平田オリザ(劇作家・演出家) ・"演劇"の力でまちを作り直す
平田さんは56歳、東京駒場にある劇団青年団を主宰し戯曲と演出を担当されています。
青年団の劇場は海外の劇団との交流の場ともなっており平田さんの作品はフランスなど世界各地で上演され高い評価を得ています。
国内では平田さんの演劇論は小中学校の国語の教科書の教材にも採用され子どもたちが教室で演劇を創作しています。
大阪大学、東京芸術大学など大学教育にまで広がりを見せています。
6年前には兵庫県豊岡市のアートセンターの芸術監督に就任するなど演劇を通して街づくりにも取り組んでいます。
大阪大学が本部校ですが、東京芸術大学など全国の客員教授をさせてもらっています。
東京芸術大学では演劇学部はありません、普通外国の先進国では国立大学、州立大学には演劇学部はありますが、唯一日本だけはありません。
兵庫県豊岡市に徐々に拠点を移すという事でまず私が先月末に引っ越しました。
2021年に開校を目指して日本で初めて演劇、ダンスを本格的に学ぶ大学ができます。
仮称で兵庫県立の国際観光芸術専門職大学という事になっています。
演劇を学問として学びたいという学生が結構います。
世界に通用するオンリーワンの大学をつくりたいと思っています。
地方は人口減少が激しいが大学がきちんと運営されれば相当人口減に歯止めができることが期待されます。
高度経済成長はもう無理だと思っていて、日本は最も早く超高齢化社会を迎えるし人口減少は歯止めはかからないと思います。
移民という選択指もありますが、日本では急速に入れると混乱することがありますし、ゆっくり確実に入れてゆく方がいいと思います。
東京は圧倒的に出生率が低く1.2ぐらいになっていますが、豊岡市は1.8ぐらいになっています。
若者は東京に集中してしまう。
若者が地方に戻ってこない理由は3つあると思います。
①教育
②医療
③広い意味での文化
教育、医療は大分よくなってきているが、田舎はつまらないといいます。
面白い街づくりをしないといけないと提言してきました。
私は演劇なので演劇を核にして街の再生のお手伝いをしてきました。
仕事があれば男は就職口があって戻ってくる、奥さんは付いてくるという発想ですが、奥さんが反対する移住は考えられないと思います。
奥さんの一番の関心は子育て、教育だと思います。
住みやすい、住んで楽しい街を選んで若者は帰ってきます。
北海道東川は写真の街東川という事で一時6000人にまで減少しましたが、8000人ぐらいに増えてきています。
香川県の陶(すえ)小学校で先生方が演劇を核に取り入れてみようと考え、週に1,2時間演劇の授業を取り入れました。
国語の授業と連動させました。
演劇的手法を使った授業で成果を上げた小学校も出てきています。
私は先生方の指導などをしてきました。
班ごとに発表してそのどこが良かった、どこがおもしろかったなどをほかの子たちが言いますが、全員が手を挙げて褒めて活発にできていました。
演劇教育の利点は居場所が作りやすい、役割分担がしやすい。
これからの多文化共生型の社会にとっては非常にいい教育効果があるのではないかと思っています。
日本では一般的に自己肯定観が低い。
自己肯定観を高めていくと学力テストの成績も上がってゆく。
非認知スキル、数字では表せない機能、集中力、忍耐力、やり遂げる力などいろいろあります。
その中でも自分を大事にする気持ち、友達と一緒にやる事が楽しい、そういう能力が最終的には学力テストに関係してくる。
世界の先進国では、高校では音楽、美術、演劇ですが、日本では音楽、美術、書道です。
演劇をやっていない国は非常に珍しい、演劇はやってこなかったので試してみるのもいいんじゃないかと勧めています。
四国学院大学に演劇コースをつくりました。
今は青森、沖縄からもわざわざ来て入学してくれます。
週末を集中講義の時間にあてて東京からトップクラスの若い演出家を呼んで東京と遜色のない授業をしています。
4年間演劇に打ち込んだことがその人の人生を豊かにすることが一番大事だと思っています。
コミュニケーション能力の必要な職業が今後どんどん増えてゆくと思います。
幼稚園で音響や照明に詳しい先生がいれば格段に良くなります。
大学でやってきたことを生かして少しずつ周りを幸せにしてくれる人が育ってくれればいいと思います。
兵庫県の豊岡市、1000人収容の会議場がほとんど使われていなかった。
県から市に払い下げることになったが、市長が劇団とかダンスの集団に貸したらどうかといいだして、たまたま担当の方から相談を受けました。
上演をしない稽古場だけの施設をつくりました。
交通事情の難しい所でしたが蓋をあけたら世界中の地域から応募があり、来年度も23か国から80件ほどの応募が来て、そこから15団体選んで1~2か月滞在してもらうという事です。
滞在するアーティストは無料で使えますが、最後の成果発表してもらう事になっています。
世界最高レベルのダンス演劇を市民が無料で見られるという環境になっています。
東京文化会館などで見る演劇が豊岡が今生産地になっています。
城之崎 文人などが多く滞在しています。
「21世紀の城之崎にて「」ができるかもれない、小説ではなくてどんな芸術になるのかはわからないが、今度は世界に発信できる。
いい作品ができればできるほど豊岡、城之崎が世界に広まってゆくという事です。
地方都市の風景が画一化してきて、失ってしまったものが多い。
インターネットの通販によって、郊外型のショッピングセンターも危なくなって来るかもしれない。
人と人の出会う場所をつくれば地方にもチャンスはあると思います。
地方はまだ豊かな文化、人的資源を持っていると思うが、生かされていないのは、自己決定能力に欠けているのではないかと思います。
リスクをとって自分の判断で街を作ってゆく。
そういった自治体だけが生き残っていくんだと思います。
そうではないところは広告代理店、コンサルタントにみんな相談しますから。
そこでは何百という自治体から相談を受けていて当然同じことになります。
それぞれの伝統とか強みを生かすという事なんだと思います、足りない人材は外から引っ張ってくる、広告代理店、コンサルタントに丸投げしている自治体は生き伸びてはいけない。
市民全体の自己決定能力(文化の自己決定能力)を高めてゆくしかないと考えています。
自分で考える力を教育に入れてゆくしかないと思っています。
宮沢賢治は昼は農作業、夜は演劇、音楽を楽しんだり、エスペラント語を勉強したり哲学の議論をしたりする協同組合みたいなものをつくりました。
自分たちでなにを作りどう売ってゆくかを自分たちで考え実践できる能力がないといくら農業の技術だけ発展させても自立できないと、そのためにはセンスが必要でそのセンスを磨くのは音楽、演劇、絵画、アートなんだと。
井上久さんは宗教だけでは熱すぎる、科学だけでは冷たすぎる、その中間に宮沢賢治は芸術を置いたんじゃないかと言っています。
2019年10月31日木曜日
2019年10月30日水曜日
堀澤祖門(天台宗三千院門跡・門主) ・悟りを求めるわが人生
堀澤祖門(天台宗三千院門跡・門主) ・悟りを求めるわが人生
昭和4年新潟県おじや市生まれ。
小学生のころから日中戦争、太平洋戦争と続く中、中学時代には軍需工場に勤労動員されたりさらに海軍兵学校に入学と、戦争が日常の時代を送りました。
戦争が終わり昭和22年旧制新潟高校に入学します。
ここでは新入生は全員寮生活。
堀澤さんは上級生の寮長が語る「再誕」という言葉に感銘を受けました。
「再誕」この世に生まれかわるという事ですがこの言葉に強く共感したのです。
その後京都大学経済学部に進学しますが経済学に関心を持てず人生に悩み、或る時は比叡山をさまよい歩き白い霧と山の緑に包まれているうちに自分が感性を失っている事に気付きます。
これがきっかけで天台宗の修業僧の世界に飛び込みます。
学生服のまま修行に見習いをしていた堀澤さんは千日回峰行者の葉上 照澄(はがみ しょうちょう)さんに出会います。
その時命がけで修行の道に入れば「再誕」の問題が解けるのではないかと思ったのです。
堀澤さんは12年籠山業を戦後初めて成し遂げます。
三千院は1200年の伝統を持つお寺。
伝教大師(でんぎょうだいし)のお住まいとして建てられたのが始まりといわれる。
皇室の方々が出家してお入りになったので門跡という事になりまして、大原は三千院の領地として統括していました。
明治の初めごろに「三千院門跡」といわれるようになりました。
6年前に門主(もんす)(62世)となりました。
伝教大師は道心という事を大事にされました、「道心ある人を名付けて国の宝となす」と言っています。
悟りを求める心を持っている人を道心と言います。
昭和4年新新潟県小千谷市生まれで8人兄弟の7番目でした。
小学校6年の時に太平洋戦争、中学校は軍事工場へ勤労動員、中学校4年生で海軍兵学校佐世保の予科兵学校へ、空襲があるのでほうふ?に疎開、そこで集団赤痢になってしまった。
かなりの人が亡くなりました。
父が無理に連れて帰りました。
あまりに衰弱しているので駄目だと周りでは思っていた様ですが、希望があったので生き延びたと思います。
友人が上の学校へ行こうという事だったが貧乏でいけないといって、受験勉強だけ付き合うことになりました。
新聞紙に合格の発表があり受かったのを知り二人で喜んで抱き合いました。
それを見て母親が父親に頼み込んで学校に行けることになりました。
昭和22年旧制新潟高校に入学して、全寮制の寮に入りました。
寮長が語りだしたのが「再誕」という言葉でした。
自分を本当に生みなおさなくてはいけない、今までは両親に産んでもらっただけで、両親の世話でおんぶにだっこでした。
「どこにお前の本物があるのか、この高等学校は本当の自分の人生をつかむかどうかの正念場の場所だ」といって、そのためには自分をもう一遍見なおせということでした、それが「再誕」と言いますが、非常に感動しました。
再誕するという事は悟りを身に付けるという事に代わってしまって、私の公案になってしまいました。
まず知識がないとだめだと思って、古今東西の古典に学ぶしかないということでそのことが3年間の大きな仕事になりました。
哲学はやればやるほど、即答のあるものではない。
法然、親鸞の概説書などを読みました。
自力万能で来た人間が「他力」という言葉に出会って、阿弥陀仏の力を「他力」というが、他人の力としか理解しないから、にっちもさっちもいかなくなった。
哲学書を読んでも救われなくて、哲学の冷たい理論だけの世界に対して信頼感を失って自分の行くべき道が判らなくなってしまった。
京都大学の経済学部に進学するが、なんでこんんな所に来てしまったんだという事で2か月ぐらい下宿でゴロゴロしていました。
夜中も眠れなくて、何故か比叡山という想念が頭に飛び込んできました。
比叡山に行かなければいけないと思って(昭和25年の時)5月に冷たい霧と新鮮な緑の中を歩いていたらいつの間にか気持ち良くなっていました。
理性だけを使って3年間やってきたので感性というものを無視していた。
冷たい霧と新鮮な緑が全身に伝わってきたのでそれが喜びに変わったんでしょうね。
あるお坊さんに出会って、寺で生活することになりました。
葉上 照澄あんが(はがみ しょうちょう)が千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
葉上さんは第六高等学校 (旧制)から東京帝国大学文学部哲学科を卒業し同年、大正大学で専任講師となり、来ていました。
彼は日本はこれからどうするか、教育だ、教育しかないと思っていました。
彼は叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会い、弟子になり千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
そこで私が叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会って、行者になるしかないと思いました。
比叡山では本格的な修行としては回峰行と籠山行があります。
叡南 祖賢(えなみ そけん)の弟子になって、オーソドックスな修行がしたいといったら、千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められました。
籠山行は師匠がいなかったので、本を読んで見様見真似でやりました。
山は湿気が多くて、体力が徐々に落ちてきました、慢性的な下痢になりました。
佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行しました。
「身心脱落」 道元禅師の禅を考える上で非常に大事な言葉。
身体も心も抜け落ちてしまったのが「身心脱落」です、つまり「空」になってしまったという事です。
相対関係があるうちは空ではない、私とあなたがいるので、仏教では色と言います。
目に見えるものは全部色なんです。
色は空であるという事を般若心経で言っています。
空でなお且色である、色即是空、空即是色と言っています。
相対関係の価値観しかない、それは迷いです。
もともと一元から人間は生まれてきた、生まれるという事は一元から二元に来るという事で、死ぬという事は相対関係から一元に戻る事。
相対になると「俺が、俺が」という事が出てき、自分中心になる、欲の塊になる。
権力を欲しがりお金を欲しがり、愚の骨頂だが気が付かない。
それがお互いに戦争という事を起こして駄目にしようととしているからとんでもない。
迷うから苦しむ、相対関係という枠の中にいるから苦しむ。
相対という枠を取っ払えばいい、それが道元のいう「身心脱落」であり、釈迦のいう事です。
修行は同じことをやるが、頭で判ったことをそれを身体に判らせるためにやるわけです。
釈迦は「生老病死」という枠を外した。
二元は相対です、『一元絶対」という言葉があります、もともと一つしかない。
絶対は相対関係を絶すること、二元が無くなったという事が一元、「身心脱落」が一元です。
昭和4年新潟県おじや市生まれ。
小学生のころから日中戦争、太平洋戦争と続く中、中学時代には軍需工場に勤労動員されたりさらに海軍兵学校に入学と、戦争が日常の時代を送りました。
戦争が終わり昭和22年旧制新潟高校に入学します。
ここでは新入生は全員寮生活。
堀澤さんは上級生の寮長が語る「再誕」という言葉に感銘を受けました。
「再誕」この世に生まれかわるという事ですがこの言葉に強く共感したのです。
その後京都大学経済学部に進学しますが経済学に関心を持てず人生に悩み、或る時は比叡山をさまよい歩き白い霧と山の緑に包まれているうちに自分が感性を失っている事に気付きます。
これがきっかけで天台宗の修業僧の世界に飛び込みます。
学生服のまま修行に見習いをしていた堀澤さんは千日回峰行者の葉上 照澄(はがみ しょうちょう)さんに出会います。
その時命がけで修行の道に入れば「再誕」の問題が解けるのではないかと思ったのです。
堀澤さんは12年籠山業を戦後初めて成し遂げます。
三千院は1200年の伝統を持つお寺。
伝教大師(でんぎょうだいし)のお住まいとして建てられたのが始まりといわれる。
皇室の方々が出家してお入りになったので門跡という事になりまして、大原は三千院の領地として統括していました。
明治の初めごろに「三千院門跡」といわれるようになりました。
6年前に門主(もんす)(62世)となりました。
伝教大師は道心という事を大事にされました、「道心ある人を名付けて国の宝となす」と言っています。
悟りを求める心を持っている人を道心と言います。
昭和4年新新潟県小千谷市生まれで8人兄弟の7番目でした。
小学校6年の時に太平洋戦争、中学校は軍事工場へ勤労動員、中学校4年生で海軍兵学校佐世保の予科兵学校へ、空襲があるのでほうふ?に疎開、そこで集団赤痢になってしまった。
かなりの人が亡くなりました。
父が無理に連れて帰りました。
あまりに衰弱しているので駄目だと周りでは思っていた様ですが、希望があったので生き延びたと思います。
友人が上の学校へ行こうという事だったが貧乏でいけないといって、受験勉強だけ付き合うことになりました。
新聞紙に合格の発表があり受かったのを知り二人で喜んで抱き合いました。
それを見て母親が父親に頼み込んで学校に行けることになりました。
昭和22年旧制新潟高校に入学して、全寮制の寮に入りました。
寮長が語りだしたのが「再誕」という言葉でした。
自分を本当に生みなおさなくてはいけない、今までは両親に産んでもらっただけで、両親の世話でおんぶにだっこでした。
「どこにお前の本物があるのか、この高等学校は本当の自分の人生をつかむかどうかの正念場の場所だ」といって、そのためには自分をもう一遍見なおせということでした、それが「再誕」と言いますが、非常に感動しました。
再誕するという事は悟りを身に付けるという事に代わってしまって、私の公案になってしまいました。
まず知識がないとだめだと思って、古今東西の古典に学ぶしかないということでそのことが3年間の大きな仕事になりました。
哲学はやればやるほど、即答のあるものではない。
法然、親鸞の概説書などを読みました。
自力万能で来た人間が「他力」という言葉に出会って、阿弥陀仏の力を「他力」というが、他人の力としか理解しないから、にっちもさっちもいかなくなった。
哲学書を読んでも救われなくて、哲学の冷たい理論だけの世界に対して信頼感を失って自分の行くべき道が判らなくなってしまった。
京都大学の経済学部に進学するが、なんでこんんな所に来てしまったんだという事で2か月ぐらい下宿でゴロゴロしていました。
夜中も眠れなくて、何故か比叡山という想念が頭に飛び込んできました。
比叡山に行かなければいけないと思って(昭和25年の時)5月に冷たい霧と新鮮な緑の中を歩いていたらいつの間にか気持ち良くなっていました。
理性だけを使って3年間やってきたので感性というものを無視していた。
冷たい霧と新鮮な緑が全身に伝わってきたのでそれが喜びに変わったんでしょうね。
あるお坊さんに出会って、寺で生活することになりました。
葉上 照澄あんが(はがみ しょうちょう)が千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
葉上さんは第六高等学校 (旧制)から東京帝国大学文学部哲学科を卒業し同年、大正大学で専任講師となり、来ていました。
彼は日本はこれからどうするか、教育だ、教育しかないと思っていました。
彼は叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会い、弟子になり千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
そこで私が叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会って、行者になるしかないと思いました。
比叡山では本格的な修行としては回峰行と籠山行があります。
叡南 祖賢(えなみ そけん)の弟子になって、オーソドックスな修行がしたいといったら、千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められました。
籠山行は師匠がいなかったので、本を読んで見様見真似でやりました。
山は湿気が多くて、体力が徐々に落ちてきました、慢性的な下痢になりました。
佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行しました。
「身心脱落」 道元禅師の禅を考える上で非常に大事な言葉。
身体も心も抜け落ちてしまったのが「身心脱落」です、つまり「空」になってしまったという事です。
相対関係があるうちは空ではない、私とあなたがいるので、仏教では色と言います。
目に見えるものは全部色なんです。
色は空であるという事を般若心経で言っています。
空でなお且色である、色即是空、空即是色と言っています。
相対関係の価値観しかない、それは迷いです。
もともと一元から人間は生まれてきた、生まれるという事は一元から二元に来るという事で、死ぬという事は相対関係から一元に戻る事。
相対になると「俺が、俺が」という事が出てき、自分中心になる、欲の塊になる。
権力を欲しがりお金を欲しがり、愚の骨頂だが気が付かない。
それがお互いに戦争という事を起こして駄目にしようととしているからとんでもない。
迷うから苦しむ、相対関係という枠の中にいるから苦しむ。
相対という枠を取っ払えばいい、それが道元のいう「身心脱落」であり、釈迦のいう事です。
修行は同じことをやるが、頭で判ったことをそれを身体に判らせるためにやるわけです。
釈迦は「生老病死」という枠を外した。
二元は相対です、『一元絶対」という言葉があります、もともと一つしかない。
絶対は相対関係を絶すること、二元が無くなったという事が一元、「身心脱落」が一元です。
2019年10月29日火曜日
友永詔三(造形作家) ・型にはまらず自由な発想で
友永詔三(造形作家) ・型にはまらず自由な発想で
昭和54年から3年間NHKで放送された人形劇「プリンプリン物語」の人形制作者です。
放送回数は全部で656回、その間およそ500体のキャラクターを生み出しました。
その後は木の彫刻を中心に国内外で企画展を開くなど精力的に作品を発表、現在は東京都あきる野市で江戸時代の民家を改築して美術館兼アトリエで創作活動を続けています。
造形作家として友永さんが大切にしている言葉が「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」です。
74歳の今もその言葉を胸に作品と向き合う友永さんに伺いました。
オーストラリアに24歳の時に行きましたが、ピータースクリベンという演出家から「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」という事を言われました。
まだほとんど仕事などしていない時期でした。
子どもの頃四万十川の上流で育ったので、子どもの頃魚は歩いたりしないのかなと思いました。
そういうのを大人になって実際に形にしているわけです。
マレーシアから仏像を頼まれて作りましたが、「仏師の作る型ではなくていい、親とか友達とか大切に思う人をイメージして作ってくれ」と言われました。
頼んできたのは駒澤大学に留学していた僧侶ですが、帰ってから改めて来てくれて阿弥陀如来をつくってほしいといわれました。
額のところに玉眼をつけますが、故郷の水晶を弟から送ってもらって削って付けましたが、透明ではなく白っぽいのでそれが良かったと思います。
自分が生まれたところは物を作る原点みたいなものがあるので、それを入れたいと思いました。
行ったところとつながっていればいいなあという思いもありました。
人形劇プリンプリン物語の人形、プリンセスプリンプリンは可愛く作るのに苦労して作りました。
主人公の少女プリンプリンが、まだ見ぬ故郷を探し求めて仲間たちと旅をする、ミュージカル仕立ての物語です。
悪役の人形もいろいろ考えて作り、衣装などもインドに行って調達したりしました。
インドの物語が下地になっているものですが、展開の中にはそういったものはないです。
プリンプリンのまつげは特徴的でホロホロチョウの鳥の羽でやっています。
髪の毛も金糸の刺繍糸を使っています。
基本的には木肌の色をそのまま使っています。
人形によって木の種類をいろいろ変えています。
見えないところまで気を使いました。
思い出のある人形としてはルチ将軍、プリンプリンの次に視聴者から人気がありました。
動物とか魚をいれて500体以上になりました。
主な人物では同じ人物でも複数つくりました。
台本を読んで自分でイメージして、ディレクターの人と相談して作りました。
国によってある形を基本にして形、色などを変えて作りました。
男性のキャラクターがピアスをしたり、髪の毛の色もいろいろな色を使いました。
当時はそんなことはほとんどなかったが、人形の世界ではできると思いました。
投書では、外国人が作っているんだろうという内容が結構ありました。
当初半年といわれて、別の国にいったら別の人に代わるという事でした。
ルチ将軍の人気が出たことと操り人形、棒使い人形、グローブの人形などいろいろ作れたので続けることになりました。
34歳の時の仕事でした。
発端はあるディレクターから電話があり、来年からプリンプリン物語が始まるが、期日までに絵を描いてほしいといわれて絵を届けました。
変わったものを求めていたんだと思います。
関節の部分に木を使った球体関節人形で動けるような人形にしてそれを僕が初めてTV用にやりました。
特別器用ではないが、モノをつくるのは好きでした。
遊び道具も全部自分たちで作って遊んでいました。
工業高校に進みました。
芝居を見たくて東京の精密機械メーカーに勤めました。
2年間勤めましたが、別のことをやりたいという事でインテリアのデザイン学校に行きました。
卒業後東宝系の舞台装置を作る会社に就職しました。
オーストラリアで人形劇映画をつくるという事でそのキャラクターデザインを募集しているという事を友人からもらって、どうせ受からないと思って絵を送ったら、演出家から会いたいという事になり会いに行きました。
台本を渡されて登場人物のキャラクターを書いてきてほしいといわれて、絵も描きましたが絵だけではわからないと思って、紙粘土で顔をつくって持っていきました。
東京で1年近く作っていましたが、それが人形を作るきっかけでした。
そのころに「型にはまらず自由な発想で作品をつくるように」と言われました。
デザイン学校で講師をやっていた時に、アメリカから帰国した講師がある会合に同席してそのひとから画廊を紹介していただき連れて行ってもらいました。
展覧会をやらしていただくことになり、人形劇をやっている演出家と一緒に仕事をするようになり映画、舞台の仕事をやるようになりました。
NHKの演出家がそれを見てくれて、人形劇プリンプリン物語につながっていくわけです。
普通はどこかの先生に付いたりアカデミックな教育を受けて学校の教授に言われるとおりにやらないと卒業できないが、僕の場合は師匠もいませんでした。
僕は人との出会いだけで仕事をしてきたようなものです。
与えられた仕事は一生懸命やってきました、ほとんど初めての仕事ばかりです。
11月16日から青梅市立美術館で展示会があります、テーマは「アートの地産地消」です。
一体だけですが。
昭和54年から3年間NHKで放送された人形劇「プリンプリン物語」の人形制作者です。
放送回数は全部で656回、その間およそ500体のキャラクターを生み出しました。
その後は木の彫刻を中心に国内外で企画展を開くなど精力的に作品を発表、現在は東京都あきる野市で江戸時代の民家を改築して美術館兼アトリエで創作活動を続けています。
造形作家として友永さんが大切にしている言葉が「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」です。
74歳の今もその言葉を胸に作品と向き合う友永さんに伺いました。
オーストラリアに24歳の時に行きましたが、ピータースクリベンという演出家から「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」という事を言われました。
まだほとんど仕事などしていない時期でした。
子どもの頃四万十川の上流で育ったので、子どもの頃魚は歩いたりしないのかなと思いました。
そういうのを大人になって実際に形にしているわけです。
マレーシアから仏像を頼まれて作りましたが、「仏師の作る型ではなくていい、親とか友達とか大切に思う人をイメージして作ってくれ」と言われました。
頼んできたのは駒澤大学に留学していた僧侶ですが、帰ってから改めて来てくれて阿弥陀如来をつくってほしいといわれました。
額のところに玉眼をつけますが、故郷の水晶を弟から送ってもらって削って付けましたが、透明ではなく白っぽいのでそれが良かったと思います。
自分が生まれたところは物を作る原点みたいなものがあるので、それを入れたいと思いました。
行ったところとつながっていればいいなあという思いもありました。
人形劇プリンプリン物語の人形、プリンセスプリンプリンは可愛く作るのに苦労して作りました。
主人公の少女プリンプリンが、まだ見ぬ故郷を探し求めて仲間たちと旅をする、ミュージカル仕立ての物語です。
悪役の人形もいろいろ考えて作り、衣装などもインドに行って調達したりしました。
インドの物語が下地になっているものですが、展開の中にはそういったものはないです。
プリンプリンのまつげは特徴的でホロホロチョウの鳥の羽でやっています。
髪の毛も金糸の刺繍糸を使っています。
基本的には木肌の色をそのまま使っています。
人形によって木の種類をいろいろ変えています。
見えないところまで気を使いました。
思い出のある人形としてはルチ将軍、プリンプリンの次に視聴者から人気がありました。
動物とか魚をいれて500体以上になりました。
主な人物では同じ人物でも複数つくりました。
台本を読んで自分でイメージして、ディレクターの人と相談して作りました。
国によってある形を基本にして形、色などを変えて作りました。
男性のキャラクターがピアスをしたり、髪の毛の色もいろいろな色を使いました。
当時はそんなことはほとんどなかったが、人形の世界ではできると思いました。
投書では、外国人が作っているんだろうという内容が結構ありました。
当初半年といわれて、別の国にいったら別の人に代わるという事でした。
ルチ将軍の人気が出たことと操り人形、棒使い人形、グローブの人形などいろいろ作れたので続けることになりました。
34歳の時の仕事でした。
発端はあるディレクターから電話があり、来年からプリンプリン物語が始まるが、期日までに絵を描いてほしいといわれて絵を届けました。
変わったものを求めていたんだと思います。
関節の部分に木を使った球体関節人形で動けるような人形にしてそれを僕が初めてTV用にやりました。
特別器用ではないが、モノをつくるのは好きでした。
遊び道具も全部自分たちで作って遊んでいました。
工業高校に進みました。
芝居を見たくて東京の精密機械メーカーに勤めました。
2年間勤めましたが、別のことをやりたいという事でインテリアのデザイン学校に行きました。
卒業後東宝系の舞台装置を作る会社に就職しました。
オーストラリアで人形劇映画をつくるという事でそのキャラクターデザインを募集しているという事を友人からもらって、どうせ受からないと思って絵を送ったら、演出家から会いたいという事になり会いに行きました。
台本を渡されて登場人物のキャラクターを書いてきてほしいといわれて、絵も描きましたが絵だけではわからないと思って、紙粘土で顔をつくって持っていきました。
東京で1年近く作っていましたが、それが人形を作るきっかけでした。
そのころに「型にはまらず自由な発想で作品をつくるように」と言われました。
デザイン学校で講師をやっていた時に、アメリカから帰国した講師がある会合に同席してそのひとから画廊を紹介していただき連れて行ってもらいました。
展覧会をやらしていただくことになり、人形劇をやっている演出家と一緒に仕事をするようになり映画、舞台の仕事をやるようになりました。
NHKの演出家がそれを見てくれて、人形劇プリンプリン物語につながっていくわけです。
普通はどこかの先生に付いたりアカデミックな教育を受けて学校の教授に言われるとおりにやらないと卒業できないが、僕の場合は師匠もいませんでした。
僕は人との出会いだけで仕事をしてきたようなものです。
与えられた仕事は一生懸命やってきました、ほとんど初めての仕事ばかりです。
11月16日から青梅市立美術館で展示会があります、テーマは「アートの地産地消」です。
一体だけですが。
2019年10月28日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦(初回2017/10/30)
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦(初回2017/10/30)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
2019年10月27日日曜日
田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
昭和26年愛媛県西条市うまれ、68歳。
子どものころから水泳が得意で中学の時に、対岸の広島県三原市へ水泳留学します。
尾道高校に進学、高校2年生17歳の時にメキシコオリンピック日本代表に選ばれました。
次のミュンへンのオリンピックの時が広島修道大学3年生、21歳。
広島ドルフィンクラブに所属し平泳ぎ100mで金メダル、200mで銅メダルを獲得しました。
オリンピックはメキシコ、ミュンへン、モントリオールと3回連続出場25歳のわあkさで現役を引退しました。
独特のピッチ泳法で日本記録や世界記録を更新し続けた当時日本水泳界のスターでした。
引退後は唯一の国立体育大学である鹿児島県の鹿屋体育大学で35年間の教員生活を送られ現在は福島県いわき市の医療創生大学の副学長を務めています。
中学2年生の時に日本選手権に出ていますが、女子の一番早い人には記録的に負けてしまっていました。
東京オリンピックのためにできた代々木オリンピックプールの初めてのレースでした。
1968年メキシコ大会では高校2年生でした。
鶴峯治選手とともに選ばれました。
男子100mの予選 1分9秒8トップで通過。
準決勝の同じ組には世界記録保持者のソビエトのパンキン、アルゼンチンのポレリという選手がいましたが、1分7秒1という驚異的世界新記録で1位でゴール。
しかし泳法違反という事でタイムは取り消しとなり、失格で決勝へは進めなかった。
各コースの審判は自分の選手しか見なくて公平さはなく、アメリカの審判だったが抗議をすればよかったが、文書で30分以内に抗議をすればよかったがそれをしなかった。
私の泳法は水中から足首が上に出るんですが、ドルフィンキックのように見えてしまったようだった。
実際にはそれがいいとも悪いとも規定には書いてはいなかった。
200mでは準決勝で敗れてしまいました。
ミュンへン大会はスピッツ選手が7個の金メダルを獲得するなど世界新記録に沸く大会でした。
当時世界記録は1分5秒7だったが、それを1秒ぐらい上回っていたので、金メダルを取るんだと宣言していました。
泳法については問題ないと思っていました。
予選では1分6秒1の好タイムで準決勝では1分5秒1驚異的世界新記録を出し トップで決勝に向かう。
100m平泳ぎの決勝が行われえる。
50mのターンでアメリカのブルース30秒7田口は1mぐらい離される。
60mを過ぎてもブルース、ヘンケンが身体半分リード、75mで田口はピッチが上がってきて80mで並んで追い抜き、ラストスパート1分4秒94世界新記録逆転して優勝する。
前半の入りあたを細かく設定するとイーブンペースで行くのが一番良かった。
予選、準決勝では先行逃げ切り型だったが、決勝だけは前半イーブンペースで行きました。
後半はピッチを上げて決勝は作戦通りとなりました。
200mではアメリカのヘンケンが50m過ぎたころから独泳となり、後半追い上げるが及ばずイギリスのウイルキー選手にもいタッチの差で抜かれて、2分23秒7(日本新記録)で3位となる。
泳法違反だと言われたらすぐに抗議できるように英文を用意していました。
1976年モントリオールオリンピック、100mの予選。
ヘンケンと同じ組で泳ぎ1分4秒65(日本新記録)2位だった。
準決勝では2度のフライイングを重ねて思うような泳ぎができず、1分5秒69で全体では12位となり決勝には進めなかった。
一旦金メダルを取り、目的を達して私はさらにという様な気持ちにはならなかった。
社会に出ていくためには勉強もしなくてはいけないと思って早く引退させてほしいと言っていました。
モントリオールの準決勝敗退2日後に記者会見を開いて現役引退を表明しました。(25歳)
頂点に立つと天皇陛下から声をかけていただいたり、総理大臣、著名な方からインタビューみたいな形になり、講演とかデモストレーションをしたりいろんなことが起きた金メダルでした。
愛媛は人工的なため池がありそこで泳いでいました。
透明度が高くて水草をよけながら鯉を追いかけていました。
中学2年の時に広島の三原三中に留学しました。
高校では尾道高校に行って2年生でメキシコオリンピックの代表になりました。
高校では温水プールを作ってほしいという事でオリンピック選手が出ました。
アメリカへ行きたいと思っていましたが、世界一の指導者のもとでやりたいという事でそういったら、流出させまいと広島県水泳連盟の関係者が地元フジタ工業の藤田正明、藤田一暁に協力を要請、関係者の熱意により広島市に「フジタドルフィンクラブ」が設立されることになりました。
水泳王国を復活させようというプランでした。
ピッチ泳法、足の引付は抵抗が多くて、足の方を水上すれすれに浮いて徹底的に腕を鍛えるわけです。
足の裏でけりなさいという事で足をできるだけ上げると腿の抵抗が少なくなり、腕でかけばいいわけです。
手で連続にやるとばてるので、ペース配分を考えて、水をたくさんキャッチできる腕を作って回転を上げるわけです。
手首も強くしなければいけない。
足の動きについては事前に審判長の確認をとって大丈夫という了解を得ました。
水泳はまだまだ記録が伸びるので人間の可能性を追求するのに水泳ほどいいものはないと思いました。
アメリカへの研修に第一号として2年間行きまして、戻ってきて国立大学の水泳の強化に招聘していただきました。
10億円を超えるを出してもらい実験プールを作って、研究費もふんだんに出していただきその中で柴田 亜衣が育ったわけです。
(2004年のアテネオリンピックの女子800m自由形の金メダルの選手)
5つの壁。
①基本をつくるのは難しい。
②継続が難しい。
③故障など限界への挑戦。
④不安をつくらないこと。
⑤スポーツは運が伴う。
25年間書き込めるカレンダーを壁に貼って、ここで就職して、ここで結婚して、ここで引退とか書いていました。
書いておくと無駄が無くなります。
スポーツは継続なんで、流れている川を上っていくのとおんなじでちょっとでも手を抜くと戻ってくるんです。
行くところまでいかないとだめです。
技を習得した人は次の人に伝承できる場所を確保してほしいというものはあります。
2020には金メダルを宇靴か取ってほしいと思いますし、結構取れると思います。
昭和26年愛媛県西条市うまれ、68歳。
子どものころから水泳が得意で中学の時に、対岸の広島県三原市へ水泳留学します。
尾道高校に進学、高校2年生17歳の時にメキシコオリンピック日本代表に選ばれました。
次のミュンへンのオリンピックの時が広島修道大学3年生、21歳。
広島ドルフィンクラブに所属し平泳ぎ100mで金メダル、200mで銅メダルを獲得しました。
オリンピックはメキシコ、ミュンへン、モントリオールと3回連続出場25歳のわあkさで現役を引退しました。
独特のピッチ泳法で日本記録や世界記録を更新し続けた当時日本水泳界のスターでした。
引退後は唯一の国立体育大学である鹿児島県の鹿屋体育大学で35年間の教員生活を送られ現在は福島県いわき市の医療創生大学の副学長を務めています。
中学2年生の時に日本選手権に出ていますが、女子の一番早い人には記録的に負けてしまっていました。
東京オリンピックのためにできた代々木オリンピックプールの初めてのレースでした。
1968年メキシコ大会では高校2年生でした。
鶴峯治選手とともに選ばれました。
男子100mの予選 1分9秒8トップで通過。
準決勝の同じ組には世界記録保持者のソビエトのパンキン、アルゼンチンのポレリという選手がいましたが、1分7秒1という驚異的世界新記録で1位でゴール。
しかし泳法違反という事でタイムは取り消しとなり、失格で決勝へは進めなかった。
各コースの審判は自分の選手しか見なくて公平さはなく、アメリカの審判だったが抗議をすればよかったが、文書で30分以内に抗議をすればよかったがそれをしなかった。
私の泳法は水中から足首が上に出るんですが、ドルフィンキックのように見えてしまったようだった。
実際にはそれがいいとも悪いとも規定には書いてはいなかった。
200mでは準決勝で敗れてしまいました。
ミュンへン大会はスピッツ選手が7個の金メダルを獲得するなど世界新記録に沸く大会でした。
当時世界記録は1分5秒7だったが、それを1秒ぐらい上回っていたので、金メダルを取るんだと宣言していました。
泳法については問題ないと思っていました。
予選では1分6秒1の好タイムで準決勝では1分5秒1驚異的世界新記録を出し トップで決勝に向かう。
100m平泳ぎの決勝が行われえる。
50mのターンでアメリカのブルース30秒7田口は1mぐらい離される。
60mを過ぎてもブルース、ヘンケンが身体半分リード、75mで田口はピッチが上がってきて80mで並んで追い抜き、ラストスパート1分4秒94世界新記録逆転して優勝する。
前半の入りあたを細かく設定するとイーブンペースで行くのが一番良かった。
予選、準決勝では先行逃げ切り型だったが、決勝だけは前半イーブンペースで行きました。
後半はピッチを上げて決勝は作戦通りとなりました。
200mではアメリカのヘンケンが50m過ぎたころから独泳となり、後半追い上げるが及ばずイギリスのウイルキー選手にもいタッチの差で抜かれて、2分23秒7(日本新記録)で3位となる。
泳法違反だと言われたらすぐに抗議できるように英文を用意していました。
1976年モントリオールオリンピック、100mの予選。
ヘンケンと同じ組で泳ぎ1分4秒65(日本新記録)2位だった。
準決勝では2度のフライイングを重ねて思うような泳ぎができず、1分5秒69で全体では12位となり決勝には進めなかった。
一旦金メダルを取り、目的を達して私はさらにという様な気持ちにはならなかった。
社会に出ていくためには勉強もしなくてはいけないと思って早く引退させてほしいと言っていました。
モントリオールの準決勝敗退2日後に記者会見を開いて現役引退を表明しました。(25歳)
頂点に立つと天皇陛下から声をかけていただいたり、総理大臣、著名な方からインタビューみたいな形になり、講演とかデモストレーションをしたりいろんなことが起きた金メダルでした。
愛媛は人工的なため池がありそこで泳いでいました。
透明度が高くて水草をよけながら鯉を追いかけていました。
中学2年の時に広島の三原三中に留学しました。
高校では尾道高校に行って2年生でメキシコオリンピックの代表になりました。
高校では温水プールを作ってほしいという事でオリンピック選手が出ました。
アメリカへ行きたいと思っていましたが、世界一の指導者のもとでやりたいという事でそういったら、流出させまいと広島県水泳連盟の関係者が地元フジタ工業の藤田正明、藤田一暁に協力を要請、関係者の熱意により広島市に「フジタドルフィンクラブ」が設立されることになりました。
水泳王国を復活させようというプランでした。
ピッチ泳法、足の引付は抵抗が多くて、足の方を水上すれすれに浮いて徹底的に腕を鍛えるわけです。
足の裏でけりなさいという事で足をできるだけ上げると腿の抵抗が少なくなり、腕でかけばいいわけです。
手で連続にやるとばてるので、ペース配分を考えて、水をたくさんキャッチできる腕を作って回転を上げるわけです。
手首も強くしなければいけない。
足の動きについては事前に審判長の確認をとって大丈夫という了解を得ました。
水泳はまだまだ記録が伸びるので人間の可能性を追求するのに水泳ほどいいものはないと思いました。
アメリカへの研修に第一号として2年間行きまして、戻ってきて国立大学の水泳の強化に招聘していただきました。
10億円を超えるを出してもらい実験プールを作って、研究費もふんだんに出していただきその中で柴田 亜衣が育ったわけです。
(2004年のアテネオリンピックの女子800m自由形の金メダルの選手)
5つの壁。
①基本をつくるのは難しい。
②継続が難しい。
③故障など限界への挑戦。
④不安をつくらないこと。
⑤スポーツは運が伴う。
25年間書き込めるカレンダーを壁に貼って、ここで就職して、ここで結婚して、ここで引退とか書いていました。
書いておくと無駄が無くなります。
スポーツは継続なんで、流れている川を上っていくのとおんなじでちょっとでも手を抜くと戻ってくるんです。
行くところまでいかないとだめです。
技を習得した人は次の人に伝承できる場所を確保してほしいというものはあります。
2020には金メダルを宇靴か取ってほしいと思いますし、結構取れると思います。
2019年10月26日土曜日
山田太一(脚本家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
山田太一(脚本家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
山田さんは昭和9年東京浅草に生まれました、85歳。
大学卒業後、松竹大船撮影所を経て1965年フリーの脚本家としてスタート。
NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」はじめ「岸辺のアルバム」、中井貴一さんや柳沢慎吾さんらが主演しました「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマの脚本を手がけました。
時代のなかで老いや家族の関係など社会の問題を見つめてこられました。
2017年1月に脳出血で倒れた山田さんですが、現在はかなり回復されゆっくりと療養の日々を送っています。
「ながらえば」、「冬構え」、「今朝の秋」の老いをテーマにした三部作も書かれています。
大病の後どのような思いで過ごしているのか、戦時中家族で神奈川県の湯河原へ強制疎開をさせられるなど、戦争に翻弄された山田さんの思い出の食べ物はどんなものなのか伺いました。
病に倒れてから間もなく3年になりました。
体調もいいんです。
これで死ぬと思ってこの3年間でほぼ切れると思っていましたが、気が付くといつ死ぬかわからない、遅ればせながらそれが人間の最後の問題だと気が付きました。
変なところに追い詰められたと思っています。
生き方を変えないといけないと思っても翌日死ぬかもわからない、非常に変なところで生きているという思いがあります。
7時半ぐらいからご飯を食べて、昼、3時の時間、最後の食事ということは基本的にはここにいると決まってしまって、その間は個人的にあってくれる人があったり、できるだけ外に出たいので外に出て歩いています。
ずーっと日記をつけていましたが、病気になって以来一切それは無しです。
この3年間はこんなことはあったかなあと疑問にしても、どうにもならないぐらいになってしまいました。
新聞、本などは読みますが、少なくなりました。
生まれて10年は普通にいきましたが、あとは大混乱の中で食べていましたので、食べられればなんでもいいという感じでした。
食べ物に対する危機みたいな気分はありました。
勤め先の大船ではみんなと同じような食べ物を食べていました。
戦争が始まったらどんどん悪くなりそのあたりで一番贅沢だと思ったのは、雷門のすき焼き屋さんへ行ってご飯をみんなで食べたという事は、実に珍しいことであるけれども実に忘れがたいことでした。(小学校5年生の時)
なんであんなことが可能だったのか、実に珍しいことでした。
食事というのは大事なシンボルだと思いますが、自分のものにならない。
朝何時に食べてと言う時には、そこで食べるものしかなかったという事が多かったので。
母も死んでしまいましたし、自分で用意するしかなかった、ひどい時代でした。
「岸辺のアルバム」は大事な作品だとは思います。
温かいホームドラマではなくて、自分の気持ちとしては一番家族が、という感じが思いの中にありました。
「ふぞろいの林檎たち」 知らない人ばっかりで作品を作ってみようと思いました。
俳優さんも知らない人ばっかりでやりました。
凄い意欲がありました。
パートⅠ、ⅡまではよかったがパートⅢになるとちょっとぐじゃぐじゃになってしまうという風に気持ちが自分の中にもありました。
パートⅢになって、こんなことをこうやって一度始めると続けなければならないといういらだちがありました。
どこにでもいる人達だが、ひとりづつ大事な素材だという事は感じました。
その中でそれぞれが生きてゆくためにはそれぞれの出発とか、エンドマークだとか色んなものが錯綜してあることが、全体として不ぞろいだからよかったというか、良い人ばっかり並べるという事はなかったです。
父は「おまえのことなんか誰も思ってない」と言われて僕もそうだろうと思いました、そんなに特別なことだとは思わなかったが、しかしそれが基本にあるのかもしれません。
父親も一人の人生として生きていくわけで私もある程度になると一人で生きてゆくしかないわけだから、という風なことは考えました。
ある程度事実に近いものでやろうと思いました。
「男たちの旅路」 41歳の時に書いた70,80歳の老人の気持ちのセリフについては、自分の中にあったんだと思います。
世代も背景も異なる警備会社の社員たちが、仕事の中から拾い出した疑問に対し真面目に向き合う姿を描く。
特別な人を書こうと思ったりしたわけではないです。
色んな年齢の人を書こうと思っていましたが、人間がみんなバラバラに、一緒にずーっと死んでゆくし、一人の人はなかなか死なないとか、実にバラバラにそうなんだと今一番身近にそう思います。
自分がなるまで、人もみんなあのくらいになるとあのくらいで死んでいくのかと考えていたが、自分の番が来ると自分がどこにいるのかわからないぐらいバラバラだという気がして、そんなことって真面目に考えていなかったんだなと今となっても感じます。
それぞれ老いがばらばらにあり、一人一人をつかもうとすると大変なんだと思います。
思いがばらばらであり、自分で思うようにならないわけで、多くの人はそこで最後の歳を迎えているわけです。
そこの細かな感じ方は自分がその歳になってみないとなかなか出てこなかったんじゃないかと思います。
結局自分の知っている範囲で書いているわけですが、その代表者としてそういう人たちの身にできるだけ近づけようとすることで僕らの仕事は試されされていると思います。
人間って物凄く実はバラバラだと思います。
だからひとつのラインで書こうとしたって、それは力が動かないと思います。
書くしかない、どこまで書いて良いかわからないが。
そんなことは言いたくないという人が実際結構いるわけですが、一人だと言えないことが大きな層としているぐらいいると思います。
わーっと大勢になる人を大衆の声だと思っているわけだけれど、実はそうじゃない人たちの方が多いですよね。
そのことを知るという事も大切です。
死ぬという事がどういうことかという事をはっと判るように書けたら素晴らしいと思います。
明日、明後日どうなるか判らないという事は、こんなにまざまざとわからなくさせることの不思議さみたいなものを気付くまで随分時間があったなあと思います。
生まれた浅草に行きましたが、びっくりしました。
こんな風に時代が変わっていくのかと、その面白さであって、いろんなことを感じました。
山田さんは昭和9年東京浅草に生まれました、85歳。
大学卒業後、松竹大船撮影所を経て1965年フリーの脚本家としてスタート。
NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」はじめ「岸辺のアルバム」、中井貴一さんや柳沢慎吾さんらが主演しました「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマの脚本を手がけました。
時代のなかで老いや家族の関係など社会の問題を見つめてこられました。
2017年1月に脳出血で倒れた山田さんですが、現在はかなり回復されゆっくりと療養の日々を送っています。
「ながらえば」、「冬構え」、「今朝の秋」の老いをテーマにした三部作も書かれています。
大病の後どのような思いで過ごしているのか、戦時中家族で神奈川県の湯河原へ強制疎開をさせられるなど、戦争に翻弄された山田さんの思い出の食べ物はどんなものなのか伺いました。
病に倒れてから間もなく3年になりました。
体調もいいんです。
これで死ぬと思ってこの3年間でほぼ切れると思っていましたが、気が付くといつ死ぬかわからない、遅ればせながらそれが人間の最後の問題だと気が付きました。
変なところに追い詰められたと思っています。
生き方を変えないといけないと思っても翌日死ぬかもわからない、非常に変なところで生きているという思いがあります。
7時半ぐらいからご飯を食べて、昼、3時の時間、最後の食事ということは基本的にはここにいると決まってしまって、その間は個人的にあってくれる人があったり、できるだけ外に出たいので外に出て歩いています。
ずーっと日記をつけていましたが、病気になって以来一切それは無しです。
この3年間はこんなことはあったかなあと疑問にしても、どうにもならないぐらいになってしまいました。
新聞、本などは読みますが、少なくなりました。
生まれて10年は普通にいきましたが、あとは大混乱の中で食べていましたので、食べられればなんでもいいという感じでした。
食べ物に対する危機みたいな気分はありました。
勤め先の大船ではみんなと同じような食べ物を食べていました。
戦争が始まったらどんどん悪くなりそのあたりで一番贅沢だと思ったのは、雷門のすき焼き屋さんへ行ってご飯をみんなで食べたという事は、実に珍しいことであるけれども実に忘れがたいことでした。(小学校5年生の時)
なんであんなことが可能だったのか、実に珍しいことでした。
食事というのは大事なシンボルだと思いますが、自分のものにならない。
朝何時に食べてと言う時には、そこで食べるものしかなかったという事が多かったので。
母も死んでしまいましたし、自分で用意するしかなかった、ひどい時代でした。
「岸辺のアルバム」は大事な作品だとは思います。
温かいホームドラマではなくて、自分の気持ちとしては一番家族が、という感じが思いの中にありました。
「ふぞろいの林檎たち」 知らない人ばっかりで作品を作ってみようと思いました。
俳優さんも知らない人ばっかりでやりました。
凄い意欲がありました。
パートⅠ、ⅡまではよかったがパートⅢになるとちょっとぐじゃぐじゃになってしまうという風に気持ちが自分の中にもありました。
パートⅢになって、こんなことをこうやって一度始めると続けなければならないといういらだちがありました。
どこにでもいる人達だが、ひとりづつ大事な素材だという事は感じました。
その中でそれぞれが生きてゆくためにはそれぞれの出発とか、エンドマークだとか色んなものが錯綜してあることが、全体として不ぞろいだからよかったというか、良い人ばっかり並べるという事はなかったです。
父は「おまえのことなんか誰も思ってない」と言われて僕もそうだろうと思いました、そんなに特別なことだとは思わなかったが、しかしそれが基本にあるのかもしれません。
父親も一人の人生として生きていくわけで私もある程度になると一人で生きてゆくしかないわけだから、という風なことは考えました。
ある程度事実に近いものでやろうと思いました。
「男たちの旅路」 41歳の時に書いた70,80歳の老人の気持ちのセリフについては、自分の中にあったんだと思います。
世代も背景も異なる警備会社の社員たちが、仕事の中から拾い出した疑問に対し真面目に向き合う姿を描く。
特別な人を書こうと思ったりしたわけではないです。
色んな年齢の人を書こうと思っていましたが、人間がみんなバラバラに、一緒にずーっと死んでゆくし、一人の人はなかなか死なないとか、実にバラバラにそうなんだと今一番身近にそう思います。
自分がなるまで、人もみんなあのくらいになるとあのくらいで死んでいくのかと考えていたが、自分の番が来ると自分がどこにいるのかわからないぐらいバラバラだという気がして、そんなことって真面目に考えていなかったんだなと今となっても感じます。
それぞれ老いがばらばらにあり、一人一人をつかもうとすると大変なんだと思います。
思いがばらばらであり、自分で思うようにならないわけで、多くの人はそこで最後の歳を迎えているわけです。
そこの細かな感じ方は自分がその歳になってみないとなかなか出てこなかったんじゃないかと思います。
結局自分の知っている範囲で書いているわけですが、その代表者としてそういう人たちの身にできるだけ近づけようとすることで僕らの仕事は試されされていると思います。
人間って物凄く実はバラバラだと思います。
だからひとつのラインで書こうとしたって、それは力が動かないと思います。
書くしかない、どこまで書いて良いかわからないが。
そんなことは言いたくないという人が実際結構いるわけですが、一人だと言えないことが大きな層としているぐらいいると思います。
わーっと大勢になる人を大衆の声だと思っているわけだけれど、実はそうじゃない人たちの方が多いですよね。
そのことを知るという事も大切です。
死ぬという事がどういうことかという事をはっと判るように書けたら素晴らしいと思います。
明日、明後日どうなるか判らないという事は、こんなにまざまざとわからなくさせることの不思議さみたいなものを気付くまで随分時間があったなあと思います。
生まれた浅草に行きましたが、びっくりしました。
こんな風に時代が変わっていくのかと、その面白さであって、いろんなことを感じました。
2019年10月25日金曜日
今森光彦(写真家・切り絵作家) ・【人生のみちしるべ】よみがえれ!命の里山
今森光彦(写真家・切り絵作家) ・【人生のみちしるべ】よみがえれ!命の里山
今森さんは1954年 昭和29年滋賀県の生まれ。
大学卒業後独学で写真技術を学びフリーの写真家として活躍されてきました。
自然の造形を鮮やかに切り取る切り絵作家としても知られています。
今森さんのアトリエ、自宅があるのは滋賀県大津市「オーレリアンの庭」と名付けられた場所です。
オーレリアンというのはギリシャ語で蝶を愛するナチュラリストという意味です。
今森さんは30年かけて理想の里山を作り上げてきました。
実は今森さん、新たな挑戦で悪戦苦闘の日々を送ってこられたといいます。
一体どんな挑戦をされてきたのか、今森さんが撮り続けている里山の風景への思い、人生の道しるべになってきたものを伺いました。
10月の終わりごろになってくると稲刈りが終わり、まっ黄色だった田園がセピア色になります。
雑木林では紅葉まだですが、一番先に鮮やかな赤に色付くのが漆です。
昆虫は四季折々に存在します。
夏は昆虫教室を開いて全国から子どもたちが集まってきます。(21年ぐらい開催しています)
去年までは琵琶湖の北にある雑木林で開催していましたが、子どもたちが安全に遊べる土台ができたので、今年からはアトリエの近くにある棚田を舞台に開催しています。
60歳になるときに、農家になりたいと思い、農家になる申請をして、農地を4~5ヘクタールぐらいの土地を入手することができました。
或る企業が協賛していただいて、土地を確保していただき延べ8ヘクタールできて、手を加えて生物の多様性がぐっと高くなるのでそれを目指しています。
作物を収穫するわけではなくて、生き物に利用していただける様な環境作りをしています。
一番大変だったのは、農家の人がギブアップしているような土地でした。
昔は段々畑だったのが竹林になってしまっていました。(耕作放棄地 45年間放置)
殆どそのような土地でしたが5年をかけて棚田に再生して菜の花を咲かせました。
3年は竹しか刈っていませんでしたので、肩が腱鞘炎になって物凄く痛くて夜も眠れないほどで、1年間駄目でした。
色々計画があったが体調のこともあり辞めようと思う時がありました。
今後はどんどん土地は良くなっていくと思います。
小さいころに育った環境が大津の旧家で、伝統行事が家には残っていました。
神社の境内の森に行って遊んで、琵琶湖にいっては釣りをして遊んでいました。
少学生の頃の自然はなくなってしまい、琵琶湖に住んでいた在来種はほとんどいなく外見はのどかでも中はブラックバス、ブルーギルに代わってしまっています。
どんどん悪い方向に進んでいきました。
開発と補助整備という田んぼの区画を大きくする(生産性を上げるため)これが自然を破壊していきました。
湿田だったのが乾田(水路を設けて必要な時だけ水を入れる)になってしまい、湿地性の植物が全部だめになってしまいます。
外来種は入りやすくなり、メダカ、イモリ、カエルはほとんどいくなり、鷺などの野鳥が来なくなりました。
自分が深く入って内側からものを見ることによって、里山の考え方が変わってきて撮影の仕方、作品性が変わります。
テクニックは割と獲得できるが思考はなかなか獲得はできない。
私の場合は農地という事に現れています。
新しい作品としての始まりがあると自分では思っています。
切り絵は小学校1年から6年生までやっていまして、ありとあらゆる生き物をやっていました。
日本には蝶々が240種類程度いますが、200種類ぐらいは切れました。
実体験による観察と、図鑑はよく見ていました。
触ったり見ていることはデッサンとよく似ています。
海外取材が多くて30代から40代は日本には1年の半分はいませんでした。
写真取材を通していろんな体験をすることができました。
帰ってきて里山環境の大切さがわかってきました。
雑木林の価値は非常に高いと思います。
熱帯雨林は50mぐらいの高さの木が数百m先にしかなくて小さな木がつまっているが粗の状態です。
昆虫とか鳥が一杯いるように思えるが、そういった動物も粗の状態です。
熱帯雨林は大きな歯車がゆっくり回っている状態です。
日本の方はちっちゃな歯車がくるくる回っている状態で、潰れやすいが再生しやすいんです。
熱帯雨林は壊れたら大変で破棄してゆきます、戻るのには数百年、数千年かかりますが、雑木林は数年で戻ります。
定住者としてずーっとみると、環境の変化が見えてきます。
小さなころに体験した豊かな里山的農村環境があって、歳をとってゆく中で悪い方に変化してきました、それが原動力になっています。
風景の絶滅危惧種として扱うべきだと思うぐらい風景が変わってきています。
プロの写真家になってからの道しるべは環境です。
里山を追いかけてきて人と生き物の共存ですね、共存空間として日本の自然を考えないと大変なことになると思います。
生き物がいなくなると人間もいなくなってしまうと思います。
子どもの頃に自然観を養っておかないと、感性もあるので大人になってから理屈だけでは理解できないと思います。
参加して清掃作業などすると格段に大きな進展があります。
そこでコミュニケーションの場ができて、そこに生き物の事をやっているとがぜん違ってきます。
自分がやっている農地の完成度を高めていって、生物多様性を高めていきたい。
地元の人たちにとって意義のあるようにしたいです。
日本中が耕作放棄地にどんどんなってゆくので、大変です。
今森さんは1954年 昭和29年滋賀県の生まれ。
大学卒業後独学で写真技術を学びフリーの写真家として活躍されてきました。
自然の造形を鮮やかに切り取る切り絵作家としても知られています。
今森さんのアトリエ、自宅があるのは滋賀県大津市「オーレリアンの庭」と名付けられた場所です。
オーレリアンというのはギリシャ語で蝶を愛するナチュラリストという意味です。
今森さんは30年かけて理想の里山を作り上げてきました。
実は今森さん、新たな挑戦で悪戦苦闘の日々を送ってこられたといいます。
一体どんな挑戦をされてきたのか、今森さんが撮り続けている里山の風景への思い、人生の道しるべになってきたものを伺いました。
10月の終わりごろになってくると稲刈りが終わり、まっ黄色だった田園がセピア色になります。
雑木林では紅葉まだですが、一番先に鮮やかな赤に色付くのが漆です。
昆虫は四季折々に存在します。
夏は昆虫教室を開いて全国から子どもたちが集まってきます。(21年ぐらい開催しています)
去年までは琵琶湖の北にある雑木林で開催していましたが、子どもたちが安全に遊べる土台ができたので、今年からはアトリエの近くにある棚田を舞台に開催しています。
60歳になるときに、農家になりたいと思い、農家になる申請をして、農地を4~5ヘクタールぐらいの土地を入手することができました。
或る企業が協賛していただいて、土地を確保していただき延べ8ヘクタールできて、手を加えて生物の多様性がぐっと高くなるのでそれを目指しています。
作物を収穫するわけではなくて、生き物に利用していただける様な環境作りをしています。
一番大変だったのは、農家の人がギブアップしているような土地でした。
昔は段々畑だったのが竹林になってしまっていました。(耕作放棄地 45年間放置)
殆どそのような土地でしたが5年をかけて棚田に再生して菜の花を咲かせました。
3年は竹しか刈っていませんでしたので、肩が腱鞘炎になって物凄く痛くて夜も眠れないほどで、1年間駄目でした。
色々計画があったが体調のこともあり辞めようと思う時がありました。
今後はどんどん土地は良くなっていくと思います。
小さいころに育った環境が大津の旧家で、伝統行事が家には残っていました。
神社の境内の森に行って遊んで、琵琶湖にいっては釣りをして遊んでいました。
少学生の頃の自然はなくなってしまい、琵琶湖に住んでいた在来種はほとんどいなく外見はのどかでも中はブラックバス、ブルーギルに代わってしまっています。
どんどん悪い方向に進んでいきました。
開発と補助整備という田んぼの区画を大きくする(生産性を上げるため)これが自然を破壊していきました。
湿田だったのが乾田(水路を設けて必要な時だけ水を入れる)になってしまい、湿地性の植物が全部だめになってしまいます。
外来種は入りやすくなり、メダカ、イモリ、カエルはほとんどいくなり、鷺などの野鳥が来なくなりました。
自分が深く入って内側からものを見ることによって、里山の考え方が変わってきて撮影の仕方、作品性が変わります。
テクニックは割と獲得できるが思考はなかなか獲得はできない。
私の場合は農地という事に現れています。
新しい作品としての始まりがあると自分では思っています。
切り絵は小学校1年から6年生までやっていまして、ありとあらゆる生き物をやっていました。
日本には蝶々が240種類程度いますが、200種類ぐらいは切れました。
実体験による観察と、図鑑はよく見ていました。
触ったり見ていることはデッサンとよく似ています。
海外取材が多くて30代から40代は日本には1年の半分はいませんでした。
写真取材を通していろんな体験をすることができました。
帰ってきて里山環境の大切さがわかってきました。
雑木林の価値は非常に高いと思います。
熱帯雨林は50mぐらいの高さの木が数百m先にしかなくて小さな木がつまっているが粗の状態です。
昆虫とか鳥が一杯いるように思えるが、そういった動物も粗の状態です。
熱帯雨林は大きな歯車がゆっくり回っている状態です。
日本の方はちっちゃな歯車がくるくる回っている状態で、潰れやすいが再生しやすいんです。
熱帯雨林は壊れたら大変で破棄してゆきます、戻るのには数百年、数千年かかりますが、雑木林は数年で戻ります。
定住者としてずーっとみると、環境の変化が見えてきます。
小さなころに体験した豊かな里山的農村環境があって、歳をとってゆく中で悪い方に変化してきました、それが原動力になっています。
風景の絶滅危惧種として扱うべきだと思うぐらい風景が変わってきています。
プロの写真家になってからの道しるべは環境です。
里山を追いかけてきて人と生き物の共存ですね、共存空間として日本の自然を考えないと大変なことになると思います。
生き物がいなくなると人間もいなくなってしまうと思います。
子どもの頃に自然観を養っておかないと、感性もあるので大人になってから理屈だけでは理解できないと思います。
参加して清掃作業などすると格段に大きな進展があります。
そこでコミュニケーションの場ができて、そこに生き物の事をやっているとがぜん違ってきます。
自分がやっている農地の完成度を高めていって、生物多様性を高めていきたい。
地元の人たちにとって意義のあるようにしたいです。
日本中が耕作放棄地にどんどんなってゆくので、大変です。
2019年10月24日木曜日
秋吉久美子(女優) ・【私のアート交遊録】いつも自然体で!
秋吉久美子(女優) ・【私のアート交遊録】いつも自然体で!
生まれは静岡、6歳から女優として上京する18歳までを福島県のいわき市で過ごしました。
1974年映画「赤ちょうちん」でデビューし、青春三部作と言われた、「赤ちょうちん」、「妹」「バージンブルース」でブレーク、その後も数多くの映画やTVドラマで活躍します。
しかし、秋吉さんは女優にとどまる事なく次々に新境地を開拓します。
40代でアメリカ映画「トップガン」の編集技術に衝撃を受け、アメリカで編集技術を学びます。
さらに50代では早稲田大学大学院で行政や地方の経済を学びます。
東日本大震災後、秋吉さんは消費者庁の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されます。
ここで大学院で学んだことが生きてきたといいます。
さらに故郷いわきに伝わる「おじょんこ」という綿を入れた袖なし半纏を後世に残そうと同級生三人と故郷応援活動を始めます。
自分の体の中を流れる血の半分は東北人だと意識する毎日、故郷に何ができるか自然体で向き合っているという秋𠮷さんに故郷への思いや、未知の世界に飛び込む活力の源はなにか伺いました。
父は体が弱くて高温多湿の四国の徳島から環境のいいといわれる福島県のいわき市に急に転勤しました。
6歳の時でした。
浜通りは茨城に近くて方言も茨木弁に近かった。
海のもの、果物など食べるものは豊かでした。
優等生で自由に動き回っていました。
女優に対するイメージは全くなかったですが、高校の時には周りが頭が良くて、勉強は周りに任そうと思って、私は自由にリサーチして歩こうとか、自由に放課後いろんな人とコミュニケーションをとって今の時代を考えていこうと思って、受験勉強しなくてはいけなくなった受験勉強しながら深夜放送でラジオを聞いていたらオーディションの話があり、これに出ちゃえば受験勉強しなくて済むと思って動きましたが、主演には選ばれなかったが、助監督などのプッシュがあって、或る自殺する文学少女の役をやる事になりました。
当時(45年前)7万円もらえて母が貯金しました。
自分が自由過ぎて、非常に束縛の多い、噂の多いつらい環境だという感じがしました。
1/10ぐらいに抑えたがそれでも言われてしまいました。
学生時代は図書館にいって本をたくさん読んでいましたので、漫画を読んでいないとやっていられないと思って漫画を読んでいました。
漫画を読んで社会勉強にはなりました。
40歳の時に突然アメリカに行きました。
2年前から計画していましたが、ロンドンで英語を学んで、一旦これまでの女優業を止めて、映画学校に入れるかなと思ってモーションピクチャー部に入って編集、ライティング、フィルムメーキングを勉強しようと思いました。
「トップガン」の映画を観て、凄い刺激を繋げてゆく秘密を知りたいと思いました。
その前にイギリスでまず2年間ロンドンで英語を学び、その後アメリカに渡りました。
編集室に入りびたりになりました。
ずるをしていると思われるぐらいいつも編集室にいて、クラスで発表した時にこんな細かい編集は見たことが無いといわれました。
そういうところから人間関係が生まれてくるわけです。
今まで演技する人、照明をする人など横並びに考えていましたが、自分で勉強してみるとこんなにたくさんのことをするのかと監督に対する敬意が生まれました。
大変なことをしている順番に敬意を得るんだと思いました。
50歳代で早稲田の大学院に入ることになりました。
母はスーパー主婦でした、なにからなにまで作るし、70歳過ぎてからコンピューターをやった人です。
両親を亡くして両親が一番喜ぶことは何だろうと考えたところ、高校を出て女優になった道をもう一度学問の場に戻ってやり遂げる、そして貢献することをしようと思いました。
或る友人から公共経営の専門職の大学院があってそういったところに入るべきだといわれました。
大学を出なくても論文、レポート、大学院でどういう事をしたいかとか、いくつかのハードルを乗り越えて入ることができました。
一流の先生が教えてくれるので、慣れてきたらこんなに楽しいところかと思いました。
早稲田大学大学院公共経営研究科で、大きく言えば世界の進む道、宇宙開発をやるかやらないかも公共経営です。
遊園地が死んでいて、どうやって活性化するか、限界集落をどうやって活性化するかとか、など何から何まで公共経営なんです。
どこに目をつけて経営してゆくかという事です。
何を軸にしてどのように膨らましてどのように管理してどのように豊かにするか、そういうすべてです。
みんな自分の研究にプライドを持っていて、人の真似もしたくないし、率直に教えてくれます。
大学院を卒業して、何か貢献できるものがあればと思いました。
東日本大震災後、故郷福島の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されました。
行動できる大人として参加出来ること、導かれることあるんだなと思いました。
「東北未来頑張っぺ大使」での内容は結構深刻で、原発の問題もあるので、正しい数値を知ってほしい、数値的にはOKでも不買い的な認識にならないでほしいと広く呼びかけるもので、消費者庁から要望されました。
正しい数値とは何なのかとかわからなくて、勉強させてくださいと一旦はOKの返事はしませんでした。
「東北未来頑張っぺ大使」とは別に或る公民間をお借りして地域活性のベースにできたらいいんじゃないかと思って高校生の同級生たちと支援活動をしていました。
有機農家のリーダーを紹介してもらって見学しました。
稲を刈った後の藁を田んぼに敷き詰めると放射線の汚染物を吸い上げて、明らかに数値が安全領域に入るわけです。
それを農家が笑顔で自発的にやっているわけです。
その笑顔を見たらアッと思ったんです。
数値は安全だと彼は言っている、消費者庁も安全だと言っていて、カチンとはまりました。
私なりに動いて勉強してこれでいいという風に思って、何かがあった場合には自分がしょえばいいと思って「受けさせてもらいます」といいました。
女優という仕事の一部分は見た目だけではない美しさ、人間としてのはかなさ、とかそういうものが若い時とは違う意味で表現できるいいところに入って来たと思います。
アンチエージングとナイスエージングの両輪でやっていきたいと思います。
我がままで自由奔放で意地悪だったり恐ろしかったり、いろんなものが封じ込まれたものが出てきちゃった姿に、みんなが面白みとか情けなさとか、はかなさを感じるような役がやれたらいいなあと思います。
私は物欲はあるけれども執着心はないと思っていましたが、ルーブル美術館でモナリザを見たときに一言でいえば、この一点おきて破りだと思うんです。
自分の今までの人生、世界中の名所名跡、名品、価値、愛、何もいらないモナリザさえあれば何もいらないと思って、凍り付いたように1時間立っていました。
生まれは静岡、6歳から女優として上京する18歳までを福島県のいわき市で過ごしました。
1974年映画「赤ちょうちん」でデビューし、青春三部作と言われた、「赤ちょうちん」、「妹」「バージンブルース」でブレーク、その後も数多くの映画やTVドラマで活躍します。
しかし、秋吉さんは女優にとどまる事なく次々に新境地を開拓します。
40代でアメリカ映画「トップガン」の編集技術に衝撃を受け、アメリカで編集技術を学びます。
さらに50代では早稲田大学大学院で行政や地方の経済を学びます。
東日本大震災後、秋吉さんは消費者庁の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されます。
ここで大学院で学んだことが生きてきたといいます。
さらに故郷いわきに伝わる「おじょんこ」という綿を入れた袖なし半纏を後世に残そうと同級生三人と故郷応援活動を始めます。
自分の体の中を流れる血の半分は東北人だと意識する毎日、故郷に何ができるか自然体で向き合っているという秋𠮷さんに故郷への思いや、未知の世界に飛び込む活力の源はなにか伺いました。
父は体が弱くて高温多湿の四国の徳島から環境のいいといわれる福島県のいわき市に急に転勤しました。
6歳の時でした。
浜通りは茨城に近くて方言も茨木弁に近かった。
海のもの、果物など食べるものは豊かでした。
優等生で自由に動き回っていました。
女優に対するイメージは全くなかったですが、高校の時には周りが頭が良くて、勉強は周りに任そうと思って、私は自由にリサーチして歩こうとか、自由に放課後いろんな人とコミュニケーションをとって今の時代を考えていこうと思って、受験勉強しなくてはいけなくなった受験勉強しながら深夜放送でラジオを聞いていたらオーディションの話があり、これに出ちゃえば受験勉強しなくて済むと思って動きましたが、主演には選ばれなかったが、助監督などのプッシュがあって、或る自殺する文学少女の役をやる事になりました。
当時(45年前)7万円もらえて母が貯金しました。
自分が自由過ぎて、非常に束縛の多い、噂の多いつらい環境だという感じがしました。
1/10ぐらいに抑えたがそれでも言われてしまいました。
学生時代は図書館にいって本をたくさん読んでいましたので、漫画を読んでいないとやっていられないと思って漫画を読んでいました。
漫画を読んで社会勉強にはなりました。
40歳の時に突然アメリカに行きました。
2年前から計画していましたが、ロンドンで英語を学んで、一旦これまでの女優業を止めて、映画学校に入れるかなと思ってモーションピクチャー部に入って編集、ライティング、フィルムメーキングを勉強しようと思いました。
「トップガン」の映画を観て、凄い刺激を繋げてゆく秘密を知りたいと思いました。
その前にイギリスでまず2年間ロンドンで英語を学び、その後アメリカに渡りました。
編集室に入りびたりになりました。
ずるをしていると思われるぐらいいつも編集室にいて、クラスで発表した時にこんな細かい編集は見たことが無いといわれました。
そういうところから人間関係が生まれてくるわけです。
今まで演技する人、照明をする人など横並びに考えていましたが、自分で勉強してみるとこんなにたくさんのことをするのかと監督に対する敬意が生まれました。
大変なことをしている順番に敬意を得るんだと思いました。
50歳代で早稲田の大学院に入ることになりました。
母はスーパー主婦でした、なにからなにまで作るし、70歳過ぎてからコンピューターをやった人です。
両親を亡くして両親が一番喜ぶことは何だろうと考えたところ、高校を出て女優になった道をもう一度学問の場に戻ってやり遂げる、そして貢献することをしようと思いました。
或る友人から公共経営の専門職の大学院があってそういったところに入るべきだといわれました。
大学を出なくても論文、レポート、大学院でどういう事をしたいかとか、いくつかのハードルを乗り越えて入ることができました。
一流の先生が教えてくれるので、慣れてきたらこんなに楽しいところかと思いました。
早稲田大学大学院公共経営研究科で、大きく言えば世界の進む道、宇宙開発をやるかやらないかも公共経営です。
遊園地が死んでいて、どうやって活性化するか、限界集落をどうやって活性化するかとか、など何から何まで公共経営なんです。
どこに目をつけて経営してゆくかという事です。
何を軸にしてどのように膨らましてどのように管理してどのように豊かにするか、そういうすべてです。
みんな自分の研究にプライドを持っていて、人の真似もしたくないし、率直に教えてくれます。
大学院を卒業して、何か貢献できるものがあればと思いました。
東日本大震災後、故郷福島の「東北未来頑張っぺ大使」に任命されました。
行動できる大人として参加出来ること、導かれることあるんだなと思いました。
「東北未来頑張っぺ大使」での内容は結構深刻で、原発の問題もあるので、正しい数値を知ってほしい、数値的にはOKでも不買い的な認識にならないでほしいと広く呼びかけるもので、消費者庁から要望されました。
正しい数値とは何なのかとかわからなくて、勉強させてくださいと一旦はOKの返事はしませんでした。
「東北未来頑張っぺ大使」とは別に或る公民間をお借りして地域活性のベースにできたらいいんじゃないかと思って高校生の同級生たちと支援活動をしていました。
有機農家のリーダーを紹介してもらって見学しました。
稲を刈った後の藁を田んぼに敷き詰めると放射線の汚染物を吸い上げて、明らかに数値が安全領域に入るわけです。
それを農家が笑顔で自発的にやっているわけです。
その笑顔を見たらアッと思ったんです。
数値は安全だと彼は言っている、消費者庁も安全だと言っていて、カチンとはまりました。
私なりに動いて勉強してこれでいいという風に思って、何かがあった場合には自分がしょえばいいと思って「受けさせてもらいます」といいました。
女優という仕事の一部分は見た目だけではない美しさ、人間としてのはかなさ、とかそういうものが若い時とは違う意味で表現できるいいところに入って来たと思います。
アンチエージングとナイスエージングの両輪でやっていきたいと思います。
我がままで自由奔放で意地悪だったり恐ろしかったり、いろんなものが封じ込まれたものが出てきちゃった姿に、みんなが面白みとか情けなさとか、はかなさを感じるような役がやれたらいいなあと思います。
私は物欲はあるけれども執着心はないと思っていましたが、ルーブル美術館でモナリザを見たときに一言でいえば、この一点おきて破りだと思うんです。
自分の今までの人生、世界中の名所名跡、名品、価値、愛、何もいらないモナリザさえあれば何もいらないと思って、凍り付いたように1時間立っていました。
2019年10月23日水曜日
山中大介(街づくり会社代表) ・【心に花を咲かせて】庄内の自然と暮らしをデザイン
山中大介(街づくり会社代表) ・【心に花を咲かせて】庄内の自然と暮らしをデザイン
山形県鶴岡市の畑の真ん中にその地域らしい田園風景を売りにするというホテルができて話題を呼んでいるという事で興味を覚えました。
設計は建築の分野での国際的な賞プリツカー賞ほか数々の賞を受賞している坂 茂さんです。
紙の建築で知られている方で、坂 茂さんが初めて手掛けたホテルだという事です。
勿論その設計も話題の一つでもあるのですが、ほかのホテルとは一味違うのは街づくりのために建てたというホテルのコンセプトです。
東京から移住したまだ30代という山中大介さんが街づくり会社を作るために10万円という手元資金と情熱で23億円という資金を集め地域活性化の手始めに手掛けたものだという事だそうです。
殆どゼロからのスタートでどうしてそんなことが可能になったのでしょうか。
ホテルのそばには子供の心をはぐくむ施設を作り、地元の基幹産業の農業を強くしようという事で地元の有機物質をつかった自然循環型の農業も始めていると聞きました。
短期間で次々に事業を起こしてる山中さんにその意図と実現への道のり、目指すもの、の話を伺いました。
いまから5年前に移住をこちらに来て、地域の街づくりの課題に自分が何か役に立てることはないかという事で、話をする中で自分が街づくりの会社を作ってやろうという事で、最初に提案したのがホテルを田んぼの真ん中に建てるという事でした。
人が庄内に来るきっかけからまず作らないといけないと思いました。
地方の田園風景を売り物にすることによってこの場所に来るきっかけになるのではないかと思いました。
今年34歳です。
夢のある街づくりとか夢のある計画をきちんと話せればお金というものは必然的に集まるという信念を持っています。
計画のスタートも移住とほぼ同時期でした。
提案自体が地域の課題の本質をとらえているという事で耳を傾けてもらえたと思います。
最初はなかなか受け止めてもらえませんでした。
僕は夢を語る事、共感者を募る事、やり切ることに僕自身が信頼に値する人間であるかどうかという事、この3つだと思っていまして、ひたすらやり続けたからだと思っています。
資金は基本的には出資です。
地方都市においては直面する問題は消滅するという事です。
どのようにして消滅リスクから脱却するかという事が最大のテーマだと思っています。
まずは地域の可能性のある消滅することを低減すること。
次には中長期的なキャピタルによるメリットを得てゆくという事を訴え続けました。
こちらに来たときにはバイオテクノロジーをベースにした会社に就職しましたが、自分の価値が埋める形で地域に貢献したいと思いました。
会社での仕事についてショッピングセンターの新たな開発はいらないのではないかと思いました。
今の大企業はお金が目的でお金を儲けるためにはどうするかということで、非常に人が住む社会を逆進化させると思っていて、辞めるという事を決意したのが28歳の時でした。
課題を解決する人生を歩みたいと思っていました。
ホテル、児童館、農業も並行してやっています。
課題を解決するための事業を今4つありまして、ホテル業、教育業、農業、人材紹介業を同時進行的にやっています。
人が豊かに生きる社会をもう一度デザインし直すという事をやってゆく事だと思っています。
未来に対してきちんとみんなが希望を持てる状態でどのように人、もの、金のバランスをとってゆくのか、という事が重要だと思っています。
新しい社会づくりを山形庄内に実現したいと思っています。
庄内の人はチャレンジ精神は持っていますが、最初の入り口のハードルは非常に高いです。
入り口に入ると非常に大胆な判断をされる民度、文化度の高い地域だと思っています。
庄内藩の教育内容を含めて歴史が証明しています。
江戸幕府は朱子学を奨励しましたが、危険思想だといわれた荻生 徂徠を採択したのが日本で二つだけで、滋賀の井伊家と庄内藩酒井家で、独自の文化を作り続けてきました。
戊辰戦争では最後まで残って戦った藩の一つでもあり、賊軍となったが「沈潜の風」という言葉でこの地域の気質を表している。
現在23億円集まりましたが、あと10億円単位で増えてゆくと思います。
うちの会社では資本主義のルールを使っていかに会社を社会と同一化をするか、という事に対してチャレンジしています。
地域の40の企業にご支援を頂きました。
鶴岡は13万人で毎年1.数%減っていっていますが、ホテルを作ることによって滞在人口も増えます。
児童館を作って0~12歳を対象にした子どもの遊びの空間と学びの空間を作って、子ども同士のコミュニティーもできるし、地域の大人、企業との関わりもでき、普段は絶対会うことがないような出会いも生まれます。
遊び方もこどもたちが自分で考えるトレーニングもしています。
放課後の利用方法ももっともっと増えるような方法も考えています。
農業にも力を入れていて、山形庄内地方から日本の農業を持続可能にする、というぐらいの目的でやっています。
日本の農業を解決しなければいけない課題。
①農業経営の実現
②環境保全の意識を向上する。
③新規参入障壁を低減する。
①農業生産、自分たち自身が強い農業生産方針として自立する。
②農業人材を育成する学校をつくる。
③有機農業をしやすくするハードウエア ロボットの開発。
この3つを同時進行しています。
5年、10年先には大、中規模農業が増えてくると思っていて、農業経営者をつくる学校を鶴岡市と一緒に来年立ち上げることにしています。
有機農業でないともはや農業は成立しないというぐらい、今や買取価格が安すぎて経営できない。
2年間ホテルを改造した寮に住みながら農業を学んで、卒業後の進路として地元への就農のための土地の確保などすべて鶴岡市、JAの協力のもと進めるという強力な体制で、就農後のケアを含めてパッケージされていて有機農業を目指す人にとって夢のようなことだと思います。
地方都市の一番の基幹産業は一次産業です。
一次産業を強くしていき、それを基盤にして、地域の個人の方々が当社に投資ができるところにもっていきたい。
新しいファイナンスの形を構築していき、強い会社にしていきたいと思います。
根底にあるのは自分自身が世の中に対して価値を生みたいと思っています。
米などは加工米をふくめて海外マーケットを狙って行けるのではないかと考えていて、有機農業がマーケットを拡大すると思っていて、山形庄内から生産品、人材を送り出してゆく事が必要だと思っています。
初志を忘れてお金を目的としてはいけないので、お金を手段としてとらえ続けながら地域、社会をきちんと前に進めるための投資、事業活動していく事が必要なことだと思います。
最近、ありがとうと言われる機会が増えてうれしいです。
山形県鶴岡市の畑の真ん中にその地域らしい田園風景を売りにするというホテルができて話題を呼んでいるという事で興味を覚えました。
設計は建築の分野での国際的な賞プリツカー賞ほか数々の賞を受賞している坂 茂さんです。
紙の建築で知られている方で、坂 茂さんが初めて手掛けたホテルだという事です。
勿論その設計も話題の一つでもあるのですが、ほかのホテルとは一味違うのは街づくりのために建てたというホテルのコンセプトです。
東京から移住したまだ30代という山中大介さんが街づくり会社を作るために10万円という手元資金と情熱で23億円という資金を集め地域活性化の手始めに手掛けたものだという事だそうです。
殆どゼロからのスタートでどうしてそんなことが可能になったのでしょうか。
ホテルのそばには子供の心をはぐくむ施設を作り、地元の基幹産業の農業を強くしようという事で地元の有機物質をつかった自然循環型の農業も始めていると聞きました。
短期間で次々に事業を起こしてる山中さんにその意図と実現への道のり、目指すもの、の話を伺いました。
いまから5年前に移住をこちらに来て、地域の街づくりの課題に自分が何か役に立てることはないかという事で、話をする中で自分が街づくりの会社を作ってやろうという事で、最初に提案したのがホテルを田んぼの真ん中に建てるという事でした。
人が庄内に来るきっかけからまず作らないといけないと思いました。
地方の田園風景を売り物にすることによってこの場所に来るきっかけになるのではないかと思いました。
今年34歳です。
夢のある街づくりとか夢のある計画をきちんと話せればお金というものは必然的に集まるという信念を持っています。
計画のスタートも移住とほぼ同時期でした。
提案自体が地域の課題の本質をとらえているという事で耳を傾けてもらえたと思います。
最初はなかなか受け止めてもらえませんでした。
僕は夢を語る事、共感者を募る事、やり切ることに僕自身が信頼に値する人間であるかどうかという事、この3つだと思っていまして、ひたすらやり続けたからだと思っています。
資金は基本的には出資です。
地方都市においては直面する問題は消滅するという事です。
どのようにして消滅リスクから脱却するかという事が最大のテーマだと思っています。
まずは地域の可能性のある消滅することを低減すること。
次には中長期的なキャピタルによるメリットを得てゆくという事を訴え続けました。
こちらに来たときにはバイオテクノロジーをベースにした会社に就職しましたが、自分の価値が埋める形で地域に貢献したいと思いました。
会社での仕事についてショッピングセンターの新たな開発はいらないのではないかと思いました。
今の大企業はお金が目的でお金を儲けるためにはどうするかということで、非常に人が住む社会を逆進化させると思っていて、辞めるという事を決意したのが28歳の時でした。
課題を解決する人生を歩みたいと思っていました。
ホテル、児童館、農業も並行してやっています。
課題を解決するための事業を今4つありまして、ホテル業、教育業、農業、人材紹介業を同時進行的にやっています。
人が豊かに生きる社会をもう一度デザインし直すという事をやってゆく事だと思っています。
未来に対してきちんとみんなが希望を持てる状態でどのように人、もの、金のバランスをとってゆくのか、という事が重要だと思っています。
新しい社会づくりを山形庄内に実現したいと思っています。
庄内の人はチャレンジ精神は持っていますが、最初の入り口のハードルは非常に高いです。
入り口に入ると非常に大胆な判断をされる民度、文化度の高い地域だと思っています。
庄内藩の教育内容を含めて歴史が証明しています。
江戸幕府は朱子学を奨励しましたが、危険思想だといわれた荻生 徂徠を採択したのが日本で二つだけで、滋賀の井伊家と庄内藩酒井家で、独自の文化を作り続けてきました。
戊辰戦争では最後まで残って戦った藩の一つでもあり、賊軍となったが「沈潜の風」という言葉でこの地域の気質を表している。
現在23億円集まりましたが、あと10億円単位で増えてゆくと思います。
うちの会社では資本主義のルールを使っていかに会社を社会と同一化をするか、という事に対してチャレンジしています。
地域の40の企業にご支援を頂きました。
鶴岡は13万人で毎年1.数%減っていっていますが、ホテルを作ることによって滞在人口も増えます。
児童館を作って0~12歳を対象にした子どもの遊びの空間と学びの空間を作って、子ども同士のコミュニティーもできるし、地域の大人、企業との関わりもでき、普段は絶対会うことがないような出会いも生まれます。
遊び方もこどもたちが自分で考えるトレーニングもしています。
放課後の利用方法ももっともっと増えるような方法も考えています。
農業にも力を入れていて、山形庄内地方から日本の農業を持続可能にする、というぐらいの目的でやっています。
日本の農業を解決しなければいけない課題。
①農業経営の実現
②環境保全の意識を向上する。
③新規参入障壁を低減する。
①農業生産、自分たち自身が強い農業生産方針として自立する。
②農業人材を育成する学校をつくる。
③有機農業をしやすくするハードウエア ロボットの開発。
この3つを同時進行しています。
5年、10年先には大、中規模農業が増えてくると思っていて、農業経営者をつくる学校を鶴岡市と一緒に来年立ち上げることにしています。
有機農業でないともはや農業は成立しないというぐらい、今や買取価格が安すぎて経営できない。
2年間ホテルを改造した寮に住みながら農業を学んで、卒業後の進路として地元への就農のための土地の確保などすべて鶴岡市、JAの協力のもと進めるという強力な体制で、就農後のケアを含めてパッケージされていて有機農業を目指す人にとって夢のようなことだと思います。
地方都市の一番の基幹産業は一次産業です。
一次産業を強くしていき、それを基盤にして、地域の個人の方々が当社に投資ができるところにもっていきたい。
新しいファイナンスの形を構築していき、強い会社にしていきたいと思います。
根底にあるのは自分自身が世の中に対して価値を生みたいと思っています。
米などは加工米をふくめて海外マーケットを狙って行けるのではないかと考えていて、有機農業がマーケットを拡大すると思っていて、山形庄内から生産品、人材を送り出してゆく事が必要だと思っています。
初志を忘れてお金を目的としてはいけないので、お金を手段としてとらえ続けながら地域、社会をきちんと前に進めるための投資、事業活動していく事が必要なことだと思います。
最近、ありがとうと言われる機会が増えてうれしいです。
2019年10月22日火曜日
那須正幹(作家) ・子どもの好奇心にこたえる
那須正幹(作家) ・子どもの好奇心にこたえる
*明日への言葉 ブログ開始してからお陰様で累計アクセス数が150万件(1500836)を越えました。
「ズッコケ三人組」シリーズを始め多くの作品を世に送り出してきました。
特に「ズッコケ三人組」シリーズは1978年から2004年末の完結まで全50巻累計2500万部、戦後の児童文学史上最大のベストセラーと言われています。
那須さんは故郷の広島で3歳の時に被爆しました。
島根農科大学に進学して、昆虫学を学んだ後、東京で就職、その後故郷に戻り実家の書道教室を手伝いながら、児童文学を書き始め、エンターテイメントという新しいジャンルを切り開いてきました。
自らの体験を含め綿密な取材を重ね初めてノンフィクションに挑戦した「折り鶴の子どもたち-原爆症とたたかった佐々木貞子と級友たち」や、大型絵本、絵で読む広島の原爆など平和への願いを伝える作品なども高く評価され、今年度のJXTG児童文化賞が贈られることになりました。
半世紀にわたる那須さんの作家人生を伺いました。
朝は6時半ぐらいに起きて食事をして午前中は仕事に当てています。
午後は孫娘の子守をさせられています。
夜は10時には寝ています。
77歳になりましたが26歳の秋に広島の同人誌に入って51年になります。
無我夢中で書いてきました。
1970年代は児童文学の花盛りでした。
ラッキーな人生だったと思います。
1942年広島市生まれ、姉二人の末っ子で、父は教師をしていて、3歳の時に母と自宅で被爆しました。
強烈に残っているのは、11時過ぎに僕の家の周りは夕立ちみたいな雨が降って、屋根は吹き飛ばされて押し入れに雨宿りしながら、桃太郎の物語が載っていて、その絵を見ていて綺麗な色だったこと、その記憶が残っていました。
午後になったときに家の前は国道で市街地から被爆者が行列になって逃げてくる姿を見た記憶があります。
泥人形が歩いているようでした。
水を飲ませてくださいといって、水を飲んでお礼にミカンの缶詰をもらいました。
火傷しそうに熱くて、ふうふういいながら食べた味、色これは鮮烈に覚えています。
恐怖感とかは一切感じていませんでした。
学校から帰るとすぐに外で遊んでいました。
上の姉とは13歳違っていてあまり記憶になく、二番目の姉は9歳違っていてその姉にはかわいがってもらい、後年児童文学の道に進んだのは彼女の勧めでした。
映画を観たり、ラジオドラマなどなどを聞いたりしていました。
本はあまり読まずにいましたが、小学校4年の時に手塚治虫の鉄腕アトム(当時は「アトム大使」だった)を読んで、5,6年の時に弟子入りの手紙を出しましたが、義務教育は出なさい、デッサンを勉強をしておきなさい、一般教養を身に付けておいた方がいいと丁寧に便せんに書いてありました。
手塚治虫が昆虫採集をしているという事で6年生のころから昆虫採集を始めて、大学に行ったのもその影響です。
山登りに傾斜して山ばかり登っていました。
求人案内が来て、東京なら谷川岳、日本アルプスにも近いから昇れると思って受けて受かることができました。
自動車のセールスの仕事でそこそこ売りました。
10年後の自分のイメージを思ったら考えて、2年後に辞めることにしました。
父は書道塾をやっていて300人ぐらいいて、上の姉と父がやっていて手伝えという事になりました。
二番目の姉が広島の童話を書くサークルに入ることになり、僕も入ることにしました。
広島児童文学研究会に山口 裕子 さんの家で集まりがありましたが、若い女性の集まりをイメージしていたがおばさんばっかりでしまったと思いました。
「ひばりになったもぐら」を創作してその会で読んだら、古いといわれてしまいました。
僕が子ども時代でも夢中になって読む様な作品を書こうと思って、書いていたら30歳になるちょっとまえに「首なし地ぞうの宝」というものが本になることができました。
その後はとんとん拍子と行きました。
「ズッコケ三人組」(当時は「ずっこけ三銃士」という名称でした。)は「6年の学習」に1年間連載されました。
「ズッコケ三人組」に編集者坂井宏先さんに勝手に変えられてしまいました。
後から考えるとよかったと思います。
挿絵は前川かずおさんでした。
内容は多岐に渡っていきました。
兎に角人の書かないものをやろうと最初から思っていました。
「ズッコケ三人組」は判り易く面白く書こうと思って取り組みました。
デング熱が2,3年前にはやりましたが、僕は15,6年前に書いています。
先見の明があったと思います。
広島児童文学研究会の子どもの家という同人誌は被爆体験を童話の形にして残していこうというのを目標の一つに挙げていました。
私自身は物語の素材として原爆を書く気がなかった。
その後原爆に対して情報収集したり、原爆のことを書いておかないといけないと思うようになって、乾 富子さんという大先輩が那須君も被爆者なんだから原爆のことも書きなさいと言われました。
フッと思い出したのが佐々木禎子さんでした。
佐々木禎子さんのことを書こうと思いました。
佐々木禎子さんのことを2年かかって調べ始めました。
自分が書かないといけないという気持ちになったのはこの作品が初めてでした。
「折り鶴の子どもたち」 原爆のこの像の建立の事については一級の本であると言っていただけます。
「折り鶴の子どもたち」を書いた時にいかに自分は原爆のことについて無知だったかという事を思い知らされました。
子どもたちが広島にきて話を聞いてその時は泣くが、外に出ると私たちは原爆に会わなくて良かったと、原爆のことを伊勢湾台風と同じ様に捉えているというんです。
災害としてとらえ、人災であるという悲劇だという事をきちんと学習して来てほしいと思うが、良い本が無いという事で、那須さん是非そのような本を書いてほしいといわれました。
企画書を書いてそれから始まりました。
「ズッコケ三人組」も去年から70代おじいさん3人とタヌキの話になりました。
自分自身も後期高齢者になり、妻が独居老人の家を訪問していろいろ話を聞きますし、タヌキをセットにしてマリリンモンロー、ディマジオを見たことがあるのでそれも取り込もうと思いました。
今は低学年用の探偵ものを2作進めています。
*明日への言葉 ブログ開始してからお陰様で累計アクセス数が150万件(1500836)を越えました。
「ズッコケ三人組」シリーズを始め多くの作品を世に送り出してきました。
特に「ズッコケ三人組」シリーズは1978年から2004年末の完結まで全50巻累計2500万部、戦後の児童文学史上最大のベストセラーと言われています。
那須さんは故郷の広島で3歳の時に被爆しました。
島根農科大学に進学して、昆虫学を学んだ後、東京で就職、その後故郷に戻り実家の書道教室を手伝いながら、児童文学を書き始め、エンターテイメントという新しいジャンルを切り開いてきました。
自らの体験を含め綿密な取材を重ね初めてノンフィクションに挑戦した「折り鶴の子どもたち-原爆症とたたかった佐々木貞子と級友たち」や、大型絵本、絵で読む広島の原爆など平和への願いを伝える作品なども高く評価され、今年度のJXTG児童文化賞が贈られることになりました。
半世紀にわたる那須さんの作家人生を伺いました。
朝は6時半ぐらいに起きて食事をして午前中は仕事に当てています。
午後は孫娘の子守をさせられています。
夜は10時には寝ています。
77歳になりましたが26歳の秋に広島の同人誌に入って51年になります。
無我夢中で書いてきました。
1970年代は児童文学の花盛りでした。
ラッキーな人生だったと思います。
1942年広島市生まれ、姉二人の末っ子で、父は教師をしていて、3歳の時に母と自宅で被爆しました。
強烈に残っているのは、11時過ぎに僕の家の周りは夕立ちみたいな雨が降って、屋根は吹き飛ばされて押し入れに雨宿りしながら、桃太郎の物語が載っていて、その絵を見ていて綺麗な色だったこと、その記憶が残っていました。
午後になったときに家の前は国道で市街地から被爆者が行列になって逃げてくる姿を見た記憶があります。
泥人形が歩いているようでした。
水を飲ませてくださいといって、水を飲んでお礼にミカンの缶詰をもらいました。
火傷しそうに熱くて、ふうふういいながら食べた味、色これは鮮烈に覚えています。
恐怖感とかは一切感じていませんでした。
学校から帰るとすぐに外で遊んでいました。
上の姉とは13歳違っていてあまり記憶になく、二番目の姉は9歳違っていてその姉にはかわいがってもらい、後年児童文学の道に進んだのは彼女の勧めでした。
映画を観たり、ラジオドラマなどなどを聞いたりしていました。
本はあまり読まずにいましたが、小学校4年の時に手塚治虫の鉄腕アトム(当時は「アトム大使」だった)を読んで、5,6年の時に弟子入りの手紙を出しましたが、義務教育は出なさい、デッサンを勉強をしておきなさい、一般教養を身に付けておいた方がいいと丁寧に便せんに書いてありました。
手塚治虫が昆虫採集をしているという事で6年生のころから昆虫採集を始めて、大学に行ったのもその影響です。
山登りに傾斜して山ばかり登っていました。
求人案内が来て、東京なら谷川岳、日本アルプスにも近いから昇れると思って受けて受かることができました。
自動車のセールスの仕事でそこそこ売りました。
10年後の自分のイメージを思ったら考えて、2年後に辞めることにしました。
父は書道塾をやっていて300人ぐらいいて、上の姉と父がやっていて手伝えという事になりました。
二番目の姉が広島の童話を書くサークルに入ることになり、僕も入ることにしました。
広島児童文学研究会に山口 裕子 さんの家で集まりがありましたが、若い女性の集まりをイメージしていたがおばさんばっかりでしまったと思いました。
「ひばりになったもぐら」を創作してその会で読んだら、古いといわれてしまいました。
僕が子ども時代でも夢中になって読む様な作品を書こうと思って、書いていたら30歳になるちょっとまえに「首なし地ぞうの宝」というものが本になることができました。
その後はとんとん拍子と行きました。
「ズッコケ三人組」(当時は「ずっこけ三銃士」という名称でした。)は「6年の学習」に1年間連載されました。
「ズッコケ三人組」に編集者坂井宏先さんに勝手に変えられてしまいました。
後から考えるとよかったと思います。
挿絵は前川かずおさんでした。
内容は多岐に渡っていきました。
兎に角人の書かないものをやろうと最初から思っていました。
「ズッコケ三人組」は判り易く面白く書こうと思って取り組みました。
デング熱が2,3年前にはやりましたが、僕は15,6年前に書いています。
先見の明があったと思います。
広島児童文学研究会の子どもの家という同人誌は被爆体験を童話の形にして残していこうというのを目標の一つに挙げていました。
私自身は物語の素材として原爆を書く気がなかった。
その後原爆に対して情報収集したり、原爆のことを書いておかないといけないと思うようになって、乾 富子さんという大先輩が那須君も被爆者なんだから原爆のことも書きなさいと言われました。
フッと思い出したのが佐々木禎子さんでした。
佐々木禎子さんのことを書こうと思いました。
佐々木禎子さんのことを2年かかって調べ始めました。
自分が書かないといけないという気持ちになったのはこの作品が初めてでした。
「折り鶴の子どもたち」 原爆のこの像の建立の事については一級の本であると言っていただけます。
「折り鶴の子どもたち」を書いた時にいかに自分は原爆のことについて無知だったかという事を思い知らされました。
子どもたちが広島にきて話を聞いてその時は泣くが、外に出ると私たちは原爆に会わなくて良かったと、原爆のことを伊勢湾台風と同じ様に捉えているというんです。
災害としてとらえ、人災であるという悲劇だという事をきちんと学習して来てほしいと思うが、良い本が無いという事で、那須さん是非そのような本を書いてほしいといわれました。
企画書を書いてそれから始まりました。
「ズッコケ三人組」も去年から70代おじいさん3人とタヌキの話になりました。
自分自身も後期高齢者になり、妻が独居老人の家を訪問していろいろ話を聞きますし、タヌキをセットにしてマリリンモンロー、ディマジオを見たことがあるのでそれも取り込もうと思いました。
今は低学年用の探偵ものを2作進めています。
2019年10月21日月曜日
宮下覚詮(法螺師・大峯行者) ・【にっぽんの音】
宮下覚詮(法螺師・大峯行者) ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
映画「よあけの焚火」に大藏基誠 初出演(主演) 第67回サン・セバスティアン国際映画祭 新人監督部門ノミネート。
「伝えること」という普遍的なテーマを昇華させた稀有な作品が誕生した。
今日の日本の音は法螺貝に注目。
18年前、奈良 吉野山金峯山寺修験本宗の教師法螺師となった宮下覚詮さんは普段は会社員として働きながら週末には修験道の霊場である吉野山金峯山、長野の戸隠などの山を歩き法螺の音をささげています。
国内外で活躍する和太鼓奏者の佐藤健作さんと共演するなど法螺貝の音色を広く伝える活動をしています。
法螺貝は法具です。
修験道や密教の中では大祭などでお経をあげる場合、必ず前に法螺貝をたてて、音でリセットして様々な作法に入りお経をあげ、神仏の名前を呼んで、最後に法螺貝で元のようにもどしておしまいにする一式の式次第の中で重要な役割をもっている法具です。
法華経、あるいは功徳が書かれたお経があるが、人を恐れをなくさせるという事が書いてあり、これから恐れずに行くぞという意味で戦国武将が戦の時に鳴らすようにしたと思われる。
音階は3倍音、その上に装飾的な音で4っつ目の高い音があります。
譜はあります。
「本尊法螺」はオープニング譜で最後は「護摩終わり」というすべてが終わるという譜があります。
山で歩く譜はこれから歩く先を清めながら魔を払いながら歩くための浄化の譜です。
流派もあり譜面で判ります。
法螺吹き、仏教の用語ではどこかで逆転して逆の意味に行くことがあります。
最初はお釈迦さまが説法する前に法螺貝を吹いたという説があります。
素晴らしい大きなことを言うんで嘘ではないかという事で、法螺吹きと言ったのではないかとか、のちの世で私は悟りましたという事で説法するが、聞いたら怪しい、嘘を言ってるというので、お釈迦様ほどではない、あいつは法螺吹きだという風に変わっていったという説もあります。
ハワイでは鼻で吹く鼻笛があり、口で吹くと音が嘘の穢れた音になるので鼻で吹くといった人がいました。
仏法では口は嘘を言ったり、悪口を言ったりするので、戒めてコントロールして使いなさいとお釈迦様が戒めなさいという風に言っているようです。
血の流れは心臓から左回りで回っていくので、左側は清浄なところだとネイティブハワイアンも言っています。
僕たちは吹くときに口の左側で吹きます。
法螺師の一番いい修行は吉野山から那智まで7日間をかけて寝ているとき以外は一瞬も休まず法螺を吹きながら登りも下りも吹き続けます。
法螺貝が自分の一部のようになって身体も鳴り始めます。
私は山伏という感覚は持っています。
戸隠、飯綱、金剛葛城、熊野、沖縄に行ったりして法螺を吹きます。
沖縄では滝とか自然物を拝んでいるのでそういったところで法螺を立てさせてもらいます。
法螺貝は吹くといわないで、法螺貝を立てるといいます。
法螺貝を耳に当てると音が聞こえます。
持ってきた法螺は素材はふじ角貝で40cmぐらいです。
ほかの種類もあります。
これはポリネシアの法螺貝で優しい音が出ます。
もう一つはチベットの貝、タニシの仲間です。
巻貝が獲れたところでは世界中で吹いていたようです。
吹く前に口をたたきましたが、三身説法(法身・報身・応身) 法身は宇宙の真理になり替わり今から吹きます、報身は仏になり替わり吹きます、応身は自分臣に応じた分際で吹きます、そういう気持ちで吹きますという事です。
場所の雰囲のによって口のたたき方も違ってきます。
唇の振動が貝の中に入ると響き変わるだけではなくて、呼吸という風が法螺貝の中を通ってゆくだけで摩擦音がして、この二つがミックスして音になっています。
貝自体が鳴っ程度非難いるのでそれに寄り添うように自分が呼吸をしっかりしさえすれば本来は十分だと思います。
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
映画「よあけの焚火」に大藏基誠 初出演(主演) 第67回サン・セバスティアン国際映画祭 新人監督部門ノミネート。
「伝えること」という普遍的なテーマを昇華させた稀有な作品が誕生した。
今日の日本の音は法螺貝に注目。
18年前、奈良 吉野山金峯山寺修験本宗の教師法螺師となった宮下覚詮さんは普段は会社員として働きながら週末には修験道の霊場である吉野山金峯山、長野の戸隠などの山を歩き法螺の音をささげています。
国内外で活躍する和太鼓奏者の佐藤健作さんと共演するなど法螺貝の音色を広く伝える活動をしています。
法螺貝は法具です。
修験道や密教の中では大祭などでお経をあげる場合、必ず前に法螺貝をたてて、音でリセットして様々な作法に入りお経をあげ、神仏の名前を呼んで、最後に法螺貝で元のようにもどしておしまいにする一式の式次第の中で重要な役割をもっている法具です。
法華経、あるいは功徳が書かれたお経があるが、人を恐れをなくさせるという事が書いてあり、これから恐れずに行くぞという意味で戦国武将が戦の時に鳴らすようにしたと思われる。
音階は3倍音、その上に装飾的な音で4っつ目の高い音があります。
譜はあります。
「本尊法螺」はオープニング譜で最後は「護摩終わり」というすべてが終わるという譜があります。
山で歩く譜はこれから歩く先を清めながら魔を払いながら歩くための浄化の譜です。
流派もあり譜面で判ります。
法螺吹き、仏教の用語ではどこかで逆転して逆の意味に行くことがあります。
最初はお釈迦さまが説法する前に法螺貝を吹いたという説があります。
素晴らしい大きなことを言うんで嘘ではないかという事で、法螺吹きと言ったのではないかとか、のちの世で私は悟りましたという事で説法するが、聞いたら怪しい、嘘を言ってるというので、お釈迦様ほどではない、あいつは法螺吹きだという風に変わっていったという説もあります。
ハワイでは鼻で吹く鼻笛があり、口で吹くと音が嘘の穢れた音になるので鼻で吹くといった人がいました。
仏法では口は嘘を言ったり、悪口を言ったりするので、戒めてコントロールして使いなさいとお釈迦様が戒めなさいという風に言っているようです。
血の流れは心臓から左回りで回っていくので、左側は清浄なところだとネイティブハワイアンも言っています。
僕たちは吹くときに口の左側で吹きます。
法螺師の一番いい修行は吉野山から那智まで7日間をかけて寝ているとき以外は一瞬も休まず法螺を吹きながら登りも下りも吹き続けます。
法螺貝が自分の一部のようになって身体も鳴り始めます。
私は山伏という感覚は持っています。
戸隠、飯綱、金剛葛城、熊野、沖縄に行ったりして法螺を吹きます。
沖縄では滝とか自然物を拝んでいるのでそういったところで法螺を立てさせてもらいます。
法螺貝は吹くといわないで、法螺貝を立てるといいます。
法螺貝を耳に当てると音が聞こえます。
持ってきた法螺は素材はふじ角貝で40cmぐらいです。
ほかの種類もあります。
これはポリネシアの法螺貝で優しい音が出ます。
もう一つはチベットの貝、タニシの仲間です。
巻貝が獲れたところでは世界中で吹いていたようです。
吹く前に口をたたきましたが、三身説法(法身・報身・応身) 法身は宇宙の真理になり替わり今から吹きます、報身は仏になり替わり吹きます、応身は自分臣に応じた分際で吹きます、そういう気持ちで吹きますという事です。
場所の雰囲のによって口のたたき方も違ってきます。
唇の振動が貝の中に入ると響き変わるだけではなくて、呼吸という風が法螺貝の中を通ってゆくだけで摩擦音がして、この二つがミックスして音になっています。
貝自体が鳴っ程度非難いるのでそれに寄り添うように自分が呼吸をしっかりしさえすれば本来は十分だと思います。
2019年10月20日日曜日
浅利定栄(こうじ料理研究家) ・【"美味しい"仕事人】こうじ文化を世界へ(初回2019・4・21)
浅利定栄(こうじ料理研究家) ・【"美味しい"仕事人】こうじ文化を世界へ(初回2019・4・21)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_21.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2019年10月19日土曜日
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば(初回2017・12・2)
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば(初回2017・12・2)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/12/blog-post_2.htmlをご覧ください。
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2019年10月18日金曜日
泉麻人(コラムニスト) ・【わが心の人】三木鶏郎
泉麻人(コラムニスト) ・【わが心の人】三木鶏郎
三木鶏郎さんは大正3年東京生まれ、戦後に放送したラジオ番組、『日曜娯楽版』での「冗談音楽」が評判となり人気者となりました。
その後コマーシャルソングも数多く手がけ人々を楽しませ続けました。
平成6年10月7日に亡くなられました、80歳でした。
泉麻人さんは今年の5月『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 :ラジオとCMソングの戦後史』という本を出版されました。
学生の頃広告研究のサークルに居たので三木さんにはCMソングから入りましたが、昭和20年代にNHKで画期的な番組をやられた方でした。
本名、繁田 裕司 芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着したといわれる。
「鉄人28号」の主題歌、が最初になじんだ曲です。
『日曜娯楽版』をやっていたのは終戦直後2年目から1927年まで。
「南の風が消えちゃった」という曲を作って、焼け跡の喪失感を明るいメロディーで作って、明るい歌でこれをいきなりNHKの音楽担当のディレクターにもっていって、面白い曲を元にした番組をやらないかという事でいきなり番組を持たされる。
「歌の新聞」というタイトルで『日曜娯楽版』の前身となったものです。
昭和21年1月が「歌の新聞」の出発点となる。
昭和22年の秋から『日曜娯楽版』として放送が始まります。
最初は時事風刺を元にしたドラマ、後半は通称「冗談音楽」で展開も早く切りかえも早い。
ジャーナリスティックな部分が売り物でもあり、物議をかもすことも多かった。
GHQが放送を管理していたのでお伺いを立てなければならなかった。
その後番組が終わり、そのあと同じような形の番組が民放ラジオに受け継がれる。
民放ではコマーシャルを作ることになり、CMの作詞作曲の世界に入ってゆく事になります。
三木さんの父は法曹界で判事をしていたがその後弁護士となり、弁護士事務所を開いており、その道に進むように父から言われていた。
母親側が飯田橋で料亭旅館をやっていて芸能センスを持っていた家柄で、祖父は派手好みの趣味人で綺麗どころを集め生前葬をやって長い行列ができたとか。
大正3年生まれで、4,5歳時にベビーオルガンを買ってもらった。
6,7歳には父に連れられてフランス料理のレストランで御馳走をクラシックの音楽を奏でる中で食べる。
東大の法学部に入り、今のブラスバンドみたいな活動をする。
1941年1月10日に二等兵として陸軍東部第六部隊へ入隊する。
間で戦争があったという事が大きいと思います、すべてがなくなったときにプロの音楽家を目指すみたいなことになった訳ですから。
民放の中部日本放送とか名古屋の方が一番最初の開局で、カメラフィルムメーカのスポンサーのCMソングの原点といわれる歌がある。
三木さん作詞、作曲の「僕はアマチュアカメラマン」というタイトルがついている。(商品名は出てこない。)
三木さんはCMソングは擬音をうまく使いながら商品名を連呼するものが多いのが特徴的です。
ライバル会社のコマーシャルを同じ年に作っていたりしました。
ディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めた。
そうそうたるメンバーが三木さんの門下に入りました。
活動に際しキノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如らとトリローグループを結成。
昭和31年に会社を設立、社長は若い永六輔さんでした。
門下からは歌手(丹下清子、楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)など、多くの人物を世に送り出している。
来年と東京オリンピックがあるので1964年ごろの東京の話を執筆しています。
そういう場所がなくなりつつありますので。
三木鶏郎さんは大正3年東京生まれ、戦後に放送したラジオ番組、『日曜娯楽版』での「冗談音楽」が評判となり人気者となりました。
その後コマーシャルソングも数多く手がけ人々を楽しませ続けました。
平成6年10月7日に亡くなられました、80歳でした。
泉麻人さんは今年の5月『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 :ラジオとCMソングの戦後史』という本を出版されました。
学生の頃広告研究のサークルに居たので三木さんにはCMソングから入りましたが、昭和20年代にNHKで画期的な番組をやられた方でした。
本名、繁田 裕司 芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着したといわれる。
「鉄人28号」の主題歌、が最初になじんだ曲です。
『日曜娯楽版』をやっていたのは終戦直後2年目から1927年まで。
「南の風が消えちゃった」という曲を作って、焼け跡の喪失感を明るいメロディーで作って、明るい歌でこれをいきなりNHKの音楽担当のディレクターにもっていって、面白い曲を元にした番組をやらないかという事でいきなり番組を持たされる。
「歌の新聞」というタイトルで『日曜娯楽版』の前身となったものです。
昭和21年1月が「歌の新聞」の出発点となる。
昭和22年の秋から『日曜娯楽版』として放送が始まります。
最初は時事風刺を元にしたドラマ、後半は通称「冗談音楽」で展開も早く切りかえも早い。
ジャーナリスティックな部分が売り物でもあり、物議をかもすことも多かった。
GHQが放送を管理していたのでお伺いを立てなければならなかった。
その後番組が終わり、そのあと同じような形の番組が民放ラジオに受け継がれる。
民放ではコマーシャルを作ることになり、CMの作詞作曲の世界に入ってゆく事になります。
三木さんの父は法曹界で判事をしていたがその後弁護士となり、弁護士事務所を開いており、その道に進むように父から言われていた。
母親側が飯田橋で料亭旅館をやっていて芸能センスを持っていた家柄で、祖父は派手好みの趣味人で綺麗どころを集め生前葬をやって長い行列ができたとか。
大正3年生まれで、4,5歳時にベビーオルガンを買ってもらった。
6,7歳には父に連れられてフランス料理のレストランで御馳走をクラシックの音楽を奏でる中で食べる。
東大の法学部に入り、今のブラスバンドみたいな活動をする。
1941年1月10日に二等兵として陸軍東部第六部隊へ入隊する。
間で戦争があったという事が大きいと思います、すべてがなくなったときにプロの音楽家を目指すみたいなことになった訳ですから。
民放の中部日本放送とか名古屋の方が一番最初の開局で、カメラフィルムメーカのスポンサーのCMソングの原点といわれる歌がある。
三木さん作詞、作曲の「僕はアマチュアカメラマン」というタイトルがついている。(商品名は出てこない。)
三木さんはCMソングは擬音をうまく使いながら商品名を連呼するものが多いのが特徴的です。
ライバル会社のコマーシャルを同じ年に作っていたりしました。
ディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めた。
そうそうたるメンバーが三木さんの門下に入りました。
活動に際しキノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如らとトリローグループを結成。
昭和31年に会社を設立、社長は若い永六輔さんでした。
門下からは歌手(丹下清子、楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)など、多くの人物を世に送り出している。
来年と東京オリンピックがあるので1964年ごろの東京の話を執筆しています。
そういう場所がなくなりつつありますので。
2019年10月17日木曜日
紙ふうせん(フォークデュオ) ・紙ふうせんで45周年
紙ふうせん(フォークデュオ) ・紙ふうせんで45周年
「紙ふうせん」は後藤悦治郎さんと平山泰代さんの夫婦のフォークグループです。
二人は5人のフォークグループ「赤い鳥」のメンバーでした。
「赤い鳥」はヤマハライトミュージックコンテストで「翼をください」で、総合グランプリを受賞して、1970年にプロになりました。
活動期間は5年、1974年に解散しました。
メンバーだった後藤さんと平山さんの二人でその後「紙ふうせん」として再びスタートして45年が経ちました。
「紙ふうせん」はその後「冬が来る前に」で大ヒット、今もライブ活動などを中心に活躍されています。
二人でレコードになった曲、地方の公共団体の町のイメージソング、会社の社歌、校歌などを作っていて、300曲ぐらいですかね。
私(平山泰代)は20曲ぐらいです。
日常ではハモったりはしませんが、お互いの受けごたえはやっています。
「赤い鳥」1965年に誕生しました。
「翼をください」が有名です。
「紙ふうせん」になって45年になりました。
「赤い鳥」は兵庫県の尼崎市に小さな町があり1967年から平山とディユエットで歌いだして、コンサートを2年間やっていたら、いろんなバンドが参加してその中からピックアップしてできました。
公衆電話の赤い色が目に飛び込んできて「赤い鳥」という名前にしました。
伏線としては鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』のことが頭にはありました。
当時としては女性2人、男性3人という様な混成グループは日本にはありませんでした。
平山はクラシックをやっていたので強い声が出るので芯にはなりました。
女性二人が頑張ってくれました。
全国ツアー、ラジオ番組など忙しくて曲を作る時間が無くなり、ゆったりしたスケジュールでやろうという呼びかけをしていました。
5年後に解散する事になりました。
フォークソングにこだわりましたし、渋めのステージングをずーっとやりました。
区切りの年なので10月と12月にコンサートをやります。
平山:声は大事なのでまずは風邪を引かないように健康管理をしたり大きな声を出さないようにしています。
高校2年生の時にマドンナだった平山泰代を見に行こうと数人で行きました。
3年になったときに同じクラスになりましたが、付き合いはなったです。
平山は音楽専門の大学に行って、私は京都の大学に行きました。
或るときに大学のバンドのコンサートに呼びこんで、フォークソングの世界に引き込みたかった。
平山:13枚の便せんの手紙をもらって、招待券が入っていまして出かけて行きました。
ギターの音が聞こえ、「悲惨な戦争」の歌が聞こえてきてこんな素敵な歌があるのかと、カルチャーショックを受けて私も歌ってみたいという気持ちになりました。
1967年から二人でデュエットをするようになりました。
クラシックではマイクは使わないのでマイクワークが大変でした。
後藤:「赤い鳥」はヤマハライトミュージックコンテストで「翼をください」で、総合グランプリを受賞しました。
作曲家の村井邦彦さんからプロに成らないかとの勧誘がり1970年にプロになりました。
グランプリの副賞としてヨーロッパ旅行があり、村井さんがわざわざロンドンまで来て説得にきて、5人で目をつぶってプロに成るなら手を挙げるという事で決まりました。
演劇がやりたくて演出家になりたいとは思っていました。
平山:大学に残ってピアノを教えることをやっていましたが、結局この道を進むことになりました。
後藤:1975,6年で「冬が来る前に」を舞台で歌っていたが、録音テープを持って東京の録音会社に商いに行きました。
その中のソニーが行こうという事になりました。
改めてレコーディングすることになりました。
この曲はブラジルの北部のサンバのリズムを取り入れた曲にしました。
22歳の時に平山泰代さんに木に登って返事しないと降りないと言ってプロポーズしました。
閉園までいましたが、返事をもらえませんでした。
平山:当時将来のことが全然わからないのに結婚なんて言う段階ではないと思ってイエス、ノーは言わないことにしました。
6年後にOKの返事をしました。
後藤:「やっちゃん、これからの人生すべて割り勘でいけへんか」と言いました。
精神的にも金銭的にも二人5分5分でお互いよりかかることなくやっていこうと思いました。
平山:母からは「これからの女性は仕事を持って生きてゆく時代だよ」、という事は小さいころから言われていました。
「5分5分」という事はすごく気に入りました。
後藤:声が続かなくなっても日本人が持っている歌をもっともっと追及したいと思っています。
万葉集などもきっと節をつけていたと思いますので、歌として受け止めています。
こういったことを若い人に伝えるつなぎ役をしていきたいと思っています。
平山:歌い続けたいと思います。
オリジナルの曲を作ってみたいと思っています。
「紙ふうせん」は後藤悦治郎さんと平山泰代さんの夫婦のフォークグループです。
二人は5人のフォークグループ「赤い鳥」のメンバーでした。
「赤い鳥」はヤマハライトミュージックコンテストで「翼をください」で、総合グランプリを受賞して、1970年にプロになりました。
活動期間は5年、1974年に解散しました。
メンバーだった後藤さんと平山さんの二人でその後「紙ふうせん」として再びスタートして45年が経ちました。
「紙ふうせん」はその後「冬が来る前に」で大ヒット、今もライブ活動などを中心に活躍されています。
二人でレコードになった曲、地方の公共団体の町のイメージソング、会社の社歌、校歌などを作っていて、300曲ぐらいですかね。
私(平山泰代)は20曲ぐらいです。
日常ではハモったりはしませんが、お互いの受けごたえはやっています。
「赤い鳥」1965年に誕生しました。
「翼をください」が有名です。
「紙ふうせん」になって45年になりました。
「赤い鳥」は兵庫県の尼崎市に小さな町があり1967年から平山とディユエットで歌いだして、コンサートを2年間やっていたら、いろんなバンドが参加してその中からピックアップしてできました。
公衆電話の赤い色が目に飛び込んできて「赤い鳥」という名前にしました。
伏線としては鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』のことが頭にはありました。
当時としては女性2人、男性3人という様な混成グループは日本にはありませんでした。
平山はクラシックをやっていたので強い声が出るので芯にはなりました。
女性二人が頑張ってくれました。
全国ツアー、ラジオ番組など忙しくて曲を作る時間が無くなり、ゆったりしたスケジュールでやろうという呼びかけをしていました。
5年後に解散する事になりました。
フォークソングにこだわりましたし、渋めのステージングをずーっとやりました。
区切りの年なので10月と12月にコンサートをやります。
平山:声は大事なのでまずは風邪を引かないように健康管理をしたり大きな声を出さないようにしています。
高校2年生の時にマドンナだった平山泰代を見に行こうと数人で行きました。
3年になったときに同じクラスになりましたが、付き合いはなったです。
平山は音楽専門の大学に行って、私は京都の大学に行きました。
或るときに大学のバンドのコンサートに呼びこんで、フォークソングの世界に引き込みたかった。
平山:13枚の便せんの手紙をもらって、招待券が入っていまして出かけて行きました。
ギターの音が聞こえ、「悲惨な戦争」の歌が聞こえてきてこんな素敵な歌があるのかと、カルチャーショックを受けて私も歌ってみたいという気持ちになりました。
1967年から二人でデュエットをするようになりました。
クラシックではマイクは使わないのでマイクワークが大変でした。
後藤:「赤い鳥」はヤマハライトミュージックコンテストで「翼をください」で、総合グランプリを受賞しました。
作曲家の村井邦彦さんからプロに成らないかとの勧誘がり1970年にプロになりました。
グランプリの副賞としてヨーロッパ旅行があり、村井さんがわざわざロンドンまで来て説得にきて、5人で目をつぶってプロに成るなら手を挙げるという事で決まりました。
演劇がやりたくて演出家になりたいとは思っていました。
平山:大学に残ってピアノを教えることをやっていましたが、結局この道を進むことになりました。
後藤:1975,6年で「冬が来る前に」を舞台で歌っていたが、録音テープを持って東京の録音会社に商いに行きました。
その中のソニーが行こうという事になりました。
改めてレコーディングすることになりました。
この曲はブラジルの北部のサンバのリズムを取り入れた曲にしました。
22歳の時に平山泰代さんに木に登って返事しないと降りないと言ってプロポーズしました。
閉園までいましたが、返事をもらえませんでした。
平山:当時将来のことが全然わからないのに結婚なんて言う段階ではないと思ってイエス、ノーは言わないことにしました。
6年後にOKの返事をしました。
後藤:「やっちゃん、これからの人生すべて割り勘でいけへんか」と言いました。
精神的にも金銭的にも二人5分5分でお互いよりかかることなくやっていこうと思いました。
平山:母からは「これからの女性は仕事を持って生きてゆく時代だよ」、という事は小さいころから言われていました。
「5分5分」という事はすごく気に入りました。
後藤:声が続かなくなっても日本人が持っている歌をもっともっと追及したいと思っています。
万葉集などもきっと節をつけていたと思いますので、歌として受け止めています。
こういったことを若い人に伝えるつなぎ役をしていきたいと思っています。
平山:歌い続けたいと思います。
オリジナルの曲を作ってみたいと思っています。
2019年10月16日水曜日
山室寛之(野球史研究家) ・【スポーツ明日への伝言】10.19 昭和のプロ野球、最後の名勝負
山室寛之(野球史研究家)・【スポーツ明日への伝言】10.19 昭和のプロ野球、最後の名勝負
昭和63年のプロ野球は南海ホークスの球団譲渡に九州移転、阪急ブレーブスの球団譲渡と、昭和の時代に区切りを付けるような出来事が続きました。
10月19日に川崎球場で行われた、パリーグのロッテオリオンズ対近鉄バッファローズのダブルヘッダーは近鉄が2連勝すれば近鉄の優勝、一つでも負けるか引き分けると試合のなかった西武ライオンズの優勝が決まるという大一番で今でも名勝負として語り継がれる試合になりました。
山室さんに伺いました。
試合当日は夜10時をすぎても試合が続いていました。
新聞紙面の校正が終わって静かな時間が続いているはずですが、各部のデスクがTVを凝視していて驚いた覚えがあります。
山室さんは1941年北京で生まれ、九州大学卒業、読売新聞に入社、社会部記者として活躍。
警視庁クラブではプロ野球黒い霧事件、キャップ時代には三浦和義事件、グリコ森永事件、社会部次長時代にリクルート事件の担当デスク、社会部デスク時代はオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの取材対応を指揮されてきました。
1998年からは東京読売巨人軍の代表を務め、2009年以降、戦前からの日本の野球史の取材執筆をつづけています。
10月19日のダブルヘッダー、その年にあった球団の再編について取材しなおして本にしました。
平和台球場に直ぐ近くに住んでいたので近くにプロ野球の選手が住んでいましたし、小学校の同級生の父親が西鉄ライオンズの前身である西鉄クリッパースの監督をしていたので、野球にはのめりこみました。
中学生の頃にプロ野球の歴史を書いた本があり、3冊出ましたがすべて暗記するほど何度も読み返して、いつかこんな歴史の本を書いてみたいと思っていました。
1988年は昭和が終わった年でもあるし、南海ホークスがダイエーに買収されて平和台の本拠に移転するという事でパリーグの真の再出発が始まりました。
そういう位置づけで調べてみたいと思いました。
第一試合はロッテは首位打者争いをしている高沢を4番に据えました。
先発投手は近鉄が小野和義、ロッテが小川博で始まり、初回にロッテが愛甲猛選手のホームランで2点先行、5回に近鉄は鈴木貴久選手がホームランで1点を返し、7回にロッテが1点を加えて、3-1となる。
8回に代打村上隆行のタイムリー2ベースヒットで3-3の同点となる。
村上はベンチにいて相手投手の投球パターンを分析して段々そのパターンが判ってきた。
初球はストライクをカーブで取る、2ストライクになったらカーブを投げるが、その前に必ずストレートを投げてバッターをのけぞらせるという事を頭にいれていて、彼は打席に入り、4球目のカーブを2ベースヒットを打つことになる。
30年後に聞くことができたが全部覚えているという事でした。
近鉄は9回の表の攻撃にかけるが、淡口が2塁打で出塁代走として佐藤純一が送られたところでロッテは牛島 和彦がマウンドに上がり、鈴木貴久がライト前ヒット、佐藤が本塁を狙うがアウトになる。
ライト前のヒットがライナーの鋭い当たりでスタートが一瞬遅れるが、猛然な勢いでホームに滑り込む、近鉄の選手は勝利を確信して立ち上がっていた、それがアウトになってしまう。
2アウトランナー2塁で代打梨田。(この年に現役を辞める事になっていた。)
2球目をセンターにヒット、近鉄1点を勝ち越し4-3となる。
中西コーチと鈴木選手が抱き合って、転がるようにベンチに向かった。
これが第二試合の大熱戦の伏線になっていると思う。
ロッテの闘争心に火が付いた、まだ勝ってもいないのになんだと。
9回裏代打丸山がフォアボール、代打山本浩二に対しても2球ボール、近鉄仰木監督が出てくる。
吉井投手をマウンドから降ろす。
阿波野投手がでて、山本選手をセカンドゴロ打ち取るが、セカンドの大石と、ランナーの丸山が交錯して二人が倒れ両監督がベンチを出て、守備妨害、走塁妨害だとアピールする。
判定は丸山選手の守備妨害となり、ランナーがアウトになる。
その後2死満塁まで行き、森田が三振となり第一試合は近鉄が勝ち優勝に王手をかける。
これでロッテは最下位が決まる。
20分後に第二試合。
近鉄投手は高柳、ロッテは園川で始まる。
一回裏打者佐藤健一の左手に高柳投手の球が当たって、うずくまり、ロッテの有藤監督が駆け寄るが、仰木監督も出てきて、点火したのはこの瞬間だと思います。
試合時間は4時間と決まっているので、早く進めたい思いがある。
仰木監督が佐藤選手に対して「痛いなら変わればどうだ」といったようで、そこで有藤監督が激高したようです。
当てておいて謝らないでという事で監督同士が激しく争い、第二試合のゴングのようなものです。
7回時点で3-1と近鉄リード、7回裏同点に追いつく。
8回表近鉄はブライアントがホームランで4-3とリードする。
ところがロッテが追い付いて突き放す。
8回裏近鉄はエース阿波野が登板、4番高沢選手(首位打者争いしている。)が同点のホームランを打つ。
その前にスクリューボールで2ストライクを取って2S-1Bとなっていたので、阿波野投手は勝負球はスライダーと思っていて、捨て球ストレートの後にスライダーを投げた。
スライダーがボールとなりフルカウントになり、ストレートの要求があったが、阿波野投手は2日前に120球、第一試合でも16球投げているので握力もなくストレートに自信がなくてスクリューボールを投げて打たれてしまう。
近鉄は9回表に点が取れずに延長戦にかけるしかなくなった。
9回裏ノーアウト1塁、二塁で阿波野投手が2塁に牽制球を投げるが、大石選手がジャンプして取って交錯してランナーの古川にタッチしてアウトとなるが、有藤監督と古川の抗議が始まる。(古川は内心アウトだと思っていたという)
有藤監督は抗議したら下がるつもりでいたら仰木監督が出てくる。
有藤監督は初回の抗議のことを思い出して、抗議が9分間に及ぶ。(仰木監督は早く試合をしたい)
10回の表の攻撃が終わった時点で10時41分で残り3分となり、事実上近鉄の優勝はなくなり、西武の優勝へとなってゆく。
第一試合の二塁打以降毎回試合の山場が波のように押し寄せて凄いと思いました。
それが第二試合にそのまま引き継がれました。
大観衆の熱狂がアスリートの本能に火をつけたという事でしょうね。
有藤監督自身も「2000~3000人のいつもの観衆だったらとっくに負けていました。」と言っていました。
この日の午後5時に阪急ブレーブスを当時のオリエントリースに譲渡することで基本合意、10月1には南海ホークスのダイエーへの譲渡が発表されている。
この日の試合はパリーグの株を上げてくれたという称賛の声があちこちから出てきた。
2球団譲渡というニュースの中でパリーグはまだまだやっていけるという風にこの試合の価値があったと思う。
翌年平成になり九州、北海道、東北と全国にルートを伸ばしていきましたが、全国へのきっかけになったのは福岡の市民運動でダイエーが目を付けた事だったと思います。
平成の時代は日本選手がメジャーへ行って互角に戦えるというところまで来ました。
令和に入って期待はできるが、少子化とか,用具の高騰とか問題があるが、今の選手は昭和の輝ける時代にどれだけ野球が国民的スポーツに昇り詰めるために選手が苦労したことの歴史を振り返ってほしいと痛切に思います。
昭和63年のプロ野球は南海ホークスの球団譲渡に九州移転、阪急ブレーブスの球団譲渡と、昭和の時代に区切りを付けるような出来事が続きました。
10月19日に川崎球場で行われた、パリーグのロッテオリオンズ対近鉄バッファローズのダブルヘッダーは近鉄が2連勝すれば近鉄の優勝、一つでも負けるか引き分けると試合のなかった西武ライオンズの優勝が決まるという大一番で今でも名勝負として語り継がれる試合になりました。
山室さんに伺いました。
試合当日は夜10時をすぎても試合が続いていました。
新聞紙面の校正が終わって静かな時間が続いているはずですが、各部のデスクがTVを凝視していて驚いた覚えがあります。
山室さんは1941年北京で生まれ、九州大学卒業、読売新聞に入社、社会部記者として活躍。
警視庁クラブではプロ野球黒い霧事件、キャップ時代には三浦和義事件、グリコ森永事件、社会部次長時代にリクルート事件の担当デスク、社会部デスク時代はオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの取材対応を指揮されてきました。
1998年からは東京読売巨人軍の代表を務め、2009年以降、戦前からの日本の野球史の取材執筆をつづけています。
10月19日のダブルヘッダー、その年にあった球団の再編について取材しなおして本にしました。
平和台球場に直ぐ近くに住んでいたので近くにプロ野球の選手が住んでいましたし、小学校の同級生の父親が西鉄ライオンズの前身である西鉄クリッパースの監督をしていたので、野球にはのめりこみました。
中学生の頃にプロ野球の歴史を書いた本があり、3冊出ましたがすべて暗記するほど何度も読み返して、いつかこんな歴史の本を書いてみたいと思っていました。
1988年は昭和が終わった年でもあるし、南海ホークスがダイエーに買収されて平和台の本拠に移転するという事でパリーグの真の再出発が始まりました。
そういう位置づけで調べてみたいと思いました。
第一試合はロッテは首位打者争いをしている高沢を4番に据えました。
先発投手は近鉄が小野和義、ロッテが小川博で始まり、初回にロッテが愛甲猛選手のホームランで2点先行、5回に近鉄は鈴木貴久選手がホームランで1点を返し、7回にロッテが1点を加えて、3-1となる。
8回に代打村上隆行のタイムリー2ベースヒットで3-3の同点となる。
村上はベンチにいて相手投手の投球パターンを分析して段々そのパターンが判ってきた。
初球はストライクをカーブで取る、2ストライクになったらカーブを投げるが、その前に必ずストレートを投げてバッターをのけぞらせるという事を頭にいれていて、彼は打席に入り、4球目のカーブを2ベースヒットを打つことになる。
30年後に聞くことができたが全部覚えているという事でした。
近鉄は9回の表の攻撃にかけるが、淡口が2塁打で出塁代走として佐藤純一が送られたところでロッテは牛島 和彦がマウンドに上がり、鈴木貴久がライト前ヒット、佐藤が本塁を狙うがアウトになる。
ライト前のヒットがライナーの鋭い当たりでスタートが一瞬遅れるが、猛然な勢いでホームに滑り込む、近鉄の選手は勝利を確信して立ち上がっていた、それがアウトになってしまう。
2アウトランナー2塁で代打梨田。(この年に現役を辞める事になっていた。)
2球目をセンターにヒット、近鉄1点を勝ち越し4-3となる。
中西コーチと鈴木選手が抱き合って、転がるようにベンチに向かった。
これが第二試合の大熱戦の伏線になっていると思う。
ロッテの闘争心に火が付いた、まだ勝ってもいないのになんだと。
9回裏代打丸山がフォアボール、代打山本浩二に対しても2球ボール、近鉄仰木監督が出てくる。
吉井投手をマウンドから降ろす。
阿波野投手がでて、山本選手をセカンドゴロ打ち取るが、セカンドの大石と、ランナーの丸山が交錯して二人が倒れ両監督がベンチを出て、守備妨害、走塁妨害だとアピールする。
判定は丸山選手の守備妨害となり、ランナーがアウトになる。
その後2死満塁まで行き、森田が三振となり第一試合は近鉄が勝ち優勝に王手をかける。
これでロッテは最下位が決まる。
20分後に第二試合。
近鉄投手は高柳、ロッテは園川で始まる。
一回裏打者佐藤健一の左手に高柳投手の球が当たって、うずくまり、ロッテの有藤監督が駆け寄るが、仰木監督も出てきて、点火したのはこの瞬間だと思います。
試合時間は4時間と決まっているので、早く進めたい思いがある。
仰木監督が佐藤選手に対して「痛いなら変わればどうだ」といったようで、そこで有藤監督が激高したようです。
当てておいて謝らないでという事で監督同士が激しく争い、第二試合のゴングのようなものです。
7回時点で3-1と近鉄リード、7回裏同点に追いつく。
8回表近鉄はブライアントがホームランで4-3とリードする。
ところがロッテが追い付いて突き放す。
8回裏近鉄はエース阿波野が登板、4番高沢選手(首位打者争いしている。)が同点のホームランを打つ。
その前にスクリューボールで2ストライクを取って2S-1Bとなっていたので、阿波野投手は勝負球はスライダーと思っていて、捨て球ストレートの後にスライダーを投げた。
スライダーがボールとなりフルカウントになり、ストレートの要求があったが、阿波野投手は2日前に120球、第一試合でも16球投げているので握力もなくストレートに自信がなくてスクリューボールを投げて打たれてしまう。
近鉄は9回表に点が取れずに延長戦にかけるしかなくなった。
9回裏ノーアウト1塁、二塁で阿波野投手が2塁に牽制球を投げるが、大石選手がジャンプして取って交錯してランナーの古川にタッチしてアウトとなるが、有藤監督と古川の抗議が始まる。(古川は内心アウトだと思っていたという)
有藤監督は抗議したら下がるつもりでいたら仰木監督が出てくる。
有藤監督は初回の抗議のことを思い出して、抗議が9分間に及ぶ。(仰木監督は早く試合をしたい)
10回の表の攻撃が終わった時点で10時41分で残り3分となり、事実上近鉄の優勝はなくなり、西武の優勝へとなってゆく。
第一試合の二塁打以降毎回試合の山場が波のように押し寄せて凄いと思いました。
それが第二試合にそのまま引き継がれました。
大観衆の熱狂がアスリートの本能に火をつけたという事でしょうね。
有藤監督自身も「2000~3000人のいつもの観衆だったらとっくに負けていました。」と言っていました。
この日の午後5時に阪急ブレーブスを当時のオリエントリースに譲渡することで基本合意、10月1には南海ホークスのダイエーへの譲渡が発表されている。
この日の試合はパリーグの株を上げてくれたという称賛の声があちこちから出てきた。
2球団譲渡というニュースの中でパリーグはまだまだやっていけるという風にこの試合の価値があったと思う。
翌年平成になり九州、北海道、東北と全国にルートを伸ばしていきましたが、全国へのきっかけになったのは福岡の市民運動でダイエーが目を付けた事だったと思います。
平成の時代は日本選手がメジャーへ行って互角に戦えるというところまで来ました。
令和に入って期待はできるが、少子化とか,用具の高騰とか問題があるが、今の選手は昭和の輝ける時代にどれだけ野球が国民的スポーツに昇り詰めるために選手が苦労したことの歴史を振り返ってほしいと痛切に思います。
2019年10月15日火曜日
髙橋真理子(宙先案内人) ・星と人をつなぐ
髙橋真理子(宙先案内人) ・星と人をつなぐ
長い間山梨県立科学館のプラネタリュームで星の魅力を多くの人に伝えようと様々な企画や番組制作を行ってきました。
2016年に独立して山梨県を拠点に星つむぎの村を作りました。
星紬の村は星を介して人と人をつなぎ、一緒に幸せを作ろうと村人と呼ばれるボランティアとともに星空観察会や星や宇宙に関するワークショップなどを行っています。
活動の中でも特に力を注いでいるのが病院のプラネタリュームです。
重い障害や長期入院でなかなか本物の星空を見る機会がない人たちのために、全国の病院や施設に美しい星空や宇宙を届ける取り組みです。
宇宙と自分とのつながりというものが自分自身の一番のテーマなので、そこにいざなうという意味合いの宙先案内人という事です。
今年で6年目になります。
最初の年は15件でしたが、50、80となり毎年増えてきています。
山梨大学付属病院の小児科医の犬飼先生という方と2007年にお会いして、昔は天文少年だったそうで、プラネタリュームをやりたいと話をしたら、二つ返事でやろうという事になりました。
そこからいろんな病院に広げることができました。
何をどうやるかお伝えしながら、行く先々で環境や患者さんが違うので打ち合わせ入念にをしながら毎回行っています。
ライブであることを生かす感じでやっていますが、まずはその日の夜の星空です。
満天の星空を見て、星座を見て、誕生日の星座をやっていて、やはり自分の星座が見つかると嬉しいので全部の12の星座を見せるようにしています。
私たちが使っているソフトは優れたインターラクティブなソフトで、宇宙に飛び出ることができて、自由自在にどこでも好きなところに行けるようになっています。
火星がだんだん近づいてきて、火星を投げるとか、宇宙の果てまで行って、自分たちのいる場所も判ってきて、自分たちの命の歴史をたどってゆくと、宇宙の始まり、138憶年前まで行ってしまって、又地球に戻ってきて、再び星空を見ながら夜明けまでくるわけです。
数千億の中に一つが天の川銀河でその銀河の数千億の中の一つが太陽で太陽の周りをまわる惑星の一つに命の星があって、38億年の命のリレーが途絶えることなく地球があり、そこでみんなで星を見たねと声をかけて朝になるという事で、20~30分やりますが、一体感があります。
最初は暗くて怖いと言っていた子、重度の障害者の子などがいますが、喜んでくれます。
看護師さんたちも夢中になってしまいましたとか、癒されましたと言ってくれます。
医療関係者、福祉関係者など命にかかわっている方たちには特にお見せしたいという思いはあります。
プラネタリュームで誕生日の星座をお見せして、この子が生まれてきた意味がやっとわかりましたという難病の子をかかえたお母さんがいたりしました。
重い病気を持つ家族にとって誕生日を祝う事すらつらかったという事がありますが、連綿と続いてきた命の中でその子は自分を選んでここに来てくれたんだなあと思ってもらう、そういう感想を頂けることがままあるのでまだまだやらないといけないと感じます。
私は生まれたのは東京で、直ぐに埼玉に引っ越して、中学は機械体操部で、高校はボート部で全国大会に出るようなレベルでした。
機械体操部の一つ上の先輩から自分の夢は語るのがいいんだという事を言われて、やってみたいことを口にする習慣ができました。
高校3年生で理系、文系に分かれて物理のいい先生に出会って、理系の勉強を始めました。
写真家の星野道夫さんが1996年に43歳で亡くなりましたが、星野さんとオーロラの研究をされているアカソフ先生というアラスカ大学の先生がオーロラのことを話をしている記事があり、それを読んでオーロラへの研究心が動きました。
オーロラのことを調べ始めて、北海道大学に地球物理学科があることが判って、これしかないと思って目指しました。
地球物理学科に入ってオーロラの研究をしたいと言ったら、4年生とかマスターの学生さんたちがポカ-ンとして、うちはオーロラの研究なんかやってないよと言われてしまいました。
その後名古屋大学の大学院に行く事になりました。
オーロラは電磁気現象でオーロラが出る時は電離層の中に物凄く電流が流れて、磁場が乱れますが、磁力系の観測からどういう電流が流れるのか逆計算するようなシュミレーション的な研究をしていました。
大学院から博士コースになったころにオーロラに電流が流れることが自分でそんなに知りたいのかと疑問をもって、一生を費やしてやる事に対して全然そうではないなと思いました。
落ちこぼれているときに写真家の星野道夫さんが熊に襲われて亡くなってしまいました。
そもそもいったい自分は何かという風にゼロまで行ってしんどい時期で、星野さんが亡くなって1か月後にアラスカにいって、今まで自分は何をしてきたのかとか、こういう自分が好きだなあという自分はいったいどこにあったのかとかとか、全部書き出していきました。
人が好きだとか、人を相手にする仕事をしたいとか、せっかくここまで科学をやってきたので科学と社会をつなぐような仕事ができるのではないかと段々思い始めて、行きついたのが科学館や博物館で科学と社会をつなぐような仕事ができるのではないかと思いました。
全国の科学館に手紙を出して、山梨県立科学館が新しくできるという事を教えていただいて、天文 プラネタリュームの募集がありそこを受けました。
プラネタリュームの番組と呼ばれる20分ぐらいの映画を作る仕事があり、シナリオを作ったり、映像、星空と音楽を合わせて、自分の言葉で伝える事も楽しくて、本当に楽しかったです。
番組つくりでもいかに地域を巻き込みながら、いろんな人たちを巻き込みながらという様なことは最初から意識してやっていました。
参加性のあるものを作りたいと常にやっていました。
12年前になりますが、JAXAの宇宙連詩の山梨版をつくろうと思いました。
詩人の覚 和歌子さんは山梨出身でぜひ一緒にやって欲しいと話をしたら宇宙と詩は似ているという事で引き受けてくれることになりました。
せっかく作るんだったら歌をつくろうと提案してくれて、全国に呼びけけて、300、400の言葉が集まり、覚さんが選び、新月と満月の時に募集して繰り返していって、半年かけてひとつの歌を作りました。
その歌詞には財津和夫さんに曲をつけていただき平原綾香さんが歌う事になりました。
宇宙飛行士の土井隆雄さんが2度目のミッションの時に、彼の応援歌と位置付けました。
*「星つむぎの歌」
星を見ることは一体何なんだろうかという事をいろんな活動を通していろんな言葉で教えてもらってきました。
他者のことも自分のことも俯瞰しながら、何かを伝える時に、星を見ながらそれができるといいなあと思っています。
ミュージアムを作りたいという事は大学4年の時から思っていましたが、星野道夫さんの亡くなった歳になり科学館を辞めることに決心しました。
いろんなところで呼んでくれて、待ってくれているので、そういう人たちがいる限り天職だなあと感じて、できる限りのことをやっていきたいと思います。
人間が人間として生きてゆくために星空というものが、人間のDNAの中に刷り込まれているのかなあという感じがします。
一緒にやる仲間を増やしたいという事、インターネットを介して星空をライブでお届けするフライイングプラネタリュームをはじめていまして、引きこもりだとか、いろんなところの人たちが自分は一人ではないと思えることができればいいなあと今計画中です。
長い間山梨県立科学館のプラネタリュームで星の魅力を多くの人に伝えようと様々な企画や番組制作を行ってきました。
2016年に独立して山梨県を拠点に星つむぎの村を作りました。
星紬の村は星を介して人と人をつなぎ、一緒に幸せを作ろうと村人と呼ばれるボランティアとともに星空観察会や星や宇宙に関するワークショップなどを行っています。
活動の中でも特に力を注いでいるのが病院のプラネタリュームです。
重い障害や長期入院でなかなか本物の星空を見る機会がない人たちのために、全国の病院や施設に美しい星空や宇宙を届ける取り組みです。
宇宙と自分とのつながりというものが自分自身の一番のテーマなので、そこにいざなうという意味合いの宙先案内人という事です。
今年で6年目になります。
最初の年は15件でしたが、50、80となり毎年増えてきています。
山梨大学付属病院の小児科医の犬飼先生という方と2007年にお会いして、昔は天文少年だったそうで、プラネタリュームをやりたいと話をしたら、二つ返事でやろうという事になりました。
そこからいろんな病院に広げることができました。
何をどうやるかお伝えしながら、行く先々で環境や患者さんが違うので打ち合わせ入念にをしながら毎回行っています。
ライブであることを生かす感じでやっていますが、まずはその日の夜の星空です。
満天の星空を見て、星座を見て、誕生日の星座をやっていて、やはり自分の星座が見つかると嬉しいので全部の12の星座を見せるようにしています。
私たちが使っているソフトは優れたインターラクティブなソフトで、宇宙に飛び出ることができて、自由自在にどこでも好きなところに行けるようになっています。
火星がだんだん近づいてきて、火星を投げるとか、宇宙の果てまで行って、自分たちのいる場所も判ってきて、自分たちの命の歴史をたどってゆくと、宇宙の始まり、138憶年前まで行ってしまって、又地球に戻ってきて、再び星空を見ながら夜明けまでくるわけです。
数千億の中に一つが天の川銀河でその銀河の数千億の中の一つが太陽で太陽の周りをまわる惑星の一つに命の星があって、38億年の命のリレーが途絶えることなく地球があり、そこでみんなで星を見たねと声をかけて朝になるという事で、20~30分やりますが、一体感があります。
最初は暗くて怖いと言っていた子、重度の障害者の子などがいますが、喜んでくれます。
看護師さんたちも夢中になってしまいましたとか、癒されましたと言ってくれます。
医療関係者、福祉関係者など命にかかわっている方たちには特にお見せしたいという思いはあります。
プラネタリュームで誕生日の星座をお見せして、この子が生まれてきた意味がやっとわかりましたという難病の子をかかえたお母さんがいたりしました。
重い病気を持つ家族にとって誕生日を祝う事すらつらかったという事がありますが、連綿と続いてきた命の中でその子は自分を選んでここに来てくれたんだなあと思ってもらう、そういう感想を頂けることがままあるのでまだまだやらないといけないと感じます。
私は生まれたのは東京で、直ぐに埼玉に引っ越して、中学は機械体操部で、高校はボート部で全国大会に出るようなレベルでした。
機械体操部の一つ上の先輩から自分の夢は語るのがいいんだという事を言われて、やってみたいことを口にする習慣ができました。
高校3年生で理系、文系に分かれて物理のいい先生に出会って、理系の勉強を始めました。
写真家の星野道夫さんが1996年に43歳で亡くなりましたが、星野さんとオーロラの研究をされているアカソフ先生というアラスカ大学の先生がオーロラのことを話をしている記事があり、それを読んでオーロラへの研究心が動きました。
オーロラのことを調べ始めて、北海道大学に地球物理学科があることが判って、これしかないと思って目指しました。
地球物理学科に入ってオーロラの研究をしたいと言ったら、4年生とかマスターの学生さんたちがポカ-ンとして、うちはオーロラの研究なんかやってないよと言われてしまいました。
その後名古屋大学の大学院に行く事になりました。
オーロラは電磁気現象でオーロラが出る時は電離層の中に物凄く電流が流れて、磁場が乱れますが、磁力系の観測からどういう電流が流れるのか逆計算するようなシュミレーション的な研究をしていました。
大学院から博士コースになったころにオーロラに電流が流れることが自分でそんなに知りたいのかと疑問をもって、一生を費やしてやる事に対して全然そうではないなと思いました。
落ちこぼれているときに写真家の星野道夫さんが熊に襲われて亡くなってしまいました。
そもそもいったい自分は何かという風にゼロまで行ってしんどい時期で、星野さんが亡くなって1か月後にアラスカにいって、今まで自分は何をしてきたのかとか、こういう自分が好きだなあという自分はいったいどこにあったのかとかとか、全部書き出していきました。
人が好きだとか、人を相手にする仕事をしたいとか、せっかくここまで科学をやってきたので科学と社会をつなぐような仕事ができるのではないかと段々思い始めて、行きついたのが科学館や博物館で科学と社会をつなぐような仕事ができるのではないかと思いました。
全国の科学館に手紙を出して、山梨県立科学館が新しくできるという事を教えていただいて、天文 プラネタリュームの募集がありそこを受けました。
プラネタリュームの番組と呼ばれる20分ぐらいの映画を作る仕事があり、シナリオを作ったり、映像、星空と音楽を合わせて、自分の言葉で伝える事も楽しくて、本当に楽しかったです。
番組つくりでもいかに地域を巻き込みながら、いろんな人たちを巻き込みながらという様なことは最初から意識してやっていました。
参加性のあるものを作りたいと常にやっていました。
12年前になりますが、JAXAの宇宙連詩の山梨版をつくろうと思いました。
詩人の覚 和歌子さんは山梨出身でぜひ一緒にやって欲しいと話をしたら宇宙と詩は似ているという事で引き受けてくれることになりました。
せっかく作るんだったら歌をつくろうと提案してくれて、全国に呼びけけて、300、400の言葉が集まり、覚さんが選び、新月と満月の時に募集して繰り返していって、半年かけてひとつの歌を作りました。
その歌詞には財津和夫さんに曲をつけていただき平原綾香さんが歌う事になりました。
宇宙飛行士の土井隆雄さんが2度目のミッションの時に、彼の応援歌と位置付けました。
*「星つむぎの歌」
星を見ることは一体何なんだろうかという事をいろんな活動を通していろんな言葉で教えてもらってきました。
他者のことも自分のことも俯瞰しながら、何かを伝える時に、星を見ながらそれができるといいなあと思っています。
ミュージアムを作りたいという事は大学4年の時から思っていましたが、星野道夫さんの亡くなった歳になり科学館を辞めることに決心しました。
いろんなところで呼んでくれて、待ってくれているので、そういう人たちがいる限り天職だなあと感じて、できる限りのことをやっていきたいと思います。
人間が人間として生きてゆくために星空というものが、人間のDNAの中に刷り込まれているのかなあという感じがします。
一緒にやる仲間を増やしたいという事、インターネットを介して星空をライブでお届けするフライイングプラネタリュームをはじめていまして、引きこもりだとか、いろんなところの人たちが自分は一人ではないと思えることができればいいなあと今計画中です。
2019年10月14日月曜日
永里正彦((永里源気・優季・亜紗乃)の父) ・【アスリート誕生物語】プロサッカー選手・永里3兄妹
永里正彦((永里源気・優季・亜紗乃)の父) ・【アスリート誕生物語】プロサッカー選手・永里3兄妹
3人のプロサッカー選手を育てた永里さんに伺います。
次女亜紗乃が出産し孫ができました、かわいいです。
長男源気には二人の妹がいて、我が家では先駆者です。
それを二人の妹は見ているわけです。
源気にはコツコツやるのともって生まれたもの、両方とも兼ね備えているような形があります。
長女優季はコツコツやるタイプ。
次女亜紗乃はもともとセンスがいいんで、ちょっとやると難しいこともできてしまう。
高いレベルでスポーツをして欲しいという希望がありました。
たまたま厚木市がサッカーが盛んでサッカーと出会いました。
幼稚園にサッカークラブがあり源気はボールをよく蹴っていました。
やったことはなかったですが、私もサッカーのコーチを目指すようになりました。
サラリーマンをやっていましたが、1993年に会社を興して同時にサッカーのコーチを始めました。
私自身、スポーツで得られた協調性、協力して何か一つ物を作り上げるとか、成功もあり失敗もあり人生の糧となり、自分に戻ってくる、そういう経験をしたので子どもと一緒にスポーツを考えて見ようと思いました。
高いレベルでやって欲しいと思いました。
海外に行ってほしかったので、厳しくしてあげた方がいいと思いました。
ベースをつくってやって後は子どもたちで考えてもらうようにしようと思い、あれしろこれしろとは言いませんでした。
サッカーを深く知るためにはコーチをやるという事につながっていきました。
コーチとしては厳しかった、答えを言わない。
一番厳しかったのは妻に対してあんだけやってくれているのに、なんでそんな口を利くの、そのことを物凄く叱りました、お母さんがいなければサッカーできないんじゃないのって。
イエス、ノーで答えられない質問をずーっとしていました。
サッカーを始めて、リフティングがあるが、ある時期から毎日やるようになりました。
目標をもってやりました。(テニスボールでのリフティングで何回とか)
子どもたちはサッカーを辞めたいとは言いませんでした。
私は言う立場、妻は聞く立場でやっていました。
厳しく言う人がいて、聞く人がいる、その環境が良かったと思います。
今でも同じです。
理不尽な親父のお陰で俺はプロに成れた、と源気は言っていますからひどい言い方もしたと思います。
妻は絶対いなければいけない人だとみんな思っていると思います。
小学生低学年の時に「精力善用自他共栄」という言葉があり、加納治五郎さんが弘道館を作るときに掲げた言葉です。
この言葉が気に入って家に掲げました。
子どもの頃には意味とか説明しませんでした。
そのうちに子どもも判ってきました。
目からの情報と耳からの情報があると思いますが、耳からの情報は歳をとらないと判らないことがいっぱいあるが、目からの情報はずーっと残ると思います。
考えたら全部答えが出るかというとそんなことはない。
そのことは判ったと思う、でも考えないといけない。
どうしたらできるか、それを問い続けたからだと思います。
同じ競技を子どもたちがしてきたが、それは親は楽ですね。
コーチとして伝えられない部分は考えてやって、と言いました。
本質はゴールを決めることと、ゴールを決められないことだという事は一生懸命伝えたつもりです。
だから3人ともフォワードです。
親として心掛けてきたことは、一つができるからと言ってこれもあれもとやらなかったこと、例えば数学ができるからと言って国語も社会もできるようになれとか、という様には言いませんでした。
出来ないものはできないでいいという気持ちでいました。
しつけも同様でした、自分がなにかされたことに対して、してもらったことに対しては必ず礼儀を尽くしてほしいといいました。
勉強は一切、やりなさいと言ったことはないです。
妥協しなかった点は、睡眠、我が家の消灯時間は9時だったので、年に一回チームでのカラオケ大会があって、9時に寝るためにみんなで帰ったことがあります。
食事については冷蔵庫には牛乳とオレンジジュースは常にありましたし、コンビニの弁当はかわさせないで、どんなに忙しくても妻の手で作った弁当にしました。
後に母親に対する献身さが判ってきたと思います。
健康管理のポイントは睡眠と食事は当たり前ですが、自分の体を大切にすることだと思います。
例えばサンダルを履かないで靴を履くとか、自分の体は自分で守ることを小さいころからやっていました。
エアコンは使わず寝ていました。
エアコンを使っていると発汗作用が劣ってきます。
普段は私がしゃべらないと怖かったと思います。
頭ごなしに言われる方が楽だと思います。
厳しい状況の中で選択する能力、判断する能力、決断する能力は絶対高まったと思います。
2015年女子ワールドカップのカナダ大会、長女優季、次女亜紗乃が姉妹同時出場をしました。
夫婦で海外で試合を見るのはその時が初めてでした。
旅費は娘が出してくれました、嬉しかったです。
私が亜紗乃の、妻が優季のユニホームのレプリカを着てスタジアムで見ていましたが、目立たないところにいましたが、パッと抜かれて私たち二人がビジョンに出ました。
それが国内に放送されていてびっくりしました。
その試合では指導者の目ではなく親の思いで娘しか見ていませんでした。
妹がグランドに駆け寄って、・・・優季の肩を抱える姿を見たときには・・・涙が出ました。(涙ぐんで言葉を詰まらせながら話す。)
自分の人生なのでやり切ってほしいなと思います、それが私からすればそれが一番の親孝行だと思います。
3人のプロサッカー選手を育てた永里さんに伺います。
次女亜紗乃が出産し孫ができました、かわいいです。
長男源気には二人の妹がいて、我が家では先駆者です。
それを二人の妹は見ているわけです。
源気にはコツコツやるのともって生まれたもの、両方とも兼ね備えているような形があります。
長女優季はコツコツやるタイプ。
次女亜紗乃はもともとセンスがいいんで、ちょっとやると難しいこともできてしまう。
高いレベルでスポーツをして欲しいという希望がありました。
たまたま厚木市がサッカーが盛んでサッカーと出会いました。
幼稚園にサッカークラブがあり源気はボールをよく蹴っていました。
やったことはなかったですが、私もサッカーのコーチを目指すようになりました。
サラリーマンをやっていましたが、1993年に会社を興して同時にサッカーのコーチを始めました。
私自身、スポーツで得られた協調性、協力して何か一つ物を作り上げるとか、成功もあり失敗もあり人生の糧となり、自分に戻ってくる、そういう経験をしたので子どもと一緒にスポーツを考えて見ようと思いました。
高いレベルでやって欲しいと思いました。
海外に行ってほしかったので、厳しくしてあげた方がいいと思いました。
ベースをつくってやって後は子どもたちで考えてもらうようにしようと思い、あれしろこれしろとは言いませんでした。
サッカーを深く知るためにはコーチをやるという事につながっていきました。
コーチとしては厳しかった、答えを言わない。
一番厳しかったのは妻に対してあんだけやってくれているのに、なんでそんな口を利くの、そのことを物凄く叱りました、お母さんがいなければサッカーできないんじゃないのって。
イエス、ノーで答えられない質問をずーっとしていました。
サッカーを始めて、リフティングがあるが、ある時期から毎日やるようになりました。
目標をもってやりました。(テニスボールでのリフティングで何回とか)
子どもたちはサッカーを辞めたいとは言いませんでした。
私は言う立場、妻は聞く立場でやっていました。
厳しく言う人がいて、聞く人がいる、その環境が良かったと思います。
今でも同じです。
理不尽な親父のお陰で俺はプロに成れた、と源気は言っていますからひどい言い方もしたと思います。
妻は絶対いなければいけない人だとみんな思っていると思います。
小学生低学年の時に「精力善用自他共栄」という言葉があり、加納治五郎さんが弘道館を作るときに掲げた言葉です。
この言葉が気に入って家に掲げました。
子どもの頃には意味とか説明しませんでした。
そのうちに子どもも判ってきました。
目からの情報と耳からの情報があると思いますが、耳からの情報は歳をとらないと判らないことがいっぱいあるが、目からの情報はずーっと残ると思います。
考えたら全部答えが出るかというとそんなことはない。
そのことは判ったと思う、でも考えないといけない。
どうしたらできるか、それを問い続けたからだと思います。
同じ競技を子どもたちがしてきたが、それは親は楽ですね。
コーチとして伝えられない部分は考えてやって、と言いました。
本質はゴールを決めることと、ゴールを決められないことだという事は一生懸命伝えたつもりです。
だから3人ともフォワードです。
親として心掛けてきたことは、一つができるからと言ってこれもあれもとやらなかったこと、例えば数学ができるからと言って国語も社会もできるようになれとか、という様には言いませんでした。
出来ないものはできないでいいという気持ちでいました。
しつけも同様でした、自分がなにかされたことに対して、してもらったことに対しては必ず礼儀を尽くしてほしいといいました。
勉強は一切、やりなさいと言ったことはないです。
妥協しなかった点は、睡眠、我が家の消灯時間は9時だったので、年に一回チームでのカラオケ大会があって、9時に寝るためにみんなで帰ったことがあります。
食事については冷蔵庫には牛乳とオレンジジュースは常にありましたし、コンビニの弁当はかわさせないで、どんなに忙しくても妻の手で作った弁当にしました。
後に母親に対する献身さが判ってきたと思います。
健康管理のポイントは睡眠と食事は当たり前ですが、自分の体を大切にすることだと思います。
例えばサンダルを履かないで靴を履くとか、自分の体は自分で守ることを小さいころからやっていました。
エアコンは使わず寝ていました。
エアコンを使っていると発汗作用が劣ってきます。
普段は私がしゃべらないと怖かったと思います。
頭ごなしに言われる方が楽だと思います。
厳しい状況の中で選択する能力、判断する能力、決断する能力は絶対高まったと思います。
2015年女子ワールドカップのカナダ大会、長女優季、次女亜紗乃が姉妹同時出場をしました。
夫婦で海外で試合を見るのはその時が初めてでした。
旅費は娘が出してくれました、嬉しかったです。
私が亜紗乃の、妻が優季のユニホームのレプリカを着てスタジアムで見ていましたが、目立たないところにいましたが、パッと抜かれて私たち二人がビジョンに出ました。
それが国内に放送されていてびっくりしました。
その試合では指導者の目ではなく親の思いで娘しか見ていませんでした。
妹がグランドに駆け寄って、・・・優季の肩を抱える姿を見たときには・・・涙が出ました。(涙ぐんで言葉を詰まらせながら話す。)
自分の人生なのでやり切ってほしいなと思います、それが私からすればそれが一番の親孝行だと思います。
2019年10月13日日曜日
2019年10月12日土曜日
以倉紘平(詩人) ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本(初回:2018年12月15日)
以倉紘平(詩人) ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本
(初回:2018年12月15日)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_15.htmlをご覧ください。
(初回:2018年12月15日)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_15.htmlをご覧ください。
2019年10月11日金曜日
田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ
田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ
射撃は来年の東京オリンピックパラリンピックで埼玉県で開催される競技です。
田口さんは大阪府出身、25歳の時に脊髄の欠陥の病気を発症し車いす生活になりました。
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場アテネでは7位北京では8位に入賞しました。
現在は東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレーアンバサダーなども務めています。
テーマは「車いすからパラリンピック、そして2020年へ」
パラリンピック、身体障害者を対象にした競技大会では世界最高峰の障害者スポーツ大会でパラリンピックは同じ場所でオリンピックの後に夏も冬も行われることになっています。
卒業後客船飛鳥のパーサーとして働いていました。
25歳の時に突然身体全体に激痛が走り救急車で病院に運ばれました。
気づいたときには両足は動かなくなっていました。
原因がわからずいろんな検査を受けて1週間後に判明したのは、脊髄の中の血管が破裂して中枢神経を圧迫して胸椎の神経を傷つけたことが判明しました。
交通事故による脊髄損傷と同じものでした。
リハビリを一生懸命すれば元に戻れて船の仕事に復帰するんだと思っていたが、3か月後に脊髄損傷専門のリハビリのある病院に転院しましたが、いきなり医師から現在の医学では脊髄の中の神経は一旦切れてしまうとつなぐことはできない、君は一生歩けないよと言われてしまいました。
リハビリすれば歩けるんだと思っていたので最初は理解できませんでした。
車いすでのリハビリを受けることになりました。
辛かったのを覚えています。
どうやって生きていくんだろうと落ち込みました。
病院のベッドで暮らせばいいんだと思った時期もありましたが、友達が病院へ来てくれたり、飛鳥の同僚、船長が休暇の度にきてくれていろんな話をしてくれました。
みんな一日一日きらきらするように過ごしていて、自分としても何かしないともったいないなあと思いました。
退院後の車いすでのリハビリに励むようになりました。
ふたつの目標を決めました。
①車に乗る事
今は片道60km 車を運転して仕事場まで通っています。
②床から車いすに乗る事
穴が開いてたりして前の車輪がおちて転げ落ちたり、スロープの2~3cmの段差で前のめりに落ちてしまうことなどがあります。
段差は視覚障碍者にとっては歩道にいるのか、車道にいるのかのわかるようになっている。
外出して車椅子から落ちてしまったら、自力で載れるようにしないといけない。
あきらめきれず治るのではないかと4つの病院で1年半入院生活をしてから家での生活をすることになりました。
発病後2年半後仕事に復帰しました。(日本郵船)
飛鳥の会社の人たちが働ける場所を探してくれて、働く環境があったという事は恵まれていると思いました。
仕事で心掛けていることは手を抜かないという事です。
最初は周りの人が不安でいろいろ助けようとしていました。
今は私が言わない限りはだれも手伝わないです、私自身はそれでいいと思っています。
障害者にも権利と義務があると思います、自分でできることは自分でやらなければいけないと思っています。
できることがあるという事がうれしいし、やって行くとどんどん増えていきます。
仕事以外にも何かできることはないかなあと思って、以前リハビリで同じ病院にいた友達から誘われてビームライフルの教室に月に数回行くようになりました。
ビーム大会に出られるようになり優勝することができました。
実弾の銃、空気銃をやるようになりました。
国内大会に出たり世界大会に出場するようになりました。
世界大会でいい成績を収めるようになり、コーチからアテネパラリンピックに出られるかもしれないといわれました。
2年後のアテネパラリンピックに出るためには、3か月後の国内大会で上位になれたら海外遠征の日本代表に選ばれるんじゃないか、国際大会で上位の成績を収めたら世界ランキングが高くなるのではないかという事で、2年先のことを考えている自分にはっと驚きました。
それまでは先のことを考えることが怖かった。
前向きな自分になっていることに驚きました。
目標を持ったことで努力ができたんだなと思います。
周りのコーチ、監督、同僚友人、家族の支えがあったからできたんだと思います。
ピストルと、ライフルがありますが、私は屋内競技 10m先の標的を狙う空気銃、10点は0.5mmの点です、50分の間に60発撃ちますが、現在の世界のレベルでは60発全部を当てないとファイナルベスト8になれません。
もう一つ屋外競技、50m先の標的を狙うフリーライフル。
22口径の火薬の弾を使用する銃で、10,9,8点とありますが、10点圏は直径1、4cmで狙って打ちますが、60発中52発ぐらいは10点台に当てないといけない、残りは9点に当てないとファイナルベスト8に残れないです。
集中力、精神力が必要になってきます。
2020年に埼玉県で射撃が開催されます。
パラリンピックの原点は1948年ロンドンのオリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院で開催されました。
車いすスポーツ競技と言われている、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により始められました。
グットマン博士の言葉に「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という言葉があります。
当初は入院患者のみだったが、毎年開催されて国際大会になり、1960年、ローマでオリンピックが開催されたときに、第一回パラリンピックが開催されました。
1964年東京オリンピックが行われ第二回(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会)になりました。(パラリンピックが正式名称となった年です。)
その時には中村裕先生が尽力されました。
中村先生はストーク・マンデビル病院に留学して、スポーツを医療の中に取り入れて多くの脊髄損傷患者がリハビリの一環としてスポーツを行い、治療するのを目の当たりにして強い衝撃を受けました。
中村先生は日本でのパラリンピック開催を使命と考えて、開催の意義を説いて回って東京オリンピックの開催の後に開催されました。
東京パラリンピックを機に日本の障害者スポーツが広く認知され、普及し、障害者の自立や社会参加が考えられるようになりました。
2016年パラリンピックは159の国、地域難民選手団で、選手は4300名、22競技、528種目となりました。
国際パラリンピックの価値として
①勇気
②強い意志
③感動
④公平
2020大会 3つのコンセプト(オリンピック、パラリンピック)
①全員が自己ベスト
②多様性と調和
③未来への継承
アクセサビリティー 日本ではバリアフリーともいわれています。
WHOの調べでは世界の人口の10%は障害者だそうです。
妊婦、ベビーカーを押している人、けがをしている人、高齢者を含めると20%がアクセサビリティーが必要だといわれています。
ハード面のバリアーフリーとソフト面のバリアフリーは日本ではまだイコールではないのかなあと思います。
障害者用の駐車場、トイレなど健常者が使っているのを見ると外国人はびっくりすると思います。
お互いができることで尊重しあって思いやることが共生社会なのではないかと思います。
東京2020パラリンピック聖火リレーのコンセプトは「あなたはきっと誰かの光だ」です。
パラリンピック聖火リレーは初めて出会う3人がチームを組んでリレーを行います。
新しい出会いが共生社会につながるという期待を込めて3人で行います。
射撃は来年の東京オリンピックパラリンピックで埼玉県で開催される競技です。
田口さんは大阪府出身、25歳の時に脊髄の欠陥の病気を発症し車いす生活になりました。
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場アテネでは7位北京では8位に入賞しました。
現在は東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレーアンバサダーなども務めています。
テーマは「車いすからパラリンピック、そして2020年へ」
パラリンピック、身体障害者を対象にした競技大会では世界最高峰の障害者スポーツ大会でパラリンピックは同じ場所でオリンピックの後に夏も冬も行われることになっています。
卒業後客船飛鳥のパーサーとして働いていました。
25歳の時に突然身体全体に激痛が走り救急車で病院に運ばれました。
気づいたときには両足は動かなくなっていました。
原因がわからずいろんな検査を受けて1週間後に判明したのは、脊髄の中の血管が破裂して中枢神経を圧迫して胸椎の神経を傷つけたことが判明しました。
交通事故による脊髄損傷と同じものでした。
リハビリを一生懸命すれば元に戻れて船の仕事に復帰するんだと思っていたが、3か月後に脊髄損傷専門のリハビリのある病院に転院しましたが、いきなり医師から現在の医学では脊髄の中の神経は一旦切れてしまうとつなぐことはできない、君は一生歩けないよと言われてしまいました。
リハビリすれば歩けるんだと思っていたので最初は理解できませんでした。
車いすでのリハビリを受けることになりました。
辛かったのを覚えています。
どうやって生きていくんだろうと落ち込みました。
病院のベッドで暮らせばいいんだと思った時期もありましたが、友達が病院へ来てくれたり、飛鳥の同僚、船長が休暇の度にきてくれていろんな話をしてくれました。
みんな一日一日きらきらするように過ごしていて、自分としても何かしないともったいないなあと思いました。
退院後の車いすでのリハビリに励むようになりました。
ふたつの目標を決めました。
①車に乗る事
今は片道60km 車を運転して仕事場まで通っています。
②床から車いすに乗る事
穴が開いてたりして前の車輪がおちて転げ落ちたり、スロープの2~3cmの段差で前のめりに落ちてしまうことなどがあります。
段差は視覚障碍者にとっては歩道にいるのか、車道にいるのかのわかるようになっている。
外出して車椅子から落ちてしまったら、自力で載れるようにしないといけない。
あきらめきれず治るのではないかと4つの病院で1年半入院生活をしてから家での生活をすることになりました。
発病後2年半後仕事に復帰しました。(日本郵船)
飛鳥の会社の人たちが働ける場所を探してくれて、働く環境があったという事は恵まれていると思いました。
仕事で心掛けていることは手を抜かないという事です。
最初は周りの人が不安でいろいろ助けようとしていました。
今は私が言わない限りはだれも手伝わないです、私自身はそれでいいと思っています。
障害者にも権利と義務があると思います、自分でできることは自分でやらなければいけないと思っています。
できることがあるという事がうれしいし、やって行くとどんどん増えていきます。
仕事以外にも何かできることはないかなあと思って、以前リハビリで同じ病院にいた友達から誘われてビームライフルの教室に月に数回行くようになりました。
ビーム大会に出られるようになり優勝することができました。
実弾の銃、空気銃をやるようになりました。
国内大会に出たり世界大会に出場するようになりました。
世界大会でいい成績を収めるようになり、コーチからアテネパラリンピックに出られるかもしれないといわれました。
2年後のアテネパラリンピックに出るためには、3か月後の国内大会で上位になれたら海外遠征の日本代表に選ばれるんじゃないか、国際大会で上位の成績を収めたら世界ランキングが高くなるのではないかという事で、2年先のことを考えている自分にはっと驚きました。
それまでは先のことを考えることが怖かった。
前向きな自分になっていることに驚きました。
目標を持ったことで努力ができたんだなと思います。
周りのコーチ、監督、同僚友人、家族の支えがあったからできたんだと思います。
ピストルと、ライフルがありますが、私は屋内競技 10m先の標的を狙う空気銃、10点は0.5mmの点です、50分の間に60発撃ちますが、現在の世界のレベルでは60発全部を当てないとファイナルベスト8になれません。
もう一つ屋外競技、50m先の標的を狙うフリーライフル。
22口径の火薬の弾を使用する銃で、10,9,8点とありますが、10点圏は直径1、4cmで狙って打ちますが、60発中52発ぐらいは10点台に当てないといけない、残りは9点に当てないとファイナルベスト8に残れないです。
集中力、精神力が必要になってきます。
2020年に埼玉県で射撃が開催されます。
パラリンピックの原点は1948年ロンドンのオリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院で開催されました。
車いすスポーツ競技と言われている、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により始められました。
グットマン博士の言葉に「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という言葉があります。
当初は入院患者のみだったが、毎年開催されて国際大会になり、1960年、ローマでオリンピックが開催されたときに、第一回パラリンピックが開催されました。
1964年東京オリンピックが行われ第二回(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会)になりました。(パラリンピックが正式名称となった年です。)
その時には中村裕先生が尽力されました。
中村先生はストーク・マンデビル病院に留学して、スポーツを医療の中に取り入れて多くの脊髄損傷患者がリハビリの一環としてスポーツを行い、治療するのを目の当たりにして強い衝撃を受けました。
中村先生は日本でのパラリンピック開催を使命と考えて、開催の意義を説いて回って東京オリンピックの開催の後に開催されました。
東京パラリンピックを機に日本の障害者スポーツが広く認知され、普及し、障害者の自立や社会参加が考えられるようになりました。
2016年パラリンピックは159の国、地域難民選手団で、選手は4300名、22競技、528種目となりました。
国際パラリンピックの価値として
①勇気
②強い意志
③感動
④公平
2020大会 3つのコンセプト(オリンピック、パラリンピック)
①全員が自己ベスト
②多様性と調和
③未来への継承
アクセサビリティー 日本ではバリアフリーともいわれています。
WHOの調べでは世界の人口の10%は障害者だそうです。
妊婦、ベビーカーを押している人、けがをしている人、高齢者を含めると20%がアクセサビリティーが必要だといわれています。
ハード面のバリアーフリーとソフト面のバリアフリーは日本ではまだイコールではないのかなあと思います。
障害者用の駐車場、トイレなど健常者が使っているのを見ると外国人はびっくりすると思います。
お互いができることで尊重しあって思いやることが共生社会なのではないかと思います。
東京2020パラリンピック聖火リレーのコンセプトは「あなたはきっと誰かの光だ」です。
パラリンピック聖火リレーは初めて出会う3人がチームを組んでリレーを行います。
新しい出会いが共生社会につながるという期待を込めて3人で行います。
2019年10月10日木曜日
曽根原久司(農村社会づくりNPO代表) ・耕作放棄地をよみがえらせる
曽根原久司(農村社会づくりNPO代表) ・耕作放棄地をよみがえらせる
57歳、大学を卒業した後経営コンサルタントとして主に金融機関を対象に経営相談にあたってきました。
しかしバブル崩壊、経済がガタガタになると直感した曽根原さんは東京を離れ、山梨県北杜市に移り住みました。
農地を借りて野菜作りからスタート、その後都市と農村の交流を行いながら地域を活性化させようとNPO法人を設立しました。
このNPO法人で曽根原さんが力を入れてきたのが、高齢化や過疎化で耕作の担い手がいなくなった耕作放棄地を復活させる取り組みでした。
曽根原さんはどのように問題を取り組んで来たのか、そこにかけた意味合いを伺いました。
東京を離れて24年になりました。
山梨では耕作放棄地の開墾活動をやってきました。
企業の皆さんとその農地を活用するというプロジェクトを多くやっています。
大学時代は経済系の学校でしたが音楽浸けになっていました。
就職はしないで音楽をやりながらフリーターをやっていましたが、作曲、編曲、イベントなどもやったりしているうちに、経営コンサルタントの道を選びました。
最初は経営コンサルタントの企画会社に5年間就職して、その後独立しました。
銀行の経営コンサルタントの仕事が増えてきました。
当時経済バブルでその後バブル崩壊しました。
社会では表面化しないころ、不良債権問題がちらほら発生し始めたころから予兆を感じました。
日本の右肩上がりの経済成長はこれで収れんしたという直感がありました。
日本の右肩上がりの経済成長とは違った視点での働き方、暮らし方が必要だと思ってリサーチしました。
農村にある資源に着目しました。
日本の森林率は先進国中2,3位というデータがあったり、耕作放棄地の面積は数十万ヘクタールになったりしていて、東京都と大阪府の面積を足した面積に匹敵するという事も知りました。
自分自身が試してやってみようと思って移住地が山梨県となりました。
山梨県は日本の耕作放棄地が第2位でした。
高齢化のために農地が耕されなくなってしまった農地が沢山あります。
10,20年放棄されると木が生えてきたジャングルのようになってしまっている。
まず家を建てて、地元を観察して回りましたら、1/3が耕作放棄地になっていました。
荒れた耕作放棄地を借りて一人で復活させる活動を始めました。
木を伐採して、木の株を伐根する作業などをしました。
2ヘクタールを開墾して野菜や米を作る事から出発しました。
地域との関係が重要で、水田を行うためには共有の用水路の管理が必要です。
「組」に入ることを検討して、組長さんに相談に行ったら、新しく移住してくる人が増え始めたが、その人たちとの人間関係がうまくいっていなかったりしていて、逆に何とかならないかと相談を受けました。
移住者だけの組を新設して、既存のところに組み入れられないかという事を考えました。
新しい組が誕生しました。
新しい組も一緒に用水路の管理をするなどして関係性ができました。
移住後5,6年してから、隣町の役場の職員と知り合って、限界集落エリアがあり耕作放棄率が半分以上になっていて、集落が消滅する可能性があるので何とか力になってほしいという相談があり、新たに始まりました。
開墾ボランティア制度を考えてボランティアを集めました。
メディアにも取り上げられて、500人以上のボランティアの人たちが集まりました。
平均年齢が26,7歳で、若干女性が多く、東京、神奈川、埼玉、千葉のエリアから来た人が全体の8割でした。
就職飢餓期でもあり、社会から否定されるような思いもあり、自分探しというものが流行りました。
そんな若者たちが沢山訪れてきました。
空き家、空き施設が結構あったので、開墾に来てくれるのならただで泊まれます、開墾後は温泉に浸かってリフレッシュして帰れます、という事で開墾ボランティアを進めました。
参加者も私同様にはまっていました。
数年で4ヘクタール(野球場の4倍分ぐらい)を開墾しました。
開墾ではお金にはならないので、復活した農地を企業とのタイアップによって新たな経済を作れないか、考えました。
お菓子の会社の或る役員の人と話をして、社員が送り込まれてきて、復活した農地でその企業で使う農産物の栽培を始めました。
大豆を使った和菓子が開発されて大豆が利用されました。
その後さまざまな企業との連携が始まりました。
2008年に東京の大手不動産会社と提携し、耕作放棄地を開墾し、社員が農産物の栽培を経験、収穫して、新しい商品を開発する作業が始まっていきました。
ストレス解消、達成感も私と同様にどの企業の皆さんんも同じ感想を持ってもらいました。
様々な米の栽培、トウモロコシ、大豆などを栽培しました。
棚田エリアで酒米を作り、2社の酒蔵で純米酒、純米焼酎などを作り、好評です。
その後森林資源を活用するプロジェクトもやっています。
間伐材問題、間伐した材料が切りっぱなしになっていて、企業とタイアップして活用していこうとプロジェクトも進めています。
間伐材を使った一般住宅を建てて販売する。(国産材が80% 通常は10%ぐらい)
日本の農村、都会にはそれぞれニーズや課題があると思います。
農村の課題は過疎高齢化、担い手の減少など、都会の課題はストレス、メンタルなものなど、両者を助け掛けすることによってウインウインの関係が生まれてくると思っています。
24年間活動を行ってきたが、地域には素晴らしい資源があったという事を再認識されている事と思います。
人材育成が大切なんだという事を思っていて、起業家の育成(農村起業家)を課題として考えていて、広めていきたい。
10年前ぐらいから始めていまして教えた生徒は1000人ぐらいにはなり、その中で起業した人は200、300人ぐらいになりました。
日本の耕作放棄地、森林、空き家などを何らかの事業に成立したならば10兆円ぐらいになると思って活動しています。
57歳、大学を卒業した後経営コンサルタントとして主に金融機関を対象に経営相談にあたってきました。
しかしバブル崩壊、経済がガタガタになると直感した曽根原さんは東京を離れ、山梨県北杜市に移り住みました。
農地を借りて野菜作りからスタート、その後都市と農村の交流を行いながら地域を活性化させようとNPO法人を設立しました。
このNPO法人で曽根原さんが力を入れてきたのが、高齢化や過疎化で耕作の担い手がいなくなった耕作放棄地を復活させる取り組みでした。
曽根原さんはどのように問題を取り組んで来たのか、そこにかけた意味合いを伺いました。
東京を離れて24年になりました。
山梨では耕作放棄地の開墾活動をやってきました。
企業の皆さんとその農地を活用するというプロジェクトを多くやっています。
大学時代は経済系の学校でしたが音楽浸けになっていました。
就職はしないで音楽をやりながらフリーターをやっていましたが、作曲、編曲、イベントなどもやったりしているうちに、経営コンサルタントの道を選びました。
最初は経営コンサルタントの企画会社に5年間就職して、その後独立しました。
銀行の経営コンサルタントの仕事が増えてきました。
当時経済バブルでその後バブル崩壊しました。
社会では表面化しないころ、不良債権問題がちらほら発生し始めたころから予兆を感じました。
日本の右肩上がりの経済成長はこれで収れんしたという直感がありました。
日本の右肩上がりの経済成長とは違った視点での働き方、暮らし方が必要だと思ってリサーチしました。
農村にある資源に着目しました。
日本の森林率は先進国中2,3位というデータがあったり、耕作放棄地の面積は数十万ヘクタールになったりしていて、東京都と大阪府の面積を足した面積に匹敵するという事も知りました。
自分自身が試してやってみようと思って移住地が山梨県となりました。
山梨県は日本の耕作放棄地が第2位でした。
高齢化のために農地が耕されなくなってしまった農地が沢山あります。
10,20年放棄されると木が生えてきたジャングルのようになってしまっている。
まず家を建てて、地元を観察して回りましたら、1/3が耕作放棄地になっていました。
荒れた耕作放棄地を借りて一人で復活させる活動を始めました。
木を伐採して、木の株を伐根する作業などをしました。
2ヘクタールを開墾して野菜や米を作る事から出発しました。
地域との関係が重要で、水田を行うためには共有の用水路の管理が必要です。
「組」に入ることを検討して、組長さんに相談に行ったら、新しく移住してくる人が増え始めたが、その人たちとの人間関係がうまくいっていなかったりしていて、逆に何とかならないかと相談を受けました。
移住者だけの組を新設して、既存のところに組み入れられないかという事を考えました。
新しい組が誕生しました。
新しい組も一緒に用水路の管理をするなどして関係性ができました。
移住後5,6年してから、隣町の役場の職員と知り合って、限界集落エリアがあり耕作放棄率が半分以上になっていて、集落が消滅する可能性があるので何とか力になってほしいという相談があり、新たに始まりました。
開墾ボランティア制度を考えてボランティアを集めました。
メディアにも取り上げられて、500人以上のボランティアの人たちが集まりました。
平均年齢が26,7歳で、若干女性が多く、東京、神奈川、埼玉、千葉のエリアから来た人が全体の8割でした。
就職飢餓期でもあり、社会から否定されるような思いもあり、自分探しというものが流行りました。
そんな若者たちが沢山訪れてきました。
空き家、空き施設が結構あったので、開墾に来てくれるのならただで泊まれます、開墾後は温泉に浸かってリフレッシュして帰れます、という事で開墾ボランティアを進めました。
参加者も私同様にはまっていました。
数年で4ヘクタール(野球場の4倍分ぐらい)を開墾しました。
開墾ではお金にはならないので、復活した農地を企業とのタイアップによって新たな経済を作れないか、考えました。
お菓子の会社の或る役員の人と話をして、社員が送り込まれてきて、復活した農地でその企業で使う農産物の栽培を始めました。
大豆を使った和菓子が開発されて大豆が利用されました。
その後さまざまな企業との連携が始まりました。
2008年に東京の大手不動産会社と提携し、耕作放棄地を開墾し、社員が農産物の栽培を経験、収穫して、新しい商品を開発する作業が始まっていきました。
ストレス解消、達成感も私と同様にどの企業の皆さんんも同じ感想を持ってもらいました。
様々な米の栽培、トウモロコシ、大豆などを栽培しました。
棚田エリアで酒米を作り、2社の酒蔵で純米酒、純米焼酎などを作り、好評です。
その後森林資源を活用するプロジェクトもやっています。
間伐材問題、間伐した材料が切りっぱなしになっていて、企業とタイアップして活用していこうとプロジェクトも進めています。
間伐材を使った一般住宅を建てて販売する。(国産材が80% 通常は10%ぐらい)
日本の農村、都会にはそれぞれニーズや課題があると思います。
農村の課題は過疎高齢化、担い手の減少など、都会の課題はストレス、メンタルなものなど、両者を助け掛けすることによってウインウインの関係が生まれてくると思っています。
24年間活動を行ってきたが、地域には素晴らしい資源があったという事を再認識されている事と思います。
人材育成が大切なんだという事を思っていて、起業家の育成(農村起業家)を課題として考えていて、広めていきたい。
10年前ぐらいから始めていまして教えた生徒は1000人ぐらいにはなり、その中で起業した人は200、300人ぐらいになりました。
日本の耕作放棄地、森林、空き家などを何らかの事業に成立したならば10兆円ぐらいになると思って活動しています。
2019年10月9日水曜日
室屋義秀(エアレースパイロット) ・自分を制し世界で勝つ!
室屋義秀(エアレースパイロット) ・自分を制し世界で勝つ!
1973年奈良県生まれ、46歳、20年前から福島市を拠点にして操縦技術世界一を目指して練習を重ねてきたという事です。
出場していたエアレースは空のF1ともいわれるモータースポーツで世界のトップパイロットが時速370kmで飛ぶ小型機を巧みに操って、障害物を避けながら速さを競うものです。
アジアから唯一参戦していた室屋選手,2017年に世界チャンピオンに輝きました。
そのエアレースは先月千葉市で行われました、今回の最終戦を持ちまして大会の開催が終了しました。
最終戦に優勝し有終の美を飾った室屋さんですが、そこに至る道は借金や敗北など険しいものでした。
それらをどう克服してきたのか、今だから語れる本音や子どもたちへの将来の手助けになりたいという今後の活動について伺いました。
エアレースの最終戦、11年取り組んで最終戦も優勝できてほっとしています。
国内では各地でエアーショーもありますし、フライトの量としてはあまり変化はありませんが、海外への遠征は減ると思います。
飛行機の最高時速は370km、高さ25mの空気で膨らました障害物を巧みにかわしながら1分ぐらいのレースを世界14人のトップパイロットが繰り広げてゆく。
勝敗をわけるのが1/1000秒という言こともある、距離にしたら10cmになる。
飛行機の準備、自分のコンディション、緊張の度合いによって、1/100秒は簡単に変わる。
コンディションを10年以上保つというのは、基本的には休みが無い状態がずーと続いていました。
海外では空軍のパイロットなど、かなりいい環境があり、トレーニングを重ねてきているので、彼らよりは努力を3,4倍もトレーニング、準備を重ねてきました。
大学に進学して航空部に入って18歳の時にグライダーに乗りました。
20歳の時にアメリカに行って免許を取って、いろいろ飛行機を見たりする中で知らない世界を知りました。
1995年卒業の年に兵庫県の但馬空港でフライティングワールドカップという大会があり、最上級クラスのアクロバティック飛行を見て凄く衝撃を受けました。
自分も操縦士と目指すならこれだなと思いました。
バブルが崩壊して、エアラインパイロットの採用はゼロでした。
アメリカに渡って訓練をして日本でアルバイトをしてという事を2年間過ごして、その中で操縦技術を極めたいという事が明確になってきました。
25歳で日本に帰ってきました。
エアショーを生業として生きてゆく事は少なくて非常に難しい世界であることは判っていました。
福島にできた農道空港(ふくしまスカイパーク)が1998年にできて翌年ここを拠点にして活動を本格的にやる事にしました。
当時飛行機が無くて、個人機のオーナーもいて、その人たちに教えることができたので自分も勉強するという事が3年ぐらい続きました。
生活水準は非常に厳しくて、食べるのにも苦労しました。
中古機を3000万円で借金をして購入しました。
銀行は貸してくれないので、エアロバティック操縦技術で世界一になるという事を言っていたので、周りからお金を何とか借りました。
お金は返せないかもしれないとは言っていました。
2002年に購入して活動を始めましたが、飛行機を維持して飛ばしてゆく事は、購入前よりも厳しかったです。
2003年にはエアロバティックの世界選手権に挑戦しました。
2007年にスペインへ挑戦しましたが、スポンサーが本格的に付くようになってパイロットとして生活ができるようになりました。
2006年にデモストレーションをする機会を得て、スポンサーとなってくれる社長の目に留まって翌年の世界選手権への道が一気に広がりました。
2008年には10か月ヨーロッパでトレーニングをしていたので、周りは超一流の選手ですが、かなり行けるのではないかと思って2009年に参戦しました。
デビューの年はコースを飛びきるのがやっとで厳しかったです。
15名飛んだ中の14位でした。
2010年 機体の改良などもしましたが、最も戦えなかったです。
失敗したりして悩んでいたので、本を読んだりする中でメンタルトレーニングをすることになりました。
それまでは気合と根性で乗り切れると思って誤解していました。
どういうことをしたらいいのか、何が足りないのか、徹底的に見直してゆく事から始まりました。
能力、自信など丁寧に一個づつやってゆくわけです。
一日の人間の活動の中で余計なことを考えている時間が50%ぐらいあるらしいです。
余計な時間をいかに少なくして効率を上げてゆくか、朝考えてこれこれをこうするんだと明確にして、雑音に振り回されなくなるので一日の効率が良くなります。
それを毎日やるわけです。(30分ぐらいかけて考えをめぐらします。)
習慣になってくると気持ちいい一日が送れることが判ってきます。
自分のイメージ通りに飛ぶようになってくるし、チームの体制を含めて何が必要か明確になってくると、全部がゆっくり育ってゆくので実感できるようになりました。
2017年では年間総合優勝、操縦技術世界一になりました。
世界チャンピオンになるんだというイメージトレーニングはそれこそ何万回もしてきました。
福島県民栄誉賞をもらうことができました。
エアレースが無いのは一つのビックプロジェクトが終わって、エアショーは20年続けてきていますし、「空ラボ」という新しいプロジェクトもできて今後もフライトしてゆくと思います。
小学校3年生~中学校2年生まで、空に関心を持ってもらうためのものです。
グループとしてコミュニケーションをとって一つの目標に向かってどう進んでいくのかという事を学んでもらって、将来の自分探しをしてもらう事が大きなテーマです。
自分のやりたいことが判って来たら、生きてゆくきっかけになれればいいなと思っています。
自分が飛べる限りはエアショーは続けていきたいと思っています。
1973年奈良県生まれ、46歳、20年前から福島市を拠点にして操縦技術世界一を目指して練習を重ねてきたという事です。
出場していたエアレースは空のF1ともいわれるモータースポーツで世界のトップパイロットが時速370kmで飛ぶ小型機を巧みに操って、障害物を避けながら速さを競うものです。
アジアから唯一参戦していた室屋選手,2017年に世界チャンピオンに輝きました。
そのエアレースは先月千葉市で行われました、今回の最終戦を持ちまして大会の開催が終了しました。
最終戦に優勝し有終の美を飾った室屋さんですが、そこに至る道は借金や敗北など険しいものでした。
それらをどう克服してきたのか、今だから語れる本音や子どもたちへの将来の手助けになりたいという今後の活動について伺いました。
エアレースの最終戦、11年取り組んで最終戦も優勝できてほっとしています。
国内では各地でエアーショーもありますし、フライトの量としてはあまり変化はありませんが、海外への遠征は減ると思います。
飛行機の最高時速は370km、高さ25mの空気で膨らました障害物を巧みにかわしながら1分ぐらいのレースを世界14人のトップパイロットが繰り広げてゆく。
勝敗をわけるのが1/1000秒という言こともある、距離にしたら10cmになる。
飛行機の準備、自分のコンディション、緊張の度合いによって、1/100秒は簡単に変わる。
コンディションを10年以上保つというのは、基本的には休みが無い状態がずーと続いていました。
海外では空軍のパイロットなど、かなりいい環境があり、トレーニングを重ねてきているので、彼らよりは努力を3,4倍もトレーニング、準備を重ねてきました。
大学に進学して航空部に入って18歳の時にグライダーに乗りました。
20歳の時にアメリカに行って免許を取って、いろいろ飛行機を見たりする中で知らない世界を知りました。
1995年卒業の年に兵庫県の但馬空港でフライティングワールドカップという大会があり、最上級クラスのアクロバティック飛行を見て凄く衝撃を受けました。
自分も操縦士と目指すならこれだなと思いました。
バブルが崩壊して、エアラインパイロットの採用はゼロでした。
アメリカに渡って訓練をして日本でアルバイトをしてという事を2年間過ごして、その中で操縦技術を極めたいという事が明確になってきました。
25歳で日本に帰ってきました。
エアショーを生業として生きてゆく事は少なくて非常に難しい世界であることは判っていました。
福島にできた農道空港(ふくしまスカイパーク)が1998年にできて翌年ここを拠点にして活動を本格的にやる事にしました。
当時飛行機が無くて、個人機のオーナーもいて、その人たちに教えることができたので自分も勉強するという事が3年ぐらい続きました。
生活水準は非常に厳しくて、食べるのにも苦労しました。
中古機を3000万円で借金をして購入しました。
銀行は貸してくれないので、エアロバティック操縦技術で世界一になるという事を言っていたので、周りからお金を何とか借りました。
お金は返せないかもしれないとは言っていました。
2002年に購入して活動を始めましたが、飛行機を維持して飛ばしてゆく事は、購入前よりも厳しかったです。
2003年にはエアロバティックの世界選手権に挑戦しました。
2007年にスペインへ挑戦しましたが、スポンサーが本格的に付くようになってパイロットとして生活ができるようになりました。
2006年にデモストレーションをする機会を得て、スポンサーとなってくれる社長の目に留まって翌年の世界選手権への道が一気に広がりました。
2008年には10か月ヨーロッパでトレーニングをしていたので、周りは超一流の選手ですが、かなり行けるのではないかと思って2009年に参戦しました。
デビューの年はコースを飛びきるのがやっとで厳しかったです。
15名飛んだ中の14位でした。
2010年 機体の改良などもしましたが、最も戦えなかったです。
失敗したりして悩んでいたので、本を読んだりする中でメンタルトレーニングをすることになりました。
それまでは気合と根性で乗り切れると思って誤解していました。
どういうことをしたらいいのか、何が足りないのか、徹底的に見直してゆく事から始まりました。
能力、自信など丁寧に一個づつやってゆくわけです。
一日の人間の活動の中で余計なことを考えている時間が50%ぐらいあるらしいです。
余計な時間をいかに少なくして効率を上げてゆくか、朝考えてこれこれをこうするんだと明確にして、雑音に振り回されなくなるので一日の効率が良くなります。
それを毎日やるわけです。(30分ぐらいかけて考えをめぐらします。)
習慣になってくると気持ちいい一日が送れることが判ってきます。
自分のイメージ通りに飛ぶようになってくるし、チームの体制を含めて何が必要か明確になってくると、全部がゆっくり育ってゆくので実感できるようになりました。
2017年では年間総合優勝、操縦技術世界一になりました。
世界チャンピオンになるんだというイメージトレーニングはそれこそ何万回もしてきました。
福島県民栄誉賞をもらうことができました。
エアレースが無いのは一つのビックプロジェクトが終わって、エアショーは20年続けてきていますし、「空ラボ」という新しいプロジェクトもできて今後もフライトしてゆくと思います。
小学校3年生~中学校2年生まで、空に関心を持ってもらうためのものです。
グループとしてコミュニケーションをとって一つの目標に向かってどう進んでいくのかという事を学んでもらって、将来の自分探しをしてもらう事が大きなテーマです。
自分のやりたいことが判って来たら、生きてゆくきっかけになれればいいなと思っています。
自分が飛べる限りはエアショーは続けていきたいと思っています。
2019年10月8日火曜日
横山泰賢(大本山永平寺 国際参禅部長) ・禅僧が聞いた元戦闘員の苦しみ
横山泰賢(大本山永平寺 国際参禅部長) ・禅僧が聞いた元戦闘員の苦しみ
53歳、現在国際参禅部長を務める横山さんはこれまで世界各地の禅寺を訪問して、禅の教えを伝える中でかつて戦争や紛争の最前線で戦った元戦闘員たちに出会いました。
座禅を通して打ち溶けていった彼らは戦地から帰ってからも消えることのない心の苦しみを吐露するようになったといいます。
元戦闘員たちの告白を通して私たちは何を学ぶことができるのか伺いました。
15年、アメリカ、イタリア、フランスに行きました。
ニューヨークに居たときに、そこのお寺に住み込んで修行していた人で、医師になりたくて政府が医学部を卒業するまで学費を政府が出してくれるシステムがあり、学費が欲しくて衛生兵としてベトナムに従軍する訳ですが、ある村に駐在しているときに伝染病が蔓延してゆき、子どもに予防注射をすることになって、予防注射をすると翌日腕を切り取られていた。
アメリカ軍の駐留を村が受け入れるとこうなるよと、見せしめになったのかもしれない。
その後医学部に行って医師になりますが、自分が戦地で体験した事、何の戦争をしているのかわからない、自分が良かれとやってもその子は腕をとられてしまった。
医師として携わってきたが、物凄くトラウマを抱えながら医療に従事してゆく事すら疑問を感じるようになった。
そこで禅と出会い、私と話をすることになりました。
それとどう向き合うべきか気づくことができたのではないかと思います。
やはりベトナム戦争に行った人で暗い人で、悩んで苦しんで、苦しみからどうやったら解放されるのか、という事でお寺に来られました。
町の中にいる時寄ってくる子どもがいて、その子をかわいがっていたが、その子がある日突然箱を持ってきて笑顔で渡された。
友人が箱を開けようとしたら爆発して友人は亡くなり、たまたま離れていたのでその人は助かった。
あんなにかわいい子で気持ちが通じ合っていたと思っていたが、その子がそういうことをしたという事がショックで、又自分の戦友が戦闘ではなくてそういう事で亡くなったというショックで、聞いてほしいという事で話をし始めました。
兎に角聞くしかなかった。
1995,6年ごろの話です、ベトナム戦争が終わって30年ぐらいたっているころです。
長い間悩んでいて、本を読んだりいろんなことをやってきたんだと思いますが悩みが解放するに至らなかった。
座禅を組んでいる間は物を言わないから、一緒に座禅を組んで修行をしたり仏教の勉強をしているうちに心を開いてきて悩みだとかを話し始めるという、自然の流れの中でそういう事が行われる。
こちらから聞き出そうという思いがあると、苦しんだり悩んでいる人は言いづらい、なかなか心を開いてくれないんじゃないのかなあとは後で感じました。
座禅の実践がそういった方々の心を開いてくれる。
聞いた内容から私が学ぶ方が多かったと思います。
永平寺で修行をしてその後副住職になったとき、お檀家さんを訪ねていくわけですが、命日にある家に行ってお経をあげたときに、奥さんが急にご自分が原爆で両親家族全員なくしてしまって一人ぼっちになって、他人に育てられて苦労したという事を話してくれました。
何故話してくれるのか、何か求めておられているのかなあと思って、お釈迦様はこういう風に言われています、道元様はこうおっしゃっていますと理屈を申し上げたら、その方は泣き始めて最後に、「和尚さんはまだ若いからわからないんだ」と言われショックでした。
人の苦しみ悲しみが判らないで私はいったい何の勉強をして何の修業をしてきたんだろうと思い始めました。
そのまま住職になる訳にはいかないと思いました。
周りの人が心を開き始めたらまず聞こうという事がまず自分にとって大切なことなんだろうという事はよく心の中で自分自身に言い聞かせていたことはあります。
私は広島で育っていて、自分のお寺も爆心から1kmのところにあるので、原爆で焼けて当時お寺もなくなっています。
母親が一人娘で当時5歳で、両親とそのお寺で過ごしていました。
ぴかっと光ってドーンと来た時に、本堂も庫裡も全部倒れたが、たまたま助かって両親もがれきから這い出してきて、郊外へのがれました。
両親はお寺があったところに戻ってきてしまい、祖母(母の母親)は1か月後に原爆症で亡くなっていきました。
祖父(母の父親)はその後9年間生きていましたが、放射能のせいだとおもいますが背中に大きなこぶができて母が中学生の時に亡くなりました。
母はあまり語りませんでした。
お寺と原爆の関係を知っていた或るお寺のお弟子さんが、或るとき突然自分の父が広島に原爆を落とした飛行機の搭乗員だったという話を食事の場でしました。
言わないと苦しいからという事で話をしたという事でした。
その搭乗員だったという事でその父はどんどん出世をして基地も変わってゆき、そのたびに転校しなくては行けなくて、友達ができてもすぐ分かれなければいけないのでつらかったと言っていました。
元になっているのは爆弾で30万人ぐらいを殺している、というのが彼女のトラウマになっていたそうです。
戦争に行っている、戦災にあったというだけではなくてその家族も或る意味被害者だと思います。
彼女には恨みも何も感じないです、父親に出会っても同様だと思います。
恨みは恨みを持って消せることはできない、恨み以外のものによってのみ恨みを消すことができるという一節があります。
戦争で人を殺してしまうという事はそこには家族もあり、その奥さん、子どもは自分と同じ気持ちなんだと思うと、許す以外に方法はないでしょう。
自分が絶対正しいという価値観に基づいて、夫婦でも「あなたそれ何」という部分が出てくる、その時に喧嘩になるがどんどん大きくなったのが戦争です。
そのもとは私たちの生活の中にあり、人としてそういうものを持ち合わせてしまっている。
カッとなるときもどうしてもあるが、そのつど自分に反省するわけですが、その繰り返しをやっているわけです。
戦争は勝っても負けても人の心を間違いなく傷つけてしまう。
戦争をしても根本的解決は何もできない、人が苦しむだけ傷つくだけ。
座禅というものは何か目的をもって実践するものではない。
動機はそれぞれありますが、座禅を組み始めたらそうした動機も全部手放して座る。
そうしないと座禅を組もうと思った動機がずーっと頭の中で働いて座禅にはならない。
戦争は人を傷つけて大変なことだという事は勿論伝えていかなくてはいけないが、今の時代、今の世界に生きている人たちのこの現状において向き合わなければいけない問題、苦しみ悩みは一杯あると思うので、昔と変わらないと思う。
今向き合っている問題を通して同じことを学んでもらうためには、どうすればいいかという方向に私は行ってしまいます。
社会問題と向き合う中に、それが苦しみになっている人とそうでない人とがいる。
それがトラウマになってうつ病になる人もいるが、自死を試みようとする人もその中にはいると思う。
そこまで行くとその人たちの苦しみは同じだと思います。
戦争はそれが自分たちが日々生活している中で向き合っている問題、いわゆる自分たちの悩みや苦しみとどう関係があるかという事です。
元にあるものは人が作り出す幸、不幸も全部ひっくるめて人が作り出すものは何も変わらないものが元にあるんだという事で、それとどう向き合っていくか。
一人づつの人がそれとの向き合いを判ってゆけば、2人、10人、100人・・・1万人になりという風になってゆけば世の中はよくなっていくんじゃないですかね。
日本は平和がゆえに危機感がないといわれる。
両面が常にあるという事を我々は理解しないといけない
「生死」 生と死を切り離して別個に見ない。
我々は危うい命を生きている。
平和への思いというのは、世の中を平和にしようと思ったらまずは自分から、自分の心が穏やかで平和に生きているのか、そこからだと思います。
カッとなるときもあるかもしれないが、自分を振り返る。
「回向返照の退歩を学すべし」と道元禅師はいっています。
前に進めばっかりではなくて後ろに下がれと言っています。
後ろに下がって自分自身をもう一度照らし見る。
自分自身が心穏やかに平和に生きてゆくにはどう自分と向き合うか、どうすべてのことに向き合っていかなければいけないか、そこだと思います。
53歳、現在国際参禅部長を務める横山さんはこれまで世界各地の禅寺を訪問して、禅の教えを伝える中でかつて戦争や紛争の最前線で戦った元戦闘員たちに出会いました。
座禅を通して打ち溶けていった彼らは戦地から帰ってからも消えることのない心の苦しみを吐露するようになったといいます。
元戦闘員たちの告白を通して私たちは何を学ぶことができるのか伺いました。
15年、アメリカ、イタリア、フランスに行きました。
ニューヨークに居たときに、そこのお寺に住み込んで修行していた人で、医師になりたくて政府が医学部を卒業するまで学費を政府が出してくれるシステムがあり、学費が欲しくて衛生兵としてベトナムに従軍する訳ですが、ある村に駐在しているときに伝染病が蔓延してゆき、子どもに予防注射をすることになって、予防注射をすると翌日腕を切り取られていた。
アメリカ軍の駐留を村が受け入れるとこうなるよと、見せしめになったのかもしれない。
その後医学部に行って医師になりますが、自分が戦地で体験した事、何の戦争をしているのかわからない、自分が良かれとやってもその子は腕をとられてしまった。
医師として携わってきたが、物凄くトラウマを抱えながら医療に従事してゆく事すら疑問を感じるようになった。
そこで禅と出会い、私と話をすることになりました。
それとどう向き合うべきか気づくことができたのではないかと思います。
やはりベトナム戦争に行った人で暗い人で、悩んで苦しんで、苦しみからどうやったら解放されるのか、という事でお寺に来られました。
町の中にいる時寄ってくる子どもがいて、その子をかわいがっていたが、その子がある日突然箱を持ってきて笑顔で渡された。
友人が箱を開けようとしたら爆発して友人は亡くなり、たまたま離れていたのでその人は助かった。
あんなにかわいい子で気持ちが通じ合っていたと思っていたが、その子がそういうことをしたという事がショックで、又自分の戦友が戦闘ではなくてそういう事で亡くなったというショックで、聞いてほしいという事で話をし始めました。
兎に角聞くしかなかった。
1995,6年ごろの話です、ベトナム戦争が終わって30年ぐらいたっているころです。
長い間悩んでいて、本を読んだりいろんなことをやってきたんだと思いますが悩みが解放するに至らなかった。
座禅を組んでいる間は物を言わないから、一緒に座禅を組んで修行をしたり仏教の勉強をしているうちに心を開いてきて悩みだとかを話し始めるという、自然の流れの中でそういう事が行われる。
こちらから聞き出そうという思いがあると、苦しんだり悩んでいる人は言いづらい、なかなか心を開いてくれないんじゃないのかなあとは後で感じました。
座禅の実践がそういった方々の心を開いてくれる。
聞いた内容から私が学ぶ方が多かったと思います。
永平寺で修行をしてその後副住職になったとき、お檀家さんを訪ねていくわけですが、命日にある家に行ってお経をあげたときに、奥さんが急にご自分が原爆で両親家族全員なくしてしまって一人ぼっちになって、他人に育てられて苦労したという事を話してくれました。
何故話してくれるのか、何か求めておられているのかなあと思って、お釈迦様はこういう風に言われています、道元様はこうおっしゃっていますと理屈を申し上げたら、その方は泣き始めて最後に、「和尚さんはまだ若いからわからないんだ」と言われショックでした。
人の苦しみ悲しみが判らないで私はいったい何の勉強をして何の修業をしてきたんだろうと思い始めました。
そのまま住職になる訳にはいかないと思いました。
周りの人が心を開き始めたらまず聞こうという事がまず自分にとって大切なことなんだろうという事はよく心の中で自分自身に言い聞かせていたことはあります。
私は広島で育っていて、自分のお寺も爆心から1kmのところにあるので、原爆で焼けて当時お寺もなくなっています。
母親が一人娘で当時5歳で、両親とそのお寺で過ごしていました。
ぴかっと光ってドーンと来た時に、本堂も庫裡も全部倒れたが、たまたま助かって両親もがれきから這い出してきて、郊外へのがれました。
両親はお寺があったところに戻ってきてしまい、祖母(母の母親)は1か月後に原爆症で亡くなっていきました。
祖父(母の父親)はその後9年間生きていましたが、放射能のせいだとおもいますが背中に大きなこぶができて母が中学生の時に亡くなりました。
母はあまり語りませんでした。
お寺と原爆の関係を知っていた或るお寺のお弟子さんが、或るとき突然自分の父が広島に原爆を落とした飛行機の搭乗員だったという話を食事の場でしました。
言わないと苦しいからという事で話をしたという事でした。
その搭乗員だったという事でその父はどんどん出世をして基地も変わってゆき、そのたびに転校しなくては行けなくて、友達ができてもすぐ分かれなければいけないのでつらかったと言っていました。
元になっているのは爆弾で30万人ぐらいを殺している、というのが彼女のトラウマになっていたそうです。
戦争に行っている、戦災にあったというだけではなくてその家族も或る意味被害者だと思います。
彼女には恨みも何も感じないです、父親に出会っても同様だと思います。
恨みは恨みを持って消せることはできない、恨み以外のものによってのみ恨みを消すことができるという一節があります。
戦争で人を殺してしまうという事はそこには家族もあり、その奥さん、子どもは自分と同じ気持ちなんだと思うと、許す以外に方法はないでしょう。
自分が絶対正しいという価値観に基づいて、夫婦でも「あなたそれ何」という部分が出てくる、その時に喧嘩になるがどんどん大きくなったのが戦争です。
そのもとは私たちの生活の中にあり、人としてそういうものを持ち合わせてしまっている。
カッとなるときもどうしてもあるが、そのつど自分に反省するわけですが、その繰り返しをやっているわけです。
戦争は勝っても負けても人の心を間違いなく傷つけてしまう。
戦争をしても根本的解決は何もできない、人が苦しむだけ傷つくだけ。
座禅というものは何か目的をもって実践するものではない。
動機はそれぞれありますが、座禅を組み始めたらそうした動機も全部手放して座る。
そうしないと座禅を組もうと思った動機がずーっと頭の中で働いて座禅にはならない。
戦争は人を傷つけて大変なことだという事は勿論伝えていかなくてはいけないが、今の時代、今の世界に生きている人たちのこの現状において向き合わなければいけない問題、苦しみ悩みは一杯あると思うので、昔と変わらないと思う。
今向き合っている問題を通して同じことを学んでもらうためには、どうすればいいかという方向に私は行ってしまいます。
社会問題と向き合う中に、それが苦しみになっている人とそうでない人とがいる。
それがトラウマになってうつ病になる人もいるが、自死を試みようとする人もその中にはいると思う。
そこまで行くとその人たちの苦しみは同じだと思います。
戦争はそれが自分たちが日々生活している中で向き合っている問題、いわゆる自分たちの悩みや苦しみとどう関係があるかという事です。
元にあるものは人が作り出す幸、不幸も全部ひっくるめて人が作り出すものは何も変わらないものが元にあるんだという事で、それとどう向き合っていくか。
一人づつの人がそれとの向き合いを判ってゆけば、2人、10人、100人・・・1万人になりという風になってゆけば世の中はよくなっていくんじゃないですかね。
日本は平和がゆえに危機感がないといわれる。
両面が常にあるという事を我々は理解しないといけない
「生死」 生と死を切り離して別個に見ない。
我々は危うい命を生きている。
平和への思いというのは、世の中を平和にしようと思ったらまずは自分から、自分の心が穏やかで平和に生きているのか、そこからだと思います。
カッとなるときもあるかもしれないが、自分を振り返る。
「回向返照の退歩を学すべし」と道元禅師はいっています。
前に進めばっかりではなくて後ろに下がれと言っています。
後ろに下がって自分自身をもう一度照らし見る。
自分自身が心穏やかに平和に生きてゆくにはどう自分と向き合うか、どうすべてのことに向き合っていかなければいけないか、そこだと思います。
2019年10月7日月曜日
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
ほむほむ賞 「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」
(ゾンビーナさん) (正しい文字ではないかもしれません。)
セミが背景にいて自分と一緒にさよならを聞いてしまう不思議な力が宿ていると思いました。
短歌を始めたばっかりの頃に読んでいた、初めに手に取った歌集、歌人の作品て、塚本邦雄さんと寺山修司さんでした。
岡井隆さんを加えた3人が前衛短歌の三羽烏と言われて、1960年代に活躍されていました。
憧れて読んでいた歌を紹介したいと思います。
塚本邦雄、1920年滋賀県生まれ、高校卒業後商社に勤め兄の影響で短歌を作るようになる。
戦後になって歌人の前川 佐美雄に師事、一緒に同人誌を始めた杉原一司が早くに亡くなり、追悼して書いたのが第一歌集『水葬物語』1951年出版、絶賛されて本格的に歌人スタートする。
1960年代に前衛短歌運動の中心となり1985年に自らの短歌結社『玲瓏』を設立。
1990年からは近畿大学の教授となり2005年に亡くなりました。
短歌は普通古風で和風だが、彼のはモダンな世界。
当時の最先端が塚本さんでした。
絵画映像、音楽、俳句とか他ジャンルからの摂取が強かった方です。
我々にとってはなじみやすい感じがしました。
当時はとても自分ではできるとは思わなかった。(大学時代)
「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄
とても短歌とは思えなかった、求人広告の文体だった。
ある種のラブレターのようになっている、志をともにする同士を求めるようなイメージだと思う。
「桃色の踵」が面白い。
これが短歌だといわれたときは驚きでした。
「天正十年六月二日けぶれるは信長が薔薇色のくるぶし」 塚本邦雄
本能寺の変 火を放たれて炎の中で戦っているイメージだと思う。
信長の足元 低いアングル、映画とかが開発されて以降のアングルだと思う。
通常のリアリズムではない、これもびっくりしました。
「愛は生くるかぎりの罰と夕映えの我のふとももまで罌粟の丈」 塚本邦雄
愛は我々が生きている限りの宿命的な罰という様なとらえ方で、夕映えのケシ畑の中に一人で自分が立っている。
夕映えも赤く、ケシの花も赤だと思う。
ケシの花も危険なイメージがあり、自分の運命や生きることの燃えるような感覚、愛は我々が与えられた罰なんだといわれたときに裏返されたロマンのようなものがある。
許されない愛、罰をあたえられるような愛の方がより盛り上がることがある。
寺山修司、1935年青森県生まれ。
中学生のころから俳句、短歌、詩を作り始め早稲田大学に入学してからは熱心に短歌に取り組むようになりました。
短歌研究の編集長だった中井英夫に絶賛されます。
その後病気になり長期入院して大学は中退するが、ラジオドラマ、戯曲、評論などの執筆を始め1967年に横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。
1983年 47歳で亡くなりました。
「売りに行く柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野行くとき」 寺山修司
演劇的ですかね。
ジャンルを駆け抜けていったときにイメージは共通なものを彼は持っている。
初期が短歌だった。
時計が鳴ることによってより孤独な感じが伝わってくる。
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」 寺山修司
リアリズム的ではない、演劇的。
寺山の我はディレクターの位置、舞台の下にいて指示を出していて、舞台には少女役の少女と、我役の若者で麦藁帽を寺山には分っている。
脚本を書いているので少女は海を知らないという事も判っている。
神様の視点で、脚本家、監督の視点で作られていると後からわかってきた。
「無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として」 寺山修司
無名のまま夭折してしまったら、その星のなかにまぎれてしまう、という。
或る意味この言葉の使い方もなんか残酷なみずみずしさがある。
寺山は無名で死ぬことには耐えられなかったと思う。
寺山の不安というのか、この歌には出ていると思う。
残酷な美学という様なものを塚本邦雄、寺山修司の二人には共通しているような気がします。
塚本邦雄、寺山修司とか最初にあこがれたものの刷り込みって消え無くて、影響されます。
私という一人称の可能性を拡大したもうちょっと実際に体験しないことを書いてもいいとか、フィクションの魅力があってもいいとか、言葉のレベルでもっと自由に作っていいみたいな、そういうことをためらわずにやってもいいという感覚、革命幻想の時代だから。そして戦争の傷跡がこの二人にあり、それを判らないまま、勝手に思い込んでしまっていたことがあります。
ほむほむ賞 「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」
(ゾンビーナさん) (正しい文字ではないかもしれません。)
セミが背景にいて自分と一緒にさよならを聞いてしまう不思議な力が宿ていると思いました。
短歌を始めたばっかりの頃に読んでいた、初めに手に取った歌集、歌人の作品て、塚本邦雄さんと寺山修司さんでした。
岡井隆さんを加えた3人が前衛短歌の三羽烏と言われて、1960年代に活躍されていました。
憧れて読んでいた歌を紹介したいと思います。
塚本邦雄、1920年滋賀県生まれ、高校卒業後商社に勤め兄の影響で短歌を作るようになる。
戦後になって歌人の前川 佐美雄に師事、一緒に同人誌を始めた杉原一司が早くに亡くなり、追悼して書いたのが第一歌集『水葬物語』1951年出版、絶賛されて本格的に歌人スタートする。
1960年代に前衛短歌運動の中心となり1985年に自らの短歌結社『玲瓏』を設立。
1990年からは近畿大学の教授となり2005年に亡くなりました。
短歌は普通古風で和風だが、彼のはモダンな世界。
当時の最先端が塚本さんでした。
絵画映像、音楽、俳句とか他ジャンルからの摂取が強かった方です。
我々にとってはなじみやすい感じがしました。
当時はとても自分ではできるとは思わなかった。(大学時代)
「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄
とても短歌とは思えなかった、求人広告の文体だった。
ある種のラブレターのようになっている、志をともにする同士を求めるようなイメージだと思う。
「桃色の踵」が面白い。
これが短歌だといわれたときは驚きでした。
「天正十年六月二日けぶれるは信長が薔薇色のくるぶし」 塚本邦雄
本能寺の変 火を放たれて炎の中で戦っているイメージだと思う。
信長の足元 低いアングル、映画とかが開発されて以降のアングルだと思う。
通常のリアリズムではない、これもびっくりしました。
「愛は生くるかぎりの罰と夕映えの我のふとももまで罌粟の丈」 塚本邦雄
愛は我々が生きている限りの宿命的な罰という様なとらえ方で、夕映えのケシ畑の中に一人で自分が立っている。
夕映えも赤く、ケシの花も赤だと思う。
ケシの花も危険なイメージがあり、自分の運命や生きることの燃えるような感覚、愛は我々が与えられた罰なんだといわれたときに裏返されたロマンのようなものがある。
許されない愛、罰をあたえられるような愛の方がより盛り上がることがある。
寺山修司、1935年青森県生まれ。
中学生のころから俳句、短歌、詩を作り始め早稲田大学に入学してからは熱心に短歌に取り組むようになりました。
短歌研究の編集長だった中井英夫に絶賛されます。
その後病気になり長期入院して大学は中退するが、ラジオドラマ、戯曲、評論などの執筆を始め1967年に横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。
1983年 47歳で亡くなりました。
「売りに行く柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野行くとき」 寺山修司
演劇的ですかね。
ジャンルを駆け抜けていったときにイメージは共通なものを彼は持っている。
初期が短歌だった。
時計が鳴ることによってより孤独な感じが伝わってくる。
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」 寺山修司
リアリズム的ではない、演劇的。
寺山の我はディレクターの位置、舞台の下にいて指示を出していて、舞台には少女役の少女と、我役の若者で麦藁帽を寺山には分っている。
脚本を書いているので少女は海を知らないという事も判っている。
神様の視点で、脚本家、監督の視点で作られていると後からわかってきた。
「無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として」 寺山修司
無名のまま夭折してしまったら、その星のなかにまぎれてしまう、という。
或る意味この言葉の使い方もなんか残酷なみずみずしさがある。
寺山は無名で死ぬことには耐えられなかったと思う。
寺山の不安というのか、この歌には出ていると思う。
残酷な美学という様なものを塚本邦雄、寺山修司の二人には共通しているような気がします。
塚本邦雄、寺山修司とか最初にあこがれたものの刷り込みって消え無くて、影響されます。
私という一人称の可能性を拡大したもうちょっと実際に体験しないことを書いてもいいとか、フィクションの魅力があってもいいとか、言葉のレベルでもっと自由に作っていいみたいな、そういうことをためらわずにやってもいいという感覚、革命幻想の時代だから。そして戦争の傷跡がこの二人にあり、それを判らないまま、勝手に思い込んでしまっていたことがあります。
2019年10月6日日曜日
若本規夫(声優) ・【時代を創った声】
若本規夫(声優) ・【時代を創った声】
73歳、アニメサザエさんのマスオさんの会社の同僚、穴子さんや、カツオの同級生花沢さんのお父さんなどを始め、名わき役として知られています。
多くのナレーションやゲームに出演しています。
そんな若本さんがブレークしたのは実は50歳を過ぎてから。
それまでの自分の演技や話し方を徹底的に見直したという若本さんに伺いました。
もうすぐ声優人生50年というところです。
アニメ『サザエさん』のほかに『ドラゴンボールZ』、『北斗の拳』などでも活躍しています。
ゲームの出演が多いです、悪役です。
悪役は難しい、個性がないといけない。
呼吸がまず違います、荒くなる。
声は身体の呼吸から出てくるから、呼吸が変わらなければ多彩な役は演じられないという事はある。
訓練、修行は7割ぐらいが呼吸です。
気取ると、気取った分だけリアリティーがなくなる。
ルーツはリアリティーがないと、それは地べたの喋り方(自分のもっている喋り)です。
大阪育ち、早稲田大学法学部卒業。
ひそかに思ったのは大学院に行きたかったが、10月に受けたがこの成績ではだめだといわれた。
警察官募集のポスターがあり、11月1日が募集日で応募して採用通知が来て4月1日入りました。
交番勤務となったが、警察学校含めて1年半でやめてしまった。
日本消費者連盟のところにいって、そこでも2年ぐらいでやめてしまった。
黒沢良さんが声優を養成しようとしてオーディションがあり、これだと思いました。
25,6歳の時で周りはみんな若かった。
20人募集だったが大勢来ていて駄目かなあと思っていた。
10日ぐらいしてから合格通知が来ました。
ほかの人は全部バツだったが、養成所の最高権力者だった東北新社の中野寛次さんだけが僕を拾ってくれました。
その人がいなかったら今の僕はいなかったです。
当初は右も左も判らず苦労しました。
呼吸のことが判っててくるまで、20年、25年かかりました。
アメリカの歌手でスーザン・オズボーンという人が1年に一回ぐらい歌手に教えに来るという事で聞きに行きました。
「歌というものはため息ですよ、ため息が混ざらなないと歌にならない」というんです。
そのことがきっかけになり息と声をどういう風に混ぜればいいか考えましたが、教えてくれる人は日本にはいなかった。
当時は仕事に行き詰っていました。
新規の仕事が入らなくなりました。
自分の演技を聞いてみたらこれではだめだと思いました、リアリティーがなかった。
イタリアのトランペットの人のインタビュー記事を読んだら、「トップに上り詰めるためには気の遠くなるような毎日の練習が必要だ。・・・毎日8~9時間練習を繰りす。・・・」
この記事を読んで今までの練習は遊びのような感じでした。
今でも休みの日は6時間ぐらいはやります。
いろんな方法を抽出してやってきました。
好きなことをやって嫌なことはやらないようにしました。
声優というのは単なる声を操っているだけではだめだと認識しました。
生きている声なのか死んでいる声なのか、中間は無い。
頑張れるのは、究極の表現をしたいという欲望ですね。
最初は悩んだが穴子役はサラリーマンとして縫って歩くような声を出せばいいと思いました。
声優志願の手紙を100通ぐらい来ているが、真剣な内容のものもあります。
声優は3年やって一回も声が掛からないようであれば辞めた方がいいと思います。
人のことは考えずに自分のことに専念すればいい。
73歳、アニメサザエさんのマスオさんの会社の同僚、穴子さんや、カツオの同級生花沢さんのお父さんなどを始め、名わき役として知られています。
多くのナレーションやゲームに出演しています。
そんな若本さんがブレークしたのは実は50歳を過ぎてから。
それまでの自分の演技や話し方を徹底的に見直したという若本さんに伺いました。
もうすぐ声優人生50年というところです。
アニメ『サザエさん』のほかに『ドラゴンボールZ』、『北斗の拳』などでも活躍しています。
ゲームの出演が多いです、悪役です。
悪役は難しい、個性がないといけない。
呼吸がまず違います、荒くなる。
声は身体の呼吸から出てくるから、呼吸が変わらなければ多彩な役は演じられないという事はある。
訓練、修行は7割ぐらいが呼吸です。
気取ると、気取った分だけリアリティーがなくなる。
ルーツはリアリティーがないと、それは地べたの喋り方(自分のもっている喋り)です。
大阪育ち、早稲田大学法学部卒業。
ひそかに思ったのは大学院に行きたかったが、10月に受けたがこの成績ではだめだといわれた。
警察官募集のポスターがあり、11月1日が募集日で応募して採用通知が来て4月1日入りました。
交番勤務となったが、警察学校含めて1年半でやめてしまった。
日本消費者連盟のところにいって、そこでも2年ぐらいでやめてしまった。
黒沢良さんが声優を養成しようとしてオーディションがあり、これだと思いました。
25,6歳の時で周りはみんな若かった。
20人募集だったが大勢来ていて駄目かなあと思っていた。
10日ぐらいしてから合格通知が来ました。
ほかの人は全部バツだったが、養成所の最高権力者だった東北新社の中野寛次さんだけが僕を拾ってくれました。
その人がいなかったら今の僕はいなかったです。
当初は右も左も判らず苦労しました。
呼吸のことが判っててくるまで、20年、25年かかりました。
アメリカの歌手でスーザン・オズボーンという人が1年に一回ぐらい歌手に教えに来るという事で聞きに行きました。
「歌というものはため息ですよ、ため息が混ざらなないと歌にならない」というんです。
そのことがきっかけになり息と声をどういう風に混ぜればいいか考えましたが、教えてくれる人は日本にはいなかった。
当時は仕事に行き詰っていました。
新規の仕事が入らなくなりました。
自分の演技を聞いてみたらこれではだめだと思いました、リアリティーがなかった。
イタリアのトランペットの人のインタビュー記事を読んだら、「トップに上り詰めるためには気の遠くなるような毎日の練習が必要だ。・・・毎日8~9時間練習を繰りす。・・・」
この記事を読んで今までの練習は遊びのような感じでした。
今でも休みの日は6時間ぐらいはやります。
いろんな方法を抽出してやってきました。
好きなことをやって嫌なことはやらないようにしました。
声優というのは単なる声を操っているだけではだめだと認識しました。
生きている声なのか死んでいる声なのか、中間は無い。
頑張れるのは、究極の表現をしたいという欲望ですね。
最初は悩んだが穴子役はサラリーマンとして縫って歩くような声を出せばいいと思いました。
声優志願の手紙を100通ぐらい来ているが、真剣な内容のものもあります。
声優は3年やって一回も声が掛からないようであれば辞めた方がいいと思います。
人のことは考えずに自分のことに専念すればいい。
2019年10月5日土曜日
前畑洋平(産業遺産コーディネーター ) ・“廃墟”から“遺産”へ(初回2018年6月16日)
前畑洋平(産業遺産コーディネーター ) ・“廃墟”から“遺産”へ(初回2018年6月16日)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。
2019年10月4日金曜日
朝崎郁恵(唄者(うたしゃ)) ・奄美シマ唄をうたい紡ぐ
朝崎郁恵(唄者(うたしゃ)) ・奄美シマ唄をうたい紡ぐ
奄美加計呂麻島出身83歳、様々な楽器やミュージシャンとのコラボレーションによってシマ唄を広げてきました。
母のお腹の中に入っているときから母の歌を聞いていたような気がします。
奄美加計呂麻島で生まれました。
平坦な土地があまりなくて山ばかり多くて、食べものが不足して山を切り開いてさつまいもなどを植え凌ぎました。
1935年生まれなので終戦が9歳でした。
ソテツをデンプンにして母が私たちに食べさせてくれて育てました。
シマ唄を習い始めた記憶はなくて、自然にいつも親が歌っていましたので、自然に体に入ってきました。
そんなわけで何百という歌詞がありますが、全部おぼえています。
父親は三味線を弾いて母は唄って踊りました。
色々なお祝い事があると、父親と一緒にいって5,6歳ごろから唄っていました。
加計呂麻島では有名になりました。
行って唄うとおいしいものがいただけるのでそれが一番うれしかったです。
三味線は女性はやってはいけないという事でしたが、15,6歳ぐらいまでは弾いて唄っていましたが、師匠がやめなさいと言われてそれ以後やっていないです。
今は指が動かなくてできないです。
結婚はは23歳でした、主人は鹿児島の出身で転勤することになり、25歳の時に転勤しました。
最初福岡にいたんですが、唄も唄えなくなりました。(12年間)
主人は公務員でしたが、転勤することは結婚するときには知りませんでした。
福岡にいて、奄美の人に会いたいと寂しい思いをしました。
その後東京に来まして、新聞に奄美物産展があるという記事があり子どもをつれていったらその物産展で私の唄が流れていて奄美の人がいっぱい来ていました。
黒砂糖など奄美のものが並べられていました。
受付の人に流れている唄は私が唄っていると言ったらびっくりしていました。
奄美の人の会があるから来てほしいといわれて、又唄を唄えるようになりました。
12年のブランクは全然ありませんでした。
10年ぐらいして国立劇場で唄うようになり49歳から独演会を行い10年続きました。
奄美の人たちは聞いて故郷を思い出して泣くんです。
年齢を重ねるごとに唄の深さ、唄の持つ力が段々でてきます、60,70になってきて、昔の人が唄っていた唄に近づいてきたと思います。
奄美を離れて50年以上になります。
83歳になっても勉強です。
新しい唄が400年前で薩摩時代で、その前が琉球王朝に時代のもので600年前、それをさかのぼると、平家時代があり、平家落人の唄がいっぱいあります。
60歳を超えてから「海美」というCDを出すことになりました。
もともと奄美の唄は伴奏はなくて、風の音、鳥の音、川の流れる水の音などで歌っていましたが、琉球から三味線がきてそこから三味線で唄うようになりました。
私たちは三味線の時代ですが、「海美」というCDではピアノになっています。
意味が分からないという人もいて、理解してもらえる方法がないかと思っていましたが、ピアノしかないという事でしたが、楽譜がありませんでした。
何とかピアノでCDを出すことになりました。
猿之助さんのエッセーにカーネギーホールで歌舞伎をやったらみんな面白くないので帰って行ってしまった。
創作して持っていったらそれが凄く受けて、日本でも若者が足を運ぶようになった。
という事が書いてあったので、よし「海美」もピアノだと思って実行しました。
古いものは創作しないと古いものは残って行かない、という事で私もそう思いました。
音楽関係の人に評価してもらって本当に良かったと思います。
それがきっかけとなりピアノ以外になんでも合います、ギターとかいろんな楽器と合います。
シマ唄とアイヌの音楽とのコラボレーションをしました。
アイヌの安藤梅子さんがおられて(今は亡くなってしまった)、奄美の神唄祭りがあり、二人の出会いのきっかけでした。
是非一緒にやりましょうという事になりコラボレーションにこぎつけました。
何となく似ています、アイヌの方も楽譜が無いんですね。
自由自在に楽しむという事を感じました、又生活を唄にしているのでともに生活の匂いがします。
「海美アイヌ」 CD 先月発売されました。
奄美のシマ唄映画が出されることになり、ナレーター役をやります。
奄美の島の歴史、唄に登場する人物の生きてきた人生を映画にしていて、それとその生活、そこに歌を入れていきます。
薩摩の時代に焼却されているので資料がなく、唄にして残して有るので唄を聞いて歴史がある程度判ります。
ですから貴重な歌です。
唄から学ぶ奄美の歴史を語っていきたいです。
後輩たちに伝えてゆく事もしたいです。
奄美への恩返しのために、無料コンサートをシリーズでやっていこうとしていくつかの島で終わって11月には徳之島でやる事にしています。
奄美加計呂麻島出身83歳、様々な楽器やミュージシャンとのコラボレーションによってシマ唄を広げてきました。
母のお腹の中に入っているときから母の歌を聞いていたような気がします。
奄美加計呂麻島で生まれました。
平坦な土地があまりなくて山ばかり多くて、食べものが不足して山を切り開いてさつまいもなどを植え凌ぎました。
1935年生まれなので終戦が9歳でした。
ソテツをデンプンにして母が私たちに食べさせてくれて育てました。
シマ唄を習い始めた記憶はなくて、自然にいつも親が歌っていましたので、自然に体に入ってきました。
そんなわけで何百という歌詞がありますが、全部おぼえています。
父親は三味線を弾いて母は唄って踊りました。
色々なお祝い事があると、父親と一緒にいって5,6歳ごろから唄っていました。
加計呂麻島では有名になりました。
行って唄うとおいしいものがいただけるのでそれが一番うれしかったです。
三味線は女性はやってはいけないという事でしたが、15,6歳ぐらいまでは弾いて唄っていましたが、師匠がやめなさいと言われてそれ以後やっていないです。
今は指が動かなくてできないです。
結婚はは23歳でした、主人は鹿児島の出身で転勤することになり、25歳の時に転勤しました。
最初福岡にいたんですが、唄も唄えなくなりました。(12年間)
主人は公務員でしたが、転勤することは結婚するときには知りませんでした。
福岡にいて、奄美の人に会いたいと寂しい思いをしました。
その後東京に来まして、新聞に奄美物産展があるという記事があり子どもをつれていったらその物産展で私の唄が流れていて奄美の人がいっぱい来ていました。
黒砂糖など奄美のものが並べられていました。
受付の人に流れている唄は私が唄っていると言ったらびっくりしていました。
奄美の人の会があるから来てほしいといわれて、又唄を唄えるようになりました。
12年のブランクは全然ありませんでした。
10年ぐらいして国立劇場で唄うようになり49歳から独演会を行い10年続きました。
奄美の人たちは聞いて故郷を思い出して泣くんです。
年齢を重ねるごとに唄の深さ、唄の持つ力が段々でてきます、60,70になってきて、昔の人が唄っていた唄に近づいてきたと思います。
奄美を離れて50年以上になります。
83歳になっても勉強です。
新しい唄が400年前で薩摩時代で、その前が琉球王朝に時代のもので600年前、それをさかのぼると、平家時代があり、平家落人の唄がいっぱいあります。
60歳を超えてから「海美」というCDを出すことになりました。
もともと奄美の唄は伴奏はなくて、風の音、鳥の音、川の流れる水の音などで歌っていましたが、琉球から三味線がきてそこから三味線で唄うようになりました。
私たちは三味線の時代ですが、「海美」というCDではピアノになっています。
意味が分からないという人もいて、理解してもらえる方法がないかと思っていましたが、ピアノしかないという事でしたが、楽譜がありませんでした。
何とかピアノでCDを出すことになりました。
猿之助さんのエッセーにカーネギーホールで歌舞伎をやったらみんな面白くないので帰って行ってしまった。
創作して持っていったらそれが凄く受けて、日本でも若者が足を運ぶようになった。
という事が書いてあったので、よし「海美」もピアノだと思って実行しました。
古いものは創作しないと古いものは残って行かない、という事で私もそう思いました。
音楽関係の人に評価してもらって本当に良かったと思います。
それがきっかけとなりピアノ以外になんでも合います、ギターとかいろんな楽器と合います。
シマ唄とアイヌの音楽とのコラボレーションをしました。
アイヌの安藤梅子さんがおられて(今は亡くなってしまった)、奄美の神唄祭りがあり、二人の出会いのきっかけでした。
是非一緒にやりましょうという事になりコラボレーションにこぎつけました。
何となく似ています、アイヌの方も楽譜が無いんですね。
自由自在に楽しむという事を感じました、又生活を唄にしているのでともに生活の匂いがします。
「海美アイヌ」 CD 先月発売されました。
奄美のシマ唄映画が出されることになり、ナレーター役をやります。
奄美の島の歴史、唄に登場する人物の生きてきた人生を映画にしていて、それとその生活、そこに歌を入れていきます。
薩摩の時代に焼却されているので資料がなく、唄にして残して有るので唄を聞いて歴史がある程度判ります。
ですから貴重な歌です。
唄から学ぶ奄美の歴史を語っていきたいです。
後輩たちに伝えてゆく事もしたいです。
奄美への恩返しのために、無料コンサートをシリーズでやっていこうとしていくつかの島で終わって11月には徳之島でやる事にしています。
2019年10月3日木曜日
豊田泰久(音響設計家) ・豊かな響きを追い求めて
豊田泰久(音響設計家) ・豊かな響きを追い求めて
66歳、大学を卒業した後1977年に東京の音響設計事務所に入社して音響設計家としてスタートしました。
これまでに東京のサントリーホールや札幌コンサートホールを始めアメリカ、フランス、中国など50以上のコンサートホールの音響の設計に携わってきました。
豊田さんが目指すコンサートホールの音は各楽器の音が明瞭に聞こえること、豊かな響きを持つことだそうです。
豊田さんが40年以上かけて築いてきた音響設計とはどのような世界なのか、そこにかけてきた意味合いは何か伺いました。
仕事の本拠地はロサンゼルス、とパリ。
およそ20年前にアメリカに引っ越して今は海外のプロジェクトを担当しています。
かばいきれなくなって2008年にパリにオフィスをオープンしました。
外国では人種の違い、文化、宗教、考え方が全然違うので、うまくいかないことの原因になったりします。
1952年広島県福山生まれ、父親が音楽好きで、レコードが家にたくさんありよく聞いていました。
シューベルトの未完成交響曲をたまたま選んで聞いた時に、私にとっては衝撃的でしばらくの間は毎日聞いていました。
中学校ではブラスバンドがありサックスホーンをやる事になり、面白かったです。
高校は弦楽合奏、管楽アンサンブルの部があって、先生がせっかくあるのだから時々オーケストラをやろうという事になって、オーボエを買おうという事でそれを担当したいと申し出ました。
ハードルの高い楽器でした。
大学は理工系で、九州芸術工科大学で音響の設計学科があり、そこに入りました。
クラブ活動でオーケストラがあり、そこで楽しく過ごしました。
音楽に関係した仕事ができればという事で、ホールの音響設計の仕事があるという事で東京の音響設計事務所に入社しました。
70年代後半の入社でしたが、公害問題が出てきているころで、騒音測定の仕事でした。
音の理屈、音の計算、収録、分析など音の基本的なところを学ぶことができました。
30代でサントリーホールを手掛けることになりました。
コンサートホールはクラシック音楽の楽器がどういう風にホールの中でうまく響くか、それをコントロールするわけですが、マイクロホン、スピーカーは使わない生の音なのでホールの中でどういう風に響くか、それを設計するわけです。
究極的にはホールの形、材料になるわけです。
それをどういう風に選んで調整してゆくのかという事になります。
音は感性の世界で話をするので、「いい音にしてください」という事になってしまう。
残響時間、量 残響の質 をコントロールしてゆく。
物理的な数字がはっきりしてくると計算に乗ってくる。
サントリーホールの場合は残響時間が2.1秒だったと思います。
残響時間よりも重要なものもあり、結局はいい音かどうかという事になってしまいます。
サントリーホールの場合は「世界的なホールを作ってください」、それしか言われませんでした。
サントリーホールの場合の音響とはどういうものか我々が組み立てなければいけないわけです。
我々の勉強にはなりました。
1981年から始めてオープニングが1986年でした。
その半年前に工事が終了して完成しました。
最初のリハーサルは混乱の極みでした。
リハーサルはマーラーの交響曲8番 1000人の交響曲といわれるオーケストラといわれるように、オーケストラも普通の2倍、200人ぐらい、第一オーケストラ、第二オーケストラとまた合唱団も複数いて、アマチュアのオーケストラで、本番の前に全体練習をする会場を探していて、たまたまサントリーホールのプログラミングの人の耳に入って、実現しました。
誰も音響を知らないところでやったわけで、バランスも何もあったものではなくて混乱の極みでした。
普段演奏をしないようなものはやってはいけないと後で判りました。
サントリーホールが完成していろんなオーケストラがどんどん来て、いろんな曲目を演奏することが始まるわけで、どんどんオーケストラがサントリーホールに本拠地を移してきました。
サントリーホールができる前は東京文化会館で、音響的にはいい悪いではなくステージの構造が違っていました。
最初はアンサンブルがきれいではなかった。
海外からもオーケストラが来て結果が良かった。
3,4年経つうちに東京のオーケストラもよくなってきて、新しいホールに慣れるという事はいかに時間が掛かる事なのか、という事だと思います。
コンピューターが発達することによって変わったことはたくさんあります。
音響設計もコンピューターの発達によって変わってきて、いままでできなかったことができるようになりました。
反射音なども計算してゆくわけですが、膨大な量でできないが理屈はわかっている。
コンピューターはあらゆる状況を計算することは得意で、結果がどういう風に見えるか、音がどういう風に分布するのかという事をビジュアル化できる。
画期的なものだと思います。
いい音とはクリアな音だと思います。
デジタルオーディオが発達してオーケストラの細部のレコーディングがクリアに聞こえるようにレコーディングができるようになってきた。
ホールの空間に音が漂っているようなリッチ(豊かな)な感覚、3次限的な感覚。
クリアな音、リッチな音は言葉の上では相反するように感じるが、実際にワールドクラスのコンサートホールに行くとコンサートホール全体が鳴り響いているような感じがするがクリアなんです。
どうやって実現するのかは我々が考えていかないことだと思います。
後から思うと、コンピューターに関しても、音響に対するとっかかり、音楽へのとっかかりもラッキーな面があったと思います。
時期的なタイミングもラッキーなところもあったと思います。
ビジュラルなこと、客席のレイアウト、いろんなファクターが以前とは比較にはならないビジュアルなファクターが含まれてきているので、コンサートホールの在り方がどんどん変わってきていると思います。
ハンブルグのコンサートホール(2100人ぐらい)、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールホール、この二つはこれから先どういう事が起こりうるのか示唆してくれるのではないかと思います。
66歳、大学を卒業した後1977年に東京の音響設計事務所に入社して音響設計家としてスタートしました。
これまでに東京のサントリーホールや札幌コンサートホールを始めアメリカ、フランス、中国など50以上のコンサートホールの音響の設計に携わってきました。
豊田さんが目指すコンサートホールの音は各楽器の音が明瞭に聞こえること、豊かな響きを持つことだそうです。
豊田さんが40年以上かけて築いてきた音響設計とはどのような世界なのか、そこにかけてきた意味合いは何か伺いました。
仕事の本拠地はロサンゼルス、とパリ。
およそ20年前にアメリカに引っ越して今は海外のプロジェクトを担当しています。
かばいきれなくなって2008年にパリにオフィスをオープンしました。
外国では人種の違い、文化、宗教、考え方が全然違うので、うまくいかないことの原因になったりします。
1952年広島県福山生まれ、父親が音楽好きで、レコードが家にたくさんありよく聞いていました。
シューベルトの未完成交響曲をたまたま選んで聞いた時に、私にとっては衝撃的でしばらくの間は毎日聞いていました。
中学校ではブラスバンドがありサックスホーンをやる事になり、面白かったです。
高校は弦楽合奏、管楽アンサンブルの部があって、先生がせっかくあるのだから時々オーケストラをやろうという事になって、オーボエを買おうという事でそれを担当したいと申し出ました。
ハードルの高い楽器でした。
大学は理工系で、九州芸術工科大学で音響の設計学科があり、そこに入りました。
クラブ活動でオーケストラがあり、そこで楽しく過ごしました。
音楽に関係した仕事ができればという事で、ホールの音響設計の仕事があるという事で東京の音響設計事務所に入社しました。
70年代後半の入社でしたが、公害問題が出てきているころで、騒音測定の仕事でした。
音の理屈、音の計算、収録、分析など音の基本的なところを学ぶことができました。
30代でサントリーホールを手掛けることになりました。
コンサートホールはクラシック音楽の楽器がどういう風にホールの中でうまく響くか、それをコントロールするわけですが、マイクロホン、スピーカーは使わない生の音なのでホールの中でどういう風に響くか、それを設計するわけです。
究極的にはホールの形、材料になるわけです。
それをどういう風に選んで調整してゆくのかという事になります。
音は感性の世界で話をするので、「いい音にしてください」という事になってしまう。
残響時間、量 残響の質 をコントロールしてゆく。
物理的な数字がはっきりしてくると計算に乗ってくる。
サントリーホールの場合は残響時間が2.1秒だったと思います。
残響時間よりも重要なものもあり、結局はいい音かどうかという事になってしまいます。
サントリーホールの場合は「世界的なホールを作ってください」、それしか言われませんでした。
サントリーホールの場合の音響とはどういうものか我々が組み立てなければいけないわけです。
我々の勉強にはなりました。
1981年から始めてオープニングが1986年でした。
その半年前に工事が終了して完成しました。
最初のリハーサルは混乱の極みでした。
リハーサルはマーラーの交響曲8番 1000人の交響曲といわれるオーケストラといわれるように、オーケストラも普通の2倍、200人ぐらい、第一オーケストラ、第二オーケストラとまた合唱団も複数いて、アマチュアのオーケストラで、本番の前に全体練習をする会場を探していて、たまたまサントリーホールのプログラミングの人の耳に入って、実現しました。
誰も音響を知らないところでやったわけで、バランスも何もあったものではなくて混乱の極みでした。
普段演奏をしないようなものはやってはいけないと後で判りました。
サントリーホールが完成していろんなオーケストラがどんどん来て、いろんな曲目を演奏することが始まるわけで、どんどんオーケストラがサントリーホールに本拠地を移してきました。
サントリーホールができる前は東京文化会館で、音響的にはいい悪いではなくステージの構造が違っていました。
最初はアンサンブルがきれいではなかった。
海外からもオーケストラが来て結果が良かった。
3,4年経つうちに東京のオーケストラもよくなってきて、新しいホールに慣れるという事はいかに時間が掛かる事なのか、という事だと思います。
コンピューターが発達することによって変わったことはたくさんあります。
音響設計もコンピューターの発達によって変わってきて、いままでできなかったことができるようになりました。
反射音なども計算してゆくわけですが、膨大な量でできないが理屈はわかっている。
コンピューターはあらゆる状況を計算することは得意で、結果がどういう風に見えるか、音がどういう風に分布するのかという事をビジュアル化できる。
画期的なものだと思います。
いい音とはクリアな音だと思います。
デジタルオーディオが発達してオーケストラの細部のレコーディングがクリアに聞こえるようにレコーディングができるようになってきた。
ホールの空間に音が漂っているようなリッチ(豊かな)な感覚、3次限的な感覚。
クリアな音、リッチな音は言葉の上では相反するように感じるが、実際にワールドクラスのコンサートホールに行くとコンサートホール全体が鳴り響いているような感じがするがクリアなんです。
どうやって実現するのかは我々が考えていかないことだと思います。
後から思うと、コンピューターに関しても、音響に対するとっかかり、音楽へのとっかかりもラッキーな面があったと思います。
時期的なタイミングもラッキーなところもあったと思います。
ビジュラルなこと、客席のレイアウト、いろんなファクターが以前とは比較にはならないビジュアルなファクターが含まれてきているので、コンサートホールの在り方がどんどん変わってきていると思います。
ハンブルグのコンサートホール(2100人ぐらい)、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールホール、この二つはこれから先どういう事が起こりうるのか示唆してくれるのではないかと思います。
2019年10月2日水曜日
八島信雄(山形市立図書館 元館長) ・死ぬまでおれは筆をとめない
八島信雄(山形市立図書館 元館長) ・死ぬまでおれは筆をとめない
夫がいないだけで家に石を投げ込まれ生きた心地がしなかった、子供と心中しようと従お
うしても死にきれなかった。
戦争で夫を亡くした女性たちの手記です。
この手記を30年に渡り執筆編集してきたのが八島信雄さん89歳です。
自ら戦争を体験し生き残ったものの責務を果たそうと活動を続けてきました。
八島さんは戦時中どんな体験をしたのか、そして遺族女性の手記から何を感じたのか、うかがいました。
昭和18年 旧制中学に入学した年、国に協力するという鮮明な学校で、教室での勉強はしていません。
校長先生は「諸君をこの学校は卒業させるつもりはない、諸君は軍部の学校(予科練)に進んで、天皇陛下のために死んでください」と我々にはっきりと訓示されました。
鮮明に覚えています。
その通りだと思って軍の学校に進みました。
無理して働いていて体の具合が悪くなり病院に連れていかれ、肺結核だという事でした。
帰宅を命ぜられ療養生活をして、終戦を迎えました。
8月15日に重大放送があるという事で近所の方と一緒に聞きました。
天皇陛下の言葉はよく聞こえませんでした。
これからは日本はアメリカを迎える非常事態になり、今後ともアメリカ軍と戦うように、そうおっしゃたと大人たちはなぜかそう受け止めました。
日本は負けたと言ったら、大人たちは日本は負けるはずがないと言って、お前は非国民だといわれました。
療養生活をしている間、学校の先輩、同期生たちは戦場に赴き多く亡くなっています。
私は生き残り申し訳ありませんでしたという気持ちはずーっと持っています。
私は市の職員として厚生課に勤めたときに遺族会関係の仕事もあり、その内容の話を聞いたりしていました。
遺族会の40年のまとめを本にして出したいという話を受けました。
「遥かなる足跡」というタイトルで世の中に出るようになりました。
戦没者の父母、兄弟、子ども、妻に文章を書いてくれという事で本が出来上がりました。
そのなかで「妻編」というものが出ましたが、私が担当しました。
戦争体験した私としては戦争は絶対にしてはいけないという思いがありました。
手記の一つ
「昭和19年の秋、私は村の国民学校に勤めていました。
一粒のお米も無駄にできないとき、全校を上げて落穂ひろいをしていました。・・・
夫の戦死の公報が入りました。 夫はチェコ軍の銃によって敵前300mのところで亡くなりました。 その知らせを聞いてから300mという距離が頭から離れなくなりました。
・・・300mを目測するのが癖になりました。 悲しいことですが習性のようになったのでした。」
国民全体が厳しい生活状況だったが戦没者の妻たちはそれに輪をかけて苦労したと思います。
3度3度の食事を取れるような環境ではなかったと思います。
昭和25,6年までの生活は食うや食わずだったと思います。
戦没者の妻は子どもを夫の形見として育てなければいけないという事で非常に責任が大きかったと思います。
配給制度だけでは生きていけないので身を切るような思いで生活してきました。
手記の一つ
「望みを失った私は或るとき死ぬことを考えた。 線路に子どもの手を引いて行った。
ここに居ようねと線路に子どもを引きずり上げた。
そうすると汽車がばく進してきた。 レールが振動した。
私は夢中で子どもの手を引いて坂を降りていた。
私は茫然として黒い汽車を見送っていた。
死ねなかった。」
子どもを育てなくてはならない、子どもがいたから生きたんだと思います。
生き残った人は死んだ人と同じようなそれ以上の苦しみを味わっていると思います。
それは死んだ者から受け継いだ意志でもあると思います。
編集者の立場で彼女らに接してきたと思います。
知ってもらうために書いてもらわなければ駄目だ、そういう立場に変わってきたと思います。
辛いですが、書いてもらって後々までも残す必要があると思いました。
子どもにも、孫にも知ってもらう必要がある。
それから世間に広がって世間にも知ってもらう。
30年やってきてつらかったことはないです。
自分に課せられた責務だと思っていますので。
日本は平和な時代だと思っているが、要職にある人がポロリと領土を取り戻すには戦争をして、みたいなことを言って国会議員が言うと影響が大きいと思う。
素晴らしい日本国憲法があるにもかかわらずですよ、非常に危険だと思います。
戦争放棄の憲法を読んだときは感激しました。
この本は若い人に読んでいただきたい。
何が何でも話し合いで決めてもらいたい、なにがなんでも戦争は駄目なんだと、武器を取っては駄目なんだと、平和第一なんだと年配者として言いたい。
夫がいないだけで家に石を投げ込まれ生きた心地がしなかった、子供と心中しようと従お
うしても死にきれなかった。
戦争で夫を亡くした女性たちの手記です。
この手記を30年に渡り執筆編集してきたのが八島信雄さん89歳です。
自ら戦争を体験し生き残ったものの責務を果たそうと活動を続けてきました。
八島さんは戦時中どんな体験をしたのか、そして遺族女性の手記から何を感じたのか、うかがいました。
昭和18年 旧制中学に入学した年、国に協力するという鮮明な学校で、教室での勉強はしていません。
校長先生は「諸君をこの学校は卒業させるつもりはない、諸君は軍部の学校(予科練)に進んで、天皇陛下のために死んでください」と我々にはっきりと訓示されました。
鮮明に覚えています。
その通りだと思って軍の学校に進みました。
無理して働いていて体の具合が悪くなり病院に連れていかれ、肺結核だという事でした。
帰宅を命ぜられ療養生活をして、終戦を迎えました。
8月15日に重大放送があるという事で近所の方と一緒に聞きました。
天皇陛下の言葉はよく聞こえませんでした。
これからは日本はアメリカを迎える非常事態になり、今後ともアメリカ軍と戦うように、そうおっしゃたと大人たちはなぜかそう受け止めました。
日本は負けたと言ったら、大人たちは日本は負けるはずがないと言って、お前は非国民だといわれました。
療養生活をしている間、学校の先輩、同期生たちは戦場に赴き多く亡くなっています。
私は生き残り申し訳ありませんでしたという気持ちはずーっと持っています。
私は市の職員として厚生課に勤めたときに遺族会関係の仕事もあり、その内容の話を聞いたりしていました。
遺族会の40年のまとめを本にして出したいという話を受けました。
「遥かなる足跡」というタイトルで世の中に出るようになりました。
戦没者の父母、兄弟、子ども、妻に文章を書いてくれという事で本が出来上がりました。
そのなかで「妻編」というものが出ましたが、私が担当しました。
戦争体験した私としては戦争は絶対にしてはいけないという思いがありました。
手記の一つ
「昭和19年の秋、私は村の国民学校に勤めていました。
一粒のお米も無駄にできないとき、全校を上げて落穂ひろいをしていました。・・・
夫の戦死の公報が入りました。 夫はチェコ軍の銃によって敵前300mのところで亡くなりました。 その知らせを聞いてから300mという距離が頭から離れなくなりました。
・・・300mを目測するのが癖になりました。 悲しいことですが習性のようになったのでした。」
国民全体が厳しい生活状況だったが戦没者の妻たちはそれに輪をかけて苦労したと思います。
3度3度の食事を取れるような環境ではなかったと思います。
昭和25,6年までの生活は食うや食わずだったと思います。
戦没者の妻は子どもを夫の形見として育てなければいけないという事で非常に責任が大きかったと思います。
配給制度だけでは生きていけないので身を切るような思いで生活してきました。
手記の一つ
「望みを失った私は或るとき死ぬことを考えた。 線路に子どもの手を引いて行った。
ここに居ようねと線路に子どもを引きずり上げた。
そうすると汽車がばく進してきた。 レールが振動した。
私は夢中で子どもの手を引いて坂を降りていた。
私は茫然として黒い汽車を見送っていた。
死ねなかった。」
子どもを育てなくてはならない、子どもがいたから生きたんだと思います。
生き残った人は死んだ人と同じようなそれ以上の苦しみを味わっていると思います。
それは死んだ者から受け継いだ意志でもあると思います。
編集者の立場で彼女らに接してきたと思います。
知ってもらうために書いてもらわなければ駄目だ、そういう立場に変わってきたと思います。
辛いですが、書いてもらって後々までも残す必要があると思いました。
子どもにも、孫にも知ってもらう必要がある。
それから世間に広がって世間にも知ってもらう。
30年やってきてつらかったことはないです。
自分に課せられた責務だと思っていますので。
日本は平和な時代だと思っているが、要職にある人がポロリと領土を取り戻すには戦争をして、みたいなことを言って国会議員が言うと影響が大きいと思う。
素晴らしい日本国憲法があるにもかかわらずですよ、非常に危険だと思います。
戦争放棄の憲法を読んだときは感激しました。
この本は若い人に読んでいただきたい。
何が何でも話し合いで決めてもらいたい、なにがなんでも戦争は駄目なんだと、武器を取っては駄目なんだと、平和第一なんだと年配者として言いたい。
2019年10月1日火曜日
森下洋子(バレリーナ) ・【母を語る】
森下洋子(バレリーナ) ・【母を語る】
1948年昭和23年広島生まれ、3歳からバレエを習い始め、小学校6年で両親を説得して単身上京、バレエ団に入り、高校卒業まで両立を続けます。
森下さんのバレエに向ける情熱を知って、お母様はあの子はバレエにあげた子と言って、金銭的な援助以外は一切口を出さず快く東京へ送り出してくれました。
森下さんは1971年松山バレエ団に所属、この年に芸術選奨新人賞受賞、1974年第12回ヴァルナ国際バレエコンクールで日本人として初めて金賞を受賞、1985年にはルドルフ・ヌレエフと共演した『ジゼル』の演技にローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞しました。
2002年より日本芸術院会員、松山バレエ団団長、現役として今も舞台に立ち続ける森下さんに伺いました。
7時半ごろには起きて、身体を温めてあちこちの筋肉を伸ばしたりして、レッスンを9時半過ぎから始めて、夕方6時前には終わりますが、団員たちはもっと長くやっています。
温めるのは足をお風呂に漬けて温めてからストレッチを始めます。
くるみ割り人形、人間の一人の少女が大人になってゆく過程にどういうものが必要か夢の中でという、すごく見ていて夢があってよかったのではないかと思います。
身体が弱くて、医師が運動させないといけないという事で、3歳でバレエをやる事になりました。
出合った時に続けたいと思ったのを覚えています。
両親はバレエとは何にも関係ありませんでした。
兄弟は6つ下の妹がいます。
バレエをやる事によって体は丈夫になりました。
4歳ぐらいで映画館の舞台で踊った覚えがあります。
小学校1年生の時に親指姫を踊った記憶があります。
バレエは好きで夢中になってやっていました。
友達はピアノ、習字などやっていて私も習いましたが、辞めてしまって、結局バレエだけ残りました。
東京でお稽古したいという思いがあって、小学校2年生から春休み、夏休みなどに東京に行ってレッスンを受けました。
広島から東京までは20時間以上かかりました。
最初母と一緒でしたが、途中からは一人で行くようになりました。
受け入れ先の人が電報で無事着いたことを知らせてもらいました。
親としては電報が着くまでは眠れなかったと後からいっていました。
電車賃、レッスン代などは大分かかったと思います。
母親は料理が得意だったのでキッチン森下の店を始めて、ステーキ、ハンバーグなどをやっていました。(小学校3年生の時)
おやつなどは何でも手作りで作ってくれました。(アイスクリーム、ケーキ、和菓子など)
洋裁は普通にやる感じでした。
ステーキはおいしいと評判になりました。
祖母が岩国からきて私たち姉妹の面倒を見てくれて、叔母が店の手伝いをしてくれるようになりました。
住んでいたところが広島なので母は被爆しましたし、祖母は左半身全部被爆して、手などもひどかったが元気で、気持ちも明るかったです。
こんな体になってしまったという様な愚痴は一切言いませんでした。
祖母は前向きな考えで私たちに接していたので、その影響は受けていると思います。
バレエにこんなにのめりこむとは思わなかったと母は言っていました。
小学校6年生の時に一生の仕事としてやりたいのでやらせてほしいといいました。
お金は出すけれども口は出さないと両親から言われました。
そういわれるとこっちもしっかりしなければと思いました。
時には母親が来ましたが、私の周りの人が私に世話をしてくれていたので、そちらの方たちに気を配っていたので、母が来たからといってべったりという事はありませんでした。
主要な舞台には広島から観に来てくれましたが、「よかったよ」と言ってくれるだけでした。
身体だけは気を付けるようにとだけは常に言っていました。
小学校2年生で東京に通わせたりしたのは、親としては本当に勇気のいることだったと思います。
高校までは勉強とバレエを両立させてやってきました。
外国へのバレエ留学はなくて3か月ぐらい行ったことはありますが、留学はありませんでした。
オファーはありましたが、外国に行かなければできないというものではないと思っていたので行こうとは思いませんでした。
25,6歳の時に1年間在外研修はありましたが、それはずーっと後の事でした。
結婚することになる清水哲太郎さんから「何のためにバレエを踊っているのか」と問われて、バレエが好きだからやっているというのではないんじゃないかなと思って、どうなのかと考えたら、クラシックバレエは人々の幸せのためにあるんだという事を改めて考えさせられたのかもしれない。
日本人なんだから日本で日本の皆さんにこんなにすばらしい芸術があるんですよ、心が豊かになってもらいたいという思いがあることをお届けしたいと思っています。
11月からくるみ割り人形が始まります。
12歳のクララがどうやって人間として立派に育って行くかという事は変わりはないが、やっていくともっとこうしたらいい、ああしたらいいという思いが凄く深くなってきて行きますね。
1948年昭和23年広島生まれ、3歳からバレエを習い始め、小学校6年で両親を説得して単身上京、バレエ団に入り、高校卒業まで両立を続けます。
森下さんのバレエに向ける情熱を知って、お母様はあの子はバレエにあげた子と言って、金銭的な援助以外は一切口を出さず快く東京へ送り出してくれました。
森下さんは1971年松山バレエ団に所属、この年に芸術選奨新人賞受賞、1974年第12回ヴァルナ国際バレエコンクールで日本人として初めて金賞を受賞、1985年にはルドルフ・ヌレエフと共演した『ジゼル』の演技にローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞しました。
2002年より日本芸術院会員、松山バレエ団団長、現役として今も舞台に立ち続ける森下さんに伺いました。
7時半ごろには起きて、身体を温めてあちこちの筋肉を伸ばしたりして、レッスンを9時半過ぎから始めて、夕方6時前には終わりますが、団員たちはもっと長くやっています。
温めるのは足をお風呂に漬けて温めてからストレッチを始めます。
くるみ割り人形、人間の一人の少女が大人になってゆく過程にどういうものが必要か夢の中でという、すごく見ていて夢があってよかったのではないかと思います。
身体が弱くて、医師が運動させないといけないという事で、3歳でバレエをやる事になりました。
出合った時に続けたいと思ったのを覚えています。
両親はバレエとは何にも関係ありませんでした。
兄弟は6つ下の妹がいます。
バレエをやる事によって体は丈夫になりました。
4歳ぐらいで映画館の舞台で踊った覚えがあります。
小学校1年生の時に親指姫を踊った記憶があります。
バレエは好きで夢中になってやっていました。
友達はピアノ、習字などやっていて私も習いましたが、辞めてしまって、結局バレエだけ残りました。
東京でお稽古したいという思いがあって、小学校2年生から春休み、夏休みなどに東京に行ってレッスンを受けました。
広島から東京までは20時間以上かかりました。
最初母と一緒でしたが、途中からは一人で行くようになりました。
受け入れ先の人が電報で無事着いたことを知らせてもらいました。
親としては電報が着くまでは眠れなかったと後からいっていました。
電車賃、レッスン代などは大分かかったと思います。
母親は料理が得意だったのでキッチン森下の店を始めて、ステーキ、ハンバーグなどをやっていました。(小学校3年生の時)
おやつなどは何でも手作りで作ってくれました。(アイスクリーム、ケーキ、和菓子など)
洋裁は普通にやる感じでした。
ステーキはおいしいと評判になりました。
祖母が岩国からきて私たち姉妹の面倒を見てくれて、叔母が店の手伝いをしてくれるようになりました。
住んでいたところが広島なので母は被爆しましたし、祖母は左半身全部被爆して、手などもひどかったが元気で、気持ちも明るかったです。
こんな体になってしまったという様な愚痴は一切言いませんでした。
祖母は前向きな考えで私たちに接していたので、その影響は受けていると思います。
バレエにこんなにのめりこむとは思わなかったと母は言っていました。
小学校6年生の時に一生の仕事としてやりたいのでやらせてほしいといいました。
お金は出すけれども口は出さないと両親から言われました。
そういわれるとこっちもしっかりしなければと思いました。
時には母親が来ましたが、私の周りの人が私に世話をしてくれていたので、そちらの方たちに気を配っていたので、母が来たからといってべったりという事はありませんでした。
主要な舞台には広島から観に来てくれましたが、「よかったよ」と言ってくれるだけでした。
身体だけは気を付けるようにとだけは常に言っていました。
小学校2年生で東京に通わせたりしたのは、親としては本当に勇気のいることだったと思います。
高校までは勉強とバレエを両立させてやってきました。
外国へのバレエ留学はなくて3か月ぐらい行ったことはありますが、留学はありませんでした。
オファーはありましたが、外国に行かなければできないというものではないと思っていたので行こうとは思いませんでした。
25,6歳の時に1年間在外研修はありましたが、それはずーっと後の事でした。
結婚することになる清水哲太郎さんから「何のためにバレエを踊っているのか」と問われて、バレエが好きだからやっているというのではないんじゃないかなと思って、どうなのかと考えたら、クラシックバレエは人々の幸せのためにあるんだという事を改めて考えさせられたのかもしれない。
日本人なんだから日本で日本の皆さんにこんなにすばらしい芸術があるんですよ、心が豊かになってもらいたいという思いがあることをお届けしたいと思っています。
11月からくるみ割り人形が始まります。
12歳のクララがどうやって人間として立派に育って行くかという事は変わりはないが、やっていくともっとこうしたらいい、ああしたらいいという思いが凄く深くなってきて行きますね。
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