2014年3月30日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(和歌山県)

五木寛之           歌の旅人(和歌山県)
高野山 沢山行っている。 以前は女性は行けなかったが、法律的に明治5年ぐらいに行けるようになったが、それでもなかなか行く事は出来なかった。
弘法大師が高野山に場所を移動してから1200年ぐらいたつ。
ぶらくり町→ 繁華街
歌「和歌山ブルース」
岩橋千塚古墳群  
山本七平 「日本人とユダヤ人」 イザヤベンダサン
歌の世界は少ない県  坂本冬実 田川 寿美
実業家 紀伊国屋文左衛門  松下幸之助 島 正博  上山 英一郎 青木 湯之助(紅花)
西村伊作
歌「女人高野」
道成寺 絵巻 安珍・清姫伝説  保田 與重郎 思想家、評論家 
日本は本当は女性が中心の国ではなかったのか? と語ったことがある。
「紀ノ川」 有吉佐和子 紀州の言葉の雰囲気を伝える。 「 ・・・のし。」

熊野詣で  田辺  石山本願寺の戦いで紀州から多くの応援が出て、織田軍を悩ませて、織田信長は許さんと、敵という意識がある。
雑賀衆  鉄砲作っている。 外国に開かれている港あったからでは。  
南方 熊楠 国際的な学者 
民族を人々の生活を研究するうえでは、そういった下品なこと、野卑なことも大事にしなければいけないというのがみなかたさんの意見で、柳田國男はそうではなくて、ある時期から袂を分かつ事になる。
神仏分離令 沢山の村の社を潰されてゆくときに、みなかたさんは自分の生命をかけて反対する。  紀州人の気概が表れている。

華岡青洲 陸奥宗光 濱口 梧陵
作家  有吉佐和子、中上 健次 津本 陽 西行法師 (出家が23歳) 佐藤春夫
道浦元子 
東 くめ  「はとぽっぽ」(一般的なはとぽっぽと違う曲)
前畑秀子(ベルリンオリンピックの金メダリスト) はしずめしろう 田中理絵
青岸渡寺 
後白河法皇とかが繰り返し、熊野に詣でるが、信心からだけではなくて、政情不安の時に熊野の持っている財力とか、軍事力のバックアップをお願いしにいっていたという説もある。
和歌山県は山地が81%ある。
梅、ミカンと柿の生産量が日本一。
歌「祝い酒」
紀州はもうひとつの根の国と言う気がする。 文化、歴史













2014年3月29日土曜日

2014年3月26日水曜日

2014年3月25日火曜日

坂本博士(音楽家)        ・音楽に感謝して60年(2)

坂本博士(音楽家)         音楽に感謝して60年(2)(再放送) 2014.2.10
三陸との絆を音楽に乗せて
体調を崩したことをきっかけでミュジックスクールを設立、創作ミュージカルの製作に力を入れるようになり、公害、災害、ファミリーミュージカルまで甦恩範囲を広げました。
43年前三陸海岸の普代村を訪れ、津波を取材したことから、今回の震災では普代村でミュージックスクールのメンバーと共に絆三部作、音楽で愛と希望と勇気を、の復興支援コンサートを開きました。

ミュージックスクール 子供たちへの音楽を通じての教育だと思います。
この国を背負ってゆく、子供たちになにか感動だとか、夢、勇気、希望を音楽によってさらに感じてもらいたい。
小さい時に良い本を読む、良いものを見る、そうすると自分が主人公になったような気持ちで嬉しい気持ちになったりするので、それが音楽と言う芸術を通じて自分がもっと感じる感性の部分を教えてゆきたい。
気が付くと40年ミュージックスクールを続けている。  卒業がない。
人生いろいろ有って、伴侶を亡くしたりして、落ち込んだ人が音楽を通じて取り戻すという事が沢山ある。
日本人はどちらかと言うと静かなタイプで、オペラでの手を広げて、希望を出してくれと言っても様にならない、歩き方も様にならない。
どこか気持ちが詰まっていて、日本の音楽が世界へ出てゆくときに足りない部分だと思った。
歌っていればいいという事だけではだめで、殻を破って表現する、いろんな総合的な勉強をしてもらう為に、この学校を作った。

バレー、楽器の勉強も必要、歌も楽器も共通しているのは身体から音を発する、呼吸法全てが同じなんです。
素質を伸ばしてゆく為にはある種の勉強は必要。 個人の特徴を見出す。
音楽 音学 音が苦 いろんな勉強をできる学校を目指そうと、それが総合芸術として作った。
反応はとてもよかった。  
個性にあったものを教えなくてはいけないが、それを見つけるのは教える先生の技量がないとそこまで言えないので、重要。

3・11で自分自身に強く来た。 TVをひねったら、すさまじい光景、を見た時に同じ日本人としていたたまれなかった。
作詞家でもない自分が、希望の道、絆を作詞して作った。
自分の気持ちを音楽の力でどうにかしたいという、気持ちだったと思います。
吉永淳一 友人の作家がいるが、自分が体験して、出てくる言葉が、出てきて、曲になったというのがこの三部作です。
43年前に岩手県の普代村に取材に行った。 吉永さんが、昔大きな津波が来て、この津波を自分が物語を書きたいので、一緒に取材に行ってくれないかと言われた。
彼は津波の話をミュージカルにしたかった。 「海から黒い蝶が来る」と言うタイトルだった。
取材して翌年に上演した。  
津波が来て、そこに住んでいた人たちがどういう未来を考えてゆくかと言う話。

43年前の話をしたが、その時に集まった人々はあまり関心はなかったが、大震災がその後にあって、その時にも直後にいったら、同じ人達が来たが、中学生などは目の色を変えて聞いてくれた。
感動して、学生が「坂本先生有難うございました。 今度、僕たちがこの普代村を復興します。
僕たちの責任です。 有難うございました。」と私の手を握ってくれた。
作った曲を演奏して、合唱団と一緒に熱い気持ちで歌い終わった。
災害、被害に遭った人々を題材にしたものが、多かった。
「いたいいたい病」 のことを吉永氏が書いて、私が演奏した。
握手をしたが、巧く握手できない。 座れないのでござを敷いて貰って、そこでいたいいたい病の歌を歌った。
50人ぐらいを前にして歌ったが、この思い出は長い音楽人生の中で初めてだったし、自分も感動したし、皆さん手を合わせて拝まれるようにされて、音楽家として忘れられない思い出です。
ミュージカルに公害、災害をテーマにして捉える。
音楽の力で上演する事に依って、そういった人々を勇気付けたりする、それだけですね。

川を綺麗にする、家族への愛、作りたいと思って作った。
第一作目が「小鳥になったライオン 」 お母さんが力は弱くても修行していらっしゃいと、得意な喉を使って聞かせてあげて、最後は力ではなくて優しい気持ちで村を修めていったという話。
 (神様はどんな子供にも素晴らしいものを挙げている、だから皆頑張ってほしい)
第二作目 ペンキー いたずら者がやがて地上に降りてきて、これ以上いたずらをしたら、流れ星にしてしまうという定めをしょってきて、地球の子供たちと協力して、汚いところをペンキで塗ってゆくという話。(芸術祭で優秀賞を取った)
(星の子と、地球の子が仲良くなって、一緒に地球を綺麗にするという。)
第三作目 「パパの子守唄」  音楽科のパパ、最愛のママが大きな病になって亡くなってしまうが、ママの夢だったミュージカルをやってほしいという言葉をパパは大事にして作曲家のパパは作曲して、地域の人たちと一緒になって上演する、家族の愛がそこにあって、ママがいなくなっても協力してつくってゆく。(私がパパ役 ママ役は淀かおるさん)

山崎洋子さんとの出会いがあって作ったのがこれですね。  主役が友竹永則。
顔はオオカミなんだけれど、人は見かけではなくて、心が大事だという事を説いた。
主役はおおかみ 私が作曲をして、友竹さんも参加した。 (ファミリーミュージカルに軸足移す)
スクールの中にそういった空気が出てきていた。
オペラだけやっていたら、病気をしなかったら、こうなっていなかったのかもしれない。
私の音楽、キャラクターと共鳴した。
人が元気になってゆくのが嬉しい、音楽の持っているいろんな意味合い、良さを判ってほしい。
61周年の会の最後に「私は65年も頑張ります」と言ったら、みんなが拍手をしてくれた。
医者には成れなかったが、音楽の博士に、皆に希望や勇気を与えられるこんな自分に成りたいと思っている。
どこかに熱いものはあるが、まだ形がないが、元気なうちに岩手にいきたいと思っている。





































2014年3月24日月曜日

坂本博士(音楽家)        ・音楽に感謝して60年(1)

坂本博士(音楽家)         音楽に感謝して60年(1)(再放送) 2014.2.9
昭和29年東京芸術大学を卒業して、藤原歌劇団に入り、歌曲、」オペラなど舞台で活躍されて、昭和39年の東京オリンピックの年に、「歌おう世界の友よ」で、歌と司会に大活躍されました。
82歳のいまも歌手、作曲家、、指揮者、演出家、プロデューサー、ミュージックスクールの校長、奉仕活動と言った幅広い活動をされています。

ピアノが好きで、坂本家は割とお医者さんが多い、母は医者にしたかった。
ピアノの存在が私にとって、強かった。 ピアノの先生が厳しかった。
芸大のピアノ科に行こうとしたら、水谷達夫先生(ピアノの先生)が浪人しないと難しいだろうといわれて、歌を習っていた先生(城多又兵衛先生)がピアノが難しかったら、声学科になったらどうかと言われて、ピアノを諦めて、声学科に行った。
身長は高かった。 182cm  こないだ計ったら180cmだった。
卒業して友だちがオペラをやったらどうかと、藤原歌劇団でオーディションがあり、藤原先生に気に入っていただいて、入ることになった。 
藤原義江先生 (男性) 舞台映えがして、父親がイギリスの方、母親が日本人で、容姿、声が日本人離れした声で、テノールはイタリア系統が多くて、独特な藤原節と言って独特な声を持っていて、大変人気のある方だった。

昭和28年がTVの本放送で、当時TVを持っている人はほとんどいなかった。
友人、バリトン 立川清登  友竹正則さんとは学校は違ったが、彼の存在は大きかった。
五十嵐清さん (歳が1つ上)等がいた。
TVは力道山をやっていた。 ラジオ屋さんで群がるようにして、見ていた。
TVのテスト的な事で呼ばれて、行ったりした。 自分を自分で見れるとは、なかなかなかった。
NHKで随分歌った。
東京オリンピックを盛り上げるために、国を挙げて作った番組「歌おう世界の友」
いろんな国家を歌うので、気を使った。 それぞれの国の言葉で歌う。
昭和38年から東京オリンピックに向かって番組をやっていった。
NHKも大変力を入れていた番組でした。
モノクロとカラーでやっていた。  モノクロの良さはある。
身長が高かったし、ても長かったので、色々注文が多かった。

藤原先生は豪傑な人だった。 テノール 
生放送で、違う歌を周りが解らない様に平気で歌詞を歌ってしまったりした。
ペギー葉山さん、越路吹雪さん、草笛さんだとか、そういう人たちは同じポピュラーのなかでも、クラシックの中間と言うか、クラシックの人たちに手をさしのべて、一緒に相手役としてやってほしいと、きっかけがあって、出て行った場面が結構多いですね。
クラシックの音楽を大事にしてくれたプロデューサーの人たちもそういったことをきっかけに、クラシックの人達をいざなっていった。
TVに出たことによって変わったですね。
直立不動で歌っていたが、TVに出ると相手役が踊りがうまくて、多少なりとも動かなくてはいけなくて、振付が来てくれて踊らされる。
辛かったけれども、そのうちにいろんな勉強にはなった。

物凄いスケジュールだったので、1日で2本のオペラをやったこともある。 
舞台を降りて若い人たちと話す、青春のいろんなことを思い出します。
皆時を忘れて、語り合ったものです、そしてその中から新たな音楽が生まれるんですよ。
私の出たオペラ、カルメン、蝶々さんだとか、外国のオペラなので、こういう人たちの話を聞いているうちに私は日本人なんだから、日本の何かを作ってみたいと気持ちが段々ときました。
暮らしの窓の番組でレギュラーをしていた時に、横隔膜が痛くなって、寺島 尚彦さんの伴奏でやっていたが、救急車で運ばれて入院した。
全国から励ましの手紙を頂いて、その中から私は日本人の叫びというか、日本人の心と云うか思いを、テーマのある事をやるべきだと思った。

教えること、教わること、 気持ちの交流が私の音楽に次第に芽生えてきた。
音楽を通じて、教える、教育 音楽の中に一杯含まれている。
一生を通じて歌わなかった人はいないはず。
札幌のろう音が終わって、旭川に行く途中、若者が来て、私は炭工夫だったと言う。
或るとき、同級生にあうと上から見下ろされたりするようにいわれ、ガールフレンドにあうと、どうしてと言われたと、ショックを受けたけど、頑張ったと、ところがあるときに、落盤事故に会って先輩は殆ど亡くなってしまった。
又力強い歌を歌って僕たちを勇気付けて下さいと言われて、あっという間に降りて行った。
ボタ山を見ながら、この話をオペラ、ミュージカルでもいい、形に拘らずなんかの表現でやってみたかった。
社会派ミュージカルとの所以はその辺から出たが、自分では社会はだとかは意識していなかった。

昭和44年 ミュージックスクールを設立。
教えることが好きで、病気をした時に、学校を作ろうとした。
いつ治るかわからない自分に手紙が来て、頂いた手紙が凄くて、自分の使命は教えることだという事に思いがなってきた。



























2014年3月23日日曜日

中桐万里子(子育て支援グループ代表) ・二宮尊徳に学ぶ生き方

中桐万里子(子育て支援グループ「リレイト」代表)   二宮尊徳に学ぶ生き方
関西学園大学講師   1974年 東京生まれ、慶応大学環境情報学科を卒業、京都大学 大学院教育学研究科で博士号を取得、祖母から聞かられていた二宮金次郎と改めて向き合う事になったのは、京都大学時代の指導教官が二宮金次郎の話題に触れたことからでした。
研究の視点から見ると二宮金次郎の行動の仕方が自分の研究分野、臨床教育学のヒントになるからかもしれないと思ったそうです。
かつてどこの学校でもみられた二宮金次郎像。。素顔の二宮金次郎、はどんな人物だったのか、二宮金次郎から学んだことは、どんなことだったのかを伺います。

子育て支援、いまはまだ小さな活動です。 7年目になる。 
周りからの協力があって、教育に対してのグループを立ち上げた。
二宮尊徳 (そんとく) たかのり が正式名称  
二宮金次郎の私は7代目になる。(子孫)
実際に像を見ている方は少なくなったが、意外と子供たちは知っている。
体格は立派な人、身長182cm、体重は94kg 顔も随分と彫りの深い顔をしていた。
二宮金次郎の両親は早く亡くなる。 16歳の時には亡くなってしまっていた。
貧しかった時代は少ない。 裕福な農家として生れて、災害で財産は無くすが、30代の前半には街で有数の富豪、地主になっている。
600の村々、地域の財政の立て直しに成果があって、小田原藩の殿様から、頼まれて栃木の方に移住して飛び地復興を頼まれたりした。
災害は大きなダメージを人々に与えた。
二宮金次郎はまっすぐな人だった。
 
偶然、大学院の指導教官が金次郎の話を出したところから、改めて興味を持つ様になった。
臨床教育学 京都大学で初めて作った学問領域  学校の先生のコンサルタント、学級の運営、子供たちの理解、対処について考えましょうという、相談役。
臨床=現場  現場で起きたことから、教育について考える。
二宮金次郎は人も育てたが、田畑を耕して実らせることがミッションだったが、子供を育てることと、田んぼを作ることは臨床教育学の観点から見ると凄く似ていると思う。
人間は一人一人全然違う素質を持っているので、教科書通り育つ子はいない。
田んぼも土地の性質、土の状態、水はけ、それぞれの土地の個性に依って、どうやって耕すかはオーダーメイドで、ケースバイケースで考えていかなくてはいけない。
そういったことを子育てに応用して、子供たちをどうやって理解して、個性を伸ばしていけばいいんだろうと、現場から考えようと、そういったイメージでとらえています。

二宮金次郎は自然、日常などを日記に細かく書いている。  
マニュアルは当時もあったが、自然災害があったり、マニュアル通りにはいかないので、目の前の自然を観察する事からどう対策をしてゆくか、と言う事を問われていた時代だった。
いま子供たちは、今までの教科書では解決できない、色々な問題が起きてきたり、社会が複雑になり、金次郎の手法は凄く手がかりになるのではないかと思う。
現実を自然観察する事。 昔、沼だったとか、がけ崩れがあったとか。
土を食べて、何がたりないか、地質を調べることもしていた。
冷害が来そうだとか、旱魃がきそうだとか、気象予報がない時代だったので、推測をしながら作物を選んだ。 秋ナスが知らせた、エピソードがある。
ある田植えが終わったころ、食べた茄子の漬物が秋ナスの味がしたというのが、全てのスタートだったといわれる。
秋ナスの味、農家のおじさんに聞いたら判るという。

菊の花が夏に咲いていたとか、他のいろんな観察が重なって、今季は寒さが直ぐ来るのではないかと、今は秋だと自然がサインを出しているのではないかと、寒さに弱い米を抜いて、寒冷地に適した作物、ひえやあわ を植えようと提案した。  大ばくちだったと思う。
天保の大飢饉で餓死する人々が沢山出たが、金次郎が見事に切り抜けて、餓死者が一人も出なかった奇跡の村として、そこから脚光を浴びてくる。
生き物たちはいろんな小さなメッセージを発していた。  
そういった小さな情報を客観的に観察して自分で考える。
「荒れ地の開墾、開拓は容易だけれども、荒廃した人の心を開拓するのは難しい。」
捨てられた苗を拾って集めて、植えて、実らせて一俵のお米を獲った、とか物を大事にしている。
行動あるのみ、行動を大事にしていた。

問題児だったり、困った出来事だと親たちが思う事でも、茄子が発信していた小さなメッセージの様に凄く大事なことを問いかけている大事なメッセージだったり、すごく大切な個性を発信しようとしていることだったりするので、どうやってとらえてそれを活かしていけるか、夏の寒さが悪いのではなくて夏の寒さを活かしていけば、そばでもひえでも実のるではないかと、同じように子供たちを型にはめるから問題児だとか、悪い子だとういう風になるかもしれないが、その子たちの方から始めれば、子供たちが伸びてゆく、生き生き、きらきらしてくると言う事は実感としてあるので、教科書、マニュアルからではなくて、子供から教育を始めることは大事だと思っています。
いっぱいいっぱい可能性を持ったいるのは、子供たちですから。
大人のちょっとした言葉、対応でぐっと変わることはあるので、大人が変わることと違って、意外と速いなあと思います。

私たちが先ず子供たちを知る、信じる。 先ずは観察する事から始めないといけない。
悪さをしたときに、親は怒りを発するが (なんでこんなことをしたとか) 怒りの「なんで」を発するが、この声かけは完全に潰してゆくやり方で、 観察の「なんで」にしてもらいたい。
自分で感じた五感を大切にして、「なんで」と観察してみてほしい、そうするといろんな子供の事が解ってくる。
悪い子になろうと思っている子は誰もいないので、なすの小さな声が聞こえてくれば、どうやって育ててやればいいか見えてくる。
泣く子がいてなんで泣き虫なのかと相談があったが、観察してみると実は口下手で、言おうとしても言葉で言えなくて、主張する為に泣いていると言う事もある。(泣き虫ではなくて自己主張が強いことが判る)
怒りの「なんで」は、その子ではないフィルターを通して見ている可能性があるので、フィルターを外し、しっかりした観察が必要。

私にとっては、金次郎の事は色々聞かされているので、「なんでもきちんと自分で考えなさい」とは言われてきた。  自分の感覚と目。
今は世界の思想学会が立ちあがってるが、金次郎の考え方をもう一度という趣旨で集まっている。
「報徳精神」  徳に報いる。 大地、太陽、等 自然たちと一緒に生きているから農業で食べていけるので、自然と一緒に生きているので、それに対して恩返しをするように生きてゆく、徳を受けて徳に報いてゆく。
「天道」 人間の力ではどうしようもない現象
「人道」 人間がいかようにも変えてゆける力
天に巧く仕えながら、それに報いる。
人の進むべき道は、己に克つ、己は私欲なり、田畑にたとえれば私欲は草なり、克つとは田畑に
生ずる草を取り捨てて、我が心の米や麦を幸せる。 それが「人道」

観察もバランスなんです。 相手を観察する事が大事だが、自分もキチンと、とらえていないといけない。
ギブ アンド テーク  してあげたんだから、なんか返してほしい  見返り思想(報われたい)
テーク アンド ギブ 徳を受けている、だから 生きている(してあげよう、報いたい) 
           周りに支えられているから 報いたい     「報徳思想」 (金次郎)
①至誠 沢山の人に支えてもらったことを、知っている誠実さ。
②勤労 それを判っていれば、一生懸命、頑張ろう、勤労しよう、働こうと思い様になる。 
③分度 自分の努力が6割、後の4割は誰かに支えてもらった、割合を考える。 
④推譲 4割助けてもらったとするなら、人に喜びを返して来なさい。
幸せを循環させる。

貰ったことを知って、それをパワーにして子供たちを生き生きと楽しんで育てていけたらいいなあと思いますし、子供たちの将来性、未来の可能性を実感しながら、育てたら毎日が楽しくなるのではないかと思うので、金次郎が描いていた、未来への希望を感じられるような活動になっていければいいなあと思っています。




































2014年3月22日土曜日

2014年3月21日金曜日

長濱晴子(看護師)        ・父母からの最期の贈りもの

長濱晴子(看護師)      父母からの最期の贈りもの
1969年に聖路加看護大学を卒業しました。
夫と、自分の両親の最後を看取りました。
その間には御自身の重症筋無力症と癌の手術、夫も癌の手術と敗血症で入退院しました。
その20年間の経験を長浜さんは父母からの大切な贈り物だったと考えています。

4人の両親を看取られて、そのことについて本を書いて、御主人の父親 87歳 1992年 2005年~2011年の間に 3人の方を90歳代で看取っている。
自分で体験したことを血になり、肉にして自身につなげるには、纏めることが大事だよと言われていて、義理の父が亡くなったた時に悔いの残る死で有ったので、悔いのないようにしようと考えてその間、努力した。
何が問題だったのだろうかと、物の本質が見えるというか、そういったことを感じるので、20年間のことを纏めて私自身の死を迎える事に対して、生きる自信にしたい。
看護師だったので死に関しての興味、関心が高かったことがあるので、書く事に依って見送りができた。

45歳の時代でしたが、義父がその朝に限って自転車で転んでじっとしていて、実家の方にも連
絡があり、病院行って骨折だと言われて、手術をしたが、その後55日目に亡くなってしまった。
もう少し何かできなかったのかと思いが強く残った。
主人は長男としての役割を果たせたと、あまり考えてなかった。
看る 五感を使って看る。 
 主人との話し合いをした。
①これからの人生に起こる様々な出来事に対して、今まで以上に一つ一つ真正面から対峙  してゆこうとの覚悟。
②いままで、出会ってきた死を振り返って考える。
③死についてさらに学び続ける。
④わたし自身のどんな死に方をしたいのかを考える。

アメリカで研修を2年間行う。
45年ぐらい前 大学を卒業して直ぐに行ったので、患者さんに接する機会はほとんどなく出掛けることになった。
4名の患者を見ることになるが、闘病、死に向かう立ち向かい方が何となく違うと感じた。
ニューヨーク、ヒューストン 小児科、外科、婦人科、癌科などの部署に行った。
死に向かっても自然で、生の延長線上にあるという様な感じだった。
死に向かう態度が、忘れられない方がいる。
ある患者はすぐなくなるような患者で、接するたびに微笑んで、有難うと言う事が口を見ると判る。
5分ごとに行くが私をにこにこ迎えてくれて、あのにこにこはいったいどこから来るのかと思った。
もう一人、女性の方で、目がはっきりいっているようで、私はもうなくなってゆくの、あなたは判るでしょう、あなたはまだ若いのだから頑張っていい人生をおくってね、私は自分の人生で満足よ、と言った様に私は感じた。


義父が亡くなってから13年間のなかで重症筋無力症になり、入院することになり、身近に死を考える事になった。
義理の母の最後の言葉は私の手を握っていたときに亡くなったが、普通にはなせた。
どうして、どうして判るの と何度も言った。 してほしいことをどうしてわかるのかという事。
じっと見ていると理由が解る。 私の患者体験が影響していたと思う。
義理の母から評価してもらったと思う。
亡くなる直前、朝身体を拭いたりしていて、それを夫の妹さんが見せてと言われたので見てもらった。
父親は、私が子供のころから、死後の事を言っていた。
自分が死んだら、①葬儀をしない、②介護入らない、③よけいな事はしない。
余計なことはしないという事は判らなかったが、延命処置だという事がその後判ってきた。
70歳代になり、④献体に出してくれと言う様になった。
80歳で老人ホームに入ったが、追加があり、⑤ここで死ぬ ⑥ここの主治医にお願いする。
これを実現する事が親孝行かなあと思って、迷いは全然なかった。

私の祖母は99歳まで生きて長寿だった。  
父がよくいっていたのは、歳とってまで生きている気持ちは僕は判らないよと、何回か言ったのを印象深く覚えている。
父が90歳代になって言ったのは全然違っていて、若いころそう言ったけど自分自身が90歳になってくると僕はもっと生きたい、本を書きたい、まだ書きたいテーマがあるから、死にたくないと言っていた。
遺品の中に時計があって、刻印があり見て驚いた。
「2005年5月14日。 (誕生日) 満90歳の記念に購入 阿部哲雄」 と書いてあった。 
あと何年生きようと思っていたのか、生に対する思いを感じる。
親は子供の足を引っぱてはいけない、子供たちがやりたいように生きればいいんだから、それを応援するのが親である、と父は昔からいっていて、老人ホームに入った。
母は69歳ぐらいから、老人性鬱病がありまして、入退院して、アルツハイマーにもなり90歳まで生きたが、21年前ぐらいの時から老人性鬱病でずーっと看る、見送りで、本当にたいへんだった。
73歳の時に老人ホームに入って、この間に3回世界クルーズに飛鳥に乗って行った。

母は父が亡くなってから3回骨折を起こして手術をしていて、回復が凄くて、アルツファイマーもよくなってきたりして、水泳もこなす様になった。
わたし自身に看送りの覚悟はできていたので、主治医に話して了解を得て家に帰ることができた。
京都は在日韓国人が多くいて、(40年以上前の話)内科病棟で勤務していたが、亡くなるのが間近に判っていて、息子は主治医に掛け合って、母を家に帰らせてほしいと言ったが、言い方は病院は元気になって帰るところで有り、死んで帰る処ではない、亡くなるなら自宅で死なせてあげたいと、だから返してほしいと物凄く真剣に話していて、主治医を説得したことが印象的だった。
最後の砦でなければならないなと思っていて、それができたなあと思っています。
今度は私の番ですよ、ちゃんと死に向かっていきなさいよと、此の世にうまれた使命が果たせる努力をして生きたいという様な気がしています。







































2014年3月20日木曜日

石田秀輝(東北大学大学院教授)  ・自然の知恵を暮らしにいかす

石田秀輝(東北大学大学院教授)   自然の知恵を暮らしにいかす
1953年生まれ 地質鉱物学が専門  25年間民間企業で陶磁器の関係の仕事に携わった後、東北大学に移り地球環境問題をテーマに研究し、実現する技術の開発に取り組んでいらっしゃいます。
特に限りある地球資源、こんな環境の中では人間社会を持続可能にするために新しい暮らし方、技術を考えなければならず、その際に自然界の持っている知恵を物作りや暮らしの形に生かすネーチャーテクノロジーの考え方が有効だと、提唱して多くの新しい技術の開発、暮らし方の提案などを進めて居らっしゃいます。

東日本大震災、 テクノロジーの集積が文明、知の集積が文化であると、そうするとガラガラと音を立てて文明が崩れてゆく、本当にそれは今まで我々は何をやっていたんだろうと、大ショックだった。
2030年ぐらいまでに大きく舵を切らないと、今の文明は我々みずからの手で崩壊させるのではないかと思っていた。
2009年にそのことを本に書いたが、それが実は目の前で起こってしまった。(20年早く見てしまった)
地球環境問題とは一体何かと言うと、7つのリスクがある
①資源エネルギーの枯渇   ②生物多様性の劣化  ③水、食料の分配リスク  ④急激に増える人口  ⑤気候変動    (⑥⑦?)
なぜおこったのかは、人間活動の肥大化 利便性、快適性を追求する為に際限のない肥大化が際限のない環境負荷を作ってゆく。
予測をすると、どのリスクも2030年に限界になるのではないか。
文明崩壊に近づく エネルギーの供給の停止、 交通通信の遮断、食料の供給に大きな問題が起こると予測していたが、まさに目の前で起こってしまった。
2030年をまさに見ている様な気がした。
時間は無いぞと思った。  本質的なものをかいまみた。

セラミック の仕事をしていたが、1980年代の後半ぐらいからなんか変だと思った。
1992年 ビオンザリミットの本に出会って、地球環境というスタンスで見ていなかったと思った。
地球環境と言う土台の上で物作りとはどう有るべきなのかと言う事を考えないといけないと思った。
地球環境問題は人間活動の肥大化 欲の人間の行動 際限のない豊かさ
物欲をあおるようなものを市場から提供され、その上に我々は欲を増やしてゆく。
回り回って、結局自分の首を自分で締めている。
産業革命 自然との決別した。 物欲をあおるテクノロジーに人間の欲が完全にうまくオーバーラップしてしまって、際限のない欲がもっと便利に、もっと快適に それが大きな問題を起こしてしまっている。
欲を我慢するか、それはできない。
人間の欲を認めて、環境の負荷がかからない、そういうもの作り暮らし方はないのか、それが私の一番大きな仕事です。

ネーチャーテクノロジー 自然の凄さを賢く生かす
2030年の厳しい環境制約の上に立脚する豊かな暮らし方。
お風呂に入る、4900万世帯 300Lに水を40度に上げるエネルギー 供給する事は厳しい。
水のいらない風呂にする。 自然のなかに探しに行く。
泡・・・ほとんど空気なので体を温めることが出来る、泡がはじけるときに超音波が出て、身体の汚れを取ってくれる、そんなお風呂ができる。
水は3Lから6Lで済んでしまう。 お風呂は軽くすることはできる。
制約のなかで豊かに暮らす新しい価値観、新しいテクノロジーを市場に投入してゆきましょうと、そう行く事は出来ると思います。

全ての自然の中に動物の数、植物の数だけ私たちを驚かす種がきっとあると思う。
ヤモリ 天井を自由に這いまわれる。 最近まで判っていなかった。
足の裏に50万本の毛が生えていて、1本の毛の先が更に数百に分かれていて、ファンデルワールス力という物凄い弱い引力が働きます。
接触面積が大きくなってヤモリの体を平気で支えてくれる。
はがき一枚で200kgを支えるぐらいの強度がある。
自然の中にはあらゆる物がそういう価値観を持っている。
地球にないものばかりを科学として産業革命以降探してきたが、地上には物凄い宝物があるのに我々は見ない、そういう教育体系を作ってきたし、学んできた。
生物の研究者と、工学の研究者と同じ土俵で仕事ができる様な、そんな文化から作り直さないといけない。

カタツムリを見て閃いた。  油汚れを水だけで流してしまう。
街の汚れはほとんど排気ガスのカーボンとオイルなので雨だけで汚れが取れてしまう。
ネーチャーテクノロジーの将来 自然を真似するよりも、我慢しなくても豊かであることを、先ず作るという事から始まる。
先ずライフスタイルを作って、そこから必要なテクノロジーを抽出をして、自然のなかに探しに行って、自然のママ真似るとエネルギーを必要とするので、フィルター(持続可能な)を通して、もう一回デザインし直して、そういう一連のぐるっと回るテクノロジーを作りたいと研究している。
結論だけからいうと、最終的にたどり着いたのは 、豊かであるという条件には豊かさを制約がなければいけない、と言う事が判ってきた。

依存型ライフスタイル  完全介護型ライフスタイル の対局自給自足型ライフスタイル
自立型にした方が人間は豊かになると感じることが解っている。
自分が参画して豊かになる。  制約 (例えば手巻きの時計) 
まかないと時計は止まってしまう。 巻いている時間で色々今日のことを考えたりする。
自分が制約を越える行為をするだけで、段々愛着を感じて手放せなくなってしまう。
一つ一つ越えてゆく事で、実は人を豊かにするが、今のテクノロジーは皆利便性の方に持ってゆく、それでは人は豊かにならない。
自立と依存の間にまがあるが、この間を埋める仕事をしなけなけれないけない。
今のテクノロジーは間がぬけている。
子供たちも自分で手を動かして、なんかしたいし、ハードルをちょっとずつ越えてゆく事を楽しいと思っているけれども、欲しいものを作らない。

精神欲をかきたてる 間を埋める。 粋の概念 (江戸時代の粋)
イギリスの産業革命は自然との決別で成功しました。
大量生産 、大量消費という概念を生みだした。
自然と決別していない産業革命に成功した国は世界で一つしかない。 江戸時代の日本
イギリスよりも80年ぐらい前に産業革命をしていた。
遊びエンターテイメント  からくり人形 的を射ないと悲しい顔をする。
物作りに使わなかった。 エンターテイメントに行く。 精神欲をあおるテクノロジー 粋の概念につながってゆく。 ①自然と一体になってゆく  ②敗者を作らない  ③足るを知る ④自然の見たての概念(盆栽を山に見立てる)  見たてることで、間を埋めている
茶室は宇宙までも見たててしまった。

粋の概念をテクノロジーに移しかえると、これは間の概念を持ったテクノロジーになる
自然は完ぺきな循環をもっとも小さなエネルギーで駆動しているわけなので自然を真似しましょう。
敗者を作らない、もったいない、見たては、コミュニケーションを生みだすし、愛着を生みだすし、
間にして明の技術、そういう構造を持った技術を生みだせば是は間を埋めるテクノロジーになる。
トンボの風車 子供たちが電気を作ることができる発電機を作ってやろうと、いつ見ても動いている発電機、会話をしながら作れる電気 2~3mの風でないと今は作れないが、トンボの羽は昆虫の中で最も低速で滑空ができる。
ちょっとした風でも浮力に変えることができる、ちょっとした風で風車を回せられる。

羽根のぎざぎざ 低速の風がトンボにとって物凄くねばねばべたつく様な空気、その空気を綺麗に流してゆくためには凸凹が必要で、でこぼこのところで小さな渦が発生して、渦がボールベアリングの様な働きをして粘っこい空気をベルトコンベアのように、後ろに流していたそうする事で浮力を発揮していた。
でこぼこの風車を作ったら、なんと20cmの風速で回ってしまった。
風速1mで効率20%と言う世界で初めての、とんでもない風力発電機ができた。
人を豊かにするのがテクノロジーで有れば、人をどれだけ豊かにしていますかと考えると、効率が悪くても人を豊かにするテクノロジーの有ってもいいのでは無いだろうか。
機械の効率だけが先行して、進んでしまう、そうするとテクノロジーの集積が文明、知の集積が文化であるといつも一緒にいなければ行けないのに、、文明だけが暴走してしまって、文化が取り残されて、こんな状態が起こっていて、いろんなものが連帯感があって、見えなくなっているのが今の時代だと思います。

その中に全体感のあるテクノロジーを入れこんでも物差しがない。
今のままで行ったらおかしいとだれもが思っている。
ただ予兆はある。  家庭菜園で曲がったキュウリを喜んで食べる。 
自分で作った野菜を食べたい。
その先を行っている様な企業が動いてくれればいいが、そのような方向にはいっていない。
完全介護形の方向にいっている。  ブレーキを踏まなくてもいい様な車を作る。
もっともっと違うわくわくする世界がある、そのひとつがネーチャーテクノロジーがなればいいと思っている。

小学生に話すと2時間3時間必死でこう来ますからね。
新しい価値観 自然に生かされていることを知って、自然を上手に生かすことを楽しんで、自然をいなす(震災みたいな時は)、価値観をもつことが大事だと思う。
江戸時代に戻ることはできないが、学ぶ事はできると思う。
確かな未来は懐かしい過去にあると思う。
学んで、もっと新しい価値観に組みかえて、おしゃれなんだという風に持ってゆく、ライフスタイルとテクノロジーをこれから作りあげてゆく思いは大事だと思う。
自分もわくわくドキドキしていきたい。
この制約のなかでどんなに楽しい暮らしをしてやるか考えなければいけない。



































 

2014年3月19日水曜日

山下正臣(元・琴平町長)     ・こんぴら大歌舞伎30回~こうしてわが町は復活した

山下正臣(元・琴平町長) こんぴら大歌舞伎30回~こうしてわが町は復活した
今年4月5日 四国香川県、琴平町で金毘羅歌舞伎大芝居が始まります。
今年は30回目の記念講演になるという事です。
街の高台にある芝居小屋、金丸座で上演されます。
今も残る芝居小屋としては、日本でもっとも古い金丸座は江戸時代そのままの花道、せり、回り舞台などを持ち、客席に雪や花吹雪を降らせるぶどう棚とか、俳優が中のりをするための欠け筋などもそろえており、国の重要文化財にも指定されています。
この金毘羅歌舞伎をあまり知られていなかった琴平町で開く為に、最初は町議会議員、後は町長として力を尽くした、山下正臣さんに歌舞伎を招き、上演する苦労話、今回の芝居の見どころ、将来の街おこしの夢などを伺います。

出し物は『菅原伝授手習鑑』 近松門左衛門原作の『女殺油地獄』 (という出し物)
琴平町の知名度 金毘羅さんもあまり知られていないのが現実 若い女性に聞くとほとんどが知らないというのが答えです。
琴平町は資源もない、資金もないという事で、琴平でなければできない事に着眼して、色々試行錯誤した。
金毘羅参り昭和30年、40年代は段々と老舗旅館が廃業して、諸店はシャッターを閉めるという様な、過疎化的な現象も起こってきました。    当時売りだすのがなかった。
瀬戸大橋時代まで5年と言うような時だったので、何とかしないといけないと思った。
金丸座と言う古い芝居小屋があった 1835年天保6年に建築されて現存する最古の芝居小屋と言う事で、江戸時代の雰囲気を残す芝居小屋だった。
歌舞伎の原点である江戸歌舞伎を復活してはどうかと考え付いた。

少年時代は金丸座で遊んでいた。 終戦直後昭和20年代ですね。
東京の歌舞伎を琴平に呼ぶ事ができるのか、
金丸座は国指定の重要文化財と言う事になっているので、この文化財を使えるのか、受け入れ体制、ボランティア、スタッフ、と言うものをどう組み立てるかという問題に繋がってゆく。
昭和58年定例議会で一般質問に立って、金丸座を活用する事を提案した。
当然答えはいかんともしがたい。  田舎の芝居小屋に誰が来るんだろうと、失敗して赤字を出したらどうするのかとの、意見もあり喧々囂々のぎろんがあった。
江戸時代の芝居小屋で復活をさせるという事に大きな価値観があるという想いが自分の脳裏から離れることができなくて、どうしてもやりたいと思っていた。

昭和59年民放の番組で3名の役者がきました。
金丸座のマス席に座って対談をしたが、素晴らしい芝居小屋だと、役者の血が騒ぐという事で、やってみたいという事で、できそうな感触を得た。
松竹の会長に話が届いて、金丸座を活用させてほしいと文化庁にお願いしたが、なかなかそういう風に利用できることはできなかった。
東京へいった回数は10数回にわたった。
地方を元気にする為に文化財を活用しながら、保存をする、年に1回ぐらいは風通しをしないといけない。  
寝かせて、見学するだけでは芝居小屋じゃないとの想いもあるので、そのあたりを随分訴えてきた。
最終的には年1回ぐらいで重要文化財の名に沿う内容のもので有れば活用してもいいんじゃないかと言う事に落ちついていった。
金丸座は回り舞台、セリ は全部手動(人力) 明かり窓の開け閉めなども全て人が行うので相当な人数が必要とする。
商工会の青年部 当時40名ぐらいいたので、それを引き受けることになる。
住民参加で街おこしをやるんだという事で3日間で有ればボランティアをしてもらった。
お茶子をどうするか、旅館の仲居さんたちにやってもらう事になる。

昭和60年6月27日に初演を迎える。  身震いがするような思いだった。
巧く行くかどうか不安が半分、期待が半分だった。
中村吉衛門が主演、自らが琴平向けのお芝居を作ってくださった。
再桜遇清水』、という芝居で、すさまじい芝居だった。
金丸座の機能を最高に生かしている。
臨場感を高めて、お客さんの隣りにお化けがいたりして、キャーッと悲鳴を上げたり、お客さんは大満足だった。
歌舞伎成田屋18番の「しばらく」  舞台が狭い、花道が短いという事だったが、俳優さんに熱意が伝わり、市川海老蔵さんが金丸座の寸法を自分で計って、書いて金丸座と同じ、とやという物を自分のけいこ場に持ち込んで、衣装ででれるかできないか東京で練習して、ちいさい芝居小屋に大きな衣装が映えて、生きた「しばらく」ができた、記憶に残る非常にインパクトの強いお芝居でした。

第1回は730名しか入れない芝居小屋で5回 合計で3650枚しか入れない。
欲しいのに券が手に入らないというような苦情も多く出た。
回数を増やせないかという事で2回目は6回にしたが、第3回は14回公演した。(1万220名)
多くの人に琴平に来ていただきたいというのが目的なので、順次公演回数を増やしてきた。
商工会青年部、仲居さんの人達にはよく頑張って頂いたとおもった。
5回目ぐらいまではボランティアの方たちもやりがいを感じて頂いたが、回数が増えるにつれて、自分の家の仕事ができないという事で、問題も出てきた。
年数がたつにつれて、歳も取ってゆくので、青年部が青年部で無くなり、瀬戸大橋が出来てお客さんは増えたが、商店街の方はさっぱりと言うのが現実だった。
四国学院大学の方から学生の社会研修の場として参加していただけないか、と言う話があり、提携して学生20名送り込んでいただく事になる。
お茶子も仲居さんだったが、やはり仕事の関係で難しくなり、近郊の人がやってみたいという声が出てきて、全国へ募集をかけてみてはどうかと、声をかけたところ全国で約400名のお茶子
が登録している。

需要と供給の問題、現在は16日間 32回公演で推移している。
旅行会社との提携で全国から迎えたいと思っていたが、これだけでは全国の需要にこたえられないので、ネット販売も行う様になった。
琴平町の町おこしには成るのかどうか、歌舞伎をマスメディアが特番を流していただいたので、見学者が年間を通じて数が増えてきた。
知名度を高めたという事では非常に大きな効果があったと思う。
回を40回、50回と重ねてゆきたい。
歌舞伎は世代交代期になって来ているので、市川染五朗が来ていただける。
俳優さんのとのつながり、人間関係を作ってゆく。
情熱を俳優さんたちにも伝わってゆけるように、我々も動いていかなければいけないし、伝わることに依って俳優さんのモチベーションも高まる、そして舞台を演じて頂く事に依って、お客さんに受けることにつたわるので、モチベーションは大切だと思います。











































2014年3月18日火曜日

立元幸治(評論家)        ・著名人の終の棲家に学ぶ~多磨霊園に眠る人々

立元幸治(評論家)    著名人の終の棲家に学ぶ~多磨霊園に眠る人々
昭和10年鹿児島の生まれ。  九州大学卒後NHKに入局、主に教養番組を制作してきました。
退職後は九州産業大学や、東和大学の教授として、メディアや、現代社会の研究と講義を担当してきました。
現在は講演や文筆活動に取り組んでいます。  立元さんは多摩霊園を散策する中で、そこに眠る人々の意外な共通点やかかわりに興味を持ち、東京多摩霊園物語という本の一冊に纏めました。

府中に住んでから15年。 広大な霊園を散策するのが楽しみ。
日本では初めての公園墓地。  有名な方が眠っている。
日本の政治、経済、文化、芸能、芸術を代表する様な著名人の人々が結構沢山いる。
詳しく知りたいとの気持ちが出てきて、いろいろ調べてきて、いろいろな発見があったり、いろんな人のつながりが見えてきたり、大変楽しくなった。
知る喜びを充足されてくれる格好の場所となった。
文献、資料を調べてみると、著名人同士の間に不思議な縁とか繋がりがあることが解ってきて、繋がりを調べていく楽しみ、知る喜びをする様になって、テーマを作る、30程度の組み合わせを作って、並べたら、この国が歩んできた歴史が見えてくる事が感じ取って充足感を感じた。
本にする。  毎日3時間書くスタイルで2年掛かった。

漫画家の田河 水泡  「のらくろ」   サザエさんで有名な長谷川町子 師弟関係にある。
高見沢忠太郎(田河 水泡)と書いてあった。
のらくろ 擬人化された犬 軍隊に入って苦労しながら昇進してゆく物語。
人間社会を描いている。 奥さんが高見沢順子 作家  兄が有名な小林秀雄
のらくろは実は田河 水泡が私の人生を書いたと小林秀雄に打ちあけている。
軍隊生活が背景にある。
深い笑いを呼ぶ漫画は、深い人間の生きることの哀愁とか、社会に対する批評がどっかに込められているんじゃないかと思う。
弟子が長谷川町子、 内弟子として住み込みで入門した。
優れたセンスを表に出してきた。
田河 水泡の紹介で、ある雑誌の連載を始めたところ大変好評で、サザエさんの作品につながってゆく。

サザエさんは社会に対する批評の目があるようだし、どっかで田川さんのところで修行した経験が長谷川町子の作品に、にじんでいるように感じた。
長谷川町子さんのお墓は奥の方に在るだけで、いかにも静かで清潔の感じのお墓。
田河 水泡の方は小さく、のらくろが寄りそっている。
長谷川町子はサザエさんとは違って、一生独身で過ごした。
岡本一家も多摩霊園の中にある。
岡本太郎一家の墓が異様な空間にある。 岡本一平岡本かの子岡本太郎
父の墓は大阪万博で作った太陽の塔に似たような墓。
隣りにある岡本かの子はいろんな作品を残して奔放な人生を送ったが、お墓は観音像で驚き。
面白いコントラスト  かの子は仏教を最後に信じて、彼女を思いはかって一平がそういう墓を作ったのではないかと思う。

太郎の墓が両親夫婦にむきあうような形で有る。 
あどけない子供が親を見ているようなまなざしで、対峙している。
3人のあり方について交流のあった川端康成が3人について書いてある文章を墓の3人を横から見る様な位置に、文章が刻まれている。
独特のオーラを発信する様な空間である。 空間自体が作品として訴えるものがあると思う。
札幌農学校の同窓生 、新渡戸 稲造 と内村鑑三 の墓がある。 作家の有島武郎  
有島は少し下るが、この3人は面白い組み合わせだと思う。
弟子の中で、後の東大総長 南原繁、と矢内原忠雄 2人は圧倒的な新渡戸の影響下にある。
内村鑑三は大きな白御影に英文で彼の人生を表す言葉が掘ってある。
「我は日本の為、日本は世界の為、世界はきりすとのため、そしてすべては神の為に」
J 日本のJ キリストのJ 2つのJ 迫ってきた。

内村は第一高等学校で有名な不敬事件を起こす。 大問題になって不忠の人物だといわれて学校を追われて、キリスト教の普及のために一生を尽くす。
新渡戸も留学するが、自分の出身の札幌農学校、京都大学、東京大学、の教授を経て、第一高等学校の校長になる。
非常に多くの影響を与えることになる。  南原繁、矢内原忠雄等が影響を受ける。
「人間の一生は神の結びたまい、導き給う処にあり、考えてみますと、内村、新渡戸、両先生無くしては今日の私はなかったのであります。  内村、新渡戸先生は私にとっては太陽のごとく、月のごとく、父のごとく、母のごとくである」と語っている。(矢内原)
教育はただ知識を伝達をするだけではなくて、人間同士のつながり、そこから何かが伝わってくるのが、 薫陶を受けつつ人間的なな影響力を受ける、そういう関係が内村、新渡戸→
 南原、矢内原に深く流れていたという風に感じました。

中村元さん 現代人の荒廃した心の問題についてどういう風にお考えですかと、いろんな方と対話をしながら歩いている。
資料を調べたり、何回も訪ねたりして、対話をしたり、しながら歩いている。
創造力を働かせる。
お墓は亡くなった方が埋葬されている場所ですが、見方に依ってはその方がそこに生きているという事を感じることができる。
その人の残したものとか、語った言葉が現在に生きているという事はあると思う。
お墓は死者が生きているという事も見ることができるのではないかと感じる。
どんな生き方をしたのか、どんな死に方をしたのか、と言う様な事にも関心がある。
現代、いかに生きるかという事と同時に、いかに死ぬのか、いかに最後を迎えるか、と言う事が大きな問題になっている。
生きた姿、と同時に最後の迎え方がいろいろあるんだなあと気がついて非常に印象に残っている。

岸田今日子さん 脳腫瘍という診断をされて、余命1年と言われて、過ごし方が非常におだやかで静かで納得して最後を迎えたと言う過ごし方で有ったという気がする。
姉さんのえりかさんが彼女のことを書いているが、いかにも岸田今日子さんらしくて、冷静に死と向き合って周りの人と最後のお付き合いを楽しみながら、静かに最後を迎えた。
こういう迎え方に凄く打たれました。
堀辰雄 病弱で、戦いながら作品を残しているが、病気と闘いながら、看病しているたえ子夫人、彼女に対する思いやりの言葉を残しながら亡くなっている。
是も感動的な最後だったと思う。
徳川夢声 はっきりと最後の言葉、キーワード、感謝ここにありと言う形でしゃべった。
「おい、良い夫婦だったなあ」と言う言葉を残して亡くなった。
田河 水泡も「私の人生は本当にいい人生だったと思うよ」と言う言葉を残して亡くなった。
吉川英治  最後の最後まで這いつくばって、書いたという事が書かれている。
大岡昇平  同様に入院していたが、最後の最後まで書くよと言う事で闘病しながら書いた。
仕事への執念に対して感動を受ける。

残された者への思いやり  長谷川町子 葬式とかお通夜とか儀式は一切排除してほしいという事、発表もずっと後にしてほしいとの事で、亡くなって一か月後のことだった。
梅原龍三郎 「おれが死んだら、葬式なんかしてもらいたくない、そんなものは無意味だよ、大勢の人が集まるのは迷惑だし、娘には誰にも知らせるな、面倒だから家を閉めて旅行にでもいってしまえ」と言っている。
「死者の為に生きて居るものは煩わせるべからず」
形だけのセレモニーは嫌だという事でしょうね。
常識に余りとらわれない、心のこもった、そういう己の区切りのセレモニーにしてほしいと思う。
大事なことをきちっと伝えて、終わりを迎えたいと先人たちの生き方、死に方から学び取った、そんな気がします。








































2014年3月17日月曜日

川口重雄(丸山眞男手帖の会代表)  ・丸山眞男(マサオ)に学んだ私の生き方

川口重雄(丸山眞男手帖の会 代表)   丸山眞男(マサオ)に学んだ私の生き方
戦後民主主義の理論的リーダーと言われる政治学者、丸山眞男の生誕100年の年です。
丸山は敗戦直後の著作で日本軍国主義の精神構造を判り易く分析したり、日本の思想などの著作が教科書などに取り上げられたり、当時の若者や社会に大きな影響を与えました。
東京、田園調布学園で教諭をしている、川口さんは学生のころから丸山の著作に親しみ、卒業してからは丸山を囲む会に参加しました。
丸山が各地で発言した内容を活字にして世に出す、丸山眞男手帖の会の代表も務めてきました。
川口さんは高校で日本史を教えていますが、生徒達の学習指導をする上でも、自分自身の人生を送る中でも、丸山の教えが生きていると話しています。

今年3月22日で生誕100年になる。
丸山さんは1914年に生まれて、東京帝国大学、法学部で南原繁 (戦後の東大の総長)のもとで研究者になり、戦時中から戦後にかけて、東大の研究室で戦争の時代を体験して、日本政治思想史研究の草分け、戦後は敗戦から復興し高度成長経済に進む中で、日本の社会を様々な角度から分析、解剖して、実際に私たちがどのような社会を作っていったらいいか、述べられている。
本業 政治思想史の学者  一方 時事問題のコメント、文章 エッセーなども書かれている。
丸山さん自身は東大在職中にも様々な後援会に出ている。
東大を辞めても、いろんなところに行ってお話をされて、市民の中に入っていって、一般の読者が一番ヒントを与えてくれると言っている。
兄が哲雄 元NHKプロデューサー 1910年生まれ 京都帝国大学卒業後NHKに入る。
哲雄は弟を連れて、寄席、映画、新国劇等に通う様になる。
2.26事件の時に様々な情報を兄から教えてもらったといわれる。

私は早稲田大学の日本史を専攻。 国語の教科書に「である」ことと「する」こと 高校生として読むべき100冊にあげられていた。
大学で昭和50年 51年に丸山さんの20年間の文章を集めた、「戦中と戦後の間」と言う本が出版されて、高校時代に読んだ日本の思想で出会った丸山は鮮やかに日本の社会を分析、解剖している。
大学2年の時に出会ったときは、血の吹き出る様な、日本の近代の歴史が持ってきた様々な問題を、矛盾を真正面から引き受けて、それについて一生懸命 これからの日本と言うものはどうして行ったらいいか、問題意識の溢れた文章で、本当に誠実な思想家、学者が立っているなという感覚になってしまった。
卒業論文を丸山さんのことを書いた。

丸山さんに初めて有った時に、どうして読んだんですか、と言う事から始まった。
私の一つの質問に30~40分話すようなおしゃべりな人だった。
80年代から95年まで12回 丸山さんを囲んでお話を聞きました。
カセットテープにとって、96年8月15日にお亡くなりになり、安藤さんが中心になって録音した物を何とか活字にできないかと言う事で、97年4月に丸山手帳の創刊号を発行した。
年4回 足かけ17年間やってきた。   (丸山眞男手帖の会)
飯田泰三さん 丸山さんは本当に東洋政治思想史と言う講義をやられる時はほとんど徹夜で、講義案を取り組んで、朝出かけてゆくときに、靴を右左取り違えても判らなかったという様な話もある。

命日に副書の会  20世紀を生きた、第一次世界大戦、関東大震災、戦争の時代、ファシズムの時代、戦後の民主化、高度成長時代を誠実に生きた学者の考えた事、述べた事を次の世紀にバトンタッチしたいという事で、丸山さんのこと知っている方、読みこんでいる方に声をかけて、西暦2000年の8月15日から 昨年まで14回にわたって副書の集いを行ってきた。
第一回は丸山ゼミのゼミ生出身の朝日新聞の早野透さんと現代政治の思想と行動を編集された松本昌次さん、その後は作家の井上ひさしさん、ジャーナリストの筑紫哲也さん、評論家の加藤周一さん、沖縄県知事だった太田昌秀さん等を呼んでお願いした。
昨年は三谷 太一郎さん (東大名誉教授)
楽しそうに語る人が多い。 丸山さんに対する敬愛の念が現れてくることが非常によくわかった。

井上さんは創立当時から会員だった。
講演依頼をお願いするのに無理かなあと思ったが、二つ返事で対応してくださった。
癌を発症された後も、丸山ゼミ有志の会をやっている。 1995年 オウム真理教事件
私の青年時代のことを思い起こすと、日本中がオウム真理教だったと、自分が信じできることと、社会が全く違っていた、と述べられたあと、横につながりなさいと言って、人々が市民として横につながって社会を変える事も出来るし、豊かな社会を、お互いが活発にコミュニケーションをすることに依って、そういう社会を作って行けるという事で、横につながりなさいと言っている。
私の青年時代は一歩外に出れば、日本の外に出れば全然通じない理屈が、日本の中だけでは
堂々と通用して、それ以外の議論は全然耳にもしないし、問題にもしない、もしそれを問題にする人がいたら、つかまったり、非国民と言われたり、散々なものだった。
戦前戦後も日本の社会は同じ仲間だとだけ話す社会だと、それではいけない、いろんな分野のフラットな横の関係でつながっていかなければいけないとおっしゃった。

98年に出版された「自己内対話」 書き残したメモから選ばれたタイトルになった。
1943年の段階で、異質的なものと対決せよ。  
1945年11月 一人ひとりの人間が独立した人間になることだ。 NOと言える精神が必要。
1969年 残念ながら忙しい評論家、タレント教授ほどそそっかしい読み方をしたりする、むしろ本当の読者は大部分は無名な熱心な勉強家だと、そうしてそういう人々こそ本当に怖い読者だと言っている。
「在家仏教主義」、大学の教授が演壇上で説教するものでなく、一般の社会人になった一人ひとりの人間が専門なお坊さんではなく、それぞれの家でそれぞれの環境で、民主主義なり、理想を実現してゆく言葉だと理解している。
東京工業大学の上田紀行さんと、韓国理科女子大学のパクチュンソクさんをお招きして、3月22日に講演していただく。
”横につながる”、丸山眞男手帖の会で様々な地域の方々と知り合う事が出来たので、横につながる事で私たちの社会の何ほどかを変える事が出来たら、問題があったらどうやって考えてゆくかと言う事に、回答なり、回答の手がかりになるのではと思っている。























































 

2014年3月16日日曜日

井出 訓(放送大学教授)      ・認知症の人の「やりたいこと」を応援したい

井出 訓(NPO法人認知症フレンドシップクラブ理事・放送大学教授)
認知症の人の「やりたいこと」を応援したい

大学を卒業後、看護専門学校を経てアメリカの大学へ留学、高齢者の看護について研究を進めます。
帰国後北海道の大学で働き始めた井出さんは、家の中にこもりがちな認知症の人たちが安心して自分の趣味などを楽しめる環境を地域ぐるみで作ろうとNPO法人認知症フレンドシップクラブを設立しました。
認知症を理解して友達としてテニスやゴルフ等のスポーツや買い物などを共に楽しむ、フレンドシップサポーターの養成や派遣などを行っています。

今年で活動を始めて7年、札幌からスタートして全国で10箇所に事務局ができる。
認知症の方で、デーサービス、デーケア とかにいってそこでの活動が楽しめて居ればいいんですが、必ずしも楽しめて居ない状況がある。
デーサビスに行きたがらない、と言うと留守番をする事とになるが、椅子に座ってTVに向かってずーっといるので、何とかならないのかと思った。
昔やっていたゴルフなどを誘ったら、ゴルフを非常に楽しんでいた。
本人がやりたいことをできるだけで自然と笑顔が出てくる、それがやはり大切だと感じた。
認知症の方が、やりたいと思っていてもどう支援したらいいかわからない事もある。
認知症の知識を学んで一緒にできる活動をするボランティアを養成して、派遣する様なサポートする友だち、そういった様な活動です。

イギリスの看護師さんに出会って、一緒に食事をして、イギリスでやっている働きを聞く事が出来た。
クライブさんの為のケアプロジェクトとして立ち上がった。
若年の認知症で、軍人だった人、友だちもどういう風に接していいかわからず、家の中で閉じこもるような生活になっていった。
彼の行動が粗暴になって行って、向けられる先が奥さんになって、どうしたらいいか相談をして、或るときに一人のワーカーさんが一緒にプールに連れていった。
もともとアクティブな人だったので、プールで泳いで帰ってきたら、一日プールで好きなことをやって帰ってきただけで、今まで有った様な症状がスーッと無くなってきて、関わっていたチームの人は、自分のやりたいことができる環境が整っていることが認知症の人にとっては本当に大切な部分になっている事に気がついた。
やりたいことをサポート出来る様なサポートプロジェクトができた。

日本でも出来るのかと言うと介護保険ではサポートされない。
之をなんとか日本に持って帰ってきて、同じことができないか、北海道に帰ってきて、フレンドシップクラブを立ち上げた。
大学を一遍卒業してから、看護師を志した。 大学では社会福祉を勉強していた。
卒業論文を考えて居た時に、一冊の本を読んだ。   「死ぬ瞬間」エリザベスキューブラー・ロス
人が死んでゆく、人の死に興味を覚えた。
癌の告知を受けた人々にインタビューをしていて、自分が死んでゆく告知をされた時に、どういう風に考えるのか、自分が死んでゆく事に、受容できるのか、書かれている本で、自分は死んだことがないので、人はどういう風に死んでいくんだろうかとか、どういう風に考えるのだろうかと、興味をもった。
父親は牧師で、私もクリスチャンで、死に関する関心だったりしたのかもしれない。
日本に有ったホスピスの中の一つ、静岡県浜松の聖隷浜松病院」に看護助手のボランティアとして一カ月実習をさせていただいた。

死んでゆく方々をサポートするソーシャルワーカーになるためにはどんなことが必要なのか、考えられればいいなあと思った。
末期癌の人、看護師とかかわることで、看護師さんの働きが凄く羨ましく見えた。
看護師さんと亡くなってゆく癌患者さんとの距離が近いんです。
御家族も看護師さんに自分の想い、内面的なことを話したり、亡くなってゆく方の手を握って、お互いに涙したり、笑いあっていたり、なんでこんなに距離が近いのだろうと思った。
ソーシャルワーカーで実習したときにはそういう事はなかった。
自分のやりたいことはここにあるのではないかと思った。
一緒に辛さ、苦しみを共有してゆく様な看護に惹かれた。
当時は男子の看護師はほとんど無かった。 男子トイレもない状態だったので受け入れ体制が出来ていなかった。
都立のある専門学校は男子を受け入れていたので進むことになった。
親は諦めていたのではないか。

内科の病棟、看護師として患者さんの世話をするようになった。
30歳の時にアメリカの大学に留学する。
自分がホスピスで看護に関しての魅力を感じた想いと、自分が実際に看護師として内科の病棟で関わっている状況を見較べると、ギャップを感じた。
患者さんと近い距離にいて患者さんに寄り添う看護をしたいと思っていたが、実際は忙しくて、業務に追われていて、一体何しているのかなあ、と気がついて、もっと自分のやりたいことがあったはずだと悩み、疑問を感じ始めた。
相談をしたら、アメリカではもっと勉強すれば、自分のやりたいことをできるし、ドンドン上にあがってゆく事が出来ると言われた。
自分を打開したいと思ってアメリカに行く事になる。

大学に入った時は、授業についてゆく事が大変で語学で本当に苦労した。
どれだけ活発に意見を発言するかが、評価されるので、大変だった。
レポートで挽回するとかやっていた。  5年弱アメリカにいた。
修士課程、博士課程を修了して帰ってきた。
老年看護学  人の健康、患者のケア 老年の方を対象。
老いの中の生活を豊かに質の高い暮らしを送ってゆく為にどんな支援ができるのか、看護として考えてゆく。
認知症を専門にしていたわけではない。 
大学院では健康な方の記憶に関しての研究をしていた。
物忘れ予防教室  指さし確認   判っていても使わないと何の役にも立たない。
教室を開いたあとは元気になって帰ってゆくが、時間がたつと、無力にしてしまう様な環境だったり、状況が地域の中にあるのではないかと思う様になった。

何が人を無力にするのかと思ったら、無力にされるよう扱いを受けると、人は無力感を抱く。
帰ってゆく地域、社会を変えていかなければ、老いの捉え方を変えていかなければ、何をやっても高齢の方を元気付けても、同じ事になってしまうと思った。
クラブをサポートしてくれるメンバーを募集した。 月額150円メンバー費
メンバーズカードを見せれば、10%引き、コーヒー一杯無量とか、店を巻き込んで、ボランティアさんを派遣する様な、活動をする。
①地域の中にある個人のメンバー、②地域の中にある店 ③地域の中にあるフレンドシップクラブ
三つがそれぞれに三角形の頂点の様に位置付けて、地域に住んでいる認知症の人をサポートしてゆくシステムを作った。

サポート出来る人は色々違う。 大切なことは認知症の事を学んでいただいて、この人は認知症の人かなと気付けるようにすること。
認知症と判ると対応の仕方も変わってくる。
気付き、共感、行動に出れる様な人達を増やしてゆく、地域に増やしてゆく。
アンチエージング は歳を重ねてゆく事にあがらう事。 一日寝れば一日歳をとってゆく。
老いてゆく、介護が必要であり、寝た切りになり、皆死んでゆく。
霧に包まされているような気がする。 老いて行った先には当然介護してもらう人は沢山いる。
ピンピンころりはほんの一握り。
人間は老いてゆく、弱ってゆく、介護が必要になり、そして多くの人がそういう道をたどって死んでゆく。
三人に一人は、後何年で来るよと言われる様になって来ている。
認知症を持つ家族は、理解してくれている街で有れば、店にも入りやすいので、安心して入れるので、そういった地域を広げてゆければと思っている。

支援をする人、支援をされる人 力関係のなかにある。
支援をする人は支援をしない事も出来るが、支援される人は支援をされないと生きて行けないのでそこから逃げられない。
友だちの関係はそういうところから外れていると思うので、対等な関係で付き合う事の面白さ、横に寄り添う関係はいいなと思える。
一緒に単純なことを皆で楽しめる関係、そのポジションは好きなんだと思います。

































2014年3月15日土曜日

八幡隆司(ゆめ風基金理事)      ・阪神淡路から東日本被災障害者の支援を続けて

八幡隆司(NPO法人・ゆめ風基金理事) 阪神淡路から東日本被災障害者の支援を続けて
56歳。学生時代障害児と出会い、障害者を支える道を志しました。
障害者施設の現場を経て、平成7年阪神淡路大震災を機に被災した障害者を支援するための基金、夢風基金のたちあげを呼びかけました。
2011年3月に発生した東日本大震災でも、夢風基金のメンバーは各地の障害者団体と協力して、混乱する被災地で障害者を探し出し物資やボランティア派遣の拠点を各地に作って、支援の手を差し伸べてきました。
阪神淡路、東日本、二つの震災の救援の最前線に立って、障害者を取り巻く社会にどのような課題が見えたのか、その課題は改善されてきたのか、伺いました。

最初に入り込んだときには、県外ボランティアと一緒に一生懸命にあたっていたが、2年目では県外と、地元の人達をやとうと言う風に入れ替わり、3年目は地元の人達を中心にした支援活動に変遷している。
1年目の夏から変わっていないというか、瓦礫はどけたが、復興住宅もほとんど立っていない。
悲壮感が益す様な形になっている。
夢風基金からお金を出して、地元の人を雇用して、支援に当たるという仕組みを作っている。

大学で障害者の世界に勧誘を受けた。 「どんぐり」と言うグループ名
自閉症児の親の会をサポートする会だった。
大阪教育大学の中にあるサークルだが、実際は親御さんが会議の間、お子さんをお預かりして一緒に遊ぶような活動をやっていた。
地学を専攻して高校の先生になる予定だった。
有る一人の自閉症児の家庭教師になるが、あなたたち学生さんは卒業すると家の子達の事は忘れてしまうんでしょと言われて、ずンと来て、この道に入るきっかけになった。
姉が精神障害を発病して、入退院を繰り返す、又母が認知症だった。
子供が殺害される事件があり、母がその家にケーキを買っておいて行ったら、警官には犯人が戻ってきたと判断されて、TVの報道で母が犯人の様に報道された。
その時に教師よりも福祉の道へと決断する。(犯人は自首して来たので誤解は解けたが)

詰問されると誘導されてしまう事もあるので、判断力が厳しいので、人がついていないと犯人扱いされてしまう場合もある。
知的障害者が働く場に来ないかと言われて、就職を決めた。(大学を中退して)
主に企業からの内職仕事で、タオルを折るとか、段ボールをくりぬくとかの仕事、学習活動として買い物の訓練、陶芸などもやっていた。
就職に結びついた人もいる。 訓練と実際に社会に入って頑張るのとの違いを感じた。
自分たちでそのまま就職先を作ってしまおうと、障害者労働センターを設立した。(24歳の時)
色々やってゆくうちに、目鼻がついた。 
生活のサポートをしてゆく事も柱にした。
応援してくれていた議員が止める事になり、自分たち自身で議員を作ったらと言う事で、私に白羽の矢が立ってしまって、立候補して、31歳で市議会議員になった。
4期16年間やった。

地方主体の福祉から国の方に向いてやるようになってしまった事、現場を離れていたこともあり止めてしまった。
1995年阪神淡路大震災が起きる。 障害者救援本部を作った。
つぶれた障害者施設の支援、ヘルパーへの支援、食べるもの、着るものなどの必要な数を届ける支援などをやる。
震災が起きた時の障害者の悲惨さを目の当たりに見る。
いろんなニーズがこちらにやってきた。
夢風基金、 3~4カ月たった時に長続きしないといけないので、5年10年支援できる団体が必要だという事になり、立ち上げに加わった。
始めたのが6月、段々と著名人の呼びかけもあり、1年後ぐらいに寄付金などが集まってきた。
ボランティアにしても夏休みで終わってしまった様な状況だった。

基金は市民の皆さんのお金。 各個人の寄付金。 
10年間きちんきちんと振り込んで下さる方も多かった。
2011年東日本大震災 支援にも真っ先に出かける。 
阪神淡路と  障害者が避難所に来てないという事は全く変わらないという事はあるが、岩手などは福祉が遅れていて孤立した障害者も多い状況だった。
津波の被害と、直下型地震の違いはあり、障害者を発見するのに非常に苦労した。
街ごと無くなっているという事で、しんどいところだった。
知的障害者は障害者とは認識されていないという様な事もあって、受付にいっても障害者の事は判らないという様な状況にあった。
早い段階で各県で障害者支援センターを作ってもらったので、そこから中心にボランティアを派遣して、物資を届ける、最初は医療物資、次に車椅子、杖とか、物資を届ける事が3カ月ぐらいの中心と成る。

多動の子供、大きな声を出す、暴れ回る人は周りに迷惑をかけるので、人手を出して、体育館から出て一緒に過ごすようなことが必要だった。
安心して過ごせるような駆け込み寺みたいなものを5月の段階で作っている。
阪神淡路大震災の時は、障害者の居やすい場所を作ろうと、福祉避難所と言う言葉ができた。
公民館に障害者を集めたのが始まりだった。
東日本大震災では、帰るに帰れない様な状況になり、そのまま留まって、福祉避難所と言う様な形になった。
福祉避難所を二次的に開けますよと言う事でなくて、最初から福祉避難所が入れるようにしておかないと障害者が入りにくい状況にある。(バリアフリー、トイレなど含め)
心のバリアをどのように取り除くかと言う事が一番問題になってくる。
地域の学校、福祉センター いろんなところに場がないと難しい。(選択ができる事)

昔よりも障害者と社会の人とのかかわりが薄くなってしまったと思う。
有資格者しか障害者とかかわりが無くなってきてしまった様に思う。
普段からかかわりが必要だと思う。
近所の力を借りるという様な仕組み作りが必要だと思っている。
阪神淡路大震災の時は夢風基金他とあわせ、1億5000万円で2~3年を乗り切った
今回は1年目で3億円が出ていって、毎年1億円ぐらい投じないと行けないような状況にある。
機関紙をだして、読んでくださって、小さな寄付の集まりがすごいパワーになっている。
夢風基金も来年で20周年になる、新しい枠組みと継続のし無身作りで頭を痛めている。
日常の福祉をよくして行く事を大きな目標にしながら、普段の防災力をやりながら、災害にも役立つという事でやらさせていただいています。







































































2014年3月13日木曜日

いせひでこ(絵本作家)      ・3月11日からの絵描きの旅

いせひでこ(絵本作家)    3月11日からの絵描きの旅
「チェロの木」という絵本を完成する直前に、東日本大震災が起きました。
いせさんはその時点で作品のイメージが止まってし舞いました。
現地の様子を知ろうと夫で評論家の柳田邦男さんと被災地を取材して回りました。
その時に子供の現状に不安を感じ、木の実を赤ん坊にたとえ、木が育ってゆく様子を描いた木の赤ちゃん図と言う絵本を作りました。
そして福島県で外に出られない子供たちに手渡して読んでもらいました。
この3年間被災地に通い続けたいせさんは見える部分は解決しても見えない心の部分は決して解決していないと言います。
その心の葛藤を絵本にどう表現したのかなどを伺います。

世田谷文学館で私の原画展をやっていた。 そのど真ん中が3月11日だった。
長いこと温めていた構想があって、数枚本書きもやってみて、という状態だった。「チェロの木」
大震災に接して、絵本を書こうという様な発想はなかった。
以前孫のスケッチをしていたが、3月12日に預かった時には6か月の赤ん坊は4時間泣き続けていて、こんなことはなかった。
尋常ではない泣き方をしていた。  本能で何かを感じたのかもしれない。
落ち込んでいた時には、アトリエにいって絵を描いて自分を立ち直らせてきたが、そんなもんじゃないんですよ、絵が何の慰めにもならないという事があるんだろうかと思った。
TVの映像を見ていて、風景に色が無くなってしまった。
絵具も使えない、使いたい気力が出てこない、すごい焦るのだけれど、どうしようもなかった。

原画を見に来ていた人は、シーンとしてしていて、その絵向かい合って感動しているというのではなくて、その絵が今どういう意味があるか、絵を通して自分の心に問いかけている様な姿に見えた。(いままでの原画展とは全く違っていた)
3月11日の前に見た人とその後見に来た人の絵を見た時の感じ方が違っているようだった。
何かできないかなあと思った。
音楽家は被災地に入って言って、活動をしていたが、絵描きとして自分としてはどうしたらいいか判らなかった。
木の実があかちゃんのすがたになって、どういう未来に向かって、どこに生れてどこに育とうか、という物語ならばできるかもしれないと思ったのが、「木の赤ちゃん図」という絵本です。
ドングリとか、かえでとか20数種類を書いた。
未来に向かって生きて頂戴と、それだけ伝えたいと思った。
被災地に届けようと緊急出版した。
心に火がともってほしいと思ったのが、飯舘の子供たち全員に「木の赤ちゃん図」を持ってゆく。
秋になってからですが360数人、全員に持って行ったが、小学1年2年生に 黒板に皆でドングリの絵を描いて遊びながらやった。  喜んでもらえたと思う。

一人一人に葉書大の大きさの用紙にそれぞれ違うドングリとかを描いてメセージを渡した。
南相馬では幼稚園の子供たちに読み聞かせを私自身で行った。
子供たちがどんなに不安だったのかと、その時の子供たちの様子、言った言葉で自分自身判った。
描いたあとでいろんなことが感じる。
絵本作家としてのボランティア行為はこれだと、感じたのでは。
伝えるために描いた絵本 出版社も何百冊も寄付してくれた。
壊れた風景をどうやって再構築しようか、と言うのが私の大きな課題になった。
それまでは行きたいたいところにいって、スケッチしてそのモチーフを主人公にしてきたが、壊れた風景と、壊れた生活なので、私が感じたのは東北だけの問題ではなくて、この風景を日本中が知らなければいけなんだな、一緒に共有しなければいけないんだなという事が物凄く大きかった。
絵本作家として、「チェロの木」 木がチェロになって、どんな音を出すのか、どんな思いで育った木なのか、ストーリーを考えていたが、倒れた木、流された木だとか、他の風景が入ってきた。
壊れた風景の中からどうやって美しい風景を再構築をするかが物凄い課題になって、難しくなってしまった。
普遍的 が当てはまらない場所があるんだとそこに囚われてしまった。

チェロの木、おじいさんが育てた木を切って、お父さんが楽器に板にして長い時間かけて作って、子供が弾く事になるが、音楽の世界と森の世界を結び付けてゆく事になる絵本だが、
息子が楽器職人になると考えていたが、3.11以降にまっすぐ描けなくなってしまった。
この人だけ良ければ良いという風には描けなくなって仕舞った。
子供たちが未来をプレゼントしてもらえるような状況が一番大事なことのように思えた。
職人の子が職人になるで終わる、ではなくて、何万の未来を伝える人、チェロを教える人にした。
チェロで子供たちに教える先生に成りました、と言う事にした。
(無数の小さな未来を作りたかった) 2013年3月にでき上る。

「あれからずーっとチェロを弾いている。 木に宿った音を見つけ、父もぱバプロさんも今はもういない。チェロを弾いていると私の音の中に亡くなった2人はいるんだ。  
私は子供たちにチェロを教える道を選んだ。
父が作ってくれたチェロは今も艶も失わず、私の生徒たちの腕のなかで今も温かい音を出している。」(最後の部分)
大震災後、木を見る目も変わってきた。

記憶の始まりは5歳の頃、紙さえ与えておけば黙って描いていた子供だった。(2歳から描いていたらしい)
長田宏さんが絵本の原稿をくれた。
誰に何を、どうやったら絵に描けるかどうか判らなく成っていた。
5歳の頃のことがドンドン自分の中に出てきた。
5歳の私になって原風景を描いた。
宮城県わたり町の一本の木が私に語りかけてきた。
黒松 毎年行って描いている。 
最初はがんばっているんだから私を描いてと言っているようだった。
枯れていて、肌はガサガサになっているが、二本の枝が空を掴もうとしている。
下の方に沈みこんでいる枝が根っこになろうとしている様に見える。
この木がある限り、周りの復興はされていないと思う。
それを伝えるために木が私を待っていてくれると思う。













































2014年3月12日水曜日

一條玉枝(南相馬市・花店経営)   ・花屋さんは被災地の憩いの場

一條玉枝(南相馬市・花店経営) 花屋さんは被災地の憩いの場
被災の傷はまだ十分癒えたわけではありませんが、自らの力で立ち上がろうと知る人たちの姿が少しずつ見られる様になりました。
南相馬市で花屋を営む一條さんは、震災後、再建したこの店の切り盛りをしています。
一條さんはもともと、南相馬市の小高区で地域の人たちの憩いの場と成る花の店をひらいていました。
震災と、原発で避難を余儀なくされました。
その後夫婦二人して、放射能被害の少ない地域に移り住み、店を再開しましたが、去年の夏、一緒に店を手伝ってくれていた御主人を胃がんで亡くし、二重の打撃を受けました。
しかし、今ではその痛手に打ち勝ち、地域の人達にも支えられながらお店を開いています。

「森の花屋さん」という名前の店
まだ昔のお客さんが来てくれていて嬉しい。
お客さんの表情もいろいろ、それぞれいろんな面でストレスを抱えて居いる。
今の店の鹿島区は原発から30kmのところにある。 もともとは小高区でやっていた(17km)
前は山沿いにあったので、森ではないが木が多かったので「森の花屋さん」にした。
以前は温室があり、水を引いて滝があり、大きな水槽を作って、又モンステラを植えて幻のモンステラの実をお客さんに御馳走して、とってもジューシーだった。
なかなかこの辺ではならないが、露天風呂を作ろうかなあとか夢があったが全部亡くしました。
主人はシクラメンが好きで、こんなに手入れすれば、こんなに大きくなるんだと自慢していました。
主人は「玉枝ちゃん」お花屋さんやってくれないかと言われて、「いいよ」と言った。
それまでは務めに行っていた。   主人は水道工事屋さんだった。

去年の7月22日に亡くなりました。
癌だとは親には言わないでくれと言って、何も話さなかった。
手術して、翌日に兄弟に言った。
優しくてお客さんにも慕われました。
店自体はそんなではないが、一歩入ると驚き、なぜならどこにもない店を作ろうといったのが始まりで、おおきなおか炉 (いろり) 檜で作った大きなものがある。
お茶を飲めるようにして、真中に炭を置いて冬は餅をやいたり、おむすびを持って来た人がそこで焼いたりして、わたしも随分御馳走になりました。
ここに来るのが皆さん楽しみで、花を見て、買っていってくれたりした。
場所と雰囲気が良かった。
お店のなかにお風呂があった。 小さい子が一緒に入ろうと言って、そういう子もいた。
遠くからも結構来ていた。    温かいお店だったが、そこも消えてしまった。
主人は風呂に入って一杯飲むのが楽しみだった。

物凄い地震で、中にいてはいけないと思ってお客さんと一緒に外に出て、立っていられなかった。
母屋が大きく揺れているのが解ったし、地面が割れてゆくのが見えた。
揺れが収まったころお客さんには帰って貰った。
主人は外で仕事だったが、帰って来てくれた。
原発の汚染は知らなかったし、何の連絡もなかった。
主人の妹夫婦が来て、泊って郡山の方に逃げて行った。
1か月近く近所にいた祖母の面倒を見ていた。
周りはだれもいなくて、地域の人達の犬猫、牛などに餌をやったりしていた。
水道が破裂したりして、毎日のように小高区に行って直す作業していた。
ゆっくり休ませたいと思っても、なかなかできなかった。
その後、立ち入り禁止と言う事で、原町の仮設住宅に避難した。

私は辛くて、毎日毎日、花の仕入れ、バスの中で主人と寝泊りしていた。
鹿島観光協会の方からこちらの方に来ませんかとの話があり、土地を借りて店を建てました。
住まい半分、お店半分。  主人が活躍してくれた。
私にも内緒にしていたが、「どうして先生の名前を知っているの」と言ったら、お医者さんに行ってきたとの事で、まさか癌ではないでしょと冗談でいったら、癌だと言った。
信じられなくて、先生のところに行って、聞いたら悪性だと言われた。
奥さんには内緒にしてくれと言われたとの事。
奥さんも俺が具合が悪くなると、悪くなってしまう、俺と一心同体見たいに、怪我をするとお互いがけがをする。

具合が悪くなると、どっかが具合が悪くなる、本当に仲が良かった。
玉枝ちゃんも先生のところにいて、診察を受けてねと、先生にいつでも診察を受けてもらえるように言っておいたからね、といってあるからと言われたので行きました。
そうしたら私にも同じところに癌がありました、初期だったんですが。 私は良性でした。
私の癌を皆持ってってくれたんだと思いました。
怪我もそうですし、身体に支障があれがお互いが一緒なんですね。
3年前は店が無くなり、去年は夫が亡くなり、その2カ月後は私の母も亡くなり、振りまわされて、
がっくり来て、この人の後を追って死のうと思って、睡眠薬を飲もうとしたが、この人が亡くなる前に「玉枝ちゃん 俺は世界一幸せだったと、お前と一緒になれて本当に幸せだったよ、玉枝ちゃん 飯を一杯食べて、後を頼むからね」と(年寄り二人いるから後を頼むねと言う事だと思って)
私は心を入れ替えて頑張る様に成りました。

「俺は太く短く一生懸命生きたから大丈夫だよ」って、そういう人だから。
無念でした。
ここにきて、店を出して、一生懸命やっている姿を見て、「玉枝ちゃんだったら、やれるからね」と亡くなる前に言われた。
心を無駄にしないで頑張って行けるかなと、思うんですがとても辛いです。
あの人がいるから頑張ってこられたので、言葉を思い出しながら生きています。
日記を書いてくれた人だから全てが解る。
日記をみて、最後まで言わないでおこうと思ったが、医者の名前を言ってしまったので「玉枝ちゃん」には判ってしまった、と言うよな事が書かれていた。
知らないでいたら、とてもつらかった、女房として。

店も新しくなって1年になる。
知らない鹿島区でお世話になっているが、結構来てくださいます。
辛い思いをした人がたくさんいるのだと思って、そう思いながらいるが、辛いですね。
お客さんと出会って感動を頂いたり、喜びとかも頂いたり、励ましの言葉を頂いたり、やっていてよかったと思う。
お花を買ってくれたお客さんから「有難う」と言ってくれる、お客さんの声に励まされて毎日生きています。
































2014年3月11日火曜日

菅原文太(俳優)         ・ 大震災から3年 被災地東北への思い

菅原文太(俳優)          大震災から3年 被災地東北への思い
仙台市出身の俳優 少年時代の生活や被災地東北への想いを伺いました。
80歳 戦争中は宮城県北西部、現在の栗原市で疎開生活を経験しました。
戦後は新制の宮城県仙台一校を卒業して、早稲田大学に進み、その後映画俳優として、仁義なき戦いや、トラック野郎シリーズなどで活躍してきました。

宮城県栗原では昔は50~100cmの雪が降ってきていて、雪駄で学校に通っていた。
最近は若い人が仙台弁を使わなくなってしまって残念ですが。
東松島市は65%が浸水した。 宮城県の中で一番震災率が高い。
私は山育ちなので海は関係なかった。田んぼばっかりで、川が3本ある。
気仙沼の大島に一週間ぐらいキャンプに行ったことがある。
大雨でテントに入れなくて、農家の家に泊めてもらいたいと思ってその家にいき、70円で何日か泊めてもらった。
そこで馬を借りて、裸馬で大島中を回ったのが印象的だった。
船も借りて、沖に出ていって小さな島に上陸したりしていた。

築館中学 に通っていたが、全県下一斉の試験があり、志望校として一番が仙台一高だった。
先生はお前の実力では無理だと言われたが、むらむらと来て、仙台一高をうけたら、受かってしまった。
自主性を尊ぶ学校だった。 生徒の事に関しては一切関与しない様なやり方だった。
新聞部があり、全国で優勝したことがある。 私も入ったが、一回も文章を書いた事はなかった。
後輩は井上ひさしが一年下にいるが、一度も見た事がなかった。
当時は娯楽がなかった時代だったので、映画館に行っていた。 200円で3本立て。
しょっちゅう学校をさぼって見に行っていた。
どうしても東京に行くのなら、仕送りはできないと親から言われたが、東北大学を受けたが落第して、一浪して早稲田大学に行く事になる。

俳優になろうと言う様な気持は全然なかった。
喫茶店で仲間といたが、映画会社の人が来て、撮影所にきませんかと言われて、訪ねていったら監督に合わされて、映画やりませんかと言われて、いくらくれるのかと言ったら、少ないが1万円と言われた。
アルバイトで日給120~180円だったので、直ぐやりますと応じた。
今は山梨県の農業耕作放棄地代表?。  
いつまでも発展はないと思って、自分の食べ物は自分で賄わなければだめだと話しの中で説教した。
知事がそのあとに来て、御尤もです、ここで百姓をやって下さいよと言うんです。
せっかくなので、ここでやることにした。
(場所は宮城、福島など、探していたりしていたが、声が掛かりここになった)
無農薬でやっている。  
3年間は駄目だった。 綺麗な土になるのには5年ぐらいかかるよと言われた。
有機農業の連合体を作りましょうと、長野、静岡などの知事に会って話している。
売ることも一緒に考えている。

故郷が大震災の影響を受けて、 福島がどうしても最初に来る。
故郷は宮城県人だが東北全体は同じだと思っているから。
一人一人の市民として暮らしている皆さんにとっては、自分の家があとかたもなく無くなったり、大きな船が山の上にのっかったり、ビルが山の方に持って行かれたことがないので、実感としてないのが普通なのかもしれないけれど、日本という島の1/3から1/4が大きな被害を受けたわけで安閑としているわけにはいかない。
浪江町、双葉町とかいろいろな街に入って話をしたが、もう惨状というか、言葉がない。
復興のつち落ちが聞こえて居ればいいのだが、つち音なんか聞こえてこない。
直後にくらべれば、瓦礫も半分から1/3に減ったが、それ以外の惨状はほとんど手つかずで出来たのはコンクリートの堤防だけだ。
それで復興が始まったとか、ちゃんちゃらおかしいよね。



































2014年3月10日月曜日

江刺由紀子(読書ボランティア代表)  ・「読み聞かせ」で子どもの心を支えたい(2)

江刺由紀子(「おはなしころりん」代表)    「読み聞かせ」で子どもの心を支えたい(2)
お話ころりんが結成されてから8年経った頃、東日本大震災が発生した。
恐かった、吃驚した、体験したことのない揺れだった。
事務所は浸水50cm)ぐらいだった。
子供は中学校が山の方にあったので、学校にいた。
夫は市職員だったので、市役所に張りついていた状態だった。
母、祖母、叔母3人を見る事になった。
中学3年の娘たちは、中学生にできる事をボランティアでやっていた。
私は炊き出しもしました。 泥かき、整理もしました。
「読み聞かせ」で子ども達の顔は頭に浮かんで、どうしているか心配だった。
避難所で寝泊まりしているメンバーが何人もいるので、子供はどういう状態か調べたら、何もすることがないという事をあちこちで聞くので、手元にある絵本を持っていって、子供たちに話をしながら、絵本を楽しんでもらう様に避難所を回った。
最初が2週間後に廻り始めた。(自衛隊の力で道路も開通した)

「ころりん」が来たと子供たちが走ってきた。
家にある本で読み聞かせを開始した。   仮設住宅にも入っていった。
話が終わってもまとわりついてくる子がいて、僕はお父さんが亡くなって、お母さんは今市役所に行っていて、亡くなった父の書類手続きしに行って、いなくて一人だったんだと話をポロリとする。
駐車場までまとわりついて話をして、手を振ってくれた。
口下手で通っている子だったが、私に言いたかったんだと思った。
子供は物凄く不安定になっているが、普段以上にベターっとくっつけてくる子と、絵本なんか嫌いなんだと叫んでいたり、隅で隠れたり出てきたりする子もいた。
2カ月するとイベントとかもやるようなこともあったりして、無理に集めずにやるようになった。
絵本コーナー等も作ったが、子供がバタバタするので作るなと大人に言われたりしたこともあった。
避難所では子供が読んでほしいものを優先するようにした。

アンパンマンは人気があった、子供たちは大好きだった。
学校が再開されて、子供も落ち着きを取り戻し、本の力は子供の心や知識的な意欲を満たすものがあることを感じたので、本を子供の処に届ける活動をしようと思った。
民営の図書室を作ろうと思った。
子供たちが来るすべがないので、子供たちがいる場所に本を運べばいいとと思って、移動子供図書館事業につながっていった。
5月の初旬にがれきの中にあった中古屋さんが再開して、そのなかに一台を購入して、本を積んで小学校、仮設住宅などに行って本を貸し出したりした。
全国から寄せられた本を使わしてもらいました。
車は65万円だったので私が支払いました。
段ボールに本を入れて持っていくと子供たちは喜んで集まってくる。
11校を巡回して丸3年になります。  現在も続けている。 
お金がかかるのでどうしていくかなあと考えている。

NPOとして行きたいとは思っている。 事務力、会計処理が弱いと思っていて、私たちの力を付けてからでも遅くはないと思っている。(現在 任意団体)
いろんなところから助成を頂いている。
全国の皆さんから募金を募ろうと思っている。
事業は継続が必要なので、資金集めは頭の痛いところです。
大人の読み聞かせという形で、子供たちに携わる人を増やすとい事を事業化している。
たのしみ、生き甲斐がない、子供との接点がないという事で、繋がりを持ちたい。
子供の成長の手伝いをしませんかと言う事で、仮設住宅に入って読み聞かせ講座を去年から開いている。
前半は講座、後半はお茶を飲みながら、おしゃべりをしたりしている。
去年は、大人の参加が900人以上 子供が200人。
社会貢献してもらうために、図書館にも来て頂いて、読み聞かせをやってもらったりする。
高齢者の為でもあるし、子供たちの為にもなり、お互いの繋がりができる。

自分が支援される人になってみると、支援する人にもいろんな人がいて、それはいらないとか、それをすると反って私たちが弱くなってしまうとか、色々あって、地元の被災者にどのようなことをすればいいか、頭が痛くなるほど考えます。
生きる力を、私たちがサポートして引き出すのが、私たちの仕事だなあと思っているので、皆さんのバックアップをする。
それが私たちの読み聞かせだと思っている。
仮設を回っていて思うのですが、大人の方も本がほしいという人は多い。
昔読んだ本をよんで勇気付けられたとか、この本に良いことが書いてあったとよくおっしゃる。
やっぱり本はいいなあと、よく聞きます。
本から教わること、貰う事はいっぱいあると思いました。
目に見える復興に行くのは当たり前だが、やっぱり心を育てる様な活動、私にとっては読書ですが、必要だと思います。

震災を経験して落ち込んでしまってから、子供が段々大人になってゆくのではなく、あの経験があって辛い思いをしたけれども、いろんなことを知って、本も読んで、いろんな人の助けをもらって、地域の大人が頑張っているを見て、じゃあ頑張って行こうかなと、強い大人になっていってほしいので、社会教育も必要。
心の復興も必要、成果のデータが出ないけれども、評価するに十分な活動だと思っています。
困っている方が今何が一番必要なのか、に応じた事業を立ち上げて、被災地の人間が行う事で、私たち自身の心の立て直しにもなるので、一生懸命にやってゆくだけです。


























2014年3月9日日曜日

江刺由紀子(読書ボランティア代表)  ・「読み聞かせ」で子どもの心を支えたい

江刺由紀子(読書ボランティア「おはなしころりん」代表) 「読み聞かせ」で子どもの心を支えたい
1962年大船渡市の生まれ 10年以上アジアの国を中心とした国々で、大学で学んだり、ゲストハウスの経営や、ボランティア活動などを続けてきました。
現在は夫と二人の子供と一緒に大船渡市で暮らしながら、お話ころりんの代表を務めています。
お話ころりんは市の図書館主催の読書ボランティア養成講座の受講生有志で平成15年に結成しました。
会員はすべて女性たちで、当初の三倍の29人がいます。
江刺さんらは震災後、2週間から避難所巡回お話し会をはじめ、学校が再開してからは移動図書館などの活動を行っています。
子供たちにとっての読み聞かせの重要さ、グループのこれまでの活動などについて伺います。

大船渡線は一関から大船渡市までを走る路線、現在は中ほどの気仙沼までの運行です。
そこから先は代行バスのままです。   駅前に事務所がある。
蔵書は1万1000冊、 全国から送られた本 一人一冊運動、団体でまとめて送ってくれた本、図書館で送ってくれた本、このおかげで私たちは活動ができる。
さかり街は街の半分が浸水した。 
仮店舗で入っていた団体さんが自分たちのプレハブを建てるので、出たという事で直ぐに契約させてもらった。
2011年10月1日からスタートした。(2年半)  いろんなことがあり重い2年半だった。
現在は29名 24歳~81歳までの女性です。
読書ボランティアと言う事で読書推進の活動をするという事を目的にしているので、絵本の楽しさを共有しながら、皆が本を読んでもらう様に読書推進活動をしています。
絵本作家を呼んで年に一度やっている。
震災1年前は谷川俊太郎さんに来ていただいた。 宮地敏子先生との対談、読み聞かせなどをした。

今年は3月23日に国松えりか先生を大阪から来てもらって、絵本作る事を地元の子供としたいと思っている。
民話がたくさんあるが、気仙弁と共に亡くなりつつあるので、口伝等を残したいと思って、紙芝居にしようとして、原稿は私たち、絵の方は中学、高校生に描いてもらって、小学生、高齢者に読んでみたり、小学生、中学生自身が一般の人に読んで聞かせる様なこともやってきました。
毎年一回紙芝居を作ってきました。
実際に津波が来た日は、普通に昨日と同じような1日が続いていくだろうと思っていたが、夕方には別世界ですし、何が何だか分からない様な状態だった。
いつ何が起こるか判らないという体験でした。

山が好きだった。 日本の山を登ってみて、もっと高い山を見たいと思っていた。
ヒマラヤに行った。 現地の人に接して、もっといろんな社会を見てみたいと思って、リラックスできる環境を探しながら、世界中を歩いてしまった。
自分がしっかりしていれば、場所は関係ないと腹をくくってからインドに長くとどまろうとして、インドに腰を据えた。
いろいろなことをやったが、その中の一つにボランティア活動があり、お金を集めていくつかの施設にお分けしたりしていた。
両方がいて成り立つものなので、有難がる必要はなく、同じ立場で交流したかった。
心のキャッチボールがしたかったので、日本の歌を歌ったりした。
子供には日本の紙芝居、絵本を読んでみようと思った。
ページを読むたびに、意味が判らないないのに 「もこもこ」とか「パッチン」とかいって、一緒に喜んでいた。

紙芝居をヒンディー語にして読んだら、子供たちの表情、目が本当に嬉しそうにしていた。
交流して楽しかったが、子供の持つ生きる力を引き出すことができるのが、あの場だと思った。
日本に帰ってきても、この活動を始めた。
海外は20歳代から始まって、16年間 12年がインド 2年がトルコ、あとの2年が中近東、アジア、ヨーロッパ等をうろうろしていた。
私は地元の人に入ってゆくタイプで、どこの国でもありがたいとおもった。
トイレなど大変だった事はある。 ネパールの山奥で何もないところで、一皿のカレーを出されて、ハエが入っていると、その時に米を買うのに苦労して、野菜をどうやって手に入れて料理して、おもてなしの気持ちで出してくださっている。
だからと言って食べませんと言う気持ちは無く、ハエは横にどかして食べます。
寝どこで水玉の様に虫に食われたこともあるし、皆さんと共に一緒の環境を一番優先させた。

アジアは差別の激しいところではあるが、そこに入って言って、同化したいと思った。
ゲストハウスを管理して働いて、お金を貰っていた。
デリー大学で大学院で仏教学科に入っていた。
家が宗教に傾倒する家ではなかったが、宗教にかかわる人に興味があった。
チベット仏教などを勉強していました。
インドで結婚して、女の子の双子をインドで出産した。 
7歳までいて、その後に日本に帰ってくる。
子供たちは直ぐになじんでいった。 私が子供に残せるのは何にもないと思って、綺麗な正しい日本語を子供に残すことが私のできる事だというのを子供が出来る前から思っていた。
相手のことを「あんだ」とか「おめえ」 とかいうがうちの子は「あなた」と言うので、吸収力はあり使い分けている。

図書館に子供を連れていったら、読み聞かせをしている人がいて、講座があるという事もあり、平成15年の4月に帰ってきて、7月にはお話ころりんを立ち上げている。
8~10人程度でスタートした。
講座で一緒になったが、知らない人同士だったが、子供が聞いてて親しみやすい様に「おはなしころりん」とした。
同じ名前のものが10グループ程度有る事があとでわかった。
図書館で話をしたい、してほしいと、マッチングして、場を提供してもらった。
今は図書館、小学校、保育園等で、月に30回ぐらいやっている。
基本的には一人でやっている。 割り振りして行う。
団体の運営の仕方、読み聞かせの授業の仕方が判ってきた。
素直に心をこめて丁寧に子供と一緒に楽しむという気持ちがあれば、技術が無く読み聞かせはドンドンしてもらっていいと思う。(勉強会はするが)

子供たちが楽しむという環境にいつも気を配れば、コツになるんではないか。
深く楽しんでもらうためには、良い本でないと子供に面白さは伝わらないので、本選びには気を使う。
家庭での読み聞かせが一番だと思うが、それを補う形が集団での読み聞かせだと思っている。
読み手と聞き手、繋がりができてくるが、子供に絶対良いです。
震災後は特にそう思う、信頼関係が構築されていっているので、読み聞かせでしか会う事のない子と会っただけで、会うだけで嬉しい。
読み聞かせも、11年になりました。
読み聞かせをしている人にバトンタッチしている。
大きくなった人たちから、小学生のころに読み聞かせをしてくれたおばちゃんだと言ってくれて覚えていてくれて本当に嬉しいです。



































2014年3月8日土曜日

中村桂子(JT生命誌研究館館長)   ・ いのちはつながりの中に

*3月7日に高校卒業以来、ほぼ50年ぶりの高校の同窓会が行われました。
 24名が参加 最初会った時にはお互い同士が判らず、名前を言ってようやく納得する人、
 名前をいっても本当にそうなのと首をかしげる人、色々ありました。
 歳は取っても、話し始めるとまるでタイムスリップをした様に、昔話に花が咲き、酒も気持ち良く 喉を通ってゆき、楽しいひと時を過ごすことができました。


中村桂子(JT生命誌研究館館長)    いのちはつながりの中に
78歳  DNAの働きを知りたいと研究を続け、三菱化成生命科学研究所部長や早稲田大学教授など務め成果を上げる一方で、生命に対する科学にあり方に疑問を持ち新たに生命誌という新たな学問分野を提唱、1993年に生命誌研究館を立ち上げました。
生命誌とは生命の歴史物語と言う意味、命はつながりの中にあるという考え方です。

大学に入る時に女性教師だった先生に憧れていて、化学を選ぶ。
DNAが見つかって、二重らせん構造に吃驚した。
自分たちで二重らせん構造を作って、それが気にいってしまって、身体の中のことをやるといって、DNAの美しさに惹かれて、生物学の方に変わる。
生命誌 生命科学でDNAを調べてゆくのも面白いが、物で出来ている。
機械を見ているような感じにドンドン成ってしまう。
30歳代の初めに子供をうんだ。 女、と男の子 3歳違い。
見ているといろんなことがおきて、生き物の面白さを感じる。
取り扱う大腸菌と言うバクテリアで、しかもそれがどう動いているかわからない。
人間の事がそういう事から考えるということがあんまり考えられない、繋がらないなあと言う事がどんどん気になり始めた。

科学万博が1985年にあった。 1980年から準備を始める。
テーマが「科学技術と人間居住環境」だった。 40歳代の初めの頃だった。
コンセプトを考えなさいと言われた。
生物学でもクローンとかが、いわれ始めたころだった。
技術が進んだら、人間どうなってしまうのか、倫理で抑えなければいけないという事が段々言われ始めたころだった。
もっと本質的なもの、もっと生き物の事をきちっと考える事ではないかと思って、人間って生き物じゃないのかと思って、そういう答えを出そうと思った。
しかし5年間辛かった。5年間ではでなかった。あと1年間あれば答えが出る様な気がしたが、博覧会としては技術と倫理と言う形で進めていきましょうという事になる。
答えはもう1年待ってほしいといった。
出した答えが「生命誌研究館」という答えだった。

6年の間モヤモヤしていたものがぱっと晴れて自分が何をすればいいかが解った。
博物誌はある。 自然界の物語を歴史物語をつづって行きましょうという意味です。
「史」は本当に事実が並んでいるというだけで、バクテリアも蝶もみんな物語が書きたいから、生き物ドラマを描きたいと思って歴史の史ではなくて、「生命誌」とした。
生命誌研究館を作った。 夢を現実のものにできた。
生命誌絵巻 生き物が地球上に始めて現れたのが、多分38億年前ではないだろうか、そのころはバクテリアの様な小さな細胞だけだったと思う。
それが地球の海に中にいたと思われていて、38億年経って、数千万種と言われるいろんな生き物たちがいる。
扇を書いているが扇の要のところが38億年前の祖先の生き物、扇の天のところがいろんな生き物が書いてある。
全ての生き物が38億年前の生き物がいないと、いない。
そのことを書きたくて 扇の形に描いた。 人間もはじに書いたが、人間も38億年の歴史を他の生き物たちと共通に持っている仲間なんだと、そういう事実として、そうなんだと書きたい。

人間、生き物だというが 環境問題に関心を持って、生物多様性、生き物いろいろいるねと言う事も判っているが、人間も生き物と言う事も判っているが、生物多様性大切にしましょうというが、言い方が、扇を書くと、天の外の方に人間だけがいて、人間が多様性を人間が上から眺めて、生き物いろいろいるからすこし大事にしなくてはいけないね、というような様に思える。
皆仲間 扇なので要からの距離は同じ。
蟻の中にも38億年と言う時間が入っている。  
38億年という気の遠くなるような長い時間をかけてここにいるとしたら、とっても大事なので、いい加減に潰してはいけない。
そういう気持ちはどの生物を見ても言える。
蝶はさなぎからでてきて親になるが、長い命ではないので、親の蝶にとって大事なのは子孫を残すこと、でも蝶の幼虫はめちゃくちゃ偏食。
あげは蝶はミカンの仲間の葉しか食べない、もんしろ蝶だったら菜の花、キャベツなどしか食べない。

ミカンの葉に卵を産まないと育たない。  どうして判別するのか、飛んで来ると葉っぱを叩いて葉のなかにある成分が出てきて、足に毛が生えていて、(感覚毛)ここで葉っぱを磨ると出てきた成分が毛に触って、そこは細胞になっていて、脳にこの成分はなんだよと、伝わる構造がある。
ミカンの成分があるという事でそこに卵を産んでいるという事が解った。
蝶にある細胞と人間の舌の細胞と全く同じ。
祖先がおんなじだという事がドンドン判ってくる。

平安時代 1000年前 大納言の御姫様(虫めずる姫)は虫が大好きで、男の子に虫を集めてもらう。
毛虫が大好きだが、両親、侍女がうるさい。  蝶になったら綺麗ねと言うが、ああなったら儚い命で、むしろ本当に生きているというのはこっちの虫なのよ、これをよーく見ると生きていることの本質が判ると言っている。
本質を見れば、これは素晴らしいという事が判る。
科学は17世紀ヨーロッパでに生まれたが、11世紀のころに自然の本質を見て考えましょうと、本質を見たからどうなるかと言うと「めずる」 
本質を見て愛する気持ちを持てた姫がいるという事は、どの国よりも早い。
科学の本質は日本にあった、と生命誌の元祖と決めている。
社会全体が機械的になって、競争になって、差別、競争になってきてしまっている。
効率よく、大量に作るとか、生き物から見ていると合わない。

生きるという事を考えたら、時間、プロセス、生きている時間を大事にする、と言う事が、時間こそが大事だというのに時間をドンドンカットする様にしている。
生きにくくなってきていませんか?
いじめとかあるが、道徳と言うよりも、生きるという事を知れば解決すると思う。
小学校で英語、コンピューターを教えるが、大事なのは畑で農業をやる事の方が大事。
福島県喜多方がやりましょうという事になり、小学校に農業の時間割を入れてくれた。
最初は3校だったが、今は市の中の全部でやっている。
地域のお年寄りがそれぞれの小学校で活動している。
作文が凄い。 農業をやりたいとおもっていたが、大変だと思っていたが学校で一緒にやったら、すごく黙々とやる友だちがいて、学んだりして、本格的に農業をやりたいと思うようになる。
もうひとつ理由があり、やっていると人の笑顔がみられる、作ったものをあげると皆が笑顔になれる、農業は人の笑顔を作れるんだという事が解ったので、絶対に農業をやります、最後に学校は夢をくれました(農業家になろうとした夢)、と言う事でした。

原発のせいで苦労して作った米が出荷停止になるニュースを見ました、喜多方の米は安全でお
いしい、福島に来る人が増えるといいなあと米を作っていて思いました、 これも原発があったと社会科で教えるよりも自分で考える方が、この方が意味を考えたと思う。
お年寄りのところに自分たちの作ったものを赤飯にして配ったら、泣いて喜んでくれた、その時のことが心に残りました、と 。
道徳と言って教えるよりも、自分の中から出てくるんです。
農業をきちっと1年間系統的に教えるというこの農業科で、本当に子供の教育は素晴らしく、
生き物、自然を自分で学んでゆく。  生き物、自然は凄いと思う。

団子虫を一緒に親が楽しんであげられるかどうかが、分かれ道。
虫めずる姫がミュージカルになる。
楽譜(論文)は見ても判らないが演奏すると判る。 
伝えるのではなく、演奏する。 科学もそうありたいと思っている。
「生命研究館」 試みの場としてやっている。
東日本大震災の時に原子力発電所があった事は被害を大きくしている。
科学技術そのものをどうしようかと考えないで、放っておいてはいけない。
科学技術全体をもっともっと生き物に近くして、本当にいきいきと生きてゆくことを支えられる様な科学技術を作っていきたいなあと思います。
日本人は歴史を持っているし、能力を持っているし、いい場所にいるので、考えて世界に発信してゆく、こういう技術作りましょうと言ってゆく事が出来るのではないかと思う

漁業、農業の発言は、海はいろんなものを流してしまったが、海はやはり素晴らしいものなんだとおっしゃる、素晴らしいと思った。
3年経って、社会の動き、政治、経済の動き全体を見ると又違う方向に行ってしまうのではないかと、気になっている。
あの教訓を生かさないでどうするのかと、科学、科学技術にいる人が、生かさないといけないと思う、でもちょっとこの頃怪しいと気になっている。
20世紀はエネルギーを使ってきた、「機械と火」、21世紀は「生命と水」を活かしてゆく時代ではないかと思っている。









































2014年3月7日金曜日

リシャール・コラス(化粧品会社社長)  ・世界に伝えたい日本人のこころ根

リシャール・コラス(代表取締役社長 フランス化粧品会社)   世界に伝えたい日本人のこころ根
目立たないけど、きらりと光り輝き、読者の心を揺さぶる優れた作品に贈られる、赤いバラ大賞に、昨年の秋にリシャール・コラスさんの作品が選ばれました。
コラスさんは東日本大震災の被害に遭われた方々に、会社を挙げて支援し、フランスの方々に大津波の実態を伝えようと、波と言う小説を書きました。
コラスさんは母国では小説家として知られていますが、日本では化粧品メーカーの代表取締役社長を20年続けています。

日本に来てから40年近くなる。
顔だけではなくて、自分の考え方もそうなってしまいます。
日本に住むと考え方も変わってしまいす。
日本に来て1年ぐらいの時に、フランス人の神父さんにあって、60年間日本にいた人だった。
朝起きた時に鏡を見なさいと言われた、日本人より日本人になるように努力したら、お前の顔は違うんだよ、郷に入れば郷に従えで、 でも時々おい お前はフランス人だよと教えてくれる。
日本人以上に日本人らしくなりたいという若い人はいる。
日本人と接触して、深い文化に入ってもいいんだけど、どっかでいつもフランス人だと小さな声が、バランスを取った幸せな人生を送ることができた。
妻は日本人で5人の子供がいるが、日本語、フランス語、英語、イタリア語が飛び交う。

私はモロッコ育ち。(60年代) 
父は一つの文化を持つよりも多くの文化を持った方が人生は楽しいよと言っていた。(ブレンドした文化)
私は妻よりも日本文化を大切にしている(節分、五月人形、七夕 等など)
鎌倉に住んでいて、離れは畳の生活をしている。(浴衣、じんべい等着ている)
父が言っていた、そこ国の気候に一番合っているのは、その国の洋服だと。
モロッコのジャラバと言う着物は砂漠地帯での暑さ、夜の冷え込みに適応する。
父はパイロットだったが、映画を作っていた。 
カンヌのアマチュアフェスティバルがあり、2回ほど優勝している。
私は日本に来る予定はなく、ブラジルに行く予定だったが母から反対された。
父が日本の文化を見に行ったらと言われ、日本のカメラに興味もあったし、日本に行く事になる。
18歳の時だった。

日本人そのものに惹かれてしまった。
当時外国から見て、日本人は詰まらないと思った。 日本人は笑わない、表現しない、我慢して。
日本に来たら楽しい民族、飲む事、食べる事、歌う事、泣く事が好き。
だから、良い意味でのショックを受けた。  日本人はどうしても誤解されやすい。
モロッコからフランスに1年帰った時に、パリの人は凄く閉鎖的だと思った。
日本の文化は深い井戸見たいに潜るほど、面白くなる。
例えば茶道、やり始めるときりがない、その深さは切りがない。
始めたのが遅かったので後悔している。
日本の文化は皆そんなに深いと思う。

東日本大震災の時は飛行機の中だった。
ホテルについてTVを付けたら、大変なことだと思った。
日本にすこしでも恩返ししたいと思って、寄付をしたが、これだけで良いのかと疑問に思った。
被災地には40日後、気仙沼に行った。 ホテルには泊まれるようなところは無く、車の中で寝た。
ライフラインが丁度戻ったところで、風呂にはいれるようになった状態で、これからは人間の心を面倒を見てほしいと言われた。
避難所は女性ばかりで後は、子供、年寄りだった。
何ができるかと思うと、会社の関係から女性の面倒を見る事だった。
スマイルイン東北と言うプログラムを作って、年に数回、いまだに続いています。
仮設住宅で生活しなければならない人がいっぱいいるので、社員を30人ぐらい連れて行って
やっている。
彼女らは女性の化粧だけではなくて、人としゃべる事が上手。
心の中にある悲しみを隣りの人には同じような悲しみを持っているので話せないので、我々、彼女らに話してくれる。  
心の中にある重さがでて、話してくれるので笑顔になってくる。  彼女らにも逆に影響される。

私はフランスに帰ったら、原発ばっかり考えるようになった。 フランスは原発が多いので。
「波」と言う小説を書いた。 被災された方を聞いた事、私が見た事、事実です。
最初日本での出版はしないと思っていたが、パリに住んでいた日本人の若い女性が気仙沼出身の人で、お母さんを津波で亡くした人で、彼女に読んでもらって、彼女は日本人にもこれを証拠として残してほしいといわれた。
私の出版社が来て話してくれて私も日本で出版する事を納得した。
フランスでのタイトルは「田んぼの中の海」 反響があった。  印税は全て東北に寄付している。
小説は宗助達を通して、被災2週間後の気仙沼をドキュメンタリーで綴っている。
宗助のひいおばあちゃん(菊)は家族と一緒になって、彼の家では3月3日には必ずいろりを囲んでおばあちゃんの話がある。
その話は、ずーと以前、おばあちゃんが若かったころ、津波に襲われたその話をおばあちゃんがしてくれて、2011年3月3日にも話があって、3月11日に大震災が起きた。
この国を深く愛しているし、日本人大好きで、日本人には成れないけれども、日本人の心を理解しているとは今は思っている。 40年経ってやっと。

日本人は自分のことを低く見る。 
何故外人が、お前たちの文化は最高だよと言わなくてはならないのか、不思議です。
40年経って日本も変わってきているが、他の国と比べて、スローペースで変わってきている、いい意味でのずれがある。
「遥かなる航跡」 日本に来て直ぐに書いた小説で2006年に出版。
富士山に登ったり、香川の金毘羅さんにいったり、神戸の御屋敷、倉敷のいくち島でバスの中で知り合ったところに行って、一緒にいくち島近辺を見ながら恋をして、その光景を書いているのを読んで、日本人以上に日本人らしいと思った。(インタビュアー)
私は日本への抵抗感は何にもなかった。
小説の中に描かれている、日本に対する思い、繊細な心を持っている、生け花の心に引かれる、お茶、礼儀正しい、しとやか、いろんないい言葉が出てくる。

絆 建前だけになってしまった。 がれきはどこの県でも断った。
なんで同じ日本人でがれきなんていらないというのが、凄いショックだった。
建前は絆と言いながら本音は東北では東北の問題だと、だから「おもてなし」は言葉だけにならない様に注意してほしい。
「おもてなし」はあなたから、受けた、頂きました、私はあなたに「おもてなし」を上げているという事ではなくて、そこだけは気を付けてほしい。
「おもてなし」は自然的に出してほしいと思っている。
新たに小説を書いているが、鎌倉の畳の部屋の掘り炬燵のところで小説を書いている。
書いていて途中で、主人公がリードしてくれるので、そこは任せたい、そうなるまでにはちょっと時間がかかるが。

















































2014年3月6日木曜日

大山勝幸(カキ生産者合同会社代表)  ・ ”水産特区”での復興にかける

大山勝幸(カキ生産者合同会社代表)    ”水産特区”での復興にかける
東日本大震災から間もなく3年、震災で大きな打撃を受けた水産業を立て直そうと作られたのが水産業復興特区です。
これまで漁業共同組合に与えられてきた漁業権を、民間企業にも与えるもので、その第一号として、石巻市にある桃浦かき生産者合同会社に漁業権が与えられました。
会社の代表が大山勝幸さん67歳、大山さんはカキの養殖をしていましたが、津波で自宅やカキの養殖施設をながされました。
全てを失った中で大山さんはカキ養殖を再開しようと、特区の構想に仲間15人と共に手を挙げました。
水産業復興特区と言う新しい漁業の枠組みの中で牡蠣養殖をどのように再生させようとしているのか、その道のりはどこまで来ているのか伺いました。

1Fは加工場 最新設備を備えたものと思っている。
最終まで自分たちで手掛けないと、水産業は立ちいかないんじゃないと思った。
兄が漁業が嫌だというので私に回ってきた。(一度は就職したが父に迎えに来られた)
カキの価格が段々上がってきて、カキ養殖が段々増えてきて昭和50年代が一番多かった。
浜の活気は有った。   
仲買さんが高値で買ってくれて、カキはもうかると広がってカキ養殖に参入するという時代になった。  当然値段が下がってきた。
日本の人口がが減ってゆく中でこのままでいいのかと思う様になった。
10,11,12,1月 4か月がカキ剥きのフル生産  3月11日は外出する人が多かった。
津波が来ることは判っていたので直ぐ帰らないといけないと思って車に乗ったが、大渋滞をしていて、海岸沿いの道は津波で駄目との情報があり、内陸部の道を通って帰ろうと思った。   
桃浦に着いたのは夜11時になろうとしていた。
避難所に誘導されて一泊した。

夜が明けてから、自宅に帰ったが、想像を絶する光景で、言葉が出なかった。
私の家は下が鉄鋼だったが、住めるような状態ではなかった。
津波の高さは10~13mは有ったと思います。
65世帯中62世帯が被災、ほぼ全壊。  カキ養殖施設は浜に打ち上げられていた。
打ち上げられなかったのは海に団子状になっていた。
湾の中は防波堤が横倒しになって壊れていた。  養殖は完全に無理だと思った。
小学校で避難所生活を送ることになる。 最初は生きる事に必死だった。
海岸部の嫁さんは内陸部の人が多くて、家に行って米や野菜を集めてきたので3,4日分は食べる事が出来た。 
その後は支援物資が徐々に届く様になった。
道路は車が通れる様に人力、等で通れる様にした。
電気、水道が駄目で真っ暗でろうそくを集めるのも大変だった。 ガソリンがなくては行き来できないので、何とかガソリンの確保をやった。

日中作業して、汚れたままで寝なければいけなくて大変だった。
2ヶ月経ってから、これからどうしようかと考えるようになった。
がれきをかたずけたり、養殖資材を集めると日当が出るようになって、それらをやっていた。
養殖の再会の話はだれもしなかった。
魚協が再開するのしないのと聞きに来るが、漁港が破壊されていて、再開しないところは予算を付けないとの方針であることが聞こえてきて、話し合いのきっかけになった。
漁業をすれば予算がつくのかと言う事になり、資金、年齢等があり人数も少ないと再開は無理だという事になった。
TVが見られるようになり、水産業特区、民間会社のノウハウを取り入れて、復興するという道をひらくという事で国に働きかけたら国も認めたというニュースを見て、それもいいかなと思った。
中味が解らないとどうしようもないので、講演があるというので3人で聞きに行く事になる。

7人以上で会社を立ち上げないといけない、民間会社の支援を受けて、県も補助金を出す、漁業権も直接与える事が出来るというような内容だった。
これしかないなあと思った。
19人のカキ養殖がいたが、亡くなった人、廃業した人がいて、残った16人でいろんなことを話し合った。
従業員が、後継者が入ってくるような形にしないといけないと思って、生産、加工、販売、最後まで消費者に届けるような6次化産業でないといけないと思った。
推進派3割、疑問派3割、判らないという人3割という割合だった。
何かをやろうとするときには自分自信を知ることなので、自分たちにできる事は何かと思ったときにカキを作ることだと、販売は民間会社のノウハウは切っても切れないものだと思った。

民間の力を借りて、補助金も活用して、会社を立ち上げる事が大事なんだと思った。
自分たちだけでやっても給料の支払いの問題もあり、大事なのは人と人のつながりであり、民間の会社お願いしなければ永続的な経営はできないと話をした。
5月に話が出て、8月までには決めないといけないと思い、何とかまとまった。
(一人でやりたいという人が一人いて、それ以外はまとまった)
復興会を立ち上げる。 最終的に15人で行う事になる。
水産関係の卸をしている会社でノウハウはあるし関連会社が一杯あるのでふさわしいと思った。
我々の出資が450万円  民間会社の出資が440万円(議決権の関係上)

自分たちの会社なんだからというような意識に皆がなるには、ちょっと時間がかかった。
最初は赤字 なるべく早く水揚げしたいと思ってはいた。
今までは1月が出荷終了だったが、3月でも出荷する事になり、PRをしてもらって出荷した。
美味しいカキを出荷することが出来て、こんなおいしいカキを食べた事がないと電話が来て皆で喜んだ、
会社に漁業権があたえられたのは、昨年の9月だった。
一人前の会社として認められる手段かなと思った。
水揚げ額は少ないが、(以前の状態よりも3~4割)、
手ごたえはある。 出すと直ぐ買ってくれる。
復興は2~3割ですね。  いなくなった集落に人を取り戻すことが先ず第一。
きちんと会社が操業できるまでは頑張らなければいけないと思っている。



















2014年3月5日水曜日

阿部浩一(福島大学准教授)     ・福島の歴史・文化遺産を守りたい

阿部浩一(福島大学准教授)        福島の歴史・文化遺産を守りたい
昭和42年の東京都生まれ  1991年東京大学文学部卒業、大学院で博士号を取得しました。
専門は日本中世史 、国立や私立大学の非常勤講師を経て、2010年10月から福島大学に勤務し、文化史を担当、3年前の大震災の時には福島県内の文化財や歴史資料にも大きな被害が出ました。
特に福島第一原子力発電所の周辺の旧警戒区域では被害実態の調査にも困難が伴いました。
阿部さんは震災の翌月から、福島歴史資料保存ネットワークを通じて、市民ボランティアと共に、
被災した歴史資料の救出や、一時避難保管作業に取り組んできました。
去年2月には福島再生と歴史文化遺産と題してシンポジュームを開催して、情報の発信と共有、地域と密着した保全活動の紹介をしました。

卒業論文で伊達氏を取り上げたことがあり、2回ほど史跡などを見学したのが、縁になったのかなあと思います。
伊達は福島が発祥の地でした。
赴任後5カ月で大震災に遭遇した。
地震の時は福島駅のすぐ近くの公共施設にいた。  地鳴りのゴーっと言う音がした。
揺れが大きく来て、揺れがいつ落ちつくのかなあと思う様な状況だった。
歴史保存の仕事をしていたので、翌日に歴史資料館にいったが、しばらくはお手上げの状態だった。
大学の関係者とは電話が通じないので、メールでの連絡だった。

地域の中には歴史を伝える、古文書とか色々あるので、出来るだけ後世に伝えてゆくというのが目的です。
阪神淡路大震災の時から始まって、災害の発生と同時に全国に始まった。
2010年11月に福島資料保存ネットワークが出来た。
茨城、山形と一緒にやったりとかという形で県を越えてネットワークができ上った。
津波をかぶったものは、急ぎ洗浄、乾燥することが必要になる。
土蔵などが壊れてしまって、そのなかに古文書がある場合があるが、永年誇りをかぶったりしている場合があるのでクリーニングをする。
デジカメで一点一点撮影をする。  データとして残すようにしている。
目録を作る。  箱の中などに保管して、持ち主に返却する。

取り組み始めようとしていた段階だったので、連絡手段がなかったので、なかなか動けないような状況だった。
3月の終わりごろ、文化庁の文化財レスキュー事業が発表されて、国が支援に動く事が発表された。
地元の教育委員会が受け皿となるので、お願いに伺ったが、被災者支援などに回っていて、本来の文化財の業務にかかわっていただく人はほとんどいなかった。
4月から本格的に活動を始めました。
宮城、岩手の場合は沿岸部の博物館などが津波にやられて、大量の文化財が被害にあった。
国初め全国から支援があったが、福島の場合にはあまり津波の被害にはなかったので、博物館が丸ごと被災したという事はなかった。
福島資料ネットとしては、県と連絡を取り合って文化財の保全に携わった。
震災後、福島大学美島福島未来支援センターという新しい組織が出来て(2012年9月以降)、歴史資料保全活動を続けている。

深川市で文化財収納庫が土石流で被害に会う。 押し流された。
図面はクリーニングしなければならないので、それは国の専門家に依って行われた。
国見は福島大学と連携してやっている。
個人の土蔵が被害にあい、古文書とか歴史資料を出した。
旧警戒区域 今でもなかなか簡単には入ることができない。
震災直後はいったい何が起こって、どうなっているかという事が全く知る由がなかった。
博物館の資料を警戒区域の外に取りださなくては行けなくて、国の支援が入って搬出作業が始まった。(2012年9月ごろから)
白河に仮の保管場所があるが、そちらに運ぶのに、大量の博物館の資料があるので、多くの人手が必要になり、センター員、学生がボランティアで協力してもらって、一時保管の場所に搬出する事をやっている。(人出が足りない状況)
2013年3月文化庁から感謝状を頂く。

2013年2月 「福島再生と歴史文化遺産」と言うテーマでシンポジュームが行われる。
実態を広く知ってもらう必要があるので、情報を共有してもらいたいと思った。
企画にあたっては、比較的スムーズにできた。
5時間ぐらいのシンポジュームだった。
福島では歴史資料保存活動は始まったばかりなのでこれからだと思っている。
震災ミュージアムの設立は 関係者全員の想い。 
地域の人達を結ぶ、心の財産なので、専門の施設が欲しい。
民俗芸能を実演する場を作ったり、総合的に旧警戒区域で伝えられてきた文化、歴史を護り、後世に継承する施設が必要であろうと、動いている。
保存しておくだけでなくて、一般の人に見てもらえるようにしたい。

保存などではまだまだ不十分な状況。  
地元の皆さんの情報等は不可欠なので、地元の人が調査に同行してもらえるかどうかで調査の仕方は違ってくる、同行してもらえる方がスムーズに行える。
福島県は大学が少ないし、日本史の教員も少ないので福島大学が中心とならざるを得ない。
歴史に対する関心は高い、特に地元に対する関心は高い。
地元の皆さんが持っている歴史への関心と、歴史資料保全が大事だという事がなかなか結びついてこないという事がある。
若い世代の人たちにも興味、関心を持っていただきたいし、仲間に入っていただきたい。
福島県ではマスコミの目を引くような大発見は無かったが、茨木ですと、伊達正宗の書状が見つかったり、宮城県では伊達の有力の家臣の家に伝わる中世文書が大量に出てきたりとか、調査の手が入った事に依って見つかったもの。
そのほかにも、把握していなかったような資料がたくさん出てくる。

不幸にして、震災をきっかけにして歴史保全活動が本格化してきたと思う。
3年経って、歴史、文化に目を向けていかないといけない時期だと思うし、時間的にはかなり厳しいじゃないかと思う。
民族芸能の問題、それを支えていた人達がかなりばらばらになっていて、継承の担い手、努力を始めていかないと失われてしまうという危険もある。
地元にはこういう歴史文化があってと言う事が恐らく心の支えになっていくのではないかと思う。
本を通じて福島の復旧復興がまだ全然終わってないんだという事をこれからまだまだやって行かなくてはいけない。
①震災ミュージアムを是非実現できるように微力ながら、努力してゆきたいと思っている。
②地元で歴史資料保全活動をどういう形で実を結んでゆくか、福島大学美島福島未来支援センターを核、拠点として、地域の皆さんにもかかわっていただけるような拠点として作り上げてゆきたいと思っている。

























2014年3月4日火曜日

大滝博子(創作人形作家)     ・人形に託した 復興へのこころ

大滝博子(創作人形作家)      人形に託した 復興へのこころ
山形市で農村の生活や姿を人形として製作している大滝さんは、(57歳)3年前の東日本大震災で親戚や友人の多くが被害に苦しんでいる姿を見て、心だけでも寄り添っていたいと、絆、命をテーマに16体の人形を作りました。
この人形は3・11を忘れないメッセージを持っていると、山形県天童市、商工会女性部の仲間が東北6県の商工会に声をかけ復興支援の展覧会を開きました。
反響は徐々に広まり、東北、関東、全国へと広がりました。
粘土とちりめんなどの古い布で人間の表情を醸し出している、30cm前後の人形は、添えられた大滝さんの詩と共に、深い感動を与えています。

かすり袢纏 作業するときに着ている。

おっぱいの奥のずー遠くから、キューっとこみあげてくる どんなに離れていても、 お前が腹をすかせている事も かーちゃん かーちゃん 呼んでいる事も かーちゃんのお乳は何でもわかるんだ  おまえのかーちゃんだから 判るんだ  いつでもどこにても判るんだよ。

家族全員で畑に行っていた。  
お乳が張ってくると中から何となく、おなかすかせているんだ、青の子はと判るんです。  
そうすると泣いているんです。 女性しかわからない本能だと思います。
 
父ちゃんが泣いた日
畳の上であたりかまわず泣きじゃくっているお父さんの姿を異業に作っている。

父ちゃんが泣いた日、皆が泣いた。 悲しすぎて、悲しすぎて涙も出てこない。
心も体も泣き過ぎて、涙さえも出て来ない。

被災地の皆の事を考えると、何となく胸が詰まってしまって。
人形作り始めたのは 結婚して出産して直ぐなんです。
子供におもちゃに作ってあげたいとの思いからはじまった。 
小さいころから絵を描くのが好きだった。
作るのが面白くなってはまっていった。
中学校の時、スカートを提出しなくては行けなくて、親に作ってもらって持って行ったが、先生から駄目だといわれて、何度もやり直して完成したときには、あなだらけ、真黒になったが、先生が褒めてくれて、その時、達成感、自信から喜び、通信簿も3から4に上がって凄くうれしかった。
嫁いだところの義理の母から、走ることと歌う事は好きかと言われて、歌は物凄く大好きだったが、口は濁した。
舅に気にいってもらう様な嫁になりたいと思って、一生懸命 作ることに努力した。
それが手作りのきっかけ、人形、おもちゃを作ってあげたい というきっかけでした。

実家は祖父母が一代で築き上げた果樹園だった。
朝は5時起きで、夜は11時半まで仕事をするような忙しい家庭だった。
祖父母の介護をするようになり、母はよくやっているなあと子供心に思った。
忙しい時には私も学校を休んで仕事を手伝った。
忙しすぎて家族が段々バラバラな気持ちになって言って、喧嘩をするようになって、父より子供
の方を向く様になった。
気付いたら、私の人生のレールの先々を引いてくれていた。
それに対して私は、嫌だと思いつつ親のレールがあると楽なんです。
私は学校、結婚を親のレールに乗ってきた。
大滝家に嫁いだら、実家とは反対でゆったりしていて、義母との出会いは、若い時に何にもできなかったことが、義母と生活をすることによって、自分が持てるようになって自信がついて強くなった。

義母ははっきりものを言ってくれて、思いやりのある言葉だった。
義母と何でも話せるようになった。
のー天気さなれ、そうするとしあわせになれるから と義母からは言われた。

人形作りは独学だった。 試行錯誤で始めた。 
独学だと斬新なものができるのでよかったと思う。
子供が小さい頃は、内職、パートをして、デパートとかに人形の販売もしたりした。
それを25年間やってきた。 かわいくないと売れなかった。
綺麗でないと駄目で、笑顔でないと駄目だった。
売れるのもいいけど、自分の手元に何も残らないといわれて、しっかりといい人形を作って公募展があるから挑戦してみたらいいんじゃないかと言われた。
趣味から、作家になるきっかけだった。
自分の為に頑張ってみようと思った。  46歳の時だった。
思いきった販売は捨てて真剣に人形に向き合った。

テーマが決まらなくて、温泉に行ったら、夫と義母が階段を昇る姿が綺麗に見えてこれだと思った。
それで人形を作ったら新人賞に選ばれた。 2007年日本手工芸展 新人賞
タイトル「偉大なちっちゃなちっちゃな母ちゃん」

「母ちゃん おれ いまもおぼえったよ 母ちゃんのおおきな背中  そうっと耳で触ると感じた。
ふわふわのぬくもり あーこの匂い 母ちゃんのにおい 母ちゃん きこえっか
俺の背中が言ってるぜ あー懐かしい   母ちゃん 有難う。」

その時一番喜んでくれたのが義父で、その時には末期癌だったんです。
今から良い人形を一杯作れと言ってくれて、その3日後に亡くなった。
2009年 第3回アートJクラフト展2009 で  「命ありがとう」が人形部門グランプリ受賞に選ばれた。
7人家族で構成されている。 父が抱っこしている赤ちゃんがいて、子の赤ちゃんが私です。
父は男の方が欲しかったが、私が生まれてがっかりしている事を周りから聞いて、父を無視するようになっていたが、嫁ぐ時も有難うの一言も言わなかった。
私が女の子を生んで、実家に連れて帰ったら、抱いて父が喜んで、女の子に生まれてきてよかった、幸せになるんだよといったので、私は誤解していたと思って、その時の情景を人形に作った。

「お父さん お母さん おじいちゃん おばあちゃん 皆がいるから私がいるんだね 
生れてきてよかったよ  命有難う。」
これを見た14歳の子とお母さんからのメッセージがあった。
「感動しました。 ぼくも母からもらった命を大切にしていたいし、生んだことは後悔させない様に生きていきたいと思います」 14歳 男
「この息子の言葉を貰い、思いっきり感動しました。 有難うございます」 14歳男の母
本当の幸せは当たり前の中にあるのかなあと、感謝の言葉をいえる人が幸せになれるのかなあと思えました。

始めて被災地の映像を見た時には、どこの国のと思うほど、信じられなかった。
16人の人形を作らなければならないと思った。
人形は人の代わりになるんだよと祖母から言われていた。
ただただ皆が無事で有るようにと作った。
出来るだけ心を寄り添いたいと、私も睡眠時間を削って、食事を切りつめて、同じ体験を作って、心だけでもと、それでなくてもそれの人形の意味がないと思った。
人形が出来て、段々見るのが辛くなっていった、いろんな思いがあり泣いて作ったものですから。
皆の悲しみはどれだけ私は判っているのだろうと、自問自答した。
3・11を忘れない様に、この人形たちは生れて来たんだろうなあと、初めて判った。

山形県天童市、商工会女性部の仲間がこの人形を見て、この人形で絵ハガキを作って、義援金にしようと動いてくれた。
次々に広がって言って、被災地の方々がこの人形に会いたいと来て下さった。
この16人の人形は私たちの代弁者だと言ってくれた。
悲しい時、辛い時はいっぱい泣けばいいといわれた、明日からまた元気が出ると言ってくださった。
被災県でも次々に出たが、具体的な話になると、「家族」がテーマなので、被災地の皆さんに悲しい思いを思い出させるのではないかと、立ち消えの方が多かった。
震災1年半後、岩手県一関 気仙沼の仮設住宅がいっぱいある処。
160体の人形展をしてくださった。
初日に、ある人が人形の前で泣いていました。 こんな人形作って御免といって、一緒に泣いて、抱きしめるしかなかった。
次の日に仮設住宅の友達を連れてきてくださって、又次の日はそのまた友達を連れてきてくださった。  
沢山のメッセージを貰った。
「私は気仙沼の仮設で生活しています。とってもいい人形展でした。震災で夫も亡くなり、実家の母や叔父叔母と6名が行方不明で、4人が見つかりましたが、、まだ2人は見つかっていません。早く家族のところに戻ってくるように祈っています。 心が和みました 有難うございます。」

この人形が少しでも役立ったのかなあと、涙しか出ませんでした。






















2014年3月3日月曜日

豊沢幸四郎(りあすの森 事務局長) ・世界一幸せな村づくりをめざして

豊沢幸四郎(NPO法人・りあすの森 事務局長)      世界一幸せな村づくりをめざして
東京で大手企業のサラリーマンだった豊沢さんが、現代のお金社会に嫌気がさして、会社を辞めた時に東日本大震災が起きました。
豊沢さんは直ぐに石巻市にボランティアとして出掛けて1年後の時に、NPO法人の立ち上げに参加しました。
そこで地域の活性化や、子供たちの世話をしているうちに、自分の天職を見つけた気がすると言う豊沢さん、石巻で世界一幸せな村作りを目指す 豊沢さんにどんな気持ちで村作りに参加しているのか、伺います。

震災が起きる前に26年間勤めた会社を卒業することが決まっていた。
震災が起きて、ボランティアに行かなければいけないと思って、最初に行ったのが石巻のボランティアで、1週間ほど行った。
今の社会の矛盾、うつ病になったり、神経を病んだりとかを見ていて、おかしいなあと思っていて、自分でそういう社会を変えられないかなあと思っていて、社会に貢献できればと思って、社会貢献的な活動をしていこうと思って会社を辞めた。
最初、水につかった家の中とか、どぶさらいとか、泥かきですね。
NPOを立ち上げようとしているところで、募集をしているので、それのお手伝いをした。
2011年暮れに話があり、2012年正月から石巻に入って立ち上げる準備を始めました。

子供、高学年になる前は素直に接するので、価値観とか、いろんな見方ができる様な、可能性を広げてあげるような教育ができればと思って、考えていた。
組織の中でいろんな矛盾がある中で、自分で物事を考えて、次に何をしようかと言う事ができにくい人が増えてきた、と思った。
駄目駄目教育 マニュアル教育 そこから変わらないと人は変わらないと思う。
人が変わらないと社会は変わらないので。
教育の場としては、自然の中がいいと思っていて、北上川の河口域の 海があり、山があり、川がある 場所に出会ってしまった。
自宅は東京にあり、家族はそこで生活している。
月1回~2カ月に1回 自宅に帰ってくる。(単身赴任です)

妻からはやりたいことをやったらいいのではないかとの事で反対はされなかった。
子供は高校1年生の女の子が一人いる。
収入が厳しいが、復興作業の仕事を請け負いながら、収入を確保している。
石巻では食事とかもお世話になったりして、それほど生活するためのお金はかからない。
実家が農家で長男だが戻る気持ちもない。
防潮堤とかできてきているが、先ずは逃げれる場所を確保した方がいいと、おおくの人が言っている。 避難路が一番だなあと。
五感は表現できるが、かっこいいとか、綺麗、美しい、怖いとかは 感覚。
六感を磨いておかないとリスク管理はできないと思っている。
地方の方は自然と遊んでいないかもしれない。
子供の数が減っているので、皆が集まって遊ぶという事が少ない。
TV、ゲーム、DVDとかで一人で遊ぶ。
子供が遊ぶ姿があまり見掛けなかった。(震災のこともあるかもしれないが)

NPO「りあすの森」  リアス式海岸の森  スロー&スモールの考え方を取り入れている。
教育、産業、環境に優しい社会を目指している。 村を単位に、行政区は意識していない。
大きくなりすぎると、人に頼ろうろするので縦割りになり、小さい方が自主的に支えられると思う。
里山に 環境学校 野口健さんがやっていて、環境系の活動をしている登山家。
我々の活動の実績にもなり、地元にアピールできる。
田植え、稲刈りしたり、都会と田舎の子が交流できる場所になれればいいなあと思う。
今後は過疎化、高齢化していくところで、耕作放棄地、荷ない手がいない第一産業とか出てくるので、逆に東京では行き詰まっている人たちを呼び込んで研修したり、ボランティアで、そういう人たちを集められるプログラムを「りあすの森」では、用意して地元にも貢献するし、外からも入りやすい様なことを今後はやっていければと思っている。

都会の人は自然の中でストレスを解放するし、段取り、気配りが良くなったりするので。
長い目で見ると、子供たちが田舎が好きになってもらいたい。
場所、空間が空いてくるので、そういうものを活用して、そこで生活する様な形になってもらえればなあと、外から人を呼んだりしないといけないので、足りない部分は皆で支え合いながらやらないといけない。(何十年掛かるかわからないが、日本の一番日本らしさがあると思う)
都市はどこにでも作れると思うので。
空間が出来ているので、新しいことを始められると思う。
最近の社会は親と子供が近くにいすぎるように感じる、密接感あり過ぎる、社会はあまり関与しない。
昔は周りの人が子供に関与していた。
社会が子供を育てるようにならないと良い社会にはならないと思います。
試行錯誤しながらやっている。 仮設住宅の子供とか、学校の子供と接するように作っている。
地元の人達のやる気と都会のニーズをあわせられればと、思っている。
動物との接触、馬は感情的な動物なので、人間側もちゃんと接しないといけない。
ホースセラピー  馬は正直なので、人間は欲望が深いので、色々あるとは思う。
北上川河口域によしわらがあり、環境の保護活動の啓もうするための材料と人を呼ぶ観光産業としての意味も含めて、地域を活性化できないかという活動もしている。
よし刈り、よしわらのがれき除去とかボランティア 年2回 100人ぐらい集まってやっている。

地元の人には特別な自然観がないので、自然と共に暮らすのは年配の人達は詳しいので、そういう人たちを中心に子供たち、地元の子供たちを入れて、自然の中で田植えをしたり、いも掘りをやったり、輪を広げられればと思っている。
食育も大事かなあと思っている。  
地元の仮設住宅に子供会ができたり、年配の人と話しながら、やったりしている。
支え合う感じ、交流しながらた助け合ってゆくコミュニティーができればと思う。
拠点を作る、そこから始まってゆくのではないかと思う。
笑顔になってくれることが肥やしなので、それを食べていければいいと思っている。
今の社会と闘いつつ、相反する事をしているので、厳しいけれど。
便利とか、お金が大事とか、ではなくて  心を通じ合う、コミュニケーションとか、おもてなしとか、前の段階を大事にして行かなくてはいけないと思う。

おもてなし、思いやりは、手間だと、手間をかけている。
直接的な価値観ではない物が見えてくると思う。
そういうものを体験できたり触れ合ったりすることが日本には一杯あって、そういったところで体験したりすると良いと思う。
今後は田舎と都会の交流ができる、田舎暮らしをしたい人、一次産業をしたい人達が入りやすい様な環境を作って行って、人と人との交流を田舎の中で、加速していきたいと考えている。
過疎化、高齢化している年配と都会の子供たちが、交流できる場所として里山を活用したキャンプ、イベントを増やして、いろんな人が集まれる場所を作りたい。

















































2014年3月2日日曜日

上中別府チエ(83歳)       ・卒業・野球も頑張った83歳の女子高生

上中別府チエ(83歳の元・女子高生球児)  卒業・野球も頑張った83歳の女子高生
川崎市立高津高校の定時制で、書道部と華道部のほかに、担任で野球部の監督の中島監督の勧めで野球部にも所属しました。
去年6月全国高校定時制、通信制軟式野球大会の神奈川県予選に出場してスタンドから大きな拍手を受けました。
上中別府さんは鹿児島県の農家に生まれ15歳で終戦をむかえました。
24歳で結婚し、現在子供が二人、孫が五人、ひ孫が四人います。
10年前に夫が亡くなり、娘さんから、少しは外に出てみたらと言われたのがきっかけで、76歳で夜間中学79歳で定時制高校に進みました。
高校生の中にいると、自分の年齢を忘れてしまい、夢中になってがんばってしまうというチエさん、多くの人に支えられて、大変に良い思い出ができたと話しています。
チエさんは3月1日に卒業式を迎えました。
高校生活や野球の活躍について伺います。

卒業が、これからいけなくなると思うと、寂しくていやだった。
今83歳、病気はしないので元気です。
受験したときにこの学校は、授業中寝転んだり、歌を歌っている人がいるので、大丈夫ですかと言われたが、入ってみると皆おとなしかった。(おとなしすぎる人もあった)
ある程度しゃべる様にして、コミュニケーションを取り、、仲よくなった。
親にも言えない様なことも言ってくれる様になる。
高校生活は私にしては何もかも新鮮だった。  周りは孫よりも小さい。
勉強は判らないところは女の人たちに聞くし、向こうも判らないところは聞いてくるし、楽しかった。
男の方は、なんていうか、かわいいですね。  男の子の方が色々聞いてきた。
高校時代、書道部、華道部に入っていた。  
野球は父がいるころから好きだった。 クラスに野球部の人が何人かいた。
パンを作って差し入れをしていたが、野球を見に来てくれと言われて、決勝を見に行く事にしたが、息子の嫁さんが病気になり、決勝を見に行くことができなくて、やぶれて仕舞った。
その後、中島先生が野球部に入らないかと、誘いがあった。
出来る訳ないと、言ったが先生がどうしても入ってほしいという。
どうしてもチームの為に入ってくれと言われて、ついにはいる様に決めた。
2012年10月25日のプロ野球のドラフト会議の日にあわせて入った。  (3年生の時)

ボールを拾ったりトンボをひいたりしていたが、皆が本当に優しく、みんな良い子で、楽しかった。
チームの潤滑油としていてほしいとの先生の想いであった、のではないかと思う。
やっていると出る事があるかもしれないと脅かされた。
1回戦の時、11対1の時に、9回レフトの守備を頼まれた。 
頭のなかでいろんななことがグルグル回った。
ボールが飛んでこなくてよかった。
昨日の試合でドキドキして3歳縮んでしまったと、先生に話した。

決勝に出る機会があった。  ピンチの時があり監督の伝令として私が走って行った。
「いつもの通り、落ちついていこうよ」 ピッチャーのお尻をポンポンとたたいた。
ひきつっていた皆がにこっと笑ってくれて普通の顔になって、役に立ったのかなと言う気がした。
試合は残念だが負れてしまった。
皆座り込んで悔し涙で泣いていたので、ピッチャーとキャッチャーのところに行って、「良い人生経験だったと思うよ」と言って、「さあ行こう」と、引き揚げてきた。
輪になって、一言ずついう事になったが、皆がしゃべれなかったので私から言いますと、
「敗れはしたけれど、でも敗れる気のしない本当にいいチームだったから、私はこのチームは日本一だと思っているくらい良いチームだった。皆いい人たちばっかりだし、
二位になることもあるから、今後の為に皆さんも就学するでも進学するでも、これを糧にがんばってください」と言った。

昭和5年生まれ 鹿児島の農家 学校に入ったころからそろばんがあったり、いろいろあったが、戦争になって、5、6年の時には竹槍の練習とか、家が燃えた時のバケツリレーの練習とか、だった。
15歳で終戦、貧しい時代だった、冬でも裸足で学校に行っていた。
6年の上に2年あり、その時が15歳で、女学校に行きたかった。(姉は行っていたので)
行けるような状況ではないので、父親に言えなかった。
弟、妹がいたので、ご飯を食べさせて弁当を作ってやり、一番下の子は蓆の上に置いて、姉等と学校に行っていた。
学校から帰ってくると、お風呂に水を入れたり、夕ご飯を作ったりしていた。
24歳で結婚(昭和29年)、 結婚8年後に東京に転勤する。 子供は二人いた。
子供が中学に入った時に、英語が始まった。 その時にもう負けた気がして、ドキッとした。
是はいけないと思って、本屋さんに行って英語の本を買ってきて勉強した。
どうやって書いたらいいかもわからず、一生懸命やったが駄目で、しばらく遠ざかっていた。
主人が亡くなり、英語の勉強をしようと70歳なかばで始めようとした。
でも私の頭の中では判らなかった。
落ち込んでしまって仏壇の前でお経ばっかり読んでいた。
娘がそういう事ばっかりしていてはいけないんじゃないのと言うので、英語の勉強をしようと思い、役所に行って中学校の夜間部があることが判り、電話して入学が決まった。

全部初めてのものばっかり、英語、数学。 
中学3年になって、中途半端だと思って、高校受験した。 面接の時に、入れる自信はあった。
2010年 79歳で高校生になる。  
自分で歳だ、歳だとは思わなかった。 門を入ると歳のことを考えない。
後から聞くといつまで続くのだろうと、周りは思っていたらしい。
難しくなるけれど、聞いた事のない地球、月、星を聞いて楽しくてしょうがなかった。
地図を教えてもらうと、それもカレンダーの後ろに世界地図を描きこんだ。
復習をやらないとついてはいけないので。
勉強を11時ぐらいから始めて1時ぐらいまでやる。
娘からまだやっているの、身体に良くないんじゃないのと、言われる。
娘が心配して部屋に見に来るので足音がすると、寝た振りをして、娘の目をかわしたりした。

中島先生の様な方はもう二度と会えないだろうと思う様な、どの子でも一生懸命になって相手をしてくれる先生だった。
弁論大会にも出ろと言われて、断ったんだけれども、やれと言われてやったんです。
或る程度反響を受けて、先生の言う事を聞いてやってよかったと思った。
バレンタインで野球部の人にプレゼントして、お返しに赤いグローブを貰った。凄く嬉しかった。
女子プロ野球の始球式に投げた。 学校で握り方をおしえてもらい投球練習をかなりやった。
ユニフォームを作ってもらって83番の背番号で、応援団が来てくれて、本当に嬉しかった。
今の若い人は何でも簡単にあきらめる癖があるから、なんでも諦めないで、目的を持って進んでほしいと思う。
野球部の人にはあの決勝戦の経験を思い出して、あれを思い出したら、絶対やりぬけるからやってって、と言いたいです。

もう少し字が上手くなりたいので、書道部の教室に通って、水墨画の練習をしようと思って道具を買いました。
絵手紙も書きたいし、身体を熱っしないといけないので、水泳を練習しようかなと思っています。

















2014年3月1日土曜日

田渕久美子(脚本家)       ・私の原点 ふるさと石見

田渕久美子(脚本家)            私の原点 ふるさと石見
島根県出身 益田市内の学校を卒業後 、東京に上京、短大に進学、卒業後、益田市に戻って銀行に就職、1年後に再び上京、出版社に就職、その間に創作活動を開始、脚本家デビューをする。
20年ほど前から脚本家活動を開始、民放で数多くの脚本を手掛ける。
平成14年には朝の連続TV小説「さくら」の脚本を担当、橋田壽賀子賞を受賞。
平成20年には大河ドラマ「篤姫」に続いて、平成23年「江」の脚本を担当しました。

故郷に帰ってくるとホッとする。
子供のころは目立たない地味な子だった。  作文を書くとみとめられていた。
全国で読書感想文で受賞した。
文章を書く事は大嫌いだった。 大したことを書けないのでギャップに対しての想いがあった。
母は、こんなことが完壁に出来ていいのかと思うほど、裁縫、料理、絵を描く、書は師範、人形作る何でもする。
きっちりやらないといけない様な主義だった。
小学生の時からたたきこまれた。  朝いろんなところを掃除してから行くのが常だった。
おせち料理を母と作って、紅白歌合戦は見る事が出来なかった。(明け方の4時まで作った)
女の生き方を小学校から叩きこまれて、厳しくてうるさくて本当に辛かった。

いろんな女性を描くうえでも、後で大変為になった。
私にとっては故郷=母=私の仕事 ぐらいですね。
仕事を26歳始めるが、結婚して、子供を産んで、どんなに仕事が忙しくても、家事に手が抜けないという事があった。
そのうち爆発して、もうこれ以上やらなくていいのではないかと、完ぺき主義を捨てるまでは時間がかかった。
父は建築業をやっていた。  内容は微妙に似ているとおもった。
平面を立体的にする図面、 それに近い物を感じる。
高校では部活動でダンスをする。 県大会まで行った。 ダンスを作るのが好きだった。(構成)

東京に行きたかったが、母が絶対だめだというので、4年制の大学に行きたかったが、母は女に教育はいらないといわれた。
高校の時の先生が母を説得してくれて、東京の短大に行くことができた。
大学の時は舞台をちょっとやったが半年で止めた。
いろんなことをちょっと、ちょっと やってきたが、それが後になって役だった。
4年の大学に行こうと思っていたが、一回故郷に戻ろうと、1年考えようとしたが、父が面接を設定してあって、銀行に就職する事になって、勉強になり自分も向いてない事がよくわかった。

又東京に行く事になるが、勘当同然だった。 母からは平凡に生きてくれと言われた。
いろんな職業をする。 塾の教師、プログラマーとか 色々やってきたが、全部役に立っている。
シナリオの学校にも行く。 ドラマを書くのに向いているのではないかと、思った。
学校では皆脚本を一杯書いている人達ばっかりだった。 
行きにくくて3回だけ授業に出て止めた。  
先生から一本だけ書く様に言われて、それを書いたら先生から高い評価を得られた。
新藤兼人さんが学長だったのですが、ドラマには対立が必要だと、その対立が実に良くできているといわれた。(娘と母の話を書いた)
それがきっかけでデビューした。
2本目がプロのデビューで凄く恵まれていたが、完ぺきなもの出ないと出せないとの想いが凄く強くて、完璧なものを書こうと思う、面白くなくなって、自分に向いていないのではないかと思って一旦筆を置いた。

作詞をやろうと思って、作詞の学校に入って、書こうと思ったら空から声が降ってきた。
「お前は逃げたな」と言われて、まさに逃げたとおもって、逃げてはいけないと思って、次からはどんな物が来ようが、必ずやろうと思った。
一旦こうと決めたらやりぬかなければいけないと母から教え込まれていた。
完璧主義からの脱却  子育ての為に仕事を止めて子育てに専念しようと思ったが、子供を背負いながら仕事をしていたりしたいた。
2人目が出来て、このまましていると、自分は死んでしまうのではないかとギリギリだった。
このこだわりは捨てようと思って、お手伝いしてくれる人を頼みました。

ドラマを書く事に向かう自分を許してやろうと思った。
「あるがままに生きる」という表現を見たが→自分の想い、自分の心の中に有る本当の声を無視しないのが、あるがままだと思っているが、我儘と似ていて、周りの気持ちを無視してやるのが、我儘だと思うが、まわりの人達の気持ちを酌んだうえで、自分の気持ちを通してゆくのが、あるがままに生きるという事にしている。
そういった主人公をたくさん書いてきた 篤姫、江、さくら 
あるがままを生きたいけれども生きられない運命の中で翻弄されながらも、自分の一本の芯を持ちながら生き続けてゆく人達をたくさん書いてきた。
自分の生き方が主人公に投影されていると思う。

一度 登場人物にならないと、ドラマは作れない。
人になれる事が出来るようになった。
女として幅ができるようになった。
人間として成熟していかないと、皆さまに見て頂ける様な物を作らせていただく立場の人間としては、自分自身を成長させないと、とても書けない。
「戻ってきたー。」と目が潤む。  故郷はいつも温かく迎えてくれるところ。
ラフカディオハーンの 小泉せつさんの事を書いて見たいとの思いがある。
津和野町 森鴎外「 石見人として死にたい」と言った人。
死に場所はいつも考えている。  
私は益田で死ぬのかなあと、東京かなあと いつも考えている。
故郷 →感謝 いろんなものを育んでくれた。