けん・かい(NPO法人代表) ・外国人技能実習生のSOS
外国人労働者の保護に取り組む中国人のけん・かいさん。
去年4月外国人材の受け入れを拡大する新たな制度が始まり、人出不足が深刻な業種では労働力としての外国人への期待がますます高まっています。
一方で日本ではこれまで留学生や外国人技能実習生が実質的な労働力として働いていて、低賃金や不当な解雇、人権侵害などがたびたび指摘されてきました。
中国北京出身のけん・かいさん(61歳)は労働組合の職員として、こうした外国人労働者の問題に取り組み、岐阜県羽島市で賃金を支払われないまま解雇されたり劣悪な労働環境から逃げ出してしてきた外国人労働者を保護するNPOを運営しています。
外国人労働者をめぐる現場の実態やこうした問題が無くならない背景などについて伺いました。
この仕事は15年ぐらいやってきましたが、仕事中に怪我してからの治療について、損害賠償についての相談が多かったです。
次にパスポートを取り上げ在留カードをとりあげ、長時間低賃金、強制貯金、解雇、そういう相談があります。
シェルター、外国人技能実習生を保護する施設が4年前に設立しました。
268名ぐらいいました。
低賃金の給与は昔に比べれば上がっていましたが、昔は時給200円、基本給が5万円で、今相談に来た件では基本給8万円、残業代は時給300円~600円まででした。
3万円支払って5万円は強制貯金をさせられました。
私は昭和61年に留学生として来日して東洋大学で法律の勉強をして、大学卒業後日本の企業に就職しました。
大企業で働きましたが、嫌な思いは全然ありませんでした。
その後中華料理の店を開きました。
暴力、賃金の未払い、残業代の未払い、労災などで相談を受けました。
労働組合へ相談に行きました。
当時は低賃金が当たり前のようになっていて、団体交渉をやろうとしても経営者側が不法侵入という事で警察を呼んだりしました。
自分ができることで助けてあげようと思いました。
私の周りにはいい日本人がいて支えてくれました。
2010年に岐阜で労働組合の専従職員になりました。
そうなったのは研修生たちの口コミで相談が増えてきて店では対処できなくなりました。
関東地方での相談もありましたが、岐阜の方も多くて最終的には岐阜に行くことになりました。
元々農業、建設、水産加工などの職種で技術を学ぶことを目的に外国人に働いてもらうという制度だったが、実態的には労働力として働いていて制度と実態がかけ離れている。
技能実習生度では実習生としては原則として職場を変えることが認められていない。
平成27年に外国人が一時的に身を寄せる施設シェルターを運営するNPO法人を岐阜県羽島市に立ち上げました。
朝は一緒に体操をして、朝食を食べて病院へ連れて行ったり、問題点の解決のために会社に行ったり、ビザの更新に居たり、労働基準監督署に行ったりしてきました。
4年間で一番多いのが中国、次にカンボジア、ベトナム、フィリピンなどです。
みんな自分の問題を早く解決したいと思っています。
ここへは口コミで来ます。
石川県の実習生の相談を受けて、残業が平均的に127時間毎月あって、最後に連続2日間あって過労で倒れて、助けてほしいという事で迎えに行ったことがありました。
保護して時間が経過しているうちにいつの間にかいなくなってしまいました。
そういったケースも結構あります。
労災とか交渉が長引いたりすることもあり帰国したいという思いでいなくなってしまうものと思います。
そういったことに対して昔はつらかったが今は慣れました。
裏切られることがあっても周りで支えてくれる人がいるから続けられます。
企業側が利益を追求するので、赤字では存在できないので生き残るために労働者の権利を無視するとか要望を抑える。
人権侵害、賃金の未払い、労災などは企業が利益を追求する、生き残るための結果だと思います。
経営者のレベルのよっていいところもあればそうでないところもあるわけです。
実習生たちが文句を言えない原因はWi-Fiとか情報を遮断してしまうという様な方向になっています。
日本の労働力は足りないので外国人労働者は今後も入ってくると思います。
労働条件、安い労働条件を探すという考え方が日本の経営者たちの考え方が直っていないですね。
まだほかの国に比べて賃金は高い、自由度がない。
職場の変更とか、自由に来て自由に帰国できない。
日本の低賃金を止めてほしい、中国のほうが高くなる可能性もあるので、ほかの国に流出することもありうると思います。
この制度には穴がいっぱいあるので、職場の選択権利をきちんと労働者に与えて受け入れる方がいいので、新しい労働の制度を作るべきです。
外国人労働者が増えてきているので外国人との共存共栄、国際社会になっているので日本人として認識すべきだと思います。
グローバルな世界の考え方で外国人労働者たちの気持ちを引き受け手も一緒にやっていただきたいと思います。
2020年1月31日金曜日
2020年1月30日木曜日
西村由美(オランダ語翻訳者) ・知られざるオランダの生活を伝える
西村由美(オランダ語翻訳者) ・知られざるオランダの生活を伝える
西村さんが訳したトンケ・ドラフト作「青い月の石」は国際アンデルセン賞などで知られるIBBY国際児童図書評議会の2020年のオナーリストに選ばれました。
西村さんとオランダ語との出合いは夫の海外転勤に同行して」38歳でオランダに渡り、現地で外国人のためのオランダ語講座に通ったのがきっかけでした。
九州ほどの広さの国土に1700万人が暮らすオランダでは人々は外国語に堪能で、英、仏、独など複数の言葉を話し、外国人も自然に隣人として受け入れるオープンさがあるといいます。
日本では江戸時代の鎖国政策の中で長崎の出島に医学など西洋の文物などをもたらしたのがオランダ人であり、オルゴール、ランドセル、エレキ、ポンズなど日本語に溶け込んだオランダ語も沢山あります。
立憲君主国でチューリップ、風車、画家のゴッホやフェルメールの国として親近感を持つ人も多いのではないでしょうか。
合理的な国民性で個人主義でありながら個人の誕生日や人と人との交流を大切にするなど、オランダ人についてまだまだ知らないことが沢山あると言います。
オランダの文化、オランダ人の考え方など翻訳を通して伝えたいという西村さんに日本とオランダの交流の思いについて伺います。
IBBY(International Board on Books for Young People)は世界中の優れた児童図書、子どもの文学を紹介しており、子どもたちに是非読んでほしいという推薦図書になります。
作品賞、イラスト賞、翻訳賞の3部門があります。
「青い月の石」は10歳ぐらいの男の子が主人公ヨーストで友達と一緒に地上と地下世界を行き来していろんなことを繰り広げる友情と魔法の冒険物語といった所です。
1970年のオランダですが、王子様が住むお隣の国は中世のような世界、そして恐ろしい王様が支配する地下世界があり、3つが自然に共存しています。
翻訳するにあたりトンケさんとはコンタクトを取りました。
2004年秋に、『王への手紙』は、オランダで過去50年間に出された子どもの本の中から第1位に選ばれ、改めて注目を浴びている。
日本語で本が出版されることにはトンケさんは本当に喜んでいました。
トンケさんは第二次世界大戦の時にインドネシアの日本軍の収容所で3年間過ごしました。
そこで話の才能があることを気付いたと言っています。
私はオランダから帰ってきてからオランダ語を教えることを頼まれました。
農業研修生、留学、研修で行く人たちを教えていました。
オランダへ行く人たちはオランダのことを知らないので、思いついたのが翻訳でした。
オランダの人たちの生活、暮らしぶりを伝えたかったので、子どもの本を翻訳することにしました。
子どもの本には大人も出てくるし、オランダのいろんな場面が出てくるのでいいと思いました。
友人たちに聞いて一番の勧めがアニー・М・G・シュミットでした。
オランダ人の心とオランダ人の生活を描いた方だと思います。
1911年に生まれて1995年に84歳で亡くなっています。
シュミットさんは凄く奔放な方でした。
オテンバ(この言葉もオランダ語)でした。
父親は牧師さんで教会で説教している間に兄さんのバイクの後ろに乗って教会の周りをぐるぐる回っていたという様なこともあったそうです。
アニー・М・G・シュミットの「ペテフレット 荘のプルック」 8歳ぐらいの少年プルックが一人暮らしでいろんな友達を作ってゆく。
シュミットさんは自分の理想の子どもを描いたと言っています。
独立心が強くて大人と対等に渡り合いましてオランダでは人気の本です。
「イップとヤネケ」もシュミットさんの作品で1952年から1957年までオランダの新聞に連載されて大人気になりました。
隣同士の男の子と女の子で親とかいろいろでてきます。
夫の転勤でオランダに行きました。
オランダでは英語が上手いと言っても話すことも書類のすべてオランダ語だったので外国人向けのオランダ語教室に行きました。
日本では知っている人としか挨拶しないが、顔も知らない人でも挨拶をします。
オランダの家では家をいつも綺麗にしています。
呼んだり呼ばれたり気軽にやっていますから気が楽で楽しいです。
自然な自発的な助け合いがあるのでちょっと吃驚しました。
繋がり方が温かい感じがします。
率直で生活も派手ではなくて簡素な感じで気軽に楽しむという事があります。
友達の誕生日にはこちらからお祝いに行きます、そういった感じです。
迎える方も気楽な形で接待します。
トイレ、台所など見えやすいところにカレンダーがあり、誕生日が書き込んであり忘れないようにしています。
オランダ語を学んだことで交友範囲が広がって、翻訳の仕事も広がって行って、オランダはインターナショナルでもありますが、人間サイズで、率直で外国人という事を意識しないで生活ができて何よりもありがたかったです。
西村さんが訳したトンケ・ドラフト作「青い月の石」は国際アンデルセン賞などで知られるIBBY国際児童図書評議会の2020年のオナーリストに選ばれました。
西村さんとオランダ語との出合いは夫の海外転勤に同行して」38歳でオランダに渡り、現地で外国人のためのオランダ語講座に通ったのがきっかけでした。
九州ほどの広さの国土に1700万人が暮らすオランダでは人々は外国語に堪能で、英、仏、独など複数の言葉を話し、外国人も自然に隣人として受け入れるオープンさがあるといいます。
日本では江戸時代の鎖国政策の中で長崎の出島に医学など西洋の文物などをもたらしたのがオランダ人であり、オルゴール、ランドセル、エレキ、ポンズなど日本語に溶け込んだオランダ語も沢山あります。
立憲君主国でチューリップ、風車、画家のゴッホやフェルメールの国として親近感を持つ人も多いのではないでしょうか。
合理的な国民性で個人主義でありながら個人の誕生日や人と人との交流を大切にするなど、オランダ人についてまだまだ知らないことが沢山あると言います。
オランダの文化、オランダ人の考え方など翻訳を通して伝えたいという西村さんに日本とオランダの交流の思いについて伺います。
IBBY(International Board on Books for Young People)は世界中の優れた児童図書、子どもの文学を紹介しており、子どもたちに是非読んでほしいという推薦図書になります。
作品賞、イラスト賞、翻訳賞の3部門があります。
「青い月の石」は10歳ぐらいの男の子が主人公ヨーストで友達と一緒に地上と地下世界を行き来していろんなことを繰り広げる友情と魔法の冒険物語といった所です。
1970年のオランダですが、王子様が住むお隣の国は中世のような世界、そして恐ろしい王様が支配する地下世界があり、3つが自然に共存しています。
翻訳するにあたりトンケさんとはコンタクトを取りました。
2004年秋に、『王への手紙』は、オランダで過去50年間に出された子どもの本の中から第1位に選ばれ、改めて注目を浴びている。
日本語で本が出版されることにはトンケさんは本当に喜んでいました。
トンケさんは第二次世界大戦の時にインドネシアの日本軍の収容所で3年間過ごしました。
そこで話の才能があることを気付いたと言っています。
私はオランダから帰ってきてからオランダ語を教えることを頼まれました。
農業研修生、留学、研修で行く人たちを教えていました。
オランダへ行く人たちはオランダのことを知らないので、思いついたのが翻訳でした。
オランダの人たちの生活、暮らしぶりを伝えたかったので、子どもの本を翻訳することにしました。
子どもの本には大人も出てくるし、オランダのいろんな場面が出てくるのでいいと思いました。
友人たちに聞いて一番の勧めがアニー・М・G・シュミットでした。
オランダ人の心とオランダ人の生活を描いた方だと思います。
1911年に生まれて1995年に84歳で亡くなっています。
シュミットさんは凄く奔放な方でした。
オテンバ(この言葉もオランダ語)でした。
父親は牧師さんで教会で説教している間に兄さんのバイクの後ろに乗って教会の周りをぐるぐる回っていたという様なこともあったそうです。
アニー・М・G・シュミットの「ペテフレット 荘のプルック」 8歳ぐらいの少年プルックが一人暮らしでいろんな友達を作ってゆく。
シュミットさんは自分の理想の子どもを描いたと言っています。
独立心が強くて大人と対等に渡り合いましてオランダでは人気の本です。
「イップとヤネケ」もシュミットさんの作品で1952年から1957年までオランダの新聞に連載されて大人気になりました。
隣同士の男の子と女の子で親とかいろいろでてきます。
夫の転勤でオランダに行きました。
オランダでは英語が上手いと言っても話すことも書類のすべてオランダ語だったので外国人向けのオランダ語教室に行きました。
日本では知っている人としか挨拶しないが、顔も知らない人でも挨拶をします。
オランダの家では家をいつも綺麗にしています。
呼んだり呼ばれたり気軽にやっていますから気が楽で楽しいです。
自然な自発的な助け合いがあるのでちょっと吃驚しました。
繋がり方が温かい感じがします。
率直で生活も派手ではなくて簡素な感じで気軽に楽しむという事があります。
友達の誕生日にはこちらからお祝いに行きます、そういった感じです。
迎える方も気楽な形で接待します。
トイレ、台所など見えやすいところにカレンダーがあり、誕生日が書き込んであり忘れないようにしています。
オランダ語を学んだことで交友範囲が広がって、翻訳の仕事も広がって行って、オランダはインターナショナルでもありますが、人間サイズで、率直で外国人という事を意識しないで生活ができて何よりもありがたかったです。
2020年1月29日水曜日
大石善隆(福井県立大学准教授) ・【心に花を咲かせて】苔は語る
大石善隆(福井県立大学准教授) ・【心に花を咲かせて】苔は語る
大石さんは苔の生態や苔の魅力を多くの本で発信している方です。
京都の苔庭は海外からも多くの人が訪れ美しい庭として注目を集めていますし、苔玉とかいろいろな苔の寄せ植えなど最近は苔がブームだそうです。
自然界にも苔はあちこちで生息しています。
何気なく存在している様に見える苔なんですが、人にとって大事な役割を担っているし、私たちにいろいろなことを発信しているという事です。
苔から何が判るのかどんな役割を担っているのか、何故苔にそんなに夢中になったのかお聞きしました。
苔はいろんなことを教えてくれます。
環境のことやその他身の回りに起こっているあらゆることが苔から判ります。
京都の苔庭では苔が減ってるんです。
苔は非常に環境の変化に敏感で、京都で起こっているヒートアイランド現象の影響を強く受けてしまってます。
京都は1960年代には年間30回ぐらい霧が発生したんですが、近年では霧が無くなってしまって、年間ゼロの時もおおくて、苔はじわじわと生育が悪くなっています。
苔は葉の表面から直接水を吸収しています。
ほかの植物のように根から吸収しているわけではないんです。
水をまいても効果がないわけではないが、空気中の湿度が苔にとっては重要なんです。
葉の表面から水や栄養分を吸収しているので、大気からやってくる汚染物質も苔を見るとわかります。
苔が大気汚染物質を体の中に蓄積しているんです。
PM2,5も苔の中に吸収されてしまって、大陸からやってくる汚染の状況が判ってしまう。
いろんなところで調べ分析しましたが、意外ですが高山帯でも大陸からの物質がやってきています。
思っている以上に苔は汚染物質を吸収していました。
分析をすると、発がん性物質のあるもの、環境ホルモン作用などいろんな有害物質が苔から出ているので注目しています。
レベル的には海外の話もあるので東アジアレベルで考えていかなければいけない話です。
街のいくつかのところで苔を取り分析してマップを作って、街のどのあたりが汚染されているか、どのあたりが綺麗なのか、公園を作ることで街は綺麗になったのか、何年か続けることによって苔から判ってきます。
日本は苔好きが多くて苔の標本がいっぱいあり、古くは1800年代から今にかけてあり、各地の博物館に眠っていて、その標本を使って苔の中に含まれている物質が年代ごとにどう変化しているのか私が今分析しています。
最近興味を持っているのがヒートアイランドで、苔にとっては一大事です。
昔は昼間は暑くても朝は涼しくてその温度差で朝露ができて苔を潤していましたが、一日だらだら暑くなると、朝露は降りないし朝霧は発生しなくなり苔にとっては一大事です。
海外にも苔がありますが、苔を庭に使う文化は日本独特です。
西芳寺(苔寺)は室町時代にできましたが、記録を見ると当時は白砂の庭でした。
応仁の乱の後には西芳寺は荒れてしまって、江戸時代になって苔が一面にむしていたという記録があります。
西芳寺は山裾にあり近くに小さな川があり湿度がたまりやすい環境でした。
西芳寺は約130種類あります、日本全体では1700種類前後あります。
西芳寺の独特の静かな雰囲気は実は苔が一部作り出しています。
一面に小さな凸凹ができていてそれが音を吸収しています。
鹿は何でも食べますが、苔は食べないが鹿が増えると苔が減ります。
鹿は森の草木を食べて草木が枯れて、森が乾燥して苔が減っていきます。
苔は森のゆりかごになっています。
苔には適度の湿度があり木の種を乾燥から守ってあげる。
苔は抗菌作用があり細菌から種を守ってあげる。
苔は虫も食べないし人間も食べない。
苔のマットの上に落ちた種はすくすく育ちます。
クラマゴケ(鞍馬苔)はシダ類で、クラマゴケモドキは苔なんです。
昔は木に毛と書いて「コケ」でした。
皆さんが一番見ていると思われるのが銀苔だと思います。
日向のコンクリート壁、アスファルトの隙間などぽつぽつ生えています。
屋の上の赤苔、灰苔などは駐車場の隅などに最近はあります。
灰苔は杉苔を覆ってしまいます。
銭苔は特殊な根を持っていて地面からも窒素をどんどん吸い取ることができます。
苔は空気の清浄度に敏感に反応します。
空気の清浄度が綺麗になるほど苔の種類が増えていきます。
1970年代東京は着生砂漠と呼ばれている状況でした。
大気が汚れて木の幹から苔が消えました。
最近は東京の中心部でも空気が綺麗になってきて苔が戻ってきました。
苔は暑さが嫌いな生物です。
苔を通して日本の文化をいろいろ学びました。
和歌にも多く詠まれていますし、国歌にも詠まれています。
平安時代の苔色は着物の表が紫がかった色、裏が茶色がかった色のことを苔色と言われています。
最近は苔玉も売っていますし、苔をガラスの中で育てて愛でるという事も盛んになってきました。
京都にいて苔に接することがおおくて、京都大学では都市の生物を研究したいと思って苔は誰もやっていなかったので苔を研究対象にしました。
苔を守ろうと思いましした。
珍しい苔との出会いが京都の小さな緑地にありました。
昔は広い緑地だったと思われそれが僅かに残っていたという事で、歴史まで語ってくれます。
苔には保持機能があり、水をよく貯える種は自分の体重の20~30倍の水を吸収します。
第一次世界大戦の時にはヨーロッパでは脱脂綿の代わりにそういった苔を使って血を吸収させてあげるという事、抗菌作用もあるので利用されたという事です。
種によっては水が無くても10年持つという事も聞いています。
苔がメインになる湿原には、空気中にある二酸化炭素の量と同程度の炭素が蓄えられています。
それが仮に全部放出されたら空気中の二酸化炭素は2倍になってしまいます。
地球レベルで考えても人類にとって大事なのは苔なんですね。
大石さんは苔の生態や苔の魅力を多くの本で発信している方です。
京都の苔庭は海外からも多くの人が訪れ美しい庭として注目を集めていますし、苔玉とかいろいろな苔の寄せ植えなど最近は苔がブームだそうです。
自然界にも苔はあちこちで生息しています。
何気なく存在している様に見える苔なんですが、人にとって大事な役割を担っているし、私たちにいろいろなことを発信しているという事です。
苔から何が判るのかどんな役割を担っているのか、何故苔にそんなに夢中になったのかお聞きしました。
苔はいろんなことを教えてくれます。
環境のことやその他身の回りに起こっているあらゆることが苔から判ります。
京都の苔庭では苔が減ってるんです。
苔は非常に環境の変化に敏感で、京都で起こっているヒートアイランド現象の影響を強く受けてしまってます。
京都は1960年代には年間30回ぐらい霧が発生したんですが、近年では霧が無くなってしまって、年間ゼロの時もおおくて、苔はじわじわと生育が悪くなっています。
苔は葉の表面から直接水を吸収しています。
ほかの植物のように根から吸収しているわけではないんです。
水をまいても効果がないわけではないが、空気中の湿度が苔にとっては重要なんです。
葉の表面から水や栄養分を吸収しているので、大気からやってくる汚染物質も苔を見るとわかります。
苔が大気汚染物質を体の中に蓄積しているんです。
PM2,5も苔の中に吸収されてしまって、大陸からやってくる汚染の状況が判ってしまう。
いろんなところで調べ分析しましたが、意外ですが高山帯でも大陸からの物質がやってきています。
思っている以上に苔は汚染物質を吸収していました。
分析をすると、発がん性物質のあるもの、環境ホルモン作用などいろんな有害物質が苔から出ているので注目しています。
レベル的には海外の話もあるので東アジアレベルで考えていかなければいけない話です。
街のいくつかのところで苔を取り分析してマップを作って、街のどのあたりが汚染されているか、どのあたりが綺麗なのか、公園を作ることで街は綺麗になったのか、何年か続けることによって苔から判ってきます。
日本は苔好きが多くて苔の標本がいっぱいあり、古くは1800年代から今にかけてあり、各地の博物館に眠っていて、その標本を使って苔の中に含まれている物質が年代ごとにどう変化しているのか私が今分析しています。
最近興味を持っているのがヒートアイランドで、苔にとっては一大事です。
昔は昼間は暑くても朝は涼しくてその温度差で朝露ができて苔を潤していましたが、一日だらだら暑くなると、朝露は降りないし朝霧は発生しなくなり苔にとっては一大事です。
海外にも苔がありますが、苔を庭に使う文化は日本独特です。
西芳寺(苔寺)は室町時代にできましたが、記録を見ると当時は白砂の庭でした。
応仁の乱の後には西芳寺は荒れてしまって、江戸時代になって苔が一面にむしていたという記録があります。
西芳寺は山裾にあり近くに小さな川があり湿度がたまりやすい環境でした。
西芳寺は約130種類あります、日本全体では1700種類前後あります。
西芳寺の独特の静かな雰囲気は実は苔が一部作り出しています。
一面に小さな凸凹ができていてそれが音を吸収しています。
鹿は何でも食べますが、苔は食べないが鹿が増えると苔が減ります。
鹿は森の草木を食べて草木が枯れて、森が乾燥して苔が減っていきます。
苔は森のゆりかごになっています。
苔には適度の湿度があり木の種を乾燥から守ってあげる。
苔は抗菌作用があり細菌から種を守ってあげる。
苔は虫も食べないし人間も食べない。
苔のマットの上に落ちた種はすくすく育ちます。
クラマゴケ(鞍馬苔)はシダ類で、クラマゴケモドキは苔なんです。
昔は木に毛と書いて「コケ」でした。
皆さんが一番見ていると思われるのが銀苔だと思います。
日向のコンクリート壁、アスファルトの隙間などぽつぽつ生えています。
屋の上の赤苔、灰苔などは駐車場の隅などに最近はあります。
灰苔は杉苔を覆ってしまいます。
銭苔は特殊な根を持っていて地面からも窒素をどんどん吸い取ることができます。
苔は空気の清浄度に敏感に反応します。
空気の清浄度が綺麗になるほど苔の種類が増えていきます。
1970年代東京は着生砂漠と呼ばれている状況でした。
大気が汚れて木の幹から苔が消えました。
最近は東京の中心部でも空気が綺麗になってきて苔が戻ってきました。
苔は暑さが嫌いな生物です。
苔を通して日本の文化をいろいろ学びました。
和歌にも多く詠まれていますし、国歌にも詠まれています。
平安時代の苔色は着物の表が紫がかった色、裏が茶色がかった色のことを苔色と言われています。
最近は苔玉も売っていますし、苔をガラスの中で育てて愛でるという事も盛んになってきました。
京都にいて苔に接することがおおくて、京都大学では都市の生物を研究したいと思って苔は誰もやっていなかったので苔を研究対象にしました。
苔を守ろうと思いましした。
珍しい苔との出会いが京都の小さな緑地にありました。
昔は広い緑地だったと思われそれが僅かに残っていたという事で、歴史まで語ってくれます。
苔には保持機能があり、水をよく貯える種は自分の体重の20~30倍の水を吸収します。
第一次世界大戦の時にはヨーロッパでは脱脂綿の代わりにそういった苔を使って血を吸収させてあげるという事、抗菌作用もあるので利用されたという事です。
種によっては水が無くても10年持つという事も聞いています。
苔がメインになる湿原には、空気中にある二酸化炭素の量と同程度の炭素が蓄えられています。
それが仮に全部放出されたら空気中の二酸化炭素は2倍になってしまいます。
地球レベルで考えても人類にとって大事なのは苔なんですね。
2020年1月28日火曜日
中村雅継(元関脇 嘉風) ・【スポーツ明日への伝言】ありがたき、わが相撲人生!
中村雅継(元関脇 嘉風) ・【スポーツ明日への伝言】ありがたき、わが相撲人生!
大きくはない身体にもかかわらず、真っ向勝負の正攻法、その姿は見る者の心を揺さぶり記憶に残る力士として人気を集めた大相撲尾車部屋の元関脇嘉風、右ひざの怪我からの復帰が叶わず去年の9月37歳で惜しまれながら引退しました。
今後は年寄中村として後進の指導などに当たることになっています。
自分が髷を落とすところは想像できませんでした。
親方と呼ばれてもピンときません。
2004年1月が初土俵でした。
大分県佐伯市出身、相撲巡業が来て、小学4年生の時に佐伯クラブで相撲を始めました。
貴花田関が物凄く好きでした。
母方の祖父と小学校上がるかどうかの頃、畳の上で相撲を取って好きになった覚えがあります。
クラブの指導者が大相撲の経験者で厳しさを知っているので、子どもに対しては楽しくやるような相撲クラブでした。
中学卒業したら大相撲に行きたいと思っていましたが、指導者からはそんな甘いものではないという事で反対されました。
高校の監督から誘われ勉強も相撲も厳しいと言われましたが、監督の男気に感じて大分県立中津工業高等学校に入学しました。
入ってからは本当にきつくて相撲の厳しさを初めて高校1年生の時に感じました。
自分の考えの甘さに気付いて、大相撲の世界に行くことは断念しました。
相撲部の顧問が3年間担任をしてくれて、その先生のようになりたいと思って先生が日本体育大学出身だったので、日本体育大学をめざそうとして日本体育大学に進学しました。
3年の時に全日本選手権で優勝、アマチュア横綱のタイトルを獲得しました。
自分では横綱は受けて立つようなイメージがあって、4年の時には「ハッケヨイ」の声がかかるとなぜか力が出ませんでした。
4年生の時には自分が納得する相撲が一番もありませんでした。
自分にプレッシャーをかけていたのかなあと後で感じました。
もう一回好きだった相撲を取り戻すにはステージを一つあげてやらなければいけないのではないかと思いました。
もう一回大相撲で取り戻したいと思いました。
順調に行っていたら教員になっていたかもしれません。
尾車部屋に入門し、2004年(平成16年)1月場所に初土俵でした。
順調に出世はしましたが、強い人にもまれて相撲が人生の中心になって、自分を取り戻した気がしました。
20代の後半は目標がないというか、番付の下ばかり気にして三役を目指すとか、横綱大関を倒すという様な目標が全くありませんでした。
向上心がありませんでした。
30歳になるころに尾車親方が巡業部長をやっているときに、大阪場所で自分は大敗して幕内の下位になって、尾車親方から「大負けして、落ちるのは早いぞ」と言われて、もう一回上を目指そうと思いました。
妻からも「あなたと対戦する人は三役に上がれるのに、あなたは何故三役になれないの」とかも言われました。
親方が大けがをして手術をして長いリハビリから帰ってきて、「お前らは体が自由に動くし、好きなことができるんだから一生懸命相撲を頑張れ」と言ってくれて、物凄くその言葉に力があってもう一回やってみようと自分で出来ることを探しました。
トレーニングをやろうと取り掛かりました。
手首を骨折して休場して、休場明けの九州場所に地元から応援団が来てくれて、勝つところを見せたいと思って立ち合いに安易に変化したんです。
全く通じないでいいところが無くて負けてしまいました。
勝ち負けではなく、土俵に立った姿を見てみんがが喜んで帰ってますという事を聞かされて、甘い考えで相撲を取っていたことを悔みました。
自分の出来ること、自分らしさを出そうと、そういう姿を見てもらおうという事でそれ以後立ち合いで変化したことがないです。
その場所は幕内に残留することができました。
一番印象が強く残っているのは新三役小結になった場所の9日目の稀勢の里関との一戦は120%の力を出して結局は負けましたが、達成感のある相撲でした。
負けてもすがすがしい気持ちで印象が強く残っています。
2015年(平成27年)7月 12勝3敗して、9月に西前頭筆頭で2日目に白鵬、3日目に鶴竜の両横綱を連破しました。
白鵬に勝って3日目以降はうまく言えませんが眠たいような感覚がありました。
14日目に豊ノ島との対戦で合い口が悪くて苦手な力士でしたが、眠いというか徹夜した朝の感覚のようでどうすれば勝てるか考えて纏まらないうちに制限時間が一杯になって、いつも通り手をついたらいい相撲になるだろうと思って行ったら、合い口の悪い相手に勝ってしまいました。
不思議な感覚で相撲がとれたのはあの場所だけでした。
力士であることで、いい思いをさせてもらいました。
良いことも悪いこともいい経験を相撲を通じてさせてもらって、有難い相撲人生だなと思いましたし、現役としては終わりだなあという残念な気持ちもあります。
力士になってよかったなあと心底思える相撲人生だったなと思いました。
若い力士に対してはいい相撲を取って勝つ、精一杯やったことが見ていただく人の心に響いて声援を頂く、それが自分としては心地良かったし、それを今の若い衆にも味わっていただきたい。
安易に勝ちに行くんではなくて、こいつが土俵に上がるとなんかやってくれるぞと、そういう力士になってもらいたいです。
大きくはない身体にもかかわらず、真っ向勝負の正攻法、その姿は見る者の心を揺さぶり記憶に残る力士として人気を集めた大相撲尾車部屋の元関脇嘉風、右ひざの怪我からの復帰が叶わず去年の9月37歳で惜しまれながら引退しました。
今後は年寄中村として後進の指導などに当たることになっています。
自分が髷を落とすところは想像できませんでした。
親方と呼ばれてもピンときません。
2004年1月が初土俵でした。
大分県佐伯市出身、相撲巡業が来て、小学4年生の時に佐伯クラブで相撲を始めました。
貴花田関が物凄く好きでした。
母方の祖父と小学校上がるかどうかの頃、畳の上で相撲を取って好きになった覚えがあります。
クラブの指導者が大相撲の経験者で厳しさを知っているので、子どもに対しては楽しくやるような相撲クラブでした。
中学卒業したら大相撲に行きたいと思っていましたが、指導者からはそんな甘いものではないという事で反対されました。
高校の監督から誘われ勉強も相撲も厳しいと言われましたが、監督の男気に感じて大分県立中津工業高等学校に入学しました。
入ってからは本当にきつくて相撲の厳しさを初めて高校1年生の時に感じました。
自分の考えの甘さに気付いて、大相撲の世界に行くことは断念しました。
相撲部の顧問が3年間担任をしてくれて、その先生のようになりたいと思って先生が日本体育大学出身だったので、日本体育大学をめざそうとして日本体育大学に進学しました。
3年の時に全日本選手権で優勝、アマチュア横綱のタイトルを獲得しました。
自分では横綱は受けて立つようなイメージがあって、4年の時には「ハッケヨイ」の声がかかるとなぜか力が出ませんでした。
4年生の時には自分が納得する相撲が一番もありませんでした。
自分にプレッシャーをかけていたのかなあと後で感じました。
もう一回好きだった相撲を取り戻すにはステージを一つあげてやらなければいけないのではないかと思いました。
もう一回大相撲で取り戻したいと思いました。
順調に行っていたら教員になっていたかもしれません。
尾車部屋に入門し、2004年(平成16年)1月場所に初土俵でした。
順調に出世はしましたが、強い人にもまれて相撲が人生の中心になって、自分を取り戻した気がしました。
20代の後半は目標がないというか、番付の下ばかり気にして三役を目指すとか、横綱大関を倒すという様な目標が全くありませんでした。
向上心がありませんでした。
30歳になるころに尾車親方が巡業部長をやっているときに、大阪場所で自分は大敗して幕内の下位になって、尾車親方から「大負けして、落ちるのは早いぞ」と言われて、もう一回上を目指そうと思いました。
妻からも「あなたと対戦する人は三役に上がれるのに、あなたは何故三役になれないの」とかも言われました。
親方が大けがをして手術をして長いリハビリから帰ってきて、「お前らは体が自由に動くし、好きなことができるんだから一生懸命相撲を頑張れ」と言ってくれて、物凄くその言葉に力があってもう一回やってみようと自分で出来ることを探しました。
トレーニングをやろうと取り掛かりました。
手首を骨折して休場して、休場明けの九州場所に地元から応援団が来てくれて、勝つところを見せたいと思って立ち合いに安易に変化したんです。
全く通じないでいいところが無くて負けてしまいました。
勝ち負けではなく、土俵に立った姿を見てみんがが喜んで帰ってますという事を聞かされて、甘い考えで相撲を取っていたことを悔みました。
自分の出来ること、自分らしさを出そうと、そういう姿を見てもらおうという事でそれ以後立ち合いで変化したことがないです。
その場所は幕内に残留することができました。
一番印象が強く残っているのは新三役小結になった場所の9日目の稀勢の里関との一戦は120%の力を出して結局は負けましたが、達成感のある相撲でした。
負けてもすがすがしい気持ちで印象が強く残っています。
2015年(平成27年)7月 12勝3敗して、9月に西前頭筆頭で2日目に白鵬、3日目に鶴竜の両横綱を連破しました。
白鵬に勝って3日目以降はうまく言えませんが眠たいような感覚がありました。
14日目に豊ノ島との対戦で合い口が悪くて苦手な力士でしたが、眠いというか徹夜した朝の感覚のようでどうすれば勝てるか考えて纏まらないうちに制限時間が一杯になって、いつも通り手をついたらいい相撲になるだろうと思って行ったら、合い口の悪い相手に勝ってしまいました。
不思議な感覚で相撲がとれたのはあの場所だけでした。
力士であることで、いい思いをさせてもらいました。
良いことも悪いこともいい経験を相撲を通じてさせてもらって、有難い相撲人生だなと思いましたし、現役としては終わりだなあという残念な気持ちもあります。
力士になってよかったなあと心底思える相撲人生だったなと思いました。
若い力士に対してはいい相撲を取って勝つ、精一杯やったことが見ていただく人の心に響いて声援を頂く、それが自分としては心地良かったし、それを今の若い衆にも味わっていただきたい。
安易に勝ちに行くんではなくて、こいつが土俵に上がるとなんかやってくれるぞと、そういう力士になってもらいたいです。
2020年1月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】宮城道雄
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】宮城道雄
「私は目で見る力を失った代わりに耳で聞くことがことさら鋭敏になったのである。
普通の人には聞こえぬような遠い音も、又かすかな音も聞き取ることができる。
そしてそこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ寂しさを十分に満足させることができる。
そこに私の住む音の世界を見出して安住しているのである。
昨年の暮れちょっと風邪を引いて欧氏管(鼻咽頭の側壁と鼓室前壁を結ぶ長さ約3.5cmの管)を悪くした。
普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、9つの歳に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して私の心を暗くした。
もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。
音の世界にのみ生きてきた私が今耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。
幸い何のこともなく全治したが、とにかく今の私には耳のあることが一番うれしく又ありがたい。」 宮城道雄
日本の音楽家、作曲家であり琴の名人。
1894年(明治27年)生まれで江戸川乱歩と同じ年の生まれ。
純邦楽を聞く人は少なくなった。
お正月には宮城道雄の「春の海」を聞くことが多かったが。
宮城道雄は当時の文学者から高く評価されていた。
内田百閒が琴の弟子として入門し、親友となる。
内田百閒の勧めで宮城道雄がエッセーを出すようになり、川端康成、佐藤春夫などから高く評価される。
宮城道雄は目が見えないので耳はとっても大切なわけです。
耳まで聞こえなくなると思うと自殺よりほかはないと思ってしまう。
五感の一つを奪われることのつらさを知っているからこそ、二つ目を奪われることは耐えがたかったと思います。
宮城道雄はヘレン・ケラーが来日した時に会っているが物凄く感激して尊敬しています。
「よく人が盲人は真っ暗なように思っているがそれは少しでも見えることで、私には暗いのも見えなくなっているので、結局明るくもなく暗くもなく何にもないことになる。」
宮城道雄
病気、障害に関しても体験者にしかわからないことがある訳で、体験者しかわからないことを聞くという事がもっとあっていいんじゃないかと思います。
耳で声とか音を聞くだけで、相手の人の顔、体つき、性格とか、その時の気分までわかるというんですね。
「世界中で同じ人相がないのと同様に、声も又人々によっても違っている。
その声の調子によってその人の性質、顔の形がわかるのである。
ことに性格はよく声に現れる、そしてその時の表情なども大方は想像できるのである。
同じ人でも心に悩みがある場合はどんなに快活な声を作っていても直ぐに判るものである。
よく「お顔の色が悪いがどうかされましたか」というが、私なら「お声の色が悪いがどうかされましたか」と聞きたいところである。
よく子どもなどが稽古に来た時に行儀を悪くしているのはすぐ判る。
私が「ちゃんと座って」と言うと吃驚して座りなおす。
それで思い出したが、ある夏の暑い日の事であった。
尺八の合奏に来た書生が私にわからぬようにそーっと着物を脱いで吹こうとした。
その時私が「裸で涼しいでしょうな」と言ったら、その書生は驚いて着物を着たことがあった。」 宮城道雄 「音の世界」
目をつぶって食べると味が判る様になってよりおいしい、視覚の情報がなくなる分、味覚の情報に敏感になると思うので、目が見えないと聴覚に集中するようになって、通常ではありえないほどいろんなことが判るようになるんでしょうね。
「私は7,8歳の頃少しまだ目が見えていたが、そのころなによりも辛く感じたのは、春が来て4月になると親戚や近所の子が小学校へ上がる事で、私も行きたいが目が治らない。
親たちが気休めに学用品を一揃え買ってくれたが、私はそのカバンをかけて学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。
目を本に付けるようにして字を教えてもらったこともあった。
おばあさんに時々学校の門ヘ遊びに連れてもらったが、中でみんなが元気よく体操をしたり、遊戯をしたり、唱歌を歌いながら遠足に出かけたりするのを聞いていると、急に悲しくなって学校の門を摑まえて泣いたことが幾度もあった。
9歳の時、一番最後に見てもらったお医者様がこの子の目はもうどうしても治らない、今後もよい医者とか薬とか言われても決して迷ってはならないと、私のおばあさんに言われているのを聞いて私はもう胸が一杯になった。
今日こそは目が治ると思って楽しんでいたのに。」 宮城道雄
学校にいけないとなると辛い。
仲間もいなくて校門の前で泣くしかない。
医者が完全に希望を打ち砕いているが、残酷なようですが、小学校に行くのをあきらめて琴の道に進んだわけです。
希望と絶望というのもなんとも不思議なものです。
父親が韓国で雑貨商を営むが、宮城道雄が11歳の時に暴動に巻き込まれて、商品は全部盗まれるし、父は重症を負ってしまう。
仕送りが無くなって11歳で自活しなくてはいけなくなる。
師匠の代稽古をさせてもらって収入を得るようになる。
父親の怪我が治らず逆に父親から助けを求めてきて、13歳で韓国に渡って一家を支えなくてはいけなくなる。
宮城道雄は朝早くから起きて琴の練習をして、昼間は琴を教えて、夜は尺八を教えて生計を立てていた。
15歳の時に伊藤博文が演奏を聴いて、素晴らしいと言って東京に連れて行ってくれると約束したが、3か月後に伊藤博文は暗殺されてしまう。
23歳で日本に戻ってくるが、無名の為生活は苦しい。
25歳で演奏会を開き「水の変態」(満14歳の時に初めて作曲した作品)を演奏する。
「私は学校へ行けなかったが、学問が好きで弟が勉強しているそばにいつもついていて、いろいろ聞き覚えをしていたが、読文の中に水の変態というのがあって、水が霧、雲、雨、露、霜といろいろに変わるという和歌であった。
私はそれを聞いて面白く感じたので16歳(数え歳)の時、この歌によってはじめて水の変態の作曲を試みた。」
*「水の変態」
「目が見えなくなってから私が生きる道は音の世界に限られてしまった。
子どもの頃はそれがどんなに悲しかったか知れない。
しかし 琴を習い始めてから 段々心持が落ち着いてきて目が見えないことをそんなに苦にしなくなった。
今ではもう悲しいどころかむしろ幸いだったと感謝している。
これは決して負け惜しみでも何でもない。
目が見えなかったからこそ、私は琴に親しむようになったので琴を弾いていさえいれば、この世の生活を有難いと思い、しみじみとたのしむことができるのである。
もしなまじ目が開いていたら私は今頃何になっていたか知れない。
目が見えなかったばっかりに私の生きる道を音楽の世界と決め、琴を友としてわき目もふらずこの道を進んでこられたのだと思う。
目の見える人は職業の選択にも私どもよりは自由が与えられている。
自由は与えられているがそれだけに若いうちは、自分の現在ある地位や職業に不満を抱いて迷う事も多いと思う。
その点は私ども盲人は幸せであるといいうる。
私たちはただこの道を行くよりほかはない、迷ったりする余地はない。
ただまっしぐらにこの道を進んでゆく、その一念が私を今日あらしめてくれたともいえるのである。」 宮城道雄
*「瀬音」
宮城道雄は才能があり琴の一つ道を進んできて、宮城道雄のようにうまくいった人の言葉が残るが、これは危険な言葉であるとは思います。
背水の陣で懸命にやってもうまくいかない時もある、そういう時は大変です。
上手くいかない可能性もあるので、思いすぎてしまうのもとっても危険です。
「私にはやっぱり目が必要でした。
私の目は家内でした。
貧乏が酷かったので質屋にもずいぶん通ったり色々な苦労を掛けましたが、30年の月日を通じて生活の面で私はずーっと家内におぶさってばかりです。
家内は若い時分はよく琴を弾きましたが、いつのころからすっかり辞めて私の目となる事だけに生きるようになりました。
そして私の仕事に対するなかなかの大批評家になりました。
母心の適切な批評をしてくれます。
ほかの人と外へ出かけた時でも、何か遠くから家内が見守っていてくれることを私は感じます。
それだけで私は安心して仕事ができます。
手を取ってくれる年月が長くなるにつれて、母という漢字が家内に加わって、私が頼りきって修行を続けています。」 宮城道雄
*「春の訪れ」
しっかりしていても自分だけでは生きられない。
人はお互いに迷惑をかけるのが当たり前、と変えたらそれだけでも随分違うと思います。
ルールの違いというのがあります。
或る車椅子の人の光景を宮古島の病院で見て、送ってきてくれる人はいなくなり、帰りは誰かに送ってもらおうと、人に迷惑をかけるという様な思いはなく、頼みづらいという事はなくて安心しきっていてこれには感動して、こういう社会ができる社会だったらどんなにいいかと思いました。
「人生には不幸を通ってくる幸福がある様に、落ち葉のかなたには春の芽生えが待っている。」 宮城道雄
「私は目で見る力を失った代わりに耳で聞くことがことさら鋭敏になったのである。
普通の人には聞こえぬような遠い音も、又かすかな音も聞き取ることができる。
そしてそこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ寂しさを十分に満足させることができる。
そこに私の住む音の世界を見出して安住しているのである。
昨年の暮れちょっと風邪を引いて欧氏管(鼻咽頭の側壁と鼓室前壁を結ぶ長さ約3.5cmの管)を悪くした。
普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、9つの歳に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して私の心を暗くした。
もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。
音の世界にのみ生きてきた私が今耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。
幸い何のこともなく全治したが、とにかく今の私には耳のあることが一番うれしく又ありがたい。」 宮城道雄
日本の音楽家、作曲家であり琴の名人。
1894年(明治27年)生まれで江戸川乱歩と同じ年の生まれ。
純邦楽を聞く人は少なくなった。
お正月には宮城道雄の「春の海」を聞くことが多かったが。
宮城道雄は当時の文学者から高く評価されていた。
内田百閒が琴の弟子として入門し、親友となる。
内田百閒の勧めで宮城道雄がエッセーを出すようになり、川端康成、佐藤春夫などから高く評価される。
宮城道雄は目が見えないので耳はとっても大切なわけです。
耳まで聞こえなくなると思うと自殺よりほかはないと思ってしまう。
五感の一つを奪われることのつらさを知っているからこそ、二つ目を奪われることは耐えがたかったと思います。
宮城道雄はヘレン・ケラーが来日した時に会っているが物凄く感激して尊敬しています。
「よく人が盲人は真っ暗なように思っているがそれは少しでも見えることで、私には暗いのも見えなくなっているので、結局明るくもなく暗くもなく何にもないことになる。」
宮城道雄
病気、障害に関しても体験者にしかわからないことがある訳で、体験者しかわからないことを聞くという事がもっとあっていいんじゃないかと思います。
耳で声とか音を聞くだけで、相手の人の顔、体つき、性格とか、その時の気分までわかるというんですね。
「世界中で同じ人相がないのと同様に、声も又人々によっても違っている。
その声の調子によってその人の性質、顔の形がわかるのである。
ことに性格はよく声に現れる、そしてその時の表情なども大方は想像できるのである。
同じ人でも心に悩みがある場合はどんなに快活な声を作っていても直ぐに判るものである。
よく「お顔の色が悪いがどうかされましたか」というが、私なら「お声の色が悪いがどうかされましたか」と聞きたいところである。
よく子どもなどが稽古に来た時に行儀を悪くしているのはすぐ判る。
私が「ちゃんと座って」と言うと吃驚して座りなおす。
それで思い出したが、ある夏の暑い日の事であった。
尺八の合奏に来た書生が私にわからぬようにそーっと着物を脱いで吹こうとした。
その時私が「裸で涼しいでしょうな」と言ったら、その書生は驚いて着物を着たことがあった。」 宮城道雄 「音の世界」
目をつぶって食べると味が判る様になってよりおいしい、視覚の情報がなくなる分、味覚の情報に敏感になると思うので、目が見えないと聴覚に集中するようになって、通常ではありえないほどいろんなことが判るようになるんでしょうね。
「私は7,8歳の頃少しまだ目が見えていたが、そのころなによりも辛く感じたのは、春が来て4月になると親戚や近所の子が小学校へ上がる事で、私も行きたいが目が治らない。
親たちが気休めに学用品を一揃え買ってくれたが、私はそのカバンをかけて学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。
目を本に付けるようにして字を教えてもらったこともあった。
おばあさんに時々学校の門ヘ遊びに連れてもらったが、中でみんなが元気よく体操をしたり、遊戯をしたり、唱歌を歌いながら遠足に出かけたりするのを聞いていると、急に悲しくなって学校の門を摑まえて泣いたことが幾度もあった。
9歳の時、一番最後に見てもらったお医者様がこの子の目はもうどうしても治らない、今後もよい医者とか薬とか言われても決して迷ってはならないと、私のおばあさんに言われているのを聞いて私はもう胸が一杯になった。
今日こそは目が治ると思って楽しんでいたのに。」 宮城道雄
学校にいけないとなると辛い。
仲間もいなくて校門の前で泣くしかない。
医者が完全に希望を打ち砕いているが、残酷なようですが、小学校に行くのをあきらめて琴の道に進んだわけです。
希望と絶望というのもなんとも不思議なものです。
父親が韓国で雑貨商を営むが、宮城道雄が11歳の時に暴動に巻き込まれて、商品は全部盗まれるし、父は重症を負ってしまう。
仕送りが無くなって11歳で自活しなくてはいけなくなる。
師匠の代稽古をさせてもらって収入を得るようになる。
父親の怪我が治らず逆に父親から助けを求めてきて、13歳で韓国に渡って一家を支えなくてはいけなくなる。
宮城道雄は朝早くから起きて琴の練習をして、昼間は琴を教えて、夜は尺八を教えて生計を立てていた。
15歳の時に伊藤博文が演奏を聴いて、素晴らしいと言って東京に連れて行ってくれると約束したが、3か月後に伊藤博文は暗殺されてしまう。
23歳で日本に戻ってくるが、無名の為生活は苦しい。
25歳で演奏会を開き「水の変態」(満14歳の時に初めて作曲した作品)を演奏する。
「私は学校へ行けなかったが、学問が好きで弟が勉強しているそばにいつもついていて、いろいろ聞き覚えをしていたが、読文の中に水の変態というのがあって、水が霧、雲、雨、露、霜といろいろに変わるという和歌であった。
私はそれを聞いて面白く感じたので16歳(数え歳)の時、この歌によってはじめて水の変態の作曲を試みた。」
*「水の変態」
「目が見えなくなってから私が生きる道は音の世界に限られてしまった。
子どもの頃はそれがどんなに悲しかったか知れない。
しかし 琴を習い始めてから 段々心持が落ち着いてきて目が見えないことをそんなに苦にしなくなった。
今ではもう悲しいどころかむしろ幸いだったと感謝している。
これは決して負け惜しみでも何でもない。
目が見えなかったからこそ、私は琴に親しむようになったので琴を弾いていさえいれば、この世の生活を有難いと思い、しみじみとたのしむことができるのである。
もしなまじ目が開いていたら私は今頃何になっていたか知れない。
目が見えなかったばっかりに私の生きる道を音楽の世界と決め、琴を友としてわき目もふらずこの道を進んでこられたのだと思う。
目の見える人は職業の選択にも私どもよりは自由が与えられている。
自由は与えられているがそれだけに若いうちは、自分の現在ある地位や職業に不満を抱いて迷う事も多いと思う。
その点は私ども盲人は幸せであるといいうる。
私たちはただこの道を行くよりほかはない、迷ったりする余地はない。
ただまっしぐらにこの道を進んでゆく、その一念が私を今日あらしめてくれたともいえるのである。」 宮城道雄
*「瀬音」
宮城道雄は才能があり琴の一つ道を進んできて、宮城道雄のようにうまくいった人の言葉が残るが、これは危険な言葉であるとは思います。
背水の陣で懸命にやってもうまくいかない時もある、そういう時は大変です。
上手くいかない可能性もあるので、思いすぎてしまうのもとっても危険です。
「私にはやっぱり目が必要でした。
私の目は家内でした。
貧乏が酷かったので質屋にもずいぶん通ったり色々な苦労を掛けましたが、30年の月日を通じて生活の面で私はずーっと家内におぶさってばかりです。
家内は若い時分はよく琴を弾きましたが、いつのころからすっかり辞めて私の目となる事だけに生きるようになりました。
そして私の仕事に対するなかなかの大批評家になりました。
母心の適切な批評をしてくれます。
ほかの人と外へ出かけた時でも、何か遠くから家内が見守っていてくれることを私は感じます。
それだけで私は安心して仕事ができます。
手を取ってくれる年月が長くなるにつれて、母という漢字が家内に加わって、私が頼りきって修行を続けています。」 宮城道雄
*「春の訪れ」
しっかりしていても自分だけでは生きられない。
人はお互いに迷惑をかけるのが当たり前、と変えたらそれだけでも随分違うと思います。
ルールの違いというのがあります。
或る車椅子の人の光景を宮古島の病院で見て、送ってきてくれる人はいなくなり、帰りは誰かに送ってもらおうと、人に迷惑をかけるという様な思いはなく、頼みづらいという事はなくて安心しきっていてこれには感動して、こういう社会ができる社会だったらどんなにいいかと思いました。
「人生には不幸を通ってくる幸福がある様に、落ち葉のかなたには春の芽生えが待っている。」 宮城道雄
2020年1月26日日曜日
池谷幸雄(体操クラブ代表) ・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年(初回:2017.12.24)
池谷幸雄(体操クラブ代表)・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年
(初回:2017.12.24)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.htmlをご覧ください。
(初回:2017.12.24)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2020年1月25日土曜日
上司永照(東大寺僧侶・練行衆) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
上司永照(東大寺僧侶・練行衆) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
お水取り、正式には二月堂修二会の法会と言いますが、その法会の一つ、お経や仏教の言葉を独特の節やリズムで唱える声明(しょうみょう)、今年で27回勤める上司永照さんに伺います。
実際に二月堂に籠って行を行う人は11人の練行衆と言われる僧侶でして、今年上司さんは一昨年に続いてその趣旨や祈願の文章を唱え、行全体のリーダー役とされる大導師という大役を任命されています。
上司さんは東大寺の境内にあります塔中に1962年に生まれました。
その響きある声明を耳にしたいと東京や、関西各地から訪れる人も多いと言います。
今日は天平時代752年から毎年途切れることなく行われてきたお水取り 、その意味や実際にどのような行が行われているかなどを上司さんの舌の記憶と共に伺います。
*一部称名を唱える。
観音様を讃えているお経のなかから今は単純に「南無観世音菩薩」 観音様に帰依します、というところが肝心なところです。
お経というよりは芝居のような旋律とリズムを、どなたかがつくられてそれを観音様に捧げるという芝居をするのかもしれません。
音楽的なものがあるのではないかと思います。
長い時間を掛けてきました。
十一面観音様の前でごめんなさいをするわけです。
罪、何かの命を必ず頂いて私達の体がある事だし、そういったことをごめんなさいをして、それが許されて初めて春を迎えることができる訳です。
修二会でお唱えしているなかに「風雨順時」という言葉がありますが、風や雨が順番通りにやってくる、季節が季節通りにやってくる。
今は生き方が問われていて、生き方をどうしてゆくのかという事が今は大事だと思います。
大仏殿も二度焼けましたが、忠実にやって来たわけです。
お堂に入ってゆく時に靴をだだだだだと鳴らすようなしぐさをします。
称名を唱えてクライマックスがきて、恍惚な状態になってうまい瞬間になってドカンという音が鳴るわけですが、脛を打ち付けると板が床に当たって大きな音がします。
懺悔しているという音です。
法螺貝はいろんなところで使われますが、多くは合図になっています。
神様などを呼ぶ合図であったり、呼び声であったり、いろんな意味があり、東大寺では法螺貝を使うのはこの時期だけです。
称名もいろいろありまして、全国の神様を呼ぶのも称名です。
小さいころ称名に興味を持っている人たちが周りにいたのかもしれません。
師匠が私の父で、声もよかったです。
声も父に似ているといわれて、声を出すことに興味を持って、得度して声明を上げていると気持ちいいなあと思いました。
最初習ったのが明治生まれの長老でした。
私たちは十二音階で育っているのでそこにはまっていないと、何かちょっと違和感がありました。
その通りにやるのがもの凄く難しかった。
27回になりますが、毎年難しくなってきます。
やっているうちに毎年見えてくるものがあって、これはどういうことなのか、どうやればいいのか、仏様、神様教えてくださいという様な感じです。
思い出の食べ物は茶粥でしょうね。
朝は茶粥でした、冷たいご飯に熱い茶粥をかけるんです。
それをかき込みました。
食べる前にまずは茶粥を神様に供えていました。
今も修二会では茶粥を食べます。
修二会は14日間ありますが、その前に練行衆は2月20日から「別火」という前行に入ります。
火打ち石でおこした特別の火だけを利用して生活するのでこのように言われています。
その朝が茶粥です。
自分にとってみては茶粥は好きです。
あっという間にお代わりもしてお漬物は少なくて済みます。
本業になると一日一食で昼に精進を一回だけです。
そこから修二会が始まり夜中の1時ごろまでかかり、その間は水一滴を飲むことは許されません。
遅い時には4時ということがありますが、それから水を飲んだりすることが許されるわけです。
和紙で出来た衣を身に付けているのですが、その時には座るところも決まっていて、宿所も決まっていてほかの部屋に出たらだめなんです。
決められた時間以外に部屋を出たり豊島茣蓙以外に座ってしまったりすると、自分自身が塵になります。
茣蓙に座って宿所の中で食べるのが茶粥なんです。
普段食べている茶粥と違っていて、全部炭火で作って、鍋に大きな茶袋にほうじ茶をいれて昼頃から作って真っ黒になるまで炊いています。
米をといでお粥になって、半分ざるに出しておひつに入れますが、それを下茶と言います。
残りの半分を「ごぼ」と言います。
下茶が入っているおひつを練行衆のいる部屋に運ばれてきて、茶碗に下茶をいれてもらいます。
仲間が「ごぼ」といって隣の部屋にある「ごぼ」が運ばれてきます。
下茶の上に「ごぼ」をいれてくれてそれを食べます。
お吸い物もかつお出汁ではなくてこんぶ出汁です。
行法のことは記録に書いてありますが、童子さんのすることは何も書いてなくて口伝です。
1200年続いて来たことを違ったものにならないようにしたいと思います。
春を向かえる行事だと思っていて、そうしないと春が来ないような気がします。
お水取り、正式には二月堂修二会の法会と言いますが、その法会の一つ、お経や仏教の言葉を独特の節やリズムで唱える声明(しょうみょう)、今年で27回勤める上司永照さんに伺います。
実際に二月堂に籠って行を行う人は11人の練行衆と言われる僧侶でして、今年上司さんは一昨年に続いてその趣旨や祈願の文章を唱え、行全体のリーダー役とされる大導師という大役を任命されています。
上司さんは東大寺の境内にあります塔中に1962年に生まれました。
その響きある声明を耳にしたいと東京や、関西各地から訪れる人も多いと言います。
今日は天平時代752年から毎年途切れることなく行われてきたお水取り 、その意味や実際にどのような行が行われているかなどを上司さんの舌の記憶と共に伺います。
*一部称名を唱える。
観音様を讃えているお経のなかから今は単純に「南無観世音菩薩」 観音様に帰依します、というところが肝心なところです。
お経というよりは芝居のような旋律とリズムを、どなたかがつくられてそれを観音様に捧げるという芝居をするのかもしれません。
音楽的なものがあるのではないかと思います。
長い時間を掛けてきました。
十一面観音様の前でごめんなさいをするわけです。
罪、何かの命を必ず頂いて私達の体がある事だし、そういったことをごめんなさいをして、それが許されて初めて春を迎えることができる訳です。
修二会でお唱えしているなかに「風雨順時」という言葉がありますが、風や雨が順番通りにやってくる、季節が季節通りにやってくる。
今は生き方が問われていて、生き方をどうしてゆくのかという事が今は大事だと思います。
大仏殿も二度焼けましたが、忠実にやって来たわけです。
お堂に入ってゆく時に靴をだだだだだと鳴らすようなしぐさをします。
称名を唱えてクライマックスがきて、恍惚な状態になってうまい瞬間になってドカンという音が鳴るわけですが、脛を打ち付けると板が床に当たって大きな音がします。
懺悔しているという音です。
法螺貝はいろんなところで使われますが、多くは合図になっています。
神様などを呼ぶ合図であったり、呼び声であったり、いろんな意味があり、東大寺では法螺貝を使うのはこの時期だけです。
称名もいろいろありまして、全国の神様を呼ぶのも称名です。
小さいころ称名に興味を持っている人たちが周りにいたのかもしれません。
師匠が私の父で、声もよかったです。
声も父に似ているといわれて、声を出すことに興味を持って、得度して声明を上げていると気持ちいいなあと思いました。
最初習ったのが明治生まれの長老でした。
私たちは十二音階で育っているのでそこにはまっていないと、何かちょっと違和感がありました。
その通りにやるのがもの凄く難しかった。
27回になりますが、毎年難しくなってきます。
やっているうちに毎年見えてくるものがあって、これはどういうことなのか、どうやればいいのか、仏様、神様教えてくださいという様な感じです。
思い出の食べ物は茶粥でしょうね。
朝は茶粥でした、冷たいご飯に熱い茶粥をかけるんです。
それをかき込みました。
食べる前にまずは茶粥を神様に供えていました。
今も修二会では茶粥を食べます。
修二会は14日間ありますが、その前に練行衆は2月20日から「別火」という前行に入ります。
火打ち石でおこした特別の火だけを利用して生活するのでこのように言われています。
その朝が茶粥です。
自分にとってみては茶粥は好きです。
あっという間にお代わりもしてお漬物は少なくて済みます。
本業になると一日一食で昼に精進を一回だけです。
そこから修二会が始まり夜中の1時ごろまでかかり、その間は水一滴を飲むことは許されません。
遅い時には4時ということがありますが、それから水を飲んだりすることが許されるわけです。
和紙で出来た衣を身に付けているのですが、その時には座るところも決まっていて、宿所も決まっていてほかの部屋に出たらだめなんです。
決められた時間以外に部屋を出たり豊島茣蓙以外に座ってしまったりすると、自分自身が塵になります。
茣蓙に座って宿所の中で食べるのが茶粥なんです。
普段食べている茶粥と違っていて、全部炭火で作って、鍋に大きな茶袋にほうじ茶をいれて昼頃から作って真っ黒になるまで炊いています。
米をといでお粥になって、半分ざるに出しておひつに入れますが、それを下茶と言います。
残りの半分を「ごぼ」と言います。
下茶が入っているおひつを練行衆のいる部屋に運ばれてきて、茶碗に下茶をいれてもらいます。
仲間が「ごぼ」といって隣の部屋にある「ごぼ」が運ばれてきます。
下茶の上に「ごぼ」をいれてくれてそれを食べます。
お吸い物もかつお出汁ではなくてこんぶ出汁です。
行法のことは記録に書いてありますが、童子さんのすることは何も書いてなくて口伝です。
1200年続いて来たことを違ったものにならないようにしたいと思います。
春を向かえる行事だと思っていて、そうしないと春が来ないような気がします。
2020年1月24日金曜日
谷川俊太郎(詩人) ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること(初回:2019.9.27)
谷川俊太郎(詩人) ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること(初回:2019.9.27)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_27.htmlを御覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_27.htmlを御覧ください。
2020年1月23日木曜日
秋田麻早子(美術史研究家) ・【私のアート交遊録】絵の見方、教えます
秋田麻早子(美術史研究家) ・【私のアート交遊録】絵の見方、教えます
秋田さんは絵の見方は教えられるかをテーマに研究し、一般を対象に絵の技術を学ぼうという教室も開いてきました。
展覧会場で絵を前にしてその絵のどこに感動し納得したら良いのか、悩む人は今も数多く絵は好きなように見たらよいという声もあります。
秋田さんも確かにどの絵を好きになりどう見ようと自由ですが、自分がその絵のどういう特徴に惹かれ、どこに何を感じているのかが判れば、自分の価値観、美意識を把握する糸口になる、さらに自分を知り他者を知る手段にもなるといいます。
名画を自分の目で見る方法を広めることで、美術を好きな人が自分の言葉で芸術や美について語れる世の中にしたいと語る秋田さんに、絵を見る技術、自分の美意識を知るための方法などについて伺いました。
一緒に暮していた祖母が日本画をやっていました、日本画の展覧会などに私が幼稚園の頃から必ず連れて行って、画家、画材などについて説明してくれてました。
祖母が亡くなったのが大学卒後でした。
親戚でも絵を描く人が多くて、私自身絵を描くことが好きでした。
描き手の目線で祖母はよく解説してくれました。
絵は漫画とかと並行して刺激されていました。
歴史、人類学的背景とか、美術史的なところにも興味を持っていて、日本ではあまり大学ではなくて、アメリカに行きました。
性格的にやってみてから決めようみたいなところはあります。
アメリカに行って美術史という学科は世界中の美術文化を扱う先生が来ているので、小さい国際都市みたいな感じでやりたいことをやり、やりたいように学びたいことを学び自由にやってきました。
大学時代は実技を美大に行ったと同じようにやりながら、西洋美術史も二重専攻して美術を勉強しました。
古代が中心でしたが、現代までの通史も勉強しました。
「絵を見る技術」というタイトルの本を出版しました。
最初は仮としてつけていましたが、最終的にこうなりました。
構図の見方、「モナリザ」では例えば薄い肌色の洋服を着ていて背景が肌色だったらぼやーとしてしまいます。
黒い服を着ていたり、背景は顔よりも色がついていたりして、顔がちゃんと目立つように描かれている。
当たり前だと思っていますが、プロの人が描くと顔のところに目が行くようにほかの要素を抑えてあったり、目立つところを目立つように配慮している。
長方形の上の方に顔があって視線を下すと手があって、目を引くような形で描かれている。
背景をみると背景も描かれていて、1、2、3の順番で目が行くように誘導されている。
描く人にとってはゼロから描くとなると工夫して、細かく構成されていて長時間見るに耐えるように要素が構成されている。
ほかにも凄さはいろいろありますが。
絵の形や色からどんなふうに表現されているのか目を通してみて、それと耳や言葉で知った情報とかが組み合わされた方が実感が伴ってきて楽しいと思います。
ピカソの「泣く女」、いいものであれば即わかるはずだと思いますが、我々は日本で育ってその文化があり、明治以降で西洋文化に接してきました、ピカソの絵は専門的な知識があれば判るかもしれないが、歴史的経緯、デザインとか専門的なところに価値がある場合は、観てすぐには判らないことで自分をそんなに責めないでほしいという気持ちが凄くあります。
「泣く女」、なんでピカソを見て凄いと思えないかというと、ピカソは下手くそだと思っていると思う。
蒔絵などに抽象的な語りを取り合わせたりしているが、形や色の取り合わせ、線のバランス、写実的な絵が絵が描かれているかどうかというところに、力点を置いていない作品というものが一杯あると思います。
ピカソは写実的に描こうとはしていない。
物事をいろんな角度から見たものを、その体験を平面にならべて描く。
絵はバランスがとれていないといけない。
絵の形とか色味で人間は何となく重みを感じてしまうわけです。
想像上の重みがあって、絵のなかにも想像上の重みがあって、それが拮抗されているかどうかが絵の中では非常に重要な要素になっています。
ピカソは絵の中で色、線とか形の配置の仕方でちゃんとバランスが取れたりしている。
デザイン的観点で見ると、見るに耐えるバランスの取れた構成に仕立てている。
「オフィーリア」 ミレイ
まず女性の顔に目が行くと思います。
この絵を説明するときには白黒にして見せます。
色の綺麗な絵ですが、何故白黒にするかというと、人の目が引きつけられるところは白黒のコントラストの激しいところに目が行きます。
情報量を下げるために白黒にしたものを見せると、あの絵でオフェーリアの顔だけが白くぼーっと浮かび上がるのが判るわけです。
よくよく見ると顔の周りに自然な感じで描かれている枝、葉っぱ、洋服だとかがオフィーリアに向かってまっすぐ伸びていて、オフィーリアが強調されるように構成されている。
自然に見えながらも細かい配慮でいろんなものが主要な人物の顔と体に向かって、線が集中線のように向かうような構成になっている。
絵を見るのにいろんな要素がありますが、まず見ましょうという事が大事です。
自分の素直な感覚を抑制する必要はないと思います。
美術館での特別展、企画展示がありますが、常設展、地方には小ぶりの美術館があります。
それぞれ観方、過ごし方は違うと思いますが、特別展の場合はお目当ての作品を集中して観ることがいいと思います。
常設展の場合にはゆっくりと観て好きなものを探す、逆に自分が好きになりそうなものを見つける場所としてご覧になったりするだけでもいいと思います。
ざーっと観るんだったらインターネットでも観られるし、本当にじっくり見るんだったら狙った作品をじっくり時間を掛けるのがいいんじゃないかと思います。
第一印象も大事ですが、徐々に掘り下げていってその対象を知るわけで、人のことを知ってゆくのと似ています。
好きな絵は何らかの形でそれを自分の中に反映していると思うので、観ることを通してそれに惹かれる自分の内面を観てゆく事でより一層絵との関係というのが深まってよく見えてくるものが多くなると思います。
美術館だけではなく、街、例えば本の表紙もデザイナーさんがやっていて、技術的な基礎は同じであり、表紙を観ることもも絵画を観る時と同じような観点で見ていろいろ発見すると思います。
言葉ではない色や形で我々にメッセージをコミュニケートしていて、それを私たちは読んでいるんだという風に考えると、絵とデザインは色、形、線を通してメッセージとして伝えてきていて、それを私たちは読みとるんだと考えるとコミュニケーションだと思います。
90分ぐらいの講座があるんですが、今まで見えていなかったが見えてきたりする、来る前と来た後では違う人間になってくださいと言ってます。
自分の体験を洗い出して展開しました。
言葉の情報に対しては分析的に考えて取捨選択ができると思いますが、視覚的な情報に対しては漫然としていたのではないかと思います、文字と同じ様に意図されて使われているという事が判ると、主体的で自分の判断に責任が持てるような技術なわけですし、指針のようなものを多くの人が身に付けたら、情報にさらされる中で溺れることなく泳げるようになれる人が多くなればいいと思います。
秋田さんは絵の見方は教えられるかをテーマに研究し、一般を対象に絵の技術を学ぼうという教室も開いてきました。
展覧会場で絵を前にしてその絵のどこに感動し納得したら良いのか、悩む人は今も数多く絵は好きなように見たらよいという声もあります。
秋田さんも確かにどの絵を好きになりどう見ようと自由ですが、自分がその絵のどういう特徴に惹かれ、どこに何を感じているのかが判れば、自分の価値観、美意識を把握する糸口になる、さらに自分を知り他者を知る手段にもなるといいます。
名画を自分の目で見る方法を広めることで、美術を好きな人が自分の言葉で芸術や美について語れる世の中にしたいと語る秋田さんに、絵を見る技術、自分の美意識を知るための方法などについて伺いました。
一緒に暮していた祖母が日本画をやっていました、日本画の展覧会などに私が幼稚園の頃から必ず連れて行って、画家、画材などについて説明してくれてました。
祖母が亡くなったのが大学卒後でした。
親戚でも絵を描く人が多くて、私自身絵を描くことが好きでした。
描き手の目線で祖母はよく解説してくれました。
絵は漫画とかと並行して刺激されていました。
歴史、人類学的背景とか、美術史的なところにも興味を持っていて、日本ではあまり大学ではなくて、アメリカに行きました。
性格的にやってみてから決めようみたいなところはあります。
アメリカに行って美術史という学科は世界中の美術文化を扱う先生が来ているので、小さい国際都市みたいな感じでやりたいことをやり、やりたいように学びたいことを学び自由にやってきました。
大学時代は実技を美大に行ったと同じようにやりながら、西洋美術史も二重専攻して美術を勉強しました。
古代が中心でしたが、現代までの通史も勉強しました。
「絵を見る技術」というタイトルの本を出版しました。
最初は仮としてつけていましたが、最終的にこうなりました。
構図の見方、「モナリザ」では例えば薄い肌色の洋服を着ていて背景が肌色だったらぼやーとしてしまいます。
黒い服を着ていたり、背景は顔よりも色がついていたりして、顔がちゃんと目立つように描かれている。
当たり前だと思っていますが、プロの人が描くと顔のところに目が行くようにほかの要素を抑えてあったり、目立つところを目立つように配慮している。
長方形の上の方に顔があって視線を下すと手があって、目を引くような形で描かれている。
背景をみると背景も描かれていて、1、2、3の順番で目が行くように誘導されている。
描く人にとってはゼロから描くとなると工夫して、細かく構成されていて長時間見るに耐えるように要素が構成されている。
ほかにも凄さはいろいろありますが。
絵の形や色からどんなふうに表現されているのか目を通してみて、それと耳や言葉で知った情報とかが組み合わされた方が実感が伴ってきて楽しいと思います。
ピカソの「泣く女」、いいものであれば即わかるはずだと思いますが、我々は日本で育ってその文化があり、明治以降で西洋文化に接してきました、ピカソの絵は専門的な知識があれば判るかもしれないが、歴史的経緯、デザインとか専門的なところに価値がある場合は、観てすぐには判らないことで自分をそんなに責めないでほしいという気持ちが凄くあります。
「泣く女」、なんでピカソを見て凄いと思えないかというと、ピカソは下手くそだと思っていると思う。
蒔絵などに抽象的な語りを取り合わせたりしているが、形や色の取り合わせ、線のバランス、写実的な絵が絵が描かれているかどうかというところに、力点を置いていない作品というものが一杯あると思います。
ピカソは写実的に描こうとはしていない。
物事をいろんな角度から見たものを、その体験を平面にならべて描く。
絵はバランスがとれていないといけない。
絵の形とか色味で人間は何となく重みを感じてしまうわけです。
想像上の重みがあって、絵のなかにも想像上の重みがあって、それが拮抗されているかどうかが絵の中では非常に重要な要素になっています。
ピカソは絵の中で色、線とか形の配置の仕方でちゃんとバランスが取れたりしている。
デザイン的観点で見ると、見るに耐えるバランスの取れた構成に仕立てている。
「オフィーリア」 ミレイ
まず女性の顔に目が行くと思います。
この絵を説明するときには白黒にして見せます。
色の綺麗な絵ですが、何故白黒にするかというと、人の目が引きつけられるところは白黒のコントラストの激しいところに目が行きます。
情報量を下げるために白黒にしたものを見せると、あの絵でオフェーリアの顔だけが白くぼーっと浮かび上がるのが判るわけです。
よくよく見ると顔の周りに自然な感じで描かれている枝、葉っぱ、洋服だとかがオフィーリアに向かってまっすぐ伸びていて、オフィーリアが強調されるように構成されている。
自然に見えながらも細かい配慮でいろんなものが主要な人物の顔と体に向かって、線が集中線のように向かうような構成になっている。
絵を見るのにいろんな要素がありますが、まず見ましょうという事が大事です。
自分の素直な感覚を抑制する必要はないと思います。
美術館での特別展、企画展示がありますが、常設展、地方には小ぶりの美術館があります。
それぞれ観方、過ごし方は違うと思いますが、特別展の場合はお目当ての作品を集中して観ることがいいと思います。
常設展の場合にはゆっくりと観て好きなものを探す、逆に自分が好きになりそうなものを見つける場所としてご覧になったりするだけでもいいと思います。
ざーっと観るんだったらインターネットでも観られるし、本当にじっくり見るんだったら狙った作品をじっくり時間を掛けるのがいいんじゃないかと思います。
第一印象も大事ですが、徐々に掘り下げていってその対象を知るわけで、人のことを知ってゆくのと似ています。
好きな絵は何らかの形でそれを自分の中に反映していると思うので、観ることを通してそれに惹かれる自分の内面を観てゆく事でより一層絵との関係というのが深まってよく見えてくるものが多くなると思います。
美術館だけではなく、街、例えば本の表紙もデザイナーさんがやっていて、技術的な基礎は同じであり、表紙を観ることもも絵画を観る時と同じような観点で見ていろいろ発見すると思います。
言葉ではない色や形で我々にメッセージをコミュニケートしていて、それを私たちは読んでいるんだという風に考えると、絵とデザインは色、形、線を通してメッセージとして伝えてきていて、それを私たちは読みとるんだと考えるとコミュニケーションだと思います。
90分ぐらいの講座があるんですが、今まで見えていなかったが見えてきたりする、来る前と来た後では違う人間になってくださいと言ってます。
自分の体験を洗い出して展開しました。
言葉の情報に対しては分析的に考えて取捨選択ができると思いますが、視覚的な情報に対しては漫然としていたのではないかと思います、文字と同じ様に意図されて使われているという事が判ると、主体的で自分の判断に責任が持てるような技術なわけですし、指針のようなものを多くの人が身に付けたら、情報にさらされる中で溺れることなく泳げるようになれる人が多くなればいいと思います。
2020年1月22日水曜日
深谷宏冶(料理人) ・地域のために、一皿を
深谷宏冶(料理人) ・地域のために、一皿を
幕末からの歴史を刻む港町は夜景の美しさでも知られ、立ち並ぶ教会や西洋建築の家々など訪れる観光客は年間500万人を越えています。
その街並みの中で毎年春と秋に開かれるイベントが函館西部地区「バル街」です。
美しい景観を見ながら飲食店を回って食事やお酒を楽しむというもので、今や函館を代表するイベントになって、去年地域文化の向上と地域活性化に貢献したとしてサントリー地域文化賞を受賞しました。
16年前このイベントを立ち上げたのが深谷さん(72歳)です。
函館市でスペイン・バスク地方の料理を出すレストランのオーナーシェフです。
食を通して故郷函館のために何かをしたいと活動してきた深谷さんに、これまでの道のりと「バル街」に込めた思いを聞きました。
ここは凄く景観のいい所です。
昨年の秋に32回目となる「バル街」が開催、参加した店が70軒、5000人のお客さんが来ました。
食べて飲む楽しみ、街を歩く,人との会話、景観の中にたたずむ、函館の魅力的な街を知らないうちに感じてくる。
マップがあり殆どの店が選べるようになっています。
私もお客さんといろいろ会話をして楽しめます。
音楽、フラメンコのライブ、津軽三味線、ピエロとかのパーフォーマンスもあります。
ヨーロッパ的な祭りです。
2017年にグットデザイン賞、去年はサントリー地域文化賞を受賞しました。
全国に200は所ぐらいはやっていると思います。
自分の街でもやってみたいという人に対してはノウハウをどんどん教えました。
1975年、27歳でヨーロッパに行きました。
当時料理人は縦社会のような流れがあり、なかなか教えてもらえないような状況でした。
本場の夕食を知ることによって納得するものが得られるのではないかと片道切符で行きました。
伝手は全然なくて行き当たりばったりでした。
フランスで研修させてもらえないかと思って、レストランを片っ端から当たりました。
20,30軒断られて落ち込んで、お客さんとして美味いと言って、調理場まで案内してもらってしゃべって、話を持ち込みましたが、駄目でした。
仲介をしてくれるフランスの友達を作ろうと思いました。
ヒッチハイクをして友達を作り友達を通してレストランを電話紹介してもらいましたが、観光ビザで来ているので、労働許可証を持っていなかったためやはり駄目でした。
このやり方では全部で40、50軒の人と会っています。
併せて70、80軒から断られました。
スペインに行ってサン・セバスティアン(その後美食の街になる)に行きました。
リゾートでも閑散としていました。
ホテルのバーカウンターでそこのマダムとイカの話になり、彼女はイカの墨煮の話をしたので僕はイカの塩辛の話をしたら、食べたいという事で約束してイカを持参したら、その彼女は吃驚して私を信用いてくれて、サン・セバスティアンにはスペインで3本指に入るコックさんがいるからすぐ電話するからそこに行きなさいと言われました。
そのコックさんが僕のシェフ ルイス・イリサールさんです。
16歳の時にマリア・クリスティーナ・ホテルの料理人見習いとなり、フランス・パリのレストラン・ル・ロイヤル・モンソー、イギリス・ロンドンのヒルトン・ホテルなどでも働き、ヒルトン・ホテルでは総料理長を務めた人でした。
ヒルトン・ホテルを辞めて戻ってきて料理学校を立ち上げるんです。
「バスク料理」を再興するその立役者でした。
包容力のある優しい人で人間的に出来た人だと思いました。
彼はその後「バスク料理」の父と呼ばれるようになりました。
みんなで自分たちの知識を教えあって、共有するようになると凄くいい料理の街になるという事で、凄いと思いました。
そういう街にしようという事で我々が担っている料理で世界一のものを作れば、料理人でも街を変えていけるんだと、世界一の美食の街に成れるんだといったんです。
その時には僕は成れるものではないなあと思っていました。
クロケッタ 濃厚な味 うちの店の代表的なものになっています。
2004年 2月 「バル街」第一回目で56歳の時でした。
お金がなくても2,3軒楽しめるバスク地方の食事の楽しみ方を日本人に知ってもらいたいなあと思って、考え出したのが「バル街」でした。
まずは勉強会だと思いました。
函館西部地区にはまだ古い建物が残っているんで、活用して飲食店が入ればもっと良くなると思います。
函館の東部地区に住宅街が広がって行って西部地区はどんどん人が減っているところです。
150年前に函館が開港した時に建物が建ち、昔の建物が残っているわけです。
函館市民が西部地区に来て西部地区を見直してくれる。
「バル街」に見に来てくれた人が私もこういうところで店をやりたいというんです。
15年経ちましたが、楽しくないと続かないです。
去年ルイスさんに会いましたが、「日本でも広めてくれた」という事で凄く嬉しいです。
豪華客船が着く堤防が今まさにつくられています。
2,3年後には豪華客船が着くと思いますし、新しいホテルがどんどんできています。
この海があり、景観があり、レンガ倉庫群があり、豪華客船が着くようになり、旧市街地に美味しい店があると、どんどん価値が出てくるような気がします。
美味しい街にできればと思っています。
幕末からの歴史を刻む港町は夜景の美しさでも知られ、立ち並ぶ教会や西洋建築の家々など訪れる観光客は年間500万人を越えています。
その街並みの中で毎年春と秋に開かれるイベントが函館西部地区「バル街」です。
美しい景観を見ながら飲食店を回って食事やお酒を楽しむというもので、今や函館を代表するイベントになって、去年地域文化の向上と地域活性化に貢献したとしてサントリー地域文化賞を受賞しました。
16年前このイベントを立ち上げたのが深谷さん(72歳)です。
函館市でスペイン・バスク地方の料理を出すレストランのオーナーシェフです。
食を通して故郷函館のために何かをしたいと活動してきた深谷さんに、これまでの道のりと「バル街」に込めた思いを聞きました。
ここは凄く景観のいい所です。
昨年の秋に32回目となる「バル街」が開催、参加した店が70軒、5000人のお客さんが来ました。
食べて飲む楽しみ、街を歩く,人との会話、景観の中にたたずむ、函館の魅力的な街を知らないうちに感じてくる。
マップがあり殆どの店が選べるようになっています。
私もお客さんといろいろ会話をして楽しめます。
音楽、フラメンコのライブ、津軽三味線、ピエロとかのパーフォーマンスもあります。
ヨーロッパ的な祭りです。
2017年にグットデザイン賞、去年はサントリー地域文化賞を受賞しました。
全国に200は所ぐらいはやっていると思います。
自分の街でもやってみたいという人に対してはノウハウをどんどん教えました。
1975年、27歳でヨーロッパに行きました。
当時料理人は縦社会のような流れがあり、なかなか教えてもらえないような状況でした。
本場の夕食を知ることによって納得するものが得られるのではないかと片道切符で行きました。
伝手は全然なくて行き当たりばったりでした。
フランスで研修させてもらえないかと思って、レストランを片っ端から当たりました。
20,30軒断られて落ち込んで、お客さんとして美味いと言って、調理場まで案内してもらってしゃべって、話を持ち込みましたが、駄目でした。
仲介をしてくれるフランスの友達を作ろうと思いました。
ヒッチハイクをして友達を作り友達を通してレストランを電話紹介してもらいましたが、観光ビザで来ているので、労働許可証を持っていなかったためやはり駄目でした。
このやり方では全部で40、50軒の人と会っています。
併せて70、80軒から断られました。
スペインに行ってサン・セバスティアン(その後美食の街になる)に行きました。
リゾートでも閑散としていました。
ホテルのバーカウンターでそこのマダムとイカの話になり、彼女はイカの墨煮の話をしたので僕はイカの塩辛の話をしたら、食べたいという事で約束してイカを持参したら、その彼女は吃驚して私を信用いてくれて、サン・セバスティアンにはスペインで3本指に入るコックさんがいるからすぐ電話するからそこに行きなさいと言われました。
そのコックさんが僕のシェフ ルイス・イリサールさんです。
16歳の時にマリア・クリスティーナ・ホテルの料理人見習いとなり、フランス・パリのレストラン・ル・ロイヤル・モンソー、イギリス・ロンドンのヒルトン・ホテルなどでも働き、ヒルトン・ホテルでは総料理長を務めた人でした。
ヒルトン・ホテルを辞めて戻ってきて料理学校を立ち上げるんです。
「バスク料理」を再興するその立役者でした。
包容力のある優しい人で人間的に出来た人だと思いました。
彼はその後「バスク料理」の父と呼ばれるようになりました。
みんなで自分たちの知識を教えあって、共有するようになると凄くいい料理の街になるという事で、凄いと思いました。
そういう街にしようという事で我々が担っている料理で世界一のものを作れば、料理人でも街を変えていけるんだと、世界一の美食の街に成れるんだといったんです。
その時には僕は成れるものではないなあと思っていました。
クロケッタ 濃厚な味 うちの店の代表的なものになっています。
2004年 2月 「バル街」第一回目で56歳の時でした。
お金がなくても2,3軒楽しめるバスク地方の食事の楽しみ方を日本人に知ってもらいたいなあと思って、考え出したのが「バル街」でした。
まずは勉強会だと思いました。
函館西部地区にはまだ古い建物が残っているんで、活用して飲食店が入ればもっと良くなると思います。
函館の東部地区に住宅街が広がって行って西部地区はどんどん人が減っているところです。
150年前に函館が開港した時に建物が建ち、昔の建物が残っているわけです。
函館市民が西部地区に来て西部地区を見直してくれる。
「バル街」に見に来てくれた人が私もこういうところで店をやりたいというんです。
15年経ちましたが、楽しくないと続かないです。
去年ルイスさんに会いましたが、「日本でも広めてくれた」という事で凄く嬉しいです。
豪華客船が着く堤防が今まさにつくられています。
2,3年後には豪華客船が着くと思いますし、新しいホテルがどんどんできています。
この海があり、景観があり、レンガ倉庫群があり、豪華客船が着くようになり、旧市街地に美味しい店があると、どんどん価値が出てくるような気がします。
美味しい街にできればと思っています。
2020年1月21日火曜日
原田信子(ハンセン病家族訴訟原告) ・これ以上、私たち家族を苦しめないで
原田信子(ハンセン病家族訴訟原告) ・これ以上、私たち家族を苦しめないで
ハンセン病に関する誤った隔離政策で家族も差別され深刻な被害を受けたとして、元患者の家族500人余りが起こした集団訴訟、去年の9月熊本地方裁判所は国に賠償を命じる判決を言い渡しました。
これを受けて国は控訴しないことを表明、元患者本人だけでなく家族が受けた損害についても国の責任を認める初めての判決が確定しました。
ハンセン病遺族、家族の会であるレンゲソウの会の創立メンバーであり原告団の中心的な一人、岡山市に住む原田信子さんは北海道出身の76歳、7歳の時ハンセン病だった父親が突然強制的に施設に連れて行かれました。
その後待ち受けていたのは想像を絶する偏見と差別の連続だったといいます。
これまでどんな被害を受けてきたのか、裁判を終えた今、社会に対し何を思うのか伺いました。
小学校2年生になったばかりの時に、家の中に入れないほど真っ白になるまで消毒されました。
雪と間違えたので、消毒がショックでした。
父がどういう風に連れていかれたのかは記憶に残っていないです。
周りの人は言葉も掛けてくれないし、近づいても来なくなりました。
近所づきあいは一切なくなりました。
学校では一番前に座っていましたが、一番後ろの出口のそばに机が置かれました。
虐められて段々学校に行くのも嫌になりました。
友達とも会う事もなく遊んでもくれないので、全然友達がいなかったです。
親子の写真もなく残念です。
父親はごろごろしてるばっかりでした。
母はすぐに職場が首になりました。
母は蕗をとって行商にいきました。
子どもの時には食べれない時もありました。
母は段々死ぬことを考えるようになりましたが、私は嫌だと言っていました。
母には兄弟が10人近所にいて、行き来はしていましたが、来ないでくれと言われてしまいました。
私は部屋の中に一人でいつもいました。
学校を卒業して、会社でも父のことを書くようなところには勤めていませんでした。
書かなくてはならない時には亡くなったという事にすればよかっただけです。
そうしないと生きていけませんでした。
結婚して子供が生まれて間もなく酒を飲むと暴力を振るうようになり、前歯を4本折られたり、バンドでたたくやら、会社で何か面白くないことがあると、お前の親はこうだから出世できないとかという事ばっかりでした。
お酒を飲むといつもびくびくしていました。
その後離婚しました。
父には年に2回は行っていました。
私が苦労して子供を育てていることを知っているので、父に会いに行くと郵便局の貯金通帳に入っているからそれを下ろして来いという事が一番最初に言う言葉でした。
父とはいろんなことで言い争う事が良くありました。
もう来なくてもいい直ぐ帰れと言うんです。
優しくしてもうすこし父のそばでゆっくり話す時間を取ればよかったと今は思いますが。
父が亡くなってしまいましたが、後悔してももう遅いので。
2001年に熊本地裁の判決があり、ハンセン病の元患者本人への補償が決まりましたが、聞いた時に勝ったからと言って嬉しいとは思わなかったです。
小泉首相が謝ったという記事が出ましたが、まだ偏見差別は消えないです。
職場の3人親しい人に父のことを言ったら、付き合いが無くなってしまいました。
国の判決が出たからと言って一般の人には関係ないじゃないですか。
今でも変わっていないと思います。
ハンセン病に関する会合があり、ある患者から熊本に家族の会があることを知ってレンゲソウの会があり7人いました。
一時期50人ぐらいました。
レンゲソウの会は癒しの集まりでした、同じ境遇の人たちなので気が楽になりました。
8人で家族訴訟に関して立ちあがりました。
精神的には家族の苦痛もありますので。
原告は500人以上に膨れ上がりましたが、名前と顔を公表する人は数人しかいなくてびっくりしました。
偏見が怖いからみんな顔を出せないんです、子とか孫に影響があると思うので。
私は名前と顔を公表して、隠れてやっても伝わらないと思いました。
強制隔離の時代がずーっと続いていたので、根が深いです。
今回安倍首相が自分の気持ちで謝ってくれ、一人一人に握手してくれて、それは本当に良かったと思います。
本当にうれしかったという気持ちは湧いては来なかったです、今でも偏見差別されていることがあるので。
言葉で聞いたぐらいでは多分理解できないと思います。
ハンセン病患者の人も公園に行くような人も出て来ましたが、中のことをしっかり見ないと真からわからないと思います。
本当に理解するんだったら一緒にご飯を食べたり一緒にお風呂に入ったりしないと理解できないと思います。
ハンセン病は患者さんがいなくなったら自然に無くなっていくと思うが、まだ患者さんがいるし療養所もいっぱいあるのでまだ偏見差別をなくすのは難しいと思います。
自分の目で見て判断してくれれば判ってくれると思うが、言葉で言っても判らないと思います。
ハンセン病に関する誤った隔離政策で家族も差別され深刻な被害を受けたとして、元患者の家族500人余りが起こした集団訴訟、去年の9月熊本地方裁判所は国に賠償を命じる判決を言い渡しました。
これを受けて国は控訴しないことを表明、元患者本人だけでなく家族が受けた損害についても国の責任を認める初めての判決が確定しました。
ハンセン病遺族、家族の会であるレンゲソウの会の創立メンバーであり原告団の中心的な一人、岡山市に住む原田信子さんは北海道出身の76歳、7歳の時ハンセン病だった父親が突然強制的に施設に連れて行かれました。
その後待ち受けていたのは想像を絶する偏見と差別の連続だったといいます。
これまでどんな被害を受けてきたのか、裁判を終えた今、社会に対し何を思うのか伺いました。
小学校2年生になったばかりの時に、家の中に入れないほど真っ白になるまで消毒されました。
雪と間違えたので、消毒がショックでした。
父がどういう風に連れていかれたのかは記憶に残っていないです。
周りの人は言葉も掛けてくれないし、近づいても来なくなりました。
近所づきあいは一切なくなりました。
学校では一番前に座っていましたが、一番後ろの出口のそばに机が置かれました。
虐められて段々学校に行くのも嫌になりました。
友達とも会う事もなく遊んでもくれないので、全然友達がいなかったです。
親子の写真もなく残念です。
父親はごろごろしてるばっかりでした。
母はすぐに職場が首になりました。
母は蕗をとって行商にいきました。
子どもの時には食べれない時もありました。
母は段々死ぬことを考えるようになりましたが、私は嫌だと言っていました。
母には兄弟が10人近所にいて、行き来はしていましたが、来ないでくれと言われてしまいました。
私は部屋の中に一人でいつもいました。
学校を卒業して、会社でも父のことを書くようなところには勤めていませんでした。
書かなくてはならない時には亡くなったという事にすればよかっただけです。
そうしないと生きていけませんでした。
結婚して子供が生まれて間もなく酒を飲むと暴力を振るうようになり、前歯を4本折られたり、バンドでたたくやら、会社で何か面白くないことがあると、お前の親はこうだから出世できないとかという事ばっかりでした。
お酒を飲むといつもびくびくしていました。
その後離婚しました。
父には年に2回は行っていました。
私が苦労して子供を育てていることを知っているので、父に会いに行くと郵便局の貯金通帳に入っているからそれを下ろして来いという事が一番最初に言う言葉でした。
父とはいろんなことで言い争う事が良くありました。
もう来なくてもいい直ぐ帰れと言うんです。
優しくしてもうすこし父のそばでゆっくり話す時間を取ればよかったと今は思いますが。
父が亡くなってしまいましたが、後悔してももう遅いので。
2001年に熊本地裁の判決があり、ハンセン病の元患者本人への補償が決まりましたが、聞いた時に勝ったからと言って嬉しいとは思わなかったです。
小泉首相が謝ったという記事が出ましたが、まだ偏見差別は消えないです。
職場の3人親しい人に父のことを言ったら、付き合いが無くなってしまいました。
国の判決が出たからと言って一般の人には関係ないじゃないですか。
今でも変わっていないと思います。
ハンセン病に関する会合があり、ある患者から熊本に家族の会があることを知ってレンゲソウの会があり7人いました。
一時期50人ぐらいました。
レンゲソウの会は癒しの集まりでした、同じ境遇の人たちなので気が楽になりました。
8人で家族訴訟に関して立ちあがりました。
精神的には家族の苦痛もありますので。
原告は500人以上に膨れ上がりましたが、名前と顔を公表する人は数人しかいなくてびっくりしました。
偏見が怖いからみんな顔を出せないんです、子とか孫に影響があると思うので。
私は名前と顔を公表して、隠れてやっても伝わらないと思いました。
強制隔離の時代がずーっと続いていたので、根が深いです。
今回安倍首相が自分の気持ちで謝ってくれ、一人一人に握手してくれて、それは本当に良かったと思います。
本当にうれしかったという気持ちは湧いては来なかったです、今でも偏見差別されていることがあるので。
言葉で聞いたぐらいでは多分理解できないと思います。
ハンセン病患者の人も公園に行くような人も出て来ましたが、中のことをしっかり見ないと真からわからないと思います。
本当に理解するんだったら一緒にご飯を食べたり一緒にお風呂に入ったりしないと理解できないと思います。
ハンセン病は患者さんがいなくなったら自然に無くなっていくと思うが、まだ患者さんがいるし療養所もいっぱいあるのでまだ偏見差別をなくすのは難しいと思います。
自分の目で見て判断してくれれば判ってくれると思うが、言葉で言っても判らないと思います。
2020年1月20日月曜日
池間北斗(琉球箏曲家) ・【にっぽんの音】
池間北斗(琉球箏曲家) ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
能楽協会は7月の末から8月頭にかけて国立能楽堂で「蚊相撲」というものを開催、全流儀の家元がそろって日本全国の能楽師が一堂に会して能楽フェスティバルとなっています。
池間北斗は30歳、全国的な琴のコンクールで最高賞を受賞するなど次世代を担う存在として大変期待されています。
沖縄にお琴の文化が来たのは約300年前で10曲を持ってきました。
三線の伴奏楽器として古典音楽や琉球舞踊組み踊りの地方(じかた)として使われる楽器となります。
お琴に装飾が施されているものがあります。
楽器自体は一緒ですが、弾く爪が違うというのが大きな特徴です。
こちらの代表的な形は四角いものと三角になってる間の丸爪を使うというのが特徴的になっています。
三線の伴奏楽器として使うので三線の調弦に合わせて弦がゆるく張られているのが特徴です。
演奏方法も違います。
沖縄のお琴は柔らかな音色が魅力だと思っています。
沖縄だけに残っている奏法もあり、音を打った後に左手で音を揺らしてあげたりしますが、左手の仕方が違います。
*『瀧落菅撹』(タチウトゥスィガカチ)
沖縄には10曲伝わってきて、その中でも一番有名な曲です。
*対馬節(歌もの)
対馬の娘のお話の曲です。
大藏:中国、インドネシアの雰囲気もあるような感じがします。
沖縄の音はアルファ波、癒しの音が出ているといわれますが。
池間:音階も明る目になっています。
『瀧落菅撹』(タチウトゥスィガカチ)は古典筝曲になっています。
新作もやっています。
三線もやってましたが、お琴は7歳の時に出会いました。
お琴の弦でミニカーの遊びなどもしました。
沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻科に行き本格的にお琴を学びました。
大藏:沖縄国立劇場でやらさせていただいたことがありましたが、芸事が温厚だと思いました。
池間:ハッピーエンドが多いです。
本格的にお琴を学び始めて良さが判ってきました。
お琴の音色が好きですね。
師匠から「できないという言葉は使うな」と言われて一番忘れない言葉で今も心にあります。
*「千鳥」
日本の音、お琴の音はやはり日本の音だと思っています。
首里城が延焼してしまった日の翌日に首里城で演奏する予定でした。
今まで一度も首里城で演奏したことが一回も無くてしたいと思っていましたが、いつか復元されたときに演奏したいと思っています。
首里城は5回焼失しています。(前回は戦争で)
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
能楽協会は7月の末から8月頭にかけて国立能楽堂で「蚊相撲」というものを開催、全流儀の家元がそろって日本全国の能楽師が一堂に会して能楽フェスティバルとなっています。
池間北斗は30歳、全国的な琴のコンクールで最高賞を受賞するなど次世代を担う存在として大変期待されています。
沖縄にお琴の文化が来たのは約300年前で10曲を持ってきました。
三線の伴奏楽器として古典音楽や琉球舞踊組み踊りの地方(じかた)として使われる楽器となります。
お琴に装飾が施されているものがあります。
楽器自体は一緒ですが、弾く爪が違うというのが大きな特徴です。
こちらの代表的な形は四角いものと三角になってる間の丸爪を使うというのが特徴的になっています。
三線の伴奏楽器として使うので三線の調弦に合わせて弦がゆるく張られているのが特徴です。
演奏方法も違います。
沖縄のお琴は柔らかな音色が魅力だと思っています。
沖縄だけに残っている奏法もあり、音を打った後に左手で音を揺らしてあげたりしますが、左手の仕方が違います。
*『瀧落菅撹』(タチウトゥスィガカチ)
沖縄には10曲伝わってきて、その中でも一番有名な曲です。
*対馬節(歌もの)
対馬の娘のお話の曲です。
大藏:中国、インドネシアの雰囲気もあるような感じがします。
沖縄の音はアルファ波、癒しの音が出ているといわれますが。
池間:音階も明る目になっています。
『瀧落菅撹』(タチウトゥスィガカチ)は古典筝曲になっています。
新作もやっています。
三線もやってましたが、お琴は7歳の時に出会いました。
お琴の弦でミニカーの遊びなどもしました。
沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻科に行き本格的にお琴を学びました。
大藏:沖縄国立劇場でやらさせていただいたことがありましたが、芸事が温厚だと思いました。
池間:ハッピーエンドが多いです。
本格的にお琴を学び始めて良さが判ってきました。
お琴の音色が好きですね。
師匠から「できないという言葉は使うな」と言われて一番忘れない言葉で今も心にあります。
*「千鳥」
日本の音、お琴の音はやはり日本の音だと思っています。
首里城が延焼してしまった日の翌日に首里城で演奏する予定でした。
今まで一度も首里城で演奏したことが一回も無くてしたいと思っていましたが、いつか復元されたときに演奏したいと思っています。
首里城は5回焼失しています。(前回は戦争で)
2020年1月19日日曜日
井出留美(ジャーナリスト) ・【"美味しい"仕事人】食品ロスを減らしたい
井出留美(ジャーナリスト) ・【"美味しい"仕事人】食品ロスを減らしたい
豊かな食生活の一方で食品ロスが大きな問題になっています。
売れ残り、食べ残し、期限切れの食品など本来は食べる事の出来たはずの食品が大量に廃棄されているわけです。
こうした状況から去年令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
今日は食品ロス削減推進法の成立に尽力されたおひとり、食品ロス問題専門家でジャーナリストの井出さんにお聞きします。
井出さんは小さいころから食に強い関心を持って栄養学の博士号も取得しています。
青年海外協力隊では食品加工の援助活動、外国資本の食品メーカーでは広報室長として東日本大震災の被災地を支援、退職してからはフードバンクの活動に取り組むなど食をめぐる課題に向き合ってきました。
2800万トンの食品廃棄物の中でまだ十分に食べられるにも関わらず、捨てられるのが643万トン、東京都民が一年間に食べられる量と同じぐらいと言われています。
飢餓で苦しんでいる世界各地に回せたらと考えると胸の痛い数字です。
世界の食べ物に困っている人に寄付をされている量が年間で390万トンぐらいですから1,6倍の量を日本で捨てています。
令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
声をかけて頂いたのが2016年の1月でした。
講演でいろんな人に啓発をしてゆきました。
2019年5月24日に国会で法律が決まりました。
2008年から食品メーカーとして食品ロスの問題には取り組んでいました。
会社を辞めてからフードバンクの活動に取り組み、3年間関わり、12年目ぐらいです。
コンビニとかスーパーの棚が空いてしまう事が許されない世界で、作りすぎざるを得ない仕組みがあって、当事者にならないとなかなか判りづらい。
賞味期限、消費期限が混同されてしまいますが、消費期限は5日以内の日持ちの食べ物に表示されています、お弁当、おにぎり、サンドイッチ、お惣菜、生クリームのケーキなど。
賞味期限はおいしさの目安に過ぎず、過ぎても食べたり飲んだりすることができます。
ペットボトルのミネラルウオーターは長期保存すると水が蒸発してゆき、書いてある量と違ってきて、計量法という法律があり、内容量が満たないものは販売してはいけないという法律があります。
ですから内容量を担保されている期限が表示されています。
実験では卵は10度以下で保存した場合生で57日間食べられるが、今は2週間で切ってしまっています。
安全係数があって美味しく食べられる期限に0.8とか0.7とかをかけて表示されている。
出荷してしまうといろんな環境にさらされるので。
5歳の時に風邪を引いて葛湯を作ってくれたが、最初は液体だが火にかけると粘度が上がってきてなんでだろうと思いました、それが興味のきっかけでした。
母の菓子つくりの本も読んでいました。
高校1年生の時に食品成分表をよく読んでいて、大学は食物学科に行こうとその時に決めていました。
食品メーカーに就職する予定でしたが、銀行員の父が亡くなって家の近くの日用品メーカーの研究所に入りました。
その後会社を辞めて青年海外協力隊に参加しました。
日用品メーカーでコンテストをやっていて、そこで準優勝に成って東南アジアでした。
介護のボランティア、食に興味があったり、東南アジアに興味があったという事で青年海外協力隊に参加しました。
食、環境とかインターネットも発達していない時代だったので大変でした。
言葉とかわからないなかで、フィリピンではモロヘーヤのネバネバが嫌いで、いろいろ加工法を考えたりしてやっていました。
その後外国資本の食品メーカーに広報室長のアシスタントとして入社して、室長としてもお客さんからの対応の仕事などをしていました。
父が銀行員だったので47都道府県を回ったので方言なども覚え役に立ちました。
3月11日が私の誕生日でその日に東日本大震災が起きました。
社長から自社の食料を支援物資として手配してほしいといわれ、その活動のなかで理不尽な食の無駄、必要なところに食べ物がいかないという事があり、考えさせられてその年に会社を辞めるきっかけになりました。
被災地支援する中でフードバンクから広報を手伝う事になりました。
3年間フードバンクの公報をやりました。
食に関して例えると水道の水を出しっぱなしのような状態だと思います。
作りすぎ、売りすぎ、消費者は買いすぎです。
適量を作り、売り、買うという事が大切です。
日本のごみ処理費が約2兆円です。
食べ物をリサイクルするある社長さんが言っていましたが、そのうちの40~50%は食べものではないかという風に言っています。
8000億円~1兆円がそのために使われるのでもったいないです。
お寺は7万8000ぐらいありコンビニは6万弱ぐらいでお寺の方が多くて、お寺ではお供え物などが捨てられるわけです。
お寺の仏さまのおさがりとして、必要な子どもたちにあげようという事で「お寺おやつクラブ」が始まり、47都道府県に広まっています。
フードバンクは全国で100団体ぐらいあります。
フードドライブというものもあり、イベントなどで食べ物を集めて必要なところで使うという活動です。
家庭でできる食品ロスを減らすための10か条
①買い物に行く前に冷蔵庫などの種類と量を確認する。
②空腹の状態で買い物には行かない。(アメリカの実験では64%増えてしまう。)
③買い物では直ぐ食べるものは手前からとる。
④期間限定、数量限定まとめ買いに注意。
⑤調理の時に食材を使い切る。
⑥残った料理は別の料理に変身させる。
⑦賞味期限はおいしさの目安、五感を使って判断する。
⑧保存用食材はローリングスストック法、サイクル保存で。
⑨外食時に注文し過ぎない。
⑩残さないで食べる。
どんな食べ物も命から来ている。
一つの食べ物でもたくさんの人々がかかわっている。
子どもの時代からこういった食に関する大切さを知ってほしいと思います。
豊かな食生活の一方で食品ロスが大きな問題になっています。
売れ残り、食べ残し、期限切れの食品など本来は食べる事の出来たはずの食品が大量に廃棄されているわけです。
こうした状況から去年令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
今日は食品ロス削減推進法の成立に尽力されたおひとり、食品ロス問題専門家でジャーナリストの井出さんにお聞きします。
井出さんは小さいころから食に強い関心を持って栄養学の博士号も取得しています。
青年海外協力隊では食品加工の援助活動、外国資本の食品メーカーでは広報室長として東日本大震災の被災地を支援、退職してからはフードバンクの活動に取り組むなど食をめぐる課題に向き合ってきました。
2800万トンの食品廃棄物の中でまだ十分に食べられるにも関わらず、捨てられるのが643万トン、東京都民が一年間に食べられる量と同じぐらいと言われています。
飢餓で苦しんでいる世界各地に回せたらと考えると胸の痛い数字です。
世界の食べ物に困っている人に寄付をされている量が年間で390万トンぐらいですから1,6倍の量を日本で捨てています。
令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
声をかけて頂いたのが2016年の1月でした。
講演でいろんな人に啓発をしてゆきました。
2019年5月24日に国会で法律が決まりました。
2008年から食品メーカーとして食品ロスの問題には取り組んでいました。
会社を辞めてからフードバンクの活動に取り組み、3年間関わり、12年目ぐらいです。
コンビニとかスーパーの棚が空いてしまう事が許されない世界で、作りすぎざるを得ない仕組みがあって、当事者にならないとなかなか判りづらい。
賞味期限、消費期限が混同されてしまいますが、消費期限は5日以内の日持ちの食べ物に表示されています、お弁当、おにぎり、サンドイッチ、お惣菜、生クリームのケーキなど。
賞味期限はおいしさの目安に過ぎず、過ぎても食べたり飲んだりすることができます。
ペットボトルのミネラルウオーターは長期保存すると水が蒸発してゆき、書いてある量と違ってきて、計量法という法律があり、内容量が満たないものは販売してはいけないという法律があります。
ですから内容量を担保されている期限が表示されています。
実験では卵は10度以下で保存した場合生で57日間食べられるが、今は2週間で切ってしまっています。
安全係数があって美味しく食べられる期限に0.8とか0.7とかをかけて表示されている。
出荷してしまうといろんな環境にさらされるので。
5歳の時に風邪を引いて葛湯を作ってくれたが、最初は液体だが火にかけると粘度が上がってきてなんでだろうと思いました、それが興味のきっかけでした。
母の菓子つくりの本も読んでいました。
高校1年生の時に食品成分表をよく読んでいて、大学は食物学科に行こうとその時に決めていました。
食品メーカーに就職する予定でしたが、銀行員の父が亡くなって家の近くの日用品メーカーの研究所に入りました。
その後会社を辞めて青年海外協力隊に参加しました。
日用品メーカーでコンテストをやっていて、そこで準優勝に成って東南アジアでした。
介護のボランティア、食に興味があったり、東南アジアに興味があったという事で青年海外協力隊に参加しました。
食、環境とかインターネットも発達していない時代だったので大変でした。
言葉とかわからないなかで、フィリピンではモロヘーヤのネバネバが嫌いで、いろいろ加工法を考えたりしてやっていました。
その後外国資本の食品メーカーに広報室長のアシスタントとして入社して、室長としてもお客さんからの対応の仕事などをしていました。
父が銀行員だったので47都道府県を回ったので方言なども覚え役に立ちました。
3月11日が私の誕生日でその日に東日本大震災が起きました。
社長から自社の食料を支援物資として手配してほしいといわれ、その活動のなかで理不尽な食の無駄、必要なところに食べ物がいかないという事があり、考えさせられてその年に会社を辞めるきっかけになりました。
被災地支援する中でフードバンクから広報を手伝う事になりました。
3年間フードバンクの公報をやりました。
食に関して例えると水道の水を出しっぱなしのような状態だと思います。
作りすぎ、売りすぎ、消費者は買いすぎです。
適量を作り、売り、買うという事が大切です。
日本のごみ処理費が約2兆円です。
食べ物をリサイクルするある社長さんが言っていましたが、そのうちの40~50%は食べものではないかという風に言っています。
8000億円~1兆円がそのために使われるのでもったいないです。
お寺は7万8000ぐらいありコンビニは6万弱ぐらいでお寺の方が多くて、お寺ではお供え物などが捨てられるわけです。
お寺の仏さまのおさがりとして、必要な子どもたちにあげようという事で「お寺おやつクラブ」が始まり、47都道府県に広まっています。
フードバンクは全国で100団体ぐらいあります。
フードドライブというものもあり、イベントなどで食べ物を集めて必要なところで使うという活動です。
家庭でできる食品ロスを減らすための10か条
①買い物に行く前に冷蔵庫などの種類と量を確認する。
②空腹の状態で買い物には行かない。(アメリカの実験では64%増えてしまう。)
③買い物では直ぐ食べるものは手前からとる。
④期間限定、数量限定まとめ買いに注意。
⑤調理の時に食材を使い切る。
⑥残った料理は別の料理に変身させる。
⑦賞味期限はおいしさの目安、五感を使って判断する。
⑧保存用食材はローリングスストック法、サイクル保存で。
⑨外食時に注文し過ぎない。
⑩残さないで食べる。
どんな食べ物も命から来ている。
一つの食べ物でもたくさんの人々がかかわっている。
子どもの時代からこういった食に関する大切さを知ってほしいと思います。
2020年1月18日土曜日
有森裕子(バルセロナ五輪銀メダリスト) ・【わが心の人】人見絹枝
有森裕子(バルセロナ五輪銀メダリスト) ・【わが心の人】人見絹枝
人見絹江さんは明治40年岡山県御津郡(現:岡山市南区)に生まれる。
運動能力が高く走り幅跳び、三段跳び、槍投げなどに非凡な才能を見せました。
女子の陸上競技が初めてオリンピックの正式種目となった1928年のアムステダム大会では銀メダルを獲得しています。
昭和6年亡くなりました。(24歳)
有森さんはオリンピックでは1992年バルセロナの女子マラソンで銀メダル、96年アトランタでは銅メダルを獲得しました。
有森さんは人見さんと同じ岡山県の出身で女子のスポーツの普及に貢献した人見さんの思いを受け継ぎたいとおっしゃっています。
今は年に一回だけ岡山のマラソンには出ていますが、普段トレーニングなどしていません。
私は試合では4か月前から組み立てていましたが、最低でも3か月は必要です。
当時女性がスポーツの場に足を出して出るというのがはばかられた時代にスポーツを盛んにされていったのは人見さんからだと思います。
祖母と同じ学校で先輩にあたって祖母から聞いています。
女子のロードレースが初めて岡山で出来て、トロフィーを人見記念杯と名付けられました。
人見さんは最初はテニスをやっていましたが、何をやっても強い選手で、陸上の先生に見出されて始めて高跳び、走り幅跳び、短距離など記録をどんどんだしていって、女性選手とは思えないぐらいの強さと記録を更新していったといいます。
おしゃれでモダンだった人でもありました。
字体もかわいい感じでした。
1984年に女子マラソンが入ったぐらいで、人見さんの時代は女性がスポーツをすることに対して社会的に受け入れられないような雰囲気がありました。
三段跳び、やり投げから、やれば世界記録になってゆくような選手でした。
1928年アムステルダム大会で銀メダルを獲得。
彼女は短距離、跳躍が専門でしたが、800mは全く彼女の専門外で取った銀メダルでした。
銀メダルを取ったことによってその後の彼女の活動に繋がって行きました。
日本ではたった一人参加した女性選手でした。
女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリー、他の種目は結果が出せなくて、残りが専門外の800mしかなくて、それに挑戦し銀メダルを獲得することになりました。
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
その後オリンピックで陸上でメダルを取ったのが64年ぶりに私が取るという事になりました。
不思議なつながりになりました。
人見記念杯をもらったのは実業団に入って一年目の冬です。
私が陸上を始めて8回目の時でした。
それがオリンピックに繋がっていきました。
亡くなった友達の写真と祖母の写真をもってバルセロナに行きました。
バルセロナで銀メダルを取ることができましたが、この日が人見さんが銀メダルを取った日でもあり命日でもあったわけです。
人見さんが付けたゼッケン番号を足すと13で、私の付けたゼッケン番号を足すと13で、ここも一緒かと思いました。
そこから人見さんのお墓参りも行くようになりました。
彼女の生き方、性格的なところ、彼女のしてきた活動とか精神的なところで、伝え残したかったものが受け継いでいるのかなあという事はアトランタ以降で見出しました。
人見さんは競技生活を続けながら新聞社に入ってスポーツ観戦記事を書いたり、女性スポーツの普及に講演もしていました。
自分の信念を信じて必死になってされて、心身ともに体に影響していったと思います。
海外に行って親友が出来て自分の気持ちを素直に表現できて、エネルギーを入れれる時間がそこにあって、そういうものを持って日本で求めるものにつなげていったんだろうと思います。
女性のスポーツへの参加の運動のために資金集め、講演会を行いました。
1930年にプラハで国際女子競技大会があり、人見さんが若い女性たちをつれて行って、自身でも競技に参加しました。
夢が叶って選手たちを継続して育てていけるという事を物凄くしたかったと思います。
24歳で亡くなられたという事は本当に無念だったと思います。
人見さんが作った道をしっかりと受け継いでいった女性アスリートのスポーツの道はできたと思っています。
その道に乗れたのは感謝と共に光栄に思っています。
24歳はあまりにも若すぎたと思います。
バルセロナで銀メダルを取りましたが、その人の生き方、その人の生かし方を考えられているわけではなかった。
スポーツを通して社会にどう生きていくかなどほとんど考えられていなかったところはあります。
そんな中で落ち込んだ時がありました。
スポーツをすること、頑張ることが社会に価値と意義を見出されているかと言えば全然まだないという事に私たちはぶつかりました。
疑問と前に進まない時間を過ごしていました。
バルセロナ以降身体がボロボロでそんな中で練習をしていて、両足が痛くなり痛みを取るために手術をして痛みは取れました。
頑張るしかないと思って、リハビリをやって兎に角メダリストになりたいという思いがわきました、それがアトランタでした。
もう二度とこういう事を考えないといけない選手は出てほしくないと切に思いました。
アトランタでは銅メダルを取ることができました。
誰の評価もいらなかった、自分が自分に対して最高に課したことに対して実現できたという事であのコメントになりました。
人見さんの自分の信念をもって突き進む難しさを乗り越えようとする思いは私の力になったことは事実です。
スポーツそのものが単に競技会、お祭りで終わるのではなくて一つでも二つでも今ある社会に何か生きてゆくのに通ずる様な部分に、私は応援と思いをはせて形づけていきたいと思います。
人見絹江さんは明治40年岡山県御津郡(現:岡山市南区)に生まれる。
運動能力が高く走り幅跳び、三段跳び、槍投げなどに非凡な才能を見せました。
女子の陸上競技が初めてオリンピックの正式種目となった1928年のアムステダム大会では銀メダルを獲得しています。
昭和6年亡くなりました。(24歳)
有森さんはオリンピックでは1992年バルセロナの女子マラソンで銀メダル、96年アトランタでは銅メダルを獲得しました。
有森さんは人見さんと同じ岡山県の出身で女子のスポーツの普及に貢献した人見さんの思いを受け継ぎたいとおっしゃっています。
今は年に一回だけ岡山のマラソンには出ていますが、普段トレーニングなどしていません。
私は試合では4か月前から組み立てていましたが、最低でも3か月は必要です。
当時女性がスポーツの場に足を出して出るというのがはばかられた時代にスポーツを盛んにされていったのは人見さんからだと思います。
祖母と同じ学校で先輩にあたって祖母から聞いています。
女子のロードレースが初めて岡山で出来て、トロフィーを人見記念杯と名付けられました。
人見さんは最初はテニスをやっていましたが、何をやっても強い選手で、陸上の先生に見出されて始めて高跳び、走り幅跳び、短距離など記録をどんどんだしていって、女性選手とは思えないぐらいの強さと記録を更新していったといいます。
おしゃれでモダンだった人でもありました。
字体もかわいい感じでした。
1984年に女子マラソンが入ったぐらいで、人見さんの時代は女性がスポーツをすることに対して社会的に受け入れられないような雰囲気がありました。
三段跳び、やり投げから、やれば世界記録になってゆくような選手でした。
1928年アムステルダム大会で銀メダルを獲得。
彼女は短距離、跳躍が専門でしたが、800mは全く彼女の専門外で取った銀メダルでした。
銀メダルを取ったことによってその後の彼女の活動に繋がって行きました。
日本ではたった一人参加した女性選手でした。
女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリー、他の種目は結果が出せなくて、残りが専門外の800mしかなくて、それに挑戦し銀メダルを獲得することになりました。
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
その後オリンピックで陸上でメダルを取ったのが64年ぶりに私が取るという事になりました。
不思議なつながりになりました。
人見記念杯をもらったのは実業団に入って一年目の冬です。
私が陸上を始めて8回目の時でした。
それがオリンピックに繋がっていきました。
亡くなった友達の写真と祖母の写真をもってバルセロナに行きました。
バルセロナで銀メダルを取ることができましたが、この日が人見さんが銀メダルを取った日でもあり命日でもあったわけです。
人見さんが付けたゼッケン番号を足すと13で、私の付けたゼッケン番号を足すと13で、ここも一緒かと思いました。
そこから人見さんのお墓参りも行くようになりました。
彼女の生き方、性格的なところ、彼女のしてきた活動とか精神的なところで、伝え残したかったものが受け継いでいるのかなあという事はアトランタ以降で見出しました。
人見さんは競技生活を続けながら新聞社に入ってスポーツ観戦記事を書いたり、女性スポーツの普及に講演もしていました。
自分の信念を信じて必死になってされて、心身ともに体に影響していったと思います。
海外に行って親友が出来て自分の気持ちを素直に表現できて、エネルギーを入れれる時間がそこにあって、そういうものを持って日本で求めるものにつなげていったんだろうと思います。
女性のスポーツへの参加の運動のために資金集め、講演会を行いました。
1930年にプラハで国際女子競技大会があり、人見さんが若い女性たちをつれて行って、自身でも競技に参加しました。
夢が叶って選手たちを継続して育てていけるという事を物凄くしたかったと思います。
24歳で亡くなられたという事は本当に無念だったと思います。
人見さんが作った道をしっかりと受け継いでいった女性アスリートのスポーツの道はできたと思っています。
その道に乗れたのは感謝と共に光栄に思っています。
24歳はあまりにも若すぎたと思います。
バルセロナで銀メダルを取りましたが、その人の生き方、その人の生かし方を考えられているわけではなかった。
スポーツを通して社会にどう生きていくかなどほとんど考えられていなかったところはあります。
そんな中で落ち込んだ時がありました。
スポーツをすること、頑張ることが社会に価値と意義を見出されているかと言えば全然まだないという事に私たちはぶつかりました。
疑問と前に進まない時間を過ごしていました。
バルセロナ以降身体がボロボロでそんな中で練習をしていて、両足が痛くなり痛みを取るために手術をして痛みは取れました。
頑張るしかないと思って、リハビリをやって兎に角メダリストになりたいという思いがわきました、それがアトランタでした。
もう二度とこういう事を考えないといけない選手は出てほしくないと切に思いました。
アトランタでは銅メダルを取ることができました。
誰の評価もいらなかった、自分が自分に対して最高に課したことに対して実現できたという事であのコメントになりました。
人見さんの自分の信念をもって突き進む難しさを乗り越えようとする思いは私の力になったことは事実です。
スポーツそのものが単に競技会、お祭りで終わるのではなくて一つでも二つでも今ある社会に何か生きてゆくのに通ずる様な部分に、私は応援と思いをはせて形づけていきたいと思います。
2020年1月17日金曜日
〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと
〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと
阪神淡路大震災発生後25年となる。1995年1月17日5時46分
テーマ ラジオについて
AMラジオ災害問題協議会が開催され防災シンポジュ-ムについて。
前半 震災直後の経験などについて
ABCラジオ 道上氏
縦揺れが2,3秒あった後に横揺れが始まりました。
学校で毛布が足りない、ここの病院で透析ができるというと、そこにばっかり義援品が届いたり行列が出来たりしていました。
インタビューした時に80歳の女性が「私の命の恩人はラジオだからよろしく言っておいてや」と言われました。
半壊の状態でがれきの中でラジオを聴きながらいて、救急隊に救助されたそうです。
「遠い親戚よりも近くのラジオ」と言っていました。
被災地に行ってボランティアの人の手伝いをしました。
魚屋さんが妻も子供もなくしたが、自分のところにある商品を並べて魚屋さんもも音凄いテンションで前向きに行きようとしていましたが、半年後に行ったときには魚屋さんは自殺していました。
八百屋さんはどこかに行ってしまいました、そんなことばっかりでした。
東灘の元気村の山田和尚が毎週末炊き出しをしていて、そのお手伝いをしに行きました。
取材した人にラジオを渡していきました。
ラジオ関西 谷氏
須磨に社屋があり番組の準備中に揺れました、四つん這いになってもこけるぐらい揺れました。
コンクリートの壁が全部落ちて土埃とガスの臭いがしていました。
外に出ていたら放送ができるという事で社屋に戻りました。
6時5,6分でした。
6時の時報と同時にラジオ関西が放送を始めていました。
*その時の放送を流す。
火の元を注意するように伝える。
これをきっかけに69時間ノンストップで放送することになる。
ラジオ関西が中継地点になって安否確認などを流すようになる。
リスナーの方からラジオ関西に情報を寄せてくれて、アナウンサーとは関係ない社員の方もメディアとしての意識が高かったです。
NHK 住田氏
東京のNHKの「おはよう日本」のアナウンサーをしていました。
神戸に帰省していて団地の3階の実家に帰っていて地震に遭いました。
簡易ベッドに寝ていたらドーンという突き上げるゆれがあり何度もベットの上で飛び跳ね、立ち上がれないし、這い出せないような状況でした。
停電でしたが両親も無事だということが判りました。
現場に行かなければという事を思いました。
自分の家の電話は通じず向かいの家の電話が通じて東京に連絡できました。
見た儘を伝えようと徹しましたが、灘区でも一番被害の少なかったところだったと後で判りました。
東灘区の高速道路の倒壊現場などにいきましたが、離れたところとの温度差,感じの違いが凄くいら立ちにもなりました。
交通情報を主体にして欲しいとの要望がありました。
とりあえずそのまま手短かに話して、救援の車を通してほしいと伝えました。
限られた情報の中から全体像はなかなかつかみにくい状況にはありました。
情報の入ってくる断片から何を読み取ってこの後に備えることが難しいという事を感じたのが1月17日でした。
司会者:NHK全国ネットワークの中で被災地ので起きていることを、被災地の外の人にどう伝えるか、どうつなぐかという役割を担っていたこと。
現場での奮闘。
住田:東京からのリクエストにはこたえながらも こっちの言いたいことはこれなんだと
こちらの状況を伝えることが現場の役割かなと思います。
阪神淡路大震災の後に入局した人たち
KBS京都 森谷氏
放送が全くできなくなってしまった場合に、関西のラジオ局の間で双方で困ったことがあれば放送でもお互い助け合おうという協定を双方で助け合う環境、この数年そういった環境が有効になってきていると思います。
ラジオ大阪 藤井氏
大震災の時には7歳でした。
2011年に福島TVのアナウンサーとして東日本大震災を経験しました。
揺れが収まった福島市の被害状況を取材に行きました。
福島第一原発2号機の放射能漏れの恐れありという第一報でした。
本社からの指示でVTRをもって戻って来いと言われました。
県庁の階段の踊り場でマイクを繋いでしゃべっている人がいました。
ラジオ福島のアナウンサーさんでした。
会見で見たまま聞いたままを彼はリスナーに届けていました。
その時に負けたと思いました。
TVとラジオではメディアの特性が違っていると思います。
被災地の必要な情報は被災地の津波の情報などではなくて明日も生きるための生活情報に尽きるのではないかと思います。
数年前生活情報を取材するための電話帳を作成しました。
警察、消防、行政、インフラ、主要スーパーなどの窓口の番号を網羅したものです。
明日も生きるための情報をきちっとリスナーの皆さんにお届け出来るラジオ大阪でありたいと思っています。
和歌山放送 覚道氏
混乱期には間違った情報も一人歩きしてしまう事も課題にあげられます。
復興の段階でどの段階でどういう風に伝えるのか、取捨選択、どういうふうに汲み取っているのかお聞きしたいです。
森谷:透析をするところについてろ情報が欲しいという事でダイレクトに入ってきて、そもまま訴えたら答えが返ってくるという事もありました。
ラジオは停電でも電池式で聞いていられた。
スマホでは電源が無くなると同じようなことが期待で来るのかといったことを逆に聞きたいです。
道上:災害は規模も違えば日々の生活の様子も各家庭で全部違います。
できることをできる時にできるだけ、これしかできないです。
スマホ、SNSで伝わるものはラジオより早いと思いますので、それはそれでやっていただいて結構だと思います。
そういった方法と連携してやって行くような時代で、ラジオで何ができる、TVでなにができるという時代ではないんじゃないかと思います。
住田:大切なのはキャッチボールで、呼びかけの方法もいろいろありますが、キャッチボールの中から答えが返ってくる場合がり、その仲立ちの一つがラジオかもしれません。
孤立に対してラジオは役に立つのではないかと思います。
ケーブルなどが切れた場合、ラジオの電波は最期の手段になるかもしれない。
覚道:今お話を聞いてやっぱりラジオは生の声で聴いて、SNSもありますがラジオの可能性があるという事を感じてもっと頑張らなくてはという気持ちになりました。
阪神淡路大震災発生後25年となる。1995年1月17日5時46分
テーマ ラジオについて
AMラジオ災害問題協議会が開催され防災シンポジュ-ムについて。
前半 震災直後の経験などについて
ABCラジオ 道上氏
縦揺れが2,3秒あった後に横揺れが始まりました。
学校で毛布が足りない、ここの病院で透析ができるというと、そこにばっかり義援品が届いたり行列が出来たりしていました。
インタビューした時に80歳の女性が「私の命の恩人はラジオだからよろしく言っておいてや」と言われました。
半壊の状態でがれきの中でラジオを聴きながらいて、救急隊に救助されたそうです。
「遠い親戚よりも近くのラジオ」と言っていました。
被災地に行ってボランティアの人の手伝いをしました。
魚屋さんが妻も子供もなくしたが、自分のところにある商品を並べて魚屋さんもも音凄いテンションで前向きに行きようとしていましたが、半年後に行ったときには魚屋さんは自殺していました。
八百屋さんはどこかに行ってしまいました、そんなことばっかりでした。
東灘の元気村の山田和尚が毎週末炊き出しをしていて、そのお手伝いをしに行きました。
取材した人にラジオを渡していきました。
ラジオ関西 谷氏
須磨に社屋があり番組の準備中に揺れました、四つん這いになってもこけるぐらい揺れました。
コンクリートの壁が全部落ちて土埃とガスの臭いがしていました。
外に出ていたら放送ができるという事で社屋に戻りました。
6時5,6分でした。
6時の時報と同時にラジオ関西が放送を始めていました。
*その時の放送を流す。
火の元を注意するように伝える。
これをきっかけに69時間ノンストップで放送することになる。
ラジオ関西が中継地点になって安否確認などを流すようになる。
リスナーの方からラジオ関西に情報を寄せてくれて、アナウンサーとは関係ない社員の方もメディアとしての意識が高かったです。
NHK 住田氏
東京のNHKの「おはよう日本」のアナウンサーをしていました。
神戸に帰省していて団地の3階の実家に帰っていて地震に遭いました。
簡易ベッドに寝ていたらドーンという突き上げるゆれがあり何度もベットの上で飛び跳ね、立ち上がれないし、這い出せないような状況でした。
停電でしたが両親も無事だということが判りました。
現場に行かなければという事を思いました。
自分の家の電話は通じず向かいの家の電話が通じて東京に連絡できました。
見た儘を伝えようと徹しましたが、灘区でも一番被害の少なかったところだったと後で判りました。
東灘区の高速道路の倒壊現場などにいきましたが、離れたところとの温度差,感じの違いが凄くいら立ちにもなりました。
交通情報を主体にして欲しいとの要望がありました。
とりあえずそのまま手短かに話して、救援の車を通してほしいと伝えました。
限られた情報の中から全体像はなかなかつかみにくい状況にはありました。
情報の入ってくる断片から何を読み取ってこの後に備えることが難しいという事を感じたのが1月17日でした。
司会者:NHK全国ネットワークの中で被災地ので起きていることを、被災地の外の人にどう伝えるか、どうつなぐかという役割を担っていたこと。
現場での奮闘。
住田:東京からのリクエストにはこたえながらも こっちの言いたいことはこれなんだと
こちらの状況を伝えることが現場の役割かなと思います。
阪神淡路大震災の後に入局した人たち
KBS京都 森谷氏
放送が全くできなくなってしまった場合に、関西のラジオ局の間で双方で困ったことがあれば放送でもお互い助け合おうという協定を双方で助け合う環境、この数年そういった環境が有効になってきていると思います。
ラジオ大阪 藤井氏
大震災の時には7歳でした。
2011年に福島TVのアナウンサーとして東日本大震災を経験しました。
揺れが収まった福島市の被害状況を取材に行きました。
福島第一原発2号機の放射能漏れの恐れありという第一報でした。
本社からの指示でVTRをもって戻って来いと言われました。
県庁の階段の踊り場でマイクを繋いでしゃべっている人がいました。
ラジオ福島のアナウンサーさんでした。
会見で見たまま聞いたままを彼はリスナーに届けていました。
その時に負けたと思いました。
TVとラジオではメディアの特性が違っていると思います。
被災地の必要な情報は被災地の津波の情報などではなくて明日も生きるための生活情報に尽きるのではないかと思います。
数年前生活情報を取材するための電話帳を作成しました。
警察、消防、行政、インフラ、主要スーパーなどの窓口の番号を網羅したものです。
明日も生きるための情報をきちっとリスナーの皆さんにお届け出来るラジオ大阪でありたいと思っています。
和歌山放送 覚道氏
混乱期には間違った情報も一人歩きしてしまう事も課題にあげられます。
復興の段階でどの段階でどういう風に伝えるのか、取捨選択、どういうふうに汲み取っているのかお聞きしたいです。
森谷:透析をするところについてろ情報が欲しいという事でダイレクトに入ってきて、そもまま訴えたら答えが返ってくるという事もありました。
ラジオは停電でも電池式で聞いていられた。
スマホでは電源が無くなると同じようなことが期待で来るのかといったことを逆に聞きたいです。
道上:災害は規模も違えば日々の生活の様子も各家庭で全部違います。
できることをできる時にできるだけ、これしかできないです。
スマホ、SNSで伝わるものはラジオより早いと思いますので、それはそれでやっていただいて結構だと思います。
そういった方法と連携してやって行くような時代で、ラジオで何ができる、TVでなにができるという時代ではないんじゃないかと思います。
住田:大切なのはキャッチボールで、呼びかけの方法もいろいろありますが、キャッチボールの中から答えが返ってくる場合がり、その仲立ちの一つがラジオかもしれません。
孤立に対してラジオは役に立つのではないかと思います。
ケーブルなどが切れた場合、ラジオの電波は最期の手段になるかもしれない。
覚道:今お話を聞いてやっぱりラジオは生の声で聴いて、SNSもありますがラジオの可能性があるという事を感じてもっと頑張らなくてはという気持ちになりました。
2020年1月16日木曜日
中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)
中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)10歳若く生きよう
現在は東海大学名誉教授、新潟県出身の76歳。
大学卒業後東海大学で体操を指導、1978年には東海大学を全日本選手権など優勝させるなど指導の面でも活躍されました。
中村さんは高校2年から始めた体操でオリンピックに出場します、当時19歳。
東京教育大学の学生でした。
大学卒業後23歳で一緒にオリンピックに体操で出場したみつくりたかしさんと結婚、2人のお子さんを出産、そして離婚も経験し舞田。
中村さんは現在は背筋が伸びて姿勢はいいんですが、体操を辞めてから背筋も丸くなってしまい、これではいけないと自分で簡単にできる体操を本にまとめて出版しています。
1943年新潟県生まれ。
兄弟4人の3番目に生まれました。
ちいさいときから動くことは大好きでした。
活発な女の子でした。
中学校の時に9人制のバレーボールの中位のセンターの役をしていました。
団体徒手体操にも先生から声をかけられて終わってからいいから来なさいと言われて二つを掛け持ちでやって県大会で二つとも準優勝しました。
大学は経済的に無理だと思って女子高に行こうと頑なに思っていましたが、担任の先生が家に来て両親を説得に来て両親も納得して高校は進学校の三条高校に行きました。
先生が即願書持って先生が提出してくれました。
その先生がいなかったら体操とも出会わなかったし、オリンピックとも縁がなかったと思います。
三条高校ではスポーツをするクラブ等は一切なくて演劇部に入りました。
演劇部は面白くなくて体操の先生がスポーツをやらした方がいいと親を説得に来ました。
体操部も女子も設立することになりまして、2年生になるときに体操部が発足して体操の練習を始めました。
床運動、跳馬、平均台、段違い平行棒の4種類です。
体操部の先生が段違い平行棒を一生懸命すればオリンピックに出られるかもしれないといわれました。
鬼のような先生でしたが情熱があるとも思いました。
一流選手のフィルムを撮ってきて体育館に写して技を覚えろとか言われて、観る練習がかなりありました。
私にとって非常な財産になりました。
3年の夏の大会があり、4種目を個人で出てファイナルに出られて、段違い平行棒だけは凄くよくできましたが、知らなくて止まる動作が無いため減点しますと言われたが、段違い平行棒だけは3位に入ることができました。
大学は東京教育大学に行きました。
大学1年の時には段違い平行棒だけはよかったが、ほかは駄目でした。
インカレでは5,6位に入りました。
2年生の時には世界選手権の代表に選ばれまして、3位になりました。
東京オリンピックにはローマ大会のメンバーが残っていて銅メダルが期待されました。
プラハの大会があり新人(19歳)で凄く刺激がありました。
平均台では頭が真っ白になり何も覚えていないです。
ヨーロッパでは日本人は繊細な動きがあるという評価がありました。
何も覚えていない中でやりましたが、日本でやった点数よりも高く出ました。
1964年東京オリンピックで団体で3位になりました。
大会前には体操女子は銅メダルでなければならぬ、という様な雰囲気でした。
プレシャーがあり街に出ると期待の声があり街に出るのも嫌でした。
規定問題が初日にあり、2日目は自由問題があります。
初日ドイツが3位でしたので絶対銅は取れないと思ってみんな大泣きでした。
自由問題ではもう銅を考えないで、練習してきた通りやりましょうと全員が思いました。
4種目終わって控室に戻ったら3位になったという事でした。
ドイツは普段では考えれれないようなミスをしてしまっていました。
自分がゼロになったときには、捨て身になったときにはやり切れるものだと思いました。
私は幸運だったと思います。
三条高校を薦めてくれて中学の先生、東京教育大学でのいい先輩たちに出会っていい環境にも出会って、東京オリンピックの強化選手にもなれて、体操浸けみたいな月日を過ごしましたが、支えてくれ周りの人がいなければ現在の私はいなかったと思います。
オリンピックの2年後のドルトモント世界選手権でも団体3位になりました。
段違い平行棒でも3位になりました。
他の国の選手がやってない技を3,4個組み入れてやって9.8という得点が出ました。
メキシコオリンピックでは団体4位でした。
帰ってきて全日本選手権の後に26歳で引退することになりました。
62歳ぐらいからメニエール病にかかって退職するまでの3年間学校で何回も倒れました。
運転中に発作が起きて死ぬかという思いを何回もやりました。
全日本学生選手権でチームとして東海大学を優勝させるのが夢でしたが、それにかけて一日5,6時間休みの日は10時間ぐらい体育館にいて、ストレス、家庭の仕事もあり、教員、コーチなどがありそれがたまったと思います。
退職して10日間で発作が出なくなりました。
67歳で股関節の痛みが出てきました。
右の股関節が外れてしまい手術をしました。
退院まで一か月半かかり、歩けるようになるまで大変な経験をしました。
身体者障害4級になってしまいました。
学生たちとの合言葉は綺麗なな体操をしようねという事でした。
自分自身の体と鏡を見たら汚かったので、学生たちは納得しないと思っていたので、正しい姿勢を意識した中で「シルキー体操」を考えました。
一日一分でいいという事で、意識して立ってみる、意識して座ってみる、これが一日一分のカギでそれが続けていったら身体は若く動けるという事をコンセプトにしています。
現在は東海大学名誉教授、新潟県出身の76歳。
大学卒業後東海大学で体操を指導、1978年には東海大学を全日本選手権など優勝させるなど指導の面でも活躍されました。
中村さんは高校2年から始めた体操でオリンピックに出場します、当時19歳。
東京教育大学の学生でした。
大学卒業後23歳で一緒にオリンピックに体操で出場したみつくりたかしさんと結婚、2人のお子さんを出産、そして離婚も経験し舞田。
中村さんは現在は背筋が伸びて姿勢はいいんですが、体操を辞めてから背筋も丸くなってしまい、これではいけないと自分で簡単にできる体操を本にまとめて出版しています。
1943年新潟県生まれ。
兄弟4人の3番目に生まれました。
ちいさいときから動くことは大好きでした。
活発な女の子でした。
中学校の時に9人制のバレーボールの中位のセンターの役をしていました。
団体徒手体操にも先生から声をかけられて終わってからいいから来なさいと言われて二つを掛け持ちでやって県大会で二つとも準優勝しました。
大学は経済的に無理だと思って女子高に行こうと頑なに思っていましたが、担任の先生が家に来て両親を説得に来て両親も納得して高校は進学校の三条高校に行きました。
先生が即願書持って先生が提出してくれました。
その先生がいなかったら体操とも出会わなかったし、オリンピックとも縁がなかったと思います。
三条高校ではスポーツをするクラブ等は一切なくて演劇部に入りました。
演劇部は面白くなくて体操の先生がスポーツをやらした方がいいと親を説得に来ました。
体操部も女子も設立することになりまして、2年生になるときに体操部が発足して体操の練習を始めました。
床運動、跳馬、平均台、段違い平行棒の4種類です。
体操部の先生が段違い平行棒を一生懸命すればオリンピックに出られるかもしれないといわれました。
鬼のような先生でしたが情熱があるとも思いました。
一流選手のフィルムを撮ってきて体育館に写して技を覚えろとか言われて、観る練習がかなりありました。
私にとって非常な財産になりました。
3年の夏の大会があり、4種目を個人で出てファイナルに出られて、段違い平行棒だけは凄くよくできましたが、知らなくて止まる動作が無いため減点しますと言われたが、段違い平行棒だけは3位に入ることができました。
大学は東京教育大学に行きました。
大学1年の時には段違い平行棒だけはよかったが、ほかは駄目でした。
インカレでは5,6位に入りました。
2年生の時には世界選手権の代表に選ばれまして、3位になりました。
東京オリンピックにはローマ大会のメンバーが残っていて銅メダルが期待されました。
プラハの大会があり新人(19歳)で凄く刺激がありました。
平均台では頭が真っ白になり何も覚えていないです。
ヨーロッパでは日本人は繊細な動きがあるという評価がありました。
何も覚えていない中でやりましたが、日本でやった点数よりも高く出ました。
1964年東京オリンピックで団体で3位になりました。
大会前には体操女子は銅メダルでなければならぬ、という様な雰囲気でした。
プレシャーがあり街に出ると期待の声があり街に出るのも嫌でした。
規定問題が初日にあり、2日目は自由問題があります。
初日ドイツが3位でしたので絶対銅は取れないと思ってみんな大泣きでした。
自由問題ではもう銅を考えないで、練習してきた通りやりましょうと全員が思いました。
4種目終わって控室に戻ったら3位になったという事でした。
ドイツは普段では考えれれないようなミスをしてしまっていました。
自分がゼロになったときには、捨て身になったときにはやり切れるものだと思いました。
私は幸運だったと思います。
三条高校を薦めてくれて中学の先生、東京教育大学でのいい先輩たちに出会っていい環境にも出会って、東京オリンピックの強化選手にもなれて、体操浸けみたいな月日を過ごしましたが、支えてくれ周りの人がいなければ現在の私はいなかったと思います。
オリンピックの2年後のドルトモント世界選手権でも団体3位になりました。
段違い平行棒でも3位になりました。
他の国の選手がやってない技を3,4個組み入れてやって9.8という得点が出ました。
メキシコオリンピックでは団体4位でした。
帰ってきて全日本選手権の後に26歳で引退することになりました。
62歳ぐらいからメニエール病にかかって退職するまでの3年間学校で何回も倒れました。
運転中に発作が起きて死ぬかという思いを何回もやりました。
全日本学生選手権でチームとして東海大学を優勝させるのが夢でしたが、それにかけて一日5,6時間休みの日は10時間ぐらい体育館にいて、ストレス、家庭の仕事もあり、教員、コーチなどがありそれがたまったと思います。
退職して10日間で発作が出なくなりました。
67歳で股関節の痛みが出てきました。
右の股関節が外れてしまい手術をしました。
退院まで一か月半かかり、歩けるようになるまで大変な経験をしました。
身体者障害4級になってしまいました。
学生たちとの合言葉は綺麗なな体操をしようねという事でした。
自分自身の体と鏡を見たら汚かったので、学生たちは納得しないと思っていたので、正しい姿勢を意識した中で「シルキー体操」を考えました。
一日一分でいいという事で、意識して立ってみる、意識して座ってみる、これが一日一分のカギでそれが続けていったら身体は若く動けるという事をコンセプトにしています。
2020年1月15日水曜日
金戸 俊介・久美子(元東京オリンピック飛び込み日本代表)・オリンピック半年前(1)
金戸 俊介・久美子(元東京オリンピック飛び込み日本代表)・オリンピック半年前(1) 三代続く飛び込み競技
金戸 俊介さんは石川県出身(79歳)久美子さんは東京出身(83歳)
1960年のローマ、1964年の東京と2大会連続でオリンピック飛込競技日本代表として活躍されました。
パートナーがいたから頑張れたと語るお二人は東京オリンピ後に結婚して、その後高校や大学日本水泳連盟の強化コーチとして飛込競技の指導に当たってこられました。
息子の金戸 恵太さんと幸さんご夫妻も飛込競技のオリンピック飛び込み競技の代表としてソウル、バロセロナ、アトランタの大会に出場しています。
さらに孫たちがオリンピックを目指すという三代続く飛び込み競技のスペシャリストです。
競技には高飛び込みと板飛び込みという種目がありますが、いずれも2秒足らずのうちに空中で美を表現して水に飛び込みます。
この一瞬の美を作り上げるために一日8時間100本以上の飛び込みをすることもあるそうです。
俊介さん久美子さんが飛び込みを始めたのがいずれも高校時代。
二人にはそれぞれユニークなきっかけがあったそうです。
俊介:一回目のローマでは成績が良くなかったもので二回目は頑張ろうと頑張っていたら二回目も出れました。
試合中に怪我をしてしまって、その後子どもの指導に当たって、高校、大学、社会人の選手をずーっと教えてきました。
久美子:当時は今みたいにいろんな機器が発達していなかったので、コーチのいう事を信じて想像力を働かせて練習をやっていました。
俊介:怖がりだったので飛び込むときには苦労しました。
種目がいろいろあり10、11種目を飛びますが、新しい種目を飛ぶときには怖かったです。
一回やるとこんなものかとなるんですが。
1m、3mとかバネのついた板を利用して高く飛び上がって飛び込むのと、5m、7、5m、10mと固定台がありますが、高飛び込みの2種類がります。
その後シンクロ飛び込みも入ってきました。
最初10mを飛ぶときに1時間ぐらい粘ってようやく飛んだことがあります。
久美子:目は開けてないと怖いです、水の中にはいると目は閉じますが。
私はエイやっちゃえという感じでやっていました。
しかし1シーズンに一回はお腹を打ったり、背中を打ったりして気絶していました。
俊介:中学時代鉄棒とか跳び箱など好きだったので高校に入ったら体操部に入ろうとして、鉄棒などをしてるクラブがあり、先生に体操部にはいりたいといったら一緒に練習するように言われて、2,3日経ってから友達から飛び込み部に入ったのかと言われてましたが、面白かったのでそのまま続けました。
6月ごろにプールに入ることになりました。
その先生に出会わなかったら飛び込み部には入らなかったですね。
久美子:終戦後アメリカから映画が入ってきて、シンクロナイズスイミングとダイビングをやるスターでエスター・ウィリアムズという役者ですが、白い水着を着てやっていたのでやってみたいと思いました。(中学時代)
高校の時にお茶の水のYWCAの飛び込みの教室をやっていたのでそこに入りました。
1936年のベルリンオリンピックの代表だった大沢礼子さんに教えていただきました。
YWCAは水深が3mで浅かったです。
種目を考えずに落ちていました。
俊介:最初は怖いんですが何回もやっているうちに慣れてきて、うまくいった感じが得られるから続けられました。
久美子:当時はみずしぶきは関係なかったが今は駄目です。
俊介:永田修三先生に巡り会えてよかったです。
久美子:100本飛んだことが2,3回あります、朝7時から12時ぐらいと、1時から7時ぐらいかかりました。
アメリカに行ったときに気が付かないで飛んで、下に友達がいて頭がぶつかってしまって、彼女は5針、私は26針縫いました。
丁度マリリンモンローが亡くなった日で、看護師さんたちがそっちにか駆けつけて、30分ぐらい ほったらかしにされました。
俊介:プロペラ機でローマに着くまで40時間かかりました。(1960年)
久美子:東京オリンピックの前の大会という事で、全種目に出るという事で300人ぐらいいたと思います。
俊介:ユニバーシアードの大会がローマの次の年にブルガリアであり、そこで優勝することができました。
その2年後のブラジルに行かせもらって優勝出来て、東京にも出ましたが、上腕の肉離れを起こしてしまい十分な練習ができなくて、最悪の状態で東京オリンピックの試合に出て、飛び板に頭をぶつけて、水に落ちて水の中で気が付きました。
久美子:東京オリンピックの後に日大の桜ケ丘高校に指導と言う事で行きましたが、生徒を集めるのが大変でした。
俊介:夏休みになると息子をどっちかのプールに連れていくしかなくて、或るときに息子が大阪の大会に出て一番下の方の成績で悔しがって、練習して翌年にジュニアの部で優勝して、本格的に練習するようになってオリンピックまで繋がって行きました。
勝つには努力しかないです、自分でやる気になってやらないといけないです。
まず陸の上で回る練習、トランポリンでベルトを着けて補助して回転を覚えて、次には水の上でやるわけです。
ローマで私が飛んだ種目は前宙返り3回転エビ型は世界で初めてでしたが、今は孫が簡単に飛んでいます。
今は選手に束になってサポートしないと難しい種目をこなして練習を続けることは難しいです。
空中の感覚は飛んだ本人でないとわからないです。
飛んでいるときの補助は声ぐらいしかないです。
続けてこられたのは人ができないことをできたという満足感ですかね。
水しぶきを出さないためには水に入った瞬間に手で受けて手で水をかいて泡を消していきます。
落ちる時の水は硬い、27,8度ぐらいになると水は柔らかくなりますが、16度ぐらいでは本当に硬いし、痛みも2倍ぐらいになります。
久美子:あざだらけになっていましたが、やり遂げたかったです。
自分では満足して辞めました。
ローマで燃え尽きてしまって東京では28歳でしたから。
俊介:中国は人口も多いし、全国から集めて子どもの時から厳しい練習をして、エリート中のエリートが最後に出てくるわけです。
世界の選手のビデオを集めて研究して、トランポリンを中国のコーチがうまく使えるようにして練習をやらしていました。
久美子:主人がいたから東京オリンピックまで続けてこられました。
小さい子から興味を持ってくれたらうれしいと思います。
金戸 俊介さんは石川県出身(79歳)久美子さんは東京出身(83歳)
1960年のローマ、1964年の東京と2大会連続でオリンピック飛込競技日本代表として活躍されました。
パートナーがいたから頑張れたと語るお二人は東京オリンピ後に結婚して、その後高校や大学日本水泳連盟の強化コーチとして飛込競技の指導に当たってこられました。
息子の金戸 恵太さんと幸さんご夫妻も飛込競技のオリンピック飛び込み競技の代表としてソウル、バロセロナ、アトランタの大会に出場しています。
さらに孫たちがオリンピックを目指すという三代続く飛び込み競技のスペシャリストです。
競技には高飛び込みと板飛び込みという種目がありますが、いずれも2秒足らずのうちに空中で美を表現して水に飛び込みます。
この一瞬の美を作り上げるために一日8時間100本以上の飛び込みをすることもあるそうです。
俊介さん久美子さんが飛び込みを始めたのがいずれも高校時代。
二人にはそれぞれユニークなきっかけがあったそうです。
俊介:一回目のローマでは成績が良くなかったもので二回目は頑張ろうと頑張っていたら二回目も出れました。
試合中に怪我をしてしまって、その後子どもの指導に当たって、高校、大学、社会人の選手をずーっと教えてきました。
久美子:当時は今みたいにいろんな機器が発達していなかったので、コーチのいう事を信じて想像力を働かせて練習をやっていました。
俊介:怖がりだったので飛び込むときには苦労しました。
種目がいろいろあり10、11種目を飛びますが、新しい種目を飛ぶときには怖かったです。
一回やるとこんなものかとなるんですが。
1m、3mとかバネのついた板を利用して高く飛び上がって飛び込むのと、5m、7、5m、10mと固定台がありますが、高飛び込みの2種類がります。
その後シンクロ飛び込みも入ってきました。
最初10mを飛ぶときに1時間ぐらい粘ってようやく飛んだことがあります。
久美子:目は開けてないと怖いです、水の中にはいると目は閉じますが。
私はエイやっちゃえという感じでやっていました。
しかし1シーズンに一回はお腹を打ったり、背中を打ったりして気絶していました。
俊介:中学時代鉄棒とか跳び箱など好きだったので高校に入ったら体操部に入ろうとして、鉄棒などをしてるクラブがあり、先生に体操部にはいりたいといったら一緒に練習するように言われて、2,3日経ってから友達から飛び込み部に入ったのかと言われてましたが、面白かったのでそのまま続けました。
6月ごろにプールに入ることになりました。
その先生に出会わなかったら飛び込み部には入らなかったですね。
久美子:終戦後アメリカから映画が入ってきて、シンクロナイズスイミングとダイビングをやるスターでエスター・ウィリアムズという役者ですが、白い水着を着てやっていたのでやってみたいと思いました。(中学時代)
高校の時にお茶の水のYWCAの飛び込みの教室をやっていたのでそこに入りました。
1936年のベルリンオリンピックの代表だった大沢礼子さんに教えていただきました。
YWCAは水深が3mで浅かったです。
種目を考えずに落ちていました。
俊介:最初は怖いんですが何回もやっているうちに慣れてきて、うまくいった感じが得られるから続けられました。
久美子:当時はみずしぶきは関係なかったが今は駄目です。
俊介:永田修三先生に巡り会えてよかったです。
久美子:100本飛んだことが2,3回あります、朝7時から12時ぐらいと、1時から7時ぐらいかかりました。
アメリカに行ったときに気が付かないで飛んで、下に友達がいて頭がぶつかってしまって、彼女は5針、私は26針縫いました。
丁度マリリンモンローが亡くなった日で、看護師さんたちがそっちにか駆けつけて、30分ぐらい ほったらかしにされました。
俊介:プロペラ機でローマに着くまで40時間かかりました。(1960年)
久美子:東京オリンピックの前の大会という事で、全種目に出るという事で300人ぐらいいたと思います。
俊介:ユニバーシアードの大会がローマの次の年にブルガリアであり、そこで優勝することができました。
その2年後のブラジルに行かせもらって優勝出来て、東京にも出ましたが、上腕の肉離れを起こしてしまい十分な練習ができなくて、最悪の状態で東京オリンピックの試合に出て、飛び板に頭をぶつけて、水に落ちて水の中で気が付きました。
久美子:東京オリンピックの後に日大の桜ケ丘高校に指導と言う事で行きましたが、生徒を集めるのが大変でした。
俊介:夏休みになると息子をどっちかのプールに連れていくしかなくて、或るときに息子が大阪の大会に出て一番下の方の成績で悔しがって、練習して翌年にジュニアの部で優勝して、本格的に練習するようになってオリンピックまで繋がって行きました。
勝つには努力しかないです、自分でやる気になってやらないといけないです。
まず陸の上で回る練習、トランポリンでベルトを着けて補助して回転を覚えて、次には水の上でやるわけです。
ローマで私が飛んだ種目は前宙返り3回転エビ型は世界で初めてでしたが、今は孫が簡単に飛んでいます。
今は選手に束になってサポートしないと難しい種目をこなして練習を続けることは難しいです。
空中の感覚は飛んだ本人でないとわからないです。
飛んでいるときの補助は声ぐらいしかないです。
続けてこられたのは人ができないことをできたという満足感ですかね。
水しぶきを出さないためには水に入った瞬間に手で受けて手で水をかいて泡を消していきます。
落ちる時の水は硬い、27,8度ぐらいになると水は柔らかくなりますが、16度ぐらいでは本当に硬いし、痛みも2倍ぐらいになります。
久美子:あざだらけになっていましたが、やり遂げたかったです。
自分では満足して辞めました。
ローマで燃え尽きてしまって東京では28歳でしたから。
俊介:中国は人口も多いし、全国から集めて子どもの時から厳しい練習をして、エリート中のエリートが最後に出てくるわけです。
世界の選手のビデオを集めて研究して、トランポリンを中国のコーチがうまく使えるようにして練習をやらしていました。
久美子:主人がいたから東京オリンピックまで続けてこられました。
小さい子から興味を持ってくれたらうれしいと思います。
2020年1月14日火曜日
桑村 綾(京都料亭会長) ・故郷へ全力で"恩返し"
桑村 綾(京都料亭会長) ・故郷へ全力で"恩返し"
京都府の日本海側京丹後市の周辺はかつてちりめん工場が多く集まり多くの商社が買い付けに来ていました。
地元の老舗旅館に嫁いだ綾さんは経営の才覚が道められ旅館の経営を任されるようになりました。
しかし1970年ごろからちりめん産業に陰りが見えたところで心機一転、地元の旅館を閉じ京都高台寺近くの当時旅館として使われていた建物を買い取り料亭として京都市内への進出を果たしました。
その後京都駅ビルで和食レストランを開業、関西や東京のデパートで「おもたせ」と言われるお菓子、加工食品などを販売事業の拡大を図りました。
70代に入って社長の座を娘さんに譲った桑村さんの心に強く残ったのは京丹後への思いでした。
桑村さんはまず京丹後市の工場造成地を買い取りそこに植物生態学者の宮脇昭さんの指導のもと、3万本の植樹をおこない、今では「和久傳の森」と言われています。
一部の区画では山椒やシイタケの栽培をしたり、食品の工房も建設し多くの地元の人々を雇用しています。
さらに知人の建築家安藤忠雄さんの設計で画家安野光雅さんの美術館を開設、工房のそばにレストランやミュージアムショップも開きました。
又地元農家の協力を得て無農薬有機栽培の食材を育てています。
地域の活性化への取り組みや京丹後市への恩返しへの思いを伺います。
2007年に京丹後の方で和久傳の森で植樹を始めましたが、森の木が相当大きくなっています。
植物生態学者の宮脇昭さんが言われたのは多品種の木々を密集させることです。
3・11の後もそこにあった木は残っているようです。
密植して競争原理を働かせるんだと先生はおっしゃっています。
風雪に耐えて残った木は本物の木だとおっしゃっています。
56種類3万本の木を植えました。
8000坪を購入することになり、200坪の工房を建てるとがらんとしてしまいます。
宮脇先生がTVに出ていたのを見まして相談に伺いました。
先生の苗木は380円と500円ですと言われて、それならできるということで植え始めたら森になってゆきました。
「和久傳の森」という名前を付けました。
工房も狭くなり増築すると森に申し訳ないという思いもあり、たまたま空いた隣にある3500坪のところに増築しようと思いまして、植樹もして観光の一環として見ていただく工房にしようと思いました。
根本にあるのは丹後を知っていただきたいという事です。
丹後ちりめんができたのは桑があるという事で、桑の商品をゆくゆくは作っていきたいと思いました。
生産の森という事で山椒、シイタケ、みょうがなどを作っています。
指導してもらって米も無農薬でやっています。
蟹の甲羅は土壌改良によくて粉砕して入れると、スイカなどは甘みを増します。
自分のところで作ったものが加工され販売されるという、6次産業になっています。
第一工房を改装して1/3ぐらいをレストランにして工場を見ていただくための人寄せとして作りました。
安野光雅さんが洛中洛外を描いている最中で、丹後の絵も描くと言ってくださいました。
絵を買っていまして、安野先生の美術館を作りたいと思いました.
安藤忠雄さんにお願いしようと思って、来てくださって安藤さんが森を見てそれに感動して引き受けていただきました。
お二人が意気投合してくださいました。
安野さんの絵だけではなくて、安藤さんの建築も見に来られる方もいます。
地元のものを簡単に食事してもらうという事にしています。
従業員は店舗、本社などを含めて150人ぐらいになります。
和久傳は明治3年からやっていますので、丹後ちりめんと共に歩んできましたので 丹後ちりめんが衰退してきて丹後ちりめんは地元でもできますが、私どもはほかでもできるという事で思い切って京都進出を考えました。
和久傳は丹後の象徴だから出ないでくれという声もありましたが、いつか帰りますという事で考えていました。
全体的に着物離れは否めないと思います。
ちりめん産業に替わる食産業を作っていきたいと思っています。
お中元、お歳暮時期は普段の2倍以上の忙しくなるので、ばらしてくださいということで梅雨見舞いということでやったら、夏には緩和されました。
工夫をして働き方改革をしていきたいと思っています。
11月には小春日伺いとか春にもとか、日本語にはいい言葉がいっぱいあるのでそういう風に進めていきたいと思います。
蟹を焼いてみたら物凄く甘くてこれが当たりました。
冬の時期にやっていてそれ以外は普通の料理です。
丹後は出旗方式で親旗は生糸を持って行って、お宅は夏物、お宅は無地ですなどといって織っててもらいます。
織ったものに対して工賃を払うわけで、私はそれを食に生かそうかと思っています。
そうすると好きな時間だけ働けるわけです。
調理場はこちら側が作って、工賃の中から返却していってゆくゆくは自分のところのものになる訳です。
一生懸命考えるとひらめきが出てきたりします。
坂東玉三郎さんの鼓童を和久傳の森の10周年記念に来ていただいて、鼓童の皆さんとご本人も来てくださいました。
舞いも地元の人に見てもらいたいという事で、舞踊公演をしたら全国からファンが集まってきました。
5年間丹後に公演していただきました。
恩返しという意味で土壌がいいので食産業を広めていきたいと思っています。
京都府の日本海側京丹後市の周辺はかつてちりめん工場が多く集まり多くの商社が買い付けに来ていました。
地元の老舗旅館に嫁いだ綾さんは経営の才覚が道められ旅館の経営を任されるようになりました。
しかし1970年ごろからちりめん産業に陰りが見えたところで心機一転、地元の旅館を閉じ京都高台寺近くの当時旅館として使われていた建物を買い取り料亭として京都市内への進出を果たしました。
その後京都駅ビルで和食レストランを開業、関西や東京のデパートで「おもたせ」と言われるお菓子、加工食品などを販売事業の拡大を図りました。
70代に入って社長の座を娘さんに譲った桑村さんの心に強く残ったのは京丹後への思いでした。
桑村さんはまず京丹後市の工場造成地を買い取りそこに植物生態学者の宮脇昭さんの指導のもと、3万本の植樹をおこない、今では「和久傳の森」と言われています。
一部の区画では山椒やシイタケの栽培をしたり、食品の工房も建設し多くの地元の人々を雇用しています。
さらに知人の建築家安藤忠雄さんの設計で画家安野光雅さんの美術館を開設、工房のそばにレストランやミュージアムショップも開きました。
又地元農家の協力を得て無農薬有機栽培の食材を育てています。
地域の活性化への取り組みや京丹後市への恩返しへの思いを伺います。
2007年に京丹後の方で和久傳の森で植樹を始めましたが、森の木が相当大きくなっています。
植物生態学者の宮脇昭さんが言われたのは多品種の木々を密集させることです。
3・11の後もそこにあった木は残っているようです。
密植して競争原理を働かせるんだと先生はおっしゃっています。
風雪に耐えて残った木は本物の木だとおっしゃっています。
56種類3万本の木を植えました。
8000坪を購入することになり、200坪の工房を建てるとがらんとしてしまいます。
宮脇先生がTVに出ていたのを見まして相談に伺いました。
先生の苗木は380円と500円ですと言われて、それならできるということで植え始めたら森になってゆきました。
「和久傳の森」という名前を付けました。
工房も狭くなり増築すると森に申し訳ないという思いもあり、たまたま空いた隣にある3500坪のところに増築しようと思いまして、植樹もして観光の一環として見ていただく工房にしようと思いました。
根本にあるのは丹後を知っていただきたいという事です。
丹後ちりめんができたのは桑があるという事で、桑の商品をゆくゆくは作っていきたいと思いました。
生産の森という事で山椒、シイタケ、みょうがなどを作っています。
指導してもらって米も無農薬でやっています。
蟹の甲羅は土壌改良によくて粉砕して入れると、スイカなどは甘みを増します。
自分のところで作ったものが加工され販売されるという、6次産業になっています。
第一工房を改装して1/3ぐらいをレストランにして工場を見ていただくための人寄せとして作りました。
安野光雅さんが洛中洛外を描いている最中で、丹後の絵も描くと言ってくださいました。
絵を買っていまして、安野先生の美術館を作りたいと思いました.
安藤忠雄さんにお願いしようと思って、来てくださって安藤さんが森を見てそれに感動して引き受けていただきました。
お二人が意気投合してくださいました。
安野さんの絵だけではなくて、安藤さんの建築も見に来られる方もいます。
地元のものを簡単に食事してもらうという事にしています。
従業員は店舗、本社などを含めて150人ぐらいになります。
和久傳は明治3年からやっていますので、丹後ちりめんと共に歩んできましたので 丹後ちりめんが衰退してきて丹後ちりめんは地元でもできますが、私どもはほかでもできるという事で思い切って京都進出を考えました。
和久傳は丹後の象徴だから出ないでくれという声もありましたが、いつか帰りますという事で考えていました。
全体的に着物離れは否めないと思います。
ちりめん産業に替わる食産業を作っていきたいと思っています。
お中元、お歳暮時期は普段の2倍以上の忙しくなるので、ばらしてくださいということで梅雨見舞いということでやったら、夏には緩和されました。
工夫をして働き方改革をしていきたいと思っています。
11月には小春日伺いとか春にもとか、日本語にはいい言葉がいっぱいあるのでそういう風に進めていきたいと思います。
蟹を焼いてみたら物凄く甘くてこれが当たりました。
冬の時期にやっていてそれ以外は普通の料理です。
丹後は出旗方式で親旗は生糸を持って行って、お宅は夏物、お宅は無地ですなどといって織っててもらいます。
織ったものに対して工賃を払うわけで、私はそれを食に生かそうかと思っています。
そうすると好きな時間だけ働けるわけです。
調理場はこちら側が作って、工賃の中から返却していってゆくゆくは自分のところのものになる訳です。
一生懸命考えるとひらめきが出てきたりします。
坂東玉三郎さんの鼓童を和久傳の森の10周年記念に来ていただいて、鼓童の皆さんとご本人も来てくださいました。
舞いも地元の人に見てもらいたいという事で、舞踊公演をしたら全国からファンが集まってきました。
5年間丹後に公演していただきました。
恩返しという意味で土壌がいいので食産業を広めていきたいと思っています。
2020年1月13日月曜日
秋山竜子(秋山里奈の母) ・アスリート誕生物語
秋山竜子(秋山リナの母) ・アスリート誕生物語
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会で100m背泳ぎで金メダルを獲得しました。
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会後に現役を引退されました。
里奈は今は一人暮らしでOLをしています。
料理を覚えレパートリーもたくさん増えました。
部屋もきれいに掃除が行き届いています。
水泳から引退後は泳いではいません。
生後2か月ぐらいで網膜剥離を医師から伝えられました。
意味が分からず直さなければいけないと思いました。
これから先まず視覚障碍者としての育て方をした方がいいといわれましたが、1年ぐらいは病院をいろいろ探して直す事にかけていました。
その後視覚障碍者の小さな子が行く「ひよこ教室」のところに行きました。
ピアノ、水泳も習い始めました。
成長してゆくにしたがって普通の子と同じようには育っていきました。
水泳は3歳の時から姉が始めたので一緒に始めました。
水を怖がらない子でした。
コースロープを使うようになったのは小学校に上がってからなので、そういったことはコーチに任せました。
自分からもっと行きたいという様になりました。
小学校5年生の時に、河合純一さん(全盲のパラリンピックのメダリスト)が「夢を繋ぐ」という本を出して、パラリンピックというものがあるという事を知ったんだと思います。
学校の先生が読書感想文を書くように言われたときにパラリンピックを目指そうという考えを書いたようです。
本人が目標をもってやる事はいいことだと思って応援したいと思いました。
兎に角本人が楽しめればいいと思いました。
眼が見えないという事は家族の中では禁句にしていました。
自然と自分が判ってゆく事だと思いました。
幼稚園に通い始めて周りとは違うという事が判り始めました。
見えないと普通に言えるようになったのはある程度大人になってからでした。
何倍も時間が掛かりましが縄跳びとか自転車にも乗れるようになりました。
姉と何でも同じようにさせました。
当時は一般の小学校に入るのは難しいので、週に一回交流という事で地域の小学校に通うという形を取らせてもらいました。
人数も多いし遊びも全然違うのですごく生き生きしていました。
私が好き嫌いが多かったもので、里奈も好き嫌いが多いので里奈が何か好きなものを沢山食べてもらえればいいと思いました。
素材を生かしたシンプルなものが多いです。
中学からは親元を離れて筑波大学付属視覚特別支援学校に進学します。
本人が友達が欲しいから人数の多いが校に行きたいといいました。
私は無理だと思って諭すように言いましたが、「私の人生だから私が決める」というので了解することに至りました。
12歳なので何から何まで一人でするので私としては大反対でしたが。
週末は必ず帰ってくることを約束しました。
お稽古事、英語、ピアノ、水泳を週末に稽古をしました。
寮の料理はなかなか食べれないので痩せて帰ってくるので、家では目いっぱい好きなものを食べさせて送り出しました。
高校卒業後明治大学の法学部に進学しました。
大学院にも行きましたが、すべて当人が決めていきました。
最初のパラリンピックはアテネで16歳で代表になりました。
当時TVなどでの放送が無かったので、パラリンピックはあまり理解していませんでした。
近所のかた、親戚、私の友達とか24,5人で応援にアテネに行きました。
100m背泳ぎで銀メダルを獲得することになり、素晴らしいことだと思い私たちは涙涙でした。
本人は金メダルが欲しかったようで私たちと会った時には笑顔はありませんでした。
北京では視覚障害の背泳ぎは実施種目から外され、自由形50mに出場8位入賞でした。
決勝に出場できたのはメダル取ったときよりも、里奈は喜んでいました。
ロンドン大会では100m背泳ぎが復活して金メダルを獲得しました。
里奈が苦しんで苦しんだ一年間で、兎に角金メダルを取って引退をするというのが目標でした。
私としては嬉しい反面寂しい一面がありました。
周りの50人以上の応援団の人たちは大喜びでした。
ロンドンの直前は当人は絶不調でしたので私も眠れない日々でした。
里奈は引退することになり一人暮らしに向かって用意を始めました。
自分が立てた目標に向かってコツコツやる負けず嫌いな娘です。
私としてはただ里奈についてゆくだけでした。
外資系の会社に入り、一人暮らしを始めました。
今度は本当にまるっきりの一人暮らしになるので心配で心配でしょうがなかったです。
私はめそめそ泣いて体重が3,4kg痩せました。
コンビニへ一緒に行ったり簡単な料理を教えたりして、この子だったら大丈夫だと自分で納得しました。
親孝行という意味では健康第一、よく食べよく寝ること、もう少し気楽になってまわりにも甘えて、自分に自信をもってこれからもいろんなことに挑戦してほしいです。
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会で100m背泳ぎで金メダルを獲得しました。
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会後に現役を引退されました。
里奈は今は一人暮らしでOLをしています。
料理を覚えレパートリーもたくさん増えました。
部屋もきれいに掃除が行き届いています。
水泳から引退後は泳いではいません。
生後2か月ぐらいで網膜剥離を医師から伝えられました。
意味が分からず直さなければいけないと思いました。
これから先まず視覚障碍者としての育て方をした方がいいといわれましたが、1年ぐらいは病院をいろいろ探して直す事にかけていました。
その後視覚障碍者の小さな子が行く「ひよこ教室」のところに行きました。
ピアノ、水泳も習い始めました。
成長してゆくにしたがって普通の子と同じようには育っていきました。
水泳は3歳の時から姉が始めたので一緒に始めました。
水を怖がらない子でした。
コースロープを使うようになったのは小学校に上がってからなので、そういったことはコーチに任せました。
自分からもっと行きたいという様になりました。
小学校5年生の時に、河合純一さん(全盲のパラリンピックのメダリスト)が「夢を繋ぐ」という本を出して、パラリンピックというものがあるという事を知ったんだと思います。
学校の先生が読書感想文を書くように言われたときにパラリンピックを目指そうという考えを書いたようです。
本人が目標をもってやる事はいいことだと思って応援したいと思いました。
兎に角本人が楽しめればいいと思いました。
眼が見えないという事は家族の中では禁句にしていました。
自然と自分が判ってゆく事だと思いました。
幼稚園に通い始めて周りとは違うという事が判り始めました。
見えないと普通に言えるようになったのはある程度大人になってからでした。
何倍も時間が掛かりましが縄跳びとか自転車にも乗れるようになりました。
姉と何でも同じようにさせました。
当時は一般の小学校に入るのは難しいので、週に一回交流という事で地域の小学校に通うという形を取らせてもらいました。
人数も多いし遊びも全然違うのですごく生き生きしていました。
私が好き嫌いが多かったもので、里奈も好き嫌いが多いので里奈が何か好きなものを沢山食べてもらえればいいと思いました。
素材を生かしたシンプルなものが多いです。
中学からは親元を離れて筑波大学付属視覚特別支援学校に進学します。
本人が友達が欲しいから人数の多いが校に行きたいといいました。
私は無理だと思って諭すように言いましたが、「私の人生だから私が決める」というので了解することに至りました。
12歳なので何から何まで一人でするので私としては大反対でしたが。
週末は必ず帰ってくることを約束しました。
お稽古事、英語、ピアノ、水泳を週末に稽古をしました。
寮の料理はなかなか食べれないので痩せて帰ってくるので、家では目いっぱい好きなものを食べさせて送り出しました。
高校卒業後明治大学の法学部に進学しました。
大学院にも行きましたが、すべて当人が決めていきました。
最初のパラリンピックはアテネで16歳で代表になりました。
当時TVなどでの放送が無かったので、パラリンピックはあまり理解していませんでした。
近所のかた、親戚、私の友達とか24,5人で応援にアテネに行きました。
100m背泳ぎで銀メダルを獲得することになり、素晴らしいことだと思い私たちは涙涙でした。
本人は金メダルが欲しかったようで私たちと会った時には笑顔はありませんでした。
北京では視覚障害の背泳ぎは実施種目から外され、自由形50mに出場8位入賞でした。
決勝に出場できたのはメダル取ったときよりも、里奈は喜んでいました。
ロンドン大会では100m背泳ぎが復活して金メダルを獲得しました。
里奈が苦しんで苦しんだ一年間で、兎に角金メダルを取って引退をするというのが目標でした。
私としては嬉しい反面寂しい一面がありました。
周りの50人以上の応援団の人たちは大喜びでした。
ロンドンの直前は当人は絶不調でしたので私も眠れない日々でした。
里奈は引退することになり一人暮らしに向かって用意を始めました。
自分が立てた目標に向かってコツコツやる負けず嫌いな娘です。
私としてはただ里奈についてゆくだけでした。
外資系の会社に入り、一人暮らしを始めました。
今度は本当にまるっきりの一人暮らしになるので心配で心配でしょうがなかったです。
私はめそめそ泣いて体重が3,4kg痩せました。
コンビニへ一緒に行ったり簡単な料理を教えたりして、この子だったら大丈夫だと自分で納得しました。
親孝行という意味では健康第一、よく食べよく寝ること、もう少し気楽になってまわりにも甘えて、自分に自信をもってこれからもいろんなことに挑戦してほしいです。
2020年1月12日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
*中国の古い中国民謡『茉莉花』(モーリーファ Mólíhuā) 中国のピアニスト ランランの演奏
摩訶不思議な郷愁を誘うノスタルジックなメロディー。
今回は東洋の調べの遺伝子。
ヨーロッパと東洋とでは音階が違う。 5音音階で二つ少ない。
ドレミファソラシド のファとシを抜いた音階。
ドボルザークのスラブ舞曲、アメリカネーティブインディアンの使っている音階も5音階。
蛍の光 (もともとはスコットランド民謡)も5音階。
これを最も効果的に使ったのがプッチーニ 最後のオペラ 「トゥーランドット」より
*「栄光を、栄光を、ああ、勝者よ!」
壮大なオーケストラと合唱が響きとなって帰ってきたところ。
1920年代の音楽です。
* リューのアリア 「旦那様お聞きください」
リューの歌声が天に導かれるようで。
5音音階 ピアノでいうと黒のけん盤だけで出来ている。
ヨハンシュトラウスのお父さん ヨハン・シュトラウス1世 1820年代に中国人のギャロップを書いています。
*「中国人のギャロップ」
5音階ではないが東洋人のイメージをこの曲で表している。」
19世紀後半
*クライスラー「中国の太鼓」 1936年の録音 クライスラーのヴァイオリン
古き良き時代の演奏。
中国のメロディー、イメージをあちこちに感じます。
クライスラーが上海を演奏旅行した際に、上海の大道芸の中国人の動きを見てこの曲を思いついたともいわれます。
ラベル作曲のバレエ音楽 『マ・メール・ロワ』 「パゴダの女王レロドネット」
五音音階により、パゴダ (中国の陶器の首振り人形)の国の東洋的な雰囲気を表現して いる作品です。
*フランツ・レハールにも東洋を描いた名作があります。オペレッタ 「微笑みの国」
オペレッタというのは楽しくてハッピーでちょっとしたトラブルやできごとも最後には明るく笑って終わりましょうというのがオペレッタのパタンでしたが、レハールは「微笑みの国」で涙をテーマにしました。
メロディー全体もなんともしっとりとしてて沁みるメロディーが多いですね。
*フランツ・レハール 「微笑みの国」から「君こそわが心」
*中国の古い中国民謡『茉莉花』(モーリーファ Mólíhuā) 中国のピアニスト ランランの演奏
摩訶不思議な郷愁を誘うノスタルジックなメロディー。
今回は東洋の調べの遺伝子。
ヨーロッパと東洋とでは音階が違う。 5音音階で二つ少ない。
ドレミファソラシド のファとシを抜いた音階。
ドボルザークのスラブ舞曲、アメリカネーティブインディアンの使っている音階も5音階。
蛍の光 (もともとはスコットランド民謡)も5音階。
これを最も効果的に使ったのがプッチーニ 最後のオペラ 「トゥーランドット」より
*「栄光を、栄光を、ああ、勝者よ!」
壮大なオーケストラと合唱が響きとなって帰ってきたところ。
1920年代の音楽です。
* リューのアリア 「旦那様お聞きください」
リューの歌声が天に導かれるようで。
5音音階 ピアノでいうと黒のけん盤だけで出来ている。
ヨハンシュトラウスのお父さん ヨハン・シュトラウス1世 1820年代に中国人のギャロップを書いています。
*「中国人のギャロップ」
5音階ではないが東洋人のイメージをこの曲で表している。」
19世紀後半
*クライスラー「中国の太鼓」 1936年の録音 クライスラーのヴァイオリン
古き良き時代の演奏。
中国のメロディー、イメージをあちこちに感じます。
クライスラーが上海を演奏旅行した際に、上海の大道芸の中国人の動きを見てこの曲を思いついたともいわれます。
ラベル作曲のバレエ音楽 『マ・メール・ロワ』 「パゴダの女王レロドネット」
五音音階により、パゴダ (中国の陶器の首振り人形)の国の東洋的な雰囲気を表現して いる作品です。
*フランツ・レハールにも東洋を描いた名作があります。オペレッタ 「微笑みの国」
オペレッタというのは楽しくてハッピーでちょっとしたトラブルやできごとも最後には明るく笑って終わりましょうというのがオペレッタのパタンでしたが、レハールは「微笑みの国」で涙をテーマにしました。
メロディー全体もなんともしっとりとしてて沁みるメロディーが多いですね。
*フランツ・レハール 「微笑みの国」から「君こそわが心」
2020年1月11日土曜日
大村崑(俳優) ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記(初回2019・1・5))
大村崑(俳優) ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記(初回2019・1・5)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/01/blog-post_5.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/01/blog-post_5.htmlをご覧ください。
2020年1月10日金曜日
三好鋭郎(手袋製造会社相談役) ・不自由な足が私の世界を広げてくれた
三好鋭郎(手袋製造会社相談役) ・不自由な足が私の世界を広げてくれた
三好さん80歳は生まれて間もなく小児まひにかかり足が不自由になりました。
高校卒業後家業の手袋製造会社に就職、青春時代自分の障害を悲観して将来に絶望した時期もありましたが、一冊の本と家族に支えられて乗り越えます。
心の整理がついてからは家業の手袋製造販売のために不自由な足で世界各地を飛び回り、おととしには大手メーカーの手袋の下請け製造などで売上げ日本一を記録しました。
現在は体に障害がある人や高齢者が使い易いキャリーバックや車椅子の開発に取り組む
三好さんに伺いました。
スキーの手袋では全米で7年間連続第一位になっています。
日本国内でも日本一になりました。
香川県は塩田の地で人が沢山余っていたことと人件費が安かったことで大阪からこちらに移ってきました。
兄弟6人兄弟の真ん中です。
父が手袋製造をしていました。
兄弟の真ん中が跡を継ぐようになったのは、生まれて6か月目に小児まひにかかり、右足を悪くして、親は私が後継ぎにしないと就職が難しいと考えました。
幸い私は手が器用でした。
県内から大阪など医者通いしました。
自分が学校に行けるぐらいは歩けることができました。
周りからいじめにも会いましたが、精神的にも強くなったと思います。
小学校6年の時に先生が優しい先生で指導してくれて周りからすくわれました。
小学校の時から私が仕事を手伝わされていました。
そのころから父は考えていたようです。
高校卒業をして家業を手伝う事になりました。
最初は皮の手袋の裁断から入りました。
コストを下げるための裁断方法をいろいろ考えました。
3~5%コストダウンをすることができました。
23歳の時にハンディーがあって振られたと思って、生きる望みをなくして家をスクーターで飛び出しました。
淡路島に船で渡って明石に渡って兄が東京にいるのでいつの間にか東京にいっていました。
兄と出会って1時間ぐらい泣きわめいて、それでスーッとしました。
4人振られていました。
一冊の本に出合いました。
「積極は天国、消極は地獄」という座右の銘ができた一節でした。
100回以上読んでいます。
自分しかできない仕事があるという文章に出会いました。
自分もなにかあると感じました。
父の会社を立派な会社にするという事で気持ちが切り替わりました。
海外に打って出ようと考えました。
英語ができないし足が悪いのでハンディーがありましたが、ニューヨークにまず行きました。
言葉に困って通訳をまず探して、ニューヨークの商工会議所に行きました。
3社ぐらいリストアップしてくれて、資料をもらって電話を掛けましたが、なかなか会ってくれませんでした。
その後7,8社があってくれましたが、1社だけが将来のお客さんにつながる訳ですが。
お金も当時140万円かかりました。(今のお金で1000万円を越えています。)
英会話ができなくては駄目だと思い、帰ってきてまずNHKの英語会話の勉強を始めました。
それがもの凄く役に立ちました。
車ではケネディーさんの講演録エンドレステープにして聞いて一緒についてしゃべって何千回とやりました。
3,4年かかって何とか自分の英語で仕事ができるようになりました。
毎年アメリカに行き、3~6年掛かって販路拡大に至りました。
日本の材料が良かったです。
裁断と縫製もよかったし値段も競争力がありました。
円高不況になり、1970年過ぎてから台湾か韓国に出ようと考えました。
韓国の方が寒い地域なので手袋製造には向いていると思い、1972年に韓国で生産を開催することにしました。
たまたまニクソンショックで360円から240円ぐらいになってしまいました。
競争力に勝つためには海外しかないという事を思った時だったので、ぎりぎり間に合いました。
苦戦をしましたが、韓国人はよく働きました。
「自分のために、社会のために、世界のために」という経営理念を作りまして、韓国人の意欲を掻き立てていい人が集まってきて成功するようになりました。
手袋産業は春になると暇になってしまっていました。
ニューヨークに3回目にいった時に(1966年)、トランクに75mmの車輪がついているのを見かけてこれは面白いと思いました。
購入してみたら、全然楽でした。
これを小さくしていったらと思っていて、バブル崩壊があり手袋だけでは売り上げ維持が出来ないと思って、車輪付きの生産をやったらどうかと弟から言われて作ったが上手くいきませんでした。
アイディアが浮かんで、ハンドルを湾曲させることを考えました。
持ち運びが楽で障害者が寄りかかれるようなキャリアーバックを作り上げました。
自分で世界中使って歩いて、使っている姿の写真を載せてそこから売れるようになりました。
2000年10月には初めて目標を越え、デパートのカバン売り場と介護売り場に並びました。
次に小さくて軽くて使い易い車椅子を作りました。
2013年にポストポリオという病気にかかり、痺れたり呼吸困難になる場合もあります。
車椅子を使うようになると思っていましたが、先生からは歩けるうちはできるだけ歩くようにという事を言われました。
もし当時車椅子を使っていたら、今は歩けなくなっていたと思います。
使ってみたこともありましたが、車椅子が大きくてトイレに入れなかったり机にぶつかったり、又洗面台に近づけない、この二つが問題でした。
この問題に挑戦して図面をひいて、夢にひらめいたりしてそれを又図面にしたりしていきました。
段々小さくたためる方法を考えていきました。
車椅子にポケットを作ってほしいとの要求もあり、順調に行きました。
障害者が喜んで貰える分野に世界中に大勢いそういう人がいらしゃいます。
自分が欲しいもの、ニーズに応えたものが売れると思います。
自分の人生を振り返って書き残そうと思って今毎日書いています。
三好さん80歳は生まれて間もなく小児まひにかかり足が不自由になりました。
高校卒業後家業の手袋製造会社に就職、青春時代自分の障害を悲観して将来に絶望した時期もありましたが、一冊の本と家族に支えられて乗り越えます。
心の整理がついてからは家業の手袋製造販売のために不自由な足で世界各地を飛び回り、おととしには大手メーカーの手袋の下請け製造などで売上げ日本一を記録しました。
現在は体に障害がある人や高齢者が使い易いキャリーバックや車椅子の開発に取り組む
三好さんに伺いました。
スキーの手袋では全米で7年間連続第一位になっています。
日本国内でも日本一になりました。
香川県は塩田の地で人が沢山余っていたことと人件費が安かったことで大阪からこちらに移ってきました。
兄弟6人兄弟の真ん中です。
父が手袋製造をしていました。
兄弟の真ん中が跡を継ぐようになったのは、生まれて6か月目に小児まひにかかり、右足を悪くして、親は私が後継ぎにしないと就職が難しいと考えました。
幸い私は手が器用でした。
県内から大阪など医者通いしました。
自分が学校に行けるぐらいは歩けることができました。
周りからいじめにも会いましたが、精神的にも強くなったと思います。
小学校6年の時に先生が優しい先生で指導してくれて周りからすくわれました。
小学校の時から私が仕事を手伝わされていました。
そのころから父は考えていたようです。
高校卒業をして家業を手伝う事になりました。
最初は皮の手袋の裁断から入りました。
コストを下げるための裁断方法をいろいろ考えました。
3~5%コストダウンをすることができました。
23歳の時にハンディーがあって振られたと思って、生きる望みをなくして家をスクーターで飛び出しました。
淡路島に船で渡って明石に渡って兄が東京にいるのでいつの間にか東京にいっていました。
兄と出会って1時間ぐらい泣きわめいて、それでスーッとしました。
4人振られていました。
一冊の本に出合いました。
「積極は天国、消極は地獄」という座右の銘ができた一節でした。
100回以上読んでいます。
自分しかできない仕事があるという文章に出会いました。
自分もなにかあると感じました。
父の会社を立派な会社にするという事で気持ちが切り替わりました。
海外に打って出ようと考えました。
英語ができないし足が悪いのでハンディーがありましたが、ニューヨークにまず行きました。
言葉に困って通訳をまず探して、ニューヨークの商工会議所に行きました。
3社ぐらいリストアップしてくれて、資料をもらって電話を掛けましたが、なかなか会ってくれませんでした。
その後7,8社があってくれましたが、1社だけが将来のお客さんにつながる訳ですが。
お金も当時140万円かかりました。(今のお金で1000万円を越えています。)
英会話ができなくては駄目だと思い、帰ってきてまずNHKの英語会話の勉強を始めました。
それがもの凄く役に立ちました。
車ではケネディーさんの講演録エンドレステープにして聞いて一緒についてしゃべって何千回とやりました。
3,4年かかって何とか自分の英語で仕事ができるようになりました。
毎年アメリカに行き、3~6年掛かって販路拡大に至りました。
日本の材料が良かったです。
裁断と縫製もよかったし値段も競争力がありました。
円高不況になり、1970年過ぎてから台湾か韓国に出ようと考えました。
韓国の方が寒い地域なので手袋製造には向いていると思い、1972年に韓国で生産を開催することにしました。
たまたまニクソンショックで360円から240円ぐらいになってしまいました。
競争力に勝つためには海外しかないという事を思った時だったので、ぎりぎり間に合いました。
苦戦をしましたが、韓国人はよく働きました。
「自分のために、社会のために、世界のために」という経営理念を作りまして、韓国人の意欲を掻き立てていい人が集まってきて成功するようになりました。
手袋産業は春になると暇になってしまっていました。
ニューヨークに3回目にいった時に(1966年)、トランクに75mmの車輪がついているのを見かけてこれは面白いと思いました。
購入してみたら、全然楽でした。
これを小さくしていったらと思っていて、バブル崩壊があり手袋だけでは売り上げ維持が出来ないと思って、車輪付きの生産をやったらどうかと弟から言われて作ったが上手くいきませんでした。
アイディアが浮かんで、ハンドルを湾曲させることを考えました。
持ち運びが楽で障害者が寄りかかれるようなキャリアーバックを作り上げました。
自分で世界中使って歩いて、使っている姿の写真を載せてそこから売れるようになりました。
2000年10月には初めて目標を越え、デパートのカバン売り場と介護売り場に並びました。
次に小さくて軽くて使い易い車椅子を作りました。
2013年にポストポリオという病気にかかり、痺れたり呼吸困難になる場合もあります。
車椅子を使うようになると思っていましたが、先生からは歩けるうちはできるだけ歩くようにという事を言われました。
もし当時車椅子を使っていたら、今は歩けなくなっていたと思います。
使ってみたこともありましたが、車椅子が大きくてトイレに入れなかったり机にぶつかったり、又洗面台に近づけない、この二つが問題でした。
この問題に挑戦して図面をひいて、夢にひらめいたりしてそれを又図面にしたりしていきました。
段々小さくたためる方法を考えていきました。
車椅子にポケットを作ってほしいとの要求もあり、順調に行きました。
障害者が喜んで貰える分野に世界中に大勢いそういう人がいらしゃいます。
自分が欲しいもの、ニーズに応えたものが売れると思います。
自分の人生を振り返って書き残そうと思って今毎日書いています。
2020年1月9日木曜日
石戸谷結子(音楽評論家) ・オペラこそ我が人生
石戸谷結子(音楽評論家) ・オペラこそ我が人生
石戸谷さんは1946年青森県生まれ、子どもの頃からクラシック音楽に親しみ、早稲田大学を卒業後音楽出版社に勤務、多くのアーティストにインタビューするなど編集業務に携わりました。
1985年40歳を前に退社、以後はフリージャーナリストとして雑誌、新聞、ウエブ媒体にも発表の場を広げクラシック音楽、中でもオペラを専門に多くの評論を執筆、敷居が高いと敬遠されがちなオペラを判り易く解説して多くの人に魅力を知ってもらいたいと、自らオペラ普及委員会委員を名乗って活動を続けています。
父は昔からクラシックが好きで家ではクラシック音楽がいつも流れていました。
中学の頃からオペラが好きになりました。
マリオ・デル・モナコが来日してTVで見たり、マリア・カラスのレコードを聴いたりしました。
1965年長野でスラブ歌劇団のオペラの生の舞台を見ることができました。
視覚聴覚すべてに訴えますので感動しました。
大学に入学して直ぐに同好会に入りました。
教育学部で劇音楽をとって、歌舞伎、お能、文楽などを勉強しました。
オペラと歌舞伎は似ていますし、いい4年間だったと思います。
編集者になりたいと思って音楽出版社を受けて入ることになりました。
結婚して子供が生まれましたが、面白くてやめることができませんでした。
しかし大変は大変でした。
1976年にプラシド・ドミンゴ(3大テノールの一人)が初来日しまして、当時35歳で素晴らしい声にすっかり魅了されました。
2年後にヨーロッパにオペラを見に出かけました。
パリオペラ座でドミンゴの『オテロ』を見て本当に圧倒されました。
声ばかりではなくて演技力も素晴らしかった。
ドミンゴの『サムソンとデリラ』の屋外劇場でも素晴らしかったです。
満天の星のもとで見るのもオペラの醍醐味の一つです。
海外に行ってオペラを見るというのが人生の楽しみになりました。
その当時はクラシック音楽界自体が華やかで力を持っていた時代でした。
*ビゼーの『真珠採り』というオペラから主役ナディールが歌う『耳に残るは君の歌声』
歌:プラシド・ドミンゴ
40歳の時に坂東玉三郎さんへのインタビューがインタビューをして続けていきたいというきっかけになりました。
ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんとの対談も印象に残りました。
インタビューは一種の疑似恋愛見たいな感じで、インタビューするときにはその人の本を読んで音楽を聴いてその人のことを考えてそれからインタビューに行きます。
心が通じ合わないといいお話はうかがえないと思います。
カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『インドシナ』という映画
その時にインタビューしましたが、その時のインタビューも印象に残っています。
ヴァイオリニストのユーディ・メニューインさんが自然体で生きる事が一番、自分を律すること忍耐、人を許す寛容が重要だとおしゃっていました。
20年前ごろは仕事で一年に5回ぐらい海外に行きましたが、自分でも行きたいという事で最高9回という事がありました。(主人、子どもを置いて)
普段は一生懸命働いて年に何回かは海外でオペラを見るという生活をしています。
童話の「蟻とキリギリス」二つを合わせた生活をしています。
オペラの楽しみ、リーズナブルに聞く方法、など楽しみ方のヒントを皆さんにお伝えしようとやっています。
券を自分で取り、自分で飛行機を手配し、自分でいろんなものを手配してゆくとリーズナブルに楽しめます。
オペラは奥が深いので飽きるという事はなくて、音楽が素晴らしく総合芸術なので、視覚、聴覚、体全体でオペラ舞台を感じることができる。
歌舞伎と同じようにご贔屓を作ることが重要だと思っています。
それが奥を深めてゆくと思います。
オペラ普及委員会委員を名乗って多くの方にオペラの楽しさを知ってほしいので、その扉を開ける役、きっかけを作れたらいいと思います。
石戸谷さんは1946年青森県生まれ、子どもの頃からクラシック音楽に親しみ、早稲田大学を卒業後音楽出版社に勤務、多くのアーティストにインタビューするなど編集業務に携わりました。
1985年40歳を前に退社、以後はフリージャーナリストとして雑誌、新聞、ウエブ媒体にも発表の場を広げクラシック音楽、中でもオペラを専門に多くの評論を執筆、敷居が高いと敬遠されがちなオペラを判り易く解説して多くの人に魅力を知ってもらいたいと、自らオペラ普及委員会委員を名乗って活動を続けています。
父は昔からクラシックが好きで家ではクラシック音楽がいつも流れていました。
中学の頃からオペラが好きになりました。
マリオ・デル・モナコが来日してTVで見たり、マリア・カラスのレコードを聴いたりしました。
1965年長野でスラブ歌劇団のオペラの生の舞台を見ることができました。
視覚聴覚すべてに訴えますので感動しました。
大学に入学して直ぐに同好会に入りました。
教育学部で劇音楽をとって、歌舞伎、お能、文楽などを勉強しました。
オペラと歌舞伎は似ていますし、いい4年間だったと思います。
編集者になりたいと思って音楽出版社を受けて入ることになりました。
結婚して子供が生まれましたが、面白くてやめることができませんでした。
しかし大変は大変でした。
1976年にプラシド・ドミンゴ(3大テノールの一人)が初来日しまして、当時35歳で素晴らしい声にすっかり魅了されました。
2年後にヨーロッパにオペラを見に出かけました。
パリオペラ座でドミンゴの『オテロ』を見て本当に圧倒されました。
声ばかりではなくて演技力も素晴らしかった。
ドミンゴの『サムソンとデリラ』の屋外劇場でも素晴らしかったです。
満天の星のもとで見るのもオペラの醍醐味の一つです。
海外に行ってオペラを見るというのが人生の楽しみになりました。
その当時はクラシック音楽界自体が華やかで力を持っていた時代でした。
*ビゼーの『真珠採り』というオペラから主役ナディールが歌う『耳に残るは君の歌声』
歌:プラシド・ドミンゴ
40歳の時に坂東玉三郎さんへのインタビューがインタビューをして続けていきたいというきっかけになりました。
ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんとの対談も印象に残りました。
インタビューは一種の疑似恋愛見たいな感じで、インタビューするときにはその人の本を読んで音楽を聴いてその人のことを考えてそれからインタビューに行きます。
心が通じ合わないといいお話はうかがえないと思います。
カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『インドシナ』という映画
その時にインタビューしましたが、その時のインタビューも印象に残っています。
ヴァイオリニストのユーディ・メニューインさんが自然体で生きる事が一番、自分を律すること忍耐、人を許す寛容が重要だとおしゃっていました。
20年前ごろは仕事で一年に5回ぐらい海外に行きましたが、自分でも行きたいという事で最高9回という事がありました。(主人、子どもを置いて)
普段は一生懸命働いて年に何回かは海外でオペラを見るという生活をしています。
童話の「蟻とキリギリス」二つを合わせた生活をしています。
オペラの楽しみ、リーズナブルに聞く方法、など楽しみ方のヒントを皆さんにお伝えしようとやっています。
券を自分で取り、自分で飛行機を手配し、自分でいろんなものを手配してゆくとリーズナブルに楽しめます。
オペラは奥が深いので飽きるという事はなくて、音楽が素晴らしく総合芸術なので、視覚、聴覚、体全体でオペラ舞台を感じることができる。
歌舞伎と同じようにご贔屓を作ることが重要だと思っています。
それが奥を深めてゆくと思います。
オペラ普及委員会委員を名乗って多くの方にオペラの楽しさを知ってほしいので、その扉を開ける役、きっかけを作れたらいいと思います。
2020年1月8日水曜日
赤松利市(作家) ・ホームレスから作家へ
赤松利市(作家) ・ホームレスから作家へ
赤松さんは香川県出身、63歳。
大学卒業後、大手消費者金融会社に入社、激務をこなした結果燃え尽き症候群となり退社、ゴルフ場の芝生管理の仕事に就き35歳で起業。
業績は好調でしたが、心の病を患った娘と暮らす中で会社が回らなくなり、仕事も家庭も破綻しました。
2011年の東日本大震災後は東北に住み、土木作業員や除染作業員を経験、そこでも仕事に行きづまり所持金5000円をもって上京、ネットカフェ住まいや路上生活を送りながら書いた小説『藻屑蟹』で2018年に第1回大藪春彦新人賞を受賞して、作家デビューをしました。
以来僅か1年半で7冊の単行本を出しています。
赤松さんのその壮絶な半生と小説執筆にかける思いを伺います。
起きるのが深夜午前零時で午前1時から書き始めて、15時間超えないように書いていますが結構超えてしまいます。
その間は食事、休憩はないです。
午後4,5時に終わって食事して本を読んで、午後6,7時ぐらいに寝ます。
執筆はネットカフェで寝るのは知り合いの家で居候のように寝かせてもらっています。
新人賞を頂いた時はネット難民というか、ネットカフェに泊まるお金がない時には、路上とか公園で寝ていました。
応募したのが61歳で住まいは「住所不定」と書きました。
ネットカフェでないと書けないような気がして今は月ぎめで借りています。
『藻屑蟹』
福島を舞台に不当に扱われる除染作業員など復興関連のお金に翻弄される人間を描いたもの。
藻屑蟹というのは中華料理に出てくる上海蟹です。(清流に住む蟹)
福島で除染作業員をやっていた時に、清流が流れていてそこにカニ、ヤマメなどもいましたが、汚染されているのでみんな見向きもしませんでした。
春にはつくしも蕗も出てきますが、それも誰も取りません。
目に見えない放射線により阻害されているもの、その象徴的な存在として蟹を取り上げました。
80枚の短編で1週間で書き上げました。
『鯖』 初めての長編小説。
鯖の一本釣りの漁師が主人公で、経済的に恵まれていない漁師たちの日常を丁寧に描いている。
突然IT会社社長とビジネスパートナーの中華系美女が登場して急に話が展開する。
山本周五郎賞の候補になる。
原稿用紙650枚になりましたが、長すぎていくつか削って出版に至りました。
長編を書く自信が付きました。
4作目が『ボダ子』
自身の波乱の半生を捨て身で描いたもの。
ボダ子は娘の事です、今は境界性パーソナリティー障害です。
娘が入院していた当時は境界性人格障害でした。
境界をボーダーと呼ばれていて、ボーダーからついたあだ名がボダ子でした。
7冊を発表しているが、長編一本書き上げるのが1か月かかかるか、かからないぐらいです。
35歳で起業して20年ぐらいは裕福な生活をしていましたが、会社が破綻して文無しになって再起を図って復興バブルといわれていた宮城県へいって3年半いましたが、
もっと稼ぎたいと思って福島に移って除染作業員をして底辺を見てしまいました。
社会的弱者、貧困とかその世界に入ると若者の非正規雇用とか、目に留まるようになって今それを書きたいと思っています。
香川県で生まれて、父は植物病理学者で私が9歳の時にアメリカに呼ばれてワシントン州立大学に行って家族も行きました。
「レ・ミゼラブル」を一冊持って行って何回も読んで読書の習慣がつきました。
日本に帰ってきて中学1年生の時に太宰治と出会いまして、文庫本で出ているものはほぼ読みました。
その後三島由紀夫も全部読んで、川端康成、高校1年で谷崎潤一郎の文庫本は全部読みました。
高校2年の時に西村寿行を全部読みました。
エンタメにうつってこういう世界があるんだなと思いました。
当時小説新潮、小説現代、オール読物、問題小説、小説宝石を定期購入して読んでいました。
大学は文学部に行き、読書三昧でした。
大学4年の時には1年間で1000冊を超えました。
卒論は友達の分を含めて5人分書きました。
アルバイトで友達のものを先に書きそれは優、良とかもらいましたが、自分のものを書かく時にはネタがなくなっていて可(一番低い)でした。
百貨店にほぼ内定していたが、父とその人の消費者金融(サラキン)との関係からと周りからの勧めもあり消費者金融会社に身を置くことにしました。
すでに結婚していて奈良支店に勤務しました。
厳しいといわれる岡山支店に配属希望しました。
きつい取り立てはできませんでした。
相手の話を聞いて自分のやり方でやって翌年全国トップになって社長賞をもらいました。
岡山時代は朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、妻は不慣れな土地で友達もいず、実家に帰ってしまい離婚することになりました。
妻の父親は土地持ちだったので仕事などはせずに暮らしていました。
奈良支店長をしてその後東京本社の営業企画本部に入りました。
上場準備委員会に入ることになり、2%の取り立て未済が許されることから金を捨てる仕組みを考えろと言われて、5人のチームでやるように言われて、朝9時から翌朝の4,5時までずーっと仕事でした。
東京駅近くに東京温泉というサウナがありそこで仮眠して、会社から電話で起こされて朝9時には出社するという繰り返しで、半年続きました。
最初一人倒れすい臓を悪くして、みんな入院するような倒れ方をしました。
4人目は精神を病み、マニュアルが完成した時には私だけが残りました。
私も燃え尽きていて、家に帰ったら二人目の妻から離婚届けが置いてありました。
1週間の休暇で故郷に帰って自然の風景に接し、自分は何やっているんだと涙が出てきました。
その後会社に戻って辞表を提出しました。
ゴルフ場のグリーンキーパーの仕事を覚えていきましたが、柴管理の理論値と働いてる時間が乖離していました。
ゴルフ場の作業効率を上げるビジネスモデルを作って、特許を取って東京に舞い戻り売り込みを開始しました。
35歳から55歳まで全国のゴルフ場に展開しようと起業し順調に行きました。
社員は125人いました。
その頃3回目の結婚をして娘が心を病んで、仕事をほっぽらかして神戸で二人で2年間暮らしていました。
事業所巡回できなくなり、結果的に社員が元のゴルフ場に戻ってしまいました。
再起を図るつもりで宮城県に行きました。
肩書は営業部長でしたが、ほとんどは土木作業員で舗装工事などしていました。
血圧が高いのに熱中症予防という事で塩を取り、一遍めまいを起こして倒れました。
真冬にダンプのタイヤ洗いをして4時には日が暮れてきて、敷いた鉄板に水がまき散らされそれが凍って滑って転んだりして大変な作業でした。
その後福島に除染作業をやる職長として10人ぐらいの人を使って、水田の除染をしました。
水田の表土を5cmぐらい取って黒い袋に詰めて仮置き場に置いてゆくという作業でした。(全部で3000人ぐらいいました。)
直に作業ははしませんでしたが、難しい人たちを使わなくてはいけなかったので精神的にはきつかったです。
除染作業をやる人たちは刑務所帰りだったり、覚せい剤のフラッシュバックがあったり、全身に入れ墨が入っていたり、そういった人が多かったです。
除染作業の仕事は1年半やりました。
東京に戻ってきてその時の手持ちのお金は5000円でした。
ネットカフェでアルバイトを探しました。
60歳では仕事を探すことは厳しくてなんとか風俗店の呼び込みの仕事を得ました。
転々としながら1年間暮らしました。
墨田公園の草むらにダンボールを敷いて寝たりもしました。
このまま自分の人生を終わるのかなと思いました。
第1回大藪春彦新人賞募集というのが1週間後に迫っていて、1週間で書き上げて出しました。
いろいろ経験して貧困とかマイノリティーにも目が向けられるようになりました。
今年は8冊ぐらい出したいと思っています。
貧困、格差社会などをテーマに本を出したいです。
赤松さんは香川県出身、63歳。
大学卒業後、大手消費者金融会社に入社、激務をこなした結果燃え尽き症候群となり退社、ゴルフ場の芝生管理の仕事に就き35歳で起業。
業績は好調でしたが、心の病を患った娘と暮らす中で会社が回らなくなり、仕事も家庭も破綻しました。
2011年の東日本大震災後は東北に住み、土木作業員や除染作業員を経験、そこでも仕事に行きづまり所持金5000円をもって上京、ネットカフェ住まいや路上生活を送りながら書いた小説『藻屑蟹』で2018年に第1回大藪春彦新人賞を受賞して、作家デビューをしました。
以来僅か1年半で7冊の単行本を出しています。
赤松さんのその壮絶な半生と小説執筆にかける思いを伺います。
起きるのが深夜午前零時で午前1時から書き始めて、15時間超えないように書いていますが結構超えてしまいます。
その間は食事、休憩はないです。
午後4,5時に終わって食事して本を読んで、午後6,7時ぐらいに寝ます。
執筆はネットカフェで寝るのは知り合いの家で居候のように寝かせてもらっています。
新人賞を頂いた時はネット難民というか、ネットカフェに泊まるお金がない時には、路上とか公園で寝ていました。
応募したのが61歳で住まいは「住所不定」と書きました。
ネットカフェでないと書けないような気がして今は月ぎめで借りています。
『藻屑蟹』
福島を舞台に不当に扱われる除染作業員など復興関連のお金に翻弄される人間を描いたもの。
藻屑蟹というのは中華料理に出てくる上海蟹です。(清流に住む蟹)
福島で除染作業員をやっていた時に、清流が流れていてそこにカニ、ヤマメなどもいましたが、汚染されているのでみんな見向きもしませんでした。
春にはつくしも蕗も出てきますが、それも誰も取りません。
目に見えない放射線により阻害されているもの、その象徴的な存在として蟹を取り上げました。
80枚の短編で1週間で書き上げました。
『鯖』 初めての長編小説。
鯖の一本釣りの漁師が主人公で、経済的に恵まれていない漁師たちの日常を丁寧に描いている。
突然IT会社社長とビジネスパートナーの中華系美女が登場して急に話が展開する。
山本周五郎賞の候補になる。
原稿用紙650枚になりましたが、長すぎていくつか削って出版に至りました。
長編を書く自信が付きました。
4作目が『ボダ子』
自身の波乱の半生を捨て身で描いたもの。
ボダ子は娘の事です、今は境界性パーソナリティー障害です。
娘が入院していた当時は境界性人格障害でした。
境界をボーダーと呼ばれていて、ボーダーからついたあだ名がボダ子でした。
7冊を発表しているが、長編一本書き上げるのが1か月かかかるか、かからないぐらいです。
35歳で起業して20年ぐらいは裕福な生活をしていましたが、会社が破綻して文無しになって再起を図って復興バブルといわれていた宮城県へいって3年半いましたが、
もっと稼ぎたいと思って福島に移って除染作業員をして底辺を見てしまいました。
社会的弱者、貧困とかその世界に入ると若者の非正規雇用とか、目に留まるようになって今それを書きたいと思っています。
香川県で生まれて、父は植物病理学者で私が9歳の時にアメリカに呼ばれてワシントン州立大学に行って家族も行きました。
「レ・ミゼラブル」を一冊持って行って何回も読んで読書の習慣がつきました。
日本に帰ってきて中学1年生の時に太宰治と出会いまして、文庫本で出ているものはほぼ読みました。
その後三島由紀夫も全部読んで、川端康成、高校1年で谷崎潤一郎の文庫本は全部読みました。
高校2年の時に西村寿行を全部読みました。
エンタメにうつってこういう世界があるんだなと思いました。
当時小説新潮、小説現代、オール読物、問題小説、小説宝石を定期購入して読んでいました。
大学は文学部に行き、読書三昧でした。
大学4年の時には1年間で1000冊を超えました。
卒論は友達の分を含めて5人分書きました。
アルバイトで友達のものを先に書きそれは優、良とかもらいましたが、自分のものを書かく時にはネタがなくなっていて可(一番低い)でした。
百貨店にほぼ内定していたが、父とその人の消費者金融(サラキン)との関係からと周りからの勧めもあり消費者金融会社に身を置くことにしました。
すでに結婚していて奈良支店に勤務しました。
厳しいといわれる岡山支店に配属希望しました。
きつい取り立てはできませんでした。
相手の話を聞いて自分のやり方でやって翌年全国トップになって社長賞をもらいました。
岡山時代は朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、妻は不慣れな土地で友達もいず、実家に帰ってしまい離婚することになりました。
妻の父親は土地持ちだったので仕事などはせずに暮らしていました。
奈良支店長をしてその後東京本社の営業企画本部に入りました。
上場準備委員会に入ることになり、2%の取り立て未済が許されることから金を捨てる仕組みを考えろと言われて、5人のチームでやるように言われて、朝9時から翌朝の4,5時までずーっと仕事でした。
東京駅近くに東京温泉というサウナがありそこで仮眠して、会社から電話で起こされて朝9時には出社するという繰り返しで、半年続きました。
最初一人倒れすい臓を悪くして、みんな入院するような倒れ方をしました。
4人目は精神を病み、マニュアルが完成した時には私だけが残りました。
私も燃え尽きていて、家に帰ったら二人目の妻から離婚届けが置いてありました。
1週間の休暇で故郷に帰って自然の風景に接し、自分は何やっているんだと涙が出てきました。
その後会社に戻って辞表を提出しました。
ゴルフ場のグリーンキーパーの仕事を覚えていきましたが、柴管理の理論値と働いてる時間が乖離していました。
ゴルフ場の作業効率を上げるビジネスモデルを作って、特許を取って東京に舞い戻り売り込みを開始しました。
35歳から55歳まで全国のゴルフ場に展開しようと起業し順調に行きました。
社員は125人いました。
その頃3回目の結婚をして娘が心を病んで、仕事をほっぽらかして神戸で二人で2年間暮らしていました。
事業所巡回できなくなり、結果的に社員が元のゴルフ場に戻ってしまいました。
再起を図るつもりで宮城県に行きました。
肩書は営業部長でしたが、ほとんどは土木作業員で舗装工事などしていました。
血圧が高いのに熱中症予防という事で塩を取り、一遍めまいを起こして倒れました。
真冬にダンプのタイヤ洗いをして4時には日が暮れてきて、敷いた鉄板に水がまき散らされそれが凍って滑って転んだりして大変な作業でした。
その後福島に除染作業をやる職長として10人ぐらいの人を使って、水田の除染をしました。
水田の表土を5cmぐらい取って黒い袋に詰めて仮置き場に置いてゆくという作業でした。(全部で3000人ぐらいいました。)
直に作業ははしませんでしたが、難しい人たちを使わなくてはいけなかったので精神的にはきつかったです。
除染作業をやる人たちは刑務所帰りだったり、覚せい剤のフラッシュバックがあったり、全身に入れ墨が入っていたり、そういった人が多かったです。
除染作業の仕事は1年半やりました。
東京に戻ってきてその時の手持ちのお金は5000円でした。
ネットカフェでアルバイトを探しました。
60歳では仕事を探すことは厳しくてなんとか風俗店の呼び込みの仕事を得ました。
転々としながら1年間暮らしました。
墨田公園の草むらにダンボールを敷いて寝たりもしました。
このまま自分の人生を終わるのかなと思いました。
第1回大藪春彦新人賞募集というのが1週間後に迫っていて、1週間で書き上げて出しました。
いろいろ経験して貧困とかマイノリティーにも目が向けられるようになりました。
今年は8冊ぐらい出したいと思っています。
貧困、格差社会などをテーマに本を出したいです。
2020年1月7日火曜日
大棟耕介(NPO法人理事長) ・病室に笑顔を!ホスピタル・クラウンの25年
大棟耕介(NPO法人理事長) ・病室に笑顔を!ホスピタル・クラウンの25年
大棟さんは愛知県出身50歳、中学、高校で記録を作った棒高跳びの選手として、オリンピック出場を目指し筑波大学に進学しましたが断念、地元の名古屋の会社に就職しました。
ここから大棟さんのクラウン(道化師)と子どもの病室に癒しを届けるホスピタル・クラウンの活動が始まります。
現在は全国にいる150人余りの仲間と、ホスピタル・クラウンの心とスキルを磨くリーダーとして飛び回り、ゆくゆくはクラウン活動を日本の文化にしたいという夢も持っています。
忙しくやっています。
本業は道化師です。
ホスピタル・クラウンは協会を立ち上げてから15年ぐらい経ちますが、始めたころは4,5人の仲間と一つの病院から始めて、北海道から沖縄まで96病院まで広がりました。
150人近くの仲間と活動をしています。
講演会も年間100回近くこなしています。
企業が多いですが、学校でも行っています。
クラウンは相手を主役にしてゆくので、コミュニケーションにおいて相手を主役にしてゆく、笑いを含んでいるという事が大事だと思っているので、企業の受けはいいです。
サーカスでもお客さんが心地いい空間を作ってゆく事が非常に得意なので、主役が際立つようにする、これがクラウンの魅力だと思っています。
引き出しを多く持つ必要があるのでいろいろ経験が必要です。
ホスピタル・クラウンは病院に子どもさんを訪ねて楽しませるという風な活動をしています。
定期的に病室まで入り込んで一人、二人に対してパーフォーマンスしてゆくという事がベースのスタイルになっています。
闘病中の子どもたちを主役にしてあげることで、子供らしさを取り戻してゆく事が手に取るようにわかります。
事前にこれから楽しいことをするんだと理解してもらって、程よい距離感を持ちながらパーフォーマンスしてゆきます。
医療現場なので医療行為の邪魔にならないようにパーフォーマンスしています。
日常をちょっとだけ変えるスパイスだと思っています。
パフォーマンスは10分程度です。
彼らは我々が思っているよりも体力がないので短めにしています。
長期療養の中で子どもたちは自分の笑顔に蓋をしてしまっていて、我々が行くことによって彼ら自身が自分の蓋を開けるきっかけを作っていると言っているんです。
バルーンはコミュニケーションツールになっていて、仲良くなるなる道具の一つとして考えています。
失語症の子どもがしゃべれるようになったとか、動かなかった腕が動いたとか、病気が好転していったという経験もありますが、反対側のことも言わないと正しい情報ではないと思いますので、亡くなるお子さんもいますし、我々がどうにもできない状況もいっぱいありますが、ぼつぼつこつこつ淡々と続けてゆく事が大事だと思っています。
中学、高校、大学と棒高跳びをやっていました。
オリンピックを目指しましたが、当時の日本記録保持者と一緒に練習した時に、素質等の差に驚いて棒高跳びをあきらめました。
何に対してがんばったらいいのか、もがきました。
名古屋に帰って大手の鉄道会社に入りました。
自分は面白くない人間だと思っていて、自分を楽しい人間に替えたいと思っていたところにクラウン講座があって出会う事になりました。
会社にこのまま勤めてゆく事ができるのかなあと思って会社を辞めることになりました。
食べるためにクラウンの道に入りました。
技術を身に付けるのは早かったが、自分の「クラウンK」としてのキャラクターを作り上げることがとても時間が掛かり、7,8年経って仲間と活動してゆく事によって徐々にキャラクターができてきたと思います。
ホスピタル・クラウンのパッチアダムスと出会う事になります。
彼は身長も高くちょっと見は怖いんですが、心が純粋で優しくて尊敬出来る方です。
彼は医師ですが、医療行為よりも平和主義者なので戦争をなくしたいとか世界平和のツールとしてホスピタル・クラウンを選んで今も精力的に活動しています。
4年間毎年20日間近くモスクワなどを彼と一緒に回りました。
彼は目の前にいる子どもを一人だけ1時間抱きしめていて、自分としては周りにも子どもがいるのになぜかと思いその時には不快感がありました。
子どもにとってはあとさき1時間ハグしてくれるという事はないと思います。
彼は子どもの状況を感じ取って今この子にできる最大限のことをしたと思って居るんです。
僕とは対極で彼がクラウンだと僕が認めることで僕のクラウンの幅が広がると思いました。
そういった心が僕にはないかと言えばそうではないです。
クラウンの文化はヨーロッパで生まれましたが、ホスピタル・クラウンはアメリカで生まれてヨーロッパに逆輸入されて、世界中に広がっています。
世界のホスピタル・クラウンの事務局長をやっています。
アジアパシフィックと日本なのでこれらの活動の啓蒙をやっています。
クラウンの分野で2003年に銀、2008年に金メダルを、2011年には主役として模範演技をする役目を頂き、最近は審査をする方になりました。
こういった活動を増やしていきたいと思っていますが、倍ぐらいの規模にしたいと思っています。
切磋琢磨してみんなでよりいいクラウンになり、より沢山の人を喜ばせようという文化は生まれてきているので、これを大事にしていきたいと思います。
東日本大震災の被災地に行って9年経って延べ700か所近くになります。
仮設テントを作って応援しています。
ほかにも熊本地震、九州北部集中豪雨、西日本集中豪雨、北海道の地震の地域も回ってパフォーマンスしてきました。
助成金、寄付などを使ってやってきています。
被災地では笑いも優先順位は高いと思っています。
クラウン文化を広げるという事は、日本を明るく元気にすることができると思っています。
大棟さんは愛知県出身50歳、中学、高校で記録を作った棒高跳びの選手として、オリンピック出場を目指し筑波大学に進学しましたが断念、地元の名古屋の会社に就職しました。
ここから大棟さんのクラウン(道化師)と子どもの病室に癒しを届けるホスピタル・クラウンの活動が始まります。
現在は全国にいる150人余りの仲間と、ホスピタル・クラウンの心とスキルを磨くリーダーとして飛び回り、ゆくゆくはクラウン活動を日本の文化にしたいという夢も持っています。
忙しくやっています。
本業は道化師です。
ホスピタル・クラウンは協会を立ち上げてから15年ぐらい経ちますが、始めたころは4,5人の仲間と一つの病院から始めて、北海道から沖縄まで96病院まで広がりました。
150人近くの仲間と活動をしています。
講演会も年間100回近くこなしています。
企業が多いですが、学校でも行っています。
クラウンは相手を主役にしてゆくので、コミュニケーションにおいて相手を主役にしてゆく、笑いを含んでいるという事が大事だと思っているので、企業の受けはいいです。
サーカスでもお客さんが心地いい空間を作ってゆく事が非常に得意なので、主役が際立つようにする、これがクラウンの魅力だと思っています。
引き出しを多く持つ必要があるのでいろいろ経験が必要です。
ホスピタル・クラウンは病院に子どもさんを訪ねて楽しませるという風な活動をしています。
定期的に病室まで入り込んで一人、二人に対してパーフォーマンスしてゆくという事がベースのスタイルになっています。
闘病中の子どもたちを主役にしてあげることで、子供らしさを取り戻してゆく事が手に取るようにわかります。
事前にこれから楽しいことをするんだと理解してもらって、程よい距離感を持ちながらパーフォーマンスしてゆきます。
医療現場なので医療行為の邪魔にならないようにパーフォーマンスしています。
日常をちょっとだけ変えるスパイスだと思っています。
パフォーマンスは10分程度です。
彼らは我々が思っているよりも体力がないので短めにしています。
長期療養の中で子どもたちは自分の笑顔に蓋をしてしまっていて、我々が行くことによって彼ら自身が自分の蓋を開けるきっかけを作っていると言っているんです。
バルーンはコミュニケーションツールになっていて、仲良くなるなる道具の一つとして考えています。
失語症の子どもがしゃべれるようになったとか、動かなかった腕が動いたとか、病気が好転していったという経験もありますが、反対側のことも言わないと正しい情報ではないと思いますので、亡くなるお子さんもいますし、我々がどうにもできない状況もいっぱいありますが、ぼつぼつこつこつ淡々と続けてゆく事が大事だと思っています。
中学、高校、大学と棒高跳びをやっていました。
オリンピックを目指しましたが、当時の日本記録保持者と一緒に練習した時に、素質等の差に驚いて棒高跳びをあきらめました。
何に対してがんばったらいいのか、もがきました。
名古屋に帰って大手の鉄道会社に入りました。
自分は面白くない人間だと思っていて、自分を楽しい人間に替えたいと思っていたところにクラウン講座があって出会う事になりました。
会社にこのまま勤めてゆく事ができるのかなあと思って会社を辞めることになりました。
食べるためにクラウンの道に入りました。
技術を身に付けるのは早かったが、自分の「クラウンK」としてのキャラクターを作り上げることがとても時間が掛かり、7,8年経って仲間と活動してゆく事によって徐々にキャラクターができてきたと思います。
ホスピタル・クラウンのパッチアダムスと出会う事になります。
彼は身長も高くちょっと見は怖いんですが、心が純粋で優しくて尊敬出来る方です。
彼は医師ですが、医療行為よりも平和主義者なので戦争をなくしたいとか世界平和のツールとしてホスピタル・クラウンを選んで今も精力的に活動しています。
4年間毎年20日間近くモスクワなどを彼と一緒に回りました。
彼は目の前にいる子どもを一人だけ1時間抱きしめていて、自分としては周りにも子どもがいるのになぜかと思いその時には不快感がありました。
子どもにとってはあとさき1時間ハグしてくれるという事はないと思います。
彼は子どもの状況を感じ取って今この子にできる最大限のことをしたと思って居るんです。
僕とは対極で彼がクラウンだと僕が認めることで僕のクラウンの幅が広がると思いました。
そういった心が僕にはないかと言えばそうではないです。
クラウンの文化はヨーロッパで生まれましたが、ホスピタル・クラウンはアメリカで生まれてヨーロッパに逆輸入されて、世界中に広がっています。
世界のホスピタル・クラウンの事務局長をやっています。
アジアパシフィックと日本なのでこれらの活動の啓蒙をやっています。
クラウンの分野で2003年に銀、2008年に金メダルを、2011年には主役として模範演技をする役目を頂き、最近は審査をする方になりました。
こういった活動を増やしていきたいと思っていますが、倍ぐらいの規模にしたいと思っています。
切磋琢磨してみんなでよりいいクラウンになり、より沢山の人を喜ばせようという文化は生まれてきているので、これを大事にしていきたいと思います。
東日本大震災の被災地に行って9年経って延べ700か所近くになります。
仮設テントを作って応援しています。
ほかにも熊本地震、九州北部集中豪雨、西日本集中豪雨、北海道の地震の地域も回ってパフォーマンスしてきました。
助成金、寄付などを使ってやってきています。
被災地では笑いも優先順位は高いと思っています。
クラウン文化を広げるという事は、日本を明るく元気にすることができると思っています。
2020年1月6日月曜日
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
小島:新年の0時になるときには我が家では必ずベランダに出て月に祈る儀式が決まっていて、家族4人でそれぞれお祈りします。
小島選 万葉集から市原王(いちはらのおほきみ)
「一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも」
小島:市原王(いちはらのおほきみ)が大伴家持と仲間たちが新年の宴を開こうという事になって丘に登って行って、老いた松がたっている。
「一本松よ、あなたはどれほどの時代を経たのであろう。梢をわたって吹く風の音がこれほど清らかなのは、あなたが遥か遠い昔から齢を重ねて来たからなのであろう。」という感慨を詠った歌です。
年を経たものに対する敬意と新しい年を祝う心がこの歌にあるのではないかと思います。
穂村選 石川啄木の歌
「過ぎゆける一年のつかれ出しものか元日といふにうとうと眠し」
穂村:私は会社に行っているころに無理をして年の暮れから新年にかけて必ず体調を崩していました。
本来なら特別な時間なのにうとうと眠い、ここに惹かれました。
小島:現代人は啄木かなあと思います。
穂村:お正月の特別感がどんどん減っています。
穂村選 第二歌集「サリンジャーは死んでしまった」(小島なお)から
「 いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三 月」 作:小島
穂村:どきっとするような歌ですが、作者と妹が何歳違うのかによって、見え方が全然違ってくると思います。
70,80代の姉妹であればとてもリアルな日常の歌になるが、この場合は若くてふと心の中に思い浮かべる瞬間があって、日常ではなく哲学ですね。
一種の青春歌だと思いました。
(「サリンジャーは死んでしまった」は20歳から24歳までの作品が収まっている。)
小島:妹が2歳年下です。
生まれる順番は私が姉として一生を生き続けるなければならないが、死ぬ順番は決まっていないと思って、2歳差はどちらが先になるかわからない。
死というのは、凄く遠いような気がするが、意外とすぐそばにあるような瞬間があり、妹と一緒にいる時にふっと浮かんでくる、そんなことを思ったことがありました。
小島選 「水中翼船炎上中」から 作:穂村
「サランラップにくるまれたちちははがきらきらきらきらセックスをする」
小島:「水中翼船炎上中」では両親のことが主題になっていて、その中の一首ですが、解釈が難しい歌ですが、サランラップはものをラップすることで新鮮なままであり続けるというとても画期的な商品だったと思いますが、自分の両親がセックスするという事は子どもにとっては絶望的な場面だと思いますが、でもその行為があったからこそ自分がここにいるわけで、その不思議、そして今父母は老いてしまっている。
時間のとりとめのなさがサランラップでラップすることによって、永久保存されている様な切なさというものがあるのかなあと思って、最初読んだ時にはショックでしたが段々読んでいるうちに涙ぐんでしまう歌だと思いました。
穂村:セックスどころか日常生活も困難な老夫婦で、このまま時間が進むと二人はいなくなってしまうだろうと、その時間を止めることはできないが、サランラップは少し時間を止めてくれる。
二人の時間を保護するようなイメージです。
母は死んでしまいましたが。
穂村選
「きみとの恋終わりプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる」 作:小島
ユニークな歌だと思います。
十メートル地点というデジタル感が妙に新鮮な感じがします。
小島選
「舌の裏に置いたり脇に挟んだり肛門に挿したりのミサイル 」 作:穂村
小島:好きな歌ですが説明しろと言われると難しい。
舌の裏に置くというのは錠剤を思わせて、脇に挟むというのは体温計、肛門に挿したりは座薬とかを思わせて、でもそうではなくてミサイルだという風に結句で言っている。
ミサイルは何十年も前よりも今の方がずーっと我々の生活のすぐそばにあるような感覚があり、鋭く構え過ぎずにとらえた歌だと思いました。
穂村:ミサイルはある時まではTVや本の中でしたが、急に現実にいつ飛んできてもおかしくないという風に日々いわれるようになって感覚が変わって身近な感覚になった。
体温計のイメージで書いています。
ミサイルが急に現実に近くなったこととくっつけて歌っています。
穂村選
「無人なるエレベーターの開くとき誰のものでもない光あり」 作:小島
穂村:誰のものでもない光あり、現実の用途とは違う哲学のようなものが出現するような気がします。
小島:誰かのものになってしまうとか、何か目的を持ったものになってしまうと、本当ではなくなってしまうようなものが自分の中にあり、数秒間だけは聖なる空間のような気がしたなあと思いました。
小島選
「 スカートをまくって波のなか に立ち「ふるいことばでいえばたましい」」 作:穂村
小島:「ふるいことばでいえばたましい」を今の言葉でいえば何なんだろうなあと思って、彼女も頭の中の彼女ですか?
穂村:これはちゃんと耳に聞いた言葉で、言ったのは女性ではなくて高野公彦さんで小島さんの先生です。
あるパーティーで高野さんの話の中で出てきた言葉で面白いなあと思いました。
穂村選
「夢で恋をしてたと母に告白をされし朝に飛び交う黄砂」 作:小島
穂村:家族のスケッチですが、とても意外な切り口があって魅力があるなあと思います。
小島:母はTVでのスポーツ観戦が好きで、お気に入りの選手がいたりして、夢に訪れてきたりして、母も若返っていてリアルな会話をしては端端まで伝えてきてへーっと思いました。
リスナー(水野雅弘?さん)からの作品
「また一羽出てくる鳥を千羽まで数えて空の裂け目が閉じる」
穂村:心の中の風景だけれども生々しい思いがここにはあるような感じがします。
小島:作者の祈りとか心の投影が空に見えたという様な読み方をしても面白いのかなあと不思議な歌です。
*短歌の文字が違っているところがあるかもしれません。
小島:新年の0時になるときには我が家では必ずベランダに出て月に祈る儀式が決まっていて、家族4人でそれぞれお祈りします。
小島選 万葉集から市原王(いちはらのおほきみ)
「一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも」
小島:市原王(いちはらのおほきみ)が大伴家持と仲間たちが新年の宴を開こうという事になって丘に登って行って、老いた松がたっている。
「一本松よ、あなたはどれほどの時代を経たのであろう。梢をわたって吹く風の音がこれほど清らかなのは、あなたが遥か遠い昔から齢を重ねて来たからなのであろう。」という感慨を詠った歌です。
年を経たものに対する敬意と新しい年を祝う心がこの歌にあるのではないかと思います。
穂村選 石川啄木の歌
「過ぎゆける一年のつかれ出しものか元日といふにうとうと眠し」
穂村:私は会社に行っているころに無理をして年の暮れから新年にかけて必ず体調を崩していました。
本来なら特別な時間なのにうとうと眠い、ここに惹かれました。
小島:現代人は啄木かなあと思います。
穂村:お正月の特別感がどんどん減っています。
穂村選 第二歌集「サリンジャーは死んでしまった」(小島なお)から
「 いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三 月」 作:小島
穂村:どきっとするような歌ですが、作者と妹が何歳違うのかによって、見え方が全然違ってくると思います。
70,80代の姉妹であればとてもリアルな日常の歌になるが、この場合は若くてふと心の中に思い浮かべる瞬間があって、日常ではなく哲学ですね。
一種の青春歌だと思いました。
(「サリンジャーは死んでしまった」は20歳から24歳までの作品が収まっている。)
小島:妹が2歳年下です。
生まれる順番は私が姉として一生を生き続けるなければならないが、死ぬ順番は決まっていないと思って、2歳差はどちらが先になるかわからない。
死というのは、凄く遠いような気がするが、意外とすぐそばにあるような瞬間があり、妹と一緒にいる時にふっと浮かんでくる、そんなことを思ったことがありました。
小島選 「水中翼船炎上中」から 作:穂村
「サランラップにくるまれたちちははがきらきらきらきらセックスをする」
小島:「水中翼船炎上中」では両親のことが主題になっていて、その中の一首ですが、解釈が難しい歌ですが、サランラップはものをラップすることで新鮮なままであり続けるというとても画期的な商品だったと思いますが、自分の両親がセックスするという事は子どもにとっては絶望的な場面だと思いますが、でもその行為があったからこそ自分がここにいるわけで、その不思議、そして今父母は老いてしまっている。
時間のとりとめのなさがサランラップでラップすることによって、永久保存されている様な切なさというものがあるのかなあと思って、最初読んだ時にはショックでしたが段々読んでいるうちに涙ぐんでしまう歌だと思いました。
穂村:セックスどころか日常生活も困難な老夫婦で、このまま時間が進むと二人はいなくなってしまうだろうと、その時間を止めることはできないが、サランラップは少し時間を止めてくれる。
二人の時間を保護するようなイメージです。
母は死んでしまいましたが。
穂村選
「きみとの恋終わりプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる」 作:小島
ユニークな歌だと思います。
十メートル地点というデジタル感が妙に新鮮な感じがします。
小島選
「舌の裏に置いたり脇に挟んだり肛門に挿したりのミサイル 」 作:穂村
小島:好きな歌ですが説明しろと言われると難しい。
舌の裏に置くというのは錠剤を思わせて、脇に挟むというのは体温計、肛門に挿したりは座薬とかを思わせて、でもそうではなくてミサイルだという風に結句で言っている。
ミサイルは何十年も前よりも今の方がずーっと我々の生活のすぐそばにあるような感覚があり、鋭く構え過ぎずにとらえた歌だと思いました。
穂村:ミサイルはある時まではTVや本の中でしたが、急に現実にいつ飛んできてもおかしくないという風に日々いわれるようになって感覚が変わって身近な感覚になった。
体温計のイメージで書いています。
ミサイルが急に現実に近くなったこととくっつけて歌っています。
穂村選
「無人なるエレベーターの開くとき誰のものでもない光あり」 作:小島
穂村:誰のものでもない光あり、現実の用途とは違う哲学のようなものが出現するような気がします。
小島:誰かのものになってしまうとか、何か目的を持ったものになってしまうと、本当ではなくなってしまうようなものが自分の中にあり、数秒間だけは聖なる空間のような気がしたなあと思いました。
小島選
「 スカートをまくって波のなか に立ち「ふるいことばでいえばたましい」」 作:穂村
小島:「ふるいことばでいえばたましい」を今の言葉でいえば何なんだろうなあと思って、彼女も頭の中の彼女ですか?
穂村:これはちゃんと耳に聞いた言葉で、言ったのは女性ではなくて高野公彦さんで小島さんの先生です。
あるパーティーで高野さんの話の中で出てきた言葉で面白いなあと思いました。
穂村選
「夢で恋をしてたと母に告白をされし朝に飛び交う黄砂」 作:小島
穂村:家族のスケッチですが、とても意外な切り口があって魅力があるなあと思います。
小島:母はTVでのスポーツ観戦が好きで、お気に入りの選手がいたりして、夢に訪れてきたりして、母も若返っていてリアルな会話をしては端端まで伝えてきてへーっと思いました。
リスナー(水野雅弘?さん)からの作品
「また一羽出てくる鳥を千羽まで数えて空の裂け目が閉じる」
穂村:心の中の風景だけれども生々しい思いがここにはあるような感じがします。
小島:作者の祈りとか心の投影が空に見えたという様な読み方をしても面白いのかなあと不思議な歌です。
*短歌の文字が違っているところがあるかもしれません。
2020年1月5日日曜日
眞理ヨシコ(歌手) ・【時代を創った声】
眞理ヨシコ(歌手) ・【時代を創った声】
眞理さんはNHK歌の絵本の初代うたのおねえさん、その後「お母さんと一緒」にも長年レギュラーとしてご出演いただきました。
現在も童謡の良さを伝えるために全国各地でコンサートを開かれている眞理さんに伺いました。
60周年記念コンサートが行われました。
子どもたちのあり方、音楽自身も相当変わってしまいました。
昔の日本の子どもの歌から比べるとリズム感、音の範囲も変わりました。
両親が歌が好きで家の中にはいつも歌がありました。
戦争で田舎に疎開していたので、楽器もなく歌を歌う事だけでした。
両親と一緒に歌っていい雰囲気を忘れてはいません。
小学校の先生が「花のまわりで」という曲を作曲した大津三郎先生だったんです。
楽しい方法で歌を教えてくださった、いつの間にかNHKの子どものラジオの番組でお話したり歌を歌ったりする仕事を頂くことになりました。
後から考えるとオーディションだったようです。
内幸町のNHKホールでの第一回のNHKの紅白歌合戦を両親と聞いています。
かずおの音楽ノートとい番組でいろいろ著名な音楽家がスタジオに来ていろいろ演奏、歌を披露していました。
超一流の音楽を聴いてあのような人になってみたいと思いました。
中学の頃からピアノ、楽典のことを勉強するようになり、高校に入るときに 芸術高校があるというのが東京都立駒場高校でした。
専門的なことを教えていただきました。
東京芸大に進学しました。
ミュージカルが日本にも来てこういう道もあるのかと思いました。
ダンスとかも勉強しました。
シャンソンを一生懸命歌うようになり、深緑夏代さんににシャンソンの指導を受けました。
NHKの歌のオーディションを受けるように言われて「歌の広場」という番組のオーディションを受けました。
昭和36年のニューボイスになりました。(芸大2年生)
新番組「うたのえほん」のオーディションを受けて初代うたのおねえさんに就任しました。
幼児向けの番組でしたので、違う世界に入ったなあと感じました。
芸大では外国語の歌は勉強しましたが、日本歌謡学科というようなものはなく、日本語をちゃんと歌うのが難しかったです。
大学ではミュージカル、オペラなどを習っていたので童謡歌手だけになりたいとは思っていませんでした。
童謡はものすごく深いもので片手間にはできないという事を段々学んでいきました。
ほかの番組にも出るようになって、一番基本になっているのは「うたのえほん」で学んだことだと段々判ってきました。
童謡も素晴らしいものだとどんどんのめりこんでゆくんですね。
1962年に童謡「おもちゃのチャチャチャ」が1ヶ月で4万枚のレコードを売り上げるなどヒットし、第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞する。
*「おもちゃのチャチャチャ」作詞:野坂昭如 作曲:越部信義
その後外の仕事も増えまして、TVカメラに向かって歌っていたのが、舞台で歌うようになって、観客がいっしょになってチャチャチャと歌ってくれたりして、大変なことになったと吃驚しました。
『笛吹童子』、『紅孔雀』、人形劇『プリンプリン物語』などにも出演するようになりました。
『笛吹童子』、『紅孔雀』はラジオで聞いていたのでイメージはありましたので、吹き替えは面白かったです。
『プリンプリン物語』ではヘドロという一番悪い役をやって、誰も私がやっていることが判らずそれが面白かったです。
声の演技上の間が難しかったです。
子どもと一緒に歌う事と大人と一緒に歌う童謡とは違います。
おととしが童謡が誕生して100年になります。
両親が大正の初めに生まれた人達なので童謡が動き始めたころに幼児期を迎えて、大正黄金時代を子ども時代を過ごしたので、私が生まれたころに全部私に与えてくれました。
*里の秋 作詞:斎藤信夫、作曲:海沼實
言葉に意味の深さが童謡にはあると思います。
歌う時にはそれを大事にしないといけないと思います。
若い人に対しては、歌、歌手、声優は自分の持っている声帯を使って自分の声で勝負をしますが、声音ためにあまり訓練をしないのではないかと思います。
自分の声をまず知ることと大事にする事です。
それをどいう風に使ってゆくかは自分で研究しないといけないと思います。
眞理さんはNHK歌の絵本の初代うたのおねえさん、その後「お母さんと一緒」にも長年レギュラーとしてご出演いただきました。
現在も童謡の良さを伝えるために全国各地でコンサートを開かれている眞理さんに伺いました。
60周年記念コンサートが行われました。
子どもたちのあり方、音楽自身も相当変わってしまいました。
昔の日本の子どもの歌から比べるとリズム感、音の範囲も変わりました。
両親が歌が好きで家の中にはいつも歌がありました。
戦争で田舎に疎開していたので、楽器もなく歌を歌う事だけでした。
両親と一緒に歌っていい雰囲気を忘れてはいません。
小学校の先生が「花のまわりで」という曲を作曲した大津三郎先生だったんです。
楽しい方法で歌を教えてくださった、いつの間にかNHKの子どものラジオの番組でお話したり歌を歌ったりする仕事を頂くことになりました。
後から考えるとオーディションだったようです。
内幸町のNHKホールでの第一回のNHKの紅白歌合戦を両親と聞いています。
かずおの音楽ノートとい番組でいろいろ著名な音楽家がスタジオに来ていろいろ演奏、歌を披露していました。
超一流の音楽を聴いてあのような人になってみたいと思いました。
中学の頃からピアノ、楽典のことを勉強するようになり、高校に入るときに 芸術高校があるというのが東京都立駒場高校でした。
専門的なことを教えていただきました。
東京芸大に進学しました。
ミュージカルが日本にも来てこういう道もあるのかと思いました。
ダンスとかも勉強しました。
シャンソンを一生懸命歌うようになり、深緑夏代さんににシャンソンの指導を受けました。
NHKの歌のオーディションを受けるように言われて「歌の広場」という番組のオーディションを受けました。
昭和36年のニューボイスになりました。(芸大2年生)
新番組「うたのえほん」のオーディションを受けて初代うたのおねえさんに就任しました。
幼児向けの番組でしたので、違う世界に入ったなあと感じました。
芸大では外国語の歌は勉強しましたが、日本歌謡学科というようなものはなく、日本語をちゃんと歌うのが難しかったです。
大学ではミュージカル、オペラなどを習っていたので童謡歌手だけになりたいとは思っていませんでした。
童謡はものすごく深いもので片手間にはできないという事を段々学んでいきました。
ほかの番組にも出るようになって、一番基本になっているのは「うたのえほん」で学んだことだと段々判ってきました。
童謡も素晴らしいものだとどんどんのめりこんでゆくんですね。
1962年に童謡「おもちゃのチャチャチャ」が1ヶ月で4万枚のレコードを売り上げるなどヒットし、第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞する。
*「おもちゃのチャチャチャ」作詞:野坂昭如 作曲:越部信義
その後外の仕事も増えまして、TVカメラに向かって歌っていたのが、舞台で歌うようになって、観客がいっしょになってチャチャチャと歌ってくれたりして、大変なことになったと吃驚しました。
『笛吹童子』、『紅孔雀』、人形劇『プリンプリン物語』などにも出演するようになりました。
『笛吹童子』、『紅孔雀』はラジオで聞いていたのでイメージはありましたので、吹き替えは面白かったです。
『プリンプリン物語』ではヘドロという一番悪い役をやって、誰も私がやっていることが判らずそれが面白かったです。
声の演技上の間が難しかったです。
子どもと一緒に歌う事と大人と一緒に歌う童謡とは違います。
おととしが童謡が誕生して100年になります。
両親が大正の初めに生まれた人達なので童謡が動き始めたころに幼児期を迎えて、大正黄金時代を子ども時代を過ごしたので、私が生まれたころに全部私に与えてくれました。
*里の秋 作詞:斎藤信夫、作曲:海沼實
言葉に意味の深さが童謡にはあると思います。
歌う時にはそれを大事にしないといけないと思います。
若い人に対しては、歌、歌手、声優は自分の持っている声帯を使って自分の声で勝負をしますが、声音ためにあまり訓練をしないのではないかと思います。
自分の声をまず知ることと大事にする事です。
それをどいう風に使ってゆくかは自分で研究しないといけないと思います。
2020年1月4日土曜日
片岡秀太郎(歌舞伎俳優 人間国宝) ・上方歌舞伎を守る
片岡秀太郎(歌舞伎俳優 人間国宝) ・上方歌舞伎を守る
片岡秀太郎さんは昭和16年後に人間国宝になった13代目片岡仁左衛門の次男として大阪で生まれました。
以来、ずーっと関西に住み続け上方の香りをまとう女形として活躍、父の意志を継いで一時期衰退した上方歌舞伎を復興させるため力を尽くしてきました。
兄は片岡我當さん弟は人間国宝の15代目片岡仁左衛門さんで3兄弟で日本の歌舞伎を支えています。
ファンやご贔屓筋から贈られた胡蝶蘭の花に囲まれた楽屋で伺いました。
人間国宝になっても自然体でやっています。
顔見世の出演が前人未到の70回目となりました。
70回目は武田信玄の軍師山本勘助の母親越路を演じる。
いつもの柔らかい女形とは違って厳しい老女役でした。
優しいところもあり厳しく演じるところもあり難しい役です。
歌舞伎の時代ものでは涙を流さないのが鉄則ですが。
昭和25年9歳の時に子役として初出演しましたが、周りは東京の人で関西弁はなく苦労しました。
凄くプレッシャーがあり初舞台で吐いてしまい、周りが上手く隠してくれました。
歌舞伎はもうできないと覚悟しましたが、3代目中村時蔵の奥さんの小川ひなさんが走ってきて抱きしめて「頑張ったね 偉かったね」と言ってくれてわーっと泣いてしまいました。
二日目からはちゃんとやっていました。
兄弟では私が一番やんちゃで兄は優等生で学校で級長などをしていました。
小さい時から父親を見ていたので父親のような男役の役者になりたかったが、子役ができなくなって大人の役をするときにまず女形をするんですが、そのうちに意に反して女形の道に進むことになってしまいました。
まんざら女形も悪くないと思うようになりました。
昭和20年に家が焼かれてしまい京都で借家住まいをしてその時に初舞台を踏みました。
小さな家に12人が住んでいました。
夜遅くに父が帰ってきてからいろいろ教えてもらいました。
手の動かし方、息つかい、声の出し方 声の続け方など。
義太夫の稽古も子どものころからやりました。
昭和31年に二代目片岡秀太郎を襲名しました。
関西ではお客さんが減ってきて役者も映画に行ってしまったりして減ってきました。
父は江戸歌舞伎も好きでしたが上方も頑張らないといけないという事で、京都に居を構えて東京にはいかないでおこうという事になりました。
私も父の意志を継ぐことにしました。
関西歌舞伎が低迷していた時に父が中心になって昭和37年に自主公演、仁左衛門歌舞伎を旗揚げをしました。
みんな芝居したい人たちでしたが、お客さんは来ませんよと言われたが、別荘を処分すれば何とかなるだろうという事で、自主公演をすることにしました。
周りにも応援を依頼して、裏千家さんとか、松下幸之助さん(松下電器創業者)とか、早川徳次さん(シャープ創業者)とかに声をかけて応援してもらいました。
凄い行列ができてみんな泣きました。
超満員の中で舞台を終えて、役者さんも喜んで、赤字覚悟だったのがもうかってしまって、関係者にお渡しすることができました。
プロデュースしたのは母と姉でした。
あの時の興奮は忘れないです。
仁左衛門歌舞伎は5年続きました。
「褒められて追っついてよくなるのはいいけれど、褒められて有頂天になるのはいけないよ」と若い人に言っています。
「波には乗りなさい、調子には乗らないように」とは、言いたいです。
平成9年大阪松竹座ができ松竹の上方歌舞伎塾が開塾、主任講師を担当。
同年、道頓堀の中座で関西歌舞伎 中の芝居で自主公演を行いました。
平成6年父が亡くなり、秀太郎歌舞伎座の座付き役者になりなさいと言われたが、上方の歌舞伎の灯を守っていきたいと思ったら、上方歌舞伎塾が開塾されました。
素人の子どもたちに教えることができて、お陰で随分公演も楽にできるようになりました。
若い人が歌舞伎を見てくれる様になりました。
塾が無かったら役者はいません。
応募資格は関西に住んでいることが条件になります。
弟子もみんな大阪弁です。
これからどんどん若い人が出てきているので、70回を機に辞めようとも思ったんですが、役者を続けて舞台に出ながら若い人を教えていった方が説得力があると思って、これからも頑張りたいと思っていまして、若い人たちを育てていきたいと思っています。
片岡秀太郎さんは昭和16年後に人間国宝になった13代目片岡仁左衛門の次男として大阪で生まれました。
以来、ずーっと関西に住み続け上方の香りをまとう女形として活躍、父の意志を継いで一時期衰退した上方歌舞伎を復興させるため力を尽くしてきました。
兄は片岡我當さん弟は人間国宝の15代目片岡仁左衛門さんで3兄弟で日本の歌舞伎を支えています。
ファンやご贔屓筋から贈られた胡蝶蘭の花に囲まれた楽屋で伺いました。
人間国宝になっても自然体でやっています。
顔見世の出演が前人未到の70回目となりました。
70回目は武田信玄の軍師山本勘助の母親越路を演じる。
いつもの柔らかい女形とは違って厳しい老女役でした。
優しいところもあり厳しく演じるところもあり難しい役です。
歌舞伎の時代ものでは涙を流さないのが鉄則ですが。
昭和25年9歳の時に子役として初出演しましたが、周りは東京の人で関西弁はなく苦労しました。
凄くプレッシャーがあり初舞台で吐いてしまい、周りが上手く隠してくれました。
歌舞伎はもうできないと覚悟しましたが、3代目中村時蔵の奥さんの小川ひなさんが走ってきて抱きしめて「頑張ったね 偉かったね」と言ってくれてわーっと泣いてしまいました。
二日目からはちゃんとやっていました。
兄弟では私が一番やんちゃで兄は優等生で学校で級長などをしていました。
小さい時から父親を見ていたので父親のような男役の役者になりたかったが、子役ができなくなって大人の役をするときにまず女形をするんですが、そのうちに意に反して女形の道に進むことになってしまいました。
まんざら女形も悪くないと思うようになりました。
昭和20年に家が焼かれてしまい京都で借家住まいをしてその時に初舞台を踏みました。
小さな家に12人が住んでいました。
夜遅くに父が帰ってきてからいろいろ教えてもらいました。
手の動かし方、息つかい、声の出し方 声の続け方など。
義太夫の稽古も子どものころからやりました。
昭和31年に二代目片岡秀太郎を襲名しました。
関西ではお客さんが減ってきて役者も映画に行ってしまったりして減ってきました。
父は江戸歌舞伎も好きでしたが上方も頑張らないといけないという事で、京都に居を構えて東京にはいかないでおこうという事になりました。
私も父の意志を継ぐことにしました。
関西歌舞伎が低迷していた時に父が中心になって昭和37年に自主公演、仁左衛門歌舞伎を旗揚げをしました。
みんな芝居したい人たちでしたが、お客さんは来ませんよと言われたが、別荘を処分すれば何とかなるだろうという事で、自主公演をすることにしました。
周りにも応援を依頼して、裏千家さんとか、松下幸之助さん(松下電器創業者)とか、早川徳次さん(シャープ創業者)とかに声をかけて応援してもらいました。
凄い行列ができてみんな泣きました。
超満員の中で舞台を終えて、役者さんも喜んで、赤字覚悟だったのがもうかってしまって、関係者にお渡しすることができました。
プロデュースしたのは母と姉でした。
あの時の興奮は忘れないです。
仁左衛門歌舞伎は5年続きました。
「褒められて追っついてよくなるのはいいけれど、褒められて有頂天になるのはいけないよ」と若い人に言っています。
「波には乗りなさい、調子には乗らないように」とは、言いたいです。
平成9年大阪松竹座ができ松竹の上方歌舞伎塾が開塾、主任講師を担当。
同年、道頓堀の中座で関西歌舞伎 中の芝居で自主公演を行いました。
平成6年父が亡くなり、秀太郎歌舞伎座の座付き役者になりなさいと言われたが、上方の歌舞伎の灯を守っていきたいと思ったら、上方歌舞伎塾が開塾されました。
素人の子どもたちに教えることができて、お陰で随分公演も楽にできるようになりました。
若い人が歌舞伎を見てくれる様になりました。
塾が無かったら役者はいません。
応募資格は関西に住んでいることが条件になります。
弟子もみんな大阪弁です。
これからどんどん若い人が出てきているので、70回を機に辞めようとも思ったんですが、役者を続けて舞台に出ながら若い人を教えていった方が説得力があると思って、これからも頑張りたいと思っていまして、若い人たちを育てていきたいと思っています。
2020年1月3日金曜日
若松英輔(批評家・随筆家) ・読む・書くを通して言葉の力を取り戻す
若松英輔(批評家・随筆家) ・読む・書くを通して言葉の力を取り戻す
若松さんは1968年新潟県糸川市生まれ、慶應義塾大学文学部仏文学科に入学し、雑誌三田文学に参加しました。
卒業後会社員や会社経営を経て2007年中断していた文学活動を再開し、活動論文や著作物で三田文学新人賞や西脇順三郎学術賞を受賞しました。
2007年に刊行した「小林秀雄 美しい花」は去年角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
著書にはほかにも『魂にふれる 大震災と、生きている死者』、『悲しみの秘義 若松英輔エッセイ集』、『言葉の贈り物』、『詩集 見えない涙』など20冊を越えます。
「読むと書く」と名付けた少人数の講座を東京都内で開いています。
若松さんは著書や講演の中で自分の不完全さを認識させてくれる、書く事は自分が何者であるかを知る行為だと述べています。
書くタイミングがあり、自分が空になってゆくようなときに書けるんです。
朝起きたときには大変書きやすい、夜はご飯を食べた後数時間後に書けるといった感じです。
心の中にあるものがスーッと浮かんでくるような感じなんです。
書くという行為は頭の中にあるものを書くというよりも、書くことで自分が何をもってるのかを知るという事です。
東京工業大学は2年目になります。
人間文化論、人とは何かというところからは離れない、という様な教え方をしています。
全員理科系なのでやってこなかった文科、哲学などを教師として提示することが僕の仕事だと思っています。
苦手で早くこの時間が終わってほしいと思っているようなことに、まっすぐ向き合ったら、これからいろんな道が増えてくるんだと言っています。
学校は安心して失敗できるところだと思います。
「小林秀雄 美しい花」 角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
評論はこれはよかったとか悪かったとかですが、批評は隠れたものを明らかにしてゆくのが批評です。
語る事で彼は何を伝えてきたかというと、自分がいかに多くのものから影響を受けたかという事なんです。
多くの小林秀雄論は小林秀雄がいかに多くの人に影響を与えたのかという書き方をしていて、逆だと思いました。
それを書いてみたかった。
小林秀雄はいろんな人から光を受けてそれを照らし返した人だと思います。
美しいは「かなしい」とも読みます。
美しい花が一つしかないように、あなたのかなしみも又ただ一つなんだという事です。
小林秀雄は自分の中に繊細なものを持っていた。
読むという事が深まってくると文字面は多くの人が読んでるが、意味としては個人への手紙だと読めてくるときに本当の出会いがあると思います。
30年以上かかってその返事を書いたという本です。
『本を読めなくなった人のための読書論』
今は本を読む人が少なくなった。
読まないのではなくて、読めなくなったと思ったんです。
本は全部読まなくてもいいと思います。
心を揺るがすような言葉に出会ったら、本を一度閉じてもいい、もう一度開きたくなったら読む、その間が数年間あってもいいと思います。
答えを見つける風に本を読みがちですが、本当に出会った本は問いかけられていく様な感じがします。
石牟礼道子さんの『苦海浄土』の本は高校生の時に読み始めましたが、読み終わったのは43歳です、読もうとしますが何度も突き返されました。
今も謎の本です、そういう本に出合ってもらいたいです。
本というのは文字を追うだけが本との付き合い方ではないと思います。
父は目は殆ど読めない状態でしたが、毎月4,5万円分本代にかけていて、本は積みあがってゆくが、本が読めないんだったら本はもういいんじゃないかと、母を通していってもらいたかったが、母はできないといいました。
友人から「お父さんは本を読めないからその分だけ余計に本が大事なんじゃないの、買う事が」と言われました。
眼からうろこで、文字を追うだけでなくて、その存在と付き合ってゆく事が大事だと気が付きました。
上手く書くという時には必ず人は誰かに似てきてしまいます。
文章を深く読めると人の話も深く聞けるようになります。
文章をちゃんとその人らしく書けるようになると、たどたどしいがその人の声でちゃんと喋れるようになります。
書くという事は本当のその人と出会う事と同じことなので、うまく書いては駄目でうまく書けないことの中に何か意味を見つけていくことが大事だと思います。
何を書こうかと思わないで書くのがいいと思います。
浮かび上がってきたことをそのまま言葉にするんです。
実は我々はそれを話す事でやっているんです。
打ち合わせと対話は違います。
対話と打ち合わせが一番違うのは、対話は偶然があった方がいい、対話は意識だけではなくて、心の深いところが動き始める。
打ち合わせの時にはそれがない方がいい。
読書も打ち合わせするみたいに読むような傾向があると思います。
もっと自由に読んでいいと思います。
読むと書くは、食べるという事と置き換えた方が判り易いと思います。
我々は料理人で料理を作るが食べていただかないと作った意味がない。
美味しいと言って食べてくれたら報われたことになり、読まれることによって命を帯びるんだと思います。
料理と違うのはその人が亡くなっても、書いておけば100年後に読んでくれるかもしれない。
「志樹逸馬詩集」、文学に深く刻まれる詩人だと思いますが、自分はそんな人間だと思わないで亡くなったと思います。
志樹逸馬さんは大変豊かな大きな仕事をした方ですが、知られていない。
神谷美恵子さんの「生き甲斐について」に複数回でてきて、神谷美恵子さんに決定的な影響を与えた人です。
「かなしい」は漢字にすると5つあります。
悲、哀、愛、美、愁 かなしいとひらがなで書くとこの5つが折り重なっている。
愛のないところにかなしみはない。
かなしみが深まっていくとかなしみは忘れられることはないが姿を変えて行く。
不完全さを受け入れてみると亡くなっている人というものは、自分の中で本当に声も聞けず手に触れることもできないが、存在するんじゃないかという事が何となくわかってきました。
物を書くときに亡くなった人たちに誠実に尽くすように書きたいと思ています。
やり損ねたこと、感じ損ねたことというものを人は取り戻すことはできると思う、過ぎてしまったことはどうしようもないと思いがちですが、過去の意味を変えるべく今日を生きることができる。
初老の人が茫然と泣いていた時に声をかけたことがありました。
俺は伴侶と一緒にいたときには、何故このことを感じたことができなかったんだろうとその人は言っていました。
人は一人でいる時にしかわからないことがあると思う。
大事な人と今日も逢えた、明日も逢えたら嬉しい、やっぱり今日も逢えたという様なことをもっと噛みしめていいと思っていて、今を愛しむという事を兎に角深めていきたいと思っています。
出来うればそういう人たちの幸せに、少し自分が関与できたらいいなという感じになってきました。
若松さんは1968年新潟県糸川市生まれ、慶應義塾大学文学部仏文学科に入学し、雑誌三田文学に参加しました。
卒業後会社員や会社経営を経て2007年中断していた文学活動を再開し、活動論文や著作物で三田文学新人賞や西脇順三郎学術賞を受賞しました。
2007年に刊行した「小林秀雄 美しい花」は去年角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
著書にはほかにも『魂にふれる 大震災と、生きている死者』、『悲しみの秘義 若松英輔エッセイ集』、『言葉の贈り物』、『詩集 見えない涙』など20冊を越えます。
「読むと書く」と名付けた少人数の講座を東京都内で開いています。
若松さんは著書や講演の中で自分の不完全さを認識させてくれる、書く事は自分が何者であるかを知る行為だと述べています。
書くタイミングがあり、自分が空になってゆくようなときに書けるんです。
朝起きたときには大変書きやすい、夜はご飯を食べた後数時間後に書けるといった感じです。
心の中にあるものがスーッと浮かんでくるような感じなんです。
書くという行為は頭の中にあるものを書くというよりも、書くことで自分が何をもってるのかを知るという事です。
東京工業大学は2年目になります。
人間文化論、人とは何かというところからは離れない、という様な教え方をしています。
全員理科系なのでやってこなかった文科、哲学などを教師として提示することが僕の仕事だと思っています。
苦手で早くこの時間が終わってほしいと思っているようなことに、まっすぐ向き合ったら、これからいろんな道が増えてくるんだと言っています。
学校は安心して失敗できるところだと思います。
「小林秀雄 美しい花」 角川財団学芸賞と蓮如賞を受賞しています。
評論はこれはよかったとか悪かったとかですが、批評は隠れたものを明らかにしてゆくのが批評です。
語る事で彼は何を伝えてきたかというと、自分がいかに多くのものから影響を受けたかという事なんです。
多くの小林秀雄論は小林秀雄がいかに多くの人に影響を与えたのかという書き方をしていて、逆だと思いました。
それを書いてみたかった。
小林秀雄はいろんな人から光を受けてそれを照らし返した人だと思います。
美しいは「かなしい」とも読みます。
美しい花が一つしかないように、あなたのかなしみも又ただ一つなんだという事です。
小林秀雄は自分の中に繊細なものを持っていた。
読むという事が深まってくると文字面は多くの人が読んでるが、意味としては個人への手紙だと読めてくるときに本当の出会いがあると思います。
30年以上かかってその返事を書いたという本です。
『本を読めなくなった人のための読書論』
今は本を読む人が少なくなった。
読まないのではなくて、読めなくなったと思ったんです。
本は全部読まなくてもいいと思います。
心を揺るがすような言葉に出会ったら、本を一度閉じてもいい、もう一度開きたくなったら読む、その間が数年間あってもいいと思います。
答えを見つける風に本を読みがちですが、本当に出会った本は問いかけられていく様な感じがします。
石牟礼道子さんの『苦海浄土』の本は高校生の時に読み始めましたが、読み終わったのは43歳です、読もうとしますが何度も突き返されました。
今も謎の本です、そういう本に出合ってもらいたいです。
本というのは文字を追うだけが本との付き合い方ではないと思います。
父は目は殆ど読めない状態でしたが、毎月4,5万円分本代にかけていて、本は積みあがってゆくが、本が読めないんだったら本はもういいんじゃないかと、母を通していってもらいたかったが、母はできないといいました。
友人から「お父さんは本を読めないからその分だけ余計に本が大事なんじゃないの、買う事が」と言われました。
眼からうろこで、文字を追うだけでなくて、その存在と付き合ってゆく事が大事だと気が付きました。
上手く書くという時には必ず人は誰かに似てきてしまいます。
文章を深く読めると人の話も深く聞けるようになります。
文章をちゃんとその人らしく書けるようになると、たどたどしいがその人の声でちゃんと喋れるようになります。
書くという事は本当のその人と出会う事と同じことなので、うまく書いては駄目でうまく書けないことの中に何か意味を見つけていくことが大事だと思います。
何を書こうかと思わないで書くのがいいと思います。
浮かび上がってきたことをそのまま言葉にするんです。
実は我々はそれを話す事でやっているんです。
打ち合わせと対話は違います。
対話と打ち合わせが一番違うのは、対話は偶然があった方がいい、対話は意識だけではなくて、心の深いところが動き始める。
打ち合わせの時にはそれがない方がいい。
読書も打ち合わせするみたいに読むような傾向があると思います。
もっと自由に読んでいいと思います。
読むと書くは、食べるという事と置き換えた方が判り易いと思います。
我々は料理人で料理を作るが食べていただかないと作った意味がない。
美味しいと言って食べてくれたら報われたことになり、読まれることによって命を帯びるんだと思います。
料理と違うのはその人が亡くなっても、書いておけば100年後に読んでくれるかもしれない。
「志樹逸馬詩集」、文学に深く刻まれる詩人だと思いますが、自分はそんな人間だと思わないで亡くなったと思います。
志樹逸馬さんは大変豊かな大きな仕事をした方ですが、知られていない。
神谷美恵子さんの「生き甲斐について」に複数回でてきて、神谷美恵子さんに決定的な影響を与えた人です。
「かなしい」は漢字にすると5つあります。
悲、哀、愛、美、愁 かなしいとひらがなで書くとこの5つが折り重なっている。
愛のないところにかなしみはない。
かなしみが深まっていくとかなしみは忘れられることはないが姿を変えて行く。
不完全さを受け入れてみると亡くなっている人というものは、自分の中で本当に声も聞けず手に触れることもできないが、存在するんじゃないかという事が何となくわかってきました。
物を書くときに亡くなった人たちに誠実に尽くすように書きたいと思ています。
やり損ねたこと、感じ損ねたことというものを人は取り戻すことはできると思う、過ぎてしまったことはどうしようもないと思いがちですが、過去の意味を変えるべく今日を生きることができる。
初老の人が茫然と泣いていた時に声をかけたことがありました。
俺は伴侶と一緒にいたときには、何故このことを感じたことができなかったんだろうとその人は言っていました。
人は一人でいる時にしかわからないことがあると思う。
大事な人と今日も逢えた、明日も逢えたら嬉しい、やっぱり今日も逢えたという様なことをもっと噛みしめていいと思っていて、今を愛しむという事を兎に角深めていきたいと思っています。
出来うればそういう人たちの幸せに、少し自分が関与できたらいいなという感じになってきました。
2020年1月2日木曜日
澤 和樹(東京藝術大学学長) ・東京藝大130年、これからの仕事
澤 和樹(東京藝術大学学長) ・東京藝大130年、これからの仕事
澤さんは東京芸術大学の10代目の学長、音楽部からの就任は37年ぶり2人目となります。
澤さんは和歌山県出身の64歳、3歳からヴァイオリンを始め、東京芸大から大学院を卒業してイギリスに留学、腕を磨いて1984年に芸大に戻り学生たちを指導するほか、奥さんのピアニスト蓼沼恵美子さんとのコンサートなどでヴァイオリニストとしても活動しています。
土、日は大学以外の自分の活動をする為に取っている感じなので、しっかり休む日にちは取れないです。
コンサートは年に30回ぐらいやっています。
AMS( arts meets Science)、学長になって芸術家として活躍してゆく場が限られていて、人間が人間らしく生きるためには芸術は本当に必要なんだという事を世の中の人に判っていただかないと、芸術家の卵が報われないというところで、癒しを与える、勇気づける力があると思うので、それを科学的、医学的に証明できればもっと芸術のことを大切にしてくれるのではないかと思いはじめました。
一回目は2016年に世界的チェリスト、ヨーヨー・マさんを招いてコンサート・シンポジウムを行いました。
この間、3回目を行いました。
伝統にしがみついてもいけないし、横のつながりを持つことで新しい気付きにつながるのではないかと思って学長になったから、総合芸術大学にいることのメリットを教員も学生も生かせればいいなあと思ってやってきています。
2016年4月に10代目に選ばれましたが、現在の文化庁長官の宮田亮平先生があと6年やるつもりでした。
突然文化庁長官を受けられて、急遽決まりましたので心の準備もないまま学長になりました。
昭和30年生まれ、65歳になります。
子どもの頃は肥満で身体も大きくて、公園で遊んでいたりすると子どもたちが「おっちゃん」と言って近づいてくるような感じでした。
高校時代に東京大会に出る時に背広を作りに大坂のデパートに行ったら、店員が母親と一緒に行ったら夫婦と間違われました。
ヴァイオリンをはじめたのは3歳10か月ぐらいの時でした。
1/8サイズのヴァイオリンを購入しました。
両親は音楽に関係してはいませんでしたが、親戚にレコード会社に勤めている人がいて、うちにはステレオがあってクラシックを聴いていた覚えがあります。
小学校2年生ぐらいに東儀祐二先生を紹介されました。
基礎ができていないから駄目だといわれましたが、手が大きくてポッチャリしていて指の長さもそろっていて、手を見て入門を許されました。
東儀先生は凄く厳しいので有名でした。
小学校6年生の時に全日本学生音楽コンクールの小学校の部の大阪大会で3位になりました。
その時は本当にうれしかったです。
中学3年生の時に全日本学生音楽コンクールの全国大会と修学旅行の日程が重なってしまい、コンクールに出て全国1位になりました。
高校を選ぶにあたって、父親は音楽で食って行けるはずはないという事で、東京の音楽の有名な高校に行くことは大反対され、かなり抵抗しましたが和歌山県立桐蔭高等学校に行くことになりました。
医師の道、建築家へとの思いもありました。
ヴァイオリンでは練習を3時間ぐらいしていました。
1973年、東京芸術大学に入学し、海野義雄先生に師事しました。
1974年、第43回日本音楽コンクールで第3位を受賞しました。
芸大に入ってよかったのは周りの友人たちのレベルが凄く高く学生同士の刺激合いが良かったです。
大学4年生の時に本格的なリサイタルをやるときになったときに、共演ビアニストのことで
海野先生に相談したら蓼沼さん(現在の妻)がいいんじゃないのと言われて、話を持ちかけましたが、見事に断られました。
コンクールに賭けたいとのことでしたが、蓼沼さんが習っていた田村先生に直訴して引き受けてくれることになりました。
大学院2年生の時にNHK交響楽団のコンサートマスターの候補生という感じで入ったんですが、プレッシャーもあり、N響のソリストとして来日したジェルジ・パウクというN響の人も知らない無名のヴァイオリニストが一回目のリハーサルの時に驚くほど素晴らしい演奏でした。
パウクさんが声をかけてくれて、若いのに一度もヨーロッパに行って勉強していないのならそういった事も考えてもいいんじゃないかと言われて、N響のコンサートマスターを蹴ってゆくこともないだろうと反対もされましたが、1980年の4月からロンドンに行くことを決めました。
結婚をして妻と共に行きました。
二人で年間100回ぐらい演奏会に通えて最高に素晴らしかったです。
パウク先生のまた先生のベラカトーナ先生にも見てもらって音階と練習曲をやるという一から基礎を学びました。
8か月かかりました、いつの間にか力が入っていたようでした。
1984年に帰国し、東京芸術大学音楽学部器楽科専任講師に就任しました。
グァルネリの音色に魅せられて、とても手に入らないと思っていましたが、和歌山県立桐蔭高等学校の創立100周年記念で弾かせてもらって、グァルネリのことを話したら、先輩で大きな病院の院長をしている人が数人に声をかけて共同で購入して、それをあなたが使えばいいんじゃないのと言われました。
40年ぐらい前の話ですが、その楽器を持たせてもらう事になりました。
こんな楽器があったからこそパウク先生との出会いがあったし、いろんな出会いができた事と思います。
40年経ってこの楽器の持ち味を聞いている人たちに届けられるようになってきたと思います。
娘は澤 亜樹と言いまして、現在東京藝大音楽学部室内楽科非常勤講師をしています。
(東京藝術大学附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部首席卒業。学内にて安宅賞、アカンサス音楽賞受賞。2010年より2年間、文化庁新進芸術家海外研修員として、英国王立音楽院に留学し、最高位のDiploma of Royal Academy of Music (DipRAM)を得て首席卒業。青山音楽賞新人賞、松方ホール音楽賞受賞。)
6歳からヴァイオリンを習い始めて私も教えました。
中学でいじめにあい、登校出来なくなり支えになったのがヴァイオリンでした。
娘の夫は西川智也と言いまして、群馬交響楽団のクラリネットの奏者です。
東京芸大が世界一の総合芸術大学といわれるような中身を作っていきたいことと、頑張っている学生、卒業生が芸大で学んだ事を世の中で十分に還元して人々の幸せに貢献できるという事を、見える形にしていきたいというのを目標にしています。
澤さんは東京芸術大学の10代目の学長、音楽部からの就任は37年ぶり2人目となります。
澤さんは和歌山県出身の64歳、3歳からヴァイオリンを始め、東京芸大から大学院を卒業してイギリスに留学、腕を磨いて1984年に芸大に戻り学生たちを指導するほか、奥さんのピアニスト蓼沼恵美子さんとのコンサートなどでヴァイオリニストとしても活動しています。
土、日は大学以外の自分の活動をする為に取っている感じなので、しっかり休む日にちは取れないです。
コンサートは年に30回ぐらいやっています。
AMS( arts meets Science)、学長になって芸術家として活躍してゆく場が限られていて、人間が人間らしく生きるためには芸術は本当に必要なんだという事を世の中の人に判っていただかないと、芸術家の卵が報われないというところで、癒しを与える、勇気づける力があると思うので、それを科学的、医学的に証明できればもっと芸術のことを大切にしてくれるのではないかと思いはじめました。
一回目は2016年に世界的チェリスト、ヨーヨー・マさんを招いてコンサート・シンポジウムを行いました。
この間、3回目を行いました。
伝統にしがみついてもいけないし、横のつながりを持つことで新しい気付きにつながるのではないかと思って学長になったから、総合芸術大学にいることのメリットを教員も学生も生かせればいいなあと思ってやってきています。
2016年4月に10代目に選ばれましたが、現在の文化庁長官の宮田亮平先生があと6年やるつもりでした。
突然文化庁長官を受けられて、急遽決まりましたので心の準備もないまま学長になりました。
昭和30年生まれ、65歳になります。
子どもの頃は肥満で身体も大きくて、公園で遊んでいたりすると子どもたちが「おっちゃん」と言って近づいてくるような感じでした。
高校時代に東京大会に出る時に背広を作りに大坂のデパートに行ったら、店員が母親と一緒に行ったら夫婦と間違われました。
ヴァイオリンをはじめたのは3歳10か月ぐらいの時でした。
1/8サイズのヴァイオリンを購入しました。
両親は音楽に関係してはいませんでしたが、親戚にレコード会社に勤めている人がいて、うちにはステレオがあってクラシックを聴いていた覚えがあります。
小学校2年生ぐらいに東儀祐二先生を紹介されました。
基礎ができていないから駄目だといわれましたが、手が大きくてポッチャリしていて指の長さもそろっていて、手を見て入門を許されました。
東儀先生は凄く厳しいので有名でした。
小学校6年生の時に全日本学生音楽コンクールの小学校の部の大阪大会で3位になりました。
その時は本当にうれしかったです。
中学3年生の時に全日本学生音楽コンクールの全国大会と修学旅行の日程が重なってしまい、コンクールに出て全国1位になりました。
高校を選ぶにあたって、父親は音楽で食って行けるはずはないという事で、東京の音楽の有名な高校に行くことは大反対され、かなり抵抗しましたが和歌山県立桐蔭高等学校に行くことになりました。
医師の道、建築家へとの思いもありました。
ヴァイオリンでは練習を3時間ぐらいしていました。
1973年、東京芸術大学に入学し、海野義雄先生に師事しました。
1974年、第43回日本音楽コンクールで第3位を受賞しました。
芸大に入ってよかったのは周りの友人たちのレベルが凄く高く学生同士の刺激合いが良かったです。
大学4年生の時に本格的なリサイタルをやるときになったときに、共演ビアニストのことで
海野先生に相談したら蓼沼さん(現在の妻)がいいんじゃないのと言われて、話を持ちかけましたが、見事に断られました。
コンクールに賭けたいとのことでしたが、蓼沼さんが習っていた田村先生に直訴して引き受けてくれることになりました。
大学院2年生の時にNHK交響楽団のコンサートマスターの候補生という感じで入ったんですが、プレッシャーもあり、N響のソリストとして来日したジェルジ・パウクというN響の人も知らない無名のヴァイオリニストが一回目のリハーサルの時に驚くほど素晴らしい演奏でした。
パウクさんが声をかけてくれて、若いのに一度もヨーロッパに行って勉強していないのならそういった事も考えてもいいんじゃないかと言われて、N響のコンサートマスターを蹴ってゆくこともないだろうと反対もされましたが、1980年の4月からロンドンに行くことを決めました。
結婚をして妻と共に行きました。
二人で年間100回ぐらい演奏会に通えて最高に素晴らしかったです。
パウク先生のまた先生のベラカトーナ先生にも見てもらって音階と練習曲をやるという一から基礎を学びました。
8か月かかりました、いつの間にか力が入っていたようでした。
1984年に帰国し、東京芸術大学音楽学部器楽科専任講師に就任しました。
グァルネリの音色に魅せられて、とても手に入らないと思っていましたが、和歌山県立桐蔭高等学校の創立100周年記念で弾かせてもらって、グァルネリのことを話したら、先輩で大きな病院の院長をしている人が数人に声をかけて共同で購入して、それをあなたが使えばいいんじゃないのと言われました。
40年ぐらい前の話ですが、その楽器を持たせてもらう事になりました。
こんな楽器があったからこそパウク先生との出会いがあったし、いろんな出会いができた事と思います。
40年経ってこの楽器の持ち味を聞いている人たちに届けられるようになってきたと思います。
娘は澤 亜樹と言いまして、現在東京藝大音楽学部室内楽科非常勤講師をしています。
(東京藝術大学附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部首席卒業。学内にて安宅賞、アカンサス音楽賞受賞。2010年より2年間、文化庁新進芸術家海外研修員として、英国王立音楽院に留学し、最高位のDiploma of Royal Academy of Music (DipRAM)を得て首席卒業。青山音楽賞新人賞、松方ホール音楽賞受賞。)
6歳からヴァイオリンを習い始めて私も教えました。
中学でいじめにあい、登校出来なくなり支えになったのがヴァイオリンでした。
娘の夫は西川智也と言いまして、群馬交響楽団のクラリネットの奏者です。
東京芸大が世界一の総合芸術大学といわれるような中身を作っていきたいことと、頑張っている学生、卒業生が芸大で学んだ事を世の中で十分に還元して人々の幸せに貢献できるという事を、見える形にしていきたいというのを目標にしています。
2020年1月1日水曜日
塩野七生(作家) ・ローマ以来の世界史からみる2020年
塩野七生(作家) ・ローマ以来の世界史からみる2020年
古代ローマ史の語りて、ヨーロッパ文明誕生の源である地中海世界を描き続けている作家の塩野七生さん82歳。
日本を離れて56年、イタリアローマに住まいを定めて、西洋史の原点に当たって調べ、地中海を取り巻いて盛衰する諸民族の歴史小説を書き続けています。
塩野さんの作品にはギリシャ文明から古代ローマ帝国の滅亡、中世から近代の始まるイタリアルネッサンス期まで長大な歴史の流れと様々な欲望が渦巻く中で、野心と名誉心にあふれ時代を切り開いてゆく英雄たちの姿が生き生きと描かれています。
アレクサンダー大王、カエサル、フリードリヒ2世などこれら時代の英雄たちの構想には21世紀の今日私たちが考えなければならないリーダーの在り方が見て取れるといいます。
2000年を越える文明史的な大きな時間軸から歴史を振り返り来る新しい時代を塩野さんと考えていきます。
イタリアではクリスマスが一番重要な行事です。
大晦日は広場に集まったりして大騒ぎします。
休日は一日だけで二日から仕事をします。
はじめてヨーロッパに行ったのが1963年です。
1年で帰るはずでしたが、ずーっと居座ることになりました。
紀元前1000年として紀元後1500年、2500年間地中海はヨーロッパ文明の中心でした。
1571年にレパントで海戦が行われました。
キリスト教世界とイスラム世界の間の大海戦がありそれから17年後に大西洋でイギリス海軍と、スペインの無敵艦隊がぶつかり、イギリスが勝って、この時からヨーロッパの中心は大西洋に移る。
日本とロシアが戦った日露戦争、日本とアメリカが戦ったミッドウエー、あそこで世界の中心は太平洋に移った。
地中海はダイナミックではないが美しいです。
文明は別の文明と刺激しあって発展してゆくが、ちょうど刺激しあうのに都合のいい距離なんです。
キリスト教世界とイスラムがぶつかった一番大きな戦争、十字軍、あれだって物凄く遠ければぶつからなかったはずです。
地中海はいろいろなものが刺激しあって交流しあって、そういったものが凝縮されて一番適した区域、広さなんです。
新しい文化、文明は絶対に異文化との交流がないところに生まれません。
最初にアテネが生まれたのではなく、オリエントと、ギリシャが接触したところからギリシャ文化、文明が生まれアテネで全開するわけです。
カイサルに出会ったのは調べて勉強した後です。
カイサルは政治家とあると同時に軍人でもあります。
瞬間判断できる力とじっくり考えて作戦を練る、両方持っていた。
どういう生き方をするかという事で、彼は世襲の貴族の出で、人よりは優れた素質を持っていて、そうでない人が大勢いるわけで、そういう人たちのために自分の意思を使う。
ストイックとは自分の仕事には完璧に責任を持ってやる、ということです。
私は自分の仕事に関しては相当にストイックだったと思います。
私が過ごした頃の東京山の手の家庭には「しつけ」というものがあり、学校での出来に関係ない、「みっともない真似はするな」、つまり見苦しい振る舞いはしない、ここには正しいか間違っているかは判断は介入しません。
スタイルという言葉があるが、姿かたちが美しいというわけではなくて生き方ですね。
虚栄心と野心は違う、野心野望は何かをやりたいという思いで、虚栄心は人からどう思われるかよく思われたい、これが虚栄心。
全員がこの両方を持っている。
どちらが大きいかそれは人それぞれです。
やり遂げるまで何かを犠牲するのではなくてそれは手段です。
犠牲とはもっと崇高で自分が死んで息子を生かすとか、他の人を助けるために自分が死ぬとか、それが犠牲だと思います。
目的のためには有効ならば手段を選ぶ必要はないと言っています。
暗黒の中世が500年ぐらい続きます。
十字軍が撤退したのはキリスト教勢力です。
あの時代にヨーロッパの最初の大学ができてきます。
イスラムを研究する学科ができた、我々はなぜ負けたのかという疑問です。
イスラムは勝ったからキリスト教を勉強することをしなかった。
フリードリヒ2世、日本では彼のことを誰も書いていない、かっこよかったから書きました。
エリートと自覚している男で、東と西の区別を越えた男、ボーダーレスだと思います。
普通にローマのカトリック教会と喧嘩をしなければ、ど真ん中にいた男ですが、ど真ん中にいたくせに喧嘩をしてしまう。
喧嘩をすることもも好きです。
既存の体制とかに対して疑問を持って、それを変えたいと思う男は好きです。
自分の目で見、自分の頭で考えて自分で判断する、これはルネッサンス精神です。
それまでの精神に反旗を翻したわけです。
フランチェスコはそれまでのキリスト教の宗教は罰をあたえる宗教で、彼は神はもっと優しい我々を許してくれるとしている。
法律というものは2種類あって、神が定めて予言者の口を通じて信者に与えたもの、旧約聖書、コーランとかで、もう一つは法律はいろいろ違う人間がともに住むものだからともに住めるようなルールを作りましょうと言って、人間が人間達のために作ったのが法律、この典型的な例がローマ法です。
神から与えられた法は変えてはいけませんが、時代が変わり人間が生きてゆく状況が変わった場合は変えていいんです。
フリードリヒ2世はメルフィ憲章を作った。
中央集権体制で、なぜキリスト教とぶつかったかというと、それまで命令するのは神だったが、困ってしまった。
封建領主が個々に離れている方がローマキリスト教会としては統治しやすかった。
中央集権国家となってしまうとキリスト教会は困ってしまうので、これがフリードリヒ2世
が破門された原因です。
フリードリヒ2世は政教分離をしようとした人だと思います。
羊飼いがいて群れをコントロールするが、どこでいい草があるか羊飼いが集まって合意した方がいい結果が得られると思っているのが民主制ですが、現実に民主制が機能したのはこれは優秀なる羊飼いがいたときです。
指導者の役割は今は大変な時だがしばらくは成果が出ないがいつかは出ると、こう言い聞かせる力を持つのがリーダーです。
ポピュリズムは大衆迎合で、そこの欠陥はリーダーがいないので不安になる訳です。
あっちに行ったりこっちに行ったるすると成果につながらなくなって、ますます人々は不安に駆られて、実現性は無いんだけれども強いことを言うリーダーが出てきた時にそれにくっついてしまう、これが一番怖いことなんです。
何かをよりよくするためには苦労しなければならないことは知っているが、喜んで苦労させるのがリーダーです。
喜んで生きていきたい、それを与えるのがリーダーで、希望を与えることです。
社会が一番いい状態は格差がない状態ではなくて、人はそれぞれ違っていて、一番いけないのが社会の階級が固定化されることで、格差が固定化されることです。
絶対王政になって格差が固定化されから、格差固定が一番いけないんです。
他の視点を入れる、これは日本は重要で、純粋培養は絶対出口なしになります。
新しい文明、新しい改革は異分子との接触のところしか生まれないという感じがします。
もう一度自由という事の尊さを考えていただきたいと思います。
一番いけないのは自由を乱用すること、そうすると自由がなくなる結果になる。
人間にとっての最高の価値は自由と平和、この二つだと思います。
古代ローマ史の語りて、ヨーロッパ文明誕生の源である地中海世界を描き続けている作家の塩野七生さん82歳。
日本を離れて56年、イタリアローマに住まいを定めて、西洋史の原点に当たって調べ、地中海を取り巻いて盛衰する諸民族の歴史小説を書き続けています。
塩野さんの作品にはギリシャ文明から古代ローマ帝国の滅亡、中世から近代の始まるイタリアルネッサンス期まで長大な歴史の流れと様々な欲望が渦巻く中で、野心と名誉心にあふれ時代を切り開いてゆく英雄たちの姿が生き生きと描かれています。
アレクサンダー大王、カエサル、フリードリヒ2世などこれら時代の英雄たちの構想には21世紀の今日私たちが考えなければならないリーダーの在り方が見て取れるといいます。
2000年を越える文明史的な大きな時間軸から歴史を振り返り来る新しい時代を塩野さんと考えていきます。
イタリアではクリスマスが一番重要な行事です。
大晦日は広場に集まったりして大騒ぎします。
休日は一日だけで二日から仕事をします。
はじめてヨーロッパに行ったのが1963年です。
1年で帰るはずでしたが、ずーっと居座ることになりました。
紀元前1000年として紀元後1500年、2500年間地中海はヨーロッパ文明の中心でした。
1571年にレパントで海戦が行われました。
キリスト教世界とイスラム世界の間の大海戦がありそれから17年後に大西洋でイギリス海軍と、スペインの無敵艦隊がぶつかり、イギリスが勝って、この時からヨーロッパの中心は大西洋に移る。
日本とロシアが戦った日露戦争、日本とアメリカが戦ったミッドウエー、あそこで世界の中心は太平洋に移った。
地中海はダイナミックではないが美しいです。
文明は別の文明と刺激しあって発展してゆくが、ちょうど刺激しあうのに都合のいい距離なんです。
キリスト教世界とイスラムがぶつかった一番大きな戦争、十字軍、あれだって物凄く遠ければぶつからなかったはずです。
地中海はいろいろなものが刺激しあって交流しあって、そういったものが凝縮されて一番適した区域、広さなんです。
新しい文化、文明は絶対に異文化との交流がないところに生まれません。
最初にアテネが生まれたのではなく、オリエントと、ギリシャが接触したところからギリシャ文化、文明が生まれアテネで全開するわけです。
カイサルに出会ったのは調べて勉強した後です。
カイサルは政治家とあると同時に軍人でもあります。
瞬間判断できる力とじっくり考えて作戦を練る、両方持っていた。
どういう生き方をするかという事で、彼は世襲の貴族の出で、人よりは優れた素質を持っていて、そうでない人が大勢いるわけで、そういう人たちのために自分の意思を使う。
ストイックとは自分の仕事には完璧に責任を持ってやる、ということです。
私は自分の仕事に関しては相当にストイックだったと思います。
私が過ごした頃の東京山の手の家庭には「しつけ」というものがあり、学校での出来に関係ない、「みっともない真似はするな」、つまり見苦しい振る舞いはしない、ここには正しいか間違っているかは判断は介入しません。
スタイルという言葉があるが、姿かたちが美しいというわけではなくて生き方ですね。
虚栄心と野心は違う、野心野望は何かをやりたいという思いで、虚栄心は人からどう思われるかよく思われたい、これが虚栄心。
全員がこの両方を持っている。
どちらが大きいかそれは人それぞれです。
やり遂げるまで何かを犠牲するのではなくてそれは手段です。
犠牲とはもっと崇高で自分が死んで息子を生かすとか、他の人を助けるために自分が死ぬとか、それが犠牲だと思います。
目的のためには有効ならば手段を選ぶ必要はないと言っています。
暗黒の中世が500年ぐらい続きます。
十字軍が撤退したのはキリスト教勢力です。
あの時代にヨーロッパの最初の大学ができてきます。
イスラムを研究する学科ができた、我々はなぜ負けたのかという疑問です。
イスラムは勝ったからキリスト教を勉強することをしなかった。
フリードリヒ2世、日本では彼のことを誰も書いていない、かっこよかったから書きました。
エリートと自覚している男で、東と西の区別を越えた男、ボーダーレスだと思います。
普通にローマのカトリック教会と喧嘩をしなければ、ど真ん中にいた男ですが、ど真ん中にいたくせに喧嘩をしてしまう。
喧嘩をすることもも好きです。
既存の体制とかに対して疑問を持って、それを変えたいと思う男は好きです。
自分の目で見、自分の頭で考えて自分で判断する、これはルネッサンス精神です。
それまでの精神に反旗を翻したわけです。
フランチェスコはそれまでのキリスト教の宗教は罰をあたえる宗教で、彼は神はもっと優しい我々を許してくれるとしている。
法律というものは2種類あって、神が定めて予言者の口を通じて信者に与えたもの、旧約聖書、コーランとかで、もう一つは法律はいろいろ違う人間がともに住むものだからともに住めるようなルールを作りましょうと言って、人間が人間達のために作ったのが法律、この典型的な例がローマ法です。
神から与えられた法は変えてはいけませんが、時代が変わり人間が生きてゆく状況が変わった場合は変えていいんです。
フリードリヒ2世はメルフィ憲章を作った。
中央集権体制で、なぜキリスト教とぶつかったかというと、それまで命令するのは神だったが、困ってしまった。
封建領主が個々に離れている方がローマキリスト教会としては統治しやすかった。
中央集権国家となってしまうとキリスト教会は困ってしまうので、これがフリードリヒ2世
が破門された原因です。
フリードリヒ2世は政教分離をしようとした人だと思います。
羊飼いがいて群れをコントロールするが、どこでいい草があるか羊飼いが集まって合意した方がいい結果が得られると思っているのが民主制ですが、現実に民主制が機能したのはこれは優秀なる羊飼いがいたときです。
指導者の役割は今は大変な時だがしばらくは成果が出ないがいつかは出ると、こう言い聞かせる力を持つのがリーダーです。
ポピュリズムは大衆迎合で、そこの欠陥はリーダーがいないので不安になる訳です。
あっちに行ったりこっちに行ったるすると成果につながらなくなって、ますます人々は不安に駆られて、実現性は無いんだけれども強いことを言うリーダーが出てきた時にそれにくっついてしまう、これが一番怖いことなんです。
何かをよりよくするためには苦労しなければならないことは知っているが、喜んで苦労させるのがリーダーです。
喜んで生きていきたい、それを与えるのがリーダーで、希望を与えることです。
社会が一番いい状態は格差がない状態ではなくて、人はそれぞれ違っていて、一番いけないのが社会の階級が固定化されることで、格差が固定化されることです。
絶対王政になって格差が固定化されから、格差固定が一番いけないんです。
他の視点を入れる、これは日本は重要で、純粋培養は絶対出口なしになります。
新しい文明、新しい改革は異分子との接触のところしか生まれないという感じがします。
もう一度自由という事の尊さを考えていただきたいと思います。
一番いけないのは自由を乱用すること、そうすると自由がなくなる結果になる。
人間にとっての最高の価値は自由と平和、この二つだと思います。
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