2024年1月31日水曜日

吉田義人(ラグビー元日本代表)     ・100年の計は“前へ”~明治大学ラグビー部~

吉田義人(ラグビー元日本代表)     ・100年の計は“前へ”~明治大学ラグビー部~ 

大学ラグビー界の強豪明治大学は今年度創部100年を迎えます。 先日行われた大学選手権の決勝では帝京大に敗れ、100年を優勝で飾ることはできませんでしたが、初代監督を務めた北島忠治さんが掲げた「真っすぐ前へ」と言う明治ラグビーの精神は、今も受け継がれています。 その精神を体現した代表的な選手が元日本代表の吉田義人さん(54歳)、秋田県出身で9歳の時にラグビーを始め、秋田工業時代は花園で全国制覇、明治大学に進んでからも1年生の時からレギュラーに選ばれ、在学中に日本代表入りを果たします。   4年生の時はキャプテンとしてチームを大学日本一に導きました。  その後も日本代表や世界選抜のメンバーとして活躍して、母校明治大学の監督も務め、日本のラグビーの発展に大きく貢献してきました。 現在は7人制ラグビーのクラブチーム「サムライセブン」の監督をしています。 95歳で亡くなるまでの67年間に渡って明治のラグビー部を指導した北島元監督の教えである「真っすぐ前へ」という精神、吉田さんにどんな影響を与えたのか、原点は「真っすぐ前へ」と題して、吉田さんのラグビー人生と共にお話を伺いました。

創部100周年を迎えますが、チームを継続して運営してゆくと言いうのは本当に大変な事です。 歴代の先輩たち、監督、スタッフなどの思いが繋がっているというのは誇らしいことだと思っています。 北島忠治監督に出会えたことは、何にも代えがたいものになりました。 会った時には俺のおじいちゃんだと思いました。  80歳半ばでしたが、70歳ぐらいにしか見えませんでした。 1987年10月6日、雪の早明戦で1年生から試合に臨みました。 朝起きたら雪で真っ白でした。 試合をやることが決まったという事で、嬉しかった。(雪の上で以前は練習をしていたので) 僕のトライが認めてもらえれば10-11で逆転でしたが、認めてもらえず10-7で負けました。 初めて日本代表に入ったのが1年生の終わりの春でした。 

1989年5月に日本はスコットランドと対戦しました。 初トライをして28-24で勝ちました。(歴史的な勝利でした。) 北島監督は選手の長所短所をしっかり見抜いていました。 4年生の時にはキャプテンに選ばれ吃驚しました。 キャプテンになって自分の姿勢を崩す必要はないと思いました。 メンバーを集めた中で、「学生日本一になりたい。」と話しました。(前年は1回戦で負けたチームだった。)  「決めたことの練習をしっかりやろう。」と言いました。 必要なルールをしっかり自分らでやるべきだと決めて実行しました。 朝の起床のベルを1年生がやっていましたが、撤廃しました。(時間の自己管理)

北島監督の「真っすぐ前へ」と言う言葉は、ラグビーのグラウンドでのプレーもありますが、僕は生き方の核となる大事な言葉だと思っています。 社会に出て大きな壁があると思いますが、その壁をどうやって乗り越えてゆくのか、まさしく前に行かないと打ち破れない。  「ゴールまで100%で走れ。」と言われて、大事な言葉だと思っています。(自分との戦いです。)  「自分に甘くなると絶対勝てない。」という事は僕は言っています。 弱い自分に勝った人間だけが、相手に対する挑戦権を貰えると思っています。   大事にしている言葉「矜持」は品位、品格を持ち合わせている人なので、自分をしっかりと抑制して弱い自分に勝った人間だけが、使える言葉だと言われています。 

1991年1月6日早稲田との決勝。 以前の試合でリードしていて78分で勝てるという思いがありました。 結局24-24になってしまった。 足が肉離れで痛めてしまったが、交代する勇気がなかった。 引き分けとなってしまって、その後みんなが自覚して練習をして、決勝では13-11と早稲田が一時逆点しましたが、後半トライを決めて16-13と再逆転して優勝となりました。 勝負には修羅場があり、そこでどれだけの、自分がやってきた誇り,自信とか、力を発揮できるか、自分の魂を表に出してゆく。  戦いにはそれが一番大事だと思っています。 真摯に実直に取り組んで行けるような人を育てたいと思います。


























2024年1月30日火曜日

河合俊雄(心理学者)           ・〔わが心の人〕

河合俊雄(心理学者)             ・〔わが心の人〕

河合隼雄さんは1928年(昭和3年)兵庫県篠山市で生まれました。 河合隼雄さんは日本の心理療法の第一人者でした。 2007年79歳で亡くなるまで心理療法家としての体験を大切にしながら日本人の心や日本の文化を独自の視点で分析し続けました。 2002年からは文化庁長官も務めています。 お話は臨床心理学者で長男の河合俊雄さんです。

父親の研究室の出身なので、父親であると同時に師でもあり、離すのは難しいところです。   2007年79歳で亡くなり17回忌 という事で記念行事とか、河合隼雄を知ってもらう本も出たりしています。  文化庁長官をしていて、当時高松塚古墳の件で過労状態でしたが、セラピーも大事にしていていろんな人と会っていてまして、8月16日の夜に就寝して、その後目を覚まさず脳梗塞で朝緊急入院しました。 家族から見ると健康管理はいい加減なところがあったように見受けました。 

34歳の時にユング研究所に留学、私は4歳でした。(2回目の留学)  数学の先生をしていたが、もっと子供の心を知らなければいけないと勉強しているうちに、心理学を専門にするようになりました。 1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) へ留学し、クロッパーやJ・M・シュピーゲルマンの指導を受けました。  私が2歳の時にアメリカから戻って来ました。  スイスでは幼稚園が義務教育でした。  大きな環境の変化でした。 母に言わせると子供とよく遊び、ダジャレの名人で5分に一度は笑わせてくれる面白い人だった。 負けず嫌いで、僕と将棋をやっても負けそうになると逃げて行ってしまいました。 大きくなると梅原猛先生の面白い出来事なども、脚色を交えて聞かせてくれました。

スイスから戻って天理大学教授、京都大学教授、注目されてNHKの番組にも沢山出演しました。 ユング心理学、心の悩みの相談とか非常に実践的な心理学です。 心には無意識があるというのを前提にした心理学です。 セラピーの場合でも夢であるとか、絵を描いてもらうとか、箱庭療法と言って、砂箱の中に自由に部屋にあるおもちゃを入れていく手法です。引っ込み思案でおとなしいと思っている人も、実は心の中には積極的なものを持っている。 引っ込み思案の人がパーティーで挨拶しなければいけない時は凄く不安になる。     実は積極的なものがあるんだという事を生かしてゆくことも大事です。 

箱庭療法では、砂の上にいろんな木を受けてみたり、建物を置いてみたりして一つの風景を作ってゆく。 内面にあるものがふっと無意識のうちに出てくる。 学校に行くと喋れない子が箱庭を作ると隅の方だけしか使わない。  セラピーに来ていると段々領域が広がってゆく。 箱庭療法は元々はスイスで出来たもので、河合俊雄はこれは日本人に合うと直感して、スイスから帰ってきた1965年に、箱庭療法を導入して、華道、茶道、日本庭園とか伝統的なものが日本人に合うのではないかという事で、進めて行きました。 日本人のセラピストの作る箱庭療法は木が多いんです。 

どんな夢を見たのかという事を分析することによって、無意識なものが出てくる。 夢はコントロールが出来ない。 思春期に典型的に出てくるのが追いかけられる夢、思春期には自分が出来てくるので、自分は脅かされているとか、他に他人に見られているとか、という意識が出てくるから、追いかけられる夢が出てくる。 心理療法は自分で体験してみないといけない。 自分では全く思ってもいなかった自分に出会うという事にもなる。(怖い部分もある。) クライエント(カウンセリングなど心理療法を受ける人)さんはすでに苦しんでいる。 訓練のために夢を話してゆくとしんどくなって落ち込むことが多い。 

私も受けましたが、吃驚するような出会いもありました。 河合隼雄の夢のことでは、ハンガリーでコインを拾った夢(30代の初期の夢)で、フン族とハンガリーは関係していて、東洋がちょっと入っている。 東洋と西洋が出会うというか、それを自分はやらないといけない、と言う意味を知らせているのではないかなと、分析家との話し合いのなかでなったようです。 そしてそういう事をしてゆくことになります。 

ユングは東洋に関心があった。 自我と自己と言うものがあり、日常は自我を中心として動いているが、心の中心は自己というもので無意識の中にある。  仏教の真我と自己は凄く近いんです。 しかし日本でユング心理学をやる時には、いろいろと変えていかなければいけない。 「昔話と日本人の心」。 河合隼雄は小さいころは西洋物語が好きで、西洋物語は最後は結婚で終わるんですね。 日本の昔話はハッピーエンドで終わらないものが非常に多い。 日本の昔話が大事なモデルを提供してくれると思って、日本の昔話の研究をして書いたのが、「昔話と日本人の心」です。 河合隼雄が言ったのは美的解決、物語のなかで女性が去ってゆくが、結婚が失敗したのではなくて、去ってゆくもののあわれが美しい。 

河合隼雄は話し上手でした。 逆に言うと本当のことをなかなか話さなかった。 日本神話については彼のライフワークで、ユング研究書の資格論文で40歳前で書いています。 手を加えてゆき最後に「神話と日本人の心」の本が出たのは倒れる4年前ぐらいでした。 亡くなってから校正、編集、解説書いたりする仕事が沢山来ました。 読んでみて吃驚しました。 これまで適当に読んでいた気がしました。 彼の知る由もない新しい世の動きとか、新しい心の問題とか、見事に当てはまるというみたいなことがいろいろあって、私には3回目の父との出会いでした。  

河合隼雄財団を作ったり、河合隼雄物語賞、河合隼雄学芸賞、と言った活動もしています。 33回忌までは続けたいと思っています。

























2024年1月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言アンコール〕 紫式部(初回:2023/2/27)

 頭木弘樹(文学紹介者)    ・〔絶望名言アンコール〕 紫式部(初回:2023/2/27)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/blog-post_27.htmlをご覧ください。

栗山龍太(シンガーソングライター)   ・見えない僕から、みんなに伝えたいメッセージ

 栗山龍太(シンガーソングライター)  ・見えない僕から、みんなに伝えたいメッセージ

桐山さんは小学生の時に病気で目が見えなくなりましたが、その後も音楽に親しみ、現在は学校に務める傍ら音楽活動を続けています。 これまでに共生、多様性や、平和などをテーマにした楽曲を数多く発表して居ます。 弱者への優しさや寄り添う気持ちを伝えたいと取り組む栗山さんに伺いました。

盲導犬「アンジー」が足元に伏せの状態でいます。 渋谷区パリパラオリンピック応援ベントに「アンジー」と共に参加しました。 1976年大阪生まれ(47歳)、11歳の時に病気で全盲となりました。 その後筑波大学理療科教員養成施設で新旧あんまマッサージ指圧師の教員免許を取得、盲学校の職員として医療系全般の指導に当たっています。 2000年に音楽会社の方との出会いがきっかけとなって、2010年から音楽活動を開始、自ら楽曲を作り相棒の盲導犬と共にステージに立っています。 

小学校5年生の時に、緑内障になり眼球を摘出しています。 僕が見えなくなったという事で両親が離婚してしまいました。 児童養護施設で育てられました。 小さいころからピアノを習っていたりしたので曲を作るのが得意だったりしていました。  音楽に支えられたという事がありました。 音楽を通してリードする側に回れました。 32歳でデビューしましたが、妻に服とかチェックしてもらっていました。 それまでは自分の好きな音楽を作って歌っていたりすればよかったのですが、お客さんを満足させられるような歌を歌わないといけないので、特に目で見る部分をカバーしないとエンターテーメントになりにくいということとかがありました。 ステージで楽しそうに見せることについても妻から指摘がありました。

2018年にリリースしたのがパラアスリートの応援歌の「リアルビクトリー」と言う曲です。僕の渾身の一曲と言う形で作ったものです。 障害者目線で伝えた方がいいのではないかと思いました。 合唱曲です。 コロナ禍で自分のすべてのイベントがなくなってしまいました。 オンラインコンサートを何回かしましたが、生で届けないと熱量が伝わりにくかったりしました。 「愛する魔法」 世の中が共生、多様性について発信しているので、それをテーマに作ってみたらどうかと言われて、作り始めましたがなかなか進まなかったです。  2023年にCDがリリースされました。  長男の友達の女の子が描いた絵とか、地域の人たちの合唱とか、沢山の方々に関わっていただきました。 

*「アイスル魔法」 作詞、作曲、歌:栗山龍太

曲の一番は一般的な共生を、二番は周りの人に興味を持ち、ひいては自分の世界を広げたいとか、思いやりのある世界に繋がってゆくんだよと言うテーマで、愛するという魔法を自分に掛けると言いう風にしました。 「アイスル」は片仮名になっていて、呪文みたいな形です。 

エッセー本「見えないボクと盲導犬アンジーの目もあてられない日々」を昨年発売。    実話だから笑えるところがあります。  子供たちにリアルな障害者像、日常を紹介していきたいと思いました。 楽しみながら知ってもらおうと思って作りました。 日本人は「思いやり」と言う良い視点を持っているので、そこに落ち着けば、共生、多様性などをわざわざ取り上げて言う必要はなくなって来るのかとは思いますが。  去年夏には学校図書館協会の選定本になりました。 子供たちの想像力は果てしないものだと思うので、想像力で今この人は何に困っているんだろうか、と言ったことに気付けるような子供たちになって欲しいなと思います。  」

歌手の加藤登紀子さんと一緒にコンサートをしまして、加藤さんが「果てなき大地の上に」(反戦歌)と言う歌を歌って、かっこいい歌だと思って言ったらCDを送ってもらいました。(歌っていいよという事でした。)  戦争とは亡くなる人が出るだけでなく、戦争で傷を負ったり、心に傷を負ったりする人が出るという事で、その人の人生を変えてしまう。 それで今回反戦歌に挑戦してみました。 戦争を体験した世代ではないので、淡々と切々と歌うような形で、現代風な曲調にしてアプローチしました。 熱が足りないという事で加藤さんが歌って歌唱指導もして頂きました。 昨年レコーディングしました。       戦争で身体や心に障害を負ってしまって、その後も生き続けなくてはいけない人が沢山出るわけで、音楽で心を包み込めるような形で歌い続けて行けたらいいなあと思っています。    
















2024年1月27日土曜日

桑原正紀(歌人)            ・介護短歌に心の癒しを求めて~2023

 桑原正紀(歌人)            ・介護短歌に心の癒しを求めて~2023

介護にまつわる思いや体験を詠んだ短歌を広く募集するNHK財団などが主催する「新介護百人一首」は2023年度はこれまでで最も多い1万4000首を越える作品が寄せられました。 今回も若い世代の応募が多くて60%以上が10代からの作品で、13歳から103歳までの幅広い応募がありました。 先ごろ入選作品100首が選ばれました。 ゲストに自身に介護の経験のある俳優の市毛良枝さん、選者の一人桑原正紀(歌人)さんをお招きして作品と共に、作品に込められた思いを伝えていきます。

市毛:13年ぐらい介護して母を2016年に100歳で見送りました。 介護して、自分でも心が辛くなったこともありました。 

桑原:若い世代(看護学校など)の応募が増えてきています。 初めて短歌を作ったとか、日の浅い人の作品が沢山あります。 実感がこもっていて、短歌の出来不出来と言うよりも、そこに込められた思いとか、新鮮で、こちらの方が教えられました。

認知症に関しての入選作品

「息子だと何度喉まで出たことか我親切な職員演ず」     浅岡剛

認知症の父はある時期から私を担当の職員だと思い込むようになりました。 私も反論せず親切な職員となり、接しています。 

市毛:私も職員の振りをしたこともあり身につまされます。

「こんにちわ返った言葉どちらさま隣の犬は覚えているのに」 細井美涼

犬を飼っていた近所のおばあさんに声を掛けたら、思いがけない一言でした。 いつものようにすり寄って来る犬に心を軽くしてもらいました。

市毛:17歳で短歌にしようとして応募してくれたことが嬉しいですね。

「心配で祖母の散歩の後つける「何しとんねん」いつバレたのか」 松田桃

祖母が認知症で心配で祖母の散歩のあとつけたことがあります。 途中で振り返って「何しとんねん」と笑われました。 一体いつばれたのだろうという事が経験がもとになっています。(小学校の頃の経験)

「米とぎを一時間する母の背に夕陽差し込む西角の窓」    神村幸子

一時間も米とぎをしていた姿に認知症がじわじわと近づいていることに気が付きました。

市毛:昔の女性が背負っていたものを感じるような気がします。

豊かな時間を過ごしているという短歌

「曽孫より届きし俳句を推敲す学びし講座が今役に立ちぬ」    磯貝幸子

小学校2年生のひ孫が施設に送って来ます。 20年席を講座に置いていたので役に立っています。 (93歳)

「難聴の我に神様は目で読むを残してくれき書くも楽しき」    高橋洋子

難聴で人様の会話が半分ぐらいしかわからず、その分本などを読んで補っています。書くことも楽しい。 

市毛:若い時には普通の振りをしていた母でしたが、60歳を過ぎてきて自由に明るく社交的になりました。 父がなくなるとより開放枝的になり最後まで楽しむ人になりました。 旅行などに連れてゆくとよくしゃべるようになり、イベントが何かないといけないのかなあと思いました。 辛いことも沢山有りましたが、怒られた時に一人で抱えてはいけないと思って、助けてくれる人を必死に探して、助けていただいて、親戚の様に残ってくれました。 人って、人の助けを求めなければいけないんだなと思いました。 

桑原:自己表現は心の整理に繋がったりして、達成感が現実の心のありようを少しアップしてくれる。 短歌などを作ることによって心が救われることはたくさんあると思います。

市毛:本を作って、山のこととか、介護のことなどエッセーに書いています。 2月末発売 

介護してもらう側の短歌

「「入らない」入浴前は断るもお湯につかると「まだ上がらない」」    佐野健也

入浴介助で声を掛けても断られました。 衣類など介助して入浴しましたが、時間が過ぎて声を掛けても断られました。 入浴が嫌いではなく、動作がめんどくさいんだなと感じました。(20歳)

市毛:この戦いはいつもしていました。

介護をしている方への感謝の短歌

「「夢は宇宙」母の戯言にNASAの服段ボールで作る施設のスタッフ」  仁戸共代

入居者の夢をかなえようと扮装を考えて、若いスタッフが作ってくれました。 

桑原:妻が倒れたのは2005年で、脳動脈瘤破裂という脳出血です。 ICUにひと月近くいました。 人工呼吸器に繋がれていました。 意識は戻らず。 呼吸が出来るようになり普通の病棟に移るが、意識は戻らない状態が続きました。 脳の新しい記憶の部分の機能がなくなってしまって新しい知識は全く入らなくなってしまいました。 今は寝たきりに近い状態で病院に入っています。  

「猫よ鳴け母ちゃん帰って来いと鳴け言い聞かせればしきりに鳴くかも」  桑原正紀

夫婦で猫を飼っていまして、いろいろ擦ったりしましたが意識が戻らず、猫の声を録音していったらどうだろうと思って、聞かせてみたらなんと薄目を開けたんです。 私自身はこの歌を記念にしています。 歌にしなければその時間は記憶から消えていてしまうと思います。

日常的な短歌

「車椅子押されて戻る盆踊り手だけ踊るも心も踊る」        岡部晋一

盆踊りの好きな私は足を失ってからは見るだけで踊る事は出来なかった。 或る時に車椅子に乗って踊りの輪に加わった。  手だけでしか踊れなかったが、心を全開にして踊った。

「摘便のプロは俺よと笑む妻に背中で謝する午前二時過ぎ」     押切圭子

摘便は四肢が麻痺して排便が弱まり、便を掻きだすという補助をしなければいけない。 

妻(表記は夫と書いてある) 妻には背中を向けて感謝をしている。 便意は深夜に生ずることもあり、熟睡している夫を起こすこともしばしばあります。 摘便してくれる夫に感謝を覚えます。

市毛:デリケートな事ですが、介護をしていると普通のことになってしまって、御主人が「俺はプロよ」と面白く言って、凄く素敵です。 家族って、面と向かって「ありがとう」とかなかなか言えない。

「差し入れのすいかはいつしか梨になり部屋に居りても秋が近くに」  門田美智子

娘が果物を届けてくれる。 寝る前は電話して一日が終わる。「ありがとう」 (97歳)    

桑原:外にも出れずに肌で季節を感じ取れないけれども、西瓜はいつしか梨になりという事で季節を感じる。 

「十分な介護と思いて母おくる足らざれしかと今にし思う」      中川さか江

市毛:十分と思っても充分ではないことだらけで、時が経つほどもっとこうしてあげればとか、もっと優しくしてあげればよかったとか、今頃になって思っています。























































2024年1月26日金曜日

レ・ロマネスクTOBI(ミュージシャン・俳優)・〔ことばの贈りもの〕 子育てはエンタメだ!

 レ・ロマネスクTOBI(ミュージシャン・俳優)・〔ことばの贈りもの〕 子育てはエンタメだ!

TOBIさんは広島県出身。 2000年にフランスで結成されたレ・ロマネスは派手なメークとコスチュームで歌い踊る音楽ユニットです。 オーディション番組への出演をきっかけにフランスで最も有名な日本人となり世界中を飛びまわって来ましたが、2011年日本に拠点を移し、NHKEテレの「お伝と伝じろう」などに出演、2018年に自身の経験を綴った著書『レ・ロマネスク TOBIのひどい目。』、2021年には両親や近くにいた人たちとの記憶を小説にした『七面鳥 山、父、子、山』を出版しました。 

今度NHKの朝ドラ「ヴギウギ」に出演します。 笠置シヅ子さんとエノケンさんが出演する映画監督役です。 

型破りな、自由奔放な父親でした。 「外面をよくしなさい。」とよく言っていました。  父は魚の稚魚(鮎)を運んでいましたが、その中途で役者になろうと思ったらしくて、新宿の文学座に「デコトラ」で行って、杉村春子先生に会いましたが、断られて帰ったそうです。(鮎は全部死んでしまった。) 生ものは扱うのを辞めて、その後乾物屋を始めた。   小学5年生の時に「七面鳥」に関するちょっとした事件があり、そのころから父親に対してちょっと嫌だなよいう思いが出てきました。 野球で初打席に立ち谷繁選手の投球に対して、プレッシャーから球が届く寸前に気を失ってしまいました。 人前で見られたり、発表するのが苦手でした。 5年生の秋の運動会で水色のロングドレスを着て風船で胸を膨らませた人が来ましたが、周りがその人と僕を見るんです。 それが父親でした。 逃げたが父親につかまってしまって、その時に理性がプチッと切れて、もうこの人とは別の暮らしをしようと決めた瞬間でした。 

将来は国家公務員になろうと思いました。 東京大学を目指しましたが、慶應義塾大学経済学部卒業しました。  サラリーマンになって3か月後に会社が倒産してしまいました。   別の会社に入社する会社が次々倒産してしまいました。 大きなリセットボタンを押さないといけないと思って一番興味のないフランスに行きました。  ひょんなことからレ・ロマネスクとの出会いがあり、ステージに立つことになりました。 受けてしまって、バラエティー番組に出たり,CMに出たりしました。 有名な日本人という事になりました。 結局11年住むことになりました。 子供が生まれることになりました。 父が末期がんだという事が判り、年内の可能性もあるという事で帰国しました。 でも持ち直していて、フランスに戻ったら子供が生まれるという事でした。  父親がなくなったという知らせがあり、日本に戻って喪主として葬儀を行い、直ぐにフランスに戻って出産という事になりました。 命がつながったような不思議な感じがしました。 

亡くなってしまったら、もっとああすればよかったとか、もっと優しく声を掛けてあげればと思っても、会った時には自分の思いとは違った態度になってしまっていた。 子供を持って、理想の父親像は追い求めないとは思っています。  大きく型から外れていても、子供にとっては結果が良ければ一喜一憂しなくてもいいのかなあと思います。 フランスでは赤ちゃんが生まれてすぐに一人寝させます。  シッターに預けて、食事会に行ったり、映画を観たりして自分の暮らしを大事にします。 親の人生と子供の人生は別のものであるという考え方です。(個人主義 フランスは多民族国家)  日本は足並みをそろえなければいけないというようなところは強いと思っています。 父親はフランス的な子育てをやっていたのかもしれない。 フランスでは子供を優先するという事はないですね。 専業主婦と言う言葉はフランスではないです。 子供たちも自分の人生は自分で切り開いてゆく力を育んでいきます。  

日本に拠点を移して10年ぐらいになります。  小説を書いていた時が小学校5年生でした。苦手な事、厭な事は子供に示していきたいなあとは思います。 親が理想的な子供像を子供に押し付けてしまっているんじゃないのかなあと、ちょっと思ってしまう事があります。 期待をし過ぎない。 ちょっとしたことでいいと思いますが、人と違ってこういうところがあるんだなと一つ見つけると、その高揚感(嬉しくなる)があると思うんですね。 それは子供にも伝わると思います。 

















2024年1月25日木曜日

加藤 タキ(コーディネーター)     ・〔私のアート交遊録〕 どんなに辛くとも梅の木の様に!

 加藤 タキ(コーディネーター)・〔私のアート交遊録〕 どんなに辛くとも梅の木の様に! 

加藤 タキさんは昭和20年労働大臣を務めた父は加藤勘十さん(当時53歳)、女性初の国会議員となった加藤シズエさん(当時48歳)との間に生まれました。 アメリカ留学から帰国後、ニューズウイーク誌やタイム・ライフ誌での勤務を経て、ザ・モンキーズの通訳を経てコーディネーターとして活躍、オードリー・ヘプバーンやソフィア・ローレンを始め、海外大物アーティストのCM出演交渉や国際的な音楽祭などで活躍します。 さらに講演やシンポジュームのほか、ボランティアとして現在16か国で支援活動をしている国際NGOの「AARJapan難民を助ける会」の副会長を務めています。 加藤タキさんは自らの人生に大きな影響を与えた両親、中でも生涯現役として社会への提言を続けた明治人の母の精神と言葉を広く語り継ぐことを使命の一つと考えていると言います。 78歳になった今も溌剌として前向きに生きる加藤タキさんに、年齢にとらわれない生き方や美しさについて伺いました。

母に言われて姿勢だけは気を付けています。 姿勢を良くしているとちゃんと見える。 人間辛いことがあると下ばっかり見ていると、幸せが目の前にあってもそれを見逃すことがある。 凛と姿勢をきちんとしていれば、目の前のことを見ることができる。 67歳で社交ダンスを習い始めました。  60歳ぐらいから贅肉が付き始めて、ジムに通い始めましたがなかなかできなくて、挫折しました。 中尾ミエさんが一緒に踊りましょうと言われて64歳で始めました。 東日本大震災がありボランティア活動が忙しくなり、行かなくなりました。 

一緒に始めた友人がパーティーでお披露目をするということで見たら、若々しくて綺麗に痩せられるんだという事を目の当たりにして、自分でもやろうと思って67歳から又始めました。  68歳でお披露目をして以来10年間パーティーなどでお幌目させて貰っています。 太ももが4,5cm痩せ、背中のぜい肉が全部とれました。  腕の部分も贅肉が取れて筋肉が付きました。 取れた贅肉がバストに来ました。 体形がすっかり変わり女性として嬉しいです。 75歳でシャンソンとカンツォーネを始めました。 ボイストレーニングをやっているうちに3オクターブに近づいています。  腹筋なども鍛えられて大変健康です。 何か始めるのに遅いという事はないと思います。

寝る時間を割いています。 寝るのは一日3時間ぐらいです。 完全徹夜を頻繁にしています。 でも食事後ソファーに座ってこっくりこっくりしているようです。(夫の言)   53歳、母48歳のとき生まれました。 戦争末期で母の乳は出なかったので粉ミルクで育ちました。 「自分達は何時亡くなるか判らないので、一人でも生きていけるだけの力を持ちなさい。」と口を酸っぱく言われました。  2,3歳のころに、父が労働大臣をしていたので外国の方々とも多く接していました。  英語を身に付けたいと思うようになったのかも知れなくて、英語に興味を持ちました。  何時亡くなるか判らないので、両親は子離れを意識していました。  私は42歳での高齢出産をしましたが、子離れは難しいです。  母は私が転んでも決して手を出さなかった。 どうしたら転ばなくなるか考えるようになります。 心の挫折も案じていたそうです。  

アメリカのポートランド大学へ留学し、卒業、帰国をして、母からニューズウィーク」や「タイム・ライフ」の東京支局長の紹介の名刺を頂き、面接に行きました。 「採用された場合は給料はいくら欲しいのか。」と言われて吃驚しました。 「貴方は自分で自分の価値がわからないのか。」と言われました。  アメリカ大使館の秘書室での面接の経験があったので、その時の提示金額を言ったら、勿論それでいいですと言われました。 仕事は経験したことがなく、誰も教えてくれないので大変でした。  3D「でも、どうせ、だって」と言う言葉は私にとって禁句でした。(否定的) 東日本大震災では肯定的な3Dもありました。 「出来るひとが、出来ることを、出来るだけする。」と言う事です。 生きる姿勢が変わって来る。  いつも自分に言い聞かせています。 

通訳もやっていまいたが、ザ・モンキーズが初めての来日で通訳を務めました。 その時コーディネーターとして活躍するきっかけをつかみ、コーディネーターとしての第一歩が始まりました。  オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレン、フランク・シナトラなど大スターたちと仕事をするようになりました。 彼らは孤独ですね、それと普通で居ればいる程大スターです。 時間はしっかり守り、自分の荷物は自分で持つ。 特にオードリーさんからは凄く色々なことを学びました。 気が合いました。 彼女は私の本質を見てくださっていて、常に誠実でありたいという私の仕事に対する臨む気持ちを理解してくれていました。  

『さだまさしが聞きたかった「人生の達人」タキ姐のすべて』と言いう本を出版。」 母からの宝石のような言葉が書かれている。 「貴方はまだ自分の良さを気付いていない。」 諦める方が楽だった時にそういわれると、自分の中にまだ可能性があるという事を気付かせてくれる。 もう一歩成長してみようかなと言う気になります。  年齢は加齢によって誰にでも訪れるので、「こんなもんかな。」という自分で自分を諦めさせてしまう。 この言葉を聞くと、挑戦の意欲をかき立たせてくれる。 「いつも貴方自身で言いなさい。」 30代で講演の仕事をした時に、原稿用紙を暗記したりしているんですが、「いつも貴方自身で言いなさい。」と言われました。  上手くしゃべりたいとか、ここで笑って欲しいとか、受けようと思っている、そういった気持ちはないか言われます。 「その時点で貴方は貴方ではないのよ。」と言われました。 もし言葉に詰まったり、間違えたりしたら、その時に貴方はその時に貴方でしかない。 そこから何を学ぶかが貴方なのよ。」と言われて、凄く気が楽になりました。  社交ダンス、シャンソン、カンツォーネを始めましたが、間違えたら間違えたでいいと思って気楽にやっています。

「人は皆、赤い血が流れているんだよ。」  どんなかたも怪我をすれば赤い血が流れる、同じじゃないと思うととっても気が楽になり、自然体で居られます。 「梅花春に先駆けて咲く。」  背筋を伸ばして梅の木をみてみなさい、凜といしていてどんな木枯らしが吹いても蕾は必ずほころんでくる。  この言葉は父が母に送った言葉です。 母は本当に苦労を重ね、一人は戦争で、もう一人は結核で二人の息子もなくしてしまいました。 夫は14年かかって離婚をして、勘十と結婚しました。 いろんな意味で挫折を味わい孤独を味わい、不信感を持ち、そんな中で同じ目標に向かって、人間の幸せを願っての活動、社会運動をしていた時に「梅花春に先駆けて咲く。」 という言葉のプレゼントをしたという話を聞きました。 それを母からプレゼントしてもらいました。  ボランティアへの導きにもなりました。 「出来るひとが、出来ることを、出来るだけする。」と言う事です。

とんでもない時代になってきているが、許容量がなくなってきている、愛が失せてきている、自己中心が発展しすぎている、明日は我が身と思うと優しくなれるはずですが、と私は思います。 こうしたら喜ぶだろうなと言う想像力が大事だと思いますが、便利になり過ぎたような感じがあり、便利さを考え直してみると、人間関係の深み、優しさに繋がるのかなあと思うんですが。 こうしたら喜ぶだろうなと言う想像力が一番欠け始めていると思います。  母のドラマを作りたいです。  お薦めの一点は言葉で、「春の海の心」です。 穏やかさを自分の心に持ち続けたい。





 















2024年1月24日水曜日

2024年1月23日火曜日

2024年1月22日月曜日

野村万之丞(能楽師狂言方)       ・〔にっぽんの音〕

 野村万之丞(能楽師狂言方)       ・〔にっぽんの音〕

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

野村家は元々石川県の金沢の出身です。 家の歴史は約300年ぐらいですが、150年間ぐらいは金沢に拠点を構えていました。 今も一門の一部が金沢にいます。 

子ども達には、人間は誰でも失敗をしてしまうものだが、狂言ではそういった登場人物を笑って、そういったことは誰にでもあるよと、失敗を許容するわけではないが、観て明るく生きて行こうメッセージもあるような笑いの喜劇だという事を判りやすく説明しています。 人間の弱さも昔も変わらないというようなニュアンスですね。 650年続く芸能です。 現存するお芝居としては世界最古と言われています。 

大藏:狂言には現在流派が二つあります。 大蔵流大藏基誠がこの流派)和泉流(野村万之丞がこの流派)。 鷺流があったが、明治維新の時に途絶えて、今は保存会の方が守っています。  野村万之丞(27歳)さんは狂言界のプリンスと呼ばれています。 1996年生まれ、東京都出身。 祖父は野村萬さん人間国宝日本芸術院院長)、父は九世野村万蔵さん、伯父は五世野村万之丞さん(贈八世万蔵)。 本名は野村虎之助で。 大蔵家ではミドルネームに代々虎の字を使う。 織田信長から「虎」の字を拝領して、今父が大蔵弥右衛門虎久、いずれ僕も虎の字を付けます。 野村万之丞さんの初舞台は3歳。   野村:「靱猿(うつぼざる)」に基本的には決まっています。 

大藏:大蔵流は「伊呂波いろは」で初舞台を踏む事が多いです。 2017年(20歳)に6世万之丞を襲名、「三番叟」を開く。 大蔵流では「三番三」と書きます。

野村:翁の舞が、天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれる。  神事に近い。

大藏:翁、三番叟を舞う時には一か月前ぐらいに、「別日(べっか)」という精進潔斎(しょうじんけっさい)をして、舞台に挑んでいます。 

野村:「別日(べっか)」は現代では3日前とかもっと前へと簡略化されています。 僕が父から子供の時に言われたのは、女の人と口を利かない、煮炊きを別にする、ぐらいでした。 

大藏:当日は女性は楽屋には入ってはいけないことになっている。 女性蔑視などと言われてしまうが。 そもそも神様は女性の神様であって、神様に対して男性が身を清めて舞台に立っている、ところからだと思います。 女性を蔑視しているわけではない。

2020年野村万之丞さんは狂言の節目の演目「釣狐」を開く。(コロナ直前)  僕は釣狐」は二度とやりたくはなかった。 体力面も辛いし、いろいろ辛いです。 心技体が揃っていないとできない。 24歳までにやらないと体力が持たない。 

野村:今度は弟(野村拳之介)がやります。 釣狐」の毛皮は先人の汗が沁み込んでいて、舞台に立つと暑くて、息苦しくて、途中で記憶が飛んでしまうような状態でした。  パーカーのフードを被って走り回っていました。 ダンベルで家で鍛えています。 筋肉が付き過ぎるとしなやかには踊れないのでバランスが難しいです。 

大藏:はじめ舞台に出てきて「名のり」(私はどこどこの誰誰ですと、これから何々をしますという事を必ず名のる。)を行います。  武士が相手と戦う時に自分は名のるわけですが、こういう文化が舞台にも来てるのかなと思います。 能、歌舞伎、文楽なども名のります。 流派、家によってイントネーションが違う。 場面の変る言葉による演出もあります。  向きを変えるだけで場面が変るという事もあります。  いろいろなキャラクターが登場します。 お能は面(おもて)を付けますが、狂言は基本は付けません。 

野村:「梟山伏(ふくろやまぶし」などは幼稚園でも笑ってもらえます。 鳴き声だけでも受けます。 弟が物の怪(妖怪)に取り憑かれたに違いないと考えた兄は、山伏(修行者・祈祷師)のもとを訪ねて、弟を診てもらいます。  或る意味伝染病を描いています。  好きな演目は子供のころは「二人袴」が好きでした。 最近は「萩大名」がいいかなあと思います。

大藏:太郎冠者は大名などに使えている召使いですが、いろんな太郎冠者がいます。 だいたいは間抜けが多い。 

野村:悪の役がなかなかできなくて、一番の課題かなあと思っています。 「萩大名」は萩が盛りの庭見物があり、即興の和歌を詠むことを見物客に所望する。 太郎冠者は一計を案じて和歌「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出ずる萩の花かな」)のカンニング法を伝授するのですが、無教養な大名を風刺しつつも無邪気で稚気あふれる姿を描き、従順な召使いとのやりとりが滑稽に展開される作品です。  

「六地蔵」もいいですね。 在所で六地蔵堂を建立した田舎者は、中に安置する六体の地蔵を買い求めに京の都へやってきます。都の賑やかさになかなか仏師を探し出せない田舎者の元へ、都の詐欺師(素っ破)が近づいて自ら仏師であると偽り、金を騙し取ろうとあれこれ企てますが・・・。

大藏:「お茶の水」の演目でも流派によって随分違います。 見比べてみると面白いと思います。 日本の音とは?

野村:「三番叟」の「もみだし」(「三番叟」の最初の前奏の音)を聞くと正月だなあと思います。  「ふらっと狂言会」で若者が来やすくなるような会を設けて活動しています。

大藏:来月立ち合い狂言会が行われます。 狂言の10家の次世代を担う若手が中心となった会です。(10周年記念)










2024年1月21日日曜日

佐藤洋一郎(農学博士)         ・〔美味しい仕事人〕 いくつもの「和食」を守る

 佐藤洋一郎(農学博士)         ・〔美味しい仕事人〕 いくつもの「和食」を守る

佐藤さんは71歳、京都府立大学文学部和食文化科学特任教授、京都和食文化研究センター副センター長など務めて、食の人類史、稲と米の民族史、和食の文化史などの著書を通じて和食文化の大切さを説いています。 正月料理や雑煮など地域によってその料理は実に多様です。 地域の食はそれぞれ風土を表しています。 ユネスコ無形文化遺産に登録された和食、その和食を形成しているのは各地の郷土料理のいくつもの和食、佐藤さんに和食文化の成り立ちやその豊かさについて伺います。 

和食と言うと大変なものに思えますが、日本人にとっては当たり前のものでした。 いろんなものを食べるようになって、和食と言うと正月に食べるものぐらいになりましたね。  お雑煮と、おせち。 2013年にユネスコ無形文化遺産に和食が登録されて10年になります。  遺産という事は放っておくとなくなるので、残しておこうとそれが遺産ですから、放っておくとなくなるということを言いたかったのかと思います。 日本人もそのことにもっと危機感を持たないといけない。 

昔は稲、お米の研究者で稲作の研究をずっとしてきました。 稲とか稲作がどこでどんな風にして生まれて、どういういきさつで日本にやって来て、日本は稲作の文化の国だと言われるようになったんですが、何がそういう風にさせたのか、と言う事をずっと考えていました。 水田稲作をずっと研究してきました。 東南アジア、中国などのフィールドワークが多かった。 こういう風にお米を食べているのかと日々驚きの連続でした。 食文化に興味が行くようになって段々、食、食文化の方に興味が向いて行きました。 

「一汁三菜」、お米とか、飯とかは入っていないんです。 議論したことがあるんですが、飯は絶対についている。 お汁はついているが中身は色々、おかずの方もいろいろです。 ご飯は絶対についているので、当たり前のものだから言わないことにしたのかなと、私たちの結論でした。  「和食展」国立科学博物館で行われる。 日々日常で食べているものと「一汁三菜」が乖離していて、なじみがなくなっている、なにか特別な日のものになっていてるんじゃないかなあと思います。  

函館に行った時に市場に行って、出汁を作る為に昆布を買って鰹節を買おうとしたらスーパーに行くように言われました。  函館などでは鰹節を使わなくても、昆布と一緒にお魚を煮れば、十分に出汁が取れるわけです。 鰹節がなくても十分に出汁が取れる文化があることを後になって気が付きました。 日本津々浦々に和食があるのではないかと思いました。 お雑煮のコーナーも設けて、日本国中のお雑煮を集めて食品サンプルを展示などしました。土地土地よって、それぞれに発見があるんだと改めて思いました。 鳥取はぜんざいがお雑煮なんです。(島根県の東の端も) 讃岐に行くと白味噌のお雑煮ですが、丸餅ですがそのなかにあんこが入っています。 お雑煮は物凄く地域性があって面白いと思います。 

日本は小さな国ですが、風土から言うと非常に多様です。 北緯45度近くから北緯24度近くまであります。  島国なので海の影響をまともに受けます。 日本海側は冬には雪に見舞われ、太平洋側は冬は晴れる場合が多い。 山海の食べ物が沢山あります。 食材は非常に多様です。 世界でも日本ほど春夏秋冬がある国は余り無い。 旬に応じた食材がある。 京都は食材がない街です。 京都には「であいもん」と言う言葉があります。 どこどこの地方から来た山もの、海のものこれを上手く合わせると「であいもん」なんです。 このベストマッチを「であいもん」と呼びます。 それを京料理にした京文化の凄いところです。 京都では日本海側でとれた鯖を捌いて塩をして運んでくるわけです。 それが鯖街道になりました。 京都だけではなくていろいろなところに鯖街道はあります。 富山、岐阜県の飛騨地方には「飛騨ぶり」があります。(塩を入れて運んだ。) 

地方に行くと人口の減り方が激しいです。  農村、漁村で働く人が減って来る。 野菜などの、魚などの食材もとれなくなる、その辺が可成り深刻です。  食器もいろいろなものがあるという事が和食文化の大きな特徴です。  和食の店は食器をそろえるのが大変と言います。 皿に桜の絵と鯛の塩焼きで春という感じがします。 米と大豆と魚の3点セットが和食ですが、地域ごとに地域性がはっきりあります。 季節感があるのも和食の大事なところだと思います。(旬の物を食べる。)  

フランスのボルドーにワインの見学に行ったことがあります。 自信とプライドを持って話していますが、日本では「何にもない。」とかおくゆかしさがあって、自分の土地にあるいいものに気が付かない。 故郷を再発見するという事も大事なことです。 自分たちの土地でとれたものをベースにして、美味しいものを作って、この土地でしか食べれないというような流れを作って、来てもらって味わってもらう。  その場でしか味わえない味覚はあります。 








 

2024年1月20日土曜日

2024年1月19日金曜日

大倉由紀枝(声楽家(ソプラノ))    ・人生100年、悔いなく生きるために演じ歌いたい

大倉由紀枝(声楽家(ソプラノ))   ・人生100年、悔いなく生きるために演じ歌いたい 

大倉さんは1953年福島県いわき市出身、1975年国立音楽大学声楽科卒業、1979年東京芸術大学大学院オペラ科修了後イタリアに留学。 帰国後1981年『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタで主役デビューして以来、プリマドンナで数々のオペラで活躍してきました。20年目に母校国立音楽大学の助教授の誘いを受け、その後は教授として20年間後進に指導に当たりました。 その任務を終えたのを機に、去年10月、大倉さんとしては初めて自主リサイタルを開きました。 数年前に病を患ったこともあり、人生100年時代に悔いなく歌い続けたいという大倉さんに伺いました。

普通65歳で定年なんですが、特任教授と言う事で5年間残りましたが、去年3月に退職しました。 50歳から勤め始めて、70歳まで20年間になります。 コロナ禍ではどうやって教えてゆくか苦労しました。 数年前に心筋梗塞を患ってしまいました。 同僚が亡くなったりして、一生は一度しかないと身近に感じました。 一昨年久し振りにオペラの重唱を歌って、やり残したことがあったのではないかと思って、オペラをやらなきゃと思って、コンサートをやることに至りました。(初の自主リサイタル)  それまでは二期会の組織の元に歌っていました。 こまごまとしたことやチケット売りもこなさなくてはいけなくて、大変さが身に沁みました。 

第一部が日本歌曲『山田耕筰』の作品より。 第二部がプッチーニの「ラ・ボエーム」のハイライトを構成しています。 

*「母のこゑ」 作詞: 大木惇夫  作曲:山田耕筰 歌:大倉由紀枝

「母のこゑ」は大学に入る時の受験曲でした。 

余りにもいろんなことを入れ込んでやってしまって、終わってから抜け殻みたいになってしまいました。 

1953年福島県いわき市出身。 小学校4年生の時に「とんび」を独唱しました。 小学校、中学校、高校まで合唱をやっていました。 一時期薬剤師になろうと思っていた時期がありました。 国立音楽大学の新任の先生が居まして、話を聞いているうちに音楽の先生の道もありかなあと思いました。 国立音大を受験することになりました。1975年国立音楽大学声楽科卒業。 同時期に二期会オペラ研修所22期生終了。(修了時最優秀賞受賞) 第13回民音?コンクールで第一位。  1979年東京芸術大学大学院オペラ科修了。 卒業と同時に留学しました。(イタリア)  大きな機会になりました。 1981年に藤原歌劇団でオペラ『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタで主役デビュー。

一番多く歌ったのが『フィガロの結婚』伯爵夫人です。 当時日本では日本語でやっていて、日本語の発音、発声では大変でした。 何十年かしたら原語で歌うという音になってきました。   新国立劇場でリヒャルト・シュトラウスが作曲した『アラベッラ』で大役を務める。 2010年には新国立劇場で三島由紀夫の『鹿鳴館』の伯爵夫人朝子をやりました。 『アラベッラ』、ばらの騎士』が50歳前後の時で、一番充実していたのかなあと思います。 母校から後進の指導をしてほしいとの話がありました。 迷いましたが、最終的に引き受けることにしました。 

「ラ・ボエーム」、「トスカ」とかもやっていなかったし、リサイタルの時プッチーニの「ラ・ボエーム」のハイライトを構成、ミミの役をやりました。 

「ラ・ボエーム」 第3幕「別れの四重奏」  「アリア」  歌:大倉由紀枝

「いわき応援隊」の活動のなかで、歌で盛り上げられたらなあと思っています。 両親もいなくなって去年いわきの実家を処分しました。 小学校から使っていてピアノを直して母校の小学校に寄贈して、その時に歌もプレゼントしました。 主人(岸本力)はバスの歌手です。 息子はバスバリトンの歌手です。 3人でファミリーコンサ―トと言う事で何年か歌わせてもらっています。  『カプレーティ家とモンテッキ家』で私はジュリエッタ役でしたが、そのお父さん役を主人がやりました。 私の大好きな言葉が「一期一会」です。 その時その時を最善を尽くして、誠意をもって対応する、という事を心掛けたいと思っています。 





2024年1月18日木曜日

川上麻衣子(女優)           ・〔わたし終いの極意〕 「実家じまい」で見えた私の老後

 川上麻衣子(女優)    ・〔わたし終いの極意〕  「実家じまい」で見えた私の老後

川上さんは1966年スウェーデンに生まれました。 14歳の時にNHKのドラマで女優デビュー、数々のドラマや舞台で活躍する一方、ガラスデザイナーとして個展を開いたり一般社団法人「猫と今日」の理事長を務めたり多彩な活動をしています。  また自身の日々を綴った女性誌の連載では、猫との暮らしや老いとの向き合い方などについて発信、「実家じまい」についてのエッセーは大きな反響を呼びました。 「実家じまい」を終えて今思う事はどんなことでしょうか。 

今自分が感じている事、悩んでいる事をそのままテーマにしています。 日記を書いたり腹が立ったりした時なども自分の気持ち書いて、気持ちを落ち着けるということはありました。 還暦が間近になって来て、気がかりだったのは実家をどうするかという事でした。  親も高齢でした。 家は物置き状態でした。 ゴミ毎買い取りますというチラシが入っていました。  両親と話をして突然決まりました。  母が84歳、父が93歳でした。 私は一人っ子です。 2023年の9月ごろのことでした。 2か月後引き渡しでした。 両親がインテリアデザイナーなので、1966年当時購入してすぐに大改造をして、畳、壁などなくしておおきな2LDKにしました。 私は17歳でその家を出ています。  父が工房を持っていてそこの物、大磯に暮らしたこともあるのでそこの物を家に持って来てあるので、物はたくさんありました。 3,4年前には両親は都内のマンションに引っ越しました。 どんなものがあるかわからない状態だったので、要る、要らない、後で考えようという色の付箋を付けて行きました。 母が一緒に立ち会いました。  父の物も沢山ありましたが、数点を残すのみでした。 

仕事を辞めて両親がスウェーデンに渡ったのが1962年ぐらいでした。 王立大学でインテリアの勉強をしたいと言う事で大学に行きながら4年ぐらい生活をしていました。   当時のものが沢山あるんです。(ヴィンテージと言われるもの)  家具とか専門の業者の方4社ぐらい来てもらって、選別もしてもらいました。  父のスクラップブックとかデザインの専門の書類なども沢山ありましたが、貴重だという事で7割は専門業者さんは持ち帰りました。(2トントラックで何回かで)  

写真が一番迷います。 整理していないものはあきらめがつきましたが、ちゃんと整理されているアルバムは捨てる事は出来ずに段ボールに詰めて、倉庫に入れてあります。 私の小さいころからの絵、日記とかもいろいろ出てきました。 今倉庫にありますが、還暦を迎えたら読んで捨てることにしました。 洋服などはほとんど捨てました。 14歳でデビューしたので、その時の衣装などは持ち帰りました。 忙しさもあって実質作業したのは二か月の間で15日以下だったと思います。 スッキリした思いと、ここからもう一回断捨離をしなければいけないという思いがあります。  残したものの整理がついていない。    実家じまいは思い切りは必要です。  両親の世代では趣味で求めたものとかには貴重なものがあるかもしれないので、専門の方に見ていただいて、残してゆくことも大事かなと思います。  体力も必要です。

私は1歳の時には日本に来ました。 1974年、小学校3年生から4年生にかけての時期にもう一度スウェーデンに行きました。  スウェーデンでの文化では自己主張することが当たり前でしたが、母親がこれではいけないという事で1年繰り上げて日本に帰ってきました。 日本に帰ってきた時の方が辛かったです。 小学生でマニュキアしてもピアスをしてもスウェーデンでは怒られることはなかったです。  集団行動は出来なくなっていました。 驚いたりするとスウェーデン語になってしまったりして、友達からは厭な感じと思われました。 それでしゃべらなくなりました。 

劇団に入りたかったが入ること自体に両親は猛反対でした。 小学校5年生で劇の主役をやってそれが凄く面白い経験になり、劣等生だったのが良くなって、日曜日に学校ではないところで何かをやりたいという事があって、劇団に入りたいという思いが湧いて来たと思います。 反対されたが3,4日ストライキをして、試験は受けることに同意しました。 1980年の時でしたが、劇団に入ることになりました。 1980年NHKドラマ人間模様『絆』でデビュしました。 その後学園ものがあり、自分の判断とは別の動きが出来て行きました。

NHKではとても演技指導が厳しくて自分には合わないと思いました。 ガラスデザイナーとしての活動、一般社団法人の理事長でも活躍。  2005年に初めてガラスの個展をやりました。 スウェーデンはガラスの王国と言われていました。 スウェーデンで買っては自宅で使っていました。  NHKの番組に出た時に、ガラス工芸作家の石井康治先生から「僕の工房に来て吹いてみたら」、と言われて青森に行って作業が新鮮で面白かった。   教室にも通って技術を学びました。 両親ともデザイナーで、父は木工の専門で母はテキスタイル(織物など)、二人とも美大の先生もやっていますので、その分野は手が出せないと思っていて、ガラスだったら自分で表現できると思いました。 デザインは自分でやって吹くのは気の合った職人さんと言うコンビで作って、2年に一度個展をしています。ガラスの作る過程が芝居と似たようなところがあります。(ハプニングがあっても即対応するとか。)  

人と猫の共生について考えて行こうという事でその活動をしています。 2017年に立ち上げました。 一人暮らしを始めてすぐに猫を飼って40年ぐらいになります。 看取りという事で自分の死生観も変わってきました。  「猫と今日」と言う団体名です。 動物の医療も進化して、最後を病院で迎えるとか、管を身体に通すとか、果たしてそれがいいのかと考えました。  5匹看取りましたが、果たして自分だったらどうしようかと考えた時に、自分の家で穏やかな時間が長くあって欲しいと思いました。 食べないようになって体力を減らして死んでゆく姿が私には自然に見えました。 両親の終いに関しては少しづつ話をしています。 親の考えと私の考えとがずれている様なこともありますので、元気なうちに話をした方がいいと思います。 小さなことでも目標を持つことは大事だと思います。 「シンフォニーエージング」 調和してゆく、共鳴してゆくみたいな、広い意味で調和してゆくイメージがあってそこに歳を重ねる。 そういったことで自分の終いに向けて行けるんじゃないかと思っています。












2024年1月17日水曜日

荻原次晴(スポーツキャスター )     ・〔スポーツ明日への伝言〕 双子に生まれて良かった!

 荻原次晴(スポーツキャスター )・〔スポーツ明日への伝言〕  双子に生まれて良かった!

次晴さんは総合優勝に3回輝いた双子の兄健司さんと共にワールドカップを転戦、1995年には二つの大会で1位、2位を兄弟で占めるワンツーフィニッシュを遂げ、更に世界選手権では団体の金メダルを一緒に獲得しています。 1998年には念願の長野オリンピックに出場して個人6位に入賞を果たしました。 引退後はスポーツキャスターとして活躍する一方、登山愛好家としての本百名山登頂にも挑戦中です。 

僕は登山が大好きで2011年の夏から次晴登山部と言う部を立ち上げて、日本中の山好きと日本百名山を登ろうというチャレンジをしてきて、74の百名山に登ってきました。 ゴルフ、レーシングカー(ラジコン)、サーフィンなどもやっています。  私たち双子兄弟の上には姉が3人いて5人兄弟です。  登山は両親が大の登山好きで、子供のころから山に行っていました。 

1969年(昭和44年)群馬県草津の生まれ。 ノルディック複合のワールドカップ優勝が19回、総合優勝が3回、オリンピックでも団体で二つの金メダルを取ってキングオブスキーと言われた健司さんが兄です。 私は健司のことを「健」、健司は私のことを「つん」と言っていました。 家族とか近所でもそうでした。 よくわからないので「健つんちゃん」とも呼ばれたりしました。 スキーは3歳から始めました。  5歳からはしっかりしたスキー道具を身に付けて二人で滑っていました。  ジャンプは小学5年生の時です。 姉の影響で小学1年から5年までは器械体操をやっていました。 5年生の時にジャンプをやっている友だちに誘われました。  兄は慎重派ですぐには始めませんでした。 

中学1年では岐阜県で全国中学生スキー大会があり、私が群馬県の代表になりました。 兄は炬燵で泣いていたそうで、その後兄は練習を一生懸命やって急に強くなりました。 私は楽しんでやっていたらあれよあれよと強くなて代表に選ばれて、代表に選ばれた喜びはそんなにありませんでした。 中学3年で全国大会で健司が1位、私が2位でした。 高校で2人はジュニアのナショナルチームのメンバーになりました。 高校2年の時にイタリアで国際大会が行われましたが、私はほとんどビリでした。 健司は15位ぐらいに入り俄然やる気になりました。 大学4年の時のアルベール(オリンピック1992年)迄突き進むという感じでした。 健司が複合で金メダルを取ります。 私は家でテレビを見ていて吃驚しました。 V字ジャンプが出てて、健司は新しいV字ジャンプにはまっていました。   ジャンプは二人とも下手でしたが、どうせなら新しいことをやってみようという事でした。   ジャンプの得意な人は取り入れないため引退に追い込められました。

リレハンメルでも連続の金メダルでした。 当時はジャンプさえよければ日本の複合は何とかなるという感じでした。  日本と2位のチームとの差が5分と言う時もありました。  アルベールの直後山形県の蔵王で国体が開かれ、金メダルチームが来るという事で凄く人が集まりました。  或る女性が私のところに来て「健司さん 大フアンです、沢山のケーキを持て来たので食べて下さい。」と持ってきました。 「違う。」と言ったんですが、仕方なく受け取りました。 けっこう重くて変な体勢で受け取って、その瞬間に腰に電気が走って、それから何十年と腰の違和感と付き合っています。  大会にも出られず群馬に戻って来ました。 

長野オリンピックでは個人6位入賞。 兄がメディアで有名になりますが、顔が似ているのでどこに行っても間違われるんです。  讃えられる兄と、がっかりさせられる弟と言う風に強く感じるようになりました。  自暴自棄になってしまった時期もありました。 それを打破するためには何かチャレンジしなければ駄目だと思いました。 私も頑張ればオリンピックに行けるかもしれないと思いました。 そうすれば間違われることなくなるだろうと思いました。  自分で考えて自分流のトレーニングをするようになりました。 成績もよくなっていきました。 1994年、1995年のワールドカップには二人で出場。

チェコの大会では健司が前半1位、私は5位ぐらいでした。 クロスカントリーになったら前の外国選手をどんどん抜いてゆくことが出来ました。 健司に追いついてしまって、優勝だと思っていました。 後ろから強豪のノルウェーの選手が迫って来て、二人が飲み込まれたらもったいないと思って、自分が犠牲になって健司を引っ張って、最後に余力があったら私が1位になろうと思いました。  最後の最後私も力が尽きてしまって、健司がラストスパートを仕掛けて健司が優勝、私が2位となりました。 健司は連勝連勝できていたので譲ってくれるのではないかとの思いもありましたが、そうはいきませんでした。 健司は言っていました、「世界はそんな甘くねえぞ。」と。 

1994年カナダのサンダーベイで行われて、この時には団体で世界チャンピオンになる。 双子揃っての世界チャンピオンになる。 これで健司もいるが、次晴もいるという事が世間に知ってもらうことができました。  個人戦ではみんなジャンプの成績が良かったので、誰かメダルは取れると思っていたが、クロスカントリーでは板が全然走ってくれず、誰もメダルを取れませんでした。 板を外してみたら、黒いベタベタした油がついていました。 後で判ったことですが、近くのパルプ工場の煙が雪に積もって板に付着したのではないかという事でした。 

1998年の長野オリンピックでは個人6位入賞。 オリンピックが近づくに従いコンディションを崩してしまって、調製が難しかったです。  オリンピックに出るためにはポイントが必要でマイナーの大会に一人で出たりしてポイントを稼ぎました。 本番の前半では3位になりました。 結果は6位でした。  長野オリンピック終了後6月に引退しました。 健司が金メダリストになって、間違われたりして、双子って厭だなとずっと思っていました。  振り返ってみると、厭なことがあったかもしれないが、さぼり癖のある私もオリンピックにたどり着けた、結局は双子に生まれて良かったなあと思います。  マラソンで競う宗兄弟を見て他人とは思えない、親しみを持っていました。 孤独になりがちなスポーツで身近な兄弟がいることでもうひと頑張り出来る、そういったものがあるのかもしれません。 





















2024年1月16日火曜日

山田登美男(盆栽作家 日本盆栽作家協会理事長)・緑の芸術をめざして

 山田登美男(盆栽作家 日本盆栽作家協会理事長)・緑の芸術をめざして

今、盆栽は日本ばかりではなくて、世界的に愛好家が広がっています。 盆栽愛好家にとっては聖地と言われる大宮盆栽村で清香園と言う盆栽園を経営している4代目の山田登美男さん、去年5月にさいたま市の盆栽文化の振興、発展に大きく寄与したとしてさいたま市文化賞を受賞しました。 山田さんは1938年(昭和13年)生まれ(85歳)。  もともとは写真の関連会社に勤めていて、美しいものに興味がありました。 山田さんはその清香園の娘さんと結婚して27歳で4代目として盆栽の修行を始めました。 3代目のお父さんの指導の下、数々の盆栽の賞を受賞していきました。 現在は盆栽の指導者の集まりである日本盆栽作家協会理事長をしています。 

盆栽つくりは年数もかかるし場所も大きく必要です。 盆栽村にはほかに5軒ほどあります。  コロナ以降訪日客が増えています。 盆栽村はかつては30軒ありました。  今、世界には1000万人ぐらいの愛好者がいます。  水と空気と環境を緑で育てるという事は快適に健康を維持する。 私どもは75種類ぐらい扱っています。 松も五葉松、エゾ松、赤松、黒松などあります。 緑の松と四季折々の広葉樹を盆栽で維持管理すると楽しいですね。 海があって陸、島があって、緑の松があって、広葉樹が美しく添える、そういうものを凝縮した、盆上にしたのが盆栽です。 

江戸時代はあそこ(台東区根岸)は別荘地なんです。(盆栽が盛んだった。) 文人、歌舞伎役者などいろんな人たちが住んでいました。 うちの盆栽は種類が多いです。 東京の人口が増えてくると盆栽をやることが難しくなって、大宮に大変いい土地(地下水がおいしい、空気がいい、土が適している)があるという事で、選ばれました。  うちは都落ちをするのが嫌だと言って、ぎりぎりまで頑張りましたが、戦争も始まり昭和18年に大宮に来ました。 公家の社会で発生して、約1000年の盆栽の歴史があります。  

写真が好きで写真の関係のメーカーに就職して、友人から盆栽を知って盆栽にはまりました。 27歳で清香園の娘さんと結婚しました。 冬芽が薄暗いところで光っているんです。 それが凄くきれいに見えました。 江戸時代から受け継いでいる凄い技術もありやりたいなあと思いました。 親にも認めてもらいましたが、口では教えてくれません。   或る時気に入った盆栽が目に留まりました。(1万5000円ぐらい) 自分のお金(給料の一か月分)で買って1年がかりで手入れをしました。 気に入った人がいて13万円で売ったら、その人が又高く売ったんです。 それで自信を持ちました。 見よう見まねで技術を磨いていきました。 父が私の作成している盆栽に対して違った意見を言ったんですが、八王子の有名な盆栽の人が居て、私の盆栽を見て父親に対して、「若い人の感性を壊しちゃあだめだよ。」といって、それから父は一言も意見を言わなくなりました。 

50年ぐらいかけて20、30点作っているのは私ぐらいだと思います。 皆作ると早く売ってしまう。 日本盆栽作風展では外務大臣賞、内閣総理大臣賞など多数受賞。(30代ぐらいに受賞)  自然から教わる面と、人から教わる面と両方ないと育たない。  総合芸術としての完成度を狙っています。 一流の画家、彫刻家のものに盆栽を添えて、飾ったり愛でる、そういう憩いの間を作るという事が私の理想です。 盆栽は主でもあるし、従でもある。 

1983年に45歳で4代目を継ぐ。 作品としては父親の作品はあまり残ってはいないです。 初代の庄之助の松(350年ぐらいの樹齢の木)は残っています。 売ってくれと言う人が居ますが売らないです。  松では真柏とか五葉松は700,800年持ちます。(盆栽にするともっと短い。)  1991年のプロの為の盆栽作家協会を作りました。 海外を含めると300名ぐらい。(国内よりも海外の方が多い)  30か国ぐらいが盛んで、やってる人は100か国ぐらいあります。 私はヨーロッパ中心ですが、アメリカにも何回か行っています。 中国も盛んになってきています。 世界盆栽大会は4年に一度開かれています。 5代目は娘が継いでいます。  緑は心が落ち着きます。












2024年1月15日月曜日

塙宣之、土屋伸之            ・〔師匠を語る〕 生涯現役 内海桂子のプロの教え

塙宣之土屋伸之 (ナイツ)    ・〔師匠を語る〕  生涯現役 内海桂子のプロの教え 

ナイツのお二人が師と仰ぐのは漫才協会の会長を務めた生涯現役漫才師の内海桂子さんです。内海桂子さんが亡くなったのは2020年の8月で3年半が過ぎようとしています。

塙:私にとっては師匠がいるのといないのでは全然違います。 全部教わったような気がします。

土屋:芸人を20年以上やっていますが、歳を重ねる程桂子師匠の凄さを実感します。

 内海桂子さん(本名安藤良子さん)は1922年(大正11年)千葉県銚子市で生まれます。 幼少期を東京浅草南千住で過ごし、三味線、踊りの稽古を積んできた内海桂子さんは1938年16歳で男性と漫才コンビを組みデビューします。 大卒の初任給が20円の時代、月々のお手当は35円でした。 生家の家庭をずっと助けて来たそうです。 太平洋戦争が始まり、戦況が悪化する中でも万歳を続け、慰問の為満洲にもわたり、東京大空襲を生き延びた桂子さんが14歳年下の好江さんと内海桂子・好江コンビを結成したのは1950年(昭和25年)のことでした。  まだ中学生だった好江さんに初めは二の足足を踏んだものの、本気でやるという好江さんの言葉に奮い立ち、再スタートを切ったと言います。  三味線と歌と心地よいテンポの江戸っ子万歳が頭角をあらわし、結成の8年後(昭和33年)にはNHK万歳コンクールで優勝、更に昭和57年漫才師として初めての芸術選奨文部大臣賞を受賞、平成5年度の放送文化賞を受賞するなど、第一線で活躍しました。 1997年(平成9年)好江さんが亡くなり、48年間の活動にピリオドを打ちましたが、その後も内海桂子さんは三味線を手に都都逸などを交えた音曲と漫談を披露、一人舞台に立ち続けます。 1998年(平成10年)には漫才協会の5代目に就任、若手の育成にも力を注ぎ、ナイツの師匠としても注目されました。 2020年8月内海桂子さんは多臓器不全の為、97歳で亡くなりますが、生涯現役漫才師を貫きました。  

塙:大学でお笑いのサークルに我々は入っていたので、養成所に入るのとは違って、マセキ芸能社に入って、そこの社長が浅草で芸を磨きなさいと言う方針でした。 漫才協会に入るためには誰かの弟子にならないといけないというシステムだったので、内海桂子さんの弟子になりなさいと言う事務所の方針で弟子になりました。 

土屋:その時には80歳で祖母と同じ年代でした。 孫を扱うような感じでした。

塙:すごく緊張して挨拶したのを覚えています。お互いにピンとこないような状態でした。

土屋:ご主人が居たので付き人としての付き人としての苦労と言ったことはなかったです。個人個人の名前は言われなかったが「ナイツ」と言う言われ方はしました。

塙:内海桂子師匠が「とり」で僕らが「とり」前をやるんですが、終わるまえに師匠が出てきて打ち合わせとか全然していないで、3人で5分ぐらい会話をしてやるという風にはなっていました。 亡くなってしまいましたが、もう一回やりたいという気持ちがあります。  言葉使いとかは凄く言います。 「やばい」という言葉を使う事によく怒られました。  万歳ではふざけてはいるが、言葉使いはちゃんとしなければいけないという事で、それは凄く残っています。 

ナイツが万歳新人大賞を受賞したのが2003年、弟子入り2年後。 2008年にはお笑いホープ大賞、NHK新人演芸大賞、M1グランプリ決勝進出。  平成25年度文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞、平成28年度第67回芸術選奨文部科学大臣 新人賞、第33回浅草芸能大賞 奨励賞。

塙:師匠が凄いところは、育てることも凄いんですが、自分が売れたいという気持ちのある人で、ライバル意識をしていました。 

土屋:テレビなどで師匠の話をすると、喜んでくれたりしました。

塙:「言葉で絵を描きなさい。」と言う事は言っていました。 最初はわからなかったが、良い万歳と言うのはネタをやっている時に、その絵がお客様に浮かんでいるというのがいい万歳なのかなあとか思います。 

土屋:お客さんの中に浮かぶような言葉を選ぶ と言うのが、師匠が言いたかったことなのかなあと思います。 

塙:怒られること自体も嬉しかった。 それが褒め言葉だったのかもしれない。

土屋:いろんなことが出来る万歳師を結構褒めていました。(そういった時代だった。) 僕らみたいにただ突っ立っている万歳、今でこそ正統派といわれますが、それはゲイじゃないよと言う考えはありました。 南京玉すだれを教えてもらってやった時にはすごく褒められました。  「万歳は宇宙だ。」といっていて、漫才も無限の広がりがあるものなのか、でもよくわからないまま終わって仕舞いました。

塙:訃報を聞いた時にはコロナ禍でしたので、どうしようもない感じでした。 最後を立ち会えませんでしたし、いまだに実感がないという感じです。 97歳でしたが、師匠からするともっと長生きしたかったと思います。 自分の人生に一番パワーを使ってきたことが長生きの秘訣だったのかもしれないです。 

まだ勉強の途中ですが、歳をとって来て段々凄いと言う事が判ってきました。

土屋:師匠は自信がみなぎっていました。 お客さんを今日一番笑わせるのは自分だという、そういう自信たいなものがありました。 精神的に強い師匠だったと思います。 

師匠への手紙

「 「言葉で絵を描きなさい。 万歳は宇宙だ。」という弟子入りしていたころは全く判りませんでしたが、最近ちょっとずつ判って来た気がします。 その中でも「感性がぶつかれば万歳になるんだから、感性を磨きなさい。」と言う言葉です。 一生万歳師として生きてゆくために必要なことだと痛感しています。 感性、人間性を磨くために何をすべきかを心の中で師匠と対話しながら、これからも進んでいきたいと思います。 師匠の座右の銘「人生は七転び八起き」 失敗しても全て芸の肥やしとしてこれからも舞台に立ち続けようと思います。」







2024年1月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

2024年は意外と沢山の人の記念年なんです。 2024年に記念の年を迎える作品、作曲家をテーマにお送りしたいと思います。 1924年イタリアオペラのプッチーニが亡くなって100年、1824年「わが祖国」の「モルダウ」を書いたチェコのスメタナ生誕200年。 オーストリアのアントン・ブルックナーも生誕200年。 ヴェートーベン交響曲第9番ウイーンで初演されて今年で200年。

*第9のフィナーレの合唱部分 

ヴェートーベンは若い時に第9のメロディーと似たものを書いています。 1807,8年ごろに「合唱幻想曲」というユニークな曲を書いています。 ピアノ独奏とオーケストラ、独唱合唱のための作品です。

*「合唱幻想曲」の一部

初演のころは大変な失敗で最後まで演奏されなかった。 舞台も客席も大混乱に陥ったというレポートもある。 第九の原点。

シューベルトの「未完成」が7番、交響曲「グレート」が8番という事で、ほぼ定着してきました。

*交響曲「ザ・グレート」8番ハ長調 第4楽章一部 ヴェートーベンの第9を感じさせるところ。

1824年 オーストリアのアントン・ブルックナー、チェコのスメタナが生誕。

*「モルダウ」 作曲:スメタナ 指揮:ラドミル・エリシュカ 演奏:札幌交響楽団                 70歳を過ぎてから初めて日本を訪れ、75歳の時に初めて札幌交響楽団と共演。その後札幌交響楽団の首席客員指揮者に就任、沢山の名演奏を残す。 2019年に88歳で亡くなる。 川の流れなど映像を感じさせる音楽、名曲です。 

アントン・ブルックナーの交響曲は曲が長いので時間内でどういう風に紹介するか、工夫が必要になります。 

プッチーニは1924年まで生きていた。 ラ・ボエーム』、トスカ』、蝶々夫人』、三部作』、トゥーランドット』など多数。

トゥーランドット』から誰も寝てはならぬ」ほかこのオペラのグランドフィナーレの部分も。 リューがトゥーランドットの前で死ぬ前に歌う「アリア」。





























2024年1月13日土曜日

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・これまでのお墓、これからのお墓

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・これまでのお墓、これからのお墓 

鵜飼さんは経済誌の記者として、全国を回り過疎化による檀家の減少と住職の高齢化、後継者不足で存続の危機にある寺の実情を取材しました。 その際、お墓の形やあり方が転換期に入ったことを目の当たりにしました。  2018年に独立して京都に戻り実家の寺で住職を務めながら、ジャーナリストとして現代社会と仏教をテーマに取材を続けています。 今お墓と埋葬法をめぐっては墓じまい、改葬、永代供養、樹木葬、散骨などがキーワードになっています。 今何が起きているのか、お墓の変遷をたどり、これからのお墓を考えます。

コロナ禍の初年度は法事、お葬式の数、規模が小さくなりました。 秋(2020年)には平時に戻りました。 今はコロナ前よりもお墓参りは多いですし、5類になってから法事の規模もコロナ前に戻りました。 老人施設、病院などで満足に看取れなかった方が、納骨されてから手を合わせたいという事で、揺り戻しではないかと思います。

お墓ばっかりここ数年みてきました。 北から南、全国のお墓は全然違うんです。 弔い方も違います。 改葬、故郷のお骨を出して自分たちが住んでいる納骨堂に持ってくるとか、これを改葬と言います。 墓じまいは改葬の一種ではありますが、一族が絶えてしまって、一族の墓を撤去してさら地にして、ご先祖のお遺骨などはご自宅などにもどすとか、と言う事をします。 都会の方ではほとんどが家族葬になりました。 また直葬と言って葬式もしないというのもあります。 高齢者施設、病院などで亡くなり、日本の法律だと24時間立たないと火葬が出来ない。 どこかに24時間安置して、お葬式をしないで火葬してします、これを直送と言います。  東京では家族葬と直葬でほぼ100%に近いと思います。 散骨、樹木葬、これは何が起きているのか。  リーマンショックの2007年8年を境にしていろんな種類のお墓が出てきました。 ロッカー式の納骨堂、樹木葬、自動搬送式の納骨堂(近代ビルでICカードをかざせば、自分たちが契約している納骨箱が出てくる。 ブースの前で手を合わせる。)、散骨(お墓を持たない)特に海洋散骨が出てきました。

日本人の埋葬の歴史は旧石器時代、縄文時代とかまでさかのぼります。 手厚く埋葬していた形跡があります。 旧石器時代には集落の真ん中にお墓を作ってその周りに人々は暮らしを営んでいた。 古墳時代があり、或る時忽然と消えます。 平安時代はピタッと弔いがなくなります。 京都などは野ざらしとなる。(風葬) 江戸時代には今と似ているお墓が始まります。 明治時代には戦争の時代に入って来て、戦死者の弔いと言う形でお葬式が肥大化します。 英霊を村を上げて弔ってゆく。 今は弔いが多様化をして、簡素化している。

江戸時代の初期檀家とお寺の関係が出来ました。 1637年にキリシタンの反乱、島原の乱がおきます。 江戸幕府が日本人を全て仏教徒にするという政策に転換してゆきます。  集落の中心に一つお寺を作ってゆく。(一村一寺の制度)  日本全国に整えてゆく。  村人たちはそこの檀家になる。(義務)  宗門人別改め帖に書き込まれてゆく。(戸籍の原形みたいなもの) 自分たちのお墓を持って一族がそこに埋められてゆく。 次男筋は別のところに作ってゆく。(今の形に近い。) 江戸時代にはなかなか引っ越しは認められなかった。 大阪の一心寺が次男筋のために、故郷の親のお骨を一部持ってきて納骨することが始まった。(今の永代供養の始まり)  骨を砕いて粉にして骨仏を作ってこれが人気になりました。(一体当たり十数万のお骨で出来ている。)

埋葬、平安時代は風葬に近かった。 京都には3つの風葬地があった。(鳥辺野、蓮台野、化野) 火葬の一番古いのは奈良時代です。 行基の道昭という師匠が最初に火葬された。 その後火葬が天皇家に取り入れてゆく。 庶民は風葬、土葬。 お釈迦様が火葬された。 そのならわしが取り入れられてゆく。 多くの宗教は土葬、イスラムは土葬、キリスト教も土葬、日本の神道も土葬で仏教の火葬の方が珍しい。 江戸時代の初期にお寺の近くに火葬場が出来て、村人たちの火葬を行っていた。  大阪はほとんど火葬、江戸は半々ぐらい。 北陸は火葬が多かった。(浄土真宗の本山納骨を行う、東本願寺、西本願寺に分骨する。  浄土真宗を中心にして火葬が広がって行った。) 

明治元年に神仏分離令が出来る。 徳川家は仏教を使って納めようとしたが、明治政府は仏教否定に回る。 神道と国家が結びつくようになる。 神道は土葬なのでお一時期火葬禁止令が出る。 京都などは90㎝角ぐらいなので土葬が出来ない。  東京は江戸屋敷をつぶして、都立霊園を作る。(都立青山霊園、都立雑司ヶ谷霊園、谷中霊園など広大な霊園がある。) 疫病が流行り出した時に様々な懸念があって火葬に戻ります。 終戦直後あたりに火葬と土葬が半々ぐらいに戻る。  今は日本は世界一の火葬大国になっています。 大正2年の時火葬率は31%程度、昭和22年で54%、昭和54年90%を越えて、今は99,9%です。 土葬は僅かに残っている。 

永代供養は永久供養ではない。 33回忌を機にお骨を別の場所に移す。 短いケースでは7年とかあります。 納骨堂では骨壺のまま納めるので出しやすい。 期限がついている。樹木葬もいろんなタイプがあります。  野山に生えている樹木にお骨を撒く場合もあるが、多くの場合は霊園の片隅に大きな納骨室を作って、脇にシンボルツリーを植えます。 30cm角のプレートの下に夫婦で収まるとかあります。(最近増えてきている。) 関東では骨壺のまま納めるが、関西ではそうはしない。  

アメリカではコンポスト(たい肥)葬が最近広がって来ています。(自然回帰)  カプセル状のブースに入れられて、或る程度の時間をおいて土にかえる。 その土を自然保護林に撒く。(日本では法整備が整っていない。)  日本では手元供養と言うのが増えてきました。 仏壇に遺骨をしゃれたケースに入れて、置いたままにしておく。 遺骨を高温高圧で人工ダイヤモンドにしていって、戻って来る。(高額) オランダでは墓石のない墓地があり、早く土にかえる特別な御棺を作って埋葬すると、墓地のサイクルが早まる。 村単位で合祀墓を作って、お祀りして永続的に管理する、という事もあります。(京都) 

ある大学でのアンケートではお墓を大切にしたいという回答が8割を越えています。 心の教育の場所がお墓なんだと、こういう事も考えていただければと思います。 お寺に集う仕組みを作ってゆく、祈りの空間であるべきだと思います。 


























 

2024年1月12日金曜日

ねじめ正一(小説家・詩人)        ・〔人生のみちしるべ〕 私には絵本があった!

 ねじめ正一(小説家・詩人)           ・〔人生のみちしるべ〕  私には絵本があった!

ねじめさんは昭和23年東京都生まれ(75歳)。 昭和56年に詩集「ふ」でデビュー、詩壇の芥川賞とも言われるH氏賞を受賞します。 父親から譲り受けたねじめ民芸店を営みながら、現代詩に新たな世界をもたらす創作活動を精力的に行います。 平成元年には自らの少年期を題材にした小説「高円寺純情商店街」で直木賞を受賞、平成9年には「詩のボクシング」(ボクシングのリングに見立てた舞台の上で、自作の詩などを朗読し競うイベント)で初代チャンピオンになります。 詩人谷川俊太郎さんとの一戦は記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。  また、ねじめさんは平成22年にはラジオ深夜便のミッドナイトトークのレギュラーゲストで、当時はお母様の介護の話などもしました。 平成26年介護の体験をもとに、「認知の母にキッスされ」という小説を発表しています。 現在75歳のねじめさん、実は70歳手前で詩も小説も書けなくなったと言います。 ねじめさんが、今新たな気持ちで取り組んでいるのが絵本の創作です。

「詩のボクシング」の谷川さんと言う相手が素晴らしくて、一戦ではそれぞれ得意技を出せたところが良かったです。 平成26年には「認知の母にキッスされ」を出版。 母は亡くなりました。 私は孫3人と遊んでいます。 最近は秋田県の羽後町へ呼ばれ、私の絵本を子供たちが読んでくれました。 お返しに4冊ぐらい大きな声で読みました。 若いころ朗読をやっていてよかったと思いました。  

70歳手前で詩も小説も書けなくなりました。 ねじめ民芸店を辞めたことが一つのきっかけになったのかもしれません。 そこで200冊ぐらい出してきて、そこがなくなってしまった時にねじめ民芸店の仕事場は大きかったんだなと思いました。 そこがあることで嫌な仕事も断ることが出来ていた。 辞めてからやる気が出なくなってしまって、詩も小説も書けなくなりました。 一日2時間は愚痴を言っていました。 2019年の8月にねじめ民芸店を辞めました。(妻が体力的にきついというのが大きな理由)   偶然に絵本がハードカバーで出来上がりました。  この絵本(「ゆかしたのワニ」)が助けてくれました。 2018年に出版して4年後にハードカバーになった。 詩も小説も書けなくなり、絵本ならひょっとしたらやれるかも知れないという気持ちにさせてくれました。 30代後半からも絵本は50冊ぐらい出していましたが、こんな気持ちになったのは初めてです。 

どうやって子供さんに届かせられるのかと言う事と、1冊目の「あーちゃんちはパンやさん」(1986年出版)はモダンな絵本と言うことでしたが、最初の絵本から変わらないものと言うのがあって、商店街のありようが凄く自分の中で大きなものだなあと思います。  「ゆかしたのワニ」は商店街は出てこないが、ワニと子供との交流なんです。 商店街の子どもの交流とおなじなんです。 商売の店で育った俺の土台になっているんです。 

中学2年生のころから詩を書き始めていますが、すでにそこから有ったと思います。  先生から将来詩人になれると言われました。 野球にも詩にも付き合ってくれて好きな先生でした。 将来詩人になれると言ったのは、その詩の中の「宙ぶらりん」という表現に先生が感動してくれたと思います。  「宙ぶらりん」と言う言葉は今の自分の気持ちをぴったりだという気持ちはありました。  

絵本は声に出さないと完成しないんです。 「みどりバアバ」(母親がモデル)をねじめさんが朗読。  右手が動かなくなり、花屋の店には出ちゃいけないと諭される。 その後亡くなるがそれも絵に描かれている。 うちのおふくろは実際に店番が好きでした。  亡くなった時に一番その人が好きだった場所にいるというのが、死んだ人の理想の姿というか、私の中では、商店街で生きて来たおふくろを考えると、店のなかで今も生きているという事が、私の中では納得と言うのはありました。

「みどりとなずな」 俳人ねじめ正一さんと絵本作家五味太郎さんによる俳句絵本。   認知症の母が亡くなるまでを詠んだ絵本。  介護の様子から孫の誕生まで。      みどり=母親 なずな=私の孫の名前  俳句は一つ一つの方向性が違うので絵本にするには難しくて、強引に方向性を向けて行かなくてはいけないので、繋いでいく句を作るのが難しい。 

「母逝ってなずな生まれる宇宙あり」

「大あくび正義の味方なずなちゃん」

言葉のスピード感などを子供に見せつけたいというような思いがありましたが、変わりました。  子供さんのために絵本はあって、作者と子供さんと絵描きさんが同時に共有でいる秘密基地みたいなものを、時間をかけて作ってゆく事が一番大事なんだという事やってゆくのが面白いのかなと思いました。 小説など断って、自分の道が開けたなと言うには感じます。  勇気はいるが手放せば、又新しい道が見えてきます。 

〔人生のみちしるべ〕となるものは、19歳の時に店がなくなってしまって、どうやって生きていくんだろうと思った時に、或る店を借りようと思って行ったが断られてしまった。 そのことを父親に話したら「正一 お前はちゃんと生きていけるぞ。」と言われました。  この言葉です。 今思うと凄く嬉しい言葉ですし、自分にも自信になります。  父親が微妙に察知したんだと思います、その察知するという事は大事ですね。
















2024年1月11日木曜日

野上奈津(com-pass女性筋疾患患者の会共同代表)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きる選択」

野上奈津(com-pass女性筋疾患患者の会共同代表)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きる選択」 

第58回NHK障害福祉賞で最優秀賞を受賞した野上奈津さんのお話です。 NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるものです。 野上さんは東京都在住の61歳、com-pass女性筋疾患患者の会共同代表を務めています。 筋ジストロフィーなど3つの難病を抱え、延命措置や気管切開が必要になった時に、どうしたいのかを決めきれずにいた時に、新型ウイルスに感染、気管切開するかどうかの決断を迫られた体験を、「生きる選択」と題して綴っています。 

私たち夫婦は足が悪いので犬を飼いたかったのですが、散歩に行かれない方は犬は飼えませんと言われました。 それで猫、オウム(洋ちゃん、シナモン)を飼っています。 歩行器を使ってテーブル周りとトイレの往復になってしまっています。  自分の書きたいことを一生懸命に書きましたが、まさか最優秀を頂けるとは全く思っていませんでした。 506の作品が寄せられた。  「私には3つの難病があります。」と言う書き出しですが、基礎疾患として筋ジストロフィーがあり、全身の筋肉が徐々に壊れて行って筋力が衰えて行って、将来は身体が動きにくくなるという病気です。 治療法も一切ないという病気です。 もう一つが特発性血小板減少性紫斑病と言うもので、出血した際に血が止まらなくなってしまうので、例えば生理の時にはひたすら出血するので、輸血が必要になった時がありました。 歯磨きの時に洗面器一杯の血を吐いた時もありました。 もう一つが全身性エリテマトーデス(SLE=systemic lupus erythematosus)、これは自分の細胞を攻撃する抗体によってさまざまな臓器に炎症などが現れる病気とされています。 私の場合は身体で実感することはないんですが、血液の数値には異常が起きていて、その都度主人に対応してもらうと言う感じです。 私の友達はこの全身性エリテマトーデスで6年間意識を失った状態で寝たたきりだったという人がいます。  今は復帰して歌を歌ったりいろんな活動をしています。 

筋ジストロフィーについては、冒頭に「私には3つの難病があります。 15歳の時に告知された。 13歳の時に心臓病で母を亡くし、父が再婚した二度目の母に連れられて大学病院を訪ねた。・・・「貴方は筋ジストロフィーです。 この病気の治療薬はなく将来は寝たきりになるでしょう。 将来貴方は結婚しても妊娠してもいけない。」 今思えば思春期の少女に向かって何というもの言いだろうか。 義母に「泣いてどうなるものではないでしょう。」と𠮟咤されてここから私の難病者人生が始まった。」 と書いています。 筋ジストロフィーはゆっくり進行するのでアッ、病気になったという風に自覚をするわけではない。 私の場合はおへそから上の方に顕著に進行が現れるというもので、気付かずにいました。 私が洗濯物を干すときに、腕が上がらず奇妙な格好をするのを義母が見て、「おかしい。」と指摘されて病院に連れて行ってもらい、その場で告知されました。  世界が終わったというような絶望感でした。 遺伝をするので、その確率が50%ぐらいなので、結婚しても妊娠してもいけないという事でした。 筋ジストロフィーは痛みはありません。 

母は心臓病で亡くなったと聞かされています。  5年前或る時に細胞を取った時に初めて母からの遺伝であるという事が知らされました。  母も筋ジストロフィーであったという事を告げられ、動きなど納得がいくことが多かった。   病院から帰る時に泣きながら帰ってくる時に、義母に「泣いてどうなるものではないでしょう。 これからどうするか考えなさい。」と 言われて、その時はショックでしたが、後々沁みる言葉になりました。  劇団員になりたかったが、使い過ぎてしまうと筋肉の組織がどんどん壊れて行って、元に戻らないという事あるので、義母は必死で止めていたと思いました。  私は家から出て行こうとしますが、身体を張って義母が立ちはだかりました。 

特発性血小板減少性紫斑病についての体験記、「38歳の春、生理の出血が10日間続き、そのうち顔色が私の部屋の壁の様に真っ白になって、息も切れるようになった。 自宅近くにある大学病院を訪ねたことがきっかけで、ステージ1の子宮がんと共に宣告された。」  子宮がんと聞いた時に、死を考えました。  精神的に凄くきつかったです。 友人からは「悩んでいる時間がくだらない。 もしなってから考えればいい、なったんだったらどうしたらどうしたら治るかを考えればいい。 今いくら考えても無駄なことだ。」と言われてそこから大分意識が変って行きました。 子宮、卵巣を全摘して完快となっています。

全身性エリテマトーデスは50代になってから発症しました。 文化学院の恩師が主催している劇団に所属し、昼間アルバイト、夜はお稽古と言う生活を送っていました。 その後違う劇団に入って勉強をしていました。  交差点で大きく転んで、走れなくなったことを自覚しました。 舞台で走れない役者なんかないと思って、舞台を辞める決意をしました。(肉体的にも精神的にも疲れていた。) 

2022年11月主治医より延命措置について問われた。 「延命措置のついてどう考えていますか。 あなたが急変した際、気管切開をするくらいなら死んだほうがましとか、意識が戻らないままでも生きていたいとか。」衝撃的な質問だった。  突然延命措置の話がありました。  酸素濃度が低くなっていて夜間の人工呼吸器の装着の話は出始めていたが。 私の場合は酸素濃度が88ぐらいでした。(コロナで酸素濃度が96を切ったら救急車を呼ぶ様にと言うニュースを聞いていた。)  気管切開をすると声が出せない。 その1か月後に新型コロナウイルスと診断されてしまう。 入院はせずに自宅療養を選択する。(入院をすると足の筋肉が衰えることの怖さ。)   しかしトイレで転倒して救急搬送されました。 「何かあったら気管切開しますね。」と気軽に言われてしまいました。 その時には「お願いします。」とは言えなかった。  或る日私の状態が悪化して、主人に連絡がり、「奈津の命が失われなければ、その手段を選んでください。」と主人は言いました。   主人に判断をゆだねてしまったことで、考えを改めました。

最後は「私は生きる選択をする。」という強い決意で結ばれています。  緊急な状態に陥った時に、打つ手があれば、生きる選択しか自分の中にはないという事にやっと気づきました。  二度目の母、物凄い熱量で私たちを指導してくれました。 彼女が居なかったらどういう人生を歩んでいただろうかと、とてもありがたかった人です。 父と離婚をしてしまって今どうなっているのか判らないです。(結婚の期間は7年) もっと自立するようにと言ってくれた、弟の存在も大きくあります。(結婚前)   結婚したのは今から16年前です。(44歳)  障害者職業訓練校に試験を受けて入りますが、隣に座っていたのが野上君(夫となる人 11歳年下)でした。 主人には負担をかけてしまい、感謝以外はないです。 主人の時間を取れるように考えています。

com-pass女性筋疾患患者の会共同代表、筋疾患の女性だけの集まりで、結婚、妊娠、出産と言うようなことをみんなでザックバランに語り合える場所を作りましょうという事で、作り上げました。 今は200名弱の人が居ます。 com-pass=羅針盤 女性筋疾患患者の人々の羅針盤になりたいという意味合いがあります。








































2024年1月10日水曜日

金澤敏子(患者の人生を伝える元アナウンサー)・イタイイタイ病の"本当の痛み"を語り継ぐ

金澤敏子(ひとりがたりで患者の人生を伝える元アナウンサー)・イタイイタイ病の"本当の痛み"を語り継ぐ 

金澤さんは3年前から4大公害病の一つ「イタイイタイ病」に苦しんだ患者の生前の発言を伝える、ひとりがたりをしています。 地元民放にアナウンサーとして入社した金澤さんはディレクターに転身後、「イタイイタイ病」をはじめとする人権をテーマとした番組を多く製作してきました。 放送局を退職した後も「イタイイタイ病」の研究を続けています。 

金澤さんが痛み、苦しみを語り継いでいる「イタイイタイ病」は、富山県のほぼ中央を南北に流れ富山湾へと注ぎこむ神通川流域の住民に発生しました。 川の上流にある神岡鉱山から流れ出たカドミウムが原因でした。 被害住民はカドミウムに汚染された水を飲んだり、その水で育ったお米を食べたりして骨がもろくなり、症状が重くなると僅かな動きでも骨折して激しい痛みに襲われ、イタイイタイと苦しみながら衰弱して亡くなる人もいました。 この「イタイイタイ病」が全国で初めて公害病に認定されてから去年2023年5月で55年となりました。 「イタイイタイ病」の認定患者は201人で、このうち生存しているのは90代の女性一人だけです。  教訓の継承が課題となっています。 こうした中ひとりがたりを通して患者の思いを伝え続ける金澤さんに、訴えたい思い、「イタイイタイ病」から学ぶべき教訓をお聞きしました。

2021年からひとりがたりを始めました。  きっかけは「イタイイタイ病」を語り継ぐ会の代表をしていた向井嘉之さんが、『イタイイタイ病との闘い 原告小松みよ』と言う本を出して、小松みよさんの肉声が一杯詰まった本でした。 被害者の全人生を語ることで、「イタイイタイ病」の全体像がお伝えできるのではないかと、ひとりがたりを始めました。 勝訴してから50年経ったのが2021年でした。 「イタイイタイ病」を語り継ぐ会の総会が第一回目で、先日が32回目の講演をしました。  

小松みよさんは33歳で「イタイイタイ病」を発病して、身長が30cmも縮みました。 最初は40~50分でしたが、推敲を重ねて、みよさんの方言だけにしようと思って、今は35分ぐらいになっています。 最初に妙な痛みを感じたのが33歳の時でした。 「イタイイタイ病」の怖いのは30年も過ぎてからあちこちに痛みが出てくるんです。 みよさんは66歳で亡くなっています。 人生の半分を痛いと言って苦しみながら亡くなっています。 針でチクチク体中を刺すように痛む。 息子の一郎ちゃんが朝起こして布団に座らせて、ずーっと座ったまんまで、前にはお昼ご飯がおいてあったり、自分では何もできずに息子に世話になるばっかりの悲惨な生活だった。  自分の代で終わらせたいと裁判の筆頭に立って頑張ってきたと思います。 

私がみよさんと一緒に共有して、その思いをひとりがたりとして伝えることは良いのではないかと、私の役目ではないかと思いました。  みよさんの痛み、悲しみ、苦しみ、怒りなど丸ごと、次の方に伝えるという事が私としては良い事かと思って、ひとりがたりをしました。  自分が親になってみよさんのことが、自分事のように思えるようになりました。  一郎さんはお見合い結婚するんですが、あの家は「イタイイタイ病」の家だったという事でお見合いが壊れたりする事があるんです。(伝染する訳ではないのに)  亡くなった方の焼かれた骨はぼろぼろで収骨さえままならないような状況です。  みよさんから奪った大きなものは家族の愛、平和というか、何気ない日常の生活、家族そのものが奪われたと思います。 

昨年12月には被害者団体と原因企業が全面的に解決したという合意書に調印されてから10年経過、残る課題は。要観察の人もいますし、精密検査を受けている人も何十人もいます。 認定患者は氷山の一角で、苦しんでいる方はたくさんいるわけです。 まだまだ終わってはいないと思います。 公害の学習もきちっとされていない。 正しく伝える学習をしてほしい。 神岡鉱山の堆積場が大雨とかで崩れ落ちて川に流れだしたらどうなるんだろうというような不安もあります。 「イタイイタイ病」の公害は命だけではなくて大地に爪痕を残しています。  いわれのない苦しみを押し付けられた人たちを、黙殺、封印しながら来た人間がいたという事、それに力を貸した国、行政もいたという事が私は公害だと思っています。  人間の命ほど大切なものはないです。 その命を奪ったのが公害です。


























2024年1月9日火曜日

山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

 山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

1月3日が誕生日で87歳になりました。 昨年2月に認知症の話をしました。 幻視と言う事から話を始めました。  最初は認知症と言う事は考えてもいませんでした。  幻視 ,綺麗な花が見えたり、トランプの模様があったり、迷路のような図形が壁一面に出てくることから始まりました。 父親がアルツハイマーだったので脳に関して興味を持っていました。  脳外科だと思ったら精神科でした。  幻視と言うのはアルツハイマー型認知症ではなくて、レビー小体型認知症と言うのは別のたんぱく質が脳に溜まる部位が違うんですが、運動野の方に溜まって、障害が出てくる脳の一つとして認知症の幻視が問題としたんですが、僕はお茶の水のクリニックに行っています。 MRIの画像診断が出てきて、能の血流の中に放射性物質を入れて、撮って、脳の血流がいいか悪いかなどのいろんなことが広がって出てきて、、レビー小体型認知症かと思ったら、アルツハイマー型認知症があると考えていますと言われましたが、診断書にはアルツハイマー型認知症とは書いてなくて、軽度認知症と言ってアルツハイマー型認知症があるものと考えています、と書かれています。(認知症予備軍) 

脳の場合は基準がないんですね。 専門医に行かないと診断がつかない。 認知症の注射ができて、保険適用も出来るようになりました。  軽度の認知症から数年で、急に重度化への移行が早いんです。  薬に頼るよりも、生活習慣を変える、食べ物を変える、睡眠は良く取るという3つのといことで対処する。 睡眠が凄く大事で、そのためには運動をしなければいけないとか、アメリカなどでは先に運動をさせるんです。 僕はクリニックで午前中2時間、午後2時間、運動、音楽、芸術とか、神経を使ったり、グー、チョキ、パーを逆にやるとか、能に刺激を与える授業をやって、生活をきちんとやる以外進行を遅らせることが出来ないんです。 

若年性認知症は65歳からパーセンテージが増えていって、僕は令和4年でもう2年経つのでそろそろ次の段階になるのかなあという気がします。 物事を始めたら最後まできちっとやる、そして次のことをやる。 今年2月には本棚の整理をやろうと思っています。   自分の書いたもの、切り抜きなどが山の様になっているので、整理するというような、新しい生活感覚ですかね。  歩く事もやっていて、だらだら歩いては駄目なんです。 自分の年齢にあった生活の度合いを決めて、それを実行する。 歩くコースもいろいろ変えています。 歩くことも5000歩なら5000歩と決めてきちっと歩き、帰ったら牛乳などタンパク質を摂ります。 

料理一つとってみても慣れてはいけない。  一つ一つ考えながら次は何をする、と言った手順を踏む、味もいろいろチェックする。  記憶に関してグルタミン酸は必要です。  老人学と言うのがありますが、自分で自分の生き方を考えるのが面白いと思います。 自分をきちんと見つめて生活習慣のなかで、きちっと道筋を立てて行かないと、脳への刺激が届かなくなってしまう。 

認知症の生理学的な側面をもっと極めて、知りたいなあと思っています。 人間は環境が大事だと思います。 コロナから解放されて、もっと外に出て行かなくてはいけないという思いもあります。  もっと自分を見つめて、突き詰めて観察して生きてゆくというか、それも一つの生き方でしょうね。  いろいろな生き方があっていいんだと思いますが。
























2024年1月8日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

去年はたくさん本を出版して、最後に出たのが「たこ足ノート」と言う本です。  

*「大晦日しぼりにしぼったチューブから出掛けた歯磨き粉が引っ込んだ」 穂村弘     昔は今より新年の特別感があったような気がして、新しい歯磨き粉、下着などをおろす。   新年におろしたいがもう中身がないような。 

*「裏表ばらばらのまま片付けたトランプ眠れ雪の大晦日」     穂村弘        親戚が来たりして遊んで夜更かしをしてもいいような大晦日、裏表ばらばらのまま片付けたトランプのような感じがあって、時間が進んでゆく。 

「ほむほむと短歌を楽しもう その後」から「乗り物」と言うテーマでの作品

*「バス旅行酔って戻して青ざめた顔してたてる集合写真」    白井義彦         バス旅行で酔って、マイナスの思い出ではあるが思い出です。         

*「パンクした自転車を曳く夜の道野犬が囲みジュースまき去る」 白井義彦               

*「パトカーのお腹にポリスと書いてありポリスっぽくない人が出てくる」 海老沼祐   日本のお巡りさん、ポリスと言うような風貌ではない違和感がある。  

*「救急のシートに乗って運ばれる重いと漏らす隊員の声」  ズボラノサウルス     緊迫した事態とのズレがユニークな感じがします。 

*「牛乳を配る武骨な自転車をセーラー服で配るマドンナ」   石井秀行        本人に似合わぬごつい自転車でしている、それに憧れる私がこっそり見ている。                

*「自転車であなたのあとをついてゆくさらさら秋の暖かい風」   高橋聖子     二人の自転車での距離に独特の情感があるが、「あなたのあと」、「秋の暖か」の「あ」が連続で出てきて、暖かさに繋がっているような、響きの面でも工夫があると思います。 

*「観覧車冬の夕陽に照らされる茜にほてり廻り続ける」     水野正弘       観覧車の夕陽の歌は意外とめずらしい。 回るという事が宇宙、地球、大きなものと関係しているのかもしれない。

*「日米の少年野球のバスが来て米軍基地へと入って行った」   長嶋末信       異文化の 外国がフェンスの向こう側にある。  少年野球で特別に入れる。       

*「幼き日北海道に住みたりて連絡船の船底に乗る」     金田君子        船底に乗るというところが凄くリアルですね。 

*「ゴンドラの一つに君が落書きをしてからずっと探しています」  春野咲子     観覧車のことですかね。  心の中のゴンドラか比喩的な感じがします。  

*「運転手バスから降りて大分待つ段々うつつの気配をおびて」   晃希星      運転手がなかなか戻ってこないと、変な感じになって来る。   現実にもどって来れない何かが起きているのか。  もやもやした時空間がある。       

*「長すぎるトレーラーの切り返し待っていた時一度地球が終わったような」 晃希星   不思議な待ち時間、その時こそ時間を意識します。 主観的な時間は物凄く伸び縮みする。

リスナーの作品

*「耳たぶに冬の近づく感じしてやや足早に歩くゴミだし」   ノーネーム       ゴミ出しは寒さの防御が少ない。  とりわけ耳たぶで寒さを感じる。 

*「冷凍庫に肉肉肉が詰めてある緊急入院後の兄の部屋」    ミズポッポ       ちょっとぎょっとしたんだと思います。    自分が好きなように生きて行くと偏って行きますね。 その感じがリアルの現れている。

*「亡き友の名前見つける映画館エンドロールの数大きなり」   小笠原純一      エンドロールに人名が並んでいて、映画製作に関わった多くの無数の名前のなかに友達の名前があった。  

*印は かな、漢字又人名なども違っている可能性があります。







    

2024年1月7日日曜日

松岡洋子(声優)            ・〔時代を創った声〕

 松岡洋子(声優)            ・〔時代を創った声〕

三代目「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる声優の松岡洋子さん(69歳)です。 去年の12月に放送できなかったものをお送りします。 

漫画「猿飛佐助」の佐助役、「ハックルベリー・フィン物語」のハックルベリーなどを演じてきました。 多くの吹き替え、ナレーションでも活躍中です。 アニメでレギュラーとして最初に出演したのが1977年「おれは鉄平」(ちばてつやさん原作の学園もの)の原作には出てこないオリジナルの登場人物でした。 鉄平の友達のおにぎり君と呼ばれていました。 鉄平が野沢雅子さんでした。 公私ともお世話になりました。 「ゲゲゲの鬼太郎」の一期、二期の鬼太郎を演じたのは野沢雅子さんでした。 私は男の子の役が圧倒的に多かったです。 

子どものころはズボンをはいて、頭は短く刈り上げて男の子を従えて一日中遊び回っていました。  或る時廊下に大勢立たされましたが、校長先生から「女の子が一人いる。」と言われて、初めて自分は女の子だったんだと気が付きました。 そこから性格が180度変わりました。 幼稚園の時からピアノと合唱を習いました。 ピアノは辞めて歌は小学校卒業まで習いました。 中学からはひたすらスポーツをやっていました。 朝早くから父のテニスの相手をしてそれから学校に行っていました。 クラブはバスケット部に入って3年間やりました。 高校では何もしませんでした。 スクールメイツに入り踊ったりしていました。 電車で俳協養成所の一期生の募集の看板を見て、入ってしまいました。 そこで演劇との出会いがありました。(高校3年の終わりごろ)  少しづつ仕事をやるようになりました。 

演技を勉強していて、やっていることが楽しかったです。 そのころから男役が多かったです。  劇団を作って舞台を専門にやるようになりました。(声の仕事は中断) 年間200~250ステージやっていました。 即お客さんの反応が返ってくるので、そこが舞台のいいところだと思います。  声の仕事が段々多くなってきて舞台はほとんどやらなくなっていきました。 1994年に「ハックルベリー・フィン物語」、1996年から98年かけて第四期「ゲゲゲの鬼太郎」で三代目鬼太郎の役を担当。 この作品のことはあまり知りませんでした。 始まってから凄い作品なんだという事で、段々プレッシャーを感じるようになりました。 その時にはネズミ男が千葉繁さん、毎回アドリブだらけでした。 2008年鬼太郎の放送開始40周年記念で。短編アニメがありました。 歴代の主人公がみんな集まり、楽しくやらせて頂きました。(初めて) 

やんちゃな男役は楽にできますが、気障っぽい役は苦手です。 もともと低い声なので、無理やり作り替えるという事はないです。  女の子の役をやったこともありますが、声が低くて出なくて、二度とやりたくない思いです。 ナレーションも数多くやって来ました。  NHKの「マッサン」はシリアスなナレーションでした。  ナレーションをやる時には自分に一番近いトーンという感じです。  

ロボット物の役をやって、声を張って喉を壊してしまいました。 ポリ-プが出来て、1年ぐらい仕事が出来ないことがありました。  このまま戻らないのではないかと思って、心が折れそうになりました。 医者からは「1年間は声を使わないようにしてください。」と言われ悶々としていました。 

若い人たちへのアドバイスは、いろんなことを経験、体験して感性を豊かにしていって欲しいと思います。 セリフを言うには絶対ハートが必要なので、豊かな心になって欲しいと思います。 









 










2024年1月6日土曜日

2024年1月5日金曜日

中西俊博(ヴァイオリニスト・作曲家)  ・ヴァイオリンの貴公子は実はアバンギャルド

 中西俊博(ヴァイオリニスト・作曲家)  ・ヴァイオリンの貴公子は実はアバンギャルド

中西さんは1956年(昭和31年)東京都生まれ。  5歳からヴァイオリンを始め東京芸術大学を卒業後、クラシック、ポップス、ジャズなど多彩なジャンルを表現するヴァイオリニストとして活動しました。 1984年にリリースしたファーストアルバム「不思議な国のヴァイオリン弾き」が10万枚を超す大ヒットを記録しています。  またフランク・シナトラ、ライザ・ミネリ、サミー・デイヴィスJrなど、海外の大物アーティストのコンサートマスターを務めるなど活躍されています。 作曲家、編曲家としても桑田佳祐、井上陽水、坂本龍一など、各氏のアルバム制作やアレンジに参加しています。 手掛けたテレビ音楽、CM音楽は150曲以上、現在はライブやコンサートを中心に活動しています。 

1年間弾けない時がありました。 楽器が持てなくなって、ついに指が動けなくなって辞めて仕事をキャンセルし1年間休みました。 段々回復してきて弾けるようになってきて、好きな仲間と好きな音をやりたいということで、再スタートしました。 しかし段々忙しくなってきてしまってきました。 充実はしています。 指の動きも工夫して、力も抜けてきて、前にできなかったようなことも出来たりもします。 30年前ぐらいから指がしびれていたんですが、病院では頸椎が原因だと言われました。 1週間に3回ぐらい検診に来てくれと言われたが、忙しくて1回も行きませんでした。 しびれが酷くなって、段々指が動かなくなってしまいました。 子どもの頃の練習方法が良くなかったようです。 

ピアノが4歳でヴァイオリンが5歳で始めました。 大学に入ってジャズのバンドでピアノを弾き始めました。  音符がないところで任されている。  ヴァイオリンではなかったことで勉強になりました。 ピアノでは出来てもヴァイオリンではできなと言うようなことが何年かありました。 レコードをたくさん買って勉強したりもしました。 自分がどう解釈してどう弾くかという事が大事だと凄く思うようになりました。 曲が求めているものもあるので、曲とのコラボ、照明とのコラボ、お客さんとのコラボ、などやりだすと自分だけでは出来ないようなことが出てきて、それが凄く楽しい。 自分が思った音色、自分が思ったニュアンスで弾けているかどうか、それには自分がどう弾きたいかという事がないと駄目だし、とっさにアドリブでやってみるのは凄く勉強になるんじゃないかと思います。 

小さいころは父に習いました。(厳しかった。)  ヴァイオリンを二人でやる場合はどう工夫して和音感を出そうとか、いろいろ工夫してゆくといろんなことが刺激されて、楽譜通りだと魅力が出ないので、凄く勉強になります。 エフェクター(電気楽器電子楽器など電気信号に変換された、あるいはマイクロフォン(マイク)で集音された音声に対して、スピーカーまたは録音媒体に至るまでの途中に挿入して一定の効果を与え、さまざまな音に変化させる。は楽しいです。 自分でアンプを作ったり、スピーカーボックスを設計したりします。 エフェクターはうちに150個ぐらいあります。  一人でライブをやる時には過激なものを入れたり、優しいものを入れたりしてやっています。 

自分でナイフで怪我をしたり、火傷をすると、どういうふうにやったら火傷しやすいとか、考えるようになる。 父は失敗するまで黙って観ていたというようなことを言っていました。 遠回りしているよいうだが、自分で考えるようになるという事は、結果的には近道になりますね。 「この世界と言うのは、そういうのをやってゆくと文化を生むかもしれないし、火が付いたら面白いかもしれないが、仕事にはつながらないよ、その覚悟は必要だよ。」と言うようなことを話しますが、生活をしなければいけない人は、仕事になるようなことも覚えていかないとならないですね。

*「ダニーボーイ」 演奏:中西俊博  

「ダニーボーイ」は魅力が判らなかったが、自分で解釈してどう弾きたいのか、自分の中で作れなかった。 若いころ恥かしくて弾けなかったのが、今は弾けるというのが、例えばスタンダードナンバーの「ミスティ」とか、メチャクチャヒットした曲は今さら恥ずかしいとかありましたが、今は自分が思ったように弾くことが段々弾けるようになりました。

社会のなかでいろんなことを刷り込まれて、それが常識だと思っているが、常識と言うものを外してみたい、そういう実験をしてみたいという思いはあります。 指の怪我で5週間入院して、手術が5時間でしたが、その時に無精ひげが生えて、伸ばしていって今ではその髭がみぞおちの当たりまで来ています。




























2024年1月4日木曜日

重延 浩(演出家(番組制作会社・会長))・樺太引き上げ体験の記憶と平和に

重延 浩(演出家(番組制作会社・会長))・樺太引き上げ体験の記憶と平和に 

重延さんは昭和46年(1946年)12月5歳の時に、樺太(現在のサハリン)から引き揚げてきました。 樺太の豊原(現在のユジノサハリンスク)に住んでいた重延さんは、ソ連軍の突然の侵攻、戦車から兵士が身を乗り出して威嚇の為か、銃を乱射していたことや、引き上げまでの1年余りの間ソ連軍の管理下でびくびくしながらの生活をしたことなどが子供心の記憶の中に深く残っているとしています。 樺太での戦争の記憶、そして平和への思いをお話しいただきました。

私の頭の中にはかなり鮮明に残っています。 見たもの出会ったものが非常に強い印象を与えるものばかりだったんだと思います。 豊原と言う街は樺太の中心にあって、建物の感じが不思議に思いました。(その前はロシアの領地だった。)  街の作りは札幌の十字路を真似た区画で、合併で残っているのに私たちが住み着いたという事でした。 或る時にはロシア、或る時には日本のものであったという歴史を考えさせるような街の配置になっています。 樺太は大陸に繋がった半島だと思われていたが、間宮林蔵が2回回ってどことも繋がっていないという事を江戸に帰ってから報告をした。 海峡があるという事で、ヨーロッパでアジアに新しい海峡を回れば、どんなに近くなるかと大喜びされた、という間宮林蔵の発見でした。 豊原は緑の多い街でした。 冬はスキーを履いて歩いてゆくという感じでした。 樺太犬の犬ぞりも良く観かけました。

昭和20年8月15日、日本が降伏という事でせんそうは終結となったはずだった。 日ソ不可侵条約でソ連とは戦う事がないはずだった。  8月20日に私たちは日本に帰ろうと思いました。 南樺太に前衛軍が押し寄せてきて、暴行、あらゆるものを持ってゆく、婦人も大変な目にあうという世界を見て吃驚しました。  陸海空軍が一挙に押し寄せてきました。 殺されたり残酷な戦争の姿を見せて来た。  北の方に住んでいた人たちは豊原に向かって逃げてきました。  父親は病院をやっていたので出てゆくわけにはいかなかった。  大泊港に向かって母親、姉が3人、兄が1一人とでいき、小笠原丸と言う大きな船が待っていました。 樺太は約40万人でしたが、5万人が殺到していました。 母親が「豊原に帰る。」と言って列から離れ始めました。 父親を残して帰るのが忍びなかったものと思います。

8月22日に9機の飛行機が来て空襲に遭いました。 爆弾を落とされて血まみれになってゆく様子を見ました。  23日には戦車が来ました。 近所の方々も病院の屋根裏に避難してきました。 初めて戦車を見て、乗ってる兵隊が空中に乱射して、銃弾がうちのトタン屋根に落ちてカラカラと滑り落ちてゆく音が忘れられません。 女性は酷い目にあうという事で顔に泥を塗って坊主頭にしていました。  ソ連の兵隊が2人、うちの玄関のところに2人の写真(一人はスターリン)を貼っている様子も見ました。 病院はロシアの形式の建物でソ連軍にとっても病院は必要なので、接収されずに済みました。  若い兵隊を紹介されて、毎日来るという事で、監視役と言う事でした。 

その若いソ連兵との付き合いが始まるようになりました。 日本語の事典見たいななっものを持っていました。  イチ、ニー、サンと言うような言葉から始まりました。 段々兵隊らしくないと思うようになりました。  ロシア語を教えてくれるようにもなりました。 その中には30年後に判った言葉がありました。 (「こっちに来て座りなさい。」と言う意味だった。)  言葉は人間の心と心を通じ合わせたんですね。 

5匹のウサギを或る患者さんからもらって大事に育てていましたが、いなくなっていました。  ロシア語の出来る中野医師と一緒にソ連軍の司令部に行きました。 偉そうな人に向き合う事になり、医師が「さあ 言え。」と言うんで、その人に向かって「ウサギを返せ。」と日本語で言いました。  偉い司令官が笑いだして、「大丈夫。大丈夫。」という事でした。  ウサギは食べられてしまっていて、「でもお前はそうい う事は良くないことだと言ったんだ。」と中野先生は言ってくれました。  翌日の新聞に新しい公布が発表されて、「日本の家庭に入り込んで、物を取ったりしては絶対にいけない。」と言う軍隊の告示が出ました。  偉い人に対しても言うべきことは言っていいんだと、ふっと子供心にも出てきました。 

乗れなかった小笠原丸は22日に留萌沖で、潜水艦に攻撃されて沈没して多くの方(約1700人)亡くなった。 乗っていたら海の中で死んでいたと思います。 チェーホフの本で「サハリン島」と言う本がありますが、そこには子供たちが言う事は一番素直で、本当のことを言っている、と書かれています。 後年それを読んで、やっぱりチェーホフと言う作家は凄いと思いました。  あの体験は私にとってうれしい体験でした。 何十年ぶりにサハリンに行く機会がありましたが、父親が書いた古い地図を手掛かりに行ってみたら、住んでいたところは何にもない空き地になっていました。 土を持って帰ろうとしたらロシア兵5人に怖い顔をして囲まれましたが、身振り手振りで伝えたら理解してくれて、暖かく対応してくれました。  ウクライナ、ガザの映像を見ていると樺太の時とそっくりです。 悲しい人間の行為であるという事を、両方の国がわからなければいけない。 人と人との心が変れば戦争もなくなってゆくんじゃないかと思います。
















































2024年1月3日水曜日

桑山紀彦(精神科医)          ・"世界"に目を向けるきっかけを作りたい

 桑山紀彦(精神科医NPO法人「地球のステージ」代表理事) ・"世界"に目を向けるきっかけを作りたい

桑山紀彦さんは1963年岐阜県高山市生まれ、精神科医で60歳。 NPO法人「地球のステージ」代表理事で国際医療ボランティアとしても活躍しています。 山形大学の医学部の学生時代に世界各地を放浪し、卒業後に休暇を利用して、フィリピンなど世界各地で医療ボランティアをおよそ35年続けています。 中でもパレスチナのガザ地区には何度も訪れ、子供たちの心のケアなどに当たって来ました。 現在は神奈川県で海老名心のクリニックを開業しています。 その桑山さんのもう一つの顔がシンガーソングライター、得意のギターと歌、そして現地の写真や動画を見せながら平和への思いを語る「地球のステージ」の活動は1996年から始めました。 ステージは全国各地の学校や公民館などで年間100回以上、延べ4000回に登ります。 医療活動から学んだことや、ガザ地区の現状、平和に対する思いなどを語ってもらいます。

大学に入って音楽を始めたのと、放浪の旅を始めました。(自分探し) フィリピンに行った時の自分は役に立っているという経験をして、 価値のない自分だと思っていたのに、世界に出ると、一寸のことでも役に立てると思った時に、世界に広さを感じて、自分を変えて行こうと思ったのがきっかけです。  フィリピンのマニラで知り合った女性のおばあちゃんが凄い目やにで、自分用に持っていた目薬をおばあちゃんにさして上げたら、感謝で涙が出てきて、こんなことでも役に立てるし、人の繋がりは一歩踏み出すことで十分得られるという事が判りました。 それが世界と関わる大きなきっかけとなりました。 

紛争地帯、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ガザ、ウガンダ、ウクライナといったところで活動してきました。  ガザは2009年には空爆の時に入ったので怖かったです。 怖いけど逃げたいとは思わなかった。 精神科医ではありますが。外科は慣れているので消毒したり縫ったりと言う活動をやっていました。 私のテーマはトラウマ、心の傷ですね。 どうしても活動地は戦争地になってしまいます。

「地球のステージ」の活動は1996年から始めました。  現場を見たものの責任を果たさなければいけないと思ってきました。 日本の特に子供さんには、困難に向き合って、向き合うことで人間は強くなれるという事を伝えたいと思うようになりました。 14歳からギターとヴァイオリンを始めました。  大学で音楽のサークルに入り、もっとうまくなりたいと思って、それが一つの財産になりました。 音楽と動画を組み合わせて、気持ちに伝わるように構成すれば、あたかも行ったことがあるような、そんな雰囲気が作れるように思いました。 そうして28年、4000回を越えています。 300万人以上が見ていただけていると知らされています。 人が生きて行こうとする力の強さや、思いやり、愛情、と言ったものを柔らかく歌詞にするようにしています。 受け取った皆さんが自分らしく消化していただこうと思うので、聞きやすい音楽と歌詞の内容になっています。 映像も伝わり易い構成にしてあります。 全て自分で撮影したものです。 ドローンで俯瞰した映像も撮りました。 

現在、36編有ります。 ウクライナ編、ガザ2023年編、トルコ大地震篇とかあります。 主に学校現場が多いです。 コロナ禍では激減しました。(年間50回以下) 2007年位は年間264回と言う記録があります。  子どもはどこの国に生まれようが生きる強い力を持っているので、早いうちから世界や地球の生に触れていただくことで、伸びてゆくという感想を頂くことが多いです。 映像を見て学校に行ける幸せ、食べられることの幸せ、など噛み締めながら日々生きてゆきたいなどの感想が出てくるわけです。

医師として山形で初めて、仙台の郊外名取市で開業したばっかりに東日本大震災を経験して、被災者にもなりました。  被災者になって。心の傷がどのぐらい辛いか物凄く感じました。  支援を受けて、温かさを身に受けて、心の傷が段々自分を変え行くきっかけになりました。 今は神奈川県の海老名に移りました。  完全予約制で外来をとりながら、クリニックの運営は続けています。 不登校のみを対象にした特殊なクリニックです。 日々学ばせてもらいながら日々送っていると思います。 

海外支援もやっていて、ウガンダ、東ティモールに事務所を置いて日本人も配置して、健康を守るという仕事を行っています。  資金は政府の資金で事業展開しています。 ガザ地区は220万人ぐらいいます。  広さは種子島と同じぐらい。 3方を壁に囲まれていて、海の方向もバリケードがあります。(出られない状態で存在している。) 人口の7割が失業していると言われ、何とか見つけた仕事を分け合いながら、必死に生活している。 ガザとは2003年からの心のケアと続けてきて20年になります。  自分がガザに生まれたら絶望するだろうと思うほどの悪い環境でした。 付き合ってみると心の優しさ、思いやりが人一倍強い人たちで、何故こんなに優しく成れるのかと思いました。 私には家族と言ってくれる家族が三つあり、御馳走をもてなしてくれて、お金を払おうとすると怒鳴られなれます。 家族をもてなすのは当たり前だというんです。  そうやって20年付き合ってきました。 

心のケアをするためには現地の人材育成が大切で、現地の方もスタッフの一員として働いています。 ガザでは、現在4人スタッフとして雇用しています。 そのうちの一人(モハマド・マンスール)は彼が13歳の時に出会った人物で、家族付き合いをするようになって、現在彼は中心人物になっています。  彼とは毎日ガザの様子など通信しています。(動画を送って来てくれる時もあります。) 

「SDGs」(Sustainable Development Goals) 「世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標のこと。 「SDGs」でも判らなくなってしまっているのが現在の人類の状況。戦争を見ていると正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義になるんだなとよく思うんです。 正義の反対が悪であれば、みんなで駄目だよと言えるが、もう一つの反対は正義なので彼らにも彼らの正義がある。 相変わらず戦争は終わらない。  耳を貸さないから向こうに正義が嫌でしょうがない。  少し耳を傾けられたら人類は変われるのかなあと思います。 

この2年間はイスラエルとても柔らかくなってきていて、北の検問所を通れるのが昔は一日10人ぐらいでしたが、この2年間はパスカードを持ったパレスチナ人はタッチするだけで自由に入れたんです。 このままいったらいいかもしれないと思っていました。  これをゲリラの人が壊してしまった。 その怒りが今も続いているんだと思います。  

トラウマは我々人間が生きるいる限り、いつでも起こる可能性があります。 戦争、いじめなどのトラウマかもしれないが、傷ついてしまった心は同じなので、どうしたら癒され、回復してゆくのか、そう言う視点で見てみるとガザの人々に視線が降りてゆくと思います。 ガザのことをもっと身近に感ずることは出来るのではないかと思います。  固有名詞、生きている人たちの名前を介して、世界に近づきませんか、と言うそんなアプローチの仕方です。 人生の主人公は自分なのだという事を感じて、それをよりよいものにしたいと思った時、人は変って行けるものだと思います。 60歳、ボランティアを始めて35年ぐらいになります。  もっと楽な人生をと言う思いもありましたが、見てみぬふりはしたくないと思って来たのは事実で、この人生でいいと思っています。  自分の人生に嘘をつきたくないという思いだと思います。