2023年12月31日日曜日

一柳みどり(出版物編集者)       ・〔年末特集〕 ことばが映す2023 後編

 一柳みどり(出版物編集者)       ・〔年末特集〕  ことばが映す2023 後編

ChatGTPはパソコンやスマートフォンで使えるインターネット上のアプリケーションで問いかけると答えを返してくるという機能をもっています。 ChatGTPは人間が書いたり話したり作ったりするという事は、或る程度のパターンがあるというところから、作られています。 人間が書いたり話したりする文脈や言葉の関係を分析して、蓄積して蓄積された過去のデータから適切な言葉を選んで、自然な文章になるように繋いで返してきます。 ChatGTPが世間を驚かせているのは、この返しがまさに人の返答の様で、しかも早い、長文もできるという事です。 「気分転換におしゃべりに付き合って」、世界は熱くなっているみたいですね」と書き込むと、回答が来ます。 会話が成立してしまいます。 Chatはおしゃべり、雑談と言う意味でGPTはGenerative Pre-trained Transformerの頭文字でChatGTPは事前に学習したものから生み出されるおしゃべりというものです。 この変換は人工頭脳(AI)を使って作られていて、一般用語で生成AIと言われます。 

生成AIの利用の可能性は広がっています。  懸念事項となっているのが、事前にトレーニングするのは一体どの情報を使ってトレーニングするんですかという事です。 無制限に既存の文章や記事などが使われるとなると、著作権が侵害される事があります。 生成AIでは画像を出力することも出来ます。 実際AIで作られた若い女性の映像が登場するCMも放送されていますが、違和感はありません。  音声もAIの利用が身近で見られます。 新幹線のアナウンスや、NHKニュースにも使われています。 定型化された内容を伝えたり、データ的なことを読み上げたりするには向いているようです。 原稿やデータは人間が入力して、音声に変換されます。 AI技術で作るとなると動画にしても音声にしても偽物が作りやすくなって、嘘の情報がネット上に蔓延するのは目に見えています。 生成AIは便利で利用が拡大することは間違いありませんが、あくまで道具ですので、使いこなすには使う技術も必要です。 質問力が求められてゆくものと思います。 

オーバーツーリズム、オーバーは行き過ぎ、ツーリズムは観光旅行と言う意味です。   観光地に集中的に訪れて、地元住民の日常生活に迷惑がかかったり、環境が壊されたりする事です。 観光公害とも言われます。  路線バスや電車が旅行客で混雑して、普段使う人が乗れなくて生活に支障が出るとか、ゴミを落として行くので掃除しなくてはならないとか無自覚に木の枝を折ったり、私有地に入り込んできて困る。  SNSやインターネットの情報を頼りに個人旅行で好みの場所に行って、と言う傾向が高まっています。 岩手県盛岡市がアメリカの新聞ニューヨークタイムズで2023年に行くべき52か所の旅行先の2位に選ばれ、岩手県に外国の方が多く訪れました。  タクシーの運転手さんも知らないお店がにぎわっているようです。  今後は混み具合いも重要な参考情報になってゆくかもしれません。 

熊に人間が襲われるという事が相次ぎました。  OSO18が注目を集めました。 北海道の釧路付近で生息していたヒグマの通称です。 放牧する牛を襲って殺害する。 人間の前に決して姿を現さない。 罠にかからない。 しかし体毛だけは残されているという行動で忍者とも言われている。  最初の被害が北海道川上郡標茶町オソツベツだったことと、前足の幅が18cmだったことから、OSO18と呼ばれるようになりました。 最初にOSO18が現れたのが2019年で今年6月までに60頭以上の牛が犠牲になったということです。 この熊がついに今年の8月ハンターによって駆除されました。  ハンターはOSO18とは認識していたわけではなく、一般のヒグマとして解体加工され、後にDNA検査で判明しました。 アーバンベアと呼ばれて都市型の熊もいます。 最近は山林などよりも住宅地が多くなっているそうです。 要因の一つとして、過疎化、管理不足で草木が自然の状態になっていって、山との境界があいまいになって来ていることがあるという事です。 今年4月から11月までの熊の被害は全国で死者4人を含む死傷者212人と言う過去最悪となりました。 

今年、夏は本当に暑かったです。 暑さに関する言葉のバリエーションも増えてきています。 40℃以上になって来て、酷暑日、夜の気温も30℃以上になてきて、超熱帯夜、日本気象協会で昨年命名されました。  危険な暑さが予想される場合に出されるのが、熱中症アラートです。 暑さ指数が33以上と予測されると、発表されます。 暑さ指数は気温、湿度、日射量などを元にして、計算式で算出されます。 暑さ指数25は激しい運動に注意、31以上が危険、33以上になると熱中症アラートが出ます。 来年はさらに35以上に出される熱中症特別警戒アラートです。 世界も暑かった。 アメリカのデスバレーでは54℃を観測、ギリシャでは熱波による山火事などの異常気象にみまわれました。 今年7月に世界の平均気温は観測史上最高を記録して、国連のグテーレス事務総長はもはや温暖化ではなく地球沸騰化の時代だと危機感を表しました。

「ダイアベティス」 糖尿病の新名称として日本糖尿病協会が変更案を発表。       「東京モビリティーショー」 東京モーターショーが今年から名称を変更。        「おっさんビジネス用語」 一丁目一番地、ガラガラポン、行ってこい、がっちゃんこ、きめうち、全員野球、ドローンする、よしなに、えいや、直球勝負など。 

消滅した言葉 ジャニーズ、10月6日ジャニーズ事務所に看板が撤去され社名も変更されました。  

スポーツでは、48年振りに男子暁ジャパン(バスケットボール日本代表の愛称)が来年のパリオリンピックへの自力出場を決めました。 36年ぶりに彗星ジャパン(日本ハンドボールの日本代表の愛称)が来年のオリンピック自力出場を決めました。 ワールドカップではサッカーのなでしこジャパンが4大会連続決勝トーナメント出場、国内で一番盛り上がったのは、阪神タイガースが1985年以来38年振りに2回目の日本一となりました。   今年岡田監督で人気だったのが「アレ」(優勝の言葉を表現)です。  

子どもたちの人気では、「ふしぎ駄菓子屋銭天堂にようこそ」 小学生に人気の本、作者が廣嶋玲子さん、絵がjyajyaさんです。 10年前から発刊されている。NHKEテレでもアニメが放送されゲームにもなる。  大人が読んでも楽しめる本です。

藤井聡太さんが10月の王座戦で勝利、王座を獲得、21歳11か月で史上初の八冠となりました。 これまで将棋とは縁になかった女性が将棋の勉強を始めるなど、これまでの将棋ファンとは違った層のファンが熱い視線を送っています。 内閣総理大臣顕彰が授与されました。

谷村新司さんはじめ、昭和から活躍した人たちが多数亡くなりました。 YMOの高橋幸宏さん、坂本龍一さん、もんたよしのりさん、大橋純子さん、KANさん。

作家では加賀乙彦さん、永井路子さん、大江健三郎さん、森村誠一さん、伊集院静さん、脚本家の山田太一さん、松本零士さん(銀河鉄道999)など、相撲界では元大関朝潮関など。

谷村新司さんが生前話されてiいた、「人って最終的には一人だから、誰かが喜んでくれることを自分の喜びにしたい。」という言葉が心に残ります。

















2023年12月30日土曜日

一柳みどり(出版物編集者)       ・〔年末特集〕 ことばが映す2023 前編

 一柳みどり(出版物編集者)       ・〔年末特集〕  ことばが映す2023 前編

年末恒例となった言葉からこの一年を振り返る特集番組、今年は 「言葉が映す2023脱コロナイヤー」と題して、二日間に渡ってお送りします。 

2020年から新型コロナウイルス関連の言葉が多く出て、2022年まで3年間続きました。  緊急事態宣言、濃厚接触、三密など言葉を思い出すとあの頃の緊張感が蘇って来ます。 2023年のコロナ関連の言葉は一つ、五類です。 五類は感染症の分類の一つで、感染症法と言う法律で定められています。  感染症にはいろいろな病気があります。 風疹、季節性インフルエンザなどです。  8つに分類されています。 一類感染症、二類感染症、・・・五類感染症、この中で一類が一番危険性が高い、他に新型インフルエンザ等感染症、指定感染症、新感染症があります。 

新型コロナウイルスは最初のうちは指定感染症と位置づけられていました。 一類から三類と同じ程度危険性があるというものです。 新型コロナの指定感染症は2022年1月まで続きました。 それ以降は新型インフルエンザ等感染症に変更されていました。 新型インフルエンザ等感染症は自粛要請もできるような内容で、いわゆる二類相当と言われるものです。 2023年5月、五類感染症に移行しました。 外出自粛は求められないけれども、発症したら外出は控えるとか、マスクは個人の判断でとか、治療費の自己負担になったりします。 夏からはマスクを外す人が多くなったような気がします。 医療、福祉の現場では常備となっているようです。 小学校でも2~3割着用していると聞きます。 給食事は給食マスクをして、基本前を向いて黙食も続いているようです。 

今年のビックフレーズは「憧れるのは辞めましょう。」 野球のWBCが今年3月に開催されました。  日本は優勝して世界一になりました。  決勝の相手はアメリカでした。 アメリカの大リーガーのスター選手がずらりと並ぶアメリカ相手に勝利しました。 大谷翔平選手が栗山監督の指名を受けて選手たちを前に話したのが、「憧れるのは辞めましょう。」でした。  ペッパーミルパフォーマンス」と言う言葉も席巻しました。 日本初のアメリカ人大リーガーのヌートバー選手から生まれた言葉です。 両手をグーにして上下で合わせて左右逆に回す、ペッパーミルで胡椒をひく動作で、ヒットを打った時にお祝いの合図に選手らが一斉に行うものです。 ヌートバー選手が所属する大リーグのカージナルスでやっていたそうです。 父母のどちらかがその国の国籍を持っていると、その国の代表になることが出来るという項目があって、今回栗山監督が招集しました。 ヌートバー選手は一躍大人気になりました。  

栗山監督の「信じる力」と言う言葉も注目されました。 兎に角いつも選手を信じるとおっしゃっていました。  村上選手はWBCの期間は不調が続いていました。 メキシコとの試合で9回の裏1点差で負けていました。 ランナーが2人出たところで村上選手の打順が来ました。 バント、代打も考えられましたが「任せた、思いっきり行ってこい」でした。 村上選手のさよならヒットで勝利に導いたのです。

大谷選手も大活躍でした。 ホームラン44本、投げては10勝、史上初の2年連続二けた勝利、二けたホームランを達成、日本人初のホームラン王に輝きました。 今年もアメリカンリーグのMVPに満票で選ばれました。 二度の満票MVPは大リーグ初です。 フリーエージェントでの移籍先はドジャースと決まりました。 契約金は10年総額7億ドル(1015億円)でプロスポーツ史上最高額となりました。 

マイナ保険証でいろいろな混乱がありました。 マイナンバーカードに健康保険の機能を持たせたものです。 (2021年10月から)  2024年には健康保険証は原則廃止となります。 国民から不満、疑問の声が上がりました。 保険証を持たない人には資格確認証を発行するという政策を発表したが、カード型、紙などという事で、もともとの保険証でよかったのではないかと言う状況になりました。 他にいろいろミスが発生しました。   この時に「紐付け」と言う言葉が注目されました。 「紐付け」はデータベースを扱う場合の基本中の基本の作業で、これが不正確だったことが原因でした。  

「闇バイト」 犯罪行為を行うアルバイトと言う意味です。 「闇バイト」として一般人が特殊詐欺や強盗殺人を実行する事件が目立ちました。 一般の人と犯罪を繋ぐのがSNSや求人サイト、インターネットの掲示板などです。  「闇バイト」の特徴は犯罪首謀者は一切現場に出る事はないという事です。 自分は安全なところにいて遠隔操作で犯罪を実行させる。  

「アイドル」 日本の音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)が作詞作曲演奏する曲で、テレビアニメ「「推しの子」の主題歌です。 ユーチューブの世界楽曲チャートで7月に世界第一位を獲得しました。 日本の曲が世界一位になる事は異例のことです。 少年漫画誌で連載されていたものが今年テレビアニメとなって放送され人気です。 

若者の間で今年よく使われたのは、「蛙化現象」で、好意を持っている相手のちょっとした行動で急に冷めてしまう現象です。 食べ方が汚いとか、車の運転が下手とか、店員に横柄な態度をとるとか、です。  元になっているのはグリム童話の蛙の王子様です。 蛙化現象はこの反対の現象です。 2016年ごろから話題になっていましたが、今年流行したのはコロナ禍を数年過ごしたことが関係するかも知れません。 

若者の間でフィルムカメラが売れたのが話題になっています。(使い捨てカメラ)  数年前からアナログレコードがブームになってきています。  面倒なわけですが、手触り感、手間暇がこだわりに繋がって、自分から能動的に音楽を聴くというスタイルを味わっているようです。 若者にとってはこれまでに触れていない新しいものであるという事です。

「グローバルサウス」 世界政治の中でよくで聞かれた言葉です。 発展途上国と新興国を指します。 ロシアに味方する中国と、ウクライナに味方するヨーロッパ、アメリカ、日本などが対立するようなり、「グローバルサウス」の国々を味方に引き入れようとする動きが活発になっています。 最近南に対して支援するのにロシア、中国が加わって来て、外交合戦が繰り広げっれています。 新興国も経済発展が著しくなって発言力が強まってきているという事もあり、「グローバルサウス」が注目されています。

「戦闘休止」 パレスチナ自治区ガザでのハマスとイスラエルの軍事衝突に関する言葉です。  今年10月7日にハマスがイスラエルに越境攻撃しました。 収まらない中使われたのが「戦闘休止」です。 休止は一時的に短い時間停止するとです。 人道的な目的で一日数時間だけ攻撃を止める、「人道的休止」と言う言葉が用いられ採択に至りました。   30年前にイスラエルとパレスチナは和平合意を結びました。 合意は無視され続けて来ました。 

テレビ界での言葉としては、「すえこざさ」 NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」からの言葉です。  万太郎の妻すえこさんは原因不明の病気で55歳で亡くなってしまいます。 万太郎は新種の笹を携えて帰ってきます。 その笹に「すえこざさ」と名付けて執筆した植物図鑑の最後に掲載します。(このことはフィクションだそうです)

牧野記念庭園には石碑があって、博士がすえこさんに感謝を込めて詠んだ二つの句が刻まれています。

「家守りし妻の恵みやわが学び」

「世の中のあらん限りやスエコ笹」













2023年12月29日金曜日

竹内弓乃(特定非営利活動法人ADDS共同代表/臨床心理士)・〔ことばの贈りものアンコール〕

竹内弓乃(特定非営利活動法人ADDS共同代表/臨床心理士)・〔ことばの贈りものアンコール〕(初回:2023/9/29) 

発達障害やその可能性がある子どもと保護者を支援するNPOの代表さんに「大変さに寄り添って」と言うテーマでお話を伺いました。 竹内弓乃さんは39歳、主に取り組んでいるのが未就学の児童への発達支援です。  活動のきっかけは発達障害と言う大変さを抱えた子供や保護者がそれぞれの特性を生かした生き方を見つけてゆく姿に感銘を受けたからだと言います。 

一番上が6年生、2年生、3歳の3人の子どもがいます。 子育ての経験が自分の仕事にも生きています。 法人の営業所が3つあります。 年間100家庭ぐらいが通ってきています。  なかなか言葉が出てこないから、どうしたらコミュニーションを出来るのか、悩んでいる親御さんが、日常の生活の中で行っている様なことがなかなか進まない、というような学びにくさ、育ちにくさを感じている。(親御さんの気付き)  伝えたいのに伝わりにくい、意志がなかなか伝わらず癇癪を起こす、と言うようないろいろなパターンの人がいらっしゃいます。  自閉スペクトラム症(いわゆる自閉症)、知的発達障害、注意欠如多動症(ADHD)とかありますが、6歳以下のお子さんなので、特性がまだそこまではっきりしていなくて、未診断ですが、何らかの支援が必要と認められてきている子も結構いらっしゃいます。 

彼らが何がどこまでできていて、何が難しくて、どういう特性があって、好きなことは何か、嫌いなことは何か、と言うようなアセスメント(評価)一人一人行います。  オーダーメイドで生活しやすくなるとかと言うように提案して、応用行動分析学という理論体系に基づいた支援方法のもとに支援の実践を保護者の方に提案して、お子さんに対してマンツーマンで支援してゆくという事をしています。  応用行動分析学とは心理学の一領域ですが、観察可能な事象(行動)に着目して、個人と環境側がどういうふうな働きかけとそれへの反応と相互作用で形作られているか、という事を分析します。  何か困ったことが起きている時に、子供、親が悪い訳ではなくて、環境が悪い訳でもなくて、相互作用に問題が起きているという風に捉えて、そこに働きかけるというのが応用行動分析学の基本的な考え方です。 

ジュースを欲しくて癇癪を起すというような事例でも、ジュースを与えるという行為に前に「ジュース」と言う言葉を教える、言えないような場合はサインを作ってみたりして段階的に行っていきます。  発達は生活そのものの中にあるので、専門家だけでは不十分なので保護者がお子さんの特性に配慮して、学びやすい働きかけが出来るという事が凄く大事なことです。 

私は香川県の生まれです。 高校まで香川県にいました。 慶応大学に進みました。 英米文学を学んで海外で仕事をしたいなあと思っていましたが、全然違いました。 大学に入ってすぐ4月にアルバイトとして、言葉に遅れのある幼稚園児に、遊びの中で言葉を引き出すというアルバイトを見つけて、家に行ったらうちの子は自閉症で心の病気ではなくて、先天的な脳の機能の違いで、やることで発達可能性が大きく広がるとそのお母さんが説明してくれました。 自閉症という言葉も始めて聞く言葉でした。 段々のめり込んで行きました。(大学1年生)   

自分が働きかけて、その成長が見られるのに感動しました。 心理学専攻にしました。(大学2年)  心理学専攻で熊と言う人との出会いがありました。  お互いが10家庭以上を受け持つようになりました。  二人で話をする中で、将来もこういった仕事をしたいと思うようになりました。  大学3年の終わりぐらいに、学生の時からでももっとあるのではないかという事で、学生団体を立ち上げて出来るのではないかと言う事で、大学4年の春に勉強会を開いて、20人ぐらい集まる時もありました。(学生団体の立ち上げ) 大学院に進みました。  

修士を終了した時点でADDS(Advanced Development Disorders Support.)という事業化をしました。 最初は週に一回(日曜日)マンションの一室を借りて、5家庭を対象にプログラムを行いました。  家庭訪問型であると支援の数が少なくなってしまう。 親御さんと共に研修を行うことも出来て、持ち帰ってもらって家で取り組んでもらって、又1週間後につうしょう?をする。  保護者のスキル、主体性なども高くなって、効果も高くなる。 一番わかりやすいのは知的発達水準が変化するという事、理解する語彙、話す言葉の数が有意に上昇したりします。  保護者の方もお子さんへの接し方、安心感とか、良い影響が出てきました。  法人化して15年目ですが、直営の事業所が3か所あり、累計で700家庭に集中支援を行ってきました。 連携拠点を含めると2022年度だけでも350家庭に支援できるようになっています。 

最近は支援の受け皿は凄い勢いで増えてきています。 働く人の育成、どいう言った支援を評価してゆくのか、そういう仕組みがないままに制度が広がってしまいました。 正しい情報が広がっていなくて、支援者が体系的に学べる場所とか、制度に反映されていないとか、まだまだ足りていない。  心ある支援者がお互いに学びあえる場所、仕組みとかを作って行きたいと思います。  子育ては一人でするものではないので人に頼って、オンラインでも相談できるような仕組みもあるので、アクセスしてもらえればサポートも行えます。   良いところ、出来たところを見つけて、そこを思い切り褒めてあげることが第一歩で大事なところだと思います。 

































2023年12月28日木曜日

春日太一(映画史・時代劇研究家)    ・〔私のアート交遊録〕 橋本忍が見た日本映画

春日太一(映画史・時代劇研究家)    ・〔私のアート交遊録〕 橋本忍が見た日本映画 

時代劇を中心とした日本映画やテレビドラマを研究し、監督や俳優への長時間インタビュー、日本映画と社会との関係などその取材は多岐に渡っています。 一方で春日さんは12年もの長きにわたって脚本家橋本忍について取材し、今月「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」を上梓しました。 橋本忍は黒澤明監督の「羅生門」や「七人の侍」を始め日本映画史に残る数多くの傑作を手掛け日本映画の黄金時代を築いた脚本家です。  これまでも日本映画とその世界で活躍した人たちへの深い愛情を語ってきた春日さん、今日は戦後最大の脚本家と言われる橋本忍の評伝を通して、日本映画やそこに惹きつけられた映画人たちの知られざる魅力についてお話を伺います。

今回の本は476ページの大作です。  奥深く複雑で文字数をかけないと書きようがないというものがありました。 企画が始まって12年になりますが、ほぼ毎日橋本さんのことを考えていました。 習慣化されて、何故か終わったという感じがしないです。 その12年の間にも30冊近く出していると思います。  どいう言う思いで、どういう技術でそれぞれの作品に向き合っていったのかと言う事を、スタッフさん、監督さん、役者さんそれぞれの視点で伺って来たというのが基本的なスタンスで、とても楽しく取材を続けてきました。  当時大学院生(25歳)で撮影現場に行ったので、「誰だこいつ」、と言うのは最初あったと思いますが、段々打ち解けて行きました。 

『時代劇は死なず!-京都太秦の「職人」たち』、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』『天才 勝新太郎『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』とか本を出していますが、そこに俳優さんたちへのインタビューもあります。 勝さんの場合は亡くなった後で、スタッフさんにインタビューして勝新太郎像を描いていきました。 三国連太郎さんの時には時間が取れず短い時間での取材でした。 仲代達矢さんの時には緊張しました。  一冊の本を書くので、最初が肝心と思って考えて違ったアプローチをしました。 10回インタビューしました。 インタビューの前に相当勉強していって、丁寧に答えていただきました。  インタビューをするときに、どんな方でも準備は黒澤明だと思ってインタビューするように心がけています。  『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』 岩下志麻さんも凄い方でした。 15回ぐらいインタビューさせて貰いました。  次回このテーマでやりますと事前に連絡するんですが、逆に岩下さんの方が準備されてくるんです。  沢山ノートに書き込んで、理知的な方です。

橋本忍さんは脚本家としてのデビューが黒澤明の「羅生門」、いきなりベネチュアの国際映画祭のグランプリに輝く。 「生きる」「七人の侍」「私は貝になりたい」「砂の器」「八甲田山」「八つ墓村」と言った数々の名作を残した日本を代表する脚本家。  2010年12月ごろに「鬼平犯科帳」についての論文を書いた本があって、送られて来たのが、櫨本忍90歳の小説と書いてありました。 凄く面白くて橋本さんの証言を頂きたいと思いました。  名作のすべてを聞きたいと思いました。 取材を始めたのが2011年で2014年ぐらいに本が出ればいいかなと思ていました。(12年になるとは思わなかった。)    

亡くなってから、書斎を拝見したら創作ノートが見つかりました。 1982年「幻の湖」と言う映画から橋本さんの挫折が始まってゆくわけです。  光の部分と影の部分の両方をが描けるかなと思いました。  どの部分もそうですが、特に「砂の器」と言うところは力を入れましたかね。 橋本さんの脚本家としてのエッセンス、映画人生、人生そのもののエッセンスすべて込められているのが、「砂の器」と言う作品でしたので、こちらも魂を込めて書かなければならないという事で相当力を入れて書きました。 橋本さんが語った橋本忍物語があり、山田洋次監督をはじめ、周辺の方々のインタビューでの橋本忍像、橋本さんがいろいろ書かれている橋本忍像、そして作品がある、創作ノートに書かれた作品の裏側がある、がそれぞれ違うベクトルを向いている。 それをどういう形で一つの本のの中にまとめてゆくか、と言うのが大変でした。 

整合性を求めることが難しく、「羅生門」の方式(それぞれ証言が違う)で良いのではないかと思ってそうしました。  自分自身で藪のなかを調査するのが好きなこともありました。 橋本忍を通して師匠筋の伊丹万作監督、黒澤明の世界と言ったものも明確に見えてくる。 出来る限り橋本さんのインタビューはろ過しないで、そのまま載せる、創作ノートも解説を入れずに、皆さんにエッと思ってもらえるように書きました。  作品とその裏側にあるご自身の思いのギャップの激しさが、戸惑ったところでもありました。 「砂の器」は1961年に脚本を書いて、山田洋次監督が助監督の時に、アシスタントで一緒に脚本を書いて、公開まで13年かかっています。 自身でプロダクションを作ると言う事で「砂の器」をもって行った。 「日本の一番長い日」に至っては橋本さん自身が当たるとは思っていなかった。  これは戦争に対する様々な思いがあったのではないかと思いますが、実は競輪でお金をすってしまい、書かせてくれと言うことになった様です。

橋本ワールドとは、一つは鬼と人間がどう向き合ってゆくかという事、橋本さんの映画は全て悲劇、人間があがらえない理不尽な状況に苛まれてゆく話ですが、その時人間がどの様にあががらってゆくか、押しつぶされてゆくか、それを描いて来た。  ドラマの魅力もその悲劇性にあるのではないかと思います。  日本の映画の戦後史の流れを橋本忍さんの映画人生を通して、皆さんが感じ取ってくれば、嬉しいと思います。 薦めの一点としては「砂の器」を見ていただき、その後原作を読んでいただくと、こんなにも変わったのかと、橋本忍さんの作家性がいかに映画の中に込められているかが、判ると思います。






























 






2023年12月27日水曜日

曳地トシ(オーガニックガーデン専門の植木屋)・〔心に花を咲かせて〕 命が巡るワクワクする庭づくり

曳地トシ(オーガニックガーデン専門の植木屋)・〔心に花を咲かせて〕 命が巡るワクワクする庭づくり

科学も使わず殺虫剤も使わず自然のままに庭を作り管理する事。 虫に花や葉っぱを食べられたり花の咲き方が悪かったり結構大変ではないかと思いました。 オーガニックには仰がれるけれどやっぱり無理と薬を使っている人も結構います。 そんな庭作りを仕事としてするのは大変なのではないかと想像しましたが、曳地さんはすでに30年に渡ってオーガニックガーデン専門の植木屋として活躍しています。 また本も出し平成6年2月には日本オーガニックガーデン協会を設立、オーガニックガーデンの普及に努めています。 なぜオーガニックガーデン専門の植木屋になったのでしょうか。 どんな方法だとそれが可能なのでしょうか。 何故オーガニックにこだわるのか伺いました。

始めたころはそんなの絶対無理とか否定的な意見が多かったです。 個人の庭で農薬を使わないで植木屋をやりたいなあと思っていましたが、そういう人はいなかったです。 公共工事で10年に一遍の寒波が来てしまい、植えた木の1/3以上が1年間で枯れてしまいました。  下請け業社が全部やり直さないといけない。  大赤字になってしまいました。 一度植木屋を辞める決心をしました。 実家に帰っていたら、良い仕事がある、植木屋だというんです。 自分がやりたいというスタイルの植木屋をやっていないのに、諦めていいのかなと思いました。 下請けを辞めて、個人の庭をお客さんにしてオーガニックでやって行こうと思いました。  

まずチラシを作り配布しました。 電話が掛かってこなかったら駄目だと思いました。 2週間全然かかって来ませんでした。  その後1本電話が掛かって来て、それから毎日電話が掛かってきました。  その年は何とか食べてゆくことが出来ました。 曳地さんたちが来るようになってから鳥たちが沢山来るようになったと言われました。(虫を食べにくる) 咲く花の色が良くなったとも言われました。(理由は判らない)  カイガラムシを食べるアカホシテントウと言うテントウムシがいますが、これが食べてくれるので様子を見ましょうと説明します。 最初はオーガニックで虫のいない庭をめざしましたが、虫のことを知らないとオーガニックが出来ないのではないかと思って、虫のことを調べ始めました。

娘の高校の担任が盛口満(現沖縄大学の学長)さんと言う方でした。 虫を取ってフィルムケースに入れて、娘に渡して、虫の名前と食草(何を食べているか)を教えてもらう、と言う事を繰り返しました。 幼虫と成虫は全然姿が違うので、図鑑には幼虫は載っていないのがほとんどだった。 虫は嫌いでしたが、綺麗な幼虫もいて、段々虫の姿にはまって行きました。 デジカメで虫の写真も撮るようになりました。  虫の本を作りませんかと声を掛けられました。(今までにないタイプ 天敵を記載) 生態系の面白さにはまって行きました。 虫好きになったら庭がもっと面白くなりました。  白アリはほかの生き物を嫌がるので、蟻がいると来ない。  うどん粉病の天敵はシロホシテントウ、キイロテントウです。 テントウムシは菌を食べるものと、カイガラムシを食べる、アブラムシを食べる、葉っぱを食べるテントウムシとか様々です。 

雑草は生やしていい、根から抜かないで5cmで刈ってしまう。(2~3週間に一遍刈る) 遠くからは芝の様に見えて、芝の様に手間はかからない。  その人にとって使いやすい庭を作る。 自然は奥が深い、知らないものだらけです。  庭がホッと空間だったら凄く素敵だなあと思います。 日本オーガニックガーデン協会を設立しましたが、オーガニックガーデンの普及ですね。 オーガニックガーデンマイスター講座を年に一回(4日間)やっていますが、120人ぐらい卒業生がいます。 7割ぐらいがプロになっています。 オーガニックガーデンが徐々に増えて行っています。


































2023年12月26日火曜日

宮田亮平(金工作家)          ・イルカは私の原点

宮田亮平(金工作家)          ・イルカは私の原点 

宮田さんは1945年新潟県佐渡市で生まれました。(78歳)  佐渡の海を泳ぐイルカをモチーフにした作品で知られ、国際枝的に高い評価を受けています。  宮田さんは東京芸大で金属板をかなづちで叩いて造形する金属工芸の技法である鍛金を学びました。 その後東京芸大の学長や文化庁長官を務め、今年、日本芸術院の会員に選ばれ、また文化功労者にも選ばれています。 宮田さんは佐渡の蝋型鋳金の二代目宮田藍堂さんの三男として生まれました。 蝋型鋳金という技法は蜜蝋を主体として練り合わせた蝋で策本の原形を作り、それを土で塗り覆い、土が乾燥した後釜の中で蝋を溶かし、土の中から流出させて空洞になったところへ、溶かした銅合金を注入して作るというものです。 宮田さんにこれまでの芸大の学長や、文化庁長官としての仕事のほか、これからの作家生活についても伺います。 

代々我が家は工芸家です。 工芸をこだわりながら金属で楽しく物を作っているという感じです。  78歳ですが、文化以外には携わってこなかった。 文化を通じて芸術を通じて美術を通じてと言う生活をずーっと続けてきたことをご顕彰頂いたという事はめちゃめちゃ嬉しかったです。 11月上旬日本橋のデパートで作品展が開かれました。 見ていただいた方の反応を見るのが好きです。 芸術の世界は正確な答えと言うものがないですから。  ギャップが私にとって最大の魅力です。  展示は45点、モチーフがイルカです。 1,5cm~1m近くまでのイルカがあり全部で200頭ぐらいいます。 代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen=飛躍する、跳躍する、前進してゆく)」シリーズがあります。  

1990年、文部省の在外研究員としてドイツへ行って、帰ってからイルカのシリーズになりました。 その時に「シュプリンゲン」としました。 ハンブルク美術工芸博物館に研究員として行っていました。 ドイツは鉄の文化がしっかりしていて鉄のマイスターを勉強したくて行きました。  日本の金属との素晴らしい出会いがありました。 鍔とかさびたままで保存されていたので、日本の方法でやってみました。  鉄さびがビロードのような深い黒い茶の色(チョコレートのような)になりました。 象嵌した金もやまぶきによみがえるんです。 大根おろしでこんなに綺麗になることにドイツ人は吃驚していました。 いろんなやり方を彼らに伝えました。 ドイツで日本の凄さを感じ、人生が変わりました。 

 東京藝術大学美術学部工芸科に入って、大学の学長をやって、2016年に文化庁長官をやって、日本芸術院の会員となり、2023年文化功労者となりました。 佐渡に伝わる金属工芸「蝋型鋳金」技術保持者で、父が無形文化財の新潟県師弟の二代目宮田藍堂、初代が祖父藍堂。  柏崎の原家が伝承していて、佐渡の金山の大砲の技法を、本間琢斎先生が佐渡へ持ってきて開業していました。 その外側の文様を作るという事で、うちの先代が弟子入りして本間家から教わりました。 三代目藍堂は長兄(元・東京藝大工芸科教授の宮田宏平)で亡くなりました。 4代目は芸大の鋳金を出て今は福岡教育大の教授になっていて、多分継ぐと思います。 次兄はデザイナー三重大学名誉教授宮田修平で私は末っ子です。(7人兄弟) 女性の姉妹は4人いて、長女は書家、次女が芸大の彫金を出て 三女は染色、四女は油絵やっています。 

朝、習字をやってから朝食を食べていました。 母は「昨日とは違うね」と言ってくれて、上手い下手はあまり言わなかった。 「いいの」と言ってくれて心地よかった。 高校2年までは美術は厭でした。(上にいるので比べられちゃう) 或る時、友人から「これ良いね。」と言われたのが美術でした。 そこから美術の道に入って行きました。 二浪して芸大に入りました。 デッサンは特にやっておくべきですね。 教授、学部長、副学長、学長を務めました。 副学長までは自分の研究室を持てました。 という事は学生に私を選ぶ権利があるわけです。(なかなかの試練)   私の信条ですが、「弟子は師を越えてこそ師の役目がある、越えなかったら師が悪い。」と言う事があります。 学長になって辛かったは研究室が持てない、と言う事でした。 芸大には音楽もあり、根本的に違うのは楽譜のある世界と楽譜のない世界です。 2005年から2016年まで学長を務めました。 本当はもう6年やる筈でした。 国から使者がやって来て文化庁長をやって欲しいという事でした。(2016年)  

2016年から2021年まで文化庁長を務める。 通常は2年ですが5年やることになりました。 私の作品を作るうえでの醸造の時間がこの5年間にはありました。 その後本格的に作品作りを行い展覧会を開催しました。  イルカは大きさによって鋳造して作るものから板を叩いて作るものがあります。 イルカをモチーフにした原点は芸大に行くために佐渡を出る時に見たイルカの光景がもとになっています。 僕の作品にはあえて目を入れませんでした。 それぞれの思いがあったら嬉しいです。 作品はどんどん作って行きたいが、具体的なものはない。 これからが青春です。



















2023年12月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 古川柳にみる絶望名言

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  古川柳にみる絶望名言 

川柳は現在でも人気があり、サラリーマン川柳などはその代表格です。 雑誌のラジオ深夜便にも川柳のコーナーがあります。 古川柳からの絶望名言を紹介します。

「大晦日首でも取って来る気なり」

昔の川柳で今でも心に響くものは、いつの時代でも変わらない人間の根本的な気持ちを描いていると思います。 

俳句も川柳も基本的に五、七、五で、俳句には季語、季節を表す言葉が入りますが、川柳には入っていなくてもいい。  俳句には切れ字、「かな」「けり」とかがありますが、川柳は無くてもいい。 俳句の場合は多くは自然を詠みます。 川柳は多くは人間を詠む。  川柳は基本的には風刺とか、ユーモア、笑えるものが凄く多いです。 落語と同じで人間の駄目さ、悲しさ、絶望とかを表現しているものが多いです。 それをあえて笑いにする。

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされた時には、絶望するか、さもなければ哲学か、ユーモアに訴える。」    チャップリン

川柳も失意、苦悩、絶望をユーモアに訴える。 だから味わい深い。

「大晦日首でも取って来る気なり」                         昔は米、味噌、醤油などはつけでも買えた。 大晦日は一番大きな区切りで、「かけとり」と言ってつけのお金をとりにゆく、何としても払ってもらう。 

「大晦日首でよければやる気なり」                         お金がないから首でもなんでも持って行ってくれ、と言うものです。

「屁をひっておかしくも無し独り者」                        おならをしても笑う人が居ない孤独。 

俳句 「咳をしても一人」   尾崎放哉

俳句 「咳がやまない背中をたたく手がない」  山頭火

咳を屁に変えるだけで川柳になる。

「嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり」                          おならが出ないように我慢しているが苦しくて、おならが五臓六腑を駆け巡る気がする。

「神代にもだます工面は酒が入(いり)」                          これはヤマタノオロチのことです。 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するときに八つの酒樽を用意して、お酒に酔わせて退治する。 神代の時代から相手を騙す工夫として、お酒が用いられた。

頭木:僕はお酒は普通に飲めましたが、難病になってからは飲むことが出来なくなりました。 でも付き合う事は好きです。 

「ふぞろいの林檎たち」」 原作:山田太一 からの一節                   「酔うのが嫌いなんだ。 もっとも人が酔ってゆくのを見ているのはそれほど嫌いじゃあない。  毒薬が段々効いて来るのを見ている様でね。 当人はちっともまだ酔っていないつもりで口調がちょっとだらしなく成ったりする。 そのうち顔が赤くなる。 醜くなる。 話がくどくなってグラスを倒したりする。 後で思い出したら死にたくなるような事もしゃべりだす。 吐いたりもする。 それを飲まないで見ているのは楽しみでなくもない。」

酔っている姿をはたから見られるのは辛いですね。

「酔ったあす女房のまねるはづかしさ」                        酔っぱらって帰って来た翌朝、妻がその様子を真似するわけです。真似されて恥ずかしい。

*「酔い覚めに土瓶の蓋が鼻へ落ち」                         酔った後水が飲みたくなる。 「酔い覚めの水千両と値が決まり」と言うのもあります。  酔った人の何とも言えない状況を描いている。

「母の名は親父の腕にしなびて居」                         昔は好きな人の名前を刺青したりしていた。 例えば「お駒 命」とか。 夫婦とも高齢になってしまっている。 でもしなびるまで一緒に暮らしている。幸せな情景ともいえる。

「女湯へおきたおきたとだいて来る」                        赤ん坊が目を覚まして、泣き出したりして、赤ん坊を抱いて女湯に入って行く。 

「居候三杯目にはそっと出し」                           居候は肩身の狭いものです。

「居候ださば出る気で五杯食い」                          出て行けと言われればその覚悟で、その気で五杯食う。

「居候嵐に屋根を這い回り」                                  お世話になっているので台風の時などには、飛ばないように危ない作業をする。                            

「しじみ売り黄色なつらへ高く売り」                        黄色なつら=黄疸(肝臓、すい臓とかの病気)で顔が黄色くなっている。 昔から黄疸にはしじみが効くと言われていた。 病気のために買うのなら、少し高くても買うだろうとする。 元手が要らないので貧しい人がしじみ売りは多かった。 少しでも多くを稼ぎたいと言う思いがある。

「こしかたを思うなみだは耳に入(いり)」                        こしかた=これまで過ぎ去った人生のあれこれ 涙が耳に入るという事は仰向けに寝ている。 これまでのいろいろな人生を思い出して涙が出てきて、流れて耳に入る。

部屋を片付けるのにも年齢を重ねる程捨てにくいものがある。 

雨宿りは今もあるが、軒下に雨宿りする。 どんどん雨脚が強くなって本振りになってしまう。 待ちきれなくなって飛び出してしまう。 もっと早く出ればよかったと悔やむ。  最後の川柳はそんな情景を詠んでいます。

「本降りになって出てゆく雨宿り」

*印はかな、漢字などが違っている可能性があります。


























2023年12月24日日曜日

脇園彩(オペラ歌手)          ・〔夜明けのオペラ〕

脇園彩(オペラ歌手)          ・〔夜明けのオペラ〕 

脇園彩さんは東京出身、東京芸術大学卒業、大学院オペラ科を終了後、文化庁の奨学金を得てイタリアパロマ音楽院に留学しました。 その後ミラノスカラ座アカデミー研修所に合格し、2014年に「子供のためのチェネレントラ」でスカラ座デビュー、イタリアでキャリアを積み2019年には新国立劇場「ドン・ジョバンニ」でドンナ・エルヴィーラを演じ、以後、「セルビアの理髪師」「フィガロの結婚」「チェネレントラ」「ファルスタッフ」と毎年登場しています。 今年の11月にはボローニア歌劇場の来日公演、ノルマに出演し、絶賛を浴びました。 12月はNHK交響楽団のヴェートーベン「第九演奏会」でソリストを務め、来年1月には東京都藤沢でコンサート、2月には大阪交響楽団の「子供と呪文」に出演、3月には東京でソロコンサートが予定されています。 

年末年始を日本で過ごすのは数年振りかもしれません。 NHK交響楽団との共演は初めてです。 イタリアに住んで10年になります。 日本とイタリアの架け橋になるような事をしていきたいと言うのが自分のライフワークの一つでもあります。  歌と演じることも好きな子供でした。 ミュージカル女優、小児科の医者になりたいと思っていました。  中高一貫の進学校に行きました。 周りが天才でアイデンティティーの崩壊を感じました。  自分は何をやりたいのかと言う模索の旅が始まりました。 中学1年ではバスケット部に入りましたが、厳しくて2年の時に英語劇部に入り魅力にはまってしまいました。  

*「カーロ・ミオ・ベン」 作曲:トンマーゾ・ジョルダーニ 歌:脇園彩

中学3年、高校1年のころに、ピアノの先生から声楽の先生を紹介され、歌ってみないかと言われました。 高校1年から本格的に歌のレッスンンを始めました。 2,3年すると簡単なオペラを先生から与えられるようになりました。 オペラに興味を抱くようになりました。 芸大を受けて一浪して、その時にアメリカのメトロポリタン歌劇場のツアーで日本に来て、「椿姫」のルネ・フレミングを聞いて、オペラってなんて総合的な芸術なんだろうと思いました。 オペラに目覚めてしまいました。  1浪後、芸大を受けて2次迄合格となりましたが、3次で不合格となりましたが、2週間後に連絡があり追加合格となりました。 東京文化会館には国内外の一流の人が集まるので、アルバイトで案内をして立ち会わせて頂きました。 いつかこの場に立ちたいと思っていたので、今年は夢が叶いました。

大学院に進学したのが2011年でしたので、卒業式も入学式もありませんでした。   2011年11月に運命的な出会いがありました。 イタリアのマリエッラ・デヴィーアさんがマスタークラスをしてくださるという事で、留学の機会を捜していたので軽い気持ちで受けてみました。 ミニレッスンがあり、その声を聞かされて圧倒しました。 この人のところで勉強したいと強く思いました。  大学院卒業後イタリアに留学しました。 言葉で苦労して5か月間ぐらい引きこもりをしましたが、イタリアに在住していた日本の人たちからいろいろサポートしていただきました。 オーディションを受けて、アルベルト・ゼッダ先生から、私の声を気に入っていただけました。 オーディションに合格して、翌年ミラノスカラ座アカデミー研修所に合格したことが私の人生をがらっと変えてくれました。 

*「苦しみと涙のうちに生まれて」 「チェネレントラ」より 作曲:ロッシーニ 歌:脇園彩    童話の『シンデレラ』を元にした物語

デヴィーアさんからは、今も1か月に一遍ぐらいで指導を受けています。 自分の声の一番バランスの取れた場所がぶれたりしだすので、中心に戻してくれる感覚があります。  地味なことをずーっとやっていますが、それを長く積み重ねてゆくと、声が全然変わって来ます。 

12月はNHK交響楽団のヴェートーベン「第九演奏会」でソリストを務め、来年1月には東京と藤沢でコンサート、2月には大阪交響楽団の「子供と呪文」に出演、3月には東京でソロコンサート(全部 ロッシーニ)が予定されています。 その後ヨーロッパでの公演があります。 









































2023年12月23日土曜日

犬童一心(映画監督/CMディレクター) ・〔わたしの人生手帖〕

犬童一心(映画監督/CMディレクター) ・〔わたしの人生手帖

犬童さんと言いますと、星野源さん主演の「引っ越し大名」や野村萬斎さん主演の「のぼうの城」などいわゆる痛快時代劇を思い出すという方も多いと思います。 犬童一心さんは1960年東京都生まれ、63歳です。 高校時代から自主制作を始め、大学卒業後CM製作会社に就職する一方、映画製作を続けました。 1996年大阪を舞台に女性漫才コンビの環境を描く「二人が喋っている」が「サンダンスフィルムフェスティバルイン東京」でグランプリ、日本映画監督協会新人賞を受賞しました。 その後も劇場映画監督として、「メゾン・ド・ヒミコ」や「眉山」など良質な作品を発表し続けています。 長い歴史を持つ映画雑誌で作風はしなやかなまなざしで人生と青春を見つめる俊英と高い評価を得ています。 犬童監督はどの様な興味から映画に関心を持ったのでしょうか。 また映画を作るうえでの心情はどのようなものなのかなどについてお話を伺いました。 

間取りがどうなっているかとか、凄く興味があります。 日々の生活の中でどのように暮らすかという事を考えるのが好きですね。 撮影の時に考えていることも実はそれなんですね。 撮影シーンの中で人間がどう動くのか、セットの位置なども考えるのが映画監督の様なものなんですね。 動線を考えるというか。 父親が建築業なので小さい時から建築している建物に行ったり、建材のカタログを見ることなど好きでした。 でもあとを継ぐ気はなかったです。  セットも重要ですが、その中でどう人を動かすか、どこでだれが何をするかで、撮影した時の絵が決まってしまうので、始める前にどれだけ想像できるかというようなことが重要だと思います。 高校生から作ってきたのでそれが身になっています。 

1970年は映画会社がつぶれる時代でした。 70年代はテレビでは映画をやる時代でした。 映画が好きになり中学時代から映画を作りたいと思うようになりました。 高校2年生から映画を作り始めます。 映画は収入が不安定すぎると思っていました。 テレビコマーシャルが全盛の時代で、興味はなかったが、CM会社に入り真剣にやりました。 予算とスケジュールで出来ているという事が重要だという事が勉強になりました。  映画は自分が企画を進めて撮ることになっている作品と、依頼された作品があります。  依頼された作品は引き受けられないという作品はあります。 CM会社には定年まで居ました。 映画はCMと違って残るんです。  兼業としてやっていました。 

映画については次はこれをやっておきたいというものがあって、最初の商業映画は二人の女性漫才師の話です。  このころは少女漫画を映像に移し替えられないかと言うっことがベースにありました。  「のぼうの城」は作るのに7年間かかりました。 子供時代に見た面白い時代劇がなくなっていたので、それをもう一回作り直してみたいとか、その時々にやりたい事に合わせて企画して作品を作っていました。  子どもの頃から、映画の出来上がりに対する興味、カットの切り替わりに対する良いものと悪いものを感じました。 子どものころから、沢島忠監督が何故か好きでした。 「引っ越し大名」と言う作品を作りましたが、、沢島忠監督みたいな時代劇を作れないかと思ってやりました。 小学生時代からの延長なんですね。 

俳優が良く見えるように撮りたいという事が一番です。 映画は物語を語ってゆくことが重要です。 カメラは目の前に起こっていることを記録しているだけなんです。  その場が記録することに値するかどうかという感覚で、臨んでいるといった感覚ですかね。 俳優のその人の部分をちゃんと撮れているかどうか。 俳優って、その人がどんな生き方をして来たかという事を全部写るみたいなことはあると思います。 演技が上手いかどうかは半分みたいな。 普段どうしているかという事が結局写っているような、それがちゃんと写っているといい映画になっているという、そういう面があります。

肉親の愛情、友情とか映画の中で過大評価をしているんじゃないかと言うところがあって、普段育ってきた中で刷り込まれた人間関係、こういう事が重要なんだという事に疑ってかかる。 「メゾン・ド・ヒミコ」はゲイの人たちだけの老人ホームの話なんです。 そこにいる人たちの人間関係は非常に重要で、物凄く崇高なものになってゆくという話をやろうとしていました。  小さいころから戦争は何故終わらないんだという事がずっとあったんです。  何でこんなばかばかしいことを大人はやっているんだと小さいころから思っていました。  物心つく頃からずーっとベトナム戦争をやっていました。 根幹にあるのが、国家だとか、家族とかと言うものがどうしてもありました。  家族をまもるためとか ,国の主義主張、そのために人はどんどん死んでいると言う構造、大事にしているものに対する過大評価をしているというか、その時行う行為のために過大評価をしてゆく。 それに使われるのが血のつながりとか、友情、家族とかそういう人間関係、向こうも同じ関係でやって、家族をまもるためとか ,国の主義主張、友情、血縁などです。 構造がどっちもおんなじなんです。 それでずーっとやっている。 大事だと言われている人間関係、主義主張、でも人はどんどん死んでいる。 過大評価に対して疑ってかかる。 

やってみたいのは子供向け娯楽映画とか、ドラマを一回やってみたいと思います。 できれば時代劇で作ってみたい。 時代劇は作ってみると自由度が高いんです。 だれもみていないので 物凄く本当のような嘘もつきやすい。 テーマが発展させられる。 今の世の中にとって重要なのは子供の教育だと思います。 一番いいのは子供にちゃんとお金をかけて、良いことを見てもらい、聞いてもらうと言う事をやってゆく事ではないかと思います。









 




























2023年12月22日金曜日

三上博史(俳優)            ・寺山修司さんからの贈りもの

三上博史(俳優)            ・寺山修司さんからの贈りもの 

三上さんは神奈川県生まれ、高校1年の時に劇作家で詩人の寺山修司さん監督の映画「草迷宮」に主演します。 撮影終了後には高校生活の戻りますが、俳優と言う仕事に興味を持ち寺山さんが主宰する劇団「天井桟敷」に通うようになります。 1987年映画「私をスキーに連れてって」に出演し、その後トレンディードラマに数多く出演、人気俳優となります。 NHKでは2012年の大河ドラマ「平清盛」で鳥羽上皇を熱演して、話題となりました。

普通の二枚目のヒーローと言うのではなく、ちょっと捻ったような役が結構ありました。   映画「私をスキーに連れてって」に出演し、それは爽やかなかっこいい青年の役でした。   ちょっとマイナーの匂いのする映画ではありましたが、ふたを開けてみると独り歩きしていました。(ヒット映画になった)   名前、顔を知ってもらうことが目的のような仕事していたので、そうなると不自由になってくるので、自分の時間も必要となるので海外にいる方が都合がよかったです。 

偏差値を稼ぐために小学校からガリガリやっていました。 自分で塾を捜して小学校3年生から電車で通っていました。 高校までは設計図通りに行っていました。 高校3年、大学4年の7年間があるので、楽しいことをやろうと思っていました。 その一つが友達が持ってきたオーディションでした。  興味はなかったが、受けてみたら、劇作家で詩人の寺山修司さん監督の映画「草迷宮」で、主演する事になりました。 自分は高給取りを目指していたので、その現場は真逆の世界でした。(金がない中右往左往してやっていた。)   撮り終えてまた普通の学校に戻るわけです。 何か月かすると何故か胸に隙間風が吹くんです。 学校が面白くなく、あそこに戻りたいと思いました。 学校が終わると、劇団「天井桟敷」に入り浸るようになりのめり込んで行きました。 そこの5年間は僕の宝物でした。

寺山さんと話す機会があり、「お前は舞台は向いていない、僕の映像要員でいいから。」と言われました。 「映画をやる時には呼ぶから」と言われました。  15歳で撮影して公開は20歳の時でした。 その間に或る時新聞に、大島渚さんが主役の少年を捜しているというという事で、電話をして何回かあって、その役をやる予定でいたが、大島さんがその仕事を投げてしまいました。 その数年後に「戦場のクリスマス」に呼んでいただきました。  (しかし小さな役でショックでした。) 浪人2年目の時に母が亡くなるんですが、その時には「俳優をやるのは良いが、性格俳優にはならないように。」と言われました。 

TBSの金曜ドラマ無邪気な関係』の戸川純の相手役をやることになりました。 そこからあれよあれよとなってゆくわけです。 突っ走って行きますが、20代前半は多感な頃でジレンマがありました。 飲み仲間と音楽の方をやるようになって、詞を付けて行って、オリジナルがどんどん増えて行きました。 25歳でオリジナルでライブをやるようになりアルバムの一枚目をだしました。(趣味) 30代頭に ミュージシャンの役が来てしまいました。  役の名前でCDを出して、それが売れてしまいました。 40歳で役者の活動は辞めようかと思いました。(建築の学校を捜していて、芸能界を辞めようと思った。)   

寺山修司没後20年という事で舞台の話が来ました。 最後に一本だけやろうと思ってやったら、目からウロコでこんなに自由なんだと思いました。 これは生きる世界があるかもしれないと思って、舞台の仕事に行きだしました。(当時いろんな国に住んでいました。 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の舞台をやっていました。) 帰って来て、その曲だけやろうとしたが、結局舞台丸ごとやらないかと言うっことで、評判になりました。(42歳) それから舞台が続いて行きます。  

三沢の寺山修司記念館で毎年5月4日の命日にライブ、修司忌をやって朗読、歌などをやっていましたが、今年5月で没後40年になり、バンドで行きました。 紀伊国屋ホールでやりませんかと言う話があり、構成をし直して、言葉の吹雪みたいな感じで行おうと思っています。 僕がやりたいことをやろうとすると、寺山修司さんが出てきちゃうんです。 僕はそこから出たいんですが。  掌がでかいので出られないですね。 

































2023年12月21日木曜日

由美かおる(女優、歌手)        ・〔わたし終いの極意〕 美健康の秘訣は世界標準!

 由美かおる (女優、歌手)   ・〔わたし終いの極意〕  美健康の秘訣は世界標準!

由美さんは去年自身の事務所を立ち上げ、新たな一歩を踏み出しました。 女優としての活動に加え、全国の介護施設や高齢者施設に出向いて、呼吸法をベースにした健康教室を開催するなど活動の場を広げています。 由美さんは今年73歳、デビュー以来変わらぬその美しさと健やかさに海外メディアも注目して、現在アメリカの放送局の密着取材を受けているという事です。 70代を明るく過ごす気持ちの持ち方や新年の抱負について伺いました。

普段何気なくしている呼吸を深くとらえて、からだの隅々まで巡らせて行くという、新しく立ち上げました。 「由美ブリージング」と言う本を出しました。  疲れたりストレスがた有ったりすると、呼吸が短くなってしまいます。 呼吸を深くとらえて、からだの隅々まで巡らせて行くと血液の流れが良くなり、自然治癒力、免疫能力もどんどんアップします。     私たちは1日に2万~2万5千回と言う呼吸をしています。  90歳まで生きたとすると8億回と言う数になります。 1回に取り込む量は500mlぐらいです。 一日に取り込む量は1万2千リットルを吸って排出をしています。  健康を維持してゆくためには大切な事です。 

1950年京都生まれ。(東寺のすぐ近く)  子供のころはお転婆で五重塔の周りを飛び回っていました。 父は警察官から青果業を始めて、旬な野菜で具沢山の鍋を食べていました。 3歳から兄と共に幼稚園に行って、近所にお姉さんが居てクラシックバレエをやっていて、真似てくるくる回ったりしていました。  それがクラシックバレエとお出会いでした。 3歳からバレエを習うようになりました。 6歳から兵庫県川西市に移って、そこでもバレエ教室があり通い続けました。 知り合いに宝塚の先生がいるというので、母からピアノ、声楽を習ったらどうかと言われて、小学校の時から始めました。 算盤もやりました。

中学の時に友達が西野バレエ団」に一緒に行かないかと誘われていくことになりました。 金井克子さんとか凄い方たちが一杯いました。  読売テレビで新しい番組が出来て、抜擢されました。(15歳の時) 11PM』に出演、中学生だったので録画でした。 沢山の電話を頂き、その中で石原裕次郎さんから電話を頂き、「夜のバラを消せ」という銀幕のデビューをさせて貰いました。 関西弁だったので標準語で話すのに苦労しました。 15歳で大人役だったのでちゃんと理解できていたのか判りません。 時代劇「水戸黄門」のかげろうお銀役をやりました。 最初は黄門様の命を狙う役でした。 岩風呂に入っている黄門様を狙って入ってゆくと風車の弥七さんに止められてしまいます。 お風呂のシーンは204回ぐらいです。 

体形はデビュー以来変っていないです。 体重は43gで今も同じです。 ダイエットは全くしたことはないです。 食べたいときに食べる、好きなものを食べる、和食、お米が好きです。 食前酒、ビール、ワインも頂きます。 ブリージング、それと感動する事、それが身体にいいですね。  辛い事悲しいことなどあると思いますが、それを自分がどのようにして、いい方向に向けてゆくかと言う事ですね。 

自分でやってきたブリージングを弱者の方へとか、工夫をしてきました。 椅子に座ってできるブリーシングがあります。  まず姿勢を真っすぐにします。 軸が大切。 おへそを三角に囲むように腕を回します。 口から吐きます。 吸うときは鼻から吸います。    上体を前に曲げながら、手が床にまで着く様に体を曲げます。 次に吸って行きます。  これが「コア呼吸」です。 旨くできると身体が熱くなって、全身から汗が出てきます。 「足芯呼吸」で 捩じって背骨が緩むんです。  自分の健康、やる気、チャレンジ精神が出てきます。 

海外のメディアも注目して取材を続けていて、来年の4月に放送されます。 世界中を回りたいですね。 ブリーシング、ジャズを歌ったりして。 いずれゴールは来ると思いますが、前向きに、感謝、嬉しい、美味しい、楽しくいけたらいいですね。 私じまいの極意とはブリージングで、健康で、みんなで美しく、美味しく過ごせたらいいですね。


































2023年12月20日水曜日

山口 香(筑波大学体育系教授 柔道家) ・〔スポーツ明日への伝言〕

山口 香(筑波大学体育系教授 柔道家) ・〔スポーツ明日への伝言〕 スポーツ、「脱昭和・脱スポ根」時代の到来

今回のオリンピックは前回の時のオリンピックの時に比べて、いろんな意味で突きつけられて、本当にこれで昭和からの脱却と言い新たな社会に向かって行かなければ駄目だよねと言う事を思い知らされた、思い起こされた大会だったと思います。  1964年のオリンピックは肯定的に見らえたと思いました。 イベントとしての思いが強くて、理念とかそういったものが割と後ろに置かれてしまっていたというのも実際のところかなと思います。

当時日本オリンピックの理事をしていて、「アスリートが満足に準備できない今の状況では延期すべきではないか」と発言しました。  私としては、オリンピック、パラリンピックはまずアスリートのためのものであると思っていて、コロナの全容が把握できていない時に、果たして誰のために、何のためにやるのか、納得できなかったので延期はあり得るのではないかと思いました。 大きなイベントが動き出してしまうと、立ち止まるとか、後戻りするとか、と言う事は出来ないんだという事が社会、組織の中ではあるような気がします。 そういった議論が出来なう

いような雰囲気があったように思います。 

「スポーツの価値」と言う本を出しました。 大きな時代の流れがあり、スポーツの部分で言えば「脱スポ根」・「脱昭和」と言う言葉を使っています。  私はいわゆる根性ものと言われるものを見て育って、それが素晴らしいと思ってスポーツをやってきたんですが、今トップスポーツを見ていると、科学的な知見と言うのも大変生かされています。 当時はやればやっただけ成果が上がる、辛くても苦しくてもやり続けることが意義があり、それは必ず結果につながるんだという刷り込みをされていました。 根性とか猛烈に何かをするという事が人間に求められる時代ではなくなってきている。 イノベーション((innovation)とは、物事の「新機軸」「新結合」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。)を起こさないといけない。 

押さえつけられて、我慢してという人間には、自由な発想とか伸びやかな想像力は生まれてこない気がします。 私たちが見ていて心躍る、わくわくするようなプレーは意外性ではないかと思います。  それがスポーツから学べるところだと思います。 独創的なプレーを考え、実行して失敗するかもしれないがチャレンジする。 そこからスポーツからのメッセージがあるわけです。 アスリートを卒業して社会に出ても持ち続けて、発揮することで彼ら、彼女らの価値がさらに上がるということを覚えておいて欲しいと思います。          

子どもがスポーツをやる事は良くも悪くも責任を取るという事です。 そういった積み重ねの経験をしてゆくことで、自分がどうあるべきか、実行しその責任を取るという事を、人間として、スポーツは凄く学ばせてくれる。 野球で言うと慶応高校が勝ったのも、スポーツの新たな息吹を見せてくれたと思います。 オリンピックではどうしてもどこかで国を背負っているというところから抜けきれないところがあるかあるのかなあと思います。 自己ベストを出した時、わくわくするようなプレーを見せられた時、チーム一丸となって向かってゆく姿勢を見ると、勝ち負け以上のものがあるんだろうと思います。 

私は6歳から柔道を始めました。 女子は少なかったです。 1980年が女子の世界選手権の第一回目でそれに参加しました。   日本で女子の試合が始まったのは1978年でした。 加納治五郎は柔道を創始して約10年後に女性にも門戸を開いています。(明治時代) これからは女性も活躍していかなくてはいけないという思いから女性にも柔道をさせましたが、怪我をしたりするのはいけないということで「試合はまだ早い。」とおっしゃいました。 先生が亡くなりその言葉だけが残って、中々試合に踏み切れずにいました。  女子の世界選手権が開催されることが決まって、日本でも出場しなければということで、1978年に日本でも女子の試合が開催されました。

ヨーロッパでは10年近く前ぐらいからヨーロッパ選手権を開いていましたので、メダルのほとんどを取った。 技術的には劣っていなかったと思いますが、試合慣れしていなかった。  私は男の子に混じって試合経験が実は沢山ありましたので、メダルを取れた要因かなと思います。 オリンピックでは男子はメダルを取ると言う感覚で、女子はそこそこ頑張ればと言うような雰囲気ではありました。 ソウルオリンピックでは齊藤仁さん一人、史上最低の金メダル一個でした。 女子もメダルを取って体裁を保ちました。 オリンピックになるとどうしても勝つことが目的みたいになって行ってしまう。 

トーナメント制ではなく、地域でリーグ戦みたいなことをしたり、一人が何回か試合が出来るようなチャレンジできるような仕組みを作ってゆくと、負けても次に生かせるような試合を考えてあげるべきだと思います。 機会を与えられる事によって子供たちは成長します。

私は男の子に混じってやっていて、男の子が女の子に負けると言う抵抗感はあったと思います。 大学でも2年間は女一人でした。 柔道は格闘技なので自分より強い相手とやった方が強くなるんです。  相手を見つけるのが大変でした。 外国人は抵抗なく相手をしてくれました。 大学2年生で世界選手権で金メダルを取る事ができました。(1984年第三回世界選手権大会) 25歳で第一線の選手を退く。 スポーツが目指すのは良き社会に繋がって行かなければいけないと思います。 勝った負けたで評価するだけではなく、頑張ったことに対しても評価してほしい。 スポーツもそうあるべきだと思います。 





















































2023年12月19日火曜日

入船亭扇辰(落語家)          ・江戸の夢、江戸への憧れ

入船亭扇辰(落語家)          ・江戸の夢、江戸への憧れ 

入船亭扇辰さんは、様々な理由でなかなか演じられない珍しい落語の演目を取り上げて、現代の高座で演じるという活動をしています。 今夜はそのうち最近手掛けた劇作家の宇野信夫さんの原作の落語、「江戸の夢」に関する話を中心に、様々な理由で長い間演じられていなかったものを世に問う事のご苦労や愉しみ、学びを伺います。 復刻活動を通じて扇辰さんが感じた江戸落語の世界や先輩たちへの憧れ、将来への思いなどもお聞きください。

古典落語でも長く演じられてこなかった珍しい話を復刻して高座にかけている、そればかりではないが。  「なす娘」は最近です。 入船亭扇橋師匠から教わりました。 若干怪談ぽいところがあります。 劇作家の宇野信夫さんは歌舞伎や狂言の作者として有名です。 若いころから歌舞伎作者として成功していた。 戦後は長らく上演されていなかった近松門左衛門の「曽根崎心中」を復刻、脚色、演出して、今演じられている「曽根崎心中」は宇野信夫さんの脚色がほとんどです。  のちに国立劇場の理事になっています。 昭和の黙阿弥と称されたようです。 戦前舞台劇の台本として書いたのが「江戸の夢」と言う作品です。 

「江戸の夢」 今の静岡県の庄屋夫婦の一人娘がどこの馬の骨とも判らない奉公人と所帯を持つという話ですが、奉公人の正体が最後に判る。  円生師匠がやるために、芝居のために書いた脚本を落語風にアレンジして、それを円生師匠が公演していました。  庄屋が自分の古女房と孫が出来る前に、一度江戸見物がしてみたい、という土地としての江戸に対するあこがれ、と言う夢も含んでいるんじゃないかと思います。 この話は悪人は出てきませんが他に「井戸の茶碗」「徂徠豆腐」「高野高尾」など善人だけが出てくる。 これらは全部落語ではないんですね。 講釈だから悪人が出てこない。 落語は大概悪いものが主人公だったりする。 

円生師匠が亡くなった年、高校1年の時に、NHKの追悼番組で「江戸の夢」を流しました。録音して繰り返し聞いていました。  それが「江戸の夢」との出会いです。 2009年に立川志の輔師匠が挑戦しているという事です。(ネタ帳から) 柳家小満ん師匠もやっています。 公演は稀です。 作者がはっきりしている時には上演の許可をするのにご挨拶に伺ったりしなければいけないので、それが上演機会が少ない一番大きな理由だと思います。著作権を誰が持っているのか皆目わからないことがあります。   名古屋での打ち上げの時に奥山恭子先生が「「江戸の夢」をやりたいんだったらつてがありますよ。」と突然言われました。  宇野先生の次男の方に手紙を出しました。  ご快諾いただき公演しましたが、自分としては出来がいまいちでした。  数年後にもう一遍やり直したいと思って、やったのが去年あたりです。 それからやるようになりました。 

江戸落語と言っても、明治、大正時代の出来事が入って居たり、いろんな時代が混じっています。  廓話等は良く残っている方だと思います。  廓話がやりにくくなったと言いますが、男尊女卑、売春が認められていたころに対する、お客さんの反感と言うわけではないかもしれないが、この時代はやりづらいと言う意味のやりずらさだと思います。 受けないですね。 「五人廻し」は私は名作だと思いますが、この4,5年「五人廻し」を3回やって、馬鹿蹴られしました。

演じられていな方と言うのはそれなりに欠点があって、あんまりおもしろくはない。   又最後まで聞いて下されば面白いんだけれど、前半押し込みの部分が長いとか、あります。 判らない単語が出てきたりする。(「へっつい」とか)  これからは厳しいなあというネタも結構あります。  「紫檀楼古木(したんろうふるき)」と言う話も円生師匠と先代の正蔵師匠が主におやりになっていた話ですかね。  お弟子さんたちも持ちネタとしては持っているが、やる機会はゼロに近いのではないでしょうか。  手がけてみようと思ってやったら気に入って、よくやるようになりました。  若い人も増えて新作落語を多くやるようにもなって来ました。  














































2023年12月18日月曜日

藤舎推峰(篠笛・能管 演奏家)     ・〔にっぽんの音〕

藤舎推峰(篠笛・能管 演奏家)     ・〔にっぽんの音〕 

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

主に歌舞伎や舞踊のお囃子の笛の演奏家、能楽のお囃子では能管しか使いませんが、長唄などでは能管と篠笛の両方を使います。 町のお祭りで聞いている笛の音は篠笛、ポップスなどとのコラボではいろんな音階が出る篠笛が用いられます。 能管は舞台で使うのは一本で、調性がない、ドレミが無くて全て口唱歌で進行します。 音色の幽玄さは世界的に見ても珍しい楽器です。 打楽器の様に吹く笛と言うのは、日本の能が作り出した凄い世界観だと思います。 篠笛はピッチが決まっていてドレミが出せる楽器なので、いろんな楽器との演奏が出来る。 三味線は音が減衰するが、唄は伸びている、そこの受け渡しを楽器としても音を伸ばして、旋律を綺麗にする、装飾するような役割です。 30数本持ってきています。 能管は「のど」呼ばれるちょっと一回り細い笛を吹くところと指の穴の間に挿入しています。 幽玄な音色の元になっています。 

1979年生まれ、東京都出身。 祖父、父と邦楽を演奏する一家に生まれます。 祖父が藤舎秀蓬、叔父が藤舎名生(人間国宝)、父が中川善雄。 親戚が三味線音楽関係の人が多くて、笛をやるようによく言われましたが嫌で稽古からは逃げていました。(小学校低学年) 中学で鍵盤楽器を触る様になり、バンド活動などしていました。  父が芸大の非常勤講師をしていて、僕より下の世代を教えていました。 家でお稽古、補講などをしていて、若い子が来てやっていて、それを見て自分の身の振り方を考えなければいけないと思いました。(22歳) 父に笛をやりたいと言って、稽古を始めました。 父にはよく怒鳴られていました。 

2002年に東京芸術大学音楽学部へ入学、2004年祖父藤舎秀蓬に許され、二代目藤舎推峰を襲名しました。 現在は邦楽のほかに、Jポップ、クラシック、ジャズ、邦楽をベースに幅広く展開。 ヴァイオリンと邦楽のユニット竜馬四重奏」のメンバー翠(すい)として篠笛を担当。  ヴァイオリン、津軽三味線、邦楽打楽器(鼓)と篠笛のユニット。 

*「雨」 作曲:藤舎推峰   演奏:竜馬四重奏                            いろんな雨の状況を曲にしたいと思って、「雨」と言う曲を作りました。       

古典のなかで好きな曲 「獅子もの」というジャンルが私たちの歌舞伎芸能の方ではありますが、能の「石橋」をベースにいろいろ作ったものが「獅子物」と呼ばれます。 その中から「狂いの合方」と言うものがあります。 能から取り入れるのに、女性の恋心のようなものを獅子の狂いに置き換えたという雰囲気があります。 能管のメロディーを三味線に異曲するわけです。 いろんなところからネタを拾ってきて曲に落とし込んでゆく。  その面白さが伝統芸能の中には一つあるかなあと思います。  それが後で気付くことがあります。 宝暦4年(1754年)の曲 「石橋」(の作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮なが見物、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物である。)からヒントを得てこういう作品を作り出した歌舞伎と言う芸能の、横に繋がる意欲と言うか、よさが出ている作品かなと思います。

大蔵:身体を使って声を出すと言いますが、痩せると声が出ずらくなっちゃいます。

*「ミッション インポッシブル」  「スパイ大作戦」のテーマ  演奏:竜馬四重奏 

日本を感じる音とは、自然の音との相性も日本の楽器はとてもいいような気がしていて、人間の音、自然の音、をどこかしら感じています。 

大蔵:日本の楽器は魂が乗りやすいんですかね 

そうかもしれない。

いろんなことをやっていたから、出会えた人たちはいます。 そういった人たちから得られたヒント、面白い事が古典芸能にも絶対返せるような気がして、僕は僕のキャラクターで演奏して行けばいいと思っていますが、僕なりのものが見つかられればいいなあと思っています。 





 

2023年12月17日日曜日

辻口博啓(パティシエ、ショコラティエ) ・〔美味しい仕事人〕 スイーツを究める

辻口博啓(パティシエ、ショコラティエ) ・〔美味しい仕事人〕 スイーツを究める 

辻口さんは「クープ・デュ・モンド」をはじめスイーツの世界的な数々のコンテストで優勝経験を持ち、現在も挑戦を続けています。 東京を始め全国で13のブランドを展開、スイーツの多様で奥深い世界を表現しています。 スイーツの次の時代を担う人達のためのスイーツの専門学校を運営するなど、後継者の育成など力を注いでいます。 スイーツを作るこんないい仕事はない、だってお客さんがみんな笑顔になる、パティシエは多くの人々の記念日を見ることができるんだと語り、スイーツをさらに極めて行こうと日々取り組んでいる辻口さんに伺いました。

クリスマスの季節を迎えますが、夏ごろからデザインとか作って味を見たりだとか、写真撮りなど、秋には全部終わらせて、パンフレットつくりに入って、これからは実際作らなければいけないので、スタッフの配置をどうしてゆくのか、考えてゆきます。 スタッフもクリスマスを越えると成長してゆきます。 

チョコレートはチョコレートの専門の厨房が必要で、カステラはカステレの専門の厨房が必要で、専門性を特化するために増やしてきました。  一つ一つの工程にいろんな意味合いを持っています。   素材をどう生かしてゆくかと言う事を常に考えながらやっています。   カカオ農園を今ペルーで購入して、オーガニックのカカオをのいろんな工程を研究しながら、要は素材に対する研究と、加工してゆく研究を一貫して今やっています。  発酵工程において、いろんな味わいを現場で付けることができるので、ファームで板チョコにしましょうというコンセプトで、より個性的なものが出来るので展開しています。 

「サロン・デュ・ショコラ パリ」(ショコラの品評会)で最高評価のゴールドタブレット(金賞)を受賞。 今年も受賞することが出来ました。 テーマが「琉球」(沖縄)    沖縄は塩もいろいろ違うし、黒糖もいろいろ違うし、こんなに豊かなんだと思いました。  そこから沖縄の料理に興味を持って、歴史を遡ると琉球王朝があって、意味のある素材だし、世界に向けて素材を発信するという事は良いことだと思いました。 今回テーマを「琉球」という事にして高評価を得ました。 「豆腐よう」(豆腐を使った沖縄独自の発酵食品)と合わせたチョコレートなんてまず存在しなかった。 非常に面白いコンセプトだという事でテレビに取り上げられて、メチャクチャ売れました。 波照間島産の黒糖、石垣島産の塩を使用しました。 島胡椒も素晴らしい素材でした。 島胡椒とハイビスカス(花が枯れた茎の部分)を使って作りました。  チョコレートとも凄く合います。

カカオは天日に弱いので、バナナを植えて影を上手く利用して、そばにカカオを植えるんです。 カカオがなるまでに3,4年かかります。 バナナは一年で実がなるので、バナナで生計を立てながらカカオが成るまで待ちます。 バナナとチョコレートは相性がいいです。ペアリングイベントをうちでやったんですが、アマダイのうろこ揚げとりんごのドリンクがよく合います。(りんごのタルト(洋菓子)を食べてみるみたいな感じ。) 

23歳の時に全国洋菓子技術コンクールで優勝、副賞がフランス旅行で初めてフランスに行きました。 日本のお菓子のレベルの低さを痛感しました。 フランス菓子に目覚めました。 素材を前面に出すお菓子つくりを目指したいと思いました。 会社では朝の6時から夜12時ごろまで仕事をして、寮に帰ってそこの厨房で明け方3時ぐらいまでコンクールの練習をしたりいろいろな練習をしました。 コンクールでは2000人ぐらいが参加します。 1位になるには何かしら違う。 翌年も優勝するためには、その気配を消しながらいい部分は残しつつ、創造的な破壊をするわけです。 

1994年:「コンクール・シャルル・プルースト」 で銀メダル受賞 フランスの砂糖の生成度合いは悪くて、飴細工が出来ないという状況になって、精製が必要だという事で女性用ストッキングを買って10枚ぐらいのところに、煮たてた砂糖を入れて濾して、それをいっぱい作りだめしました。  砂糖の購入費用がかさんで、お菓子屋さんの厨房は借りられなくなりました。 トイレの床が石で出来ていたので、綺麗に磨き上げてそこで飴細工は作りました。(コンクールでは飴は食べない) 

1995年:「クープ・ド・フランス インターナショナル杯」 優勝    1991年から日本予選が始まりました。 1、2位までが参加できます。   その時には私は2位でしたが、「クープ・ド・フランス インターナショナル杯」 では優勝できました。  美味しいものに対する情熱の火を消してはいけないと思っています。         

2012年4月:石川県金沢市に「スーパースイーツ製菓専門学校」(学校法人国際ビジネス学院)開校、学校長に就任しました。 後輩たちには自分がやっている後ろ姿は見せますが、質問しない限りはなるべく陰から支えてゆくことが、その子にとってもいいのかなあと思います。 

2015年NHK朝ドラ「まれ」 パティシエを目指して成長してゆく物語。 私の自叙伝を上手く女性版として表現という事で,NHKの高橋さんから話がありました。 私は和菓子屋の3代目で小さいころから和菓子屋さんになるんだと思っていました。 小学校3年生の時に友人の誕生会に呼ばれて、生クリームタイプのショートケーキが出てきて、その美味しさにびっくりしました。  その友達のお母さんから「辻口君の家にはこんなに美味しいケーキはないでしょう。」と言われ、ぐっと我慢しました。 自分でも感動するものを作ってみたいと思いました。  今はスタッフは300人ぐらいいます。 



































2023年12月16日土曜日

西田好子(キリスト教牧師)       ・西成で出会った人たちの心を支えて

西田好子(キリスト教牧師)       ・西成で出会った人たちの心を支えて 

西成は日雇い労働など多くのひとたちが仕事を求めて集まる労働者の町。 西田さんはこの町で路上生活をしていた人や元受刑者など、人生に迷い生きる目的をも失っていた人たちに対して、人生をもう一度生き直すためのサポートを続けています。 西田さんは西成の街で路上生活者などに積極的に声を掛けて、ざっくばらんな飾り気のない言葉でやり取りしながら、話を聞いて行きます。 西田さんは生活保護の申請や、住居の手配などの生活面でのサポートを行っているほか、早朝地域でのスーパーの買い物も日課にしていて、毎日西田さんと生き直しに取り組む皆さんが顔を合わせて話をすることを大切にしています。 西田さんと出会い、キリスト教の洗礼を受け、人生をやり直した人はこれまで30人ほどいます。 西田さんは73歳、様々な境遇の人たちに寄り添い続けた西田さんの「人は生き直せる。」と言う思いについて伺います。 

父親は働いてもお金をもらって帰ってこないので、母親が朝から晩まで働らいて、この子は私のようなみじめな子にさせたらいけないと思って、先生みたいなのがいいという事でした。  母親の思いに沿ってやりたいと思いました。 

1950年大阪の十三の貧しい家庭で生まれた西田さん、教師を目指して猛勉強に励みました。 母は大学の進学の資金の為、父に独立を促し、水道関係の工事を請け負う会社を設立させました。 西田さんは京都の教育学部のある大学に進学、小学校の教員免許を取得し、滋賀県の教員採用試験に合格しました。 赴任先は大阪の自宅から通勤時間およそ2時間、滋賀県守山市にある小学校でした。早朝から夜遅くまで時間があるかぎり、子供たちと向き合い理想の学級つくりに力を入れて行きます。  

マラソンに取り組みました。 勉強が苦手でも走るのが得意な子がいました。 速い子は遅い子を面倒を見ると言う決まりが出来てくるんです。 勉強でも手助けをするようになります。 役割が出来てくる。 誰も取り残しをしないようにしました。 天職と思って、この生活で申し分ないと思いました。 母も喜んでいました。 その後大津市の小学校に移動、その時28歳の同僚と結婚、夫の実家で夫の両親と一緒に暮らし始めました。 子どもも生まれ母としての役割も加わりました。 多忙な日々の生活は長く続きませんでした。 或る出来事をきっかけに人生は困難なものへと変って行きます。 

産後で、夏の集会があり途中で帰らざるを得ず、スーパーで物を一杯買って,レジの近くに一時的に買い物を置いたところを、店の人に声を掛けられて、その時に見ていた人が居て「西田さん万引きだ。」と言うんです。 学校にもわかった。 耐えられないので教師を辞めますと言いました。 小学校を退職して夫とも離婚をして、30歳で2人の子どもと共に大阪に戻りました。  当初はスーパーなどで働いていましたが、次男が保育園に行く頃にっもう一度教師になることを考えます。  自分の子どもの面倒は母に観てもらい、働き始めます。 かつてバラ色だった教員生活とは程遠いい現実が待っていました。

非常勤の先生として活動。  3か月とか、6か月でその都度子供たちが違ってきて、学校の雰囲気、教師も違ってくる、それに対応していかなくてはいけない。 不登校の子を迎えに行って、学校についてきました。 しかし、私の教壇のところに来て邪魔をします。 色々ある中で心が疲弊していきました。  子どもの預け先、愛光保育園がキリスト教の傘下でした。 それが最初の出会いでした。 息子二人は中学で洗礼を受けています。 私も洗礼を受けたいと思いました。  自分も変わりたいと思って洗礼を受けました。   

家族を失い仕事も失った人たちがいることを知りました。  堤防の下で火を焚いて暖を取っている。 こういた人を初めて見ました。 こんなことで悩んでいる自分はいけないと思いました。 彼らとしゃべってあげると喜んでくれました。  昔食べたモーニングを食べたという事で、ホットコーヒーと砂糖を持って行ったら、モーニングを食べた気持ちになって、泣いてくれました。  他にもいろいろの路上生活者との出会いがありました。    私を毎日待ってくれていました。  自分の持っているものを差し出そうと思いました。  でも差し出すものには限界があります。 

マタイの福音書25章 「さあ私の父に祝福された人たち、世の初めからあなた方のために供えられたみくにを継ぎなさい。 あなた方は私が空腹であった時、私に食べるものを与え、私が乾いていた時私に飲ませ、私が旅人であった時私に宿を貸し、私が裸の時私に着るものを与え、私が病気をした時私を見舞い、私が牢にいた時私を訪ねたからです。 これらが私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは私にしたのです。」 西田さんはこの聖書の言葉と出会い、天職とした教師を辞め、路上生活者を支援するため、牧師になる決意を固めました。 

私がやった、路上生活者に対してやったことは神様にやったことだったんだと気が付きました。 小さいものは誰からも相手にされない、小さき者、その者に手を差し伸べなさいと書いてあるんです。 路上生活者は神様が一番愛していると思いまして、私もこの人たちを愛していかないといけないと思いました。  これが教師を辞めるきっかけになりました。  牧師になるための長男の浩平?さんが通う関西学院大学の神学部に編入しました。  2年かけてキリスト教について学び卒業、日本基督教団の牧師となります。 赴任先は四国にある教会。 救いたいのはあくまで路上生活をしている人たち。 四国の教会を辞め、大阪西成を拠点にした牧師になる決意をします。 当初は認知症の母を介護しながら、他の教会、会議室などを借りて支援活動に取り組んでいました。   時間、場所に制約された中では、思うような活動できず、限界を感じていた時に母との別れが訪れました。 母が100歳私が70歳でした。  

母の死には、もっと自由に動けるという意味があると思って、生活のすべてを掛けて支援活動に取り組んでいきました。  小さいながらも自分の教会を設立、自分をさらけ出し、常に本音でぶつかるスタイルは徐々に受け入れられ、信徒の数も増えて行きました。 大切にしている事は毎日顔を合わせ話をすること。  その人がどこでつまずいたのか聞いて、そして、「貴方ののせいじゃあないね。」と言います。  しゃべったりする事、嬉しかったことなどが、例え数か月、1年であろうと経験させてあげたい。 過去が辛い人生であったとしても、ほんの最後が楽しければ、この人生を全部忘れられる。 自分も見捨てらっれたとういう経験があります。 でもそれは良かったと思っています。 彼らの気持ちが判るから。  本当の両親から貰えなかった愛を私はあげましょうと言っています。 貴方が正しく生きるために怒っているんです(それが私の愛)と言っています。 私の荒い言葉の中に愛が入っているんです。 私はイエス様ではないです。 



















































2023年12月15日金曜日

杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・【人生の道しるべ】〝一世(ひとよ)の終りに降るもの″がある

杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・【人生の道しるべ】〝一世(ひとよ)の終りに降るもの″がある(初回:2021/10/15) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/10/blog-post_15.htmlをご覧ください。

2023年12月14日木曜日

水谷八重子(二代目)(俳優)      ・昭和のよさを伝え続ける

 水谷八重子(二代目)(俳優)      ・昭和のよさを伝え続ける

水谷八重子さんは昭和14年東京都生まれ。 母は劇団新派の俳優水谷八重子、父は歌舞伎俳優の14代目守田勘彌。 1955年8月水谷良重の名前で初舞台を踏み、同時にジャズ歌手としてもデビューを果たします。 またテレビ放送開始と共にテレビにも出演し人気となります。 1995年に二代目水谷八重子を襲名し、劇団新派の座頭となります。 NHKでは1958年から1961年4年連続で紅白歌合戦に出場、またドラマでは「若い季節」大河ドラマ「竜馬がゆく」などに出演しています。 

テレビの創成期からテレビに出演している。 試験放送にも出ている。 私たちはグレーと白と黒に染め分けられた浴衣を着て、口紅も黒で、桜の木の下で東京音頭を踊りました。 (中学生ごろ) 俳優は目指していませんでした。 母は6歳ごろからずーっと女優の道で来て、学校と言うものを知りませんでした。 自分の娘にだけは学生生活を送らせようと思いました。 高校を受けて落ちて、何とか学校を辞めたくて、「女優になりたい」と言えば辞めさせてもらえるかもしれないと思って、中学でおしまいにしました。 日本舞踊だけは辞めさせてくれなかった。 アメリカのミュージカルの映画が入って来てみるたびに、好きなことを自覚して、アメリカに行って本物のミュージカルを観た時に、新派は好きだなあと思いました。 ジャズは服部良一先生のところに弟子入りしました。 8月5日が歌舞伎座の新派公演の初日で、デビューのレコードの発売日でもありました。(16歳)  

劇中に母と花柳先生と北村先生と私の4人だけで、初舞台の口上をやっていただきました。 初舞台はどうしたらいいのか判らなかった。(自分の存在が消えているような感じ。)   ひと月間が長かった。  テレビも1961年からNHKの生放送のドラマ「若い季節」に出演。(ビデオの時代にはなって来ていたが)   作家が小野田勇先生で遅筆で当日にならないと判らない、と言った感じでした。  当時は市井の事を演じるのが新しいものでした。 女が男にかしづいている時代で、女が男のために尽くす時代で、耐えしのばなければいけない女を主人公にしている、と言うのが新派の魅力だったみたいです。 新派の今古典と言われる衣装は全部花柳先生が考案したものばっかりです。 それを変えようがない、越える衣装がない。  

新派を残していかなければいけないという使命も感じます。  それは母が死んでからだと思います。 母が最初に教えてくれたことは、「本当にその気持ちになってやりなさい。 嘘をつちゃいけない。」と言う事でした。  新派の私が古典をやらせてもらえるようになった時には、嘘をつかなければならないわけです。 パッと会った時に惚れた男をじっと見ていたい。 タバコのキセルを掃除してやるなんて思いもつかない。 だからそういう気持ちにならない。 だからやらないと反抗もしました。 若い時には、このキセルがいとしい人のものだというところに思いつかなかった。  

今の若い方は素直すぎる、疑問を持たないでいう事を聞いてしまう。 疑問を持って、違う事を考える人がやってゆくから、それが時代と共に生きてゆくんじゃないかなと思います。私は母に反発するエネルギーだけでやってきたみたいです。 明治の女の人の方が口にもしないで我慢する。 その強さは今の女の方が弱いと思う。  強さの質が違う、ワッという強さと堪える強さ。  婦系図の「お蔦」では 会わないと言われて、会わないと決めたら会わないで死んでゆく。 会わないでいられる愛し方の強さ、そういうものは今はないと思います。 1月から「東京物語」を上演します。(コロナのためにできなかった。)  舞台で出来るというのは、山田洋次監督(脚本、演出)がいたから実現したものだと思います。 

お客様はただものではない、「お客様は神様です。」と言った人が居ますが、ひょっとするとそうかもしれない。  普通だったらできないことを与えてくださるんです。 送ってくださるエネルギーが無かったら、全く出来ないのかもしれない。 初舞台の時から母からは「あんたじゃないのよ。 この人物になるのよ。 ものの考え方から何から何まで。」と言われたことが身に沁み付いています。 自分以外の人間に自然にスーッとなれる、そうありたいと思っています。  やれることを必死にやってゆくだけですね。

樋口一葉「大つもごり」の朗読を23年続いています。 明治の言葉で書き込まれているので、今の平坦な言葉でセリフを言ってはいけないので、或る人の指導の下に「大つもごり」をやって来ました。 現代に翻訳されないと伝わらないといけないので、現代語で朗読すると言う事もやっています。 


































2023年12月13日水曜日

田中星児(歌手)            ・いつまでも歌っていたい

田中星児(歌手)            ・いつまでも歌っていたい 

田中星児さんは1947年奈良県生まれ。 1970年NHK総合テレビジョン音楽番組ステージ101』で歌手デビューしました。 NHK教育テレビの幼児番組『おかあさんといっしょ』に初代うたのおにいさんとしてもお馴染みです。 以来、子供から大人まで多くの人が口ずさめる歌を歌い続けています。 

父は女学校の音楽の教師をしていました。 チャイコフスキーのくるみ割り人形とかレコードをよくかけていました。 ヴァイオリンを習いました。 童謡も良く歌っていました。 段々とポピュラーの音楽が好きになりました。 ローハイドを初めて英語で歌った覚えがあります。 ポール・アンカ、ニール・セダカ、プレスリーとか歌っていました。  中学3年生の時に、アルバイトをして、5000円のギターを買って練習するようになりました。  当時は子供たちの間では好みが歌謡曲とポピュラーにはっきり分かれていました。 母にはコンサートに連れて行ってもらって生の音が好きになりました。  高校2年の時に「ホイホイ・ミュジック・スクール」が始まって、応募したら1回目は駄目で2回目は合格しました。 1968年にはNHK『NHKのど自慢全国大会』(ポピュラーの部)で優勝して嬉しかったです。  ステージ101』のオーディションに受かることが出来ました。 アルバイトをしながら歌とか踊りを勉強しました。 ステージ101』は1970年から74年までした。 

身体が硬くて踊りのレッスンの前に1,2時間柔軟体操するんですが苦しかったです。   NHK教育テレビの幼児番組『おかあさんといっしょ』では振り付けを高見のっぽさんにやっていただきました。 5,6年やりました。 「北風小僧の寒太郎」、「ヤンチャリカ」(デビュー曲)とかいろんな歌を歌いました。 「ビューティフル・サンデー」は1976年。  ユーゴスラビアに行く機会があり、「オー・マリヤーナ」と言う歌に巡り合って、レコードになる事になり、A面は「オー・マリヤーナ」、B面はビューティフル・サンデー」になりました。 b面が大ヒットすることになりました。 

ビューティフル・サンデー」 歌:田中星児

*「オー・マリヤーナ」     歌:田中星児

作曲もするようになりました。 「エトはメリーゴーラン」を作曲。1992年から93年「みんなの歌」で放送。 

*「エトはメリーゴーラン」 作詞:小黒恵子 作曲、歌:田中星児

健聴者とろうあ者が一緒に楽しめる「歌のバリアフリーコンサート」にも力を入れています。  謡人と、他に3人いて、一人は手話で歌詞を教えて、もう一人はリズム、もう一人は歌の感情を身体で表現します。

北風小僧の寒太郎」を作曲した福田和禾子さんが亡くなって15年になり、没後15年の記念コンサートもやりました。 

「歌のお兄さんズ」という3人でのクリスマスコンサートをやります。
















 

2023年12月12日火曜日

神 直子(NPO法人ブリッジ・フォー・ピース代表)・戦争体験を遺す・ビデオ交流20年

神 直子(NPO法人ブリッジ・フォー・ピース代表)・戦争体験を遺す・ビデオ交流20年 

神さんは大学4年の時に参加したフィリピン体験学習での出来事に強い衝撃を受けます。    体験学習とは戦争を知らない若者たちが、太平洋戦争の戦地フィリピンで戦争の実情を学ぶというものでした。  神さんは現地の人の証言が心に深く残り、戦後育ちの自分に何が出来るだろうかと思い悩みます。 戦争は被害者だけでなく加害者の日本兵にも心に深い傷を残し悩み続けたまま亡くなっているという事でした。 神さんが始めたのは日本兵の苦しみをフィルピンの人に知っていただくという活動でした。  

「ブリッジ・フォー・ピース」は平和のための架け橋という意味で命名させていただきました。  フィリピンと日本を繋ぐ架け橋という事と、戦争を体験した世代と知らない世代を繋ぎたいという事でこの団体を命名しました。  2000年に大学4年生の時に参加したフィリピン体験学習が大きな影響を与えています。  雨宮剛現青山学院大学名誉教授主宰のツアーでした。 目的が2つあり①過去の戦争の傷跡を知る、②アジアの貧困に苦しんでいる人達の現状を知る、と言う事でした。 戦争体験者と出会う旅でした。 或る女性から「日本人なんか見たくなかったのに何で来たんだ。」と涙ながらに語りました。 その体験が本当に私の胸にぐさりと刺さって、活動を始めたと言っても過言ではありません。 事前学習でいろいろ戦争のことをまなんで行きましたが、机上のうえの勉強だけではなかなか想像できないことがありました。 本当にショックがある体験学習でした。 両親も戦争を知らない世代で家では戦争の話は一度もしませんでした。 

先ほどのフィリピンの女性(バーバラさん)は1942年に結婚して、幸せな結婚生活を送っていたそうです。  1943年日本軍が村にやって来て、夫が連行されてしまい、その夫は戻ってこなかった。 ずーっと日本人に対するわだかまりと憤りを抱えたまま暮らして来た女性でした。 50~60名のフィリピンの方が集まっている会議室に私たち7名が参加して、交流する会が設けられました。 その時にバーバラさんが私たちに向けられた言葉でした。  他の人からもいろいろ戦争の体験談を聞きました。  雨宮先生からは「知ったことを何もしないのは知的な搾取だ。」と言われました。  私にとってできることは何だろうと抱えたまま社会人になりました。  

2003年に新潟県のお寺の住職と話をする機会がありました。 或る檀家の人が中国戦線で人を殺めたことを住職に打ち明けたことがあるそうです。  日本でも同様に加害者として苦しんでいる人が沢山居るのではないかと、直感的に思いました。 NPO法人ブリッジ・フォー・ピースを立ち上げる経緯になりました。 彼らの証言をビデオに撮影して、それをフィリピンへ届けることから活動を始めました。(家族には話せない事と言っていました。) 全部で300名以上の方から伺いました。 短い方で2時間、長い方では4時間、6時間、明日も来てくださいと言う方もいました。  二度とこのような戦争、体験をしたくないと言う気持ちがあったと思います。  

フィリピンの人たちに見せてどういう反応をするのか心配なところもありましたが、話が聞けて良かったと、もっともっと見たいと言っていました。  アレックスさんの話では、父親が日本兵に連行され、連行した男の人々と共に井戸の前にならばされて生き埋めにされてしまった、と言いう事でした。 そのアレックスさんが、私たちの活動を知って、応援してくださいましたが、2021年に亡くなってしまいました。 2024年に4年振りにフィリピンへ行くことになります。 サポートて下さる人も現地で何人かいます。(ルソン島南部) ブリッジ・フォー・ピースに若い人(大学生など)も参加して頂いています。 

風化していってしまわないように、この場所でこういう事件がっあたという慰霊碑を建てたいという日本側が提案して、2025年(戦後80年)には完成の日の目を見たいと思っています。  戦争になるとこのような悲惨なことが起きてしまうという、双方が学べる場所になればいいなと思っています。(平和のための慰霊碑) 資金のめどは立っています。  ファシリテーターfacilitator:グループや組織がより協力し、共通の目的を理解し、目的達成のための計画立案を支援する人のこと)の養成講座を来年スタートする予定です。 ビデオメッセージを携えて、学校などの教育現場へ出掛けていていただけるようなプログラムを今作っています。  

兵士の証言、体験を生かすという事は出来ると思うので、お預かりした証言は宝物の様に思って、大切に未来に繋いでいきたいと考えています。 インターネットを使って短い映像を乗せるという事で、200万回再生する映像が出てきました。 物凄くいいコメントを頂きました。 活動に関わってみたいという連絡もいただきました。 「わしの命はそんなに長くないけど、この証言は100年、200年もずーっと続いて行くんだ。」と言う言葉は心強い話です。 戦争の悲惨さを全国に広めることで、何か突破口のようなものが見いだせないかなあと思っています。



























2023年12月11日月曜日

月亭方正(落語家)           ・〔師匠を語る〕 落語の道を示してくれた師 月亭八方

 月亭方正(落語家)      ・〔師匠を語る〕  落語の道を示してくれた師 月亭八方

バラエティー番組などで人気の山崎邦正さんが上方落語の大一人者月亭八方さんに弟子入りしたのは、15年前のころでした。 現在はタレントとしても落語家としても芸名を月亭方正に統一して活躍しています。 師匠の月亭八方さんについて伺いました。 

落語をやる時に山崎邦正ではできないんです。  山崎邦正でやっていたら、タレントが噺家の真似をしてやらしてもらっているという事で終わってしまう。 師匠について月亭八方師匠の月亭屋号を頂く、八方の字のどちらかを頂くことで、師匠の持っている噺家の命をわけてもらえるんです。 そこでやっと噺家としての道がスタートするわけです。 

月亭八方さん、本名寺脇清三さんは1948年大阪市福島区で生まれます。 幼いころの夢はプロ野球選手でした。  中学卒業後野球の古豪浪商高校に進学するものの、周りのレベルの高さから夢を断念、新たに芽生えたのが落語への興味でした。 高校卒業後一旦は就職をしますが、どうしても落語家になりたいと、二代目桂小米朝(後の月亭可朝)さんに弟子入りを願い出ます。 師匠には何度も断られましたが、諦めずに劇場に通い詰めた結果、1968年師匠が可朝が襲名すると共に、20歳で正式に入門が許可され、月亭八方と言う名前を授かりました。 入門の翌年1969年に始まった毎日放送のテレビ番組『ヤングおー!おー!』に、八方さんはレギュラー出演、上方の若手落語家、林家小染さん、桂きん枝さん、桂文珍さんと結成した「ザ・パンダ」はアイドル並みの人気で、全国に存在を知られるようになりました。 俳優としても映画、「男はつらいよ 寅次郎子守歌」やNHKのドラマスペシャル「しあわせの国青い鳥ぱたぱた?」などに出演した月亭八方さん、上方落語の第一人者として現在は上方落語協会の顧問も務めています。 

子どものころは落語は全く興味なかったですね。 19歳で吉本の芸能総合学院、NSCと言う学校に行きます。  お笑いタレントになりたいと思いました。 テレビの仕事を20歳からやらせてもらいます。 古典落語などからはあえて遠ざけていました。 テレビへの対応は20年やっていると対応は出来ていました。  出た時には「キャーッ」と言われるが、しかしお客さんを喜ばせる芸は何一つなかった。  落ち込み、人生を振り返りました。 桂枝雀の落語に出会いまして、落語の面白さを知りました。 その後半年間は毎日桂雀漬けでした。  

月亭八光(八方さんの息子)さんとは顔見知りでした。 覚えた落語を何とか話したかった。 それで師匠を紹介してもらい、勉強会に参加するようになりました。  打ち上げで酔った勢いで「「月亭」をください。」と言ってしまって、師匠もOKと言ってくれました。 「月亭方正」の名を頂きました。  段々明るい先が見えるようになっていきました。  2008年12月に落語家として高座に上がりました。(上方落語協会に入る。)  後で聞いた話では、反対派(タレントがと言うような)もあって大変だったようです。   「方正が何かしでかしたら俺は辞める。」と師匠は言っていたらしいです。(声を詰まらせる。)  今自分にも弟子がいますが、自分でそこまでできるのかなと言う思いはあります。  それから15年が経ちました。  「お前は真面目という事ではなくて、芸事が好きなんや。」と師匠から言われました。  八方師匠からいただいたギャラは宝物として取ってあります。 「ええかげん」と言う文字の色紙も大事に持っています。(肩の力が抜けてゆく。)

月亭八方師匠への手紙

「・・・芸能人生に悩んでいる時に師匠とお会いしました。 ・・・「月亭」と名乗っていいよとおっしゃってくださいました。・・・今改めて考えてみるとそれが全てなんだなと思いました。・・・ 弟子を守るために立ち向かってゆく姿、弟子にすべてを与える精神、まわりの人たちを思いやる優しさ、すべてを勉強させていただいています。 師匠に噺家の命を頂き、人生の教訓を頂き、師匠に頂いた「ええかげん」と言う御言葉の色紙に癒されております。・・・ 今も変わらず見守っていただきありがとうございます。 これからも師匠に恩返しができるように精進します。(泣いて時々言葉を詰まらせながら話す。)・・・」


































 


2023年12月10日日曜日

山田邦子(タレント)          ・人生イチ芸人、ひとりでも多くの人を笑わせたい。

山田邦子(タレント)       ・人生イチ芸人、ひとりでも多くの人を笑わせたい。 

山田邦子さんは1960年東京都生まれ。 20歳のころから芸能活動を始め、一躍テレビの人気者に、その後物まね漫談、歌、司会、ドラマなど多方面で活躍し、現在は自分で企画した舞台、そして寄席にも出演しています。 

子どものころからお笑いが好きでした。 小学校4年生の時に、ギャグをやったら凄く受けました。(江東区の小学校)  味を占めて、三平さん、谷敬さんの物まねなどしてました。  中学からは女子だけの学校に行き、短大まで出させてもらいました。 学校では禁止だったので、偽名で素人物まね番組に出て、ドラマに出ないかと言う話(卒業後)もあり、卒業してからデビューしました。 共演は誰かと聞いたら夏目雅子さんと言う事でした。 私は面白いから呼ばれたんだと判りました。 その後ビートたけしさんの番組にも呼ばれるようになりました。 演芸事務所からも声がかかるようになりました。 バスのガイドさんのネタをやるようになって、いろいろやるうちに右手をご覧ください、一番高いのが中指でございます」とやったら凄く受けまして、レコードを出さないかという事になったんです。 レコード出して、感激しました。  

時代劇とかいろいろな活動をやっているうちに、かつらを剥がすのになかなか剝がれなかったりするので、強烈な剥がし剤で、皮膚も赤くなってしまって、髪の毛がない方が楽だなと思って、坊主にしてしまいました。  坊主にしたおかげで、瀬戸内寂聴さんから声がかかって、瀬戸内寂聴さんの真似をするようになって、番組を作ってくださったり、話をする機会もできたりしました。 NHKのバラエティー番組に出させていただいて11年ぐらいやりましたが、ネタのコーナーを頂いて、毎週日曜日の番組で7分間の新ネタを掛けていましたが、嬉しくもあり、苦しくもありと言う事でした。  瀬川瑛子さんの物まねをして、瀬川B子と言うことで受けていたので、そのまま日曜バラエティーではやらせて頂きました。 大月みやこさんの物まねをして、大月さんからかっわいがってもらいました。 ネタを考えるのが好きです。

歌も大好きでレコードも出させてもらって、アーティストの人たち一杯知り合うようになって幸せでした。  KANちゃんからは歌唱指導してもらったりして、「さよならだけどさよならじゃない やまだかつてないWink」ではKANちゃんのお陰でヒットしました。(作詞:山田邦子 作曲:KAN)  「愛は勝つ」(作詞・作曲:KAN)が大ヒット。(1990年)  

「愛は勝つ」  作詞・作曲:KAN

この曲の替え歌として「愛はチキンカツ」「愛は勝海舟」「愛は桂三枝」といったバージョンが『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の番組内で歌われていた。  2007年がんに対する知識と理解を呼びかけるチャリティー団体「スター混声合唱団」を鳥越俊太郎さんらと結成しました。 乳がんになってしまって、日本は半分はがんにかかる時代なんだという事が判りました。  不安に思っている人、元気な人にも「がん検診は行きましたか。」と言う事を言ってゆくべきだと思いました。 46歳で乳がんになって、47歳からみんなを束ねてやってゆくようになりました。  レギュラー番組はなくなりましたが、丁度やりたいものが見えて、やりたい人たちの囲まれていた、と言う風な感じです。 がんになって神様からのプレゼント、沢山の友達、知恵、勇気と言ったものがもらえました。 

プロレスも好きで会場に行ってと言う事は出来なかったが、今は会場に行って応援できるし、解説で呼ばれる事もあります。  60歳から寄席に出るようになりました。 若い子が多くて、バスガイドのネタなんて知らないから、新鮮です。 お客さんの前と言うのがいいですね、 笑っている顔は幸せです。 元気も待っていては来ない、自分から出していかないといけない。  笑うと免疫力が上がるそうです。  

 



































2023年12月9日土曜日

高尾均(年賀状研究家)         ・4万枚のコレクションが語るもの

高尾均(年賀状研究家)         ・4万枚のコレクションが語るもの 

高尾さんは京都市内で長く印刷業を営み、その後研究を重ねた年賀状の知識を買われ、国内トップクラスの年賀状印刷メーカーから招かれました。  現在も顧問を務めるなど40年近く年賀状ビジネスに関わっています。 研究のために集めた年賀状は4万枚以上、年賀状以外の絵葉書も含めると5万枚以上のコレクションを持っています。 コレクションを拝見しながら年賀状の変遷と収集の魅力、年賀状のこれからをお聞きしました。

私は印刷業をやっていまして、年賀状に力を入れてやってきましたが、2000年ごろ自分のデザインと他を比べてみるとみんな同じだと感じました。  明治のころの年賀状がある事に気が付いて、それを材料にしてデザインを作ることを始めました。  2005年に神田の古本屋さんで明治から大正にかけて年賀状を1万枚以上コレクションしているものと出会いました。 7,8年かけて購入しました。 明治30,40年代に入ってかなり高級な印刷の年賀状があり、大正になると品質が悪くなり、昭和にはいると子供の年賀状が出てきます。   面白いと思ってはまってしまいました。  

聖徳太子のころ、中国から暦が入ってきて、新しい年の初めに宮廷でお祝いをするという事が始まりかなと思っています。 正倉院に新年の縁起の良い文章を書いたものが中国から送られてきたという事があって、「新しい年を迎えて良かった、益々栄えてゆくように」と言うよな事が書かれていました。  往来もの(手紙が往来するもの)の始まりが新年の挨拶から始まっています。 それを年賀状だという人は多いんですが、私は新年の拶は時候の挨拶で、新年のお祝いを開くからこないかと言うようなものなので、違うなあと思います。  年賀状が出てくるのは江戸時代かなと思います。  細川山城守立則が柳生播磨守に出したものがあります。  もう一通ありますが、内容はほとんど同じで、文例集があったのではないかと思います。  江戸時代の中期にはお坊さんとか知識階級の間では、新年の挨拶をする習慣があったようです。 庶民が出すようになったのは江戸時代の終わりごろの様です。 

近代郵便制度が始まったのは明治4年です。 明治6年に官製はがきが出来ました。(二つ折り) 現在のような形になったのが明治8年です。  年賀状を出すのは商売人が多かったようです。(明治10年ごろ) 筆で書いていたので簡単な文章になって行った。 明治13年から商社が海外の仕入れ先に出した年賀状が結構綺麗な年賀状になっています。   年始状、年頭状とかという呼び名で明治30年代まで続いています。 年賀状と言う言葉が使われたのは明治33年です。  日露戦争があり、外地との手紙のやりとりが増えて行きました。 絵葉書ブームが出てきます。  明治33年から元旦配達が始まる。 元旦配達が全国に行き渡ったのが明治40年です。  明治33,4年のころは3000万枚程度で、明治38年に1億枚、明治40年には4億枚になる。 綺麗な絵の年賀状が作られるようになる。 絵葉書屋の商売が成り立つようになる。 

大正時代に入ると女性、子供が年賀状を出すようになる。 昭和に入って子供たちのための絵葉書が作られるようになる。  昭和12年8億5000万枚。(日中戦争勃発)   その後極端に減ってゆく。 昭和16年には元旦配達が中止となる 2000数百万枚になる。 お年玉付き年賀はがきは昭和24年です。 大阪の林正治さんがアイディアが浮かび逓信省に話を持ち込んで、お年玉付き年賀はがきの発行につながったと言われています。  当時は、はがき代が2円で寄付金として1円、1,5倍となってしまうが、結局やろうという事になる。  特等がミシン、1等が純毛の洋服地、2等が学童用グローブなど6等までありました。  特等の前後として残念賞があり5万円当たった。 最初1億8000万枚、翌年は倍出した。 ピークは2003年(平成15年)44億6000万枚に近い。(発行された はがき) 印刷ミスとか手元に一杯残るので、私は1等が何回か当たったことがあります。 

大正時代の年賀状で家族の写真の年賀状を作っている。 そのほかいろいろ面白い年賀状も今日持ってきました。  年賀状の作り方も変わって来ました。 パソコン、プリンター、デジカメが普及して、家族の年賀状が増えて行きました。 スマホが登場して年賀状の世界がまた変わりました。  ヨーロッパでは1900年前後から年賀状の交換がかなり盛んになりました。 ニューイヤーカードはたくさん作られました。  第一次世界大戦で、ドイツで印刷されていたが、段々すたれていった。  

4,5年前から家庭の年賀状も減って来て。2023年の発行は16億4000万枚、2024年用は14億8000万枚発行されています。  今は画像を送ることが簡単になり、写真によるコミュニケーションが年賀状から離れて行っている。 若い人も年賀状の挨拶からラインでの挨拶にしようという風潮になってきて急激に減ってきています。  年賀状エンジョイ派、年賀状義務人情派、年賀状無用論派の3つのグループに分かれている。  本当に送りたい人への年賀状はそうは減らないと思います。