2013年5月31日金曜日

2013年5月30日木曜日

2013年5月29日水曜日

江頭宏昌(山形大学准教授)奥田政行(オーナーシェフ)・伝統野菜を守り育て味わう 2

江頭宏昌(山形大学准教授)奥田政行(オーナーシェフ)・伝統野菜を守り育て味わう  2
伝統野菜はそれぞれどこのだれがどういう生き方でそれを持ちこんで栽培されるようになったとか、飢饉の時にその野菜を利用するために作り続けてきたとか、地域地域で生きてきてゆくための知恵とセットになっていることも多い
まったく新しい料理の世界がある
庄内の伝統野菜はだれもいじってないので、料理の常識ではないものをやっても許された、と言う事はある(他の地域では使っていないので、これを使ってやると、料理界の常識を覆すような料理を一杯作れた)
在来野菜と出会ったことによって、大学の先生とか文化人と友達になれた(奥田)

他の流通野菜にはない、ある種の癖、頑固さ、が伝統野菜にはある
自然界では苦味は 動物のためには毒と言われるが、苦味は食材の持ち味だと思ったので苦味を活かすような料理にしていった
ソースとかケチャップを使わないで、素材の良さを出そうとしてきた
オリーブオイルと塩を使っている(イタリアン料理のため)
イタリアンは戦いに明け暮れた国なので、保存食と新鮮なものをシンプルにスピーディーに料理すると、大きく二つに分かれる(共和国になったのは明治維新とほぼ同時期)

在来野菜 みずみずしさと香り (ソースを捨てた) 72度ぐらいのオリーブオイルで野菜をコーティングすると野菜の甘い香りが出てくるという事が分かった
口に入れるとオリーブオイルの膜がはがれて、食べて野菜が割れると初めて水がそのなかからはじける、 口の中の体温と出会って、野菜がいろんな香りを口の中に何重にも波のように、押し寄せてくるという、そういうところを狙って行った
講演は二人セットで行っている 
2010年に辻静雄食文化賞第一回受賞者になる

庄内野菜にはかぶの種類がたくさんある 
庄内で5種類、県内20種類ちかいかぶが残って伝えられている
山形県の人はたくさんのかぶを食べる  鶴岡市のほうやの書物の中に 「夏のさぶい年はかぶらまけ」という言葉が出てきた  
米がとれない年は冬に備えて、カブの種を余計に蒔きなさいという事だった
かぶがどんなに優れている野菜かは丁寧に書かれていて、飢饉に役に立つ
寒くなっても生育が止まらずに、どんどん生育が進む  コメが凶作だと判断できるのがお盆過ぎ
そこから収穫できる作物は少ない そばかかぶぐらい  ひと冬越せる食べ物が確保できる

飢饉を回避できるようにかぶを大事に、命の保険として、食べてきたんだろうというのが私の結論です  丸い株もあれば大根のような株もあり いろもいろいろある かぶの王国と言っていい
あつみかぶが有名  焼き畑で作られる(窒素、リン酸、カリができる)  山間地で作られる 
斜面で作られると水はけがいいので、カリッとした歯触りが出る

ほうやかぶは難しい野菜 火を入れると辛味、甘みがあり 歯ごたえがいい
ほうやかぶのピザ とっても美味しい  今まではせいぜい漬物、煮物にするぐらい
かぶは西洋種と東洋種があるが、庄内のかぶは西洋種になる
東日本は西洋種系(硬い 保存用に向いている 甘い、辛味もある)
西日本は東洋種系(柔らかい果肉 甘みが少ない 漬物用には向かない)
分布を調べたのが青葉高先生  かぶらライン(福井県から太平洋につながるライン)と呼んだ 
そこを境に文化も違う

(奥田) イタリアのスローフード 世界大会に出場  スペイン 世界大会に2回 
ダボス会議の政府主催の責任者に選ばれる(昨年)
庄内は今まで光が当たっていなかっただけだと思う(文化、食文化)
かなやごぼう(1mぐらいの長く、柔らかい 牛たんと合わせると美味い)  
あかねホウレンソウ(根のところがメロンぐらいの甘さ)
和種のホウレンソウは根が赤かったが、病気に弱いとい言う事で、洋種系のホウレンソウに市場に流通している

県としても在来野菜に力を入れ始めた  「食の都 庄内」 
在来作物をどうしてお金にならないのに作り続けてきたのかと聞いたときに、美味しいから作り続けたと言う事と 先祖代々伝わってきた種を自分の代で無くしてしまうのは、申し訳ないからという事もあった
今でも新しい、在来野菜が見つかる
じんごえもんいも (里芋) 室町時代から一軒の家で伝えられてきた
2005年 おじいさんが一人で作っていて、孫が会社を辞めて、弟子入りして地域を活性化しようと動いて、あれよあれよと言う間に広がった
後継ぎもないような農家に後継ぎができてきたり、していた




































2013年5月28日火曜日

江頭宏昌(山形大学准教授)奥田政行(オーナーシェフ)・伝統野菜を守り育て味わう

江頭宏昌(山形大学准教授)奥田政行(オーナーシェフ)・伝統野菜を守り育て味わう
山形県の日本海に面した庄内地方には古くから何世代にもわたって、受け継がれ伝えられてきた伝統野菜が数多くあります
それぞれが個性的で独特の風味を持っています
江頭さんは九州・福岡県の出身ですが山形県・鶴岡市にある山形大学に赴任して、昔から作り続けられた伝統野菜の美味しさと豊かさに圧倒され、これを生涯の研究テーマにしようと決心します
一方東京で料理の修業を積んだ後、故郷の鶴岡でイタリア料理のレストランを開業した奥田さんはあくまで地元の食材に拘ったメニュー作りを目指していました
庄内の伝統野菜で意気投合した江頭さんと奥田さん、江頭さんの持ち込む伝統野菜を、奥田さんがまったく新しい調理法でしたてる
こうした庄内地方の伝統野菜は次第に知られるようになってゆきました

在来作物 伝統野菜と言っても構わない
ある地域で昔から栽培されて食べられてきた、野菜、果物、作物が伝統的な作物になるが野菜で有れば伝統野菜になる  自分で種を取る
京野菜はなじみがある 京野菜は40数種類がある 明治以前から京都府内で生産され、食べられてきた
加賀野菜は1945年 戦前から金沢市内で栽培され利用されてきた10数種類の野菜をそういう風に呼んでいる
山形の伝統野菜は160種類以上と言われる 世代を超えて直採種で受け継がれた作物を数えているので一概には比較はできないが沢山の作物がある  150年伝わっているものもある
唐とりいも(里芋)だと270年  300年以上 室町時代から伝わる里芋もある

160種類のうち半数ぐらいが庄内地域にある
気候風土は 温暖湿潤 夏が暑くて、冬が氷点下になる 1年の気温差は40度となる
いろんな土を持っている 春夏秋冬がはっきりしている 雪に弱い作物以外は生産している
南方系の北限であり北方系の南限でもある  豊かな招請を産む土地
西日本で生活してきた人間だったので、こちらに来て驚いたのは、だだ茶豆 (枝豆) いろんな種類の枝豆を持ってきてくれて、それが本当に美味しくて、こんな枝豆食べたことがなかった
10数年ぐらいで名前が広がった  基本的には塩ゆで

孟宗竹の食べ方が違っていて、あく抜きせずにぶつ切りにして、味噌と酒粕を少し入れて、煮て食べる郷土料理 2週間延々と食べ続ける ほかの地域の4倍食べる
目利きの厳しいシェフのもとで料理を学ぶ 温海かぶ 洋食にも合う事が分かっていろんな可能性があると思った  
帰ってきて使ってるうちに、確信を持つようになった
2000年に鶴岡市の郊外にイタリアン料理のレストランを持つ

目の前に新鮮な野菜があるのにスーパー行くとほかのところの野菜が売られていて、地元の人が地元の新鮮な野菜が食べられないのは、なんか変だなあと思った
日本の国の仕組みはどうなっているのだろうと思った
料理人が何かやることによって、地元の人が地元の野菜が食べられるようになるのではないかと思って店を開店した
庄内の野菜はパワーがあるのはわかっていたので、東京に居た時代は微かな想いであったが、帰ってきてからは確信に変わっていった
「アルケッチャノー」(あったねー)という店を出す 

店に行くようになって、2年ぐらいたってから話すようになった(お互いに伝統野菜に興味を持つ)
絶滅したはずのかぶの漬物を食べることができて歓喜した  (ほうやかぶ)
勝福寺ニンジン 種が絶滅してしてしまった(タッチの差で絶滅してしまった)
今すぐにやらないと駄目だと思った
ほうやかぶはたった一人のおじいさんが持っていた 5から6人の人が株を栽培されるようになった
2000年ごろに博士論文がまとまり、次のテーマを探していた
青葉 高先生の本に出会った  東北一円の伝統的な野菜の歴史、利用法等がまとめられていた
「野菜の在来品種は生きた文化財」と追う言葉が出てきて、電撃が走ったようにかんじた
私が探し求めていたテーマはこれだと思った
学生時代からずーっと植物の資源に関する特性やら、遺伝的な性質やらを研究していたが
地域に根ざした研究をやりたいと思っていたので、是非伝統野菜の研究をやろうと決意した

ダダ茶豆も30種類ぐらいある  うどがわらきゅうり  とのじまきゅうり  こまぎ大根  みんぜんなす  バラエティー豊かな野菜がたくさんある
赤ネギ 茎の白い部分がピンクになっているものがある  色も綺麗だし美味しい
TV、本に出たりして爆発的に生産するようになった 他の県でも赤ネギが作られるようになった
煮ると甘みが出る 他のネギにくらべて1.3倍ぐらい (火にかけると甘さが出る)

その野菜の言いたいことを分析して、野菜から考えてゆく料理をやると世界で一つしかない料理になる、しかもその野菜には在来野菜の物語が付いているので、物語は江頭さんが作ってくれるのでお客さんがいっぱい来る
私は物語を作るのではなく、調査して、きちんと裏付けのある情報を奥田さんに伝える
野菜の生産者の方にも来ていただいて食べてもらう
野菜が言いたいことを聞いて、その作物が生育して居る時の状況を料理で作りたい
手数を多くしてゆくと、野菜の自然の持っている香りが無くなって、人間の香りがついてきてしまう
神の味から人間界の味になってしまうので、なるべく必要最小限の手数でシンプルにその野菜を引き立ててくれる食材と掛け合わせて出すという料理です

普通野菜が主役になるという事は無いが、奥田さんの料理は野菜が主役になっている
目からうろこの事柄だった
2003年に山形県在来作物研究会が発足する
大量生産大量消費の時代に、古臭い野菜は作っても金にならないという事で、つくるのも食べるのも無くなってきてしまった
もう一遍光を当てて、多面的に伝統的な野菜を見直そうという事になり、発足した
大学の教員が中心であったが、奥田さんが後ろから後押ししてくれた
会員は民間からも入ってくる(高校生。主婦等市民に開かれた会員) 現在420名
その野菜の歴史、どういう背景を持っているか、聞きながら食べると又一段と美味しさが違う
凄い人気が出る(日本全国から聞きに来たり、食べに来たりしてくれる































2013年5月27日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(養老孟司)

天野祐吉    隠居大学(養老孟司
少年時代からの趣味である昆虫採集も熱心に続けておられます
人体研究の専門家そして自然観察の達人ならではの視点から現代社会の問題点を語ってもらいました
「バカの壁」をぶち壊せ評判の良い本が売れまして、大変忙しくなって、20年振りにお会いしました
東大をやめて、18年になる   花鳥風月のどれかを生活に取り入れたほうがいい
ゴキブリ 人間は親の敵みたいにしているが、不思議だと思う 害は無いし、殺したってしょうがない    チンパンジーが同じ反応をする(ゴキブリを嫌うのはチンパンジー並み)
動物、虫が多いのは生きやすいという事(大手町とかは住みやすいのか?)

生きやすいのはいろんな自然が入ってきている方が生きやすい
心配なのは虫が全体的にどんどん減ってきている、それが心配
木漏れ日を見ていると、埃が見えるように、沢山の小さな虫が昔は見えた
ミミズも最近はみない 地面自体が少なくなってきている
最近は蟻の巣の生き物図鑑ができた 蟻の宝を初めて知った 女王が先ず巣を作るが その時に必ず蟻まき一匹くわえてくる いつもくわえてくるから蟻の宝と呼んでいる

一番好きな虫は何かと必ず聞かれるが、虫は物凄い種類がいる 一説には3000万種類と言われる  3000万 女性がいてどれが好きかとは、とても言えない
数万の桁では見ている   東日本と西日本では生き物は違う 糸魚川静岡構造線 あそこを境に生き物はかなり違う 昔は島になっていたが、それがくっついていた(その前は大陸とくっついていた   1000万年戻ると判る   富士山ができたのは8万年前
人体の展覧会 人は基本的にはほとんど水  いろんなものに置き換えると人間に近い形で残るので吃驚する
人の死体をいじることはタブーになっているが、非常に例外的なのはヨーロッパ、特にギリシャでは、解剖を紀元前にやっている

大量な知識が基本的にはアレキサンドリア図書館に入るが、図書館は焼かれてしまう
キリスト教が広がってくる過程で、古代の学問が消えてしまう、潰されてしまう
いずれ誰でも死体になる 誰がそれをかたづけるのか かたづける人の立場をあまり考えない
お産も同様 家ではしない  東京都では亡くなる方の92%は病院で亡くなっている
皆さん方は要するに仮退院なんですよ 病院から出てきて、病院に帰るんですから
江戸時代は両方違っていた  今が異常な時代だと思っている

自分が生き物だとか、自然だという事が忘れてしまう 
タブーが増えてきている(昔は電車の中でおっぱいを飲ませたりしていたが、今は全くなくて、それを高級になったと思っている)  ある意味で生きずらくなってきている
どんどん自然から遠ざかろうとしている  ある意味いいとこどりになっている
子供は、カブトムシが死ぬと、部品くださいとか、電池ちょうだい とかになってしまう

この年になるといずれ死ぬなと思いますが、自分が死ぬという事はどういう事になるかと考える
と、俺関係ない という結論になる   困る私はいない
自分は要するに死なない 自分が死んだ時は自分にはわからない
困るのは周りの人  あんまり強調するのはあまり良くない 小学生が自殺する時代だから
彼らが、俺死んでも困らないと言ってたら溜まったものではない
だから親孝行と昔はきつく言ったんじゃないんですか
周りの人のためにお前生きているだろうって 今は自分のために生きてると思っている99%
の人が、たぶん   
死ぬことは考えたら、なんと俺は自分のために生きているんじゃないと判るんですよ

自分にとって都合の良いように人間て生きてきて、でも結局なんかそれをやっていると、いろんな問題、ひずみは起きてきて最後は、結局 壁を作って安全化してきても(PM2.5とか) 入ってきてしまう  全部繋がっているので 虫も、放射能も 結局は繋がっている 引っ越して逃げるわけないは行かない
今の人は自分て、周囲と切り離されて生きていると思っている (それが暗黙の常識)
田んぼ観たら、あの田んぼはお前の一部だろうというと、なんで自分の一部なんだろうと思うが、できた米を食べて、最終的に自分の身体の一部になる 海も同様、魚を食べたり、いろいろ恩恵を受けている 環境という言葉を作っちゃうと、それを自分の周りと言う事になるので、裏に自分ができてきてしまう   大気汚染 自分の肺の中に入ってしまう

空気は無ければ生きられない 空気は自分自身だと思わなくてはいけない
身体もドンドン変わってゆく  
自然にふれるチャンスはなるべく造った方がいい  そこが人間の原点 
世の中は厄介なところ 一切ないのが花鳥風月  人間世界の良しあしがない だから和む
動物を家で飼う事は自然との接触の一部   猫は勝手気ままに生きている 猫を飼っている人は、猫に自分を投影してあのようにできたらいいなあと思っている

石田せん  踏切が大好きとのこと 踏み切りを待っているのが好き 周りを見渡して普段みえないもの、花を咲かせている草とか、が見えてきてホッとするという (他のことを忘れる)
自分の身体を素直に動かしている人が少しいる  自分の体はこういうものだと思って動かし方を決めているが、きまりきった動きになっている
皆さんが考えている身体は幽霊 実態はありませんよ (ラマチャンドラン 「脳の中の幽霊」)
と言っている  

最近のMRIで脳みそがどう働いているかが判るようになってきて、脳を使っているところには血が集まる(どうして昔の人は頭を付かってない人を血のめぐりが悪いといったんだろうなあと思う)
最近もっと驚いたのは人の顔色  人間、3種類の細胞を目の中に持っている(色に関して)
短い波長 中間波長  長い波長  短い波長は他の二つと離れている  3等分されていない
赤に近いほうの2つの波長は、人の顔色の変化がそこの範囲で一番良く分かる
顔色を見る と言うが 顔色は実は色ではない(赤とか黄色とか)
顔色 (色としては無視する)  顔色が色の基準 基準はゼロ 

世の中 楽に生きるには そういうもんだと思っていたほうが楽(納得いかないことが多い)
コップに水が入っていてそこにインクを落とした時にしばらくすると色が消えてしまうが、どうしてかと、学生に聞いたが、(分子運動とかで説明してくれると思ったら) 「そうしたらそういうものだと思っていました」  世の中楽に生きるにはそういうものだと思った方が楽
どういう風にしたら頭を使わないで済むかを、学校は教えているのではないか
幾何とか、代数とか、やり方を教わったら絶対自分では解けなくなる、一切教わらないで自分で解くことによって一生忘れられない
他の事もそうで、そういうものだとは思わない様にしてきた 
疑問のままに取っておくのは体力がいる(体がちくちくする)  
自然を見ているとすぐには答えが出ない   不思議だなあと思って見つめるかどうか

男は二つの系統に興味がある 生き物系 と機械系
自分で作る か 虫取りとか
こんなに豊かになったのでもっと余裕をもって考えたらいいのではと思うのですが
(そういうもんだなんて考えないで)















































2013年5月26日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(佐賀県)

五木寛之   歌の旅人(佐賀県)
芸能と言うような華やかな物に対しての、距離をおく様な県民性
芸能人タレント出身地ランキングでは47位との情報もある
歴史から言えば吉野ヶ里古墳  縄文時代のなばた遺跡 炭になった米と水田後が発見された
稲作の発祥の地かもしれない
まつらこく   日本と言う国の最初のスタートの地かもしれない
韓国に船橋里 (せんきょうり)と言うところがあって 同様に吉野ヶ里(よしのがり)と読む
大陸、半島との 深い関係を感じさせる地名でもある
歌手 青木光一 「柿の木坂の家」  漫才島田洋一  がばい(非常にやり手の)ばあちゃん
クリスタルキング ボーカル 田中昌之  「大都会」
米の品種改良で努力するところ 佐賀牛 
人口 九州で最小  面積でも九州で最小

大隈重信  江藤新平  佐野常民(日本赤十字社創設)
作家、北方謙三(唐津)    旧藩のほうが人柄や風土を表現しているかもしれない
伊万里焼き 有田焼き 唐津焼き    柿右衛門
鍋島藩が門外不出にして、文化的に育てたといわれている

中島宏  青磁の人間国宝    
有明海の食べ物は豊富 有明海 不思議な貝類 うみたけ わらすぼ あげまき くちぞこ
のりの生産も多い  玉ねぎも全国1位
作曲家 徳久広司 「のら」
戸川幸夫(小説家) 中島潔(画家) 針すなお(漫画家) 長谷川町子(漫画家) 
辰野金吾(建築家 日本銀行本店等)
芸能人  村井邦夫、松雪 泰子、中越 典子
古賀俊彦(柔道) 大麒麟 小城花(相撲)  権藤博(野球)
肥前論語  論語は弟子たちが孔子が語った事をまとめ上げたが  「葉隠」は
2代目の藩主に使えていた山本常朝の言葉を  田代陣基(つらもと)がいろいろ聞いて7年かけて「葉隠」を書く   全11巻  武士の死生観 歴史等
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である
村田秀雄 「人生劇場」









2013年5月25日土曜日

豊田則成(スポーツ心理学)    ・心と体を繋ぐこと

豊田則成(スポーツ心理学)・心と体を繋ぐこと
オリンピック日本代表選手などのトップアスリートの精神面でのサポートをしています  例えば現在の男子柔道の監督の井上康生さん こういった金メダリストなど多数見ていると言う事です

緊張、不安といった話 トップのアスリート達と一緒に仕事をしている中で緊張、不安と言ったことと直面するのでそういった話もしていきたいと思います
琵琶湖スポーツ大学で教鞭をとっている  スポーツ心理学を専攻
人間と言うのは過緊張の状態、不安な状態があると想像もつかない事が起こってくる
例えば、甲子園で高校球児がさわやかにプレーをしているが、最初の行進 各都道府県の代表が行進をしているが、右足と右手が一緒に出ているとか、後ろから間違っていると指摘されて、スキップして更に同じ動作をしてしまう
緊張すると人はなかなか自分の体もコントロールできない

オリンピック選手が実力を発揮して金メダルをとるように、日々の練習の中でより向上するように我々は科学的なアプローチをしています(右肩上がり)
10代から20代が主体 一度オリンピックの選手になっても、ずーっと現役選手でいられる人はいない  右肩下がり 選手が選手で無くなった後、どうやってその後に人生を歩んでくれるのかなと、そういう事のサポートをしてゆくのもスポーツ科学の大事なことなんじゃないのかなあと思っています(そのような研究を20年近く続けてきた)

フィールドワ-クと言うやり方を採用している  全国各地に散在されている元オリンピックアスリート達の生活している真っ只中に飛び込んで行ってお話を伺うという方法を取っている
その内容で何か物事の真理や道理が見つけ出せるのではないかと 研究している
オリンピックで自分の目標を達成した選手たちが、その後どのような歩みをしているのかという事はあまり世の中で追跡はされてない(一過性 成績を出した瞬間からほんの少しの期間)
その後を生き生きと過ごしてゆくためにはどのようにするか、が課題となります

自分の人生の歩みに立ち止まった時には、先輩に話を聞きます
判らない事があった時に、人と言うのは一番最初にそれをする方法として、近くの話を聞くという方法がある(心理学の専門に取ってみても最も優れた方法です)
元オリンピックの選手に伺っても、なかなか話してはもらえない
自分の話はできるのだけれど、できない時もあるんだんなあと判った
人に話を伺う事は難しいことだといろいろ経験した

話しを聞く場 ゆっくりと話をしていただく場が大事 背中に壁があるほうが話しやすい
応接セットの場ではちょっと斜めの位置に座るほうがいい
人が話をするのは、ちょっと待つことが大事(聞き手のスタンスで人に話を聞いてしまうと話し手は十分話したなあと持てないような感じがする)
私が心がけてるのは、話し手が十分話したい、話せるだけ話してもらう事に物凄くちからを注ぎます
通常インタビューは1時間をめやすにするが、長い時間(5時間)を一方的に話す人がいるが、こちらが聞きたい事に対して、関係のない内容もあるが、必ず重なる瞬間がある
複数回会って聞いたりすることによって、こちらが聞きたいと思っていたことを自然と話してくれるようになってくる  
事例 1998年 長野オリンピックの年  東京オリンピックで活躍したり、それ以降の金メダルを取った人に一人一人伺う事をしていました  長野オリンピックの真っただ中で機会を設けた
知り合いから金メダルの人だと伺っていたが、あってみたら吃驚した 私より体が小さい
私とは親子ぐらいの年齢差を感じた  
会って数秒して、偉人としての感覚がザーッと襲ってきました(この方は只者ではないぞと感じた)
インタビューを開始する 散々調べておいて聞くようにしておいた
こちらが何も言わないのに、身の上話を始めた 
20分ぐらい過ぎてからこちらが用意した聞きたい内容から離れて切り替えて聞くようにした
金メダルを取ってゆくプロセス 金メダリストから普通の人に移ってゆく時の悩み、今の生活でどんなことが苦しいのかとか 聞こうと思っていたことに勇気がいるなあと思っていた内容にどんどんされてゆく  これはすごい経験をしてるぞと思った  
聞きたいことと話たいことが合致している
3時間話をされた  その後豊田さん飲みに行きませんかと誘われた
人の本心を伺う事はインタビューでは硬さがあって無理なところがある

意外なところに金メダリストの片りんを伺い知ることになった
ビールを注ぐや否やすぐにのどに放り込む それを何度も繰り返すが私との会話を楽しんでいた
親子ほどの年齢差があるのに稟とした様子に吃驚 若い事鍛え上げたんだなあと思った
金メダルを取った私なんか良い例なんですよねと話し始めた(えっと思った)
金メダルをとる輝かしいお話をしていただいていたが、それを崩してはじめた話は辛い話
本当の姿を感じた 

アスリートはどんな取り組みをしているのか  山に登るといった観点にたとえて言います
物凄く険しい山を全力疾走で走って登ろうとしています
世の中でたった一人の存在になろうとしている NO1になるためにはオンリーワンの取り組みをしなければならない    非常に孤独な世界に入っていく
非常に険しい道のりは時間と労力を要します
険しければ険しいほど命がけで登ってゆきます 体には鋭い感覚が宿ってくる
死んではいけないと思うと人間の体は物凄い可能性を出してきてくれることがある
想像を絶するような過酷なトレーニングが待ち構えている

強靭な肉体ができ上ってくる  もう辞めたいとの気持ちがあるが自分を追い込む
想像を絶するストレスとも向き合わなければならない 孤独感とも立ち向かわなければならない
それだけ自分のことを追求するんだけれども、多くの方々に支えていただいているという感謝の気持ちを忘れない
山を登りつめたときに、頂上にたどり着いた景色はおそらく絶景なんだと思います
その人にだけにしか見えない景色

頂上にたどり着いたが思ったよりも良い景色ではなかったんだよなと話してくださった人がいた
登りが険しいけど、下りがある(右肩下がり)  どうやって降りるか
現役を引退すると長い時間 練習をしなくてもいい 自分が自分らしくない様に感じる
指導者になればとの話があるが、はいわかりましたというわけにはいかない
年を取ってくるといろんなところに古傷ができてくる 
一心不乱になって走ってきたときに、止まって周りを観たときに、自分がこれから入ってゆく世の中で自分の年齢と同じかたが、もっと先を歩いているように感じる

一生懸命取り組んできたので、それ以外の事を見通すことができないでいる
不安を感じる ストレスを感じる  多かれ少なかれ人生はそういう事にぶつかる
アスリートがアスリートで無くなる事は、我々にとっては自分らしさが見えなくなる、自分が自分で無くなる、これほど苦しいことは無い  迷うのが人間 生きている間にチャンスとピンチがくる
アスリートである自分からアスリートでない自分に移行してゆく
新たな肩書きを見つけるのは非常に難しい 
我々がずーっと一つの仕事に拘っていられるのは、肩書ではない 根底に流れるなんか自分らしさ、自分がつながっている感じ、それを大事にしながら生きているのでその会社にいられる

険しい山に登った人はなかなか見つけられない だけど見つけていかなければならない
人の人生の歩みから学ぶべきことは沢山ある
ここでどうすればいいのか分からない時は近くの人から、話を伺う事がいい
そうするとその方から物凄い英知をもらえることがあるかもしれない
人生の移ろいは決してスムーズでなくていいと学ぶことができる(一人としてスムーズに来た人はいない)  どういう風に乗り越えてきたのか
近くの人に学ぶことはできるが、自分らしく生きることしか答えは無い
いろんな話を参考にしながら、自分らしさを作り上げてゆく それが人生なのかなあとアスリートから学んでいます

人生と言うのは螺旋式に成長してゆくのかなあと考えています
螺旋は渦を巻いてどんどん上がってゆくが、 上から見ると同じところをグルグル同じところを回っている様にしか見えない
でも横から見るとジグザグゆっくり上がってゆく  
人の話を伺って学ぶということは、いろんな同じ様なところをグルグル歩いているんだけれども、いずれ成長してゆっくりと人生を歩んでいっているだなあと、いろんな角度から自分の人生を見つめ直しす必要があるんだなあと気付かせてくれる事もありました































































 

2013年5月24日金曜日

湯浅誠(社会活動家44歳)    ・日本社会の現状と課題 日本再生のヒント

湯浅誠(社会活動家44歳)・日本社会の現状と課題 日本再生のヒント
2008年暮れに、年越し派遣村の村長を務め、リーマンショックによる世界同時不況の影響で、仕事と住まいを失った多くの人を支援しました
湯浅さんは大学院時代の1990年代の中場から、ホームレス支援活動をはじめ、その後生活困窮者を支援するNPO法人モヤイの代表や貧困の現状を伝えたり、政策提言したりする団体反
貧困ネットワークの事務局長を務めるなど、長年貧困問題に取り組んできました
そして、民主党政権が誕生した2009年には内閣府参与に就任し、去年春まで行政の立場で貧困格差問題に取り組んできました
参与の経験で湯浅さんは日本における民主主義の在り方を考える様になったと言います
今の日本社会の現状と課題、日本再生のヒントを伺いました

デフレが悪いからインフレ基調にと言って今みんなそこを目指したやっているわけですが、インフレになったらバラ色かと言うと、全然そうとは限らない 
日常品が上がって、所得が増えなくて、余計暮らしがきつくなるという事も、ありうるので具体的に見ていかないといけない インフレならインフレの中味、デフレならデフレの中味を見ないといけないが、なかなか暮らしに追われて、仕事と生活に追われているゆっくり考える時間がない
厳しい時間の中で、社会保障と税についてゆっくり考えるかと言うと思わないと思う

のんびり、ゆっくりしたいがそういう事の積み重ねが社会を作ってゆくので、パソコンは単純明快に白黒付ける られるものではないことが世の中に沢山あるので、そういうところを細かく見る、考えられる そういう場が社会に沢山あった方が、国民が賢くなるし、国民が賢くなることによって政治も賢くなる そういう風なところが大事だと思います

私たちが選挙で選んでいる人たちなので、私たちから完全に乖離した存在ではない
得票率の4割ぐらいをとった人たちが8割の議席を取っている 投票率は60%ぐらいなので有権者全体から言うと16%ぐらいの人たちの票で議席の8割をとっている  それが小選挙区制度
それが16%と言えば6人のうち一人  5/6の人たちの意見が反映されない
少なくとも選挙で我々は選んでいるという事実はある 
選挙に我々は関わっている   選挙の結果に不満を感じたとしても、変える方法を持っている
(徳川将軍は一般の人には変えることはできない)

政治を変えるルートは我々は持っている  それをやりましょうというのが民主主義だと思うので、今の政治に100%満足しているわけではないので、それを政治が悪いと済ましてていいのかという気持ちはある
政治的な事、社会的なことを話せる作法と言うものを、作れないかと言うんで、若い人たちと一緒に場造りをやっている  日本は政治的なことを話しづらい傾向にある
政治を普通に語る作法がない、文化がない  どんな話し方があるか考えたが、それを編み出して行かないといけないとは思っている
今あるのは政治かなんかみんなバカばっかりだ と言うような全否定する良い方はありなんですよね 仲間内で浮かないというか  もうひとつは特定の主義象徴を押し付ける人、敬遠する
それ以外は多くの人はそういう事を話題にすることを避ける

普通に話せる事の作法  こういう人とこういう事を話せたらいいなあと思い起こす
話したいけど話せない どういう風に話したらいいか それぞれ考えてもらう
話のシュミレーションをして、それぞれ発表してもらう お互いが気付くところがあるのでそれを一般の生活の中で持ちかえってやってみるとかを行っている
例 公園でママ友と政治的は話、社会的な問題の話をしたい だけどママ友にいきなり話をしてもひいてしまうかもしれないと自分は思っている どうするか 先ず子供の保育園決まった?どうする?どこにする? 入れるところもないしね 保育の問題は大問題 そういう風に入れるのではないか 直面している課題から入っていくのが大事なんだと思う
(大学の授業料の問題、 50年で50倍 そこに日本の歴史が刻まれている)

きっかけを生活のリアリティーとクロスさせる 自分に知識がないといけない
話がより展開する  社会の中でちょっとずつ政治的な事、社会的なことを話す量が増えてゆく
民主主義を豊かにして、社会が豊かになると思っている
総量が増えていけばいい  
自分の問題にぶつかる  国全体の大問題に対してあまりにも小さいことのように感じる、意味がない様な気がしてしまうが、その先にしかそれが変わることは無い
意味がないように思えるかもしれないけれども、自分が話せる相手を作ってゆくとか、そういう場を作ってゆくとか、生活の中から時間をひねり出してゆく そういう人たちの積み重ね、積み重ねが貯まり溜まってゆくのが社会ですから、積み重ねがない中で、政治とかが変わるという事は無い(いろんな要因で変わることはあるが  繋がっているという事が大事)

おまかせ民主主義で上手くいくかと言うとそうは思っていない 自分の周りから始めないといけない(魔法の杖は無い)  いろんな人と意見を交わせる場を作りたいが、めんどくさい しかし民主主義はめんどくさいもの (投げ出したくなるもの)
めんどくさいものを引き受け直してゆくしかないんじゃないの (それが結論)
主権者 私たちは、いつ主権者なの  と言ったら24時間365日主権者(権力者)

日本社会のこれから進む方向とはどういう方向なのか  
少子高齢化、人口も減っている  地方が先に かつ 田舎  昔合併されて吸収されたようなところ こういうところが日本の中にまだらに会って大変な状況に陥っている
だが、そこには試行錯誤の中でやられたノウハウの蓄積がある
日本全体として人口減少に入ったのは2005年だけれども、地域によっては高度経済成長期にとかにそうなっている  今日本の高齢化率は25%ですが、地域によっては20年前に25%になったところもある  
そういうところは先に直面した課題があって、そこでいろいろなされた取組があって、その中に良いものが生まれているとすると、そこから学べることがある

そういう地域を回って集めていると言うのが私の一番の取り組みです
見えてきたのは、外頼みから内に変わってゆく  日本の地方は伝統的にどうやって開発してきたかと言うと公共事業です  
2000年代になって、減ってきた  企業誘致に走ったところもあったが、交通の便が悪い、都市部から遠い、こんな場所には建ててくれないだろうと自分たちで判ってくる
自分たちの中の物に目が向く 地域活性化 地域おこし 自分たち ここにある人、物、自然の強みを何とか見出そうという試みだと思う
①農林漁業の6次産業化  生産した物を加工から販売まで、手掛ける
②観光  昔からある神社仏閣等 古い街並み
③エネルギー  太陽 風力 地熱

今あるものに注目している  この3つが新たな街作りとしてチャレンジしている
かけているものがある  物と自然  人が欠けている
ここにいる人を如何に強みを引き出しながら、街を活性化してゆくかと言う、人の活性化が実は一番難しいし、後回しになっている  地域を元気にさせるというよりは負担を増やすのではないかと思われている  4本目の柱として立っていないので4本目の柱として立てるべきだと思っている 人の強みを引き出すような街作り  
山にある葉っぱが高い値で売れるようになった(料亭とかに)  価値の再発見

今は障害者の人でも沢山働いている  力を引き出すことが社会にとってもプラス
障害者だけではない  
女性の社会進出  能力を持っている人が力を発揮した方が日本の経済成長にプラスになる
能力を引き出せるか、引き出せないか という引き出す側の力量にもかかわっている
やりようによって能力が伸びる 能力は多様ですから  見出せるような社会、地域になるという事は葉っぱは見いだせても人は見いだせないかと言う事になる
人の内発的な発展、地域の中にいる人たちの強みを引き出すのが一番遅れている
これがメインだと思う

今の社会の風潮 として人を切り捨て 使えないとか そっちの方の感覚が強いが
切り捨てる者は心を鬼にして、どんどん切り捨ててゆくという事をしても、その人たちは消えてなくなるわけではないので、溜まってくるそうすると貧困問題が起こる
そうすると、世の中は余計大変になる その人たち自身も大変だけど
会社は人をリストラすれば会社には来なくなるかもしれないが、社会の中から消えてなくなるわけではない  会社は社員をリストラできるが、国は国民をリストラできない
結果的に私たちは損をする 切り捨て型の発想はマイナスを少なくするつもりであるが、実はマイナスを大きくしている

頑張れる状態を作っていった方が、世の中全体の総量は増える エネルギー総量
そういう事をやれるし、やりましょうと思えないかと言うと 何故できないかというと判らないからですよ
お金がいくらあっても足りないような気がする イメージで考える(判らないから)
負担感を感じてしまう   
成果が出ればいいと示せればいい そいうするとだんだん負担感が減ってゆく
事例はさっき言ったところにある  ここでやっていくしかないと地域の人が一生懸命に考えるという事を先に直面した地域のほうがその蓄積がある、だから学べる

今集めているところです(どこも試行錯誤でやっていて、もちろん失敗もやっているが、そこから学べるものがある)
これからの日本社会の学ぶべきもの、宝物があると思う



























2013年5月23日木曜日

西脇久夫(歌手)         ・サトウハチローと私の人生

西脇久夫(歌手)・サトウハチローと私の人生
詩人・童謡作詞家・作家でもあるサトウハチローさんの誕生日 (5/23)生誕110年になります
今から約50年前サトウハチローさんの名曲 「小さい秋見つけた」をレコーディングして、大ヒットさせたのは、男声コーラスグループのボニージャックスです
この曲が大ヒットしたのをきっかけにボニージャックスは、その後、童謡や、唱歌、抒情歌の路線を進み、人気グループになったのは、ご承知の通りです
ボニージャックスのトップテナーの西脇久夫さんはそれ以来佐藤家に出入りして、サトウハチローをおやじのように慕うようになりました 生誕110年の記念の年に、親交の深かった西脇さんにサトウハチローさんの童謡はどの様な気持ちで歌っているのか、あるいはサトウハチローさんの人となりを伺います

ボニージャックスが「小さい秋を見つけた」の曲を、ある番組で見つけた これはいいなあと思った
ステージで歌うようになって、レコードを出したいという事で、話したら、NHKの記念番組のために伴くみこさん(昭和30年) 歌わせようとして、NHKから委嘱されて書いた詩だと伺った
この時にハチローさんが「長崎の鐘」をお書きになって以来、おとなの歌は書かないよとおっしゃって、NHKが子供の歌でも良いですという事で、これをお書きになったそうです

それからハチローさんの家に伺うようになった
昭和37年にレコーディングする その年にレコード大賞の童謡賞をとった
そのあと教科書に載るほどになった  ボニージャックスの代表曲になってしまった
いつも炉端のまえで、ちゃんちゃんこを着て、チェインスモーカーで歯が一本欠けて、そこにタバコをひっかけていた
昭和33年にボニージャックスを結成した それまではスタンダードジャズを歌っていた
進駐軍のキャンプで歌っていた  
「小さい秋見つけた」で賞をもらってから、抒情歌のボニージャックスと言われるようになるきっかけだった
ハチローさんがリサイタルにおいてメッセージを当人が読んでくれた
窓から外をみていたら、小さい空間のなかにも自分だけにも秋がある 
本当は秋の初めではなくて、晩秋を歌ってるんだと言っていた(3番にある)
夏の終わりから初秋の頃だと思っていたが、実はそうではなかった
こんなに古くならない詩、曲は無いと思う  愛してやまない歌です  いい歌は古くならない

中田 喜直さんが作曲  30年にできて 33年にNHKで伴さんが1回歌ったのを聞いて、それが良くて37年にレコーディングをした それまではハチローさんも、中田さんも忘れていたそうです

童謡を30曲以上歌ってきた 「空気がうまい」詩をいただく 飯田三郎さんに作曲してもらったりし  ポンと詩を下さる
「モズが枯れ木で」 茨木の民謡だといわれていたが、実はこれはハチローさんが作ったものだと判った  「モズが枯れ木で」ではなくてタイトルなくて 「モズよ鳴くな」だった
「モズが枯れ木で鳴いている」 ではなくて「モズが枯れ木に」
「けれどもたんねいものがある」ではなく「けれどもたりねいものがある」 
「鉄砲が涙で光っただ」ではなく「「鉄砲が涙に光っただ」だと言われた
レコーディングしてやりなおすわけにもかないので、ボニーが歌うんだったら良いだろうという事になる

童心 我々が観ていてハチャメチャな人だった  亡くなって40年(70歳) 生誕110年になる
母親に対する恋慕 ハチローさんは母親を慕っていた 、2万にもおよぶ詩のうち3千が母の関する詩である   14歳で親が離婚した 父と八丈島で暮らす
父から何十回となく勘当されてと言っていた

ハチローの詩にはメロディーを持っていた 
歌謡曲から童謡へのきっかけは?  「長崎の鐘」は鎮魂歌(平和を求める) 弟さんが広島で被曝して亡くなる  前日に広島に入る  自分の中の体験を歌の中に入っている
青い空が詩の中にしょっちゅう出てくるが、青い空と言うのは先生が書く青い空は悲しいですねといったら、八丈島で青い空ばっかり見てたからなあとおっしゃった
「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ」
母子の愛情とかをいっぱい詩に書いている  これは愛情に飢えていたのではないかと思う

















2013年5月22日水曜日

速水亨(林業家)         ・林業の可能性と森の豊かさを愛して

速水亨(林業家)・林業の可能性と森の豊かさを愛して
1953年生まれ、慶応義塾大学を卒業後、東京大学農学部林学研究生を経て、実家の林業に従事してきました  速水さんは林業の先駆的な経営で知られ、2001年に朝日新聞明日への環境賞森林文化特別賞を受賞しています

昨年、「日本林業を建て直す」出版 林業の仕事を300年先を見ながら思い描きながら、経営している こういう仕事と言うのはほかにはないと思うので非常に幸せだと書いてある
実際には林業は100年、200年、300年の木も生えている場合があるわけですね
それを偶然として見ないで、ある目的を持ってそういう森林を作っていこうという事なので、特別大それたという事をしているという気持ちは無い
今80年、100年の木を切っているが、その中に200年の木が残っていたりする

立木作業 太い木のことを言うが残しておく 300年先の森  今80年、100年の木を切っている中から1割ぐらい残してばらばらに 100年たったら 1ヘクタール 300本のうち30本ぐらい残して100年たつ 30本の木が200年になる それが半分になって15本ぐらい残っている
100年の木を残した時に木を植えているので、それが100年になっている  それを又30本残してゆくという事を繰り返してゆくと、300年先に最初に残した30本の木が4本ぐらいになって、その木は400年の木になっている   その次のが300年の木が7本  200年の木が15本、100年の木が30本あって、その下に苗木を植えてゆく
植える人と切る人が何らかの形でつながっているというものでもなくて、山がつながっているだけ
森林がつながっているだけで、管理しているものが変わってゆくというのは当然ある
今日やらないと400年、300年先の森はできない

吉野林業が(奈良県) 人工林のスタートであることは間違いない
私で9代目になる(1790年に分家)  子供のころから山に連れて行かれた
小さいころの山に関する思い出が二つある いくつかの要因が重なって家に帰ってくる
1970年代 林業は1980年ぐらいは木材の値段はピークだった
私が帰って1年ぐらい枝打ちしたりして作業をしていた 自然を相手にすると勉強をしないといけないなあと思いたって、もう一回、東京に戻って林業の勉強をまじめにした

父は科学的な見る目を持っていた 学者との交流を持っていた 
帰って現場へ行っていると、経験則の話が多くなってきている 自分で得心するためには数値化しないといけないと思った 計測のやり方を大学では習っていたので、木の高さ、太さ、樹齢などを時間を作って数値化した
そうすると枝打ちはどのぐらいにしたらいいか、とかを数値化した
経験則で話す人たちと私の頭の中にある表とか図などからのイメージとの会話が一致するようになった
私が帰ってからは材木の値段は下がる一方だったので、管理するのに助かった
1960年代初めに林業での丸太は関税が無くなった(丸裸のまんまポンと自由化された)
木の値段の上昇率はぐっと抑えられて、人件費は高騰(高度経済成長期)した
1980年代に林業経営が非常に厳しくなった
昔はどんな木でも売れた、(農作業にかかわるものも含めて) 間伐材が売れた それが売れなくなった
苗を植える費用が無くなったしまってしまった
円高基調であると、輸入材を扱った方がよくなって、外材に集まった

阪神淡路大震災で木造住宅がおおく破壊された
都市部の木造密集地はかなり以前に建てられたものが多い(リーズナブルで柱などは細い)  倒れやすかった
東日本大震災では木造住宅でも地震の倒壊は少なかった 田舎の建築物は柱とか梁は太い)
木造住宅は弱いとの報道等があり、敬遠されがちになる
大手の住宅メーカーは地震に強いとかさまざまなPR、数値的な説明ができた 木材住宅ですら大手に移って行った
リーマンショックでも厳しかった  30歳代のかたが家を建てる時期が多い その人たちの給料が一番下がってしまった 非常に安く建つ住宅が主流になってしまった
10年間保証法律ができた 10年持てばいいというような建て方も、やるようになってしまった
木造住宅に対する消費者の目が厳しくなった 木造住宅は生きているので厳しい
むくの材木は売れずに、ベニヤだとか修正材だとかが売れるようになった
本来の日本の木の良さを打ち出そうと思っていた建築が立たなくなってきたのが、大きな流れとしてでてきた

林業経営として 1000ヘクタール所有レベルはどっちかと言うと、小の上か中の下のレベル 
製紙会社、商社 4社が 19万から4万ヘクタールぐらいで日本で一番大きい
その下に個人で持っている1万ヘクタールぐらいのところがある
100から500ヘクタールの人は年間所得は26万円ぐらい 平成になったころは500万円あった
兼業でやっていかなくてはいけない  切っても利益が出ないだから木を切らないことが起きてしまった

昨日と同じことを今日やるのはやめようと、
下草狩りはどうしてやるのか →植えた苗木が成木になるのを整える
植えた木を全部育てなければいけないのかとの議論をやってゆくと、下草狩りをやらないで良いのではないかと やらない方向 (全くやらないわけではないが)で上手くいく
枝をうつ  枝打ちはやるが、枝打ちをする木だけを選んで、枝打ちをする

木は競合させないで育てると駄目なのでもともと少なく植えるわけにはいけない
上手く予想をして、変えてゆく 
100年残っていた木は 2%(良い木) その中から良い木を選ぶ (最高の木) 
それを新しい、さし木の方法を考えて、今10万本ぐらいにさし木で増やした

新規機械の導入で作業時間の短縮を図る
林道 本当に林業のできる林道の作り方の工夫
山の管理は光の管理 なるべく光をたくさん入れて、下草をはやして、広葉樹をいっぱい繁茂させて、そうすると降ってきた雨は地下水になる   
生物多様性 山は足を一歩踏み出すと、足の下には5000個ぐらいの生き物がいる
生き物の集合体が森林になっている  
素晴らしい人工林として事業ができれば素晴らしいと思っている
都市に木材を 今までは鉄筋コンクリートがいいとどんどん作られてきたが、もう一回木を使ったものを使おうと動きができてきている
日本は7割を輸入しているが、日本の木でもちゃんとできるように、森林をみんなで考えるようにしていただければ、と思います





 









2013年5月21日火曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)  ・10人の山仲間へ償いの50年 2(再放送)


野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年  2(再放送)
興味のある方は2013.2.20 ご覧ください
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/741050.html

2013年5月20日月曜日

野呂幸司(建築事務所社長74歳)  ・10人の山仲間へ償いの50年(再放送)

野呂幸司(建築事務所社長74歳)・10人の山仲間へ償いの50年(再放送)
興味のある方は2013.2.19 ご覧ください

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/741050_19.html

2013年5月19日日曜日

でんでん(俳優)        ・素の自分で演じる

でんでん(俳優)・素の自分で演じる
NHK朝のTV小説 「あまちゃん」で、漁協の組合長 小山内六郎役で出演しています
福岡県出身 渥美清さんに憧れて、弟子入りしたいと上京したが、会えることはできなかった
1980年30歳のときに、お笑いスター誕生に出演して、この番組で8週を勝ち抜いて金賞を獲得、芸能界にデビューしました
翌年に森田 芳光監督の「のようなもの」で憧れの俳優に転身しました
でんでんさんは多くの映画やTVの脇役として引っ張りだこになっています
2010年に園子温監督の映画「冷たい熱帯魚」で表では笑顔を見せながら、裏では殺人鬼と言う、二面性を持った村田幸雄役を演じて、2011年日本アカデミー賞など数々の映画賞の助演男優賞を獲得しました
7月からはつかこうへい作のストリッパー物語の舞台を控えています

この世界に入って30代のころ、生き抜こう、勝ち抜こうと思っていたから、そういう事では生き抜けないと思っていたので、人を大事にすることが、大事だなあと思って生きている
でんでんという名前の由来 演出家の方から言われて、マージャンにいっていたら、遊びに来ていた人が緒方でんでんといっていた 響きがいいなあと思っていて演出家の人に言ったら、でんでんだけでいいんじゃないのと言われて、「でんでん」になった
マージャンのやり方がすぐわかる 殻に閉じこもった感じで「でんでん虫」のようだとのことで
緒方でんでんと言っていたとのこと

「あまちゃん」に出演 とっても好きなキャラクターですね 
岩手のロケに行った時は、すぐになじんでしまう
全国的に顔を知られるようになった 
小学校の時に俳優になりたかった 決定つけたのが 、渥美清さんの「泣いてたまるか」とかドラマを観て役者になろうと思った  高校の時は、就職活動は全くしなかった
門を叩くことしか知らなかった 渥美清さんのところに行ったが、いなかった
会社に就職して、寮にでも入ろうと思っていた  中途採用で入った(月賦の会社)

仕事をやっていると楽しい 4年ぐらいやっていると移動があった 紳士服部門にいたが、本社に行きたいといった  高卒は本社いけないと言われた そこを辞めて劇団に入った
「お笑いスター誕生」に出場 とにかくそこを使って芸能界に入るきっかけを作ろうとした
役者で笑わそうとの思いがあった   5週目のときにネタを忘れてしまって、忘れた瞬間 周りは間だと思った  思い出してなんとかつなぐ 冷や汗ものだった  (1980年)

「のようなもの」は森田監督が「お笑いスター誕生」を観てくれたおかげで、役を授かった
役者の道のスタートだった  
2010年「冷たい熱帯魚」 温かい人柄の店長 何人も人を殺している役
演じていたときは楽しくてしょうがなかった  膨大なセリフの量だったので、大変だった
数々の賞をもらった  

素で演じているのか?  素ではないが、芝居をうまく見せようとするのを、上手く出来ないんだけども、そういう事をなるべく避けて通っているので、素に見えるのではないんでしょうか
芝居用の発声してるわけでもないし、芝居用の目をしているわけでもないし、だから素に見える
んじゃないんでしょうか   自分の体を抜けようとしている
無理をしないで自然とその役になるようにできればいいなと思っている(力を入れて力まずに)

本番です と言われたら 「カチン」と鳴ったら ポンとスイッチが入るようにしなければ、身体が持たないと思った(「冷たい熱帯魚」のときに思った)
役の作り方は 「出て行ってもらって、入ってもらって」  それがいいなあと思います
形になちゃうのは駄目

卓球をやっている (30代から) 30年ぐらい同じメンバーでやっている
昔は卓球の合間に仕事をしていた  杉並区年代別で優勝したことがある
舞台 7月から 「ストリッパー物語」 つかこうへい作品  
映画が一番好き  大きなスクリーンだし、作品を作っているときが楽しい 公開されるまでが楽しく、公開された後も楽しい  3回楽しめる  作ると時の独特な雰囲気が好き
凄い人に出会ったりするのが面白い

飢餓海峡の時の伴淳さんのような役者になりたい いろんな役をやりたい(良い人だったり、悪い人だったり)













2013年5月18日土曜日

佐伯順子(同志社大学大学院教授) ・ハンサムに生きる

佐伯順子(同志社大学大学院教授)・ハンサムに生きる
佐伯さんは命を生み出す性である女性の生き方と社会のかかわりを研究しています
今、幕末から明治という激動の時代を、夫 新島襄とともに時代を切り開こうとした新島八重に思いを寄せています  
佐伯さんが古代から近代まで様々な女性の生き方を探るうちに、行きついた一人が新島八重でした  新島八重は会津藩の砲術師範の家に生まれ、戊辰戦争では男の格好をして最新式の銃を携え籠城戦に参加し、後に幕末のジャンヌダルクと称されました
戦に敗れた後は兄を頼って、京都に移り住み、同志社大学の創設者である新島襄と知り合い、洗礼をうけて、結婚、洋服を着て、洋館に住み、洋食を食べて、レディーファーストを実践するなど時代を一歩前を行く夫婦像を打ち立てました 
夫の譲は八重のことを決して美人ではないがハンサムな生き方をする人と称しました
夫を亡くした後、八重は赤十字の活動に参加し、日清日露の戦争では、軍の病院に赴いて傷ついた兵士の看護にあたりました
又、女子教育と社会奉仕に生涯を捧げました

新島八重は男の子ぽい子供だったと言われています
兄に習って砲術とか銃の撃ち方を勉強して男勝りだったので、米俵を持ち上げるくらい力があったといわれるような活発な女子だったようです
自分の興味関心と言うか得意な分野を活かして社会貢献したいという気持ちで、会津の戊辰戦争が起こった時に、籠城して官軍と戦ったと言われています
非常に彼女が凄いところは、過酷な経験だったはずなんですが、後に振りかえって、戦とは面白いものだという風に思いだしていて、彼女としては戦争は悲惨なものなので、それに賛成するというわけではないんだろうけれども、必要な戦わなければいけない時には、潔く戦うと言う事を非常に誇りとしていたと思います

勇ましく自己主張できる女性の象徴として、池田理代子さんが書かれた、ベルサイユのばら
という男装してフランス革命に身を投じた ジャンヌダルクと似たイメージで日本の女性の憧れのパターンになっていると思います
明治以降の女性の歴史を研究していて、明治時代は非常に格差社会、華族の方々は社会的なステータスが高くて、生活の心配がない、一方では夫と一緒に働いて子供を育てるというのが当り前というのが沢山いて、そういう多様な女性の生き方が格差として存在していた時代があった

女性は結婚したら、出産したら、家庭に入ってひたすら夫を支える役割が理想化され、求められてゆくようになる  外で仕事はしない様な生き方になってゆく
時代時代に依る女性の生き方の可能性であったり、限界だったりと言うものを考えさせられた

襄の留学は森鴎外、夏目漱石といった人のドイツ、イギリス留学とは全然違うパターンの留学をしたと思う 彼らはキャリアを積んで、目的意識がはっきりしていたが、新島襄はまだ流動的な時代に密航と言う破天荒な形で良くやったなという形で海外にわたる
白紙に近い状態で海外を観る ハーディー夫妻のもとで生活をしながら現地教育を受ける
ライフスタイルを含めて吸収をした  そこから養った女性感は新島八重にフィットしたのかなあと思います

襄と知り合った いろんなことを影響を受けている  洋風の家に住んで、洋食で食卓を囲んだ
頭だけではなく、身体でかなり洋風の影響を受けた 着るものも洋装 (当時としては極々まれ)
八重の場合は宣教師が身近にいたりしていたので、自然だったのかもしれない
襄とはファーストネームで呼び合っていた(明治の時代には違和感があった時代)
人力車の乗るのにもレディファーストを実践 襄としてはごく当たり前なことをしただけ 妻も違和感無く受け入れた 八重でなかったら受け入れなかったかも知れない

明治の女性関連の記事を観ると、女性については美人が一つの評価になる
お見合い写真が明治になって普及してゆく 写真を使ってお見合いを進めるのがハイカラな結婚方法として注目されるようになる 美人が人物の評価を左右されてしまう
襄の場合は外見より中身がしっかりしていればそれが自分にとっては素敵な女性だとはっきり言っている(明治の男性としては珍しいと思います)
ハンサムと言う事は 自分の信念を曲げない 相手に媚びたり、迎合したりせずに自分の信じる道を貫くと言う事を意味していると思う

大胆な女性であるがゆえに譲は興味を持った
八重は介護の先駆者 兄が目が不自由になり、足も不自由になってしまって、ケアをする人が必要になって、お客さんが呼ばれたりしたときに、八重がおぶって廊下を移動したりした
妹である八重が男である兄をおぶっていくので、書生が好奇な目で見ていた と後に率直に語っている  彼女のたくましさは優しさに裏打ちされた、たくましさ
そこが非常に八重に学ぶべきところかなあと思います

私も母が倒れて、要介護になって、介護の仕方を理学療法を受けて、習ったがことがある
自分でやってみて、こんなに大変なことを八重はやっていたんだなあと身近に感じた
バイタリティーのあるタフな女性だなあと思う
キリスト教等新しい価値観に触れて、非常に大きな価値観の揺らぎを感じたけれども、新しい考え、人生観があるんだなあと考えて、おそらくキリスト教に新しい希望を見出したものと思います
キリスト教の愛 一番大きかったと思います  一言で言うのは難しいが
「心尽くし、精神を尽くし、想いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」
「自分を愛するように、あなたの隣人を自分のように愛せよ」 マタイ 福音書22章37節から39節

恋愛、愛の表現なり考え方なりは 明治時代にキリスト教なり聖書を通じて、日本の文化、文学に普及した  江戸時代は夫婦の情け 親子の情け 情けが比較的愛に近いが 
キリスト教では神のもとにみんな平等であって、そこでお互いを思いやりながら生きてゆくという教えだったので、女性にとっては非常に魅力的だった
儒教が女性の従順さ そうではなくていいんだという考え方はキリスト教に学んだというパターンが明治の女性には多かった  新鮮な魅力があったのではないかと思います

当時、女性が社会活動をできるのは限られていた (肯定的には観られない状況にあった)
看護婦として傷病兵を癒すという役割があり、八重としては、戊辰戦争のときにリアルに経験しており、何か社会のために役に立ちたいとの思いがあったと思う
其れが看護婦という仕事だった  日清日露戦争では日本の病院で看護した(八重は高齢になっていたので、傷ついた方の心のケアをしたという風に八重自身が回想している)
傷病兵の方たちの慰めになるような話し相手になったり、苦しみを聞いたのではないかと思う
早い時代からやっていたのだなあと思う

樋口一葉  世代的には八重の後の世代 八重は学歴がなかったが、もっと新しい時代に生まれていたら当然女学校に通ったと思われるが、当時はそのようなハンディの中で、自分なりの可能性を模索するという必要に迫られた
樋口一葉は成績も優秀だったので、上の学校に行きたかったが 親の負担から、女性は学問なんかせずに、お裁縫する方が、女性としてまっとうに生きられると、泣く泣く学校をあきらめた
制限された状況の中ではあるが、自分なりに生きてゆくことが八重とは似ている
自分の筆の力で何らかの自己表現をしたいと、野心的な女性だった

当時の社会情勢にもいろいろ関心を持っていた 
自分の力で生計を立てていかなくてはいけない  力強い決意を持っていた
今の女性は? 一面では公私にわたって活躍している含みはあるが、保守的な要素も併せ持っているので、女性の自由度が高まったとはいえるのかなあとは言い切れないのかなあと複雑な心境で観ている

八重 自分のライフスタイルを貫きたいと思って、その信念をずーっと貫く勇気を持っていた
高度成長期を理想化してしまうと、いろんな幸せがあるよと言う事がかき消されてしまう 
自然や命と共生するような社会なり、文化なりと言うものが見直されてゆくのかなあという気がする
今までの型にとらわれずに、新しい生き方の可能性を模索してゆく
その時に自分なりのライフスタイルを周りに左右されずに、見出してゆく、その時の心の強さを
八重の様な女性のハンサムぶりに学ぶことができるのではないかと思います




















2013年5月17日金曜日

2013年5月16日木曜日

2013年5月15日水曜日

山崎晴義(内科小児科医)     ・ザンビアから地域の赤ひげ先生へ

山崎晴義(内科小児科医) ザンビアから地域の赤ひげ先生へ
昭和35年慶応大学の医学部を卒業した山崎さんは産婦人科医として、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどで、研鑚を積んでいた時、ヨーロッパ人として、初めてアフリカ大陸を横断した医師、宣教師、探検家でもあるリビングストンの伝記を読んで、彼のように僻地で医療に携わりたいと、リビングストンの終焉の地、ザンビア共和国で産科医として働きました
ザンビアで患者から、たよられていると知って、内科、小児科医として独立して開業、
2年ぐらいのつもりが、結局10年間 それもお金がない人には、無料で診察するなど、ザンビアの赤ひげ先生になりました
帰国後、山崎さんは神奈川県川崎市多摩区で内科、小児科を開業、以来36年間、日曜、祝日以外は休まず地域医療を精力的に、になってこられました
その原点はアフリカのザンビアにあるという山崎さんに伺いました

8時半から夜の8時半まで診察 一般的には病院は6時には終わっている 36年間続いている
(健康であったのでずーと36年間休まず続けられてきた)
夜間救急診療 手を打つ 患者さんの方もいきづらいので、できるだけ夜になっても簡単に気安くなるようにした  これも10年以上になる
子供のための特別なものは? 小児科を専門として診察しているドクターがそこに来る
行けば必ず小児科の先生に診てもらえる 制度として作った  
病院と診療所の連携 ・・・病院で普通の風邪を観たら観切れるはずがないので、重症の患者は病院に行って観てもらう 役割分担をしながら診察するという事です(定着してきた)

36年前はそうではなったので、大変だった 特に夜間は忙しくて大変だった
患者さんが 医療情報センターに電話をかけるとどこどこに行ってくださいとの指示がある
医療情報センターは最近はどこでもあるようになった(医師会で話し合ってできた)
黒いエプロン 合成皮革 インフルエンザの患者が来て、くしゃみをされると、白衣にしみこむことがあるが、そうするとその度に白衣を着替えることはできないので、黒いエプロンではさっと消毒できるようになっている

外国に14年半いた  最初アメリカ、パリ、ロンドン ロンドンにいたときにドクターロビングストンの話を聞いて、伝記を読んだ  日本ではあまり知られていない
医者で宣教師で、冒険家でもあった  200年前に生まれて、60歳のときになくなる
家が貧乏で10歳のころから働きながら勉強していた   2年間大学に通って宣教師としての、医師としての資格を取った  中国に行くつもりであったが、アヘン戦争があり、方向を変えてアフリカにいた宣教師の話を聞いて行くことになった
大陸を移動することが大変なことだった  牛車、ロバだとかを使って奥地に入って行った
ボートをカバにひっくり変えされたり、ライオンにかまれたりした

アフリカが全然知られていなかったので、宣教師としての仕事をしたかったし、アフリカをもっと知りたかったという事で、奥へ奥へとはいって行った(今では想像できないほど大変だった)
その方の勇気とど根性、忍耐力、人のために尽くしたいという心 頑固さ 等に惚れこんだ
お亡くなりになったところ ザンビア 60歳で亡くなる間 何回もマラリア、赤痢、リュウマチにかかる大変な勇気で頑張りぬいた  (最後は骨と皮になって)
ザンビアは1964年に独立して新しい国になった(英国領)  北ローデシア
海抜1000mぐらいのところにあるので過ごしやすかった

私が想像しているようなところではなかった  立派な政府の病院があって、設備も立派で、何人かのインド人の医者もいました  
1965年に行った  30歳の時  1年間は日本人を観たことがない 現地人のみ
勉強しないといけないので アメリカのライセンスを取り、2年半いく(日本のお粗末さを感じた)
パリにも行ってみたいと思って、パリにも行く  シュバイツアーの話を聞いて、アフリカに行くためには免許を取るのに5~6年かかるといわれて、英国では簡単にライセンスを取れるというのでライセンスを取得する  (ザンビアが英国領であったため)  それで行くことができた

行ってみて、想像していた以上に開けていた  
産婦人科医としていった それだけで大変な仕事であった
ザンビアでは帝王切開などをして子供を取り上げたりした(子供が大きくなりすぎて出られずに子宮が破裂して亡くなってしまうようなケースがあった)
新しい症例を挙げればきりがない  政府の病院の産婦人科にいたので、へき地からセスナ、ランドクルーザーで送られて来るのでその人たちを手術したりした
僻地に行くことはあり得ない、僻地にいっても役に立たない なんにも施設がなければ、なんにもできないので  

大変な忙しさだった  朝から晩まで働いて、一晩おきに当直で夜中に帝王切開が2かいも3回もあって終わると血を浴びて大変だった     若かったからこそやれたと思う
4年間働いて、取り上げた子供がいつまでも私のところに来た それで自分でクリニックを開業してそういう子供たちも観るようになった  ジェネラル メディスンですね
産婦人科はやれなくなった   患者を最後までフォローアップするオープンシステム(英、米等も同じ)

日本でもすこしずつ対応するようになった (情報 意見の差が出ない様に)
納得していただけるような治療をする
患者が高齢化して認知証になってしまう場合があるので、その場合は家族の方との話し合いをする(治療方針を決める)

後15年ぐらいは何とかやってゆきたい そのためには健康でないといけない
積極的に健康管理をしている  毎晩終わってからスポーツクラブに行っている
運動することによって熟睡する  プールに入っても泳がないで歩く (歌を歌ったり、一日の反省をしたりする)  食生活も気をつけている
 
病気だけではなくて、患者さんを観てあげる(何でも聞いてあげる)
















2013年5月14日火曜日

伊東豊雄(建築家)        ・震災から変わった私の建築 2

伊東豊雄(建築家)  震災から変わった私の建築 2
1941年生まれ 韓国のソウルで父は働いてきた  2歳で引き揚げてきた
少年時代の思い出は長野県に塩沢町 に2歳から中学までいた
野球少年で野球は大好きだった ランドセルを忘れて学校に行くような少年でした
小学校の時から絵を描くのは好きだった  父親は材木屋だったので、人の家の図面を書いたりしたのは、はたで見ていたが、建築屋になろうとは思わなかった
中学3年に東京に転校した  高校でも建築の事は考えていなかった
大学に行って野球をやろうとしか、考えていなかった
諏訪から、当時蒸気機関車で6時間ぐらいかかった
  
高校で進学するときに、希望を出すが、成績が悪くていける学科が少なかった
建築家辺りが、いけそうかなあと思っていた
オリンピックの前だったので、新しい動きができてきた時代
大学生4年のときに、菊竹清則さん 30代半ばのひとのところに1カ月アルバイトをする
そこで大変刺激を受けた  建築は論理的に作るものだと思っていたが、論理なんか吹っ飛んでしまっていて、皆が凄い集中で、一つのプロジェクトに向かって、ある時間に集中して考える
その中から何かが生まれてくるという、その生まれる瞬間、アイディアがこうやって出るんだと
いうのは、論理を越えて、身体の奥深くから放たれてくるような、そういうものなんだと観たときに
あー建築とは凄いものだなと思った  わくわくと言うような気もちとは違う、すげーというような
創造とはこういうものだと思った 自分もやってみたいと思った

アルバイトの最後の日に、来年、来てもいいですかと言ったら、良いですよと言ってくれた
翌年から4年間働かしてもらった
最も刺激を受けた、何か自分がつかむことができた時代だと思います

60年代後半 ピークを迎える時期、 大学紛争が激しくなった時代  
大阪の博覧会と69年の大学紛争、2つの事件は自分にも大きな影響を及ぼしていた
60年代、未来都市はこういうものかなあと思っていた期待が、大阪の博覧会をみて、この程度のものだったんだという落胆さと、学生運動で何か社会を変えたいという若い人の気持ちへの共感とが入り混じって、自分で何もこれからの将来についての展望がなかったんですけれども、一度自分で白紙の状態で考えてみようと思いました

65年 東京オリンピックの施設は良かったと思ったが、大阪の博覧会の施設は総決算的なもので、もうその先は無いようなところへ来てしまっている(デザイン的にはもう先が見えたというか陰りが見せ始めていた  建築家としてはそう見えた  博覧会には一度も行っていない)
大学に戻ろうかと思ったが、大学も紛争していたので、兄弟が自分たちの家を設計しろよとか知り合いの住宅を設計したりしてなんとか食いつないだ
1971年に、最初の作品 アルミの家を設計  個人の住宅しか手掛けていなかった
1年に一つか二つしか設計してなかった(30代半ばまで)

どうやって生きてたんだろうと、いう時代が一番何か思い出深いし、良い時代だと思う
外に行って飲む金がなかったので、オフィスの中に酒を買ってきて、飲みながら翌朝まで建築論を戦わしたりした
日本がバブル経済に向かってゆく時代になって 80年代 夢の中を歩いているのではないかと
思うようなきらびやかで、現実感が失われている状況
そういう時に、こういう街の空気と言うのはどういう建築になるんだろうと考えていた
その頃は都市一筋だった  重さを持たない建築を作ってみたい、というイメージをしながら作っていた  

80年代末から90年代にかけて少しその空気は変わってきた その頃に熊本で初めて公共の建物の設計のチャンスを作ることができた(八代市博物館  でき上った時は50歳)
このおかげで90年代は公共の仕事に携わる事が出来た
発注は自治体、利用する人は違うわけで、利用される方方が直接見えてこない
自分が創造しながら、設計に組み込んでいくか、違った難しさがある
公共の仕事をしない人は、ヨーロッパでは建築家とは呼ばないんだよと、先輩から言われていた
公共の仕事をしてある種の充実感はありましたが、すごく難しい問題があることに気がついた

日本で公共の仕事は、この街にもこの街にもあるような図書館とか、ホールとか どこにいてもあるものが望ましい 問題が起こらないから でも本当に居心地の良い建築だろうか そこにいて楽しい建築だろうかと、考えると、決してそうではないんじゃないかと、思った
少し解放するといろんな楽しいホール、図書館ができるはずだと思うが受け入れてもらえ無い(でき上ってみると、こんな楽しい建築があったんだねと言ってくださるが、でき上るまでは創造が浮かび上がらないので、こんなの嫌でねと言われたりするケースが多い)

仙台メディアテーク  外側からと中から見たものは全く違う  太陽が当たる側が全面ガラス張りで外にいるような雰囲気、ソファーに寝そべりながら本を読んでいる(大きなリイングの大きな本棚の様なイメージ  使ってみて通うようにならないと良さが分からない)
模型を20も作りながら、創造しながら、一つ、一つチャックしてゆく
本当に好きだと思ってやってんの、ただこれ良いアイディアでしょうと言うような気持ちでやっていると翌日すぐに消えてしまうよ、と若い人に言ってるんですが(菊竹事務所で体験したことをみんなでやっていきたい)

世代の違い 伝わりにくい  対話しなくなってきている 議論することは避けたがる
これつまらないよねと言いうと、昔のスタッフは、翌朝までに何かまた新しいことを考えてこれならどうですかと、やってきたが、今の人は「ああ そうですか」と 引っ込めてしまう(対話にならない)
使う人たちとの対話 大事   他者との関係の中で建築ができてゆく 多面的な行為なので、もう少し自覚するような教育をしてほしいとは思うが、そうなっていないのが実態の様です
 
子供たちに建築を教える「伊東塾」をはじめた  一緒に小学生と考えてみようと思ったら、大人の塾より面白い、奔放で  論理的にもある程度考えるので、本当に面白い
最後模型にしてプレゼンテーションしてもらう
人が集まって、初めてそこに場ができてくる  その場をどんな形にするのが建築だと思っている
話を進めるうちに、日がたってくると 段々家族の暮らし方がこどもにも判るようになる
1年たつとかなり変わる 模型を作ることも、考えていることも変わる

私たちが考えてきた建築って、近代主義の建築 如何に機能的か、如何に性能がいいかとかそういう事が非常に重要だと言われた時代に、私たちも建築を考えてきました
それを一番達しうるのが、都市であるという風に考えてきたが、震災を機にもう一回ゼロに戻した時に、もっと豊かな暮らし、人間らしい暮らし、それに見合う建築は近代主義とは違ったところにあるのではないだろうか もっと自然の中に開かれている暮らし、人と人とがなごみあえる暮らし、それを実現できる建築とはそういったものなのか これはゼロから見直さないといけないと思っている
2年という年月を経て、冷静になって、自分が作ってきた建築と震災を機に考えてきたことが、一つに組み合わされて、これからどんな建築を作ってゆくべきかすこしずつ、整理されてきた
























2013年5月13日月曜日

伊東豊雄(建築家)        ・震災から変わった私の建築

伊東豊雄(建築家)  震災から変わった私の建築
国内だけでなく、イギリス王立建築科協会のゴールドメダルを受賞するなど、世界的に活躍する建築家です
東日本大震災の後、知り合いの建築家五人と共に被災した人たちが気楽に集まれる場所、
「みんなの家」作りに乗り出します
陸前高田に作った皆の家の製作過程を、イタリアのベネチア ビエンナーレ 国際建築展に出品、世界各地から評価を得てパビリオン賞 を受賞 、3月には建築界のノーベル賞と言われ、優れた建築家に毎年贈られている、アメリカのプリッカー賞を受賞しました
この受賞は日本では丹下健三氏や安藤忠雄氏に次いで、6人目です
審査員からは建築のスタイルを革新し続けていると高い評価を受けたとのことです

大震災後、被災地には30~40回は行っている  
当日は、自分の居る建物も崩壊するのではないかと思っていて、冷静にはいられなかった
仙台とは連絡が取れなかった(仙台メディアテーク 伊藤さんが設計した仙台にある情報センター  図書館を中心にメディアを複合的にしたような建物  ちょうど3.11の翌日が10周年のお祝日をやることになっていた) 翌日連絡がついた(天井の一部が崩落)
一日も早いオープンのお手伝いができるかどうか、気になった(責任を果たしたい)

大震災から3週間後に仙台メディアテークに行くことができたが、東海岸を市の方に案内してもらったが、あまりの惨状に声も出なかった  呆然と見つめていた
それからすこしずつ建築家として何ができるんだろうと、考え始めました
ひたすら、こんなことがありうるんだろうかとの思いがあった
3月の末に建築家5人で帰心の会(5人のイニシャルを取ったもの  妹島和世 山本理顕内藤廣 隈研吾 と私) 自治体から声がかからないけれども建築家として、何かできるものがあるんだろうか、と それを考えてみたいと集まった

東北大の小野田泰明先生を通じて、釜石市の復興に手を貸してくれませんか、という事を依頼されて、5月3日に初めて釜石市を訪れた
被災した方たちらも含めて話し合う機会があったが、私たちが思っているより明るく前を見つめているというか、何かをここでやらなくてはいけないとの思いを感じて、きっと私たちにもできるはずだと、その時に思った
建築ってなんだったんだろう、家ってなんだったんだろう 、家族ってなんだったんだろう 何にもなくなってしまったときに、皆で考えてみようという事になった

「みんなの家」 私が釜石に行き始めたので、釜石で避難所を訪ねて、そこに住んでおられる方に話を聞いてみると、皆で一緒に話す場所が欲しいという事をおっしゃる
仮設住宅でなくても、ここでいいからもっとみんなが食事ができたり、話ができたりする場所が一番大切なんだと、特に高齢者が言った   それならば避難所の中に大きなテーブルを置いたらすぐできるだろうと思ったが、仮設住宅ができるようになって、移る段階になったので、それでは仮設住宅の中に何かそういう皆さんが集まって心暖めあえるそういう場所を作りたいと思ったのが「みんなの家」の始まりです

気取った名前ではいけないと思い、高齢者でもわかるように「みんなの家」にした
最初は 熊本県知事に話が伝わり、良い話なので支援をするという事になり、熊本県は宮城県と親しい関係にあって、仙台市長に相談に行ったところ、宮城野区に案内されて訪ねた
みんなで一緒になって考え、みんなでつくろうとの思いもある(利用される方、吾々、施工者、ボランティアの人たち)
話し合いをしながら、できるだけ要望を入れて、みんなの家を作っていった
宮城野区に関しては熊本県が資金を提供、屋根材、キッチン、サッシとかメーカーの方から無償で提供してもらった

その後は我々がいろんなところに声をかけて資金を提供してもらった 
海外の団体、企業の方が資金をしてくださるという事が多いです
現地に行き始めると、現地の方を見ていると、又来週行きたいと思うんですね
いろんなところにいろんな人がいて、皆さん本当に普段の状態よりも、人間らしくなると言うのかなあ 非常に自分の内面を隠さずに出してくれるし、凄くお互い住民同士が励ましあったり、とにかく凄くいい
最初はどう声をかけたらいいかと思って行ったが、それは一瞬で、皆さん明るい感じだった

釜石、東松島、陸前高田 と6軒目ができたばっかり 東松島には子供のみんなの家を建てる
童話の中から出てきたような家を建てた  話の読み聞かせをできたり、アルミのドームでできているが車があって、引いていって野外ステージができるようにした(子供の遊べる場)
場所場所によってニーズをくみ取る
釜石では商店街のためのみんなの家を作りました
復興の拠点になるべく、ある種の仕事の場    まだまだ集まる場所がない

東京にくらべて人と人との繋がりが強い、地域のネットワークが資源の一つみたいなものがある地域と結び付いているので、より親しくなっている 
心を暖めあう、みんなで作る、ここで自分たちはどんなものにしていきたいという拠点
なかなか政府の復興計画では住民の意思が汲み上げられない、逆に住民が話し合って、それが自治体の声になって届いていくような、もっと人間的な復興計画のはじまりなんですけれども

意見の取り纏め難しかったようなことは?  意外になかった  普段の公共移設をやっていると結構いろいろ言われるケースはあるが、今回は心を一つにして作りましょうという事で、皆がありがたいと言って、喜んでくださる(自分たちが関わりあって作ることに参加する)
物を作ることに喜びをみんなが味わえる(みんな無くなった状態での活動)

造り上げてゆく過程をベネチュアビエンナーレ 建築部門に知らしめた
2年に一回行われる 私が日本館のコミッショナーを務めさせてもらったので、今回はみんなの家を5人のチームで作ろうと 陸前高田の畠山直哉さんという写真家と40歳ぐらいの若い世代の建築家 藤本壮介さん 平田晃久さん 乾久美子」さんの3人 と一緒になって 陸前高田にみんなの家を作りましょうと 日本館で写真などを展示して、世界の皆さんに見ていただこう それを通じて、建築ってなんだったんだろう、 家ってなんだったんだろうと 普段忘れられている問題を世界の建築関係の人に投げかけて見ようと言うのが趣旨でした

無事に完成して、現地の皆さんが喜んでいる様子が映像で流れている
始まって、一年後に展示がうまくできるのかの保証は何もなかったので、非常にリスクはあったが、幸いに皆さんが物凄くエネルギーをつぎ込んで、毎週のように集まって議論しました
(実は200個ぐらいのスタディーモデルを作った) 
現地で菅原みき子さんが登場して、熱のある議論になってきた

そこに注がれたエネルギーが館内にみなぎる  
畠山さんの写真 町を見つめる目は特別な思いがあったと思います(実家と母親を亡くされた) 
写真に現れていた(感動を呼ぶものであった)
模型を見ながら、建築とは何だったんだろうなあとスタディーの過程を見てもらって、考えてくれたと思う   
陸前高田の立ち枯れをした杉を使って柱にした(モニュメントの様な)
パビリオンの最優秀賞をいただいた
被災地での復興 思うようにはかどっていない  復興の難しさ  
未来に希望が持てるような、なにか こんな町になるんだよと少しでもお手伝いができればと思います  いつまで我慢しなければいけないんだろうとの思い、厳しい
復興に計画が具体化しつつあるので、これからの街を作っていけるような、単に復興と言うのではなく、ここから日本の新しい街ができるんだ、ここが最先端の町なんだというような町を作らなくては嘘だと思うんですが、まだそこまではいっていませんね

いままで私たちは都市に向かって、建築作って行きたいと思って来たような気がする 
特に大都市に向かって、一番魅力があって、便利で 、効率のよい生活があるんだとみんな若い人はひたすら都市に集まってくる、それが100年ぐらい続いたんですけれども、そうではなくてこれからはもう少し、もっと自然と共に暮らすとか、人と人とのつながりを大切にして暮らすとか、これから時代が変わってゆくような気がするし、変わってゆくべきだと思っているし、若い人たちが好んで移って行きたがるような新しい街を作らなくては行けないなあと凄く思います

「みんなの家」で、土間が沢山あるとか、そこに薪のストーブが燃えているとか、縁側があるとか
そういう建築はあんまり建築家は考えてこなかった
近代的建築を考えてきた  こんなに縁側が役に立っている、都会でも土間がある暮らし、縁側がある暮らしを我々は考えなければいけないなと、そうやって外とつながってゆく、建築の在り方、街の在り方がありうるなあと凄く痛感しました
自然に対して開きたいとは思っていたが、この境界は越えられなかったが、小さなみんなの家を作ることによって、大きな建築でももっともっとやれる事があるなあと思い始めた




















2013年5月12日日曜日

岸ユキ(女優・画家)       ・農業は新しい創造の源

岸ユキ(女優・画家)・農業は新しい創造の源
1964年 西野バレー団に入団 クラシックバレーのほかにラジオ出演、歌手としての活動を始めました  1969年から始まった「サインはV」ではキャプテン役で活躍します
その後NHKの明るい農村の番組に出演したことから農業に関心を持つようになりました
20年前から山梨県の韮崎で季節の野菜を作っています
畑で実る農作物や山梨の自然をモチーフに絵を描き続け、3年連続で二科展に入選しています
東京と行き来して行う農業の楽しさと苦労話、絵やバレーの世界と共通することなどを伺います

農場での作業 夏野菜の苗を全部植えました  きゅうり、トマト、なす、おくら、ししとう、種もまく全部苗で5本ずつ植えるので畝としては5,6本  耕して、肥料を入れてふかふかに土をしてやる
基本的には力仕事は夫が担当 助け合いながら行っている
或るときに 「岸さんねー  百姓ちゅーもんはねー らっきょのような汗をかいて一人前」と言われた  20年やってきた  畑の広さは200坪ぐらい  手で耕している

父は日本画家の山田皓斉 私も一緒に書いていました   何も教えてはくれなかった
小学校は水泳、4年で5000mの遠泳に参加した  6年生で師範の資格を撮る
中学でウエストサイドストーリーを見て大ショックで本当に素晴らしいと思った
かっこよく踊りたいと次の日に西野バレー団の門を叩く
顔が黒くて、水泳で身体は骨格が大きかった  
水泳とバレーの筋肉は違う バレーをやる人は水泳をやっては行けないとのことだった
父からは、やるからには基本からやりなさいといわれた

「サインはV」に出演することになった 背が高かったのでキャプテン役になる
最初は農業の番組に出会う NHKの明るい農村から話が来て、アシスタント役 農協さんの提供の番組で農村をリポートして回る番組が同時に来た
それまで、いろんな番組に出演してきたが、海外出張番組にも出かけて、とても良い経験をした
日本の良さを見直しすることができた そのあとに農業番組に参加することになった
北海道から九州、沖縄まで出かけた 素晴らしい農家の方に沢山出会う(カルチャーショック)
番組の中で米作りもやった 素足で田んぼに入って、気持ち悪さ、でもあったかい、あの雪解け水がここに来てくれるので、美味しいんですよと言われて、感動する

いつかは自分でもやりたいなあと思った 農家の女性の美しさ、たくましさも感じた
友人が山梨にいて(山梨医大に受かって)その後農業をやるなら山梨だよと、誘ってくれた
案内されたところが畑だったので、宅地にならず家を建てられなかったが、その後家を建てられるような状況になった(4年間かかった  家を建てるのも地元に大工さん 水道も引くのにも苦労したが地元の人にいっぱいお世話になった  この4年間が親しくなれるきっかけになった)

最初、しばらく放っておいた畑なので硬い土地だった  無農薬農業 
土を段々良くしていけばできるようになった  でき上った野菜は親、友達、近所に配る
絵を二科展に出展  若いころに二科展に出展した事がある 
是非出したいとは思っていた  3年前に二科展に一般公募で出した
80号 2枚書いたら後は100号が書けますと言われる  
題材は畑の野菜 自分でデフォルメして描く  
上村 松篁(しょうこう)さんは鶴を描くが鶴を飼っているとのこと  私も野菜を作っているので、そうかなあと思う

舞台は演じる側と客席が一体にならないと、良いものにならない  客席と舞台が一体になった時に天から魔物が下りてくるような、 三位一体になったときに素晴らしい劇場が割れんばかりの感動が生まれる  農業も私たちの努力と、人間の力、自然の力、三位一体になった時に良いものができるのかなあと思います(毎年違う  魅力の一つでもある)
新たに農業を始めたいと思う人は、自分はその土地の人たちと合うのかとか、いろいろ調査してから入って行った方がいいと思う











2013年5月11日土曜日

奥明栄(カーボン樹脂会社副社長)   ・日本製のボブスレーでソチオリンピックを目指す

奥明栄(カーボン樹脂会社副社長)・日本製のボブスレーでソチオリンピックを目指す
レーシングカーの開発を手掛けてきた「童夢」の子会社の社員として、レーシングカーのみならず、長年のレーシングカー開発で培った軽量化設計技術と炭素繊維強化プラスチックのCFRPの成型加工技術を駆使して、様々な部品や構造物の製造、成型業務を行ってきました
奥さんがつくったレーシングカーは自動車レースのルマンでも上位入賞を果たしています
現在はカーボンファイバーの技術を生かして、2014年のソチオリンピックのボブスレー競技の日本代表のそりの開発に大田区の町工場と共に下町ボブスレーのメンバーとして取り組んでいます
レーシングカーに魅せられ、ボディー屋として打ち込んできた思い、ルマンに挑戦した空力の経験と知識を如何にソチのオリンピックのボブスレー競技の日本代表のそりの開発に活かすのか伺います

幼いころから車が大好きだった 機械、全般的に興味を持っていた(ばらしたり、作ったり)
理科とか算数は興味があった  同志社大学、機械工学科 自動車部に所属 車の整備、早く走るための改造等、自動車の競争に興味をもった
レーシングカーを作っている「童夢」との出会い  日本製のスーパーカーを作るというニュースがありすぐさま門をたたいた
図面書きを依頼されその日から手伝う事になる  設計を手掛けるようになる
気がつくと社員になっていた  (当初はそれを仕事をするとは思っていなかったが)
同好会みたいなものだった 設計した図面が翌日は部品になっていた(感動的であった)

童夢はエンジン以外  シャシー、ボディー、ギアボックス、サスペンション 電装系、燃料系全て
ルマンには17回参戦する(昨年まで)  予選は一周の早さ 決勝は24時間壊れずにどれだけ長い距離を走れるか   予選がPRポイントだと重点を置いていた  いい成績を残した
自動車メーカーは資金力があり、エンジンのレベルが違っていた
車体性能でどれだけチャレンジできるかが勝負だった
車体設計にいろんな考えがおりこめるのが面白かった
ルマンはストレートコースが多いので、違うコンセプトで戦おうとした(空力=空気抵抗を小さく)
ダウンホース(地面に車体を押しつけるような力) 如何に抵抗なくダウンホースを得るか 

車体の後ろの羽根 数mm (街を走っている車は150mm程度) 狭い空間にしてそこの流速を高めることによって、負圧になると、ダウンホースにつながる
いかに最適な形を導きだしてゆくか 当時は実験設備がなかったので感覚的にデザインしたりしてやっていたが、実態と違う部分があり、学術的な開発とは言えなかった
論理的に最適化する手法が必要だなと思い出した
実験装置を開発することが先決だなと思って風洞実験設備を1986年あたりから開発するようになった

地面と車体の位置関係  接近している(5mmぐらい)ので、地面が風速と一緒に移動する
ベルトにして風と同調させる(非常に実走行に近い状態が再現できる)  格段の進歩があった
軽量化が次に大事   軽くて剛性がある事が必要  
1983年にF1にカーボンファイバーを使われた車体が出てきた 
材料メーカーからサンプルをもらう これはすごいと思った(軽くて強い  アルミとは違うと思った)
1984年に2輪で一回作って見ようという事になる  1年がかりでものにする
最初は成型法がさっぱりわからなかった 設備、テクニックが必要 最初は平板ができなかった 
金属から樹脂へ変えていいものかどうかの思いがあったが
最初安全のマージンを取りすぎたのか、軽量化にあまり得られなかったがこれは凄い材料だと思った(これと多分一生付き合ってゆくんだろうなあとの思いがあった 金属とは異次元)

曲りなりにも設計してほしい形が作れますねという様になるのに10年かかっています
レーシングカーでできるのであれば、こんなものができないのかとの問い合わせが来るようになった
例、介護用のバスタブ、とか  将来こういう事業も成り立つのではないかとの思いがあった
童夢のカーボン部門が独立して、レーシングカーだけではなくていろんな用途の開発を手掛けるようになる
ちょっと甘く見てたのは、他の用途はだれでも使えないといけない  どういう使い方をするかわからない  沢山、安く作らないといけない 
品質が安定していないと駄目(量産品の基本) と言う事よくよく考えると高いハードルの世界である  お客さんあっての仕事なのでお客さんの立場に立ったもの作りでないと駄目だと思った

エネルギーを瞬間ではなく継続的なパワーに置き換えることが必要だった(レーシングカー造りからの考え方への変更)
ボブスレーのそりの製作  町工場と共同開発 ビジネスとは違う見地からやっている
1995年いろんな話が舞い込んだ時期に 長野オリンピックを控えたボブスレー連盟から依頼を受けたことがあったが、形にするまでには至らなかった
いつか作ってみたいなあと思っていたが、今回偶然に舞い込んできた
技術を進化させるのには、競争の場が必要  そういう場に放り込まれないと駄目
若い技術者にも体験してほしかった   一般の製品はリスクを負わない
崖っぷちを渡るようなリスクの中で生まれる技術があると思うので
昨年設計してプロトタイプができて、それが良かった  全日本選手権に出して、ぶっちぎりで優勝してしまった

3月にアメリカに持って行って、国際デビュー  改善するならこのようにすればと良いと判ってきたので、現時点では持てる力を全部投入すれば、完成されたものになる自信はある
骨格は鉄でないといけない 骨格は大田区の町工場が担当 外皮のボディーは私たちが担当する  カーボンマジック社が4月で童夢から東レの傘下になる
独自にやっていっても発展成長はしてきたが、より一層の発展を一気に進めるチャンスだと思った
東レは炭素繊維のトップメーカー 一般の自動車へのカーボンコンポジットの展開が本格化する
航空機部品への展開  設備投資、体制の強化等大変な労力が必要
具体的な展開ができるのではないかと思っている
高速鉄道、リニアーの領域    高速で移動する物体にはうってつけの素材です











2013年5月10日金曜日

細谷亮太(小児科医)       ・難病の子供たちと生きる 2

細谷亮太(小児科医)・ 難病の子供たちと生きる
医師を辞めたい事もたびたびあった(患者さんのそばに居ながら頑張るという事がたまたまあった又一日も二人が無くなるという事があると、とても落ち込んでしまうようなことがよくありました)

「どれほどの 鬱なら病 はなみょうが」  鬱になって精神科の医師に診てもらった方がいいかなと思いながら踏みとどまっているような状態の句  はなみょうが みょうがの花が薄暗いところでポット咲いている 自分の気持ちを託すのにはぴったりの花だとおもえた
つらいんだったら辞めようかと思った

「ひながしの 血の色医者を 辞めたき日」 こんな華やかなお菓子を見ても血を連想する 鬱になっている状況
鬱っぽいまんま、仕事をやめないできた最大の理由は昔に診た患者が、何年も何年もたってから他の人の口を介して私にいろんなメッセージを送ってきたことがすこしずつ貯まってきて、死んでも人間は終わりではないのだなあと、私がその子のことを覚えている間は、その子が私の中にいるんだというような、感じがして、そういう仕事をしながら、その子のことを思い出してあげるという事が重要なんだという気になった  その後はやめようとは思わなくなった

四国に遍路に出かける  30年の勤続のご褒美に10日間の休暇をもらったのがきっかけで、歩き遍路を始めて、以後ゴールデンウイークを利用して、ずーっと続けてきて去年88か所いけて、結願しました
雑念は湧いてこないもので、ひたすら時間がたってゆくなかで、一歩一歩ひたすら歩む
「遍路道 落ち椿踏まぬよう 踏まぬよう」 椿の花はポトンと落ちる 遍路のひとは踏まぬように歩く 情け深く歩いている状況が続く

今小児がんは8割ぐらいが治ってきている  医学の進歩は素晴らしい 
実際100%直せるものではない 1~2割はまだなくなってしまう子がいる
同じ状況になる場合が沢山いなくなった分だけ、支えてあげる側の思いが濃くないといけないのかなあと感じます
子供にも告知する時代 1994年に日本も子供の権利条約を批准する
子供も自分の体に何かされるときに、自分の意見をまとめて発表してもいいという権利が保障された  アメリカは1977年ぐらいから、子供たちに病気の話をきちっとして納得してもらった上で治療しようという試みがずっと続けてきました 私が帰ってくるときにその道の大先生が、私におまえが日本に戻って最初にやらなければいけないことは、病気の子供たちに病気の話をすることだと宿題をもらったので、それをやらなければいけないと、一番最初に話したのは戻ってから6年後、1986年でした とても話をするのは大変だった 1997年以後もゆっくりゆっくり浸透してきてはいるが、皆に話すのは難しい所がある

告知される側も揺れ動くところがあるのでは?  揺れ動く気を支える事が出来ないだろうから話すのはやめようというのが、日本の小児科医の1980年代の半ばまでの常識だったが、でも実際にやってみて、サポートしながら子供たちを調べてみると、話した方の子供のほうが、治療中の落ち込みも少なくて済むし、治った後の抵抗の仕方も上手にできることが分かってきたので、できるだけそちらの方に向かった方がいいと日本中の小児科医が思っていますね
サポートが、チーム医療が進んできたので、看護師さん、ソーシャルワーカー、小児心理とか様ざまな人たちがたくさんかかわるように
なってきて、話すことが容易になってきているし、子供たちも上手に受け入れるような環境が整ってきていると思う

定年を過ぎたものが関わっている事は後進にも問題があるので、1対1での場が残っているのでこの道に進んだ
ドキュメンタリー映画「大丈夫○ 細谷亮太の言葉」 3年前に映画化された
自分の将来について明るく語っていたお子さんが今はいない という現実が描かれている それが重くのしかかっている   癌と戦っている子供たちが1~2割が亡くなってゆく現実を描いている   いなくなってはいるんだけどやっぱりあの子はいるんだなと私などは思う
不思議な祈りみたいな感じの物を見る人に与える映画だと思います 伊勢真一監督

「大丈夫」はどうも私の口癖のようだ 大丈夫の後にある雰囲気があるので○となった
治らなくなった子供に対しても大丈夫な間は大丈夫 「今日は大丈夫」と言っている
本当に大丈夫?と聞き返す人はいない  大丈夫はお祈りのようにお互いが確認していると思っている
本当にもう我慢できないような痛み、苦しみが来たら、ちゃんといたくない様に神様仏様が、してくれるから「大丈夫」というような大丈夫だったりする
だから私の「大丈夫」はアーメンであたったり 南無阿弥陀仏であったり、南無妙法蓮華経であったり、する  そういうお祈りの言葉と言うかお題目でもあるんですね

キャンプを始めたのは? 告知をされた子供たちは、数は限られていた 自分たちだけでなく仲間がいるんだということを確認できるような事が、必要であろうと キャンプが始まった
最初は、新聞社が後援をしてくれて、製薬会社のヨットをやっているような人たちが手伝いたいと言ってくれて、乗馬療法をやっている人たちが手伝ってくれたりして、結構最初のキャンプは大掛かりで100人くらいの規模で行なわれた  半分が患者  次も絶対来たいと言うような感想
写真、文章では伝わらないぐらいの状況だったので 映画を撮ろうとの話があった

ゲーム、パソコンとか人との話、語らう事が一般的ではなくなってきている日常を過ごしてきている子供たちが全くそういう事から隔絶されて、人間の声、自然の音、周りを取り囲む自然の風、自然の中で3日間 4日間を過ごすことが、どれほど人間らしさと言うか感情を豊かにするか、と言うのははたで見ていても吃驚するほどだった  自分たちも子供たち自身も、自分の変化を十分に実感できる体験だったと思う また絶対に来たいという子がほとんどだった

日本中でキャンプに参加した人達が小規模ながら、キャンプをしてくれるようになった 
いろんなところで行われるようになった  北海道 滝川 自分のところで使っていた牧場が何かに使えないかという事で、キャンプ場を作ろうという事になった
ソラプチキャンプ場につながってゆく  横山先生(清七)東海大の小児科の先生が私たちのキャンプ場をとても大事に思ってくださっていたので 北海道のキャンプを作る会の会長になっていただいた
ソラプチの会は始まった
費用はなかなかうまくいかず、横山先生も癌で亡くなる 段々募金が集まってきて 企業、財団、篤志家などが多額のお金を出していただいて、公益の財団法人になってキャンプ、施設が出来上がった(昨年)
 
今、最終的にアメリカのグローバルのキャンプと姉妹キャンプになろうと動いている
キャンプ場の特徴 何万坪と広い、70名が泊れるキャビンがあり、市立病院とも連携している
町が協力体制を取ってくれている
家族が一緒に来られたなあと思っている
難病の患者が家で両親から子供時代を送っているが、何とか明るいものにできないかと思っている(いろいろな面で環境を整えた施設)  小児のホスピス  
レスパイト 子供のホスピスの一環になったらいいなあと思っています
建物はでき上ったが、運営をするのにお金がかかる 運営してゆくのも難しい 
さまざまな人たちの手助けがあって、援助があってこれからやっていかなければならない施設が私たちの施設だけでなく日本中にあるので、手助けしてくれるという事をお願いするという事が私の仕事 勧進を続けることが重要な部分を占めるとおもっっている

40年間を振り返って、沢山の亡くなった子供たちの思い出がメイン 
私の40年は、治らなかった子供たちとの40年だったんだなあと思う
その子供たちの思いをすこしずつ実現してゆくために余生があるのだろ思います















2013年5月9日木曜日

細谷亮太(小児科医)       ・難病の子供たちと生きる

細谷亮太(小児科医)・ 難病の子供たちと生きる
東北大学、医学部を卒業した後、東京の聖路加国際病院に小児科医として勤務しました
1977~80年までアメリカ、テキサス大学総合癌研究所で、小児がんについて診療や研究をした後、聖路加国際病院に復職し、40年間にわたって子供たちの治療にあたり、去年12月定年で小児科の臨床を退きました  細谷さんは10年に以上前から、病気を告知された子供たちを募ってキッズキャンプを続けてきました  
この活動は北海道滝川市で公益法人のそらぷちキッズキャンプとして結実し、医療施設を完備した子供たちのキャンプ場として難病の子供たちや家族に生きる力を与えています
小児科医になったいきさつ、最前線でどのような治療をしてきたか伺います

山形県で代々(祖父から)医者をしてきた  小学校3年生の時に、年末、台風の後に日赤が助け合い運動をやっていた、台風で大変な目に会った人に、なんでもいいから持ってこれる人は持ってきて、助け合いの物資を送ろうと、話し合いがまとまって、クラスの後ろに段ボールの箱が設置されて、いろんなものが入って、町の役場に届けた
役に立ったという体験だった 持ってこれないような家庭もあった(その子は全員持ってくるようにと嘘を父にいったようだ) その子の父親が匿名で私の父宛てに非難の手紙が来た 
 読んだのをたまたま私が見てしまった(内容は酷いなじりかたの手紙だった)

良い事をしたつもりだったが、人のために何かをするというのは、隠れてやらないといけないことで皆を巻き込んでやるというのは、大変なんだなとその時に思った
深く傷ついてしまった思い出がある
自分が何か人のために働いているとか、自分の時間を削って何かしているという事はとってもみっともないことだし、誰かが非難するだろう見たいな思いがどこかにありました

人の生死にも強い関心を子供のころから持った 父は年を取った人を見看りに行くというのをかなりの部分を占めていた そのことを母から今日はそのようなことだから父は遅くなるとか言われた(帰った父を見て又一人亡くなったんだなあと思った)
そういう本に惹かれたたことはあった(人の生死に関する事)
大人になるにつれて太宰とか、悪ぶってとかそういう風に生きている文章に引かれて一生懸命読んだ  父は医者になりたくなかったのに家業を継がされた 
父は夢をつなげさせたいと思ったようだ
その一つが仏教関係の仕事をやらせたかったようだ  父はインド哲学、等を一生懸命薦めた

何か人のためになりながら、暮らそうとは小さい時から思っていた
坊さんとか、聖職者、弁護士とか頭の中に湧きあがったが、モデルになるような親戚がいなかったので、父の医者の姿を見ていたので、自分にとって悪いことではないと父から受けていた
進むべき道を選ぶギリギリのところで、医者しかないと、医学部に行った
一番最初から患者さんを観る事を思ってました 教育者、研究者への道もあったが、患者さんとつながる医者になろうと思った
山本周五郎の赤ひげが私のフィーリングと、とてもピッタシあって、ほんの少し力を貸すというぐらいがせいぜい医者ができる事だろうと山本周五郎はその小説の中で言わせている
大それたことはできるとは思っていなかったし、ちょっとだけ患者さんに治るお手伝いをするというような医者になろうと思った

小児科を選んだ理由  小さい時からスキーをやっていて、大学でスキー部でやっていた
スキーの部長が小児外科の教授だった  医局に出入りしていた(そこの人たちは大酒飲みが多かった)  私は酒を飲む会ではだめだったので外科は駄目だと思った
小児科が一番飽きないでやれそうだと思って小児科を選んだ(いろんな理由が絡み合って入るが)
3年目のころに結婚したが私のボスは、当時部長が二人 山本高治郎先生、西村昂三先生
山本先生から結婚式の挨拶で 無口でこんな風にしゃべらない先生はあまりいないとおしゃった
しゃべらないほうではないと思っているが静かな方だったと思う 

小児がん 当時全く治らない病気だった 小児がんを専門にしようと思って、一生懸命、みとり 亡くなってゆく子供たちを世話を、ケアをした。  
段々と小児がんが克服されてゆく時代が始まって、その中で私の思いも、もっとやれるという事に目覚めて行って、結構人間の力は、捨てたものではないとの思いはしばらく続きました
しかし、人間は生き物なので、全員が治る事は望めない  1~2割はどうしても治せないという時期が来てしまうという事が、振り出しに戻るというか私の最初のころの思いが、もう一回 そういう感覚が本当なんだなと戻る

俳人でもある 細谷喨々の俳号    医者になるずっと前から作っていた(高校生)
休んだ時期はアメリカに行っている時 それ以外はずーっと俳句を作ってきた
東北は芭蕉が歩いたところなので、俳句をやっている小さなグル―プがある
祖父、父も俳句をやっていた 父を越せるのはこの領域だと思った

「死の日への 移りて重き 聴診器」  最初に患者さんが亡くなった時の句
心臓が止まって いくら聴診器をあてても鼓動が聞こえなくなってしまった
蘇生処置をやっていたが、駄目で 段々その子の身体が冷たくなっていった
首にかけている聴診器が重く感じた
 
ため込むことは私の性分上もなかなかできないので、はきだす為の一つの手立てとしては、俳句は私にとって重要なものでした 
 
「生き死にの 話を子らに 油照り」  子供たちとキャンプをしている時 油照りとはじりじりて照りつけるような暑さをいう  自然の中で植物も人間も動物も皆 生まれてきて、死んでゆくという存在なんだという事を話したことがあって、そんな事を子供たちに話したことは私にとっても、相手が子供であるという事が私にとっても特別なことで、子供たちがどういう風に思うだろうとか、自分が子供たちだった年齢だったころに、こういう話をどういう風に思って聞いただろうかと、思いながら話すので、読むとその時の雰囲気がよみがえる しおりみたいなもの

1977年にアメリカのテキサス大学に行く 臨床と研究  まだ日本ではほとんど治るという事は望めない、そんな時代でした
アメリカに行ったら随分違っていて、大人になって、自分の子を連れて、赤ちゃんを産んだお母さんが、小児がんを克服して自分の子を連れてくるという外来が実際に行われていて、凄いなと思いました  治療法の違い 次々に新しい薬を開発をして、承認の早さがアメリカではあり  その体制の違い などで日本には薬が入ってこなかった

アメリカにいるときはアメリカに染まっていた 行儀の悪さを身につけてしまって、日本に戻ってきて、最初は大変だった  
日本人同士で判りあえるウエットな感じが懐かしかった
まだまだ日本はアメリカ風にひとりずつのプライバシーを守ったり、子供たちの人権を守ったりして、子供たちに病気の話をきちんとしてから、治療をすることがなされていない時代だった
話さなければとの思いと、日本の今までの状況の心地よさを感じながら、どっちつかずで最初のころはいた   

















2013年5月8日水曜日

森勇一(昆虫考古学者)      ・虫の化石が教える環境変化

森勇一(昆虫考古学者)・虫の化石が教える環境変化
森さんは昆虫生態学、環境考古学の研究に取り組み、特に虫の化石を考古学に生かすという
昆虫考古学の分野では先駆的な研究をしておられます
森さんによれば虫の化石は多くの情報を発信しており、それを読み取れば自然環境や人間の暮らしの進化が、浮き彫りとなって現代を顧みる貴重な手がかりになるといいます

昆虫考古学  遺跡から発見された昆虫化石をもとに、過去の人々がどんな環境でどんな暮らしをしていたかを研究する学問です(研究する人は非常に少ない 世界でもほんの一握り)
虫の種類は非常に多くて種を決めるのが、大変難しい
土の中から出てくる虫を決めてゆく必要があり、どのような虫の種類、とか決めてゆく事が非常に難しい
しかし、そこから解ってくることは非常に多い
例えば虫が北海道から見つかるとする  縄文時代の気候が判らなかったりするのですが亜熱帯の昆虫が見つかったりして、縄文時代の早期に気候が暖かかったという事が判った
気候が分かったり、人々が綺麗な環境で暮らしていたか、どういう暮らし方をしていたか 
判る可能性がある

遺跡の土を掘っていると意外に昆虫が出ることは判っていたが、それを調べている余裕がなかったり、調べてもどんなことが分かるかという事がなかなか読み取れないので今まで捨て置かれていた
一番多く見つけられるのが、縄文時代から江戸時代まで、日本で遺跡を掘っている時代であれば大体出ている  日本の場合は土が少し酸性なので、昆虫の羽根、胸などは酸性に強い
日本の土は昆虫の化石に取って相性がいい 
完全な形では見つかることは無く(120ぐらいの破片に分離してしまう)、足、羽根、胸のかけら一個とかの状態で見つかる  昆虫とは判るが、どんな種なのか分からないと、昆虫考古学の一番やりたいところまでは進んでいかない

昆虫を捕まえて、昆虫をばらして、一個一個 貼り付けて、どの昆虫はどういう形をしているかという研究を5年ぐらいやった  顕微鏡の世界
良く見ると種によって様子が違う  そこから判ってくるという事が分かる
とにかく種が多いので大変  現在名前が付いているものだけでも90万~100万種 実際には3000万種とか5000万種とも言われている
種は、地球では現状65%が昆虫だけで占めている(事によると90%以上かも)  
昆虫の惑星と言ってもいい状況
判る種類は?  糞虫、糞だけのえさ  ある種は犬の、ある種は鹿 という風に特殊なので糞虫は一番判りやすい  200種は決められる  小金虫でも300種

30年ぐらい前 高等学校の理科の先生をしていて、古墳時代の土を掘っていたらビニールの破片のようなものが出てきた 非常に美しくて (2mmぐらいの破片)  図鑑をみて、ゲンゴロウかなと思って見てみたらそうだった  それがきっかけになった
現在ではゲンゴロウも非常に少なくなってしまった
有名な山内丸山古墳  縄文時代と言うと林に囲まれていたのではと思われるが、組織的に長期間、大きな単位で住んでいたことが判っているが、見つかった昆虫の中に人が手を入れて擬似林化した栗だとかドングリの中でしか生きない昆虫が見つかっている
縄文人は林を開拓して、そこに自分の居住地を作って暮らしていた
姫小金 豆小金 とかが見つかる  人々が栽培したものの所にいる種

山内丸山古墳ではゴミ捨て場みたいなところに、種を捨てている  そこに小さなさなぎがいっぱい見つかる     ショウジョウバエであることが分かった  目が赤い事が特徴
もともと酒が大好きなはえ  種が果実酒を作る可能性のある種です 
酒作りをしていたのではないかという、事が判ってきた

時代をさかのぼると、気候が暖かかったり、寒かったりしている
北海道で9000年前に赤筋金カメムシが非常に鮮やかな色の虫 が見つかる 
北海道でも亜熱帯の昆虫がすむ時代があった
仙台、岩手で黒姫ゲンゴロウ、ゾウムシ 決して現在はいない虫が見つかっている
現在はサハリンとか 亜寒帯に住んでいる虫  旧石器時代は寒かった 今より7~8度低かった
江戸時代の トイレが見つかる 名古屋城三の丸  頼まれて見る
トイレと思っていた土の中から姫家はえ と判る  発酵したところに集まる種
桶は漬物桶ではないかと思った  (質素な食べ物を食べていたのではとの思い)

手法を外国にも適用できないかと、アンコールワット とか中国に行った
掘りを調べる 60~100万人住んでいたともいわれるが、排泄物にかかわる昆虫が出るものと思ったが、ほとんど糞虫は見つからなかった
綺麗な水に住む昆虫が見つかる  アンコール文明では人糞などを何かの方法で除去するような浄化システムがないと説明つかない様な昆虫の組成に出っ食わして吃驚した
(中国、5000年前の土は極めて汚れていた 日本の弥生時代の土も極めて汚れていた)
5000年前の山内丸山古墳 糞を食べる虫がいて、それをまた食べる虫がいて 循環システムを
自然に上手く戻してゆく仕組み カンボジア(アンコールワット)でもうまく循環するシステムが働いたので、綺麗な状況になったのではないか(少ない研究による知見ではあるが)

鎌倉時代の発掘  ソフトボール大の緑色に輝くものが見つかる 昆虫だんごと呼んでいた
何だかわからなかった 同じ時代の遺跡を調べてみると、姫小金、豆小金がどこでも見られる
害虫駆除した跡(塊)ではないかと(当時姫小金が大繁殖した)  森林開発により人間の居住域にやってきて、畑作物を食べて、人間に害を与えたのではと思っている
吾々は人間の立場で全て物事を考えてしまうが、このままでいいのかという風に考える(宮崎駿の映画等から考えると)
絶滅の原因 いろいろあるが 人の営み、開発によって絶滅してゆく事が多い
人も自然の一部であると認識してもらいたい

研究をしていて、面白いこともあるが、くじけてやめようと思ったこともあるが、やめないで来られた一番の原点は 昆虫少年だった時の経験が原動力になっている
手の中で動いている感触、林の中のにおい とかそういった感動
是非子供のころに自然の中で昆虫を眺めるチャンスを作ってほしい

電子顕微鏡、DNAとか 解析の手段を広げ、羽根一枚では名前がわからなかったものを、ピタッと種が決まる。そういう分野にも切り込んでいきたい
モンシロチョウは大陸から来たといわれるが、いつ頃来たかは定かでない
土の中を調べていかなくては判らないと思う




















2013年5月7日火曜日

溝口熏平・中谷健太郎(旅館経営)   ・湯布院との拘わり40年 2

溝口熏平中谷健太郎(旅館経営)・湯布院との拘わり40年
健太郎さんの欠点:発想がユニークだから、欠点と言えば欠点、後をついて行く方が大変(熏平)
熏平さんの欠点:欠点を思いつかせないところが欠点かなあ(健太郎)
年を取ると短所が長所になるところがある

ヨーロッパに3人で出かける(志手康二さんと一緒)出かける  大正13年 東大の名誉教授の本間静六さんが湯布院で講演している  講演録が湯布院発展策、湯布院はドイツの保養地、温泉地を観て、町全体をそういう保養地に 大正13年にここで講演しているという事で、1971年にドイツに行こうと、自費で1カ月出かける  金がなく火の車の状態のときに出かける
イチゴ栽培の視察に行くという名目で、やっと農協から借りて出かける

目的は湯布院としてどう走ってゆくか(当時日本列島改造論が怒涛のように駆け巡っていて、さらに競争と言うんじゃなくて)  実際にどうするか  保養滞在とは 何にも判らなかった
いろんな調査したら、ドイツ系の私の友人が、いろんなドイツの良いところの情報系と結んでくれたりして、ありとあらゆる紹介や推薦を取りまとめて、持ち込まれて、本気で湯布院が滞在保養と言う事を言うのであれば、それがどういうものかという事を見て、その勢いで押すのであれば、
行ってみるしかないという事になった
ただでとめてくれる所があるとの情報もあった、東ヨーロッパから逃げてくる人を中心に結成されていたので、そろそろ落ち着いて逃げてくる人が少なくなったなあと思う頃を見計らって、我々も手を挙げて、逃げてゆきますと言うような格好で行ったので、50日間宿泊がただでできた

衝撃的によくわからしてくれた  2泊まではただ 一般の家庭に泊めてくれる
そこで実感することができた  家族が皆で温かくむかえてくれえる  
潜在能力提案システム 宿泊だけは対応できる 食事だけは、案内だけはできる等
ドイツではきちっと決めたことはきちっとやる  所がバデンバイラーと言うところだけは、うちは違うんだと、お客さまが望むサービスをするから、望むサービズ料を提供しなさいという、一種ドイツの統一的なシステムの中では、反逆の町だった  

戻ってきて、展開しようにも周りからは理解されずにいたが、地震(昭和50年)が発生して、被害が多く発生、その時になんでもいいからやってみようとの機運が生まれた
その時の一つが辻馬車 今も走っている  当時日本の温泉街は「赤い灯、青い灯」と言うような世界であった、だからそういう点では革命に近かった
何を求めているか、お客さんからの情報を旅館のオーナー同士が集まって、共有した
音楽祭、映画祭、絶叫大会等いろいろ開催した
室内楽は最後まで残った  なんでもやって生き抜いてきたのが、残った
夜空のなかで管弦楽をやる  ドイツでの催しとも重なる
絶叫大会  山で怒鳴ろうと、楽しむ (日本中の中から集めた牛の畜主と共に)

別荘主になるよりも牧場主になりませんかと、展開する(土地を売ってしまうのを何とか防げないのかと思案して、アイディアを出した)
父親の代とは全然違う忙しさになった  
映画祭 一緒に見て、そのあとシンポジウムをやって、夜の10時ごろからパーティーをやる
映画館で観てはいサヨナラではなく生の声がどんどん自分の物にも入ってくるし、監督さんの思いがシンポジウムを通して、飲むことによって高められる それがずーっと継続してゆく

1975年に起きた地震、風評でこの街が壊滅したとか、言われたりしたが、いろんなイベントの情報発信をしてきた
勝手な発想や運動が許される気風、風土がある 
組織、固まるのでは、派閥ができたりするのではないかとの懸念は?
いろんなことを記録に残す 書記を大事にしてきた ちゃんとまとめて今日はこのようにした
書記がまとめたものは残る 編集して出す 役場、県庁へいったりする
「はなみずき」  花と水と木  何を大事にするかという時に 農業、観光業とか経営の話ではなくて、花と水と木が大事なんで、そういうものに恵まれた町で有れば、結果として農業、観光業、商業もはやるのではないかという願いを込めて、雑誌を出し始めた
それを出してゆくから、苦情等も出てくる
   
「風の計画」とかもだす  ばらばらでもいいからそれが保たれてゆくことに役だったかもしれない
様々な意見がそこに書かれていて、皆がそれを共有できる、これが大きい
実名で出るので、言ったことに対して責任を持つ
歴代の思いが雑誌に残る、つながってゆく 
湯布院が時代を先取りしてきた 湯布院の果敢な動きの原動力になったのは列島改造論だったと思う
今、最近になってもう一度、ど根性が入ってきているのは3・11だと思う
あの後、本当に人間が幸せに生きる あるいはたとえ不幸せであっても、後悔のない生き方は
どうするという問題は突きつけられた  
ゴルフ場が来るぞという問題に比べるとはるかに度合いの違う、大きな問題を若手は突きつけられている  これは滞在型保養温泉とかいうなまっちょろい問題ではなくて、理想のイメージがない中で、どういうものを作ってゆくか、というテーマを抱えているからみんななかなかどうして深刻な問題を抱えながら、若い人は動き始めている  そのことが問題になってくると思う

その中で湯布院でどのように安心してもらえるか、癒し、和らげる風土を 湯布院が持続して、新しい人たちがどんどん入ってくる  
外から移住してくる群れ、時間的に世代が変わったために、次の世代になって、次の世代が観光業に入ってくる 農家出身の観光が中心になってくる世代が増えてくる、地域的にはよそから入ってくる 時間的には親の代から変わってしまって観光を最初から考える世代、農業やりながら商業をやりながら観光中心に入ってきている この二つの要因がこれからの湯布院の展開を牛耳るだろうと思います

次の世代が行政的にもしっかりうごめいて、法律でがっしりとこうやりましょうと決めないと
一旦入ってきた資本は追い出せない  20年後はこうしようと法的な手続がいる
それに向かってまじめに取り組む連中が育ってきている それの望みをかけている
ルール作り 行政の姿勢をしっかりしてゆくように若い連中も頑張っている

最も小さなコミュニティーは家庭 、後は職場  その二つでいいのか 
昔は冠婚葬祭が厳然とあったが、最近はそれが消えてきている 
それに代わるコミュニティー、出会いの場が必要です
それが我々がやってきたコーヒー店、売店作ったり それが滞在型というイメージでやって行かんかいと、いろんな出会いの場は作れると思う 結構忙しいと思う
 





 

2013年5月6日月曜日

溝口熏平・中谷健太郎(旅館経営)  ・湯布院との拘わり40年

溝口熏平中谷健太郎(旅館経営)・湯布院との拘わり40年
湯布院は華やいだ観光地造りよりも自然のやさしさを味わって貰い街作りをと40年前からやって来ました
1970年 ゴルフ場開発計画 、大型レジャーセンター進出計画など、日本列改造ブームは湯布院まで及んできましたが、溝口さんや中谷さん、今は亡き志手康二さんの三人を中心に反対運動を展開してまして、湯布院の将来について町をあげて、議論してきました
お客さんが素通りする町から、一度は泊りたい街に、変えてきた溝口さんと中谷さんに、お話を
伺いました

湯布院は皆対等  子供まで熏平さん 、健太郎さんと呼んでいる
二人の付き合いは45年ぐらい おおきな旅館の経営者だった
湯布院ではなくてならない人と周りから言われている  
農村の中なので 農村の元気さを何とかしようとした 新しい風新しい心を耕した事をしたかった
農村の風景を変えた 行政などは、あれたちがいなければ町はもう少し静かでいいと言っていた

溝口さん:隣街の博物館にいました  山に登っていたので、景観、景色、樹木に関心があった
環境問題を、そんな視点で見てきた 30歳を越してからこちらに戻ってきた(1966年)
旅館業を継いだ
中谷さん:28歳で戻ってきた 会社に籍を置いたまま、ここを売り払うために帰ってきた
東宝映画会社  映画を作りたかった 黒沢さん、谷口さん 稲垣さん 千葉さんとか 助監督をした   父が亡くなって、なんとかせにゃいかんと思っていた
夕方になると蛙が鳴くのがなかなか快感だった 朝は鶏が鳴くし
子供時代の思い出はたっぷりあった  
熏平さんは安心感を感じた(健太郎)  志手康二さん ホテルの経営者 遊ぶの達人(ゴルフ、マージャン等) 皆そこに行く 人気のある人 3人で進めてきた(康二さんは亡くなる)

キーマンは健太郎さんです 屋根 茅葺き 村の人に助けてもらう そのほかいろいろな付き合いがあるので、周りの人との付き合いが楽しい出会いにしないといけないと思っていた 
どうやって仲良くしようかと、日々を面白くないと、生活できないと思った
その時に面白い人間関係に出会わないと東京に戻ったかも知れない
地元に付き合いを濃密にずーっとやってきた
村の人たち、旅館も一体だった  お互いに助け合ってお客さんを満足させる(競争ではない)
皆が顔見知りで、皆がなかよくやる 

ゴルフ場の建設計画 昭和45年 自然保護か開発か 小さな集落ではお客はこない
大きなホテル、旅館では歓迎かもしれないが、それよりも私たちは良い環境で迎えるしかないと思った  その頃は開発して、お客さんを呼ぼうという風潮だった 
あの湿原は子供のころは遊びの場所だった そこが消えることに対する異議があった
農家が全体にわたる開発の声とかで、農業が置き忘られるという恐怖心があった
文化的遊びの範囲は湯布院なんです  行政の領域は別府市なんです
異議ありという時に いけいけという感じだった(いいやすかった)
湯布院町にいうのであったならば、あの時まとまらなかったかもしれない

国立公園だったので、学者、山岳医会の皆さんなど総動員して反対運動を展開した
旅館をやっていたので、、著名な作家とか、沢山お越しくださっていたので保護運動を唱えて、
マスコミがうけて、一翼を担ってくれた
日本列島改造論でいろいろ大変であったが、環境を守ろうという風潮が根付いた
大山町 イスラエル・メギド地区と交流があった (「梅栗植えてハワイにいこう」というキャッチフレーズ 昭和40年のころ それが後々の一村一品運動につながってゆく) 
その時のスライド見るために湯布院に招いてそれで刺激を受けた

健太郎さんはアイディアをどんどん出す  自由な風土が町全体に昔からあったと思う
隠れキリシタンの里であったという歴史も影響していたのではないかと思う
いろいろあってもいいという気風があった 地域の気風は歴史しかないと思う
対立的信頼関係をしないと駄目 意見は違っても仲間なんだという想い
濃密に付き合えば、人間は変な奴でも付き合うという そういう面が出てくる
濃密でないとさらっとさらっと何の対立もしない代わりに、信頼関係も生まれない

現状よりいい生活をしようとお金が儲かるようなシステムにしてやった方がいいのではというような風潮は出てこなかったか?→周辺の人たちは、あまりたいしたことではないいことにうつつをぬかすなという根性はみなあった
どうせ自動車かっても、家を新築してもどうってことないので、もっと何かないというと、酒でも飲んで、出元はきちっとする  湯布院の様に周りから隠れキリシタンの盆地みたいに、村だけど一つの島みたいな文化形態をとってきたところでは、島抜けはしてくれるなよ、役立たずでも村に残ってくれというような、俺なんかその大将で、うるさいけど村に居れや、という事だったようだ
だから思いつきなんかも、よっぽどのことではない限り協力してもらったものです

湯布院駅 驚きと期待を持って受け入れられるようにしたかった  駅は観光客のものかとか、村の人のものかという話から始まった  いろいろな意見がでた
湯布院の村の中の人たちは痛快に思ってみてくださった人もいる 面白くないとの人もいた
しかし議論する風土が、又若者たちがそれで引き寄せられるとか、ありますね
今の湯布院 観光客が年間400万人  友達が来るように、町の人たちがもてなすような風土を作ってくれた  そしてそれが全国から来てくれる




























2013年5月5日日曜日

高野仁一朗(元高尾山森林パトロール隊長) ・高尾山に集う子らと共に

高野仁一朗(元八王子森林パトロール隊長) ・高尾山に集う子らと共に
山形大学工学部を卒業後、家業の織物業を継ぎましたが、昭和40年代、全国的な繊維不況で家業を閉じました  その後保険代理店を経営し、八王子青年会議所に入会してから、八王子森林パトロール隊と拘わるようになりました 
八王子森林パトロール隊は青少年に郷土の緑を守り育てる心を養い、自然の中で心身を鍛えてもらおうと、1967年に八王子市青年会議所が始めたもので、昨年45周年の式典を行いました
高尾山のゴミ拾いから始まった活動はキャンプや緑化、自然保護など多彩にわたり、全国的に展開されている緑の少年団のモデルになったといわれています
高野さんはこの八王子森林パトロール隊が結成された初期からかかわってこられました

最近は腰を痛めたりしているので、控えている  年間260万人が来る
ミュシュランを取った事が大きい  高尾山の魅力  都心から足の便がいい 修験道 信仰の地
温暖帯の植生がある  それを求めて野生の生物がいる 自然観察にも貴重な山  標高599m
ハイキングコースがいくつかある  早いと40分ぐらいで行ってしまう
小さい子供たちには自分との戦いになり、良い経験をする

八王子森林パトロール隊にかかわって40数年になる  昨年45周年記念大会があった
友達の紹介で青年会議所に入る 40才で終わりとなるが38歳のときに入会した
卒業年度になった時に青少年委員長をやれと言われた  
それは八王子森林パトロール隊も兼任する様になっていた
山歩きなどしたことが無いので、子供を預かって行うという事は、大変な事だと思って、その時の隊長に頼んで、一緒に山を歩いてもらった  そうしたらどこからかヤッホーという声が聞こえた
隊長は遭難者だといった  
けもの道を下って道が判らなくなっていた それを救助した  そんなことがきっかけになった
昨年感謝状をいただいた  青年会議所は社会に貢献することも方針の一つになっている
判らないながらも一生懸命やっているうちに、周りからも助言があり、進める中で「海の子は山へ、山の子は海へ」という方針が打ち出された(日本商工会議所会頭から)

これまでに1500人の方々が活動してきた  現在85人ぐらいの隊員がいる 小学校4年生から八王子市内の学校から募集  卒業された方が青年隊員(高校、大学生でも残る人がいる)
今の子供は付き合いの範囲が狭いので、社会に出たときに大きなプラスになると思う
いかのコミュニケーションを取るかとかいろいろ経験できる

月例会 その日のテーマに沿って 清掃活動 害虫駆除 動物に餌をやらないようにとの呼びかけ 道票の補修とか をやっている
給餌台を造ってやったら、鳥はそこを縄張りにしてやるので、自分のテリトリーになるので必ず餌をずーっとやらなければいけないので、気まぐれでやってもらっては困るといわれて、失敗したことがある(マナーがあるので来られる方は、学んでいただきたい)
隊を組んで山を縦走したときに、喘息の子(私だけが親から言われていた)がいたが、私が何も指示しないのに、周りが荷物を持ってやったり、後ろから押してやったりして、皆で助けてやってくれていた

発足当時、高尾山はごみが散乱していた  崖一面に缶ジュースが転がっていた
あまりにもごみが増えて、おおきな屑籠を設置 カラスが突っついて更に散乱してしまう
捨てる人がいるから汚れるので自分のゴミは自分で持ちかえるようにすればいいのではないかとごみの持ち帰る運動を展開する(思ったよりも反発は無かった)

全国的に展開される、緑の少年団のモデルになる
サマーキャンプ、月例会 元日の迎光祭 山頂に国旗を持って行って式典の幕開けとなる国旗を掲揚する(12月31日から山頂に行く)

八王子は織物が盛んだった  昭和40年ごろになると繊維業界は衰退してくる
着物を着るという需要が無くなってきたので父の仕事を続ける事はできなくなってしまった
青年会議所に入った事が八王子森林パトロール隊との出会いとなる
草花の乱獲がまだある 珍しい花があると、写真を撮るのはいいが、持ち帰る人がいる
自然から学ぶという事はこちらから学ぼうという気持ちがないと学べない(大事なこと)








2013年5月4日土曜日

伏木亨(京都大学教授60歳)    ・だしの文化を次世代に

伏木亨(京都大学教授60歳) ・だしの文化を次世代に 
今、日本料理がヘルシーでおいしいと世界で注目されています  
そんな中,日本国内では若者を中心に和食離れが進んでいます
人がおいしいと感じる、メカニズムを研究している京都大学、農学研究科、伏木亨さんは日本料理のだし・うまみに注目、学生を対象に京都の料亭のだしを味わうイベントを5年前から行っています
昆布や鰹節から取る日本のだしにはどんな特徴があるのか、だし文化を守り、次世代に伝えていくにはどうしたらよいのか、伺いました
 
美味しさの研究は25年ぐらいになる その前は栄養学 酵素学 
食品工学科で 40歳になったころから食品の中では美味しさの研究は難しそうで一番時間がかかるのではないかと思って、あえてそれにチャレンジしました
美味しさに関する研究は当時はだれもしていなかった
あるとき 美味しさは私の頭の中にあるのではないかと思った
食品をいくら分析しても美味しさは判らない 頭の中を分析すると判るのではないかと思うようになった

4つぐらいの構造からなっていると思われる
たとえば子供が食べなれた安心感がある  食べなれていない物は違和感がある これは大きな要素  体が欲しているものは美味しい  情報は美味しさに影響しえていてブランド、あるいは物凄く高価、なかなか手に入らないもの、有名なグルメの人が絶賛したとか そういうものはやはりバイアスがかかる(美味しさを感じる)
無性に美味しい食べ物 チョコレートとか甘いもの 油の乗った食べ物魚とか そういう油と砂糖
あるいはうまみが豊富な食べ物はおいしい
 
基本的には栄養の豊かなもの 油、砂糖、うま味(アミノ酸たんぱく質) それがたくさんあるときに 生きていくうえでの必要な基本的栄養素の3つなんですよ  それが沢山あるときに病みつき感が生じる  美味しいものはそれらが合わされば合わさるほど美味しいと思う
おなかがすいた時のラーメン  油とうま味が入っている 食べなれている食品 どこどこのラーメンは美味しいとか(情報)  いろんな栄養素が入っている  4つ揃っている(人類共通)
食べなれた感じは違う(たとえば日本とアメリカとか)

昆布と鰹節  日本人だけ好き  昆布はアメリカなどではヨード臭い 嫌われるにおい
鰹節は魚臭い  世界では昆布、鰹節の出汁は嫌われている
アメリカに10日間ぐらい出張して帰りにそば、うどんとか食べたくてしょうがない  シアトルの空港で待合室でうどん屋があった 皆が行列していた 私も並んで食べた 美味しかった

中国では鳥、肉、骨とか長時間煮てだしを取る、 フランスでは野菜、魚、肉とかいろんな用途に応じて長い時間かけて取る 
だしの使い方 日本のだしの取り方は特殊  昆布は冷たい水に入れて、60~70度ぐらいまでしか温度を上げない 昆布を取り去った後でちょっと温度を上げて今度は鰹節をばさっと沢山いれて、 1分ぐらいでさっと出してしまう  香りがファーっと出ているだけ
日本のだしは1分間でだしてしまう  長く時間をかけると余計な味(雑味がする)が出てしまう
日本のだしは余計な味を出さないことで徹底している(海外とは違うところ)

日本の京料理のシェフの人たちと研究会をしている  「あく」を考える というテーマ行う
あくがあると料理の味が濁る  たまたまフレンチのシェフがあくは絶対取らないという
あくこそがおいしいと彼が言うので、面白いといった
煮物 あくをこまめに取ったもの  あくを全く取らなかったもの 2つ どちらがおいしいか
ほとんどの人があくを取らないほうがおいしいといった 
私も食べたが味が分厚くてリッチな感じだった 京料理の人は是は店では出せないという
品がないという  味の分厚さとか、深みを我慢しても純粋のうま味を求めている
料理の素材の味が生きたり、それを重ねたときに、混ざり合わないとかそういう事があるそうです  
そこに余計な味がすると、素材の味、下味がぼやけてしまう だから味が分厚くなってもそれをしない  京料理の神髄だと思いいました
室町時代から鰹、昆布は使われているが、お茶の懐石料理でもつかわれるが、この辺りから余計な味ではなくて、ピュアな味に拘る事が出てきたのかもしれない
鰹は油が少ない  だしを取ると油が少ないからにおわない かび付けするともっと油が少なくなる ぱっと香りだけ付ける 透明感のあるピュアな味がする  一つの美意識なのではないか

日本人は昔から油を取っていなかった 砂糖も少ない だしの美味しさと塩しかなかった
だしと塩で味付けする だしは鰹、ざこから取っているので動物質 野菜をだしを使ってやると野菜が動物の風味に変わる これが一種の疑似肉となる
昆布と鰹節の組あわせ  昆布は非常に大量の グルタミン酸とアスパラギン酸 うまみのあるアミノ酸を含んでいる  鰹節は動物性のイノシン酸(核酸)がたくさん含まれている
この二つがうまさの何倍もの相乗効果を生み出す  経験的に判ったんだろうと思う
グアニル酸(しいたけ)と昆布 精進料理にも多く使われている

日本のだしが優れている  日本の伝統的なだしの美味しさは洗練されている
砂糖も油も使わずに  カロリーも低いし健康的な食べ物
世界でブームになっている 世界は健康的な食べ物に向かっている
素材を生かそうという方向に向いてきている もともと日本は素材を活かす料理
新しいものは日本から探すというのが、ヨーロッパにある
日本が新しいきっかけを造った  素材の味を楽しむ  素材を楽しくという事は季節 新鮮さ
そこにある生きたもの そういういろんなものを感じるということ
ソースで全部同じ味にしてしまったり、濃い味にしてしまうと素材感がなくなってしまう 
ここが新しい流れでしょうね

日本人は昔から食べ物との我々の関係が非常に近かった 身の回りの生きているもの 植物、動物をいただく 日本の宗教があるのかもしれないが自然と共に生きている 自然観
海外の多くの宗教は人間対自然の距離がだいぶ遠い 自然を克服して生きてゆく その料理というのは自然をやっつけてしまった料理  日本の料理は自然をいろいろ活かしながら食べている この二つは大きな違いがあるような気がします

世界は健康志向 素材に興味は出てきた  うまみが世界語になってきている
甘み、塩味、苦み、酸っぱさ、うま味   ここ30、40年ぐらいで認められた 味も分からなかった
池田菊苗氏 昆布を沢山煮て濃縮して抽出 グルタミン酸だった うまみの発見(100年前)
トマト、きのこ、いろんな素材の中にうま味があることが分かっていた
うま味を生かした料理 繊細で季節感のある料理ができる

一方で和食離れがある 食の選択肢が増えた 必然的に日本食が減る
伝統的なベースとなるだしのうま味がメジャーではなくなってきている
本物のだしを味わう事は教養である  五感で感じることも一つの教養であると思う
伝統的なうま味を学生に知ってもらいたいと思った 京料理を食べてもらう
10月から11月に京料理のブースを造ってもらって1日100名限定 料理を堪能してもらう
店によって料理の味が全く違う  香りが中心にした味 とか昆布が利いた味とかその店が守ってきた味だと思う  
だしの中途の味を試飲し、最後に昆布と鰹節に塩を整えた時に学生から歓声が上がった  
今年で6年目になるが毎年同じ歓声が上がる

京料理の危機感 若い人に本当の味を教えてあげたいとの期待があるのかも知れない
ご飯の食べ方、頻度が少なくなった  海外からの食品が増えた
味噌、醤油、みりん、酒 ご飯の消費量と同じように減ってきている
ご飯と一緒に育ってきた文化も薄くなってきた  まずはご飯を食べましょうと言いたい
自然に魚、おつけもの、だしのきいた食べ物 も食べるようになる  一連の物
子供のころに経験していないと大人になっても子供のころに食べたことを思い出すので、教育する必要がある(日本食に対し遺伝はしない)
京都は180校小学校があるが、1割に京料理を出して味わってもらっている

長命の県は変わる 食べ物によって変わる事はある  粗食は長生きの元
人生観にもよる (粗食にたえて長生きするのかとか)
日本の伝統的な食のよさを見直して取り入れて行けば、悪い方向にはいかないと思う
日本料理を世界遺産に   日本料理の活性化  日本料理を大事にしたいというのが、先とは思うが









2013年5月3日金曜日

篠田桃紅(女流水墨画家100歳)   ・水墨抽象画一筋に一世紀

篠田桃紅(女流水墨画家100歳)・水墨抽象画一筋に一世紀
女学校でプロの書家から個人指導を受け、22歳の時から、書を教え始め、翌年初めての個展を開きました
戦後は書以外に水墨による抽象表現に取り組み墨象というジャンルを確立しました
昭和30年代以降、日本だけでなくニューヨークやパリなどで積極的に個展をひらき、欧米の愛好家の間でも高い評価を受けました

李白 に憧れていた  父が李白の詩の中にある「桃紅」という言葉があり、これを父から付けてもらった
自分が100年生きてきたことで、いくつになったとか、覚悟を決めるとか、考えたことは一度もない
昨日と今日 明日と 毎日同じこと 年に依って考えることは、やはり自主的ではないという事
自分で作りたいというものが先にある  見えるものにする 道程がアートです
できたものは証拠物件みたいなもの  篠田正浩氏(映画監督)はいとこに当たる
絵と人との結びつきかたはは1000人いれば1000人違う (毎日見たい もう飽きたとかいろいろ)  
「東京文化会館」のロゴの文字を要望されて書いた
最初 父から教わった 正月に書を書くのが、家の風習であった  自然に親しんでいた
学校ではまねの上手いほうが点数がいい、独創的な事をやっている子は点が悪い 
あれはよくない 創造力のある子を駄目にしてしまう 
才能のある子は出られなくしてしまうという弊害がある
学校ではお手本の通りに書く様にせざるを得なかった(人真似が良ければいいという考え)
一種の問題児ではあった(勝手なことをついしてしまう事があった)理解してくれる先生もいたが

父は生意気な娘だとは言っていた 
母は大好きだったが、父が封建的であったので、結婚には疑問を持っていた
一人で生きていかれたら生きていきたいと思っていた (いつかは家をでなくてはいけないと思っていたが) やっぱり何かやって一人で生きていかなければと思って書道をやった
とにかく家をでて、習字の先生になって独立しようと思った 書は生き方の助けになった
アレンジが面白かった 書から抽象画に発展した
たとえば「川」 三本を書くが、私だったらいくらでも表現する方法がある。 
1本でもよし、千本書くかも知れない  好きな線、好きな形、好きな墨色 絵具を入れてもいいし、自分の形を作りたいと思って来た 
当時はわがままと言われた 抵抗が多かった わがままな娘と言われた

当初は認めてくれる人はいなかった 
戦後になってアメリカの人が認めてくれた、だから真っ先にアメリカに行った  (一部の日本人も認めてくれたが)
1956年に最初にアメリカに行く 
当時は行くのに大変な時代 費用、滞在費は向こう持ちでないといけない(作品を認めてくれた)
ニューヨークで展覧会を開く ニューヨークタイムスにも載る ギャラリーが400ある 
一流と思われるのが10に満たない  一流ギャラリーでないと新聞には載らない 
2年先までスケジュールが決まっている
いろいろ思いめぐらして、なんとか一流のギャラリーで展示したいとは思っていた
(日本ではギャラリーが銀座に5つか6つの時代だった そこは400あった 層の厚さを感じる)
一流ギャラリーのうちに6つまでは女性のオーナーだった  これには本当に吃驚した
アメリカという国に惚れた

アートは女性の大きな領域だと思う (日本では抑えられてきた)
展示会でまあまあ認められた 自分の好きなことをやって認められた事がうれしかった
2か月のビザで、2年滞在した
帰国後 自分の思うような事を描けばいいと思って、自信がついた
こうするべきだというのが日本では先に立ってしまっていた 
日本は自由の本質を知らないで来た  
自由というのは自分に責任を持つ事ですから日本では当時、自分の意見を持つことが少なかった

社会との戦い(大げさな言い方かもしれないが)に当初、エネルギーを使ったが、段々それが少なくなってきた(日本でも理解されるようになってきた)
この世に無いものを作り出したいと思っている  生み出すという事  
心の中にあるぼーっとしたものを目に見えるものにしたい(想いを形にしたい  抽象の世界)


















2013年5月2日木曜日

豊田直之(写真家53歳)     ・海の森から山の森へ、好奇心は宝箱

豊田直之(写真家53歳)・海の森から山の森へ、好奇心は宝箱
水中撮影の世界に導かれたのは、小学生の時に初めて釣りで黒鯛に出会ったことが、きっかけでした
黒鯛の精悍な顔つきを目にした豊田少年は興奮し、すっかり魅せられてしまったのです
そのことがきっかけで東京水産大学、水産学部に入学し、卒業後船舶用電子機器メーカーに就職、その後漁業の体験などを経て、水中写真家の中村 征夫さんに師事し、水中デジタル撮影の世界で活躍されています

体力は絶対必要な世界ですね  朝起きたら柔軟体操をしてから活動を始める
水中写真 使う道具をハウジングケースに入れて、撮る
最近、水源地に行き、水中の中から、景色を撮る 最初夏に行って、緑がきれいだなあと思い、それから秋の紅葉、桜の季節で桜を撮ったりしているうちにどんどん面白くなった
どうして面白くなったのかというと、ある種 魚が見たらこんなになるだろうなと思うようになった
水が持つ特殊性がビジュアルの大きな影響を与える

水の底から空を撮ると、水のフィルターを通してみえる ある角度になると水が鏡のように反射する
そうすると、あるところからは今度水の底が、海の底が水面に映ったりする
広い領域を魚眼レンズで撮ると、全部映りこむので、その風景の中に、水面が反射している部分と抜けたフィルターのようになっている部分とが一緒に入るので、なんだこの世界はというような感じ
水面が波立つと屈折率が複雑に変化して、撮ってる自分が想像できない様な世界がどんどん展開してゆく  見たこともないような不思議な世界が展開する

小さい頃釣りが好きで、好きで、大学も東京水産大学に行った
黒鯛(関西ではちぬ)  どうしてつれないのか、ある夏水中メガネをつけて飛び込んだ
そうしたら2匹見えた 釣りが下手だったんだと気付いた
中学2年から又釣りに没頭しはじめた 高校も釣りに没頭する
東京水産大学に行く  魚の取り方を勉強 漁業実習などもいろいろやる
番屋でイクラを好きなだけ食っていいと言われた(食べ過ぎてあまり好きでなくなった)

サラリーマンになる 漁船のレーダーとか、魚群探知機とかのメーカーに勤めた。
船にしょっちゅう乗っていた  
どっかで脱さらしなければいけないだろうとは、漫然とおもっていた
漁業の道に一時入る (黄金のいっときだった)
ポッと出の人間が結局船がなく、自分の網がなく、道具も持っていない 所からのスタートだと生活できるレベルまでは行かなかった  島にいる間にダイビングのインストラクターの免許を取った
横浜に戻ってくる 釣りの雑誌に原稿を書いていたりしたので、雑誌のライターをしようと、ライターをやっていた  一緒にカメラマンが付いてきていた  
自分ではもぐってきた経験があるので、カメラマンに自分のイメージを伝えるが、でき上ってきた写真は自分のイメージとは、ずれていた

自分が納得するには、自分で撮るしかないだろうと思った(28歳)
自分で思っていたよりは難しいことが判る これは勉強しなければいけないと思っていた矢先に
編集者と打ち合わせに行った先に、中村 征夫さんにお会いすることができた
うちにきて勉強するかと言われた  2年半アシスタントをして、その後独立する
いろんな方に面白い写真を見ていただくことが私の仕事だと思っています
クリオネ(貝の仲間) 羅臼の海の流氷の下で撮る
クジラ 南太平洋トンガ王国 7~9月 ザトウクジラの出産時期 子供を産み、小クジラが1カ月ぐらいトレーニングをして、その後、親と旅を始める
1000mぐらいもぐるクジラもいる

サメは結構遭遇したことがある (メジロサメ シュモクサメとか)  けがをしていたり、銛で付いた魚を持っていたりすると危ないが、普段はそれほど危険ではない
魚を正面から撮る写真がおおいが、なかなか正面に回る事が難しい
魚を釣るには絶対魚を刺激しないようにする 写真を撮るのにも、どうやったら魚に気付かれない、やっぱり自分は撮りたいという気配、変な負のエネルギーを出さないようにする
魚に全部伝わってしまう 
魚は正面から見ると誰かに似ていたり、 怒っている顔、温和な顔がある

神奈川県は山 1月下旬から2月中旬  沖縄の海と思われるくらい透明 深い海の水が上がってくる 涌上流 冷たい水が上がってくる 海藻が繁茂する その時期に産卵する(エビ、カニ等)
3月上旬、中旬 春の潮が入ってくる 海藻が流れ藻になる そこに隠れて沖に出て成長する
季節の循環の素晴らしさに感動する
出会って刺激的、感動したのは、東京の小笠原の父島で出会った時の、珊瑚の産卵
なぜか大潮の満潮の夜に産卵する  浮遊卵が引き潮でどんどん拡散してゆく
次の日の朝は一面に浮いていて、沈んで自分の場所を確保する
珊瑚は小さな魚の隠れ場所 産卵場所になる

昨年1月31日にNPO法人を立ち上げる  「海の森から山の森へ
地球は約表面の7割は海 地球は陸地がメインなんだと思われがちだが、海がメインです
そういう星なんです  二つの森はバランスをとってやっていかないと、うまくいかない
山の森から注いだ水は、最終的には海の森に注いでしまう  その水を私たちがなんとかしないと、海の森が長く存続できないでしょう、といろいろな形で、提案している
水の循環を世に知らしめてあげないと、気つかないのではないか
水資源に対してありがたみを感じていない  
生活排水も海に行ってしまうんだと感じないといけないと思う
ビジュアル 子供に理解してもらいやすい(自分たちのお友達が海にいる)
環境 人間からのダメージが弱まると、自分たちは復活するという力を持っている










2013年5月1日水曜日

天野篤(心臓外科医)      ・命を削って命をつなぐ

天野篤(心臓外科医)・命を削って命をつなぐ
心臓外科医は一旦メスを握ったら後戻りができず、一本道をひたすら前に進むしかありません しかも、熟慮が許されず、即断即決が要求される時間との闘いです
世界的な心臓外科医で知られる順天堂大学教授 天野篤さんはこれまで25年間に6000人を越す人の心臓手術を手掛けています  その業績の大きさに頭が下がります
天野さんの手術を受けた患者さんの心臓は以前にもまして、パワーアップ 術後2週間で 海外出張に出かけたり、2ヶ月後に4000m級の山に登った人もいます
四半世紀に及ぶ心臓外科医の道を天野さんは「一途一心(ひたむきに)、命をつなぐ」という本にまとめられました

心臓を切り開くという事は、普段で有れば出血するところを開くわけですから、中の部品を直すとか取るとか、して修復するあるいは人工のものを入れる、元通りに戻すことができないと、
患者さんは助からない 
その間にある一定の時間がかかるので、(脳は5分で駄目になる) 心臓は20分 何らかの酸素を送らないと心臓の筋肉が傷んでしまう 
それ以上に時間がかかる場合は、心筋保護 心臓を休ませるケアが必要になる
いたわりの気持ちとしっかり直すぞという気持ちと、両方にバランスを取らないといけない
それが分岐点になる 時間との闘いです

思考を巡らしながら、技術を展開する部分をできるだけ少なくする
考えるんではなく、反射的に作業する  手際良くすることが要
一旦これをやると決めたら、短時間に、シンプルに 考えてやることであれば、熟慮して知識と自分自身の経験と絡めて最適なものを作り上げてゆくという、スイッチのオン、オフが非常に重要 
紙芝居を思い出してもらえればいいと思う  
ストーリー 言葉はとうとうと述べるが、一つ一つの場面が広がりを持つような絵を出しながら、紙芝居は進むが、 それと手術は似ていると思う
キーとなる絵は5~6枚だが、その間の道のりはすらすらと空で言える場合があるし、確かめながら言わなければいけない場合がある 
その時にはストーリーの展開が違ってしまう場合がある
紙芝居的な要素がある

25年間で6300件ぐらいは通過している 昨年は505例手術している 月、木は4件やっている
8時から9時にスタートして、深夜に及ぶこともある
スタッフは医師3名 看護師は直接員1人、間接員1人 麻酔医師2名 臨床工学技師2~3名トータル10人前後
生活を取り戻す実感するのは、患者さんがご飯全部食べたとか、よく眠れるとか言われた時
担当医としては良かったなあと思います 早い人で2~3日目
心臓が軽くなったとか、酸素が多く入るようになったという人は、大変活動的になられる
アーノルド・シュワッツネッガー 手術して一番元気にやっている
大動脈弁狭窄症 心臓の大動脈弁の交換をしている そのあと映画を撮ったり、知事をしているので、手術をしても、あの位元気に飛び回れる

手術の成功したのは、手術したことを忘れているという事  制限なく自分のしたいこと、活動するので、そういう風なところを見させていただければ医者冥利に尽きる
心臓・冠動脈バイパス手術の専門家 心臓が拍動していても、迂回路を作る手術ができるようになった
 以前は、細かい手術なので、心臓を止めてやっていましたが、心臓を止める補助手段として使うのが人口心肺、人口心肺の事を英語でポンプという
ポンプを使う場合がオンポンプ、使わない場合がオフポンプ 
オフポンプの心臓バイパス手術は日本が世界で最も進んでいる
昨年2月天皇陛下の手術 経験、技術、安全性 術後合併症に対する対応能力などで、総合的に判断して白羽の矢が立ったたものと思う
手術自体は意外と緊張しないで、できた  
準備の段階ではどうしよう、どうしようと思ったが、2回ほど病状説明と、手術の具体的な説明をして、医者と患者さんと言う関係に、私を導いてくださったと思う
 
説明したりすると最後には必ず、感謝の気持ちを「ありがとう」と言って何度もおしゃって下さった
手術時間は約4時間  術後の会見では慎重に発言するが、どの患者でも同じ
飛行機が着陸するときに、「無事着陸しました」とは言わない、定刻に着陸という
無事と言う事は、その伏線には、非常にきわどい場面があったと、言う事を暗示するので、ぼやかすことはしない その通りお伝えした次第です
8月にテニスをされた情報を貰って、その時に本当に役に立てたなあと実感した

心臓外科医へのきっかけ 父が心臓弁膜症である事が高校生の時に判って、大学2年のときに手術して、将来再手術があるとは言われていたので、再手術のときには、自分もその道に進んで、多少はその診療に役に立てるように、という志ですね
父が亡くなるまでに3回手術をする  2回目の手術は助手として立ち会った
最後の手術は難易度が高かった(現在で有れば、対応できたと思うが、当時ではちょっといろんなものが届かなかった術後合併症があった)
最後は凄惨な術後を見せてもらった
昔、合戦のときに、大将は玉とか、矢を受けて、仁王立ちになって、息絶えるというシーン それを見せてもらったので、自分はそこから立ち上がれというメッセージをもらったような気がして、これはやるしかないと、そういう感じでしたね

手術の時に、大事な時、細かいことをやるときには、震えない (そういう体をもらったことに対して親には感謝している 外科医向きの身体) 
出来るだけ早く、精密にやるために、つま先立ちでやる場合もある
(武道、とかテニスのサービスリターンの時のような)  
東日本大震災の時にも手術中だった 二つ目の弁を取り替えている最中に地震が来た
手術台が横に物凄く大きく揺れた 点滴類、人工心肺のためている血液がチャップンチャップン言っている  頭の上ではライトがぶんぶん動いている
とにかく心臓を止めている状態なので、なんとか助けるぞとの思いで、手術を続行する
無事終了することができた
患者さんが退院の時に言いました「私の誕生日が二つになりました」と

執刀医の心構え→①自分自身の心身の充実が大事  
②同時に仲間を大事にする 
③目配り、気配り
それぞれの歯車のまわり方を調整してから、始める(これが一番重要)私が大きな歯車として噛み合ってゆく 
手術中も考えなければいけない場面が出たときには、もう一人の自分がこの前はこう言う風にやってそのあと凄く上手くいったとか、支えてくれる
もう一人の自分とキャッチボールをしながら、過去の成功例等を考え、行っている

命の分岐点で、患者さんを生きて帰すという事を考える患者さんは、10人中2人ぐらい
後の方は危険性の評価、合併症の発生率は予測できているので、上手くいって当たり前
うまくいかない場合のポイントは何かと言ったら アクシデントしかない アクシデントの予想と言うものは人的なものと、偶発的なものがある
偶発的なものとは、たとえば地震とか、がある
人的なものは、周りがふっと手を出してしまうとか、間違えて機械を扱うとか、そういう事の方の管理の方がウエートとしては大きい

スピードが要求される  俯瞰する(鳥が高い位置から見つめるように) 
一旦、全体を見渡して、一か所に舞い降りてくるというような  これの繰り返し
新しいおかしなこと 新しい見落しを見つけられる そこにつながる
患者の心構え→術前の説明では、よくなったイメージだけ持ってくださいという
不安を取り除いてやる

「一途一心」 ひたむきにコツコツとやって、その結果として、振り返ってみたら、それまで手に届かなかったものが手に入っている と言う言葉 
ドラゴンボールの元気玉の様なもの いろんな人の力をもらって、敵をやっつける
父の形見を整理していたら、自筆の翻訳版の詩(「青春の詩」)が出てきた
サミエル・ウルマン と言う人の詩  マッカーサー元帥が執務室の壁に掲げていた
人は情熱のあるときには老いない というような内容  私を後押ししてくれている
あきらめたら負け あきらめたら青春ではない あきらめたら老いる 

高齢社会になってきているが、夢を忘れてほしくない
本に書いてくださいと言われた時には、「一途一心」の脇に「明日のために今日の一日を大切に」と本に併記している  
今日一日、頑張れば明日はがんの特効薬が使えるかもしれない 
明日はもっと新しい手術ができるかもしれない  個人でも体験してきているので
私たちも一日一日 次の患者さんに向かってゆく 少しでも早く負担なくよくなっていただくように
目指している というメセージも入っている