2022年3月31日木曜日

日下田正(染色家)           ・益子の藍を守る

 日下田正(染色家)           ・益子の藍を守る

栃木県益子町に或る藍染め工房の9代目で現在81歳。 自家栽培した綿花を糸車で糸に紡ぎ、天然染料で染め、真綿本来の風合いを求めて、手作業、手織りにこだわり、常に新しい布を模索してきました。  2018年に県の文化功労賞を受賞し、記念展示会を去年の10月から今年の1月にかけて開き、独自技術の「混じり糸」を使った作品を披露しました。 藍染の奥深さと日下田さんの伝統工芸への情熱を伺います。

かめ場には30cmぐらい高くなったところに、藍かめが規則通りに埋まっています。  72本ありますが、200年使い続けてきました。   2本は割れてしまいましたが、70本は使えます。   20本は現在藍染の液体が入っています。   「藍建て(あいだて)」と言って染まる状態にする作業があり、2週間ぐらいかかります。   浮かんでいるのが「藍の花」と言いまして、発酵する為に出るあぶくです。   日本の藍染の原料になるタデ科の植物で「蓼藍(たであい)」という草の葉っぱです。  葉っぱの中に青く染まるインディゴ色素が含まれています。  これを100日ぐらいかけて発酵させて堆肥状態にしたのが「蒅(すくも)」と言います。  我々染屋に供給してくれます。   世界では4種類ぐらいのものから何千年も染めてきました。  このかめ場は日本でもあまり残っていないと思います。

残してゆくには火事と地震は心配で、東日本大震災の時には液がこぼれました。  一番心配だったのはかめにひびが入ったりすることで使えなくなる事でした。  ひびが入っていないかどうか、2か月ぐらいは毎朝液を観察していました。   「火どこ」と言って真ん中に穴が開いていて4つのかめを温めます。(連結はしていない。)   液の出来上がり具合は「藍の花」の形、色で判断します。   

藍染は一般的にはジーンズなどに使われています。   100%化学藍で染められます。  化学藍に比べれば独特のマイルドな色合いを持っています。  化学藍と比べて桁違いの時間とお金がかかるし、技術も必要で維持してゆく難しさを感じます。    

私で9代目になります。  17,8歳でいろいろやりたいことがありましたが、長男でもあるし、先行きを気にはしていました。   高校3年生の夏に跡をついでみようかなと決めました。   機械が糸を作り、機械が布を作る、化学染料で染める時代に、「蓼藍(たであい)」という草の葉っぱから非常に時間をかけて作る、又技術的にも難しいという事で、新しい技術になかなか対抗できなくて、衰退の一途をたどってきた時代でした。  私の父親の時代が一番難しさを感じた時代だったと思います。   栃木県でも100数十軒は藍染め屋、同業者などがあったと思います。  今現在は2軒だけとなりました。   染物屋は糸を染めたり白い布にいろいろな文様を染める、いわゆる染物の世界でしたが、織物もその中に加えてみたらどうかと、自分なりに考えて織物を勉強しました。   

オリジナルという意味で「益子木綿」という名前を付けました。  隣町に真岡という町があり、「真岡木綿(もおかもめん)」といって」江戸時代中期から明治の初めごろまでは一世を風靡した品質のいいという「真岡木綿(もおかもめん)」の産地でした。  

茶綿、茶色い色をした木綿で柔らかくて、これを使うのが一つの特徴です。  子供のころ、畑に綿の種を撒いて収穫して、それぞれの家庭で糸を紡いで私の家に持ってきました。白い綿のほかに茶色い綿があったのを覚えていました。   自分で綿を織ろうと思った時にそれを思い出して、種を捜しました。   関東地方にはないことがわかって来ました。鳥取県の弓ヶ浜の海岸ヘリで作っているという事を知って、種をいただきました。  何十年前になります。  茶綿を作るのも一つの仕事になっています。 

昨年10月から今年1月まで「藍より青く」という展覧会を開催しました。  展示物には3年間かかりました。  「混じり糸」といって綿のうちにいろいろな色に染めて、色合わせをしながら一本の糸を紡いで、一本の糸にいろいろな色が微妙に入ってきます。  それを織り重ねてゆくと独特の風合いになります。  茶綿と混じり糸からが特徴になっています。  混じり糸は10年前から始めて、ふくさとかお茶の道具をテーマに今回作成出品しました。  2018年に栃木県の文化功労賞を受賞しましたが、ピンとはきませんでした。

栃木県の古い県立高校で、服飾デザイン科という科を新しく作って、布がどういうふうに出来上がってゆくか、という事で機織りの使い方、染め方などを最初1週間に4日教えて、それが20年以上続くことになりました。  生徒は紡いで布を織れるようにまでなりました。中にはそれがきっかけでアメリカの美術大学に留学などもしました。

藍染の染の技術の高さは海外の若い人でもわかっていて、ジャパンブルーと呼ばれる、身体が続く限りやってゆきたい。  




2022年3月30日水曜日

2022年3月29日火曜日

田中修(甲南大学特別客員教授)      ・植物に命を学ぶ

 田中修(甲南大学特別客員教授)      ・植物に命を学ぶ

昭和22年(1947年)京都生まれ、74歳。  両親が植物が好きで幼いころから植物を身近に感じていた田中さんは、小学生の頃、何故植物は春になると芽を出すのだろうかと、疑問を持ちます。    植物は不思議な仕組みを持っている、このことが田中さんが植物研究の道に歩ませたのです。  1971年京都大学農学部卒業、1977年同大学院博士課程修了。  米国スミソニアン研究所博士研究員などを経て、甲南大学理学部助教授。

専攻は植物生理学です。  植物生理学は植物の生き方なんですね。   コロナ禍で命を守るために3つのことを我々は心がけているんです。  ①外食を自粛する。  ②マスクを着用する。  ③密閉、密集、密接を避ける。  植物はこれらをずーっと守って生きてきているんです。   ①→うろうろしていない。  ②→植物はしゃべらない。  ③→植物は1回だけ移動できるチャンスがあり、種の時です。  一緒のところで発芽したら、密になりますから、出来るだけばらばらになるようにします。  山に行くと間隔をあけてソーシャルディスタンスを保ちながら生きています。     植物は生きる極意を身に付けて生きています。 

植物の命と人間の命の違いは大きく3つあります。   ①生きてきた歴史が違います。 植物は地球上に約4億7000万年まえに陸上に上がって来ました。   ホモサピエンスは高々20万年前です。   ②植物は自分の進化を環境に合わせて世界中に進出してきます。最初は水辺でしか活動しません。  今は世界中に植物は有ります。  本数は3兆400億本あると言われています。  人口は78億人程度。   おおざっぱに一人約400本の木があるという事です。   高さが120cm(日本 130cm:世界)のところの太さが10cm越えると樹木として数えます。   空から地球上の航空写真を撮って、緑の濃い部分、薄い部分について実際に数えて(40万か所)、航空写真の色と合わせてコンピュータで計算します。 人間の寿命はせいぜい100年、縄文杉とか、樹齢2500年~3000年とかあります。  アメリカ西海岸では樹齢4700年、4800年と言われています。  ③植物は自給自足で生きて行きます。  光合成でブドウ糖、でんぷんを作ります。   材料は水と、二酸化炭素と太陽光でコストもかからない。     地球上のすべての動物の食料は植物が作ってくれているんです。   植物の根は長いものは8万年と言われています。  地上は枯れるが根は生きているんです。   根の広がりで見ます。  一本の木で東京ドーム9個分と言われます。   遺伝子が全く一緒かどうかで判定します。  根が1年間でどれだけ伸びるのかを見ます。  そこから年数を決めます。   長い歴史、自給自足、寿命が長い。

根と言う字は大事なところに全部使われます。  根幹、根拠、根本、根性。   同じ植物を乾燥したところと湿ったところで育てた木では、地上部は圧倒的に湿ったところが大きくなる。    乾燥地の根は水を求めて深く深く伸びて行ってます。  湿地の根はちょっとしかない。   根性と言う言葉が使われたんでしょうね。   

稲は水田で育ちますが、夏になると水を除いて(中干し)、田んぼを乾かし、稲はこれではいけないと思って根を生やすんです。   秋には垂れ下がる穂を支えることが出来ます。

ユウカリの木が金鉱脈を掘り当てたという事で話題になったことがあります。  ユウカリの木に金が混じっているという事を見つけました。   木の高さは10m程度ですが、地下30~40mのところに金鉱脈が見つかったんです。    

人間の健康を守ってくれるのは植物です。   野菜、果物が栄養になってくれている。  人間に紫外線が当たったら、活性酸素が生まれます。   活性酸素はシミ、皺、白内障、皮膚がんの原因になる。   植物に紫外線が当たっても活性酸素は生まれます。    植物は活性酸素を取り去る物質を作っています。  抗酸化物質は活性酸素を消去します、代表的なのがビタミンC、ビタミンE、ポリフェノール(代表的なのがアントシアニンカロテノイド)。  カロテノイドは黄、橙、赤色などを示す天然色素の一群です。    花のめしべの下の方には種が生まれてくるので、紫外線の害をうけると、大変なので種が出来るところを綺麗な花びら(抗酸化物質)で固めて、守っているんです。  交配のために蜂や蝶を集めるために花の色、香りがありますが、もう一つの理由は種を紫外線の害から守るという働きがあります。   人間も紫外線の害から守るために抗酸化物質を食べるんですね。   人参、イチゴ、スイカなど食べるわけです。   植物に健康も守ってもらっているという事です。

桜が咲いてきますが、1年間努力しているんです。   咲き終わって夏になると次の年の春の蕾を作るんです。   樹木は種を作るまでの時間が長いんです。  硬い芽は冬の寒さをしのぐための芽なんです。(越冬芽)    どうして寒い冬が来るのがわかるのかと言うと、植物は夜の長さを測るんです。   葉がアブシシン酸という物質を作り、夜が長いほどたくさん作ります。   秋になると夜がどんどん長くなる。  芽にアブシシン酸をどんどん送ってゆくと越冬芽に変って行くんです。   冬至が最も長く、最も寒いのは2月で、夜の長さの変化は気温の変化を二か月余り先取りして動いているんです。    夜の長さを測ることで前もって知っていて、越冬芽を作るんです。  なんで桜は春に咲くのかと言うと暖かくなるから。  でも暖かくなるというだけでは咲かない。   桜は用心深くて冬の寒さを体感しないと、暖かくなっても春が来たなと信じない。   越冬芽の中のアブシシン酸が冬の寒さのなかで分解されてゆくんです。   アブシシン酸がなくなって暖かくなったら、ジベレリンという物質が増えてくるんです。   ジベレリンは蕾から花を開かせる物質で、春にはジベレリンが増えてきて花を咲かせます。  と言うわけで1年間物凄く努力してきているんです。 

現象の裏にはそんな仕組みがあるのかとわかると、感動とか喜びを得ます。   ちょっとした疑問をなんでだろうと考えることで、仕組みに行きついたり、行きつかなかったりします。  不思議が一つ解けたら必ず次の不思議が生まれます。   中国の言葉に、一日楽しみたかったらおいしい料理を作ってお酒を飲んで居たらいい、1週間ぐらいだったら舞台を用意して友達と一緒にお酒を飲んで居たらいい、一生楽しみたければ、〇〇になりなさいと言うのがあります。  〇〇は人によっていろいろあると思いますが、ここでは庭師なんです。  庭師は植物の不思議な現象に出っくわして、いろいろ考えて喜び感動があり不思議を感じさせてくれ一生楽しめる。    







  

2022年3月28日月曜日

2022年3月27日日曜日

村井國夫(俳優)            ・役者稼業60年、そして今

 村井國夫(俳優)            ・役者稼業60年、そして今

1944年(昭和19年)佐賀県出身。  1963年劇団俳優座養成所に第15期生として入所、同期生には地井武男さん、前田吟さん、林隆三さん、原田芳雄さん、栗原小巻さん等がいます。  70年代からはテレビでも活躍、ミュージカルでは45歳の時にレ・ミゼラブルのジャベール警部役で出演、13年間にわたって800回以上演じました。  声優としてはハリソン・フォードの吹き替えなどで知られています。  

第29回読売演劇大賞で優秀男優賞を受賞。  対象の舞台が「獣唄2001年改訂版」と「にんげん日記」  劇団桟敷童子の東憲司さんの脚本。  本番1週間前に1週間をかけて劇団員全員で装置を作ります。  自分も劇団を立ち上げたこともあり、共鳴する部分があって、東に何か書いて欲しいという事で、一回目に「満月の人よ」を書いてもらってやって、2作目に「砦」、劇団桟敷童子が来年20周年という事で、例年は2本ですが3本やるという事で、3本のうち一本に出させてくれと恫喝みたいなもので、懇願しました。

翻訳物ではどこか違和感が自分の中にあるんですね。  現代劇のところではどこかに理解出来ないところがある。  「満月の人よ」で日本人の役をやるのは舞台では何十年振りなんです。  違和感と言うのは、宗教の問題、人種の問題、教育など僕が理解するにはもう一つ深く研究、勉強しないとわかりにくいところがあります。   階級の差、そこの国ではどのように定着しているのかとか。  理解するには時間がかかります。  マイフェアレディ―には差別の階級に対することがあって、一番最後のシーンで、ヒギンズという言語学者が「イライザ、僕のスリッパはどこだい。」と最後のセリフで終わるんですが、僕は階級の差の意識が残っているんだなあと思うわけです。    日本の芝居は理解しやすいなと感じています。  

中国からの引揚者で、母親が佐賀なので佐賀で母親が美容師をやりながら子供5人を育ててくれました。  末っ子です。  人の前では言えないような内向的な子でした。  母が心配して高校の時に演劇でもやりなさいと母が言いました。  映画は母や兄などに連れて行って貰ってたくさん見ました。  高校の時に最初にやった芝居が褒められました。(民話「うりこひめとあまのじゃく」) 辻 萬長さんが1年先輩で部長さんで主演でした。 いろんなことを辻さんから教えてもらいました。   何となく芝居の面白さがわかってきて、県の文化祭にも出ました。  辻さんが俳優座養成所に入る事になり、自分も入りたいと思って、兄貴たちもいたので東京に行きました。   合格することができましたが、悪い期に入りました。(花の15期と言われて沢山いました。)   洗練された人たちばかりでした。  

養成所の人たちと遊ぶのがおもしろかったです。   音声生理学、心理学など当時著名な先生に教えていただきました。  体操、フェンシングなどもやって楽しかったです。  とにかくいろんなっ事を教えていただきました。  3年間養成所で勉強して、3年目に斎藤 憐さんから声を掛けられて重要な役をやらせていただきました。  劇団をやらないかと言われて、地井君とかと13人集まってやりました。(自由劇場)   自由劇場には4年ぐらいいました。  映画、テレビなどにも出るようになりましたが、芝居をやりたいという思いがありました。  中劇場でやるようになりました。 

細川さんから「レ・ミゼラブル」でオーディションを受けるという話を聞いて、一緒に受けないかと誘われました。   歌は本格的には歌えないので半年先生のもとで勉強してオーディションを受け、受かる事が出来ました。  その前に「蜘蛛女のキス」をやったのが一つのきっかけになったと思います。(1988年)  ミュージカルは「マイ・フェア・レディ -」、「サウンド・オブ・ミュージック」 などグラウンドミュージカルをやるようになりました。   何かの出会いがあり、ふっとそこに入り込めるというか、冒険が出来る。自分が停滞している時などに幸いにも人と巡り会ったりする、人との出会いを強く感じます。   

訓練されたものが舞台を支配しているんです。 これをやりたいというものはないですね。やっていないのが一つあって、一人芝居なんです。   挑戦すべきか悩んでいるところです。    野口雨情さんみたいな人を歌と語りでやってみたいというような思いもあります。 ミュージカル「ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート」の製作発表があり、ジャコブと言うジョセフのお父さん役をやります。

2022年3月26日土曜日

寺島しのぶ(女優)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

寺島しのぶ(女優)           ・【私の人生手帖(てちょう)】 

学生時代に文学座に入団、2003年公開の映画、「赤目四十八瀧心中未遂 」、「ヴァイブレータ」などが国際的にも高く評価されまして、 2010年の映画、「キャタピラー」では35年振りにベルリン国際映画祭の最優勝女優賞を受賞するなど、列情家?(聞き取れず)の女優として知られています。  寺島さんは父が7代目尾上菊五郎、母は女優富司純子、弟は尾上菊之助という芸能一家に生まれました。  女性が歌舞伎の舞台に出られないことを知った時からの 葛藤や苦悩はどのように乗り越えたのでしょうか。  これまでの役者人生と共に歌舞伎デビューしている長男への熱い思い、そして改めて魅了されているとしている歌舞伎の世界について、今年大きな節目を迎える心境と共に伺いました。

「芝濱革財布」と言う演目で父と一緒に息子が出演しています。  落語で有名は話です。 息子は丁稚役です。 初出演が2017年です。    日々あっという間に過ぎてゆきます。 学校がある時には朝は5時に起きます。  今年4年生になります。  フランスはテレビよりもラジオをよく聞き、ラジオ文化があります。   ラジオは声を聞いたり音を聞いてイマジネーションするので、そういう時間っていいなあと思います。  

小さいころは男みたいな子供でした。  母の教えは絶対嘘はつかないでと言うのを厳しく言われました。  嘘をついた時にはすごく怒られた記憶はあります。   父は歌舞伎が忙しくてゆっくり話をしたことはなかったです。   今年50歳になりますが、本当に嘘がつけなくなってしまいました。    息子にも嘘はつかないようにと言っています。  

弟が初舞台に立って、私が客席で見るというシチュエーションしか許されないんだという事が判った時に、それまでやっていた踊りのお稽古からいろんなこと全部やめました。   歌舞伎も見ないことが長く続いてしまいました。   弟は5つ下ですが、祖父母が生きていたし、我が家に男の子が生まれたという事の喜びが、私にとって凄くショッキングでした。拗ねた子供になって行きました。  性別が違うだけでこんなになっちゃうのかと思いました。    こういったことから逃げようと思って中学、高校はスポーツに専念しました。 ハンドボールとバレーボールをやりました。    大学ではいったい自分は何になるんだろうと思っていた時に、太地喜和子さんとお会いしました。   文学座で演技の勉強をしたらいいんじゃない、と言われて、文学座も杉村春子さんという偉大な女優さんも知りました。  私は芝居が好きなんだという事がどんどん芽生えてきました。   蜷川幸雄さんに19歳の時に抜擢されて、セゾン劇場で「血の婚礼」と言う作品の主演を抜擢されました。  蜷川さんとの出会いは大きかったです。    私の原点です。  

車谷長吉さんの赤目四十八瀧心中未遂』という本との出会いがありました。  私がやらなければと、とっさに思ってしまって、手紙を出しました。  何年もたってああいう作品は映画化されないよなとあきらめていた 時に、車谷さんが会いたいという事から回り出し始めました。  結局運命からは逆らえないという、自分の中で凄いリンクさせちゃったんです。    なんかアクション起こしたいが結局は出られないのが、家族の血だったり、自ら感じているからなんだと思います。  だから車谷長吉さんの本を読んだ時には絶対やらなくてはいけないと思いました。  ヴァイブレータ」もそうです。   拒食症に悩んでいる女の子ですが、偶然出会った長距離運転手のトラックに乗って短い旅をする。 恋が芽生えたりしてちょっとだけ成長するが、結局戻って来る。    そう簡単には外には出られないという部分が嫌な部分でもあるんだけれども、嫌いじゃない部分もある、というそういう作品に何故か惹かれるのは、自分の生い立ちにあるんじゃないのかなあと思います。

舞台は一番好きですが、母が映画の人なので映画に対するあこがれはずーっとありました。 フランシス・マクドーマンドと言う女優さんが「おばさんの役をやるのは私だけだから、貴方もできるはずだからがんばって。」と言われました。   最近はおばさんと言われても気にならなくなりました。  そういう年齢に差し掛かってきているので,あがらう事なくやって行きたいと思っています。    

父の芝居をずーっと見てきたので、原点はそこなんじゃないかと思います。    演技ではあるが、こういう時代にこういう人はいたよねと言うような信じさせかたを父はするので、そこはどの演技に対しても自分が求めていくところかなと思います。   役の核を掴んでいるといった感じですね。  セリフを忘れてもその人間に成りきっていたら、どんな言葉でも出るじゃないですけれども、毎日の父の「芝濱」を見ていると本当にそう思います。  歌舞伎って本当に凄いと思います。   本を貰って自分からその役に憑依してゆく、憑依した中で芝居をやった時に、自分のアンコントロールな部分で、何かが出た時に快感ですね。   本を読みこむ時間はないが作るしかないですね。  

一緒に舞台とかコンサートに行きますが、今の子供の吸収状態を見ていると楽しみではあります。   弟からは歌舞伎というレールに敷かれることなく自由でいいなと言われましたが、自由が嫌で嫌でしょうがなかった。   行く道が判らないなかで自由って、なんだと思いました。   レールが敷かれている方がよっぽどいいと思っていました。   やっと50歳ぐらいになって判るという感じです。   或る程度のレールを敷いてあげないとほったらかしという事になりますので、子供のことでは苦しくなる事が多々ありますね。  その役になっている時には自分を埋めていきたい。  見落としているところがあるのではないかと、台本を一から読み直すとかあります。   役になるうえで情報を一杯にしておきたいという感情は有ります。  海外の人と一緒に仕事をしたいですね、海外にも通用する作品を作りたいと思います。  

2022年3月25日金曜日

大原千鶴(料理研究家)         ・大原流 時代を生き抜くヒント

大原千鶴(料理研究家)         ・大原流 時代を生き抜くヒント 

コロナ禍で仕事が無くなり収入が激減した時もありましたが、又戻って来つつあります。  「今日の料理」の番組でカメラが送られてきて、自分で撮ったこともあります。   教室で人が集まってやるという事は出来にくい状態です。  今は中断しています。   SNSとかミーティングのシステムとか、こういったものを活用するようになりました。  新しい自分を見つけていくことでもあると思います。  去年からeコマース(electronic commerce  コンピュータネットワーク上での電子的な情報通信によって商品やサービスを売買したり分配したりすること。)を始めて、紫蘇のシロップを売ったり、土鍋を売ったり、新しい商品を企画して開発したりしています。   最初言葉もわからない状態でしたが、自分で調べたり、子供から教わったりして、段々判って来ました。  

会社でもリモートワークが増えてきていると思いますが、学ばないと前に進めない時代になってしまったなあと思います。    新しいことに一寸でもいいから挑戦して見る、そこに対する好奇心とか、それを楽しめるというみたいなものを持つという事が、私たちがフレッシュであり続けることに対して必要な事ではないかなと思います。   

スーツを着たサラリーマンの人が保育園に抱っこひもで赤ちゃんを抱っこして、子供を乗せて保育園に送っている男の方を見たら凄いなあと思います、時代は変わっていると思います。ジェンダーに関する偏見も私は持っているんだなあと思います。   

子供を育てながら、主人の母親を介護した時期がありました。   思い返してみるとそこまで頑張らなくてもよかったんだと思ったりします。    食事に関して手作り信仰みたいなものがあって、無理なことをしてイライラして子供に当たったりしました。     自分の食を自分の力で整えられるという事は、生きてゆく中で一番大事なことではないかと思います。   

まだ還暦ではないんですが、一巡して生きたなと言う感じがして、自分の生きるステージが次の段階に移ってゆくようで、仕事、趣味、時間とかが大事になってきて、自分の時間が必要になって来るんですね。   時間も確保していかなければいけないし、自由を得ようと思うと、多少の孤独と責任、責任の中にはお金という事も付いてくると思います。    ここでちょっと株をやりはじめましたが、その会社のこととか、経済、社会の動きに対して敏感になります。  新しいことを日々学んでいます。   

食を通して興味があるのがSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)です。  食べることは環境に密接につながっているので、資源保護の認証のあるものにしてみたり、みんながうまく回ってゆくための消費の仕方、が大事だと思います。

コロナ禍で、一番大事なのは家族の繋がり、人との繋がりとかありますが、次は時間だと思います。   情報量も沢山あり、情報をちゃんとジャッジすることも必要です。  自分が出来る範囲で正しくて、みんなが納得できるような質のいい情報を集めて、そこに時間を使ってゆくべきだと思います。   

私たちは命を貰って食べている。  野菜、魚、肉、豆腐でも元生きていたものを身体のなかに取り入れて、食べている。   このエネルギーが人を不快にさせたりする、世の中のためにならないことに成ってはいけない。   食べてきたものに対して失礼な行為だと思います。   日々自分が出来るささやかなことを大事にしていっていただけたらいいなあと思います。



2022年3月24日木曜日

菅谷富夫(大阪中之島美術館館長)    ・【私のアート交遊録】水の都からアート発信

 菅谷富夫(大阪中之島美術館館長)    ・【私のアート交遊録】水の都からアート発信

大阪中之島美術館は2月2日、開館しました。  1983年の構想発表からおよそ40年、1990年の美術館準備室の設置から30年あまり、バブル時代に産声を上げその後の大きく厳しい社会変化を乗り越えて開館しました。  そのコレクションは19世紀後半から今日に至る日本と世界の優れた美術とデザインを核としながら、地元大阪で繰り広げられた豊かな芸術活動にも目を向け、その数は6000点を越えています。  大阪の経済と文化を支えはぐくんできた中之島の新しいシンボルとして誕生した大阪中之島美術館について、準備室の時代からかかわってこられた菅谷さんに伺いました。

4月9日からモディリアーニ特別展を行います。  大阪は2025年に大阪関西万博が開催されるのでそれに向けて、設計図を作って動き出しています。   回りが高層ビルがあるので、美術館だと主張するために外観は黒になっています。    1,2階はガラスで3,4,5階は黒い壁になっていて宙に浮いているような感じです。   4,5階が展示室になっています。 5階は天井まで6mあって大きな作品も飾れます。   大阪の出身の作品が多く所蔵しています。   4,5階で3000平米超える展示室がありますが、出来るだけたくさん展示しようといことで400点展示します。  一般的には120,30店程度だと思いますが。  

山本發次郎さんが戦前から戦後にかけて収集した作品があります。  1983年にその作品を大阪市に寄贈しました。  それがきっかけになり美術館を作ろうという事になりました。そのコレクションの中には30数点の佐伯祐三の作品が含まれています。  「郵便配達夫」なども展示されます。   大阪の美術館として特徴をどう出そうかいう事で検討して、近代デザインをやったらどうかという事になりました。   準備室が生まれたのが1990年です。  バブル期でおおきな美術館を作ろうという考えがありましたが、1990年代後半になると、大阪市の財政事情も厳しくなり、活動が停滞しました。  その間も展覧会場を借りて展示活動などはしてきました。   大きく言うと3度目のプランが2014年にできました。   

経営方式ではPFIPrivate Finance Initiative)方式で民間企業に運営をお願いする方式です。   柔軟なやり方で運営します。   赤字を出した場合はそのまま背負って翌年に持ち越します。  展覧会をする側の責任とかが明瞭になりますし、効率的にもしなければいけません。   大阪で活動した作家、大阪をテーマにした作品、そういった作品を吸収して、展示することも重要な事です。   吉原治良をはじめ、世界的に評価をされてきている。  美術大学を出ないで活躍してきているのが、伝統として江戸時代から大阪ではあります。   そういったことを知っていただくことは、大阪の美術館がやって行かなければいけない役割かなと思います。  

私は千葉県の出身です。  大学は東京でよく美術館に通いました。  気にいった絵があってその印刷物を買って家に飾ったんですが、モディリアーニの絵でした。   卒業後デザインを中心とした編集の仕事をして、それがきっかけで滋賀県の信楽で現代陶芸の美術館を作るという話があり行きました。  大阪で美術館を作るという話をいただいて、1992年に大阪へ行きました。  準備室が出来て2年後でした。  それから30年経ちました。

大阪に行くならあの美術館だねと言われるようにしていきたいと思っています。   プラットホーム的な美術館に成れたらいいなあと思います。    お薦めの一点としては1913年に描かれた大阪の女性画家、島成園の「祭りのよそおい」、店先の縁台に、晴れ着を着飾った三人の少女が座っている。  右端には立った少女が一人。 右端に立つ少女は着物も粗末で、裕福な少女たちをジッと見つめ、それも横向きで目しか描かれていない。  この絵のテーマは、子どもの世界に投影された大人社会の格差、残酷な現実社会の姿です。






2022年3月23日水曜日

2022年3月22日火曜日

キャロットyoshie.(ダンサー)      ・右手右足を失っても 今がいちばん幸せ

 キャロットyoshie.(ダンサー)      ・右手右足を失っても 今がいちばん幸せ

今年54歳、運送ドライバーとして働いていた2015年10月に、トラック同士の正面衝突事故で瀕死の重傷を負い右手と右足を失いました。   失意の底にいた時にダンスと出会い、今では義手と義足を付けたダンサーとして活動しています。  去年行われた東京パラリンピックの開会式でもダンスを披露しました。  

右腕にニンジンをかたどった義手を着けています。   膝から下が義足になっています。 キラキラ光る義足を皆さんに見ていただきます。  勇気と元気と笑顔を届けて行けたらいいと思っています。   

美容師でサロンを経営していました。  夜は大型のトラックを運転していました。  睡眠時間も2,3時間ぐらいでした。   当時は中学二年生の長女と二人で暮らすシングルマザーでした。   子どものために少しでもお金をためておいた方がいいと思って、ダブルワークしていました。   荷物を積んで走っている時に、前方から大型トラックが走ってきて、センターラインを越えてきたので、道が狭いためによけきれずに、半分正面衝突のような感じでぶつかりました。   朝の4時34分でした。  ぶつかると思ってシートベルトを外してシートを倒して寝るような形にしました。  足はブレーキを踏まなくてはいけなかったので足はやられてしまいました。(粉砕骨折)   エンジンを切ろうと思ったが右手が動かない。 左手でドアを開けようとしたが、右腕のところにぬるっとした感触がありました。   でもドアはすでに無くて右腕はありませんでした。    住民の方が出てきまして、近くに腕がないかどうか聞いたら近くにあるという事で、救急隊の人に渡してほしいと言いました。  腕がくっつくと思たんです。   でもそんな状況ではなかったようです。   痛みはなく救急搬送されました。  搬送されるまで長女のことばかりが頭に浮かび、医師には「母子家庭なので、今は死ねない。命だけは助けて」と何度も叫びました。

右腕の上の方から切断する事になりました。   右足は2か月ぐらい経ってから切断することになりました。    足先までは残っていましたが、破砕骨折で治ることは厳しかった。  娘が「切っちゃえばいいじゃな。」と先生に言いました。   「迷惑をかけることになるよ」言ったが「私がやるから」と言われました。    「義足付けて社会復帰できるんだったらその方がいいじゃない」とさらっと言いました。  涙をこらえていましたが「泣けば良いじゃない」と言われてバーッと出てきてしまいました。 それで2016年年が明けてから切断しました。   最初は寝たきりで、足も焼け石を付けられているように熱かったです。   足がないんだけれどあるような感覚がありました。  リハビリはきつかったです。  最初は寝た状態でのリハビリ、車いすでのリハビリに移っていきました。   細菌により感染して痛くて義足を履くことが出来ず、装具を付けて歩けるようになったら退院しましょうという事になりました。   それまでに2年ぐらいかかりました。   辛くてリハビリを辞めたいという事はありました。    美容室もできなくなっていたので、予約をキャンセルするための対応などを娘がしてくれました。   

担当の看護助手さんから車いすダンスがあることを教えてもらいました。   調べて見学に行きました。   車椅子を操作して笑いながらダンスをしている姿を見て、こんな世界があるんだと思いました。   義手義足のダンスをするようになりました。   違ったダンスもやりたいと思って、ジャズダンススタジオにも通い始めました。   体力が不足していることもあり、板バネを付けて走ることも教えてもらいました。   義足は細かいところまで装具士さんに調整してもらいます。   普通の生活の義足とダンスをするときの義足は全く別です。   陸上は板バネ、普通の生活の義足は足の形をしていて、ダンス用は特注で、杖のような棒でそこにLEDのテープを巻きつけています。        

ディズニー映画「ズートピア」の主題歌に励まされ、義手装具士さんに「この曲で踊りたい」と言ったら、「右腕にニンジンのソケットを付ければいいよ」と言われて、「キャロットyoshie.で頑張って出て行け」と言われました。(キャロット=ニンジン)  生活のこと台所作業も病院で習いますが、家に帰ると勝手が違ってどうしようかと思いましたが、娘にいろいろ手伝ってもらいました。  だんだんと考えて一人立ちするようになっていきました。   

私が住んでいるところは車がないと不便なところで、車を運転しようと思っても2年半リハビリをしていて、公道を走ったこともなく、怖くて最初走った時には20km/hでした。  何回も練習してようやく走れるようになりました。   娘から励まされる言葉が一杯ありますが、「今」という言葉がよく出てきて「今のこの一瞬を大事にして楽しんで、生きて行けばいいんじゃない。」と言われます。   先生からも「過ぎたことはもう終わっているんだから、反省する事はあるにせよ、今のあなたにはもう過去は思いだすことはしないほうがいい、逆に今を見なさい。」という事は言われていました。   娘が段ボールに「今」という言葉を書いてくれて病院の壁に貼ってくれました。   

昨年八月の東京パラリンピック開会式に出演しました。  モデルとしても撮影していただきました。  小学校での特別授業では自身の義手や義足を児童らに間近で見学してもらう事もやっています。   娘への恩返しがしたいのと、これからもよろしくという事。  たくさんの拍手をもらって、世界中の人たちに勇気と元気と笑顔を届けたいと思います。






2022年3月21日月曜日

2022年3月20日日曜日

福田浩(江戸料理研究家)        ・【美味しい仕事人】江戸料理に魅せられて

 福田浩(江戸料理研究家)        ・【美味しい仕事人】江戸料理に魅せられて

江戸時代に庶民はどんな料理を食べていたのか、福田さんは当時の料理本をもとに江戸料理を再現した第一人者です。   大学卒業後、家業の料理店の傍ら、古い料理本の研究や江戸時代の料理の再現に取り組みました。   特に江戸時代のベストセラー「豆腐百珍」の再現では江戸っ子の生活が生き生きと想像できるようだと、評判になりました。  江戸料理再現の話を中心に現代にも通じる食の楽しみ方について伺いました。

江戸時代の庶民の食というと豆腐などは代表的なものだと思います。  「江戸前」は江戸湾の前の海からとれるもの、特に鰻に「江戸前」と付けたのが最初らしいです。  6,7つ川が流れ込んでいてそれぞれ栄養が違うんです。  平賀源内が土用の丑の日と言ってずーっと続いているという事は素晴らしいことです。   初鰹は女房は質に入れても食え、なんて江戸っ子は見栄っ張りなんでしょうね。  初鰹は今に換算すると20万とか30万円とか言われますが。   豆腐とか鰯が一番おかずとして食べられていたようです。  

八杯豆腐は、お椀で水6杯、しょうゆ1杯、酒1杯という8杯汁で豆腐をゆでたものです。  豆腐のおつゆです。  奈良の東大寺に最初豆腐が伝わったらしくて、「豆腐百珍」は天明2年(1782年)5月に出版された料理本です。  10年、20年かかって豆腐が広まった頃料理の本になったのではないかと言われています。   「料理物語」という本が江戸時代初期に出ています。  世間に広まっている料理を集大成したものでした。   蕎麦よりもうどんが先で、うどんの茹でようを「食ってみればわかるだろう」と料理の神髄を言っていて面白いです。   料理本は200冊はくだらない。  手書きなどを含めるともっとたくさんあったと思います。   江戸時代は太平と言われるけれども、飢饉もあって暗い面もあったと思います。   

江戸料理店をやっていましたが、平成28年に閉店しました。   築地から豊洲に変る時に仕入れていた魚の仲買い(魚を一番よく知っている)が辞めるというんです。   そうなると辞めざるを得なかった。   実家は大塚で創業が昭和10年の料理屋でした。     母親の実家は蔵前の料理店でした。  本膳を対象にしていたので、こちらも時代の流れで辞めました。   早稲田大学文学部に入りましたが、食べ物に関係する先生がいたりして、そのうちにやらなければいけないのかなと思うようになってきました。   学校を出てから早稲田の正門の前に料理講習の研究家がいて、そこに通って勉強したりしました。  父親から修行先を紹介されていったら、座り板で(まな板の前に座って料理を裁く)、祖父も同じ格好でやっていまして、昔の絵巻物を見るような感じで吃驚しました。   料理場には女の人は入れませんでした。  事前に料理、器のことは決めていて、仕事は無言で行います。   江戸時代の板場がそのまま残っていました。  

料理書原典研究会、昭和49年からスタートしました。  川上行蔵さんが料理の古い本の勉強会をやりましょうという事で、食べ物に関わる人たちがほとんど来ました。   最初は「豆腐百珍」を参考に再現をしてゆきました。    江戸の料理本には小さじ何杯とか、数値はほとんど書いていないです。  極端に言うとうまいか、まずいかの判断だけです。 再現にも厳しい人は鯛はどこからとったものかとか、醤油、炭は備長炭とか、難しいところもあります。  刺身は煎り酒と言って、お酒に梅干、鰹節をいれて、煮たたさせてこして使ったものだそうです。 (醤油が普及する以前の室町期に考案され、江戸時代中期まで垂味噌と伴に広く用いられた。)  おいしい調味料になります。  魚を活かした食べ方です。  

「豆腐百珍」をやってみて、材料を無駄にしないという事です。   買い食いばかりやっていると、世界遺産に登録された和食も消える運命にあるような気がします。  料理はすべての材料を活かしきって料理になるわけです。    

2022年3月19日土曜日

柏木哲夫(ホスピス財団理事長)     ・コロナの時代を問う

 柏木哲夫(ホスピス財団理事長)     ・コロナの時代を問う

柏木さんは死が迫っている患者に、延命ではなく痛みを除去し穏やかな死を迎えることに重きをおいたホスピスの概念を日本で確立させた第一人者です。   しかし、新型ウイルスの流行によって今までのように人の尊厳を重視した看取りが出来ないケースが出てくるようになってきました。  コロナ禍の時代私たちは、そして医療者は人の最後にどのように向き合うべきかを柏木さんに伺いました。

1939年兵庫県淡路島出身。   医学の道を志した柏木さんは1959年大阪大学医学部に進学、30歳で渡米し、留学先のワシントン大学で後のホスピス医療につながる取り組みに出会い、良き死を迎えるための医療に目覚めます。  

延命、生命を長く保たせるという事は医学の一番大切な事である、そういう考え方が医学界全体を取り巻いていました。   1970年代の初めぐらいに、癌で死を迎えざるを得ないその時に、生命を伸ばすという事よりも、苦痛を緩和してもらってその人らしい死を実現させるという方向性を考えて欲しい、その考え方に接して、苦痛を緩和して安らかな死を迎えたいときっと思うだろうと、そういう思いをもって日本に帰って来ました。    92,3歳のおじいさんが胃がんの末期で、静かに死を迎えつつあるその時に、主治医が心停止が起こり始めた時に対処して肋骨が折れる音がして、これはいかんと思いました。  

1984年柏木さんは日本で初めてのホスピス専門の病棟を開設します。  ホスピス医療に30年間携わって2500人以上を看取ってきました。  

すい臓がん、肺がんの患者、それぞれ72歳で、二人の対比を話してみたい。   すい臓がんの72歳の男性は倉庫会社の社長さんをしていて、金持ちでした。  モルヒネをスタートしました。   数日で痛みは無くなったが、心の痛みが出てきて、死の恐怖が主な痛みになりました。  とんとん拍子の人生であったが初めてうまくいかなかったのがすい臓がんだった。   いい薬はないのかと叫び、叫べなくなりしゃべれなくなり亡くなりました。切ない感じでした。  肺がんの末期の患者は女性でクリスチャンの方でした。   息苦しいというのが一番の問題でした。  あと1週間か10日ぐらいの状態でした。   モルヒネとステロイドを投与して3日ぐらいで楽になりました。   娘さんに対して「いろいろお世話になったね。 いってくるね。」と言ったんです。   これが最後の言葉で次の日に亡くなりました。   この二人があまりにも対照的でした。 

すい臓がんの男性は心も痛いし身体も痛い、何とか直してほしいという心の裏には、死ぬのではないか、その死の恐怖があった。  今までの身分、財産、交友関係、家族とかこの人の周辺にあった、その人の生き甲斐みたいに生きてきたことが全部剥げ落ちてしまうわけです。 仕方なく死を迎える。   女性の場合には魂に平安がある、行き先がはっきりわかっている。  体の部分、心の部分、魂の部分もそれぞれ調和のとれた形で、うまく収まっていればいい死を迎える事が出来る。  

執筆、講演、学会のお世話、それが私の3大役割と思っています。   2500名の看取りの中で、一つの共通した体験を、「矢先症候群」という名前を勝手につけました。    58歳の肝臓がん末期のご主人が入院してこられて、早めに会社を辞めて温泉にでも行こうかと言っていた矢先にがんで倒れてしまった。  まだ先だと思っていたが、死を背負っていた。  一枚の紙に「生」という字が書かれていて、風がふっと吹いて裏返ると裏には「死」という字が書かれている。  いつ死が訪れるか判らない。  我々は死を背負って生きているという事を段々知ってきました。  やがてこの世を去るんだぞという、いい意味での緊張感をもって生きてゆくという事が大切だと思います。 

コロナの場合は準備するという事がなくて短い闘病生活で亡くなられる。   ご家族は心の準備もなくて、しかも死に目に会えない。   これは大変なことだと思います。   「生命」と「いのち」の違いは、その言葉から連想してみるといいと思います。  私は「生命」からは生命保険、生命維持装置、「いのち」からは「君こそわがいのち」(歌)、賛美歌で「いのちの泉」というものです。  「生命」は物質的な感じがする。 「いのち」は永遠性というものがあると思います。   

中川米造先生が腎臓がんで亡くなられる前にこういったんです。  『私の「生命」はもうすぐ終焉を迎えます。  しかし私の「いのち」すなわち私が大切に思っていること、私の価値観はこれから永遠に生き続けます。  今までの医学は「生命」は診てきたけれど「いのち」は診てこなかった。   これからの医学は「生命」だけではなく「いのち」をもっとしっかり診てゆく必要があると思います。  これが私の遺言です。』  この言葉を聞いてキューっと胸が締め付けられる思いがしました。  

患者さんが大事にしている事、大切に思っていることを、どう生かしてゆくかという事に医療がしっかり目を向けているかどうか、それがコロナの場合は患者さんの生命、いのちと同時に家族の生命観、いのち、最後に患者さんを看取ることができない、という事がどれほど家族にとってつらい事なのかという事に対する思いに、もう少し強く深く考える必要があるのでではないかと思います。     父親の生き様を見てきている息子がそれを参考にして、この時父親が生きていたらどうするのかなあと考えたり、困った時に父親ったらどう対処しただろうかと、父親の生き様を見てきている息子だからできることですね。   「いのち」を繋ぐというのは、その人が大事にしてきたこと、その人が持っていた価値観をその子供たちが受け継ぐ、繋いでいく意味があると思うんです。  

2500人の看取りからいろんなことを教えられましたが、人は死んでゆく力を持っているなあという事です。   死というものをどこかで覚悟して、これは誰にでも訪れる事なので仕方のない事なんだなあという風に思う力みたいなものを人間は持っているのではないかなあと思います。    身体の部分も、心の部分も、魂の部分も、それぞれが調和をとれた形でうまく収まっておればいい死を迎える事が出来る。   大切なのは死んでゆく力を発揮できないような状態を防ぐ、物凄く苦痛に満ちた死を迎えさせてはいけない。   安らかな死を実現するという事が我々の非常に大切な仕事だと思っています。  

患者さんとの距離には難しいものがあり、具合いの程度によって近づきすぎても駄目だし、離れすぎても駄目です。  患者さんの心が敏感になっている。   コロナで問題なのは手を握るという事が出来なかった。   手を握ることが効果的だという事が表情を観るとよくわかるんです。   手を握った時の患者さんの安心感は心と魂の真ん中ぐらいのところではないかと思います。   ホスピスでのグループとして、患者グループ、家族グループ、医療看護のスタッフグループ、この3つのグループにケアが必要だと思います。   特に家族へのケア、最後の接触は大事だという事です。   スタッフのストレスも凄いと思います。  コロナ病棟の場合一番問題なのは、患者さんとのコミュニケ―ションが取りづらくなっている。  ご家族とシェアすることともに考えることが大切だと思います。   患者さんの慰めになるような(写真、花その他)ものをご家族と相談して置いたらいいかなあと思います。

ホスピスではちょっとしたユーモアが死の現実と向き合う空間に、笑顔と癒しをもたらしたと言います。  柏木さんはユーモアが困難な状況を生き抜く助けになると信じています。

コロナ禍で日本全体が重苦しい中、ユーモアが持っている働きはかなり大きいと思います。ユーモアは、愛と思いやりの現実的な表現である、と定義してもいいかなと思います。   普通では笑う事が出来ない状況でもユーモアを導入することによって、つらい状況を笑いに変えることが出来る。  クスっとでもいいから笑えることにみんなが少し心がければ、上向きまではいかないまでも下がって行くのを持ちこたえることが出来ればいいかなと思います。


2022年3月18日金曜日

下谷洋子(書家)            ・上州の気質を筆であらわす

 下谷洋子(書家)            ・上州の気質を筆であらわす

1951年群馬県生まれ、70歳。    去年文学や演劇など様々な芸術分野で活躍した人に贈られる毎日芸術賞を受賞しました。   下谷さんの受賞は銀座で開かれた「上州の韻き こよなく・かな」というテーマで万葉集、さんよう?、樋口一葉などのほか、群馬出身の歌人土屋文明などおよそ50点を展示した個展を開いたことが評価されたものです。  作品つくりには2年かかったと言います。   又先月2月日本橋デパートでの現代女流書100人展にも出品し、忙しい日々を過ごしています。   

どちらかというと渋めの紙が好きでしたが、ピンク、ブルーとか先生にしては珍しいですねと言われました。  コロナ禍で暗い世ですから、少しでも心が潤ってくれればと思って、伊予の紙に書きました。    かなは変体かなというのがありますが、 同じ字でも使う先生によって表現が変わります。  漢字に近い行書気味の変体かなもあるし、崩した変体かなもあるし、その中間でも何種類もあります。  

「上州の韻き こよなく・かな」  韻(ひび)きは音響の響きよりも、文学的な文章の流れとか、表現の中のリズムとかで使うのかなと思います。   幅広くかなを見せたいという思いがあり こよなく・かな という表題にしました。   書というものは人間の生業と風土と凄く関係するものではないかという事で、私が求めてきたかなの世界は群馬じゃなかったら、もしかしたら生まれなかったんじゃないかと、そういう風に思うようになりました。  上州のかなの韻きを見てもらいたいと思いました。  

かなは宮廷文化で生まれ、京都、奈良が中心でした。   生活の歌だったりする東歌の世界を根に持っているところで生まれ育っているものですから、文化的にも違った背景に興味を持ったという事もあります。    かなを書くのにもふわっとした柔らかい調子で書くよりは魂を込めるようなあでやかな強さに憧れてきました。    線は、技術的なものもありますが、その人の性格であったり、生きざま見たいなものが出るのではないかと思います。   読める読めないは別にして、書いた書がふっと迫ってくるようなことを感じる事があると思います。  

かなは日本で生まれた日本だけのものです。   海外にも展示しますが、読めないかとは思いますが、流れとかリズムを感じていただけるものだと思います。   海外ではすごく人気が高いです。   かなの歴史があり、昔のものを勉強しないとなかなか自分のものに到達はできない。  同じ「能」でも「の」の何種類もの形があります。  幅広いので覚えるだけでもかなり時間がかかってしまう。   同じ筆で書いても「転折」(横画から縦画に転じ、縦画から撥ねに転ずるように、筆路が急に変化すること。)一つとっても表現の仕方も違うし、「連綿」(二文字以上の文字を続け書きすること。)の太さ、長さを取ってみてもみんな違います。  ですから、何度見ても勉強になります。   

渋川で生まれて前橋に移りました。  子供の頃は天真爛漫といった感じの子でした。  父が家で書を教えていたので、小さいころから書くことは好きでした。  小学、中学時代は展覧会に出して賞を沢山いただきました。    高校に入ってから専門にやったらという風に考えるようになり、東京学芸大学書道科に入りました。   配置、流れなどいろいろ勉強になりました。   大学卒業後はかな書家として生きて行こうとしましたが、漢字の書の勉強をし直した時期がありました。   卒業後も伊東三州先生、中島先生にもう一度基本から教えてもらったりしました。   

独学になったのは30代の半ばぐらいからです。   独り立ちしたかった。  楽しいですが大変でした。  ジャンルを超えていろいろな人とお付き合いが出来たので良かったです。   感想が一つの指針にはなりました。  師匠がいない分、きちっとしたものは出したいと思いました。   かなを志す若い人は、かなだけではなく幅広く、書そのものを見て欲しいと思います。   師弟関係だけではなく、幅広い交流をしてほしいと思っています。   角度を変えていろいろ勉強していきたいと思っています。







    

2022年3月17日木曜日

2022年3月16日水曜日

中村憲剛(元Jリーガー)         ・【スポーツ明日への伝言】パスで奇跡を起こす男

 中村憲剛(元Jリーガー)        ・【スポーツ明日への伝言】パスで奇跡を起こす男

サッカー一部リーグJワンでここ5シーズンで4回の優勝を飾っているのが川崎フロンターレです。  川崎フロンターレに一筋18年間チームの中心選手としてプレー、現在の黄金時代の礎を築いたのがミッドフィルダーの中村憲剛さんです。   2020年を最後に惜しまれつつ現役を退かれた中村さんは現在評論家として、指導者としてサッカーへの新たな貢献を視野にいれながら活躍中です。

サッカーを外から観察するようになって、自分の表現したいものをプレイで表現出来ない怖さみたいなものがあります。  それにはしゃべる事だったり、書くことだったりそういった事しかないんだと思いました。  より勉強しないといけないと感じました。   現役の頃にも書いていましたが、そのころの方が書きやすさはありました。   しゃべり過ぎの面があるようです。

1980年10月31日生まれ、東京都出身。  東京都立久留米高等学校ではキャプテンを務めて高校選手権東京大会ベスト4、中央大学に進み、4年生の時には関東リーグ2部で優勝、1部復帰を果たす。 2003年川崎フロンターレに入団、ベストイレブン8回、J1史上最年長36歳でもMVPを獲得、2006年から2013年は日本代表に選出されて、2010年FIFAワールドカップにも出場、2017年川崎フロンターレのJリーグ初優勝、2018年連覇、2019年左膝前十字靭帯断裂という大きな怪我をする。  10か月の長いリハビリを経て復帰戦でゴールをあげるなど、2020年の3回目のリーグ優勝にも中心選手として貢献。同年11月1日に引退発表。  

子供のころからJリーガーにはあこがれていましたが、中学、高校の時には胸を張って言えるような立ち位置には居ませんでした。   大学4年になって2日間のフロンターレの練習に参加できました。   半年返事がなく不安な気持ちでした。  中学では身長が136cmで一番前でした。  サッカーをやっていても怖く一回離れました。  離れたことは、いろいろ考えることがあり、逆に良かったと思います。  

フロンターレではミッドフィルダーからスタートして、2年目に下がったポジションをやってみないかと監督に言われました。  最初戦力としてカウントされなくなってしまったのかと思いました。  チャレンジすることで自分の幅が広がるのではないかと考えました。それから中心選手として出れるようになりました。(ボランチ:守備的な役割を担うMF)    自分の判断一つで試合の局面が変わるので、自分に取って向いているポジションではないかと思いました。 人を活かすことを覚えました。  私がボールをしっかり止めていないことを監督から言われて、みんなでボールをしっかり止めて、しっかりパスをすることをプロの選手がやって、センセーショナルだったと思います。   そこから出来るプレイが増えて行きました。 

フロンターレが地元との結びつきを非常に大事にしている。   そういった方向性を定めたのが2001,2年の頃でした。   僕が入ったのは2003年でした。  イベントとか面白い試合を見せることで川崎とのつながりがどんどん大きくなっていきました。   

2019年11月2日に左膝前十字靭帯断裂、こんなプレイで切れてしまうのかと思いました。   全治7か月という事でした。  翌年辞めることは決めていたので、引退への道がはっきりと見えてしまいました。   引退の年に向けて治して、復活する姿を見せて皆さんの前で引退するという風に頭を切り替えることが出来ました。   復帰戦でゴールも決めることが出来自分自身吃驚しました。     10月31日に40歳の誕生日にゴールを決めることが出来ました。  それまで誕生日の試合はなかったし、この日もコロナで試合が延期になった日でした。  11月1日が引退表明。    

ブログに記載されている事、「小さいころから理想とする自分になるためにやり続けてきたこと、それは己を知る事。」   自分が何が出来て、何が足りてないかという事を知っておくという事は非常に大切なことだと思います。   若い人に対しては、まず楽しんでほしいです。  自分の個性を存分に出して欲しい。  

  


 

2022年3月15日火曜日

鈴木利典(元中学校校長)         ・「オオカミ少年と言われても」

 鈴木利典(元中学校校長)         ・「オオカミ少年と言われても」

2011年3月11日に東日本大震災が発生してから11年が経ちました。  震災前、岩手県の沿岸地域に教師として14年暮らしていた鈴木さんは震災で教え子や職場の同僚など多くの方たちを亡くしました。   震災から1年後、岩手県の大槌中学校で校長先生として勤務することになります。   自身のことを半分だけ被災者、半分だけ支援者と話している鈴木さん、自分の役割をどのように受け止め、震災から10年以上が過ぎた今、どのようなことを伝えようとしているのか伺いました。

「震災を知らない君たちへ」という本を近く出版、去年は「子ども達は未来の設計者 東日本大震災その後の教訓」著書を出す。   去年の著書は今後の災害に役立てて欲しいという思いがあり、教育関係者、支援者、防災担当者向けに書かせていただきました。    今回は震災を知らない子供たちへのメッセージという事で心を動かせればいいなあと思っています。 

震災を知らない子供たちが多くなってきて、これからが被災地が直面する震災の風化との戦いになってゆくんじゃないかと思います。   自分が被災地に行くと不思議な立ち位置で、自分は被災者でもないし、支援者でもない。  直接被災した人たちはなかなか口を開かない、被災地の中を伝えるのは自分の使命なのかなと思いました。   

当時岩手県花巻市にある岩手県立総合教育センターに勤めていました。   震災の翌週に緊急支援チームを作って、被災地に入りました。   陸前高田市の教育委員会の支援を志願していきました。   震災から1年後、岩手県の大槌中学校で校長先生として勤務することになります。   町は壊滅状態で10人に一人が亡くなり、1/3の家がなくなっていました。   大槌中学校は以前に6年お世話になっています。    半分だけ被災者、半分だけ支援者という思いがあります。  大槌中学校では全校生徒267人のうち、被災した生徒は184人にのぼる。   驚いたのは彼らが笑顔で挨拶してくれたことでした。   親に心配させたくないという思いから背伸びしているのかなと思いましたが、どうも作り笑顔には見えない。  学校というのは彼らの大切な心のよりどころ、居場所だったんだなというのが後で気づきました。   帰ると狭い仮設住宅で、親も職を失って居たりして経済的にも厳しいが、学校に来ると友達がいたり、一緒に給食を食べて、部活をして、あの笑顔は友達がいたからではないかと思います。  この笑顔を絶やしてはいけないと思って、いろいろ行事をしました。  350人で焼肉大会もしました。 

子供たちの笑顔が素敵で2年間で8000枚の写真を撮りました。  語り部プロジェクトを作って、仮設校舎の生活の様子を真摯に伝えるんです。   支援の励みにもなるような語り部だったと思います。   北海道に野球部が招待されたこともありました。  その代表の方の弟が大槌町で水産業を営んで事業も成功したが、津波で奥さん、子供、弟さんが流されてしまって、弟が築いた大槌町との縁を途絶えさせたくないということで、代表の方が野球部を招待をしたという話を聞きました。   支援者の中にも被災者が一杯いらっしゃったんだなと思いました。    支援物資が山にようにきますが、食べ物では賞味期限が切れてしまったり、衣類などにカビが生えてきたりして、処分に1000万円かかったというような記事を見たこともあります。  タイムラグもあり、そこの問題もあると思います。  著名人が毎日のようにきましたがそれは異常なことで、学校が日常を取り戻すには大変で、交流の制限は大事なんだと思いました。    

現在は一関市教育委員会で情報技術の指導員を行っている。   子供たちに伝えたいのはエビデンスという言葉を大事にしてほしいと思います。  科学的な根拠、証拠のことですが、生死を分けた理由が、日頃の防災教育とか、避難訓練と直結させ過ぎているかなという気がします。   陸前高田市でも人的被害の多い区域と比較的少ない区域があり、それは防災訓練とかとは別に、背後に高台とか、逃げられる山があったからなんだと思います。  被害をできるだけ少なくさせるためには、この震災で何が人々の生死を分けたのか、という事についてもう少し科学的に見直す必要があるのではないかと思います。   吉浜地区というところがありますが、そこの食住分離は素晴らしいと思います。   津波が押し寄せた土地には家を建てるなと、そこには農地とか仕事で使う場所にして寝るところは高台にするという事で、亡くなった人は一人だったそうで、家もほとんど流されていないんです。

1993年北海道南西沖地震があり、岩手県にも警報が出されたが、避難した世帯は7%だった。   津波防災学習会を行ったが、いつ来るかわからない津波についてはオオカミ少年のように見られました。   それから18年後に東日本大震災が起きました。  学習会の時のことを思い出して逃げたという人が居ました。  

「恩送り」 恩を受けてもなかなか恩返しができない。  人に何かを貰うことよりも、人に何かをしてあげる方が喜びが大きいような気がするんです。  「恩送り」という言葉に出会って凄く気持ちが楽になりました。  困った時には支援にすがって、或る時にその支援を返せばいいんだという事です。    被災地で出会った子供たち、支援者、あの時に出会った人たちの生き方というのは経験できないなあという、そういう人たちに会えたという事は凄い出会いが出来たなあと思います。  




2022年3月14日月曜日

須崎康弘、和代(須崎優衣選手の両親)  ・【アスリート誕生物語】

須崎康弘、和代(東京オリンピック女子レスリング金メダリスト 須崎優衣選手の両親)  ・【アスリート誕生物語】 

全試合テクニカルフォール勝で失点ゼロ、圧倒的な強さが必要です。  今までの大会で最高の試合だったと思います。   開会式では旗手も務めました。   昨年紫綬褒章も受賞。

今年早稲田大学を卒業して、社会人でもパリで金メダルを目指すという目標が出来ているようです。  

康弘:人にやさしい子であってほしいという事と、人に喜ばれるような人になってもらいたいという事で、優衣という名前を付けました。   私も格闘技をやっていたので、大相撲、レスリング、ボクシングのビデオを一緒に見ていました。  優衣が1歳の時に1kgの鉄アレイをプレゼントしました。  筋肉と笑顔を持っていれば人生何とかなっちゃうという考えがあり、自分自身もそういう人生を歩んできました。  早稲田大学でレスリングをやってきて、今も町のジュニアクラブでコーチをやっています。   赤ちゃんの時に童謡ではなくアニメの「明日のジョー」とか「タイガーマスク」のテーマソングを聞かせて寝かしつけていました。(半分酔っ払いながら)   運動神経は良かったです。  2歳の時に補助輪なしで乗れました。   ずるいことはしては駄目だという事と、笑顔と感謝を忘れないようにという事は言いました。

和代:子供は些細な事でも褒められると嬉しいので、家事などでも褒めてやってもらっていました。  

康弘:オリンピックの吉田選手の試合を見てあこがれたという事、小学校1年生の時に海水浴に行って、たまたま千葉県のレスリングの先生も来ていて、レスリングごっこをして遊んでいたらバランス感覚がいいという事でやってみたらという事で、レスリング教室に誘ったのがきっかけでした。   私がコーチをしている松戸ジュニアレスリングクラブに入りました。   まず好きになってもらう事が大事だったので叱ったりする事はなかったです。積極的な試合をした時には褒めてあげました。   教えていないのにタックルは最初からできました。   

和代:姉と一緒にレスリングをしていて週に一回だったので遊びに行く感覚だったのかもしれません。

康弘:自宅ではレスリングの練習などは全くやりませんでした。  家では友達感覚でした。  小学生の全国大会で小学校3年生で全国大会で優勝して、意識が変わってきたと思います。   

和代:小学校4年生の文集に目標がオリンピックと書いていましたが、一般的な思いで強い決意ではなかったと思います。   食事は普通の食事しか作らないです、お腹いっぱいになるようには好きなものとか作りました。   全寮制のJOCエリートアカデミーに入門してそこの寮の食堂の調理師さんの方のお陰だと思います。 その食事のお陰で強い身体が出来たと思います。  

康弘:14歳で親元を離れる事になりましたが、寂しさがあり反対でした。  

和代:転校の問題があり、その他いろいろ普段の生活が出来るのか、期待1割不安9割といった感じでした。 

康弘:1時間ちょっとで帰れる距離でしたが、遠方から来ている子もいるのでその手前、週末は帰ってこないで年3回ぐらいでした。 

高校2年生で日本一、高校3年生で初出場の世界選手権で優勝。

康弘:辛さの代償としての栄光なのかなと思います。  肘の靭帯を損傷した時には色々心配しました。   

和代:もう辞めなさいと言う事はなかったですが、一度だけ「もうそんなに頑張らなくてもいいんだよ」と言ったことはあります。  

2018年全日本選手権の直前に開始した強化合宿で右肘の靭帯を断裂、全治8週間の大けが。全日本選手権を欠場。  無観客での東京オリンピック。

康弘:怪我をしてきているので、試合中怪我をしないか心配でした。  金メダルを取れて会えた時には「夢がかなってよかったね」と声を掛けました。   試合が終わって2,3日してから会う事が出来ました。  

和代:金メダルをかけてもらって、本当に重たくて、思いの詰まった重みと重さを感じました。  

康弘:身体能力が特にすぐれているというわけではないですが、有言実行でオリンピックに出ることはぶれずに話していました。  

和代:競技の実力の差はそんなにないと思いますが、最後の最後まで夢をあきらめないというところの差かなと思います。  夢を言葉にして発することも大事なのかなあと思います。 

康弘:優衣に望む親孝行とは、次の納得できる夢を叶えてもらいたいという事と、健康で怪我もなく引退して次の目標に向けて再出発してもらいたい。 人に喜ばれる人になるというような人生を歩んでもらえればと思います。  

和代:大きな怪我や病気をしないで、本人が望むような納得できるような形で無事に引退できることを願っています。






2022年3月13日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

*映画「海の上のピアニスト」から「愛を奏でて」 イタリア作曲家エンニオ・モリコーネ 豪華客船の中で生まれ、生涯船を降りることのなかったピアニストの物語。   

今日は逆クラシックの遺伝子。  今クラシックのトップアーティストが映画音楽に夢中なんですね。  音楽として独立して成立するようなところがあります。  トップアーティストが夢中になっている映画音楽を特集して、つまり逆クラシックの遺伝子です。

フランスのヴァイオリニスト ルノー・カピュソン  最近アルバムを作りました。      *チャップリン作曲の「モダンタイムス」から「スマイル」  ヴァイオリン: ルノー・カピュソン    映画は1936年の作品。

*ニューシネマパラダイスから「過去と現在」  ヴァイオリン: ルノー・カピュソン  ピアノ:ギヨーム・ベロン  

*映画「バルスーズ」から「ロール」 作曲:ステファン・グラッペリ ヴァイオリン: ルノー・カピュソン  ピアノ:ギヨーム・ベロン  

映像から離れてもこれらの音楽は素晴らしい。  

ジョン・ウイリアムズ  昨年10月にはベルリンフィルハーモニー管弦楽団がジョン・ウイリアムズを指揮台に招いて定期演奏会の会場でやりました。  『スター・ウォーズ』 E.T.』とか様々思い浮かぶと思いますが、ドレミファソのドとソの跳躍がジョン・ウイリアムズの一つのスタイルです。  この跳躍のスタイルの先輩がワーグナーなんです。 

*オペラ「さまよえるオランダ人」の序曲  作曲:ワーグナー            これはヴェートーベン交響曲第9番の出だしを手掛かりにしている。(ド、ソ)

*映画「ET」から「フライイング」  指揮:ジョン・ウイリアムズ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

アストル・ピアソラ 1921年生まれ。 1992年に亡くなる。 

*SFスリラー映画「オブリビオン」 作曲:アストル・ピアソラ 

*映画『スター・ウォーズ』から「帝国のマーチ」  作曲:ジョン・ウイリアムズ  ベルリンフィルハーモニー管弦楽団



2022年3月12日土曜日

権代美重子(観光振興アドバイザー)   ・知恵と工夫と愛情がいっぱい!日本のお弁当文化

権代美重子(観光振興アドバイザー)  ・知恵と工夫と愛情がいっぱい!日本のお弁当文化 

権代さんは国際線客室乗務員の経験を活かし、企業や団体の接遇教育や観光分野におけるおもてなしの指導に長く携わり、大学でも教えました。   日本のおもてなしと食文化への関心を深め、特に庶民の食が凝縮したお弁当の歴史と文化を研究、著書「日本のお弁当文化、知恵と美意識の小宇宙」にまとめました。  学校に職場に行楽に日本人の生活に欠かせないお弁当は近年の和食ブームの中、海外でも人気急上昇中という事です。  また漫画やアニメに登場するキャラクターをご飯とおかずで表現するキャラ弁がブームになっています。  お弁当にはどんな歴史や文化があるのか、伺いました。

お弁当のバリエーションが増えて利用する方としては楽しみになりました。   家で作って外で食べるものでしたが、ちょっとした御馳走を手軽に味わえるというように変わってきました。   お米がお弁当になったのは、江戸時代の中期以降です。  8世紀初期に編纂された日本書紀の中に5世紀には戦いなどには干し飯を携帯したという記述があります。  江戸時代中期になると新田開発とか品種改良が進んで、お米の生産高が増え庶民も食べられる様になりました。   江戸時代中期以降は菜種油の普及により、夜の灯りが灯るようになって一日の生活期間が長くなり、一日3食の生活形態が成り立ちました。  そのころから昼ご飯をお弁当として携行するようになりました。  干し飯を携行する時代は麻袋にいれて、そのまま水や、お湯に入れてふやかして食べました。    江戸時代の中期以降は炊いたご飯を入れるために弁当箱が使用されるようになりました。   時間が経つと硬くなったりうまくなくなったりするのでいろいろ工夫されました。  ヒノキスギで作ったお弁当箱。 殺菌作用もある。  柳を編んだり、竹を編んだりするお弁当箱もできました。 

武士もお弁当を持って行ったりしていました。  林業、狩猟では決して凍らない弁当を持参しました。  ごんぽっぽという植物を混ぜてお米を突いた餅は凍らないという作用が起きます。   お花見弁当は、江戸中期8代将軍の吉宗の時代になって、飛鳥山に桜を植えて庶民の花見を奨励しました。   桜の木の下で宴でお弁当を広げました。  楽しみにして、豪華なごちそうが入っていました。   花見弁当は重箱に入っていました。  さくらが咲き始めるのが農作業を始める頃なので、桜の下でみんなで食べて、神様を呼び寄せるというような意味もあったようです。    芝居見物も大きな楽しみでした。   土間の客を菓弁酢(かべす)客と言って、菓子がでて、弁当が出て、寿司が出るが、木戸銭の中に含まれている。  幕の合間に出たのが、幕の内弁当で、焼きおにぎり、卵焼き、かまぼこ、煮物が組み合わされていた。  卵はかけそば一杯よりも高かった。  

見物しながら食べたり飲んだりしていたが、明治時代になり西洋の演劇に劣らないようにするという事で、客席でお弁当を食べることを禁じられてからは、歌舞伎も芸術になってしまいましたが、江戸時代は食べたり飲んだりしながら身近で楽しむ娯楽でした。       明治5年に鉄道が開設されて、明治18年に駅弁が登場します。   一番最初はおにぎりに黒ゴマが振って有って、おにぎりが2個に沢庵が2切れで竹皮に包まれていました。    今は3500種類以上の駅弁があるそうです。   2016年にパリのリヨン駅で駅弁のテスト販売が行われ、掛け紙、容器の種類、綺麗さにびっくりした様です。  明治の鉄道省は掛け紙にその地方の観光案内の内容も記載するように指示していました。  

1970年代、高度成長経済期で女性も働くようになったり働く人が増えて、手軽なものが開発されました。 安い弁当も出て来ました。   今は持ち帰り弁当は300円から500円ぐらいになっています。   高齢化社会になって、高齢者向けの宅配弁当、療養者への宅配弁当とか届けてくれるお弁当が出て来ました。   お弁当が社会的な意味を持つようになりました。   

1970年代後半、アメリカに住んでいましたが、当時アメリカでは簡便さが第一で紙袋に入って居たりしていました。  最近ではお弁当箱が売り出されるようになりました。  日本のお弁当屋さんが進出するようになりました。   おかずなどの種類の多さにびっくりしています。  ヨーロッパなどでも手作り弁当が盛んになってきました。  きっかけは日本の漫画やアニメでした。   いろんなものを綺麗に入れていることにビックリしています。 キャラクター弁当を作って自慢したりしています。  

一番心に残っているお弁当は、父が肝臓の病気で入院していた時に、母がシジミのスープを作って毎回病院に届けていました。   母の思いを感じました。  お弁当は小さな幸せを届ける力、小さな幸せを貰う力、小さな幸せを分け合う力があるんだと思いました。








2022年3月11日金曜日

荒井良二(絵本作家)          ・新しい季節がそばにいるよ

 荒井良二(絵本作家)      ・新しい季節がそばにいるよ

1956年山形県生まれ、65歳。  絵本、イラストレーション、小説の挿画、舞台美術、アニメーションなど幅広い分野で活躍しています。  2005年には児童文学のノーベル賞と言われる、アストリッド・リンドグレーン記念文学賞を日本人として初めて受賞するなど、国内外で高い評価を得ています。  2022年の国際アンデルセン画家賞の最終候補にノミネートされています。  東北出身の荒井さんはこれまでも震災を経験した人たちの心に寄り添う作品を発表してきましたが、今月2年ぶりに1冊の絵本を出版しました。   震災を経験した人々へ、そしてコロナ禍で長い冬を感じている人へ春を届ける絵本を作りたいという思いで取り組んだ作品です。  

表に出ると風景を身体で感じているんだなという事を凄く感じます。  家にいながら旅の感覚は想像力を使わないと楽しめないんだなという事を気づかれた人も多いんではないかと思います。   自宅に届けるワークショップを始めました。  家の中の或るコーナーを美術館にしてもらったらどうだろうという発想でした。  2020年に「こどもたちはまっている」という本を出しました。  2020年3月「はっぴーなっつ」を出版。  ハッピーなピーナッツにしたいと思いました。   これからこの本は旅に出て行きます。   

3人兄弟の末っ子で兄は離れていて、大人の雑誌など沢山あり、兄のもので楽しんでいた感覚がありました。  そこに「ピーナッツ」という本があって、良く判らなかったけれどかっこよかったです。(小学校の上級生の頃)   コマとコマの「間」が自分にマッチした、そんな感じでした。   絵と字がマッチしていました。  シュルツさんは字を書くのも好きだったようです。  自分で漫画とは違うものを書きたいとずーっと思っていました。   漫画と絵本の中間みたいなものを作れないかと思ってチャレンジしたのがこれです。   「吹き出し」があると安心感があります。  語ってくれている言葉が「吹き出し」の最大の魅力だと思います。  全部「語り」なっています。  春夏秋冬の1年間を綴ったものになっています。    女の子で耳が猫の耳で、シッポもあります。  

「はっぴーなっつ」の春の一部を朗読。      耳が旅をしてゆく。

震災以降、意識する一つとして、朝とか、夜とか、一年とか、考える事が多くなったかなあと思います。   季節も巡るという事で、人間の暮らしの中に季節を取り入れながら、豊かな暮らしに結びつけてゆくという事が続いて来たと思いますが、繰り返すという事の意味合いでもって作りたいなという意識もありました。  震災を通して、自分の中にあったホコリみたいなものが取れた様な感覚があって、未来、希望といったものが恥かしくて使えないみたいな感覚があったのかなと思いました。  ワークショップをやりながら子供たち大人たちと話をする中に、未来、希望といったものが恥ずかしいものでもなんでもなかったんだという事に気付かされて、「はっぴーなっつ」を書くにあたっても、季節が繰り返すことの喜びみたいなものは震災の出来事とつながっているものと思います。  11年過ぎましたが、そのなかでも繰り返す朝とか、夜とか、季節とか体感しているわけで、少しでもそういう感覚になって貰えたらなあと思います。  花とかが微笑んでくれているので、微笑んでいるものがあるよという事を絵本で伝えたいのかもしれないです。  

辛かったりするときには子供時代に歌っていた歌が浮かんでくるんです。   なんでだろうと思ったりします。   寝る前に名画を鉛筆で模写して寝るといことをやってます。  それをやると自分ではなくなる時間を持てるんじゃないか思うわけです。    クールダウンという意味でもやっています。  何か書くと落ち着きます。   一番大事にしているものと質問されると難しい・・・・。  回りかなあ。 


2022年3月10日木曜日

藤原博史(ペット探偵)         ・ペットを探せ!

 藤原博史(ペット探偵)         ・ペットを探せ!

最近のペットブームの中で家族同様に可愛がっていた犬や猫が失踪し、悲しみに暮れている人が少なくありません。   NHKで放送されたドキュメンタリードラマ「猫探偵の事件簿」のモデルで原作者の藤原博史さんは、そうした犬や猫を捜し出し、飼い主さんの元に届けるペットの名探偵です。   藤原さんはどのようにペットを見つけ出し、その捜索過程でペットと人間のどんなドラマを見てこられたのか、又東日本大震災でペットはどのような状態に置かれ、それ以降災害時のペットとの同行避難対策はどう進んでいるかなどを伺いました。

ペット探偵はニッチな職業でありますので、今まで認知されなかったんですが、NHKで放送されたドキュメンタリードラマ「猫探偵の事件簿」でメディアに取り上げられるようになって反響の大きさにびっくりしました。   物心つく前から、虫とか動物とか一日中一緒に遊んでいました。  小学校の卒業文集には、将来動物関係の職業に就きたいというようなことを書いていました。  中学校の3年生の時に1年間ほど家出をして、野外で暮らしていたことがありました。   当時は捨て猫、捨て犬が結構いました。 寒い時には車の下、犬小屋、倉庫などで夜寝ていたりすると、動物たちも暖かい場所、快適な場所を捜しまわっているので遭遇する機会があって、顔なじみになって抱き合って寒さをしのぎ合ったり、食料を拾ってきて一緒に分け合って食べたりしました。  そういう体験が強く残り、この職業に結びついているんじゃないかと思います。  いろんな職業を転々としていました。  

20代の前半に沖縄でホテルマン、漁師などをしていましたが、或る時物凄くリアルな夢を見て、私がペット探偵になり物凄く大活躍をする夢でした。  この仕事をしたいとすぐに沖縄から東京に出てきて、ペット探偵になりました。(26歳)   28歳の時に会社を立ち上げました。  52歳になるので27年になります。  約4000件の依頼を受け、発見率は約7割です。   圧倒的に猫の依頼が多いです。  犬のほかにも兎、爬虫類、蝶、虫とかなんでも来ます。   窓、玄関の閉め忘れ、年末とか普段と生活パターンが変わった時に、脱走してしまうケースが多いです。  飼い主の精神状態が普段と違うと、ペットも不安な状態になるので、まず落ちついてもらう事が大事です。  

普段家のなかで生活している猫の場合は軒下とか、物置の下、ガスメーカーのボックスの中とか、一階部分と地面の隙間、などに逃げ込む場合があります。  狭くて暗くて奥行きのある場所に潜り込んで何日も何週間も一歩も動かないようなケースもあるので、懐中電灯を使ってくまなく探してもらった方がいいと思います。   多い時には一日30件ぐらいあり、3名で動いていますが、1割ぐらいしか対応が出来ていません。   迷子探しマニュアルを公開していて、知恵を出し合って探してもらうようなこともしてもらいます。 ラインで通話して対応することも提供しています。   最も大事なのは種で探すのではなく、個で探すことだと思います。  育ってきた環境、性格、地形、季節、居なくなった時間、そういったもので行動パターンが変わってきます。   飼い主さんから詳しく聞きカルテを作ります。  自分がその猫だったらと想定して探してゆきます。  

色々なパターンに合わして、チラシを投函したり、動体検知カメラを仕掛けたり、いろいろの進め方をしています。   チラシは1000枚とかの規模が必要な場合が多いです。 効果的に伝えるのにはまずは文字を少なくして、特徴を1つ,2つをクローズアップする。 文章より写真。   細かな猫探し地図を作って整理しながら、計画的に進めてゆくことが重要です。   犬は二次元で動いてゆく動物なので線を押さえてゆく方法、猫は三次元で動くので面を潰すというようなイメージです。(チラシの投函が有効)   見つかっても逃げて行ったりするので、保護する機械を設置して進める場合がおおいです。  数分で発見できるものもあれば数か月かかる場合もあります。   3割は未発見になってしまっています。   

保護するまでに7か月ぐらいかかったケースもあります。  葉山から九州に引っ越しする際に、猫2匹を連れて行ったがすぐに脱走してしまった。  失踪から現地に行ったのが1か月後でした。  6回通って、196日目に兄猫を無事発見、210日ぶりに妹猫も無事保護できました。  2匹とも関東寄りの方に移動していました。  中には帰巣本能の強い猫もいます。  九州で一緒に暮らすことは猫にとっては難しいのではないかという事で葉山に戻ることにしたそうです。

関西の方の猫の場合、3回脱走をした猫がいました。  5km離れたところでふらふらでがりがりになった状態で保護されました。  そこの家では飼えないという事で両親の家に預けて看病して命を繋ぐ事が出来た。  情が移ってしまって返したくないと泣きながら言っていました。  

温泉地に行っている間に強盗が入って財産を持っていかれて、割られた窓から20歳近い高齢の猫が逃げだしてしまった。   現地に行ったらお城のような大豪邸でした。  猫を何とか探してほしいといことでした。  運よく一日で発見することが出来ました。  一番の宝物が戻ってきたという事で感動の再会シーンでした。  ダメージで数日で亡くなってしまいましたが、感謝していただきました。  

東日本大震災があった後、居てもたってもいられなくて、1か月後に被災地に行きました。 福島の双葉町になんとかぎりぎりで立ち入ることが出来ました。   偶然第一原発の駐車場の真横まで来てしまいました。   家の近くでうろうろしている犬、猫には会いました。   ペットフードを撒いて様子を見ていましたが、目が吊り上がって夜叉のような表情になっていました。  余震も頻繁に起きていてピリピリしていました。   2日間居ました。  依頼を受けて何度か探しに行ったことは有ります。   人がいないので聞き込みもできず、チラシを投函するわけにもいかず、難しい作業でした。   ペットどころではないというような状況だったので、難しいところがありました。    環境省が人とペットの災害対策ガイドラインというものを発表して、ペットと飼い主の同行避難を推奨しているし、画期的なガイドラインを作成しています。   同行避難に関するNPOの団体もあります。     神様から私に何か少しでもいいからお役に立ちなさいよと、何か与えられているのかもしれません。  

2022年3月9日水曜日

安東裕子(ランドセルメーカー社長)   ・ランドセルに復興の願いを込めて

安東裕子(ランドセルメーカー社長)   ・ランドセルに復興の願いを込めて 

安東さんは東日本大震災を機に新たな工場を作り、本社のある埼玉県川口市から福島線会津若松市に生産拠点を移しました。   工場で働くほとんどの従業員が地元の人で、町に雇用を生み出したり、イベントを開いて多くの観光客を呼び込んだ入りしていますが、安東さんにとって会津若松市というのは全くご縁がない町だったそうです。  何故かかわりのなかった町の復興に貢献したいと活動しているのか伺いました。

2012年4月着工で8月に稼働しました。  300~500の全ての工程が見られるようにガラス張りになっています。   お互いが見られる緊張感のある物つくりをしてほしいと思いました。    幼稚園、小学校、中高校生までが見に来ます。  一般の方も含め年間1万人が来ます。  1年に1,2度の「マンマミーヤ」というイベントを開催しています。  色々な出店も出店しています。   

2011年3月11日に15名ぐらいのお客様から、津波でランドセルが流されたという電話、手紙、メールが来ました。  何とか入学式に間に合わしたいという事でした。   計画停電があるなか、ランドセルを作ってお届けしました。  感謝のお手紙などをいただきました。 社員たちはそれを見て感動しました。    新工場を建設する計画があり、土地を捜していました。   震災で若者の働く場所がないという事をニュースで知りました。   震災の半年前に孫を事故で亡くしました。(4歳)   気持ちが付いて行かない日々のなかで、何か自分で出来ることはないかという思いがありました。   家族が突然になくなるという事を経験して、被災者の方々の思いと重なりました。   最初は候補地としては上がっていませんでしたが、福島県にご連絡したら、会津若松市はいかがですかという事になり決定しました。  最初19名でスタートしては今は90名いますがほとんどが会津若松市の社員です。    経験のない人も半分採用してすぐにこなしていきました。

昭和49年に主人と友達で販売会社をスタートさせました。  社名はイタリア語で貴重なもの、稀なものという事で「羅羅」と付けました。   会津若松市の工場では従業員の年齢は平均で30代の前半になります。   ランドセル業界では若く、向上心があります。社員が自分たちでルールブックを作って実践していてびっくりしました。   我慢強いところもあります。  新工場での一番最初のランドセルは孫のためのランドセルで嬉しかったです。  今も飾ってあります。  

10年経って、会津若松市の工場を本社にしていきます。  会津若松市にランドセルパークを作りたいと思っています。

 

2022年3月8日火曜日

大槻文藏(能楽師)           ・普遍性を持つ復曲に取り組む

 大槻文藏(能楽師)           ・普遍性を持つ復曲に取り組む

観世流シテ方  9月に80歳を迎える。  子供の頃はほとんど祖父が稽古をつけてくれていました。   初舞台は5歳でした。   8歳の時に祖父の還暦の祝賀会があり、その一番最後に猩々』で初シテを務めました。   自分は能は好きなほうで抵抗なくやっていました。   辞めたいというようなことはほとんどなかったです。   能界がどんどん増えてきて、自分なりの遣り甲斐みたいなものがありました。   祖父が、19歳の時に亡くなり、その後父が稽古をつけてくれるようになりましたが、祖父とは稽古の仕方が全部違うので、自分で能を作って行くうえでの物足りなさを感じて、父に話したら観世 寿夫先生に習う事になりました。   先生は芯の強さがありました。  理知的に能をちゃんと解明して自分なりに作って、それをちゃんと表現できるという強さがあり、スケールの大きい方です。 

新作能、復曲を手がけてきましたが、きっかけの一番は岩波から古典文学大系が出て、「傘卒塔婆」という古い名前で載っていました。  それを読んで凄い能だなあと思いました。 「重衡」を上演したのを見せてもらって大変良かったです。 自分もしたいなあと思って、身近な研究者と話をしていたら、伊藤正義先生にお会いすることになり、松浦佐用姫』の復曲許可をいただきました。  次に苅萱』をしました。  伊藤先生からこれから10年間で一緒にやろうという事になりました。   毎月のように勉強会をしようという事になりました。  廃曲になっているものの中から、毎月二人で勉強会を始めました。    7,8作 10年の間にかなりできました。 

その後天野文雄先生とか、いろんな方が集まってくださって、25曲ぐらいしました。   曲を選ぶのには普遍的なテーマが絶対必要だと思っています。   内容がどんな時代でも共感できるものでないといけないと思います。  現代の肌で感じる息吹をどうやってそこにいれていくか、学者さんと進めていきますが、学者さんはややもすると復元という、昔そのままをやりたいという方がよくあります。  私は普遍的テーマがあってそれが現代によみがえった時になんかを訴える、現代も考えさせられるようなものの作りをしないといけないし、作ってもちゃんと持ちこたえられるような曲でないといけないと思います。    

「岩船」の復曲については村上湛さん、福王茂十郎さん、天野文雄さんという方がチームで見直しをして、取り上げられました。  視覚的な違いとしては宝を乗せた作りものの岩船が実際に登場するという事です。  コロナ禍で2年延期して、出来るだろうと思っています。

2016年  重要無形文化財「能シテ方」保持者に認定されました。  継承という事については大変です。  いろいろなことを教えなくてはいけないし、舞台に出るようになってから、能を舞うようになるが、そこから始まるわけです。  いかに豊かにふくよかにものを作るかという事が大事なわけです。  作るのは自分なので作るものを会得してもらう、その教え方もあるわけです。  人間国宝としてより責任が重いように感じます。 若い人に対してはミュージカルと同じだと言っています。(室町ミュージカル)  能は思いを述べるわけです。 人間、草木もいろんな思いがあり、人間が生きて行くうえで大変大事なものであるという事を気づいて行っていただけると思います。   あらすじを頭にいれておいていただけるとかなり面白く見ていただけると思います。   今後、大曲が引き続きあるので、頑張っていきたいと思います。


2022年3月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

木下龍也さんは1988年生まれ、山口県出身。  コピーライターを目指さしていた時に穂村さんの歌集「ラインマーカーズ」に出会い、短歌の魅力に引き込まれ、23歳で短歌を作り始めます。  あっという間に雑誌や新聞の投稿欄の常連になります。  2013年第一歌集つむじ風、ここにあります』 2016年に第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』を出版。  2018年には  岡野 大嗣さんとの共著歌集 『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は小説家の舞城王太郎さんによる短編が冊子として挟み込まれ、新しい読者を開拓したと話題になりました。  2019年には詩人の谷川俊太郎さん、岡野 大嗣さんとの3人で『今日は誰にも愛されたかった』を発表します。  又木下さんはお題を受けて歌を作る短歌の個人販売のプロジェクト「あなたのための短歌一首」を続けていて、『あなたのための短歌』が去年発売されました。

雑誌の投稿欄で初めて見て、切れ味の鋭い歌でこの人は一体誰なんだろうと思いました。  

コピーライターを目指していましたが、先生から合わないと言われ、書く仕事をしたかった。 書店で歌集「ラインマーカーズ」を読んで穂村さんがきっかけで短歌を始めました。  「ラインマーカーズ」を読んだ当日に、穂村さんの「短歌ください」送って、初めて作った短歌が雑誌に載りました。   投稿するようになりました。  

友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった 」  岡野 大嗣      はっとするような歌です。  友達の存在が宿っていた、指紋は一回拭いたら再現が出来ない。  

*「どこまでも船には波がついてきて遠くに来ても寂しくないね」   中村光       船には波がついてきて、当然すぎる言葉が置かれていて 遠くに来ても寂しくないねというのはきっとさみしいんだという事が想像できる。  切なく優しい歌だと思います。     

*「シロナガスクジラのお腹でわたしたち溶けるのを待つみたいに始発」  上坂あゆみ   始発電車を待っている時の気持ち。  「・・・・・みたいに」、までが比喩でうまいなあと思います。

*「住んでいた市の封筒の愛おしさ黄緑色でダサい市章の」    水谷あい        住んでいた当時の市の愛おしさを感じる歌、言葉の置き方が凄く丁寧です。  愛おしさが先にあることでダサい市章も温かみを感じる。 サ行が入っていて、黄緑色だけ違うがそれが浮き立つ。  

*「さささ鳥と母が呼んでる鳥がいて多分これだなさささと走る」   水野あおい     面白い歌です。  多分二人とも鳥の名前は判らない。  

*「一度だけ死なせてしまう幼子が横断歩道を駆けるのを見て」   戸井田けい       心配という優しさの裏で再生されている、ちょっと怖い映像に改めて気づかせてくれる歌。「一度だけ死なせてしまう」というのは心の中の想像。

*「バス停のアクリル板に挟まった羽虫が発車時刻を隠す」    トロン        羽虫は意識して死んでそうなったとは思えないが、人間もそのように何のために生きているのか、自分の死ぬ事の意味など一切わからない。  神様の次元からすると、その人の生と死にはなんか意味が見えているのかも。

*「トースター開けたら昨日のトーストが入ったままでゆっくり閉じる」  島風香     「ゆっくり閉じる」は微妙な心の位置で、なかなかない形の記憶に残る歌になっている。

*「青空を遮るものが瞼ではない時距離に手が差し込める」    森口ポルポ       意味が判っているものをわざわざ判らない目でみて、もう一度組み立て直すと違うものに見える。  

*「鮭の死を米で包んでまた更に海苔で包んだあれが食べたい」   木下龍也       おにぎりなんだけど分解している。   前句と同様なもの

*「ゴミ箱と食パンを買うゴミ箱に食パンを入れレジまで運ぶ」   木下龍也       本当にやったことですが、自分は駄目なことをしているのではないかと、実体験をもとに作りました。  

*「キスに目を閉じないなんてまさかお前天使に魂を売ったのか」  穂村弘        「悪魔に魂を売る」という慣用句があるが、それを反転しました。

リスナーの作品   

*「あらパンを忘れちゃったと笑う妻小走りコンビニ朝日眩しく」   関本章太郎

*「皆使う修学旅行でドライヤー宿に着くなりブレーカー落つ」    白井義彦

*印は漢字、かな等、および名前表記が違っている可能性があります。




2022年3月6日日曜日

緒方恵美(声優・アーティスト)     ・【時代を創った声】

 緒方恵美(声優・アーティスト)     ・【時代を創った声】

アニメ「幽遊白書」のきつねの妖怪「蔵馬」、「新世紀エヴァンゲリオン」の「碇シンジ」、「美少女戦士セーラームーン」の「セーラーウラヌス」、劇場版「呪術廻戦0」の主役「乙骨憂太」役など数多くのアニメ、ゲームに出演しながら音楽活動、ラジオパーソナリティーとしても活躍しています。  

声優としてデビューして30年になります。  劇場版「呪術廻戦0」、コロナ禍でキャッチボールが出来ないとか、しにくいとか、そういう状況下で臨むにはやはり大変な事でした。   生の空気を感じてやるのとはだいぶ違うし、若手がそういやって人と掛け合う仕事がちゃんとできない状態が続いていて、人によっては一度も誰かと掛け合ったことがないというような状態の若手もいます。  人と会わないという事は心が動かなくなって行くと思います。    若手育成の私塾をやっていますが、2か月休み、2か月リモートで授業して4か月後に再開してやりましたが、良い感じでいた人たちが驚くほど心が動かなくなって、身体も動かなくなったり、声の出る量も違って居たりして、人と会わないことはやっぱり衰えるものだと思いました。  

3歳からピアノを始めました。  父がトロンボーンを吹いていて、オーケストラなどでやっていましたが、心臓を悪くして音楽は辞めてしまいました。  母は声楽をやっていて、家中にクラシックが鳴っているような家に育ちました。   途中から洋楽が好きにありました。   芝居をやるとはちっとも思っていませんでした。   小学校の学芸会ではピアノを弾くか踊りをやるかというような感じでした。   小学校6年生の学芸会でおばあさんの「卑弥呼」役がありましたが、みんながやりたがらなくて、私がやる事になりました。  終わった後に拍手があり、握手も求められてきて、お芝居をすると友達もでき、仲良くできるというようなことが頭に刷り込まれました。   高校では或るプロダクションの養成施設に応募してみたらすぐ仕事をいただけてしまいました。   TV、舞台とか出られて、自分ではちょっと勘違いていて、後で思うと使い勝手がいいから仕事が来たんだと思いました。   学校が芸能活動禁止だと知らなくて、すぐに見つかって仕事を辞める事になりました。   

反対されたことで、芸能活動をやってみようかと思いました。  父は反対でした。   普通の大学に行くなら芝居をしてもいいと父から言われました。   静岡の大学だったことを知らずにいて、そこではお芝居の活動はできないので1年で辞めてきたら勘当されて、その後父が折れて、オペラの専門学校に行くならば許してやるという事になりました。  ミュージカル科が新設されることになり、黙ってそちらに申請を出してしまいました。   中学時代に痛めたヘルニアが再発するようになってしまって、稽古、本番で再発するようになってしまいました。  プロで踊るのは無理だと思いました。   劇団も解散することになり辞めようと思ったら、プロデューサーの方から少年役とかでステージに立つととても花があるので、声を活かして声優さんになったらいいんじゃないのと勧められました。   

「幽遊白書」のオーディションを受けて「蔵馬」役が決まりました。 (1992年)    声優になる前は正直言って声優の仕事をなめていました。  舞台の本読みみたいなものだろうと思っていました。   そうではなくて、舞台で1か月の稽古をかけて作る役を一瞬で、一日で作らなければならないのが声優だと気づいた時にこれはやばいところに来てしまったと思いました。  ボールがどこに当たったのか、想像すると、当たる場所によって声の状況も違うので、それなりの筋肉が動いていないとその声にはならない。  という事は芝居とおなじで体を動かさないといけない。  突き詰めてゆくと、いろいろな表現方法があって、すべて自分の想像力で補うという仕事なので、面白いなあと思います。  肉体トレーニングはしなくてはいけないし、想像力も鍛えないと追いつかないと思います。    

1993年に「美少女戦士セーラームーン」、1995年に「新世紀エヴァンゲリオン」。    一番苦しんだのは30代だと思います。  人は生きてゆくときに自分を守るために鎧を身に付けてゆくわけですね。  必要に応じて自分に着けてしまった鎧をはぎ取る事が大事で、それを見せるためにはぎ取ることが必要です。  自分が14歳のハートをずっと持ち続けているという事は14歳レベルで、世の中のニュースとかいろんなことを捉えるという事を常にやらなければならないと思っていました。  新しい鎧が自分についてきてしまうので、その鎧をはぎ取ろうとして、その目線で世の中のすべてを見ようとする作業をするときに、凄く苦しくて、辞めたいと思いました。  ずっと吐きそうな毎日を過ごしていました。  それは自分に必要だと感じていました。  そんな時に「新世紀エヴァンゲリオン」が始まってやり始めて、「君だけが14歳の気持ちを持ち続けてくれたから新しい映画が出来た。 ずっと持ち続けてくれてありがとう。」と言ってくれて庵野さん(監督)だけが気が付いてくれました。   

若い声優さんには厳しいですが「なりたいですね、でもまずなれないですよ」と言っています。  なりたい人がなる仕事ではなくて、選ばれてなる仕事で、選ばれる人というととても大変ですし、まず選ばれないので(1万人に一人しか)、1万人に一人をどうやって証明しますか、というところです。  努力を重ねられる人だけが選ばれる可能性があるというみたいな仕事です。  今はセルフプロデュースする人でないと無理だと思います。  自分を知って自分の価値を自分が高められる人。  そしてどうアピールするか。






2022年3月5日土曜日

小林栄美香(NPO法人 笑みだち会代表)  ・"ふつう"になりたい~顔に苦しむ口唇口蓋裂の女性の叫び~

 小林栄美香(NPO法人 笑みだち会代表)  ・"ふつう"になりたい~顔に苦しむ口唇口蓋裂の女性の叫び~

大阪府在住、28歳。 口唇口蓋裂という病気をご存じでしょうか。   大阪大学名誉教授の古郷幹彦さんによりますと、口唇口蓋裂:母親の胎内で上唇、歯茎、上顎の左右がくっつかずに左右に裂けた状態で生まれることで、食べる、飲む、話すと言った口腔の機能が失われる原因不明の病気です、という事です。  日本国内では生まれた赤ちゃんのおよそ1/600人とされていますが、形成手術、あるいはリハビリを繰り返して治療することが出来ます。  ただ長年治療や言語訓練を受けても発声や発音が明瞭にならない場合があるなど、患者さんたちは日常で様々な苦労を抱えています。  小林栄美香さん自身口唇口蓋裂の患者さんのひとりです。 なかなか自分の顔が好きになれず周囲の言動に傷付きながらも28年間口唇口蓋裂と向き合い、現在は患者の会を立ち上げて口唇口蓋裂を知って貰おうと取り組んでいます。

生まれた時に鼻と唇がかけた状態で生まれました。  開き具合がかなり大きくて手術をするにもかなり時間がかかる状況だったと親、先生に伺っています。  3か月で手術をしました。生まれた時の写真を見た時にはショックでした。(思春期)   母は歯科衛生士だったので知識があったので、治る病気であると楽観的に受け入れていました。  父親は吃驚して帰りの車で泣きじゃくっていたそうです。  母親もこれから何が起こるかわからないと言われた時には失神しそうになりそこからが親の戦いが始まったというように言っていました。   小学校では鼻がぺっちゃんこだとか、何言っているのかわからないとか、いろいろ言われました。  円形脱毛症になってしまいました。   中学時代は2年間学校に行けませんでした。   自分自身でも壁を作ってしまったし、会話の中に入れませんでした。   指をさされたりして対人恐怖症になってしまいました。  

行きたい高校を調べて行かせてもらって、自分自身も変えたいという意欲が出て来ました。 親友と一緒にメイクをして楽しみました。  恋愛もしたしそういった話も輪の中に入ってできました。   高校でも手術をしましたが、親友が励ましてくれました。   楽しい高校生活を送れましたが、反面悔しいこともありました。    4回手術をしましたが、8時間を超える手術もありました。   手術のストレスからパニック障害も発症してしまい苦しかったです。   

2015年からブログ、「私重度の口唇口蓋裂です」を立ち上げました。   2014年には口唇口蓋裂の治療は峠を越えたと自分自身思って、何か発信していきたいと思っていて、私のブログを見て励みになってくれれば嬉しと思いました。  色々と励みになったとか、救われましたという反応をいただきました。  発信してよかったと改めて思いました。   交流会をという要望があり、交流会を立ち上げました。  「笑みだち会」という名前です。  私の名前「栄美香」に友達をかけて、笑顔溢れる友達のような関係性を作れる患者会にしたいと思って「笑みだち会」にしました。   親御さんのものと当事者と二つありそれぞれ20名程度で15回ぐらい開催していました。(現在はコロナ禍でオンラインで行っている。)  2時間ほど行っていて、全国から参加していて、アメリカ、ヨーロッパなどから参加していただいたりしています。   自分の気持ちを判ってもらえる安心感から話してもらえて、共有、共感して励まし合ったりしています。  もっと口唇口蓋裂のことを知って貰いたいと思って行動しています。  コロナでマスクをすることでこんなに視線を浴びないものだという事を知りました。  

小林さんの主治医を20年間してきた大阪大学名誉教授の古郷幹彦さんは、「口唇口蓋裂の治療の終わりは本人の笑顔の顔写真を撮って、本人が心から笑えている写真が撮れたらゴールとしている。  小林さんの場合は写真を撮っていないけれども今年3月で終わる予定だ。」と話しています。  




2022年3月4日金曜日

川村喜一(写真家)           ・知床が教えてくれた「自然になりきる力」

 川村喜一(写真家)           ・知床が教えてくれた「自然になりきる力」

東京生まれ、32歳。  東京芸術大学大学院を卒業後、5年前に北海道の北東にある知床に移住しています。   知床の自然に息づく命を見つめた写真集が話題になるなど、今注目を集めている若手写真家です。   川村さんは知床に来てから免許を取得して狩猟を行うようになりました。  知床に暮らし狩猟をしながら写真を撮る事で、都会にいた時にはなかった或る大切な感覚を得ることができると言います。  一体それはなんなのか、それが知床が教えてくれた示唆の転換なのかもしれません。

大学院生の頃、旅行で北海道を車でめぐっていて、知床まで行きましたが、真っ暗な中時々動物の目が光るんです。  その視線が強烈でした。  人間本位では扱う事が出来ない世界と向き合ってみたいと思ったんです。   都会とは違う時間の流れがあるように思いました。   そこに自分が身を置いて何が出来るのかとか、考えたいと思いました。  

季節の流れがあってずーっと続いている時間の中で、生きているものなので、一つの点として写真を撮るだけでは繋がり、連続性はなかなか捉えられない。  生きている実感、身体感覚みたいなものがまずあって、それを一つのツールとして写真表現というものがある、という考え方になりました。    身体感覚というのは日常的に感じる肌触り、匂い、とか五感ですね。  肌触り、質感というものを写真の中に閉じ込めたいなあと思っています。  

熊の写真で夜に撮影されたものです。 熊はガードレールに顎を乗せてこちらを見ています。   車の中から車のヘッドライトだけで撮りました。    何かの意志をもってこっちを見つめているんです。    それぞれの視座に立ってゆく中で、自然の中に自分がいるという事が感じられるのかなあと思います。   多様な生き物が住んでいて、それぞれに視座があって複雑な関係の中で、この状態というものが成り立っています。  

彼らのことをもっと知りたいという思いから狩猟を始めました。   都会では感じられない自分の手で触れてゆくことが大事なんじゃないかと思いました。   森のなかではそれぞれの暮らしがあり、自分が見られているという感覚があります。  自分自身が自然化して行く必要性を感じました。    いろんな生き物に対するリスペクトというか、純粋に彼らは凄いなと思います。   そういった過程の方が僕にとっては大事かもしれません。運よく出会えて、こっちも落ち着いている時には鹿もあんまり警戒していない。  そうすると引き金を引ける瞬間になるので、お互い見つめ合う時間があって、お互いが探り合っているような交錯する時間があります。   その時に引き金を引くことが出来ます。   次には命をどう受け取ってゆくかという作業が始まります。   その前後が大事です。  鹿の心臓を手に取っている写真、さばいて内臓を出して、鹿が保ってきた体温というのが一気に冬の寒空に拡散していって、手は熱さを感じて、生きてきたという動物の強さ、温かみを感じられる瞬間です。  解体して切りわけていって、ザックに詰められるだけのものを積んで日暮れのなかをはあはあ言いながら歩いて行きます。  

小鹿の写真もあり、一つの価値観では言い切れない矛盾した感情が悶々と巡っています。  持続可能性は自然に芽生えてくるのかなあと僕は感じます。   自然というものが切り離されたものではなくて、人間も含めていろんな関係性のバランスの中で環境が成り立っていると思っています。   地元の人は取り過ぎるなという事は暗黙の了解を持っているんです。  

北方由来の知床文化があって、北方民族が元々暮らしていた。  海洋民族にとっては先端は出入り口に過ぎないと感じます。    知床には漁師、農家、猟師がいて、狩猟文化と農耕文化がハイブリットに融合している場所じゃないかと思います。    畑には大きな岩があったりして開拓の痕跡とかを肌で感じます。   農家の方が畑を守るためでもあるし、森に入って行って鹿を獲って来るという方もいます。   開拓したところを森に戻す運動も100年単位の時間軸でやっています。   

高校時代、画一的、人間関係の不信、受験、とかの中で凄く息苦しくなってしまって、大学受験を通して美術に出会って、アートの多様性に触れて、そこで一つ救われたような思いがありました。   多様性を受け入れられる寛容性を学ぶことが出来て、アートをやってよかったと思います   知床に来て人間の世界だけではない、視座が広がりました。   自分の見えているものがすべてでもないし、なるものはなるし、ならないものはならないので、しょうがないというようなおおらかさは感じます。   写真は言葉よりは直接的に視覚的に人に伝える能力はあると思っています。   逆に言うとあるものしか写せない。 一枚一枚の写真を積み重ねてゆく中で、いろんな視座を通して縁取ってゆく、かたどってゆく作業かなあと思います。    

2022年3月3日木曜日

2022年3月2日水曜日

2022年3月1日火曜日