山本聡美(早稲田大学教授) ・【私のアート交遊録】疫病と日本美術
人間はどのように疫病と向き合い乗り越えてきたのかを、「病と死」というテーマで、中世の日本美術を研究されています。
ヨーロッパでは14世紀半ばに起こったペストの大流行が人間の生死、存在を深く掘り下げる文学、美術を生み出し、さらにはルネサンスの時代を切り開いたという風にとらえる事ができます。 同じように日本でも歴史の中で繰り返された疫病の流行が様々な文化創造の原動力であったという側面があります。
疫病と闘うという思想ではなく、目に見えない恐ろしいものと折り合いをつけ共生するという考え方が見えてきます。
祇園祭は平安時代に疫病対策として始まったものですが、疫病をもたらす神々をにぎやかにもてなし楽しませながら、最後には都の外に送り出すという形で祭りは進んでいきます。
8世紀半ばの天然痘、734年11月に遣唐使が帰国、12月には新羅からの使者が来日し大宰府に逗留した。 天平7年と9年に全国で天然痘が流行、都市では人口の3割が没したという試算もあります。
続日本記には筑紫の国(福岡県)から疫病が始まって夏を経て秋に全国に流行したとされています。 大宰府、海外からもたらされた疫病という認識がありました。
835年の疫病に関して鬼の神様がもたらしたものだと書かれてきます。 対処法としては有力な経典(大般若経)を典読しましょうという事で当時の朝廷は対応してゆくわけです。
恐ろしい鬼神たちをなだめてゆく、収めてゆくそういう発想があったのではないでしょうか。
人間の恐れ、祈り、悲しみ、喜びそういったものを古代、中世の日本ではどういう造形として、どのような絵画、彫刻としてあらわされたのか考えてみたいと思ました。
法隆寺の金堂の本尊、釈迦三尊像は推古31年(623年)に完成した日本の仏教美術の出発点ともいうべき仏像です。
聖徳太子の病気平癒を願って企画された仏像と言われます。 621年に聖徳太子の母が亡くなり、翌年正月上宮法王(聖徳太子)と妃の一人の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が病に倒れたと光背に記されている。 太子と等身大の仏像政策を発願しますが、2月21日に膳部菩岐々美、22日に聖徳太子が亡くなります。 623年3月に釈迦三尊像を完成させました。
祈りの範囲が聖徳太子の冥福から始まって、一族の幸せ、世の人々の安寧を願うという風に祈りの範囲が広がって行く。 困難な疫病に対処すべく人々の祈りが身近なところから世界全体へと広がっていって生み出された造形と考えられるわけです。
平安時代末期12世紀後半に制作された壁画絵、その中に疫病をもたらす鬼を退治する天刑星という良い神様を描いたものがあります。 天刑星が牛頭天王(ごずてんのう)に代表される疫病の鬼たちをお酢に付けて食べてしまうという内容です。 全体としてはコミカルです。 鬼もおかしみのあるように描かれている。
鬼が登場してくるのは平安時代に地獄絵に多数あります。
天刑星が鬼を食らう姿はゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」に似たような悲しみのあるようなところがあります。
天刑星の星が出現すると、水害、干ばつ、内乱が起こるとされる怪しい星の神様です。 邪神としても恐れられていましたが、大きな力が使いようによっては人間を守ってくれるという事で平安時代にはよい神様に転じてゆきます。
鎌倉時代になると疫病をもたらす鬼の捉え方がもう少し単純化されます。 13世紀後半に制作された六道絵のうち生老病死の苦しみを主題とする図があります。 鬼が小槌を振り下ろして人間の命を取ろうとしている姿が描かれています。 多面性を持っていた鬼が徐々に恐ろしいものへと意味が収れんしてゆくという側面があると思います。
融通念仏縁起絵巻、平安時代後期の天台僧で融通念仏宗の開祖である良忍の活動と念仏による救済を主題とする絵巻です。 京都清凉寺に伝来している豪華な上下二巻本です。
13世紀半ばに全国規模で起こった疫病が取り上げられています。 念仏を行う名主の夢に鬼の姿をした疫病が見たりが現れ、ここは念仏道場だからお前たちは入るべきではないと伝えると、鬼たちは素直に退散していったという話になっています。
疫病とは距離を取りつつ、人間社会の秩序の中に取り込んでいって、最終的にはおとなしくしていただくというようにというような発想になっています。
平安時代末期、疫病の流行、自然災害、内乱と打ち続く社会不安の中で平清盛が一門を率いて写経をして、厳島神社に収めた平家納経があります。 鮮やかな絵具や金銀箔が惜しみなく用いられています。 鮮やかな美しさに目が奪われます。 なぜここまで美しく豪華なのか。 仏教には作善(良い行いを蓄積してゆくこと)という考え方があります。
写経をする、仏像を作る、仏画を描く、寺院を建立する、法会を行う、などが善い行いとして、主催した人物が仏の世界に連なって行く事ができるという考えです。
平清盛は美麗な法華経の写経という究極の作善を通じて、世を収めようとしたと思います。
古代中世の日本の社会不安というのが、一方では後世に残るような優れた美術を生み出す力を世の中に与えていたという風に考えてみたいのです。
今回の全世界が同時に渦中に飲み込まれた規模の疫病の流行を、これからの美術がどう咀嚼して表現に結び付けていくのか、プロセスを注意深くとらえていきたいと考えています。
アマビエ、早い段階からイラストなどがSNS上で広がりましたが、もともとは幕末に熊本の海上に出現して疫病の流行を予言したという正体不明の妖怪を報じた瓦版に登場する姿です。 今さまざまにアレンジして広まっています。
疫病、自然災害、戦乱などこれらの脅威や不安はこの地球上から完全に撲滅されることはないのかもしれません。 人間は常に恐れと共に生きていかなくてはならないというのが、私たちの存在の大前提にあるような気がします。
古代、中世美術、特に宗教美術をみて来ると人知の及ばないことに対しての恐れの大切さを強く感じます。
私の推薦する一点は、
若山牧水 「白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ」
私の原点はこの歌にあるのかもしれません。 人生とは光と影の同居する時間空間の中で推移してゆくものだと少し理解するようになりました。