天野安喜子(鍵屋15代目花火師) ・夜空と畳に華咲かせ(初回:2017/7/25)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/07/15.htmlをご覧ください。
2020年7月31日金曜日
2020年7月30日木曜日
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も(初回:2019/2/26)
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も(初回:2019/2/26)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/02/blog-post_26.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/02/blog-post_26.htmlをご覧ください。
2020年7月29日水曜日
谷亀高広(植物研究家) ・【心に花を咲かせて】根も葉もない植物に魅せられて
谷亀高広(植物研究家) ・【心に花を咲かせて】根も葉もない植物に魅せられて
よく見かける植物はもちろん根っこも葉っぱもとても大事で太陽の光で光合成して生きていますが、根っこや葉っぱがなくても生きている植物があるそうでそれがとても魅了的なんだそうです。
どんな植物なんでしょうか、どうやって養分を得て生きているんでしょうか、どこででも見ることができるものなのでしょうか、そもそもなぜそんな植物が生まれたのかとても不思議です。
谷亀さんはなぜそうした植物に惹かれて研究しているのでしょうか。
植物には根も葉もなくても生きられる植物がいるんです。
①ほかの植物に寄生して生きている植物。
②植物に寄生していないで生きている植物で、腐生植物。
カビやきのこの仲間から養分を貰って生きている。
ギンリョウソウ、オニノヤガラ、シャクジョウソウなどもあります。
世界中に900種類あるといわれています。
緑色ではなくて、とんでもない色をしていたりとんでもない形をしていたりするものがあってそこが魅力的です。
衝撃を受けたのが狸の燭台という植物です。
色は真っ白でガラス細工のような半透明で、花の上の部分が壺のように蓋になっていてその上に毛のようなものが生えています。
壺のような形をしているのですが不思議な格好をしています。
10年ちょっと前ですが、落ち葉を一枚一枚めくってやっと見つけた植物です。
世界中に45,6種類あります。
オーストラリアのタスマニア、ニュージーランドとかに生えているキスミヤオージー?
という種類で英名でフェアリーランタン(妖精のランタン)?という名前がありますが、それは真っ赤です。
1cmぐらいの壺の形をしています。
地面を這うようにして落ち葉の下を探さないと見つからないです。
あらゆる色があります。
たまたま見つかると名前がついてない植物だということが判ることが多いです。
まとまった図鑑はないです。
茎のような組織は地下にあり,菌から養分を奪っています。
光合成の必要がないので緑という色が必要でなくて、瑠璃錫杖というものは瑠璃色です。
日本だと屋久島から沖縄本島まで生えていて、9,10月になると花を咲かせる植物です。
細い茎の先端に小さな花を咲かせます。
群生する時もあります。
2007年に名前はついたばかりの植物でヤクノヒナホシという屋久島で見つかった植物で色はブルー、直径は3mmの花が咲くのでなかなか見つからない。
拡大すると複雑な形をしています、小さな金平糖のような形です。
一時だけ姿を現して一週間ぐらいしかない。
1974年に中国の広東省で一回だけ採取された腐生植物があり、以来発見されていない植物があります。
形は火星人のタコのような形になっています。
色はしろっぽい感じです。
身近ではギンリョウソウは普通に見ることができ、ユウレイソウとも呼ばれます。
高さは大きなもので10cmぐらい。
樹木と共生している菌から養分を得ています。
ベニタケの仲間から養分をもらっているので、クヌギ、コナラの雑木林、アカマツ林などでギンリョウソウは見られます。
オニノヤガラも身近で見られます。
形はアスパラガスを想像して色は赤茶色、高さは1mぐらいで、うえに粒々の花が固まってつく、矢柄のように真っすぐ地面から立ち上がります。
ヒメノヤガラもあり高さは5cmぐらいです。
オニノヤガラは薬として昔から珍重されていて、今でも漢方薬として使われています。
湿っていて腐った木があるところに生えます。
タシロランは巨大なもやしのような形をしていて色は白くて、花は蘭のような形の花を咲かせます、30cmぐらいの高さです。
神社などに生えています。
2008年に私が名付けたものがあり、丹沢で見つけたでタンザワサカネランという名前を付けましたが、サカネランの一種です。
乳白色で特徴は花が咲かないんです。
同じ種類が福島県でも見つかりました。
腐生植物を研究している人は全国で数人しかいません。
育てるのは非常に難しいですが、私はタシロランを世界で初めて栽培化するのに成功しました。
専用の菌を餌にするために、まず専用の菌を育てなくてはいけない。
雑菌もあるため雑菌を取り除かないといけない。
分離した菌をおがくずで育てる必要がある。
菌を食べさせるのにも大変です。
菌がランを分解してやるろうと襲い掛かるわけですが、ランが対立して食べてしまうということがお互いの関係性です。
10種類ぐらい育てていて、開花を成功させたものもあるし、途中まで育てできなかったこともあります。
腐生植物の魅力は形の奇妙さ、色の美しさが面白いし、栽培が非常に難しいということも魅力としてあり、菌を食べているという生活自体が不思議だなあと思ってそれが魅力です。
よく見かける植物はもちろん根っこも葉っぱもとても大事で太陽の光で光合成して生きていますが、根っこや葉っぱがなくても生きている植物があるそうでそれがとても魅了的なんだそうです。
どんな植物なんでしょうか、どうやって養分を得て生きているんでしょうか、どこででも見ることができるものなのでしょうか、そもそもなぜそんな植物が生まれたのかとても不思議です。
谷亀さんはなぜそうした植物に惹かれて研究しているのでしょうか。
植物には根も葉もなくても生きられる植物がいるんです。
①ほかの植物に寄生して生きている植物。
②植物に寄生していないで生きている植物で、腐生植物。
カビやきのこの仲間から養分を貰って生きている。
ギンリョウソウ、オニノヤガラ、シャクジョウソウなどもあります。
世界中に900種類あるといわれています。
緑色ではなくて、とんでもない色をしていたりとんでもない形をしていたりするものがあってそこが魅力的です。
衝撃を受けたのが狸の燭台という植物です。
色は真っ白でガラス細工のような半透明で、花の上の部分が壺のように蓋になっていてその上に毛のようなものが生えています。
壺のような形をしているのですが不思議な格好をしています。
10年ちょっと前ですが、落ち葉を一枚一枚めくってやっと見つけた植物です。
世界中に45,6種類あります。
オーストラリアのタスマニア、ニュージーランドとかに生えているキスミヤオージー?
という種類で英名でフェアリーランタン(妖精のランタン)?という名前がありますが、それは真っ赤です。
1cmぐらいの壺の形をしています。
地面を這うようにして落ち葉の下を探さないと見つからないです。
あらゆる色があります。
たまたま見つかると名前がついてない植物だということが判ることが多いです。
まとまった図鑑はないです。
茎のような組織は地下にあり,菌から養分を奪っています。
光合成の必要がないので緑という色が必要でなくて、瑠璃錫杖というものは瑠璃色です。
日本だと屋久島から沖縄本島まで生えていて、9,10月になると花を咲かせる植物です。
細い茎の先端に小さな花を咲かせます。
群生する時もあります。
2007年に名前はついたばかりの植物でヤクノヒナホシという屋久島で見つかった植物で色はブルー、直径は3mmの花が咲くのでなかなか見つからない。
拡大すると複雑な形をしています、小さな金平糖のような形です。
一時だけ姿を現して一週間ぐらいしかない。
1974年に中国の広東省で一回だけ採取された腐生植物があり、以来発見されていない植物があります。
形は火星人のタコのような形になっています。
色はしろっぽい感じです。
身近ではギンリョウソウは普通に見ることができ、ユウレイソウとも呼ばれます。
高さは大きなもので10cmぐらい。
樹木と共生している菌から養分を得ています。
ベニタケの仲間から養分をもらっているので、クヌギ、コナラの雑木林、アカマツ林などでギンリョウソウは見られます。
オニノヤガラも身近で見られます。
形はアスパラガスを想像して色は赤茶色、高さは1mぐらいで、うえに粒々の花が固まってつく、矢柄のように真っすぐ地面から立ち上がります。
ヒメノヤガラもあり高さは5cmぐらいです。
オニノヤガラは薬として昔から珍重されていて、今でも漢方薬として使われています。
湿っていて腐った木があるところに生えます。
タシロランは巨大なもやしのような形をしていて色は白くて、花は蘭のような形の花を咲かせます、30cmぐらいの高さです。
神社などに生えています。
2008年に私が名付けたものがあり、丹沢で見つけたでタンザワサカネランという名前を付けましたが、サカネランの一種です。
乳白色で特徴は花が咲かないんです。
同じ種類が福島県でも見つかりました。
腐生植物を研究している人は全国で数人しかいません。
育てるのは非常に難しいですが、私はタシロランを世界で初めて栽培化するのに成功しました。
専用の菌を餌にするために、まず専用の菌を育てなくてはいけない。
雑菌もあるため雑菌を取り除かないといけない。
分離した菌をおがくずで育てる必要がある。
菌を食べさせるのにも大変です。
菌がランを分解してやるろうと襲い掛かるわけですが、ランが対立して食べてしまうということがお互いの関係性です。
10種類ぐらい育てていて、開花を成功させたものもあるし、途中まで育てできなかったこともあります。
腐生植物の魅力は形の奇妙さ、色の美しさが面白いし、栽培が非常に難しいということも魅力としてあり、菌を食べているという生活自体が不思議だなあと思ってそれが魅力です。
2020年7月28日火曜日
清水一道(室蘭工業大学教授) ・鉄の街で人づくり
清水一道(室蘭工業大学教授) ・鉄の街で人づくり
大分県出身59歳、生まれ年に地元で建設が始まった製鉄所の高炉を見上げながら育ちました。
北海道大学を卒業後製鉄会社に入社しますが、わずか2年で教育の道に進みます。
2004年から教壇に立つ室蘭工業大学ではものつくり基盤センター長としてジンギスカン鍋の商品化や廃船を解体し再利用するシップリサイクル、スケルトン用国産そりの開発など産学連携の様々なプロジェクトを学生とともに進めています。
鉄の町で目指しているんはどんなことなのでしょうか。
技術系の大学なので社会に出る前に、鉄の加工、溶接などを体験したりできるような実技を伴ったものを勉強して工学系の会社に入るというようにということで、ものつくりのセンターとしてのものつくり基盤センターがあります。
鋳造、鍛造、溶接、切削が全部できる装置がいろいろあります。
室蘭は鉄の町で1900年頃に福田諭吉先生の弟子の井上角五郎さんが日本製鋼所を立ち上げました。
私は鋳造をやっているので、鉄の商品と言ったら北海道といえば鉄ならばジンギスカン鍋だろうということで、お土産に試しに作り好評でした。(北海道の形をしている)
飾ってほしいと思いました。
鉄は1350度になると溶けるのでいろんな形に変えることができます。
溶けた鉄はあまり見ることがないので学生の皆さん感動します。
小さいころからぜんまいを使った動く車とかを作るのが好きでした。
大分は小さいころ大分製鉄所ができるときだったので、大きな会社で鉄を作りたいという夢が小さいころからありました。
大学で研究室を選ぶときには設計に行けずに、じゃんけんで負けて鉄の加工の処に行って会社も 日本製鉄に入って高炉の設計を2年間過ごして教育の道に進みました。
高校は大分工業高校専門学校に進み5年過ごしました。
その後北海道大学に編入しました。
教育の道に進みたいと思ったが、教えるということはできないと思って就職は民間を選びました。
その後地元母校から要請がありました。
博士号を持っていなかったので、研究をして博士号を取ろうと思いました。
実験しながら論文を書いて家庭のことがあるとほとんど時間が取れないし、野球部の顧問をしたりしていたので全然勉強する時間がなかったです。
博士号を取得するまでに12年半かかりました。
大分の学校で仕事をしながら北海道大学の大学院で学位を取ったのが40歳過ぎてからです。
博士号の審査の時には長女が小学校1年生で下の娘が生まれたばっかりでいろんな経験をしました。
あの頃は大変でしたが、今はいい思い出です。
妻とは大学時代からの知り合いで、うまくいかないときには支えてくれました。
博士号を取得してその後室蘭大学に勤務することになりました。
あきらめた瞬間が終わりで、あきらめずにやっていればもしかしたらチャンスが来るから、チャンスを逃さないようにいつも準備をすることが大事なことだと思います。
いつもうまくいくとは限らない、その時になぜうまくいかなかったのかと言うことを楽しんでもらいたい。
論文がうまく書けないとか、実験がうまくいかないとか、いろいろ苦労がありました。
最初会社に入ったころは何でもできると思って天狗になっていました。
自信をもって出した書類も駄目だといわれてしまいました。
高炉などの鉄の設計の仕事をしていましたが、どこが悪いのかわかりませんでした。
いい風が吹くときと悪い風が吹くときがあるので、落ち込まないであきらめないで次の風を待つということが大事だと思います。
シップリサイクル、いま日本は世界の3割ぐらい作っていますが、船は30年ぐらい持つがその後解体して元の鉄にリサイクルしてゆくということがありますが、日本ではバングラデシュとかインドとかでの解体が粗悪な環境でやっています。
室蘭でリサイクルできればいいということでプロジェクトをやりました。
冬のオリンピックのそり競技の中のスケルトンの日本製のそりの開発を今やっています。
日本人の体に合わせて早く滑れるように手製のものができればいいということで北海道のボブスレー連盟から依頼があり、作ってみたらいきなりある選手がジュニア選手権で5位になったことかあり、今続けてやっています。
始めて2年になります。
遠征でカナダに行ってデータを取ったりしました。
そりを滑るのにどうしたらスピードが上がるのか、圧力をかけると水になって滑るが、水をうまく吐き出さないとスピードは上がらない。
いろいろ工夫をしないといいそりにはならない。
一番問題なのは氷の温度なんです。
ワックスの選定が難しい。
開催地が強いというのはそういうメリットがあります。
日本が技術立国だといわれると嬉しいですよね。
ものつくり教室をいろんなところに出かけています。
理工系に進む学生が大分減ってきていて、小中学生のうちに体験することが大事で、わかりやすく皆さんにお伝えして、達成感を味わって貰いたいということで1500~1700人ぐらい出前授業をしています。
6,7年前札幌の高校に出前授業に行っていろんなことをやりましたが、その子が今うちの研究室に来てくれて、やっていてよかったなあと思います。
教育は10年、20年たたないと結果がわからないですね。
鉄のように強くしなやかな人作りをしたいと思います。
命という字は人に一度は叩かれると書きます、叩かれたときに生きている実感とこれでもっと頑張ってやっていきたいという風になって、初めて生きているという実感があると思うので、全部うまくいく訳ではないので一つ一つ積み重ねて大きな仕事をやってゆくという喜びを皆さんに知っていただけると嬉しいと思います。
日本鋳造学会の会長になりましたが、新しい風を吹かせたい、技術立国を取り戻したいというのが私の今の気持ちです。
大分県出身59歳、生まれ年に地元で建設が始まった製鉄所の高炉を見上げながら育ちました。
北海道大学を卒業後製鉄会社に入社しますが、わずか2年で教育の道に進みます。
2004年から教壇に立つ室蘭工業大学ではものつくり基盤センター長としてジンギスカン鍋の商品化や廃船を解体し再利用するシップリサイクル、スケルトン用国産そりの開発など産学連携の様々なプロジェクトを学生とともに進めています。
鉄の町で目指しているんはどんなことなのでしょうか。
技術系の大学なので社会に出る前に、鉄の加工、溶接などを体験したりできるような実技を伴ったものを勉強して工学系の会社に入るというようにということで、ものつくりのセンターとしてのものつくり基盤センターがあります。
鋳造、鍛造、溶接、切削が全部できる装置がいろいろあります。
室蘭は鉄の町で1900年頃に福田諭吉先生の弟子の井上角五郎さんが日本製鋼所を立ち上げました。
私は鋳造をやっているので、鉄の商品と言ったら北海道といえば鉄ならばジンギスカン鍋だろうということで、お土産に試しに作り好評でした。(北海道の形をしている)
飾ってほしいと思いました。
鉄は1350度になると溶けるのでいろんな形に変えることができます。
溶けた鉄はあまり見ることがないので学生の皆さん感動します。
小さいころからぜんまいを使った動く車とかを作るのが好きでした。
大分は小さいころ大分製鉄所ができるときだったので、大きな会社で鉄を作りたいという夢が小さいころからありました。
大学で研究室を選ぶときには設計に行けずに、じゃんけんで負けて鉄の加工の処に行って会社も 日本製鉄に入って高炉の設計を2年間過ごして教育の道に進みました。
高校は大分工業高校専門学校に進み5年過ごしました。
その後北海道大学に編入しました。
教育の道に進みたいと思ったが、教えるということはできないと思って就職は民間を選びました。
その後地元母校から要請がありました。
博士号を持っていなかったので、研究をして博士号を取ろうと思いました。
実験しながら論文を書いて家庭のことがあるとほとんど時間が取れないし、野球部の顧問をしたりしていたので全然勉強する時間がなかったです。
博士号を取得するまでに12年半かかりました。
大分の学校で仕事をしながら北海道大学の大学院で学位を取ったのが40歳過ぎてからです。
博士号の審査の時には長女が小学校1年生で下の娘が生まれたばっかりでいろんな経験をしました。
あの頃は大変でしたが、今はいい思い出です。
妻とは大学時代からの知り合いで、うまくいかないときには支えてくれました。
博士号を取得してその後室蘭大学に勤務することになりました。
あきらめた瞬間が終わりで、あきらめずにやっていればもしかしたらチャンスが来るから、チャンスを逃さないようにいつも準備をすることが大事なことだと思います。
いつもうまくいくとは限らない、その時になぜうまくいかなかったのかと言うことを楽しんでもらいたい。
論文がうまく書けないとか、実験がうまくいかないとか、いろいろ苦労がありました。
最初会社に入ったころは何でもできると思って天狗になっていました。
自信をもって出した書類も駄目だといわれてしまいました。
高炉などの鉄の設計の仕事をしていましたが、どこが悪いのかわかりませんでした。
いい風が吹くときと悪い風が吹くときがあるので、落ち込まないであきらめないで次の風を待つということが大事だと思います。
シップリサイクル、いま日本は世界の3割ぐらい作っていますが、船は30年ぐらい持つがその後解体して元の鉄にリサイクルしてゆくということがありますが、日本ではバングラデシュとかインドとかでの解体が粗悪な環境でやっています。
室蘭でリサイクルできればいいということでプロジェクトをやりました。
冬のオリンピックのそり競技の中のスケルトンの日本製のそりの開発を今やっています。
日本人の体に合わせて早く滑れるように手製のものができればいいということで北海道のボブスレー連盟から依頼があり、作ってみたらいきなりある選手がジュニア選手権で5位になったことかあり、今続けてやっています。
始めて2年になります。
遠征でカナダに行ってデータを取ったりしました。
そりを滑るのにどうしたらスピードが上がるのか、圧力をかけると水になって滑るが、水をうまく吐き出さないとスピードは上がらない。
いろいろ工夫をしないといいそりにはならない。
一番問題なのは氷の温度なんです。
ワックスの選定が難しい。
開催地が強いというのはそういうメリットがあります。
日本が技術立国だといわれると嬉しいですよね。
ものつくり教室をいろんなところに出かけています。
理工系に進む学生が大分減ってきていて、小中学生のうちに体験することが大事で、わかりやすく皆さんにお伝えして、達成感を味わって貰いたいということで1500~1700人ぐらい出前授業をしています。
6,7年前札幌の高校に出前授業に行っていろんなことをやりましたが、その子が今うちの研究室に来てくれて、やっていてよかったなあと思います。
教育は10年、20年たたないと結果がわからないですね。
鉄のように強くしなやかな人作りをしたいと思います。
命という字は人に一度は叩かれると書きます、叩かれたときに生きている実感とこれでもっと頑張ってやっていきたいという風になって、初めて生きているという実感があると思うので、全部うまくいく訳ではないので一つ一つ積み重ねて大きな仕事をやってゆくという喜びを皆さんに知っていただけると嬉しいと思います。
日本鋳造学会の会長になりましたが、新しい風を吹かせたい、技術立国を取り戻したいというのが私の今の気持ちです。
2020年7月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25)
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。
2020年7月26日日曜日
高橋陽一(漫画家) ・「"キャプテン翼"の集大成を表現したい」
高橋陽一(漫画家) ・「"キャプテン翼"の集大成を表現したい」
コロナ禍の影響で普段とは違ってスタッフとはいつもと違う作業になってしまって苦労しました。
サッカーの試合も中止になってしまって、テンションを上げるのが大変でした。
キャプテン翼が40周年を迎えました。
「キャプテン翼マガジン」というキャプテン翼だけを連載する雑誌が新しくできました。
元々は「少年ジャンプ」でキャプテン翼が始まったんですが、「ヤングジャンプ」に連載が変わってきて、去年キャプテン翼のアニメーションが4回目のアニメ化をしてもらって現在の子供たちにも届けることができたので、できれば全世代の人達に届けられないかと思ってこの雑誌を作れないかと相談して、今実現したので大変うれしく思っています。
4月に創刊されて隔月で発行されています。
僕一人なので穴をあけられないという責任感がありますが、キャプテン翼という作品一つの雑誌ということができている現実がすごくうれしくて頑張らなければと思って作っています。
締め切りを守るということは連載と同じ感じです。
創刊されたなかでは架空のマドリードオリンピックのなかで翼たちは戦っていて、決勝トーナメントの初戦で宿敵ドイツと闘っているところです。
小学校低学年ぐらいまではプロ野球選手に憧れていました。
絵を描くこと自体は小さいころから好きで、雨の日とかには部屋の中で、「巨人の星」とか読んでいたので、そういったものの真似をして書いていました。
中学は野球部がなかったので卓球部で、高校は野球部でした。
子供のころは漫画とか絵を描く仕事に就きたいとは漠然と思っていました。
中学受験が終わったあとに漫画を一本つくって漫画賞に応募したこともありました。
大学受験しようと思っていましたが、家が裕福ではなかったので公立しか駄目だといわれて、不安ではあったが漫画に挑戦しようと思って、受験勉強は3年生に上がる時には辞めて漫画を描いて原稿をもって出版社に行こうと決断しました。
出版社にはそのまま本に乗るようなレベルではないですと直接に言われました。
一から漫画をやっていきましょうということになりました。
西部劇とSFの作品を持っていきましたが、話している中でスポーツ、野球とサッカーの漫画2本を持って行ったりしていました。(高校3年の夏あたり)
アルゼンチンのワールドカップがあって、NHKで何試合か放送してそれを見たときにめちゃくちゃ面白いと思いました。
いろいろ調べていくうちに、すごく興味を持ちました。
野球と比べてサッカーの自由さにおもしろさを感じました。
サッカーのほうが単純に決着が付くようなイメージがありました。
高校が終わるころに初めて書いたサッカー漫画の「友情のイレブン」という作品が「少年ジャンプ」の月例賞の漫画賞で佳作になり初めて賞金もいただいたりして、サッカーと野球の漫画を交互に出していました。
まだサッカー漫画は少ない時代なので、「キャプテン翼」を連載に向けて作業し始めました、
それまでの1年間は作っては没になり作っては没になり、ぎりぎり1年後に連載にこぎつけました。
主人公を子どもにして夢を追いかけて頑張ると設定したのがよかったのかもしれません。
最初は翼太郎で大空翼になりました。
夢を追いかける少年ということで大空翼にしました。
連載が始まった当時は絵もうまくなかったし、ほかの作品と比較しても見劣りするなあと思っていました。
4本目の原稿で一からやり直そうと思ってオーバーヘッドキックを取り入れて、いい人気が取れたので10週以上続くことになりました。
オーバーヘッドキックを取り入れていなかったら、10週の連載で終了していたと思います。
スカイラブハリケーンという二人で組んで高い位置からヘッディングシュートを決めるというのはプロレスの合体技からヒントを得ました。
三角飛び、ゴールポストを蹴ってゴールの端から端までディフェンスをするというのは、空手にそういったような技があり応用した感じです。
7年半ぐらい「キャプテン翼」を書いていたので自分の中の欲求としてはほかのスポーツ漫画も描きたいと思って、テニス、野球、ボクシングを書いていて楽しかったんですが、人気もなくて打ち切りになってしまいました。
でもそれを手がけたので、又サッカーに戻れて日本でもサッカーが強くなってきて、プロリーグも始まる時期だったので、日本のサッカーを応援したくなり、サッカーに取り組みました。
ライバルだった人たちとチームメイトになって世界を相手に戦ってゆくが打ち切りになってしまってショックでした。
キャラクターがまだ自分の中にあり、リベンジしなければいけないと思っていました。
他の雑誌でもやってやろうと思いがあり「ヤングジャンプ」で連載することができました。
「キャプテン翼」をみて プロになった人がいるということ自体が、少しは自分の漫画が役に立ったのかなあという思いです。
今はオリンピック編のことを書いていてそれ以降のことはまだ考えていません。
「キャプテン翼マガジン」で僕の作品だけでできている雑誌が刊行されているので、その雑誌が成功することが大事でこれからの展望はあまり考えていなくて、このオリンピック編をどう皆さんに喜びとか感動を与えらえるかという思いで、目の前のことをちゃんとやらなければという思いが強いです。
私が作ったキャラクターではあるんですが、キャラクターたちが読者の皆さんに訴えかけているような気がしています。
キャラクターたちに書かされている感じが今はしています。
コロナ禍の影響で普段とは違ってスタッフとはいつもと違う作業になってしまって苦労しました。
サッカーの試合も中止になってしまって、テンションを上げるのが大変でした。
キャプテン翼が40周年を迎えました。
「キャプテン翼マガジン」というキャプテン翼だけを連載する雑誌が新しくできました。
元々は「少年ジャンプ」でキャプテン翼が始まったんですが、「ヤングジャンプ」に連載が変わってきて、去年キャプテン翼のアニメーションが4回目のアニメ化をしてもらって現在の子供たちにも届けることができたので、できれば全世代の人達に届けられないかと思ってこの雑誌を作れないかと相談して、今実現したので大変うれしく思っています。
4月に創刊されて隔月で発行されています。
僕一人なので穴をあけられないという責任感がありますが、キャプテン翼という作品一つの雑誌ということができている現実がすごくうれしくて頑張らなければと思って作っています。
締め切りを守るということは連載と同じ感じです。
創刊されたなかでは架空のマドリードオリンピックのなかで翼たちは戦っていて、決勝トーナメントの初戦で宿敵ドイツと闘っているところです。
小学校低学年ぐらいまではプロ野球選手に憧れていました。
絵を描くこと自体は小さいころから好きで、雨の日とかには部屋の中で、「巨人の星」とか読んでいたので、そういったものの真似をして書いていました。
中学は野球部がなかったので卓球部で、高校は野球部でした。
子供のころは漫画とか絵を描く仕事に就きたいとは漠然と思っていました。
中学受験が終わったあとに漫画を一本つくって漫画賞に応募したこともありました。
大学受験しようと思っていましたが、家が裕福ではなかったので公立しか駄目だといわれて、不安ではあったが漫画に挑戦しようと思って、受験勉強は3年生に上がる時には辞めて漫画を描いて原稿をもって出版社に行こうと決断しました。
出版社にはそのまま本に乗るようなレベルではないですと直接に言われました。
一から漫画をやっていきましょうということになりました。
西部劇とSFの作品を持っていきましたが、話している中でスポーツ、野球とサッカーの漫画2本を持って行ったりしていました。(高校3年の夏あたり)
アルゼンチンのワールドカップがあって、NHKで何試合か放送してそれを見たときにめちゃくちゃ面白いと思いました。
いろいろ調べていくうちに、すごく興味を持ちました。
野球と比べてサッカーの自由さにおもしろさを感じました。
サッカーのほうが単純に決着が付くようなイメージがありました。
高校が終わるころに初めて書いたサッカー漫画の「友情のイレブン」という作品が「少年ジャンプ」の月例賞の漫画賞で佳作になり初めて賞金もいただいたりして、サッカーと野球の漫画を交互に出していました。
まだサッカー漫画は少ない時代なので、「キャプテン翼」を連載に向けて作業し始めました、
それまでの1年間は作っては没になり作っては没になり、ぎりぎり1年後に連載にこぎつけました。
主人公を子どもにして夢を追いかけて頑張ると設定したのがよかったのかもしれません。
最初は翼太郎で大空翼になりました。
夢を追いかける少年ということで大空翼にしました。
連載が始まった当時は絵もうまくなかったし、ほかの作品と比較しても見劣りするなあと思っていました。
4本目の原稿で一からやり直そうと思ってオーバーヘッドキックを取り入れて、いい人気が取れたので10週以上続くことになりました。
オーバーヘッドキックを取り入れていなかったら、10週の連載で終了していたと思います。
スカイラブハリケーンという二人で組んで高い位置からヘッディングシュートを決めるというのはプロレスの合体技からヒントを得ました。
三角飛び、ゴールポストを蹴ってゴールの端から端までディフェンスをするというのは、空手にそういったような技があり応用した感じです。
7年半ぐらい「キャプテン翼」を書いていたので自分の中の欲求としてはほかのスポーツ漫画も描きたいと思って、テニス、野球、ボクシングを書いていて楽しかったんですが、人気もなくて打ち切りになってしまいました。
でもそれを手がけたので、又サッカーに戻れて日本でもサッカーが強くなってきて、プロリーグも始まる時期だったので、日本のサッカーを応援したくなり、サッカーに取り組みました。
ライバルだった人たちとチームメイトになって世界を相手に戦ってゆくが打ち切りになってしまってショックでした。
キャラクターがまだ自分の中にあり、リベンジしなければいけないと思っていました。
他の雑誌でもやってやろうと思いがあり「ヤングジャンプ」で連載することができました。
「キャプテン翼」をみて プロになった人がいるということ自体が、少しは自分の漫画が役に立ったのかなあという思いです。
今はオリンピック編のことを書いていてそれ以降のことはまだ考えていません。
「キャプテン翼マガジン」で僕の作品だけでできている雑誌が刊行されているので、その雑誌が成功することが大事でこれからの展望はあまり考えていなくて、このオリンピック編をどう皆さんに喜びとか感動を与えらえるかという思いで、目の前のことをちゃんとやらなければという思いが強いです。
私が作ったキャラクターではあるんですが、キャラクターたちが読者の皆さんに訴えかけているような気がしています。
キャラクターたちに書かされている感じが今はしています。
2020年7月25日土曜日
太田和彦(居酒屋探訪家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
太田和彦(居酒屋探訪家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
太田さんは50冊は優に超えるという著作、そして全国の名酒、居酒屋を訪ねるTVの番組も長く担当していまして、現在の居酒屋ブームのけん引役のおひとりです。
本業はグラフィックデザイナーです。
大学卒業後1968年に銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社、1989年の独立後はグラフィックデザイナーとして活躍される傍ら、居酒屋や名酒について執筆活動を行ってました。。
その味わいや良さを見きわめる際に、今でも会社の新人時代に叩き込まれたある精神に立ち返るといいます。
それを支え続けてきた強靭な意志はどこから生まれ、人生手帳につづられた厳しい時代をどのように乗り越えたのでしょうか。
居酒屋は人生にとってどのような存在なのか、居酒屋さんでの楽しみ方など伺いました。
74歳になりました。
生まれは中国の北京です。
昭和21年3月3日に北京の日本人収容所で生まれました。
その18日後に引き上げ船に乗るために天津に行きました。
この子は持たないだろうといわれて、船のうえで死ぬと水葬なので父は私を包む日章旗を用意したらしい。
長崎の佐世保の南風崎に入港して、日本の土を抱かれて上陸しました。
父は教師をしていました。
教師は転勤がありいろいろなところに行きました。
自意識が芽生える頃(小学校5年から中学1年ごろ)居た、馬籠が一番思い出深いです。
新聞を作るのが好きで、村で見たこと、新聞からの引用で新聞を作って父親に見せて、それを父が読んでくれたりしました。
小学6年で新聞部に入って日刊紙を発行していました。
書くことは気になりませんでした。
絵を描くことも好きでした。
祖父までは松本で4代続いた松本箪笥の金工職人でした。
叔父も画家でした。
ものを作る血筋はあるのかもしれません。
父は外では飲みませんでしたが、家に若い先生を呼んで飲んではいました。
愉快そうにやっていていいものだと思っていました。
大学卒業後銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社しました。
そのころ銀座には居酒屋はなかったです、今でも少ないですが。
奥の奥に居酒屋をみつけ、そこで会社の仲間と飲むようになりました。
一番面白いのは、本当はこうだと仕事に真相を知ること、飲んで仕事の話に熱中することがこんなに面白いものだという様なことを知りました。
居酒屋は江戸のころからあり、そもそもの始まりは酒屋で桝で立って飲ませるところから始まり、塩から始まりそのうちに煮物をちょっとつけたりして、それが居酒屋の始まりだと聞きました。
座って飲ませるようになってきて、明治以降は本格的に料理も出すようになりました。
化粧品会社なので、美というもので訴えてゆくためには、大衆の喜ぶものを出したら足元を見られる、大衆の人たちから高めに見えるものものを見せないといけない、それがあこがれという一番いい共感になっていくんだということを叩き込まれて、志が高かったです。
僕に生き方の基本になっているかもしれない。
若い時には身につくものだと思います。
自分を律する基準を持つことは大切ではないかと思います。
バブルのころグルメブームがあったが、一回2万円のフランス料理を食べたということが自慢になっていた。
こっちはお金がないから、反発して本当においしいものは居酒屋にあるんだという、仮のテーゼをたてて、居酒屋研究会を立ち上げて始めたが、それは当たっていた。
高いものは美味しいのが当たりまえで、高いものを使わず、それを自分の手でどれだけ美味しいものが作れるか、これが料理じゃないかと思いました。
職人気質が一番の根本かと思います。
今は一人で飲みに来る客が増えてきました。
女性客も増えてきて、それも楽しいです。
リタイヤされた中高年のご夫婦で来るのも多くなりました。
居酒屋は今はとてもいいですよ。
居酒屋で根本的に変わらないものはなぜかに気付いてきました。
じっくりいる、それは心を満足させるためにいるわけです。
世間を見るのに居酒屋ほどいいものは無い。
人、土地、歴史、文化が居酒屋ほど集約しているところはない。
古く続いている居酒屋に行くと、その街の人柄、歴史、産物すべてがみられる。
一人で飲んでいるわけだから、自分を見つめているということにつきますね。
最終的に自分自身を肯定させる力を持っているのが居酒屋だと思います。
若い時に一人酒は駄目で、議論して、喧嘩して、謝って、そうう言ったことはとっても大事だと思います。
60歳を過ぎたら、自分を見つめて、いろいろあったんだけれど、これでよかったんだと導いてくれるそれが居酒屋の神髄だと思います。
自分が一番悩んで不安だったのは大学生の時ですね。
目指した美大に行けなくて、別の大学に行ったが駄目だということになり、悩んで4年を過ごして、何とか会社に行けたが、18~22,3歳までは本当に苦労しました。
東京という街が自分の勉強の場所でした。
60年代の新宿のアングラ文化は絶頂期でした、最前線のいろんな刺激を受けて自分で勉強していかないと駄目だと思いました。
一人で何でもやってきたということがとても大事です。
馴染みの店がいくつもあるので、行けるようになったら行こうというところがリストにしてあり20軒ぐらいあって、顔を出さないといけない、応援していきたいという使命感はあります。
太田さんは50冊は優に超えるという著作、そして全国の名酒、居酒屋を訪ねるTVの番組も長く担当していまして、現在の居酒屋ブームのけん引役のおひとりです。
本業はグラフィックデザイナーです。
大学卒業後1968年に銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社、1989年の独立後はグラフィックデザイナーとして活躍される傍ら、居酒屋や名酒について執筆活動を行ってました。。
その味わいや良さを見きわめる際に、今でも会社の新人時代に叩き込まれたある精神に立ち返るといいます。
それを支え続けてきた強靭な意志はどこから生まれ、人生手帳につづられた厳しい時代をどのように乗り越えたのでしょうか。
居酒屋は人生にとってどのような存在なのか、居酒屋さんでの楽しみ方など伺いました。
74歳になりました。
生まれは中国の北京です。
昭和21年3月3日に北京の日本人収容所で生まれました。
その18日後に引き上げ船に乗るために天津に行きました。
この子は持たないだろうといわれて、船のうえで死ぬと水葬なので父は私を包む日章旗を用意したらしい。
長崎の佐世保の南風崎に入港して、日本の土を抱かれて上陸しました。
父は教師をしていました。
教師は転勤がありいろいろなところに行きました。
自意識が芽生える頃(小学校5年から中学1年ごろ)居た、馬籠が一番思い出深いです。
新聞を作るのが好きで、村で見たこと、新聞からの引用で新聞を作って父親に見せて、それを父が読んでくれたりしました。
小学6年で新聞部に入って日刊紙を発行していました。
書くことは気になりませんでした。
絵を描くことも好きでした。
祖父までは松本で4代続いた松本箪笥の金工職人でした。
叔父も画家でした。
ものを作る血筋はあるのかもしれません。
父は外では飲みませんでしたが、家に若い先生を呼んで飲んではいました。
愉快そうにやっていていいものだと思っていました。
大学卒業後銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社しました。
そのころ銀座には居酒屋はなかったです、今でも少ないですが。
奥の奥に居酒屋をみつけ、そこで会社の仲間と飲むようになりました。
一番面白いのは、本当はこうだと仕事に真相を知ること、飲んで仕事の話に熱中することがこんなに面白いものだという様なことを知りました。
居酒屋は江戸のころからあり、そもそもの始まりは酒屋で桝で立って飲ませるところから始まり、塩から始まりそのうちに煮物をちょっとつけたりして、それが居酒屋の始まりだと聞きました。
座って飲ませるようになってきて、明治以降は本格的に料理も出すようになりました。
化粧品会社なので、美というもので訴えてゆくためには、大衆の喜ぶものを出したら足元を見られる、大衆の人たちから高めに見えるものものを見せないといけない、それがあこがれという一番いい共感になっていくんだということを叩き込まれて、志が高かったです。
僕に生き方の基本になっているかもしれない。
若い時には身につくものだと思います。
自分を律する基準を持つことは大切ではないかと思います。
バブルのころグルメブームがあったが、一回2万円のフランス料理を食べたということが自慢になっていた。
こっちはお金がないから、反発して本当においしいものは居酒屋にあるんだという、仮のテーゼをたてて、居酒屋研究会を立ち上げて始めたが、それは当たっていた。
高いものは美味しいのが当たりまえで、高いものを使わず、それを自分の手でどれだけ美味しいものが作れるか、これが料理じゃないかと思いました。
職人気質が一番の根本かと思います。
今は一人で飲みに来る客が増えてきました。
女性客も増えてきて、それも楽しいです。
リタイヤされた中高年のご夫婦で来るのも多くなりました。
居酒屋は今はとてもいいですよ。
居酒屋で根本的に変わらないものはなぜかに気付いてきました。
じっくりいる、それは心を満足させるためにいるわけです。
世間を見るのに居酒屋ほどいいものは無い。
人、土地、歴史、文化が居酒屋ほど集約しているところはない。
古く続いている居酒屋に行くと、その街の人柄、歴史、産物すべてがみられる。
一人で飲んでいるわけだから、自分を見つめているということにつきますね。
最終的に自分自身を肯定させる力を持っているのが居酒屋だと思います。
若い時に一人酒は駄目で、議論して、喧嘩して、謝って、そうう言ったことはとっても大事だと思います。
60歳を過ぎたら、自分を見つめて、いろいろあったんだけれど、これでよかったんだと導いてくれるそれが居酒屋の神髄だと思います。
自分が一番悩んで不安だったのは大学生の時ですね。
目指した美大に行けなくて、別の大学に行ったが駄目だということになり、悩んで4年を過ごして、何とか会社に行けたが、18~22,3歳までは本当に苦労しました。
東京という街が自分の勉強の場所でした。
60年代の新宿のアングラ文化は絶頂期でした、最前線のいろんな刺激を受けて自分で勉強していかないと駄目だと思いました。
一人で何でもやってきたということがとても大事です。
馴染みの店がいくつもあるので、行けるようになったら行こうというところがリストにしてあり20軒ぐらいあって、顔を出さないといけない、応援していきたいという使命感はあります。
2020年7月24日金曜日
宮崎駿(アニメーション映画監督) ・【スペシャル対談】宮崎駿×中川李枝子(初回:2018/12/1)
宮崎駿(アニメーション映画監督) ・【スペシャル対談】宮崎駿×中川李枝子(初回:2018/12/1)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post.htmlをご覧ください。
2020年7月23日木曜日
篠原ともえ(デザイナー・アーティスト) ・【私のアート交遊録】
篠原ともえ(デザイナー・アーティスト) ・【私のアート交遊録】
1990年代後半に個性的なファッションとキャラクターでシノラーブームを巻き起こした篠原さん、最近では衣装デザイナーとしても活躍、子供のころからモノクロのスケッチやデッサンを描いていたという篠原さんは2018年にははじめての原画展を開いています。
プライベートでは様々な芸術に触れるために美術館にも頻繁に足を運ぶといいます。
アート作品を見るときには楽しむ気持ちがある一方で自分ならこうするというジェラシーが湧き上がってくるとの事。
美術館は来るたびに進むべき道を教えてくれる大事な場所、そして芸能もデッサンの仕事も全てが自分の表現方法で将来デッサンと社会をつなげられるようなアーティストを目指すという篠原さんにアートにかける思いを伺いました。
コロナで自宅待機の時には大きいスケッチブックに鉛筆で細かい絵を描いていて、細かい絵からイメージを膨らませて衣装を作っていたりして、もっぱら創作の時間にあてています。
幼少時代に先生が学校のテストで早く終わったら裏に絵を描いていいよということで、私は絵が描きたくてテストが終わる前に絵を描いたりしていました、
着たい衣装なども描いていました。
中学になったら洋服を分解して洋服のパターンを描いて作ったりしました。
母は洋裁が好きで洋服を作っていたりしました。
生地屋さんに連れて行ってくれて選んだものをベットカバーにしてくれたりしました。
母親のデニムのパンツを切ってポーチを作っては母の日にあげたことがあり褒めて貰ったことがありました。
編み物は当時苦手で途中でやめたときにすごく怒られたこともありました。
芸能界デビューは16歳でしたが、歌って踊れるデザイナーになりたいと思っていました。
高校もデザイン学科がある学校でした。
東京都立八王子工業高等学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)・応用デザイン科でした。
その時にデビューしました。
学校の課題で描いた絵をそのまま服にしてTVに出たりしました。
両方をよく頑張ったと思います。
夢を叶えることは大変だけど泣いてもいいんだよと言ってくれた家族がいてくれたことは心強かったです。
アートを見るのが大好きでよく海外にも見に行ったりもしてきました。
美術館に行くことが、こういう人生を歩んだ人
がいるんだとか、観ることが旅に近いというかそういういう感覚があり、いい作品を観ると悔しいと思う時もあります。
私はどうしてこれができないんだろうとか、やらなくちゃいけないなんて本当に思いながら感情がゆすぶられます。
昨年モロッコに行ってイヴ・サン=ローランミュージアム、ファッションデザイナーのイヴ・サン=ローランの美術館がありますが、スケッチの絵が素敵でそれに感動してしまいました。
スケッチの絵が素敵で感動しました。
モンドリアンという人は絵をきちゃうような提案をしたりして、実際に観たらこういう構成でつくっているとか、素材はウールだったんだとか、そういったものも観ます。
ファッションデザイナーは絵を立体にする作業なんだなと思いました。
写真も好きで写真美術館が恵比寿にあって、主人と一緒に行ったりしています。
自分でもいつか作品展をやりたいなあという夢があり、7月に自分の絵を洋服に展開させた写真展を開催しました。
7月1日がデビューの25周年なので。
いろいろ大変ではありましたが。
私のおばあちゃんは着物のお針子さんでした。
東京都の青ヶ島で人口も200人に満たないようなところで、そこでおばあちゃんは着物を自分で作ってきて、作ったものをあげたりしていました。
作ったものを私がもらい受けて洗い張りしようと思って糸をほどいたときに丁寧に作ってあって、愛情がこもっていたのを感じました。
裏地にもとっても素敵な生地を使っていました。
ものつくりの手紙を時間を越えて受け取ったような感じがして凄く感動しました。
私はそこを目指しているのかもしれません。
作ることにいつも夢中になっているし、それを喜んでくれる人がいるので頑張っている姿を届けてゆくと、そういう職業を選んだことはよかったと思います。
好きなことを続けていきたいと思います。
これまではファッションだったりデザインだったりでしたが、これからはパッケージとか本格的なデザインの勉強もしていきたいと思っています。
昨年結婚した旦那さんがアートディレクターの仕事をしていて、パッケージとかやっているのを見てかっこいいなあと影響を受けているというのもあります。
勧めの一点となると難しいが、イヴ・サン=ローランですかね。
画集を買って暇さえあれば見ています。
天文、星も好きです。
気持ちを落ち着かせるときにふっと見るとまたたきが大丈夫だよ、頑張ってよと言っているような気がします。
星を見たときに一個一個小さな輝きだけれども、実は色があったり名前があったり個性があるということが素敵だと思います。
1990年代後半に個性的なファッションとキャラクターでシノラーブームを巻き起こした篠原さん、最近では衣装デザイナーとしても活躍、子供のころからモノクロのスケッチやデッサンを描いていたという篠原さんは2018年にははじめての原画展を開いています。
プライベートでは様々な芸術に触れるために美術館にも頻繁に足を運ぶといいます。
アート作品を見るときには楽しむ気持ちがある一方で自分ならこうするというジェラシーが湧き上がってくるとの事。
美術館は来るたびに進むべき道を教えてくれる大事な場所、そして芸能もデッサンの仕事も全てが自分の表現方法で将来デッサンと社会をつなげられるようなアーティストを目指すという篠原さんにアートにかける思いを伺いました。
コロナで自宅待機の時には大きいスケッチブックに鉛筆で細かい絵を描いていて、細かい絵からイメージを膨らませて衣装を作っていたりして、もっぱら創作の時間にあてています。
幼少時代に先生が学校のテストで早く終わったら裏に絵を描いていいよということで、私は絵が描きたくてテストが終わる前に絵を描いたりしていました、
着たい衣装なども描いていました。
中学になったら洋服を分解して洋服のパターンを描いて作ったりしました。
母は洋裁が好きで洋服を作っていたりしました。
生地屋さんに連れて行ってくれて選んだものをベットカバーにしてくれたりしました。
母親のデニムのパンツを切ってポーチを作っては母の日にあげたことがあり褒めて貰ったことがありました。
編み物は当時苦手で途中でやめたときにすごく怒られたこともありました。
芸能界デビューは16歳でしたが、歌って踊れるデザイナーになりたいと思っていました。
高校もデザイン学科がある学校でした。
東京都立八王子工業高等学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)・応用デザイン科でした。
その時にデビューしました。
学校の課題で描いた絵をそのまま服にしてTVに出たりしました。
両方をよく頑張ったと思います。
夢を叶えることは大変だけど泣いてもいいんだよと言ってくれた家族がいてくれたことは心強かったです。
アートを見るのが大好きでよく海外にも見に行ったりもしてきました。
美術館に行くことが、こういう人生を歩んだ人
がいるんだとか、観ることが旅に近いというかそういういう感覚があり、いい作品を観ると悔しいと思う時もあります。
私はどうしてこれができないんだろうとか、やらなくちゃいけないなんて本当に思いながら感情がゆすぶられます。
昨年モロッコに行ってイヴ・サン=ローランミュージアム、ファッションデザイナーのイヴ・サン=ローランの美術館がありますが、スケッチの絵が素敵でそれに感動してしまいました。
スケッチの絵が素敵で感動しました。
モンドリアンという人は絵をきちゃうような提案をしたりして、実際に観たらこういう構成でつくっているとか、素材はウールだったんだとか、そういったものも観ます。
ファッションデザイナーは絵を立体にする作業なんだなと思いました。
写真も好きで写真美術館が恵比寿にあって、主人と一緒に行ったりしています。
自分でもいつか作品展をやりたいなあという夢があり、7月に自分の絵を洋服に展開させた写真展を開催しました。
7月1日がデビューの25周年なので。
いろいろ大変ではありましたが。
私のおばあちゃんは着物のお針子さんでした。
東京都の青ヶ島で人口も200人に満たないようなところで、そこでおばあちゃんは着物を自分で作ってきて、作ったものをあげたりしていました。
作ったものを私がもらい受けて洗い張りしようと思って糸をほどいたときに丁寧に作ってあって、愛情がこもっていたのを感じました。
裏地にもとっても素敵な生地を使っていました。
ものつくりの手紙を時間を越えて受け取ったような感じがして凄く感動しました。
私はそこを目指しているのかもしれません。
作ることにいつも夢中になっているし、それを喜んでくれる人がいるので頑張っている姿を届けてゆくと、そういう職業を選んだことはよかったと思います。
好きなことを続けていきたいと思います。
これまではファッションだったりデザインだったりでしたが、これからはパッケージとか本格的なデザインの勉強もしていきたいと思っています。
昨年結婚した旦那さんがアートディレクターの仕事をしていて、パッケージとかやっているのを見てかっこいいなあと影響を受けているというのもあります。
勧めの一点となると難しいが、イヴ・サン=ローランですかね。
画集を買って暇さえあれば見ています。
天文、星も好きです。
気持ちを落ち着かせるときにふっと見るとまたたきが大丈夫だよ、頑張ってよと言っているような気がします。
星を見たときに一個一個小さな輝きだけれども、実は色があったり名前があったり個性があるということが素敵だと思います。
2020年7月22日水曜日
鈴木康友(元プロ野球選手・コーチ) ・【スポーツ明日への伝言】白球を追う喜びを忘れずに
鈴木康友(元プロ野球選手・コーチ) ・【スポーツ明日への伝言】白球を追う喜びを忘れずに
天理高校時代には甲子園で活躍し、プロ野球ではしぶといバッティングと堅実な守備の内野手として15年間プレイした鈴木さん、2017年に血液の難病の骨髄異形成症候群MDSを発症しました。
しかし臍帯血移植とその後の闘病によって高校野球の指導ができるまでに回復しました。
今年の新型コロナウイルスの感染拡大という状況に加え、今またグラウンドに立てる日を
待っています。
予選、甲子園での試合がなくなるということを聞いた時には絶句しました。
(奈良県五條市出身、昭和34年生まれ、天理高校時代には甲子園に4回出場、2年生のころから4番を打って強打の大型内野手として注目を集める。
昭和52年のドラフト5位で巨人に入団、3年目に一軍でデビュー、内野のユーティリティープレイヤーとして活躍、その後西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、西武と移ってプロ野球選手としては15年活躍。
1992年に引退後、西武、巨人、オリックス、東北楽天、福岡ソフトバンクでコーチ、茨城ゴールデンゴールズや独立リーグの富山、徳島で監督、コーチを務める。
2017年に体調を崩して闘病を続けて2018年3月8日に臍帯血移植を受けて6月末に退院。
10月には立教新座高校のコーチを務め、去年から野球評論、解説者としても復帰する。)
2017年倦怠感があり、ノックを10本打っても息がはあはあして、おかしいと思いました。
検査をして発覚したのが4月の末で、骨髄異形成症候群MDSということで目の前が真っ白になってしまいました。
血液を補充すれば元気にはなるが、ずーっと続けていかなくては行けなくて、リスクはありましたが、移植することに決めました。
臍帯血移植はあかちゃんがうまれたときにお母さんとつながっているへその緒のなかに造血幹細胞があり、それを点滴で移植してもらいました。
当時2歳の男の子の赤ちゃんのA型の血液だといわれました。
血液型もO型からA型になり、誕生日も二つあることになります。
移植して自分の体に定着するまで3週間ぐらいかかりますが、その間が苦しくて、抗がん剤の副作用と新しく入ってきた白血球が攻撃するので、自分の体の中で戦争が起きるわけです。
食事が余り出来ないで吐いたりして、高熱が10日間ぐらい続いて、こんなところでは絶対死ねないと思っていました。
家族のバックアップがなければ大変で、いろいろ迷惑をかけたなあと思います。
2018年の6月末に退院して10月になり、身体を動かしたいなあと思ってるときに、長男がかつて所属していた立教新座高等学校野球部の非常勤コーチに就任しました。
まだ学生のコーチは初めてなので緊張したり、新鮮な感じがしました。
84kgだったのが今は64kgで20kgやせました。
埼玉でベスト8当たりを目指しましたが、その一歩手前で強豪校に3-2で負けてしまいましたが、感動しました。
小学校3年から野球を始めました。
長嶋さん、王さんの全盛のころでジャイアンツファンでした。
中学でも近畿大会で優勝してトップになりました。
8校ぐらいの高校からお誘いがあり全部見にゆきました。
天理高校の練習を見に行っていたときに、女子マネージャーが時間を計って交代という風にいっていたりして、雰囲気がいいなあと思って天理高校に決めました。
山口投手は智弁学園で山口投手とはライバルでした。
3年の時の夏に決勝で完封負けしてしまい甲子園に行くことはかないませんでした。
ドラフトで巨人に入団することになりましたが、実は神宮を目指そうと思っていました。
12月の末に長嶋さんが来て口説かれました。
プロ野球は15年間過ごしましたが、野球で仕事をするということは大変だと思いました。
ベンチにいることが多かったので、監督、コーチのことがいろいろ勉強になりました。
高校生に対しては、人生においていいことと悪いことは交互にきて、いきなり来ることもあるし、そのことに一喜一憂しないで長い目で見て頑張っていってほしいと思います。
天理高校時代には甲子園で活躍し、プロ野球ではしぶといバッティングと堅実な守備の内野手として15年間プレイした鈴木さん、2017年に血液の難病の骨髄異形成症候群MDSを発症しました。
しかし臍帯血移植とその後の闘病によって高校野球の指導ができるまでに回復しました。
今年の新型コロナウイルスの感染拡大という状況に加え、今またグラウンドに立てる日を
待っています。
予選、甲子園での試合がなくなるということを聞いた時には絶句しました。
(奈良県五條市出身、昭和34年生まれ、天理高校時代には甲子園に4回出場、2年生のころから4番を打って強打の大型内野手として注目を集める。
昭和52年のドラフト5位で巨人に入団、3年目に一軍でデビュー、内野のユーティリティープレイヤーとして活躍、その後西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、西武と移ってプロ野球選手としては15年活躍。
1992年に引退後、西武、巨人、オリックス、東北楽天、福岡ソフトバンクでコーチ、茨城ゴールデンゴールズや独立リーグの富山、徳島で監督、コーチを務める。
2017年に体調を崩して闘病を続けて2018年3月8日に臍帯血移植を受けて6月末に退院。
10月には立教新座高校のコーチを務め、去年から野球評論、解説者としても復帰する。)
2017年倦怠感があり、ノックを10本打っても息がはあはあして、おかしいと思いました。
検査をして発覚したのが4月の末で、骨髄異形成症候群MDSということで目の前が真っ白になってしまいました。
血液を補充すれば元気にはなるが、ずーっと続けていかなくては行けなくて、リスクはありましたが、移植することに決めました。
臍帯血移植はあかちゃんがうまれたときにお母さんとつながっているへその緒のなかに造血幹細胞があり、それを点滴で移植してもらいました。
当時2歳の男の子の赤ちゃんのA型の血液だといわれました。
血液型もO型からA型になり、誕生日も二つあることになります。
移植して自分の体に定着するまで3週間ぐらいかかりますが、その間が苦しくて、抗がん剤の副作用と新しく入ってきた白血球が攻撃するので、自分の体の中で戦争が起きるわけです。
食事が余り出来ないで吐いたりして、高熱が10日間ぐらい続いて、こんなところでは絶対死ねないと思っていました。
家族のバックアップがなければ大変で、いろいろ迷惑をかけたなあと思います。
2018年の6月末に退院して10月になり、身体を動かしたいなあと思ってるときに、長男がかつて所属していた立教新座高等学校野球部の非常勤コーチに就任しました。
まだ学生のコーチは初めてなので緊張したり、新鮮な感じがしました。
84kgだったのが今は64kgで20kgやせました。
埼玉でベスト8当たりを目指しましたが、その一歩手前で強豪校に3-2で負けてしまいましたが、感動しました。
小学校3年から野球を始めました。
長嶋さん、王さんの全盛のころでジャイアンツファンでした。
中学でも近畿大会で優勝してトップになりました。
8校ぐらいの高校からお誘いがあり全部見にゆきました。
天理高校の練習を見に行っていたときに、女子マネージャーが時間を計って交代という風にいっていたりして、雰囲気がいいなあと思って天理高校に決めました。
山口投手は智弁学園で山口投手とはライバルでした。
3年の時の夏に決勝で完封負けしてしまい甲子園に行くことはかないませんでした。
ドラフトで巨人に入団することになりましたが、実は神宮を目指そうと思っていました。
12月の末に長嶋さんが来て口説かれました。
プロ野球は15年間過ごしましたが、野球で仕事をするということは大変だと思いました。
ベンチにいることが多かったので、監督、コーチのことがいろいろ勉強になりました。
高校生に対しては、人生においていいことと悪いことは交互にきて、いきなり来ることもあるし、そのことに一喜一憂しないで長い目で見て頑張っていってほしいと思います。
2020年7月21日火曜日
青木亮輔(林業ベンチャー会社代表) ・次の世代に豊かな森林を
青木亮輔(林業ベンチャー会社代表) ・次の世代に豊かな森林を
森林が国土の2/3を占める日本の林業は戦後衰退の一途をたどってきました。
東京の一番西にある村、面積の9割が森林という桧原村では若者たちが将来設計できるような新しい林業を目指す動きが出ています。
青木さんは(43歳)19年前サラリーマン生活から地下足袋をはく林業に転身しました。
その後志を同じくする若い仲間たちと林業会社を立ち上げ、現在は社員19名で山林の手入れはもちろん間伐材を活用した様々なプロジェクトを展開して、次の世代に豊かな森林を残す新しい活動に取り組んでいます。
青木さんたちが目指す次世代につなぐ新たな豊かな森林づくりとはどんな活動なのか伺いました。
木を育てるというのも人と一緒で若い時ほど手がかかります。
そこをしっかりと手入れをしてあげないと後々響いてきます。
桧原村は標高も高く夏は涼しいです。
冬は寒い時には氷点下10度になる時もあります。
15年前には桧原村は3500人いましたが、現在は2500人ぐらいになってきています。
桧原村は93%が森林です。
東京農業大学の林学科を卒業。
植村 直己の映画を観て感銘して、子どものころ大人になったらそういうことをしたいなあと思っていました。
自然のことを学べればいいと思って東京農業大学の林学科に入って探検部に入りました。
中国に行って奥地からの川下りなどしていました。
卒業して就職氷河期と言われる時代で、教育系の出版社で英語教材を売る仕事をしていました。
働くとはどういうことなのかということを悶々と考えることがあり、アルバイトで足袋をはく仕事したことがあり、それが新鮮で足袋をはく仕事をしたいという思いがありました。
自然の中、林業で足袋をはく仕事がしたいと思いました。
たまたま東京都で緊急雇用対策事業が山の中で働く募集があり、半年間限定でしたが採用されました。
その後お試しで山の仕事に採用されました。
山のことを教えてもらいながら毎日が新鮮でした。
森林組合に入って3,4年するうちに若いメンバーが増えて中心的な仕事をしていました。
林業では日給月給だったり、手取りが安定しないという側面があり長く働く点では大きなハードルになりました。
広域合併もあり森林組合も大所帯になって、気心の知れた仲間で独立しようということになり会社を興しました。
2006年 4人で立ち上げ、僕は29歳でした。
資金は一人15万円ずつ仕事で必要な道具を買いそろえました。
仕事は森林組合からの下請けでできました。
月給制にして社会保険もつけてという風にしました。
徐々に元受けの仕事もチャレンジしてゆきました。
現在社員はアルバイトを含めて19名で、平均年齢は34,5歳です。
林業は人目のつかないところでやっているので情報発信をホームページ等でやっています。
地元の年配の方からよくしてもらっています。
村の伝統芸能にも参加させてもらっています。
会社の理念としては
「東京の木の下で地球の幸せのために、山の今を伝え美しい森林をはぐくみ生かし届けます。」
東京は4割の森林があるので、事業を通じて地球の幸せの一助になれるような仕事をやっていこうということで理念にしました。
森林にはいろんなプラスの役割があります。
日本の森林は半分が人が植えて、樹齢が60年ぐらいになり、適度に間伐をしたり手入れが必要です。
間伐材などを含めて色々利用しています。
ツリークライミング、木にロープを垂らして安全を確保して木に登ってゆくという体験会もやっています。
森デリバリーという取り組みをしていて、間伐材、切り出した木を使って、いい部分は建築用などに売り先もあるが半分は捨てられてしまうので、それをあたらしく商品化して、素材を使ったワークショップをしています。
木の皮も乾燥させて、キャンプに使う焚き付け用に薪と一緒に販売したりしています。
昨年からおもちゃ工房を運営していて、いろんな木のおもちゃを作って販売しています。
桧原村トイビレッジ構想といって、桧原村を木のおもちゃの村にしようという構想を持ってやっています。
来年秋に桧原村に「桧原村森のおもちゃ美術館」ができます。
6歳になったら机を作ろうということで、杉でのキットがあり親子で組み立ててきちっと仕上げてゆくというプログラムもやっています。
100×60cmぐらいの大きさで、誰でも使いやすいシンプルなデザインになっています。
東京美林クラブは、山に木を植えたいという人が増えてきて、伐採した跡地に3本の苗木を植えていただくというプロジェクトです。
東京美林クラブの会員の方に自分たちが植えた3本の周りの草を刈っていただくということを7年間やっていただいて、その後4年ごとに枝打ちをやっていきます。
25年目と30年目にその3本のうちの2本を間伐して、間伐した木を記念につかっていただくというプログラムになっていて、育てるということを一緒に体験していただき山の環境の保全に貢献をしていただくということです。
1本は山に残していきます。
育てた木には愛着があると思います。
約240家族が参加していただき800本ぐらいになっています。
樹齢100年の森が日本に残るころには、いい環境でいい状態で次につないでゆくためにいろいろ手を尽くしているところです。
森林が国土の2/3を占める日本の林業は戦後衰退の一途をたどってきました。
東京の一番西にある村、面積の9割が森林という桧原村では若者たちが将来設計できるような新しい林業を目指す動きが出ています。
青木さんは(43歳)19年前サラリーマン生活から地下足袋をはく林業に転身しました。
その後志を同じくする若い仲間たちと林業会社を立ち上げ、現在は社員19名で山林の手入れはもちろん間伐材を活用した様々なプロジェクトを展開して、次の世代に豊かな森林を残す新しい活動に取り組んでいます。
青木さんたちが目指す次世代につなぐ新たな豊かな森林づくりとはどんな活動なのか伺いました。
木を育てるというのも人と一緒で若い時ほど手がかかります。
そこをしっかりと手入れをしてあげないと後々響いてきます。
桧原村は標高も高く夏は涼しいです。
冬は寒い時には氷点下10度になる時もあります。
15年前には桧原村は3500人いましたが、現在は2500人ぐらいになってきています。
桧原村は93%が森林です。
東京農業大学の林学科を卒業。
植村 直己の映画を観て感銘して、子どものころ大人になったらそういうことをしたいなあと思っていました。
自然のことを学べればいいと思って東京農業大学の林学科に入って探検部に入りました。
中国に行って奥地からの川下りなどしていました。
卒業して就職氷河期と言われる時代で、教育系の出版社で英語教材を売る仕事をしていました。
働くとはどういうことなのかということを悶々と考えることがあり、アルバイトで足袋をはく仕事したことがあり、それが新鮮で足袋をはく仕事をしたいという思いがありました。
自然の中、林業で足袋をはく仕事がしたいと思いました。
たまたま東京都で緊急雇用対策事業が山の中で働く募集があり、半年間限定でしたが採用されました。
その後お試しで山の仕事に採用されました。
山のことを教えてもらいながら毎日が新鮮でした。
森林組合に入って3,4年するうちに若いメンバーが増えて中心的な仕事をしていました。
林業では日給月給だったり、手取りが安定しないという側面があり長く働く点では大きなハードルになりました。
広域合併もあり森林組合も大所帯になって、気心の知れた仲間で独立しようということになり会社を興しました。
2006年 4人で立ち上げ、僕は29歳でした。
資金は一人15万円ずつ仕事で必要な道具を買いそろえました。
仕事は森林組合からの下請けでできました。
月給制にして社会保険もつけてという風にしました。
徐々に元受けの仕事もチャレンジしてゆきました。
現在社員はアルバイトを含めて19名で、平均年齢は34,5歳です。
林業は人目のつかないところでやっているので情報発信をホームページ等でやっています。
地元の年配の方からよくしてもらっています。
村の伝統芸能にも参加させてもらっています。
会社の理念としては
「東京の木の下で地球の幸せのために、山の今を伝え美しい森林をはぐくみ生かし届けます。」
東京は4割の森林があるので、事業を通じて地球の幸せの一助になれるような仕事をやっていこうということで理念にしました。
森林にはいろんなプラスの役割があります。
日本の森林は半分が人が植えて、樹齢が60年ぐらいになり、適度に間伐をしたり手入れが必要です。
間伐材などを含めて色々利用しています。
ツリークライミング、木にロープを垂らして安全を確保して木に登ってゆくという体験会もやっています。
森デリバリーという取り組みをしていて、間伐材、切り出した木を使って、いい部分は建築用などに売り先もあるが半分は捨てられてしまうので、それをあたらしく商品化して、素材を使ったワークショップをしています。
木の皮も乾燥させて、キャンプに使う焚き付け用に薪と一緒に販売したりしています。
昨年からおもちゃ工房を運営していて、いろんな木のおもちゃを作って販売しています。
桧原村トイビレッジ構想といって、桧原村を木のおもちゃの村にしようという構想を持ってやっています。
来年秋に桧原村に「桧原村森のおもちゃ美術館」ができます。
6歳になったら机を作ろうということで、杉でのキットがあり親子で組み立ててきちっと仕上げてゆくというプログラムもやっています。
100×60cmぐらいの大きさで、誰でも使いやすいシンプルなデザインになっています。
東京美林クラブは、山に木を植えたいという人が増えてきて、伐採した跡地に3本の苗木を植えていただくというプロジェクトです。
東京美林クラブの会員の方に自分たちが植えた3本の周りの草を刈っていただくということを7年間やっていただいて、その後4年ごとに枝打ちをやっていきます。
25年目と30年目にその3本のうちの2本を間伐して、間伐した木を記念につかっていただくというプログラムになっていて、育てるということを一緒に体験していただき山の環境の保全に貢献をしていただくということです。
1本は山に残していきます。
育てた木には愛着があると思います。
約240家族が参加していただき800本ぐらいになっています。
樹齢100年の森が日本に残るころには、いい環境でいい状態で次につないでゆくためにいろいろ手を尽くしているところです。
2020年7月20日月曜日
大藏教義(能楽師狂言方) ・【にっぽんの音】大藏基誠
大藏教義(能楽師狂言方) ・【にっぽんの音】
進行役:大藏基誠
教義さんは従弟になります。
1980年生まれ、初舞台が4歳、「業平餅」の稚児役。
舞台を歩くだけでしたが、ただ待っているときに鼻くそを客席に飛ばしてしまったということでした。
その後もその失敗話を話しています。
狂言の芸能の始まりは、いろんな芸を集めた芸を散楽と言っていたが、それが奈良時代に中国からはいってきました。
そのなかでも物まね芸が日本人に受けた様で、それを猿楽というようになって、猿楽はどんなお話だったのかという昔の本があり、尼さんですから本来いないはずの尼さんの赤ちゃんを抱えながらおむつを探しに行く話とか、東国の人が初めて都に上ってドキドキしながら、うろうろしている話などが新猿楽記という本に書いてあり、即興的、喜劇的、風刺をしているというのが、猿楽の性格であったわけです。
そのうち世阿弥が出てきて、いろんな芸能を猿楽に取り入れて、能というものを作っていくわけです。
狂言はもともとある猿楽の面白い部分をどんどん消化していって、洗練していって狂言という芸にしていったわけです。
せりふ劇ですね。
風刺、即興劇というのは今にも通じるのがいろいろあります。
よく出てくる主人と太郎冠者というキャラクターが出てくるが、現代の社長と部下みたいなポジションで見ることもできます。
昔なので特別な効果音が出るわけでもなく、全部演者が表現するわけで、「瓜盗人」という演目で木を放り投げたときに木が転がって行く音を自分で表現するわけです。
大胆な発想だったと思います。
擬態語が非常に面白い演劇だと思います。
例えば「ちょろちょろちょろちょろ」 お酒を飲むところで残り少なくなってきたとき。
「さらさらさらさら」 「ぱったり」 襖です。 「さらさらさらさら」と開けていって 「ぱったり」と閉めます。
動物の鳴き声も音で表現します。
基誠:「釣狐」をやったときに家でやると近隣に迷惑を掛かるので山のなかでやりなさいと言われて山で稽古したことがあります。
「びょうびょうびょうびょう」 犬です。(室町時代の表現)
いまではワンワンですが、海外に行くと又表現が変わります。
狂言は言葉遊び、言葉のやり取りが面白いと思います。
1974年にNHKで放送された番組で祖父が「貝ずくし」の謡を詠っています。
小舞と呼ばれる謡と舞で構成されていて、能『玉井(たまのい)』のアイ狂言で演じられるもので、豊玉姫と結婚した山幸彦の門出で竜宮城の貝の精達の酒宴の様子を演じるもの。演者は面を着け頭の上に貝の作りものを乗っけている。『ライオンキング』みたいな感じで、あれは明らかに能を意識してるんじゃないかと、様々な貝の名前を詠み込んだ謡と舞で、いかにも酒宴らしく手拍子が取りやすいのびやかな曲調とのこと。
*「貝ずくし」 大藏彌右衛門(虎智)
いつもににこにこしているおじいちゃんのイメージが強いですね。
基誠:僕は先生といったイメージが強かったですね。
おじいちゃんを車に乗せて行くときに、パッと後ろを振り向いたら、後ろのシートで正座してたものね。
凄いなあと思ったね、ここでも稽古なのかなあと思ってました。
こうあるべきなんだよということを無言で教えているような感じでした。
楽屋に入る時にも緊張しました、おじいちゃんが楽屋に入ってきた瞬間にみんな背筋がピッとしました。
7月27日から東京国立能楽堂で、新型コロナウイルス収束祈願ということで能楽協会が10日間講演をします。
8月20日渋谷にて大藏基誠主催で演目「蝸牛」をやります。
山伏:大藏基誠 太郎冠者:大藏教義
進行役:大藏基誠
教義さんは従弟になります。
1980年生まれ、初舞台が4歳、「業平餅」の稚児役。
舞台を歩くだけでしたが、ただ待っているときに鼻くそを客席に飛ばしてしまったということでした。
その後もその失敗話を話しています。
狂言の芸能の始まりは、いろんな芸を集めた芸を散楽と言っていたが、それが奈良時代に中国からはいってきました。
そのなかでも物まね芸が日本人に受けた様で、それを猿楽というようになって、猿楽はどんなお話だったのかという昔の本があり、尼さんですから本来いないはずの尼さんの赤ちゃんを抱えながらおむつを探しに行く話とか、東国の人が初めて都に上ってドキドキしながら、うろうろしている話などが新猿楽記という本に書いてあり、即興的、喜劇的、風刺をしているというのが、猿楽の性格であったわけです。
そのうち世阿弥が出てきて、いろんな芸能を猿楽に取り入れて、能というものを作っていくわけです。
狂言はもともとある猿楽の面白い部分をどんどん消化していって、洗練していって狂言という芸にしていったわけです。
せりふ劇ですね。
風刺、即興劇というのは今にも通じるのがいろいろあります。
よく出てくる主人と太郎冠者というキャラクターが出てくるが、現代の社長と部下みたいなポジションで見ることもできます。
昔なので特別な効果音が出るわけでもなく、全部演者が表現するわけで、「瓜盗人」という演目で木を放り投げたときに木が転がって行く音を自分で表現するわけです。
大胆な発想だったと思います。
擬態語が非常に面白い演劇だと思います。
例えば「ちょろちょろちょろちょろ」 お酒を飲むところで残り少なくなってきたとき。
「さらさらさらさら」 「ぱったり」 襖です。 「さらさらさらさら」と開けていって 「ぱったり」と閉めます。
動物の鳴き声も音で表現します。
基誠:「釣狐」をやったときに家でやると近隣に迷惑を掛かるので山のなかでやりなさいと言われて山で稽古したことがあります。
「びょうびょうびょうびょう」 犬です。(室町時代の表現)
いまではワンワンですが、海外に行くと又表現が変わります。
狂言は言葉遊び、言葉のやり取りが面白いと思います。
1974年にNHKで放送された番組で祖父が「貝ずくし」の謡を詠っています。
小舞と呼ばれる謡と舞で構成されていて、能『玉井(たまのい)』のアイ狂言で演じられるもので、豊玉姫と結婚した山幸彦の門出で竜宮城の貝の精達の酒宴の様子を演じるもの。演者は面を着け頭の上に貝の作りものを乗っけている。『ライオンキング』みたいな感じで、あれは明らかに能を意識してるんじゃないかと、様々な貝の名前を詠み込んだ謡と舞で、いかにも酒宴らしく手拍子が取りやすいのびやかな曲調とのこと。
*「貝ずくし」 大藏彌右衛門(虎智)
いつもににこにこしているおじいちゃんのイメージが強いですね。
基誠:僕は先生といったイメージが強かったですね。
おじいちゃんを車に乗せて行くときに、パッと後ろを振り向いたら、後ろのシートで正座してたものね。
凄いなあと思ったね、ここでも稽古なのかなあと思ってました。
こうあるべきなんだよということを無言で教えているような感じでした。
楽屋に入る時にも緊張しました、おじいちゃんが楽屋に入ってきた瞬間にみんな背筋がピッとしました。
7月27日から東京国立能楽堂で、新型コロナウイルス収束祈願ということで能楽協会が10日間講演をします。
8月20日渋谷にて大藏基誠主催で演目「蝸牛」をやります。
山伏:大藏基誠 太郎冠者:大藏教義
2020年7月19日日曜日
小林まさる(料理研究家) ・【"美味しい"仕事人】86歳の人生レシピ(初回:2019/9/22)
小林まさる(料理研究家) ・【"美味しい"仕事人】86歳の人生レシピ(初回:2019/9/22)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlをご覧ください。
2020年7月18日土曜日
宮川 徏 ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」(初回:2019/6/15)
宮川 徏 ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」(初回:2019/6/15)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/06/blog-post_15.htmlをご覧ください。
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2020年7月17日金曜日
甘利俊一(理化学研究所栄誉研究員) ・数学で脳の秘密を解き明かす
甘利俊一(理化学研究所栄誉研究員) ・数学で脳の秘密を解き明かす
1936年東京医まれ、算数数学大好き人間として小中高校時代を過ごし東京大学では数理工学を専攻されました。
数理工学は現代数学を使って工学の様々な問題や人間の脳の秘密などを解き明かすものです。
大学院修了後九州大学工学部 、マサチューセッツ州立大学、東京大学工学部、理科学研究所で研究生活を続けてきました。
現在のAI、人工知能研究にも活用される情報幾何学の創始者であり、脳の神経回路理論の先駆的な研究でも世界に知られる研究者です。
その功績が評価され2012年に文化功労者に選ばれ昨年には文化勲章を受章されています。
84歳の今でも研究意欲が衰えることはありません。
(電話インタビュー)
コロナは実はしゅうぜんげんしょう?(自然現象?聞き取れず)で、人類社会に起こって人から人に感染して、潜伏期間が1週間から2週間で数式化しにくいです。
即効性がなくて1週間から2週間に効果が現れる。
地域も広がって非常に難しい現象です。
しかしそういった現象にも数学的な解析が使えるようになった。
政策を立てる側でそういう数学的な予測をどう利用するか、一つをうのみにしてもいけない、いろいろな可能性がある、それを考えながら、その都度モデルも修正して予測も修正もする。
確率現象なので、確率的な揺らぎもあり、集団現象で時間の遅れもある。
そのような現象にも数学の重要性が認められてきている。
数学的なものの見方が重要なんだということが段々定着していると思っている。
小学校3年生で学童疎開があり4年で東京に帰ってきて、担任の先生が算数が熱心でした。
面白くて算数が大好きになりました。
中学は私立で担任が大学の数学科を出たてで、高度な数学を教えてやろうということで有志だけが別に授業をやって面白かったです。
高校は東京都立戸山高校で武藤(徹?)先生で東大の数学科を出て4,5年の先生でした。
クラブ活動で数学班ができてそこに入って数学の考え方を教えてもらいました。
東京大学は理科1類に入って、若者は平和のために何をやったらいいかという話があって、歌声を広めて平和の活動をしようということで、それに惹かれました。
砂川闘争にも反対運動で行きました。
学業のほうはおろそかになってしまいました。
数理工学が新しく作られそこに入りました。
学生は5名で自由に考えて自分でやれというようなところでした。
数理工学で何を研究するか、脳は面白いと思いまして、神経回路網が頭に詰まってニューロンが繋がって大きなシステムが頭に入っている。
人間の脳は情報をどう捕まえて、どう処理して新しい情報を作っていくかを脳がやっていて、脳の仕組みを数理の目で見られるのではないかと思って、脳と数学を研究することにしました。
一般向けに「脳、心、人工知能」という本を出版しました。
脳の解明は難しいが、機械が学習してやればできるようなアイデアが出かかった時代で、脳の発想と、工学の人工知能(脳を人工で作る)両方を纏めて解けるらしいと研究を始めました。
人工知能の第一次ブームは1950年代の終わりごろでした。
大きいコンピューターが使われだした。
コンピューターの計算能力が不足していて、下火になった。
第二次は1970~80年代で、コンピューターが抜群によくなりました。
人間がプログラムを作ってコンピューターに推論の仕方をいちいち書きながら、結果としてコンピューターが推論できるようなやり方、人間はさぼってただただコンピューターに学習をさせようとする方向、神経回路網を鍛えてゆくという二つありました。
いろんなことが判ったが実用に達しなかった。
第三次ブームはコンピューターがこんなことが出来るのかと人々は驚いた。
パターン、画像で画像の中に何があるかとかがコンピューターできるよぅになった。
人間が間違えるような例題を与えてもコンピューターが正解を出すようになった。
音声認識も出来る。
碁なども人間の能力を超えてしまった。
1秒間に何億回も思考をまわすわけですから。
2045年問題、人工知能が人間の知能を越えてしまうのではないかという問題。
でもそうはならない。
パターン認識、文章理解、翻訳とか人間にだけできる知的な処理もコンピューターはできるようになった。
人間は星の運動、惑星の運動、暦の作成など全部やってきたが、なぜ惑星が太陽の周りに楕円軌道を描くとか、現象として観測データからこれは楕円軌道でという風になぜと考える。
万有引力とか概念を全部使ってその間の本質的な関係は何かということを考えて、結果として惑星の運動は全部できる。
今の人工知能は実験式を作って素晴らしいことを予測して見せる、役に立つが、そこから何故かは出てこない。
知的好奇心がコンピューターにはないんです。
人間がなぜ素晴らしい脳を持ったかというと進化の過程からです。
好奇心、探求心は人間が社会生活を送って社会になかで発生するうえでそういう力を持っているほうが生存上優れているということでできました。
でたらめに自然が人間の脳で試して突然変異をいろいろやった結果が、いいものが残って最終的には人間は社会を作り人と人と心を通い合わせ、個人では人は探求心、好奇心などを持っている。
探求心、好奇心などと同時に生存本能を持っていて、世界の中で調和してやってしてやっていくというのは心のなせる業で、コンピューターにこういたことを持たせられるかというと、それはできない。
翻訳はコンピューターが全部やるので失業すという話があるが、そうはならない。
ならないぎりぎりの部分が人間が心をお互い通わせる、こういう部分です。
今社会全体の文明がある意味衰退期にあるかもしれない。
生命工学で遺伝子に手を加えることがあるかもしれない、ある意味では社会の危機と言ってもいいかもしれない。
発展の方向は人類、社会に取っていい方向なのか、人類、社会がこれを受けとめるような仕組みを自分たちで作っていけますか、そういう時代になってきている。
技術は放っておいても進歩するが、人類社会のために役に立つような文明を人間は作れるのだろうか、これが我々に問われている。
人類社会の今の矛盾、端的には貧富の格差がどんどん増大しているが、知識の力とか技術でそれを克服するようなものを作れるのかここが一番問題です。
今の若い人たちへは成果を出しなさいとお金を出して尻をたたけばある程度は短期的にはでるかもしれないが、10,20年の構想で科学を考えると、文明として作ってゆける大きな研究が日本から消えてしまうかもしれない。
自分でやりたいなあと思ったことは道を曲げないでしぶとくやってほしい、これが日本を救う道だと思っています。
1936年東京医まれ、算数数学大好き人間として小中高校時代を過ごし東京大学では数理工学を専攻されました。
数理工学は現代数学を使って工学の様々な問題や人間の脳の秘密などを解き明かすものです。
大学院修了後九州大学工学部 、マサチューセッツ州立大学、東京大学工学部、理科学研究所で研究生活を続けてきました。
現在のAI、人工知能研究にも活用される情報幾何学の創始者であり、脳の神経回路理論の先駆的な研究でも世界に知られる研究者です。
その功績が評価され2012年に文化功労者に選ばれ昨年には文化勲章を受章されています。
84歳の今でも研究意欲が衰えることはありません。
(電話インタビュー)
コロナは実はしゅうぜんげんしょう?(自然現象?聞き取れず)で、人類社会に起こって人から人に感染して、潜伏期間が1週間から2週間で数式化しにくいです。
即効性がなくて1週間から2週間に効果が現れる。
地域も広がって非常に難しい現象です。
しかしそういった現象にも数学的な解析が使えるようになった。
政策を立てる側でそういう数学的な予測をどう利用するか、一つをうのみにしてもいけない、いろいろな可能性がある、それを考えながら、その都度モデルも修正して予測も修正もする。
確率現象なので、確率的な揺らぎもあり、集団現象で時間の遅れもある。
そのような現象にも数学の重要性が認められてきている。
数学的なものの見方が重要なんだということが段々定着していると思っている。
小学校3年生で学童疎開があり4年で東京に帰ってきて、担任の先生が算数が熱心でした。
面白くて算数が大好きになりました。
中学は私立で担任が大学の数学科を出たてで、高度な数学を教えてやろうということで有志だけが別に授業をやって面白かったです。
高校は東京都立戸山高校で武藤(徹?)先生で東大の数学科を出て4,5年の先生でした。
クラブ活動で数学班ができてそこに入って数学の考え方を教えてもらいました。
東京大学は理科1類に入って、若者は平和のために何をやったらいいかという話があって、歌声を広めて平和の活動をしようということで、それに惹かれました。
砂川闘争にも反対運動で行きました。
学業のほうはおろそかになってしまいました。
数理工学が新しく作られそこに入りました。
学生は5名で自由に考えて自分でやれというようなところでした。
数理工学で何を研究するか、脳は面白いと思いまして、神経回路網が頭に詰まってニューロンが繋がって大きなシステムが頭に入っている。
人間の脳は情報をどう捕まえて、どう処理して新しい情報を作っていくかを脳がやっていて、脳の仕組みを数理の目で見られるのではないかと思って、脳と数学を研究することにしました。
一般向けに「脳、心、人工知能」という本を出版しました。
脳の解明は難しいが、機械が学習してやればできるようなアイデアが出かかった時代で、脳の発想と、工学の人工知能(脳を人工で作る)両方を纏めて解けるらしいと研究を始めました。
人工知能の第一次ブームは1950年代の終わりごろでした。
大きいコンピューターが使われだした。
コンピューターの計算能力が不足していて、下火になった。
第二次は1970~80年代で、コンピューターが抜群によくなりました。
人間がプログラムを作ってコンピューターに推論の仕方をいちいち書きながら、結果としてコンピューターが推論できるようなやり方、人間はさぼってただただコンピューターに学習をさせようとする方向、神経回路網を鍛えてゆくという二つありました。
いろんなことが判ったが実用に達しなかった。
第三次ブームはコンピューターがこんなことが出来るのかと人々は驚いた。
パターン、画像で画像の中に何があるかとかがコンピューターできるよぅになった。
人間が間違えるような例題を与えてもコンピューターが正解を出すようになった。
音声認識も出来る。
碁なども人間の能力を超えてしまった。
1秒間に何億回も思考をまわすわけですから。
2045年問題、人工知能が人間の知能を越えてしまうのではないかという問題。
でもそうはならない。
パターン認識、文章理解、翻訳とか人間にだけできる知的な処理もコンピューターはできるようになった。
人間は星の運動、惑星の運動、暦の作成など全部やってきたが、なぜ惑星が太陽の周りに楕円軌道を描くとか、現象として観測データからこれは楕円軌道でという風になぜと考える。
万有引力とか概念を全部使ってその間の本質的な関係は何かということを考えて、結果として惑星の運動は全部できる。
今の人工知能は実験式を作って素晴らしいことを予測して見せる、役に立つが、そこから何故かは出てこない。
知的好奇心がコンピューターにはないんです。
人間がなぜ素晴らしい脳を持ったかというと進化の過程からです。
好奇心、探求心は人間が社会生活を送って社会になかで発生するうえでそういう力を持っているほうが生存上優れているということでできました。
でたらめに自然が人間の脳で試して突然変異をいろいろやった結果が、いいものが残って最終的には人間は社会を作り人と人と心を通い合わせ、個人では人は探求心、好奇心などを持っている。
探求心、好奇心などと同時に生存本能を持っていて、世界の中で調和してやってしてやっていくというのは心のなせる業で、コンピューターにこういたことを持たせられるかというと、それはできない。
翻訳はコンピューターが全部やるので失業すという話があるが、そうはならない。
ならないぎりぎりの部分が人間が心をお互い通わせる、こういう部分です。
今社会全体の文明がある意味衰退期にあるかもしれない。
生命工学で遺伝子に手を加えることがあるかもしれない、ある意味では社会の危機と言ってもいいかもしれない。
発展の方向は人類、社会に取っていい方向なのか、人類、社会がこれを受けとめるような仕組みを自分たちで作っていけますか、そういう時代になってきている。
技術は放っておいても進歩するが、人類社会のために役に立つような文明を人間は作れるのだろうか、これが我々に問われている。
人類社会の今の矛盾、端的には貧富の格差がどんどん増大しているが、知識の力とか技術でそれを克服するようなものを作れるのかここが一番問題です。
今の若い人たちへは成果を出しなさいとお金を出して尻をたたけばある程度は短期的にはでるかもしれないが、10,20年の構想で科学を考えると、文明として作ってゆける大きな研究が日本から消えてしまうかもしれない。
自分でやりたいなあと思ったことは道を曲げないでしぶとくやってほしい、これが日本を救う道だと思っています。
2020年7月16日木曜日
本田 徹(医師) ・誰一人取り残さない医療を目指す
本田 徹(医師) ・誰一人取り残さない医療を目指す
愛知県生まれ、今年73歳、北海道大学医学部を卒業して、1977年から2年間青年海外協力隊員として北アフリカのチュニジアで医療活動に携わりました。
帰国後長野県の佐久総合病院を振り出しに、各地の病院で診療にあたるとともに東京の山谷で社会から取り残され人たちの医療を支え医療ボランティアに長く携わってきました。
去年に2月からは東京電力福島第一原発の南20kmのところにある福島県の広野町高野病院で地域の高齢者の訪問診療にもあたっています。
本田さんは小児科医としてチュニジアに派遣した時に一冊の本を持参します。
それは長野県で地域医療に携わっていた若月俊一さんが書いた「村で病気と闘う」という本でした。
さらに若い本田さんに強く影響を与えたのは1978年に発表されたWHOのアルマ・アタ宣言の目標、「すべての人にとり、健康に生きることは基本的人権であり、必要な医療サービスは住民参加で作り上げそれが医療の在り方」という目標でした。
本田さんは1983年にNGOシェア国際保健協力市民の会の設立に参加し、現在共同代表理事を務めています。
NGOシェアの目標誰ひとり取り残さない医療を目指し問うことにどのような思いがあるのか、伺いました。
国連に加盟する190ぐらいの国が参加して2015年から人類の共通目標、貧困、教育、環境の問題など様々な人類共通の問題に取り組んでゆく、医療もありますが、17あります。
その中で一番大事とされている、人類の中で一人でも取り残されたり、教育とか医療とかから取り残される人がいないようにということを共通の目標にしています。
日本の場合25条で生存権をうたっています。
その項がベースになって国民皆保険制度が1960年代に作られて、一応基盤ができています。
国連などでは国民皆保険制度をより大きな概念でユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(Universal Health Coverage : UHC)と呼んでいます。
医師になったきっかけは、私が5歳の時に弟が麻疹で亡くなってしまったことがあり、両親が非常に悲しんで、ショックを受けて後々影響したのか、潜在的にあったと思います。
高校時代にいろいろな影響を受けたりして医療の道に行きたいという思いが養われて行ったと思います。
叔父から受けた影響もあったと思います。
父はシナリオライターでTVの「7人の刑事」などやりました。
大学は北海道大学医学部に進み、あこがれて馬術部に入りました。
命を大切にすることが、馬との生活が後々役に立ったと思います。
世話をした馬が足の骨を折ってしまって、獣医に薬殺してもらうというという悲劇的な経験がありました。
その時にはみんなが号泣してしまいました。
1977年(43年前)から2年間青年海外協力隊員としてきたアフリカのチュニジアに行きました。
学校が荒れた時代でした。
自分自身の生き方を探しあぐねていた時代でもありました。
チュニジアはイスラムの文化圏で、アフリカのほうにある国であり、フランスの植民地でもあったので非常に多様な文化があり、非常に魅力を感じました。
割合排外的ではなかったし、親日的でした。
ちょうどそのころにプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を知ることになります。
1978年にWHOとユニセフが中心になって開発途上国の医療が充実していなくて、医療の改革が必要なのではないかということで、知恵を寄せ合って作り上げたのが、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)に関するアルマ・アタ宣言でした。
すべての人にとり健康に生きることは基本的人権であり必要な医療保険サービスは住民参加で作り上げてゆく、それが医療の在り方だとうたっている。
長野県の佐久総合病院の院長の若月俊一さんが先駆的な仕事をされて、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)というような言葉がない時代にプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を実践されていた。
1947,8年ぐらいに積極的に予防活動、地域の健康を予防して医療費の面でもコストを安くするということで実施しました。
若月俊一さんは「村で病気と闘う」という本を書かれて、私はその本を携えてチュニジアに行きました。
日本で医療を取り組みにあたって、国際郵便で若月俊一さんに手紙を出して先生にお世話になりたい、ということでお世話になることになりました。
先生は大変な勉強家でもありました。
先生は「医療の技術は社会の公共財であり自分のものと考えたはいけない。」と書物に書いています。
2007年に独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency、JICA)でアフガニスタンの病院の医療論理の研修をするので、JICAの専門の方から招かれて、又日本国際ボランティアセンター(JVC)から呼ばれて、その二つの仕事で1か月行って、その時に中村哲さんがいらっしゃいました。
灌漑事業、クナール川から用水路を引いて砂漠を緑地に変えるという事業で4年目ぐらいでした。
感染病の病院の医師として1980年代から仕事をされていて、最終的に灌漑事業に向かいました。
去年の12月4日に襲撃を受けて亡くなられるという悲報に接しました。
尊敬していたので本当にショックを受けました。
まさに中村さんは「国手」(国にそのものを癒すことをいう。)という名に値するようなことをアフガニスタンでなさったと思います。
「クナール川の一滴一滴が泪と化すとき」 という一遍の詩を作りました。
「2007年ナンガルハルの宿舎でお会いしたあなたは温顔を向けて、ゆっくり水路をめぐっていってください、とだけ言った。
苦難に満ちた大事業を成しえた男はあくまで謙虚で、寡黙だった。
柳の枝が川岸にそよぐその長い水路は、コーランにある天上の楽園さながらに
人々の飢えと渇きを癒し流れ続けていた。
この水路が作り出す緑野と涼しい川岸の陰は、戦火に苦しんできた何十万の人たちの命の支えとなる。
ハキーム中村よ、あなたの魂魄は永遠にアフガンの地にとどまって、チャンバルハルの花のように咲き続けるだろう。
2019年12月」
ハキームというのはアラビア語で医者という意味です。
チャンバルハルは藤の木と同じようなマメ科の大木で初夏に黄色い美しい花を咲かせる。
私のなかでは中村さんとチャンバルハルの花が一体となってしまっているような思いです。
中村さんに捧げる演劇も作りました。
タイトルは「チャンバルハルとジャンカラの民」です。
演劇雑誌「テアトロ」の2020年5月号に掲載されています。
編集長の中村みどりさんから要請されて書くようになりました。
いわきに平藩の沢村さんという方がいて中村哲先生とそっくりな方で、干ばつに苦しんでいて、水路を引いて10ケ村で水田を作れるようにした。
妬みからか讒訴して沢村さんは腹を切らされた。
亡くなった翌年に沢村さんを慕って農民が自発的にお寺に集まって彼を偲ぶための念仏を始めた。
これを「ジャンカラ」といういわきでは有名なお祭りです。
私の中で中村先生と沢村さんが繋がって一つのストーリーになったということです。
ディヴィッド・ワーナーさんはもともと障害を持った方で、足が弱くていじめられてつらい目にあったが、優れた絵描きになりました。
1960年代の後半からメキシコの山のなかで、人々の健康つくりのための活動を始めて、その経験をもとに村の人たちと一緒に作った本が「医者のいないところで」という本で
1977年ごろに英語版が出て、世界中で医療の手引書として使われて100ぐらいの言語に訳されて今も使われています。
日本語版を出すことでディヴィッド・ワーナーさんと交流をすることができました。
村のヘルスワーカーへの助言ということで5つ言っています。
①村の人々に親切にしよう。
②あなたの知恵、知識を伝えて村の人たちと共有しよう。
③地域の方たちの伝統とかんがえかたを尊重しよう。
④自分自身の限界を知ろう。
⑤学び続けよう。
愛知県生まれ、今年73歳、北海道大学医学部を卒業して、1977年から2年間青年海外協力隊員として北アフリカのチュニジアで医療活動に携わりました。
帰国後長野県の佐久総合病院を振り出しに、各地の病院で診療にあたるとともに東京の山谷で社会から取り残され人たちの医療を支え医療ボランティアに長く携わってきました。
去年に2月からは東京電力福島第一原発の南20kmのところにある福島県の広野町高野病院で地域の高齢者の訪問診療にもあたっています。
本田さんは小児科医としてチュニジアに派遣した時に一冊の本を持参します。
それは長野県で地域医療に携わっていた若月俊一さんが書いた「村で病気と闘う」という本でした。
さらに若い本田さんに強く影響を与えたのは1978年に発表されたWHOのアルマ・アタ宣言の目標、「すべての人にとり、健康に生きることは基本的人権であり、必要な医療サービスは住民参加で作り上げそれが医療の在り方」という目標でした。
本田さんは1983年にNGOシェア国際保健協力市民の会の設立に参加し、現在共同代表理事を務めています。
NGOシェアの目標誰ひとり取り残さない医療を目指し問うことにどのような思いがあるのか、伺いました。
国連に加盟する190ぐらいの国が参加して2015年から人類の共通目標、貧困、教育、環境の問題など様々な人類共通の問題に取り組んでゆく、医療もありますが、17あります。
その中で一番大事とされている、人類の中で一人でも取り残されたり、教育とか医療とかから取り残される人がいないようにということを共通の目標にしています。
日本の場合25条で生存権をうたっています。
その項がベースになって国民皆保険制度が1960年代に作られて、一応基盤ができています。
国連などでは国民皆保険制度をより大きな概念でユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(Universal Health Coverage : UHC)と呼んでいます。
医師になったきっかけは、私が5歳の時に弟が麻疹で亡くなってしまったことがあり、両親が非常に悲しんで、ショックを受けて後々影響したのか、潜在的にあったと思います。
高校時代にいろいろな影響を受けたりして医療の道に行きたいという思いが養われて行ったと思います。
叔父から受けた影響もあったと思います。
父はシナリオライターでTVの「7人の刑事」などやりました。
大学は北海道大学医学部に進み、あこがれて馬術部に入りました。
命を大切にすることが、馬との生活が後々役に立ったと思います。
世話をした馬が足の骨を折ってしまって、獣医に薬殺してもらうというという悲劇的な経験がありました。
その時にはみんなが号泣してしまいました。
1977年(43年前)から2年間青年海外協力隊員としてきたアフリカのチュニジアに行きました。
学校が荒れた時代でした。
自分自身の生き方を探しあぐねていた時代でもありました。
チュニジアはイスラムの文化圏で、アフリカのほうにある国であり、フランスの植民地でもあったので非常に多様な文化があり、非常に魅力を感じました。
割合排外的ではなかったし、親日的でした。
ちょうどそのころにプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を知ることになります。
1978年にWHOとユニセフが中心になって開発途上国の医療が充実していなくて、医療の改革が必要なのではないかということで、知恵を寄せ合って作り上げたのが、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)に関するアルマ・アタ宣言でした。
すべての人にとり健康に生きることは基本的人権であり必要な医療保険サービスは住民参加で作り上げてゆく、それが医療の在り方だとうたっている。
長野県の佐久総合病院の院長の若月俊一さんが先駆的な仕事をされて、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)というような言葉がない時代にプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を実践されていた。
1947,8年ぐらいに積極的に予防活動、地域の健康を予防して医療費の面でもコストを安くするということで実施しました。
若月俊一さんは「村で病気と闘う」という本を書かれて、私はその本を携えてチュニジアに行きました。
日本で医療を取り組みにあたって、国際郵便で若月俊一さんに手紙を出して先生にお世話になりたい、ということでお世話になることになりました。
先生は大変な勉強家でもありました。
先生は「医療の技術は社会の公共財であり自分のものと考えたはいけない。」と書物に書いています。
2007年に独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency、JICA)でアフガニスタンの病院の医療論理の研修をするので、JICAの専門の方から招かれて、又日本国際ボランティアセンター(JVC)から呼ばれて、その二つの仕事で1か月行って、その時に中村哲さんがいらっしゃいました。
灌漑事業、クナール川から用水路を引いて砂漠を緑地に変えるという事業で4年目ぐらいでした。
感染病の病院の医師として1980年代から仕事をされていて、最終的に灌漑事業に向かいました。
去年の12月4日に襲撃を受けて亡くなられるという悲報に接しました。
尊敬していたので本当にショックを受けました。
まさに中村さんは「国手」(国にそのものを癒すことをいう。)という名に値するようなことをアフガニスタンでなさったと思います。
「クナール川の一滴一滴が泪と化すとき」 という一遍の詩を作りました。
「2007年ナンガルハルの宿舎でお会いしたあなたは温顔を向けて、ゆっくり水路をめぐっていってください、とだけ言った。
苦難に満ちた大事業を成しえた男はあくまで謙虚で、寡黙だった。
柳の枝が川岸にそよぐその長い水路は、コーランにある天上の楽園さながらに
人々の飢えと渇きを癒し流れ続けていた。
この水路が作り出す緑野と涼しい川岸の陰は、戦火に苦しんできた何十万の人たちの命の支えとなる。
ハキーム中村よ、あなたの魂魄は永遠にアフガンの地にとどまって、チャンバルハルの花のように咲き続けるだろう。
2019年12月」
ハキームというのはアラビア語で医者という意味です。
チャンバルハルは藤の木と同じようなマメ科の大木で初夏に黄色い美しい花を咲かせる。
私のなかでは中村さんとチャンバルハルの花が一体となってしまっているような思いです。
中村さんに捧げる演劇も作りました。
タイトルは「チャンバルハルとジャンカラの民」です。
演劇雑誌「テアトロ」の2020年5月号に掲載されています。
編集長の中村みどりさんから要請されて書くようになりました。
いわきに平藩の沢村さんという方がいて中村哲先生とそっくりな方で、干ばつに苦しんでいて、水路を引いて10ケ村で水田を作れるようにした。
妬みからか讒訴して沢村さんは腹を切らされた。
亡くなった翌年に沢村さんを慕って農民が自発的にお寺に集まって彼を偲ぶための念仏を始めた。
これを「ジャンカラ」といういわきでは有名なお祭りです。
私の中で中村先生と沢村さんが繋がって一つのストーリーになったということです。
ディヴィッド・ワーナーさんはもともと障害を持った方で、足が弱くていじめられてつらい目にあったが、優れた絵描きになりました。
1960年代の後半からメキシコの山のなかで、人々の健康つくりのための活動を始めて、その経験をもとに村の人たちと一緒に作った本が「医者のいないところで」という本で
1977年ごろに英語版が出て、世界中で医療の手引書として使われて100ぐらいの言語に訳されて今も使われています。
日本語版を出すことでディヴィッド・ワーナーさんと交流をすることができました。
村のヘルスワーカーへの助言ということで5つ言っています。
①村の人々に親切にしよう。
②あなたの知恵、知識を伝えて村の人たちと共有しよう。
③地域の方たちの伝統とかんがえかたを尊重しよう。
④自分自身の限界を知ろう。
⑤学び続けよう。
2020年7月15日水曜日
立元幸治(作家) ・墓地で出会った珠玉の言葉
立元幸治(作家) ・墓地で出会った珠玉の言葉
「東京霊園物語」、「東京青山霊園物語」、「鎌倉古寺霊園物語」など霊園三部作を現した立本さんがお墓参りをしつつ気になることがあるそうです。
それは墓石群の片隅にひっそりと眠っている無名の人々のお墓に刻まれた言葉だったそうです。
探すとあちこちにあって実にそれが多彩で、出会えば出会うほどそこから熱いメッセージが伝わり、亡くなった方の人生が浮かび上がって来て感動の連続だったといいます。
長い言葉が刻まれた言葉もあるそうです。
広大な墓地で出会った珠玉の言葉の数々を紹介していただきながら、そこに惹かれる立元さんの人生への思いなど語っていただきました。
著名人のお墓を尋ねる過程でどうしても気になるお墓があります。
決して有名な人のお墓ではなくて、お墓に言葉が書かれている。
言葉探しを始めました。
素晴らしい言葉が実は潜んでいるということに気が付きました。
最初「泡沫」という風に書かれたお墓がありました。
何かこの人の思いがあるのではないかと考えました。
最初歩いたのは多摩霊園で広さが128万平方メートル、埋葬者数が41万人ぐらいです。
無名の人たちの墓なのでガイドブックなど何もない。
いろんな言葉に出会いました。
「天晴れて太平洋に雑魚を釣る」
人生という大海に出て、もまれながら生きてきたけれど自分は大物は狙わず雑魚を釣る人生で十分だったという風に聞こえました。
「老いて今過不足もなく古茶入れる」
高齢に達して、自分の人生を振り返ってみると いいこともあったし辛いこともあったが、トータルで見ると実に過不足もなくいい人生であった、というような事です。
辞世の句として彫ってほしいというような場合と、残された人が亡き人の書き残したものから選んでお墓に彫るという二つのことがあると思います。
「ゆるり」
これもびっくりしました。
座右の銘としてあったのではないかと思います。
「Que Sera, Sera」「ケセラセラ」(なるようになるさ)
アルフレッド・ヒッチコック監督による『知りすぎていた男』の主題歌にある。
スペイン語の原語で書かれていました。
どこか力付けられるような言葉です。
辞世の言葉という風なもの。
「一度の人生自分らしく」
自分らしく生きること自体がなかなか難しい時代でなかなか簡単にはいかないが。
「念ずれば花開く」
坂村真民の詩の中にある言葉で、亡き人が残るものに語る言葉として彫ったものと思います。
人間とか人生に対して面白い見方をしたもの
「名月や銭金言わぬ世が恋し」
「人の世の欲を離れてすがすがし、恨み悲しみ苦しみも無し」
「人間という化け物とさようなら」
「人の世の幸不幸は人と人が出会うことから始まる 良き出会いを」
戦争に対して自分の信念を権力に対して決して主張を曲げなかった人の言葉がお墓に刻まれている。
「汝の道を進め 人をして言うに任せよ」・・・?
そのあとに「軍事教練を拒否し、徴兵を忌避し、反侵略戦争を貫き、そして反権力、反差別の戦いと農民運動に心を傾けてきた父、信じた母」・・・?
先の言葉にお嬢さんが書き足して刻まれたもの。
亡き人の人生を物語ると同時に、一つの時代とか世相を物語る重要な証言者とも考えられる。
亡き人を偲び思いをよせる、深い感謝の気持ちなどをうたった、語った言葉。
「名もなくて秋海棠に咲きにけり」・・・?
商社勤務で海外が多く、ようやく定年で妻とともにゆっくりできると思った矢先に突然妻がなくなってしまった。
伴侶を偲ぶ歌はたくさんあります。
「たすきして西瓜を切りし妻なりし」・・・?
「亡き妻を光し夢の試しとき淡き悔いあり何とはなしに」・・・?
子供が先だった心情をうたった、語った言葉
詩
「明るい午後の日差しの中で静かに眠る愛しき子
何を夢見て微笑んで さやさや風が頬を撫でて 5月のあしたに消えました。
愛しき子よ母は願う 高き心に豊かなる愛 いついつまでも忘れないで
朝露光る明け行く空に はかなく消えた一つの命
思い出だけを父母に残して 一人夢園へ 昨夜の星になりました
愛しき子よ母は歌う あの日の午後の子守歌 いついつまでも歌うでしょう
いついつまでも父母の胸に」 ・・・?
1歳で亡くなったが元気な子で、長い歳月を経たけれども今でもその辺にいるような気がしてならないと言っています。
愛情というものは共に過ごした時間には関係ないんだ、たとえ1年であっても変わらぬ愛情があるとその母親が言っていました。
「梅咲けば 遠き世に住む子の元に ・・・(聞き取れず)」・・・?
22歳で夭折した我が子のことを偲ぶ母親が詠んだ歌
「花こぼれなお薫る」・・・?
26歳で早世した子を偲んだ言葉です。
母に対する思いを墓に刻んだものが多いです。
戦争後外地から7人の子供を連れて引き上げてきたが、苦難の道程であった。
それを偲ぶ子供の言葉。
「昭和21年4月16日 台湾において父正夫戦死、昭和22年11月7人の子供を連れて台湾より帰国し苦難の道を無事歩み続けた偉大な母 和子の愛と努力に感謝してこの碑を建立する。」・・・?
その長男の手記の紹介。
辞世の言葉、亡き人を偲ぶ感謝の言葉、死者と残されたものとを結ぶきずなのシンボルとして言葉を刻んだ墓碑があると思っています。
「私のおじいちゃまの墓」と書かれていたが、これには一番感動しました。
子どもの字です。(8歳)
その子を探し当てて話を聞くことができました。(52歳になっている。)
非常なおじいちゃん子でいつも共に過ごしていた。
おじいちゃんが墓を作るから君は字を書くようにと言われたそうです。
生前に墓を作りたくて、それに「私のおじいちゃまの墓」と刻みたいと思ったそうです。
下書きを書いてそれを石材屋さんが墓碑に彫ったそうです。
そのお墓があるだけで、そのあたりが温かい雰囲気が包まれているように私は思います。
非常に豊かな人生を送られた方が結構おられるなと思います。
有名無名で区切っては駄目だと感じます。
*電話によるインタビューのため聞きにくい部分もあり、「・・・?」で記した墓碑の内容も平仮名、漢字が違うかもしれないし、わかりにくいところもあり正確ではないかと思います。
「東京霊園物語」、「東京青山霊園物語」、「鎌倉古寺霊園物語」など霊園三部作を現した立本さんがお墓参りをしつつ気になることがあるそうです。
それは墓石群の片隅にひっそりと眠っている無名の人々のお墓に刻まれた言葉だったそうです。
探すとあちこちにあって実にそれが多彩で、出会えば出会うほどそこから熱いメッセージが伝わり、亡くなった方の人生が浮かび上がって来て感動の連続だったといいます。
長い言葉が刻まれた言葉もあるそうです。
広大な墓地で出会った珠玉の言葉の数々を紹介していただきながら、そこに惹かれる立元さんの人生への思いなど語っていただきました。
著名人のお墓を尋ねる過程でどうしても気になるお墓があります。
決して有名な人のお墓ではなくて、お墓に言葉が書かれている。
言葉探しを始めました。
素晴らしい言葉が実は潜んでいるということに気が付きました。
最初「泡沫」という風に書かれたお墓がありました。
何かこの人の思いがあるのではないかと考えました。
最初歩いたのは多摩霊園で広さが128万平方メートル、埋葬者数が41万人ぐらいです。
無名の人たちの墓なのでガイドブックなど何もない。
いろんな言葉に出会いました。
「天晴れて太平洋に雑魚を釣る」
人生という大海に出て、もまれながら生きてきたけれど自分は大物は狙わず雑魚を釣る人生で十分だったという風に聞こえました。
「老いて今過不足もなく古茶入れる」
高齢に達して、自分の人生を振り返ってみると いいこともあったし辛いこともあったが、トータルで見ると実に過不足もなくいい人生であった、というような事です。
辞世の句として彫ってほしいというような場合と、残された人が亡き人の書き残したものから選んでお墓に彫るという二つのことがあると思います。
「ゆるり」
これもびっくりしました。
座右の銘としてあったのではないかと思います。
「Que Sera, Sera」「ケセラセラ」(なるようになるさ)
アルフレッド・ヒッチコック監督による『知りすぎていた男』の主題歌にある。
スペイン語の原語で書かれていました。
どこか力付けられるような言葉です。
辞世の言葉という風なもの。
「一度の人生自分らしく」
自分らしく生きること自体がなかなか難しい時代でなかなか簡単にはいかないが。
「念ずれば花開く」
坂村真民の詩の中にある言葉で、亡き人が残るものに語る言葉として彫ったものと思います。
人間とか人生に対して面白い見方をしたもの
「名月や銭金言わぬ世が恋し」
「人の世の欲を離れてすがすがし、恨み悲しみ苦しみも無し」
「人間という化け物とさようなら」
「人の世の幸不幸は人と人が出会うことから始まる 良き出会いを」
戦争に対して自分の信念を権力に対して決して主張を曲げなかった人の言葉がお墓に刻まれている。
「汝の道を進め 人をして言うに任せよ」・・・?
そのあとに「軍事教練を拒否し、徴兵を忌避し、反侵略戦争を貫き、そして反権力、反差別の戦いと農民運動に心を傾けてきた父、信じた母」・・・?
先の言葉にお嬢さんが書き足して刻まれたもの。
亡き人の人生を物語ると同時に、一つの時代とか世相を物語る重要な証言者とも考えられる。
亡き人を偲び思いをよせる、深い感謝の気持ちなどをうたった、語った言葉。
「名もなくて秋海棠に咲きにけり」・・・?
商社勤務で海外が多く、ようやく定年で妻とともにゆっくりできると思った矢先に突然妻がなくなってしまった。
伴侶を偲ぶ歌はたくさんあります。
「たすきして西瓜を切りし妻なりし」・・・?
「亡き妻を光し夢の試しとき淡き悔いあり何とはなしに」・・・?
子供が先だった心情をうたった、語った言葉
詩
「明るい午後の日差しの中で静かに眠る愛しき子
何を夢見て微笑んで さやさや風が頬を撫でて 5月のあしたに消えました。
愛しき子よ母は願う 高き心に豊かなる愛 いついつまでも忘れないで
朝露光る明け行く空に はかなく消えた一つの命
思い出だけを父母に残して 一人夢園へ 昨夜の星になりました
愛しき子よ母は歌う あの日の午後の子守歌 いついつまでも歌うでしょう
いついつまでも父母の胸に」 ・・・?
1歳で亡くなったが元気な子で、長い歳月を経たけれども今でもその辺にいるような気がしてならないと言っています。
愛情というものは共に過ごした時間には関係ないんだ、たとえ1年であっても変わらぬ愛情があるとその母親が言っていました。
「梅咲けば 遠き世に住む子の元に ・・・(聞き取れず)」・・・?
22歳で夭折した我が子のことを偲ぶ母親が詠んだ歌
「花こぼれなお薫る」・・・?
26歳で早世した子を偲んだ言葉です。
母に対する思いを墓に刻んだものが多いです。
戦争後外地から7人の子供を連れて引き上げてきたが、苦難の道程であった。
それを偲ぶ子供の言葉。
「昭和21年4月16日 台湾において父正夫戦死、昭和22年11月7人の子供を連れて台湾より帰国し苦難の道を無事歩み続けた偉大な母 和子の愛と努力に感謝してこの碑を建立する。」・・・?
その長男の手記の紹介。
辞世の言葉、亡き人を偲ぶ感謝の言葉、死者と残されたものとを結ぶきずなのシンボルとして言葉を刻んだ墓碑があると思っています。
「私のおじいちゃまの墓」と書かれていたが、これには一番感動しました。
子どもの字です。(8歳)
その子を探し当てて話を聞くことができました。(52歳になっている。)
非常なおじいちゃん子でいつも共に過ごしていた。
おじいちゃんが墓を作るから君は字を書くようにと言われたそうです。
生前に墓を作りたくて、それに「私のおじいちゃまの墓」と刻みたいと思ったそうです。
下書きを書いてそれを石材屋さんが墓碑に彫ったそうです。
そのお墓があるだけで、そのあたりが温かい雰囲気が包まれているように私は思います。
非常に豊かな人生を送られた方が結構おられるなと思います。
有名無名で区切っては駄目だと感じます。
*電話によるインタビューのため聞きにくい部分もあり、「・・・?」で記した墓碑の内容も平仮名、漢字が違うかもしれないし、わかりにくいところもあり正確ではないかと思います。
2020年7月14日火曜日
高山みな子(フリーライター) ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」(初回:2020/5/12)
高山みな子(フリーライター) ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」(初回:2020/5/12)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post_12.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post_12.htmlをご覧ください。
2020年7月13日月曜日
内村周子(体操選手内村航平の母) ・【アスリート誕生物語】(初回:2019/5/6)
内村周子(体操選手内村航平の母) ・【アスリート誕生物語】(初回:2019/5/6)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/05/blog-post_6.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/05/blog-post_6.htmlをご覧ください。
2020年7月12日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】(初回:2020/3/15)
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】(初回:2020/3/15)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/03/blog-post_15.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/03/blog-post_15.htmlをご覧ください。
2020年7月11日土曜日
小松和彦(所長) ・今も生きる妖怪(初回:2012/7/7)
小松和彦(所長)64歳 ・今も生きる妖怪(初回:2012/7/7)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/07/blog-post_8862.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/07/blog-post_8862.htmlをご覧ください。
2020年7月10日金曜日
佐藤いづみ(NPO理事) ・【人生のみちしるべ】絵本は幸せの約束
佐藤いづみ(NPO理事) ・【人生のみちしるべ】絵本は幸せの約束
ブックスタートが日本で始まったのは、ちょうど20年前です。
乳児検診などの会場で地域に生まれたすべての赤ちゃんに絵本を手渡すという取り組みで日本の自治体の60%にまで広がっています。
人数にするとこれまでにおよそ730万人以上の赤ちゃんに絵本をプレゼントしています。
絵本をただ配るのではなくて、赤ちゃんと一緒に絵本を開いてみる楽しい体験も同時にプレゼントするのも特徴です。
佐藤さんは日本出版販売株式会社に入社して2年目だった1999年、海外視察研修でイギリスに行きブックスタートと出会います。
とても感動して日本にも広めたいと思ったといいますが、この20年間佐藤さんの思いが日本各地に広まってゆくためにどんなことが必要だったんでしょうか。
実は2000年という年がその謎を解くキーワードにもなってきます。
2000年は東京上野に国際子供図書館が開館、併せて子ども読書年と国会決議で制定された年でもあります。
それから20年、佐藤さんはNPOブックスタートの理事で、今は子供たちと本をつなぐ活動をアジアに広げてゆくためのプロジェクトにもかかわっています。
結婚し、2人の子の母となりオーストラリア ケアンズで暮らしながら活動を続ける佐藤さんに伺いました。
2006年に家族でオーストラリア ケアンズに移る。
冬ですが、ケアンズは熱帯なので冬でも暖かくて、今も半そでで過ごしています。
熱帯雨林とサンゴ礁がある小さな町です。
学校は3月下中から5月まで6週間ぐらい休校になってしまってオンライン学習になりました。
オーストラリアでは海外渡航は中止になっています。
例年では年に2,3回日本に来たり、ブックスタートの仕事で海外に行きますが、すべて中止になっています。
ブックスタートは乳児検診などの会場に来た一人一人の赤ちゃんに絵本をプレゼントして、家で楽しむことができるということが力強いことですが、もう一つ手渡すときに絵本を開いて、保護者にも赤ちゃんがどう反応するのかとか、どういう楽しみ方があるかとか、実際に楽しさを体験して持ち帰ってもらうということをしています。
まだ何もしゃべれないうちからということで、お母さんの中にはびっくりされる方もいます。
何か感じていることが伝わってきます。
3,4か月で反応するとは思ってもみなかったとか、子どもが声をあげて笑ったところを見て凄く温かい気持ちになりました、といった反応がお母さんがたからありました。
家でも続けてやってみようという風に繋がっていきます。
楽しさを持ち帰ってもらうという風な取り組みです。
イギリスで1992年に取り組み、ブックスタートを日本に初めて紹介することになりました。
会社に入って50周記念に海外で何か勉強してきたいものがあれば、行かしてくれるという企画があり、ブックスタートのことを知って応募しました。
1999年にイギリスに行ってブックスタートのことを凄く詳しく伺うことができました。
貧富の差とかさまざまな環境で生まれる赤ちゃんに本を1,2冊プレゼントすることが大事だということで、親子に体験してもらって渡すことが大事だということを知りました。
活動に対しても熱心に話していただきました。
この活動を日本に対しても伝えたいという強い思いを持って帰ってきました。
2000年が子供読書年ということが国で決まったということで、上野に国際子供図書館が開館することにもなりました。
子供読書年推進会議が立ち上がり、企業、団体などから協力していこうということになりました。
推進会議でブックスタートを立ち上げるということが正式に決まりました。
会社の仕事から離れて推進会議に出向という形を取らせていただきました。
メンバーと改めてもう一度イギリスに研修に出かけました。
ブックスタートを1992年に発案したというウェンディ・クーリングさんにお会いすることができて発案に至る経緯や活動について伺うことができました。
ウェンディさんからじかに絵本を読んでいただき、ブックスタートは赤ちゃんと本をシェアーする活動だといわれました。
そこで生まれる暖かい時間とか愛情を共有するものだということだということを話していただき理解することができました。
その時の体験を大切にしています。
始まって何年間かは出張してブックスタートの活動について伝えていきました。
共感してくださった人が多くて段々立ち上がっていきました。
ボランティアの方たちの応援もありました。
私は埼玉の出身で、本を読むより集めるのが趣味という父親と、母、兄弟の5人家族でした。
小学校に入って椅子に座ったら手を後ろに組むという風に言われて、学校にいけないようなときもありました。
戦争の話の事で嫌な思いをしたこともありました。
小学校の6年生ぐらいになるまで、夜眠る前に必ず母に本を読んでもらっていました。
暖かい声の記憶はどこか自分が生きてゆくときの支えになるような気がします。
絵本、本の力を借りると一気に知識が開けるという感覚があって、テーマが限りなく広がって行くんですね。
本を開くだけで子供と一緒にその新しい世界を体験できて、味わうことができます。
日本では60%の自治体がブックスタートをしていますが、20年かけててここまでひろがってきて、理解を広げながら進んでいきたいと思っています。
ウェンディさんはつい2週間前に亡くなり、宇宙のどこかから私たちを見守っていていただけたらいいなと思っています。
ブックスタートが日本で始まったのは、ちょうど20年前です。
乳児検診などの会場で地域に生まれたすべての赤ちゃんに絵本を手渡すという取り組みで日本の自治体の60%にまで広がっています。
人数にするとこれまでにおよそ730万人以上の赤ちゃんに絵本をプレゼントしています。
絵本をただ配るのではなくて、赤ちゃんと一緒に絵本を開いてみる楽しい体験も同時にプレゼントするのも特徴です。
佐藤さんは日本出版販売株式会社に入社して2年目だった1999年、海外視察研修でイギリスに行きブックスタートと出会います。
とても感動して日本にも広めたいと思ったといいますが、この20年間佐藤さんの思いが日本各地に広まってゆくためにどんなことが必要だったんでしょうか。
実は2000年という年がその謎を解くキーワードにもなってきます。
2000年は東京上野に国際子供図書館が開館、併せて子ども読書年と国会決議で制定された年でもあります。
それから20年、佐藤さんはNPOブックスタートの理事で、今は子供たちと本をつなぐ活動をアジアに広げてゆくためのプロジェクトにもかかわっています。
結婚し、2人の子の母となりオーストラリア ケアンズで暮らしながら活動を続ける佐藤さんに伺いました。
2006年に家族でオーストラリア ケアンズに移る。
冬ですが、ケアンズは熱帯なので冬でも暖かくて、今も半そでで過ごしています。
熱帯雨林とサンゴ礁がある小さな町です。
学校は3月下中から5月まで6週間ぐらい休校になってしまってオンライン学習になりました。
オーストラリアでは海外渡航は中止になっています。
例年では年に2,3回日本に来たり、ブックスタートの仕事で海外に行きますが、すべて中止になっています。
ブックスタートは乳児検診などの会場に来た一人一人の赤ちゃんに絵本をプレゼントして、家で楽しむことができるということが力強いことですが、もう一つ手渡すときに絵本を開いて、保護者にも赤ちゃんがどう反応するのかとか、どういう楽しみ方があるかとか、実際に楽しさを体験して持ち帰ってもらうということをしています。
まだ何もしゃべれないうちからということで、お母さんの中にはびっくりされる方もいます。
何か感じていることが伝わってきます。
3,4か月で反応するとは思ってもみなかったとか、子どもが声をあげて笑ったところを見て凄く温かい気持ちになりました、といった反応がお母さんがたからありました。
家でも続けてやってみようという風に繋がっていきます。
楽しさを持ち帰ってもらうという風な取り組みです。
イギリスで1992年に取り組み、ブックスタートを日本に初めて紹介することになりました。
会社に入って50周記念に海外で何か勉強してきたいものがあれば、行かしてくれるという企画があり、ブックスタートのことを知って応募しました。
1999年にイギリスに行ってブックスタートのことを凄く詳しく伺うことができました。
貧富の差とかさまざまな環境で生まれる赤ちゃんに本を1,2冊プレゼントすることが大事だということで、親子に体験してもらって渡すことが大事だということを知りました。
活動に対しても熱心に話していただきました。
この活動を日本に対しても伝えたいという強い思いを持って帰ってきました。
2000年が子供読書年ということが国で決まったということで、上野に国際子供図書館が開館することにもなりました。
子供読書年推進会議が立ち上がり、企業、団体などから協力していこうということになりました。
推進会議でブックスタートを立ち上げるということが正式に決まりました。
会社の仕事から離れて推進会議に出向という形を取らせていただきました。
メンバーと改めてもう一度イギリスに研修に出かけました。
ブックスタートを1992年に発案したというウェンディ・クーリングさんにお会いすることができて発案に至る経緯や活動について伺うことができました。
ウェンディさんからじかに絵本を読んでいただき、ブックスタートは赤ちゃんと本をシェアーする活動だといわれました。
そこで生まれる暖かい時間とか愛情を共有するものだということだということを話していただき理解することができました。
その時の体験を大切にしています。
始まって何年間かは出張してブックスタートの活動について伝えていきました。
共感してくださった人が多くて段々立ち上がっていきました。
ボランティアの方たちの応援もありました。
私は埼玉の出身で、本を読むより集めるのが趣味という父親と、母、兄弟の5人家族でした。
小学校に入って椅子に座ったら手を後ろに組むという風に言われて、学校にいけないようなときもありました。
戦争の話の事で嫌な思いをしたこともありました。
小学校の6年生ぐらいになるまで、夜眠る前に必ず母に本を読んでもらっていました。
暖かい声の記憶はどこか自分が生きてゆくときの支えになるような気がします。
絵本、本の力を借りると一気に知識が開けるという感覚があって、テーマが限りなく広がって行くんですね。
本を開くだけで子供と一緒にその新しい世界を体験できて、味わうことができます。
日本では60%の自治体がブックスタートをしていますが、20年かけててここまでひろがってきて、理解を広げながら進んでいきたいと思っています。
ウェンディさんはつい2週間前に亡くなり、宇宙のどこかから私たちを見守っていていただけたらいいなと思っています。
2020年7月9日木曜日
石 弘之(環境史家・ジャーナリスト) ・環境破壊が感染症を生んだ
石 弘之(環境史家・ジャーナリスト) ・環境破壊が感染症を生んだ
石さんは東京都の生まれ、80歳、朝日新聞科学部記者を務め、退職後は国連環境計画上級顧問や東京大学大学院教授なども務め、50年以上にわたって環境問題に取り組んできました。
新型コロナウイルスやエイズ、エボラ出血熱などの感染症も環境問題の一つと考える石さんに伺いました。
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大、いつかこんな事態が来るんだろうなあと漠然と予想していましたが、まさかこんな状態になるとは思いませんでした。
30年から40年ごとにやってきます。
1980年代からエイズが世界的にはやったが、そろそろ来るんではないかと思っていました。
経済活動が停滞して環境としてはこの50年でこんな素晴らしい環境は経験しなかったです。
逆に言うと人間はいかに環境にプレッシャーを掛けてきたのかなあと思います。
中国の大気汚染は25%ぐらい下がったといわれます。
自動車の大気汚染、水質汚染、海もきれいになったといわれています。
二酸化炭素も5%以上下がりそうです。
新型コロナウイルスに収束は3通り考えられています。
①このままずるずる広がっていって、新しいワクチン、治療薬ができるまでは減ったり増えたりすることが続くのではないか。
20近くのワクチン開発が進んでいるが決定的な成果は上がっていない。
②ウイルスも子孫を残すために感染しているので、人間が死なれても困るので、自分自身が弱くなってゆく傾向にある。
スペイン風邪は数千万人亡くなったといわれているが、インフルエンザも段々と弱まってきている。
インフルエンザは冬場だけ流行するような形になっている。
ウイルスは遺伝子が変化してゆき、強くなってゆく一方で弱くなってゆくものもある。
新型コロナウイルスはSARS(重症急性呼吸器症候群: severe acute respiratory syndrome)とは96%ぐらい遺伝子が同じだといわれていて、2004年になったらサーズは毒性がなくなってしまった。
発生から170日後に終息宣言ができた、まれなことでした。
③6割、7割が感染してしまえばワクチンを打ったような効果があって広がらないという効果があって過去にも度々起きてきたので、そうなるのではないかという希望があるが、それまでになるのにはかなりの犠牲者が出ることは覚悟しなくてはいけない。
環境がどのように変わってきたのか、それが人間にどのような影響を及ぼしてきたのか、それを研究しています。
自然災害と、エネルギー消費、資源廃棄、森林伐採など含め人間自身によっても大きく変わってきた。
感染症の歴史のなかでどのような環境とのかかわりがあるかということが私が一番関心を持っています。
ペストはヨーロッパの人口の1/4から1/3減ってしまったといわれている。
人口減少で封建経済の崩壊、街をみんな逃げだしてルネッサンスが起きる、教会でお祈りしたが神様は助けてくれなかったので、宗教改革につながる。
そのころ14世紀は地球が急に寒冷化した証拠がある。
沢山の人が死んだので農地、都市が放置されて、森林が戻ってきて地球の冷却が起きてきた。
過去に流行った感染症500ぐらいをどう言う場所で最初に感染が始まったのかを研究したものがあります。
急に森林が破壊された場所、都市が勃興したところ、工業地帯ができたところ、短時間に環境が変わったところで感染症が発生した可能性が極めて高いという報告書を出している。
エボラ出血熱は西アフリカで1万人を超える人が死んだが、あまりにも悲惨な死に方なので調べたことがありました。
西アフリカは熱帯林の沢山ある国だったが、最近急激に森林破壊され、人間が住み込んでいって開墾していったので発生したらしい。
元々は蝙蝠が持っていたウイルスで、ジャングルが破壊されたのでやむなく街に出てきた。
人間、家畜なりにうつすという筋書きになっている。
中国の雲南省の蝙蝠が持っていたウイルスが何らかの形で、武漢省にでてきたと思われる。
仲介者がセンザンコウという鱗だらけの哺乳動物とジャコウネコが候補に挙がっている。
彼らが持っているウイルスと蝙蝠が持っているウイルスと似ているんです。
闇ルートで市場に持ち込まれて、市場の周辺の人がかかったものと思われる。
子どものころから生き物が好きで植物が大好きでした。
近所の植物が好きなおばちゃんに連れられて、牧野富太郎とう有名な植物学者のところに行き来していました。
そこで植物に熱を上げました。
野山を歩きながら花の名前、来歴などを学びました。
大学は生物学を学びました。
安保闘争の時代で混乱して学校にいけなくて、緊急避難的に新聞記者になりました。(昭和40年)
静岡に赴任しました。
静岡では廃液を海に流していて、海がひどいし悪臭がして、ひどいのでキャンペーンを始めたのが環境問題のとっかかりでした。
警察周りも駄目で、ルールもよくわからなくて高校野球の取材も駄目でした。
暇ネタ環境問題しかなかった。
科学部に行き海外にも行くようになりました。
ニューヨーク特派員、アフリカ駐在編集員、国連環境計画の顧問もやりました。
1996年に退社しました。(早期退職要請があった。)
地球環境のことを書いたりしゃべったりしていたのでそれで飯が食えるのではないかと思いました。
アフリカの悲惨な状況があって、木がすごい勢いで伐採され人口爆発があり環境破壊がありました。
環境問題をやるにはアフリカをやらなければと思い立ちました。
アフリカから帰ってきたころから身体が衰えてきて、現場を抜けてどう環境問題に取り組むかということで、グループを作って環境問題に取り組みました。
135か国ぐらい行きましたが、講演したり、仕事をした国は100か国ぐらいだと思います。
さまざまな感染症にもかかりましたが、マラリヤが一番厳しくて、40℃の熱になり、倒れて又治って、4回ぐらいかかりましたが3,4回目は症状が軽くなります。
コレラにもかかりました、トイレから出られないような感じでした。
新型コロナウイルスの件で中国にも行きました。
市場にも行きましたが、蛇、亀、珍しいものでは孔雀などいました、ペット屋さんに行ったような感じです。
中国は多様な生物が生息しており、ありとあらゆる動物、植物はウイルスを持っているので逃れることはできないので、ウイルスも多様性がある。
これまでもいろんなインフルエンザが出てきているが、ほとんどは中国が原産地です。
カモ、アヒルは同族でアヒルは中国ではどこでも飼っていて、カモからアヒルへ、そして豚へ人間へと連鎖が出来上がっている。
中国の武漢ウイルス研究所からの論文で、コロナウイルスの仲間で今回の新型コロナウイルスに似ているものは50数種類は見つかっているということです。
彼らは次の候補者なんです。
20世紀はインフルエンザウイルスがいろいろ姿を変えてインフルエンザウイルスの時代だったと思います。
21世紀はコロナウイルスが猛威を振るうのではないかと思います。
アフリカからも出てくると思います。
アフリカは防疫体制ができていないので爆発的に増える可能性があります。
ウイルスは共存してゆくと思う、人間とウイルスとの軍拡競争のような感じで、ワクチン開発とウイルスの遺伝子変化が競ってゆくのではないかと思います。
ウイルスと環境との関係をさらに研究しないといけない。
経験的には環境をいじくりまわすとおかしなものが出てくるということだと思います。
地球の生態系からウイルスを排除したとしても、又なにか起きるかもしれない。
石さんは東京都の生まれ、80歳、朝日新聞科学部記者を務め、退職後は国連環境計画上級顧問や東京大学大学院教授なども務め、50年以上にわたって環境問題に取り組んできました。
新型コロナウイルスやエイズ、エボラ出血熱などの感染症も環境問題の一つと考える石さんに伺いました。
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大、いつかこんな事態が来るんだろうなあと漠然と予想していましたが、まさかこんな状態になるとは思いませんでした。
30年から40年ごとにやってきます。
1980年代からエイズが世界的にはやったが、そろそろ来るんではないかと思っていました。
経済活動が停滞して環境としてはこの50年でこんな素晴らしい環境は経験しなかったです。
逆に言うと人間はいかに環境にプレッシャーを掛けてきたのかなあと思います。
中国の大気汚染は25%ぐらい下がったといわれます。
自動車の大気汚染、水質汚染、海もきれいになったといわれています。
二酸化炭素も5%以上下がりそうです。
新型コロナウイルスに収束は3通り考えられています。
①このままずるずる広がっていって、新しいワクチン、治療薬ができるまでは減ったり増えたりすることが続くのではないか。
20近くのワクチン開発が進んでいるが決定的な成果は上がっていない。
②ウイルスも子孫を残すために感染しているので、人間が死なれても困るので、自分自身が弱くなってゆく傾向にある。
スペイン風邪は数千万人亡くなったといわれているが、インフルエンザも段々と弱まってきている。
インフルエンザは冬場だけ流行するような形になっている。
ウイルスは遺伝子が変化してゆき、強くなってゆく一方で弱くなってゆくものもある。
新型コロナウイルスはSARS(重症急性呼吸器症候群: severe acute respiratory syndrome)とは96%ぐらい遺伝子が同じだといわれていて、2004年になったらサーズは毒性がなくなってしまった。
発生から170日後に終息宣言ができた、まれなことでした。
③6割、7割が感染してしまえばワクチンを打ったような効果があって広がらないという効果があって過去にも度々起きてきたので、そうなるのではないかという希望があるが、それまでになるのにはかなりの犠牲者が出ることは覚悟しなくてはいけない。
環境がどのように変わってきたのか、それが人間にどのような影響を及ぼしてきたのか、それを研究しています。
自然災害と、エネルギー消費、資源廃棄、森林伐採など含め人間自身によっても大きく変わってきた。
感染症の歴史のなかでどのような環境とのかかわりがあるかということが私が一番関心を持っています。
ペストはヨーロッパの人口の1/4から1/3減ってしまったといわれている。
人口減少で封建経済の崩壊、街をみんな逃げだしてルネッサンスが起きる、教会でお祈りしたが神様は助けてくれなかったので、宗教改革につながる。
そのころ14世紀は地球が急に寒冷化した証拠がある。
沢山の人が死んだので農地、都市が放置されて、森林が戻ってきて地球の冷却が起きてきた。
過去に流行った感染症500ぐらいをどう言う場所で最初に感染が始まったのかを研究したものがあります。
急に森林が破壊された場所、都市が勃興したところ、工業地帯ができたところ、短時間に環境が変わったところで感染症が発生した可能性が極めて高いという報告書を出している。
エボラ出血熱は西アフリカで1万人を超える人が死んだが、あまりにも悲惨な死に方なので調べたことがありました。
西アフリカは熱帯林の沢山ある国だったが、最近急激に森林破壊され、人間が住み込んでいって開墾していったので発生したらしい。
元々は蝙蝠が持っていたウイルスで、ジャングルが破壊されたのでやむなく街に出てきた。
人間、家畜なりにうつすという筋書きになっている。
中国の雲南省の蝙蝠が持っていたウイルスが何らかの形で、武漢省にでてきたと思われる。
仲介者がセンザンコウという鱗だらけの哺乳動物とジャコウネコが候補に挙がっている。
彼らが持っているウイルスと蝙蝠が持っているウイルスと似ているんです。
闇ルートで市場に持ち込まれて、市場の周辺の人がかかったものと思われる。
子どものころから生き物が好きで植物が大好きでした。
近所の植物が好きなおばちゃんに連れられて、牧野富太郎とう有名な植物学者のところに行き来していました。
そこで植物に熱を上げました。
野山を歩きながら花の名前、来歴などを学びました。
大学は生物学を学びました。
安保闘争の時代で混乱して学校にいけなくて、緊急避難的に新聞記者になりました。(昭和40年)
静岡に赴任しました。
静岡では廃液を海に流していて、海がひどいし悪臭がして、ひどいのでキャンペーンを始めたのが環境問題のとっかかりでした。
警察周りも駄目で、ルールもよくわからなくて高校野球の取材も駄目でした。
暇ネタ環境問題しかなかった。
科学部に行き海外にも行くようになりました。
ニューヨーク特派員、アフリカ駐在編集員、国連環境計画の顧問もやりました。
1996年に退社しました。(早期退職要請があった。)
地球環境のことを書いたりしゃべったりしていたのでそれで飯が食えるのではないかと思いました。
アフリカの悲惨な状況があって、木がすごい勢いで伐採され人口爆発があり環境破壊がありました。
環境問題をやるにはアフリカをやらなければと思い立ちました。
アフリカから帰ってきたころから身体が衰えてきて、現場を抜けてどう環境問題に取り組むかということで、グループを作って環境問題に取り組みました。
135か国ぐらい行きましたが、講演したり、仕事をした国は100か国ぐらいだと思います。
さまざまな感染症にもかかりましたが、マラリヤが一番厳しくて、40℃の熱になり、倒れて又治って、4回ぐらいかかりましたが3,4回目は症状が軽くなります。
コレラにもかかりました、トイレから出られないような感じでした。
新型コロナウイルスの件で中国にも行きました。
市場にも行きましたが、蛇、亀、珍しいものでは孔雀などいました、ペット屋さんに行ったような感じです。
中国は多様な生物が生息しており、ありとあらゆる動物、植物はウイルスを持っているので逃れることはできないので、ウイルスも多様性がある。
これまでもいろんなインフルエンザが出てきているが、ほとんどは中国が原産地です。
カモ、アヒルは同族でアヒルは中国ではどこでも飼っていて、カモからアヒルへ、そして豚へ人間へと連鎖が出来上がっている。
中国の武漢ウイルス研究所からの論文で、コロナウイルスの仲間で今回の新型コロナウイルスに似ているものは50数種類は見つかっているということです。
彼らは次の候補者なんです。
20世紀はインフルエンザウイルスがいろいろ姿を変えてインフルエンザウイルスの時代だったと思います。
21世紀はコロナウイルスが猛威を振るうのではないかと思います。
アフリカからも出てくると思います。
アフリカは防疫体制ができていないので爆発的に増える可能性があります。
ウイルスは共存してゆくと思う、人間とウイルスとの軍拡競争のような感じで、ワクチン開発とウイルスの遺伝子変化が競ってゆくのではないかと思います。
ウイルスと環境との関係をさらに研究しないといけない。
経験的には環境をいじくりまわすとおかしなものが出てくるということだと思います。
地球の生態系からウイルスを排除したとしても、又なにか起きるかもしれない。
2020年7月8日水曜日
西原伸行(映写ボランティア) ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆
西原伸行(映写ボランティア) ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆
西原さんは定年退職を控えた20年前、仕事ばかりだった人生を変えようと16mm映写機操作技術養成講座を受講し技術を習得しました。
以来学校や福祉施設を回りボランティアで映画の出前で上映会を続けています。
その数はこの17年間で6000回を超えました。
仕事人間だったという西原さんが映写ボランティアを通して地域とともに歩む第二の人生について伺いました。
いまはコロナの関係で学校、高齢者施設、上映会などは中止になっています。
私一人なので子どもの家と保育園、知的障害者社施設には一部行っています。
17年間で個人的なもので6300回ぐらいになります。
グループで行っているものを加えると7000回近くになると思います。
会社人間で土、日でも会社に行っていて近所付き合いが全然ありませんでした。
定年を迎えてどうなるんだろうと思いました。
ある時に宇都宮高校で映写機操作技術養成講座があり、機械いじりが好きだったので2000年の時に受講して、独り立ちしたのが平成15年の6月でした。
遠方を紹介されたりしているうちに段々広がっていきました。
映写機は8mm、16mm、35mmがあり16mmはどこにでも持って行って上映できるタイプです。(映画館は35mm)
30分のものを上映するにはフィルムの長さは350mぐらいになります。
1秒間に24コマになっています。
フィルムの良さは画面が柔らかいです。
VDVだと走っている画面などは粗いですね。
音についてはデジタルのほうがいいですね。
子どもたちは入ってくるときにはざわつきます。
映画が始まるとシーンとして、見た子供たちは一様にびっくりします。
先生が読み聞かせをやっても、あっち向いたりこっち向いたりしていたそうですが。
子どもたちは惹きつけられるものがあるようです。
障害者の福祉施設などにも行っていますが、特に内容を変えるということはないです。
認知症の関する知識が必要だと思って、3日間の研修コースがあり、そこで声を掛けられて知的障害の人の映写会をすることにもなりました。
上映するにあたり最初いろんなことも考えましたが特に問題なくやっています。
朝10kmを走っていましたが、ある時1kmぐらいして胸が苦しくなって、心電図、MRIなど撮ってもらったら、年のせいだよと言われてしまいました。
妻が紹介した病院に行って、念のために心電図をとってもらったら、「駄目だこれは」と言われてしまいました。
冠状動脈が3本あるうちの2本が詰まっているといわれてしまいました。
直ぐ手術することになり、いまはそれから16年たちましたが、問題なく過ごしています。
身体障害者4級になっています。
「ボランティアだから出しても入るほうのお金はないよ」といった時に、「残り少ない人生だから、好きにすれば」と言ってくれた妻と子供の言葉には今でも感謝しています。
それがなかったら辞めていますよ。
「施しても報いを願わず、受けて恩を忘れず」ということわざがありますが、これをモットーにしています。
映画会もやってあげるではなくて、やらせていただいているという気持ちで生きています。
後2000回やろうとか3000回やろうとかはないです、今日一日を大切にして一回一回やろうと思っています。
空き缶を集めて障害者施設に車椅子を贈ったという話がありますが、「ポコアポコ」という題名の映画で一歩一歩ゆっくり進もうということなんですが、実話の話でそれが一番印象に残っています。
*「ポコアポコ」:大阪府に住む福井千佳子さんが、障害を持ちながら、空き缶をひろってそれをお金に替えそのお金で、お年寄りに車いすを5年間に100台も贈った、心温まる実話の映画化です。
西原さんは定年退職を控えた20年前、仕事ばかりだった人生を変えようと16mm映写機操作技術養成講座を受講し技術を習得しました。
以来学校や福祉施設を回りボランティアで映画の出前で上映会を続けています。
その数はこの17年間で6000回を超えました。
仕事人間だったという西原さんが映写ボランティアを通して地域とともに歩む第二の人生について伺いました。
いまはコロナの関係で学校、高齢者施設、上映会などは中止になっています。
私一人なので子どもの家と保育園、知的障害者社施設には一部行っています。
17年間で個人的なもので6300回ぐらいになります。
グループで行っているものを加えると7000回近くになると思います。
会社人間で土、日でも会社に行っていて近所付き合いが全然ありませんでした。
定年を迎えてどうなるんだろうと思いました。
ある時に宇都宮高校で映写機操作技術養成講座があり、機械いじりが好きだったので2000年の時に受講して、独り立ちしたのが平成15年の6月でした。
遠方を紹介されたりしているうちに段々広がっていきました。
映写機は8mm、16mm、35mmがあり16mmはどこにでも持って行って上映できるタイプです。(映画館は35mm)
30分のものを上映するにはフィルムの長さは350mぐらいになります。
1秒間に24コマになっています。
フィルムの良さは画面が柔らかいです。
VDVだと走っている画面などは粗いですね。
音についてはデジタルのほうがいいですね。
子どもたちは入ってくるときにはざわつきます。
映画が始まるとシーンとして、見た子供たちは一様にびっくりします。
先生が読み聞かせをやっても、あっち向いたりこっち向いたりしていたそうですが。
子どもたちは惹きつけられるものがあるようです。
障害者の福祉施設などにも行っていますが、特に内容を変えるということはないです。
認知症の関する知識が必要だと思って、3日間の研修コースがあり、そこで声を掛けられて知的障害の人の映写会をすることにもなりました。
上映するにあたり最初いろんなことも考えましたが特に問題なくやっています。
朝10kmを走っていましたが、ある時1kmぐらいして胸が苦しくなって、心電図、MRIなど撮ってもらったら、年のせいだよと言われてしまいました。
妻が紹介した病院に行って、念のために心電図をとってもらったら、「駄目だこれは」と言われてしまいました。
冠状動脈が3本あるうちの2本が詰まっているといわれてしまいました。
直ぐ手術することになり、いまはそれから16年たちましたが、問題なく過ごしています。
身体障害者4級になっています。
「ボランティアだから出しても入るほうのお金はないよ」といった時に、「残り少ない人生だから、好きにすれば」と言ってくれた妻と子供の言葉には今でも感謝しています。
それがなかったら辞めていますよ。
「施しても報いを願わず、受けて恩を忘れず」ということわざがありますが、これをモットーにしています。
映画会もやってあげるではなくて、やらせていただいているという気持ちで生きています。
後2000回やろうとか3000回やろうとかはないです、今日一日を大切にして一回一回やろうと思っています。
空き缶を集めて障害者施設に車椅子を贈ったという話がありますが、「ポコアポコ」という題名の映画で一歩一歩ゆっくり進もうということなんですが、実話の話でそれが一番印象に残っています。
*「ポコアポコ」:大阪府に住む福井千佳子さんが、障害を持ちながら、空き缶をひろってそれをお金に替えそのお金で、お年寄りに車いすを5年間に100台も贈った、心温まる実話の映画化です。
2020年7月7日火曜日
古関正裕(ミュージシャン) ・父の音楽を受け継ぐ
古関正裕(ミュージシャン) ・父の音楽を受け継ぐ
古関さんは昭和21年東京生まれ。
ご両親は今放送中の朝の連続TV小説「エール」のモデル、作曲家の古関 裕而さん、声楽家の金子さんご夫妻です。
正裕さんは高校時代はバンド活動に熱中し、父親の音楽にはあまり関心がありませんでした。
大学も理科系に進み卒業後は新聞社に勤務します。
しかし52歳で早期退職してからは再び音楽に向き合い 7年前から父親の音楽の世界を広めたいとライブ活動に取り組んでいます。
連続TV小説「エール」はコメディータッチで面白いと思っています。
ドラマの中のほうがちょっと気が弱そうかなあと思っています。
逆境に強いタイプです。
私は父親似であると周りから言われますが、母にも似ているともいわれます。
若いころバンド活動をやっていましたが、父の曲は関心がなかったですが、こういった歳になると、前にやっていたボーカルの人からお父さんの曲を専門にやるユニットをやりましょうと言われて始めました。
ユニットは「喜多三」という名前にしました。
家は8代続いた呉服屋「喜多三」です。
祖父は多趣味だったようで芸事が好きでした。
当時は珍しかった蓄音機を買ったりしていました。
しょっちゅうレコードをかけていたようです。
ユニットを始めたのは60代半ば過ぎからでした。
「幸子の子守歌」 幸子は私の娘ですが、娘のために父が子守歌としてオルゴールでメロディーだけを聞かせていました。
*「幸子の子守歌」 作詞:古関正裕 鈴木聖子 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
孫は二人とも音楽、ヴァイオリンをやったりしています。
「君はるか」という本の出版をしました。
実際には10年以上前に書きました。
両親の手紙(ラブレター)などを読み始めたら若い男女の文通、夢とかいろいろ浮き彫りになってきて、本にして生誕100年に間に合わせようとしたが、間に合わなくて棚上げ状態になって、ドラマにしたらいいんじゃないかということになり朝ドラの誘致活動につながっていきました。
父にはファンレターなどもたくさん来ていました。
最初は母が新聞を読んで手紙を父に出して、文通が始まり、周りでは音楽に対する興味がある人がなく、二人の文通は深まり繰り返されていきました。
文通を初めて4か月ぐらいしてから会うことになり、会った瞬間に二人の気持ちは一つになっていきました。
結婚は昭和5年で、父が20歳、母が18歳の時でした。
コロンビアレコードに入社、流行歌になじめず作曲に悩む時期もあったが次々にヒット曲が生まれ、約5000曲を作曲、ジャンルも広いです。
*「いつだったかな」 作曲:古関 裕而 歌:越路吹雪
越路吹雪が退団してコロンビアの専属になり初めてだした、シャンソンっぽい曲。
書斎で譜面におこしていて、頭のなかには曲が浮かんでいたような感じでした。
両親は音楽家になってくれたらうれしいとは思っていたようですが、押し付けるような言葉はありませんでした。
母は子育てのために音楽は辞めたというような事は言っていましたが。
改めて父の音楽と向き合ってジャンルの広さに圧倒されます。
*「今日はよい日」 作詞:西條八十 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
この曲だけレコードにはなっていなかった。
古関さんは昭和21年東京生まれ。
ご両親は今放送中の朝の連続TV小説「エール」のモデル、作曲家の古関 裕而さん、声楽家の金子さんご夫妻です。
正裕さんは高校時代はバンド活動に熱中し、父親の音楽にはあまり関心がありませんでした。
大学も理科系に進み卒業後は新聞社に勤務します。
しかし52歳で早期退職してからは再び音楽に向き合い 7年前から父親の音楽の世界を広めたいとライブ活動に取り組んでいます。
連続TV小説「エール」はコメディータッチで面白いと思っています。
ドラマの中のほうがちょっと気が弱そうかなあと思っています。
逆境に強いタイプです。
私は父親似であると周りから言われますが、母にも似ているともいわれます。
若いころバンド活動をやっていましたが、父の曲は関心がなかったですが、こういった歳になると、前にやっていたボーカルの人からお父さんの曲を専門にやるユニットをやりましょうと言われて始めました。
ユニットは「喜多三」という名前にしました。
家は8代続いた呉服屋「喜多三」です。
祖父は多趣味だったようで芸事が好きでした。
当時は珍しかった蓄音機を買ったりしていました。
しょっちゅうレコードをかけていたようです。
ユニットを始めたのは60代半ば過ぎからでした。
「幸子の子守歌」 幸子は私の娘ですが、娘のために父が子守歌としてオルゴールでメロディーだけを聞かせていました。
*「幸子の子守歌」 作詞:古関正裕 鈴木聖子 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
孫は二人とも音楽、ヴァイオリンをやったりしています。
「君はるか」という本の出版をしました。
実際には10年以上前に書きました。
両親の手紙(ラブレター)などを読み始めたら若い男女の文通、夢とかいろいろ浮き彫りになってきて、本にして生誕100年に間に合わせようとしたが、間に合わなくて棚上げ状態になって、ドラマにしたらいいんじゃないかということになり朝ドラの誘致活動につながっていきました。
父にはファンレターなどもたくさん来ていました。
最初は母が新聞を読んで手紙を父に出して、文通が始まり、周りでは音楽に対する興味がある人がなく、二人の文通は深まり繰り返されていきました。
文通を初めて4か月ぐらいしてから会うことになり、会った瞬間に二人の気持ちは一つになっていきました。
結婚は昭和5年で、父が20歳、母が18歳の時でした。
コロンビアレコードに入社、流行歌になじめず作曲に悩む時期もあったが次々にヒット曲が生まれ、約5000曲を作曲、ジャンルも広いです。
*「いつだったかな」 作曲:古関 裕而 歌:越路吹雪
越路吹雪が退団してコロンビアの専属になり初めてだした、シャンソンっぽい曲。
書斎で譜面におこしていて、頭のなかには曲が浮かんでいたような感じでした。
両親は音楽家になってくれたらうれしいとは思っていたようですが、押し付けるような言葉はありませんでした。
母は子育てのために音楽は辞めたというような事は言っていましたが。
改めて父の音楽と向き合ってジャンルの広さに圧倒されます。
*「今日はよい日」 作詞:西條八十 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
この曲だけレコードにはなっていなかった。
2020年7月6日月曜日
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子(初回:2020/5/4)
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子(初回:2020/5/4)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post.htmlをご覧ください。
2020年7月5日日曜日
上田みゆき(声優) ・【時代を創った声】
上田みゆき(声優) ・【時代を創った声】
上田さんは子役出身です。
ロボットアニメ、超電磁ロボ コン・バトラーV、超電磁マシーン ボルテスV、劇場版宇宙戦艦ヤマトのテレサ役など、多くのキャラクターを演じてきました。
夫はアニメソング歌手の佐々木功さんです。
およそ40年前子どもを連れて再婚したことでも注目されました。
10歳の時にニッポン放送のラジオ番組『ポッポちゃん』で子役としてデビュー。
3000人の中からのオーディションで選ばれました。
モダンバレエに幼稚園から通っていて、そこで募集があるということで母が応募してオーディションにいくことになりました。
劇も歌もほとんどやったことがなくて受かるとは思っていませんでいた。
自然体だったことがよかったのかもしれません。
TVの「青空通り」というホームドラマがあり、そのあとがTVドラマの『少年探偵団』でした。
それまでは声だけでしたが、身体を使うことになりましたが、モダンバレエをやっていたのであまり違和感はありませんでした。
『ポッポちゃん』で子役をやっていたころには松島トモ子さんらとともに少女雑誌にもよく出ることがありました。
『少年探偵団』が終わるころに日大の芸術学部の放送学科に入りました。
新劇の話を聞いているうちに芝居が好きになり、自分の生き方が違うのかなあと思い出してそろそろ結婚ということも考えたりして、代々医者の家系だったのでお見合いの話がありましたが、劇団NLTの俳優教室に入って研究生になりました。
こんなに楽しいという思いがあり欲が出てきました。
洋画の吹き替えなどもさせていただきました。
劇団にいながら声優の仕事もしていました。
アニメは大学1,2年のころのエイトマンのサチ子さんとか、鉄腕アトムとかもありました。
声を出すことが大好きで、小学校4年のころにテープレコーダーを買ってもらって、自分でラジオドラマを作ってやったりしていました。
アニメは台本と絵を見ながらやっていて、自分でイメージを膨らませてゆくことができることが出来るので面白いです。
吹き替えは内容的な雰囲気などを壊してしまうといけないので、あくまで合わせるようにします。
劇団でいきなり主役になり、欲が出てきて、陰に日向に応援してくれたのが劇団の先輩で、この人だったらという思いがあり結婚しました。
子どもが生まれて、芝居もやりたいということもあり、不器用な性格なのでどちらを取るかというと子どもを選ぶことになると思いながらやっていましたが、いろいろな病気を抱えてしまって、子どもを連れて父のところに入院して実家に戻りました。
家庭に対する考え方が夫とは違ってきて、父からは好きな仕事をやったほうがいいのではないかと言われて、どんどんアニメのレギュラーの話とか吹き替えの話が来て、やっているうちに元気になりました。
宇宙戦艦ヤマトのテレサをやることになり、ガッチャマンで佐々木と会うようになり、悪ぶっている不思議な人でした。
私も意識し始めて1981年に佐々木と再婚することになりました。
佐々木は中学1年生、こちらは少学4年生を連れての再婚でした。
一つ家に住むようになると長男としては1/3になってしまったような気がしたんだと思うんですね、その辛さが、二人でいるときに私の息子をいじめるという形になってしまいました。
息子は段々暗くなってきて、いろいろと大変な時期がありました。
来年結婚40年になりますが、10年ぐらいしかたっていないような感じです。
意地というか欲は大事だと思います。
そのためには踊ること、声を出すこと、が大事だと思いますが、今の若い人はいろいろできると思います。
上田さんは子役出身です。
ロボットアニメ、超電磁ロボ コン・バトラーV、超電磁マシーン ボルテスV、劇場版宇宙戦艦ヤマトのテレサ役など、多くのキャラクターを演じてきました。
夫はアニメソング歌手の佐々木功さんです。
およそ40年前子どもを連れて再婚したことでも注目されました。
10歳の時にニッポン放送のラジオ番組『ポッポちゃん』で子役としてデビュー。
3000人の中からのオーディションで選ばれました。
モダンバレエに幼稚園から通っていて、そこで募集があるということで母が応募してオーディションにいくことになりました。
劇も歌もほとんどやったことがなくて受かるとは思っていませんでいた。
自然体だったことがよかったのかもしれません。
TVの「青空通り」というホームドラマがあり、そのあとがTVドラマの『少年探偵団』でした。
それまでは声だけでしたが、身体を使うことになりましたが、モダンバレエをやっていたのであまり違和感はありませんでした。
『ポッポちゃん』で子役をやっていたころには松島トモ子さんらとともに少女雑誌にもよく出ることがありました。
『少年探偵団』が終わるころに日大の芸術学部の放送学科に入りました。
新劇の話を聞いているうちに芝居が好きになり、自分の生き方が違うのかなあと思い出してそろそろ結婚ということも考えたりして、代々医者の家系だったのでお見合いの話がありましたが、劇団NLTの俳優教室に入って研究生になりました。
こんなに楽しいという思いがあり欲が出てきました。
洋画の吹き替えなどもさせていただきました。
劇団にいながら声優の仕事もしていました。
アニメは大学1,2年のころのエイトマンのサチ子さんとか、鉄腕アトムとかもありました。
声を出すことが大好きで、小学校4年のころにテープレコーダーを買ってもらって、自分でラジオドラマを作ってやったりしていました。
アニメは台本と絵を見ながらやっていて、自分でイメージを膨らませてゆくことができることが出来るので面白いです。
吹き替えは内容的な雰囲気などを壊してしまうといけないので、あくまで合わせるようにします。
劇団でいきなり主役になり、欲が出てきて、陰に日向に応援してくれたのが劇団の先輩で、この人だったらという思いがあり結婚しました。
子どもが生まれて、芝居もやりたいということもあり、不器用な性格なのでどちらを取るかというと子どもを選ぶことになると思いながらやっていましたが、いろいろな病気を抱えてしまって、子どもを連れて父のところに入院して実家に戻りました。
家庭に対する考え方が夫とは違ってきて、父からは好きな仕事をやったほうがいいのではないかと言われて、どんどんアニメのレギュラーの話とか吹き替えの話が来て、やっているうちに元気になりました。
宇宙戦艦ヤマトのテレサをやることになり、ガッチャマンで佐々木と会うようになり、悪ぶっている不思議な人でした。
私も意識し始めて1981年に佐々木と再婚することになりました。
佐々木は中学1年生、こちらは少学4年生を連れての再婚でした。
一つ家に住むようになると長男としては1/3になってしまったような気がしたんだと思うんですね、その辛さが、二人でいるときに私の息子をいじめるという形になってしまいました。
息子は段々暗くなってきて、いろいろと大変な時期がありました。
来年結婚40年になりますが、10年ぐらいしかたっていないような感じです。
意地というか欲は大事だと思います。
そのためには踊ること、声を出すこと、が大事だと思いますが、今の若い人はいろいろできると思います。
2020年7月4日土曜日
宇野 晶(日本音盤倶楽部会長) ・「音盤に惚れた男の40年」
宇野 晶(日本音盤倶楽部会長) ・「音盤に惚れた男の40年」
大阪でサラリーマンをしていた昭和50年代に神社の参道で古物商が並べていたSP盤と出会ったのがきっかけでSPレコードを集め始めました。
大阪などの土地を歌ったもの、戦時中に発売禁止になった希少盤などを集めに集め、おおいときにはSPレコード2万5000枚EP盤を1万枚収集したと言います。
宇野さんの集めた音源を聞いていきますと、日本のレコードの歴史をたどることができます。
平成12年に設立されたSPレコード収集家で作る日本レコードクラブ会長も務めている宇野さん(76歳)にインタビューしました。
昭和52年ごろに大阪で毎年1月10日前後に10日恵比寿を今宮神社でやっていました。
参道に古物商がSPレコードを積んでいました。
一枚200円とのことで20枚ぐらい買いました。
ポ-タブルプレイヤーも買って、聞いて懐かしさを感じそれがきっかけになりました。
昭和35年ぐらいまでSP盤も発売していました。
昭和27年ぐらいからEP盤、LP盤に切り替えていきました。
SP盤の材料はシェラック(ラックカイガラムシ、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質)といいます。
音としてはEP盤、LP盤のほうがきめが細かい、大きいが、SP盤は78回転で回転数が速いので情報がたくさん入れられる。
私が買うというので道具屋さんが仕入れてきて、必要なものだけを買うと道具屋さんも困ってしまうので、利益は最小限ということで仕入れたものは全部買うことにしました。
だいたい100~200枚買いました。
いいものも手に入ることもあれば必要ではないものも沢山ありました。
多い時にはSPレコードは約2万5000ぐらいあり、EP盤を1万枚ぐらい持っていました。
平成10年には大阪に引っ越して置き場に困ったということがありました。
オーナーに空きスペースがあるということで置かせてもらったこともありました。
*①「君恋し」 昭和元年 アコースティック録音方式だった。 録音レベルが低い。
*②「君恋し」 昭和4年 電気録音なのでそこそこ音がいい。
*③「君恋し」 昭和36年 歌:フランク永井
それぞれ違った味わいがある。
父は役場の職員で母は小学校の教員をやっていて、蓄音機とレコードが200枚ぐらいありおもちゃ代わりに聞いていました。
昭和10~12年ごろが一番いい音で、戦争が始まって原材料がなくなってきて音が悪くなってきて、最悪の戦後すぐのころは古いレコードを溶かして作り直したりして、割れやすいしノイズが多かった。
昭和30年頃になると音質が良くなってきてLPに負けないぐらいの音が出ました。
昭和37年に会社に就職しました。
高度成長経済の好景気の時代でした。
結婚が31歳でしばらくして、妻に気を使いながらレコード収集をしました。
*「1万3800円」 昭和32年 歌:フランク永井
1899年トーマス・エジソンがシリンダー型レコードを開発して、その10年後にベルリナーがワックスを塗った平らなレコードを開発。
1910年(明治43年)に日本蓄音機商会(のちのコロンビア)発足。
大正に入って両面のレコードが普及し始めて、ラジオも普及し始めて相乗効果を果たす。
金属原盤がないと作れない時代だったが、戦争の時に金属不足で供出せよということで取られてしまった。
工場も爆撃されて貴重な資料などもなくなってしまった。
CDへ復刻したいということでレコードをお貸ししたこともあります。
「六甲おろし」は球団お披露目会の時に非売品として200枚ほど作ってゲストの人に配布したが、最終的に人から人にわたって私のところに来ました。
コロンビアが探していました。
復刻したのが2003年でした。
その年に阪神が優勝して、幻の曲を復刻したということで私のところにスポットが当たりました。
昭和17年 高峰秀子さんが歌った「森の水車」 貴重なレコード
戦時下なので
ポリドールレコードを大東亜レコードに変更し発売したもの。
ちゃらちゃらした歌は駄目ということで、売り出して4日目に発売禁止になりました。
*「森の水車」 昭和17年 歌:高峰秀子
日本レコードクラブ(日本音盤倶楽部)には100名ぐらい会員がいます。
レコードの交換会をやっています。
最高値は1枚3万円という上限を設けています。
平成12年に発足して、35回開催しています。
3万6000枚の出品があり金額では3100万円になります。
昭和57年にCDが発売されましたが、音源をデータでパソコンに取り込むことになりCDも売れない時代になりました。
レコード盤はもう出尽くしましたので交換も少なくなってきました。
そこそこのヒット曲はCDには復刻されています。
会員数の減少で2018年4月の例会をもって休会中になっています。
*「南海ホークスの歌」昭和27年 歌:灰田勝彦
大阪でサラリーマンをしていた昭和50年代に神社の参道で古物商が並べていたSP盤と出会ったのがきっかけでSPレコードを集め始めました。
大阪などの土地を歌ったもの、戦時中に発売禁止になった希少盤などを集めに集め、おおいときにはSPレコード2万5000枚EP盤を1万枚収集したと言います。
宇野さんの集めた音源を聞いていきますと、日本のレコードの歴史をたどることができます。
平成12年に設立されたSPレコード収集家で作る日本レコードクラブ会長も務めている宇野さん(76歳)にインタビューしました。
昭和52年ごろに大阪で毎年1月10日前後に10日恵比寿を今宮神社でやっていました。
参道に古物商がSPレコードを積んでいました。
一枚200円とのことで20枚ぐらい買いました。
ポ-タブルプレイヤーも買って、聞いて懐かしさを感じそれがきっかけになりました。
昭和35年ぐらいまでSP盤も発売していました。
昭和27年ぐらいからEP盤、LP盤に切り替えていきました。
SP盤の材料はシェラック(ラックカイガラムシ、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質)といいます。
音としてはEP盤、LP盤のほうがきめが細かい、大きいが、SP盤は78回転で回転数が速いので情報がたくさん入れられる。
私が買うというので道具屋さんが仕入れてきて、必要なものだけを買うと道具屋さんも困ってしまうので、利益は最小限ということで仕入れたものは全部買うことにしました。
だいたい100~200枚買いました。
いいものも手に入ることもあれば必要ではないものも沢山ありました。
多い時にはSPレコードは約2万5000ぐらいあり、EP盤を1万枚ぐらい持っていました。
平成10年には大阪に引っ越して置き場に困ったということがありました。
オーナーに空きスペースがあるということで置かせてもらったこともありました。
*①「君恋し」 昭和元年 アコースティック録音方式だった。 録音レベルが低い。
*②「君恋し」 昭和4年 電気録音なのでそこそこ音がいい。
*③「君恋し」 昭和36年 歌:フランク永井
それぞれ違った味わいがある。
父は役場の職員で母は小学校の教員をやっていて、蓄音機とレコードが200枚ぐらいありおもちゃ代わりに聞いていました。
昭和10~12年ごろが一番いい音で、戦争が始まって原材料がなくなってきて音が悪くなってきて、最悪の戦後すぐのころは古いレコードを溶かして作り直したりして、割れやすいしノイズが多かった。
昭和30年頃になると音質が良くなってきてLPに負けないぐらいの音が出ました。
昭和37年に会社に就職しました。
高度成長経済の好景気の時代でした。
結婚が31歳でしばらくして、妻に気を使いながらレコード収集をしました。
*「1万3800円」 昭和32年 歌:フランク永井
1899年トーマス・エジソンがシリンダー型レコードを開発して、その10年後にベルリナーがワックスを塗った平らなレコードを開発。
1910年(明治43年)に日本蓄音機商会(のちのコロンビア)発足。
大正に入って両面のレコードが普及し始めて、ラジオも普及し始めて相乗効果を果たす。
金属原盤がないと作れない時代だったが、戦争の時に金属不足で供出せよということで取られてしまった。
工場も爆撃されて貴重な資料などもなくなってしまった。
CDへ復刻したいということでレコードをお貸ししたこともあります。
「六甲おろし」は球団お披露目会の時に非売品として200枚ほど作ってゲストの人に配布したが、最終的に人から人にわたって私のところに来ました。
コロンビアが探していました。
復刻したのが2003年でした。
その年に阪神が優勝して、幻の曲を復刻したということで私のところにスポットが当たりました。
昭和17年 高峰秀子さんが歌った「森の水車」 貴重なレコード
戦時下なので
ポリドールレコードを大東亜レコードに変更し発売したもの。
ちゃらちゃらした歌は駄目ということで、売り出して4日目に発売禁止になりました。
*「森の水車」 昭和17年 歌:高峰秀子
日本レコードクラブ(日本音盤倶楽部)には100名ぐらい会員がいます。
レコードの交換会をやっています。
最高値は1枚3万円という上限を設けています。
平成12年に発足して、35回開催しています。
3万6000枚の出品があり金額では3100万円になります。
昭和57年にCDが発売されましたが、音源をデータでパソコンに取り込むことになりCDも売れない時代になりました。
レコード盤はもう出尽くしましたので交換も少なくなってきました。
そこそこのヒット曲はCDには復刻されています。
会員数の減少で2018年4月の例会をもって休会中になっています。
*「南海ホークスの歌」昭和27年 歌:灰田勝彦
2020年7月3日金曜日
小林麻美(アーティスト) ・これから人生第二幕
小林麻美(アーティスト) ・これから人生第二幕
1953年東京生まれ、高校生のころからモデルとして活動を始め、1984年には松任谷由実さんがプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット、モデル、歌手としての人気を不動のものにしました。
又女優としても活躍し、都会的で洗練された雰囲気の小林さんの姿は数々のコマーシャルやファッション誌を飾っていましたが、1991年元ザ・スパイダースのリーダーで芸能プロダクションの社長だった田邊昭知さんとの結婚を機に芸能界を引退。
2016年の復帰するまでの25年間家庭に専念し、その動静が知られることはありませんでした。
この春半生を振り返る書籍が出版され話題となった小林さんに伺いました。
引退してから180度違う生活ですべてが新鮮ですべてが大変な生活でしたが、考えられない幸せな毎日を送っていました。
一冊の本にまとまり、子どものころに自分はユニークだったと思いました。
どん底もありました。
外見とは違う一面もあり、両方自分だったと思います。
私はちゃきちゃきの江戸っ子で、せっかちです。
当時はすぐそこまで海で大森の駅に降りると潮の匂いがしました。
料亭などもありまして、三味線の音と海の音が入り混じったような感じでした。
母親は美容師で姉が一人いて、父は技術者でした。
タイガースのファンクラブに入っていて、ロック系のバンドが好きでした。
スパーダースとブルーコメッツは年代的にはちょっと上でした。
中学3年の時に映画が好きで土、日には一人で必ず銀座で映画を観ていました。
プロダクションの事務所の方に声を掛けられて、怖くて母に公衆電話をかけて、母に代わってもらってというところからちょっとずつ話をいただいてという感じでした。
芸能活動はできない学校だったので高校に上がってから、女学生の友とかコマーシャルに出てみませんかということから始まりました。
新鮮でうれしかったです。
六本木、原宿、青山などでディスコに結構行っていたりしました。
洋服は好き母に作ってもらったりしていました。
歌手でデビューした時の同期は麻丘めぐみさん、西城秀樹さん、牧村三枝子さんとかです。
当時あまり何にも考えないで過ごしていました。
松任谷由実さんとは何かで知り合い、仲良く遊ぶようになりました。
30歳の時に突然「雨音はショパンの調べ」を歌ってみないかと言われました。
あっという間にレコーディングは終わってしまいました。
大ヒットするとは思っていませんでした。
武道館で歌ったのが最初で最後でした。
沢山の方に聞いていただいて気持ちよかったです。
中学1年の時に武道館へビートルズを観に行きました。
31,2歳ぐらいになると結婚とか女としてどう言う人生を歩むんだろうかと、漠然とした不安と焦りはありました。
田邊昭知さんとの出会いがありましたが、彼は結婚ということは自分の人生の中で考えないという人でしたので、女としての幸せはなんだろうということは考えていたのでそのギャップはありました。
20歳の時に35歳で年齢は15歳年上で師弟関係みたいな感じでした。
仕事の関係で父はあまり家には帰ってきませんでしたので、サザエさんのような家族という感じはありませんでした。
結婚前に赤ちゃんができて極秘出産でした。
母と叔母と彼しか知りませんでした。
一人で育てる覚悟はできていました。
その後結婚することになり感謝をしています。
子どもに取ってはこの形がよかったと思いました。
52歳と37歳だったので、すごい苦労もしたし、新鮮だったし、幸せな時間を子どもにもらったということは二人で感じていることです。
これを選んだ以上は仕事はやめるという、ある種のみそぎみたいな感じでした。
全て子ども中心で25年間表舞台には出ることはありませんでした。
子どもが帰ってきたらいつも「おかえり」と言ってくれるのが私の理想でしたが叶わなかったので、自分としては必ず子供が帰ってきたら「おかえり」と言いたかったので、それができたので幸せでした。
嫌なこともありましたが、振り返るとなんて暖かくて幸せな時間だったんだろうと思います。
25年間があっという間に過ぎてしまいました。
この仕事しかキャリアがないので、この中でトライして今の自分の年齢、体力、今の自分のやり方でやらせていただけたら楽しいと思いました。
自分の持っていたサンローランの服(200着ぐらい)を寄贈させていただき、そこからファッションショーをやっていただいたりして、私にもやってみませんかと言っていただきました。
今66歳ですが、自分でもびっくりしてしまって、これも現実なので、自分ができる事元のキャリアを生かせることで出来たらうれしいと思って第二幕を一歩歩こうかなと思ったので、キャリアを生かして頑張りませんかと言いたいです。
自分しかできないことは絶対あると信じているので、頑張りましょうと言いたいです。
1953年東京生まれ、高校生のころからモデルとして活動を始め、1984年には松任谷由実さんがプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット、モデル、歌手としての人気を不動のものにしました。
又女優としても活躍し、都会的で洗練された雰囲気の小林さんの姿は数々のコマーシャルやファッション誌を飾っていましたが、1991年元ザ・スパイダースのリーダーで芸能プロダクションの社長だった田邊昭知さんとの結婚を機に芸能界を引退。
2016年の復帰するまでの25年間家庭に専念し、その動静が知られることはありませんでした。
この春半生を振り返る書籍が出版され話題となった小林さんに伺いました。
引退してから180度違う生活ですべてが新鮮ですべてが大変な生活でしたが、考えられない幸せな毎日を送っていました。
一冊の本にまとまり、子どものころに自分はユニークだったと思いました。
どん底もありました。
外見とは違う一面もあり、両方自分だったと思います。
私はちゃきちゃきの江戸っ子で、せっかちです。
当時はすぐそこまで海で大森の駅に降りると潮の匂いがしました。
料亭などもありまして、三味線の音と海の音が入り混じったような感じでした。
母親は美容師で姉が一人いて、父は技術者でした。
タイガースのファンクラブに入っていて、ロック系のバンドが好きでした。
スパーダースとブルーコメッツは年代的にはちょっと上でした。
中学3年の時に映画が好きで土、日には一人で必ず銀座で映画を観ていました。
プロダクションの事務所の方に声を掛けられて、怖くて母に公衆電話をかけて、母に代わってもらってというところからちょっとずつ話をいただいてという感じでした。
芸能活動はできない学校だったので高校に上がってから、女学生の友とかコマーシャルに出てみませんかということから始まりました。
新鮮でうれしかったです。
六本木、原宿、青山などでディスコに結構行っていたりしました。
洋服は好き母に作ってもらったりしていました。
歌手でデビューした時の同期は麻丘めぐみさん、西城秀樹さん、牧村三枝子さんとかです。
当時あまり何にも考えないで過ごしていました。
松任谷由実さんとは何かで知り合い、仲良く遊ぶようになりました。
30歳の時に突然「雨音はショパンの調べ」を歌ってみないかと言われました。
あっという間にレコーディングは終わってしまいました。
大ヒットするとは思っていませんでした。
武道館で歌ったのが最初で最後でした。
沢山の方に聞いていただいて気持ちよかったです。
中学1年の時に武道館へビートルズを観に行きました。
31,2歳ぐらいになると結婚とか女としてどう言う人生を歩むんだろうかと、漠然とした不安と焦りはありました。
田邊昭知さんとの出会いがありましたが、彼は結婚ということは自分の人生の中で考えないという人でしたので、女としての幸せはなんだろうということは考えていたのでそのギャップはありました。
20歳の時に35歳で年齢は15歳年上で師弟関係みたいな感じでした。
仕事の関係で父はあまり家には帰ってきませんでしたので、サザエさんのような家族という感じはありませんでした。
結婚前に赤ちゃんができて極秘出産でした。
母と叔母と彼しか知りませんでした。
一人で育てる覚悟はできていました。
その後結婚することになり感謝をしています。
子どもに取ってはこの形がよかったと思いました。
52歳と37歳だったので、すごい苦労もしたし、新鮮だったし、幸せな時間を子どもにもらったということは二人で感じていることです。
これを選んだ以上は仕事はやめるという、ある種のみそぎみたいな感じでした。
全て子ども中心で25年間表舞台には出ることはありませんでした。
子どもが帰ってきたらいつも「おかえり」と言ってくれるのが私の理想でしたが叶わなかったので、自分としては必ず子供が帰ってきたら「おかえり」と言いたかったので、それができたので幸せでした。
嫌なこともありましたが、振り返るとなんて暖かくて幸せな時間だったんだろうと思います。
25年間があっという間に過ぎてしまいました。
この仕事しかキャリアがないので、この中でトライして今の自分の年齢、体力、今の自分のやり方でやらせていただけたら楽しいと思いました。
自分の持っていたサンローランの服(200着ぐらい)を寄贈させていただき、そこからファッションショーをやっていただいたりして、私にもやってみませんかと言っていただきました。
今66歳ですが、自分でもびっくりしてしまって、これも現実なので、自分ができる事元のキャリアを生かせることで出来たらうれしいと思って第二幕を一歩歩こうかなと思ったので、キャリアを生かして頑張りませんかと言いたいです。
自分しかできないことは絶対あると信じているので、頑張りましょうと言いたいです。
2020年7月2日木曜日
河瀬直美(映画監督) ・「今こそ、文化の力を」(初回:2020/5/30)
河瀬直美(映画監督) ・「今こそ、文化の力を」(初回:2020/5/30)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post_30.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/05/blog-post_30.htmlをご覧ください。
2020年7月1日水曜日
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に(初回:2018/6/26)
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に(初回:2018/6/26)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_26.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_26.htmlをご覧ください。
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