松居直(絵本編集者86歳) 絵本の力を信じ続けた編集者人生
近江商人の家系に生まれ、幼時より
上村松園や
竹内栖鳳などの作品に接して育つ
同志社大学を卒業後、金沢の書店に入社 童話、絵本の出版を手掛けるようになり、
昭和31年には「子供の友」を創刊します
以来、グリとグラ 大きな株 小さいうさこちゃん親と子供に親しまれる名作を数多く編集してきました
この間、無名の新人を発掘したり、これまで絵本など書いたことの無い作家や、
画家を大胆に起用したりと、戦後の児童出版会をけん引してきました
編集者生活60年 自らを編集職人と呼ぶ、松居直さんにこれまでの道のりを辿りながら 、
絵本作りに掛けた信念と熱い思いを語っていただきます
本をプレゼントする前に読んでいただきたい そして手渡す
本の選択 一番良いのは図書館に行って いろんな意見を聴くのが良いと思う
図書館の無い処は幼稚園に行って先生にご意見を聞くとか、どういう本が好きかとか
本屋では目移りがしてしまう 子供と一緒に気楽に行くのが良い
絵本を通して子供に字を教えるとか、読書の習慣を付けさせようとか、考えるがどう思うか
本が役に立つものだと大人は先入観を持っている
子供はそんなことを思っていない 面白いと思わないと子供は 本に対して興味を持たない
本を選ぶ時に、子供の気持ちをちゃんと自分の中にも感じていて、子供に替わって本を選ぶということ 子供に与えるものではなくて一緒に楽しむものだと思う
絵本は大人が子供に読んでやるものだと思う 子供が楽しんで喜ぶ本を作りたい
読ませるものではなくて大人が読んであげるものだと思う(編集方針)
子供は絵本の絵を読んでいる 絵は言葉なんです
子供は意識はしていないが絵を読む 絵本の世界が子供に見える
4か月の赤ちゃんに絵を見せると、子供は手を出したり、舌を出したり、非常に興味をもつ
絵が心を動かす 感性を動かす 理屈ではなくて目を輝かせる
語ってやると言葉に対する、フレッシュな感性をそこで見つけると思う
其れが実は言葉の基本なんです 言葉は教えるものではない 知識、情報ではない
耳から聞いた音 それを語ってくれた人の感情 それが声の言葉に非常に豊かにある
戦後絵本 児童出版の牽引車 松居直さん きっかけは 2歳前に母が絵本を読んでくれた その前に子守歌なんです 私の言葉に対して心を開いたのはどうもそういう気がする
記憶には無いが 私が父親に成って子供が2カ月ん時に 泣いていて 母親がいないのに気がついたのかもしれない
思わず抱っこした ゆすっていたら全く無意識に子守歌を歌った
赤ん坊は静かになり降ろした 子守歌に対する子守歌を歌を歌って貰ったと言う記憶が無い
しかし、歌っていた 本当に驚いた きっと自分が歌って貰ったから 残っていて、
私の中に有って それが口から出てきたんだろうと思います
言葉を聞くと言う事と口に出すということは深い繋がりが有るのだろうと思った
言葉というものに気が付く一つのきっかけだった
わらべ歌 全国に一杯あるが 今の母親は歌わないだろうと思う
沼津の子守歌 200人ぐらいいた時に聞いてみたが 知っている人は一人もいなかった
子守歌は言葉の体験の出発点ではあるのだが
沼津の子守歌「千本松原」 坊やは良い子だ ねんねしな この子の可愛さ限りなさ
天に登れば星の数 七里ガ浜では砂の数 山では木の数 カヤの数
沼津へ下れば千本松 千本松原 小松原 松児の数よりまだ可愛い ねんねんころりよ おころりよ
子供は意味は解らないが声の音として浸み込んで来る 声は人間の感性 気持ち
それが言葉を支えている
しかし最近の言葉はそれが消えている 文字ばかり
「子供の国」(1922年創刊) 日本で最初の絵雑誌 姉が(12歳上)が読んで貰って、それを読んで貰って 私(6人兄弟の5番目)が寝るときにほとんど毎晩読んで貰った
「子供の国」は殆ど童謡 日本の詩人が子供の為に詩を書こうとした童謡の黄金時代だった
北原白秋 野口雨情 西條八十 初期には彼らの傑作が本当に込められていた
子供の国では指し絵
武井武雄 清水良雄 岡本帰一 本田庄太郎 初山滋 竹下夢二
若い画家の子供に対しての思いを込めた指し絵が付いていた
童謡と童画とが見ていてとっても惹かれました
母親が読んでくれたもので、母の気持ちが有るし、
そういう母親と子供の関係が幸せだったと思う一番記憶に有るのは、北原白秋の「雨降り」 朗読をしてくれた
一番驚いたのは最後の節、「ピチピチ チャプチャプ ランランラン」 ピチピチもチャプチャプも言葉を知ってました ランランランも知っていました
処が ピチピチ チャプチャプ ランランラン と読まれるとリズムがある 身体にリズム感が響きました 翌朝布団の上でおどっていた と姉から言われた(私は記憶が無いが)
意味よりも言葉と言うものの持っている本質を体で感じる心で感じる
其れが声として出て来る 身体も動かす それが言葉というものです
北原白秋は日本語の名手だと思う
私が谷川俊太郎と親しくなり 彼が北原白秋には敵わないと言った
あれだけ日本語が使えればいいと この人は子供の頃北原白秋の詩を読んで貰ったと思った
この人だったら 子供に対して、詩が書ける人だと思ったので子供の為に書いてほしいと頼んだ
日本語の美しさ、リズムがある 万葉集の時代からリズムある 5、7、5、7、7 3,4,6とかのリズムも有る 自然に耳にしてゆくと自分のものに成って感性に響いてくる
「子供の国 」絵も本当に良かった 童画(武井武雄が作った言葉)
武井武雄はモダンな絵描き
アール・デコ アール・ヌーヴォー、
ユーゲント・シュティール
というものを日本の絵描きが影響を受けていた
子供達はそれを見てファッションの真似をしたかった
京都二中 の頃は民族学 日本の美術に興味を持った 先生が京都の田舎へ行って、
昔話だけではなく 伝承 歴史を調べた 美術に対しても造詣が深かった
「京都民族史」を編纂した方だった
先生にいろいろなところに連れて行って貰い絵巻物 を沢山見た
鳥獣戯画 に感動した 絵巻物に意味を持って、出来るだけ絵巻を見た 北野天神、 丹後半島の先端に浦神社があり 浦島太郎の絵巻ものが有ると言われて行った
歩いて歩いて歩いて 神社で浦島縁起絵巻を見せて貰った
日本の美術、古い文化、自然の美しさ 伊勢半島もいろいろ回っていろいろな神話を知りました
ものを沢山見ないといけない 知識だけでは駄目 体験していないと駄目 ものを作るのは手と足の仕事です その次に頭(感性) 如何に五感を働かせるか プラス第六感が大変大事
広辞苑に「鋭く物事の本質をつかむ心の働き」とある これが第六感
ものを作るのには この第六感が非常に大事
中学の後半は戦争 戦争中は軍国少年だった 当時としては当たり前 戦争が終わって
死ななくてよくなって 私にとって大問題となった
死ぬと言うことは教えられたが 生きると言うことは18年間教えて貰わなかった
戦争が終わったときに吃驚したのは死ななくても良くなった事
死ななくても良くなったことは大問題 どうするかと どういう風に生きるのか
一体いつまで生きるのか それが私の戦後の課題です
それからずーっと 今に至るまで 生きること 死ぬと言う事は 私はあんまり考えません
今日をどう生きるかが私の最大の課題です
同志社大学に入って ものを作ると言うことは生きると言う事ですから たまたま出版の世界に入ることになる たった一人編集者として入る 教えて貰ったことはない
編集の事を教えて貰ったのは本屋さんに並んでいる本です
現場で製本、印刷 全部マスターしました
宗教書を売るために本屋を作り、他の本も売る様になる
そこの本屋にいって働くようになる(妻の実家) 福音館書店
大正時代に金沢の宣教師が来て、聖書、讃美歌宗教書売るために出来た
それだけでは成り立たないので、他の本も売る様になったのが 福音館書店
戦後5年 東京に出てきて東京では大きな出版社がありとても太刀打ちできないと思い、
生き残れるには、子供の絵本がもっともっと本格的に作れば可能性があると思った
「熊のプーさん」 中学5年の時初版本を読んだ
子供の本はこんなに面白いものかと知った 子供の本を片っぱしから読んだ
児童文学というものに非常に興味を持つ様に成って学習参考書、辞書よりも、こちらの方が将来性があると思った
幼児に物語の面白さを体験して貰う事が大変大事だと思った
それが日本の出版界ではまだまだ弱いなあと思い
一日一話と言う事で短い話をいろんな作家の方等に書いて頂いて 育児、児童心理学を入れてエッセーとして合わした「母の友」を創刊した
1953年創刊 今でも続いている
岩波書店 「岩波の子供の絵本」を創刊する 1953年 母の友と同時期に出す
外国の絵本を翻訳して出す 日本の物語にして出すという画期的な出版だった
其れを読んだ時に吃驚した こんなに面白い本はないと
そして日本のオリジナルな本をつくろうと思った それが出版社の役割だと思った
子供の絵本を出版することになる 月に一回出そうと思った 「子供の友」 昭和31年4月に創刊した 第1号 「ビップと蝶」
与田凖一(北原白秋の第一弟子)
特に戦後の平和についての物語を出来るだけ出したいと思って お願いした
絵は
堀文子先生 心にしみてくる様な独特な美しさを持っている
絵が語りかける力が有る 文章(与田凖一)と絵(堀文子)がぴったりと合った作品が出来た 記念すべき第一号が出来上がった