時間はかかるかもしれないが間違いないです。
本当に大切なことは時間がかかるんです。
小さな善意が世界に大きな波を作っていくんです。
信頼なくして次、次の世代へ続けてゆく、未来を豊かにする力は生まれません。
ちょっと具合が悪そうな人にちょっとした声をかける出来る人が本物のヒーローだと思っています。








2016年3月8日火曜日

平間 至(写真家)        ・故郷、塩竈への思いをカメラで

平間 至(写真家)           ・故郷、塩竈への思いをカメラで
宮城県塩竈市出身 1963年生まれ 52歳  音楽雑誌やCDジャケット等、広告写真分野で活躍、
いま最も撮られたい写真家として俳優やミュージシャン達の支持を集めています。
平間さんは今月塩竈市で「塩釜フォトフェスティバル2016」を開いていて復興支援に力を尽しています。
塩竈市の写真館の3代目として生まれた平野さんは地元の高校から一浪して日本大学芸術学部写真学科に入学、学生時代は実家の写真館を継ぐつもりで、土日を利用して塩竈に戻り父の写真館の手伝いをしてきました。
大学卒業以後、アメリカでの修行や、写真家伊島薫氏に師事して力を付けてきました。
独立、写真家として活躍しています。
東京世田谷区で「平間写真館TOKYO」を去年1月にオープンしました。

音楽が大好きなのでそこが中心になります。
写真を撮ると言うことは、被写体、撮る対象と先ず向き合うことが出来るか、対象と向き合うこと=自分自身と向き合う事。
写真表現は被写体をモチーフにして自分の内面を表現すること、被写体を撮ることが写真ではなくて被写体をモチーフに何らかの自分の内面を現わしてゆく。
写真館で写真を撮ると言うことは長期的に残すことをかなり意識的に考えて撮影されていると感じます。
スマホの写真は短期的、その場で見せて共有するには凄くいいと思うが、プリントアウトしない限り、データが無くなって行ったりする。
プリントに残すことが大事だと思います。

2011年3月11日 東京で車の中にいました。
TVを見続けたが、自分自身が壊れるような気持になり、自分で何か行動を取らなければと思ったが、どうしたらいいか判らないという状況だった。
親との連絡は一瞬ついたがその後1週間は取れなくなった。
吃驚したのは日常と非日常がグラデーションではないと言うこと、急に日常から地獄の様な風景に変わる。
メディアで感じたことと現実がまるで違うと言うことが判った。
自分の受容量を完全に超えた出来事だったので、写真は撮れなかったです。
悲惨さをつたえるために写真を撮っている訳ではないので写真は撮れなかった。
「塩竈フォトフェスティバル」は2008年からやっていました。
市役所の人達との関係があったので、恵まれた環境で、震災後も支援活動が出来ました。
今回「塩竈フォトフェスティバル」は若い作家を世に出そうと言うことが一つ、オランダからエリック・ケッセルスを招へいしていて自分では写真は撮らないが、ネットに上がっている写真とか、誰かが撮った写真を利用して写真表現をする人です。

塩竈市の「平間写真館」の3代目として一人っ子として生まれるが、子供時代はやんちゃだった。
祖父の代から写真と音楽が大好きだった、祖父はバイオリンを教えていました。
父はチェロをやり、私はバイオリンを習いました。
家業は継ぐとの思いは有りました。
野球は好きだったが剣道部に入りましたが、或る写真家の対談で3人共剣道部だったという事がありました。
間合いとかは剣道と写真は似ている様なところもあると思います。
先ずは一般大学に入ろうと思っていたが、合格しなくて予備校にもいかずにマージャンに明けくれました。
日本大学芸術学部写真学科に入学、田舎の出ではあるが、ファッション、音楽にも興味があり周りの東京の人は凄いと思ったがそうではなかった。
サークルで気にいった仲間と活動をしていた。
大学時代、酒は随分飲みました。
雑誌、広告の世界を知ろうと思って、大手のプロダクションに入ったが、自分のやりたい世界と違うところがあり、3カ月で辞めることになる。
実家に帰り写真館を手伝いながらお金をためて、友人がニューヨークに居たので、ニューヨークに行って何か新しいことが出来るのではないかと思っていったが、友人がボストンに1週間でいってしまって一人になってしまった。
写真を取ることが自分が自分でいられる唯一の手立てだと思った。
段々友達が増え始めていった。

何もない状態から自分と写真との関係が生まれた。
日本に帰ってきて、伊島薫さんが斬新な写真を撮っていて、そこに応募して、20~30倍の倍率だったが、採っていただいた。
伊島薫さんのアシスタントをしたことは非常な貴重な経験だったと思います。
2年間一緒にやらせてもらいました。
撮影以外のものも、いろいろ教えてもらいました。
20代後半夢中で、そのころから実家に戻る事は忘れてしまいました。
震災で塩竈に帰るのですが、写真は凄く大切なものだと判り、自覚しました。
昔の写真と言うものは、記憶を取り戻す大事なきっかけになると思います。
太陽、水、土等、風土自体が植物を形成してゆくが、人間は移動するから判りにくいが、人間も一緒だと思って風土とDNAが一人の人間を形成するのではないかと思う、故郷は自分自身と思っていいのではないかと思っている。

2014年3月10日、地元で震災の話をラジオで聞いて突然パニックになり、パニックの症状が起きて、揺れた瞬間は東京にいたんですが、PTSD、震災の心的ダメージを受けている事をその時に自覚しました。
抱えながら生きてゆくということだと思います。
どれだけ写真館としての継続をして行けるかどうかということです。
自宅が伊達藩の下屋敷だ、塩竈から命を受けて東京で活動している意識があり、役割が終わったら塩釜に帰るのだろうと思っています。
2000年に塩釜の写真館を父が閉めて、今休館中で、そのうち塩竈の写真館も復活させたいと思っています。















2016年3月7日月曜日

2016年3月6日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第26回 占領期のラジオ放送

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・第26回 占領期のラジオ放送
NHKのラジオ放送ががらりと変わる。
軍事態勢の下で公報の役割を担わされていたが、占領期は解放されたが、アメリカの民主政策が国民に伝えるという役割を担わされる。
連合国総司令部からの干渉もある。
GHQの中にCIEという組織があり、民間情報教育局と訳されるが、教育、宗教、文化活動、そういうものに対して担当するセクションで、日本人のものの考え方、軍事から切り離された考え方を育てていこうと言うのがこの部局の役割だった。
ラジオもその役割を担わせられた。
自由度はかつては0%だったのが、70%程度が自由だったのではないか。

「真相はこうだ」 
昭和20年12月9日から開始、戦争の真相を知らないと言う事で、アメリカ側から見た真相を伝える。
台本はCIEの将校が作った、子供の質問に大人が答える形式。
大本営の放送発表を否定する。
10回で終了して、そのあと「真相箱」、「質問箱」、「インフォーメーション箱」が引き継ぐ。
戦争で人間関係がばらばらになり、消息が判らない事が多くて、元の人の関係に戻したいと言う事で、情報番組 「復員便り」、「訪ね人」、「引揚者の時間」等が放送される。
昭和21年7月1日から放送される。

教養番組のジャンル
 「私たちの言葉」 、「名演奏家の時間」、「街頭録音」、「放送討論会」などがある。
一般の人たちも放送に参加し始める。
昭和22年4月22日放送 「街頭録音」の中で青少年の不良化をどう防ぐかという事でガード下の娘達を紹介している。
一般の人たちの生きざまを紹介している。
ラジオ番組が学校で劇になったり、取り入れられたりしていた。
娯楽番組
「のど自慢」、「素人演芸会」、「話の泉」、「日曜娯楽版」、「二十の扉」等。
「話の泉」で突然和田信賢アナウンサーの死が告げられ、出演者のサトウハチローの自作の詩を披露する。
和田信賢の追悼番組
「和田信賢に捧ぐ」
「星がある。 風がある。 草がある。 臭いがある。 石がある。 塀がある。 屋根がある。
枝がある。  僕の投げた下駄がある。 
東を見ればかすかにかすかに明けてくる夜明けがある。 
けれど和田はない。 和田信賢はない。 ない  もういない。」 (101行の長い詩)
自身では涙で読めず、サトウハチローの詩を徳川夢声が代読する。
芸能番組 
朝の童謡、昼の歌謡曲、夜の浪曲迄ある。
「小鹿のバンビ」、「岸壁の母」、「清水次郎長 石松三十石船道中」を放送。

検閲
英訳してチェックを受けた。
「学校便り」の少女の作文にも検閲が入っていた。
傷痍軍人を慰問する所にもチェックが入っていたという。

ラジオドラマ
鐘の鳴る丘、三太物語、新諸国物語等。
新諸国物語は子供向け時代劇で、の白鳥党とのされこうべ党の時代を超えた戦いを描くシリーズドラマである。
笛吹童子」と「紅孔雀」の人気は特に高い。


















2016年3月5日土曜日

2016年3月4日金曜日

和合亮一(詩人)         ・震災5年 痛み、怒りの先に

和合亮一(詩人)            ・震災5年 痛み、怒りの先に
47歳福島県の県立高校の国語教諭で詩人としては中原中也賞など、数々の賞を受賞されています。
5年前の大震災の時に、和合さんは夜福島市の自宅からインターネットのツイッターで詩を発信し続けました。
これほど福島の地名が恐怖に響くとは、鹿の泣き声、地震と津波に加え、原子力発電所の事故による放射線の恐怖と闘いながら毎晩詩を作り、発信しました。
その詩は不安の中にいた多くの人々の共感を呼び、和合さんの詩を読む人の数は1か月の間に1万人にもなりました。
あれから5年、福島県では今も10万人近い住民が避難生活を余儀なくされています。
原発事故による風評に苦しめられながらも、懸命に生活を取り戻そうとしている人々、和合さんはそんな人々の生きた声を詩にしたいと活動を続けています。

5年があっという間だった様な気もするし、いろんな涙も流したし、いろいろな人との出会いつながりができたし、自分の人生がギュッと凝縮した5年間だったと感じています。
知人友人もたくさん亡くなりました。
15万人から10万人にしたまわりましたが、避難を続けているという現実、本当に普通ではないです。
福島だけでなく日本人に問いかけるものを持っていて、今も問い続けていると思います。
私の詩は自分の想い浮かんだ心のイメージを言葉にしてゆく事をずーっとやってきました。
震災を経験してからは寄り伝わり易い言葉を探すようになりました。
言葉にも芯があるんだなと気付くようになって今の福島を伝えるのには、響く言葉が一杯あって、うつむきつぶやく言葉にお互い涙したり、福島の皆さんの言葉を記録したいと、ずーっと続けています。
インタビューを通じて、語りたいんだなあ、聞いてもらいたいんだなあということが判りました。
避難先から3月16日に自宅に戻ってから携帯電話で詩を発信し続けました。
妻と息子が山形に避難して、一人になり孤独の本質を知った、放射線のニュースがどんどん入ってきて、グーンと揺れた時に何かを書こうと思った。
停電には成らなかったのでパソコン、携帯電話で詩を作りました。

「放射能が降っています。 静かな夜です。」 3月16日の詩
「詩の礫(つぶて)」と呼んで書きはじめて5年になります。つぶては瓦礫の礫
その一行で自分の様々なタブーが壊れていった瞬間でした。
「貴方にとって故郷とはどのようなものですか。 私は故郷を捨てません。 
故郷は私の全てです。」
全国に講演に行くようになった時に、ツイッターで読んですごくショックだったと何人もの人からいわれました。
原発事故で、家が壊れていないのに故郷を追われてしまうもどかしい思いをしている中で、故郷と言う言葉自体が重みのあるものに変わってきました。
避難をしている人たちが孤独を感じている。
いろんな道を選んだことは認め合わないといけないと思う、福島から離れて暮らしている方々とつながろうと言う動きがでてくるべきだと思います。

以前は4~5人だったフォロアーが3月16日には一晩で600人になり1カ月後には1万人にもなりました。
今、2万6000人を越えています。
キチンと読んで感想をいただきます。
自分の思った反応とは違うことがあります。(良いと思ったら不評だったり、駄目と思ったのがいいと受け入れられたりしました)
震災直後の方が、厳しい批判がありました。
読んで辛くなることを書かないでくれとか他人の不幸を売り物にしているとか、原発が無くて日本がやっていけるのかとか、いろいろバッシングがありました。
今、バッシングが無くて、反対に溝を感じます。
震災に対してのマスコミの注目度が無くなってきて、完全に復興に向かっているんだと言う風に思ってしまう、こういうことが5年の間に変わった事として有る様に思います。

風化と風評、我々の中に棘が残っていて、明るく前に向かって行こうという動きが起きていて、くるしみ哀しみを抱えている人が減る、もう一方で明るさを見つけて自分たちで積極的に動き出している人達がある、この事を知ってほしい、見てほしい。
「昨日ヨリモ優シクナリタイ」の詩集の中から
「ささやき」 
「風が吹いてきてあなたの事を探しています。  
心の風向きを変えたくてはるかかなたの街から吹いてくる。 
風が吹いてきてあなたの事を見つけています。 
本当の心を知りたくてはるかかなたの丘から吹いてくる。  
風が吹いてきてあなたの事を知っています。 
孤独を少しでも判りたくてはるかかなたの空から語りかけてくる。  
風が吹いてきたあなたの事を探しています。  
本当の風では無いのです。 はるかかなたの雲へのささやき」
心は風の様なものを持っていて、ちょっとした人との出会い言葉等で風向きは変わる。
風向きを変えて、違う見方をするという事をもっといろんな場面で作りだしていきたいと思っています。

子供達の詩を読む機会があり、子供達の言葉に泣かされることが多い。
「ありがとう」 震災から1年目の気仙沼の仮設住宅で暮らす5年生が始めて書いた詩
「焼そば作ってくれてありがとう  扇風機送ってくれてありがとう  参考書ありがとう ・・・・
(ありがとうがずーっと続いて最後に)おじいちゃん見つけてくれてありがとう」
お婆ちゃんが仮設住宅で毎晩毎晩女川の事を思い出して泣くので小学校1年生の孫が励まそうと書いた。(多分ひらがな)
「お婆ちゃん 元気だして いつか必ず魔法の津波が又やってきて 女川が元の街にもどるから」
海とか津波を言わない様にしていた雰囲気があったが、魔法の津波という言葉でお婆ちゃんを励ました。
5年間暮らしてきて何を吐き出したかったのか、吐き出すことによって、又新しいものがインプットされる、入り込んでくる、空っぽにならなければ踏み出せないことってあるんだと思います。
様々な声がわたし自身で会って聞くと思うので、言葉に出会って人に出会って、町と出会ってその中でいろんなものが自分の中に灯りを投げかけてくれる、扉を開いてくれる、その瞬間を言葉にして行きたい。

「5年」 昨日ヨリモ優シクナリタイ」という詩集より
「はるか遠くの浜辺の津波で残った、たった一本の松が私やあなたの庭に街に通りに立っている。
私もあなたもあの波にさらされた木の影に立たされている。  
朝の太陽にしがみつき、真昼の時報にしがみつき、夜の食卓にしがみつき、生きている」












2016年3月3日木曜日

高舘千枝子(唐丹希望基金代表) ・世界へ広がれ 鎮魂の歌

高舘千枝子(唐丹希望基金代表) ・世界へ広がれ 鎮魂の歌
1950年昭和25年生まれ、 高校教師を退職した5年後、2011年3月11日東日本大震災発生。
教え子の出身地岩手県釜石市唐丹町の漁村地帯の壊滅的な被害を知り、居てもたってもいられず、大震災発生の翌月4月に子供達の教育支援募金、唐丹希望基金を立ち上げました。
しかし時がたつにつれて募金も少なくなり、希望基金が危機を迎えました。
大きな不安を抱え、体調不良だった 高舘さんを立ち直らせた一つが大震災の霊を慰めようと出来た鎮魂の歌でした。
歌が大好きで合唱団員でもあった高舘さんは鎮魂の歌一万人普及活動に力を入れます。
この歌は海外にも伝わり歌の広がりと共に、支援者も増え募金も寄せられ、共に希望基金も持ちこたえて5年になりました。
多くの人に歌ってもらいたいと言う鎮魂の歌への想い、悪戦苦闘の5年間の唐丹希望基金の運営などについて伺います。

当日は日光に旅行に行っていたので経験をしていなかったが、次の日に家についた。
大槌町の親戚の安否を確認できたのが1週間後だった。
海の方に向かってゆく下り坂には瓦礫が流れていて、川が盛り上がるほどの瓦礫に吃驚しました。
どうしたらいいか迷いが出来、何かしたいと言う気持ちがわいてきて、教師なので学校も流されていて、義務教育も出来なくなってしまうのではないかと、支援する方法は何かないかと考えて、高校の3年を担当した時の生徒の事を思い起こして、唐丹町の子供達の応援をしようと思いました。
企画書を作って 地元の新聞社、TV局にも応援してもらおうと思って、記事をかいてもらうことになりました。
鎮魂の歌 わたし自身を救ってくれた歌でした。
2012年9月に岩手日報に写真付きで載っていて、読んだら津波で犠牲になって亡くなった人達にささげる歌と書いてあったので直ぐ電話して聞きました。
歌詞が、歌えなくて涙流しながら聞かずにはいられかった。
唐丹希望基金も2年目で募金がグーッと少なくなってきて、支援がなにも出来ない、誤った行動を取ったのではないかとも思いました。
募金でお金を届けるけるできない分、この歌をみんなに歌ってもらって元気を届けようと思いまいた。

部外者がそのような活動をしていいのか判らなかったので、聞いてみたら、商売以外でしたら使ってくださいといわれて、全ての国々から支援金、多くの人なども来て助けてもっらっていたので、動きました。
作詩 千葉隆男  作曲 太田代政男
「東日本大震災犠牲者にささげる」
「あーあー 山揺れて、海騒ぐ時 別れの言葉も交わさずに
 いそぎゆきたる親よ友よ 手繰る思いにかなしみよせる
心鎮めて 手を合わせみひかりの国やすらぎたまえ」
千葉隆男さんは先生になり初任地唐丹町で6年間教職を務める。
京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体があり、堀 泰雄 さんは唐丹希望基金に関する新聞を見て募金してくださっていた方で、エスペラントで世界に大震災の情報を世界に広めていると言いう事で、宮澤賢治の「イハトーブ」(宮沢賢治による造語で、賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉)はエスペラントという事だけは判っていて、堀さんは宮澤賢治と同じ活動をしている方だと判りました。
堀さんに楽譜をわたすことになりました。
日本エスペラントの大会があり、そこに牧野三男さんがおり、堀さんがその方に楽譜を渡しました、素晴らしい曲だと言う事で、この曲を世界に広げようとしている者がいるので協力してくださいと言う事で京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体があり活動されたりして、いろんな形で世界にひろがりました。

ブログ「日カタイムス」を見る機会があり、東日本大震災チャリティーコンサートをするというものがあり、それに応募しました。
牧野さんから通知を貰った方が京都の大正琴アンサンブルコスモスという団体の代表の方と親しくて、団体の代表の方が楽譜を大正琴用の音符に直して仲間と一緒に歌い出しました。
カナダ、フランス、デンマークなど鎮魂の歌を歌って下さいました。
募金活動は2年目は1/4に減ってしまっていて、下手に喜ばせる様な軽い行動だったと反省の日々でした。
小さな輪から始まり段々広まって、カナダのクライストチャーチ大聖堂でプロの音楽家たちのチャリティーコンサートとして演奏もされています。
或る方から葉書がきて2020年まで募金して行きますとの嬉しい内容もいただきました。
子供は自分の子供であると同時に、社会を作ってゆく大人を作ってゆく私たち全体の宝物だと思います。
その力になりたい、社会の為に働ける人間になってはじめて人間と言えると言う事を学びまして、それを終わっても社会につながっていく一人、自分の想いを行動する、それこそが本当の善であり、人間として守らなければならないと、漠然と思ってきたので、今こそそれを行動すべきだと思いました。

募金活動は最初1年の予定だったが、1年経っても被災した方の生活は何も変わらない、復興も遅々として進まない状況で、募金も続けようと言う事になり、堀さんからの協力も得て、2020年まで募金をしようと募金用の想いをつたえる冊子を作ったりして徐々に広がりました。
思いの深さによって出会う人が決まり、出会った人とまた自然につながって自分の人生が豊かになってゆくと言う事があまり意識したことは無くて、自分の心が望んだ方と話をしてきました。
被災地では最初はこの歌を歌えないと言う思いはありました。
この歌詞は子供達には避難した時の自分たちの様子を思い出させる歌詞なので歌わせることは酷だと言う事で、学校としてはしたくないとはっきり言われました。
歌が学校にも届く様に運動はぜひ進めてくださいとは校長先生から言われました。



















2016年3月2日水曜日

浅見洋子(詩人)         ・詩で伝える空襲孤児の思い

浅見洋子(詩人)            ・詩で伝える空襲孤児の思い
昭和24年東京生まれ 詩人としての創作活動のほか、東京大空襲、水俣病、学校死亡事故裁判の支援にかかわってきました。
又市民参加の平和行動、女の平和行動にも取り組んでいます。
1945年3月10日の東京大空襲では浅見さんの両親と5人の兄弟が被災しました。
炎の中を逃げて命だけは助かりましたが、その時の体験がトラウマになった長男は戦後人生を大きく狂わせました。
浅見さんの生活はアルコール依存症に依る入退院、家庭内暴力をくりかえす兄との二人三脚だったと言います。
浅見さんは2011年に詩集「独りぼっちの人生(「せいかつ)、東京大空襲で心を壊された子達」を出版しました。
東京大空襲訴訟の裁判で陳述書作成に際し、同席を求められたことがきっかけになったそうです。
空襲孤児が背負った人生の厳しい実態を伝えなければという、気持から原告5人の孤児の体験談を詩にして、大空襲に遭遇した亡き兄についてもしるしています。

女の平和、学校安全全国ネットワークの事務局長をしています。
水俣病の支援、東京大空襲訴訟は終わりましたが、まだ援護法などを求めているのでその支援をしています。
主人が弁護士でその事務所に長く勤めていて、カウンセラーなどもやっています。
次女は福島に疎開していましたので、思いは違っていたようです。
長男は戦後、東京大空襲の傷を負って、色々なことがありました。
兄がポツリポツリ漏らした言葉や、母から聞いた話からこういった詩が生まれたかと思います。
兄は戦後はヒロポン中毒やアルコール依存症になりました。
私は18歳の時に青酸カリを飲んで自殺を図りましたが、動機は兄弟があまりにも批判的に見ている。
今までの日記を全部焼却して、私の死を考えてよと言う抗議ですが、死にそこなってしまいました。
いちばんかばってくれたのは兄でした。
父の財産の相続争いをしていて、兄は私の命を落とそうとした行為に対して、無言で全部兄弟のいいなりになって、相続和解という形にまでふんぎってくれました。(内容が理解できず?)
家庭内暴力、何度も窓ガラスを割ったり、お金がないと米にガソリンを撒いてしまったりして、それを家族は食べていました。
46歳で兄が亡くなるが、私に対しては心を開いてくれました。

第一詩集「歩道橋」 1984年
「朝」
「11月の朝 青い冷気が肌を刺す。 東王子2丁目の歩道橋  おおい洋子死んじゃ駄目だ 死んじゃ駄目だよ。 大きい兄さんがいきなり私を抱きかかえた。 
酒の臭い ぷーんと死臭が鼻をつく。 何言ってるのよ、どうしてまたやったの。
キッと睨む私の目、俺は馬鹿になっちゃったのかなあ。 
俺頭に毒が来たのかなあ。 のたりくたりやっとの思いで歩く大きい兄さん。
王子警察から大きい兄さんを貰い受け、二人で歩いた東王子2丁目の歩道橋。
上着の襟を立てて のたりくたりやっとの思いで歩く大きい兄さんの後ろ姿。
息を引き取る2週間前の朝 東王子2丁目の歩道橋」

兄が亡くなって、ホッとした気持ちと同時に、物ごころついてきてから兄と二人三脚の人生だったように思うので、次に自分がどうしていいのか判らなかった。
日記は付けていました、感情的なものを書き留める、それが大学生になった時に、学校の雑誌に提供したりしました。
4人で「あゆみ」?という同人雑誌を作りました。
白鳥省吾さんの授業で影響を受けました。
先生から添削を受けることが出来ました。
「山の泉は落葉に埋もれることはない」と先生から詩集を貰ったものに書いていただきました。
早船ちよ先生 「詩を書くから詩人ではない。 詩人とは生き方よ」 その言葉が私の生き方を凄く方向付けていると思います。
詩集「交差点」

2011年に詩集「独りぼっちの人生(せいかつ)、東京大空襲で心を壊された子達」を出版。
主人が東京大空襲訴訟の弁護団の一人になり、石川智恵子さんの陳述書を書くのに、きついので一緒に立ち会ってほしいと言う事で、智恵子さんの言えなかった言葉を私が感じとってしまった。
心を揺さぶられました。
「子守」
「やせ細りお腹が膨らんだ小学校3年生の智恵子 見かねた近所の人が子守の世話をしてくれた。
智恵子の背に伝わる命のぬくもり、命の鼓動。 彼女の中に宿った情。 乳飲み子への慈しみ。
目刺しとみそ汁 子守先で家で初めて家族と同じ食事をした彼女は、喜びと安どの中生きねばならないことを受け入れた」
智恵子さんは戦争孤児
3月10日の空襲で彼女は救われたが父親母親と兄を亡くす。
「結婚」
「34歳になった智恵子に縁談話が来た。 2歳になった男の子を残し、妻に先立たれた人との縁談話だった。 黄色くくすんだ顔 手足の垢はかさぶたになっていた。
彼女はこの児に幼い日の自分を重ね見た。   私の命をこの児にあげよう。
と、この子を慈しみ育てようと、母の道を迷うことなく選んだ石川智恵子。
34歳の人生の決断」

いろんな孤児の方に会いました。
本当に今、引きずっている、日本国民として私は人生を終えたいと言う100歳の杉山千佐子さんの言葉も心に響きますが、ほんとうに戦後は来ていません。
東京大空襲に関しては実態が知られていないことに気づきました。


「子犬のシロ」
「幸一が3年生になった学校帰りの或る雨の日。 傘を持たない彼は強い雨に打たれ
びしょぬれになりうなだれ歩いていた。  きゅんきゅんと鳴く子犬のか細い声。
幸一は立ち止りあたりを見まわした、  すすけ壊れたレンガ塀の隅にうずくまり雨にうちふるえる白い子犬がそこにいた。 彼は濡れた子犬をそっと抱上げ懐に入れた。
幸一は家族に内緒で子犬を飼うことにした。  焼けたトタンと段ボールで作った犬小屋。
彼は脱脂粉乳を空き缶に入れ子犬に飲ませた。  学校給食のパンを少し残して持ち帰っていた。
幸一は子犬をシロと名付けた。  彼はシロと無二の親友になった。 
学校帰り毎日シロと戯れた。
彼はシロと笑った。 シロと話をしていた。 彼はシロから生きる喜びを貰っていた。」
その後、「壊れた心」があって3人のねじり鉢巻きの大人が来て、生活保護を受けている者が犬を飼うなんぞと言って、犬を連れて行ってしまう。
「なす術もなくこぶしを握り涙をこらえ 男たちの後ろ姿を見続けたこういち 
あの日彼の中に怒りが涌いた。  あのとき彼の中の心が壊れた。」
 
奪われた魂 3歳の由美子より
「声」
「北陸本線に最後の汽車が通る時 線路わきに呆然と立つ彼女を月明かりが包み込んでいた。
次の瞬間 彼女の体が駄目生きて生きるのよ 耳元で叫ばれた烈しい声。
我に帰った由美子に寒さと震えが襲った。 彼女はもつれる足で走った。
わななく口、あふれる涙で家を目指し夢中で走った。
だが不思議に心は冷めていた。 あの声は母さんの声? 由美子の心に母の存在が意識された。
母への愛慕を心深くに宿しながら、その後の長い年月を耐え忍んだ。
結婚し二児の母となった彼女が、母を探そうと思いたった時、54歳の由美子の髪にはすでに白いものが混じっていた。」
吉田由美子さんはなかなか自殺をしようとした話はでてきませんでした。
叔母の家で夜中神経使って下痢をしては怒られるという、自分の感情を抑えられてきて、大人になっても続きました。
この話をするのにも60歳を過ぎて、自分の人生を少し振り返られるようになってから思い出すことだったんだなあと思いました。
表現する事に怯えがあったと思います。
吉田さんは語り部として大きな存在になっています。

戦争体験を持たない私に出来ること、それは戦後を持たない智恵子?さんの人生をつたえることなのだと思いたった。
原爆、空襲のひどさ、みじめさ、戦争反対という声も観念的に思えないとのもどかしさもあります。
学校安全全国ネートワーク 
裁判するまでの心のケアが出来れば幸いですが、裁判の傍聴をとおして心の交流を心掛けています。
「もぎ取られた青春」に結実している。
20年前、仙台高裁で和解が成立。
仙台、会津高校の柔道部の夏季合宿で熱中症で亡くなった青年。
勝つ事に力点が置かれていて「根性主義」で頑張れ、しごきのようにスポーツが行われていた。
何故学校に行って子供が命を奪われて、その原因を知ることが出来ないのかと言う事で主人の元を訪ねてきて以来裁判の傍聴をしながら心の交流をさせてもらっています。
成田直行君 柔道部の部長だった。
烈しい運動をしても水を飲んではいけないと言う事で熱中症になってしまった。

プールで排水溝に飲み込まれて命を失った林田君。
もがく姿をお母さんは見ていたそうです。
私が行く事で一緒に栽判にきたという心の傷の深さは例えようがありません。
中学校1年生 子供達の悪ふざけが原因で一人の少年の命が奪われている。
倒れて失神して小水がでているのに、先生も生徒も危機意識が持てなかったのは怖いことだと思いました。
人権問題につながると思います。
事故を通して判ることはそういう意識を持っている先生が少ないのかなあという疑問です。
事故はまれで、先生方は他はみんなちゃんとしている、この先生は特別だから逆に押し隠そうとしているのかなあと学校管理者の意識をそんなふうに感じるようになっています。
成田直行君の裁判に行った時に、いろんな方が関心を持ってきてくれますが、金額のことしか言いませんでした。
やむなく、怒りがこの詩になりました。
熱中症が本当に防げないものなのかどうか、報道関係者の方に関心を持ってほしいという気持ちが詩になってそれが雑誌になって、すこしずつ報道関係者の意識が変わってきたのかなあと感じました。

学校安全全国ネットワーク、水俣病、東京大空襲、子供の人権、しっかりと守らなくてはいけない。
女性の働き方も大事だと思うと、やっぱり女の平和もここに通じているのかなと思います。
ドイツは戦争に行って負傷してきた人たちが子供たちが悲惨な生活に驚いて、先ず子供達を守ろうと言う事で、一つの行動を立ち上げた。
戦争を風化させないと言う事で、白薔薇のチェーンの様なことをしていて、日本でももっと日常生活の中で戦争を忘れない意識が出来たらいいなと思っていました。
ドイツの戦争孤児に対する対応は、悲しさに負けていない、大事に育てられてきた、人間として誇りを奪われなかったということだと思います。

「復興と平和を」
「66年前の恐怖におびえながらも、一歩を踏み出した戦争孤児たち、 いま理想が現実となる奇蹟を 平和実現への祈りを持って、東日本の震災と自分の被災体験を重ね 66年の人生と向き合い、被災者の方々を案じている。 人が人として誇りを持って生きていけるよう 人が人への思いやりを失わぬよう 人が生きるのに本当に必要なもの、大切な事を見極め真にあるべき復興を
平和な生活の存続を願い祈っている」
 











2016年3月1日火曜日

桑原史成(報道写真家)       ・写真に何ができるか?

桑原史成(報道写真家)       ・写真に何ができるか?
島根県出身79歳、中学生のころから写真を撮り始め、東京農業大学に通うかたわら写真家を目指して東京総合写真専門学校に学びました。
大学卒業後はフリーランスの報道写真家として水俣病や韓国の民主化運動、ベトナム戦争等の歴史的な出来事を撮りつづけてきました。
桑原さんが写真家としてデビューするきっかけになったのは、水俣病の患者の撮影です。
昭和35年まだ水俣病の原因が認められていなかったころから水俣を取材してきました。
患者や家族の姿だけではなく、漁や魚の行商の様子など、漁村の営みを撮ったその写真は水俣病の丹念な記録と評価され、平成26年に第33回土門拳賞を受賞しました。
今年は水俣病の公式認定から60年にあたります。
半世紀以上水俣を取材してきた桑原さんに伺います。

テーマがなかなか見当たらなかったが、夜行列車で友人から貰った週刊朝日に水俣の事が書いてあり、それで行こうと思いました。
その記事との出会いがなければ、写真家としてデビューすることはなかったのではないかと思います、奇蹟的な運命の出会いだったと思います。
山陰の津和野に笹ヶ谷鉱山があり、ヒ素の汚水で私は生まれ育ってきているので、鉱毒は小さいころから知っていました。
自分の田舎の原風景がそのテーマに投影するように反映しました。
すぐ週刊朝日のデスクにお会いしてサジェスションを貰って、2カ月後に水俣に入りました。
小松恒夫さんから2枚の名刺を頂いて、熊本大学の徳臣 晴比古助教授、そして院長大橋登さん。
院長から「写真で一体何が出来るか?」と質問を受けてたじろぎました。
実は写真家を希望していて、水俣病を撮ることで写真界の登竜門を展覧会をして、でたいと言う事を言い終えたとき、つい本音を言ってしまって、しまったと思ったが、院長が即座に「よかですたい」といった。
その面会が水俣病取材の最大の山場でした。

数年後院長にお会いして、あのとき何を言ったか覚えているかと言われて、覚えていませんと言ったが、「桑原さん貴方は正直だった」と言われて、先生あのとき理屈を言ったらどうされましたかと言ったら、断ったと言いました。
あの時例外的に認められました。
現場の患者さんにカメラをむけたら、ストレートに取るのは生々しい、それでは後日写真を観る人に抵抗感があると感じて、表現力が豊かでないが、徐々に努力して写真を見る読者のみなさんに共感を持っていただけるような構図で撮りたいと思いました。
患者の方が成人式で晴れ着を着せてもらっている写真、小さい女の子の輝く様な瞳だけアップにしたりした、写真。
病人であるけれども明るい表情の雰囲気を撮りたいと努力した。
笑みの中にこそ苦悩が隠れているのではないかと、写真家としては考えました。
一方で、桑原が撮った写真は水俣事件の情報量を薄めているという批判がある。
資料としての強さにおいて弱いという評価もあることは事実です。
人に共感を与える、関心を持ってもらうそういった事への手助けになる表現の方がいいのではないかと思います。

病室で横たわっている妹さんのベッドに姉さんが一緒に宿題をしている姿、等家族と一緒に撮る。
水俣だけは家族がそろって同じ症状の病気にかかるという、食生活から来る病気なので、家族ごとに撮ることが水俣を撮ることが大きなポイントだと思って、家族10家族撮りまして、継続して撮りたいと思いました。
それぞれ10家族の印象が残っています。
上村智子さんの成人式の日の家族の集合写真、智子さんがその12月に亡くなる。
彼女は「宝子」と言われて、母親の中に溜まっていた水銀が最初に生まれた子に全部吐き出し、以後の子供は健在だと聞いています。
お母さん自身も本来重症であるはずが、いくらか軽症の形になり、出産はそういう悲劇があるんだなと思いました。

水俣をどう撮るかは難しい。
人は誰でも老いてゆくが、最近段々引いて撮る様になりました。
引いて撮ることで患者さんの周辺の状況を旨く入れながら、全体で表現したいと、今努力しています。
3年ぐらいで終息したいと思っていましたが、ちょくちょく水俣にはいきました。
外国に行き帰って来るとついぶらっと水俣に行きました、不思議な関係です。
水俣の歴史は1世紀を持って生き証人は消えてゆくと思いますが、あと40年生きられないが、5年間は水俣を追いたいなあと思っています。
陰に陽に目に見えない複雑な出来事があると思います。

1964年の韓国 国交正常化の1年前に行きました。
学生デモの写真、日韓国交正常化反対の写真。
連続シャッターはやりません。
「またぎ」 撃ち損じたら駄目で、写真も同様だと思って参考にしてやっている。
幼少の時の体験が作らせている様な気がする。
ニュース映画などを毎週観に行っていましたが、国際情勢の動きを見ました。
それが一つのきっかけで、社会主義運動が村を二分する運動が3年間ありそれを見て、ソビエト、東西が分かれている状況を見て、以後の企画力の上で時代を見る目で役に立っていると思います。
ジャーナリストの職業にとっては傍観する目は重要で、真実みたいなものが読めるときもある。
最近は福島、等の震災のテーマはさらに追いかけて撮りたいと思っています。
福島は水俣と関わっている、保障の問題。
風景の記録は弱い、人間の表情の記録は風景に勝るつ強さがある様に思います。
風景はまた撮るチャンスはあるが、人間の表情はそれはできない。
人間の魅力は被写体としては一級だと思います。
晩年になって写真とは何かとはという事が読めるようになって、写真とは時代の歴史の事実関係の記録、証言だなあという事を実感するようになった。
ドキュメント写真は後世に残る歴史的資料であり記録なんだと強く手ごたえをえて、後世に残ってゆく記録ではないかと思います。
ベトナム戦争にいったが、これは大変な記録なんだと認識しました。
事実の記録をやって来たので、職業上醍醐味を得ました。